2022年7月24日(日) 牛込払方町教会 聖霊降臨節第8主日礼拝 式次第
(WEB礼拝のページ)
黙祷
礼拝招詞 「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」 (詩編124編8節)
讃詠 83−1
使徒信条
交読詩編 16編 聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌 351−1
聖書箇所 聖書を開き、声に出して読みましょう。
エゼキエル書37章1−6節 (旧約1357ページ)
テサロニケの信徒への手紙一 5章12−22節 (新約378ページ)
祈祷 (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌 342−1
説教 「聖霊の火を消すな」 山ノ下恭二牧師
以下、声に出して読んでください。
洗礼を受けたいと申し出る人がいると、洗礼を受けるための準備会をいつもしています。洗礼を受けることは、教会に入会し、教会生活を始めることになるので、教会生活について話すことになります。そのために、私は、教会生活について書いてある本を読むことがあります。古屋治雄著「教会生活ハンドブック」には、「礼拝」「聖礼典」「祈りの生活」「聖書を学ぶ生活」「教会の諸活動」「献金について」の解説が書かれています。教会生活を始める時に、教会生活の道しるべとなるような本を読むとわかりやすいと思います。
本日の礼拝において、テサロニケの信徒への手紙一5章12−22節の御言葉を読みました。テサロニケの教会に集う信徒たちは、洗礼を受けて間もない信徒たちばかりでしたので、パウロは、これらの信徒たちに教会生活の基本となるあり方を書いているのです。
パウロは、この手紙で、教会生活ハンドブックのように、礼拝や聖礼典、祈り、教会の活動、献金について詳しく書いてはいません。教会で生きるための基本的な姿勢について何が重要であるか、そのポイントを語るのです。神との関係で、どのように生きるのか、霊的なあり方を語ります。それは、5章16−18節に語られている言葉ではっきり分かります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
私たちは、いつも喜び、絶えず祈る、どんなことにも感謝する、そのようなことはできないと思うのです。私たちには、喜ぶことができない出来事や困難な問題に直面することが多くあります。しかし、ここでは、主イエス・キリストが共にいてくださると信じて喜ぶことができると語るのです。神から離れていた者を、罪深い者を赦し、愛して下さる、そのキリストと共にあることを受け止める時に、喜ぶことができるのです。「絶えず祈りなさい。」私たちには、祈れない時もあるのです。岡山に在任しておりました時に、教会報に私が「神はいつも私たちに祈りを求めているので、祈るのであって、困った時の神頼みのような祈りをするのはどうだろうか」と書いたのですが、この文章を読んだ、ある男性が、困った時に祈ることは許されているのではないか、と話したのです。それは、最近、息子さんが交通事故で亡くなって打ちひしがれていた、その時に神さまに「助けてください」と祈ったことがあり、こういう祈りはいけないのか、と言われたのです。そのように言われて、神が求めているから祈るだけではなく、困っている時や助けを求めている祈りも良い、と思うようになりました。どのような状況でも、絶えず神と祈りでつながっていることが大切なのです。
「どんなことにも感謝しなさい。」自分にとって良いことでない時にも「神さま、ありがとうございます。」と言わなければいけないのか、と思います。病気が治らないで苦しんでいる時に「感謝だ」ということは無理であると思うのです。しかし、イエス・キリストが共にいて助けてくださるので、この世の生活には、自分にはマイナスであるように思えても、このことは自分にとって意味があることだと受け取ることができるのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というこの言葉はパウロにとって大切な言葉だったのです。パウロが晩年にフィリピの教会に送った、フィリピの信徒への手紙4章4節と、4章6節後半に、同じ言葉が書かれています。4章4節には「主において常に喜びなさい。」4章6節後半に「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」と勧められています。この手紙は、パウロが獄に捕らわれていた時に書いた手紙であり、自分の死を予感している時に、この言葉を伝えているのです。悠々自適な生活をしているのではなくて、だれも望んでいないような境遇に置かれていた時に、パウロが、喜びと祈りと感謝について語っているのです。順調な時も、逆境な時も、一貫して語り続けたのです。
5章19節には「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。神が私たちにひとつのことをお求めになるのです。それが喜びであり、祈りであり、感謝なのです。良いことを言っているから、どれか、一つのことを選んでしようというのではないのです。不平不満が多いから、「感謝をしよう」「ありがとう」と言うように心がけようというのではない、喜びと祈りと感謝、この三つのことは、イエス・キリストが私たちに求めていることなのです。
19節には、「聖霊の火を消すな」と書いてあります。「消すな」と言うのですから、「聖霊」が「火」にたとえられています。このことは、聖霊が生きて働いている、ことを意味します。いつも喜べ、絶えず祈れ、どんなことでも感謝せよ、と言われても自分にはそのようなことはできない、と思うのです。神に向かう心が冷え切ってしまうことがあります。教会のキャンプで、キャンプファイア−が終わると、燃えている火に水をかけて消してしまう場面があります。燃えている火に水をかけて消してしまうように、私たちも信仰の火を消してしまうことが起こるのです。
ドイツでの話ですが、ある老婦人が最愛の夫を亡くして打ちのめされていたそうです。そこに牧師が訪ねて来たのでその婦人が夫を亡くした悲しみを話したのです。この婦人が「先生、私は悲しくて神に祈ることができない」というと牧師はうなずいて、黙ってこの家を去ったそうです。その数日後、あるカトリックの神父がこの婦人の家を訪ね、この婦人が「自分は悲しくて神に祈ることはできない」と言ったことに対して、「祈れないことはない。あなたはキリスト者でしょう。いつも祈っているではないか。主の祈りは祈れるはずだ」と言って一緒に主の祈りを祈ったそうです。そしてこの婦人はプロテスタントの信徒でしたが、カトリック教会に転会したそうです。
神に向かう心が冷え切ってしまうことがあります。聖書を読む気持ちにはならない、祈りたいと思わない、神が自分を愛しているとは思えない、そのように、神に向かう心が失われていくのです。しかし、聖霊によって神が生きて働いておられることを信じることができるので、絶えず祈ることができるのです。神が聖霊において、私たちの祈りをいつも聞いて下さっているのです。現在も働いておられる聖霊の神を信頼して喜び、祈り、感謝することができるのです。
教会はただ、人々が集まっている集会ではありません。人間の考えや思いが中心になるところではありません。いつも礼拝において、使徒信条を告白しています。使徒信条には「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会」と告白されているのです。人々が集まってそれぞれ好きなことをする団体ではないのです。聖書の話を聞きに来る集会ではないのです。聖霊の共同体なのです。パウロが、力を注いだことは、聖霊による信仰者の共同体を作ることでした。トルコ、ギリシャの各地にキリストの教会を作り、そこを拠点として伝道を進めることを考えていたのです。パウロは、教会が単なる人の集まりではなく、人間の考えを中心にした団体でもなく、聖霊に生きる群れを作ることを考えていたのです。
テサロニケの信徒への手紙一4章までは、テサロニケの教会の信徒たちが質問をしたことに答えてきたのですが、この手紙も終わりに近づき、教会生活において重要なことについて語る必要があったのです。教会が礼拝、牧会、伝道を安定して続けるためには、教会内部で混乱もなく、内輪もめもなく、御言葉が語られ、聖餐が行われ、互いに愛し合うことがとても重要であるのです。聖霊による喜びをもって生きる信徒がいなければ、礼拝も牧会も伝道もできないのです。
そこで、5章12−13節で次のように語られています。「兄弟たち。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれたものとして導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。」
「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれたものとして導き戒めている人々」とありますが、この人々とは、今の私たちの教会にあてはめてみれば、長老という務めにあたる人々のことです。この当時、今日のような長老選挙をして長老を選んだわけでもなく、使徒が長老を任命していたと考えます。教会と言う信仰の共同体が成立するためには、指導者が必要であったことは確かです。
私たちの教会は教会総会で、長老を選んでいます。この長老は、教会員の意見代表ではなく、礼拝、伝道、牧会など、教会の務めを担うために、牧師を補佐して協力して行う務めを持っています。長老の選出は、国、県、市の選挙と異なり、みんなから選ばれた、自分が選んだということに中心があるのではなく、神がこの人を長老として立てた、と言う信仰が中心なのです。
「あなたがたの間で労苦し」とあります。長老の務めは、多くの仕事を引き受けており、労力と時間が多くとられるのです。選挙で選ばれて、長老を引き受けることは、とても大変です。長老は、それぞれこの社会で職業をもちながら、教会の仕事を引き受けているのです。また教会学校の教師をも兼務しているのです。「労する」という言葉は、パウロが伝道をしていく時に味わった「労苦」と同じ言葉です。長老は、伝道者と同じ労苦を担っているのです。「導き戒めている人々」とありますが、「導き戒めている」と訳されている言葉は、「心を配る」「心を砕く」と言う言葉です。牧師と協力して、牧会などを行うのです。信徒への心配りを行うのです。
私たちが長老選挙の時に、自分がこの人を選んだ、そのような意識でいることがありますが、そうではないのです。教会員がこの人を長老とし選挙して認めるのだけれども、そのような手続きによって、実は神がこの人を長老として立てたという信仰が大切なのです。
それは、牧師についても同じことを言うことができます。教会は牧師を招聘したけれども、それは教会員がその牧師の招聘を認めたから牧師が教会で仕事をしていると言うのではなくて、牧師は神の言葉を伝えるために、この教会に派遣されたと受け取ることが大切なのです。牧師は伝道者としての召命を受け、神学校で福音を把握するために学び、補教師としての准允を受け、正教師として按手を受け、神から派遣されて教会に赴任するのです。
5章13節に「また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。」とあります。長老は、教会の多くの働きを担っているのです。自分は大変だから長老はしたくない、誰かがしてくれれば助かるというのではなく、教会の様々な働きをしている長老を尊敬することが大切なのです。教会員の皆さんは、長老の働きを覚えて、長老のために祈ることが大切なのです。長老に重荷を負わせて、知らぬ顔ではない、長老に対する尊敬がないところに教会は成立しないのです。長老の務めは、礼拝の司式や教会員への配慮など、いくつもの務めを担っている、長老を尊敬することは、その長老を立ててくださる神を重んじることになるのです。
5章14節から15節には、教会員の教会における働きが書かれています。パウロは、教会のことは牧師や長老に任せてしまえば、それですむということではないことを語っています。教会に生きる者の務めがあることを語ります。
14節で「兄弟たち」と語り始めます。これは一般の教会員に対しての語りかけです。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人たちに対して忍耐強く接しなさい。」
「怠けている者たち」と訳されている言葉は、単なる仕事をしないで怠けている、と言う意味よりも、元々、教会で決められた自分がしなければならない「与えられた仕事」をしていない、という意味です。「怠けている者たち」という言葉を、新しい翻訳では「規律なき者」「秩序を乱す者」と訳されています。
「気落ちしている者」他の訳では「小心な者」と訳しています。この言葉は、生まれつき気が小さいという人だけではなく、むやみに怯えている者、自分に迫る危険にびくびくしている者、その者の傍らにいて、励ますのです。
「弱い者」というのは、力が弱いという意味よりも、信仰が弱い、キリストの恵みに頼ることができない人たちです。この世の習慣に捕らわれて、自由に振る舞うことができない人たちのことです。
「すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」戒め、励まし、助ける時に必要なのは、相手を受け入れる広い心です。口語訳では「寛容」と言う言葉で訳しています。私たちは、自分が正しいことをしていると思う、正しいことを主張している時には、自分で気がつかないうちに、相手に対して偏狭になります。信仰的でない人や正しいことをしていない人を退けます。規律を守らない者は相手にせず、気落ちしている者を馬鹿にし、弱い者には叱りつけ、すべての者を除外するのです。力がある者、優れている者だけを、教会で自分の仲間と考えるのです。しかし、そこには相手を受け入れる広い心はなく、相手のために忍耐することもありません。
5章15節に「だれも悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。」パウロがこのようなことを勧めているのは、実際に教会の中で起こっていたことなのです。自分に悪いことをした人に対して、悪をもって復讐していたことがあるからです。私たちには復讐心があるので、自分に対して悪いことをした人に対して、いつか復讐してやろうと思うのです。ロ−マの信徒への手紙12章19節に「愛する者たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する。』と主は言われる」と書いてあります。 実際に教会の中で起きていたのです。パウロの言葉は、私たち自身が悔い改めることを求めているのです。
15節後半に「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。」とあります。キリスト者同士だけではなく、隣人に対しても、「善」を行うように努めなさい。「善」というのは、自分が良いと思ったことではなく、神が「善い」と思っていることです。神が「善い」と思っていることは、隣人を愛することです。ただ相手のことだけを考えて愛することです。
パウロは、テサロニケの信徒たちが、神の御心に適う信徒となり、聖霊の火を消さずに、教会生活を続けていくことを願いながら語るのです。私たちの信仰生活は、主イエス・キリストと共にいる生活であり、教会の牧師や長老に対して愛をもって尊敬し、いつも喜び、絶えず祈り、どのようなことにも感謝をする、そのような信仰の歩みであるのです。
祈祷
イエス・キリストの父なる神、あなたを礼拝する幸いな時が与えられたことを心から感謝致します。とても暑い時ですが、私たちが神を仰ぎ、隣人を愛することができ、いつもあなたの御言葉を聞きながら、歩むことができますように導いて下さい。あなたが私たちと共に歩んで下さることを信頼して、困難な時にも、あなたの慰めが与えられることができますように。コロナ・ウイルスに感染し、後遺症で苦しむ方々を、あなたが癒やし、健康を回復することができますように。この一週間もあなたが共にいてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
讃美歌 343−4
献金
主の祈り
頌栄 29
黙祷
○来週の聖日(7月31日)
主日礼拝 司式 寺嶋潔長老 奏楽 寺嶋明子姉
説教「イエス・キリストの恵みによって歩む」山ノ下恭二牧師
聖書 ミカ書7章8−9節
テサロニケの信徒への手紙一 5章23−28節
交読詩編20 讃美歌83−1 7−1 404−2 402−2 27
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