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主日礼拝説教

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20230326  受難節第5主日礼拝説教  人がひとりでいるのは良くない  山ノ下恭二牧師
(創世記 2章18−25節、エフェソの信徒への手紙 5章21−32節)


 私が初めて読んだ本格的な恋愛小説は、宮本輝という作家の「錦繍」という小説でした。男女の往復書簡の形式をとった小説でした。お互いに愛し合いながら思いがけない別れで傷つき癒えずに生きてきた二人が、再び出会って、別れた後の思いを互いに手紙で綴る小説なのです。他にもたくさん恋愛小説があるのですが、私には印象の深い小説でした。男女が互いに理解し合って一緒に生きることができれば良いですが、共に生きていくことは、現実にはなかなか難しいことであると思います。身近な人と関わっていても、相手のことがよく分からなくなることがあります。男性、女性の性の違いがあるために、互いに理解をすることが困難であるのです。しかし、自分独りだけで生きることはできず、他者と共に生きていく道を私たちは求めているのです。

 本日の礼拝で、創世記2章18−25節を読みました。2章6節には、最初の人アダムが神によって創造されたことを記しています。そして、2章18−25節には、女が創造され、男と女とが一体となったことが記されています。 

 創造物語を理解するうえで注意することは、人間がどのように創造されたのかということではではなく、人間が人間であるその本来の姿はどのようなものであるのか、と言うことに注目して読む必要があります。聖書は、本来の人間のあるべき姿、生き方はどのようなものであるか、を語ろうとしています。

 2章8節には、「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう。』」と書かれています。「人が独りでいるのは良くない」「良くない」という言葉はここで初めて出てくるのです。神が天地万物のひとつひとつを創造されたその度に「良かった」とあり、すべてを創造した時に、1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と書いてあるのです。しかし、ここでは「良くない」と言っているのです。私たちは「良いもの」として造られたのです。「良くない」と言うのは、本来の在り方、生き方ではないと言うのです。つまり、私たちは、本来、一人で生きるようには造られてはいないと言うことなのです。独りでいるのは、本来の在り方ではない、と言うのです。

 孤独ということが、大きな社会問題となっています。イギリスでは政府が孤独省という省を創設したと聞いていますが、自分独りだけでいるのは良くないのです。孤独や孤立は人間の本来の在り方ではないのです。

 「良くない」という言葉は、ある注解書によると「目的に合っていない」「神の御心ではない」と言う意味であると書いてありました。人が独りでいることは人間が造られた目的にそぐわない、と言うことです。人間は交わりを持つべきものとして造られた、と言うのです。そこで、主なる神は、「彼に合う助け手を造ろう。」と言っています。

 「彼に合う」という言葉は、どのような意味でしょうか。人は結婚をする時に、自分に合う人と結婚しようと思うのです。結婚活動、つまり「婚活」で相手のプロフィールを取り寄せ、顔写真、年齢、職業、学歴、家族構成、収入などを見てこの人が自分に合うと思って、実際に会い、フィーリングが合うからこの人と結婚をしようと決めることがあります。逆に、どうもこの人は私とは合わないので止めようと思うのです。合うか、合わないか、それは交わりを決める重要な要因になるのです。しかし、ここで「彼に合う」という言葉は、そのような意味ではありません。「合う」と翻訳された言葉は、「ネゲド」というヘブライ語ですが、「ふさわしい」「向き合う」と翻訳されています。ある神学者は「合う」と言う言葉を「差し向かい」と言う言葉で言い直しています。私たちにとって最も必要なものは「差し向かいになる相手」であり「心と心が響き合う相手」が必要なのです。そのような相手と共に生きるように、私たちは造られているのです。

 「彼に合う助ける者を造ろう」とありますが、私は「助ける者」という言葉に引っかかっていました。口語訳は「助け手」と訳されているので、なお引っかかるのです。女が男を補助する「助け手」「補助者」「ヘルパ−」であるなら問題です。神は男の補助者「ヘルパ−」として女を造ったのではなく、最初の人「アダム」と向き合う「パートナー」として造り、互いに助け合う存在としたのです。最近の英語の聖書(RSV)では、「パートナー」と言う言葉が使われているのです。「パートナー」、それは人がその相手を欠くならば、もはや一人前の人とは言えないのです。その意味で対等のパートナーなのです。相手がいなくては本来の人間にはならない、相手があってこそ、本来の人間になると言うのです。その意味で、私たち男女は共に生きる者なのです。女性が創造され、存在があって、初めて男性になるのです。人間の性別には、生物的、医学的な理由以上のものがあります。男と女のジェンダー(性別)の違いは、身体的、心理的な差異が問題なのではなく、互いに他を求め合い、支え合うパートナーとして、共存的な生活を営むことが重要なのです。

 創世記を読んでいくと、とても興味深いことが書かれています。「助ける者」の相手として動物を造り、人の相手としようとしますが、人に「合う助ける者」ではなかった、とあります。人は動物に名前をつけ、動物に呼びかけ、交わりを作り上げようとしますが、どの動物に呼びかけても、自分に合う助ける者は見つからなかったのです。

 2章21−24節には、女が造られ、男と女の一体性が書かれているのです。男が女に対して本来どのように認識するのが良いのか、を教えるところです。そして男女の関係が良い関係になるために、互いにどのように考えたら良いのかを語っている、とても大切なことが語られています。  

 2章21節−22節Aでは「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」

 この聖書の言葉は、女の存在に対して私たちが新しい認識が与えられる重要なところです。このことから、女が男のあばら骨の一部に過ぎない、その値打ちしかないと考えることはできません。女は男に従うものだと見下げることもできないのです。「あばら骨」とは、肋骨のことです。国語辞典には「肋骨とは背骨から体の両側に湾曲して胸骨につき、内臓を保護している骨、左右12対ある」と書かれていました。誰でも傷つけられれば、大量の出血によって死ぬのです。肋骨は、人間の体の最も重要な部分を覆い守るものなのです。男の肋骨の一部を取って、女を創造したことは、男が女を守り、愛する存在であることを語っているのです。女が男の一部で男に従属する存在であるということではなくて、女が男のなくてはならない、大切な存在であり、愛する存在であることを語っているのです。

 ある神学者は、次のように解説をしています。「女は、男が深い眠りに落とされた間に(2章21節)、神によって創造された存在であり、神が男のところに連れて来た(2章22節)存在である。男のあばら骨の一部を抜き取って造ったという語り口は、稚拙な表現ながら女と男が同類・同属であることを示されており、しかも深い眠りに陥っている間にという表現によって、男にとっての女の異他性、秘義牲が示されている。」(芳賀力著「神学の小径V−創造への問い」p312 キリスト新聞社 2015年)男性と女性とは同類・同属でありながら、なおそこに違いがあるのです。一方が他方を自分に屈服させ、同化させることはできないのです。互いに自分のものにはできないのです。

 神は「独りでいるのは良くない」と言われたのですが、それは男と女とが、差し向かいで生きるということであり、互いに尊敬して、愛して生きることが大切であることを語るのです。22節B−23節には男と女とが一体であることを書いています。「主なる神が彼女を人のところに連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ、私の骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャ−)と呼ぼう、まさに男(イシュ)から取られたものだから。』」ヘブライ語で男をイシュと言い、女をイシァ−と言います。男(イッシ)という言葉から、ヘブライ語のアという母音をつけると女(イッシァ−)という言葉になるのです。この言葉から男と女とは、離れがたい一体感を表しています。男と女とは、互いに差し向かいに、心と心を響き合わせる存在であることを語るのです。

 24−25節には「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」 神が男と女を造り、互いに差し向かいで心と心とを響き合わせながら、エデンの園で満足して過ごすことができたのです。そこには神が相手を与えて下さったことに感謝し、満足し、この神を信頼することができていたのです。感謝と信頼に満たされていたのです。「二人とも裸であった」というのは、互いに隠すこともなく共に生きることを喜ぶ生活なのです。男女が互いに隠すこともなく、秘密を持つことなく、十分なコミュニケーションができており、互いによく理解できていたのです。

 しかし、このエデンの園で神に感謝し、互いに愛し合う生活を、私たちは失ってしまったのです。互いに差し向かっているのではなく、互いに背を向ける生活になってしまったのです。それは、相手を重んじ、相手を愛するのではなく、自分の利益や都合を優先して、相手を一人の人格として重んじるよりも、相手を自分のための手段として使うようになったからです。なぜそのようになってしまったのでしょうか。

 創世記3章には、アダムとエバがサタンに誘惑されて、罪を犯し、エデンの園を追放された物語が記されています。神が共に生きる者として与えてくださった相手を愛することができなくなったのです。善悪の知識の木の果実を食べてしまった、神だけが善悪を判断することができるのですが、その果実を食べることによって、アダムとエバが人間としての限界を突破して神の地位につき、自分が神のようにすべての善悪を判断する者となってしまったのです。自分が神のようになってしまったのですから、相手を自分の考え通りに動かそうとし、自分は悪くないと言い張り、相手を悪者にしてしまうのです。善悪の知識の木の果実を食べてしまったことについて、神がそのことを追及するとアダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と答えているのです。共に差し向かいで、心と心とを響かせながら共に生きていたエバを「女」と呼んでいるのです。罪を犯したのは、自分ではなくて「あの女」であると責任転嫁をしています。

 最近、ヴルタ−・リュ−ティと言うスイスの神学者であり、説教者が書いた「十戒」を読んでいましたら、第7戒の「姦淫してはならない」という戒めについて「結婚生活」という題で講解しているところで、なるほどなぁ、と思うことが書いてありました。「結婚生活においては、私たちは自分たちだけになります。『遂に自分たちだけになるのです。』略 ここでは、自分たちだけになることは特にきわ立った仕方で罪なのです。『アダムと女は主なる神の顔を避けて隠れた』これこそがここで問題とされる結婚生活の危機なのです。これこそが悲しむべきことなのです。すなわち、アダムが妻と共に主の御顔を避けて隠れ、自分たちだけになり、その結果、自分たちの好きなように振る舞うことができると勘違いすることです。」(ヴァルタ−・リュ−ティ−著・野崎卓道訳「十戒」p166 新教出版社 2011年)罪を犯したアダムと女は園の木の間に隠れていたのです。神の前に二人が差し向かいにいると言うのではなく、神を抜きにして二人だけで孤立した生活をしていくことになるのです。互いに罪がありますから、自分の考えや利益と相手の考えや利益は対立することがあるのです。男女が一体であったのに、互いに対立し、関係が悪くなるのです。神に向かって、心の窓を開けて神の言葉を共に聞くことができないのです。

 結婚生活が破綻するのは、神の顔を避けて、二人だけで問題を解決しようとすることにあります。そこでは、心のすれ違いや憎しみや誤解などによって心が互いに離れてしまうのです。最初の人アダムを創造したのは、主なる神であり、人は独りでいるのは良くないと言って、アダムの相手である女を造って結び合わせたのも主なる神なのです。二人はエデンの園で、神の前で互いに差し向かい、心と心とを響かせ合って生活するはずだったのです。

 しかし、エデンの園から追放されたアダムとエバの生活は、互いに心が通わず、生きることが苦痛であるような生活なのです。罪に満ちたそのような人間の罪の現実の中で、イエス・キリストが神の審判を受けて、罪を贖い、私たちの罪を赦してくださいました。男女の間には、互いに理解することが困難なことがあります。性の違いがあり、感じ方や考え方が違うことがあります。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪を赦して戴いたのです。キリストによって戴いた赦しによって互いに赦し合うのです。

 創世記2章18節とエフェソの信徒への手紙5章18−25節は、結婚式でよく読む聖書の言葉です。結婚式の説教で私は、相手が自分の条件に合うから結婚すると言うのではなく、相手は神が与えた自分にふさわしい相手だ、と信じて、結婚することが大切であると話します。二人だけの生活ではなくて、男女二人が、神に開かれているそのような家庭であることが大切なのです。キリスト教会は、神の家族と言われます。神の家族である教会に加わって、共に御言葉を聞いていくことが、良い家庭を作って行くのです。

 (祈り)
 イエス・キリストの父なる神。私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦難と死を心に留めるレントの時を過ごしています。一週間の歩みを終えて、あなたは、私たちをこの礼拝に集めてくださり、兄弟姉妹と共に御言葉を聴く機会を与えてくださり、感謝を致します。私たちを造り、私たちのいのちを保ち、導いてくださる主イエス・キリストの父なる神。私たちは、共に生きることの難しさを感じながらも、神のみ前に互いに愛し合う歩みをすることができますように導いてください。この一週間もあなたが共にいてくださり、あなたが私たちを愛して下さることを信頼して歩むことができますように導いてください。この祈りを私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈り、願います。 ア−メン

20230312  受難節第3主日礼拝説教  日曜日をどのように過ごすの  山ノ下恭二牧師
(創世記2章1−3節、マルコによる福音書2章23−28節)


 先週、テレビニュ−スでホテルや旅館、バス会社が、まとまって就職相談会を開いている場面が放映されていました。コロナのためにこの3年、新人を採用しなかったために、人手不足で人材を確保するために各社が協力して就職相談会を開いていたのです。あるホテルの人事担当者が、自分のホテルに就職する人を確保したいために、労働時間が短く、有給休暇の日数が長くしてあることをアッピールしていました。長時間労働を強いる企業ではなくて、休暇を取りやすく、休暇が多い企業が人気であることを知りました。

 本日の礼拝で創世記2章1−3節を読みました。神は6日の間に天地をお造りになり、完成され、7日目に御自分の仕事を離れて安息なさったと書かれています。神が天地をお造りになり、7日目に安息された、このことを根拠として安息日の規定が作られたのです。神が6日、働いて、7日目に仕事から離れて安息されたのです。この神に倣って、私たちは6日間、働いて、7日目には安息するのです。出エジプト記20章8節には「安息日」の戒めが書かれています。「安息日を心に留め、聖別せよ」とあります。

 この「安息」という言葉は、ヘブライ語では「ナーファシュ」と言う言葉です。「一息入れる」「一所懸命に努力した後、ほっと一息つく」と言う意味の言葉です。このヘブライ語は旧約聖書に3回しか出てこない言葉です。この言葉が出てくるのは、出エジプト記31章17節です。「これ(安息日)は、永遠にわたしとイスラエルとの人々との間のしるしである。シュは六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて−「ナーファシュ」−憩われた(ほっと一息つかれた)からである。」とあります。

 創世記2章2節には「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」とあります。神がほっと一息をつかれる、神が一息入れられるのです。神が安堵の息をつかれたので、私たちも一息をつくことが許されるのです。2章2節に「仕事を離れる」とありますが、この「離れる」いう言葉はシャバトと言うヘブライ語ですが、この言葉は元々、「止める」「中断する」「終わる」という意味の言葉です。今、している仕事を続けたい時にも中断し、止めるのです。

 仕事の重荷を降ろすことが勧められるのです。私たちは仕事をすることをさほど、嫌いなわけではありません。しかし、仕事に伴って起こる様々なことが重荷になるのです。定年まで働いた人が、仕事そのものが嫌いなわけではないが、仕事に伴うストレスがあって大変だった、と言ったのを聞いたことがあります。いらいら、心配、不安、失敗、失望、そして月曜日からまた仕事か、と思うストレスがあるのです。新しい一週間の仕事が始まるたびに感じる「予定を変更することができない」というプレッシャーがあるのです。同僚の妬みがあり、上司の無理解があり、部下からの逆パワハラがあるのです。その中で、ほっと一息つくことなど果たしてできるのでしょうか。

 2章3節に「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」とあります。「聖別する」とは「特別に取っておく」という言葉です。安息日を他の時と区別して、この時を特別に神の時として取っておくことです。自分がしていることを断念し、手放して、この日を特に神の日として守ることです。7日を一週間とする、この制度はイスラエルから始まったと言われています。六日間働いて、七日目には安息とするのです。ユダヤ教では安息日は金曜日の夕方から土曜日の夕方までであり、この期間には人々は炊事や洗濯はせず、仕事はしないのです。キリスト教会は、イエス・キリストが復活された日曜日を安息日として守り、他の日と区別された特別に聖なる日として礼拝をする日として守るようになったのです。
 
 現代の日本では、日曜日が仕事を辞めて、安息日として礼拝を守るという意識を持っている人はほとんどいません。電車の時刻表を見ると、平日と休日と書かれています。土曜日、日曜日は休日であると理解している人がほとんどです。東京神学大学の教授であった佐藤敏夫先生が「レジャーの神学」という本で、労働がレジャーよりも意味を持っている時代が長く続いたので「日曜日は聖日であることをやめて、ただの休日になってしまう。いわばholy dayがholidayになってしまう。そこで起こってくるのは、日曜日が労働の疲れを癒やし、明日の労働への英気を養うという性格をもつようになることである。これは、日曜日が週日の労働のための手段となり、週日の労働に従属してしまうということにほかならない」(p28)と書いています。

 月曜日から働いていくと、誰でも疲れてくるのです。ある人は、現代の労働環境が多くの人々にはきつく、精神的に体力的にも消耗することが多く、水曜日に休むと良いと提唱していますが、仕事を休まなければ、継続して働くことができないのです。休まないと次の月曜日から働くのは精神的、体力的に仕事を続けることはできないのです。土曜日や日曜日は、次の労働のために備える日として考えている人が多いのです。また会社で仕事が終わらないので、仕事の書類を家に持ち帰って土曜日、日曜日に仕事をする人も多いのです。休日には仕事をしないけれども、洗濯をしたり、部屋の掃除をしたり、買い物をしたり、家庭サ−ビスで遊園地や動物園に子どもを連れて出かけるのです。週日の労働とは違って気分転換にはなりますが、子どもや出会う人たちに気を遣い、人混みの中で疲れて帰って来ることもあるのです。休日は労働へと向かう英気を養う日となっているのです。これは、日曜日が週日の労働のための手段となっており、週日の労働に従属してしまっているのです。

 レジャーの神学で「日曜日が聖日ではなく、ただの休日になってしまったことは、大衆が精神的な糧を得る機会を喪失したということを意味していた。」(レジャーの神学p28)と書いてあります。労働を中断して、休みを取って心身共に休養をする、それは大切なことですから、定期的に休むことは必要なことなのです。

 私が聖学院大学で知っている教師が他の大学に移り、ある時、その教師の後輩にあたる人に、お会いしたので他の大学に移った教師のことを聞いたら、その人は他の大学に移ってから1年後に亡くなったという話をしたので、どうしてですか、と聞いたところ、大学で一番、忙しい部署に配置され、過労のために残念なことに亡くなったと言われてとても驚いたことがあります。休みなく働くと過労死することを聞いていましたが、元気であった方が実際に亡くなったことは驚きでした。日本の若者の中で、オーストラリアやカナダに短期ですが移住してそこで働く若者が増えているそうです。その中には小学校の教師をしていた若者もいるのです。日本では学校にいる時間が長く、クラブ活動も顧問として子ども達と一緒にいないといけない、自分の時間もなく、給与もよくない、しかし、オーストラリアでは、労働時間が短く、給与も良いので満足しているとのことです。

 日本人が働き過ぎだと言われて、労働時間の短縮と長期休暇が話題になっていましたが、労働よりも休暇をどのように過ごすのかということに生きる意味を見出そうとしています。休暇を利用して、どのように遊ぶのかと言うことに意味を見出そうとするのです。ヨーロッパの人々は夏の長い休暇をどのように過ごすのか、そのことを楽しみにして働くと聞いていますが、それは悪いとは言えないのです。しかし、それで十分であるとは言えないのです。

 現代の日本人は、日曜日を休む日と理解していますが、聖書には「休まれた」と書いてはいません。創世記2章3節には「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので」と書かれています。「安息する」と書かれているので、この「安息する」と言う言葉が重要なのです。「休む」のではなくて「安息」なのです。仕事を辞めて、日曜日に休む、これは身体の疲れは取れ、月曜日からの労働に向かっていくのに体調を整えることはできるかもしれませがそれは「安息」にはなっていないのです。

 「安息する」とは、どのようなことなのでしょうか。「安息」ということを考える時に、創世記1章31節の言葉が重要なのです。創造の仕事を終えて「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、其れは極めて良かった。」と書かれているのです。神は、この世界と私たち人間を御覧になって、「見よ、極めて良かった。」と肯定しているのです。神が私たちを肯定されているということは、私たちをすべて受け入れているということです。

 先週の礼拝説教で話しましたが、現代の社会は、成果至上主義の社会です。学校では、成績が悪いと教師に認められないのです。会社では、会社に貢献できるような成果をもたらさないと、認められず、相手にされないのです。能力という一つの側面で人が評価されるのです。そこでは、いつも自分が行動的でないといけないのです。

 しかし、安息日において神がその人の全人格を受け入れてくださるのです。その人の一面だけを見て、受け入れるのではなく、私たちの全存在を相手にして受け入れてくださるのです。神は、私たちの全存在を愛してくださるのです。

 すべての時は、神のものですが、安息日の一日は、神であるわたしに集中すべき時なのです。今日一日は、神のものと思いなさい、ということなのです。この一日を神に集中し、自分を神のものとすると言うことです。「レジャーの神学」で、中世の修道院では、労働も重んじたけれども、祈りと黙想が重んじられた、と書いてありました。労働は自分が主体となり、能動的に関わるのですが、祈りや黙想は受動的です。中世の修道院では受動的な生活を重んじていました。安息日は、神が主体となって働き、私たちは神の恵みを受けるのです。

 先ほど、佐藤敏夫教授が「レジャーの神学」で、日曜日が聖日ではなく、休日になってしまったことは、大衆が精神的な糧を得る機会を喪失したということを意味していた。」と言う言葉を紹介しましたが、日曜日を聖日としないと、確かに、自分の人生の意味、自分が何者で、どのような存在であるのか、人間とはどのような存在なのか、愛するとはどのようなことか、を考える機会をもたないことになります。肉親を失って喪失経験をしないと、死ぬことを考えないのです。私が大学で教えていた時に、こういうことがありました。一人の学生が、高校生の時の友人が交通事故で死んで葬儀に行ってきて、とても落ち込んでいました。その学生は、私に人間は死ぬことがあり、自分も死ぬのだ、と思ったと言ったのです。いつもは、人生の深い問題、死、愛などを考えることはありません。友人の事故死と葬儀に立ち会わない限り、人間の死、人間の限界を考える機会はないのです。

 私が岡山におりました時に短気入院していた時に、隣のベッドにいた人が、自分が死ぬこともあると思って、仏教書を読んでいる、と言っていましたが、病気になって慌てて、自分の心の拠り所を得ようとするのです。

 しかし、日曜日に礼拝に出席して、毎週、礼拝説教によって、自分の存在の意味や自分が生きる根拠、愛の問題を説教から聞き、聖書の言葉を蓄えていることはとても大切なことです。日曜日に礼拝で、心を耕し、精神的な糧を戴いていることはとても大切なことなのです。毎日、食事を欠かすこと無く、食べていると体力がつくのですが、いつも、聖書の御言葉を食べていると、様々な困難を乗り越えていくことができるのです。

 私たちは日曜日に何をするのでしょうか。それは礼拝をするのです。神との人格的な関わりがなければ、まことの安息は与えられないのです。礼拝を考える時に、大切な聖書テキストがあるのです。それは、ヨハネによる福音書4章に記されている、主イエスとサマリアの女性との対話です。「払方町通信」322号で「悔い改めに導く対話を」という題で書いています。サマリアのシカルの井戸で主イエスは、サマリアの女性と対話をするのです。この女性は人生の旅に疲れていた女性です。過ちと失敗を重ねて自分が何であるか、これからどのように歩んでいけば良いのか、を見失っていたのです。この女性に対して、主イエスは、この女性の罪を指摘し、この女性は、罪を認めつつ、主イエスの罪の赦しを受け入れて、自分の村に帰っていくのです。日曜日の礼拝は、神の前に出て、神の御言葉に聞き、悔い改めて、本当の自分に帰ることができるのです。現代人は、日曜日を休みの日として過ごしているけれども、日曜日に礼拝で神と対面をしていないので、ほんとうの安息を与えられないのです。一週間の時間を過ごしているけれども、その時々に、私たちはいろいろな問題を抱え込むのです。日曜日に休んでも、自分が抱え込んでいる問題は解決されないまま、引き摺っていくのです。日曜日に身体の疲れは取れ、気分転換を少しはできるけれども、休みが明けても、前から抱えている問題をそのまま抱えているのです。週日に仕事をして、そして、日曜日に切り替えることが重要なのです。場面を切り替えることが大切なのです。

 十戒の第四の戒めにこの安息日の戒めが記されています。第一の戒めから第三の戒めが、神に関わる戒めです。そして第五の戒めから第十の戒めが、隣人に関わる戒めなのです。第四の「安息日」の戒めは、神と隣人とをつないでいる戒めなのです。安息日を聖なる日として守らないと、神と隣人を愛することができないのです。日曜日に礼拝をして御言葉を聞き、そして神に愛されていることを教えられて、隣人を愛することができるのです。イエス・キリストによって私たちの罪を赦して戴く、赦された者として、他の人の過ちを赦すことができるのです。礼拝に出席しないと、神から心が離れて、どうしても自分中心になり、他の人の過ちや罪を赦すことができなくなり、福音的な愛の生活ができなくなり、福音から離れて律法的になって人の過ちを自分が裁くことになるのです。神と対面しないで、神の御言葉によって清められないので、価値判断が世俗的になり、この世の考え方に傾いてしまうのです。

 その意味で、日曜日に礼拝に出席して、御言葉を受け、聖餐にあずかり、祈り、神を讃美することは、とても重要なことなのです。

(祈り)
 私たちのいのちを造り、私たちのいのちを養い、守り導く、イエス・キリストの父なる神。労働から解放されて、日曜日には礼拝において神に対面し、豊かな恵みの御言葉を聞き、慰めと生きる勇気を与えられて歩むことができるように、私たちを導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

20230305  受難節第2主日礼拝説教  私たちは神の愛によって造られている  山ノ下恭二牧師
(創世記1章26−31節、マタイによる福音書6章25−31節)


 新しいいのちが誕生する、それはすばらしいことです。私は出産に立ち会ったことはないのですが、ある母親が出産するまでの経過をテレビで見たことがあります。テレビの映像には、出産までに大変な苦労と痛みを伴って、出産する経過が映し出されていました。母親の身体にいのちが宿り、新しいいのちが誕生するために、母親が様々な苦労を重ねながら、子どもを出産するのです。

 妊娠から出産までの日数を調べると平均280日だそうですが、その長い時期を母親は子どもを産むために忍耐して過ごし、新しいいのちが誕生するのです。皆さんも子どもが誕生した時には、その誕生を喜び、赤ちゃんの存在そのものを無条件で受け入れているのです。

 しかし、現代は、大切な命を育むはずの親が、子どもを育てないで子どもを虐待し育児を拒否することによって子どもがいのちを失う事件が頻発しています。昔は「子宝に恵まれる」と言う言葉がありましたがこの言葉を今は聞きません。子どもを宝と思ってその命を尊重するよりも、親が自分の生活を優先して子どもを育てようとはしない、また子どもが自分の思い通りにしないと虐待や育児拒否をするのです。子どもを育てるのは、手がかかるので、子どもを邪魔にすることも多いのです。

 このような時に、私たちのいのちは誰のものか、いのちの源はどこから来ているのかを改めて問うことはとても大切なのです。創世記1章26節に「神は言われた。『われわれにかたどり、我々に似せて、人を造ろう』」と語られています。私たちは神に造られた存在です。私たちの存在は神がお造りになったものです。私たちは神に造られた存在であり、私たちのいのちは神に属しているのです。いのちは誰のものなのでしょうか。それは神のものなのです。いのちを所有しているのは神なのです。アフリカで医療活動をしたアルバ−ト・シュバイツァーは「生命への畏敬」を提唱し実践をしたのです。いのちの源は神であり、神が生命を造られたことを畏れをもって敬うことは大切なことです。
 
 1章26節で、注目したい言葉は、「われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。」と言う言葉です。神は単独で「わたしにかたどり」と言わないでなぜ「われわれにかたどり」と複数で言っているのでしょうか。神はおひとりで複数の神々がいるわけではないと思うのです。どうして「われわれ」と複数で言っているのでしょうか。ある注解者は、それは神お独りで命を造ろうと決意したのではなく、天使たちとよく相談をして熟慮のうえに、いのちを造られたからである、と解説しています。神は天使たちと時間をかけて相談し、熟慮を重ねて、人間を創造したのです。私はこのことはとても大切なことであると思います。私たちのいのちは、存在する意味があり、目的をもって造られているのです。神は目的をもってひとりひとりのいのちを丁寧に創造されたのは、一人一人に使命を与え、役割を与えているのです。ひとりひとりの存在は、それほど、かけがえのない存在であることを示しているのです。従って、何の意味も無く、偶然に私たちが存在しているのではないのです。私たちのいのちは、神が望んだいのちなのです。生きる意味の無いいのちはないのです。

 かなり前に、乙武洋匡(おとたけひろただ)という人が書いた「五体不満足」と言う本が話題になったことがあります。著者は、先天性四肢切断という重度の障がいを負った人です。「まえがき」には、彼が生まれた時、母親が受ける衝撃を考慮して、病院が一ヶ月間は母子対面をさせなかったことが記されています。しかし、「『その瞬間』は意外な形で迎えられた。『かわいい』−母の口をついて出てきた言葉は、そこに居合わせた人々の予期に反するものだった。泣き出し、取り乱してしまうかもしれない。気を失い、倒れ込んでしまうかもしれない。そういった心配は、すべて杞憂に終わった。・・・母がボクに対して抱いた感情は、『驚き』『悲しみ』ではなく、『喜び』だった。生後一ヶ月、ようやくボクは『誕生』した。」

 よく聞く話ですが、親が自分の子どもに冗談に「おまえは橋の下にいたのを拾ってきた」と言うことがありますが、子どもが冗談だと思えば良いかもしれませんが、聞いている子どもによっては、それが本当だと思い込んで傷つくこともありますので、言わないほうが良いと思います。なにげない言葉が人を傷つけるのです。私が読んでいる新聞の夕刊に「一語一会」というコラムがあり、絵本作家で画家の「いせひでこ」さんが、祖父からいつも言われていた言葉を紹介しています。「ぎゅうっと愛され生を肯定」と言う題で次のように書いています。祖父はいつも「このたからもの」といせひでこさんに向かって言っていたというのです。叱る時も「なんでそんなことをしている、このたからもの」と必ず最後に「宝物」とつけたそうです。「怒っているのに宝物?と不思議でした。今から思えば、叱るけれど大事な子だからね、宝物なんだからこんなことはやめなさい、と言いたかったんでしょうね」
 
 神は、私たちの存在を喜び、私たちのいのちを価値あるものとしているのです。それが、私たちに分かるのは「神はこれを見て、良しとされた。」と言う言葉です。「神はこれを見て、良しとされた。」という言葉は、何度も語られています。この「良し」という言葉には、「喜び」「幸せ」「価値がある」という意味があるのです。一人一人の存在は、神にとって喜びであり、価値あるものなのです。私たちのいのちは、神が与えたいのちであり、神が強く望んだものです。わたしたちのいのちは神が愛をもって創造したものなのです。

 神の愛によって自分のいのちを創造した、かけがえのないいのちであることを知らないで、人のいのちを軽く見ている人も多いのです。いじめられて苦しんでいる人も多く、いじめられて、自分は生きていて良いのだろうか、と思う人々も多いのです。まわりの者にいじめられで押しつぶされて、自殺する人も多いのです。昨年の4月から今年の2月まで、日本の小学生・中学生・高校生の自殺が500人を越えて、今までで最高の人数であるそうです。「神はこれを見て、良しとされた。」この「良し」と言う言葉は「価値がある」と言う言葉です。私たちの存在そのものが価値あるものなのです。ここで大切なことは、存在そのものに価値をおくことなのです。しかし、現代は存在そのものに価値を置くよりも、「能力」に価値を置く時代なのです。

 W・ブルッゲマンという旧約聖書の学者が「聖書は語りかける」という本を書いています。この本には、現代のものの考え方について詳しく書かれています。真っ先に取り上がられているのは「現代的・産業・科学モデル」と言う題で書かれています。「このモデルは、・・・人であれ、モノであれ、『使える』かどうかが価値基準となる、と言うことです。市場であろうと家であろうと、教会であろうと、成果至上主義によってすべてが決まる生き方です。すべての関係は見返りがあるかどうかで、計られるのです。そのような現実理解は、有能であること、そして成績優秀であること、一番になることに何よりも高い価値を置くのです。そのようなものの見方は『仕事や社会的地位で私がわかる』とか、さらに退廃的に『所有物を見れば私がわかる』といった人格理解を生み出すのです。そのような人間の共同体は、働きに見合う稼ぎを得る人たちで構成されます。稼ぎがほとんどなく、それゆえに価値がないものは、数に入りません。実際、彼らは存在しないものと見なされるのです。明らかに、このような見方は、勝ち組、そして仕事のできる人たちの側に立っています。持てる者はさらに手に入れ、持たざるものはさらに失ってゆく傾向をもつものです。」

 現代は、人間の価値が能力、有能性にあるという理解が浸透し、「使えない者」「役に立たない者」は価値がないと考えていると言うのです。誕生した時には、無条件にその存在を喜んで受け入れたのに、その後は、様々な条件をつけて、人間の価値を評価するのです。学校では、成績で評価され、学力がないと人間として認められないのです。家庭では、家事をうまくこなすことが求められ、仕事は、成果を出したか、どうかで、評価されるのです。様々な条件を満たす人が価値ある存在として評価されるのです。しかし、聖書の人間理解は、人間の能力に価値を置くのではなく、存在に価値を置くのです。

 創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」と書かれています。人が創造される時、神は、ご自身のかたちに象(かたど)ってお造りになったのです。多くの注解書は、この言葉について詳しく説明をしています。ある注解書には、この言葉が意味しているのは、人間が神と向き合っている存在として造られているということであり、神と対話ができる人格的な存在として創造されたと言うことである、と解説をしています。また別の注解書には「神にかたどって創造された」と言う意味は、人間が神の言葉を聞き答えていく関係にあり、その交わりに生きる者である、と解説をしています。

 生まれた子どもに名前をつけますが、ひとりひとり名前を持っていることはとても大切なことです。自分の名前が呼ばれることによって、呼んだ人と関係をもち、交わりをもつことができます。ポ−ル・トゥルニエという精神心理学者が書いた「なまえといのち」という本があります。この本には、人間は独自性と連帯性の中で生きている、と言います。独自性というのは、この世界に自分しか存在しない、かけがえのない存在と言うことです。連帯性と言うのは、他の人との関係で共同に生きていると言うことです。そこで、この本は、名前に注目するのです。「名前で呼ばれることによって自分は他人と分けられ、区別されるのです。」 名前が付けられ、その名前が呼ばれるのです。それはひとりのかけがえのない存在として扱われるのです。創世記にアダムが罪を犯して、暗い茂みに隠れている時に、神がアダムの名を呼ぶところがあります。「アダム、アダム、お前はどこにいるのか。」と神がアダムの名前を呼んでいるのです。アダムが罪を犯したことを神は知っていても、アダムの名前を呼んで探し、心配しているのです。かけがえのない存在として名前を呼んでいるのです。

 また、連帯性というのは、他の人から名前を呼ばれて、それに応じて答えていく、そのような関わりが広がり、連帯して生きて行くことです。人間の心を育むのは、自分の存在が認知され、自分の名前が呼ばれ、かけがえのない存在として、尊重され、愛され、他の人たちからも呼びかけられ、大切な存在として、扱われることによってです。この本には、なまえといのちとの深い関わりが書かれているのです。自分の名前が、自分の存在と切り離すことができないものであり、唯一の、独自な存在として私がいるのです。この世界の中で、あなたしかいない、そういう独自な存在であるのです。同じ名前であっても、あなたはただ一人であると言うことです。他の人と取り替えることができない、尊い存在なのです。名前を他の人から呼ばれ、自分も相手の名前を呼ぶことによって、共同して生活をしていき、愛し合って行く存在なのです。

 神は創造された人間を見て「良し」とされたのです。価値あるものとされたのです。神がその存在を肯定されたのです。私たちもひとりひとりのいのち、存在を大切なものとして肯定し、慈しんでいくのです。

 創世記3章では、アダムとエバとがへびに誘惑されて、神が禁止していた「善悪の知識の木」にある果実を食べてしまい、神に対して罪を犯してしまう物語が記されています。善悪を判断するのは、神であり、神が判断する領域に人間が侵入してしまい、人間が善と悪を判断することになるのです。この人は生きていて良い人、この人は生きてはいけない人と、神に代わって人間が判断することになってしまったのです。いのちを与え、いのちを取るのは、神にしかできないのですが、創造主である神を恐れないで、自分中心に生きている私たちは、相手が生きるのか、相手が死ぬのかを決める権利をもっているかのように、振る舞うのです。自分が憎い人は殺して良い、この人は、自分の利益にならないので、消えてもらおうと思うのです。復讐したいので相手のいのちを奪うことも起こります。

 神から離れることによって、自分が神であるかのように思い込み、自分中心に生き、神との関わりが壊れ、他の人との関係も壊れてしまったのです。自分を基準にして自分にとって価値があるかどうか、利益になるかどうか、で相手のいのちの価値を決めるようになったのです。この人は役に立たない人、この子どもは自分の期待に答えない子ども、とレッテルを貼り、無視していくのです。相手が神にかたどって造られた存在であることを忘れて、この世の基準で相手のいのちの価値を計り、価値がないと思えば、ないがしろにするのです。

 神から離れて、神を愛することもせず、人を愛することもしていない者に対して、神は何をされたのでしょうか。私たちが、いのちを与えられたことを心から感謝し、他の人々のいのちを愛するようになるために、神は、私たちの罪をイエス・キリストの贖いによって赦してくださったのです。神は無条件で、私たちを価値あるものとして認め、私たちの存在を肯定してくださったのですが、そのことが私たちの罪によって、私たちは神の御心から離れてしまったのです。しかし、イエス・キリストが十字架で死んで犠牲をささげてくださった、その愛の行為、罪の贖いによって、罪が赦され、受け入れられ、私たちの存在が肯定されているのです。

 私たちが誕生した時に、私たちは無条件で受け入れられ、肯定されていたのです。ところが生活をしていくうちに、この世の様々な条件を満たさなければならなくなるのです。しかし、条件を満たすことができないのです。学校の成績が良くないとダメ、仕事の成果を出さないとダメ、と人格を否定するような社会に生きていると、自分の存在そのものが価値がないように思ってしまうのです。生きる価値がないように思わせられる社会に生きているのです。

 私たちは無条件で神に愛され、罪が赦されているのです。神が愛をもって造られたひとりひとりのいのちを大切にしながら、まことの神を愛し、隣人を愛するのです。

〈祈り〉
 私たちのいのちを愛によって創造し、私たちのいのちを慈しんでくださるイエス・キリストの父なる神。あなたは、本日も兄弟姉妹と共に、礼拝に招いてくださり、御言葉をもって私たちの魂を養ってくださり、心から感謝を致します。あなたがこれからもひとりひとりのいのちを見守り、導いてくださいますように。似田貝香門さんが逝去され、神のもとに召されましたが、その生涯を通してあなたが、配慮し、見守ってくださったことを感謝致します。親しい者を失ったご遺族の方々の上に、神の慰めがありますように祈ります。
 これより、聖餐に与ります。私たちの罪の救いのために、イエス・キリストが十字架の上で肉を裂いたことを表すパン、血を流したことを表す杯を感謝をもって味わい、神の恵みに思いを新たにすることができますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン



20230226  受難節第1主日礼拝説教  自然を造られた神  山ノ下恭二牧師
(創世記1章11−26節、ペトロの手紙二 3章8−13節)


 最近、新聞やテレビのニュ−スなどで気候変動や地球温暖化についてよく報道されています。2月20日(月)の新聞の夕刊では、「消えゆく樹氷 北から南から」と題して、山形、宮城県境の蔵王連峰の冬を象徴する樹氷が、温暖化のために山の高いところに登って行かないと樹氷を見ることができなくなっていると報道されていました。地球温暖化がかなり進んでいることについても書かれています。「気象庁によると、日本の平均気温は100年あたり1.3度の割合で上昇。有効な対策を取らなければ、今世紀末の平均気温は20世紀末より4.5度上昇するとされる。」そして地球温暖化によって季節が変動しているのです。春と秋が短く、夏と冬の期間が長くなっているのです。夏はとても暑く、冬はかなり寒いのです。地球的な規模でも南極の氷が溶け始めており、海面上昇により太平洋の島々は水没するのではないか、と危惧されています。ヒマラヤやアルプスでは万年雪が消えて湖となっているのです。最近の報道では、北極にも深刻なオゾン層の破壊、エルニーニョ現象など、地球環境が変動することによって、人々の生活に大きな影響を与えています。私たちが住む地球の環境はかつてないほど危機に直面しているのです。

 この礼拝で、2月5日(日)の主日礼拝から創世記を学んでいます。創世記一章では、神は第一日に光を創造し、第二日に大地と海を創造したのです。第三日には植物が、第四日には天体、つまり太陽と月と星が、第五日には水の中の生き物と空の鳥が、そして第六日には地上の動物と人間が造られたことが記されています。ある注解書には、この神の創造の順序に意味があるとするならば、それは人間から遠いものから初めて、次第に近い順に造られていったと解説をしていますが、三日目に「植物」が出てくるのです。私はこのことに関して疑問を持ちました。植物は人間にとって身近なものであるはずですが、植物が人間から遠いところにあると言うのはおかしいと思うのです。人間にとって遠いところにあるのは「天体」ですから、三日目に太陽、月、星を創造したと言うほうが正しいと思います。しかし、植物がまず造られているのはイスラエルの人々が植物を命あるものとは考えていなかったからです。命の息という言葉がありますが、息をしていないと考えていた植物は命あるものとは考えていなかったのです。聖書には命は血に宿るものと考えていて、この当時、植物は命がないと理解され、人間から遠い存在であると考えていました。

 植物の次に天体が造られ、そして水の中と空の生き物が造られています。地の上の動物たちは人間にとって最も身近なところにいる存在です。それらの創造が人間の創造の直前に語られています。この天地創造の物語は、人間から遠いところから次第に身近なところへ、そして最後に人間が創造されるという順序で語られ、人間の創造を頂点としてそこに向かっていく物語として語られています。神が六日間をかけてこの世界をお造りになった、それは私たち人間を生かすことを中心にしているのです。そうなると、人間以外の自然と動植物は、人間よりも価値の低い存在であり、人間のために造られたと言うことになると考えるのです。

 そうであるなら、神が造られた自然と動植物は私たち人間のためにあると考えることになりますが、それは正しい理解なのでしょうか。人間の生活のためには、自然と動植物を人間が好きなよう扱っても良いということなのでしょうか。

 そこで、神と人間との関係が問題になります。神と造られたものとの間での人間の位置、立場はどうなのかと言うことです。最近、環境問題に関心が高まり、気候変動のための国際会議(COP21)も行われてきているのですが、地球環境が悪くなったのは、人間を中心に神が造られた自然を扱うので、乱開発や温暖化が進むのだ、という意見があるのです。聖書を人間中心的な世界観の温床だと非難されるのです。聖書は、人間を中心にして自然を従わせる思想をもっているので、ますます地球環境を悪くしているという批判があるのです。人間中心の世界観に対して自然ないし生命至上主義を提唱する人々が多いのです。日本では自然や動植物に霊が宿っているという思想があり、この思想に共感し、自然そのものをとても大切に考え、生命至上主義に共鳴する人も多いのです。

 しかし、聖書を人間中心的な世界の温床だと批判するのは、誤解であるのです。聖書は、神に対して人間がどのような立場にあるのか、をよくわきまえることを教えています。神は創造主であり、その他のものはすべて造られたものに過ぎないのです。自然そのものが神なのではなく、人間そのものも造られたものに過ぎないのです。人間が神ではないし、人間は神に従う者なのです。私たちが自然や動植物を扱う時に、どのような信仰をもつならば、自然や動植物に対して正しい扱いができるのか、と言うことです。

 私たちの身近に、犬や猫などの動物がいます。毎朝、犬を連れて散歩している人が多いのです。私たちは犬や猫を飼育することがあります。そのような時に動物の存在をどのように考えるのか、どのように扱うのか、と言うことです。

 私が北九州市の若松教会におりました時に、ある時、教会に小学生の女の子4、5人が、親の犬とその子どもの子犬を4匹連れて来ました。その女の子たちが、この4匹の中の一匹の子犬を飼ってくれないかと言うので、私は犬を飼ったことはなく、犬を飼うのは大変であり、教会には犬が嫌いな人もいるので、子犬を飼うことはできないと答えたのです。その小学生が帰った後に、子どもが飼いたいと言い、その女の子たちを追いかけて、その中の一匹の子犬を貰って飼い始めました。そして、その後、その犬を東大宮教会に連れて来て飼ったのですが、その2年後にフィラリア症にかかり、犬が死んでしまったのです。

 今から考えると、犬を飼う時に、餌をあげて散歩に連れて行けば良いという軽い気持ちで飼い始めたことが良くなかったと思っています。犬を飼育するために、私が飼育する心構えをして、犬の飼い方やしつけなどの知識を得るために学び、犬と共に生きるために自分が犬に対してどのように接すれば良いのか、をきちんと考えていなかったことに後で気がついたのです。動物であると言っても、犬としての生活があるので、もっと犬の立場を尊重して犬を愛して飼えば良かったと反省をしたのです。犬の住まいや食事、衛生などへの配慮がなかったですし、自由に走り回るドックランがあることを後から知り、犬が運動する場所を探す努力もしなかったと思いました。犬を単なる、愛玩動物のように軽く考えていたのではないか、と反省したのです。私は、自分の気持ちに従って犬を飼おうとして来て、犬そのものを愛することをしてこなかったことを反省しました。

 人間中心に自然と動植物を考えることが誤りなのではないか、と思います。植物や動物、人間のいのちはいったい誰のものなのでしょうか。それは聖書にはっきり書いてあります。歴代誌29章11節には「まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの」と語られています。また、ネヘミヤ記9章6節には「天とその高き極みを、そのすべての軍勢を、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものを、あなたは創造された。あなたは万物に命をお与えになる方、天の軍勢はあなたを伏し拝む。」とあります。しかし、現代に生きている私たちは、神がすべてのものを創造した、という信仰を失っているのです。

 アルベルト・シュバイッツァ−が「生命への畏敬」と言いましたが、神が生命を創造したという畏れを持つことがとても重要であると思います。自然や動植物、人間の生命の背後には、神の慈しみがあるのです。神は愛をもって被造物を造られたのです。幼児虐待、動物虐待の事件があり、その事件を報道するテレビニュースで教育評論家が子どもに「いのちの大切さを」を教えることを強調していましたが、私は、この生命は神が創造した大切なものであるという、生命への畏敬がないと、虐待や殺人事件はなくならないと思います。神が愛をもってすべてのものを創造したのです。神が私たちの生命を形造り、この生命を私たちに貸与してくださったのです。この自然や私たち人間や動植物の生命そのものが、神からの贈り物であって、自分のものだと権利主張をすることができないのです。人間は造られたものの中で特別の使命を与えられていますが、それは、人間が特別に他の造られたものよりも優れていると考えているからではないのです。

 聖書は、人間が動物と変わらないことを語っています。コヘレトの言葉3章18−19節に次のように語られています。「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているに過ぎず、人間は動物に何らまさるところはない。」神の創造において、人間は他の生命の誕生の最後に誕生しています。それは動物と同じ日なのです。

 私が東京神学大学の1年生の時に「生物学」という授業で、アドルフ・ポルトマンという人が書いた「人間はどこまで動物か」(岩波新書)という本をテキストにして学んだことがあります。この本は、人間が生物であり動物であり、サルから進化したものであることを教える進化論がありますが、この本は人間とサルとの距離が実際どのくらいあるのか比較検討している本です。神学以外の一般科目の授業で印象が残った授業はないのですが、この授業はよく覚えています。サルとの距離が近い人もおり、遠い人もいるかと思いますが、動物と同じ日に人間が造られたのです。

 人間は、神が造られたものにすぎないのです。造られたものの限界をもっているのです。ヨブ記には、ヨブが自分を特別視し、神に向かって抗議しているヨブに向かって、神がヨブには全くできないことを並べて、ヨブが小さな存在であり、限界をもっていることを指摘しているのです。

 ヨブ記38章4節には次のように語っています。「わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。」ヨブ記39章1−4節にも「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。牝鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。月が満ちるのを数え 産むべき時を知ることができるか。牝鹿はうずくまって産み 子を送り出す。その子らは強くなり、野で育ち 出ていくと、もう帰ってこない。」と語っています。神にしか、この世界と人間を創造することはできないのです。

 創世記1章26節には人間の創造が記され、そして神が人間に人間以外の被造物を「支配する」ことを命じられています。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」この「支配する」という言葉は「治める」という言葉で翻訳している聖書も多いのです。この「支配」という言葉は、自然に従わせる、自然を自分のために使う、と言う意味に理解するのですが、そうではないのです。それは「管理する」ことです。それは「仕える」ことなのです。この「支配する」という言葉は、本来、「給仕」「世話役」「管理人」などの職務を意味する言葉です。英語で言えば「スチュワードシップ」です。

 スチュワードシップ、この言葉は広い意味で受託責任、人間の責務を示す言葉として用いられています。自然を管理する者は、自然を自分の勝手に管理することはできないのです。造り主である神の御心をいつも心に留めながら、自然を管理していくのです。経済中心に考えて、森や林を切り倒し、伐採することではないのです。自分たちの食卓に必要だからと言って、魚を取れるだけ獲ることではないのです。自然を守ることは造り主である神から与えられた生命を大切に守ることであるのです。ロシアの軍事侵攻によって、ウクライナの自然が壊され、国土が荒廃していますが、戦争が自然環境を破壊するので、世界平和を求めていくことが必要なのです。人間が起こした戦争によって土地が荒廃するので、世界が平和であることが必要なのです。自然を守るためには、大地を自然に帰すことなのです。

 私が自然保護について関心をもったきっかけがあります。私は和歌山県の田辺教会に在任していた時に、田辺教会の一人の長老が、田辺湾の先に天神崎という岬があり、この天神崎の自然を守ろうと言う自然保護活動を始めていたのです。この長老から、この自然保護活動の出発点がこの創世記1章にあることを話してくれたのです。神が創造した自然を守り、保護することがキリスト者の責任であることだとこの長老は考えたのです。この活動は、この長老が一人で始めた活動であったのです。この長老は、天神崎の近くに住んでいました。この天神崎の小さな山と浜辺を崩して別荘地として売り出すことを聞いて、この岬がなくなってしまえば、もう元の自然は戻ることはできないと考えて、この運動に取り組むことになったのです。天神崎を崩して別荘地として売り出せば、宅地業者は儲かり、別荘に住む人は、海を眺めて楽しむことができると考えたのです。しかし、一度、その岬と浜がなくなれば、元に戻すことはできないのです。小学生が天神崎周辺で生きている海洋生物を観察することができなくなり、市民がお弁当をもって、子どもたちと岬で遊ぶ場を失ってしまうのです。神が造られた自然を大切に保護することが自分たちの責務であるであるとこの長老は考えたのです。この運動の趣旨を知って、私はこの自然を神の恵みとして喜び、感謝して、自然と良い関係をもって生きることが大切であることを教えられたのです。

 創世記2章では、神が6日間で天地万物を創造され、7日目に神は休まれたことが書かれています。ここには安息日の起源が記されています。この安息日には人間の活動がすべて停止されるのです。この安息日は、自然の安息につながり、安息年の7年目には畑を休耕地とし、ぶどうの刈り入れを止め、大地を自然に戻して自然を回復させ、自然との調和を図るのです。(レビ記25章1−5節)そして、人間が暴力的に樹木を伐採することを禁止しているのです。(申命記20章19節)ここには人間の思い通りに自然を取り扱うことが禁止されています。主なる神が創造主であり、造られたものすべては神のものであり、自然と動植物を保護することが求められています。それは、神は愛によって私たちを創造し、保護しているので、私たちは、神が造られたものを愛し、保護する役割があるのです。

(祈り)
 すべての造り主である神、あなたは万物に命を与え、育み、保護してくださる神であります。あなたが創造したすべての命を、私たちが尊重し、守り、保護することができますように導いてください。愛をもって、神が創造して生きているすべてのものを、あなたが見守り、支えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

20230219  主日礼拝説教  混沌の中でそれでも私たちは生きる  山ノ下恭二牧師
(創世記1章6−10節、マタイによる福音書8章23−27節)


 2月5日(日)の主日礼拝から創世記を学び始めています。創世記の初めには、天地創造の物語が書かれています。この天地創造の物語は、紀元前6世紀に編集され、イスラエルの民に向けて書かれたものです。この物語は、この物語が書かれた時代の歴史的状況があり、この物語を読んでいる人々の状況がこの物語に反映されているのです。この時代のイスラエルの民の生活はまことに悲惨なものでした。イスラエルの国がバビロニアによって滅ぼされ、エルサレム神殿が破壊され、イスラエルの多くの人々がバビロン(現在のイラクになりますが)に捕虜として捕らえられて連れて行かれたのです。言葉も生活習慣も異なる、異郷の地で生活しなければならない、そのような中で暮らしているイスラエルの民に対してこの創造物語を語っているのです。イスラエルの民が、このような苦しみを経験しなければならなくなった原因は、イスラエルの人々がまことの神を礼拝しないで、自分の生活を豊かにすると考えた偶像の神を拝み、隣人を愛することがなかったという大きな罪に対する審判、罰を受けたことにあると、人々は理解していたのです。信仰の拠り所であった神を失い、混沌の暗闇の中にいる民に向かって、神は「光あれ」と語り、生きる希望をもたない絶望の中で、それでも生きよ、生きることができる、と語っているのです。神が、再びイスラエルの民が生きることのできる世界を築いてくださることを約束しているのです。

 この天地創造の物語は、この世界と人間がどのように創造されたかということを物語るものではなく、生きる希望を持つことができない者に対して、それでも神は見放していないし、生きることのできる世界があり、神がそのような世界を用意していることを語るのです。その意味で、この天地創造の物語は、生きることに絶望している人々に生きる希望を与える物語なのです。

 この1章のはじめには、神が光を創造した時に「神は光を見て、良しとされた。」と語られています。そして神は6日間にさまざまなものを造っていますが、その度毎に「神はこれを見て良しとされた。」と語られています。6日の間に創造されたものを見て、1章31節で「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と語られています。神は御自分が創造されたものを見て、完全に肯定しているのです。27節から人間の創造について書かれていますが、人間の存在そのものを神は受け入れて肯定しているのです。私たちは、神から肯定されて受け入れられている存在であることをここで語っているのです。

 この創世記の言葉は、この世界と人間が創造された時のことを語っていると言うよりは、「混沌」「混乱と空しさ」の中で生きている者たちに対して語っているのです。順調に行っている時には、自分がなぜ生きているのか、生きる目的は何かを真剣に考えることはありません。自分の将来に明るい展望を持つことができない時に、立ち止まって考えるのです。私たちは、思いがけない事件に遭遇し、暗闇を経験することがあるのです。

 私は1969年の4月に東京神学大学に入学しましたが、この年の1月には、東大の安田講堂で学生が立てこもり、機動隊との攻防の末、学生たちは逮捕されたのです。私はこれで大学紛争は終わったと安心し、東京神学大学でこのような大学紛争はあるはずがないし、神学校で紛争が起こるとは夢にも思いませんでした。ところが万国博覧会キリスト教館を巡って、東京神学大学で9月に大学紛争が始まり、11月に全共闘の学生たちが大学の建物をバリケ−ド封鎖をしたのです。そのために9月から1970年の3月まで授業はできず、1970年の初めに一年生は、皆、自宅に帰りました。そして、3月11日に機動隊が導入され、建物の封鎖は解かれました。授業が再開することになるのですが、授業の登録をするかどうか、が問題になりました。大学からは4月末までに登録するようにと言う電報が来ましたし、同じ時に全共闘からは「登録を拒否せよ」という電報が来たのです。東京神学大学に入学して、4月から7月まで授業を受けたのですが、大学に残って学びを続けるか、それとも退学するか、を決めなければならないことになりました。出身教会の牧師と私の兄と相談して4ヶ月しか神学大学で学んでいないし、せっかく伝道者としての志をもって入学したのだから、大学に残って学びを続けることを選び、登録することにしたのです。大学で紛争もなく、授業も行われていたならば、改めて、自分は何のためにこの大学に入学したのかということを根本から問い直すこともなかったと思います。この紛争をきっかけに東京神学大学教授会は、日本の教会の形成と人々への福音伝道のために、伝道者を養成する大学であることを再確認したのです。東京神学大学でこのような大学紛争が起こるとは全く思わなかったので、私はとても苦しみました。私にとってこの大学紛争は思いがけない事件であり、自分がどうしたら良いのか、闇に閉ざされるような経験であったのです。

 イスラエルの民は、自分が生活してきた拠り所をすべて失ったのですが、そのような者に対して神は「光あれ」と語ったのです。そのように神が語られると「光」があったのです。神は言葉を発語すると、そのように光があり、光があたりを照らすのです。闇の中で苦しんでいる、この世界と人間とを神が深く慈しんでいることをこの言葉は伝えようとしているのです。この創造物語は、暗闇の中にいるこの世界とその世界に生きている人々に、神が祝福し、見放さず、関心を持ち、良い関係を持ちたいと願っていることを伝えようとしているのです。

 1章4節後半で「神は光と闇を分け」と書かれています。闇で覆われていて、全く光がない、その混沌の中にあって神は光を創造し、光と闇を区別したのです。光が創造されることによって、秩序ができるのです、空間が区分されるのです。闇が全面的に覆っている中で、光が創造され、光と闇が分けられ区別されて、神が闇を支配するようになり、闇がどこまでも広がる恐れはなくなったのです。神が闇を統御し、闇を絶滅することができるのです。この世界と私たちは、災害などの被害に遭い、生きて行く中で苦しみや悲しみを経験するのです。闇に覆われた世界に、神は「光あれ」と語り、光をもたらし、昼と夜とを分けて、「一日」という時間の区切り、秩序を与えてくださったことが記されています。

 私たちの毎日の生活のリズムは、昼は活動し、夜は寝るということが生活の基本になるのですが、1月29日の新聞のフォーラム蘭で「こどもたち、眠れてる?」と言う題で、中学、高校生の睡眠時間について取り上げていました。睡眠時間が短いために、朝どうしても起きられない子どもが多く、低血圧や起立性調節障害などの子どもたちが多いことが報告されていました。これは学校から出される宿題が多いことや塾での勉強で忙しくて、どうしても眠る時間が少なくなることが原因だとありました。十分な睡眠を取ることが生きるために、昼間の活動を制限することがとても大切なのです。光と闇を区別し、昼と夜とを区別して秩序をもたらす、それは、私たちが生きるためにとても大切なのです。夜に起きて、昼に寝ている昼夜逆転現象がありますが、生活のリズムを壊すことになります。現代は、自分の自由を最優先する時代ですが、自由には制限があることを忘れているのです。何でも自由にして良い、ということはないのです。神は光と闇を分け、昼と夜とを分けて秩序をもたらすのです。

 創世記が書かれた時代の天体についての理解は、現在の天体についての理解とかなり異なっていました。上と下から水はこの世界に溢れ出し、この世界を混乱させるものであったのですが、第二日目には、神は大空(天蓋)によって水が上と下に分けられ、その間に空間が整えられたのです。空には大きな穴があって、その穴から雨が降ると考えていたのです。現在の天気予報のように、天気図はなく、高気圧、低気圧、などの知識はないので、古代の世界観は現在とはかなり違っているのですが、空の大きな穴から雨が降り、下から水が溢れると考えられていたのです。

 第三日目には「下の水」がさらに一つ所に集められて海となり、乾いた地が現れたのです。水はいのちを養うもので、私たちの生活を支えるものですが、水は混沌の象徴であり、洪水によって地を脅かすものです。洪水と言う水害によって大きな被害を受けるのです。神が水を制御することによって、乾いた地で動物や人間の生活が営まれていくのです。神が水(混沌)を制御してくださることによってこの世界は守られ、保たれていますが、神がその制御を撤回するならば、水によって全ては押し流されるのです。創世記7章のノアの物語は、人々が神に背を向けて、自分中心の生き方をして悪いことをしているので、神は滅ぼす決意をして洪水を起こすのです。1章11節で「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」大地は植物の実りを得て、その豊かさを与えられ、その大地の豊かさも神の御言葉によって与えられているのです。

 第四の日には、太陽や星などの「天体」が造られたことが書かれています。バビロニアやその周辺の民族では、太陽や月が神として拝まれ、星の動きが世界と人間の運命を支配していると考えられていたのです。このような運命信仰は日本ではとても根強くあります。正月に富士山に登って、太陽を神のように「ご来光」として拝むのです。星座占いがあります。誰でも誕生日があり、生まれてくる日を自分では選べないので、その日が「やぎ座」「水がめ座」として自分の運命として受け入れる決定論があります。星座ガチャです。しかし、1章16節では「神は二つの大きな光る物と星とを造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。」と書いています。「光る物」という言葉には、天体を神格化することを排除しているのです。ここでは「太陽、月」という言葉が用いられていないのです。太陽や月を神として呼ばないことを語るのです。これらの天体は「日や年のしるし」とするために、つまり、人間の生活に秩序を与えるために神によって配置されたのです。日本では、星座占いなどの運命信仰が人々の心を支配していますが、私たちはそのようなものに振り回されることはないのです。

 神が創造された時にのみ「バーラー」というヘブライ語を使っています。それは1章1節の「天地を創造された」時と第五日に、神が動物を創造する時、そして、人間を創造した時に、この言葉を用いています。水の中に群がり、空を飛ぶ動物たちは、人間から遠い存在ですが、鳥を造られたことを語っています。21節に「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物」を創造された、と書かれています。口語訳ですが、ヨブ記40章15節で神はヨブに「河馬を見よ」と言い、41章1節で神はヨブに「あなたはつり針で、わにをつりだすことができるか。糸でその舌を押さえることができるか。」と問いかけていますが、神は大きな怪物を創造し、支配することができるけれども、人間にはできないことを教えています。神の偉大さと人間の限界を教えているのです。神は大きな怪物を創造し、それを「良し」とされたのです。現代は人間中心に考えて、人間が神の造った被造物を、自分たちが自由に利用すれば良いと考えていますが、太陽、月、空、大地、植物、森林、動物は神が創造した被造物であることを認識し、自然と共に生きることをここで語っているのです。

 国土が焼き尽くされ、信仰を支えていたエルサレム神殿を失って、何かも失い、神が自分たちを見放し、遠い存在になってしまい、しかも、自分たちは、イスラエルから遙かに遠い異郷の土地に住み、帰る当てもない、それは私たちの罪に因ることだとうちしおれている人々に、神が創造した新しい世界が来ることを創世記の編集者は知らせているのです。この創世記が書かれた同じ時期に書かれた第二イザヤは、それでも生きるように、希望のメッセ−ジを語っているのです。「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者、わたしが主、これらのことをするものである。」(イザヤ書45章7節)

 現代は、ウクライナへのロシアの軍事侵攻、自然災害の多発、気候変動による温暖化、また日本でも特殊詐欺による広域強盗事件など、私たちの存在を脅かす様々なものに囲まれているのです。これから世界は破滅し、私たちは生き延びることができないのではないかと思うのです。これから私たちが住む世界はどうなるのだろうか、と不安になり、悲観的になるのです。しかし、聖書は神が良い意志をもってこの世界を支配していることを語るのです。神の創造の業が一日終わるたびに「神はこれを見て、良しとされた。」という言葉が繰り返されるのです。そこには世界の創造が神の良き意志の反映であることが、判を押したように明確に示されています。混沌の闇が襲うけれども、神は通り過ぎ、それを軽蔑し、御自分の背後に捨てるのです。私たち造られた者は、この神を信頼し依存して、混沌に陥ることから守られ、支えられていくことを信じているのです。私たちは、混乱と虚しさを経験しますが、それでも生きるのです。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの照らす光に向かい 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」(イザヤ書60章1−3節)

 私たちは使徒信条において、父なる神を信じると告白しています。この父はイエス・キリストの父なる神なのです。私たちの罪の救いのために、イエス・キリストを罪の犠牲としてささげた神なのです。それほどまでに私たちを愛された神が、私たちが祝福して生きるために、配慮してくださり、新しい天地を創造し、暗闇を追放してくださっているのです。私たちが混乱と空しさの中に置かれていても、それでも神がイエス・キリストによって、私たちの罪を赦し、愛してくださるので、生きることが許され、生きることができるのです。

 「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ われらの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(ミカ書7章18−19節)

(祈り)
 イエス・キリストの父なる神。あなたは、わたしたちのいのちを造り、私たちが生きるために様々な配慮をして下さっています。私たちの生きる環境を整えて、神の祝福の中で生きるように、必要なものを用意してくださっています。私たちの罪を赦し、私たちを深く愛して下さるイエス・キリストを信頼して、心配することなく、歩むことができますように導いて下さい。これから始まる一週間の私たちの歩みを導き、あなたが共にいてくださり、私たちを守ってくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

20230212  主日礼拝説教  「神の言葉の光に立ちつつ」  山ノ下恭二牧師
(創世記1章1−5節、コリントの信徒への手紙一 4章1−5節)

 
 先日、テレビのニュ−ス番組のスポーツコーナーに、アメリカのプロバスケットボ−ルで現在、活躍している渡辺雄太選手が出ていて、プロバスケットの選手になりたい少年が、どうしたらプロバスケットの選手として続けて行けるのか、という質問に答えている場面がありました。渡辺雄太選手は、成績が悪くて、試合になかなか出してもらえない時期があったけれども、そういう時にも落胆しないでバスケットを続けて行ったので、どんなことがあってもバスケットを続けていくことが大切だ、と話していました。現在はダンクシュ−トを何回も決めているので、今はよく試合に出ているけれども、試合に出られない時も多かったとのことです。一つのことを続けて行くことは大変なことだと思いましたが、続けて行く中で展望が開けていくことを知りました。

 私たちが生き続けて行く時に、暗闇を経験することがあります。光がどこにあるのか、全く見ることができない時があるのです。詩編23編を愛唱の聖句にしている人が多いのですが、詩編23編4節に「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」と語られています。「死の陰の谷を行く」私たちは、そのような経験をしているのです。私たちはすべてが順調であるはずはないのです。多くの人々が辛く、苦しい時を経験しているのです。昨日、詩編107編を読んでいましたら、107編13−14節に「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らの苦しみに救いを与えられた。闇と死の陰から彼らを導き出し 束縛するものを断ってくださった。」と語られています。「闇と死の陰から」とあるのは、この詩人が闇を経験し、自分の死を身近に思っているのです。そのような時に「闇と死の陰から」光のある世界に導いてくださった神を讃えているのです。暗闇の中に佇む者に「光あれ」と語り、光を与えて下さっているのです

 私は、創世記の初めに、神が天地を創造した、その世界は、美しいものであったと思っていました。天地を創造された時に、初めに語られた言葉は「光あれ」という言葉でした。神が沈黙を破って発言されたのは、「光あれ」であったのです。私は以前から、神が初めて語られた言葉が「光あれ」と言う言葉であったことに合点がいかなかったのです。神がこの天地を造られた時、すでに明るい光が輝いていたのではないか、と思っていたのです。

 創世記1章の初めの言葉を科学者たちは、思索を巡らしてきました。この「天地創造」の記事は、中世から近代にかけて議論の対象になりました。太陽が地球の周りに転回するという天動説に対して、コペルニクスが地動説を唱えたのですが、コペルニクスが、なぜ「地動説」を唱えるようになったのか、それは創世記1章3節の「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」という言葉を読んで、神は光を創造されているが、最初に造られたものが中心であるはずだ、そしてその「光」とは太陽であり、太陽が中心であり地球はその周りを転回していると考えたのです。しかし、これは間違いであり、「天地創造」の第一日に造られたのは「太陽」ではありません。それは1章16節に書かれています。「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。」とあり、「大きな方」の光は太陽であり、「小さな方」の光は月であることは確かなのです。神が「光あれ」と言われた「光」は、自然の光ではないことは明らかです。それでは、この「光」とはどのような光なのかと言うことです。

 2節には神がお造りになった世界はどのようなところであったのか、ということが語られています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。これが、神が最初にお造りになった天地の姿であったのです。新共同訳では「地は混沌であって」と訳されていますが、他の訳では「形なく、むなしく」と二つの言葉で訳されています。この言葉とよく似た言葉が、エレミヤ書4章23節にあります。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。」このエレミヤ書の「混沌」という言葉を他の訳では「混乱と空虚」と訳しています。神が天地を、この世界をお造りになった、という1節の言葉は、この世界を良い世界として造ったという宣言であったはずなのです。それなのに、神がお造りになった世界が、混乱と空虚の世界であったとしたら、神が天地を何のために造ったのか分からなくなるのです。さらに2節後半では「闇が深淵の面にあり」とあります。「深淵」とは、底なしの深みです。そこに落ち込んだら二度と浮かび上がることができないのです。暗闇の覆われた恐ろしい淵がすべてのものを飲み尽くそうとしているのです。しかも、このような世界そのものが、神がお造りになった世界であると語っているのです。2節最後の「神の霊」とは、ものすごい風、暴風、大嵐のことであり、大嵐の中で山のような波が小舟を飲み込んでしまう、すさまじい世界であった、と語るのです。

 なぜ、このようなことが書かれているのか、と言うことです。この創世記1章の天地創造の物語が、いつ、どのような時代状況で生み出され、書かれたのかと言うことです。この創世記1章が書かれたのは、紀元前6世紀の頃、と考えられています。それはイスラエルの歴史の大きな曲がり角であり、転換点となる時代でした。人々の目の前にあるのは、戦争で破壊され、焼き尽くされた土地と生きる希望を失った人々の姿であったのです。紀元前587年にイスラエルはバビロニアによって神殿や人々の住まいをことごとく破壊され、多くの人々がバビロン(今のイラク)に連れられて行ってしまう、いわゆるバビロン捕囚の時でした。先ほど、エレミヤ書4章23節の言葉を紹介しました「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」という言葉に続いて「私は見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に主の激しい怒りによって打ち倒されていた。」(p1182)と語られています。このエレミヤの言葉は、まさにエレミヤがこの国の滅亡と捕囚のまっただ中に生きていたことを証言しています。このように国が滅亡し、多くの人々が全く知らない異郷の土地に連れて行かれるのは、神に背いた結果であると人々は受け取ったのです。この混沌、混乱と空虚の様は、この時代の人々が見ていた風景なのです。まことの神を捨て、人間の欲望や願いを満たす五穀豊穣をもたらす偶像の神々、御利益の神々に心を向け、拝んできた、その罪の結果が、この国が滅び、見知らぬバビロンに連れて行かれる結果になったと理解したのです。

 創世記1章は、エレミヤが見つめている、この現実の中で書かれているのです。2節において描かれているのは、国の滅亡とバビロン捕囚という現実であるのです。創世記の編集者が描いているのは、大昔に神がこの世界を造られた時にこの世界がどんなであったのか、ということなのではなく、今の自分たちの目の前にある現実なのです。今、自分たちの前にある世界、自分たちが置かれている現実が混沌であり、形なく空しく、混乱と空虚に満ち、闇に覆われた底知れぬ淵が、そこにぱっくりと口をあけ、自分たちを呑み込もうとしている、ものすごい暴風が吹き荒れ、山のような波が襲いかかってくる、そのような現実が、今、自分たちの前にある、と語るのです。

 この「創世記」一章の、この「創造物語」は、現在の聖書学で「祭司文書」と言われているものの一部です。この「祭司文書」が書かれたのは、古代イスラエルがもっとも危機的な状況にあった「バビロン捕囚」の時期に書かれたのです。この時期に書かれたのは「ヨブ記」であり、「第二イザヤ」であり、この創世記のこの箇所を書いた「祭司文書」です。「この時代の代表的思想作品がおそらくヨブ記であり、第二イザヤであり、祭司文書である。ヨブ記詩人が崩壊と虚無のさ中で〈神と人間〉を問い、第二イザヤが〈歴史(の意味)〉を問うたとすれば、祭司文書はまず〈世界〉から根源的に問い直したのである。創世記1章がそれである。」(左近淑著「崩壊期の思想としての旧約聖書」p263 左近淑著作集 第一巻 教文館 1992年)

 この紀元前6世紀にイスラエルの人々が直面した危機は、私たちと全く無関係なのか、と言うとそうではないのです。太平洋戦争の敗戦の時期において、日本の国家体制が変わり、国家主義から民主主義に急激に変わることによって天皇中心の国家主義の教育を生徒たちに教えていた教師たちが、精神的な支柱を失い、教師を辞めた人も多かったのです。国家体制が崩壊して今まで自分を支えていた、天皇中心の国家主義思想が通用しなくなったからです。

 私たちも闇を抱えています。闇に覆われて光がどこにあるのか、分からない経験をするのです。親子がうまく心が通じ合えない、自分を理解する人がいなくて孤独を覚える、相手が自分の過ちを赦してくれない、自分が信頼していた人に裏切られる、自分の罪に苦しむ、そのような闇を経験するのです。そのような闇を自分の力で取り去ることができないのです。そのようなことでなくても、私たちの人生において、困難なことに直面することがあります。

 しかし、そのような闇を追い払い、光をもたらす方がいるのです。詩編139編11−12節に「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち闇も、光も、変わるところがない。」私たちは真っ暗な闇の中に佇むことがあり、光を見ることができない時があるのです。しかし、闇の中を歩いても、闇に勝る光が射しているのです。暗い夜と明るい昼とは大違いですが、昼も夜も神の光に照らされて、夜も暗くなることはないのです。その神の光とは何でしょうか。それは神の愛の光です。この「光」は神が私たちを赦し、受け入れ愛している光です。「神は光を見て、良しとされた。」私たちは神から離れて、自分本位に生きています。そのこと自体が、闇の中にいることなのです。神はその闇を取り払い、神が赦しの光を送り、光の中に過ごすことを肯定しています。神が良しとされるみこころは、今や、私たちが滅びにあるのではない、暗闇に佇むことではないのです。私たちが神の愛を信じて生きることこそ、神は良しとし、そのことを望んでおられるのです。私たちがキリストの愛のうちに生きること、そのことこそ、光を受けて生きることです。そのことを神は喜んでいるのです。

 私たちは、暗闇の中を歩んでいるような思いをすることがあります。アブラハム物語で、妻のサラと若い女ハガルと対立している、その中をアブラハムはとても困っているところがあります。そのようなことがあると、そのことに囚われて、暗い穴の中に落ち込んでいくような気分になります。しかし、それでも神はアブラハムを祝福し、解決がなされます。ヤコブとエサウとの争いがあって、ヤコブはとても苦労するのです。しかし、神はヤコブに現れて神の大きな世界を見せて、解決の道を用意しているのです。

 私は、礼拝の終わりに祝祷を宣言しています。初めに民数記6章24−26節にある「アロンの祝福」を宣言しますが、その言葉の中に「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」という御言葉があります。神ご自身の光を照らすとはどのようなことなのでしょうか。それは神が私たちに優しい顔を向けて、慈しみのまなざしでみていてくださることです。神が険しく、怒った顔で私たちを見ているのではなく、優しく、慈しみ深いまなざしを私たちに向けてくださることです。私たちは、トラブルに巻き込まれ、解決の難しい場面に遭遇する時があります。そのような時に、神は、私たちの弱さ、いたらなさをも優しく包んでくださるのです。私たちは、思いがけない苦しみや、不幸に直面しますが、そのような時には、神は私たちを愛してくださり、生きるために光を照らして必要なものを用意してくださるのです。「あなたの光によって光を見る」ことができるのです。それは、自分の小さな世界のなかで自分の暗闇を見ているのではなくて、神の広い世界の中で、光と見ることができるからです。

 北朝鮮によって拉致された横田めぐみさんの、母親である横田早紀江さんが、「ブルーリボンの祈り」という本で、「苦しみに会ったことは」という中で、「小さな世界と大きな世界」という文章を書いています。この拉致の問題をきっかけにして横田早紀江さんは、キリスト教信仰を与えられたのですが、「私は、一つ一つ、もうどんなことが起きても、真理の神さま、宇宙を司っておられる、愛に満ちあふれた神さまが、すべてを最善にするために、どんなふうに大きく世界中を動かされて、どんなふうに大きく世界中を動かされて、どんな働きをなさるのだろうと、いつも期待いっぱいで見つめております。」(p172 いのちのことば社フォレストブック 2003年)と書いています。自分の小さな世界の中で、私たちは、闇を経験しますが、神は闇の中にいる私たちを光の中に引き出して下さるのです。

 詩編107編14−15節(p948)「闇と死の陰から彼らを導き出し 束縛するものを断ってくださつた。主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」

(祈り)
 イエス・キリストの父なる神、愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、あなたの御言葉を聴く時が与えられましたことを感謝致します。
 あなたは「光あれ」と光を呼び起こし、創造のみわざを始めてくださいました。神の光が、私たちをいつも照らしてくださり、イエス・キリストによって私たちの罪を赦し、愛してくださる、その恵みのうちに歩むことができますように。
 あなたの光が、私たちの全存在を包み、闇の中にいるような困難な時にも、あなたが共にいてくださることを信じることができますように。最初から最後まで、私たちと共にいて私たちを慰め、励ましてくださいますように。
 寒い日が続きますが、私たちの心身を守って下さり、あなたの御言葉に聞き従うことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

20230205  主日礼拝説教  初めに神は天地を創造された  山ノ下恭二牧師
(創世記1章1節、ヘブライ人への手紙11章3節)


 本日から、この礼拝において旧約聖書の創世記を学びます。この創世記と言う書名は、日本語に翻訳する時に、漢訳(中国語)聖書の書名を引き継いだものです。ヘブライ語聖書の創世記では「ベーレーシス」という言葉で始まっています。このヘブライ語は「初めに」という言葉です。「初めに」と言うのは、この世界と人類がどのように始まったのか、そのことが書いてあると考える人もいますし、いや、そうではない、古代の創造神話が書かれているだけだと理解している人もいるのです。神がアダムとエバを創造したことはこの世界で起こった歴史的事実だと考える人々がいます。また逆に創世記1章から始まる創造の物語は、進化論と矛盾しており、歴史的な事実ではないと考えている人々とがおり、両者が長く論争してきたのです。私は、この創世記の創造論と科学的な進化論とは矛盾しないと考えています。それは信仰と科学とは領域が異なるからです。進化論は自然科学の領域ですし、創世記の創造論は、神を信じる信仰の領域において解明しているからです。創世記の創造論は、神との関係でこの世界と人間の根源を語っているのです。大切なことは「初めに神は天地を創造された」とあり、「神は」と語っていることから、「神」が主語であると言うことです。

 「初めに神は天地を創造された。」この言葉は、イスラエルの信仰告白であり、キリスト教会の信仰告白なのです。神を信じることにおいて、この世界と人間との「起源」を語っているのです。私たちは礼拝で使徒信条を告白していますが、「我は天地の造り主、父なる神を信じる」と告白しています。使徒信条には「我は創造された世界を信じる」と告白していませんし、「我は創造の業を信じる」とも告白していません。使徒信条は「我は創造者なる神を信じる」と告白しているのです。創造について語られるすべてのことは、徹底的に、神と言う主語にかかっているのです。

 この創世記を編集した祭司文書の記者は、神とこの世界と人間との関わりにおいて、危機感をもって編集しているのです。私たちにとって関心があることは、自分たちが生きることです。創世記は、この世界や人間の起源を問題にしていると言うよりも、神との関係で私たちの生きている意味を問うているのです。「はじめに」という言葉は、時間の初めというよりも、「根本的に」「根源的に」という言葉です。私は本来、何者であるのか、私は本来どのような存在であるか、を根源的に問題にしているのです。元気である時は考えないのですが、病気になった時や困難なことにぶつかった時に、自分が何のために生きているのか、自分が生きている根拠を考え、自分が生きている意味を問うことがあります。そのような私たちの根源的な問いに対して、この創世記は誠実に答えようとしているのです。

 この創世記は、祭司文書の編集者が、ヤーウェ資料、エロヒスト資料を用いて編集した文書ですが、この冒頭で、神が命ずる言葉によって世界と人間とを創造していることが記されています。「神は言われた」という神の命令の言葉があり、「するとそのようになった」と命令が実行され、「神は御覧になった。それは良かった」と神が承認したことが記されています。神はこの世界と人間を造り、神が御覧になってそれは良かったと記されているのです。従って、この世界と人間である私たちは、良い存在として創造されたのです。それが、私たちの本来の姿であるのです。決して呪われた者として造られたのではないのです。神の祝福の中でこの世界も私たち人間も良い存在として造られているのです。

 ある調査によると日本の青少年は、外国の青少年と比較して、自己肯定感を持っている青少年が少ないそうです。それは、幼い頃から、学校の成績で評価され、ランクづけられ、運動においてもできる、できない、で評価され、その中で、自分を評価しているので、自己肯定感を持つことができないのです。自分がもっている能力で自分を測るのではなく、神が良い者として創造された、というところに立って、自分を見直すことが必要なのです。人間の価値は、能力ではなく、存在そのものに価値があることを改めて認識することが大切なのです。

 私はかなり前ですが、日本基督教団出版局で発行していた「聖書と教会」という雑誌をある時、読んでいたときに、ある号で上田光正という牧師が、カ−ル・バルトの人間論について随想を書いていて、この中に私に印象が残った言葉がありました。「人間の生きる根拠は、自分の外にある。自分が生きる根拠は自分の中にはなく、神にある」という言葉でした。この言葉を読んで私は生きることが楽になったのです。私たちは「がんばって」「がんばります」と言いますが、自分の力をふりしぼってがんばる必要はないと思ったのです。神が生きることを願っているから「生きる」のです。「生きていて良い」のです。神が「生きていてほしい」と願っているので「私たちは生きている」のです。最近、自殺がとても増えており、ある男子中学生はクラブの監督から、「何の役に立たない」という心ない一言でいのちを断ってしまった事件がありました。しかし、聖書は「あなたは生きていていいんだよ。生きていて欲しい」「あなたは生きる価値があるのだ」というメッセ−ジを伝えています。

 最初の1章から11章まで世界と人間の「創造」について語られています。この世界と人間が、神によって良いものとして創造されたにもかかわらず、神の創造の目的から外れ、離れてしまっている、それはどうしてなのか、と言う問題に焦点を当てて語るのです。ここでは私たちが生きている時に持つ、疑問に答えているのです。なぜ、この世界はあるのか、なぜ人間はいるのか、なぜ男と女がいるのか、なぜ人間は誘惑に弱いのか、なぜ罪が侵入するようになったのか、なぜ殺人があるのか、なぜ人間は権力を持とうとするのか、その原因を探って解明しようとしているのです。

 創世記6章5節から9章17節まで「ノアの物語」が記されています。「洪水と新しい創造」が語られています。神がこの世界と人間を良いものとして創造したのですが、人間がその罪によって神の御心から離れてしまったのです。そこで神は、もう一度、この世界と人間との関係を再構築するために、洪水を起こし、滅ぼそうと決意しましたが、ノアの家族と動物一組ずつを選び、箱船に乗せ、救ったのです。この「ノアの洪水物語」は1章から11章の中で、中心的な役割をもっているのです。全人類の破滅という危機の中で「生き残る」ことをテ−マにしているのです。このことは現代の問題と通じるものです。現代の問題として、夏が暑く、冬が寒い、地球温暖化と自然災害という気候変動、地球環境の問題、そして核兵器削減ができるか、どうか、が現代の重大な問題なのです。

 現代の私たちにとって、「いかに生きるのか」ということよりも「いかに生き残るか」「いかに生き延びるのか」が緊急の問題であるのです。神はこの世界と人間を良いものとして創造したのですが、地上に悪が増していることに「心を痛め」て、すべてをぬぐい去ろうとして洪水を起こすのですが、神は心を変えて「大地を呪うことは二度とすまい」と決意をするのです。二度と洪水によって滅ぼすことはないと約束するのです。このノアの物語で、人間が心を入れ替えて悪いことはしないと言ったのではなく、神が心を変えているのです。人間の罪のゆえに、神は洪水をもって滅ぼしたのですが、このことによって人間が罪を悔い改めたのではなく、神が人間に対する憐れみのゆえに、大地を呪わないと宣言しているのです。人間は全く変わらないのですが、神は心を入れ替えているのです。そして「虹のしるし」によって、神が人間を保存する契約を結ぶのです。ノアの契約です。人間が、神に対して心を入れ替えて、神に従ったのではないのです。11章の「バベルの塔」の物語では、権力を指向し、権力をもって人々を支配し、神になろうとする人間の有様を語っています。人間が神になることを神は阻止すしますが、権力を求める人間を滅ぼそうとすることなく、そのような罪ある人間をも神は忍耐しつつ、愛を貫くのです。

 12章−50章は、一つの家族の物語が記されています。アブラハム、ヤコブ、ヨセフの物語が語られています。1−11章には、「呪い」という言葉が多く出てきますが、12章からは「祝福」という言葉が多く出ているのです。それは、アダムとエバが罪を犯し、カインが弟アベルを殺し、人間の罪がもたらした「呪い」を「祝福」に変えていく使命がアブラハムに与えられているのです。

 アブラハム物語は、神の祝福の中に置かれていても、その中でアブラハムの妻サラとハガルの対立、イサクの誕生をめぐっての出来事など、様々な困難なことがあっても神の祝福の中で乗り越えることができているのです。人間の愚かさ、弱さがありながらも神の祝福の中で生きることができることを語ります。

 25章−36章では、ヤコブとエサウの兄弟が神の祝福を巡って争う物語が記されているのです。「祝福」を巡って兄弟の間で争いになり、二人の間に亀裂が入り、対立へと発展するのです。しかし、ヤコブは神との出会いにおいて、神がまことに生きておられることを信じることによって、ヤコブはエサウと平和のうちに再会して良い関係を取り戻すことができるのです。

 そして、37−50章に記されているのは、ヨセフの物語です。予期しない兄弟の悪事によってヨセフはエジプトに売られ、数奇な歩みをするのですが、徐々に兄弟との関係が回復していくのです。神は、背後に退いていますが、45章の兄弟との和解においては、人間の混乱においても神が配慮して最善の道が開かれていることを伝えているのです。神の祝福に置かれていても、全く問題がないのではなくて、人間の愚かさ、失敗、罪にもかかわらず、神の平和の中にあることを示そうとしているのです。

 1974年の10月に東京神学大学後期の始業講演で左近淑教授が、「崩壊期の思想としての旧約聖書」という講演をされて、この講演を私は、印象深く聞きました。この創世記の編集者は、すべてが崩壊している紀元前6世紀の状況の中で、この世界と人間が生きる意味を問い直したのです。紀元前6世紀とは、イスラエルの国が、バビロニアとの戦いで破れ、王制が廃止され、神殿は崩壊し、多くの人々はバビロニアに捕囚として連れ去られ、異教の地で70年の間、不自由な生活を強いられたのです。この事件は、イスラエルの人々が今まで、心を支えてきたものが一挙に崩れてしまったのです。

 イスラエルの人々は、外面的な政治の壊滅以上に、内面的な心の崩壊の危機にあったのです。特にエルサレム神殿が灰燼に帰し、神がおられるところを失い、神の契約が破棄され、頼るべきものがなくなったのです。この講演には「捕囚期は零と空白の時期であった。この時代の代表的思想作品がおそらくヨブ記であり、第二イザヤであり、祭司文書である。」とあります。

 祭司文書が創世記1章を基本となっています。今まで、神は神殿におり、その礼拝によって、神が臨在されていると信じて安心していたのです。ところが神殿を失い、神の臨在がなくなった、そこで、神を失ってしまった人間がこの世界の中で脅かされている、それに対して、神がこの世界と人間に深く関わろうとしているのです。

 創世記1章−2章には神が言葉をもって命令し、その命令を実行し、そして神が創造されたものが良いものとして承認しているのです。しかし、人間の罪によって神から外れてしまう、神から離れてしまう、しかし、神はその者を生かしているのです。神の裁きが行われて人間のいのちを断つことはしないのです。神に背いても、神は創造主として責任をもって最後まで見守ると約束をしているのです。この創世記1章と同じ時期に書かれたのは、イザヤ書40章−54章の第二イザヤです。バビロニアに捕囚として生きていた者たちに、イザヤが神の新しい言葉を語っているのです。イザヤは、国が破れ、神殿が崩壊し、生きる根拠を失った人々に慰めの言葉を語るのです。イスラエルの民は、神が自分たちを見捨ててしまっているという絶望の中にいたのです。しかし、イザヤの預言によって、神は、あなたたちの神として現臨していることを語るのです。もう一度、やり直そうと呼びかけ、この神こそ、あなたを愛するまことの神であることを宣言するのです。イザヤ書54章7−10節「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。これは、わたしにとってのノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと あのとき誓い 今またわたしは誓う 再びあなたを怒り、責めることはない、と。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。」(p1151)

 「初めに神は天地を創造された」、この「創造」という言葉は、バ−ラ−というヘブライ語ですが、この言葉は「神」が創造する時にのみ、使われる言葉です。普通は、材料があってものを造るのですが、神は何もない中からこの世界と人間とを創造したのです。このことを「無からの創造」と言います。全く何もないところから、神は再び、神御自身を憐れみ深い神として登場するのです。神の祝福の中で創造された私たち人間が、神を信頼しないで神から離れ、罪を犯し、失敗する、しかし、神は私たちを見捨てることも、忘れることもないのです。神が私たちの命を新しく創造してくださることを語っているのです。私たちの限られたいのちが、神の永遠の記憶の中に覚えられ、この限られた存在が神の交わりのうちに入れられているのです。私たちが胎児の時に、神は私たちを見守り、死においても神の愛のまなざしの中におり、私たちは死においても孤独ではないのです。私たちを造り出し、命を与え、贖ってくださった神の命の中に私たちは受け入れられているのです。道をはずれてさまよい、滅びの崖っぷちにいた迷える羊である私を、神は探し求め、発見し、命をかけて救い出してくださったのです。この神の愛の御手の中に私はいるのです。十字架の血によって贖われた私たちは、私たちのためにキリストが肉を裂き、血を流してくださったことを表す聖餐をこれから戴きます。神から心が離れてしまって自分中心に生きている私たちの罪を、キリストの十字架の苦難と死において赦し、受け入れてくださる恵みに共にあずかりましょう。

 (祈り)あなたは、私たちがあなたから離れて罪の中に生きている時にも、あなたを忘れている時にも、私たちを決して忘れず、憐れみ、心にかけてくださる神であることを心に刻むことができ、感謝を致します。私たちの救いのために、私たちの罪を贖い、新しいいのちを創造してくださったことを感謝致します。この一週間も、私たちを愛のまなざしを向けて、伴ってくださいますように。この祈りを、私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈り、願います。
ア−メン

20230129  主日礼拝説教  揺らぐことのない歩みを  山ノ下恭二牧
(イザヤ書28章16節、ペトロの手紙一 5章8−14節)


 一年の中で、最も寒い季節を過ごしています。先週は、横綱級の大寒波が襲来し、木曜日には、教会の裏庭に霜柱が立つほどの寒さでした。大雪で京都では電車が止まり、乗客が線路に降りて次の駅まで歩くことが起こり、新名神高速道路で、大雪のために、渋滞し、何時間も車が動けない状況が続きました。この寒い中で皆さんが、それぞれのところからこの教会に来て、礼拝を共にささげることができることを感謝致します。

 私が東京神学大学に在学していた時に、ある時、神学校のチャペルで北森嘉蔵教授の説教の中で、心に残る話を聞いたのです。北森嘉蔵先生は、その頃、東京神学大学の教授の中では、一般の人々によく知られた教師でした。ある時、教会学校の教師をしていた時に、街角で教会学校の父兄に会い、私が東京神学大学の学生であることを言うと、北森先生のことを聞かれたことがあり、よく知られた教授であることを知りました。北森嘉蔵先生は「神の痛みの神学」で有名で、カ−ル・バルトという神学者が、この本を評価しているほどの教師なのです。神学校のチャペルで、北森嘉蔵先生が「自分が一番、尊敬する人たちがいる。」と語り始めたので、私は、北森先生が一番、尊敬する人たちとは、宗教改革ルタ−や20世紀の最大の神学者カ−ル・バルトの名前を挙げるかと思っていましたら、「私が尊敬しているのは、教会で長い間、信仰生活を続けている信徒たちです。それは、信仰生活を続けていくことは、とても困難であるからです。」と言われたのです。教会に来て信仰生活を続けていくことは容易なことではありません。その中で、教会に来続けて信仰生活を継続し、教会生活を全うすることは、大いに評価できることなのです。

 この礼拝でペトロの手紙一を学んで参りました。本日は、この手紙の終わりのところを学びます。この手紙は、教会が国家から迫害を受け始め、キリスト者が周辺の人々から理解されないで、困難の中で教会生活をしていた長老や信徒たちに、ペトロが信仰生活を続けていくように、慰め、励ました手紙です。

 5章9節に「信仰に踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」という言葉があり、12節後半に「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。」と言う言葉があります。「踏みとどまる」という言葉が二回出てくるのです。この「踏みとどまる」という言葉は、このところを理解するのに鍵となる言葉です。この「踏みとどまる」と言う言葉は、「立ち続ける」という意味の言葉です。「じっと立ち続ける」ことです。その場に「立ち続ける」ことは、とても難しいのです。私たちの立場を揺るがす大きな力が働くことがあります。あるいは自分を突き飛ばす力が働くことがあります。それに断固として立ち向かって立ち続けるのです。その場に立ち続けるのです。このことは「抵抗する」ことなのです。「抵抗する」ということは、相手の言動に反発して、自分の意志を明らかにするという程度のものではなく、自分がここは立たなければいけないところだと信仰をもって受け止めたところに立ち続けることです。

 私が、高校の時に読んだ一冊の本に深く感動し、牧師になるときっかけを作った本があります。第二次世界大戦の最中、ドイツの牧師で神学者であった、ボンフェッファ−が書いた「抵抗と信従」という獄中書簡です。ボンフェッファ−はナチス・ヒトラーを暗殺しようとした罪で処刑された牧師です。ボンフェッファ−は死が間近になっている中で、聖書の言葉に従って生きようとして、自分の信仰を失うこと無く、その信仰に踏みとどまった、立ち続けた牧師なのです。

 この手紙の初めに、1章6節に「今、しばらくの間、いろいろな試練に悩まなければならないが」と語られています。「いろいろな試練」という言葉があります。肉体をもってこの地上で生きているのですから、いろいろな試練に出会って悩まなければならないのです。

 私が、東京神学大学の学生の時に、ある教授がこの本を読んでみなさい、と言って、一冊の本を渡してくれました。その本は、山崎孝子という人が書いた、「試みの夜は明けて」という題名の闘病記でした。この本は、脳腫瘍の病を得て、病を知った時から、完治するまでの心の記録を書いたものでした。この本をくださった教授は、風邪を引いた時に読みなさい、良い風邪薬だから、と言いましたが、「風邪を引いた時」というのは、これから牧師をしていて落ち込んだ時、と言う意味で「風邪を引いた時」と言ったのです。「試みの夜は明けて」という本は、山崎孝子さんが、手術前までの、心の動き、そして手術後の心の動きを書いています。「何となく体の調子がおかしい。これはただの疲れではなく少々異常だと気づき始め」「眠気が襲い」、大脳の左半球に故障が生じたと考えるうちに、貧血を起こし、立ち上がれなくなった。そしてよろめくようになったのです。そして意識喪失発作を起こすことが度々で、入院し、手術を受けたのです。この人は、いつも聖書を読んでいて、それによってこの試練を乗り越えることができたのですが、私たちの生活には試練と言わざるを得ない出来事がたびたび起こるのです。病、だけではなく、家族の問題、人間関係のもつれ、など、様々なことが起こるのです。「いろいろな試練に悩まなければならない」のです。

 いつも、礼拝において「主の祈り」を共に祈っていますが、この祈りの中に「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りがあります。私たちは試みに遭っているのです。試練に遭って悩むことが多いのです。試みに遭わないで、すべて順調にいけば、良いと思います。病気にならず、事故もなく、安全が保たれ、家族が健康で、仕事もうまくいき、人間関係もトラブルがなく、生活に困らないだけの財産を持つことができるならば良いと思っています。しかし、そうは行かないのです。この地上で肉体をもって生活をしている限り、すべてが思い通りにいくのではなく、困難や苦しみがあるのです。

 福田正俊牧師が書いた「主の祈り」という本を読んでいましたら、「試みにあわせないで」という言葉について解説をしていました。試み、それはいつも私たちに、日常に起こってくる試みだけではなく、この「試み」とは、信仰を失うような厳しい試練のことをも意味しているのです。信仰を失ってしまうような試練があるのです。

 ユダヤ教の教師(ラビ)H・S・クシェナ−が「なぜ私だけが苦しむのか−現代のヨブ記」(岩波書店 1998年)という本を書いています。この人の息子ア−ロンが、「三歳の時にプロゲリア(早老症)という病気に罹ってしまうのです。この病気は、幼くして発育が停止し、老化の様相を呈して、十代で死ぬというまれな病気です。熱心に神に仕えている自分が、どうしてこのような苦しみを受けなければならないのか。無垢のわが子が、ほかの子どものようには育たず、身も心も悩み多い人生を送らなければならないのはなぜか。苦悶と葛藤の日々をすごしながら、人生の難問を自らに問うていく。神とはどのような存在なのか、神には公正があるのか、神に何が期待できるのか。祈りとは何か。何が神に聞き入れられる祈りなのか。すべてに見捨てられたと感じて絶望している人は、いったいどこに希望と勇気を見出すことができるのか。」このことを苦しみながら思索しているのが、この本です。この人はユダヤ教の教師であり、キリスト者ではないですが、神を信じているのです。息子の難病をきっかけとして、この神に対して疑問を抱くことはとても苦しいのです。主の祈りは、私たちが毎日、試練に遭わないように祈るのですが、信仰を失うような試練に遭わないようにと祈ることをも主イエスは、私たちに教えているのです。

 このペトロの手紙一は、いろいろな試練に遭っても、その試練に勝る信仰が与えられていることを語るのです。試みに遭ってもその試みを凌駕する信仰を与えられていることを語っているのです。神を信頼していくならば、苦しみや試練が襲ってきても、恐れないのです。ペトロの手紙一 5章6−7節に記されています。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

 ここではっきりと、神に思い煩いをお任せすると語っています。ここで、重要なことは「思い煩い」というのは、今夜のおかずを何にしようかというような思い煩いもありますが、思い煩いの根にあることは、自分のいのちについて絶えず自分が不安を抱くことです。この思い煩いはあるのです。自分の命は自分で面倒をみなければいけないと考えていることです。しかし、聖書は、そういう思い煩いを神に委ねようと語ります。

 最近、全国で連続強盗事件が相次いで起こり、家の戸締まりをする必要が出てきました。自分の命は自分で面倒みなければ、自分のいのちは守れない、と思っているので、聖書は、神に委ねようと呼びかけているのは、何と呑気なことを言っているのか、と思うのです。ここで、そのように「神に任せなさい」と言っているのは、「神があなたがたをかえりみて下さる」からだと言うのです。こういうのは、他に理由はないのです。神がわたしたちのために思い煩っていてくださる、他の誰でもなく、神が思い煩っていてくださる、だから心配するのを止めよう、と語ります。

 私たちは、自分で心配なところは自分で心配する、と思うのです。しかし、自分が完全に自分の面倒を見切れるのでしょうか。人間には限界があります。車を運転していても、自分が見ていない死角があって、ものにぶつかることもあり、事故を起こすこともあるのです。誰の手も借りず、誰のお世話にもならずに、自分の生活はすべて自分の力で守っているとは言えないのです。6節に神が「神の力強い御手の下に」置いていて下さるのです。神にお任せする、その信仰をもって、私たちは、自分に向かって来る苦しみや試練に立ち向かうことができるのです。

 5章8−9A節に「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」と語っています。スポ−ツの試合では、対戦相手は見えるので、相手の動きがよく見えるのですが、悪魔は、私たちには見えませんから、悪魔がいつ、どこで、自分を誘惑しているのか分からないのです。主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けていますが、はっきりと悪魔が誘惑していることが分かるならば、抵抗して、悪魔と戦い、悪魔を追い出すことができ、自分の立場を守ることができるのです。しかし、私たちは、この目で悪魔やその動きを見ることができないので、対決することができないし、これが悪魔の誘いだと自覚することができない弱さをもっているのです。悪魔は、巧妙な言葉をもって私たちの信仰を失わせ、私たちを引きずり降ろそうと企てるのです。現代の私たちは、物質的に豊かな社会に生きており、信仰などなくても生活できると思っている時代に生きています。苦労して、教会の礼拝に行かなくても大丈夫だ、説教を聞かなくてもやっていける、聖書を読まなくても信仰生活を続けていける、そのような、悪魔のささやきがあると、その誘いに乗ってしまい、神など信じなくても生きて行けると、その誘惑に負けてしまうのです。

 しかし、私たちが、踏みとどまる、立ち続ける拠点があるのです。それは、キリストによって明らかにされた神の愛なのです。神の愛の中に踏みとどまり、立ち続けるのです。イエス・キリストが自分の罪の身代わりとして、十字架の苦しみと死によって、罪を贖い、私たちは、キリストに所属している、このところに踏みとどまる、立ち続けるのです。5章12節後半に「この恵みにしっかりと踏みとどまりなさい。」と語られています。神が私たちに愛を注いで私たちを聖なる者とし、教会に生きるようにしてくださったのです。教会は愛の家です。神の愛が分かるところです。私たちを神の愛の中に置いて下さっています。どこを見ても、キリストの愛しか見えないのです。この恵みにしっかりと踏みとどまるように、勧めています。

 ペトロの手紙一を初めから終わりまで読みますと、4章1節に「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、」と書かれていることに注目をします。実際に神は、キリストにおいてこの地上で私たちと同じ苦しみと試練を経験されたのです。イエス・キリストは試練を受け、苦しみながら、地上の生涯を送ったのです。私たちは荒れ野を歩くような、つらい思いをする時があります。その中で、主イエスは、私たちに先立って、苦しみと試練の道を歩まれているのです。私たちは、この生きる拠り所である神が私たちを深く愛していることに信頼していくのです。

(祈り)
 主イエス・キリストの父なる神、あなたはみ子イエスを私たちのところに遣わしてくださり、私たちを神の子として選び、新しく生きる道を開いてくださいました。主イエスが、私たちに先立って、この地上で苦しみと試練を経験して下さり、十字架の苦しみと死によって、私たちの罪を贖い、私たちのいのちを救ってくださいました。このことを信じて心から感謝を致します。
 この一週間は、まことに寒い日々を過ごして参りました。それでもあなたは、私たちの心と体を支えて守ってくださったことを感謝致します。私たちは、あなたのみ姿を見失い、あなたの御言葉を聞かずに過ごして参りましたことを深く思います。それでも、あなたは、大きな神の愛をもって赦して受け入れて下さり、愛をもって導いていてくださることを感謝致します。どこにいようとも、あなたは愛のまなざしで、私たちを見守って下さっていることを信頼して、歩むことができますように。私たちを襲ってくる苦しみや試練を乗り越える信仰が与えられますように。政治指導者の心を悔い改めさせ、平和を志向する心に変えて下さり、ウクライナでの戦争を中止し、再び、平和がもたらされますように。病と戦っている兄弟姉妹をあなたが癒やし、健康を回復することができますように。この一週間の私たちの歩みを共に歩んで下さり、事故もなく、安全に過ごすことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン

20230122  主日礼拝説教  互いに謙遜を身につけなさい  山ノ下恭二牧師
(詩編55篇23節、ペトロの手紙一 5章5−7節)


 私が、東大宮教会におりました時に、一人の方が他の教会から転入され、しばらくして長老に選ばれました。週報作成の奉仕をしてくださり、その時に、その方の家庭の事情を聞くことができました。奥様が難病で身動きができず、毎日、大学病院に通うために連れ添い、家事一切を引き受け、そのうちに、奥様の母親を介護のために呼び寄せて、二人の家族を自分ひとりで世話をしていることを知りました。この話を聞くまで、そのような重荷を担いながら、教会に通い、奉仕をしていたことを知りませんでした。この方は、青森の大学の教師を定年退職で辞め、東大宮に転居されて、これから自由にできると思っていたところ、思いがけなく、毎日、二人の家族の介護のために、苦労していたのです。その中で、長老としての働きも引き受けてくれたのです。仕事、家事などしながら、教会の仕事も引き受けることは苦労の要ることです。このことから、私は、多くの長老や教会員が、この世の人々と同じように、仕事や家庭のことを苦労して担いながら、その他に教会の様々な奉仕を担っていることを改めて認識したのです。

 本日、この礼拝で読みましたペトロの手紙一は、国家の迫害や周辺の人々の無理解にさらされながら、苦労して教会に仕えている長老や教会員を励ましながら、その奉仕の心得を語っている手紙です。ペトロの手紙一 5章1−4節は、ペトロが長老の一人として、長老たちにその心得について勧めをしています。

 この時の長老は、今のように牧師と長老と職務の分担があり、それぞれその職務を担う体制が出来ていたのではなく、この当時の長老は、現在の牧師の仕事を担っていたようです。使徒言行録によると、この時の長老の職務は、教会会議の議員を務め、教会財政を担い、信徒を教育し、教会の群れの監督であって、教会財政を除いては、現在の牧師の職務に似たことをしていたのです。この時の長老たちには、このような役割が期待されていたのです。

 旧約聖書に登場する「長老」はヘブライ語で「ザ−ケン」と言い、元々は「年を取った人」という言葉です。旧約聖書では、イスラエルの町で経験が豊かで、物事をわきまえた「長老」が、行政や裁判について助言する役割をもっていたのです。このペトロの手紙が書かれた後の時代に、教会の職務について監督、長老、執事、とそれぞれの職務に分けられ、教会の制度が、整えられましたが、この手紙が書かれた時は、牧師と長老の職務がはっきりと分けられていませんでした。ペトロは「長老の一人として」と言っているので、ペトロが、監督のように上から勧告をしているのではないのです。「長老の一人として」と言う言葉は、「長老と共に」という言葉です。この言葉は、長老たちが、それぞれのところで苦難を受けており、その同じ苦難をペトロも受けている、その同じ長老の一人としてという意味で語っているのです。ペトロは、この手紙を書き送っている長老たちと同じ、苦難を経験しているのです。また長老の務めを果たすのに、様々な苦労があることも経験しています。
 
 ペトロの手紙一 5章2節に「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。」と語られています。ペトロは、主イエスの弟子として長い間、主イエスと共に歩んできましたが、そのペトロが最後に主イエスにお目にかかった時のことが、ヨハネによる福音書21章15−19節に記されています。

 ペトロは主イエスの一番の弟子でしたが、主イエスが逮捕された時に、ペトロは自分も逮捕されてしまうのではないかと恐れて、主イエスを三度、知らないと言って裏切ってしまったのです。自分が裏切ってしまったという心の痛みを持ちながら、主イエスと再会するのです。主イエスは、ペトロを立ち上がらせようとして、優しく、ペトロに問いかけるのです。三度「私を愛するか」と問うたことに対してペトロは「愛している」と語り、それに対して主イエスはその度に、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい。」と言われるのです。主イエスは、ペトロにこのような大きな使命を与えられたのです。キリストを愛することは、キリスト教会の信徒たちに心を配り、世話をすることだと語っているのです。「わたしの羊を飼う」「わたしの羊の世話をする」ことは、ペトロの長老としての生涯の目標でした。従って、ペトロはこの手紙で、長老たちに「神の羊の群れを飼う」ことが長老たちの使命であることを、はっきり語ったのです。

 ここで注意したいことは「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい」とあることです。教会員を「神の羊の群れ」と呼んでいることが重要なことです。牧師として気をつけることは、信徒を自分の意のままに動かそうとすることです。個人的な関係に置き換えてしまうことです。そこでは、教会の中に個人的に自分の仲間を作ってしまうことがあるのです。私はいつくもの教会を経験して思うことは、牧師の周りに信徒がファンのように集まることがあると言うことです。牧師と信徒とが個人的な関係でつながってしまうのです。

 牧師と信徒とが、親しい関係にある、それは自然なことですが、しかし、それは、個人的な関係でつながっているのではなくて、キリストのからだの部分としてつながっているのです。牧師と信徒の関係でつながっているのであって、個人的な関係でつながっているのではないのです。牧師に人気があるのは悪くないですが、牧師と信徒が人間的なところでだけ繋がっているのは良くないのです。信徒は牧師の私有物ではなく、「神からゆだねられた人たち」であって、神から委託されたものであることに心を留めていくことが必要です。教会は、牧師の所有物ではなく、神のものである、自分のものではないのです。「あなたがたがゆだねられている」という言い方がなされていることが重要です。

 長老同士の関係も重要で、気が合うとか、好き嫌いなどで仲間を作り、長老会の中で、意見が異なり、対立することがあります。長老の党派争いや、長老仲間でのパワーゲ−ムに陥らないように気をつけることが重要です。

 一般に、教会によっては、長老会という言い方をしないで、役員会、と言う言い方をしている教会があります。長老会と役員会とはどのように違うのか、ということです。役員会と言うのは、会員の意見代表の性格が強いのです。教会によっては、選挙によらず、婦人会、壮年会などの代表が役員会を構成するのです。しかし、長老会は、長老が信徒の意見を代わりに発言すると言うことよりも、教会に委託されたことを、牧師と長老とが協力して運営するのです。教会から招聘されて派遣された牧師と、信徒から選ばれた長老とが長老会を組織するのです。教会がすることは、礼拝、伝道、牧会であり、このことに協力する態勢が大切なのです。長老会を通して教会の使命を担っていくのですから、誰を長老に選ぶのかは、とても大切なことです。教会全体の働きを考慮して、教会の働きをするためにふさわしい人物を長老に選ぶのです。自分との関係の近さや、自分の考えに近い人を選ぶのではないのです。自分が善いと判断して選ぶことではなく、神にゆだねて長老を選ぶのです。

 使徒言行録1章21−26節には、イスカリオテのユダが死に、使徒を補充することになり、二人が使徒の候補になり、その時は、「くじ」を引いて決めたことが記されています。二人の人柄や信仰の態度を見て、判断して使徒を決めたのではなかったのです。「くじ」というのは、人間の判断に頼って選出したのではなくて、神に全く依存して決めたのです。現代は自分の判断が一番、正しいと思っていますが、神の判断を仰いだことに大きな意味があるのです。人間の判断を除外したのです。

 ペトロは、「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れ」と書いています。羊の群れを養う、飼う、世話をすると言うことは、神がなさる仕事です。しかし、その神の仕事を、私たちを信頼して、ゆだねたのです。信頼され、ゆだねられるほどの信仰も力もないのですが、キリストによって罪を赦してくださって、取るに足りない者を用いてくださったのです。

 皆さんは、ルカによる福音書10章25−37節(新約p126)に主イエスが語られた「善いサマリア人」の譬え話を知っていると思います。強盗に襲われて傷ついているユダヤ人のそばを通った、祭司やレビ人は、傷ついたユダヤ人を見て、何もしないで、通り過ぎたのです。祭司やレビ人は同情したでしょうが、助けはしなかったのです。気の毒だと思っただけです。しかし、サマリア人は、強盗に襲われて傷ついているユダヤ人をろばに乗せて、宿屋に宿を取り、休ませ、宿賃まで渡して、この人を助けたのです。

 この譬え話は、人助けの話ではなくて、実は、このサマリア人が、主イエス・キリストであったということなのです。私たちが傷ついて倒れている時に、主イエスが見捨てることなく、その行動によって救って下さることを語っているのです。神を忘れ、自分中心に生きている者を見捨てることなく、イエス・キリストの十字架の贖いによって、神の愛をもって受け入れて下さり、赦してくださって、神ご自身の仕事を託してくださったのです。信仰もなく、能力もない者を一方的に信用して、この仕事を託して下さったのです。神の憐れみによって、この仕事をさせて戴いていると自覚することが大切なのです。

 「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。」羊飼いは羊たちを食べさせ、養っていくことが、羊飼いの仕事です。どのような食べ物を与えれば、羊が健康を保つことができるかを羊飼いは良く知っています。「牧する」と言うことは、神の羊に、ふさわしい食物を提供することです。ふさわしい食物とは、キリストの福音のことです。うれしい知らせのことです。キリストによって私たちの罪が赦されている、この福音を語っていくと、教会は元気になるのです。健康を維持するために、どの食品がからだに良いかに私たちは関心を持っています。身体を悪くするような食品は食べないようにするのです。

 現在の教会では、牧師を宣教長老と言い、選挙によって選ばれた長老を、治会長老と呼んでいます。牧師はもっぱら、宣教・説教に仕え、信徒の長老は、教会を治める長老です。牧師を「宣教」に仕える長老と呼んでいるのは、聖書的な根拠があります。テモテの手紙一 5章17節「御言葉と教えのために労苦している長老たち」とあります。長老と言うのは、自分の意見や考えを発言してもらう存在ではなくて、教会にとって、大切な礼拝、伝道、牧会において一致団結して、牧師に協力する者です。信徒の代表としての働きよりも、牧師を補佐する役割なのです。長老は、牧師の補佐としての立場があるのです。その第一の意味は、牧師が全力を尽くして説教に打ち込めるように配慮することです。牧師は、神が、聖霊により、一人の貧しい器を用いて語りかけて下さる恵みと思い、説教の準備をするのです。聖霊の助けを求めて祈り、説教を準備するのです。長老会がこの祈りに合わせることが長老の務めなのです。

 東京神学大学の芳賀力学長の父であり、長く平塚富士見町教会の牧師であられた、芳賀真俊牧師は「長老の光栄と責任」という講演の中で、「治会長老というのは、宣教長老が説教し、み言を宣べ伝える、教会を牧会する、その牧会のお手伝いをするのです。それは、牧師が説教されたことの内容をみんなのあいだに生かすようにする、あるいはそれを聞くことができなかった人に何らかの機会があったら話してあげる。説教されたことが、それがほんとうに教会に生きるために治会長老たちは、牧師の説教を助けているということになります。」説教が、十分な準備をもって用意されて、福音を語ることができるように、長老は牧師の補佐をするのです。長老の働きは、礼拝の整頓、キリスト教教理の擁護、洗礼志願者の試問、転入、転会の試問など、様々な職務があります。

 ペトロは長老に対しても、若い人たちに対しても、信仰の姿勢について発言しています。5章5節に「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。」とあります。長老には3節に「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。」と勧められています。長老が支配者のように、若い人たちに権威を振り回すことがあったので、そのことを注意しています。ここで、誰が教会の支配者か、と言うことです。教会は何か、と言うよりも、教会は誰であるか、と言うことです。教会の主権者は、キリストであり、聖霊であるのです。それは自分が支配者ではないと言うことです。聖霊においてキリストが、教会において、私たちのあいだに臨在されていることを畏れるのです。

 「謙遜」ということは、謙遜な振る舞いをするということではなくて、キリストの主権に服することです。一人一人、自分の考えや意見を持っていますが、自分の考えや意見を押し通すのではなく、御言葉によって打ち砕かれ、神に明け渡して御言葉に従います、という謙遜さです。御言葉に従って、自分の考えは撤回します、ということです。ペトロは、6節に「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。」と勧めているのです。

20230108  主日礼拝説教  「キリストの苦しみにあずかる喜び」  山ノ下恭二牧師
(詩編37篇23−29節、ペトロの手紙一4章12−19節)


 皆さんは、これまでの人生の中で様々な苦しい経験をされたと思います。私が、これまでの歩みの中で一番、苦しかったことは、中学3年生の時に重い病気に罹ったことです。病院に長く入院し、その後、自宅療養の生活をしていた時に学校に行くことができず、孤独を感じ、高校受験を控えて、自分がこれからどうなるのか、と不安で心が揺れていました。私たちの人生には思いがけなく苦しむことがあるのです。池江里佳子という水泳の選手が、白血病で入院をし、治療を受けていた時に、とても苦しかったのですが、「神は耐えられないような試練を与えない」と言う言葉に出会ってこの言葉に支えられた、と語っていました。この言葉は、コリントの信徒への手紙一 10章13節にある言葉が元々の言葉です。「神は・・・耐えられないような試練に遭わせることはなさらず・・・逃れる道をも備えてくださいます。」この言葉が簡略化されて一般に知られるようになりました。

 私たちは、苦労しないで、苦しまないで、楽な生活をしたい、と思っています。苦労しないで、苦しまないで、生活することを考え、安易な生き方を選ぶのです。私たちは、苦労することは良くない、と言う考えを持っています。苦労しないことは良いことだ、と思っているのではないか、と思います。苦しまないで、生きたいと思うのです。1月3日に神楽坂にある日蓮宗のお寺である毘沙門天のそばを通ったら、長い行列ができていました。多くの人々が、この一年に様々な災い、厄介なことに合わないで、苦労しないで、苦しまないで過ごすことができるようにと祈願しているのです。平穏で事故もなく、事件に遭遇することなく、苦しむことなく、無事でいたいと願って神社に祈願に行くのです。しかし、私たちの生活は苦しまないで済むことはないのです。苦しみが鎖のようにつながって常に苦しみに襲われるのです。苦しまないで、愉快に過ごすことができれば、良いと考えますが、そういうわけにいかないのです。苦しみに遭わないことはなく、私たちの人生に苦しみがあることをしっかり受け止めて、その苦しみをどのように乗り越えていくのか、と言うことが問題なのです。

 先週の礼拝で、東京神学大学の旧約の教授の小友聡牧師が書きました「絶望に寄り添う聖書の言葉」という本を紹介しましたが、その中に「いじめられたヨブ−不条理を背負って生きる」というところがあります。旧約聖書のヨブ記、この書物は、人生における苦難、苦しみを真正面から取り上げています。神の前に正しく生きているヨブが、突然、災いに襲われ、苦しみを経験するのです。「ヨブは東の国で最も栄え、また神の前で完全で、何ひとつ咎のない人物でした。多くの財産を持ち、また10人の子どもたちに恵まれました。ところが、そのヨブにあるとき、次から次に耐えがたい災いがふりかかります。盗賊の略奪や天変地異によってすべての財産を奪われた上、10人の子供たちは突風で家屋が崩壊し犠牲になりました。さらには、ヨブ自身もひどい皮膚病に犯され苦しみもがくのです。」(小友著「絶望に寄り添う聖書の言葉」p31)ヨブが災難に遭って苦しんでいることを知った3人の友人がヨブのところに来て慰めようとするのですが、その論理はヨブが罪を犯したから、苦しみと言う罰があると言う因果応報の論理で説得しますが、ヨブは納得しないのです。ヨブは罪を犯したとは思っていないからです。自分が苦しんでいるのは自分が原因で苦しんでいるのではなく、神が悪いのだとまで言うのです。なぜ自分だけが苦しむのか、その理由が分からない、苦しむ理由がわからないことは、大きな苦しみになるのです。

 キリスト教会の洗礼を受けると、苦しみはなくなると思って洗礼を受ける人はいないと思いますが、洗礼を受けてキリスト者となると苦しみが全くなくなることはないのです。むしろ、キリスト者となると、苦しむことが多くなることがあるのです。洗礼を受ける、それはキリストを主と告白し、キリストと共に生きることですから、キリストの苦しみを自分が担うことになります。

 結婚すれば、自分の負担は軽くなり、独身の時よりも苦しみは少なくなると考える人は多いのですが、結婚して自分だけ楽をして相手に重荷を負わせるならば、うまくいかないのです。結婚して夫婦は一つとなり、互いに協力をすると自分だけ負担を軽くすることはできず、苦しみや苦労を共に担うことになります。お互いの苦しみを共にすることによって、夫婦に一体感が生まれ、互いに労り合う良い夫婦になるのです。キリスト教会の洗礼を受けてキリスト者となることは、それは苦しみがなくなるのではないのですが、その苦しみは、人生で経験する苦しみとは質的に異なる苦しみ、苦しむことが喜びになる苦しみなのです。喜ばしい苦しみなのです。

 私が心配していることがあります。それは、東京神学大学を受験する人がとても少ないと言うことです。それは東京神学大学を卒業する学生が少ないと言うことにつながりますし、将来の日本の伝道を担う伝道者が少なくなり、それぞれの教会に牧師を派遣することが難しくなり、教会の伝道ができなくなり、キリスト者がいなくなることにつながるのです。東京神学大学を受験する学生が少ない、それは教会に若者が少ないということもありますが、教会員が牧師になることを勧めないということがあります。私が高校二年の時に伝道者になるために、東京神学大学を受験することを決心した時に、そのことを知った教会のある人は、私に「牧師は大変だし、苦労するから止めといたほうがいいよ」と反対されたことがあります。牧師の生活を知っているからそう言ったと思いますが、その時に、伝道者として自分は立つことを決意するまでに、自分の進路を巡って、祈って決めたことなので、簡単に反対して欲しくないと思いました。「牧師になると苦労があるけれども、良い仕事だからしたら、祈っていますよ」と言ってくれたら良かったと思いました。その当時の鹿沼教会の高崎隆牧師に伝道者になるために東京神学大学を受験することを伝えたら「やりなさい。苦労するけれども、やりがいのある仕事だ」と言ってくれたので、神学大学を受験したのです。1969年に入学することが決まった時に牧師の妻の母親が「恭二ちゃんは、いつも聖書を学ぶことができるのだから、いいわね。恵まれているな、と思う。」と言ったのが印象的でした。

 洗礼を受けると言うことは、キリスト教会のメンバ−になることですから、教会の礼拝に出席することになりますし、教会での奉仕が増えるのです。洗礼を受ける前は、教会員としての責任や義務はないので、洗礼を受けないほうが苦しみは少ないかも知れません。しかし、洗礼を受けてキリスト者として生きる時に、教会員としての責任と義務を果たすことになるので苦しみが増えるのです。洗礼を受けないならば、日曜日に教会の礼拝に出席することはなく、奉仕をすることもないので、日曜日に自分のことができるので、そのほうが苦労はないのです。   しかし、私たちの苦しみは、キリストと共に生きる苦しみであり、苦しむことが喜びに変わる苦しみなのです。

 信仰生活をしていて、楽をして苦しまないようにしているならば、自分がほんとうのキリスト者ではないかもしれません。苦しみがない信仰生活は、キリスト者であることを止めており、キリスト者であることの特徴が失われ、キリスト者として証をしているのではないことになります。

 キリストと共に生きることは、自分がキリストのために苦しむのです。その苦しみは喜びに変わる苦しみなのです。日本でキリスト者として生きていくことは、苦しみがあります。しかし、苦しみに勝った喜びがあるのです。昨年の12月に牛込払方町教会のクリスマスの案内のハガキを2千枚この地域に配布したのは、ひとりの長老が自分の仕事を終えて、夜、遅くこのハガキを配布したのです。仕事の後にこの地域にチラシを配る、それなりに苦労があります。ところがこのチラシを見て、この近くの人が、イブ礼拝に来られたのです。そこに喜びがあるのです。神は、チラシを配る苦労に勝る喜びを与えて下さるのです。毎週の教会学校の教師たちも、苦労しながら説教作成をし、子どもたちを信仰に導くために、地味ですが奉仕しているのです。朝早く教会に集うことは大変ですが、このような苦労に勝る喜びがあるからです。私たちの教会は遠隔地から時間をかけて、礼拝に集っている方が多くいます。その苦労は大変なことです。しかし、その苦労に勝る礼拝の喜びを経験することができるのです。私たちは、キリストのために苦しむことを避けて、苦しまないようにしているのではないでしょうか。キリストと共に生きる、それはキリストのために苦しむことであり、それは喜びにつながるのです。  

 主イエスが、マタイによる福音書5章11節に語っています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」キリストを伝えようとするならば、このような場面を多く経験することになるのです。キリストのために苦しむことを、喜びとするようになります。だれかをほんとうに愛したら、その人のために苦しみ、その人に尽くすことは、その人を愛することになるのです。また悪いことをされた時に、忍耐することも、キリストのために苦しむことになるのです。

 キリシタンの伝道について学んできましたが、国家の迫害によって、キリシタンであることによって命を狙われて、キリシタンたちが、自分がキリシタンであることを隠すようになりました。潜伏したのです。自分がキリシタンであることを周りの人々に知られないように暮らすようになったのです。私たちも周りの人に、自分がキリスト者であることを公にしていないのではないでしょうか。自分がキリスト者であることを隣近所の人が知っているでしょうか。隣近所のどれだけの人が、自分が日曜日に教会に行くことを知っているでしょうか。

 ペトロの手紙一は、国家からの迫害が始まった時に、ペトロが教会に書き送った手紙です。キリスト者は少数であり、社会の中で肩身の狭い思いをしていました。それだけではなく、社会の中で、良くない人々として数え上げられ、他の異端的な団体と同じものと見られていたのです。そのように見られていた教会の人々に、試練の中にあってキリスト者として生きるための言葉を送っているのです。今日の教会には、迫害はないと思っているかも知れません。しかし、ほんとうにキリストを愛して、キリストのために生きようとするならば、苦しむことになるのです。苦しみがないのだとしたら、キリストを愛し、キリストのために苦しんではいないことになるのです。

 この手紙に特徴的なことは、「キリスト者」という言葉が出てくることです。4章16節「しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」新約聖書には「キリスト者」という言葉はあまり出てきません。口語訳聖書では「クリスチャン」と言う言葉で翻訳されています。もともとは「クリスティアノス」と言う言葉で「キリストに属する者」という意味の言葉です。使徒言行録11章26節に「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」とあります。キリスト者と呼ばれるようになった由来が記されています。多くのところで、主イエスの使徒たちは、迫害にあって散らされたけれども、「主イエスについて福音を告げ知らせた。」のです。自分たちが、どのような存在であるのか、それは、キリストに属する者であり、キリストの福音を告げ知らされた者であり、このキリストのために、苦しむことが喜びになっているのです。

 なぜ、キリストと共に生きるのがキリストのために苦しむのか、それはキリストが私たちのために苦しんだからです。私たちの罪はどれほど重いのか。それは神である独り子が十字架に架かるほどの重さなのです。キリストが私たちのために苦しんでくださったからです。主イエスは、十字架にかかる前に、ゲツセマネの園で、この十字架にかかることをできたら避けたいと思って苦しみながらしかし、主イエスは、苦難の道を選び取って、十字架の苦難と死に向かっていきます。それは、私たちのための苦難、私たちの救いのための苦しみであることをよく自覚しているからです。キリストが私たちのために苦しんでくださったのです。そのことによって神が私たちを愛して下さったことを知るのです。親は子どものためなら自分が苦しんでも、それを嫌だとは思わないのです。それはこの子を愛しているからです。愛によって苦しむ、それは大きな喜びなのです。

 パウロはフィリピの信徒への手紙1章29節で次のように語っています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と言うのです。恵みなのです。それはキリストと共に生きるので、恵みとして受け止めることができるからです。パウロは伝道において、様々な苦しみを経験していますが、苦しみを恵みとして受け止めているのです。キリスト者であるために苦しむことは、恵みなのです。

 困難な生活の中で、私たちは生きる拠り所を持っています。4章19節に「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」とあります。「魂」という言葉は、この手紙に多く出てくる言葉です。「魂」という言葉は「人格の中心」と言うことです。私たちの魂をゆだねる方をもっているのです。この方にゆだねながら、キリストの苦しみに共にあずかるのです。そこに喜びがあります。

20220101  降誕節第2主日礼拝説教  神の恵みによって生かされる一年を  山ノ下恭二牧師
(ホセア書14章1−8節、ペトロの手紙一4章7−11節)


 2023年の新しい年に皆さんが、神の愛と慈しみに満たされて歩むことができますように、神の祝福の言葉を贈ります。「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 本日は日曜日で主の日であると共に、2023年の初めの日であるのです。一月一日が日曜日と言うのは、7年に一度あり、最近は2017年にありましたが、一年の初めの日に、礼拝に共に集って御言葉と聖餐にあずかることができることは、とても幸いなことです。2023年のカレンダーを見ると、12月31日も日曜日になっており、今年の終わりの日も、共に礼拝に集い、神の恵みの御言葉を聞いて、一年を終わるのです。初めから終わりまで、神の御言葉に支えられ、生かされて歩むことができるようにと祈ります。

 本日は、ペトロの手紙一 4章7−11節を読みました。4章7節には「万物の終わりが迫っています。」と書かれています。キリスト教会は、はじめから、まもなく主イエス・キリストがおいでになるという信仰に生きていました。パウロは、コリントの信徒への手紙一の終わりに「マラナ・タ」(コリント一16章22節)と言う言葉をコリントの信徒たちに語っています。「マラナ・タ」と言うのは、「主よ、来て下さい」という意味の言葉です。この言葉は、全く知らない者が来るのを恐れと不安を持って待つのではなく、将来、まさに来たらんとするイエス・キリストを待つ喜びの言葉です。最初の教会の信徒たちは、主イエス・キリストが再び、来られることは大きな喜びであったのです。私たちのために十字架の苦難と死によって私たちの罪を贖ってくださった、キリストが再び来られるのです。最初は私たちを愛するキリストが来て、二度目には、私たちを厳しく裁く別の神が来ると言うのではなく、私たちの罪を贖い、罪を赦して下さった、同じキリストが再び来られるのです。「万物の終わりが迫っています。」それは主イエス・キリストが近くにいて、この方を考えないで生きることはできないということです。パウロは「主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4章5節)と語っています。自分の身近に、主イエス・キリストがおられるのです。

 聖書は、神が始めたことを、神が終わらせることを語っています。ヨハネ黙示録21章6節には、「また、わたしに言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。』」と語ります。この言葉は、神が初めから終わりまで、その間、神が共にいることを語るのです。初めに顔を出して、終わりにまた顔を出して、その間は、別のところにいる、と言うのではないのです。大学の箱根駅伝では、監督は初めから、走るランナ−の後ろに車に乗って、箱根の山を登り、また箱根の山を降って、最終ゴ−ルを目指して走る者を後ろからマイクで語りかけ、励ましていくのです。パウロは、キリスト者がゴ−ルを目指して走る者であると語っています。マラソンや駅伝は、走っている時に苦しい時があり、走るのを止めようと思う時があるのですが、しかし、励まされて走ることができるのです。神は、初めから終わりまで、私たちと共に伴走してくださるのです。

 昨年の11月から木曜日に「キリスト教を学ぶ会」を始めました。日本のキリスト教の歴史を学ぶことになり、16世紀に来日し、初めて日本にキリスト教の福音を伝えた、カトリック教会の宣教師ザビエルを始め、多くの宣教師、キリシタンについて学ぶことができました。カトリック教会の宣教師の懸命な伝道によってキリストの福音が伝えられ、多くの人々が洗礼を受けましたが、その後、国家による厳しい迫害に遭い、キリスト教が禁教とされ、キリシタンたちは、潜伏したのです。自分たちがキリシタンであることを表立って言うことはできなくなり、厳しい取り調べが行われ、踏み絵を強要され、棄教しないならば殺されたのです。16世紀−17世紀にかけての日本でのカトリック教会によるキリスト教伝道はとても困難であったことが分かります。今日でも、日本の全人口の1パーセントにも満たない少数のキリスト者が、礼拝に通い、教会生活を続けているのです。キリスト者として生きることは大きな苦労があるのです。

 この手紙が書かれた時代は、ロ−マ帝国によって迫害を受けることが始まった時でした。この手紙を書いたペトロは、この迫害に負けないで、国家からの迫害に対して抵抗するために、困難を忍耐するための力を養うように、そして、教会が、団結して共に信仰の心を持ち続けることができるようにと思ってこの手紙を書いたのです。

 現代において、まだキリスト教の福音を知らない人々に聖書の言葉を伝えようと、多くの伝道者が努めているのです。現代において、心が折れてしまって立ち上がれない経験をもっている人々が多くいます。東京神学大学の小友聡教授がNHK「こころの時代」という教育テレビの番組で、旧約聖書の「コヘレトの言葉」について、「それでも生きる」という題の講演をしましたが、とても好評であったので、一般の人にも聖書についてわかりやすい本を出版することを勧められ、最近、「絶望に寄りそう聖書の言葉」(ちくま新書)という本を書きました。

 この本の最初に「はじめに」で「本書は聖書をできるだけ今の言葉で語り直し、それによって今をどう生きるかを考える本です。現代社会の中で絶望している人に向けて、言葉を届けたいと思います。」と書いています。「聖書の世界は、私たちの日常生活とは一見、接点がないように思えるかもしれませんが、実際に読んでみると、いくつもの光を放つ言葉に出会うことができます。例えば、現代でもよく言われる『神は耐えられない試練を与えない』と言う言葉がそうです。新約聖書には『神は、・・耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、・・逃れる道をも備えてくださいます。』(コリントへの信徒への手紙一 10章13節)という言葉があります。これが簡略化されて一般に知られるようになりました。」この本は、「孤独に立ちすくんだとき」「働くことに疲れたら」「妬みの気持ちに向き合うために」「家族の大切さを忘れかけたとき」「死を受け入れるために」と現代人が抱える問題に対して、聖書に登場する人物に焦点を当てて、分かりやすく書いています。

 ペトロがこの手紙を書き送った目的は、厳しい迫害が開始されて、信仰を継続することに困難を覚えている信徒たちを、慰め、励ますために書いたのです。主イエスは近くにいる、自分の身近に主イエスは共におられることをペトロは語り、神は初めから終わりまでおられることを語っているのです。神はすべてのことについて、終わりまで見通しがついているのです。私たちは、戦争はいつ終わるのか、温暖化によってこの地球は消滅してしまうのではないか、そのような不安をもつことがあるのです。しかし、この世界を創造し、はじめた神は終わりまで見通していて、神の業を貫徹するのです。

 キリスト教会の暦では、先週の日曜日から降誕節に入っています。本日は降誕節第二主日です。神が、私たちのところに神の子イエスを誕生させ、罪の罰を引き受けたのです。神は、私たちが神から離れて、罪を犯しても、私たちを救うことを諦めないで、十字架の贖いによって、私たちの罪を赦すのです。

 万物の終わりが迫っている、それは、いつも目の前に神がおられることを自覚していることです。神が身近におられるのですから、落ち着いて過ごすことができるのです。「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」とあります。思いがけないことがあっても、神が、身近におられるので、緊急な事態を冷静に受け入れることができるのです。突然、何かあると私たちは慌て、パニックになり、冷静さを失ってしまうことがあります。しかし、神が自分の身近かにおられることを信じている者は、神が最も良い方法で打開してくださることを信じて、落ち着いて過ごすことができるのです。

 7節に「身を慎んでよく祈りなさい。」とありますが、この言葉についてある注解者は「祈るために身を整える」と言い換えています。宗教改革者ルタ−は、おもしろい翻訳をしています。「祈りに対して裸になれ」と訳しています。大胆に、恐れないで祈れ、と言っているのです。主なる神との対話ですから、信頼して自分をさらけだして祈るのです。いつも私たちの身近に、聖霊によって主がおられるのですから、いつも親しく、自分をさらけだして神に祈るのです。

 「身を慎んでよく祈りなさい」とペトロが語っているのは、ペトロ自身が経験したことがあるからです。ペトロが主イエスに連れられてゲツセマネの園に行った時に、主が苦しみながら祈っておられたことに気がつかずに、眠りこけていたことを思い出していたのです。あの時に、ペトロは主イエスや自分たちがおかれていた立場を深く考えなかったのです。だから眠ってしまったのです。しかし、主イエスは、ご自身の救い主の使命をはっきり見つめて、心からの祈りをして、神の御心を行うことを確認したのです。私たちは、自分が今からどう生きるべきかを祈りによって御心を問うのです。そして神の御心に従うのです。

 8節には「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」とあります。教会にとって互いに生かすものは、愛です。「信徒の友」という日本基督教団の雑誌に毎月、教会紹介のページがあり、どのような教会なのか信徒に質問すると、「この教会は温かい教会だ」と言う言葉が多いのです。教会の持つ温かさについてある人は鋭い指摘をしています。「愛は温かいものでもあるでしょう。しかし、温かさが愛のほんとうの姿でしょうか。温かさだけを求めていると、愛に失望するでありましょう。わがままなことを求める者に対して、ほんとうの愛は、決して、温かく、甘くはないでしょう。かえって冷たいかもしれません。愛する方も、いつも温かいというわけにはいかないでしょう。」と言っています。教会は、相手のわがままを受け入れ合うところではなくて、神が喜ぶような愛し方をするところです。それは相手のことを考えて、いけないことをしていたら戒めるのです。

 「愛は多くの罪を覆うものです。」相手の悪いところや失敗をあばき立てること、告発することが正義であると考えていることが多いのです。それは相手の立場を理解することがなく、相手に対する思いやりがないことが多いのです。罪を覆うというのは、相手の罪を隠すということです。旧約聖書の創世記にノアと言う人物がお酒を飲んで酔っ払い、裸になって道で寝てしまった時に、子どもたちが裸で寝ていた父親に衣服を覆ったというところがあります。(創世記9章20−24節)罪を覆うということは、相手をいたわり、罪を隠すというだけではなくて、相手の罪を赦すことです。罪を赦すことは、とても困難です。しかし、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦された者ですので、相手の罪を赦すのです。主イエスは、主の祈りの中で「われらに罪をおかした者をわれらがゆるすごとく」と祈りなさい、と教えています。罪を赦され、罪を赦すことは私たちの生活の中心なのです。その愛のひとつとして「不平を言わずにもてなしなさい」と語っています。これは、この当時、旅をして伝道していた者がいて、その人たちをもてなすことを語っています。

 10節には「賜物」について語ります。「賜物」と言うのは、「カリスマ」という言葉です。「恵み」という言葉です。「賜物」については、誤解していることが多いのです。一般には特定の人がもっている「才能」「特技」と考えています。しかし、誰でも神から与えられた賜物があるのです。神は平等に恵みを与えています。あの人は才能や特技があるから賜物がある、しかし、自分は特別な才能や特技がないので、賜物はないと判断することはないのです。神から与えられた賜物、それは優劣と関わりなく、自分の身体も時間も賜物であり、この身体も時間も神にささげることができるのです。誰でも神からの恵みを戴いているのです。私たちは神から様々な賜物を戴いているのです。自分に特別な才能や得意なものがなくても、自分に与えられた恵みを教会のために役立てることができるのです。

 ペトロの手紙一4章11節には「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。」と語られています。説教者の務めをここで語っています。キリスト教会は、神の言葉を語り、聞き従うところです。牧師の第一の任務は、説教です。   この新しい年も、私は聖書に従って、聖霊によって御言葉を大胆に語り、イエス・キリストの恵みの福音を皆さんの心に届くことができるように語りたいと願っています。

20221225  クリスマス礼拝説教  暗闇の中に光が  山ノ下恭二牧師
(創世記1章1−5節、ヨハネによる福音書1章1−5節)


 クリスマスの時の礼拝に讃美歌をたくさん歌いますが、教会の礼拝で長く歌い継がれてきた1954年版のクリスマスの讃美歌が、讃美歌21にも引き継がれています。先ほど歌いました讃美歌21の271番は、1954年版の讃美歌にはなく、讃美歌21で初めて取り入れられた讃美歌です。私は、この讃美歌の4節の歌詞が好きです。4節には「喜びはむねに 満ちあふれる、すべての人々主をあがめよ。栄えの座を捨て 神のひとり子は 馬槽のなかに 身を置かれた。」とあります。神は、天において神の座におられますが、神は、ご自身の栄光ある立場を捨てがたいものとは思わず、神の立場を捨てて、イエスと言う人間になってベツレヘムの馬槽にお生まれになった、と歌っているのです。神と同じ方であるイエス・キリストが、大人の人間のてのひらに入るほどに本当に小さく、小さく誕生されたのです。私は、神と同じ方が小さな幼子として誕生した事実に驚いたのです。このクリスマスの出来事は、本当に神秘的な出来事です。この神が起こした奇跡を、私たちは驚きながらも受け入れ、喜びたいと思います。

 主イエス・キリストの誕生の出来事は、夜に起こったのです。このことは象徴的なことです。主イエスは夜に誕生したのです。夜なのですから暗いのです。この時、闇に覆われていたのです。暗闇、それは光を見ることができないのです。その夜の真っただ中に「光」が訪れたのです。それがクリスマスです。

 それでは、現代の世界のどこに「暗闇」があるのでしょうか。この一年の間に起こった大きな出来事は、ロシアがウクライナに軍事侵攻したことです。この戦争によって、ウクライナの人々の生活が、全く変わりました。軍事侵攻により、家を焼かれて、住む所を失い、戦禍を逃れて、難民となって外国に避難している人々が多くいます。国内では、電気が来なくて暗い中で生活し、暖房もなく寒さで震えているのです。ウクライナの人々は暗闇の中を過ごしているのです。戦争が起こると、その地域が破壊され、死の恐怖の中で人間の心も不安に怯え、敵国への敵対心や復讐心を持ち、戦争の相手国を呪いたい思いで一杯になります。そしてそれは、外の世界だけではなくて、人間の心をゆがめ、心を深く傷つけるのです。

 なぜこのような戦争が起こるのでしょうか。それは、他国の領土を欲しがり、自国の領土を拡大し、他の国の領土を自国の利益のために奪い取ることを正しいと考えているからです。自分の野望のためには、他国の領土に侵入して、自分の領土にしても構わないと考えているからです。他国を侵略する、これは十戒の最後の戒めである「欲してはならない」という戒めに違反しているのです。

 それでは私たちの場合はどうでしょうか。私たちの身近には「殺し合い」はありませんが、「争い」はあるのです。その結果、「あの人さえいなければ」という思いになるのです。現代は「競争社会」ですからあの人には「負けたくない」と思い、あの人がいないほうが良いと思うのです。そのようなことは、現代人の心をゆがめているのです。また、私たちは、信頼していた人に裏切られる経験をして、人を信頼できなくなることもあります。私たちの心が闇に覆われているのです。相手の過ちを赦すことができず、互いに愛し合うことが出来ていません。この闇は私たちが作り出しているのです。神が作りだしているのではありません。  

 なぜ、人間はそのような闇を作ることになっているのだろうか、と思うのです。闇があるのは、それは神を失っているからです。それは神がなくても生きて行けると思うようになったからです。デカルトと言う哲学者がいます。私は、デカルトが17世紀後半の人かと思っていましたら、16世紀の終わり、1596年に誕生しているのです。16世紀とは、1500年代です。ルタ−、カルヴァンなどが宗教改革を起こして、プロテスタント教会が成立した世紀です。この時代には、ヨーロッパのどの地域でも、カトリック教会ではミサが行われ、修道院で祈りと奉仕の実践が行われ、プロテスタント教会では、礼拝で説教が行われていましたので、人々は、神の存在を前提にしていましたし、人々も神の存在を前提にして生活をしていたのです。この1500年代の終わりにデカルトが誕生したのです。

 ある思想家は、デカルトから近代が始まったと言います。近代とは、神を前提とせず、何事も自分から始まることを考えるようになったと言うのです。自分が生きる時の出発点であり、自分のことを何よりも優先し考える、そのような思考をもっているのです。人間の主体性、人間の自覚、人間の考え、そのことが最も優先することなのです。神が存在することを前提にしていないで、自分からすべてが始まると考えるのです。

 有志の牧師たちとの勉強会で、「ハイデルベルク信仰問答との対話」という本を読んでいます。この本に次のようなことが書いてあるのです。16世紀の宗教改革の時代は、神の存在が前提であり、神が存在することは当たり前であって「どのように私は恵み深い神を得るだろうか」と言う問いが中心であったけれども、現代人は「神は、どこにいるのか」と神の存在そのものを問う、とあるのです。現代人は神を失っているので、もはや自分の罪で苦しむことはない、むしろ、自分の存在はほんとうに意味があるのか、ということで悩む、現代は恵み深い神を問うことはなく、神はほんとうにいるのかと思っている、とあります。

 皆さんが、自分が教会に行っている、洗礼を受けて教会員であることを伝えると、多くの人は「神はいるんですか」「神がいると信じているのですか」と問いかけられると思います。私も友人からそのように問いかけられたことがあります。私たちは神などいないと考えている人々の時代の中に生きているのです。

 現代は神なき時代です。神がないのですから、自分が中心になる、人間が中心になるのです。神がいないと考えてしてきたことが、闇を造り出しているのです。

 罪が闇を造り出している、人間が闇を造り出してきたし、造り出しているのです。隣国を自分の領土にしたいために侵攻する、これもすべて人間の罪から来ています。神を無視し、隣人の自由と人権と生活を考えないで、自分の思い通りに振る舞うのです。

 この礼拝でヨハネによる福音書1章1−5節を読みました。1章1節に「初めに言があった」とあります。このところは、創世記1章1節の初めの言葉に対応しています。創世記1章1節は「初めに、神は天地を創造された。」と言う言葉で始まっています。神はこの天地を創造された以前から、永遠において神がおられたことを語っているのです。神はこの天地を創造される前から、神は実在し、永遠の存在としてすべてのものを支配されておられるのです。
闇が大地を覆っていた、この言葉の背景には、紀元前6世紀に、イスラエルの国がバビロニア帝国に滅ぼされ、イスラエルの国が崩壊し、イスラエルの民の信仰の中心である、エルサレムの神殿が崩壊してなくなり、荒廃した戦争の後に人々はたたずみ、遠くにあるバビロニアに抑留され、異郷の地に住まなければならなかった、そのような状況がこの言葉の背景にあるのです。

 この創世記が書かれた時代は、紀元前6世紀の時代でした。イスラエルは国家が崩壊し、多くの人々が異郷の地、バビロニアに連れて行かれ、その苦しみと悲しみの中で、頼るものを見つけることができず、希望を失っている人々に向けて、神の言葉を伝えたのです。この世界が、混沌とし、混乱、荒廃していたのです。人は見当たらず、空の鳥は飛び去り、豊かな大地は、荒れ地となり、瓦礫の山となっているのです。創世記1章には、このような混沌とした、混乱した世界に対して、3節で「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。「神は言った。『光あれ』と。すると光ができた。」そのように語っています。神が「光あれ」と言われたのは、こうした世界の現実に向けて語られているのです。「光あれ」とは、神が最初に発言した言葉です。この光は、太陽とか月という自然の光ではなくて、人間の罪という闇を追い出し、闇を追放してしまう光です。神は、闇を追放して、闇をご自身の支配のうちにおくのです。闇は神の支配に置かれるので、闇は勝たないのです。私たちは自分が暗闇の中にいる、そのようなことを経験していても、神は私たちの闇を追放してくださるのです。

 ヨハネによる福音書1章1−18節は、序論、プロローグです。この導入部では、最初の教会の讃美歌であったと言われています。この福音書は、はじめに讃美歌を歌うところから始まっているのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と最初の教会の人々は、神を讃美する歌、神を誉め讃える歌として声を合わせて、歌ったのです。このヨハネによる福音書1章1−18節は、神の愛のみこころが語られているのです。最初から神の愛のみこころがあった、そして14節にはこの神が肉体を取り、主イエス・キリストとなられたことが語られています。キリストは永遠において神と共におられたと語られているのです。主イエスの誕生は、私たちと同じように人間として誕生した、と言うことではなくて、永遠において既に神と共にあった方が、この時に肉体を取って来られたのです。この天地が創造される前に神は愛のみこころを持ち、どのようなことがあっても、神は愛の行為をしようと決意され、実際に行動されるのです。

 言というギリシャ語は、ロゴス、と言う言葉ですが、この言葉は、創世記1章にある、「言われた」という言葉、ヘブライ語では「言葉」という語は「ダーバール」という言葉です。この言葉は「出来事となる」と言う意味を持っています。「神は言われた『光あれ。』こうして、光があった。」神が語られると、出来事となり、神が語られた言が実現するのです。1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。神と共におられた、永遠の御子・キリストは、肉体を取って、この世に来られたのです。永遠の神が、神の愛を明らかにしようと決意され、実際に行動されるのです。神に背を向け、人を愛することができない、その暗闇にいる私たちのところに並々ならぬ思いをもって肉体を取って、神ご自身が、来られるのです。

 このヨハネによる福音書には、主イエスが神から派遣され、天から送られた者としてこの世界に来られたことを語っているのです。主イエスが神からこの世界に遣わされた神と同じ方であり、遙か遠い天からこの世界に送られた主イエスという神であったのです。この世界は神の子主イエスを受け入れない世界であるのです。それは、ベツレヘムに何軒のもの宿屋を訪ねて、泊まろうとしても、宿屋は満員で、宿屋の主人は、家畜小屋に案内し、暖房もなく、寒い中で誕生されたのです。ルカによる福音書2章7節には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と書いています。

 人々は、神の独り子・主イエスを迎える心がなくて、主イエスの居場所はなかったのです。誕生の初めから、主イエスは人々に受け入れられなかったのです。そのような中にあって、主イエスは、私たちを罪から解放するために、その罪を取り除くために、私たちに代わって、罪の贖いを成し遂げられたのです。

 主イエスの御降誕は、神が私たちと一つとなるために起こった出来事なのです。神が私たちと共に生きるために、私たちを救うために、一切の限界を打ち破って、突破して、人間となられた、理解しがたいほどの神の慈しみが溢れている出来事なのです。

 この後、私たちは聖餐に与ります。主イエスは十字架に架かり、その死と苦しみをもって私たちを罪から贖って下さいました。私たちのために裂かれた肉を表すパン、私たちのために流された血を表す杯を感謝して戴き、私たちのために、神が深い愛をもっておられることを信じていくのです。

20221218  待降節第4主日礼拝説教  謙虚に生きよう  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書63章7−9節、フィリピの信徒への手紙2章6−11節)

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 アドベントクランツに4本のろうそくが灯りました。来週の日曜日、12月25日はクリスマス礼拝です。コロナ感染のために、今年もクリスマスコンサ−トや、子どものクリスマスなどの行事はないですが、昨年までのクリスマスの時の過ごし方を振り返ってみると、クリスマスの行事をこなすことに関心があって、クリスマスの意味を深く考えることが少なかったと思います。主イエス・キリストの御降誕を迎えるために、私たちは、クリスマスの意味を深く心に留め、私たちの思いを整えていきたいと思います。

 今日の礼拝で読みました、フィリピの信徒への手紙2章6−11節はアドベントやクリスマスの礼拝で説教されるテキストの一つです。このテキストがなぜ選ばれているか、それは、このテキストが、主イエスの御降誕の意義を語っているからです。しかし、このテキストの前後の文脈を考えると、この手紙を書いたパウロは、主イエス・キリストの御降誕の意味を語るために書いたというのではなくて、別の意図を持って書いたのです。パウロが語らなければならないと思っていた動機があったのです。それは、パウロがフィリピの教会に危機感をもっていたからです。それはどのような危機感でしょうか。

 パウロが持っていた危機感とは、フィリピの教会の信徒たちの信仰と生活に関することです。教会生活に関する危機感です。パウロが心を痛めていたことがあるのです。それは、フィリピの信徒たちの間に争いがあり、分裂があり、教会に一致がなかったからです。それは2章1−2節に「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、`霊`による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と語っていることから分かります。「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つに」と勧めていることから推測しますと、フィリピの教会には教会員が一つであるとは言えない状況があったのです。教会に生きる者が、互いに一つであるとは言えなかったのです。教会の中で、自分の思いのままに勝手な行動をする人が多く、互いに批判していたのです。

 パウロは2章3−4節で「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と語っています。この言葉からフィリピの教会には、「利己心や虚栄心からする」人がいて、そのことが教会の一致を妨げていたことが分かります。この「利己心」という言葉は、興味ある言葉です。「給料をもらって働く」という言葉です。この「利己心」という言葉は、一つのグル−プの者たちが共通に持っている利益があって、その利益のために一所懸命に働く、そのような言葉です。自分の利益、損得に敏感であるのです。このことは私たちの中に根深くあるのです。自分にとって利益になる人々が集まり、親しくなり、それがグル−プを作るのです。そして自分にとって利益にならない、考えが違う人々を排除するのです。自分に好意を持っている人々に対しては親切にし、自分のグル−プを作ろうとします。自分には利益にならない人には冷たくするのです。このことは、私たちがいつもしていることです。

 この「利己心」の後に「虚栄心」と言う言葉が出てきます。この言葉は「虚しい考え」という言葉です。自分自身について虚しいことを考えるのです。自分はそんなに値打ちがないのに、値打ちがあるように見せかけるのです。自分のことについて自分以上に見せようとする、そのような虚しさなのです。いつも自分が注目をあび、自分が皆から賞賛され、自分が誉れを受けることを求めるのです。そして、他の人が賞賛されるとその人を妬むのです。
 
 パウロは、フィリピの教会の信徒たちがどのような動機で教会生活をしているのか、ということに焦点をあてて語っているのです。それは利己心や虚栄心からしているのではないか、と語るのです。利己心も虚栄心も、自分のために振る舞っていることです。教会の信徒たちが、心を合わせることなく、同じ思いになっていない、考えも思いもバラバラで、自分の考えや意見だけを通そうとしている、他の人に無関心で自分のことだけをしている、そのような現実がフィリピの教会にあったのです。

 パウロは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と願っているのです。このような状況を変えるために、私たちは様々なことを試みるのです。それは、仲良くなるために話し合いをし、一緒に食事をし、相手をよく理解するように努力する、ということです。交わりを重ねれば、一致できると考えるのです。一つの目的に向かってみんなが団結すれば一致できると考えるのです。サッカ−のワ−ルドカップで日本のチ−ムが活躍しましたが、相手のチ−ムに勝利するために、相手に立ち向かっていくためには、チ−ムが団結して一つになることが必要なのです。互いに連携し、協力しながら、ゴールにシュートできるのです。個人優先の教会生活ではなくて、互いに思いを一つにしていけば、サッカ−のチ−ムが勝利に向けて協力するように、教会も協力態勢ができるのではないか、と考えるのです。

 F.G.イミンクと言うオランダの実践神学者が「信仰論」という本を書いています。この本に教えられることがあり、ノ−トを取りながら読んでいますが、この本の後半では、コミュニケーションの視点から、信仰の問題を論じているのです。   いくつもの教会を経験して私が考えることは、教会の根本的な問題は、コミュニケーションの問題であると考えています。心と心とが十分に通い合うコミュニケーションができていないことが大きな問題であると考えています。コミュニケーションを深めるために会話をする、触れあう、そのような努力をすることが大切です。

 しかし、パウロは人間同士の協力だけで教会の一致を造り出すことができるとは考えていないのです。イミンクと言う神学者は、人間同士のコミュニケーションだけを取り上げているのではなく、神とのコミュニケーションを論じているのです。人間同士のコミュニケーションよりも重要なのは、神とのコミュニケーションなのです。イミンクという神学者は、神との対話、神の言葉を聞き、私たちが祈ることの重要性を語ります。

 パウロは、フィリピの教会の信徒たちがキリストを見上げて、キリストを模範とする生き方をするならば、一致を生み出すことができると確信しているのです。教会の信徒たちが互いに親しく交わるだけでは、教会の一致はできないと考えているのです。そのような状況で、パウロは、フィリピの信徒への手紙2章6−11節で、キリストについて語っているのです。
 
 教会に集っている私たちは、出身地、年齢、性別、家族、仕事、能力、住んでいる場所など、ひとりひとり様々です。しかし、共通しているところがあります。それは、洗礼を受け、教会の礼拝に出席して、同じ聖書を読み、同じ祈りを聞き、同じ説教を聞き、同じ信仰告白を告白し、同じ聖餐を受けていることです。そして、同じ讃美歌を歌っているのです。
 
 フィリピの信徒への手紙2章6−11節は最初の教会の讃美歌として歌われていたものです。「キリスト賛歌」と呼ばれています。この讃美歌は、キリストに対する信仰告白です。礼拝説教は、聖書をテキストとして説教するものですが、ドイツの教会では、時々、讃美歌の歌詞を説教のテキストにするそうです。パウロは、この当時の教会の礼拝で歌われていた讃美歌の歌詞を引用しているのです。パウロがフィリピの教会の一致を改めて促さなければならなかった時、礼拝において歌う讃美に改めて関心を注ぐように促したことに注目したいのです。私たちは、教会に集う人たちが、「同じ思いを抱き、心を合わせ、思いを一つに」している教会でありたいと願っているのです。誰でもそう思っている、その時に、パウロは、このような讃美を歌っているではないか、と呼びかけているのです。

 フィリピの信徒への手紙2章6−8節の言葉を読みます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」   キリストは「神の身分」であったとあります。「神のかたち」と訳すこともできます。「神に等しい者」というのも同じ意味です。「固執しよう」と言う言葉があります。この言葉を、ある注解者は、「略奪する」と言う意味も含まれていることに注目して、泥棒がいのちをかけて略奪したものを容易に手放すことはしない、と解説しているのです。つまり、自分が力を用いて手に入れたものにこそ、人間は固執するものだと言うことができるのです。人間は、権力を志向するという罪があり、苦労して自分が高い地位をやっと獲得して、その地位を奪われないために様々な手段をもって権力を維持しようと努力するのです。

 「固執」と言う日本語は、「自分の意見を、あくまでも主張し続けること」と国語辞典に説明されています。教会において、自分が主張していることは正しい、と思い込み、頑固に言い張ることがあるのです。そうすると、異なる意見を持つ人と争いになるのです。しかし、キリストは、「固執される」ことはなかった、と語るのです。キリストにとって神であられるということは、最も優先すべきことで、容易に手放すようなものではなかったのです。神と言う身分は、容易に手放すことのできないものです。しかし、手放してしまったのです。それは、神が、自分中心に生きている、神を無視して生きている私たちの罪から私たちを救おうと考えられたからです。キリストは、神ご自身の光栄ある立場を、捨てがたいものと考えることなく、キリストは、私たちの救いのために、神の身分を手放す、そのような神であったのです。神と言う身分を捨ててまで、神は私たちを徹底的に愛されたのです。

 7節の言葉がとても大切です。「かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。」「自分を無にして」という言葉は、何もないという意味の言葉です。私たち人間は自分を無にすることはできないのです。謙遜そうに振る舞っているように見え、腰が低いように見えても、私たちは自分のことをいつも考えており、自分が尊ばれることを望んでいるのです。自らを無にすることができるのは、神の子キリストだけです。神の力がある方だけが、自分をむなしくすることができるのです。本当に力ある者だけが人を助けることができるのです。

 溺れている者を救助するためには、水泳が上手で、助けることのできる力を持っている者が、溺れている者を救助することができるのです。主イエス・キリストの働きも、人間として優しい心を持っていたから、人を愛したというのではなくて、主イエス・キリストが神と同じ方、力の充ちている方であるからこそ、助けることができ、自分を無にして、人に仕えることができたのです。

 このキリスト賛歌で、更に重要な言葉があるのです。それは7節に「僕の身分となり」とある言葉です。この「僕」という言葉は、「奴隷」という言葉です。ここでは、神の子が人となられたのは、神であられた方が奴隷になられたと言うことです。この「奴隷」と言う表現は、イザヤ書52章から53章にかけて語られている「苦難の僕」と深く関わっている言葉です。神の僕は、罪に支配された奴隷である人間と同じ立場に身をおいた僕であり、罪や咎を自分で負った僕なのです。イザヤ書53章12節後半には「彼が自らなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」と語られています。

 「かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間となられました。」ここには、神が自発的に激しい行動を取られたことを言い表そうとしています。全く自由に、自発的にキリストは「僕の身分」となられた、ここに私たちに対する神の愛があるのです。私たちを愛するために、キリストは神の御座におられることに留まることなく、神の身分を捨て、この地上に降り、へりくだり、私たちの罪を贖うためにいのちを捨てて下さったのです。

 相手を深く愛するので、自分を無にして、ただ相手のために尽くすのです。その意味で、へりくだるのです。教会に一致がない、争いがあり、分裂がある、それは、相手を愛そうとしていないからだと言うことができます。自分のことしか考えないので、相手のことに思いを寄せることができないのです。教会の一致を求めるならば、まず、キリストが自分を無にして、僕の身分となって謙虚に生きたことを模範として、私たちも心を低くして、相手に対する愛をもって歩むのです。

 フィリピの信徒への手紙2章5節は、口語訳では「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」となっています。文語(大正)訳では、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されています。

 私たちを愛するために、神であられることも捨て、私たちの罪を担う僕となってくださった、このキリストの心を、私たちの心とするのです。謙虚に生きると言うことは、イエス・キリストが心を尽くして全身で私たちを愛されたように、私たちもキリストの愛をもって隣人を愛することなのです。

20221211  待降節第3主日礼拝説教  私たちの罪を取り除く神の子  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書53章11−12節、ヨハネによる福音書1章29−34節)


 アドベントクランツの三本のろうそくに火が灯りました。教会の暦では、現在は待降節であり、12月25日から2月19日までが降誕節です。日本では12月25日を過ぎると正月を迎えるために、クリスマスツリ−などの飾りを終ってしまいますが、教会の暦では12月25日から降誕節が始まるのです。12月25日を過ぎるとクランツをしまってしまうことがあるのですが、降誕節にクランツを飾ることに意味があるのです。ドイツに留学してしばらくドイツの教会の礼拝に出席していた友人が、ドイツの教会では1月6日の公現日までクランツを飾っていたと話していました。教会の暦に従った聖書のテキストによって説教をすることが多いのですが、待降節の説教テキストには、バプテスマのヨハネに関する物語が選ばれています。

 マタイ、マルコ、ルカの福音書では、バプテスマのヨハネを先駆者として描いています。ユダヤ人たちにエルサレムの町の中ではなく、人が住まない荒れ野で神の審判の説教をして、洗礼を施していたことが記されています。ヨハネは、終わりの時に神が審判に来て、ひとりひとりの生き方を審判すると語り、その時に審判されないように、神の御心に従った清い生活をするように、洗礼を受けて、待つようにと語っているのです。

 本日の礼拝でヨハネによる福音書1章29−34節を読みました。ヨハネについて、1章6−8節に、ヨハネが何のために存在しているのか、ヨハネの使命について神がヨハネに期待したことは何か、を語っているのです。1章6−8節にはそのことを明確に語っています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証をするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」ヨハネ福音書では、ヨハネは、証をする者、証言者として語っているのです。ここにヨハネによる福音書の特徴があるのです。ヨハネは、主イエスを証する者、主イエスを証言する者です。「彼は証する者ために来た」と言っているのです。

 この「証」「証する」という言葉は、最初の教会では「殉教」を意味する言葉になりました。キリスト教会が成立してすぐに迫害を受けて、キリスト者は殉教に直面したのです。ペトロの手紙一4章16節にはそのことが記されています。「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」証することは、キリストを信じて、キリストを主と告白するためにいのちを失う、つまり、殉教することを指すようになったのです。「キリスト教を学ぶ会」で学びましたが、キリシタンたちが、穴吊りなどの拷問を受けても棄教せず、踏み絵を踏まないで、キリシタンの信仰を捨てることがなかったことを「証」「マルチヨ」と呼んだのです。現在、国家からの迫害や弾圧がないので、私たちは殉教していない、証をしていないとは言えないのです。日本という異教社会の中で、キリスト教の信仰を保ち続けることは、並大抵のことではないのです。礼拝を守り、教会員として生活を続けることは、いのちを削っていくことです。キリスト者として、弾圧・迫害があって、警察で取り調べを受けて、裁判にかけられ、そして刑務所に送られることはなくても、私たちは、キリスト者として生きる時に、日々、いのちを削っている、殉教していると言うことができます。

 1章19−51節には、ヨハネとその弟子たちについて語っています。特に注意すべきことに、主イエスについて幾つもの呼び名が記されているのです。たとえば、36節では「見よ、神の小羊」とあり、41節には「わたしたちはメシア・・・・に出会った。」45節には「それはナザレの人で、ヨセフの子イエス」、49節には「あなたは神の子」と呼んでいます。51節では、主イエスご自身が自らを「人の子」と呼んでいます。主イエスについて「神の子」「人の子」「ナザレの人」「ヨセフの子」、あるいは「メシア」「神の小羊」、そのように呼んでいます。それらの主イエスの呼び名の、最初に記しているのが、「世の罪を取り除く神の小羊」というヨハネの言葉なのです。

 主イエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とヨハネは叫び、36節にも「見よ、神の小羊」と叫んでいるのです。主イエスを指して、「見よ」よく見なさい、ご覧なさい、神の小羊がここに来てくださる、とヨハネは叫んでいるのです。このように主イエスを「神の小羊」と叫ぶことがヨハネの証言者としての務めであったのです。主イエス・キリストが自分のほうに近づいてこられて、主イエスを指しながら、人々に「神の小羊」が来て下さると証言しているのです。

 ヨハネにとって、主イエスは、全く知らない方であったのです。過去にあったことがなかったのです。主イエスのことは何も知らなかったのです。今日の聖書のテキストを読んでいて、見落としてしまう言葉があるのです。それは「知らない」「知らなかった」という言葉が多く語られています。1章26節「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」とあり、1章31、33節には「わたしはこの方を知らなかった。」とあります。ある会合で会ったことのない人に初めて会い、自分の知らない人だ、と思うことがありますが、この言葉にはもっと深い意味があるのです。それは、知らないものを知らされた、それは神が知らせてくださった、とても不思議な経験を語っているのです。それは驚きの言葉です。

 ヨハネは、いつも神の御心を尋ね、求めていた人であったので、主イエスとの出会いは神の計らいであると信じていたのです。神が出会いを設定してくださったのです。自分が前もって、主イエスを知っていたからではない、自分は知らなかったけれども、知ったのは神が自分を捉えてくださったからだ、神がこの方を与えてくださった、出会わせてくださったからだ、と受け取ることができたのです。

 私は、旧約聖書には、神が私たちを赦す神であることを、はっきりと語られてはいないと思っていましたが、旧約聖書のミカ書7章18−19節の言葉を読んで、今まで持っていた考えが間違っていたことに気づいたのです。ミカ書7章18−19節には「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」とあり、私は改めて、旧約聖書においても、神が私たちの罪を赦して下さる神であることをはっきりと語られていることに目を開くことができたのです。

 主イエスが自分のほうに近づいて来られて、ヨハネは「見よ」と語っているのです。それはヨハネにとって大きな驚きをもったからです。イエス・キリストに対して、驚きをもって新しく発見することがあるのです。自分が今まで持っていたイエス・キリストに対する理解を打ち破るような、新しい認識をもつことがあるのです。私は幼児のころから教会に通っていましたから、聖書の言葉を聞いていましたから、聖書の言葉を聞いても新鮮な驚きはなかったのです。

 しかし、ヨハネは、自分が出会った主イエスが、私たちの罪を取り除く小羊であることを知り、その方に出会ったことにとても驚いたのです。

 マタイ、ルカの福音書のヨハネの記事を読むと、ヨハネはとても孤独であったに違いないと思います。ヨハネは旧約聖書に属する預言者と見なされています。旧約聖書に登場する預言者は、神の言葉を託されて、神の言葉を割り引きすることなく、そのまま語るのですが、誰もヨハネの言葉に耳を傾けないのです。それどころか、嘲りをもってしか応えないのです。ヨハネの説教もこの当時の人々にとっては耳の痛いことばかりで、反発、反感があり、そしてヨハネを馬鹿にするのです。そのことに耐えながら説教をしているのです。そのような時に、ナザレの人イエス、ヨセフの子イエスという若者に洗礼を施した時に、神の声が聞こえ、聖霊が働くのを見ることができたのです。その時に、ヨハネはどんなに嬉しかったことでしょうか。ヨハネは神が自分に近づいて、自分のところに来て下さったことを知り、自分を孤独のままにはなさらなかったと深く感じることができたのです。

 そして、ヨハネが孤独で寂しかったということではなく、さらに苦しい状況にあり、そこに主イエスが来てくださったのです。ヨハネによる福音書の研究者によると、主イエスに洗礼を施した日の前日に、ヨハネにとって厳しいことが起こったと解説されています。ヨハネは裁判にかけられていたと言うのです。

 1章19−28節に、ヨハネは、ユダヤ人たちに質問を受けていますが、この質問は裁判における尋問に相当するものです。19−20節には「エルサレムのユダヤ人たちが祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず『わたしはメシアではない』と言い表した。」とあります。「あなたは一体何者だ」と詰問されている問答は続いていますが、これは裁判にかけられているのです。裁判で有罪であれば、死を覚悟しなければならないと思っていたのです。そのように思い詰めていた状況の中で、その神の子・主イエスが自分に近づいて来て下さるのです。その主イエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と語ることができたのです。死の不安の中で主イエスがこの世にきてくださり、この方について「神の小羊」と指すことができたのです。葬儀があるときに、私はいつも思うことがあります。キリスト教会は、人間には死という厳然たる現実をいつも見つめているのが教会であり、よそ見をしないでいつも死を見続けているのが教会であると言うことです。

 この世の人々は、毎日せわしく過ごして、死と罪と言う現実を見つめないで生きているのです。この世で生きている間、無事であれば良いと思い、死や罪を思わないのです。人々が多く集まり、賑やかで忙しくしているエルサレムの都から遠く離れたヨルダンの辺境の地にあって、人間の滅び、死、罪をヨハネは見続けているのです。その中で、ヨハネは世の罪を取り除く神の小羊がおられ、その方が一切を解決してくださると語るのです。この方こそ、あなたがたの罪と悲しみを担い、取り除いてくださる方であると告白することができたのです。

 このヨハネによる福音書で多く語られている言葉の中に「世」という言葉があります。この「世」と言う言葉は、「コスモス」と言う言葉ですが、ヨハネによる福音書では、この「世」コスモスと言う言葉を、神に徹底的に敵対しているものとして語っているのです。「世」とは、神なしで生きている人々と考えているのです。1章10−11節には「言は世にあった。世は言によってなったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところに来たが、世は言を認めなかった。」と語られています。

 クリスマスの物語で、マリアとヨセフがベツレヘムの宿屋に泊まろうとしましたが、客が一杯で泊まることができず、家畜小屋に案内され、そこで、誕生されたことが記されています。ルカ福音書2章7節には「宿屋には泊まる場所がなかったからである。」とあり、神の子イエスが入る余地はなかったのです。神の入る余地がなかった、神が入る場所がなかったのです。神を自分の生活の中に入れることはなかったのです。神なんていなくても楽しく過ごすことができると思っているのです。「世」と言う言葉は、徹底的に神の子イエス・キリストを排除する世界であることを表しているのです。そのような罪に満ちたこの世が持っている罪を取り除くために、贖いの業をなさる神の子がおられると語ります。

 「罪を取り除く神の小羊」という表現は、旧約聖書・出エジプト記12章での過越の小羊を思い起こさせる言葉です。奴隷として囚われていたイスラエルの民を解放するために、指導者モ−セが、エジプトを脱出することを指導し、イスラエル民が住む家の門口に小羊を殺した血を塗ったのです。夜、神の使いが訪れて、その血の塗っていない家の人々の子どもを打ち殺したのです。しかし、小羊の血に守られたイスラエルの民は脱出ができたのです。この過越の小羊の犠牲によって、奴隷から解放され、命を守られ、自由な民としてイスラエルに帰ることができたのです。そのことをいつも思い起こし、神に感謝するのが過越の祭です。この過越の祭の時に、主イエスが十字架に架かるのです。主イエスという小羊が、私たちの罪の犠牲として身代わりとして、自らを献げてくださるのです。私たちは、神を抜きにした生活をしていますが、このような者のために、私たちに代わって、神の裁きを引き受けて死んでくださるのです。私たちのすべての罪を取り除くために、自ら犠牲の小羊となってくださるのです。

 先ほど、旧約聖書・イザヤ書53章11−12節を読みました。この53章は「苦難の僕の歌」と呼ばれて、主イエスの十字架の苦難と死を預言している歌です。神とイスラエルの民の和解をもたらすために、私たちに代わって神の審判を受けて、苦しみ、やがて死んでしまう苦難の僕について預言をしています。

 主イエスは羊飼いであるのです。ヨハネによる福音書10章14節で「わたしは良い羊飼いである。・・・・わたしは羊のために命を捨てる」と語っているのです。羊飼いとして、私たちのために命をかけて守ってくださる方であるのです。そのことだけではなく、私たちの救いのために自ら小羊として犠牲の血を流してくださるのです。ヨハネは、この主イエスを見つめて、「見よ、罪を取り除く神の小羊」と証言し、告白しています。神は主イエスによって、私たちに真実な方として近づいてくださるのです。私たちが罪から救われるために、自ら傷つき、犠牲となり、私たちのために死んでくださるのです。この神の真実を心に深く刻みつつ、私たちは、クリスマスを迎えるのです。

20221204  待降節第2主日礼拝説教  私たちを限りなく愛するキリス  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書7章14節、ヨハネによる福音書1章14−18節)


 クリスマスには、クリスマスの讃美歌を歌う機会が多いと思います。この頃は、余り実施していませんが、昔は、クリスマス・イブの礼拝の後にキャロリングが盛んに行われていました。キャロリングで、教会員の家庭や病院などを訪問してクリスマスの讃美歌を歌って、次の場所に移動して讃美歌を歌い、クリスマスの喜びを分かち合うことをしていました。

 私が岡山の蕃山町教会におりました時には、イブの礼拝の後に、二組に分かれて、教会員の家を訪ねて行き、午前4時ぐらいに、教会に戻るということが恒例になっていました。歌を歌うことが好きな長老がリ−ダ−となって、それぞれの家の玄関で歌い、誰もリクエストをしていないのに、「リクエストに応えて、次は何番を歌います。」と言って何曲も歌い、家の人が「お汁粉を用意しているから入って」と言われて、「お言葉に甘えて」と言って入り込み、話しているうちに「次の家に行く予定があるから」と言って失礼をする、と言うことをするので、教会に戻るのが遅くなり、寒さでからだが冷え、風邪を引く人が多く、何人かは、次の日曜日の礼拝を休むということが恒例になっていました。

 本日の礼拝で、ヨハネによる福音書1章14−18の御言葉を読みました。ヨハネによる福音書1章1節は、「はじめに言葉があった」という言葉で始まっています。この1章1節を初めて読んで、多くの人々は、難しいことが書いてあり、この言葉の意味が分からないという感想を持つと思います。

 私が、神学大学におりました時に、松永希久夫教授の指導を受けて、ヨハネによる福音書に関する論文を書いたのですが、松永先生の著書に「ひとり子なる神イエス」という著書があります。そこには、1章1−18節までが、神学的プロロ−グであり、19−51節までは、歴史的なプロローグであると書かれています。プロローグとは、序説・序論、という意味の言葉です。ヨハネによる福音書を編集したヨハネは、この序説において、ヨハネによる福音書の主題を語っているのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」このところは、創世記1章1節の言葉と関係しているのです。創世記1章1節には、「はじめに、神は天地を創造された。」と書いてあり、はじめに神がこの世界を創造されたことを語っています。創世記1章3節には、神がはじめに何をしたのか、と言うと「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」と語られています。この「言われた」という言葉は、ヘブライ語では「ダーバール」と言う言葉です。この言葉は「出来事となる。」「出来事として実現する」という意味の言葉です。神が「光あれ」と言うと、現実に「光」が射してきたのです。神が語られると、現実に出来事が起こるのです。神の言葉とは、そのような性格をもっているのです。言葉を語っても、言葉だけで終わる、出来事として何も起こらない、と言うのではなく、語った言葉が、現実として起こる、出来事となるのです。

 ヨハネによる福音書の編集者のヨハネは、創世記の初めの言葉と結びつけて、「初めに言があった。」と書いているのです。そして、この言葉に続いて、「言は神であった。」と書き、この「言」とある言葉は、神を示すのだ、と語るのです。つまり、神は永遠な方であり、永遠に決意をされていて、私たちを愛するが故に、愛の出来事を起こして下さると語るのです。

 本日の礼拝で、ヨハネによる福音書1章14−18節の御言葉を読みました。1章1−18節は、最初の教会で礼拝において歌った讃美歌であったのです。「言」という言葉は、ギリシャ語で「ロゴス」と言う言葉です。このところを「ロゴス賛歌」と言うのです。最初の教会の礼拝で歌っていた讃美歌は、他にもあります。フィリピの信徒への手紙2章6−11節にも記されています。最初の教会では、旧約聖書の詩編を讃美歌として歌っていたわけですが、ヨハネによる福音書1章1−18節は、礼拝の讃美歌として歌われていました。ヨハネによる福音書のはじめに、神の業を讃美することをもって語り始めるのです。

 神を讃美する、このロゴス賛歌の中心は、1章14節の言葉です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と語られています。

 宗教改革者ルタ−はこのところを次のように語っています。「何よりもわれわれが心に留めなければならないのは、ヨハネが、ここにおける『言葉』を神の子のこととして理解していたことである。」言は神の子、神ご自身のことなのです。神が、私たちを救うために、人間の本性をお取りになったのです。「言は肉となって」とあり、神が、自分の外に出て、肉体を取り、イエスという人間になられたことを語るのです。

 このことは、私たちの理性には反することなのです。理解しがたいことなのです。神は神であって、人間になるということはあり得ないのです。最初の教会の神学者たちが戦った相手が、グノ−シス主義者です。この人々は、神が自分の外に出て肉体を取り、イエスと言う人間になることはどう考えても、あり得ないと考えていた人々でした。神は神であって、人間の肉体を持つことはあり得ないと考えたのです。イエスは、肉体をもった人間ではなく、幽霊のように現れたに過ぎない、主イエスの弟子たちは、ただ幻を見ただけだ、と考えたのです。神が肉体を持つことなど、どう考えてもあり得ないと考えていたのです。

 新約聖書に、ヨハネによる福音書とは別にヨハネの手紙がありますが、このヨハネの手紙を書く動機になったのは、この当時、このグノ−シス主義者が教会に侵入して、自説を主張して、神がイエスという人間になったことを否定したことによります。グノ−シスと言う言葉は「意識」「認識」という言葉です。主イエス・キリストによって神を知るのではなくて、神を知ることは、霊が自分の直感に作用して神を認識することができると考えたのです。グノ−シス主義者は、神がイエスにおいて、肉体を取るほどに、私たちを愛されたことを否定する人々でした。ヨハネの手紙一 4章2節には「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」クリスマスが、イエスというキリスト教の教祖が誕生したことを祝う時だ、と言うならば、誰でも納得するのです。しかし、イエスが、神が自分の外に出て、肉体を取って誕生した神の子であり、そのことを祝うことがクリスマスであると言うと、それは、あり得ないことだ、と言うのです。

 ヨハネによる福音書は、グノ−シス主義者が主張することとは全く反対の考え方を持つユダヤ教の人々と戦っています。この当時のユダヤ人は、イエスを神であるとは考えない人々です。イエスはあくまでも人間であり、ユダヤ教の教師に過ぎない、と考えていました。そのように考えているユダヤ人に対して、そうではない、と反論しているのです。イエスが天から遣わされて人間となった神である、ということを力説しているのです。

 ヨハネによる福音書は、イエスが神から派遣された神の子であることを繰り返し語っているのです。6章28節「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」8章26節B「しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」

 私たちの礼拝では、使徒信条を告白していますが、古代の教会では、使徒信条の他に、ニカイア信条が古代の信仰告白として礼拝において告白されてきたのです。使徒信条は洗礼信条と言われ、ロ−マの教会で使われてきたので、ロ−マ信条とも言われています。洗礼を受ける時に、告白する信仰告白なのです。

 ニカイア信条は、論争され、会議で決定された信条です。主イエスは、神のような人であって神そのものではない、と主張したのは、アリウスという司祭です。そのことに対して、ニカイア信条は、主イエスは神であることを告白している信条です。

 このニカイア信条は、使徒信条と比較して、イエスについての告白を詳しく告白されています。「わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」主イエスが、神と同質である、全く同じ方である、と告白しているのです。

 神は、現実に主イエスという人間となられたのです。人間となられることによって私たち人間と出会ったのです。神が私たちと出会う、それは私たちが主イエス・キリストと出会うことによって神に出会うのです。

 スイスの神学者でカ−ル・バルトという神学者が、ヨハネによる福音書1章14節をテキストにして「御言葉の受肉」という説教をしているのです。カ−ル・バルト説教選集(7)の中にある、1926年12月24日の説教です。私は、この説教を読んでいて、これまで当たり前だと思っていたことがそうではない、大切なことが語られていることに気づいたのです。14節は、神が「肉となった」と語り、神が人間となることによって、現実的に人間に向き合ってくるものとなる、それは、「人間だけが、人間に対して現実に向き合ってくることができるからである。」と語っているのです。「人間だけが、人間に対して現実に向き合ってくることができる。」この言葉から、神が私たちと同じ人間として現実に向き合い、まことの人間として、私たちを相手としてくださるのです。神は、私たちに向き合ってくださる、そのために、同じ人間として存在しているのです。神は、高くて遠い所から見下ろしているのではない、私たちに背を向けているのでもない、私たちを冷ややかに眺めているのでもない、私たちと同じ人間として、同じところに立って、私たちを相手としてくださるのです。

 ヨハネによる福音書4章には、主イエスがシカルの井戸で、サマリアの女性と出会う物語が語られています。人生の旅に疲れを覚えた女性が、シカルの井戸で主イエスと出会い、そこで対話をしているのです。この女性は、人生に失敗して破れを抱えている女性です。これまで歩んできた自分の過ちを消しゴムで消したいと思っている、この女性と主イエスは出会い、この女性の問題に真摯に向き合って、この女性の話によく耳を傾けて、解決の道を共に探そうとするのです。カ−ル・バルトの説教の中で、バルトが「人間だけが、人間に対して現実に向き合うことができる」と語るのですが、人間として生きている神が、私たちと向き合って、この地上で生活をしているのです。実際に相手が生きているところに行って生活をしなければ、相手の苦しみや悩みは分からないのです。

 テレビニュースで、ウクライナの人々が、ロシアのミサイル攻撃によって、発電所が壊され、電力が停止されて、一日に何時間も停電して、電気が来ないで、この寒さで震えているのです。そのニュ−スを見ていて、「寒いだろう。気の毒に。」と思いますが、ウクライナの人々が抱えている生活の困難さは実際には自分には分からないのです。自分が病気にならなければ、病気になっている相手の苦しさは分からない、ただ想像するだけです。人間だけが、人間がもっている問題をよく理解することができるのです。

 主イエスは、サマリアの女性と向き合って、この女性の過去、犯していた罪を主イエスは自分のものとして引き受けるのです。主イエスは、このサマリアの女性の罪を鋭く指摘したので、その言葉に、彼女は心がえぐられるような思いを持ち、悔い改めたのです。主イエスをメシア、キリストと告白し、今までの過ちが赦されて、サマリアの村に帰り、この主イエスがメシア・救い主であることを村の人々に伝えたのです。

 私は、旅行でトルコ、イスラエル、韓国に行ったことがありますが、外国で長く生活をしたことはありません。外国で長く生活をした経験を持っている人は、外国の生活をよく知っているのです。主イエスは、この地上と言う異郷に来られて、人間として30年余り、この地上の生活を経験されたのです。私たちの人間としての悲しみ、苦しみをよく経験し、味わっているのです。他の人の痛みもよく分かっているのです。

 皆さんは、54年版の讃美歌121番、讃美歌21・280番、「馬槽の中に」と言う讃美歌を知っていると思います。4節に「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる。この人を見よ、この人こそ、人とこそ、人となりたる 活ける神なれ。」と言う歌詞があります。私は「人となりたる 活ける神なれ」と歌詞を歌う毎に、主イエスが、人となった活ける神だ、ということに心が引かれるのです。私たちと同じ人間となった神が、私たちと向き合って、私たちが持っている悲しみや苦しみを共に担い、私たちの罪と死を解決してくださるのです。

 最近、私は、加藤常昭先生が書かれた「祈り」という本を読んでいますが、12月1日には、12歳の少女が死んで悲しみで嘆いている家の中に入って主イエスは「ただ眠っているだけだ」と言って、「タリタ・クム。」(アラム語で「起きなさい」の意味)と呼びかけ、「主のみ声が、深い眠りについている魂に届くときが来るのです。」

 「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」この「宿られた」という言葉は、神が幕屋に臨在される時に用いる言葉です。神が、肉体を取って、私たちの間に臨在している、この「わたしたち」ということを、この当時の主イエスの弟子たち、と考えていたのですが、ある説教黙想を読んでいましたら、ヘロデ大王、イスカリオテのユダ、ロ−マ総督ピラトをも含んでいる、と書いてあり、とても驚きました。ヘロデ大王は、主イエスが幼い時に殺害しようと企て、イスカリオテのユダは、主イエスを裏切った弟子であり、総督ピラトは、主イエスを死刑と宣告した裁判官であったのです。これらの人々は、主イエスに敵対して、主イエスの命を抹殺しようとした人々なのです。しかし、これらの人々のためにも、神はこの地上に来られた、つまり、これらの人々をも神は愛されたことを表しているのです。神に敵対している人々のためにも、その罪を引き受けて、主イエスは、十字架において罪の贖いの死を成し遂げたのです。

 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」14節が、このプロロ−グ(序説)の頂点です。言が目に見えるものとなった。手で捉え得るものとなったのです。人間イエスのうちに私たちは神の栄光を見ることができたのです。飼い葉桶の幼な子のうちに、神の栄光が輝くのです。それは、恵みと真理に満ちていたのです。恵み、それは神の憐れみであり、真理とは、私たちに向けられた神の真実のことです。

 グリュ−ンというドイツの牧師がこの箇所の黙想を書いていますが、次のように書いています。「恵み、それは神の守り、憐れみを意味するが、また神の優しさをも意味する。神の優しさは、飼い葉桶のなかの力なく幼な子に見えてきている。神は捉えることのできない遠いところから出てこられ、み子イエス・キリストにおいて、ご自身の優しさを示してくださったのである。」

 これから、主イエス・キリストが制定された、聖餐に与ります。主イエス・キリストは、十字架に架かられる前の夜に聖餐をお定めになりました。神が私たちの罪を贖うために、肉を裂かれたことを意味するパン、血を流されたことを意味する杯、をこの目で見て、この舌で味わうことによって、私たちに対する神の愛を深く心のうちに宿すことができるのです。

20221127  待降節第1主日礼拝説教  希望をもって今を生きる  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書21章11−12節、ロ−マの信徒への手紙13章8−14節)


 本日から待降節に入りました。アドベントクランツの一本のろうそくに火が灯りました。「待降節」とは、主イエス・キリストの御降誕を待ち望む季節のことです。昔から待降節をアドベントと呼んできました。アドベントとは、「向かって来る」という意味の言葉です。イエス・キリストが私たちのところに向かってくる、そのキリストを待つことを指しています。

 本日は、主イエス・キリストの御降誕を待ち望むアドベント・待降節第一主日に皆さんと共に礼拝をしています。キリスト教会では、キリスト教会独自の暦を持っています。この地上の暦では、1月1日から新しい年が始まるのですが、キリスト教会の暦では、本日から新しい年が始まります。先週の日曜日は、終末の日曜日、一年の終わりの主日でした。キリスト教会の暦が記してあるカレンダ−や手帖には、教会暦の日付が記してあります。待降節(アドベント)から一年が始まり、主イエスの御降誕を祝う降誕節、主イエスの十字架の受難と死を思い起こす受難節、主イエスの復活を祝う復活節、聖霊が降り、教会が誕生したことを祝う聖霊降臨節、そして終末の主日で一年が終わります。私たちは、イエス・キリストによってもたらされた神の愛の御業に心を留めながら、これからの一年を過ごすのです。

 日本では、一年の間に神道や仏教、キリスト教の様々な祭りが行われ、その祭りに参加して宗教的な雰囲気を味わうことに意味があると考えているのですが、一般の人がキリスト教会のイブ礼拝に行ってクリスマスの雰囲気を味わう、そのような気分で私たちがクリスマスの時を過ごすのではなく、主イエス・キリストの御降誕の深い意味を学びながら、この時を大切に過ごしたいのです。神の御業を仰ぎながら、私たちはクリスマスの時を過ごすのです。

 本日の礼拝でロ−マの信徒への手紙13章8−14節を読みましたが、最初の教会の伝道者であるパウロは、11節で「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」と語っています。この聖書の言葉を読んで、皆さんはどのように理解したでしょうか。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」とあるので、自分は、今が何時何分であるかを知って行動してきたし、行動している、と思われた方もおられると思います。礼拝が始まる時間だから、ぎりぎりに会堂に入ることなく、また遅れることなく、開始時間の前に会堂の席に座るのです。私たちは時間を気にして、時計を見ながら生活しているのです。ドイツの大学に留学した友人から聞いた話ですが、ドイツでは、約束した時間の前に訪問先の町に着いても、訪問先の家には行かないで、約束の時間が午前10時であれば、10時ぴったりにその家に着く人が多いそうです。日本では、約束した時間より早くても、すぐに家を訪ねることは、よくありますが、ドイツの人々は、約束した時間をきちんと守ることに感心した、とその友人は言っていました。

 13章11節後半で「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」とあるので、これは、朝、起きる時間だということを言っているのか、と思うかも知れません。毎朝、決まった時間に自然に起きることができる人もいるでしょう。しかし、多くの人は、目覚まし時計やスマホに時間をセットして休み、目覚まし時計やスマホの鳴る音で起きるのです。時計やスマホの音が鳴って、起きなければならないと、頭では分かっていても起きたくない、もう少し眠っていたと思う時があります。目覚め、すぐに起きて、寝間着を脱いで、衣服に着替える時で、そのことは頭では分かっているけれども、起きないこともあるのです。

 しかし、ここで語る「時」というのは、今、何時、何分だという、私たちがいつも経験している時間のことを言っているのではありません。聖書には、「時」を表す言葉があります。今、何時何分という時間は、ギリシャ語で「クロノス」という言葉です。時計が刻む時間のことです。このクロノスと言う言葉は、英語で「クロック」と言う言葉になりました。

 しかし、聖書はこのクロノスという言葉を使っていません。「カイロス」と言う言葉を使っているのです。この「カイロス」という言葉は「神がもっている時間」のことです。カイロスという言葉は、時間は神のものだ、という考えが根底にあります。しかし、私たちは、時間は自分のものだ、自分が時間を自由に使って良いと考えているのです。時間は自分のものであるから、時間を自分の好きなように使おうと思っているのです。自分の考えや計画に合わせて、時間を配分しているのです。

 パウロは「更に、あなたがたは今がどんな時であるか知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」と語っています。このロ−マの信徒への手紙は、パウロがロ−マの教会の、洗礼を受けて罪が赦され、教会に所属した信徒たちに宛てられたものです。ロ−マの教会の信徒たちは、この地上の時間を知り、もう一つの神の時間をよく知っているとパウロは言っているように思うかも知れません。

 しかし、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」と語っていることを考えると、私たちが、目覚める時を知って、よくそのことをわきまえているはずなのに、よくわきまえていない、重要なことだと思わないで軽視している、と語っているのです。あなたがたは、全く時を知らないのではないか、時を知らないで、今、何をしているのかと問うているのです。

 11月23日にカタ−ルで行われたワ−ルドサッカ−の試合で日本がドイツに勝った試合を見て、興奮し、飲み過ぎて、朝、起きられなかった人もいます。時間を忘れて興奮して、時間を気にしなくなるのです。皆さんは、時間を忘れて夢中になって話し込んだ、という経験をもっている人も多いと思います。

 キリスト者であるならば、時計が刻む時間だけではなく、もう一つの時間、神と関わる、神が私たちを支配し、配慮する、その御業を行っている時間の中に、私たちは生かされている、そのことを忘れてしまうのです。

 洗礼を受けたばかりの青年が彼女とデ−トに出かけるので、玄関を出ようとすると、キリスト者である母親が息子に「自分が誰であるか、忘れないでね」と語るのです。デ−トが楽しくて、自分がキリスト者であることを忘れてしまうのです。テレビの番組に夢中になって、話しかけても気がつかないことがあります。その時、あなたはそんなことをして良いのですか、と問われるのです。あなたは、そんなことに夢中になって、神を忘れていてあなたは、キリスト者なのですか、それでいいんですか、とここで問われているのです。

 今日の聖書テキストについて書いてある説教黙想読んでいましたら、ロッホマンという神学者が、興味深いことを書いていました。「神がわれわれに時を贈り物としてくださる」とあるのです。私たちは、神から時をプレゼントしていただいているのです。私たちは、「時」は自分のもので、自分が自由に時間を使って良いのだ、と考えています。しかし、「時」は自分のものではなく、「時」は神のもので、神が時を贈り物として私たちに与えてくださったものだ、と言うのです。私たちの命は、神が与えてくださったものであるように、「時」は「神の贈り物」であるのです。神が時間を持っているのです。神が時を定め、神が時間の主であるのです。パウロは、ロ−マの教会の信徒たちが、そのように考えていないので、ここで語っているのです。今の時を知りなさい、今、何をしたら良いのかを信仰をもって捉えなさい、と語るのです。

 「カイロス」という言葉は、神がご自身で最もふさわしいと考えた時に、決断して、その御業をなさる時です。主イエス・キリストが誕生された時も、それは、たまたまお生まれになったというのではなく、神ご自身が判断して、最もふさわしい時に、その時代に、ユダヤのベツレヘムで誕生されたのです。そして主イエス・キリストが伝道を開始された時に「時は満ちた。神の国は近づいた。」と語り初めたのです。この「時」もカイロスなのです。神の業が始められる、その時が「今」であり、イエス・キリストが説教と業によって、神の国、神の支配を指し示そうとするのです。「時」を表す言葉で、「ホ−ラ」という言葉があります。この言葉は、特に、ヨハネによる福音書で多く用いられています。主イエスが神から委託された救いの働き、それは十字架の死と復活によって、私たちを死からいのちに移させるための働きですが、その救いの働きをする時について、主イエスご自身が語っているのです。「わたしはまさにこの時のために来たのだ。」(ヨハネ12章27節)と主イエスは語ります。主イエス・キリストが神から委託された救いの働き、それは、私たちの罪を取り除くために、私たちの代わりに犠牲をささげるための救いの御業を行う、それは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって完成するのです。ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストのご降誕の時、十字架の時、復活の時、その時に注目し、重視しながら、神の御業を語るのです。私たちが、洗礼を受けて、キリスト者となった、私たちの罪が完全に赦され、神のものとして、神に所属するものとなったのですから、キリストによって義とされるものとなったのですから、神の時間の中で過ごすのです。

 ロ−マの信徒への手紙13章11節には「あなたがたが眠りから覚める時が既に来ています。」と語っていますが、ここでは明らかに、終わりの時を指しています。キリストが再臨し、審判する時のことを語っているのです。終末、再臨、審判の時があるというのは、現代の日本人は考えたことがないことです。この地上の時間だけで生きているので、自分の死をもってすべてが終わり、死ぬまでどのように生きるかしか考えないのです。しかし、私たちキリスト者は、この地上での時間で生きているだけではなく、神が支配している時間の中で生きているのです。むしろ、神と共に生きる時間に生きている中で、この地上の時間を生きていると言って良いのです。それは、神が天地を創造し、イエス・キリストによって私たちを罪から救い、終わりの時に、キリストが再び来られて、神が審判するのです。

パウロは、ロ−マの教会の信徒たちに、終わりの時が来ることをよく認識して、神の御心に適う生活をするように語るのです。神が来られて審判する時を知っているキリスト者であるならば、それに応じた生活のスタイルがあるはずだ、と語るのです。終わりの時を知っている生き方は、果たしてどのような生き方なのでしょうか。それは、キリストが私たちを訪ねてきても、恥ずかしくない生活をしいていることです。ドイツに留学した友人が、ドイツで暮らして、ドイツの人々の暮らしぶりに感心したことを話してくれたことがあります。知り合いのドイツ人の友人の家にいつ訪ねても、いつも部屋が綺麗に片づいていることに驚いたそうです。その友人が、特別にきれい好きだからではなく、他の人の家を訪ねても綺麗に清掃されていたそうです。突然、訪問されると慌てて、部屋をかたづけるのではなく、いつでもその人を迎え入れることができるようにしておくのです。キリストがいつ来られて訪ねてきても恥ずかしくないように、キリスト者としてその生き方を整えているのです。

 「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけましょう。」キリストが来られるので、今まで身につけていた生活のスタイルを捨て、キリスト者らしい生活を身につけようと呼びかけているのです。今までもっていた生活のスタイル、生きる構え、それらを脱ぎ捨てるのです。ここでは、14節に「主イエス・キリストを身にまといなさい。」と語られてあるので、今まで着ていた古着を脱ぎ捨てて、新しい衣服を身につける、身にまとうことを言っているのです。キリストを着ると言うことは、私たちの罪の衣と、キリストの義の衣とを交換して、私たちが、キリストの新しい、罪の赦しの義の衣服を身にまとうことです。洗礼式の時に、洗礼槽に入って全浸礼で洗礼(バプテスマ)を授ける教会がありますが、洗礼槽に入る時は、白い衣服を着て洗礼槽に入るのです。洗礼は、キリストと共に死に、キリストと共に甦り、キリストと共に歩む新しい生活に入るのですが、罪のまみれた生活から、キリストと共に歩む生活に転換する、それは、新しい生活スタイルを身につけることになるのです。

 キリスト者であっても、地上の自分の人生は死をもって終わるのだから、生きている間、好きなことをして暮らそうではないか、と思っているのです。そのように思っている者がどのような生き方をしているのかを指摘しています。

 それは「欲望を満足させようとして」と言う言葉が語っているように、自分の欲望を満足することが目的になってしまうのです。それは「闇の行い」であり、具体的には、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬み」の生活だ、と言うのです。「酒宴と酩酊」とは「食い道楽と泥酔」と言うのです。お腹を満たすために食べるのではなく、食べること自体を目的にして食べるのです。食べることが目的になるのです。「淫乱と好色」は性的な欲求に関わることです。夫婦の間で互いの愛を深め、これを豊かなものにするために、性は神から与えられたものです。この目的から外れて、自分の性的な欲求を満たすことを目的にするのです。互いに議論するのは良いことですが、自分の考えが正しいと思い込み、自分のほうが優れた考えであることを言い張ると「争い」が起こるのです。「ねたみ」があります。自分より優れていて、その人が認められるとおもしろくないのです。その人の悪口を言い、その人の足を引っ張るのです。

 では、どうやってそれらのものを捨てることができるのでしょう。14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい。」と語ります。朝、目覚めた時、起き上がります。その次にすることは、服を着るのです。そのようにキリストを着るのだ、着込んでしまいなさい、と言うのです。「キリストを身にまとう」「キリストを着る」と言うのは、戦いの服装であるのです。軍服のことを指していると言うのです。この地上でキリスト者として生きる時に、戦いがあるのです。この世の人々の生き方に同調せず、対抗して戦うのには、武具が必要なのです。

 私たちは、キリストが来られて審判される時を心に留めながら、神への愛と隣人への愛を基準とする、キリスト者らしい生活を目指すのです。

20221120  主日礼拝説教  これからの生涯をどのように生きるのか  山ノ下恭二牧師
(エレミヤ書30章12〜178節、ペトロの手紙一 4章1−6節)


 ある時、地方の教会にいる一人の牧師と話していた時に本の話になったのですが、その牧師が住んでいる町には、小さな本屋が一軒しか無く、自分の欲しい本が手に入らないので、パソコンからクリックして本を頼むと三日以内には届くので、本を購入することに不自由はしていないと話していました。以前は、本屋に購入したい本がない場合は、注文して1週間以上もかかって本が本屋に届き、取りに行くことが普通でしたが、今は、注文すると早く届くのです。ス−パ−に買い物に行かなくても、スマホやパソコンから注文すれば、品物がすぐに配達されて届くのです。私たちの生活は、とても便利になったのです。私たちは、便利な生活に慣れてきています。しかし、便利になった反面、このために苦労している人のことは、思い浮かばないのです。  

 宅急便を届ける配達の人をよく見かけますが、ある時、この近くを歩いていたら、宅急便の仕事をしている若者が、雨が降ってずぶ濡れになって品物を運んでいるので、気の毒だなと思いましたが、翌日にこの若者に出遭ったので、「雨が降る時に傘もささないで、大変でしょう。」と声をかけたことがあります。その若者は、昨日、あったことを話してくれました。同じ家に品物を3回、届けたけれどもいなくて、4回目に行ったら在宅していたので、品物を渡したら何も言わずに受け取り、すぐに戸を閉めたので、やってられないと思った、と言ったのです。「仕事だから仕方ないけれども、何回も来てくれて済みませんぐらい、言って欲しかった」と言っていました。配達する人が品物を届けるために苦労して働いていることを、品物を受け取った人は、想像しないのです。私たちの生活が、便利になった反面、他の人がそのために苦労していることを想像することができないのです。ワンクリックで商品が届く生活のなかで、他者の苦労を考える瞬間がどれだけあっただろうか、と思うのです。その意味で、他の人が苦労していることを想像する力がなくなっているのです。

 私たちも、身近な人に「これやっておいて」と気楽に人に頼むことがありますが、その仕事を依頼された人がどのように苦労しているのか、考えないで依頼することがあります。その人が苦労していることを知らない場合が多いのです。

 現代の人々は、便利で快適な生活をしたい、苦労したくない、苦しまないで過ごしたい、そういう気持ちでいるのですが、他の人の苦労を想像することもなく、他の人が犠牲になっていることに思いが及ばないのです。現代の人々は、便利で快適に過ごすことを目指しているので、苦しむことを避けたい、苦労をしたくない、苦しまないほうが良いと思っているのです。

 イエス・キリストを信じると心の葛藤から解放されて、心が軽くなることは確かです。気持ちが楽になるのです。イエス・キリストを信じると、このことは絶対なことだと思っていることから解放されて、そのことは相対的なことだ、と思うようになるのです。例えば、親は子どもの将来を考えて、安定した仕事に就くためには、大企業に勤めることが大事で、そのために就職に有利な大学に入学し、そのためには、受験校と言われている高校、中学に入学することが絶対条件だと考えて、小さな時から、学習塾に行かせようとするのです。しかし、親の願いを一方的に子どもに強制することによって、子どもを苦しませることになることに気がつかないのです。キリスト者になると、そのようなことは、相対的なことであると考えるのです。子どもを愛することは、親の願いを子どもに押しつけないで、子どもに任せることなにあるのです。私は、子どもが自分で自分の人生を自由に選択することを親が見守り、子どもに任せることが大切だと思っています。これが絶対的なことだと思い込むことではないのです。神のみが絶対的な方であって、この地上で起こることはすべて相対的なことであるのです。キリストを信じると、そのように考えることができるのです。

 キリストを信じることによって、心が軽くなる、人の過ちを赦すことができる、聖書の言葉を読んで慰められる、辛いことがあっても立ち直ることができる、そのような幸いを与えられるのです。しかし、キリストを信じることによって自分にとって幸いなことばかり起こるとは、聖書には書いてはいないのです。キリストを信じることによって、苦しむことがあることも書いてあるのです。そして、聖書は苦しむことをマイナスとは考えてはいないのです。苦しみから解放されることを約束しているのではなく、苦しむことを積極的に肯定し、苦しむことに意味があることを教えています。苦しむことの中で、喜ぶことができると語るのです。なぜ、そのように語るのでしょうか。それは私たちが、キリストとつながっているからです。キリストとのつながりの中で苦しむことを語っているからです。

 このペトロの手紙一には、「苦しみ」という言葉が多く語られています。4章1節に「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから」と書いてあります。ここで注目する言葉は、「肉」と言う言葉です。この「肉」という言葉は、「肉体」、「からだ」のことです。来週の日曜日、11月27日から、待降節に入ります。教会の暦ではクリスマスの季節になります。クリスマスというのは、神と同じ方が、自分の外に出て、肉体を取り、イエスという人間となられた、そのような神秘的な出来事を信じ、心を動かされて祝う時です。

 神が神である、それはどういうことでしょうか。神が神である、と言うのは、天において座しておられ、そのことに満足して、天から私たちを見ているというのではないのです。私たちのための神となることによって、神であると言うことです。夏に川で溺れた我が子を父親が助けようと川に入って我が子を助けることができたということがあります。神は私たちを助け出すために、わざわざ、私たちの世界に来られたのです。そこには、神が私たちを救おうとする愛の決意を持ち、愛の行動があるのです。そして、この世界に来られ、罪を他にして私たちと同じ人間となられたのです。

 イエス・キリストは、神と同じ方ですから、神のことを十分にご存知な方ですし、私たちと同じ人間になられましたから、私たち人間のことも十分にご存知である方です。主イエス・キリストは私たちと同じように肉体を持っていたのです。私たちと同じからだをもって生活をしていたのです。私たちは病気になっていろいろなところが痛むのです。転んで痛みを覚えることもあり、人にひどいことを言われて、心が傷つくこともあります。主イエスは私たちと同じ苦しみを経験されたのです。人間として生きる時の苦しみだけではなく、私たちのために苦しんだのです。私たちの罪を贖うために苦しまれたのです。主イエスは、十字架に架かられる前に、多くの人々から、侮辱され、攻撃され、暴力を受けたのです。同じ肉体をもって苦しんだのです。主イエス・キリストは、私たちのために苦しみを味わったのです。イエス・キリストの苦しみは、「あなたがたのための苦しみ」であることをここで明確に語ります。イエス・キリストは、本来、苦しむ必要はなかったのです。しかし、私たちのために苦しんだのです。

 ペトロの手紙一2章21−24節「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストはあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」私たちが罪から解放されるために、十字架で死なれた、そのことを信じて、洗礼を受けた者は、キリストとつながっている、キリストにあずかっているのです。

 私たちは、便利で快適な生活をしたいと思います。できるだけ、苦労しないで、苦しみがなく、過ごしたいと思っています。できるだけ、苦しむことを避けたいと思っています。しかし、キリストにつながると、そのような生き方ではなく、全く異なる生き方になるのです。洗礼を受ける前は、自分のしたいことをすることが、良い生き方だと思っていたのです。しかし、そうではない。自分の欲望を満足させる生き方ではなく、キリストと結ばれているので、キリストと同じ生き方になるのです。親子は、いろいろな面で似てくるのです。一緒に生活をしていると親の言い方や振る舞いに影響されて、子どもは親と似た言い方や振る舞いになるのです。洗礼を受けることは、キリストと共に生きることになるのですから、キリストと一体となり、キリストに似て、キリストの苦しみを自分のものとするのです。

 ペトロの手紙一 4章1節に「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」と語られています。私たちに、苦しむことを覚悟するように、と勧めます。私たちは、キリストによって私たちの罪が赦され、罪から自由にされたのだから、好きなように生きたらよいと思うかも知れません。しかし、そうではなく、キリスト者、キリストに属する者であるので、神のために、隣人のために、苦しむことができるのです。苦しむことを喜ぶことができるのです。

 年賀状を販売している季節になりました。毎年、年賀状を戴いて思うことは、「ご多幸をお祈りしています」と書いてある年賀状がありますが、「ご多幸」とは、この世で、自分にとって良いことがたくさんあり、病気にならず、事故に遭わず、つつがなく過ごすことができることを指すのです。しかし、キリスト者は、神のために、隣人のために苦労する、苦しむ者なのです。苦しむことを喜ぶ者となるのです。

 私が、和歌山の田辺教会にいた時に、時々、礼拝に遅れてくる婦人がいましたので、どうして遅れるのかと思っていたところ、その婦人が私に「自分が礼拝に出かけようとすると、夫が用事を頼み、引き受けるので、礼拝に遅れてしまう」と言ったのです。キリスト者として歩む時に、そのような仕打ちを受けるのです。しかし、それは、キリストの苦しみにあずかることなのです。

 ペトロの手紙一 2章21節「キリストもあなたがたのために苦しみを受け」とあります。キリストが私たちのために苦しんでくださるので、そのことによって、私たちは深く慰められるのです。共に苦しんでくださるキリストがおられることを信じて、苦しむ時も耐えることができるのです。

 私が、信仰告白をし、キリスト者となるきっかけになった聖書の言葉があります。ヘブライ人への手紙4章15節です。口語訳ですが「この大祭司は、私たちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪を犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」「思いやる」という言葉は、「シンパシー」「共に苦しむ」と言う言葉です。イエス・キリストは、私たちの苦しみを知っておられる、経験している、そのキリストが、私たちの苦しみを共に苦しんでおられるのです。

 キリストを信じることによって、苦しむことがあるのです。しかし、それが喜びになるのです。それはキリストの苦しみを経験することができるからです。キリストの苦しみを追体験できるからです。

 使徒言行録5章には最初の教会の使徒たちが、イエス・キリストを説教すると、それを聞いた人々が殺そうとし、迫害を受けたのです。鞭で打たれ、「イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。」とあり、「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」、様々なところで「メシア・イエスについて福音を告げ知らされていた」(5章40−42節)と記されています。キリストのために、苦しむことができ、それを喜んだのです。

 ペトロの手紙一 4章15節には、悪いことをして苦しむことがないように、という勧めに続いて、16節には次のように勧められています。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」と勧めています。キリストの救い、それは、私たちの罪が赦された、その恵みを、頭の中で考えているのではなく、からだ全体で受け止めて苦しむ、苦労することを勧めているのです。

 プロ野球の日本ハムの監督であったし、また現在、WBCワールド、ベ−スボウル・クラシックの総監督の栗山英樹がまだ野球を始めた頃、難病にかかった時があったそうです。その時に、母親が英樹の代わりに自分が病気になりたいと言ったそうです。栗山英樹は、母親が自分の身代わりになりたい、と言う言葉を聞いて、この病を克服しなければと決意し、この言葉に力づけられて、難病を乗り越えることができたと言われています。

 神がイエス・キリストによって苦しんでくださる、そのことを信じる時に、私たちは、神のために、隣人のために苦しむことができるのです。

 ペトロの手紙一 4章2節に「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」と語られています。私たちがキリストを信じて生きていく時に、いつも苦しみがあるのです。しかし、イエス・キリストが共に苦しんでいて下さることを信じて歩むのです。
 

20221113  創立145周年記念礼拝説教  教会らしさとは  神代真砂実牧師(東京神学大学教授)
(レビ記19章1〜2節、ガラテヤの信徒への手紙5章25節〜6章10節)


 教会とは、一体どういうところであるか、もちろん答えは様々だと思います。新約聖書の中だけであっても、教会についてはいろいろな捉え方、また語り方が記されています。そこで、今日与えられているガラテヤの信徒への手紙の箇所に従って考えて行くと、5章の25節に、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」とあって、その私たちというのが教会を指していると言えるでしょうから、教会というのは霊の導きに従って生きている者の集まりだと言えると思います。

 もちろん、そうすると今度は、霊の導きに従って生きているというのは一体どういうことであるのかということになるわけですが、答えをすぐに言ってしまえば、ここでの 霊というのは神様の霊である、聖霊のことです。ですから、霊の導きに従って生きているというのは、聖霊の、従って神様の導きに従って生きているのと同じであるわけです。

 けれども、この手紙のこれまでの話を踏まえて、もう少し、丁寧に言った方がいいかも知れません。つまり、聖霊というのはイエス・キリストの霊であるということです。この手紙の中に、「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」(4章6節)という言葉があります。神の独り子であられるイエス・キリスト、その霊が私たちに与えられて、私たちは神様に「父よ」と呼び掛けられるようになった。それは私たちにも、神様の子供としての身分が与えられて、神様に近いところで生きる者になった。神様とたいへん親しい者にされたということです。

 そのように、聖霊はイエス・キリストの霊です。そして、これは言うまでもあ
りませんが、このイエス・キリストは、私たちの救い主であられる。この手紙の中から、再びいくつか言葉を拾ってみれば、イエス・キリストは、私を愛し、私のために身を捧げられた神の子です。2章にそういう言葉があります。そしてさらに遡って、この手紙の1章4節を見れば、「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と証しされています。そういう方、そういうキリストの霊が、私たちを導くのです。

 こういう具合に、教会が霊の導きに従って生きているというのは、神様の、さらにはイエス・キリストの、その霊の導きに従って生きているということです。そして、そのイエス・キリストが、十字架において私たちの罪のために死んでくださった方であるわけですから、教会の土台には、罪からの救い、罪の赦しがある。教会というのは、罪の赦しの力によって歩む、罪の赦しの力が働いているところであるのです。

 さて、教会はそのように、罪の赦し、罪からの救いに基づいていますから、教会は、教会で起こった過ち、あるいは教会に属する者が犯してしまった過ちについて無関心でいることはできません。今日のガラテヤの信徒への手紙の箇所、とくに6章に入ってしばらくのところがこういう問題に触れています。6章の1節にありました。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも 何かの罪に陥ったなら」。

 ここで少しばかり注意しなければならないのは、「罪」という言葉です。実はこれは余り良い訳とはいえず、「過ち」とした方がいい言葉です。普通「罪」と訳されている言葉とは違う言葉です。聖書が罪という時には、それは何よりも先ほども見た通り、私たちの誰もがそこから救われなければならない根本的な問題、人間としての根本的な問題を指している。つまり、私たちが神様から離れてしまっている、神様とは無関係に生きている、そして、それだけではなくて、自分自身を絶対のもの、自分を神に仕立て上げて生きている。そういう、本来人間としてありえないはずのことをしている、それを罪と言うのです。

 しかし、私たちは罪から、そういう状態から、イエス・キリストによって救い出されて、神様の子供として、神様としっかり結びつけられて生きるようにされている。ただそれにもかかわらず、過ちを犯してしまう、それが私たちです。それは具体的には、5章の19節以下に挙げられている「肉の業」と呼ばれているもののあれこれであるわけです。風邪が治ってもなかなか咳が治まらないとか、古傷が痛むとか、そんなことに似ています。罪はもうイエス・キリストによって乗り越えられているのに、神様の子どもとして、神様に喜ばれるものになっているのに、罪が奇妙な仕方で働いて、過ちを犯させる。神様に喜ばれるとは思えないことが、どこかから現れてきてしまう。「万一だれかが不注意にも何らかの過ちに陥ったなら」、とパウロが言っているのはそういうことです。そしてそれは、教会にとって決してどうでもいいことではないと、パウロは考えています。

 どうして、どうでもいいことではないのでしょうか。それはそれこそ、教会が十字架において私たちの罪のために死んでくださった方であられるイエス・キリストに導かれているからです。つまり、教会の土台に、罪からの救い、罪の赦しがあるからです。雨漏りの修理をしたとして、また天井かどこかに雨漏りのシミが現れたりしたら、放っておくわけにはいかないでしょう。同じように、罪から救い出されている私達であるからこそ、罪の名残が姿を現した時、無関心ではいられない。

 このことから明らかなように、この手紙の著者、差出人であるパウロは、教会に連なる私たちが、互いに無関心であるような姿を許しません。どうしようもない、どうでもいい、自分には関係がない、他人のことで心を痛めるなどというのは無駄だ。そういう考えは教会になじまない。キリスト者としての私たちの在り方、生き方というのは、身の回りのこと、さらにはこの世のことを厭うようなものでは決してありません。自分一人の心の穏やかさのために、周りに対して心を閉ざしているというのは、決して信仰に適っているとはいえないと言わなければなりません。

 今日の箇所の最後の6章の10節に、「ですから今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」とあります。善を行うことから手を引いてはならない。もちろん、場合によっては善を行うということが、悪に手を貸さない、悪に同調しない、そういう、いわば消極的な形になるということもあるでしょう。それはそれでいいと思います。少なくとも無関心ではないからです。せめて、もっと悪くなったりしないようにする、それも大切なことです。それはともかくとしても、今の10節はそのことを、「すべての人に対して心がけるようにすることが大切だ」と語ると同時に、特に信仰によって家族になった人々、つまり教会にあって、それは特別な重みを持ったことだと言います。

 教会といっても所詮は人の集まりだ、だから言っても仕方がない、そんなふうに言って済ませてはいられない。確かに、過ちという形で、罪の名残が現れてくる。けれども、その罪を覆い、乗り越え、取り除くイエス・キリストの恵みによってこそ教会は立っているわけですから、それは決して放っておいてよいものではありません。少なくとも、過ちに対して、心を痛めなくて良いはずはありません。そのことを祈りに覚えなくて良いはずはありません。そうであってこそ、2節にあるように「互いに重荷を担いなさい」と言います。

 このようなわけで、私たちは、教会が教会であるのであれば、過ちというものに対して無関心ではいられません。けれども、もう一方で、過ちを問題にしすぎるということもあってはならないことです。実際、今日の箇所で、パウロがはっきりと論じているのは、むしろそのことの方だと言えるかもしれません。1節の終わりには、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」とありました。或いは3節は、「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」と言っています。そして、さらに4節には、「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」。このようにパウロは、自分を高いところに置いて、過ちを犯した人を批判するようであってはならないと語ります。

 おそらくそういう事は、大きく分けて二通りの形で起こるのでしょう。一方で、人の過ちに対して自分は関係ない、自分は安全なところにいる、自分はそういう過ちを犯したりはしない、そう考える。自分はあの人のようではないと言って、人を裁く。自分から切り離す。心を痛めることすらしない。また、もう一方では、その過ちを犯した人を、あからさまに、痛烈に批判し、批判し続けると言う場合もあるでしょう。これらの場合の、少なくともそのどちらかについて、私たちの誰もが身に覚えのあることだと思うのです。ただ、どちらの形であったとしても、結局は同じことです。どちらの場合であっても、自分は安全だと思っている、過ちとは無関係だと思っている。そうであるからこそ、過ちを犯した人を自分とは全く関係のない人と見たり、逆にいくらでも厳しくとがめ続けたりします。

 けれどもパウロは、それが教会に相応しいことだと考えてはいません。それでは2節が言っている、互いに重荷を担うことにはならない。あるいは同じ2節にある、キリストの律法を全うすることにならない。キリストの律法を全うするというのは、キリストに導かれている者らしく生きる事を言いますけれども、自分を正しいとして、過ちを犯した人を見下しているようでは、キリストの律法からは程遠いと、パウロは言います。そこでさらにパウロは勧めるわけです。先ほども触れたように、各自で自分の行いを吟味してみなさい、そうすれば自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょうと言うのです。自分自身のことを省みてみれば、過ちを犯した人を見下したりなどはできないはずだというのです。

 大変分かりやすい勧めの言葉であるように思われます。けれども、少しばかり、ここでも気をつけた方がいいと思います。パウロはここで、決してただの反省を求めているわけではないからです。1節で、「霊に導かれているあなた方」と、私達はそう呼びかけられています。霊に導かれているあなた方。それは始めに確かめたように、私たちがイエス・キリストの霊である聖霊によって導かれているということであり、罪の赦しによって、その恵みの力によって歩んでいるということであるわけです。

 そうである以上は、ここでの反省というものも、ただ自分のことについて思いをめぐらしてみる、いわゆる胸に手を当てて考えてみる、そういうような話ではないはずです。私たちが、イエス・キリストの十字架での死によって支えられて生きているのであれば、あの十字架が自分自身の救いであるのであれば、それはまさに自分自身が罪の赦しを必要としている人間であると認めることであるに違いない。

 私を愛し、私のために身を捧げられた神の子、それがイエス・キリストだと信じているのであれば、そしてそう信じているからこそ、私たちは教会に連なっているキリスト者であるのです。そしてそうである以上、自分を、罪や過ちとは関係のない者だと考えるわけには行きません。それは信仰に逆らうことになる。イエス・キリストを信じている、それはこの自分が、罪を赦されるのでなければ生きられない者だと知っているということです。それが私たちです。5節で、めいめいが、自分の重荷を担うべきですと、パウロが言うとき考えているのはこのことです。これは、2節の互いに重荷を担いなさいという言葉と矛盾するように聞こえますが、実はこの両方がどうしても大切なのです。

 それぞれが、私たち一人一人が、罪を赦されて生きている。さらに言えば、この罪が、時に過ちを引き起こすこともある。そういう姿で生きているのであるからこそ、そうやって自分の重荷を担っていることを知っているからこそ、過ちを犯した人を切り捨てたりしない、却って、心を痛めることができる、祈ることができる。そうやって互いに重荷を担えるようになる。

 教会は、そしてそこに連なる私たちは、 過ちに対して無関心でいることはできない。しかし、それは自分とは関係のないことであるかのように、過ちを犯した人を裁いたり切り捨てたりすることもできない。そのように、ここまで私たちは示されてきましたけれども、しかし、なおここで、疑問を持たれる方もあると思います。これまでお話ししてきたことは、してはいけないことばかりであって、それでは一体何をしたらいいのか。そういう疑問も生まれてくるかと思います。

 この疑問に答えることは決して易しくはありません。けれども、私自身を含めて私たち一人ひとりが、この問いに真剣に向かい合わなければならないということは確かです。そうである以上、何か手がかりになるような事柄が、さらにこの箇所から示されないかどうか、最後にその事を考えてみるのは相応しいことだと思います。

 恐らく、その時大切になってくるのは、1節にある「柔和な心」と言う言葉ではないかと思います。私たちが教会の中に現れてくる過ちに対して、どのように関わっていくにしても、そこには柔和さが伴っていてこそ、教会らしいと言えるでしょう。もちろん、そうすると柔和というのはどういうことか、そのことがさらに問われてきます。柔和というのは、穏やかである、冷静であるという意味の言葉ですが、それだけでは分かりにくいかも知れません。むしろ反対の意味の言葉を並べてみたほうがわかりやすいかも知れません。柔和の反対となると、怒り、荒々しさとか、攻撃と言った言葉があります。そうであるとすれば、例えば柔和であるというのは、怒りに支配されない、怒りに身を任せないということであるでしょう。

 心を痛める事柄がある、そういう過ちを犯した人がいる、そういう人に怒りをぶつけていくのではなく、むしろ、キリストによる罪の赦しに立ち返る、その道を望む、共にそこへ帰っていく、祈りながら、具体的な仕方はどうであるにしても、そのようにしていくことが求められている。そのように言っていいのではないかと思うのです。ここでも考えてみれば、罪の中にあった私たちに注がれるはずであった神様の怒りや裁きを、イエス・キリストが私たちに代わって、引き受けてくださったという事実が大切であるということに気づかされる。怒りは、イエス・キリストで終わりになりました。だから、怒りが教会を支配してはならないのです。そして、そうであってこそ、教会がキリストの霊によって導かれていると言える。そのような教会において、私たちは生きている。生きるようにと召されているのです。祈ります。

 祈り:
 信仰の歩みを続ける中で、私たちは過ちを犯してしまいます。教会の中であっても、それは起こります。そのことは残念ながら避けられません。けれども、すでに私たちは、イエス・キリストの十字架による罪の赦しに生かされているのですから、柔和さをもって、これを乗り越えて行けるようにしてください。そのために必要な知恵を、聖霊によって私たちに授けてくださいますようにお願い致します。私たちを憐れみ、助けてください。その憐れみの御手をもって、この教会の歩みをこれからもどうぞ導き続けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

20221106  主日礼拝説教  神に通じる道が開かれている  山ノ下恭二牧師
(詩編139編8節、ペトロの手紙一 3章17−22節)


 10月29日(土)夜の10時すぎ、韓国ソウルの梨泰院(イテェオン)にハロウィンで集まっていた若者たちが、密集したために群衆雪崩が起き、156人が亡くなった事故がありました。大変、痛ましい事故でした。この事故で二名の日本人の女性が亡くなったのです。一人は10代の埼玉県出身の女性でした。もう一人は20代の根室出身で、韓国に語学留学をしていた女性でした。テレビ二ュースでは、この女性が韓国での生活をとても楽しんでいたそうで、事故の直前まで、父親とこの女性とがラインの交信をしていて、この親子がとても仲良しであることを知りました。父親は、我が子を可愛がってこれからも仲良くしていくつもりであったのに、この事故のために、突然、愛する我が子を失ったことは、父親にとってショックで、深く悲んでいるのです。親は我が子のために生きていると言っても過言ではないのです。子どもが病気になれば、代わって自分が病気になりたいと思うのです。子どもを育てることは大変で、苦労は尽きないのですが、それでも、子どもが成長していく姿を見ることは楽しいことであり、子どもと共に生きていくことは親の生きがいなのです。親は子どものことはいつまでも心配で、苦しむことが多いのですが、子どもが元気でいれば良いと思っているのです。

 子どもを育てることは、大事業です。子育ては苦労の多いものです。子育てに悩み、苦しんでいる母親は多いのです。佐々木正美という児童精神科医が「子どもへのまなざし」という本を書いています。同じシリ−ズの本が3冊あります。2冊目の「続・子どもへのまなざし」には、「子どもへのまなざし」を読んだ、子育てまっただ中のお母さん、保育園、幼稚園、学校の先生から、たくさんの感想や質問が寄せられていたので、その質問に答えているのです。「人のいやがることをする子ども」がいて困っている、どうしたら良いのかと言う質問がありました。この問いに対して、佐々木正美医師は次のように答えています。「そのような子どもは小さい頃から、親子関係の中で、小さい時から見捨てられるかもしれない、というおそろしい体験をしている、『自分が大切にされていない』という気持ちをもっていて、人のいやがることをするということは、『こんなことをしても僕のこと好き』と愛情を求めている」と答えています。(佐々木正美著「続 子どもへのまなざし」p97福音館書店 2009年)

 人がいやがることをする子、乱暴をしたり、いじめをする子、子育てをする時に、手に負えないことが多いのです。しかし、親が苦労しても、子どもを見捨てないで、育てることをこの本は教えています。苦労しながら、子どもを育てるための苦労は躊躇なく買ってでる、それが親なのです。

 子どもを育てることは、親が苦しむことが多いのです。自分が大人になって、子どもを育てる時に、自分を育ててくれた親の苦労を知るのです。子どもの時は、自分を育てることに親が苦労しているとは全く思わなかったのですが、自分が親になると、親が苦労して育ててくれたことを知るのです。

 苦しまないで生きて行きたいと願う人がほとんどです。苦しみがないのが良いと思うのです。困難なことに遭わないようにしたいと思うのです。しかし、この世の中を生きて行くのに、苦しみを避けることができません。

 キリストを信仰したら、苦しみがなくなると思って、洗礼を受け、信仰生活を始めるのですが、信仰すると苦しむことがあるのです。このことは、理解しがたいことなのです。キリストを信仰することによって、苦しみがなくなる、困難がなくなる、楽になると思って洗礼を受けたけれども、そうではないことは理解できないことなのです。

 しかし、イエス・キリストを信仰することによって苦しみから解放されることがあることも確かです。それは、罪から解放されるからです。生きることが軽くなるのです。失敗し、過ちを犯すことはあるのです。しかし、罪の赦しを信じて、自分が神に受け入れられていることを知るのです。神が自分を価値ある存在として認めていることを信頼することで、自分を肯定することができ、自分は生きていて良いのだ、と思うことができるのです。

 イエス・キリストを信じることは、たくさん良いことがあります。神は、私に敵として向かい合っているのではなく、いつも味方であり、神が自分の側にいることを信じて安心することができるのです。そして、絶対と言われる存在は、神しかいないので、他のものはすべて相対的なものだ、ということを思うことができるのです。神ではないものを、いたずらに恐れることはないのです。

 ただ、信仰をもっているために苦しむことも少なくないのです。日本のキリスト者は、家族の中で自分一人が洗礼を受け、自分一人が信仰を守っていることが多いのです。家族に理解されることなく、苦しむことも多いのです。家族の者から「毎週、教会に行かなくてもいいんじゃないの」と言われて、肩身が狭い思いをするのです。キリスト教信仰を持つことによってかえって苦しみを持つようになるのです。

 ペトロの手紙一 3章17節には「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」と語られています。このペトロの手紙一には、「苦しむ」と言う言葉が多くでてきます。異邦人が多い社会に生きていたキリスト者たちが苦しんでいたのです。ペトロは、そのことを心に留めて、キリスト者の生き方を具体的に教え、苦しんでいる者を励ましているのです。  2章18節には、召し使いたちに向けて語っていますが、召し使いたちは「無慈悲な主人」に仕えて苦しんでいたのです。主人が、冷酷で不当な労働を強いるので、召し使いが苦しんでいたことが分かります。苦しみと言うと、相手から苦しみを受ける、受動的なものだと考えます。

 「善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」この言葉は、考えさせられる言葉です。悪を行って苦しむ、それは悪を行えば、苦しむことはなくなると思って、悪を行うのですが、そうではないのです。自分の利益のために、悪を行うことがあるのです。この商品を持てば得になると考えて、盗みを働いて自分のものにする、しかし、自分が予想しているよりも辛いことが起きるのです。盗んで、自分のものになり、得をしたように思うのですが、自分がしたことが善くないことであることを自覚して、気が咎めることがあります。相手に悪態をつく、その時は気持ちがよいかも知れないけれども、後になって、相手に悪いことをした、と良心の呵責を覚えるのです。

 それに比べて、「善を行って苦しむ」と言うことが語られています。「善」という言葉、あるいは「善いこと」と言う言葉は、アガソスというギリシャ語です。自分が考えて善いこと、という意味でないのです。自分が善いと思うことを相手にする、そのように考えますが、神にとって善いこと、それは、愛することなのです。隣人を心から愛することなのです。相手のために積極的に善を行うのです。

 私たちが信じる神は、私たちのために、善を行って苦しむ神なのです。旧約聖書に登場する主なる神は、天地を創造し、私たち人間を創造されました。私たちの存在を創造するだけではなくて、私たちを見守り、私たちを配慮するのです。 母親が、生まれたばかりの赤ちゃんを、養い、育てる、そしてあらゆるものを用いて我が子の命を守るように、神は私たちを養い、育て、守るのです。

 旧約聖書には、主なる神とイスラエルの民との関係が記されています。主なる神とイスラエルの民との間に契約を結び、互いに良い関係をもって歩むことにしたのですが、イスラエルの民は、神の言葉に応えず、神を無視して生きているのです。主なる神を礼拝せず、偶像を拝み、隣人を愛することのない生活をしているのです。それでも神はイスラエルの民を見捨てることなく、深く関わるのです。 神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を解放し、パレスチナへの旅を共にしていく中で、イスラエルの民は、不信仰に陥りました。イスラエルの民は、砂漠を歩いて、食べるものや、飲むものがないと不平不満を言うのです。わがままばかり言うイスラエルの民の有様に、神は、「いい加減にしろ、私は知らない」と言うことはないのです。神は、天から見下ろして、この民はもうダメだ、放置しておこうとは言わないのです。このイスラエルの民のために、神は、苦しむのです。イスラエルが、神の民となるように、願いながら、終わりまでとことんつき合うのです。

 主なる神は、積極的にイスラエルと関わるのです。神はイスラエルの民に積極的に関わり、神は苦しむのです。神が最も積極的に、私たちのために私たちと関わり、苦しんだのは、主イエス・キリストの十字架の死であったのです。

 ペトロの手紙一3章18節には「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者のために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」この言葉は、この当時の教会の信仰告白の言葉です。神は、いやいや苦しんだのではないのです。積極的に苦しむことを選んだのです。私たちの罪を解決しようとして、イエス・キリストを派遣し、私たちの身代わりとして、イエス・キリストが苦しみ、死んだのです。

 聖書は、私たちの根本的な問題が、私たち人間に罪があることだと言うのです。意地悪をしたり、人を侮辱したり、人の物を盗んだり、その根底にあるのは、私たちが罪に支配されているのです。この罪の問題を解決しようとして神は、イエス・キリストを派遣して、私たちの身代わりに、罪の罰を受けて死んで下さるのです。

 毎週、礼拝で使徒信条を告白していますが、その中で、「苦しみを受け」と言う言葉があります。キリスト教が、ヨーロッパの世界に伝えられて行くのですが、その時代のヨーロッパはラテン語を用いていました。「苦しみ」という言葉は、ラテン語で「パッスス」と言う言葉です。この言葉は自分に原因がなくて、他のことが原因で自分が体験するものを「パッスス」と言っていたのです。良いことを経験することを「良いパッスス」、悪いことを経験することを「悪いパッスス」と言い、実際に悪いことを経験することが多いので、「悪いパッスス」をただ「パッスス」と言うようになったのです。この使徒信条では「苦しみを受け」と告白していますが、イエス・キリストは、私たちと同じ人間として、苦しみを受けたのです。神は、私たちの罪を取り除くために、私たちと積極的に関わり、イエス・キリストを派遣して、イエス・キリストが私たちに代わって、十字架の苦しみを受けるのです。

 主なる神は、イスラエルの民のために、積極的に関わるのです。人と関わると面倒なことになります。相手がいけないことをしているのを止めさせようとすると面倒なことになります。ある日、地下鉄に乗車していたら、ある駅から、授業が終わって帰宅する学校の生徒が大勢、電車に乗り込んできました。話し声がとてもうるさいので「少し静かにしてください。」と言おうと思いましたが、生徒たちが、どのような反応をするのか、分からないので言わなかったことがあります。相手を叱り、忠告をしようとすると、自分に跳ね返って来ることがあるのです。

 旧約聖書には、神と結んだ契約をイスラエルの民が守らないので、預言者を召して、イスラエルの民のところに遣わして、神の審判を語り、しかも、神が深く愛していることを語らせるのです。神の審判を強調する預言者、ミカ、アモスと言う預言者がいます。「善を求めよ、悪を求めるな お前たちが生きることができるために。」(アモス5章14節A) そしてイスラエルの民の罪、背反にもかかわらず、神の尽きない愛を語る、ホセアと言う預言者がいます。「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア5章7節)

 積極的に、神が私たちに関わり、イエス・キリストによって御自分のいのちを捨てるほどまでに深く愛する、それが十字架の死なのです。このイエス・キリストの十字架の死によって、私たちが神に通じる道を開いてくださったのです。このように私たちのために苦しんでくださって、私たちが救われたのですから、私たちも、善を行って苦しむ者なのです。

 最近、アフガニスタンで、医療活動をし、水路を開発していた中村哲さんと作家の澤地久枝さんと2010年に対談している本を読み返しました。中村哲さんは、銃弾に倒れて亡くなりましたが、対談している本は「人は愛するに足り、真心は信じるに足る」という本です。1984年に、日本キリスト教海外医療協力会から派遣された中村医師は、アフガニスタンの国境・ペシャワールにハンセン病を治すために、医療活動をしていましたが、大干魃に見舞われたアフガニスタンに水路を開発するために、井戸を掘削する仕事を始めたのです。医療活動だけでは、アフガニスタンの生活を支えることはできない、食料を確保するために、農業を振興する、そのために、水が必要だ、と水を確保するために水路建設を始めたのです。7年かけて、全長25キロメートルの灌漑用水路を建設したのです。中村哲さんは、アフガンの現地に住む人々のために、苦しむこともいとわないで、食べて生きていくことができるように、愛の行いをしてきたのです。

 私たちは、中村哲さんのような大きな事業はできませんが、隣人のために苦しむことができるのです。隣人のために苦しむ、それは隣人を深く愛することなのです。

 ペトロの手紙一 2章20節B−21節を朗読します。「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」

20221030  主日礼拝説教  幸せな日々を過ごすために  山ノ下恭二牧師
(詩編34編12−23節、ペトロの手紙一 3章8−16節)


 キリスト教会の牧師をしていますと、礼拝や教会の集会で話す機会が多く、様々な人の話を聞き、話すことが多いので、どのような言葉で語り、伝えていくのか、そのことを考えることが多いのです。私が、神学大学を卒業する時に、一人の教師が、赴任した教会で失敗した話をしてくれました。その教師が青森の教会に赴任して、ある時、礼拝が終わった後に、ひとりの婦人が教師のところに来てこう言ったそうです。「今日の説教は、おまわりさんの話だったんですか。先生が『けいじ』という言葉を説教でよく使うので、そう思ったのです。」そこでこの教師は、「けいじ」と言ったのは、警察の刑事のことではなくて、カ−ル・バルトと言う神学者が「神の啓示」ということを強調し、感動したので説教の中で「啓示」と言う言葉を使った、と答えたそうです。この教師の言葉は婦人に正しく伝わらなかったので、この時の説教は失敗したと思ったと話してくれました。その教師は、一般には「けいじ」と言う言葉を聞くと、警察の刑事のことを言い、日本語には同音異語があるので、教会の説教をするときには、聞き手に理解でき、誤解を招くことのない言葉で語るようにと話されたのです。また説教で聞き慣れない専門用語などは、使わないようにとも教えられました。

 聖書の言葉には、話すこと、語ることについての戒めが多く語られています。私たちは、毎日、相手に話をし、相手の話を聞いているのです。互いに想いが伝わり、互いに心が通い合う会話をしたいと思っています。話すことによって、心の重荷が軽くなるような話をしたいと思います。しかし、それがうまく行かないのです。うまく相手に伝わらないし、相手の話を十分、聞いても理解できないのです。そのために相手との関係が悪くなった経験を多くの人がしているのです。そのような経験をしている人が多いので、「話し方」に関する本が、たくさん書かれているのです。

 「人は話し方が9割」という本が、よく売れて読まれているそうです。昨年の年間ランキング1位で、書店の店頭に多く並べられています。この本の最初に「初対面で何を話していいのかわからない」「すぐに話が途切れて会話が続かない」「何をどう相手に伝えたらいいのかわからない」「うまく話せず失敗した経験がある」「なぜだか分らないけど、相手を怒らせてしまった」「何を話せば盛り上がるのか分らない」「人とコミュニケーションを取るのが何となく苦手」「思っていることを正直に言えない」「沈黙の時間が怖い」こんな思いをもっている人に贈ります。」と書かれています。

 この本がよく読まれている背景には、自分が話をして相手にうまく通じなかった、相手の話で傷ついた、という経験をもっている人が多いからだと思います。自分が伝えたいことが、十分に伝わらない、聞いた相手が誤解して受け取り、困ったという経験をしています。そのような悩みを抱える人にとってどのように話せば、相手に通じて、よい関係を持てるようになるのかを分りやすく解説してくれるので、話し方の本は読まれるのです。

 私たちは、いつも言葉によってコミュニケーションを持っているのです。しかし、自分の話したいことが、相手に十分に理解されることはないのです。言い方によっては、誤解され、人間関係が悪くなるのです。何げなく話した一言が、失言となり、失脚する原因となるのです。その意味で、言葉と言うものは、恐ろしく、難しいものです。

 言い過ぎたなぁ、あるいはもっと言っとけば良かった、と思う時が多いのです。言い過ぎることなく、言い足りないのでもない、過不足なく話すことは難しいのです。私が神学大学を卒業する時に、ある教師が、牧師の心得を話してくれたことがあります。それは、言い過ぎてはいけない、言い足りないほうが良いと言われたのです。言い過ぎると、その言葉を取り消すことができない、言い足りないほうが良い、言い足りなければ、言葉を補うことができる、と言われたことをよく覚えています。相手が、自分の言葉をどのように聞いているのか、どのように理解しているのか、そのことをよく吟味して話しなさい、と教えられたのです。

 話して良い場所があります。ある野球の監督は、一人の選手に注意をする時は、他の選手たちがいるところではなくて、練習が終わった後に、他の人がいない場所で静かに注意する、という話をしていました。その選手がみんなの前で恥をかかないように配慮して、穏やかに話をするそうです。

 話すのにふさわしい時があります。忙しくしている時に、話しかけられると戸惑うことがあります。また相手が話題にしたくないことがあります。またこの人に話すことが良いことか、どうか、ということがあります。

 聞き手が話を誤解することがあります。日本語には同音異語があって、別の言葉を思い浮かべることがあります。相手の話を聞いている時に、どのような意味で話しているのか、分からないことがあります。意味が分からなかった時には、尋ねて確認すれば良いのですが、その機会を失うこともあり、分からないままで終わることがあります。自分がよく分かって話しているので、相手も分かっているだろうと思って話しても、相手は、その言葉を理解することができないこともあります。相手に自分の話が通じる、自分の話の真意が伝わることは、なかなか難しいことです。 

 ペトロの手紙一 3章10−12節の言葉は、旧約聖書の詩編34編13−15節から引用している言葉です。ペトロの手紙一 3章10−12節には「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」と語られています。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず」とあります。人との関係がいつもうまくいかない、いつもトラブルを抱えていると言うのは、幸せとは言えないのです。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい」、ここでの幸せとは、神に愛され、罪を赦された、その信仰を与えられた者を幸せと語っていますが、特に人間関係においてトラブルがなくて平穏に過ごすことができると言うことです。「舌を制して、悪を言わず」と言うのは、とても大切なことを語っています。舌を制する、と言うのは難しいのです。

 ヤコブの手紙3章8節で、「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」「舌を制御できる人は一人もいません。」言わなくても良い余計なことを言うことがあります。思ったことは何でも言ってしまうこともあります。舌を制御できる人はいないのです。

 相手のことを思って、黙っていたほうが良い時があります。沈黙を守ったほうが良い時があるのです。東大宮教会におりました時に、ある教会員が息子さんを亡くしたのですが、しばらくして、私にお願いしたいことがあるというのです。私をしばらくそっとしていてほしいの、と言いました。息子さんを亡くして、大丈夫かな、と心配して、その婦人と会うとつい「どうですか」と語りかけたくなるのですが、黙って見守ってほしい、と言われたのです。息子さんを亡くして、深い悲しみをもっていることを思ってしばらく話しかけないでいたことがあります。自分の子どもを亡くすことは、自分の未来を失うことであり、深い悲しみをもたらすことになります。

 「舌を制して、悪を言わず」「悪を言わず」という言葉をある翻訳では、「悪口」と訳しています。私たちは、悪口を言ったり、聞いたりするものです。悪口を言うことは良くないことですし、悪口を聞くことは、嫌な思いになります。

 最近のことですが、ある人から、私が知っている人の悪口を聞いたのです。私は、悪口を言われている人に何回か会っていて、特別に悪い人とは思っていなかったのですが、悪口を聞いて、そういう面があるのか、とその人への見方が変わってしまったのです。最近、あるところで、偶然にその人に会ったのです。何となく、相手に対して私の心の中にわだかまりがあり、色眼鏡で、その人を見てしまい、以前のように好意をもって話を聞き、話すことができない経験をしました。悪口を言うことは、人間関係を壊すことになると思いました。悪口は、事実だけではなくて、その人の解釈が入るので色づけされ、その人が悪い人であり、悪いことをしたかのように語り、そのように伝わるのです。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、」悪口、陰口、根拠のない噂話を避けなさい、と語るのです。

 聖書は言葉について大切なことを語っています。聖書は、言葉はどこから生まれるのか、を語ります。旧約聖書の創世記の初めには、天地の創造について語られています。神が、最初に語られた言葉は、創世記1章3節の言葉です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」「神が言われた。」と言う「言われた」と言う言葉は、ヘブライ語で「ダーバール」という言葉です。このヘブライ語は「出来事」となる、と言う意味です。神が光あれ、と語られると、光が創造されるのです。神が語られると、出来事として起こり、出来事となるのです。言葉が言葉だけで終わるのではなく、実際に出来事が起こるのです。

 ヨハネによる福音書1章1節では「初めに言があった。」神は永遠の昔から、私たちを愛することを決意されていることを語ります。私たちを愛する決意をされただけではなくて、愛を実現されるのです。言葉だけで終わるのではなくて、出来事を起こすのです。神は、考えているのではなくて、行動するのです。

 好きな人ができれば、相手に会いたい、相手にプレゼントをあげたいと思います。神から離れた生活をしている、神に心を向けて過ごしていない私たちのために、自分のことだけを考えて生活をしている私たちのために、神は御自分の外に出て、肉体を取ってイエス・キリストという人間となり、私たちの一切の罪を担って、神の罰(審判)を引き受けて、私たちの代わりに死んでくださるのです。

 人の悪口を言い、相手を侮辱する、そのような罪を犯しているにもかかわらず、私たちを正しい者とするために、その裁きを引き受けて、自らを罪の罰を受けて死んでくださる、そのような言葉を、聖書は語っているのです。神は、神ご自身の身分を棄てて、人間になられる、並々ならぬ思いをもって、私たちを愛そうとされ、実際に愛したのです。

 人と関わるとことは、面倒なことが起こります。関わらないほうが、気楽です。しかし、相手のことを思うと言わざるを得ない時があります。その言葉がその人への非難の言葉となり、注意の言葉となり、忠告の言葉となります。相手が悪いことをしているならば、正さないといけないことがあるのです。苦言を言い、相手を批判し、忠告することは、嫌ですし、聞く人も嫌でしょう。しかし、それは後から考えると、注意されて良かった、自分への愛から出ていると思って、言われて良かったということがあります。

 自分に向けられた言葉が、とても印象深く、ぐっと心に迫って、忘れられない言葉となることがあります。ある時は、それが励ましの言葉、慰めの言葉になりますし、その時は叱られた思いになるけれども、それが、自分の在り方を見直す、忘れられない言葉となるのです。新聞に「一語一会」というコラムがあり、名の知れた人が、自分が言われて印象に残り、忘れられない言葉が掲載されています。「仮面ライダー」を書いたある漫画家が、師匠の石森章太郎からの言葉を紹介しています。「下手なんだから、人の3倍描け」。この漫画家は石森章太郎から「下手だ」「へぼだ」と言われていたそうです。「石森から『量を書くことでしか質は向上しない』と励まされ、座右の銘にしている」と書いてありました。

 「下手なんだから、人の3倍描け。」この言葉を聞くと、自分を非難しているような印象を受けますが、石森章太郎の言葉は、この漫画家のことを思って、語った言葉であったのです。良い関係を持っていたので、この言葉を肯定的に受け止めることができたのです。石森章太郎は、この漫画家に愛情を注いで、かわいがっていたので、この漫画家は、自分を励ます言葉として素直に受け取ることができたのです。関係が、悪かったら、この言葉に対してこの漫画家は、反発することになったと思います。

 「ぐりとぐら」などを出している福音館書店の元社長の松居直氏が、幼い時にお母さんが子どもを膝にのせて絵本をたくさん読むことを勧めています。絵本を聞かせて、心が躍るような、楽しい経験をすることが、子どものこころを育むのです。絵本を読んで子どもに聞かせることによって、子どもの心が豊かになり、良い言葉を獲得するのです。

 私たちの言葉がどこから来るのか、それは神が愛をもって語りかけることから来るのです。隣人に愛の言葉を語ることができるのは、神の言葉を聞き続けることによってできるのです。聖書の言葉を聞き続けることによって、私たちの言葉が変わってくるのです。聖書を読むことによって、聖霊が私たちにキリストの愛を教えるのです。隣人を愛することによって、悪口や陰口、根拠のない噂話は、無くなっていくのです。相手に自分の想いや考えが伝わるように話し方を工夫することは大切です。しかし、根本的には、神の愛を信じて、相手を愛することの中で、言葉を語ることが大切なのです。

 私たちは、相手が今、何を考え、何を思っているのか、分からないのです。相手の想いや考えを把握することはできません。相手がどのような悩みをもっているのか、何を考えているのか、分かりません。自分が言いたいことを言うので、つい余計なことを言ったり、相手の痛みに触れるようなことを言ったり、不用意なことを言って反感を持たれることがあるのです。

 しかし、聖霊を求めて祈る時に、その時にふさわしい、相手に通じる言葉が与えられるのです。神は、聖霊によってその時に語る、ふさわしい言葉を私たちに与えて下さるのです。そのことを信頼して語るならば、相手に愛の言葉を語り、相手を慰め、励ますことができるのです。

20221023  召天者記念礼拝説教  死を見ることのない歩みを  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書40章29−31節、ヨハネによる福音書8章48−59節)


 本日の礼拝は、牛込払方町教会の牧師、教会員、教会関係者、で逝去された方を覚えて、礼拝を守っています。昨年の10月24日の召天者記念礼拝から本日までに、教会員で逝去された方は、武田幸子さんです。今年の1月20日に逝去され、1月27日にこの礼拝堂で葬儀が行われました。

 私は牧師として、葬儀の司式をするたびに思うことは、私たちの地上の生涯には終わりがあると言うことです。死をもって私たちの地上の生涯は終わるのです。しかし、それだけを思うのではありません。教会での葬儀は、キリスト者であった方の葬儀が多いのですが、地上で生きていく、その限られた時間の中で、逝去された方が、ほんとうに良い人生を歩んだと思うことも多いのです。その方が、神と共に歩んだということなのです。私たちの人生には、様々なことを経験します。困難に直面して、苦労することも多いのです。その中で、神がいつも自分を深く愛している、そのことを信じて歩むことができたことは、とても幸いなことなのです。

 昔は、60歳代で亡くなる方が多かったのですが、今は、平均寿命が延びて、90歳代で亡くなることも珍しくないのです。10月8日の新聞の夕刊には、「惜別」という欄で、この社会で活躍した名の知れた人が逝去して、短く紹介があり、その死亡年齢が書かれていました。三人とも長命です。93歳、91歳、88歳でした。私たちは、病気などで苦しむことなく、元気で長生きしたい、と願っているのです。最近、私は、和田秀樹という精神科医が書いた「60代と70代 心と体の整え方」という本を読んでいます。この人は、この頃、よく本を出していて、最近、「80歳の壁」と言う本を出しました。60歳、70歳を乗り越えて、80歳の壁を突き崩して、元気に過ごしていくことは、大変です。そして90歳の壁を乗り越えて、できるだけ元気に長生きして過ごしたい、と願っているのです。

 しかし、現在、元気であっても、いつかは死ぬのです。死を避けることはできません。旧約聖書にコヘレトの言葉と言う文学があります。長く人生を経験して年を取った人が若者に教訓を語る文学です。コヘレトの言葉の作者は、自分に死が近づいていることを予感して、若者に語っているのです。コヘレトの言葉9章5節には「生きているものは、知っている 自分はやがて死ぬ、ということを。」とあります。コヘレトの言葉は、自分が死ぬことをよく自覚して、若いうちに、自分の造り主を心に留めるように、と語っているのです。私たちの地上で生きている時間は限られているのです。このコヘレトの言葉は、自分が死ぬことを自覚して地上で与えられた時間を、意味ある時間として精一杯生きることを勧めているのです。人生の終わりに、自分の人生を振り返って、自分の人生は空しかったと思わないように、と語っています。この地上で生きる残りの時間は、余りないのです。100歳まで生きる保証はないのです。限られた時間の中で、意味のある生き方をするようにと教えているのです。

 私は、教会の葬儀の中で、説教を致します。逝去された方の生涯を振り返りながら、その生涯に神が光を当て、神が愛をもってその人生を守ってきたことを説教するのですが、キリスト者が、そのことを信じ、神という確かな拠り所をもって生きてきたことを思うのです。確かな拠り所とは、多くの人々が考えている拠り所ではありません。この地上で依り頼むものは、お金や財産、家族、プライド、学歴、知識、技能、経験などです。しかし、そのようなものは、失っていくものです。そのようなものは、死んでしまったら、何の意味もないのです。キリスト者は、滅んで無くなってしまうものに拠り所をおいて生きているのではないのです。キリスト者は、地上の生涯を終えても、神と言う確かに実在するものに根拠をおいて生きているのです。

 聖書には自分を励まし、慰める言葉がたくさんあり、皆さんが好きな言葉があります。葬儀の時に読んでほしいと多くの人々が希望している聖書の言葉は、詩編23編の言葉です。この詩編は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない。」と言う言葉から始まります。多くの人々が、この詩編が好きで、この詩編の言葉に安らぎを感じるのです。しかし、聖書には、すぐに分かり、安らぎを感じる言葉ばかりだけではなく、読んでも意味の分からない、難解な言葉も多くあるのです。

 本日、読みましたヨハネによる福音書8章48−59節は理解するのに難しい箇所なのです。このところは、主イエス・キリストとユダヤ人と激論しているところです。よく分からないのは、8章51節の言葉です。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」と言っています。「はっきり言っておく」という言葉は、「ア−メン、あなたがたに語る」と言う言葉です。主イエスが重要な時に「ア−メン」という言葉を使います。「ア−メン」と言う言葉は、「真実である」「依り頼む」という意味の言葉です。主イエスは、これから語る私の言葉を真実に、真剣に聞いて下さい、と前置きして「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」と語っているのです。

 この言葉は、謎のような言葉なのです。特に「その人は決して死ぬことはない。」と言う言葉を理解することが難しいのです。私たちの地上の命は死をもって終わります。命を失うのです。しかし、決して死ぬことはない、と言うのです。

 このギリシャ語の言葉を原文に沿って翻訳すると「死を見ることがない」と翻訳することができます。「見る」という言葉は、実際にこの「肉眼で見る」という言葉です。どのような人でもいつかは死ぬのです。自分自身が自分の死を経験する、自分の存在を失うのです。そのことに私たちは恐れを抱いているのです。 私たち人間は実際に死ぬのに、ここでは、決して死なない、決して死を見ることはない、と言っているのです。ここで、主イエスは、矛盾したことを言っており、謎のように思える、とても不思議な言葉を語っているのです。

 私たちは、命というのを、心臓が動いている「いのち」の意味で理解しています。聖書は、心臓が動いている、そのいのちと言う言葉を、ビオスと言う言葉で表現しています。ビオスと言う言葉は、現代では、バイオ、ビタミンと言う言葉の元々の言葉です。「生活」とも訳されています。今、生きているいのち、毎日の生活のことです。しかし、聖書では、ビオスという言葉をほとんど使っていないのです。聖書で「いのち」という言葉は、「ゾ−エ−」というギリシャ語なのです。この言葉は、関係、関わる時に用います。

 私たちは、いつも人と関わって生きています。今日も、出会った人に挨拶をし、話をしたと思います。そこで関係が生まれ、そこにコミュニケーションがあります。相手と気兼ねなく、何でも話せる関係を持っている、それは相手とつながっている、関係を持っているのです。仲良く付き合っている時、互いに関わっている時、それは、いのちがあるのです。しかし、仲良しであったけれども、ささいなことで、関係が悪くなって、道で会っても口も聞かない、という関係になることがあります。それは、関係がなくなり、つながっていないのですから、関係がない、いのちが通っていないのです。

 主イエスは、見失った羊の譬えを語られました。ルカによる福音書15章に書かれています。羊飼いが多くの羊を飼っていました。一匹の羊がいなくなりました。100匹の羊のうちの一匹ですから、一匹ぐらいいなくてもいいや、とは思わず、いなくなった羊を捜すのです。やっと捜し出して、羊を抱いて、羊の群れの中に連れ戻す、そして見つかったことを喜ぶ、そのような譬えです。この譬えのあとに、無くした銀貨の譬えを語っています。ある女性が、一枚の銀貨を無くしてしまった、家の中を捜し、やっと捜し出して、とても喜ぶ譬えです。この譬えを語った後に、主イエスは「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と語ります。

 私たちは、神から離れたところで過ごしています。神などいないと思ってこの地上で快適に便利に自分の思い通りになることを願って生きているのです。それが罪ということです。しかし、そのような生き方は、間違った生き方であり、神と共に生きることが、最も良い生き方であることを明らかにしようとして、その罪をなくし、神との交わり、関係を回復するために、神は、神の独り子を私たちに派遣したのです。

 神は私たちから遠いところにいるような気がします。しかし、神が私たちと良い関係を求めて、この地上にきてくださったのです。神は、御自分の外に出て、肉体をとって、イエスという人間になられた、私たちのところに来て下さった、神が私たちに近づき、私たちと同じ存在になってくださった。それは、神から遠く離れてしまった私たちを、神との交わりに引き戻すためです。私たちが、神を失って、自分のために生きている、その罪を赦すために、神は独り子を罪の贖いとして犠牲として献げたのです。そこに和解がもたらされました。これが神の愛です。神が私たちのための神となるために、主イエス・キリストとなり、そのキリストが聖霊によって今、私たちと共にいてくださるのです。この神の愛を信じる時に、神とつながっているのです。この「いのち」は神とつながっているいのちのことです。

 主イエスは、ラザロという青年が死んだ時に、マルタという姉妹に「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」と語っています。肉体の死を経験するけれども、神との関わりは断ち切られることはないのです。

 私たちは、自分の意思で生まれてきたのではありません。偶然、この時代に生まれてきて、ここにいるのではありません。神の深い計画の中で、私たちの命を創造し、生かしてくださるのです。死んだ後も、神の愛の中に生きるように意図されて生きているのです。使徒信条に「永遠の命を信じる」という言葉があります。永遠の命とは、この地上でいつまでも生きると言う意味ではなく、神が永遠な方であるので、この神とつながっているので、私たちは、永遠に生きるのです。この地上でのいのちは、死をもって終わります。しかし、神は、私たちの死んだ後も、神の時間をもち、私たちもその時間の中で生きるのです。私たちの地上の生活は誕生と死の間で閉じるのです。自分の力で、死の壁を突き破って、死の彼方まで移動することはできません。しかし、神は、私たちのいのちを創造し、私たちが死んでも、神が私たちと共にいてくださるのです。

 詩編139編は、神に知られている喜びが語られている詩編です。神は私たちすべてを知っていてくださる。そしてどのようなところにも神はいてくださると歌います。詩編139編8節「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。」(旧約p979)

 死の向こう、死の彼方まで、キリストが私たちと共におられるのです。死んだ後に、キリストがその場所におられるのですから、自分はどうなるのか、あれこれ心配する必要はないのです。死があることを自覚することは必要です。しかし、コヘレトの言葉のように死んでしまうのだから、今の時を楽しめば良い、というような快楽主義ではないのです。生きている時も死ぬ時もイエス・キリストが共にいてくださることを信じて、今、神に生かされていることを感謝して今を精一杯、生きることなのです。私たちは、死で終わるのではないのです。死の彼方、死の向こう側にも神がおられて、神が愛をもって、私たちと共にいてくださるのです。恐れることはないのです。

 キリスト教会は、祈った後、讃美した後に「ア−メン」と言います。キリスト教会の2000年の歴史の中で、キリスト教会は「ア−メン」と告白してきました。

 「ア−メン」と言う言葉は、「真実」「信仰」と言う言葉ですが、「堅い」と言う意味があります。堅い、それは「岩」という言葉を連想します。しっかりした、どのようなことがあっても揺るぐことのない岩です。堅い岩である神に信頼する、それが信仰なのです。神の働きは目に見えないので、確かなものではないと思うかもしれませんが、信仰によってしっかりと把握できるものであり、父とキリストと聖霊によって神の働きを見ることができるのです。現在も、聖霊によって、イエス・キリストがおられ、そこに神がおられる、この三位一体の神が、私たちの死を乗り越えさせ、死の彼方にまで、愛をもって支配してくださっているのです。

 7月から木曜日の夜にズ−ムで、「キリスト教を学ぶ会」という集いを始めて、日本のキリスト教会の歴史を学んでいます。最初に日本にキリスト教の福音を伝えたのは、カトリック教会のイエズス会の修道士・フランシスコ・ザビエルという人です。インドのゴアを拠点として、東南アジアに伝道をするために来たのです。ところがマラッカで、日本人のアンジロウという若者に出会い、アンジロウが優秀で、立派な人であったので、このような人が日本にたくさんいると考えて、東南アジアで伝道するという最初の目的を変更して、急遽、日本に行くことになったのです。ザビエルは、鹿児島に到着し、日本に初めてキリスト教の福音を伝えたのです。ザビエルは、日本のことも日本語も全く知らない中で、来たのです。日本で、自分は排斥され、殺される、死ぬかも知れないと思ったかもしれないのですが、そのことよりも、神から与えられた伝道の使命を果たすことを最も優先すべき、自分の使命として活動を始めているのです。自分が死ぬことなど、全く考えないで、伝道活動をしていたのです。ザビエルは、自分が長生きすることを目標にしてそのために生きていたわけではないのです。

 いつか自分は死ぬ、そのことを自覚していることは必要ですが、生きている時も、死ぬ時も、死んだ後も、キリストがしっかりと私たちを愛し、共にいてくださることを信頼して、死ぬことも忘れて、死を見ないで、今を精一杯、生きたいのです。皆さんが、キリストを信じる信仰を与えられて、死を見ることのない歩みをされることを望みます。

20221016  主日礼拝説教  互いに尊敬して生きよう  山ノ下恭二牧
(ホセア書2章16−22節、ペトロの手紙一 3章1−7節)


 私が東大宮教会におりました時に、ある時、ひとりの若者が教会を訪ねてきました。その若者は、牧師さんと自分と今付き合っている女性と3人で、教会で結婚式をしたいと言ったのです。私は、原則として教会関係者でないと結婚式をしないのだが、あなたが教会で結婚式をしたいならば、まず役員会において結婚式をすることを承認する必要があるし、教会の結婚式の中心は、神の前で二人が誓約することなので、日曜日の礼拝に出席することが必要であり、結婚生活のためのカウンセリングを受けてから日にちを決めて行うことになると言うと、この若者は、申し込めばすぐに結婚式ができると思ったけれども、そんな面倒なことをしなければならないならば止めます、と言って帰ったのです。

 この時に、私が思ったことは、結婚と言うことをこの若者は簡単に考えているのだなぁ、と言うことでした。そして結婚式をすることだけを考えるだけで、結婚した後にどのような結婚生活を送ればよいのか、ということをよく考えないで、結婚生活を始める人が多いのではないかと思ったのです。

 結婚生活を続けて行くことは、困難と苦労があるのです。それまで、二人は異なった環境で生活し、家族関係も育ち方も異なり、男性、女性と言う性も違っている中で、結婚して一緒に暮らすことになるのですから、結婚生活を始める前に、結婚生活についてカウンセリングを受けて、結婚生活についての心構えをすることは必要なことなのです。
 
 ある人が結婚式を教会でしたいと、教会の牧師に申し出たそうです。「自分たちは結婚したいので、式をお願いします」と言ったところ、その牧師は、「何のために結婚するのですか。」と質問したと言うのです。すぐに「いいですよ」と引き受けてもらえるとばかり思っていたので、予想もしていなかった質問に戸惑いながら正直に答えたと言うのです。「この人が好きですから。」と答えると「そうですか。嫌いになったらどうしますか。」と言う問いかけに、「嫌いになっても別れるようなことをしません」と言うと、牧師は「そんなことはないでしょう。好きで一緒になったのですから、嫌いになったら別れましょう、というのが自然じゃないですか。」と言ったそうです。この時は、結婚式を引き受けてもらえなかったそうです。

 結婚する時に、私たちは、必ず結婚生活に何かを期待しています。しかし、そのような期待は、しばしば実現しないことが多いのです。結婚する時に抱いている夢や期待が、その通り実現する保証はないのです。「何のために結婚するのですか」と言う問いかけは、様々な困難があっても、揺るぐことのない結婚生活をどのように造り上げるのか、ということであり、先ほどの牧師は、良い結婚生活を続けるための問いかけであったのです。結婚するまで互いに異なるところで生活をしていたので、結婚して何事もうまくいくということはないのです。互いに生き方が異なり、趣味や食べ物の好みも違うのです。従って、結婚する前に互いに理解し、新しい生活に入るのですから、生き方を切り替えることが必要なのです。
 
 10月10日(月)に、ある教会で行われた結婚式に出席しました。結婚した二人とも、牧師を目指しているのですが、結婚式の説教で、二人が結婚のためのカウンセリングを受けて来たことを知りました。互いに良いところ、嫌いなところを出し合ってよく話し合ったようです。二人がキリスト者とあると言っても、それぞれの家族関係や育ちや性別の違いがあるので、結婚する前に、調整することは、とても大切なことです。この結婚式に出席して、私は改めて結婚することの意味を考えたのです。

 ペトロの手紙一 3章1−7節は、結婚をしている妻と夫に対して、ペトロが勧めているところです。順序から言うと、夫、そして妻ということになるのですが、ここでは、妻が先で、夫がその後に続くのです。これは、この当時の教会の状況が反映されているのです。この当時の教会には、異邦人で未信者の夫と結婚している女性が多かったのです。異邦人で未信者の夫を持っている女性は、教会生活を続けていくことに苦労をしていたのです。そのことを覚えて、ペトロは、夫婦が気持ちよく結婚生活ができ、教会生活が継続できるように、詳しく勧めているのです。7節で夫に対して短く勧めているのは、キリスト者の妻と結婚している男性が多かったので、要点だけを語っているのです。日本の教会でも、未信者の夫と結婚している女性が多いのです。未信者の夫と結婚している女性は、苦労が多いのです。苦労しながら教会生活をしている女性を励ます必要があるのです。

 3章1節には「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」と書かれています。「同じように」と言うのは、2章の後半では、召し使いに対する勧めが書いてありますので、召し使いと同じようにと言うことです。召し使いが主人に従うように、妻が夫に従えと言っているのかと思い、妻は夫の奴隷ではないし、所有物ではない、と思うのです。口語訳は「夫に仕えなさい」と翻訳しているので、この戒めは古い、封建時代の勧めではないかと思うのです。現代の人々は、男女ともに平等であると考えているので、「自分の夫に従いなさい」と言う戒めは、現代に合わない古い戒めであると思うのです。

 ここでは、神を畏れて生活することを前提にして、夫にどのように関わっていくのかを語るのです。未信者の夫であっても、自分の夫なので、夫に従うことを勧めているのです。召し使い、奴隷のように、何でも言うことを聞いていく、と言うのではなく、神に従うと言う同じ心をもって夫に従っていくのです。別の言葉で言い換えると、それは「夫を愛しなさい」と言っているのです。「愛」が家庭の中心になるのです。

 キリスト教信仰と言う共通の基盤をもって、家庭が運営されれば、夫婦の生活は安定するのですが、妻は、キリスト者で、夫が未信者であると、信仰と言う共通の基盤、共通の価値観を持たないで共に生活をしていくので、互いに意識のずれや、対立、食い違い、葛藤などが起こるのです。妻は、日曜日に礼拝に出席することが自分には重要であり、礼拝を休むことはできないと考えているのですが、夫にとっては、日曜日に礼拝に行くことに反対はしないが、日曜日に妻が家にいないことはさびしい思いをするのです。時には、日曜日には家族揃ってお昼の食事をしたいと思っていますが、妻が教会に行っているので、実現しないのです。妻が教会に行くことを認めて、尊重しているけれども、何となくもやもやした思いでいるのです。夫は、自分のことを放っておいて、妻を教会が奪っているような気持ちになるのです。未信者の夫と良い関係をもって夫婦の生活をし、妻が教会生活を続けて行くことには、苦労があるのです。

 ペトロの手紙一3章1節後半から2節には「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」キリスト者の妻と未信者の夫とのあいだには、互いに苦労があるのです。「妻の無言の行いによって」と書かれているのは、意味があるのです。口から出る言葉によってではなく、妻の行為が妻の言葉を物語ると言うのです。キリスト者の妻は、教会で説教を聞いていて、聖書の知識があります。礼拝から家に帰って、聖書の話を夫にしたい、と思って話そうとすると夫は、「私に説教をするのか、いいかげんにしろ」と言うのです。

 「妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。」とあります。自分が教会に通うことができる手段として夫を立て、そして、目に見えるところで、良い行いをするということではなく、神を畏れて、一人の隣人である夫を愛することによって、夫が救われるように、と語るのです。妻が先に信仰を与えられ、妻が無言で夫を愛することによって、夫が洗礼に導かれるケ−スが多くあるのです。夫がすぐに洗礼を受けるケ−スがあり、また夫が晩年に洗礼を申し出るケ−スがあります。この夫がキリストの救いを与えられることが、私たちの願いなのです。逆に、自分はキリスト者で未信者の妻を持つ夫も、妻がキリストの救いを与えられるように祈り、妻を心から愛する生活をすることによって、やがては、妻がキリストの救いを与えられることがあるのです。

 2節に「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」と語られています。毎日、妻の生き方、言動を夫は見ているので、見ている夫が、妻に対して、外見を飾るのではなく、内面的な美しさをもって過ごすことを勧めているのです。宝石や衣服で外見を飾るのではなく、キリスト者らしい品性をもって過ごすことが大切であるのです。どんなに綺麗に飾っても、相手に対する態度や振る舞い、言葉が、良くない時には、妻に対する評価が悪くなるのです。

 キリストによって罪が赦された喜びと、隣人を愛する優しさを身につけていれば、家族の者は、キリストを信じていることの素晴らしさを経験することができるのです。

 5節には「神に望みを託した聖なる婦人たち」とあります。神を仰ぎ望んでいた婦人たちの例として、アブラハムの妻サラが登場するのです。「たとえば、サラは、アブラハムを主人と呼んで、神に服従しました。」とあるのです。

 私は、サラがここに出てくるのが不思議でした。旧約聖書の創世記のアブラハム物語では、サラに子どもが産まれることを知らせた神の御使いの前で、サラは笑ったのです。高齢の私が子どもを産むことなどあり得ない、と笑ったのです。この時の印象が強いので、私は、神の言葉を聞いてそんなことはないと笑ったサラがどうして女性の鏡になるのか、と思ったのです。しかし、サラは、神の言葉を聞いて、主を畏れることを覚えたのです。神に望みを託すことを知ったのです。なぜ、ここにサラが登場するのか、不思議でしたが、サラは、神が不可能を可能とされる方であると信じたのです。未信者の夫、未信者の妻が、キリストの救いを与えられることは、不可能であると、現実にはあり得ないと思うかも知れないけれども、神に望みを託して信じたサラのように、夫が洗礼を受けて信仰を与えられることを望みつつ、夫に従うことを勧めているのです。未信者の夫、未信者の妻がキリストの救いを与えられるように祈り、神がそのようにしてくださることを信じて、夫婦の生活を続けて行くように勧めています。

 3章7節には、夫への勧めが書かれています。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」この言葉の中で、大切な言葉は「生活を共にする」と言うことです。結婚することは「共に生活をする」「共に暮らす」ことです。結婚式を申し込んだ人に対して、ある牧師は「何のために結婚するのか」と結婚の目的を聞いたのですが、結婚の目的は、「共に生きるため」なのです。夫と妻が共に生きるためなのです。

 ある作家が随想に書いていたことですが、この作家は妻を亡くしてしまい、妻の葬儀が終わって何日か経過したある日に、妻が亡くなったことを忘れて、家のどこかにいるのだろうと思って妻の名前を何度も呼んでも返事がない、それで気づいたのです。ああ、そうか、君はもういないのか、と思ってとても寂しくなったと書いてありました。このような時に、妻がいてくれれば良い、と思うのです。夫と妻とが共に生きて行く、それだけで良いのです。共に生活をする、そこには、苦労があり、また喜びや楽しさがあります。妻がいてくれるだけで良い、夫が自分のそばにいてくれれば良い、のです。

 夫に対して「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし」とあります。肉体的にも、精神的にも、社会的にも、女性のほうが弱いのです。男と女は平等であると思っている人も多いのですが、実際には、男性が主導権を持ち、男性優位であることに変わりはないのです。口語訳では「女が自分よりも弱い器であることを認めて」と翻訳されています。岩波訳では「妻たる人がより弱い器であることを弁えて」と翻訳されています。「器」と言うのは、落としてしまうとすぐに壊れてしまう、はかないものと言う意味があります。妻が弱い器であることを自覚して、妻に対して深い愛と同情をもって接する、その立場を守ることを勧めています。

 7節後半に「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」と言う言葉があります。「命の恵みを共に受け継ぐ者として」この「命」とは、神から与えられた命であり、神とつながっている命です。イエス・キリストの十字架によって、罪が赦されている、この愛によって生かされている、その恵みを与えられているのです。相手がキリストに愛された存在であり、尊い存在であることを信頼するところに、尊敬が生まれるのです。

 神の前で誓約して結婚することが一番なのです。長い間、結婚生活を続けていくことは、容易なことではないのです。好きだったところが嫌いになったり、会話がなくなったり、子育てについて意見が異なったり、相手のお金の使い方が不満であったりするのです。小さいことであると思っていても、それが揉める原因になることがあります。しかし、神を畏れて、相手を尊敬することが大切なのです。相手を、神が贈り物としてくださった大切な宝物であると、相手を尊敬することが大切なのです。

 7節の後半で「そうすれば、あなたがたの祈りが妨げることはありません」と語っています。神を畏れて、二人の家庭に祈りがあるならば、聖書の言葉に聞いていくならば、必ず、幸いな結婚生活を送ることができるのです。

20221009  神学校日礼拝説教  一つの体に多くの部分  説教奉仕者:矢島若葉神学生(東神大4年生)


<教会に留まる話ではない>
 「あなた方一人一人に言います。」今日の説教は神様が使徒パウロを通してローマ教会に伝え、聖書を通して、私たち一人ひとりに語りかけている聖書箇所であり、教会生活について書かれています。そして、教会に生きるキリスト者がどのように生きて、どのように生活をすればよいか、その勧めが語られています。しかしこの勧めは教会の内部だけではなく、教会の外に出ていく時にも勧められている言葉であります。6節からはそれぞれが異なる賜物を持っていることが書かれた後、 教会の勧めが書かれており、9節10節と先を読み進めていくと、教会の内部の話からより広い範囲、私達が日常生活を送っている範囲における勧めが書かれています。キリスト者の生活は教会の中に留まるものではないと語られているのです。そして、恵みの賜物はキリストの共同体の内部であろうと外部であろうと働かれています。

 教会では様々な働きがあります。ここでは預言、奉仕、勧め、寄、指導、慈善、愛などが書かれています。現代の私たちも同じように受付や清掃、奏楽、お祈り、献金など様々な奉仕の務めがあり、働きがあります。教会に集まっている人の数ほど、働きがあり、異なる多くの部分から成り立ち、キリストによって形作られているのです。キリストによる一致は、そこにいる全ての人が同じように働き、同じような働きが求められている、ということは語られてはいません。パウロはむしろ、一人ひとりのあり方を認めるだけでなく、それを強調しているのです。一人ひとりの多様さは神様の「恵みそのもの」の多面的であり、計り知れない豊かさに基づくものなのであります。そして計り知れない恵みによって、賜物は教会でなされる具体的な奉仕だけではなく、語る言葉であったり、行動であったり、その人の性格であったり、様々な現れ方をします。

<みんな賜物を与えられている>
 「隣の芝生は青く見える」という言葉がありますが、実によくできた言葉であります。私たちは自分の持つものより他の人が持つものの方がよく見えてしまうものです。子供の頃クリスマスプレゼントをもらい、開けた瞬間、物凄く喜んだことを覚えています。しかし、リビングで居合わせた兄のプレゼントを見た時、あれだけ喜んで受け取ったプレゼントよりも兄が貰ったプレゼントの方が輝いて見えてしまいました。私もまだまだ幼かったので、「いいなあ、いいなあ」とずっと言っていました。今思えば、後ろから見ていた親から少しガッカリしたような、寂しそうな雰囲気が出ていたような気がします。

 神様から与えられた賜物も、それが充分なものであると分っていたとしても自分が持つものより輝いて見えてしまう時があります。また、輝いて見える賜物を前に、「自分には賜物が与えられていない」と思ってしまう時もあります。しかし聖書には、すべての人に賜物が与えられているとはっきりと記されています。ある人には賜物があり、ある人は持たないということではないのです。私たちも例に漏れることなく、全ての人が何らかの賜物をもち、ただその賜物をキリストの栄光のために用いることが求められています。

<取るに足らない賜物は一つもない>
 先程も申し上げました様に、賜物は人の数ほどあります。人類約70億人。そんな数あるなら、「まぁいくつかはいらない賜物もあるかな」と、感じてしまいますが、取るに足らない・必要のない賜物は 一つもありません。なぜなら神様から与えられた恵みが「無駄」ということはないのです。キリストの共同体において無視されていい恵みの賜物は一つもないのです。また、「自分を過大に評価してはなりません」と書かれているように、神様から与えられた賜物を私たちが優劣をつけてはいけないのです。そして、賜物によって誰かを蹴落とすようなことがあってはならないのです。自分だけでなく他者を、キリストを生かすために賜物は用いることが求められているのです。

<一つの体に多くの部分>
 私たちには賜物が与えられており、必要のない賜物は一つもないことを聖書から確認してまいりました。では私たちが今、招かれているこの教会にこれらのことを当てはめて考えていきましょう。教会はキリストによって結ばれた私たちによって形作られています。細胞であり、内臓であり、手であり、足であります。そして、恵の賜物がそれぞれ異なる働きをするように、多種多様な人間の集まりであり、良くも悪くも複雑な人間関係が生じます。この人間同士の関係においては問題も争いもなく、和気藹々と過ごすことができるのは物凄く稀なことであります。教会であったとしても、例外ではありません。問題や争いがなく歩んできた教会はないのではないでしょうか。現にプロテスタント教会は「プロテスタント」という名前の通り「抗議する者達」、すなわち中世カトリック教会に対して「問題がある!」と抗議した者達の群れであります。同じキリストを見上げていたとしても、一人ひとりが神様を慕い求める者であるが故に、争いが起きてしまう時があります。ですがその時に私たちが改めて思い返さなくてはならないことは、皆が違っているということを認めること。それと同時に、皆が「主にあって一つである」ということを受け入れることであります。私たちが「特別な何かできるからキリストの体」なのではなく、また「自分は劣っているから体の一部ではない」というわけでもありません。神様は私たちの関係の中にも聖霊を働かされ、その恵みによってキリストの体の一部分として迎え入れてくださっているのです。

 人間である私たちの関係は、神様の憐れみがなければ破ればかりのものであります。何か企画を行うとき、グループが作られると「信頼関係を築いていこう!」という言葉をよく耳にします。みんなでよく話し合う。決められた約束を守るなど。このようなことを行っていけば、心地の良い関係を作り上げることはできると思います。しかし壊れることのない信頼は私たちの内からは生まれることはありません。主イエス・キリストの恵みにおいてのみ、「1つである」と信じた時、その時初めて破れの中にある、私たちの交わりに壊れることのない土台が生まれるのです。

<神の憐れみによって>
 神様は、私たちがキリストの体として生きていくことができるように、愛する独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。そして私たちの罪を贖うために、十字架の上で苦しまれ、死んでくださいました。これは疑いようのない神の憐れみです。この憐れみがなかったら、私たちは「キリストの体」となることはできないのです。

 また、この憐れみは全ての人に注がれています。そしてどんな時でも、「私についてきなさい。私に従って歩みなさい。」と主は招かれておられます。この計り知れない神様からの恵みと憐れみに感謝し、神の招きに応答してこれからも共に歩んで参りましょう。

【 お祈り】
 天の父なる神様、今日も新しい一日を与えてくださり感謝いたします。またこうして神様に名前を呼ばれ、教会に集まり礼拝を捧げられる恵みに感謝いたします。

 私たちは神様が与えてくださる恵みの賜物を「他の人より劣っている」と感じてしまうことがあったり、「私には賜物がない」と賜物そのそのものに気がつけない時があります。そんな時に、今日の聖書の御言葉を思い出し、再び神様を見上げることができる様に助けてください。「あなた方はキリストの体であり一人ひとりはその部分です」と聖書は語られ、キリストの体として招かれていますが、この言葉を信じる自信がなくなってしまう時があります。どうか、主よ。私たちを強めて、キリストの体であることを強く確信させてください。また、私たちは主イエス・キリストの憐れみと許しがなかったら破ればかりの者達であります。しかしそんな私たちの関係性の中にも聖霊が働かれ、豊かな交わりの時が持てていることに感謝します

 今、困難の中にいる人たちをお助けください。全ての出来事が神様の計画であることを私たちは知っていますが、与えられる試練に耐えられない時があります。そんな時こそ祈ることができますように。また、あらゆる苦難の中にいる人たちのために私たちが祈ることができるように力を与えてください。

 今体調が悪く、教会に集えない人がいます。どうかその人達の心と体に聖霊が注がれ、健康をお守りください。また周りで支えているご家族にもあなたの癒しが注がれますように。

 これからの一週間をみ言葉を携えて歩むことができることに感謝いたします。この祈りを教会の頭である主イエス・キリストの御名によってお祈りします。

 アーメン

20221002  主日礼拝説教  主イエス・キリストに学んでいく人生  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書42章1−4節、ペトロの手紙一 2章18−25節)


 池江璃花子という水泳の選手が、急逝リンパ性白血病で、入院し、治療を受けていましたが、その後、奇跡的に健康が回復し、昨年の東京オリンピックに出場したことを記憶している人も多いと思います。入院している間、彼女の心を支えた大切な言葉があるのです。その言葉によって、彼女の心が支えられ、生きる勇気が与えられ、病を乗り越えることができたのです。その言葉は、耐えられないような試練に遭わせることはない、と言う言葉です。

 私は、テレビで池江さんがこの言葉を紹介していた時に、この言葉が聖書の言葉であるとすぐに気づきました。この言葉は、新約聖書のコリントの信徒への手紙一 10章13節にあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をさえも備えていてくださいます。」

 オリンピックで金メダルを目指して、練習を重ねてきた池江さんにとって、自分が急逝リンパ性白血病と言う病気であることが分かった時に、自分は水泳ができなくなるのではないか、と生きる望みを失うような思いをもったと思います。そのような時に、耐えられないような試練に遭わせるようなことはない、と言う言葉を知って、治療を受けて、健康を回復したのです。

 この言葉は、多くの人々の心を支える言葉となっています。最近の新聞にも、辛い経験をしたひとりの女性が、この言葉で慰められた、と書いてありました。池江璃花子さんの心を支えた言葉が、聖書の言葉であることを、池江さんが知っていたか、どうか、分かりませんが、聖書を読んだことのない人が、聖書の言葉によって深く慰められることは良いことであると思います。

 私たちは、毎日、すべてがうまく行っているわけではありません。表面的には、悩みや苦しみをもっていないように見えても、他の人には言えない悩みや苦しみを持っているのです。私が、北九州の若松教会におりましたときに、大学の教師の会員がおり、自分の悩みを話してくれました。大学の同僚は自分がしようとすることを妨害して困っている、と話したのです。教授会で自分が発言すると必ず、反対意見を長々と話すのだそうです。相談に来た人は、悩みがないように見えましたが、悩みや苦しみを抱えていることを知りました。私たちは、悩みや苦しみを抱えながら、毎日を過ごしているのです。

 本日、読みましたペトロの手紙一 2章18−25節の表題には「召し使いたちへの勧め」とあります。「召し使い」と言う言葉は元々、「奴隷」と訳して良い言葉です。他の翻訳では「しもべ」「下僕」と訳されています。最近の聖書は「召し使い」と訳されています。この「召し使い」が教会員となって、教会に多くいたのです。

 「奴隷」と言うと、低い身分の者であると考えますが、かつては一般の市民でしたが、何らかの事情があって奴隷の身分となり、一つの家に仕えていたのです。仕事としては、職人、執事、家庭教師、医師、の仕事をしていました。

 召し使いにとって、仕事をする時に、自分の仕える主人がどのような人で、どのように自分を扱うのか、ということがとても大切なことであったのです。自分を大切に扱う主人がいたでしょうし、逆に自分をこき使い、虐待する主人もいたのです。

 この当時、召し使いたちは市民権を持っていませんでしたので、弱い立場にありました。主人の一存で自分の生活が決まるのですから、主人との関係に気をつかったのです。無理な要求をする主人や、自分ひとりではできない仕事を無理矢理するように命令する主人がいたのです。労働ははてしなく続き、時間の制約もなかったのです。現代のように、人間の生活を重んじる人権の思想もなく、労働者の権利を守る制度もなかったのです。長時間労働で仕事を続けることができない時に、労働基準局に行って訴えて相談することもできなかったのです。

 ペトロは、この召し使いたちに直接、会って話を聞いて召し使いの立場や思いを理解して、助言したわけではないのです。小アジア、今のトルコの広い地域に点在する、数個の教会にペトロは手紙を送っているので、召し使いたちのことをつぶさに知ってはいなかったのです。召し使いたちがどのような境遇に置かれていたのかを知ってはなかったのです。

 召し使いたちが、どのような思いで働いているのか、召し使いたちの現実を実際に見てはいませんが、召し使いたちの生きる姿に肉迫する想像力をもって、相手の悩みや苦しみを思いやって勧めの言葉を書いたのです。悩みや苦しみをもっている人を理解して、それらの人々の心を支える言葉を語りたいと願っていたのです。

 日本で「いのちの電話」を始めた人は、ドイツ人の宣教師であったヘットカンプという女性です。この方は、この社会の底辺で苦労して働いている女性と関わって、助けたいと思い、東京の歓楽街に出かけて、女性たちの話を直接、聞こうとしましたが、女性たちがなかなか心を開いて話してくれなかったのです。そこで、電話であれば、いつでもどこでも話すことができると考えて、「いのちの電話」を始めたのです。電話では自分の本音を話すことができるのです。ヘットカンプさんは、社会の底辺で苦しんでいる女性を助けたいと願って、相手にとって有益な方法を考えて実行をしたのです。

 ペトロは、直接、会って話を聞いたわけではないのですが、相手に対する想像力をもって、この人たちに語りかけているのです。この想像力は、相手を愛する想像力なのです。愛の想像力をもって、ペトロは、召使いたちに心のこもった助言をしています。

 「奴隷」と言う言葉を聞くと、私たちはアフリカからアメリカに連れて行かれて、奴隷として働かされて、辛い思いをし、いまだに人種差別を受けている人々のことを思い起こしますが、私たちも、自分が奴隷のようだ、と思うことがあるのです。会社で長時間、働かされて疲れている人、家庭と職場でたくさんの仕事を抱えている女性、そして、最近の生徒は息抜きができないほど時間に追われ、学校が終われば学習塾やお稽古などで休むひまもない生活をしているのです。

 2章18節に「無慈悲な主人」とありますので、召し使いの立場や思いを無視して、自分に不当な要求をする主人がいたことが分かります。

 私たちは、誰でも誇りをもっています。召し使いたちは、奴隷になる以前には市民権を持ち、一般の市民として暮らしていたのです。何らかの事情で、奴隷にならざるを得なかったのです。教養もあり学識もあるのです。主人は、市民権をもち、自由人であったのですが、召し使いよりも教養もない人もいたようです。召し使いたちはこのような人のために、どうして仕えなければならないのか、と思ったのです。この家から出て行きたい、と思うこともあったのです。

 このような実情に対して、ペトロは、「忍耐する」ことを勧めています。2章20節に「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」とあります。召し使いとして働いている中で、理不尽な要求を求められて、困っている召し使いたちに、ペトロは、「耐え忍ぶように」と勧めているのです。召し使いは、一所懸命に仕事をしているのに、そのことを主人が認めてくれない、という不満を抱えて、いつも心の中に葛藤を抱えている召使いたちに、「忍耐」するようにと助言をしています。

 私たちは、仕事を続けていく中で、大切なことは忍耐することだ、ということを聞きます。会社を辞めたいと言う後輩に、先輩は「とにかく我慢しろ」「みんな我慢してきたのだ」と言うのです。そして、会社を辞めてしまう若者を、仕事を続けるには「忍耐」が必要であるのに、「最近の若者は忍耐」しない、と言うのです。そうであっても、自分を困らせる、嫌な上司がいて、自分を困らせることに喜びを感じている人がいる、こんな上司の下で働きたくない、今の会社を辞めて、別の会社に転職しようか、と思うのです。

 これまで、主人と召し使いとの横の間の関係においてペトロは語ってきましたが、2章21節から、イエス・キリストに心を向けるように語るのです。召し使いとして働いていますが、この人々は、イエス・キリストを救い主として信じ、告白した、キリスト者であるのです。キリスト者は、イエス・キリストを仰ぎ見て生活する者なのです。イエス・キリストは、どのような生涯を送ったのでしょうか。  

 本日読みました、2章18−25節に多く語られている言葉があります。それは「苦しみ」と言う言葉です。召し使いたちは「不当な苦しみを受ける」(19節)、「善を行って苦しみを受け」(20節)とあります。これは、召し使いが経験している「苦しみ」です。そして、イエス・キリストは、あなたがたのために苦しんだと語っているのです。21節に「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」と語られています。主イエス・キリストの苦しみは、私たちのための苦しみであると語るのです。

 私たちのための苦しみとは、本来、私たちが受けなければならない苦しみなのです。私たちの罪は、余りにも重すぎて、自分の死によっても、その罪を償うことはできません。自分の死をもっても償うことはできないのです。神が私たちを愛するがゆえに、神がご自身の外に出て、肉体を取ってイエスという人間となり、私たちの代わりに、罪の罰を受けたのです。私たちに代わって、私たちの罪の審判を受けたのです。2章24節に「そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」と語られています。十字架刑は、ロ−マの処刑の方法で、長く苦しんで死ぬ、最も残酷な処刑方法であったのです。

 主イエス・キリストは、十字架の上で、苦しみながら死んでいったのです。それは「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」とあります。神に私たちの存在が肯定され、受け入れられているのです。「義によって生きる」神が私たちに償いを求めず、私たちの存在を無条件で受け入れてくださったのです。

 かつて、あるテレビドラマで、こういう場面がありました。一人の生徒が、同級生のワルからいじめられている、それを見た友人が、見ていられなくて、いじめられている友の前に立って、この友をいじめる代わりに、自分を殴っても良いと言って、友の代わりに周りの者から殴られる、そういう場面がありました。 

 イエス・キリストは私たちに代わって、罪の罰を受けて、十字架で死んでくださいました。それは私たちが、無傷で生きるためです。十字架によって、主イエスは傷ついた者となったのです。手に釘のあと、足にも釘のあとがあるのです。

 私たちは、自分に向けられた心ない言葉や自分の誇りを失わせるような、相手の態度に傷つくのです。しかし、主イエスはもっと傷ついているのです。

 神の子である誇りや尊厳を打ち砕くような扱いを受けたのです。私たちの身代わりとして、主イエスは、十字架の苦難を引き受けてくださったのです。人々に侮辱され、殴られ、十字架で死んでいくのです。ペトロは、それほどまでに、主イエス・キリストが私たちを愛していることを語ろうとしたのです。

 2章25節には「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督である方のところへ戻って来たのです。」羊というのは、目が悪くて、羊飼いの姿が見えないのです。羊飼いの声を聞いて、自分の羊飼いのあとについていくのです。しかし、羊が羊飼いから離れて、道に迷うことがあり、自分が帰るべきところが分からなくなり、さまようことがあるのです。

 私たちは、様々な悩みや苦しみを抱えています。自分が本来、帰るべきところが分からなくなり、さまようことがあるのです。しかし、神は私たちの魂を配慮してくださり、さまよっている私たちを神のもとに連れ戻してくださるのです。私たちを愛するイエス・キリストは、共に苦しんでくださり、私たちの「魂の牧者であり監督者である」のです。

 私たちは、私たちを深く愛しくださるイエス・キリストという良い羊飼いをもっているのです。良い羊飼いがおり、羊の群れである、この教会につながっていれば、私たちは恐れることはないのです。

20220925  主日礼拝説教  「旅人として立派に生きる」  山ノ下恭二牧
(イザヤ書30章15−17節、ペトロの手紙一 2章11−17節)


 9月19日(月)の夜、イギリスのエリザベス女王の国葬をテレビで見ることができました。この葬儀を視聴して、とても感動をしました。この葬儀では多くの讃美歌が歌われ、聖書の朗読があり、説教があり、多くの人々のとりなしの祈りがあり、最後にカンタベリー大司教の祝福がありました。何曲も讃美歌が歌われましたが、その中で、讃美歌21・120番の讃美歌が歌われました。この120番は、詩編23編の詩を歌っているのです。この讃美歌の1節は「主はわがかいぬし われはひつじ、みめぐみによりて すべて足れリ」と歌います。

 エリザベス女王の国葬を視聴して思ったことは、イギリスの歴史の中で、キリスト教の信仰が国民の中に深く定着し、違和感なく受け入れられて、その伝統の中で行われている葬儀であるということです。キリスト教の信仰が、イギリス国民の生活に受け継がれ、キリスト教の伝統の中で、葬儀が行われていることを改めて想いました。

 イギリスでは、町を歩けば、教会を見ることができますが、日本では、キリスト教会がどこにあるのか、捜さないと分からないのです。日本の社会では、キリスト者は少数であり、キリスト者として生きて行くことは、とても困難です。今日の礼拝に出席することは一つの戦いであるのです。多くの人々は、日曜日は休日と考えており、教会には行かないのです。皆さんの中に、家族の中で自分だけ教会に来た人もいると思います。なぜ、毎週、まじめに教会に行くのか、不思議に思う人々も多いのです。

 この礼拝で、ペトロの手紙一2章11−17節を読みましたが、本日は、11節、12節を中心に学びたいと思います。ペトロは「愛する人たち」と呼びかけています。ペトロは、教会の信徒たちに「神に愛されている者たち」と呼びかけているのです。あなたがたは、神に愛されているのだ、そのことを思い起こしてほしいと語っているのです。ペトロが書き送った教会の信徒たちが住んでいた地域には、キリスト者はほとんどいなかったのです。教会に行く人はほとんどいないのです。教会の信徒たちは、孤立していたのです。日本に住んでいる、私たちキリスト者のように、毎日、出会っている人々は、キリスト者ではなかったのです。「あなたがたに勧める」とありますが、この「勧める」という言葉は「慰める」という言葉です。こう生きなさいと強制しているような言い方ではなく、神に愛されている、キリストの愛に慰められて、歩むように次のことを勧める、と言うのです。

 11節には、「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」と語られています。教会の信徒たちは「旅人であり、仮住まいの身」なのだ、と言っているのです。現代の人々にとって、「旅人」という言葉は、とても印象の良い言葉です。「旅をする」それはとても楽しいものです。日常生活の煩わしさから離れて、旅をするのです。自分の知らない地域に行って、気分転換をするのです。ここで「いわば旅人であり、仮住まいの身」と言っているのは、楽しい旅をして、日常の生活に戻る、そのような意味で言っていないのです。北九州の若松教会におりました時に、ある婦人が、ヨーロッパに旅行に行き、帰国して旅行の報告をしてくれました。とても楽しかったと言っていましたが、旅行を終えて自宅に戻り、これから家族のために食事の用意をしなければならないことに気がついて、「ああ、また元に戻ってしまった」とため息をついたそうです。

 「いわば旅人であり、仮住まいの身」と言うのは、一時的に旅に出かけて、旅人になると言うのではなくて、私たちの毎日の生活が「旅人」の生活であるのです。「仮住まいの身」と言っています。今、住んでいる家は、自分が本来、住むべき家ではない、一時的に、仮に住んでいる家なのだと言うのです。

 聖書協会共同訳では「あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから」と訳されています。この地上の生活は、一時的に寄留しており、滞在しているのであって、本来、私たちが住むべきところ、生きるところは、ここにはない、と語っているのです。しかし、私たちは、そのようには思っていません。この地上での生活がすべてなのです。

 この地上の生活がすべてであると言っても、わたしたちにとって、すべてが快適で、すべてに満足しているわけではありません。現状は、住みにくい世の中になっていて、気候変動による温暖化で、夏は暑く、冬は寒くなり、体を壊して病気になることもあり、人との付き合いも煩わしく、そのためにストレスが多く、この地上で生きていくのは、とても面倒に思う時があるのです。どこか他のところに移住したいと思っている人も多いのです。アメリカでは、物価が高騰し、生活するのが大変なので、物価が安いメキシコに引っ越す人が多くなっているとのことです。

 聖書は私たちが「旅人であり、仮住まいの身」であると言います。それは、私たちが、この地上に生きる根拠を持たないと言うことなのです。ところが、私たちは、この地上に自分の生きる根拠をおいて困らない生活することを願っています。そのために、良い生活を目指して、良い学校に入り、安定した生活をするために、良い会社に入り、老後に困らない、資産形成をすることに目標を置くのです。勝ち組になるように努力するのです。しかし、聖書は、この地上で私たちは、旅人であり、仮住まいの身、寄留者であり、滞在者なのだと言うのです。

 私が、東京神学大学の学生の時に、二人の在日韓国人の神学生と親しくなりました。二人とも、戦前に父親が韓国から日本に移住して日本で生まれ、日本の学校で学んだ、在日二世です。この友人から聞いた話ですが、日本国籍をもっていないので、滞在許可証をいつも携帯していないといけないのです。この当時、反政府デモなどに参加してつかまると、滞在許可が取り消されると言っていました。その後、永住許可をもらったようですが、税金を納めても、選挙などの参政権は与えられないのです。日本で暮らしていながら、在日外国人として生活をしているのです。日本で生活をしながら、日本国籍を持つことなく、在日で暮らしているのです。

 私たちは、日本国籍を持っていますが、この日本に、私たちの生きる根拠を持っていないのです。いわば在日キリスト者なのです。この地上では、旅人であり、仮住まいの身なのです。寄留者であり、滞在者なのです。

 私たちが、旅人であるからと言って、遊びの気分で、その時を楽しく過ごして、また別のところに行って、旅を楽しむのではないのです。ふうてんの寅さんのように、いろいろなところに気楽に行って、出会いを楽しむというのではないのです。神から与えられた生活を真剣に生きて行くのです。

 11節後半に「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」と勧められています。ここには、禁欲することが勧められている、と理解する人もいるかもしれません。しかし、ここで禁欲を勧めているわけではありません。

 私たちは、天使ではありません。肉体を持って生きているのです。聖書では、「肉」と言う言葉は、罪と関係して語られている場合が多いので、「肉の欲」と言うと悪いことのように考えるのです。しかし、ここではそうではありません。

 私たちには、様々な肉の欲があります。3章で「妻と夫」について、結婚の生活について勧められているので、性欲とも関わるのです。性欲をここでは否定していません。性欲は、私たちが神さまから与えられた肉の欲であり、この欲を用いることは特別に悪いことではありません。

 「魂の戦いに挑む肉の欲を避けなさい」と語られています。「魂」と言う言葉があるので、分かりづらいのですが、この「魂」というのは、「神さまから与えられた正しい心」と言うことです。私たちは、神に向かって生きようとする心があるのです。しかし、「神さまから与えられた正しい心」に逆らって挑戦し、罪を犯すように誘うものがあるのです。「学習意欲がある」という時には、良い「肉の欲」なのです。聖書をよく読みたい、あるいは、自分の心を潤すような本を読みたい、そのような欲は良い「肉の欲」です。

 しかし、神に逆らうような「肉の欲」もあるのです。自分のことを中心に生きて行こうとする「肉の欲」があるのです。不正をしても、お金を儲けたい、他の人を出し抜いても自分が優位に立ちたい、そのような「肉の欲」があるのです。自分を満足させるような仕方で、肉の欲を用いる、と言うことです。お腹がすいて食物を摂ることは毎日、私たちが経験しているのです。食欲があり、食べることは、特別に悪いわけではありません。しかし、自分の食欲を満たすことだけを目的にするとおかしなことになります。行列のできる食堂、というのがあります。わたしも何度か、その食堂の前を通ったことがありますが、何時間も並んで待つのだから、おいしいのだろうとは思いますが、そこまでして食べることにこだわることに意味があるのだろうか、と思います。そして、食事やスイ−ツは、おいしいか、まずいか、というレベルで判断し、自分が満足するか、どうか、で食事をしているのです。食事をすることは、楽しいことですが、食べること自体が食事の目的ではなく、食事をすることは、私たちの健康を保ち、日々の活動を支えるためにあるのです。おいしいか、まずいか、で食べるというのは、自分の食欲を満たすことを目的にしているのです。

 私たちは、主の祈りにおいて「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈っています。この祈りは、パン屋に行って、パンをください、と祈っているのではなくて、食物を与えて下さるのは、主なる神であり、私たちのいのちを養っているのは、主なる神であることを告白しているのです。テレビ番組で、大食い競争をしている番組がありますが、どれだけたくさん食べられるか、と言う興味本位で行われており、神さまが与えて下さった食料を大切にし、必要なだけの食料を戴いて、食べることのできない人々を覚えて、分け与えるという意識は全くないのです。

 「魂」と言うのは、神に心を向けている正しい心です。神に従っている、神と正しい関係で生活する、その目的のために、私たちに与えられた肉の欲を用いるのです。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」別の訳は「魂に戦いを挑む肉の欲に支配されるな。」とあります。

 ガラテヤの信徒への手紙5章19−21節には、罪のリストが記されています。このリストには、神に逆らって肉の欲を用いることは、様々な悪徳を生み出すことを語っています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」

 しかし、私たちは、「霊によって歩む」のです。パウロは、神に心を向け、神に正しい関係をもって生きるために、聖霊を信じて歩むことを勧めているのです。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙5章16節で次のように語っています。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と語っています。「霊の導きに従って」ということは、神の御心に従って生きることなのです。

 私たちは、「旅人であり、仮住まいの身」「寄留者であり、滞在者」なのです。旅をしていると、自分が帰っていく家を忘れることがあるのです。

 私たちは、神のもとに帰って行く者なのです。日曜日ごとに、私たちは、教会に来て、礼拝に出席していることが、とても大きな意味があるのです。私たちが日曜日ごとに、礼拝に出席して説教を聞き、祈っている、それは、私たちが帰るべき、神のところに帰っていることになるのです。

 キリスト者でない人々が、キリスト者をどのように見ているのか、と言うことはとても重要なことです。周りの人々が私たちキリスト者の生活の様子を見ているのです。12節には「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」と語ります。

 「立派な」と言う元々のギリシャ語は「カロス」と言う言葉です。この「カロス」という言葉は「良い」「美しい」と訳されている言葉です。異教徒が、キリスト者の生活をよく見て、「良い」「美しい」と判断するのです。異教徒がキリスト者の生活をよく見て、高く評価する、そのような生活をすることを勧めているのです。周りにいる人々が、キリスト者と交際して、とても良い生き方をしている、この人が信じている神さまは、良い神さまだ、と思うような生き方をすることを勧めているのです。

 キリスト教の福音が、ロ−マに伝えられ、厳しい迫害に遭っても広まり、そして、ヨーロッパ諸国に福音が広がり、キリスト者が増えていったのは、社会の人々が受け入れられないような、反社会的な活動をしたのでもなく、奇妙な教えを説いたのではなく、礼拝を続けつつ、キリスト者たちが、その地域の人々を心から愛していく、そのような地道な活動によって、その時代の社会の人々に受け入れられたからです。

20220918  主日礼拝説教  「あわれみを受けたものとして」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書28章14−18節、ペトロの手紙一 2章1−10節)


 長く教会生活をしている人は、自分は教会のことは、よく知っていると思っているものです。私も両親に連れられて、幼い頃から教会に通い、現在までいくつも教会を経験していますから、教会のことはよく知っていると思っているところがあります。しかし、キリスト教の教えは分かっていても、教会となると分からないという人は少なくないのです。なぜなのか、と言うと、教会は、この世にある団体と似ているところがあるからです。この世には学校がありますし、趣味の会があります。会社があります。研究会があります。教会と似た団体があるので、教会独自の立場が見失われることがあるのです。教会学校は、教育機関の学校によく似ていますし、聖書を学ぶ会は、研究会に似ていますし、教会の掃除や奉仕などは、ボランティア活動に似ています。バザ−をすれば、教会は、営利団体であるかのように思うのです。
 
 ギリシャ語では、「教会」のことを「エクレシア」と言いますが、この言葉は実は、ギリシャの町の町民大会、集会を表す言葉なのです。長く教会生活をしている人は、自分はよく教会を知っていると思っていますが、教会のことを考えるならば、原点に戻って、聖書から学ぶ必要があるのです。

 本日の礼拝で、ペトロの手紙一2章1−10節を読みました。9節には「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」とあります。週報の表紙には、今年の年間主題が「キリストのからだとして教会」であると書いてあります。皆さんは、教会を「キリストのからだ」と呼んでいることを知っていると思います。教会は、キリストを頭として、からだの肢体としてわたしたちがおり、からだは生きていて、肢体がそれぞれ有機的につながり、補い合って、互いに支え合っていくものであることを表しているのです。

 新約聖書には、教会をあるものに例えている言葉がいくつもあるのです。教会を船に譬えています。海を航海する船です。出航し、次の港に着くまで、航海するのです。航海の途中で嵐や暴風雨に襲われることがあるけれども、神が導いてくださるので、沈没することなく、次の港に到着することができるのです。また教会を表す譬えとして「ぶどうの木と枝」の譬えがあります。キリストがぶどうの幹であり、わたしたちがキリストにつながっている枝なのです。キリストにつながっていることが重要なのです。「羊飼いと羊」の譬えがあります。羊は、羊飼いの声を聞いて従うのです。それぞれ、教会を表すものとして語られています。

 旧約聖書では、神が相手にしているのは、個人ではなく、イスラエルの民です。新約聖書では、新しいイスラエルとしての教会に語りかけています。神が民を招いて、集団、共同体を構成しているのです。キリスト教会は集団として、共同体として歩んできました。教会を集団として、共同体として、理解されてきたのですが、現代では、個人の自由を重んじ、個人の意志を尊重するので、教会という集団、共同体に帰属することを避ける傾向があります。最近の学生は、大学のクラブに属すると、自分がクラブで制約を受けるので入部することを避け、同好会のような縛られないサ−クルを好むのです。教会を一つの集団としてよりも、個人ひとりひとりが集まっているものとして考えているのです。現代に生きるわたしたちは、一人一人、個人として生活することを尊重しているので、教会を共同体として考えるよりも、一人一人がそれぞれ個人として集まっている団体、共同体と考える傾向があるのです。教会は一人という個人が集まっている集団と考えているのです。

 わたしたちは、小児洗礼を認めています。しかし、ある教派では小児洗礼を認めないのです。それは、嬰児が自分の意志で洗礼を受けないからです。その人が自分の意志と決断で洗礼を受けることを重んじるからです。それは、一人一人の個人が教会と言う集団に集まって教会を構成していると考えているのです。教会に集まっているのは、一人一人なのです。まず自分一人がいて人々が集まっている集団が教会であると考えるのです。聖書も読めず、自分の意志を表すことができない小児は、洗礼を受ける資格がないと考えているのです。しかし、わたしたちの教会は小児洗礼を授けています。それは教会が、一人一人がそれぞれ集まっている団体と考えているのではなくて、まず、集団として共同体として教会があるので、その小児が自分の意志で洗礼を受けることができなくても、教会の信仰によって、その幼児に洗礼をさずけることができると考えているのです。

 2章9節には「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」と書いてあります。神の民の集団について、ここには、4つの言い方をしています。内容的に二つに分けることができます。一つは、選ばれた民、聖なる国民、神のものとなった民、です。どれも神の民と言うことで共通しています。それに対して、もう一つは、王の系統を引く祭司、と言うことが挙げられています。

 まず、選ばれた民であるということです。ここで、選ばれたと言うことは、自分たちの側に良い行いがあり認められたので、選ばれたという意味ではありません。民の中に選ばれるような力があるのではなく、特別に自分たちが、立派なことをしたと言うのでもない、神が無条件に選んでくださった、ということです。   旧約聖書の申命記7章7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」とあるのです。優れていたから、選んだのではない。数が多く、強かったので、選んだのではないと言っているのです。

 聖なる国民、神のものとなった民、というのは、旧約聖書の申命記7章6節の言葉が背景にあるのです。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」神の民というのは、神が御自分の民にしようとして、獲得された民と言う意味です。神が、民をわたしのものだ、と言われているのです。神が、どんな時でも自分のものとするのです。人間の方で神から離れ、背いても、神は御自分のものとするのです。特に「聖なる国民」と言っているのは、この民が他の民とは異なり、他の民と区別されて、神の民とされたのです。旧約聖書には、神がイスラエルの民を特別に愛してきた、そのことが語られています。

 2章9節には、神の民の集団としてその性格を二つに分けて語っています。もう一つは、「王の系統を引く祭司」ということです。神の民とされた、わたしたちの任務は、祭司としての働きがあるのです。ユダヤ教では、神殿で、祭司が、罪が赦されるために、身代わりとして動物を犠牲として献げることを、繰り返し行われていました。神の民が罪を重ねたことを神に赦してもらうために、祭司が人間の身代わりとして動物を犠牲としてささげ、神に執り成しをしたのです。祭司がすることはこのことでした。しかし、主イエスは、わたしたちの罪を贖い、赦してもらうために、十字架においてご自身のからだを犠牲としてささげることをしたのです。

 主イエス・キリストが、祭司としてご自身を罪の犠牲としてささげたことを詳しく語っているのは、ヘブライ人への手紙です。ヘブライ人への手紙2章17節「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(p403)また、ヘブライ人への手紙7章27節に次のように語られています。「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、ご自身を、ご自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」(p409)祭司として教会の働きがあるのです。教会は、神に礼拝をささげ、説教を聞き、聖餐を戴き、自分をささげる、そしてキリストの福音を伝えることなのです。そして、まだキリストを知らない人々、苦しんでいる人々を覚えて、神に執り成しの祈りをしていくのです。

 なぜ、わたしたちが神の民となったのか、神のものとなった民なのか、その理由が語られています。2章9節後半です。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」わたしたちが、神の民となったのは、神が目的を持って神の民とした、と言うのです。それは、神のみ業をこの世の人々に広く伝えるためだ、と語っているのです。わたしたちの礼拝を考えると、神に招かれて、集まるのですが、礼拝の最後に祝祷によって、派遣されるのです。心臓が収縮して拡散してその働きをするように、教会は集められて、派遣されるのです。集まって何をするのか、と言うことは考えますが、礼拝を終えて、それぞれが、使命をもって派遣される、というところは、余り考えないのではないか、と思います。教会に集まることに関心があるのですが、礼拝が終わって、この世界に派遣されて、福音を伝えるという自覚を持つことは少ないのです。

 牛込払方町教会は、目黒にある、新栄教会の伝道から始まったのです。タムソン宣教師の薫陶を受けた、小川義綏長老たちが、日曜日に新栄教会の礼拝を終えて、午後、牛込に伝道に来たのです。わたしたちは、教会に行くことは考えるけれども、礼拝を終えて、福音を伝えるという使命があることを忘れているのではないか、と思います。そうであると、わたしたちの教会生活は、内向きになるのです。しかし、外に向かって福音を伝えるという信仰があるかどうかが問われるのです。

 「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方」と書かれています。「招き入れられた」と言うのは、「呼んで下さった」と言うことです。闇の中にいて、どちらに行ったらよいのか、全くわからない状態の中で、手探りで出口を捜している時に、自分を呼んでくれる声が聞こえるのです。その声を頼りに、その声のする方に進んでみたら、光が見えたのです。さらに進むと、光の中に入ることができたのです。わたしたちは、真っ暗な闇の中を歩いているような、苦しい時があります。これからどうして良いのか分からない時があるのです。そのような時に、神が私たちを呼び寄せてくださったのです。イエス・キリストがわたしたちの苦しみを共にして下さって、わたしたちを愛してくださっていることを信じることができて、わたしたちは、救われたのです。

 わたしたちが、神に招かれて、洗礼を受けて、神の教会に集められたのは、キリストの福音を「広く伝えるためなのです。」また、キリストの福音をなぜ「広く伝えるのか」その根拠を2章10節で語っています。

 ペトロは旧約聖書のホセア書2章25節を引用しているのです。神が、預言者ホセアに姦淫している女性ゴメルと結婚するように命じ、ゴメルは、最初に女の子を産みます。その子の名前を、ロ・ルハマという名前を付けるように命じるのです。ロ・ルハマと言うのは、「「憐れまれぬ者」という意味の名前です。そして次に男の子を産むのです。その子をロ・アンミという名前を付けるように命じます。ロ・アンミと言う名前の意味は「私の子ではない。」という意味です。「わが民ではない者」と言う名前なのです。これは、イスラエルの民が主なる神をまことの神として礼拝をする、その契約を結んだにも関わらず、他の神々、偶像の神々を礼拝し、慕っている、そのことに神は苦しんでいる、その罪を赦し、愛することの苦しみを、ホセアにも結婚生活において同じ苦しみを味わうことをさせるのです。ホセアの妻ゴメルが他の男性と関係をもっている、そのことを経験することによって、主なる神が愛することに苦しんでいることをホセアが深く知るのです。ホセア書1章6節−8節では、イスラエルを決して赦さない、そして、イスラエルはわたしの民ではなく、私はイスラエルの神ではない、と語るのです。

 しかし、2章25節では、決して赦すことができない、わたしの民ではない者を、憐れみ、私の民として受け入れる、と語っているのです。ロというヘブライ語は、「そうはない」という意味のことばです。現代ヘブライ語も日常的に「ロ、ロ」というのは、「ノ−、そうではない」と言う時に用いるのです。ロ・ルハマが、ルハマとなる。神が憐れんでくださるのです。ロ・アンミが、アンミとなる。神がわたしの子であると言ってくださるのです。

 わたしたちが神から離れて、背を向けて過ごしている者に対して、イエス・キリストの十字架の犠牲によって、わたしたちの深い罪を赦してくださり、わたしの子として受け入れ、愛してくださるのです。わたしたちは、憐れみを受けた者として、神の御業を伝える使命を与えられているのです。

 9月15日に「キリスト教を学ぶ会」で、日本の歴史の中で、日本人として初めて洗礼を受けて、宣教師ザビエルの伝道を助けた、アンジロ−という人の生涯について話しました。ある会員が「キリシタンたちは、十字架と復活をどのように理解して受け入れたのか」「その当時、多くの人がキリシタンになったのは、どうしてなのか」という感想がありました。この問題はとても大切な問題だと思い、考えました。キリシタンになった人のほとんどは、農民など、庶民であったのです。キリスト教の教えをよく理解した、というよりも、宣教師が、出会う一人一人を愛したからだと思います。伝道というのは、キリスト教の知識を伝えることよりも、伝える者が、相手を人間として、大切にすることであると思います。この時代、「愛」という言葉を「御大切」と言っていたのです。それまで、封建社会の中で、庶民は深く愛される経験をしていなかったのではないか、しかし、宣教師たちが名もない庶民を深く愛した、その経験をしたのでキリシタンになったのではないか、と考えました。伝道は、相手を愛することに尽きるのです。

 わたしたちは神の憐れみを受けた者として、広く、キリストの福音を伝える者なのです。

20220911  主日礼拝説教  「いつわりのない愛に生きよう」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書43章1−4節、ペトロの手紙一1章22−25節)


 わたしたちの生活が、愛の生活である、ということをわたしたちは余り考えないのではないでしょうか。私たちの生活は、愛の生活なのです。

 新約聖書の中で、愛について詳しく書かれているのは、コリントの信徒の手紙一13章1−13節です。このところで真実の愛はなにか、を語っています。4−6節には「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」とあります。

 この手紙を書いたパウロは「愛はこういうものである」ということよりも、「愛はこういうものではない」と言う言い方をしているのです。パウロは、コリントの教会の事情をよく知っていて、教会の信徒たちが、自分は教会の兄弟姉妹を愛している、その愛し方は、間違っていない、と思っているけれども、実はそれは愛となっていないと語っているのです。わたしたちは、相手のために自分は良いことをしている、と思って、愛の行いをしているつもりであるけれども、その愛の行いを受け取っている相手は、愛されてはいないと思っていることがあるのです。それはお節介にすぎない、余計なお世話だ、自分に対する干渉だ、と思っていることがあるのです。パウロは「愛とはこういうものではない」と語ることによって、真実な愛を知り、真実に愛する、神が望むような愛の生活をしてほしいと願って、パウロは、愛について詳しく語っているのです。

 本日の礼拝で、ペトロの手紙一1章22−25節を読みました。ここには、洗礼を受けて、キリスト者となった者が、キリスト者としての生活をどのように形成していくのか、その生活の中心は愛なのです。

 本日の礼拝で読みました1章22節から25節までの言葉は、13節から内容的に続いているのです。13節から語られている文章には「聖なる生活をしよう」という小見出しが書いてあります。13節から語られている言葉の中で、私は、14−15節の言葉に注目をしたのです。

 「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活すべての面で聖なる者となりなさい。」と言う言葉です。この言葉の中で、特に注目したい言葉は「あなたがた自身も生活すべての面で」と言う言葉です。私たちが生活している、すべての場面で、と言っているのです。

 私たちの一日のことを考えても、様々な場面があります。今日の朝、起きてから、今の時まで私たちは、様々なことをしています。生活すべての場面で「聖なる者となりなさい」と語っているのです。信仰は、私たちの生活全体にかかわることなのです。生活の一部分だけ信仰と関わっているのではありません。礼拝をしている時だけ、聖書を読んでいる時だけ、祈っている時だけ、信仰者である、と言うのではないのです。他の時間は信仰と全く関わらない時であるというのではないのです。私たちの生活のすべての場面で信仰が関わっているのです。

 この「聖」という言葉は、「神のものとして、他のものと区別する」「神のものとして、特別に取っておく」「他のものと区別している」と言う言葉です。

 私たちが、洗礼を受けたと言うことは、私たちの存在が、神のものとされた、神に所属するものとなった、と言うことです。それは、神が、自分を他の人と区別して、特別な存在としてくださった、と言うことです。わたしたちを他のものと区別して特別な存在としてくださった、それは、神が私たちを特別に深く愛してくださったからです。神が私たちを特別に深く愛してくださった、それは何によって分かるのか、と言うことです。

 幼稚園の運動会が始まって、親が運動場に行って、最初にすることは、自分の子供がどこにいるのか、と思って子供を捜すことです。自分の子どもが登場すると、スマホで何回も撮っているのです。自分の子どもが一番可愛いし、愛しているからです。親が子どもを愛していることが何によって分かるのでしょうか。子どものためならば、親が犠牲になることもあるのです。

 よく夏休みに水難事故があります。父親と子どもが川遊びに行く、子どもが溺れてしまう、父親は子どもを救おうと川の中に飛び込みますが、水深があるので、溺れて水死してしまう、子どもは別の人に助けられて水死を免れる、ということがありました。親は子どもの命を救いたいのです。

 本日の礼拝で読みました、旧約聖書のイザヤ書43章1−4節には次のように語られています。「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 畏れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、尊く わたしはなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。」

 わたしたちが主なる神にとっては、価値があり、どのようなことがあっても共におられる神であることを語り、主なる神が私たちを深く愛してくださっていることを語るのです。

 神が私たちを愛される、その極みに、イエス・キリストの十字架の死による贖いがあるのです。先週の説教では、触れませんでしたが、1章18−19節には、いかにわたしたちを愛されているかを語っている言葉があるのです。次のように語っています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

 私たちは、いつも神のことは二の次で自分のことばかり考え、自分のことを優先して過ごしています。神に対して誠実に生きようとは思っていないのです。そのような私たちを、神のものとするために神のもとに連れもどそうとするために、神はわざわざ御自分の外に出て、罪とは関わりがない、イエスという人間となり、私たちと同じ苦しみを経験し、私たちの神から離れている深い罪を私たちに代わって、引き受け、十字架の死によって、肉を裂き、血を流してくださったのです。

 「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような羊朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のような尊い血によるのです。」奴隷を解放して、自分のものにするために、贖い金が必要で、金や銀で支払ったのですが、私たちを罪から解放するために、イエス・キリスト自ら、ご自身のいのちを犠牲として差し出してくださるのです。私たちを罪から贖ってくださるのです。それほどまでに私たちを愛して、神のものとしてくださるのです。

 「聖なる者となりなさい」と言う言葉は、洗礼を受けて、キリストに罪が赦された、というところで留まるのではない、ありのままでよい、自分の好きなように生きて行けばよいというのではなく、神が私を愛してくださった、その感謝として応答していくことになるのです。神のものとされた、それにふさわしく生きるのです。

 神によって区別された、聖なる者としてふさわしい態度や行いや話し方があるのです。キリスト者であることが分かる、振る舞いや話し方があります。

 ある時、一般の人の会合で、一人の人が話をしていて、その話し方が聞いている者に対してよく配慮した話し方であったので、もしかしたら、この人は、キリスト者ではないか、と思ったので、その会合が終わったので、その人に「キリスト者ですか。」「どこかの教会員ですか」と聞いたら、そうです、と答えたのです。この人はキリスト者なのではないか、と分かるような話し方をしている、キリストのかおりがしてくるような会話をしていることが分かるのです。

 最近、スマホ歩きをしている人が多く、私も道を歩いている時にぶつかりそうになったことが度々あります。新聞に載っていた話ですが、スマホ歩きをして、こちらへ歩いている若者とある婦人がぶつかったので、「気をつけてください」と言ったら、スマホ歩きをしてぶつかった若者にこう言われたそうです。その若者が「済みません」と言うと思ったら、「あなたが早く気がついているのだから、ぶつかりそうになる前に、あなたが避けるのが本当ではないか、あなたが避ければ良かった」と言われて、あきれたという話でした。自分がスマホ歩きをしてぶつかったのだから、先に謝るのが常識だと思いますが、そうではないのです。自分は特別に悪いことをしているわけではない、相手が悪いのだ、と考えているのです。謝るべき人が、謝らずに、相手に責任を転嫁するのです。自分は少しも悪くない、他の人が悪いと考えているのです。自分が罪を犯した、ということを認めないのです。

 1章22節の言葉が、重要です。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛しなさい。」ここに「真理」と言う言葉が出てきます。この真理という言葉は、客観的な真理、科学的な真理ではないのです。誰もが納得できる真理のことを指していません。人格的な真理のことです。真実という言葉です。相手に対して真実、という意味です。サマリア人の譬えには、強盗に襲われたユダヤ人を見ながら、自分の用事を優先して何もしないで通り過ぎた、祭司、レビ人ではなく、関係が悪く、交際もなく、互いに口もきかなかったサマリア人が通りかかり、強盗に襲われたユダヤ人を助ける、そのような愛の行為をする、そこに愛の真実があると語られています。サマリア人は、ユダヤ人を愛したのです。それが、真理というものです。この真理という言葉は、エフェソの信徒への手紙1章13節に「福音という真理の言葉」という言葉があります。真理というのは、「福音」のことを指しています。

 「魂を清め」とある「魂」と言う言葉は「カルディア」という言葉です。「心」という言葉で翻訳されている箇所がありますが、ここでは、「魂」と翻訳されています。この「カルディア」は、人格の中心のことを指します。愛の言葉が、自分の魂の中に染み渡って行き、自分を揺さぶり、動かす言葉となるのです。神がわたしたちを深く愛してくださる、イエス・キリストの贖いによって、わたしたちの深い罪を赦してくださる、その真実を受け入れると、「魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」のです。

 ロ−マの信徒への手紙5章5節後半で「わたしたちに与えられた聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれていくのです。」と語られています。

 ここでは「心」と翻訳されていますが、ペトロの手紙一1章22節にある「魂」と翻訳されている「カルディア」と同じ言葉です。自分の心が綺麗になるために、努力すると言うのではなく、聖霊によって、神に愛されている、そのことを深く受け止めていくことによって、憎しみや妬みや復讐心が消えて、聖霊によって、神を愛する心となり、隣人を愛する心となるのです。

 それは、「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」とあります。「偽り」という言葉は「偽善」であり、この言葉は「仮面をかぶる」と言う言葉です。仮面をつけてほんとうの自分とは違う役柄をするのです。若い男性が、翁の面をつけて、翁の役を演じます。自分とは違う役柄を演じるのです。表面的に愛しているような振る舞いをしていますが、実は、相手に見返りを求め、自分のために有利になるように、相手を利用する魂胆をもちながら、相手のために好意をもっているようにみせかけるのです。

 そのような偽りではなく、真実に愛する、その愛を抱くようになったのですから、「清い心で深く愛しなさい」と語ります。ただ相手が生きうるように、相手のためにだけ、見返りを求めないで愛しなさい、と勧めているのです。

 わたしたちは、相手に見返りを求めているのではないでしょうか。親が子どもに「お前を大人にするためにずいぶん苦労して育てたのだから、親孝行しなさい。」という親がいることを聞きます。しかし、愛は、見返りを求めないのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書3章16節B)真実な愛は、ただ愛するだけです。神の聖なる愛は、真実に私たちを愛しているのです。愛する相手のことを配慮して、報いを求めないでただ愛するだけなのです。この愛に生きようと呼びかけているのです。

20220904  主日礼拝説教  「おそれの心をもって過ごそう」  山ノ下恭二牧師
(コヘレトの言葉12章1−11節、ペトロの手紙一1章13−21節)


 この礼拝でペトロの手紙一を学んでいます。この手紙は、キリスト教会が最初の迫害を受け始めた頃の手紙です。迫害と言う厳しい試練の中にある人々に、どのように信仰者としての生活をきちんと形造ったら良いかを、心を込めて説いているのです。そして、この手紙を受け取っている教会の信徒たちは、洗礼を受けて間もないキリスト者がほとんどであったので、ペトロは、洗礼を受けて間もない信徒たちが、召されるまでキリスト者として、その信仰を全うしてほしい、と願ってこの手紙を書いているのです。

 私たちは、自分がどのような存在なのか、分からなくなることがあります。教会の礼拝に出席している時には、自分が教会員であり、キリスト者であると自覚できますが、日本の社会は、この社会がもっている価値観で動いているのです。私たちは、その社会の中で暮らしているので、その価値観に影響を受けているのです。様々な情報が溢れている社会で暮らしているので、様々な情報に影響を受けて惑わされ、聖書の言葉など、どこかに吹き飛んでしまい、自分がキリスト者であることを忘れてしまいます。

 そこで、大切なことは、自分がどのような存在であるのか、そのことをいつも聖書の言葉によって知ることが大切なのです。

 洗礼を受けて、キリスト者となった、ということは、私たちが教会に所属し、キリストに所属するものになったということです。自分がどこに所属しているのか、それはとても大切なのです。ハイデルベルク信仰問答・問1は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」とあり、その問いに答えて「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」とあります。

 「慰め」という言葉を「拠り所」と言い換えることができます。わたしという弱くあてにならない者が、わたしの真実な救い主キリストのものになること、キリストを通して永遠不変の神のものになること、それこそが決して揺るぐことのない拠り所であるのです。自分がキリスト者であると言うのは、立派な生活をしているからキリスト者であるというのではなく、立派な生活をしてないけれども、私たちの罪を赦してくださる、イエス・キリストに属しているから、キリスト者なのです。

 本日の礼拝でペトロの手紙一1章13−21節の小見出しには「聖なる生活をしよう」と書かれています。これは15節に「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」と書いてあるところから小見出しをつけたのです。「聖」という言葉の反対語は、「俗」と言う言葉です。「俗人」「世俗的」「世俗化」と言う言葉があります。

 「聖」と言う言葉は、カトリック教会の「聖人」を思い浮かべます。カトリック教会で「聖人」の一人は、マザ−・テレサです。徹底的に、隣人愛に生きた人です。しかし、「聖なる者となりなさい」という言葉は、私たちが聖人のように道徳的に立派に生活しなさい、と言っているのではないのです。

 この「聖」という言葉は、「神のものとして、他のものと区別する。神のものとして、特別に取っておく」という言葉です。私たちが、聖なる者とされた、それは、神のもの、キリストのもの、とされたことなのです。神に所属している、キリストに所属している、ということが「聖」であるということです。私たちが、聖である者とされた、神のものとされた、キリストのものとされた、ということは、欠点がなく、罪もない生活をしているから、神のものとなった、キリストのものとなったのではなく、私たちは、罪ある存在である、神から離れて生活をしている者を、神が愛して、キリストによって赦してくださったので、神のもの、キリストのものとなったのです。

 私たちは、相手と気兼ねなく交際できるのは、相手と良い関係を持っているからです。互いに相手を全面的に受け入れているので、交際することができるのです。相手が自分にひどいことをしたら、相手の存在を受け入れることは難しいことになります。私たちは相手の存在を肯定しているから、相手と交際することができるのです。私たちは神に対して正しく生きていないのですが、神は、私たちを罰することなく、イエス・キリストが、私たちの身代わりとなって、罪の罰を受けて、死んで下さることによって、神との関係が正常になり、神が私たちの存在を肯定してくださったのです。

 神と私たちとの関係が正常になることを、最初の伝道者パウロは、「義とされる」「義と認められる」と言いました。ロ−マの信徒への手紙3章24節には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と語られています。義と認められる、そのことを「義認」と言います。律法の行いによってではなく、ただ信じるだけで義と認められる、そのことを「信仰義認」言います。

 「義」というのは、関係のことです。相手を受け入れられない関係であったのが正常な関係になった、それは、罪を取り除くことによって、できたことなのです。神によって、私たちは義とされ、認められたのです。そのことによって私たちが生まれ変わり、私たちのあり方や生き方が変わるのです。

 「聖なる者となりなさい」と勧めているのは、義とされ、罪が赦された、というところで、終わっているのではなく、私たちの在り方や生き方が変わることです。関係が変われば、その存在も変わるのです。例えば、親が子どもをいつもガミガミ怒っているので、子どもが親から心が離れていくことがあります。そこで、親が反省して、子どもの立場に立って、子どもの話に耳を傾けて、理解するように心がけるようになったのです。そこで、子どもは親が、自分そのものを受け入れてくれた、愛してくれたと思うようになり、それから親に対する態度も言葉も変わってくるのです。親を尊敬し、重んじるようになる、と言うことがあります。神が、イエス・キリストによって、自分の罪を赦してくださった、このように神が、自分を深く愛しているのだから、神に対して誠実に生きようとするのです。

 問題なのは、神に愛されているというところで、留まることがあるのです。洗礼を受けて、罪が赦されている、ありのままで良いと考えるのです。

 「ありのままで良い」というのは、私たちにとって心地よい言葉です。子どもが、近くの公園で友達と泥んこ遊びをして、そのまま家に帰って来た、母親が、泥んこのまま帰って来た子どもを叱りつけないで、笑いながらそのありのままを受け入れ、お風呂でシャワ−をかけて綺麗にすることがあります。泥んこで帰って来た子どもをありのままで受け入れる、そのことは子どもにとってうれしいことです。

 しかし、私たちは、ありのままで良いのか、と言う問いがあるのです。私たちは、洗礼を受けて、罪が赦されて、神に愛される者となった、それに留まっていて良いのか、と言うことです。神のものとなった、イエス・キリストに所属するようになったのです。神との関係が正しいものとなったのであるから、生活そのものも変わってくるのです。今までは、自分中心に生き、自分のために生きていたのですが、これからは、神に対して、隣人に対して生きるようになったのです。

 私たちの生活の基本となるものは、主イエス・キリストが教えられたように、「神を愛し、隣人を愛する」ことです。「聖なる者となる」と言うことは、神を心から礼拝することによって起こるのです。そして自分の生活の仕方も具体的に変化するのです。他の人との関係、時間の用い方、お金の使い方が、今までの生活とは違ってくるのです。隣人との関係においては、隣人を心から愛する者となるのです。自分の都合を優先するのではなく、相手の立場に立って、行動するのです。時間の使い方も自分の好きなことに多くの時間を使うのではなく、神と隣人のために多くの時間を捧げるのです。そしてお金の使い方も変わります。自分の持っているお金を、自分のために多く使い、残ったお金を神にささげ、隣人に与えるのではなく、神と隣人を覚え、優先して、ささげるのです。

 1章17節には「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活をすべきです。」とあります。聖である神は、裁く神であるのです。私たちは、この地上で生きるのですが、私たちの行いを裁く方がいることを自覚することは少ないのです。私たちの生活を、吟味して裁く神がいることを自覚しないで生活することはできないのです。「人それぞれの行いに応じて裁かれる」神がおられるのです。神が私たちの生きてきた在り方を、裁定するのです。

 例えば、社会福祉法人は、国や県、市から多くの補助金をもらっているので、定期的に、会計監査を受けるのですが、その監査人は複数になり、監査は厳しくなったと言われます。定期的に会計監査がないと、会計が杜撰になるのです。いつキリストが裁きにきても、はずかしくないように生活をしていることなのです。その意味で「おそれる」のです。

 「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、」とあります。ここで神を「父」と呼びかけていると語られていることに注目したいのです。私たちは、主の祈りで「天にまします我らの父よ」と呼びかけて祈ります。ここで「父」とあるのは、ルカによる福音書15章で語られている「放蕩息子」の譬えに登場する父親を思い起こしたいのです。放蕩に身を持ち崩して、帰って来た息子を無条件で迎える父親なのです。この「父」とは私たちを子と呼んで下さる、愛に満ちた父なのです。

 「この方を畏れて生活すべきです。」とあります。「おそれ」というと、恐怖と言う言葉を思い起こします。しかし、ここでは、「畏敬」という言葉の「畏」という言葉で「畏れる」と翻訳しています。「畏敬」という言葉は、普段、使いませんが、私は、この「畏敬」という言葉を、アフリカで医療活動をした、シュバイッツァ−の本の中にあった、「生命への畏敬」という言葉があったので、知ったのです。岩波訳では、「人を偏り見ることなく、各自の業に基づいてさばく方を父と呼んでいるのなら、あなたがたは[この世という]寄留の間中、畏敬をもって振る舞いなさい。」と訳されています。フランシスコ会訳では、「人をそれぞれの行いによって、分け隔てなくお裁きになる方を父と呼んでいるからには、あなた方は、この世に留まっている間、畏れ敬いの心をもって生活しなさい。」と訳しています。私たちの生活ぶりを神は審判する、裁定する、その方を畏敬するのです。私たちの罪を赦し、愛する神なのですが、同時に、私たちがキリスト者として道を外れることなく、生きることができるように、見守り、私たちの歩みを裁定するのです。

 皆さんはスポ−ツ番組を見ると思いますが、スポーツのチームには、選手と監督・コーチがおり、試合になると、審判が登場します。監督やコーチは、試合に勝つために、選手を訓練し、アドバイスをし、健康管理に気をつけるように指導します。そして試合になると、審判によって判定されるのです。

 別々の人間が、監督、コーチ、審判をするのですが、一つの神が、監督し、コーチをし、審判するのです。私たちを深く愛するイエス・キリストが聖霊によって共に歩んで下さり、御言葉をもって、私たちがキリスト者として神のみこころに外れないように導き、そして神が私たちの信仰の歩みを審判するのです。

 父親は、子どもを愛するのですが、子どもが道を外し、間違った生き方をしていれば、父親は子どもを叱り、教え、導くのです。自分の子どもがいけないことをしても、黙って、受け入れるのは、愛ではないのです。いけないことはいけないと言いながら、しかし、愛する、逆に、愛しているが故に、良い生活をするために、心を込めて、助言をし、戒めるのです。そのような神が私たちの歩みを判定し、審判する、そのことを心に留めて、歩んでいくのです。

20220828  主日礼拝説教  キリストを見たことはないが、愛している  山ノ下恭二牧師
(詩編63編1−6節、ペトロの手紙一1章8−12節)


 夏期休暇の旅行から教会に帰る途中に、JR市ヶ谷駅で電車を降りましたが、いつもは歩いて帰るのですが、キャリーバックや他の荷物が重いので、それを引いていくのも嫌なので、都営バスに乗ろうと市ヶ谷駅から近いバス停に向かおうと歩き出したら都営バスが停留所を過ぎて行ってしまいました。あと1分早くバス停についたら乗れたのに、と思い、キャリーバックと荷物をもって歩いて行くのも大変だからバスに乗って行こうと決めました。バス停でバスの時間を見たら、一時間に2本しかなくて、次のバスは、45分後であったので、バスに乗ることをあきらめて、歩いて帰りました。

 教会に向かって、ガストのところから曲がって、牛込中央通の坂を歩いていた時に気づいたことがありました。平坦な道であるなら苦にはならないのですが、キャリーバックを引いて牛込中央通りの坂を上るのは、大変だと思いました。その時に気がついたことは、教会の皆さんが、毎日曜日に、この坂を歩いて教会に来ることは大変だな、ということでした。そして、大変な思いをして教会に来ているのは、教会の皆さんが、教会を愛しているからだ、ということに気づいたのです。礼拝に出席する、そのことは教会を愛しているからですし、教会の多くの奉仕を担っていることも教会を愛していることであると思います。

 ペトロの手紙一1章8節には「あなたがたは、キリストを見たことがないが、愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」と書かれています。ペトロは教会の信徒たちが、キリストを見たことがないが愛している、今見なくても信じている、と語ります。この時、主イエスが十字架で死に復活し、昇天してから、かなり年月が経ち、教会には主イエスを自分の眼で見たことのない信徒たちばかりだったのです。

 この時の信徒たちは、地上におられた主イエスを見たこともなく、直接、主イエスから話を聞いたこともないのです。主イエスを見た人たちが死んで、次の世代の人たちなのです。主イエスが、十字架で死に復活した場面に立ち会った経験もない人たちなのです。私たちも主イエスが地上におられ、十字架で死に復活し、昇天してから、すでに2020年以上も経過しており、主イエスを見たことはないのです。

 ところが、キリストを見たことがないけれども、信徒たちが、キリストを愛し、今見ていなくても信じていることにペトロはとても驚いているのです。なぜ驚いているのでしょうか。それはペトロ自身が経験したこととつながっています。ペトロは、主イエスの弟子でしたが、失敗を重ねているのです。主イエスを愛することに失敗をしているのです。ペトロは主イエスをキリストであると告白していますが、その後で主イエス御自身がこれから苦しみを受け、十字架に架かり、復活することを予告したところ、そんなことはないと否定したために、主イエスに悪魔と言われているのです。そしてそれだけではなく、主イエスが捕らえられて、大祭司の家に連れて行かれ、その後を付けていったペトロを見た者が、主イエスと近い関係にあることを指摘されて、自分の身が危なくなることを察知して、慌てて、主イエスのことを知らないと三度、言ってしまったのです。

 主イエスにどこまでもついて行かずに、自分の身の安全を優先してしまったのです。主イエスを愛することをしなかったのです。ペトロには、そのような痛みを持っていたのです。主イエスの十字架の死にも立ち会うこともなく、自分の故郷、ガリラヤに帰って漁師をしていたのです。主イエスから心が離れてしまったのです。

 主イエスは、ガリラヤに帰って漁師としての生活に戻ったペトロのところに出かけていきます。ペトロのところに行く目的は、ペトロを再び、主イエス・キリストの福音を伝える使徒とするためでした。ペトロが、三度、主イエスを知らないと言ったので、主イエスはこのところで、ペトロに三度、「私を愛するのか」と問いかけ、ペトロは三度「愛します」と答えるのです。そしてペトロは、人間を取る漁師として再出発することができたのです。

 ペトロは主イエスを心から愛することができなかったのです。ペトロは主イエスを愛することに挫折をしたのです。自分のことを優先して、主イエスのために命をささげることをしなかったのです。

 ペトロは、自分が愛に挫折をした経験をもっている、そのような者であることを認識していました。ところが、信徒たちが、キリストを見たことがないが、愛している、今見なくても信じている、この事実に驚いているのです。

 わたしたちがキリストを愛しているとはどのようなことなのでしょうか。キリストは見えないのです。この眼で見ることができない相手を愛することはできない、と思います。

 私たちは、現に実在している、いのちがある人間を愛しているのです。「愛する」ことは、実際に生きている人のために世話をしたり、心配したり、自分が損をしても相手のために生きることです。そのことが愛することではないでしょうか。自分の目の前に実在する人のために犠牲を払うことが愛の基本ではないでしょうか。

 ここで使われている「愛する」と言う言葉は、相手と深く関わる時に使う言葉です。相手と関わると、自分が損をするのです。自分が相手のために犠牲をささげることになるのです。ここでは「アガペ」と言う言葉を使っています。聖書の中で、この言葉が一番、多く使われています。

 人を愛する、愛し方はいろいろあります。「愛」について詳しく、書いてある研究書には、ギリシャ語には、4つあると書いてあります。はっきりと分類しているのです。アガペという言葉の他に、3つの言葉があります。一つは「エロス」です。この言葉はよく知られています。元々は、良い言葉であったと言われていますが、現代は、余り良い言葉として使っていません。相手に愛するだけの価値がある時の愛であると定義されています。相手に魅力がある時に愛するのです。エロスと言う言葉は見返りを求め、愛して利益がなければ、愛することを止めるのです。好き嫌いという基準で相手を選ぶのです。この言葉は、新約聖書には一度も使われておりません。

 また「ストルゲ−」という言葉があります。親が子どもを愛する時の愛です。「愛着」と訳して良い言葉です。もう一つは「フィリア」「フィロス」という言葉です。この言葉は、新約聖書で使われています。「友」「愛する」という言葉で翻訳されています。フィロスという言葉は、元々は、学問を愛すると言う意味です。しかし、学問を愛することと、キリストを愛することとは別のことです。

 学問をすることは、愛とつながらないことがあります。私が東京神学大学に在学の時のことですが、学部4年になると、専攻科目を選ぶのです。私は、新約聖書専攻でした。その時の教授が松永希久夫先生でした。その授業で、「イエス伝」の本を読んで発表する課題が出ました。

 シュバイッツアァ−「イエス伝研究史」、ボルンカム「ナザレのイエス」、C・H・ドッド「イエス」などの書物でした。イエスはどのような人物であったのか、それを探求している書物でした。それは、学問的に探求するために書かれたものです。しかし、学問的な探求によって、イエスについて知ることはできますが、それで主イエス・キリストを愛することにつながるわけではないのです。

 町の書店に「キリスト教」関係の本が書棚に並べられていて、キリスト教はどのようなものなのか、知りたい、イエスはほんとうに存在していたのか、そのような知的興味をもって購入し、読む人はいますが、それはイエスという人物を知りたいと言う探究心から読んでいるのであって、主イエス・キリストと人格的に深い関係をもつために読んでいるわけではないのです。キリスト教やイエスについての知識を持つために読んでいるのです。

 最初の教会の伝道者であるパウロは、コリントの信徒への手紙二 5章16節で、次のように語っています。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」

 「肉に従って知る」とはどのようなことなのでしょうか。それは、イエスは地上でどのような生活をしていたのか、どのような顔をしていたのか、そのような、人間的な興味をもってイエスを知ろうとすることです。そして近代の聖書学は、ギリシャ哲学や古代の文学と同じレベルで読み解こうして研究しているのです。聖書を西洋古典の文書として読むのです。聖書を古代の歴史文書として取り扱い、聖書を、神が語っている言葉としてではなくて、あくまでも、人間の言葉として取り扱うのです。

 しかし、パウロは、肉に従ってキリストを知ろうとはしない、と語っているのです。人間的な方法で知るのではなく、神が自分に語りかけている、人格的な関係の中で、神の言葉として聖書を読むのです。神が、イエス・キリストによって愛している、その神の言葉を聞くのです。神が語りたかったことは、主イエス・キリストの十字架の死と復活なのです。このことを信じれば、それで十分であると言うのです。

 教会の信徒たちは、キリストを見ていないが、愛している、今見なくても信じていると言うのです。それは、キリストに愛されていることを信じているからです。キリストは、私たちがキリストを愛さない時にも、私たちを愛しておられるのです。

 このペトロの手紙一で、イエス・キリストがわたしたちに何をしてくださったのか、そのことを語っているところがあります。

 ペトロの手紙一2章24節です。「そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」キリストはわたしたちに対して何をしたのか、私たちの罪を裁かないで、キリストご自身がその罪を自分の罪として引き受け、裁きを受けたのです。それほどまでにキリストに愛されていることを私たちは信じているのです。ヨハネの手紙一 3章16節には「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」とあります。

 キリストが自分を愛している、と認識できるのは、信仰によることです。そして、聖霊が働いて、キリストが今、生きていて自分を愛しているのだ、と確信させるのです。信仰によって、キリストを愛することができるのです。ここに不思議な秘密が隠されているのです。それは、知ることから始めているのではなくて、信じることから始めているからです。

 この眼で見て、相手を確かに存在すると認識するということではなくて、この眼で見ていなくても、相手を認識し、相手を愛することができるのが、信仰なのです。信じることによって見える世界に生きているのです。私たちは、今、聖霊において現臨しているイエス・キリストが生きていることを信じているのです。

 教団から派遣された日本人の宣教師であったナグネ牧師は、韓国の長老会神学大学で23年の間、教義学を教えていましたが、その経験を踏まえて、「アジア文脈における日本伝道」という講演の中で「『教会とは誰か』という視点」というところで、次のことを語ります。「教会についても、私たちは『教会とは何か』ということについてはよく学び、考え、議論をしてきたとを思います。『教会とは誰か』という視点についてはどうでしょうか。教会はキリストの体です。教会は身体性をもって捉えられたのであって、キリストの霊だとか、魂だとか、理性だとかのようには表現されませんでした。このことは重要です。教会はキリストの『からだ』なのです。」教会にはキリストがおられるのです。キリストがこの教会に生きておられるのです。

 皆さんが、今日、教会に集って礼拝をしている、それは、単に牧師の話を聞きに来ているのではないのです。牧師の話を聞きに来ていると思っているなら、それは間違いなのです。私たちは、生けるイエス・キリストその方にお会いするために教会にきているのです。説教によってイエス・キリストが紹介される、その時によって聖書のテキストが違うので、紹介の仕方、語り方、は違いますが、説教によって、イエス・キリストが私たちの目の前に、現れ、御言葉を聞き、讃美し、献げるのです。

 そして、聖餐によって、キリストが私たちのためにどのように愛されているのか、を知ることができます。パンと杯によって、私たちの罪の贖いのために肉を裂き、血を流したことをこの目で見て、味わうのです。ここにキリストの体があります。この教会に生きて働いているキリストのために私たちは、身体を用いて、奉仕をしているのです。それは、私たちがキリストを愛しているからです。

20220821  主日礼拝説教  神との和解  説教奉仕者:内田幸四郎神学生(東神大3年生)
(聖書箇所:ネヘミヤ記8章9〜10節、コリントの信徒への手紙二5章16〜21節)


 一言、祈りをもって始めたいと思います。
 主よ、わが岩よ、わが贖い主よ。わが口の言葉、わが心の思いを、御心にかなわしめ給え。アーメン

 今朝与えられました聖書箇所、新約聖書コリントの信徒への手紙二のこの箇所では、「和解」という言葉が何回も用いられています。その中でも、今朝はとくに20・21節に注目したいと思います。主なる神は使徒パウロを通して、私たちにこう語りかけておられます。20節「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりも無い方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

 ここを読んでいて、私は疑問に思ったことがあるのです。どうして使徒パウロは「和解」という言葉を用いたのでしょうか。和解という言葉には、「相互的に」「お互いに」という意味が含まれます。今月号の信徒の友にもその記事が掲載されていましたが、和解という言葉は、元のギリシャ語では「交換する」という意味を持ちます。日本語の辞書を見ると、法廷用語などに使われる「争っていた者が、お互いに仲直りをする」という意味です。つまり、お互いの努力が必要とされます。しかし、私たちは神様の一方的な恵みによって、生かされています。私たちは全き罪人であって、神様のことを見続けることはできません。それゆえに神様から離れ、罪のとりことなっている私たちです。そして、私たちと神様の間には、大きな距離ができてしまいます。

 しかし、父なる神はわたしたちが作った大きな距離を超えて来てくださいます。双方向的ではない神様からの一方通行の愛によって、私たちは贖われた存在とされています。私たちと神様の間には、それほどまでに強い関係があるのです。私たちは、御子によって、その十字架の死と復活の御業によって、贖い、つまり罪の赦しを得ているのです。
この「和解」ということについて、共に考えてまいりたいと思います。実は、今朝与えられたこの新約聖書の箇所というのは、私の神学校の期末試験の場所でした。ちなみに、今年の正教師試験の課題場所でもあるのですが、私の課題は、この箇所を原文のギリシャ語で読んで、ギリシャ語と格闘しなさいという課題でした。この課題に取り組んでいくうちに、私は、パウロは本当に苦労しながら、とくに言葉の面で苦労しながら伝道していたんだなあと感じました。

 実を申しますと、私はパウロがあまり好きではなかったのです。初めて使徒言行録を通読したときに、パウロはずっと同じことを繰り返しているように思えたのです。使徒言行録にはパウロの3回の伝道旅行の様子が記されていますが、そこには一つのパターンがあるように思えます。それはパウロが伝道のためにユダヤ人、異邦人の土地に行って、そこで頑張って伝道活動をするのですが、うまくいかない。結局爪はじきにされて、その町から追い出される。そういうパターンがあるように私には思えました。最初の二、三の町の出来事ならまだ分かります。それがずうっと繰り返しになっていると、読んでいるこちらからするといい加減にしろというように思ってしまいます。そういうわけで、私はパウロがあまり好きでなかったのです。しかし、今回初めてこのパウロの手紙を、原文のギリシャ語で読んでみて、パウロの苦労、とくに言葉の面での苦労を垣間見ることができました。

 彼は伝道のために、神様の御業をギリシャ語で説明しようとしました。つまり、無限である神様の業を、有限である人間の言葉で表現したのです。相当な苦労だったと思います。きっと、当時の彼には、神様が私たちとの間にある大きな距離を超えて来てくださること、それを表現する言葉は、「和解」以外に思い浮かばなかったのでしょう。しかし、神様が立てられた伝道者はパウロだけではありません。この2000年間の間に、神様は数多くの伝道者を立てられました。その中の一人に、マルティン・ルターがいます。16世紀のドイツで、当時のローマ・カトリック教会に対して抗議をし、私たちが今属するプロテスタント教会を築いた人物です。ルターの功績の一つに、聖書のドイツ語訳があります。当時のカトリック教会は、聖書はラテン語訳だけ、説教も、讃美歌も、祈りも、礼拝も、すべてラテン語でやっていたのです。当然、来ている人には訳が分からなかったのです。これは健全な状態ではなかった。そこでルターはまず聖書のドイツ語訳に取り掛かりました。今朝与えられましたコリントの手紙を、ルター訳で読んでみますと、本当に見事な訳がされているのです。

 ルターは、今朝ともに考えている「和解」をVersoehnungと訳しました。VerとSoehnungが合わさってできた言葉です。Verは強調の意味です。後のSoehnungのSoehnとは息子、子どもという意味です。ですから、ルターは、「和解」とは私たちが神の子とされるという意味だと言うのです。神様が私たちとの間にある大きな距離を超えて来て下さるのです。それは、あの放蕩息子のように、遠くから走り寄って抱きしめる、この世のまさに無償の愛だと聖書は語るのです。

 キリスト者は、洗礼によって神の子とされました。洗礼で起こっていることとは、キリストと私たちとが結ばれることです。この結びつきは陰府の力さえも、死の力さえも打ち破ることはできません。それほどまでに、私たち神の子と、父なる神との愛に結ばれた関係、父と子の関係は強いものなのです。このような父と子、親子の関係というのは、おそらく私のような青二才が語るよりも、人生経験豊かな皆さんの方がピンとくることなのかと思います。

 放蕩息子の父親は、息子が帰ってきたとき、遠くから駆け寄って抱きしめました。その後、祝宴を始めました。息子の方は黙ってこの祝宴に参加したでしょう。神と和解させられた者は、神が用意された祝いの席へと招かれています。それは現代で言えば、この礼拝です。私たちはこの礼拝において、主の福音、和解の良き知らせを聞くのです。神様が一方的な恵みによって私たちを生かして下さっていること、私たちの罪のゆえに存在する神様との大きな距離を、神様は超えて来て下さるということ、そして、力強い関係を築いて下さること。私たちは、御子の十字架の死と復活の御業によって、贖い、つまり、罪の赦しを得ていること、この福音を聞くのです。礼拝に与ること、礼拝に招かれることは本当に喜びです。私は聖書が最も礼拝の喜びを語っているのは、今朝与えられた旧約聖書ネヘミヤ記の記事だと思っています。今朝与えられた箇所の最後にこう記されています。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

 この言葉は、いわゆるバビロン捕囚によって長い間祖国を追われ、礼拝を守ることのできなかったイスラエルの民が、ようやく自分たちの祖国に帰ることができ、神殿、現代で言えば教会を建て直すことができ、礼拝を守ることができるようになったときに語られた言葉です。この言葉が語られたとき、イスラエルの民は「律法の言葉を聞いて泣いて」いました。(ネヘミヤ記8:9)その律法の最初の言葉とは、「私は主。あなたの神。あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記20:2)実に60年もの間、礼拝を守ることのできなかった彼らにとって、どれほどうれしい言葉だったでしょうか。神様は自分たちのことを忘れていないのだ、主なる神は歴史と共におられるのだと、そう律法は伝えるのです。神様がどのような時でも、あなたたちを愛して下さっているという喜び、何時いかなる時にも、私たちと神様との関係が断ち切られることはない。この喜びが語られているのです。涙が止まらなくなるほどの喜びなのです。

 そしてさらに、新約の時代に生きている私たちには、このイスラエルの民よりもより一層大きな喜びが与えられています。それは使徒パウロが、コリント書21節でこう語っている通りです。「罪と何のかかわりも無い方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」神の義とは、神と私たちとの正しい関係のことです。つまり、私たちの罪ゆえに存在する、私たちと神との間の大きな距離を、神様は超えて来て下さり、私たちと断ち切れることのない関係を築いて下さる、私たちは御子の十字架の死と復活の御業によって、贖い、罪の赦しを得ていること。私たちはすでに神と和解させていただいているということを、主なる神は使徒パウロを通して、私たちに今語りかけておられるのはないでしょうか。

 「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりも無い方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」これから先、私たちと神様との間にどれだけ遠い距離ができたとしても、神様は必ずその距離を超えてきて下さいます。どんな力も断ち切ることのできない関係を築いて下さいます。これこそが和解ということなのではないでしょうか。そして、私たちをまた、この喜びの礼拝へと招いて下さいます。どうかこの主に信頼し、今週も共に歩んでまいりたいと思います。祈りましょう。

 主よ、われらの岩、われらの贖い主よ。今日私たちをこの喜びの礼拝へと招いて下さったこと、あなたの福音を聞くことができたことを感謝いたします。
主よ、どうか常に私たちがあなたのことを見つめていられますように。私たちが、あなたの御子によって贖われた存在であること、もう既に和解させられた存在であることを覚え、日々を歩んでいくことができますように。
父と子と聖霊の御名によって祈ります。アーメン

20220814  主日礼拝説教  「生き生きとした希望を与えられて」  山ノ下恭二牧師
(詩編34編1-11節、ペトロの手紙一 1章3-7節)


 先週の主日礼拝からペトロの手紙一を学んでいます。この手紙は、教会の信徒たちが、厳しい試練を受けている中で、ペトロが信徒たちの信仰が支えられるようにと書き送っている手紙です。厳しい試練とは、具体的には信徒たちがロ−マ帝国から迫害を受けていることを指しています。身体的な危険を身近に感じ、自分のいのちが危なくなるような状況にある信徒たちに、ペトロは、慰めと励ましを語っているのです。この手紙は、信徒たちへの挨拶の後に、神を讃美している言葉が記されています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」パウロもエフェソの信徒への手紙で、この手紙と同じ言葉で神を讃美しています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」(エフェソ1章3節 p352)このペトロの手紙一の初めに、神を讃美する言葉で始めていることに注目したいのです。
 
 私は、東京神学大学を卒業していくつかの教会を経験してきましたが、2014年4月に牛込払方町教会に赴任し、礼拝に初めて出席して感じたことは、讃美歌を歌う声が大きいということです。それまで、在任した教会では、讃美歌を歌う声が小さかったのです。かなり前ですが、夏期休暇で、岡山の蕃山町教会の礼拝に出席していた時に、礼拝後、教会修養会が、「讃美歌を歌おう」という主題で行われ、私も出席しました。赴任して2年目の牧師にどうして「讃美歌を歌おう」という主題にしたのか、と聞いたところ、この教会に赴任し、礼拝に出席して気づいたことがある、それは讃美歌を歌う声が小さいので、もっと大きな声で讃美歌を歌う教会でありたいと思って、この主題にしたと語ったのです。

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」「ほめたたえる」とは、神を讃美することです。讃美歌を大きな声で歌う、それは私たちの信仰を表すものです。初めて礼拝に出席した人は讃美歌を歌いませんし、讃美歌を歌うことに抵抗を持つのです。キリスト教大学では、大学の礼拝に出席するように要請され、毎年4月には、多くの新入生が礼拝に出席します。私がキリスト教概論を教えていた大学の礼拝の中で讃美歌を歌うのですが、ほとんどの新入生が讃美歌を歌わないのです。歌わない理由を考えてみると、それは礼拝で歌う経験がないこと、学生が歌ったことのない知らない歌であるということ、自分の中に讃美歌を歌う必然性がないこと、が挙げられます。

 しかし、私たちには、讃美歌を高らかに歌う必然性があります。それは、神を讃美したいと思っている、信仰があるからです。上手に讃美歌を歌うことができなくても、讃美歌を歌うことは、私たちの信仰の表現であり、証であるのです。大きな声で讃美歌を歌うことは、信仰の大きな表現なのです。

 遠藤周作が「沈黙」という小説を書き、映画化されましたが、二度目の映画の時に、一人のキリシタンの老人が、踏み絵を踏む場面があります。この老人が踏み絵を踏む様子を見ていた奉行が、ためらいながら踏んでいる様子を見て、「おまえはキリシタンだ」と決めつけ、この老人は、海辺に連れて行かれるのです。波が打ち寄せる海辺に十字架につけられ、縄で縛られて海の波が次第に迫って来る中で、一人のキリシタンの老人が、カトリックの聖歌を歌いながら、海の中に沈んでいく場面がありました。カトリックの聖歌を歌いながら、殉教していく姿が印象的でした。苦しい時にも、死ぬ間際にも神を讃美していくのです。私たちは、神を讃美する歌を歌うのです。
 
 ペトロの手紙一1章3−4節には「神は、豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」とあります。「生まれさせ」と言う言葉は、洗礼のことを意味しています。牛込払方町教会の教会名簿には、誕生日の日付けが書いてあり、氏名、住所、電話番号の後に、洗礼を受けた日、信仰告白をした日が書いてあります。「わたしたちを新たに生まれさせ」と言うのは、洗礼のことを指しているのです。

 私たちには、自分がこの世に命を与えられた誕生日があります。それだけではなく、洗礼を受けた日をもっているのです。それぞれ洗礼を受けるようになった動機や経過は異なっていても、洗礼を受けた事実は変わらないのです。洗礼と言うことは、今まで生きてきた人生を終えて、新しい人生に変わることなのです。人が死ぬと湯灌をします。赤ちゃんが生まれると産湯で身体を洗います。洗礼は、死と誕生を同時に行うことです。今まで生きてきた生活、それは、神から遠く離れていた生活であったのです。羊飼いのもとから羊が離れてしまって、羊の姿が見えなくなるのです。羊飼いが見失った羊を捜していく、探し当てて、羊飼いが羊を抱いて、羊の群れのところに連れて行くのです。

 パウロは、洗礼について、ロ−マの信徒への手紙6章1−4節で、次のように語っています。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきであろうか。決してそうではない。罪に死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」洗礼を受ける前は、自分中心に生活をしていたのですが、洗礼を受けた後には、キリストと共に生きる、新しい生活になるのです。その生活は、いつもキリストと共に生きる生活なのです。

 洗礼を受けるようになったことは、自分の努力や良い行いによるのではなく、ただ「神の豊かな憐れみによる」ことなのです。洗礼を受けるようになったのは、自分の努力による、と思うかも知れないのです。教会に通い、礼拝に出て説教を聞く、そして聖書を読んで、祈る、そして、洗礼を受ける決心をする、それは皆、人間の努力によると考えます。しかし、「神の豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」とあって、私が自分の意志で洗礼を受けた、ということではなくて、神がすべてを主導し、私たちの決心よりも先に、私たちを選び、洗礼へと導いてくださったのです。

 私が高校生の時まで通っていた栃木の鹿沼教会には、目の不自由な信徒が四名おりました。鹿沼教会には、目が不自由な信徒のために点字の聖書が備えられていました。私は、小さい頃から目の不自由な人を見ていたので、町を歩いていて、目の不自由な人が歩いていると気になるのです。

 ある時、JRお茶の水の駅前を歩いていたら、白杖をもって歩いている人が、駅の前にある花壇に踏み込んだことに気づいたので、その人のところに行って、ここは花壇なので入れません、と言ったら、その方はわざとそうしているのです、普通に歩いていると、みんなが目的地に行けると思って、誰も自分に注意を向けないので、時々、わざと、目立つようにこういうことをしているのです、と言いました。自分の目が不自由で、歩いて行くことも困難である、そばを通っている人たちがそのことに気づいても、何もしないことが多いのです。目が不自由な人が、白杖をもって歩いている、大丈夫かな、と思いますが、自分がその人に関わることはないのです。この人のことを思うだけではなく、同行してくれる随伴者が必要なのです。

 最近、朝日新聞の投書欄に「『何があったら助ける』では遅い」という、投書がありました。投書した人は、29歳になる保育士です。電車のホ−ムで電車が来るのを待っていたところ、「白杖を持つ男性が来られた。到着する電車のドア前あたりに立たれたが、私は特に気にせずにいた。乗る際に何か困ったことがあれば、声をかけようと思っていた。もうすぐ電車が来る時。後ろに並んでいた女子高校生が『ここは電車から降りる人がたくさん来ます。危ないですのでこちらにどうぞ』と声をかけ、男性の腕を持って後ろへ誘導。男性は『親切にありがとう』と笑顔でこたえていた。私はハッとした。『何かあったら助ける』では遅いのだ。人の乗り降りが多いことは知っていた。にもかかわらず、私は困ってから助けようとしていた。電車を降りる大勢の人にぶつかるかもしれないと予測できたはずなのに。周囲にもそう考える人はいただろう。勇気を出して声をかけた高校生に尊敬の念でいっぱいだ。」

 この投書を読んだ時に、白杖をもった男性に対して、保育士と女子高校生との対応が違っていたことに気がつきました。この保育士は、白杖をもった男性に対して、これからどのようなことが起こるのか、現実的な想像力をもってこの男性を見ていなかったのです。「何かあったら助ける。」と思ったのです。私たちも、白杖をもった人を見かけたとき、歩いて行けるのだろうか、特に駅のプラットフォームで歩いているのを見かける時、線路に落ちないだろうか、とは思いますが、その人のそばに駆けつけて、「お手伝いしましょうか。」と声をかけることはしないのではないでしょうか。白杖をもった人に対して少しは関心をもっているけれども、その人を助けることはしないのです。この保育士は、何かあったら助ける、と善意を持っていましたが、この白杖の男性に対して深く関わろうとはしなかったのです。しかし、女子高校生は、この白杖をもった男性がこれからどうなるのか、吟味して、助ける方法を考えて実行するのです。

 私が北九州のいのちの電話の傾聴ボランティアをしていたときに、ある時、ボランティアのための研修会がありました。その時に、「現実吟味」と言う言葉を知りました。例えば、学校でいじめられている電話があった時に、その悩みを十分に聞くことだけではなくて、いじめを解決するためにその解決方法を一緒に考えるのです。いじめられている時に、先生に相談することができないか、親に伝えたら、どうなるのか、心配している友達はいないのか、と一緒に解決を探っていくのです。なかなか、解決することができないけれども、解決する手立てを一緒に考えるのです。相手の苦しみを受け止めながら、一人の友人として一緒に悩むのです。

 洗礼を受けて、新しく生まれる、その生活は、いつでも神が自分に身を向けて愛していることを信じているということです。神がいつも自分のことに関心をもって身を向けている、そのことを信じているのです。いつも自分のことを気にかけている神がいることに慰めを見出すのです。

 本日の礼拝で、詩編34編1−11節のみことばを読みました。34編5−8節には、「わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。主を仰ぎ見る人は光に輝き 辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。」私たちには常に私たちのために愛をもって支え、助ける神がおられるのです。

 ペトロの手紙一1章3節後半には「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」と語られています。「生き生きとした希望を与え」と語られています。ゴルヴィッツァ−と言うドイツの神学者がこの聖書のテキストを黙想しています。この「生き生きとした」という言葉を次のように解説をしています。「それはちょうど『生きている水』が、永遠の泉から絶えず新鮮に流れ出しているのと同じである。『いきいきと生きている』という表現は、ある状態を描写しているというよりも、それ自身に安んじて生きていることを語っているのである。」生き生きとした希望を与えるということはどのようなことを語っているのでしょうか。それは、神が私たちに対していつも身を向けて愛しておられる、そのことに依り頼んで安心している、そのことを語っているのです。私たちは、キリストに希望をもっているのです。神が私たちを限りなく愛しておられる、そこに希望の根拠を持つことができるのです。

 ペトロの手紙一 1章4節には「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」と語られています。お金や家、土地などの不動産などを所有していると安心するのですが、そのようなものに依り頼むのではなくて、神が与えて下さる財産、それは、神の愛と恵みと言う永遠の財産のことです。いつも礼拝の終わりの時に「祝祷」をしています。この頃は「祝福」と呼んでいる教会も多いのです。

 民数記6章24−26節(旧約p221)に「アロンの祝福」が記され、この祝福を礼拝の終わりに宣言しています。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」主なる神が、いつも私たちに愛をもって御顔を向けてくださるのです。この祝福が、私たちの財産なのです。お金を使えばなくなり、不動産は、他の人の所有に移ってしまい、自分のものでなくなることがあります。しかし、神の祝福は、変わることなく、いつまでも与えられるのです。

 ペトロの手紙一が書かれた頃から、キリスト教会は、ロ−マ帝国による迫害が激しくなり、地下の墓場で礼拝を守る時が長く続いたのです。6節には「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と語られています。迫害の時は、これから長く続く、どうしようと思い悩んでいた信徒たちに、「今しばらくの間」と語るのです。ある黙想では、「今しばらくの間」という言葉を、「ほんのわずかの間」と解釈をしています。「しばらくお待ちください」と言われると、どのくらい待つのか、5分なのか、20分なのか、と思います。試練に悩む時間は、しばらくであるかもしれないのですが、神がいつも共にいてくださるので、「ほんのわずかの間」なのです。一人で電車に乗っている時には、時間は長く感じますが、同じ時間でも、人と話していると、長くは感じないのです。

 いつも、神は私たちを憐れみ、いつも愛をもって身を向けて相手にしてくださる、私たちは、そのことを信頼して歩むのです。

20220807  主日礼拝説教  「天を足場にして生きる」  山ノ下恭二牧
(出エジプト記24章3−8節、ペトロの手紙一1章1−3節)


 キリスト教会の礼拝説教には、説教題があります。説教題をつけない教会もありますが、多くの教会では、礼拝説教に題をつけています。私は、聖書のテキストは決まっているのですが、どのような説教題をつけたら良いのか、悩むことが多いのです。説教題は説教で語るメッセ−ジと深く関連しています。メッセ−ジがはっきりしないと説教題はつけられないのです。語りたいメッセ−ジにふさわしく、また、人々が説教題を見て、聞いてみようと思う題をつけるのが良いとなると、考えあぐねて説教題がなかなか決まらないことも多いのです。

 本日の礼拝の説教題を「天を足場にして生きる」という題にしました。皆さんは、この題を見てどのようなことを思うでしょうか。この説教題を見て、「なんだ、これは」と思う人がいるかもしれません。よく考えてみれば、意外な題だと思う人もいると思います。「天を足場にして生きる。」この説教題を見て、そんなことができるのか、と思うのです。この題は、自分の常識とは違うという違和感を持つと思います。

 教会の近くでマンションの建設工事をしている現場には、足場が組まれていて、下からしっかり固定されて建設が行われているのです。私たちが立つことができるのは、地面があるからです。土台がしっかりしていると崩れないのです。

 しかし、「天を足場にして生きる」のです。私たちキリスト者の信仰生活は、天を足場にして生活しているのではないでしょうか。それは私たちがいつも天を仰いで生活しているからです。私たちはいつも天におられる父なる神に祈っています。天におられる父なる神よ、と呼びかけ、祈り、祈りの相手である父なる神と親しい交わりをもっていますし、神の言葉である聖書の言葉を聞いて生きているのです。

 本日の礼拝から、ペトロの手紙一を学び始めます。皆さんとご一緒にペテロの手紙一を読みながら、豊かな恵みを与えられたいと思います。

 この手紙の初めに「イエス・キリストの使徒ペトロ」と書いてあります。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書には、ペトロのことが詳しく記されています。ペトロという人は、主イエスの弟子としていつも主イエスのそばにいましたが、イエスに褒められたことは余りないのです。何度も失敗を重ねてきた人物です。皆さんがよく知っているのは、主イエスが十字架に架かる前に、主イエスがペトロに、ペトロが主イエスを三度、知らないと言うだろう、と予告され、ペトロは、そんなことはない、と否定しながら、実際には、ペトロが主イエスを知らないと三度、言ってしまい、激しく泣いたことです。そのような人が、キリストの使徒とされたのです。主イエスの弟子でありながら、失敗していたペトロが使徒となった、と言うことに、ペトロ自身、深い感慨をもったことだと思います。ペトロは、多くの失敗を重ねているのに、神の憐れみにより、今、自分がキリストの使徒として、各地の教会に手紙を書いている、そのことに驚いているのです。

 ペトロは、大使徒たちと呼ばれている一人であったのです。(コリント二 11章5節)ペトロ自身、そのように呼ばれるようになったのです。キリスト教会の伝統では、ペトロは、カトリック教会で、最も重要な人物とされているのです。カトリック教会の中心になっているヴァチカンは、殉教したペトロの墓のあるところにあります。そして、カトリック教会は、ロ−マ教皇がペトロの使徒の継承者であると位置づけているのです。教会の権威は、キリストにあるのですが、人間として、それを代表するものは、ペトロであると考えているのです。私たちプロテスタント教会は、教皇制を認めていませんが、ペトロが重要な人物であるとことに異論はありません。

 皆さんは、ペトロが、主イエスに出会う前に、ペトロが何をしていたか、ご存知であると思います。ペトロは、ガリラヤ湖の漁師であったのです。ある日、いつものように漁をしていると、突然、主イエスが来られて「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、彼は、舟をすて、父と雇い人を舟に残したまま、キリストに従ったのです。このことは、主イエスから受けた印象が、ペトロにとって強烈であったことをよく示しています。

 ヨハネによる福音書では、ペトロが、主イエスと出会う経過について、これとは異なったことを記しています。ペトロの兄弟アンデレが、ペトロを主イエスのところに連れて行ったのです。すると主イエスは、ペトロに対して、今までは、シモンという名前でしたが、これからは、ケファという新しい名前を付けるのです。ケファというのは「岩」という意味ですが、ユダヤ風の名前ではなくて、ギリシャ風に言い直して「ペトロ」と呼ばれるのです。「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ−『岩』という意味−と呼ぶことにする』と言われた。」(ヨハネ1章42節)シモンはケファ、ペトロと言う新しい名前を主イエスから与えられたのです。

 新しい名前を与えられて、ペトロは、今までの生活を止めて、全く新しい生活、キリストに従う生活へと大きく転換したのです。主イエスから、新しい名前を戴いた、主イエスを信じ、従う生活を始めたのです。

 ペトロはなぜ使徒と呼ばれるようになったのでしょうか。使徒とはイエス・キリストをはっきりと目で見た人、その言葉を耳でじかに聞いた人のことを指します。イエス・キリストの十字架の死を目の当たりに見た人、イエス・キリストが復活されたことを見た人のことを言います。

 ペトロにとって、人生の転機となった大きな出来事があったのです。ペトロが漁師に戻ってガリラヤ湖で漁をしている時に、復活された主イエスがペトロに近づいて、改まった口調でペトロに語りかけるのです。主イエスは、今でも、主イエスを愛しているのか、と問いかけます。それも三度、問いかけられて、ペトロが主イエスを愛しているとはっきり答えています。主イエスは、「私の羊を飼いなさい。」と語ります。これは、教会のために労苦し、教会に集まっている信徒の信仰を養いなさい、と語っているのです。そして主イエスは、年を取ってからは、ペトロの行きたくないところに連れて行くであろうと、言われたのです。ヨハネによる福音書は、このことを説明して、これは、ペトロが殉教することを予告されたと書いています。

 ペトロは、主イエスに招かれて、弟子となりましたが、人間としての弱さを抱えていたのです。しかし、主イエス・キリストは、そのようなペトロを見放すことなく、使徒として用いようとされるのです。

 「イエス・キリストの使徒ペトロ」とペトロが自分のことを、そのように書いた時に、これまでの自分の人生を振り返りながら、自分が使徒となったことが、神の一方的なあわれみであることを受け止めたのです。そして自分が使徒とされていることに、主イエスに対する深い感謝を表さずにはおれないのです。自分が使徒であること自体に深い喜びをもっていたのです。

 私が北九州の若松教会に在任していました時に、洞海湾の向こう側に、八幡鉄町教会という教会がありました。この八幡鉄町教会は八幡製鉄が近くにあるところでしたが、この教会に村上治と言う牧師が長く在任されていたのです。私がおりました時には、すでに隠退していました。私がおりました時の牧師から聞いた話ですが、村上治牧師が鉄町教会を退任して、隠退する時に、長老会から、先生を「名誉牧師」にしたいと言われたそうですが、「自分は名誉牧師の称号を辞退する。牧師をしていること自体が名誉なことであるからだ。」と言われたそうです。牧師として教会に仕えて来ることができたことは、自分の力ではなくて、ただ神の憐れみによるということである、と言うことなのです。私は、この言葉を聞いた時に、牧師のあるべき姿勢として、教えられたのです。牧師をしていること自体が名誉なことである、この言葉を印象深く覚えています。

 ペトロは、これまで、使徒として、福音を伝えるために、様々な試練や困難に出会ってきたのですが、ペトロが書き送ろうとしている、教会の信徒たちも厳しい試練と困難に直面しているのです。その信徒たちに、慰めと励ましを伝えるために、この手紙を書いているのです。

 「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビティニヤの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」

 ペトロは、この手紙の送り先の信徒たちのことをまず書いています。パウロは「離散している」人たちに書いているのですが、この「離散している」と言うのは、「ディアスポラ」と言う言葉です。この言葉は、ユダヤ人たちが自分の国を離れて、よその国に行って生活をしていたことを思い起こします。また「仮住まい」という言葉は、口語訳では、「寄留」という言葉で訳していますが、自分の本来のすみかではないところに住むことです。本来の住まいは、母国にあり、ここは仮の宿でしかないということです。

 離散している、ディアスポラのユダヤ人、と言い、「離散し、仮住まい」しているのは、ユダヤ人であると考えますが、この言葉は、すべてのキリスト者のことを指しています。ポントスならポントス、ガリラヤならガリラヤに生まれ育って、その土地の人であるにもかかわらず、洗礼を受けたならば、その人にとってその土地は、離散し、仮住まいしているユダヤ人にとってと同じようなものになるのだということを言っているのです。信仰を持つということは、たとえ生まれ故郷で洗礼を受けるということであっても、その生まれ故郷から離れるということを意味するのです。

 ペトロはガリラヤ湖畔の漁師で、ガリラヤ湖畔が生まれ故郷であったのです。しかし、主イエスの招きに従い、網を捨て、家を捨てて、故郷を離れたのです。主イエスが十字架で死んだ時に、故郷に戻りましたが、復活された主イエス・キリストに出会い、生まれ故郷ガリラヤを捨て、ロ−マにまで赴いたのです。

 「使徒」イエス・キリストによって派遣された者、それは主イエス・キリストがここに行けと言えば、そこに行くのです。定住しないのです。

 これは、特別に、伝道者だけのことを言っているのではありません。私たちの本国は天にあるのです。(フィリピ4章20節)ただこの世で愉快に楽しく暮らせばそれで良いと言うのではないのです。

 ペトロは「離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」と語っています。「選ばれた人たちへ」この「選ばれた」という言葉は「引き抜く」という言葉です。信仰を持つことは引き抜かれる、ということなのです。

 自分が今までしっかりと根をおろしていたと思っていた所から、引き抜かれることです。今まで大事にしていたものを失うことは勘弁して欲しい、自分の生活スタイルを壊されるのは困る、自分の都合も考えてくれ、そのような生活を断念することは辛いことです。自分の大切なものは取っておいて、その上に神を信じるというのは楽ですが、それで良いわけではないのです。自分はこれがあれば安心だと言うところから引き抜かれる、引き抜かれて、宙に浮くのか、と言うとそうではないのです。もっと確かな所に根を降ろすことができるのです。もっと確かなところに生きる根拠を置くことができるのです。それは天を足場にして生きることなのです。

 この近くに住んでいて犬を連れて、散歩をしている婦人と話すことがあります。この方は、教会の看板にある、説教題をいつも見て、時に励まされたり、どういう意味だろうか、と思ったりするそうです。8月3日の水曜日にス−パ−で偶然、この婦人に会いましたら、この婦人が本日の説教題を見て、意外に思ったそうです。天を足場にする、そんなことできないのではないかと言っていました。この近くのマンション工事では足場を組んでいくのです。足場を組む、それはその土地に立脚できるようにするためです。ところが、土地ではなくて、天を足場にする、それはどういうことだろうか、と思ったのです。

 私の先輩の牧師から、教会を退任する時に、自分の説教や講演を選んでまとめた本を戴いたのですが、その題は「天に錨を投ずる」という題でした。この題を初めて見た時に、私はどういう意味だろうか、と思いました。この本の題の意味を考えて、少し、分かるようになりました。船が海の中で揺らぐことがないように、錨を降ろして固定する、そのように、天に錨を投げて、天におられる神を生きる根拠にして、天におられる神を仰ぎながら生きて行く、そういう意味かなと思いました。また、教会は船に譬えられているので、迫害などの暴風などが襲ってくる時にも、錨を降ろしているので、揺らぐことがない、教会は、天におられる神の愛に信頼しているので、迫害や困難に直面しても、耐えながら、進んでいくことができることを言おうとしているのではないか、と思いました。

 1章2節に「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血をそそぎかけていただくために選ばれたのです。」と語られています。

 この言葉の中で、理解をするのに難しい言葉は「その血をそそぎかけていただくために」と言う言葉です。この言葉は、本日読みました、出エジプト記24章8節の言葉が背景にあるのです。私たちが、神から遠く離れて、神を忘れて暮らしている、そのような私たちのところにキリストが来て下さり、その罪を十字架において、血を流して死んで下さった、血が多く流されればいのちを失い、死んでしまうのですが、主イエスがいのちを捨ててくださった、そのいのちである血が私たちに注がれるのです。このことは、神の恵みはいつも私たちに注がれ、神の恵みは変わることがないことを語ろうとしているのです。

 私たちは、この地上を生きる根拠とすることなく、天におられる父なる神を仰ぎながら、天を足場にして歩むことができるのです。

20220731  主日礼拝説教  「イエス・キリストの恵みによって歩む」  山ノ下恭二牧師
(ミカ書7章8−9節、テサロニケの信徒への手紙一5章23−28節)


 5月15日の礼拝からテサロニケの信徒への手紙一の説教を始めましたが、この手紙の説教は、本日の礼拝で終わります。この手紙は、パウロが書き送った最初の手紙であり、新約聖書の文書の中で最も早く書かれた文書です。この手紙は、キリスト教会の初めの頃の生き生きとした教会の様子がよく分かる手紙です。この手紙を読むと、伝道者パウロとテサロニケの教会の信徒たちとの間に、心が通い合う良好な関係を持っていたことが分かります。

 使徒言行録によれば、パウロがマケドニアに出かけたのは、幻によってマケドニア人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください。」(16章9節)と言うのを聞いたからです。そこでパウロはマケドニアに向けて出発し、最初にフィリピに行ったのです。ギリシャに渡って最初に伝道したのは、フィリピでしたが、このところで迫害を受けて、このテサロニケの町に来て、数ヶ月に渡ってこのところで伝道をしたのです。洗礼を受ける者が与えられ、教会の人数が増えたのです。ところが、ユダヤ人がパウロの伝道を妬んで暴動を起こし、パウロは夜陰に乗じて、夜逃げをして、アテネを経てコリントの町に行ったのです。 数ヶ月、テサロニケで伝道したに過ぎませんが、福音を伝えた結果、洗礼を受ける信徒が与えられたのです。

 パウロは、自分がテサロニケを離れた後に、教会の状況がどうなっているのか心配をして、再び、テサロニケを訪問したいと願っていましたが、訪ねることができないので、代わりにテモテを派遣して訪ねてもらい、テモテがコリントに帰ってきたので、テモテから報告を聞いたのです。テモテの報告によって、信徒たちの信仰生活が充実し、信仰的に成長していることを知り、とても喜んで、パウロはこの手紙を書き、信徒たちを励まし、慰めているのです。

 パウロは、ロ−マの市民権を持ち、ギリシャ語を話すことができましたが、ギリシャに行くのは初めてであったのです。見知らぬ異教の土地に行くことはとても大変でしたが、ただ神の聖霊の促しによることであったのです。キリストを伝道するために行った先で何が起きるのか、分からないのです。パウロの話など聞く人はいないし、聞いたとしても、キリストを信じことになるのかは、分からないのです。

 私は、東京神学大学を卒業して、岡山の蕃山町教会に赴任して、3年間、副牧師を経験したのですが、ある時、一人の婦人が、私に「牧師の仕事は報いがない仕事ですね。」と言われたことをよく覚えています。聖書の話をして、話を聞いてくれても、キリストを主と告白して洗礼を受ける人はまことに少ないのです。この当時、蕃山町教会は、岡山市内に6箇所の家庭集会があり、一カ月に6つ家庭集会をしていました。この家庭集会に、5人から10人ぐらい求道者が集まり、聖書の話をしていました。家庭集会によって異なる聖書の箇所を話すのです。牧師と副牧師が家庭集会を分担せずに、二人が同じ家庭集会に一緒に行きましたので、とても忙しい毎日でした。家庭集会をしても、教会の礼拝に来るようになり、洗礼を受ける人はほんとうにわずかです。その意味では、徒労に終わる仕事であると言って良いのです。

 パウロは、テサロニケで数ヶ月しか、伝道活動ができなかったのですが、伝道の実りが与えられて、その信徒たちが、信仰の成長を遂げていることを聞いて、とても喜んで手紙を書いているのです。パウロの福音を聞いたテサロニケの人々が、その福音によって、変わったのです。生活が変革されたのです。それは、福音によって自分の中に出来事が起こったのです。

 パウロが伝道者となったのは、イエス・キリストを信じることによって、生き方が180度、変革されたからです。パウロは、ユダヤ教の教えに忠実に従う生活をしていました。律法を厳格に守ることが正しい信仰であると思い込んでいたのです。しかし、イエス・キリストによってパウロは劇的な変化を遂げるのです。

 律法を忠実に守る生活から、イエス・キリストの恵みによって生きる生活へと変革されたからです。パウロはキリスト者を迫害している急先鋒であり、ダマスコに向かう途中で、主イエス・キリストから声をかけられたのです。

 使徒言行録9章4−6節(p229)「サウルは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」

 パウロにとっては、この出来事によって、キリストへと180度の転換をすることができたのです。このことが、パウロに変革をもたらしたのです。パウロはユダヤ教徒としての誇りをもっていました。しかし、それは今では全く意味をもたないものになったのです。フィリピの信徒への手紙3章7−8節でパウロは告白しています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失であると見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。」

 テサロニケの信徒への手紙一1章5節で、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」と語られています。この「伝えられた」と言う言葉は、パウロが福音を伝えた、と言う意味よりも、パウロが伝えた福音を聞いた者に起こった変化を意味するのです。岩波訳では「なぜならば、私たちの福音はあなたがたの中で、ただ単に言葉においてではなく、むしろ力と聖霊と多くの確信において、出来事となったのだからである。」とあります。キリストの福音を聞いて、聞き手に「出来事」が起こるのです。福音を聞くことによって自分の中に出来事が起こり、心の中に変化が起きるだけではなく、行動が変わるのです。説教を聞いて、この聖書の言葉はそういう意味なのか、と理解する、そういうことではなくて、福音が自分に語られている、自分に向けて語られている、イエス・キリストが私を愛していることが分かってきた、そのような変化が自分の中に起こるだけではなく、生き方が変わるのです。のです。心の中の変化だけではなく、福音を聞いて、今までの生き方と異なった、新しい生き方をするようになったのです。

 日本、韓国、台湾のキリスト教会とキリスト者を比較して、ある人は、日本の教会は考える教会、韓国の教会は祈る教会、台湾の教会は讃美する教会と批評しています。日本の教会は、説教を聞いて、いろいろ考える、示唆を与えられる、ある時は良い話だと思った、今日の説教は難しかった、それで終わる、そういう教会であると言うのです。キリストの福音を聞いて、家族に、一度で良いから、教会に来てみたら、とは言わないのです。行動まで行かないのです。キリストの福音を聞けば、この福音を伝えたいと思うはずなのです。神の言葉を聞いて従う生活に変わるのです。

 6−7節には「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」そして、福音を聞いて、心の変化が起こり、生き方も変わり、御言葉を受け入れ、そして模範となったのです。福音が伝えられることは、このように福音を受け入れた者が生き方において、みんなの模範になるような変化を見ることができるのです。

 この手紙には、パウロの感謝の言葉が多く書かれています。1章1節の挨拶の後に、2−10節には、感謝の言葉が長く記されています。1章2節には「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも感謝しています。」と述べて、テサロニケの信徒たちが、信仰、希望、愛の生活をしていることに感謝しています。信仰とは、キリストにおいて神が働くことへの信頼であり、その信頼をもって生活することです。愛とはキリストを通して生じる、神と隣人との関係であり、その愛をもって労苦することです。希望とはキリストにおいて始められた働きを神が完成してくださることを信じることです。この希望をもって今の困難においても忍耐することができるのです。テサロニケの信徒たちが、洗礼を受けて、信仰、愛、希望に生きているそのことをパウロは、神に深く感謝をしたのです。

 パウロは雄弁家ではないのです。パウロの話が長く続くので、エウティコという青年は眠りこけて三階から転げ落ちてしまったのです。パウロの話下手はコリントの手紙にも書いてあります。話下手のパウロの説教をテサロニケの人々は、真摯に受け止めたのです。そのことはパウロにとっては、大きな喜びであったのです。2章13節に「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いていたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

 テサロニケを離れた後、アテネに行き、アテネの広場でキリストの復活の説教をして伝道をしたのですが、パウロの説教を聞いたアテネの人々の反応が記されています。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。」(使徒言行録17章32−33節)アテネの人々は、パウロの説教を受け入れなかったのです。それでパウロは、アテネでの伝道を断念して、コリントへ行ったのです。しかし、テサロニケの信徒たちは、パウロの説教を神の言葉として受け入れたのです。そのことにパウロは深く感謝をしているのです。

 私がトルコに旅行に行きました時に、トルコのエフェソで、アルテミスの女神像を見たことがあります。このアルテミスの女神像は、全身が女性の乳房で覆われている像で多産の神を意味しているとのことでした。また、土産屋には、大きな目玉が書いてあるホルダーをたくさん売っていました。ギリシャには、トルコよりももっと多くの偶像が町のあちこちに立っていたのです。そのような風土の中で「偶像」崇拝が行われており、テサロニケの信徒たちは、その中で、その偶像礼拝をきっぱり止めて、真実な神を礼拝することに変わったのです。金、銀、銅で飾られた、もの言わぬ、人格がなく、語りかける言葉もなく、何の力もない、偶像ではなく、「生けるまことの神に仕える」ようになったのです。神が、イエス・キリストによって、私たちの罪を贖い、赦す、真実な神に仕えるようになったのです。

 テサロニケの信徒たちが「偶像から離れて、神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」のです。偶像をこの目で見て、神がここにいることを実際に体験したいという欲求を多くの人々は持っています。見ないで信じることは難しいので、目に見える偶像で自分が神を把握したいという願いがあるのです。しかし、テサロニケの信徒たちは、偶像の神々が、人間の必要に応じて自分に便宜を図り、御利益をもたらす、そのような御利益の神々を捨てたのです。

 テサロニケの信徒たちは何が変わったのでしょうか。それまで、家族という血縁でつながり、同じ土地に住んでいる地縁でつながっていたのです。しかし、キリスト者となって血縁や地縁などの自然な絆よりも、神を中心とした、愛の絆でつながるようになったのです。

 パウロは、3章12節で兄弟愛について次のように祈っています。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かにみちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」

 地縁、血縁と言う自然な関係によって結びつく関係ではなく、キリストの愛を媒介にした「兄弟愛」「隣人愛」によって結びつく共同体ができつつあったのです。私たちは、血縁や地縁を大切にするのですが、キリストの十字架の愛によってつながっている新しい関係に生きるのです。地縁や血縁という自然な関係ではなく、キリストの十字架の愛によって結びつくのです。

 この手紙の終わりには、テサロニケの信徒たちのためのパウロの祈りが記されています。

 5章23節「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださるように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」

 平和とは、神と私たちの間に和解が成り立っていることです。神がまず手を差し伸べて、神を忘れている、多くの罪をもっている私たちを赦し、受け入れて下さったのです。私たちが神によって完全に受け入れてくださったことを知る時に、神との間に平和が打ち立てられているのです。この恵みが与えられていることを心に留めることができます。

 このパウロの祈りにおいて、再臨の時、つまり、キリストが再び、私たちのところに来られる時を自覚して、私たちが、キリストと共に生き、信仰、愛、希望に生きるように、と祈っているのです。

 「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」

(WEB礼拝) 
20220724  聖霊降臨節第8主日礼拝説教  「聖霊の火を消すな」  山ノ下恭二牧師
(エゼキエル書37章1−6節、テサロニケの信徒への手紙一 5章12−22節)

2022年7月24日(日) 牛込払方町教会 聖霊降臨節第8主日礼拝 式次
(WEB礼拝のページ)

 
黙祷
礼拝招詞    「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」  (詩編124編8節)

讃詠       83−1 
使徒信条
交読詩編    16編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      351−1   

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           エゼキエル書37章1−6節 (旧約1357ページ) 
           テサロニケの信徒への手紙一 5章12−22節 (新約378ページ)

祈祷      (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌      342−1    

説教        「聖霊の火を消すな」 山ノ下恭二牧師
            以下、声に出して読んでください。

 洗礼を受けたいと申し出る人がいると、洗礼を受けるための準備会をいつもしています。洗礼を受けることは、教会に入会し、教会生活を始めることになるので、教会生活について話すことになります。そのために、私は、教会生活について書いてある本を読むことがあります。古屋治雄著「教会生活ハンドブック」には、「礼拝」「聖礼典」「祈りの生活」「聖書を学ぶ生活」「教会の諸活動」「献金について」の解説が書かれています。教会生活を始める時に、教会生活の道しるべとなるような本を読むとわかりやすいと思います。

 本日の礼拝において、テサロニケの信徒への手紙一5章12−22節の御言葉を読みました。テサロニケの教会に集う信徒たちは、洗礼を受けて間もない信徒たちばかりでしたので、パウロは、これらの信徒たちに教会生活の基本となるあり方を書いているのです。
 
 パウロは、この手紙で、教会生活ハンドブックのように、礼拝や聖礼典、祈り、教会の活動、献金について詳しく書いてはいません。教会で生きるための基本的な姿勢について何が重要であるか、そのポイントを語るのです。神との関係で、どのように生きるのか、霊的なあり方を語ります。それは、5章16−18節に語られている言葉ではっきり分かります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 私たちは、いつも喜び、絶えず祈る、どんなことにも感謝する、そのようなことはできないと思うのです。私たちには、喜ぶことができない出来事や困難な問題に直面することが多くあります。しかし、ここでは、主イエス・キリストが共にいてくださると信じて喜ぶことができると語るのです。神から離れていた者を、罪深い者を赦し、愛して下さる、そのキリストと共にあることを受け止める時に、喜ぶことができるのです。「絶えず祈りなさい。」私たちには、祈れない時もあるのです。岡山に在任しておりました時に、教会報に私が「神はいつも私たちに祈りを求めているので、祈るのであって、困った時の神頼みのような祈りをするのはどうだろうか」と書いたのですが、この文章を読んだ、ある男性が、困った時に祈ることは許されているのではないか、と話したのです。それは、最近、息子さんが交通事故で亡くなって打ちひしがれていた、その時に神さまに「助けてください」と祈ったことがあり、こういう祈りはいけないのか、と言われたのです。そのように言われて、神が求めているから祈るだけではなく、困っている時や助けを求めている祈りも良い、と思うようになりました。どのような状況でも、絶えず神と祈りでつながっていることが大切なのです。

 「どんなことにも感謝しなさい。」自分にとって良いことでない時にも「神さま、ありがとうございます。」と言わなければいけないのか、と思います。病気が治らないで苦しんでいる時に「感謝だ」ということは無理であると思うのです。しかし、イエス・キリストが共にいて助けてくださるので、この世の生活には、自分にはマイナスであるように思えても、このことは自分にとって意味があることだと受け取ることができるのです。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というこの言葉はパウロにとって大切な言葉だったのです。パウロが晩年にフィリピの教会に送った、フィリピの信徒への手紙4章4節と、4章6節後半に、同じ言葉が書かれています。4章4節には「主において常に喜びなさい。」4章6節後半に「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」と勧められています。この手紙は、パウロが獄に捕らわれていた時に書いた手紙であり、自分の死を予感している時に、この言葉を伝えているのです。悠々自適な生活をしているのではなくて、だれも望んでいないような境遇に置かれていた時に、パウロが、喜びと祈りと感謝について語っているのです。順調な時も、逆境な時も、一貫して語り続けたのです。

 5章19節には「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。神が私たちにひとつのことをお求めになるのです。それが喜びであり、祈りであり、感謝なのです。良いことを言っているから、どれか、一つのことを選んでしようというのではないのです。不平不満が多いから、「感謝をしよう」「ありがとう」と言うように心がけようというのではない、喜びと祈りと感謝、この三つのことは、イエス・キリストが私たちに求めていることなのです。

 19節には、「聖霊の火を消すな」と書いてあります。「消すな」と言うのですから、「聖霊」が「火」にたとえられています。このことは、聖霊が生きて働いている、ことを意味します。いつも喜べ、絶えず祈れ、どんなことでも感謝せよ、と言われても自分にはそのようなことはできない、と思うのです。神に向かう心が冷え切ってしまうことがあります。教会のキャンプで、キャンプファイア−が終わると、燃えている火に水をかけて消してしまう場面があります。燃えている火に水をかけて消してしまうように、私たちも信仰の火を消してしまうことが起こるのです。

 ドイツでの話ですが、ある老婦人が最愛の夫を亡くして打ちのめされていたそうです。そこに牧師が訪ねて来たのでその婦人が夫を亡くした悲しみを話したのです。この婦人が「先生、私は悲しくて神に祈ることができない」というと牧師はうなずいて、黙ってこの家を去ったそうです。その数日後、あるカトリックの神父がこの婦人の家を訪ね、この婦人が「自分は悲しくて神に祈ることはできない」と言ったことに対して、「祈れないことはない。あなたはキリスト者でしょう。いつも祈っているではないか。主の祈りは祈れるはずだ」と言って一緒に主の祈りを祈ったそうです。そしてこの婦人はプロテスタントの信徒でしたが、カトリック教会に転会したそうです。

 神に向かう心が冷え切ってしまうことがあります。聖書を読む気持ちにはならない、祈りたいと思わない、神が自分を愛しているとは思えない、そのように、神に向かう心が失われていくのです。しかし、聖霊によって神が生きて働いておられることを信じることができるので、絶えず祈ることができるのです。神が聖霊において、私たちの祈りをいつも聞いて下さっているのです。現在も働いておられる聖霊の神を信頼して喜び、祈り、感謝することができるのです。

 教会はただ、人々が集まっている集会ではありません。人間の考えや思いが中心になるところではありません。いつも礼拝において、使徒信条を告白しています。使徒信条には「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会」と告白されているのです。人々が集まってそれぞれ好きなことをする団体ではないのです。聖書の話を聞きに来る集会ではないのです。聖霊の共同体なのです。パウロが、力を注いだことは、聖霊による信仰者の共同体を作ることでした。トルコ、ギリシャの各地にキリストの教会を作り、そこを拠点として伝道を進めることを考えていたのです。パウロは、教会が単なる人の集まりではなく、人間の考えを中心にした団体でもなく、聖霊に生きる群れを作ることを考えていたのです。

 テサロニケの信徒への手紙一4章までは、テサロニケの教会の信徒たちが質問をしたことに答えてきたのですが、この手紙も終わりに近づき、教会生活において重要なことについて語る必要があったのです。教会が礼拝、牧会、伝道を安定して続けるためには、教会内部で混乱もなく、内輪もめもなく、御言葉が語られ、聖餐が行われ、互いに愛し合うことがとても重要であるのです。聖霊による喜びをもって生きる信徒がいなければ、礼拝も牧会も伝道もできないのです。

  そこで、5章12−13節で次のように語られています。「兄弟たち。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれたものとして導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。」


 「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれたものとして導き戒めている人々」とありますが、この人々とは、今の私たちの教会にあてはめてみれば、長老という務めにあたる人々のことです。この当時、今日のような長老選挙をして長老を選んだわけでもなく、使徒が長老を任命していたと考えます。教会と言う信仰の共同体が成立するためには、指導者が必要であったことは確かです。

 私たちの教会は教会総会で、長老を選んでいます。この長老は、教会員の意見代表ではなく、礼拝、伝道、牧会など、教会の務めを担うために、牧師を補佐して協力して行う務めを持っています。長老の選出は、国、県、市の選挙と異なり、みんなから選ばれた、自分が選んだということに中心があるのではなく、神がこの人を長老として立てた、と言う信仰が中心なのです。

 「あなたがたの間で労苦し」とあります。長老の務めは、多くの仕事を引き受けており、労力と時間が多くとられるのです。選挙で選ばれて、長老を引き受けることは、とても大変です。長老は、それぞれこの社会で職業をもちながら、教会の仕事を引き受けているのです。また教会学校の教師をも兼務しているのです。「労する」という言葉は、パウロが伝道をしていく時に味わった「労苦」と同じ言葉です。長老は、伝道者と同じ労苦を担っているのです。「導き戒めている人々」とありますが、「導き戒めている」と訳されている言葉は、「心を配る」「心を砕く」と言う言葉です。牧師と協力して、牧会などを行うのです。信徒への心配りを行うのです。

 私たちが長老選挙の時に、自分がこの人を選んだ、そのような意識でいることがありますが、そうではないのです。教会員がこの人を長老とし選挙して認めるのだけれども、そのような手続きによって、実は神がこの人を長老として立てたという信仰が大切なのです。

 それは、牧師についても同じことを言うことができます。教会は牧師を招聘したけれども、それは教会員がその牧師の招聘を認めたから牧師が教会で仕事をしていると言うのではなくて、牧師は神の言葉を伝えるために、この教会に派遣されたと受け取ることが大切なのです。牧師は伝道者としての召命を受け、神学校で福音を把握するために学び、補教師としての准允を受け、正教師として按手を受け、神から派遣されて教会に赴任するのです。

 5章13節に「また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。」とあります。長老は、教会の多くの働きを担っているのです。自分は大変だから長老はしたくない、誰かがしてくれれば助かるというのではなく、教会の様々な働きをしている長老を尊敬することが大切なのです。教会員の皆さんは、長老の働きを覚えて、長老のために祈ることが大切なのです。長老に重荷を負わせて、知らぬ顔ではない、長老に対する尊敬がないところに教会は成立しないのです。長老の務めは、礼拝の司式や教会員への配慮など、いくつもの務めを担っている、長老を尊敬することは、その長老を立ててくださる神を重んじることになるのです。

 5章14節から15節には、教会員の教会における働きが書かれています。パウロは、教会のことは牧師や長老に任せてしまえば、それですむということではないことを語っています。教会に生きる者の務めがあることを語ります。

 14節で「兄弟たち」と語り始めます。これは一般の教会員に対しての語りかけです。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人たちに対して忍耐強く接しなさい。」

 「怠けている者たち」と訳されている言葉は、単なる仕事をしないで怠けている、と言う意味よりも、元々、教会で決められた自分がしなければならない「与えられた仕事」をしていない、という意味です。「怠けている者たち」という言葉を、新しい翻訳では「規律なき者」「秩序を乱す者」と訳されています。

 「気落ちしている者」他の訳では「小心な者」と訳しています。この言葉は、生まれつき気が小さいという人だけではなく、むやみに怯えている者、自分に迫る危険にびくびくしている者、その者の傍らにいて、励ますのです。

 「弱い者」というのは、力が弱いという意味よりも、信仰が弱い、キリストの恵みに頼ることができない人たちです。この世の習慣に捕らわれて、自由に振る舞うことができない人たちのことです。

 「すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」戒め、励まし、助ける時に必要なのは、相手を受け入れる広い心です。口語訳では「寛容」と言う言葉で訳しています。私たちは、自分が正しいことをしていると思う、正しいことを主張している時には、自分で気がつかないうちに、相手に対して偏狭になります。信仰的でない人や正しいことをしていない人を退けます。規律を守らない者は相手にせず、気落ちしている者を馬鹿にし、弱い者には叱りつけ、すべての者を除外するのです。力がある者、優れている者だけを、教会で自分の仲間と考えるのです。しかし、そこには相手を受け入れる広い心はなく、相手のために忍耐することもありません。

 5章15節に「だれも悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。」パウロがこのようなことを勧めているのは、実際に教会の中で起こっていたことなのです。自分に悪いことをした人に対して、悪をもって復讐していたことがあるからです。私たちには復讐心があるので、自分に対して悪いことをした人に対して、いつか復讐してやろうと思うのです。ロ−マの信徒への手紙12章19節に「愛する者たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する。』と主は言われる」と書いてあります。 実際に教会の中で起きていたのです。パウロの言葉は、私たち自身が悔い改めることを求めているのです。

 15節後半に「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。」とあります。キリスト者同士だけではなく、隣人に対しても、「善」を行うように努めなさい。「善」というのは、自分が良いと思ったことではなく、神が「善い」と思っていることです。神が「善い」と思っていることは、隣人を愛することです。ただ相手のことだけを考えて愛することです。

 パウロは、テサロニケの信徒たちが、神の御心に適う信徒となり、聖霊の火を消さずに、教会生活を続けていくことを願いながら語るのです。私たちの信仰生活は、主イエス・キリストと共にいる生活であり、教会の牧師や長老に対して愛をもって尊敬し、いつも喜び、絶えず祈り、どのようなことにも感謝をする、そのような信仰の歩みであるのです。


祈祷
 イエス・キリストの父なる神、あなたを礼拝する幸いな時が与えられたことを心から感謝致します。とても暑い時ですが、私たちが神を仰ぎ、隣人を愛することができ、いつもあなたの御言葉を聞きながら、歩むことができますように導いて下さい。あなたが私たちと共に歩んで下さることを信頼して、困難な時にも、あなたの慰めが与えられることができますように。コロナ・ウイルスに感染し、後遺症で苦しむ方々を、あなたが癒やし、健康を回復することができますように。この一週間もあなたが共にいてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン


讃美歌   343−4

献金

主の祈り

頌栄   29

黙祷 



○来週の聖日(7月31日)
主日礼拝 司式 寺嶋潔長老 奏楽 寺嶋明子姉
説教「イエス・キリストの恵みによって歩む」山ノ下恭二牧師
聖書 ミカ書7章8−9節
テサロニケの信徒への手紙一 5章23−28節
交読詩編20 讃美歌83−1 7−1 404−2 402−2 27






20220717 主日礼拝説教  「目覚めていても眠っていても」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書45章5−7節、テサロニケの信徒への手紙一5章1−11節)


 コロナの感染が始まってから、マスクをするようになり、マスクをする生活が続いています。私は、マスクをするのを忘れて外出し、そのことに気がついて、家に取りにいくことが時々あったので、予備のマスクをカバンに入れています。最近は、マスクをしない人が増えています。私も最近、偕成社の近くにある郵便ポストに手紙を出しに行ったときに、近くだからマスクをしないでもいいやと思って、マスクをしないで歩いていると、向こうからやってきた人がマスクをしない私を睨んでいることに気がついたことがあります。マスクをするか、しないか、は本人の自由ですが、みんなが守っている暗黙のル−ルに従わないと、いけないと思ったのです。そしてこの時、同調圧力を感じました。

 日本では、昔から村の寄り合いは、満場一致で決めるのが伝統となっていて、異なる意見は排除されてきたと言われています。その村の大多数の人々と違う意見を持ち、違う行動をすると異端視され、排除されるのです。マスクをしていない人を見ると、みんながマスクをしているのに、どうしてマスクをしていないのだ、と思い、逆に、自分がマスクをしていないと他の人が自分を非難しているように思うのです。マスクをつけるべきなのにしていない、と他の人が思っているように感じるのです。

 私たちの生活は、他の人のまなざしの中で生きて行くものです。自分も人を見ます。他の人も自分を見るのです。見たり、見られたりします。そして、日本人は、他の人の目を気にすることが多いと言われます。他の人が自分をどのように見ているのか、ということを気にするのです。自分を見ている他の人のまなざしを気にするのです。他の人の視線を気にするのです。他の人が自分をどのように見ているのか、にこだわるのです。しかし、不必要に他の人のまなざしにこだわらず、真実の自分を生かし切りたい、と思っていることも確かです。

 私たちは、キリスト者であり、他の人の視線ではなく、キリストのまなざしの中で過ごしているのです。イエス・キリストは、ル−ルを守らないと裁きのまなざしで、冷たいまなざしで見ているのではなく、暖かい愛のまなざしで見ているのです。

 テサロニケの信徒への手紙一5章10節に「主は、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」と語っています。「主と共に生きる」という言葉は4章17節後半にも同じ言葉があります。「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」「主と共に生きる」「主と共にいる」それは、主イエス・キリストのまなざしの中に生き、そしてそこにいる、と言うことです。誰に見られていても良い、誰も見ていてくれなくても良いのです。私たちには主イエス・キリストのまなざしが注がれているのです。主イエス・キリストのまなざしは、私たちの生活を監視して、評価するようなまなざしを私たちに向けているのではないのです。私たちを慈しみのまなざしで見守っているのです。

 本日の礼拝においてテサロニケの信徒への手紙一 5章1−11節を読みました。皆さんは、この聖書の御言葉を読んでどのように思ったでしょうか。教会生活が長く、聖書を読んできた人は、この御言葉は、キリストの再臨、審判についてパウロが語っているところであることにすぐに気がつくと思います。初めてこの聖書の御言葉を読んだ人は、難しいことが書かれてあると思うかも知れません。

 5章1−3節には「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やってくるように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が、『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」とあります。

 主イエス・キリストが再び来られる、このことを再臨と言いますが、その再臨の時はいつなのか、わからないのです。夜、寝ている時に、盗人がやってくる、その時はいつであるか、わからない、それと同じように、主イエス・キリストがやってくる時はわからないと言うのです。今の生活が、これからも続くので安全だと思っているやさきに、「破滅が襲う」と語るのです。

 現代に生きている人々は、この地上の世界に実際に、現実として主イエス・キリストが審判するために再び来られるとは思っていないことは確かです。最初の教会は、主イエス・キリストがもうすぐ来られると信じて待っていたのです。教会の信徒たちが、互いに「主よ、来たりませ」「マ・ラタナ」という挨拶をしています。それは、主イエス・キリストが再び来られることを待っていたのです。テサロニケの信徒への手紙二には、主イエス・キリストが再臨することについて詳しく語られています。

 しかし、私たちは、実際に現実として、もうすぐ、キリストが再臨して、私たちを審判すると信じているでしょうか。私たちの生き方が神の御心に従ったものであるのか、審判に来る、私たちのこれまでのすべての生活をイエス・キリストが審判する、このようなことが語られていても、それは現実として受け止めていないのです。イエス・キリストが再び来られる、再臨について考えることはあるでしょう。しかし、実際に現実として、自分のところにイエス・キリストが来られるとは思っていないのです。最初の教会は、主イエスの再臨を信じて待っていたけれども、それは昔話であって今の自分とは関係の無い話だ、と思っているのです。自分のこの地上の生活をどのように過ごすのか、ということにのみ関心があるのです。元気で長生きしたい、そのために健康に気をつけているのです。

 しかし、キリストが再び来られる、そのことを待ち望む生活のスタイルは、異なってくるのです。キリストが来られるという終わりを見つめながら過ごす、この生活のスタイルとこの地上の生活ですべて完結すると思っている生活のスタイルとは違ってくるのです。

 新約聖書のヤコブの手紙4章13−15節(p425)には、自分のいのちの終わりを考えないで生きる生き方と、自分のいのちの終わりを考えて生きる生き方との違いを語っているのです。「よく聞きなさい。『今日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」

 主イエス・キリストが、再び来られることを、自分の生活に入れてない、また主イエス・キリストが自分を審判することを除外している生活は、自分が今、関心をもっていることに集中するのです。この世において価値があることに夢中になって過ごすのです。

 しかし、主イエス・キリストが来られることを自分の生活の前提にし、そのことを自覚している者の生活は、主イエス・キリストの御心を行うことに精力を集中するのです。私たちが今、問題としていることは、この地上でどのように過ごしていくか、なのです。しかし、キリスト者は神がどのように思い、私たちに願い期待しているのは何か、を第一にするのです。

 5章1−3節には、キリストの審判は、突然やってくる、そのようなことが起こると私たちは慌てるのです。突然、知人が訪ねてくる、迎える用意をしていないので慌てて着替えたり、急いで部屋をかたづけたりするのです。予告なしに突然、友人が訪ねてきた時に、私は、とても慌てたことがあります。私は、社会福祉法人で評議員会の報告で、時々、県の抜き打ちの会計監査があって大変だったという話を聞いたことがあります。主イエス・キリストが突然、審判者としてやってくるとしたらとても困ると思いました。

 しかし、4節では、1−3節とは異なった語り方をしているのです。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」

 神を忘れて、イエス・キリストを知らず、信じていないで、自分中心に生きている者にとっては、再臨の時に、見知らないキリストが来るので、自分のこれまでの生活を裁くことを考えて慌て、恐ろしく思うでしょう。しかし、キリストを救い主と信じている者たちは、主イエス・キリストがいつも共にいるので、再臨の時が来ても、いつも共にいる、同じイエス・キリストが審判するので、恐ろしいとは思わないのです。

 この近くのス−パ−ストアに買い物に行くと、顔なじみの店員が話しかけて自然に話すことができるのです。皆さんも顔なじみの人をたくさんもっているのです。見知らない人が突然、自宅を訪ねてくると警戒しますが、顔なじみの人が突然、訪ねてきても、その人の人柄を知っており、信頼の関係を持っているので、安心して対応できるのです。自分の親が、いつもより早く帰宅しても、いつも同じ家で暮らして互いによく知っているので、怖がることはないのです。

 私たちは、礼拝の説教を聞き、聖餐にあずかることによってイエス・キリストに対面し、おぼろげにイエス・キリストを知っているのです。繰り返し、礼拝の説教と聖餐にあずかることによって、主イエス・キリストが、私たちの罪を贖い、赦してくださり、いつも愛して下さる方であることを知っているのです。よく知っているイエス・キリストが再び来るので、安心して迎えることができるのです。

 5章5節には「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇に属していません。」私たちは、神の愛の中にいるのだから、暗闇の中にはいないのです。私たちは「光の子」なのです。キリストが私たちの深い罪を贖ってくださって、私たちを、光の子、昼の子、としてくださったのです。

 以前、私が在任した東大宮教会は、ある児童養護施設と深い関係を持っています。「光の子どもの家」という養護施設です。「光の子どもの家」という名称は、聖書からつけた名前です。東大宮教会は、この「光の子どもの家」の創立に関わり、37名の子どもたちと職員8名が車で45分かかる道のりを毎日曜日に教会学校に通ってきていました。虐待や育児放棄、家庭に事情があって養護が必要な子どもたちです。親の愛を受けられない、それは子どもにとって暗闇の中にいることです。しかし、教会学校に来て、イエス・キリストの愛の説教を聞いて、自分が神に肯定されている、神に愛されている、自分は生きていていいんだ、と言うことを経験するのです。この光の子どもの家では、誕生日を迎えた子どもの誕生日会をその同じ月に二回するのです。一つはこの施設の全員で、そして、数人の子どもたちが暮らす、それぞれの家で誕生日会をするのです。誕生日を盛大に祝うことによって、その子どもが、自分が生まれてきて良かった、という自己肯定感をもち、その心を育てることを大切にしているのです。

 私たちは、キリストによっていつも愛されているのです。私たちの毎日の暮らしは、このキリストのまなざしを受けて過ごすことなのです。私たちの毎日の生活は、このキリストによって愛されていることを信じて、応えていく歩みなのです。5章8節で、光の子としての私たちの歩みは、信仰と愛と希望に生きることであると語られています。「しかし、わたしたちは、昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」高校生の時に、体育の授業で、柔道と剣道をどちらかを選択することになり、剣道を選択しましたが、体育の教師は剣道の達人で、剣道の面をかぶり、小手、銅、垂れの武具を身につけていました。この御言葉は、私たちの生活が、戦いであることを表しています。信仰と愛と希望は、私たちが生きる時の武具なのです。私たちは様々なこの世の情報に接しています。その情報は、この地上でいかに愉快に楽しく、贅沢に暮らすことができるかを提供するものです。自分が信仰と愛と希望を身につけていないと、この地上の誘惑に引っ張られ、容易にこの地上の生きている生き方で生活してしまうのです。

 本日、読みました5章1−11節には「眠る」と言う言葉が出てきます。この「眠る」と言う言葉は、三つの意味で用いられています。一つは夜の眠りを意味し、二つ目は死を指し、そして、三つ目は、神から離れて生きていること、そのような意味で使われています。10節の「目覚めていても眠っていても」の「眠り」は夜の眠りであると理解することができます。寝ている時は無防備で、自分の気持ちを自制、制御できないので、思いがけない夢を見ることがあります。昼、目覚めていて、自覚的に活動をしている時も、夜、無防備で眠っている時も、主イエス・キリストがいつもあなたのそばに共にいると語るのです。

 10節に「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」と語られています。

 主イエス・キリストが、神から遠く離れて過ごしている私たちのために、この地上に来られて、十字架の死まで犠牲をささげてくださった、それほどまでに愛してくださった、この神の愛のまなざしを身に受けながら、その愛に応えるのです。それはいつも主イエス・キリストが私たちのところに来ても、いつものように信仰と愛と希望に生きることなのです。ドイツの大学に留学した、東京神学大学の教師から聞いた話ですが、ドイツでは、いつ訪ねても、部屋が綺麗に片付けてあって感心したと言っていました。また予告した時間通り、ぴったり訪ねてくる、早くその地に着いたとしても、家を訪ねてこない、予告した時間通りに訪ねてくるのです。主イエス・キリストがいつ訪ねてきても、良いように、いつものように、神を仰ぎながら、神に心を向けて信仰、愛、希望に生きる、それが、わたしたちの日常の生活なのです。

20220710 主日礼拝説教  「望みをもって眠りにつく」  山ノ下恭二牧師
(詩編13編2−6節、テサロニケの信徒への手紙一4章13−18節)


 7月7日(木)午後7時30分から8時30分まで、ズ−ムによる「キリスト教を学ぶ会」を始めました。都合が悪くて参加できなかった方は、玄関受付にその時に用いたレジュメが置いてありますので、お取りください。7月7日(木)には、16世紀のカトリック教会の日本伝道について、特にザビエルがなぜ日本に伝道に来るようになったのか、について話しました。来週の7月14日(木)にはザビエルが日本にきてからの伝道活動について話す予定です。

 7月14日(木)の「キリスト教を学ぶ会」で話すので、前調べをするために、「日本の神学」という本を読んでいましたら、興味深いことが書かれていました。「葬式仏教と呼ばれるほどに一般化した仏教の葬式も実はキリシタンの葬式から影響を受けたものだといわれる。わが国では、長らく、上層階級以外の一般庶民の遺体は葬式なしに始末されるのが普通であった。14世紀まで『野捨て』と呼ばれる遺体遺棄すら珍しいことではなかった。そういう当時の日本でキリシタンが一般庶民をひきつけたのはその葬式であったという。犬と同様に埋葬されていた庶民や貧民もキリシタンの場合は、上流の富者にたいするのと同じく立派な葬式をとり行ったからである。つまりキリシタンの時代にはキリスト教は『葬式仏教』ならぬ『葬式キリスト教』として民衆の心をひろくとらえたのであった。そして宣教師たちもそのことに気づき、伝道の有力な手段として貧富にかかわらず日本人キリシタンの葬式を丁重かつ盛大におこなうことに努めた。そこで仏教側もキリスト教に対抗する庶民の葬式もおこなうようになり、盛大さを競い合うようになったのであるという。したがって『葬式仏教』は『葬式キリシタン』がなければあり得ないことであった。」(「日本の神学」古屋安雄、大木英夫著p49 ヨルダン社 1989年)

 一般庶民は、死ぬと野に捨てられていたのですが、カトリックの宣教師たちが、日本で布教を始めて、一般のキリシタン信徒にも葬儀をするようになり、その葬儀が人々を引きつけたのです。キリシタンであれば、身分に差別なく、丁重に遺体を葬り、遺族を慰める葬儀をしているのを見た一般庶民が、そのことに引きつけられ、自分もそのような葬儀をしてもらいたいと、キリシタンになった人も多いのです。現在も、自分の母の葬儀がキリスト教会で行われ、その葬儀が良かったので、「自分もキリスト教をやりたい」と言って教会に通い、洗礼を受けて教会生活をしている人もいるのです。

 私たちは、日常生活の中で、死んだ後、自分はどのようになるんだろうか、と思うことは余りないのですが、身近な人の死を経験し、葬儀に出席すると自分が死ぬことや死んだ後に自分がどのようになるかを身近に思うのです。私は、牧師として他の人よりも、死や葬儀に多く関わります。葬儀の司式をし、火葬場に行く機会が多いので、人間が死ぬ存在であることを実感し、死んだ後に自分がどこに行くのかを身近なこととして考えることがあります。

 パウロが伝道したテサロニケの教会には、洗礼を受けて間もない信徒が多く、信徒たちが教会生活を継続して欲しいと願って、パウロは手紙を送って、励まし、慰めたのです。本日の礼拝でテサロニケの信徒への手紙一 4章13−18節を読みましたが、パウロは、テサロニケの教会の信徒たちに死んだ後のいのちについて語っているのです。テサロニケの信徒たちは身近な人の死を経験し、葬りの式に参列することによって、改めて、死ぬことについて、また自分の死んだ後、どうなるのか、ということを考えたのです。

 ギリシャにテサロニケの町があったので、私は、テサロニケの人々が霊魂不滅の考えをもっていると思っていました。死んだ後に肉体は朽ち果てるけれども、霊魂は残ると考える霊魂不滅の考え方に人々が影響を受けていると考えていたのですが、注解書には、この当時、霊魂不滅説の考え方は庶民にはまだ普及しておらず、霊魂不滅の考え方に影響を受けていなかったと言うのです。従って、死んだ後のことは考えてはいなかったのです。

 ところが、テサロニケの信徒たちは、洗礼を受けてキリスト教会に入会して、キリスト教は死後のことについてどのように考えているのか、知りたいと思っていたのです。それは、イエスの十字架の死と復活の説教を聞いており、自分たちも死んで、復活すると信じるようになったからです。死んだ後にどのように復活するのか、ということを知りたいと思ったのです。

 毎年、牛込払方町教会では、10月の第四の主日に「召天者記念礼拝」を実施しています。私たちよりも先に逝去された教会の信徒たち、関係者を覚えて礼拝を守っています。この教会で教会生活をした先輩の信徒たちの信仰の働きを感謝して礼拝をしています。私たちは、先に死んだ先輩の信徒たちが、死んだ後にどのようになっているのか、と言うことについて、関心がないと思います。召天者記念礼拝では、先に逝去された信徒たち、関係者の生涯を思い出し記憶するだけです。

 テサロニケの教会の信徒たちは、自分と先に死んだ信徒たちについて、関心をもってパウロに質問をしているのです。それは今の教会と異なる事情があったからです。それは、主イエス・キリストが再臨し、すぐにキリストが自分たちのところにやってくると信じていたのです。この当時の教会は「主よ、きたりませ」(マ・ラナタ)と互いに挨拶を交わしていました。主イエス・キリストが間近に来る、その前に死んだ信徒たちは主イエスに再会しないで、救われないのではないか、と考えて、パウロに質問状を送ったのです。その質問にパウロが答えているところが、本日、読んだ聖書の御言葉なのです。

 パウロは「兄弟たちよ、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」と書き始めています。テサロニケの教会の信徒たちは、「既に眠りについた人たち」つまり先に死んだ人々についての理解に混乱があったのです。それまで、この世の迷信や俗信に頼り、ある一定の考え方をすることに慣れていたのです。ところが、主イエスが死人の中から甦られたというキリストの福音を聞かされて、死や死後のいのちについて、今までとは全く異なった見方を持つようになったのです。死んだ後に、復活が起こる、そのような見方をもつようになり、死後についての理解に混乱が生じたのです。

 主イエス・キリストの再臨を待たずに死んでいく人々が出始めたのです。そこで、主イエスをお迎えする前に死んでしまった信徒たちはどうなるのだろうか、というこの質問に、パウロは答えているのです。パウロは、この問題を、理論的に答えようとはしていません。テサロニケの信徒たちの信仰を支え、信徒たちが励ましと慰めが与えられるように答えているのです。

 4章14節に「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。」このパウロの言葉は、最初のキリスト教会の信仰告白の言葉なのです。パウロは、コリントの信徒への手紙一15章1−5節にキリストの死と復活が、最も重要な福音であることを語っています。

 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもういちど知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(新約p320)

 テサロニケの信徒たちは、自分や既に死んだ信徒たちが、キリストの再臨の時にどのようになるのか、自分が今まで人間として経験してきた、範囲の中で把握しようとしていました。私たちも、この世の中で起こる出来事の中で死んだ後のことを考えるのです。そして、自分の問題意識を優先して推測することがあります。

 しかし、パウロは神がなさった、神の大きな働き、神の業に目を向けながら、キリスト教会が最も大切にしていた、公同の信仰告白を提示するのです。パウロは、主イエスが十字架で死んだけれども、しかし、神によって復活させられたこと、それは神の側、私たちの向こう側で起きたことである、この大きな神の働きを信じることを語るのです。死によってそのいのちが完全に終わると考え、復活の望みを持たない人々のように、嘆き悲しまないために、「イエスが死んで復活された」ことを信じていることが、あなたがたにとって重要であると語るのです。キリストを信じて、先に死んだ人々をも、神は、主イエスと一緒に復活へと導いてくださると語るのです。
 
 聖書には、死後のことや再臨や終わりについて一つの語り方ではなく、様々に語っており、この時代の黙示文学の形式を用いて語っているのです。

 4章の15−17節の言葉は、私たちにとっては馴染みのない語り方です。主イエス・キリストが再臨される時に、まず、既に死んだ信徒たちが先に復活し、それから、生き残っている者たちが復活し、主が、天に引き上げてくださる、と語るのです。

 4章15節「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」

 私は、16節後半に、とても大切な言葉があることを指摘したいと思います。「すると、キリストに結ばれて死んだひとたちが、まず、最初に復活し」という言葉です。既に死んだ信徒たちは、死んだ後に、キリストと切り離されたのではなく、キリストに結ばれているのです。キリストが既に死んだ信徒たちの手を離さないのです。東日本大震災の津波が襲い、ある親子が海の中に押し流され、母親が子どもの手を握りしめて離さなかったので、母親と子どもは海の中に沈むことなく、奇跡的に助かったと言う出来事がありました。

 死んだ後も、私たちは、独りぼっち、暗いところにいるのではないのです。ロ−マの信徒への手紙8章39節後半には「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と語られています。

 私たちのいのちある存在は、死によってすべて消滅するのでもなく、死んだ後に、孤独の中で過ごすのではなく、主イエス・キリストと共にいるのです。私たちの見ているところは、死の向こう側のことはわからないのですが、神が支配している世界は、私たちが考えているよりももっと広い世界であり、神が私たちのために備えている場所があるのです。

 ヨハネによる福音書14章1−3節に次のことが語られています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(新約p196) 

 そして、パウロの一番、語りたかったのは、4章17節後半の言葉です。「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」この地上で、私たちのいのちは終わることはないのです。私たちのいのちはキリストと結ばれているいのちであり、つながっているいのちです。主イエスは十字架の死によって最もきびしい死を経験されたのです。罪を贖うための死であるからです。しかし、死から復活されたのです。その復活の主が、私たちが死んだ後もいつも共にいてくださるのです。

 詩編139編8節には「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。」と語られています。旧約の時代には、死後の世界は、神のいない世界であると考えられておりました。しかし、この詩人は語ります。もうここには神はいないのだと思って死に赴くとき、深い絶望の中で、死者の世界に行ったとき、そこには死んだ人間だけではない、神ご自身がおられた、と語るのです。死ぬことは、生きることの次のステ−ジなのです。なぜなら、死においても、死んだ後にも、主イエス・キリストが共におられるからです。

 4章18節には「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」、この「励まし合う」と言う言葉は、「慰め合う」という言葉です。教会の葬儀の時に、身近な人の死を悲しんでいる人の傍らで、死においても、死んだ後でもいつまでも主イエス・キリストが共にいることを語り、慰めるのです。その意味で、キリスト教会は、慰めの共同体なのです。

20220703 主日礼拝説教  「落ち着いた生活とは」  山ノ下恭二牧師
(詩編112編、テサロニケの信徒への手紙一4章9−12節)


 洗礼を受けて、教会生活を続けていくための手引きとなるための本があります。私の書棚にあるのは、「教会生活入門」、「教会生活の手引き」「信徒必携」という本です。

 テサロニケの信徒への手紙一は、パウロがテサロニケの教会の信徒たちに書き送った手紙です。4章1節から、パウロは、洗礼を受けて間もない信徒たちに教会でどのように生活したら良いかを手引きをしています。

 4章1節で次のように語っています。「さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。」

 洗礼を受けて教会に入会した後に、どのように信仰を保持し、形成していくのか、パウロはテサロニケの信徒に教え、信徒たちは学んだのですが、今後もその生活を続けるように、と勧めているのです。私は、洗礼準備会で、礼拝を休まないで、御言葉を聞き、祈って行くことが、信仰を養い育てていくことであると話すのですが、そのような地道な生活が、キリスト者としての生活を形成していくのです。

 最近、教会の近くで3つのマンションの建設工事が始まっています。外堀通りの、地下鉄の入り口近くでも、マンションの建設工事をしていて、今は基礎工事をしています。深く掘っていることが分かります。首都直下地震が来ても、マンションが倒れないように、深く掘って基礎を固めているのです。

 礼拝において御言葉に養われて、私たちの歩みを確かなものとすることは、教会生活を続けていくためにとても重要です。基礎工事が終わると、マンションの組み立ての建設作業をしていくのです。洗礼を受けた後に、私たちがどのように教会生活を組み立てていくのかが、問われます。

 私たちの信仰を支える基盤となるのは、イエス・キリストの愛です。私たちがどのような者であっても、神がイエス・キリストによって、私たちを愛して下さる、このことを信じることが、私たちの基礎になります。別の言葉で言い換えると、私たちが神のものであると言うことです。4章3節に「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」とあります。「聖なる者」と言う言葉は誤解しやすい言葉です。道徳的に立派な行いをする者、という意味ではありません。「神のものとされる」と言う意味です。神は、私たちが道徳的に完全な者となるように願っているという意味ではありません。

 ルカによる福音書15章の初めに、見失った羊の譬えがあります。羊の群れから離れてしまった羊を羊飼いが捜し、見つけ出して羊の群れに戻し、羊がその群れの中で安心して過ごすのです。神から離れていた者がイエス・キリストの十字架の贖いによって、罪が赦されて神のもとに帰るのです。「聖なる者」とは、キリストの十字架の死と復活によって、神と正常な関係を持つことができ、神に愛されている者のことです。神が自分を愛してくださる、この神の愛に応答して生きていく、それが私たちキリスト者の信仰生活なのです。

 教会に入会すると、今までと全く異なる生き方をしなければならない、そういうことはないのです。教会生活を始めることは、今までしてきた仕事や家庭を捨てて、全く別の生活に入って行くわけではないのです。プロテスタント教会は、修道院を創設しませんでした。それは、日常の生活を続けて行く中で、キリスト者として証していくことが、大切であると言う判断をしたのです。牧師として召命を受けたので、今までの仕事を辞めて、神学校に入ることはありますが、洗礼を受けた者が、仕事を辞め、家庭の主婦が家庭の仕事や子育てを止めてしまうことはしないのです。

 洗礼を受けても、今までの仕事をし、今までの家庭の仕事を続けているのです。日常生活を大切にするということをここで勧めているのです。私たちは、劇的な変化があり、ドラマのような人生に憧れることがあります。しかし、キリストによって罪を赦され、愛された者は、日常生活を大切にするのです。

 私の母は「婦人の友」という雑誌を読んでいました。「婦人の友」という名前を聞くと、羽仁もと子という名前と自由学園という学校を思い起こすと思います。  婦人の友を創刊し、自由学園を創設した羽仁もと子は、日常の生活技術を重んじてきたのです。これはとても大切なことです。自由学園では、その日の学校の食事は全部、生徒たちが作ると聞きましたが、毎日、毎日、食事を用意することは根気の要ることです。料理を初め、日常の生活を営むことを大切にしていくのです。毎日、同じ職場に通って、仕事を続けていくことは根気が必要ですし、忍耐が要ります。

 東大宮教会におりました時に、一人の男子大学生が教会に来るようになりましたが、自分の父親に不満があってよくその話を聞いていました。自分の父親は優しいのだけれども、父親としての威厳がない、と言うのです。この若者が大学を卒業して仕事をしていく中で気がついたことがあるというのです。自分が仕事をし始めて、仕事がこんなに大変だと思わなかった、父親は会社を辞めずに毎日、会社に行っている、それで父親を見直した、と言うのです。仕事を続けていく、それはとても尊いことなのです。日常生活に埋没していると思うかもしれない、しかし、日常の生活を地道に継続してくことは大切なのです。

 4章11節に「そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」新共同訳では「落ち着いた生活をし」と訳していますが、フランシスコ会訳では「腰を落ち着けて自分の務めに専念し」と翻訳しています。岩波訳では「静かに生活すること、そして自分の仕事に励むこと」と翻訳しています。劇的に、目まぐるしく変化する生活ではなく、何事もないような、静かな生活をすることなのです。

 ある注解書によると、4章の9節から5章の11節までは、テサロニケの教会の信徒から、パウロに質問状が来ていて、その質問に答えるという形式になっていると書かれていました。4章11−12節では、教会の信徒の中で、仕事をしなくて、援助を受けていた信徒に対してどう対応すべきか、という質問に答えているのです。4章13−18節では、信仰を持たないで先に死んでいった自分の先祖が復活するのか、という質問に答えており、5章1−11節では、キリストの再臨、終末は近いと言っているのに、まだ来ないのはどうしてか、という質問に答えています。

 キリスト教会に入会する条件は、イエス・キリストが自分の救い主であることを信じて洗礼を受けた者です。それ以外の条件はありません。年齢、性別、などを問うことはありません。ただ、イエス・キリストを主と告白して、教会に入会するだけです。仕事があってもしていない人もいたでしょうし、仕事を失った人もいたでしょう。教会はイエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受けたならば、どのような人も暖かく受け入れるところです。洗礼を受けていなくても、受け入れてきたのです。エフェソの信徒への手紙では、教会に盗みを働いた人もいたことが書かれています。エフェソ4章28節「盗みを働いていた者は、今からは盗んではなりません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」と勧告しています。

 教会は、仕事がなく困っている人々、仕事があっても仕事をしない人、そのような人々を教会は相手にして、援助していたのです。しかし、教会に甘えていないで、自分の仕事に専念して働くことを勧めるのです。これは、怠けているのはいけないから、仕事に励め、とだけを言っているのではないのです。

 テサロニケの信徒への手紙二 3章6−15節には、怠けていないで、仕事に励めと語っています。ここでは、怠惰な生活をしている者に対して戒めています。パウロたちは、ただでパンをもらって食べることはせずに、働いたことを語り、3章10節に「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。」12節後半では「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事に励みなさい。」と語っています。テサロニケの信徒への手紙二の言葉は、「働く」ことを勧めているのです。

 しかし、テサロニケの信徒への手紙一で「自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。」と言っているのは、もっと深い理由があるのです。普通は、大人だから、仕事をするのは当たり前で、教会から援助をもらって、自分の生活費に当てているのはおかしい、と言っているのではないのです。それは仕事する目的が、自分の生活のために仕事をしている、というのではなくて、自分が仕事をした報酬を隣人のために役立てる、隣人を愛することに用いることに焦点を当てているのです。4章9節には「互いに愛し合う」ことを神から教えられていることを語っています。仕事をしない人が仕事をして、自分の生活費に充てるということだけでなくて、神の御心に適うように生きる、隣人を愛する者となることを目指しているのです。自分の生活費は自分で働いたお金でしなさい、自立しなさいと言っているのではなくて、仕事をすることは、隣人を愛する、その視野の中で働けと語っているのです。

 ある注解書によると、この時代に人々は、ストア派の考え方に深く影響をされていたと書かれていました。「自給自足の生活態度はストア派の教えで」あったのです。ストア派は、自分の手で働くことを唱え、自立と自己責任を強調し、他の人に迷惑をかけないように、世話にならないようにと考えていたのです。ストア派は、自分が他の人に、他の人が自分に関わらないで生活することを大切にしているのです。ストア派のように、人と関わらないで生活する、自立して、すべて自己責任で生きて行く、それは他の人と関わらないので、面倒なことがなくて快適かもしれません。しかし、愛することは、相手と関わり、損をし、犠牲になることです。日常生活を大切にしながら、私たちは人と深く関わって生きて行くことを教えられています。

 自分の生活の中にしっかりと隣人を位置づけ、隣人を愛するのです。その意味で自分以外の人に対して、愛をもって、隣人として関わるのです。仕事というのは自分一人だけで働いているのではありません。自分がしていない仕事を他の人が担っているのです。

 牛込払方町教会はレプタ献金をしています。二ヶ月の間、一つの学校、或いは、一つの社会施設の働きを覚えて献金をささげています。

 6月、7月はアジア学院を覚えてささげています。8月、9月はベテスダ奉仕女母の家を覚えてささげようとしています。さまざまな学校や施設で働いている方々は、本来ならば、私たちがしなければならない仕事をしていてくださっているのです。従って、私たちの労働によって得た果実(お金)が学校や施設に送られることはとても良いことなのです。自分も働き、他の人も働く、それは互いのために愛し合うことなのです。

 「落ち着いた生活」をする、それは、神を愛し、隣人を愛する生活を目指して、日常の生活を大切にすることなのです。

20220626 主日礼拝説教  「自分のからだを聖なるものとして」  山ノ下恭二牧師
(申命記10章12−15節、テサロニケの信徒への手紙一 4章1−8節)


 毎月、東京キリスト教書店の店員が、信徒の友や新刊書をもって訪ねるのですが、6月21日には日本聖書協会の社員と連れだって来られました。現在、私たちの教会は、新共同訳の聖書を用いていますが、30年経過すると言葉が変わるので、日本聖書協会では、30年ぶりに新しく翻訳された聖書、聖書協会共同訳を2019年に出版したのです。この聖書協会共同訳を、教会やキリスト教学校で用いて欲しい、という願いをもって、日本聖書協会の頒布部の社員が教会やキリスト教学校を訪ねているのです。青山学院、東北学院、北陸学院などは、来年から用い、阿佐ヶ谷教会や渋谷にある美竹教会なども用いると聞きました。私は、聖書協会共同訳に関心を持っていまして、講演会に出席し、聖書協会共同訳聖書を購入して少しずつ読んでいます。

 その時に、聖書を読む習慣を身につけることが、信仰生活にとってとても大切である、という話題になりました。そのことの関連で、私の家庭で毎朝、朝食の前に、聖書通読をしていることを話しました。創世記から初めて、最近は、コヘレトの言葉を読んでいます。その日によって聖書を読む長さは違いますが、聖書を読んで祈る、そのような習慣をもっていることを話しました。

 韓国の教会では、日本の教会とは違って、毎朝、多くの信徒たちが教会に集まって聖書を読んで祈って、そのことが、御言葉を蓄えて、信仰生活をかたち造っていることを聞いていると話しましたら、日本聖書協会の社員は、四谷にあるイグナチオ教会(カトリック麹町教会)の信徒で、銀座にある日本聖書協会に行く前に、現在はコロナのために休止しているそうですが、イグナチオ教会に寄って、早朝ミサに出席してから銀座に行くことをしていた、と言われました。自分の心を清めるために、毎日、ミサにあずかることはとても大切だ、と話していました。

 プロテスタント教会では、日曜日に礼拝に出席して、聖書を読み、説教を聞くことを大切にしていますが、それだけでは、時間が過ぎると聖書の御言葉は消えてしまうので、毎日、朝、仕事を始める前に、毎日、聖書の御言葉を読んで、その御言葉に支えられて、一日を始めることがとても大切なのです。

 毎日、私たちは食事をしています。朝昼晩としっかり食事を摂ることによって、健康を維持し、病気に負けない体力をもって元気に生活ができるのです。

 旧約聖書のエゼキエル書3章3節には「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」と書かれています。ユダヤでは、親が子どもたちに旧約聖書を暗唱させるのですが、暗唱させる前に、実際に蜂蜜をなめさせて、聖書を暗唱させるそうです。いのちの言葉である聖書の言葉を食べて、栄養とすることは私たちの魂を支えるのです。

 牛込払方町教会では、毎月、教会に関係するキリスト教施設に献金を集めて送金しています。レプタ献金と言います。6月、7月のレプタ献金は、栃木・西那須野にあるアジア学院を覚えて募金をしています。8月、9月には、ベテスダ奉仕女母の家を覚えて献金をささげるのですが、このベテスダ奉仕女母の家で「日々の聖句」という、その日に読む旧約と新約の短い聖句集を毎年、発行しています。日本語版では、聖句だけを翻訳しているのですが、ドイツ語の原本では、キリスト教の牧師、神学者の祈りが書いてあり、その祈りの部分は、日本語に翻訳されていません。しかし、二人の牧師が、その祈りを翻訳して、毎日、ネットで送信してくれるので、聖句だけはなく、祈りを読むことができています。いつもすばらしい祈りが送信されています。一日が始まる時に、毎日、聖書を読み、祈る、そのことはキリスト者として生きる時に大きな力になるのです。

 日本の教会では、洗礼を受けても教会生活が長く続かない人が多く、年月は正確ではないのですが、平均1年半で教会生活を止めてしまうという話を聞いたことがあります。洗礼を受けるまでは、とても熱心なのですが、洗礼を受けると、安心してしまうのか、教会に来なくなることが多いのです。

 岡山の蕃山町教会の3月の教会機関誌「地塩」には「受洗・転入会後・3年以内の教会員の集い」を開催したことの報告が掲載されていたのです。年二回しているとのことです。出席者の感想としては、「初めて来会した時に、受付で声をかけて、執事だと後でわかった。」「百人規模の教会は初めてで、とけ込んで行くのが大変。」教会への要望としては「名前と顔がなかなか覚えられないので、集合写真など教会員の写真が欲しい」そして名札をつけることになっているが、長老・執事が付けることになったそうです。洗礼を受けて、転入会をして間もない人に対する配慮を教会が心がけていることが分かります。

 テサロニケの信徒への手紙一4章3節には「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」と語られています。テサロニケの教会の信徒たちは、洗礼を受けて間もない人々であり、パウロは、テサロニケの信徒たちが、神の御心に適う生活をしてほしいと願って勧めているのです。洗礼を受けることは、私たちが、私たちの罪をイエス・キリストの十字架の贖いによって赦されていることを信じて、神のところに帰って神のものとなり、神に帰属することです。ルカによる福音書15章1−7節に「見失った羊」のたとえがありますが、羊飼いのもとから離れていなくなった羊が、羊飼いによって、本来、羊がいるべきところである羊の群れに戻されて、羊飼いに守られて、安心して過ごすことです。

 4章3節にある「聖」という言葉は、元々、神のものとして特別に取っておく、という言葉です。「聖」という言葉を誤解して理解している人も多いのです。「聖人」という言葉がありますから、欠点がなく、立派な生活をしている人と理解するのです。「聖である」と言うことは、神から離れてしまった者が、イエス・キリストの十字架の死によって赦されて神のものとされて、神に帰属していると言う意味です。洗礼を受けることは、イエス・キリストに帰属しているということですから、自分を中心とした今までの生活から、イエス・キリストを中心とした、全く新しい生活に切り替わることです。

 洗礼を受ける前は、日曜日に礼拝に通う習慣がなかったのですが、洗礼を受けた後は、礼拝を生活の中心において生活することになるのですから、努力が必要です。一つのことを習慣づけることは、忍耐が要ります。家庭で、毎朝、食事をする前に聖書を読むことを習慣とするとしたら、習慣とするためには、時間がかかるのです。毎朝、家庭で聖書を読み始めても、「今日は忙しいから、聖書を読むのを止めよう」という意見が出て、他の家族も同調したら、習慣づけることはできなくなります。礼拝に出席する習慣を身につけようとしても、日曜日に同窓会がある、他の用事がある、ということになり、礼拝がおろそかになって、礼拝に出席する習慣が身につかないことになります。

 テサロニケの教会の信徒たちは、キリスト者となったのは最近であり、キリスト者としての経験は短いのです。キリスト者として成り立ての人々ばかりです。パウロはその人たちのことを心配して語っています。4章1節には「さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、私たちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。」とあります。ここに「歩む」という言葉が多くでてきます。

 洗礼を受けてキリスト者として生きて行くために、キリスト者として信仰生活の仕方があるのです。その歩く道があるのです。洗礼を受ける前と全く同じ生活の仕方をしていれば、キリスト者でなくなるのです。日常の信仰生活を形成していく、そのような道を、「歩む」「歩き続ける」と表現しているのです。テサロニケの信徒たちは、パウロなどの伝道者からどのように歩むのかを学び、パウロが願ったような歩み方をしている、その歩み方を続けて行くようにと勧められているのです。テサロニケの信徒たちは、パウロから、信仰の訓練を受けているのです。礼拝に出席し、祈り、献げ物をし、キリスト者としてこの世でどのような態度でいくのか、を教えられていたのです。

 私たちはからだをもって生活をしています。天使のようにからだのない存在ではなく、この世界で生身の人間なのです。からだ、肉体をもって生きている、そこには生きる時に、大きな問題を抱えているのです。私たちは健康で過ごしたいと思っています。しかし、からだをもって生きている、からだが自分の重荷になることがあるのです。現代の人々は、病気にならないでどのようにすれば健康を保って過ごすことができるか、そのことに大きな関心をもっているのです。従って、健康で長生きするための処方箋が書いてある本もたくさん出ています。和田秀樹という精神科医が書いた本がよく売れているそうです。和田秀樹さんが書いた「70歳が老化の分かれ道」という本には、「若さを持続するする人、一気に衰える人の違い」が書いてあります。「80歳の壁」という本も出ました。それだけ、健康で長生きしたい、長患いをせずに逝きたいと願っている人が多いのです。

 私たちは、自分一人で生きているのではなくて、他の人と共に生きているのです。そこでは、互いに関わり合って生きているのです。この社会では、男性としての性、女性としての性、をもって生きています。私たちの人生には男女の交際があり、結婚があります。その中で問題が起こるのは、正常な関わりをもって交際することができなくなることです。パウロは結婚生活や家庭について勧めているのです。神を神とする、その聖さに見合う生活をするようにと勧めています。3節後半で「すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」と語られています。

 結婚生活の要点をここで語っています。「みだらな行い」ということは、ポルノという言葉を使っています。「姦淫」のことです。妻がいるけれども、他の女性と性的な関係を持つことです。このことは、夫がいるけれども、他の男性と性的な関係を持つことをも含むのです。現代では、姦淫という言葉よりも、「不倫」と言う言葉を使いますが、この言葉は、現代の日本では、特別に悪いことではない、という思いがあります。小説やテレビドラマで「不倫」のことが取り上げられ、そのことが、現代の生き方の一つであるかのように思わせられています。不倫をしていないことが、流行に乗り遅れているように思わせられています。

 6月19日(日)の教会学校中高科の説教を担当しましたが、十戒の第七戒のところでした。第七の戒めは「姦淫してはならない」です。「姦淫してはならない」と言う戒めをどのように話したら良いのか、戸惑いました。小学生に対して語ることはとても大変だと思いました。「姦淫」は小学生の考えが及ばない、予想外のことだからです。私は、中高生に、「姦淫」について詳しく話さないで「結婚」についての話をしました。そして、教会での結婚式の誓約の大切さについて話し、結婚する動機や、結婚後の生活の要点を話しました。

 私たち人間は、感情によって動かされやすい面を多く持っています。理論よりも、感情に動かされやすいのです。男女が付き合うのは、感情によることが多いのです。結婚する前には、互いに都合の良い時に遭って楽しい時間を過ごして、それぞれの家に帰ればよいのですが、結婚すると一つの家で暮らし、最も近い関係になるのですから、互いの欠点や弱さを知ることになるので、結婚生活を続けることは、忍耐することが必要になります。結婚を開始する前に、神の前に結婚する二人が、互いに愛することを誓い合うことが大切なのです。「あなたはこの(姉妹)(兄弟)と結婚し、神の定めに従って夫婦になろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを助け、そのいのちのあるかぎり、堅く節操を守ることを誓いますか。」と問います。新郎、新婦は「誓います」と答えるのです。結婚する動機が大切です。相手が好きだから、自分の好みに合うから、ではなくて、神がこの人を与えてくださり、互いに苦労を分かち合う、そのような決意をもって結婚することが大切です。

 姦淫することは、身近な人を苦しませることになり、家庭を崩壊させることになります。パウロはテサロニケの教会の信徒たちに勧めています。4章4−5節に「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」

 相手を自分の欲望のはけ口にし、情欲におぼれることがないように勧めているのです。私たちは生身のからだをもっているのです。自分の妻を聖なるものとして尊ぶのです。夫は自分の妻のからだを、自分の性欲の対象として見るのではなくて、神を聖なる方として重んじるように、妻を聖なるものとして重んじなさい、と語っているのです。男が男としての欲望の対象としてのみ妻のからだをみている時に、それは妻を人間として尊んでいるのか、ということになります。相手を人間として見ているのではなく、自分のための道具のように考えて扱う、それは、人間扱いをしていないのです。それは、私たち人間が、神からいのちを与えられて、かけがえのない人格を持っていることを見落としているのです。ここでパウロは、私たちが、神から与えられた人格をもっており、他者を人格として重んじることが勧められています。

 神の御心は、どのような人間であっても、神に造られた聖なる者としてこれを尊び、重んじられることなのです。神を聖なるものとして尊び、聖なる者として、神に帰属している者として、生身のからだをもって生活していく、そのために、日々、聖書を読み、神の御心を知り、祈る生活を続けることが大切なのです。

 「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」

20220619 主日礼拝説教  「互いに愛し合う喜び」  山ノ下恭二牧師
(ホセア書11章8−9節、テサロニケの信徒への手紙一 3章1−13節)


 私は、牛込払方町教会に赴任する前は、さいたま市にあります東大宮教会に25年、在任しておりました。東大宮教会を離れても、東大宮教会員が、現在、教会生活を続けているかどうか、教会の礼拝に出席しているかどうか、を思うことがあります。時々東大宮教会の教会員から、教会員の様子を聞くことがあります。在任した教会を離れても、その教会を覚えて祈ることがあります。

 本日、読みましたテサロニケの信徒への手紙一は、コリントで書かれたと推測されています。コリントでパウロは伝道しながら、自分がコリントに来るまでに伝道し、建設したテサロニケの教会に向けて、この手紙を書いたのです。テサロニケにおける伝道は、短い期間であったのですが、パウロは、テサロニケの信徒たちの消息を心配して、テサロニケに行きたくてたまらなかったのです。

 2章17−18節Aには「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、―顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが―なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。」とあります。パウロは、信徒たちの顔を見たい、行きたいという気持ちが募っていたので、テサロニケの教会に行こうとしたのです。しかし、事情があってパウロは行けないので、代わりにテモテを派遣したのです。自分がテサロニケには行けない、それで諦めずにテモテを派遣したのは、パウロがテサロニケの信徒たちを深く愛していたことが分かります。

 私の両親は、1935年頃のことですからかなり昔の話ですが、その当時の鹿沼教会の向井芳男牧師の紹介で結婚しました。向井芳男牧師は、教会の伝道について、一つのヴィジョンを持っていました。教会に何組かのクリスチャンホ−ムを作って、その家族を核にして伝道を推進しようと考えて、結婚のお世話をしていたのでした。私の両親もその計画の中に組み込まれていました。向井牧師のお世話で結婚した人が多かったために、鹿沼教会には、クリスチャンホ−ムが多かったのです。クリスチャンホ−ムの子どもたちが小さな頃から、教会学校に通って、洗礼を受け、教会員になると、教会を支える人になる、そのことを考えていたのです。戦後、足立区の聖和教会に赴任して牧師としての働きをしていましたが、鹿沼での伝道で苦労したこともあり、懐かしかったのか、よく鹿沼を訪れて、教会員と再会していたのです。

 3章1−5節には、パウロはテモテを自分の代わりにテサロニケに派遣した理由を述べています。教会員の顔を見るだけではなくて、テモテを派遣したのは、「あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。」と語っています。テサロニケの信徒たちの安否を確認するだけではなく、信徒たちを励まし、信仰を強め、苦難に揺らぐことがないように、そのような目的をもって、テモテを派遣したと言うのです。この言葉には、牧師としてのパウロの配慮があるのです。信徒たちに対する深い愛があることが示されています。

 6月6日に東京神学大学主催の「日本伝道フォ−ラム」という、牧師のための研修会がズ−ムでありました。講演があった後に、3人の牧師から、20分ずつ、発表がありました。「伝道について」「礼拝について」「教会教育について」3人の牧師が、20分ずつ、講話がありました。「伝道について」は、18年間、日本キリスト教団の派遣宣教師で、韓国長老会神学大学の教師で、ソウルのセムナン教会の日本語教会の牧師であった、洛雲海(ナグネ)牧師が韓国の教会で経験した伝道について、話してくれました。ナグネという名前は、韓国名ですが、日本名では、大山という名前です。今年の3月に韓国から帰国し、4月から世田谷の奥沢教会に赴任しています。この研修フォ−ラムでは、レジュメがありませんでしたので、2015年に行われた、日本伝道協議会での特別講演での文章があり、内容としては変わらないので、この文章の初めの一部だけを引用します。

 「今日、私が申し上げたいことは、ただ一つのことです。『愛なくして、伝道なし』これまでもしばしば語ってきたことです。伝道は愛することです。それは『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』(マルコ16:15)と言われたお方を愛し、福音伝道の対象である全被造物を愛することです。またそれは『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい』(マタイ28:19)と言われたお方を愛し、それ故に御言葉に従ってすべての民を愛することです。その主体と対象を愛さないで、伝道するということにはなりません。『愛なくしては、伝道なし』。後のことは、これについての肉付けにすぎません。問題は「私たちは伝道しているかどうか」です。それは『私たちは愛しているかどうか』ということ。愛は愛でも利己的自己愛であってはなりません。むしろ利他的他者愛をもって『愛しているかどうか』ということ。この厳しい問いを自らに問いつつ、伝道の発展とそのための私たちの変化を期して、本日の講演をさせていただきたく思います。」「愛なくして伝道なし」それは牧師・伝道者に向けられた言葉なのです。

 この講演の中で、他にも印象深い言葉がありました。教会を理解しようとするときに、「教会とは何か」という問いなのですが、「教会は誰か」という視点に立つことが重要であると言うのです。「教会とは何か」それは例えば、宗教改革者が、「教会とは、純粋に説教がなされ、聖礼典が正しく執行される」と定義しています。しかし、教会は、どなたが主であるのか、どのような人がいるのか、と言うことが大切であると言うのです。「伝道する教会はキリストの体として、同時に現実の身体的存在であり、生きた人間の群れであり、体をもった私たちのことです。」「教会とは誰でしょうか。誤解を恐れずに申します。キリストです。しかも、このキリストを信じて従う私たちです。」教会は、誰であるか、それは、イエス・キリストであり、私たち一人一人であるのです。

 教会には、イエス・キリストがおり、私たちがいるのです。イエス・キリストが、十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦して下さった、それは神が私たちを愛してくださったからです。キリストに愛された私たちは、隣人と共に生きるのです。パウロは伝道者です。福音を伝えるのですが、それは福音を伝える相手を深く愛するだけではなく、キリストを信じた教会員を愛しているのです。

 テサロニケの信徒への手紙一 3章6−10節には、テモテがコリントに帰って来て、テサロニケの信徒たちの様子を報告し、その報告を聞いて、パウロがとても喜んでその思いを書いているのです。パウロがテサロニケの信徒たちに会いたい、という気持ちをもっている、それに対して、テサロニケの信徒も「しきりに会いたがっている」ことを知ってとても喜んでいるのです。互いに会いたいと願っている、それは大きな喜びです。自分は相手と会いたい、相手も、会いたいと思っている、パウロと信徒たちとは、互いの心が一つになっているのです。伝道者と信徒たちとの心が通い合っており、互いにその存在を肯定し、機会があれば会いたいと互いに願っているのです。

 3章7−8節の言葉が重要です。「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」パウロは伝道していく中で、様々な困難と苦難を経験しているのです。コリントの信徒への手紙二で、パウロは伝道している時に様々な困難に直面し、労苦しているのです。迫害、妨害、様々な困難です。コリントの信徒への手紙二 11章23節B「苦労したことはずっと多く、投獄されたことも多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。」と語り、鞭で打たれ、石を投げつけられ、難船し、様々な難に遭い、不眠、飢え渇き、寒さを経験し、裸でいたこともあった、と語っているのです。(コリント二 11章24−27節)

 それだけではなく、パウロには病気があって、説教している最中に倒れてしまうことも起こったのです。コリントの信徒への手紙二 12章7節には「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がることのないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」と語り、パウロは病に苦しんだのです。自分の外側から来る困難、自分をすりつぶすような艱難があり、自分の病があるのです。その中で、パウロはテサロニケの信徒たちの信仰に支えられたのです。

 元々、パウロはユダヤ人であり、テサロニケの人々は、ギリシャ人なのです。パウロはユダヤ人、しかし、パウロの説教を聞くのは、ギリシャ人なのです。ギリシャ人にとって、パウロは、外国人なのです。ギリシャ人にとって外国人であるパウロの話なんか、聞くに価しないと思って馬鹿にすることもできたのです。

 しかし、信仰を与えられた信徒たちは、「ひどい苦しみの中で、聖霊の喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」と苦難の中で御言葉を受け入れて、信仰生活をしているのです。周りの人々がキリスト者をまったく理解しない土地でキリスト者として生活しているのです。

 最近のテレビの番組を見ていると、考えさせられることがあります。最近のテレビ番組には、いろいろな地方の町をタレントたちやアナウンサーが歩いて、その町を紹介する、旅番組が多いのです。この旅番組を見ていて気づくことがあります。それはどこの土地にも神社やお寺があって、神社やお寺が画面によく出てくるのです。タレントたちやアナウンサ−が、神社やお寺の境内に入ると神主や僧侶が登場して、神社やお寺の由来を話す場面が出てくるのです。タレントやアナウンサ−が、「それでは、私もお参りしましょうか」と言って、手を合わせ、賽銭を投げ入れるのです。この場面を見ていて、もし、タレントやアナウンサーがキリスト者で神社やお寺で手を合わせ、賽銭を入れることを強制されたら、嫌だろうな、と思いました。テサロニケの信徒たちは、ナザレのイエスという人間を神として拝んで信仰をしているのです。ギリシャ人たちは、ギリシャにも多くの神々がいるのに、ユダヤの、外国の神を拝んでいる、それはおかしな人々だと思われているのです。その中で、イエス・キリストを主と告白し、説教を受け入れて、喜んでいる、その信仰生活を続けている、その姿にパウロは励まされたのです。

 パウロは伝道者でした。現代では、牧師と言い換えて良いでしょう。そのパウロがテサロニケの信徒たちの信仰によって励まされたのです。互いに苦しみを持ちながら、互いの信仰によって励まされているのです。3章8節には「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」とあります。伝道者と信徒たちが、強い絆で結ばれ、連帯しているのです。テサロニケの信徒たちが、主に結ばれて、教会につながっている、それはパウロが生きている、と言うことができるのです。ここでは、パウロとテサロニケの信徒との間に深い愛の交流があることが語られているのです。

 パウロは手紙の中で、祈りの言葉を書き送っています。私は中学生の時から文通をしており、手紙を書くのは苦にはなりません。現在では電子メ−ルでやりとりすることが多くなりましたが、手紙を書くことは好きです。パウロの手紙には、パウロの祈りが書かれているのです。テサロニケの信徒への手紙一 3章11−13節にはパウロの祈りが記されているのです。この祈りを読んで、私はこれまで手紙の中で祈りの言葉を書くことがなかった、と思いました。手紙の最後に「祈っています」という言葉は書いてきましたが、相手のことを思って祈りの言葉を書いて来なかったことに気づきました。

 3章12節の言葉に私は注目しました。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださるように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」「お互いの愛」というのは「教会の中の愛」のことです。神が聖霊によって、愛を与えてくださる、教会の中で互いに愛し合うように、と祈っているのです。

 しかし、注目すべき言葉が記されているのです。ここで「お互いの愛」とだけではなく、「すべての人への愛」と語られているのです。愛は、教会の中に限定されているだけではなく、もっと広い、この世界の人々をも愛することを語っているのです。教会の中で愛し合うだけではなく、愛の対象はこの世界に開かれた人々に向けられているのです。

 この世界には苦難に直面している人々が多いのです。最近、香港で言論の自由、集会の自由、民主主義のために戦っている香港のキリスト者たちを覚えて、日本の牧師たちが、ズ−ムで毎月、祈っていることを最近、知りました。

 香港が、イギリスから中国に移管された時に、一国二制度で行うことが決められていましたが、中国が国家主義的な傾向を持ち、中国の政治権力が香港に及ぶように政策を強行してきたのです。2019年に、香港の犯罪者を、中国に引き渡す条例を施行しようとしましたが、多くの香港市民が反対活動をして、通りませんでしたが、2020年に「国家安全法」が成立して、言論の自由も集会の自由も奪われ、香港市民は何もできないようになったのです。この香港の実情を知った牧師たちは、自分たちは何もできないと無力感に襲われていないで、自分たちにできることがある、それは、香港を覚えて、共に御言葉を聞き、讃美し、祈ることだ、と思うようになり、2020年から、香港のキリスト者とズ−ムでつないで、説教と祈りと讃美の集会を始めたのです。

 私たちはイエス・キリストに愛された存在です。聖霊を注がれて、教会の中で互いに愛し合い、すべての人への愛の生活に向かっていくのです。

20220612 主日礼拝説教  「神の言葉を受け入れる」  山ノ下恭二牧師
(エレミヤ書1章4−10節、テサロニケの信徒への手紙一2章13−20節)


 私は、東京神学大学を卒業して、3年間、岡山の蕃山町教会に在任した後、1979年4月に和歌山の田辺教会に主任牧師として赴任しました。この年は、私にとってとても忙しい年でした。田辺教会に赴任し、教会の牧師と幼稚園の園長とを兼務しました。幼稚園に関わるのは初めてでしたので、緊張の日々でした。5月に岡山の蕃山町教会で結婚式をし、10月に教団の正教師試験があり、12月に大阪教区の按手礼式がありました。日曜日には礼拝説教、長老会、教会内部の集会、また週日は、毎週、二箇所の各地域の家庭集会があり、また、月曜日から土曜日まで、教会付属の幼稚園の園長の仕事がありました。田辺市内の幼稚園の会合もありました。若かったからできたのでしょうが、風土も方言も異なる、新しい土地での生活が始まり、結婚、教師試験と続いて、かなり疲れていました。12月に入ると熱があり、歩くのも困難でしたが、クリスマス礼拝に洗礼式と聖餐式を行うために、正教師の按手礼を受けなければならないので、大阪まで按手礼式に行きました。その後、高熱が続き、倦怠感があり、病院で診察して貰うと、幼児から感染したおたふく風邪であることが分かりました。大人になっておたふく風邪になるとかなり重症化することを聞いていましたが、なかなか熱がさがらず、頬が膨れてきたのです。クリスマス礼拝の直前に入院し、クリスマス礼拝には、洗礼式・聖餐式はできませんでした。翌年の1月14日に洗礼式、聖餐式を行いました。この時、7名が洗礼を受けたのですが、その中の2名は栗栖川集会に集っていた人でした。

 栗栖川というのは、中辺路というところで、熊野本宮に行く途中の農村で、田辺から車で45分かかるところですが、私が赴任する4年前から毎週日曜日の18時30分から20時まで古い民家を借りて、集会をしていました。私が赴任して、一月に一回、行き、聖書の話をしていました。参加者は、一人の長老と、毎回車を運転手する人は違っていましたが、運転手、そして現地の女性3名でした。この中の女性2名が、洗礼を受けたのです。教会員はこの2名の女性が洗礼を受けたことをとても喜んだのでした。この小さな集会から二名の受洗者が出たことは、驚きであり、喜びであったのです。   
栗栖川の地域は、熊野本宮大社へ通じる街道沿いであり、昔から神道の根付いている土地でした。熊野本宮大社は、古くからある、由緒ある神社の一つで、平安時代から歴代の上皇、天皇が、京都から牛車に揺られてお参りに来たほどの神社なのです、和歌山の西には真言宗の本山である高野山がありますし、護摩檀山など、修験道で山伏が修行している地域なのです。このような土地で、キリスト教会の洗礼を受けることは、大きな決断が必要ですし、周りの人の理解を得ることも難しいところなのです。この栗栖川集会にしばらく出席していた人から、ある時、電話がありました。自分はしばらく前に、夢の中で先祖が出てきて、キリスト教に入ったら祟りがあるということを言われ、怖いので、もう集会には行きません、と言われたことがあります。このような中で、毎週、少人数で、粘り強く、聖書の話をしてきたのですが、その中で、2名の女性に信仰が起こり、洗礼を受けるに至ったことを、教会員はとても喜んだのです。

 テサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書の中で、最も早く書かれた手紙です。この手紙は、キリスト教会の最初の姿を伝える大切な手紙です。パウロの伝道の様子や、パウロが伝道してキリストの福音を聞いた信徒たちの姿が書かれています。パウロは、ヨーロッパへの伝道を計画して、最初にギリシャのフィリピに行きました。そこで福音を語り、このフィリピで信仰の出来事が起こり、洗礼を受ける人たちが出てきたのです。しかし、フィリピで迫害を受け、テサロニケに行き、福音を語ったのです。しかし、ユダヤ人たちが、パウロの伝道が成功したことを妬み、迫害をするので、夜逃げをして、アテネに行ったのですが、そこでは、パウロの説教を聞き、受け入れる人もいないので、コリントに行き、そこで、伝道を始めるのです。このコリントでテサロニケの教会に宛ててこの手紙を書いて送ったのです。

 テサロニケでパウロは、数ヶ月、滞在し、福音を語り、そこで数名の人たちが洗礼を受けたのです。パウロは、テサロニケの教会の信徒たちがどのようになっているのかを心配していたので、テモテをテサロニケに派遣し、信徒たちの教会生活の様子を見て、報告するように命じました。テサロニケに派遣したテモテがコリントに戻って報告をし、パウロはその報告を聞いて、パウロは神に感謝したのでした。それは、テサロニケの教会の信徒が、信仰が起こされ、洗礼を受け、御言葉に従っていることを知って、とても喜んだのでした。そのことに対して、感謝を献げるのです。パウロがテサロニケに行って説教をしましたが、信仰を起こし、洗礼にまで、導いたのは、聖霊の神であると確信していました。

 2章13節の言葉がとても重要な言葉です。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」説教を語るのは、人間です。今、山ノ下恭二という人間が語っているのです。天から神が語っているわけではないのです。神は人間を用いて神の言葉を語らせるのです。神は、私たちを用いて神の仕事をさせるのです。

 本日、旧約聖書のエレミヤ書1章4−10節の御言葉を聴きました。このところは、エレミヤが預言者として召命を受けるところです。エレミヤは、神が預言者として自分を召したことに対して、自分が年若いし、預言者という大任を果たすことができないと辞退をするのですが、神は、引き下がらないで、エレミヤを預言者として任命するのです。預言者とは、神が語れということをそのまま語ることが求められます。

 エレミヤが神から委託された預言の言葉は、聴く者にとって、耳が痛い、聞きたくないことなのです。預言の内容は「このままでは、イスラエルは滅びる、神のもとに帰れ」という預言であり、神がイスラエルを審判することを語るのが務めなのです。エレミヤが神の審判を語るので、反発した人々はエレミヤを捕らえて、縛り、泥沼に落とすような迫害をするのです。エレミヤはこのような苦難の中で、一人の人間として、弱さを持ち、苦しむのです。

 皆さんは、説教を聞いていて、いろいろな感想を持つと思います。人間が語るのですから、言い間違えがあり、内容も不完全です。その時によって元気に語っている時もあり、身体の具合が悪そうだ、と思うことがあり、例話がふさわしいとは思わないことがあります。説教者が語る言葉は人間の言葉に過ぎないのです。説教者の人間としての限界があります。しかし、説教は、神の言葉になるのです。問題は、皆さんが、説教を神の言葉として聞いているか、と言う問題になります。神の言葉として聞いていると言うよりも、誰々牧師の説教という人間的なレベルで聞いているのではないか、と思います。あの牧師の話がうまい、へた、言っていることが分からない、難しい、というレベルで聞いているのです。しかし、この説教によって神は何を私に語っているのだろうか、と言う姿勢で聞くことが大切なのです。聖書を読んでいる時も、神はこの言葉によって自分に何を語ろうとしているのだろうか、と思って読むのです。昔の物語として皆さんは聖書を読んではいないと思います。

 「神の言葉」と言うのは、ここでは、説教のことです。「神の福音」と言い換えて良いのです。「神の福音」とは神がもたらす、喜びの知らせのことです。説教塾で、「説教とは何か」というテ−マで書きなさいと言う宿題を出されて、書いたことがあります。多くの塾生は「説教とはイエス・キリストを紹介すること」と書いていました。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活を語ることです。それは、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪を贖って下さった、その愛を語ることなのです。説教は、神の愛を語るのです。愛の言葉として説教を語るのです。

 パウロは、ロ−マの信徒への手紙5章5−7節で次のように語っています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められていた時に、不信心な者のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 パウロの手紙は、ロ−マの教会の礼拝で説教として読まれたものであり、この御言葉はパウロの説教であったのです。毎週の礼拝説教は、その時によって聖書のテキストが異なり、語り方や内容は様々ですが、説教の中心的なメッセ−ジは、イエス・キリストによる神の愛なのです。説教を聞いていて、自分の心の中に、神が自分をここまで愛してくださっている、というメッセ−ジを受け入れられたならば、説教はこの人の心に届いたことになります。パウロが語る、神の愛の説教がテサロニケの人々の心に届いたのでしょう。パウロが語った説教を人間の言葉としてではなく、神の言葉として聞いた、というのは、聖書の言葉の意味が分かった、ということではなく、神が自分を深く愛していることが分かった、ということなのです。神の愛がその人の心に届くならば、神の言葉を受け入れたことになるのです。ルカによる福音書15章にある「見失った羊」の譬え話には、羊の群れから離れてしまった一匹の羊を、羊飼いは、一匹ぐらいいなくてもどうでも良いとは思わず、見つけるまで捜し出すのです。一匹の捜し出すのにとても苦労するのです。そこまでして、捜し出そうとするのは、一匹の羊のいのちを愛しているからです。神から遠く離れて生活している私たちを、イエス・キリストの十字架の犠牲により、罪を赦して神のもとに戻そうとするのは、神の愛なのです、これが神の言葉であり、神の福音なのです。イエス・キリストが罪を贖ってくださった、贖罪愛を信仰によって受け入れることが大切なのです。私は中学3年生の時から重い病気になって苦しんで高校生の時に、聖書のヘブライ人への手紙4章15節の御言葉を読んでいた時に、病に苦しむ自分を深く憐れみ、私のために共に苦しんでいるイエス・キリストの愛を知らされ、この神の愛を受け入れることができ、信仰告白をすることができたのです。

 説教で語っている内容がとても大切ですが、大切なのは、説教者の生き方です。聞いている者への働きかけ、関わり方なのです。先ほど、田辺教会で、日曜日夜に栗栖川で家庭集会を続けてきて、2名の洗礼者が与えられたことをお話ししましたが、なぜ、洗礼を受けることになったのか、それは、聖書の話が良かった、興味深く話してくれた、そういうことだけで、洗礼を受けることにはならないのではないか、と思います。田辺教会の一人の長老が、わざわざ、毎週、車で45分もかけて、自分たちの生活圏にまで来て、聖書の話をしてくれる、そのような熱意に感動したのではないか、と思います。キリストのことをどうしても伝えたい、という願いをもって、栗栖川まで熱心に来る、そのことに、自分たちに対する愛を感じたのです。聖書について知っていることを詳しく話したとしても、その言葉が相手に伝わって受け入れるとは限らないのです。話は上手とは言えないけれども、しかし、自分のことを愛して語っていることが分かれば、心の扉を開けて、福音を受け入れるのです。言葉のいのちは愛なのです。愛によって語っていることが分かれば、その愛に答えたいと思うでしょう。

 神の言葉として受け入れるためには、聞き方や聞く姿勢が必要です。週報には「礼拝開始10分前には着席し、礼拝に備えましょう」と書いてあります。なぜ、礼拝前10分前に着席することが必要なのでしょうか。礼拝に遅刻してはいけないから、10分前に着席するように、と書いてあるのだ、と理解している人もいると思います。礼拝開始時間に遅刻をしないために書いていることもありますが、それだけではなく、礼拝で説教に集中するために礼拝開始10分前に着席することが必要であるからです。「集中」と言う言葉は「集める」という言葉と「中」という言葉です。「中」というのは「真ん中」センタ−があるということです。そのセンタ−にあるもの、神の言葉に向かって心が開いて行かないといけないのです。説教者としては、説教は神の言葉として語っているので、神の言葉として聞いていて欲しい、と言うことです。

 山ノ下と言う一人の人間が語っているのですが、神の言葉として語っているのです。神の言葉が語られているのだから、集中して聴くことになるのです。ある教会で私が説教している時に経験したのですが、説教を聞いている人が、私を睨みつけているような、真剣な顔で聴いている人がいました。説教を集中して聞くために、その態勢を整え、説教を聞く構えをもつために、礼拝開始10分前に、着席して礼拝に備えることが大切なのです。皆さんは、静かに座りながら、「どうぞ、神さま、今日、御言葉を語って下さい」と祈るのです。説教によって、神の愛が皆さんの心に届いて、受け入れ、この福音を聞いて喜び、説教の言葉が、慰めとなり、生きる力となることができるように、と願います。

20220605 主日礼拝説教  「イエス・キリストの名によりて歩め」  山ノ下恭二牧師
(出エジプト記3章13−15節、使徒言行録3章1−10節)


 私は、高校卒業するまで鹿沼教会に通っていましたが、鹿沼教会に三名の目の不自由な方がおられて、礼拝に通っておられました。教会には点字の聖書が備えられていました。日曜日に、目が不自由な方とお話をした時に、障がいをもっていると外出するだけでも様々な困難があり、不自由であると話されていました。目が不自由な人を助ける人も少なく、世間の人々の目も厳しいと話していました。

 今日の礼拝で読みました、使徒言行録3章2節には「生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。」とあります。この短い言葉の中に、歩くこともできず、生きることが困難であることの意味が含まれているのです。一般に、生まれてしばらく経てば、手足をばたつかせ、ハイハイをし、1年半ぐらいで立って、よちよち歩きができ、飛び跳ね、駆けずり回ることができるようになるのです。しかし、他の子どもができても、この男は、仲間はずれにされたまま、駆けずり回る他の子を羨ましげに眺めるばかりであったのです。この男は40歳であったと書かれていますが、自分の力では一歩も歩くことはできなかったのです。いつも誰かが助けてくれるのを頼りにし、他の人の好意にすがるばかりであったのです。この男には働く場所はなかったのです。仕事がなく、収入がないので、物乞いをせずには生きられないほどに貧しかったのです。家族は、この男が物乞いをすることができ、お金が入る、絶好の場所を見つけて、毎日、その場所に運んでいたのでした。物乞いがいた所は、この神殿に行くために人々が多く通る場所であったのです。障がいを負うことは、その障がいによる苦しみだけではなく、周囲の人々の、差別や偏見にさらされるのです。今もそうですが、この時代は障がいがあるのは、先祖や親が罪を犯したため、子どもがその報いを受けているという考えをほとんどの人が持っていたのです。

 神殿に行く人々の中に、ペトロとヨハネがいたのです。二人は施しを乞うていた男のそばを通っていた時でした。神殿内部では、礼拝が行われていますが、この神殿の外では、救いを失ったままの世界がそのまま放置されていたのです。二人の使徒は、この物乞いの男に気づき、立ち止まり、この男に遮られることによって、この男と出会うことができ、この男が立ち上がり、歩ことができるようにその機会を造ることができたのです。この二人は、奉仕の心に生きていたので、この男に目を注ぐことができたのです。神殿の礼拝に行く、それだけではなくて、この男に目を留めて関わることも、神への奉仕なのです。この男は、ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、いつものように施しを乞うのです。

 興味深いことにこの3章3節から5節にかけて「見る」という言葉が何度か用いられています。それぞれ異なる言葉です。まず、男は、いつもと同じように、境内に入る人を目にしています。3節に「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て」とありますが、これまで自分の前を通り過ぎて行った人と変わらないただの人間として、ペトロとヨハネの姿を見たのです。ところが、男から声をかけられたペトロとヨハネとは、一緒にこの男をじっと見たのです。この「じっと見る」という言葉は3節の言葉と別の言葉です。この言葉は相手のことに目をそらさずに注視するという意味の言葉です。好奇心や同情心からではなく、この男そのものを「じっと見た」のは、おそらくペトロとヨハネが初めてだったのです。この「じっと見た」という言葉は「にらみつけた」とも訳されています。ペトロとヨハネが「じっと見た」のは、この男をそこに置かれている「もの」としてではなく、まさに人格的な、一人のかけがえのない相手として、「あなた」として受け止めたのです。そうであればこそ、ペトロは、この男に語りかけるのです。この男が人格をもったかけがえのない相手として語りかけた人はいなかったのです。

 4節には「わたしたちを見なさい。」とあります。ここで使われている「見る」という言葉はまた3節の言葉と別の言葉が用いられています。これは目を開いて注意して見る、という言葉ですが、ここで「見なさい」と言っているのは、ペトロの顔や姿を見なさい、と言っているのではないのです。ペトロとヨハネという人間存在をも突き抜けて、自分たちを遣わし、働きを委ねた方、イエス・キリストを見なさい、と言っているのです。ペトロとヨハネを生かしているイエス・キリストを見なさい、と語っているのです。ペトロとヨハネの目を通して、イエス・キリストがこの人に目を留められたのです。この男は、イエス・キリストを求めてはいないのですが、この男が今、必要としているのは、イエス・キリストの救いなのです。この男が期待をしているのは、物質的な援助であり、生活を支えるお金です。この男は実際に生活するために必要なお金以上のものは求めてはいないのです。ペトロは、この男がほんとうに見るべきものを見て欲しいと願って、この男の求めには応じないのです。ペトロは、この男の魂の目を開かせるために、あえて、施しはしないのです。ペトロは「わたしには金や銀はない。」と言うのです。文語訳では、「金銀我になし」です。使徒たちには、実際にお金がなく、貧しかったのかもしれません。しかし、この言葉は、お金を自分は持っていない、あなたにあげるお金はありません、という意味以上のことを語っています。金や銀でないものがこの人をほんとうに救う、この男を生かすという意味で、あえて「わたしには金や銀はない」と語るのです。

 教会には、様々な願いをもって訪れる人が来ます。実際に金品を求めてくる人もいます。しかし、それほど露骨でなくても、それぞれに求めや願いがあるはずです。温かい交わりを求めて来る人もいますし、優しい慰めの言葉を期待してくる人もいます。これからの自分の生きる上で参考になる、知恵の言葉を求めて来る人もいます。そのような人々の要望に答えようとするならば、それは教会であることを見失うのです。教会は人々の必要に答えるサ−ビス団体ではないのです。教会は、自分たちが持ってもいないのに、人々の求めに合わせて、それを与えることができるかのように思ってはならないのです。「わたしには、ない」ということを私たち教会は自覚していくのです。「わたしには、ない」ということを言うことが大切なのです。

 しかし、教会がもっているものがあるのです。お金や物質的なものはないのです。別のものを持っているから、「わたしには、ない」と言えるのです。何にもない、と言うのではない、教会がもっているものがあるのです。この世の中で、ただ教会だけしか与えることのできないものがあるのです。6節に「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」と語られています。この言葉を教会は持っているのです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって」この言葉が、この物語の鍵となる言葉であり、このテキストの中心となる言葉です。

 皆さんは、自分の名前をもっています。名前はとても重要です。私は「山ノ下恭二」という名前ですが、病院や薬局で「山下さん」と呼ばれることがあります。他の人が呼ばれたかと思って、受付にいかないと「山下恭二さん」と言うので「山下」ではなくて、「山ノ下です」と言います。皆さんは、ある人の名前を聞くと、名前だけではなくて、その人の顔、態度、自分との関わり、などを思い出すと思います。その人の名前を聞くと、自分に親切にしてくれた人として、心が温かくなることもあり、逆にその人の名前を聞くと、過去にいろいろあったので、嫌な思いをすることもあります。名前は、符号ではなくて、その人の人格を表す、その人の生き方を現すものなのです。名前には、力があります。その人の名前を言えば、施設を借りることができる、その人の紹介で会うことができる、名前を言って、自分のところに呼び寄せる、ことができるのです。  

 本日の礼拝で、出エジプト記3章13−15節の言葉を読みました。このところは、神が奴隷であったイスラエルの民を奴隷から解放するために、モ−セを指導者として選び、パレスチナに導く使命を与えたのですが、この大事業はモ−セひとりではできないし、神の力を頼まなければできないことであったのです。ただ、神がどのような神であるのか、分からないと困るので、どのような神なのか、を聞くのです。 もし、この神が、気まぐれな神であれば、エジプトを脱出して、旅の途中、イスラエルの民と共に進んでいくのに嫌になり、放り出してしまう神であると、困るのです。どんなことがあっても終わりまで、共に旅をする頼りがいのある神であると安心するのです。どのような神なのか、分からないと困るのです。モ−セは神の名を聞いたのです。神は、神の名が「わたしはある、わたしはあるという者だ」と言うのです。この言葉が「主」という言葉になります。「主」が神の名なのです。この神の名は、イスラエルの民が苦しみ、痛みをもって叫んでいる時に、すぐにイスラエルの民のために駆けつけて、降り、働き、救う神であるということです。「主」である神は、いつも共にいる神です。

 モ−セとイスラエルの民はエジプトを脱出して、イスラエルを目指して、旅をするのですが、そこで多くの困難に出会うのです。食べるものがなくなり、不満が出てきます。その度毎に、神はイスラエルの民を導くのです。そしてイスラエルの民が、契約に違反し、戒めを破り、神をないがしろにしても、神は、決して契約を破棄しない、どこまでも愛する神であるのです。この主である神が、イエス・キリストにおいて、私たちの罪を贖うために、この世界に来られた、そして十字架の死と復活によって、私たちに神の愛を示されたのです。主なる神は、全力を尽くして、私たちのために愛し、不可能を可能としてくださるのです。この物乞いの男は、40年の間、自分が立つことも歩くこともできるとは全く思っていなかったのです。諦めていたのです。ただここに座って、物乞いをして、この前を通る人々の同情によってお金をもらって生活することしか考えてはいなかったのです。これからも物乞いで暮らしていく、そのような生活に慣れ親しんでいたのです。しかし、ペトロの言葉によって、この男の人生は変貌を遂げるのです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって歩みなさい。」この言葉は「命令形」です。「歩め」という強い命令形で語られているのです。

 ペトロとヨハネという使徒たちとこの男との出会いは、偶然かも知れません。しかし、偶然ではありません。私がキリスト者となったのは、ヘブライ人への手紙を読んでいた時に、信仰が起こって、その年の10月に信仰告白をしたのです。献身して牧師になろうという思いが起こったのは、礼拝で説教を聞いていた時に、そのような思いになったからです。自分では、予定になかったのです。このことは、神の取り計らいなのです。それは、聖霊による導きであると信じます。イエス・キリストによって聖霊が働いてくださり、自分の心を動かしてくださったのだと信じます。この男は、自分の力では立ち上がることも、歩くこともできなかったのです。この男を見て同情する人々もいたでしょう。しかし、人々の同情や金銭による援助では、立ち上がり、歩くようになることはなかったのです。ただ、「ナザレの人イエス・キリストの名によりて歩め」という聖霊によって語られた言葉によってのみ、立ち上がり、歩むことができるのです。

 私たちは、この世の中で生きて行く時に、様々な困難に直面するのです。自分の力ではその状況を突破することができない時に、イエス・キリストの名によって歩みなさい、という言葉を聞くことによって、立ち上がることができるのです。自分ではできないことも、イエス・キリストご自身が力をもって働いてくださるので、立ち上がることができるのです。

 使徒言行録3章10節以下では、この男が「歩き回ったり躍ったりして神を讃美し、二人と一緒に境内に入って行った。」民衆は皆、この男が物乞いの男であると気づいて驚き、ペトロとヨハネは、ソロモンの回廊で集会を始めたのです。

 使徒言行録2章では、弟子の二階の部屋に集まっていたところ、聖霊が注いで、キリスト教会が起こった、聖霊降臨日のことが記されていますが、このソロモンの回廊で集会をして説教がなされたのであり、ひそやかに集まる集会ではなくて、開かれた礼拝であり、この集会は神殿に集まる人々の目にさらされ、そこで、毎日、説教が行われたのです。そこに、癒やされた男も「つきまとっていた」のです。

 新しいキリスト教会の群れが神殿の境内で、その姿をさらしながら礼拝生活を始めていたのです。イエス・キリストの復活の出来事の直後には、戸を閉ざして家の中に籠もっていた使徒たちが、神殿の中でキリストの名を語り、聖霊を受けて、イエス・キリストを説教するのです。

 聖霊降臨の日から、使徒たちは、イエス・キリストの名によって、力強く、癒しの業をなし、説教を始めたのです。足の不自由な男が立ち上がり、歩くようになった後に、ペトロは、3章12−26節で語り始めています。ペトロやヨハネの「力や信心によって、この人を歩かせた」のではないと語り、3章16節において次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」使徒たちは、イエス・キリストの名によって福音を語り、イエス・キリストの名によって洗礼を授けたのです。

 癒やされて自由に立ち、歩くことができるようになった、この男も洗礼を受けて、キリスト教会の仲間になったのです。皆さんも、父と子と聖霊の名によって、洗礼を受け、キリスト教会に属する者となり、恵みの中で過ごすことができるのです。

 本日、私たちは、聖餐にあずかります。私たちの罪の救いのために、十字架の犠牲を献げられたことを心に刻み、主イエスが裂かれた肉を表すパン、流された血を表す杯を戴き、この恵みにあずかるのです。

20220529 主日礼拝説教  「あなたは、神が愛する宝もの」  山ノ下恭二牧師
(ホセア書11章1−9節、テサロニケの信徒への手紙一2章1−12節)


 教会玄関の花壇に沈丁花が植えてありますが、その葉が落ちているので、時々、掃除していると、犬を連れた人や通勤・通学の人が通るので、挨拶するように心がけています。挨拶をすると、挨拶された人が、挨拶し、自分のことを受け入れてくれていると思ったのか、その人が話しかけて来る時があります。

 私たちにとって、自分の存在が全面的に認められ、受け入れられている、そのことはとてもうれしいことです。自分の存在が認められ、受け入れられている、このことを経験することは、とても幸いなことです。

 皆さんの中で、次のような経験をされた人もおられると思います。ほとんどの人は、初めて教会の礼拝に出席した時に、知り合いの人がいて、ためらわずにこの教会に入れたと思いますが、全く知らない人ばかりの中に入っていくのは勇気が要るのです。教会に来ている人が自分の知らない人ばかりである場合には、会堂に入ってどの椅子に座ったら良いのか、分からなくて戸惑い、礼拝が終わった後に、周りの人が自分を受け入れてくれ、歓迎してくれるのか、不安に思うのです。教会の人々が、自分の知らない人ばかりであっても、やさしく応対してくれた、自分を受け入れてくれたというならば、その人にとって教会は居心地の良い場所になるのです。

 本日、この礼拝で読みました、テサロニケの信徒への手紙一は、パウロがテサロニケで語った説教を人々が聞いて受け入れて、信仰が起こったことをパウロがとても喜んで、教会の人々に手紙を送っているのです。パウロの語った説教が、テサロニケの人々に受け入れられたことをとても喜んでいるのです。1章6節で「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」と語っています。パウロが語った説教が、受け入れられて、信仰という出来事を起こし、教会ができて、福音が根付くことができている、それは、パウロにとって感謝すべきことであったのです。

 パウロは、これまで各地で説教し、キリストの福音を伝えてきましたが、パウロの語る福音を受け入れたところはほとんどなかったのです。ギリシャに渡り、フィリピで伝道して、一人の婦人とその家族が洗礼を受けましたが、フィリピで迫害を受けて伝道活動を中断せざるを得なくなったのです。そしてテサロニケを去った後に、パウロが、アテネで主イエスの復活を語っても、その場にいた人々はパウロの説教をわけのわからないおしゃべりとしか受け止めず、あざ笑い、つまらない話であると全く受け入れなかったのです。各地で、パウロとパウロが語った説教が人々に受け入れられなかった、そのような苦い経験をしてきたのです。ところが、テサロニケでは、パウロの語った説教を受け入れ、信仰が生まれ、教会が誕生したことにパウロは感動し、再び、訪れて信徒たちの顔を見たいと願っていたのです。

 今日、礼拝で読んだところは、パウロが、使徒として、神に遣わされた者として、神のみこころに照らしてはずかしいことをすることなく、福音を純粋に語ってきたことを語っているのです。パウロがこのように語らなければならない必要があったのです。それは、この当時の教会の事情があったのです。現在は、一つの教会に一人の牧師がいて、同じ牧師が毎週、説教していますが、この当時は、一つの教会に伝道者が常駐しておらず、いくつかの教会を巡回している伝道者が何人もいたのです。その時によって、説教する伝道者が違うのです。巡回伝道者と言われる人たちが教会に説教に来ていたのです。コリントの信徒への手紙に記されていますが、コリントの教会に何人もの伝道者が来て、説教をしていたのです。ペトロ、アポロ、パウロが来て説教をして、それぞれファンがいたと書かれています。

 2章3節に「わたしたちの宣教は、迷いや不順な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。」と語っています。「迷いや不順な動機」で説教し、「ごまかして」説教をする説教者が存在したことを示しています。ただ福音を語る目的ためにテサロニケで説教をしたというのではなくて、私利私欲のために、説教をしている伝道者がいたのです。キリストの福音をどうしても語りたい、伝えたい、というのではなくて、自分のために説教している、そのような伝道者がいたことに対して、パウロはそのような説教者ではないことを訴えているのです。

 パウロは伝道者としてテサロニケの信徒たちに対して、どのような思いで関わってきたのか、それは、7−8節で次のように語られています。「わたしたちはキリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」口語訳は7節を次のように翻訳しています。「むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。」

 この「母親」という言葉は、「乳母」という言葉です。母に代わって乳を与える人のことです。まだ乳離れしていない頃の赤ちゃんに乳を与えて育てる人のことです。赤ちゃんは、乳母に依存し、乳母の手に抱かれて、安心しているのです。乳母は赤ちゃんをいとおしく思い、やさしい思いで育てるのです。口語訳では「いとおしい」と訳していないで、「やさしい」と言う言葉を使って翻訳しているのです。本日の礼拝で、旧約聖書ホセア書11章1−9節を読みました。ホセア書11章4節には「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた。」(p1416)とあります。神はイスラエルの民を神にふさわしい民に育てようと、養育するために「かがんで食べさせた」と語るのです。乳母が乳飲み子を抱いて乳を飲ませるように、神はやさしくイスラエルの民を愛して育てたのです。

 乳飲み子の時には、母親はわが子が可愛いのですが、子供が大きくなると、母親に口答えをして、子供との間に摩擦が生じるのです。大きくなるにつれて対応がむつかしくなるのです。問題を起こした子どもに、母親が厳しく叱る、そのように親が対応をすると親から子どもの心が離れていきます。子どもの話を聞かないで、一方的にガミガミ自分を叱ってばかりで、子どもの気持ちを分かってくれない、と不満だけが残ります。子どもが問題を起こしても、母親が、子どもの気持ちを汲んで、子どもの話をよく聞いてくれて、理解してくれている、子どもがそのような思いを持つように対応できるならば、子どもは、母親を「お母さんはやさしいんだね」と言う言葉が出てくるのです。相手に対してやさしくする、というのは、なかなかできないことです。教会においてもやさしさを貫くことは難しいのです。

 パウロはテサロニケで数ヶ月、過ごしたのですが、テサロニケの教会の信徒たちは洗礼をうけて間もない人たちでした。洗礼を受けて間もない人たちでしたから、信仰が身についているとは言い難いのです。テサロニケの信徒たちは、信仰に入ったばかりですから、戸惑うことが多く、人間ですから完璧ではなく、それぞれ欠点があり、過ちを犯すこともあったのですが、パウロはそのような者を受け入れ、罪を赦し、乳母が乳飲み子に接するように、やさしくふるまったのです。

 やさしくふるまっただけではなく、テサロニケの信徒たちを、「神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえも与えたいと願ったほどです。」と語っているのです。「自分の命さえも与えたい」と言うのは、信徒たちを自分の子どものように思っているのです。子どもが病気で苦しんでいる、そのような時に、自分が子どもに代わって病気になりたい、そのような母親はいるのです。しかし、母親が子どもの身代わりとなって、自分の命を捨てることはできるかも知れないのです。しかし、自分の子どもではない人のために、自分のいのちを捨てると言うことはできないのではないか、と思います。

 パウロは「自分のいのちさえも与えたいと願ったほどです。」と語っているのです。それほど、テサロニケの信徒たちを愛していたのです。私たちは、主イエスが「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15章13節)と語られた言葉を知っています。この言葉を読むときに、私は心が揺れるのです。自分は隣人のために自分の命を捨てることができるのか、と思います。かつて、JR高田馬場駅で線路に落ちた人を二人の若者が助けようと線路に降りていき、直後に電車が来て、死んでしまったと言う事件がありました。私はこの二人の若者のように自分のいのちを捨ててまで愛することができるだろうかと思うのです。

 私たちはこの主イエスの言葉をどのように受け取っているのでしょうか。自分に向けられた言葉とは考えずに、これは聖書の言葉であり、パウロほどの人はできるけれども、凡人である自分にはできないとも思うのです。そして、これは、基準なのであって、その時、その時に判断する問題だ、できる時もあるかも知れないけれども、できない時もあり、できなくても許されるはずだ、と思うのです。この字句通りに必ず、守るものではない、守らなければならないというならば、律法主義になると考えるのです。

 しかし、パウロは、自分の命さえも捨てて良い、と思うほどに、テサロニケの人々を愛したのです。自分の命さえも捨てて良い、と思うほどの愛をもって、愛するのです。そのような心構えをもって、信徒たちを愛するのです。

 パウロは使徒として召されたことを自覚し、福音を語る心構えを語ります。それは他の巡回伝道者のようには福音を語らなかったと言うのです。4節で「わたしたちは、神に認められ福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。」
今、このように、私が皆さんに向けて説教していますが、説教は、第一に神に向けて説教しているのです。神が説教の一番目の聞き手なのです。私は、説教を作成している時に、皆さんに説教の言葉が通じ、福音が届き伝わるためにどうするのか、ということを考えます。説教を作成する段階で、皆さんのことを思い、黙想して作成するのです。それは皆さんが興味を引くような説教をすることが第一ではないのです。「人に喜ばれるためではなく」とあります。「人に気に入られるためではなく」「神に喜んでいただくためです。」

 テサロニケでは、パウロとその説教が受け入れられましたが、コリントの教会では、パウロが使徒として受け入れられず、パウロは受け入れて欲しいと嘆願しています。コリントの教会では、自分が使徒として受け入れられない苦しみを持っていました。使徒の職務をする人物には、資格の条件があると最初の教会の人々が考えていたからです。使徒の職務をする条件とは、この地上の主イエスの弟子であり、十字架の死と復活に立ち会った人が使徒の条件であったのです。パウロは、この条件を満たしていません。地上の主イエスの弟子ではなかったし、十字架の死と復活に立ち会ってはいないからです。しかし、パウロは、使徒なのです。それは、最も大切な福音を受け取って、福音を誤魔化すことなく、伝え、届けているからです。

 6−7節に「また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。」パウロは使徒であることを自覚していましたが、自分が重んじられることを求めてはいなかったのです。使徒として権威を自分は持っていることをみんなに知らせることもでき、使徒としての権利を行使できたのですが、それをしなかったのです。むしろ、信徒たちを愛することに徹したのです。私たちは、いつでも自分を重んじて欲しいという欲求を持っています。みんなから、あの人は立派な人だ、と言われたい、そのような願いを持っているのです。しかし、パウロは、自分が福音を語っていることが、使徒としての喜びなのです。

 9節には「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。」とあります。この言葉をパウロは経済的な負担をかけなかったと理解するのです。パウロの生活に関して、教会の人々に負担をかけるようなことはなかったと言うのです。パウロは、天幕造りの仕事をして、その収入で生計を立てていたのです。しかし、この言葉を深めていくと、伝道者の生活を支えるために、教会の人々に経済的な負担をかけない、と言う意味だけではないのです。パウロが言いたいことは、パウロが教会を愛している、教会の人々を愛している、そのことが教会の人々にとって負担とはならない、と言う意味で語っているのです。

 私たちは、毎日、互いに愛し合うことをしています。ところが、愛されてきたことが、負担になるのです。今日の教会学校で私は十戒の第五戒「あなたの父母を敬え」という言葉を説教しましたが、親が自分の子どもにこれまでお前を苦労して育てたのだから、親が年を取ったら親孝行をするように、と言ったら、子どもには大きな負担になるのです。親が子どもに、大学までたくさんお金を出して育てたのだから、一流企業に就職しないといけないのだと言われたら、子どもにとって大きな負担になるのです。恋人に「あなたを死ぬほど愛している」と言われたら、その言葉にへきえきし、困ると思います。相手が、自分に対する、相手の愛に絶対的に重みをかけて、自分に迫り、のしかかってくるのは耐えられないのです。自分が相手を愛すると、その愛に対して相手に見返りを求めるのです。自分の愛に相手が答えないと我慢ができないのです。

 しかし、まことの愛はささげるばかりであり、見返りや報いを求めないのです。相手が自分の愛に答えなくても、愛するのです。自分の愛に絶対的な重みをもって相手にのしかかるのは、まことの愛ではないのです。パウロは、テサロニケの教会の信徒たちに、自分の命を与えたいほどの愛をもって、福音を伝えたのです。パウロをテサロニケの信徒たちが受け入れ、テサロニケの信徒たちを、パウロは無条件に受け入れて、その良い関わりによって、互いに神の福音の恵みを与えられていたのです。

 神がイエス・キリストによって私たちの存在を愛し、私たちの罪を赦して受け入れて下さるのです。教会は、互いに罪を赦し合い、愛し合う共同体なのです。

20220522 主日礼拝説教  「信仰、愛、希望に生きる」  山ノ下恭二牧
(ミカ書6章8節、テサロニケの信徒への手紙一 1章1−10節)


 先週の日曜日の礼拝から、テサロニケの信徒への手紙一を学んでいます。この手紙は、パウロがギリシャのテサロニケの町にあった教会の信徒たちに宛てた手紙であり、パウロが最初にキリスト教会に書き送った手紙です。この手紙は、コリントに滞在している時に書かれたものです。パウロは、フィリピで迫害を受けて、このテサロニケに来て伝道したのですが、その伝道は困難であったのです。そのいきさつは、使徒言行録17章に詳しく記されています。ユダヤ人たちがパウロの伝道が成功したことをねたんで暴動を起こし、パウロは夜逃げをしたことが記されています。その中で、パウロの説教を聞いて信じた少数の信徒たちがいて、テサロニケに教会が設立されたのです。

  パウロがテサロニケの教会を去った後でもテサロニケの信徒たちがどのように信仰生活を続けているのか、いつも気になり、覚えて祈っていたのです。パウロは、テサロニケを再び訪れたいと願っていました。2章17節で「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、―顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが―なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。」と語っています。この言葉からパウロはテサロニケを再び訪れたいと強く願っていたことが分かります。テサロニケの教会の信徒の信仰の様子を知ろうとして、パウロの伝道に協力しているテモテを派遣して信仰の様子を知ろうとしていたのです。

 私は、1976年に東京神学大学を卒業した後、岡山の蕃山町教会に伝道師として赴任しました。1979年の3月まで3年間、在任したのですが、それ以来、教会の会報「地塩」を送ってくれています。この会報には、その時々の教会の活動や集会、教会員の紹介、教会員の逝去など教会の様子が詳しく記載されています。私が在任している時に高校生であったひとりの会員が、今では、長老になって活躍していることを知ってうれしくなりました。年4回の会報を読みながら、信徒の動静を知り、私が知っている会員が教会生活を続けていることに喜びを感じるのです。3年という短い期間でしたが、最初の任地であったこともあり、会報を読みながら、あの人は、どうしているのか、と思いを巡らすことがあります。牧師、伝道者は、自分が在任した教会の信徒のことをいつも覚えて祈り、心配しているのです。

 先週の礼拝説教でも触れましたが、パウロは教会を考えるときに、会堂の立派さや教会に集まっている人数で、教会を測ることをしませんでした。テサロニケの信徒たちの信仰を見ていたのです。「あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。」(3章5節)と言う言葉があり、「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」(3章10節)、と語っています。パウロは、どのような人が教会に集まり、その数は何人であるのか、という目に見えるところに関心があるのではなく、テサロニケの信徒たちの信仰に注目しているのです。

 1章2節に「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」と語っています。感謝という言葉が、何回も出てきます。3章9節にも「感謝」と言う言葉が出てくるのです。「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」

 パウロはテサロニケで伝道したのですが、パウロが説く福音を聞いている人が受け入れるか、どうか、分からなかったのです。キリストの福音を語っても、そのことに反応し、受け入れ、聞き従うことはほとんどなかったのです。

 テサロニケに来る前は、フィリピで伝道しましたが、受け入れるどころか、迫害を受けたのです。しかし、テサロニケでは、福音を語って受け入れる人々が出てきたのです。そのことにパウロは驚いて、神に感謝をささげたのです。福音が伝わるのは、聖霊の働きであることを確信したのです。一人の人に熱心に福音を伝えようと一所懸命に働きかけても、その人が洗礼を受けるとは限らないのです。逆に、熱心に働きかけない時でも思いがけなく、洗礼を申し出る人が出てくるのです。

 1章5節に「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」福音を受け入れることによって起こる個人的、共同体的変化をこの言葉は表現しています。説教を聞いて、聖書の言葉の意味がよく分かった、知らないことを教えられて知識が増えた、ということではなく、説教を聞いて、自分の中に信じると言う出来事が起こったのです。アテネでパウロが伝道した時の経験が、使徒言行録17章32−34節に記されています。パウロの説教を聞いていた人々が「ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう』」とその場を立ち去ったのです。しかし、テサロニケの人々は、パウロの説教を聞いて、生きてきたあり方、生きる構えを変えざるを得ない、信仰の出来事が起こったのです。

 今まで自分がもっていた経験、思想、考え方とは、全く異なったキリストの福音を受け入れ、信じて、そこから、その人の存在そのものが変わったのです。神の言葉は、私たちの存在を変えるのです。パウロは、自分が生きることはキリストが生きることだと言いました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(フィリピ2章20節)キリスト者として何かをすることではなく、キリスト者であること、その存在そのものが大切なのです。

 私が、和歌山の田辺教会におりました時に、教会員の小野巳代子さんの家庭集会に小野さんの夫が出席し、聖書の話を聞いていました。小野さんの夫の病が重くなって、洗礼の申し出があって病床洗礼を授けたことがあります。その後、しばらくして、逝去されたのです。そのような時に、洗礼を受けた後に、その人がどのような良いことをしたのかを問うならば、その人の救われる道はないのです。年を取って、肉体の弱さを覚えて、誰かに負担をかけることがあります。だれでもそのようになるのです。誰かの役に立つことはできなくなります。しかし、存在そのものが、神の言葉を宿して、キリストに生かされている事実は変わらないのです。

 その人が、何をしているのか、ということよりも、どのような存在なのか、ということが大切なのです。信仰を与えられて、どのような存在になっているのか、ということです。パウロは、教会の人々を見る時に、外見的なことではなく、存在そのものが信仰である、そのことを発見していたのです。テサロニケの教会全体としての信仰、そして信徒たち一人一人の信仰がどのようであるか、に関心があるのです。信仰によって動かされた信徒ひとりひとりの働きがあることを語っているのです。

 それは3節に語られています。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」

 私たちは、「信仰」と言うと、自分の持ち物のように考えてしまうのではないでしょうか。「信仰」と言うと自分が持っているもののように考えてしまうのです。熱心に聖書を読み祈っている時は、信仰を持っており、聖書を読むことも、祈ることもしない時は、信仰をもっていない時だ、と自分の状態によって、信仰があるかどうか、を決めているのです。

 パウロは、私たちのことを「土の器」であると言います。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」(コリント二 4章7節)パウロがいた時代は、宝石を土の器に入れて、保管して隠していたそうです。この土の器は壊れやすいのです。皆さんも手を滑らせて、器を落として、壊したことがあると思います。器は、落とすと壊れるような、もろさを持っています。私たちも、弱く、壊れやすい身体を抱えながら生活をしています。しかし、この土の器は神の憐れみを入れる器なのです。私たちは、憐れみを入れる器なのです。私たちは、罪深いものですが、キリストが罪を赦してくださる、その憐れみを私たち土の器に注いでくださるのです。パウロは、私たちが「憐れみの器」であると言いました。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(ロ−マ9章24節p287)

 「ハイデルベルク信仰問答との対話」という本に「通路としての信仰」という言葉がありました。今日も地下鉄で教会に来た方もおられると思いますが、地下鉄には出口に向かうための通路があり、その通路を通って、私たちは教会に来ています。「通路としての信仰。」神のところに行くための通路が信仰なのです。通路がないと、神のところに行くことができないのです。神から恵みを戴く、それは信仰と言う通路がなければ、戴くことはできません。「信仰は自分自身のものではないし、独自の資質を持つものではない。むしろ信仰は通路として理解されるべきである。その通路を通って人間にすべてのものが神から与えられるのである。」(「G プラスガ−著、芳賀力訳「ハイデルベルク信仰問答との対話」p85−86」

 今、皆さんが毎日、よく使っているものは、スマホです。スマホは音声やメ−ルで相手と通話するのに、便利なものです。スマホによって、相手との通話ができるのです。スマホは、相手とメ−ルや会話でつながることができる道具なのです。私たちは「信仰」というと、信心と言う言葉を思い起こすほど、自分の側での熱心さ、人間の堅い決心、と考えています。しかし、そうではないのです。神と私たちをつなぐのが信仰なのです。信仰と言う通路を使って、神は私たちに御言葉を伝えてくださるのです。皆さんが、毎週、礼拝に来て、説教を聞くことは、神が信仰と言う通路から、私たちになくてはならない、恵みを送って下さるのです。

 パウロは、テサロニケの信徒たちが、キリスト者らしい生活をしていることをテモテから聞いて、とても喜んでいるのです。1章3節に「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神と御前で心を留めているのです。」聖霊によって信仰が与えられて、その信仰が、愛を生み出し、望みを与えるのです。

 ここに「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」と言う言葉があります。この言葉を聞くとき、コリントの信徒への手紙一 13章の愛の賛歌の最後に記されている「信仰、希望、愛」という言葉を思い起こします。キリスト者の両親をもった人の名前が「信(シン、マコト)、仰(あおぐ)、望(のぞみ)、愛、という名前をつけることも多いのです。

 ただ「愛」ということを誤解しているのです。一般に「愛」を、その人が持っている能力、好意、善意、同情心、という、人間が持ち合わせているもののように理解しているのです。そして愛を人間の側の行為として考えているのです。またテレビニュースで、九州のある男性が災害ボランティアとして、被災地に駆けつけて、壊れた家に行き、手伝っている姿が放映されていました。その人をス−パ−・ボランティアと呼んでいるようですが、困った人を助ける、それは愛の行いであり、人を助けるので、愛のある人だ、と思うのです。

 しかし、コリントの手紙一 13章は、聖霊によって与えられるのが愛なのです。聖霊による愛とは、神から出てくる愛に基づいているのです。神が、キリストの贖いによって罪が赦された、そのことに根拠をもって愛する、愛です。自分がもっているものではなくて、神が聖霊によって与えられるものなのです。私たち人間が経験することから言うことができるのは、親から愛されて、私たちは愛を知るのです。親から虐待、育児放棄をされれば、親の愛を知らないのです。親から深く愛される、そのような経験が、隣人を愛する原動力になります。

 聖書が語る愛は、神から愛されている、そのことを起源にして、私たちは、隣人を愛することができるのです。私たちは、神の愛を知っているのです。ヨハネの手紙一4章10節には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪の償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と語られています。絶えず、私たちは、イエス・キリストによって深く愛されている存在なのです。この愛を与えられて、私たちは、愛の労苦をすることができるのです。

 テサロニケの教会の信徒たちは、人生の途中でキリスト者となったのですから、家族に理解されない苦しみをもっていたに違いないのです。日本のキリスト者も家族揃って、日曜日に教会に来ている人は少ないのです。教会の礼拝の開始時間は、それぞれの教会によって違いますが、10時15分から礼拝を始める教会があるのです。東大宮教会は、10時15分から礼拝を始めています。これは、礼拝に出席して、11時30分に終われば、家に帰って、家族と一緒に昼食を共にすることができることも考えた時間であるのです。家庭でひとりだけ礼拝に来ている人もいるのです。また家族に洗礼を受けたことを話していないで、礼拝に来ている人もいるのです。そのような困難を持ちながら、教会生活をしているのです。困難な歩みを支えるのは、キリストが共にいてくださる、そのことに望みがあるのです。

 パウロはフィリピの信徒への手紙1章6節で次のように語っているのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」イエス・キリストによって始められた、神の働きを、神が最後まで完成へと導いてくださる、と確信しているのです。キリストが私たちと共に重荷を担っていて下さる、そのキリストに望みをおいているので、私たちは今の時を忍耐して行くことができるのです。

 キリストが初めから終わりまで、私たちと共にいてくださるので、様々な困難を乗り越えて、今、望みをもって忍耐することができるのです。

 パウロは、テサロニケの教会の信徒たちの生きる姿が信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐であることに、大きな喜びをもって、励ましているのです。

20220515 主日礼拝説教  「生けるまことの神に仕える」  山ノ下恭二牧師
(ホセア書2章1−3節、テサロニケの信徒への手紙一 1章1−10節)


 本日の礼拝から、テサロニケの信徒への手紙一を学ぶことになりました。この手紙は、パウロが書いた手紙ですが、ガラテヤの信徒への手紙やフィリピの信徒への手紙など私たちが親しんでいる手紙と異なり、皆さんが親しんでいる手紙ではないかもしれません。しかし、このテサロニケの信徒への手紙一は、私たちの信仰にとって大切な手紙なのです。

 この手紙は、ギリシャのテサロニケの町にあった教会の信徒たちに宛てた手紙です。この町は、今日のギリシャではアテネに次ぐ第二の大きな都市であるサロニカになっていますが、パウロが伝道した時、すでに通商の要衝であり、盛んな町であったのです。

 パウロがギリシャに渡って最初に伝道したのは、フィリピでしたが、そこで迫害を受けて、このテサロニケの町にきて、このところでさらに伝道をしたのです。そのいきさつは、使徒言行録17章を読むとよく分かります。パウロがテサロニケで、少なくても数ヶ月は滞在したと思いますが、ここでの伝道も、簡単ではなかったのです。ユダヤ人たちがパウロの伝道が成功したのをねたんで暴動を起こし、パウロは夜陰に乗じて、夜逃げをしたことが記されています。パウロはそれからベレヤ、アテネと経てコリントの町まで南下し、コリントに教会を建設したのです。

 この手紙は、コリント滞在中に書かれたと言われています。パウロがテサロニケで伝道したのが紀元49年であり、この手紙を書いたのが紀元50年であつたと言われています。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事が起こってから10何年か、経過しています。この手紙は、パウロが最初に書いた手紙で、パウロの手紙の中でいちばん古いものです。そして、新約聖書の中に含まれている27の文書の中で、最も古いものであるのです。皆さんは、新約聖書の中でマタイ福音書が最も早く書かれたと理解している人もいるでしょうが、新約聖書の中で、一番早く書かれたのは、テサロニケの信徒への手紙一なのです。この手紙には、生まれたばかりの教会の姿が書かれているのです。生まれたばかりの教会で、まだ未熟であったと思いますが、この手紙から私たちが教えられることがあるのです。

 皆さんは、教会と言うと教会堂の建物はどうであるか、集まるのは何人か、どのような集会があるのか、ということを考えると思います。日本基督教団の年鑑には、教会の人数や会計などの統計が書かれています。しかし、この手紙には教会員の数とか、礼拝出席者の数という、教会の勢力、教勢については何も語っていません。もともとそのようなことに関心をもっていないのです。何に関心をもっているのか、それは、教会の信徒たちの信仰に関心を持っているのです。

 教勢について語っていると思われる言葉は、8節にあります。「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州とアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」ここに「響き渡った」と言う言葉がありますが、この言葉は、「雷鳴のように響き渡った」という言葉であり、「トランペットのように響いた」と言って良い言葉です。この言葉を読むと、伝道して手応えがあった、多くの人々が教会に来るようになった、洗礼を受けたいという人が続出した、ということを思うかも知れません。

 しかし、パウロの伝道がうまく行ったと言うことはなくて、どこでも困難であったのです。このテサロニケでは、迫害のために夜逃げをしています。またアテネで説教をしていますが、パウロの説教を聞いた者があざ笑い、多くの者がいずれまた聞くことにする、と立ち去り、パウロの説教を受け入れたのは数人であったのです。福音を語ったために夜逃げをし、説教をしても空しい反響しかなかった、そのことを経験する中で、主の言葉が響き渡った、と書くのです。これは誇張した言い方だ、と言う人もいます。しかし、これは誇張した言い方ではないのです。この主の言葉が響き渡るという言葉と平行して「神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要がないほどです。」と言っています。数字に出てくる教勢は意味がないとは言えません。しかし、パウロは数字ではなくて、信仰が伝えられてそれを信じる人々がいる、と言っているのです。

 日本におけるキリスト教会は、少数派です。この新宿区の人口と比べて、日曜日の礼拝に集う人たちはまことに少ないのです。この地域に住むほとんどの人は、私たちが礼拝していることも知らないで、休日を楽しんでいるのです。このような状況の中で、私たちが思うことは、少数派の意識です。教会に行くことは、誰にも知られていないし、個人的に来ている、職場でも近所の人にも自分が教会に行っているとは言っていない、この世の中の片隅でそっと信仰を守っている、そういう意識を持っているのです。伝道しても反応もなく、拒絶され、受け入れないのです。そのような状況であるのに、主の言葉が響き渡った、と言うのです。

 「タムソン書簡集」を読んでおりましたら、新栄教会から、長老の小川義綏が牛込に来て、出張伝道をして、この地域の人々が会員となり、1877年11月17日に、二十騎町で教会設立式が行われ、そして浅草、麹町などに教会ができ、群馬の桐生にタムソン宣教師が行き、そこで、信仰復興が起こり、洗礼を受ける人が出てきたことが記されています。主の言葉は、テサロニケの困難な状況の中で、大きな働きをしている、信徒を生み出した、そして教会を作った、そのことを至るところで語られるようになった、と言うのです。教会に集う人々が少ないと嘆くのではなくて、主の言葉が語られていて、そのことに応答する人々がいる、そのことに目を留めることが勧められているのです。

 テサロニケの教会の信徒たちの信仰は、どのようなものとして語られているのでしょうか。とても重要なことが記されています。一つは、教会の信徒たちが、パウロ、テモテ、シルワノと言う伝道者をどのように迎えたのか、ということです。それは、パウロ、テモテ、シルワノを神の言葉を語る説教者として迎えていることです。自分にとって良い話をしてくれる説教者として迎えているのではなく、神の言葉を語る説教者として迎えているのです。このことは、2章13節に次のように語られているのです。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

 パウロ、テモテ、シルワノは人間の言葉で語ったけれども、その説教を聞いた人々は、自分の好みや考えに合うので受け入れる、あるいは、自分の考えと違うので受け入れない、そのような聞き方で聞いたのではないのです。アウグスティヌスは「告白」という著書で「自分の聞きたいことをあなたから聞こうとするよりもむしろ、あなたから聞くことを そのままにうけとりたいと心がける人こそは、最良のあなたのしもべなのです。」(アウグスティヌス「告白」]・26章より)と語っています。神がこの説教者を通して語っている言葉は、人間の言葉ではなく、神の言葉であり、この神の言葉を聞いて生きる、そのことが信仰に生きていると言うことであるのです。神の言葉を語るものとして説教者を尊び、そしてそのように、説教者を扱ったのです。教会は、説教者を尊敬し、牧師を招聘するのです。

 9節後半でパウロは、とても大切なことを語るのです。「また、あなたがたのところでどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、」とあります。ここには、テサロニケの教会の信徒たちが「偶像から離れて神に立ち帰った」とあります。

 まことの神を知ることによって、偶像から離れ、偶像を捨てるようになったのです。「偶像」は、いのちある存在ではありません。木や石や銅、金などで像として固定して造られており、物体であって、生きてはいません。偶像は、私たちの目で見ることができ、自分の都合の良い時にその場所に行って、神として拝む、便利なものです。

 旧約聖書の時代から、イスラエルの民は、偶像礼拝を止めることはありませんでした。出エジプト記には、モ−セがまことの神とお会いして十戒を戴いている時に、イスラエルの民は、すでに金の子牛を造ってそれを拝んだのです。この時、以来、神の民イスラエルは偶像礼拝から自由ではなかったのです。繰り返し、見せかけの神を造って、その偶像を拝んだのです。

 私たちは、偶像礼拝をしていないと思っているかもしれません。しかし、簡単に偶像礼拝に心が傾くのです。偶像の神のほうが、私たちにとって、手応えがある神であるかのように思ってしまうのです。教会の礼拝説教で抽象的な話を聞くよりも、生活するために一万円札をいくつも財布に持っていたほうが、確かな手応えがあるのです。捜してもどこに神がいるのか、分からない神よりも、目に見えてすぐに分かり、手応えがある神の方がお願いしやすいのです。困っている時に、すぐに助けてくれる神のほうが、私たちにとっては、便利で安心なのです。私たちは、意外なほど偶像に心が傾くのです。現代の人たちは、自分にとって良いと思うことを中心にして生きていますから、自分にとって都合の良い神を拝むのです。

 まことの神を先に知ることによって、偶像が見せかけの頼りない神であることが分かるのです。まことの神を先に知らないと、偶像の神がほんとうの神でないことが分からないのです。まことの神とは人格を持ち、言葉を持ち、自由をもっている神です。まことの神を知ることによって、偶像が何であるか、分かるのです。 

 現在、教会学校では、十戒を学んでいます。十戒の第二の戒めは「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。偶像をなぜ禁止するのか、それは、神が自由を持っているからです。神を像の中に閉じ込めて、動けないようにする、それは神の自由を認めていないからです。神は自由に発言し、動く自由があるのです。どこにでも行くし、動くことができるのです。偶像を拝むことは、偶像に人間がお願いすることが先ですが、生きたまことの神は、私たちのために言葉を語り、動いて、私たちに仕えてくださるのです。私たちの救いのために、神は、御自分の外に出て、肉体を取って主イエスとなってこの地上に来られ、私たちの罪を贖うために、十字架で死に、復活し、天に昇られたのです。

 偶像のように、木や石や銅、金の中に閉じ込めて、動かないものではなく、生きたまことの神は、自由に動き回る存在です。天におり、聖霊によっていつも私たちと共におり、私たちと共に苦しみ、同情し、慰めてくださるのです。私たちも自由に動き回り、生きている、それと同じように、神はその自由によって、私たちのために働いていてくださるのです。

 生けるまことの神とは、私たちを罪から救うイエス・キリストの父なる神なのです。この神が、私たちと共にいるのです。日本でイエス・キリストを信じる人は少数です。しかし、まことの神に立ち帰っている人々がいると言う事実は、まことに重いのです。「タムソン書簡集」を読んでいますと、宣教師たちや最初のキリスト者たちは、神が聖霊において、生きておられるという信仰をもって、伝道していることを知らされます。生きている神に仕えることが、とても楽しいと思って伝道していることに励まされるのです。


20220508 主日礼拝説教  「心の目を開いて」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書26章1−6節、ルカによる福音書24章44−53節)


 この主日礼拝でルカによる福音書の講解説教をしてきましたが、本日をもってこの福音書の説教は終わります。このルカによる福音書の説教を始めたのは、2019年10月13日の礼拝からです。1章から説教を始めたのではなく、3章から説教を始めています。ルカによる福音書1章から説教を始めなかったのは、1章、2章には主イエスのご降誕のことが書かれていますから、クリスマスの時に説教をしようと考えて、クリスマスの時に説教をしています。イースター、ペンテコステ、クリスマス、年末年始の時、牧師や神学生を招いた礼拝の時を除いて、ルカによる福音書を学んできたのです。教会の週報でルカによる福音書を何回、説教をしたのかを数えましたら、101回しています。説教をすることによって、私は、多くの恵みを戴いたことに感謝をしています。

 ルカによる福音書24章は、一日の出来事を記しています。よみがえりの日に女性たちが、主イエスの遺体を葬ろうとして墓に行ったのですが、主イエスは墓にはいなくて、復活されたことが告げられます。二人の弟子たちがエマオに向かって歩いて行く、そこに主イエスが同行して、主イエスを失って落胆した弟子たちに同情し、励まし、聖書を語り、そして、共に食卓を囲んでパンを食べるのです。二人の弟子たちは、エルサレムに帰り、そこで復活された主イエスが弟子たちにご自身を現すのです。主イエスが復活されたことを分からせようとして焼き魚を食べ、弟子たちに福音を伝えるように委託するのです。そして、ベタニヤで主イエスは天に昇るのです。
 
 この日は、主イエスがよみがえった日であり、聖書が説き明かされた日であり、聖餐が行われた日なのです。この一日に起こった出来事が、現在の教会の礼拝の姿を表しているのです。私たちは、この日曜日に神に招かれて礼拝に集まり、説教と聖餐にあずかっているのです。主イエスがよみがえってくださったのです。みことばを説いてくださったのです。食卓を共にしてくださったのです。ここに教会の礼拝のまことの姿があるのです。

 24章44節に次のように書かれています。「イエスは言われた。『わたしについてモ−セの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』」

 新約聖書で「聖書」と書かれているのは、旧約聖書のことです。この時にはまだ新約聖書はありませんでした。旧約聖書は、律法と預言者と詩編(文学)、この三つによって構成されているのです。旧約聖書には、主イエスを預言しているところがあります。特にイザヤ書53章の「苦難の僕」がそうですが、この預言が、主イエス・キリストによって実現していると言うのです。旧約聖書が語ろうとしていることは、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現している、そのことは、弟子たちと一緒にいた時に語っていたことである、と言うのです。主イエスは「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」(ルカ18章13節)と語っています。「人の子」とは主イエスのことです。最初の教会の伝道者パウロは、次のように語っています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたことです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(コリント一15章3−4節)パウロは、何度も「聖書に書いてあるとおり」と語ります。
 
 旧約聖書が語っているのは、主イエス・キリストのことを語っている、と言うのです。旧約聖書と新約聖書とは全く関係のない、別な書物ではなくて、イエス・キリストによって旧約聖書と新約聖書とはつながっており、連続していることを語っているのです。先日、本の整理をしておりましたら、東京神学大学に入学して、1年生の時に「旧約聖書」という授業があり、秋学期の時に用いました関根正雄先生の「旧約聖書」という本が出てきました。そのことと関連して、その授業の時に、旧約の教師が、旧約聖書と新約聖書との関係を話してくださったことを思い出しました。神学大学に入学したばかりの新入生ですので、わかりやすく説明をしてくれたのです。旧約聖書と新約聖書とは内容としてどのようにつながるのか、このことは、とても大切です。旧約の教師は、新約聖書は、旧約聖書のアペンデックスだ、「付録」である、しかし、試験の問題集の付録は、問題の解答が書かれているように、旧約聖書は、問題が書いてあって、新約聖書は、神の解答である、と言う話をしてくれました。このことは今でもよく覚えています。

 旧約聖書は、古い契約の書であり、新約聖書は、新しい契約の書です。この二つの書に共通なのは「契約」と言う言葉があるのです。特に、旧約聖書には、二つの内容の異なる「契約」があるのです。一つは契約相手であるイスラエルに条件をつけない契約があるのです。アブラハムの契約がそうです。神が約束する、子孫を増やす、それをアブラハムはただ信じるだけです。アブラハムに戒めを守るように要求をしていません。ただ神が約束したことを堅く信じる契約です。もう一つは、条件をつけてイスラエルと契約をする、契約です。シナイ契約です。シナイ山で神がモ−セを通して、イスラエルの民と契約を結んだ、この契約は、イスラエルの民が律法を守るという条件のついた契約であるのです。しかし、シナイ契約によって十戒という戒めを守るように契約を結んだけれども、イスラエルの民は、この契約を守れず、神をないがしろにした、神から遠く離れてしまったのです。しかし、神は条件をつけない契約を結ぶことを約束しているのです。それがエレミヤの契約です。預言者エレミヤは、イスラエルの民が、契約の条件である律法を守らない、神をまことの神として礼拝することなく、隣人を愛することなく、イスラエルの民が契約に違反して、律法を守らなくても、神はこの契約を破棄することなく、イスラエルとの絆を終わりにしない、契約は有効である、神は愛によって、新たに契約を結ぶことを預言するのです。

 エレミヤ書31章31−32節には、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」と語られ、31章34節bには「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」と語られています。新約とは新しい契約と言う意味ですが、預言者エレミヤは、新しい契約を結ぶ日が来ると預言しているのです。新しい契約とは、罪を赦す契約であり、それはイエス・キリストによって新しく結ばれたのです。それは、イエス・キリストが、私たちの罪を御自分の罪として引き受け、十字架において、罪の罰を受け、贖って下さったことにより、実現したのです。
 
 3年間、主イエスは、弟子たちに毎日、聖書の言葉を語ってきたのです。主イエスは弟子たちと一緒にいて、聖書の言葉を聞かせてきたけれども、弟子たちが主イエスの語ってきた言葉を分かっていないと思ったのです。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と語っています。弟子たちは、まだ「悟っていない」と思っていたのです。「悟り」と言うのは、ただ「知る」ということではない、「納得する」ということです。自分の中に聖書の真理がしっかり入って来て自分の中で納得するということです。「悟る」と言うことは、聖書の言葉を知識として理解するというレベルではなくて、自分の中で出来事が起こることです。皆さんが説教を聞いていて、この言葉がそういう意味であったのか、と理解するそのようなレベルでなくて、説教を聞いていて、自分のことが言われているように思う、反省の心が起こってきて自分は今のままではいけない、と思う、そういう心になることです。自分の罪が分かるということです。

 「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。聖書の言葉が分かるためには、神が聖霊によって、私たちの心が開かれることが必要だと言っています。私は、説教を作成するために、聖書の言葉の意味を考えます。注解書を読み、黙想をしてその言葉の意味を把握するようにするのですが、どうしても分からない言葉に出会って、困ることがあります。そのような時にどうするのでしょうか。先輩の牧師は、「このみことばを分からせてください」と熱心に祈るそうです。私は、聖書の言葉が分からない時には、神に「この言葉を教えてください。あなたが唇を開いて、語り、私に分からせてください」と祈ることがあります。この主イエスの言葉は、聖書の言葉が私たちに分かるようになるのは、聖霊によることであることを明らかにしているのです。

 ある青年が、洗礼を受けるようになったことを話してくれましたが、礼拝に出席して、はじめは全く分からなかったそうですが、一年ぐらい礼拝に出て、ある時の礼拝の説教を聞いていて、神が自分に語りかけていると思うようになったからだ、と語ってくれました。神が私たちの心の扉を開いてくださり、私たちが神の言葉を受け入れるようにしてくださるのです。

 鹿沼教会の礼拝堂に、主イエスが家の戸口の前に立っている聖画が架けられていました。私は教会学校の礼拝に出席するたびに、主イエスが登場するこの聖画はどういう意味なのか、よく分からないでいました。ある時、ヨハネの黙示録を読んでいた時に、この聖画は、ヨハネの黙示録3章20節の言葉をヒントにして描いた聖画であることに気がつきました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(新約p457)

 主イエスが家の戸の前に立っている、主イエスを家に迎え入れるのは、その家に住んでいる人が戸を中から開けるようにしなければ、主イエスが家に入ることはできないのです。家の内側の鍵を開けなければ、入ることはできないのです。私たちが聖書の言葉に対して、受け入れるように、こころを開いていくのです。日曜日の礼拝の時だけ、聖書の言葉を読むだけではなく、いつも聖書の言葉に心が開かれている、神の言葉を受け入れようと、態勢を整えていくのです。聖書の言葉に対して心が閉じている、聖書の言葉に心が向いていない、それは聖書に無関心であると言うことです。しかし、聖霊によって私たちの心の戸を開いていくと、神の言葉が私たちの心の中に入り込んでくるのです。

 主イエスは、聖書が分かるように、あなたがたの心を開くと言われ、46節から、次のように語られています。「言われた。次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」ここには、弟子たちがキリストの証人としてキリストから委託されている福音の内容が記されているのです。私たちが、どのような福音を委託されているか、ということを語っているのです。私たちの牛込払方町教会がキリストから、どのようなことを委託されているのか、ということです。礼拝説教を聴き、聖書を学ぶことによって、福音を把握し、それを伝える務めがあるのです。聖書に書いていないことを伝えるわけにはいかないのです。この世の情報を伝えるわけではないのです。みんなが求めている情報を伝えて、人々の必要に応じるものではないのです。福音をしっかりと把握して、正確に心に届くように伝えるのです。

 江戸時代に飛脚が働いていました。飛脚は手紙を目的地に運ぶのですが、飛脚が運ぶ箱の中に依頼された手紙が入っていなかったら、意味のないことになります。そして依頼された手紙と異なる手紙を運んでいるとしたらそれは、運ぶ意味がなく、無駄なことをしているのです。主イエス・キリストから委託された福音の内容とは、「罪の赦しを得させる悔い改め」なのです。罪の赦しを語るだけではなくて、聞いた者が悔い改めることなのです。「悔い改め」とは、神のところに帰ることです。自分が向かっていく、目指していた方向から、Uタ−ンする、方向転換することです。深く反省するということではなく、キリストによって、罪が赦されていることを信じて、キリストのもとに帰ることです。

 タムソン書簡集を読んでいます。この書簡集には、タムソン宣教師がアメリカ長老教会海外伝道局書記のラウリ−博士に宛てた手紙が収められています。1883年5月29日の手紙には、群馬の桐生教会、1878年創立の教会ですが、この教会に行った時のことが記されています。「祈祷集会は今月7日から13日まで、毎日ほとんど終日行われました。この集会では信徒もそうではない人々も熱心に聴き、悔い改めて主のもとに帰るよう勧められました。それを聞いた多くの人々の心に、驚くべきことに罪の自覚が次々と起こったのです。多くの人々がそれまでキリストのうちに留まっていなかったことを告白しました。」(p222)「罪の赦しを得させる悔い改め」が起こったのです。キリストの福音を伝えて、悔い改めるようになった人々が増えて行ったことが記されています。キリストから委託されて、私たちの教会が願っていること、それは、罪の赦しによる悔い改めが起こることです。

 このルカによる福音書の最後の言葉は、24章53節「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」という言葉です。この福音書の最後に出ている「ほめたたえる」という言葉は、50節、51節に出てくる「祝福する」という言葉と原文では同じ言葉です。神が私たちを祝福する、という場合と、人が神をほめたたたえる、と二通りに翻訳しているのです。元々、この言葉は「よい言葉を語る」という言葉です。主イエスが弟子たちに対して「よい言葉を語る」ならば、それは祝福になります。また弟子たちが、神に向かって「よい言葉を語る」ならば、それは、神をほめたたえる、神を心から讃美する言葉となるのです。
 
 私たちは、この福音書を学んできました。福音とは喜びを告げる知らせです。この福音を伝えることだけを願って記された文書を読み続けて来たのです。そして神は、この福音を伝えるように私たちに委託されているのです。この福音書に登場して、主イエス・キリストに出会って、喜びを与えられた人々と私たちを重ね併せて、読むことができました。

 このルカによる福音書の物語は、エルサレム神殿に仕えていた祭司ザカリヤの物語から始まり、24章の終わりには「絶えず、神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」と言う言葉で終わるのです。このルカによる福音書は神殿から物語が始まり、神殿でほめたたえていた物語で終わるのです。この福音書は、神殿を中心に物語を書いているのです。神殿とは、神が臨在され、私たちが神を礼拝するところです。これからも私たちは、まことの神を礼拝し、聖書の言葉、よい言葉を聞き、養われて、これからも神をほめたたえていくのです。

20220501 主日礼拝説教  「信じることによって見える神の愛」  山ノ下恭二牧師
(詩編22編25−32節、ルカによる福音書24章36−43節)


 最近、北海道の知床で遊覧船が沈没し、乗船した人々が亡くなった事故が起こりました。私は大学3年生の時に友人と北海道に旅行に行き、知床のウトロ港から釣船に乗ったことがあります。この時は波が高く、小さな釣船がかなり揺れて船酔いをしたことを覚えています。この時、私は無事にウトロの港に帰ることができました。

 今回の事故で亡くなった34歳の男性の両親が、テレビニュースのインタビューに応じていました。この34歳の息子さんを亡くした父親が、次のようなことを語っていました。息子が乗っていた船が冷たい海の中に沈んで、息子が死んでいくそのような時に、息子がどんなに無念であったことかと思って、いたたまれない思いがする、と涙ながらに語っていました。両親が息子を愛して、大切に育て、結婚間近な、愛する息子を失った悲しみは深いと思いました。両親は息子を助けてあげたかったと思ったに違いないのです。

 神は、神から離れて遠くに行ってしまった私たちを神のもとに戻すために、救おうとされ、行動を起こしたのです。私たちを救うために、神は独り子イエス・キリストを派遣し、私たちの罪を贖うためにイエス・キリストが十字架で死なれたのです。これは、すべて神の愛から出たことなのです。

 今、私たちは、主イエス・キリストの復活を心に刻む、復活節の時を過ごしています。主イエス・キリストの復活は、私たちに対する愛の出来事なのです。私たちを愛しておられるので、神は主イエスをよみがえらせたのです。神が私たちを愛しておられるので、主イエスを復活させたのです。

 それは、復活された主イエスが、どのように弟子たちを愛されたか、聖書に示された姿を知ることによってはっきり分かるのです。先週の礼拝で学びました、エマオの物語に登場する主イエスの姿は、主イエスが弟子たちを愛している姿です。主イエスが十字架で死んでしまったことを知った二人の弟子たちが、主イエスを失ったことに落胆して、エルサレムからエマオへと向かう道の途上で、主イエスが、後から追いかけるように、彼らと共に20キロの道のりに一緒に歩いて行ったのです。主イエスがこの二人の弟子たちにどうしたのか、と尋ねると、主イエスに望みを抱いていたことを話し、その話をじっと聴いて、共に歩いて行くのです。弟子たちの悲しみに共感し、その悲しみをしっかりと受け止めていく姿の中に、主イエスの愛の姿を見るのです。そして、この弟子たちに対して、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」のです。主イエスは家に入り、聖餐の原型になりますが、共に食事をされ、交わりを深めたのです。

 このエマオ物語は、聖書の物語の中で、印象深い物語です。教会員の皆さんには届いていませんが、コロナ禍で教会学校が休校する時があり、教会学校の生徒たちに「教会学校たより」を送っています。3月20日に最新の「教会学校だより」にある教師が「イースターのメッセ−ジ」を書いています。エマオ物語を取り上げていて、とても良い文章を書いています。私もこのエマオ物語を読む度に、感動するのです。

 本日の礼拝で読みましたルカによる福音書24章36−43節には、エルサレムでの出来事が記されています。このところの前の24章33−35節には、次のように記されています。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」

 弟子たちが集まっていた場所に、復活された主イエスが弟子たちのところに現れて「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。主イエスが復活したその話を聞き、復活した主イエスに出会った、その話を聞いたのですが、実際に、主イエスが目の前に現れたので、弟子たちは驚いたのです。弟子たちは、復活した話を聞いて、そういうこともあるのか、と受け止めていたのです。しかし、半信半疑であったので、実際に主イエスご自身が現れて、目の前にいるので、驚いたのです。死んだと思われた人が、健康を取り戻して生き返った、ということはありますが、十字架で確かに死んだ主イエスが目の前に地上での姿で現れることは誰もが全く考えたこともなく、予想外のことなので、とても驚いたのです。

 私たちは自分の理性を信頼しています。自分の理性に反することは受け入れることはしないのです。復活を考えるときに、自分の理性の範囲で理解しようとするので、復活はなかったと考えるのです。主イエスは死んだけれども、弟子たちがその死を受け入れられず、弟子たちが主イエスを慕っていたので、慕うあまり、復活したと思い込んだ、という説もあるのです。

 主イエスが、現れた時に「亡霊を見ているのだと思った。」とあります。弟子たちも自分たちの理性を信頼しているので、その理性の枠をはみ出ているような出来事は受け入れることはできないのです。主イエスは復活したことを受け入れて欲しいので、弟子たちを叱り、「手や足を見なさい」と言うのです。「まさしくわたしだ」と強い言葉で語るのです。「まさしくわたしだ」という言葉は、神が顕現する時に用いる言葉です。神が復活された主イエスと同じ存在であることを表しているのです。復活されたことを受け入れられない弟子たちに、主イエスは、手と足を触って確かめるように、勧め、そして、肉も骨もある、主イエスの復活したからだを見せて、地上の生きた主イエスと復活された主イエスとが同じ人物であることを弟子たちに示されたのです。

 弟子たちは、主イエスと再会できたことを喜んでいるけれども、主イエスが復活されたことを弟子たちが信じられないことを知り、主イエスが復活して、まさしく生きていることを分かってもらいたいと、弟子たちの前で、主イエスは、焼き魚を食べたのです。主イエスは、弟子たちが主イエスの復活を受け入れるように、自分のからだに触れるように促し、魚を食べている姿を見せたのです。その人が元気に生きていることが分かるのは、よく食べていることでわかります。よく食べている人は元気です。主イエスは、食べる姿を見せることによって、自分がまさに生きていることを弟子たちに表そうとしているのです。主イエスが復活されたことを受け入れられない弟子たちに、復活されたことを分かってほしいと、自分の身体を触るように、魚を食べて生きていることが分かるようにしているのは、弟子たちを愛しているからです。

 ここで「見る」という言葉が多くでてきます。弟子たちの目で復活を見ることをお許しになったのです。

 私たちは、話を聞くだけは、満足しないところがあります。この目で確かめて納得するのです。私たちも、復活された主イエスの話を聞くけれども、本当に主イエスが復活されたことに、確信を持てないのです。

 ヨハネによる福音書に登場するトマスも、この目で見なければ主イエスが復活したことを信じない、と言いました。しかし、主イエスは、見ないで信じることを勧めています。見たら信じる必要はないのです。見ないけれども、信じるのです。主イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とトマスに語っているのです。そして念を押すように「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と語ります。

 私たちは、自分の理性と自分の目で見て、これは確かに実在していると判断しています。しかし、主イエスの復活は、私たちの理性では受け入れられないものなのです。そして自分の目で見ることができないものです。それは、私たち人間の世界で起こすことはできず、神が起こしたものだからです。神の側で復活を起こしたのですから、それは信じることによってしか、受け入れることはできないのです。信じて、復活を知るのです。理性で復活を受け入れることはできないのです。復活された主イエスの弟子たちへの行動は、愛に満ちています。主イエスは、弟子たちが復活を受け入れるように、弟子たちに寄り添っているのです。
 
 現代に生きている私たちにとって、復活はどのような意味があるのでしょうか。十字架と復活とは一つのこととして深く結びついているのです。主イエスの十字架の死が、その当時の権力者、宗教指導者、民衆が考えたような、神を冒涜した犯罪の結果としての刑罰ではなくて、十字架の死が私たちの罪を主イエスが身代わりとなって審判された死であることを復活によって明らかにしたのです。イエスが単に人間であれば、死によってそのいのちは終わりになります。しかし、復活は、神が私たちとの和解のために、罪を取り除くためになさった、神の業なのです。主イエスを復活させたことは、神の愛の行為であるということです。

 ある時、ス−パ−で買い物をしていたら、その店に買い物に来た人がス−パ−のレジの前で、店員に長々と文句を言っている場面を見かけました。話の様子では、店員のちょっとした対応が気に食わなかったようで、大きな声でガミガミ文句を言っているのです。長く文句を言うので、その人のレジが終わらないのです。この光景を見て、私は思いました。自分はお金を払っているお客さんだ、お客さんなのだから、何を言っても許されると思っているのではないか、と思いました。    

 礼拝すべき神を失うと、自分が神のように振る舞うのではないか、と思います。神から離れて遠いところに行ってしまい、自分が神として振る舞うことになるのです。このような罪を背負っている私たちを神のもとに引き戻すために、主イエス・キリストは、十字架で死に、復活によって、私たちのために贖いをなしてくださったのです。

 最近、カルヴァンが書きました、ジュネーブ教会信仰問答を読んでいましたら、復活を信じることによって、私たちに利益が与えられることが記されています。問74には「この復活は、わたしたちに、どれだけの益を与えますか」という問いがあり、その答えは「復活において、わたしたちに義が十分に与えられることです。」と書かれています。復活を信じることが、私たちに恵みをもたらすのです。神が私たちと和解してくださっている、私たちの存在を受け入れ肯定してくださっている、その恵みが与えられていることです。私たちが生きている中で難しいことは、人間関係です。互いに過ちを犯しやすい存在です。相手の過ちを赦すことができず、相手の存在を疎ましく思うのです。そのような中で、神が私たちの罪を赦してくださっていることを信じて、相手を赦し、肯定することができるのです。互いに良い関係をもって生きることによって、安心して過ごすことができるのです。

 この信仰問答の参照聖句として、ロ−マの信徒への手紙4章25節が挙げられています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」私は、この聖書の言葉を愛しています。私たちを「義」とするために、神は主イエスを復活させたのです。

 聖霊が私たちに信じる心を起こしてくださり、私たちが信じることによって、神の愛を見ることができ、神に愛されていることを知って、感謝して過ごすことができるのです。
 

20220424 主日礼拝説教  「私たちは主イエスと共に歩んでいく」  山ノ下恭二牧師
(詩編119編129−136編、ルカによる福音書24章13−35節)


 私は、ある時、朝日新聞の日曜日の「朝日歌壇」の短歌を読んでいましたら、その中に心に響く短歌がいくつもあり、それから「朝日歌壇」の短歌を読むようになりました。4月15日(金)午後7時30分のNHKテレビの「ネタドリ」と言う番組で、短歌を取り上げていました。その中で、現在、短歌がブ−ムで、短歌の本がよく売れていると報道されていました。この番組で、一人の若い男性の歌人が興味深い取り組みをしていることが報道されていました。自分が願っていることや悩んでいることに寄り添う短歌を作ってほしいとこの歌人に依頼すると、依頼した人の悩みや願いの文章をじっくり読み、短歌を作って郵送していることが紹介されていました。

 この歌人は木下龍也という人ですが、最近「あなたのための短歌集」という本を出したのです。テレビでは、この木下龍也という歌人に短歌を依頼した、ひとりの女性ビオラ奏者が画面に登場していました。この女性は、コロナ感染のために出演する予定であった演奏会がほとんどなくなり、自分が演奏する場面がなく、そのために収入もなくなり、ビオラ奏者を続けるのを止めようかと迷い、心が揺らいでいた時に、音楽家として続けていくことができ、道標となる短歌を作って欲しい、という依頼を木下さんにしたのです。木下さんはそれに答えて短歌を作ったのです。「手で支えながら音色に支えられ双子のようなあなたとビオラ」という短歌を送ったのです。この番組には、この女性だけでなく、他の人も登場し、自分が悩み、苦しむ時にそれを乗り越える言葉がほしいと思っている人が多いことを知りました。言葉は、その人に力を与えるものです。その言葉によって生きる勇気を与えられるのです。皆さんは、毎日の生活の中で、悩み、苦しむ時、どのような言葉で支えられ、助けられているでしょうか。

 短歌は31文字の短い言葉で、作者が時間をかけて言葉を捜して、作るものです。その短歌を読んで、その言葉が、直面している悩みや苦しみを乗り越える言葉になることがあります。文字書を読んでその中のひとつの言葉が、私たちの心を支えることがありますが、私たちは毎日、人と会話して過ごしているので、人と話している時に、相手の言葉を印象的に受け止めることがあり、相手のなにげない言葉が、自分の心を支えることがあるのです。      

 私が大学3年生の夏休みに、大学の一年先輩の友人と14日間の北海道旅行に行ったことがあります。丁度、加藤登紀子が歌う知床旅情という歌がはやっていた時で、多くの若者が北海道に旅行に行っていた時でした。上野駅から寝台急行にのり、青森で青函連絡船に乗り、函館、札幌、旭川、知床、釧路、再び札幌、そして函館、青函連絡船、そして青森から上野駅、と旅をしました。ユースホステル、知人宅、親戚宅、教会、教会関係者の家、などに泊まりました。その友人といつも一緒で、私の悩みを聴いて貰い、友人の話を聞いて親しくなりました。一年先輩の友人の専攻が新約聖書であったので、そのことに影響されて、私も4年生の時から新約聖書の専攻になりました。一緒に旅をしながら話してきたことが、より深く相手を理解することができたと思います。

 本日の礼拝で読みました、ルカによる福音書24章13−35節は、エルサレムからエマオという村へ急いでおります二人に、主イエスがずっと付き添って歩かれた物語が記されています。この二人のうち、ひとりだけはその名前が残っています。クレオパと言う名前であったのです。私は、クレオパと言う名前を見て、主イエスの12弟子でないのに、どうしてこの名前が載っているのか、と思いました。その理由を考えると、それは、ルカがこの人を記憶するに値する人だと考えたからだと思いました。何よりも、復活の主イエスが、この人と一緒に歩いてくださった人々のひとりであったからです。イエス・キリストを証言する福音書に残すのに値する名前であることをルカは考えて、このクレオパと言う名前を残したのです。

 この物語を読みますと、エルサレムからエマオまで、よみがえられた主イエスが、この二人と一緒に歩いて下さったことが分かります。しかし、このクレオパともうひとりは一緒に歩いている方が主イエスであることに気づかなかったのです。気づかなかったのは、物わかりが悪く、心の鈍いことだと主イエスに叱られています。クレオパが信仰の深い人であったわけではないのです。そのような者と一緒に主イエスは歩いているのです。私たちも主イエスが共に歩んでいることに気がつかないのです。しかし、後から思うことは、あの時、自分が助けられたのは、主イエス・キリストがそばにいて助けてくれたからだと思うのです。私たちの教会と共に歩んで下さり、一緒に歩んで下さるのが、主イエス・キリストであることに私たちが気づかなくても、主イエスは、私たちと共に終わりまで歩んで下さっているのです。

 17節に「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。」と語られています。主イエスは、連れだって歩いている二人の弟子たちが、暗い顔をしているのに、気づかれたのです。彼らが暗い顔をしていたのは、心配事があった、自分たちの思い通りにならない事情があったのではないのです。この弟子たちが、暗い顔をしているのは、それまで心に抱いていた望みが砕かれてしまい、信仰さえもなくなってしまったからです。

 この弟子たちが主イエスに期待していたことがどんなに大きいものであったかは、24章21節に語られています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」ここで言おうとしていることは、ユダヤの国がロ−マ帝国の占領を終わらせて、独立国家を建設する指導者として主イエスに力を発揮してもらいたかった、と言うことです。しかし、主イエスは、十字架で処刑されて死んでしまい、その望みは根底から崩れてしまった、と弟子たちは、落胆しているのです。この二人の弟子たちは、主イエスに大きな期待をしていたのです。十字架で処刑されて死ぬとは全く思わなかったのです。まさか、と思うような、思いがけないことが起こり、自分たちがこれからどのように生きて行ったらよいのか、全く分からなくなったのです。

 この二人の弟子たちは、頼りにしていた主イエスを失ってしまった、主イエスを喪失してしまった、ということです。私たちの生活の中で、一番、辛いことは、頼りにしていた人を失うことではないでしょうか。配偶者と自分とはひとつの人格であり、配偶者を失うことは、自分の存在を見失うほどに大きなダメ−ジを受けることになります。その悲しみは深いものがあります。ある作家が、「ああ、あの人はもういないのか」という随想を書いています。この作家は、妻を失って、ある時、いつものように妻の名前を呼んだ、しかし、返事がない、どうしてだろう、しばらくして、「ああ、妻が亡くなったんだ」と気づいて、とてもさびしい気持ちになった、と書いています。愛する子どもを失う、自分の子どもを失うことはとても辛い経験です。そのことは深い悲しみをもたらします。子どもを失うことは、自分がこれから生きて行くための希望を失うことになるのです。大切な人を失う、喪失の経験をもった人を、どのような言葉をもって慰めたら良いのでしょうか。

 信頼して期待をしていた主イエスを失って、望みを失い、落胆した二人の弟子たちを主イエスは見逃すことはなかったのです。二人の後から追いかけるように二人に近づいたのです。近づいただけではない、この二人と同伴して、エマオまでの道を歩いたのです。エルサレムからエマオまで、約20キロありますが、この距離を主イエスは一緒に同伴するのです。ここで大切なことは、主イエスがこの二人と同伴して一緒に歩いてくださる、と言うことです。

 ここで大切なことは、主イエスと弟子たちが、歩きながら対話をしていることです。そして、主イエスは、弟子たちの話をじっくり聞いています。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と語りかけたのです。二人の弟子たちは、語りかけた旅人が主イエスご自身であることに気づかないで、自分の心のなかにある正直な思いを打ち明けたのです。主イエスは弟子たちの話にじっと耳を傾け、すべてを理解しようと傾聴しているのです。主イエスは、この弟子たちの悲しみや落胆している気持ちをしっかり受け止めているのです。歩きながら、主イエスは、弟子たちの嘆きや悲しみを受け止めているのです。このことは、主イエス・キリストが私たちの嘆きや苦しみをしっかり、受け止めていることを語ろうとしています。

 主イエスは弟子たちの嘆きや悩みに耳を傾けているだけではなく、この弟子たちに伝えなければならないことを語るのです。この弟子たちにとって必要なメッセ−ジを語るのです。そのメッセ−ジは、主イエスが十字架で死んだことの意味なのです。この死は、一人の犯罪人の死ではなく、神の子の贖いの死なのです。私たちが神に罪を赦されるための死なのです。主イエスは、エマオまでの20キロの道のりを、旧約聖書全体から語り、十字架の意味を二人の弟子たちに力強く語り続けるのです。

 テレビのニュースで放映されていましたが、足立区にある、東武鉄道・竹の塚駅近くに、開かずの踏切があり、向こう側に行くのに、一日に3、4回、しかも数分間しか遮断機が上がらなくて、この踏切をなかなか通ることができず、そこを利用する人たちはとても不便を感じていたそうです。ある時、踏切の番をしている人が、遮断機を上げる時間を間違って上げてしまい、その時に向こう側に行こうとして踏切を渡っている最中に、電車が入って来て、数人の人が跳ねられて死んでしまった事件があったのです。この事件をきっかけに、大がかりな工事をして、やっと、この踏切を渡って向こう側に行くことができるようになったのです。

 例えて言うと、踏切の遮断機は、神に対する罪を指します。罪は、神と私たち人間を隔てるものです。罪が邪魔をしていて、神がおられる向こう側に渡ることができないのです。神から離れて遠くに行ってしまった者を捜すために、主イエス・キリストがわざわざ来て、私たちを神のもとに戻そうとしたのです。神との関係を壊してしまった、私たちの深い罪を取り除くために、主イエスが身代わりとなって、罪の罰を引き受け、それによって、神と和解することができたのです。神と私たちの間を隔てている遮断機をイエス・キリストは壊して、私たちが、神のおられる向こう側に通ることができるようになったのです。

 私たちが、神がおられる向こう側に努力して行くのではなくて、主イエスが、私たちがいるこちら側に来て、罪と言う遮断機を壊してくれたのです。私たちに代わって、私たちの罪を自分のものとして引き受けて、罰せられ、私たちの罪を取り除いてくださったのです。私たちの罪のために遮断されていた神との関係が、十字架の犠牲により、開通され、神との交わりが与えられているのです。主イエスはエマオまでの道のりを、弟子たちと一緒に歩きながら、十字架の福音を、罪の赦しの福音を、力強くこの二人の弟子に語るのです。

 エルサレムからエマオまでの道のりを、落胆し、望みを失っている弟子たちを主イエスは、立ち上がらせようと追いかけて歩きながら、話をするのです。神がイエス・キリストによってどんなにみんなを、愛しておられるかを伝え、同伴してくださっているのです。

 二人の弟子たちがエマオに到着し、主イエスに宿泊するように無理に引き止め、主イエスが家に留まったのです。この時に、二人の弟子の、霊の目が開かれて、この旅人が復活された主イエスであることが分かったのです。主イエスが聖書全体から説き明かされた時に、弟子たちの心が燃えたと記されています。

 エルサレムからエマオまでの道、それは、私たちが毎日、歩いている道であるのです。毎日、生活を続けていると、落胆し、力を落とすことが起こり、失望と試練と挫折を経験するのです。暗く重い足取りで歩く時があります。しかし、主イエスはそのような私たちの嘆きを受け止め、私たちを慰め、励ますためになくてはならぬ、必要な言葉を語りかけてくださるのです。

 主イエス・キリストが同伴して一緒に歩いてくださるので、恐れることはないのです。よみがえって死に打ち勝った主イエスがいつも私たちと共に同伴して歩んで下さるのです。弟子たちは、復活された主イエスに出会って、この主イエスがいつも共にいることを知って喜びに満たされていたのです。

 エマオに到着して、主イエスはパンを裂いて弟子たちに分けた後、すぐにエマオからエルサレムに向かうのです。この時は夜で、あたりは闇に覆われていたのです。それにもかかわらず、夜の暗さを何とも思わないでエルサレムに向かって行き、仲間のところに行くことができたのです。私たちは、望みを失いそうになる時があります。しかし、復活された主イエスが世の終わりまで、私たちと共に歩いてくださるのです。


20220417 主日礼拝説教  「主イエス・キリストはよみがえった」  山ノ下恭二牧師
(詩編16編1−11節、ルカによる福音書24章1−12節)


 本日は、主イエス・キリストがよみがえったことを心に刻む、復活日・イースターです。教会の玄関の花壇に模様のついたイースターの卵が樹木に飾られています。

 2、3日前に、教会の玄関近くを通っていた母親と、幼児が話しているのが聞こえてきました。子どもが教会の花壇を見ていたのでしょう。母親に「どうして卵があるの」と聞くと、母親が「イ−スタ−だからよ」と答えていました。イースター・エッグは、一般に定着していると思いました。

 今年も昨年同様、コロナ感染予防のために、イースター・エッグを配ることはできませんが、コロナ禍の前の時には、教会でイースターの日に模様のついた卵を戴いて、家に帰って食べた人も多いと思います。イ−スタ−の時に、なぜ卵を配るのでしょうか。それは、卵からひよこが誕生することに意味があるのです。新しいいのちが生まれるのです。主イエス・キリストがよみがえり、死に打ち勝って、私たちがキリストと共に生きる新しい生活を始める、そのことをよく表すしるしとして、キリスト教会はイースターに卵を用いてきたのです。卵そのものが重要なのではなくて、卵からひなが誕生する、新しいいのちの誕生に意味があるのです。
 
 ロ−マ・カトリック教会では、復活日のミサに洗礼を授けることが多いそうです。古代の教会の時から、キリスト教会は復活日に洗礼を授けてきました。イエス・キリストが死からよみがえった復活の日に洗礼を授ける、それは洗礼が新しいいのちの誕生を意味するからです。洗礼が、今までの罪に支配された生活を終え、キリストと共に生きるいのちの始まりを意味することであるからです。復活日こそ、イエス・キリストがよみがえったことを記念する日であり、この時に洗礼を受けて、キリストと共に生きることを始める日としてふさわしいと考えられてきたのです。

 ロ−マの信徒への手紙6章4節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」とあります。主イエスの死と復活は、私たちが死ぬことと復活することと深く結びついており、洗礼を受けることによって、新しいいのちの生活が始まるのです。神から離れて遠くに行ってしまっていた者でしたが、神のもとに戻されて、神の愛によって生きることを始めることができるのです。
 
 主イエスが十字架につけられて、主イエスと親しかった婦人たちが、墓に行きました。男の弟子たちは、墓に行こうともしませんでした。弟子たちは、主イエスが死んでしまったことにショックを受けて、墓に行くことができなかったのです。婦人たちは、香料を用意していたのです。それは主イエスの死体に塗って死臭を消し、葬るためでした。大きな岩をくりぬいたところに墓があり、そこに主イエスの死体が置かれていたのですが、行ってみると、墓の入り口をふさいでいる石が除けてあって、主イエスのからだが見当たらなかったのです。墓には主イエスの遺体はなかったのです。墓は空であったのです。婦人たちは、墓に主イエスの死体がないので、どこに行ってしまったのか、と思って捜していたのです。その時に、ふたりの天使たちが、墓に来た婦人たちに次のように語っているのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」

 婦人たちは、主イエスが既に死んでいて、死体があるはずだと思って墓に行ったのに、死体がなく、天使たちが「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言われて驚いたのです。この婦人たちは、死をもって主イエスのいのちが終わる、と考えていたのです。それは私たちもそのように考えているのです。死をもって自分の人生が終わる、だから、この地上の時間をどのように生きていくのか、ということを考えるのです。自分の人生は、死によって限定されていると考えているのです。
 
 婦人たちは、主イエスが当然、死んだと思っていたのに、天使たちが「なぜ、いきておられる方を死者の中に捜すのか。」と語ったのを聞いて、驚いたのです。ここで、私たちが注目すべき言葉は、「生きている」という言葉です。

 私たちが生きていると言う時は、この心臓が動いて活動していることを考えます。その時に使っているギリシャ語の聖書の言葉はビオスです。現在では、バイオという言葉で使われ、「生活」、「生命(せいめい)」と訳されますが、天使たちが「生きている」と言った言葉は、ビオスという言葉ではなくて、「ゾーエー」と言う言葉です。この言葉は、神と深く関わるいのちのことです。母親が自分のこどもを愛して育てる、子どもが母の愛によっていのちが育っていく、その関わりの意味でここでは「いのち」と言う言葉を用いているのです。

 ヨハネによる福音書は、この「ゾーエー」という言葉が頻繁に出てきます。神と関わっている、神とつながっている、それが「いのちがある」「生きている」と言うことです。私たちのいのちが、神のいのちにつながっているのです。生きることは、キリストと共に生きることなのです。ラザロと言う青年が死んだ時に、主イエスは「『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」と言われたのです。「死んでも生きる」と言う言葉は分かりにくいかも知れません。この心臓は止まり、死ぬ、この地上のいのちは限界がありますが、しかし、神との関係において生きている、神の次元、永遠の次元で、神につながっているいのちを私たちは持っているのです。
 
 最初の教会では、復活はこの地上の歴史において実際にあったとは思えない、なかったのではないか、と疑う信徒が多くいたのです。この時代の信徒たちはなぜ復活はなかったと考えたのでしょうか。それは常識や理性で、復活について考えようとしたからです。福音書やパウロの手紙で、主イエスの復活はあり得ないと考えた人々が多くいたのです。ルカによる福音書24章36−38節に、復活された主イエスが弟子たちの真ん中に立つと、弟子たちは「亡霊を見ているのだと思った。」と書かれています。主イエスを実際に見ても、主イエスが復活したとは思わないで、亡霊を見たと思ったのです。弟子たちは、主イエスが復活することなどあり得ないと思っていたのです。主イエスが、復活したことを受け入れることができなかったのです。

 また、ヨハネによる福音書20章19−23節では、弟子のトマスが、主イエスが復活したことをなかなか受け入れることができずにいたことが記されているのです。またパウロの手紙で、教会には復活を否定する人々が存在していたことが記されています。コリントの信徒への手紙一 15章12節でパウロは次のように語っています。「キリストは、死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうことですか。」

 死んだ人間が復活することなど、あり得ない、主イエスが死からよみがえったと言うのは、教会の創作だ、と考えている人も多いのです。人間の頭や理性で考えても、復活を認めることはできないのです。しかし、現実に復活がある、と言うことではなくて、復活を信じることなのです。神が復活を起こした、そのことを信頼するのです。復活は人間の側で起こったことではなく、神の側で神が起こしたことなのです。神の働きによって、主イエスのよみがえりが起こったのです。

 私たちにとって心に深く留める言葉は、天使たちが語った言葉です。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」という言葉です。主イエスは、その生涯を終えて、死んで墓に葬られて、死体のままでいるのではない、死からよみがえったのだ、ということです。主イエスは死をも乗り越えて、生きているのです。最初の教会の信徒たちが、主イエスの復活に疑問を持って、復活は起こりえない、と結論づけた人々もいたのです。しかし、死ぬことで地上の生物的な生命は終わるのですが、そうではなく、復活されたキリストとつながっている私たちのいのちは終わることがないのです。キリストを信じる者は、死んでも生きるのです。明日、自分は生きているだろうか、と恐怖と不安をもつことがあります。激しい運動や労働の最中に「自分が死ぬかと思った」そのように痛切に思った経験もあるのです。しかし、死をもって私たちのいのちは終わるものではないのです。それは、私たちが復活のいのちの中にあるからです。

 今日の聖書の言葉で、もう一つ注目したい言葉があります。それは、6節後半に「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」と語られていますが、「思い出しなさい」と言う言葉です。天使たちは、婦人たちに、主イエスがどのようなことを話したのか、思い出すように勧めています。私たちが、親しい人と死別した時には、喪失感が大きくて、過去のことを忘れていまいますが、少し時間が経過すると、死んだ人の振る舞いや言葉を思い出すのです。

 主イエスが地上におられた時に、3年間、ガリラヤ地方で活動をしていたのです。婦人たちは、主イエスの振る舞いを思い出したのです。主イエスが、人々から全く相手にされていなかった徴税人、罪人と共に食事をして、心の通う交際をしていた姿を思い出したのです。主イエスが、重い病に苦しんでいた女性に深く同情して、癒やした姿を思い出したのです。主イエスが人々に、神の国の譬え話を語っている姿を思い出すことができたのです。主イエスがガリラヤで活動をしたのは、神がいかに人々を愛しているのか、忘れないで、放っておかないで、愛しておられることを、その振る舞いによって明らかにしたのです。婦人たちは、この主イエスの振る舞いを思い出したのです。

 この「思い出す」という言葉は、日本語では、「思い当たる」という言葉になります。この「思い当たる」と言う言葉は、自分の心の中に留まっていた、ある言葉を、何かの経験や出来事をきっかけにして思い起こして、納得する、という意味の言葉です。ああそうか、あの時、先生が言われたことはこのことであったのか、と思い当たるのです。思い当たる、ということは、納得することです。思い当たって納得した言葉は、その人にとっていのちの糧になるのです。

 ルカによる福音書24章7−8節に次のように語られています。「『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」主イエスが地上におられた時に、三回も、主イエスが、「十字架につけられ、三日目に復活する」と語っていたことを思い出したのです。主イエスは十字架で死に、復活された、この出来事は、私たちのために死に、私たちのために復活なさったことなのです。そのことは、私たちにとって主イエス・キリストが、まことの神になったことなのです。主イエスが十字架についたのは、私たちの罪が赦されるためであり、神が主イエス・キリストを犠牲として献げ、贖いとなってくださったことなのです。この言葉は、私たちにとって生きる糧となるのです。

 この説教の後に、私たちは聖餐にあずかります。この聖餐の時に、聖餐の式文を読むのですが、この中に「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言う言葉があります。この言葉はコリントの信徒への手紙一 11章24節、25節に繰り返し語られる言葉です。「わたしの記念として」という言葉は、「わたしを思い出すため」という意味です。主イエスのことは、知識として知っている、という意味ではないのです。聖餐のパンと杯を戴くたびに、わたしたちは、この身体で、耳で、口で、目で、私たちの罪のために十字架の犠牲をささげて、私たちの贖いとなってくださった、そのことを思い起こして、私たちの記憶の中に、私たちの心の中に深く留まるのです。

 ルカによる福音書は、「思い出す」と言う言葉をとても大切な言葉であると考えています。主イエスが十字架につけられた時に、主イエスだけではなく、あと二人の犯罪人が十字架につけられたのです。その中の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(23章42節)とお願いしているのです。「思い出してください」この言葉は、この男の祈りです。悪いことをしてしまった男です。しかし、神よ、覚えていてください、忘れないでいてください、と祈るのです。

 神は、私たちを愛しておられますから、私たちを忘れることはないのです。神の心の中に、私たちの存在を深く受け止め、私たちの名を心に刻んでいるのです。それは、神が、私たちのいのちを、存在を深く愛して、いつまでも忘れることはないからです。

20220410 主日礼拝説教  「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」  山ノ下恭二牧師
(詩編88編14−19節、ルカによる福音書 23章44−55節)


 本日は、エルサレムに入場された主イエスを群衆が棕櫚の枝をもって歓迎したことを記念する、棕櫚の主日です。本日から、4月16日までの一週間が受難週です。4月14日が洗足木曜日であり、金曜日が受難日です。

 主イエスは十字架上で7つの言葉を語ったのですが、その中の一つの言葉が「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という言葉です。この言葉を聞いた時に、皆さんはどのように思ったでしょうか。主イエスが死ぬ間際に祈った特別な祈りの言葉だ、と思ったかも知れません。日常では使わない言葉だ、と感じた方もいるかも知れないのです。この言葉は、旧約聖書の詩編31編6節の言葉に由来しています。詩編31編6節には「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」とあります。この言葉は、ユダヤ人たちが、いつも夕べに祈る祈り、一日の生活を終える時の祈り、として日常的に祈っており、馴染みのある言葉であったのです。それは、いつもよく祈っていたので、特別な言葉ではなかったのです。

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」この言葉は、主イエスが、そのご生涯の最後の祈りとして、特に主イエスの受難について語る言葉として特別な位置を持っています。

 この主イエスの十字架上の祈りは、詩編31編6節に由来しているのですが、この詩編31編全体は人生の危機、そして死ぬことから解放されることを祈っている祈りです。この詩編31編は、詩人が人生の危機に陥った時に、主なる神が、自分の身を寄せる、逃れるところ、避ける所であることをほめたたえているのです。自分が身を寄せ、逃れ、避け所となるのが、主なる神であり、岩、砦、城塞、大岩である、安全な場所である、とたたえているのです。私たちは、自分が抱えている困難があります。解決できないで苦しんでいる困難があります。「わたしは苦しんでいます。目も魂も、はらわたも 苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに 年月は呻きのうちに尽きてしまいます。罪のゆえに力はうせ 骨は衰えていきます。」(31編10−11節)また他の者によってもたらされている困難もあるのです。「わたしの敵は皆、わたしを嘲り 隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き 外で会えば避けて通ります。」自分が抱えている苦しみや他の者がもたらす困難の中で、この詩人は、主なる神に安心して身を寄せ、逃れる、と歌うのです。

 この詩編31編6節は、夕べの祈り、あるいは、一日の歩みを終える時の祈りとして用いられてきたのです。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」主イエスはこの詩編を愛されて、日ごとにこの祈りを一日の終わりの祈りとして祈っておられたのです。

 この詩編31編22節にはイスラエルの民が敵に包囲されて、危機にある時に祈られたことが分かります。31編22−23節に次のように書かれています。「主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を 都が包囲されたとき、示してくださいました。恐怖に襲われて、わたしは言いました。『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを嘆き祈るわたしの声を あなたは聞いてくださいました。」神の民の都であるエルサレムが敵に包囲されてしまい、もう逃げ道もなく、人々は死の恐怖、滅びの恐怖の中にいるのです。神の目の前から断たれた、神との絆が断たれたと思うような事態なのです。

 私たちはさまざまないのちの危機に包囲されているのです。肉体の病から苦しみ、心にのしかかる重荷、人間関係からくる軋轢、トラブルに巻き込まれて解決できない苦しみなどがあります。そのようなことに直面して不安と、無力感に襲われる時に、叫ばざるを得ない、祈りの声が神に向けられるのです。

 「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」皆さんは夜、床に就いて寝ようとする時に、どのような思いをもつでしょうか。その日、朝早く起きて、仕事に行き、働いて夜遅くに帰り、とても疲れて枕に頭を置くとすぐに寝る時もあるでしょう。コロナ感染予防のために外に出られず、人との会話もなく、体は疲れていないので、眠れない時もあるでしょう。明日のことを考えて不安になり、なかなか寝付けないでいる時もあるでしょう。この祈りは、一日の終わり、眠りに就く時の前に祈る祈りなのです。

 眠っている間、何が起こるのか、分からないのです。3月16日の夜11時30分頃、東北地方で地震があり、わたしは寝ていたのですが、ぐらぐらと揺れて、いつまで揺れがつづくのだろうか、と思い、飛び起きました。夜中に大きな地震があると避難することができるのであろうか、と思いました。眠る、それは、全く無防備になることです。地震などが来ても慌てて、適切な対応ができないですし、寝ていて突然、電話で起こされて対応ができず、パニックになってしまうこともあるのです。突然、身体のある部分が痛み出して、救急車を呼ばなければならなくなることもあります。私たちは床に就くとき、あすの朝に目覚めることは当然だと思っているのです。しかし、明日の朝、既にいのちを失っているかも知れないのです。わたしは、明日の朝は、死んでいるかも知れない、そう思うことがあります。私たちは、自分が死ぬ存在であることをよく自覚しているのです。そのような時に「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と祈るのです。

 詩編31編の祈りの意味を語ってきました。ところが、主イエスが十字架上で祈られた祈りは、詩編31編の祈りと同じ意味ではないことは明らかです。十字架上の主イエスの最後の祈りは、人生における危機からの救いを求めているのではなく、主イエスの十字架上の祈りは、死においてすら、神に全幅の信頼を置く主イエスの心を表して祈っているのです。詩編31編6節の言葉と十字架上の最後の祈りの意味とは同じではないのです。主イエスが十字架上で祈られた言葉が、死においてすら、神に全幅の信頼を置く主イエスの心を表している、と言いました、全幅の信頼を置く根拠とは何でしょうか。

 主イエスは、「父よ、わしたしの霊を御手にゆだねます。」と祈ります。ここでは「わたしの霊」と言うことと、「神にゆだねる」と言う二つの言葉があります。「霊」とは、父なる神と主イエスとを密接に関係をつないでいるのが「霊」です。そして、キリストと私たちをつないでいるのも「霊」なのです。そして「神にゆだねる。」と言う言葉があります。この神がそのような神なのか、と言うことです。この神は主イエスを復活させる神である、と言うことです。

 この「霊」とはどのような意味なのでしょうか。それは私たちが神によって造られた、創造の時のことを創世記から見る必要があります。創世記2章7節に、こういう言葉が記されているのです。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」人間にいのちを与えたのは「命の息」なのです。神は土でこねて、人間の形を造り、神の息を人間の鼻に力強く「ふぅっと」吹き入れたのです。神のこの「息」という言葉は「ルアッハ」と言う言葉です。「霊」という言葉も同じ「ルアッハ」という言葉です。「命の息」とは、明らかに神ご自身の霊なのです。この霊を与えられることによって、生きる者となったのです。「霊」「ルアッハ」がなければ、人間であるとは言えないのです。神の霊を与えられて生きる、神といのちのかかわりに生きる、それが本来の私たちなのです。

 人間は死ぬ、このことは自然なことだ、と私たちは考えています。人間は死という限界を持ち、だれでも例外なく人間は死ぬのが自然だと考えています。しかし、このことは自然なことなのでしょうか。聖書は、死は自然だとは考えていません。死は本来、あってはならないことであると考えているのです。

 それは、私たちが創造された時に死はなかったのです。神は人間にいのちの霊を与えて下さり、神との関係はゆるぎないものであったからです。神とのよい関係に生きることができていて、人間は、神のいのちある関わりに生きていたのです。神と正常な関係で生きる、それこそが、いのちがあると言うことです。

 皆さんは、創世記2章から3章に記されている、アダムとエバとが神に対して罪を犯す物語をご存知でしょう。神とつながっているいのちの営みが切れてしまう事件が起こるのです。神を信頼し、ゆだねることができなくなるのです。創世記2章から3章には、初めに創造されたアダムとエバが罪を犯して神から離れてしまう物語が記されています。このエデンの園の中央には、「命の木と善悪の知識の木が生えて」いてこの木から、決して食べてはいけないと命じられていましたが、蛇が、アダムとエバとを誘惑したのです。この善悪の木の実をたべても死なないし、「神のように善悪を知るものとなる」と誘惑し、二人は「自分が神のようになる」という誘惑に負けて善悪の木の実を食べてしまい、神との関係を失ってしまったのです。神と共に生きるはずであったのですが、神の言葉に背いて、エデンの園から追放され、神から離れて、遠くに行ってしまったのです。

 私たち人間は神との関係を失い、私たち人間の中に、罪が入り込んだのです。その罪の結果として死が入り込んだのです。そこでは互いに不信感を抱き、共に生きることができなくなったのです。パウロは「一人の人によって罪が世に入り、罪によって入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」と語っています。(ロ−マの信徒への手紙5章12節)アダムの罪がこの世界に入り込むことによって、瞬く間に、罪がこの世界を支配してしまったのです。罪と言う異物が入ってしまったのです。

 主イエスは、罪は別にして、私たち同じ人間存在となり、私たちが経験する死を、それももっとも厳しい死を経験されたのです。それは神によって審判を受けている死だからです。それは私たちの罪を贖うためでした。主イエスは、十字架にかけられて死ぬ、その間際に、「大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』」と祈っているのです。神と主イエスとは、霊において一致していたので、主イエスは、神に深く信頼して、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という祈りをすることができたのです。私たちは、主イエス・キリストによって罪が赦され、神のいのちにつながっているので、安心して、神に祈り、神にゆだねることができるのです。  

 私たちのいのちは、この世で終わるものではないのです。それは十字架で死んだ主イエスがよみがえったからです。神が主イエスをよみがえらせたのです。神が私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与え、神と共に生きるようにしてくださったからです。神の側で復活は起こり、その復活は主イエスの復活によってわたしたちも復活することができるのです。私たちは死を超えた復活のいのちを与えられていることを信じ、この神を深く信頼していくことができるのです。

 上智大学で長く教え、カトリック教会のネメシェギと言う神父が「ひばり」という随想集を書いています。その中で「ゆだねること」という題の文章を書いています。古代の教会の司祭や修道者たちが、就寝前の祈りとして唱えてきた祈り、を紹介しています。

 「父よ、あなたにゆだねます 父よ、わたしをゆだねます わたしを救われたいつくしみ深い神 父よ、わたしをゆだねます 栄光は父と子と聖霊に 父よ、あなたにゆだねます 父よ、わたしをゆだねます。」

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」詩編31編6節の祈りは、死から解放されてこの地上の命に留まるための祈りでしたが、主イエスが死ぬ間際に祈ったこの祈りは、死ぬことを免れるために祈ったのではなく、神が復活させてくださることを深く信頼して、ゆだねる祈りなのです。神は、私たちが死んだ後も私たちをいのちある存在として愛してくださるのです。この神に対する深い信頼をもって、すべてをゆだねることができるのです。私たちは復活のいのちをもっている、それは神と永遠につながっているからです。私たちは死が終わりではないのです。神とつながっているいのちの中に私たちは生きているのです。

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」私たちは、この言葉を祈ることができるのです。

20220403 主日礼拝説教  「あなたは、今日、わたしと一緒に楽園にいる」  山ノ下恭二牧師
(ハバクク書3章17−19節、ルカによる福音書23章26−43節)

 
 2022年度の最初の礼拝を皆さんと共に守ることができ、心から感謝を致します。新しい年度も皆さんの上に神の祝福がありますように、最初の伝道者パウロが教会に手紙を送った時の祝福の言葉を送ります。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 現在、わたしたちは受難節を過ごしています。主イエス・キリストの受難を心に刻みながら過ごしています。4月10日が棕櫚の主日で、ろばの子に乗ってエルサレムに入場した主イエスを人々が棕櫚の枝をもって歓迎したことを記念する日であり、4月14日が、主イエスが弟子たちの足を洗ったことを記念する洗足木曜日であり、4月17日が、復活日・イ−スタ−です。

 本日の礼拝で読みました聖書は、主イエスが十字架につけられている場面です。ルカによる福音書23章43節に主イエスが「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られています。この言葉は、十字架上の7つの言葉のひとつですが、この言葉は、他の6つの十字架上の言葉と異なっているのです。それは、他の6つの言葉は、主イエスが一人で語っているのです。しかし、それに対して、ここでは、主イエスが対話をしているのです。主イエスが十字架につけられた時、主イエスは一人ではなかったのです。二人の犯罪人と一緒に十字架につけられたのです。そのうちのひとりが主イエスに願い出たのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」この犯罪人はおそらく主イエスよりももっと後に息を引き取ったと思います。しかし、死を迎えるこの男が、主イエスに死を越えていく希望が与えられることを願っているのです。この男の願いに主イエスは応えているのです。主イエスご自身も確実に死につつある中で、この男に言葉をかけているのです。そしてこの男は死につつある中で、悔い改め、自分は悪いことをしてきたことを認めているのです。死につつあるこの男に対して、主イエスは、ご自身と共に、楽園に入ることを約束することができたのです。
 
 死んでいくぎりぎりの時に、主イエスから、慰めの言葉を戴いた、このことはとても祝福に満ちていることです。現代は、私たちが死を身近に感じない、死が遠いところにある時代です。家族に囲まれて、みんなに見守られて死ぬことは少ないのです。だれも周りにいない孤独の中で、死んでいくのです。その意味でも、この一人の犯罪人は、とても幸いな経験をしたのです。主イエスによって慰めの言葉をかけられて死ぬ幸いを経験することができたからです。主イエスに言葉をかけられたこの男のことで思うことは、死の直前になってぎりぎりの時でも、悔い改めて、楽園に入ることができるのです。例えば、閉門時間に近い時に、滑り込みセ−フで入ることができるのです。このことは、死ぬ間際になって悔い改めても遅くはないことを示しています。

 この地上の最後の時に、慰めの言葉を聞くことができたことは、まことに幸いなことなのです。「慰め」という言葉は、聖書で多く使われていますが、このギリシャ語は、パラカレオ−と言う言葉です。「近くで、そばで語りかける」という意味の言葉です。死んでいく者を近くの人が温かい言葉で慰めることができれば、死にゆく人も安心して死ぬことができるのです。
主イエスは、罪を犯したこの男に語りかけています。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 23章32−33節に「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」とあります。

 カ−ル・バルトという神学者が、1957年4月19日の受難日に「イエスと共なる犯罪人」という説教をしています。この説教の中で、イエスと共なる犯罪人、それは最初のキリスト教会である、と語っているのです。最初のキリスト教会は、使徒言行録2章の聖霊降臨日に起こった、始まったと聞いているのですが、バルトは、主イエスと共に十字架についた二人の犯罪人がいる、そのところが、最初のキリスト教会である、と言うのです。「『イエスと共なる犯罪人』、それが何を意味するのか、ご存知であろうか。『それは、最初のキリスト教会である−最初の、確かな、解消することも打ち破ることもできないキリストの教会である』と申し上げたとしても、あまり驚かないでいただきたい。キリスト教会は、イエスが近くおり、イエスが共にいる人々の集いのあるところ、どこにも存在する。」「それこそがキリストの教会であって、二人の犯罪人は、最初の確かなキリスト教会であったのである。」バルトは、大胆にも、二人の犯罪人と共に主イエスがおられるところ、それは教会であると語るのです。

 私は、皆さんが経験しないようなとても珍しい経験をしたことがあります。東大宮教会におりました時に、ある早朝に、川口警察から電話があり、教会の一人が自転車に乗って道に迷い、夜中に警察に保護されたので、引き取りに来て欲しいということで、川口警察に行きました。自転車を運ぶ適当な車両がないので、警察から拘置所に運ぶ車両で良いですか、と言われて、送ってくださるならどのような車でも良いですと言って、容疑者を運ぶ、窓に網がついて外側からはだれが乗っているか分からない車に乗り、教会まで送ってくれたのです。教会に近づくと、警察官が、「教会の人は心が綺麗で立派な人ばかりですよね」と言うので、「いえ、罪人ばかりです。私は罪人の親分です」と言うと警官が「冗談でしょう」と言いました。私は「本当です」と答えたのです。

 バルトが、主イエスと共なる二人の犯罪人がいるところ、それが教会である、と言われたことは深い意味があるのです。キリスト教会の屋根には十字架があります。電車に乗っていると屋根に十字架があり、それでここに教会があることが分かります。なぜ十字架があるのか。それは教会が、主イエスの十字架によって、罪が赦された者の集いだからなのです。

 主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。「はっきり言っておく」この言葉は、ア−メンという言葉です。「はっきり言う」「明確に言う」と言うよりも、ア−メンという言葉は、主イエスが厳かに真実を込めて、語る時の言葉です。

 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」十字架につけられた、この犯罪人は、重い罪を犯してその罰のために十字架に処刑されているのです。神から遠いところで過ごしてきた、神なんか必要がないと思って、自分中心に過ごした結果、重い罪を犯して処刑されようとしているのです。しかし、この男に対して、主イエスは、「あなたはわたしと一緒に楽園にいる」と言うのです。

 ルカによる福音書は、たくさんの譬え話を語っています。ルカによる福音書15章1−7節に「見失った羊」のたとえがあります。一匹の羊が羊の群れから離れて、遠くに行ってしまった、羊飼いは、一匹の羊がいなくなっても、あと99匹がいるので、探す必要はないとは考えなかったのです。羊飼いは、羊の命を守る責任があるのです。自分が一匹の羊を見失ったことに責任を感じて羊飼いは探すのです。探し当てて、羊を抱いて帰って来るのです。この譬えの後に続く「無くした銀貨」のたとえも「放蕩息子」のたとえも、同じことを語ります。

 神から離れて遠くに行ってしまった、それは、神との関係を失ってしまったことを意味しています。神から離れて遠くに行ってしまった、そこで何が起きているのでしょうか。それは私たちが神を必要としない、神などいなくても構わない、と思っている、その思いの中に過ごしている、そのことこそが罪と言うことです。神から離れて遠くにいる者を探して、神のみもとに連れて来る、それが主イエスの使命であるのです。羊は羊飼いと一緒にいてしっかりと抱かれているのです。無くした銀貨も見つけ出した女性の手に握りしめられているのです。放蕩息子も父親の家に帰って、父親に愛されて過ごしているのです。

 この犯罪人は、もう一人の犯罪人が主イエスを嘲っていることをたしなめて、40節で次のように語っています。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」この犯罪人は、自分が悪いことをしたことを自覚しているのです。自分のこれまでの歩みが神の前に間違っていたことに気づき、自分の罪を告白しているのです。神から離れて、遠いところで暮らしている中で、神などいない、自分には神は必要がないと思って過ごしてきた、それが誤りであったことに気づき、それが罪であると自覚し、主イエスには何の罪をも見出すことができない、と告白しているのです。

 そして「『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。』と言った。」あります。罪の生活を続けてきたこの犯罪人は、犯罪人として人生を終えるのではなくて、死をも超えて支配する救い主である主イエスに「わたしを思い出してください」と語ります。この犯罪人が主イエスの心のうちにしっかりと記憶されていることを願っているのです。神の国の名簿の中にこの犯罪人の名前が記録されることを願っているのです。

 主イエスはこの犯罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られています。「楽園」というとゆっくり休むことができる南洋の楽園を思い起こすかも知れません。原語は「パラダイス」というイランの言葉です。王の庭園のことです。私たちの近くにある小石川後楽園などの、大きな庭園のことです。しかし、「楽園」は手の届かない、特定の人しか入れない場所ではないのです。パラダイスという言葉は、神の祝福を受ける場所のことです。それは自分が神に受け入れられ、愛されている、神の子としての地位をもっているのです。私たちは、イエス・キリストによって、罪が赦されて、神の子どもとしての身分をもっているのです。

 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」この「今日」という言葉がとても大切な言葉です。ルカによる福音書2章11節で主イエスがお生まれになった時に「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と「今日」という言葉が語られています。主イエスが誕生したことは、神のもたらす救いが、今日、実現したことを語っています。

 また、人々から税金をたくさん徴収して、人々からお金を巻き上げていた徴税人ザアカイの家に主イエスが食事をし、泊まり、この罪人の仲間になり、悔い改めたことを語って、この物語は、終わりにこういう言葉で締めくくっているのです。19章10節に「人の子は、失われたものを捜し出して救うために来たのである。」と語っています。主イエスがザアカイの家を訪ねて、罪人の客となり、ザアカイをすべて受け入れた、愛された、そこに神の救いが実現したのです。

 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」十字架につけられている、この犯罪人は、自分の罪を認め、主イエスがまことの救い主であることを告白したのです。そして神の救いに入ることができたのです。神の救いが今日、実現したのです。

 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」この主イエスの言葉を聴いて、この犯罪人は神が自分の罪を赦してくださり、罪人ではなく、正しい者として扱われていることを知って安心して死ぬことができたのです。

 朝日新聞の「一語一会」に、絵本作家のいせひでこさんが、「ぎゅうっと愛され、生を肯定」という題で書いています。祖父からのひと言が「私の中で、今も古びない言葉」として心に響いている、と書いています。その言葉は「このたからもの」と言う言葉です。祖父からいつも「何時までおきているんだ、このたからもの」「なんでそんなことしている、このたからもの」と必ず、最後に「たからもの」とつけて、呼ばれて育ったそうです。どんなことがあっても自分を「たからもの」と呼ばれることはうれしいことです。

 神は、私たちを宝もののように大切に思っているのです。いつまでも生きて欲しいと願っているのです。それは、私たちが愛によって、良い存在として神によって造られた、しかし、神から離れてしまって遠くに行ってしまった、このような私たちを、主イエス・キリストは、神と共に、一緒に生きるために、わざわざ、この異郷の世界に来て、私たちの罪を贖うことによって、一緒に楽園で過ごすことができるようにしてくださったのです。

 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」私たちは、イエス・キリストの、この慰めの言葉をこれからも聴いて生きていくことができるのです。
 



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