20160324 洗足木曜日説教 「神は苦しみ、悲しみの人となられた」 山ノ下恭二 |
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(詩編22・1−3、マタイによる福音書27・32−46)
本日、読んだマタイによる福音書27章32節−46節には、主イエスが死刑の判決を受けて、罪人とされ、主イエスが磔になるために十字架の横木を運んで、ゴルゴダの丘に行き、十字架の上で、神に叫んでいる場面が書かれています。この中で、主イエスは人々に罪人としての扱いを受けています。人々は主イエスをあざけり、ののしり、侮辱しています。その中を主イエスは十字架に付けられる場所へと向かって行きます。主イエスは罪を犯してはいない、罪はなく、潔白であるのに、罪人とされて人々から中傷され、ののしられていく。それは耐え難いことです。これはえん罪であり、濡れ衣です。
私は中学3年の時に病気になり、入院したことがあります。病に苦しんでいる時に、通っていた鹿沼教会の高崎隆牧師がよく見舞いに来て、聖書を読み、祈ってくれました。ある時に、見舞いに来て、その時も聖書を読んでくれました。今でもよく覚えているが、旧約聖書のイザヤ書53章3節を読んでくれたのです。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの病を負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」この短い聖書の言葉を読んだ後に高崎隆牧師が「イエス様は恭二ちゃんの病気の苦しみを一緒に苦しんでいる」と話して慰めてくれたのです。
高崎牧師が帰った後で、私は改めてイザヤ書53章を読みました。目に留まったのは、53章4節です。「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり 打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」
この聖書の言葉を読んで、今まで自分がイメ−ジしていた主イエスの姿とは異なった姿を発見したのです。それまでは、主イエスはやさしい人、心のきれいな人と思っていましたが、それだけではないことに気づいたのです。主イエスは自分の苦しみに苦しんだと言うよりは、ほかの人の病、痛みを背負った方であることを初めて知ったのです。それは私にとっては新しい発見でした。
イザヤ書53章3−4節は口語訳聖書では次のように翻訳されています。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。」
私たちは自分の持っている苦しみに苦しみます。病に苦しみ、人間関係に苦しみます。しかし、主イエスは、自分が原因で苦しむのではなくて、他の者の苦しみを担う方なのです。他の者の苦しみを自分が担う、その意味での苦しみなのです。自分のことだけをしていれば楽です。自分のことだけを考えたら、他の者の苦しみを担うことはしません。他の者の苦しみを担うならば時間が取られ、疲れ、損をするからです。
しかし、主イエスは、私たちのために苦しみ、私たちのために十字架で死ぬのです。ヘブライ人への手紙4章15節の言葉に次のように記されています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」
その時には口語訳聖書を読んでいた。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」
主イエスは私たちの弱さに「思いやる」「同情」する方であると語られています。「思いやる」「同情」と訳された言葉はシンパシ−と言う言葉です。「共に苦しむ」と言う言葉です。主イエスは、私たちの苦しみを自分のことのように苦しみ、その苦しみを共に担う方であることを語っています。
神は私たちと一つとなって共に生きていこうとしています。しかし、私たちは神を無視して自分の好きなように生きようと、神から離れていくのです。私たちの人生は神のものであるのに、自分の人生は自分のものだ、自由に使って何が悪いと思っている、それは自分の人生を私(わたくし)することです。神のみこころに反して神から離れていくならば、それは神が心を痛めるのです。放蕩息子が父親から財産をもらって町に出て行くのです。父親はそのことに心を痛めます。私たちも自分勝手に生きています。その生き方は神のみこころに逆らう生き方です。神の期待に答えないのだから、神はその者を罰するに違いないのです。
私は大学3年の時に仲の良い友人と二人で14日間の北海道旅行をしたことがあります。寝台急行で青森まで行き、青函連絡船で函館に行き、そして洞爺湖、旭川、知床、そして札幌に行ったのです。旅の始まりは仲が良かったが、旅を続けていく内に、気持ちが合わず、互いに不平・不満がでてきました。札幌に着いた時には、「こんな人とは思わなかった」と思い、旅の途中でしたが、分かれようかと思ったのです。それで、札幌の町は二人でなく、互いに自由行動にしました。後で仲直りをしたが、仲が良かったが、旅行して互いにその素顔、醜いところを知って仲が悪くなったのです。私たちは人とつきあう時に、この人と自分とは一つだと思うことがあります。しかし、この人と自分は一つだと思う時に、美しいところ、心地よいところで一致している場合があります。共通の趣味があったり、.意気投合することがあると自分たちは一つであると思うのです。
しかし、だんだんつきあっているうちに、自分が好きだと思っている筈の相手の醜さや弱さ、欠点が次第にはっきりしてくると、一緒にいたいと思わなくなるのです。その人の嫌なところ、醜いところが見えてくる、その人と友達でいたいと思わなくなる、私たちは、互いによく知っているとか、自分と相手が互いに理解し、信頼し合っていると思っている時は良いけれども、それは表面的なことで、実は相手の嫌なところがわかり、醜いところを見て、その人の罪深さがはっきりする時に私たちはその人とつきあうことを止め、離れてしまうのです。
しかし、神は、そうではないのです。私たちの一番醜いところを神が見ていても、見放さず、見捨てることはしない。私たちが自分のことばかり考えて、礼拝もせず、人を愛していなくても、私たちとつきあいを止めて、離れてしまうことはないのです。神は私たちの醜さを自分のものとして引き受けるのです。主イエスは神と同じ方でありながら、醜く、罪深い私たちの一人となってくださる。主イエスは、私たちの一番、醜いところで私たちと一つとなり、その醜さを自分のものとして引き受けるのです。私たちは相手の醜さを知ってしまうと、つきあいたいとは思いません。しかし、主イエスは私たちの醜さ、罪深さを責めるのではなく、その醜さ、罪深さを自分のものとして引き受けるのです。
主イエスはゴルゴダの丘で十字架に付けられます。その時に、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。「これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
主イエスは、私たちに代わって罪深い者となり、主イエスが私たちの代わりに審かれています。神に見捨てられる悲痛な叫びをしています。
私が小学2年生の時に、いたずらが過ぎて父親に叱られたことがあります。叱るような父親ではなかったが、この時は、私のいたずらが過ぎて厳しく叱られたのです。その時の父親の言葉をよく覚えています。「こんな悪いいたずらをするお前は私の子どもではない。」と言った。私にはとてもショックでした。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」この主イエスは、私たちの代わりに「ひどい罪を犯した者だ。お前は私の子ではない」と神に叱られて、主イエスは自分が神に見捨てられたと叫んでいるのです。
この言葉は私たちの代わりに、主イエスが神から厳しい審判を受けていることを語っています。ある人は、主イエスの死は、誰も経験したことのない、厳しい審判の死、罪人としての死であると解説をしています。主イエスの死によって、私たちは神に審かれると言う、厳しい死を経験することはない。ただ、神に愛されながら死んでいくだけです。
苦しみを受ける、この言葉はラテン語で、パッススであり、英語ではパッションです。この言葉は元々、自分に原因がなくて、他のものが原因で、自分が体験しなければならないものと言う言葉です。私たちの罪が原因で、主イエスが苦しみを受けるのです。私たちは神に敵対していますが、主イエスは神の子として完全に、私たちの立場に身をおいてくださるのです。
他者の立場に身をおいて、私たちと同じ立場を取り、私たちの味方となってくださるのです。主イエス・キリストは十字架について死ぬ必要はないのです。しかし、私たちのために苦しみ、傷つくのです。愛することは相手のために苦しみ、傷つくことです。
讃美歌第二編177番は主イエスの十字架の苦しみと死について歌っています。「あなたも見ていたのか。」この第二編177番の二節は、「あのとき見ていたのか、主が釘にうたれるのを。ああ、いま思いだすと、深い深い罪に 手足がふるえてくる。」
コリントの信徒への手紙U 5章21節(p331)「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」私たちが神と一つとなるために、主イエスは、十字架の死と言う痛みを伴う経験をしてくださったのです。この十字架によって、私たちは私たちの深い罪が赦され、神に受け入れられているのです。
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20160320 主日礼拝説教 「あなたのいのちは尊い」 山ノ下恭二 |
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(出エジプト記3章11−15節、マルコによる福音書8章31−9章1)
杉原千畝(すぎはらちうね)と言う外交官の名前を聞いたことがあると思います。1939年(昭和14年)ドイツ・ナチ政権のヒトラ−の軍隊がポ−ランドに侵入し、危険を察知したポーランドのユダヤ人たちがリトアニアを通って、何とか海外に逃れる道を求めていたのです。ポーランドのユダヤ人たちは日本に入国し、日本を経由して外国に逃れようと考えたのです。1940年(昭和15年)7月27日にリトアニアの日本領事館にポーランドから逃れてきたユダヤ人たちが大勢集まって来たのです。
リトアニアの領事館に領事として働いていたのは杉原千畝氏でした。ユダヤ人たちが、命の危険があるので、通過ビザをお願いしたいということで、杉原氏は本国に許可を得ようとしましたが、本国は受け入れ国が確定していない以上ビザは出すな、そしてユダヤ人が大勢、日本に来られては治安上、困ると反対されたのです。日本の政府としては、日本とドイツとは軍事同盟を結んでおり、通過ビザを出してユダヤ人を逃すことは、ドイツを裏切ることになると言うのです。ビザを出すことに反対されて、杉原氏は夫人にこう言ったそうです。夫人はこう証言しています。「ビザを出そうと決心した時、主人は私に言いました。『ビザを出してこの人たちを救わなければ、人間として神の背くことになる』と。」
杉原千畝氏は、ハルピンにあるロシア正教会で洗礼を受けたキリスト者でした。夫人も神田のニコライ堂で洗礼を受けたキリスト者でした。
杉原千畝氏はユダヤ人たちの命を救うために、何千枚と言う手書きのビザを書いたのです。夫人が次のように書いています。「印刷した紙にサインするだけで済むならば簡単だけれども、急いでいたので、何千と言う数のビザを手書きで書きました。手書きのビザを書いていったのです。万年筆が二本、折れました。昔のペンだから、いちいちインクを付けなくてはいけないので、書きにくいんですね。書いて書いて、手が動かなくなっちゃってるんです。書いて書いて、手が動かなくなるんです。で、毎晩、私がもんでいました。なんとしてもこの人たちを助けなくては、という思いがありますから。」6、000人のユダヤ人たちが通過ビザによって、命が助かり、ナチス・ヒトラ−の魔の手から逃れることができたのです。
これは命の危機における愛の決断と言うことができます。この愛の決断によって杉原氏は厳しい立場に立たせられたことになります。杉原千畝氏はユダヤ人たちを逃したと言うことで責任を問われるし、本国の意向を無視して行ったことであり、日本の政府から責任を問われますし、リトアニアにナチスが来た時には、ナチス・ヒトラ−からの責めを負うことになるのです。杉原千畝氏は自分がそのような不利な立場に追い込まれることをも覚悟して、命のビザを発行したのです。人間の命を救うために、彼は自分の立場や利益を顧みないで、行動したのです。
主イエスは、ガリラヤでの伝道を終えて、エルサレムに向かおうとしています。主イエスは折り返し点におり、これから十字架と言うゴ−ルを目指して、進んで行きます。その時にフィリポ・カイサリアで弟子たちに「あなたがたはわたしを何者であると言うのか」と尋ねたのです。この問いに対して、ペトロが「あなたは、メシアです。」と答えたのです。この「メシア」とはどのような意味でペトロは言っているのでしょうか。ペトロは、主イエスを政治的な王としてのメシアと言う意味で告白したのです。ペトロが思い浮かべていたのは、イスラエルの歴史の中で政治的に安定し、経済的に豊かな時代であったダビデ王のことでした。ダビデ王の時はイスラエルは独立国で繁栄した時代であったのです。
そこで主イエスはペトロを初め弟子たちの誤解を解くために語り始めたのです。そして自分が何のために生き、何のために死ぬのかを語らなければならないと思って語るのです。主イエスは、弟子たちに、ご自身のことをはっきりと語られたのです。
マルコによる福音書8章31−32aで次のように語っています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、三日の後に復活されることになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」「人の子」と言うのは、人間の子と言う意味ではなくて、終わりの時に人々に救いをもたらす神のことを指し、ここでは主イエス御自身のことであり、主イエスご自身が必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日のあとに復活すると語られたのです。マルコはそう書いたあとで、32節で「しかも、そのことをはっきりとお話になった」と改めて書いたのです。「はっきりと」と翻訳されている言葉は、「大胆に」「あからさまに」「公然と」と翻訳することができます。
今までは、主イエスは御自身のことについてはっきりと語ることはありませんでした。主イエスは神の国の譬え話を多く語りましたが、御自身のことについては語らなかったのです。しかし、自分が何を目指しているのか、どのようなことを考え、思っているのかをここではっきりと語っています。
このマルコによる福音書8章31節は、主イエスが初めて御自身が苦しみを受けることを語ったところであり、その意味で重要なところです。自分の進む道は苦難の道であると主イエスは自覚し、そのことをはっきり語られています。これから進むべき道は、人々から暖かく迎えられる道ではなく、外からの圧力によって自分が苦しむだけではなくて、自分の魂も苦しみを受けるのです。それを神からの使命であると受け止めることができたのです。
マルコによる福音書8章31節「人の子が必ず」と書いてあります。「必ず」と書いてあります。神が決めた、神がこうしようと決意なさった、神がすべての人を救おうと決心した、その決意に従っていくと、主イエスが苦しみに遭う苦難の道を歩まなければならないのです。
この後、主イエスがご自身のことについて語っているところを調べてみますと、マルコによる福音書10章45節にはっきりと書かれています。10章45節には「人の子は仕えられるためではなく、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのある。」(p83)とあります。
「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」身代金という言葉は、この当時の奴隷が解放されるためには、その人を買い戻すための、身代金、あがない金を必要としたのです。身代金が奴隷の主人に支払われて、初めて奴隷から解放され、自由になる、その時にこの言葉を使ったのです。主イエスの言葉には、罪に支配され、奴隷のように罪に仕えている者を解放して、罪から自由になるためには、イエス・キリストの犠牲と言う身代金が必要であることが語られています。ロ−マの信徒への手紙3章24節「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」(p277)
私たちは特別に罪を犯しているわけではないと思うし、罪に仕えている奴隷であると考えないのです。しかし、神から見ると、罪の奴隷になっているのです。暗い部屋の中では何があるのか、分からないのですが、光が射して部屋全体が見えて、そこに何があるかが分かるのです。神と言う光によって私たちのあり方がはっきり分かるのです。神という光に照らされると、自分の正体が分かるのです。神から離れ、自分中心に生きている、神と人とを憎んでいるのです。
主イエスは、この罪の罰を自分のものとして引き受けてくださるのです。私たち一人一人が罪の裁きを引き受けなければならないけれども、私たちに代わって、私たちのために身代わりで死んでくださったのです。
主イエスがこのフィリポ・カイサリアで弟子たちに自分のことをはっきりと語ったことと、深く関わるところは、主イエスが最後の晩餐で御自身のことを語ったところです。
それはマルコによる福音書14章24節です。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(p92)旧約聖書のレビ記には人間の血は生命に属すると書いてあります。血と言うのは、生命を意味するのです。大量に出血すると生命が失われてしまいます。
旧約聖書では神と人間とが契約を結ぶところがありますが、不思議なことに「契約」と言う言葉はヘブライ語では「切る、切断する」と言う言葉です。一般に契約を結ぶと言いますが、旧約聖書のヘブライ語では「切る」と言う言葉なのです。それは契約を結ぶ時に、もしこの契約に違反した時、反故にした時には、動物を切り裂いて血を流し、このようになることをあらかじめ了解しておくのです。契約ということと、「血」を流すことと深く関わるのです。
この当時の神殿の礼拝では、罪の犠牲として人間の代わりに傷のない小羊が献げられて殺されたのです。小羊の血が大量に出血します。その小羊が人間の代わりに死ぬことによって、人間の罪が赦されると考えられたのです。
小羊よりも優れた主イエスの死によって、罪の赦しが与えられるのです。すべての人々の罪の贖いのために、主イエス御自身の生命が献げられるのです。
聖書で用いられる言葉を調べると、日本語では同じ言葉で翻訳されていてもギリシャ語では、異なる言葉であり、意味が異なっています。「いのち」と言う言葉がそうです。
この心臓が動いている、生活する、と言う言葉は「ビオス」です。これは現在では、バイオと言う言葉でよく使って、日頃、私たちが聞いている言葉です。「生命科学」バイオテクノロジー、「生命倫理」バイオエシックス、と言います。聖書は「ビオス」と言う言葉をほとんど使っていません。地上での生活、心臓が動いている、その意味の「いのち」と言う言葉をほとんど使っていないのです。8章35節−37節に「自分の命」と言う言葉がありますが、この「命」と言う言葉は、「プシュケ−」と言う言葉です。「プシュケ−」は、「命」と訳されていますが、他のところでは「魂」と言う言葉で翻訳されています。
マタイによる福音書10章28節「体は殺しても、魂を殺すことのできる方を恐れるな。魂も体も地獄で滅ぼすことのできない方を恐れなさい。」魂と言う言葉は人格的な意味が強いのです。人格的な意味を持った「いのち」です。「いのち」「魂」それは関わり、関係を表す言葉なのです。
私たちには、地上で生きているいのちがあります。しかし、それだけで生きているとは言えません。このいのちを支えている関わりが必要です。食べて、動いている、この私たちのいのちを支えている関わりがあります。
北海道家庭学校と言う少年院があります。明治の時代に、留岡幸助と言う牧師が刑務所伝道をして行く中で分かったことがありました。犯罪を犯した人の経歴を見ると、少年の時の育ちと関わるので、少年の時に更正しないといけないと考えて、北海道の遠軽に家庭的な少年院を作ったのです。少人数の家庭で、罪を犯した少年たちを暖かく見守り、育てる施設です。長く北海道家庭学校の校長をした谷昌恒と言う人は「誰かがしなければならないことを」と言う講演の中で次のように語っています。
「子どもたちは、物やお金がいっぱい欲しいのです。物やお金がいっぱい欲しいのですが、それにもましてお母さんが自分のことを愛してくれているのか、お父さんが自分のことを信じてくれているのか、先生が自分のことを認めてくれているのか、そういう心で自分が満たされているかどうか、そのことが気になるはずです。物やお金がいっぱいあっても、そういう心で自分が満たされていないと思うと本当に辛いものです。」
ただこの地上での生活ができるだけでは、心は満たされないのです。自分を愛し、信じ、認めてくれる方がいなければ、私たちの魂は支えられないのです。
私たちは善い存在として造られたのですが、罪のためにそこから離れて、神との関係が切れてしまったのです。関係が切れてしまったいのちなき存在、死ぬべき存在となってしまったのです。樹木から木の実が離れて自分の重さで下に落ちてしまい、地面にたたきつけられて粉々につぶれてしまうことがあります。しかし、この木の実を下で受け止める者がいれば、粉々につぶれることはありません。
私たちは自分の罪によって下に落ちて死んでいくのです。そのような私たちの存在をしっかりと受け止めてくださるのが、主イエス・キリストなのです。
主イエス・キリストが十字架で死んでくださったということは、私たちのいのちを生かすためのものなのです。主イエスは、私たちのいのち、神との関係に生きることができるように、私たちの罪を引き受けてくださり、罰を受けて死んでいくのです。
ロ−マの信徒への手紙6章10−11節に次のように語られています。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(p281)
本日から主イエス・キリストのご受難を心に刻む、受難週です。イエス・キリストの血潮によって、私たちは罪のない者となり、神に愛されている者となりました。私たちのいのちを尊いものとして重んじてくださっていることを感謝するのです。
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20160313 主日礼拝説教 「あなたにとって救いとは」 山ノ下恭二 |
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(ゼカリヤ書8章1−9節、マルコによる福音書8章27−30節)
本日も皆さんと共に礼拝を守ることができることを感謝致します。牛込払方町教会に赴任して感心したことがあります。それは礼拝に来られている方々がかなり遠くから時間をかけて来ていることです。私は神学生の時には、4年間、日本橋教会に通っておりました。三鷹の神学校の寮からバスに乗り、三鷹、あるいは、武蔵境から中央線に乗り、その時には中野で東西線に乗り換え、茅場町で日比谷線に乗り換えて、人形町で降り、10分位、歩いて、教会に着く、と言うことを繰り返していました。三鷹から日本橋教会まで90分はかかったと思います。1時間30分かけて、週に二回、通うことは大変でした。
皆さんはかなり遠いところから本日の朝、来られて礼拝に出席しています。教会学校教師は、8時30分に来て、祈り会に出席し、そして子どもたちを待ちます。近くでしたら、8時30分に教会に集まることは苦にはならないと思いますが、1時間、2時間もかけて教会に来ることは使命感がないと来ることができないと思います。
皆さんは教会を愛しているのです。正確に言うと、教会に臨在しておられるイエス・キリストを愛していると言うことができます。イエス・キリストを愛している、イエス・キリストが臨在している教会を愛しているのです。ペトロの手紙一 1章8−9節に次のように記されています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(p428)
教会の人々が「キリストを見たことがないのに愛し」ていると語っているのです。私たちも、キリストをこの目で見たことがありません。しかし、キリストを見たことがなくても愛しているのです。
日曜日の朝、遠いところから時間をかけて教会に来ているのは、教会の中におられるキリストを愛し、信じているからです。遠いところから時間をかけて教会に来ていることは、行動をもって、生活をもって、イエスをキリストと告白していることです。
主イエスは弟子たちに「私は何者であるか」と尋ねました。弟子たちは主イエスと共に伝道の旅をして、近くで主イエスの教えを聞き、その振る舞いをつぶさに見てきたのです。しかし、主イエスの近くにいても、主イエスの本当の姿を知っていたわけではありません。主イエスが何者か、その本質を見抜いていた弟子たちはいなかったのです。
本日、読んだマルコによる福音書8章27−30節は、この福音書の真ん中に位置しています。ガリラヤでの伝道が終わり、新しい局面が開けてきます。これから、エルサレムに向かう、その旅がこれから始まります。丁度、マラソンランナ−が折り返し点で折り返し、そしてゴ−ルを目指してひたすら走るように、主イエスはこの場面で折り返し、ゴ−ルを目指します。ガリラヤでの伝道は終わりました。ガリラヤで主イエスがした神の国の説教と神の国を表す奇跡、いやしの活動は終わったのです。主イエスにはゴ−ルがはっきり見えてきています。そのゴ−ルとは死のゴ−ルです。十字架と言うゴ−ルです。主イエスには死が近づいているのです。
死が近づいていることは、改めて、自分の生きる意味、あるいは死ぬ意味を考えるきっかけになります。自分は何のために生き、何のために死ぬのか、と言うことです。主イエスご自身の存在の意味は、どのような意味があるのか、と言うことです。そのことを主イエス御自身、深く問うていた、考えていたのです。主イエスは御自身の生きる意味を問うていただけではなくて、御自身が死ぬ意味をも深く問うていたのです。御自身が神の栄光のため、人々の救いのために死ぬ、その死が近づいていました。ゲツセマネの祈りで主イエスは人間の思いでは、十字架の死を避けたいということを正直に祈っています。しかし、最後には神のみこころがなり、自分の死が意味があることを深く受け止めて決断をしています。
主イエスは弟子たちに自分のことを問う前に「人々はわたしのことをどう見ているか」「人々はわたしのことを何と言っているのか」と尋ねました。これは人々の評判を気にして、尋ねたのではありません。主イエスが何者であるか、その一つの導入として聞いたのです。主イエスが死んだ後に弟子たちが残るのですが、弟子たちが世間の人よりもより深く、より正確に主イエスのことを理解することができるように、その導入として聞いたのです。
主イエスのこの問いに対して、弟子たちがまず紹介した意見が、洗礼者ヨハネの再来であると言っていると言うことでした。洗礼者ヨハネは、神の審判を語り、人々に悔い改めを迫った預言者でした。人々に神に立ち帰るように迫った預言者でした。この当時、主イエスはこの洗礼者ヨハネとよく間違えられました。そして別の見方では、エリヤであると言う意見があると答えたのです。エリヤは、旧約聖書の初めの預言者でした。エリヤはこの当時のバ−ル言う外国の、自然の神を礼拝することに抵抗して、身を挺して戦い、「主こそ神だ」と告白した預言者でした。もう一つの見方があるのです。預言者であると言う意見があることを弟子たちは主イエスに伝えたのです。
「そこでイエスがお尋ねになった。」元々は「イエスみずから尋ねた」と翻訳することができます。この時、主イエスはご自身が正確に理解され、正確に受け入れられることを願ったのです。自分の存在とその意味、存在理由、それが正当な評価を得ているのか、を聞きたかったのです。主イエスが何のために生まれ、生き、死ぬのか、そのことをきちんと弟子たちは理解していなければならないのです。主イエスの人格に対して正しく告白することは大切なことです。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」この問いに答えてペトロが「あなたは、メシアです。」と答えたのです。口語訳聖書を読んだことのある人は「おやっ」と思います。口語訳聖書は「キリスト」と訳しているからです。メシアと言う言葉はヘブライ語です。「油注がれた者」と言う意味です。香油を注いで、特別な神の使命にあずかる人たちを「油注がれた者・メシア」と呼んだのです。王、祭司、預言者がそうですが、特に「王」を指すことが多いのです。 旧約聖書ではダビデ王がそうです。「メシア」と新共同訳が翻訳したのは、ユダヤの歴史の中で、メシアがどのようであったのかと言うことを思い起こしながら、その歴史を辿ることに意味があったからです。
ユダヤ人たちは、王だけ、祭司だけ、預言者だけが、メシアと言うのではなく、三つの務めを全部併せて力をもった人、神の救いを実現する人が来ることを待ち望んでいたのです。神が必ず、そのような救い主を用意し、送ってくださると確信していたのです。そのような私たちが願い、待っていたメシアがあなたですと言っているのです。しかし、ペトロが考えていたメシアは何よりも政治的な偉大な力を持った権力者でした。主イエスが十字架を語った時に、ペトロはそんなことはないと言ったことからよく分かります。マルコによる福音書8章33−34節で、主イエスが十字架と復活を語ったところ、そんなことはない、と言ったところ、主イエスは8章33節後半で「ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と言われたことによく表れています。
ペトロが願い、考えていた救い主を人々は望んでいるのです。国が安定し、経済的に豊かな生活をもたらす、政治家を待ち望んでいるのです。国が安定し、経済的に自分が満足していれば、それで良い、十分だ、と思っているのです。
あるカトリック教会の神学者が、ある本の中で現代人は神に救われることは必要がないと思っている、と言うのです。「救われることが自分にどうして必要なのか、分からなくなっている」というのです。
そして一つの例を挙げて言います。「嵐にもてあそばれ、海賊に狙われるもろい小舟で漂流するボ−トピ−プルにとっては、救いが何であるか、明らかです。大きな貨物船が近づいてきて船長が「あなたたちを乗せよう。こちらに移りなさい。水と食糧を与え、安全なところに連れて行ってあげよう」と言うなら、それが彼らにとってこの船長が救い主であり、この船長のおかげで生きている、船長が救いの手を差し伸べなかったら、死んでいたでしょう。」と言うに違いないのです。この例は、緊急事態の時の、非日常的なことです。そのような時の救いは明確です。もし、私たちが非日常的な危機に陥っているならば、キリストの救いを求めるでしょう。
私たちは日常において、苦しみに遭ったり、悩んだり、困ったりしていますが、政治や経済や科学の力で事態は何とか打開できるものだし、そうならないのであれば、仕方がないと考えているのです。何となく漠然とした不安を抱いているものの、それは救いについての不安ではないのです。そもそも「救い」と言う言葉自体がもはや本来の輝きを失ったものになっているのです。救いと言うことで理解できるのは、せいぜいこの世の不安からの解放でしかない。」そのように言うのです。別の言葉で言い換えると「世俗的救いの実現」と言うことです。
多くの人々は人間が求める救い、人間が必要とする救いを求めているのですが、キリストが与える救いは、目には見えないけれども、私たちに本当の癒やしと救いをもたらすものなのです。
エレミヤ書7章14節に次のようなみことばがあります。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたこそ、わたしはたたえます。」
人間が中心になって救いがあるのではなく、神御自身が造り出す、神御自身が行動なさって、私たちにもたらしてくださる救いを私たちが信じて受け取る時に、その神の救いは私たちのものになるのです。
ある牧師がBSチャンネルで、最近のアメリカの大学生の犯罪を扱ったテレビ番組を見ていたそうです。それは男子大学生が女子大学生に暴力を振るう事件が多発していると言う番組だったそうです。その牧師は私に「アメリカはもはやキリスト教国とは言えない。神抜きで生活していると自分を自制することができない。自分の暴力的な衝動を抑えることができない。神を畏れないからだ。」と言いました。神を畏れない、神がいなくても十分、やっていけると思っている、そこでは人を傷つけ、他の人との関係を壊してしまうことが起こっているのです。神との関係が壊れ、他の人との関係が壊れている、それが罪と言うことです。
ロ−マの信徒への手紙で、パウロは罪について詳しく語っています。その中で、3章18節に「彼らの目には神への畏れがない。」と語っています。神との関係が壊れ、他の人との関係が壊れているのです。神を信頼することがないで、自分だけで生きようとする、相手の立場は顧みず、自分のために相手を利用する、そこでは関係が壊れているのです。
キリストの救いとは、私たちが神と愛の関係を持つということであり、そのことは、他の人との関係も愛の関係を持つことにつながっているのです。
今日の教会学校の説教は主イエスが山上の説教で語られたみことばを語りました。「敵を愛しなさい」と言うみことばです。自分を愛してくれる人を愛する、それが愛の本質なのか、と主イエスは問うのです。自分にとって利益がある人を愛することは愛に値することなのか、と問います。そういう次元で愛を理解することではない、と語ります。ルカによる福音書6章32節「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」(p113)私たちは愛と言うことを好き嫌い、気に入った、気に入らない、そう言うところで愛を捉えます。自分の気持ちに正直に生きることが誠実な生き方だと思い込んでいます。好きな人を愛し、嫌いな人は愛さないのです。しかし、主イエスはこの私たちの心に逆らわなければ、主イエスが願っている愛は生まれないのだと語るのです。敵を愛する、これが愛の本来の姿なのです。
神にとって私たちは神に背を向け、神から離れて自分中心に生きている、赦しがたい罪人なのです。いわば私たちは神の敵であるのです。その敵であるような私たちを愛するのです。敵である私たちの味方をして、私たちの罪を贖ってくださるのです。私たちが神に罪の償いをしなければならないのに、神が償いをしてくださるのです。
ロ−マの信徒への手紙3章23−25節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(p276)
神はキリストの十字架の贖いによって、私たちに和解をもたらし、罪を赦し、愛の関係を作ってくださいました。神が与える救いとは、私たちが神に愛されているということです。神と私たちが愛の関係の中にいるということがキリストが与えた救いなのです。
「あなたはメシアです。」この告白は、神が私たちのために、キリストによって罪を贖い、赦し、愛してくださっている神ですと告白しているのです。
私たちの救いのために、神がキリストによって罪の贖いとなってくださった、その意味で私たちは「あなただけが、あなたこそが、メシア、キリスト」と告白するのです。
ペトロが告白したこの「フィリポ・カイサリア」と言う町は、聖書の地図を見るとガリラヤ地方よりもずっと北にあります。この場所はヘルモン山の麓にあり、水の豊かなところで、泉が湧き出るような、緑の濃いところです。滝があり、豊かな水が流れています。ユダヤでは水源地です。泉が湧き出て、人々の渇きを癒すのです。水源地から水が湧き出るのです。そのように、神の愛が私たちのもとに届き、私たちは神から与えられた愛によって生きることができるのです。主イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださることを、ア−メンと受け入れて信じるのです。泉がコンコンと湧き出て、そこから水を飲んで渇きを癒すように、神からの愛を受けて、神の愛を根拠にして生きることができるのです。
イエス・キリストに対して私たちはこのように告白することができるのです。「あなたはメシアです。」あなたは神と同じ方であり、救い主です。私を限りなく愛してくださっています。だから私はあなたを愛します。
神に愛され、愛の関係に生きることができる、それは何と幸いなことでしょう。
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20160306 主日礼拝説教 「何でもはっきり見えるようになる」 山ノ下恭二 |
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(エレミヤ書29章4−14節、マルコによる福音書8章22−26節)
東大宮教会におりました時にこういうことがありました。ある時、一人の目の不自由な青年が礼拝に出席しました。この青年から話を聴くと、中学生の時に途中失明をして、光を失い、ものが全く見えなくなったそうです。それと同時に自分がこれからどうして生きて行ったら良いのか分からなくなり、失望のどん底に落とされたように感じていたそうです。その時に、教会に行っている人に誘われて、礼拝に出ることができて、しばらく通って信仰が与えられて、キリスト者となったのです。この人は長野市に住んでいた人ですが、福祉関係の大学を出て、埼玉県立久喜図書館の点字部に務めるために長野から大宮に来たとのことです。しばらくしてこの青年と話している時に、自分は目が不自由なので自分のところに来た手紙が読めないと言うのです。私が手紙を読みましょうかと申し出て教会から近いところに住まいがあるので、彼の家に行って一週間に一度、私が手紙を代読することになりました。
個人的な手紙はほとんどなく、会社から来たダイレクトメールがほとんどでした。その中でも多かったのは彼の趣味に関するダイレクトメールでした。彼はジャズが好きで、青山のブルーノート東京のジャズライブの案内が多かったのです。どの日のライブにどのような演奏家が演奏をするのかを全部読むわけです。そうすると水曜日に行こうかな、とか、この歌手はいいんだ、と言うのです。そして、自分の気に入った演奏家が出演する時に、出かけていくのです。私は目が不自由なのに、東京までよく行くなぁと思いました。毎週、その案内を読むので、演奏家を私が覚えてしまう、そしてジャズに興味はなかったのですが、それに影響を受けて、私はジャズのCDを聴くようになったのです。
その時に思ったことは、この人は人生の途中で目が不自由になったけれども、教会に行って神を知り、キリスト者となって、目が見えないことを克服しているな、と思ったのです。目が不自由であることは、とても大変なことです。障がいをもっているということは実際に大変です。しかし、この青年はそれを障がいと思っていないのです。
主イエスは、目の不自由な人の目を開けられました。それは眼が見えるように奇跡を行うためではなく、このことを通して神の支配がどのようなものかを、この人に実際に経験してもらうためでした。神が、目が不自由で苦しんでいる人にも心をかけ、愛の手を差し伸べていることを知らせるためです。それは見えない目を見えるようにすることによって神が愛していることが分かるためです。主イエス・キリストの働きによって神の支配が及ぶことが分かるためです。神の愛が私のところまで、及んだ、その喜びをもたらすためです。ものを全く見えない人が見えるようになったのです。目が見えなくて、暗闇の中を歩んでいた者が、明るい光の中を歩むことができるようになったのです。
この物語は、目が見えない、目が不自由な人が見えるようになった物語です。この物語は、目が見えない人がたちまちはっきりと見えるようになった、とは語られていません。二度に渡って、主イエス・キリストの癒やしが行われているのです。最初に癒やしが行われているけれども、はっきりと見えるようになっていないのです。はっきり見えるようにならないのは、失敗であったと言って良いと思います。皆さんが眼科に行って、目の手術を行い、その結果、ものがぼんやりとしか見えないとしたら、目の手術は失敗と言って良いと思います。ぼんやりとしかものが見えないのなら、もう一度やり直しするしかありません。
マルコによる福音書は、最初に書かれた福音書であり、主イエスの癒やしの物語を一番、早い時に書いた福音書です。マルコは主イエスが実際に行われた癒やしをその通りに、行われた現実のままに書いているのです。マタイやルカによる福音書にも同じ物語が記されていますが、一回ではっきりと見えるようになったことが書かれています。二度も癒やしが行われて、二度目にマルコによる福音書のこの物語で語られている、最初はぼんやりとしかものが見えなかったことを省いているのです。それは主イエスが癒やしを最初に失敗されたことを伝えたくなかったのでしょう。
しかし、私は最初の癒やしが、ぼんやりとしか見えなかったことに深い意味があると思います。最初に主イエスがこの人の目を触ってどのようになったのか。8章23節−24節にはこう書いてあります。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何が見えるのか』とお尋ねになった。すると盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」この盲人の答えは確かにぼんやりとしか見えないことが分かります。白内障の手術を受けて、はっきりと見えるようになるかと思ったら、手術を受ける前と変わらないとしたら、それは失敗です。
このことはどのようなことを語ろうとしているのでしょうか。人が見える、その人の顔や姿はよく見えない、歩いていることは分かるのです。この人は誰であるか、よく分からないと言うことなのです。暗い夜に、人があるいていて、人であることは分かるけれども、この人が誰であるか分からないのです。
それは、神のお姿をはっきりまだ見ていない、と言うことなのです。神がどのような神なのか、はっきりつかんでいないと言うことなのです。
誰でも、聖書の語っていることをぼんやり理解している段階があります。私も小学生の頃、聖書の話を教会学校で聞いていました。しかし、ぼんやりとしか聴いていなかったなぁと思います。一匹の羊が道に迷ってしまった、この羊を探し求めて、羊飼いが捜して、抱いて羊の群れのところに抱きかかえて帰ってくる、そのような話を聞くと、とても心温まる良い話だなぁ、と思いました。しかし、それでお終いになっていたのです。主イエスがみんなに嫌われているザアカイに呼びかけ、ザアカイの家に行って共に食事をして宿泊する、そのような話を聞くと、イエス様はなんと優しいお方だろう、と思います。良い話だと思うけれども、それでお終いになってしまうのです。その姿はイエス様の姿であるとは思うけれども、神の姿とは思わないし、自分には余り関係があるとは思わないのです。
教会に行くことは楽しいし、聖書の話を聞くことは有益だと思っていましたが、それと神がどのような方か、どのようなお姿で御自身を現したのか、と言うことは自分の中でかなりぼんやりしていたのです。イエス様はとても良いことをした、人に仕えた、そういう人になれれば良いなぁ、と思うだけで留まってしまっているのです。
聖書の物語は一つひとつばらばらに置かれているのではなく、内容がつながって配置されています。ただここにポンとこの癒やしの物語がひとつだけ置かれているわけではありません。
マルコによる福音書8章は主イエスが食べるものがなくて飢えている群衆にパンを分配し、給食をしている物語から始まっています。その後で、主イエスは自分が語った内容を弟子たちが理解していないことを厳しく注意しています。その後に「ベトサイダで盲人をいやす」物語が続いています。給食の物語と盲人の癒やしの物語が別々の話ではなくて、この二つの物語がつながっているのです。
どのようにつながっているかと言うと、主イエスが群衆に給食をした後に、弟子たちに次のように語っていることがヒントになります。マルコ8章17−18節「イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」と主イエスは語っているのです。
この主イエスの言葉の中で「目があっても見えないのか」と語っていることに注目したいのです。4000人の群衆にパンを配って、そのパンを食べて満腹し、さらに余ったパンの屑が7篭にもなった、そのことを弟子たちは自分の肉眼で見ているのです。しかし、それがどのような意味を持っているのか、分からない、悟らない、見ていないのです。それが神のみ業であると見ていないのです。
主イエスは、パンの奇跡が主イエスの深い憐れみであり、激しい神の愛によることであることを示したのです。ところが、弟子たちは主イエスの憐れみと愛を見ることができないのです。見る目を持っていないのです。よく私たちは他の人を批評して「あの人は見る目がない」と言うことがあります。弟子たちは神のみ業、働きをはっきりと見ることができなかったのです。
そこでマルコは主イエスによって盲人の目が開かれる物語を、その後に置くことによって、教会に属する者、キリスト者に語りたかったのです。つまり、教会に属する者、私たちキリスト者が心の眼、霊的なものを見る目が開かれて、神のみ業、神の働き、神の愛をはっきりと見て欲しいと願って、パンの奇跡の物語の後に、この物語を配置したのです。弟子たちと言うのは、キリスト教会に属する私たち一人ひとりのことです。
主イエスは二度目、再び、盲人の目を癒されます。8章25節「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」この時に盲人が見たものは、彼の目の前におられる主イエスのお姿であったのです。塚本訳では、「なんでもはっきり見えるようになった」と訳しています。この人は、主イエス・キリストをはっきり見ることができたのです。この人は既にものが見えない人ではありません。誰であるか、分からない、そのような人ではないのです。光を取り戻したこの人は、主イエスが自分の目を開いて下さり、見るべきものをはっきり見ることができる眼を持つことができたのです。
私たちの、この肉眼の眼は、この肉眼で見えるものしか見ることができないのです。しかし、私たち、信仰を与えられた者は、心の眼、霊的なものを見る眼が与えられているのです。この肉眼ではこの世のことしか見ることができないけれども、心の眼、霊的なものを見る眼は神の働き、神のみ業を見ることができるのです。
私たちは霊的なものを見る眼をもって見ています。霊的なものを見る眼をもって、あらゆるものを見ることができるのです。虫のように地べたを這って、この地上のことだけを見ている、そのようなことではなく、空を飛ぶ鳥のように、地上から離れたところでこの地上を見ることができるのです。そのような眼をもって見ているのです。
キリケゴ−ルと言う哲学者が「絶対的なものには絶対的に関わり、相対的なものには相対的に関わる」とある作品の中で言っています。例えば、お金が絶対的であると考えると、お金儲けにいそしみ、お金がないと不安になります。しかし、霊的な眼を与えられると、お金は相対的なことで、もっと大切なものがある、人を愛することだ、と考えることができます。
信じるということは、神の働きを見ることです。この肉眼では見ることができませんが、神が私たちを愛して、私たちのために配慮して下さっているそのことを見ることができるのです。
信仰の眼をもって見ることができるのは、神のお姿です。この神のお姿は、十字架につけられた主イエス・キリストのお姿です。コリントの信徒への手紙一 1章23節に「十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(p300)と書かれています。原文で言うと「十字架につけられているキリスト」を宣べ伝える、と語っているのです。十字架につけられているキリストが神のお姿なのです。私たちは十字架につけられているキリストを霊的な眼で見ることができるのです。
今、私たちは主イエス・キリストのご受難のことを心に覚えながら、この時を過ごしています。主イエスが十字架につけられたことを心に深く覚えるのです。マルコによる福音書15章には主イエス・キリストが十字架につけられ、十字架上で叫んでいる言葉が記されています。15章33節−34節です。(p300)「昼の12時になると、全地が暗くなり、それが3時まで続いた。3時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と言う意味である。」
主イエス・キリストは兵隊たちに逮捕されてから、全く語らず、沈黙しています。十字架について3時間のあいだ、闇に囲まれて3時間、沈黙をしていたのです。そして最後の叫びをあげたのです。それはいよいよ死ぬことになり、自分が神に見捨てられることを知ったのです。
私たちは神を忘れ、神に背を向けて、過ごしています。このことが罪そのものなのです。私たちの、この罪を主イエスは身代わりとして、すべて背負って下さったのです。コリントの信徒への手紙二 5章21節「罪と何の関わりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(p331)神の子、神と同じ方が罪そのものとなられたのです。主イエスが十字架の上で叫ばれた叫びは、私たちが本来、叫ばなければならない叫びです。神の厳しい審判を受けて、死ななければならないからです。
このような審判を主イエスは受けることによって、私たちは罪の裁きを受けなくても良いのです。私たちが神との正常な関係を与えられたからです。そしてそこには神の赦しがあるのです。
霊の眼をもって見ると、十字架の神の愛を見ることができます。私たちは神の愛を信じる時に起こることは「悔い改め」なのです。罪を悔やむのではなく、神のもとに向かうのです。悔い改め、それは方向転換です。神のところに向かうのです。そうすると赦しが待っているのです。赦しがあるので、帰ることができるのです。赦しがなければ、私たちは神のもとに帰ることができないのです。詩編130編3−4節(旧約p973)「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるのなら 主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」
あるキリスト教思想家は、一つの本の扉に、小さな一つの祈りを書いています。「おぼろな、かすむ、わたしの目を、あなたが澄んだものにしてください。そしてイエス・キリストのお姿だけは見ることができるように」
私たちが神の愛のお姿を、神の愛のみこころを見ることができるように、これから聖餐を受けます。この目で、主イエス・キリストの愛を、赦しを見ることができるのです。私たちの罪の贖いのために、十字架で肉を裂き、血を流してくださった、そのしるしを戴きながら、神の愛と赦しをこの肉眼で見て、実際に経験することができるのです。
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20160221 主日礼拝説教 「洗礼を受ける恵み」 山ノ下恭二 |
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(出エジプト記14章26−31節、ロ−マの信徒への手紙6章3−10節、ハイデルベルク信仰問答・問69−71)
ある本に書いてありましたが、一人の高校生が土曜日の夜に毎週、デ−トに行っていたそうです。この高校生がデ−トに出かける時に、母親が玄関先で見送るごとにこういうことを言うそうです。「自分が誰であるか、忘れないでね」。
「自分が誰であるか、忘れないでね」と言うことは、自分の名前や住所を忘れないようにと言う意味で言っているのではありません。この高校生がデ−トで二人だけいる時に、相手の魅力に誘われて自分を忘れてしまう時があります。パ−ティの真っ最中に音楽を聴いていて、うっとりしてしまって自分が誰であるか忘れてしまうことがあります。その場のム−ドに合わせて自分が別人であるかのように振舞ったり、それまでの自分とはまるで異なった行動を取ってしまうことがあります。そうなると自分が誰であるか、分からなくなってしまうのです。自分を見失ってしまうのです。
高校生がデ−トに出かける時に、母親が「自分が誰であるか、忘れないでね」と言ったのは、自分を見失うことがないように、自分を保つことができないことがないようにと母親が語ったのです。母親が自分の子どもにそのように言ったのは、まだ自分という者がどのような存在なのか、はっきり分からない年齢であると思って言ったのです。
若者にとって「いったい自分は誰であるか」という問いは差し迫った問いです。自分がどう言う自分であれば良いのか、本来の自分はどのような自分なのか、若者は自分探しをしているのです。確かに若い時には、自分がどのような者なのか、はっきり分からないので、自分探しをしてみるのです。アルバイトをしたり、クラブに入って自分が何であるかを見つけようとしているのです。
自分が誰であるか、分からなくなると言うことは、若者だけの問題ではありません。私たちも自分が誰であるか、分からなくなるのです。私たちの一日の生活を振り返って見ると、様々なものに影響を受けながら、暮らしています。現代は特に情報化社会で溢れるほどの情報が私たちの生活に伝えられています。新聞、テレビ、雑誌、インタ−ネットからおびただしい情報が流れてくるのです。情報過多と言っても良いのです。
知らなくても良いこともたくさんマス・メディアとして流れてくるのです。テレビ番組がみんなに見てもらうために工夫して番組を制作していると思いますが、刑事が登場する番組は、犯罪の細かい場面を詳しく報道しています。その場面を見て、こうすれば犯罪を犯すことができる手口を教えているようなものです。見なくても良い情報を見ているし、聞かなくても良い情報を聞いているのです。特に、テレビのコマーシャルで、製品を買わせるために短い時間で製品をアピ−ルし、これを買わないといけないように誘導されるのです。この会社で家を建てるとより幸せになれます、この食品を購入して食べると元気になります、この化粧品を購入するときれいになります、と宣伝して、買わせるのです。買うことによって、ものを持つことによって幸せになると言う価値観を持つことになります。
金持ちになるには宝くじを買えば良い、良い仕事に就くには良い大学に入ることです、そのためには良い高校に入ることです、そのためには、この学習塾に入るのが一番です、そのような宣伝を毎日、聞いていると、それが良いとなってしまうのです。自分の考えから出たものではなくて、他のところから出た考え、他者志向型になり、自分がどのような存在で、自分がどのような考えをもっているのか、分からなくなっているのです。様々な情報に惑わされ、影響を受けて、自分が誰なのか、自分が何者であるか、見失ってしまうのです。
「あなたは誰ですか」そう聞かれた時に何と答えるでしょうか。
神から「あなたは誰ですか」と問われたら、皆さんは何と答えるでしょうか。皆さんは神に対してきちんと言えると思います。私はキリスト者です、洗礼を受けています、と言うことができます。
私たちが「自分は誰でしょう」と問う時、教会はこの問いに答えてきたのです。あなたは洗礼を受けている者です、と言って来たのです。そしてもっと正確に言うと洗礼を受けて、聖餐を受けている教会員です、と言うことです。
洗礼を受けることがキリスト者の出発点であり、教会員となる出発点です。あなたは洗礼を受けている、それがあなたです。
洗礼と言う言葉はバプテスマと言う言葉です。このバプテスマと言う言葉は「沈める」と言う言葉です。初めの教会から長い間、教会堂の近くに洗礼堂があり、そこには洗礼槽があり、洗礼式は司式者と志願者とが洗礼槽に入って全身を水の中に沈めたのです。
バプテスト教会、ディサイプル教会などは全浸礼で洗礼式を行っていますが、多くの教会は全浸礼ではなく、滴礼と言って頭に水をかける方式を取っています。
水槽に身体を沈めて洗礼式を行うのが本来の方式です。身体を沈める、そこに深い意味があるのです。水の中に長く身体を沈める、そうすると息ができなくなり、死んでしまいますが、身体を水の中に沈める、それは、その人の人生を終わらせると言う意味なのです。水の中に身体を沈める、それは今までの人生、あり方が、神と無関係に生き、自分中心に生きて来た、その生き方を終わらせると言う意味があります。
本日の礼拝でロ−マの信徒への手紙6章を読みました。この6章は洗礼の恵みについて語っているところです。洗礼を受けることは、私たちが一度、死ぬことなのです。それは罪に支配されていた人生が終わったことなのです。罪とは何よりも一番先に、自分を愛することであり、神のみこころから離れて自分中心に生きていることなのです。現代は、人間中心主義ですから、自分本位に生きることは当たり前と考えている時代です。神を失っているのですから、世界の中心は人間であり、自分であるのです。自分のことしか考えない深い罪に自分が支配されているのです。自分中心の罪から私たちを解放してくださるために神と同じ方、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架の犠牲を献げてくださるのです。洗礼を受けると言うことはどのようなことが起こっているのか、と言うことです。私たちの罪をイエス・キリストが私たちの代わりに背負い、身代わりとなって神の裁きを受けて、贖ってくださるのです。主イエス・キリストの十字架の犠牲によって罪を取り除いてくださり、罪のない者となることができたのです。
私たちの教会の洗礼式は頭に水をかける滴礼なので、全浸礼による洗礼式を見たことはないと思いますが、全浸礼の洗礼式では、司式者の牧師と洗礼志願者とが、白いものを身にまとって水槽に入るのです。白と言うのは神の色、天使の色であるわけです。罪に支配されていた生活、人生が終わって、神と共に歩む新しい人生が始まるのです。洗礼を受けることは、新しく生まれ変わることなのです。そこでは、自分が中心ではなく、イエス・キリストを中心とした人生に切り替えることであるのです。
私たちの罪によって神との関係が壊れていたのです。神との交わりが破壊されていたのです。神との正常な関係が失われていたのです。私たちが神に背を向けて、神をないがしろにしていたからです。このような壊れた関係を回復して、正常な関係を持つために、神の側から、神御自身であるイエス・キリストを派遣し、私たちの罪を贖って、私たちを罪の無い者となさるのです。
洗礼式には水を使います。水は汚れを洗うのです。洗って清潔にするのです。汚れを水で洗い落とすのです。外面的に目に見える形において水が汚れを洗い落とすのです。水で汚れを洗い落とすと言う外面的な洗いの所作によって、そのことは何をしようとしているのでしょうか。どのような意味があるのでしょうか。それはそのしるしによって霊的に起こっていることに目を向けるのです。それは私たちの「魂の不潔」を洗い落とすことなのです。私たちの魂の「すべての罪」の汚れを、イエス・キリストがご自身の血と霊とによって洗ってくださると言うことなのです。ハイデルベルク信仰問答・問69の答えには、「わたしがわたしの魂の汚れ、すなわちすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける」と解説されています。私たちの罪をイエス・キリストの血によって洗い落とす、そのことが洗礼によって起こっていることです。そのことによって私たちは初めて神との正常な関係が与えられるのです。
神との正常な関係を持つ、そのことが私たちにとって生きる時に最も大切なことなのです。洗礼を受けることによって私たちが神に対して罪人ではないと見ていてくださるのです。洗礼を受けても、私たちは過ちを犯し、罪の思いを持ち、神のみころに沿わないことをするのです。しかし、神との関係は断たれていないのです。罪を犯しながらも、しかし、そこで神に罪を赦されたものとされているのです。神が私たちを罪人として見ているのではなく、神に対して正しい者として私たちを肯定し、受け入れてくださるのです。洗礼によって私たちの罪は解決されており、罪のない者となっているのです。
4世紀にアウグスティヌスと言う神学者が、「告白」と言う本で自分がキリスト教信仰をどのようにして持ったのかを詳しく記しています。この人は母モニカの祈りがあったにもかかわらず、自分探しの旅に出てしまい、いろいろな遍歴を重ねたのですが、女性と同棲をして子どもを持ち、放蕩の生活をしていたのです。ところがある時に、「聖書を取って読め」と言う声がして聖書を読み続けて、回心したのでした。「告白」に「神のもとに憩うまではほんとうの憩いはなかった」と書いています。回心して、神を信じることによって自分が誰であるか、分かり、自分を取り戻すことができたのです。ほんとうの自分になったのです。
私は誰でしょう。あなたは神の子です。私は何者でしょう。あなたは神が完全に受け入れた者です。あなたは誰でしょう。あなたは主イエス・キリストに愛されている者です。ガラテヤの信徒への手紙3章26節に私たちが聞くべき聖書のみことばがあります。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。」(p346)
この説教の最初に、ある若者がデ−トに出かける時に玄関先で母親から「自分が誰であるか、忘れないでね」と呼びかけられたことを話しました。それはこの若者だけに必要な言葉ではありません。私たちがいつも聞かなければ、自分に問わなければならない問いだからです。
私たちが住んでいるこの社会は、神を認めない、世俗的な社会で、人間中心の情報しか発信していないのです。「自分が誰であるか、忘れないでね」と私たちは呼びかけられています。「あなたはどこに属し、誰なのか、わきまえていますか。あなたは洗礼を受けて神の子なのですよ。キリストの十字架の犠牲
という高価な代償を払って神に所属された者なのです。」そのような存在なのです。
ハイデルベルク信仰問答・問1に「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」と言う問いがあります。この問いに対して次のように答えています。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。」キリストの十字架の犠牲によって私たちの罪を贖ってくださり、このことを信じて洗礼を受けた私たちは、自分が自分のものではなく、イエス・キリストに所属している者であるのです。洗礼を受けていることは、しっかりした自分の立場をもっていると言うことです。
ロ−マの信徒への手紙12章から「キリスト者の新しい生活」が語られています。洗礼を受けたキリスト者の生活がどのような基準で生活するのかを教えています。キリスト者のなすべきことは礼拝であることが明確に語られています。12章1節には次のように語っています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」礼拝を第一にする生活です。
ある教会の月報に洗礼を受けた若者が「洗礼を受けて」と言う文章を書いています。そこに印象深い言葉が書かれていました。「洗礼を受けることによって、自分探しの旅は終わりました。そして教会の会員となってここにこそ自分がいるべき場所であることを知りました。」この言葉に私は深い印象を持ったのです。洗礼は自分探しの旅に終わりを告げるものであり、神に愛されてイエス・キリストと共に生活することです。
洗礼式と言っていますが、正確に言うと洗礼入会式です。それは洗礼とは入会すると言うことだからです。洗礼を受けて教会の会員にならないと言うことはないのです。逆に洗礼を受けないで教会の会員になることはできません。洗礼を受けることは教会に入会することであり、教会の会員として責任を持つと言うことです。洗礼を受けて、教会員になる、それはキリストのからだの一つの肢になるということです。パウロは教会がキリストのからだであり、一人一人が肢であることを、人間の体の各部分であることを語っています。
コリントの信徒への手紙一 12章12−14節には次のように語られています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(p316) 洗礼を受けたと言うことは、一つの体に合体し、その部分に組み合わされたと言うことです。そして体のそれぞれの部分が必要であり、有機的につながっていて、互いに補い合いながら、働いていると語るのです。
洗礼を受けて教会員になったと言うことは、からだの一部分として組み入れられたと言うことです。からだの一つの肢体としての責任を持ちながら、互いに補い合いながら、強い部分が弱い部分を補い、他の部分を助けるのです。
「自分が誰であるか、忘れないでね。」私は洗礼を受けて、キリスト者であり、キリストの体に組み合わされた者です。キリストの十字架の贖いによって
罪赦された者です、そのように私たちは告白することができるのです。
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20160214 主日礼拝説教 「見えないものに目を注ぐ」 山ノ下恭二 |
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(詩編103編1−6節、マルコによる福音書8章1−21節)
本日の礼拝で、マルコによる福音書8章1−21節のみことばを読みました。このところは、主イエスが、4000人の人々にパンを与えた奇跡が記されています。この物語と同じ物語が6章30節以下に記されています。そこでは、5000人の人々にパンと魚を与えているのです。主イエスが食物を与えた、それも二度も同じような奇跡をなさったということは、主イエスが食事を提供することに心を注いでいたのです。マルコによる福音書は食事を提供する奇跡の物語を一回だけではなく、省略せずに、繰り返し同じように丁寧に書き記している、そこには深い意味を込められているのです。
福音書には、食事の物語がまことに多く記されています。それは、主イエス御自身が人々との食事を喜びとされたことによるのです。共に食事を囲むことは、共に生きる姿を最も具体的に現すものです。主イエスは人々の批判を恐れず、徴税人、罪人を招いて食卓を囲み、共に食べ、共に飲むのです。主イエスが復活された後も、弟子たちと共にしばしば食事の席について、ご自身の復活が確かであることを示されたのです。復活の証人となった弟子たちが教会に生きるようになった時に、教会の交わりの中心にはいつも食卓を中心に置く共同体であったのです。マルコによる福音書が喜びをもって伝える食事の物語は、繰り返し、繰り返し、聞かれ、そこで恵みを感謝していたのです。
最初の教会で食卓を囲んでいた時に、その中にはこのパンの奇跡に与かった人々もいたかも知れません。そこで、その恵みを思い起こしたのです。あるいはその恵みを語ったかもしれません。聖餐の食卓に与かっている時に、かつて主の弟子であり、今は主の使徒となった弟子たちが、このパンの奇跡を思い起こしたに違いないのです。
パンの奇跡の後に、主イエスと弟子たちは舟に乗って、ガリラヤ湖の向こう岸についたのです。ところがパンを持って来ることを忘れ、一つのパンしか持ち合わせていないことが分かったのです。その時に主イエスが弟子たちに教えられるのです。
パンの奇跡の後に、主イエスが話したことは弟子たちにとって厳しい内容の話であったのです。マルコによる福音書8章11節−21節のところで、中心の言葉は「悟らないのか」という言葉です。8章17節で「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか」と語られ、21節で「まだ悟らないのか」という言葉があります。主イエスがパンの奇跡をなさったのですが、このパンの奇跡がどのような意味があることを理解していない、と指摘している言葉で終わっているのです。たいへん厳しい言葉で主イエスは弟子たちが悟らず、理解しないことを責めています。
舟に乗って向こう岸へ弟子たちと主イエスが行かれた時に、弟子たちはパン一つしか持っていなかったのです。主イエスと弟子たちとを合わせて13人います。一つしかパンを持っていないので、13人分のパンをどのように調達したら良いか、弟子たちは途方に暮れたのです。これから食べるパンが足りないことを心配して、そのことで頭が一杯でした。
その時に「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。」(8章15節)と語られました。この言葉を聞いて弟子たちは自分たちがパンを持っていないのでそう言ったと誤解したのです。しかし、そうではなく、主イエスは弟子たちをもっと深い真理に導こうとして語ったのです。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」とはどのような意味なのでしょうか。「ファリサイ派の人々」という言葉ですが、この「ファリサイ派の人々」の「ファリサイ」という言葉は「分離する」「区別する」という言葉です。自分たちが宗教的な戒めを守っていて、守っていない人たちとは違う、そういう言葉です。自分たちは神の側にいて神のみこころを実践している、しかし、自分たち以外の人たちは全く神のみこころを実践していないと、自分たちと他の人とを分離・区別しているのです。そして自分と他の人たちを区別しているだけではなくて、他の人を自分よりも低い人々、神から離れた人々として軽蔑するのです。
信仰というものを、見えるところで、外見で判断するのです。その人の生活の仕方、努力、実績で評価するのです。信仰を外側だけで、評価するのです。自分がどんなに長く祈りをしているか、自分がどんなに貧しい人々に慈善してお金を献げているのか、自分がどんなに謙虚な態度で断食をしているのか、で信仰を測るのです。パン種はほんとうに微小なものです。人の目には見えないくらい、小さなものです。そのパン種がパンを大きく膨らませるのです。
私たちは何か、善いことをした時に、ああ自分は良いことをしたと思うのです。自分は善いことをしている、正しいことをしている、そのような意識を持つのです。そのような意識、気持ち、それは小さなものでしょう。その思いが心に忍び込むことがあるのです。パン種は大変、小さなものです。けれども小さいものでも、入り込んだらその種によって膨らんで、パンになってしまう。パン種はほんとうに小さなものです。微量な物質ですが、ウイルスのように身体に侵入して奥深く入り込むと、身体を破壊してしまうのです。自分は正しいことをしている、善いことをしている、そのような思いが心の中に入り込むと信仰そのものがおかしなものになってしまうのです。
マルコによる福音書は、マルコが最初の教会の人々にイエス・キリストの福音を伝えようとしたのです。しかし、それは主イエスが語られた教え、言葉をただ伝えようとしただけではなくて、教会の人々が本当に健康で、健全であることを願って、主イエスの言葉を伝えたのです。私たちが教会の生活をしている時に、信仰が健全でなくなり、健康な信仰でなくなってしまうのです。信仰が病気になる、信仰が病んでいるのです。それはどのようなことなのか。それは私たちの信仰が裁きの信仰になってしまうということです。自分が神様の側にいるので、自分以外の者が裁きの対象になってしまうのです。私たちはよく、信仰の勤務評定をします。人を裁いてしまうのです。主イエスは「裁くな」と警告しています。裁きという微量のパン種が入り込むと、信仰が病んでしまうのです。
主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種によく気をつけなさい」といわれました。このことはもう一つのことを教えています。ファリサイ派の人々は、主イエスの語った神の国、神の支配を受け入れないのです。
ファリサイ派の人々は自分の善い行い、外見から見える、外見的な行いによって神のもとに近づくことができると考えたのです。人が見てよく分かるような善い行い、実行がない人は神の国に入ることはできないと考えたのです。
主イエスはこのような思い、考えに反対であったのです。主イエスは神から離れた人々、何の善いこともしていない人々、徴税人、罪人、そのような人々こそが神の国に入ることができると考え、共に食事をして交わりを深めたのです。ファリサイ派の人々は、そのような神の国を受け入れないのです。神に近づくことができるのは、良い行い、祈り、慈善、断食です。そのことによって神のもとに行くことができると考えています。自分が何をしているのか、そのことにだけ関心があるのです。
ファリサイ派の人々は、主イエスがもたらす神の支配を全く受け入れず、主イエスを排斥して、十字架に追いやるのです。神に最も近くで生活していると思い込んでいながら、最も神から遠いところにいるのです。善いことをしていると自己満足している、そこで神を追い出してしまっているのです。
自分が正しいと思うと、人を裁くのです。裁き合いがはじまるのです。そのような信仰は健康とはいえず、健全とはいえないのです。
主イエスは「ヘロデのパン種によく、気をつけなさい」といわれました。ヘロデはユダヤ地方の領主です。ヘロデは預言者バプテスマのヨハネが正しい人であることを知っていながら、自分のメンツ、地位を考えて、ヨハネを殺してしまうのです。ヘロデは自分がこの地方の領主としての地位を確保するために賄賂をロ−マ皇帝に送り、自分に反対する人を殺しています。自分の欲しいものはどんな手段を使っても手に入れたといわれているのです。自分の実の兄の妻であっても欲しいと思えば横取りして自分の妻にしてしまうのです。この世の中を上手に生きて行こうとする、うまく世渡りすることを第一に考えるのです。世の中というのはこういうふうに上手に渡っていけば、安泰に豊かに生きることができる、そのように考えた人々の代表です。
主イエスは「ヘロデのパン種」、それはこの世を渡って行く、自分中心に生きて行く、そのようなあり方です。神様など必要がないと思っているのです。今の生活が楽しく、便利で快適で、経済的に豊かな生活をするだけのお金があれば良いと思っているのです。そのような思いが神に背いていることであることすら分からないのです。
現代は物質的には恵まれていて、ものに不自由することはないのです。しかし、人間として真剣に生きるということを考えているかというとそうではないのです。主イエスは「ヘロデのパン種に気をつけなさい」と警告しています。世俗的なものに価値を置く、生き方、世俗的な生き方に主イエスは警告しているのです。今の時を刹那的に生きて行く、今が楽しければ良いとする享楽的な生き方に対して警告しています。世俗的な生き方に反対の生き方は、いつも神に心を向けた生き方です。神が私たちの歩みを審判する、そのことを心に留めながら、過ごしていくことです。世俗的なものに価値を置いて過ごすのではなく、常に神に心を向けて過ごすのです。
弟子たちは肉体を養うパンが一つしかないことに関心を寄せて、これからどうしようかと考えていたのです。しかし、主イエスはそれよりももっと大切なことがあるというのです。主イエスは弟子たちに「まだ分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があって見えないのか。覚えていないのか。」といわれました。私が二度もパンの奇跡をした時に、あなたがたは、一体何を体験したのか、何を見たのか、何を聞いたのかと尋ねておられるのです。そして主イエス御自身、わたしの姿が見えなくなっているのではないか、というのです。
一体、弟子たちは何を見損なったのか。何を聞き損なったのか。8章19−20節で主イエスはパンの奇跡のことを思い起こさせようとして、弟子たちに質問しています。パンの奇跡があった時に、残って余ったパンの数を尋ねています。なぜ、余ったパンの数をわざわざ尋ねたのでしょうか。
もう一度、主イエスがなさったパンの奇跡の物語を読み返してみますと、群衆を見て「群衆がかわいそうだ。」と主イエスが言われたところから、この物語が始まっていることが分かります。
「かわいそうだ」という言葉は、お腹が痛くなる、胸が痛くなるほどの肉体の痛みを伴う同情のこころを示すものです。 この言葉は旧約聖書では、ヘセドという言葉です。元々、「胎、子宮」を指す言葉です。母親が子どもを条件抜きで愛する、その愛を表す言葉なのです。神は母親以上に、私たちを愛するのです。イザヤ書49章15節にこのように記されています。「女が自分の産んだ子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」(p1143)
そしてこの「かわいそうだ」という言葉はイエス・キリストの激しい愛を語るときにだけ使われる言葉です。群衆が空腹であることを自分の痛みとして自分のからだで受け止める、そういう言葉です。口語訳では「憐れむ」と訳しています。主イエスの憐れみの心、肉体の痛みが伴うほどに同情する心、その愛が空腹の人々に豊かにパンを施すことになるのです。
弟子たちはパンのことに心を奪われて、主イエス・キリストのみこころを理解しなかったのです。主イエス・キリストのみこころを見失ってしまったのです。神の憐れみが見えなくなってしまったのです。神の憐れみによってそこにいた大勢の人々が腹一杯に食べて満腹しただけでなく、たくさんのパン屑が余ったのです。神の憐れみはとても大きいのです。主イエスはこの神の憐れみを見て欲しい、理解してほしい、悟ってほしいと願っているのです。
誰が見てもその人が宗教的な行いをしている、そのことが分かる、外見の、見えるところで自分の存在を主張するあり方ではなく、また、反対に自分のためにこの世の中をうまく渡っていくそのようなあり方でもない、生き方を主イエスは私たちに求めているのです。
それは、自分を中心に生きて行く、生き方ではなく、神が私たちの罪を赦し、愛して下さる、その恵みに感謝するあり方なのです。
本日の礼拝で旧約聖書・詩編103編1−6節を読みました。詩編103編2−5節をお読みします。「わたしの魂よ。主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 長らえる限り良いものに満ちたらせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。」(p940)
目には見えないけれども、神が確かに私たちを深く愛してくださる、そこに私たちは確かな根拠を置いて、生きていくのです。
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20160207 主日礼拝説教 「あなたの心が開かれる」 山ノ下恭二 |
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(詩編51編12−19節、マルコによる福音書7章31−37節)
聖学院大学は障がいを持った学生を広く受け入れている大学です。障がいを持っている学生を広く受け入れていることはとても大切なことです。障がいを持っている学生が学校に適応し、学んでいくことには、様々なハ−ドルを乗り越えていかなければなりません。ある車椅子で通う学生を見かけたことがありますが、母親が車で送り迎えをしていました。教室を移動するにもかなり時間がかかります。エレベーターのない学校の建物がありますので、車椅子の学生を他の学生が持ち上げているのを見たことがあります。
7年前になりますが、私は全く耳が聞こえない学生を授業で受け持ちました。春学期の授業を開始する前に、学生課から聴覚障がいの学生のために、配慮をして欲しいと言う文書が届きました。この学生は耳が全く聞こえないのですが、口の開け方、口の動きによって言葉を読み取ることができるので、大きく口を開けて、はっきりと話して欲しいと書いてありました。
耳の不自由な人が、よく手話で会話をしているのを見かけますが、手話ではなく、相手の口の動きで言葉を読み取る、「口話法」があります。
「口話法」を私は以前から知っていました。なぜかと言うと、私の、はとこが二人、聾唖者であって、日本聾唖学校に通っていて、この学校で「口話法」を学んでいたからです。かつてライシャワーと言う駐日アメリカ大使がいましたが、この日本聾唖学校は、その父親が昔、宣教師として日本で伝道していて娘さんが聾唖者でキリスト教学校で日本で唯一の私立の聾唖学校を創立しました。私の母のいとこが町田にある日本聾唖学校の校長を長くしていて、聾唖学校で「口話法」を教えていることを知っていました。
先ほど聴覚障がいの学生を授業で受け持つことになったと言いましたが、春学期の初めの授業で出席者の名前を読み上げる時に、この学生の時には、なるべくこの学生に向かって、大きく口を開けて名前を読むと「ハイ」と返事があり、私の口の動きで言葉を読み取ることが分かりました。黒板にチョ−クで書く時に、黒板に向かいながら、話すことがあるので、そうするとこの学生は分からないので、黒板に書いている時には、話さないように気を付けるようにしました。この学生に授業の内容を書いたレジュメを渡すようにしました。この学生はとても誠実に授業を受けていたので、良い成績でした。
耳が聞こえない、と言うことは、相手の話が聞こえない、と言うことだけではなくて、音が聞こえないのですから、自分も相手の言葉に応答できないのです。会話ができないのです。相手と話し合うことができない、コミュニケーションが取れないのです。これは毎日の生活に支障を来たすことになります。人間と言う漢字は人と人との間と書く、とよく言われますが、会話をし、話し合うことによって自分と相手とがつながるのです。そして会話によって相手との関係を作ることができるのです。私たちは一人で生きているのではなく、相手との関係の中で生きて行く存在であり、相手と話すことによって、自分の存在を確認することができるのです。
本日の礼拝で、私たちに与えられているみことばは、マルコによる福音書7章31節−37節のところです。主イエスが一人の耳と口が不自由な人を癒しました。まことに印象的な方法で癒やしてくださったのです。その出来事が記されています。
7章31節に「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」と書かれています。ティルスで主イエスはギリシャ人の女性に会われました。そしてこの女性の信仰に主イエスが動かされてしまうと言う経験をなさったのです。 主イエスはご自身の救いの範囲をユダヤ人の間に限定していました。そのことをはっきりとこの女性にお語りになったのです。だから、今、あなたを助けるわけにはいかないと主イエスは語ります。しかし、そういう主イエスをこの女性は動かしてしまったのです。主イエス御自身が、この人を助けないわけにはかないところにまで追い込まれてしまったのです。主イエスはこの女性の信仰に深く心を動かされ、その願いを聞かれるのです。おそらく、主イエスにとって忘れられない体験でありました。そのようなところを去って、主イエスはガリラヤ湖に戻られたのです。
「人々は耳が聞こえず、舌が回らない人を連れてきて、その上に手を置いてくださるようにと願った。」この人がユダヤ人であったか、異邦人であったのか、明らかにされていません。主イエスのところに連れられてきます。耳が聞こえない人です。言葉も不自由であったと言うことは、生まれつき聞こえなかったことを示しています。この人は自分で来たのではありません。連れられてきたのです。音がある世界を知らない人です。しかし、そのことを悲しんでいた、癒やされたい、と願っていたのではありません。むしろ、この人の現実を悲しみ、何とかしてやりたいと思っていたのはこの人の周りの人々です。音がある世界を知らないと言うのは、言葉も知らないのです。言葉というものが私たちに与えてくれる広く豊かな世界を知らないと言うことです。
ある時、テレビに聴覚障がいの赤ちゃんを持った両親が出て来て、生まれて何ヶ月か経過して、話しかけても反応がないので、不思議に思って、検査をしたところ、聴覚障がいを持っていることが分かったそうです。何とか、音や言葉が聞こえる広く豊かな世界を経験させたい、と願っていると話したことに私は深い印象を持ちました。
私たちは生まれて母親の語りかける言葉を聞きます。母親の膝に座って絵本や童話を読んでもらい、感動したり、心がときめくのです。そのような経験によって多くの言葉を持ち、言葉が持っている響き、豊かさ、楽しさを獲得し、自分で言葉を語るようになるのです。言葉の持っている広く豊かな世界を知らないで、この人は人生を終わってしまうのです。この人の周りにいる人々はそれを何とかしてやりたいと思ったに違いないのです。そこで、主イエスなら治してくれるだろうと期待して、この人を主イエスのもとに連れてきたのです。
多くの人々は、耳が聞こえるし、言葉を通して相手と話すことができます。しかし、ほんとうに相手との会話がうまくできているかと言うとそうでもないのです。自分の言葉が相手に通じていない、相手にきちんと自分の言葉が届いていないのです。大学生がどのようなコミュニケーションを持っているのか、調査があり、スマホばかりしていて、目の前にいる人と話すことが少ないそうです。会話が少なくなっているのです。スマホ全盛で、自分以外の人と豊かなコミュニケーションを持たない、自分以外の人と対面して相手の言葉を聞き、自分の思いや気持ちや意見を話す機会を失っているのです。そこでは相手の心を受け取る感受性も持たず、相手が自分のことをどのように思っているかも知ることもないのです。相手にどのように話して良いのかも分からないのです。自分の世界に閉じこもっているのです。聴く耳を持ちながら、相手の言葉を聞くことがないのです。
私たちは耳が聞こえるし、自分の口で言葉を語ることができるので、この話とは自分たちは関係がないと思うかも知れません。主イエスのもとに連れてこられた耳が聞こえない、口が不自由で言葉を失っている人とは私たちにどのような人のことを語ろうとしているのでしょうか。
耳が聞こえない、言葉を出して話すことができないと言うことは深い意味を持っているのです。それは神の言葉を聞くことができないことを示しており、神の言葉を聞くことができないので、神の言葉に応答することができないことを意味しているのです。
私たちはいつもいろいろな音、言葉を聞いています。他の人の話を聞いています。テレビのコマーシャルを聴いています。クラシック音楽、ジャズ、などの音楽を聴いています。それで満足しているかも知れません。
しかし、神が語る本当の話を聞いているのだろうか、と言うことです。私たちは、いつも話をしています。事務的な話、うわさ話、自分の思いを伝える話、自分の悩みを話す話、を話しています。しかし神の言葉を聞いて、答えるような言葉をもっているのでしょうか。
高橋たか子と言う作家がおりました。この人の夫は高橋和巳と言う作家で、私は大学生の時に高橋和巳の「邪宗門」と言う小説を読んだことがあり、後にこの人の妻であった高橋たか子が、作家として作品を書いていることを知りました。カトリック教会に入信したのですが、この人が「神の飛び火」と言う作品を書いています。この人は、真実の言葉は何かを問うてきた作家です。最初は作家として出発しましたが、カトリック教会の信徒として、信仰祈り、黙想の世界に入り、自分が作家よりも修道女であると自覚していると書いています。「本当の話とは何だろうと自問するわたしは、実は本当の話がしたくてたまらないのです。わたしは若い頃から文学の環境にどっぷりつかって生きてきました。そこで言われる話が、世間で言われる話に比べて本当の話だと、ある年齢まで思い込んでいました。ところがだんだん息苦しさを覚えるようになりました。そして、あげくのはてには、呼吸もできなくなってきました。文学の好きな人たちは、何と嘘つきな人たちなのでしょう。文学の環境では、嘘だけが呼吸され、珍重され、快楽されています。ここで言う嘘とは、いわゆる嘘のことではなく、『本当の話』ではない話のことです。それは、自我の話のことです。『本当の話』ではない話のことです。それは自我の話なのです。みんな自我だけを語っています。いえ自我だけを叫んでいます。本当の話とは何でしょう。それは『神との本当の話』『本当の話』神に出会うような、そんな話のことですね。」
本当の話とは、自分のことを語る話ではなく、神と出会うような話だと言うのです。この人は自分の言葉の嘘に気づいたのです。それは語ることが自我の話であり、自分のことを語ることこそ、不真実な話であることに気づいたのです。そして神と向き合って、自分の不真実が明らかになるのです。自分のことを語っていることが本当の話ではなくて、神を知る時に、神からの光を受け、神からの語りかけを聴く時に、閉じこもっていた私たちの世界が開かれていくのです。
ルカによる福音書にザアカイの物語があります。人々から法外な通行税を取り立てて、その税金の一部を自分の懐に入れて金儲けをしていたのです。しかし、だれもザアカイに声をかけたり、話す人はいませんでした。そこに主イエスが通り掛かり、ザアカイに声を掛け、ザアカイの家に泊まって友になったのです。ザアカイは、自我、自分のことに拘っていました。しかし、主イエスは彼に声を掛け、ザアカイはその世界が広がっていきました。自分のことに関心を持つのではなく、神と隣人に関心を持ち、神と人々に仕える者となったのです。
耳が聞こえない、と言うのは、神の言葉を聞くことができないことです。神の言葉を聞かないから、自分のことを話しているだけなのです。
「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エファタ』と言われた。これは『開けよ』という意味である。」
主イエスは、この人を群衆の中から連れ出されたのです。人々から離れて、主イエスの前にこの人が立ちました。耳が開かれていない人が、開かれていない世界を代表して主イエスの前に立つのです。この世界は、神の言葉を神の言葉として聞くことができない世界です。そのことの故に、神のみこころを受け止めることのできない世界です。自分のことのみに関心を寄せ、自分のために生きる、そのような世界です。
今、主イエスはその世界に立ち向かうのです。指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れるのです。体と体が触れ合うのです。全身をぶつけるようにして、主イエスはこの人の前に立つのです。
天を仰ぐ、これは、主イエスの祈りの姿勢です。「天を仰ぐ」、この言葉は、本来「うめく」と言う意味です。苦しみ、悶えて出すうめきです。この人のうめきを主イエスが代わってうめくのです。主イエスは天を仰ぎ、うめくように祈ったのです。この人の耳が開かれることを主イエスが祈ったのです。それから向き直って、声を出されたのです。「エファタ」「開けよ」。そしてこの人の耳が開かれるのです。「エファタ」「開けよ」。耳が聞こえないために、言葉のない、孤独な世界に生きてきた者が、主イエスによって言葉をこの耳で聞くことができ、自分の言葉をもって相手と話すことができる、そのような新しい、豊かな世界に入ることができたのです。
私たちは、自分のために生き、自分のことしか関心をもたず、自分の中に自分を閉じ込めているのです。その者に対して主イエスがその心を開かせ、あなたのために死んだ、あなたの罪のために、その贖いとして死んだ、と語るのです。その愛の知らせ、愛の呼びかけを受け入れた時に、神の世界が開かれてくるのです。
主イエスが「エファタ」「開けよ」と言って下さるのです。そのような経験を私たちは経験しているのです。ある人は自分の家で聖書を読んでいるけれども、どうも理解できないので、教会に行きだした、3ヶ月通ったけれども、よく分からないのです。ある時、説教を聴いていたところ、自分に向かって語られているように思った、そして説教を聴き続けて行くうちに、自分のために主イエスが死んで犠牲をささげてくれたことがだんだん自分の中ではっきりしてきたのです。礼拝の説教が終わった後に思わず、「感謝」と言う言葉が出たと言う話を聞いたことがあります。
それまで、この人の心の耳が聞こえないでいたのです。ところが、この人は神のことばを聴いて、それが自分に向けられた言葉として聴くことができたのです。説教の言葉が外国の言葉のように全く意味の分からない言葉でしかなかったのです。相手は話しているのですが、自分には聞こえない、自分には言葉が届かないのです。しかし、今やそうではないのです。神が、イエス・キリストによって自分を深く愛してくださることを心の深いところで受け入れることができたのです。後から考えてみると、このように神の愛が分かったのは、神が私たちの心を開けてくださったからです。主イエスは「エファタ」「開けよ」と私たちに言われます。
私たちは神の愛を受け入れ、神に対して私たちの心が開かれているのです。このような神との関わりに生きる者は、感謝と讃美の言葉を持つことができるのです。この人の耳は、主イエスの言葉によって開かれるのです。舌のもつれも解けて、はっきり話すことができたのです。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」人々はそう言って主イエスの御業を賞賛したのです。
神によって私たちの心が開かれて、イエス・キリストによる神の愛を受け入れ、このようにして神のみことばを聞くことができる、そのことを感謝したいのです。
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20160131 主日礼拝説教 「キリストの恵みにあずかろう」 山ノ下恭二 |
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(出エジプト記24章1−8節、マタイによる福音書26章26−30節、ハイデルベルク信仰問答・問65−68)
私が高校2年生の時に経験したことですが、ある時、高校の図書館で一人の同級生と会いました。その同級生は、私が教会に通っていることを知っていてこう言ったのです。「神なんているはずないのに、いない神をどうして信じているのだ。全く分かんないよ」と言うのです。それに対して「神はいるよ」と答えたのです。この同級生は自然科学に関心を持っていて、数学や物理の成績が良い生徒でした。私の答えに納得できないようで「神がいると言うならば証明して見せろ」と言うので、とても困り「証明はできない」と答えて、互いに気まずくなり、そこで会話は終わってしまいました。この時から、私は神がいることを証明するとはどうすれば良いのか、を考えるようになりました。
前におりました東大宮教会は、駅から近く、電車から教会堂が見えるので、教会を訪ねてくる人も多かったのです。ある時、1人の女性が訪ねて来て「教会の中を見たいと言われたので、礼拝堂の中を案内しました。礼拝堂の中をさぁっと見渡してこう言うことを言いました。「何にもないのね。」と言われたのです。この女性はマリアの像やキリストの絵画を見ることができると期待して教会を訪ねたのではないかと思います。礼拝堂の中には講壇と椅子しかないし、マリアの像やキリストの絵画はありません。そして帰りがけに「神様ってどこにいるんですか」と言って帰ったのです。
教会堂の中はどのようになっているのか、礼拝は何をするのか、と思って教会を訪ねる人がいます。12月にこの教会に初めて来て、礼拝に出席することが初めてだと言う人に、礼拝前に挨拶しましたら、とても緊張しています、と言っていました。長く教会に来ている方は慣れていますが、初めて礼拝に出席する人は、これから何がはじまるのか分からないので不安です。同じ教会と言っても礼拝の作法が違います。礼拝の献金の時に立つと言う作法は私は初めての経験ですから、私が初めてこの教会に出席した時はとても戸惑いました。皆さんが周りの人に気を使ってくださって余り戸惑うことがないようにして戴きたいのです。
今日、皆さんは先ほどの女性のように、礼拝堂を見学に来たわけでもなく、神様を捜しに探検に来たわけでもないでしょう。皆さんは、私は礼拝に来たのです、と言うと思います。礼拝をしに教会に来たことは間違いがないと思います。
先ほどの二つの話に戻ると、神を見せてくれ、神はどこにいるのか、と言うのはこの礼拝と深くつながっています。神を見せてほしい、神はどこにいるのか、と言う問いは私たちにとって根本的な問いです。
礼拝において、わたしたちは神と対面し、神とお会いします。そして神と対話する、それが礼拝だと言って良いのです。今日、皆さんは、この教会に来て、玄関で挨拶を交わし、互いに話したと思います。「昨日は雪が降ると天気予報では言っていたけれども、雪が降らなくて良かったですね」「寒いですね」「お元気ですか」そのような挨拶だけではなくて、互いにいろいろ話しています。互いに言葉を交わしながら、互いに親しくなって、心が通うようになって行きます。互いに自分の気持ちを出しながら、相手の気持ちや立場を理解して、互いに関係を深めて行くのです。互いにたくさん話し合って、コミュニケ−ションを豊かなものにすることが、良い関係を作って行くことにつながります。
この礼拝堂には、神らしき像やキリストの絵はありません。しかし、教会には神の言葉であるテキストを持っています。それが聖書です。そしてこの礼拝で聖書が読まれ、説教が行われます。説教のテキストである聖書が読まれ、説教が語られます。聖書には、旧約聖書と新約聖書があります。旧約聖書では預言者たちが神から聞いたことを記しています。神がこう言うことを語っていると記しています。新約聖書では主イエス・キリストが語り、なさったことを見た使徒たちが、自分たちがイエス・キリストを直接に見たことを記しています。聖書は神はいるんだ、ということを証明しているのではなく、神からこういうふうに聞いた、イエス・キリストはこういうこことをなさった、そのことを見た、とその経験を語っているのです。聖書は神がいることを証明しているのではなく、神が語り、自分たちは聞いた、イエス・キリストがなさったことを見た、そのことを証言しているのです。聖書が、神を、キリストを証言しているのですから、神を証明する必要はありません。
聖書は証言集です。裁判所の法廷で、事件について自分はこういうことを聞いた、ここにいるところを見た、と証言しますが、神がこう語った、イエス・キリストがこういうことを語り、行ったことを見た、そのことを証言しているのが、聖書です。聖書は元々、教会の人々が集まっている礼拝で会衆に向けて、語られるために書かれたものです。私たちは聖書と説教と分けて考えますが、パウロが書いた手紙そのものが説教であったのです。個人として聖書を読みたい、どんなことが書いてあるのか、家で読んでいる、それが本来の読み方ではなくて、最初の教会は教会の礼拝で福音書、手紙と言う説教を聴いたのです。聖書は教会がまとめたものです。教会の礼拝で読まれてきたものです。この礼拝で聖書の言葉に基礎をおいて、教会は説教が語られるのです。
現在の教会の礼拝順序では聖書朗読と説教とは別れています。週報を見ると聖書と書かれていて、今日の聖書箇所が読まれ、祈りがなされ、讃美歌を歌い、その後に、説教があります。宗教改革者カルヴァンの礼拝順序によれば、聖書朗読がなくて、説教としか書いていないのです。説教のはじめに説教者が聖書を読んで、すぐに説教になっています。岡山の蕃山町教会の礼拝順序では、聖書を説教者が読み、すぐに、説教を始めています。東京神学大学の大学礼拝も聖書を読んで、すぐに説教を始めます。ある礼拝式文では、聖書朗読の時に、「神の言葉を聞きなさい」と書いてあります。聖書を読むのではなくて、聞くのです。
礼拝で肝心なことは語るのを聞くことです。聖書が今の私たちに何を語っているのか、それを聞くことです。語りかける、それは人格的なことです。雪ノ下カテキズムに加藤常昭教師が、「説教」について詳しく書いています。問43に、聖書があれば、十分ではないか、「それなのに、なぜ教会の言葉を聞かなければならないのですか。」とあります。この問いに対して、答えています。少し長いですが引用します。「聖書そのものが既に教会の言葉であります。イエス・キリストを証しする教会の宣教の戦いのために語られ、記録された言葉です。教会が聖書を編集し、これを正典として、自分の語る言葉の真理基準としたのは、真理を伝えようとする当然のなすべきことでありました。そして、その聖書の言葉を、教会が立てた説教者が、今ここにおける真理の言葉として解釈し、常に新しく語り直し、語り継ぐとき、今ここにおける神の言葉が、このわたしにも聴こえてくるのです。」説教は説教者を通して、今、生きている私たちに神が語っているのだ、と言うのです。説教は単に聖書の話ではないのです。今日の話は良い話であった、今日の話はピンとこなかったと言うけれども、講演会の話ではないし、聖書の話ではないのです。
パウロはテサロニケの教会で説教した時、説教を聴いた人々が、人間の言葉としてではなく、神がまさに語っておられると受け止めて聞いてくれたことに感謝しています。テサロニケの信徒への手紙一 2章13節「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(新約p375)
説教を人間的なレベルで受け止めることが多いのです。説教を人の話として受け止め、今日の話はおもしろかった、つまらなかった、ためになった、元気になった、元気にならなかったと受け止めて、説教の善し悪しを判断します。しかし、信仰において神が自分に語りかけていると受け止めて、謙遜に説教を聴き、悔い改めが起こり、主に従っていく、それが説教の正しい聴き方です。
説教で語ることは一つのことです。その時に読まれる聖書の箇所、説教のテキストはその時々で異なり、様々な語り方をします。そうなるとその時の説教の主題も異なって、様々なことを語っているように思えますが、語ることは一つのことです。わたしたちは説教を聴くとき、私たちの生き方が問われます。先週、私たちは神を愛し、人を愛して来たでしょうか。自分中心で自分のことばかり追い求め、自分のことにだけ気を使っていたのではないでしょうか。神の前に恥ずかしくて、神の御前に出る資格はないのです。そのような者を神はイエス・キリストによって裁き、私たちの罪を罰して、私たちはそれによって神に罰せられないのです。神はイエス・キリストによって私たちを赦してくださるのです。説教とは「イエス・キリスト」を紹介することです。イエス・キリストは私たちの深い罪が赦されるために、神の罰を受け、十字架で死んでくださったのです。そのことを説教者は語りかけるのです。神などいない、自分が中心だ、神に背を向けて、自分のことばかり追い求めている、そのような者を赦して受け入れてくださる。そのことを説教は語るのです。
教会の塔の上に、この講壇の上に十字架が掲げられています。それは十字架で死んだイエス・キリスト、教会はその愛のしるしを十字架によって表すのです。十字架が教会の塔の上にあり、礼拝堂にも掲げられているは、十字架が教会の語るべき中心であるからです。説教と言う行為によって、十字架の福音が語られ、心の中に信仰が生まれるのです。
説教によって信仰が起こるのは、聖霊によることです。ハイデルベルク信仰問答・問65では、「聖霊が、わたしたちの心に 聖なる説教を通してそれを起こし」と答えています。説教の言葉を聞いて、自分の罪のためにイエス・キリストが十字架について自分の代わりに、罪の裁きを引き受け、償ってくださったと言う信仰が生まれ、現実のものとなります。その生まれた信仰の心をしっかりと堅くする、保証する、これは本物で間違いのないことを保証する、それが聖礼典です。
聖礼典、これはキリスト教会独特の用語です。英語などの外国語ではサクラメントと言います。説教と聖礼典は、教会の礼拝で行われます。神様がどのような方か、どんな神様か、神様にどうしたら会えるのか、それは教会に行ったら分かるのです。聖霊が説教を通して、信仰が生まれ、そして洗礼と聖餐と言う聖礼典によってわたしたちの心に生まれている信仰の心を確かなものとしてくださるのです。説教は見えない神の言葉、聖礼典は見える神の言葉、しるしです。聖礼典と言う言葉は、元々、ミュステリオン、秘密、秘儀です。信仰によってしか分からないことです。この聖礼典は、何を目的にしているのか。それは、わたしたちの信仰を、キリストの十字架の犠牲に目を向けさせるものです。洗礼は水によって罪を洗い落とすことを意味しています。水をかけてわたしたちの罪が洗い落とされ、罪人ではなく、神の前に正しい人だ、と言うことです。そして、聖餐は、わたしたちの罪を贖うために、主イエスご自身が肉を裂き、血を流すことをしてくださった、そのことをパンと杯によってそれを見て十字架の犠牲を思い起こすのです。説教は耳でキリストの十字架の福音を聞き、洗礼と聖餐は、目と舌によって十字架の犠牲になったキリストを味わうことができるのです。
聖礼典は「洗礼と聖餐」の二つだけです。ロ−マ・カトリック教会では、聖礼典と言わないで、「秘蹟」と言いますが、7つの秘蹟があります。洗礼と聖餐のほかに、堅信、結婚、叙階、告悔、終油、があります。しかし、プロテスタント教会は聖書が明白に書いてあり、キリストが定めた聖礼典は、洗礼と聖餐だけであると言う理由で、聖礼典を二つとしました。
聖礼典は「目に見える聖いしるし」です。「目に見える」と言うのは、説教が耳に聞こえるものであり、洗礼も聖餐も人々が目で見ているところで目に見えることとして行われます。聖餐も同じことです。ただ耳に聞こえる言葉だけでなくて、目に見えるしるしをもって、わたしたちにいっそうよく分からせてくださるのです。
母親が子どもを大切にしている、それは言葉だけでは伝わらないのです。「お前はとても大切な子どもだよ」と言葉をかけても、何も構わないし、何もしてくれなかったら、言葉だけではないか、本当は自分を大切だなんて、うそだ、と思うでしょう。子どもが親にネグレクトされるととても傷つきます。しかし、「お前は大切な子どもだ」と言うだけではなくて、心の籠もったおいしい料理を作ってくれる、必要なものを用意し、誕生日にはお祝いをしてくれる、帰りが遅い時には、心配して捜してくれる、母親のその行動によって親が自分を愛してくれていることが分かるのです。プロ野球のヤクルトスワローズに栗山英樹と言う選手がいました。今は別の球団の監督をしているようですが、ヤクルトに入団して一軍に上がってから、病気になってしまったのです。メヌエル氏病と言う難病になって入院したのです。野球選手としてはやっていけないことになったのです。栗山選手は難病を克服して復帰して立派な成績を納めたとのことです。この栗山選手が母校で講演をした後に「病気になったときの心の支えは何であったか」と言う質問に答えて、「それは母親が、代わってやりたい」と言って泣いたと時に、自分はこの病気を絶対に治さなくてはならない、と思ったと答えたと言うのです。母親は身代わりになってあげたいと願って泣いた、その時に、生きなければならないと言う思いになるのです。
説教だけではなく、洗礼と聖餐によって、神がわたしたちのための神となってくださることが明らかになるのです。説教も聖礼典も、わたしたちの罪のためにキリストが身代わりになり、犠牲をささげてくださった、そのことをわたしたちに伝えようとしているのです。
わたしたちプロテスタント教会の聖餐の理解とロ−マ・カトリック教会の聖餐の理解と異なっています。カトリック教会では、ミサと言いますが、教会によってキリストの犠牲を繰り返し献げ直すことであると言う理解です。わたしたちはキリストが十字架で犠牲を献げたのは、一回限りであり、聖餐はそのことを想起し、恵みとして戴くのですが、カトリック教会では、ミサをする度に、キリストを犠牲として献げると理解し、聖なる変化によって、パンがキリストの肉体そのものになり、杯(ぶどう酒)がキリストの血そのものになる、それを戴くと言うのです。キリストの肉体そのもの、キリストの血そのもの、を戴くのですから、それはキリストの聖なる体(御聖体)に預かることになるのです。キリストの血をこぼすことがあるので、信徒はパンのみを戴くのです。洗礼と聖餐以外にも、教会には大切なことがあると言うと、わたしたちの目が十字架に向かわなくなるのです。
わたしたちの罪が赦されるためにキリストが一度だけ死んでくださった、そのことに思いを集中することが大切なのです。説教も洗礼も聖餐もイエス・キリストが十字架で犠牲をささげて、わたしたちを深く愛してくださる、そのことを語り、見せるのです。洗礼を受ける、それはあなたは罪人ではないと太鼓判を押されることなのです。自分は悪いことをした罪人だ、と思っていても、あなたは罪人ではない、神に赦された者だ、と外側から印鑑を押されるようなものです。洗礼を受けた者が集まってパンと杯(ぶどう酒)を分けて戴き、食するのです。そのことによって神に限りなく赦されている経験をするのです。自分の過去の罪に悩むことはないのです。
礼拝は神との人格的な関係をもちながら、愛の交わりが与えられるのです。説教によって神が愛と赦しの言葉をわたしたちに語りかけ、神の愛を深く見ることができるように、洗礼と聖餐を与えて下さるのです。
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20160124 主日礼拝説教 「終わりをどう生きるか」 小友 聡(中村町教会牧師、東京神学大学教授) |
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(ハバクク書3章17-19節、ルカ福音書16章1-9節)
今日は講壇交換礼拝で、中村町教会から私が参りました。中村町教会では今、山ノ下先生が説教をしてくださっています。それでは、皆さんと共に聖書の御言葉に聞きましょう。
ルカによる福音書の中に「不正な管理人のたとえ」というとても不思議な喩え話があります。主イエスが語られた、こういう喩え話です。
ある大金持ちの財産を管理する管理人がおりました。この管理人は、主人から一切を任されていました。しかし、任されているのをいいことに、彼はいいかげんな管理をしていました。こういうことは、今の時代にも結構ありそうなことです。さて、そうこうするうちに、この管理人は主人の財産を無駄使いしていることが知られてしまいました。内部告発があったのです。彼は主人に呼びつけられました。主人ははっきり言いました。「お前について、よからぬことを聞いている。それはほんとうなのか。さあ、会計報告を出しなさい。お前にはもう財産の管理を任せておくわけにはいかない」と。
これを聞いて、管理人は窮地に立たされ、とっさに考えました。どうしよう。私は主人から首を切られようとしている。職を失ったらどうなるか。土を掘る労働をするには体力はないし、町で物乞いするのは恥ずかしい。彼は真剣に悩み、こう考えた。「よし、こうしよう。この管理の仕事を失っても、この私を家に迎えてくれるような者たちを作ればよいのだ」と。
管理人はいったい何を考えたでしょうか。彼は、主人から金を借りている人々を呼んで、負債証書を持って来させました。「お前は私の主人からいくら借りているのか」。「はい、油100バトスです」。1バトスは23リットルですから、100バトスは2300リットル、相当な量の油です。「そうか、では、急いで、この証書を50バトスに書き直しなさい」。次の人にも言いました。「お前はいくら借りているのか」。「小麦100コロスです」。1コロスは230リットルですから、100コロスは23000リットル、これもかなりの量です。「そうか、では、80コロスと書き直しなさい」。こうやって、管理人は、とんでもない不正をやりました。
ところがです。それを知った主人はなんと、この管理人の抜け目のないやり方を褒めたのです。この喩え話を語った主イエスはこう言われました。8-9節です。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
この喩え話。主イエスがお語りになった有名な喩えです。けれども、これはいったいどういう意味なのか、読んだだけでは私たちにはさっぱりわかりません。わからないというだけでなく、どう考えてもおかしい。なにしろ、主イエスは「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言われているからです。不正を奨励するこんなめちゃくちゃな話があるでしょうか。管理人は不正を犯して、首を切られる寸前。仕事を失い露頭に迷う前に、さらに不正を行い、主人に損失を与えたのです。それなのに、あろうことか、主人はこの管理人を誉め、それどころか、主イエスは弟子たちに向かって「不正にまみれた富で友達を作れ」と奨励しているのです。
「不正にまみれた富で友達を作れ」ということは、不正をして富を築くことを認め、また、そういう汚れたお金で友人を作ることを奨励している、ということです。こういうことが聖書の中に書かれてあるとは、驚愕です。しかも、これは、主イエス御自身が弟子たちに言われているのです。これをいったいどう説明したらよいでしょうか。今日のこの喩え話は、福音書を読む時に、誰もが頭を悩ます、最も解釈が難しい喩え話です。この喩えが聖書にあるのはひょっとして何かの間違いであるかも知れない、躓かないように、読み飛ばして、封印しておこう、ということもできるかも知れません。なにしろ異常です。不正を褒めるというのは、どう考えても異常です。
けれども、この異常ということに、目を向けたいと思います。この喩え話は、通常では考えられないことです。注目しなけばならないのは、この喩え話が何を喩えているのか、何について語っているか、ということです。大事なのは、この「不正な管理人」の喩え話の前には、実は放蕩息子の喩えがあるということです。また、放蕩息子の喩えの前には無くした銀貨と見失った羊の喩えがあります。どちらも「天に大きな喜びがある」という言葉で終わり、神の国の喩えだということがわかります。さらにまた、この「不正な管理人」の喩えの後には、「律法と神の国」「金持ちとラザロ」の喩えがあります。いずれも、やがて来る神の国について語られています。金持ちとラザロの話は、明らかに死後の裁きの話です。
つまり、この「不正な管理人」の喩えは、終末の日、最後の裁きの日を前にした喩え話だと言うことがわかります。管理人が主人に呼びつけられるということは、終末の日の到来をほのめかしています。いずれにせよ、大事なことは、その終末の日の到来を前にして、この管理人がどのように振舞い、どのように行動したか、ということです。管理人は終末を前にして、もうだめだと諦めることをしません。不正を暴かれ、職を失ったら、生きていたって仕様がない、早く死にたい、などとは決して考えませんでした。それどころか、終末を前にして、彼は負債を抱える者の負担を減らそうとしました。それはもちろん自分に利益が帰って来るからです。しかし、それについて、聖書では「自分を家に迎えてくれるような者たちを作れ」と書かれています。「家」とは神の国をほのめかします。9節にも「あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と書いてあります。不正な管理人は、つまり神の国に迎えられるように、負債を抱える者たちを助ける行動をとった、と説明できるのではないでしょうか。おかしな喩え話ですが、終わりの日を前にして人はどう生きるべきか。そのことをこの喩えは教えているのではないでしょうか。不正にまみれた富で友達を作れ、とはその終わりの日の行動を促していたのです。
終わりをどう生きるか。それが、この不思議な喩えが教えてくれることです。私たちは終わりをどう生きるでしょうか。普段、通常では私たちはそんなことを考えることはないかも知れません。けれども、終わりを意識せざるをえない時があります。その終わりを前にしたならば、今この時をどう生きるか。これは聖書が私たちに問うことです。人は誰でも終わりを迎える時が来ます。不正な管理人が突然、主人の前に呼び出されるように、私たちも主の前に立たされる終わりの時が来ます。終わりを前に、私たちはどう生きるでしょうか。
黒沢明の映画「生きる」を思い出します。ある無気力な役人が、定年を前に突然、末期がんであることを知ってしまう、という映画です。自分の終わりを突き付けられて、役人はうろたえました。しかし、彼はどうしたか。住民が嘆願する公園建設の計画を彼は住民のために一心不乱に遂行するのです。それまで自分が面倒くさいと握りつぶしていた公園建設でした。彼はそれをやり始めたのです。そして、ついに完成した公園のブランコに乗り、彼は満面の笑顔でゴンドラの歌を歌い、人生を終えました。そういう映画です。これはまさしく聖書の例え話のメッセージに繋がるものではないでしょうか。
終わりをどう生きるかについて、さらに思い出されるエピソードがあります。それは、第二次世界大戦のさなか、ヨーロッパ世界が破局に向かっていた時代に、杉原千畝という外交官が取った行動です。昨年末にその映画が上映されましたから、御存じの方も多いと思います。杉原さんはリトアニアの日本領事館の外交官として、ナチスに追われる多くのユダヤ人のために免職覚悟で出国ビザを発給しました。外交官としてとんでもないことをした。けれども、6000人ものユダヤ人の命がそれによって救われました。すべての秩序が崩壊する破局の只中で、最後は国益を守る外交官としてではなく、掛け替えのない命を守る一人の人間として、いや、キリストに命を与えらた一人のクリスチャンとして、杉原さんは勇気ある行動を取りました。永遠の住まいに迎え入れてもらえるなら、不正にまみれた富で友達を作れ、ということは、このような行動をも指しているのではないかと思わせられます。
終末をどう生きるかということは、この私たちがキリスト者として、今日この日をどう生きるかということです。そのことを主イエスは今日の御言葉において私たちに問うておられるのです。大事なことは、私たちにいつ終わりの日が来ても、「忠実な僕よ、お前はよくやった」と主に喜んでもらえる生き方をするということです。今日のもう一つの聖書の箇所、ハバクク書3章はそのことを教えてくれます。ハバククは終わりの時に臨んで、持てるものをすべて失います。けれども、「わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」と言うのです。終末を前にして、たとえすべてを失っても、私たちは救いの主によって喜び踊ることができる。これが私たちキリスト者の生き方だと言えるのではないでしょうか。
ここに集まっている私たちは、それぞれたくさんの日常の務めを担っています。もし、この私たちに終わりが来るならば、今日をどう生きたらよいでしょうか。たとえ明日が終わりでも、今日、この日に悔いが残らないという生き方をしたいと思います。たとえ明日、終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える。キリスト者としてそういう究極の生き方をしようではありませんか。それが聖書を通して、今日、主が私たちに強く促しておられる生き方です。
祈りましょう。
父なる神様。
与えられたみ言葉のように、クリスチャンとして究極の生き方ができますように、主よ、どうか私たちを導いてください。牛込払方町教会のお一人おひとりを、主よ、どうか導いてください。たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日私はリンゴの木を植えよう、喜んで主のために、今日この日を使いつくす、そういう究極の生き方ができますように、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって、心から祈り願います。
アーメン
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20160110 主日礼拝説教 「主イエスを動かす信仰」 山ノ下恭二 |
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(ミカ書6章6−8節、マルコによる福音書7章24−30節)
私が東京神学大学で学んでいた時に、同級生に在日韓国人の朴米雄さんがいました。現在は、在日大韓キリスト教会福岡教会の牧師をしています。朴さんとは学生寮で部屋は違っていましたが、一緒にお茶を飲んで話す場面が多く、朴さんの生い立ちが次第に分かって来ました。朴さんの父親は韓国から戦前、日本に来て、日本人の女性と結婚して、そして朴さんが生まれたことが分かったのです。付き合ってみると日本語を話すし、特別に外国人と言う印象はありません。しかし、朴さんの生い立ちや今まで日本で暮らしてきた歴史を聴いて、父親がひどい仕打ちを受け、朴さんも小学校に入学してから、「朝鮮人」とみんなから言われていじめられてきたことを知りました。
私は高校卒業まで、外国人と言えば、宣教師、日本に観光に訪れる外国人しか知りませんでした。身近に外国人がいなかったので、日本に60万人も在日韓国人・朝鮮人がいることを知らなかったのです。朴さんと知り合って、在日の韓国人が苦しい状態に置かれていたことを知ったのです。
一級上に朴憲郁さんと言う在日韓国人がいて、親しくなり、在日の人々の置かれている状況を知りました。朴憲郁牧師は、現在、東京神学大学でキリスト教教育を教えています。朴さんと話すようになって、韓国人が日本にいるために、在留許可証を携帯しないといけないと言うことを知りました。そして税金は納めなければならないけれども、参政権を持っていないことも知りました。
私は、高校の日本史の授業の中で、近現代史で、日本が40年間、その当時の朝鮮を植民地支配をしていたことに触れることがなかったので、日本に韓国人がたくさんいることも知らなかったのです。特別な関心をもって自分で調べなければ、韓国と日本がどのような関係で来たのかは分からないのです。この二人の朴さんと知り合って、初めて自分とは違う背景を持ち、日本に住みながら、幼い頃から傷ついて、苦労してきた、苦悩してきた人々と出会ったのです。この二人の朴さんとの出会いにより、日本が植民地支配をしてきた歴史に関心をもち、このことに関係する本を読むようになったのです。
本日の礼拝でマルコによる福音書7章24−30節のみことばを読みました。主イエスはユダヤ人が住む地域から、外国人の住む地域、地方に入って行きました。そこに一人の無名の女性が主イエスのことを聞いて、ひれ伏したと書いてあります。この女性はやもめであり、やもめはこの時代は孤児と並んで最も弱い存在でした。人々の助けが必要な存在であると考えられたのです。
マルコによる福音書7章24節には「イエスは、そこを立ち去ってティルスの地方に行かれた」とあります。ティルスと言うところは、シリア・フェニキアと言う国の都であり、完全に外国人が住んでいるところです。この女性は、この土地に住んでいたギリシャ人でした。
主イエスはなぜ、異邦人が住むこの地域を訪れたのでしょうか。そのこと自体がすでに謎でありますが、7章24節に「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」と記されています。「人々に気づかれてしまった」と訳している言葉は口語訳では、「ご自身を隠すためであった」と言う訳で、口語訳のほうが、ギリシャ語の原文に忠実です。主イエスはここで一所懸命にご自身を隠そうとなさったのですけれども、それに失敗してしまったと書かれているのです。「隠す」「神がご自身を隠す」と言うこともまた、旧約聖書のなかにしばしば語られてきたことです。神様が見えなくなるのです。神様がおられないのではないかと思う、そのような不安を呼び起こすほどに、神のみ顔が見えなくなってしまうのです。神がご自身を隠されたことは、しばしば信仰の民に対する、「審判」「さばき」であると受け止められたのです。
主がご自身を隠そうとなさったこのことは、何を意味しているのでしょうか。それは、ご自身を取り巻く多くの人々に対する深い失望が潜んでいたと見ることもできます。主イエスが語っても、どうしても相手に言葉が通らない、いろいろな要求を持ってくる人々は多いけれども、主イエスのみこころを受け止めて、幼な子のようになって神の国を受け入れる者は少なかったのです。
しかし、ここでは、そのように隠れようとなさる主イエスを引き出してしまった人がすぐに出て来たのです。先ほど申しあげたひとりの女性です。ギリシャ人であったと書いています。この人は、ギリシャ生まれであったかどうかは分からないのですが、ギリシャ語を母国語としていると言う意味です。この女性は自分が住んでいるところにイエスという方が来てくださったことを知って、駆けつけて来たのです。
なぜ、主イエスがこの地方に来たことを聞いて駆けつけたのでしょうか。それは、自分の娘が「汚れた霊に取り憑かれていた」からです。何か恐ろしい病気に罹っていたのでしょう。汚れた霊のとりこになっているとしか、説明がつかないのです。母親のもとにいながら、母にはどうすることもできないでいるのです。まだ幼い娘であったけれども、その娘の苦しみを見るに耐えない思いがしてきたのです。このような娘を病から解放し、癒やしてくれるのは、ガリラヤでいま活躍しているイエスと言う方だけであることを知っていたのです。このイエスと言う方が来られた、飛んで行って、主イエスのもとに来て、その足もとにひれ伏したと書かれているので、主イエスに全身で癒やして欲しいとお願いしたのです。娘が病気から癒やされて、健やかに過ごすことを願い、その病苦からの解放をお願いしたのです。ここに一人の重荷を持った女性が存在するのです。
この女性の必死の願いにもかかわらず、主イエスは「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはならない。」と言われました。「子ども」と言うのは、ユダヤ人、イスラエルの人々のことです。主イエスはここで何を言おうとされたのでしょうか。主イエスは、自分が何よりも神の民イスラエルを救うために来た、イスラエルを救うために全力を挙げているのだと言われたのです。イスラエルの民に与えるべき自分の愛、自分の恵みをイスラエルの民に与えないで、「小犬」すなわち、イスラエルの民以外の人々に与えるわけにはいかないと言われたのです。ここでなぜ、「犬」と言う言葉を使っているのでしょうか。それは、この時代、ユダヤ人が外国人を軽蔑していたからです。注意してみると、「小犬」と主イエスは言っているのです。小犬と呼んでいるのは、犬という呼び方と違って家族で可愛がっている、愛されている犬と言う意味です。家族の一員として、家族同様に扱っていると言う意味も、この「小犬」と言う言葉にあります。
主イエスのこの言葉はどのような意味なのでしょうか。例えば、一家の主婦は先ず、何よりも自分の子どもに一所懸命にパンを食べさせて、それからその残りを犬に与えるのが普通です。それは自然なことです。この女性に対して、主イエスはこのように言われたのです。自分の心にあるのは、神の愛を受け入れない、わたしの民イスラエルのことであり、あなたの願いを聞くわけにはいかないと言ったのです。これはとても激しい言葉です。この言葉を聞いて思うことは、この女性の願いを聞き入れて、癒やせば良いのではないか、冷たく拒絶することはないのではないか、と言うことです。ある人が「この主イエスの言葉によって女の心も肉体も、粉々に砕けた」と解説しています。この女性は娘が癒やされることを願って駆けつけたのに、この主イエスの言葉に失望して、腹を立てて、そこから立ち去ることもできたのです。
しかし、この女性は主イエスのことばに腹を立てなかったのです。主イエスの言葉を肯定しています。主イエスがどんなにイスラエルの人々を愛しているのか、そのために主イエスが心を砕いているのか、を理解しているのです。主イエスの思い、その志に共感しているのです。自分の願いを聞いてくれないから、それで失望したと主イエスのもとを立ち去ることはないのです。主イエスに期待し続ける、立ち去らないでこの事態を切り開いていくのです。
この女性は主イエスのもとを立ち去らず、腹を立てないどころか、主イエスのみことばにさっと反応して話を展開するのです。子どもが食卓についてパンをたくさん食べて、しかもぼろぼろこぼすのです。子どものことですから、パン屑がすぐに散らかるのです。母親から「パン屑を落とさないで食べなさい」と言われるのです。その食卓に犬が、落ちてくるパン屑を喜んで食べているのです。家族が追い払うわけでもないのです。パン屑を食べている犬を見てニコニコ家族の者は見ているのです。子どもは犬に与えるために、わざと下にパン屑を落としていたかもしれないのです。
この女性は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」と言いました。可愛がられている犬ならば、「あっちに行けとは言わないだろう」とこの女性はそれだけ言ったのです。
この女性の言葉が、主イエスに勝ったのです。主イエスを負かしたのです。「それほど言うならよろしい」と新共同訳は翻訳していますが、口語訳では「その言葉でじゅうぶんである」と翻訳しています。口語訳のほうが良いです。他の訳は主イエスがこの女性が言い張るので負けた、と言うニュアンスで訳しています。「そうまで言うのですか」「そう言われてはかなわない」と訳しています。主イエスの真意はこうです。「あなたが語ったその言葉だけの理由で、その言葉のゆえに、私は癒やそう」と言われたのです。
主イエスとこの女性との対話はたいへん興味深いものです。この女性は切羽詰まった思いで主イエスに娘の癒やしを願ったのですが、主イエスの言葉にかっかっ来ないのです。そして余裕をもって大胆に主イエスに話すのです。
自分の願いや主張を通すためにしつこくねばる、自分の願いを通すために頑張ると言うことではないのです。また自分の祈りが聞かれなかったら、神を信じませんと脅かすのでもないのです。
主イエスの思い、志、その愛の豊かさを自分で受け入れているのです。どんなに主イエスがご自身の民であるイスラエルの民を愛し、心配し、心を砕いているか、そのことを理解し、共感し、そのことを心深く受け止めているのです。この女性は主イエスの自由を重んじているのです。神のみこころを第一にしているのです。この女性は自分の娘を治して癒やすか、どうかは、主イエスが自由にすることであると考えています。自分の願いが通らないのは良くないと考えてはいません。主イエスに信頼して、みこころがなされるようにその時を待っているのです。その意味では、自分本位ではなく、へりくだっているのです。主イエスのもとを訪ねたときにこの女性は「ひれ伏した」と書かれています。主イエスのもとで跪いたのです。
この女性は、神のみこころを重んじ、そしてへりくだって、自分の思いをユ−モアをもって語ったのです。「食卓の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」
今日の礼拝でミカ書6章6−8節を読みました。6章8節の後半には「へりくだって神とともに歩むこと」と記されています。この言葉は神がそのみ業をなして下さる信頼の中で歩むことを語っています。
主イエスがこの女性に語った言葉は冷たく聞こえます。しかし、失望して立ち去ることはありません。主イエスは自分たちのために豊かな愛を注ぎ、その業を成して下さるのです。自分の悲しみと悩み、苦しみを受け止め、受け取ってくださるのです。この女性は、自分の願いを受け入れてくださる方だと信頼するのです。へりくだって神と共に歩む、深い神への信頼において歩むのです。
この女性との出会いは、主イエスにとって新しい経験をすることになります。主イエスは神の民イスラエルの人々の救いを願って活動していたのです。主イエス御自身はあくまでもイスラエルの救いを願っていました。しかし、この女性との出会いによってイスラエル以外の外国、異教の土地、そこに住む外国人も主イエス御自身の働きの範囲、エリアであることを認識したのです。
主イエスは今まで考えていた自分の考えに固執するのでなく、この女性の説得によって動かされて、新しい隣人を発見するのです。主イエスは頑固一徹な方ではなく、耳を傾け、納得すれば、同意して、自由に愛することができる方なのです。その意味では、主イエスは柔軟でしなやかさを持った方です。
このティルスと言う外国でギリシャ人の女性によって、この土地にも深い苦悩を持ち、神の愛が必要な人がここにいることを実際に知ったのです。それは、主イエスにとって新しい発見でした。主イエスはイスラエル、ユダヤ人という枠を越えて、ここに魂をもった傷ついた癒やしが必要な人がいることを知ったのです。
そして知るだけではなく、そこに存在する魂を愛するのです。救いの手を延ばすのです。主イエスは、神の愛の範囲、エリアを限定し、境界線を引くことなく、重荷を持ち、苦労している者のために労苦します。人々のために、御自身のいのちを捧げるのです。
神から見れば、神から遠く離れて、神を知らず、神を拝まない異国、外国の者と言ってよそ者である私たちのために愛を注いでくださるのです。そして、自分の国や同じ民族の人々だけではなく、外国人に対しても、門戸を広く開けておくことなのです。
私が東京神学大学で松永希久夫教授のもとで新約聖書を学んでいた時に、松永先生が授業の中で語っていたことがありました。それは、聖書のテキストを解釈する時に当該の聖書の箇所だけではなく、そのテキストの前後の文脈で理解することが大切であると言うことでした。
本日の聖書のテキストの前にはどのようなことが書かれているでしょうか。マルコによる福音書7章1−23節には、ファリサイ派の人々、律法学者の人々との論争をしている物語が記されています。「論争物語」と呼ばれています。律法をよく研究し、その律法に従ってその戒めをきちんと守っていると自認している人々と主イエスは論争なさったのです。手強い相手と主イエスは論争し、律法学者やファリサイ派の人々の偽善を明らかにして論破されたのです。相手を論破したと言うことは、相手に勝った、勝利したと言うことです。
本日の物語も「論争物語」です。しかし、この論争で負けたのは主イエスご自身です。主イエスとの論争で勝ったのは、律法の知識もなく、ファリサイ派の人々が汚れていると考えていた異邦人であり、弱い立場にあり、人々の助けが必要なこの女性でした。
主イエスはこの女性に目を留め、この女性の立場を重んじ、この女性の話を良く聞いて、心ある対応をなさったのです。主イエスは自分の考えに拘ることなく、神の救いを伝えるために、自分の主張をもあえて退けて、柔軟に対応をなさったのです。
主イエスは民族主義に固執することなく、新しい隣人を発見して、広い心で受け入れるのです。それは、神が一つの民族を越えて、神の救いがこの世界に行き渡るように願っているからです。
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20160103 主日礼拝説教 「誰にとっても必要なことはただひとつ」 山ノ下恭二 |
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(詩編1編、ルカによる福音書10・38−42)
本日の礼拝は、主イエス・キリストの御降誕を心に刻む降誕節の礼拝です。そして、地上の暦では、2016年の初めの礼拝です。この新しい年も神の祝福と守りがありますように祈ります。神の祝福の言葉をもって皆さんへの挨拶の言葉と致します。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
本日の礼拝でルカによる福音書10章38−42節を読みました。このところにはマルタと言う姉妹が登場します。マルタと言う名前は「家の主人」と言う意味です。この家をきりもりしている、家の女あるじであり、一家の主婦です。この家にもう一人、姉妹がいました。アリアです。マリアと言う名前は、「高められた人」と言う意味です。高く評価される、ほめられる人になって欲しいと願って親が付けたのです。このマリアがいたと書いているすぐあとに、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」と語られています。マルタは主イエスを迎え入れ、次の場面では、もうマリアは主イエスの足もとに座り込んで「その話に聞き入っていた」とあります。
マリアが主イエスの足もとに座り込んで、主イエスの話に聞き入っていた、と言うみことばを読んで、私たちは特別に違和感をもつことはないですが、この当時の人にはこの表現はとても驚くことなのです。それは何故なのでしょうか。「足もとに座る」というのは、弟子が先生の教えを聞く時の姿勢だそうです。「足もとに座る」そしてその後に「聞き入っていた」と言う言葉があります。この「聞き入る」という日本語の訳はなかなか良い翻訳です。他の日本語の翻訳も「聞き入っていた」と訳しています。「聞き入っていた」とあるように、ずっと聞き続けているのです。もう主イエスの言葉の中に、自分がすっかり入り込んでしまったのです。
このルカによる福音書の記事について、ロ−マ・カトリック教会の雨宮慧と言う聖書学者が「主日の福音」という本の中で、こういうことを書いています。
エルサレムに行った時に、金曜日の安息日の礼拝の時間に大きなユダヤ教のシナゴクに案内されて、その会堂に入ったら、一階の男性の席は満員で二階の女性の席は空席が目立つので、「奇妙に思って知人に尋ねると、答えはこうであった。『女性は家で安息日の食事の準備に忙しいからです。最も敬虔なユダヤ教徒の家では、今でも女性が外に働きに出て家計を支え、男性は一日中、ト−ラ−(律法)の勉強に没頭します。』。女性はみ言葉には直接仕えず、み言葉に仕える男性を支えることによって、間接的に仕える。これはイエスの時代には今以上にユダヤ人の常識であっただろう。」と書いてありました。
神の教えを聴く集会には男性が行けばよい、いや、男性しか行ってはいけないことになっていました。特にこの頃はそうであったようです。そのような中で、マリアが主の足もとに座っているのです。それは本来、女性が座ることを許されないところであったのです。
こういう考え方は驚くかもしれないですが、教会でも女性が主婦の役割をしていて、昼食の用意やお茶の用意を女性がすべきことのように思う人も多く、女性は「台所の仕事をしていれば良い」と思っている人もいるのです。
マリアが、主の足下に座って聞き入っていた、というのは大胆な行動であったのです。このことに文句を言ったのは男ではなくて、お姉さんのマルタでした。マルタは主イエスのもとに近寄って来て、「主よ、わたしの妹はわたしにだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。妹に手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 これは説明抜きでよくわかるのです。「わたしだけ忙しくしていて、今日は腕によりをかけてごちそうをしようと思っているのに、なぜ、わたしひとりが働けなければならないのか。マリアはあんなところでのんきに座り込んでいます。」主イエスのほうに行って「よくまあ、こんなことをお許しになっていますね。『マリアよ、お姉さんを助けてあげなさい』と言ってくれれば良いのに」と愚痴のような文句を言っているのです。
これに対して主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と語りかけています。
このところの日本語の翻訳を比べて見ると、問題があります。それはマルタのあり方を評価し、その生き方も必要であるが、もっと良いのはマリアのあり方であると読める翻訳があるのです。私たちもそのように読むのです。マルタのように台所の仕事をする人も必要であり、マリアのように主の言葉を聞くことも必要だ、あの人はマリア型で料理が得意でいつも食事の世話をしてくれて助かる、しかし、教会はそれだけではいけないから、マリア型の人も必要だ、聖書をよく読んで勉強する人も教会には必要であると、教会の人をマルタ型とマリア型に分けるのです。
神学校の学生の時に、同じ部屋の人が通っている教会の中高生の夏期学校ガイドブックを見せて貰ったことがあります。この聖書の箇所を取り上げて、そこには「マルタのいないマリア」「マリアのいないマルタ」と書いてありました。そして「両方いないと困るでしょう」と書かれていたのです。
その時、わたしは、ここはそう言うことをメッセ−ジとして語っているのか、と疑問を持ったのです。教会にはどちらも必要だ、主の言葉を聞くことも大切で、同様に様々な教会の世話をすることも大切だ、と解釈するのです。
教会学校で私も聖書を学ぶことや、礼拝を大切にすることを言う時があります。そのような時に、「それも大切だけど」と言って別のことを提案する人がいます。しかし、本当に聖書を学んだり、礼拝を大切にすることが大切であるならば、「それも大切なんだけれども」と言う言葉は出てこないのではないか。本当に大切ならば、「そうだ大切だ」と言うのです。「大切だけども」の「けれども」は否定しているのです。言葉では「大切だ」と言っているけれども心の中では大切であるとは思っていないのです。
日本語の聖書の翻訳で変わってきた言葉があります。それは「しかし、必要なことはただ一つだけである」と言う言葉です。このように訳しているのは新共同訳、フランシスコ会、新改訳、岩波訳で比較的、現代の翻訳です。しかし、文語訳、口語訳は「必要」とは訳していません。文語訳では「されど無くてならぬものは多からず、唯一(ただ)一つのみ、」と翻訳されています。そして口語訳も「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」と翻訳されています。
「必要」ではなくて「なくてならぬもの」です。マルタの働きも必要、またマリアのあり方も必要、とどちらのあり方も必要と相対化して、まあ、マリアのあり方が良いと言うのではないのです。マリアのあり方が無くてならぬ、唯一のもの、と語っているのです。はっきり言って、マルタのあり方を否定したのです。なぜ、そのように主イエスは語られたのでしょうか。
それは40節と41節の言葉に鍵があります。40節には「マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた」とあります。この「せわしくはたらく」という言葉は、「周囲に引き離される」、つまり、「あるべき中心から引き離され、周囲の雑事に心が散り散りになる」という言葉です。新しい翻訳では、「マルタは給仕のため、忙殺されていた」と訳しています。また41節の言葉も主イエスの言葉を解く鍵の言葉です。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」「多くのことに思い悩み、心を乱している」とも翻訳はできるが、「多くのことに心を煩わせ、かき乱されている」と訳すことができます。このこともしなければ、食事のこと、おかずのこと、部屋の掃除、このことで心のなかで思い煩い、このことで心は一杯で、他のことは心の中に入れるスペ−スはないのです。マルタの心の部屋にはたくさんの仕事が入っていて、他のことは考えられないのです。礼拝に出席していても、お昼のおかずを何にするのか、あの人に用事を頼まなければ、と思っているのです。また結婚式で、牧師が説教をしているあいだ、結婚式の後に行われる披露宴のことが心配で、あの人にスピ−チを頼んだか、いろいろ思い煩い、説教を聞けなかった人もいるのです。たくさんのことが自分の心を占領していて、実は、最も大切なことが何も入っていないのです。心が空っぽなのです。心に満ちているのは思い煩いなのです。
私たちの生活、それは「忙しい、忙しい」と言って過ぎていきます。一日に何度も「忙しい」と言います。忙しいと言いながら、心を煩い、しかし、実は中心となる、大切なものは何もない、空っぽなのです。マリアは自分の心を満たすものが何であるかをわきまえているのです。
イザヤ書50章10節(旧約p1145)には次のように記されています。ここに「主の僕の声に聞き従う者がいるだろうか」と言う言葉が出てきます。主の僕とは、人々の罪のために責め抜かれて死んでいく僕です。イザヤ書50章10節に「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」と語られています。
主イエスはご自分が僕として歩むべき者であることを、最初からよく知っておられました。もちろん、主イエスはこのイザヤの言葉を心に深く留めておられたのです。マルタとマリアの家を尋ねて、マリアが主の足下に座っている姿を御覧になりながら、このイザヤ書が伝えている神の言葉を思い起こしておられたかも知れません。「あなたがたのうちにいるだろうか、主の僕の声に聞き従う者が。」ああ、ここにわたしの声を聴いてくれる者がいると思ったのです。
この福音書はこの物語の前に、「よいサマリア人の譬話」があります。律法学者が「神を愛することと隣人を愛する」ことが大切だ、と答え、その答えを受けて主イエスは実際に隣人を愛することはどのようなことかを譬えで話をされました。隣人愛を話した後で、このマルタとマリアの記事があります。隣人を愛することは分かりやすいのです。すぐに自分ができることを想像できるからです。
しかし、「神を愛する」それはどのようなことか、それはすぐにはわからないのです。ここで私たちに向けて語ろうとしていることがあるのです。それは、神を愛することは、神の言葉にひたすら耳を傾けることから始まることであると言うことです。
ある註解書には、良いサマリア人の譬えで鍵となる言葉は「見る」と言う言葉である、と書いてあります。「見る」と言う言葉が三度、使われています。良いサマリア人は倒れている人を見て、憐れんで助けたのです。ところが、この記事は「マリアが主の足もとに座って聞き入っていた」。と言う言葉で始まっているのです。
この「聞く」と言う言葉が鍵となる言葉です。まず、私たちが聞くこと、心を込めて傾聴すること、そのことが無くてならぬことです。マリアはその良い方を選んだのです。「マリアは良い方を選んだ」。この「良い」と訳された言葉はアガソスと言う言葉です。この言葉は善悪の「善」である。これしか善いものはないと言う意味の言葉です。神が善い方である、その言葉を用いています。文語訳、岩波訳が「善」という言葉になっています。たくさん良いことがあり、その中の良い方を選んだ、と言うのではないのです。
私たちは毎日、毎日、たくさんの情報を耳にし、多くの人間の言葉を聞いています。その中の一つとして神の言葉があるのではないのです。神の言葉しか私たちは耳を傾けないのです。私たちは神の言葉だけにひたすら耳を傾けるのです。文語訳の言葉がとても良いのです。「無くてならぬものは多からず。唯一つのみ。マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪うべからざるものなり。」
旧約聖書・詩編1編のみことばに耳を傾け、聞きましょう。「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木、ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
この詩編はみことばに耳を傾ける幸いを語っています。新しい年もみことばに聞きましょう。
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20151227 主日礼拝説教 「あなたの未来には希望がある」 山ノ下恭二 |
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(エレミヤ書31章15−17節、マタイによる福音書2章16−18節)
本日は、この地上の暦では、一年の終わりの時、年末の日曜日ですが、キリスト教会の暦では、降誕節、クリスマスの季節の中の主の日です。
12月23日(水)に子どものクリスマスが行われました。この地域の子どもたち、親がたくさん見えて、にぎやかなクリスマスになりました。こどものためのクリスマスで、幼稚科・小学科の子どもたちが降誕劇(ペ−ジェント)をしましたが、赤ちゃんのイエス様の役を、昨年は高橋美和ちゃんがして、今年は、赤ちゃんのイエス様の役を福田響ちゃんが演じました。
昨年も今年も、飼い葉桶に寝ているのは、人形ではなくて、いのちある本物の人間の赤ちゃんです。赤ちゃんのイエス様が飼い葉桶ですやすや寝ているように、本物の赤ちゃんがこの劇で生まれたばかりのイエス様を演じていることはとても心に残りました。赤ちゃんは、私たちの未来を担う、大切な存在です。未来を担う赤ちゃんが心も身体も健やかに、成長するように祈るのです。
主イエスは、ベツレヘムの家畜小屋で誕生されました。これからマリアとヨセフの両親に養育され、世話を受け、見守られて、順調に育つと思われていたのです。ところが、思いがけないことが起こるのです。マリアもヨセフも予想しないことが身に降りかかるのです。マタイによる福音書2章13節に次のように語られています。「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて行った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を殺そうとしている。』」
神は、主イエスがベツレヘムにいると殺されてしまうので、マリアとヨセフにエジプトに急いで逃げるように促したのです。その知らせを聞いて、マリアとヨセフは、主イエスを伴って、すぐにエジプトへと向かったのです。主イエスが誕生した後、ナザレに帰ろうと思っていましたが、何百キロも離れたエジプトに急いで逃げなければならないのです。それは、とても困難な旅であったのです。
主イエスは生まれてすぐにいのちの危機に見舞われるのです。ヨセフとマリアは、急いで旅支度をして、主イエスを抱いてエジプトに逃げることになります。
主イエスは、神と同じ方です。神の子として多くの者から、尊敬を受け、それにふさわしい待遇を受けるはずであるのに、生まれてすぐ、いのちが奪われる危険に直面するのです。生まれてすぐに主イエスを抱えながら、ヨセフとマリアの逃避行が始まります。マリアとヨセフにとって、このようなことが起こるとは予想を超えたことであったに違いないのです。
主イエスは、神と同じ方ですから、王様の子のように、立派な宮殿に住み、何不自由なく、過ごすことができる方なのです。しかし、主イエスは、誕生して間もなく、エジプトに逃げなければならない、そのような苦しみを味わうのです。
12月24日(木)クリスマス・イブ・キャンドルライト・サ−ビスで、私は、主イエスが、私たちを思いやることができる方であると語りました。主イエスは、私たちに同情することのできる方なのです。この「思いやる」「同情する」と言う言葉は、「シンパシー」と言う言葉で、その意味は「共に苦しむ」「苦しみを共にする」と言う言葉です。主イエスは苦しみを深く味わったのです。生まれて間もない時から十字架の死に至るまで、私たちが経験する苦しみを経験されたのです。
今年の10月に私の母が亡くなり、葬儀がありました。今まで牧師として、牧師の立場で、多くの葬儀に関わりましたが、遺族として葬儀に関わるのは、初めての経験でした。父が亡くなったのは私が小学4年の時でしたから、その時は葬儀にただ出席するだけでした。その意味で、遺族の立場で葬儀に関する細かい仕事に関わったのは初めてでした。短い日数で、いろいろしなければならないことが多くあることを経験しました。
私は、相手の立場や気持ちが分かるのには、相手と同じ経験をしないと分からないと思います。親しい家族を失って、その悲しみが分かるためには、自分が親しい家族を失って初めて分かるのです。政治家が、お金に不自由なく暮らして、永田町の国会の中で過ごして、そこで政治を考えているならば、国民がどのような思いで暮らしているのか、分からないのです。庶民と同じ暮らしをしてみて、初めて国民の気持ちが分かるのです。
主イエスが生まれてすぐに、両親と共にエジプトに逃げていくような、厳しい経験をする、それは、私たちの立場や思い、苦しみを共に担うためなのです。主イエスが人間としてこの地上で生きる、それは、私たちと一つとなるためです
私が、以前おりました東大宮教会では、児童養護施設の子どもたちを受け入れ、毎週、37名の子供たちが教会学校に通っていました。事情があって、親と暮らすことができない子供たちです。虐待や育児放棄です。幼い時に、親から虐待されて、心に傷を受けた子供たちです。また育児放棄をされた子どもたちです。虐待されても、育児放棄(ネグレクト)されても、親と一緒に暮らしたい、と言う強い願いを持っているのです。養護施設なんかに、自分はいたくない、お母さんと暮らしたいと言います。自分が児童養護施設に入りたいと願って、施設にいるわけではないので、自分の気持ちに反してこの施設にいるので、児童養護施設に自分がいることをなかなか受け入れられません。そういう思いが、あらゆる面に影響してきます。自分の気持ちに反して、そのところに住んで過ごさなければならないのです。積極的に物事に取り組もうとする意欲を持つことができないのです。自分が理不尽な扱いを受けていると言う気持ちをいつも持っているのです。
今年の事件の中で印象深い事件は、シリアから、ヨ−ロッパを目指した人々の中で、3歳の男の子が舟から落ちて、水死して海辺に打ち上げられていた事件です。3歳と言う、これからたくさん生きる可能性のある、将来があった
いのちが失われたことです。シリアの内戦、戦争、と言う状況の中で起こった痛ましい事件です。戦争と言う時代の中で、自分一人の力ではどうすることもできないことの中で、悲惨な事件であったと思います。
本日の礼拝で読みました、マタイによる福音書2章16節−18節には、この当時、このユダヤ地方の王であったヘロデが、自分の王の地位を奪うかも知れないイエスの存在を恐れて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず、殺したことが語られています。このヘロデは、王としてユダヤを経済的に豊かにし、公共事業をして繁栄をもたらしたのですが、非常に猜疑心が強く、王位に就く可能性のある親戚をことごとく次々と殺害して行ったのです。この当時、王が独裁にならないように、憲法があったのではないので、王が人を殺せ、と言えば、それに従って兵隊は人を殺すのです。殺人ですけれども、犯罪にはならないのです。
ヘロデが、ベツレヘムの幼児を殺してしまったのです。幼児を殺されてしまい、我が子を失ってしまった母親の嘆きがマタイによる福音書2章18節に記されています。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがいないから。」この言葉は、エレミヤ書31章15節からの引用です。子供と母親とは一心同体ですから、子供を失うことは自分の未来を失うことになるのです。その悲しみはとても深いのです。
ところが、マタイによる福音書2章18節の言葉は、エレミヤ書31章15節の言葉だけを引用していますが、エレミヤ書31章には16節、17節の言葉があるのです。この16節、17節が大切な預言の言葉なのです。
子供を失って、嘆きの中にたたずんでいる者に、慰めの言葉が語られているのです。嘆き悲しんでいる者に、エレミヤは、悲しみから立ち上がる神の言葉を語るのです。この神の言葉は慰めの言葉に満ちています。
エレミヤ書31章16節−17節「主はこう言われる。泣きやむがよい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」
このエレミヤ書31章16節−17節のみことばは、戦争が背景にあります。戦争のために、外国に出かけて行く息子たちが戦死しないで、帰国するのだと語ります。自分の一人の息子が死んだ、しかし、他の息子たちが帰って来るのだ、親と共に住みイスラエルを再建する力になる、そのように神はあなたの未来を配慮していると語るのです。
自分の子どもを失う、それは、自分の未来を失うことです。しかし、「あなたの未来には希望がある」と励ましの言葉を語るのです。
今年は戦後70年の年でした。戦争を体験した人の体験記を読むことができました。ニュ−ギニアで戦争を体験した飯田進氏の「地獄の日本兵」と言う体験記を読みました。本営が何の勝算もなく、無謀に戦争を遂行したために、ほとんどの兵隊たちがニュ−ギニアで餓死して行ったことが書かれています。食糧は現地調達ですから、現地に食糧がなければ、餓死するよりほかないのです。この飯田進氏は、オランダの統治の時にB級戦犯になりましたが、すぐにインドネシアがオランダから独立して、インドネシアが統治することによって、処刑を免れて日本に帰って来た人です。旧日本の誤った戦略に翻弄されて、多くの人々が死んで行ったのです。
しかし、自分は生き残って、日本に帰ることができたことに深い意味があることに気がついて、自分の戦争体験を若者に伝えるようになりました。その結果、若者たちが、平和を守る運動、戦争反対の行動に出るようになったのです。
私たちは毎日、過ごしていて自分が、いつも周りの人々に親切にされ、いつもその存在が認められるとは限らないことを経験します。自分が周りの人たちからどのように扱われるのか、ということによってうれしくなったり、生きるのが嫌になったりするのです。自分がいるのに、周りの人たちから、いないかのように扱われることもあります。無視され、いないほうがよいことようにいじめられ、心ない、ひどい言葉を浴びせられ、理不尽な扱いをされることもあります。何気ない、心ない言葉や行動にそのことによって、私たちは深く傷つくのです。そのような理不尽なことを経験しても、私たちは、神が、私たちの未来を確かなものとして共にいて、配慮してくださるのです。
最近、「生かされて」という本を再読することができました。アフリカのルワンダで起きた、部族対立による大量虐殺の時に生き延びた女性の体験記です。ルワンダという国はフツという部族とツチという部族があり、フツという部族の人たちがツチという部族を殺し始めたのです。100日間で100万人が殺されたと言われています。一人の女性が、生きるためにかくまってくれそうな家を探し、ある教会の牧師が引き受けてくれ牧師の家の狭いトイレの中に隠れることになりました。そのトイレの中に8人の女性と共に3カ月、隠れていたのです。
時々、フツ族の人たち、小さな時から近所で一緒に学校に行き、仲良く遊んでいた人たちがナタをもってこの女性を捜しに来ました。その度にもうだめか、と思ったようです。フツ族の人たちがこの家に隠れていることがわかったようなので、危険を冒して、フランス軍の陣地に逃げることができました。家族はセネガルに留学していた一人の兄の他はすべて虐殺されたと書かれていました。何遍も殺されそうになりましたが、その度ごとに助かって生き延びることができたのです。
この本にどのようなところに隠れていたのか、そのトイレが写真に出ています。8人の女性がぎゅうぎゅう詰めで身動きもできない中で、時々、牧師が持ってくる少しの食糧で飢えをしのぎ、音を立てないように気をつけながら、解放の時を待ったのです。
この本にはただ、その時の様子が書いてあるだけでなく、狭いトイレに隠れていた時に、この女性の心の中には自分を殺そうとする人々に対する憎しみ、自分が殺されてしまうのではないかという不安が支配していたので、時々、食糧を持ってきてくれる牧師に頼んで、聖書で心を清めたいと、牧師に頼んで、聖書を貸して貰い、聖書を読み始めたのです。
旧約聖書の詩編91編(旧約p930)に、この女性にとって魂を支えてくれるみことばがあったのです。この91編には、神様は、夜、脅かすものが来ても、昼、飛んで来る矢をも、疫病も病魔も、傍らに千人、一万人が倒れることがあっても、襲うことはない、それは神を避け所とし、神を宿るところとしているからだ、と書かれているのです。
詩編91編10−11節「あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」
この女性は、どこにおいても神は守ってくださる、このような聖書の御言葉に信頼し、支えられているのです。そして苦しい時には祈り、自分を殺そうとするものを赦すことができるように祈っているのです。
この本の終わりには、紛争が終わり、この女性は九死に一生を得て、生き延び、現在、ニュ−ヨ−クで働いていると書かれていました。
私たちは、神と言う避け所を持っているのです。敵が攻めて来ようと、災害が襲おうとも、揺るぐことはないのです。
生まれたばかりの時に主イエスは殺されかかったのです。いのちを失うようなことに直面したのです。しかし、主イエスは、神に守られて、いのちが助かり、そして福音を宣べ伝え、私たちのために御自身のいのちをささげるという大きな神の救いの業をなさることができたのです。
私たちは理不尽な扱いを受けることがあります。いのちの危険を経験します。しかし、神は、私たちを滅ぼすような力に勝る力をもっていつも守ってくださるのです。これからも私たちは辛いことを経験するでしょう。しかし、私たちの未来は神が切り開いてくださるのです。未来を切り開いてくださる神に信頼して安心して過ごしましょう。
ロ−マの信徒への手紙8章38節(新約p285)のみことばに聴きましょう。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
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20151224 クリスマス・イブ礼拝 「苦しみを共にする救い主」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書53章4−5節、ヘブライ人への手紙4章14−15節)
本日は、12月24日でクリスマス・イブです。皆さんと一緒にこの教会でクリスマスキャンドルライトの礼拝をすることができ、うれしく思っています。
多くの人々は「クリスマス」と言う言葉を知っています。しかし、「クリスマス」と言う言葉そのものがどのような意味の言葉なのか、知っている人は少ないと思います。クリスマスと言う言葉は「クリス」と言う言葉と「マス」と言う言葉とが、組み合わさった言葉です。「クリス」と言う言葉は「キリスト」を意味し、「マス」と言う言葉は「聖なる祭り」「礼拝」と言う意味の言葉です。 従って、「クリスマス」と言う言葉は「キリストを礼拝する」「キリスト礼拝」と言う意味の言葉です。このクリスマス・イブに教会でキリストを礼拝している、それは、クリスマスの時を過ごすのに、最もふさわしいあり方です。
クリスマスは、イエスと言うキリスト教を始めたひとりの男が生まれた誕生日を祝う時だ、と考えている人も多いのです。誰でも、自分の誕生を記念して誕生日を祝います。クリスマスはイエスの誕生日を祝う、生誕祭と考えるのです。しかし、キリスト教会は初めから、「イエスの誕生」と言わないで、「主イエスの降誕」と言って来ました。「降誕」と言う言葉を初めて聞いた方をおられると思います。「降る」と言う言葉と「誕生」の「誕」と言う言葉を組み合わせた言葉です。このような特別な言葉を、キリスト教会が用いてきたということは、深い意味を持っているのです。
主イエスの誕生と言わないで、なぜ「降誕」とわざわざ言うのでしょうか。「イエスの降誕」と言うのは、神のもとから、イエスがこの地上に降って来た神であると言うことなのです。イエスは、神が私たちの救いのために自分の外に出て、肉体を取り、イエスと言う方として私たちと同じ人間になられたと言うことです。イエスの誕生は、「神の誕生」なのです。皆さんは神を見たことがないでしょう。神はイエスにおいて御自身を現されたのです。このことは、キリスト教会の中心的な信仰告白なのです。ヨハネによる福音書1章には、イエスの存在がどのようなものなのか、語っています。1章18節には、「いまだかつて、神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(p163)と語られています。
特に、神が、私たちの救いのために、自分の外に出て、肉体を取り、イエスと言う人間になられたことです。ここで注目するのは、神がイエスと言うひとりの人間となり、私たちと同じ肉体を持ったと言うことです。イエスは、神が肉体をもってこの地上を歩まれた方なのです。神がイエスと言う存在において私たちと同じ肉体を持った、と言うことが重要なことなのです。ヨハネによる福音書1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語られています。口語訳では「肉」ではなく「肉体」と言う言葉で翻訳しています。神がイエスにおいて「肉体」をもってこの地上を歩まれたのです。肉体をもってこの地上を歩まれたのです。
私たちは、多く働けば、とても疲れますし、のどが渇けば水を飲まないといけないのです。病気になることもあり、今日は内科だ、明日は眼科だ、明後日は、耳鼻科だ、とかけずり回るのです。いつも病院に来ている人がいないと、具合が悪くて病院に来れないのだと思います。怪我をすれば、血が流れる、注射は痛いし、食べ過ぎれば、お腹が痛い、物忘れが多くなると、老化に過ぎないのに、認知症だと思い込み、心配するのです。そのように、肉体をもって毎日を過ごすのはとても痛みを伴い、辛いことです。
主イエスは、罪は犯されなかったけれども、私たちと同じ肉体をもって、この地上を歩まれました。私たちの肉体の痛み、私たちが地上で生きる困難を十分に経験されたのです。肉体をもってこの地上を過ごすことは辛いことを経験すると思います。
私は北九州でいのちの電話のボランティアをしていました。その経験から、他の人には言えないで、一人で悩んでいる人が多いことを知りました。ある時に小学生から電話があり、「水虫を治す薬を知りませんか」と言うのです。この話に「水虫」の薬は薬局に行けばありますよ、と言うと、それで話がお終いになってしまうので、「どうしたんですか」と聞くと、学校でクラスのみんなから「水虫」「水虫」と言われて、仲間に入れてくれない、と言うのです。いじめに遭っていて、その叫びを誰かに聞いて欲しい、と思って、いのちの電話に掛けたことが分かりました。この少年の話を聞きながら、どうしたら、いじめから解放できるのか、といろいろな手段を一緒に考えて、電話が終わりました。
いのちの電話でかかってくる相談で一番、多いのは、人間関係です。会社で意地悪な上司がいる、自分がその会のリ−ダ−になりたかったのに、別の人がリ−ダ−になってくやしい、と言う電話を受けたことがあります。
私は中学3年の時に、入院生活を経験しました。熱が高く、頭が痛いので、誤って風邪薬を多く飲み、入院をしました。入院をして、点滴をしていたところ、看護師のミスで点滴の速度がいつもよりも早かったため、悪寒と頭痛、暑さが交互に来て、危ない時があり、そのような経験から、自分の命が限りがあることを知らされました。そのような経験をしたこともあって、自分がどのように生きたら良いのか、と真剣に考えるようになりました。
私は両親がキリスト者で教会員でした。私は幼い時から教会に通って、聖書の話を聞いていました。しかし、聖書の言葉が自分の生活と関わりがあるとは余り思いませんでした。退院後、聖書を真剣に読もうと決心し、ヘブライ人への手紙を読むことにしました。ヘブライ人への手紙を読み進んでいくうちに、4章15節の言葉に出会ったのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」その時は、口語訳聖書を読んでいました。口語訳で読みます。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」この聖書の言葉に衝撃を受けたのです。
私は長く、病気に苦しみ、自分の弱さ、無力さを感じていました。私は主イエスが「弱さを思いやる」ことのできる方であり、試練、試み、苦しみに会われ方であることを知りました。自分も病気で苦しんでいました。その中で、主イエスは私の苦しみを思いやり、自ら苦しみを受けたことを知りました。この言葉に深く感動したのです。そして、このような病に苦しむ自分を深く思いやる神がいることを知り、涙が流れてきたのです。このヘブライ人の手紙4章15節は、私にとって、キリスト者となるきっかけとなったとても大切なみことばなのです。
このヘブライ人への手紙を読み終わって、私は鹿沼教会の高崎隆牧師に信仰告白したいと申し出をしました。そして信仰告白が許されて、キリスト者となり、鹿沼教会の会員となりました。私が高校2年生の時に、鹿沼教会の高崎隆牧師が結核を再発して近江の結核療養所に入院することになりました。そのような身体の悪い状態であっても病を押して、礼拝説教をしている、キリストの知らせを一所懸命に伝えている姿に感動し、私は牧師・伝道者になることを決心しました。東京神学大学に入学し、卒業して、牧師として働いています。
このヘブライ人への手紙4章15節に主イエスが私たちの弱さに思いやる方である、と言う言葉について後で調べたところ、この「思いやる」と言う言葉は新共同訳では「同情」と訳され、この言葉はギリシャ語では「シンパシ−」という言葉であることがわかりました。「共に苦しむ」と言う意味であることがわかりました。「シン」と言うのは、「共に」そして「パシ−」は「パッション」苦しみ、と言う意味です。「シンパシ−」と言う言葉は元々、「共に苦しむ」と言う言葉であることがわかりました。「共に苦しむ」と言うのは、相手の苦しみを自分の苦しみとして担う、相手の苦しみを自分に引き受けて同じように苦しむのです。主イエスは、病にある人たちを訪ね、深く憐れみ、思いやり、同情して、その苦しみを取り除いたのです。相手の苦しみを自分の苦しみとして引き受けたのです。
私たちは、人間の関わりや病気で「苦しむ」のですが、それだけれはなくて、自分の罪に苦しむことがあります。自分のことを優先して、相手のことを思いやることができずに、相手にひどいことを言ってしまうのです。自分が言った、なにげない言葉が相手の心を深く傷つけてしまうのです。私たちは相手を愛することができない存在です。自分本位の、自分の立場を優先し、相手を心から愛することができない者です。
今週の月曜日にNHKテレビで、「にっぽん紀行」という番組を見ました。70年前、広島に原爆が落とされて、被爆した人の孫が、祖父の日記を見て、改めて、原爆の悲惨さを知るのです。原爆に被爆することによって、人間が変わってしまうことを知るのです。「初めてたどる祖父の8月6日、深まる謎」と言う題が付けられていました。実家に祖父の日記があることが分かり、この日記に、祖父が8月6日の時に経験したことを書いているところを読んだのです。
8月6日、午前8時15分、爆心地から少し離れたところで被爆した祖父は、原爆による火災から逃れるために、郊外に移動しますが、橋を通ると、被爆した人が、川に入って、多くの人々が死んでいくことを目撃し、自分は生きなければならないと思ったのです。
そして、病院に辿りついたのですが、そこで、以前、会ったことのある少年と再会します。少年は瀕死の重傷で、もう命がないことが分かったそうです。この少年のそばに乾パンが3個あり、この少年に「君はもういのちがないけれども、自分は生きなければならないので、この乾パンをもらっていく」と言って、少年のものである乾パンを取って出て行ったことが日記に書かれていました。孫はこの日記を読んで、ショックを受けたのですが、このような戦争が人間を変えてしまう、その戦争や原爆の恐ろしさを後に生きて行く人たちに伝えるために、祖父は日記を書いたことを悟り、このことを自分の子どもや人々に伝えることを決心するのです。自分のために、人のものを奪ってしまう、人の命までも奪うのが戦争であるのです。このような原爆と言う異常な極限状態と言うことがありますが、人間が自分のためには、相手の大切な食糧をも奪うことをするのです。このテレビ番組を見て、そこに人間の持っている深い罪があることを知らされました。
教会の屋根には十字架があります。礼拝堂の講壇の壁にも十字架があります。この十字架は、主イエスの生き方そのものをよく表しています。
それは主イエスが私たちの罪をすべて自分のものとして全面的に引き受けたことを示しています。私たちは自分が良ければ良いと思っているのではないでしょうか。自分の思い通りになれば良いと、自分中心に生きてはいないでしょうか。そのような生き方に対して神は私たちに問われます。あなたは神に対してどう生きて来たのか。自分本位に生きているのですから裁かれるよりほかありません。
しかし、私たちの罪の責任を主イエスは御自身で引き受け、その裁きを引き受け、肉を裂き、血を流して、贖って、罪を償ってくださったのです。主イエスは、罪に対する裁きを引き受けて、十字架の死をもって罰を受けたのです。
コリントの信徒への手紙二 5章21節には「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(p331)と語られています。
旧約聖書にイザヤ書と言う預言書があります。イザヤ書53章に「苦難の僕の歌」があります。今日の礼拝ではその一部分を読みました。「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼が受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」主イエスは、私たち罪に苦しむ者に深く同情し、共に苦しんで、その罪を取り除いてくださるのです。それが十字架なのです。
クリスマス、それはイエスという人が誕生したことをお祝いすることだと考えている人も多いでしょう。しかし、誕生を祝うと言うよりも、主イエスが私たちを深く思いやり、同情し、私たちの罪を赦すために神のもとからわざわざ来て下さったことを心に留め、心から讃美することが大切なのです。
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20151220 クリスマス礼拝説教 「救い主がお生まれになった」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書32章2−6節、ルカによる福音書2章8−14節)
本日の礼拝は、主イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマス礼拝です。皆さんと礼拝を共にすることを心から感謝致します。このクリスマス、世界中の人たちが、主イエスの御降誕をお祝いしております。現在、世界の人口は72億人だそうです。この世界の中でキリスト者は20億人と言われていますから、3分の1より少ないですけれども、たくさんの人たちが主イエスの御降誕をお祝いしていることになります。
最初のクリスマスはどうだったのでしょうか。現在のようにたくさんの人たちがお祝いしたのでしょうか。実はそうではなかったのです。ほとんどすべての人たちは主イエスが誕生をしたことを知らなかったのです。ほとんどの人は主イエスの誕生を祝うことをしなかったのです。
最初に主イエスの誕生を知らされたのは、羊飼いたちでした。電気もないし、町の灯りもない、真っ暗な中で羊飼いたちは羊の番をしていたのです。夜、暗闇の中で暮らしていた羊飼いたちのところに、数人のみ使いが、やってきて、天からの光を照らして、主イエスの誕生を知らせたのです。
皆さんは羊飼いと言うととてもすばらしい仕事だと思うかもしれません。羊の番をしていれば良い、と思うかも知れません。しかし、羊飼いはみんなが一番したくない仕事とされていました。この当時、一番、良い仕事は農業でした。羊飼いと農業とどちらを選ぶかと問われれば、ほとんどの人がすぐに農業を選んだのです。それは、土地を持っていて、決まったところに住むことができ、自分が作った農作物で食べていけたからです。
羊飼いは一つの土地に住まないで、羊たちをあるところから別のところに移動させる仕事です。長い時間、働き、羊を見張っていなければならないのです。夜も休めない仕事です。そして伝染病がはやると羊たちはみんな死んでしまい、財産を一挙に失うのです。家もない、ゆっくり休むところもない、そしてお金や財産もない、食べられない、そして安息日も休めないので、みんなから神から遠い、神の戒めを破っているとんでもない人たちだ、と思われて軽蔑されていたのです。
羊飼いたちが今まで聞いてきたニュ−ス、知らせは良い知らせではなかったのです。羊が獣に襲われて、多くの羊が死んだと言う知らせを聞いて、がっかりしたことがあります。別の場所から、移ってきて、牧草がある良い土地なので、羊たちに食べさせようかと思っていたら、その土地を持っている人からすぐに出て行ってもらいたい、別のところに移って欲しい、とせき立てられて、どうしようかと困惑してきたのです。そのような悪い知らせは一番、早く届きますが、良い知らせ、うれしい知らせを聞くことはなかったのです。
10日前のことですが、皆さんも見かけたことがあるかも知れませんが、飯田橋の駅前を通りましたら、「ビックイシュ−」と言う雑誌を販売している人が立っていました。販売している人は、生活困難者です。その雑誌を一冊売ると、180円が収入になるのです。たくさんの人がそこを通るのですが、多くの人々は気に留めることなく、この人の傍らを通り過ぎていくのです。
東大宮教会におりました時に、12月の第一週に、5日間、募金活動をしてきました。夕方4時から7時まで、養護施設のために、浦和駅の前で、20年位、教会の皆さんと募金に立ったことがあります。通行人は多いのですが、募金に応じる人が少ないことを経験しましたので、飯田橋駅前で雑誌を売っていても、関心がないので買う人が少ないことは仕方ないと思いましたが、どうして他の人について関心を持たないのだろうと思いました。自分の生活にばかり、心を使って、隣人に心を留めない、心配りをしない現実を見たのです。自分の生活には心を用い、一所懸命ですけれども、隣人の立場に思いを寄せ、同情し、思いやることをしないのです。
12月18日(金)祈祷会では、旧約聖書のアモス書を学びました。アモスは預言者ですが、社会正義を問題にして、人々に悔い改めを求めて語ったのです。今の時代と同じように、アモスの時代も経済的に繁栄していた時代でした。しかし、豊かな人たちは利潤を追求し、貧しい者に対して、その弱い立場を理解せず、自分の利益だけに関心を持ち、贅沢な暮らしをしていたのです。同じ神の民であるのに、貧しい者を踏みつけ、貧富の格差をそのままにしていたのです。預言者アモスは、同じ神の民である同胞を心から愛するように語ったのです。
主イエスの誕生の知らせは、真っ先に羊飼いのもとにが届けられたのです。このことは驚くべきことです。うれしい知らせが届かなかった者に一番、早く、主イエスの誕生の知らせが届いたのです。
うれしいことがあったら、皆さんは誰に話しますか。心にかけている親しい人に話すでしょう。神様はいつも羊飼いのことを心にかけていたのでしょう。羊飼いたちはうれしいことも、楽しいことも、心躍るようなこともないし、とても辛い経験をしながら、暮らしているのです。自分の将来も見えない、そういう者に一番、良い知らせを伝えよう、と神は決心して伝えたのです。
ルカによる福音書2章10−12節「天使は言った。『恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』。」
救い主、それはとても大きな力をもって、政治家のように人々を従わせる権力者でしょうか。そうではありません。ほんとうに小さな、小さな、人の手に入るぐらい小さな者としてお生まれになった、しかも、立派な宮殿ではなく、貧しく、冷たく、寒い、家畜小屋でお生まれになったのです。最も貧しく、もっとも汚れたところでお生まれになったのです。
良い知らせを聞くことがなかった羊飼いたちにこの喜びの知らせが届けられるのは、深い意味があるのです。それは、神様が誰よりもまず、虐げられ、悲しみをもち、苦しみを持っている人々に心を向けていると言うことです。これらの人々を神は忘れることなく、心を痛め、心に留めていたからです。
天使は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と語られたのです。「救い主」と言う言葉は、この当時、この地中海を支配していたロ−マ皇帝にも使われていた称号です。この当時、この地域を支配し、権力をもっていたロ−マ皇帝も「救い主」と人々は呼んでいました。ロ−マ皇帝は絶大な権力を持って人々の心と暮らしを支配していました。しかし、羊飼いたちに天使が語られた「救い主」という言葉は、権力によって自分の思うように支配する、そのような救い主ではありません。それではどんな救い主なのか。それは、主イエスの活動によって分かります。
天使が「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」「今日」という言葉がとても大切です。このルカによる福音書には「今日」という言葉がよく使われています。
皆さんにとって関心があるのは、自分の健康のことです。健康でいたいと言う願いはすべての人々の願いです。私も健康が支えられて今年のクリスマス礼拝に出席することができ、説教をすることができたことは感謝です。私たちにとって、病、病気は大きな問題です。主イエスは、重い病に苦しんでいる人々を癒やされました。
ルカによる福音書5章には主イエスが中風の人を癒やされた物語が書かれています。中風の人が「すぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」ことを見て、「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。」のです。そして「今日、おどろくべきことを見た」(ルカ5章26節、p111)と語っています。病があることは私たちにとって大きな問題です。病によって私たちは苦しむのです。病、しかも治る見込みがない時に、死を予感し、望みを失い、生きる希望を失うのです。
そのような者にとって、健康を回復することはとても大きな喜びです。主イエスは、病気の人々に同情して、相手をし、その病を癒されました。病気は苦しみと痛みとを伴います。その苦しみに深く同情し、病んで苦しんでいる者のために力を尽くしているのです。
長い間、病に苦しんでいた人々。この日も昨日と同じように、病に苦しむ、その一日であり、病に解放されない日であろうと思っていたのです。しかし、主イエスによって、病が癒された、それは神がみわざを起こしてくださった今日なのです。そのことは自分にとって心に刻む今日なのです。神が私を癒してくださった、幸いな今日なのです。
この「今日」と言う言葉は、他のところにも用いられています。徴税人ザアカイの物語において使われています。「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19・9)とあります。誰もザアカイを人間として相手にせず、軽蔑し、避けていました。ザアカイは深い孤独の中に過ごしていました。一人ぼっちであったのです。
しかし、主イエスは一人の大切な人間として、相手にし、呼びかけ、彼の家を訪ね、食事をし、泊まり、楽しい時を持ったのです。悪いことをしている彼を主イエスは受け入れ、彼を無条件で受け入れ、その存在を認めています。主イエスの愛に深く心を動かされて、悔い改めて、人々から不正に取ったお金を返済することを申し出ます。ザアカイは主イエスの訪問によって、自分が神に愛されていることを初めて知ったのです。初めて愛される経験をしたのです。それで「今日、救いがこの家を訪れた」と言われたのです。
自分を神がかけがえのない存在として心にかけ、自分を愛している、そのことが分かるのです。救いと言うのは、自分が神に受け入れられ、愛されている、ということです。そのような愛に支えられて生きることが救いの生活です。
クリスマスが近づくと、いつも思い浮かべる小説があります。皆さんも読んだことがあると思いますが、イギリスの作家ディケンズが書きました「クリスマス・カロル」と言う小説です。この小説の主人公のスクル−ジはとても心の狭い人でした。冬で寒いのに自分の会社のスト−ブも付けず、甥が心配して会いにきても、冷たい態度で接するのです。このスクル−ジはかたくなな心を持った人物でした。しかし、スクル−ジはクリスマスイブの夜、夢を見て、自分が相手にどんなにひどい扱いをしたかを見せつけられ、クリスマスの朝に、悔い改め、晴れ晴れとした心で、クリスマスを迎えることができたのです。
興味深いことに、「今日」と言う言葉は主イエスが十字架につけられた時に、磔にされた一人の犯罪人に向かって語られています。「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23章43節)と語っているのです。重い罪を犯した犯罪人が自分の罪を深く受け止め、主イエスに救いを求めたのです。その願いに応じて、主イエスは、この犯罪人の罪を赦し、神の愛に包まれた「楽園」に主イエスと共にいる、と約束されたのです。
天使は羊飼いたちに「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と語っています。「あなたがたのことだけに」「あなたがたのことだけに集中して」救い主がお生まれになった、と語っています。神は自分のことはどうでも良いと思っているのです。あなたがたのことだけに関心があるのです。神は私たちのことだけを思って、主イエスをこの地上に送り、生まれさせたのです。
主イエスの誕生の知らせが、最初に羊飼いに知らされたのです。このことは深い意味を持っています。それは主イエスが御自身を「わたしは良い羊飼いである」とご自身をはっきりと語られています。羊飼い、いろいろな羊飼いがいます。猛獣が来ると自分の命を守るために羊を見捨てて、逃げてしまう羊飼いもいます。しかし、主イエスは「良い」羊飼いなのです。「良い」という言葉は「他と比べようがない」「他にはいない、無比な、唯一な」と言う意味の言葉です。他の羊飼いとは比べようもないほどの羊飼いなのです。主イエスは羊のために御自身の命を捨てるのです。
ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった主イエスは、私たちのためにゴルゴダの処刑場で十字架の死を遂げられるのです。私たちの罪を取り除くために、御自身の命を捨てる、それほどの愛をもってわたしたちのためにささげるのです。わたしたちのために神は独り子を送られ、主イエスは、救い主として、今日、お生まれになったのです。
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20151213 主日礼拝説教 「神をほめたたえるクリスマス」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書42・18-25、ルカによる福音書1・57-80)
今年のクリスマス礼拝は12月20日に行われます。そして23日にこどものためのクリスマス、24日には、キャンドルライトサ−ビスが行われます。主の御降誕を心から祝うために、主の御降誕の意味を共に学びたいと思います。
ルカによる福音書は、主イエスが誕生する以前の物語を詳しく語っております。主イエス以前にバプテスマのヨハネが誕生しており、その物語が、ルカによる福音書1章に書かれています。ザカリアとエリサベツの間に男の子が誕生しました。その名前を付ける時に、この当時の習慣では父親の仕事を受け継ぐ意味もあり、父親の名前と同じ名前をつけるのが慣わしでした。親戚も「ザカリア」と言う名前を付けるとばかり思っていたのです。ところが神から示された名前は、両親とも同じ名前で、「ヨハネ」でした。この「ヨハネ」は、「神は恵み深い」という意味です。この名前は、この男の子の将来を暗示しています。この名は、神がお決めになった名前であり、神と深く関わる使命を与えられて、その働きをすることを示しています。
ザカリアはエルサレム神殿で祭司として働き、自分の息子に自分の仕事を受け継いでもらいたいと願っていましたけれども、このヨハネがもっと大きい働きをする者であることを神から示されたのです。神が行おうとする、その働きを担って、活躍する者が誕生したことを心から喜んだのです。神の言葉を語る預言者の誕生を心から喜んだのです。自分の息子が預言者として働くことになることを喜んだのです。
私が神学校を卒業して最初に赴任したのは、岡山の蕃山町教会ですが、この教会から年に4回「地塩」という教会報を送ってきます。教会報を読んでおりましたら、心に残った文章がありました。この教会の現在の服部牧師が「牧師室より」で次のことを書いています。
そこには静岡の富士市にいる父親が亡くなったことが書かれておりました。服部牧師の父親は、息子が神学校に入学して福音を伝える伝道者となることをとても喜んでいたそうです。服部牧師は以前から、父に父親が亡くなっても葬儀に行けないことがあると父に話していて、そのことを父親は了承していたそうです。父親は自分の葬儀よりも、主のために仕え、福音を伝えることを優先するようにと話していたそうです。
実際に父親が亡くなり、葬儀の前日には行きましたが、教会の務めがあり葬儀には出ることができなかったなかった、と書かれていました。服部牧師の父親は自分の葬儀よりも息子が主に仕えて福音を伝えていることを優先することを望んでいたのです。
ザカリアは自分の息子が神の働きに参加することを喜んでいたのです。ヨハネの働きはどのようなものであったのでしょうか。
それは「主に先立って行き、その道を整える」(ルカ1章76)ことです。それは、主イエスが「神の国が近づいた」と語る伝道に先立って活動を開始し、その道を開き、主イエスの活動が人々に受け入れられるようにその道を整えることでした。神の言葉を聞くのに受け入れる体制ができていないと聞くことができません。人々が柔らかい心で主イエス・キリストの福音を聞くことができるようにするために、謙遜な心で主イエスを迎えるように人々の心を整えるのです。大切なお客さんが来られることがわかっていたら、そのお客さんが来る前に自分の家を掃除して部屋をきれいにして迎えるのです。救い主が来られる、この救い主を迎えるために、心を整えて待つのです。救い主を迎えるために準備して待つのです。このような仕方でヨハネは神の救いの業に参加するのです。主イエスが活動を始める前に、主イエスを迎える、その道備えをするのです。
ルカによる福音書3章15−16節には次のように語られています。「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼をさずけるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履き物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』」( p106) ヨハネより優れた方が来られる、とヨハネは人々に語っています。
この時代はロ−マ帝国の植民地であり、この地方の領主ヘロデ王が力をもって支配し、先に光を見いだせない時代でした。現在の日本も閉塞的な、先が見えない時代です。私たちの歩みも先が見通せないものです。就職活動している若者が就職先が見つからないで苦しみ、暗い表情をしているのです。毎日、私たちは暮らしていて、夜の暗闇の中を歩いているような不安を持って暮らしています。しかし、先が見通せない時代にあって、新しい時代を切り開く者が来られるのです。
過去の歴史をたどっていくと、イスラエルの民の歴史は神に反逆し、罪を犯してきた歴史です。しかし、神はそのことは問わないのです。今から神が始めようとしている新しい時代が始まります。神が始められ、神が私たちを救いへと持ち運ぶのです。救い主が来て、新しい時代が始まるのです。
ザカリアは、神が新しいことを始めようと意図しているけれども、これから何をなさるのかを預言しています。神の救いが行われることを預言するのです。
このザカリアの預言を読んで、私は心惹かれる言葉がいくつもありました。1章68後半「主はその民を訪れて解放し、」と言う言葉です。この言葉は、イスラエルの民がエジプトに奴隷であった時に、神はその苦しみと叫びに耳を傾けて聞き取り、モ−セを用いて、奴隷から解放したことがこの言葉の背景にあります。主である神は、罪ある者、苦しむ者、孤独な者、悲しみを持っている者に深い同情を寄せ、訪ねてくださるのです。遙か遠いところからわざわざ、訪れてくださるのです。私たちが苦しんでいる時に神は訪ねてくださるのです。
この「訪れる」と言う言葉は、とても大切な言葉です。1章78節に「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」とあります。主イエス・キリストが、その人のところを訪れると光が差し、そのあたり一面が明るくなるのです。自分が神によって肯定され、ここに生きていて良いのだと受け止めることができるのです。
それはザアカイの物語によく表れています。ルカによる福音書19章1-10(p146)に記されています。ザアカイは、「正しい」と言う名前を持ちながら、人々から理不尽に通行税を巻き上げ、自分の懐にその一部を入れて生活するような、不正な生活をしていました。金持ちでしたが、ひとりぼっちであり、誰も相手にしていませんでした。友達もおらず孤独の中にいたのです。
このザアカイを正面から相手にしたただひとりの方がいます。それは主イエスです。ザアカイの名前を呼び、ザアカイの家に行き、ザアカイと共に食事をして、そこに泊まり、親しくなったのです。そしてそのことによってザアカイは、自分の罪を告白したのです。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19章9-10)
罪深い者が、その罰を受けることなく、主イエス・キリストによって受け入れられているのです。自分の存在を認められています。ザアカイは罪を犯している人物です。
私たちは、自分はお金をごまかすことはしていない、ザアカイとは違う、そんな悪い人間ではない、と思っています。しかし、毎日の暮らしの中で心の中では人を憎み、人を愛することができていないのです。そのような者を神は相手にして訪れてくださるのです。神は自分の外に出て、肉体となり、イエスとして誕生されました。それは私たちと同じ地平に立ち、私たちに同情し、私たちの苦しみを担い、私たちの罪を背負うためです。
神は私たちの最も近くに来て下さり、私たちの救いのために御自身の身体を献げて下さるのです。
なぜ、そのようなことをなさるのか。それは、神は私たちと契約を結んだからです。契約を結ぶことはその契約に縛られることです。
旧約聖書には、イスラエルの民は契約を破り、反故にしてしまった、その歴史が書かれています。偶像を礼拝し、自分のことを大切にして、他の人を愛さないのです。しかし、神は契約を破って関係を切ってしまった者を見捨てることはなさらないのです。相手が契約を破り捨てても、神は契約を守り、その契約を持ち続けるのです。
私たちの社会では、普通、どちらかが契約を破ったらその契約は無効となります。例えば、旅行の契約を結ぶとします。キャンセルすると違約金を払わなければなりません。しかし、神と私たちとの契約は、私たちが契約を破り、契約を忘れていても、神は契約を守り、その契約を忘れることはないのです。
ルカによる福音書1章72節には「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。」と語られています。神は、契約を結ぶとどのようなことがあっても、その契約を守り通すのである。
旧約聖書イザヤ書54章10節(旧約p1151)には「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。」と語られています。
私たちがどのようなことがあっても、神は私たちを愛してくださるのです。私たちは相手に条件を付けています。条件に合わないと相手にしないことがあります。自分に対してひどいことをしたので、もうつきあわないのです。相手が自分の条件に合わないと相手にしません。
しかし、愛に生きることは、自分が持っている条件に合わなくても、相手を愛するのです。相手が自分に罪を犯したから、相手を赦さない、そうではないのです。罪を犯しても、相手を愛するのです。相手を赦すのです。
この契約と言う言葉は、主イエスが御自身が十字架で犠牲をささげることを予告した最後の晩餐で用いられています。
ルカによる福音書22章20には「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(p154)と語られています。
自分が犯した罪を自分が賠償することなく、主イエス・キリストが賠償してくださるのです。そして、あたかも罪ある者でないように、あたかも正しい者であるかのように、私たちを認め、取り扱ってくださるのです。良い行いをして認められるのではなく、良い子でないと認めてくれないのではなく、正しいことをしていなくても、過ちを犯していても、主イエス・キリストの正しい行いによって、その存在を認め、受け入れてくださるのです。
愛するということは、自分のもっている条件にかかわりなく、愛することです。現実の社会は、何でも条件がついていてその条件に合うと愛することがほとんどです。しかし、神は神の条件に合わない者を愛する、しかも、相手の存在そのものを愛するのです。
親が子どものためと思って、厳しい教育、厳しいしつけをすることによって、良い大人になると思っていることが多いのです。子どもは親の言うことを聞いてよい子にしないといけないと思い、小さい時にはよい子として振る舞うのですが、親に愛されているとは思えないので、燃え尽きてしまうのです。思春期になって不登校になったりすることが多いのです。
親が子どもの甘えやわがままを認めず、親が良いと考えることを厳しく要求するのですが、子どもは自分をありのまま受け入れ、愛してほしいという願いが満たされないので、生きていく意欲を失うのです。破れのある自分、悩んでいる自分、疲れている自分を受け入れ、抱き留めてほしい、そのような願いを多くの子どもたちがもっているのです。
私たちは神のみこころに適う生活はしていません。しかし、そのような者を変わらない愛をもって神はいつまでも愛してくださるのです。私たちが神を忘れ、神を愛さない時にも、神は私たちを愛してくださっているのです。
このザカリアの預言の中で、心惹かれる言葉は1章78-79です。
「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
主イエス・キリストが神のもとからこの地上に来られる、それは、あけぼのの光が訪れることです。朝方、太陽が東の空から昇り始める、光が輝き、私たちに光をもたらすのです。
神は光を私たちに送って下さるのです。神の愛と言う光を私たちに照らして下さいます。それは主イエス・キリストを私たちに派遣してくださることで明らかです。神は私たちと共にいつもいてくださるのです。
イザヤ書60章19-20(旧約p1161)を読みたいと思います。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず 月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり あなたの嘆きの日々は終わる。」
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20151206 主日礼拝説教 「わたしの魂は主をあがめ」 山ノ下恭二 |
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(詩編147・1−11、ルカによる福音書1・39−56)
本日の礼拝は待降節第二主日礼拝です。この礼拝堂に二本のろうそくに火が灯りました。多くの人々は「クリスマス」と言う言葉を知っています。しかし、「クリスマス」という言葉そのものがどのような言葉であるのか、その意味を知っている人は少ないと思います。クリスマスと言う言葉は「クリス」と言う言葉と「マス」と言う言葉とが、組み合わさった言葉です。「クリス」と言う言葉は「キリスト」を意味し、「マス」は「聖なる祭」「礼拝」という意味です。従って、「クリスマス」と言う言葉は、「キリストの聖なる祭」「キリスト礼拝」と言う意味の言葉です。キリスト礼拝、キリストを礼拝するとは、どのような意味なのでしょうか。
主イエスの誕生について詳しく書いているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書ですが、この二つの福音書は主イエスの誕生について異なった書き方をしています。ルカによる福音書はマタイによる福音書と比べて、主イエスの誕生以前の物語を詳しく語っています。ルカによる福音書は、主イエスの誕生から始めるのではなく、誕生以前の話を長く語っています。それはどうしてなのでしょうか。主イエスの誕生が、神が計画し、念入りに考え、神が望んだ誕生であったことを語りたかったのです。神の永遠の計画の中に、主イエスの誕生があり、神が熱望して、望んで、是非にと決断した誕生であると言うことです。
主イエスの誕生と言いましたが、キリスト教会は最初から主イエス・キリストの誕生と言わないで、「御降誕」と言ってきました。このことはとても重要な意味をもっています。私が北九州の若松教会におりました時に、すぐ近くにカトリック教会があり、その教会案内の掲示板には「主イエス・キリストの御降誕の御ミサ」と書かれていました。
主イエスの誕生と言わないでなぜ「降誕」とわざわざ言うのでしょうか。「主イエスの御降誕」と言うのは、主イエスの誕生に神御自身が深く関わっているからです。主イエスの誕生は、神が私たちの救いのために自分の外に出て、肉体を取り、主イエスとなられたことなのです。このことをこの地上で実現させるために神は手を尽くして、マリアを選んだのです。神はあらかじめ、神の計画をもち、神の計画の中で、マリアが選ばれました。神はマリアに神の計画に参加するようにその計画をマリアに打ち明け、マリアもその計画に従っていくのです。その過程を詳しく物語ることによって、主イエスの誕生が、神が始められた御業であることを明らかにしようとしています。
マタイによる福音書は、主イエスの誕生の次第を短く語っていますが、ルカによる福音書では、バプテスマのヨハネの母エリザベトが天使からヨハネの誕生が告げられています。この福音書の初めにヨハネの誕生の物語が語られているのは、主イエスの救いの御業を際立たせたいと考えたからです。
主イエスはバプテスマのヨハネ以上の存在であることを強調したいのです。ヨハネは、神の審判を語り、悔い改めを迫ったのです。ヨハネは神に背いた生活をしている者すべてが、神に裁かれることを糾弾し、神がいつ来ても、裁かれないように身を清めて、悔い改めなさいと人々に告げたのです。そのヨハネのメッセ−ジに勝る、神の救いを主イエスは語ったのです。
ヨハネは神の審判だけを語りました。しかし、主イエスはヨハネが語った審判以上のことを語りました。主イエス・キリストは罪の赦しを宣べ伝えたのです。私たちは自分本位の生活をしており、それは神に裁かれる者ですが、主イエス・キリストは、私たちが引き受けなければならない神の審判を引き受け、私たちの罪を赦す方として、この地上に来られたのであります。
マリアはどこにでもいる娘です。この神の企てを聞いて、驚き、思い巡らしたのですが、信仰をもって受け入れ、神の言葉が実現するようにと答えるのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1章38 p100)マリアの訪問を受けて、エリザベトが「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と挨拶し、この挨拶を受けて、マリアは歌を歌います。この歌はのちに「マリアの讃歌」と呼ばれるようになりました。
今日、この礼拝で読みました、ルカによる福音書1章39−56節は、「マリアの歌」、「マリアの賛歌」と呼ばれており、後のほうに歌われておりますのは、ヨハネの父になりましたザカリアの歌であり、そのために「ザカリアの賛歌」と呼ばれています。この二つとも旧約聖書に多くの典拠を持っているわけですが、旧約聖書の言葉を用いながら美しく神の恵みをほめ歌います。これらは、その後、キリスト教会においても多くの讃美歌の中でも特別に愛される讃美歌になりました。
もともと私たちの信仰は、歌と切り離すことはできません。日本の教会ではよく歌を歌います。日曜日の礼拝の時間に教会の前を通ったら、きれいな讃美歌の歌声が聞こえて来たので、思わず教会の中に足を踏み入れて、それがきっかけとなってキリスト者となった人もいるのです。キリスト教会がよく歌を歌うので、音楽を愛する人々を惹きつけたのです。また音楽はすばらしいと言うことを教会を通じて学んだ人も多いのです。
マリアの賛歌をラテン語で、「マグニフィカト」と呼んでいます。この言葉は、1章47節の最初の言葉「わたしはあがめる」というラテン語をそのまま、この歌の題名にしたのです。宗教改革者ルタ−は「マグニフィカト」と言う本で、マリアの賛歌について詳しく書いています。ルタ−は「わたしは主をあがめ」と言っていないで「わたしの魂は主をあがめ」と言っていることが大切だ、と言っています。自分が讃美する、自分があがめる、のではなくて、それは神の働きであるというのです。神を讃美することは、人間の行為ではなくて、それは神の働きである、と書いています。
私たちは讃美歌を歌うのですが、私たちが歌を歌うのと、一般に歌を歌うこととは違います。私は一般の合唱を聴くことがありますが、一般の歌は、音楽としての美しさ、音楽としてどうかで評価するのです。
しかし、私たちの讃美は、音楽としての美しさではなくて、信仰によって歌うのであり、それは神が私たちの内側から讃美を起こしてくださり、そのことによって歌うのです。
このマリアの讃歌はマリアがソプラノ歌手のように美しい声で歌ったわけではありません。マリアは神からの語りかけを聞いて、その内容に答え、神がその御業を実現し、自分の中に神がよい業を始めてくださった、その内側からほとばしり出るような喜びが溢れてきて、神を讃美せざるを得ないのです。讃美しようと思って、無理に言葉を探すと言うことではないのです。
ルタ−が強調していますが、神が聖霊を私たちの内側に注いでくださり、讃美をさせてくださるのです。田舎のどこにでもいる女性に神は神の企てを打ち明け、神の救いの御業を始めようとされているのです。その不思議な神の御業を歌わざるを得ないのです。神の御業はなんとすばらしいのだろうとマリアは心から思ったのです。人間の小さな思い、知恵を超えて、神は御計画を企て、実現され、そのために人を用いるのです。
このマリアの讃歌は「私の魂は主をあがめ」という言葉で始まっています。「あがめる」と言う言葉は「メガリュオ−」と言う言葉です。「メガ」と言う言葉は「とても大きい」「巨大である」と言う言葉です。「メガリュオ−」と言う言葉は、「とても大きなものとする」と言う言葉です。「わたしの魂は主を大きくする」と言う言葉です。
マリアの讃歌にある、この言葉は、私たちに信仰の急所を教えています。神をあがめると言うことは神を大きくすると言うことです。そして自分を小さくすると言うことです。
ルタ−が、この聖書のテキストについて、説教しています。「マルティン・ルタ−の福音書説教抜粋」という、1964年に翻訳された本です。ルタ−は「わたしの魂は主をあがめ」と言う言葉について次のように語っています。 「マリヤは、『わたしの魂は主を−自分自身ではなくて主を−あがめる』とうたいました。」(略)「彼女は言いました。『わたしはさいわいです。けれども、わたしは自分をあがめはいたしません。わたしの魂は主をあがめるのです。わたしの状態は、神がわたしに与えてくださった恵みによるのであって、わたし自身はそれに値しないのです。』ここには、最高の喜びと、しかもなお謙そんがあります。神に対して栄えを帰し、服従してゆくばかりか、人に対してもまたそうであるのです。」
マリアは神をあがめる、神を大きなものとして自分を小さなものとするのです。神を大きくすることが、神をあがめることです。自分が神よりも大きくなることはないのです。私たちは、いつも自分から離れられない罪の弱さを持っているので、神を信じている自分が立派であるかのように思ったりします。信仰をもっている自分を大きく見せようとするのです。神をあがめるというのは、神が大きくなって、自分は誰にも見えないほど隠れて分からないようにするということです。
ルタ−はマリアが「謙遜」であったと語っています。しかし、私たちは神よりも自分を大きなものとしています。神のみこころよりも自分の思いを大きなものとするのです。神よりも自分のほうが大きくなるのです。
12月3日の聖学院大学の全学礼拝で、大学で哲学を教えている女性の教師が、高校生の時の経験を話されました。高校の授業が終わり、多くの級友が教室の掃除があるのに、すぐに帰ってしまい、自分ひとりだけ、残って掃除をすることがあり、憤懣とやりきれなさを感じていたと言うのです。ある時、聖書を読んで、神が自分のことを見ていてくださっていることを知らされて、気持ちが変わったそうです。誰も自分のことを見ていなくても、褒めてくれなくても一人で掃除をしている自分を神は見ていてくださり、それで良いと思った時に、掃除をして自分が役に立っていることに喜びを感じた、と話されました。
自分の気持ちや立場から離れて、神のみこころを大きなものとする、神にこころを向けて、仰ぐのです。私たちは神のみこころよりも自分の都合や自分の考えを優先していくのです。また神よりも他のものを大きなものとしていくのです。マリアは、自分の考えよりも、神の計画を信仰をもって受け止めたのです。そして神の計画の中に入れられ、そして主イエスを生むという大役を与えられて、その大きな神の業に参加することに心を向け、そして、神のなさる業をほめたたえるのです。
このマリアの讃歌で心うたれる言葉は「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」(1章48節)と言う言葉です。
神は地位の高い、能力のある者を選んだのでなく、名もなく、とるにたりない娘を選んで神の救いの御業に用いようとされます。この当時の大祭司、王、貴族の娘を選ばず、どこにでもいる田舎の娘を選んでくださったのです。
「目を留めてくださった」「目を留める」相手に向かって自分の方から身を向け、正面から視線を向けるのです。神が、こちらに眼差しを向け、身を向けてくださるのです。神が自分のほうに向いてくださり、目を注いでくださるのです。自分を大切な者として取り扱う時に、相手に自分の身を向け、正面から対面するのです。マリアは、取るに足りない、名もない者、相手をしても仕方がない、価値のない者に、神は、自分のほうに向いてくださり、目を注いでくださるのです。
私は礼拝の中で、「祝祷」をします。アロンの祝福と呼ばれている言葉を宣言します。民数記6章24-26節のみことばです。その中に「主が御顔をあなたに向ける」と言う言葉があります。神がその御顔を向ける、それは恐ろしい顔でにらみつけると言うのではなくて、慈しみと憐れみをもって私たちに顔を向けるのです。
自分に好意を持っているか、それとも、よく思っていないかは、顔の表情で分かります。神は愛をもって慈しみをもった顔で私たちに対面し、私たちを受け入れてくださるのです。しかも、私たちは神に愛されるのに値しない者であり、何の良い働きをしていない者です。何の働きをしていないのに、たくさんのご褒美をいただくようなものです。神を忘れ、自分のことばかり考え、他の人を愛さない、そのような傲慢な者に神は身を向け、目を注ぎ、愛をもって迎えてくださるのです。
そのような私たちを目を留めてくださったのです。私たちが感謝もせず、讃美もせず、神の恵みを忘れているにもかかわらず、神が心に留め、身を向け、顔を向けて、愛をもって慈しんでくださるのです。
このマリアの讃歌には、「憐れみ」と言う言葉が二度出てきます。特に1章54節に「憐れみをお忘れになりません」とあります。この「憐れみ」という言葉は「誠実」という意味の言葉です。相手を心に留める誠実さであり、相手のことを忘れない誠実さです。
神は私たちを忘れることはないのです。親がいつまでも子どもを忘れないで心配しているように、神は私たちを忘れることはないのです。私たちのような小さな存在をも神は忘れることはないのです。私たちの生活に応じて仕返しすることはなく、憐れみを忘れないのです。
主イエスの母マリアが主なる神を「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」と讃美し、「憐れみをお忘れになりません」と讃美しています。
主イエス・キリストが地上で具体的に行ったことはこの通りのことをなさったのです。主イエスは、この地上で貧しい者、病める者、罪人を招き、一人一人に眼差しを向け、救いの手を差し伸べてくださいました。
そのことによって、神がどんな方であるかを主イエスみずから明らかにしてくださいました。
神が自ら、自分の外に出て肉体を取り、イエス・キリストとして誕生し、十字架につき、犠牲をささげ、死んでくださったのです。この十字架の死が、私たちを忘れておらず、神が憐れみ、愛してくださったということをよく証明しています。
主イエス・キリストの御降誕を待ち望む日々を、クリスマスの意味を心に留めながら過ごしたいのです。
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20151129 主日礼拝説教 「神にできないことは何一つない」 山ノ下恭二 |
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(ヨブ記42・1−6、ルカによる福音書1・26−38)
一本のろうそくに火が灯りました。本日は、主イエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節第一主日礼拝を共に守っています。
主イエスの誕生に最も深く関わったのは、主イエスの母マリアです。福音書には主イエスの誕生の時に、多くの人々が関わったことが記されています。ヨセフ、羊飼い、東方の博士などです。しかし、マリアは主イエスを宿し、産んだと言う意味で、主イエスの誕生に最も深く関わった女性です。マリアは主イエスの誕生をきっかけにしてその生涯が大きく変わったのです。
ルカによる福音書には、天使ガブリエルがマリアに神の子の誕生を告げた場面が詳しく記されています。天使はマリアに神が計画し、企てていることを打ち明けています。1章28節に「恵まれた方」と呼びかけています。この言葉は「既に恵みを受けた方」と言う言葉です。この言葉から神がマリアを既に選んでいることが分かります。マリアが決心して男の子を産む、と言うのではなく、マリアの決心に先んじて、神の決断があったのです。神の隠された計画の中に既にマリアを選んでいたのです。そのような神の選びがあったのです。
1章30節に「あなたは神から恵みをいただいた。」と記されています。「神から恵みをいただいた」と言う言葉の「恵み」とは、神が既にマリアを選び、神の計画のうちに加えている、と言う意味です。
天使はマリアに初めて会った時に「おめでとう」と挨拶しています。私たちも相手におめでたいことがあった時に「おめでとう」と言います。子どもを出産した女性に「おめでとうございます」と言います。ここではそのニュアンスではなく、直訳すると「喜びなさい」と言う言葉です。「喜べ」と言っているのです。良いことがある、神がもたらした良い知らせがあるので、「喜びなさい」と告げています。
マリアにとって、このことが突然のことなので、何のことかわからずに戸惑っていました。そこで、天使は、マリアが男の子を産み、その子をイエスと名付けなさい、そしてその子は、神の子であることを伝えました。
そのことを聞いてマリアは、男を知らない者がどうして産むことができるのか、できるはずはないと応えます。それに対して、天使は1章37節で「神にはできないことは何一つない。」と語ります。この言葉を直訳すると「神においては、その語られたすべての言葉が不可能ということにはならない」となります。簡単に言い換えると「神が語られた言葉、それは必ず実現する」と言うことです。神が計画し、企てたことは本当に実現する、それが実現せず、不可能になることはない、そのことを信じなさい、とマリアに語っているのです。
天使によって語られた神の言葉を受けて、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えています。言葉を換えて言うと「あなたが今、言われたそのお言葉が、わたしにおいて真実に起こりますように」「そのお言葉どおりのことが私に起こりますように」そのようにマリアは答えたのです。
マリアにとって、これから子どもを産み、育てる、その知らせはとても不安であったに違いないのです。子どもの時には、子育ての親の苦労はわからないですが、親になって子どもを育てることは多くの苦労を伴います。子どもを育てるのは何時も喜びであるとは限らないのです。
子どもを産み、育てる、そのことは不安や困難を予想したに違いないのです。福音書には主イエスの誕生には幾つにも困難があったことが記されています。国勢調査のためにそれぞれの故郷に帰るための旅をしなければならなかったのです。その旅の途中に宿屋がなかったために、家畜小屋で主イエスを産まなければならなかったのです。幼児虐殺を逃れるために産まれたばかりの嬰児を伴って、エジプトに避難しなければならなかったこともありました。このような困難がマリアを待ち受けていたのです。
しかし、マリアは、天使が「神にはできないことは何一つない」と語った言葉を信頼することができたのです。神が語られた言葉、それは必ず実現する、との言葉に信頼することができたのです。自分が独りでがんばって成し遂げるというのではないのです。神がマリアを選び、愛しておられることを信じ、そして神が語られた言葉そのものを神がどのようなことがあっても実現すると信じたのです。
主イエスは神の国の譬え話の中で、「成長する種のたとえ」を語っておられます。「人が種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」(マルコ4・26−27、p68)と語っています。自分が何もしなくても、種はひとりでに成長するたとえを用いながら、神が決断して計画されたことは、私たちがどうであれ、それは実現することを伝えています。
主イエスがガリラヤ地方を巡回している時に、こういうことが起こりました。汚れた霊に苦しめられている息子を癒して欲しいと父親が主イエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と頼んだことに対して「『できれば』と言うのか。信じる者は何でもできる。」と語っています。そしてその息子は完全に癒やされました。
私たちには様々な限界があります。どんなにがんばってもその壁を破れないことがあるのです。しかし、「神にできないことは何一つない。」のです。
十字架の死を突破して、よみがえりのいのちに導く神の力に信頼するのです。マリアは自分の可能性ではなく、神が可能にする、この神の可能性に賭けたのです。
マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えています。言葉を換えて言うと「あなたが今、言われたそのお言葉が、私において真実に起こりますように」「そのお言葉どおりのことが私に起こりますように」そのようにマリアは答えたのです。
「わたしは主のはしためです」言い換えると「私は主のしもべです。主に従うものです。あなたがなさいました決断、あなたが立てておられる企てに、わたしはひとりのしもべとして、それに加わり、そこに生きたいと願います。」マリアは、この神の企ての中に組み入れられていくのです。
私たちは一人ひとり、自分の物語を持っています。それぞれの人生の計画を持っています。学校を卒業して、会社に勤め、結婚して、定年になって退職する、そのように、自分の人生を思い描いていた人もいると思います。ひとりひとり、それぞれ人生のプランを持っています。実際には自分の思い通りには行かないですが、それぞれ心の中で自分の人生を思い描いています。
マリアも自分の人生のプランを持っていたはずです。しかし、天使による神の招きによって、マリアは自分の人生が変更されたのです。自分が思い描いていた人生のプランとは全く異なるプランを示されたのです。それはマリアにはとても考えられないプランであったに違いないのです。
先週の水曜日に四谷の聖三木図書館に行きました。聖三木図書館はキリスト教書が揃っているので、借りることが多いのです。20世紀の最大の神学者カ−ル・バルトの説教集があり、読んでいましたら、今日の聖書のテキストの説教がありました。その説教には、次のことが語られていました。このルカによる福音書1章にはヨハネと主イエスの誕生物語が書かれているが、ヨハネの両親は老齢であったにもかかわらず、子どもが与えられた、老齢で子どもが与えられることはある、それに比べてマリアは、まだ結婚していなくて、男を知らないので子どもを産むことはできないので、これは不思議なことだ、奇跡だと言うのです。またヨハネの両親は神殿に仕え、社会的な地位を持っている、それに対して、マリアは女性で、社会的な地位もなく、名も知れないひとりの女性であったのだ、と語っています。今も女性の地位は低く、立場が悪いのですが、この時代はひとりの人間として、人格として重んじられることはなかったのです。そのひとりの女性に、子ども、しかも神の救いをもたらす神の子が誕生することを、マリアに告げたのです。そのことは驚くべきことです。
マリアは名も知れぬ自分の人生の物語から、神の物語に参加することになったのです。ナザレでつつましい生活をしようと考えていたことから、救い主を産むことによって神の物語に参加させられ、神の計画の一員とされたのです。
台湾に生涯を宣教師としてささげたトマス・バ−クレ−について書いた本を読みました。「トマス・バークレー」−台湾に生涯をささげた宣教師−と言う本です。この人はスコットランド長老教会から派遣され、台湾で神学教育を始めた宣教師ですが、この本の中に、16歳の誕生日に、厳粛な誓いを立て、全生涯を神への奉仕にささげるという契約の文章を書きあげ、毎年、この契約の文章に署名しており、結婚の時にも、妻に署名をしてもらい、毎年、この契約を更新している、と書いてありました。この文章はバ−クレ−が、逝去した後に発見されたものです。神のために自分のすべてをささげます、というすばらしい文章です。『献身』「永遠の、常に聖なる神よ、私はこの上なく悔い、砕けし魂をもって、あなたの御前に私自身を差し出します。このように罪深い虫けらが、聖なる天主、王の王、主の主であられるあなたの御前に出ることがいかに相応しくないかは、分かっております。あなたと契約を結ぼうとするような時において、特にそうです。しかしこの計画・考えは、すべてあなた御自身のものです。この計画は、あなたが限りなく御自身を低くされ、あなたの御子をお遣わしになったことによって、与えられたものであり、あなたの恵みが、その計画を受け入れるよう私の心を動かしたのです。」
長い文章なので、文章の全部を紹介できませんが、何度も「私は今日、最も厳粛な思いで、あなたに私自身をささげます。」と書いています。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」カ−ル・バルトは説教の中で、このマリアの言葉が待降節の中心的なメッセ−ジである、と語っています。この言葉は、私たちの全生活、隅から隅まで、主のはしためです、と言うことです。それは、伝道者、宣教師は献身しているからそう言えるけれども、自分は伝道者ではないから、関係がないとは言えないのです。
礼拝している時、聖書を読んでいる時、教会の奉仕をしている時だけ、主の僕であるというのではないのです。他の時には、はしためではなく、自分が主人であるというのではないのです。いつも「主の僕」なのです。
トマス・バ−クレ−の献身の契約の文章は「祈り」です。マリアの言葉も祈りの言葉です。「全生活、隅から隅まで、主のはしためです。神の企てどおりに私を用い、生かしてください。わたしにおいてそのみこころを実現してください。みこころを身に引き受けます。」神が先に決断していて、その決断を受け入れることをしたのです。
私たちは人間中心の時代に生きており、何事も自分の考えで決断しています。神の言葉を聞いて決断することがないのです。
しかし、あらかじめ神の決断があり、私たちはその決断に従うだけです。人生における分岐点、学校を決める時、就職を決める時、結婚を決める時、大きな買い物をする時、自分一人で決めないで、神にそのみこころを問いながら、神の言葉が私を導き、神の言葉が私の現実になりますように、と祈るのです。
「わたしの言葉が実現するように」ではなく、「あなたの言葉」である聖書の言葉を聞いて決めることができますように、と祈るのです。いつでも私たちはみことばに耳を傾けながら、そのみことばの光の中で、決断していくのです。
それは神が何を考え、何を計画し、どのような決断をしているか、ひたすら聞くのです。それは私たちが聖書を開いて読む生活を続けていくことです。
この物語は、受胎告知の物語と呼ばれます。主イエスがこの地上に誕生する前の物語だから、準備段階の物語である、とは言えません。もう既に神の救いの本番が始まっています。神の子イエスと呼ばれるべき子どもとして、ひとりの娘の母胎に宿ったのです。
女性が子どもを産む。それは、いつも無数に起こっています。この出来事はその中の一つではありません。神が既に宿ったのです。この幼子がすべての人の罪を贖う救い主であり、その贖いによって、信じる者が赦され、神の祝福にあずかることができる、神の子の誕生なのです。
神は天使を通して、マリアに親しく語りかけました。そして神の計画に参加するように組み入れたのです。私たちはいつも自分の生活にばかり心を使い、自分の都合と利益を優先して過ごしている者です。そのような者にも、神は私たちに臨んでくださり、罪ある者を赦すために、イエス・キリストを与えてくださり、みことばをもって慰め、愛をもって励ましてくださいます。
アドベント、神が私たちに向かって来る、と言う意味の言葉です。この意味を深く心に留め、この待降節(アドベント)の時を過ごしましょう。
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20151122 主日礼拝説教 「神の恵みによって生きよう」 山ノ下恭二 |
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(詩編15編1−5節、ガラテヤの信徒への手紙2章15−21節)
私は、栃木県の鹿沼教会学校で育てられました。小学1年生から3年生まで、教会学校の分級の担当の教師が、その当時、70歳位になっていた婦人でした。この人はホ−リネス教会の出身で、とても熱心に祈り、よく聖書を読んでいた人でした。私が3年生になった時、分級では参加している子どもたちが祈ることができるように毎週、祈りの訓練をしたのです。初めに教師が祈り、その後、それに続いて同じ言葉で子どもたちが祈ると言うことをした後に、それが済むと、「何々ちゃん祈りなさい」と言って指名された子どもが祈る、と言う分級でした。この訓練で祈れるようになったことは幸いでした。3年間、この教師の影響を受け、印象が強かったために、信仰と言うことは、熱心にすることだと思うようになったのです。私は祈ることもできるようになり、聖書に関して興味を持つようになったのですが、自分から祈ったり、聖書を読めば、信仰を持つことができると考えるようになりました。
私は高校一年生の5月頃から、信仰告白をしてキリスト者となり、教会員になろうと思い始めていました。しかし、心の中にためらいがあって、牧師に信仰告白をしたいとなかなか言えなかったのです。自分がキリスト者として、キリスト者らしい生活ができるか、できないのではないかと言うためらいがあったのです。キリスト者とは道徳的に過ちがなく、立派な人だ、しかし、そのように努力しても難しいのではないか、と考えていたのです。立派なキリスト者となれないならば、キリスト者にならないほうが良いのではないか、と内心、思っていました。そのような問題を抱えていた時に、栃木地区の高校生の集いがあり、その時に、ある教会の牧師に自分の悩みを話したところ、「自分の力で立派になる、そのような可能性ではなくて、神の可能性に頼るのが信仰だ、」と教えてくれました。自分の側の努力によって信仰生活を展開しなくても良いのだ、神に頼れば良いのだ、と言うこの言葉によって勇気づけられ、その年の10月に信仰告白をしてキリスト者になりました。
教会学校で教師が熱心に聖書を読み、祈る姿を見て、自分が熱心に祈り、聖書を読めば、信仰を持てるようになると思っていましたが、そうではなく、神の側での働きによって信仰が可能になることを知らされて、キリスト者になることができました。
本日の礼拝でガラテヤの信徒への手紙2章16−21節を読みました。この手紙を書きましたパウロは、キリスト者となる前に、サウロと呼ばれていました。サウロは、神の戒めを熱心に守るファリサイ派に属していました。サウロは神に認められるために、神の律法を守ることに努力していました。神の戒めをひとつひとつ守って、落ち度なく積み重ねていけば、神が正しい者として認めることを教えられ、そのために努力していたのです。
私たちの社会でも試験の良い学生は教師に認められて評価されますし、業績をあげた会社員は上司に認められて昇格し、優れた研究論文を提出した学者は、その論文が学会で認められます。自分の努力によって成果を出すことで認められるのです。
パウロは、今までの生き方が根本から覆されるような出来事を経験したのです。主イエス・キリストがパウロに回心させ、パウロは全く新しい生き方をするようになったのです。それは、神が正しいと認めることは自分の側の努力によって獲得するものではなく、神が与えてくださる「恵み」「恩寵」によって生きることを示されたのです。「恵み」「恩寵」この言葉は、「カリスマ」と言う言葉です。
パウロはキリストに出会うまでは、律法の行いによって神が正しいと認められる、そこに自分の生きる根拠を見出していたのです。認められる、承認される、ということは、私たちにとってとても重要なことではないでしょうか。自分が、存在していること、自分がしていることを認められたい、といつも思っているのです。パウロは自分が神の戒めを守っていることを神が認めていることを喜びとしているのです。
しかし、パウロは、主イエス・キリストが自分の罪のために贖いの死を遂げてくださったことを知り、律法の行いによって神に正しいと認められる生き方を捨てたのです。イエス・キリストがしてくださったことが余りにもすばらしいので、捨てざるを得なくなったのです。律法を行うことよりも、キリストを信じることに救いがあることがわかったのです。神が求めていることを、イエス・キリストが完全に果たしてくださった、そのことを信じることができたのです。その一方的な神の救いを信じることで、神に認められるのです。自分の行いによって神に認められる、あり方ではなく、神の一方的な恵み、恩寵によって正しい者とされることを信じることができたのです。「恵み」「恩寵」とは神の贈り物です。神は、私たちに「贖い」「赦し」を贈り物として与えてくださるのです。「信仰」は、自分の側の努力によって獲得するものではなく、与えられるものなのです。
このことは私たちが良いと考えている生き方に反することなのではないかと思います。この社会では「がんばれ」「がんばれ」と言われながら、過ごしているのです。毎日ではないですが、よく人に「がんばりなさい」「がんばって」と言うのです。がんばりを求める社会に生きています。しかし、聖書は、頑張らなくても良い、ただ、神の恵み、「恩寵」を戴くことが先決だ、と言うのです。
宗教改革者ルタ−は、詩編講義、ロ−マの信徒への手紙講義、ガラテヤの信徒への手紙講義を通して、神の義を再発見するのですが、特に詩編31編1節(口語訳)の「あなたの義をもってわたしを助けてください」と言う言葉を追究する中で「神の義」の意味を新しく発見したのです。「神の義」と言うことを、それ以前はルタ−は、神は正しい方であるから正しいことをしていない者を神は裁かれると考えたのです。しかし、「神の義」を「神が与える義」と解釈したのです。「お父さんのプレゼント」と言う場合、それは「お父さんが贈るプレゼント」と理解すると「神の義」と言うことの意味が明確になったのです。神が「義」を自分に贈り物としてプレゼントしてくれるのだ、と考えたのです。これが、神の義の再発見なのです。
「義」とされる、神の前に義とされる、のです。宗教改革の研究書では「宣義」「義と宣言される」と言う言い方をします。神が私たちを義と宣言する、善い行いがなくても、イエス・キリストによって私たちを正しいと宣言してくださるのです。ロ−マ・カトリック教会では「義化」と言う言い方をするのです。「義」と化する、自分が義となるように善い行いをすることです。ルタ−が宗教改革の運動を始めて、この改革運動がヨ−ロッパに広がっていくことに危機感をもったロ−マ・カトリック教会は、宗教改革に対抗して北イタリアのトリエントで公会議を開催して、ルタ−の主張を誤りであると決議します。この公会議によって、信仰によって義とされると言うルタ−の主張を退け、初めに神は恵みによって罪を赦すけれども、神に正しいと認められるためには自分の力で善い行いを積んでいく「積善行為」によって神は善いと認められるのだと確認をしています。
「信仰によって義とされる」と言うことを誤解しているところがあります。東大宮教会である時、教会学校の説教で「信仰によって義とされる」と言うことを主題にして、ある教師が説教をしていたのですが、「信仰の行いによって神様は認めてくださるのです」と言い、「聖書を良く読み、良く祈れば、神様は正しいと認めてくださるのです」と言う説教をしたので、それは正しくないと言ったことがあります。「信仰によって義とされる」と言うことは、信仰の行いによって義とされる、と言うことではないのです。
私たちの福音主義教会の教理の歴史を学ぶと、聖書が語っている内容から逸脱して、誤っていることを主張する人々がしばしば登場しているのです。神は、初めは恵みをもって人間に手を差し伸べる、関与する、しかし、その後は自分の力で良い行いをする、そのように神と人とが協力していくことによって神が受け入れるのだと言うのです。この神人協力説には、人間は良いことをすることができると言う前提があります。学校の教師が生徒に問題を解けるようにヒントを教えるけれども、この問題の答えを出すのは、あなた自身が考えて解決することだ、あなたの責任ですよ、と言うことです。自転車に乗ることができるように初めは自転車の後ろを押さえているけれども、少し運転に慣れたら自分で運転するように、手を離すようなものです。神が関わるのは最初だけであり、その後は自分の努力次第である、と言うのです。
17世紀にアルミニウスと言う神学者がこのように主張して、同調する人たちが増えて行き、教会も影響が及び、ドルトレヒトで会議を開き、このアルミニウスの主張、教えは退けられたのです。このドルトレヒトで会議を開き、アルミニウスの主張は正統な教えではないと退けた時の信仰告白が、「ドルト信仰基準」と呼ばれています。しかし、プロテスタント教会のある教派では、アルミニウスの教えを採用しています。神の恵み、プラス、人間の行い、この二つで救いは完成すると考えているのです。神の恩寵だけではなくて、熱心な信仰的な行いを強調するのです。
アルミニウスの教えを正確に説明するのは難しいですが、例えで言うと次のようになります。私たちは薬を呑むことがあります。薬を飲まなければ、病気は治りません。病気が治るか、治らないか、はあなたが薬を飲むか、呑まないか、に掛かっています。病気が治るか、治らないか、はあなたの責任です、と言うことです。神の恵み、それだけではなくて、自分の責任です。
信仰によって「義」とされる、この意味を改めて問い直す必要があります。自分がいかに「義」を手に入れることができるか、別の言い方をすると神と正常な関わりを獲得することができるか、と言うことです。「義とされる」とパウロは言うのです。あくまでも「受動的な義」です。私たちが何とか、しなければならないと言うことではなく、神がしてくださることを受け取ることです。
ハイデルベルク信仰問答問・61には次のように告白しています。「なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか。」答え「それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、と言うのではなく、ただキリストの償いと義だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも 自分のものにすることもできないからです。」と告白されています。注目する言葉は「わたしが、自分の信仰ゆえに、神に喜ばれるのではなく」と言うところです。信じると言うことは信仰そのものがとても立派な信仰で神に褒めていただける、そのことが何か意味を持つと言うと言うことではないと言うことです。誤解を恐れずに言うならば、信仰そのものは決して神さまの前に値打ちを持たないのです。そのことをはっきり語っています。信仰とは、神の前に何かを自分の手柄のように突き出すと言うよりも、自分がむしろ完全に空っぽになって、ただ「受ける」ということをするよりほかないのです。
何を受けるのか。ハイデルベルク信仰問答の問・61の答えでは「キリストの償いと義と聖」とを受けるのです。この信仰問答を書いた神学者はカルヴァンの弟子ですから、カルヴァンの影響を受けていたのですが、カルヴァンの愛した聖書の言葉が「このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリントの信徒への手紙一 1章30節b)なのです。信仰とは、ただ神の義と聖と贖いを受けることだ、と言うことなのです。信仰は神の恩寵、恵みを受け取ることなのです。
パウロは私たちが「憐れみの器」であると呼びました。カルヴァンは信仰について論じている時に、「私たちは神の恵みを、恩寵を入れる器」であると言っています。「器」そのものには価値がないけれども、憐れみ、慈しみ、恩寵を入れている、受け取っている、と言う意味で、信仰は意味を持つのです。
そうなると、善い行いはどのような意味を持つのか、と言うことになります。それに対して、この信仰問答・問62では、人間は完全に善いことをすることはできない、それは神が求めている正しい行いは完全でなければならないし、最善の善い行いであっても、神の御前では、不完全であり、「罪に穢れている」と答えています。人間の立場から見れば、立派で、善い行いであっても、神の判断では、不完全で罪に穢れているのです。ドルト信仰基準で告白されたことで重要なことの一つは、「人間は全的に堕落している」と言うことです。何をしても、罪から逃れることができないのです。このドルトレヒトでの会議ではその全的な人間の堕落を巡って論争をしています。人間の全部が罪に汚染され、堕落している、そんなことはない、罪はあるかも知れないけれども、善いことをする能力があり、善いことをすることができる、と主張するのです。この全的な堕落に対しては私たちは納得できないところがあります。教会では「罪を強調するけれども、人間には善いことができるではないか」と思うのです。アルミニウスの教えのように、神の恵み、プラス、人間の行い、と言う神人協力説で行くことになるのです。しかし、私たちは神を完全に愛することができないし、完璧に隣人を愛することはできないのです。自分の生活にばかり、心を使い、神をないがしろにし、隣人を憎んでいるのです。
私たちは完全に神に服従し、完全に隣人を愛することができない存在です。実際に神に服従し、隣人を愛することができた方は、ただひとりです。それはイエス・キリストなのです。イエス・キリストおひとりがしてくださった完全なる服従、完全なる義を、まるで私がしたかのように、自分のものとすることができるようにしてくださっているのです。これらの恵みを、信じる心をもって受けさえすれば、あたかも自分は罪人ではないかのような顔をすることができるし、あたかもキリストがしてくださった義なる行いを、自分がしたかのような顔をすることができるのです。この「義」についての信仰は、ロ−マの信徒への手紙3章23−26節(p277)のみことばに基づいているのです。23節、24節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と語られています。
それでは何の善いこともしなくて良いのか、と思うでしょう。怠け者になってしまうのではないかと思うのです。それは自分の自発的な、自分の善いことを行う意志、動機から始めることではなく、聖霊を注がれて、心も体も清められて、聖霊が私たちのうちに良い実りをもたらすのです。
日本キリスト教団信仰告白には「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを清めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」と告白しています。この信仰告白は、私たちから信仰や善い行いが始まるのではなく、神が私たちのうちに信仰を起こし、神が私たちに善い行いを起こしてくださる、と告白しているのです。すべて神が主導権を持ち、神が一切のことをなさってくださるのです。私たちの罪を赦し、義としてくださるのは、神です。そしてこの変わらざる恵みによって、聖霊が働いて私たちに善い行いを起こしてくださるのです。
パウロはガラテヤの信徒への手紙2章20節で「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と語っています。
神が父として初めから終わりまで私たちと共に支配して配慮し、心を配り、私たちの罪をイエス・キリストの十字架の贖いによって赦して義を与えてくださり、聖霊によって信仰を起こし、善い行いを生み出してくださるのです。
この父、子、聖霊の神に心から依り頼んで行くのです。
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20151115 主日礼拝説教 「弱い時にこそ強い」 山ノ下恭二 |
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(コヘレトの言葉4・7−12、コリントの信徒への手紙二 12・7−10)
本日の礼拝は、牛込払方町教会創立138周年を記念する礼拝です。それと共に天に召された方々を覚える記念の礼拝です。この教会が神の導きによって138年の年月を守られたことを感謝する礼拝です。それと共にこの教会で教会員として神に仕え、教会のために仕え、キリスト者として証しされた方々を心に留めて、礼拝を共にしています。
本日の礼拝でコリントの信徒への手紙二 12章7−10節のみことばを読みました。この手紙を書いた最初の教会の伝道者であるパウロは、10節で「なぜなら、わたしは弱いときにこそ、強いからです。」と語っています。
「わたしは弱いときにこそ、強い。」私たちはこの言葉を読んで、すぐにその通りだと思う人は少ないのではないでしょうか。この言葉を読んで、は不思議なことを言っている、意外なことを語っていると思うのではないか、と思います。
弱いならば、その弱さを克服して強くなる、それが、大切なのであって、弱いままで良いとは思わないのではないかと思います。日本のラグビーチ−ムが今までワールドラグビ−大会でなかなか勝てなかったのですが、工夫し、研究して優勝候補の南アフリカに勝ち、別の国のラグビーチ−ムに勝利したことが話題になっています。弱さを克服して、強くなることはとても良いことだと思っています。弱いのは、良くないことであって、強いことは良いことだ、と思っているのです。それが常識だと思うでしょう。
自分の弱さを痛感する時には、自分は強くなりたいと思うのです。ある青年は、高校生の時にいじめに遭い、強くなりたいと思って空手や護身術を習うようになって、相手がどこから攻めてきても大丈夫になった、強くなったと話してくれました。自分の弱さを克服して強くなれば、相手に負けないのです。「わたしが弱いときにこそ強い」この言葉はどのようなことを語っているのでしょうか。
パウロが「わたしは弱い」と言っている、その弱さとは、7節にある「わたしの身に一つのとげが」と書かれており、その「とげ」によって自分の弱さを知るのです。口語訳では「肉体のとげ」と訳しています。パウロにとって「弱さ」とは身近な、いつも抱えている弱さであったのです。この肉体のとげは、てんかん、眼病、激しい頭痛といろいろな説があります。この「とげ」は「わたしを痛めつけるために」と書かれています。激しい痛みを伴うような病気であるのです。そして「サタンから送られた使い」と言っていますので、サタン(悪魔)が自分を攻撃するような激しい痛みを経験しているのです。ある時には痛みに耐えかねて嘆くこともありました。このような痛みを取り去って欲しいと願うのは当然であると思います。この敵のようなサタンが送った痛みを伴う病気を取り去って欲しいとパウロは願ったのです。
この「とげ」はサタンから送られたものですが、このサタンの「使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」と語っています。パウロはこの病気が取り去られ、この病気によって苦しまないように神に祈ったのです。パウロはキリストの福音を説教することが神から与えられた務めであると考えていましたから、この病気がなくなれば、自由に活動することができると思っていたに違いないのです。病気は私たちの毎日の生活を脅かす、恐ろしいものですから、取り去って欲しいと願うのは当然なことです。そして病は私たちに死をもたらすものですから、私たちにとっていのちに関わる重大な問題です。
パウロは繰り返し主に祈りました。「三度、神に祈った」と書かれています。「三度」と言うのは「三回」と言う意味ではなくて、何度も何度も、祈り続けたということです。しかし、その祈りは聞かれなかったのです。パウロの願い通りに、「肉体のとげ」「病気」は取り去られなかったのです。パウロが願ったように「肉体のとげ」が取り去られなかったことからすれば、パウロの祈りは聞かれなかった、叶えられなかったと言わざるを得ないのです。
ここでパウロは自分の病が祈っても治ることがなかったので、効き目がない神だ、役に立たない神だと言って信仰を捨てたのではありません。祈っても自分の願いが叶えられないので祈ることを止め、信仰生活を中断したのではありません。
パウロは、自分の祈りは聞かれず、自分の願いは通らなかったのですが、神から自分の思いに勝る答えを与えられたのです。
9節にこう言う言葉が語られています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」
パウロの願いに対して、神は治して元気にしてあげよう、その痛みを取り去ろう、と答えることはなかったのです。しかし、神はそれよりもさらにすばらしい恵みがあることをパウロに告げ知らせようとされたのです。
痛みを伴うような病気が治って、痛みがなくなるのではなくて、痛みを抱えて行く中で、痛みを乗り越える力を与えるのだ、と語るのです。
ある時、私は「受忍限度」と言う言葉があることを知りました。我慢できる限度があると言うことです。ある新聞に「患者を生きる」と言うコラムがシリ−ズで連載されています。重い病気を生きた人々のことが詳しく掲載されています。治療を受けていて、我慢できないほど、苦しい時を過ごして、やっと良くなる、その経過が書かれています。それを読むと「この人は辛い時を過ごしてきたんだ」と思うことがあります。
その病気に耐えることができれば良いけれども、耐えられない時もあるのです。そのような時に、パウロは自分の祈りは聞かれなかったけれども、病に耐える力を与えられていることを知ったのです。パウロは、自分の願いが聞かれないそこにおいて、神のみこころ、御意志を知ったのです。神の恵みを知ったのです。そしてこのことが、自分の弱さを受け入れることになり、しかもその弱さを誇るようになったのです。
この12章9節の言葉は口語訳聖書の言葉のほうがなじんでいます。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」「神の力は弱いところに完全にあらわれる。」この言葉はどのような意味なのでしょうか。
ここで「弱さ」「弱い」と翻訳されている言葉は非常に意味が広い言葉です。身体的な弱さ、精神的な弱さ、罪を犯すこと、経済的に力がないこと、貧しさ、人の目に弱々しく見えると言うことまでも含む言葉です。
よく考えてみると、弱さも強さも、それは相対的なものです。自分は強いと思っていても、もっと強い者が現れれば、たちまち恐れを感じ、弱い者に転落します。人の目に強いと映っていても、本人はいつも弱さに悩んでいることもあります。
反対に、日頃、弱いと見られていた人が、強さを発揮することもあります。誰でもが、弱さと強さを併せもっている。そして強さは価値があり、弱いのはダメなものとされているのです。弱いのは価値がないと考えられています。今のように弱いのでなくて、もっと強くなって、自分の力を誇示したいと思うのです。病気ばかりでからだが弱いよりも、元気であるほうが好ましい、弱いのは不利で、弱点を持たない人は恵まれている、そして神や人などの他のものに頼らないで、何でもこなしていけるほうが良い、と一般に考えられているのです。
私は、岡山、和歌山、北九州、さいたま、と伝道して来ましたが、どこでも聞いたことは、宗教に頼る人は弱い人だと言う人に出会ったことです。この日本では神に頼るのは弱いからだ、宗教に頼り、祈るのは弱い人だと考えられています。自分に拠り頼み、自分の力で何でもできるのが強いと考えられています。
しかし、パウロに語りかけた主なる神は、パウロが弱いからこそ、神はその力を発揮するのだ、と語っている。これはどのような意味でしょうか。
ある時、テレビ番組で難しい手術を成功している医師が出てきました。司会者が「何時間もかかる手術で大変ですね」と聞いたら、「時間がかかり、困難な手術ほど、やりがいがあります。手術が終わって成功すると、自分の力を尽くした、自分が役に立った、という達成感があります。簡単な手術は、すぐに終わって楽だけれども、達成感はないですね。」と言ったのは印象的でした。
9節に「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」
この「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言う「力」と言う言葉は、「デュナミス」と言う言葉です。この言葉は「ダイナミック」「ダイナマイト」と言う言葉の元々の言葉です。
「ダイナマイト」、それは爆発するほどの強い力です。医師と病人との関係で考えると、軽い病気の時には、薬を出すだけで、医師が活躍する場面は少ないのです。しかし、重病の人には医師は手を尽くして、何とか、治そうとして全力をかけて、活躍するのです。
私たちが弱いほど、神は私たちのために力を発揮するのです。私たちの弱さに同情して、神は何とかしようと力を尽くすのです。弱ければ弱いほど、神の恵みが注がれるのです。神の愛がたくさん注がれるのです。
私たちは土の器のように、その器を地面に落とせば、すぐに壊れてしまうような、もろい存在です。しかし、そのような土の器であっても、神の恵みが注がれて、神の恵みがたっぷりある器になるのです。
自分が弱いので、努力して自分が強くなろうとすることではないのです。自分の弱さを認め、自分の弱さを受け入れて、神の強さに信頼するのです。
自分は強くなくても良いのです。私たちの強さは神から来るからです。自分の可能性ではなくて、神の可能性に拠り頼むのです。
神の恵みを知って、神の視点から、自分のことを見直すことができるのです。パウロは自分のとげ、自分の病に対して、見方がすっかり変わったのです。
病気は、自分の体力の限界、生きることの限界をしみじみと感じるきっかけになるものです。自分が有限な存在であり、いのちは自分の思い通りにはならないことを新しく認識する機会となります。自分の力で、何でもやっていけると言うことではなくて、自分が神の前に、罪があり、神と人を愛することができないことを深く知ることになります。
病気に罹ることによって、パウロは謙遜になることができました。パウロは、自分が特別な存在である、そのような誇りを持っていました。
しかし、パウロは神からの答えを聞きます。「わたしの恵みはあなたに十分である」と言う答えを聞いて、自分の弱さを誇ることができたのです。
私たちは自分の弱さを誇ることができるのです。自分の実績、自分の力を誇るのではなく、自分の弱さを誇るのです。それは恥ずかしいことではないのです。私たちを愛してくださる神がいつも配慮してくださっているので、どのようなことが起きても、大丈夫なのです。
主イエス・キリストが私たちを愛してくださっているので、自分の弱さを人々に隠す必要がないのです。自分の弱さを、自分の失敗を語ることができるのです。
パウロは、様々な困難に直面しています。しかし、そのただ中にあっても神の恵みによって、ダイナマイトのような強力な神の力で克服することができたのです。私たちは困難に直面し、苦しむことが多いですが、キリストによって神から戴く、たくさんの恵み、恩寵、が与えられていることを心に留めたいのです。弱い時にこそ、強いのです。
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20151108 主日礼拝説教 「神の言葉を無にしない」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書29章13−21節、マルコによる福音書7章1−23節)
2017年はルタ−が宗教改革を始めてから、500年の記念の年になります。このことに合わせて、ドイツやこの日本で記念行事を行うための準備が進められています。1517年10月31日、ルタ−は、ヴィッテンブルク城教会の扉に95箇条の提題を掲げて、論争をしようとしたのです。この95箇条の提題の第一条には次のように書いてあります。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ・・・・』(マタイ4・17)と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」
ルタ−はキリスト者の生き方の基本は「悔い改め」であると語っているのです。キリスト者の生き方を考える時に、キリスト者の生き方が「悔い改め」である、と言うことはとても大切なことです。私たちが「悔い改め」と言う言葉を聞くと、まず自分が悔いる、反省すると考えますが、そうではなく、神が罪ある者を受け入れてくださることを信じて悔い改めが起こるのです。
ルカによる福音書19章には徴税人ザアカイが登場します。主イエスがこのザアカイを見出して、語りかけ、ザアカイの家に行って食事を共にし、この家に泊まりました。主イエスは人々から相手にされず、孤独であったザアカイを一人の人間として受け入れ、友とされました。そのことによって、ザアカイは今まで自分が悪事を重ねてきたことを告白し、償おうとするのです。主イエスがザアカイを快く受け入れることによって、ザアカイは、悔い改めをすることができたのです。悔い改めとは、まず自分の側で悔いる、反省する、お詫びをすると言うのではなく、神の憐れみと慈しみによって起こることなのです。
本日、この礼拝で読みましたマルコによる福音書7章1−23節には、自分たちは戒めを守り、清い生活をしていると自負しているファリサイ派の人々と数人の律法学者が登場します。律法学者は、ファリサイ派に属しており、律法を研究している学者です。ファリサイと言う言葉の元々の意味は「区別する」「分離する」と言う言葉です。この人々は、自分たちが神に対して清い生活をしていると思っているだけではなくて、清い生活をしていないと思っている人々と自分たちを差別し、その人々を軽蔑していたのです。神のみこころに従う、それは抽象的なことではなくて、具体的に、細かい言い伝えをきちんと守ることをいつも心がけていたのです。
私がイスラエル旅行に行った時に、日本人でユダヤ教の教師・ラビになるために勉強している青年と話す時がありました。その青年が毎日、どのような生活をしているのかを詳しく話してくれました。トイレに入る前に祈る言い伝えられた祈りがあり、トイレから出た時に祈る、言い伝えられた祈りがあるそうで、それをいつも祈っていると話しました。その祈りを祈らないといけないのだそうです。もし忘れて祈らなかったら、神のみこころに適う生活をしていないことになると言いました。毎日の生活を言い伝えられたマニュアル通りにきちんと守ることが、信仰生活であるのです。
本日、この礼拝で読んだマルコによる福音書7章の初めには、ファリサイ派の人々と律法学者の数人がエルサレムから来て、主イエスや弟子たちの生活の仕方を監視し、告発し、取り調べようとしたのです。この人々が問題にしたのは、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしていることでした。食事の前に手を洗わないことがファリサイ派の人々に咎められたのです。これを問題にしたのは、衛生上のことで問題にしたのではなく、ファリサイ派の人々の視点に立てば、宗教的な、信仰に関わることであったのです。
「汚れた」と言う言葉が出てきますが、「コイノス」と言う言葉です。「日常的な」と言う意味です。日常的に私たちはいろいろな人と出会い、交際し、接触をします。いろいろな人と挨拶をしたり、言葉を交わします。
ファリサイ派の人々は、自分たちが聖なる生活をしたいと願って一所懸命に努力しています。そしてこの当時の人々にとりまして、食事は特に神聖なものでした。私たちには想像もできないのですが、神から与えられた食事の席は、信仰的にも、清められたものでなければならないと考えていました。その食物に触れる手が、汚れていることは許されないのです。日常生活の中で、信仰を持たない人々や、世俗の、この世界と触れてきた、その汚れをどのように清めるかと言うことがいつも問題になり、そのために、手を洗わなければならないのです。言い伝えの中に手を洗うための手順があったと言われています。
私たちはこのような問題と関係がないと思っているかも知れません。しかし、現在の私たちと関わりがあるのです。日本では多くの神社やお寺があります。テレビを見ていると「旅番組」がよく放映されます。アナウンサーが神社を通り掛かる場面がよく出てきます。アナウンサーが鳥居の前で「ちょっと、お参りしてきましょうか」と言って、お参りする場面が出てきます。この場面を見て、もし神社でお参りしないといけないならば、私はアナウンサーにはなれないなぁと思いました。仕事であっても、神社で手を合わせてお参りすることは、私にはできないのです。私たちがキリスト者としてこの日本で、自分の信仰と異なる宗教や習俗にどのような態度で関わるのか、ということと、ファリサイ派の人々が食事の前に手を洗うこととは深く関わる問題なのです。
このように日常的な場面で、この世のことに触れ合い、この世の中の人々と付き合う場面が多くあります。「汚れた」と言う言葉が「コイノス」と言う言葉で「日常的な」と言う意味ですが、日常に付き合うのはこの世の人々であるから、この「コイノス」と言う言葉は「世俗的」と言う意味になるのです。ファリサイ派の人々は、聖なる生活を目指していましたから、世俗的な汚れから自分を分離して、神に対して敬虔な、清い者でありたいといつも願っていたのです。そこで具体的に、食事の前に手を洗うことはとても重要になります。
このことに対して主イエスは、そのような食事をする前に手を洗うと言う行為をすれば、それは聖なる生活になるのだ、と言うのは、人間の行いの外側だけを見て言うことだ、と主張するのです。外見で見えるところだけで、外側だけ装っているだけで、それで神に対して敬虔であり、清いと言えるのか、と主イエスは指摘しているのです。
7章6節で主イエスはファリサイ派の人々を「偽善者」と批判しています。「偽善者」と言う言葉は、「仮面をかぶる」と言う言葉です。「俳優」と言う言葉です。この近くに「矢来能楽堂」があり、時々、舞台で能が演じられるようです。能などで役者が「翁」の仮面をかぶって演技をすることを思い浮かべるとよく分かります。本人は仮面をかぶってひたすら、翁の役を演じます。しかし、実際は翁ではなく、単なる一人の人間に過ぎないのです。
本質的には神のみこころに適う生活をしていないのに、外面的に、外側で、みんなが見えるところだけ、信仰者らしい生活をしているように装うのです。「偽善者」と言う言葉が聖書に出てくるのは、この当時のファリサイ派の人々を批判しているだけではなく、私たちの信仰生活が偽善的になる危険性があることを語っているのです。私たちにはみんなから自分がキリスト者らしいと見られたい、と言う誘惑があるのです。敬虔なキリスト者であるように評価されれたい、と言う誘惑がいつもあります。
主イエスはイザヤ書29章13節を引用して、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めをおしえ、むなしくわたしをあがめている。」と批判しているのです。
ファリサイ派の人々は神に対して、敬虔に生きることを目指しています。しかし、その生き方は昔から「言い伝え」られてきたことを守ることだけに、汲々としているのです。この「言い伝え」と言うのは、「受けたもの」「受け取る」と言う言葉です。昔から言い伝えられ、受け継いできたものです。
マルコによる福音書7章8節、9節で主イエスが「神の掟」と言う言葉を語っていますが、「神の掟」とは、直接には「十戒」のことを指しています。律法のことです。神の言葉と言われるものです。しかし、ファリサイ派の人々は、十戒よりも、昔からの言い伝えを優先したのです。ファリサイ派の人々は、神のみこころを表す律法を軽視していたのです。
7章8−9節には、「『あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』更に、イエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。』」と語っています。「神の掟」つまり十戒をないがしろにしていることを主イエスが実証するために、「父と母を敬え」と言う神の掟を例にして語るのです。「父と母を敬え」と言う掟は、神と同じように父と母を重んじることですから、重要な掟です。ところが、子どもが親に「供え物」(コルバン)を贈ることをしない口実に、父と母に神にささげると言うと父母を敬わなくても良いと言う「言い伝え」を作ったのです。父母よりも、神を敬い、供え物を神にささげることのほうが優先するので、神に「供え物」をささげると言うと、父母を敬わなくて良いと言う抜け道をもっていたのです。
これに対して、主イエスは、神の掟を守っていると言いながら、実際には守っていないではないか、と批判をするのです。
形式的に細かい日常的な言い伝えを守ることが信仰生活である、ということは正しいことではありません。きちんと言い伝えを守ることによって生活を作っていくことは大切であるかも知れません。
しかし、それが本来の生き方なのでしょうか。ファリサイ派の人々は昔の言い伝えから出発し、その言い伝えに固執しているのです。そこには先例主義、形式主義であります。今までこうしてきたから、と言う先例を重んじ、形式的に守れば良いと言うあり方なのです。
しかし、主イエスは、神に対する、本来のあり方を取り戻そうとするのです。それは、神の律法である十戒を基準として守ることなのです。人間が作り、受け継いできた「言い伝え」よりも、ここでは「父と母を敬え」と言う神の律法・十戒を優先すべきことを語っています。
私たちの教会は改革派教会の伝統を持っています。改革派教会はハイデルベルク信仰問答を用いてきました。ハイデルベルク信仰問答は、十戒を、キリスト者の生活の基本として解説しています。主イエスがこの十戒を要約して、神を愛し、隣人を愛することを教えられました。私たちの生活の基準は神を愛し、隣人を愛することにあります。ここに私たちの本来の生き方の基準があります。
主イエスこそが、この神の律法に対して忠実に生きた方なのです。神のみこころをいつも尋ねながら、私たちを愛し、救おうとされたのです。
この7章で問題になっていることは「汚れ」の問題です。この「汚れ」をファリサイ派の人々は、手を洗ったり、身を清めることで解決しようとしました。しかし、主イエスは「汚れ」は手を洗う、身を清めることで解決することはできない、それは人間の心が、人間の思いが汚れているからだと語るのです。主イエスは7章15節で「外から人の体に入るもので人をを汚すことができるものは何もなく、人の中から出るものが人を汚すのである。」と語り、7章20節で次のように語っています。「『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。』」
私たちの持っている思い、心は、悪く、汚れています。主イエス・キリスト以外はすべて、罪の思いに満ちて暮らしています。偽善もそうです。それを表面的、形式的に体の汚れを落とすだけで自分が汚れの問題を解決しているかのように思っていたのです。
主イエスは罪人、徴税人たちと接触し、交わりを持ち、食事を共にしました。それは、神の国がどのようなものであるかを明らかにしようとしたのです。
今日の説教の最初にザアカイの話をしました。ザアカイは徴税人です。ザアカイは悪い心を持ち、悪いことをしていました。道を通る人に通行税を取り、その税金の9割のお金を自分の財布に入れて、あくどいことをしていました、お金持ちでしたが、みんなから嫌われ、誰も相手にされず、友達もいなかったのです。ザアカイに町で出会った人々は、自分が汚れるから、急いで家に帰って沐浴し、身を清めてから外出するのです。
ところが主イエスは汚れている、神のみこころから遠く、神から離れているところで生活をしている人々であっても、近づいて、親しい友のように振る舞うのです。手も洗わずに、身も清めていないので、匂いもしたし、酒臭い人もいたでしょう。主イエスはそのことに全く、気に留めないで、全く構わないで、主イエスは共に食事をしていたのです。主イエスの生涯はこれらの人々との食事の連続です。この主イエスの振る舞いによって、汚れているとされた最下層の人々は、自分がこんなに相手にされ、ひとりの大切な存在として扱われていることを実感し、うれしくなったのです。神が自分を尊び、愛していることを知ることができ、神の愛の支配が自分に及んだことを理解することができたのです。
主イエスは私たちの心の汚れを取り除くために、その汚れを自分のものとして背負って、神の罰、神の審判を受けて、死なれたのです。神を憎み、人を愛そうとせず、自分のことばかり考えて生活をしている私たちに代わって、私たちの罪を引き受けて、自ら犠牲をささげたのです。
コリントの信徒への手紙一 15章3−5節に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後、十二人に現れたことです。」(新約p320)と語られています。
12章3節に「最も大切なこととして伝えたのはわたしも受けたものです。」と書かれています。この「受けたもの」と言う言葉はギリシャ語を調べてみると「言い伝え」と言う言葉と同じ言葉が使われているのです。私たちはこのことに注目したいのです。
ファリサイ派の人々は、神の掟よりも、汚れについての、昔の「言い伝え」に固守していました。しかし、私たちは、私たちの罪の救いのために、主イエス・キリストが十字架で死んでくださり、復活されたことをしっかり受け止め、この神の福音を、神の恵みを神の言葉として受け止め、生活するのです。
最初の教会は、このことを最も重要な、教会の伝承として伝えています。ロ−マの信徒への手紙4章25節には「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(新約p279)と語られています。この神の言葉によって、私たちは生活を作っていくのです。キリストが私たちの罪の犠牲をささげてくださり、私たちを深く愛してくださった、そのことに感謝して、悔い改めていくのです。そしてまことの神を礼拝し、仰ぎ、隣人を愛する者として生きるのです。
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20151101 主日礼拝説教 「安心して生きよう」 山ノ下恭二 |
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(ダニエル書9章15−19節、マルコによる福音書6章45−56節)
先週の木曜日、大学での授業が終わり、JR高崎線宮原駅で電車に乗りました。その同じ電車で偶然、一年生の時にキリスト教概論を教えた、現在は3年になる二人の男子学生と遭い、話すことができました。わたしが「君たちのような若い人たちが教会にいればなぁ、今度、教会に来てくれない」と言ったら、「先生がどうして神を信じているのか、分からない」と言うのです。そう言うので、私は次のように答えました。「目に見えるところだけで判断するけれども、キリスト教の信仰があると、目には見えないけれども、神様が自分を愛していることを信じているので、困難があっても、乗り越えることができる」と話しました。この話を聞いていた学生は、私が何を言っているのだろう、よく分からないことを言っていると言う顔をして、聞いていました。
私たちは、信仰を与えられているので、神が生きて働いておられることを信じています。信仰によって見ることができる神の働き、神の御手を確信することができるのです。信仰によって確かに見ることができる、それは目には見えないけれども、信仰において見ることができる神の働き、神の実在が私たちを生かすのです。
この礼拝で、私たちが読んだのは、主イエスが湖の上を歩いた奇跡です。奇跡と言う日本語の漢字は、珍しい事柄、珍しい事跡と言う意味の言葉です。これは珍しいなぁ、不思議なことだなぁ、驚くようなことだなぁ、そういう思いを呼び起こすのが、奇跡です。主イエスが湖の上を歩いた、この物語を読んでこんなことがあるのだろうか、と思った人もいたに違いないのです。
舟に乗ってこの湖を渡ったことが書いてあるのは、今日の物語だけではありません。マルコによる福音書にはもう一つあります。4章35−40節です。ガリラヤ湖を渡ることころは似ていますが、注意して読んでみると様子が違っています。マルコによる福音書4章では、主イエスが向こう岸に渡ろうと自ら弟子たちに言い、主イエスも乗り込んでいるのです。そして嵐になった時、主イエスはぐっすり寝ていて、嵐のために舟が沈みそうになって、弟子たちが眠っている主イエスを起こすのです。
6章では、主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、主イエスは舟に乗ったのではなくて陸にいて、祈っておられたのです。ガリラヤ湖を舟で渡ったことは共通しています。しかし、違うところは4章では主イエスは最初から舟に乗っていたのですが、6章では舟に乗り込まなかったのです。主イエスは弟子たちと別行動をとって、陸におられたのです。
「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」(6章47節)と記されています。主イエスのいるところと弟子たちがいるところとは、かなり離れて距離があります。弟子たちは身近に主イエスの姿を見ることはできず、主イエスと話すこともできなかったのです。
舟に乗り込んだのは、主イエスの弟子たちです。群衆ではなく、主イエスの弟子たちです。弟子とは、自分の仕事を捨てて、主イエスがなさっている神の国を広める任務を担っている者です。それは私たちも同じです。私たちはキリストを主と信じて告白し、キリスト者として生きています。「舟」と言うのは「キリスト教会」を象徴しています。主イエスの弟子たちが舟に乗り込んだと言うことは、私たちがキリスト教会の一員として生活をしていることを意味しています。
聖書を読んでいて私たちは余り気に留めないで読み過ごす言葉があります。それは、6章45節に「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と書かれていますが、この「強いて」と言う言葉です。弟子たちが自分の判断で舟に乗った、あるいは、乗らなくても良かった、と自由があると言うのではないのです。弟子たちはむりやり舟に乗せられたのです。
これは私たちが、洗礼を受けてキリスト者になったのは自分の自由な意思によるのではなく、神がそうさせたのだ、と言うことです。
先週、神学生に神学校に入学した経過や動機の話を聞きました。神学校に入学するのは、自分の側の動機以上の、自分には逆らうことができない神の召し、神が強制してそうさせた力があるのです。
前の教会で、ある時期、毎年、神学生を呼んで夏期伝道を実施したことがありました。その中で、40歳代の神学生が夏に伝道実習をしましたが、その神学生は、なぜ神学校に入学するようになったかを話してくれたのです。その神学生は、ある時、自分に伝道者になれ、と言う神の迫りがあって、神学校に行って伝道者になりますと返事せざるを得なくなった、と話してくれました。自分の側に動機があった、と言うのではなく、そうせざるを得ないほどの迫りがあったのです。私はこの話を印象深く、聞き、忘れることができません。
主イエスが弟子たちに「お前たち、この舟に乗れ」と命令され、強制的に舟に乗せられたのです。私たちも自分の自由な判断でキリスト者になったと言うのではなく、強いてキリスト者となり、教会員にさせられたのです。
この時は、弟子たちだけが、舟に乗っていて、主イエスはこの舟に乗っておらず、弟子たちと一緒にいなかったのです。ガリラヤ湖の真ん中に弟子たちの舟が進んだ時に突然、暴風が襲ったのです。このガリラヤ湖では、暴風が襲うことはよくあったようです。それは現在でも実際にあるのです。私はイスラエル旅行でこのガリラヤ湖で舟に乗ったことがあります。この時に、向こう岸に渡る予定でしたが、湖の真ん中に来た時に、突風が吹いて危ないので、急遽、元のところに引き返したことがあります。弟子たちが乗った小さな舟が、湖の浅瀬ではなく、湖の最も深いところで嵐が襲ったのです。小さな舟であるので、突然の嵐が襲うと大きな揺れを経験するのです。その揺れは大きく、舟に乗っていた弟子たちは動揺したのです。大きな波が襲いかかり、風が強く、舟は前に進むことができないのです。
弟子たちはこの嵐によって動揺し、逆風のために前に前進することができないのです。この逆風とは、教会が実際に経験してきた迫害や困難を指しています。
日本の教会も太平洋戦争の時に、多くの牧師たち、信徒たちが国家から迫害を受けました。そのような時に、神を見失ってしまうのです。思いがけない出来事で、パニックになってしまうのです。
国家からの迫害がないときにも、私たちには様々な嵐が襲います。キリスト者であるから、地上の困難も苦しみも超越して、びくともしない、冷静でいられると言うことはありません。私たちもこの地上に生きている限り、この世の中で生活している人たちと同じ悩み、同じ苦しみを経験しながら過ごしているのです。
誰でも不安や悩みを持っているのですが、キリスト者はもっと深刻な悩みを経験します。それは、神を信じ、神に仕えてきたのに、神がいるのか、どうか分からなくなることがあると言うことです。今まで、神は恵み深い方だ、自分のために良いことをしてくれる方だ、と信じていたのに、それが、そうではないと思うようになってしまう、と言うことがあるのです。
目の前に突然、シャッタ−が降りてしまい、前にあった物がなくなってしまい、全く見えなくなってしまうのです。平穏な時には、神が自分を大切にしてくれている、と思うのですが、身に余る苦しみが続くと、神が見えなくなってしまうのです。深刻なのは、激しい嵐に遭って、神を見ることができない、神を信じることができなくなるのです。神はいないのではないか、神を信じていると言っても、それは思い込みであって、本当はいない、不在なのではないかと思うのです。光が見えてこない、自分を見放している、自分のために神は手を差し伸べることをせず、傍観しているのではないか、と思うのです。
あるキリスト者は短い間に、会社が経営危機に陥り、妻が病気になり、長男が事故に遭う、そのように三重苦に見舞われて、身近な家族に不幸が続いた時に、神様が自分に罰を与えているのではないか、と思ったと語ったことがあります。大きな波に翻弄され、揺り動かされて、苦しむのです。
弟子たちは自分たちの力で何とかしようとあせって、漕いでいたけれども、前に進むことが出来なくて、悩んでいたのです。この時、弟子たちは主イエスの存在をすっかり忘れて、何とか自分たちの力で努力すれば、舟は前進すると思っていたが、前進できなかったのです。長い間、弟子たちは必死になって舟を漕いだのです。しかし、前に進むことはできなかったのです。
6章47B−48節に「イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜の明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」と記されています
この物語の中で、大切なことが書かれているところです。ただ不思議なのは、「そばを通り過ぎようとされた」と書かれていることです。弟子たちのことを心配して来て下さったならば、弟子たちのところにすぐに来て「大丈夫か」と声をかけるはずです。主イエスはそうしなかったのです。弟子たちは漕ぎ悩んでいるのに、「通り過ぎる」とは何事か、と思います。
しかし、「通り過ぎる」と言う言葉は、私たちが思う意味と違っている意味で語られているのです。私は「通り過ぎる」と言う言葉を聞いて、すぐに思い出すことが聖書の言葉があります。それは旧約聖書の中で、主なる神が信仰者たちのそばを何度も通り過ぎられたことが伝えられています。
モ−セが神の戒め、十戒を神から戴いた後で、どうぞ栄光を示してくださいとお願いした時、主なる神は、わが栄光は通り過ぎるから、その間はそれを見ないようにしなさいと言われたのです。(出エジプト記33章18−23節)
そしてエリヤと言う預言者が登場する物語においても「神は通り過ぎる」のです。預言者エリヤは雨を降らせ、太陽の光を注ぎ、御利益をもたらすバアルの神々と戦いました。預言者エリヤは、神の山ホレブで、神の声を聞いた時、「主が通り過ぎて行かれた」(列王記上19章11節)と書かれています。「通り過ぎる」ということは、傍らを知らん顔して通り過ぎる、と言うのではありません。「通り過ぎる」と言う言葉は、私たちが神のみ前に正面向いて立つことができない、神のみ顔を直接に見ることは私たちには出来ないので、神御自身が生きておられることを鮮やかに示す時に、「通り過ぎる」と言う表現をするのです。
主イエスが弟子たちの傍らを通り過ぎようとなさったのは、「わたしは神である」と言うことを、ここで示そうとなさっただけなのです。「わたしが神である。神であるわたしが、あなたがたと共に今、ここにいる。あなたがたが行き悩んでいる舟の中で、途方に暮れて困っているあなたがたを、そばで見守っており、すぐ近くにいるのだ」と弟子たちに明らかにするのです。
ところが、弟子たちはその主イエスを幽霊であると思ったのです。幽霊と言うのは存在しないものです。ここに生きておられる主イエスを、弟子たちは見ることができないのです。主イエスが生きて、ここにいる、その姿を見ていながら、主イエスはいないと思っていたのです。主イエスの存在を忘れてしまっていたのです。
幽霊だ、と思って怯えている弟子たちに話しかけ、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語られます。「わたしだ」と言う言葉は、神が御自身をはっきり現す時に用いる言葉です。「わたしだ」この言葉は、神以外には用いられません。「わたしがここにいる」と言うのです。
私たちが不安に襲われる時に、困難な問題に直面し、解決が見えず、闇の中にいる時に、主イエス・キリストが私たちに向かって来て下さり、わたしがここにいるではないか、わたしが不安を取り去ってあげようと語りかけてくださるのです。
今日の説教の黙想をしていた時に、旧約聖書の二つの物語を思い起こしたのです。
一つは出エジプト記で、イスラエルの人々を連れてモ−セが紅海を渉る時に、どうしても渉ることができないのです。目の前には、海があり、背後からはエジプトの軍隊が攻めて来る、どうにもならないのです。しかし、その時に、主の言葉が臨み「主の救いを見なさい」と告げられて、モ−セもイスラエルの人々も何もしないのですが、神が海に通る道を作り、ただ神の働きを信頼するだけで紅海を渉ることができたのです。
もう一つは、イザヤ書です。イザヤの時代、周囲の強い国々がイスラエルの国を攻めてくることを聞いた王と人々は動揺したのです。その時に、イザヤに神は語るべき言葉を託すのです。「落ち着いて、静かにしなさい。恐れることはない。」と言う言葉です。国の存亡がかかっていて、これから戦争が起こり滅びるかも知れない、自分たちは何とかしなければならないと慌てるのです。そのような時に、神に信頼して、神の働きに任せる、委ねることを語るのです。(イザヤ書7章4節)
主イエスが舟に乗り込まれると風は静まったと書かれています。私たちのただ中に神がおられるのです。神が私たちの中におられて、その働きをしてくださっているのです。もう自分一人の力で頑張らなくても良いのです。
私たちは目に見えるものに目を奪われてしまいます。しかし、私たちは信仰によって見るべきものを見る目を持っているのです。信仰によって見ることができるのです。神がいつも恵み深く、私たちと共にいてくださるのです。
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20151025 主日礼拝説教 「新たに生まれなければ」 見城康佑神学生(東京神学大学大学院2年) |
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(民数記21章4-9節、ヨハネ3章1-15節)
ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった、といいます。ファリサイ派というのは、福音書ではしばしば主イエスの論争相手として名前が挙がることから、私たちにとって馴染みの深い名前かも知れません。この人たちは旧約聖書の律法を非常に厳格に守ろうとするユダヤ教のグループでありました。そうして、彼らは律法を隅々まで勉強し、律法を遵守するために律法の上に、さらに教師たちによってこと細かに作り上げられた膨大な量の規定を守ることで救いを成し遂げるということを教えて、それを自分でも実行していました。当時のユダヤの人々にとっては一種の霊的な指導者とでもいうべき人たちです。また、議員とはここでは70人からなるユダヤ人の最高議会の議員のことを指します。この議会はローマの支配下にあっても、ユダヤ人たちに対し強い権力を持っていました。このニコデモという人は、そのような、ユダヤ人社会の中でも非常に高い地位を持っていた人です。そして、聖書に対する深い知識を持ち、経験豊かで多くの人々から尊敬されていた老年の人であったと思われます。ニコデモはここで初めて登場し、ヨハネ福音書ではあと二回登場しますが、一度はユダヤの指導者たちに対し主イエスを擁護する人として(7:50)、また主イエスが十字架で死なれた後に主イエスを葬った人の一人として出て来ます(19:39)。彼はこの対話の後、主イエスを尊敬する人となったことが分かります。私たちから見ても印象的な人物であると思います。
彼はある「夜」に主イエスのもとにやって来ました。これはなぜ「夜」かというと、彼はユダヤ人社会でも特別な地位を持つ人でありますから、そのような人物が主イエスに会うことが人にばれないように、人目を避けて夜会いに行ったのだ、としばしば説明されます。そういうこともあったかもしれません。しかし、ヨハネ福音書で「夜」というのは象徴的に使われている言葉です。11章9-10節では夜はつまずきの時間であるということが語られます。このように書かれています。「昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」ヨハネ福音書ではしばしば「光と闇」、「昼と夜」が対照的なものとして語られています。夜は闇の支配する時間です。ニコデモは夜の闇から主イエスのもとへ来ます。主イエスは世の光であられる方です。この福音書の1章では言は光であったということが語られていますが、この言というのは主イエスのことです。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。ニコデモは、その夜の暗闇の中からまことの光である主イエスのもとへ来た人です。彼は地位も名誉もある、ユダヤの信仰の指導者でありましたが、おそらく自身の信仰の中で、それでも何か満たされない思いを抱えていたのです。それで彼は"夜に"主イエスのもとへとやって来たのです。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」ニコデモはそう言って、話を切り出しました。これは非常に丁寧な賛辞であって、ニコデモは最大限の敬意を主イエスに対して示しています。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言いますが、それは主イエスのおこなったしるし、奇跡の業のことを言っています。2章では主イエスがカナの婚礼で水をぶどう酒に変えたというしるし、また2:23で主イエスはエルサレムにおられる間しるしを行ったということが書いてあります。そして、そのなさったしるしを見て「多くの人がイエスの名を信じた」とありますが、ニコデモもまた、そうして主イエスを信じるようになった一人でありましょう。
しかし、彼の丁寧な挨拶に対して、主イエスはこのようにおっしゃいます。「はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」主イエスはニコデモの言うことには取り合わないのです。しかし、むしろ単刀直入にニコデモが問おうとしていた本題に切り込んでいます。ニコデモが問おうとしていた本題、彼が自身の信仰の中で抱えていた問いとは、神の国の到来、つまりこの世に実現する神のご支配を見るにはどうすればいいかということです。ニコデモは神の国を見ることを望んでいたのです。
ニコデモは言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」注解書などを読みますとしばしばニコデモは主イエスの語られたことに対し愚かな、頓珍漢な答えを返したということが書かれています。しかし、そうだろうかと思うのです。ニコデモは聡明な人でありますから、再び母親の胎内に入って生まれるなどということがありえない話だと分かっていたはずです。問題は、主イエスの語られる真理が時に私たちには理解できず、むしろ私たちの目には愚かなことのように見えてしまうということです。だからニコデモは問うのです。そんなことがどうしてありえるだろうか。
主イエスはお答えになります。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
ここで繰り広げられるニコデモと主イエスとの対話は、終始噛み合わないのです。主イエスはニコデモの問いに答えておられないように見えます。実際にはニコデモの問おうとしている本当の問いに答えているのですが、それがニコデモには分からないのです。そうして、二人の対話は噛み合わないまま進んでいきます。しかし、この箇所は二人の対話が噛み合っていないということが重要なのであり、私たちは噛み合っていないことをこそ見るべきであろうと思います。
「新たに生まれる」というときの「新たに」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語では「上から」という意味も持っています。だから、このように言うこともできます。「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」。上から生まれるとは、一体どういうことでしょうか。
主イエスは「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰います。これは水と霊による洗礼のことを言っておられます。私たちは洗礼を受けることによってキリスト者となり、教会に加えられます。しかし、ここで洗礼を受けるとは、私たちの罪ある肉体が一度死に、霊によって新たに生まれることを意味しています。霊とは上から、天におられる方のもとから来る霊です。私たちが「上から」生まれるということは、上から来る霊によって新しく生まれさせられるということです。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」と主イエスは仰います。どこか詩的な雰囲気を持った言葉です。ギリシア語でもヘブライ語でも「風」という言葉は「霊」という意味も持っています。また、「音」という言葉は「声」という意味も持っています。だからこのようにも訳すことが出来るでしょう。「霊は思いのままに吹く、あなたはその声を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」私たちは風がどこから来て、どこへ行くかを目で見て確認することはできません。しかし、私たちは風の音や木々の揺れる音を聞くことで風の存在を知ることができます。同じように、私たちは霊がどこから来てどこへ行くかを見て知ることは出来ませんが、私たちは霊の声を聞くのだといいます。そして、私たちはその霊の声を聞くことで、霊が指し示しておられるものを知るのです。霊から生まれた者はその指し示しておられるところを見るようになるのです。その霊が指し示しているものは、主イエス・キリストそのお方です。
この話は、私たち人間が神の国を「見る」にはどうしたらいいか、ということをめぐる対話です。そこで主イエスは「私を見なさい」ということを言っておられます。しかし、ニコデモは結局のところ主イエスの行ったしるしの業を見て信じた人ですから、主イエスよりも行ったしるしの方に目が向いています。だから主イエスご自身にこそ神の国を見るための道がある、このお方を見なければならないということが分からないのです。
主イエスは「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と仰せになります。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。」ここで主イエスは「わたしたち」と語られています。非常に不思議なことですが、ここには今教会で礼拝し、御言葉を聞いている私たちが入ってきているように思われます。主イエスは私たち教会に生きる者と共に語ってくださっています。私たちの教会は、このお方を知っている、見ている、そして証ししているのです。私たちがここで見た、知ったことというのは、主イエスが天から人となって地上に下って来られた方だということです。そして、私たちはそのことを証ししています。
主イエスはおっしゃいます。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」主イエスは神の子なる方でありながら、天から人の形をとって地上に下って来られた方です。私たちと同じ人間の体を持って、私たちと同じところにまで降りて来て下さった方です。そして、主イエスの他には天に上った者は誰もいないと仰います。このときまだ地上におられる主イエスが天に上ったと語っておられるのは不思議な言い回しですが、これから起こることです。しかし、それを私たちは教会で既に起こったこととして聞きます。そこにこそ、霊の声が指し示していることがあります。私たちが教会で語られて聞いていること、主イエスの上にこれから起こること、それを見なさいと言われています。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」モーセが荒れ野で蛇を上げたという話は、民数記の21章にあります。主に逆らった民に対し主は炎の蛇を送られ、蛇は民を噛んでイスラエルの民に多くの死者が出た、そこで民はモーセのもとで罪を告白して赦しを求めました。神はモーセにその蛇を造って旗竿の先に掲げよと言われました。モーセが言われた通りにすると、蛇を仰ぎ見た人々は命を得た、とあります。造られた蛇に癒す力があったのではありません、蛇は彼らの思いを神に向かわせるための目印でありました。そして、彼らは蛇を見上げることで神を仰いだのです。そのように、主イエスもまた上げられねばならない、と言っています。それは、主イエスの十字架のことです。主イエスは私たち全ての人の罪を背負って十字架に付けられるために地上に来られたのです。それは、私たちが主イエスを仰ぎ見て、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」です。
ニコデモが、今見えていないけれども見なければならないことはここにあります。それは、天から人となって地上に来られた主イエスが、全ての人の救いのために十字架に向かっておられるということです。霊によって新たに生まれるとは、この主イエスの十字架を仰ぎ、主に従って歩む者となること、そして主を証しする者となることです。主イエスはそのことを見据えておられました。しかしニコデモはそれが分からなかったのです。
この対話は、結局最後まで噛み合わないままで終わります。ニコデモがその後どういう反応をしたとか、どんな顔をして帰って行ったとか、そのようなことは一切書かれていません。私たちにはそれは尻切れとんぼのように見えるかもしれません。しかし、福音書記者ヨハネにとって大事な事は主イエスとニコデモのこのような対話があったということなのだと思います。同時に、ニコデモはここで劇的な回心をした訳ではないということでもあるでしょう。恐らくは、主イエスの言っていることが分からないまま釈然としない顔で出て行ったのではないでしょうか。しかし、話の冒頭でも申しましたが、彼はこの後7章50節で主イエスに味方する者として登場し、また主イエスの十字架の後に主イエスを葬る人の一人となります。彼はこの噛み合わない対話の後、主イエスを尊敬する人となったのです。私たちはここに彼を導く聖霊の働きを見て取ることができるのではないでしょうか。
これは私たちにとっても恵みです。主は私たちが頑なな者であっても、聖霊のお働きによって、主イエスを信じて永遠の命を得ることができるように導こうとしてくださっています。ならば、私たちはこの主の慈しみを受け容れ、主を信じる者でありたいと思うのです。お祈りいたします。
御在天の父なる神様、御名を賛美いたします。主イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と仰いました。私たちは、主イエスの十字架を通してしか神の国に入ることはできません。しかし、私たちは時に頑なな者であり、ニコデモのように主イエスの十字架の救いの業を理解することができない、それを受け入れることのできない者であります。主よ、そのような弱い私たちに、主の救いを受け止めることのできる素直さを、また、その勇気をお与えください。ニコデモが、たとえ最初は主イエスの仰ることを理解することができなくても、少しずつ聖霊に導かれて主の方へ向かわされていったように、私たちも導いてください。そして、どうぞ私たちがあなたを知り、あなたを証しする者とならせてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。
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20151018 主日礼拝説教 「今日、神の声が聴こえる!」 加藤常昭 |
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(詩編95編1−7節、コリントの信徒への手紙一14章23−25節)
今ここに、もう50年前になりますが、皆様とともに礼拝を繰り返していた頃を、なつかしく思い起こし、その後、皆さんも様々な経験を重ねながらこの日を迎えておられることに、神様の祝福をおぼえ感謝いたします。
私は今は、古来の一つの慣習に基づきまして、説教を始めるに際して、聖書の言葉を祝福の挨拶として、説教を聴いてくださる方々に贈るようにしています。ヘブライ人への手紙13章の言葉であります。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」
「伝道」という言葉があります。中国から伝えられた教会の用語の一つだろうと思います。適切かどうか考えることがあります。伝道するという言葉は、英語やドイツ語でもほぼ同じ言葉ですが、英語ではevangelization、ギリシア語のエウアンゲリオン、良い音信、これも中国語から来たのでしょう、「福音」と訳されます。「福音を伝える」「喜びの報せを伝える」「あなたに喜びがありますように」「喜びへと招く」、それが伝道する、私どもの信仰を伝える、私どもが与かっている救いに招くということであると思います。それを、もっと具体的にどうしたらよいのか。長く牧師をして参りまして、信徒の方々に伝道に励もうとよく訴えて参りました。伝道するとき信徒がやることは何か。私はよくこう申して参りました。
「あなたが伝道するにおいて、まだ教会の集会に来たことのない神を信じていない人に、こと細かに私どもが信じている救いとは何かということを説明する必要はない。説得する必要はない。伝道するということは、ある意味でとても単純なことだ。日曜日の朝に、キリスト者は集まって礼拝と呼ばれる集まりをしています。あなたもそこに行きませんか」と、誘うことです。一緒に行きませんかと、連れてくることです。後は集まっている教会の仲間が引き受ければよい。説教する牧師である私が引き受ければよい」。
牛込払方町教会に来る前は、石川県の金沢で伝道しました。金沢のような都会では、とくに当時、日曜日の朝、集会に行く自由と時間を持っている人はあまり多くない。そういう人をどうしたらよいか。そういう人がいたならば、私を呼べばよい。そう言って私は金沢の街の中をほとんど毎日のように呼ばれた先に行きまして、2人でも3人でも集まっていれば、そこで聖書の話をした。讃美歌を歌った。礼拝をしたんです。礼拝は、礼拝堂と呼ばれる建物の中に限ったことではない。どこででもできる。
金沢におりましたときに、伝道がなかなか難しかった。教会の敷居が高いといわれました。教会堂はいつも閉まっている。それじゃあ開けておこう。教会堂の玄関の扉を開け放ちまして、天気の悪いときには残念ながら閉めるけれども、いつも開けておいて誰でも入れるようにした。いろいろな方たちが入って参りました。ある時、和服姿の、当時で30位になっておられたかと思う女性が突然入って来られて、「牧師さん、おる?」と言いました。私が内扉を開けて、「私が牧師ですが」と言いましたら、「あら、そんなに若いの?」と言いました。「若くても、私が聞きますからどうぞ」と言って上がってもらって、礼拝堂の脇の部屋で話をしました。2時間以上、夫婦のいさかいの話をしました。要するに、夫の悪口を並べ立てた。今も夫婦喧嘩をして頭に血が上って飛び出したら、幸い教会堂の扉が開いていたので、飛び込んできたんだ、と教会堂に入ってくるには来たが、わたしと話して、少し落ち着いたかなと思ったときに、ようやく腰を上げたが出口の方に行かない。まだちょっと血が上っているかなと思った。「あなたが来られたのはあちらです」と言ったら、「いいの、いいの」と言って、礼拝堂に入ってうろうろ見回しながら、後からついてきた私に、「神さん、どこにおるん?」とききました。「神はどこにおられるのか」、ときくのです。ご神体もない。どうやったら神に会えるのかと思ったのかも知れません。私が説明しかかったら、「いいの、いいの」と言って、丁度私が今立っている説教の場所に向かって両手を合わせて何か口の中でつぶやいていました。そこでさっぱりした顔をして帰って行きました。のちに、他の都市の教会で洗礼を受け、今もおつきあいがあります。
礼拝で神様を拝むというけれども、拝むべきものはない。何をやっているのかと思ったかも知れない。あなたの信じている神はどこにいるのか、旧約聖書の詩編の中にも、既にその問いがある。「あなたの神はどこにいるのか」。何度も繰り返される。いささか返答に窮したような思いも読み取れます。34:53
20世紀の初めに、第1次世界大戦が終わった混沌の中で、スイスの神学者でまだ若かったカール・バルトが、教会が今本当に行き詰っているけれども、それを乗り越えなければならない。そこで新しい神学が産声を上げた時に、こう言った。「我々牧師たちはいつもきかれている。神様はほんとうにおられるのか。」神はどこにおられるのか。この問いはいつの時代も変わらない。伝道するということは、その問いに答えることだ。その答えは見付かるのだろうか。一緒に礼拝に行こう。牧師の説教を聴こう。
この神を問う問いに答える、教会の集会の基本的な姿が描かれているのが、今朝ご一緒に聴きましたコリントの信徒への手紙一、第14章であります。その急所になるところを読みます。ここに、信者でない人、教会に来て間もない人というのがはっきり出て参ります。皆が集まっているところに、そういう人たちが入ってきた。25節の終わりに、「結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになる」、伝道のわざとは、このように神のご臨在を示すことに尽きる。ここに信仰を持っておられない方が、私どもと一緒に礼拝をして、「本当に神はおられる、あなた方の中に、皆さんの中に、この教会堂の中に、ここに神がおられると言えればよい。
私が若い時から親しく指導を受けました信仰の指導者で、優れた説教者でありました渡辺善太という方がおられました。この方はホーリネス教会で導かれた。中田重治という人が、今から百何十年か前に、神田に伝道館というのを開いて、そこで集会をした。そこに渡辺先生と通うようになった。その頃の自分の体験を、このパウロの言葉に託してこう言われました。
「中田重治の説教を聞く集会において、正にこのことを体験した。伝道館の建物の中に入ろうとして、自分はしばしばたじろいだ。中に気軽に足を踏み入れることができなかった。今、神を見る、恐ろしいことだ、人間として当然の思いであるかも知れない。生きておられる神の前に出る。」
私はその言葉を何度も思い起こし、自分が責任をもって営む礼拝の中身について繰り返し省みた。この集会においでになる方がたじろぐ程の、神のご臨在をあかししえているか。しかし、それは牧師のみならず、ここに集まるキリスト者が常に問われることだ。ここに神がおられる、今。そのことを明確にしうるところに教会の伝道が成り立つのであります。
このコリントの信徒への手紙は、ギリシアの港町にあった共同体に宛てた手紙でした。ここだけ読まないで、初めからといってよいかも知れませんが、少なくとも第12章から読んでみることが大事です。
コリントの教会の人々は、聖霊を信じる。パウロはそのことを喜んで受け入れて、第12章で、教会の仲間入りをしたものは皆、カリスマに生きる。カリスマといいますと、特別な指導者のことを考えたり、今はそんなことはあまりないかも知れませんが、かつてはカリスマ美容師などという言葉が流行りました。異能、異なった能力才能を持つ人のことを意味すると今でも考えているかも知れません。パウロ、カリスマという言葉の元になった言葉をここで語り出したパウロは、そんなことは少しも考えていない。洗礼を受けて教会の仲間になったのであれば、皆カリスマを与えられる。皆さん、お一人お一人がそうなんです。実に様々な霊の能力、力が与えられて、それが一つになってキリストの身体である教会を作っていると第12章で語り、それに続いて第13章で、そのカリスマの中で最大のものとして、愛をほめたたえる、「愛の賛歌」と呼ばれることのある文章を書きました。実に見事な愛の歌ですが、愛の理想を語ったのではない。教会に与えられている愛を歌ったのです。ここの教会の教会歌ともいうべき、歌が与えられたのです。そしてこの愛の歌を歌って、終わったわけではない、第14章と呼ばれるところに入りますと、パウロは更に畳みかけて、第14章の1節をご覧になると、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、(これがカリスマ)、とくに預言するための賜物を熱心に求めなさい」。
当時、コリントの教会において、異言というものがしきりに語られた。これは、霊を受けたときに人々が語り出す言葉です。私のドイツにおける優れた恩師であったボーレン教授が、異言にたいへん関心を持ち、ドイツで異言を語る教会の礼拝に出たことがあります。日本でも異言を語る教派の牧師の大会で講演をしたことがありますから、日本でも異言を聞いたことがある。日本よりも、ドイツでは本当によく分からない言葉を何人もの人が立って口にする。コリントの教会でもそういうことが起こったようですが、パウロは異言よりも預言が大事だ、預言というのは異言のように分からない言葉ではなくて、分かる言葉なのだ。読み進めると、知性がある人ならば聞いて分かる言葉だ、そういうことをはっきり申しました。
この預言、預言者の預言、預言者は神の言葉を伝える人です。パウロはここで言います。預言者というと特別に神様から選ばれた人のことを考えますが、そうではなくて教会を作っている者は、皆預言を語る、預言の賜物をいただく。これは差別はない、区別はない。皆で預言を語るようになろう。第14章の3節を読むと、「しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます」。4節後半で「預言する者は教会を造り上げます」。あの人は神の言葉を語っているのだということの一つのしるしは、その人が伝えてくれる神の言葉を聴くと慰められる、励まされる、悲しみの中にあるものは立ち上がることができる、涙をぬぐうことができる、罪の中にあって自らの惨めさに苦しんでいたものが立ち上がることができる、自分の惨めさのために心が崩れる思いを抱いていたものを、もう一度造り上げる。「造り上げる」と訳されている言葉は面白い言葉で、大工が家を建てるという言葉です。嵐で叩き潰された家を再建するように、あなたの言葉が人の心を建て上げる、作り上げる。そういう言葉を語ろう、それが教会を造る。本当に真剣に自らの言葉を省みざるをえない。私どもが交わす言葉は、人の心を叩き潰す働きをしていないか、何とかして人の足を引っ張る言葉になっていないか。それとも本当に、人を造り上げ、励まし、慰める言葉を語る共同体になっているか。教会はいつもそのことを省み、そのことを悔い改めなければならない。そういう歩みをしていると言わなければなりません。パウロは私どもの言葉に望みを抱く。神の霊が与えてくださる言葉だからであります。そのことを、ここでとても丁寧に語って参ります。
19節には、「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとる」。あの人はすごい、異言をあんなに沢山語ることができる、と驚嘆されるようなことは、自分の願いではない。自分が立つなら、人を造り上げることができるための言葉を五つでもよい、そのことを願う、とそのように語りながら、先ほどの言葉に至る。24節に、「反対に、皆が預言しているところへ」と書いています。当時の教会では、集会をしたときに、一人の人だけが説教者として立てられていたわけではないようで、教会員が誰でも語ることができる、そういう集会だったようです。そのために、きちんと秩序のよい集会ができなくなって混乱したこともあったようです。そのことに心を配りながら、言葉の秩序をもって、健やかな教会、預言を語る人々の集まる教会が、神のご臨在をあかしすることができる、説得することができる。
この牛込払方町教会も、旧日本基督教会の古い教会の一つです。日本基督教会というのは、プロテスタントの大きな二つの流れ、ルター派と改革派という二つの流れから申しますと、改革派教会に属します。間もなくルターの改革五百年の記念の年が参りますが、ドイツのルターに並び立つ、スイスのジュネーブで牧師をしたカルヴァンが私どもの信仰の源流です。カルヴァンはとても礼拝を重んじた人です。非常に大事なことは、カルヴァンが礼拝のことを「祈り」と呼んでいることです。こういう礼拝の在り様を語る言葉に、礼拝順序とか、礼拝の文章を重んじた礼拝式文という言葉を使いますが、カルヴァンはそういう言葉を使わないで、礼拝についてきちんとした文章を残しています。その文章の題は「祈りの秩序」というものです。「預言の秩序」ではありません。これはまた、もう一つの礼拝についての視点をはっきり与えると思います。
パウロはここで、私どもの集会における神のご臨在を説きましたが、もう一つ、神の臨在ということを考えるときに、忘れてはならないことは、主イエスご自身の言葉です。今、私が読みますから、そのまま聞いてくださればよいですが、マタイによる福音書第18章にこういう言葉があります。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、外に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。」ここまでのところはどういうことを語っているかというと、主イエスが教会を建てることを宣言なさった第16章に書かれていますが、その教会が多分一番悩むだろう、一番大事な課題としなければならないのは、その教会の仲間が罪を犯したときどうするかです。
先ほどのところの言葉は、まだ信者でない人がやってきたときに、預言の言葉が分かったときに、神のご臨在が分かったときに、ああ、私は罪びとなのだ、罪を犯したことをはっきりと言い表さなくてはならなくなる、ということです。神にお会いした時の当然の筋道です。
しかし、主イエスはその先のことまでご配慮になっている。私どもが、私どもの仲間の誰かが罪を犯したときに、それをどう処置したらよいかということで悩むときです。最初は二人だけで、それで駄目なら二、三人で、二、三人でもその人が自分の罪を悔い改めなければ、教会が、今日の言葉で言うと長老会が、そのことに責任をもって当たらなければならないということでしょう。
そして、その先です。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。はっきり言っておく、というのは大事なことを仰るときの主イエスの口癖ですが、あなたが解くこと、つなぐこと、あなたが罪をどう処置するか、教会が、どう罪を処置するかということは、これは天に通じることなのです。教会の処置は神の処置である。ずいぶん重い責任を教会が負わされましたが、そこでもう一回言われます。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父がそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。教会はいつも私たち自身が犯す過ちに直面して途方に暮れています。どうしてよいかわからなくなります。主イエスが仰ったこと、長老会の決定は神の決定である、などと嘯くわけには行かない。それはいつも祈りである。長老は教会の罪のために祈り続けると言ってもよいだろうと思います。
教会全体が、罪のために祈り続ける祈りの共同体だと言うことができると思います。そのときに主イエスは言われた。二人でもいいよ、一人じゃない、二人でも三人でもいい、一番小さな単位でも教会は集まっているところ、共同体ができているところ、私もそこにいるよ、と仰っているのです。主イエスがここにおられるということ。ここでも主イエスの約束のみ言葉として聴くことができる。
いろいろな話をしなければならないかも知れませんが、いろいろなことを飛び越えてしまって、私が親しくしているハイデルベルグ大学のメラーという先生の話をします。このメラー先生は、ルター派なのです。ルターの話をよくするし、ルターのことをよく書きます。この先生が最も愛していると思われるルターの言葉を一つあげます。ちょっと長い言葉ですが聞いてください。
ルターが新しい教会を形成したときに、一緒に働いたより若い牧師仲間に、シュパラティンという人がいました。このシュパラティン牧師が何をしたのか具体的に語られてはいませんが、教会の中で少なくともシュパラティン自身が本当に悩むような罪を犯した、間違いをした。それで牧師職から離れ、もしかすると教会からも離れたみたいでした。そこでルターは仲間の牧師たちに、このシュパラティンに手紙を書いてくれ、彼のために祈って手紙を書いてくれと言いながら、真っ先に自分が手紙を書きました。それが全文残っています。
メラー先生が全文を本の中で紹介しています。その一部をご紹介します。「私が愛するシュパラティン。私が思うに、あなたは罪との戦い、良心の苦悩との戦い、あるいは律法の告訴に対抗する戦いには、まだ熟達してはおられません。もしかすると悪魔があなたの目から、あなたの記憶から、これまで聖書から読み取ってこられた慰めを、見えなくしているのかも知れません。あなたがこの試練を受けられなかったときには、この慰めの言葉によって、キリストが何を職務とされ、どのような憐みの業をしてくださったかを思い起こすことを知っておられたのではありませんか。」ちょっと飛ばします。「それ故、私の心からの願い、警告はこれです。どうぞ、私ども、とんでもない罪びとたち、頑迷固陋な罪びとの仲間入りをしてください。そのようにして、キリストを、絵空事の子供っぽい罪からしか救い出すことができないような、小さな頼りない存在にしてしまわないようにしてください。そうです、それは飛んでもないことです。」
これは実に素晴らしい言葉です。シュパラティンに言うのです。「教会はね、義人の集まりじゃないよ」。私どももしばしばそこを錯覚します。先ほど教会の集会の中に信仰を持たない人が入ってきたら、罪を審かれるという言葉を聞いたときに、義人の集まりの中に入って来た罪びとの姿を思い起こされた方があるかもしれない。それは飛んでもないことです。そうではなくて、私どもは、同じ罪びとです。ただ、先に罪赦されているということを知っただけの違いです。ルターは言います。どうぞ、いつまでも罪を繰り返し、そのために繰り返して悔い改める、しかし、いつも赦していただいているキリストの群れに戻ってほしい、罪びとの群れに帰ってくれ、もしそれをしないならば、キリストの救いを絵空事にしてしまうことになるよ。絵空事じゃないよ、本当に主イエスは十字架にかかって、死んでくださった。我々の罪は赦されている。キリストの名によって私どもは神の前に立つことができる。
ルターの大切な言葉があります。
「やがて私たちはすべて神の審きの座の前に立つ。そのとき、誰もが許されていることは、キリストの義を、まるで私自身の義であるかのように装うことができる。私たちが、キリストの罪の赦し、キリストが私どもに明らかにしてくださった神の義に装われて、その装いをもって神の前に立つことができる。」ルターは「それを忘れないでくれ、シュパラティン君」、と申しました。
キリストの臨在をあかしし、神の臨在をあかしするということは、そういうことです。先ほど詩編第95編の言葉を読みました。この言葉は、今日も読まれたような礼拝への招きの言葉の一つとして、よく読まれる言葉です。その最後の言葉は、「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」であります。私は礼拝の司式者として、このみ言葉をよく読みます。読むたびに心震える思いがします。今日、主の、神の声をあなた方は聞かなければならない、従わなければならないというときに、その声が聞こえないということはできない、必ず聞こえる、聞こえてるんだから聞いてくれ。神のご臨在、キリストのご臨在をあかしする礼拝は、そのように神の言葉を伝える、正に、預言の言葉にあふれるのであります。
私が、神の声になる。金沢におりましたときにちょっとおかしなことがありまして、その頃、もう皆さんはご存知ないかも知れませんが、「十戒」という映画がアメリカから参りまして、評判になっており、教会の仲間たちが行こう行こうと連れだって行き、私の妻も行きました。先生も、と言われましたが、私は聖書の物語を映画にして、とくにアメリカ人が映画にしているのは見る気にならないと断りました。何人もが一緒に映画館に行って、一緒に帰ってきました。先生も行けばよかった、面白かった、と言いました。一人の女性が、「先生、神様の声はやっぱり男の声ね」。そういう話になるから、聖書の話を映画にしたものを見る必要はないと言っていた。男の声か、女の声か、いずれの声でもありうるわけですが、しかし、声が聞こえるのは「礼拝」です。
神の声が聴こえる、そのために当時の教会が、集会がしたことの一つは、集会で聖書を読むということでした。聖書を語るということです。まず、何よりも旧約聖書を読んだでしょう。旧約聖書を語ったでしょう。そして、多分、キリストの教会の最初の瞬間から、主イエスのことを語ったでしょう。まだ、新約聖書はできていないけれども、主イエスのことをよく覚えている人たちが、主イエスのなさった御業や、主イエスのみ言葉を伝えたでしょう。やがて、パウロのような人たちの手紙も添えられるようになったでしょう。それを説く説教者たちがいたでしょう。そこで、ああ、神を語っていってください。竹森満佐一先生が、聖書は神の言葉であるというが、ただ印刷されている聖書の言葉が、神の言葉だから大事にしろということではないんだ、これは教会で開かれ、読まれる、説かれる、そのとき、神の霊がはたらいて、まさに神の霊に生きる説教者が、この聖書の言葉を口にするときに、聖書の言葉が立ち上がる、神の声として聴こえるようになる。改革者ルターは、説教者の言葉を、「生きている福音の声」と申しました。福音のVOICEという言葉が用いられています。「生きた福音の声」。最初に伝道というのは、福音を伝えることだと、言いました。福音、喜びの声を、私ども説教者は語ることが許されるし、語ることができる、だからここに立っている。できなければ、ここに立つ資格はない。しかし、神がそれを可能にしてくださる。今は皆さんが、生きた福音の声を聴く、私はここにいる、まことに豊かな赦しと力を持ってここにいるキリストの御声をあなたがたは聴くことができる。そして、礼拝は、ここにも神の霊の出来事として起こる。教会は、そのことによって生き続ける。いつまでも。
主が再び来られるときまで。
祈りをいたします。
この日の礼拝を、今この時の礼拝を、外ならぬこの場所において、この仲間たちと共に捧げることができ、心から感謝いたします。
主が共にいてくださいます。御声を聴かせてくださいます。
耳を澄ませて、聴き取ることができますように。
そのことによってのみ、この教会は生きます。
そのことによってのみ、力にあふれて、ここに集まり続けます。
あなたの祝福の御手が、とこしえに変わらず、私どもの生命を主の御手の内にとらえてくださいますように。
そのことを信じて生きることができますように。
また、死ぬこともできますように。
主イエス・キリストの御名によって、感謝し、祈ります。アーメン
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20151011 主日礼拝説教 「神のいのちを分配して生きる」 山ノ下恭二 |
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(詩編126編1−6、マルコによる福音書6章30−44節)
共に食事をする、それはとても楽しい時です。今年の夏、教会学校のサマ−キャンプで舎人公園に行き、バーベキューをしましたが、一緒に食事をすることはとても楽しいということを経験することができました。
旧約聖書の箴言には「パン」について語っている聖書の言葉がたくさんありますが、その中で、私が気に入っている聖書の言葉があります。口語訳で読みますが、箴言17章1節です。「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」パンひとつしかないような貧しい家ですが、平和でその一つのパンを分かち合う家は、お金持ちで食物がたくさんあるけれどもいつも喧嘩が絶えない家にまさる、と言うのです。
東京神学大学では4年生の時に専攻を決めますが、私は新約聖書を専攻しました。その当時の新約聖書の部門の教師は松永希久夫教授と山内眞専任講師でした。山内専任講師は授業の中でこういうことを言われました。聖書を読むことで大切なことは一つのテキストを読むときに、その決められたテキストだけに集中するだけではなくて、全体からそのテキストを読むと同時に、そのテキストの前後の文脈の中で読むことが大切だ、と言われたことを良く記憶しています。
本日、皆さんと読みましたマルコによる福音書6章30−44節は、主イエスが5千人に食べ物を与えるところですが、このテキストの前には、この当時のユダヤ地方のヘロデ王が洗礼者ヨハネを殺してしまったことを回想している物語が語られています。神の言葉を語る預言者を当時の権力者が殺すという、人間の罪が露わになった凄惨な場面が記されています。そのようなことが書かれている後に、主イエスが5千人に食べ物を与えているのです。
神の前に正しく生き、預言していた洗礼者ヨハネがこの当時の権力者によって殺される、それは、この地上の世界が闇によって覆われていることをよく表しています。闇に覆われているような時代の中で、主イエスと弟子たちは福音を伝えていたのです。神の言葉を語る預言者を殺してしまう、そのような時代の中で、主イエスと弟子たちは宣教活動をしていたのです。
宣教活動を終えて主イエスのもとに帰って来た弟子たちは主イエスに宣教活動を報告しました。主イエスは疲れている弟子たちを休ませようとしましたが、群衆が押し寄せて来るので、舟に乗り込んで一足早く、別な場所に移動し、そこで、食事を摂って休もうとしたのです。ところが徒歩で湖を回りこんで追いかけてきた群衆の方が、主イエス一行よりも先にその場所に着いてしまうのです。
宣教活動をして疲れ、食事も摂りたい、と思っている主イエスや弟子たちのことよりも、主イエスは自分たちを囲んでいる群衆のことを心配していたのです。自分たちのことよりも群衆のことを優先しているのです。
6章34節に次のように記されています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」
主イエスが「大勢の群衆を見て」と記されています。私たちは「見て」と言う言葉に注意しないかも知れませんが、とても大切な言葉です。主イエスはどのようなまなざしをもって見ていたのか、ということです。それはいつも神のまなざしで見ているのです。相手を批判し、厳しい眼差しで見ていたのではありません。相手をどのような眼差しで見ているのか、それはその人のあり方を表しているのではないでしょうか。主イエスの眼差しから、5千人に食べ物を与えることが起こっているのです。主イエスが見ているのは、「飼い主のいない羊」です。飼い主のいない羊は、すぐに途方に暮れてしまい、オロオロするばかりです。道にも迷い、敵にも狙われやすいのです。
ある牧師がパウロの伝道の足跡を訪ねて、トルコを旅し、各地で放牧されている羊の群れを見たそうです。ガイドが、羊は満腹感を感じることができない動物で、羊飼いが管理しないと、ただひたすら牧草を食べ続けるそうで、具合が悪くなるそうです。羊が自己管理能力に欠けていて、羊飼いがいないとすぐに途方に暮れてしまう動物である、と言う話を聞いたそうです。
私は羊についてかつてこう言う話を聞いたことがあります。羊は目が悪く、余りよく見えないので、自分の羊飼いの声を聞いて羊飼いの後について行く動物であると言う話です。羊は羊飼いがいないと体を壊し、道に迷うのです。
「飼い主のいない羊」のような群衆は途方に暮れていました。その途方に暮れている、と言うのは深い理由があったのです。
マタイによる福音書14章に同じ物語が記されていますが、「病人をいやされた」と書かれているので、自分の病を治す医者がいない、と言うことも「飼い主のいない羊」の状況であるのです。病気はいのちを危うくするものです。飼い主がいないと言うことは、自分のいのちや生活を心配し、妨げるものから守り、自分を愛する者がいないということです。だから人々は主イエスのもとに集まってきたのです。
主イエスの眼差しは、途方に暮れた群衆の姿をよく捉えています。外見だけを見ていただけではなく、本当に困窮している、ほんとうに困っている群衆の心を見ているのです。
牧師をしていると、ほんとうに困窮している人と出会うことが多いのです。北九州の若松教会におりました時に、夜、遅く教会を訪ねてきた人がいて、玄関を開けるとその人が破れた服を着て、そして靴も履かずに裸足で立っていました。その男性は一晩、泊めてもらいたいと言いました。一晩泊めて、下着や、食べ物をあげて帰ってもらったことがあります。
この人が帰った後に、気がついたことがありました。それはこの人がその日の暮らしに困っているだけではなくて、この人のことを心配し、愛する人がいないと言う根本的な問題があるのではないか、と言うことです。住む家を持っている、食べる物がある、着る物がある、それは生活を支える基盤ですから重要ですが、この人のいのちを心配し、気遣ってくれる人がいることがこの人を支えることになるのです。
「飼い主のいない羊のような」群衆に対して、主イエスの心に沸き上がった思いは「憐れみの思い」なのです。「憐れみの思い」は英語の聖書では、「コンパッション」と言う言葉で翻訳しています。「コンパッション」と言う言葉の元々の意味は「共に苦しむ」と言う言葉であり、「同情」「同じ思いになる」と言う意味です。主イエスの眼差しは外見だけではなくて、彼らの心の奥底にまで深く届いているのです。私たちは、相手を見て、外見の様子は少し分かります。元気がある、元気がない、疲れている、疲れていない、そのようなことは分かりますが、相手の心まで分からないのです。主イエスは相手の心の奥底までその眼差しが深く届いているのです。他の人には見捨てられ、置き去りにされている、その苦しみをもっている群衆が、神には見捨てられることはない、置き去りにされていないのです。この「深く憐れんで」と言う言葉は、他のところにも用いられている言葉です。
この「憐れみ」と言う言葉は、ルカによる福音書10章30−37節で語られている「善いサマリア人の譬え」に出てきます。ここに出てくるサマリア人は、実は主イエス御自身のことですが、このサマリア人は、追い剥ぎに身ぐるみ襲われて、半死半生の目にあって倒れ、深く傷ついたユダヤ人を見て「憐れに思い」、自分の予定を変更してでも、救い出そうとするのです。この「憐れむ」と言う言葉は「はらわた痛む」と言う言葉です。相手の窮状を見て、自分の存在全体が相手に対して深い苦しみと痛みを覚えるのです。この「憐れみ」こそが、主イエスの相手に対する愛の原点です。
弟子たちも群衆のことを気にかけていたのです。群衆は疲れて、空腹であったのです。弟子たちは、群衆を解散させて、群衆が自分たちの食べるものを自分で用意することを提案します。そのことについて、主イエスは弟子たちに彼らに食べ物を用意するようにと語るのです。弟子たちは多くの群衆に食べ物を用意するのは無理であることを主イエスに話しました。「わたしたちが二百デナリオンものパンを用意するのですか。」群衆すべてにパンを一つずつ配るには二百日分働いて得たお金(二百デナリオン)が必要であり、今、大量のパンを用意するのは実際にはできないと弟子たちは主イエスに言うのです。
そこで主イエスは手持ちの食糧を弟子たちに確認させ、「パンが五つと魚が二匹」があることが分かったのです。そして群衆を「組に分けて、青草の上に」座らせ、整列した群衆に弟子たちは、主イエスが祝福をしたパンと魚を配ったのです。主イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(6章41節)このように主イエスは群衆にパンと魚を配り、「すべての人が食べ」(42節)たのです。
わたしたちはこのような奇跡が本当にあったのか、ということを考えます。合理的に考えるのです。群衆が手持ちのパンや魚を持っていて、それをほんのわずかですが、少しずつ食べたのではないか、と考えるのです。それでは奇跡はなかったことになります。
しかし、このような奇跡が実際にあったかどうかと言うことよりも大切なことがあります。それは奇跡の意味です。奇跡は主イエスが本当に相手のことを思い、愛する時に起こすものなのです。食べた後、残ったパンが12かごに一杯であったことは驚くべきことです。主イエスのこのような奇跡は、どこから来るのか、それは群衆に対する深い愛から来るのです。
主イエスが、飼い主のいない羊のような群衆に心の底から同情し、その苦しみと痛みを覚えることからこの物語は始まっているのです。仮にわずかな食糧であっても、主イエスがそれを祝福し、弟子たちの奉仕を通してそれを配る時には、その祝福が一人一人に届けられるだけではなく、その祝福は満ち溢れるほど、一人一人を包み込むのです。主イエスの愛の眼差しからこの奇跡が起こっていることを心に留めたいのです。
パンの奇跡の物語は旧約聖書にあります。特に印象が深い話は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が荒れ野で叫ぶ物語です。(出エジプト記16章)モ−セがイスラエルの民を引き連れて、荒れ野を旅していた時に、食糧がなくなり、イスラエルの民は不平不満を言うようになります。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト記16章3節)エジプトにいる時には奴隷から解放されることを願い、それが実現すると喜んだのです。しかし、食糧がないとエジプトにいるほうが良かったと言い出すのです。勝手な言い分です。このような我が儘な民に対して、神は腹を立てることなく、天からのパンを降らせて、必要な食糧を与えるのです。人々の我が儘な罪にもかかわらず、主なる神はイスラエルの民を養うのです。出エジプト記16章4節「主はモ−セに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。』」
この五千人の給食の物語は、主イエスの振るまいなどから聖餐式を思い浮かべますが、主イエスは御自身をイスラエルの民の羊飼いとして自覚し、その役割を担っているのです。詩編23編は、羊飼いが羊のために配慮し、心を砕いて労苦している姿を歌っています。主はわたしの羊飼いであり、羊を青草の上に休ませ、憩いのほとりに伴い、「死の陰の谷を行く時にも」いつも共にいてくださると歌うのです。いつも羊のために心を配り、働いてくださるのです。
この五千人の給食の物語は、洗礼者ヨハネの死の物語の後に語られています。マルコによる福音書には、ヘロデがヨハネを殺した時のことを回想している場面が語られていますが、それに対してマタイによる福音書は、過去を回想しているのではなく、現在の事としてヘロデが洗礼者ヨハネを殺した経過をリアルに語っています。
ヘロデが洗礼者ヨハネを殺すことになったのは、丁度、ヘロデの誕生日の祝いの席の場面で起こったのです。ヘロデ・アンティパスは実際は王としての権限を持ってはいませんでしたが、このユダヤ地方を治める領主であって、この地方では一目置かれる存在でした。ヘロデの誕生日ですから、その祝いの席にこの地方の名士と呼ばれる人々が集まったに違いないのです。ここに集まった人たちはヘロデの誕生日を祝うために集まったと言うよりも、自分の利害や義理や仕方なく集まった人たちなのです。今で言えば政治家の資金集めパ−ティ−のようなものでしょう。そこでは贅沢な料理が並べられて、ヘロデが満足そうに座っているのです。そこで話される話題は、人の噂話やお金の話、商売の話であり、こそこそとヘロデ王の悪口もささやかれたに違いないのです。その場面でヨハネの切られた首が運ばれて来るのです。それは、この世の罪が明らかになるような宴会であったのです。この宴会は後味の悪いものであったに違いありません。
しかし、主イエスが群衆と共にいただいた食事は、愛に満ちた食事であったのです。贅沢なご馳走ではなかったのです。食べきれないほどのたくさんの料理が並んでいたのではありません。ホテルのバイキングのように、好きなだけ、食べることができるような料理ではなかったのです。パンと魚と言うとてもシンプルなそれだけの食事なのです。しかし、人々は食べて満腹したのです。それは主イエスの愛が感じられる食事であったからです。相手に対する深い愛から出た食事ならば、どんな料理であってもおいしいし、おいしく戴けるのではないか、と思います。
主イエスは、罪人との食事を何回もしています。誰も相手にしなかった罪人や徴税人と食事をして楽しい時を過ごしています。そして復活されてガリラヤの海辺で、ペトロを招いて朝の食事をしています。主イエスを裏切り、離れてしまったペトロの過ちを赦し、主イエスの弟子として再び、やり直す機会を与えて、ペトロと共に食事して、再び弟子として立たせるのです。
ヘロデの誕生日の祝いの席は、利害と陰謀と悪意に満ちた中で行われ、その中で人間の罪が露わになるような殺人が行われています。しかし、主イエスは飼う者のない羊のような群衆を見て憐れみ、パンと魚をもって養い、神の愛を人々に知らせたのです。ヘロデの宴会は罪と悪意に満ちた、この世の宴会でしたが、主イエスの給食は愛と信頼に満ちた、天の宴なのです。
「婦人の友」の会が販売している、壁掛けがあります。その壁掛けには「主イエス・キリストはこの家の見えないゲストであり、わたしたちの会話の見えない聴き手です」と言う言葉が英語で書かれています。
私たちは食事や会話の真ん中に主イエス・キリストがおられることを心に留めて、共に交わり、共に食事をするのです。
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20151004 主日礼拝説教 「しかし、神の言葉は生きる」 山ノ下恭二 |
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(ヨナ書4章1−11節、マルコによる福音書6章14−29節)
新約聖書には4つの福音書があります。この4つの福音書の初めには、語り方は異なりますが、共通して洗礼者ヨハネの物語があります。洗礼者ヨハネはらくだの毛皮を身にまとい、腰に皮の帯をしめただけという特異な姿でユダヤの荒れ野に現れ、神が審判する時が近いことを語り、悔い改めを迫り、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。ヨハネは主イエスに先駆けして活動した預言者で、審判の預言者と呼ばれています。
本日、この礼拝で読んだマルコによる福音書6章14−29節には小見出しがあり、「洗礼者ヨハネ、殺される」と書かれています。今日の聖書のみことばを読むと、誰でもが、洗礼者ヨハネが殺された話が書かれていると読むのです。しかし、それで終わりにして良いのか、と言うとそうではないのです。新聞の殺人事件を読むように、ヨハネが殺された、権力者によって預言者が殺された、ああ、可哀想にとだけ読んで終わりにすることはできないのです。
今日、読んだところは、主イエスが主人公として、主役として、中心人物として登場していません。ヘロデが主役として登場しています。主イエスの名前は出てきますが、主イエスについての噂を聞いて、ヘロデがヨハネを殺したことを回想しています。この忌まわしい事件を詳しく書いているのです。主イエスが主役でなく、脇役であるヘロデやヨハネのことをこんなに詳しく記す必要があるのか、と思うのです。ルカによる福音書では短く書かれています。ヘロデがヨハネを牢に閉じ込めて、悪事に悪事を加えたとだけ書いてあります。
短くヨハネの死を書いても良かったと思いますが、マルコによる福音書は実にリアルにヘロデの心の内を記し、ヨハネの死までを記しています。この物語を主イエス・キリストの福音の中に入れたと言うことは、福音書を編集したマルコの意図があるのです。主イエス・キリストは主役としては登場しないけれども、ヘロデによるヨハネの死によって私たちに語りたいことがあるのです。
この物語は、殺した者が自分に心の咎めを持ちながら、一人の人を殺してしまったその成り行きを説明しています。ここに登場するのはヘロデ王です。この王の父親はヘロデ大王と呼ばれており、クリスマスの物語に登場します。主イエスがお生まれになった頃の王で、猜疑心が強く、残忍な心を持ち、新しい王が生まれたことを聞いて、主イエスが生まれたと言われるベツレヘムの村の嬰児を皆殺ししてしまった人なのです。このヘロデ大王のひとりの妻から生まれた子どもが、ここに出てくるヘロデであり、ヘロデ・アンティパスと呼ばれました。ヘロデ大王の死後、3人の息子が領土を3分割し、このヘロデ・アンティパスは王とは呼ばれず、領主と呼ばれていました。このヘロデ・アンティパスは母親が違いますが、フィリポと言う兄弟がいました。このフィリポと言う兄弟の妻を横取りしたのです。自分には妻がいたのですが、兄弟の妻であったヘロデイアを自分の妻にしてしまうのです。そのような不正をヨハネは見過ごしにできず、ヘロデを厳しく批判したのでした。それはヨハネがどのような人であろうと神の前に正しく生きることを人々に求める預言者であったからです。特に、人々の暮らしを左右する権力者には厳しい目を向けていたからです。
このヘロデ・アンティパスは王ではなく、領主ですが、このマルコによる福音書では「ヘロデ王」「王」と書いています。それは何故なのか、と言うことです。それは、ヨハネを殺す権限をもっていたからです。人を殺した者は犯罪者になるけれども、権力者は人を殺しても、そのことが罪にならないのです。裁判で審理しなくても、王の一存で、殺すことができるのです。ヨハネにその結婚を糾弾された、妻のへロディアは、殺すことができた自分の夫を利用しようとしたのです。
マルコによる福音書はヘロデを「王」と呼び、洗礼者ヨハネは王の手によって殺されたと伝えています。この当時の権力者によって殺されたのです。
ヨハネは洗礼者であると共に神の審きを語った預言者です。神の前に正しく生きようとした人であり、人々が神に対して、神に向かって誠実に生きることを説いた預言者です。その預言者をヘロデ王は殺してしまったのです。神の言葉を語る者を抹殺することは、実は神の言葉そのものを殺し、無き者とすることです。
この物語で大変、興味があることは、ヘロデの態度です。はじめ、ヨハネが王として支配者として神の戒めに背くことをしていると厳しく批判したので、ヘロデはヨハネを憎むようになったのです。自分に邪魔をするので、捕まえたのです。捕まえて、自分のところにヨハネが連れて来られると思いがけないことが起こります。捕まえられたヨハネは権力者の前で恐ろしさのために萎縮して黙ってしまったのではなく、勇敢にヘロデに向かって語ることができたのです。マルコによる福音書6章20節に「なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」と記されています。
ヘロデは自分のことを批判しているヨハネをけしからんと思っていました。しかし、ヨハネと会って、聖なる人であり、神の側に立ち、神の言葉を語る人であることが分かったのです。実際に捕まえてみて、この人は神の側にいる人だと分かり、安心して、ヨハネが語る神の言葉に耳を傾けたのです。
なぜ、ヘロデは「なお、喜んで」ヨハネの説教に「耳を傾けていた」のだろうか、と思います。ヨハネが荒れ野で人々に語った説教と言うのは、人の罪に対する審きと悔い改めを語ったのです。そう考えると、ヘロデに対しても徹底的な批判を語ったのです。ヘロデの悪事を指摘したと思います。自分に向けられた批判と言うのは、人間には耐えられません。ヨハネの説教を聴いて、腹を立てて、ヘロデは、王の権限によってヨハネをすぐに殺すこともできたはずです。しかし、殺さなかったのです。
それはヨハネがヘロデを愛しながら裁きを語ったからです。ヨハネは厳しいことを語ったけれども、愛をもってヘロデに語ったので、「当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた。」のです。相手を愛しながら語る、それは語り方や語調も変わるのではないでしょうか。
ここで鍵となる重要な言葉は、「当惑する」と言う言葉です。この「当惑する」と言う言葉はヘロデの態度をよく表しているのです。「当惑する」と言う言葉は「アポリア」と言う言葉です。「ポリア」と言う言葉は「問題を解決する手段」と言う意味で、この言葉に否定の言葉「ァ」が付くので、「解決がつかない」と言う意味になります。
ヨハネは、ヘロデに人間の罪の深さを語り、悔い改めを語ったのです。ヨハネの言葉に対して、自分が悪いことをしたことは少し分かったのです。ヨハネの言葉にうん、うん、とうなずいたのです。しかし、うなずいただけで、悔い改めることはしなかったのです。今の生活を維持したいために、自分の罪を告白し、今の生活を変えるだけの勇気を持たなかったのです。自分の生活の中で、悔い改めを実践することがなかったのです。ヨハネの説教は喜んで聴いていた、しかし、ヘロデはそれ以上のことはなく、問題を解決するまでに至らず、当惑していただけです。ヨハネの説教を全面的に受け入れたのではありません。
このように考えると、このことは私たちの問題になります。教会に来て、聖書の話を聞いています。説教を聴いて、なるほど、そのような生き方をしないといけないと思います。しかし、家に帰って神の言葉に従おうとは思わなくなるのです。毎日、みこころに従うことができるようにと祈ります。しかし、みこころになることを願いながら、みこころに反することをしているのです。
愛することの大切さを教えられます。愛することは大切だ、と思いながら、実際に人を愛することができないのです。自分を一番、先に愛してしまうのです。私たちにとって、そこに当惑が起こります。ここでは、ヘロデが「非常に当惑しながらも、なお喜んで」ヨハネの説教を聴いた、と書かれています。
ヨハネの説教を聴いたヘロデが、ヨハネが囚われていた獄から出て、自分の王宮に帰るときには、この地上の世界の言葉でない言葉、神の言葉を聞いて喜びに溢れて帰ったに違いないのです。そして再び、ヨハネのいるところに行って、説教を聴いたのです。当惑しながらも、喜んでヨハネのもとに通ったのです。このことはとても不思議なことです。このようなヘロデが、なぜヨハネを殺してしまったのか、そのことを考えざるを得ないのです。
ヘロデはヨハネの説教を聴いていて、自分の罪深さ、弱さを感じていたのです。しかし、それ以上ではなかったのです。ヨハネが語る神の言葉よりも、今の自分の地位を確保することや自分を囲んでいる家族のつながりを大切にして、それを優先しているのです。
ヨハネを殺すきっかけは、思いがけないことでした。ヘロデが前もって計画して行ったわけではなかったのです。ヘロデの誕生日の祝いにへロディアの娘が踊り、その褒美として何でも欲しいものを言うように言ったところ「ヨハネの首を」と言い、「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。」のです。王としての体面、へロディアと娘とに対する愛があったのです。ヘロデは妻の願いを聞き入れないと、愛を失うことを恐れたのです。神の言葉を聞きながら、神の言葉を語る者、はっきり言うと神の言葉を殺してしまったのです。
洗礼者ヨハネが殺されてしまった、この物語はそのことだけを語っているのではないのです。洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆けとして、主イエスの前に存在した預言者です。そして主イエスの前に活動したと言うのではないのです。ヨハネの死は主イエスの死を明らかにしているのです。主イエスの死はヨハネの死を見れば分かるのです。
ヘロデは当惑しながらもヨハネの説教を聴いていたのです。しかし、ヨハネを殺してしまったのです。主イエスも同じであったのです。主イエスを殺した人たち、それは、主イエスを囲んでいた人たちです。この人たちは、主イエスの語る言葉を喜んで聞いていました。ある者は主イエスによって病が癒やされ、喜んでいたのです。この人たちは、主イエスが捕らえられ、連れて行かれ、殺されることになった時に、皆で主イエスの生命を守るために死刑反対運動をしたか、と言うとそうではないのです。これらの人たちは、主イエスを殺せと叫んだのです。イエス・キリストを殺した責任は、権力者だけではなく、主イエスの言葉を聞いていた人たちにあるのです。そしてこれらの人たちが実は私たちであることをマルコは言いたかったのです。
私たちは神の言葉を聞きながら、実に神の言葉をないがしろにしています。私たちは礼拝でみことばを聞いています。しかし、日常の生活でみことばを無視し、自分の考えや思いを優先しているのです。ヘロデはヨハネの言葉に耳を傾け、喜んでいたのですが、自分の権力の座を守ろうとし、自分の地位や目の前にあることを優先して、大切な神の言葉を捨ててしまうのです。私たちは、神の言葉を聞きながら、実に良く、自分のことを大切にして、神の言葉をないがしろにしているのです。
みこころになるように祈りながら、実際には、御心とは異なる生活をしているのです。ヨハネが「悔い改めのバプテスマ」を授けていた、と書かれていますが、私たちは本当に「悔い改め」をしているのか、と言うことです。今までの生き方で良かったのか、深く自分の罪を痛感し、方向転換して新しい生活をしているのだろうか、と思います。
この物語は、洗礼者ヨハネが殺されると言うことだけを語るものではないのです。私たち自身が、神の言葉である主イエスを殺していると言うこと、そして、主イエス・キリストは、神の言葉を殺すような罪をご自身のものとして引き受けて、死ぬのです。ヨハネの死、それは主イエスの死を予告するような、厳しい死です。ある注解書には「ヨハネの殉教」と書かれていました。そして主イエスの死、それは、私たちが神の言葉に従わない罪を担って、まさに、神の審きとして死ぬのです。神の言葉を殺すような、無視するような罪を主イエスは背負い、その罪を贖ってくださるのです。
神は、主イエスと言うひとり子を与えるほどに私たちを愛してくださるのです。神の言葉を聞かない者、神の言葉を聞いても、無視する者をも、救ってくださることを語っているのです。
本日は旧約聖書に記されているヨナ書を読みました。なぜ、ヨナ書4章を読むのだろうか、と思った人もおられると思います。洗礼者ヨハネが死んだこととヨナ書とは関係がないように思います。しかし、内容的に深く関わっているのです。
ヨナ書の4章はヨナ書の最後のところです。ニネベが神のみこころに背き、神の言葉に聞かないでいるのです。神はヨナにそのニネベに行けと命じられます。ニネベに行くことを拒んだヨナは逃げますが、大きな魚に呑まれて吐き出されたところがニネベであったのです。この町でヨナは、悔い改めを呼びかけます。町全体に悔い改めを呼びかけるのですが、誰も悔い改めないのです。ヨナはこのように悔い改めない町は滅びるべきだと考えるのですが、神はニネベの人々を惜しむと言って、この物語は終わるのです。「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」(ヨナ書4章11節)と語っているのです。神はヨナにこの都にいる人々を見捨てることはできないと語ります。悔い改めを迫る預言の言葉を聞かない町の人々をも、神は置き去りにせず、見捨てない、惜しまないで、愛を注ぐのだと語るのです。
ホセア書11章8−9節(p1416)「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことをしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者、怒りをもって臨みはしない。」
神の言葉を聞きながら、神の言葉を無視し、ないがしろにする私たちを神は審判せず、その罪を罰することはしないのです。私たちのかたくなさ、罪にもかかわらず、主イエス・キリストは、私たちのために罪と死と言う審判を引き受けてくださるのです。
これから聖餐に与ります。私たちがみことばを聞いても、みことばをないがしろにする、そのような者の罪を代わって贖ってくださったキリストの惠みに与ります。
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20150927 主日礼拝説教 「信仰によってのみ」 山ノ下恭二 |
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(ハバクク書2章4節、ロ−マの信徒への手紙3章21−26節)
私は高校生の時に「つのぶえ」と言う毎月出ていた中高生向けのキリスト教雑誌を読んでいました。この雑誌の広告に一冊の本が紹介されていました。「わたしというもの」と言う題名の本で、アメリカの教会の牧師が書いて日本語に翻訳された本です。「わたしというもの」と言う題名に惹かれて本を注文して読むことができました。この「わたしというもの」と言う本には「私たちにとって一番、欲しいものは何ですか」と言う問いが書かれていました。「私たちにとって一番、欲しいもの、それは、人から承認されることです」と書かれていました。そして続けて、「つまり、わたしが認められると言うことです。」と書かれていました。その時、そうだなと思いました。学校から家に帰った時に、「ただいま」と言った時に、家族の者が「お帰り」と言ってくれるとうれしいと思いましたし、誰かが自分の存在に気がついて、話しかけてくれることもうれしいと思ったのです。「人間にとって、一番、欲しいものは、自分が認められることです。」この言葉を良く記憶しています。
私たちにとって他の人から自分が認められていることはとても大切なことなのではないでしょうか。自分が認められるために、多くの人々が努力し、苦労をしているのです。学校では良い成績を取って、良い評価を得たいと思うでしょう。スポ−ツの分野では相手に勝って、強いと評価されたいために厳しい練習を積むのです。会社では一所懸命に働き、成績を挙げて、上司から褒められる、評価されることを期待します。研究者は学問的な業績を残して評価されたいと願います。
私たちにとって周りの人々から認められることはとても重要なことなのです。しかし、よく考えてみると、人によって認める視点や評価の基準が異なるので、他の人から認められることは、相対的なことなのです。自分に対する他の人の認定や評価は人によって違うのであり、自分を高く評価する人もいますし、余り評価しない人もいます。
私は、ある時、出版社に勤務している友人と話していて、ある人のことが話題にのぼり、私が「とても良い人で、有能だ」と言ったら、その友人が「その人は原稿が遅く、電話の対応の仕方も悪くて良くない」と言ったので、人それぞれ認める視点や評価の基準が違うことを経験しました。ある人にとってはその人は「良い人」なのですが、別な人には「悪い人」と認定され、評価されるのです。人間の世界では、一人一人認める基準が異なるのです。
私たち人間が神から認められることはどのようなことなのか、と言うことです。私たち人間の世界では人によって認められる視点や評価の基準は違います。一人の人についてもAさんは良い人だ、と高く評価し、Bさんは、良くない人だ、と認めません。
しかし、神から認められるのは、絶対的な評価です。あなたは絶対的に良い、と神に認定されることです。どのように神に認められるのか、それは「信仰」によるのです。神に認められるのには「信仰」がポイントになるのです。
本日、この礼拝で読みました、ロ−マの信徒への手紙3章21−26節には、「義」という言葉が多く出ています。「義」とは神と私たちの関係を表す言葉です。人間同士でも仲良しで心が通じていれば、正常な関係があり、そこには「義」があると言えます。しかし、仲が悪くて、遭えば喧嘩をしている間柄であれば、正常な関係をもっているとは言い難く、「義」ではないのです。神と私たちが正常な関係を持ち、神が私たちを肯定し、良いと言うことが「義」と言うことの意味です。
このロ−マの信徒への手紙でパウロは良い行いによって神が正しいと認めるのではなく、神に正しいと認められるのは「信仰」によると語っているのです。パウロは人間の力で、努力、立派な行い、業績で神に認められるのはない、と語るのです。「信仰」によって「義」とされる、と語ります。信仰によって神との正常な関係を持つことができ、神に認められると語ります。
その信仰とは何か、信仰とはどのようなものか、が大切なポイントなのです。日本で暮らしていると、「信仰」について、聖書が理解している理解の仕方と日本人が理解している、その理解の仕方とが異なっていることに気がつきます。
先週の日曜日の夕方、散歩で江戸川橋方面に行ってみました。江戸川橋方面に向かって歩いていたら、秋祭りで赤城神社、秋葉神社のお祭りで神輿を担いでいる風景をみました。神道の神様が神輿に乗って、みんなのところにお出ましになっているのだなぁと思いました。しかし、神道の神がどのような神であるか、はっきり分かりません。神道は言葉がなく、教理がないので、どのような神なのか、さっぱり分かりません。どういう神なのか、そのことは余り問題にはなりません。日本の人々の宗教生活には、信じる対象、信仰の対象について深く問うことはないのではないか、と思います。祈る対象、信じる対象には無頓着です。祈る対象や信じる対象よりも、自分の側の信じる気持ち、熱心さが大切になっています。毎日、神社やお寺に熱心にお参りする人を「信心深い人だ」「信仰のある人だ」と言います。
この礼拝でいつも使徒信条を告白しています。この使徒信条は神が私たちにどのようなことをしてくださったのかを告白しています。使徒信条は私たちの神がどのような神であるかを明らかにしています。それは父、子、聖霊の三位一体の神であり、私たちの救いのために神がイエス・キリストと言う人間となり、十字架と復活によって、私たちの罪を贖い、私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられたことを告白しています。この神の業を信じ、受け入れることが信仰です。キリスト教信仰は信じる側の気持ち、熱心さよりも、信仰の対象である神がどのような方なのか、ということが決定的に重要なのです。キリスト教信仰は信じる対象がどのような者であるかが決定的に大切なのです。
使徒信条では、信じる対象である神がどのような神であるかに集中しています。それは、丁度、猟師が空を飛んでいる鳥を撃ち取ろうとして鳥の動きを目を凝らして集中しているようなものです。使徒信条には神がどのような神であるかを告白しています。神が父として、キリストとして、聖霊として、その役割を果たしながら私たちのために働いてくださる神であることを明らかにしているのです。この神はイエス・キリストとなって私たちの罪のために犠牲になって贖いを成し遂げてくださったのです。この神を受け入れる、それが信じるということです。神が私たちのために一方的な好意をもって愛の行為をしてくださった、そのことを自分が認識し、信頼する、それが信じることです。
皆さんもよく経験すると思いますが、贈り物が送られてくるのはうれしいことです。贈り物を送って下さったその好意を受け取り、感謝することがあります。自分が相手に何もしていないのに、相手の方がいつも好意をもっていろいろ送ってくださる、その好意を受け取る。自分には過分なものを戴いたと思う時もあります。神が私たちのためにイエス・キリストを贈り物としてくださった、そのことを感謝して受け取ることが「信じる」ことです。
ハイデルベルク信仰問答・問59には「使徒信条で語っているすべての神の業」を信じると役立つことがあると言います。信じると助けになることがあると言うのです。それは神が私たちを正しい者として肯定してくださるということです。神との関係が正常になり、私たちの存在が肯定される、そのような恵みが与えられるのです。私たちが気持ちよく生活するためには、周りの人と良い関係をもっている、仲が良いことが大切です。私たちは周りの人と良い関係でいると気持ちよく過ごすことができるのです。そのように神に自分の存在が肯定され、認められることが最も幸いなことなのです。
神が私たちの罪のために犠牲をささげ、そのことによって救われる、そのことを信頼する、そのことにより神の前で「義」とされるのです。
信仰によって義とされる、このことは私たちの教会の原点です。どのようにしたら神が私たちを正しい、良い者であると認めるのか、という大切な問題です。律法の行いではなく、信仰によって義とされるとはどのようなことか。
ユダヤ教は戒律的な宗教であり、神の意志である律法を守ることが信仰生活であると考えています。神の意志である律法が要求することを忠実に守る者が神に正しい者として認められるのです。
これに対して、パウロはこの手紙で、そうではないと語ります。ただイエス・キリストが私たちに代わって正しい行為をなさったことを信じるだけで神に認められるのです。要求されたことを果たすことによってではなく、神が要求していることをキリストがすべて果たしてくださった、その神の一方的な恵みの業を受取り、信じることによって神に認められるのです。私たちは神が満足し、神が喜ばれることは何一つしていないのです。しかし、キリストのおかげであたかも自分がしたかのように見なしてくださるのです。ロ−マの信徒への手紙3章23−25節(p277)「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」
私が中学2年の時に技術家庭という授業があり、背もたれのない椅子を作るという課題が出されました。椅子の組み立てがガタガタしていて、その椅子に座っても傾いてしまい、これでは学校には提出できないと判断して、義理の兄のところに行きました。義理の兄の会社は日本住宅の欄間などを作っている木工所です。木工の機械もあり、義理の兄がしっかりした椅子を作ってくれたのです。翌日、学校に持っていき、その椅子を教師に出したら、山ノ下が作ったとは思えないと教師に言われてしまいました。自分にはできないことを他の者が代わりにしてくれたのです。イエス・キリストが自分に代わって神に対して良い行いをしてくださった、そのことを信じて、有り難いと受け取ることが信仰なのです。
「信仰による義」と言うことは、私たち福音主義教会の原点です。宗教改革者ルタ−は、詩編やロ−マの信徒への手紙のみことばと苦闘しながら、信仰による義とはどのようなことかを再発見したのです。宗教改革者ルタ−は「神の義」とは「神は正しい方だ」と理解していました。神は正しい方であるから、自分は正しい生活をしないと神は自分を認めないと考えていたのです。ルタ−は一所懸命、祈り、良い業をしたのです。しかし、そこで魂の平安、安らぎを得ることはできなかったと彼の著作に書いています。
大学で詩編講義を続けていた時に詩編71編2節のみことばに出会ったのです。詩編71編2節・口語訳ですが「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。」と言う言葉です。ルタ−はこの詩編の「あなたの義」「神の義」と言うみことばの意味を改めて考えたのです。それまでルタ−は、神は正しい方なので、自分が良い行いをしない時に神は罰を与えると考えていたのです。
しかし、ルタ−は、この詩編71編2節の「あなたの義をもって助け」と言う言葉と格闘して、このみことばが今まで理解していた意味とは違った意味であることを初めて知ったのです。「神の義」という言葉を「神が与える義」と理解することができたのです。例えば「お父さんのプレゼント」と言う場合、「お父さんが贈ってくれたプレゼント」と言い換えることができます。正しい生活をして神に認められることによって義を獲得するのではないのです。神が神の正しさを私たちに贈り物として自分にくださった、そのことを信じて受け入れる、それで私たちは正しい者と見なされることを発見したのです。
私たちは神に背を向けて、自分の都合ばかり考えて過ごしているのです。神が今、生きておられるのにその神がいないかのように自分中心に過ごしているのです。そのような罪深い者を責めることなく、キリストが完全な償いをしてくださるのです。ハイデルベルク信仰問答・問60には「神は、わたしのいかなる功績にもよらず ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし」てくださる、と書いてあります。
この説教の準備をしながら、讃美歌249の一番を思いだしました。「われつみびとの かしらなれども 主はわがために 生命をすてて つきぬいのちを あたえたまえり」神は罪人を憐れんでくださるのです。その私を「あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。」自分の都合ばかり優先して何一つ良いことをしていない者を神のみこころに従って完全に良い行いをしたかのように扱ってくださるのです。
「信仰によってのみ」と言っても、「信仰」も自分の努力で獲得したかのように考えることがあります。私たちはいつも人間の立場から物事を捉えているので、「信仰」も自分が熱心に祈り、聖書を読んだので、自分に「信仰」があると考えるのです。これは誤りです。聖霊によって「信仰」が与えられたのです。ハイデルベルク信仰問答・問61には、「なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか」と言う問いに対して、こう答えています。「それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、と言うのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが 神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも 自分のものにすることもできないからです。」自分の側の熱心さが信仰を生み出すことではなく、「信仰」は神が与えて下さる賜物、神の惠みなのです。「わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく」と答えていることに注目したいのです。熱心な信仰生活をしているから神が正しいと認めるのではないのです。神だけが本来の義をもっているのであり、私たちは神の正しさを戴くことしかできないのです。
東京神学大学では毎週、月曜日、土曜日を除いて、10時15分から55分まで大学の礼拝をしています。毎月一度、第四火曜日の礼拝の時間に、学年ごとの祈祷会をしていました。礼拝堂の入り口に祈祷室がありました。参加者全員が祈るのですが、朴米雄さんという同級生がいて、この人はいつも「信仰のない私を神は憐れんで」という祈りをしていました。この祈りの言葉を私は印象深く覚えています。「信仰のないわたしを助けてください」。それが私たちの祈りなのです。
宗教改革者カルヴァンは信仰とは「器」であると言いました。信仰は器にすぎないのです。ただ器がなければ、ご飯を入れることはできません。そしてご飯茶碗はご飯が盛っていない時には何の意味もないのです。私たちが神の憐れみを戴いている時にこそ、私たちの信仰は意味があるのです。ロ−マの信徒への手紙9章24節にはパウロが「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(p287)と語っています。私たちは神の憐れみを入れる器です。神の愛を盛っている器です。この器は宝を入れている土の器です。この器は壊れやすい、弱い器です。しかし、壊れやすい器である私たちを神はいつも愛を注いでくださるのです。
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20150920 主日礼拝説教 「初めから終わりまで神の御手の中に」 山ノ下恭二 |
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(詩編31編15−16節、ヨハネの黙示録1編8節)
私たちが用いている聖書は、新共同訳聖書で、カトリック教会と共同して翻訳をしたものを用いています。私たちは長い間、口語訳聖書を読んで、読み慣れていましたので、口語訳聖書とは異なる翻訳に出会うと違和感を持ちます。本日、礼拝で読んだ新共同訳聖書の詩編31編の16節は、口語訳聖書とはかなり翻訳が異なっています。
新共同訳聖書では「わたしにふさわしいときに、御手をもって 追い迫る者、敵の手から助け出してください。」ですが、口語訳聖書は「わたしの時は、あなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。」と翻訳されています。このみことばの前半部分ですが、口語訳では「わたしの時は、あなたのみ手にあります。」と翻訳されていますが、他の翻訳では「私の時は、御手の中にあります。」(新改訳聖書)とあり、また別の翻訳では「わたしの生涯は み手にあります。」(フランシスコ会訳)と翻訳されています。私は口語訳聖書を読んで来ましたので、「わたしの時は、あなたのみ手にあります。」この翻訳のみことばに親しんでいます。
「わたしの時はあなたのみ手にあります。」本日は、この短いみことばに集中して思いを深めたいと思います。この聖書のみことばは私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。
「わたしの時は、あなたのみ手にあります」と言う場合の「あなた」とは、「神」を指しているのです。従って、この聖書の言葉は、「わたしの時はわたしに属していない、わたしのものではなく、神に属していて、神のものである」と語っているのです。
初めてこのことを聞いた人は、今まで、時、時間は自分のものだと考えているので、自分の時は神に属している、神のものだと言うと驚くかも知れません。誰でも一日、24時間の時間を与えられ、その中で自分で時間を決めて自由に過ごしています。しかし、私たちに与えられた時間は、本来は私たちのものではなく、私たちに貸し与えられているものに過ぎないのです。私たちのいのちが本来は神から貸し与えられたものであり、自分の所有物のように勝手に使うものではないように、時間も自分のものではないのです。
神が望まれるなら、いついかなる時でも私たちを地上から取り去ることがおできになるのです。生まれてから今日まで、私たちはそれぞれかなり長い時間を自由に過ごしてきました。そして、今までと同じように、明日もいのちがあり、生活ができると私たちは思っています。
しかし、そうではありません。誰でも、明日は当然、来ると思っているかも知れませんが、神が決意される時に、私たちから明日という日は取り上げられるのです。私たちがこの地上の生活を終えて、神のもとに召される時は、自分で決めることができないのです。私たちが誕生する時も自分で決めて生まれることができないと同じように、地上の生活を終える時も私たちで決めることができないのです。この時間は私たちのものではなく、神のものであり、私たちの地上の生活は無限に続くものではないのです。私たちの地上の生活は、その手のうちにもっておられる方によって終止符を打たれるのです。それがいつであるかは、わからない。それは神が決定されることです。
ヨ−ロッパ中世の修道院は、「メメント・モリ」と言う言葉が挨拶でした。「メメント・モリ」この意味は「死すべきことを覚えなさい」という言葉です。自分たちにはいのちの終わり、死がある、そのことを自覚し、死を見つめながら、この時、今日、一日を心を込めて生きるのです。「わたしの時は、あなたのみ手にあります。」このみことばはそのことを示しています。
しかし、このみことばは、単にそのことだけを語ろうとしているのではありません。「わたしの時」とありますが、この「わたしの時」とは「わたしの生涯」を指すのです。わたしの今の時と言うよりも、生まれてから死ぬ時まで、わたしの生涯を通して、わたしの時はどのような時にも、神の御手にあると語っているのです。私たちが誕生し、生活し、この地上の生涯を終える時まで、私たちは神の御手にあるのです。カトリック教会のフランシスコ会訳では「わたしの生涯は み手にあります」と翻訳されています。
最近、小熊英二と言う社会学者が書いた「生きて帰ってきた男」と言う本を読みました。小熊英二氏の父親の生涯を直接、本人から聴き取って、文章にした本です。小熊英二氏の父親は、小熊謙二と言う人ですが、19歳の時に、1944年(昭和19年)11月25日に陸軍二等兵として入営し、旧満州の奥地に配属されたそうです。8月9日にソ連の侵攻に遭い、シベリヤに送られて3年間、収容所で労働についた時のことが書いてありました。シベリアと言う寒冷地で森林の伐採など、辛い労働の日々で多くの人々が衰弱して死んで行く中で、生き延びたのです。強制労働に耐えて、帰国しましたが、戦後、結核で3年間、療養する、辛い時期を送ったことが書かれています。この「生きて帰ってきた男」には長時間に渡って、聴き取りをしているので、小熊謙二氏の歩みが詳しく書かれているのですが、一人の人の生涯に、このような困難がたくさんあったことを知らされました。さまざまな質問の最後に、人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何であったかを聞いたところ、「シベリアや結核療養所などで、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか」と言う問いに対して、「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」と答えているのです。
私たちにとって希望は、私たちがどのような時にも神のみ手にある、それが希望なのです。神が最も良い配慮をしてくださり、困難な時にも、そこから逃れる道をも開いてくださるのです。目の前にある、重い扉を開いてくださるのです。私たちも自分の今までの生涯を振り返って見ると、様々な苦しみや労苦、悲しみ、喜び、迷いを経験しているのですが、その生涯は神の御手にあるのです。私たちの毎日の生活が神のみ手によって支えられ、保護されているのです。
詩編23編に記されていますが、羊飼いがいつも羊のことを心に掛け、保護しているように、私たちは神のみ手の中におかれて保護されているのです。神の支配の中におかれているのです。誰かの手中にあると言う時に、それはその人の思いのままに動かされると言うことです。もしそれが悪人の手中にあるということになれば、私たちは悪人のなすがままにされるということになります。
しかし、ここで言われているのは、神のみ手にあるということです。私たちは神のみ手にあるのです。私たちは悪人の手中にあるのではなく、敵の手中にあるのではないのです。私たちは神の手中にあるのです。
神は私たちをみこころによって創造し、私たちを神御自身の相手となさったのです。私たちが神と共に生きることを望んで、私たちをかたときも離さずに支えて生かしてくださる、そのような神のみ手の中に、私たちの過去も現在も未来もおかれているのです。神が私たちのことを心に留めて、いつも支え生かしてくださっている、そのことに信頼しているのです。そのような信頼があるので、15節後半で、詩人は、自分の敵と自分を責め立てる者から自分を救い出してくださるように、と神に祈っているのです。
新共同訳では31編16節を「わたしにふさわしいときに、御手をもって追い迫る者、敵の手から助け出してください。」と翻訳しています。新共同訳はこの16節の言葉を一つの文として続けて翻訳していますが、原文は、二つの文章に分かれています。原文を直訳すると一つは「あなたの手の中に 私の時は」という文です。そして二つ目の文が、「私を救済してください 手から 私の敵たちの そして私を追いかける者たちから」です。
カトリック教会のフランシスコ会訳では、二つの分に分けて翻訳しています。フランシスコ会訳「わたしの生涯はあなたの手のうちにあります。敵の手から、追い迫る者から、わたしを救い出してください。」
フランシスコ会訳で言うと「わたしの生涯はあなたの手の中にあります」です。この言葉は、一つには、自分の所有物のように思っている時間は、ほんとうは私たちの自由になるものではない、神は私たちから時間を取り上げるのだということです。もう一つには、時間を支配し、司る神は、私たちの人生の終わりまで責任をもって支え、保護してくださる神である、ということです。
私たちの生涯は、この神によって支えられているのであり、神は私たちを見捨てることなく、私たちから手を離すことはないのです。
イザヤ書46章3B−4節(旧約p1138)「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から負われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
この神の支えのみ手、保護のみ手ということを考えたいと思います。神が私たちを保護してくださり、神がみ手をもって私たちを支えてくださると言っても、抽象的なことを言っているように思います。
具体的にどのようなことなのか。神のみ手ということを考える時に大切なことは、神はイエス・キリストの生涯を通してそのみこころを示されるということです。私たちが神がどんな方か、わからなくなったら、イエス・キリストのみ姿を思い起こせば良いのです。
イエス・キリストはどのような時に、その手を使われたのでしょうか。福音書によるとペトロのしゅうとめの手を取って起こしてその病を癒された手です。(マルコ1・31)耳が聞こえず、舌が回らない人に対して、イエス・キリストは、「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。そして天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」(開け)と言われました。(マルコ7・32−34)イエス・キリストによって耳が聞こえるようになった時のあのみ手である。生まれつき目の見えない人に対して、イエス・キリストは「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」(ヨハネ9・6)そうすると目が見えるようになった時のあのみ手です。 そして地上での最後の時にゲッセマネの園で血の汗をしたたらせながら手を組み合わせて祈る、そのみ手であります。そして十字架に釘づけされた痛むみ手です。
主イエス・キリストの心は病に苦しみ、不自由な生活をしている者に向けられ、その人々に憐れみの手が差し伸べられています。また神から離れ、神に背いて自分中心に生きている人々に関心を向け、罪を犯している者たちの身代わりとして、その罰を代わって引き受け、十字架で自ら傷を受ける、愛に満ちたみ手です。このように神は私たちを心から愛するので、私たちに愛のみ手を差し伸べてくださるのです。
「わたしの時は、あなたのみ手にあります。」聖書では、「時」という言葉は、三つあります。一つはクロノスです。この「クロノス」という言葉は、何時何分という時刻を表すものです。今、何時か、と時計を見る。時計のことをクロックと言いますが、この言葉はクロノスから来ています。聖書で多く使われている「時」はカイロス、ホ−ラという言葉です。この言葉は時刻を表すのではない。神にとって特別に重要な時間のことです。神が定めた時間です。具体的に言えば、それはイエス・キリストが誕生された時、イエス・キリストが十字架につけられ、復活された時、です。これは神がご計画された特別な時になされた神の業です。
このことによって神は私たちを心から愛しておられることをはっきり示されているのです。この時を心に深く留めながら、毎日を過ごしているのです。神は愛のみ手をもって私たちを支配しておられます。私たちはこの愛の中で過ごすことができるのです。私たちはこの愛の御手に支えられながら、この時を過ごすことができるのです。
本日の礼拝でヨハネの黙示録1章8節を読みました。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(新約p452)
このヨハネの黙示録22章13節に「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである」(新約p480)と語られています。神は初めに天地を創造し、そして完成させる、終わらせるのです。初めにいて、顔を出して、どこかに行ってしまい、不在で、終わりに顔を出すというのではないのです。「わたしはアルファであり、オメガである」「初めであり、終わりである。」と言うのは、神は初めから終わりまで一貫して、私たちと共にいてくださることをこの言葉は示しています。
初めから、終わりまで、神は私たちと共に生きておられ、私たちが罪を犯し、私たちが神から離れても、罪を責めることなく、十字架の犠牲の死によって贖いをなしてくださる、その愛をもって今も私たちを生かしてくださるのです。私たちが生まれる前から、神はおられ、私たちがこの地上での歩みを終えたのちも神はみ手をもって導いていてくださるのです。神は永遠に私たちを愛をもって治め、支配し、必要なものを備えてくださっている、そのことを信じていくのでのです。
私は還暦を過ぎてから、自分の人生の残り時間が少ない、と思うようになりました。年を取ると、自分の人生の残り時間が少ないことを強く感じ、自分はこのままで良いのかと思ってあせったりします。老年期は自分の人生をまとめて評価する時で、自分はしていないことがあると思い、中途半端でなくて、何とか完成したいという欲求が起こります。年を取ることはいろいろなものを失うことにつながります。また、退職して仕事を失い、自分の役割もなくなる。親しい者を失って、喪失感に襲われる。また体が不自由になったり、体力、気力がなくなり、自信を失うことになります。
しかし、大切なことは、神が自分を愛してくださり、神がいつも私たちを愛して下さることを信じて受け入れ、神の愛のみ手にゆだねることなのです。
アメリカの神学者であった、ラインホ−ルド・ニ−バ−(大木英夫訳)の「信仰と希望と愛」という言葉を紹介します。
「およそ世に価値あるものにして 人生の時間の中でそれを完成へともたらすことはできない ひとは『希望』によって救われねばならない およそ真善美のどれひとつとして 歴史の現実の内部で目に見える仕方で実現することはできない それゆえに ひとは『信仰』によって救われる およそ如何に有能な人間であれ なすべきことをただ独りでは達成することはできない それゆえに ひとは『愛』によって救われるのである。」
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20150913 主日礼拝説教 「神に派遣されて生きる」 山ノ下恭二 |
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(列王記下4章42−44節、マルコによる福音書6章6B−13)
私が和歌山の田辺教会におりました時に、ある時、和歌山地区の集会がありま、その地区の牧師たちが自己紹介をしました。田辺教会の隣に御坊教会があり、その教会の牧師が「御坊教会に遣わされています、有田です」と自己紹介されました。牧師が自己紹介する時には「御坊教会の有田です」と言うのが多いので、その自己紹介の言葉を印象深く覚えています。有田牧師は自分は神にこの教会に派遣されている、御坊教会に遣わされている、と言うことを自覚しているのだなぁと思いました。神に派遣されてここにいる、そのことは伝道者の原点です。
主イエスは弟子たちを召集して、弟子たちを伝道に派遣されたのです。「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」「十二」と言う数は意味があります。旧約聖書ではヤコブの子どもたちが十二人いました。ヤコブは「イスラエル」と呼ばれ、イスラエルは十二部族から成り立っていることを思い起こすのです。主イエスの弟子たちも十二人であり、教会は「新しいイスラエル」と呼ばれます。「新しいイスラエル」である教会、そこに集められた私たちのことをも指しています。私たちもこの十二人と同じように、主イエス・キリストによって集められ、遣わされている者です。私たちは「新しいイスラエル」「神のイスラエル」として、主イエス・キリストによって集められ、遣わされているのです。
私たちは、自分たちが主イエス・キリストによって派遣されていると言う意識はないかも知れません。教会に来て、礼拝に集い、家に帰る、と言う意識かも知れません。しかし、主日の礼拝の順序、構成を見ると、まず招きの言葉、「招詞」があります。神が招いて集めるのです。そして礼拝の最後には、祝祷がありますが、それは「派遣の言葉」です。教会によっては、「派遣(祝福)」と週報に書いてあります。わたしは祝祷の時に「神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけて行きなさい」と言います。礼拝の構成を見てみると、召集されて、派遣されていく、と言う構造になっています。
礼拝に集い、そして派遣されて行く、それは特別に別の場所に行くわけではありません。同じ家庭、同じ職場であるけれども、しかし、私たち一人一人が主イエス・キリストによって派遣されて行くのです。そのように私たちは考えないかもしれません。召集されて派遣されるのは、牧師、伝道者のことであって、自分たちは関係ないし、派遣されている、とは考えないかも知れません。いつもと同じ家庭、同じ職場であっても、私たちは主イエス・キリストに派遣されているのです。この十二人と同じように、主イエス・キリストによって集められて、呼ばれ、そして派遣されるのです。
主イエス御自身、自ら伝道されて、伝道ということはどのようなことかを体で味わい、様々な経験をされました。弟子たちに伝道の経験をさせるために実習に送り出すのです。そして体で伝道を学んで行くのです。伝道を実践的に学ばせようとしたのです。
私は大学四年生の時に、夏期伝道で秋田県の大曲教会に35日間、実習に行きました。大曲教会の出張伝道地、田沢湖線の神代という駅から30分歩いたクリスチャン村で実習しました。この村は戦後、中国東北部・旧満州から引き上げてきた、15軒の開拓農家の集落ですが、指導者がクリスチャンであったことから、開拓を始めた時に、45人が集団洗礼を受けたのです。村の人たちは教会の礼拝に行かず、形だけのキリスト者で信仰が形骸化していたのです。「キリスト教は申し合わせ宗教だから」と村の人たちは言っていました。このような状況を打破して、信仰を回復し、教会につなげたいと言う意図から、神学生を夏に呼ぶことになったのです。
8月中旬のお盆の時期に、牧師がこの村の15軒の家を回って、先祖を覚えて祈るのですが、仏壇があって、その仏壇を開くと、十字架が置いてありました。仏壇に十字架が置いてあるので、不思議に思い、牧師に仏壇について尋ねたところ、「私が作らせたんです。仏壇がないとこの村の人々は納得しないのだ」と言われたのです。その時、私は「キリスト教が土着するには、こういう工夫をすることが必要なのか」と思いました。
主イエスは伝道に派遣する時に、伝道の心得を教えられました。この心得は伝道者が語る言葉、説教の言葉よりも、伝道者の生き方について指示しています。伝道者の生き方を見て、伝道がなされているのです。
弟子たちが派遣されていくところは、弟子たちを簡単に迎え入れるところではないのです。マルコによる福音書5章の初めには主イエスの故郷ナザレの人々が主イエスを信じなかったと書かれていて、主イエスが「人々の不信仰に驚かれた」と書いてあります。そのような経験の中で、弟子たちが伝道に行っても、受け入れず、反応もなく、冷たくされたり、反発を感じたりするような頑なな心をもった人々に出会うことがあるけれども、そこに行って伝道をするように、主イエスは命じておられるのです。日本のキリスト者は家族の中で自分だけがキリスト者で、その中で教会生活をしている信徒が多いのです。家族に理解されないで苦労しているのです。
マルコによる福音書6章12節に「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。」と書かれています。ここに「悔い改めさせるために宣教した。」と書かれていることに注目したいのです。この弟子たちは町々、村々に行って、説教をしたに違いないのです。「神の国は来た」「神の支配は来ている」と告げたのですが、人々はそのことをすぐに受け入れるわけではないのです。主イエス御自身がナザレの人々によって受け入れられなかったように、弟子たちが宣教しても、自分の考えに合わない、不合理なことを言っていると受け付けることはなかったのです。弟子たちの説教を聞いても聞き入れたわけではないのです。そこで注目する言葉は「悔い改めさせるため」と言う言葉です。聞く者にとって有益と思われる人生の知恵を語り、人々の心を癒やすことを話せば歓迎して聞くでしょう。しかし、「悔い改めさせる」ことを目的にして話す説教は魅力的な話ではないのです。
日本で伝道していてぶつかり、突き当たることは、「罪」についての理解が浅く、「罪」の意識が希薄であると言うことです。キリストの十字架の贖いによって赦される、この福音の内容を語る時に、どうしても「罪」を語らなければならないのです。しかし、人格的な神をもっていませんから、どうしても「罪」が明確にならないのです。自分は少し悪いことをした、しかし、特別に悪いことをしているわけではないと思っているのです。人格的な神を持たず、人格的な神に対面しないので、神の前で「罪」があることを理解できないのです。相手の気持ちを考えて、気に入るような説教をすれば、受け入れることができるでしょう。しかし、聴き手が神に立ち帰るために、説教をするならば、聴き手の罪が暴かれ、はっきりさせることが必要になってくるのです。なかなか、自分の罪を認め、悔い改めることは難しいのです。自分が悪かったと告白することは容易ではありません。そのような頑なな心をもっている人々と向き合いながら、伝道していくのです。
伝道は一人でするものではなく、協力しあってすることを教えています。6章7節には「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」一人ずつ、別のところに遣わすのではなくて、二人ずつ組にして伝道を展開するのです。一人だけが孤独で伝道を担って行くのではないのです。二人で出かけることによって良いことがあるのです。一人が伝道に失望しても、あとの一人が励まして、伝道を継続することができるのです。一人が説教出来ないときに、もう一人が説教をすることができるのです。パウロはテモテ、バルナバなどの若い人たちと共に伝道しているのです。テモテ、バルナバに助けてもらって、伝道を続けたのです。
主イエスは伝道者のあり方を具体的に指示しています。主イエスは、二人ずつ遣わす時に、杖一本しか持って行くな、パンも、袋も持つな、と言われています。「袋」とは、人からもらったものを貯えておくものです。「帯の中に金を持たず」。帯の中にお金を入れるのです。海外旅行の時に、用心のために胴巻きの中にお金を入れておくことがあります。主イエスは、食料も、袋も小銭も持たずに行け、持ち物は何もなく、何も持たずに行きなさい、と言われたのです。
主イエスは、このことによって何が言いたいのかです。私たちはこれから起こることについて心配をします。私も人を訪ねる時に、何かあると困るから、お金を持ち、カバンを持ち、身支度して出かけます。それはこれからのことを心配しているからです。主イエスが「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金をもたず」と言われたのは、伝道する者が自分の生活のことで思い煩うな、思い悩むな、と語るのです。この言葉の背後には、父なる神にすっかりまかせて委ねきって生きるようにということなのです。
A・B・ブル−スと言う神学者が「十二使徒の訓練」と言う本を書いています。そこに次のことが記されていました。「主は生活の必要については用意周到ではなく、摂理にゆだねて宣教地に入るべきことを、力強く生き生きとした言葉で、十二弟子に教え込まれた。主イエス御自身がどのような言い方をされたにせよ、ここで言おうとされたことはこうである。『すぐ、今あるままで行きなさい。食べる物や着る物のことで心配してはならない。それらの必要のために神に信頼しなさい。』」
伝道者は、神に対する信頼を説く者であるので、その説く伝道者が神への信頼に生きる姿を示すことが大切なのです。伝道者は、行く先々で、必要なものが備えられていることを確信しながら、伝道していくものなのです。
マルコによる福音書6章10節では、「どこでもある家に入ったら、その土地から旅立つ時まで、その家にとどまりなさい。」と語られています。主イエスはどこにも伝道者を暖かく迎えてくれる暖かい心の持ち主がいることを知っていたのです。この町には、自分を迎えてくれる人は一人もいないと考えてはならないと言うのです。どんな町でも神のみ使いを迎える者がいることを語るのです。
そして「その家に留まりなさい」と語ります。一つのところに留まることを勧めるのです。現代ではホテルに泊まる、アパ−トを借りて過ごすのですが、一つの家に留まり、そこで共に過ごすことを勧めるのです。自分の都合を考えて、一日か二日を泊まり、次の日は別のところに泊まるほうが気楽で快適ですが、一つの家にじっと留まり続けることを勧めるのです。一つの家の人たちとしばらく生活を共にすることは、なかなか難しいことです。福音を語る時だけ一緒にいると言うのではなくて、朝から晩までその家にいて、み言葉を語るのです。語る説教の言葉と生活が一つであるか、その家の人が見ているのです。自分の生きる姿を見せながら、み言葉を語るのです。
パウロの伝道を見てみると、コリントに行って、アキラとプリスキラと言う夫婦の家に住み込んで、パウロは伝道したのです。その町の様々な家に一日ずつ泊まって歩いたのではなく、腰を据えて、留まって、伝道したのです。
弟子たちが一つの町に行って、自分を迎えてくれそうな人、自分の好みに合う人がいれば、泊まるということではないのです。この家で一泊したけれども、もてなしが悪いので別の家を捜していく、と言うことではありません。家に入ったら、神に頼り切って、その家の人との信頼関係の中で、福音を説くことを主イエスは教えられたのです。
マルコ福音書6章のみことばで驚く言葉があります。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」と語られいるみことばです。このみことばは福音を伝えても、福音を拒否するならば、その責任は、その者たちにあることを語っています。パウロはコリントで福音を伝えましたが、コリントの人々が「反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任はない。今後、わたしは異邦人の方に行く。』」(使徒言行録18章5−6)と語っています。
伝道する時には、どうにかして相手に分かってもらうように努力することを考えます。聴き手にみことばが届くようにと願いながら説教をするのです。そして相手が心を開いて、福音が届くことを願うのです。相手が福音を受け入れない、耳を傾けないのは、自分たちの力が足りないから福音を受け入れないのだ、申し訳ないと思うのです。あの人が福音を受け入れないのは、こちら側が悪いと考えるのです。そしてどうにかして、福音を伝えようとするのです。しかし、ここでは、もし、福音を聞かないのなら、その責任は聞く者の側にあると言うのです。
福音を受け付けないのは、日本人のもっている宗教性、宗教心が原因だ、と言う人がいます。遠藤周作「沈黙」と言う小説に、転んだ先輩の神父が、ロドリゴと言う若い神父に、日本と言うところは泥沼のようで、キリスト教の神を受け入れることはできないのだ、と諭すところがあります。確かに、日本人のもっている宗教心はキリスト教の福音を受け付けないものがあります。そして、福音を受け入れる者と受け入れない者とが存在することも事実です。
和歌山の田辺教会におりました時に、熊野古道の入り口に、栗栖川と言うところがあり、毎週、日曜日の夜、車で45分掛けて、古民家を借りて、集会をしていました。私は一月に一度、聖書の話をしに通いました。3人の求道者がいて、そのうち2人がクリスマスに洗礼を受けたのですが、あと一人は洗礼を受けなかったのです。3人が全く、同じ聖書の話を毎週、聞いているのに、2人は洗礼を受ける決心をして、もう1人は受けることがない、これをどのように理解したら良いのか、と考えたことがありました。受けなかった人の親戚の人が教会員にいて「話を聞いても本人が全く理解していないから」と言う評価をしていましたが、私は、神の選びがなかったのか、本人にまだ信仰が起こらなかったのか、本人に洗礼を受ける態勢がまだ整っていなかったのか、いずれかだろうと考えました。
伝道が進まないのは、日本の人たちの宗教心に問題がある、と言うのではなくて、伝道していく時に大切なのは、伝道が私たち人間の業なのではなく、神が一人一人の心を開き、受け入れる時を備えてくださることを信頼して、その時を待つのです。伝道は、神の業であり、神が推し進めることなのだ、ということをよくわきまえることが大切なのです。
私たちは神から委託された伝道の業を忠実に果たすほかないのです。収穫はすぐに得ることはできないのです。ただ、種を蒔くのみです。それを神は豊かに用いてくださるのです。
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20150906 主日礼拝説教 「主イエスは何者か」 山ノ下恭二 |
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(詩編2編7−9節、マルコによる福音書6章1−6A)
私が東京神学大学大学院2年生の時に、説教演習と言う授業がありました。卒業年度の学生が、礼拝堂で説教を行い、その説教について他の学生が批評をして最後に、学長が講評をするのです。ある学生が説教をして、その当時の竹森満佐一学長が「君は説教で何度も「イエス」と呼んでいたが、イエスではなくて、『主イエス』と呼びなさい」と言われ、「聖公会では『御主』と呼んでいる。赴任したら『主イエス』と言いなさい。信仰の対象であり、救い主なのだから、イエスと呼ぶことはいけない」と厳しく言われました。その学生がどのような説教であったのか、覚えていませんが、竹森学長がそのように言われたことをよく覚えています。
キリスト者でなければ、イエスと呼ぶでしょう。しかし、私たちはイエスを「救い主であり、神と同じ方であり、信仰の対象として」信じ、告白しているので、「主イエス」と呼ぶことが本来の呼び方であるのです。
主イエスが30歳まで、ナザレで大工をしていたことは良く知られています。主イエスが大工であったと言うことは、本日、読んだマルコによる福音書6章3節を根拠にしているのです。大工と言っても主イエスの時代と今の時代とはかなり違っています。私たちが大工と言う言葉で思い浮かべる仕事とは、かなり違っている言葉です。この「大工」という言葉は、元来、「家を建てる技術をもっている人」と言う言葉です。家を建てるのですから、材木を使うだけではなく、石も使ったようで石屋の仕事もしたのです。現在は、木造の家を建てる時に、大工さんが建てた後に、建具屋さんが入り、家具屋さんが入り、下水道工事の人々が入る、そのように分業をしていますけれども、主イエスは、今のような大工もやり、建具もやり、家具も作り、石屋もやる、何でもしたようです。
マルコによる福音書6章3節に「この人は、大工ではないか」と書いてあります。原文では「この人は、あの大工ではないか」と訳すことができます。「あの」と言うのは、自分を含めて皆が知っている、よく知っている大工ではないか、と言うことです。ナザレと言うところは、主イエスが育った土地、おそらく30歳になるまで働いていたところであり、周りの人たちは互いに知っていたのです。小さな村で、村の人たちは全員、名前も顔も知っており、何をしているかもよく知っていたのです。主イエスの兄弟たちの名前が出ていますが、ナザレの人々は主イエスの兄弟たちもよく知っていると思っています。
ナザレの人々が発言した言葉の中に、奇妙に思える言葉があります。それは「マリアの息子」と言う表現です。私たちは主イエスの母親がマリアであることを良く知っているので、不思議に思わないかも知れません。しかし、この人は誰の子どもかと言う時には、父親の名前を言うことが普通です。ある人について、その人の母親しか知らない時には、例えば、花子さんの息子と言うことがありますが、昔のことですから、父親の名前を言うのが普通であると思われます。ナザレの人たちが、あえて「マリアの息子」と呼んでいるのは、ヨセフと結婚するまえに妊んだ子どもであることをはっきりと言ったのです。
弟のヤコブ以下はヨセフの子であり、イエスだけがマリアの息子であると言っています。ナザレの人たちが主イエスを「マリアの息子」とあえて言っているのは、私たちが告白している信仰の言葉、つまり、「処女マリアより生まれ」と告白しているのとは違うのです。非難の言葉なのです。
ナザレの人たちは主イエスのことをよく知っていると思っていました。主イエスの生まれも育ちも家族構成も、子どものころの主イエスも、自分たちは何から何まで良く知っていると思っていました。
主イエスが家を出て、伝道者となって、このナザレの村までその名が聞こえてきたのです。そして奇跡を起こし、病を癒やされた、そのことが評判になっているのです。「神の国は来た」と語り初め、巡回していることも噂で聞いていたのです。
マルコによる福音書3章21節では、家族の者、身内の者が主イエスを連れ戻しにやって来たことが記されています。家族の者が主イエスの活動に動揺して何とか連れ戻したいと思ったのです。ナザレで大工をしていた頃の主イエスと今、伝道している主イエスとがすっかり変わり、別人のようになってしまったので、連れ戻しに行ったけれどもうまく行かず、身内の者はナザレに帰って行ったのです。
今日、この礼拝で読んだマルコによる福音書6章1−11節について、カトリック教会のオリエンス宗教研究所から出版されている「主日の福音」の解説には、次のように書いてあります。雨宮慧神父が書いたものです。「きょうの福音を理解する鍵は、2節の『驚く』と3節の『つまずく』と6節の『驚く』である。」主イエスの説教に「驚いて」、この言葉は「たまげて」「肝をつぶす」と言う意味です。6節の「驚く」は同じ「驚く」ですが、元々の言葉が違います。ナザレの人々の不信仰を疑った(目を疑った)と言う意味の「驚く」です。ナザレの人たちはなんていう人たちだろう、「こんなに不信仰とは」とあきれる、と言う意味の「驚く」です。
マルコによる福音書6章3節「このように、人々はつまずいた。」と書かれていますが、この「つまずく」と言う語は、スキャンダルと言う言葉です。この言葉は、石が置いてあって、それに気がつかず転ぶ、と言う意味で使います。つまずくけれども、転んだ言う意味だけではなくて、もっと深刻な意味で使っています。「落とし穴にはまる」と言う語です。つまずいて倒れてしまって起き上がれないのです。旧約聖書では「罠にかかる」と言う意味の言葉です。人々が主イエスに躓いて倒れてしまって起き上がれないのです。その不信仰に主イエスがびっくりしているのです。それは主イエスの故郷で起こったことだと記されています。主イエスをよく知っている故郷の人々が主イエスのことを信じることができないのです。
マルコによる福音書を学んできましたが、5章21−43節にヤイロの娘の物語と主イエスの服に触る長血の女性の物語があります。
この物語は信仰の物語です。主イエスの服に触れた女性に対して、主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、そしてヤイロと言う会堂長に、主イエスが「信じなさい」と言われたことに対して、主イエスに救いを求め、死からのよみがえりを信じて癒やされ、生き返った物語が書かれています。そして6章の初めで、故郷の人々が主イエスを信じようとも、受け入れようともしなかった。そのような不信仰の物語が書かれています。
信仰の物語があって、不信仰の物語があるのです。このことは、私たちの中でいつも起こっていることです。ある時は信仰の視点に立って神を信頼しようと思う時がある、しかし、ある時は人間的な思いが強くて、神を抜きに過ごしたほうが楽しそうだと思うのです。ある時は聖書を読み、祈ることを心がけるけれども、ある時は別のことに興味をもち、そのほうが楽だと思うのです。そのように信仰にも波があって信仰と不信仰との間にさまよっているのです。
この6章の物語を読んで、私たちはナザレの人たちの不信仰を笑うかも知れません。主イエスを理解しないで、生まれとか幼いころの主イエスを知っているだけで、主イエスを外見だけで判断している、何と愚かな、不信仰な人々だろうとあざ笑うかも知れません。しかし、それで、私たちに問題がないのかと言うことではありません。
私たちの生活においても、主イエスにあきれられるほどの不信仰に陥ることがあるのです。自分が落とし穴にはまって倒れていることに、自分が気がつかないでいるかもしれないのです。そこでもう一度、信仰とは何か、と言うことを改めて考えてみる必要があります。
マルコによる福音書5章に登場する、会堂長ヤイロと長血を患った女性には共通点があります。それは、自分たちには助かるすべを知らないと言うことです。自分たちの力ではどうすることもできないと言うぎりぎりのところに立っているのです。会堂長ヤイロは自分の力で、娘を蘇生させることはできないのです。死んだ者を生き返えさせることはできないのです。長血を患った女性も自分の力では病は治らないということをよく知っていた人です。ただ、この主イエスに頼るしか方法はないのです。自分には救う手立てがないことをよく知っているのです。
そこから、この二人は主イエスに一切を委ね、救いを待つのです。信仰があると言うのは、信心があり、熱心だ、と言うのではなくて、自分に絶望して、ただ主イエスにすべてを委ね、救いを待ち望むことなのです。
しかし、ナザレの人々は、自分たちが主エスを知っていることを根拠にして、主イエスを新しいまなざしで見ようとしませんでした。自分の過去の知識、自分の経験を判断の根拠にしているのです。今まで持っていた知識や経験が主イエスを信じることを妨げるのです。
主イエスがナザレに来て、安息日に会堂で説教をされました。この説教は聞いている者、皆がおどろくようなすばらしい説教でした。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」
「授かった知恵」と言うのは、博識と言う言葉ではなくて、原文では「ソフィア」と言う言葉です。「最上の知恵、最も深い知識」のことです。ナザレの人々は、主イエスの説教を聞いて、主イエスには最上の知恵があることは分かったし、奇跡の力があることも分かり、たまげたけれども、信じなかったのです。不信仰なのです。ただ良い話であった、参考になったとだけ受け止めたのです。それで終わったのです。
主イエスの説教に感心はしたけれども、そこで信仰は生まれなかったのです。話の内容を理解するだけです。主イエスを信じる信仰にはならないのです。そこに、主イエスは不信仰を見ていたのです。それでは、主イエスが求めておられる信仰とは、いったい何かということです。
マルコによる福音書の終わりには主イエスが十字架で死ぬ場面がでてきます。15章37節に、主イエスが大声を出して息を引き取られた場面に居合わせた異邦人の百人隊長が「本当に、この人は神の子であった」と告白しています。十字架で息を引き取る主イエスの姿を見ながら、「この人は神の子だった」と言ったのです。十字架は最も重い罪を犯した者への処刑の方法でした。悪いことをした罰として処刑されている、とこの百人隊長は受け取らなかったのです。この百人隊長は外国人でありながら、新しいまなざしで、霊的な眼で主イエスの十字架の死を受け止めることができたのです。主イエスが人間の深い罪を贖うために、身代わりとして犠牲をささげたことを信じることができたのです。
9月4日(金)祈祷会でイザヤ書6章のところを学びました。イザヤが預言者として召されるところです。イザヤは神殿で、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」との天の声を聞き、自分が罪に汚れ、自分の存在が神の前に立つことができないほど、汚れていることを深く知らされるのです。「自分は滅びるばかりだ」とイザヤは言います。このイザヤに対して、神は罪を赦し、預言者として人々に預言の言葉を語るのです。イザヤが神の前に立ち得ない存在であるにもかかわらず、神はイザヤを預言者として召し、混乱した時代の中で、預言者として立たせるのです。
マルコによる福音書15章で、異邦人の百人隊長は、主イエスの十字架のお姿を直に目撃して、証言するのです。この人こそ、神が愛をもって深い罪を贖い、赦しを与える神であることを証言したのです。
主イエスに対して、弟子たちの中には、主イエスがロ−マ帝国に対して反体制運動をする指導者として活動してほしいと言う願いをもって弟子になった人もいました。主イエスに対して、人間の視点から、見ている人はたくさんいます。現代の人々も主イエスを、革命家、優れた愛の人、人生の知恵を教える教師、体制に反抗して抑圧された人々と共に生きた人と考えている人も多いのです。
主イエスはどこから来たのか。神のもとから派遣された神の子であり、それは神の愛を根源としているのです。この主イエスこそ、神と同じ方であります。神が自分の外に出て、肉体を取って人となられたのです。
使徒信条と共に、カトリック教会、ギリシャ正教会、プロテスタント(福音)教会が共通して告白している公同信条があります。ニカイア信条には、この主イエスが何者であるか、を詳しく告白しています。
主イエスは神のような人、立派な人、と言う見方を退けます。「わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」
なぜ、主イエスは神と同じ方であることに固執するのか、この告白を命のように大切にするのか。それはキリスト教会の根本的な福音の内容であるからです。神が私たちに和解をもたらすために、神の子が罪の犠牲をささげてくださった、それは神が私たちを限りなく愛してくださっているからです。
この告白を日本の教会は引き継ぎ、主イエスが神と同じ方であると、1890年に日本基督教会信仰の告白に言い表されています。
「我らが神とあがむる主イエス・キリストは、神の独り子にして、人類のため、その罪の救いのために人となって苦しみをうけ、われらが罪のために、全き犠牲を捧げ給えり」と告白しています。
私たちが、神と崇めている主イエス・キリストは、神の独り子であって、人類のため、その罪の救いのために人となって苦しみを受けてくださったのです。
ナザレの村人となり、大工になったというだけではない。もっと深く人となってくださったのです。人の罪を、どのような人よりも深く悲しみ、これを自らの痛みとなさったのです。そして遂に、自分をいけにえとしてささげられ、罪人として、自ら死んだのです。ここに神がいるのです。
信仰とはただ、主イエスを知っている、聖書を読んでいる、神がいることを認める、と言うのではなく、主イエスの中に、神の中に飛び込んでいくことです。主イエスが与える恵みの中にすっかり身をゆだねる、神のもとに飛び込んでいくことです。聖書のことが分かったら信じる、そうではなくて、まず信じることです。
これから聖餐にあずかります。私たちの罪の犠牲をささげるために、肉を裂き、血を流してくださった、主イエス・キリストの恵みにあずかりましょう。
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20150830 主日礼拝説教 「キリストのいのちに生きて」 山ノ下恭二 |
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(詩編66編6−9節、コロサイの信徒への手紙3章1−11節)
8月の最後の日曜日です。猛暑であったこの夏も終わりに近づき、新しい秋を迎えようとしています。今日も皆さんと一緒に礼拝をし、神を讃美することができることをうれしく思います。祝福の言葉をもって説教を始めたいと思います。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。」(テモテへの手紙U 1章2節)
毎週、礼拝で使徒信条を告白していますが、この使徒信条の最後に「永遠の生命を信ず」と言う告白の言葉があります。この「永遠の生命」と言う言葉を皆さんはどのように理解しているのでしょうか。この言葉を初めて聞いて、どのような意味かよく分からずに、この言葉の意味を誰かに聞いてみたいと思う人もいるでしょう。「永遠の生命」と言う言葉を聞いて、死ぬことなく、いつまでも長く生きることを連想する人もいるでしょう。しかし、長生きであっても120歳まで生きる人は少ないのです。この「永遠の生命」と言う言葉の意味は、いつまでも長生きする、そのような生命を私たちが持っていると言う意味ではないのです。「永遠の生命」とは元気で年を取らず、いつまでも長生きをすることであると言う意味でないことは明らかです。
この「永遠の生命」と言う言葉は聖書でどのように使われているのかを調べて見ると分かることがあります。「永遠の生命」「いのち」と言う言葉を多く用いているのは、ヨハネによる福音書です。ヨハネによる福音書には「永遠の命」「命」と言う言葉が多く用いられています。
この「いのち」と言う言葉は、私たちが用いる「心臓が動いている」「生活している」その時に使う言葉ではなくて、別の言葉を用いています。その言葉の意味は「関わる」「関係を持つ」「つながる」と言う意味の言葉です。ギリシャ語で「ゾ−エ−」と言う言葉です。
私たちは他の人と関わって生活しています。今日、礼拝に出席するまでに様々な人と関わっています。朝、起きて家族の人に「おはよう」と言い、早朝、散歩をしている人は出会う人に「おはようございます」と挨拶します。家族の者と共に朝食をしながら話します。私たちは、いろいろな人と関わりながら過ごしています。そのような人との関わりの中で、学んだり、慰められたり、励まされ、助けられて、生きているのです。
町を歩いていると、母親に抱かれた赤ちゃんをよく見かけます。母親は、自分の子どもをとても大切にしてしっかり抱いています。母親は自分の子どもに話しかけ、いろいろな世話をします。そのような関わりを与えられながら、私たちは育てられて来たのです。母親が自分の全存在を肯定し、受け入れることによって、子ども自身が自分が生きる価値があり、自分が尊い存在であることを肌で感じながら、育っていくのです。もし、幼い時に虐待を受け、育児拒否を経験するならば、そのことによって自分が生きるに値しない存在と思い、出会う人を信頼することが難しくなるのです。
皆さんは友達をもっています。気の置けない友人をもち、何でも話すことができ、困った時に助けてくれるならば、良い関わりを持っていると言うことです。私たちはいろいろな関わりによって支えられているのです。そのような関わりがあって私たちの生活が成り立っているのです。そのような「関わりがある」「関係を持つ」「つながる」ことを「いのちがある」と言います。
「永遠の生命」、私はこの言葉の意味がずっと分かりませんでした。ある時、神は永遠な方ですから、神とつながると永遠の生命を自分のものにできるのだと思い、この言葉の意味が少し分かりました。永遠な方とは神のことですから、「永遠の生命」とは「神と関わっている」「神と関係を持っている」と言うことです。
私は東京神学大学大学院2年生の時に、新約聖書を専攻し、松永希久夫先生の指導により、ヨハネによる福音書についての修士論文を書きました。ヨハネによる福音書には「永遠の命」「命」と言う言葉が多く出てきます。「命」について様々な語り方をしていますが、主イエスが永遠の命をもたらす方として語られています。特に、主イエスが神から派遣された者、神から送られた者として、語られています。神は主イエスをこの地上に派遣するのは、私たちに命を与えるためだと語っています。主イエスがこの世界に来たのは、私たちが命を受けるためだ、と言うのです。ヨハネによる福音書10章10節Bには「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(新約p186)と語られています。羊飼いが羊の命を支えるために、狼の襲撃から羊を守り、水辺に導き、食料を与えるのです。主イエスは御自身を羊飼いに譬えて、私たち羊にいのちを与えると語ります。
私たちは神と関わりをもっていませんでした。神と関わりを持たないで生きることを「罪」と言うのです。神に対して心を向けて生きないで、自分のことばかり考えて生きている、それが罪なのです。自分本位に、自己中心で生きているのです。しかし、神は自分本位に生きている私たちの罪を取り除くために、主イエスを私たちの世界に派遣し、犠牲をささげてくださったのです。私たちが神と正常な関係を持つことができるように、私たちに代わって、罪を贖ってくださったのです。
神とわたしたちが正常な関わりになるために、主イエスはわたしたちの罪を贖う方として、犠牲の死を遂げたのです。わたしたちの罪を取り除き、わたしたちは罪のない者となったのです。わたしたちは罪が取り除かれ、神との正常な関わりが与えられたのです。
神との正常な関わりがある、それがいのちがあると言うことです。わたしたちは神との正常な関わりを持っており、それによって過ごすことができるのです。それは神の愛による関わりです。この関わりは神の側からの一方的な愛の関わりです。この神は、わたしたちのために、わたしたちの罪の責任をすべて背負って自分を犠牲にしてくださったのです。それによって私たちは神との関わりを持つことができたのです。神の一方的な愛の関わりによって私たちはいのちを持つのです。
かなり前の新聞記事に「手紙」と言うシリ−ズが連載されていました。その中で、「青春の嵐 チョコレ−トの君」と言う題の記事がありました。ある女性が高校生の時に男子高校生からもらった手紙を宝のように大切に金庫の中に保管していることが書かれていました。この女性は17歳の時に、喘息で自宅療養していて自分の前途に希望を持てなかったのです。その時に同じ喘息で苦しみ休学していた男子高校生がチョコレ−トをもってしょっちゅう見舞いに来てくれたのです。そして手紙を届けてくれたのです。「苦しいでしょう。自分の考え通りに動かない体が憎らしいでしょう。でも決して病気になんか、負けてはいけませんよ。どんなことがあっても戦い抜いて行きなさい。」「悲しむことなかれ。やがておとずれる黎明を信じて強く生きるべし。」この女子高校生を励ました男子高校生はこの後、ぜんそくがひどくなり、亡くなってしまったのです。男子高校生自身も喘息で苦しんでいたのに喘息で苦しむ者のために、自分を省みることなく、この女子高校生に深く関わるのです。
主イエス・キリストは、私たちが罪から救われるために御自身を犠牲としてささげられたのです。神が愛をもって私たちに関わってくださった、その愛の関わりを「信じる」ことによって「永遠の命」を獲得することができているのです。イエス・キリストを信じることによって永遠の命が与えられているのです。ヨハネによる福音書3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の生命を得るためである。」(新約p167)と語られています。
この使徒信条を解説した本には、この「永遠のいのち」だけを解説している解説書もありますが、「からだのよみがえり、永遠の生命」と一つのこととしてまとめて解説している本もあります。「からだのよみがえり、永遠の生命」と続けて、一つとして告白しているのは、私たちが地上の生涯を終えた後にも、神が私たちを見守り、私たちをよみがえらせるばかりか、終わりまで共にいてくださることを明らかにしているのです。私たちの死んだ後に、私たちがどうなるのか、それは死んで眠りに就き、終わりの時によみがえるだけではなく、いつまでも神が私たちと共にいて、神のもとで憩うことができると言うことなのです。
生き続けていくことは辛いことがあります。肉体をもっていることはしばしば重荷になります。年を取っていく時に、自分の弱くなっていく肉体を持て余すのです。弱っていく自分のからだを見続けることは辛いことです。肉体の重荷から解き放たれて、自由になりたいと思います。しかし、そのような時にも、神は暖かいまなざしを向けて、私たちを受け入れてくださり、見守っていてくださるのです。
私は母が老衰のために介護が必要で、母のいるグル−プホ−ムに、泊まり込んだのですが、看護師の方の介護の仕方に教えられました。意識はあるのですが、はっきりしていないので、看護師は動作をする時に、「山ノ下ヒロ子さん」といつも呼んでおかゆをあげたり、体位を変えたりするのです。私は黙ってするのですが、名前を呼んで動作をするのは、良いことだと思いました。そして用意したものは時間をかけて全部、食べさせるのです。私であれば、母がもう要らないと言えば、あっさりそれで止めるのですが、看護師の方は全部、食べさせるので感心でした。私も年を取り、からだが弱り、このような時を過ごす時が来るのだと実感し、良い学びになります。神のみこころになるようにと祈っています。
死んで眠りに就いた後のことは、神が力をもってなさってくださることであり、私たちが心配する必要はないのです。死と言う重い扉を自分の力で押して開くことはできないのです。ところがその死の扉の向こう側にキリストがいて、キリストのほうから扉を開いて下さって、向こう側に私たちは行くことができるのです。死んだ後のことも心配があるでしょう。キリストが私たちの未来を確かなものとして引き受けてくださっているのです。私たちの死も死んだ後も、神の御手の中に置かれているのです。神が私たちのために配慮してくださることをただ信頼することだけです。
7月26日(日)主日礼拝で「私たちのからだまで救われて」と言う説教を致しました。その説教で、かつて私たちの教会で奉仕された加藤さゆり伝道師を介護した加藤常昭教師のことを話しました。加藤さゆり伝道師の介護を心を込めてなさったのですが、食事の世話やこまごまとした世話をしながら、この介護の労苦から解放されるのは、さゆり先生が地上の生涯を終える時であると思ったと話されました。地上の生涯を終える、その死ぬまでの過程も様々な労苦があり、なかなか大変ですが、それですべてが終わるのではないのです。眠り、そして復活し、キリストと共に永遠に生きるのです。
キリストを信じている者は、もう一つの視点から、立場から、命を見ることができるのです。それは永遠の視点から、神の視点から、私たちの命をみることができるのです。この命は霊的な命と言い換えることができるでしょう。この地上の生涯を終えた後も、私たちの命は確かにあるのです。赤ちゃんを抱いている母親が眠ってしまった赤ちゃんをしっかり抱いている風景を見ることがあります。それはわたしたちが地上のいのちが亡くなってしまっても、神が私たちを抱きかかえ、守ってくださるのです。それは神が死をも滅ぼす方であり、死をも飲み込む方であるからです。
キリスト教会で大切にしてきた信仰告白には使徒信条だけではなく、ニカイア信条があります。このニカイア信条は、特に東方正教会、ギリシャ正教会で特に重んじられてきました。このニカイア信条の最後には「わたしたちは、死人のよみがえりと来たるべき世の命を待ち望みます。」と告白されています。「来たるべき世の命」と言う言葉があるのです。この地上での生活で私たちが終わるのではなくて、来たるべき世があり、そこでの生活が待っていると言うのです。
現代はこの地上での生活がすべてだ、と言う考えを持っている人がほとんどでしょう。この地上で生きているうちに意味のある生活をする、充実した生活をする、元気で長生きしたいと言う願いをもっています。
7月に婦人会、青・壮年会で旧約聖書のコヘレトの言葉を学びましたが、コヘレトの言葉は、来たるべき世と言う考えは全くありません。この地上の生活ですべてが終わると考えています。この地上でどのように生きれば意味があるのか、に関心があります。その時、その時を意味あるものとして過ごすことを教えるのです。年を取ってから、自分の人生は意味がなかった、無駄であったと思わないように、内容のある時間を過ごすようにと若者に教えているのです。
しかし、私たちは「永遠の生命」「来たるべき世の命」を信じると告白しているのですから、そのことにふさわしい生活のスタイルがあります。
本日の礼拝でコロサイの信徒への手紙3章を読みました。3章1−2節に次のように書かれています。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものにこころを留め、地上のものにこころを引かれないようにしなさい。」(新約p371)
「上なるものにこころを留め」る、それは、神と向き合っていることなのです。カルヴァンのキリスト教綱要の短い言葉を紹介して解説している本があります。「魂の養いと思索のために」と言う本です。この本に「生涯を通じて神と生きる」と言うところがあります。「確かなのは、キリスト者が生涯を通じて、すべての事柄において神と向き合っているということである。」このカルヴァンの言葉をマッキ−と言う研究者は「わたしたちのキリスト者としての生き方を特徴づけるのは、自分たちが生涯変わらずに神との関わりの中で生きる、と言う認識です。」と解説しています。上なるものを求めることは神と向き合っていること、神に心を向けている、そのことなのです。
キリストを信じる者は、神の視点から、永遠の視点から自分の生活を見ているのです。自分が地上で生活している視点ではなく、神のあたえてくださったまなざしをもって、見ることができるのです。目に見えるところだけではなくて、霊的なまなざしをもってものを見ることができるのです。
キリストのいのちに生きる、常にわたしたちを愛のまなざしで見て下さり、死をも乗り越えて、よみがえりのいのちへと私たちを導き、いつまでも私たちと共にいてくださる、そのことを信頼するのです。神の「愛は決して滅びない」(コリントT 13章8節)のです。
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20150823 主日礼拝説教 「神のメシア」 山下瑞音神学生(東京神学大学大学院2年) |
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(詩編62編6−9、ルカによる福音書9章18−20)
私たちは同じものを見ていても、立場が変わると見方が変わるということを経験することがあります。自分が親になってみて、初めて親の気持ちが分かった、部下を持って初めて上司の苦労が分かったなどという話はよく耳にすることです。私たちはいつも自分の立場からの見方でものを話します。そこには必ず怠りがあったり、誤解があったりします。公平な見方というのはおよそ人間である限り、できないものです。だから同じものについても、人によって違った見方、違った意見が生まれ、それによって意見の対立が生じるのです。
今朝聞いた聖書の箇所でも人による見方の違いを見ることができます。イエス様というお方は、果たしてどのようなお方なのか。この問いに対する答え、つまり群衆はイエス様をどのように見ていたか、についてです。第9章18節で、イエス様は一つの質問を投げかけておられます。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」それに対して弟子たちは答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」実に生き生きとした会話です。イエス様について語り合っている当時の人たちの姿が見えるようです。この会話は実にリアルですが、私たちは一つの発見をすることができるでしょう。
それはイエス様とは何者かという問いに対して、様々な答えがあったということです。先ほど読んだ9章19節の中でも3つの違った答えがあります。ヨハネとエリヤ、生きた時代も行った出来事も全く違う人々です。イエス様について沢山の違った見方があったのです。これらは皆、イエス様をよく知らない人々が言っているのではないのです。イエス様の近くにいた人々の意見なのです。もう一度イエス様の質問を振り返ってみますと、「群衆」とはイエス様に付き従ってきたあの群衆です。イエス様に癒していただき、空腹を満たしていただいた群衆。イエス様の教えを受けるために、河岸や山上に集まったあの群衆のことです。その人々の中でさえ、イエス様とは何者、について一致した答えはなかったのです。逆に言えば、イエス様の近くにいない人々はもっと様々な答えをもっていました。
イエス様とは何者かという問いには、あまりにも沢山の答えがありました。ルカ7章34節に、イエス様のお言葉としてこのようなことが書いてあります。「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」このお言葉から分かることは、イエス様を大食漢、大酒飲み、徴税人や罪人の仲間と言う人々がいたということです。マタイ9章にも攻撃的な意見があります。3節に「ところが、律法学者の中に『この男は神を冒涜している』と思う者がいた。」34節には「しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った。」神を冒涜する男、悪霊の頭の仲間、それらもまたイエス様に対する一つの見方でした。
イエス様とは何者かという問いには、ありとあらゆる見方があります。なぜこのようなことになったのでしょう。それほどまでに違った見方が生まれる理由はどこにあるのでしょう。それは、誰もイエス様のことを理解していなかったということです。人は多くの場合、初めて出会うもの、自分の知らないものに出会ったとき、自分が知っているものに置き換えて理解しようとします。私たちは、自分に理解できないものが近くに現れたときは、自分の知っているものに置き換えます。そして、聖書の時代を生きた人々もイエス様に対して同じことをしようとしました。裏を返せば、人々はイエス様を理解できなかったのです。普通の人間とは違うということは理解していました。どうやらこの人は、自分たちにできないことができるらしい、そのことは分かっていたのです。そしてイエス様に助けていただいた人々は、イエス様を好意的に評価していたのです。ヨハネやエリヤ、昔の預言者のように良い方に違いない。逆にイエス様によって、自分の地位や持っている物が危なくなると考えた人々は、罪人の仲間、神を冒涜する者としたのです。皆それぞれが自分の立っている場所からイエス様を見て、自分に分かる言い方でイエス様を言い表しています。
しかし、それらの意見は皆部分的であるといえるでしょう。何よりも、たとえそれが預言者だというような良い意見であったとしても、イエス様を矮小化していることに変わりはありません。この人たちは皆、ありのままのイエス様を見ることができなかったのです。しかし、考えてみれば、聖書の時代の人々に、イエス様とは何者かという問いを投げかけることは余りに酷だったかも知れません。
私たちは今こうして聖書に聴いて、イエス様が何をなさったか、どんな方だったのかを知っていますが、結末を知らない当時の人々には分からないのは当然のことでしょう。また、近くにいたからこそ、見えないものがあるはずです。大きなものは遠くから見なくては分かりません。俯瞰して見て分かることもあるからです。しかし、イエス様を理解できなかったのは、それだけが理由でしょうか。主イエスが何をなさったのか、どんな方だったのかを知っていたとしても、主イエスを本当に理解するのは難しいことでした。
実際、イエス様が私たちに問いかけられてから、現在までの二千年の間に、数多くの人々がこの問いに答えてきました。二千年かけて多くの人々に問い続けて来ても、この問題は解くことができないのです。それほどまでに、イエス様とは何者かという問いは深遠なものでした。問いかける人の数に比例して、あらゆる答えが用意されてきました。聖書の時代を生きた人々に限らず、主義主張の数だけ、答える人間の立場の数だけ、イエス様とは何者かという問いに答えがあります。
ある人は、イエス様は革命家であると答えました。ローマ帝国に対して抵抗した人々の指導者であると答えています。別の人は、イエス様は社会運動家であると言います。貧しい、虐げられた人々を救おうとしたのがイエス様である。
そうではなくてイエス様は教師であったという人もいます。人間がどのように生きるべきか、幸せとは何かについて教えてくださったのがイエス様だというのです。カトリックの信仰を持っていたある小説家は、イエス様について、無力だった男、犬のように殺された男と言っています。また、イエスなどという男は存在しなかったのだ、という人もいます。イエスという名のユダヤ人はいたが、聖書に書いてあるような存在ではなかった。主イエスは、弟子たちと、教会が作り上げたものだというのです。
イエス様がおられた二千年前に、それから二千年後の現在も、状況は変わっていません。あらゆる人々が、あらゆる見方で、主イエスの問いかけに答えています。そして誰一人として、本当に主イエスのことを理解できないために、自分の知っているものに置き換えて断定するのです。私たちは今なお、その渦の中に立っています。聖書を中心として、あらゆる方向にイエス様の問いかけは拡散し続けています。
では、私たちはどうでしょう。私たちはイエス様を何者だと答えるのでしょうか。イエス様はこの問いの後で、同じようにおっしゃいました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いはペトロだけに与えられたものではありません。私たち一人一人が主イエスに問われています。ですから、主イエスは何者かという問いは決して私たちと無関係ではないのです。
この問いは、遥か昔の人々がイエスと言う一人の人間をどのように考えていたかというような、歴史や考古学の問題ではありません。私たちにとって、とても実存的な問いです。そしてこの問いは、主イエスは何者であるかという問いであると同時に、私たち自身とは何者であるかという問いでもあるのです。イエス様から何者であるかという問いの答えを、私たちがどのように見たかという証言であるとともに、私たちが一体何者なのかという証言でもあるからです。人間は同じものを見ていても、立つ場所が変われば見方は変わります。そして、イエス様が何者であるかという問いへの答えを聞けば、その人がどこに立っているかが分かり、その人が何者であるかが分かります。
主イエスが私たちに問いかけられた「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」に答えて、なんと答えるのでしょうか。主イエスとは何者でしょうか。私たちとは何者でしょうか。仕事は何か、出身地はどこかといった表面的な問いではありません。もっと根本的なもの、私たちの存在そのものにかかわる問いかけなのです。自分とは何者かという問い、これは誰もが考える問題でしょう。人は何のために生きているのか、人はどこから来てどこへ行くのか、自分の存在価値はなにか、人によって形は違っても、中心になる問いは同じです。自分とは何者なのか。私たちはそのことを考えずにはいられません。
私たちの内何人がこの問いに答えられるでしょうか。日々の生活に追われながらも、何人がこの問いを問い続けることができたでしょうか。自分は何者かという問いは子供っぽく見えます。明日の食事や未来の計画と比べると、私たちの生活には何の役にも立たないように見えます。しかし無視することはできません。人生に躓いたとき、大きな出来事に出会ったとき、死を迎えるそのときに、必ずこの問いに向き合うことになります。
イエス様の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけ、そしてその向こう側にある「自分とは何者か」という問いかけに何と答えるのでしょう。私たちは一体どこに立っているのでしょう。それを考えれば、この問いに答えることができるでしょう。
私たちは、今教会の中に立っています。神に礼拝を捧げています。私たちは神の教会に属する者、クリスチャンです。クリスチャンとは、キリスト主義者という意味の言葉です。キリストを第一とし、キリストによって生かされています。クリスチャンである私たちは、ペテロと同じように、イエス様に向かって「あなたこそ、神からのメシアです」と答えます。メシアとは「油注がれた者」という言葉です。ユダヤ人には、特別な役目を担う者には、香りのよい油を注ぐ伝統があります。政治で人々を導く王、群衆のために身代わりの犠牲を捧げる祭司、神の言葉によって民衆を立ち返らせる預言者が油を注がれたのです。イエス様はまさしくこの三つの役目を担ってくださっています。
私たちを導いてくださるのはイエス様です。私たちのためにご自分を犠牲にしてくださったのもイエス様です。そして、み言葉の一つ一つによって私たちを神様のもとへと立ち返らせてくださったのもイエス様です。ですから、私たちは、イエス様こそメシアです、と答えたのです。この答えこそ、私たちが何者であるかの証明です。
私たちクリスチャンはどんなときでも、イエス様をメシアであると仰ぎ見て、イエス様の救いの中にあるのです。この答えこそ、私たちが神様から賜った何よりの恵みです。他の誰も答えることができません。神の救いに与かった者だけが答えることができる信仰告白なのです。イエス様によって導かれる私たちは、もはや何ものも恐れる必要はなくなりました。イエス様が身代わりになってくださったことで、私たちは自分の影に戦くことは無くなったのです。イエス様のみ言葉によって、私たちは常に神様に向かっていくことができるのです。
ペトロも私たちも、他のいかなる人々よりも優れた答えをすることが許されています。二千年の間、数多くの人々が問い続けて、導き出したあらゆる答えよりも、私たちの信仰告白は優っています。ペトロが他の人々よりも優れていたわけではありません。私たちもまた、特別なものを持っているわけではないのです。ましてや、私たちがイエス様を完全に理解できているか、的確に言い現わしているかどうかではありません。
私たちは、ただ神の恵みに与かっています。イエス様をメシヤとして仰ぎ見る恵み、イエス様に望みをおく恵み、イエス様を待ち望む恵み、そして私たちはそれらを受けています。私たちは何者かという問いの答えは、主イエスが用意してくださいました。私たちは、主イエスをメシヤと仰ぐクリスチャンである。クリスチャンである私たちは、主イエスに望みを置いている。その中でこそ私たちはメシヤであるイエス様と共に、日々の歩みを進めることが赦されているのです。
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20150816 主日礼拝説教 「平安の中で暮らしなさい」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書65章1−5、マルコによる福音書5章21−43)
とても暑い時を過ごしておりますが、この朝、皆さんと共に礼拝を守ることができ、うれしく思います。祝福の言葉をもって説教を始めます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(フィリピ1章2節)
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコによる福音書5章34)このみことばを心に深く受け止めたいと思います。このみことばは私たちに与えられた主イエスのみことばです。
本日の礼拝で読みましたマルコによる福音書5章21−43節の初めには、ヤイロと言う会堂長が主イエスのもとに来て、娘がいのちの危機にあることを伝え、主イエスに娘のいのちを救ってほしいとお願いしたことが記されています。一人のいのちが失われるかもしれないと言う緊迫した中で、主イエスはこの会堂長ヤイロの家へと急いだのです。
その途中で、一人の女性が、病が癒やされることを願って、主イエスの服に触れたことが記されています。主イエス御自身はこの時、一人の人のいのちが失われないように、急いでいたのです。一刻の猶予も許されないのです。そのような時に、一人の女性と関わることは難しいことです。急いでいる時に、別な人と関わる余裕はないのです。しかし、主イエスはこの女性を振り返り、顧みておられます。時間的な余裕がない時にも、主イエスは一人の人の訴え、叫びに耳をかして聞いてくださるのです。
「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役に立たず、ますます悪くなるばかりであった。」(マルコによる福音書5章25−26)
長血とは、血液の流失が止まらない症状が出る婦人の病気です。十二年と言うのは小学校入学から高校卒業までの長い期間です。病いによる苦しみだけでなく、この当時は、このような病気は不浄なものであり、このような病気になる人は神の前に清くない存在であると考えられていました。神から遠い存在で、周りの人々から汚れた者として扱われ、軽蔑され、生活もできず、貧しさの中であえいでいたのです。
この女性は、長血の病を癒やされたいと願って努力をしました。あちらに良い医師があれば訪ね、こちらに良い薬があると聞けば求めて行ったのです。溺れる者は藁をもつかむ思いで、必死になって手を尽くし、ありとあらゆることを試みたのです。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、財産を使い果たしても、何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(マルコ5章26)自分の病を治してもらおうとあらゆる手段を取ったけれども、誰にも治してもらえず、12年間と言う長い闘病生活の末に、からだばかりでなく、家族も、この女性の看護のために疲れ果てているのです。家族もこの女性を疎ましいものと考えるようになりました。
この当時の考え方では、病が治らないのはこの女性が悪いことをしたからだ、あるいは、神が見放しているから治らないのだ、と言う考え方がありました。人々はそのように見ていたのです。従って、病が治らないと言う、解決のない苦しみというものが、どんなに人の心に苦しみをもたらすのかが、はっきりしています。病をもっている人の心をも破壊し尽くしていくのです。そのことによって自分が生きて行く自信がなく、人を信じることも出来なくなり、自分が生きて行く価値がないと思うようになり、いっそ、死んだらよいと自分の存在をも壊すようになるのです。
人間にとっての苦しみとは、自分の抱えている問題が解決できないと言う苦しみです。私たちにとって、苦しむ原因は、病、人間関係、経済の問題、将来の生活などです。しかし、もっと深刻な問題は、自分の抱えている問題に関心を持ち、一緒にその困難を共に担おうとする人がいないと言うことです。
私たち一人一人、それぞれ、魂の歴史を持っています。表面的には明るくて悩みがないように見えても、それは外見的なことで、話を聞いてみると深く悩んでいることを知らされます。苦しんでいても、解決できる手がかりがある、今の時を忍耐すれば大丈夫だと言うことならば、その苦しみは乗り越えられます。しかし、解決する可能性がない、見いだせない、光が見えてこないと言うことであれば、その苦しみは深くなります。
主イエスが祭司長ヤイロの家に急いでいる途中に、この女性が主イエスの服を触ったことによって、主イエスは足を止め、この女性と関わったのです。主イエスはどんなに急いでいる時にも、一人の人のからだと魂、全身の救いのために、御自分の時間をささげ、惜しみなく使うのです。たった一人の人のために、です。今は急いでいるので、戻って来るので待っていてくださいとは言わなかったのです。今、自分がしなければならないことをも犠牲にして、この女性のために時間を取り、この女性と深く関わったのです。
主イエスは、病を持ち、苦しんでいる者を癒やしましたが、多くの癒やしの物語と、この物語とは異なっているところがあります。この物語は独特なところがあります。それは、この女性が後ろから主イエスに触ったと言う点にあります。他の癒やしの物語は、多くの場合、癒やされたい本人、家族、友人が主イエスにお願いするのです。その願いを主イエスが受け入れて、癒やしの行為がされるのです。
ところが、この物語では、先を急いでいる主イエスに、こっそり、後ろから主イエスの服に触れたと書かれています。私はこのところを初めて読んだ時に、主イエスに触れたのは、この女性がどうしても癒やしてもらいたかったからだと理解しました。確かにそうなのですが、このところを読んで、この女性の心の中に様々な思いがあったことに気がついたのです。今まで、医師にもかかり、薬も飲んで、財産を使い果たしてしまった、もし治ったとしても、お礼をすることができない、あるいは、自分が正面から名乗り出ることによって、清くない女性であると言われ、相手にしてくれないかもしれないと恐れを抱いていたのです。この病のためにこの女性はとても多くの経験を重ね、深く傷ついていたのです。そうであるので、そっと後ろから触って癒やされれば、と考えていたのです。
「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触ればいやしていただける』と思ったからである。すると、すぐに出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」(マルコによる福音書5章27−29)
この女性は自分の苦しみを解決するために、主イエスの服に触ったのですが、そのまま、彼女が黙って帰ってしまったならば、どうなるのでしょうか。それは、主イエスを自分の癒やしのために利用したにすぎないということになります。自分の病が癒やされるために、神に癒やしを依頼し、自分の願いを叶えてもらうのです。自分の必要のために神を利用する、そのような宗教的、御利益的な信仰で終わるならば、それは問題です。
しかし、この物語はそれでは終わらないのです。この後、主イエスの側から声を掛けるのです。「イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのは誰か』と言われた。」(マルコによる福音書5章30)
この女性は自分の病が癒やされればと思って主イエスの後ろから服に触れて癒やされたのですが、主イエスはそれでけで終わらせないのです。主イエスは自分の助けを必要としている者が誰であるかを見極めようとされ、呼びかけています。ヤイロの娘が瀕死の床で待っていることを忘れたかのように。九十九匹の羊を野原に残しておいて、一匹の迷える羊を探す羊飼いのように、主イエス自ら、自分の服に触った者を探すのです。
私たち一人一人は、礼拝に来る動機やきっかけは違います。ある人は人に誘われて来た人もいるし、悩みをもって教会に来た人もいます。子どもの頃から親と一緒に教会に来たと言う人もいるでしょう。それぞれ、教会に来たきっかけは異なります。教会に来ていると教会の人たちが親切にするので、暖かい思いを持ち、気持ちが和らぎ、そのうちに神との人格的な関わりに入ると言う経験をするのです。
この女性は癒やしを求めたのですが、それにとどまらず、主イエスとの人格的な関係、触れあいを求めたのです。主イエスもこの女性を探しておられるのです。群衆の中で振り返り、「『わたしの服に触れたのは誰か』と言われた。」
この主イエスの女性を捜しておられる姿、それは、本当に、弱く、小さな者に対する愛、神の愛の深さを思うような、捜す姿ですが、この主イエスの姿に動かされて、この女性は名乗り出て、主イエスの前に出たのです。
この女性は、自分の今までの魂の歴史をありのままに主イエスに話したのです。病に苦しめられて絶望をしていたけれども、主イエスによって癒やされたことの感謝を語ったのです。
主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」と宣言されました。ここで、私たちは疑問を持つことがあるかも知れません。この「あなたの信仰」と主イエスは語っていますが、この女性の信仰は本当の信仰ではないのではないか。ただ、イエスが治してくれる、御利益的な信仰、宗教的な信仰なので、信仰と言えるのか、と言うことです。
しかし、そうではないのです。主イエスが治して下さると言う信頼をもって服に触ったということ、そのような小さな願いをも主イエスは、信仰と言ってくださるのです。主イエスならば、癒やしてくれるかもしれない、そのような配慮をしてくれると言う期待、それを信仰と呼んでくださるのです。
厳しく言えば、自分のための信仰、自分の病を癒やすための御利益的な信仰かも知れないですが、主イエスはそれを拒絶しないで、主イエスは信仰として受け取ってくださるのです。
自分の必要から主イエスに近づいた者を、主イエスは人間として応対してくださり、その苦しみと存在を受け入れてくださるのです。病を癒やすだけではなく、全体としての人間を受け入れ、愛してくださるのです。主イエスはこの女性の存在が価値ある存在だ、と認めてくださるのです。
この女性は、人も神も信じることができないでいたのです。しかし、主イエスによって、呼びかけられ、その呼びかけに応じて、ここで出会いが起こったのです。肉体の救いだけではなくて、この女性の全存在が救われたのです。人間らしい人間として、生きることができるのです。
この女性は主イエスに自分の病が癒やされたのですが、それで解決し、終わりだと言うことではありません。主イエスが与えようとしている愛と信頼の中に身を委ねて神の支配に入ることができたのです。
私たちは、この地上で生きる限り、悩みや苦しみがあります。そして解決がないような難しい問題に直面することがあります。その解決を願って苦闘し、努力をします。しかし、神の愛と信頼に身を委ねる、神の愛の支配に生きることなのです。神の愛に自分の魂を委ねること以外に健やかに生きる道はありません。
主イエスはこの女性に「安心して行きなさい」と言われました。主イエスが復活されて、弟子たちに「安かれ」と言われました。「安心」という言葉は「平安」と言う言葉です。原文から直訳すると「平安の中へと行きなさい」です。この「平安」と言う言葉は、戦争がない、事件がなくて平穏だと言う意味ではなく、この言葉の本来の意味は「神がわたしたちと共にいる」と言う意味の平安です。神が一緒にいてくださる、そのことにまさった平安はないのです。
主イエス・キリストは、罪深き者、弱さを抱えている者を裁き、罰するのではなく、赦し、愛してくださる神として「私と共にいてくださる」のです。
この神がいるので、安心して行きなさい、と主イエスは私たちに語るのです。
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20150809 主日礼拝説教 「神のいのちが入って来た」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書60章1−5節、マルコによる福音書5章21−43節)
先週の一週間は連日、35度以上の猛暑でとても暑い毎日を過ごしてきましたが、皆さんと共に主の日の礼拝をささげることができることを心から感謝致します。祝福の言葉をもって説教を始めます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(フィリピ1章2節)
「恐れることはない。ただ信じなさい。」このように主イエス・キリストが、私たちに語っておられます。私たちはこの言葉を深く心に刻みたいと思います。
今日の礼拝で読みました、マルコによる福音書5章21節から43節には、二つの物語が記されています。会堂長ヤイロの娘が死にそうなので、父親が主イエスに手を置いてほしいと願って、主イエスと一緒に出かけたのです。その途中に、長血を患った女性が主イエスの服に触れて、癒やされたのです。そしてその後、ヤイロの家に行って、少女を死から救出したのです。この二つの物語がここに記されています。
このところには、最初の部分と最後の部分にヤイロの娘の事件が出てきます。この会堂長ヤイロは、自分の娘が死にかかると言う思いがけない経験をしています。前から患っていたかどうか、それは分かりません。しかし、思いがけないことであったことには違いないのです。ついこの間まで手を引いて歩いていたかもしれない自分の娘が、突然の病に罹り、しかも病がどんどん重くなり、どんな手立てを尽くしても、生きる望みがなくなっているのです。そのような場面に直面しているのです。
私たちの日常の生活も、いつも思いがけないことに囲まれています。私たちの歩みが自分の計画通り進むことはないのです。思いがけないことにぶつかります。そして思いがけないことで、最も私たちを脅かすものは、死の訪れです。
このヤイロはあわてたと思います。そこでナザレのイエスと言う方が奇跡的な癒やしをすることを聞いて、主イエスのところに駆けつけて来るのです。このヤイロは会堂長ですから、これまで主イエスと親しくしていて、その説教を何度も聞いていた人であるかも知れません。今までは距離をもって主イエスを遠くから見ていただけの人かも知れません。今はそんなことは言ってはいられないのです。言葉を重ねて、何とかしてほしいとお願いをしたのです。
主イエスは、ヤイロの願いを聞き入れ、ヤイロと一緒に歩いてくださるのです。ヤイロは主イエスが一緒に歩いてくださるので、ヤイロはとても安心したのです。その途中で長血を患った女性が登場し、この女性が癒やされるのです。
主イエスが一緒に歩いて下さるのですが、会堂長の家から人々が来て「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言ったのです。ヤイロの娘は生命を失ってしまい、人の手の及ばないところに行ってしまい、呼んでも答えない、死の世界に入ってしまったのです。お嬢さんが死んだので、主イエスに来て戴くに及ばない、会堂長の家から来た人々が会堂長に話したのです。
会堂長ヤイロは、この話を家の者から聞いて、何と思ったのか。せっかく、主イエスを連れて、癒やしてもらおうと思ったけれども、もうだめだ、望みを絶たれた、と思ったに違いないのです。目の前が真っ黒になり、困った顔で主イエスの顔を見たのです。
この話を主イエスは聞いていたのです。5章36節「イエスはこの話をそばで聞いて」と記されています。何でもない短い言葉ですが、この短い言葉はとても重要な言葉です。主イエスがそばにいてくださって、悲しみの知らせを聞いて下さるのです。ヤイロの悲しみ、嘆き、を主イエスは聞いてくださるのです。祈りは、ただ、私たちが一方的に話すということだけではなく、自分の祈りを聞いてくださる、そのことを信じることから始まるのです。神が聞いてくださる、そこから、祈りが始まるのです。ヤイロは「神様、聞いたでしょうか。とんでもないことが私の身に起こったのです。」主イエスは、ヤイロの悲しみ、思いがけない娘の死を聞いているのです。
主イエスが「そばで聞いて」と言う言葉を、別の翻訳では「聞きとがめて」と翻訳しています。娘が死んで何もかもお終いだ、主イエスにお願いして癒やしてもらうこともない、そのことを主イエスは「聞きとがめた」のです。会堂長の家の者たちは、主イエスが死の彼方まで力をもっているとは思わなかったのです。死をも乗り越える方であるとは全く考えていないのです。「そばで聞いて」いた主イエスの心に怒りのような思いが湧いてきました。わざわざここまで来たのに、とか、私を見損なってはいけない、自分には力があるのに失礼な、と言う人間的な思いで「怒った」のではなく、この娘が生きることを願う強い思いがあったのです。死の世界から生命の世界へと引き戻したい強い願いが湧いてきたのです。
30年前の8月12日に日航機ジャンボ機が羽田を飛び立って群馬県の御巣鷹山に墜落し、500名以上の人々が亡くなった事故がありました。最近、この事故についての報道特集があり、家族を失った人が、亡くなったことを受け入れられないでいることを知りました。突然の、思いがけないことで、その死を受け入れることができず、あきらめることができないことがあると思いました。
ヤイロは、可愛い年頃の娘の死を受け入れられずに悲しみの中にあります。この状況で、主イエスは死よりも生きることを強く願っているのです。人間は死と言う人間の限界を超えることはできません。しかし、主イエスは死の彼方まで、人の手の届かないところに行ってしまった娘を引き戻そうと決心をするのです。
主イエスは、ヤイロに対して「恐れることはない。」と語ります。さまざまな恐れがありますが、何よりも死そのものが恐ろしいことです。死は私たちの存在そのものを脅かし、いのちを破壊し、滅ぼすものだからです。死は私たちにとって大きな事件だからです。
塚本虎二と言う無教会の聖書学者が興味深いことを解説しています。ヤイロから娘が病を癒やして欲しいという願いを受けて、主イエスはこの会堂長の家に向かったが、急いで行ったわけではないと言うのです。
重病で危ないと言う知らせを聞くと、急いで駆けつけるために車の速度を速めることがあります。知り合いの牧師は教会員が危篤と聞いて急いだために速度違反で警察官につかまったそうですが、「自分は牧師で教会員が危篤で急いでいたので速度違反をした」と言ったら、その警察官は許してくれたそうです。亡くなったと言う知らせを聞くととにかく急いで行くものです。
しかし、塚本虎二は主イエスは急いでいなかったと解説しているのです。娘が死によって終わるものではないことを確信していたからだ、と言うのです。それは主イエス・キリスト御自身がこの娘のところに行くからです。主イエス・キリスト御自身が死を滅ぼす方だからです。
「恐れることはない。ただ信じなさい。」主イエスは、ヤイロに信仰を求めるのです。信じることを主イエスは求めておられます。神が働いて下さる、そのことを信じることを求めているのです。
福音書で死からよみがえる物語は、ヨハネによる福音書11章に記されている「ラザロの復活」の物語があります。ラザロと言う青年が既に死んでしまっている時に、主イエスは姉妹マルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11章25−26)と問うのです。主イエスがラザロの墓に入る前に、主イエスはマルタに信仰を問うのです。
このヤイロにも、主イエスがヤイロの家に行く前に信じることを求めるのです。現実には、既に娘は死んでいます。死の世界に入っていて、手の届かないところにいます。
主イエスが、ここで求めて、問うていることは、もう一つの現実を見ることです。信じることにおいて、見える現実です。信仰によって見ることができる現実があります。それは神の働き、神の支配を見ることができると言うことです。娘は既に死んでしまった、しかし、信仰のまなざしをもって見ると違う現実を見ることができるのです。どのような人でも死を経験するのですが、神との関係に生きる、神を信じる者は、死んでも神と関係を持ち、神との関係は切断されず、神の中に私たちのいのちがあるのです。
私たちはこの肉眼で見ている現実しか、見ていないのではないか。主イエスはマルタに対して「生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書11章26節)と語られています。神を信じることにおいて見えてくるのは、私たちが神のいのちの中にいると言うことです。死をも突き破る神の働きが見えてくるのです。そこでは、自分は、もはや死の支配のもとにはいないのです。
主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい。」と語られ、ヤイロも主イエスの求めに応じて、信仰を与えられたのです。
娘が死んで近所の者が泣いている家に、主イエスが「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と語られました。この言葉を聞いて人々はあざ笑いましたが、主イエスは、死んだ者の家に入って、子どものいるところに入り、「タリタ、クム」と言われたのです。この言葉は「少女よ、起きなさい」と言う意味です。
この「タリタ、クム」と言う言葉は、もともとは特別な時に使う言葉ではなく、日常に使う言葉でした。父親が子どもを起こす「おい、起きろ。起きないと学校に遅れるぞ」、母親が「起きなさい。今、何時だと思っているの」と私たちが日常的に使っている言葉を、主イエスは使っているのです。
主イエスがこの娘が死んでいることを承知しつつ、しかし、この娘が眠っているだけだと受け止め、「少女よ、起きなさい」と言われたことは、大変、深い意味を持っているのです。人間の死を眠りとして理解しているのは、死で生命が終わったのではないと考えているからです。私たちは人が居眠りしている時にいつかは起きるだろうと考えています。起きて寝て、起きて寝る、私たちの生活はその繰り返しであり、寝ることは生活そのものです。
信仰において見えてくること、見ることができるのは、神が私たちを支配して、どのようなところにおいても、私たちと共におられると言うことです。この地上の生活は価値があって、死はすべての終わりだと言うことではないのです。この地上の生活だけが最も価値があると言うのではありません。より重要なことは、生きている時も死ぬ時にも、私たちが神の愛の中にあるということです。神のものとされていると言うことです。
伝道者パウロは、「わたしたちの中にはだれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ロ−マの信徒への手紙14章7−8)と語っています。伝道者パウロにとって生きるのは主イエスと共に生きることであり、死ぬことはキリストと共に死ぬことです。私たちが生きることも死ぬこともキリストの愛によって支配されていることなのです。どのようなものも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロ−マの信徒への手紙8章39節)
私たちの生活は、神のいのちが突入している生活です。主イエス・キリストによる罪の赦しを信じて洗礼を受けた者は、神と深く結ばれ、神とつながっているのです。神がおられるところに私たちは生きているのです。信じる者は生きるのです。死んでも生きるのです。死に直面しても、私たちは死に勝つのです。
重兼芳子と言う、既に癌でなくなった作家ですが、「いのちと生きる」と言う本があります。人間ドックに入って癌になっていることが分かり、入院しますが、その間に夫が急死してしまいます。この人は若いころ、洗礼を受けてキリスト者となった人ですが、ホスピスの設立に協力して活躍をしました。最後の文章になった「たとえ病むとも」と言う本に「癌の告知」と言うところがあります。「私は19歳の時に、ふとしたきっかけで洗礼を受けた。それから半世紀近く、私は右往左往しながら、聖書を少しずつ、少しずつ、読み続けて来た。聖書的なものの考え方が私の体質になったように思える」「死の不安を抱いたままの丸ごとの私を、自分で肯定してゆく姿。それは宗教的な楽観性というべきか。自分では暗闇の中を彷徨しているつもりでも、暗闇の彼方に私を招き入れる一条の光を見出すのである。」
夫の死と自分自身の限られた生命と言う二つを背負いながら、しかし、死を恐れないで、信じて生きるのです。
「恐れることはない。ただ信じなさい。」
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20150802 主日礼拝説教 「すこやかに生きよう」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書55章6−13節、マルコによる福音書5章1−20節)
私たちの教会は新共同訳聖書を用いていますが、この新共同訳聖書を用いる前は、口語訳聖書を用いていました。この新共同訳聖書を読んでいて、気がつくことは、小見出しがあることです。
本日の礼拝で読んだマルコによる福音書5章1−20節のところには「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」と言う小見出しが書かれています。悪霊に取り憑かれた人が主イエスによっていやされた物語です。この物語を読んで思うことは、この物語が異様であると言うことです。はじめに書かれている、墓場の住人の生活ぶりが異様です。主イエスとけがれた霊とのやりとりもそうです。そして悪霊が豚に乗り移り、悪霊に取りつかれた二千頭もの豚が一度に崖からなだれを打って海中に落ちていく様は、私たちの経験を越えた異様な光景です。この物語は、私たちのふだんの生活経験からかけ離れたものです。このような物語を読むと、私たちとは関わりのない物語が書かれていると考えるのです。しかし、この物語は現代に生きる私たちにも通じる深い内容をもったことが語られているのです。
はじめに、主イエスは弟子たちとともに「海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた」とあります。主イエス自らが「向こう岸へ渡ろう」と提案して、ガリラヤ湖を渡って来ました。「向こう岸に行こう」、これが主イエスの思いであり、選択であり、決断でした。主イエスが行こうとした「向こう岸、ゲラサ人の地」とは、ユダヤで汚れた動物とされた豚が飼われているような、汚れた地です。神から離れ、悪霊がさかんに働いているような場所です。主イエスはそこに行こうとされたのです。私たちなら、できるだけ関わらないようにする、そのようなところに主イエスは行くのです。嵐をついて、悪霊が住んでいるようなこの土地に渡って来られたのです。それは、この物語に登場する、悪霊に取りつかれ、人間性を失い、獣のような生活をしていたこの一人の男のためでした。この男を救うことを目指すためにわざわざ向こう岸に渡ったのです。伝道の観点からすれば、たった一人を獲得したに過ぎないのですが、この一人のために主イエスは誰も近寄らない土地に渡ったのです。この一人の救いのために主イエス・キリストは、全力をもって立ち向かうのです。
このけがれた霊に取りつかれた人は、墓場をすみかにしていました。墓場は人々が住んでいるところから離れたところにあります。彼は人々の交わりから断たれ、その外に置かれていました。人間は他の人と交わることによって人間らしい生活ができるのです。他の人と関わらないで生活することはできません。しかし、この人を相手にし、心配する人はいませんでした。
そして「墓場」と言うことが象徴しているように、この人が暮らしているところは、「死」が支配しているところです。彼は死が支配している側に、命の向こう側にいるのです。そして人々は彼を鎖や足かせで押さえようとしたのです。単にあばれるからというのではなく、人々はこちら側に出てくることを嫌い恐れていたのです。自分たちに危害を加えることを恐れ、監禁したのです。しかし、彼は鎖を引きちぎり、足かせを砕いたのです。彼は自由を求めていました。意味のある生活をするために、自由になりたいと願っているのです。主イエスはこのような人を無視したり、相手にしないと言うことはしません。この男に同情を寄せ、深く憐れんで、一人の人間として相手にしました。
この物語を私が初めて読んだ時に思ったことは、主イエスが悪霊に取りつかれた人を治したことが書いてある、そのことは分かったけれども、自分には関係がない物語であると思ったのです。昔の人は、悪霊が存在していたことを信じていたけれども、現代に悪霊は存在しないし、自分とは関係がないと思っていたのです。
悪霊がその人のからだの中に入って、そこに住み着き、暴れるのです。風邪のヴィ−ルスがからだの中に入り、そのヴィ−ルスがからだの中で暴れまわり、日常生活ができずに、風邪に悩まされるのです。自分の意思とは無関係に、ヴィ−ルスが暴れて、出て行かないのです。
悪霊は実在しない、自分とは関係がないと思うがそうではないのです。人間の中に悪霊が住む、自分がしているとは思わないで、自分以外の力が働いて悪いことをさせるのです。いつのまにか、悪霊に支配されているのです。
関西学院大学神学部で長く教えた松木治三郎と言う新約学者がいました。この人が、この悪霊追放の物語を詳しく説教をしています。悪霊に取りつかれている人を現代的な解釈で、説いているのです。悪霊に取りつかれている人を精神的な病として解釈しているのです。それは現代に通用する解釈です。環境や本人の病的な性質により、悪霊に取り憑かれたような異常な状態になり、それでとても苦しんでいる、そのことを悪霊に取りつかれたと解釈しているのです。
確かに、「悪霊に取りつかれた」人を現代に当てはめると「精神的な病」と解釈するのは、分かりやすいのです。しかし、精神的な病をもっている人を「悪霊に取りつかれた」人だとレッテルを貼るのは問題があると思います。その精神的な病をもって苦しんでいる人を「悪霊に取りつかれている」と言うことは良いことではないのです。それはその人の一面であって、全体ではないのです。名前があるのに、目の悪い人、歯が欠けた人、とその人の人格を否定するような言い方で言うのは良くないのです。
青木省三と言う精神科医師が「僕のこころを病名で呼ばないで」と言う本を書いていますが、人格をもった人を病名で呼ぶことは良くないことです。その人の人格全部を病名で呼ぶことになるのです。
新聞やテレビで報道されますが、「ストーカー事件、犯罪」があります。相手に好意を持ち、しかし、相手がその好意を拒否すると、執拗に相手を追いかけ、相手を殺してしまう犯罪です。愛が憎しみに変わると言うよりも、相手に対する好意が、相手のための愛ではなく、自己愛に基づくものなのです。相手が自分の思うように、自分の期待通りにしない場合には、それが憎しみに変わり、相手のいのちまでも奪っても構わないと思い詰めるのです。それは人間の心を支配してしまう悪霊が働いているのです。ハイデルベルク信仰問答に「罪とは、神を憎み、人を愛することができない」と書かれていますが、悪霊と罪とは深くつながり、関わっています。
ドストエフスキーが書いた「罪と罰」の主人公は、悪霊に取りつかれたことによって罪を犯すのです。高利貸しのお婆さんを主人公が殺してしまうのです。この主人公は、殺すだけの正当な理由があると思っていたのです。借金を返すことができない人を苦しめている、このお婆さんを赦すことができない、殺すことが正しいことだ、そのような観念にとらわれて、支配されてしまうのです。貧しい人々を苦しめている、お婆さんを殺すことは正義であり、実行することによって正義が貫かれるのだ、と言う観念に凝り固まってしまうのです。
そのような考えにとらわれて、それを絶対化する、そこに悪霊の働きがあるのです。自分の思いや考えにとらわれて、神から離れた思いを持つようになるのです。自分の思いや考えを貫くことによって、悪魔化していくのです。そのような罪の思いに自分を支配されてしまうことが、悪霊に囚われていると言うことです。
この物語で分かりにくいのは、主イエスと話している相手がいつのまにか悪霊につかれた男から、悪霊そのものに変わったり、また逆に、悪霊そのものから、悪霊につかれた男に変わっている点です。汚れた霊はそれほどまでに男にとりつき、一体化して、男を支配しています。そしてこの男もそれを欲しています。5章10節には、この男が主イエスに、自分から悪霊を追い出さないでくれと懇願しています。
人々はこの男を鎖や足かせでつなぎとめておこうとしていました。それは男と悪霊と一つにしようとしているのです。一つと見なそうとしています。それで墓場から出て来ないように彼を拘束しようとしたのです。
これに対して主イエスは男と悪霊とを分け、分離して、悪霊から男を救い出そうとしたのです。人々はこの男には悪霊が取り憑いている、この男は悪霊そのものだ、と思っていたのですが、主イエスはこの男が健やかに生きることができるように、悪霊と男とを分離して、救い出そうとしているのです。「罪を憎んで、人を憎まず」ということわざがあります。主イエスは、命令をして「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言うのです。主イエスは私たちを病名で呼ばないで、一人の人間として、回復することを願い、そのために全力をもって癒やそうとされるのです。
このような悲惨な現実の中に生きていたこの男に、主イエスは癒やしをなさったのです。この男を捕らえているもの、悪霊を主イエスが御自身のうちに手に入れるために名前を尋ねるのです。相手の名前を知る、それはただ、相手の名前を知ることに留まらないのです。十戒に「神の名をみだりに唱えてはならない。」と言う戒めがあります。神の名を知り、神を自分の思い通りに動かす、支配することができるのです。自分が困った時に、神の名を呼んで、自分の願いを叶えてもらう、それは神を自分のために利用することにほかならないのです。名前を使うと言うことは、その名前の者が、それを使う者の支配下に置くと言うことです。
名前を尋ねると、「レギオン」、これは、ロ−マ帝国の軍隊の一個師団、を指します。一個師団は兵士が5600人位だそうです。5600人の兜に身を固めた兵士がこの男をとらえていたのです。追い払うにも、逃げようとも最強の兵士ががっちりとこの男を拘束しており、ビクともしないのです。すごい力で押さえつけられています。それほど、悪霊は大きな力をもって私たちを支配しているのです。悪霊が自分たちを「レギオン」と5600人を擁する一個師団のロ−マ帝国の軍隊と答えているのは、この当時、圧倒的な力をもって支配しているロ−マ帝国を暗示しているのです。主イエスによる悪霊追放は、軍隊を持っていた帝国をも打ち破るほどの強大な力を神は持っていることを語るのです。汚れた霊は豚にとりつき、豚はなだれを打って海に落ち込み、悪霊は溺れ死ぬのです。今は圧倒的な力で支配しているかに見えるロ−マの政治権力も、主イエスの支配の前に崩壊せざるを得ないのです。国家が悪魔的な力で戦争を始めたり、人々の暮らしを壊すことをしますが、最後には神が悪霊を追放なさるのです。
最近、上田光正牧師が書いた「日本人の宗教性とキリスト教」と言う本を読んでいます。この本には、現代がポスト・モダンの時代で、神をもたなくても生きていける、とほとんどの人が考えている、世俗化の時代であることを強調しています。現代が行き詰まっている、それは神を入れないで、人間の力で何でもやっていけると思って暮らしている、そのこと自体が悪霊に支配されていることなのです。私たちは神を信じなくてもやっていける、そのような今の時代の考え方を受け入れている、まさにそのことが悪霊に支配されていることにほかならないのです。
言い換えれば、神を礼拝し、隣人を愛することのない生活、まさしくそれがこの時代の悪霊に支配されていることなのです。
まことの神を礼拝し、隣人を愛する、そのような基本的な軸をもって生活する、そのことが健やかに生きることなのです。
マルコ福音書5章15節以下に記されている、癒やされた男に目を向けると悪霊につかれていた男が、今は着物を着て正気になって座っていたとあります。静かにそこに座っていたのです。それは主イエスの語るみ言葉を聞いていたのです。自分と悪霊の区別もできないような、自分を見失った、混乱した状態ではなくて、み言葉を聞いて、醒めた、しっかりした判断をすることができるのです。み言葉を聞いて、まことの神を礼拝し、隣人を愛する、そのような確かな生き方がまことに幸いな生き方であることを知り、すこやかな生活を取り戻すことができたのです。
この男は主イエスに癒やされて、健やかになったのです。主イエスが舟に乗ろうとされると、彼はお供したいと願い出ましたが、主イエスはこれをお許しになりませんでした。むしろ主イエスは家族のもとに帰るように命じられたのです。この男には使命があると語られました。彼を家族伝道に遣わされたのです。
5章19節には「『自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。』」と語られています。主イエスがこの男を支配していた悪霊を追放してくださり、癒やされた者は、新しい使命と責任があるのです。それは主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることです。
既に悪霊に支配され、罪に支配されて生きている、その時代は終わったのです。神の愛の支配を宣べ伝えるのです。この男はこの使命に生きたのです。そして異邦人の地に伝道した最初の伝道者となりました。彼は「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。彼を動かしているのは、主イエスが自分を深く愛してくださり、癒やされて健やかに生きている、と言う感謝の心です。自分が神の愛に生かされている、そのことを多くの人々に宣教したのです。
最初の教会では洗礼志願者が洗礼を受ける前に、牧師から悪霊を追放してもらったと言われています。洗礼を受ける前に、悪霊を追い出してもらってから洗礼を受けたと言うことは、それだけ、最初の教会が神に敵対する悪霊が実在し、教会員を脅かすことをよく知っていたと言うことです。キリスト者として生きることを妨害する悪霊が存在し、働くことが現実にあり、そのことをリアルに認識していたのです。
健やかに生きることを妨げる、様々な霊があります。しかし、私たちはまことの神を礼拝し、隣人を愛する、そのような生き方がまことに健やかな生き方であることを示されているのです。
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20150726 主日礼拝説教 「私たちのからだまで救われて」 山ノ下恭二 |
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(創世記1章26−31節、コリントの信徒への手紙一 15章42−58節)
たいへん暑い日が続き、この暑さがからだには応えますが、皆さんと共に主の日の礼拝をささげることができることを喜んでいます。私たちがみことばによって励ましと力を得て、この礼拝を終えることができれば幸いです。
皆さんへの祝福を願い、まず、聖書の言葉をもって祝福と致します。
「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(コリント一 1章3節)
かつてわたしたちの教会で奉仕された、加藤さゆり伝道師は昨年の8月23日に、地上の生涯を終えられました。20年もの間、舌がんと戦い、この3年は介護される日々でした。加藤常昭教師は、食事の世話やこまごまとした世話をしながら毎日を過ごし、この介護の労苦から解放されるのは、さゆり先生がこの地上の生涯を終える時であると思った、と話されたのです。長い間、共につれそい、労苦を共にした妻に先立たれる、その悲しみは深いものであったと思います。
「昨年(一昨年のことですが)、夏に微熱が続きましたことをきっかけに検査を受けた時に、リンパ腺、リンパ節すべてが悪性腫瘍に冒されており、もう治療の見込みがないということを告げられました。主治医は妻に分からないように私宛のメ−ルで、今年(昨年のこと)のクリスマスをおふたりが共に祝えることができればいいのだが、と書いて来られました。妻のいのちの短いことを宣告されて、私はとてもつらい思いを致しました。それを読んだ夜は号泣しました。」加藤教師の文章を読むと、愛する者の死がどんなにつらく悲しいことかを知らされます。
介護をする、これは、からだの世話をすることです。肉体を看取るのです。下の世話をし、食べさせ、付き添って一緒に歩いていくのです。その相手がいなくなってしまうのです。死ぬことはその肉体が、その存在がなくなってしまう、滅んでしまうことです。ある作家が妻を失い葬儀が終わってしばらく経過した、ある時、妻の名前を呼んだそうです。妻が死んだことを忘れてしまい、何度も呼んだけれども返事がない、やっと気がついた、「もう君はいないのか」と。夫と妻とは一体ですから、妻を失うことは自分も失うことになります。愛する存在が消えてしまう、それはとても辛いことです。
加藤さゆり先生が逝去されたことを聞いて、ドイツの神学者であるクリスチャン・メラ−教授が加藤常昭教師にメ−ルを送ったのです。「愛する加藤さん、悲しい知らせです。あなたは書いて来られました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再びみ手に取られ、こう呼びかけてくださるためです。『起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ』と」。
この言葉に加藤教師は、とても深く慰められたと書かれていました。「ああ、そうだ。妻に呼びかける天使の声でしょうか、神御自身の声でしょうか。目を覚ませ、さゆり、甦りの朝だ。それがまるで耳に聞こえて来るようでした。」
本日の礼拝で使徒信条を告白しました。この使徒信条には、「からだのよみがえり」を信じると告白しています。私たちはからだの復活を信じているのです。この告白は私たちを深く慰めます。私たちに対する神の救いは、私たちの心にだけ関係するものではないのです。魂だけを重んじる考え方は聖書にはありません。人間は、からだと心を含めた全体的な存在です。
「からだのよみがえり」と言う言葉は戦いの言葉です。この使徒信条が作られた時に、教会の内外に、肉体はやがて滅んでしまうかも知れないけれども、その肉体に住んでいる魂は不滅であると言う考え方があったのです。自分と言う存在を構成しているのは二つある、肉体と霊、肉体と精神、からだと魂、その二つが結合して存在を作っていると考えているのです。肉体はつまらないもの、霊魂こそ永遠なものだと考えるのです。
肉体をもっていることはしばしば重荷になります。年を取っていく時に、自分の弱くなっていく肉体をもてあますのです。肉体の重荷から解き放たれて、そこから逃れて、どのように自由な魂の世界に生きることができるのか、そのことが哲学や宗教の課題になりました。
肉体と魂とを分離して、信仰とは心だけを問題にしていると考える人もいます。しかし、私たち人間が創造される時、からだに霊が吹き込まれた一つの人格として創造されたのです。肉体も魂も神から造られたものです。だからこのからだを尊ぶのです。
日本の多くの人々は、人間は死んで肉体は滅びるけれども、その人の霊は生きていると考えています。死ぬと先祖の霊になって時々、地上に戻って来ると考えるのです。死んでも霊となり再会すると考えているのです。親しい人を失うことは大きな危機、クライシスですから、心の支えが必要になります。その人が存在しないことには耐えられません。死んだことを受け入れることができません。再会することができると考えて、自分を取り戻そうとするのです。死んでも、死んだ人は霊において生きていると思うのです。死を否定していることになります。死んでも生きているように思う、そこで自分を保つことをしているのです。
パウロがコリント教会の信徒に向けて、からだの甦りを語ることには理由があります。それはコリント教会の信徒たちは、肉体は滅びても、霊魂は生きていると考えたのです。肉体と霊魂とを二つに分離し、区別をして、互いにつながっていないと考えたのです。神と関わり、礼拝をしている時には霊においてしており、性の営みをしている時には肉体がしていると考えていたのです。霊肉二元論です。そして霊は高尚で、肉体は汚れたものだと考えていました。
そのようなコリントの信徒たちに、からだの甦りをパウロは語るのです。死や死後のことを私たちは地上で生活している立場から考えています。しかし、パウロは、神から、神の立場から語るのです。私たち人間の立ち位置から死んだ後を考えるのではなく、神の立場からからだの甦りを語るのです。
15章51節に「わたしはあなたがたに神秘を告げます」と語っています。神の立場から語ることは、信仰を与えられなければ、不思議なこと、謎なのです。「神秘」と翻訳されている元々の言葉は「ミステリオン」と言う言葉です。ミステリー、秘密、機密です。信仰と言う鍵によって扉を開ければ神の世界に入ることができ、神の神秘、ミステリーが分かるのです。信仰と言う鍵がなければ、神の世界に入ることができず、聖書が語っているみことばの意味は謎であり、人間の理性によって理解することはできないのです。しかし、神を信じ、信仰をもって理解しようとするならば、「からだの甦り」のもっている福音を知ることができるのです。そのことが私たちに深い慰めとなります。
人間は死んだ後に肉体は滅んでも、霊魂は生きていると言う考え方に対して、パウロは「からだの甦り」を語ります。わたしたちのこの肉体は朽ち果て、そして腐り、骨になってしまいます。しかし、そうではないと語ります。
神が私たちに死んだ後も神の力によって、可能性を与えてくださるのです。「この朽ちるべきものが、朽ちないものを着、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになります。」「必ず」そうなるのです。神が決意し、必ず、そうなるというのです。神が決意し、神がどうしてもそうせねばならないと言うのです。私たちは朽ちないものを着、死なないものを着るのです。着ると言うと人間の中身は変わらないけれども、外側だけ新しい服を着ると思い浮かべます。人間の中身は変わらず、外側の衣装だけを変えると考えます。しかし、そうではないのです。わたしたちの内面も変えてしまうのです。からだが甦る時に、私たち自身がまるっきり別人になるのではなく、神に似せた存在として、罪のない存在になるのです。
「着る」と言う言葉は洗礼を語る時に使います。洗礼を受けるのは「キリストを着る」ことです。私たちは罪ある者です。そして主イエス・キリストは義しい者です。洗礼を受けることは、イエス・キリストの義しさを与えられることなのです。私たちの罪と言う、ぼろぼろの汚れた衣服を主イエス・キリストが引き取り、私たちは義と言う新しい純白の衣服を主イエス・キリストから与えられるのです。洗礼において、そのような交換が起こっています。私たちの存在は神の前に義しい存在なのです。神に正しい存在として認められて、私たちはキリストの所有となったのです。中身は変わらないけれども、着ている衣装は美しいと言うのではなく、洗礼を受けることは、私たちの中身も変えられていくのです。
洗礼を受けても、この地上の生涯は永遠に続くのではありません。死があるのです。その死は罪の結果であるのです。ロ−マの信徒への手紙6章23節「罪が支払う報酬は死です。」と語られています。(新約p282) 神に罪を犯す、それは負債であり、借金です。借金をして、それを返さないと罰を与えられるのです。
56節に「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」とあります。神を知らなければ、罪も感じないし、罪からの痛みも知らないのです。
しかし、私たちは自分の地上での人生を振り返って、罪を犯してきた、その痛みを感じるのです。自分が神の前に罪を犯してきたのではないかと思うのです。それは神に裁かれる痛みなのです。罪がとげをもって私たちを責めるのです。そのとげは死をもたらします。
しかし、そのようなことの中で、パウロは主イエス・キリストによって、私たちが裁かれる痛みを経験しなくても良いと語っているのです。主イエスは神の審判を受けて、死の痛みを経験することによって私たちは裁かれることはないのです。主イエスはいばらの冠をかぶせられ、そのいばらのとげで痛みを覚えたのです。主イエスは神に裁かれると言う最も厳しい死を経験し、そのことによって私たちは審判の死を経験することはないのです。
私たちは死を経験するのです。しかし、主イエスの十字架の贖いによって、私たちは神に裁かれることはないのです。洗礼を受けて、罪赦されて、私たちは死ぬのです。
死に方はみんな違います。立派な死に方をしなくても良い。ある牧師は「キリスト万歳、ハレルヤ」と言って死だと言う話を聞いたことがあります。立派な死に方だと言う人もいます。カトリック教会の神父で死生学を教えているデ−ケンと言う神父の母親は、召される前に、「ウイスキーを飲んだことがないので、飲みたい」と言って飲んで、満足してその後に死んだそうです。私もおかしなことを言って死ぬかも知れません。キリスト者の鏡ですと言うような、立派な死に方をしなくても良いのです。死んで私たちは眠るのです。眠りに就くのです。
わたしたちが甦る時が来るのです。主イエスが甦ったのです。それはからだをもって甦ったのです。15章の初めに書いてありますが、主イエスは身体をもってペトロに会い、弟子たちにも会ってくださったのです。キリストは復活の初穂として甦られたのです。
最後の「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」トランペットが高らかに鳴り響くのです。眠っている者たちがこのトランペットの音によって眠りから覚めて、起き上がるのです。
この時に眠っていた者たちが霊のからだとなり、全く新しい存在になるのです。霊のからだになって甦るのです。
からだの甦りを信じることがないと、私たちが地上で生きている時間だけのことに関心が集中します。毎日を楽しく過ごせば良いと言う生き方になります。死ぬまでの間のことだけを考えて過ごそうとすると、その時だけを過ごすことに集中してしまいます。
この地上の生涯ですべて終わりであるということになると、明日はどうなるか分からないから、今のうちに楽しく過ごそうではないかと刹那的な生き方になります。15章32節「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか。』」と語られています。
神は死をも支配する方なのです。神は死を飲み込むのです。死によって私たちの存在が飲み込まれて、何もない、自分の存在がないと言うのではないのです。神は死を飲み込んでしまったので、死を恐れることがないのです。キリストが復活されて、死が力を失ってしまったのです。
コリントの信徒への手紙一 15章54節、55節、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死というものがなくなってしまったのです。死が不在なのです。そのような世界に私たちは生きることができるのです。
「太陽も死も、じっと見続けることはできない」と言うことわざがあります。じっと見続けると視力を失います。ただ、死を見過ごすことはできません。「死すべきことを覚えよ」です。そして死ぬことが辛いことであることに変わりはありません。しかし、もっと大切なことは、神が私たちの未来を確かなものとして引き受けてくださっていることなのです。私たちの死も、死んだ後も、神の御手の中に置かれているのです。神が私たちのためにしてくださっていることをただ信頼するだけです。神は私たちを死から呼び出してくださるのです
トランペットが鳴り響き、そこで歌われるみことばです。「『死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」
私たち人間の目から見れば、死が大手を振って歩いて見えるような現実にあっても挫けないのです。私たちの死んだ後も、死に勝利している神がおられるのだから、今、目の前にある業に励むことができるのです。
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
私たちの日々の労苦が無駄になることはありません。この「無駄になる」と言う言葉は「空っぽになる」と言う言葉です。親を介護する愛の日々、子育てをする日々の労苦、学校での勉強、会社での仕事、人間関係の悩み、家庭での家族の関わり、教会での奉仕、たくさんの労苦を抱えて、周りの者は誰も自分の労苦に目を注いでくれないと、疲れ果て、つぶやくことがあります。日々の愛の労苦が空しくなり、空っぽになってしまい、自分が何をしているのか分からなくなってしまうのです。しかし、パウロは語ります。あなたがたは甦りを信じているキリスト者として生きているではないか。あなたがなす日々の愛の労苦は、主の業なのです。主があなたの労苦を知り、その労苦は決して無駄にはならないのです。空っぽになることはない、と語るのです。
からだの甦りを信じる、神が終わりの時に、眠っている私たちを起こしてくださり、からだが甦るのです。私たちは死をも突き破る神の力に信頼し、死を恐れることなく、神の愛の中に歩むのです。
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20150719 主日礼拝説教 「私たちの罪が赦されてこそ」 山ノ下恭二 |
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(詩編32編1−11節、コリントの信徒へ手紙二 5章16−21節)
東京神学大学の学生の時に日本橋教会に行っていました。ある時、教会のある高齢の婦人からはがきを戴きました。この婦人はこの時にすでに重い病を抱えて、入院されていました。そこには「自分は病のためにもう長くはないと思い、病室で牧師の司式により、聖餐に与ることができ、罪の赦しを受け、安心して眠りに就くことができることは感謝です。」と書いてありました。このお便りを戴いて、地上の生涯を終える時には、聖餐を受けることを知り、罪の赦しを受けることがとても大切なことであることを知ったのです。
使徒信条の後半部分に「罪の赦し」と言う言葉が出てきます。「罪の赦しを信じる」と告白しています。ある人は「キリスト者が自分の過去を振り返る時に、それはいつも罪の赦しを見つめることになる」と言っています。自分の過去を振り返る時に、自分の過去の中に姿を現してくるのは「自分は罪を赦された者だ」と言う事実だと言うのです。この人は私たちが地上の生涯を終える時にもそうなのだと言っています。
死が近づいて来る、死の予感がある、そういう時に、自分の人生はいったいどういうものであるかと振り返ると、様々な思いがあると思います。「ああ、これで安心して死ぬことができる」と思うこともあります。「こんな人生では死ぬわけにはいかない」と言う思いが渦巻くことがあると思います。
そのような時に「わたしは罪が赦されて生きてきた者だ。その赦しの恵みの中に生きて来たのだ、そしてその恵みの中で、今いのちを召されるのだ」と思うことはとても幸いなことです。
過去を振り返る時に、いろいろなものが見えてくるはずです。自分が忘れることのできない不幸な経験も見えてきます。逆にまことに幸いな経験をして、思い出す度に幸いな自分を思い出すこともあります。不幸な時も幸いな時も、自分の人生を包み込むように、また支えるように、罪の赦しの恵みが付き添ってきているのです。
主イエスの生涯、そのみことば、みわざを伝えている福音書には、主イエスが、罪の赦しを人に告げる時に、力を込め、心を込めて、「罪を赦す」と宣言しているところが多く出てきます。病を癒やして欲しいと願った人に「あなたの罪は赦された」と宣言しています。主イエスを信じると言うことは、主イエスが罪を赦す方であるということを信じると言うことであり、その主の恵みの中に生きるということは、その罪の赦しの中に生きると言うことです。
しかし、私たちは、毎日生活していく中で、罪を赦すことはとても難しいことを経験します。相手の過ちを赦すことがなかなかできないことがあります。
ある時、新聞を読んでいたら、相手に少し、悪いことをしたときにすぐに「済みません、ごめんなさい、」と謝ると相手の怒りが軽減されると書かれていました。私はリュックサックで出かけるのですが、電車を降りる時に出口で自分のリュックサックが相手にぶつかることがあり、その時に「ごめんなさい、済みません」と言って電車を降りるようにしています。よく考えてみると、後で、めんどうなことにならないようにその時に口先だけで言っているかも知れないとも思います。しかし、相手がもっているリュックサックで自分にぶつけて、何も言わない時には、何だこの人はと思うことがあります。それは私たちが自分を中心に考えているからです。自分は悪くない、相手が悪いと考えているのです。自分がしたことは大目に見て、相手がしたことは厳しく考える、それが罪と言うことなのです。それは洗礼を受けていても、自分の過ちを見ないようにして、相手の過ちを大きく取り上げることをしているのです。
相手の過ちを赦すことができない、その罪を主イエスは譬え話で語られています。マタイによる福音書18章で、弟子のペトロが主イエスに質問をしたことをきっかけにして、主イエスが譬え話をすることになりました。ペトロは、相手が自分に対して過ちを犯したときに、何回、赦すべきかと言う質問をしているのです。ユダヤ教では7回、赦しなさいと教えています。8回目は赦さなくて良いと教えていました。主イエスはそれに対して、7回までと言うのではなくて、7の70倍、赦しなさいと語られました。それは、490回まで赦しなさい、というのではなくて、どこまでも赦しなさい、と語っています。永遠に赦すようにと語るのです。
相手に罪を犯している、悪いことをしてしまった、悪いことを言ってしまった、相手を傷つけるような言葉を言ってしまった、それは負い目を持っているということです。相手に罪を犯す、過ちを犯す、そのようなことを負債がある、借金があると聖書は捉えています。相手に悪いことをしてしまった、自分の行動と言葉で相手を深く傷つけてしまった、それは、相手に借金があると言うことなのです。
主イエスは、王様に対して、莫大な借金を抱えている家来の譬えを語ります。一万タラントン、現在の貨幣価値では1800億円もの借金を抱えた家来がその借金を返済しなければならない日が来たけれども返済できない、それに対して驚くべきことにその借金を返さなくても良いと王様は決断するのです。借金を帳消しにするのです。無罪放免になるのです。何千億もの借金です。この譬えは、私たちが神に対して、赦しがたい罪を犯していると言うことを語っているのです。
私たちは、聖書の話を聴いていますが、自分には関わりのない話、自分を外において聴いているのではないでしょうか。聖書は自分たちが罪人だと言うことを言っているけれども、そうは思わないと思っているのです。
カ−ル・バルトは、晩年に、教会で説教をしないで、スイスのバ−ゼル刑務所で説教をしたのです。この時の説教が残されています。なぜ、刑務所で説教をするのか、それは、「あなたがたは罪人だ」とわざわざ言う必要がないから、と笑いながら語ったと伝えられています。それだけではないのです。それまで、教会で説教をしていたけれども、説教を聴いている教会員がほんとうに、自分の深い罪を認め、悔い改める様子が見られない、と言うことで、刑務所で説教することに使命感を持ったと言われています。
莫大な借金を抱えて困っていた家来が、王様から免除されたのです。借金を返さなくても良いとされたのです。ところがこの譬え話では、この家来が100デナリオン、現在の貨幣価値では、60万円を貸していた友人に借金を今すぐ返せと迫り、返せないと牢屋に入れたことが記されています。このことは、私たちが自分の罪が非常に重いにもかかわらず、神に赦されていることを深く受け止めて悔い改めることなく、しかし他の人の罪は赦さない存在であることを明らかにしているのです。
私たちは神を憎み、隣人を愛することができない、そういう者であるにもかかわらず、神は赦してくださるのです。神に赦された者は、自分に対して過ちを犯した者を赦すべきことをこの譬え話は語っているのです。
自分が相手に対して犯した罪は忘れてしまいます。しかし、自分に対して犯した、相手の過ちは決して忘れないのです。しかし、聖書は私たちが主イエス・キリストの贖いにより、深い罪を赦されていることを心から信じて歩むことが期待されているのです。
本日の礼拝で読んだコリントの信徒への手紙U 5章19節には「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」と語られています。神はキリストによって御自分に和解させておられるのです。神と私たちが同じように罪を犯し、悪いことをした、と言うのではありません。私たちだけが罪を犯し、そのために審判を受け、罰を受けるべき者です。主イエス・キリスト御自身の苦しみと死によって、和解してくださったのです。この和解の言葉を語ることが教会の使命です。
カ−ル・バルトと言う神学者は、和解論を書いています。この本には「和解」と訳されているギリシャ語が「交換する」「入れ替わる」「入れ替える」と言う言葉であることを指摘しています。和解すると言うことは入れ替わることです。主イエス・キリストと私たちが入れ替わることです。
自分がいるところに、他の人が交代して入ることだと言うのです。一つの仕事をして疲れてくると、ある人が「私がしばらく替わりましょう」と言い、席をゆずる、そしてその人が自分の仕事を続けるのです。自分はその仕事の外に出てしまうのです。このような譬えをバルトは語り、主イエス・キリストとの和解を説明するのです。自分がいるところにイエス・キリストが私たちに替わっていてくださり、私たちの罪を、みじめさを引き受けてくださるのです。
カルヴァンが著したジュネ−ブ信仰問答の「罪の赦し」の解説でカ−ル・バルトが一つの譬えをもって語っています。小学生が、絵を描いている、しかし、なかなかうまく描けない、「ちょうど小学校の先生が生徒の席に来て、『今までは、あなたが自分で描いていたけれども、私が替わって描きましょう。』と言うようなものです。そして先生は生徒の画帳に美しい絵を描き初め、子どもはそのわきで見ています。」それに似ているのが主イエス・キリストがしてくださった和解のわざだと言うのです。「神は私たちに同じようなことを言われます。『さぁ、私はあなたに替わりました。これまであなたは存在し、生き、自分の仕事をし、責任を取ることに満足し、あるいはみじめな思いをしてきました。そこをのきなさい。わたしが交代しましょう。」「聖霊を受けて、教会の一員になる者は誰でも、イエス・キリストの所有となります。その所有となった以上、彼はキリストが責任を負う対象になります。キリストとともに生きるならば、人間はもはや自分自身には責任がなくなります。キリストがその責任を負われるからです。」
ハイデルベルク信仰問答問・56では「『罪の赦し』について、あなたは何を信じていますか」とあります。その答えは「神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をもはや覚えようとなさらず それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して 裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです。」
私は、このハイデルベルク信仰問答・問56の答えを読んで、優れた文章であると思います。私にはこの信仰問答の答えの中で、心に響く言葉があります。
この信仰問答の途中の言葉は省略しますが、私の心に響いた言葉は「神は、わたしのすべての罪と、罪深い性質をも、もはや覚えようとしてはおられず」と言う言葉です。簡単に言うと、神が私たちの罪を覚えようとしてはおられないと言うことです。私たちの人間の関わりでは、自分に対して罪を犯した、悪いことをされた出来事や言葉をしたことをよく覚えています。
これは脳生理学でも言うことができると言われています。ある若者が夜中にバイクを運転していてスピ−ドを出し過ぎ、カ−ブを曲がり切れなくて、縁石にぶつかり、激しく投げ出され、腕を負傷したのです。左腕を切断しなければならなくなったそうです。手術をして片腕を失ったのです。回復して日常生活ができるようになりましたが、左腕はないのに、その左腕が痛むように感じるようになったのです。それは負傷した時に、深夜で助ける人がおらず、その痛みの時間が長く、その痛みが脳に記憶されて、刻み込まれたために、左腕がないにもかかわらず、記憶があるので痛みが再生されるのです。被害を受けると脳がその痛みを記憶しているのです。その痛みの記憶はなかなか良くならないのです。
私たちは自分が相手にひどいことを言っても忘れるのですが、自分に対して言われたことはずうっと覚えていて記憶の中に刻み込んでいるのです。頭の中では相手を赦していても、心の奥深いところでは自分に対する、相手の暴力的な振る舞いやひどい言葉はいつまでも覚えていて忘れないのです。人の過ちを赦すことができないのです。私たちは自分に対して犯した相手の罪をいつまでも覚えています。しかし、神は私たちの罪を忘れていると言うのです。「神は、わたしのすべての罪と、罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらない」のです。
エレミヤ書31章34節Bには「わたしはかれらの罪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」(旧約p1237)と語られています。神は私たちの罪を思い出すことはない、忘れてしまったとその決心を語っています。神は神の記憶から私たちの罪を消すと語っています。
相手が自分に対して過ちを犯した、それは忘れられない痛手です。忘れないで、ずっと覚えていて、いつか復讐しようと心に決めていることがあります。しかし、それが神が求めている生き方なのでしょうか。
私が神学生であった頃、国際キリスト教大学の客員教授であった哲学者の森有正氏の講演をICUの構内にあるシ−ベリ−チャペルで聴いたことがあり、それをきっかけにして、森有正氏の著作を読むようになりました。
「いかに生きるか」と言う本に「赦すということは、忘れることだ、すっかり忘れることです」と書いてあります。この言葉を読んで、「赦すと言うことはすっかり忘れることだ」と言うことを教えられたのです。
本日の礼拝で、詩編32編を読みました。この32編の1節は「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」と書かれています。他の翻訳では「いかに、うらやむべきことか、背きを赦され、とがのおおわれた人は」と翻訳されています。神に罪を赦された人は、ほんとうにうらやましい人だ、と歌うのです。そして5節で、「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました 『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」
と歌います。
赦すと言うことは許可するの「許」ではないのです。許可するのは簡単です。痛みがないのです。罪を犯した者を赦すのですから、「赦し」は赦しがたい者を赦すことです。そこには痛みがあります。
ハイデルベルク信仰問答56の答えに「恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して 裁きにあうことのないようにしてくださる」と書かれています。私たちがキリストが私たちに替わって罪の審判を受けて下さるから、裁かれることはないのだ、と言うのです。主イエス・キリストの死は最も厳しい、裁きの死であるのです。
私たちは神に裁かれることはないのです。神が赦してくださっている、赦された者として私たちの身近な隣人の罪や過ちを赦すようにと勧められています。
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20150712 主日礼拝説教 「向こう岸に渡ろう」 山ノ下恭二 |
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(詩編94編1−4節、マルコによる福音書4章35−41節)
私は3年前の夏に教会学校の中高生と共に、東日本大震災の被災地である気仙沼に海岸清掃ボランティアに行きました。3日目にボランティア活動が終わった後に、海岸に近い小高い丘に石碑があり、そこにボランティアをした人と一緒に登りました。地震が起こり、津波が押し寄せて来た時、海岸近くに住んでいた人々は、小高い丘にいれば津波が襲って来ないで安全だろうと思っていましたが、この小高い丘にも津波が襲い、90名もの人々が亡くなり、その石碑が建てられ、その石碑には亡くなった人々の名前が刻み込まれました。
私はこの石碑を見て、自分が想像した以上の大津波であったことを実際に知ることができました。津波が大きかったと言うことは新聞やテレビで知っていましたが、現地に実際に行って経験するのとはかなり違うことを知りました。知識として知っていることよりも実際に経験して学ぶことのほうが、学びが深まることをこの時に知りました。
主イエスの生涯、それは旅から旅への毎日でした。いつも旅をしておられました。もちろんしばらく滞在する家もありましたけれども、いつも旅をしておられたのです。主イエスは、その旅の間、ひとりではなく、弟子たちと一緒の旅でした。
主イエスは、教師として、生徒である弟子たちを教育されたのですが、その教え方は単に知識を教えると言う方法を取らなかったのです。一般に学校での学びは座学と言って、椅子に座って教師の講義を聞いて学ぶのですが、主イエスは生活を共にしながら、歩きながら、弟子たちに教えているのです。ある人は主イエスが弟子たちに教えた学校は「歩く学校」だと言っています。
主イエスは立派な建物の学校の中で教え、弟子たちは勉強し、討論をして学んだのではなく、毎日、旅をし、寝食を共にしながら、そこで弟子たちへの教育を一所懸命にされました。いろいろな知識を教える教育と言うよりも、主イエスが大切になさったのは、弟子としてのあり方、信仰そのもの、生活そのものを鍛えるのです。主イエスは弟子たちの生活の様子、考え方、信仰をよく観察し、見極めながら、弟子たちのいろいろな欠点を見つけて、その欠点を何とかして乗り越えさせようとなさったと思われます。
さて、主イエスは弟子たちと共に舟に乗ったのです。いわば、舟が学校になっています。この舟に乗って水の上に乗り出しました。これは湖です。湖上に出たところ、激しい暴風が起こり、舟は波に飲まれそうになったのです。この「激しい突風」と翻訳されている言葉は、大地の動きについて用いられると「大きい地震」を意味します。水が動けば、波風がたって、しけになり、地面上では、地震になります。
私がイスラエル旅行に行った時に、ガリラヤ湖で舟に乗って向こう岸に行こうとして、突風が吹いて、元の岸辺に引き返したことがあります。ガリラヤ湖ではよくあるとのことです。
舟に乗ると、揺れますので、心が不安定になります。自分の立っているところが、ぐらりと揺れると言うことは恐ろしいものです。自分の存在が崩れてしまうのではないかと言う不安を抱きます。
主イエスは、この舟で弟子たちが訓練しようとしているのです。弟子たちは舟に乗り、舟が揺れて、自分の存在に不安を持つ、その時に弟子たちはどのようになるのか、を主イエスは試すのです。弟子たちがもっている根源的な弱さを弟子たちが気づいて、その弱さを克服するようにと願っているのです。
弟子たちの弱さとは、何でしょうか。それは「臆病」です。臆病は、人間の性質と言うだけではなくて、信仰に関わることです。
私たちは臆病です。怖がりです。胃が痛いと、胃がんかも知れないと思うし、頭痛があると脳梗塞かもしれないと心配します。めまいがあると死んでしまうと思います。隣の人が咳をすると移って感染症になり、死んでしまうのではないか、と心配になります。死に対する不安があるのです。
4章37−38節に「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスはともの方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。」と書かれています。
湖に嵐が起こった、弟子たちは恐れおののいたのです。このような時に主イエスは眠っているので、弟子たちは「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」と訴えたのです。他の翻訳では、「先生。わたしたちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」とあります。別の翻訳は「わたしたちがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか。」一番、新しい翻訳は「私たちが滅んでしまうというのに平気なのですか。」とあります。弟子たちは溺れ死にそうだと思ったのです。ほんとうに、そう思ったに違いありません。死に対して恐れを抱いたのです。弟子たちは、この湖で、自然の激しい力に捉えられて溺死した人々を見てきたに違いありません。死、それは私たちを脅かしているものです。臆病の根本は、この死にあります。
主イエスは旅をしながら、歩きながら、弟子たちを教え、訓練されたのですが、弟子たちにこの嵐を経験させたかったのです。舟に乗って嵐に遭う、案の定、弟子たちは、「助けてくれ」と悲鳴をあげ、大騒ぎをしてしまうのです。
主イエスは、その弟子たちに言いました。「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか。」「まだ信じないのか」と言う言葉は元々「信仰が小さい」と言う言葉です。「信仰があるかないか」わからない、あるにはあるけれども目にも入らないような小さい信仰だと言っているのです。カトリック・フランシスコ会の翻訳では「なぜ、そんなに恐れるのか。まだ信仰がないのか。」とあります。その意味では、主イエスは弟子たちに、お前たちには信仰があるのか、と問われたと言うことができます。
「信仰が小さい。」この信仰とはいったいどのようなことなのでしょうか。宗教改革者ルタ−は、信仰が大きい、小さい、と言うのは、その人が今、何を見ているのかということで分かると言いました。信仰が小さい人は、目に見えるものだけを見て、それに心を奪われ、恐ろしさに怯えてしまうのです。ルタ−は、「信仰が小さい」ということは、目に見えるものにだけ振り回されてしまう、そういう人だ、と言いました。
ここで、大切なことは主イエスが眠っておられたと言うことです。同じ舟の中で、ぐっすり眠っておられたのです。弟子たちは自分たちが溺れて死にそうであることに慌てていて、主イエスが眠っている姿に、何をしているのかとだけ思ったのです。自分たちが直面していることがとても大きくて、主イエスはとても小さく映っていたのです。主イエスがなぜ眠っているのかを見抜くことができず、自分が死ぬかも知れないと心細くなり、主イエスを起こそうとしたのです。死にそうな時に主イエスは何をしているのか、何事もないかのようにぐっすり眠っている、何てことか、と思ったのです。これが私たちの姿であり、現実です。
最近、マルコによる福音書を解説した、ファウスティと言う、カトリックの司祭であり、神学者が書いた「思い起こし、物語れ」と言う本に、なるほどと思うことが記されていました。主イエスは弟子たちを実際に訓練されたのですが、主イエスが神の国の譬え話をされて、弟子たちと共に舟に乗って、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ることは、何の考えもなく、したのではないと言うのです。
主イエスは、湖を渡る前に、「成長する種」の譬えと「からし種」の譬えを弟子たちに語りました。この譬えは、私たちは種を蒔くけれども、私たちが眠っている間に、「ひとりでに」種が成長して実を結ぶことを語っています。つまり、私たちの手によらないで、私たちの働きに関わりなく、神が働いてくださっている、そのことを信頼することを教えたのです。つまり、私たちが眠っている時にも、神はどのような時にも働きを止めない神なので、いつも、どのような時にもこの神に信頼し、委ねることを主イエスから学んだのです。弟子たちは、主イエスから信仰というものは、神がどのような時も最も良い配慮をしてくださり、この神を心から深く信頼することが信仰であることを教えて戴いたはずなのです。この言葉が弟子たちの心に深く根付いているのか、それが試されることになります。主イエスは弟子たちに信仰の試験を実施しているのです。
主イエスが大切なことを心を込めて、弟子たちに教え、弟子たちはその話を印象深く聴いているはずなのに、実際に、そのことが知識にだけに留まっているのです。
嵐が襲って、舟が沈みそうになり、溺れ死ぬような気持ちになっても、主イエスは眠っているけれども、主イエスが必ず、立ち上がって、この危機を、この緊急の事態を、救ってくださる、と確信して慌てることなく、その時を待つのです。しかし、弟子たちは今、自分が見ているものだけに捕らわれて、主イエスに深く信頼することをしないのです。「思い起こして、物語れ」には「『たとえ』が語られたちょうどその日に、弟子たちは試験に落第する。」と書いてあります。弟子たちは主イエスの試験に落第してしまうのです。
私たちは洗礼を受けて、すべて順調に行くことはありません。弟子たちと同じように信仰の試験を受けるのです。困難に直面して、どのような動機で洗礼を受けたか、が改めて問われることになります。信仰が試されるのです。
洗礼を受ける時に、洗礼を受けると自分の心の支えになるかも知れない、と言う宗教的な動機から、また、自分が困難な問題に直面する時に、自分を助けてくれる、と宗教的な、神頼みのつもりで洗礼を受けると、実際に現実的な神からの助けがないと思う時には、苦しい時の神離れ、になってしまうのです。
大きな困難に直面した時に、神は何もしてくれないと思って、教会から離れ、聖書も読まなくなり、祈ることも止めてしまうのです。洗礼を受けると、自分の生活にプラスになる、自分にとって良いことがある、と言う御利益的な動機で洗礼を受けたならば、困難なことに直面すると、すぐに教会から離れてしまいます。
私たちは思いがけない試みを受けることがあります。そのような時にも、私たちは目には見えないけれども、信仰によって神の働きをしっかり見て、信頼して神が与えてくださる恵みを待つことができるのです。
自分の立場から神を信じるのではなく、神の立場から自分のあり方を再検討し、悔い改めがなければ、信仰の試験に合格することができないのです。自分に良いことがあることを願うのではなくて、神のみこころを求める信仰が求められているのです。
私たちも様々な信仰の試験を受けます。自分の病、親しい者との別れ、不条理な扱い、などに直面します。様々な試験を受けて、どう乗り越えていくのかと言うことです。
最近は、がんのために手術を受ける人も多くあり、手術の前はとても心細いのです。私はある時、手術の日の朝、病室に行き、その方と共に祈ったことがあります。いのちに関わることですから、がんの手術は恐ろしいものだと思います。私たちは様々な試みを経験しながら、自分に信仰がないことを深く知らされ、その試練を通して、神の働きの大きさを知っていくのです。そしてみことばに力づけられるのです。
昔から舟はキリスト教会を表しています。教会は港を出港して向こう岸に渡ります。穏やかで、嵐がない航海はありません。キリスト教会の歴史は、ロ−マにキリストの福音が届けられてすぐに、ロ−マ帝国によって激しく、厳しい迫害を受けてきました。地下の墓場で礼拝を続けて行ったのです。いつも教会は国家から圧迫を受け、迫害を受けてきました。
日本の教会は太平洋戦争の時には、教会は国家からの大きな圧力を受けました。私の出身教会である鹿沼教会の宣教100年記念誌に1944年(昭和19年)の時の教会の様子が記されています。「全国的に軍国主義となり、教会に対する圧迫も激化。礼拝前に皇居遙拝を強要され、牧師の説教も警察のスパイによって細かに密告され、礼拝出席者が数名に激減した。青木長老宅にも毎週、特高刑事が来て、宗教上の質問をされたり、本棚を調べられた。また前の家の二階から終日、出入りする人々を調査していた。しかし、いかに圧迫を受けても、いかに少数であっても、感謝すべきことに、礼拝は戦争中一回も怠らず厳守した。」戦時中、教会は国家の圧力を受けていましたが、このような時にも、教会は礼拝を休むことなく、少数でしたが、キリストの福音を聴いて、力を与えられて、戦争の最中の厳しい時を乗り越えることができたのです。それは神が教会を守ってくださったのです。
湖で嵐が吹いて、舟が沈み、弟子たちが溺れ死にそうである時に、主イエスは眠っていたのです。私たちがほんとうに危機にあった時に、困っている時に、神は何もしないし、沈黙しているようにしか思えない時があります。
しかし、私たちは、見るべきものを見ているのです。信仰のまなざしで神の働きを見ているのです。神を信頼し、神が私たちのために最も良い配慮をしてくださっていることを信じているのです。
弟子たちは目の前に起こる困難に直面して、恐れ、怯えてしまいます。それに対して主イエスは、「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか。」と厳しく叱るのです。新しい翻訳では「なぜあなたたちは臆病なのだ。まだ信頼がないのか。」と翻訳しています。確かに、私たちは神を信頼していないのです。だから主イエスが叱るのです。それにもかかわらず、神は私たちを見捨ててはいないのです。見放してはいないのです。それは、4章39節で「イエスは起き上がって風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ。すると風はやみ、すっかり凪になった。」と記されているのです。
ここには、主イエスが神であることを表す存在として、ほんとうに大きい方であることが語られています。そしてこの様子を間近に経験した弟子たちの驚きが語られています。
4章41節「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。』と互いに言った。」
弟子たちはこの湖で自分たちが信仰がないことを深く知りました。しかし、それ以上のことを学ぶことができ、信仰を告白することができたのです。主イエスは風や湖をも従わせることのできる、大きな、大きな存在、神であることを告白できたのです。弟子たちは主イエスを人生の生き方を教える教師ではなく、救い主であることに目が開かれたのです。新しいまなざしをもって主イエスを仰ぐことができたのです。
主イエスは私たちに「向こう岸に渡ろう。」と呼びかけておられます。これから渡ろうとする湖には暴風があり、舟が沈んでしまうようなことが起こるのです。私たちが行くところにも困難が待ち構えているかもしれません。困難な時に、神は一緒に歩いてくださいます。沈みそうな舟に神は間近に共にいてくださるのです。
私たちには先のこと、これからのことは分かりません。しかし、私たちには神が、私たちを愛してくださる神がいつもいてくださるのです。
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20150705 主日礼拝説教 「小粒のからしだねが大きくなる」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書30章18−26、マルコによる福音書4章26−34
本日の礼拝でマルコによる福音書4章26−34節を読みました。主イエスが語られたこの二つの譬えは、主イエスが神の国、神の支配について語られた譬え話の最後の譬え話です。主イエスが語られた譬え話は、聞く者にとって難しいものではなく、分かりやすい話でした。分かりやすいと言うのは、自分の生活ですぐに確かめることができ、すぐにイメ−ジを浮かべることができるからです。特に、ここでは、聞く者たちの日常生活に材料を得て、それを譬えに用いています。
主イエスはこの時代のほとんどの人々が知っている農業の話を譬えに用いています。土に種を蒔く、それから暫くは天候が気になりますが、種が実るように祈りながら待ちます。そして遂に実が実ると、刈り入れだと鎌を取り出して、刈り入れます。農業を経験している人であるならば、すぐに分かる譬えです。皆、このことを毎年、経験しているのです。それに続いて「からし種」の譬えが語られます。
この「からし」と言うのは、「唐からし」という私たちが知っているからしではなくて、ブラックマスタ−ドと言われる別の種類のものです。「地上のどんな種よりも小さい」(4章31節)とあり、この「小さい」と言う言葉は、「ミクロン」と言う言葉ですから、「極めて小さい」ほんとうに小さい、と言う言葉で、直径が1ミリもないのです。この種を蒔くと、ぐんぐん伸びて、5メ−トル位になるそうです。「大きい」と言う言葉は「メガ」と言う言葉です。「巨大な」と言う言葉です。5メ−トル、それは高いだけではなくて、大きく拡がるのです。「空の鳥が巣を作れるほど」(4章32節)と書いてありますが、どこに巣を作るかと言うと「葉の陰に」と書いてあります。普通は枝に巣を作るのですが、枝ではなくて、大きな葉が広がって、鳥が来て、その葉の陰に、鳥が巣を作って安んじて卵を産むことができるのです。からし種を「蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり」(4章32節)と書いてあります。「ミクロン」の種が「メガ」「巨大な」からしの木になることの驚きを語っているのです。このからし種は野菜の一つであり、この譬えにでてくるからしのことは、聞いている者はよく知っており、1ミリにも満たない小さな小さな種が、ほんとうにあっという間に、大きくなるからしの成長を知っているのです。この話を聞いた人たちは、主イエスが語られることがよく分かったのです。
主イエスが「成長する種」の譬えと「からし種」の譬えを話されたのですが、この譬えで主イエスは何を語ろうとしているのでしょうか。主イエスの譬えは誰でもが分かる譬えですが、その譬えによって何を語ろうとしているのでしょうか。
マルコによる福音書4章1−9節で、主イエスは種蒔きの譬えを話されました。種を蒔くというのは、イエス・キリストの福音を語り、伝えることです。人々にキリストの福音を伝道することです。4章13−20節でこの譬えについて主イエスが説明をしており、福音を聞いて受け入れずに実らない人たちがおり、福音を聞いて福音を受け入れて実る人たちがいることを説明しています。ここでは、主に福音を聞く側のことが問題になっています。その後の「ともし火」「秤」の譬えも、福音を聞く側を問題にしています。
ところが、4章26−32節の二つの譬えは、福音を伝える側、私たち教会員、伝道する者に対するメッセ−ジが、この譬えによって示されています。福音を伝える者に対する励ましが語られています。
この譬えは私たちに対する大きな励ましです。福音の伝道と言うのは、なかなか容易ではありません。人々が求めているものを提供するならば、教会に来るでしょう。教会に来れば病気が治り、長生きできると宣伝すれば、多くの人が教会に来るでしょう。しかし、教会は、イエス・キリストを信じれば御利益があるとは言わないので、教会の礼拝に誘っても人はなかなか来ません。みことばを語っても信じる人が出ないのです。実らないのです。従って、私たちは落胆し、伝道を止めたくなるのです。伝道と言うのは洗礼を受けることで終わらないのです。洗礼を受けた人が、この地上の生活の最後まで、教会生活を全うするまで関わることですから、根気がいる仕事です。
しかし、その伝道の仕事は、人間の業ではないと言うことです。伝道の業は神の働きであり、神がなさることなのです。私たちはただ種を蒔くことに専心するのが私たちの仕事なのです。私たちの仕事はただ種を蒔くだけであります。そのことをこの譬えからはっきり示されるのです。
そこで、もう一度、マルコによる福音書4章26、27節を読みます。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」とあります。
ここで私たちが注目する言葉があります。「夜昼」であって「昼夜」と書いていないと言うことです。なぜ、昼夜と書いていないのか。すぐに思い出すのは、イスラエルの人たちは、一日と言うのは、日が暮れると始まると考えたことです。それは、創世記1章に、神が天と地を創造された時、「夕べがあり、朝があった。第一日である。」(1章5節B)と書かれており、一日と言うのは、夕べから始まるのです。神は天と地、すべてのものを創造された後に、「夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(1章31節B)と書かれています。
朝起きて、今日がんばろうと言って始まるのではなくて、昼、一所懸命に仕事をして、仕事が終わる、終わって暗くなると一日が始まるのです。今の私たちの一日とは違うのです。仕事を終えて、家で休み、眠りに就くところから一日が始まるのです。眠りに就く頃に新しい一日が始まるのです。朝、働くぞ、と思って始まるのではなくて、さあ、寝るぞというところから始まるのです。寝るところから一日が始まるのです。床に入って憩う、安らかに眠ることができる、それは神にすべてを委ねて休むのです。イスラエルの人たちの一日のはじまりは、眠りから始まるのです。神にすべてを委ねることから始まるのです。
昨日一日、種を蒔いた、新しい一日がやってきた、また朝から蒔いた、と言うのではありません。種を蒔いた、その働きを止めて、神に任せて、床に入って休むことから一日が始まるのです。そして寝て、起きる、それが繰り返されていくうちに、実りがもたらされていくのです。
種を蒔きますが、その種が成長するために、人間が何をするのか、と言うと特別にするわけではないのです。「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」人間の手と離れて成長するのです。「種が成長する」それは、いのちの神秘です。人間の技術、知恵ということではなくて、神の不思議な力によって種は成長していくのです。
マルコによる福音書4章28節「土はひとりでに実を結ばせるのであり」と書かれています。この「ひとりでに」と翻訳されている言葉は重要な鍵となる言葉です。この「ひとりでに」と言う言葉は、ギリシャ語では、「アウトマテ−」と言う言葉です。この「アウトマテ−」と言う言葉は、英語のオ−トマティックと言う言葉の元々の言葉です。オ−トメイションと言う言葉もこのギリシャ語の言葉が元になっています。車を運転する人は、ギアチェンジするマニュアルか、オ−トマティックするかの車で運転しています。オ−トマティック、人の手でギアチェンジしなくても、自動的に速度が変わるので、便利です。
ここで主イエスが語った「ひとりでに」と言うのは、神の働きを語る言葉です。人間の知恵を超える神の働きを示す言葉です。自然にそうなったと言うのではなくて、神がそのようにいのちを造り、神が種に成長する力を与え、実りをもたらしてくださるのです。人間の手、知恵によるのではなく、神の働きによって「ひとりでに」実を結ばせるのです。
確かに、人間は種を蒔きます。しかし、それを成長させるのは神の働きです。福音を伝えても、それに対してなかなか反応もなく、福音を信じる人が少ないのです。種が実らないように見えるのです。人の目にそのように見えるので、落胆してしまうのです。
マルコによる福音書4章1−10節の種蒔きの譬えで、種を蒔いても実らないことが多いですが、実が実ることを信じて農夫が種を蒔くことが語られています。そのように落胆しないで、福音と言う種を蒔き続けるのです。人間の予想、知恵と異なるところで、神が実りをもたらすのです。伝道の働きは初めから最後まで神の働きです。福音を伝える者を起こし、福音を伝えさせ、聞く者に信仰を与え、成長させるのです。私たち人間の働きではありません。
カトリック教会の雨宮慧神父が書いた「主日の福音」には、このところを次のように解説しています。「注目すべき表現は、『どうしてそうなるのか、その人は知らない』と『ひとりでに』と訳されたアウトマテ−は『目に見える原因もなく』を意味する。この二つの表現が意味することは、人は植物の成長を見ることができるが、その成長の秘密を知ってはいないことである。蒔かれた種は時間の経過と共に段階を追って確実に成長するが、その秘密を人は知らない。植物は、目に見える原因が見当たらないまま、『ひとりでに』成長する。だが、だからと言って、人間の関与が否定されたのではない。農夫は、成長の秘密を知らずにいるが、それでも水をまき、雑草を取って、豊かな実りを期待する。」(「主日の福音」B年、p199−p200)
人の目には見えないところで、神が働いていてくださるのです。そのような神の働きを見ることができるのです。神を信じる者は、そのような神の働きを見ることができるのです。そのような神の働きを信頼することを、この譬えは教えているのです。
神が働いてくださるのだから、別に私たちが働くなくても良い、と言うのではありません。農夫が種を蒔き、畑を耕し、雑草を取り、収穫するように、一所懸命に働くのです。私たちも新しい人を迎え、聖書の話をし、祈り、助言をします。
この譬えは、人が全く関わらなくても良いと教えてはいません。伝道のための知恵を集めて、努力するのです。しかし、だからと言って、人間の力でもって実りが与えられたわけではないのです。神が、全てを用いて、働いてくださったのであり、神の働きを見ることが大切なのです。
今日の礼拝で、イザヤ書30章18−26節のみことばを読みました。イザヤという預言者が預言した時代の人々は、信仰に生きてはいませんでした。自分が危機に陥る時に、頼るべきものを探すのですが、それは偶像であったのです。自分の宗教心を満足させるために、地上での自分の幸福を願って、金銀の神を拝んでいました。地上の自分の幸せを願う民の中で、イザヤは偶像を拝み、自分の地上の幸福を求める生き方を止めるように、見えるものに信頼を置かず、見るべきものを見るように語ったのです。神の働きを見るのが信仰であることをイザヤは語ったのです。
イザヤ書30章20節Bにこう語られています。「あなたを導かれる方は もはや隠れておられることなく あなたの目は常に あなたを導かれる方を見る。」このイザヤの預言で大切な言葉は、「あなたの目は常に あなたを導かれる方を見る」ようにと語ります。
神が私たちのために善い配慮をもって働いてくださっていることを信じ、信仰をもって見ることができないと、私たちはどうなるのでしょうか。
神がおられないかのように心配をして、心配のあまり、自分が何とかしなければならないと焦るのです。
最近の日本キリスト教団年鑑を見ると、洗礼を受ける人よりも逝去する人が断然多く、教会員も礼拝も減り、教会学校の生徒は激減し、教会学校をしていない教会が増えています。牧師を招聘できない教会が増え、教会が消滅する危機にあります。地方の教会では合併して教会を存続することを考えている教会も多いのです。教会学校がないと言うことは、将来の教会を担う人がいなくなると言うことです。このことはとても心配なことです。どうにかしないといけないと焦ります。のんびり構えてはいられないのです。焦ってするけれども、良い結果がないと、ますます焦るのです。あるいは、一所懸命に伝道しても反応がないし、結果がでないと、やめてしまうことがあります。
逆に、良い成果があると、この成果を出したのは自分が熱心にしたので良い結果につながったのだ、と思うようになります。この人を導いたのは自分であり、この人が洗礼を受けるようになったのは、自分が一所懸命したからだと傲慢になるのです。
主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に語ったのですが、このことはガリラヤの片隅で語られ、人々は主イエスのことも知らず、主イエスの語る福音を信じることはなかったのです。しかし、主イエスが復活し、弟子たちに聖霊が降り、教会が成立し、使徒たちの働きにより、地中海にこの福音が伝わり、ヨ−ロッパに広がって行ったのです。 神は福音を伝える者を起こし、福音を伝えさせ、聞いて信じる者を起こしてくださるのです。
ここに私たちは神の働きを見ることができます。私たちが寝ていても、働いていても、神は、人間の働きを超えて、その御業をなしているのです。そこでは、将来を考えて不安のあまり、心配性になることはないのです。また神が働いていないかのように、自分がしなければならない、自分が福音を伝えるのだ、あるいは、成果の実りを自分の手柄にして、誇ることもないのです。ただ、神の働きを信頼して委ねるだけです。
1ミリにも満たないからし種が、5メ−トルもの大きなからしの木になるのです。「ミクロ」「極めて小さい」種から「メガ」「巨大な」木になります。そのように大きく成長するのは人間の力によるのではなく、成長する秘密は神のうちにあります。神の働きにあります。神は私たちのために働いてくださっています。そのことに信頼するのです。
私たちはこれから聖餐に与ります。私たちの罪を贖うために、神の独り子イエス・キリストが私たちにのところに来てくださり、肉を裂き、血を流して下さる、目に見える神の愛に、神の恵みに与りましょう。
(祈り)
主イエス・キリストの父である神。
あなたはこの礼拝に兄弟姉妹を招き、礼拝において共にあなたのみことばを聞くことができましたことを心から感謝致します。
あなたの恵み深い配慮と働きを信頼しながら、私たちにあなたが委託された福音伝道の働きを続けることができますように、一人一人の信仰を支え、導いてくださいますように。この世の中の楽しみや喜びを求めることなく、自分の生活にばかり心を使うことなく、あなたを礼拝し、隣人を愛する、豊かな歩みをすることができますように導いてください。
この礼拝に集っていない兄弟姉妹を覚えます。病と闘う兄弟姉妹に癒やしと慰めを、しばらく教会の礼拝に来られていない兄弟姉妹には、あなたの導きを祈ります。
これから聖餐に与ります。あなたの恵みに与り、あなたのみこころに従う者としてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
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20150628 主日礼拝説教 「聖なる者との交わり」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書6章1−6節、ロ−マの信徒への手紙12章1−21節)
本日の礼拝で皆さんと共に使徒信条を告白しました。この使徒信条に「聖徒の交わり」と言う告白の言葉があります。この「聖徒の交わり」と言う言葉の「聖徒」と訳されている言葉は元々「聖なるもの」と言う言葉です。「聖徒の交わり」は「聖なるものによる交わり」と訳すことができます。聖徒の交わりと言うと、私たちは、教会員同士の交わりと理解することが多いのです。
しかし、この「聖徒の交わり」と言う言葉の元々の意味は、「聖なるものによる交わり」です。この「もの」は人間を意味するよりも、物質を意味する「もの」を意味します。ロ−マ・カトリック教会では、その「聖なるもの」というのを「サクラメント」、特に、ミサにおける御聖体を指すのです。この御聖体が神の恵みを現すものとして考えられています。カトリック教会の司祭がミサにおいて鈴を鳴らしながら、御聖体を高く掲げると、キリストの血に変化し、その御聖体をキリストそのものとするのです。カトリック教会では、聖なるもの、御聖体を中心にして集まっているのが教会と考えているのです。
私たちの福音主義教会は聖徒の交わりを「聖なるものによる交わり」と理解するよりも、「聖なる人々」と理解することが多いのです。それは、ロ−マ・カトリック教会が、聖変化した御聖体を中心に交わりを作っていることに対する批判が背景にあり、聖徒を「聖なる人々」と理解するようになったのです。しかし、「聖なるものによる交わり」と言う理解の方が古いのです。
「交わり」と言う言葉は、原語で「コイノ−ニア」「コイノニオ−」と言う言葉です。この二つの言葉は新約聖書に24回出てきます。コイノニァと言う言葉を新約聖書で調べてみると「キリストのからだにあずかる」「霊にあずかる」「御言葉にあずかる」と言う言い方をしています。従って「聖なるもの」とは、神の言葉、説教、聖餐、聖霊のことで、それにあずかるのが、「聖徒の交わり」なのです。
「聖徒の交わり」とは、信徒同士の交わりと言う意味よりも、礼拝において神の言葉(福音)を聞いてあずかる(コイノ−ニア)のであり、御言葉を聞いて霊的なものにあずかる、聖餐にあずかる、その意味での交わりです。この礼拝に出席することにより、キリストの恵みに与るのです。
聖徒の交わりは「信徒同士が仲良くする」と言うのではなく、一人一人が、御言葉、福音を聞き、神との関係に生きる交わりです。礼拝において、聖書の説教がなされてそれを聞き、キリストの福音にあずかっているならば、聖徒の交わりになっているのです。聖徒の交わりをしようとするならば、礼拝において聖書の説教を聞くこと、聖餐を受けることから始める必要があります。
イエス・キリストが私たちの深い罪を赦して、罪の犠牲をささげてくださった、その福音にあずかる、そのことが私たちの交わりです。キリストの福音を聞き、その喜びに生かされているならば、それは聖徒の交わりができている、と言うことです。
私たちはからだをもっており、自分の中に欲求をもっているので、人間としても親密さを求めます。直接的なふれあいを欲します。親しくなれば、交わりができたと思うのです。しかし、この「聖徒の交わり」とは、肌と肌とのふれあい、互いに本音で話そうと言う交わりではなく、聖なる関係における交わりです。キリストの十字架の死と復活の福音が語られ、聞かれ、そのことが私たちのほんとうの喜びになる、そのような交わりです。
皆さんも、音楽会に行き、演奏される曲を聴いて、とても良い音楽会であったと言う経験をしたことがあると思います。音楽会で隣りに座っている人には関心がないと思います。隣の人がどのような人でもそれは二の次で、演奏を聴きにきているのです。
「聖なるものによる交わり」と言うのは、横の関係ではなくて、まず、キリストの恵みにあずかることなのです。確かに私たちは人との交際を求めているのですが、それを第一に求めるのではないのです。何よりも、キリストとの交わりを求めるのです。私たちは教会をキリストと交わる共同体であると言うことを踏まえないと、ただ、人と人と関わるところであると言うことになってしまうのです。
教会が聖霊を信じることの中で、教会のことが出てくることが大切なのです。聖霊によってキリストが臨在しているところが教会であると言うことです。ある人は「教会は何か」と言うよりも「教会は誰か」と言うことが重要だ、と言うのです。教会に誰がいるのか、それはキリストがおられるのです。
ヨハネの手紙一 1章3節「私たちの交わりは、み父とみ子イエス・キリストとの交わりです。」と書かれています。イエス・キリストとの交わりが与えられているのです。共通のイエス・キリストの恵みを戴いているのです。キリストの恵みを受けるのです。その分け前を戴くのです。
ハイデルベルク信仰問答・問55には「『聖徒の交わり』について、あなたは何を理解していますか」と言う問いに対して、「第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっていること。」と答えています。キリストの恵みと賜物にあずかるのが教会です。
使徒言行録3章にはエルサレム神殿の前で施しを願っていた人に対して、ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語ります。金銀我になし。しかし、持っているものがあるのです。それは、キリストの恵みなのです。それを自分が大切に持っているのではなくて、わけてあげるのです。ただ恵みを戴いているだけではなくて、その恵みを他の人々に分かち合うのです。
この礼拝でロ−マの信徒への手紙12章1−21節を読みました。このところは私たちの生活が礼拝を中心とした生活であることを語り、そしてキリスト者の生活綱領を詳しく述べています。キリスト者の倫理を教えています。そして、教会の仲間と共に生活する時にどのように生きるのか、を語ります。
私たちは、教会で良い交わりをしたいと願っています。互いに親しくなることを願っているのです。親しく交わろう、仲良くしようと、お茶の時をもったり、愛餐会をしたり、親睦会をしたりします。教会の交わりにとても気を使っていることも事実です。
ロ−マの信徒への手紙12章3節−5節には次のように語られています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は、多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数が多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」
教会で共に生活する時に心がけることはどのようなことか。それは二つあります。一つは自分自身のことです。自分が他の人と関わる前に、自分が自分をどのように評価しているのか、と言うことです。そこで心がけることは、自分を過大に評価するなと言うのです。12章3節に「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価するべきです。」と語られています。ここで言っていることは、思い上がってはいけないということです。思い上がらないということはどのようなことでしょうか。謙遜であるということとは違うのです。
私たちにとって困難なのは、自分が自分をどのように評価するかと言うことです。このことはとても難しいのです。私たちは良い人間関係を持ちたいと願っています。良い関係を持つために、心を使います。しかし、私たちは人間関係で実によく失敗するのです。なぜ失敗するかと言うと自分が見えなくなるのです。自分を過大評価するのです。思い上がるのです。鏡がなければ、自分の姿を自分で見ることはできません。他の人が自分を見て、おかしなことをしているときちんと見ることができるけれども、自分が何をしているのか、自分で正しく評価できないのです。
他の者によって評価される機会が学校の生徒や学生はあるでしょう。学校であれば成績を評価されますから、自分は成績が良くて、単位がもらえると思っても、教師の評価は違うので、単位を落とすことがあり、自分の実力は分かります。自分はこんなに成績が悪いのか、と成績表によって分かるのです。しかし、私たちは自分を正しく評価する人をもってはいません。
私たちは他の人から教会生活を評価されたことはありません。他の人のことについては、私たちは評価しているのです。今日の礼拝のお祈りは良かったとか、お祈りを準備すれば良いのに、と心の中でいろいろ評価するのです。 自分のことを自分で正しく評価することはとても難しいのです。自分を間違って評価して、思い上ったり、卑屈になることがあります。自分を正しく評価しないと、教会で他者と共に過ごすことができません。
教会で共に生活をする時に心がけることはどのようなことか。二つには、教会はキリストのからだであり、一人一人は「部分」である、と言うことを自覚すると言うことです。口語訳では、この「部分」と言う言葉は「肢体」と言う言葉です。
自分は教会と言うキリストのからだの一部分に過ぎない、と言うことをいつも自覚していることが大切です。私たち人間は、人を支配したいと言う権力に対する深い関心を持っています。自分を過大評価すると、自分がえらくなったように思って、自分を大きく見せたい、と言うことになります。しかし、私たちはキリストのからだの一つの肢体に過ぎないのです。からだの肢体の働きはそれぞれの持ち場で固有の働きをして互いに補い合って動いているのです。例えば、大腸だけがからだの全部の働きをしているのではないのです。肝臓、膵臓、胆嚢、それぞれがその部分で固有な働きをしながら、からだ全体を造り上げているのです。からだの一部分である腸が大きな働きをしていると思い上がって、他の臓器はたいした働きをしていないと言うことはできないのです。
口語訳聖書は「思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。」と訳しています。
新共同訳では「信仰の度合いに応じて」と翻訳しています。口語訳では「信仰の量り」と言う言葉でした。「量り」と言う言葉の方が原語に近い言葉です。「量り」メトロン、この言葉は「メ−タ−」と言う言葉です。自分の体重が、50キロ位だと思っていたら、体重計にのるとメ−タ−が55キロを指していたと言うことがあります。自分の思っていた体重と客観的に量った体重とは違っているのです。
「信仰の度合いに応じて」慎み深く評価すべきです。「慎み深く」と書かれています。自分を自分に最もふさわしく評価すると言うことです。なぜここで「慎み深く」と語っているのか。それは、人間と言うのは、どうしても自分を高く評価しすぎる、つまり、思い上がってしまうからです。それが「自分を過大に評価してはなりません」と言う言葉が警告していることです。どうしても自分を大きく見せようとするのです。自分は引っ込み思案であるから、大きく見せようとしていることはないと言うかも知れません。それは、ただ気が弱いだけで、大きく見せることができないので卑屈になっているだけです。自分を押し出す人も、引っ込み思案であると思っている人も、自分を大きく見せようとしているのです。
思い上がることなく、卑屈になることなく、自分を高く評価することなく、自分を過小評価することなく、自分自身を慎んで受け取り直すのです。
12章6節では「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」と書かれています。「恵み」も「賜物」も「カリスマ」と言う同じ言葉です。神から与えられているものは、皆、違います。もって生まれたものもあります。自然の才能です。積極的に関わる人もいるし、静かに考える人もいます。歌が上手な人、料理が得意な人がいます。皆、それぞれ違うのです。違うけれども、皆それぞれの賜物を与えられています。その賜物を自分が喜んで受け入れ、教会でそれを生かすのです。
しかし、ここで言う賜物は、神から与えられた新しい賜物です。「預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。」この預言とは、今日の言葉で言えば、「説教」です。「信仰に応じて預言し」とあります。信仰が育っていないから説教ができないと言うことではないのです。逆に、話上手だから、説教ができるのと言うのでもないのです。話上手で雄弁であるから説教が優れているのではないのです。語る説教を神から与えられた賜物として受け取って、説教をしないと説教ができないのです。み言葉をくださいと祈る中で説教の言葉が与えられるのです。自分は良い説教ができるのだ、と思うのではなく、説教を終える度に、今日の説教は聖書のみ言葉に従い、キリストを紹介できただろうか、と反省する、そのような説教者が良いのです。
奉仕をする人が自分はその力があると自分に依り頼むならば、自分の奉仕を自慢するようになるでしょう。奉仕の務めは神から戴いたものであり、聖霊の助けによって、神に支えられながらすることができる、と言う信仰に立たないと、自分の奉仕を自慢し、みんなから、評価されないと不満であると言うことになってしまいます。
ハイデルベルク信仰問答・問55には「『聖徒の交わり』について、あなたは何を理解していますか」と言う問いに対して、の答えの後半部分には、次のように書かれています。「第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。」
教会はハンドベル演奏をしているようなものです。ハンドベルでは大きなベルも、小さなベルもあり、そして音色がそれぞれ違います。高い音の出るベル、低い音の出るベルがあります。ハンドベルの演奏者は、ただ一つの音を出すだけであり、精一杯、ひとつの音に徹して、全体に仕えるのです。ベルの出番はありますが、全部、自分の出番ではなくて自分の出番の時にベルを鳴らすのです。自分の出番をもっていますが、それぞれの出番にきちんと出ることによって、一つの曲が演奏されて、美しい音楽が演奏され、聴くことができるのです。
キリストから与えられたそれぞれの賜物を生かしながら、教会で互いにその恵みを分かち合おうではありませんか。
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20150621 主日礼拝説教 「私たちのからだに聖霊が宿っている」 山ノ下恭二 |
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(ヨエル書3章1−5節、コリントの信徒への手紙一 6章19−20節)
私たちの教会の週報を見ると「聖霊降臨節第5主日」と書いてあります。教会の暦では、現在は聖霊降臨節です。聖霊が降って、キリスト教会が誕生した、その聖霊降臨の時をすごしています。教会が聖霊によって歩む、そのことを心に刻む時を過ごしています。私たちの教会は聖霊によって生きるのです。「霊の導きに従って歩みなさい」(ガラテヤ5章16節)と勧められています。
私たちは説教や聖書の言葉を自分の理性で理解しようとするのです。そこで分かる、難しい、と言うのです。説教者は初めて教会に来た人が説教を聞いてキリストの恵みにあずかることができるように、説教の言葉が届くように分かりやすく話そうと苦心します。初めて説教を聞いた人は、分かった、難しかった、と言うでしょう。しかし、分かった、難しかった、と言う段階に留まることなく、信じるようになるためには、聖霊を受けなければ、信仰は起きないのです。私が神学生の時に4年間、日本橋教会に通っていました。教会の近くには老舗のお店がたくさんあり、地方から上京して働いている若い人が多くいました。ある時、教会の近くに組紐を作るお店があり、京都から来て、組紐を習っている若い人が礼拝に出て、礼拝後、話をしました。私はその人に「説教は分かりましたか」と聞くと、「さっぱり、まったく分からへん」と答えました。そのことで私も高校1年生の時に、礼拝に出て、自分がその時に説教が全く分からなかったと言う経験を伝えました。そして「分からなくても、礼拝に続けて出席すれば、分かるようになる」と話したことがあります。初めて礼拝説教を聞いて分かることはあまりないのです。礼拝に出席し続けて、少しずつ分かるようになります。
しかし、説教で語っている内容を理解しても、そのことを信じることとは別のことです。説教の言葉が自分に向けて語られている、説教が語っていることが、自分に深く関わっていると思えるようになる、それはまさしく聖霊を受けていることです。説教が語っていることが自分に深く関わっている、説教の言葉に衝撃を受けた、考えさせられた、そのことは自分が神との関係に入っていることであり、聖霊を受けていることなのです。
説教や聖書の言葉は、自分の理性では理解できません。聖霊によってしか、神のことを知ることはできないのです。
コリントの信徒への手紙一 2章10−12節にはこのように語っています。「わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(p301)「神の霊以外に神のことを知ることを知る者はいません」と語られているように、神を知るには神の霊が与えられなければ、知ることができないのです。
私たちが、相手のことを知っていると言う場合、二通りの場合があります。一つは相手を外見的に知っていると言うことがあります。例えば、相手の名前を知っており、大きい人か、小柄な人か、どこに住んでいるか、家族が何人いるか、を知っている、そう言う意味で相手を知っていると言う場合があります。写真で相手を見て知っているようなものです。しかし、それで相手を知っているか、と言うとそれで十分だとは言えないのです。もう一つの知り方があります。それは相手と関わって、相手と話して初めて相手のことが分かる知り方です。相手と関わり、相手の性格や人柄が分かるのです。相手と話をして面白かった、相手は意外と話し好きだ、そういうことが分かるのです。外見ではおとなしそうに見えるけれども話してみると、しっかりした意見をもっていることが分かった、と言う場合があります。逆に、近寄りがたい感じであるけれども、話してみたら気さくであったと言う場合があります。
聖書を知っている、それはどのようなことか。聖書の書名を全部、言うことができる、聖書のこの言葉はどこに書いてある、そのようなことを知っていたとしても、それで聖書を知っていると言えるか、と言うとそうではないのです。
どんなに聖書の知識を豊かに持っていたとしても、聖書を外見的に知っていることに過ぎないのです。神が自分に語りかけており、聖書の言葉によって慰められ、励まされる、自分の罪が知らされ、悔い改めが起こる、そのようなことが自分に起こることがなければ、聖書を知ることにはならないのです。聖霊を受けることによって、信じるようになるのです。
宗教改革者カルヴァンは「キリスト教綱要」を書きましたが、この「キリスト教綱要」第三巻は「聖霊」について論じています。「聖霊」について論じているはじめに次のように書かれています。「わたしたちがキリストの外に立ち、キリストから離れて立つ限り、キリストがすべての人々の救いのために苦しんだ、なしとげられたことのいっさいは、われわれにとって無益であり、何ひとつの意義をもたない。」
聖書を読んでも、聖霊がないならば、聖書はただの歴史書、文学の物語に過ぎないのです。書店には、聖書に関する本がたくさんあります。聖書やキリスト教書に関心を持っている人は多くいます。しかし、それは興味があって本を読んでいるのであって、救いを求めて読むこととは異なるのです。興味だけで読んでいるならば、聖書は自分のあり方とは関わらない、自分の外にあることなのです。聖霊を受けなければ、私たちの罪のためにキリストが死んだこと、復活したこと、は全く関わりのないこととなってしまうのです。主イエスは2000年前に生きた宗教家に過ぎないし、ただ立派な人だと言うことで終わってしまうのです。聖霊によらなければ、説教を聞いて悔い改めることができないし、聖書の言葉も自分のところに届く言葉にはならないのです。
私は聖霊をよく理解できていなかったのですが、カルヴァンのキリスト教綱要の三巻には、「聖霊」について適切な解説がなされています。
カルヴァンは、聖霊をあるものに譬えて説明をしています。カルヴァンは、聖霊を「照明」「灯り」「光」に譬えています。暗くなって、灯りをつけます。机の蛍光灯をつけます。それによって周りのものがよく見え、本を読むことができるのです。灯りがなければ、周りのものを見ることができず、本をよむことができません。蛍光灯やスタンドの光によって照らされて、ものが見えるようになり、本をよむことができるのです。聖霊の光に照らされて、説教や聖書の言葉の内容がはっきり分かるようになるのです。この聖霊は、神の霊であり、キリストの霊なのです。
ヨハネによる福音書では、聖霊はキリストと深く結びつけて語られています。主イエス・キリストが十字架と復活と昇天によって地上から離れる時に、主イエス・キリストの代わりに「聖霊」を送ると約束しています。ヨハネによる福音書14章16節「父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」主イエスが地上にいなくなっても、主イエスと同じ働きをする聖霊を送ると約束なさっています。ヨハネによる福音書14章26節はそのことを語ります。「弁護者、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
あたかも主イエス・キリストが弟子たちに語っているかのように、聖霊によって主イエス・キリストが私たちのところに臨在して、語り、導き、働いてくださるのです。聖霊(弁護者)はキリストと結びついています。キリストと関わりがない聖霊はありません。イエス・キリストと聖霊とは同じ神です。
日本に住んでいると、「霊」についての理解が、聖書が語っている「霊」の理解と異なっていることをよく心に留めておく必要があります。「霊」と言うと、一般に日本人が理解している「霊」を思い浮かべるのです。日本では、「霊」と言うと自然の中に「霊」が宿っていると言う考え方が基本にあります。石、樹木、森、滝、動物、などに霊が宿っていると考えられています。このような考え方を「アニミズム」と言います。そして人が死ぬと霊となって他界に行くと考えられています。お盆などの時に先祖が霊になってこの世に戻ってくると考えているのです。お盆や新年になると先祖が霊になって戻ってくるので、恭しくお迎えし、もてなして一定期間を過ぎると送り出すのです。聖書が語る「聖霊」の理解と全く異なるのです。先祖の霊、祖霊信仰は日本社会の中に根強く残っています。
夫を亡くしたある婦人のところにセ−ルスの電話があり、「ご主人はご在宅ですか」と聞くので、「今はいない」と言うので、セ−ルスの青年が「いつお帰りでしょうか」と聞くので「お盆に帰って来ます」と返事したそうです。笑い話のようですが、実際、あった話です。日本では、人間が死ぬと「霊」になると言う考え方があります。そして、思いがけない仕方で殺されたり、戦死したりすると、怨念が残るので、その霊を慰める、慰霊のための神社を作り、死者の霊を祀るのです。
しかし、聖霊は主イエス・キリストの霊であり、キリストと関わらない霊はないのです。
教会学校で礼拝説教の教案として「カテキズム教案」を用いています。このカテキズム教案の手引きとなるのは、「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」と言う本です。この本に、「『我は聖霊を信ず』とはどういうことですか。」と言う問いがあります。この問いに対して、「聖霊を信じるとは、父と子と聖霊なる神を信じると言うことです。それは、幽霊や悪霊や人間の霊ではありません。聖霊によって、わたしたちは天におられるイエスさまをはっきり知ることができます」と答えています。このように、明解カテキズムには、「我は聖霊を信ず」と告白されている「霊」は、「幽霊や悪霊や人間の霊ではありません。」と書かれています。このように答えているのは、日本では「霊」と言うと、幽霊や悪霊、人間の持っている怨霊を想像するので、それと区別して解説しなければならないのです。
ハイデルベルク信仰問答・問53には、「『聖霊』について、あなたは何を信じますか」と問うています。この問いに対して、「この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる」と言うことです、と答えています。父である神、キリストである神、と同じように、聖霊は神であると告白しています。
ある牧師の「聖霊についての説教」を聞いたことがあります。その牧師は聖霊を「山に登る時に登るだけの力がない人を後ろから後押ししてくれる力」と語っていましたが、聖霊を「力」と言うのは分かりやすいのですが、聖霊は神であると言うことがはっきりしなくなります。父・キリスト・聖霊である神、三位一体の神をはっきり告白することが重要です。神を信じている、しかし、イエスは立派な人物、聖霊は私たちが生きるための力、と捕らえている人が多いのです。神は存在する、イエスは2000年前に立派な死に方をした人物、自然の中に生きている霊、と考えると、三位一体の神を信じるキリスト教信仰とは異なるものです。
本日の礼拝でコリントの信徒への手紙一 6章19−20節を読みました。このところは、コリントの教会の信徒たちが、「霊」について思い違いをしていて、キリスト者としてふさわしくない生活をしている現実に対して、パウロが力を込めて語っているところです。コリントはギリシャ文化圏でギリシャ思想の影響を受け、しかも、グノ−シス思想の影響を受けていたのです。ギリシャ思想とは霊と肉体とは、関わりがないと言う考え方です。肉体の牢獄から魂が解放されることが救いであると考えています。グノ−シス思想、「グノ−シス」とは「知識」「認識」を意味する言葉です。魂にこそ価値があって肉体は価値がない、低いものと言う考え方をして、魂や理性で神を考えているのは価値があるけれども、それと実際の生活とは関わりがないと考えているのです。ヨハネの手紙では、神を知っていると言いながら、教会の兄弟姉妹を実際に具体的に愛していないと批判されています。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの手紙一 4章8節)と語られています。
コリントの信徒たちの中に、日曜日、聖書の説教を聞いて礼拝する、それは魂の問題である、礼拝後、その魂とは関わりのない肉体の生活を楽しむのです。この6章を読むと、6章16節に「娼婦と交わる者はその女と一つの体となるということを知らないのですか。」と言う言葉があります。「娼婦」と訳されていますが、口語訳では「遊女」と訳されていました。パウロが批判した信徒たちは、日曜日に礼拝で説教を聞き、自分は魂・精神に関わっていた、霊に与っていた、しかし、礼拝が終わると、それと普段の生活とは関わりがないと考えていたのです。礼拝が終わると、教会の帰りに娼婦のところに行って、肉体の満足を得る、それで構わないのだと考えていた信徒がいたと言うのです。
魂と霊とを分離し、ある時は魂の時、ある時は、肉体を満足する時、と完全に分離し、分けて暮らすのです。このことは私たちの生活の仕方に関わることです。日曜日は、礼拝でみ言葉を聞く、しかし、週日はこの世の考え方、世俗の論理で過ごすのです。信仰生活が頭だけのものになってしまうのです。わたしたちはからだをもって生活をしています。そのからだはキリストによって罪から贖われたからだであって、礼拝の時だけ清潔な生活をするのではなくて、毎日の生活においても神に心を向け、清潔な生活を心がけることなのです。
6章17節「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」
コリントの信徒への手紙一 6章19−20節に「あなたがたのからだは、神からいただいた聖霊が宿っている神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」と書かれています。聖霊が宿っている神殿、この「神殿」は教会を指し、またキリスト者のひとつひとつの存在、一人一人のからだを意味しています。聖霊によって主イエス・キリストが私たちのうちに宿っている、と語られています。「宿る」と言う言葉は「住む」と言う言葉です。私たちの中に「聖霊である神」が住んでくださるのです。聖霊が私たちが住んでいるところを住まいとしてくださるのです。
主イエス・キリストが聖霊において私たちのうちに住んでくださっているのです。いつも主イエス・キリストが私たちの主として臨在して共にいてくださるのです。誰もいないと思えば、自分の好きなことをすることができるかも知れないのです。しかし、主イエス・キリストがいつも私たちの傍らにいて共に生活をしてくださっているのです。キリストが私たちと共に臨在しておられると言う感覚を私たちは失っているのではないでしょうか。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(6章20節)
何をするにしても、目の前に臨在する主イエス・キリストにみこころを問うのです。お金を何に、どのように使うのか、時間を何を大切にして使うのか、出会う人々とどのような会話をしているか、生活の様々な場面で、聖霊として今、ここに臨在している主イエス・キリストのみこころを問いながら、生活をするのです。
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20150614 主日礼拝説教 「神の豊かさに生きよう」 山ノ下恭二 |
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(エゼキエル書33章10−11節、マルコによる福音書4章21−25節)
先週の日曜日、午後6時から代田教会で行われたジャズ礼拝とジャズ・コンサートに出席しました。「ジャズ」と言う言葉に惹かれ、ジャズ礼拝とはどのようなものなのか、関心があり、代田教会の平野牧師の説教も聞きたいと思い、行くことになりました。6時から7時までジャズ礼拝が行われました。ボ−カル、ピアノ、ベ−ス、ドラム、の伴奏で、讃美歌を歌い、平野牧師の説教を聞きました。
説教題は「明日は今日よりも明るい日」でした。明日は今日よりも明るい日。主イエスは過去にまなざしを向けないで、明日にまなざしを向けている、過去にとらわれないで、私たちのまなざしを明日に向けようと言う説教でした。この説教を聞いて、過去、過ぎ去ったことにとらわれていたように思い、主イエスが明日に眼を向けているように自分も明日に心を向けて行こうと思いました。この説教によって神が自分に語りかけ、慰め、励ましていると受け取ることができました。他の牧師の説教を聞く機会がないので、とても良い時間を持つことができました。今日の朝、教会学校の礼拝説教を聞き、み言葉を聞き、み言葉のもてなしを受けました。このように私たちはみ言葉を聞く機会がいつも与えられています。様々な場面で私たちは神の豊かなみ言葉を聞くことができることは幸いなことです。
今日の礼拝で、マルコによる福音書4章21−26節を読みました。ここに書かれているのは、短い譬え話ですが、この譬え話の直前に語られた「種を蒔く人」の譬え話と深く結びついています。「種を蒔く人」の譬え話の続きとして読むことができます。
主イエスの話を聞きに来ている群衆は、主イエスが「種を蒔く人」の譬え話をしても、この譬え話を理解することができなかったのです。皆さんは譬え話と言うと、難しい内容を分かりやすく話すものだと考えるでしょう。しかし、この「譬え」と言う言葉は、元々、「謎」と言う意味の言葉です。譬え話は、身近な生活を題材にして語っているので、話を聞けば、ただちに分かると思うのですが、その意味は「謎」なのです。主イエスはその意味をすぐには把握できない譬え話をいくつも語っています。
主イエスは、この譬え話で神の国がどのようなものか、を語ったのです。神の国、神が支配するとどうなるのか、そのことを譬え話で語ったのです。しかし、聞いた群衆は分からなかったのです。主イエスはこの群衆の反応を経験して、分からないならそれで仕方がない、聞くほうの責任だ、とは考えなかったのです。群衆に失望して語るのを止めたのではありません。主イエスは、繰り返し、「聞く耳のある者は聞きなさい」と語っています。この言葉は聞きたい人だけ聞いたら良い、聞く気持ちがない者は聞かなくて良い、と言う、なげやりで突き放したような意味で言っているのではありません。「聞く耳を持って欲しい。聞く耳を持ってくれ」と言う主イエスが願いを込めて語った言葉です。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」主イエスが語る言葉に聞く耳を持たない人々に「聞く耳を持って欲しい、聞く耳を持ってくれ」と願っているのです。従って、聞く耳を持つと言うことはどのようなことなのか、がここでは大切なのです。聞く者のあり方や姿勢がここでは問題になるのです。
先週の礼拝説教で、私の知っている人が友人と二人で教会に行こうと思って、二人が住んでいる場所の中間地点である品川にある教会に行った時のことを話しました。この二人は日曜日に品川教会の礼拝に出席して、礼拝後、教会の玄関で佐伯洋一郎牧師から次のことを言われたそうです。「一年間、続けて教会に通ってください」と言われたそうです。そしてこの二人は佐伯牧師の言葉に従い、一年間、休まず礼拝に出席して、説教を聞き続けて、洗礼を受け、教会員になったと言う話をしました。佐伯牧師が、この人に「一年間、続けて教会に通ってください」と言ったのは意味があると思います。
それは、教会の礼拝に慣れることはかなり時間がかかります。礼拝説教を理解し、受け入れることは時間が掛かり、容易でないのです。教会では今まで聞いたことのない、ア−メン、贖罪、などのキリスト教用語を使いますので、その意味が分からないので戸惑います。今まで聞いたことのない地名、人名が聖書に出てくるのです。今まで聞いたことのない言葉が語られるのです。聖書の知識がないと説教が理解できないことがあります。
私たちはいつもそうなのですが、自分が今、持っている関心や興味があります。自分の関心や興味にピッタリ合う説教であれば、気持ちが合って、礼拝に出て良かったと思うのですが、いつも、自分が興味と関心に合う説教がなされるわけではありません。家族のことで悩んで、礼拝説教で具体的に解決の決め手となる言葉が語られれば良いのですが、そうではないことが多いのです。
ある若者が礼拝に出たけれども、自分にピッタリ来る言葉がなかったと話してくれたことがあります。この若者は自分には自信がないので、教会に来て自信をつけられればと思って礼拝に来たそうですが、自分が元気になり、自信がつくための言葉がなかったと言って、来なくなったのです。自分の今の問題を解決したいと思って求めて教会に来るけれども、直接、その問題を解決するような言葉は語られないのです。
マルコによる福音書4章11節に「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と語られています。神がイエス・キリストによって私たちを深く愛している、それが神の国、神の支配の内容ですが、それは、信仰が与えられないとその内容は分からないのです。信仰がないと分からない「秘密」なのです。「ミステリー」なのです。
「信仰」と言う鍵で、神の世界に入らないと、聖書が語っているメッセ−ジは分からないのです。聖書を良く読んで自分の頭で考え、聖書の知識が増えれば、信仰を持つようになるかと言うとそうではないのです。信じることが先決です。信じることによってよりよく神の愛が分かるのです。信じて神の愛を知るのです。聖書は読めば分かる面があります。しかし、本当の意味は分からないのです。
洗礼、聖餐、聖礼典と言いますが、この聖礼典と言う言葉は元々、「ミステリー」と言う言葉です。信仰がないと分からない「秘密」です。聖餐で食べ、飲む、パンと杯は、信仰を持たない人にとっては、ただのパンと杯に過ぎないけれども、信仰者にとっては、主イエス・キリストが私たちの罪の贖いのために裂かれた肉であり、流された血であると信じて食べ、飲むのです。信仰を持たない人々にとってはただのパン、ただの杯で、それを有り難そうに食べ、飲む意味は分からないし、理解できないのです。
しばらく前の話ですが、ある青年が礼拝に1年間、通って来ていました。ある時、その青年が洗礼を受けたいと私に申し出ました。どうしてですか、と聞くと、教会の礼拝説教を聞いていて初めの頃は昔の話のようで自分には関係がないと思って聞いていたけれども、だんだん、神が自分に語りかけているように思えてきた、それで自分が応えなければいけないと思うようになったので、洗礼を受けようと思った、と話してくれました。説教を聞いて、神が自分に語りかけていると思うようになった、それは神を身近に思い、神との関係を持つようになったということです。神と対話するようになったということです。神との関係を持つようになる、神が自分に語りかけている、それが信仰を持つと言うことです。神を信頼し、神に心を向けて神の言葉を聞いていく、それが信仰生活です。
4章21節で主イエスは「ともし火を持ってくる」と語っています。直訳すると「ともし火が来る」と言う言葉です。主イエスは御自身のことを「ともし火」に譬えて、主イエスこそ、すべての人を照らすためにこの世に来られた、まことの光であると語ります。私たちは暗闇を経験します。明日はどうなるか分からない、そのように不安を持ち、おびえるのです。明日は悪いことが起こるのではないか、と恐れを抱くのです。また誰も自分のことに関心を持たず、孤独の中にたたずむのです。自分の過去にとらわれ、問題を解決していない、過去をひきずって今を生きている、過去に罪を犯し、相手が自分を赦していない、相手との和解がないまま来ている、そのような者に、主イエス・キリストは、過去の罪を赦し、明日にまなざしを向けて生きて行くようにと語りかけ、共にいてくださるから、大丈夫だ、と語ってくださるのです。
マルコによる福音書4章21節で主イエスは「ともし火を持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」と語っています。この当時、「升」はともし火を消すために用いられたと言われています。煙を出さずに明かりを消すために、升で覆ったのです。しかし、それは消す時にすることであって、明かりを灯しておいて、升で覆う者はいないのです。まして寝台の下に置いたのでは、ともし火を灯した意味がないのです。ともし火が灯されるのは、燭台の上にあたりを照らすためです。それはわかりきったことです。主イエスが光として来られたのは、世を照らすためです。それが升で覆われてしまうとか、寝台の下に追いやられてしまう、と言うことはあり得ないのです。主イエス・キリストが光としてきたということは、不退転の決意をもって神が私たちを救おうとしていることだと語っています。神の御意志は途中で挫折することがないのです。たとい一時的に光が隠されることがあろうとも、光は必ず、再び輝き出すことを語っています。
私たちの願いは一人でも多くの人がキリストに救われて欲しいと言うことです。それは主イエス・キリストが願っていることです。み言葉が受け入れられ、ア−メン、その通りです、キリストが自分の主として告白することを願っているのです。
主イエスの言葉を聞いた者が聞く耳をもたず、立ち去ることがあるので、主イエスは、4章24節で「何を聞いているのかに注意しなさい。」と語ります。他の翻訳の言葉では、「どう聞くべきか注意しなさい」「聞くことに注意を払いなさい」と訳されています。皆さんは自分の話を十分に聞いてくれたと言う経験をもっているでしょうか。自分の話をゆっくり時間を掛けて聞いて欲しいと願っていると思います。神は御自身のみ言葉を聞いて欲しい、と願っているのです。時間を作って、み言葉を聞いて欲しいと強く願っているのです。
どう聞くべきか注意を払う、聞くことに注意を払うことで、教えられるのは、旧約聖書に登場するサムエルのことです。サムエル記上3章10節(旧約p432)「どうぞ、お話しください。僕は聞いております。」口語訳聖書では「しもべは聞きます。お話ください。」です。
私たちは神の言葉を聞く時に、聞く態勢になっているかということです。相手に正面から向き合って、顔を見て相手の話を聞いているかということです。真正面から話を受け止めているか、と言うことです。私たちは自分が価値があると思う話は聞き耳を立てて聞くでしょう。自分中心に話を聞いていることが多いのです。自分のことしか考えないので、自分に利益にならない話、自分に関心や興味がない話には耳を傾けないのです。人の話を聞いているようで実は聞いていないのです。自分の経験とか、自分のもっている考えを全部、からっぽにして、からにして、新しい神の言葉を入れるのです。サムエルが神に「しもべは聞きます。お話ください。」と言っているように、私たちも神の前に自分を明け渡して、神が語られることを聞くのです。
東大宮教会では以前、夏期伝道実習で毎年、神学生を呼んでいました。ある年、夏期実習に来た神学生がどうして、神学校に行くようになったか、その理由を話してくれました。神から召命を受けた時のことを話してくれたのです。その神学生は仕事をしていて、40歳の時に神学校に行ったので、仕事を止めて、神学校に行くのに、大変だったようですが、ある時、イザヤが預言者として召された、イザヤ書6章を読んでいた時、神が自分に伝道者になれ、と迫ったので、神の迫りに応えなければいけないと決心し、神学校に入るようになったのです。この神学生が話した「神の迫りがあったので、この迫りに応えて献身を決意した」と言う言葉に私は心を打たれたのです。
それは、牧師になる人だから、特別でそういう召命の経験があるけれども、自分は伝道者ではないので、自分とは関係がないと言うことはできないのです。信徒は信徒としての召命があるのです。神の言葉を聞くと言うことは、語ろうとしている内容を理解した、と言うレベルで終わるものではなくて、神の言葉に自分が応えていくと言うことなのです。
神の言葉を聞く時に私たちに教える物語があります。それはルカによる福音書10章にあるマルタとマリアの物語です。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」(ルカ10章39)のです。マリアは他のことは考えずに、主イエスの話を聞くことに専念していたのです。私たちは、人の話を聞く時に、他のことを考えながら聞いていては、話している人の話を聞いていないことになります。話を聞きながら、お昼に何を食べようか、と考えていたら、話をしている人の話に集中できないのです。話に集中していく、話をしている人の顔をにらむように相手と対面して、その話に集中するのです。主の足もとに座って、他のことを忘れて、聞くことに専念する、マリアの姿に、私たちが神の言葉を聞く模範があります。
神の言葉を聞くのには、私たちの器が大きいことが大切です。4章24節で「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」と語られています。もっと聖書を読んでみたい、聖書のメッセ−ジをもっと聞きたいと思うのです。あるものを容れるのに、大きな器であれば、たくさん入るけれども、小さな器であれば、わずかしか入らないのです。神の言葉を聞いて信じると、もっともっと聞きたいし、聞くことによって、恵みが与えられるのです。神の恵みにより、自分が深い罪にもかかわらず、神に愛され、生かされていることが分かり、感謝の生活をすることができるのです。神の言葉を聞くことによって神の恵みに満たされ、満たされると聞きたくなるのです。神の言葉を聞くと恵みが与えられる、恵みが与えられると、聞きたくなる、その好循環になるのです。神の恵みが増し加わって、その人の財産となり、聞くことによって、更に恵みと言う財産を与えられるのです。
「神の言葉を聞いて受け入れる」(4章20)人は、まことに幸いです。私たちはこの時代の言葉に惑わされますが、神の愛の言葉を聞いて受け入れるのです。そこにほんとうの私たちの喜びがあり、私たちの楽しさがあるのです。
私たちは毎日、様々な場面を経験します。望みを失い、将来の不安におののくことがあります。人間関係がうまく行かなくて苦労をすることがあります。
そのような時にも、神はみ言葉をもって慰め、励ましてくださるのです。
あなたの罪は赦された、神の守りと平安の中を歩みなさい、どこまでもあなたと共にいる、と語りかけてくださいます。
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20150607 主日礼拝説教 「神の言葉を受け入れよう」 山ノ下恭二 |
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(エレミヤ書9章9−12、マルコによる福音書4章1−20節)
マルコによる福音書4章1−20節を読みました。ここには、種まきの譬えが書かれています。この種まきの譬え話は、神の言葉を聞いてそれに応答する者と、神の言葉を語る者と、この二つのことを取り上げています。
今日の聖書は、まず、神の言葉を聞いて、受け入れるかどうかを問題にしています。私たちは今、礼拝で説教を聴いています。今、私は何をしているのか、と言うと種を蒔いているのです。私は今、神の言葉を語っている、それは種を蒔いているのです。蒔いた種が実っていくのか、実っていかないのかは、皆さんがどのように反応して、これからどのように応えていくのかと言うことに掛かっています。
種を蒔いたけれども、ある種は道端に落ち、ある種は石だらけのところに落ち、ある種は茨の中に落ち、蒔いた種が実を結ぶことがないのです。種が道端に落ち、鳥が食べてしまったのです。根がないために枯れてしまったのです。茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかったのです。種を蒔いたけれども、実を結ばなかったのです。皆さんは今、説教を聴いているのですが、説教をどのように受け止め、受け入れて、どう行動をしていくのかと言うことです。
この譬え話で多く用いられるのは、「聞く」と言う言葉です。「聞く」と言ってもいろいろな聞き方があります。
相手が言っていることが何となく分かると言う聞き方があります。また、相手の言おうとしていることを理解し、把握しようとして聞く聞き方があります。あるいは、語っていることに同意して、賛成して、そうしようと行動に移す聞き方があります。神の言葉を聞いて、私たちがどのように反応していくのか、と言うことです。従って、この種まきの譬え話は、神の言葉を聞くあり方を問題にしています。
第一に、種が蒔かれたけれども、その種が芽を出し、生育する前に踏まれ、鳥に食べられてしまうのです。この譬えの説明では、「そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」(4章15節)と解説されています。
神の言葉をどのように聞くかということ以前に、どのような動機で聞くのか、と言うことがあります。自分のもっている問題を解決するために、神の言葉を聞くのです。くじのように人生の進路を決めるために、その決め手が欲しいと思って聞くのです。自分の問題に関わる言葉、自分の問題に触れている言葉であると共感して聞くと言う聞き方があります。悩んでいる時に、それに応える言葉が欲しい、慰めとなる言葉が欲しいのです。そのことに御言葉が触れていると喜びます。しかし、全く触れないとさびしいのです。自分の抱えている問題に対する教えや慰めが欲しいのです。そのような動機で神の言葉を聞くようになり、悩みをきっかけにして聖書を読むようになり、礼拝にも出席するようになったのです。しかし、そのあとが問題です。自分の問題が解決されないから、御言葉を聞くことを止めてしまうのです。聖書が語ろうとするメッセ−ジを聞くことを止めてしまうのです。
「み言葉を聞くことを止めてしまう」と言いましたが、聖書にはそのように書かれてはいません。「鳥が食べてしまった」「すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」と書いてあります。自分が止めてしまったのではなく、サタンが奪い去った、と書いてあります。サタン(悪魔)が、自分の傍らに来て、自分に語りかけるのです。「神の言葉を聞いても、何の役にも立たない、聖書を読んでも難しいし、現実に意味がない」とサタンが耳元でささやくのです。「聖書の教えは自分の抱えている問題に応えないので、読んでも仕方がない」と言うのです。例えば、聖書を読んでいると母親が「そんな時間があるのなら、宿題をしなさい」と言われて、力ずくで聖書を奪い取るように、み言葉が自分の心の中まで入り込まず、魂を支えるまでに至る前に、み言葉が奪われてしまうのです。
聖書の読み方、み言葉の聞き方、それは自分にとってどうなのか、と言うレベルで聞くのです。自分にとってプラスになるかどうか、自分にとって良いかどうか、で読み、聞くのです。み言葉を聞いて、神が自分に語りかけていると言うレベルで聞かないと、容易にみ言葉が奪われていくのです。神を信じて救われる人が増えて行くと、善い人が増えて悪い人が減るので、悪魔が活躍できなくなるので、そういうことがないように悪魔が種を奪い取るのです。
第二に、「石だらけで土の少ない所に落ち、そこには土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないので、しばらく続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」(4章16−17節)神の言葉を聞いて、その内容を理解することができ、しばらく神の言葉を聞いていくのです。しかし、神を深く信頼していなくて、自分を支えているのが自分なので、辛いことや困難があると容易にぐらつくのです。神の愛、十字架の意味を理解しているけれども、その理解は頭だけで理解しているので、神に心から信頼すると言うレベルに行かないのです。苦しみをも恵みであると言う信仰に行かないのです。信じることによって苦しみに直面することに耐えることができないのです。キリストの愛によって自分は生かされており、自分を支えているのはあくまでも神であると言うレベルにないので、たじろいでしまうのです。恵みを受けるだけではなくて苦しみを受けることも喜ぶと言う信仰がないのでつまずいてしまうのです。
第三に「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」(4章7節)
この譬え話を解説して「この人たちは御言葉は聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み御言葉を覆いふさいで実らない」のです。神の愛、十字架の救いはとても良い話です、と考えています。しかし、この世で生きることに深い関心を抱いています。この世のことにいつも心を向けているのです。この思い煩いの連続なので、みことばを受け入れることができないのです。
この思い煩いと共に、み言葉を覆いふさいで妨害し、窒息させるのは、富の誘惑です。お金や富は魅力的ですが、人間にとっては正しい道から引き離し、堕落させる力を持ちます。私たちは金や富から自由になれないのです。神の言葉を聞くよりもお金になる仕事をしたほうが良いのです。
第四に「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(4章8節)
良い土地に蒔かれた種がたくさん実ったことを語っています。この譬えについて主イエスは4章20節で次のように解説しています。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
農夫たちは種を一回だけ蒔くのではなく、何回も蒔きます。種は神の言葉を表し、神の言葉は皆さんが今、聞いている説教のことです。
皆さんは説教を聞いて家に帰る、しかし、鳥が種をつかんで、サッと種を取って食べてしまうように、家に帰った途端、神の言葉を忘れてしまうのです。自分の不信仰のために、語られた神の言葉を払い除けてしまうのです。あれは教会で語っていること、良いことを言っている、しかし、生きている今の現実とはかけ離れていることだと思ってしまうのです。聖書は聖書、自分の生活は自分の生活、ときれいに分離して聖書を片付けてしまうのです。
神の言葉を聞いて大切に抱えて帰るけれども、周りの人々に教会に行くことを非難されたり、困難なことが起こると不安になって神を信頼することをためらってしまうのです。また様々な思い煩いやこの世の中の誘惑があり、礼拝に出席したり、聖書のみ言葉に聞くよりももっと楽しいところがある、自分にはしなければならないことがあると思ってしまうのです。
4章20節「御言葉を聞いて受け入れる人たち」と言う言葉があります。この言葉を正確に翻訳すると「御言葉を聞き続け、受け入れ続ける人たち」と言う言葉になります。一回、神の言葉を聞いたから、それで分かったと言うのではないのです。御言葉を聞き続けるのです。
ある女性は初めて礼拝に出て、礼拝が終わった後に、教会の玄関でその教会の牧師から「一回では分かりません。一年間、教会に通ってください」と言われ、その教会に一年通って、その後、洗礼を受けたそうです。
何回も何回も神の言葉を聞き続けるのです。いつも手もとにおいて、いつでもみ言葉に触れていくのです。
ある時、電車で偶然、座席で隣合わせになった人が聖書をバックから取り出して読んでいるので、話しかけたら、福音派の教会に通っている信徒でした。いつも聖書をバックに入れて読んでいるそうです。
聖書のみ言葉を聞き続けると、戦いが起こります。たくさんの情報があります。テレビ、インターネット、ラジオ、新聞、雑誌、本など、聞きたいこと、読みたいことがたくさんあります。情報が溢れている中で、み言葉に聞き続けることは、戦いがあります。忍耐して聞き続け、受け入れ続けることによって、実を結ぶことができるのです。
私は和歌山の田辺教会に在任していましたが、そこに一人の女性の長老がおられました。この女性は、長く、小学校で障がい児の教育をしていた方です。ある時、この女性がどのようにして入信したのか、を話してくれました。この女性は、小学校を退職間際に初めて教会に行き始め、毎週、礼拝に通っていました。同年輩の顔見知りの数名の女性が長く教会に通っており、自分はあとから教会に来たので、前から教会に来ていた女性たちに負けないで、早くみ言葉を理解し、把握したいと願い、説教のメモを取ったり、熱心に聖書を読んだけれども分からなかったので、あせっていたと言うのです。
ある時、理解するのではなく、信じれば良いのだと言うことに気がついて、やっと自分が神を信じ、神との関係に入った、その時のことを私に話してくれたのです。あきらめないで忍耐し、み言葉を聞き続けて信徒となり、教会の長老として良い働きをしたのです。
私たちは、礼拝でみ言葉を聞き、主の聖餐にあずかって、そういう生活を継続して自分のからだの中にみ言葉が入っていくのです。み言葉を頭の中だけで理解していると言うのではなくて、自分の皮膚の中にみ言葉が入っていくのです。頭だけでみ言葉を理解していると言うのではなくて、私たちの魂で神の言葉を受け入れていくのです。
それはみ言葉を受け入れて、自分の生き方や生活が変わると言うことでしょう。み言葉を聞いて、それに応えていくと言うことです。み言葉を聞いて、そうだと言って、立ち上がるのです。行動に移るのです。利己的な自己愛に生きていた人が他者のために生き、隣人を愛するようになるのです。み言葉を受け入れて実りが与えられるのです。
この「種まきの譬え話」は種を蒔く人についても語っています。種を蒔くとは神の言葉を説教する者、福音を伝道する者のことです。種を蒔く、しかし、実りは少ない、ほとんどないのです。それでも農夫は種を蒔くことを止めないのです。種を蒔く、それは伝道するということです。一所懸命に種を蒔く、キリストの福音を伝える、しかし、実りは少ないのです。しかし、蒔いても実らなけれども、それでも農夫が種を蒔くのを止めないように、あきらめないで、福音を伝えることを勧めています。伝道しても何の成果もないように思えて、止めようと思うのです。福音を伝えることは徒労に終わるような気がするのです。
私はかつて宇都宮教会の代務者を5年間していました。今は、木村太郎牧師ですが、木村牧師は就任して9年目になりました。9年目にして、初めて洗礼者が与えられ、最近、洗礼式を行ったそうです。8年間、洗礼者が全くなかったそうです。わたしは先生と教会員のご苦労が実りつつありますね、と昨日、メ−ルを送りました。忍耐してみ言葉を聞き続け、あきらめないで福音を伝えて行くと必ず、実りが与えられるのです。
この譬え話は福音を聞く者と福音を伝える者とを励ましている譬え話なのです。私たちは忍耐強くみことばを聞き、あきらめないで神の言葉を伝えるのです。
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20150531 主日礼拝説教 「主イエス・キリストが救い主として来られる」 山ノ下恭二 |
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(ゼカリア書14章1−9節、フィリピの信徒への手紙3章20−21節)
私たちは毎日、時間を気にしながら過ごしています。今日も、皆さんは礼拝に間に合うように10時30分と言う時間を気にしながら、来られたと思います。私も、教会学校の準備祈祷会が8時40分に始まるので、一番、近いところにいるので、遅れてはいけないと思い、8時40分の時間を気にしながら間に合うように努めていました。私たちは毎日、朝、起きて、夜、眠る時まで、今は何時なのか、と時間を気にしながら暮らしています。この地上の時間、時計が刻む時間、この「時」と言う言葉はギリシャ語ではクロノスと言う言葉です。「時計」をクロックと言いますが、このクロックと言う言葉はクロノスと言う言葉から生まれた言葉です。
これに対して、聖書は「時」「時間」を表す別の言葉があります。その言葉はカイロスと言う言葉です。カイロスと言う言葉は、「時」と言う言葉で翻訳されていますが、地上の時間ではなく、神の時間、神が支配している時間です。主イエスがガリラヤで伝道を始めた時に、「時は満ち、神の国は近づいた」と語りましたが、このカイロスと言う「時」「時間」は、神が関わっている時間のことです。神がみこころを行って支配している時間と言う意味です。私たちはいつも「時計」を見ながら、時間を気にしながら過ごしているのですが、私たちはその時間の中だけで過ごしているのではありません。もう一つの時間を過ごしているのです。地上の時を刻む時間の他に、もう一つの時間を過ごしているのです。私たちは地上の時を刻む時間の他に、もう一つの時間を私たちは知っています。それはキリスト者だけが知っており、キリスト者だけが経験できる時間です。それは神が支配し、神がみこころを行っている時間です。キリスト者は、地上で過ごしている時計が刻む時間と、神が支配し、神がみこころを行っている、神の時間、この二つの時間を知っています。この二つの時間を知っていると言うよりも、むしろ、キリスト者は、神の時間、神が支配し、神がみこころを行っている時間の中で、この地上の時間を過ごしているのです。
東京神学大学で同級であったある牧師の父親と何回かお会いしたのですが、88歳でしばらく前に亡くなられました。この方は福島にある教会で信仰生活を送ったのですが、地方の小さな教会で礼拝を欠かすことなく、みことばに養われた謙遜な方でした。キリスト者として初めから終わりまで、神に守られ、神の恵みによって感謝して過ごすことができた方です。88年の生涯には、太平洋戦争や戦後の大変な時代の中で、多くの困難や苦労があったと思うけれども、神の恵みの時の中でこの地上の時を過ごすことができたのです。神が支配をしている、神がみこころを行っている時間の中で、私たちはこの地上の時間を過ごすことができるのです。
私たちが関心をもっていることは、毎日の生活の中で、どのように時間を使うのか、と言うことです。どのように今の時間を有効に意味ある時間として、使うのかと言うことです。一般に、多くの時間を自分のために使っているのではないでしょうか。しかし、その中で、私たちはカイロスの時、神が支配している時間を知っています。生まれて死んで行く、そのような短い時間の中で、神が支配している時間を知っているのです。神が初めから終わりまで、私たちを支配し、私たちのために心を配り、必要なものを備えてくださっている、その時間を知っているのです。ヨハネの黙示録の終わりのところに、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(ヨハネの黙示録22章13)と言う言葉があります。神がはじめから、終わりまで、愛を貫いて、ずっと心を配り、みこころを行っておられるのです。神が私たちをいつも愛している、そのような時間の中を過ごしているのです。私たちが神を忘れている時にも、神は私たちを忘れることなく、神が私たちを愛している時間の中で私たちが過ごすことができることは幸いなことです。
ある人が私たちキリスト者は二つの「時の間に」生活している、と語っています。二つの「時の間に」。それはどのような時の間なのか、と言うことです。それは、私たちが生まれて死ぬ、その二つの時の間ということではありません。一つの時、第一の時、とは、主イエスがこの世界に来られて、救いの御業をなさった時です。主イエスがこの世界に来られ、十字架と復活によって私たちの救いのために、救いの業をなさった時です。
聖書には「時」「時間」を表す言葉がもうひとつあります。「ホ−ラ」と言う言葉です。この言葉が聖書では一番、多く使われます。特に、ヨハネによる福音書では、主イエス・キリストが神のみこころを行う時に、この「ホ−ラ」と言う言葉、「時」と言う言葉を用います。そして「わたしの時は来ていない」「時が来た」と言う言い方をしています。主イエスがこの世界に来られ、十字架にかかる時、復活する時、昇天する時を「ホ−ラ」と呼んでいます。神に委託された救いのみ業を行う、その関わりで「ホ−ラ」と言う言葉を用います。私たちを愛するために、主イエスが御自身の時間を用いてくださいます。私たちの救いのために、主イエス御自身の時間をささげ、身体をささげてくださったのです。私たちに罪の赦しが与えられるために、主イエス・キリストが救いのみ業をなさってくださった、この時が第一の時です。
そして「主イエス・キリストが再び来られる時」があるのです。本日の礼拝でフィリピの信徒への手紙3章20−21節のみことばを聞きました。特に3章20節に「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っています」と書かれています。この時は再臨の時であり、終末の時であり、審判の時です。私たちはキリストが私たちの救いのために来てくださった第一の時と、キリストが再び来られる再臨・審判の第二の時、この二つの時の間で私たちは過ごしています。
私たちは主イエス・キリストが救いのために来られたことをよく知っています。クリスマス、十字架の受難、復活、昇天によってキリストは救いのみ業を成し遂げてくださったのです。その恵みによって生きることができるのです。このことの意味を理解して受け入れています。
しかし、再び、主イエス・キリストが来られることについて十分に理解し、受け入れているわけではないのです。
使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」と告白し、日本基督教団信仰告白に「主の再びきたりたまふを待ち望む。」と告白していますが、その意味を理解し、信仰により深く受け入れているか、と言うとそうでもないのです。終末、再臨については自分とは関係がないと思っているのです。
それにはいくつかの理由があります。例えば、ヨハネの黙示録を説教で取り上げると言うことは教会では余りないのです。それは終末、世の終わり再臨、ということを正しく伝え、それを理解することが難しいからです。聖書が語っている再臨の意味を正しく解かれ、伝えられないからです。例えば、ヨハネの黙示録をこれから、学んで行こうと提案するとしたら、どのような反応をするでしょうか。難しいところをしますねと言うかも知れない。終わりのことなど、今の生活とは関係のないところではないか、と心の中で思います。諸手を挙げて賛成という人は少ないでしょう。
また、日本には審判すると言う思想はありません。仏教の輪廻思想はあります。これは神が審判するわけはありません。神が審判すると言う思想がない中で過ごしているので、身近に感じないからです。
そして、エホバの証人・ものみの塔のように、終末、再臨について極端で誤った理解をもって活動をしている団体があることも影響しています。そのことに反感を持っている人々も多いのです。エホバの証人・ものみの塔は、この歴史の延長上に世の終わりが来ると信じています。マルコによる福音書13章32節(p90)には「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。」と語っています。いつ、終わりの時が来るのか、イエス・キリストも知らない、ただ神だけが知っていると語っています。しかし、エホバの証人・ものみの塔の人々は、神だけしか、終わりの時を知らないと語っているのに、聖書から独自に計算をして、何年、何月何日の何時何分に世の終わりが来るから、この団体に入らないと救われないと説いて回っています。すべての者が裁かれる、滅びないようにこの団体に入りなさい、大変なことになりますよと宣伝しています。
審判と言う言葉を聞くと、恐ろしい裁きが行われると考えます。しかし、キリストが語られる審判は、裁判所で行われる裁判とは異なっています。裁判所で判決が言い渡されるような場面を想像するでしょう。しかし、そうではありません。
私たちが知っているキリストが来られると言うことです。ここが急所です。私たちの罪を贖うために、十字架にかかり、神の裁きを受けたキリスト、私たちが無罪になるためにキリストが有罪判決を受けて、神の審判を受けた、その同じキリストが再び来られるのです。私たちが知っているキリストが再び、来られるのです。一度目はキリストが来て、二度目は全く知らない神が来る、と言うのではないのです。一度目には、優しい神が来て、二度目にはこわい、恐ろしい神が来る、と言うのではないのです。私たちを愛し、私たちのためにいのちをささげてくださった同じキリストが来るのです。ここが急所です。世の終わり、終末、ということをキリストと切り離して考えるのです。確かに聖書にはこの世の破滅、恐ろしい裁きがある印象を持ちます。それはこの当時の黙示文学の手法で書いているので、生々しいのです。
しかし、よく考えてみると、私たちの信仰生活を神が審判し、判定することは大切なことです。信仰を与えられた者はどんな生き方をしても良いわけではないのです。洗礼を受けて、キリスト者となった者は、キリストのかおりが匂うような生活をするのです。いつもキリスト者としての振る舞いをすることが求められます。そして最後に審判を受けるのです。
わたしたちはキリストの贖いを信じて洗礼を受け、罪が赦され、罪が清められています。しかし、完全に罪がないわけではないのです。洗礼を受けても、人を憎んだり、人の悪口を言ったり、心の中で罪を犯すのです。神のみこころ通りに過ごしているわけではないのです。私たちは神の裁きの前に立つのです。終わりの時に、神が審判のために来られるのです。
コリントの信徒への手紙2 5章10節「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体をすみかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならないのです。」(p330)
このみことばを読むと、審判の時に、私たちは神の審判において有罪判決を受けてしまうと思うのです。生きている間、人の目には見えない隠されたところで恥ずかしいことを考えたり、したりします。しかし、神の目には何もかも露わになります。神に対して申し開きをすることになります。神の裁きはごまかしがきかないのです。
しかし、それで裁判で、検察官が罪状を告発し、求刑する、それだけで審判される、判決が言い渡される、と言うことではないのです。裁判には必ず、弁護士がいて、弁護をしてくださるのです。最後の審判において、私たちの罪は露わになるのです。それだけで審判がなされるのではありません。主イエス・キリストは弁護士として、弁護者として、私たちのために弁護し、無罪であると論じて下さるのです。
ヘブライ人の手紙9章28節(p412)にとても大切なみことばが記されています。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためにではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」
主イエス・キリストは、一度目には私たちの罪の裁きを引き受けてくださった、私たちが引き受けなければならない裁きを引き受けて私たちに代わって死んでくださったのです。そのキリストが二度目に来られる時には、「救いをもたらすために現れてくださるのです。」二度目には、「私たちに救いをもたらすためにきてくださる」のです。神の審判においては、私たちの罪が明らかになるだけでなく、明確になるのは、私たちの罪が完全に赦されるのです。神の子として私たちは完全に受け入れられ、神のものとなるのです。そのために、主イエス・キリストは私たちのために弁護人として働いてくださるのです。
私たちには恐れはないのです。私たちはイエス・キリストによって罪が贖われ、神の裁きを受けることがなかったのです。二度目に主イエス・キリストが現れる、終わりの時、審判の時にも、キリストが私たちを無罪にしてくださるのです。
この歴史を始めた神がこの歴史の終わりまで、歴史を貫いて私たちを愛してくださるのです。この世界には不条理や矛盾がたくさんあります。悪い者が幸福に暮らし、真剣に生きている人が苦しみに遭っていることがあります。無罪なのに有罪とされて、それが明らかにならず、冤罪を着せられて、正しく審判されず、名誉が回復しないで終わることがあります。
しかし、神がこの歴史と世界を支配し、神が正しく審判するのです。そして私たちを愛し、愛をもって伴ってくださるのです。はじめからおわりまで愛し通してくださる神に信頼し、ゆだねて、「目を覚まして生きる」のです。主イエスは終末の譬え話でいつも「目を覚ましていなさい」と語られています。「目を覚ます」とは、神にいつも心を向けている、と言うことです。
最初に私は、私たちが地上の時間と神の時間と言う二つの時間をもっていると語りました。そしてむしろこう言い換えたほうが良いと言いました。神の時間に生きている中で、地上の時間を生きているのです、と言いました。私たちは地上の時間だけで過ごしているのではないのです。神の時間を知っているのですから、ここで、私たちは時間の理解が根本的に変わるのです。
地上の時間の合間に、神の時間があると言うのではありません。月曜日から土曜日には地上の時間を過ごしていて、日曜日の10時30分から11時40分位の時間だけ神の時間になると言うのではありません。神の時間、神と関わる時間の中で地上の時間を過ごしているのです。
私たちはどのようなことに多くの時間を取っているのか、と言うことです。最近、私は、ボンフェッファ−と言う神学者が書いた「共に生きる生活」と言う本を読み始めました。この本は牧師研修所で牧師たちが共同の学びをしている、と言う前提で書かれていますので、教会での生活とは少し違うのですが、共にいる時には、聖書を朗読し、祈り、讃美を歌うことを勧めています。一人でいる時には、聖書を読んで、黙想し、祈ることを勧めています。隣人に奉仕をする時には、言葉を慎み、隣人の話を聞き、相手の重荷を負う、と言う奉仕があることが書かれています。
私たちが地上の時間を過ごしている時にも、神と共にいる時間に多くの時間を割き、隣人を愛する時間に多くの時間を割くことなのです。
神に心を向け、みことばに聞き従う時間に多く時間をささげ、隣人に奉仕をする、そのために時間を多くささげることが、「目を覚まして、キリストを待つこと」なのです。
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20150524 主日礼拝説教 「私たちのいのちを支配しているのは誰か」 山ノ下恭二 |
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(詩編2章1−12節、使徒言行録7章54−60節)
ある時、教会を訪ねてきた婦人が礼拝堂の中を見たい、と言うので礼拝堂に案内をしたことがあります。礼拝堂の中に入って、その婦人は「何にもないのですね」と言われたことがありました。マリアの像か、他に何かの像があり、キリストの聖画(聖なる絵)が礼拝堂の中にあるかと思って期待していたと思いますが、何の像も、絵もないので、期待はずれであったようです。「何にもないのですね」と言う言葉に対して私は「プロテスタント教会は、像や絵を礼拝堂に置かないのです。」と答えました。目に見える像や絵画があれば、ここに神らしきものがあると言うことで、はっきりするし、ここに神がいると分かるのですが、私たちの教会は目に見える形で、マリア像や他の像を安置して拝み、聖画を置いて拝むことはしませんので、イエス・キリストがどこにいるのか、見ることができないし、イエス・キリストがどこにおられるのか、分からないのです。
私の母の祖父が、宇都宮のハリストス正教会(東方正教会)の最初の教会員で、私の母方の祖母はハリストス正教会の信徒でした。従って、私は、ハリストス正教会、ギリシャ正教会について興味をもっていました。もう既に隠退されましたが、ある婦人牧師はハリストス正教会の信徒でしたが、プロテスタント教会に転会し、東京神学大学を卒業して牧師になりました。研修会でお会いした時に、ハリストス正教会のことが話題になりました。話題の中心はイコンについてでした。キリストやマリアの絵が綺麗に描かれている絵です。 ギリシャ正教会ではイコンは、とても重要な意味を持っています。イコンは平面で偶像ではないとハリストス正教会で教えられたと話したのです。像は立体ですが、絵画は立体でないので偶像ではないと言うそうです。
私たちは、目に見える像やキリストの絵画を拝みませんが、イエス・キリストがどこにおられるか、と言うことは真剣な問いになります。
私たちは、使徒信条でイエス・キリストが「天に昇り、神の右に座したまえり」と告白しています。イエス・キリストは現在、どこにおられるのでしょうか。主イエス・キリストは神の右に座しておられるのです。「神の右」の「右」と言うのは、どのような意味があるのでしょうか。昔から、王、権力者の右側の席が、王に準ずる者が座る場所であると考えられて来ました。一般に右と言うのはきき腕であり、剣を握るのも右手です。王、権力者が自分に代わって働く者を自分の右腕になって働く者と言います。権威を持つ者の右に位置する人は権威を持つ者と同じように重んじられる者です。主イエス・キリストは、天の父なる神のみこころを行う場所におられるのです。
植村正久牧師は洗礼の試問会の時に、洗礼志願者に「主イエスはどこにおられますか」といつも問いかけたと言われています。植村正久牧師がこのような質問をしたのは、植村牧師が主イエス・キリストがどこにおられるのか、と言うことが信仰の中心であると考えていたからです。
本日の礼拝で読みました、使徒言行録7章には、ステファノが殉教する場面が記されています。教会の最初の殉教者であるステファノは「神の右に立っておられるイエス」を見て喜んで死んだのです。ここでステファノは「天が開いて、人の子が右に立っているのが見える」と叫んでいます。天がステファノに向かって広く開かれ、ステファノを受け入れる、そのような幻が語られています。ここで、ステファノが座しているキリストではなくて、「立っておられる」方としてキリストを見たことに私は心動かされます。主はステファノのために戦い、迎えるために立ち上がっておられるのです。ステファノの祈りに主が答えてくださっています。
神の右に座しておられる、と言うことは、主イエス・キリストが私たちとこの世界を支配しておられることを確信している信仰の告白です。死から復活して勝利した主イエス・キリストが私たちの教会、この世界を支配している、そのような確信をもって教会は戦いを進めてきました。
最初の教会の使徒たちが、伝道を始めたばかりの時に、ユダヤ人指導者たちに捕らえられたことがありました。この時に、主イエスが裁かれた最高法院で使徒たちが裁かれた時、はっきりと言い切ったのです。「人間に従うよりも神に従わなければなりません。」(使徒言行録5章29節)人間に従うよりも神に従うべきであるという言葉は、教会が戦う時の戦いの標語、モット−に掲げられました。
第二次世界大戦でナチス・ヒトラ−に対して戦ったドイツ告白教会は、この言葉をこころに深く刻んで戦ったのです。ドイツ告白教会の牧師や信徒が向こう見ずで勇敢であったと言うことではありません。目には見えないけれども主イエス・キリストが究極的に教会の主であり、この世界の支配者である、と言う信仰を持っていたから戦えたのです。
私は、改革長老教会協議会の機関誌・季刊「教会」と言う雑誌の編集の仕事をしています。98号で「バルメン宣言」を取り上げました。「バルメン宣言」とはヒットラーのナチス・ドイツがドイツの教会にヒットラーの政策に従え、と圧力を掛けて来た時に、バルメンと言う町の教会に集まって、ナチスに対して聖書の言葉によってナチスがしていることは間違っていると公に宣言を出したものです。この時から、ちょうど、80年になるので、「バルメン宣言」を取り上げました。この宣言の第一条にはこのように書いてあります。「聖書において我々に証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生において死において信頼し、服従すべき神の唯一のことばである。教会がその宣教の源として、神のこの唯一のことばの他に、そしてそれと並んで、更に他の出来事や力、人物や真理を、神の啓示として承認し得るし、そして承認しなければならないとだれかが言うにしても、そのような誤った教えを、我々は退ける。」この時代、圧倒的な力をもっていたナチスに対して、聖書の言葉を根拠にして戦ったのです。
自分は誰にも支配されていないと言い切ることができる人はいません。私たちは誰かに支配されています。デモクラシーと言う言葉を知っていると思います。「デモクラシー」は「デモス」「民衆」と言う言葉と「クラシ−」「支配」と言う言葉が合わさった合成語です。「民衆」が「支配する」と言う意味です。民衆が支配力を持つ。民衆が中心になって物事を決めていくことを原則としています。誰も支配しないで様々な意見を集約していく、それはとても良いように思えます。しかし、会議で様々な意見が出されて民主的に決められたと言っても、実際は一人の人がその場を支配して決めてしまうことが多いのです。みんなが知恵を集めて公平に決めているのではなくて力ある者が支配しているのです。
私たちは毎日、誰かに支配されています。特に人間の言葉に縛られて苦しむことが多いのです。ある本に書いてありましたが、ある男性が病院で検査の結果を聞くために診察室で医師の言葉に注意していました。医師は「検査の結果は良かったのですが」と言って、その後、詳しく説明をしなかったと言うのです。この人は、医師の最後の言葉の「が」がとても気になってその夜に眠れなかったと書いてありました。どういう意味だろうと考え込んでしまったのです。他の人の言葉に支配され、捕らわれて、苦しむことがあります。
私が読んでいる新聞には毎月、第三月曜日の朝刊に「戦争体験記」が掲載されています。その戦争体験記を読むと、戦争のために国家に強制的に兵隊として働かされてその人が人生を狂わせられたつらい体験が掲載されています。有無も言わせず、戦争に協力しなければならないのです。この戦争体験記を読みながら、国とは、国家とは何だろうか、と考えるのです。国民のための国家のはずではないのか、と思います。国のために尽くすことが求められるのです。国家によって強制的に従わせられ、逃げることができないのです。そのことで苦しみ、人生の設計を狂わされ、いのちを失った人々は何百万人もいるのです。
この世界に生きているとそのような理不尽な苦しみを経験するのです。しかし、そのような中で私たちは神が私たちを支配し、私たちのいのちを支配していることを確信しているのです。神がこの世界を支配している、その視点からこの世界を見ることができるのです。
目に見えるこの世界では、主イエス・キリストではないものが支配しているように見えます。圧倒的な力で、国家、この世界の支配者が私たちのいのちを奪おうとします。しかし、私たちを支配し、管理しているのは目には見えないけれども実は主イエス・キリストなのです。
「海の沈黙、星への歩み」と言う小説があります。この小説は第二次世界大戦で、フランスでナチス・ドイツに対して抵抗運動、レジスタンス運動をした若者をモデルにした小説です。この小説には次のようなことが書かれていました。ドイツ軍に捕まり、刑務所に入れられた一人の青年が処刑するために迎えに来た兵隊に、「体を殺しても、私の心を、私の精神を抹殺することはできない。」と叫んで、処刑されたと書かれています。
主イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10章28節)と語っています。教会が迫害を受け、殉職する場面に立ち会うのです。その時に恐れがその人を支配します。しかし、恐れることはないのです。自分のいのちを心配することはないのです。恐れを取り除く神が支配している、と語ります。
先程、バルメン宣言について、話しましたが、ナチスの政策の誤りを正して、聖書の真理を明らかにしようとした人たちは、教会を組織し、教会に集まって宣言を出したのです。教会の存在が大きな役割を担っています。
イエス・キリストが神の右に座しておられる、そのことをただ確信しているだけではなくて、聖霊によってイエス・キリストが教会に臨在している、具体的に教会において神が聖霊とみことばによって支配していることを確信していることが大切なのです。
ハイデルベルク信仰問答は、「神の右に座したまえり」と言うことと教会を結び付けて解説しています。イエス・キリストは天において神の右におられながら、聖霊において私たちの教会に臨在していることを語ります。
ハイデルベルク信仰問答・問50−51問には、「天に昇り」だけではなく、どうして「神の右に座したまえり」と付け加えるのですか、と問うています。天におられるだけではなく、聖霊によって教会に臨在していることを語ろうとしているのです。私たちの手に届かない、高い天におられると言うだけではなくて、教会の頭としてイエス・キリストは臨在しておられるのです。
私たちは、教会において主イエス・キリストとの親しい交わりに生きることが許されているのです。礼拝において説教を通してキリストが紹介され、聖餐において、ありありとキリストが臨在し、主の恵みが伝達されるのです。説教と聖餐によってキリストと私たちが対面し、親しい交わりを与えられるのです。
長い教会の歴史において教会の歩みは順調な時は少なく、むしろ逆境の時が多かったのです。国家による迫害に苦しむ時が長く続きました。嵐の海の中を、航海する船のように、教会は波風に翻弄されて、沈みそうな時もあったのです。 太平洋戦争の戦時中に私の出身教会の鹿沼教会は、特高の警察に監視されていたと記録されています。教会の向かい側の二階に特高の警察官が常駐し、教会に出入りする人をチェックしたと記録されています。礼拝堂の中に入り、特高の刑事が、礼拝説教で牧師が政府批判をしていないか、見張っていたのです。そのような時にも、キリストは臨在し、教会は守られてきたし、守られていくのです。教会は沈まない船であると言うことができます。
先週の日曜日の礼拝はかつて在任した北九州の若松教会の礼拝に出席して、礼拝説教をしましたが、若松教会を辞任して、東大宮教会に赴任したのが、1989年でしたから、27年ぶりで教会の皆さんと再会しましたが、私が在任した時に長老であった方々は既に召され、次の世代の教会員が教会を担っているのです。教会員や礼拝出席者の人数はかなり少なくなったけれども、一所懸命に教会のために働いている姿を知り、神がこの教会を守り、キリストが臨在していることを知らされました。
ハイデルベルク信仰問答・問50−51問の答えには、第一に教会の頭がキリストであり、神の右に座しているキリストが聖霊により、「天からの賜物(恵み)を注ぎ込んでくださる」と解説されています。
私たちはこの日本に住んで生活しています。毎日、生活して感じていることは孤独であると言うことです。どこに行ってもキリスト者はいません。キリスト者と町で出会うことはないのです。このような異教社会で、私たちの信仰を妨げる様々な力が私たちの周りで働いています。そのような者に対して「天からの賜物(恵み)を注ぎ込んでくださる」と語ります。元々の言葉で言えば「カリスマ」です。私たちはこの日本でキリスト者として生きていけるように、神は、様々なカリスマを、賜物を、恵みを注ぎ込んでくださるのです。私たちのために執り成してくださり、祈っていてくださり、困難を乗り越える知恵を与えてくださっているのです。
そして、ハイデルベルク信仰問答・問50−51の答えの第二には「キリストが神の右に座して、どのようなことをしているかが記されています。主イエス・キリストによって「御父は万物を統治なさり」「わたしたちをその御力によってすべての敵から守り支えてくださる」と語られています。
私たちは信仰生活を妨げる多くのものに囲まれています。しかし、キリストは私たちを守り、支えてくださるのです。この世界を支配する様々な力の上にキリストは君臨し、すべてを支配し、愛を注いでくださっているのです。私たちの信仰を妨害する、すべての敵からいつまでも私たちを守り、支えてくださっているのです。
ロ−マの信徒への手紙8章39節(新約p285)「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
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20150517 主日礼拝説教 「『負け』の恵み」 神代真砂実 (東京神学大学教授) |
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(ヨブ記42章1−6節、ガラテヤの信徒への手紙1章11−24節)
ガラテヤの信徒への手紙を読んでいますと、繰り返し示されるのは、あるいは、深く印象付けられるのは、この手紙の差出人であるパウロがどれほど福音を大切にしているかということです。つまり、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを、どれほど彼が大切にしているか、そのことが繰り返し示されています。そして、それはまた、そのようにイエス・キリストの十字架と復活によって、私たち人間を救おうとされる神様の御心を、本当に大切にしているということでもあります。そのパウロの思いというのは、私たち一人ひとりにも通じるものであるに違いありません。
しかし、これがこういう手紙になったのには理由があります。それは宛先であるガラテヤ地方の諸教会が、この福音からまさに離れようとしている、その様子を知って、それを止めようとしているからです。イエス・キリストを信じる信仰だけで救われると語るパウロに対して、いや、そうではない、という人たちがいました。イエス・キリストを信じるだけでは救われないのであって、ユダヤ人でない人たちはまず形の上でユダヤ人になる必要がある、と教える人達がいたわけです。もう少し具体的に言えば、旧約聖書に示されている様々な決まり、律法と呼ばれる決まりを守ること、とくに割礼というものを受けて、形の上でユダヤ人になる、それが救いに与るそもそもの土台として欠かせないものだ、という考えでありました。そういう人たちがやってきて、ガラテヤの人たちを混乱させていたわけです。
そこでパウロは、自分の立場こそが、本当の福音を、保ち伝えていることを証明しようとします。それが今日の個所に始まる部分ですが、そこでまずパウロがしていることは何かというと、自分自身の経験を語ることです。もっと言えば、回心の経験を語ることです。そのことによって自分の伝えた福音こそが本物であると証明しようとします。「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います」、そうパウロは重々しく語り始めます。そして彼が言いたいのは、次の「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません」ということです。イエス・キリストを信じる信仰によってこそ救われるのだと言う、パウロが宣べ伝えた福音は人によるものではないと言うのです。
人による、という言い方は、含みの多い言い回しです。人間が生み出した、人間が伝えた、あるいは人間が自分の力で発見したとか、あるいは人の受けを狙った内容だとか、そんな意味を含んでいる言葉です。12節ではもう少し詳しく、「人から受けたのでも、教えられたのでもない」と言っていますけれども、いずれにしてもそういう一切のことをパウロはここで否定をするわけです。
それでは、人間によらないとしたら一体何によったのでしょうか。12節でパウロは言います。「イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」パウロの思いを汲んで、もう少し 言い換えれば、「ただイエス・キリストの啓示だけによって知らされたのです」ということです。
啓示というのは、神様が何事かを明らかにされる、それを私たち人間が受け止めることをいいます。この個所の場合は、神様が直接パウロに対して、イエス・キリストを神の子、救い主として明らかにして下さった、そしてパウロが確信させられた、一言でいえば、信仰を与えられたということです。そういう風に、神様から直接に与えられたのだからこそ、この自分が宣べ伝えた福音こそが本当のものであり、権威あるものなのだ、そうパウロは語ります。このような語り方は、パウロが、自分が他の使徒と呼ばれる人たちに劣ってはいない、ということを示そうとしているものでもあります。
けれども、このパウロを批判して、律法を守ることを求める人たちというのは、自分たちの立場を、エルサレムの教会、そこにいる使徒たちの権威、つまり十字架にかかられる前の主イエスから直接に招かれた中心的な弟子たちの権威を借りて語っていたのです。もしも、パウロの権威の方が劣っているならば、パウロの言うことも信用されなくなります。そうならないために、パウロは自分の語る福音が、神様から直接に啓示されたものだから、その点で自分の権威はエルサレムの教会にいる人たちと比べても、全く劣っていないというわけなのです。
このように、自分が伝えた福音が、神様から直接に与えられたものである、言い換えれば自分が福音を受け入れ、イエス・キリストを信じるようになった出来事、つまり回心、入信の出来事というのは、全て神様の御業であると語ることによって、パウロは自分が宣べ伝える福音の正しさを証明しようとします。そのために、パウロはかつての自分の歩みを振り返ります。いま私たちの手元にある訳では分かりませんが、元の言葉で見ると、13節の初めのところでパウロは「何故なら」と言っています。そのように自分の伝える福音の正しさを証明するために、そのためにこそ、パウロは自分の歩みを振り返っています。そして、「あなた方は、私がかつてユダヤ教徒としてどのように振舞っていたかを聞いています」と続きます。
それでは、福音を受け入れる前のパウロ、キリスト者になる前のパウロは、どんな風に歩んでいたのでしょうか。そのことも直ぐに続けて記されています。第一に、「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」とパウロは語ります。あるいはまた、23節に、「かって我々=これはキリスト者ですが、を迫害した者=これがパウロのことです。かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」とあります。パウロの以前の行いというのはそういうものでありました。口語訳、あるいは一部の訳では、ここにある「滅ぼす」という言葉を、「荒らし回る」と訳していますが、もしかすると強盗のように聞こえるかも知れません。強盗であったとしても充分に悪いには違いありませんが、パウロが実際にしていたのはもっと悪いことです。つまり、教会、あるいは教会の土台である福音を、滅ぼそうということでありました。どうしてパウロはそこまでしたのか、何がパウロをそのようにしたのか、14節が答えになります。「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」この熱心が、パウロを突き動かして、教会・福音を滅ぼそうとさせたわけなのです。そして、ここで忘れてはならないのが、かつてのパウロにとって、教会を滅ぼすことこそが神様に忠実であることだったということです。あるいは、神様に忠実であると思われていたということです。ユダヤ教に徹するとか、先祖からの伝承を守ることに人一倍熱心だったということは、律法を始めとしてその他の様々な決まりに忠実であったということです。それによってパウロは救いを得ようと、あるいは救いを確実なものにしようと努力していたわけです。律法に示された神様の御心に忠実に従って、それを行う者こそが、救いに与れる、あるいは救いに留まれるのだ、そうパウロは考えていたのです。
ところがそういうパウロに、イエス・キリストの啓示が与えられます。その結果パウロが気付いたのが、自分のこれまでの人生が間違っていたということでした。自分の熱心さは、福音に役立たない無駄なものである、それどころか神様に忠実であれと思ってやってきたことが、本当は神様に逆らうものだった、そのことを認めないわけに行かなくなったのです。パウロのそういう思いが、実は既に13節で、「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」という言葉に表れています。ここでパウロは、ただ教会を迫害したと語るのではありません。自分が迫害したのは、神の教会だったと語ります。教会を迫害し滅ぼそうとすることが、教会を選び、立て、支えておられる神様の敵になることだった、福音をつぶしてしまおうというパウロのかつての努力は、まさにその福音を通してこそ、私たちを救おうとされる神様の御心に背くものであったというのです。そうであるからこそ、その教会を滅ぼし、福音を撲滅しようとする行動を裏付けていたあの律法を守ることによって、救いを得ようとする生き方そのものが、神様に逆らうものなのだとパウロに分かったのです。
このようにして、イエス・キリストの啓示が与えられて、自分のそれまでの生き方が否定された、その時パウロが、謂わば「負けた」のだ、神様に「負けた」のだと言ってよいでしょう。「負けた」という言葉を使ったのは、これまで見てきたように、かつてのパウロの生き方が、教会や福音に対して、神様に対して戦いを挑んでいるようなものであった。パウロは別の手紙の中で、自分をキリストの凱旋行進に加えられた敵の捕虜として描いています。当時ローマの将軍の凱旋行進の様子を踏まえて、そんな書き方をしているところがあります。イエス・キリストによって、福音によって、神様によって打ち破られて、打ち負かされたのです。そのようにパウロは自分を見ています。
彼のもう一つ別の手紙であるフィリピの信徒への手紙の中で、パウロは、よく知られた言葉ですが、「わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」と語っています。「他の一切を損失と見ている」の「他の一切」、そこにはパウロのキリスト者となる前の人生の全て、そこで尊いと思われていた全てが含まれています。イエス・キリストと出会い、イエス・キリストを信じ、その福音に与ることからすると、他の一切は空しい。パウロは福音の力に圧倒され、呑み込まれてしまったように感じています。自分が思っていたもの、頼っていた全てのものを、粉々に砕かれて、パウロは神様に、イエス・キリストに、福音に打ち負かされたのです。
初めにお話ししたように、パウロが福音を、イエス・キリストによる福音を大切にしたのは、どこまでも大切にしたのは、そういう回心の経験があったからです。信仰を単なる理屈、頭の中だけのこととしてとらえていたわけではなかったのです。律法を守ることを第一とするその空しさを、身にしみてよく知っていたからこそ、イエス・キリストを知る前の在り方、生き方をよく知っていたからこそ、そこで無残な負けを味わったからこそ、彼は福音に固く踏み止まりました。そういうわけですから、パウロの回心の出来事は、彼に直接福音が与えられたということを表しているだけではなくて、彼が与えられた福音に、あくまでも踏み止まる、その支えにもなっていたということができるでしょう。
このような意味で、「回心」はパウロの信仰の原点であります。そのことは実は私たち自身についても、当てはまることだと思うのです。もちろん、パウロの回心の経験と、私たちの回心の経験とは違うでしょう。パウロはそれこそ、12節にあったように、福音を、人から受けたのでも教えられたのでもありませんでした。人間を通して受け取ったのでも、教えられたのでもない。あの使徒言行録に伝えられている回心の出来事が、そのまま歴史上の事実であるかどうかははっきりしませんが、いずれにしても私たちとは違う仕方、経験を通して福音を受け入れたといってよいと思います。
一方、私たちの場合は、人から教えられ伝えられて福音に触れます。礼拝を通して、教会学校を通して、求道者会のようなもの、あるいは家庭で、その他様々な機会を通して、いずれにしても人を通して福音に触れます。けれども、そういう違いがあることは認めなければならないとしても、それでもなお、パウロと同じだ、一番肝心なところはパウロと同じだと思うのです。それは私たちがイエス・キリストを本当の救い主として受け入れる時、信じるようになる時のことです。キリスト教のことを、イエス・キリストのことを、キリスト教が語る救いのことなどについて勉強することはできます。事柄として頭で理解し、分かることはできます。けれども、いくらそんな勉強を積み重ねてみても、イエス・キリストを救い主として信じることそのものは出て来ません。いくら努力してもできないことです。
イエス・キリストを自分の救い主として信じ、言い表すことができるのは、ただ神様の働き、聖霊によるものだと言わなければなりません。思い出してみましょう。躊躇いを覚えていた洗礼や信仰告白に踏み切れたのは、どうしてだったでしょうか。福音が力をもって急に迫ってくるようになったのは、どうしてだったでしょうか。それまで感じていた疑問や迷いから、思いがけず自由になれて、躓きが取り除かれて、イエス・キリストを信じ、受け入れられるようになったのは、どうしてだったでしょうか。
自分の力によってでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。神様がそのように招き、導いて下さったからです。ちょうどパウロが、彼自身の意思とは全く関係なく、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストを受け入れることになったように、私たちも自らの思い、努力、勉強などとは最後には関わりのないところで、イエス・キリストとの出会いを与えられ、信仰に入ったのだと言わなければなりません。
そしてそうであるとしたら、私たちもまた、パウロと同じだ、つまり私たちもまた、負けた者だと言わなければならない。神様に負けた者、福音の力に打ち負かされた者である、と言ってよいのではないでしょうか。もう少し穏やかな言い方をすれば、私たちは自分の力によっては救いをつかみとれなかった者で、自分自身の力ではイエス・キリストを心から信じられはしなかった者だ、ということです。
私たちの行いと、私たちに救い主が与えられ、私たちがその救い主を受け入れることとの間には、限りなく大きくて深い溝があります。そしてその溝を超えることができるのは、ただ神様の力によるしかありません。そのことを身にしみて味わったのがパウロでした。そういう彼の思いは15節で、神様のことを「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と呼んでいるところに表れています。自分が救いに与ってキリスト者になったこと、伝道者とされたこと、その全てが自分の思いの及ばない所で、ましてや行いなどの全く及ばない所で、恵みとして備えられていた、というのです。
パウロほどではないとしても、私たちも同じ経験をしています。私たち自身が救いには自分の行いが何の役にも立たないということを知っているはずです。つまり、私たちは人間の力では、自分の力ではどうにもならない、どれほど手を延ばしても届かなかった救いが、まさに恵みとしか言いようのない仕方で与えられたという経験を持っているのです。ですから、私たちが、自分自身の回心、あるいは入信の経験に立ち返って、私たちは低くされないわけには行かない。そしてそれは神様の民として、キリスト者として相応しいことだと言っていいでしょう。私たちの救いを、イエス・キリストの十字架と復活とによって備えて下さった、そしてその救いを、まさに私たち自身のものとして私たちの所にまで届けて下さったのは、ただ神様だけです。私たちがどのようにして、信じるに至ったか、その出来事を振り返って、とりわけ私たちが御子イエス・キリストを私たちに啓示して下さった出来事を振り返って、私たちは自分がキリスト者としてここに在るということを、恵みとして受け止め、感謝をもって受け入れる以外にないでしょう。
私たちがそれぞれに持っている回心や入信の出来事は、このようにして私たちにいつも神様の恵みを証しするものです。そして自分自身の回心や入信の出来事に思いを巡らせるというのは、自分自身が負けた者である、と認めることに他なりません。神様の恵みによって満たされてきた。だから、自分は無力でしかない。そのことを認めることです。自分が無になって、神様に全てになっていただくことです。そして繰り返しそこに立つとき、私たちの真実な信仰の生活が形作られて行きます。祈ります。
あなたは私たちの思いを遥かに超えたところで、私たちを覚え、あなたの救いに与ることをお赦し下さいました。感謝いたします。
あなたの招きは、私たち一人一人の人生において、実現され、私たちは御子を信じる信仰を与えられました。
全てはあなたの恵みによっています。
どうかあなたに心から信頼する者とならせて下さいますように。聖霊の助けと導きをお与えください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
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20150510 主日礼拝説教 「キリストが造る新しい家族とは」 山ノ下恭二 |
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(ゼファニア書3章18−20節、マルコによる福音書3章31−35節)
私は、小学生の4年生の時に父親が亡くなり、父親のいない生活になりました。私の家族は、この当時、母と大学2年生の姉、高校3年の兄、小学6年の姉、そして私でした。母親は主婦でしたから、仕事を探さなければならず、私は子どもなりにこれから自分の家族はどうなるのだろうか、と心配しました。しかし、教会につながっていることによって、大きな力を戴いて、余り心配することなく、この時期を乗り越えることができたように思います。日曜日ごとに教会学校に行き、聖書のみことばを聞き、教会の人々が心配して祈っていることを知り、力を得て、家に帰ることができました。一つの家族だけではなく、教会と言う大きな家族につながっている家族であったことは幸いなことであったと思います。一つの小さな家族には様々な困難に直面しますが、教会と言う家族につながることによって解決の道が開かれ、乗り越えることができるのです。教会と言う大きな家族につながっていくことはとても良いことなのです。
私たちは家族のことで悩み、苦労することが多いのです。家族を維持していくことに多くの困難を抱えています。夫婦のことや子育てのことで悩みを持っていることが多いのです。特に親が子どもとどう関わり、どうつながるのかと言うことで悩んでいる人が多いのです。親子は血がつながって近い関係にあり、いつも仲良く、良い関係であるかと言うとそうでもないことがあります。自分の子どもに対して他の人であれば大目に見ることができても、親は身近で見ているので、寛大にはできないということがあります。親は子どもに期待しているので、自分の願うような子どもになって欲しいと思います。元気だと思う反面、乱暴だと考えることもあります。他の人からおとなしくて、素直だと言われている反面、家族の者にとっては、意気地が無いと思うのです。他人の目で見ると個性豊かでユニ−クで面白いと見えるけれども、近くにいる者にとっては何をやり出すか分からないと心配するのです。近い関係なので、干渉したり、言い争ったり、するのです。そして家族に対しては、裸の自分を出すので自分の我が儘を出すのです。自分の我が儘や本音が言えるというのは良いことですが、言い過ぎてしまい、逆に、家族の者を傷つけることになるのです。家族は近い関係であるだけに、逆に難しい面があります。
主イエスが、自分の活動の拠点としていた弟子たちの家に帰って来た時に、主イエスの家族は主イエスを探しにきたのです。家族が思っていたイエスとは異なる活動をしている、自分たちが理解できないことをしているので、連れ戻しに来たのです。主イエスの家族はあくまでも血のつながった家族の一員として主イエスを見ているのです。マリアにとって主イエスはあくまでも息子です。主イエスの家族は、イエスが我を忘れ、恍惚状態にあり、自分を見失っている、自分たちにとって不可解で家に帰らない存在であり、身内の者たちはイエスを自分たちの手もとに引き戻そうとしたのです。
マルコによる福音書3章31節には「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち」と書いてあります。ナザレでイエスが過ごしていた時は、家族の中にいたのです。その頃は「イエス」と呼び、「兄さん」と呼ぶ親しい関係にあったのです。外にいた家族は、もう一度、主イエスを手もとにおいて、そのように「イエス」「兄さん」と呼び合う関係にしたいと強く願っていました。
それに対して、「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われました。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコによる福音書3章34−35)と語られました。
家族と言うのは、血縁でつながっているひとつの単位であり、そこで生活するものです。しかし、主イエスはここで全く新しいことを語られます。
主イエスは神の国は近づいた、と語られました。それは、神を中心とした新しい関係に生きることを語っておられます。血でつながり、法律でつながるのではなくて、神を中心とした、新しい関係によってつながることです。家族は確かに、夫婦、親子、兄弟で構成されています。しかし、神が家族の中心になると関係が変わるのです。家族の考え方が変わるのです。
このマルコによる福音書3章34節で、主イエスは、ご自分の周りに座っている人々を「見回して」、周りに座っている人々をぐるりと見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と言われたのです。ここにいる人々は、血がつながっていない人々ばかりです。幼子がおり、主イエスに癒やされたいと願って担ぎ込まれた、病んでいた人もいたのです。ここにいる人々は、主イエス・キリストのまなざしの中にあった人たちです。
私たちは余り気に留めないですが、「周りに座っている」と言う「座っている」という言葉がとても重要なのです。この「座る」と言うのは、ユダヤ人たちが教師の周りに座って聞く姿を指しています。ルカによる福音書10章38−42節で、マリアが主イエスの足もとに座って、そのみことばに聞き入っているのです。主イエスの語るみことばに耳を傾けて集中していることを「座る」という表現で示しています。ただ、主イエスの周りに座っていたのではなくて、主イエスが語って下さるみことばに耳を傾けるのです。
このマルコによる福音書3章34−35節のみことばは、教会を言い表す言葉の中で、教会を「神の家族」と言い表す言葉の起源になった語です。教会は神の家族であり、神のファミリーです。このファミリーと言う言葉は、元々、血のつながった家族という狭い概念の言葉ではなかったのです。もっと広い範囲を意味する言葉であったようです。
主イエスの周りに座って、主イエスの言葉に耳を傾けている人々に対して、神の家族であると言われたのです。
私たちの教会は聖書をいつも真ん中において、みことばを聞くのですが、そこにおいて、神の家族であると、主イエスは言われたのです。この礼拝堂にはこの講壇があり、そこに聖書があります。礼拝でいつも聖書の説教がなされて、そのことを中心に囲んで礼拝が行われています。神の言葉を聞くことにおいて、神の家族と言うのです。教会が神の家族と言う時に、どのような意味で言っているのでしょうか。肉親以上の付き合いをすることが、神の家族である、親しい付き合いをすれば、神の家族であると考えるかも知れません。そのような親しさを互いに求めるかも知れません。しかし、共にみことばに耳を傾けて、そのみことばを行う生活をすることが主イエスが言われた家族なのです。
血縁でつながっている家族は、自然的な関係、夫婦、兄弟、親子と言う関係で生活するのですが、神の家族は神を中心とした新しい関係、礼拝、みことば、祈りを媒介にした、そのことによってつながる家族です。
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」私たちは御心を行っていないから、神の家族なのではないと思うかも知れません。しかし、そのような意味で語っているのではありません。
この「みこころ」という元のギリシャ語は「セレ−マ」と言う言葉です。この「セレ−マ」と言う言葉は意外にマルコによる福音書には余り多く使われていません。この「セレ−マ」と言う言葉が用いられているのは、マルコによる福音書14章32−42節で、主イエスが十字架につけられる、その直前に、ゲッセマネの園で祈りをなさり、死ななければならない苦しみの杯は飲みたくない、と嘆く場面で語られています。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈った、このところに「みこころ」と言う言葉が出てきます。私たちは、神の御心に適う生活をしていません。しかし、主イエスは私たちの罪の犠牲をささげ、罪に対する審判を引き受けて、神の御心を十分に満足させたのです。
主イエスが神の御心を行ってくださったことを信じて、主イエス・キリストの救いを告白して洗礼を受けた者が、主イエス・キリストの兄弟、姉妹、母なのです。
礼拝堂の中心に、聖餐卓が置かれていることは象徴的な意味があります。それは教会の中心が聖餐にあると言うことです。四谷の麹町カトリック教会(イグナチオ教会)は、丸いド−ム形の礼拝堂ですが、聖餐卓を中心に囲む形で造られています。主イエス・キリストが私たちの罪の贖いのために、肉を裂き、血を流してくださったほど愛して、罪を赦してくださった、そのことを私たちの中心におき、交わりの原点にするのです。そこにおいて主イエス・キリストの兄弟、姉妹なのです。
互いに親しいから、仲が良いから、昔から知っているから、考えが同じだから兄弟姉妹と言うのではないのです。教会に集まっている人々は、生まれも家庭環境も考え方も異なっています。異なっている中で、キリストによって罪が赦された者であると言うことです。
私たちは欠けの多い、誤りがあり、不完全で限界があり、罪ある者ですから利己的で、相手を誤解をしたり、悪口を言ったり、衝突したり、仲が悪くなったり、裁きあったり、することがあります。互いに理解することができない存在です。しかし、忘れてはならないことは、キリストによって罪が赦されている者なのです。そのことを中心に教会の交わりを造っていくのです。
「兄弟」と言う言葉はヘブライ人の手紙に多く出てきます。ヘブライ人の手紙2章11節(p403)「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」2章17節(p403)「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司になって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」主イエスは私たちを兄弟と呼ぶことを恥じとしないのです。主イエスから兄弟と呼ばれるに値打ちのない、罪を犯して、自分中心に生きている者を兄弟と呼ぶことを恥とされないのです。私たちの罪を贖うために、私たちと同じ罪人となって苦しみ、死んで、犠牲をささげてくださったのです。主イエスが私たちの兄弟になってくださったので、私たちは主イエス・キリストの兄弟、姉妹、母なのです。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを中心とした家族なのです。この礼拝堂の中心に聖餐のテ−ブルがあるのは意味のあることです。
この神の家族の中に、この血縁の家族が加わることによって、この血縁の家族が、清められ、恵まれたものとなるのです。「キリスト教礼拝辞典」の最初に一枚の写真があります。カナダのセント・キャサリンにセント・アンドリュ−ス教会の礼拝堂でボックス型家族席が映っていました。ファミリーレストランの席のように、5、6人が向かい合って座る家族席があります。家族で一緒に礼拝に出席するので、このような形の礼拝堂があるのです。神の家族、キリストの教会に私たちが加わることによって、本当に祝福されていくのです。
私たちは家族の中で生まれ、養育されて来たのですし、家族とつながりで過ごしているのですが、現実に家族が壊れていることを知っています。私は長い間、ある児童養護施設に関わって来ましたが、虐待、養育放棄(ネグレクト)などによって、家族の中で暮らせない子どもが増えているのです。また児童養護施設に入所していなくても親が子どもを自分の思い通りにしたいと考えて、ピアノ虐待や進学競争に駆り立てるのです。
主イエスの母マリアは、主イエスを神の子であることを知っていましたが、やはり、自分の息子としか、見ていないので、主イエスがなさっていることを理解しないのです。血でつながっている、あくまでも自分の息子としか見ないのです。
血がつながっていると言うところだけで、家族の関係をもっていることが問題のです。法律で家族である、血縁でつながっている、そこでしか相手を見ないのです。一人の近い隣人として見ることをしていないのではないかと思うのです。一人の人格を持っている者として見ることをしないのではないかと思います。親が考えた路線に乗らないと承知しないということになるのです。子どもを私物化しているのです。
カ−ル・バルトと言う神学者が「親と子」について論じているところで次のように書いています。「人々は、親というものは、子どものために存在しているのに違いないと言う。だがそう言いながら、またそう思いながら、結果はそれとはまったく反対になってしまう危険もしばしばあり得るのである。たとえば、子どもの生活を出来るだけ気楽にしてやること・何の障害もないように道を平らにしてやること。子どもたちの考え方に自分たちのスタンプを押しつけてしまい、子供の生活を好むままに支配しようと欲すること。『子供のためだ』と唱えることによって、そのことだけに自分の毎日の生活の意味を見つけるというようなこと。こういうことすべてにおいて、親はどんなに子供のことを自分なりによく考えてやったにせよ、しくじったのであり、まったく子供のためには生きていなかったことになる。」親の過干渉、親のエゴイズムによって子供が自立することができないのです。
カ−ル・バルトは「親と子の関係で大切なことは、神からの視線において子供をみることである。「まず神が子供を見・知り・愛し・保ち・導きたもうという前提のもとにおいてである。従って、親は子供に対して、子供が神によって見られ・知られ・保たれ・導かれている存在であることを証ししなければならない。」このようなことは親が神を信頼して過ごしていなければできないのです。それはキリストによる神の愛を信じるところから、子供を養育する姿勢が整えられるのです。
自分がピアノを習いたかったけれども、習うことができなかったので、この子にはピアニストになって欲しい、子供は親の期待に応えようと一所懸命に練習をする、子供は燃え尽きてしまい、病に苦しむようになりました。親が学歴がないので、子供が良い大学に入って困らないようにしてあげようと成績を監視し、テストの成績が悪い時には、夕ご飯は食べさせないという家庭に育った青年を知っています。
神の視線から子供を見ることが大切なのです。この子供は神がかけがえのない大切な存在として創造し、キリストによって愛された子供である、そのような認識をもって子供を受け入れ、育てるのです。神との関わりの中で子供を見るのです。そうすると、自分の思い通りに育てようとか、この世の価値観によって幸福度を測ることをしないのです。
子供を放任するのは良くないが、子供に任せることが大切です。それは親が神に向き合っていることが大切です。それはいつもみことばに聞いていることが大切なのです。地上の家族が神の家族の中で、歩んでいくことが大切なのです。
ある時、主イエスが話をしておられると、一人の女性が大声で叫びました。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」この女性は、主イエスを産んで、育てたマリアを称えたのです。すると主イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」と答えられたのです。(ルカによる福音書11章28節、p129)
家族は、神の言葉を聞いて、守ることによって、幸いで恵まれた、神の家族となるのです。
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20150503 主日礼拝説教 「神が広い赦しの心で包んでくださる」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書49章14−18、マルコによる福音書3章20−30)
本日、この礼拝で読んだマルコによる福音書3章20−30節には「イエスが家に帰られると」という言葉から物語が始まります。この言葉を読むと、主イエスが育った家、マリアとヨセフの家に主イエスが帰ったと考えます。しかし、そうではなく、既に弟子になっていたシモンとアンデレの家を御自分の住み家として、そこに帰ったのです。シモンとアンデレの家を拠点として、出かけ、神の国が来ていることを知らせるために、説教し、病を癒やし、悪霊を追い出して、家に帰ったようです。
家とは私たちが寛ぐところです。様々なことから解放されて憩うところです。家に帰ると、ゆったりとした気分になります。お茶を飲み、食事をし、家族と話し、休み、睡眠を取り、心も身体も憩うところです。自分にとって身近な人がおり、自分を理解している人がいます。自分の存在を受け入れている人がいます。家族の一人の帰りが遅いと家族のみんなが心配するのです。
主イエスはシモンとアンデレの家で寛ぐことができました。ところが、主イエスの家族、兄弟たち、つまり「身内の人たちは、イエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(3章21)主イエスと血がつながっている家族は、自分たちが理解していた頃のイエスとは違う人になってしまっていると思ったのです。しかも、周りの人々が「あの男は気が変になっている」と言うので、やはり、おかしくなってしまったと思ったのです。「気が変になっている」と言う言葉は「エクスタシ−」と言う言葉です。「自分の外に出てしまう」と言う意味の言葉です。自分が理解する外に出てしまうのです。
大学生の時に、統一教会・原理運動に入ってしまった青年がいました。ある牧師の働きで、家族と協力し、脱会でき、実家に戻り、実家の近くの東大宮教会で洗礼を受けました。その青年の母親が、脱会させるのにとても苦労した話の中で、統一教会に入った息子が、少年の時の息子と全く、別人格になっていることにとてもショックを受けたと話していたことを思い出します。自分が理解している人と全く違う人になってしまったのです。自分の理解の外に出て行ってしまったのです。
主イエスの家族、兄弟たちは主イエスがしていることを自分たちが理解できないことをしていると思ったのです。ナザレの村で遊んでいたころのイエスではなくて、実家には帰らないで、自分たちの手に余る不可解な存在となっていると思ったのです。身内の者たちは、自分たちの手もとに、自分たちの手の中にもう一度、引き戻し、連れ戻そうと主イエスが住んでいる弟子たちの家にやってきました。
「エルサレムから下って来た律法学者たち」も同じです。律法学者たちは、神のこと、信仰のこと、旧約聖書のことは、自分が一番、良く知っていると自負していました。自分たちは信仰について最も良く知っている専門家であると思っていたのです。ところが主イエスの行動は、罪の結果、病気になっている人を癒やしており、神の戒めを守っていない、神から遠く離れた人の友になっているのです。このことは自分たちには理解できないことでした。神は正しい者を愛し、罪のない者を喜ぶはずだ、それなのに、神から離れている罪ある者の友となり、病を癒やしている、このことはとても理解できないことだと思ったのです。主イエスの活動は自分たち、信仰について最も良く知っている専門家たちには理解できないのです。それは自分たちの手から離れ、外に出ている、それは神の支配の外に出てしまっていると考えたのです。神の支配の外、神のみ手の外であるから、それは、悪魔の親分だと考えたのです。それが律法学者たちの心の中にあり、そのように言っていたのです。
マルコによる福音書3章22には「『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」と書かれています。この「ベルゼブル」と言う言葉は「家を支配する者」と言う意味の言葉です。人の心を支配するのです。この当時の考えでは、悪霊が人のからだの中に入って、住みついて、それを住まいとして、悪霊がその人のからだの中で暴れている、という理解があったのです。人のからだの中に悪霊が住み着いて暴れるだけではなくて、その人の心まで支配してしまうのです。人の考えや思いまでも、命令を出して支配してしまうのです。
律法学者たちは主イエスを「ベルゼブル」「悪霊の頭」と呼び、主イエスがしていることは、悪霊の親分が悪霊を追い出していると言うので、主イエスは、自分は悪霊の親分ではないと語るのです。
3章23−26節で、「『どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じようにサタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」と語ります。サタンが内輪もめをしていたら、サタンの集団は滅ぶことになり、困るのではないかと言うのです。北九州では時々、同じやくざ同士の抗争があり、山口組系暴力団の中で内輪もめがあるのです。内輪もめをすると、身内から崩れて暴力団が弱くなり、やくざの組織が壊れてしまうことがあります。主イエスは悪霊の親分が悪霊を追い出すことはしないと語ります。ここで律法学者たちの根拠のない攻撃に対して、主イエスは反論しているのです。
主イエスは御自分がどのような存在かを語ろうとしています。人の心を支配しているベルゼブル、悪霊の頭、親分を追い払うために、外からまことの支配者が来なければならないと語ります。わたし、主イエスがまことの支配をもたらすものであると言うのです。神のところから来たわたしが、まことの支配をもたらすのです。その家が悪霊の親分に支配されているならば、その家の者ではなくて、全く別の者がその家に入って悪い者を追い出さなければならない、と言うのです。
主イエスは、マルコによる福音書3章27節で主イエスがこの地上に来られたことの意味を喩えをもって話をします。御自分を押し入り強盗に譬えて、あたかも、御自分を悪い者のように譬えています。ここに主イエスのユ−モアがあります。「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」この譬えは深い意味を持っています。主イエス御自身を強盗に譬えていますが、家に押し入って強盗をする時には、確かに、一番、強い人を縛り上げてから、家財道具を奪うのです。主イエスは、強盗以上の力を持った侵入者です。主イエスは、先にその家に入って人の心を支配していたサタンを縛りあげて、身動きができないようにして追い払うのです。
押し入った強盗が、それが私である、つまり、主イエスだ、と言うのです。このことは私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。
私たちは、この世に存在する罪の力、悪に勝てないことを実感しています。殺人事件がない日はなく、政治は平和の道を捨てようとしています。サタンの力がどんなに力をもっているか、思い知らされます。しかし、この強盗の喩えで、主イエスは、悪がどんなに力を持っていようとも、それが最後の勝利者ではなく、これを打ち破る者がここにいると宣言しているのです。神のもとから来られ、遣わされた神の子が、罪やサタンによって支配されていた人の心を罪から解放し、罪を追い払うことをしているのだ、と語るのです。このような侵略者によって、罪の支配は終わると語るのです。
イエス・キリストが罪によって支配されていた家に侵入して、その罪を追い出してくださったのです。主イエスが罪を追い出してくださったのです。主イエスが神の国が来た、神の支配が来たと言って、病を癒やし、悪霊を追い出す、それによって心も身体も健康になったのです。
マルコによる福音書3章28節には「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」と語られています。主イエスはここで神が私たちを赦してくださると語っています。神との関係がなく、自分のために生きている者を罰するのではなく、キリストの贖いによって赦す、この赦しは、どんな罪をも赦すのだと語っています。この範囲であったならば赦しても良い、と言うのではなくて、どんな罪でも無限に赦すと宣言されたのです。それは、赦しこそ、私たちの魂に本当の安らぎを与えるからです。赦しは、神が完全に私たちを受け入れ、私たちの存在を全面的に肯定することなのです。そこに私たちの存在の意味があり、生きる価値があるのです。
私たちが、本当に、イエス・キリストによって罪の赦しが与えられることを信じていくならば、私たちに喜びが与えられるのです。神が私たちを赦してくださることを信じることによって、私たちの魂は安らかになるのです。
詩編103編1−5節に「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべての癒やし 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 長らえる限り良いものに満ちたらせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。」(p939)この詩編に「主はお前の罪をことごとく赦す」とあります。どんな罪も赦される、この言葉を聞いて、私たちはア−メンと告白し、洗礼を受けて、罪をことごとく洗い清める者は救われるのです。
マルコによる福音書3章29節には、私たちには意味がよく理解できない言葉が語られています。「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と主イエスは語られました。どんなに神を汚すような不信仰なことを言っても主イエスは赦してくださると語っていますが、29節で赦されない罪があると言われたのです。それは聖霊を汚す言葉です。聖霊とは、今、私たちのうちに働くキリストですが、今、自分の目の前にいる神を汚す言葉を語る者は、赦されないと言われたのです。
この言葉を次のように理解すると、それは私たちに対する厳しい裁きの言葉になります。私たちは不信仰なことを考えたり、不信仰なことを口に出したりします。洗礼を受けているけれども、それにふさわしい生活をしているわけでもないのです。それは、今、生きておられる聖霊なるキリストを汚すことになると考え、それは赦されない、と考えるのです。そのように理解すると、このマルコによる福音書3章29節の言葉は、私たちに対する厳しい裁きの言葉になります。
主イエスが語られたこの言葉の真意はどこにあるのでしょうか。この物語の文脈から考えるとこの言葉の意味が解けます。
主イエスの家族が主イエスを気が変になっていると言い、律法学者も主イエスを悪霊の頭、ベルゼブルだと言ったのです。彼らは、主イエスを神の子と言わず、主イエスが神の愛の支配を宣教していることを否定しています。それは、主イエスが語り、御自身の罪の贖いによって罪が赦される、その罪の赦しは意味をもたないと言っているのです。罪の赦しなどは意味がないと言い続けているのです。
「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」この言葉は、不信仰なことを考えたり、思ったり、口に出したりした者を神は赦すことはないという意味で語っているのではありません。自分は不信仰なことを考えたり、思ったりしているので、自分は決して赦されないと理解する必要はないのです。この言葉は、キリストによる罪の赦しを心から信じて、告白し続けることを勧めている言葉なのです。キリストによる赦しの中に、私たちは立ち続けるのです。神の愛の中に私たちは立ち続けるのです。
しかし、私たちは洗礼によって罪が赦された者であり、教会と言う罪の赦しの共同体の一員であるにも関わらず、相手の罪を赦さない者なのではないか。
主イエスがマタイによる福音書18章で、ペトロが、教会の兄弟が自分に罪を犯したら、7回までは赦しなさい、と自分が教えられてきたけれども、何回まで赦したら良いのか、と主イエスに尋ねたのです。主イエスは七回と言わず、どこまでも、無限に兄弟の罪を赦しなさいと語り、一つの譬話をされます。
莫大な借金を赦された家来の譬話を語られます。ある家来が王から莫大な借金を免除され、赦されたにもかかわらず、小額の借金をしていた友人を赦すことなく、牢屋に入れてしまったと言う譬え話です。
主イエスは「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(マタイによる福音書18章33)と語り、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないならば」と語ります。
私たちが償うことができない程の罪を犯しているにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の贖いによって、神に赦されている、赦しの恵みに生きることを勧めています。
私たちは相手に自分の願っているような愛をもった対応を求めます。しかし、相手はそれに応えられないので、不満を持ち、相手を赦さなくなるのです。自分も相手の願いに愛をもって応えられないのです。そのような自分を赦し、受け入れてくださる神の赦しを与えられていることを感謝し、相手を赦し、受け入れるのです。
この29節の言葉は、主イエス・キリストが私たちの救い主であり、神の子である、その方が私たちに代わって罪の犠牲を献げてくださって、赦しが実現した、和解が成立した、この恵みを受け入れ続けることを勧めているのです。主イエスは私たちに代わって神の裁きを引き受けてくださったのです。私たちはただ、罪が赦された、その赦しを感謝して受け入れ続けるのです。
マルコによる福音書3章20−30節のみことばを聞きました。主イエスが家に帰るところから、この物語は始まっています。そして、身内の者、家族が出てきて、内輪で争う譬え話があり、家に押し込み強盗が入る話があります。そして、3章31−35節には、主イエスの母、兄弟、家族が出てきます。
家、それは家族、教会、世界を表しています。共に生きるのに要となるのは、赦しであり、赦しから、愛の関係が作られることを語ろうとしています。
これから私たちは聖餐の恵みに与ります。この恵みを受けて、互いに赦し合いましょう。
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20150426 主日礼拝説教 「謙遜な長老を選ぶ」 山ノ下恭二 |
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(詩編15編1−5、テモテへの手紙T 3章1−13)
この牛込に私たちの教会が建てられて、138年を経過し、この教会が建てられていることの意味を改めて心に留める時です。私たちの教会は、神からこの地で礼拝し、伝道することを委託されています。
本日は、この礼拝の後に教会総会で長老選挙が行われ、新たに長老が選出されます。長老会は教会の礼拝、伝道、牧会など重要な事柄について協議し、決定する、長老会は教会にとって中心的な会議です。長老会での長老の発言は大きな影響を持っています。どの人が長老に選ばれるかは教会にとって大きな問題です。
そこで、本日は、長老の位置、その役割、長老を選ぶことの意味を共に考えたいと思います。教会には教会固有の使命があります。神が私たちの教会に委託したことは、礼拝し、この群れを牧し、伝道することです。神が委託された使命を担って行くために長老会は協議して決定するのです。
一個教会の長老会では、牧師が宣教長老と呼ばれます。宣教長老は、説教と聖礼典に携わります。長老は、牧師の補佐であって、長老会の議決に従って行動するもので、単独で行動するものではありません。選挙で選ばれた信徒の長老を「教会の治める」治会長老と呼んでいます。長老は羊の群れを養うのです。ペトロの手紙T 5章2節に、長老に対する勧めで「あなたがたにゆだねられている、羊の群れを牧しなさい」と語られています。教会と言う羊の群れ全体を見渡して、羊を養い、守っていくのです。しばらく教会の礼拝に欠席している教会会員を心に留めて、祈り、電話をしたり、手紙を書いたり、訪ねて関わるのです。牧師と共に長老は教会の礼拝、伝道、牧会に共同で協力して、神の委託に応えていくのです。長老はいつも牧師と協力して、教会の礼拝、牧会、伝道を共に担っていくのです。
長老は役員とは異なります。言葉が異なるだけではなくて、位置、立場、役割が役員とは違います。役員と言うのは、教会会員から選ばれたという意識が強いのです。教会会員の代表として意見を言う、という意識が強いのです。私たちは民主主義の教育を受けてきました。民主、つまり、民が主人である。民主主義、デモクラシ−と言います。「デモ」、「デモス」民、民衆、という言葉と「クラシ−」、主権、権威、という言葉の合成語です。デモス、民が中心であり、一人一人の意見を尊重し、合意を重んじて行くのです。
しかし、私たちの教会は、民、民衆が主ではなくて、キリストが主なのです。教会の会議は話し合いをするけれども、みんなの意見を集約して、みんなの意見によって決めるのではありません。キリストが教会の主であると告白しているのですから、神のみこころがどこにあるのかを中心に決めるのです。そうでないと、この世の団体と変わりなくなってしまうのです。
現代人は自分の考えを中心に暮らしているので、自分が納得しないと賛成できないというところがあります。教会は、教会会員の意見を吸い上げて、みんなが納得したら良い、というのではなくて、神がどのようなみこころなのかを伺いながら、決定していくのです。キリストクラシ−、「キリストが主権者」です。
その意味で、教会は民主主義ではないのです。神のみこころを中心に決めていくのです。長老会を役員会のように考えて、自分の意見を長老に伝えて、長老がその意見を伝達するのではなくて、神のみこころに従った意見を長老は発言するのです。
長老会は秘密保持が原則で、長老会で話されたことは、秘密であり、誰がどう言う意見を述べたと言うことを漏らすことは禁じられています。長老は守秘義務があります。教会員個人のことも話し合うことをありますから、それを長老が家族に話したり、他の人に話すことは教会や長老会に対して、信用を失います。自分が秘密にしてほしいことを長老に話したことが他の人に伝わっている、他の教会員が知っているならば、それは心外に思うでしょう。私は長老会でどのような発言があったと言うことは一切、家族に話すことはしていません。
長老会の任務に「礼拝の整頓」があります。「礼拝の整頓」というと礼拝堂の掃除がきちんとなされているか、暖房、冷房、マイクの調節などに気を配ることを思い浮かべますが、「礼拝の整頓」というのは、礼拝が全体的に神のみこころに適っているかどうかに心を留めて、神のみこころに適う礼拝になるように努めるのです。礼拝に遅刻する人が多い場合は、礼拝の意味を説明して遅刻しないように勧めるのです。若松教会である一人の長老は、早くから教会に来て、自分の用事をしないで、椅子に座って、聖書を静かに読んでいた長老がいて、その姿に私は感心をしていました。礼拝開始10分前には着席して、礼拝に備える、説教を聞くために心を整えるように会員を指導することが求められています。司会者の祈り、説教の内容、讃美歌の歌い方、奏楽に合わせて讃美歌が歌われているか、献金当番の祈りの言葉、聖餐の準備、配餐奉仕などをよく見て、長老会で礼拝を整えて行くために協議するのです。礼拝の中で聖餐が行われますが、教会会員が聖餐に与っているか、どうかに注意する役割があります。
長老会の任務に「教理の擁護」があります。説教を聞き、説教が聖書と信仰告白に基づいて福音を語っているか、それとも間違ったことを語っているか、を見極めるのです。ドイツのある改革派の教会では長老席があり、机があってそこに信仰告白の本が置いてあるそうです。説教者が少し教理と違った言葉使いをした、正統の教理とは思えないような説教であると長老が思うと、スタンドをつけて教理の本を見るそうです。
長老会の大切な任務の一つは、洗礼、転入会、転会の試問があります。洗礼、転入会、転会についての試問を行うことです。この試問の時に、志願者にキリスト教信仰や教会生活について、改めて質問する任務がある。イエス・キリストの贖いを信じますか、罪についてどのように理解していますか、教会の信仰告白に同意しますか、と質問をします。教会生活についても、礼拝を休まないで出席するか、どうか、教会の会員は教会を支えていく責任があるので、献金のことや奉仕について、聞いていくのです。洗礼志願者は今までは自分の生活を中心にした生活をしてきましたが、教会を中心とした生活を切り替えるのだから、この試問会において、その覚悟を改めて聞くことが必要です。東大宮教会で私の前任の牧師がある時の洗礼試問会で、「身体を引きずってでも礼拝に出席しますか」と聞かれたという話を聞いたことがあります。その志願者は洗礼を受けた後、大変な時にも礼拝を重んじて出席していました。信仰生活は戦いですから、戦いがなく、信仰生活を続けることはできません。今日は寒いから礼拝を休む、自分の用事があるから休む、それでは戦いを放棄することになります。戦いのない信仰はありません。洗礼試問、転入会試問では、その人がどのように信仰を理解しているのか、教会生活を重んじていこうとしているのか、礼拝は一年に二度、イースター、クリスマスに来れば良いと考えているのか、長老は確かめる責任があります。
教会規則では、被選挙権をもっている人の資格が規定されています。洗礼を受けて3年経過した者、転入会後、転会後、3年経過した者、と規定されています。それはテモテの手紙T 3章6節に「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません」という言葉に根拠を置いています。洗礼を受けて間もない人に長老の務めをすることは難しい。また、転入会して間もない人、他の教派から転会した人は、以前、自分が属していた教派の教会の信仰や考え方、組織・制度などの伝統が私たちの教会と異なっているので、理解するのに時間がかかるので、転会してすぐに長老の務めを担うことは難しいのです。
東大宮教会の教会規則では、被選挙権を持っている人の資格に選挙細則には、年間礼拝出席数、30回以上の者、陪餐が5回以上の者と規定されています。それは、礼拝に出席して説教を聞いていなければ、みことばに養われることもなく、礼拝に出席していなければ、会員や求道者の様子がわからないのです。日曜日に教会にいなければ、教会会員がどのような発言をしており、どのような祈りをしているのか、わからないのです。日曜日に教会の交わりの中にいないならば、話すこともなく、話を聞くこともないし、相談に乗ることもできません。教会の会員を把握することもできません。礼拝に新しく来た新来会者もわからないのです。会員を牧する長老の務めを果たすことができないのです。長老選挙の被選挙権を持つ者の資格が、年間礼拝出席数30回以上というのは、最低の数であると思います。私が神学生の時に通っていた時の教会で、長老会がある時だけ、礼拝に出席して、長老会で活発に発言していた長老がいました。日曜日に勤務があったわけでもないのです。他の日曜日には来なかったのです。私は疑問に感じていました。それで長老の務めができるのか、と。
教会の活動は献金で支えられています。礼拝、伝道、牧会、この会堂を維持していくにもお金が必要です。教会は会員の献金によって支えられており、会員は支える責任を持っています。献身のしるしとして、毎月の月定献金、維持献金をささげていることは、教会に対してその責任を果たしていることになります。
旧約聖書の預言者は、預言者として召しを受けて、神の言葉を語る務めを与えられました。自分が預言を語りたいと思って預言者になったわけではありません。預言者は神の召しがあった時に、その召しを断りたいことを神に申し出ています。エレミヤは年が若く、預言者の務めの重さにたじろいたのです。しかし、神がいつも共におられることを確信して困難な時代に預言を語ったのです。
教会の務めを担う者は神からの召し、召命によってその働きをするのです。長老も神の召しに応えて教会のためにその務めを担うのです。長老になるのに、選挙をしないで、長老をしたいと言う人がすれば良い、自分が神から「あなたが長老をしなさい」と神の召しを受けたと信じている人がすれば良いのではないか、と言うかもしれません。
しかし、それは一人よがりになります。一人で活動するならば、それで良いかもしれない。しかし、教会という礼拝共同体、聖餐共同体、神を中心にしたみことばに共にあずかる共同体を形成していくので、教会会員の支持と承認が必要です。その人が、自分が長老になるのに適任であると思っていても、教会会員が適任でないと判断して、選挙で当選しないことがあります。神から長老として働きなさいと召しを受けた、それが一人よがりではなく、長老になるためには教会会員の支持、承認が必要であり、選挙によって、教会員から審査を受けることは大切なことです。本人は教会に来て活動し、自分は長老にふさわしいと思っても、この人は長老になるには早い、選ばれないほうが良いと教会員が判断して選挙することは大切なことです。
神がその人を長老として召していることと、選挙によって会員の支持を得て当選する、この二つが大切です。投票総数の半数以上で当選となっていますが、投票総数の三分の二以上であることが本来は望ましいのです。それだけの会員の支持が必要です。しかし、実際、三分の二以上の票数を得ることは難しいし、欠員が出ることが多いので、実際的に考えて、半数以上の得票を得た者が当選としていますが、三分の二以上の得票をもって当選とする教会も多いです。
よく長老選挙で選ばれたけれども辞退したいと言う申し出を受けることがあります。そこには様々な事情があります。自分は長老に選ばれたくないと思っても、会員が祈りをもって投票して、当選したならば、それは神のみこころであると引き受けることが大切です。
長老選挙の時に、自分の人間的な考えや思いで名前を書いて投票してはならなりません。この人を入れないとまずい、この人にお世話になっているから入れる、自分の考えや意見を代弁してくれるからこの人に入れる、自分との関係0や人間的なレベルで投票することがあってはなりません。自分は長老になりたくないから、この人に入れようと自分の責任を担うことなく、他の人に重荷を負わせる、そのような思いで投票することがあってはなりません。またこの人を長老にしたいので、前もって相談して、根回しをして選挙に臨むことはあってはならないことです。
長老選挙は会員の代表を選ぶ役員の選挙ではなく、教会が神の委託に応えて、礼拝、牧会、伝道を担うために、ふさわしい長老を選ぶのです。この地で礼拝し、教会の群れを牧し、伝道するために神のみこころに適った長老を選ばせてください、と祈りながら、信仰をもって選ぶのです。
現代人は自分の判断で、選ぶということを基本にしています。聖書は神の仕事をする、使徒を選ぶのに、「くじ」で選んでいるのです。「くじ」で選ぶことには深い意味があります。それは、聖霊なる神に判断を委ねるということです。人間的な判断を退けると言うことです。選挙に臨むときに、神が選んだ人をお示しくださいという祈りの中で、選挙をすることが大切です。
竹森満佐一牧師が「教会と長老」という本の中で、「謙遜な長老」が長老の一番の条件だ、と言うことを書いています。「長老が監督者として立てられた以上は、世間的に言えば、一番大事なことは権威だと思うのです。しかし、(略)一番大事なことは、長老の謙遜さだと思います。この謙遜さには二重の意味があります。一つは、主に対する謙遜で、これが根本的なことであることはいうまでもないことであります。主イエスに対して謙遜である、あるいは聖霊に対して謙遜であるということです。なぜなら、われわれは他の人によって選ばれたのではないからです。神から選ばれるということはどういうことかと言うと、自分には何の資格もないのに、選ばれると言うことです。それから自分の仕事をするために選ばれるということではなくて、神のお仕事をするために選ばれるということです。選ばれた仕事をする一番大事な条件は何かといえば、これは神に対して、キリストに対して、聖霊に対して謙遜になるということです。」
神に対して謙遜である、それは、人に対して威張ることはあり得ないと言い、明治時代に衆議院議長であった片岡健吉が高知教会の長老で、日曜日、教会の玄関で下足番をしていたと言う話をしています。この世ではいかに偉い人であっても、少しも威張ることなく、謙遜であり、長老の模範であったことを「教会と長老」で書いています。
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20150419 主日礼拝説教 「天に根拠をおいて生きよう」 山ノ下恭二 |
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(詩編139編11−12、コロサイの信徒への手紙3章1−4)
私たちは主日礼拝で使徒信条を告白しています。この使徒信条には、主イエスの復活と昇天が告白されています。「三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」とあります。主イエスは復活された後に、天に昇られた、と告白しているのです。そして、主イエス・キリストはどこにおられるのか、と言うと父なる神の右におられると告白されています。「全能の父なる神の右に座したまえり」と告白されているのです。この信条の言葉は聖書の言葉に基づいています。マルコによる福音書16章19節(p98)「主イエスは弟子たちに話した後、天にあげられ、神の右の座につかれた」と書かれています。
主イエス・キリストは復活された後に、天に昇り、神の右の座につかれておられます。私たちは使徒信条でいつもこのことを告白していますが、このことは私たちの信仰にとってどのような意味があるのでしょうか。私たちにとって、この信条の言葉は気に留めなくても良い告白なのでしょうか。それとも私たちの信仰生活にとって本質的な、重要な告白なのでしょうか。ある本に植村正久牧師のことが書いてあり、植村牧師は、洗礼の試問会でいつも同じ質問をしたそうです。洗礼志願者に「キリストはいまどこにおられるのか」と質問したそうです。植村正久牧師にとって、キリストがどこにおられるのか、ということは信仰の中核であったのです。だから、洗礼の試問会で「キリストはいまどこにおられるのか」と志願者に聞いたのです。植村牧師は、キリストが臨在している、そのことを信仰をもって受け止めることが重要であったのです。キリストはどこにおられるのか、そのことは私たちにとっても信仰生活の中心なのです。キリストは天に昇り、神の右に座しておられる、それがこの使徒信条が告白していることです。
キリストは神の右に座しておられる、しかし、この地上ではその姿を見ることができません。主イエス・キリストは、天におられる、神の右の座におられ、この地上にはおられないのです。主イエス・キリストは私たちが住んでいる、この地上には不在なのです。私たちの目で主イエス・キリストのお姿を見ることができないし、この地上で神を見ることができないのです。神を見ることができないので、地上で生きているほとんどの人々は、キリストが存在せず、いないものと思って過ごしているのです。
現代の人々は、キリストがいなくてもやっていけると言う意識で過ごしているのです。キリスト抜きでやっていけると思っているのです。政治も文化もすべてキリストなど必要がないと思っているのです。神が不在である、キリストはいない、しかも信仰など必要はないとみんなが思っている時代に私たちは生きているのです。
最初の教会はキリストが復活され、昇天され、父なる神の右に座しておられる、そのキリストがすぐに再び来られると信じていました。キリストが再臨されてすぐに来られる、という期待を持っていました。新約聖書にはキリストの再臨を待ち望む手紙が書かれています。テサロニケの信徒へ手紙U、ペトロの手紙Uなどがそうです。キリストは、すぐにこの地上に来られて、神の審判があることを信じて待っていました。
しかし、イエス・キリストはその時代に再び来られなかったのです。来るはずのキリストが来ないので、再臨の時が遅れていると考えるようになりました。それで最初の教会の人々は、二つの時の間に自分たちが過ごしていると考えました。キリストが、昇天して、神の右に座しておられる時と、そして再び来られる、その二つの時の間を教会が生きていると受け止めました。
現代に生きている私たちの教会も、キリストがこの地上に来られ、十字架と復活によって私たちの罪を贖い、救いの御業を完成して昇天した時と、キリストが再び来られる時と、その二つの時の間に生きているのです。私たちはこの二つの時の間を過ごしているのです。
私たちは、この地上に生まれ、そして死ぬ、地上の時間で、過ごしています。聖書には「時間」、「時」を意味する言葉が二つあります。時計の秒針、「クロノス」と言います。もう一つは「神と関わる時間、時」を「カイロス」と言います。この地上で生きている時間を「クロノス」と言い、神がお決めになる時間を「カイロス」と言うのです。私たちは地上の時間を気にしながら過ごしています。そして私たちが関心をもっていることはこの地上での生活のことです。お金のこと、健康や家族、人間関係のことです。そのことに関心を寄せているのです。
しかし、私たちキリスト者はこの地上で生活しながら、二つの時、キリストがこの地上に来られた時とこれから来られる時との間で生きているのです。そのことを私たちはよく心に留めなければなりません。洗礼を受けて教会員になったと言うことは、神との関係において生きることを優先するのです。この地上のことのみに関心をもって生きる生活のあり方ではなくて、神が定めた時間を生きる生活のあり方です。
古屋安雄氏が「プロテスタント病と現代」と言う本で興味深いことを言っています。カトリックの良いところは秩序、悪いところは専制、プロテスタントの良いところは、自由、悪いところは無秩序(アナ−キ−)、と書いてあります。プロテスタントの良いところは自由、悪いところは無秩序、それはよく分かります。しかし、現実には自由も自分勝手な自由になっているのです。自分がしたいようにしたいというわがままになっています。私たちの生活のスタイルは何でも自分の自由で過ごすと言うのではなくて、神が求めている生き方において測るものなのです。キリスト者らしい話し方、食べ方、お金の使い方、そのような生活のスタイルがあります。キリストの香りがするような生き方があるのです。
再臨の時を待ち望む、教会やキリスト者としてのあり方を聖書は問題にしています。マルコによる福音書13章32−37節(p90)には、イエス・キリストが再び来られる時は分からないのだから「気をつけて、目を覚ましていなさい。」と言う警告があります。「目を覚ましている」と言うことは「神に心を向けている」と言うことです。そして、一つの譬えが語られています。13章34節に「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言っておくようなものだ。」と語られています。家の主人が家を出てしばらく帰らないので、家の主人は僕にしなければならない仕事を言いつけます。そして主人が突然、帰った時に、言いつけられたことをしている僕は幸いで、していなかった僕は、主人から裁かれることが語られています。
この家は教会を指しており、「仕事を割り当てて、責任を持たせる」と言うのは、教会が福音宣教をする責任があり、そのことを裁きの時に問われるということです。キリストが再び、来られる時まで、教会は、礼拝を守り、伝道をする責任があり、再臨の時に、その責任が問われると語るのです。キリストが再び、私たちの教会に来られた時に、正しく礼拝が守られており、みことばに聞き従う信徒がおり、祈りに熱心で、伝道に励んで、御心に従っている教会であれば、幸いです。「眠っている」つまり、神に心を向けないで、自分の生活を優先して、礼拝を怠り、祈りをしない、聖書を読まない、伝道をしない、そのようなところを見られたならば、それは裁きがあると言うのです。
先程の、主イエスが語られた、終わりの時にいつキリストが来られるか、分からないので、いつも目を覚ましていなさい、と言う警告の物語は、ルカによる福音書にも同じ物語が語られています。12章41−48(p133)で、賢い管理人と悪い僕とが比較されています。賢い管理人は主人の思いを知って忠実に行いますが、悪い僕は、すぐに主人が帰って来るとは思わず、「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うような」主人の言いつけを守らないで、責任を持たない、僕なのです。主人が不在だから、監視されることもなく、自分が好きなことをする者に対して、神の審判があって裁かれると語ります。キリストは不在なので、自分の好きなように自由に振る舞っているのです。
私たちは、イエス・キリストの十字架と復活により、罪が贖われ、神から和解を与えられたのです。そしてキリストが自分の罪を赦してくださったことを信じて、洗礼を受け、神の支配の中にいるのです。神に心を向けて生きるライフスタイルになったのです。従って、この地上でどのように生きて行くか、ということを生活の第一の目的とはしないのです。聖書の中に、この世での生活を優先する生き方を批判している言葉はたくさんあります。フィリピの信徒への手紙3章19(p365)「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」
ある宗教学者が「どの宗教が役に立つか」と言う本を書いていますが、この地上で生きて行くのに役に立たないと意味がないということになります。自分中心で宗教、信仰を捉えているのです。自分の生活にとって信仰がプラスになれば良いと言う思いで信仰生活をしているのであれば、それは信仰の失格者になるのです。
本日の礼拝で、コロサイの信徒への手紙3章1−4を読みました。「上にあるものを求めなさい。」と語られています。それは、私たちが、天に生きる根拠をもっているので、上にあるものを求めなさい、と勧めているのです。この世にあるものを私たちは求めています。そして私たちは地上の多くのものに心を引かれています。しかし、地上のものに引かれて、それが関心の中心になってはいけないのです。コロサイの信徒への手紙3章2に「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」と勧められています。
少し前のことですが、ある牧師から一冊の本を戴きました。その本は、その牧師が語った説教や論文数編を、まとめたものです。その本を私に手渡しながら、「この本の題名は良いだろう」と言いました。その牧師はその題名が気に入っているようでした。それは「天に錨を投げる」と言う題名でした。その時は何とも思わなかったのですが、しばらくして意味のある題名の本だと思いました。船が錨を降ろして停泊する、錨を降ろす、と言います。これが普通です。しかし、天に錨を投げる、錨を降ろすのではなくて、天に錨を投げるのです。神のおられるところに錨を投げ、しつかりと天につなげて固定していると言う意味です。私たちは天におられる神につながっているので、私たちは動揺することはないのです。主イエス・キリストに捉えられ、神の権威に根拠を置いているので、恐れることはないのです。この世の力が襲ってきても、この地上を超えた神の権威に依り頼んでいるので、揺らぐことはありません。日本では「超越的な拠り所」をもたないので、人を神としたり、偶像を礼拝することが起こります。まことの神に権威を置かないので、人が神となり、過度に人を恐れることになってしまいます。
コロサイの信徒への手紙3章1節「上にあるものを求めなさい。」それは礼拝をすることです。神を神として礼拝することです。みことばに聞き従うことです。そして祈りをすることです。そのことを何よりも優先することです。
キルケゴ−ルと言う哲学者が「絶対的なものには、絶対的に関わり、相対的なものには、相対的に関わる」と語っています。絶対的なものが分からなくなると、相対的なものが、絶対的なものになって、相対的に関われば良いのに、絶対的に関わるようになるのです。どうでも良いことに、どうでも良くないこととして関わってしまうのです。
私たちは、神との関わりの中で生きる存在です。主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて、洗礼を受け、神の国の市民となったのです。
日本にいる外国人を在日外国人と呼びます。私たちは日本にいるのですが、天に国籍をもっているよそ者のような存在です。在日キリスト者です。確かに日本の国籍をもっています。それだけではなく、私たちは天に国籍をもっているのです。フィリピの信徒への手紙3章20(p365)「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。」口語訳聖書は「私たちの国籍は天にある」とあります。私たちが生きる本拠地は、この地上ではなくて、天にあるのです。
主イエス・キリストは神の右でどのようなことをなさっておられるのでしょうか。私たちにとって有益なこと、私たちに役に立つことをなさっているのです。
主イエス・キリストは神の面前で、私たちのために弁護をして執り成してくださっています。私たちは洗礼を受けて、神に対して罪がない者となったのです。キリストによって神が和解を与えてくださったのです。しかし、洗礼を受けても罪を犯します。肉体を持ち、誘惑を受け、弱く、気持ちが変わり、汚れた心になることもあり、人を恨み、憎み、復讐したいと思う時もあります。そのような私たちを罪のない者と神に見なしていただくために、主イエス・キリストは神に執り成してくださるのです。
ロ−マの信徒への手紙8章34(p285)「誰がわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」私たちの罪が赦される期間は限りはありません。生命保険のようにある年月が経過すれば、保証期間が終わる、有効期限があると言うのではないのです。主イエス・キリストは、「弁護者」として、神のそばにいて、私たちのために弁護してくださるのです。キリストの執り成しによって、私たちは赦しの恵みにあずかることができるのです。
そして、神の右に座しておられるキリストは、私たちに神御自身の聖霊を送ってくださいます。主イエスは御自身がこの地上にいなくなった後に、主イエスと同じ働きをする聖霊を派遣することを約束されています。ヨハネによる福音書14章16−17A(p197)「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」ヨハネによる福音書14章26(p197)「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」神は私たちの中におられるのです。不在なのではありません。主イエス・キリストは聖霊において私たちと共におられるのです。
私たちの教会の礼拝において、キリストは確かにおられます。キリストのからだである教会に、キリストは臨在しておられるのです。礼拝の説教と聖礼典・洗礼、聖餐において確かにおられるのです。教会において天におられるキリストと私たちとは深く結びついているのです。
私たちの生きる根拠地は天にあります。私たちは神に根拠をおいて生きているのです。この地上に生きることは苦労があり、不条理なこともあり、悩みを抱えます。キリストを見失うような、信仰を失いそうな苦難を受けることがあります。しかし、天において、私たちは神に覚えられており、執り成しを受けているのです。私たちを愛し、私たちのために祈り、支えてくださっている神を私たちはもっているのです。パウロがフィリピの教会の信徒の生活について神に感謝して祈っている言葉があります。フィリピの信徒への手紙1章6節(p361)「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」 |
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20150412 主日礼拝説教 「神のいのちに生かされている」 山ノ下恭二 |
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(エゼキエル書37章11−14、ヨハネによる福音書5章24−25)
先週は、主イエス・キリストの復活を祝う礼拝を共に守りました。先週の礼拝説教はルカによる福音書24章13−35節からみことばを聞きました。二人の弟子たちがエルサレムからエマオに向かって歩いている時に起こった出来事が語られています。主イエスが死んでしまって、主イエスに期待していた二人の弟子たちが落胆して、自分たちの故郷であるエマオに帰るために歩いていました。その道を復活された主イエスが、この二人の弟子たちと一緒に歩いてくださったのです。主イエスが死んでしまった、それは弟子たちにとって大きな衝撃であり、生きる望みを失い、力なく歩いていた、その道のりを主イエスは一緒に歩んでくださり、聖書のみことばから、慰め、励ましてくださったのです。二人の弟子たちは主イエスが生きておられることを経験したのです。私たちは悩んだり、落胆することが多いのですが、復活の主がいつも共に歩んでくださり、みことばによって慰め、励ましてくださるのです。私たちにその恵みが与えられているのです。主イエス・キリストが私たちの生活を共にしてくださる、そのような生きた関わりに生きることができるのです。
先週から、聖学院大学のキリスト教概論の授業が始まりました。昨年までは、初めの二回を、授業の内容、全学礼拝の出席の心得、教会礼拝の出席の心得と説明、全学礼拝レポ−ト、教会礼拝レポ−トの書き方などを話した後に、3回目から教科書に沿って「キリスト教とは何か」「旧約聖書」など、すぐに本題に入って授業をしてきました。しかし、今年から、すぐに教科書に入らないで、キリスト教の本題に入る前に、学生が授業についていくために入りやすい導入の話をして欲しいと言うことになりました。導入教育と言います。大学に入って、キリスト教に初めて触れる学生、聖書を初めて読む学生も多いのです。宗教についての先入観があり、キリスト教を学ぶとはどういうものか、分からなくて不安である、と言う学生も多くいます。
今年から、教科書に入る前に、「宗教とはどういうものか」、「宗教とは何か」「キリスト教を学ぶ意味」について話すことになりました。4月9日には「宗教とは何か、宗教とはどういうものか」について話しました。4月16日には「キリスト教を学ぶ意味」について話す予定です。学生に話すのにどのようにアプロ−チするのか、難しいのですが、キリスト教を学ぶとこんなに良いことがあるのだ、キリスト者になるとこんなに恵まれるのだ、と言うことを話そうと思っています。「キリスト教概論の授業を取らないといけないんだ」「単位はもらえるのか」「試験はどんな問題が出るのか」「レポ−トはどのように書いたら良いのか」「どの教会に行こうか」と言う学生に「キリスト教を学ぶとこんなに良いことがある」「キリスト者になるとこんなに得する」という話をしたいと考えて、準備しています。
主イエスの弟子の中には、主イエスの復活について疑問をもっていた弟子がいたことが、聖書には書かれています。トマスと言う弟子は、主イエスが復活したことを信じることができなくて、復活した主イエスを自分のこの目で見て、自分のこの手で触らなければ信じないと言ったのです。それに対して主イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20章29(p210)と語られたのです。
最初の教会の時代から、主イエスが本当に復活なさったのだろうか、と言う疑問を持っていた人々は多くいたのです。主イエスは本当は死んでいなかった、生きていた、どこかに隠れていた主イエスが弟子たちの前に現れて、復活したようにしたのだ、と言う人も現れました。あるいは死んでいたが、弟子たちが主イエスが死んだのを受け入れなくて、主イエスを慕うために、主イエスの幻を見たのだと言う人もいます。親しい人の死を受け入れられないことがあります。どこかで生きていて欲しい、そのような弟子たちの願いが、復活したという思い込みになり、復活になったというのです。
これらの考えは、復活はなかったと言う立場です。これらの議論は、人間の肉体が復活することはあり得ないと言う考えから来ています。それは人間の常識を超えたことは受け入れられないと考えているのです。従って、復活はあり得ないと言うことになります。死んだ人間が復活すると言うことは、わたしたちの経験を超えた出来事です。私たちの経験に照らせば、到底、信じることができないことです。
復活があったか、どうかと言うことを考えますが、復活が現実に起こったことだと考える根拠があります。それは、主イエスの弟子たちが、復活の主イエスを目撃し、出会ったことによって180度、変貌を遂げたことです。主イエス・キリストの死と復活を宣教するようになったことです。弟子たちはよみがえりの力を与えられて、福音を伝えるようになったのです。私たちにとって大切なことは、復活がどのようにして起こったのか、ということよりも、復活が私たちにどのような意味があるのか、と言うことです。主イエスの復活を信じることによって、私たちの信仰生活に、どのような恵みがあるのか、ということです。
今日の礼拝説教は使徒信条で告白している「三日目に死人のうちよりよみがえり」と言う言葉を中心に学びます。この使徒信条の言葉について、ハイデルベルク信仰問答・問45は解説しています。この信仰問答は、復活があったか、どうか、と言う議論はしていません。主イエスが復活した、実際にあった、主イエスがよみがえったことを前提にして、復活を解説しています。
このハイデルベルク信仰問答・問45には、「キリストの『よみがえり』は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。」と書かれています。この信仰問答は他のところでも「このことはどのような益があるのか」と問うています。「よみがえり」を信じると、「益」「利益」があると言うのです。この「益」と訳されている言葉は「役に立つ」「有益」と言う言葉です。よみがえり、復活を信じると良いことがある、自分に有益であり、損はしない、得する、と言うのです。
キリスト教を学ぶと得する、キリスト者になるとこんな良いことがある、そういう言い方でこの信仰問答が書いてあります。復活を信じるとこんなに良いことがある、利益がある、得をすると言うのです。
ハイデルベルク信仰問答・問45には「キリストの『よみがえり』は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。」とあり、この問いの答えには、三つの利益を語っています。
第一の利益は、イエス・キリストの死が私たちの罪の解決をもたらし、イエス・キリストのよみがえりは私たちに義をもたらすものだと答えています。
私たちは、人間の常識で物事を考えますが、聖書はいつも神との関わりで、物事を捉えています。主イエスが死んだ、確かに人間として死ぬ、と側面があります。それだけではなくて、神との関わりで考えると、主イエスの死は私たちのために死んだ、私たちの身代わりとして、私たちの罪をすべて引き受けて死んだ、ことなのです。そして主イエスのよみがえりは、わたしたちに義をもたらすものです。「義」という言葉は、聖書以外には余り使わない言葉です。神との正しい関係、神との正常な関係、関わりのことです。
心理学、カウンセリングを学んだ人は「交流分析」についての本を読んだことがあるかも知れません。「こじれる人間関係」と言う本には、4つの人間関係のパタ−ンが書かれています。第一のパタ−ンは、相手も自分もイエス、互いの存在を肯定しているパタ−ン、これが一番、良い正常な人間関係です。第二のパタ−ンは自分は相手を肯定しているけれども、相手は自分を否定している、相手が自分を受け入れていない、パタ−ンです。相手が自分を受け入れない、否定しているならば、それは苦しみになります。会うのも嫌になります。第三のパタ−ンは、相手は自分を受け入れ、肯定しているけれども、自分は相手を受け入れていない。相手を良いと思わなく、肯定できないものです。自分が相手と会うのも苦痛に感じるでしょう。第四のパタ−ンは、自分も相手も互いに受け入れず、肯定できないパタ−ンです。互いに会っても口も聞かず、互いにいないこととして無視したりする。これも苦痛なことに間違いないことです。
良好な人間関係は、自分も相手も互いに肯定し、受け入れている、この関係が一番、良い、正常な関係です。人間は罪と限界をもっていますから、誤解をしたり、ちょっとした行き違いから関係が壊れてしまうことがあります。どんな人とも正常な、互いに肯定する関係を持つことは難しいのです。
神と私たちは正常な、互いに受け入れる関係を持っていました。しかし、神は私たちを肯定できないのです。受け入れることができないのです。神に造られながら、神を礼拝せず、隣人を愛していないからです。私たちが良い者として造られながら、誘惑に負け、罪を犯し、自分が神であるかのように振る舞っているのです。神はそのような存在である私たちを肯定し、受け入れることができません。
しかし、主イエス・キリストが私たちの深い罪を贖ってくださったので、神と私たちの間にあった罪は取り去られたのです。神と私たちの間にあった罪は取り除かれ、橋が架かり、神は私たちとつながり、神は私たちの存在を良いものとして認めてくださったのです。それで、神と私たちの関係が正常になりました。心の通う関係になるのです。私たちにとってうれしいことは、自分が相手に受け入れられ、相手が良い存在として肯定している、と言うことです。自分を受け入れない人がひとりでもいるとそれが心の苦しみになるのです。
「義」と言う言葉は関係概念です。相手との良い関係にある、自分の存在を相手が良いものとして認めている、と言うことです。一度、壊れた人間関係を回復するには、互いに歩み寄り、折り合いを付けて修復し、和解するのですが、神と私たちとが和解するのは、私たちが正しい生活をして神が認めることによって、正常な関係ができると言うことではありません。神が私たちの罪を自分のものとして引き受け、罪あるものとして裁かれることによってもたらされたものです。
コリントの信徒への手紙U 5章21節(p331)「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」神が一方的に和解を造り出してくださって、私たちは神の和解が与えられたのです。
この信仰問答45には、キリストの死、キリストの贖いの死によって、キリストが獲得した義にあずかることができる、と書いてあります。私たちは神から「あなたは正しい存在だ」といつも語られているのです。自分が相手に対して悪いことをした時に、自分が相手に赦してもらうために償いをすると言うのではない。相手が無償で赦してくれるのです。自分の外にある神の正しさ、神の赦しに信頼することによって、安心が与えられるのです。
「義にあずからせてくださる」と言うことは「神が愛してくださる」と言うことです。神は私たちを愛する、それは神にとって正しいことです。だから神は私たちにイエス・キリストを与え、私たちの罪を解決してくださったのです。そのように神の正しい愛が勝利してくださったのです。このような愛を注いでくださり、その利益にもれる人はいないのです。病気になって苦しい経験をすることがあります。人間関係で悩み、辛い経験をすることがあります。しかし、神が自分を愛して、自分の存在を大切なものとして認めてくださっているのです。
この信仰問答・問45では、キリストのよみがえりがもたらす第二の益について書かれています。それはよみがえりの力によって、わたしたちも今や新しいいのちに生き返らされている、とあります。別の翻訳では、「私たちもすでに今、新しいいのちによみがえらせられます。」とあります。「新しいいのち」と言う言葉があります。「新しいいのち」とは、洗礼によって与えられた新しい生活です。自分を中心とした生活が終わり、神を中心とした生活が始まるのです。神を中心とした生活に転換しています。自分を中心とした罪に支配された生活を止めて、神に愛されていく、新しい生活、神と共に歩んでいく生活に入ることです。神との深い関係をもって歩んでいくのです。この地上で生きて行くことは、苦労が多く、いのちを削って行くようなものです。しかし、その中で神が私たちのいのちを支えて下さっているのです。だんだん、自分の命が衰えていく、しかし、その中で、私たちの命を支えている神がおられるのです。
ヨハネによる福音書5章24節「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
「いのち」と言う言葉は、ギリシャ語では、三つの言葉があります。一つは「ビオス」です。地上のいのち、心臓が動いているいのち、地上の生活、を意味します。この言葉は、聖書にはあまり出てきません。二つ目は、「プシュケ−」と言う言葉で「魂」と翻訳されています。この言葉も余り出てきません。三つ目は「ゾ−エ−」と言う言葉で、この言葉は、特にヨハネによる福音書に多く出てきます。「永遠の命」「命」と言う言葉です。これは神とつながっているいのちです。神が永遠な方であるので、神のいのちと関わることによって永遠の命を得ているのです。この「いのち」は関わりを表す言葉です。
毎日の生活(ビオス)の中で、日々、生きている中で、私たちの魂を支えるものが必要です。私たちの毎日の生活には思いがけないことも起こります。苦しみを経験することもあります。人に誤解されたり、話が通じないことがあります。そのような時に、自分を愛してくれる者、自分を認めてくれる者がいると私たちは持ちこたえることができ、私たちの魂が支えられるのです。
神の愛こそ、私たちが生きる源泉です。愛こそ、私たちが生活する源です。この地上での生活も、愛がいのちを育みます。
先週、NHKの「クロ−ズアップ現代」と言うテレビ番組で熊本で「赤ちゃんポスト」が設置され、その赤ちゃんが、その後、どのようになったのか、追跡調査をしている場面が放映されていました。赤ちゃんポストに置かれ、そして里親に引き取られた小学1年の男の子が父親と一緒に倒立の練習をしている場面が映っていました。とても楽しそうに、実の親子のように倒立の練習をしていて、愛されて生活していることを感じました。愛が私たちの生きる源です。
人間は、限界があるので、相手を受け入れることはできても、相手を本当に理解することができない者です。しかし、主イエス・キリストの神はわたしたちを深く愛し、深く理解し、私たちの魂を支え、その時にふさわしいみことばを与えてくださるのです。
主イエスのよみがえりを信じると、益があります。第三の利益は、主イエス・キリストが墓から出て、よみがえられた、その事実に基づいて、私たちはよみがえるのだ、と言うのです。私たちはみな死んで、死人の仲間になります。キリスト者の墓地を訪ねると「わたしは復活であり、いのちである」と言う墓碑銘がよく刻まれています。墓に入るのだけれども、私たちはよみがえるのです。私たちは神の永遠のいのちの中で憩うのです。
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20150405 復活日礼拝説教 「復活の主イエスが私たちと共に歩む」 山ノ下恭二 |
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(詩編119編129−136、ルカによる福音書24章13−35)
何年か前の東京神学大学の卒業式で、雪ケ谷教会の森田武夫牧師が卒業生に送る言葉を語られました。雪ケ谷教会は規模の小さな教会ですが、森田牧師の就任式に東京神学大学のこの時の桑田秀延学長が次のような祝辞を述べられたことを紹介しました。「雪ケ谷教会は小さな教会だけれども、キリストがこの教会におられるから、大丈夫だ。これから様々な困難があっても、どのような時にもキリストが共に歩んでくださるから心配することはない。」と祝辞を述べたことを紹介されて、この言葉が自分には大きな励みになったと語られました。これから全国各地に派遣される神学生に「どのような教会に赴任しようとも、教会にはイエス・キリストがおられることを信じて伝道に励んで欲しい」と語られました。この言葉は私にとっても大きな励ましになりました。
私は、出身の鹿沼教会、神学生の時の日本橋教会、中村町教会、卒業して赴任した岡山の蕃山町教会、主任教師として赴任した和歌山の田辺教会、北九州の若松教会、さいたま市の東大宮教会と幾つもの教会を経験しましたが、それぞれ過去に困難な経験をしており、その中で、イエス・キリストが共にいてくださることを信じて、礼拝し、伝道してきたことを知らされました。
本日の礼拝で読んだルカによる福音書24章13−35節は、エルサレムからエマオという村へと急いでおります、二人の人に、主イエスが、ずっと付き添って歩かれたという物語です。この二人のうち、ひとりだけはその名前が残っています。クレオパという人であったと18節にあります。私は、クレオパと言う名前を見て、主イエスの12弟子ではないのに、どうして名前が載っているのかな、と思っていました。この福音書を書いたルカは、意味があるものと考えて、名前を残したのではないかと思います。それは、この人が記憶するのに値する人であると考えたからです。何よりも、復活の主イエスがまずこの人と一緒に歩いてくださった人々のひとりであったからです。イエス・キリストを証言する福音書に残すのに値する名前であるとルカは考えて、このクレオパと言う名前を記録したのです。
この物語を読むと、エルサレムからエマオまで、よみがえられた主イエスが、この二人と一緒に歩いてくださったことが分かります。しかし、このクレオパともうひとりは一緒に歩いている方が主イエスであることに気づかなかったのです。気づかなかったのは、物分かりが悪く、心の鈍いことだと主イエスに叱られています。クレオパが信仰の深い人であったと言うことではないのです。しかし、こういう頭の悪い、鈍いこころの人がいたという、愚かな人の代表として、このクレオパの名を残したのではありません。主イエスが一緒に歩いてくださった、そのことが何と幸いなことか、クレオパは何と恵まれた人か、そのことを思って、この名前を残したのです。
教会の原簿を皆さんに書いて戴きましたが、この原簿のひとりひとりの文章を読んでこの原簿に載っているひとりひとりは、何と幸いな人々だろうか、と思いました。主イエスが一緒に歩いてくださっている、何と恵まれている人々だろうか、と思うのです。
クレオパの名前が福音書に残されている、それは、ただ聖書に載っていて、主イエスと関係があったからだ、と言うのではないのです。よみがえりの主イエスが一緒に歩いてくださる、その経験をした、とても幸いな人だからです。
24章15節には「近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」とあります。この福音書を書いたルカは、この時だけが一緒に歩いたのではないことをよく知っていました。地上で主イエスが生活されていた時も、主イエスはひとりで歩いていたのではなく、いつも人と歩みを共にしておられたのです。特に、弟子たちと共に歩いていたのです。主イエスが歩いているところには、弟子たちが必ず歩いており、弟子たちが歩いているところには、主イエスはいつも歩いているのです。主イエスと弟子たちとは一心同体です。
クレオパともう一人が話して歩いているところに主イエスは、一緒に歩きながら、どのような話をしているのか、と二人に聞くと、二人は「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。」(24章19)と語っています。これが、この二人が身近に経験した、主イエスのお姿でした。「力ある預言者」が、二人と一緒に歩いてくださったのです。そして実は、今も歩いてくださっているのです。二人はそのことに気づいてはいませんが、この二人は既に幸いな歩みが始まっているのです。
私が担当している聖学院大学のキリスト教概論の授業も今週から始まります。学生には一年に2回、教会の礼拝に出席してレポ−トを提出することを義務つけています。このレポ−トには、教会に行った感想を書く欄があります。教会に行って、「教会の人が親切に教えてくれた」「なんとなくほんわかしていた」、そのような肯定的な感想が書かれています。ある学生は初めて聖餐式に出席して、「教会の人たちは聖餐式をとても大切にしていることが分かった」「イエス様が教会にいるんだなぁと思った」と書いています。学生たちが教会に行って、教会はイエス・キリストがおられるところだ、そのことを感じ取ってくれれば良いと思いました。
教会は、私たちといつも一緒に歩き続ける主イエスと共に生きていくのです。そのように信じている教会を、初めて訪ねてくる人々も主イエス・キリストが臨在し、その人の魂を主イエスがよぎるような経験をするのです。イエス・キリストが自分のそばにおられる、そのような経験をするところです。教会を訪れる人は、悲しみを経験している人もおり、悩みを抱えている人もいます。その誰でもが、主イエス・キリストがそばにいることを経験し、その魂を主イエスが愛してくださっていることを知ることができれば、と願うのです。
このルカによる福音書が書かれた頃は、次第に激しい迫害に襲われつつあった時代です。ロ−マの墳墓であるカタコンベの地下で、殉教者の遺体を前にして、この物語を読んだ人も多いと言われています。厳しい迫害の中で、自分に死が迫ってくるような思いの中で、主イエスが自分たちと一緒に歩んでくださっていることを信じて行くのです。わたしが生きているから、大丈夫だと言う声を聞くのです。ヨハネによる福音書14章19節(p147)「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きる。」
主イエスと共に歩くことができたふたりの弟子のこの物語は聖書の中でも、もっとも美しい物語であると幾つもの注解書は書いています。しかし、この物語のどこに美しさがあるのでしょうか。この人たちの姿かたちが美しかったとは書いてありません。またこの人たちの心が美しかったわけでもないのです。むしろ、物分かりが悪く、こころの鈍い者であったと書いてあるのです。この物分かりが悪く、こころの鈍さはどのような鈍さであったのだろうか。その物分かりの悪い鈍さは、よみがえられた主イエスが、一緒に歩いてくださったのに気づかなかったところにあります。地上で生活していた時の主イエスの顔かたちと、よみがえられた主イエスの顔かたちが全く異なっていて別人であるように見えたならば、一緒に歩いている人が主イエスであることは分からないのです。しかし、そうではないのに、どうして気づかなかったのかと思います。
同じ顔なのにどうして気づけなかったのだろうか。24章16節に「しかし、二人の目が遮られていて、イエスだとは分からなかった。」と書かれています。誰が遮ったのか。その理由が書かれています。25節にあります。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことを信じられない者たち」と書かれています。
「こころが鈍い」と言うことばは、興味深い言葉です。「鈍い」と翻訳されているギリシャ語は「ゆっくりする」と言う言葉から出た言葉です。「ゆっくりする」良い言葉です。「ゆっくりお風呂に入って暖まった」「ゆっくりできた」とこの言葉を使います。しかし、「ゆっくりしている」と言うのは人を非難する言葉としても使います。山に登って、後ろから登ってくる仲間に、「そんなにゆっくり登らないで、みんなが待っているのだから、早く登りなさい」と言うことがあります。「あの人はゆっくり登って遅いから、イライラする。」と言います。「ゆっくり」と言うよりもこの場合は、「のろい」と言う言葉に近いのです。「のろま」なのです。理解するのに遅いのです。
この二人のこころの鈍さは、どこにあるのでしょうか。主イエスははっきり言われるのです。24章25節に、「預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と語られているように、預言者たちが説いたすべてのことを信じることができない、そのことが鈍いのだ、と言うのです。預言者たちの言葉とは、言い換えれば、聖書のことです。主イエスは、その鈍さを嘆かれるだけではなく、その鈍さをこの二人が克服するために、これから後、主イエスは聖書を解き明かすのです。聖書全体について解き明かされたのです。主イエス御自身から、聖書を解き明かす、つまり説教を聞くことができたのです。この二人は聖書から主イエスによって直接、説教を聞くことができたのです。この弟子たちは、最も恵まれた弟子であったのです。主イエス・キリストが直接、説教をなさり、それを聞くことができるのですから、それは幸いなことです。
説教塾で、加藤常昭先生から問題が出されたことがあります。「説教とは何か、答えなさい」多くの塾生は、教えられた通りに答えました。「説教とは、主イエス・キリストを紹介することです。」「この答えは正しい。」主イエス・キリストのお姿がはっきり浮かび、その恵みがはっきりと伝わるように語ることが説教なのです。説教によってキリストがここにおられることが分かるために説教しているのです。この二人の弟子たちは、主イエス御自身の説教を直接、聞いたのです。
この時の聖書は旧約聖書のことです。弟子たちは、主イエスが力ある預言者であることは理解していたのです。そして、この主イエスに大きな期待を寄せていました。イスラエルの民が外国に支配されて屈辱的な取り扱いをされている、神がこの世の不正に沈黙している、そのような疑問を解決し、みんなの生活を良くしてくれるのではないか、と期待していたのです。しかし、主イエスは十字架で死んでしまい、自分たちが抱いていた望みは無くなってしまったのです。それに対して主イエスは、それは聖書をきちんと読んでいないことだと語るのです。
24章26節に「キリストは必ずこれらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか。」と主イエスは語ります。二人の弟子たちは、主イエスがこのイスラエルと自分たちを救ってくれる方だと望みを持っていたのですが、主イエスが捕らえられ、殺されてしまい、このことの衝撃が大きかったので、主イエスが復活したと言う知らせを聞いても、立ち直ることができなかったのです。
阪神大震災から20年経過し、大震災の日の朝、ラジオでひとりの女性の体験談を聞きました。この大震災で一人の娘さんを無くしたこの女性は、娘を失ったことでパニックになり、自分がどうして良いのかわからずに、すぐに遺体を火葬してしまったそうです。後から考えるとどうしてすぐに子どもの遺体を火葬してしまったのか、自分でも分からないと話していました。大震災の衝撃で、この人の心が混乱し、この女性の心の時間が止まってしまったのです。
この二人も、主イエスが十字架で死んだことを聞いて、そのことは余りにも衝撃が大きかったのです。そのことに心が奪われて、他のことは耳に入らなくなっていたのです。その時から時間が止まってしまい、主イエスが復活されたことを聞いても、主イエスが死んだことから立ち直れなかったのです。
エルサレムからエマオに向かう「二人は暗い顔をして」(24章17節)とあります。この二人が暗い顔をして歩いている、望みを失ってとぼとぼと歩いていることに主イエスは気がついて、歩み寄ったのです。主イエスの死に衝撃を受けて、力なく歩いている二人に寄り添い、同情し、望みを失った心を包み込み、その魂を支えるために、主イエスは旧約聖書が語っている内容を語ったのです。神に創造されながらも、人は罪を犯し、神から離れてしまった、その旧約の歴史を語りながら、主イエスが苦難を受け、十字架に付いて死んだことは、罪を贖い、神と人とを和解させる出来事であることを語ったのです。二人がすぐに分かり、理解した訳ではありません。なかなか理解できなかったのです。それでもなお、主イエスは、復活を信じられず、十字架の死の意味も分かりそうもない二人を見放すことなく、二人と離れないで、なおも一緒に歩き続けてくださったのです。
主イエスは、聖書の話を二人に「解きあかした」のです。この言葉を別の言葉で言うと「通訳する」と言う意味の言葉です。「翻訳する」とも言い換えることができます。言葉が通じない時に、通訳がいると言葉が分かります。読めない外国語の本を翻訳してくれると、読むことができます。聖書のことがよく分からない。そのような時に、聖書を解いてくださるのです。
主イエスはエルサレムからエマオまでの12キロをこの二人と一緒に歩きながら、解いてくださっているのです。12キロ、昔の言葉で言えば、三里です。旅を始めた時には、自分たちにはもう希望がない、足取りも重く、顔も暗かったのです。しかし、主イエス御自身が、主イエスの十字架の死は私たちの贖いの死であり、これこそが救いであることを話した時に、お互いの心が内に燃える経験をするのです。私たちも後で振り返って見ると、聖書を読んで、説教を聴いて、心が燃える経験をして、洗礼を受けた方もおられると思います。
私はそのような経験をして信仰告白をしました。ヘブライ人の手紙4章15節を読んだ時に、心が燃えて、これこそ自分にとっては救いだ、と思ったのです。この二人は主イエスの話が分かったのです。主イエス・キリストの十字架の死によって、私たちを贖い、和解をもたらしてくださった神の愛、慈しみ、憐れみに目を開くことができたのです。主イエスの十字架の死がすべての終わりではなく、神が私たちのために和解をもたらすための死であったことが分かったのです。主イエスは既に死んだ、過去の人物ではなくて、今も生きて、私たちと一緒に歩みを共にしてくださる神なのだ、と分かったのです。「イエスは生きておられる」のです。現在の私たちと一緒に歩いてくださっているのです。
そしてエマオに到着して、泊まる家に入り、一緒に食事の席に着いた時に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、お渡しにになったときに」二人の目が開け、一緒に歩いてくれた方が主イエスであることが分かったのです。
一緒に歩いていた時に、二人は主イエスが一緒に歩いていることが分からなかったのです。しかし、聖餐を受けて、初めてそこにおられる方が主イエスであることが分かったのです。主イエスであると二人が分かった、その場面が聖餐の場面であることは意味のあることです。
私たちをいつも愛してくださる主イエスが私たちと一緒に歩いてくださいます。生きる望みを失い、生きていても仕方がないと思う時もあります。聖書の言葉が分からなくて困る時もあります。そのような愚かで鈍い私たちを主イエス・キリストは決して見放さずに、いつも一緒に歩いていてくださるのです。だから、私たちは望みを失うことなく、勇気をもって歩むことができるのです。
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20150402 洗足木曜日聖餐祈祷会説教 「御心のままに」 山ノ下恭二 |
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(イザヤ書42・1−9、マタイによる福音書26・36−46)
本日は受難週洗足木曜日です。私たちは主イエス・キリストの十字架の苦しみ、受難を心に留めながらこの時を過ごしています。福音書の後半部分に主イエスの受難物語が詳しく書かれています。この受難物語には、多くの物語が記されていますが、私が心に残っている物語は主イエスが小さなろばに乗ってエルサレムに入場された場面や、一人の女性が主イエスの葬りの用意のために高価なナルドの香油を注いだ場面です。本日、読んだところは、私たちの心の中に特に深い印象が残る場面ではないかと思います。「ゲッセマネの祈り」と言われているところです。ゲッセマネというところはオリ−ブ山のふもとにあり、この「ゲッセマネ」という言葉は「油しぼり」という意味の言葉です。主イエスは、ここにおいて祈られたのです。主イエスの地上の生活は、祈りの生活です。いつも祈っていたのです。毎日、主イエスがどのような祈りをされていたかは詳しく書かれていませんが、主イエスがどれほど深い祈りをされたか。それは夜も徹して祈られたことで分かります。
主イエスの生涯の最後の日々は、緊張を強いる、激しい毎日でありました。この当時の宗教家に攻撃を受け、弟子たちは理解せず、自分が死ぬことは分かっている。そのような時に主イエスは祈らざるを得ないのでした。
主イエスは祈るために、弟子たちを連れてゲッセマネに向かい、そこで祈られました。主イエスは二人の弟子たちを伴い、その時に、悲しみもだえはじめられたのです。そして「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われました。なぜ、主イエスはこんなにひどく恐れもだえているのか。主イエスは神と同じ方であり、悩む必要がないのに、なぜこのようにもだえるのか。このところを読んで、私たちはなぜ主イエスが苦しむのか、よく分かりません。神の子であるから、何でも来いと受けて立つような態度でいても良いのではないか、と思います。「わたしは死ぬばかりに悲しい」、そのように主イエスが言っているのは、神の子であられる主イエスが、私たちと同じ人間になってくださったと言うことなのです。ここまで深く私たちと苦しみを共にし、苦しんでいる私たちと同じ人間になってくださっているということなのです。
私はこのゲッセマネで主イエスが自分の人間としての弱さ、嘆きを語っていることに深い共感をもちました。主イエスが直面している、苦しみ、悲しみは、何よりも死を意味するのです。私が中学3年の時に、入院していた病室でこのところを読んでいたときに、とても慰められました。自分も病に苦しんで、命が危ない時がありました。主イエスは死ぬことを恐れ、苦しんでいるのだ、それは自分と同じであると思ったのです。
ここで主イエスは、人間が死ななければならないものであること、死というものはどういうものであるのかということを、正面から見据えておられるのです。そのことを真剣に悲しみ、悩んでおられるのです。しかも、その死は、ただ肉体の命がここで絶えるということにとどまらない。あるいは、ただ、息を引き取るというだけではなく、その前に手や足に釘を打たれるというひどい苦しい目にあう死ですから、その死が恐ろしいと言うことではありません。この死は罪人の死だからです。罪人の死。罪を犯した者、それは神から捨てられてしまうことなのです。
聖書は「死」を二つの意味で語っています。一つはこの肉体の死です。このことは地上で生きている私たちにとって大きな問題です。聖書はそれだけを「死」と呼んではいないのです。神と私たちが関わりをもたない、関係が切れている、それが、「死」であり、このことが重大であると語っているのです。良い関係をもっていた者が、関係が悪くなり、心が離れていく、そのことがまさに「死」と言うことなのです。
主イエスは、ルカによる福音書15章で、3つの譬え話を語られています。一匹の羊が羊の群れから離れてしまってどこかに行ってしまった。一枚の銀貨が持ち主の手から離れて見失ってしまった。父親のもとで暮らしていた息子が父親のもとを離れて、町に出て行ってしまった。この3つの譬えは神に造られて神に愛されていた私たちが神のもとを離れ、神に背を向けて生きていることをよく表しています。それはどんなに悲惨なことか。
今日の聖書で鍵となる言葉は何でしょうか。それは「御心」という言葉です。主イエスはマタイによる福音書26章39節で「御心のままに」と祈っており、43節で「あなたの御心が行われるように」と祈っています。神の御心、この「御心」はセレ−マと言う言葉です。これは神の意志のことです。神は意志を持ち、意志を遂行される。主イエスは神の御心、神の意志を「救いの意志」として理解しています。主イエスは、マタイによる福音書18章の「迷い出た羊のたとえ」で、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18・14 p35)と語っています。「天の父の御心」は、主イエスの理解によると「神が救おうとする意志」なのです。神は私たちを救おうと強く願っている。しかし、一匹の羊は羊の群れから離れ、羊飼いが見渡しても見つけることができないほどの遠いところに行ってしまった。一枚の銀貨は持ち主の手から離れ、どこかに行って無くなってしまった。息子は父親のもとを離れ、父親の手の届かない遠いところに行き、放蕩してしまった。このことがよく表しているように、私たちは神から離れて、神と関わりなく生きているのです。神などいなくても十分、楽しい生活ができるのだ、と思っているのです。それが罪ということです。私たちは神を無視し、神に逆らって生きている、神がなくても生きていけると思っている。そのように、神に背いている者を神は罰するのです。
関係が悪くなった者がその関係を正常な、良い関係にすることはとても困難です。壊れた関わりを良い関わりに戻すことは難儀なことです。一度、関係が悪くなると修復は難しい。赦しがなければ修復はできない。和解がなければ良い関係は生まれない。神の御心は、私たちを救おうとする強い意志を持っています。神は救いの意志を持っています。ルカによる福音書15章で、一匹の羊がいなくなる。羊飼いはこの一匹の羊を命がけで探し、危険なところにいる羊を見つけ出す。一枚の銀貨が手もとから離れて、どこかに行ってしまった。見失った息子の譬え話では、父親のもとを離れた息子が帰ってくることを父親が願い、帰ってきた息子の姿を見つけると、父親から出かけて行って迎える。このように、神は、神から離れて自分勝手に生きている者を救おうと願っているのです。神と私たちの間には深い罪という断絶があります。この罪を取り除くために、神はわたしたちのためにご自分から和解しようと決意されました。コリントの信徒への手紙U 5章21「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはこの方によって神の義を得ることができたのです。」(p331)
神は私たちの罪を裁く方です。私たちが裁かれるべきなのに、神と同じ方・私たちと同じ人間となられた主イエスがその裁きを引き受けて、主イエスは死ぬのです。私たちは、裁きということを余り考えません。しかし、主イエスの死は神の審判なのです。死をもって神は裁くのです。神の御心は、主イエス・キリストが私たちに代わって、罪の罰として死んでくださり、それによって、私たちが死を免れて、神に赦されるのです。主イエスの死は神の裁きの死なのです。呪いの死なのです。主イエスの死は私たちのために贖ってくださる死なのです。
神が人間を救おうとする、それは神の救いの強い意志、神の御心です。主イエスが十字架の犠牲によって救おうとする、その御心に主イエスが従うことが苦しい、自分が、肉体が無くなるだけではなく、その死は罪人の死、神の裁きの死です。それは私たちには感覚的に少し分かるのではないか。例えばプラットホ−ムに落ちた人を助けようと思いますが電車が来そうだ、この人を助けると自分は命を失うかも知れない。その時に、ためらう。
神の御心に従わなければならない、と言うことは分かっています。自分が死ねば、すべての人が罪が赦され、神と和解することができる。そのような実りが与えられる。しかし、人間としては避けたいのです。主イエスの死は二重の意味を持っています。それは肉体が滅びる、それだけではない。神の裁きによって有罪として、処刑される裁きの死です。主イエスは誰もが経験することがない、厳しい死を経験されました。ここに、主イエスの心の苦闘があったのです。26章39節「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」。主イエスにとって十字架の苦難の死、神に裁かれる死は避けたい。「杯」は十字架の苦難の死を指しているのです。長い、苦しい思いで祈っていましたが、神が私たちを救おうと強く願っている「御心」、「意志」に従う決心をするのです。
主イエスが死んでくださったことにより、私たちに恵みがもたらされたのです。聖書はいくつものところでこの恵みを証言しています。ロ−マの信徒への手紙5章6−8節(p279)「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。わたしたちを救うと言う神の確かな意志に従って、主イエスは御自分のいのちをささげる、神の裁きを引き受け、死ぬ、肉を裂き、血潮を流す、そのことによって、神がわたしたちを愛されていることを明らかにされたのです。主イエスは神の完全に御心に従った唯一の救い主であります。ヨハネによる福音書6章38節(p175)「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」。
主イエスは、自分中心の祈りではなく、神中心の祈りをしています。このように主イエスが苦悩の中で祈っていた時に、弟子たちは眠りこけていました。しかし、主イエスは叱ることをせず、人間の弱さに深く同情しているのです。この弟子たちが眠りこけている姿は私たちの姿ではないか。その中で、主イエスは「御心のままに」「あなたの御心が行われるように」と祈るのであります。
3年前の東京神学大学卒業式の学長の告辞で「神に対して生きる」という説教がありました。ロ−マの信徒への手紙6章8−11節の「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」、この言葉から話されました。「神が共に行ってくださる」、「イエス・キリストの贖いによって私たち罪の者は、罪に対して死に、神に対して生きるものとされました。それゆえ、神の召しに応え、同行してくださる神に対してどう生きるか、どう生きたかが重大になります」。「御心のままに」、「あなたの御心が行われるように」。
主イエスは神に対してどう生きるか、そのことだけを考えて、「神の御心」に従ったのです。私たちも「御心のままに」「あなたの御心が行われるように」と祈って行きたいと思います。
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