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主日礼拝説教
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20220327  主日礼拝説教    「沈黙するキリスト」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書53章7−12節、 ルカによる福音書23章1−25節)


 2020年と2021年の二年は、コロナ感染防止のために実施していませんが、毎年1月に説教塾トレーニングセミナ−をしています。その会場は、いつもカトリック教会の黙想の家で行っています。黙想の家は、カトリック教会の修道院の近くにあり、黙想の指導者である専任の神父が指導して、二泊三日、あるいは、一週間、10日間、カトリック教会の信徒たちが聖書を読み、黙想の時を持つのです。必要な会話以外は、沈黙で過ごすのです。私は、富士山の裾野にあるマリア修道院・裾野黙想の家で、この説教塾の会に参加しています。その時に聞いた話ですが、京都の宇治修道院の黙想の家では、説教の学び以外は沈黙を守るように言われ、食事は黙食、研修室以外の廊下や個室での人と人との会話も沈黙を守るように言われ、その通りに実行したという話でした。カトリック教会の修道院では、伝統的に沈黙をすることが重んじられ、静寂の中で、聖書を読み、祈り、黙想することがなされてきました。私が参加した、裾野の黙想の家での学びの時にも一度だけ食事の時間は黙食をしたことがあります。自分の家では、食事の時にはいつも話しながら食事をしていますので、沈黙してただひたすら食べるのは、強い意志が必要だということを経験します。話したくなるのを我慢して沈黙を続けることは、強い意志が必要です。
 
 私が和歌山の田辺教会に在任しておりました時に、田辺教会には付属幼稚園があり、園児たちがあるゲ−ムをしているのを見学したことがあります。自分が知っていても話さないで我慢して黙っている、ゲ−ムでした。保育室に、今までなかった遊具をいくつか片隅において、自分が歩いて初めて見る遊具があることに気がついても、他の園児に話さない、そういうゲ−ムです。自分が黙っている、それは、園児たちに黙る訓練をして、意志を鍛えるためのものだと教師が話してくれました。

 皆さんは今日、会堂に入って、礼拝が終わるまで、誰とも話さないでいるとしたら、それは、かなり忍耐の要ることだと思います。長い間、黙っている、沈黙していることは、かなり大変なことです。
 
 本日の礼拝で読みましたところは、主イエスが、ロ−マ総督ピラト、ユダヤの領主ヘロデによって裁判を受けている場面です。ここで主イエスは、沈黙されているのです。ここではヘロデから尋問を受けているのですが、ルカによる福音書23章9節には「それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。」と書いてあるのです。マルコによる福音書15章4−5節では、ピラトに対して沈黙しているのです。「ピラトが再び尋問した。『何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。』しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」ピラトが不思議に思うほどに、主イエスが沈黙されたとあります。
 
 このことはとても不思議なことです。裁判で被告は、自分が無罪になるために必死に自分が潔白であることを主張するはずです。皆さんは、テレビで刑事が登場のするドラマを見たことがあると思いますが、警察の部屋で、刑事が取り調べていて、「私はやっていない」「この事件が起きた時に、自分にはアリバイがある」と必死になって自分の無実を弁明する場面があります。あるいは、悪いことをしていても刑罰を軽くするために、必死になって弁明するはずです。ところが、主イエスには弁明がなく、自分の身の潔白を証明するための主張もなかったのです。

 人々が訴え、主イエスに不利になることが述べられて、主イエスは罪人とされるので、弁明を求めても、裁判官が不思議に思うほどに、沈黙されたのです。話すと不利になるので、黙秘したわけでもないのです。あるいは、自分の無実を訴えて、言葉を尽くして弁明しても相手に通じないと思っていたので、諦めて沈黙したわけではないのです。
 
 皆さんは、主イエスがなぜ、ここで沈黙しているのか、その理由が分かるでしょうか。私はかなり前から、なぜ裁判の場面で主イエスが何も答えず、沈黙していたことを理解できずにいて、私にとっては大きな謎でした。主イエスが沈黙している意味が分からなかったのです。主イエスの沈黙の意味は、こういう意味ではないか、と考えたきっかけがあったのです。それは、とても身近な経験からです。皆さんも同じ経験をした人もいると思います。

 私は、聖学院大学で一年生にキリスト教概論を教えていましたが、ある年の、あるクラスの学生の中で、授業終了後、よく話しかけてくる一人の男子学生がいました。この学生とはよく話をしていました。彼が3年生の時に大学の通学バスの中で偶然、隣り合ったのです。今までは、向こうから私に話しかけてきましたが、この時は、私が話しかけても、全く話さないので、バスを降りた時に、いままでの彼とは違うし、どうも様子がおかしいし、どうしてだろうと思っていました。一週間後、キャンパス内で彼の同級生と出会ったので、この話をしたら、「先生、彼は、その時に退学届を出しに大学に行ったんですよ」と言ったのです。その時にバスで彼はとても緊張していたことを思い出しました。私が「そのことなら、話して退学を止めるように話せば良かった」と言うと、同級生は「彼は退学することを決めていましたから、誰が止めても無理だったと思います。」と言ったのです。私はバスで彼に遭った時には、既に退学を決断した後だったのです。   その後、大学のキャンパスで彼の同級生に遭い、私に「彼はいま、北海道で働いているので、先生から励ましのひと言をお願いします」と言われたので、スマホで彼に話したことがあります。

  このことから、私は、主イエスが裁判で沈黙をしていたことが理解できたのです。主イエスは、この裁判の時は御自分が苦難を受け、十字架で死ぬことを既に決めていたのです。その決意をもって裁判の席におられたのです。強固な意志をもって、主イエスは私たちを救うために、十字架に架けられて死ぬことを決めていたのです。すでに決めた以上、揺るぐことはありません。ゲツセマネの園で主イエスは、この十字架の苦難と死を避けたいと思い、また逆に神に従わなければならない、という二つの思いで動揺しながら、祈っていたのです。しかし、この祈りによって、主イエスは、神のみこころに従うことに決めたのです。決めた以上、動揺することなく、まっしぐらに十字架へと進んでいくのです。主イエスはご自身が神に用いられて、十字架の苦難と死が私たちの救いになることを喜んでいるのです。
 
 このことは、神が私たちを深く愛しておられる、その明確な意志をはっきりと表しているのです。神は人間のように気まぐれではありません。ある時は人に対して温かく接し、ある時は冷たくあしらい、別の時は親切にし、またある時はお節介のようにうるさく干渉する、そのように気分で動く神ではないのです。神は沈黙しているように見えても、神は私たちのために手を尽くして、配慮し、救おうと願っている神なのです。そのように堅く決意されているのです。神が決断する時はいつも愛なのです。

 神は、私たちの救いのために最善の方法をもって働いておられます。私たちを救おうと決意なさって、それを貫く神なのです。どんなことがあっても、貫くのです。神は、私たちを救おうと決意すると、その意志は堅いのです。どんなことがあっても、動かされないのです。主イエスはピラトの前で、ヘロデの前で、不思議なほど、沈黙をされているのです。ここに決意の堅さを見ることができるのです。自分が、どんなことがあっても、誰が何と言おうと、周りの状況が自分に不利になろうとも、自分は苦しみを受け、受難に向かっていくのです。
 
 この礼拝で、旧約聖書のイザヤ書53章7−12節を読みました。このイザヤ書53章は、苦難の僕の歌であり、主イエス・キリストがまさに苦難の僕であると最初の教会は、そのことを信じ、証言したのです。

 使徒言行録8章26−40節には、エチオピアの宦官が、イザヤ書53章を読んでいたところへ、フィリポが読んでいるところが分かるか、と尋ね、朗読していた箇所が53章7節であったと書かれています。この苦難の僕が、主イエスであるとフィリポが告げ知らせ、信じて、この宦官は洗礼を受けた、と書かれています。最初のキリスト教会は、この苦難の僕が主イエス・キリストであると信じて証言をしたのです。

 イザヤ書53章7節には「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。」とあります。7節の「苦役」という元々の言葉は、殴る、蹴る、叩く、と言う物理的な身体への暴力を指すのです。「苦役」と言うと重い荷物を運ぶことを連想しますが、そういうことよりも、相手から、身体的な暴力を受ける、その言葉です。イスラエルの民がエジプトで奴隷として働いている時に、主なる神が「わたしの民の苦しみをつぶさに見」たのですが、この「苦しみ」が「苦役」という同じ言葉であり、物理的な、身体への暴力を指す言葉なのです。殴る、蹴る、押し倒す、ひっぱたく、苦難の僕はそのような暴力を受けることをこのイザヤ書53章は預言しているのです。

 22章63節には「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり、殴ったりした。」とあります。主イエスは、殴られたのです。私は、今まで殴られたことはなかったのですが、頭を強く叩かれて痛い思いをしたことがあります。その時のことをよく覚えています。私が中学生の時に、体育の教師が授業時間に来なかったので、友達を話していたら、他の生徒も話していたのですが、遅れてきた教師が、私のほうに向かってきて、「どうして話しているんだ」と私だけ、思いっきり、私の頭をかなり強く叩いたので、それはよく覚えています。今なら、教師の暴力だと親が問題にして訴えることになると思います。物理的な、身体への暴力を受けると、暴力を受けた側は大きなダメ−ジになります。

 主イエスに対する暴力は、身体的なものだけではなくて、精神的な暴力をも受けたのです。ルカによる福音書22章63−65節には、「侮辱」し、「目隠しして『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ。』と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。」とあります。そして23章11節に「ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。」と書いてあります。主イエスは、兵士たちや周りの者が主イエスの人格に対して攻撃し、ののしり、侮辱し、あざけり、馬鹿にした言動をし、侮辱的な振る舞い、に遭ったのです。そのような身体的、精神的な暴力にさらされながらも、主イエスは抵抗せず、沈黙を守ったのです。
 
 裁判官である、総督ピラトは、人格的に優れた人物であったか、と言うとそうではないのです。ピラトには失政があり、ユダヤ人たちに嫌われていたので、この裁判によって、人々の機嫌を取ろうとしていました。権力を持ってはいましたが、群衆のいいなりになって、自分の立場を守ろうとしたのです。また、ヘロデは、裁判をすることに興味はなく、一度、主イエスにあって、奇跡を起こす場面を見たいと思っていたので、前から主イエスに会ってみたいと思っていたのです。このような人物が、主イエスを裁く人々なのです。

 主イエスはどのような方なのでしょうか。ピラトもヘロデも、主イエスに罪を見いだせないと言っています。23章14−15節には「言った。『あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。』」このようにピラトもヘロデも、主イエスは罪がない、無罪であることを証言しているのです。裁判官は、主イエスを罪がないと断定しています。

 ペトロの手紙一は、主イエスが、罪のない方であり、私たちのために苦しんだことを、イザヤ書53章の言葉を引用して語っています。ペトロの手紙一 2章22−24節です。「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

 主イエス・キリストの苦難と十字架の死は、わたしたちが義、神と正しく歩むための死であることをここで語るのです。最初のキリスト教会は、主イエス・キリストこそ、イザヤ書53章で預言された「苦難の僕」であることを深く認識し、証言したのです。

 わたしたちが、注目しなければならない、大切なことがあります。それは、裁判官であるピラト、ヘロデ、そして十字架刑にせよと訴え、騒いでいる群衆は、裁く資格があるのか、ということです。イザヤ書53章の預言によると、この黙ったまま裁かれているこの人こそ、真実な神の僕であって、神のみこころに徹底的に仕え、従った者であると語ります。苦難の僕は、他者のために裁かれている、他者のために苦しんでいる、他者のために死んでいく、そのように語ります。沈黙すべきは、裁くほうの人々です。裁かれている主イエスには、いくらでも言い分があったのです。それは罪が全くないからです。それを黙っているのです。なぜでしょうか。それは、主イエス・キリストが言い出したら、今、裁いている者が裁かれてしまうからです。裁いている者が、逆に今、裁かれ始めたならば、裁いている者たちが立つことができなくなるのです。主イエス・キリストを裁いている人々が、知るべきことは、ここで裁かれるのは自分たちであるということ、沈黙すべきは、自分たちであったということを知ることなのです。そういうことは全く思っていないのです。

 古代の神学者の一人が「審く者が審かれて黙し」と語っていますし、他の神学者も「我らの審判者が審かれ、生命が死に渡され、世界を養う者が飢餓のうちにあった」と言い、ニカイア信条を作成することに貢献したアタナシウスという神学者もわたしたちが「高められるために、すべての者の審判者が審かれ給うた。」と語っています。

 主イエス・キリストは、まことの審判者です。わたしたちに代わって審かれ給うた者としての審判者であるのです。神のみこころに従うために、わたしたちの救いのために、主イエスはこの時に沈黙をなさったのです。

20220320  主日礼拝説教    「弱さの中で、キリストが共にいる」  山ノ下恭二牧師
(詩編51編5−11節、ルカによる福音書22章47−71節)


 私たちが毎日、生活していると、失敗する時や落胆する時、思うようにならない時があります。そのような時に、ある人からかけられた言葉が、生きる力になることがあります。ある時には励ましになり、元気をもらうことがあります。ダメ押しされる、叱られる、その時には、その言葉に反発しますが、後から思い直して、その言葉によって頑張ろうと奮起するきっかけになることがあります。

 朝日新聞の毎週木曜日の夕刊に「一語一会」というコラムがあり、著名人が、自分に向けて語られた言葉がきっかけになり、影響を受け、奮起したり、自分に合うと思う仕事に就いたり、立ち上がったりした経験を書いています。漫画家のすがやみつるさんは、ある時、石森章太郎さんから「下手なんだから、人の3倍描け」と言われて、奮起して漫画を描き続けたとあります。桝太一という日本テレビのアナウンサーは、大学院の恩師から「君は伝えることがとても上手だね。それは武器になるよ。」と言われ、そのひと言が、桝さんに自信を与え、アナウンサーになったそうです。

 2月17日(木)の「一語一会」には、辛淑玉(シンスゴ)という人材育成コンサルタントが書いています。この人は在日韓国人3世で、ヘイトスピ−チが日本に吹き荒れた時に、反レイシズム(反人種差別)の人権団体を設立、共同代表になったために、在日コリアンに対する糾弾団体が、ネットに誹謗中傷を溢れさせ、嫌がらせを受けたのです。自宅に注文していない商品が届き、夜中に呼び鈴が鳴らされ、汚物が投げ込まれたそうです。耐えかねて、2年間、ドイツに避難。嫌がらせが続いたけれども、その間、生きる力になった言葉があったと言うのです。

 その言葉は「絶望したら希望を小さくして生き残れ」という言葉なのです。在日韓国大使館主席報道官が辛さんにこう言ったそうです。「個人の力でどうしようもない時は、希望や夢をうんと小さくするんだ。温かいお湯が飲めてホッとしたとか、深呼吸で大きく息が吸えたとか。まず生きることを考えろ」と。理不尽なデマ、嫌がらせ、に直面して落ち込んだ時に「絶望したら希望を小さくして生き残れ」という言葉が辛さんを励ましたのです。私たちも、落胆する時、落ち込んだ時、暗闇の中で光が見えない時に、自分の人生を途中で降りたいと思う時に、一つの言葉によって力づけられて、自分の人生の舞台から途中で降りないで、そのまま生き続けることができるのです。
 
 ルカによる福音書22章54−62節は、主イエスの弟子の一人である、ペトロが、主イエスを三度、知らないと否認したところです。ペトロが三度、主イエスを知らないと否認した物語はよく知られている物語です。ペトロは主イエスのそばにいて、いつも主イエスと共に行動していたのです。主イエスの弟子であることを告白しなければならない肝心なところで、ペトロは、主イエスを知らないと言ってしまったのです。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、ペトロが主イエスを知らないと言った物語を隠さずに伝えているのです。普通は自分がした恥ずかしい出来事を書かずに隠しているのですが、ペトロが弱さをさらけ出している物語を残しているのです。失敗もなく、挫折もなく、過ちがない人物は聖書の中には登場しないのです。弱さを持ち、失敗し、過ちを犯している人ばかりが聖書に登場するのです。そのような人間の弱さをあからさまに書き記している、それが聖書であるのです。

 ルカによる福音書22章39−46節においても、ゲツセマネの園で、主イエスが熱心に祈っているのに、3人の弟子たちが眠ってしまったことが記されているのです。このことは人には知られたくない、恥ずかしいことです。

 しかし、福音書は弟子たちが神に従うことができない弱さをもっていることを隠さずに伝えているのです。弱く、過ちを犯しているから、信仰者として失格であると裁断するのではなく、福音書は、私たち人間の弱さに対する深い同情があるのです。

 ペトロは主イエスによって弟子として召され、主イエスの弟子の中の一番の弟子であったのです。主イエスとペトロとは一心同体です。主イエスは、ペトロのこれからの歩みを見通していて、ペトロの信仰が無くなるだろうと予告した時に、ペトロはそれを否定して「『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。』」(ルカ22章33節)と応答しています。ペトロは、自分が死ぬことがあっても、主イエスのために命をささげると言うのです。しかし、主イエスが逮捕されて、ペトロのこころは動揺し、恐れに捕らわれてしまったのです。それは主イエスの弟子であることが分かったならば、自分も逮捕され、死ぬことがあるという恐怖です。

 最近、JR宇都宮線の電車内で、喫煙を注意した高校生が、喫煙を注意された男性に、殴る、蹴るの暴力を受けていたのを、そばにいた人が、だれも止めに入らず、その高校生は、重傷を負った、という事件がありました。このような時にどのように対処すべきであるかについて様々な意見が新聞で取り上げられていました。暴力を止められなかったのは、自分が暴力を止めようとして仲裁に入れば、自分もこの男性に暴力を振るわれ、大けがをするかも知れないし、死ぬかも知れないという恐怖心から、誰もこの暴力を止められなかったのです。

 ペトロは、自分が死ぬかも知れない、という恐怖心に捕らわれていたのです。恐れに捕らわれてしまったペトロは、大祭司の庭で、女中にじっと見られ、「この人も一緒にいました」と指摘されて、それに対して「わたしはあの人を知らない」と言ったのです。ほかの者が、ペテロが主イエスの仲間だ、と言うと、ペトロは強く否定したのです、その後に、他の者がペトロをガリラヤの者だ、と言ったのです。マタイによる福音書にはペトロがなぜ主イエスの仲間であるとわかったのか、それは言葉遣いで分かったと書いてあります。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」(マタイ26章73節)

 主イエスもペトロもガリラヤで育ち、ガリラヤなまりのアラム語で話していたからです。「ガリラヤの者だ」ということも否定し、主イエスとの関係も否定したのです。ペトロが、ガリラヤの者であることを否認することは、生まれ育ちをただ否認しただけでなく、主イエスと共に福音を伝えた三年間の歩みをも否定することになるのです。三度、主イエスを否認したところ、主イエスが予告した通りのことが起こったのです。鶏が鳴いたのです。

 ルカによる福音書22章61節に「主は振り向いてペトロを見つめられた。『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しくないた。」と語られています。ここでペトロは、主イエスと一緒にいたことも、主イエスの弟子であることも、主イエスと共に3年間歩んできたことも自分で否定したのです。主イエスにどんなことがあってもついていきます、と言っていたペトロがここで挫折をしたのです。ペトロは、恐れに支配され、死の恐怖心から、主イエスとの関わりを否認してしまったのです。自分の保身のために主イエスと関わりがないと言ってしまったのです。

 ルカによる福音書には、このようなペトロを主イエスが「振り向いてペトロを見つめられた」と書かれています。ルカによる福音書だけがこの言葉を記しています。主イエスはどのような思いでペトロを見つめられたのでしょうか。主イエスは御自分が予告した通りのことが起こった、わたしを知らないと言ったことは残念だ、という思いで見つめられたのでしょうか。主イエスがペトロの弱さを憐れみ、これからのペトロの将来を心配する思いをもってみつめられたのです。

 ルカによる福音書22章61−62節には「ペトロは、『鶏が今日鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして、外に出て、激しく泣いた。」とあります。肝心要のところで、主イエスの弟子であることを否認したのです。ある神学者は、ペトロがこのように激しく泣いた、これこそがペトロの信仰告白であると言います。本来の信仰告白とは、主イエスに対して「あなたこそ救い主、キリストです」と告白することですし、出会う人々に「自分はイエス・キリストを信じている弟子です」と公に告白することです。しかし、自分の保身のために、主イエスと共に生死を共にすることがない、その罪深い自分を思い、主イエスを知らないと裏切ってしまった、その不信仰に泣く、後悔で涙を流す、このことこそ、ペトロの信仰告白なのです。後悔の涙を流すことしかできないのです。

 この後、ペトロは主イエスから離れて、ガリラヤに行ってしまったのです。しかし、主イエスは、ペトロが自分を知らないと否認したから、ペトロを御自分の弟子ではないとは思ってはいないのです。主イエスはペトロを弟子として選び、その関係は切れてはいないのです。ペトロが三度、主イエスとの関係を否定してしまったことで、主イエスは裏切ったペトロとこれから一切関係を持たないと思ってはいないのです。主イエスの心はペトロから離れてはいません。その根拠は、主イエスがペトロの離反を予告するところで、「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語られているからです。主イエスは、ペトロの将来をも視野に入れて、挫折から立ち直った時のことまで考えて、「立ち直ったら」と語っているのです。ペトロはこの言葉を印象深く聞き、心に深く留めていたのです。ペトロは自分が弱さをもっていることをよく知っています。大祭司の庭で主イエスを三度、知らないと否認した、それはペトロの弱さなのです。私たちもそれぞれ、弱さを持っているのです。しかし、主イエス・キリストがいつも私たちを忘れずに共にいてくださるので、私たちは、人間の弱さを抱えていても、歩むことができるのです。

 主イエスが語った「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力つけてやりなさい。」この言葉が、本当に確かな言葉としてペトロの言葉となったのは、復活された主イエスと出会ったことによります。ルカによる福音書24章33−34節には、主イエスは復活してシモン(ペトロ)に現れたのです。12弟子の中で、復活した主イエスに最初に出会ったのはペトロであったのです。しかも、復活された主イエスは、繰り返し、ペトロに出会うのです。ペトロの持つ弱さは、私たち人間の本質的な弱さであるのです。ペトロが、何度弱さをさらけだしても、復活の主イエスは、ペトロのために祈り続け、ペトロに出会い、立ち上がらせるように、私たちを覚えて祈り続け、私たちに出会い、私たちを立ち上がらせてくださるのです。

 「あなたは立ち直ることができる。」この言葉は、ペトロの魂を支える言葉となったのです。ペトロは、立ち直ったのです。それは、いつも主イエス・キリストが共にいてくださるからです。使徒言行録には、立ち直ったペトロが、人々に説教している場面が出てくるのです。使徒言行録2章36節で、ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と語り、この説教を聞いた人々は「大いに心が打たれ」自分たちはどうしたら良いか、を聞くと、悔い改めて「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」と勧めるのです。恐れに支配されて、主イエスを知らないと否認したペトロが、このように力強く説教をしているのです。主イエスから離反したペトロ、自分の弱さに負けたペトロですが、弟子としての歩みを途中で降りることなく、このように立ち直って、説教者・牧会者として、主イエス・キリストによって立たされて、主に仕えていくことができたです。

 救世軍の山室軍平は、信仰とは神とふたり連れで旅をすることだと言いました。カ−ル・バルトは「私は信じる」ということは「私は独りではない」ということであると言っています。私たちは、失敗や過ち、挫折することがあります。そして孤独を感じるのです。しかし、私たちは神と共に旅をしているのです。人生の途上で自分の思い通りにならなくて苦しくなる時もあるでしょう。辛いことが重なって、神がいるかどうかを疑いたくなる時もあるでしょう。そのような時にも、神はイエス・キリストによって、見捨てることなく、見放すことなく、いつも近くにおられて、共に歩んでくださるのです。このことを信じて、主イエスを仰ぎながら信仰の歩みを続けることができるのです。

20220313  主日礼拝説教    「神のみこころを求めて生きる」  山ノ下恭二牧師
(詩編130編1−8節、ルカによる福音書22章35−46節) 


  主日礼拝の後に、「わかりやすいキリスト教ゼミ」を行っています。このゼミでは、「キリスト教−問と答」という問答書を用いて学んでいます。先週の日曜日に、主の祈りの「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と言う祈りを学びました。主日礼拝でこの祈りをいつも祈っているのですが、皆さんはこの祈りをどのように理解しているでしょうか。この祈りは、罪が赦され、罪を赦すことを求める祈りです。この「赦し」という言葉を、最近は「許可する」の「許」という言葉を用いることもあり、また、ひらがなで「ゆるし」と書くことも多いのですが、聖書が「ゆるす」「ゆるされる」と言う言葉は、「恩赦」の「赦」という言葉を用いることが正確であると思います。「赦し」と言うのは、赦すことができない者を赦すことですから、大きな苦しみ、痛みがあるのです。苦しんで痛みをもって赦すのです。

  私たちの社会では、法律に従って運営されています。法律において規定されている違反行為、犯罪行為に該当するならば、警察により容疑者として逮捕され、拘留され、起訴されると裁判になり、有罪が確定すると、禁固刑、懲役刑、死刑が言い渡され、刑務所に送られて、禁固、懲役などに服することになるのです。罪を犯したままで、刑罰を受けないで済ますわけにはいかないのです。法律に照らして犯罪行為、違反行為に該当しなくても、日常生活の中では隠された形で犯罪に近い行為があるのです。いじめ、いやがらせ、無視、意地悪な言動、言葉の暴力などがあるのです。自分がそのようなことを経験すると、自分に対して罪を犯した人に対して赦すことができないと思うのです。そのようなことをする人に対して憤り、いつか復讐したいと思うのです。人と人との関係で難しいのは、自分を傷つけ自分に悪いことをした人を赦すことはとても難しいことです。相手が自分にしたことはよく覚えていて、いつか復讐したいと思っているのです。しかし、いつも人を赦せないで復讐心をもっていつか仕返ししてやろうと思い、様々な手段で復讐をするのは神の前に正しいあり方ではないのです。人を赦さないことは、その赦さない人も赦してもらえない人も幸いなことではないのです。赦しがないならば、相手と正常な良い関係を持つことができないのです。

  主イエス・キリストが主の祈りの中で、私たちに「罪の赦し」を求める祈りを教えられたのは、この祈りが私たちの生活にとって必要な祈りであるばかりでなく、私たちの生活がほんとうに幸いなものとなるように配慮して、主イエスは、「罪の赦しを求める祈り」を教えられたのです。私たちにとって最も大切なことは赦しであり、互いに赦し合うことがなければ、心の平和はありません。愛は赦しです。しかし、私たちの愛はほんとうに不完全です。自分の気に入った人だけを愛し、自分によくしてくれた人だけに親切にします。しかし、自分が気に入らない人には、無視したり、口をきかなかったりするのです。私たちの愛は不完全で、欠けの多いものです。このような不完全な愛によってしか生きられないので、主イエスは、罪の赦しを求める祈りを教えたのです。私たちは、文語訳で祈っていますが、今用いている新共同訳聖書は「私たちの罪を赦してください、わたしたちも自分の負い目のある人を 皆赦しますから」(ルカ11章4節)と翻訳されています。「私たちの罪を赦してください」いう言葉が先に来ています。これは原文に忠実な翻訳です。神の前に自分の罪の赦しを求めている、これがこの祈りの中心であるのです、罪の赦しが私たちキリスト者の原点です。私たちの赦されない罪が神に赦されている、そのことを信じることが、最も重要なことであるのです。

  私たちの罪とはどのようなことでしょうか。マタイによる福音書では、「罪」という言葉でなくて、「負い目」という言葉を使っています。「負い目」を「負債」と言い換えることができます。罪を負債と言っていることは深い意味を持っています。一般に罪を犯すと言えば、悪い事をする、一つ一つの具体的な罪という意味になりますが、負債と言うのは、人間が神に対して責任を負っている関係にあって、その責任を果たしていないという意味であるのです。つまり罪ということの根底には、神が造り主であり、人間は造られた者であるという関係を考えているのです。人間は神によって造られた者ですから、神の創造の目的にかなう存在でなければならぬ責任があるのです。しかし、私たちの生活は全体として神に対して責任を果たしていない、負債を負った生活なのです。

  皆さんはこういうことを考えたことはないでしょうか。もし、自分の子どもやよく知っている人が、罪を犯したことを知ったならば、罪を犯したままで放置することはないと思います。どうしようもないワルであるから、親であれば勘当だ、知人であれば絶縁にする人もいるでしょう。しかし、親は自分の子どもが、罪を犯した、そのままでいることを望まないのです。罪を犯したことが分かれば、刑に服して罰を受け、被害者に償い、正しい人間になることを願うはずです。神は、私たちが神に対して責任を果たさないで、神に対して罪を犯したままでいることに耐えることができないのです。私たちが、罪を犯したままでいることに神は耐えることができず、放置することができないのです。正しい存在として歩んで欲しい、神と正常な関係で生きていってほしいと強く願っているのです。

  主イエスの生涯には、大きな転機がありました。一つは、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時です。洗礼を受けた時に、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3章22節)という神の言葉があったのです。この時、主イエスは、神の御心を行う者であることを神によって太鼓判を押されたのです。この時から神の国の福音を宣べ伝え始め、福音を伝える働きをするために、弟子を召して集めて、福音を伝えることを始めました。洗礼を受けた時から、救い主としての働きが始まったのです。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書22章35−45節を読みましたが、39−45節は、ゲツセマネと言う場所で主イエスが祈るところです。この祈りの場面は、主イエスが洗礼を受けた時と同じように、主イエスの生涯における大きな転換点となったのです。主イエスは、洗礼を受けた後に、神の愛の支配が近づいていることを告げるために、辺境のガリラヤ地方を巡回したのです。そして、エルサレムに向かう途中で、主イエスご自身が苦難を受け、死に、復活することを弟子たちに予告したのです。主イエスは、いよいよ、自分の死が近いことを感じていました。主イエスに苦難と死が迫っている時に、ゲツセマネにおいて人生の分かれ道に立って、どちらかを選ぶか、大きな決断をすることになるのです。

 主イエスは、神のみこころに従って、人間の罪を贖うために、私たちの身代わりとして死ぬのか、それとも主イエスが地上でこれからも生きる道を選ぶのか、とても悩んでいるのです。神の意志に従うならば、自分が生きることを中断しなければならないのです。主イエスは、まことの神であると共にまことの人間であるのです。人間としてぎりぎりのところで、主イエスは42節で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行って下さい。」と祈っているのです。主イエスの気持ちは、この苦難と死は避けたいのです。誰でもそうです。しかし、主イエスは十字架の死は神の御心に従うことであり、私たちの罪が赦されるための死であることを信じてここで受け入れたのですが、すんなり受け入れたのではなく、苦しみながら受け入れ、受け入れた後も主イエスは、苦しんでいたのです。

 22章44節で、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」とあります。主イエスは「苦しみもだえ」たのです。

 この「苦しみもだえ」という言葉は、ある注解書によると「オリンピックの選手たちが、その競技で勝つために、毎日苦しみもだえて練習する、その努力する姿」を言う言葉であると言うのです。オリンピックに勝つために毎日、かなりきつい練習をするのですが、その苦しみを指す言葉です。運動部に入って経験した人もいると思いますが、運動部の練習はかなりきつく、疲れた体を励まして練習場に通い、先輩は容赦なく、怒鳴り、しごき、いじめる、それでも耐えるのは、勝ちたいからです。主イエスは勝つための戦いをしておられるのです。勝つために苦しみ悶えるのです。

 この主イエスの苦しみは、どこに生まれてきたのでしょうか。42節に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」とあります。「杯」と言う言葉はとても深い意味で語っているのです。この「杯」という言葉の由来は、エレミヤ書25章15節にあります。「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。『わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。』(旧約p1223)この杯は、飲むと旨い酒ではなくて、もう飲みたくないと思うような苦い酒なのです。それは神が怒りを下すからです。

 主イエスは神によって、罪の審判を受けるのです。主イエスの死が神の審判による死である、その意味で、私たちの死とは異なっているのです。主イエスは、まことに死を恐れた方なのです。それは、神に裁かれて死ぬ、最も厳しい死を経験されたからです。ある人は、この主イエスが、死を恐れてもだえて祈っている姿に違和感を覚えるのです。それは哲学者ソクラテスが死を恐れるどころか、毒杯を従容として飲んだことと比べて、主イエスは、普通の人間ではなく、神と同じ方であるのに、この時、悩み悶える、なんと弱い人なのだろう、意気地のない人なのだろう、と考える人もいるのです。しかし、ここに主イエスの人間としての姿があり、主イエスは深く、深く悩まれたのです。

 主イエスは、主イエスの死が神の審判の死であることをよく知っていたので、自分の死がほんとうに厳しいものであることをよくわきまえていたのです。しかし、主イエスが神に裁かれ、死ぬことによって、もはや私たちが罪を問われることはないのです。それは主イエスが私たちに代わって神によって罪が問われ、その罰を引き受けてくださったからです。私たちはもはや主イエスのような審判による死に方をしなくて済むようになっているのです。罪人として死んでいく、そのような死に方をする必要はないのです。過去の過ちを悔やんで、悪かったという思いで死んでいくことはないのです。主イエス・キリストの十字架の赦しによって、私たちが死ぬ時も、過去にとらわれないで、キリストと共に死ぬだけなのです。

 3月2日から受難節に入りました。主イエス・キリストが苦しみを受けることを心深く覚える時です。この「苦しみを受ける」と言うラテン語は「パッスス」という言葉です。この言葉と関係が深い言葉に「パッション」と言う言葉があります。この言葉は「自分に原因がなくて、何か他のものが原因で、自分が体験しなければならないもの」を言うのです。ある本にこの「パッション」という言葉は「自分が受け身で体験するものを何でもパッションと言う」と書いてありました。「良いパッション」「悪いパッション」と言う言葉があるそうです。「良いパッション」とは、自分が思いがけなく幸いな経験をした時に「良いパッション」と言い、しかし、人生の中で、幸いな経験をすることが少なく、悪いこと、苦しむこと、が多いので、「悪いパッション」と言わずに、ただ「パッション」というと「苦しみ」を意味するようになったと言うのです。主イエスは、私たちが神に対して責任をもって生活をしていないことが原因で、苦しむのです。主イエスがその苦しみを担う必要は全くないのですが、神の御心に従うことによって、苦しむことになるのです。

 本日は、旧約聖書の詩編130編1−8節を読みました。3−4節に「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」赦しは、主のもとに豊かにあるのです。7節でも「慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。」と書いてあります。私たちは、本当に相手の罪を赦すことができないのです。自分に対して、罪を犯した者を赦すことができないのです。しかし、私たちが信じている神は、私たちが赦されるために、御子イエス・キリストに苦痛を与え、十字架で死なせ、贖うことまでしているのです。相手を責めていつまでも赦さない心の狭い神ではなくて、水源から泉が湧き出るように、水が溢れているように、何回も限りなく、私たちを赦す神なのです。

 「主の祈り」の罪の赦しを求める祈りと関係して、主イエスが語った譬え話に、何千億もの負債を背負った家来を王が赦した譬えがあります。この譬え話は、神が、私たちの罪、それは赦すことのできない莫大な負債を赦されたということを語る譬えです。神はそれほど、大きな寛い心で、私たちの罪を赦してくださるのです。それは、私たちが罪を犯したままでいることを許さないからです。私たちが神との正しい関係をもって生きるようにという強い願いを持っていたからです。その強い願いが、神が自分の外に出て肉体を取り、主イエス・キリストとなり、神の愛がどのようなものであるかを明らかにするために、すべての人間の罪を十字架の死によって贖うことまでなさったのです。そこまで神がなさったのは、神が私たちのために慈しみ深い神になるためです。

 かつて、熊本の白川水源に行った時に、水源から泉がこんこんと湧き出ていることに驚きましたが、神の赦しは尽きることなく、限ることなく、私たちを赦して下さるのです。「赦し」は神のもとに豊かにあるのです。主イエスは私たちの罪を完全に赦すために、ご自身が十字架の贖いの死を遂げるのです。このイエス・キリストの十字架の死が、私たちの罪を赦すための苦しみであった、それほどまでに私たちを赦そうとされる、神のみこころであることを、私たちの心に聖霊が注がれ、信仰と言う通路によって、受け止めるならば、相手を赦すことができるようになるのです。

20220306  主日礼拝説教    「キリストが、今、祈っていてくださる」  山ノ下恭二牧師
(エレミヤ書31章1−9節、ルカによる福音書22章24−34節)


 私は、高校を卒業するまで栃木県の鹿沼教会の会員でしたが、この当時の鹿沼教会の水曜日の祈祷会は、ひと月に二回は教会で行い、あと二回は教会員の家を巡回して行っていました。祈祷会と家庭集会を兼ねた集いでしたが、牧師、長老、会員がその時の家庭を訪ねて、祈り合うことをしていました。私の家も祈祷会の会場になり、一年に2回ぐらいは、牧師、長老、教会員が集まり、牧師の聖書講話の後に参加者全員が祈っていました。私が小学1年生の頃、その時は冬の夜でしたが私もこの祈り会に出席していました。こたつに入って、みんなの祈りを聞いていたのですが、出席者全員が祈るので、いつのまにか眠ってしまい、眠りから覚めて気がついた時には、みんなが帰った後ということもありました。私の父親が亡くなった後も、私の家で教会の祈祷会が行われていて、父親を失った私の家族を訪ね、慰めるために、参加者が熱心に祈っていたのをよく覚えています。教会の兄弟姉妹たちが、私の家に来て、家族のために心を込めて祈ってくださったことは、生きるための大きな力となり、励ましになりました。

 本日、この礼拝で読みましたルカによる福音書22章24−34節の中で、私の心に響いた言葉は、32節の言葉です。32節には次のように語られています。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」聖書には多くの言葉が記されていますが、聖書の言葉の中で、わたしはこの言葉に支えられてきたのです。私たちは「信仰がなくなる」、そのような危険な場面に遭うのです。洗礼を受けた時は、主イエス・キリストにどこまでもついて行こうと意気込むものです。そのように決意するのです。しかし、時間が経つと、洗礼を受けた感激も忘れ、毎日の忙しさに負け、信仰生活よりも自分のことを優先するので、信仰が冷めて行くのです。そして教会に行くこともしなくなって、信仰を失いそうになるのです。そのような私たちのために、私たちを覚えて主イエスは祈って下さるのです。

 本日、この礼拝で読みましたルカによる福音書22章24−34節は、最後の晩餐をした後に、主イエスが使徒たちと対話をしているのです。主イエスと使徒たちとのこの対話は、主イエス・キリストが、苦難を受け、十字架に架けられて死ぬ、その直前の対話であるのです。この晩餐の席で、使徒たちの間で論争が始まっていたのです。自分たちの中で誰が最も偉いのか、ということを巡って議論していたのです。「偉い」と言う言葉は「大きい」「巨大な」と言う言葉です。弟子たちの間では一番の弟子がペトロであることは主イエスも認めていたのです。ペトロがいつも主イエスの近くにいて大きな存在であったのです。誰でも、自分が重んじられたい、と言う思いを持っています。自分以外の人が重んじられると、その人を妬むことがあります。主イエスは「誰が偉いのか」という使徒たちの議論を聞いていて、憤慨したのです。使徒たちに、使徒として生きる本来のあり方を語るのです。22章26節「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」と勧めているのです。

 その中で、主イエスがいきなりペトロに呼びかけたのです。その話の内容は、サタンが使徒たちを誘惑する危険性があることを指摘したのです。サタンが使徒たちの信仰を脅かす、そのような挑戦をしてくることを語ったのです。サタンは弟子たちを狙い撃ちにして、信仰を失わせるために攻撃をしてくることを予告しています。使徒たち全員がサタンに狙われていたのです。ペトロは弟子たちの中で一番、大きな存在なので、サタンに最も攻められやすい存在であったのです。ペトロは、主イエスに勇ましいことを言っているのです。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」ペトロは「あなたと共に」歩む覚悟ができている、と言っているのです。そのようなペトロに対してサタンの攻撃が始まっていると語ります。サタンが攻撃する、それは試練であり、誘惑であるのです。私たちの生活には、試練があるのです。試みがあるのです。テストがあるのです。信仰を失わせようとする厳しい試練が襲います。

 2月28日(月)夜に私は、NHKテレビで放映されていた「ファミリー・ヒストリ−」という番組を見ました。この番組は有名人の家系図を詳しく調べ、先祖の消息を紹介する番組です。この時は歌手の前川清でした。この人の祖父母は、明治の初め、長崎の外海でカトリックの洗礼を受けていたのです。この時は、まだキリスト教が禁止されていた時であったと報道されていました。長崎の外海地区は、キリシタン迫害が厳しかった土地でした。遠藤周作の「沈黙」と言う作品の舞台になったところです。この番組で「沈黙」と言う映画の一部が映し出されていたのです。日本人のカトリック信徒が踏み絵を踏むことを強要されている場面と、海水が押し寄せる海の中で、十字架につけられた信徒が聖歌を苦しそうに歌いながら、息絶えて死んでいく、殉教をしていく場面です。カトリック信徒への迫害は厳しく、踏み絵を踏まない者をこのように処刑したのです。このような厳しい迫害に耐えることは容易なことではないのです。

 現代に生きる私たちにはこのような迫害はないかもしれませんが、日々、キリストに従うことによって殉教することを求められているのではないでしょうか。キリスト者として生きている、日曜日にこの教会の礼拝に通い続けて行く、それは、殉教することと同じことになるのです。キリスト者であることを隠して、この世とうまく妥協するならば、試練はないのです。しかし、信仰を貫こうとすると私たちは試練に遭うのです。「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、「苦しい時の神離れ」ということもあるのです。厳しい試練があると信仰を失うことがあるのです。私たちの人生には、会社や学校でのいじめや病いによる苦しみ、家族が抱えている困難な問題など、次々に襲うような、試練や苦難があるのです。そのような時に信仰を失ってしまうのです。

 主の祈りの中で「我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」と言う祈りがありますが、この祈りの意味は、私たちに信仰を失わせるような厳しい試練に遭うことがないように、という意味なのです。厳しい試練に遭って、「神などいない」「神が私を見捨てている」という心になって信仰を捨ててしまうことにならないように、という祈りなのです。

 「試みにあわせず」という祈りは、新共同訳聖書では別の翻訳をしています。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と翻訳しています。元々のギリシャ語は、「試み」とも「誘惑」とも翻訳できる言葉なのです。誘惑されて、その誘惑に乗ってしまうのか、それとも誘惑を退けるのか、を試される、試験を受けることになります。「誘惑に遭わせないでください。」現代に生きる私たちには、私たちを誘惑するものがたくさんあります。毎日、テレビ、インターネットなどで見ている広告情報は、身近に溢れていて、この情報によって、この地上でいかに愉快に楽しく快適に暮らすことができるかを知らせ、宣伝している商品を購入することが、生活を豊かにする唯一の方法であるかのように信じ込ませるのです。このような情報は私たちの生活に深い影響を与えているのです。その影響を受けているので、私たちは、特別に信仰がなくてもやっていける、教会の礼拝に来なくても、聖書を読まなくても、祈らなくてもやっていけるという言う思いになってしまうのです。サタンは私たちの信仰を妨害するために、私たちの心をこの世での楽しみに向けさせて、信仰は必要ではない、信仰なんかなくてもけっこう楽しくやっていけるいう気持ちにさせて、教会から離れてしまうように扇動するのです。このサタンの誘惑に負けて、いつの間にか、信仰を失ってしまい、信仰が形だけのものになってしまうのです。

 ペトロは33節で「『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟をしております』」と言っています。そのようにペトロは意気込んで主イエスに語ります。しかし、主イエスは、ペトロが主イエスの使徒として信仰を貫くことはできないことを見通して予告をしているのです。34節に「イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」とあります。それは主イエスの予告通り、ペトロは、主イエスを三度、知らないと言ったのです。主イエスがいてペトロがいる、ペトロがいて主イエスがいる、そのような親密な関係であるのに、よく知っている主イエスを知らない、と言ってしまったのです。この時にこそ、ペトロは信仰の本領を発揮して、自分は主イエスの使徒であり、いつも主イエスと共にいて活動をしていました、と言うべきであったのです。しかし、ペトロは、主イエス・キリストを「知らない」と主イエス・キリストとの関係を三度、完全に否認したのです。

 そのことは、22章54−62節に詳しく記されていますが、主イエスを三度、知らないと言った時に鶏が鳴いたので、ペトロは、主イエスの言葉を思い出して、「激しく泣いた」のです。このようなペトロを主イエスは「見つめられた」のです。主イエスがペトロを見つめたまなざしはどのようなまなざしであったのでしょうか。それは、私が言った通りのことになった、ペトロよ、おまえは、信仰が弱いなぁ、という軽蔑した思いで主イエスはペトロを見つめたのではないのです。主イエスの使徒としておまえは試練を受けた、とても辛かったに違いない、このところから立ち直ってほしい、という思いで、ペトロを見つめたのです。

 教会で、長く愛されて歌いつがれ、日本人が作詞、作曲した1955年版の讃美歌243番があります。今、用いている讃美歌21・197番の2節です。「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主を いなみたる よわきペトロを かえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。」主イエスが予告した通り、主イエスを否認したペトロを労り、ペトロを顧みたのです。主イエスに従っていけない、ペトロの姿は、私たちの姿でもあるのです。

 このような私たちに対して、主イエスは、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」と語っています。自分を裏切ってしまったペトロを主イエスはみつめつつ、あなたのために祈り続けている、裏切る前から、あなたのために祈ったと言われているのです。

 主イエスはその後で、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語っています。この「立ち直る」という言葉は「向きを変えて行く」「悔い改め」と言う言葉と同じ言葉であると言われていますが、ある黙想には、この言葉の意味を次のように説明をしています。「一度、主イエスに向かうまなざしを捨ててしまい、存在と生の方向を失ったところで、再び、神に立ちかえり、自分に立ち帰ることを意味する。」また、この黙想では、「立ち直る」という言葉は、ルカによる福音書15章17節で「放蕩息子」が「我に返った」と同じ意味であるとも説明をしています。主イエスがペトロのほうを「振り向いた」、主イエスがペトロを赦した、そのまなざしを受けて、ペトロは正に「立ち直る」ことができたのです。

 ペトロの決死の覚悟は空しかったのです。しかし、主イエス・キリストの祈りは常にペトロのためにありました。主イエス・キリストと共に歩むことができなくなったペトロでしたが、主イエス・キリストは、常にペトロと共にいてくださったのです。主イエス・キリストを否認したばかりのペトロを振り返って見つめてくださった主イエス・キリストは、否認したペトロを否認してはおられなかったのです。主イエス・キリストは、寛容な心をもってペトロを完全に受け入れたのです。
復活した主イエス・キリストにお会いしたペトロは、大きな使命を与えられました。ヨハネによる福音書21章15−19節(p211)では、ペトロに三度、愛を求められ、その求めに応じたペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。ペトロがなすべきこと、それは兄弟たちを力づけることです。励まし、慰めることです。それは、自分の信仰が無くならないように祈って下さった主イエスの祈りの中に兄弟たちを立たせることでありました。

 私たちは、教会を初めて知った時には、教会は立派に見えます。しかし、教会に慣れてくると、教会の欠点が見えてきます。立派だと思っていた人に、意外な面を見ることがあります。他人の欠点が見えてくるのです。しかし、欠点を見て批判するのではなく、イエス・キリストの持つまなざしが、相手を赦す、愛のまなざしであったことを心に留めるのです。主イエスがその人のために祈り、その人が立ち直るように、愛のまなざしを向けていたように、兄弟姉妹たちを立ち直らせる愛のまなざしをもつことができるように祈ることなのです。言い換えると、その人のために、真実に祈っていることが大切なのです。誰でも欠点や失敗や過ちがあるのです。そのようなことがあっても、その人のために祈り続けるのです。主イエス・キリストは今も、私たちのために祈っていてくださるのです。

20220227  主日礼拝説教    「聖餐を与えられる恵み」  山ノ下恭二牧
(出エジプト記24章3−8節、ルカによる福音書22章14−23節)


 キリスト教会の暦では、3月2日が灰の水曜日であり、この日から受難節に入ります。受難節とは、主イエス・キリストが苦しみを受け、十字架に架けられて死ぬ、その期間を指します。今年の受難節の期間は、3月2日から4月16日までの期間です。私たちは、主イエス・キリストの受難を心に留めながら、この時を過ごすのです。今年は、4月10日(日)が、棕櫚の主日です。この棕櫚の主日は、子ろばに乗ってエルサレムに入場した主イエスを人々が棕櫚の枝をもって歓迎したことを記念する日であり、この日から受難週に入ります。4月14日(木)が洗足木曜日であり、15日(金)が十字架に架かって死んだ受難日で、聖金曜日と言います。そして、4月17日(日)に復活日の礼拝を迎えます。

 私たちは、自分が原因で苦しむことがあります。自分の過失によって相手を傷つけてしまったために苦しむことがあります。「苦しみ」と言う同じ言葉でも、主イエスの苦しみは自分が原因で苦しむ、苦しみではありません。主イエス・キリストが苦難を受けられた、それは、主イエスに落ち度や失敗があって、その結果、被った苦しみではなく、主イエス以外のすべての人々が受けなければならない苦難を主イエスが代わりに引き受けられたのです。他の人の苦しみを自分の苦しみとして引き受けて苦しむ苦しみです。自分が親になって子どもを持つと、自分の親が自分のことのために、苦労して育てたことが分かります。

 私の父親は、私が10歳の時に交通事故で亡くなったので、父親の記憶は10歳までの記憶しかないのですが、父親が私にしてくれたことを鮮明に覚えている出来事があります。私が小学1年生の頃、私が風邪を引いた時に、夜遅く、私をおんぶして、自転車で病院に連れて行ってくれたことをよく覚えています。父親ならば、そのぐらいのことをすると思うかもしれませんが、その時、父親は会社がとても忙しく夜遅くまで働いていた時でしたが、風邪をこじらせていた私のために、夜でしたが、病院に頼み込んで私を自転車に乗せて遠い病院まで連れて行ってくれたのです。子どもの時には、親の苦労を理解していなかったのですが、自分が親になると、父親のありがたみが分かるのです。

 本日、与えられている、ルカによる福音書22章14−23節の記事は、最後の晩餐を伝える記事です。私たちの教会で行われている聖餐の起源となる記事です。言い換えれば、最初の聖餐について記してある記事です。聖餐についての研究書には、三つの福音書にある最後の晩餐の記事とコリントの信徒への手紙一 11章17−34節の記事について詳しく書かれています。最初の聖餐がどのように行われたのか、そのことを知りたいならば、最後の晩餐の記事を調べると分かります。

 キリスト教会がキリストの教会であることの印は、純粋に説教がなされ、洗礼と聖餐とが正しく行われることです。洗礼と聖餐は、サクラメント、日本語で言えば、聖礼典と言います。サクラメントと言う言葉は、元々、ギリシャ語でミュステリオン(秘密、秘義、機密)という言葉で、キリストへの信仰がなければ、洗礼や聖餐の意味は分からない、秘密のままである、という意味です。洗礼を受け、教会に入会した者はこの聖餐にあずかるのです。キリスト教会では、教会員と言わないで正式には、聖餐にあずかる会員、聖餐に陪席してあずかる会員を陪餐会員と言います。この教会に通うことができる現住陪餐会員をもって教会総会の議員とするのです。聖餐にあずかる会員ですから、聖餐とは何か、そのことをわきまえていることは、とても大切なことです。聖餐について主イエスが何と言われたのか、そのことを知ることは何よりも大切なことです。

 14節に「時刻になったので、イエスは食事の席につかれたが、使徒たちも一緒だった。」口語訳では「時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。」と訳されています。ここで大切なことは、主イエスが食卓の席につかれたということです。主イエスがまず座られ、使徒たちは主イエスを中心にして座るのです。このことはとても大切なことです。主イエスが、まず座られ、この主イエスを囲むように使徒たちが座るのです。現在の教会では聖餐において執り行うのは按手礼を受けた教師が行うのですが、それは主イエス・キリストの代理として聖餐の司式を行うのです。キリスト教会の長い歴史において、聖餐の作法は変遷があります。中世カトリック教会の時代は、司祭の前に信徒が長く並んで司祭からパンをもらうという方式を取っているのです。カトリック教会、聖公会の影響を受けているメソジスト教会などは除いて、私たちの教会は着席したままで、聖餐をいただきます。宗教改革によって、聖餐の受け方も改革されたのです。長老が座っている信徒たちにパンと杯を配る、そのような方式になりました。これは、福音書の最後の晩餐の姿を再現しているのです。主イエスが食卓の中心に座り、この主イエスを弟子たちが囲むようにして、主の晩餐にあずかっているのです。宗教改革は、聖書が語っている通りに教会を改革しようとしたのです。

 22章15節にとても大切なみことばがあります。「イエスは彼らに言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた』」とあります。「わたしは切に願っていた」、「切望していた」と言うのです。主イエスは使徒たちと一緒に食事をしたいと熱望された、と言うのです。そのような主イエスの願いによって、使徒たちを食事に招いたのです。聖餐は主の願いに根拠をもって始められているのです。

 私たちは、聖餐を受けているけれども、聖餐を受けることを特別に何とも思わないで、習慣的に受けているのはないでしょうか。自分の信仰生活を顧みる、自分の罪を思い起こして悔い改めの心になることもなく、何の感動もなく、ただ習慣的にパンと杯を飲食していることがあるのではないか、と思います。聖餐は毎月第一聖日とイースター、ペンテコステ、クリスマスに行っているのですが、聖餐を行っているからあずかっているという思いが強いのです。しかし、そうではなく、キリストが切望しているので、行っているのです。このことは私たちへの問いになるのです。私たちは聖餐にあずかることを切望しているのだろうか、と言うことです。聖餐が行われて、パンや杯にあずかる、そのことを特別に切望してはいないのではないか、と思います。パンを食べたところで、杯を飲んだところで、何の感動もなく、ただ習慣として食しているだけではないかと思うのです。今日のパンは小さかった、大きかった、今日のぶどう液は甘かった、それで終わりにしてしまっていることはないでしょうか。私たちが、聖餐にあずかる、その信仰の姿勢は形骸化しているのではないか、と思うのです。

 このルカよる福音書の、この最後の晩餐の記事には、小見出しには「主の晩餐」とありますが、聖書には、「晩餐」という言葉はありません。「過越の食事」と言う言葉です。「過越」と言うのは、出エジプト記12章−13章に記されています。この過越の物語は、主なる神がどのような神なのか、を理解するうえで、とても重要なところです。出エジプト記3章でイスラエルの民をパレスチナに連れて行ったモ−セが、指導者として神から召しを受ける時に、神の名が示されるところがあります。モ−セは、自分がこれから、数万人ものイスラエルの人々をパレスチナに連れて行かなければならない、自分一人の力では何もできないのです。この大事業を導き、共にいる神がいなければ、できないのです。ただどのような神なのか、を知らないならば不安であるのです。最後まで導いて共にいてくださる神なのか、あるいは途中で見捨てる神なのか、どのような神なのか、モ−セは神に神の名を聞くのです。神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えるのです。このヘブライ語の言葉の頭文字をつなぐと、「ヤ−ウェ」と言う言葉であり、日本語では「主」という言葉になるのです。この名の意味は出エジプト記3章7−10節に記してあります。この神はイスラエルの民の苦しみを見、その叫びを聞き、その痛みを知ったので、神ご自身が降っていって、エジプトから救い出し、乳と蜜の流れる地に導く、そしていつも共にいる、そのような神であることを明らかにするのです。この神は、イスラエルの民の苦しみを見て知り、その苦しみに同情し、同情するだけではなく、その民のところに行って助け出す、行動の神です。

 エジプト王が、イスラエルの民を解放しないので、最後的に神は王をはじめ、エジプト全土にいる人々を呪います。しかし、羊の赤い血を塗った柱がある家は神の呪いは過ぎ越すのです。神はイスラエルの民を呪うことはなく、エジプト全土が呪われて、エジプトの軍隊が動けない間にイスラエルの民は集められて、エジプトを脱出することができたのです。毎日、奴隷として働かされて全く自由がない生活を脱出できたのです。エジプトを脱出した時が急であったので、旅に出る支度もなく、パンも急いで焼いたので種入れぬパンであったことを心に留めるために、現在もこの過越を記念して、種入れぬパンを食べているのです。イスラエルの民にとって一番、苦しい時、救ってもらいたい時に、神は行動し、エジプトの奴隷から解放し、脱出させたのです。主なる神は、イスラエルの民の苦しみの叫びを聞いてくださるのです。

 このことを心深く覚える、過越の祭の時に、過越の食事をされたのです。神が行動して動いた、イスラエルで過去に起こった過越の出来事を心に留め、そしてそのことを根拠にして、主イエスがこれから向かっていく十字架の受難の死を暗示しながら、過越の食事を遙かに超える食事をしようとするのです。

 キリスト教神学において、聖餐の理解について、教会の神学者の間で議論がなされてきました。それはカトリック教会のミサは、聖餐を中心とした礼拝であり、このミサを改革するために議論がなされたのです。カトリック教会は、聖餐において、キリストそのものがまさに肉体的身体をもって現臨していると考えているのです。パンという物質はキリストの肉そのもので、ぶどう酒という物質はキリストの血そのものであると考えているのです。ぶどう酒そのものがキリストの血そのものですから、床にキリストの血をこぼすことは許されないと考えて、信徒にはパンのみを与えるのです。パンだけを分けるので一種陪餐と呼びます。しかし、私たちプロテスタント教会は、パンと杯の二種陪餐です。宗教改革の時に、カトリック教会のミサ、パンにおいてキリストの肉そのものがある、杯においてキリストの血そのものがある、という実体変化説の考え方に対して、聖餐を「記念」であると言ったのが、ツヴィングリという神学者です。パンやぶどう酒と言う物質そのものにキリストがいる、ということは聖書が語っていない、おかしい、と論じているのです。ツヴィングリは、カトリック教会の聖餐理解に真っ向から反対しました。パンや杯に魔術的な効果があるのではなくて、キリストが私たちのために十字架で贖ってくれたことを思い起こす記念だ、と主張しました。宗教改革者カルヴァンは、カトリック教会の物質そのものが変化して、キリストの肉、キリストの血そのものになるという実体変化説に反対し、ツヴィングリの記念説にも反対し、聖霊によって、このパンがキリストの肉、この杯がキリストの血と信じていただく、聖霊説を主張しました。

 2月23日にNHKラジオのニュース番組で、北京冬期オリンピックでカ−リング女子日本代表が銀メダルであったことと関連して、この勝因が選手同士のコミュニケーションが良かったことにあるとある選手が話をしていました。そういえば、選手同士がよく声を掛けていたことを思い出しました。一人の選手が、「神コミュニケーションだ」と言っていたのが印象的でした。「神のようだ」「神のように」うまい、上手だ、という意味で「神」と言う言葉を使います。手術が上手な外科医を神の手と呼ぶこともあり、優れた技術をもっている、最高である、と言う意味で「神」と言う言葉を使うことがあります。人や物質の中に、神は隠れているという考えが、日本にはあります。私は、聖餐はイエス・キリストの神が恵みの手段を用いて伝達するコミュニケーションである、と思うのです。神が優れたコミュニケーションを用いて、私たちに神の恵みを伝達するのです。キリスト教会は、聖餐のことを、「コミュニオン」と呼んできました。「コミュ二オン」という言葉はコミュニケーションの元々の言葉で「交わり」「交流」という言葉です。

 聖餐によって、神が、どのような神であるか、を私たちに直に伝達しようとコミュニケーションをとって、私たちと交わろうとしているのです。神は、説教によって、私たちにキリストの恵みを思い起こさせ、聖餐によって、キリストご自身を私たちに対面させて、贖いの主の臨在を確信させるのです。

 ある神学者は、聖餐を印鑑に譬えています。自分の名前を書いて、その後に、自分の印鑑を押すのです。公的な書類は、氏名を書いた後に実印を押します。実印を押して本人であることを証明します。今は署名だけで印鑑を必要としなくなりましたが、大切な書類は印鑑を必要とします。ある人は説教を、封筒に入れたキリストの福音であると例え、聖餐はその封筒がキリストの福音を入れた封筒であることを確証するために印鑑を押すことだ、と例えています。

 キリストが私たちとってどのような神であるのか、そのことをはっきり分かるように、聖餐を設定してくださったのです。神はキリストによってご自身を、聖餐によってご自身を明らかにするのです。説教で福音を耳で聞き、聖餐のパンと杯をこの目で見て、舌で味わうのです。耳と目と舌という私たちの感覚器官を通して、キリストが私たちのために十字架につき、死なれた、それほどに私たちを愛してくださっていることを私たちは全身で知ることができるのです。

 主イエスが、この晩餐で使徒たちに22章20節で次のように語っていることに注目するのです。「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」「私の血による新しい契約である。」契約を結んで、その条件を反故にすると、違約金を支払うのです。出エジプト記24章には、神とイスラエルの民とが契約を締結する、その時に、契約を破った時には、雄牛の血を振りかけることが記されています。契約を破った者が、賠償するのです。しかし、私たちが神との関係を反故にして、神との契約を破ったにもかかわらず、私たちが償いをするのではなく、私たちの代わりに、主イエス・キリストが賠償するために、神の審判を受けて死ぬのです。契約はその条件を破ったら、契約は無効になります。 しかし、聖書は、私たちが契約を破っても、契約は無効にならないのです。私たちがどんなに罪を犯しても、イエス・キリストは私たちの神であることを止めないのです。私たちが、キリストを忘れていても、キリストは私たちを忘れることはないのです。私たちがキリストを愛することがなくてもキリストは私たちを愛しているのです。

 自分が交通事故を起こし、相手に重傷を負わせてしまった、それは、相手に大きな損害を与えてしまったことになります。私たちの罪のために、キリストに大きな損害を与えてしまったのです。しかし、主イエス・キリストは私たちの罪を赦すために、十字架で死んで、贖って下さったのです。そのことを聖餐にあずかる度に信じて、その恵みに目を開いて味わいたいのです。

20220220  主日礼拝説教    「人間のたくらみに勝る神の愛」  山ノ下恭二牧師
(ヨシュア記23章14−16節、ルカによる福音書22章1−13節) 


 今年の1月15日(土)に大学共通テストが始まる直前に、東大の門の前で17歳の高校生が、一人の男性に重傷を負わせ、二人の受験生を傷つけた事件がありました。この事件をテレビニュースで知った時、私は何と言うことをしたのか、と憤りました。それは、一人の男性に重傷を負わせ、一所懸命に長い間、受験勉強をして試験に臨もうとした二人の受験生を試験直前に傷つけた、このようなことをした高校生は許されるものではないと思いました。しかし、その後、この高校生が犯行に至った経過を知り、この17歳の高校生がこれから歩んでいく将来が困難なものになるだろうと想像した時に彼に同情する気持ちに変わったのです。この高校生はこれから前科者として烙印を押され、罪の重荷を背負っていかなければならないことを思う時、彼の将来が明るいものではないと思うのです。どこに行ってもこの人は罪を犯した、前科者だというレッテルを貼られて、生きていくのではないか、と思ったのです。

 そのように思っていた時に、2月7日(月)の朝日新聞の投書欄に、ある牧師が「元家出少年の私 17歳の彼を思う」という文章が掲載されていました。この牧師は「大学受験に落ちた18歳の春、私は家出をした。」三重・鳥羽にたどり着いたが警官の職務質問を受け、この警官は自分の話をじっと聞き、近くの宿に送り届けてくれ、女将が暖かく迎えて、ゆっくりとお風呂に入って、「自分らしく生きてみようと決心した。」その経験が記された後に、東大前の路上での殺傷事件を知り、「自分の過去が思い出された。私は見知らぬ人の親切に出会い、気持ちを切り替え予備校生活に向かうことができた。少年は『成績が上がらず、自信をなくした』と供述したと言うが、彼が絶望しかけたとき、心の叫びを聴いてくれるような大人との出会いはなかったのか。この先長い彼の人生を思い、惜しまれてならない。」と書いてありました。私が思っていたことを代弁しているように思ったのです。この投書は、この高校生に対して深い同情を寄せている文章なのです。17歳で将来のある高校生がこれからどのようにして生きていくのか、と心配になるのです。

 主イエスの弟子の一人であるユダと言えば、一般に裏切り者として知られています。「あいつはユダだ」と言えば、人や組織を裏切った者であることを意味します。しかし、ユダが主イエスを裏切った者だ、と断定すればそれで済むのかと言うことです。

 本日の説教を準備して新しい気づきを与えられました。私たちにとってつらいことの一つに、信頼していた者に裏切られることがあります。信頼していたのに、裏切られる経験をする、私たちは深く傷つき、人を信頼できなくなるのです。一人の人に裏切られると、その後、人間不信に陥り、この人も自分を裏切るのではないか、と疑いの思いを持つのです。信頼関係が長く続いて、良い関係を保つことができれば良いのですが、人間の心は複雑で、あることがきっかけになって、気持ちが変わることがあるのです。私たちは、相手に対してこうであって欲しい、こうあるべきだ、こうでなければおかしい、と言う前提をもって相手に期待をしています。私たちは、家庭、学校、職場、教会で、相手にこうあって欲しい、こうあるはずだ、こうでなければいけない、と相手に期待をしているのです。それが叶えられないと、期待外れになり、失望するのです。

 ルカによる福音書22章1−6節には、主イエスの弟子の一人である、イスカリオテのユダが登場します。ユダは、主イエスの弟子として召しを受け、主イエスのそばにいて、主イエスの働きを助けていたのです。

 使徒言行録1章17節に「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。」とあります。主イエスは、使徒としてユダを任命されています。使徒とは、「派遣された者、全権を委任された大使、使節」であり、他の弟子たちと同じく福音の伝道に召された者であるのです。ガリラヤでの三年間、主イエスの活動に参加して、主イエスが語る福音を伝える手伝いをしていたのです。

 主イエスは自分の都合や好みで弟子たちを選んだのではなく、弟子たちを選ぶにあたって「使徒」にふさわしい者を立ててくださるように、神に祈ったのです。そして主イエスは常に、弟子たちが福音を伝える時に直面する困難を思い、神が弟子たちを守ってくださるように、弟子たちの弱さをも考えて、神に祈ったのです。主イエスが、ユダを選んで弟子として立てたにもかかわらず、裏切られたことは、主イエスが弟子を選ぶのに失敗したということではないのです。ユダも自分が主イエスを裏切るために弟子になったのではなく、主イエスの神の国を伝える活動に参加していたのです。

 ユダは弟子の中で、会計係をしていたと言われています。ユダが登場する場面で、私が深い印象を持った場面があります。それは、マグダラのマリアが「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。」(ヨハネ12章3節)のです。主イエスの足に惜しみなく高価な香油を注いだことに対して、ユダが次のように発言しているのです。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ12章5節)ユダは、香油の値段を知っていて、この香油が、一年分の給料に相当するものであることをすぐに計算することができたのです。この女性の行動が、ユダにとっては、常識はずれの行動に映り、この振る舞いを批判したのです。一瞬のうちに一年分もの給料に相当するお金に相当する香油をすべて使ってしまうことは、無駄であり、貧しい人々が食べるのに困っているのだから、貧しい人々のためにお金を使うことは意味があると考えることは道理であるのです。

 しかし、主イエスは、ユダの発言に対してヨハネよる福音書12章7−8節で、反論していまです。「イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつまでもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。』」葬りの時に、遺体を油で拭く習わしがあり、マリアは、ただ、主イエスの十字架の死を思い、葬りの用意のために香油を注ぎ、十字架の死に向かう主イエスを祝福しているのです。しかし、ユダは、主イエスがこれからどのような歩みをするのかに関心がなく、この女がしていることは、非常識だと思っているのです。このところでユダは、既に主イエスのことよりも、自分の考えていることが正しいと思っているのです。

 主イエスがどのような方であるかは、主イエスがなさったことを考えれば分かることです。ヨハネによる福音書13章には、主イエスが弟子たちの足を洗ったことが詳しく語られています。「足を洗う」というのは、宴会に招いた客をもてなす作法の一つで、サンダルをはいていたので、宴会に招かれて来る人の足は土埃にまみれ、サンダルのひもが足を締め付け鬱血しており、そのため足を洗うことがもてなしの一つと考えられていました。この奉仕は奴隷が行っていたのです。ところが、主イエス・キリストはその奴隷のすべきことを自ら行ったのです。

 13章1節に「さて、過越祭りの前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。足を洗う、それは足についた泥、埃を水で洗い落とし、足を綺麗にすることですが、この振る舞いによって、主イエスは弟子たちを深く愛していることを明らかにしたのです。この振る舞いによって、主イエスは人間の罪の汚れを洗い落とし、人間を罪なき者とするのです。私たちキリスト者は、地上で自分の弱さによって罪を犯し、失敗して汚れるのです。主イエスは、足を洗うことによって、救いに与った人間のもつ汚れをも主イエスが引き受けることを明らかにしています。このことは主イエスが十字架に架かることの意味をよく表しています。

 ところが、13章2節で「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とあります。主イエスが弟子たちの足を洗う、それは人間の罪を御自分の罪として引き受け、罪を贖うことを表しているのですが、ユダにとってその良い知らせは、人間を救うことにはならないと考えるようになったのです。ある説によると、ユダは、この当時、シカリ党という政治的結社に属していたと言われます。「シカリ」という言葉は、「短刀」という言葉です。自分たちの政治的な目的のために、政府の要人を誘拐して、短刀で脅す、そのような結社に入っていたという説があるのです。

 ユダは主イエスが三度も自分が十字架にかかり、復活することを予告する言葉を聞いて、自分が主イエスに期待していたことと、主イエスが目指していることとがかなり違っていることに気がついたのです。主イエスは政治的な解決を求めて活動をしないし、主イエスが目指しているのは、自分が考えていることではないことだと確信をもったのです。

 主イエスの活動の根本は、神の国が到来することです。主イエスが目指していたのは、イスラエルが独立国家になることではないし、人々の暮らしが経済的に豊かになるために良い政治が行われることではないのです。主イエスが失われた羊の譬えで、羊の群れから離れてしまった羊を羊飼いが捜し出し、羊の群れに引き戻すことを語っていますが、主イエスが願っていることは、神から離れてしまった者が神のもとに帰り、神との関係が正常な関係になり、主イエス・キリストの十字架の死によって神との和解が成立することなのです。

 ユダは、人々の地上の生活が良くなるために、どうすれば良いのか、を中心に考えているのです。主イエスが目指す神の国については関心がないのです。ユダはこの地上の現実的な救いを考えているのです。主イエスが語り、行動する神の愛による支配は、現実的ではないと判断したのです。ユダは主イエスを裏切った悪い奴だ、と思っています。しかし、このユダは、私たちにとって身近な存在であるのです。ユダは、キリストの十字架による救いは、現実的ではない、言っていることはきれい事だ、観念的なことだ、と考えているのです。礼拝説教で、キリストの愛を語るのは美しいけれども、非現実なことだ、キリストを信じることは実生活には何の役には立たないことだと考えるのです。

 私が、和歌山の田辺教会に在任している時に、創立の時からの教会原簿を見ていた時に、荒畑勝三という人が洗礼を受けたことが記されていました。現在では、ほとんど知られていない人ですが、この人は荒畑寒村という社会主義者でした。田辺教会の信徒でしたが、後に社会主義者に転向した人です。キリスト教会の教えに共鳴して、洗礼を受けましたが、キリスト教会が教える救いでは、現実の人間を救うことができないと判断して、キリスト教会から離れ、社会主義者に転向したのです。

 何が現実的なのか、ということです。この地上で、経済的に豊かである、そういう社会を造ることが現実的なことだ、と考えることが一般的です。しかし、そうではない、この地上で生きるためには、物質的なものは必要なものであるけれども、私たちのいのちがほんとうに生き生きとするには、神が私たちの罪を赦し、神に愛され、隣人との愛に生きることなのです。このことが私たちの魂を支えて、心豊かな生活を潤す、生きる基礎になり、最も現実的なことだと信じているのです。しかし、幸福が目に見える物質的な豊かさで計られるので、神の愛とか、罪の赦しは観念的なことで、必要ないと考えるのです。キリストの福音が私たちのいのちを生かすもので、このことが最も現実的なことであると考えることができないのです。ユダは主イエスの福音の伝道を手伝って来たのですが、主イエスが目指すことと、ユダが目指すこととが食い違うことが分かったので、主イエスからユダの心が離れていったのです。

 ルカによる福音書22章3節には「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」と書かれています。サタンとは悪魔のことですが、サタンは、私たちの中に入って来て、悪を企むのです。主イエスの弟子であるのに、主イエスをこの当時の権力者たちに手渡してしまうのです。そのような行動を促したのは、サタンの働きなのです。このことは私たちと無縁ではありません。相手に対する嫉妬心、憎しみ、など多くの心の闇を抱えているのです。それは悪魔の仕業なのです。

 銀貨30枚で、ユダは主イエスを祭司長たちに引き渡しました。銀貨30枚と言うのは、どの位の価値があるのでしょうか。旧約聖書の出エジプト記21章32説に記されていますが、飼っている牛が、別の人の奴隷を突いて殺してしまった時、支払うべき賠償金は銀30シェケルでした。従って、この当時では奴隷一人の値段でした。主イエスがおられた、この当時と昔とは貨幣価値が変わり、銀貨30枚で奴隷を買うことは不可能です。その何倍のお金を支払わなければ、一人の奴隷を買うことはできなかったのです。このユダは奴隷一人も買うことができない、安い値段で主イエスを売ったのです。一人の人をいくらであると値段をつけて売り飛ばすことはあってはならないことです。主イエスという神と同じ方、人となられた神が不当に安く買いたたかれるのです。

 ルカによる福音書22章7−13節には、この時が過越の祭の時期であったことが記されています。過越の祭、それは、イスラエルの民が奴隷として強制労働をさせられていた時に、イスラエルの民の苦しみと叫びを神が聞き届けて、モ−セによってエジプトを脱出させられたことを記念する祭りです。この時、家の柱に羊の血が塗っている家には、神の呪いが過越し、神によって、エジプトの奴隷から解放されて、パレスチナに向かうことができたのです。このことを心に刻むために、それぞれの家庭で、過越の食事をするようになったのです。神の救いの行動を思い起こしながら、神の救いをほめ讃えて、過越の食事をしたのです。

 この過越の時に、主イエスは、すべての人の救いをもたらす、十字架の贖いのために、逮捕され、十字架にかけられたのです。

 3年の間、神の国を伝える、その働きを主イエスと共にした弟子の一人であるユダに裏切られることは、主イエスにとって痛みと、辛さを経験することですが、主イエスは、十字架の死を神の御心として受け入れ、神からの使命を果たそうと十字架への道に向かっていくのです。

20220213  主日礼拝説教    「神の言葉は滅びない」  山ノ下恭二牧
(エレミヤ書33章6−16節、ルカによる福音書21章20−38節)


 今年の冬はことのほか寒く、1月に雪が降り、先週も雪が降りました。しかし、最近は、木の芽も出て、春の訪れを感じ、季節も移り変わりつつあります。主イエスは、御自分の死を目前に控えている時に、一つの譬えを語っています。この譬えは、主イエスが語られた最後の譬えです。ルカによる福音書21章29−31節「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。』」いちじくの木、そしてすべての木が芽を出すと、夏が近いことに気づくのです。木々が芽を出し、つぼみが膨らみ始めることで、季節が移っていることが分かるのです。日本では、冬から春へ、春から夏へ、ゆっくり季節が移り変わるのですが、パレスチナでは、冬から夏に、突然変わると言われています。「これらのことが起こるのを見たら」戦争、暴動、疫病、迫害が起こるのは、終わりのしるしであり、それは神の国が近づいていることを悟れと語るのです。

 皆さんは、ここで、「神の国」という言葉が語られていることを不思議に思う人がいると思います。「神の国が近づいた」という言葉は、主イエスが、伝道活動を始めた時に、用いた言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)主イエスは、「神の国は近づいた」という言葉をもって伝道活動を始めたのですが、それは神が人々を深く愛していることを、主イエスの活動によって伝えようとしたのです。主イエスは重い病に苦しむ人々の病を癒やしたのです。病は、死と隣り合わせであり、その病で疲弊し、生きる望みを失っている人々の命を回復させたのです。そして主イエスは、この当時、最底辺で生きていた人々を相手にして付き合い、罪人、徴税人という誰も相手にしていない独りぼっちで生きている人々を招いて共に食事をして友となったのです。そして、わかりやすい譬えを用いて、神の国がどのようなものか、いかに神が憐れみ深い神であるかを人々に語ったのです。そして、最も重要なことは、主イエスが私たちの罪を贖うために、私たちのすべての罪に対する審きを受けて、十字架で死んで下さったことによって、神の国が来たのです。神の愛の支配が、主イエスによって私たちにもたらされたのです。

 「神の国」は、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪が赦され、神との和解が与えられたのですが、神が神であることがはっきり分かるのは、終わりの時であるのです。神が、自分のまことの神であることが明確に分かる時が来るのです。私が高校生の時に、新教出版社の青少年雑誌「つのぶえ」を購読していて、この雑誌がきっかけとなって、ある教会に通っている鎌倉にいる同学年の男子高校生と長く文通をしていました。その人は他の教派の牧師になったのですが、手紙でその高校生の人となりは分かりましたが、実際に会ったことはないので、どのような人なのか、実際に会ってみたいと思ったことがあります。今、私たちは、キリストがどのような方なのか、おぼろげに見ているのです。しかし、再臨の時には、はっきり、キリストを見ることができるのです。コリント一 13章12節に「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

 キリスト教会の信仰告白では、主イエス・キリストが再び来られることを再臨、審判、終末と言う言葉で表現しています。ルカによる福音書21章には、再臨について語っているのです。21章27節には「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」と語られています。再臨を英語でセカンドカミング、「再び来る」、リタ−ン、「帰って来る」と言います。最初のキリスト教会は、いつも礼拝で「マ・ラタナ」[主よ、来てください](コリント一 16章22節)と互いに挨拶を交わしていたのです。私たちは、いつもこの礼拝で使徒信条を告白していますが、「かしこより来たりて、生ける者と死ねるものとを審きたまわん。」と告白しています。

 この21章には、終わりの時に、戦争や暴動、疫病、迫害が起こることが記されています。現在、地球的規模で、トンガでの火山の噴火、地球温暖化による水害や山火事、が起こり、戦争が始まるという報道が伝えられると、私たちは、地球が破滅し、この世の終わりが近いと心配するのです。私たちが実際に恐れていることは、疫病が流行し、終息しないことですし、首都直下型大地震がやってくることです。

 聖書は、黙示文学の影響を受けて、戦争や、大災害など、この世界で起こることと、キリストが再臨することを直接結びつけて語っているところが多いのです。しかし、重要なことは、主イエス・キリストが再び来られることを強調していることです。

 再臨を信じる、再臨の信仰は、キリスト教の教えの中で、難解なものだと言われています。2千年前にこの地上に来られた主イエスが、再び、いつ来るのか、ということは誰も分かりません。どのような形で再臨があるのかも誰も分からないのです。終わりにおいて、神がすべての事に決着をつける、このことは、私たちの日常生活で起こるとは考えられないのです。これからも私たちの毎日の生活がいつまでも続くと思っています。人類の歴史は、いつまでも続くと考えているので、主イエス・キリストが再び来て、審判するということは考えられないのです。

 皆さんは、本日の聖書の言葉を読んで、気づいた人もおられると思います。それは「見る」という言葉が多く用いられていることです。今、生きている現実を自分の肉眼で見る、そのような眼差しではなくて、私たちはもう一つの眼をもっているのです。それは神が与えて下さっている信仰の眼差しなのです。神が提供して下さっている霊的なまなざしをもって見ることができるのです。肉眼では見えない、神から与えられた信仰のまなざしで見ることができるのです。27節で「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」この「見る」は、私たちが神から与えられた信仰の眼差しをもって、主イエス・キリストが来られることを確かに見ることができるのです。肉眼では見えない、しかし、神が与えて下さった目をもって見るならば、神が新しく切り開いてくださる世界を見ることができるのです。

 ヨハネ黙示録には、ロ−マ帝国の激しい迫害の中で、この地上で起こっていることに目を奪われることなく、天上で起こっている礼拝に目を留めるように勧めています。キリスト教会が天上の教会と深くつながっていることを見るように語って、気落ちして、苦労しているキリスト者を慰めているのです。私たちは、この地上で失望することがあり、多くの試練や困難に遭って生きることが重荷に感じることがあります。しかし、キリストが再び、来られて、私たちを慰め、励ましてくださるのです。

 33節には「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と語られています。神の国が来る、キリストが再び来られるということは、造られたものが、滅びることなのです。神が造られたものは永遠なものではないので、なくなってしまうのです。

 しかし、「わたしの言葉は滅びない。」のです。天地のすべてのものは、滅びの中に落ち込んでゆくような時にも、その滅びに逆らって立ち向かうものがある、それは主イエスの言葉である、と言うのです。主の言葉を聞くことができる場所を私たちは持っています。それは、キリスト教会の礼拝なのです。キリストの言葉を聞く場所として、礼拝があることを私たちはよく知っておく必要があります。キリストの声が聞こえなくなったら、教会はもうお終いです。偉い人の講演を聞く場所であったり、ただ良い話を聞くために集まっているなら、それは教会の礼拝にはならないのです。思想も哲学も流行も変わるのです。私が学生の時にはキルケゴ−ル研究会があり、この実存哲学者の書物を読んでいましたが、今はこの哲学者を知らない人も多いのです。文語訳では「天地は過ぎゆかん。然れど我が言は過ぎゆくことなし」と訳しています。私たちの教会が小さな教会の群れであっても、教会堂が地震で倒れたとしても、キリストの言葉は滅びない、過ぎゆかない、と信じているのです。

 主イエスは、34節で、再臨のキリストに裁かれないために、私たちがどのようなことに注意して生活をすれば良いのかを語っています。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」「心が鈍くなる」とは、感覚が鈍麻してしまうことです。「放縦」とは自分が勝手気ままな思い、自分が好きなように過ごそうとすることです。それは自分の勝手だから、好きなように生活するのは当たり前だ、という思いで過ごすことです。「深酒」、酒をよく飲んで酔うと、感覚が鈍くなる、自分が何をしているのか、自分が分からなくなるのです。なぜ、酒を飲んで酔っ払いたい、と思うのか、それは今のことを忘れて、感覚を鈍麻させたいからです。酒を飲まないと、神経が鋭いので、ストレスになり、自分が参ってしまう、ストレスにまいらないように、飲んで酔っ払いたいと思っているのです。「世の煩い」、私たちは毎日、多くの思い煩いを抱えています。何を食べようか、何を着ようか、と思い煩うのです。

 キリストを迎える生活は、一般の生活のスタイルと異なっています。一般には、この地上の生活のみに関心があります。物質的に豊かで、精神的にも安定し、これからの生活も困らない、そういう生活を望んでいます。地上の生活が終わるまで、心楽しく過ごしたい、という思いですごそうと願っているのです。しかし、私たちキリスト者の生活のスタイルは、神という主人をもっているので、生活の仕方が異なるのです。36節に、「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚ましていなさい。」キリストが再び来られる時、私たちはキリストの前に立つことになります。自分の今までの生活を顧みて、キリストの前に立ち、自分の今までの生活が恥ずかしいものであり、とてもキリストの前に立つことができない、そのようなことにならないように、と勧めているのです。キリストが再び来られる、それは審判であるのです。

 「目を覚ましていなさい。」目を覚ます、それは眠らないでいるということではなく、神に心を向けていることを意味しています。自分の好きなように勝手気ままに過ごすのではなく、神に対して心を向けて生きていくように勧めているのです。

 コリント二 5章10節にこう書かれています。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(新約p330)「報い」とあります。キリストの裁判の座に、私たちが出て行くと、自分の行ったことに応じてそれぞれ報いを受けることになると語られています。キリストの裁きの座で神に心を向けて生きてきたのか、と問われ、神に心を向けて生きてきたとは言えないと答えると報いを受けると書かれているのです。それは私たちには困ったことになると思うのです。自分のこれまでの歩みがすべて神の喜ばれるような生活とは言えないからです。人には知られたくない失敗や過ちもあるのです。しかし、再臨のキリストの前では誤魔化しはきかないのです。自分のしたことを精算しなければならないのです。そう思うと、再臨は、恐ろしい時だ、と思う人もいるかも知れません。しかし、ここでは、キリストの審判の前に立つことがあることを心に留めながら、イエス・キリストに喜んでいただけるような生き方をするようにと勧めているのです。

 パウロは、一所懸命伝道したから、キリストの裁きの座に喜んで出ることができるから良いけれども、自分はその審判の座で、キリストが自分を怒ったような顔で、にらみつけて、お前は失格である、と審判を受けるかも知れないと心配するかもしれません。そのように心配するのは、地上の裁判のことを考えているからです。悪いことをしたら、裁判にかけられて、有罪の判決を受ける、そのようなことを考えているからです。

 イエス・キリストがこの地上に来られて、私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださった、そのことによって神は私たちに、神の愛を明らかにしてくださったのです。神の愛を明らかにしてくださったキリストと全く異なる、別の神が再び、来られるのではないのです。最初は優しい人が来て、二度目には怖い人がやってくるのではないのです。私たちの救いのために、罪の審きを受けた、同じキリストが再臨の時に来られるのです。

 再臨の時のキリストは、私たちの罪を取り除き、贖った、同じキリストが再び来られるのです。

 私たちは、キリストの審判があることをいつも自覚しながら、キリストによる罪の赦しを信じつつ、神に喜ばれる歩みをしていく者でありたいのです。

20220206  主日礼拝説教    「自分の魂を獲得するために」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書25章4−10節、ルカによる福音書21章5−19節)


 コロナ感染が急拡大し、2月2日には、東京都の感染者が2万人を超えました。日本では、2年前の冬にコロナ感染が始まってから、今もなお、感染が終息していないのです。感染が広まってから、私たちの生活が変わりました。感染が始まる前までは、自由に外出していたのですが、コロナ感染が広がってからは感染することを恐れて、最低限の外出だけにしている人も多いのです。そのために、行動範囲が狭くなり、家にいる時間が増えました。感染しないように、外出したくても、外出を控え、我慢しているのです。今年の春には感染が終息するかと思っていましたが、まだ終息しないので、私たちにはしばらく忍耐が必要です。

 本日の礼拝で読みましたルカによる福音書21章19節には、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と書かれています。新しく翻訳された聖書協会共同訳では「忍耐によってあなたがたは命を得なさい」とあります。カトリック教会のフランシスコ会訳では「あなたたちは耐え忍ぶことによって自分の命をかち取るであろう」とあります。耐えてさえいれば、自分の命を保ち得ると言うのです。  

 皆さんも経験があると思いますが、傘を持たずに家を出て、用事が終わって帰ろうとしたら、雨がざあざあ降ってきて、商店で雨宿りしていて、雨が止むのを待っていたけれども雨が降り止まない、ずうっとこのまま待っているのも辛いという時があります。家に帰りたいけれども、雨が降り止まないので、他のどこにも行きようがないことがあります。

 わたしたちは、自分なりに辛いことを経験します。皆さんもそれぞれ辛いことを経験してきたのです。そのような時に、町で出会う人たちが幸せそうに見えるのです。どうして自分だけが辛い目に遭って忍耐しなければならないか、と思うのです。

 東大宮教会に、大きなクリーニングの会社に長く勤めて、退職した人がいました。この人は、礼拝後、教会に来た大学生が就職活動をしていると言うことを聞いて、会社での自分の経験を大学生に話しているのが聞こえました。「会社に勤めて大事なことは、どれだけ我慢できるかだ。我慢することが一番、大事だ。そうすれば良いことがある。」と言っていました。この人は自分の長い職場での経験から学んだことを若者に伝えているのです。会社に入って、この仕事は自分に向いていない、上司が厳しくて文句ばかり言って仕事を続けたくない、様々な理由で会社を辞めてしまう、そうではなくて、逃げないで、じっと辛抱していれば、良いことがあるので、我慢することが大事だと言うのです。

 新約聖書のヘブライ人への手紙は、忍耐と言う言葉が多く出てきます。この手紙は、ロ−マ帝国の迫害を受けて信仰が揺らいでいる信徒たちを励ましている手紙です。迫害を受けて動揺し、キリスト者であることを辞めようと言い出している信徒たちに、この手紙は、キリスト者であり続けるように励ましているのです。丁度、マラソンで走っている途中で、走るのが苦しくなって、棄権しようと思っている者に、途中で走ることを止めないで、最後まで走り続けようと呼びかけているのです。そして集会を続けることは大変だから、集会を止めて、神の言葉を聞くのも止めようと思っている人たちに、集会を止めないで、忍耐して神の言葉を聞いていこうと呼びかけているのです。ヘブライ人への手紙10章36節には「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(新約p414)と語っています。

 忍耐と言うことを、自分でじっと我慢する、その意味で聖書は言っているのでしょうか。長い間、我慢する、我慢できれば良いのですが、我慢できないで、切れて感情が爆発してしまうことがあるのです。我慢できない人が「他の人は、あなたよりも辛い思いをしているけれども、耐えている、我慢している。あなたは、我慢が足りない。」と言われるかも知れないのです。しかし、聖書で語る忍耐とは、じっと我慢していなさい、と言っている訳ではないのです。

 先日、ある知人の息子さんが、成人式を迎えたことを知り、自分は成人式に出席しなかったことを思い出しました。1970年に私が20歳になったのですが、この時は東京神学大学の紛争が激化中して、1969年の9月から半年の間、大学の本館がバリケード封鎖されて、授業が行われていない時期でした。私は、これから、大学がどうなるのか、授業の再開も見通せないの中で、成人の日を迎えました。そのような状況の中で、三鷹市民会館で行われる成人式には行く気持ちになりませんでした。この時、私は心の中で「今は我慢の時だ」と思っていたのです。

 いつ大学の紛争が終わるのか、見通しがない中で、私には慰めと平安が与えられる時間がありました。それは日曜日に教会に通って、礼拝を守り、御言葉を聴いていた時間だったのです。教会の仲間が心配してくれて、この仲間に励まされたのです。聖書が語る忍耐は、その時にじっと忍耐してその時が過ぎ去るのを待つと言う忍耐ではなくて、嵐の中で、なおも平安がある、そういう忍耐なのです。紛争の嵐の中でも、平安が与えられたのです。紛争の嵐の中でも、教会に通って礼拝を守り、神の言葉を聞いてきたことが耐える力となったのです。「耐える」ということは易しいことではありません。しかし、忍耐できるのです。それは、深いところで私たちが神に慰められているからです。

 毎年、冬山登山でよく遭難して亡くなる事故があります。遭難した時に、スマホで外部に連絡ができて助かったと言うことがあります。山道で迷い、孤立して、そのうちに雪が降り続いてしまう、その時に、外との連絡ができて、助けられることがあります。自分ひとりで、じっと我慢して耐えるということが忍耐というのではなく、外の者といつも連絡ができて、助けに来てくれる、そのことがあるから、今の時をじっと耐えることができるのです。

 世の終わりについて主イエスが語っているところに「忍耐」という言葉があります。21章10−11節には、大地震や疫病、飢饉が起こり、そして政治的な混乱が起こり、天変地異があり、この世の崩壊が起こる、とあります。そして教会への迫害が起こると語っているのです。

 12−13節には、災害や政治的な混乱の前に、私たちの身近なところで迫害が起こると警告しています。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証をする機会となる。」この世の権力者だけではない、自分の親族や友人でも、自分をそしり、憎み、殺すことも起きる。その理由はキリスト者として生きて行こうとするためで、そのような辛いことを経験すると言うのです。なぜ、そのようなことを言うのでしょうか。それは、主イエスご自身が王や総督の前に引き出され、尋問を受け、人々によって十字架につけろと糾弾されたのです。

 使徒言行録においても、使徒たちは、その当時の権力者によって憎まれて石で打たれて死んでしまう物語が記されています。13節に「証をする機会になる。」この「証」と言う言葉は、殉教という言葉になったのです。権力者のまえで、裁判の時に、福音を証するよい機会となり、信仰を堂々と語ることができると言うのです。

 そのような時に「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」と語ります。裁判で、自分がどのように弁明するのかによって量刑が決まることがあるので、前もって言葉を用意する裁判の前夜は、眠れないことがあります。自分がこう言うと、相手はどう反応し、どう問い詰めてくるのか、びくびくしながら、裁判の時を待っているのです。しかし、ここで主イエスは、そのような心配は要らないと言うのです。主イエスが言葉も知恵も授ける、と言うのです。21章15節には「どんな反対者でも、対抗も反論できないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」とあります。  裁判において、相手の言葉に惑わされず、自分がしっかり弁明できるように、自分が言葉を用意する、しかし、それは要らない、自分を守る必要がないのだ、と言います。18節では自分で、自分の髪の毛一本をも守ろうとする必要がないと言うのです。それは、神が、反対者に勝利する言葉と知恵をもっているからだ、と言うのです。

 一般には、何事でも我慢が大切だ、我慢していれば良いことがある、と教えます。しかし、自分が一人で我慢すれば良いというのではなくて、ここでは、自分の心の深いところで、神が支えて下さっている、そのことを信頼して委ねることを語るのです。

 フランクルという精神科医師が書いた「夜と霧」という本があります。第二次世界大戦で、ナチス・ヒットラーがユダヤ人絶滅のために、各地に収容所を作って、600万人のユダヤ人を殺害したのです。フランクルはユダヤ人であったために、収容所に送られ、収容所で生活し、そこでの体験を踏まえて、「夜と霧」を書いたのです。収容されているユダヤ人たちにとって自分たちの唯一の希望は、生き延びて、この収容所から解放されることでした。解放される日を期待し、待ち望んでいたのです。フランス、イギリスなどの連合軍が来て、解放される日が来る、その日が何月何日だという話を信じていたのです。しかし、実際には連合軍が来ることがなく、解放されなかったのです。連合軍が来ることを信じていた多くの者が希望を失って死んでしまった、と書いてありました。

 それに反して、連合軍が来て解放されることにのみ望みをおかずに、自分には生きていく使命があると信じた人々は生き延びたと言うのです。自分の期待が叶えられることに希望をもって待っていても、それが叶えられないと失望してしまうと言うのです。自分が他のものに期待するのではなく、自分が人生から期待されていることを受け止め、自分には生きる意味があり、使命があると信じている、このことは生きる原動力になる、と書いてあるのです。

 聖書が語る忍耐とは、自分が我慢することができることではなく、自分の外側にある、神から与えられた言葉によって、耐えることができるのです。

 ある時、テレビでアウシュビッツ収容所での生活をして、生き延び、戦後も生きてきた、あるユダヤ人の話を聞いたことがあります。ある年の冬に、収容所から逃走した人がいて、その罰として、同じ宿舎の全員が、雨の降り続ける中で、長い時間、広場に立たされた時のことを話したのです。長い時間、動いてはならないと言われて立たされて、その時がとても辛かったと言うのです。その人が、その時をどのように耐えたのか、を話したのです。

 ユダヤ教の教育は、幼い時から子どもたちに徹底的に聖句暗唱をさせるのです。聖書の創世記からマラキ書までの聖句を暗唱させるのです。このユダヤ人は、雨が降り続く中で、雨に打たれながら、創世記の「はじめに神は天地を造られた」という言葉から、マラキ書の終わりの言葉まで口の中で唱えて、その聖書の言葉に支えられながら、その時を耐えたと言っていたのを良く覚えています。雨が降る寒い中を長い時間、立たせられている、それは耐えることが難しいことです。しかし、自分の外の神の言葉によって、忍耐することができたのです。私たちは、神から与えられる、外なる言葉、神の言葉を聞くことによって、今のこの時を耐えることができるのです。

 「耐える」ということは、ひとりではできないのです。本日、読みましたところには、「あなたがた」という言葉が多く出てきます。災害や、政治的な混乱、迫害、そのただ中に置かれる、教会の、私たちのことに心を向けながら、主イエスは「あなたがた」と語るのです。21章の12節から18節まで6回も主イエスは「あなたがた」と語り続けているのです。

 山で遭難したことをスマホで知り、山岳救助隊の隊員が、スマホで、安否を尋ねているのです。「どこにいますか。大丈夫ですか。いるところを教えてください。すぐそちらに向かいますから、動かないでください。」と伝えるのです。山で遭難した人は、助けに来ることを知って、その場を動かないで、希望をもって待つことができるのです。独りでは何もできないのです。独りであれば、光は見えてきません。しかし、神が言葉をもって私たちの近くにきてくださるのです。語りかけてくださるのです。私たちが主の日ごとに、礼拝を止めないのは、折あるごとに共に集まり、聖書の言葉を聞き、共に祈り、共に讃美することによって、私たちは、自分が支えられて、この時を耐えることができるのです。

 21章18節に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と語られています。この「命」と翻訳されている言葉は、「プシュケ−」という言葉です。この言葉は「魂」と訳すことができます。「命」というと、心臓を考えますが、その意味ではないのです。私たちは心の深いところで、神とつながっているのです。魂の深いところで神と出会っているのです。自分の魂を神がしっかりと握っている、自分のいのちは、神の永遠のいのちとつながっていることを知っているので、今の時を忍耐することができるのです。

 最初の教会は、200年もロ−マ帝国の迫害に遭遇したのです。迫害されて自分がどうなるのか、いのちの危機に遭遇したのです。そのような状況の中で、福音書記者のルカとマタイは、主イエスの言葉を伝えて、教会の信徒達を力づけたのです。ルカによる福音書とマタイによる福音書には主イエスが語られた、同じ言葉が記されています。マタイによる福音書11章28−31節を読みます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(新約p18)

 何も光が見えないで、苦しみ、辛い時があります。闇の中を歩むような、ひとりぼっちであるかのような時にも、自分の外から光が射してくるのです。その光に支えられるのです。だから耐えられるのです。神が私たちの存在そのものを握っているので、他の者は手を出すことができないのです。自分の外から、神が自分に語りかけてくださる、その時に私たちの魂が支えられて、耐え忍ぶことができるのです。

20220130  主日礼拝説教    「心を込めてささげる」  山ノ下恭二牧師
(歴代誌上29章13−14節、ルカによる福音書20章45−21章4節)

 
 主日礼拝でしばらくルカによる福音書を続けて学んでいます。本日は、20章の終わりの部分から21章の始めの部分を、読みました。このところは、主イエスが十字架の苦難を受ける時が間近かである、その時に起こった出来事であったのです。主イエスの十字架の処刑の日が近づいているのです。主イエスの受難の歩みは、とても孤独なものでした。主イエスは、最後には、独りきりで十字架に架けられたのです。主イエスの周りには、弟子たちがいましたが、弟子たちは主イエスの心を理解していませんでした。主イエスが苦しんでいることなど、全く気がついていませんでした。主イエスについていけば、自分たちが大臣などの重要なポストにつくことができるかもしれないと夢を見ていたのです。その意味で、主イエスと弟子たちの間には、大きなへだたりがあったのです。そのように独りで歩んでいく主イエスが、目を留められたひとりの婦人の物語が、21章1−4節に記されています。

 主イエスは、レプトン銅貨二つを神殿においてささげているやもめを見たのです。ある注解者は、ここで主イエスはこのやもめと出会ったことをとても喜んだと解説をしています。主イエスの受難の歩みは全く孤独なのではなくて、この婦人と出会って、とても励まされたのです。この注解者は主イエスとやもめとが「出会った」と解説していますが、出会ったとは言えないのです。実際には、この婦人と主イエスは話をしていません。このやもめがしたことについて、主イエスが意見を述べただけです。出会いとは相手と会話し、互いに交流することですが、この女性のしたことについてコメントしただけです。
 
 20章45−47節に続いて、21章1−4節を併せて読みました。この二つの箇所は、別々のことが書かれているのではありません。深くつながっているのです。主イエスは、律法学者たちの振る舞いを批判しているのです。その後に、二つのレプトン銅貨をささげたやもめの物語があるのです。律法学者たちの振る舞いと、このやもめの振る舞いとは、対称的です。律法学者たちについて47節に「やもめの家を食い物にし」と書いてあります。旧約聖書には、やもめを保護し守るように、と教えられています。やもめは、一番、無力な存在であったのです。律法学者たちはやもめの家を訪ね、弁護士のような仕事もしていたようです。しかし、貧困ビジネスと同じように、親切そうにやもめの世話をしているように装いながら、やもめからお金を巻き上げていたのです。やもめを保護するようにという律法に反して、やもめを困らせている、そのような律法の学者の生き方と対比して、このやもめの生き方は神のみこころに従った振る舞いであったのです。

 「レプトン」というお金はどのくらいのお金だったのでしょうか。口語訳では「レプタ」と訳されていましたが、この当時の貨幣では、最小の単位通貨で、一デナリオン銀貨の128分の一です。一デナリオンは一日分の賃金ですが、その賃金をいくらに換算するのかによって、金額は違いますが、一レプトンは、10円−50円位です。このレプトン銅貨は、今の一円のように薄くて軽かったようです。レプトン銅貨二つ、20円から100円ぐらいです。神殿のために使われる献金ですが、二つのレプトン銅貨は微々たるもので、神殿のために役に立つとは思えない金額なのです。献金箱に入れても、軽くてほとんど音がなることなく、周りの者には、このやもめが献金したことも分からなかった、気づかなかったのです。

 日本では、神社やお寺に行って賽銭箱にお金を入れることは多く見られます。しかし、それは自分のために、自分の願いが叶えられるように、自分の御利益を願って賽銭箱に入れているのです。神様にささげるということではないのです。日本では「政治献金」という言葉をよく聞きますが、それは経済界がその見返りを求めて政治団体に入金しているのです。

 東大宮教会では、毎年、12月に浦和の伊勢丹の前で、児童養護施設のために募金活動をしていましたが、通りすがりの人に呼びかけても、募金に応じる人は少なくて、募金した人も少額のお金しか入れないことが多かったのです。神のために、隣人のためにお金をささげる、という文化は日本にはなかったのではないか、と思います。

 私は、聖学院大学で、キリスト教概論を教えている時に、大学では教会の礼拝に出席して説教のレポ−トを提出することを学生に義務づけています。そのために、教会の礼拝について詳しく説明をしてきました。大学の礼拝では、献金がありませんので、教会の礼拝献金について説明をしなければならないのです。献金額についても100円単位の献金をするように話します。教会の献金は神の恵みに対する応答・感謝ですが、学生は献金の意味が分からないし、教会がお金を取るところであると思っている学生もいるのです。

 献金について、私たちは様々な思いを持っています。私は洗礼準備会で、洗礼を受ける人に、献金について話すことがあります。それは、洗礼を受けるということは、お金についての考え方も変わることを話します。洗礼を受ける前は、自分が生活の中心で、お金も自分が好きなように使ってきたのですが、洗礼を受けることは、まず神にお金をささげることになるのです。お金を使う時に、自分の生活を優先して使ってきたのですが、洗礼を受けた後は、神を中心としてお金を用いる生活に変わるのです。ザアカイが、お金をたくさん持つことが生きがいであり、自分の手許にお金をたくさん置いておくことで安心していたのでしたが、主イエスと出会って、今まで持っていたお金をすべてささげたのです。

 私たちは、お金のことを考えない時はありません。朝起きて、夜眠るまで、お金を使って暮らしているのです。持っているお金を何に使うのか、それはその人の生き方、価値観と深く関わります。自分のために使うお金を自分で取っておいて、残りから献金することもあります。財布に入っているお金が少ない時には、その中からわずかなお金をささげることもあります。また、教会の献金は教会の会費のように考えて、いつも同じ金額を習慣的にささげることもあります。どのような思いで献金するのか、それはいつも信仰の姿勢が問われます。それはお金が私たちの生活を大きく左右しているからです。献金するということは、大きな決断が要るのです。

 私たちが献金する時に、どの位、献金するのか、それは大きな問題です。受洗準備会で、ある方から「献金の相場はどのくらいですか」と聞かれたことがあります。人並みに献金しなければ、恥ずかしい、と思って聞いたのです。他の人がどのくらい献金をしているのか、は関係ありません。その人が、信仰によってささげれば良いのです。また献金を教会の会費と誤解している人も多いのです。「献金を払った」という言葉を聞いたことがあります。月定献金は、毎月、定額でささげているので、会費のように理解することもあるのです。月定献金は、一年間の予算があるので、約束した定額で献金してもらわないと、1年間の教会の働きができなくなるのです。しかし、月定献金は、教会の会費ではありません。その都度、ささげるものなのです。習慣的に決まった額を献金するのではなくて、その時、その時に、神にささげる、という信仰をもってささげるのです。

 ルカによる福音書21章2節に「そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見た。」とあります。「見た」という言葉は「セオリー」という言葉です。この「セオリー」という言葉は「じっと見る」という言葉です。そしてこの「セオリー」は、シアタ−と言う言葉になります。「シアタ−」芝居に心を注いでそこに溶け込むようにして集中して観ている観客のように、主イエスはじっと見ているのです。この女性が献金している様子を、ぼんやり見ていたのではないのです。

 この物語で伝えようとしていることは、主イエスが、この女性に眼差しを向けているということです。そしてこの女性は主イエスの眼差しを受けながら、献金をしたと言うことです。

 主イエスは、どのような眼差しでこの女性を見ていたのでしょうか。主イエスは、この女性の生活が貧しいこと、この女性の心、志、思いを、全部、知っておられたのです。知っておられた中で、この女性がささげた献金について話すことができたのです。この女性も他の人が知らなくても、主イエスが自分のすべてを知っていてくださることをよく分かっていたのです。直接、主イエスから声をかけられて、褒められたわけではないのです。しかし、主イエスが自分にまなざしを向けて知っていてくださることをよく受け止めていたのです。神は、この女性がいつも自分の心が神に向けられていることを知っていたのです。そしてこの女性は、神がいつもこの女性の心をみていてくださることをよく自覚していたのです。この女性は神の眼差しをいつも意識しながら、生活をしているのです。献げものをするということは、神の眼差しの中でだけなされることです。

 ところが私たちは献金する時に、他の人の目を意識するのです。あの人はどの位しているのか、献金の相場はどのくらいか、献金の平均額はどのくらいか、どの位、献金すれば恥ずかしくないか、そして自分の生活を考えてしまうのです。自分の収入はこれくらいだから、この位で良いだろう。自分の生活が困らない程度に献金しよう、そのように、まず自分の財布と相談してから、献金をするのです。

 しかし、それは神に対してささげる献金ではないのです。自分の生活を中心にしてささげものをしているからです。信仰に生きることは、主イエス・キリストの眼差しが自分に向けられている、その眼差しの中だけで、生活することです。自分にこだわり、自分の生活の思い煩いからも自由になって、解放されて神の眼差しの中で自由にささげるのが献金なのです。

 このやもめは「生活費を全部入れた」と書かれています。これが私たちの献金のお手本であると言われます。ルカによる福音書21章4節に「この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」とあります。「乏しい」という言葉は「欠乏」そのものを意味する言葉です。乏しいけれども、食べる食料があるという意味の言葉ではありません。何もないのです。レプトン銅貨二枚をささげたら、今日、食べることができないのです。ゼロの中からささげたのです。

 生活費と訳されている言葉は、「ビオス」という言葉です。「ビオス」という言葉は、現代では「バイオ」という言葉の元々の言葉です。「生活」「いのち」と訳して良い言葉です。この女性は「いのちそのもの」を神の前においてしまったのです。私たちの持っているすべては、神から与えられた贈り物です。このいのちも生きる時間も家族も友人もお世話してくれている人々も財産もすべて神が私たちのために用意し、与えたものなのです。わたしたちが与えられたものを神に感謝してささげるのです。

 二つのレプトン銅貨をささげた、それは、神に自分の生活を委ねたのです。自分の手許にあるお金に頼るのではなく、神に信頼して、自分の存在すべてを神の前に差し出してしまったのです。私たちは献金をする時に、自分がいくら献げたかをよく覚えています。献金の祈りの時に「このわずかなものを」「一部のものを」という人がいますが、献金は一部をささげるものではなく、生活全部をささげるものなのです。このやもめは、どのくらい自分が献金をするか、ということもこだわらなかったのです。ただ、神にささげたい、という思いでささげたのです。

 私は「生活費」という言葉に注目します。「生活」「いのち」と言う言葉です。「生活費全部を入れた」と書かれています。このやもめは「生ける神のみ手」の中に委ねてしまうのです。私たちは、お金にとてもとらわれています。そのような思い煩いからこのやもめは自由になって献げたのです。その時々に、自分の生活を考えて献金をするのではなく、自分の生活を神が養っていてくださる、そのような信頼をもって自由にささげるのです。

 主イエスは、これから十字架に向かって歩まれます。その途上でこのやもめと出会ったのです。主イエスが十字架に向かう、それは、主イエスが、ご自身のいのちを献げようとしている時なのです。主イエスが、私たちの罪を御自分のものとして贖いとして御自分のいのちをささげる、そのことをしようとしているのです。それは主イエスが、神に献身する、からだをささげることなのです。その時に、この貧しいやもめが、自分の生活全部、自分のいのちをすべてささげている姿を見て、主イエスはとても喜んだのです。

 主イエスは、神に信頼して貧しい中からささげるやもめの姿を見ることができたことが、主イエスが歩まれる十字架への道を祝福していると思ったのです。この女性が生活全部をささげている、献身している姿は、主イエスご自身の献身の姿を予告していて、それは、主イエスにとって大きな励ましになったのです。

20220123  主日礼拝説教    「神の愛によって支配される喜び」  山ノ下恭二牧師
(詩編110編1−7節、ルカによる福音書20章41−44節)


  コロナ感染が終息せず、オミクロン株の感染が拡大しています。誰でも感染する可能性があり、不安と恐れのなかにおられる方も多いと思います。旧約聖書には、不安と恐れの中にいる私たちを慰める言葉が記されています。詩編91編10−11節に「あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」と書かれています。疫病が流行して、悩み、苦しんでいる者に対して、主なる神が災難や疫病を遠ざけ、神が御使いに命じて、私たちの生活を守ってくださると語っているのです。

  ルカによる福音書20章には、主イエスとこの当時の宗教指導者との問答が記されています。彼らが出した質問は、主イエスを試みるためですが、それだけだはなく、主イエスがどのような存在であるのか、主イエスの正体を知りたいと思って質問しているのです。そのことを主イエスは見破って、20章41−44節で主イエスとダビデとの違いを語っているのです。多くの人々は、主イエスがダビデの再来であると思い、活躍を期待していたのです。この当時、ユダヤの国は、ロ−マ帝国の植民地であり、人々はロ−マ帝国の支配下から脱却して、独立国になりたいと熱望していました。この時代より1000年以上も前ですが、ダビデがイスラエルの王であった時は、広い領土を持ち、外国からの侵略を退け、安心、安全な国として、豊かな繁栄を享受することができたのです。ダビデのような王が出現して、繁栄した時代が再び来ることを、人々は夢見ていたのです。

  このことに対して、主イエスはルカによる福音書20章41節で次のように語っています。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」この当時の人々は、メシアはイスラエルの王になる人だと考えていました。イスラエルの国は、ダビデ、ソロモンの死後、南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂し、南ユダ王国はダビデの子孫が王として統治していたのです。メシアは、ダビデの後継者であると人々は考えていたのです。しかし、主イエスは、そうではないと詩編110編1節の言葉を引用して反論しているのです。この詩編110編は、王の即位の歌ではなく、救い主の即位の歌です。主イエスは自分がダビデの後継としてのメシアなのではなく、私こそメシアなのだ、と語っているのです。

  主イエスは、このメシアは、ダビデ王の枠からはみ出た存在である、と言われたのです。ダビデの後継者がメシアであると言うのではない、人々が予想もできない、全く異なる仕方で、メシアが登場する、それが、主イエスご自身であることを語っているのです。

  主イエスは、人々がもっている願い、要求を退けたのです。それは、ルカによる福音書4章1−13節での「荒れ野の誘惑」の物語にはっきり語っています。    主イエスに対して、この当時の人々の期待や願いを悪魔が代弁しているのです。悪魔が主イエスに石をパンに変えるようにと誘惑しています。ルカ4章3節に「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ』。イエスは、『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある。」悪魔は、人々の願いは食べることに困らず、生活が豊かになることであるから、その要望に応える政治家の道に歩むようにと誘惑しているのです。マタイによる福音書4章には「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』」と旧約聖書の申命記の言葉を引用して、断固として悪魔の誘いを拒絶しています。食べることができて、便利で快適な生活であれば、それで十分だ、ということにはならないのですが、人間は満足してしまうのです。そして、人間は誰でも、自分が認められたい、注目されたいという欲望を持っています。悪魔は、人間が持っている承認欲を刺激して、主イエスがみんなから承認されるために、エルサレム神殿のてっぺんから飛び降りて無事に着地すれば、それを見た人々が、この人こそ、メシアだと賞賛し、神と認めることになると誘惑するのです。しかし、主イエスは、その誘惑を退けて、神を試みてはならない、と叱ります。そして悪魔は、この世界の国々の権力、金銀、財宝を所有することが一切の解決になり、それが、最高に価値あることであるので、悪魔を拝めば、みんな主イエスのものになる、と誘惑するのです。しかし、主イエスは、旧約聖書の申命記の言葉を根拠にして「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』」と答えて、悪魔の誘惑を退けたのです。

 本当のメシアは、人間が求めている御利益をかなえるものではないことをはっきりと語っています。悪魔の誘惑を退けることによって、主イエスは、神がもたらす、まことの救いを人々に届けることであることを、はっきりと語っているのです。信じれば、病気が治り、就職先が見つかり、家族関係もうまくいき、お金もたくさん入る、そのような現世利益を求めて、メシアに期待するのではなく、主イエスご自身が、どのような救い主、メシアであるか、を考えて欲しい、と願っていたのです。この地上の生活が物質的に豊かであれば、すべての問題を解決できるのでしょうか。私たちには、自分の力では解決できない大きな問題を抱えているのです。

 それでは、神はイエス・キリストによって、どのような救いを届けようとしているのでしょうか。週報に書いてありますが、教会の暦では、降誕節の時を過ごしています。主イエスが誕生したことを祝うことは、神が御自分の外に出て肉体を取って、主イエスという人間になられたことを心に刻むことです。主イエスは、罪を犯すことはなかったけれども、私たちと同じ肉体をもって、この地上で生活をされたのです。私たちと同じように苦しみ、悩み、悲しんだのです。主イエスは、その困難をすべて経験し、味わったのです。主イエスが神の世界からこの地上に来られた神であるのです。主イエスは実際にどのような働きをされたのでしょうか。主イエスが最初に活動した場所は、首都エルサレムから、離れた、辺境の地、ガリラヤ地方であったのです。3年間、このガリラヤで活動したのですが、相手にしたのは、重い病気に罹った人々でした。その中には、その人に触ると感染すると恐れられていた人々もいます。主イエスは、感染した人々に触って、その人々を癒やしたのです。また、この当時、誰も相手にしていなかった、「アムハ−レツ」「土地の民」と呼ばれていた人々を相手にしたのです。徴税人、罪人、など、誰も近づいて関わりたいと思わない人でした。その人たちと関わると自分が汚れると考えていました。これらの人々は、自己評価が低く、片隅に生きていた人々でした。しかし、主イエスは、この人々と交際し、食事を共にして、相手にし、その苦しみと悩みを共有したのです。この働きによって、神が自分たちを深く愛していることを、人々は知ったのです。孤独な人々のところに近寄り、神が、あなたを相手にしていることを伝えたのです。

 私たちの力では解決できないことがあります。それは、私たちが死ぬということです。私たちには、死という終わりがあることです。もう一つ、私たちには解決できないことがあります。罪というものを持っていることです。罪が、私たちの生活を妨害しているのです。時代が変わっても、人間の罪はなくならないのです。毎日、新聞やテレビニュースでは、振り込め詐欺やスト−カ-による殺人、ネットによるいじめなど、新しい犯罪が次々と行われて、人々を苦しめ、傷つけているのです。この根底にあるのは、神を神として畏れず、隣人を尊重することなく、自分中心に、自分を優先する生き方にあるのです。私たちの心の中に、相手に対する憎しみや嫉妬、復讐心があることが問題なのです。

 神と私たちの間を引き裂く、罪と死の問題を一挙に解決しようとして、主イエスにその働きを委任したのです。神の独り子が私たちと同じ肉体を取り、私たち人間の罪、その悲惨、痛み、苦しみ、死を共にされたのです。そのようにして神は、私たちと同じ経験をされたのです。しかも、その体験はあの十字架の苦しみに至るまで徹底されたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びは、まさに罪と死に喘ぐ私の苦しみと同じ苦しみを神が体験されたことなのです。

 長谷川和夫という精神科医が亡くなり、1月15日の朝日新聞の夕刊の、「惜別」のコラムに紹介されていました。この人は、キリスト者で認知症の専門家です。認知症についての本を出しています。長谷川和夫さんは、後に認知症になり、それまでは、認知症を研究して知識として知っていましたが、実際に自分が認知症になることによって、認知症の人の心が分かるようになり、子どもや孫が、認知症の人の心が分かるように、「だいじょうぶだよ−ぼくのおばあちゃん」という絵本を作ったのです。主イエスは、実際に試練を受け、苦しむことによって、試練や苦しみに遭う人々を深く同情し、共に苦しむことができたのです。そこで、私たちと主イエスとの魂の触れあいを持つことができるのです。

 19世紀のイギリスの神学者ですが、P・T・フォ−サイスという人がいます。今も、修士論文でこの人が取り上げられて研究されています。余り知られていないのですが、キリストの贖罪の意味について優れた著作を出しています。日本語では「祈りの精神」(後に「祈りの心」)、「十字架の決定性」、「キリストの働き」という本があります。フォ−サイスは、その時代の教会のキリスト者たちが、キリストの十字架の贖いが、私たちの外で起こったこととして客観的なこととしか受け止めていないと理解して、キリスト者が、キリストの十字架の贖いが、自分のために起こったこととして、悔い改めて、感謝をささげる者になって欲しいと願って、「十字架の決定性」「キリストの働き」を書いたのです。私たちは、いつも礼拝での祈りや説教で、キリストの十字架と復活という言葉を聞いているのですが、決まり文句のように聞いていて、特別に自分のための十字架の贖いであることを心深く受け止めていないのです。キリストがどんなに大きな犠牲をささげて、私たちのために働いたのか、私たちは心に留めないのです。気がつかないのです。私たちのために、キリストがどんなに大きな犠牲を払ったのか、そのことを深く心に留めることが重要なのです。コリントの信徒への手紙一 6章19−20節「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」日常生活で、食事の用意をする人は、食事が提供されるために、多くの時間を使って、用意するのです。食材を買い、冷蔵庫で保温し、調理する、そして出来上がって、食事になる、食卓について食べるだけの人は、その料理がかなり時間をかけているのに、特別に思わないで、食べるのです。料理を用意する人の労苦を思わないのです。

 まことの救いは、神と和解することなのです。神との正常な関係を持つことなのです。私たちは、キリストの働きによって、神との和解を与えられたのです。神はイエス・キリストが、私たちに代わって、罪の罰を受けて、死ぬことによって、私たちの罪を赦して、和解を造り出してくださっているのです。私たちの罪を除去するために、神はイエス・キリストによって、罪の犠牲としてささげ、私たちのために代価を払ってくださったのです。このキリストの大きな犠牲、働きによって、私たちは罪を赦され、永遠の神とつながることができ、永遠の命が与えられているのです。そのような神の愛に支配されていることを覚えて、喜び、悔い改め、感謝をしたいと思います。

20220116  主日礼拝説教    「生きておられる神に仕えよう」  山ノ下恭二牧師
(詩編8編、ルカによる福音書20章27−40節)


  2021年7月現在で、日本人の平均寿命は、女性が87歳、男性が81歳とのことです。100歳以上の人々も多くなりました。長く生きることができるようになりました。ただ、健康に生活できる健康寿命は、平均寿命よりも8年ほど、短く、亡くなる直前まで、健康で生活できる人は少ないそうです。高齢になると、誰でもが体が弱り、身体機能が衰え、自分の健康に自信がなくなることもあって、健康に対する関心は高くなるのです。誰でも、元気に過ごしたいと思うのです。テレビのCMで、高齢者に向けての健康食品の宣伝が多くなりました。多くの高齢者は、健康で過ごして行くためにどうすれば良いのか、ということに関心があるのです。しかし、私たちは、いつまでも生きていけるわけではないので、自分が死ぬことも考慮して過ごさなければならないとも思うのです。ただ、自分が死ぬことは余り考えたくないことです。よく考えると、私たちの人生には終わりがあるのです。終わる時間のことを考えて、どのように生きていくのか、どのような終わり方をするのか、そのことを考えていくことはとても重要なことなのです。そして私たちが死んだ後に自分がどうなるのかを考えることも大切なことです。高齢者だけでなく、若い年代の人も、自分の人生には終わりがあることを自覚することは大切です。生きる者は死を認識することによって、生きることの意味に気づかされるのです。
 
 本日の礼拝で、ルカによる福音書20章27−40節のみことばを読みました。ここには人間が死んだ後のことが話題になっているのです。そのことをサドカイ派の人々が主イエスに問いかけているのです。このサドカイ派の人々と言うのは、旧約聖書に登場するソロモン王がザドクを祭司に立てたことから、この祭司ザドクの子孫がサドカイ派の人々であるのです。主イエスがおられた時に、エルサレム神殿を支配する祭司の中でも勢力を持ったグル−プであり、この当時では、貴族に属し、教養もあったと言われています。

 ルカによる福音書20章27節に「復活があることを否定するサドカイ派の人々」と書いてあります。サドカイ派の人々は「復活があることを否定」していたのです。現代人は自分の理性で判断するので「復活などあるはずはない」と思うのですが、サドカイ派の人々は、聖書に根拠を置いて「復活」を否定しているのです。この聖書と言うのは、私たちが考えている旧約聖書全体のことではなくて、旧約聖書の初めにある五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、この五つの書物だけを聖書としているのです。この五つの書物に書かれていないことは、重んじなかったのです。私たちが持っている旧約聖書の最初の五つの書物のみを重んじて、歴史物語や文学や預言書は無視したのです。他方、ファリサイ派の人々は、今、私たちが旧約聖書と呼んでいる聖書全体を重んじていましたが、具体的に信仰に生きるために、聖書だけではなくて、聖書を解釈した教え、人々の口によって伝えられた言い伝えを大切にしたのです。この二つのグル−プは、いつも厳しく対立していました。その対立する、その話題の一つが、復活のことなのです。
 
  皆さんが誰かに「キリスト教では死んだ後のことをどのように教えているのか」と言う質問を受けたら、皆さんはどのように答えるでしょうか。キリスト教の教えを少し知っている人から「聖書には復活について書いてあると聞いているけれども、復活ってどういうことですか」と聞かれたら、すぐに答えられない、難しい質問であると思うかも知れません。簡単に言うと、私たち人間が死んだ後、どうなるのか、と言うことです。
 皆さんは自分が死んだらどうなるのか、このことを考えたことがあると思います。自分が死んだらどこに行くのか、自分が死んだら、自分の存在が消えてしまうのではないか、と思って恐れを抱くことがあると思います。
 
 ファリサイ派の人々は、人間が死ぬことははっきりしているけれども、死んでやがてどこかでよみがえる、そのような復活を信じ、主張していました。サドカイ派の人々はそれを否定しました。それに明らかな根拠があると考えていて、復活について、聖書は何も書いてはいない、死んだ後、人間がよみがえると言うことが明らかに書いてあるところは、わずかであることは確かです。サドカイ派の人々が重んじた聖書には、人間が死んだらどうなるのかと言うことはほとんど書いていないと思われます。だから、サドカイ派の人々は、死んだ後の復活などはないと言ったのです。
 
 死ぬということは、明らかに、人間の存在が消え、滅びると言うことです。人間と言う存在が跡形もなく変わってしまうということを経験するのは、火葬場で遺体が灰に変わることです。サドカイ派の人々は、この事実をしっかりと見据えて、人間が死んだ後、なお生き続けることはあり得ないと考えたのです。死んだ後、人間は生き続けることはあり得るのかとサドカイ派の人々は問いを出したのです。サドカイ派の人々は、この地上の今の生活を楽しみ、満足していけば良い、それで地上の生活が終われば、それで良いと考えているのです。自分が経験できることしか、考えられないのです。その意味で、現代に生きている人々の考えに近いのです。現代の人々は、この地上で今、楽しければ良い、死んだ後のことは分からないし、考えても仕方がないと思っているのです。その意味では、サドカイ派の人々も現代人も、現実主義者であるのです。 
 
 他方、ファリサイ派の人々は、この地上で安楽に過ごしているのは神のみこころではないと考え、自分たちは神の民であるから、地上の不自由な状態から解放してくださる神が来られると信じていました。ダニエル書12章2節に「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り」(p1401)とありますが、死は眠りに過ぎず、その眠りから必ずいつか目を覚ます時が来ると考えていました。このダニエル書は、永遠のいのちにあずかる人々が生きるという信仰を語っています。ファリサイ派の人々にとって、死んだ後、復活するということは、望みであり、慰めでした。そのことが、ファリサイ派の人々を支えていたのです。
 
 しかし、サドカイ派の人々は、物事を現実的に考えており、復活はないということを前提にして、主イエスに質問をしたのです。この質問で引用した聖書は申命記25章5節以下です。(旧約p319)ある人が夫が先に死んでしまった、しかも跡取りがない、申命記には、夫が死んだ時に、もし兄弟がいたら、その兄弟が代わりに夫にならなければならない、もし子どもが生まれたら、最初の男の子に先に死んだ夫の名を継がせる、これは、家を絶やさない方法が語られています。その掟を引用して、第一番目の夫から第七番目の夫まで代わったのだけれども、とうとう子どもが与えられないまま死んでしまう、そうしたら、よみがえりの時、一体、誰の妻になるのか、そうすると、七人の夫のあいだで、自分がほんとうの夫ですと言って争いになる、そのようなおかしなことが起こることもないし、そういうことは考えられないということから、復活はあり得ないと言ったのです。このような問いは悩んで質問したというのではなくて、答える人の実力を試し、どういう反応をするのか見てやろうという質問のための質問になっているのです。死んだ後にどうなるかと真剣に悩んで出した質問ではないし、生きるか、死ぬかという切実な問いではなくて、相手を困らせ、試そうとする質問なのです。
 
 主イエスは、この質問に答えていません。サドカイ派の人々と同じ次元では何も答えていないのです。サドカイ派の人々の問いには何も答えていないのです。それは、真剣に復活のことを考えて、主イエスに質問したのではなく、主イエスを試そうとして質問していることを主イエスは見抜いて、この質問と同じレベルで答えなかったからです。それは、サドカイ派の人々が、思い違いをしているからです。この世で経験していることの延長で、死後のことを考えていることに問題があるからです。20章34節に「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。』」と語られているのです。この地上で結婚することはあります。それと同じように、死んだ後に、結婚する、そのことはないと語るのです。自分が死んだ後のことを自分が経験している地上の生活の延長でしか考えることができないのです。今、生きている、この私がよみがえった時に、どうなるのか、と考えます。今の状態が再現されることを考えるのです。死んだ後のことについて、私たちはいつもこの地上の生活を前提にして考えているところがあります。
 
 20章36節に「『この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』」と語られています。「『天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』」「天使」と言うと皆さんは背中に羽根が生えていることを思い浮かべるのですが、そうではありません。この「天使」と言うことで、何を言っているのでしょうか。「天使」とは神のみこころに生きる存在になると言うことなのです。神によって新しく造られたいのちに生きる存在になると言うことです。肉体的にどうなるのか、分かりません。このままの姿でよみがえるのか、どうか、分かりません。神のもとで生きる存在になると言うのです。私たちが神の愛に守られ、神の愛の宿ったところに住むのです。

 新約聖書には、死んだ後に、私たちがどのようになるのか、と言うことについて語っているところがあります。ヨハネによる福音書14章2節(p196)には「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」ここには、私たちのために天に住まいが用意されてあることを語っています。死んだ後に、自分の居場所がなく、さまようことはないのです。天に住まいが確保されていることを主イエスは約束しています。コリントの信徒への手紙二 5章1−10節(p330)にも「天にある永遠の住まい」「天から与えられる住みか」と言う言葉があります。地上では私たちは「この体を住みか」としているけれども、死んだ後には「天にある永遠の住まい、住みか」に移されることを語っているのです。
 ギリシャ思想では、霊魂不滅を言うのですが、死ぬと霊魂が肉体の牢獄から解放されて自由になると考えています。神道は、死んだ後に、亡骸を残して、霊が、その家に宿り、子孫を見守る宿り神になると考えています。霊魂が肉体を離れることが死であり、家や村、近くにある山に、死んだ親の霊が宿り、遺して来た者の繁栄を見守り、災いから守ろうとしていると考えているのです。

 ルカによる福音書20章27−40節で最も大切なところは、37節、38節です。「死者が復活することは、モ−セの書の『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 

 サドカイ派の人々は、旧約聖書の最初の五つの書には「復活」について書いていないので「復活」ということはないと主張していましたが、主イエスは、五つの書の中で最も重要な出エジプト記に「復活」について書いてあるではないか、と語っているのです。出エジプト記3章は、モ−セが神の民をエジプトから引き出す使命を与えられる時に語られるところです。モ−セは燃える柴の中に神の声を聞いたのです。その時、三たび、ご自分のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのです。主イエスは「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉を、死んだ後、復活することの根拠として語られたのです。主イエスは、ここに復活について書いてあることを明らかにして、復活の意味を語っているのです。ここが大切なところです。この言葉が復活があることの根拠になる、鍵となるみことばなのです。私たちの歴史に実在した人物であるアブラハム、イサク、ヤコブは、地上の生活を終えて、死んで、墓があるだけです。しかし、彼らを生かした神、彼らを呼び出した神、その生涯を導き出した神は、生きておられるのです。
 
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、その神は私の神なのです。私たちの肉体が滅んだとしても、神は生きておられるのです。眠っている赤ちゃんをお母さんが抱いているように、私たちが死んでいても死を超えて、私たちを離さない神が生きておられるのです。生きている時に地上の国にいて死んで天の国にいると言うのではないのです。死んでいても生きていても、私たちは神の愛の中にいるのです。
 
 私たちが生きている時にも私たちの神であり、私たちが死んだ後も神であるのです。私たちは死ぬことによって地上のこちら側には存在しないけれども、死の向こう側に神が生きておられて私たちを愛していてくださるのです。死んだ者の神ではなく、生きている者の神ですから、人の前から姿を消したアブラハム、イサク、ヤコブも復活によって生かされているに違いないし、全ての者が復活する日に、彼らも復活することは確かです。私たち人間と恵みの契約を結んだ神は、その恵みの契約を忠実に守り、死によってもその関係は断ち切られはしないのです。
 
 神がイエス・キリストを復活させたのです。この地上で復活が実現したのではなくて、神の側、この地上の向こう側、彼岸で復活を起こしてくださって、復活された主イエスが地上に現れてくださったのです。このことはすべて神の働きなのです。

 私たちは、「復活」を誤解しているのです。復活は、確かにこの地上で起こったことですが、それは、神の側、この地上の向こう側、彼岸で、神が起こしてくださったことなのです。そのことが重要なのです。私たちの生活の経験から復活を考えるから、分からなくなるのです。私たちが死んだ後に希望があるのは、神が私たちを復活させてくださるからなのです。神は私たちに永遠の住まいを用意してくださるのです。私たちは、死んで灰になってお終いということではないのです。死んで眠る、そして、やがて復活するのです。従って、私たちは、私たちが死んでも、神はなお生きておられ、私たちを生かす神を持っているのです。そこにこそ、私たちの望みがあり、死を突き抜ける力を神からいただいているのです。
 
 私たちは、この地上の生活が終わるまで、元気に過ごしたい、と思っていますし、高齢のために、自分の体が衰えて、からだを動かすことが難しくなる時に、自分の世話をしてくれる人はいるのだろうか、と心配することがあります。自分の葬儀はどうなるだろうか、と取り越し苦労をすることもあります。しかし、私たちは、そのような心配をする必要はないのです。それは神が、生きている時も私たちを守り、死んだ後も住まいを用意し、確保してくださることを信じているからです。私たちが生きている時も死ぬ時も、死んだ後も、神が愛をもって私たちを憐れみ、いつも共にいてくださるのです。だから、私たちは安心して過ごすことができるのです。

 家族や親しい人を亡くして、悲しみ、喪失感をもっている人々に対して、パウロは、慰めの言葉を語っているところがあります。家族や親しい人を失った時に、悲しみに襲われ、喪失感でうちのめされます。そのような人たちを、悲しみから立ち直らせるために、パウロは慰めを語るのです。

 パウロの慰めが語られているのは、テサロニケの信徒への手紙一4章13−18節です。(p378)パウロは、死んだ後に復活が起こることを語り、最後に「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」と語っているのです。

20220109  主日礼拝説教    「神のものは神に返しなさい」  山ノ下恭二牧師
(創世記1章27節、ルカによる福音書20章20−26節)


 2020年の新しい年を迎えて、この一年も神の祝福と守りがありますように祈っていきたいと思います。新しい年ですので、パウロが最初の教会にあてた手紙の最初に祝福の挨拶をしていますので、その言葉を皆さんに告げたいと思います。「わたしたちの父である神とイエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 2022年の新しい年を迎えて、皆さんは、この一年をどのように生きて行こうかと考えた方もおられるでしょう。 私たちの生活に影響を与えているのは、様々な情報です。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、パソコンやスマホからの情報です。ある時には、テレビの健康番組を見て参考にしますし、天気予報を見る、新聞で政治のことや事件を知る、溢れている様々な情報に影響を受けています。情報を頼りにしていると、自分で考えて生きていくことをしなくなるのです。そして自分が何であるのか分からなくなるのです。

 最近問題になっているのは、小学生や中学生がテレビゲームに夢中になって、朝起きられなくなり、不登校になっているケースが増えていることです。自分が小学生であり、学校に行き学ぶ者であることを、忘れてしまうのです。私たちも様々な情報に惑わされて、自分が何であり、自分が何をしなければならないのかが分からなくなるのです。

 本日の礼拝で読んだルカによる福音書20章20〜26節には、主イエスに敵対し、主イエスに殺意を持つ人々が、主イエスに税金について質問したことに対して、主イエスが返答したことが記されています。これらの人々は、税金について主イエスがどのように考えているのか、その本心を知りたいと思って質問したのではありません。主イエスの答えによっては、訴える口実にしようと、悪意をもって質問したのです。その質問は、主イエスを困らせるための難問であったのです。人を困らせて、内心喜んでいる人に出会うことがありますが、それだけでなくて、主イエスを亡き者にしようとして、 主イエスを貶めるために質問したのです。

 この物語は、主イエスの受難物語の中に置かれています。20章20節には「そこで、機会を狙っていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉尻をとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」と書かれているのです。

 主イエスに質問したのは、ヘロデ党の人々とファリサイ派の人々です。この二つのグループは、いつも反目していましたし、税金については正反対の考えを持っていました。しかし、主イエスを殺そうと企てていた点で一致していました。主イエスが返答するのに困る質問をして、主イエスを貶め、主イエスの答えによっては、裁判に訴えようと、ここで共同戦線を張ったのです。

 彼らは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないでしょうか。」と質問したのです。この質問の前半は、税金を納めることについて律法に適っているかどうかということです。なぜ、そのような質問をしたかと言うと、ファリサイ派の人々が考えた質問であったのです。それはファリサイ派の人々は律法を何よりも優先し、自分たちの生活の中心に置いていたからです。ファリサイ派の人々にとって何より優先することは、自分たちの生活が律法に適っているかどうかでした。主イエスの答え如何によっては、律法違反であると言って訴えることもできたのです。ファリサイ派の人々は、外国に支配され、自分たちのお金が外国のために使われることは侮辱であると考えていましたから、税金を払うことに反対の立場なのです。

 そして、質問の後半にある税金を納めるべきか、納めてはならないかという質問は、ヘロデ党の人々が質問したことでした。この人たちは、ローマの支配を受け入れ、税金を納めることに躊躇しないでいる人々です。現実に行われている政治に対して、イエスがどのような考えを持っているかを確かめ、主イエスの答えによっては、現在の体制を批判したとして訴えることができたのです。実際に、ローマの総督ピラトの裁判において、主イエスを訴えている場面で「イエスをこう訴え始めた。『この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。』」と記されているのです。

 この「ヘロデ党」というのは、この時のユダヤの支配者ヘロデ・アンティパスを支持する体制派です。ヘロデは、ローマ帝国に取り入って、この地方の領主、王となった人物です。「ヘロデ党」はこの税を納めることを 積極的に支持していたグループです。ファリサイ派の人々は、ローマ帝国の支配に反対し、律法を純粋に守ることを実践し、人々にも要求していたのですが、この税金が異教徒のローマに行くことに反対しながらも、消極的に納税をしていたと言われています。この問題に、もう一つの立場がありました。それは熱心党です。革命的な政治集団です。彼らは異教徒の支配を認めず、暴力をもってでも革命を起こそうとしていたのです。税金を納めることに反対であり、この主張に多くの民衆が支持をしていたのです。

 納税に対してこれらの異なる立場があり、主イエスがどの立場に立つのか、彼らは主イエスに返答を迫ったのです。主イエスの答えによっては、拘束することもできるのです。「納めなくても良い」と答えるならば、心情的に民衆の支持を得ることは出来るのですが、それは熱心党と同じ主張であるので、ローマ帝国に反抗する者として主イエスは訴えられるのです。反対に「納めなさい」と答えたならば、イスラエルのために救いをもたらす救い主であるのに、異教徒によって支配していることを認めている者だとして、人々を失望させることになります。どちらに答えても、主イエスは不利な立場に置かれ、訴えられる口実を作ることになります。

 主イエスは、この質問に対して、納めなさいとも、納めてはならないとも答えなかったのです。主イエスは何と答えたのでしょうか。納税に使われるデナリオン銀貨を持ってくるように彼らに命じたのです。12章16節に「彼らが、それを持って来るとイエスは、『これは、誰の肖像と銘か』と言われた。彼らが『皇帝のものです』と言うとイエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは、イエスの答えに驚き入った。」と書かれています。持って来るように言われたデナリオン銀貨の表には、ローマ皇帝カイザルの肖像と銘が刻まれていたからです。「神的アウグストゥス(高貴なる者)の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」と刻印されていました。このローマ皇帝は神として考えられていました。

 主イエスは、「皇帝のものは皇帝に」と言い、続けて「神のものは神に返しなさい」と語っています。この主イエスの答えでは、皇帝と神とが同等であるように理解されやすいのですが、そうではありません。主イエスは、神との関わりが第一と考えていましたから、神を最優先としていたのです。「神のものは神に返しなさい」ということが一番重要なことで、神のものは神に返すことが何よりも優先されることだと考えて語ったのです。主イエスは、神との関係において常に物事を判断する方です。彼らの質問に返答した主イエスの言葉に注目すると、主イエスは「納める」という言葉は使わないで「返すという」言葉を使っています。このことに注目したいのです。それは皇帝も国も人間も、全て神から借りたもので、神に属するものだからです。主イエスは、皇帝は神と同等の存在ではなく、一時的で相対的な存在であると考えているのです。

 現在でも、多くの国々の政治指導者は、自分がいつまでも政治権力者であろうとして、永続して政権を確保するために任期の制限を撤廃しようとしています 。国家指導者よりも上の神を、国民が礼拝することを好まず、自分よりも上の存在である神を拝む国民を迫害し、宗教的な施設を破壊しているのです。その国の人々が聖書を読めるように、日本の教会が贈った聖書印刷機を壊して、その国の人々が聖書を読めないように妨害しているのです。

 今日の聖書のテキストを、1913年に神学者カール・バルトが説教しています。この説教の中でバルトは、皇帝を次のように語っているのです。「イエスは皇帝を神と並べて置いていない。彼は、皇帝に神の諸権利に属する永久の権利を与えたのではない。そうではなくて、ただ人間に対する一時的、外面的要求の権利を与えたにすぎない。皇帝は、数ヶ月の間仕事の監督を任せられている、一人の管理人に比べられるべきである。」と語っています。「皇帝は、数ヶ月の間仕事の監督を任せられている、一人の管理人」 だと語られていることはとても大切な点です。

 「神のものは神に返しなさい」という言葉は、この当時、ユダヤを支配しているローマ帝国も、神のもとにある国家であるということです。主イエスが、神との関わりから、この国家との関わりを捉え直しているのです。神の視点から、この世の国家を理解しているのです。神から見ると、国家は相対的なものであり、一時的なもの、暫定的なものに過ぎないのです。皇帝は、その時代や国を支配する力を持っています。しかし、その支配は永久に続くものではなく、いつか滅びるものなのです。「皇帝のものは皇帝に」その時の国家を認め、国民としての納税の義務を果たすけれども、国家も皇帝も、神に属するものであり、神の支配下にあることをここで語るのです。人間もこの世界も、神が造られた存在であり、皇帝も一人の人間として神に造られた存在です。神の支配の中に、国家や皇帝が存在することを、この言葉は教えているのです。

 旧約聖書には、サムエル記で、イスラエルが外敵であるペリシテ人との戦争で敗れるので、王を立てて欲しいという人々の願いを聞き届けるところがあります。王の指導によって、外敵からの攻撃を追い払い、攻め込まれず、平和な生活をしたいという願いを持つようになったのです。王を持つと、良いことばかりがあるわけではないことも警告しているのです。国を保つために、戦争になれば、兵隊として戦わなければならないことを、前もって警告しています。サムエル記が編集された時が、イスラエルの国が、大国バビロニアに敗れて、捕囚のために長くイラクに行き、国が滅亡した後であったので、王を求めた事の結果として、国が滅亡したことを語っているのです。

 旧約聖書では、神が王を立てたのですが、王は良い政治をしなかったのです。歴代の王のことが、列王記上・下に記されていますが、神に立てられた王が、まことの神を拝まず、偶像を礼拝したことが書かれています。主なる神の目に、悪を行ったと記されています。神の言葉に従った王は、あまりにも少ないのです。王が、神の言葉を伝える預言者の言葉に従わなかったのです。

 旧約の時代のことだけではなくて、現代も、神の権威を認めないのです。国家がすべてを支配しているのであって、教会はその支配下にあると考えているのです。現体制を支持する時には、教会の活動を認めるけれども、現体制を批判し、反政府的な活動をするならば取り締まるのです。

 主イエスは、「神のものは神に返しなさい」というのです。国家は神に従うものであるというのです。国家と神の二つの領域があり、住み分けると言うのではないのです。国家のことに口を出すことなく、教会は教会のことだけをすれば良いのであって、現在の政治に口を出すな、ということではないのです。

 デナリオン銀貨には、その当時の権力者であるローマ皇帝の象が刻んであるのです。それは神の像であると考えられていました。神の像、それは創世記1章27節に次のように記されています。「神は御自分にかたどって人を創造された。」一人一人が、神のかたちとしてあるのです。国家があって、人が存在するのではないのです。神のものとして、一人一人が尊重されるものなのです。私達は神のものなのです。「神のものは神に返す。」私たちは神のものなのですから、私たち自身を神に返すのです。私たちの命は神のもので、神のものとして生きます。

 16世紀に、フランシスコ・ザビエルが、ローマ・カトリック教会から派遣されて、日本にキリストの福音を伝え、多くの人々が信仰を与えられましたが、やがてキリスト教が禁教となりました。その当時の政治家である豊臣秀吉が、人々が自分より上の神を崇めるならば、日本の国を統治していけなくなると言う危機感から、宣教師を追放し、キリシタンたちを根絶やしにしたのです。そして、徳川家康たちは、キリスト教を排除するために、人々が寺に登録する檀家制度を作ったのです。これは明らかに、キリスト教排撃のための手段であったのです。檀家制度の影響は今も残っているのです。自分の先祖の墓が寺にあるのです。聖学院大学でキリスト教概論を教えていたときに、一年に2度、教会の礼拝に出席して、説教のレポートを出すことにしていましたが、毎年必ず、教会に行かなくて別のレポートに変えてほしいという学生がいました。その理由は「家が仏教だから」というのです。教会に行きたくないので、「家が仏教だから」というのです。「家族の人もあなたも、毎週お寺に行ってお坊さんの話を聞いているの」というと、「先祖代々真宗だから」と言うので、檀家制度の由来を話し、お寺に行くのはお盆と彼岸の時で、信仰を持って行っているわけでもないことを話したのです。

 歴史的に、日本では、キリスト教は排除されてきたわけですし、国家に対して抵抗せず、従順に従う宗教であるならば迫害はないのですが、国家以上の神を信じ、服従する者に対しては迫害するのです。

 明治の初めまで、キリスト教は禁教でした。牛込払方町教会初代牧師の小川義綏は、宣教師の日本語通訳の時に説教を聞き、その内容に感動し、聖書の日本語訳の手伝いをしていくうちに、洗礼を受けたいとサムソン宣教師に申し出をしましたが、まだキリスト教が禁教の時であったので、サムソン宣教師は今洗礼を受けたら処罰されるので暫く待つようにと語ったのです。

 太平洋戦争の戦時下にも、多くの牧師が、天皇制を批判したという理由で刑務所に入れられ、国家の言うことに妥協しなかったために、多くの牧師たちが獄死しています。菊地順牧師の祖父の原田要三牧師は、ホーリネス教会の牧師であったために刑務所に収監されても、キリストを信じる信仰を貫いたのですが、戦後刑務所から解放されて、栃木の市塩谷一粒教会で福音を伝えたのです。日本でキリスト者として生きることは容易ではないのです。国家からの圧力、周りのものの無理解で、キリスト者は孤立しているのです。しかし、私たちは神のものであり、イエスキリストに所属しているのです。

 ルカによる福音書12章4〜7節に次のように語られています。「友人であるあなたがたに言っておく。体は殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきか。教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れないさい。」(新約131ページ)私たちは、国家の圧力や様々な情報に惑わされて、自分が何であるのかが分からなくなることがあります。自分を保つことが困難になります

 アメリカの神学者で、W.H.ウィリモンが「洗礼−新しいいのちへ」という本を書いています。第10章で「思い出せ、あなたが誰であるのか」で、自分が高校生の時に女友達とダンスパーティに出かける時、玄関で母親が「自分が誰であるか、忘れないでね」といったことを書いています。「自分のことを忘れないでね」というのは、にぎやかなダンスパーティに参加して、自分がキリスト者であることを忘れてしまうことを指しています。

 私たちは神のものであり、私たちを愛してくださるイエス・キリストに所属している者であるのです。イエス・キリストがすべてのものを支配している主であるのです 


20220102  主日礼拝説教    「神を無視して生きている者への、神の愛」   山ノ下恭二牧師 
(イザヤ書5章1−7節、ルカによる福音書20章9−19節)


 2022年の新しい年の最初の礼拝を皆さんと共に守ることができ、心から感謝致します。この年も神のみことばを聞きながら、神と共に歩み、幸いな一年としたいと思います。新しい年の初めにあたって神の祝福の言葉を告げたいと思います。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
 
 昨年、話題になったことは、地球の気候変動のことです。気候変動サミットも開かれました。急激な地球温暖化によって、地球環境が大きく変わり、私たちの生活に大きな影響を及ぼしています。南太平洋の島々が、海面の上昇により、水没することも間近である、と言われていますし、温暖化のために、大型台風の襲来、森林の山火事が相次いで起こっています。脱炭素を目指す取り組みもなされようとしていますが、この温暖化の根本問題は、経済至上主義であり、その根本の原因は、私たち人間が、この地球の資源を自分たちのものだと思って自由に使って良いのだ、考えていることにあるのです。これは貪欲です。十戒の第十戒には、「隣人の家を欲してはならない」とあります。今、もっているもので満足しないで、もっと欲しい、自分のものにしたいという貪欲にあります。この地球は、神が私たちに貸してくださったものであるにもかかわらず、自分たちのものとしてしまい、自分たちの自由に使って良いのだ、と考えて暮らしていることに根本的な問題があるのです。
 
 本日、ルカによる福音書20章9−19節を読みました。ここで主イエスはぶどう園と農夫の譬え話をされました。この譬え話を聞いている人々は、一般の民衆ではありません。この当時の宗教的な権威を持った人々です。自分たちこそ、神に近く、信仰においても、生活においても、誤りのない生活をしていると自信をもっている人々です。これらの人々に主イエスは直接、話されたのです。このぶどう園の譬え話を主イエスが話されるきっかけになったのは、神殿で説教したり、自由に振る舞っている主イエスの権威は何に根ざすのか、と言う祭司長、長老たちの問いでした。主イエスは、神から遣わされた洗礼者ヨハネが語る、悔い改めをしない祭司長たちの権威はまことの権威ではないことを、明らかにした後に、この物語を語られたのです。

 主イエスと祭司長たちとの問答の続きとして、この物語が語られているのです。そこで、問題となっているのは、権威の問題なのです。その権威を認めない罪が問われているのです。この物語も、主イエスが、祭司長たちを裁いているのです。権威と言う言葉を最近は余り、使いませんし、真剣に問うことがなくなりました。特に現在の日本にいる私たちにとって権威と言う言葉は好ましい言葉ではなくなったのです。太平洋戦争後、戦前の天皇制国家のあり方を反省して、権威と言う言葉は好ましいとは思わなくなったのです。戦前は、上からの人間的な権威に抑圧され、上からの命令に従わなければならなかったのです。現在は権威を振り回すのは嫌われますし、上からの目線でものを言うことを嫌っています。それぞれの人たちが皆、権威に押さえつけられることなく自由に生きていかれる社会を作ることが大切だと思います。しかし、ここでの問題は、権威一般の問題ではなく、ここでの権威は、主イエスの権威を問題にしているのです。私たちに救いをもたらす権威のことです。

 主イエスは、ぶどう園の所有者である主人が旅に出かけるところから話を始めているのです。ぶどう園を残して、それを農夫たちに貸して、その農夫の働きに委ねたのです。それは農夫たちを信頼していたからです。そこで既に、権威の問題に触れておられます。言うまでもなく、この農夫たちは、具体的にこの当時のユダヤ人、神の民イスラエルと呼ばれる人々です。特に今、主イエスと向かい合っている祭司長たちです。この祭司長たちは自分たちこそ真実の権威者であると思い込んでいたのです。この人々は神殿で神の権威を代行して営んでいるのです。この人々に代表される神殿の営みは、まさに神のぶどう園そのものであったのです。

 この祭司長たちと私たちとは無関係ではないのです。ここで取り上げられている問題は、現代を生きている私たちのことなのです。神殿で神から委託されて権威をもって行っている祭司長たちと、私たちとは深いつながりがあるのです。私たちが生きているこの世界、この世界は神からお借りしている世界です。そのように考えている人はとても少ないのです。この世界は神から貸し与えられたものです。神がこの世界の所有者です。私たちのこのいのちも、神から貸し与えられたものなのです。いつか、このいのちを神にお返ししなければならないのです。この世界を、神からお借りした世界として、そのことに対して責任を自覚して、生きるのです。お借りしているのですから、ほんとうの所有者は、神であり、自分ではないことをわきまえていなければなりません。所有者に対して、このぶどう園が自分のものではなく、神のものであり、働く場所そのものを貸していただいているという自覚が大切なのです。誠実な思いをもって働くことが求められていました。しかし、このぶどう園の譬えでは、そうではないのです。日本の諺に「庇を貸して母屋を取られる」という諺がありますが、この世界は神のものであるにもかかわらず、奪って自分のものにしてしまっているのです。自分のものだから、自分の自由に使って良いのだ、と考えているのです。

 「ぶどう園」と言う言葉を聞いて、人々はイザヤの言葉を想い起こし、自分たちが「ぶどう畑」にたとえられていることを思い起こしたのです。しかし、主イエスの話を聞いていて、イザヤ書5章に記されている話と、このぶどう園の話とは異なる話であることに気がついたのです。イザヤ書5章では、ぶどう畑そのものが何の実りもなく、収穫がないのですが、この福音書では、ぶどうの実は実り、収穫があるのです。この譬え話で私たちが見落としてしてしまうところがあります。それは、ルカによる福音書20章9節です。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」と語られています。私たちは、気がつきませんが、このほんとうに短い言葉のなかに深い神の愛が込められているのです。

 ぶどう園を作った、それは、時間と労力がかかるのです。ぶどう園を作っても、次の年から直ぐに収穫があるわけではないのです。良いぶどうが実って、それが商品として売られ、ぶどうを売って経営ができるためには、何年もかかるのです。そのことをよく心に留めておく必要があります。

 この譬え話を私は誤解していたことに気がついたのです。今まで次のように考えていたのです。このぶどう園の主人は土地を持っているけれども、そこにはいない不在地主で、雇われた農夫たちが苦労して栽培し、主人そのものはぶどう園の収穫だけをもらっていた、と考えていたのです。

 しかし、そうではないのです。この主人は出かける時に、自分でぶどう園を作って行ったのです。この主人は資本を出し、全部準備して、整えたのです。あとは、実りを待つだけです。農夫たちは、ぶどうが良く実るように管理すれば良いのです。汗水たらして、初めから苦労したわけではないのです。このぶどう園の主人は、実りを約束するぶどう園を作って置いて、長い旅に出たのです。きれいに整備され、実りを待つだけのぶどう園を預けたのです。この主人は父なる神のことだと主イエスは言われたのです。ここに、この譬えの大切な意味があります。

 本日の礼拝で、イザヤ書5章1−7節を読みました。なぜ、読んだのか、と言うと、主イエスが語られた譬え話の背景となる言葉が書かれているからです。

 イザヤ書5章には、ぶどう園をよく耕し、良いぶどうを植えたのですが、実ったぶどうは、酸っぱいぶどうであったのです。5章4節「わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」

 良いぶどうは、酸っぱいぶどうになるはずがないのです。これは神とイスラエルとの関わりを表現しているのです。神は心を尽くして、イスラエルの人々を愛したのです。しかし、イスラエルの人々は、神を信頼せず、神の働きに目を向けず、驕り高ぶって、自分のために生きていることを嘆いているのです。イスラエルの人々が神に心を向けて、そのみわざを見て、感謝し、その神のわざをほめたたえることをしないのです。このことに対する神の悲しみが表明されているのです。イザヤ書5章12節には「だが、主の働きに目を留めず 御手の業を見ようともしない。」このルカによる福音書20章も、ぶどう園の実りを自分のものにしてしまって、主人にその実りをささげることもなく、返すこともしない、その悲しみが書かれているのです。主イエスは、イザヤ書5章の言葉を思い起こしながら、この譬え話を、悲しみをもって語られたに違いないのです。

 この譬え話は、祭司長たちと主イエスとが権威をめぐって問答している文脈で、主イエスが語られたものです。主イエスが神殿の中を自由に歩き回っていたら、この神殿を管理する人々に、何の権威で歩き回っているのか、と問われて問答になったのです。その問いに対して、主イエスは、祭司長、律法学者、長老たちと呼ばれる権威ある人々が、ほんとうに神の民イスラエル、つまり、ぶどう園をよく保ち、管理し、神に対する責任を果たしているか、と問いを突きつけ、その責任を忘れて、ただ自分が権威をもっていることを誇っているだけではないか、と問うているのです。

 この譬え話は、この農夫たちが何をしているのか、というところにポイントがあります。主人をないがしろにしているのです。主人がぶどう園にいないと思って、主人を見くびって、自分のやりたいようにしているのです。
 このぶどう園を自分のものであると考えているのです。神のものであるのに自分たちのものとして振る舞っているのです。神の所有であるのに自分のものにしてしまうのです。神を無視して生きている、神があたかも存在していないかのように、自分のしたいように振る舞っているのです。

 この近年、この地球が温暖化によって、温度が急上昇し、人々の生活を苦しめているのです。春と秋が短く、猛暑の夏と厳寒の冬が襲来しているのです。神が創造したこの地球が、破壊されてしまう、それでも経済が第一であるからやむを得ない、と言う考えが大多数なのです。そこには神が私たちの主であり、神の所有しているものを借りているに過ぎない、という思いはないのです。
 身近なことで言えば、親や子ども、身近な人が自分の思い通りになる、自分のための所有物ではなくて、神が創造し、神がいのちを与えている大切な存在であることを自覚していることなのです。
 
 この譬え話に登場する「僕たち」と言うのは、旧約聖書に登場する預言者のことです。預言者たちは、次々に送られてきましたが、人々は預言の言葉を聞かず、無視され、虐待されていったのです。エレミヤという預言者は、受難を受けたのです。神の言葉を伝えたために、人々に反発され、捕らえられて縄で縛られ、泥の池に何回も入れられて、拷問を受けたのです。無視され、虐待を受け、殺される、ということは、神をないがしろにして、神の言葉を聞かない、ということです。神が存在しないかのように、自分中心に振る舞い、行動しているのです。私たちも毎日、神がいないかのように生活をしているのです。神がやってきて、裁くことも忘れているのです。

 この譬え話で改めて考えることは、この農夫たちが主人の思いを重んじてくれるだろうと、主人は期待をもってきていると言うことです。それは自分の大切な僕を次々と全部送っていることから分かります。ところが全部殺されるのです。普通は最初に僕を送って、その僕が傷つくか、殺されたら、その仕打ちに対して仕返しをして決着をするはずで、その後には送ることはしないと思うのです。ところが、そういうことをしないのです。ルカによる福音書20章13節に「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」と書いてあるのです。今まで送った僕たちをないがしろにして、傷つけ、侮辱した農夫だから、根性が腐っており、またひどいことをするだろう、とは考えなかったのです。このぶどう園の主人は人がよすぎると思うのです。
 
 最後に息子を送ったと言うことは、主人が農夫たちをなお信頼していると言うことです。信頼しているというのは、自分の心、志をよく受け取って、悪いようにはしないと言うことです。ぶどう園の主人は、農夫たちに期待し、信頼していたのです。愛する息子を送ったら、自分の過ちに気づいて「あぁ、悪かった」と心を改めるかもしれない、そういう期待をしていたのです。自分の愛する子どもを送ったならば、自分の愛に気づいてくれるかも知れない、相手が自分の愛を受け入れるかもしれない、と思っていたのです。

 息子を送るということは、処罰するために送ったということではなくて、今までの悪事を赦すために来たと農夫たちが受け取ってくれるかも知れない、そういう信頼をもっていたのです。農夫たちへの対応を見ると、この主人の見通しは甘いし、余りにも人が良すぎると私たちは思うのです。人を余りにも信頼しすぎていて、自分はこのぶどう園の主人のようにはできない、と私たちは思うのです。

 父なる神は、愚かと言われる程私たちを信頼しきり、信じきっているのです。主イエスがこのぶどう園の譬え話で語りたかったことは、神の真実は変わらないと語っていることです。神が愚かであるように見えても、愚かであるが故に、愛し続け、信頼し続けるのです。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(哀歌3章22節)のです。
 
 この譬え話を聞いていた人々が、この話を聞いて、どのように反応したかというと、「彼らは、自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので」とあります。
 しかし、主イエスがこの譬え話をこの当時の信仰の指導者たちを審判し、当てつけて、皮肉を言うために話したのではありません。

 人々が、心を改め、自分の罪に気づき、恥じる、自分の罪に悲しむようにと願って、話されたのです。おまえたちは悪い人間だと審きの心で話したのではありません。厳しいけれども愛の心で諭すように話したのです。悔い改めることを、ただ願って心を込めて語ったのです。

 20章15節に「そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」と書かれています。この殺され方はひどいものなのです。このひどさは主イエスが十字架の上で長く苦しんだことでよく分かります。私たちの罪は止むことはありません。私たちの貪欲は止まりません。

 エルサレムの城外、ゴルゴダの丘で処刑された主イエスの十字架の死、この死はこの罪をあがなってくださるためであります。主イエス・キリストは、御自分の肉を裂き、血を流して、私たちの罪を償ってくださったのです。
 
 私たちは、これから聖餐にあずかります。キリストの肉を表すパン、キリストの血を表す杯、をいただきます。このことによって、私たちに対する神の愛を全身で味わうことができるのです。

20211226  主日礼拝説教    「自分を低くして仕える」   山ノ下恭二牧師 
(エゼキエル書37章24−28節、ルカによる福音書20章1−8節)


 東京神学大学は、牧師・伝道者を養成する学校です。私が在学していた時は、大学の教師が牧師を兼任している、その意味を考えなかったのですが、最近、私はそのことはとても大きな意味があることに気づいたのです。神学大学の教師は大学の教師だけではなくて、教会の牧師を兼任しているのです。現在も教会の牧師を兼任している神学教師が多いのです。松永希久夫牧師は神学大学の教授であったと共に牛込払方町教会の牧師であったのです。それは、神学という学問が、研究を目的にしているよりも、教会の学問であるということから来ているのです。研究室に閉じこもって、神学書を読んで論文を書くことが、神学の目的ではなくて、教会の現場に身をおいて、教会の信徒や求道者とふれあい、その関わりの中から、神学を問い直すことが大切なのです。教会と言う神学の現場を忘れないで、神学をすることが大切であると言うことです。教会の現場で出会う、信徒達の悲しみ、苦しみを知って、聖書の言葉を伝える自分の言葉を問い直すことが大切なのです。熊野義孝という、教義学を教えていた教授も目白にある武蔵野教会の牧師を兼務していましたし、福田正俊という歴史神学(教会史)を教えていた教授も信濃町教会の牧師を兼務していたのです。私が在学していた時は、左近義慈という旧約考古学の大御所であった教授は、信徒でしたが、他の教師は、みんな牧師で教会の牧師を兼務していました。神学というのは、神学的な論文を書いたり、学問そのもののために、営むものではなくて、教会で来ている人々に神の言葉を伝え、神の救いを知らせるためにどのようにするのか、を研究する学問であるのです。

 神学は神の愛を伝えるための学問であると言って良いのです。聖書が書かれたのは、神が私たちを深く愛していることを伝えるために書かれたのです。12月24日のクリスマス・イブ礼拝で、司式者が招きの言葉・招詞でヨハネによる福音書3章16節を読みました。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」と語っています。イエス・キリストの愛を伝えるために、神学があるのです。イエス・キリストの愛を伝えるだけではなくて、伝道者は愛に生きるのです。神の愛を伝える者が、愛を語るだけで、愛に生きないならば、その言葉は空しいものになります。

 本日、ルカによる福音書20章1−8節を読みましたが、皆さんがこのところを読んで、どのような感想をもったでしょうか。一度、読んでみて、よく理解できなかった、難しいところだと思った人も多かったのではないでしょうか。当時の宗教指導者の問いに答えて主イエスが反論していることは分かりますし、バプテスマのヨハネのことが話題になっていることも分かりますが、問題の核心が何であるか、がはっきり分からないのです。問いに答えて反論する、あるいは、論争することがありますが、私たちは論争することを避ける傾向があります。それは、論争すると、喧嘩に発展する可能性があるし、相手との関係が悪くなり、関係が壊れる恐れがあるので、避けることが多いのです。相手を批判する時にも、相手にショックを与えないように、はっきり言うと相手に悪いと思って、和らげるような言葉を使って言うことがあるのです。

 しかし、論争することによって、問題が明確になって整理されることがあり、はっきり言うことも必要な時もあります。批判したくても、相手との関係を考えて、何も言わないのは、問題が明らかにならないので、問題が解決しないのです。主イエスは、はっきりと語り、問題点を明らかにするのです。

 20章1−8節のところは、主イエスと祭司長、律法学者たち、長老たちと論争しているところです。権威をめぐっての論争です。誰が権威を持っているのか、ということを論争しているのです。誰が権威をもっているのか、誰が最終的に決定するのかと言うことです。現在は、みんなで話し合いで決めていると思っていますが、最終的には、責任をもっている人が決めているのです。最終的な責任を取る人が権威をもっているのです。ビルの入り口に、「関係者以外の立ち入り禁止」と書いてあるプレ−トを見かけます。ビルの中に、見知らぬ人が許可なく入って、問題が起こると管理責任が問われるのです。

 ルカによる福音書19章45節からエルサレム神殿での出来事が記されています。主イエスとの論争のきっかけになったのは、祭司長たちの問いでした。20章2節で「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か。」と問いかけたのです。この当時、祭司長の中の一人がこの当時の議会の長でした。議会と言うのは、立法、司法、行政、を同時に司る最高の政治機関です。祭司長たちは神殿の管理責任をもっていました。

 この祭司長を含めた人々が、主イエスに何の権威をもってこのようなことをするのか、と問いただしたのです。「このようなこと」とは、主イエスが神殿の境内で福音を告げ知らせていたことです。少し前に、主イエスは神殿に来て、そこで商売をしていた人々を追い払ったのです。犠牲として献げる鳩がおいてある台、両替をするための台をひっくり返したのです。主イエスは、騒ぎを起こした張本人であり、その本人が毎日、神殿の境内で教えていたのです。騒ぎを起こした、このイエスと言う男が再び神殿の中に入ってきて、聞いたことのない話をしているのです。そのことに何よりも祭司長たちは我慢ができないのです。なぜなら、ここは自分たちの領分だからです。神殿の経営、管理、人事など、権威を委ねられた者はそれだけ責任が重くなることは当然のことです。権威を委ねられていた祭司長たちが、神殿の務めを果たしている時に、イエスと言う男が外から入り込んで来て、自由に話しているのです。神殿に入ったら、自分がどのように振る舞い、行動するかは、細かく規則で決められていました。

 このイエスと言う男が、神殿当局の許可もなしに、自分の家のように自由に話している、そのことは祭司長たちにとっては不愉快で、困る、と思っていたのです。自分だけが自由に振る舞うところだと思っているところに、誰かが侵入してくるのです。皆さんも誰かが許可なく、自分の部屋に入って、黙って本を持って行くとしたら、「困るなぁ、そういうことをしたら」と言うに違いないのです。私の部屋なのだから、勝手に入られたら困る、そういう思いになるのです。他の人が自分の部屋に勝手に侵入して困ると思うのです。神殿の管理運営を委ねられている祭司長たちが、神殿の務めを果たしている時に、イエスと言う男は外から入ってきて神殿の中で自由に話しているのです。ここで問題なのは権威です。権威を権威とも思わないで、自由に振る舞っているイエスに、自分の権威を犯されたと思ったから、主イエスに、あなたはいったい何の権威をもってそんなことをするのか、誰があなたにその権威を与えたのか、と問わざるを得ないのです。

 「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か。」この問いに答えて、主イエスは彼らに逆に質問をするのです。私の問いに答えたら、私が何の権威でこのようなことをしているのか、あなたがたに教える、と言うのです。主イエスが祭司長たちに問うのは、バプテスマのヨハネのことです。ヨハネがしたバプテスマは神からのものであったか、それとも人からのものであったか、と言うことです。なぜ主イエスはこのような問いを投げかけたのか、その意味はよく分からないかも知れません。この問いは難問なのです。祭司長たちがどちらを答えても、窮地に立たされる問いでした。

 この主イエスの問いについては、解説が必要です。祭司長たちは、この洗礼は神からのものであるとは認めることができなかったのです。なぜなら、祭司長たちはヨハネが神から遣わされた者であるとは信じていなかったのです。ヨハネの洗礼も受け入れていなかったのです。このバプテスマのヨハネはエルサレム神殿の権威ある者に許可を求めて、神殿で説教し、ここでバプテスマを施したいと申し出て、その願いが許可されたわけはないのです。荒れ野で説教し、ヨルダン川で洗礼を施したのです。そして都で生きている人たちを指さして、あのエルサレム神殿に真実な礼拝はないと糾弾したのです。ヨハネの説教は悔い改めを求めたのです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と悔い改めを迫ったのです。

 ヨハネのバプテスマを認めるならば、祭司長たちは悔い改めなければならないので、認めることができなかったのです。それは自分たちが規則に従って神殿を運営し、毎日、毎日、神を礼拝するために戒めに従って祈り、お祈りし、宗教生活を続けている、そのような私たちがどうして神の前に悔い改める必要があるはずがないと思っているのです。むしろ、祭司長たちの支配区域、領分を侵すイエスこそ罪があるのではないかと思っていたのです。ヨハネのバプテスマは神が認めたものではない、それは自分たちが認めていないのだから、と確信していたのです。。

 祭司長たちは、自分たちは神のみこころに従って過ごしており、罪あるところは見いだすことはできない、悔い改めるところは全くないと思っていたのです。従って神からのものだ、ということはできなかったのです。

 逆にヨハネのバプテスマは人からのものだと言うこともできなかったのです。それは、人々が、ヨハネは預言者であると理解していたので、逆に民衆から反発を受けるので、人からだ、とは言えなかったのです。ルカによる福音書20章5−6節には「彼らは相談した。『天からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」と祭司長たちの反応が記されています。

 主イエスはなぜ、神殿を自由に歩き、自由に人々に福音を話すことができたのでしょうか。神殿、それは神の住まいだからなのです。神である私が、神の住まいである神殿にいることは当然のことだと考えていたからです。主イエスその方が、神の神殿そのものなのです。主イエスは、神が自分の外に出て、肉体を取って人間になった神なのです。神と同じ方が、人間の肉を取り、人間となられたのです。

 キリスト教会の暦では、本日は、降誕節第一主日です。今年のクリスマス礼拝やイブ礼拝は終わりましたが、主イエスの御降誕の意味を心に留めて過ごすクリスマスの時は続くのです。クリスマスの出来事、それは、神である方が、私たちの救いのために、ご自身の外に出て、肉体を取り、私たちと同じ人間になられた、その出来事なのです。(旧)讃美歌121番の4節には「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる。この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ」と歌われています。(旧)讃美歌121番は、讃美歌21の280番ですが、旧讃美歌の歌詞を変えないで引き継いでいます。「この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ」この主イエスは、活ける神である、と歌っているのです。主イエスは神なのですから、神がお住まいになる神殿は主イエスの家なので、自由に動き、話すことができるのです。

 祭司長たちは、神の名において生きている人たちです。神の名において権威を持っていました。しかし、主イエスを自分たちとは違うことを教えるラビ・教師と見ていましたので、自分たちの許可がなく、神殿の中を自由に歩き、話すことができないと考えていたのです。主イエスを神として、認めることはできませんでした。神殿の中で神殿の責任を持つ祭司長たちと主イエスと論争したことは意味が深いのです。それは、神殿というところは何をするところか、と言うことです。神殿で毎日、していることがありました。そのことに注目する必要があるのです。それは神殿には神がおられ、祭司たちによって、至聖所で自分の罪が赦されるために、人々の代わりに羊をささげ、祭司たちが、羊を殺して、肉を裂き、血を流して、贖いの儀式が行われていたのです。そのことがいつも繰り返し行われていました。
 
 しかし、主イエス・キリストがこの地上に来られて、神殿で繰り返し行われていた、罪の赦しのために動物を献げる儀式は必要ではなくなったのです。それは、主イエス御自身が一度だけ、私たちの罪を赦すために、自ら十字架の犠牲を献げて、私たちの罪を引き受けてくださったからです。そのことによって神殿も贖いの儀式も必要がなくなったのです。ヘブライ人への手紙7章27節には次のように書かれています。「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」(新約p409)
 
 本日のルカによる福音書20章1−8節は、主イエスと神殿の管理責任者との論争に注目してしまうのですが、実は、20章1節前半の言葉が重要なのです。「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると」とあります。ここに「福音」と言う言葉が出てきます。「福音」とは、元々、ギリシャ語で、「うれしい知らせ」「良い知らせ」のことです。

 「良い知らせ」「うれしい知らせ」福音とは何でしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の犠牲によって、私たちの罪が赦され、神と正常な関係になることです。私たちは罪人ではないのです。神に受け入れられ、肯定され、愛されている存在であると言うことです。十字架の死、それはみじめな犯罪人の死です。それは権威を失った、一見、無力に見える十字架の死です。しかし、そこにまことの権威が示されたのです。神のまことの権威は、人々の上に立って動かし、管理、支配することではありません。神ご自身のあらゆる力を罪ある者、神から離れた者のために使い果たすのです。主イエスの十字架の死、罪ある者の救い、そのことによって、権威の意味は全く変わってしまったのです。 

 神の権威とは、神から離れた者を、神との関わりに生きる者にしようとして、神御自身のいのちを献げる、そのような権威です。愛することにおいて、力を発揮する権威です。重荷を持っている人々の重荷を力強く担っていける権威です。神の権威は愛の権威、人を生かす権威です。私たちの罪のために贖ってくださった主イエスの愛の権威を見ることができるのです。権威は、権力と結びつきます。権力者が、権力をもって人々を抑圧し、縛り付けるのです。権威と言うと、高い場所にいて、人々を支配するものと思いがちです。しかし、主イエスは、愛という権威をもって、隣人に仕え、愛するのです。教会は、神の愛に権威を置くところです。神の愛を知り、神に愛されて、この神の愛を伝えることが教会の使命です。

 最近「マザ−・テレサ訪日講演集」を読みました。皆さんは、カトリック教会のシスタ−である、マザ−・テレサを知っていると思います。インド・カルカッタのカトリック学校の校長であった時に、貧民街を訪れて、死にゆく人々のために仕えるという神の召しを受けて、その人たちのために、生涯をささげた人です。来日した時の講演集で次のように語っています。「この世でいちばん美しいことは、神さまが私たちを愛してくださるように、私たちも互いに愛することです。私たちがこの世にいるのも、この目的のためです。神さまは私たちを愛していることを、はじめに証明なさいました。この世をこんなにまで愛してくださったから、御子イエズスを与えてくださいました。イエズスさまはあなたを愛し、私を愛し、私たちのためにご自身を十字架につけました。私たちを愛することを恐れませんでした。最後まで愛してくださいました。そして、すべてを捨ててくださいました。これはすばらしい、ほんとうに人間的なことです。イエズスさまは罪を犯す以外は、私たちと同じでした。」(「マザ−・テレサ訪日講演集] p78)

 私たちが信じる神は、神であることに固執することなく、主イエスとなり、最も低いところでご自身をささげて、私たちを愛してくださり、そのことによって神が神であることを明らかにされた、そこで神の権威を表したのです。私たちはこの神の愛に生かされて、隣人を愛することができるのです。

20211219  主日礼拝説教    「神が私たちの中に入って来られた」   山ノ下恭二牧師 
(イザヤ書25章1−9節、ルカによる福音書2章1−7節)

 
 新聞やテレビでご存じの方も多いと思いますが、アフガニスタンで活動されていた医師の中村哲さんが銃撃されて亡くなってから2年になります。中村哲さんは、アフガニスタンで人々が農業によって食料を得て生活できるための手段を考えたのです。そのために、荒れた農地に、水路を確保するために井戸を掘ることを考え、井戸掘りを実践してきたのです。
 私が、中村哲さんのことを知ったのは、私が北九州の若松教会に在任していた頃でした。中村哲さんの活動を支援している、ペシャワール会主催の帰国報告会があることを知って、八幡バプテスト教会に行き、中村さんから、アフガニスタンでの医療活動の現状を聞くことができました。 

 その後、中村さんは、医療活動だけでは、アフガニスタンの人々の生活を支えることができないことを知り、人々が農業に従事することによって人々が食べて生きていけるように、井戸掘りをして、水路を作る仕事を始めたのです。
 初めの目的は、結核を根絶するために現地に赴き、医療活動をしていましたが、診療している時の人々との対話によって、その暮らしや実情を知り、アフガニスタンのために自分が何をしたら、アフガニスタンの人々のためになるかを祈り、考えたのです。医療活動だけではなく、その枠を広げて、井戸を掘り、水路を作り、田畑に水を確保して農作物を育てることができるようにすることが必要であると考え、実践してきたのです。その最中に亡くなったのでした。 
 かつては緑が溢れる、美しい大地であったアフガニスタンを、外国の軍隊が攻めて、混乱させ、土地は荒廃し、人々の生活は混乱し、生活の基盤を失い、避難民となり、パキスタンなどの外国に流失しているのです。最近、ベラルーシとポーランドとの国境に、2、3千人の難民が立ち往生していると、新聞やテレビニュースで報道されていましたが、その中に、アフガニスタンの人々が多くいることを知りました。アフガニスタンの戦乱から逃れて、自分たちが、生活できるドイツ、イギリス、に行こうとしているのです。中村哲さんが銃弾で倒れ、亡くなったことは残念なことでしたが、中村哲さんの志は、アフガニスタンの人々に引き継がれているのです。中村哲さんという一人の人の活動から始まったことが、多くの人々の心と生活を潤すことになったのです。

 本日の礼拝は、主イエスの御降誕を祝う、クリスマス礼拝です。皆さんと共に、ルカによる福音書2章1−7節のみことばを通して語られるメッセージに学びたいと思います。この当時、ユダヤ地方はロ−マ帝国の支配下にあり、ロ−マ帝国のユダヤ州として位置づけられていました。ユダヤ州を支配するために、総督がおり、その下にロ−マ帝国が暫定的においた領主ヘロデが王としていたのです。
 この当時、ロ−マ帝国の人口調査のために、ユダヤの人々は、生まれ故郷に帰らなければならなくなったのです。生まれ故郷が遠くにある人々は、何日もかけて家族で移動しなければならなかったのです。歩きか、ろばに乗って行くのですから、何日もかかるのです。身重のマリアと夫のヨセフは、生まれ故郷に帰るために、何日もかけて歩いていたのです。夜、ベツレヘムに着いたので、宿屋を探したけれども、どこでも宿屋が一杯で、泊まることころがないのです。

 2章6−7節には、どのように記されているでしょうか。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めの子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」人口調査のためにベツレヘムにたどり着いたのです。マリアは大きなおなかを抱えて、ヨセフと共に泊まるべき宿屋を探しましたが、どこも泊まることはできないのです。生まれてくる主イエスのために宿屋を見つけることができなかったのです。
 
 7節には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と記しています。ギリシャ語から直訳すると「宿屋には、彼らのために場所がなかった」と訳すことができます。ヨセフもマリアも生まれる子どもがどのような子どもであるか、よく分かっていました。天使からの言葉では「大いなる者であり、いと高き子」なのです。神が強く望み、御心に留め、熱心に誕生させようとされている子どもなのです。この神の御心にヨセフもマリアも従順に従っていこうとしていたのです。ヨセフもマリアもどうしてもこの子どもの誕生のために安心して休めるところ、寒くないところ、暖かい場所を確保したいと切に望んでいたのです。何軒もの宿屋を訪ねたのです。しかし、この家族が休養を取り、安心して眠ることができる場所はなかったのです。宿の人々はお客さんを迎えるために、様々な準備をしているのです。部屋を清掃し、料理を用意して待っていたのです。そして宿屋に泊まった客たちは、もてなしを受け、食事をして、暖かく休むことができたのです。しかし、ヨセフとマリアと生まれるべき子どもの居場所はなかったのです。

 このことは何を意味しているのでしょうか。それは、主イエスの生涯の初めから、主イエスは、人々に受け入れられずに、排除されていた、ということです。主イエスには、入り込む場所がなかったのです。あるところに入場しようとしたら、係の人に「会場は一杯で入ることができません。」と言われるようなものです。ホテルに泊まろうとしたら、満室で、泊まることはできません、とホテルの受付係に断られるようなものです。

 クリスマスは、神が、自分の外に出て、肉体を取って人間となり、この地上に来られたことです。神が人間となって、私たちの中に入ってきたのです。クリスマスは、私たちが神が来ることを歓迎し、迎え入れることなのです。
 
 私たちが、クリスマスの讃美歌の中でよく歌う讃美歌の一つに、「もろびとこぞりて」という讃美歌があります。旧・讃美歌が112番、讃美歌21が261番ですが、「もろびてこぞりてむかえまつれ、ひさしくまちにし、主はきませり、主は主はきませり」と歌います。この歌詞のように、私たちは、神と同じ方、主であるイエスが来られるので、迎える心をもってクリスマスを過ごしているのだろうか、と思うのです。

 私たちは毎日、忙しく過ごしています。自分のことで一杯で、他の人のことを思いやる余裕はないのです。まして神様を自分の心の中に迎え入れる態勢を持っていないのです。これでは、神が入るスペ−スはないのです。
 今の生活に満足し、充足していて、神は自分には必要がないし、神を信じなくてもやっていけると思っているのです。神が私たちの生活の中に入る余地はなく、神の居場所はないのです。神を入れてしまうと、自分の生活を変えなくてはいけないから、そのような面倒なことに関わりたくないのです。
 
 主イエスは、誕生する時も人々が受け入れなかったのですが、伝道活動を始めてからも、神の子として扱われたことはなかったのです。主イエスの説教を喜んで聞いた人々は、少数であり、多くの人々は、主イエスを邪魔な存在として扱い、排斥したのです。

 私たちだけではなく、この地上に生きている人々も、主イエス・キリストを信じているキリスト者を受け入れないのです。ヨハネによる福音書1章11節には「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と語られています。主イエスがこの地上の世界に入ろうとしているのだけれども、人々は主イエスが入ることを拒絶しているので、入れないのです。主イエスに、あなたの居場所はありません、と言うのです。ホテルの従業員は、お客さんがホテルに着いたら、笑顔で迎えて、客間に案内し、サ−ビスするのですが、「満室で、泊まる部屋はありません。」と言われるようなものです。

 宿屋が一杯で泊まることができない、ヨセフとマリアとは、全く別の場所に案内されたのです。ヨセフとマリアは、生まれてくる子どものために、暖かく、居心地の良い、清潔な部屋で泊まりたいと願っていたに違いないのです。しかし、案内された場所は、家畜小屋であったのです。この家畜小屋で、主イエスは誕生されたのです。神の子イエス・キリストが宿屋で生まれずに、全く別な場所でお生まれになったことに深い意味があるのです。昔は「馬小屋」と言っていましたが、今は「家畜小屋」と訳しています。家畜小屋というのは、牛、馬、ろばなどがたくさんいるところです。このような家畜小屋は人間が休むところでないし、寒く、暗い、汚い、光がささないところです。

 神の子イエス・キリストは、人間が休むところではなく、光もなく、あかりもなく、寒いところ、汚いところで誕生されたのです。暗く、汚く、冷え冷えとしたところ、少しもそこにいたいと思わないところでお生まれになったのです。このことは、私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。
 主イエスが誕生した場所が冷たく、寒く、汚く、少しもそこにいたくない、暗い場所であったということは、神がどのような場所で、どのような場面で私たちと出会われるのか、ということです。客間や応接間のような暖かい、好ましいところで、なごやかな平和なところで神は私たちに出会うのではないのです。汚れていて、不愉快なところで、神が私たちと出会われるのです。

 この一週間、私たち一人ひとりの生活を顧みると、口げんかをした、相手に心ない言葉を発してしまったことがあるのです。言葉には出さなくても、嫉妬心、敵愾心、をもったこともあります。私たちは生活のすべての面で、神の御心どおりに過ごしているわけではないのです。いつも聖書を読み、祈っているわけもないのです。会社で上司の陰口を言い、子どもを叱りつけ、隣人を重んじないことをしてしまっているのです。欠点のない、立派な生き方している、そこで、神が出会うのではないのです。むしろ、自分には神は必要がないと思い、神をないがしろにして、自分のために生き、人を愛することができない、そのような破れたところで、人には恥ずかしくて見せられないところで、神は私たちと出会われるのです。主イエスは私たちがもっている醜いところで、心が冷え冷えするところで、誕生されました。 
 
 主イエスは、私たちのような罪人の仲間として来られたのです。神の子キリストは、道徳的に立派な人のところに来たのではないのです。罪人を目がけてやってきたのです。罪人の仲間として来たのです。罪人の兄弟としてやってきたのです。主イエスは、罪人の仲間となり、その罪を贖う救い主として、ご自身を犠牲としてささげ、十字架にかかられ、死なれたのです。神は、私たちが罪から救われるために、自分の外に出て、肉体を取り、人間となられたのです。とても遠いこの世界に来て、あえて人間となり、私たちの悲惨を引き受けて、そのいのちを使い果たしてくださったのです。

 ある牧師が少年であった頃の話をしてくれました。1945年8月にに太平洋戦争が終わった、その年のクリスマスのことです。戦争中は、教会でクリスマスツリーを飾ることはできなかったのですが、戦争が終わり、教会員が、もみの木を探して、教会に持ってきたそうです。その教会の牧師のアメリカ人の妻が、もみの木に飾る箱を持ってきて、もみの木のてっぺんに、大きな星を飾るのか、とみんなが思っていたら、この人は、小さな十字架を、そのツリ−の下に置いたそうです。この牧師は、この場面を印象深く覚えているとのことです。 クリスマスは、主イエスの誕生に思いを寄せる時だけではなく、私たちの罪のために死んでくださった十字架に思いを寄せる時なのです。
 
 神の子が自らすすんで人間となられ、ひとりの小さな、まことに小さな、私たちの手のひらにも乗るような存在としてお生まれになったのです。すべての人の救いをこの幼子に託したことを考えると、神のなさることに驚くほかはないのです。そのような神の御業を思い起こしながら、私たちは、これから聖餐にあずかります。

 これから聖餐にあずかるのですが、聖餐の時に読む式文の言葉の中に、「ふさわしくないままで」という言葉があります。この「ふさわしくない」という言葉の意味をよく考える必要があるのです。これは「自分がふさわしくない」と痛切に思っている人が「ふさわしい」人なのです。洗礼を受けているから聖餐を受けるのは当然だ、と思って聖餐にあずかることは良くないのです。
 このパンは、私たちの罪のためにキリストの裂かれた肉、この杯は、私たちの罪のために流された血潮、として信仰をもってあずかることが重要なのです。
 
 自分のこれまでの生活を顧みて、自分が罪が深く、汚れ、神の前に立つことができない、自分が聖餐を受けるのはふさわしくないと痛切に思う人が、ふさわしいのです。自分の罪に悲しみ、嘆く人こそが、キリストの十字架の恵みを受けるのにふさわしいのです。

20211212  主日礼拝説教    「神はわたしに目を留めてくださる」   山ノ下恭二牧師 
(詩編147編1−11節、ルカによる福音書1章39−56節)


 私たちは、イエス・キリストの御降誕を待ち望む、アドベント、待降節の時を過ごしています。本日は待降節第三主日であり、礼拝堂にあるクランツに三本のろうそくに火が灯りました。来週の聖日は、クリスマス礼拝をささげます。
 
 毎年、12月24日のイブの夜には、市ヶ谷ル−テル教会の信徒の皆さんが、キャロリングで牛込払方町教会に来てくださり、クリスマスの讃美歌を共に歌っています。昨年と今年はコロナ感染防止のために、中止となり、共に歌うことができず、残念に思います。クリスマスに大きな声を張り上げて、主イエスの御降誕を讃美するのです。日曜日の礼拝では、コロナ感染防止のために、一節だけを歌いますが、私たちは神を讃美しています。キリスト教会が誕生してから2021年間、キリスト教会は、歌をもって、神を讃美し続けてきました。ロ−マ帝国の迫害で、キリスト教会は地下の墓場で隠れるように小さな声で、神を讃美してきました。戦争の時には、戦場の兵営から離れた場所で他の兵隊に聞こえないように、ただ一人で讃美歌を歌った、キリスト者の兵隊がいたのです。

 クリスマスの物語は、新約聖書の福音書に記されています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書がありますが、これらの福音書の中で、主イエスの誕生について詳しく書いているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書です。このマタイとルカの二つの福音書は主イエスの誕生について異なった書き方をしています。
 
 マタイによる福音書は、旧約聖書を読んでいる、ユダヤ人キリスト者に向けて語られたので、この福音書の初めは、主イエスの系図から書き始めていて、長いユダヤの歴史の連続の中で、主イエスの誕生を位置づけています。
 ルカによる福音書は異邦人キリスト者に向けて、書かれています。この当時、地中海世界を世界と呼んでいましたが、この世界の中の大きな出来事として主イエスの誕生を位置づけているのです。そして、ルカによる福音書は、マタイによる福音書と比べて、主イエスの誕生以前の物語を詳しく語っています。ルカによる福音書は、主イエスの誕生から物語を語り始めるのではなく、主イエスの誕生以前の物語を長く語っています。神殿に仕えるザカリアとエリサベトの夫婦に子どもが与えられ、ヨハネと名付ける物語が書かれているのです。
 
 マタイによる福音書は、初めに主イエスの系図が書いてあり、それからすぐに主イエスの誕生の次第を語っていますが、ルカによる福音書は、1章の初めに主の天使がザカリアに対して、妻エリサベトが男の子を産み、その名をヨハネと名付けるように前もって語るのです。その後、エリザベトが「身ごもる」ことが語られています。ルカによる福音書の初めにヨハネの誕生の物語が語られているのは、バプテスマのヨハネが、神の子イエスが来られる前に、意味のある働きをしたことによります。ヨハネは、救い主がすぐに来られるので、人々に神の審判を語り、悔い改め、洗礼を受けて、身を清めて、待つように迫ったのです。バプテスマのヨハネは、神から離れた生活をしていては、神に裁かれる、悔い改めて、救い主がいつ来ても、裁かれないような生活をしなさいと人々に告げたのです。 

 ルカによる福音書1章26節から38節には、マリアに対する受胎告知の物語が記されています。天使が突然、マリアのところに訪れ、天使は「おめでとう」と語り、そして、マリアがみごもって男の子を産み、その子をイエスと名付けるように語ります。そして「『その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と語ったのです。マリアは、自分が一人の子を産むこと、その子どもは、神の子、救い主であることを聞いて、たいへん驚いたのですが、マリアは信仰をもって受け入れ、神の言葉が実現するようにと答えているのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1章38節p100)

 本日の礼拝で読みました、1章39−56節には、マリアがザカリアの家を訪ね、エリザベトの祝福の言葉を受けて、マリアが賛歌を歌っているところです。マリアの訪問を受けて、エリザベトが「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と挨拶し、この挨拶を受けて、マリアは歌を歌うのです。この歌はのちに「マリアの讃歌」と呼ばれるようになったのです。このマリアの賛歌はラテン語で、「マグニフィカト」と呼ばれています。最初の言葉「わたしはあがめる」というラテン語をそのまま、この歌の題名にしたのです。このマリアの賛歌は、旧・讃美歌95番に当たり、で私たちは、アドベントの時に歌ってきました。「讃美歌21」175番にも、差別語が削除され、一部、言葉が変わっているところもありますが、旧・讃美歌の言葉が踏襲されています。

 
 宗教改革者ルタ−は「マグニフィカト」と言う本の中で、マリアの賛歌について詳しく書いています。ルタ−は「わたしは主をあがめ」と言っていないで「わたしの魂は主をあがめ」と言っていることが大切だ、と言っています。
 「わたし」ではなくて「私の魂は」と言っているのは、神が自分の魂に対して深い関心をもっており、自分が讃美する、自分があがめる、のではなくて、それは神の働きであるというのです。神を讃美することは、人間の行為ではなくて、聖霊がマリアの魂に働きかけている、と書いているのです。
 マリアが歌うことができるようになったのは、それは神がマリアの魂に働きかけて、神を讃美できるようになったからです。聖霊が、私たちの魂を動かして、歌うことができるようになったのです。 

 私たちキリスト者が讃美歌を歌うのと、一般の人が歌を歌うのとは、異なっていると思います。私たちは、神から讃美する言葉を与えられて、聖霊に動かされて歌うのです。一般に、歌を評価する時に、音楽性を基準にするのですが、音楽としての美しさ、音楽としてどうかで評価しますけれども、私たちの讃美は、音楽としての美しさではなくて、信仰によって歌うのですから、音楽性よりも信仰から来る美しさで評価するのです。
 神が私たちの内側から讃美を起こしてくださり、そのことによって歌うのです。このマリアの讃歌はマリアがソプラノ歌手のように美しい声で歌ったわけではないのです。マリアは天使ガブリエルからの語りかけを聞いて、その内容に答え、神がその御業を実現し、自分の中に神がよい業を始めてくださった、その内側からほとばしり出るような喜びが溢れてきて、神を讃美せざるを得ないのです。
 ルタ−が強調していますが、神が聖霊を私たちの内側に注いでくださるので神を讃美することができるのです。田舎のどこにでもいるひとりの女性に神は神の企てを打ち明け、神の救いの御業を始めようとされているのです。その不思議な神の御業を歌わざるを得ないのです。                            
 このマリアの讃歌は「私の魂は主をあがめ」という言葉で始まっています。「あがめる」と言う言葉は「メガリュオ−」と言う言葉です。「メガ」と言う言葉は「とても大きい」「巨大である」と言う言葉です。「メガリュオ−」と言う言葉は、「とても大きなものとする」と言う言葉です。「わたしの魂は主をとても大きなものとする」と言う言葉です。
 マリアの讃歌にある、この言葉は、私たちに信仰の急所を教えています。神をあがめると言うことは神を大きくすると言うことです。逆に言えば、自分を小さくすると言うことです。
 ルタ−が、この聖書のテキストについて、説教しています。「マルティン・ルタ−の福音書説教抜粋」という本で、1964年に翻訳された本です。ルタ−は「わたしの魂は主をあがめ」と言う言葉について次のように語っています。「マリヤは、『わたしの魂は主を−自分自身ではなくて主を−あがめる』とうたいました。」(略)「彼女は言いました。『わたしはさいわいです。けれども、わたしは自分をあがめはいたしません。わたしの魂は主をあがめるのです。わたしの状態は、神がわたしに与えてくださった恵みによるのであって、わたし自身はそれに値しないのです。』ここには、最高の喜びと、しかもなお謙そんがあります。神に対して栄えを帰し、服従してゆくばかりか、人に対してもまたそうであるのです。」

 マリアは神をあがめる、神を大きなものとして自分を小さなものとするのです。神を大きくすることが、神をあがめることです。神を礼拝することです。 自分が神よりも大きくなることはないのです。私たちは、いつも自分から離れられない罪の弱さを持っているので、自分が大きな存在であるかの振る舞い、自分を大きく見せようとするのです。神をあがめるというのは、神が大きくなって、自分は誰にも見えないほど隠れて分からないようにするということです。
 しかし、私たちは、神のみこころよりも自分の思いを大きなものとしています。神よりも自分のほうが大きくなっているのです。神のみこころよりも自分の都合や自分の考えを優先しているのです。マリアは、神の計画の中に入れられ、主イエスを生むという大役を与えられて、その大きな神の業に参加することに心を向け、そして、神のなさる業をほめたたえるのです。               
 このマリアの讃歌で心うたれる言葉は「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」(1章48節)と言う言葉です。神は地位の高い、富める者を選んだのでなく、名もなく、とるにたりない娘を選んで神の救いの御業に用いようとされるのです。この当時の大祭司、王、貴族の娘を選ばず、田舎の小さな村のひとりの娘を選んでくださったのです。

 「目を留めてくださった」この言葉はとても大切な言葉です。「目を留める」相手に向かって自分の方から身を向け、正面から視線を向けるのです。神が、こちらに眼差しを向け、身を向けてくださる、神が自分のほうに向いてくださり、目を注いでくださるのです。自分を大切な者として取り扱う時に、相手に自分の身を向け、正面から対面するのです。

 1章51−53節には、注目すべきことが記されています。主なる神がなさることは、この世界に革命を起こすことだと語るのです。52−53節には「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」と記されています。この言葉は、主イエスの行動によって実現しているのです。この世の中で、権力ある者は、その権力をもって人々を抑圧し、虐げるものです。そして底辺で生きている者は、財力もなく、貧しく、食べる物もなく、苦しい生活をしているのです。このことは、変わらないでいます。しかし、主イエスは、革命を起こすのです。権力を持つ者、富める者を引き降ろし、底辺で生きている者を引き上げるのです。

 主イエスによって生活が逆転するのです。権力を持ちたい、富める者になりたい、豊かな生活をしたい、そのような欲望を持った、上昇志向ではなく、主イエスは、底辺に生きる人々のところに降りて、共に生きようとするのです。そして、主イエスが人々になさったことは、病を癒やし、貧しい人々と食事をし、神の国のたとえ話をすることでした。
 
 主イエスはたとえ話で、神は富める者を退けることを語っています。富める者が、富めるままで豊かな生活ができるのか、というとそうではないのです。主イエスは「富める農夫」のたとえ話をしています。豊作でこれからも生活に困らないと安心していた農夫に死を与えるのです。また財産のある青年は、財産があるために、その財産を捨てきれずに、主イエスのもとから立ち去るのです。金持ちとラザロのたとえ話では、この地上で贅沢な暮らしをしていた金持ちが、死んだ後、地獄で苦しみ、この金持ちの家の玄関で、汚れたパンくずを食べるしかなかったラザロが死んだ後に、天の国で安らかに過ごしているのです。このたとえ話によって、富める者が引き降ろされ、底辺にいる者が引き上げられるのです。主イエスは、最も神から遠く、神から離れている人々のところに出かけて行って、彼らと仲間となり、友となったのです。

 主イエスが向けているまなざしは、最も低い者、貧しい者、病で苦しんでいる者に向けられているのです。 主イエスは、取るに足りない者、相手をしても仕方がない、価値のない者に、目を留め、身を向けてくださるのです。
 
 私は礼拝の中で、「祝福」をします。アロンの祝福と呼ばれている言葉を宣言するのです。民数記6章24−26節の言葉です。その中に「主が御顔をあなたに向ける」と言う言葉があるのです。神がその御顔を向ける、それは恐ろしい顔でにらみつけると言うのではなくて、慈しみと憐れみをもって私たちに顔を向けるのです。自分に好意を持っているか、それとも、よく思っていないかは、顔の表情で分かります。神は愛をもって慈しみをもった顔で私たちに対面し、私たちを受け入れてくださるのです。しかも、私たちは神に愛されるのに値しない者であり、何の良い働きもしていない者です。何の働きもしていないのに、たくさんのご褒美をいただくようなものです。神を忘れ、自分のことばかり考え、他の人を愛さない、そのような傲慢な者に神は身を向け、目を注ぎ、愛をもって私たちに目を留めてくださっているのです。私たちが感謝もせず、讃美もせず、神の恵みを忘れているにもかかわらず、神が心に留め、身を向け、顔を向けて、愛をもって慈しんでくださるのです。                       
 このマリアの讃歌には、「憐れみ」と言う言葉が二度出てきます。1章50節に「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」とあり、そして54節に「憐れみをお忘れになりません」とあります。この「憐れみ」という言葉は元々「誠実」という意味の言葉です。相手を心に留める誠実さであり、相手のことを忘れない誠実さです。神は私たちを忘れることはないのです。親がいつまでも子どもを忘れないで心配しているように、神は私たちを忘れることはないのです。私たちのような小さな存在をも神は忘れることはないのです。私たちの生活に応じて仕返しすることはなく、憐れみを忘れないのです。主イエスの母マリアが主なる神を「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」と讃美し、「憐れみをお忘れになりません」と讃美しています。             

 主イエス・キリストが地上で具体的に行ったことは、この「憐れみ」を実践したことなのです。主イエスは、この地上で貧しい者、病める者、罪人を招き、一人一人に眼差しを向け、救いの手を差し伸べてくださったのです。そのことによって、神がどんな方であるかを主イエスみずから明らかにしてくださったのです。神が自ら、自分の外に出て肉体を取り、イエス・キリストとして誕生し、十字架につき、犠牲をささげ、死んでくださった、それほどの「憐れみ」をもって、私たちに目を留め、イエス・キリスト自身を私たちのために、犠牲をささげてくださったのです。十字架の死が、私たちを忘れておらず、神が憐れみ、愛してくださったということの証拠です。私たちは、このことを心に深く留めて、この待降節の時を過ごしたいのです。

20211205  主日礼拝説教    「神にできないことは何一つない」   山ノ下恭二牧師 
(イザヤ書30章15−22節、ルカによる福音書1章26−38節) 


 この礼拝堂の二本のろうそくに火が灯りました。主イエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節第二主日礼拝を、皆さんと一緒に守ることができることを感謝致します。

 11月21日に日本橋教会創立142周年記念礼拝に招かれて、説教の奉仕をすることができました。日本橋教会には、神学生の時に、4年間通いましたが、私がなぜ、伝道者になるために神学校に行くようになったのか、という話をしたことがなかったことに気がついて、創立記念礼拝の説教の中で、話しをすることができました。

 私が、伝道者・牧師を志して神学校に行こうと決心したのは、私が高校生の時でした。私の姉が小学校の教師を目指して、大学の教育学部に在籍していたことに影響を受けて、私も小学校の教師になろうと思っていました。高校一年生の時に信仰告白をして、教会員になっていました。
 
 高校2年生の秋に、鹿沼教会の高崎隆牧師は、結核の治療のために、滋賀県の近江サナトリウムに行くことになっていました。高崎牧師は神学生の時に結核を患い、再び結核になったのです。私が伝道者を志して、神学校に行こうと決心したきっかけは、高崎隆牧師の説教を聞いたことになります。説教の内容に感銘を受けたというよりも、説教している高崎牧師の姿に感銘を受けたと言ったほうが正確だと思います。結核の治療のために、近江サナトリウムに行く、直前の礼拝に出席し、病を押して、一所懸命に福音を語ろうとしている姿に感銘を受けたのです。私は、それまで礼拝に出席していたのですが、話を聞いているだけでした。しかし、高崎牧師の説教の姿に接して、このような尊い仕事があることを発見したのです。

 それまで、自分の将来の仕事として、伝道者、牧師を選択することは全く考えていなかったのです。しかし、この時から、自分の仕事として伝道者・牧師の仕事を考えるようになったのです。自分が伝道者になろうという気持ちに変わったのです。そのような気持ちになっても、牧師の仕事は、生活も苦しく、精神的に大変であることを聞いていたので、自分にできるかどうか、不安で迷っていたのですが、やっと決心が固まったのです。高校3年生になって、近江サナトリウムから帰ってきた高崎牧師に伝道者になりたいので、神学校に行きたいと打ち明けたのです。高崎牧師は、私の話を聞いて、「やりなさい」と力強く励ましてくれたのです。
 
 自分が伝道者・牧師になろうと思ったのは、一時的な思い込みであって、神が本当に自分を伝道者としての召したのか、と疑うこともありましたが、神学校の入学試験で、教授会の面接でまず、一番に聞かれたのは、「伝道者になろうとして神からの召しを受けてこの神学校に入学するように神の召命を受けましたか」という問いでした。「受けました」と答えたのです。私が伝道者として神からの召命を受けて、それに応じることを確認する機会は、入学試験の時だけでなく、それから何度もありました。大学院に進学する時の教授会の面接でも、伝道者として神から召命を受けているか、と問われましたし、補教師試験、正教師試験においても教団の教師検定委員からも問われました。様々な機会に、伝道者になるために神から召命を受けているか、と何度も問われてきました。                
 今までの牧師としての経験から思うことは、神は、私のような者をも召してくださっている、と言うことです。自分は伝道者としてふさわしいのか、といつも思います。能力もなく、力もなく、話も十分にできないのです。もっと話が上手な人もいるのです。頭もよく、何でもできる人がいるはずです。しかし、私のような貧しい者をも召して、神の働きに参加させるのです。そのことに神に対する畏れを感じ、神の慈しみを感じます。

 神の大きな働きに参加した人の中で、主イエスの母マリアがいます。主イエスの誕生に最も深く関わったのは、主イエスの母マリアです。福音書には、主イエスの誕生の時に、多くの人々が関わったことが記されています。ヨセフ、羊飼い、東方の博士などです。しかし、マリアは主イエスを宿し、産んだと言う意味で、主イエスの誕生に最も深く関わったと言う意味で、大きな働きをした人物です。主イエスの誕生をきっかけにして、その生涯が大きく変わったのです。マリアは主イエスの母となりましたが、マリアは特別に有名でもなく、名も知れない一人の女性でした。どこにでもいる女性の一人であったのです。

 ルタ−が書いた「クリスマス・ブック」と言う本の中で、マリアについて次のように書いています。「おとめの名はマリヤと言いました。ヘブライ語ではミリアム、『にがい没薬』という意味です。どうしてこう名付けられたのかはわかりませんが、ユダヤでは子どもの命名にあたってその子の誕生時の事情を考慮に入れる習慣をもっていました。キリストが来たり給うた時、ユダヤの人はまたしても苦しい貧しい境遇に悩んでいました。虐げられ、踏みにじられて、ちょうど今日の私どものようにみじめな境涯にありました。すべての人々によって、苦い涙が流されたのも当然のことでした。この虐げられた人々のうちでも、マリアはもっとも卑しい者の一人でした。首府エルサレムの高貴なおとめではなく、小さな町の庶民の娘でした。」
                        
 本日の礼拝で読みました、ルカによる福音書1章26−38節には、天使ガブリエルがマリアに、神の子の誕生を告げた場面が詳しく記されています。このマリアに、天使は、神が計画し、神が企ていることを打ち明けています。1章28節に「恵まれた方」と呼びかけています。この言葉は「既に恵みを受けた方」と言う意味です。神がマリアを既に選んでいることを表しています。マリアが決心して、男の子を産むと言うのではなく、マリアの決心に先んじて、神の決断があったことに私たちは注目したいのです。神の隠された計画の中に、既にマリアを選んでいたのです。そのような神の選びがあったのです。1章30節に『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。』と語られています。神が既にマリアを選び、神の計画のうちに加えている、その恵みが語られているのです。                         
 天使はマリアに初めて会った時に、「おめでとう」と挨拶しています。私たちも、相手にお目出たいことがあった時に「おめでとう」と言います。子どもを妊娠した女性に「おめでとうございます」と言うのです。ここでは直訳すると「喜びなさい」と言う言葉です。「喜べ」と言っているのです。神がもたらした良い知らせがある、と告げるのです。       
 マリアにとっては、このことが突然のことなので何のことか、分からずに戸惑ったのです。そこで、天使は、マリアが男の子を産み、その子をイエスと名付けなさい、そしてその子は、神の子であることを伝えたのです。そのことを聞いてマリアは、男を知らない者がどうして産むことができるのか、できるはずはないと応えています。

 それに対して、天使は1章37節で「神にできないことは何一つない。」と語ります。この言葉を直訳すると「神においては、その語られたすべての言葉が不可能ということにはならない」という言葉なのです。簡単に言い換えると「神が語られた言葉、それは必ず実現する」と言うことです。神が計画し、企てたことは本当に実現する、それが実現せず、不可能になることはない、そのことを信じなさい、とマリアに語っているのです。                  
 天使によって語られた神の言葉を受けて、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えています。言葉を換えて言うと「あなたが今、言われたそのお言葉が、わたしにおいて真実に起こりますように」「そのお言葉どおりのことが私に起こりますように」、そのようにマリアは答えたのです。                        マリアにとって、これから子どもを産み、育てる、その知らせはとても不安であったに違いないと思います。子どもの時には子育ての親の苦労はわからないのですが、親になって子どもを育てることは多くの苦労を伴います。子どもを育てるのは何時も喜びであるとは限らないのです。マタイによる福音書には、主イエスが誕生する前後に、ヨセフとマリアが、幾つにも試練や困難を経験したことが記されています。国勢調査のために、それぞれの故郷に帰るための旅をして、宿屋がなかったために、家畜小屋で主イエスを出産しなければならなかったのです。幼児虐殺を逃れるために、産まれたばかりの嬰児を伴って、エジプトに避難しなければならなかったのです。マリアはこれからの生活を考えると不安が一杯なのです。私たちもこれからの生活に不安を持っています。

 しかし、マリアは、天使が「神にできないことは何一つない」と語った言葉を信頼することができたのです。神が語られた言葉、それは必ず実現する、との言葉に信頼することができたのです。それは、自分が独りで成し遂げて頑張るというのではありません。神がマリアを選び、愛しておられることを信じ、そして神が語られた言葉そのものを、神がどのようなことがあっても実現すると信じたのです。              
 主イエスがガリラヤ地方を巡回している時に、汚れた霊に苦しめられている息子を癒して欲しいと、父親が主イエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と頼んだことに対して、「『できれば』と言うのか。信じる者は何でもできる。」と語っています。                
 私たちには限界があるのです。どんなに頑張っても、その壁を破れないことがあります。試練や困難が私たちを襲うのです。
 今年の12月号の「信徒の友」には、「ルカで味わうクリスマス物語」というテ−マで、何人かの牧師が、ルカによる福音書の降誕物語について書いています。日本福音ル−テル教会本郷教会の後藤由紀牧師が、本日の聖句について書いています。終わりのところで次のように書いています。「考えてみれば、どれほど多くの人が、今も昔も『どうしてこんなことが』という思いがけない試練の中で苦しんできたでしょう。今現在、どれほど多くの人の命が脅かされ、社会の中で弱い立場に置かれ、孤立し交わりから疎外されていることでしょうか。『なぜこんなことが』『どうして今なのか』と言いたくなることばかり、そしてわからないことばかり。そういう私たちの苦しみがマリアの当惑や苦しみに重なります。試練はいつのまにか近寄ってきます。コロナ禍も、気づいたときにはそのただ中にいました。この2年間で、私たちの世界は新型コロナウイルスによる大きな試練を経験し、人々の間に心の分断や裁き合いも生まれています。しかし今、その渦中にある私たちに、『いと高き方の力があなたを包む』という言葉がかけられています。『神にできないことは何一つない』、私たちもそう聞いています。                             
 マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えています。言葉を換えて言うと「あなたが今、言われたそのお言葉が、私において真実に起こりますように」「そのお言葉どおりのことが私に起こりますように」そのようにマリアは答えたのです。「わたしは主のはしためです」言い換えると「私は主のしもべです。主に従うものです。あなたがなさいました決断、あなたが立てておられる企てに、わたしはひとりのしもべとして、それに加わり、そこに生きたいと願います。」と言うことです。マリアは、この神の企ての中に組み入れられていくのです。

 私たちは、神のプランの中に組み入れられているのです。神は神のプランを実現するために、私たちを用いるのです。私たちは一人ひとり、自分の物語を持ってます。それぞれの人生の計画を持っているのです。学校を卒業して、会社に勤め、結婚して、定年になって退職する、それぞれ人生のプランを持っているのです。実際には、自分の思い通りには行かないですが、それぞれ心の中で自分の人生を思い描いているのです。マリアも自分の人生のプランを持っていたのです。しかし、天使による神の招きによって、自分の人生が変更されたのです。自分の人生の物語から、神の物語に参加することになるのです。ナザレの町でつつましい生活をしようと考えていた、そのことから、救い主を産むことによって神の物語に参加させられ、神の計画の一員とされたのです。

 私も神によって伝道者としての召命を受けて、自分の人生を変更せざるを得なくなったのです。神の選びと召しがあったのです。自分の物語、自分の生活をそのまま進んでいくのではなく、神の物語、神の計画に参加しているのです。自分の人生が神に用いられる、全く予想もつかない、全く別の人生へと招かれるのです。                 
 
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 ある神学者は、このマリアの言葉が待降節の中心的なメッセ−ジである、と解説しています。この言葉は、私たちの全生活、隅から隅まで、主のはしためです、と言うことです。それは、伝道者、宣教師は献身しているからそう言えるけれども、自分は伝道者ではないから、関係がないとは言えないのです。
 礼拝している時、聖書を読んでいる時、教会の奉仕をしているだけ、主の僕であるというのではないのです。他の時には、自分が主人であるというのではないのです。マリアの言葉は祈りの言葉なのです。「全生活、隅から隅まで、主のはしためです。神の企てどおりに私を用い、生かしてください。わたしにおいてそのみこころを実現してください。みこころを身に引き受けます。」神が先に決断していて、その神の決断を受け入れることをしたのです。
 
  私たちは何事も人間を中心とする時代に生きており、何事も自分の考えで決断しています。しかし、私たちはあらかじめ神の決断があり、私たちはその決断に従うだけであることに同意するのです。人生における分岐点、学校を決める時、就職を決める時、結婚を決める時、大きな買い物をする時、自分一人で決めないで、神にそのみこころを問いながら、神の言葉が私を導き、神の言葉が私の現実になりますように、と祈るのです。
 私たちはいつも「わたしの考えや思いが実現するように」と願っているのではないでしょうか。私たちの祈りも、自分の願いを神に申し上げる祈りになっているのです。まず、「自分」なのです。しかし、自分のための祈りなのではなく、「あなたの言葉」である聖書の言葉を聞いて決めることができますように、と祈るのです。いつでも私たちはみことばに耳を傾けながら、そのみことばの光の中で、決断していくのです。それは神が何を考え、何を計画し、どのような決断をしているか、ひたすら聞くのです。                  
 この物語は、受胎告知の物語と呼ばれています。主イエスがこの地上に誕生する前の物語だから、準備段階の物語である、と考えます。しかし、そうではないのです。もう既に神の救いの働きが始まっているのです。神の子イエスと呼ばれるべき子どもとして、ひとりの娘の母胎に宿ったのです。女が子どもを産む、それは、いつも無数に起こっています。この出来事はその中の一つではないのです。神が既に宿ったのです。この幼子がすべての人の罪を贖う救い主であり、その贖いによって、信じる者が赦され、神の祝福にあずかることができるのです。私たちは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言うマリアの言葉に同意し、そのように歩みたいのです。

20211128 主日礼拝説教   「沈黙の恵み」  山ノ下恭二 
(詩編77編12−16節、ルカによる福音書1章5−25節)


 本日から待降節に入り、クランツに一本のろうそくが灯りました。待降節は、古くからアドベントと呼んできました。この言葉は、元々、ラテン語に由来しています。「アド」と言うは「向かって」という方向を意味する言葉です。「ベント」とは「来る」と言う意味の言葉です。アドベントという言葉の元々の意味は、「向かって来る」と言う意味の言葉です。アドベントは、イエス・キリストがこちらに向かって来る、と言う意味です。この待降節の期間にふさわしい過ごし方とはどのような過ごし方なのでしょうか。
 
 私が子どもの時のアドベントの過ごし方は、クリスマスのペ−ジェント(オラトリオ)の練習をすることで終わっていました。私が通いました鹿沼教会の教会学校では、いつも12月25日の夜に教会学校のクリスマスを行っていました。この教会学校のクリスマスは、こどものクリスマス礼拝が終わると学年毎に出し物を披露するのです。学芸会のようなものでした。そこで、4年生から6年生が合同でクリスマスの降誕劇をするのです。この降誕劇の練習が12月の初めから始まります。12月の初めから毎週土曜日に集まって、劇の配役を決め、台詞を覚えて、実際に演じるのです。決まった時間に集まることはなく、ヨセフの役の子が休んだり、マリアの役が遅れて来たりして、十分な練習ができずに本番を迎えることが多かったのです。練習不足で降誕劇ができるのか、と私は不安をもっていました。いつも、降誕劇がよくできたためしはなかったのです。本番で子どもが台詞を覚えていないので、舞台の下で教師がその台詞を教えるのですが、子どもが間違って言うので、「何度、言ったら分かるのよ」と大きな声で叱ったり、また子どもが台詞が言えなくて、劇が中断して困った時がありました。司会役の子どもがこどもさんびかの言葉を間違えたこともありました。「もろびところりて、を歌いましょう」と言ったので、みんながどっと笑ったり、落ち度がたくさんあったのです。しかし、楽しく過ごすことができ、良い思い出になっています。
 
 私たちは、待降節の期間に、クリスマスに備えて、いろいろしなくてはいけないことを抱えています。クリスマスの準備のために忙しいのです。町で遭った知り合いの婦人から「先生もクリスマスで忙しいでしょう」と言われたことがあります。しかし、この待降節は忙しい、そのような過ごし方で良いのか、と思うのです。

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書の中で、ルカによる福音書は、他の福音書と比べて、主イエスの誕生の物語が詳しく語られています。1章5節から2章52節まで、ヨハネの誕生の物語やマリアに対する受胎告知、そして主イエスの誕生、そのことに関わる人々のことが書かれています。それは、主イエスが誕生する前の物語を語ることによって、主イエスの誕生を待ち望む人々の姿を描こうとしたし、主イエスの誕生を待つ信仰の姿勢を整えるために書かれたのです。クリスマスを迎えるために、信仰の姿勢を整えることはとても大切なことです。主イエスの誕生には多くの人々が関わっていますが、主イエスの誕生の前にも、主イエスの生涯に関わる人々の物語があるのです。

 ルカによる福音書1章5節には、この当時、ユダヤ地方の領主であるヘロデ王が、この地方を支配していた、そのような時代のエルサレム神殿の祭司のひとりであるザカリアが登場するのです。この時代、ヘロデ王は、大きな建造物を建てましたが、猜疑心が強く、自分の王位を脅かすという理由で近親者を次々に殺害する、そのような残酷な心を持った王であったのです。

 その時代の中で、エルサレム神殿の祭司のひとりであるザカリアは、「正しい人」であったのです。「正しい」という言葉は「義」という言葉です。神との関わりが正常である、良い関係を持っている、という意味の言葉です。神に対して、隣人に対して誠実に生きていた人であったのです。お金や財産を自分のために使うのではなく、神と隣人のために財産と時間をささげる、そのような心豊かな人であったのです。

 このザカリアは妻エリザベトと共に老齢であり、自分の生涯の終わりを見つめていた人でした。自分のいのちは長くはないことを知っていたのです。聖書に登場する人の名前は、すべて意味のある名前です。ザカリアという名前は「主は覚えておられる」と言う意味の名前です。私たち人間は、今まで会った人のことも忘れてしまうことがあるのです。しかし、主なる神は「覚えておられる」のです。私たちは、人を忘れてしまう、しかし、神は忘れることはないのです。私たちにとって自分のことを心に留めている神がいる、自分のことを忘れていない神がいる、それはとてもうれしいことなのです。ザカリアを知っている人は周りにいたでしょう。しかし、このような者をいつまでも心に留め、忘れていない神がいるのです。

 エルサレム神殿で仕える祭司はたくさんいたのです。その中で、ザカリアは、至聖所に入って、贖いの儀式を司る者に選ばれ、その贖いの儀式を執り行う最中に、天使ガブリエルから、神の言葉を聞くのです。その時に選ばれた祭司しか入れない至聖所でこれまでの祭儀の手順で儀式を行っている最中に、天使ガブリエルが、突然現れて神の言葉を伝えるのです。それは突然のことであったので、ザカリアはとても驚いたのです。今まで儀式を中断せざるを得ないことはなかったのです。現在の教会の礼拝で聖餐式をしている最中に私が突然、全く知らない者に語りかけられるようなものです。天使ガブリエルが語った言葉は、1章11−17節に書かれています。エリサベトが男の子を産み、その子をヨハネと名付けるように、そしてこの子が神の救いをもたらす救い主の登場の前に、救い主を待つための道備えの役割を担うと言うのです。このヨハネは、神の救いをもたらすための備えをする、大きな仕事をすると言うのです。

 ザカリアは、子どもが与えられるように祈っていましたが、そのことが実際に起こるとは思っていなかったのです。老齢になっているし、体力もない、子どもが与えられるとは全く思っていなかったのです。子どもが生まれることはあり得ない、と思っていました。ザカリアの正直な思いが1章18節に記されています。「そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』」ザカリアは、自分の現実を見つめながら、天使ガブリエルの言葉を受け入れなかった、信じなかったのです。

 この一組の夫婦に子どもが生まれないということは、この一組の夫婦のことだけのことを暗示しているのではなくて、ユダヤの人々が抱えている現実を表しているのです。ユダヤの人々にとって希望がないことを語ろうとしているのです。それは、イスラエルの民が国を失い、自分たちが外国の異邦人に支配されている、そこから脱出することができない、という現実の中を生きていたからです。この現実を変えていく者が現れないということなのです。イスラエルの人々は、自分たちを救い出す、救い主がこの地上に来られるようなことは起こらないと思っていたのです。

 それはイスラエルの信仰の歴史を顧みれば、分かることです。神の民イスラエルは、神を愛し、隣人を愛するようにと律法を与えられていましたが、御利益をもたらす偶像の神々を礼拝し、隣人を愛することがなかったのです。その結果、外国から侵略を受け、二つの王国とも滅び、人々はバビロニアに連れて行かれ、60年の間、異郷の地で不自由な生活を強いられたのです。そして帰国した後、バビロニア、シリア、の支配を受け、この時代もロ−マ支配下にあり、不自由な生活をしていたのです。イスラエルの人々は、これは神の審判であると考えたのです。自分たちがまことの神を忘れ、偶像の神々を礼拝し、自分中心に生き、隣人を愛することのない、そのような生活をしてきたことへの裁きであると考えたのです。神は既にイスラエルを見捨ててしまった、見放してしまったと思っていたのです。

 イスラエルの民全体を視野に入れて、心配していた人がいたのです。ルカによる福音書2章に登場する、シメオンです。シメオンについて、シメオンは「正しい人で信仰があつく、イスラエルのなぐさめられるのを待ち望み、聖霊が彼に留まっていた。」のです。イスラエルがなぐさめられる、とはどのようなことでしょうか。外国の支配を受け、政治は王が横暴にふるまっていて、貧しい人々、障がいを抱える人々、生活ができない人々は何の恩恵も受けないのです。神の民がなぐさめられることを待ち望んでいた、のです。その慰めとは、自分たちを救い出すメシアが来られることによって実現すると信じていたのです。神が自分たちの罪を赦し、自分たちが神のものとして帰属する、そのことがイスラエルが慰められることであると信じていたのです。

 「光の降誕祭−クリスマス説教集」という本の中に、ユンゲルというドイツの教義学者が、教会が長く待降節に読んできたイザヤ書49章13−15節をテキストにしてクリスマスの説教をしています。イザヤ49章13−15節は次のように語られています。「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった。シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主は私を忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが(その子たちを)忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」神が自分たちを忘れているのではないか、と嘆いている、神が、私という存在がいるのにいないかのように無視している、と悩んでいるのです。それは神が私の罪を忘れていないからだと言うのです。しかし、イザヤは、神は忘れていないのだ、と慰めの預言を語っているのです。

 朝日新聞の第一面に、毎日、「折々の言葉」というコラムがあり、鷲田清一という人が、いろいろな人が書いた、あるいは、語った短い言葉を紹介しながら、その言葉を短く解説しています。今年の10月25日の「折々の言葉」に私の印象に残った言葉がありました。R・D・レインという精神科医が書いた「自己と他者」という本の一節を紹介して次のように書いています。「私がここにいるという感覚を持ちうるのは、自分が誰か別の人の無視できない対象である時だ。愛されずに、憎まれるのでもいい。他者の中で自分がなにか意味ある場所を占めていることが必要だと、精神科医は言う。それを欠くと、人は自分が透明人間になったように感じるのだろう。」自分がここにいるという感覚をもつことができるのは、誰か別の人が、自分の存在を無視できない存在としてその対象であるという時である、と言うのです。自分が他者の中で意味ある場所、自分が他の人の中で存在感があり、気になっている、無視できない存在であるという時に、自分がここにいるという感覚を持つのである、と言うのです。他の人によって自分が覚えられている、祈られている、そういう存在であるときに、自分が存在しているという感覚をもつ、と言うのです。
 
 イザヤ書49章15節には「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」と語られています。神はイスラエルの民の存在を自分の民として忘れてはいない、と語ります。神の民イスラエルは、神があたかも存在しないように無視し続けて来たのです。しかし、そのことで神は、見捨てることはないのです。神はいつまでも忘れることなく、心配をしてきたと言うのです。

 ルカによる福音書1章20節に「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と語られています。天使ガブリエルは、ザカリアが神の言葉を信じることができなかったので、「口が利きけなくなり」子どもが産まれるまで「話すことができなくなる。」と語るのです。「口が利けなくなる」「話すことができなくなる」ということは、ヨハネが誕生するまで、沈黙することを強制されたということです。しかし、「黙る」こと「沈黙する」ことを強いられる、このことはザカリアにとって大きな恵みなのです。

 ザカリアが沈黙を強制されたのは、エリザベトが子どもを妊娠してヨハネが誕生するまでであるので、相当、長い時間、沈黙させられていたのです。しかし、このことはとても深い意味があるのです。ザカリアは、この長い時間の間、沈黙して神の言葉を繰り返し、聞いていたのです。ヨハネの誕生まで、旧約聖書のみことばを繰り返し、読み、黙想していたのです。自分が語る言葉を失っても、神の前に沈黙して、神の言葉を読み、黙想していたのです。長い沈黙の生活の後にヨハネの誕生を迎えるのです。そしてその時に、ザカリアは、預言の言葉を語ることができたのです。(1章67−79節)

 このことから教えられることは、この待降節の間、私たちは、神の前に沈黙して神の言葉に聴くこと、心を込めて祈ることが待降節にふさわしい過ごし方なのだと言うことなのです。
 
 私たちの教会ではレプタ献金があり、アジア学院、児童養護施設バット博士記念ホ−ム、隠退老人ホーム・虹の家信愛荘、ベテスダ奉仕女母の家などにレプタ献金をささげてきました。このベテスダ奉仕女母の家では、毎年、この時期になると来年の「日々の聖句」という赤い表紙の本を発行しています。これは、ドイツで発行している「ロ−ズンゲン」という、毎日、聖書の旧約・新約の短い聖句が記されている本の日本語版です。ロ−ズンゲン、このドイツ語の「日々の聖句」には、旧約、新約の聖句の他に、その日の祈りが書かれていますが、日本語訳の本は省かれています。ドイツに留学してドイツ語に堪能な二人の牧師、浦賀教会の楠原牧師と神戸聖愛教会の小栗献牧師とが、毎日の「日々の聖句」にある祈りを日本語訳にして、配信しており、私もその祈りを毎日、読んでいます。翻訳の言葉が異なりますが、いつもその日の朝になると二人の牧師の翻訳が配信されているので、その祈りを読むことができるのです。
 
 ロ−ズンゲン・日々の聖句の11月25日の祈りが、とても良かったので、紹介します。ルツ・ハイルという女性の祈りです。
 「わたしは、壊れてしまったこの心の居場所を探し求めます。安らぐことができて、癒やしてくれる誰かがいる場所を。傷つけることなくこの心を開くことができる場所を。わたしはその場所をみつけました。神よ、あなたに。あなたは癒やすために近づき、やさしくわたしを囲んでくださいます。そして言われるのです。『あなたがわたしにとって価値ある存在だ』と。」
 
 アドベントの期間、クリスマスの様々な準備で忙しく過ごすことが多いのですが、神の前に沈黙して、聖書の言葉を読み、主イエス・キリストをこの地上に派遣された神の愛の大きさを心に留め、またこのコロナ禍で思いがけなく感染し、後遺症で苦しんでいる人々、そして仕事を失い、困窮している人々のことを覚えて祈りながら、主の御降誕を迎えるために私たちの心を整えていくのです。

20211121  主日礼拝説教  「偉大なる小ささ」  長山道牧師(東京神学大学教授)
(創世記8章20〜22節、マタイによる福音書18章1〜14節)


 「いったいだれがいちばん偉いのか」。これは、聖書にも現れているほどに古くからの人間の問いでありますし、また現代のわたくしたちにもなおつきまとう問いです。わたくしたちをあるときは優越感に浸らせ、あるときは劣等感や不安や妬みに苛む問題です。自分は誰よりも上なのか、そして誰にかなわないのか。何かにつけわたくしたちは、そんなことをいつの間にか気にしてしまっています。

 ひょっとしたら、人間だけではないかもしれません。サル山にも猿同士の序列があるそうですし、最近は、雄鶏が時を告げるのにも序列に基づいた順番があるという研究結果が出たそうです。家の中で飼われている犬も、本当かどうかわかりませんが、その家の中で自分の順位が下から2番目だと認識していることが多いとよく言われます。1番下は、その家の中で一番小さな子どもで、そして自分はそれよりも上だと、犬ですら考えているらしいのです。

 「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(1節)。この弟子たちの問いに、主イエスはしかし、まともにお答えになることをすぐにはなさいませんでした。まず一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせたというのです。ペットの犬でさえ自分よりも下とみなすような子供です。そしてこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて、子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(3節)。誰が天の国でいちばん偉いかではなくて、誰が天の国に入れるかを語られたのです。「子供のようにならなければ、天の国に入ることはできない」。それからようやく、誰が天の国でいちばん偉いのかという問いにお答えになります。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(4節)。子供のようにならなければそもそも天の国に入れないのであれば、「子供のようになる人が天の国でいちばん偉い」という答えはもうあまり意味をなさないように思えます。これでは、みんないちばん偉いというようなものです。

 それでは、子供のようになるとは、どういうことでしょうか。よく子供は清らかだとか、子供は素直だとか、子供は天使だとか、子供には罪がないという言い方をすることがあります。

 確かに、子供は可愛らしいですから、罪人呼ばわりしてはかわいそうな気がしますし、純粋で、まだ世の中を知らない分、大人に比べて汚れを知らないのかもしれません。しかしそれは、子供には罪がないということにはならないと思います。実はわたくしは、自分自身が小さな子供だった頃から、この箇所を読むたびにそう考えてきました。「教会に来ている大人の人たちが、みんな自分のような子どもになればよいということではないだろう」、遅くとも4歳頃には、そう考えていた記憶があります。今日この箇所を読んでいただいている間に、お子さんの声がして、とってもよかったですね。「もう帰りたい」、そうですよね、みんな帰っちゃうと思います。子どもの頃のわたくしは罪の意識をすでに持っていましたし、幼稚園にも教会学校にも嫌な子供や悪い子供がいると常々思っていました。わたくし自身、妹をいじめたり、嘘をついたり、隠し事をしたりしていました。それは、まだ子供で、善悪の区別がよくつかなかったからそうしていたというばかりではなくて、はっきり悪いとわかっていてもそうしていたのです。そして幼稚園に行ってみると、さらに意地悪な子供、悪い子供がいたものです。子どもの世界は子どもなりにどろどろしていたと思います。

 「自分を低くして」子供のようになると、4節にはあります。これは謙遜とかへりくだりのことでしょうか。子供は本当に謙遜でしょうか。むしろ生意気な子供もいますし、自信過剰な子供もいます。覚えたての字や、あどけない絵を描くたびにまわりの大人から「上手ね」と褒められて、自分は字も絵もとても上手いのだと思い込んでいるというのは、小さな子供にはごく普通のことです。謙遜やへりくだりは、普通大人になるにつれて身につけるものでしょう。幼稚園や小学校で、もっと字も絵もお歌もピアノも上手でかけっこの速い子供がいくらでもいること、自分はごく平凡でしかないということを思い知らされたり、また、たとえ得意分野でも自慢すると嫌われるということを学んだりする中で、謙遜やへりくだりを身につけていくのではないでしょうか。

 なのにどうして「子供には罪がない」という言い方を大人はするのだろうか。どうして聖書にはこんなことが書いてあるのだろうか。子供は大人が期待するようないい子になり、大人もまたいい子のようになることを求められているのだろうか。人間は大人になると、子供の頃の現実を忘れてしまって、まるで子供が清らかであるような気がしてしまうのかもしれない。ならばわたしは、大人になるまでこのことを絶対に忘れずにいようと、わたくしは小学生の頃に決意をしました。そして実際に忘れることなく大人になりました。

 けれど大人になってみてわかったことは、聖書には「子供には罪がない」などとは書かれていないということでした。そういう言い方をする大人はいるかもしれませんが、しかし聖書はそうではありませんでした。それどころか、「人が心に思うことは、幼い時から悪い」ということを知っていました。「母の胎内にいる時から、私は罪のうちにあったのです」という言葉もあります。「子供のようになる人が天の国に入る」とは、そういうことを言っているのではなくて、子供は事実、低いのです。自信過剰な子どもであれ、引っ込み思案な子どもであれ、子どもはみんな背が低くて小さいのです。そして無力で弱いものです。子供のようになるということは、自分を低く小さく見せようと努力して、果ては自分を低くする競争を始めてしまうことではありません。「自分は誰よりも謙遜だから偉い」、それでは「心を入れ替え」たことにはなりません。そうではなくて、実際にただ低くて小さくて、無力で弱いということです。「誰がいちばん偉いか」、そういうわたくしたちにつきまとう問いの前で、なんの自己主張もできないことです。天の国では、神の前では、わたくしたちは皆そうなのです。この世の事柄として考えたならば、「誰がいちばん偉いか」という問いの前で、ペットよりも下とみなされてしまう小さな子どものようになるということは、とても屈辱的なことです。しかし、天の国ではそうではありません。むしろこのことこそが喜びであり、慰めです。神との交わりに入れられるのに、わたくしたちの側には何の特別な資格も、偉さも、功績も必要ないということだからです。そうではなくて、ただ神の恵みによる、主イエス・キリストの贖いによることだからです。

 わたくしたちは、神の前で、自分はこれだけのことをしましたなどと誇ることはできません。休まず礼拝に出席しましたとか、こんなによく奉仕をしましたとか、社会的な業績を上げましたとか、そんなことは言えませんし、また言う必要もないのです。わたくしたちが神のみ前に立つことを許されるとしたら、それは、そうしたわたくしたちの偉さによるものではないからです。反対に、わたくしたちの偉さが打ち砕かれるからです。わたくしたちのおごりや高ぶり、人に対するだけでなく神に対する高慢の罪から解き放たれるからです。そのために主イエスが来られ、そのために主イエスが十字架におかかりになったからです。ただこのことを信じる信仰によって、わたくしたちは神の子とされました。

 わたくしたちは、自分の力で子どものようになることはできません。成長や老化こそすれ、再び子どもになることは不可能です。「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。そのようにお語りになれるのは、自ら子なる神であり、自ら身を低くして世に来られ、わたくしたちを神の子として取り戻すために十字架におかかりになって、わたくしたちを贖ってくださる主イエス・キリストだけです。主イエス・キリストがそのように呼びかけてくださっていますから、この言葉は今わたくしたちにとって真実となります。

 わたくし自身、この恵みに感謝しながらも、なお「いったい誰が、いちばん偉いのでしょうか」、この問いが信仰生活にまで、天の国にまで繰り返し入り込んできてしまうことを近頃よく思わされます。自分自身が神の子とされたことを喜んで受け入れることはするのですけれども、他の人もそうであることを受け入れるのが、時に非常に困難になるのです。この人はこんな過ちを犯した、この人はこんな欠点がある、そうした思いが、いつの間にか自分の方が偉いかのような気持ちを再び起こさせたり、その人を受け入れるのを難しくさせたりすることをたびたび省みます。

 主イエスはしかし、「自分自身が子とされたことを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とはおっしゃいませんでした。「わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃったのです。主イエス・キリストによって子どものようになった人、神の子とされた人を受け入れること、このことを通して初めて、わたくしも主イエス・キリストを受け入れるのだと、改めてはっとさせられたことでした。

 どうすればわたくしたちは、神の子とされた人を受け入れることができるでしょうか。キリストの名のためにこのような一人の子どもを受け入れることとは、どういうことでしょうか。

 主イエスは、6節以下で躓きについて語られます。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(6節)。とても厳しい言葉です。またここでは、天の国でいちばん偉いはずの小さな者が、実は躓く者であるということであるということが言われています。天の国でいちばん偉い者は、躓くことなどないだろうと普通なら考えるのでしょうけれども、小さな者は躓く者だと、主イエスは言われます。7節にありますように、「躓きは避けられない」のです。

 小さい者に躓きをもたらさないようにと警告なさってから、主イエスはさらにこう言われます。「もし片方の手か足があなたを躓かせるなら、それを切って捨ててしまいなさい」(8節)。躓かされるのは、誰か他の小さい者ではなくて、このわたしだというのです。もしわたくしたちが小さな者を躓かせるならば、そのとき、実は本当に躓いているのは自分自身だということでしょう。

 「もし片方の手か足があなたを躓かせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足が揃ったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命に与る方がよい。もし片方の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目が揃ったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命に与る方がよい」(8?9節)。これはとても恐ろしい言葉だと思います。恐ろしい言葉ですが、わたくしたちがたとえ思い切ってこれを実行できたとして、それで罪の問題は解決するでしょうか。片手を切り取っても、わたくしたちはなおもう一方の手で罪を犯すことでしょう。片方の目をえぐり出しても、わたくしたちはまだもう片方の目で罪を犯すことでしょう。さらにもう片方の手や足を切り取っても、もう片方の目をえぐりとっても、たとえ体中を切り刻んで命を落としたとしても、わたくしたちの罪の問題は依然として残るのではないでしょうか。

 なぜ主イエスはこんなに恐ろしいことを言われたのでしょうか。それは、主イエスご自身が、わたくしたちの罪のためにそのみ体をもって苦しみにあわれ、そのみ体を十字架につけられて、命を落としてくださった方だからではないでしょうか。わたくしたちの罪は、ただこのようにしてしか赦されることはできないですし、わたくしたちはただこのようにしてしか罪から解放されることができないのではないでしょうか。

 主イエス・キリストは、わたくしたちが死ななくても、手足や目を捨てることのできる道を開いてくださいました。わたくしたちが手足や目を失って苦しむよりももっと深く、主がわたくしたちのために死に至るまで苦しまれたのです。キリストの名のゆえに小さな者を受け入れるとは、このようにして可能とされました。

 小さな者を受け入れることについて、主イエスはさらに、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(10節)と言われました。そして教会学校の子どもたちにもよく知られたたとえを話されました。迷い出た羊のたとえです。迷い出た一匹の羊は、小さい者のたとえです。小さい者は、躓く者であり、迷い出る者であるということがわかります。そしてわたくしたちは、この小さな者を軽んじてはならないのだと教えられています。

 しかしこの箇所を読みますとき、きっとほとんどの方は、ご自分を羊飼いではなくて、この一匹の羊に置き換えてお読みになるのではないかと思います。羊飼いは主イエスであるとお考えになっているかもしれませんし、14節に「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と書かれておりますことから、羊飼いは父なる神であるとお考えになるかもしれません。お隣の九段教会が無牧だったとき、毎月説教奉仕に行っておりまして、この箇所で説教をしたことがありました。礼拝後に沢山の方が来られて、「前任の牧師先生もこの箇所で説教された。先生に、『この一匹の羊は私です』と言いに行ったら、『いや、あなたは九十九匹です』と言われた」。みなさんそうおっしゃいました。どうしてなのかわからないですが、主イエスは「一人でも軽んじないように」とおっしゃっているので、牧師先生もそうおっしゃったのでしょう。両方なのかもしれませんね。「自分は迷い出た羊であった。しかし、神がこの小さなわたしを探し求めて、救い出してくださったのだ」。そのように読むことは、決して間違っていないと思います。しかし同時にまた、わたくしたち自身が小さな者を軽んじることなく、迷い出る者を捜し、見つけ出すことが求められています。その背後には、このわたしが滅びることを喜ばれない、天の父の御心があります。

 18章を1節からここまで読んで参ります間、わたくしたちは自分自身を、あるときは小さな者として、あるときは小さな者を躓かせる者として、ところどころ立場を変えながら読まざるを得ないのではないでしょうか。教会はそういうところなのかもしれません。主イエスがこのようにお語りになったのは、17章の終わりの部分を見ますと、弟子たちとともにカファルナウムに来たときで、おそらくペトロの家の中です。広い野原で群衆の前で語られたのではなくて、家の中で、弟子たちに対してお語りになった言葉です。教会の原型と言ってもよいと思います。主イエスによって神の子とされた者の小さな群れです。

 教会には、小さな者、躓く者、迷い出る者しかおりません。しかし主イエスによって小さな者とされたわたくしたちですから、偉さによってでも、間違いを犯さないという傲慢によってでもなく、愛し合い、赦し合い、受け入れ合う交わりができる者とされています。このようにして、捜し求めてくださる神の愛を、わたくしたちは教会の中で互いに具体的に経験しあうことができます。

 わたくしたち、主イエス・キリストによって罪赦され、御霊のとりなしによって共に「父よ」と祈ることを得させていただいていることを、共に子とされた者の交わりのしるしと信じて、感謝をしたいと思います。

【祈り】
 父なる神さま
 わたくしたちが、自らの大きさを誇ることがありませんように。また、自らの小ささに打ちひしがれることがありませんように。あなたからの恵み、あなたとの交わりに生きることを得させてください。一人でも多くの者があなたの子とされ、教会の交わりに加えられていくために、わたくしたちをお用いくださいますように。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

20211114  教会創立144周年礼拝説教    「成熟する教会を目指して」   山ノ下恭二牧師 
(エレミヤ書31章7−14節、エフェソの信徒への手紙4章11−16節)


 本日は、牛込払方町教会創立144周年記念礼拝です。このことを記念する日に、一人の姉妹が、洗礼を受け、牛込払方町教会に加えられた、このことは教会にとって大きな喜びであります。それと同時に天において神が喜んでおられるのです。本日の礼拝において、エフェソの信徒への手紙を読みましたが、このエフェソの信徒への手紙2章1−11節では、洗礼を受ける時の勧めの言葉が語られています。2章1節には「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」と語られ、そして、3節には「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」と書かれています。ここでは洗礼を受ける前の私たちがどのような者であったのか、を語っています。神なしで生活をしていた、それは、神から離れ、自分の欲望のままに、自分を中心にして過ごしていたことが語られています。

 4−6節では、「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、−あなたがたの救われたのは恵みによるのです−キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」と語っています。神なしで過ごしていて、自分の欲望のままに、自分中心に生きていた者を、神は憐れみをもって、罪から救ってくださった、と語ります。
 洗礼に至ったのは、自分の決心や努力によったのではなく、それは神の一方的な恵みの働きなのである、と語ります。洗礼は、神の働きであると語ります。8−9節に「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」洗礼を受けたのは、罪と過ちを犯して歩んでいたにも関わらず、神が憐れみをもって、一方的に愛を注いでくださったことによる、恵みによることだ、と言うのです。神の恵みによって洗礼を受けることができたのです。
 
 聖書は、ロ−マの信徒への手紙6章においても、洗礼の意味を語っています。それは、自分中心の罪の生活が終わり、キリストを中心とした生活に転換した、と言うのです。松永希久夫先生が「洗礼」について例えで話したことを聞いたことがあります。死と誕生を同時にすることだと言うのです。死んだ後に、死体を綺麗に拭くために湯灌をする、また、赤ちゃんが生まれた時に、うぶ湯でからだを洗うことをする。洗礼は、湯灌をすることとうぶ湯で洗うことを同時にすることだ、と例えで話されたことをよく覚えています。罪の生活を葬り、キリストと共に生きる、新しいいのちに生きる生活に切り替わることなのです。洗礼を受けることによって、生活の仕方も変わるのです。神の側からは、罪赦され、キリストのものとなっているのですから、神の側からみれば、洗礼を受ける前とは、全く別人であるのです。罪人としてではなく、神に罪が赦された者、神に正しいと認められている者とされているのです。

 洗礼を受けてから、毎日のこれまでの生活は変わらないのです。修道院に入るわけではありません。毎日、朝起きて、食事をし、仕事をして、夕食を取り、休む、そのような生活の仕方は変わりませんが、神を中心にする生活に切り替わるのですから、それによって具体的な生活は変わるのです。日曜日の生活が変わります。日曜日に自分の用事をする、或いは休養を取る生活から、教会の礼拝に出席する生活に変わります。毎日、朝起きて、聖書を読み、祈るという生活に切り替わるのです。お金の使い方も変わるでしょう。与えられたお金を最初に神にささげ、隣人のためにお金を使うのです。洗礼を受ける前は、何でも自分中心でしたが、隣人を大切にしていく、そのような姿勢に変化するのです。礼拝に出て、聖書のみことばを聞き、毎日、聖書を読み、祈る生活をすることで、変わってくるのです。私は牧師ですから、礼拝を休むことはないのですが、礼拝を休むことができない、これは神の恵みであると思います。聖霊によってキリスト者としての生活に切り替わることですが、神を礼拝し、みことばを読み、祈り、隣人を愛することによって、心豊かな生活ができるのです。

 洗礼を受けることは、この教会員に入会することです。ある教会では、洗礼入会式と言います。洗礼を受けても、教会員にならないことはあり得ませんし、洗礼を受けないで、教会員になることはできないのです。洗礼と教会に入会することは一体です。同時です。洗礼式の時に誓約することは、日本基督教団の信仰告白に同意して告白することですし、教会員としての務めを果たすことを約束することです。日本基督教団に属している牛込払方町教会の会員であると言うことです。一人一人が自由に集まって教会があるのではなくて、すでにキリスト教会があって、その一つの枝として、自分があるのです。
 聖書は、教会が何であるかを言い表す時に、教会を「キリストの身体」と語っています。私たちは身体をもって、この地上で生きているのです。教会もキリストの体として、この地上で活動を続けてきたのです。教会はキリストを頭と仰ぎ、一つの体として存在しています。2000年の歴史がありますから、その歴史において、様々なことが起こったのです。ロ−マ帝国による迫害によって墓場で隠れて礼拝を守らなければならない苦難の時期があったのです。ヨーロッパにキリストの福音が伝えられて、キリスト教世界が形成されて、教皇が国王を任命することができるほど、教会が強大な権力をもって支配した時代もありましたし、教会が分裂した時代がありました。身体、というのは、健康な時もありますが、病に罹って衰弱することもあります。教会も身体ですから、健康で、盛んな時もありますが、分裂して弱くなる時もあります。
 私たちも肉体をもって生活をしているので、健康で元気の時も、病気で苦しみ体が弱くなる時もあるのですが、教会も元気な時と体力がなくなり、弱くなる時があるのです。

 本日は、牛込払方町教会が創立されて144年の記念の礼拝をしています。初代牧師は小川義綏ですが、この小川義綏牧師について、「牛込払方町教会創立百年誌」に次のように記されています。「1863年の頃、友人の推挙により、神奈川在住のアメリカ人の日本語教師となった。小川義綏はタムソン博士を助けて旧約聖書を翻訳し、ヨブ記の内容に触れて、西洋にもこのような貴重な書物があるかと心を動かし、日曜日にヘボン博士の施療所で日本人のために開かれていた集会に出席するようになり、バラ、タムソン両博士の説教を聞く常連となる。両博士の真剣なかつ熱心な説教に段々感動するようになり、また罪悪、救済、永生の問題で内面的に苦しむようになった。一日バラ博士の熱烈な説教を聞き、またタムソン博士の懇切な説諭を受けて深く悟る所があり、暗雲晴れて白日を眺むの感じ極まって、受洗の希望を申し出た。ところが、タムソン博士はこれを拒絶し、まだキリスト教は国禁の宗教であり、洗礼を受けたことが露顕すれば必ず投獄処罰される。しかも外国人宣教師はこれに容喙することはできぬ。それでも受洗の決意は変わらないかと諭され、彼は即答し得なかったが、これより教義の研究に熱中して信仰の基礎を固め、遂に1869年(明治2年)2月、タムソン博士より洗礼を受けた。」とあります。
 
 タムソン宣教師は、27歳の時、アメリカ長老教会派遣の宣教師として、1863年に来日し、1915年に80歳で亡くなるまで、50有余年にわたり滞日し、日本のキリスト教伝道にその生涯をささげたのです。他の宣教師は隠退すると母国に帰るのですが、タムソン宣教師は最後まで日本に留まり、駒込の染井霊園にお墓があります。中島耕二氏の「宣教師デビット・タムソンの生涯」によると、日本に来るために「6ヶ月余りの長く、厳しい航海を経て、1863年5月18日、横浜に到着した」そして、横浜滞在中、タムソン宣教師はヘブライ語がよくできたので、旧約聖書を小川義綏の助けを借りて、翻訳し、そして、1867年から他の宣教師と共に新約のマタイ福音書の翻訳を始め、日本語教師として、奥野昌綱が助けたのです。この奥野昌綱は、牛込払方町教会二代目の牧師です。

 目黒の新栄教会が東京では一番、古い教会ですが、小川義綏は新栄教会の長老となり、牛込、日本橋、四谷塩町、などに出張伝道し、講義所を作ったのです。牛込に伝道した結果、そこで信徒達の群れができて、1877年11月17日に、二十騎町にて、教会設立式がなされ、牧師と長老が立てられて、牛込教会が設立されたのです。この1877年は、記念すべき年で、日本基督一致教会が設立されて、日本で三人の教師が按手礼を受けて、初めて日本人の牧師が生まれた年です。この三人は、小川義綏、奥野昌綱、戸田忠厚です。奥野、戸田は余り知られていませんが、戸田忠厚は、北陸で伝道し、北陸学院、金沢元町教会、富山鹿島町教会などの設立に関わり、大きな働きをした牧師です。1877年に牛込教会が創立されて、翌年、1878年に現在の払方町24番地に新しい会堂を建てて、それ以来、この地で礼拝と伝道に励んできたのです。
 タムソン宣教師は、この日本の地にキリスト教会を作ることを目的として来日したのです。キリスト教の福音を、ただ日本人に伝えるのではなく、日本各地にキリスト教会を形成することを目指して、その生涯をささげたのです。中島耕二氏はタムソン宣教師の伝記を書こうとしたが、記録がなく、タムソン宣教師自身が自分のことを語らなかったのではないか、と書いています。50年も日本で伝道したのは、自分のことよりも、キリスト教会を作ることに関心をもって、大きな働きをしたのです。

 この地にキリスト教会を建てる、建設する、それは、成熟を目指して歩むことです。このエフェソの信徒への手紙では、「成熟」「未熟」と言う言葉が使われています。「未熟」という言葉は、「子ども」という言葉です。14節に「もはや未熟な者ではなくなり」とあります。「あの人は子どもだ」という場合は、余り、良い意味で使いません。「あの人は大人だ、成熟している」というのは、良い意味で使われます。教会として、教会員として成熟するとはどのような意味なのでしょうか。3つのことを語ることができます。
 
 第一に、教会がどのような存在なのか、教会がどのような使命を持っているのか、共通の認識を持っていることです。教会に対する認識が一致していることです。エフェソの信徒への手紙4章11−12節に「そして、ある人を使徒、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。教会が、キリストのからだを形成するために、みことばを語る、福音説教者、牧師、教師、現在の牧師が必要です。キリストの福音を説教する、福音宣教者がいなければなりません。キリスト教会では、みことばを語る者を教会に招聘するのです。1877年の創立の時に、数名の信徒で構成されていた小さな群れに牧師を招聘し、長老を選出して、教会を設立したのです。
 私が東大宮教会を辞任し、次の牧師を招聘する時に「牧師招聘について」学ぶ研修の時を持ちました。牧師を招聘することはどのようなことか、牧師の務めはどのようなものか、を学んで、整えて次の牧師を迎えたのです。牧師交代は教会にとっては大きなことで、ある意味では、危機・クライシスになるのです。その時に、教会の礼拝、伝道、牧会をこれからどうするのかを改めて学ぶことは意味があるのです。牧師との関係で教会につながっている、牧師のファンもいるので、キリストのからだの肢体としての自覚を持つことが大切なのです。牧師はキリストの福音を語る者であるのです。
 教会が続けて来たことは礼拝であるのです。教会は「神の霊のすまい」であるので、私たちは礼拝において、聖霊であるイエス・キリストの神と出会い、神の言葉を聞くのです。そのような神との出会いが、私たちの教会をキリストの教会にしていくのです。

 第二に、私たちが、信仰において一致していることです。エフェソの信徒への手紙4章13節以下に「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり」と語られています。教会に一致があるのは、考えや意見が同じである、ということではなく、「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり」とあります。
 私は高校生の時に鹿沼教会の高崎隆牧師に質問をしたことがあります。高崎牧師は、その当時、東京神学大学大学院博士課程で学んでいました。ある時にどのようなことを大学院で学んでいるのかを聞いたことがあります。それは古代のキリスト教会の歴史を学んでいるということでした。なぜ学んでいるのかその理由を話してくれました。キリスト教会が成立してから、400年の間に、様々な異端が現れて、キリスト教会はその異端と戦った、その論争を学んでいると言うのです。日本にキリスト教が伝わって、100年になるが、古代教会が戦って獲得した信条の戦いを学んでいくことは意味があることだ、と話してくれたのです。具体的には、古代教会では、イエスを神と同じ方、神の子と言わないで、イエスを神のようであるけれども、人間に過ぎない、という人たちが出てきたので、イエスを神と告白して、正統な信仰を守った、その論争を学んでいると言ったのです。
 
 現在の日本の教会にも、イエスを神、神の子と告白し、私たちの罪を贖う救い主と告白するよりも、主イエスを自分たちの生き方を教える模範としてのイエス、悲しむ者に寄り添うイエス、と考えている人々が多いのです。ニカイア信条にあるように、イエスは神と同じ方、と告白することが肝要なのです。神が御自分の外に出て人間の肉体を取り、イエスとなって来られた、それは私たちを罪から解放する、そのように告白することが大切なのです。
 ヨハネの手紙一 4章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」教会はこのことを告白することにおいて一致するのです。「神の子に対する信仰と知識において一つのものとな」るのです。

第三に、現在の教会にとって脅威となるものは、教会が聖書のみことばに聞かないで、この世のことばに耳を傾けて聞いていくことです。この世の情報を聞いて影響を受け、考え方や生き方が世俗化されることです。私たちは、様々な情報に惑わされています。テレビ、ラジオ、新聞、インターネットなど情報の洪水に押し流されています。何が真実で何が嘘なのか、誤った情報なのか、判別できないのです。14節に「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」とあります。「誤りに導く」というもともとのギリシャ語の言葉は「サイコロ」という言葉です。サイコロの目に振り回されるように「誤りに導く」、様々な情報に踊らされて動揺することを言うのです。そのような誤った教えに惑わされる、教会は、いつも間違った教えに振り回される、そのような危険性をいつも抱えているのです。説教も一つの情報だ、と片づけてしまうことがあります。神の言葉を聞かず、人間中心の教会になってしまうのです。

 そのような中にあっても、私たちは礼拝において、みことばに耳を傾けて聞き、キリストの福音にしっかりと立つ教会でありたいと願います。

20211107  主日礼拝説教    「主イエス・キリストが私たちを必要としている」   山ノ下恭二牧師 
(詩編118編19−29節、ルカによる福音書19章28−48節)  

 
 牛込払方町教会は、来週の主日に、創立144周年記念礼拝を行います。牛込払方町教会が創立されて、144年の間、この地で途切れることなく、みことばの説教が語られ、洗礼と聖餐が行われ、キリストの福音が伝えられ、牧師、長老、信徒が神に用いられて来たのです。神は、教会を建て、福音を伝道するために、必要な者を選び、用いてくださるのです。
 
 この礼拝で、ルカによる福音書を続けて学んでいます。本日、読みましたルカによる福音書19章28節以下には、主イエスが、ろばの子に乗ってエルサレムに入城し人々が棕櫚の枝をもって迎えたことが記されています。この物語は、いつも、教会の暦に従って、受難週に入る、棕櫚の主日に読まれ、説教される聖書テキストです。皆さんは、何回もこの物語の説教を聴いたことでしょう。
 
 私は、この物語をこの機会に改めて読んで気がついたことがあるのです。それは、主イエスが子ろばを選んで、御自分の乗り物にしたことはとても大きな意味があると言うことなのです。私が小学生の時に、教会学校でこの物語の説教を聴いた時に、イエス様が、子ろばに乗ってエルサレムに入場したことを知ったのですが、その事実を知っただけで、それ以上のことは思わなかったのです。この時にイエス様はなぜ子ろばを選んだのか、なぜ子ろばに乗ってエルサレムに入城したのか、その深い意味を考えることはなかったのです。この当時、ろばが荷物を運搬するのに使われていたこともあり、たまたま、近くに乗りやすいろばがいたから、便利だから用いたのだ、とだけ思ったのです。
 日本では、動物園でしか、ろばをみることができませんが、イランやイラクなどの中近東では今でも、ろばを荷物を運ぶために用いているのです。中近東の人々は、荷物を運搬するためにろばを重宝して用いているのです。
 主イエスが、これから、私たちの罪を贖うためにご自身の体を犠牲にささげて、十字架で死ぬ、十字架の受難を受けようとしている時に、一匹の子ろばを選んで、この子ろばに乗って入城することは大きな意味があるのです。

 東京神学大学では、大学院二年生の時に、修士論文を提出した後の秋学期に説教演習の授業があり、学生が、神学大学のチャペルで実際に説教をして教師から、講評を受ける時間をもっています。いつも、その時の学長が指導をしていました。私が在学していた時は、竹森満佐一学長が説教の指導をしていました。竹森先生は、長い間、吉祥寺教会の牧師をしていて、何冊も説教集を出している教師でした。この竹森牧師が、マタイによる福音書21章の聖書テキストですが、主イエスがろばに乗ってエルサレムに入場した、このテキストを説教しているのです。この中で、ろばについて次のように語っているのです。
 
 「日本では、ろばは、あまり、見かけませんが、戦前の中国では、よく使われておりました。柔和な目付きをして、体にあまるほどの荷をつけられるか、大きな人間が、ろばに乗つて、走らされていました。これでも、大丈夫なのかしら、と思うほどの重荷に耐えて、ろばは、とぼとぼと歩くのです。大きな人が乗ると、足が、地につくか、と思うほどの重荷に耐えて、ろばは、とぼとぼと歩くのです。このような小さなろばが、なぜ、救い主の乗物に選ばれたのでしょう。聖書が言うように、柔和さが、ひとつの条件でありましよう。柔和な救い主を、運ぶにふさわしいからであります。しかし、それならば、くびきを負うろばの姿、体にふさわしくないほどの重荷を、いつも、負わされるろばは、さらに、救い主のみ業を、よくあらわしているのではないでしょうか。」(竹森満佐一「わが主よ、わが神よ−イエス伝説教集」p311−312 教文館・2016年)

 主イエスは、ろばが荷物を運んでいるので、たまたま御自分が乗るのに都合が良かったから使用した、というのではないのです。ろばが荷物を運ぶ姿が、主イエスご自身の救い主のみ業を映し出しているから、ろばを選んだと言うのです。私は、この言葉に気づかされたのです。主イエスが、ろばを選んでご自身を乗せるために使ったのは、便利だからというのではなく、ろばの姿と主イエスご自身の姿とを重ね合わせながら、同一視していることであることを知ったのです。19章29−34節には、向こうの村に行って、主イエスがろばが必要なので、子ろばを引いてくるように弟子たちに命じていることが詳しく記されています。主イエスは、あらかじめ、ろばを使うことを決めていたのです。その様子が記されているのです。

 ろばは、いつも荷物を運んでいます。重い荷物を運んでいるのです。そのろばが、救いのみ業を行う、主イエスを運ぶために選ばれ、短い時間ですが、救い主を運搬するために用いられているのです。主イエスにとって、このろばは主イエスが神から与えられた使命を全うするために必要なものなのです。ろばは、荷物を運ぶことが毎日の日課であり、仕事なのです。

 私たちも時には重いリュックサックを背負って歩いて移動することがあります。重いリュックサックを降ろしたい時があります。リュックを降ろせば、軽くなりますが、私たちにとって重荷を担い続けて疲れることがあり、重荷を降ろしたいと思いながら、降ろすことができなくて、苦しい思いをすることがあるのです。私たちは、対人関係が心の重荷になることがあります。相手にひどいことをされて許すことができない、相手が自分に対して悪いことをしたと思っている様子もないと言うことがあります。謝罪の言葉もなく、平気な様子で過ごしていることがあります。そのような時に、許すことができないのです。

 上智大学の死生学の教師でカトリック教会のアルフォンス・デ−ケン神父は、「より良き死のために」という本を書いています。この本はとても良い本です。この本には、旅立つ前に、死ぬ前に心の重荷を降ろすことを提案しています。「旅立つ前にやっておきたい6つのこと」というところがあります。6つのことの一つに、人間関係のことが書かれています。「『許せない』と思ってきた人を許し 人間関係のわだかまりを解いておく」と書いてあります。「許せない」という心の葛藤を旅立つまで持つていることは、心の重荷になるのです。相手に対するわだかまりがなく、安らかに旅立つために、アルフォンス・デ−ケン神父は、旅立つ前に、相手を許すことを提案しています。許すことができない人を許す、これは難しいことですが、「許す」ことを勧めています。人間関係が悪くなって、その葛藤を持ち続けていくことは、心の重荷になるのです。

 私たちの心の重荷になる、重荷を降ろすことができないのは私たちの罪に原因があるのです。罪が起因しているのです。罪の問題が解決しないと、心の重荷を降ろすことができないのです。私たちにとって罪の問題は深刻なのです。
 
 私は、最近、「神の痛みの神学」を書いた北森嘉蔵先生の本を読んでいます。とてもわかりやすいのです。北森先生が、千歳船橋教会の夏期修養会で「信仰生活における幸福の位置」という講演をしています。私は、この講演を読んで、罪ということについて改めて、目を開かれる思いをしました。その講演の中で、私たちが幸福を求めながらもまことの幸福を妨げるものの中に「罪」の問題がある、というのです。

 「罪とは何かということですが、これはわたしたち人間が、他者を真実に愛することができないことと定義できると思います。他者への愛に偽りがあるということです。」「人間が人間を本当に愛することができないということです。」それは、相手そのものを愛することではなくて、「相手の持つ美しさとか、良さとか、賢さとかの価値を愛すること」によって関係が悪くなる、と言うのです。「価値があるから愛する。価値が減れば愛も減る。価値がなくなれば愛もなくなるということが、ここに現れてきます。」この講演で、北森先生が「よくお聞きください。」と言って次のことを語ります。「『人格とは、それ自体が目的として扱われるべき威厳を持つものであって、決して他の物の手段となることを許さず、それ自体が目的として扱われるべき威厳をもつものである。』これが人格の定義です。」
 
 「価値を持っているものを愛すると、愛する側が幸福になるのです。ちょうど美しいバラを見れば、目が楽しむ、バラの香りで鼻が楽しむということになって、価値というものはいつも自分を楽しませてくれるものなのです。幸福にしてくれるものなのです。」相手に価値があれば、愛するけれども、相手に価値がなければ、愛さない、それは、相手を手段としてしか、扱わない、人格としてではなく、ものとして扱っているということになると言うのです。そしてコップを例にしています。コップを使う時に、そのコップが古くなり、使う価値がないときには、そのコップを捨てて、他のコップと取り替える、そのように、自分のことを優先すると、相手に価値がないと愛することを止めてしまう、相手を自分の手段にしてしまう、と言うのです。

 それは神との関係においても言えることだと言うのです。「このことは人間同士の関係の前に神に対する関係でも成り立つのです。もしわたしたちが神を信じ、神を愛するときに、神を愛していれば自分が幸せになるとか、いわゆるご利益があるからとか、そういう理由で神を愛し、神を信じるならば、神もまた品物扱いされているということになるのです。神そのものが目的ではなくなって、神の中にある価値というものがわたしにとって利用されることになる。ご利益宗教の根性というものはこういうものなのです。」
 
 しかし、相手が自分に利用価値がなくても、相手の存在そのものを愛することが、人格的な関係であると言うのです。自分の幸福を優先して、相手が自分に価値がある時には愛するのではなく、自分の幸福を捨てて、ただ相手をその存在そのものを愛することが、良い関係になり、互いの幸福につながると言うのです。

 主イエス・キリストは、私たちが神の思い通りに生きているから、価値があるから、利用できるから愛するということをされませんでした。私たちが愛する価値がなくても、私たちを愛しておられるのです。神に背を向け、神をないがしろにしている罪ある私たちを主イエス・キリストは愛したのです。ロ−マの信徒への手紙5章6−8節(p279)「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」ヨハネの手紙一 3章16節(p444)「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
 主イエス・キリストは相手を愛することによって自分が利益になるので愛するのではないのです。相手の存在そのものを愛するためにご自分のことは考えず、ご自身を捨てて、相手の罪を贖うのです。
 
 主イエス・キリストの十字架の犠牲の死によって、私たちは、無条件で、罪が赦されている、その恵みを与えられているのです。罪ある者を愛する、罪を赦す神の愛を私たちは与えられているのです。罪の重荷を背負う必要がないのです。ただ神を信じる、神を信頼するという重荷だけなのです。このような神の愛を受けた者は、神の愛を伝えるために召されているのです。主イエスがご自身の救いの働きのために、選び、用いられた子ろばのように、私たちもキリストの福音を持ち運ぶ使命が与えられ、その器とされているのです。

 ルカによる福音書19章29−35節には、主イエスがエルサレムに入城するために、乗るろばが向こうの村にいて、弟子たちにそのろばの持ち主に言う言葉が記されています。主イエスは前もって、どのろばに自分が乗るのか、選んでいて、弟子たちがその指示通り動いて、ろばを主イエスのところに引いてきたのです。そのことが詳しく語られているのは意味があることです。

 聖書の言葉を読んでいて余り注意しないと思いますが、19章30節に「言われた。『向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないでいるのが見つかる。』」とあります。主イエスにとってどのろばでも良かったのではないのです。主イエスが乗るのにふさわしい乗り物があるのです。「まだだれも乗ったことのない子ろば」なのです。「だれも乗ったことのない」ろばが選ばれています。それは汚れがないことを表しているのです。それは罪も汚れもない神の子・主イエスにふさわしい乗り物なのです。この子ろばが、罪もなく、汚れのない主イエスが神の救いの働きに用いられることは意味のあることです。そして、弟子たちが向こうの村に出かけていくと主イエスが言われている通り、ろばの子がいた、そして、弟子たちがほどいていると、子ろばの持ち主たちが自分たちの子ろばであるのに許可もなく、弟子たちが勝手にほどいているので驚いていると、「主がお入り用なのです」と言って、子ろばを主イエスのもとに引いてきてしまうのです。
 
 ここでは、子ろばが誰の持ち物なのか、ということよりも、主イエスの救いのための働きが何よりも勝っており、神の救いの働きが最優先していることを語っているのです。ここで主イエスが弟子たちに命じて、子ろばを連れて来るようにさせたことは、それは神の救いをもたらすためには、必要であったのです。これは、強引な仕方で行っているのです。周りの者の合意を得て、納得させて実施するという仕方ではないのです。神の救いの働きを最優先させていることに注目したいのです。

 今日の聖書テキストの中で、19章31節、34節に「主がお入り用なのです」と語られています。この言葉の原文を忠実に翻訳しますと「主がこれを必要としているのです」という言葉になります。「必要」という言葉なのです。「主がこれを必要としているのです」
 この子ろばは、主イエスの救いの働きのために、選ばれて、必要とされて、主イエスがエルサレムに入城するために用いられたのです。この子ろばは私たちなのです。私たちは主イエス・キリストのよい知らせを伝えるために必要で用いられる存在なのです。
 
 牛込払方町教会が創立されて、144年の間、神は、この地にキリスト教会を建て、牧師、長老、信徒を導いて、この福音を伝えるべく、用いてきました。神の委託に答えて、教会を建て、福音を伝えていく使命を持っているのです。

20211031  主日礼拝説教    「神の試練」   堺正貴神学生(東京神学大学院1年)
(出エジプト記32章1〜6節、コリントの信徒への手紙一10章1〜13節)


 キリスト者の生涯は旅人的であると言えます。「神の旅人」という題で、パウロについて書かれた本もあります。パウロは、しばしばその旅人的なあり方について述べています。本日の聖書箇所の前、第一コリント9章23〜27節までを引用します。「福音のためなら、私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです。あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」

 旅人的であるということは、目的があるということです。嘗て、大木英夫という先生が、「ピューリタン」という本のあとがきに、「目的のない旅人は放浪者である」と書きました。キリスト者は、キリストにあるものであって、放浪者ではありません。キリストにあって、神と和解させられた者として、福音のためならどんなことでもする、という風に生き方を目的付けられた者です。そして、共に福音に預かる仲間を作り、仲間と共に生きるという生き方に導かれます。ですから、その生き方は単に目的を目指して旅するだけではありません。一人旅ではありません。個人を超えて共同体的です。共に生きるのです。

 パウロは、ロマ書12章15節で「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と語りました。私たちは、積極的に共同体を形成しようとして生きるのです。それは個人を共同体のために押しつぶすことではなく、むしろ個々人がキリストに贖われ、神と関係を持たされた個人として、神から与えられた自由において共同体に献身するのです。むしろ、今まで曖昧だった個人が、個人として立たされて、一人ひとりが共同体を豊かに形成するのです。神から与えられた個性と賜物を、神様のために用いることは、この地上の生において、伝道と神の被造物と神の民への献身へと帰結するのです。闇雲に走ったりしないし、空を打つような拳闘もしませんとパウロが言うのは、このように目的がはっきりしているからです。

 福音のために生きる個人の生き方とは、フィリピ書によれば次の通りです。フィリピ書3章10〜12節「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」

 それはまた、この地にありながら、天に国籍のある者としての生き方です。天に国籍がある生き方とは、すでに復活し、天に上げられたイエス・キリストにあって、この地上においてキリストの苦しみに与り、主の姿にあやかるという生き方です。贖われた者として、この世にありながら、この世的ではない新しい生き方を形成する共同体のあり方です。この地上で完成はありませんから、この地上にある限り私たちは旅人として生きることになるのです。そしてその旅は、あのイスラエルの約束の地までの旅と似ています。神の約束を信じて生きる信仰的な人生とは、絶えず危機にさらされたものです。今回の聖書箇所は、そのイスラエルの神の民の旅を、モーセ五書のイメージを用いて物語りながら、今あるコリント教会の危機について語っています。

 そのような危機から抜けるためにはどうしたらいいのか。私たちもまた、信仰の危機に晒される時があるかもしれません。その危機は、予想外の、在り得べき筈もない苦難が襲う時にあるのかも知れません。また、贖われた者であるにもかかわらず、自分の罪の重さを感じし過ぎる時かもしれません。イエス様が、自分の闇の底まで降りて来て下さっている。そのことを承知の上で、なお喜べない。どうしても、重苦しい気持ちを断ち切れず、神様に助けを求めても、沈黙しているとしか感じられない。そういう時かも知れません。

 しかし、自分は救われている。ハッピーだと思っている、その中で、神様の言葉が届いていない。届いていないことに気付かない。そういう時期もまたあるのではないでしょうか。そして、キリストの救いの喜びにあふれた人々が、むしろ異端的な信仰によって、信仰共同体を分裂に晒すという危機もあるかも知れません。

 コリント教会は、そういう危機に晒されていたのです。十字架の言葉が見失われていたのです。今回の聖書箇所には、教会が教会として立つための救いのメッセージがあるのです。パウロによれば、教会共同体はあのイスラエルの民、神の民という共同体から学び、その遺産を受け継がなければならないものです。イスラエルの民は、あの出エジプトという解放の出来事の後、モーセを通して神との契約を結びました。パウロは、それを単に律法的な契約と考えていません。それは旧約においても、神様による解放の出来事の後、神様と共に生きるための恵みでありました。今回の聖書箇所は、その恵みを強調しています。

 イスラエルの共同体が、神の民として形成されたのは、全て恵みによるものです。イスラエルの民は、出エジプトにおいて、主によって分かたれた海を渡り、そして主はまた、火と雲の柱から、エジプト軍をかき乱します。そして荒野の旅においては、主は雲によってイスラエルの民の旅を導き続けます。この出来事の経過全体を通して、主とモーセに導かれた旅全体を通して、モーセの洗礼とパウロは言うのです。そして、飢えと渇きを癒すため、モーセの杖を通して、神様が岩から水を出し、また天からマナという不思議な食べ物を送ってくださったできた出来事を指して、パウロはこう言います。「皆、同じ霊的な食べ物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについてきた霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」

 これは驚くべき言葉に感じられるかもしれません。このイスラエルの民もまた、キリストによって命を養われていたというのです。確かに、我らの主イエス・キリストは、私たちのために肉の体をまとって、この世に低く降り給う前に、父なる神と一体でありました。このことは、イエス・キリストの出来事によって知らされました。この当時のイスラエルの民は、御子の啓示がありませんから、キリストによって命を養われたとは分かっていません。無論、キリスト到来後も、キリスト信仰のないユダヤ教の人々には、到底受け入れられる筈もありません。受肉の前ですから、キリストの肉と血に与っているのではない。しかし、キリストの一語を以って、あのイスラエルの霊的な食物と霊的な飲み物は、キリスト教会における聖餐と結びつけられています。パウロは、イスラエルの共同体を、洗礼と聖餐によって成り立つ教会共同体に重ね合わせているのです。

 イエス・キリストは、旧約の律法と契約の成就であって、教会とは、このイスラエルの神の民という共同体の成就なのです。実際、異邦人が殆どとみなすことができるコリント教会において、このような話をパウロがしたことは、異邦人信徒達に、旧約聖書の物語が共有されていることを意味します。パウロの伝道の仕方を見ると、シナゴーグの会堂に入って、私たちが旧約聖書と呼ぶその当時の唯一の聖書であった書物を読んで、イエスがキリストであると証しするということをやっています。そして、神を崇める者と呼ばれる異邦人たちが、多くキリスト教へと改宗することになります。神を崇める者とは、異邦人ながらシナゴーグで聖書の言葉を聞き、イスラエルの神を崇めつつ、ユダヤ教には入信していなかった人々でした。ですから、異邦人と雖も、旧約聖書の言葉を知ってしていたわけです。

 さらに、キリスト教会においても、やはりパウロの伝道していた当時は、礼拝において旧約聖書を読んで、イエス・キリストを証ししていたのです。パウロは、異邦人のキリスト教会という共同体形成のために、イスラエルの神の民こそが、ひとつの型になると考えていました。イスラエル共同体とは、神との契約に生きるため、民がどうあるべきなのかと言う原型を示している共同体なのです。では、その共同体のあり方から、何が学べるというのでしょうか。パウロは、次に恐るべき言葉を続けるのです。

 「しかし、彼らの大部分は、神の御心に適わず、荒野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪を貪るように、私たちが悪を貪ることのないために、彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない、民は座って飲み食いし、立って踊り狂ったと書いてあります。」

 あのイスラエルの共同体は、自分たちの欲望を主としました。神様が救ってくださって、本当に神様の共同体となれる時に、神様の御心から離れることをしました。その時、何が起こったでしょうか。荒野で滅ぼされたというのです。それは、今のキリスト教会と無縁の言葉ではないというのです。

 あのイスラエルは、既にキリストという霊的な岩から命の水を飲んでいた。それにもかかわらず滅ぼされたというのです。いや、しかしキリストは、自らを犠牲にして、あの滅びから私たちを救ってくれたのではないか。我々が滅びることはないのではないか。そう思いたいところです。しかし、パウロは、私達が悪を貪ることがないために、彼らが滅びたと言います。このイスラエルの民の滅びと、教会の滅びは、無関係ではないと言うのです。

 パウロは、ここで偶像礼拝という言葉を用います。その偶像礼拝とは、ある振る舞いと結びついています。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った。」そうパウロは言います。神を脇に置いたどんちゃん騒ぎです。そのお祭り騒ぎは、また淫らな行いと結びついています。実は、この箇所は出エジプト記の記述と結びついています。本日の旧約の聖書箇所です。モーセが山から降りて来ない。すると、民がアロンに請い願います。「さあ、我々に先立って進む神々を作ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセが、どうなってしまったか分からないからです。」神が見えなくなった。神が沈黙している。ほんの短い間です。それでも耐えられない。自分たちで担げる神々が欲しい。そして、若い牡牛の鋳像を作ります。聖書はこう続けます。「すると彼らは、イスラエルよ、これこそ、あなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だと言った。」

 こうしたことは、全て欺瞞です。全て嘘です。自分たちで神を作り、これこそ我々を救ってくれた神だと言う。偶像ですから、ものは言えません。だから、人間が神のふりをして、自分の欲望を満たすために好き勝手に語り出します。人間の欲望が神になるのです。アロンは、明日、主の祭りをすると宣言します。その結果はどうでしょう。「座って飲み食いし、立っては戯れた」と書いてあります。ここで「戯れた」とは、淫らな行いを指します。ここには偶像崇拝と、どんちゃん騒ぎと、淫らな交わりが結びついています。偶像とは、人間の欲望を見事に解放してくれるものなのです。確かに古代のお祭りでは、そんな風景が至る所に展開されていました。日本でも、江戸時代末期まで、祭りで踊ってその後、そこに集った男女が無差別に交わり合ったということがあったようです。

 こうしたどんちゃん騒ぎは、私たちのバブルの時にも見られたかも知れません。今は、私たちの国より、アメリカなどの方がはるかに激しいでしょう。アメリカでは、自由が偶像になっているようです。そのため、コロナの感染があまりにひどく蔓延し、多くの犠牲者が出てしまいました。

 パウロはこの出エジプトの記事を用いて、「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と言ったのでした。出エジプト記にあった「戯れた」という言葉を、わざと省きました。そして、この「戯れた」という言葉を釈義して、次のような言葉で語ります。「彼らの中のある者がしたように、淫らなことをしないようにしよう、淫らなことをした者は一日に23,000人倒れて死にました。」こうして見ていくと、パウロが荒野で滅ぼされたという時、文字通りの肉体の死、滅びという以上に、深い意味を持っていることが窺えます。このような偶像崇拝と結び合わさったお祭り騒ぎに参加したこと自体に、荒野での滅びがあり、倒れて死ぬということが起きているのです。

 神が沈黙する、いや、人間の欲望が沈黙させてしまう。そのとき、人間の欲望が大声で騒ぎ出し、オレこそが神だと叫び出します。このとき、真の神様を殺した人間は、すでに死んでいるのです。倒れているのです。ルターは大教理問答で、「ただ心の信頼と信仰のみが、神と偶像の両方を作るのである。信仰と信頼とが正しくあれば、あなたの神もまた正しいのである。反対に、信頼が偽りであり、正しくないところには、真の神もまたいまし給わない」と言いました。そして、人間がいかに財産を当てにするか、財産を持っているだけで、神を所有しているかのように昂ぶり、人を人とも思わなくなるか。また、優れた技能・才能・権勢・恩顧・知遇・名誉を持っている者もこれを頼みとし、いかに誇るか、ルターは、彼らもそういう一つの神を持っていると言います。神を持つことそれ自体が、誇りとなります。そして、それらがいかに信頼に値しないものであり、偶像に過ぎないかを述べるのです。信頼に足りないだけではなく、それは人の命を失わせるものです。

 イエス様はこうおっしゃいました。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。」パウロは、こうしたイスラエルの共同体に起きたことは、キリスト教会でも起こると言うのです。イスラエルの共同体は、神様に救われながら、神様を無視しました。こうしたことが、今、このコリント教会で起きているとパウロは言いたいのです。コリント教会の中には、いつしか貧富の格差が生まれていました。商売をやっている富裕層が入ってきて、貧しい者たちを苛めているようです。6章では、仲間に対する訴訟事件が起きていることが告発されています。当時、公的な裁判に訴えることができる者はそれなりの財力のあるものでした。そして、訴えた者側に、財力のある側に裁判が有利に進められたといいます。また、異邦人でさえ見られない、淫らな行いもありました。それは、5章で告発されています。そしてビジネスマン達は、商売をやる上で欠かせない異教の礼拝の儀式に参加して、そこで捧げられた肉を食べて宴会をしています。それはコリントの一般的な慣行でした。

 啓蒙されたキリスト教徒である彼らにとって、偶像など存在しません。単なる世間の慣習に過ぎないものに参加しているに過ぎない。自分たちは、きちんと真の神様を知り、救われている。この世の慣行に従って、何か悪いことがあるのか、とそう思っています。しかし、真の神様にのみ忠誠を誓う者は、それしか救いのない、とりわけ貧しい者たちは、偶像のお祭りに参加して、偶像に捧げられた肉を食べるのは悪いことだと思っています。彼らは、いわば啓蒙された側から見ると、蒙昧なキリスト教徒です。知恵あり、財力ある、啓蒙されたキリスト教徒は、そんなことは馬鹿馬鹿しいと思っている。しかし、パウロはこの第一コリントの10:27-28でこう言います。「あなた方が、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題として、いちいち詮索せず何でも食べなさい。しかし、もし誰かがあなた方に、これは偶像に備えられた肉ですと言うなら、その人のため、また良心のために食べてはいけません。私が、この場合、良心というのは自分の良心ではなく、その様に言う他人の良心のことです。」

 コリント教会の一部の人たちは、むしろキリストに従うというより、自分で勝手に解釈したキリストに従おうとしました。彼らが主としたのは、キリストではなく、自分の富であり、技能・才能・権勢・恩顧・知遇・名誉でした。そうしたことを、キリストの下で追求できると思い、教会での横柄な振る舞いとなって現れていたのです。だから、この世の慣行に従うだけで、偶像崇拝をしているわけではないと思い、自分の利益のために異教の祭儀に参加していた人たちは、実は真の偶像崇拝に陥っていた。彼らが、自分達は大丈夫と自信を持っていた、そのところで、最悪の偶像崇拝、教会の仲間たちを痛めつける偶像崇拝へと導かれていたのです。

 その結果、淫らな行いがはびこり、貧しい者たちへのいじめが起き、教会の分裂がもたらされた。だから、パウロは厳しく、この10章19〜20節でこう言います。「私は何を言おうとしているのか、偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか、それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか、いや私が言おうとしているのは、偶像に捧げる供え物は、神ではなく悪霊に捧げている、という点なのです。私は、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。」偶像とは、人間の欲望が化けた悪霊です。これに取り憑かれると主を失います。今回の聖書箇所で、キリストを試みないようにしようと云い、不平を言わないようにしようと言うのは、こうしたコリントの人たちの在り方を厳しく非難しているのです。

 私たちは、自分の思い通りにならないと、神様を試み、不平を言います。しかし、そのような者にとって、この世が一番大切だと思っている者にとって、肉体の滅びは最高の裁きかもしれません。コリント教会にある肉欲的な腐敗に対する裁きとして、確かに荒野で滅びたとか、倒れて死ぬとかは、決定的なことかも知れません。しかし、本当は違うのです。この世の苦難や、肉体的な命の消失は、 真の問題ではありません。

 パウロは、苦難の中で、キリストの死に似たものになろうと、懸命に走って来たのです。パウロは、こうしたイスラエルの人たちの滅びは、時の終わりに直面している私たちに警告するためと言います。正に、イエス・キリストの出来事において、決定的なことが起こった。このキリストにあるものは、全て時の終わりに直面しています。この終わりの時にあたって、むしろ、滅びないために、肉体の命さえ投げ打つことさえ、大きなことではない。それは死に向かうのではなく、自分の命も他者の命も生かすために生きるという生き方です。しかし、私たちはそれにもかかわらず、キリストの生き方から離れ、罪に陥ります。コリント教会のようにです。

 そうした時に、パウロはこう告げます。救いの言葉です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるように逃げる道をも備えてくださいます。」これはどういうことでしょうか。今まで読んできた文脈では、決して単なる苦難からの解放と言う、約束ではなさそうです。私たちにとって真の危機とは何でしょう。それは、この世で命を失うことではなく、神様から離されることであります。ですから、ここでいう試練とは、神様から滑り落ちてしまうことなのです。

 エミール・ブルンナーという神学者が、1939年、第二次世界大戦の危機のただ中で、使徒信条の講解説教を行いました。そこで、こんなことをお話しになりました。「戦争が終わることを祈ることは正しい。しかし、戦争が止むことによって、私たちは救われない。神なき秩序のもとで生きること、これは死よりも一層悪いことです。スイス人にとって、平穏な時代が戻ってきても、第一次大戦前に戻ることを真剣に祈れるでしょうか。」「あの時代に人々が自分の利益を追求できた時こそ、我が国民の道徳水準が最低まで低下し、神からの逃亡があまねく広がった時ではなかったでしょうか。」「私たちは、自分たちが悪くなったことには絶望しないけれども、事情が自分達にとって悪くなるとすぐさま絶望してしまうのです。神は、しかし、くりかえしくりかえし事情を悪く行かせることによって、私たちをして何が尊いものであり、何が本当に重要であるかをはっきり教え給うのです。」このブルンナーが述べたようなことが教えられることが、神が真実であり、試練と共に、それに耐えられるよう逃げる道をも備えてくださるということなのです。

 何故ならば、私たちの救いは、神の御子の犠牲の死による贖罪にありますから、キリスト教会にある私たちには、主が、罪から必ず逃れ、神様へと向かう道を備えてくださるのです。イエス・キリストに救われた私たちは、にもかかわらず繰り返し罪に陥りますが、神の真実によって、私たちはイエス・キリストを通して、完全に神から離されることはありません。むしろ、苦難を通してこそ、私たちには真に頼るべき神が知らされます。苦難を恵みとしての審きとして、積極的に受け取ります。こうして神の試練は、私たちの救いとなるのです。

 パウロは、コリントの教会の腐敗を見ながら、キリストにある者たちが、必ず神様に立ち帰れると信じました。ですから、コリントの信徒たちを、この淫らな行いが蔓延している教会を、聖徒の集まりと呼ぶのです。パウロは、この後、聖餐について語り始めます。洗礼を通して、形成された教会に説教をして、聖餐の意義を語ります。つまり、説教と聖餐を通して、礼拝を捧げることこそが、真の試練、罪からの回復の道なのです。どれほど罪に落ちても、礼拝を通じて神の言葉を聞き、新しく生きることへと促されます。貧しい者、かつての犯罪者、弱い者、財力や地位のある者、そのために誘惑に陥りやすく、かえって弱い者も、皆が聖餐を通して、共にイエスの肉と血を分け合い、聖霊を通して、主の現臨の中に、共にある者として、お互いに重荷を担う共同体が形成されます。パウロにおいては、キリストの教会にも実は、偶像礼拝の禁止や、淫らな行いを禁止するイスラエルの民の律法が暗に生きているのです。しかし、新しい仕方で、イエス・キリストを通してです。パウロは、今回の聖書箇所で、律法という言葉を出さずに、モーセに属する者となる洗礼とキリストを通して、そのことを語りました。

 このキリストのもとにある教会は、世の法律で裁かれずに、キリストによって裁かれます。究極の裁きです。だから教会は、今も絶えず、時の終わりに直面しています。私たちは、キリストの恵みによって、この世ならぬ裁きを受け、赦され、新しい生へと促されます。このことが、礼拝において同時に起こるのです。終末の裁きと成就が同時に、礼拝において起こります。私たちの差し当たりの旅は、この礼拝を目指しています。このような救いをもたらしてくださった神様に感謝し、礼拝から礼拝へと、神様を賛美しつつ、私たちの旅の歩みを確かなものへとして行きたいと思います。

 祈ります。
 天の父なる神様、私たちは、あなたに救われながら、あなたの名前を使ってさえ、私たちの欲望を果たしてしまおうとする罪深い者です。しかし、あなたはその罪深い私たちの闇に絶えず触れ、私たちをあなたの下へと引き戻してくださいます。それは、あなたに救われた私たちが、あなたの群れとして、あなたを賛美し、礼拝を捧げるためです。礼拝を通して、あなたはいつも私たちに力をお与えくださいます。
どうか、喜びに満ちたあなたへの賛美、礼拝をお守り下さい。そしてこの礼拝を通じて、あなたの福音を、この東京に、日本に、全世界に宣べ伝えさせてください。
そして、神を知らないまま、空しく生きている人々を、どうかあなたの福音によってお救いください。私たちの喜びに満ちた礼拝が、絶えずあなたを宣べ伝えられますように。
この祈りを、主イエスキリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン



20211024  主日礼拝説教    「心が折れてしまう時にも」   山ノ下恭二牧師
(ミカ書7章18節、ルカによる福音書15章1−10節)


 本日は、牛込払方町教会の会員、関係者で召天された方々を覚えて礼拝を守っています。昨年の10月25日に召天者記念礼拝を致しましたが、この時から本日までに三名の教会員が召天されました。藤井和子さんが、昨年12月20日に逝去され、12月26日に山ノ下恭二牧師の司式により、町田市の葬儀場で葬儀が行われました。90歳の生涯でした。そして吉川小夜子さんが、今年の5月15日に逝去され、5月19日に山ノ下恭二牧師により、熱海市の葬儀場で葬儀が行われました。94歳の生涯でした。小枝堪さんが、7月21日に逝去され、7月23日に名古屋桜山教会にて田中文宏牧師の司式により、葬儀が行われました。93歳でした。三人とも、神の前に、罪を告白し、罪を赦されるしるしの洗礼を受け、神に深く愛されて、この地上の生涯を終えることができたのです。

 2年前に、私は井の頭線の駒場東大前駅の近くにある、日本近代文学館を訪ねたことがありました。丁度、「生誕100年。太宰治 創作の舞台裏」という特別展があり、太宰治の作品の草稿などが展示されていました。私は、高校生の時に、太宰治の作品の中で、「走れメロス」という小説を読んで感動したことを覚えています。この作品は、友人を信頼することの大切さを教える小説で、明るい作品ですが、晩年の作品には「斜陽」「人間失格」など、暗い作品が多いのです。この特別展には少年時代から自死するまでの歩みが詳しく展示されていましたが、その中で、「人間失格」の実際の原稿が展示されていました。その中に「生まれてきてすみません」という言葉があったのです。太宰治は、この作品を書いた後に、玉川上水で心中して亡くなるのです。

 この特別展で初めて知ったことですが、太宰治は、斜陽や人間失格を書く前に、麻薬性沈痛剤中毒治療のために武蔵野病院に入院していた時に、医師の斉藤達也から聖書を借りて読んでいたようです。しかし、聖書の言葉が、太宰には、立ち直る力にはならなかったのです。太宰治の研究家である、清水氾氏は、「太宰治とキリスト 教会には行きませんが、聖書は読みます」と言う本の中で、太宰の文学作品に、聖書のどのような言葉が多く引用されているのかを調べたのです。その結果、分かったことは、福音書に記された言葉が多く引用されており、その中でも、マタイによる福音書の山上の説教の言葉が多いと書いています。
 マタイによる福音書5章にあります、山上の説教をそのまま読むと、人間が生きる時に参考になる道徳訓が書かれていると読んでしまうのですが、太宰治は人としての理想的な生き方を教える道徳訓として、聖書を読んでいた、と清水氾氏は言うのです。聖書の言葉を道徳として読む、生き方の模範として読む読み方をする人は多いのです。
 太宰治は「生まれてきてすみません」という言葉から分かるように、様々なことにぶつかって、自分が生きる価値がある存在なのか、を疑い、自分の存在を消したいと思っていたのです。それは何度も心中事件を起こしたことから分かるのです。太宰治は、自分は生きる価値がないと思っていたのです。

 私たちは、人生の様々な場面で、様々な危機に遭遇し、時には当たり前に過ぎていた日常がもろくも崩れることがあるのです。私たちには、思いがけないことがありますし、困難に直面することもあるのです。コロナ感染のために、失業し、悲観してしまい、自死する人も多いですし、子どもの自殺も増えているのです。そのような心が折れそうになる時に、心が折れないで、立ち直ることが必要になのです。太宰治は、聖書の言葉を読みながらも、聖書が語ろうとしている本来のメッセージを把握しなかったために、読み方が浅かったために、困難なことに直面した時に、立ち直ることができなかったのです。

 最近、「レジリエンス」という言葉をある雑誌で知りました。この「レジリエンス」という言葉は「復元力」「回復力」と訳されることが多いですが、「立ち直り力」と言い換えても良い言葉です。この言葉は厳しい環境や状況にさらされた時に対応できる力のことを指し、「折れない心」「打たれ強さ」などと訳すこともあります。私たちはしばしば、実際に心が折れてしまうような、または、打たれて倒れ伏すような思いを味わうこともあるのです。ここで問題なのは、どうやって心が折れないようにするのか、ということよりも、心が折れ、倒れてしまった時にどうするのか、と言うことなのです。私たちは実際に心が折れてしまうような、打たれて倒れるような思いを味わうことがあります。
 私たちも「生まれてきてすみません」「生きていてすみません」と、自分の存在が価値がなく、何のために生きているのか、分からなくなる時があります。私たちが生きていく時に、心が折れるようなことにぶつかることがあるのです。

 心が折れることの中で、一番ダメ−ジが大きいのは、人間関係です。相手との関係が悪くなり、修復できないことがあります。正常な関係をもてなくなり、相手がそこにいてもいないようにしてしまう、そのように相手の存在をうとましく思うことがあります。そのように人間関係が悪くなるのは、相手が悪い、自分が悪いということではなくて、私たちの中に異物を持っているからです。罪と言う異物をもっているのです。罪と言うのは、相手を真実に愛することのできない力を持っているのです。その原因は、相手そのものを愛するのではなく、相手が持っている価値を愛することなのです。相手の持つ、美しさ、良さ、賢さ、財産という価値を愛するのです。相手に価値がなくなれば、愛することもなくなるのです。

 私たちは、相手の人格そのもの、存在そのものを愛しているでしょうか。自分の利益になる手段として相手を愛しているのではないでしょうか。一人の人格をもった存在であると考えないで、自分のための手段として相手と関わるのです。ここにコップがあり、このコップを自分が利用するときだけ、コップは価値があるのです。このコップでなければならないことはなく、他のコップを使うこともできます。利用価値があれば使うけれども、役に立たないならば、使い捨てにしても良いと考えているのです。そのように、人間を品物扱いにしているのです。

 そのような罪をどのように解決するのでしょうか。罪は穢れであるので、お祓いして、罪と言う厄介な埃を払うのか、水に流して、罪はなかったことにするのでしょうか。
 太宰治は聖書を読んでいましたが、それは人間の生き方を教える道徳として読んでいたので、心折れる時に復元する言葉として聖書を読んでいなかったのです。太宰治は、「走れメロス」に登場する人物のように、互いに信じ合うことを求めていたのですが、現実には信頼し合う関係を求めながらも、挫折する経験をして、そこから立ち直ることができなかったのです。
 太宰治が聖書の中の山上の説教を道徳の言葉としてしか読まなかったために、自分の魂を支える言葉に出会うことができなかったのです。
 道徳は人間の正しい生き方を教えるものですが、私たち人間を立ち上がらせる力にはならないのです。

 聖書は、ただ人間の正しい生き方を教えているものではないのです。聖書に登場する人間は、神が正しく生活をしていると思うような人物は出てこないのです。罪を犯し、間違ったことをし、愛のない人物が登場するのです。

 しかし、そのような人間を見放すことなく、愛してくださるのです。
「人間失格」この作品は「ヒューマンロスト」と言われています。太宰は、自分のこれまでの生き方を顧みて、人間として失われている、自分はもう生きる価値がない、と思ったのです。それで自分に失望をして自死してしまうのです。 しかし、聖書を深く読むならば、まことの神は、自分を見捨てない、神は自分に身を向けて愛し、罪と過ちを赦してくださる、と読むことができ、自死する必要はなかったのです。

 5月15日に逝去された吉川小夜子さんは、1992年1月にニューヨーク在住の、長女の竹下美栄子さんが亡くなり、我が子を失うという悲しい経験をされました。払方町通信に「娘の病没、召天に遭遇し、ひととき心の寄りどころを見失いました。」と書いています。親にとって、子どもの死はとても悲しい出来事であったと思います。子どもを失うことは、自分の過去を失うことなのです。吉川さんの心が折れそうになった時に、ニューヨークの教会で葬儀に参列し、説教を聞き、祈りを共にし、、讃美歌に心の安らぎを感じ、帰国して、牛込払方町教会で夫の吉川佳彦さんと共に洗礼を受けられたのです。

 葬儀の時に、私は詩編23編を読むことが多いのです。この詩編23編は、羊飼いがいつも羊を愛し、羊のことを気遣い、羊のいのちを守るために、敵と戦うような危険な時には、守ってくださる、と歌います。
 ルカによる福音書15章には、三つのたとえ話が記されています。最初に、見失った一匹の羊のたとえ話が語られています。一匹の羊が、羊の群れから離れてしまい、どこかに行ってしまったのです。羊飼いは、99匹の羊たちを残して、必死に捜し出し、やっと見つけて、羊の群れに連れもどすのです。そのことを神は大喜びするのです。その次に、無くした銀貨のたとえ話が語られています。一人の女性が、10枚の中で一枚の銀貨を無くしてしまい、この女性が、窓のない暗い部屋のなかで、灯りを灯して、必死になって一枚の銀貨を捜し、見つけて喜び、神が大喜びするたとえ話です。

 そして、3番目に、放蕩息子の譬えがあります。この譬えに登場する息子は、父親のもとから離れて、自分が好きなように生きている、今だけ、金だけ、自分だけ、という生き方をして、父親からもらった財産をすべて浪費し、無一文になって、ぶたが食べるいなご豆を食べて、落ちぶれた暮らしをしていましたが、父親のもとに帰る決心をして家に帰るのです。父親に今までの罪を告白する前に、父親が息子の手を取って、よく帰って来たと、息子の罪を赦して、息子として家に迎え入れたのです。

 私たちが、神を失い、自分をも失うことがあっても、神が私たちを失うことはないのです。神なんかいない、自分の好きなように生きるのだ、と神の愛の外に落ちてしまった者を、神は、神の愛の中に包み込むようにして、私たちを神の懐に戻してくださるのです。このような神の愛の中で過ごすことができるのです。
 この三つのたとえ話は、神から離れて、神の外に出て行ってしまった存在を神が愛して、神のもとに連れもどすために、神自ら自分の外に出て、肉体を取ってイエス・キリストとなり、十字架の死によって罪を贖って下さったのです。これが、聖書のメッセージなのです。

 ミカ書7章18節には次のように語られています。「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の民の残りの民に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。」

 誰でも、様々な困難や試練に遭遇するのです。人間関係のもつれ、愛する者の死、などたくさん経験します。そのような中で、まことの神の愛を受けて立ち直ることができるのです。
 
 聖書で語られている神は、私たちをいつまでも忘れることなく、愛してくださるのです。私たちが心が折れそうになる時にも、神は私たちの存在を愛し、神の愛の中に歩みなさい、と語って下さり、そのことによって、私たちは立ち直ることができるのです。

20211017  主日礼拝説教    「神から与えられた恵みを生かそう」   山ノ下恭二牧師
(イザヤ書45章20−25節、 ルカによる福音書19章11−27節)

 
 本日の礼拝で読みました、ルカによる福音書19章11−27節には、「ムナのたとえ」が書かれています。ムナというのは、この当時のユダヤのお金の単位です。聖書の後ろにある付録に貨幣の単位が掲載されていますが、ムナと言うのは、一デナリオンの百倍のお金です。一デナリオンは、一日分の賃金ですから、現在のお金に換算すると、一日の賃金を一万円としたら百万円になります。少ないお金ではありません。百万円あれば、このお金を使って、活用することができるのです。
 
 このたとえには、十人の者がそれぞれ一ムナずつ与えられて、主人の留守の間、働いた結果、僕たちがどのように主人から扱われたのかが記されています。このたとえに似たたとえが、マタイによる福音書25章にある「タラントンのたとえ」です。この二つのたとえは、お金の単位が異なり、語られている文脈が違いますが、同じように主人の留守の間、お金を預かった僕たちが働いた結果、どのように主人から扱われたのか、を語っていることは変わりません。どちらかと言うと、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」のほうがよく知られています。

 ルカによる福音書19章12−13節に次のように語られています。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい。』と言った。」
 
 この物語は、この当時の実際の歴史が背景にあるのです。主イエスが誕生された時のユダヤの王は、ヘロデ大王と呼ばれていましたが、この王が死んで、彼の3人の息子はユダヤを三分割して統治していました。この3人の息子の一人であるアルケラオは自分が王となりたいために、王の称号を貰おうとロ−マの皇帝のところに行ったことがあるのです。歴史的には、このアルケラオが、王にはふさわしくないとその地方の人々がアルケラオよりも先にロ−マに行き、ロ−マ皇帝に王の称号をアルケラオに与えないように直訴したので、アルケラオは、王位をもらえずに帰って来たのです。そして、王位をもらえずに帰って来たアルケラオは、ロ−マ皇帝にアルケラオを王にするなと言った人々を皆殺しにしてしまったのです。

 このルカによる福音書に記されている「ムナのたとえ話」では、王位をもらえず、帰国して、殺人が行われたことは省略していて、「ある立派な家柄の人」が、不在であり、不在の間、僕たちがそれぞれ、どのように働いたのかを、帰って来た主人に問われていると改作しているのです。
 
 「ある立派な家柄の人」が、不在であるのは、現在の私たちキリスト者の置かれている状況を語ろうとしているのです。この地上に主イエスは不在なのです。イエス・キリストは、十字架にかかり、復活、昇天して、天の神の右に座しておられ、この地上にはいないのです。主イエス・キリストが再び、私たちのもとに来られるまでの間、私たちがどのような生き方をすれば、主イエス・キリストが喜ぶのかをこのたとえは語っているのです。
 
 私たちは、洗礼を受けてキリスト者となりましたが、それは、神が支配する神の歴史の中に組み込まれているのです。私たちは、この地上の小さな世界にいるというのではなくて、神の大きな世界の中に組み込まれているのです。聖書には、神が天地を創造されて、歴史を始めたのですが、神はこの歴史を終わらせるのです。はじめから終わりまで神が支配するのです。神に創造されたにもかわわらず、神に背を向け、罪を犯した者を救うために、イエス・キリストが罪を贖うためにこの地上に来られ、罪を贖って、神との正しい関係を与えてくださる、そして天に昇り、神の座におられるのですが、再びイエス・キリストが来られるまで、この地上にはイエス・キリストは不在です。終末、再臨の時に私たちのもとに来て、私たちを裁くのです。
 私たちはいつも礼拝で、使徒信条を告白していますが、その中に、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」と告白しています。私たちには神の審判があるのです。この審判の時に、私たちが生きてきたあり方が神から審判を受けるのです。

 最後の審判、再臨、終末があるこということは、このルカによる福音書の他のたとえに暗示されています。それは、会計の決算報告の場面です。
 ルカによる福音書16章には、「不正な管理人」のたとえが書かれています。主人から会計を任された者が不正をしていて会計帳簿を誤魔化している、それが主人による監査によって発覚することを恐れて、自分が仕事を失わないように、巧妙な一手で切り抜けるたとえなのですが、誤魔化しのない、会計帳簿を主人に見せなくてはならないのです。会計監査があるのです。
 
 私は東京愛隣会という社会福祉法人の評議員をしています。評議員会で一番多く時間を取るのは、会計報告です。社会福祉法人は、国、県や市から多額の補助金を得ているのですが、県や市の会計監査が年々、厳しくなり、監査に来る人も多くなったそうです。剰余金を内部留保してはいけないので、社会のために剰余金を使わないといけないことになり、社会に還元できるようにしなければならないのです。厳しい監査があるので、明瞭な会計を心がけるのです。
 
 最後の審判、再臨、終末ということを私たちの身近な生活で考えると、誰でも死を迎えるのです。死は、私たちの人生の終わりなのです。自分の人生が死をもって終わる、それは厳粛な事実なのです。このような終わりに直面して、自分の人生が意味あるものであったのか、この人生を歩んで感謝と喜びをもって終わりとすることができるのか、それとも悔いの残る人生であったのか、ということです。自分の命には終わりがあることを自覚して、今の時を神に対して誠実に生きるのです。

 この「ムナのたとえ」は、マタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」と違うところがあります。タラントンのたとえでは「ある人が旅行に出かけたるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。」とあります。一人一人、あずかったお金の額は異なっているのです。このタラントンという言葉は、タレントという言葉として現在使われていますから、それぞれ持っている才能、能力、特技という言葉を連想する言葉です。「それぞれの力に応じて」と書かれているので、それぞれ、才能、能力、特技は違っている、と理解しやすいのです。そこから、各自、持っている才能や能力、特技に差があると誤解することもあります。あの人は頭が良いから、何でもできる、あの人は身体能力が優れているから、スポ−ツが得意だ、ということになり、自分はそのような才能、能力、特技はない、と考えてしまうのです。
 
 しかし、このムナのたとえは、あずけた金額に差がなく、一人一人に一ムナずつを平等に預けているのです。「それぞれの力に応じて」あずけているわけではないことに注目したいのです。ムナを預かる前に、生まれ持った素質、能力、才能、特技によって既に差がついているのではなく、同じ条件でムナをあずかっているのです。あずかった時からどうするのか、が問われているのです。

 「王の位を受けて帰って来ると」彼は、どのくらい利益が上がったかを知ろうとしました。あるものは、「ご主人様、あなたの一ムナで十ムナをもうけました」といいました。主人は「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実であったから、十の町の支配権を授けよう」と言われました。次の者は五ムナをもうけ、五つの町の支配権を委ねたのです。
 
 この十人の僕の中で、もっとも光が当てられているのが、三番目の男です。この男は預かっていた一ムナを布に包んでしまっておいたのです。この布は、風呂敷のように物を包むときにも用いられる、厚い布で、この当時、保存するのに最適なものであったのです。この男は、主人から預かった宝をどのように保存するかは考えましたが、預かった宝をどのように活用するのかを考えることがなかったのです。
 
 私たちは様々なものを神様から戴いています。よく「賜物」という言葉を使います。この「賜物」という言葉は、才能、特技、の意味で使うこともありますが、元々、「恵み」「恩寵」という言葉のもともとのギリシャ語の「カリスマ」という言葉から来ています。かなり前に、才能があり、人気がある美容師を「カリスマ美容師」と呼んでいましたが。元々、この「賜物」とは神から与えられた恵みのことです。神から与えられた賜物を感謝して用いることなのです。

 王に呼ばれた、最初の者と二番目の者は、ほめられたのですが、三番目の男は「悪い僕」とされ、裁かれなければならなかったのです。なぜそのようになったのか、それは主人が帰ってくるまで、与えられたムナを用いて、もうけようとするように、という命令に聞き従うことをしなかったからです。与えられたものを活用しようと言う思いがなかったのです。

 このムナとは、何を指しているのでしょうか。いろいろ解釈することができます。この「ムナ」とは、教会に託されている神の言葉であると理解することができるのです。私たちの教会は、神の言葉を伝えることを委託されているのです。聖霊によってキリスト教会が設立されて、キリスト教会は、神から神の言葉を伝えることを、命じられ、委託されているのです。神の言葉を伝えないならば、それはムナを厚い布で包んでそのまま保存しているようなものです。神の言葉を伝えて、イエス・キリストを主と信じ、告白する人が出てくるように努めることが求められています。
 
 10月11日に説教塾読書会で、ボ−レン著「説教学」を少しずつ読んでいるのですが、この本を翻訳された加藤常昭先生をアドバイザーとして、解説をしてもらっているのですが、日本の宗教的風土がもっている手強い、霊的なもの、神道や天皇などの日本の霊的なものに囲まれている中で、伝道は難しいけれども、説教に力を注ぐことを確認することができたのです。神の言葉を伝えることを第一にすることなのです。種蒔きのたとえにあるように、種が様々なものに妨害されて、実が実らない中で、しかし、良い土地に落ちて、実を結ぶことを信じて種を蒔くのです。

 ある時、教会の結婚式で出会った婦人とお茶を飲んでいた時に、その婦人が、自分はバッグに「病めるときも」などの三浦綾子さんの信仰の証をつづった文庫を何冊か持っていて、何かで知り合った人に、三浦綾子の本をあげているそうです。その時に、自分がキリスト者で、教会に行っていてとても幸いな生活をしている、この本を読んでください、と手渡すようにしている、と話してくれました。自分の信仰を誰にも伝えないで、自分一人の信仰生活を守っている、というのではなく、自分に与えられた神の恵みを伝えたいという姿に感心したことがあります。神から与えられたムナを、そのまま、袋にしまっているのではなくて、ムナを二倍にも五倍にも増やしていくのです。

 この「ムナ」は、私たちが神から与えれた賜物のことです。私たちは、時間を与えられています。自分のために使うだけではなく、神と隣人のために時間をささげるのです。神のために、自分の時間を礼拝する時間として用いるのです。神の言葉を聞くことは、神と共に生きることになります。また隣人のために自分の時間をささげるのです。相手のために時間をとって傾聴することも大切な奉仕です。相手の悩みをゆっくり聴いて、その重荷を軽くしてあげることも大切なことです。
 
 私は、ルカによる福音書がどのような意図をもって物語を配列しているのかを考えてきましたが、このたとえを学んでいくうちにはっきりしてきました。 ルカによる福音書18章18節から30節には、金持ちの議員の物語が記されています。神の戒めを守っていたのですが、自分のもっている財産を貧しい人々のためにささげることができなくて、主イエスのもとを離れてしまったのです。このことは、ちょうど、主人から一ムナを与えられて、その一ムナを布に入れたまま、その一ムナを活用することができなかったようなものなのです。お金に依存し、財産を持っていることから、主イエスが願う生き方に転換することができず、主イエスに従うことができなかったことが記されています。 
 ところが、19章1−10節には、ザアカイの物語が記されているのです。ザアカイという徴税人が、人々から不正に取り立てたお金を何倍にも返すことが記されています。自分が持っている財産を、ただ自分で持ち、自分のために使うのではなくて、悔い改めて、人々のために用いているのです。

 再び来られる主イエス・キリストを待ち望みながら、この時を過ごしています。終わりの時に来られる主が、私たちを審判するのです。この終わりの時が来ることを自覚して、与えられた賜物を生かすことをこのたとえは私たちに勧めているのです。自分一人の信仰を守っていけば良いと言うのではなく、うれしい福音を伝え、時間をささげ、財産をささげるのです。

20211010  主日礼拝説教    「神に発見される喜び」   山ノ下恭二牧
(エゼキエル書34章11−16節、ルカによる福音書19章1−10節)


 皆さんは、洗礼を受けてキリスト者となっている人に、どのような経過で、洗礼を受け、キリスト者になったのか、聞いてみたいと思うことがあると思います。キリスト改革派教会に吉田隆牧師がいます。改革派神学校の校長ですが、ハイデルベルク信仰問答を日本語に翻訳し、この信仰問答の解説書を書いています。ある時、講演の中で、自分がどのような経過で教会に行くようになったのかを話してくれました。私は話を聞いていてこういうことがあるんだ、と少し驚いたので、その話をよく覚えているのです。
 
 講演の記録から引用します。「私自身は神様から不思議な導きで改革派教会という教会に導かれました。私の家はクリスチャンホ−ムでありませんでしたので、またクリスチャンの友人に導かれたわけでもなくて、(略)たった一枚のトラクトをですね。しかも誰から貰ったんでもなくて、落ちていたものを拾って救われた人間なんですね、ちょっと珍しいケ−スかもしれないんですが。そして、教会に行こうと自分で決めまして、イエスさまを信じて、信じたので教会に行こうという、そういう順序で教会に行こうと思いまして。」そして、教会を探しているときに、「電柱に特別伝道集会の看板が立ってありまして、教会があるんだということが分かって、行ったのがたまたま、改革派教会という教会だったんですね。」すばらしい教会堂かと思って心うきうきで行ったら「普通の民家を使っておりまして、十字架もなかったんです。後から聞いたら、台風で飛んじゃったという話で」「普通の民家でかなり、門の所から奥まった所に建っていて、ほんと、大丈夫だろうか、と思ったんですね。」
 
 改革派という名前なので、その時に通っていた大学に、全学連の中核派があったので、「ここはアジトではないだろうな、というような感じで、みんなヘルメットをかぶって礼拝していたらどうしようか、と思ったんですが。入ったら普通の教会で、説教は全然分からないんですが。パイプオルガンではなかったんですけれど、リ−ドオルガンの音色がきれいで。ああ、教会って歌うんだと、そんなことさえ知らないで。讃美歌がとっても綺麗で、それに惹かれて毎週行くようになったという、そういう導きなんですね。」トラクトを拾った時に、自分が教会に行き、洗礼を受けてキリスト者となることも、神学校に行って牧師になることも、全く思ってもみなかったことであると思います。本人は気がつかないけれども、そこには、神の見えない計画があり、その導きがあったとしか考えられないのです。
 私たちの人生には、いろいろな出来事が起こりますが、その中で重要なことは、出会いがあると言うことです。誰かと出会う、あるいは何かの出来事と出会うのです。あの人に出会わなかったら、今の自分はないし、あの出来事に遭遇しなかったら、今の自分はいないという、そういう経験をするのです。
 
 本日の礼拝において、ルカによる福音書19章1−10節を読みました。ここには、ザアカイという人が登場するのです。古代のキリスト教会の伝承によれば、エリコの徴税人の頭であったザアカイは、のちにカイサリアの司教になったと言われています。これは伝説であると思いますが、ザアカイは、最初の教会で、自分が主イエスとどのように出会ったのかを何度も語ったのだと思います。教会の人々は、この話をよく聞いていて、感動し、よく覚えていたのです。福音書の編集者であるルカに伝わって、この福音書に記されたのです。

 ザアカイは徴税人でした。徴税人、文字通り税金を取り立てる人のことです。自分の国のための税金ではなくて、ユダヤを支配しているロ−マ帝国の手先となって、ユダヤの同胞から敵国のために税金を取り立てる働きをしていたのです。ユダヤ人以外の外国人と付き合うだけで、汚れた者とみなされていたのですが、侵略者であるロ−マのために、税金を取り立てることは、ユダヤの人々にとって赦しがたいことであったのです。徴税人は、憎しみの対象であったのです。このザアカイが徴収していた税金は、関税であり、通行税であったのです。エリコの町で商売をしようとする者が町に入る門のところにやって来ると、徴税人はその品物を開けさせて調べ、この商品が売れたらどのくらい売り上げがあるかをはじき出して、それに税金をかけるのです。町を歩いていると、何の理由もなく、呼び止め、持っているものを開けさせて、徴税人が好きなだけの税を勝手気ままに吹っかけることができたのです。税金を払えない場合には、借金をするように強要したり、見逃したりするための賄賂を請求することが当然のことのようになされていたのです。人々は、このような理不尽な目に遭っていて、徴税人をとても憎み、軽蔑していたのです。

 それで、敬虔なユダヤ人の中では、徴税人は、犯罪者、異邦人、罪人と同列に置かれていて、彼らは神から離れている人たち、神の救いから漏れている人たちと見なされていたのです。神の戒めを守っていると思っている人たちは、食事を共にすることはおろか、同席することさえ避けていたのです。
 ザアカイは徴税人の頭であり、その地位を利用していたのです。ユダヤの国でも豊かな町エリコの徴税権を手中に収めている徴税人の頭であったのです。ロ−マの権威を笠に着て、過酷な税金を取り立てている金の亡者であったのです。しかし、他方、ザアカイは神の民イスラエルの仲間でありながら、救いからはずれていた人であり、この社会からはじき出され、軽蔑され、憎まれ、心を許して話し合う友をもつことができなかったのです。「失われた者」、存在しない者、人々の間から、除名された者であったのです。

 ザアカイという名前の意味は、「正しい」「義」という意味の言葉です。ザアカイという名前は、神との関係が正しい、正しい関係にある、という意味の名前です。しかし、現実には、名前の意味とは正反対のことをしていたのです。 ザアカイを見る人々は、軽蔑と憎しみと蔑みのまなざしを向けており、誰もザアカイのそばに来る人はいなかったし、ザアカイは、ただひとり深い孤独の中にあったのです。お金はあっても、自分を心配し、自分を思いやる人はいなかったのです。このザアカイに主イエスの噂が届いたのです。主イエスという人は、救い主だそうで、貧しい人や罪人や徴税人を暖かく迎え、病気を癒やし、奇跡を起こしたそうで、もうすぐこのイエスという方がエリコにやってくる、という人々の噂をザアカイは聞き、このイエスという人を一度、見たいものだ、と思ったのです。
 しかし、この時のザアカイにとって、主イエスを見ることは簡単なことではないのです。主イエスが通られる道はすでに人で一杯です。そしてザアカイは背が低かったのです。人々の背中に遮られて、見ることができないのです。そこにいた人たちが、ザアカイに好意をもっていれば、「さあ、ザアカイさん、前のほうへ、どうぞ」と言って場所を譲ってくれる人もいたかもしれないのです。しかし、ザアカイの顔を見て、法外な税金を取られていることを思い出して、この時ばかりは、場所を譲ることはしなかったのです。
 仕方なく、すぐ近くにいちじく桑の木があったので、そこに登ったのです。この木は、低いところからも枝が伸びていて、ザアカイも登ることができたのです。この木は葉っぱの多い木だそうです。葉っぱの陰に隠れていたのです。私は、この物語の紙芝居を小学生の頃から見ていました。私が見た紙芝居の絵は、ザアカイがからだ丸出しで、木にかじりついている絵です。この絵を見ていたので、ザアカイは、主イエスが自分のことがすぐに分かるように、目立つように自分の姿を最大限に大きく見せようとした、と思っていました。紙芝居のザアカイの姿は、木に登ってとても大きく描かれていましたから。
 
 しかし、ザアカイはいちじく桑の木の大きな葉っぱに隠れているのです。ザアカイは、自分が今まで正しいことをして来たという意識はもっていなかったのです。心が醜い、だから、あの方に見られるわけにいかないのです。
 ザアカイがなぜ主イエスを見たいと思ったのか、その理由は書いていないので、それは好奇心からであるとしか考えられないのです。宗教改革者ルタ−が、このザアカイの物語について説教をしています。「ザアカイは、キリストの来臨を求めていなかった。」「彼がそれを求めていなかったことは、[イエス]が通り過ぎるのをただ見るために木に登ったことから明らかである。」「[イエス]が自分の家にお入りになるのだということを厚かましくも企てること、あるいは、あえてそれを願うつもりなどはなかったのである」「つまり、自分がそれをなし得る値打ちがあるなどとは思わず、[イエスを]見るだけで、あとは、隠れたままでいることに満足しようとしたことは明らかなのである。」「あの名高いキリストに来ていただくに値する値打ちなど全くなかったのである」「誰よりも自分がそれに値しないことを彼は承知していたのである」ルタ−は、ザアカイがほんとうは、救いを求めていたと言うのです。「彼が求めていたことは、明らかである。彼が喜びをもって迎えたことからすれば」「なぜならば、喜びはそれに先立つ愛と思慕の思いがあったことのしるしだからである。」

 ザアカイは特別に、主イエスに救ってもらおうと求めていたわけではないのですが、自分が誰かに発見されることを求めていたのです。自分をかけがえのない存在として、大きな広い心で受け入れてくれる、そのような存在を求めていたのです。ザアカイは、実は神の愛を求めていたのです。

 主イエスがそこを通り過ぎようとした時に、主イエスは、からだを葉っぱで隠しているザアカイを発見したのです。主イエスがザアカイを見る、そのザアカイが主イエスを見る、両方のまなざしが出会った時に、主イエスご自身が気がついたのです。それは、自分はこの男を探していたことに気がついたのです。この男に会うために、このエリコの町に来たことに気がついたのです。主イエスは、ザアカイを見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と語るのです。「泊まりたい」という言葉は「泊まらなければならない」と言う言葉です。言い換えると、ザアカイ以外のところに泊まることは考えられない、と言ったのです。ザアカイの名前を主イエスが知っておられるのです。そして自分に声をかけてくださるのです。ザアカイは、葉っぱの陰に隠れていましたが、突然、自分が主役になったと思ったのです。「今日は、あなたの家に泊まりたい」という言葉を聞いて、急いでザアカイは、木から滑り降りてきて、主イエスを喜んで迎え入れたのです。人々は、7節で「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と悪口を言っていますが、そのことを無視して、主イエスはザアカイの家に行くのです。

 家と言うのは、その人の生活があるところです。ザアカイは主イエスを自分の家にお連れしたのです。想像すると、この家は広かったと思いますが、家の中はきれいではなかったと思います。それはザアカイの生き方をよく表しているのです。酒を飲んで、いくつもの容器が床にころがっていた、そのようなところに主イエスを迎え入れたのです。お金を数えて喜んでいた、その記録が散らかっていたかもしれないのです。きれいに清掃され、誰が入っても、いつまでも居たいような居心地の良い家ではなく、酒の匂いがしており、乱雑で、汚れたところへ、主イエスを案内し、お連れしたのです。そのようなところで、主イエスは出会うのです。誰にも見せたくないような、罪の場面で、神は私たちと出会うのです。

 主イエスを家に入れ、共に食事をして会話をしています。とても楽しい、なごやかな時であったと思います。自分が主イエスに発見され、自分のことを第一にしてくれる、そのことから、ザアカイ自身の考え方がすっかり変わったのです。その夜、ザアカイは主イエスに対して、自分の財産の半分を貧しい人に施すこと、だまし取ったものを、四倍にして返すことを、約束したのです。
 主イエスが声をかけてくれて、わかったことがあるのです。それは、自分がいなくてよい、失われた者ではなく、存在して良い者、神が正しいと認めた者であることが分かり、今まで自分がどのような生き方をしてきたのか、を自分で問い、それをすっかり改めようとしたのです。自分は正しいことをしているとは思わなかったけれども、お金を自分が持ち、お金に頼っていたのです。

 ザアカイは、今まで、正当な手段で獲得したお金ではないお金を貯めていたことをはっきりと自覚するようになったのです。貧しい人々が懸命に働いて得たお金を、税金と称して、だまし取ったお金なのです。8節の後半に「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言っています。
 自分の罪を自覚し、だまし取っていたお金を返すことにしたのです。人々から余りにも多く取り過ぎたお金を返すのです。弁償をするのです。
 このルカによる福音書は、お金についての話が多いのです。それは、お金を私たちが使う時に、どのような使い方をするのか、それを問い、神が求めるお金の使い方をすることを勧めているのです。自分のために、お金を使うのか、それとも、神にささげ、隣人のために使うのか、と言うことです。自分のためには惜しみなくお金を使い、神と隣人には、その残りを使うのか、ということです。
 ザアカイは、お金に頼り、お金に自分の生きる拠り所を置いていたのですが、主イエスと出会って、その生き方を改めることができたのです。多く取り過ぎた人々に、四倍にしてお金を返すのです。ザアカイは悪いことをしたので、罪滅ぼしをしているというのではありません。主イエスが自分の主となってくださったので、もうお金は必要がなくなったのです。お金を手放そうとしたのは、お金から自由になったからです

 主イエスは、このザアカイを御覧になって、こう言われたのです。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」「失われた者」とは神のもとから離れて、その存在がどこにいるのか、分からない者、人々も、その人のことを全く、問題にしていない、いなくても良いと思われている者のことです。
 しかし、このザアカイは「アブラハムの子」、神の民のひとりであると言うのです。誰もザアカイを神の民とは思いませんでした。ザアカイは神の民から除名された人間と思っていたのです。ザアカイ自身でさえ、そう思ってはいなかったのです。自分みたいな人間は、神の民の面汚しだと思っていたのです。
 
 しかし、主イエスはそう思ってはいなかったのです。この人もアブラハムの子だ、神にとって大切な存在だ、と寛容な心で受け入れてくださったのです。
 主イエスは、ザアカイを発見したのです。ルカによる福音書15章には、羊飼いのもとからいなくなってしまった羊を、羊飼いが一所懸命に探して発見して喜ぶたとえが語られ、一枚の銀貨を失って、一所懸命に探して銀貨を発見して喜ぶ女性のたとえが書かれています。この二つのたとえは、神が、見失っていなくなったものを発見して、捜しあてて発見し、天において喜ぶ物語であると共に、神に発見されて、自分が神が一所懸命に探すような価値あるものであることを喜ぶ物語なのです。

 主イエスは、神を持たないで、神から離れて姿が見えない人間を捜し出し、発見して、ご自分のもとに住まわせるのです。私たちは、自分が必要とされていない、自分が生きている、存在していることが意味を持たない、と思う時があります。しかし、そうではないのです。神が、私たちのいのちを愛し、存在をかけがえのないものとして共にいてくださるのです。

20211003  主日礼拝説教    「見るべきものを見るまなざしを」   山ノ下恭二牧師
(エレミヤ書29章10−14節、ルカによる福音書18章31−43節)


 本日の礼拝において、皆さんと共に、ルカによる福音書18章31−43節の御言葉を読みました。ルカによる福音書18章31−43節には、二つの物語が記されています。
 18章31から34節までには、主イエスが、弟子たちにこれからご自分が死んで復活することを語っていることが書かれており、35節から43節までには、一人の盲人が主イエスによって目が見えるようになることが書かれています。
 この二つの物語は、小見出しには別々の表題がつけられており、二回に分けて説教をすることもできるのです。しかし、この二つの物語をよく読んでいくと、互いに深くつながっているのです。主イエスが語られたことが弟子たちには分からず、理解できなかった物語の後に、盲人が見えるようになった物語が続いて語られていることはとても意味のあることなのです。この二つの物語は、どのような意味でつながっているのでしょうか。

 18章35−43節には、主イエスが、一人の盲人の目を見えるようにした物語が記されています。皆さんにとって目の不自由な方を身近に感じることがあるでしょうか。街を歩いていたり、駅のプラットホ−ムなどで、時々、白い杖をもって、歩いている人を見かけます。そのような場面を時々、私たちは、見ますが、盲人との関わりがないので、身近に思うことはないと思います。私は、高校生の時まで通っていた鹿沼教会に盲人の教会員が数名おりましたので、小学生の頃から身近に感じていました。教会の長老の一人が盲人で、この人が、関東地区の盲人キリスト者たちのための修養会を毎年、一度、鹿沼教会で主催していて、盲人のキリスト者たちと交わりがありました。鹿沼教会の礼拝堂の聖書を置く棚には、点字聖書が置かれていました。

 ここに一人の盲人が出てきます。目が見えないのです。長い間、道ばたに座り続けて生きてきたこの人に対して、私たちは目が見えないのは不自由だろうと同情するのですが、自分とは関わりはないと思うかも知れません。この盲人の姿に自分を重ねて読むことはないのです。私たちの心の中に、自分は盲人ではないし、物乞いではない、と思っているのです。しかし、この物語を読んで目の不自由な人に対して、主イエスが見えるようになさったことに感心し、自分も盲人に対して関心をもたないといけないと思った人もいると思います。
 この物語を自分と関わる物語であると読むことは大切なことです。この盲人と自分を重ねて読むことはとても重要なことです。ここで大切なことは、自分も癒やされるべき者、自分こそ目がふさがってしまっている者であると思うことなのです。

 神学校に入学して4年間、日本橋教会に通っておりました。日本橋というところは、下町の雰囲気があり、教会の周辺には、江戸時代から続いている呉服を扱う老舗のお店がありました。地方から仕事を覚えるために住み込みで働きに来ていた青年が多かったのです。ある日曜日に、一人の青年が日本橋教会の礼拝に出席したのです。礼拝後にこの青年に話しかけましたら、教会の近くに組紐を作るお店があり、京都から仕事を覚えるために最近、上京したばかりだと言い、私が礼拝に出てどうでしたか、とこの人に聞くと「牧師さんの話が全く分かりませんでした」と言ったのです。「全くわからなかった」という言葉はとても印象に残ったのです。説教は、日本語で話しているのだけれども、話している意味が全く分からないということなのです。日本語なのですが、英語やフランス語、外国語で話を聞いたような、話していることが全く分からないようなものです。礼拝に来て、理解する、分かるということは大切なのですが、初めて説教を聴いた人にとっては、全く分からないものであることを、この時、知りました。
 
 なぜ、このような話をするか、それは理由があるのです。18章31−34節で、弟子たちは主イエスが語られたことが分からなかった、理解しなかったとありますが、これは、主イエスの話が見えていないことなのです。主イエスの死と復活が、弟子たちの心の中ではっきりと把握できていない、イメ−ジができていないことなのです。しかし、18章35−43節には、見えなかった盲人が見えるようになったのです。主イエスのお姿を見ることができ、見えるようにさせた神の働きもしっかりと見ることができたのです。弟子たちが見えなかったことが、この盲人は見ることができたのです。それは神の働きを信じることができたからです。
 
 ルカによる福音書18章31−34節に、主イエスが、弟子の12人に、ご自身がこれからエルサレムに行き、殺され、「三日目に復活する」ことを話されたのですが、弟子たちは、主イエスの話が全く分からなかったのです。そして弟子たちは、何か、大切なことを主イエスが言っているようだけれども、その意味が全く分からなかったのです。18章34節に「12人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったからである。」と語られています。主イエスが語られていることが「何も分からなかった」とあり「理解できなかったからである。」と書いてあるのです。
 
 私は、「この言葉の意味が隠されていて」という言葉に注目します。私たちは、相手が何を言おうとしているのか、分かろうとし、相手の話の意味を理解しようとします。弟子たちが頭が悪いから、理解力がないから、主イエスの語っていることが分からないし、理解できなかったと言っているのではないのです。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて」理解できなかったのです。
 「隠されている」という言葉の反対語は、「明らかになる」「はっきり分かる」ということです。ここでは、自分が理解する力があれば、分かるという能力のレベルではないことは確かなのです。復活された主イエスと出会うまでは、その意味は隠されていたのです。 

 マルコによる福音書8章22−26節には、ベトサイダで一人の盲人をいやす物語が記されています。この物語は、とてもおもしろい物語です。なぜおもしろいかと言うと、この物語以外の他の主イエスの癒やしの物語は、癒やすとはっきり見えるのですが、この物語では、一度だけの癒やしでは、はっきりと見えないのです。主イエスが「何が見えるか」と尋ねると「人がみえます。木のようですが、歩いているのが分かります。」と書かれています。盲人が見えるようになったのだけれども、ここでは「人が木のように見えるけれども、どうも人が歩いているようだ。」と言っているのです。ぼんやりとしか見えないのです。 
 
 神の言葉である聖書が分かるということと関連して考えると、このことはどのようなレベルであるかと言うと、聖書が語っている言葉の意味が分かるというレベルです。キリスト教の教えが少し、分かってきた、というレベルです。 この物語は、主イエスが盲人の目に手を当てるとすぐに、はっきり見えた、というのではないのです。もう一度、主イエスの癒やしがないとはっきりと見えないのです。二度目にやっとはっきりと見えるようになるのです。

 マルコによる福音書8章25節には、次のように語られています。「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」と語られています。主イエスが「もう一度両手を」盲人の目に当てられると、「よく見えてきていやされ、何でも見えるようになった。」のです。「よく見え」「何でも見えるようになった。」このことはどのようなことを語ろうとしているのでしょうか。

 よく見え、何でも見えるようになった、と書かれていますが、何を見ることができたのでしょうか。それは目の前にいる主イエス存在そのものを見ることができたのです。長い間、この盲人は、目が見えるようになることを切望して来たのですが、その願いを聞き入れて、目が見えるようにしてくださった方、主イエスが、自分を心に留め、憐れみをもって慈しみ、愛の業をなしてくださったことに感謝し、目が見えるようにしてくださったという神の働きを見ることができたのです。主イエスによって癒やしてくださった神の働きを見ることができたのです。盲人の目が開かれて、神の働きを見ることができたのです。
 
 聖書を読んで、その意味を理解することは大切ですし、説教を聴いて、説教者が何を語ろうとしているのかを把握することはとても大切です。聖書は日本語訳で書いてありますので、理解することはできるのです
 しかし、それだけでは分かったことにはならないのです。聖書についての知識を蓄えて、キリスト教関係の本を読んだからと言って、分かったことにはならないのです。

 東京神学大学では、聖書に関する学問、神学の学びをしていますが、それだけで、神学を学んだことにはならないのです。聖書の知識をたくさん蓄えただけでは、十分ではなく、信仰による認識をもたなければ不十分なのです。
 皆さんが聖書を読んだり、説教を聴いて、語られていることが理解できた、把握できたということだけでは、十分ではないのです。聖書の言葉によって、説教の言葉によって、神が自分に語っているという出会いが起こらなければ意味がないことです。聖書はこういうことを言っている、説教者が語っていることは理解できる、というレベルでは、神と出会うことができないのです。神の言葉を聴いて、感動した、この言葉を家族に伝えたい、そのような動きが自分に出来事として起きることが大切なのです。

 私の経験では、大学の100分の授業の内容はほとんど忘れてしまいましたけれども、授業の合間に30分の大学の礼拝があったのですが、その礼拝で語られた短い説教が、とても印象に残っています。加藤常昭、松永希久夫牧師の説教をよく覚えています。心に残っていて、とても励まされたのです。火曜日から金曜日の30分だけの大学が、信仰を養うために、とても意味があることだと思うのです。授業で自分の頭で理解する、知識を蓄える、それだけではなく、神と対面して、神の言葉である説教を聴き、そこで信仰が興され、信仰による認識が与えられるのです。私たちに向けられた神の言葉とは、神が私たちを深く愛しておられることです。神がいかに私たちを愛しておられるかを認識し、この神を信頼することなのです。
 
 礼拝において、主イエス・キリストと対面し、語るのを聞く、そのような経験をしていくうちに、目が開かれて、主イエス・キリストのことがはっきり、分かるようになるのです。十字架の死と復活の意味が分かるようになるのです。
 私たちは神に背を向けているにも関わらず、神は私たちに身を向けて、罪を贖い、赦してくださる、それは、十字架の死と復活の意味であることをはっきり見ることができるのです。

 ルカによる福音書24章13−25節には、主イエスの二人の弟子たちがエマオへの道を歩いているところへ、主イエスご自身が一緒に歩いて「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」たのです。ところが二人の弟子たちと一緒に歩いた方が主イエスであることが分からなかったのです。しかし、エマオの村に入って、共に食事をし、「パンを裂いてお渡しになる」と「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」と書かれています。私たちの罪を贖うために、主イエスが十字架において肉を裂き、血を流す、それほどに愛して下さる、そのことを聖餐によって、私たちに伝達してくださるのです。そのことが、信仰によって知ることができるのです。この聖餐の意味は理性では分からない、「隠されたこと」なのです。聖餐は、その意味が信仰がなければ、隠されている、ミステリーなのです。これは、神がイエス・キリストによって、私たちを愛していることを実際に経験できる礼典なのです。

 18章40−41節で、主イエスがこの男に、「『何をしてほしいのか。』と尋ねると「盲人は、『主よ、見えるようになりたいのです』と言った。」と書かれています。この「見えるように」という言葉は「再び見えるように」と訳されている翻訳があります。神によって造られた人間は、罪を犯すために造られたのではないのです。神が愛をもって創造された者であり、愛のまなざしをもって過ごすように造られたのです。神に愛されていることを知って、自分の罪をしっかり見ることのできるまなざしを持ち、それでも、神が私たちを愛しておられることを知っているまなざしを持ち、神を仰ぐことができるまなざしを与えられているのです。

 私たちは、神が今も、私たちのために働いていることを信仰のまなざしで見ることができるのです。父なる神が、私たちを創造し、配慮し、私たちのためにイエス・キリストによって罪を贖い、罪を赦し、聖霊が今、私たちに臨み、私たちを憐れみ、愛してくださる、そのことを信仰によって見ることができるのです。私たちは、この地上で、この目で様々なことを見ています。様々なことを見ていて失望し、落胆することがあり、苦しみ、悩み、多くの辛いことも経験しますけれども、神が与えて下さる、信仰のまなざしを持っているので、失望することはないのです。

20210926  主日礼拝説教    「人間にはできないことも、神にはできる」   山ノ下恭二牧師
(詩編138編6−8節、ルカによる福音書18章18−30節)


 私たちは、洗礼を受けて、キリスト教信仰を与えられ、聖書のみことばを聴き続けていきますと、それまで大切だと思っていたことが、大切なことではなくなるようになるのです。キリスト教信仰を与えられると、自分にとってこれが絶対に大切であると思っていたものが絶対的なものではなく、相対的なものになるのです。これまで重要なものだ、と思っていたことが重要でなくなると言う経験をするのです。
 お金が自分にとって一番大切だと思っていたのですが、キリスト教信仰を与えられると、お金のことに心を縛られないようになり、お金を自分のために使うよりも、他の人のためにささげることができるようになるのです。

 ルカによる福音書を学んでいきますと、この福音書を編集した記者ルカが、マタイ、マルコによる福音書と違って、お金に関わる物語を記していることに気がつきます。12章では、「愚かな金持ち」のたとえがありますし、16章では、会計係がお金を誤魔化して、発覚されそうになったため、機転を利かせて対策をして乗り切る物語が記されています。「金持ちとラザロ」のたとえでは、金持ちが贅沢な食事をして裕福な生活をしていたことが書かれています。福音書記者ルカは、私たちがお金に頼る者であり、お金に囚われ、お金が私たちの心を縛るものであることを警告しているのです。それだけではなく、お金から解放されて、神と共に歩む自由な生活があることを教えているのです。

 本日、この礼拝で読みましたルカによる福音書18章18−30節は、マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも記されていて、よく知られた物語です。主イエスのもとを訪れた人について、それぞれの福音書でその呼び方が異なっています。マタイによる福音書では「青年」とあり、マルコによる福音書では「ある人」とあり、ルカによる福音書では「議員」とあります。「議員」と言うと、私たちは、市議会議員、県議会議員、などを想像します。この人は、政治を司る、地位の高い議員であったのです。ある翻訳では「最高法院の議員」と訳しています。「最高法院の議員」と言うと、主イエスが捕らえられた時に、最高法院で裁判が行われたのですが、政治を司る、そのような職務を担うだけではなくて、ユダヤ教の会堂を管理し、法的な責任も担う、宗教的な指導者であったのです。23節には「大変な金持ちだった」とあります。富は権力を表すものです。この人は、豊かな財産をもった議員であり、富と権力を背景にして生きている一人であったのです。

 この物語が、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されているのは、福音書が編集されつつあった、その当時の教会にとって、忘れることのできない物語であったのです。この物語を聞いた教会の人々が、主イエスとこの人との対話を、主イエスの弟子として生きることについてとても大切なことを教えている物語であると考えて残したのです。
 マタイ、マルコ、ルカの福音書には、この物語の前に、主イエスが子どもを祝福する物語が共通して記されているのです。これには深い意味があります。乳飲み子のように神の国を受け入れる者でなければ、神の国に入ることができない、と語ったあとに、この物語を語っているのです。神の国に入ることができるのは、乳飲み子のような、何も頼るものを持たないで、ただ神の憐れみに頼る者であることが語られた後に、その対極にある者は、どのような者なのかということを語っています。乳飲み子、子どもの対極にある者は、金持ちの議員であると言うのです。この議員は、自分の力で財産を獲得し、高い地位を持った人なのです。いわば、人生の成功者であったのです。

 この議員が、主イエスに、永遠のいのちを受けるのには、どうしたら良いか、と尋ねるところから、この物語が始まっています。この結末は、主イエスが言われた通りにすることができなくて、深い悲しみを覚えて去ってしまうのです。自分が持っている多くの財産が、永遠のいのちを受けるためには妨げになったのです。
 この金持ちの議員について私たちは、この世で、社会的な地位も財産も獲得できて、安定して生活できるので、それ以上を望むことはないと考えます。現在の私たちの生活に置き換えるならば、高収入であり、豪華なマンションに住み、裕福な生活をしているのですから、生活に不満や不足はないはずです。
 ところが、この議員はそれだけで満足することができなかったのです。十戒をきちんと守り、模範的な正しい生活をしていたのですから、欠点がなく、申し分のない人であったのです。この物語に登場する人物を、私たちは青年であると考えています。それは、(旧」讃美歌の243番、讃美歌21の197番に「富める若人 見つめつつ」とあり、この讃美歌をよく歌っているので、若者であると思っているのです。

 マタイによる福音書にだけ、「青年」と記されているのです。マルコでは、「ある人」、ルカでは「議員」とだけ記されているので、長い人生を過ごしてきた老人であったとも考えることができるのです。年を取って、自分の肉体の衰えを感じ、いのちの終わりが近いことを感じていたかもしれないのです。この議員は、死を超えて生きるいのちを自分はもっていないと感じていたのです。老年になると、若い時と異なって、自分が死ぬことを考えるのです。同じ年齢の友人が逝去する、それは自分もやがて死ぬことを考えるようになるのです。「永遠のいのち」という言葉は、いつまでもこの世で生きていく、そのようないのちを言っているのではありません。日本で最高齢者は118歳だそうですが、いつまでも長生きできるいのちのことを言っているのではありません。
 
 「永遠のいのち」とは、神が永遠な方ですから、永遠な神とつながっているいのちのことを指しています。皆さんは、死んだ後に自分がどうなるのか、ということを考えることがあると思います。死んだ後、私たちは復活する間、眠っていて、復活の時を待つのです。永遠のいのちとは、死んでも、神が私たちを捕らえていて、神との交わりが続いていることなのです。死を超えて神につながっているいのちに生きるのです。誰も自分のことを心に留めていなくても、神が自分に心を留め、愛している、そのようないのちのことなのです。
 この永遠のいのちは、神のもの、神の恵みですが、この議員は、その神の恵みを自分はもっていない、神とつながるいのちをもっていないと思っていたのです。この議員は、どうしても神とつながるいのちを得たいと願い、それをどうしたら得られるのか、を主イエスに問うのです。
 
 この議員に対して、主イエスは答えるのです。22節です。「これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」この議員は、この主イエスの言葉に躓いたのです。もし、私たちが、この言葉を聞いて、自分の全財産を全部、売り払って貧しい人々に施して、主イエスに従うことをするだろうか、と思うのです。この主イエスの言葉に従うことはとても難しいことなのです。それは、財産に頼って、お金に縛られて生きているからです。今の生活を支えているのは、自分の持っている財産であるのです。自分がもっている財産の、ほんの一部を、他の人に施すことはできます。しかし、自分の全財産を捨てることはできないのです。
 
 キリスト教の歴史では、この主イエスの言葉に従って生きた人がいるのです。アシジのフランシスコという人です。彼は、富裕な商人の子どもとして生まれ、贅沢な生活を楽しんでいましたが、突然それを捨て、父親と争いながら家を飛び出し、徹底的に清貧な生活をした人です。
 このような主イエスの言葉に従った、アシジのフランシスコは例外的で、特別に聖なる意志を持った人間でなければ従うことができないと考えるのです。この人はできたけれども、自分にはできない、と思うのです。
 私は、この物語を何度も読んできたのですが、今回、この物語を読み直して気がついたことがあります。主イエスの弟子になることよりも、自分の財産を売り払って、貧しい人に施すことに私は注目してしまっていたことに気がついたのです。自分の財産を捨て、自分の財産を他の人のために用いることは、難しいと思っていたのです。

 しかし、主イエスの最終的な目的は、財産を売り払って貧しい人に施すことではありません。清貧な生活をすることではありません。主イエスが求めているのは、主イエスに従うことです。自分の財産を売り払って貧しい人々に施すこともとても難しいことですが、主イエスに従うこともとても難しいことです。

 私たちは洗礼を受けて、今までの自分本位の生活から、神を中心として生活へと切り替えたのです。それまで、日曜日に礼拝に行くことはなかったのですが、礼拝に出席する生活に切り替わったのです。洗礼を受けて、キリスト教会のひとつの枝として生きるようになり、それぞれの責任を負うようになりました。主イエスの弟子となり、主イエスが行けといえば、行く、そのような生活になったのです。しかし、それが、だんだん崩れて来て、自分の都合を中心にする生活になっているのです。

 主イエスに真剣に従おうと思うと、様々な戦いが出てくるのです。かなり前ですが、土曜日の夜に、中学3年生の時の同窓会のメンバ−から電話がありました。土曜日と日曜日と一泊二日で、鬼怒川で同窓会をするという知らせをもらい、自分は日曜日に礼拝の務めがあるので、欠席の返事を出したのです。土曜日の夜に同級生が同窓会に集まって、盛り上がり、欠席した山ノ下に電話をしようということになったようで、電話がきたのです。「どうして来なかったの。今回は来れなかったけれども、今度、土曜、日曜と一泊二日で同窓会をするから、有給休暇を取って必ず来てね。」と言うので、「日曜日は仕事で休めないから行けない」と言うと「どうして休めないの」というので「自分は牧師で日曜日は礼拝をするので」と言いました。
 「日曜日には仕事があるから行けない」と言えば、少しは理解してくれると思いますが、同窓会が日曜日にある時に、「礼拝に出るから出席できない」と言うのは、相手がそれで理解してくれるか、どうか、という問題があるのです。主イエスに従うことは、この意味でとても難しいのです。

 主イエスに従うことは、常に問われていることです。この時間をどのように用いるのか、どのようにこの時を過ごすのが、神のみこころに適う時間の用い方なのか、問われるのです。またお金の使い方も、どのように用いれば、神のみこころに適うのか、問われているのです。

 この金持ちの議員に主イエスが問われたのは、昔話ではなくて、今、私たちが問われていることです。この金持ちの議員が、主イエスの願いに応えられずに、悲しみながら立ち去った後に、主イエスは次のように語っているのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われたのです。今は、糸を針に通すことは少なくなっているので、実感はないと思いますが、時々、糸を針に通すことをすると、針の穴がなんと小さく、通りにくいのか、と思うのです。しかも、主イエスは、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言っているので、主イエスに従うことは、とても難しいことだ、と思うのです。主イエスの弟子になることは、困難でできないことだ、と思うのです。

 弟子たちは、誰ができるのか、誰が救われるのか、と嘆きます。それに対して、主イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と語るのです。この言葉はどのような意味なのでしょうか。この議員は、お金に心が縛られているのです。お金に心が縛られている限り、主イエスに従うことはできません。神の御心に従うことはできないのです。しかし、縛られている心を、神が解きほぐすならば、できるのです。
 私たちは、様々なことに縛られて過ごしているのではないでしょうか。お金がたくさんあると自分の生活が豊かになり、良い暮らしができると考えることがあります。そのような考えに私たちは囚われ、縛られているのです。しかし、そのような心を神が解きほぐし、神の御心に適う心に変えてくださるのです。「人間にはできないことも、神にはできる。」私たちが、どんなに努力しても、全財産を献げて、貧しい人に施すことはできないのです。しかし、私たちは、神が主導権をもって、私たちに聖霊を注いでくださるならば、私たちにはできるのです。

 ルカによる福音書19章1−10節には「ザアカイの物語」が記されています。ザアカイは徴税人で、道を通る人から通行税を取って、その中の5分の4は自分の懐に入れてお金をたくさん蓄えていたのです。お金をたくさん持っていることに安心し、頼っていたのです。心がお金に縛られていたのです。しかし、主イエス・キリストに出会って、お金よりももっと大切なものがあることを知らされ、心がお金に縛られていたことから解放されて、主イエスと共に生きるようになったのです。自分が縛られていたお金よりも、もっと価値のある神に出会って、自分がもっていたお金をささげたのです。神の力によって、心が解きほぐされて、神に従う、新しい心を与えられて、主イエスの弟子になることができるのです。

 東京神学大学では、神学生の学びのために、日本のそれぞれの教会、信徒からの奨学金基金があります。私も在学中に、二つの奨学金を戴きながら、学ぶことができました。萩尾奨学金と言って、四国の教会の萩尾さんという信徒の方が、自分のために貯めていた多額のお金をささげて、奨学金を創設し、神学生は恩恵を受けて、学ぶことができました。萩尾さんは、質素な生活をしながら、神学生のために、大切なお金をささげてくださったのです。
 もう一つは、東京神学大学の卒業生で、その当時、アメリカのシアトルの日本人教会の牧師をしている方がささげた奨学金をいただいたことがあります。このように、天に宝を積む、そのような、ささげものをされたのです。

 テモテへの手紙一 6章17−19節に次のように語られています。「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみせず、喜んで分け与えるように、真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(p390)

 主イエスのもとを訪ねたこの人は、この世の基準では、豊かな人であったのです。しかし、神に望みを置く豊かな人は、自分を神にささげ、人を愛する、心の豊かな人なのです。

20210919  主日礼拝説教    「神の愛に身をゆだねる」   山ノ下恭二牧師
(詩編84編6−13節、ルカによる福音書18章15−17節)

 
 上智大学神学部で長く教えていたペトロ・ネメシェギ神父は、たくさんのエッセイを書いています。私は、「たんぽぽ」「ひまわり」「ひばり」という3冊の随想集を持っています。「ひばり」という本のはじめに「ゆだねること」という文章があります。「古代以来、司祭や修道者たちが、就寝前の祈りとして唱えてきた祈り」を紹介しています。
 「父よ、あなたにゆだねます 父よ、わたしをゆだねます わたしを救われたいつくしみ深い神 父よ、わたしをゆだねます 栄光は父と子と聖霊に 父よ わたしをゆだねます」このような祈りです。
 私たちは、就寝する時に、気持ちよく就寝できる時もありますが、その日に様々な出来事を経験して、疲れ果てていながらも、しかし、気になって眠れない時もあります。その日に、ある人から言われた言葉に引っかかって、なかなか眠れない時もあります。また、明日のことを心配して眠れないこともあります。そのような時に、神に信頼して祈るのです。「父よ、あなたにゆだねます。父よ、わたしをゆだねます。」神に信頼し、ゆだねて眠るのです。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書18章15−17節の御言葉を読みました。人々が主イエスのもとに子どもたちを連れて来たのです。子どもたちを、主イエスのもとに連れて来た理由は分からないのですが、子どもたちが主イエスに触れると病気が治ると思って連れて来たと考えることができます。また、その噂を聞いて子どもたちを連れて来た人々もいたのではないでしょうか。この当時、乳幼児の死亡率は30パーセントであったと言われています。さらに、病気や飢餓、戦争のために、生き残った者たちの60パーセントが6歳までに死亡したとも言われています。主イエスが悪霊を追い出したことや、その力をもっていることを人々は聞いて、主イエスに触れてもらえば、子どもはきっと祝福され、いのちも助かると考えたのです。

 このことに対して、弟子たちは、人々が子ども達を主イエスのもとに連れてくるのを止めようとして、「叱った」のです。この当時の人々は、子どもや女性をひとりの人間として扱っていませんでした。弟子たちは、子どもがひとりの人格をもった大切な人間であるとは思ってはいなかったのです。弟子たちは、子どもたちを邪魔な存在であると思っていたのです。主イエスが子どものことなどに構ってはいられないほど忙しいので、子どもたちが主イエスに近づくことを止めたいと考えたのです。またこの時間を別のことに時間を用いたいと主イエスは願っているのではないか、と弟子たちは推測して、「叱った」と理解することもできるのです。

 しかし、主イエスは、このような場面で語っているのです。18章16節「しかし、主イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」「乳飲み子」と言う言葉があります。この言葉は、「子ども」という言葉とは異なります。聖書では主イエスがお生まれになった時に「乳飲み子」という言葉を使っています。「乳飲み子」とは、ゼロ歳児のことです。ほんとうに小さな存在なのです。主イエスは「小さな存在」をとても大切にされました。ルカによる福音書17章2節に「小さい者」という言葉が使われています。主イエスは、誰も気がつかない、小さな存在、ギリシャ語では、「ミクロ」という言葉を使っていますので、ほんとうに小さな存在ですが、これを受け入れ、大切な存在として、気に掛けておられました。

 主イエスは、弟子たちや乳飲み子を連れて来た人々に向かって「乳飲み子」を指して「神の国はこのような者たちのものである」と語っているのです。「乳飲み子」は、自分では何もできない存在です。母親のお乳を飲み、父親や母親が様々な世話をして育てているのです。乳飲み子は、自分では何もできないで、親に全く依存しているのです。嬰児から幼児になる、その時期も親に依存し、親に頼っているのです。赤ちゃんがお乳を飲む時期を過ぎて、離乳食になる、ハイハイして移動して、動き回る、近くにあるものを何でも口にする、その段階から、自分の足で立ち、歩き回るように成長するのです。乳飲み子はゼロ歳児、子どもは、2、3歳ぐらいを指すのでしょうが、親に依存しなければ生きていけない存在であるのです。乳飲み子や子どもは何ももってはいないのです。親に全面的に依存している、親に頼り切っているのです。
 乳飲み子のように、親にしてもらわなければ、自分では何もできない、親に頼らなければできないように、神に全面的に依存して、頼る者が神の国に入ることができるのです。

 神の国について、議論になったのは、ルカによる福音書17章20節でファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたことで始まっています。ファリサイ派の人々の質問に答えて、主イエスは、「神の国は、見える形では来ない、『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えているのです。
 
 主イエスは、「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と語っています。神の国とは、主イエスが神の子として、この地上に来られた、その時に既に始まっている神の支配なのです。病に苦しんでいる者が主イエスによって癒やされて、自分の病を神が癒やして下さった、そのことを信じ、受け入れた者は神の国に入っているのです。虫けらのように、この地上で最底辺に生きてきて誰も相手にしていなかった徴税人を主イエスは自分の仲間として、相手にして食事をしている、その主イエスを救い主として迎え入れた時に、神の国に入っているのです。主イエスは、相手が罪深い仕事をしていても、お構いなく、無条件で自分の親しい仲間として重んじ、共に生きようとしているのです。そのことは既に神の国があるのです。

 乳飲み子、ゼロ歳児はとても愛らしい、かわいい存在です。素直で無邪気で、人を疑うことをしません。「神の国はこのような者たちのものである。」と主イエスが語られているので、私は自分が乳飲み子のような、素直な性質を持ち、無邪気な者にならないと、神の国に入れないのか、と考えてきましたが、そうではないことに気がついたのです。
 乳飲み子は、自分では何も持っていないのです。親がすべての世話をして、頼らないと生きていけないのです。ただ、親の好意、愛情、配慮慈しみ、に頼るしかないのです。神の愛、神の配慮、神の慈しみ、を全面的に受け入れること、それが神の国を受け入れることなのです。

 子どもから大人になるにつれて、知識が増えて来ます。そして自分が獲得した知識に頼って生活をしていくのです。少し前までは、本を読んで知識を蓄えましたが、今は、ネットで調べることができますから、様々なことをネットで調べていろいろな知識を得ることができます。自分はいろいろなことを知っている、と自分の知識を蓄えて、その知識に頼ることになります。私の知人ですが、自分の病気をネットで熱心に調べていて、その病気のことを詳しく知っているのです。その人は、病院の診察室で、担当の医師にネットで調べた自分の医学的な知識を長く話し、医師によく質問をするので、医師から叱られたことがあると話していました。医師の話に「先生はそういうのですが、わたしが調べてたところでは、そうではないのではないか」と話し出すので、医師に「いい加減にしろ」と叱られたそうです。医学の専門家よりも、自分が知り得た知識のほうが、優れていると考えてしまうのです。

 また、長く生活をしていると、様々な経験をするので、その経験を絶対化してしまうことがあります。経験があると、その経験に頼ることがあるのです。先週、9月13日(月)の午前中に東京説教塾例会がズームで行われました。加藤常昭先生から、「説教は作るものだと思っているかもしれないが、説教は生まれるものなのだ」ということを教えられたのです。説教を作成するとは、聖書の言葉を読んで、注解書を読み、メッセ−ジに沿った話を探してきて、説教を作る、それは作ることである。経験した話や、本で読んだ話をたくさん持っているのです。自分の記憶の中に、いろいろな話を持っている。机の引き出しから、書類を取り出して使うように、自分の記憶にある話を引き出して、説教の文脈の中に入れる。そういうことを、説教を作ることだと考えているけれども、そうではない、と言うのです。加藤常昭先生は、「説教は、聖書の言葉から生まれるもの。言い換えれば、神から与えられるもの。」と言われたのです。黙想を重ねて、その中から、自分が喜びを与えられた言葉が説教になる。それが、説教が生まれることなのだ、というのです。様々な食材を使って料理をして、おいしいものを作る料理とは違うのです。自分の今までの経験を踏まえて、説教を作成するのではない。聖書の言葉の黙想を重ねて、神の言葉を聞いていく、そこから、説教が生まれていくのです。

 私たちは、自分が今まで身につけてきたものに頼っているのです。しかし、乳飲み子は、経験も知識も財産もなく、ただ、親に依存するしかないのです。そのように、神に頼るしかないのです。知識、経験、財産ではなく、神の愛に頼るのです。

 少し前までは、9月15日が敬老の日でしたが、その年によって、敬老の日が変わり、今年は、9月20日が敬老の日となっています。テレビのニュ−スでは、100歳以上の人が全国で6万8000人であると報道されています。元気なお年寄りがたくさんいることが分かります。しかし、年を取ると、自分が獲得してきたものを失います。獲得してきた知識は、今では役に立たなくなるのです。自分が持っていた経験も無用なものになります。体力も失われていくのです。お年寄りが杖をついているのを多く見かけますが、自分の健康に不安を抱いている人も多いのです。

 「信徒の友」10月号には「認知症と教会」というテ−マで特集を組んでいますが、山崎ハコネ牧師が「認知症」の症状について解説しています。記憶障害(物事を覚えられなくなったり、思い出せなくなる)、理解・判断力の障害(考えるスピ−ドが遅くなる。家電やATMが使えなくなる)、実行機能障害(時間や場所、やがて人との関係がわからなくなる)、見当識障害(計画や段取りをたてて行動できない)などが認知症の中核症状であると書かれています。自分が今まで持っていたものを失ってしまい、それに頼ることができなくなるのです。自分を支えてきたものを次第に失っていき、毎日の生活でそれを実感するのです。

 東大宮教会におりました頃、埼玉地区壮年部主催で長谷川和夫という「認知症」専門の精神科医の講演を聞いたことがあります。この長谷川医師が、「信徒の友」10月号に出ていたのです。長谷川和夫医師は自ら、認知症になったのです。2018年、88歳の時に認知症であることが分かったのです。「認知症になってようやく認知症のことがわかるようになった」と語り、そして最後に、ヘルマン・ホイヴェルス著「人生の秋に」という本の中にある、詩の一節を紹介しています。

「神は最後にいちばん良い仕事を残してくださる それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と。」

 乳飲み子は、自分では何ももっていない、親に頼らなければ、生きていけないのです。親が子どもを愛し、配慮し、慈しむのです。
 年を取って、だんだんいろいろなことができなくなる、衰えていく、自分の力では生きてはいけなくなるのです。しかし、その時に頼るものは、ただ神の愛と憐れみなのです。

 コップの中に水が一杯入っていれば、水を入れる必要はないのです。しかし、コップに水が入っていなければ、水を注ぐことができるのです。 パウロは、ロ−マの信徒への手紙でキリスト者を神の憐れみの器であると語ります。ロ−マの信徒への手紙9章24節にあります。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(新約p287)
 私たちは「憐れみの器」なのです。神の愛をたくさん入れている器なのです。自分の中に頼る者がなくても、いつも神が愛を注いでくださるのです。

 ルカによる福音書12章22節以下で主イエスは、「烏のことを考えてみなさい」と語り、「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。」と語っています。烏は何も持たないで生活をしています。野原の花も特別にものをもっていない、ただ神にゆだねて生きているのです。
 私たちは様々なものを失っていく経験をします。しかし、神が愛をもってわたしたちを憐れみ、その憐れみを受け取る器となっているのです。
 私たちは、ただ、神の愛に望みをおいて歩む者なのです。

20210912  主日礼拝説教    「神の御前に胸をうちつつ」   山ノ下恭二牧師
(詩編30編9−13節、ルカによる福音書18章9−14節)


 主日礼拝の中で、聖書朗読の後に、司式者が祈りますが、その祈りのはじめのところで、罪の告白と赦しを請い願う祈りをしていることに気がついた人もいると思います。礼拝のはじめに、罪の告白をすることは、礼拝においてとても重要なことです。先週の一週間、私たちが、神を忘れ、隣人を愛することなく、自分中心に過ごしてきたことを神の御前で、罪を告白せざるを得ないのです。神に近づいて、神の御前に進み出るには、罪の告白をすることが必要なのです。人間同士でも、相手に対して自分が悪いことをしてしまった時に、相手に自分の過ちを言い、相手に赦してもらって、関係が良くなり、わだかまりもなく、正常な関係に戻ることがありますが、礼拝においても神の前に進み出るために、罪の告白をするのです。

 本日の礼拝でルカによる福音書18章9−14節の御言葉を読みました。ここには、小見出しにありますように、「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」が記されています。このところの前には、主イエスが祈りについて語っているのです。「気を落とさずに絶えず祈る」ようにと、不正な裁判官に公正な裁判をしてほしい、と熱心に訴え、お願いするやもめの話をして、諦めないで、熱心に祈ることを勧めています。「気を落とさずに絶えず祈る」ことを勧めた後に、「ファリサイ派の人」の祈りと「徴税人」の祈りについて、この二人の祈りを比較しながら、本来の祈りがどうあるべきかを語っているのです。

 祈りとは神との対話、神との会話であるのです。私たちが信仰を与えられる、それは、神と対話する、神と会話をすることなのです。私たちは、毎日、誰かと話しています。私たちはいつもコミュニケーションをしています。目の前にいる生きている人と話しているのです。家に帰れば、家族の者に「ただいま」と言い「ああ疲れた」と言います。電話で親友に「今、悩んでいる、話したい」ということもあります。いつも相手と話しているのです。そして相手の話を聞いて、相手の気持ちが分かるのです。互いに話がわかり、通じていればとても気持ちが良いのです。
 
 
 私が、北九州いのちの電話でボランティアをしていた時に、よく電話を掛けてくる男の子がいました。いのちの電話は、いじめ、虐待、自殺などの深刻な内容の電話が多いので、電話を受ける者は身構えているのですが、この男の子の電話は、学校でいじめで悩んでいる、という深刻な内容ではなく、明るい声で「今、学校から帰ってきたんだよ」と言って電話が切れる、別の日には「今日は、給食がおいしかった」と言って短い話で切れる電話なのです。たびたびそのような電話なので、ボランティアたちの間でこの電話にどう対応するのか、を話しあいました。親が家にいなくて、話す人がいないので、電話で話すだけであるし、自殺や深い悩みの内容でないので、相手にしないほうが良いと言う意見が出ましたが、別の意見もありました。さびしくて、電話をしてくるので、電話がかかってきたら、心を込めて対応するほうが良い、それが友達として傾聴するという「いのちの電話」の精神に沿っているという意見があり、その男の子から電話があったら、丁寧に対応することになりました。「給食がおいしかった」という内容であれば、「今日のおかずは何だったの」と聞くといろいろ話すだろう、それで気持ちが落ち着くならば、それで良い、ということになりました。
 
 日常の会話では、正直に自分の気持ちを相手に話すのです。しかし、神に祈ることは、厳かなことで、普通のことではない、祈りは特別のもので、祈る前に、祈る言葉を考え、言葉を整えて祈る、ということを考えている人が多いのです。人間相手に話すことと、神に祈る祈りとは、格段に違う、レベルが違うと考える人も多いのです。従って、神に対して、簡単に祈れない、祈ることが苦手だという人もいますが、祈ることは神に自分の思いを語りかけることなのです。自分の家に帰って、誰も迎える人がいないときには、神に「ただいま」と言えば良いのです。今日も教会に来て、挨拶をしたり、声を掛けて話しているのです。人と会話をしていますが、神と会話をしている、それが祈りなのです。 私たちには祈る場面があるのです。朝、起きて祈る、食事の前に祈る、聖書を読んだ後に祈る、就寝の前にも祈るのです。教会においても祈る場面があるのです。皆さんは、聖霊によって、生きている主イエス・キリストと、祈りによって会話をしているでしょうか。

 祈りは、神に対する私たちの生きる姿勢と深く関わります。ここで、主イエスは、祈るときの注意を語っているというよりも、神に対して、どのような思いをもって祈っているのか、と信仰の姿勢を問題にしているのです。ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りを提示しながら、神が善い祈りであるのは、どちらであるかを語っているのです。信仰者の祈りはこれだ、と判定しているのです。

 主イエスは、ファリサイ派の人々について次のように語っています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」と呼んでいるのです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて」とファリサイ派の人々のことを言っているのです。この「うぬぼれる」という言葉は、国語辞典では「実力以上に、自分が優れていると思い込んで得意になる」とありました。最近の訳では「自分は義人であるとして自ら恃み」とありますが、「うぬぼれる」という元々のギリシャ語は「自分自身を頼みとする」と言う言葉です。私たちは、自分を頼みとしています。自分が今までしてきたことに自信があるのです。自分にはプライドがあります。主イエスは、ここでファリサイ派の祈りを紹介しています。

 ファリサイ派の祈りは、問題があるのです。それは、他の人の罪をあげて、自分と比較して、自分が優位に立っていると言う思いをもって祈っていることです。徴税人と比較して自分が律法を守って、神の前に正しい生活をしていることを祈るのです。11節で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」十戒の後半部分は隣人に対して悪いことをしないように、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をするな、貪るな、と律法にあり、それをすべて守っていると祈りの中で言っているのです。12節に「週に二度断食し」とあり、神の前に自分が謙虚であることを表す断食を月曜日と木曜日の二回、していることを祈るのです。そして「全収入の十分の一を献げています」と祈っています。律法やいましめを忠実に守って、神のみ心にかなった生活をしていることを祈り、それを神が評価すると思っているのです。

 神様に自分が神の律法に忠実であることを言って、神から認められたい、と思っているのです。ファリサイ派の人々は、いい加減ではなくて、きちんと神の律法を守っている、その意味で立派な生き方なのです。しかし、ここに過ちがあるのです。このファリサイ派の人が頼りにしているのは、自分自身の行いなのです。自分が正しいことをして立派に生きている、その自分に頼っているのです。

 主イエスは、ファリサイ派の人々を「他人を見下している人々」と言っているのです。自分と徴税人と比較しながら、自分が神の前に、優位に立っている者だ、と言うのです。「ファリサイ」という言葉は「離れている」「分離している」という意味の言葉です。「自分は他の人とは別な人間である」「神の掟を守っている正しい者である」と自負しているのです。」私たちも、自分の優越感を満たそうとして、自分よりも劣っている者、正しいことをしていない人を見下すことがあるのです。

 それに対して、徴税人はどのような祈りをしているのでしょうか。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」口語訳では「神様、罪人のわたしをおゆるし下さい」と訳しています。新共同訳は「憐れんでください」と訳しています。この「憐れんでください」という元々のギリシャ語は、新約聖書では、こことヘブライ人への手紙にだけ用いられているのですが、「憐れんでください」という翻訳のほうが、原語に忠実です。徴税人は、神に自分が罪人であることを自覚し、その罪を赦してください、と祈っています。
 
 「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず」というのは、自分が神の前に立つことができるような者ではない、という気持ちを表しているのです。そして「胸を打ちながら」というのは、自分の罪を悲しみ、悔いることを表す行為です。「胸を打ちながら」神に憐れみを求めているのです。 
 かなり前のことでしたが、説教塾主催の説教トレーニングセミナーが吉祥寺の聖公会ナザレ修道院で行われ、聖公会の朝の礼拝に初めて出席したことがありました。その時に、罪の悔い改めをする場面で、修道院の司祭が、自分の胸を何度も叩きながら、罪を告白している場面を見たことがあります。
 「胸を打つ」という短い言葉には、自分が罪人であるという自覚と、それにもかかわらず、神が自分を見捨てないで、顧みてくださる、そのような神であると信じている行為なのです。

 この世では、自分の生活をしっかり組み立てて、戒めに従って生きる者が善い者として認められるのです。規則正しい生活をして、他の人に迷惑を掛けない人が善いのです。徴税人のように、ロ−マ帝国のために、通りがかった人から法外な通行税を徴収して、そのお金の一部を自分の懐に入れてしまう、そのような不正をしていることは、赦されないことであったのです。
 ファリサイ派の人の生活は律法をしっかり守っている、落ち度のない生活であったのです。しかし、主イエスが見ているものは、私たちがもっている基準ではなく、神のまなざしで見ているのです。それは、私たちにとっては、意外なことなのです。

 18章14節に主イエスは語っています。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 この徴税人が持っていて、ファリサイ派の人がもっていないものは何かと言えば、自分が罪人であるという自覚と、神が罪人を憐れむ神であることを信じる信仰であるのです。主イエスはそれが神に受け入れられる信仰であると言うのです。神の前に、自分が罪人であるという自覚を持つ、そして神が罪人を罰しないで、罪人を顧みる神であることを信じること、それが神に受け入れられる信仰であると言うのです。言い換えれば、神の心を正しく受け入れた信仰であると言っても良いのです。

 ファリサイ派の人々にはそれがなかったのです。自分が神の律法を忠実に守っており、神から愛される資格を持っている人間だ、と言う自信を持っていたのです。
 この地上では、一所懸命に努力して成績をあげている者が認められるのです。私たちも、自分が世間の人々に認められるように、一所懸命に努力しようとします。特別に悪いことをしていないのに、自分の罪を指摘されることを嫌います。自分が少しは悪いことをしていることを感じていますが、特別に悪いことをしているわけでもないと思っているのです。

 主イエスが「義とされた」のは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない、と語るのです。神が善いと認めたのは、自分が正しい生活をしていることを自慢している人ではなくて、自分の罪を告白して、神の憐れみを求めている者、神の赦しを信じている者が神に受け入れられる、と言うのです。私たちは、神のみこころに適う生活をしていない、罪人としか言えないような暮らしをしてる、そのことを自覚して、神に赦しを求める者なのです。 旧約聖書のダニエル書9章18節B(旧約p1396)に次のような祈りがあります。「私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」

 礼拝のはじめに「罪の告白」をすることは、ルタ−、カルヴァンなどの宗教改革者の礼拝式文に記されています。カルヴァンが始めた礼拝式文は、「教会における祈祷の様式」と言いますが、招詞の後に、「罪の告白」があります。一部を省略して紹介します。「わたしたちは、不義と腐敗との中に生まれ、悪のわざに傾き、すべての善きわざをなすに耐え得ない、貧しき罪人でございます。(略)いとも寛大であり、憐れみにとみたもう神よ、御父よ、わたしたちの主、あなたの御子イエス・キリストの御名によって、わたしたちにあわれみを垂れてください。こうして、わたしたちのかずかずの悪徳と汚れを拭い去り、わたしたちに赦しを与え、聖霊の恵みを日に日にわたしたちに増し加えてください。」

 讃美歌21には、30番から35番まで「礼拝 キリエ」という項目で、「キリエ・エレイソン」と歌う讃美歌が掲載されています。「キリエ・エレイソン」、この言葉は「主よ、憐れんでください」という意味です。罪人の私を、憐れんでください、と歌うのです。私たちは、自分たちが罪人であることを自覚しながら、しかし、そのことによって神が私たちを遠ざけるのではなく、罪人を顧みて、私たちを限りなく、赦す神であることを喜び、その神を頼みとするのです。神は私たちに善い行いを求める神ではなく、罪人をも愛し、受け入れて赦い出す神なのです。神は私たちの罪を赦して、私たちの存在を肯定し、受け入れてくださるのです。
 教会は私たちが神に完全に受け入れられ、重荷を降ろして憩うところなのです。 

20210905  主日礼拝説教    「神を圧倒する祈りを」   山ノ下恭二牧
(詩編77編2−4節、ルカによる福音書18章−8節)


 初めて教会の礼拝や集会に出席した人が、牧師や信徒の祈りを聞いて、自分にはあのような祈りはできない、と思う人が多いのです。そのように思う人が多いので、祈ることができるように、私は、「祈りの手引き」を作りました。「祈りは初めて」という人、「祈りってどうするんですか」という人のための「祈りの手引き」という簡単に読めるパンフレットです。一般の人がしているような、ただ自分の願い事を声に出して祈る、という祈りではなくて、神への賛美、神への感謝や罪の悔い改めを含んだ祈りができるようになるためです。祈れるようになるためには祈る訓練が必要なのです。
 
 教会の祈りができるために、私は教会の多くの信徒の方々に教えられて訓練を受けました。私が幼い頃、家庭で父親が寝る前に祈ってくれて、その祈りの言葉を聞いていましたが、私が祈りの訓練を受けたのは、小学生3年の時でした。教会学校の分級担当の大山セイという高齢の婦人が、祈る方法や、祈りの意味を教えてくれたのです。この婦人は、ホ−リネス教会の出身で、熱心に祈る人でした。分級で一ヶ月、大山さんの祈りの言葉と同じ言葉を後から繰り返し、それが終わると自分の言葉で短く祈るように指導を受け、祈れるようになると、分級の最後に一人の生徒を指名して、祈るように指導したのです。小学4年生になると、教会学校の礼拝の献金の祈りを生徒がしていました。今、思うと、祈る場面が多くあったと思います。鹿沼教会の水曜日の祈祷会は、信徒宅で行っていましたので、私の家で、祈祷会が行われ、牧師の聖書の話の後で、一人一人の祈りを聞くことができ、祈りの言葉を覚えることができました。高校一年生の時から、毎週、祈祷会に出席し、祈りをしてきましたし、神学校に入学して、教会の祈祷会で祈る機会が多くありました。祈ることは、自然にできるものではなく、祈ることができるためには、訓練が必要です。実際に祈ることを繰り返さないと祈ることはできません。

 最近、私の祈りについて気がついたことがあります。毎日、朝食の前に聖書を読んだ後に祈るのですが、私の祈りの言葉がいつも決まった言葉になっていることです。祈りの言葉が定型化していることに気づくいたのです。型どおりの祈りをしている、同じはんこを押したような決まった祈りの言葉になっているのです。コロナ感染が拡大した時から毎日、コロナ感染が終息するように祈っているのですが、ぜひ、終息をお願いしたい、という熱い思いで祈っていなくて、習慣的に同じ言葉を並べているような祈りではないか、と思ったのです。自分の気持ちの中に、多くの国民がワクチンを打てばコロナ感染は終息するだろうと言う気持ちがあり、神に必死でお願いをしていないのではないか、神が解決してくださると信じないで、言葉だけで祈っているのではないか、と思ったのです。
 北九州の若松教会に在任していた時に、毎月、市内にある4つの教会、カトリック教会、バプテスト教会、日本基督教団の2つの教会、の合同祈祷会をしていました。それぞれ祈るのですが、ある時、カトリック教会の信徒の方が、自分たちはカトリック教会の式文で祈るので、自分の言葉で自由に祈ったことはない、と言ったのです。宗教改革者のカルヴァンは、式文で定められた定型の決められた祈りよりも、祈りは心から祈るものであると言って、その人の言葉で自由に祈ることを提唱し、心からの自由な祈りをするようになりました。 ところが、祈りを身につけ、祈ることが習慣になって、自分の祈りに慣れてしまうと、いつもの決まった言葉でいつも祈ってしまうことになってしまうことになるのです。

 本日の礼拝で読んだところは、祈りについて主イエスが教えているところです。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」とあります。神を信じることは、神と会話ができることです。神を信じることは、神と言葉で話すことができることなのです。私たちは毎日、誰かと会話をしています。冷静な会話もありますが、相手と言い合いをしている、それが高じて、喧嘩をしている場面もあります。
 
 20年前の話ですが、私が韓国に行ったときに、空港にソウルのある教会の牧師・長老達・婦人達が迎えに来てくれました。そこで長老達と監士と呼ばれる婦人達とが言い合いをしているのです。韓国語が分からないので、副牧師が日本語で通訳してくれたのです。何を言い合いしているのか、と思ったら、私たちをこれから案内する道順で長老達と婦人達とで意見が違うので、互いに譲らないで喧嘩の口調で言い合いしていることがわかりました。いちいち通訳してくれましたが、最後には、喧嘩になり、互いに非難し合っているのです。韓国では、長老は世間では、認められ、長老の名刺をもっているのです。長老たちは、婦人達に「長老でないのだから、黙っていろ」婦人達は「長老なのに仕事もしないくせに」と言っているのです。空港についてすぐのことでしたから印象的でした。
 
 私たちは、自分の前に生きている人と話しているのです。会話しているのです。相手に訴えることも、喧嘩することもあるのです。神と会話している、祈っているのは、神が生きていると信じるから祈ることができるのです。自分一人で独り言を言っているのではありません。神は私たちの祈りを聞いているのです。生きて働いている神がおられることを信じることが信仰なのです。その神に語るのです。バルトという神学者は「祈りは語りかけていることだ」と言います。改まって、どのような言葉で語るのか、と言うことよりも、語りかけていることが大切だと言います。子ども向けの祈りの本には、「神さま、あのね」という本があります。この本には、赤ちゃんが母親に親しく話すように、簡単な短い言葉で祈る言葉が記されています。
 
 祈れるようになり、祈りを身につけるようになって、すぐに遭遇する問題は、祈ってもすぐには神は答えてくださらない、ということです。一所懸命に祈っている人が経験することは、祈りに対する神の答えがすぐにないので、「気を落とす」「失望する」ということです。一所懸命に祈ろうとするけれども、祈りの成果がないように思うので、祈りが空を打っているような思いがするのです。神がどのように答えてくださるのか見当もつかないのです。

 主イエスは、とても興味深いたとえを語られたのです。それは、失望しないで熱心に、しつこいくらいに祈りをしなさいということです。このたとえは「不正な裁判官の譬え話」と呼ばれています。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。」神を神として尊ばない、祈りもしないし、神の言葉も聞こうとしない裁判官だったのです。自分を神が見ており、神の前に正しく過ごし、神の正しさが貫かれるように裁きを行うことなど、考えたこともない裁判官であったのです。現在は、司法制度が整っていて、裁判官が自分勝手に裁判をすることは許されてはいませんが、「自分が正しい」と思えば、白でも黒としてしまい、黒でも白としてしまう、そのような権力をもっていたのです。そして賄賂をもらえば、有罪を無罪にしてしまうのです。誰の訴えでも公平に話を聞くことがない裁判官のところに、ひとりのやもめがやってきて、裁判官に「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言い、しばらくは取り合おうとしなかったのです。しかし、このやもめが毎日、来て同じように訴えるので、「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」

 やもめというのは社会的に弱い立場にあるのです。弱い立場にある人を擁護するすることが裁判官の務めであるのです。社会的に強い立場の人が、弱い人を虐げて、搾取することが行われて、やもめよりも遙かに力がある人に、力づくで財産を奪われそうになっているのです。「どうぞ、自分のために正しい裁きを行ってください」と必死に訴えても、人の願いなどをいちいち聞いてはいない裁判官ですから、やもめのために正しい裁きをしようとはしなかったのです。そのようなことがあっても、このやもめは諦めなかったのです。気落ちしなかったのです。そして何度も裁判官のところにやってきたのです。一度、頼んでみたものの「ああ、だめだった」とひっこめてしまうことはなかったのです。一度、頼んだけれどもだめだった、これも運命だと諦めることはなかったのです。私たちは、人に頼む時に、相手は引き受けてくれないだろう、と思うけれども、「だめもと」でお願いすることもあります。一度、頼んだけれども相手が断ると、やっぱり、だめか、といって諦めるのですが、このやもめは自分がしていることは当然、正しいことだという信念があって、その姿勢を貫くのです。裁判官がやもめの願いを聞き入れ、自分のために裁判をすることを約束するまで、ひっきりなしに裁判官に掛け合うのです。

 この譬え話に、とてもおもしろい言葉があるのです。このやもめが、裁判官のところに何度も足を運んだので、仕方なく、この裁判官は裁きを行うことになったのです。18章4−5節にこう語られています。「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
 この「さんざんな目に遭わす」という言葉は、とてもおもしろい言葉です。原文のギリシャ語は、もともとは、相手をぶん殴って、目の下に青黒い痣ができるようにしてしまう、という言葉なのです。テレビでボクシングの試合を見ることがありますが、試合相手から殴られる、そうすると目の下に青黒い痣ができる、そのような場面を見ることがあります。裁判官は、実際にそのような目に遭うことを恐れたのかもしれません。女性に殴られた跡が残っている顔で裁判ができるわけがないと思ったのかも知れません。そう裁判官が思うほど、この女性は、頻繁にお願いに来て、激しく訴えたのです。正義を行うために、裁判をするというのではなくて、この女性に悩まされて、困る、そして殴られて、みんなから笑い者にされるから、彼女のためになるように裁判をして、早く片付けてしまおうと思ったのです。

 なぜ、主イエスは、このような話をなさったのでしょうか。18章6節に次のように語っています。「それから、主イエスは言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。』」神に対して正しく生きようともせず、人に対しても誠実に応対しないような裁判官であっても、熱心な願いには負けるものだ、まして、神に正義を求める神の民のために、正しい裁きをくださらないで、放っておくことはなさらないはずだ、と言うのです。祈りとは失望してはならない、途切れてはいけない、必要なことであるならば、絶えず、日夜、叫び続け、訴え続けなさい、神は必ず聴いてくださる、と言うのです。

 祈りは叫び、訴えと言うことができます。祈りの形も整っていないかもしれません。神につかみ合うような、祈りが私たちには必要なのです。私たちの祈りは、どのような言葉で祈ろうか、ということに関心があって、自分の願い、要求を神に訴え、叫ぶ、ぶつけることが欠けているのです。
 
 ヨブ記を読むと、ヨブが神に訴えて叫んでいる、抗議している場面があります。ヨブ記30章20節です。「神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのに あなたはお答えにならない。御前に立っているのに あなたは御覧にならない。あなたは冷酷になり 御手の力をもってわたしに怒りを表される。」と訴えています。ヨブは、神が自分を不当に扱っている、神が間違っている、神を告訴したいとまで言うのです。ヨブ記34章5節「ヨブはこう言っている。『わたしは正しい。だが、神は、この主張を退けられる。私は正しいのに、うそつきとされ、罪のないのに、矢を射かけられ傷ついた。』」
 どういう言葉で祈ろうか、どういう言葉で祈れば、祈りとして合格か、ということが大切なのではなくて、神にお願いしたいこと、訴えたいことを率直にぶつけて叫ぶのが、祈りなのです。
 神がすべてを支配しているならば、あなたが正義を貫く方であり、私たちの命を守ることを願っているならば、コロナ感染を止めてください、という訴えを神にぶつけて叫ぶのが、祈りなのです。

20210829 主日礼拝説教 「再び来られるキリストを待ち望みつつ」   山ノ下恭二牧師
(創世記19章15−29節、ルカによる福音書17章22−37節)

 
 クリスマス、イースター、記念日以外の聖日には、この礼拝で、ルカによる福音書を続けて学んでいます。ルカによる福音書を学び始めたのは、2019年10月13日からですから、それ以来、ルカによる福音書を学んでいることになります。ルカによる福音書であるなら、ルカによる福音書に記されているみことばをその順序に従って解き明かす説教を講解説教と呼んでいます。この講解説教の方法は、宗教改革者カルヴァンが始めたものです。現在もそうですが、ロ−マ・カトリック教会は、教会の暦に従って、聖書の言葉を選び、3年間のサイクルで聖書の言葉を決めて、この聖日にはこの聖書の言葉を読むと決めています。3年のサイクルが終われば、4年目には一年目と同じ聖書の言葉になるのです。そうすると、選ばれなかった聖書の言葉もあり、その聖書の言葉を読まないことになります。
 カルヴァンは、聖書の言葉を満遍なく、一箇所も飛ばすことなく次々と解き明かして、説教を聴くことが、私たちの信仰生活にとってとても重要で、大切なことであると考えて、講解説教を始めたのです。
 
 聖書の言葉を読んでいきますと、よく分かって気に入った箇所もありますが、読んでもよく分からないところ、読みたくないところもあります。私たちが聖書を読んでいく時に、気に入ったところだけ、つまみぐいをするような読み方をすることがあります。そのような読み方は自分本位な読み方になるのです。 相手の話を聞く時に、相手の話を終わりまで全部、聞くのであって、聞きたい話だけを聞いて、聞きたくない話は耳を塞ぐことはしません。聖書を読んでいる時に、自分がよく分かり、気に入ったところだけ読むのではなく、満遍なく、読むことが大切です。偏食は良くないと言います。にんじんが好きではない、ピ−マンが嫌いだ、カボチャが苦手だ、ということがありますが、好き嫌いはなく、何でも食べることは栄養の面でも大切なことです。聖書も、読んで理解しにくいところでも、読み飛ばさないで、学んでいくことが大切です。
 
 本日の礼拝で読んだルカによる福音書17章22節以下の記事は、繰り返して何遍も読みたいところでしょうか。飛ばして読んでしまうようなところであると思います。17章22節以下に、私たちが、敬遠したいと思う言葉が記されているように思います。
 
 本日、読んだところは、17章20節から始まった話の続きなのです。17章20−21節には、ファリサイ派の人々が、主イエスに「神の国はいつ来るのか」と質問しています。「神の国」について話題にしているところから話は始まっているのです。「神の国」とは神がすべてを支配している神の世界なのです。ファリサイ派の人々の質問に対して、主イエスは「神の国は見える形では来ない」と語り、また「『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない」と答えています。そして「神の国はあなたがたの間にある」と語っています。
 
「神の国」は私たちの肉眼で見えるものではありません。見えないものなのです。私たちは見えるものではなく、見えないものを見る目を与えられています。神の働きもこの肉眼では見えませんが、信仰のまなざしをもって見ることができるのです。信仰のまなざしをもって、神の働きを見るのです。「神の国はあなたがたの間にある。」イエス・キリストがこの地上にきてくださった、そこに神の国が始まっているのです。父なる神が、神に背を向け、罪を犯してしまった私たちと和解し、罪を贖うために、イエス・キリストを派遣してくださったのです。イエス・キリストが神の国をもたらしてくださったのです。このキリストを主と信じ、告白する者に「神の国はあなたがたの間にある」と語っています。
 
 私たちは、地上で刻んでいる時を過ごしています。今は8月29日の10時46分で、その時を過ごしています。聖書では、時計が刻む時間を、ギリシャ語でクロノスという言葉を使っています。この言葉はクロックという言葉の元々の言葉です。毎日、私たちは、この地上で刻んでいる時を過ごしているのですが、もう一つの時を過ごしているのです。それは、神の時間、神がそのみ業を行う時間のことです。私たちが神を信頼して歩んでいる「時」なのです。聖書には、地上の時間を表すクロノスという言葉よりも、「カイロス」と言う言葉を多く使っています。この「カイロス」は、神がもっている時間のことです。神が決断して、時を定めているのです。神がイエス・キリストを生まれさせた時も神が決めています。神が愛をもって私たちを救うために、この時を選んでいるのです。

 私たちはこの地上の時間を過ごしているだけではなくて、神の時間を生きているのです。神ははじめであり、終わりであるのです。神が時を定めているのです。神がはじめ、神が終わらせるのです。そして私たちは、キリストが来られて、私たちを罪から救ってくださった時と、終わりの時の間を過ごしているのです。

 17章22節には「人の子の日」という言葉が出てきます。この「人の子」は、ユダヤの人々が、世の終わりに神の勝利をもたらすために現れる方、救い主として待ち望んでいたものです。ここで、主イエスは、その「人の子」とご自分とが同じものであると言われたのです。わたしはもう一度来る、と言われたのです。また来る、と言われました。神の国は、キリストによって来た、そして終わりには再びキリストが来てくださるのです。主イエス・キリストが再び来る、再臨を信じることは、この世が、このままいつまでも続くのではなくて、最後には、必ず主イエスがきてくださり、結末をつけてくださると信じることなのです。
 
 本日、読みましたところは、旧約聖書に記されている物語を引用しながら、イエス・キリストが再び来られる時のことを語っています。17章26−27節では、旧約聖書の創世記に登場するノアの物語の例を示しながら、私たちが心がけなければならないことを語るのです。ノアの洪水の物語を知っていると思います。神はノアに箱船を造ることを命じます。この時代の人々は、神を忘れ、神に背を向けて、自分の生活だけを考えて過ごしていました。この人たちを神は滅ぼそうと決心したのです。ノアとその家族と動物だけを滅ぼさないで生かそうとしたのです。洪水で呑み込まれないように、神は、ノアに箱船を造るように命じるのです。26−27節には「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れる時にも起こるだろう。ノアが箱船に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」と記されています。
 
 ノアの時代にあったと同じようなことが人の子の時にも起こると語るのです。ノアの時代の人々は、日常の自分の生活のことだけに関心があって、ノアが一所懸命に、箱船を造っていることを馬鹿にしていて、ノアがしていることを軽んじ、侮辱していた、と言うのです。日常の自分の生活にのみ没頭していて、ノアが神を仰いでいくその生き方を人々は捨ててしまった、と言うのです。いかに自分の生活が豊かで便利な生活をしていくのか、おいしいものを食べ、自分が満足するような生活をしていくか、そのことを追求して行ったのです。 神を忘れ、神の支配を忘れて、神に心を向けることがなく、神がみわざを完成することも期待していないのです。神を無視するだけではなく、神が邪魔だとさえ思っているのです。

 またロトについても語っています。神の前に悪いことをしている、ソドムの町に、神の審判が下されるのです。ロトの時代にも、ノアの時代と同じように神を尊ぶことなく、神を無視して生活している、そのような時に、審判が下されるのです。
 28−29節には「ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたがロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。」この時の様子は、本日の礼拝で読みました創世記19章15−29節に記されています。

 主イエスは、神の審判が起こることを心に留めて、自覚するように、と30−33節で語るのです。「人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」
 
 毎日の生活だけが、自分の生活であり、その生活をいかに送ろうか、とばかりいつもこころにかけている時に、主イエスが再び来られる、という事件が起こるのです。そのような事件が起こったとき、自分が最も大切だと思っているものを確保しようとするのです。自分の持ち物を取りに行くのです。自分の財産を手放したくない、預金通帳を取りに行こうとするのです。しかし、主イエスは、その時に、屋上にいる者、畑にいる者、に「家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして」家に戻ってはならない、戻ることによって命を失うのだ、と警告しているのです。自分がこの地上で頼りにしている財産を手放すことを求められています。
 私たちは、この地上にある自分のもっている財産に執着しているのです。ロトの妻を例として語っているのは、そのことをはっきり示そうとしています。
 
 17章32節に「ロトの妻を思い出しなさい。」と語られています。創世記19章17節に記されていますが、ソドム・ゴモラの町が滅びる時に、主なる神が「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山に逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」と警告されていたのですが、「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」のです。
 振り返るなと戒められて、ソドム・ゴモラの町を出ていながら、やはり気になったのでしょう、自分の住み慣れた、自分の持ち物があり、それが消えていくことに耐えられないで、ふと振り返ったのです。この地上で、自分が持っているものに執着し、慣れ親しんで大切なものに未練があり、手放すことができなかったのです。

 ロトの妻は信仰者なのです。神の憐れみによって救いに与った者であるにもかかわらず、神を仰ぎ、神に心を向けて生活することを忘れて、この地上のものにだけ、関心をもっている、そういう者に対する審判が語られているのです。

 私たちは、主イエス・キリストが再び来られて、審判することを、全く考えていません。地震が突然、思いがけない時に来ることを私たちは恐れ、思いがけない時に、地震が発生し、いのちが助かる人とそうでない人が出てくることを恐れるのですが、主イエスが再び来られることを畏れをもって備えることはしていません。主イエス・キリストが、再び来られ、いのちが助かる者と滅びる者が出てくると言う危機感は持っていないのです。ノアの時代、ロトの時代の人々と同じように、この地上の生活が無事であれば良いと思っているのです。

 旧約聖書に登場するノアやロトの妻を引用しながら、私たちに対して警告しているのです。ここでは、主イエスが再臨される時に、滅びが起こる、ということが語られているというよりも、主イエスが、再び来られる、そのことを心に留めながら、私たちが、いつも、神に心を向けて、聖書の言葉に聴きながら、誠実に生きることを勧めているのです。キリストによって神が深く愛してくださっている、そのことを信頼して行く者に、神に対して真実な生き方が求められているのです。

20210822 主日礼拝説教  「奥まった自分の部屋」  乙成仁史神学生(東京神学大学大学院)
(創世記3章8−10節、 マタイによる福音書6章5−8節)


 私の通っている東京神学大学では、祈りについて授業が持たれることはありません。祈り方のトレーニングを受けたり、祈った後で先生から、先ほどの祈りはここはこうした方が良いなどといったレクチャーを受けることはありません。祈りについてのトレーニングはないのですが、神学生は実によく祈ります。朝起きて祈り、朝の寮の寮拝で祈り、朝食の前の食前の祈りを祈り、1時間目の授業が始まれば祈り、学校のチャペルが2限の前にあるのですが、そこでも祈り、2限で祈り、お昼も祈り、3限でも祈り、夕飯の前にも祈り、また寝る前にも今日一日の感謝を覚えて祈りを捧げてから、神学生は眠りの床につきます。神学生の一日とは、まさしく祈りの一日であります。一日中、そして365日、祈りの生活の中で、神学生は学びと奉仕の日々を歩んでおります。さすが神学生ですねと言いたいところですが、本日私たちに与えられておりますイエス様の祈りに関する教えの箇所は、実にこのようによく祈る者に向けて教えております。

 イエス様は、あなた達は祈りが足りないからもっと祈りなさいと教えるのではなく、すでに十分に祈っている者に対して教えをなさるのです。イエス様の祈りの教えと言うと、真っ先に思いつくのは「主の祈り」です。その私たちの信仰の一丁目一番地とも言える「主の祈り」を教える前に、それよりももっともっと基礎的なそして基本的なこと、言い換えれば、これを欠いてしまったら祈りにならない、そういうことをイエス様はこの箇所で教えておられます。

 今朝は、このイエス様の祈りについてご一緒に耳を傾けたいと思うのです。マタイによる福音書6章5節以下です。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に酬いを受けている。」「祈る時にも」とありますが、それは直前の6章1節から4節の話が、偽善を行ってはならないという教えだったからです。人に施しをする際に偽善であってはならないという話に続いて、また祈る時にも偽善であってはならないとイエス様はおっしゃいます、では、偽善者たちはどう祈っていたのでしょうか。偽善者たちは、祈っている姿を人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈っているというのです。偽善者たちのそのような祈りの姿勢に対して、彼らはすでに酬いを受けているとイエス様おっしゃいます。

 私が受洗して1年目、2年目ぐらいの頃を思い出します。仕事を終えて夜の祈祷会に参加するのですが、牧師の聖書研究を終えて、参加者全員が一人ずつ祈る番がきます。その時、私はドキドキしてしまうのです。なんて祈ろうか、皆滑らかに素敵な言葉で祈っているな。自分の頭の中の原稿用紙に必死に祈りを書こうとする自分がいます。みんなの祈りがどんどん終わって、あと一人二人で自分の番になろうかとすると、私の心臓はドキドキして、鼓動がマックスになってしまいます。自分の顔が赤面していることが、鏡がなくても分かるほどでした。その時、なぜ私はドキドキするのか、なぜ赤面するほど緊張しているのか、恐らくこう感じていたのだと思います。一緒に祈っている人が、自分の祈りを評価している。受洗して、もう少し、時間が経とうとしているが、お祈りをこいつは上手に言えるようになったかな。今から聞く祈りから、神への敬虔さを確かめてやろう。

 場所は教会の一室でした。しかし、私は、まるで大通りの角に立って大勢の人が私のことを見ている、そのような中で祈るかのような錯覚を起こしていました。みんなが自分の発する言葉を聞いて、聞いている人に祈りの言葉を聞かせる、そんな自分がいました。当時の私は、まさしく今日の聖書の箇所で、イエス様がおっしゃる、偽善者たちは人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈りたがる、そのような状態だったのだろうと思われます。

 祈りとは、神様との対話です。神様と対話する、それが祈りです。偽善者たちは、神様と対話するはずなのに心は人間に向かってしまっていたのです。神様に意識を向けることよりも、他人からよく見られたい、人間に意識を向けてしまっているのです。その根底には、私達の罪、神様と私たちとの関係の破れがあります。

 しかし、この福音書の当時の偽善者たちの祈り、そして、受洗した頃の当時の私の祈りというのは、まさしくこの偽善者のような祈りだったのです。イエス様は、このような彼らは既に酬いを受けているとおっしゃいます。何だか怖い表現です。まるで、天罰でも下されてしまうかのような、そのような恐れを感じる言葉です。

 しかしここでイエス様が語ろうとしているのは、そういう話ではありません。人目を気にして祈る偽善者たちが、神様が酬いるものよりも先に受けてしまっているもの、それは周りの人間からの評価ということです。偽善者たちは、ちゃんと祈っているのを周りの人に知ってもらいたい、そう願ったわけですから、それは叶うわけです。実際、祈っている人の心の中では、満足が満たされます。よし、今日は滑らかに祈れたぞ、と。また、もしかしたら周りの人に、先ほどのお祈り素敵でした、と1人2人に声をかけてもらえるかも知れない。しかしそんな些細な微々たる酬いと引き換えに、本当に大切な神様からの酬いが、帳消しにされてしまうのです。こんなにもったいない馬鹿げた話はありません。諺に「小利を貪るものは、大利を失う」というのがありますが、まさしくそのような状態です。本来であれば、神様から本当に酬いてもらいたいものをいただきたいのに、一緒に祈っている周りの人の評価が気になって、そこに気を取られているうちに、本当に大切なものをいただき損ねてしまっているのです。

 では、私たちはどのように祈れば良いのでしょうか。そこで、主イエスはこう祈りなさいと教えています。6節です。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」奥まった自分の部屋、それは他人が突然訪ねてきたり、また覗かれたりしない部屋を指しています。人前で祈るどころか、人から離れなさいと主イエスはおっしゃるのです。そして、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさいと言うのです。そのお方が、私たちが隠れたことを見て初めて報いてくださるというのです。もっと端的に言いますと、人間から遠ざかってただ神にのみ心を向けられる環境に自ら飛び込んだ、そのことを見て初めて、神様は報いてくださるというのです。

 私たちは日々の祈りの中で、そこまで人との物理的また心理的な距離を置いて祈ることはありますでしょうか。祈りのタイミングが来たから祈る、毎日の習慣だから祈る、他のキリスト者と一緒だから祈る。このような、半ば形式的な祈りの形になりがちです。私はそのような祈りの生活であったなと、本日の御言葉を取り次ぐ準備の上で、大きく反省をいたしました。指を組んで、頭を垂れて、祈りの言葉を口にして、ただそれのみをもって祈りとしてしまっていたのです。このような私自身の祈りに、主イエスは警鐘を鳴らされたのです。

 それは勿論、文字通りに奥まった自分の部屋に隠れなければ祈れないというわけではないのです。それでは、自分の部屋がない人は祈れないことになってしまいます。祈る時、私たちはこの言葉を思い出したいのです。実際に自分の部屋以外で祈る時においても、まるで自分の奥まった部屋に入って鍵を閉め、そこには人が誰も来ない、また突然人が呼びかけることもない。覗かれることもない。居るのはただ自分一人。そのような場所に、私たちの心と魂を置くのです。そのように、私たちがちゃんと隠れたことを見て、ただ神様に心を向けることができて、ようやく私たちの神が報いてくださる、そうおっしゃっているのです。チラチラと周りの人の反応を伺いながら気もそぞろになっている状態、それでは奥まった自分の部屋に入っていることにはならないというのです。

 そのような姦淫の罪を熱情の神は望んでいらっしゃらない、そうイエス様から言われているようです。しかし、奥まった自分の部屋に入ってしまったら、もう誰とも話せないではないか。鍵は閉まっているし、自分の部屋なのだから。こういう疑問が湧きます。実はただお一人、自分の部屋に入ってくるお方がいるのです。それは、この部屋の家の主人である、父なる神、主なる神なのです。主人は、勿論すべての部屋に自由に出入りできます。私たちの心の中の奥まった部屋にも、父なる神ならお入りになることができます。奥まった自分の部屋、ここに存在できるのは自分と、主なる神だけなのです。赤の他人が入ってくることはありません。隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。私たちが隠れた時、私たちは隠れたところにおられる神に出会います。私たちは、こうやって誰にも邪魔されず、誰の目も気にせず、隠れたところで神様と二人きりで会話ができるのです。

 続いて7節でもこう述べられています。「また、あなた方が祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」ここに書かれている、「くどくど祈る」とは、この当時、知っている神様の名前を手当たり次第に順々にあげて行って、どれが本物の神かわからないけれどもたくさん神様の名前をあげればどれか本物の神様の名前があるかもしれない、その人が願いを叶えてくれるだろう、そのような異邦人、ユダヤ教ではない方々の祈りの姿があったと言います。

 それに対して、イエス様はそうではいけない、とおっしゃいます。あなたがたの父は、願う前からあなた方に必要なものをご存知なのだと言います。どれが本当の神様の名前なのか、そもそも真の神はどなたなのか、そのようなことに私たちは気を取られなくていいのです。願う相手は、あなたがたの父、つまり、私たちの父であるというのです。どこぞの異国の人でもない、居るか居ないか分からない存在ではない、自分のことをちゃんと知ってくださる父に祈れというのです。

 私たちの父は、いつも私たちを見ていてくださいます。いつも、私たちを愛していてくださっています。私たちの、いつもそばにいる方です。そんな父に祈れと、主イエスはおっしゃるのです。そして、いつも私たちをちゃんと見ていてくださる父だから、願う前からあなた方に必要なものをご存知だともおっしゃいます。それもそのはずです。子供を見ていない父親がいるでしょうか。子供の幸せを願わない父親がいるでしょうか。王様や裁判官のように、良いことをしたら良いものをあげるけれども、悪いことをしたら罰する、そのようなお方ではないのです。私たちが祈るという相手というのは、私達の存在自体が愛おしいのです。私たちのことが愛おしいがゆえに、時に必要な戒めがあるかも知れませんが、それらも含めて私たちの父親です。無条件の愛なのです。だから無論、私たちが祈る前から、必要なものは当然にご存知なのです。

 では、祈らなくて良いのか。そうではなく、祈る前から必要なものをご存知なわけで、祈りは求めていらっしゃるのです。祈らなくては、私たちは神様と対話ができないからです。自分と父だけの場所、奥まった自分の部屋、そこに私たちは祈りの度に、隠れられているか、ちゃんと私たちが隠れたことを確認して、父なる神、私たちの父が報いてくださるのです。

 本日与えられております旧約聖書創世記3章8節以下を読みます。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております、私は裸ですから。』」最初の人間アダム。彼は、主イエスの教えとは正反対に違い、主なる神に見つかりたくなくて隠れるものでした。当然神様から逃れるために隠れるなどということは無意味であることを、私たちは十分知っています。隠れた理由は、裸だからという理由でした。自分のすべてを見られては困る、隠したい部分ができてしまった、そのような理由からでした。むしろ本日、ここに集まる私たちは、神様に会うために隠れたい、神様だけには他の誰にも言えない本当の願いを言いたい、他の人が聞いていたら到底祈れないことを、私たちは神様には恥ずかしがらずに祈りたいのです。人が聞いていたら到底乗れないことを、私たちは奥まった自分の部屋では祈ることができるのです。そうしないと、人が聞いているからと差し障りのない内容だけを祈って、本当の思いを祈らなくなってしまうのです。それは神様にとっては、寂しいことなのです。なぜなら、主イエスの言うとおり、あなたがたの父は、願う前からあなた方に必要なものをご存知なのだ、だからです。だから、奥まった自分の部屋に隠れるのです。奥まった自分の部屋に隠れ、人目を気にせず、ただ神にのみ心を向けて祈りたいのです。

 東京神学大学で、祈りについてトレーニングを受けない理由、それは、優秀な神学の教授が教えなくても、誰でもない私たちを贖ってくださった主イエス・キリストが、2000年の時を越えて私たちに直接教えてくださるからです。東京神学大学は、東アジアにおける神学の最高学府として、本当に優秀な神学の教授たちがいます。聖書神学、組織神学、実践神学、それぞれの分野において超一線級の教授陣がいます。しかし、この、こと祈りに関しては、そのような教授陣には到底教えられない、それに優るお方がいるのです。それが主イエス・キリストなのです。祈りとは、それほどまでに私たちの人生にとって大事なものの一つです。しかも、東京神学大学に入らなくてもいいのです。神学生のように、人生まるごと神様に捧げなくても、私たちは聖書があれば、直接イエス様からこの祈りの仕方について教わることができるのです。これから、一緒に祈りを捧げます。皆様、奥まった自分の部屋に入る準備ができましたでしょうか。共に祈りましょう。

 天の父よ。今朝も、このような折の悪い中、私たちを礼拝に招いてくださり、心より感謝します。また愛する牛込払方町教会の兄弟姉妹とともに、あなたに礼拝を捧げられる恵みに心より感謝いたします。本日は、あなたがお送りくださった御子イエス・キリストに祈りを教わりました。イエスは隠れて、ひたすら神にのみ心を向けなさいと、私たちに教えられます。どうか神様、私たちのこれからの祈りの人生において、いつも神のみに祈りを捧げられるように私達を整え導いてください。今朝、僕があなたの御言葉を取り次ぐ業が与えられました。私たちの愛する山ノ下先生の夏季休暇の上に、主の平安がありますように。肉の体に、癒しと休息がありますように。また信仰と霊性の上に、豊かな聖霊の充足がありますように心より祈ります。また、ご家族の上にも、あなたの祝福と恵みが豊かに運ばれますように。今日、このみ言葉のときを心より感謝して、この感謝と祈りを尊き主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン 


20210815 主日礼拝説教  「神の国はあなたがたの中にある」 山ノ下恭二牧師
(エゼキエル書13章20−23節、ルカによる福音書17章20−21節)


 毎週、主の日に礼拝をささげることができることをうれしく思います。コロナ禍の中で、私たちの教会が、日曜日に礼拝を継続することができることを感謝致します。昨年、コロナ感染が拡がった時から、長老会は、コロナ感染を抑えつつ、どうしたら礼拝を正しく守っていけるのかを何度も検討してきました。その結果、今まで行ってきた礼拝の仕方を少し変えることになりました。そのことが、皆さんの手許にある週報に記されています。「教会到着時から常時、マスクを着用し、受付備え付けの消毒液による手の洗浄を徹底すること、検温を必ず行うこと、礼拝着席の際は週報が置いてある席に座ってください。礼拝中は起立をしません。讃美歌は一節のみを小声で歌います。」
 
 これはコロナ感染を防止し、礼拝を正しく守ることができるように考えたものです。礼拝は着席のままで行っています。飛沫感染を防ぐためです。長老会での話し合いでは、讃美歌について全部の節を歌うのが意味があると言う意見があり、感染防止のためには、1節だけを小声で歌うほうが良い、という意見もあり、感染を防止しながら、礼拝をどのようにしたら良いのか、を時間をかけて検討してきたのです。長老会での議論を聞きながら、私は、これまで行ってきた礼拝について、改めてその意味を考えるようになったのです。礼拝において、讃美歌をなぜ歌うのか、礼拝における聖餐式の位置と意味は何か、について改めて考えるようになりました。このことは礼拝とは何だろうか、という問題につながっていくのです。コロナ感染が始まってから、礼拝の仕方を変えていく話し合いに参加しながら、私は礼拝とはどういうものなのか、を考えるようになったのです。

 ある時、ヨハネによる福音書4章を読んでいて、これが礼拝の意味ではないかと考えたのです。この4章には、シカルの井戸で、サマリアの一人の女性が水を汲みに来るのです。その場所で、この女性は主イエスに出逢い、主イエスから、この女性が一番、触れてもらいたくない、過去の罪を言い当てられるのです。この女性が、その罪に責められて、自分の罪を認め、主イエスをメシアと告白して、罪の赦しを与えられ、サマリアの自分の村に帰って主イエスこそ救い主、メシアであると伝えるのです。この物語を読んで、私は、礼拝とは主イエス・キリストと対面して、罪が赦されることだ、と思うようになったのです。礼拝において、イエス・キリストが私たちと対面し、神から和解を受けることが礼拝であると考えたのです。

 ルカによる福音書17章20節に、ファリサイ派の人々が、主イエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねた、とあります。ファリサイ派の人々は、主イエスの言動に注意を払っていました。主イエスが自分たちの考えとは全く異なる行動を取っていたからです。主イエスが律法を守らない人々と付き合い、罪を犯した人たちと食事をしていることを苦々しく思っていただけでなく、主イエスが、人々に人気があることを妬んでいたのです。そのような思いを持っていたので、ファリサイ派の人々は主イエスを試したいと思っていたのです。
 
 「神の国はいつ来るのか」とファリサイ派の人々が主イエスに質問したのは、主イエスが、様々なところで神の国という言葉を語り、それに基づいた行動をし、神の国の譬えを語っていたからです。聖書語句大辞典で「神の国」という言葉が4つの福音書に何回出てくるのか、を調べました。マタイ福音書では5回、これは「天の国」という「神の国」と同じ意味の言葉を多く使っているので、特別に「神の国」という言葉を使う必要がないためです。マルコ福音書は14回、ルカ福音書は26回です。ヨハネ福音書は2回ですが、それは「神の国」という言葉と同じ意味の「永遠のいのち」という言葉を多く使っているからです。「神の国」という言葉の頻度は、マタイ、マルコ、ヨハネによる福音書と比べて、ルカによる福音書がはるかに多いのです。 
 
 ルカによる福音書で「神の国」という言葉がどのように使われているのか、を調べると、主イエスは神の国の福音を伝えておられることが分かるのです。ファリサイ派の人々は、主イエスの活動を見張っていたのです。ファリサイ派の人々同士の連携があり、主イエスの言動を、今の監視カメラで見張っているように、いちいちチェックしていたのでした。主イエスは、神の国について譬えで話されていますが、直接的に神の国がどのようなものかははっきり話していないので、ファリサイ派の人々は聞きたいと思っていただけではなく、主イエスの実力を試そうとしたのです。

 この問いに対して主イエスは「神の国は見える形では来ない。」と語っているのです。この主イエスの言葉は、ファリサイ派の人々が「神の国」が見える形で来ると考えているけれども、それは誤解であると言っているのです。ファリサイ派の人々は神の国が、天体の現象を伴って現れると考えていたのです。神の国が、地震などの自然災害の変動を伴って来ると考えていたことを否定しているのです。天文学者が空を眺めて、星の動きを観察して異常な動きを発見する、そういうことによって神の国が来ることが分かる、そのようなことはないと言うのです。またファリサイ派の人々は、律法を完全に守る国を神の国と考えていました。律法が神のみこころを表し、すべての人々が律法を完全に守ることが神の国が来ると考えていたのです。
 
 主イエスは、21節で「『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない」と語っています。それはこの地上のある特定の場所に神の国があるというのではない、と言うのです。私は、「神の国」と言う言葉を聞くと、日本が天皇を中心とした神の国であるという発言があったことを思い起こします。戦前、日本が天皇を中心とした神の国であると言う思想を国民に教え込み、国民を総動員して、アジア地域を侵略し、戦争をして敗戦の時を迎えたのです。太平洋戦争によって、300万人以上の人々が戦死したのです。また、「神の国」をこの地上に作ろうと努力し、運動した団体があります。人間の力で、理想的な共同体を目指している団体もあります。理想郷、それはユ−トピア、この言葉は「どこにも場所がない」という言葉です。理想に燃えて理想郷を作ろうとしても、ある特定の人間が独裁的に支配してしまい、多くの人々が離れてしまった団体もあるのです。しかし、神の国というものは、この地上のどこかに人間が作って行く、目に見える理想郷を指しているのではないのです。
 
 「神の国」と言う言葉は、「神が王である」「神が支配する」とも訳すことができます。「王」と言う言葉には、権力をもった王が人々を支配し、搾取すると理解しやすいのです。しかし、主イエスは、「神の国」を神が権力をもって、人々を支配するという意味で使ってはいません。
 ルカによる福音書11章20節には、主イエスが悪霊に捕らわれている者を解放してくださっているのです。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ。」とあります。悪霊に支配されて、正常な生活ができない人々に対して、主イエスは悪霊を追い出してしまうのです。そしてそのことによって神による愛の支配が始まっているのです。私たちは、何かに支配されています。それは、自分の中に入り込んでいる悪霊であるし、罪であるのです。そのような私たちを支配している悪霊や罪から解放して、自由な者とするために、主イエスは、神の支配をもたらしたのです。

 主イエスは、よい知らせを伝えるために、72人の弟子たちを派遣するにあたり「その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と語っています。神の国が近づいた、この「近づいた」という言葉はどのような意味でしょうか。それは、丁度、私たちが駅のプラットホ−ムで、電車が来るのを待っている時に、もうすぐ電車がプラットホ−ムに近づいてくるようなものです。あるいは、プラットホ−ムに入ってきて、ドア−が開き、電車に乗ることができるようなものです。イエス・キリストが近づいた、イエス・キリストが来た、そのことは神の国が近づいている、神の国が来ているのです。主イエスが弟子たちに与えた一つの権能は、「病人をいやす」ことです。病いは、私たちを苦しめ、命を失わせるものです。病によって痛みを負い、苦しんでいる人々はたくさんいます。主イエス、そして弟子たちによって病が癒やされた、そのことによって神が自分を相手にして病を癒やしてくださり、自分が一人の人間として生きている、その命を愛している神がおられることを知らせることになるのです。

 先週の礼拝で語りました、17章11−19節には、主イエスが10人のハンセン病者をすべて癒やしたのですが、その中の一人だけが、主イエスのもとに帰って来て、信仰を言い表した、信仰告白をしたことが記されています。他の9人は、主イエスを自分の病を癒やした医師としか見ていないのです。しかし、主イエスのもとに帰って来たサマリア人は、癒やしの向こうにある、神の働きを見ることができたのです。主イエスの働きが、神の働きであることを信じることができたのです。神の国が主イエスによってもたらされたのです。

 「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の人々の問いに対して、主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えています。主イエスは「神の国はあなたがたの間にある」と言うのです。この「間に」という言葉は、ギリシャ語で「エントス」という言葉ですが、聖書翻訳者たちは、この言葉をどのように訳すのかに苦労しています。この「エントス」というギリシャ語は、「間に」とも「中に」とも翻訳することができるのです。新しく翻訳された「聖書協会共同訳」では、「実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」とあり、口語訳聖書と同じ訳になっています。
 この言葉から、誤解が生じたのです。「あなたがたの中に」と言うことは、私たちの内面、私たちの心のうちに神の国があると理解するのです。「あなたがたの中に」と言うと、神の国は私の心の深いところにあると理解する人もいるのです。信仰は心の問題だから、神の国は、自分の心の中にある、自分が神に愛されていることを心の中で持っていれば良いと考えるのです。
 信仰は私たちの心と深く関わるのは確かですが、それは神の国を、私たちの心の中に閉じ込めてしまうことではないのです。私たちは、信仰を個人的な心の問題にしてしまうことがあります。しかし、信仰とは自分の心の内側に逃げ込むことではないのです。

 「あなたがたの間にある。」主イエスは自分の心の中に神の国をしまい込んでたのではありません。神の国が近づいた、と語った主イエスは、活発に働いたのです。一人だけで祈っていた時もありますが、ガリラヤ地方を弟子たちと巡り歩いて、病を癒やし、悪霊を追い出し、地の民と付き合い、食事をし、関わりを持っていたのです。「神の国はあなたがたの間にある。」主イエスが神の国を精力的に活動して人々に伝えているのです。そのような関わりにおいて、神の国が伝えられる、そのような関係において神の国が出現しているのです。神の国が人々の間で拡がっていくのです。

 神の国、神が神として登場する場面はどこなのでしょうか。神が人格的に私たちと出会う場面は、それは私たちがいつもしている礼拝なのです。「神の国はあなたがたの間にある」礼拝こそが、神が人格をもって私たちと対面し、出会うところなのです。神の国が現実となるのは、私たちが礼拝しているところに、イエス・キリストご自身がいてくださることなのです。神が牧師の説教によって私たちに語りかけてくださるのです。礼拝は、ただ牧師の話を聴くものではないのです。聖霊において、キリストが 私たちと出会ってくださる、私たちと対面して、みことばを語り、聴く、そこに神の国があるのです。
 
 聖書語句大辞典でルカによる福音書に「神の国」という言葉が使われている箇所を調べた時に、22章16節、18節に「神の国」という言葉が用いられています。このところは、最後の晩餐のところです。私たちの罪が赦されるために、主イエス・キリストが、十字架の贖いの死を遂げられる、そのしるしとして、パンと杯とが弟子たちに与えられるのです。神の国は、主イエスの贖いの犠牲によってもたらされるのです。礼拝において説教と聖餐によって、イエス・キリストご自身が臨在し、私たちがこの方を信じて共に歩む時に、神の国が私たちの間で実現しているのです。イエス・キリストが私たちの間に臨在し、礼拝するたびに、神の国が私たちのただ中にあるのです。

20210808 主日礼拝説教  「感謝して生きよう」 山ノ下恭二
(イザヤ書57章17−19節、ルカによる福音書17章11−19節)


 私が岡山市にある蕃山町教会におりました時、毎年、6月に婦人会が、瀬戸内海の一つの小さな島にある、光明園家族教会に訪問をしていました。光明園家族教会というのは、国立療養所邑久光明園の中にある教会です。この当時の牧師は、津島久雄牧師でした。、津島牧師は、小学校を卒業して一週間も経たないうちに、ハンセン病であることが分かり、邑久光明園に送られ、この療養所での生活を始めたのです。津島少年は静岡の出身ですが、飯野十造という牧師が静岡から岡山の病院にまでついてきてくれて、別れる時に「教会へ行きなさい」と言ったので、この光明園にある家族教会に通うようになったのです。そして、長島聖書学舎で学び、神からの召命を受け、教団の教師試験に合格し按手礼を受けて牧師になって、光明園家族教会で仕えていたのです。
 
 小学校を卒業して一週間も経たないうちに、病気がわかり、家族は暗闇に襲われ、母親は無理心中をしようと企てたのですが、津島少年が、「死ぬのは嫌だ」と言ったので、死なないで済んだのです。「私は、『この家を出た後は、決して友人に一枚の手紙を書いてはいけない。どこにいるかを決して教えてはいけない』ときつく言われまして、故郷を出ました。以来、友人達と会ったことはありません。まさにその時から津島久雄は、ある意味でこの世から葬られたのであります。」
 
 津島少年は、思いがけない病に襲われ、12歳の少年が不本意にも家族から切り離され、そして未知の場所に行かなければならない、決して故郷に帰れない、誰も知らないところで生活をしなければならない、深い孤独と悲しみを抱えていたのです。その中で教会の礼拝に通い、説教を聴いて励まされていくのです。病が進んで、手も利かなくなり、失明をして聖書も読めない、その中で点字の聖書を舌で読む訓練をして聖書を読む中で牧師としての召命を受け、キリストの福音を伝える者となったのです。「悩みの日にわたしを呼べ」という津島牧師の説教集がありますが、その推薦の言葉に、「先生の説教は、ハンセン病と国の絶対隔離政策の過酷さに打ち勝ち、その壁を打ち破って語り出されている『賛美の歌』と言っていいでしょう。」とありました。思いがけない試練を受けたにもかかわらず、神の憐れみを受けて、賛美し、感謝する者に変えられたのです。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書17章11−19節を読みました。11節に「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」と記されています。主イエスは、これからエルサレムへ行こうとしておられます。ご自分の死を覚悟しての最後のエルサレムへの旅です。サマリアとガリラヤとの間を通られたのです。サマリア人とユダヤ人とは、以前から対立してきたのです。元々は同じ血筋にありましたが、信仰の捉え方、聖書の捉え方において、異なっており、抗争していたのです。その対立のはざまを、主イエスは歩いていたのです。「ある村」とありますが、人が近づくような村ではなく、見捨てられた村であったのです。
 なぜかというと、この村に、十人の重い皮膚病の人たちがいたからです。この重い皮膚病は、ハンセン病と似た病気ですが、違う病気だと言われています。今日でもハンセン病者たちに対して差別してきたように、この当時の重い皮膚病は、呪われた病であると思われ、差別と偏見が根強くあったのです。これらの人々はこれまでの村に住むことができなくて、人々に追われて、サマリアとガリラヤの間の辺境の地に逃れてきたのです。

 12節に「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、私たちを憐れんでください』と言った。」と書かれています。律法では、重い皮膚病に罹っている人は、「宿営の地の外で生活する」(民数記5章2−3節)ことが決められていました。人が行くこともないような場所に住んでいたのです。そして、重い皮膚病の人に誰かが、接近した時に『わたしは汚れたものだ』と言わなければならない」(レビ記13章45−46節)と規定されていたのです。主イエスが重い病を癒やされたという噂を聞いて、ぜひ、自分たち10人も、主イエスが来たら、癒やしていただきたいと切望していたのです。重い皮膚病から一刻も早く解放されたいと願っていたことは確かです。

 この物語で、鍵となる言葉があります。この物語を読んで、私たちが読み過ごしてしまうような言葉です。それは14節に「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て」とあります。この「見て」という言葉が、とても重要な言葉です。今、私は皆さんをこの目で見ています。皆さんもわたしの説教を聴きながら、わたしを見ています。しかし、主イエスが見ているのは、そこに人がいることをただ確認して見ていると言う意味で、見ているのではありません。主イエスは、どのようなまなざしをもって見ているのでしょうか。
 
 このルカによる福音書はマタイ、マルコ、ヨハネの福音書とは異なり、たくさんの譬え話を記しています。ルカによる福音書の中で最もよく知られた譬え話は、善いサマリア人の譬え話です。いのちの電話はサマリタンと言われますし、いろいろなボランティア活動団体もサマリタンズと呼ばれています。この譬え話の中で、ユダヤ人が強盗に襲われて、半殺しになっている、そこに、祭司とレビ人とが通りかかるのです。半殺しになっている現場を祭司、レビ人が通りかかるのです。「ある祭司がたまたまその道をくだってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」
 祭司もレビ人も、強盗に襲われて半殺しになった人を見ているのですが、助けようとはしません。見ても助けようとはしないのです。ただ見て、倒れていることに気がついたのです。しかし、それ以上ではないのです。
 しかし、サマリア人は違うのです。「サマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」とあるのです。「憐れみ」という言葉は「はらわたが痛む」という言葉です。倒れて今にも死にそうになっている人を見て、はらわたが痛んだのです。気の毒に思ったのです。思っただけではなく、すぐに行動に移っているのです。強盗に襲われて半殺しになった同じ人を見て、祭司やレビ人とは全く違う行動をしているのです。このサマリア人は、愛のまなざしをもってこの人を見ることができたのです。

 この善いサマリア人の譬え話をされた主イエスは、実際に、十人の重い皮膚病に罹った人々を見たのです。この人たちが、病が治らない苦しみや悲しみ、絶望感を持っていることに深く同情するのです。主イエスは愛を持って見ることができるのです。深い同情をもって人を見ることができるのです。その人が抱えて来たどのような苦しみ、悩みをも、自分のものとしてしっかりと受け止めることのできる、そのような愛をもって相手を見ることができるのです。この人たちは、主イエスに近づいて、自分の願いを話すことが禁じられていたために、遠くで、「声を張り上げて」自分たちの訴えを叫んでいるのです。この人たちを見て、声を張り上げて訴えているのを聴いて、主イエスは、どうしても助けたいと心を動かしたのです。

 主イエスに癒やされて、健康になった十人はその後、どうしたのでしょうか。カトリック教会の神父で雨宮慧という聖書学者は、「主日の福音 C年」という本の中で、本日の物語について解説をしています。同じように癒やされながら、サマリア人だけが、主イエスのもとに来たことに注目しています。雨宮慧神父は、同じように癒やされながら、サマリア人と他の9人との間になぜ違いが生じたのかだけを問うているのです。15−16節に「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」と語られています。
 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って」とありますが、ギリシャ語では「知る」という言葉ではなく、「見る」と言う言葉です。岩波訳では「さて、彼らのうちの一人は、自分がいやされたのを見て」と訳されています。私たちは、この目で相手を見ていて、それ以上は見ることができないのですが、このサマリア人は、自分がいやされた、ことを知った、それだけではなくて、癒やしの出来事の向こう側にあるものを見たのです。

 私たちは目の前に起こった出来事しか見ていないのですが、その奥にあるものを見ることができるのです。私は最近、人を見る時に、その人を見ているというだけではなく、その人が神によって創造された存在であると見ることが多くなりました。男だ、女だ、幼児だ、子どもだ、大人だ、そこに一人存在している、そのようにそこにいるという見方ではなく、この人は、神が愛して創造した存在であると相手を見るようになったのです。

 このサマリア人が向こう側に見えたもの、それは神の愛の姿であったのです。人の命に無関心ではいられない神を見ることができたのです。神が、私を愛して、癒やして下さったことを見ることができたのです。
 しかし、癒やされても、主イエスのもとに帰って来なかった9人は、自分が癒やされればそれで良かったのです。自分の願いが叶えられれば、それで十分なのです。自分が癒やされたことが、神の業であると認識することができなかったのです。起こった出来事の向こう側にあるものを見ることがなかったのです。主イエスを、自分の病を治すことができた、そのような人間のレベルで済ませてしまうのです。

 パウロは、エフェソの信徒への手紙1章17−18節A(p353)でエフェソの教会の信徒を覚えて、次のように祈っています。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」パウロは、「心の目を開いてくださるように。」と祈っているのです。私たちは、いつもこの目で見ているので、その範囲の中で物事を判断しているのですが、私たちは、もうひとつの目を与えられているのです。それは神が与えてくださる「心の目」なのです。言い換えると「霊的な目」なのです。この世の現象をみているのではなくて、この世の現象の向こう側にある、神の働きを見ることができるのです。私たちは、見るべきものを見る目をもって見ることができるのです。

 このことは、私たちにとってとても大切なことです。目に見える現象だけで、判断するのではなく、神が背後でしっかりと神の働きを続けてくださっているのです。先週、詩編64編を読んでいましたら、10節に次のみことばがありました。「人は皆、恐れて神の働きを認め、御業に目覚めるでしょう。」(p896)

 このサマリア人は、自分が癒やされたのは、神の愛によることだと受け止めることができ、「大声で神を賛美しながら戻って来た。」のです。
 感謝するというのは、自分に良いことがあったから感謝する、相手が自分のために尽力してくれたから、お世話になったから感謝する、そこに留まることではないのです。私たちが、その背後に神の働きと愛があることをしっかり受け止め、感謝することなのです。神に対する感謝というところに行かないと私たちの感謝は、ただ、この世の人々と同じレベルでの感謝と変わりないものになるのです。

 最初の教会の伝道者パウロは、「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二 4章18節 p330)と語っています。私たちは、信仰のまなざしで、神の愛を見ることができるのです。この神の愛に生かされていることを信頼し、感謝を表していくのです。

20210801 主日礼拝説教  「赦されて生きよう」 山ノ下恭二
(ミカ書6章8節、ルカによる福音書17章1−10節)

 
 初めて教会の礼拝に来られた方、来て間もない方に対して、牧師、教会員がどのように対応するのか、と言うことは重要なことです。先週の「わかりやすいキリスト教ゼミ」で、献金と聖餐式のことが話題になりました。礼拝に初めて来た時に、献金があることを知り、どのくらい献金をしたら良いのか、分からなくて戸惑った、言う発言がありました。また聖餐式の中で洗礼を受けている人だけが聖餐を受けることができることを知って、自分は洗礼を受けていないので、ここにいてはいけないのではと思った、と言われたのです。このような発言があったので、礼拝案内のプリントが受付になくなっていたので、言葉を少し変えて、訂正したプリントを作り、受付に置くようにしました。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書17章1−10節を読みました。17章1節で主イエスは弟子たちに対して次のように語っています。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」「つまずき」と言うのは、歩いて石があり、その石に妨害されて転んでしまうという言葉です。私も道路を歩いている時に、近道をしようと駐車場を横切ろうとした時に、縁石に気がつかず、躓いて転びそうになったことがあります。この「つまずく」と言う言葉のもともとの言葉は、スキャンダルという言葉です。
 「つまずきは避けられない。」とあります。教会でつまずく場面があります。教会の人が言い合う場面を見た、陰口を言っているのを聞いた、そのような場面に立ち会って、疑問を持ち、教会に来なくなることもあるのです。ひとり一人、人間としての弱さを持ち、完璧な人間ではないので、言葉と振る舞いにつまずくことは避けられないのです。「小さい者の一人」と書いてあります。この「小さい」という言葉は、「ミクロン」という語で、ほんとうに小さい者、という言葉です。教会に初めて来た人、来て間もない人のことを指しています。その人たちのことを心に留めて、つまずきを与えないように、と語っているのです。せっかく、信仰を求めて、教会に来ているのに、それを妨害するようなことを話したり、振る舞いはしないようにと勧めているのです。

 キリスト者ではないのですが、八木谷涼子という人が「もっと教会を行きやすくする本」−『新来者から日本のキリスト教界へ』」という本を書いています。この本を読むと、教会生活をしている者にとって、今まで気がつかなかったことを知らされます。いろいろな教会を訪ね、礼拝に出席して、気になったこと、改善して欲しいことを書いているのです。教会に入って、一番、悩むのは、座席のことだと言うのです。「座席の問題」で次のことが書いてありました。「新来者が悩むのは、礼拝堂のどこに座るかということ。案内の方がついたときには迷う必要がありませんが、それがないとき、これはけっこう気を遣う問題です。というのも、後ろと左右の端は早々に教会員で占められる場合が多いから。となると、空いているのは中央の前寄り、ようするに祭壇、講壇のすぐ近くです。でもそこは、新来者が好んで座りたいと思えるような場所ではありません。礼拝に慣れない者としては、目立たない席で静かに様子を見たい、と思うのは人情でしょう。そういう条件に適した場所に座るためには、早めに教会に行って席を確保するしかありません。が、ここでも問題が。教会によっては、すでに座席が決まっていることがあるのです。怖いのは、透明な座席。すなわち、いつのまにか特定の人が座る習慣になっている座席です。もちろん教会の常連であればちゃんと知っています、あそこは○○さん、こちらは○○さんの席だと。でも、新来者にはわかりません。わたしはうっかりそんな席に座ってしまって、イヤミ(のような言葉)を言われたことがありました。その教会員からしたら、自分の祈りの定位置に踏み込んできた闖入者でしかなかったのでしょう。(省略)ともあれ、教会の席がうしろから埋まり、前のほうが空いているというのは、教派を問わず、日本の教会に実によく見られる光景です。義務でいやいや出席する会合ならばわかりますが、みんな自主的に来ているはずの教会でなぜ後ろの席が人気なのか。 謙虚さの表れ、はたまた『会堂全体を見渡したい』監督者心理、わかるような、わからないような・・・・・興味深い現象のひとつです。」(p32−33)教会に以前から来ていて、自分の座席は当然、ここだと思っている者にとっては、新来者が礼拝堂のどこの席に座るのか、悩んでいることを初めて知ったという人もいるでしょう。私たちにとっては、耳の痛い指摘です。
 
 ある教会に初めて入り、礼拝堂に入ってその教会の人々の姿、雰囲気で教会の様子が分かります。私もある教会に行って、礼拝の前にとても静かに座席に座っていて、よく訓練ができているな、と思いましたし、別の教会では、礼拝が開始しても遅れて入ってくる人が多くて、余り訓練がされていないことが分かるのです。教会で最もつまずくことは、教会員の仲が良くないことです。牧師と教会員との関係が悪いことです。初めて教会に入った人も教会の雰囲気ですぐに分かることです。

 最初の教会では、信徒同士の間で、互いの行動を受け入れられない問題が起こっていました。互いに批判し合うことが起こったのです。ロ−マの信徒への手紙では、自由に生きようとしている人に対して一部の教会員がつまずくことがあったのです。肉でも何でも食べて良いという自由主義者たちと、肉を食べないで野菜だけ食べる人たちとがいて、自由に肉を食べることがキリスト者の本来の生き方だ、と言っていた人たちが、野菜だけを食べる人たちを軽視していたのです。そこで、パウロは、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」(ロ−マ14章13節)と勧めています。自分がしたいように自由に生きるのではなく、自分が相手に対してどのように振る舞い、言葉を掛ければ、相手がキリスト者として過ごすことができるのかを考えて行動することを勧めています。

 17章3節に「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したなら戒めなさい。」と語られています。教会の兄弟が罪を犯すことがあります。そのことをどのように解決するのか、ということは重い課題です。罪を犯した者に、直接会って、その罪を指摘して糾弾する、という方法は取りません。相手のこれからの歩みを覚えて祈りつつ、相手が自分の罪を認めるようにするのです。なかなか自分が悪いことをしたということを認めないのです。相手を信頼して、訪ね、戒めるのです。私たちは、相手が悪いことをしても、関わると苦労があるので、そのままにしておくことがほとんどなのです。水に流してしまうのです。見過ごしにすれば、特別な精神的な負担がないし、相手との関係が悪くならないのです。しかし、それは相手の罪を容認することになり、それでは解決にはならないのです。相手を戒める、それはとても難しいことです。私たちは第一に良い人間関係を保ちたい、と思っているので、相手の罪を指摘して、相手に罪があることに気づいてもらうことは、精神的な負担になります。罪を犯した者に、それは過ちであることを率直に指摘し、改善するように勧めることは、私たちの責任なのです。

 罪は、自分に対する罪もあり、教会の兄弟に対する罪があります。その罪を指摘し、祈りの中で戒めるのです。相手を裁くような振る舞いではなくて、愛をもって、相手を戒めるのです。パウロは、ガラテヤの教会に手紙を送り、6章1節で「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に帰らせなさい。」と勧めています。大勢の前でするのではなく、二人だけで、静かに相手が罪を犯したことを指摘し、神の前で悔い改めるように導くのです。
 罪を解決する唯一の方法は、「赦す」ことにあるのです。しかし、「赦す」ことは至難の業です。3節後半では「悔い改めれば、赦してやりなさい。」と勧められています。悔い改めるということはとても困難なことです。自分に罪がある、罪を犯したことを自覚し、相手に謝ることはなかなかできないことです。自分の罪を痛みをもって自覚し、相手にその罪を告白する、それが悔い改めなのです。

 私たちは、赦しを誤解しているのです。相手がどうであれ、受け入れるということではありません。赦しは、罪を犯した者をそのままで全面的に受け入れるということではありません。罪を犯した者は自分の罪に苦しみ、そして赦す者も、赦すために痛みを担うことになります。私たちは、人の罪を赦すことができないのです。それが私たちの姿なのです。罪を犯した者を一回、赦すことはとても大変なのに、一日に7回も赦すようにと勧められているのです。7と言う数字は完全を表します。赦すということは相手の罪を完全に忘れることです。罪を犯したことをいつまでも記憶しているのは、赦しにはならないのです。
 一日に罪を犯した者が7回、悔い改めるならば、その者の罪を赦せという主イエスの言葉に、弟子たちは、自分たちはできない、信仰を増やさなければできないと言っているのです。赦すことは難しいことであり、「赦さなければいけない」と毎日、自分に問いかけても、それでできるわけではないのです。
 赦さなければいけない、しかし、赦せない、という心の揺れ動きの中にいるのです。赦せないのは、自分の信仰が足りないのではないか、と思うのです。信仰が足りない、信仰を人間が持っているものと捉えているのです。
 そのことに対して主イエスは「からし種一粒の」と語るのです。からし種一粒とは、目では見えないような極小さな種です。弟子たちに対して、そのようなからし種一粒ほどの信仰を持っていないのではないか、と言うのです。

 からし種一粒ほどの信仰があれば、どんなことも突破できるというのです。
ここで主イエスは、「信仰」と言うのを、自分で努力して獲得する、と言う意味で使っていないのです。「信仰は私たちの内における神の働きである。」信仰は神が与えて下さるのです。信仰は自分の努力で獲得するものではなく、神からのプレゼントなのです。神が賜物としてくださるものなのです。神が与えてくださるものですから、それは相手を受け入れるような大きな信仰なのです。大きな信仰を与えられると、赦すことができるのです。赦さないといけない、しかし、赦すことができない、という心の葛藤を持つことはないのです。

 神が聖霊によって赦しの賜物を贈って下さるのです。聖霊は、私たちに大きな赦しの心を創造してくださるのです。聖霊によって私たちに赦しが与えられるのです。詩編51編は、罪を犯した者が神に赦しを求めている祈りです。詩編51編3−4節には「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって 深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」と歌います。そして12節には「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」と歌います。
 聖霊が私たちの心に大きな赦しを創造し、愛の心を与えて下さっているのです。主イエス・キリストの十字架によって赦しが豊かに私たちに与えられているのです。神は罪を犯して、赦し得ない者を赦す、それは十字架で手に釘で打たれ、血を流す、そのような痛みをもって赦しているのです。

 17章1−10節を読むと、「赦し」「信仰」「奉仕」と3つの別々の話が語られているように思います。この3つの話が、内容としてどのようにつながっているのか、理解できないこともあるのです。しかし、この3つの話は、一貫して「赦し」について語っているのです。「赦し」について語ってきた、その続きの中で、もう一つの譬え話が語られています。主人が僕に命じたことをすべてしたとしても、それはすべきことをしたに過ぎない、義務を果たしたにすぎないと語るのです。17章1節から語られていることとのつながりから考えると、人が罪を赦すことは、義務であり、すべきことをしたにすぎないと言うのです。私たちは、罪を赦すこと、しかも一日に7回も罪を犯した者を赦すことは、とても苦しいことで、困難なことだと考えています。赦すことは私たちにとっては大変なことであるのに、それはすべきことをしたにすぎないと言うのは、私たちに対して要求が高すぎると思うのです。

 しかし、私たちには、聖霊により、信仰と言う賜物を与えられているのです。神は私たちの赦されない罪をイエス・キリストの十字架の贖いによって、赦してくださっていることをしっかり受け止めて、赦すことができるのです。そして私たちは、愛する義務をもっているのです。赦すという義務を果たしたにすぎないのです。神が私たちを深く愛してくださっている、その愛の大きさ、赦しの広さを信じる時に、罪を犯した兄弟を心から赦すことができるのです。

20210725 主日礼拝説教  「神が助けてくださる」  山ノ下恭二牧師
(詩編40編2−5節、ルカによる福音書16章19−31節)  


 主イエスは、譬え話を多く語られていますが、その中には解釈の難しい譬え話があります。その一つに本日の礼拝で読みました「金持ちとラザロ」の譬え話があります。この譬え話は、死んだ後のことが書かれています。聖書には死んだ後のことについて詳しく書かれている物語は、この「金持ちとラザロ」の譬え話以外にはありません。聖書は死んだ後のことについて余り関心がないと言われていますので、その意味でもユニ−クな譬え話であると言うことができます。私たちは、自分が死んだ後、自分はどうなるんだろうか、と思うことがあります。聖書には、人間が死んだ後、どのようになるのか、というこについて詳しく書いていないので、その意味で「金持ちとラザロ」の譬え話は、死んだ後のことを語っているように思えるので、私たちにはとても興味深い物語であるのです。
 
 16章22節に「アブラハムのすぐそば」と言う言葉が出てきます。原文では「アブラハムの懐」と言う言葉です。「アブラハムの懐」と言うのは、神が支配している天の国を象徴しています。この譬え話では、アブラハムの懐で安らかな気持ちでいる者がいるかと思うと、その反対に地獄に落ちてしまい、地獄の火に焼かれて、辛い思いをしている者がいるのです。このような光景を思い浮かべると、私たちが死んでから自分は天の国に行くことができるか、それとも地獄に落ちるのか、と言うことを考えるのです。

 この物語はこの世で生活している、その生活ぶりが問われているので、死んだ後、どうなるのかを教えるよりも、この世での生き方について問題にしていることは確かなのです。この物語は、この地上で、残飯を当てにして、衣食住に困り、恵まれない生活をしている者が死んだ後に天の国で報われ、この地上で贅沢な生活をしていると死んだ後に地獄で苦しむ結果になる、という警告が書いてあるのでもなく、因果応報の教えを語っているわけでもありません。この世で、生きている間、広い邸宅に住み、自分の好きな食べ物を食べ、高級なブランドの衣服を着て贅沢な生活をしていると、死んだ後に、地獄で苦しい時を過ごさなければならないので、この世で貧しくて恵まれなくても死んだ後には報いがあることを語っているようにも思えます。しかし、この譬え話はそのことを語ろうとしてはいないのです。
 
 この譬え話にについて、キリスト教会はどのような解釈をしてきたのでしょうか。金持ちが自分の満足しか求めず、自分の家の門にいて食べることにも困っている者に対して全く無関心で気にかけていないことに注目をすると、富める豊かな国の人々は貧しい国の人々を覚えて援助しなければならないと解釈することもありました。経済的に飽きるほどに豊かに暮らすのではなく、貧しい人々に少しでも援助することが大切だ、とこの物語を解釈したこともあったのです。この譬え話で、金持ちが地獄に落ちて、悲鳴をあげた時、こう語られています。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」しかし、ここには、目の前にいるラザロに少しも愛の奉仕をしなかったではないか、自分だけが満ち足りていて、自分の食べ物を与えるということすらしなかったではないか、とは書かれてはいないのです。またラザロと呼ばれる男が、後にアブラハムの懐になぜ行けたかと言うと、ラザロは貧しいにもかかわらず愛の行いに生きた、とても善い行いを積んだ、と言う理由で天の国で安らかに暮らすことができたと書かれてはいないのです。
 
 この譬え話に登場する金持ちは毎日、毎日、お祭りのような宴会をしておいしいものを腹一杯食べ、お酒を飲み放題する、贅沢な暮らしをしていたのです。この金持ちの家の門前で、ラザロと言う名前をもった男はいて、金持ちが食べて、食卓が汚れるとパンでテ−ブルを拭く、そのパンをぽいっと投げて捨てる、そのパンを食べたいものだと暮らしていたのです。この二人は、そのように極端な暮らしぶりであったことが分かります。そして、死んだ後、二人はこの地上とは全く違う扱いを受けているのです。
 
 この譬え話の急所は何なのでしょうか。それは「ラザロ」と言う名前が鍵となるのです。主イエスが語った譬え話の中に、様々な人物が出てきますがこの譬え話以外では、実は固有名詞は出てこないのです。ルカによる福音書10章の「善いサマリア人」の譬え話でも「ある人」としか書いていません。12章の「愚かな金持ち」の譬え話でも「ある金持ち」としか書いていないで、固有名詞は書いていません。その名がきちんと示されるのは、ラザロだけです。このラザロという名、これは「神はわが助け」エレ・アザルと言うヘブライ語の名をギリシャ語ふうに書き改めたものです。

 どうしてこの男の名だけが紹介されているのでしょうか。この物語のひとりの主人公に、主イエスがラザロと命名しておられ、「神はわが助け」と言う名を与えておられるのです。ルカによる福音書16章20節に「この金持ちの門前に、ラザロと言うできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」。旧約聖書が語るヨブのように惨憺たる生活をしておりながら、神はわが助け、と言う名に生きているのです。
 
 ラザロは「神はあなたの助け」という神の言葉に生かされてきたと言うことができます。神に生かされていることをラザロは、自分ではそのことに気づいていなかったかもしれません。しかし、主イエスは、その名を呼ばれたことで、ラザロが横たわりつつも、その信仰によってだけ生かされたことを語っているのです。神が自分のほんとうにより頼むべき方であるという、そういう信仰に生きた人であったということです。「ラザロ」という固有名詞を出して、この男を呼んでいるのは、そのことを語りたかったのです。このことがこの物語の大切なポイントなのです。

 この地上で幸いなのは、また死後も幸いを得るのは、愛の業をした、優れた業績を残したことが問われるのではなく、神こそが私の助けであると言う信仰に生きることだ、とここで語っているのです。
 主イエスはマタイによる福音書5章3節で「心の貧しい人々は、幸いである」と語っています。この言葉は、謙遜な人は幸いと言う意味の他に、自分の貧しさを知る人は幸いとも解釈できるますし、自分の貧しさを知って、神に頼る人は幸いであるとも解釈できるのです。自分ひとりの力で生きていけるのではなく、神に信頼して、神に頼り、神に助けを求める者が幸いであると言うのです。
 
 この物語に固有名詞のない金持ちがなぜ登場するのでしょうか。ルカ16章14節に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。』」と書かれています。この譬え話は誰に語られているかと言うと、ファリサイ派の人々に語られているのです。そのことを忘れてはならないのです。この金持ちとは、「金に執着するファリサイ派の人々」のことです。「金に執着する」「金を欲しがる」「銀貨を愛する」人々です。まさに金銭、富にこころを奪われ、縛られている人々です。
 
 しかし、「金に執着するファリサイ派の人々」と言うのはまことに皮肉な表現です。ファリサイ派の人々と言うのは、信心深い人々でした。私たちのイメ−ジから言うとファリサイ派の人々は清貧な生活をしていたはずで、お金をもっているとは思っていないのです。神の戒めに忠実に生きていた人々であると私たちは考えます。なぜ、主イエスは「金に執着するファリサイ派」と皮肉を言うのでしょうか。私たちは、毎日、お金に依存しているのです。私たちは、財布に一万円札がたくさん入っていれば、安心するのです。財布にお金が入っていなければ、不安になります。「金に執着する」とあるのは、お金に依存していることです。それは、お金だけではなくて、様々に私たちが頼っているものがあるのです。
 
 ここでは、ファリサイ派の人々が登場しているので、お金を自分の信仰と言い換えると分かるかも知れません。このファリサイ派の人々は、自分たちは信仰をもって戒めを忠実に生きている、それは自分が善いことをしている、善いことをしているので、神に愛される、自分は報いがあるはずで、みんなから認められ、この世で神が自分を豊かに報いてくださる、そう思っていたのです。 自分の信仰深さに頼り、自分が神を愛し、隣人を愛している、そのように自分のことを誇っていた、そしてそれに神は報いて、豊かな生活を報いて下さっていると考えていたのです。金持ちと言うのは、金銭上のことだけではなくて、自分が様々なものをもっている豊かさです。自分の才能、実績に寄りかかっているのです。神に信頼することよりも、自分のしてきた行いを誇っているのです。主イエスが衝いていておられることはそこにあるのです。

 しかし、ラザロは貧しさの中で、ただ神の助けによって生きたのです。この大きな違いが死後の定めにおいても、大きく開いた違いを生みだしているのです。このことに気がつかないと、主イエスのみこころが読み取れないのです。
 私たちの信仰生活はどうでしょうか。自分が信仰をもって良いことをしている、奉仕をしていると確信し、その善い行為に神は報いてくださる、と思っているのではないでしょうか。そのように思っているならば、それは金持ちのファリサイ派の人々と同じ者になるのです。

 私たちは、神に憐れみを求め、深い罪がイエス・キリストによって赦される、その恵みにただひたすら感謝するのです。自分は人を愛している、善いことをしていると誇り、していない人を裁くのではないのです。私たちはただ赦された罪人なのです。
 
 この物語には後半があり、こちらのほうが長い物語です。金持ちとアブラハムとが長い問答をしています。この問答はとてもおもしろいと思います。金持ちは、自分の兄弟が死んだ後、どうなるのかがとても気になったのです。自分のような愚かな生き方をして、死んだ後に、兄弟たちが地獄で火に焼かれて苦しまないように、アブラハムに頼んでいるのです。アブラハムの懐にいるラザロにこの地上にいる兄弟たちのところに行ってもらい、神を忘れて自分の満足だけを求めて生活をすると、死んだ後に、地獄の火で苦しむことになることを兄弟たちに話すようにラザロに言って欲しい、とお願いするのです。
 その話を聞いたアブラハムは、「『お前の兄弟たちには、モ−セと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」と語っています。「モ−セと預言者」とは、聖書の言葉のことを指しています。この「モ−セと預言者」と言う言葉は、31節にも出ていますので、この物語の急所であり、重要なポイントなのです。
 
 アブラハムは、聖書の言葉をよく聞いていれば、この世の、お金や様々なものに頼っているあなたのような過ちはしなかったはずだ、と言っているのです。そして、聖書を読んでもその言葉を自分の生活の中心に置かないでいる者は、ラザロが行って忠告しても、誰が行って語っても耳を傾けはしない、と断言しているのです。主イエスは、ここでこの譬え話をファリサイ派の人々に語っているので、主イエスの言葉に耳を傾けないファリサイ派の人々に対して、警告しているのです。
 
 この物語は、現代に生きている私たちに警告し、神の審判を語っているのです。聖書の言葉、主イエス・キリスト、説教の言葉、これを神の言葉の三様態と言いますが、神の言葉に耳を傾けずに、この地上の物質的な豊かさに満足している者に対して神の審判が語られているのです。聖書を毎日、読まず、神の言葉に耳を傾けることなく、自分の生活を優先して、自分が満足することだけを求めていく、聖書を読むことが、自分の教養を高めることだけであったり、生きる上での参考であるように読む、そのような者に対して神が審判すると語る警告なのです。

 宗教改革者ルタ−は、自分を「神の乞食」と呼んだのです。それはルタ−が死ぬ前に、小さな紙切れに「自分は乞食だ。神の言葉がなければ、生きていけない。だから自分は神の乞食だ」と書いています。ルタ−は、神に信頼し、神の言葉をいつも求める者であったのです。この物語は、私たちに、みことばに対して、いつもアンテナを向けて、みことばに聞き従って生きることを勧めているのです。

20210718 主日礼拝説教  「神の国で生きよう」  山ノ下恭二牧師
(民数記6章22−27節、ルカによる福音書16章14−18節)

 
 この2、3年、電車に乗って思うことは、時代が変わったということです。それは車内で立っている人や椅子に座っている人々の多くが携帯電話を操作しているからです。以前は、新聞や本を読んでいる人が多かったのですが、ほとんどの人が携帯電話を操作しています。この2、3年で車内の光景がすっかり変わったことに気づき、時代は変わったことを実感しています。高齢者は、若い時に携帯電話はなかったし、操作することも知らないので携帯電話を持っていても、操作ができなくて困っているのです。携帯やパソコンなどのデジタル機器が多機能で、操作することについていけない人も多いのです。自分が生きていた時代と違う新しい時代が来ていることを感じます。自分が生きてきた時代に身につけた経験を生かすことのできない、新しい時代が来ているのです。

 2011年に東日本大震災が起こり、埼玉地区では、被災地の人々のために食料品や衣料品などの支援物資を送ろうと地区の教会に呼びかけをしたことがあります。食料品や衣料品などを、大宮教会に集めて、様々な物資を区分して箱詰めにする作業をするので、ボランティアを募集し、地区の多くの教会員が協力をしました。その次の日曜日の礼拝の後、お茶を飲んでいた時に、ある婦人がこういうことを言ったのです。「私は1945年8月の終戦直後のことを経験しているけれども、ほんとうにこの時は食べるものがなくてとても困って、和服をもって農家に生き、農作物と交換して食べることができた、この時は誰も援助してくれなかったし、政府からも何の支援もなかった、でもその中をがんばって生きてきた、それと比べると、今の人は幸せだと思う、正直に言うと今の人は甘えすぎているのではないかと思う。」と話したのです。

 私は、戦後生まれで、終戦直後がどのような状況であったのか、知らないのですが、食べて生きていくことは並大抵なことではなかったと言う話は聞いていたので、その婦人に「大変でしたね」と言いましたが、「今の人は甘えすぎている」という言葉には同意することはできなかったのです。終戦直後は大変だったと思うけれども、東日本大震災で家や財産を失った人々も同じように大変であり、被災した人々を支援することは必要だと思ったのです。そして、1945年の終戦直後と2011年の東日本大震災とを比較することは、時代や置かれている状況が違うのではないか、と思ったのです。
 自分の生きてきた経験を基準にして、今の時代に生きている人々を批判することはよくすることです。「昔はこうだった、しかし、今の人の生き方は間違っている」。しかし、時代は変化し、移りつつあるのです。今まで身についた考え方が現代に通用しないことがあるのです。

 新約聖書の福音書には、ファリサイ派の人々が登場します。ファリサイ派の「ファリサイ」という言葉は、他の者から自分を「区別する」「分離する」という言葉です。律法を守らない人々から、自分を区別する、分離するということです。このファリサイ派の人々は、神に対して「敬虔」な人々であり、聖職者ではなく、ユダヤ教の信徒であったのです。このファリサイ派が発生したのは、紀元前300年代と言われます。この時代のことは、旧約続編に記されています。ファリサイ派が発生した背景には、エジプトやシリアなどの外国に植民地として支配されていたということがあります。外国からの異なった文化が流入して、自分たちが守ってきた、神への信仰が破壊されてしまう、そのような危機感から生まれたグル−プであるのです。ユダヤを支配していたシリアの王が、エルサレム神殿の真ん中にギリシャのゼウス像を立てたり、旧約聖書の巻物を燃やすと言う、ユダヤ人たちの信仰を脅かす事件が起こったのです。このようなことは、ユダヤ人にとって許しがたいことであったのです。そのような時に、自分たちが神の民としてあることは、律法を守る民であることであると自覚し、自分たちがすべきことは、律法を厳格に守ることであると確認し、「敬虔」なグル−プを作ったのです。その中の一つのグル−プがファリサイ派であったのです。

 ファリサイ派の人々は、律法を厳格に守ることを生活の信条としていました。律法と言うのは「しなさい」「しなければならない」「こう生きるべきだ」という強制力をもっているのです。これは命令法です。「しなければならない。」「そうあるべきだ。」これは、私たちがいつも経験していることです。身近に様々な規則があります。規則は「しなければならない」「これを守りなさい」と強制するのです。道を歩いていると信号があります。赤信号であると青信号になるまで待って、それから道路を渡ることを求められます。赤信号で道路を渡るとそれは交通規則違反になるのです。私たちも自分の中に「こうすべきである」「こうあるべきだ」という律法をもっているのです。私たちが生きているこの世界も、律法の世界です。「こうすべきである」「こうあるべきだ」そのような律法に縛られている世界に生きているのです。

 それに対して、主イエスは「神の国が来た」と語ったのです。神の国の福音をもたらすために主イエスは来たのです。主イエスによって、新しい時代が来たのです。16章16節前半に「律法と預言者は、ヨハネの時までである。」とあります。ヨハネとは洗礼者ヨハネであり、「ヨハネの時まで」と言うのは旧約、古い契約の時代、律法を基準にして生きるのが最善の生き方であると考えられていた時代、それはヨハネの時まで、と言うのです。 
 主イエス・キリストによって新しい時代が来たのです。新しい時代であるから、新しい時代に対応することが求められます。律法を守って、立派な生活を目指す生き方ではない、新しい生き方なのです。「神の国の福音が告げ知らされた。」律法を守ることを第一とする時代は終わった、新しい時代が来た、今までの生き方を止めて、神の国の福音を聞いて、神の国に入ることを主イエスは呼びかけたのです。「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」神の国、この「国」とは「時代」という言葉で言い換えて良いのです。日本の近現代史においても、戦争の時代、戦後の経済復興の時代、総中流の時代、そして現代のようなコロナ禍の中に生きる時代と様々な時代を経験しています。

 聖書には、旧約聖書と新約聖書があります。旧約とは、古い契約です。新約とは、新しい契約のことを指します。契約もに二つの性格をもつた契約があります。それは相手に条件を求めない契約と条件を求める契約があるのです。一つは神が契約を結ぶ時、条件を求めないのです。神はアブラハムに恵みを与える、それをアブラハムは信じるのです。もう一つは、モ−セがシナイ山で結んだ契約です。それは神はイスラエルを愛するが、民も神の戒め、律法を行うことを求める契約です。十戒のことです。主イエス・キリストが登場した、それは新しい契約によって福音を伝えたのです。それは条件を求めない契約による契約なのです。主イエスが登場する前までユダヤの人々の心を支配していたのは、律法であったのです。

 しかし、主イエスが伝えたのは、神の国の福音、神がもたらす良い知らせなのです。律法によってではなく、福音によって生きる、全く新しい時代が来たのです。主イエスが相手にしたのは、律法を守ることができない、良いことができない人々を相手にしたのです。そして病と苦しんでいた人々、悪霊に取り憑かれていた人々を癒やしたのです。そしてみんなが軽蔑し、近寄らなかった人々と食事をしたのです。罪人の仲間となったのです。そして主イエスは神が支配する神の国がどのようなものなのか、を譬えを用いて話されたのです。

 ルカによる福音書15章で3つのたとえを主イエスは語られたのです。見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、見失った息子のたとえ、です。この3つの譬えは、神のもとから離れてしまった者を、神が一所懸命に捜し出す物語です。神のもとから離れて、自分中心に生きている者を神は捜し出し、見つけて、神のもとに連れ帰るのです。主イエス・キリストご自身、罪人のもとに赴いて、そこで生きている人々と共に食事をしているのです。羊飼いがいなくなった羊を探すように、罪人を探し、罪人を訪ねて、共に食事をする、それが神の国が来たことなのです。神の御心に従わない私たちを赦して、受け入れる、その姿を現しているのです。
 
 教会に来られる人々の中に、道徳的に立派な人になりたいので、それを教えてくれるかもしれない、と思って来る人もいます。それは特別に悪い動機ではないのですが、道徳的に立派な人になるために、教会が聖書を学んでいるわけではないのです。立派な人になることが第一の目的ではないのです。これを守っていれば、立派になれると考えるのではなくて、イエス・キリストが私たちのような神の御心に従っていない者の罪を御自分の罪として贖ってくださったことを信じて、感謝をもって生きることなのです。感謝の生活をしていく結果、聖霊によって、良い実りが与えられる、人格的な変化が起こるのです。それが他の人から、立派に見えるのです。その人が、修行して、毎日、修行に励んだのだから、立派になるとは考えていません。
 
 私たちは、律法に支配されている面が大きいのです。誰でも、自分の中に自分が譲ってはならないと思っている律法があります。「こうしなければならない」「こうあらねばならない」「こうしなければおかしい」自分のもっている律法を他の人が違反すると、それはだめ、ということになります。自分の律法で他の人を拘束し、強制することがあります。子どもに対しても、親は一つの律法を子どもに強制しているのです。学校で良い成績をとらないと良い会社に就職ができないから、今、勉強しなさい、という律法です。そういうことに疲れ果てている子どもたちもたくさんいます。ある時、市ヶ谷の駅で、母親と小学生の男の子が来た電車に乗る時に、こういう会話を聞きました。母親が、「四谷の塾が終わったら、バイオリンの先生のところに行くのよ」と言ったところ、「自由に遊びたいな」と言っていたのです。子どもたちは、過密スケジュールで管理されて、息苦しさを感じているのです。学校に行って学校の規則を守り、家に帰り宿題をする、すぐに塾、稽古事に忙しくしているのです。「こうしなければならない」「こうすべきだ」という律法に追いまくられているのです。

 17節の言葉を皆さんは、どのように理解したでしょうか。「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え去る方が易しい。」 律法は、今でも強制力をもっている、ということです。人間が生きていく、それは、どういう生き方が良いのか、ということになります。そこで、道徳や倫理が生まれ、それは規則となり、法となります。今も、律法は生きているのです。何でも自由に生きて良いと言っても、人を殺すことや人の財産を盗むことも本人の自由だ、ということにはならないのです。そこでは、生きる基準、律法が必要になるのです。律法がいつまでも人々の心を支配すると言うのです。
 「律法の文字の一画」はなくならない、と語っている、その関連で、18節では「離縁」が取り上げられています。なぜ「離縁」を取り上げているのか、それは、最初の教会で、「離縁」の問題を解決することが困難であったからです。そして今も、「離婚」の問題をどのように解決するのか、そのことに苦しんでいることが多いのです。

 最初の教会は、離縁についてどのような解決方法が、神の御心に適い、人々を救うのかを考えたのです。離縁については、マタイによる福音書、パウロの手紙が取り上げていますが、その時の教会の事情がそれぞれ違うので、語り方は異なっています。マタイによる福音書はユダヤ人キリスト者に向けて書かれており、パウロは、コリントの信徒への手紙で書いていますが、主に外国人と結婚した人を対象に書いているのです。ルカによる福音書では他の女性と結婚する目的で、今、結婚している妻を離縁することはできないし、離縁された女性と結婚する目的で、今、結婚している妻を離縁することはできない、と言うのです。離縁することは絶対にいけない、許されない、とは言わないのです。今の結婚生活を壊して、別の結婚生活を始めることはいけないと言っています。

 結婚生活を継続していくことはなかなか苦労が要るのです。肉体をもって互いに同じところで生活をするのですから、互いに理解できなくなったり、お金の使い方やこどもの教育方針で互いに違ったり、大切にしているものが異なって対立が起こり、互いにだんだん心が離れていくのです。キリスト品川教会は、キリスト教結婚式を引き受けていて、結婚カウンセラーの講義や、礼拝出席を義務化していて、結婚式の準備をしていますが、最初の面接の時に、吉村牧師は「どうしてこの人と結婚するんですか」と言うとほとんどの人が「この人が好きだから」というそうです。そうすると、吉村牧師は「嫌いになったらどうしますか」と言うとほとんどの人が黙ってしまうのだそうです。毎日、毎日、顔を合わせて、結婚の生活を続けていく、忍耐しかないと言って良いでしょう。しかし、相手から心が離れてしまって、離婚しかないという気持ちになることもあるのです。ある調査によると、人生の中で、強いストレスを感じることの第一は、離婚だそうです。第二は、愛する者との死別だそうです。離婚と言うのは、人生においてとても重い問題で、苦労の多いものなのです。

 東大宮教会は駅から徒歩3分で来ることができる便利なところにあり、電車から教会がよく見えるので、全く知らない人が教会に相談に来ることも多くありました。離婚の相談もありました。これまでの結婚生活がほんとうに苦労の多いことであったという話が多いのです。話を聞いてみると、離婚しようか、どうしようか、ということを考えて思い悩んでいることを知りました。
 神が合わせたものであるから、離婚は許されない、結婚生活を続けなさい、我慢が足りないというのは、結婚を律法的に考えていることにあります。そして私たちの罪であるのですが、離婚した人に対して厳しい見方をしているのです。離婚の問題は、神の愛と赦しの視点で、とらえることが大切なのです。この人は離婚している、と罪を犯したような言い方でその人にレッテルを貼ることはできないのです。誰でも、生活に破れがあるのです。失敗があるのです。神の愛のまなざしによって、その人を見るのです。夫婦二人が共に生きることができない、それは二人が神の栄光を表すことができないことなのです。カ−ル・バルトが「離婚」について言及しているところがあります。「離婚して再出発することが、神への服従としてより良い道であることが認められたとき、これを認めるべきである。そしてこの離婚を醜聞にせず、この離婚した当時者らとともにその悩みを負い、以後独身でいるにせよ、再婚するにせよ、再出発の道を求めるべきである。」(バルト「キリスト教倫理U」鈴木正久訳 p116)

 私たちは、律法に捕らわれているのです。「こうすべきである」「こうあらねばならない」そのような命令法で生きているのです。しかし、律法から解放される新しい生き方が提示されているのです。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2章22節)神の国の福音を語られた主イエスは、「あなたはイエス・キリストによって罪が赦されて、愛されている」この良い知らせを聞いて、神の赦しと愛に生きることができるのです。

20210711 主日礼拝説教  「共に生きるために、お金を有効に使おう」  山ノ下恭二牧師
(レビ記19章9−10節、 ルカによる福音書16章1−13節)


 主イエスが語られた譬え話は、たくさんありますが、本日の「不正な管理人のたとえ」は、ほかの譬え話と比較して、理解することが難しい譬え話です。
 私は、今まで、二人の方からこの譬え話はどういうことを言っているのですか、と質問を受けたことがあります。皆さんは、誰かからこの譬え話はよく分からないのですが、と質問を受けた時、どのように答えるでしょうか。注解書には、この譬え話は「解釈が難しい譬え話である」と書いてあるのです。聖書の専門家でも、解釈するのに苦労していることが分かります。解釈が難しい譬え話であるけれども、謎を解いていくような、とても興味深い譬え話です。

 この譬えには、一人の管理人が出てきます。ある金持ちが、自分の財産を管理するためにひとりの男を雇っていたのです。会計の管理を任せられ、お金をあずかっていたのです。この管理人は、主人の財産でありながら、自分のためにも使っていたのです。ずいぶん自由勝手に支出していたらしいのです。それを知った人が主人に言いつけてしまったのです。そこで、主人に呼ばれて、会計報告をしなさい、君について良くない噂を聞いているけれども、それは事実ですか、と問われ、会計報告に不正があったら、財産を任せておくわけにはいかない、辞めさせるよりほかはない、と言われてしまうのです。この管理人は、追い詰められ、困ってしまったのです。この管理人は、それからいったい何をしたのでしょうか。
 
 この管理人は、自分が仕事を失ってしまうかも知れない、このような窮地に立たされたのです。皆さんはこのような立場になった時に、どのように対処するでしょうか。主人に心から謝り、許してもらって、仕事を続けるようにすることを考えるかも知れません。あるいは、うまく言い逃れをして、誤魔化して、それで何もなかったかのように今まで通りに会計を担当できれば良いと考えるかも知れません。この男は、この状況を判断すると、どうも辞めないといけなくなるだろうと考え、クビになったら、自分には肉体労働の仕事しかないかも知れない、でも会計帳簿に数字を書いている仕事しかしてこなかったので、自分には力はなく、建設現場で重い石を運ぶ仕事はできそうにない、そうかと言って、自分にはプライドがあって、乞食をして物乞いをすることはどうしても嫌だし、と悩んでいたのです。

 ところが、この男は、主人に謝ることも、言い逃れをしてこの場を乗り切ることも、辞めて別の仕事を探すこともしなかったのです。
 窮地に立たされて、この時に思いついたことは、今まで主人に借りを作っていた人々を呼んだのです。管理していたのですから、誰がいくら借りていたのか、よく分かっていたのです。改めてどれだけの借りがあるかを確かめます。 ある人は油百パトス、2,300リットル分の油で相当なものです。ある人は麦百コロス。1コロスは230リットルですから、相当な量です。この男は、その場で、借用書を書き換えさせます。初めの男には半額にさせてしまいます。借りが半額になるのですから、大喜びです。次の男は、100コロスを80コロスに負債の証書を書き換えさせ、返すべき額を少なくしてやったのです。借りが少なくなるので、喜ぶのです。このようなことをするのは、この管理人には企みがあったからです。ここで恩を売っておくと自分には良いことがあると計算しているのです。後で、自分が仕事をクビになることは間違いないので、その時に、自分が恩を売っておいた男たちの所に行き、自分の面倒を見てもらおうと計算したのです。
 
 皆さんはこの譬え話を読んで、どのように思ったでしょうか。この管理人はずる賢い人だ、要領はいいけれども、悪賢い人だ、相当な悪(ワル)だ、と思ったに違いないと思います。この話は、実話ではないと思います。実際にあったかも知れませんが、主イエスが創作された譬えです。まさか、実際にこのような男はいないし、うまくいくとは思えないという感想をもった方もおられると思います。この話の筋はわかりやすいと思います。
 ただ、この話は、主イエスが語られるのにふさわしいと思った人はいないのではないか、と思います。それは、この管理人がしたことは、明らかに詐欺という犯罪であるからです。この男は、特別背任罪、横領罪、詐欺罪で逮捕され、有罪となって、刑務所に収監されると思うからです。正しいことをしていない人の譬えを、どうして主イエスが話されるのか、その意図が分からない、と思うでしょう。
 
 そして、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」と書いてあることも私たちにとって腑に落ちないことです。悪いことをしているのに、この管理人を見所のある人物だ、と思って、主人は役に立つかも知れないとクビにしないで、雇用したのかもしれません。この主人も抜け目ない人であって、自分と同じような管理人をほめたのです。しかも、この主人がほめたことを、主イエスは否定してはいないし、非難をしてはいないのです。

 この譬えは話を読んで、私たちがつまずくのが、ここのところです。この管理人が主人をだまそうとして、不正が明らかになりそうな時でも、主人の財産を用いて自分が困らないで仕事が見つかるようにしている悪人を主人がほめたことを、主イエスが否定していない、このところが、どうも合点がいかないのです。悪いことをしているのに、それも、したたかに悪いことを続けている管理人を主人がほめ、それを主イエスが受け入れているのです。この管理人は徹底して悪いことをしているのです。それをなぜ主イエスは肯定しているのか、その理由が私たちには分からないのです。
 
 NHKテレビで午後6時45分頃から「ストップ、詐欺被害、わたしはだまされない」という短い番組があります。オレオレ詐欺の被害にあってだまされた人が多く、まだだまされている人が出ているので、だまされて、詐欺に遭わないように、注意を喚起して、詐欺の手口を詳しく解説しているのです。詐欺の手口は巧妙です。息子と名乗る人がある家に電話をしてきて、自分がお金に困って、今すぐお金が必要であると話すと、その話が本当であると思い込み、家まで訪ねてきた、会社関係と自称する人を信用して、お金やカ−ドを渡してしまい、銀行のATMで振り込んでしまうケ−スがあります。また劇場型詐欺の手口があります。電話で公務員が出てきて、その後、警察官が出てきて、弁護士が登場する、電話を受けた高齢者が、その話を信用して、出し子と呼ばれる人に多額の現金を渡してしまうのです。銀行のATMで振り込ませてしまうのです。

 私は、詐欺の手口の解説を聞きながら、オレオレ詐欺の手口を考えた人は頭の良い人だと思いました。頭の良い人が、巧妙な手口で詐欺を実行していることに感心したのです。しかし、感心することは間違っているのです。相手をだまして、相手から多額のお金を奪い取ることは、犯罪であるので、詐欺をした人は頭が良いとは思うけれども、ほめるようなことではないのです。この話の鍵となる一つの言葉は「ほめる」という言葉です。なぜ、主人がこの管理人をほめたのか、ということです。
 
 管理人は不正をしているので、ほめられたものではないのです。「不正にまみれた富」と言っているのです。不正をしている管理人がほめられているのです。主イエスがなぜ、この話をされたのか、それは意図があるのです。この話によって、私たちが混乱し、疑問をもち、つまずくことを意図してこの話をされたのです。私たちは、自分がすぐに納得できる話は、その後は考えません。しかし、話に疑問を持つと、考えるようになるのです。主イエスは、私たちに、どうしてこのような話をするのかを考えさせ、私たちがショックを受けることを狙ってこの譬えを語ったのです。
 
 主イエスがこの譬え話をされた後に、8−9節で「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」ここに「この世の子」と「光の子」という言葉が出てくるのです。

 主イエスは、「この世の子」の生き方を譬え話で語っています。この世の子の賢さを語り、それを肯定しているとも言えます。巧妙な手口で悪いことをしているのですが、不正の管理人の賢さを見習うように、その生き方を勧めているように思います。
 
 私たちは「光の子」なのです。それは、洗礼を受けて、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、神に義と認められたキリスト者であるからです。しかし、光の子であることを徹底しているのだろうか、という問いを主イエスから問われているのです。「不正な」と言われているように、この管理人は、特別背任罪、横領罪、詐欺罪の罪で逮捕されるでしょう。しかし、この管理人は、自分の危機(クライシス)に直面して、絶妙な、抜け目ないやり方で、知恵を出して、切り抜けているのです。徹底して悪を貫いているのです。
 
 先ほど、オレオレ詐欺をしている人たちは、自分たちの知恵を最大限使って、詐欺が成功するように工夫をして、お金が自分の財布の中、金庫の中に入るように頭をフル回転しているのです。どうしたら、相手をだますことができるかを研究しており、電話のト−ク・マニュアルまで作っているのです。そして仕事がないために収入がない出し子を雇って、お金を取りに行かせる、カ−ドをもらって銀行に行って現金に換える、お金が自分のところに入るようにしているのです。知恵を総動員して悪いことをしているのです。この世の子は、だましたお金が自分の財布に入るように、徹底して頭を使っているのです。
 
 私たちは光の子なのです。光の子ですから、徹底的に神のみこころに適う生活をするはずなのです。しかし、私たちは、悪いことはしないけれども、光の子として徹底して良いこともしていないのではないか、と言うのです。
 悪いこともしないが、良いこともしていないのです。この世で生きていくのに困らないように、この世に妥協して生きるのです。キリスト者として生きることとこの世で生きること、とが両立できるように考えているのです。キリスト者として、キリスト者らしく徹底して生きることをしないのです。主イエスが、「この世の子らは、自分の仲間よりも賢くふるまっている」と言っています。「自分の仲間」とは、私たちキリスト者のことです。「この世の子ら」は私たちキリスト者「よりも賢くふるまっている」と語っているのです。私たちキリスト者の中途半端な態度を批判しているのです。そして何と言われようと悪いことを貫いて徹底してしている、その徹底性を私たちに求めているのです。そこで、問題になるのは、いったい何について徹底するのか、と言うことです。

 私は、岡山・蕃山町教会に在任していた、ある日曜日の礼拝で、主任牧師がこの「不正の管理人のたとえ」の説教をしたのを印象深く聞いたことがあります。よく覚えています。主任牧師が神学生の時の体験談を話されたのです。牧師から、ある教会員の家を訪問するように言われ、訪ねたけれども、家の所在地が分からなくて、あきらめて帰って来たことがあったそうです。そのことを牧師に報告したところ、牧師から次のように諭された、と言うのです。その家庭を訪問するために、家がわからなければ、その家に電話するなり、歩いている人に聞くこともできたではないか、訪問するのであれば、その家にたどり着かないといけない、そして、牧師の代理で来たことを伝え、無事かどうか確かめ、相手の家のために祈るのが訪問だ、訪問するために、知恵を働かせて目的を果たすようにと言われた、という話をされて、この譬え話は、教会の伝道を推進し、信仰を生かすために賢く知恵を働かせることを語っている、という説教であったのです。
 
 この譬え話は、私たちがキリスト者として徹底してキリスト者らしく生きることを教えているのです。徹底してキリスト者らしく生きるとはどのようなことでしょうか。それは神の愛によって私たちが生きることです。
 
 この譬え話を、神の愛の観点から、解釈することができます。主人が、不正な経理が発覚して、仕事を辞めなければならない時を、イエス・キリストが再臨する、終末の時と考えることができます。不正な管理人は、会計を誤魔化したことが分かる時が来ることを恐れているのです。そのように、私たちは最後の審判を恐れています。それは自分がこれまでしてきたことを神が審判するからです。この不正な管理人は、主人が審判する時を恐れながら、自分の将来の生活のために、この時に、賢くふるまい、自分のために仕事を確保しようとするのです。この男は主人の審判を恐れて、今の時を自分のためにこの時間を使うのです。
 
 しかし、私たちキリスト者は、この男とは違うのです。神は、神の知恵を用いて、私たちが罪から救われるように、イエス・キリストをこの世に派遣し、私たちの罪の贖いを完成されました。私たちはイエス・キリストによって愛され、罪が赦されているのです。イエス・キリストは、徹底的に愛に生きられました。私たちは神の愛の中に生きているのです。そして私たちの罪を赦した、この同じキリストが、再び来られるのです。この管理人は、不正をしていたことが発覚する時を恐れているのですが、私たちは、罪を赦してくださった同じイエス・キリストが、再び来られて、私たちを審判するのです。この審判の時を待っている今の時を、私たちが知恵を尽くして、徹底して神を愛すること、隣人を愛することが、ここで勧められているのです。

 私たちは主イエス・キリストが再臨して審判する時と今の時との間を生きています。神に愛されていることを信頼しながら、今の時を、神の愛に生かされながら、徹底的に愛に生きるのです。
 
 16章9節の最後にとても重要なことを主イエスは語っています。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」とあります。「永遠の住まいに迎え入れ」るのは神なのです。ここでは、神によって私たちがいつでも喜んで迎えていただけるような、生活をすることを勧めているのです。

 私たちは、神から与えられたタラントン、賜物をもっています。その賜物を徹底して神のために、教会のために、隣人のために用いるのです。また私たちは、財産を持っています。お金を自分のために使うことよりも、隣人のために有効に使うことができるのです。キリスト者として、神のために、隣人のために徹底的に、自分を献げる、そのことが、ここで語られていることなのです。

20210704 主日礼拝説教  「罪人を喜んで迎える神」  山ノ下恭二牧師
(ゼカリヤ書 3章1−5節、ルカによる福音書 15章11−32節) 


 本日、この礼拝で読みました15章11−32節は「放蕩息子の譬え話」と呼ばれています。しかし、最近は「放蕩息子の譬え話」と呼ばないで、「失われた息子の譬え話」と呼ぶようになりました。息子がいなくなったことに話の重点があるのではなく、息子を失った父親に重点をおいて理解をすることが大切であると考えられるようになったのです。15章には、3つの譬え話があり、「失われた羊」「失われた銀貨」「失われた息子」の譬え話が記されています。この3つの譬え話には共通するところがあります。それは、いなくなったものを見出す、失われたものを再発見するところに共通点があります。しかし、「失われた羊」の譬え話とこの「失われた息子」の譬え話とを比較すると、異なったところがあります。それは、「失われた羊」の譬えは、羊が、なぜいなくなってしまったのか、その経過は語られていませんが、この「失われた息子」の譬え話は、父のもとを離れてしまった経過や戻ってきた理由が詳しく書かれているのです。その意味では、私たちにとってこの「失われた息子」の物語は、とても身近に感じる物語なのです。

 昔から「放蕩息子」の物語と呼ばれてきましたが、「放蕩」という言葉は今はあまり使いません。少し前には「ぐれた」と言う言葉を使うことがありました。「あの人はぐれてしまった」と言うように使っていたのです。
 私たちは生きている時に、まじめに生きるのが嫌になることがあるのです。目上の人の言うことを従順に聞いて、模範的に生きていくと息苦しくなり、やめたいと思う時があるのです。真面目に生きている人の心の中に、もう自分の今の生活を放り出したい、という思いがあるのです。このコロナ禍、コロナ感染の中で、家に閉じこもっていると、今の生活をいつまで我慢すれば良いのか、時には外で自由に遊んでみたいと思うのです。私たちの心の奥底のどこかで自分の生活を投げ出したい、真面目に生きていて疲れるということがあるのです。
 息子は、父親に監督されて生きていることが嫌になって、父親からもらった財産を「全部をお金に換えて」この家を出て行くのです。家族の手の届かないところ、親が干渉できないところに出かけて行くのです。そうすれば、自分の思い通りの生活をすることができる、お金さえあれば、何でもしたいことができるし、自分の思い通りの生き方をすることができると思ったのです。今の生活から離れて、自由な生活をしたいと言う思いを持っている人はとても多いのです。旅行に出かけたり、親しい人と会って会話を楽しみ、食事をして気分転換をしても家に戻ってくるならば良いですが、この息子は親からもらうものを全部もらって家に帰るつもりがなく、出て行ったのです。私たちは、自由ということを自分の好きなようにすることだと考えるのですが、この息子はもっと自由に生きたい、今縛られている一切の絆を断ち切って行きたいと言って、父のもとを離れてしまったのです。これは父の立場からすれば、自分のもとからいなくなってしまった、故郷を失った人間になったのです。

 働かないのですから、財産は減るばかりです。お金を当てにして寄ってくる人も多くいて、財産を使い果たすのです。お金がなくなるまで、遊ぶのです。お金がなくなると今まで相手にしてくれた人は、うまみがないので離れていき、だれも相手にしなくなったのです。しかも、具合の悪いことに、飢饉が起こり、飢えに苦しんでいる時に、誰も助けてくれないのです。お金もない、値打ちもない男を相手にする人はいません。とうとう豚を飼う仕事をするようになったのです。ユダヤ人は豚を食べません。豚を飼う仕事を世話した人は、外国人であったのです。ユダヤ人にとっては汚れた動物である豚を飼い、しかも豚が食べるいなご豆しか食べることができない、惨めなものであるのです。
 このところを読むと、私たちは他人事のように思うかも知れません。私たちが、このような惨めな状態にあるとは思わないところに大きな問題があるのです。父の愛を拒否したこの息子が、孤独になり、豚以下に堕落してしまっているのです。同じように、私たちも神に愛されて生きることが、本当に生きることであることを知らないで、神から離れて生活することが、自由に生きていることだと思い込んでいるのは、本来は、自由に生きている者ではないのです。自分がしたいように自由に生きることは、自分の都合を中心に生きていくことになり、自分のことしか考えないで生活をしていくので、隣人がいないかのように生きていることになります。隣人を失い、隣人を尊重することも、配慮することもしなくなるのです。そこで多くの事故や事件が起こるのです。
 
 最近、私が思うことは、自分のことしか考えない、隣人のことを考えないで行動している人がとても多いことです。教会付近の歩行者用道路はとても狭く、電動(アシスト)自転車に乗った人が、狭い歩行者用道路を運転して歩行者とぶつかりそうになる場面をよく見かけます。この自転車は重いのでぶつかったら大怪我をすると思います。また子どもたちがキックボ−ドをすごいスピ−ドで押して走って行き、杖をついて歩いている人にぶつかったら、転んで怪我をするのです。電動キックボードを運転する人がすでに事故が起きているそうです。神を神として畏れず、自分が自由に生きようとする時に、隣人を愛することができなくなるのです。愛があるならば、隣人に悪いことはしないのです。

 みじめな状況に置かれた息子は、父のところに帰ることを決心します。15章17節に「そこで、彼は我に返って」とあります。口語訳では「本心に立ちかえって」と翻訳しています。原文のギリシャ語では「自分自身の中に戻ってくる」という言葉です。この言葉はとても重要な言葉です。
 息子は、父親のところにいるのは、自分らしく生きてはいないと思って、父親のもとを離れたのです。自分らしい生活、自分がやりたいことをやる生活ができないと思い込んでいたのです。どこかに行って好きなことをしたら、自分らしい生活ができるのではないか、と思ったのです。自分らしく生きる、自分のやりたいことを見つける、若者が自分探しをして出かける動機になります。ところが、息子は自己発見の旅ではなくて、自己喪失の旅であったのです。父のもとを離れたら、自分を失うのです。
 この譬え話では、自分の好きなように生きることが、自分らしく生きることができなかったことを語っています。神から離れて、自分本位に生きることが、ほんとうに豊かに生きることにはならないことなのです。つまり神から離れて、自分中心に生きる、それは自分をも失うことになるのです。神と共に生きることができない者は、自分らしく生きることも、隣人を愛して生きることができないのです。ひとりぼっちなり、さらにみじめになるだけです。

 この譬え話でとても重要な言葉は「我に返って」という言葉です。自分の間違いに気づいたのです。自分が捨ててしまったはずの故郷に自分は帰っていかなければならない、そうしないとこの惨めさは解決ができないことに気づいたのです。私たちも自分が間違った生活をしていることに気づくことがあるのです。自分のことばかり、自分中心で過ごしている、人のことなどどうでも良い、そのように思って生活してきたことが誤りであったことに気づくのです。

 父親のところに行って今まで誤った生活をしてきたことを、言葉にしなければならない、どのような言葉で謝ろうか、と思うのです。18節で「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」と言っています。」「天に対して」と言うのは「神に対して」と言うことです。神に対して罪を犯した、と言っているのです。ここでは罪と言う言葉が出てくるのです。聖書が教えるとても大切なことが語られています。私たちは「どうしてうまくいかないのだろう」と嘆くことがあります。運がなかったのだろうか、と思うのです。私たちも、運が良かった、運が悪かった、とよく言います。また因果応報で、考えることもあります。不幸になる、とてもみじめになる、それは自分が悪いことをした結果かも知れないと思うのです。しかし、この息子は、お金を使い果たしてすぐに飢饉があったから、惨めになった、それは運がなかったからだとは考えなかったのです。自分はお金を使い果たして、遊んでいたから、今、罰を受けている、と因果応報の論理で解決しようとはしなかったのです。

 この息子は、神に対しても、父親に対しても、罪を犯した、と言ったのです。この罪とは、この息子が故郷を捨てたことです。本来、いるべきところを捨てたことです。ハイデルベルク信仰問答の問い3は「何によって、あなたは自分の悲惨さに気づきますか。」という問いです。それは、神を愛し、隣人を愛するという戒めによってであるとあります。この「悲惨」というドイツ語のElendという語は「土地から離れた」「離された」と言う意味の言葉です。
 人間の悲惨の始まりは、アダムとエバが自分の罪によって神のもとから離れてしまった結果だったのです。「悲惨」とは、本来あるべき所から離れてしまうことによってもたらされるのです。本来、愛するべき相手である神を愛することをしていなかった、そのことに気がついたのです。この息子は、自分の罪を真実に認め、自分が罪人であること、自分の故郷である神のもとを離れたことを認め、自分の言葉で言い表すことが求められたのです。罪の告白です。礼拝の初めの部分で、罪の告白をする教会が多いのです。詩編51編の「神よ、憐れんでください」と告白する教会も多いのです。

 家に帰る途中で、息子が、どういう言葉で父に謝れば、受け入れてくれるのか、心配し、父に謝る言葉を探していくのです。父は怒ってお前はもう私の息子ではない、帰って来るな、と怒鳴られるかもしれない、と覚悟したりして心が揺れていたのです。
 ところが、この物語は、思いがけない展開をするのです。この譬え話で、とても重要な場面です。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履く物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。そして、祝宴を始めた」。息子が父親に、自分の罪を告白することを遮るように、父親は子どもを歓迎するための準備を命じているのです。

 父親は息子をずっと待っていたのです。毎日、毎日、何回も家の門のところに出て、息子の帰りを待っていたのです。父親のほうが先に、息子を見つけたのです。そして、息子の謝罪の言葉などよく聞かないで、そんなことはどうでも良いように、息子が帰ってきたことを大喜びで、その喜びによって祝宴をする準備をすることを命じているのです。
 この世の中では、親子の縁を切ることが実際に行われているのです。私はある時、ある若い男性から、父親と折り合いが悪くて、家を飛び出してしまい、仕事をしたけれども、うまくいかなくて、生活に困って家に帰ろうと思ったけれども、家に帰っても、父親が赦してくれないので帰れないということを聞いたことがあります。しかし、この物語では、息子が、自分には子である資格はないと告白しているにも関わらず、父親は帰って来た息子を、雇い人ではなく、子として受けいれているのです。
 
 私は、小学3年生の時まで、通知表が五段階評価で、算数から、体育まで全部3だったのです。5、4は全くなかったのです。私の親はほとんど、成績のことは言わなかったのです。通知表も見なかったと思います。とても楽でした。安心して勉強はしなかったし、してもできなかったと思います。
 私と全く反対の経験をした若者の話を聞いたことがあります。以前、東大宮教会におりました時に、教会を訪ねて来た若者が、自分がとても苦労した時のことを話してくれました。学校の成績が悪かった時に、母親が夕ご飯を作らないと怒ったので、「どうぞ作ってください」と懇願してやっと夕ご飯を食べることができたけれども、この次のテストでは、95点以上取ったならば、夕ご飯を作ってやる、と言われたので、次のテストが怖かったと言う話を聞いて、こんなことが実際にあるのか、ととても驚いたことがあります。
 泥んこ遊びをして帰って来た子どもに、母親が自分で自分の体を拭いて汚れた服を洗ってから、家に入りなさい、とは言わないのです。泥んこ遊びをした子どもを迎えて、家に入ってから、母親が、子どもの体を拭いて、汚れた服を脱がせて、綺麗な服を着せるのです。
 本日の礼拝で、旧約聖書のゼカリヤ書3章1−5節を読みました。3章3−4節で次のように語られています。「ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。『彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。』また、御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」
 息子は長い放浪の生活でぼろぼろの汚れた服を着ていたに違いないのです。父は、息子に「いちばん良い服」を着せたのです。汚れた服を脱ぎ捨てて、新しい晴れ着を着る、それは、神の前に、私たちが罪のない者として扱ってくださることを示しているのです。私たちの罪とイエス・キリストの正しさとを交換するのです。洗礼を受けているということはそういうことなのです。
 
 そして、「手に指輪をはめてやり」とあるのは、父親の財産を受けることを意味します。「指輪」は印鑑がついており、財産贈与の時には指輪についている印鑑が必要であったのです。既に父親から財産をもらい、それを使ってしまっているので、今更、父親からの財産を受け取る資格はないのですが、父親は、この息子を自分の子として完全に受け入れ、最大の好意を表しているのです。はだしで帰って来たのです。履き物を履かせ、「子牛を連れて来て屠る」つまり、祝いの時にしか食べない肉を食べさせる、このことは、息子が帰ってきたことの、父親の最大限の喜びを表しているのです。
 息子が家を出て行ったことは、故郷を喪失したこと、それは息子自身が喪失したことですが、このことは、父親のほうが深い悲しみを覚えたのです。息子は家を出て、いなくなった、ということ以上の深い悲しみはないのです。父親が「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ。」と語っています。「死」ということは、私たち人間の心臓が止まって死ぬ、ということを言っているのではないのです。「死」というのは、神から離れて、神との関係を失うことを意味します。ここで、真実に父と子との交わりが始まるのです。神のもとで生活する、その生活が始まるのです。

 神と共に過ごすことが、自分らしい生き方なのです。神から離れて、自分の思い通りに生きることが、自分らしく生きることではないのです。神との深い関わりの中で生活することが、自分らしい生活なのです。神の愛と赦しの中で過ごすことがほんとうに幸いなあり方なのです。これから聖餐にあずかります。この聖餐は、神が私たちを愛して、罪を赦してくださることをありありと経験する、教会のサクラメント、ミステリュオン、秘義、秘密、機密です。私たちは、聖餐を受けることによって、神が私たちを完全に受け入れ、罪を赦して下さっていることを実際に経験することができるのです。

20210627 主日礼拝説教  「私たちを探し求める神の愛」  山ノ下恭二牧師
(ホセア書 11章1−9節、 ルカによる福音書 15章1−10節)

 
 最近、私は、吉田隆という日本キリスト改革派教会の牧師が書きました「ただ一つの慰め」−『ハイデルベルク信仰問答』によるキリスト教入門−と言う本を読んでいます。皆さんの中でこの「ハイデルベルク信仰問答」と言う信仰問答を知っている方も多いと思います。この信仰問答は、宗教改革の時に作成された信仰告白であり、日本では1884年(明治17年)という早い時期に日本語に翻訳されて、その時以来、洗礼の準備や教会での学びのテキストとして用いられて来ています。この信仰問答の一番目の問いが、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」と言う問いです。そしてその答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」とあります。
 私たちが、イエス・キリストのものである、私たちがイエス・キリストに所属している、そのことが、ただ一つの慰めである、と答えているのです。

 この礼拝で、ルカによる福音書を続けて学んでいます。ルカによる福音書15章8−10節には「無くした銀貨」のたとえが記されています。初めて聖書を読んだ人もよく分かるたとえ話であると思います。十枚の銀貨を持っていた女の人が、その一枚を何かの拍子に無くしてしまった、その銀貨を見つけるのに家中を大掃除して探し回って、とうとうそれを見つけた、そこで大喜びして、親しい人々に声をかけ、共に喜ぶと言う譬え話です。

 この譬え話を読んで、皆さんはどのような印象を持ったでしょうか。私はお金やものをなくし、探して見つかって喜んだこともありますし、見つからなくてどこに行ったのだろうと思ったことがありましたので、この譬えはとても身近に感じるのです。皆さんも同じような経験をしていると思いますので、この譬え話を身近に感じたと思います。
 しかし、私は何度も読み返して、この譬え話について思ったことがあるのです。それは私が経験したこととは違うことが書いてあると思ったのです。それは何でしょうか。一つは、家でお金を落とした時、家中を大掃除をするほど、探し回ったことがないと言うことです。お金を落とした時に、机の引き出しの中を調べたり、「どこに行ったのか」「見つかれば良いのに」と思って、必死に捜しますが、家中を大掃除して探し回るほど、探したことはないのです。私は本や書類などをたくさん持っているので、その時に読みたい本や書類を探すために本棚をくまなく探したり、書類の入った箱を開けて探しますが大掃除をしてまで探したことはないのです。この譬えは大げさに書いてあると思いました。
 
 もう一つは、一枚の銀貨を探し、とうとう見つけて、大喜びをした後に、この女が何をしたかと言うことです。親しい人々に声をかけ、一緒に喜んでいることです。皆さんは、お金をなくして見つかった時は、「見つかって良かった」と思い、家族にも黙って自分の財布に入れるだけではないでしょうか。家族にお金を無くしたと伝えている時には、「お金が出てきた、見つかった」と言うと「良かったね」と言われて、自分の財布に入れるのです。それでお終いになるのです。
 この譬えは、「友達や近所の女たちを呼び集めて『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と書いてありますが、これも大げさなことだと思ったのです。銀貨の一枚が見つかったからと言って、友達や近所の女たちを呼び集めることをするだろうか、と思ったのです。そのようにこのたとえ話は大げさに書いてあると思うのです。よく考えると、この話は、私たちの常識とは違ったところがあります。主イエスがこの話をされたのは、この女が一枚の銀貨を大切にし、銀貨が見つかれば大喜びすることを強調したいために話されたのです。

 この譬え話は、神を一所懸命に銀貨を探している「女」に譬えているのです。神が、この女のように無くした銀貨を大掃除までして捜し出し、見つかったら、友達や近所の人たちと共に喜ぶ、そのような神なのだ、ということを語りたいのです。この譬え話は、どのような神なのか、その特徴をはっきり描いて語ろうとしたのです。神はどのような神なのか、一枚の銀貨が女の手許に戻ったことをこの女が大喜びしたように、私たちが神のもとに戻ったことを最大の喜びとする神であることを語るのです。私たちが神のもとに戻ったことを神がとても喜ぶことを紹介したいと思い、主イエスはこの話をされたのです。

 一枚の銀貨を女が無くしてしまう、それは悲しみでしかないのです。必死に探さなければならないほど、この銀貨はこの女にとってかけがえのないものであり、失うことは悲しいことなのです。そのように神のもとからいなくなった私たちのことを悲しんでいるのは神なのです。神は喜ぶ方だけでなく、神は悲しむ方なのです。私たちが神のもとからいなくなることを悲しむのです。
 私たちが生きている今の時代は、神が存在することさえも思わない時代なのです。特に私たちを裁き、私たちを救う、人格的な神がおられるという認識を持たないのです。神を持っていないのですから、神のもとから離れて自分中心に生きていてそれが悪いことだ、とは思わないのです。神を畏れることはないですし、自分が今、お金があって楽しく生きることができれば良いと思って生きているのです。神はそのような人間をこんなのはどうしようもないから放っておけば良い、とは思わないのです。煮ても焼いても食えない奴だ、見放した、とは思わないのです。神はそのような人間を悲しまれるのです。神のもとから離れていなくなった、そのことを深く悲しむのです。
 
 かなり前のことですが、山梨のキャンプ場で女の子がいなくなって見つからない事件がありました。今も見つかっていません。最近、この女の子の母親が自分の子どもを必死に探しているテレビ番組を見たことがあります。山梨のキャンプ場で女の子がそう遠くない別の場所に移動した、わずかの時間にいなくなり、見つからなくなったのです。地元の警察署員、消防団員が何回もかなりの時間をかけて付近の川や山を捜索したけれども、いまだに見つかっていないのです。母親は、自分の子どもがどこにいるのかと心配しながらできる限りの手を尽くして今も探しているのです。このテレビを見て、子どもを見失った母親がどんなに悲しい思いで、女の子を待っているのか、見つかってほしい、一日も早く自分のもとに帰って来て欲しいと思っているか、を知ったのです。
 
 私は、日本の神々はどのような神々であるか関心があるので、このことに関係する本を読むことがあります。日本では様々な神々がどこにでもいるのですが、自然の中に神々が宿っているという思想が主流であると思います。アニミズムと言って、滝の中に、山の中に、ご神木、御柱というように、木の中に、霊である神が宿っていると考えているのです。そして神道では、死んだ人は、先祖の霊になって、家の宿り神になると考えています。
 日本の神々は、言葉をもっている人格的な神ではないのです。しかし、私たちが信じる神は、言葉をもっており、怒ったり、悩んだり、後悔したり、徹夜したり、裁いたり、悲しんだり、喜んだりする神なのです。神は、私たちを創造した神ですから、私たちがどこにいて、どのような生活をしているかに深い関心を持ち、深く関わる神なのです。私たちがどこにいるのか、何をしているのか、深い関心をもっているのです。

 皆さんは、親に叱られたことがあると思います。間違ったことをしたら、親は叱るのです。昔の親は、学校で教師に叱られたことを知ると家でも親が叱ったのですが、今はそういうことをすると親が学校に乗り込んできて、教師を責めるそうです。子どもを叱らないで育つので、学校で教師が注意すると学校に来なくなったり、親が学校に乗り込んできて抗議を受けるので、教師がとても気を使うそうです。一度も、叱られないで育つのも問題で、会社に勤めてから、上司に遅刻を注意されて、それっきり会社に来なくなったという話を聞いたことがあります。
 しかし、私たちが人間としてよりよく生きるためには、人間同士の豊かな触れあいが大切です。人間が成熟するには、相手に怒りをぶつけたり、叱ったり、慰めたり、話をしっかり聞いたり、面倒をみたりして、深く関わることが必要なのです。人と関わりを持たないで人と触れあわないのは、心の負担がなく、楽かも知れませんが、それは、心からの深いつながりを持つことができないのです。
 
 ここで、主イエスが語っておられる大きな喜び、これは、神がどんなに一所懸命に私たちのことを愛し、そのために力を注いだかを示しています。神が、私たちひとりひとりを愛し、大切にしてくださっている、自分のために、喜んだり、悲しんだりしている、そのことが分かるところに信仰が生まれるのです。
母親が時間をかけておいしい料理を作って、食べさせてくれる、その時に自分を愛してくれていることがわかるのです。父親が、会社の仕事を休んで、合格発表を一緒に見に行ってくれる、そのようなことによって、父親が自分を愛してくれる、そのことを知って、父親を信頼することができるのです。

 15章8節には、女が十枚の銀貨をもっていたことが記されています。ある人の解説によると、この当時の習慣であったそうですが、結婚する時に、持参する自分の財産のひとつに、貨幣を首飾りのようにつないで、自分の身につけていたそうです。私は財布から一枚の銀貨が落ちたのか、と思っていましたが、そうではなく、身につけていたのですが、首飾りのようにつないでいた糸がほころんで、落ちてしまったのです。私は、銀貨一枚がどのような価値があるのか、調べたくなりました。ある解説書では、10枚の銀貨とは、結婚する時の持参金で、銀貨一枚の価値は、一日の賃金に当たるので、この当時の10日分の賃金に当たります。銀貨十枚は持参金としては多くはないそうです。私は初めてこのたとえを読んだ時、「銀貨」と書いてありますので、かなり高額なお金を思っていましたが、そうではないのです。
 
 貧しい女が暮らす家なので、狭く、窓もなく、暗い家であるのです。あかりをつけて、隅々を探すのです。銀貨一枚を探すために大掃除までしているのです。銀貨であり、銅貨ではないので、値打ちはあるかもしれませんが、たった一枚の銀貨なのです。良く探したけれども出てこないので、諦めることもできたかもしれないのです。
 友人がマフラーをよく無くすので、高いマフラーを買うことを止めて安いマフラーを買うことにしたそうです。安いマフラーであれば、落として見つからなくなっても、惜しい気持ちにはならないので、500円位の安いマフラーを買ったと言うのです。ところがその安いマフラーを無くしてしまい、安いからマフラーがなくなっても何とも思わない、構わない、とは思わなかった、という話をしたのです。私たちも、安いものであっても自分のものがなくなることはとても嫌なことで、どこに行ってしまったのか、といつまでも思うことがあります。
 この女は徹底的に探しているのです。途中で諦めてはいないのです。見つかるまで忍耐強く努力して探す、その姿は、神が私たちひとりひとりのいのちが、神にとってそれほどまでに大切であることを示しています。

 今日の礼拝で、ルカによる福音書15章1−10節を読みました。6月13日には15章1−7節を学んだので、今日は8−10節だけを読むと思っておられた方もおられるでしょう。しかし、元々、この二つの譬え話は一つの話として読まれるものであったのです。
「見失った羊」の譬えでは、羊飼いが、百匹の羊のうちの一匹がいなくなったことを、どのようにして知ったのでしょうか。羊は放し飼いになっていて、夕方になって、羊飼いはその羊を囲いの中に入れるのです。それは、夜の間、狼が羊を襲うのを守るためであり、羊を盗む泥棒から守るためです。囲いに入ってくる羊が一匹づつ入り、羊飼いが入ってくる羊を数えるのです。数えるだけではなくて、一匹ずつ、健康状態を見るのです。羊の数を数え、この羊は弱っていないか、この羊は疲れていないか、この羊は元気なのか、注意深く健康状態を見ていくと、一匹いないことに気がつくのです。その羊が特別に値打ちのある羊であったわけでもないのです。しかし、羊飼いにとって、どの羊も同じように大切なのです。このように、主イエスは、私たちひとりひとりが神にとって一匹の羊のように大切なものであると語ります。

 私たちひとりひとりのいのちがどんなに尊いものであるかを神は思っているのです。自分なんか、いなくてもいのではないか、と思ったり、生きる意味があるのだろうか、と思う時があります。私たちは時々、自分を見失うことがあります。自分の存在の価値を自分で決めてしまいます。しかし、自分に失望する時でも、自分に嫌悪感を持つ時でも、病気になってなかなか治らなくて苦しんでいる時でも、自分の体が思うように動かない時でも、家族のことでとても悩んでいる時でも、神は私たちを探している、神ご自身の宝のように思って、探しているのです。あなたのことを心配して探していましたよ、私のもとに帰って来なさい、と呼びかけているのです。
 
 この二つの譬えは長い間、迷える羊の譬え、無くなった銀貨の譬え、と言われてきました。迷ったのは、羊が迷ったので、羊飼いの責任ではない、お金がなくなったのは、お金がどこかに行ってしまったので、女の責任ではない、という意味で解釈されてきました。しかし、新共同訳では小見出しで「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨のたとえ」とあります。羊飼いが羊を見失った、女が銀貨を無くしたのです。あくまでも、羊飼いの責任であり、女の責任になるのです。私たちが神から離れて悪い暮らしをしているから、私たちが悪い、と言うよりも、この譬えは、神から離れてしまった者の責任を問うことなく、神ご自身が見失ってしまった、その責任を果たそうとすることを語ろうとしているのです。

 15章10節で「一人の人が悔い改めれば」とあります。「悔い改め」というのは自分から先に神にお詫びをする、という意味ではないのです。心と行いを改めて十分に反省ができていれば、赦す、ということではないのです。お詫びが先で、そのお詫びがきちんとしていれば、赦してやる、というのではないのです。自分がお詫びすることよりも、神の愛がはるかに先行しているのです。「悔い改め」と言うのは、神のもとに帰り、自分を暖かく迎えてくれる神の愛を信じて、自分の罪を告白することが「悔い改め」なのです。
 
 私たちが帰るべき心の故郷があるのです。その心の故郷とは神のところにあるのです。故郷に帰ってきた私たちを神が心から喜んで迎えてくださるのです。
 
 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」

20210620 主日礼拝説教 「一生の終わりに残るもの」  佐野正子牧師(東京女子大学教授)
(サムエル記上16章4〜7節、マタイによる福音書25章31〜40節)


 牛込払方町教会の皆様と、礼拝を共に守ることができますことをとても嬉しく思っております。私たちは、誰でも、限られた人生を送っています。人生の長さは、長く定められた人もいれば、短く定められた人もおられますが、地上の人生は限られているということに変わりはありません。身近な者が亡くなった時、人生には終わりがあることを私たちは思い知らされます。私たちは人生の終わりに、何を残すことができるのでしょうか。人生の終わりに何を残したいと思いますか?

 ジェラール・シャンドリという人の言葉に、「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなく、我々が与えたものである」という味わい深い言葉があります。私たちの一生の終わりに残るものは、私たちが集めたものではなく、私たちが与えたものだというのです。

 私の母方の祖父が亡くなって一年後の記念式が行われた時のことです。親戚が30名ほど祖父の墓地に集まり、記念礼拝をした時に、祖父を偲んで食事会がもたれました。一人一人が、祖父との思い出を語ることになりました。例えば、祖父の甥にあたる初老の男性は、「僕が小さい時におじさんの家に遊びに行くと、『正君、カレーライスがいいかい?』 と聞いて、いつも僕の大好きなカレーライスをご馳走してくれたのです。僕は、カレーライスをご馳走になることが楽しみでよく遊びに行ってました。」と50年前の思い出を懐かしそうに語っていました。一人一人が、祖父にこういう親切をしてもらったとか、こういう優しい言葉をかけてもらったとか、苦しかったときにこういう手紙をもらって励まされたとか、 それぞれ祖父から自分に与えられた優しさや思いやりが思い出として語られていました。ある一人の私の母くらいの年齢の女性は、親戚ではないけれど記念式に出席してくださって、次のような思い出話をしてくださいました。 私の祖母は、高校の教師をしていたのですが、祖母がそのご婦人の高校1年生の時の担任をしていた時のこと、そのご婦人は高校に入って間もない頃に、ご両親を病気によって次々と亡くしてしまったそうなのです。 そこで生活費も学費もなくなってしまった彼女は、 祖母のところに、これ以上高校に通うことはできないので退学しなければいけない事を相談に行った所、何の躊躇もなく即座に、「では、私の家に住んで、そこから高校に通えばいいわよ。」と言ってくれたそうなのです。そして祖父も、祖母のこの提案に 快く賛成してくれたというお話でした。その頃、私の母は中学生、 母の弟である私の叔父は小学生で、家族四人で小さな家に住んでいて、部屋が余っていたわけではなかったそうですが、祖父母は自分の子供達と 分け隔てなく、娘が一人増えたかのように可愛がってくれて、高校を卒業することができたこと、そしてそれから50年近く祖父母が亡くなるまで、娘のように可愛がってくれたということを涙ながらに語っておられました。

 私は一人一人の思い出話を聞きながら、「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなく、我々が与えたものである」という、先ほどご紹介したシャンドリの言葉を思い出しました。人が亡くなった時に残されるものは、その人がどのような生き方をしたのか、どのようなことを人に与えたのかということなのです。

 マタイによる福音書25章31節以下には、終わりの日に、王としてのキリストが、全ての人々をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊を分けるように、人々を選り分けるという興味深い喩え話が記されています。当時のイスラエルでは、羊とヤギを日中は一緒に放牧し、夜になるとヤギは寒さを嫌うために動物小屋に入れ、羊は新鮮な空気を好み 戸外の囲いに入れて飼っていたそうです。白い羊と黒いヤギは容易に見分けがつきました。この喩え話は、当時のこのような習慣が題材になっています。羊と山羊を分けるという喩えは、当時の人々には慣れ親しんだ光景でした。そして、「羊を右に置く」という表現は、優しさを表す象徴として用いられています。

 終わりの日に、人の子すなわちキリストに 正しいとされた人々は、どのような人々であったのでしょうか。34節以下には、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」と、キリストは理由を述べています。しかし祝福された人々は驚いて答えています。「主よ、いつわたくしたちは飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」と、答えています。

 キリストによって正しいとされた人々は、自分がキリストに対して何か特別なことをしたとは全く意識していなかったことが分かります。彼らが、自分の身近なところで困っていた人々を助けたことが、実はキリストに対して行ったことと同じであること、そして彼らの愛のわざが、天において覚えられていることを知って、彼らは驚いています。彼らが、お腹の空いている人に食べ物を与え、喉の渇いている人に飲み物を飲ませ、旅人をもてなし、病人を見舞ったことは、評価されようとして行なったことではなく、彼らにとっては、心から湧き出た、温かな思いやりの気持ちからなした愛のわざでありました。すなわち、これらの行為は、目の前の助けを必要としていた人に対して、自分の損得なしに、彼らの真心から行ったことでした。愛を行った人々は、助ける相手が、自分と仲の良い友達であるとか、実はその相手がキリストであるとか、ということが愛を行う動機にはなっていなかったことが分かります。まして、終わりの日に、永遠の命という報酬を与えられると計算をしたからでもないのです。聖書の中で、キリストが私たちに示しておられるアガペーと呼ばれる愛は、報いや賞賛を求めない無償の愛であり、誰からも顧みられない小さなものに注がれる愛なのです。

 それに対して、咎めを受けた人々の答えは44節にあります。 「主よ、いつわたしたちは、 あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」と、いうものでした。彼らの答えの裏には、もし助ける相手が、キリスト、あなたであったなら、喜んでお世話をしたでしょう、でも名もないちっぽけな者達だったので助ける必要がないと思ったのです、という気持ちが感じ取れる答えではないでしょうか。

 神様が、ご覧になっておられるのは、私たちの心なのです。咎められた者たちは、助けるべき相手が、キリストであることが分からなかったからお世話をしなかったと主張しています。では、もし困っている人がキリストであることが分かって、食べ物を与えたり、飲み物を飲ませたり、看病したとすると、それは一見同じ行為をしていても、正しいとされた人達とは、行いの動機が違います。助ける相手を選び、自分が褒められるために行うならば、それは愛の行為とは言えないと、聖書は伝えています。同じ行いをするにしても、自分が賞賛され、名声を得るため、報酬を得るために人を助けるというのならば、それは神様から喜ばれることではないのです。

 コリントの信徒への手紙一13章は、 愛の讃歌と呼ばれる箇所ですが、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」 と記されています。どんなに素晴らしい行いをしても、 その行いが、純粋な愛の気持ちから行ったことでなければ、意味のないことだと語られているのです。サムエル記上16章4〜7節のダビデが、エフライム王国の2代目の王として選ばれる出来事の箇所を読んでいただきました。7節には、「主は、サムエルに言われた。容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 と記されています。神様は、私たちの心をご覧になっておられるというのです。

 先ほどのマタイ25章40節で、キリストは次のように述べています。『はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 ここでは、隣人への愛とキリストへの愛が、一つであることが語られています。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのであるという、キリストの御言葉は、マザー・テレサが、生涯最も大切にした聖書の御言葉でした。マザー・テレサは、この御言葉をただ大切にしただけではなく、彼女の人生をかけて、この御言葉を実践して、生涯を最も小さな者のために捧げました。この御言葉が、マザー・テレサを突き動かし、生きた言葉として働いていたのです。

 私たちは、どんなに小さな存在でも、神様から受け入れられ、覚えられ、愛されています。誰もが、神様の前に、かけがえのない大切な一人の人間として、受け入れられているが故に、私たちもキリストに従う者として、隣り人への愛を示して行く生き方が求められています。キリストが、ご自分の生涯と命をかけて示してくださった愛のお姿に、私たちも従って参りたいと思います。

 大きなことをすることが求められているのではなく、どんな小さなことでも、他の人のために、心を込めてなされたことであるならば、神さまは天で見ていてくださいます。神様に愛されている私たち同士が、神様の愛でつながり合う時、自分のためだけに生きている時には見えてこなかった暖かい世界があることを、キリストはお示しくださいました。いつか私たちにも、人生の終わりが来ます。神様が与えられたこの人生をどのように生きるのか、一つ一つの出来事に対して私たちがどのように向き合っていくのか、周りの方々にどのような気持ちで接し、どのような言葉を交わすのか。心がこもっている行いや言葉は、相手に通じるものです。どんなに小さなことでも、心を込めて行うならば、それは尊いものとなるのです。

 週の初めに、礼拝によって心を整えられ、霊的な力が与えられて、この一週間も、それぞれ遣わされた場所で、一人一人に与えられた、なすべきわざを、心を込めて行なっていくならば、神様は喜んでくださいます。私たちの人生は、一日一日の、そして一刻一刻の積み重ねです。この限られた人生に、いつ終わりが来ても悔いのないように、今日というこの一日を、心を込めて生きていきましょう。コロナ禍にあって、皆様のご健康が守られ、神様の愛と恵みで満たされた心安らかな毎日となりますように、お祈りしています。

 お祈りいたします。
 天の父なる神様、牛込払方町教会の方々と、礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。キリストが、ご自分の生涯と、命をかけて示してくださった愛のお姿に、私たちも従って行くことができますように。コロナ禍にあっても、お一人お一人の心と体のご健康をお守りください。神様の愛と恵みに満たしてくださり、新しく始まったこの一週間、お一人お一人の歩みの上に、豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。
主のみ名によって祈ります。アーメン


20210620 柿ノ木坂教会 伝道礼拝説教 「共に苦しむ神に信頼して歩む」  牛込払方町教会 山ノ下恭二牧師
(ミカ書7章18節、ヘブライ人の手紙4章14−16節)


 本日は、柿ノ木坂教会で皆さんとご一緒に礼拝をささげ、神を讃美することができますことを心から感謝致します。このコロナ禍の中で、多くの教会がコロナの感染を恐れて、会堂の礼拝を中止し、聖餐式を取り止めている、その中にあっても、柿ノ木坂教会が礼拝を一度も休むことなく、通常通り会堂の礼拝をささげ、聖餐式を続けて来られたことを知り、私は、渡邊義彦牧師をはじめ柿ノ木坂教会全体の信仰の姿勢に敬意を表したいと思います。

 私は、栃木県鹿沼市で生まれ、私の両親がキリスト者であったこともあり、幼児洗礼を受け、教会学校に通い、高校1年生の時に信仰告白し、教会員となりました。高校を卒業して1969年4月に東京神学大学に入学し、1976年3月に卒業して、牧師として歩んできて45年が過ぎました。
 本日の礼拝でヘブライ人の手紙4章14−16節を読みました。このヘブライ人の手紙は、おそらく説教であったろうと言われています。この手紙を読んだ、あるいは説教を聞いた教会は、迫害の下にあり、試練を受けていたのです。キリスト者が苦しんでいたのです。このような迫害、試練、苦しみの中で信仰生活を続けている教会の信徒たちを励まし、慰めるためにこの手紙が書かれ、読まれたのです。
 
 私たちは人生の中で、様々な試練や苦しみを経験します。しかし、その試練、苦しみに出逢うことによって、まことの神と出会う、幸いな経験を致します。
 私は中学校を卒業までに2つの大きな試練、苦しみを経験しました。一つは私の父が突然、交通事故で死んだことでした。私が小学4年生、10歳の時に、思いがけないことでしたが、父親が、突然、交通事故で逝去したのです。父親の死は家族にとって思いがけないことでした。父の葬儀の場面で、教会のある方が私に語りかけた言葉を忘れることができません。泣いて悲しんでいる姿を見て、かわいそうだと思ったのでしょう。「恭二ちゃん。とても辛いけれども、神さまが必ず守ってくれるからね。」と言ってくれたのです。
 私は4人兄弟の末っ子で、父が死んだ時、一番上の姉が大学2年生、兄が高校3年生、二番目の姉が小学6年生で、私が小学4年生でした。母は父親が亡くなり、4人の子どもを抱えながら、仕事をさがして、毎日働くようになりました。家庭にいた人でしたから、仕事をするのは大変な苦労があったと思います。その時から、私は鍵っ子になり、学校から帰っても母がいない寂しさを経験しました。

 二つ目の試練は、中学3年生の時に、重い病に罹ったことです。私が中学3年生の6月に急に大量に吐血をしたため、緊急入院し、400CCの輸血を12本しました。この治療のために学校に行くことができず、休学をしました。ある時、点滴の薬が体に合わず、短い時間に、ある時は高熱になり、ある時は急に体温が下がるようなことが繰り返し起こり、医師もこの病状に駆けつけ、命の危機に見舞われました。私は死ぬかもしれない恐怖に襲われました。奇跡的に良くなり、回復しましたが、この病の経験から、自分の心の中にあった思いは、死ぬことの恐れと、自分はひとりぼっちであると言うことでした。そして自分の病の苦しみは誰も分かってくれないと思うようになったのです。

 孤独とは、自分がひとりぼっちであると考えるのですが、自分の経験を他の人が共有できないと言うことでもあります。
 最近、オランダのイミンクという神学者が書いた「信仰論」を読んでいて、「孤独」について論じているところがありました。イミンク先生はポ−ル・リク−ルという哲学者の言葉を引用しています。「私が孤独と言うとき、それが意味しているのは、われわれが群衆の中にあって孤立させられていると感じるとか、生きているときも死ぬときもひとりぼっちだという事実ではない。よりラディカルな意味において、ひとりの人間の経験することをすべてそのまま伝達することはできないということである。自分の経験が他人の経験になることはないのである。わたしの経験が直接、あなたの経験になることはない。」
 孤独と言うことは、ひとりぼっちであると言うよりも、自分の経験を相手が同じように経験し、それを理解することがないと言うことなのです。

 それは、自分が経験している痛みを、他の人が、理解する、分かることはできないのです。腰が痛くて辛いと言うことをよく聞きますが、その痛みがどのような痛みであるか、察することはでき、気の毒だと思っても、その痛みを自分が経験していないので、分からないのです。自分の苦しみを誰もわかってくれない、と言いますが、他の人にはわからないのです。
 中学3年の時に、経験したことは、誰も自分の病気の苦しみをわかってくれる人はいないと思っていました。高校に入学しても、悶々としていた時でした。 
 夏休みに聖書を読んでみようと思い立ち、聖書を読み始めました。ヘブライ人への手紙を読んでいた時に、4章15節のみことばに深い印象を持ち、目を留めたのです。その時は口語訳聖書を読んでいましたので、口語訳で読みます。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできない方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じ試練に会われたのである。」この聖書のことばに私は心が震えるような感動を受けたのです。 私は幼い頃から教会学校に通い、聖書の言葉を断片的に聞いて知っていましたが、聖書の言葉が自分に向かって語られているとは思っていませんでした。しかし、この聖書のことばは、神が自分に向かって語られている言葉だ、と思ったのです。
 
 この時は、自分の持っている問題意識にあてはめて読んでいましたから、この聖書の言葉の正確な意味をつかんでいなかったと思います。自分は病気で苦しんで来た、自分の苦しさは誰も分からない、しかし、イエス様は病気と言う弱さを「思いやる」方なのだ、自分の苦しみをよく分かってくれる方なのだ、と理解したのです。イエス様は自分の弱さを「思いやる」方である、このみことばを読んで、聖書が語っている神が、私のことを深く思いやる神であることを知らされたのです。このみことばの経験から、この年の10月に信仰告白をすることができました。
 
 私のすぐ上の姉が、ある大学の教育学部で学んでいた影響もあり、私は、将来、小学校の教師を目指して、大学の教育学部を受けたいと思っていました。
ところが、あることがきっかけになって、牧師・伝道者になる決心が与えられたのです。それは鹿沼教会の高崎隆牧師の説教を聴いたことによります。高崎隆牧師は神学生の時に洗足教会に通っていましたが、その当時、結核で入院していたことがあるのです。私が高校2年生の時に、結核が再発して、滋賀の近江サナトリウムに療養に行くことになりました。高崎隆牧師が結核療養所に行く直前の説教を聞いていた時です。病を押して、一所懸命に礼拝でみことばを語る姿に感動したのです。病を持っていても、一所懸命にみことばを届ける、そういう仕事があることを知りました。この時に、小学校の教師の仕事をするために教育学部に行かないで、キリストの福音を届ける生き方をしたいと言う思いになり、東京神学大学に行く決心をして東神大に入学したのです。

 東京神学大学ではギリシャ語を学ぶのですが、大学3年生の時に、ギリシャ語でヘブライ人の手紙4章15節の「思いやる」と言う元々の言葉が「シンパシー」と言う言葉であることが分かりました。「シン」と言う言葉は「共に」と言う意味の言葉です。「パシ−」と言う言葉はパッションという言葉でよく使います。「苦しむ」「苦難」という言葉です。「シンパシイ」この言葉は、「共に苦しむ」と言う言葉です。主イエスは憐れみをもって自分の苦しみを共に「苦しむ」方であることがこの時、私の中ではっきりしたのです。
 川村輝典牧師が書いた注解書には、「この『イエス』はわたしたちの弱さに同情できると言う意味で憐れみ深いのである。『弱さ』は複数になっているが、それは肉体的な弱さや病気、道徳的な弱さ、宗教的な弱さのすべてを含んでいる。」と書いています。新共同訳では「シンパシー」と言う言葉を「同情」と翻訳しています。そして次のように解説しています。「『同情する』(4章15節)は、他者の苦しみの中に自らも入り込み、その苦しみを自分の苦しみとして背負うと言う意味を持つ。」

 ヘブライ人の手紙2章10節−18節は、ヘブライ人の手紙4章14節−16節のみことばと共通しているところがあります。それは、わたしたちの救いのために、私たちに深く憐れみ、試練を受けられたと言うことです。この2章では、御子がイエスと言う存在になられたことに集中し、そして大祭司論が導入されるのです。2章17節、18節に「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」と語られています。
 
 主イエスは私たちの罪を贖うために、すべての点で私たちの兄弟となってくださったのです。私たちと同じ血と肉を備えて、私たちの苦しみと死を自分のものとしてくださったのです。相手がどのように苦しんでいるか、死の恐怖に怯えているのか、その経験を共有することは難しいのです。しかし、主イエスはその苦しみと死を自分で引き取り、自分のものにしてしまったのです。
 このヘブライ人の手紙4章15節のみことばは私の信仰告白をする、キリスト者となるきっかけになった、とても重要なみことばなのです。
 神と同じ方、大祭司としての主イエスが私たちのために共に苦しんでくださったのです。私たちが神に近づくために、私たちのために共に苦しんでくださったことは、私たちにとって大切なことを示そうとしているのです。「思いやる」「同情する」は「他者の苦しみの中に自らも入り込み、その苦しみを自分の苦しむとして背負う」と言うことです。
 
 もう36年も前のことですが、私が北九州市の若松教会に在任しておりました頃、北九州地区で「葬儀の手引き」を作ることになり、その委員会のメンバ−として、話し合いに参加していました。その時に、一般に「お悔やみ」と言いますが、キリスト者としてどのような言葉で遺族に挨拶をしたら良いのかを話し合いました。一般に「ご愁傷さまです」と言う言葉があるけれども、それでは、キリスト者として心の籠ったった挨拶にはならない、という意見があり、心を籠めて「大変でしたね」と言うのも良いのではないか、丁重に頭を下げてお辞儀をするだけで良いのではないか、という意見もありました。「葬儀の手引き」には「遺族に挨拶するふさわしい言葉は見つからなかった」と書いたのです。相手の悲しみや苦しみにほんとうに寄り添う言葉を見つけることができなかったのです。キリスト教書店で、遺族へ出すカ−ドがありますが、そこには英語でSYMPATHYと書かれています。「あなたに深く同情しています。」「あなたと共に私も苦しんでいます」と言う意味になります。
 相手の苦しみを自分がほんとうに苦しむことができるのでしょうか。自分の苦しみは自分しか分からないのです。親しい家族を失った者の悲しみは、その経験をしなければ、分からないのです。

 しかし、ヘブライ人への手紙2章18節では、主イエスご自身が「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」と語られています。この試練とは、十字架の苦難と死のことです。主イエスご自身、この地上で試練を受けられたのです。それは主イエスを憎み、敵対する人々に苦しめられましたし、十字架の死までに、多くの人々から侮辱を受け、罵られたのです。そして、私たちの罪の贖いのために十字架において自らの肉を裂き、血を流して、耐えがたい痛みを経験されたのです。

 私が痛みを感じた時、苦しんだ時に、主イエスがこの同じ痛みと同じ苦しみを経験されている、私のすべてを知り、分かって下さっていると信じて、深い慰めを与えられてきたのです。そのことが、私の魂を支えてきたのです。多くの苦しみや痛みを抱えている人々に、ほんとうの慰めを伝えているのがキリスト教会なのです。「慰め」とはギリシャ語でパラカレオ−と言う言葉です。パラ、傍らに、カレオ−、語りかける、呼びかける、という言葉です。苦しみや痛みを持っている私たちに対して苦しみや痛みを経験している主イエスがそばにいて、語りかけているのです。「痛いだろう。私も共に苦しみ、その痛みを自分のものとしている」と語りかけるのです。痛みを覚える時、いつも主イエスがこの痛みをよく分かっている、ご自分のものとして忍耐している、そう信じる時に、耐えることができるのです。耐えられないほどの苦しみと痛みを経験する時、主イエスはその苦しみと痛みを分かって下さるのです。教会とは、ひとりひとりがもっている悩みや苦しみや痛みを共に分かち合うところなのです。誤解している人が多いと思いますが、キリスト教会は、道徳的に立派な人になるための修養団体ではありません。キリスト教会は、神の愛を信じて、互いに赦しあい、互いに労り合って、共に歩むところです。
 この礼拝に出席されている皆さんも、それぞれに心に悩みや苦しみ、痛みをもって来られていると思います。外見的には明るそうに、元気そうに見えるけれども、ひとりひとり悩みを持ち、苦しみを持ち、痛みを覚えているのです。
 教会は、ひとりひとり抱えている重荷を降ろして、「大変でしたね」「そういうことで苦労してたんですね」「覚えて祈っていますよ」と互いに慰め合い、労り合うところなのです。

 イエス・キリストの神は、私たちの苦しみと痛みを深くわかって理解しているばかりでなく、この神は私たちの罪を赦す神なのです。私たちの過ち、罪を赦す神なのです。昨年、牛込払方町教会の聖書を学ぶ会で、旧約聖書のミカ書を学びました。ミカ書7章18−19節には、この神がどのような神であるかが書かれています。「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」
 
 毎週、柿ノ木坂教会で行われている礼拝、説教において私たちの罪の赦しが宣言され、聖餐によって罪の赦しをリアルに体験することができます。教会の礼拝に出席すると「あなたがたは罪を赦された者だ、あなたがたは私のものだ、神の愛の中にいるので恐れることはない、安心して行きなさい」というメッセージを聞き、味わい、大きな喜びを経験することができます。

 私がいつもとても慰められている「祈り」があります。「聖パトリックの祈り」と言われる祈りです。
 「キリストは私と共におられる キリストは私の内側におられる キリストは私の背後にも 私の前にもおられる キリストは私の傍らに立ち 私をとらえたもう キリストは私を慰め 回復させてくださる キリストは私の上にあり 私の下におられる キリストは平安の中にも 危険の中にもおられる キリストは私を愛してくれる皆の心の中にもおられ、キリストは友の口にも 異邦人の口にもおられる。」

 皆さんは苦しむことがあるでしょう。痛みを覚える時があるでしょう。イエス・キリストは、その苦しみと痛みを御自分のものとしてしまい、共に苦しみ、共に痛みをもって、私たちの傍らに立って慰めてくださるのです。 

20210613 主日礼拝説教  「羊飼いがいつも私たちを守っている」  山ノ下恭二牧師
(エゼキエル書34章11−16節、ルカによる福音書15章1−7節)


 新約聖書には、主イエス・キリストが語られた多くのたとえ話があります。本日の礼拝で読みましたルカによる福音書15章1−7節のたとえ話はよく知られているたとえ話です。このたとえ話は、教会や教会学校の讃美歌として歌われてきました。教会学校で使用している「こどもさんびか55番」になっており、礼拝で使用している讃美歌21の200番も同じ歌詞、曲です。私も教会学校でこのさんびかをよく歌いました。このたとえ話は、讃美歌を通して歌われ、広まった物語です。それだけにこの物語はよく知られており、わかりやすい物語です。
 このたとえ話を読んで、私が注目した言葉は、15章7節にある言葉です。15章7節には「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも大きな喜びが天にある。」とあります。この中で「大きな喜びが天にある」と言う言葉に注目したのです。「天」という言葉は、神がおられるところです。使徒信条に「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。」とありますが、天とは神がおられるところです。罪人が悔い改めると、天では大きな喜びがある、と語られているのです。この地上で自分の罪を認める、神から離れている生活をしていることを悔い改めて、神のもとに帰る者がいる、そのことに神は大いなる喜びを持つのです。この物語は私たちに深い関心をもって、私たちが神のもとに帰って来ることを待っている神が、天におられることを語ろうとしているのです。

 皆さんは自分に関心をもっている、自分を心配している人がいると思います。しかし、ひとりもいないとしたら、それは辛いことであると思います。自分に関心を持ち、心配している人がどこにもいないとしたら、深い孤独の中に落ち込んでいくと思います。深い穴のようなところに入っていくような気持ちになるのです。しかし、この物語は、この地上で生きている私たちのために、天で心を煩わしている、心配している神がいることを伝えようとしているのです。
 最近、新聞を読んでいましたら、こういうことが書いてありました。現在、コロナ感染のために、孤独を感じて自殺する人が増えてきているとありました。そして精神科医師が次のようなコメントを書いていたのです。表面的に明るく元気そうに見えても心の中で苦しんでいる人が多くいて、誰でもが自死するはずがないと思う人が自殺する、と解説していました。表面的には明るく振る舞っているけれども、深い孤独の中で苦しんでいるのです。特に、独り暮らしで、コロナ感染のために外出できず、友達とも交流がない、自分の気持ちを話す相手がいない、自分が壊れてしまい、鬱になり、自殺してしまうのです。私たちも自分が独りぼっちである、誰も自分が苦しんでいることに気づかない、自分の気持ちを理解している人がいない、そのような思いになることがあります。しかし、自分に深い関心を持っている神がいるのです。私たちは、そのような神を持っているのです。私たちひとりひとりに神は心を向けているのです。

 周りの者が自分に関心をもっているか、どうか、と言うことは気になるところです。周りに人がたくさんいるのに、誰も自分のことに関心をもっていないことは、孤独を感じるのです。このような時でも、天で心を煩わす方がおられるのです。他の人が私のことを知っているのは、本当にわずかです。今日の礼拝に来る時も、それぞれの悩みを抱えて来ているけれども、その悩みをみんなが詳しく知っているわけではないし、自分の悩みを周りの人がよく知っているのではないのです。そのような私たちを、天で深い関心をもち神のもとに帰って来ることを願っている神がいるのです。しかも、ひとまとめにしているというのではなく、私たちひとりひとりに神が心を向け、救おうと志しているのです。
 この15章は、このルカによる福音書の中で一つの頂点をなすものです。この15章に基づいて、キリスト教が、愛の宗教であると理解されているのです。 先ほど言いましたように、この譬えは、子どもの時からこどもさんびかで歌っていたので、その歌詞でこの物語を覚えているのです。今、教会学校で用いているこどもさんびか55番1節は次のような歌詞です。「小さい羊が 家をはなれ、ある日遠くへ あそびに行き、花さく野はらの おもしろさに、かえる道さえ わすれました。」このこどもさんびかは、「讃美歌21略解」によると1850年にイギリスで出版された讃美歌の中にこの讃美歌に入っており、日曜学校、リバイバル、伝道集会で盛んに歌われ、日本では、1928年に日曜学校讃美歌に収められて歌い継がれてきたのです。「讃美歌21略解」には「長年にわたって愛されてきたこの讃美歌は、『讃美歌21』に引き継がれてこれからも歌われることでしょう。」と書いてありました。

 私が岡山・蕃山町教会に在任していた時、ある老婦人が洗礼を受けて、家庭集会でこういう話をされたのです。この婦人は、若い頃、教会に通っていたけれども、長い間、教会から離れていたそうです。洗礼を受けたけれども、洗礼にたどり着くまでとても長い空白の時間があった、教会を離れないで洗礼を早く受けておけば良かった、そうすれば恵みをたくさん受けることができたと話されたのです。この譬えは、一匹の羊が羊飼いのもとを離れてしまったのです。かつて教会で洗礼を受けたけれども、教会から離れてしまった人は多いのです。教会に留まっていれば、多くの恵みを与えられるのですが、さまざまな事情があって教会から離れることがあります。この地上には、私たちが喜ぶような楽しいことが溢れているのです。その誘惑に負けてしまうのです。特別に神を信じなくてもやっていけると思うのです。わざわざ教会に通って礼拝し、奉仕をするよりも、気ままに過ごすほうが楽だと思ってしまうのです。
 
 しかし、羊飼いである神がそのように神から離れてしまっている者のことを心配し、気遣っているのです。誰もが、自分に関心がないと思っている時でも、神は私たちに向けてじっと目を留め、私たちの動静を関心をもって見守ってくださっているのです。誰も理解してくれないような自分の苦しみに、神のまなざしが注がれるのです。天から神が覗き見るということはそのようなことなのです。私たちの魂は、天に深く関わっているのです。天に深く関わっているので、私たちの魂は神とつながっており、どのような時にも安心して生きることができるのです。
 この譬え話が始まるきっかけは、徴税人と罪人と一緒に主イエスが食事をしていた、そのような場面です。ファリサイ派の人々や律法学者たちから言うと、徴税人と罪人は神の掟に忠実に生きてはいない人々でした。神の掟に忠実に生きている者は、神が顧みる、神が認めている人々であると考えていました。しかし、神の掟に従っていない人は、神が善いと思っていない、顧みられない人たちだ、と考えていたのです。この考えが絶対に正しいと確信していたファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスがこの考えに反することをしているので、疑問をもったのです。自分たちが心を引かれている主イエスが、こともあろうに、自分たちが退けている人々、神が顧みることもないはずの人々と一緒に食事をしていることは驚きであり、いけないことだと思ったのです。

 15章2節に「『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言い出した。」と書いてあります。主イエスが食事を用意して招いたと言うよりは、徴税人と罪人が食事を用意して、主イエスがその招きに応じて食事を一緒にしていたのです。主イエスは徴税人と罪人を相手にしてもてなしていたのです。このような主イエスの振る舞いを見て、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、不愉快であった、おもしろくなかったのです。神に対して善くないことをしていると思い、不平をもって言い出したのです。しかし、主イエスは、交わりから排除され、差別された徴税人と罪人と共に食卓を囲むことによってこれらの人々と新しい交わりを造ろうとしたのです。
 主イエスは「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて」と話し始めました。羊を持っているのは羊飼いですが、羊飼いという言葉を聞いたファリサイ派の人々や律法学者たちは、とても不機嫌になったのです。それは羊飼いたちと自分たちとを同等に扱うとはとんでもないことだ、と思ったからです。それは、この当時、羊飼いは最底辺の人たちがする卑しい職業としてみんなから軽蔑されていたのです。私たちは、羊飼いというと良いイメ−ジを持ちますが、この当時、羊飼いは底辺の人々が担う汚れた仕事であったのです。自分たちは、羊飼いとは違う、神に近い、神の掟を守っていると思っているファリサイ派の人々や律法学者たちに、主イエスが羊飼いの話を持ち出したのは、大きな意図があったのです。その意図とは、羊飼いの心を知って欲しい、それと共に、主イエスが羊飼いであることを明らかにしようとしたのです。この譬えを話すことによって、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、自分の地位や凝り固まった考え、プライドを捨てて、罪人のために心を砕く者であって欲しいということを知らせたかったのです。

 15章4−6節には「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」とあります。この譬え話は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに向けられています。あなたがたは、これらの人々を徴税人と罪人と呼んで軽蔑し、退けているけれども、これらの人々は一匹の羊であることを忘れているではないか、主イエスはこれらの人々の羊飼いであり、神はこれらの人々を愛しておられる、そして主イエスはこれらの人々のために来たのだ、と言うのです。
 神のまなざしは、これらの人々を暖かいまなざしで見ているのです。それは、天から覗いているまなざしなのです。羊を見失った羊飼いが、探し出すまで、羊を求め、その命を気遣い、どこまでも探し出す、その姿の中に、神の愛がどのようなものであるかを語ろうとしているのです。
 
 高橋重幸というカトリック教会トラピスト修道会の司祭が、人間と羊との関わりについて書いています。羊は人間にとって貴重な存在であり、また弱い存在であることを次のように書いています。「羊は人間の衣食住すべてに関わっている。まず羊は、肉や乳、脂など人間の食卓に供される。羊毛は衣服、毛皮はテントや敷物として使われる。羊は貴重な財産である。」「これほど貴重な動物であったが、その一方羊ほど弱い動物はいない。他の動物とちがって羊は身を守るものは何一つ持たず、早く走って敵から逃れることもできない。それにまわりの景色を見て現在地を覚えることができず、犬や猫のような帰巣本能もないので、すぐに迷ってしまう。聖書の言う『迷える羊、見失った羊』の誕生である。しかも羊は弱い動物なので、たとえば茂みに足を取られて動けなくなると、三十分間日光の直射を浴びただけでも死んでしまう。また夜と昼の温度差にも弱いので、山羊とちがって、夜間は密集させるか羊小屋に入れる必要がある。その時、牧者たちは、小屋のまわりに巡らした柵の小さな入り口をくぐらせながら、羊の体に触れて怪我がないか、お腹が張るとかの異常がないかとチェックする。そしてその時同時に羊の数を調べ、一匹でもかけているなら、すぐさま捜しに行かねばならない。こうして牧者と羊の間には暖かい交流が生じる。」

 羊は目がほとんど見えないので、羊飼いの声を聞き分けて、自分の羊飼いの後についていくことは知っていましたが、このように弱い動物であることは知りませんでした。昔から、この譬え話を「迷える小羊」の譬えと呼んでいたのです。体が弱く、迷いやすく、羊飼いがいないと過ごすことができないのです。
 私たちも病気になって心が弱くなったり、体に痛みがあって辛い時があり、どうかしてほしいと思うことがあります。その時に、羊飼いである神に訴え、祈りによって話しかけることができるのです。私たちは羊飼いである神を持っているのです。羊飼いが羊のことをいつも心配して愛してくれるので、羊は安心して生きることができるのです。孤独を感じてひとり苦しむ時も、神が私たちを深く愛し、見守ってくださるのです。
 教会学校でこの譬えの紙芝居があり、私は小さい頃からこの紙芝居を見ていました。羊飼いが羊を見つけて肩に担いでいく、その場面がとても印象深いのです。たぶん、小学3年の時だと思いますが、この紙芝居を教会学校の礼拝で見る前に、私がインフルエンザに近い風邪を引いて、父親が私を背負って、自転車に乗って病院に連れて行ったのです。その時に、私は背が低いのですが父親は背の高い、大きな人でしたので、肩幅も広かったのです。父親の背中のぬくもりがあって、とても安心して背負われたことをよく覚えています。

 15章5−6節には、見失った羊を捜し出して「そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて『見失った羊を見つけましたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」とあります。ここには、羊飼いが見失った羊を見つけて、喜ぶ姿が記されています。神のもとから消えてしまう、いなくなって姿を消してしまう、その者を探している神の姿が書かれているのです。姿が見えないので、もうあきらめる、ということではないのです。いつも心配しているのです。そして見つかったら、大きな喜びになるのです。「喜び」と言う言葉がここに二回出てくるのです。羊飼いのもとに帰って来た、その羊を喜ぶのです。

 7節には「悔い改め」という言葉が出てくるのです。この言葉を誤解している人が多いのです。悪いことをしたので反省した、謝罪した、ということではありません。神の愛が、悔い改めに先行しているのです。私が悪かったと反省する、謝罪することに先だって、神が私たちを受け入れ、赦そうとしているのです。事件を起こした人が謝罪をした、ただ頭を一瞬、一度だけ下げただけではないか、謝罪になっていない、言葉では謝罪しているけれども、態度を見ると心から謝罪しているようには見えない、そういうことがあります。私たちは「謝罪」をそのように考えています。
 しかし、この譬えでは、そうではないのです。羊飼いがまず、羊を捜し、見つけたら見つかってほんとうに良かったと喜んで、肩に担いで家に帰るのです。この羊飼いの姿は、神の姿と同じです。神が私たちの帰りを待っているのです。待ちながら、捜しているのです。そして帰って来た者を喜んで迎えるのです。その神の対応に接して、私たちは、自分が悪かったと神の前で告白し、今までの生き方を切り替えるのです。それが悔い改めなのです。神の愛が、悔い改めに先行しているのです。

 羊飼いが一所懸命に探したのは、ただの一匹なのです。九十九匹のほうが大切なので、一匹ぐらい放っておいても良いと思わなかったのです。この一匹が羊飼いにとって貴重な存在なのです。主イエスは一人のいのちを大切にされました。私たちはひとりひとり心に悩みと苦しみを背負っています。しかし、そのような者を主イエスは見捨てることなく、愛しているのです。
 私たちの罪が赦されるために、主イエス・キリストご自身が犠牲としてご自身を献げて、罪の贖いとされた、それほどの愛をもって、今も、イエス・キリストが羊飼いとして、私たちを配慮し、見守っておられるのです。

20210606 主日礼拝説教 「主イエス・キリストの弟子であり続ける」 山ノ下恭二牧師
(イザヤ書6章1−6節、ルカによる福音書14章25−35節)


 私は神学生の時に、神学校の礼拝で北森嘉蔵という教授の説教を聞いたことがあります。北森嘉蔵先生は、「神の痛みの神学」という著書で有名な神学者で、カール・バルトというドイツの神学者が「神の痛みの神学」を評価していました。神学校の礼拝で北森先生は、意外なことを話されたのです。自分が尊敬しているのは、キリスト教会で長く教会生活を続けている名も無い人だ、と言われたのです。尊敬しているのは、有名な神学者であると言われるか、と思っていたところ、そうではなくて、キリスト教会で長く教会生活をされている無名の人だ、と言ったので、私には意外であったのです。ただ、この言葉は私にとっては印象深い言葉でした。
 
 北森先生は、千歳船橋教会の牧師を長くされていたので、教会員の生活をよく知っていたのです。教会員と関わり、教会員の話を聞いているうちに気がついたのではないでしょうか。教会員が信仰生活を続けて行く中で、悲しみや苦しみを経験してきたことを知っていたのです。この日本で、教会生活を続けることには様々な困難があり、大変だと言うことを知っていたのです。しかし、その中で長く教会生活を続けているキリスト者が存在していることを高く評価していたのです。

 今日の礼拝で、読みましたルカによる福音書14章25−35節は、主イエスが伝道の旅を続けている途中で語られた言葉です。主イエスの伝道の旅には、弟子たちと大勢の群衆とが行動を共にしていたのです。彼らは主イエスを尊敬し、特別の思いをもって主イエスについて行きたいと思っていたのです。しかし、主イエスは、大勢の群衆と弟子たちとを明確に区別をしていました。そのことは、「わたしのもとに来る」ことと「十字架を背負ってくる」と区別して語っていることで分かります。大勢の群衆は、主イエスのもとに来たのです。主イエスに対する強い思いをもって行動を共にしています。
 
 ルカによる福音書14章25節で、「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。」とあります。「振り向いて言われた」という言葉は元々、「彼らに向かって言われた」と翻訳して良い言葉です。
 主イエスは、ここで「自分の十字架を背負ってついて来る」ようにと語られています。群衆は主イエスに惹かれるものを感じていた、主イエスの中に人間を超えるものを見出していたのです。主イエスに魅力があったので主イエスについてきたのです。

 主イエスは、26−27節で「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負っていて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」と語っています。
 主イエスの弟子になることは、今までの生き方を変えなければならないと言うのです。これまでは自分が世界の中心であったけれども、そうではない。そのことを止めて、その座を主イエスに明け渡すようにと勧めているのです。それは私たちの生き方を変えることになり、決心が要ります。自分が神に問うのではなくて、神の問いに答えて、自分が生きる者となるのです。

 この言葉を聞くと、私たちは、主イエスの弟子になるのは、困難なことだと思うのです。自分の今の生活を捨てて、生活を切り替えるという条件でキリストに従うことは自分にはできない、弟子になることをためらってしまいます。そのような思いを持っている者に主イエスは譬えを語りました。主イエスの弟子になることの意味を語った後に、主イエスはこの譬えを語られたのです。

 この譬えは「塔を建てる」という譬え話です。高さのある立派な塔を建てるのです。日本では東京タワー、東京スカイツリーを想像しますが、主イエスの時代では、そのような高い塔ではなかったと思います。ここでよく考えなければならないことは、塔を建てることは、大事業なのです。主イエスが信仰生活を塔を建てることに譬えているのは、信仰生活は大事業であるということを語ろうとしているのです。

 私たちは、信仰生活、教会生活は、私的な個人的なことで、日本の社会に何の影響もないと思っています。隣に住んでいる人も、日曜日に私が教会の礼拝に通っていることを知らないし、会社では私がキリスト教会員だということを言っていないのだから、この社会に何の貢献もしていないと思うのです。しかし、神はそのようには思っていないのです。私たちは、大きな事業をしているのです。ある注解書には、事業家と言うと、大きな会社を経営している社長、政治家などを考えるけれども、キリスト者として信仰生活をしている人々も実は大きな事業をしているのである、と書いているのです。

 塔を建てて完成すれば、喜びが大きいですが、塔を建てるまでに様々な苦労があります。塔を建てるのは多額の資金が必要です。塔を建てる人は、自分に十分な資金があるかどうかをよく計算して建てるのが常識です。資金不足であると、建てることは難しいのです。
 
 この譬えは、主イエスの弟子になることを、塔を建てることに譬えているのです。主イエスの弟子となり、信仰生活をしていくことは、塔を建てていくように、自分の信仰を建て上げていくことであると言っているのです。信仰生活を続けることは、苦労を伴うことです。苦労があるからと言って途中で終って良いということはできないのです。家が完成するまで、忍耐強く建て続けるのです。そのように、完成を目指すのです。

 主イエスの弟子になる、それは洗礼を受けることに相当します。私はこの譬えを読んで、自分が信仰告白をしよう、教会員になろうと決心をする前に、自分がどのようなキリスト者として生きていくのか、はっきりした考えや見通しをもって、信仰告白をして、教会生活を始めたのではなかったと思いました。いわば、主イエスのもとに飛び込んだようなものだったのです。私が神学校に入学することを決心する前も同じです。どのような伝道者になるのか、ということをじっくり考え、将来の見通しをもって、伝道者になろうとしたわけではないと思ったのです。行き当たりばったりで、前もってよく考えないで神学校に入学したのです。

 よく考えて、熟慮の結果、洗礼を受けたという人もいるでしょう。しかし、前もってよく考えず、覚悟もなく、十分な準備もなく、すぐに洗礼を受けた人もいます。伝道者になろうと思い、決心した人も、決心する前に十分、熟慮した人もいるでしょう。しかし、そうでない人もいるのです。あるきっかけで、突然、伝道者になろうとした人もいるのです。その決心は一瞬であったと思います。神学校での学びがどのようなものなのか、どこの教会に赴任するかも分からないまま、神学校に飛び込んで入学した人もいるのです。
 洗礼を受ける前、よく熟慮をして覚悟をして洗礼を受けることが大切ですし、伝道者になろうとして、神学校の入学試験に申し込む前に、よく熟慮して覚悟をすることは大切です。
 
 しかし、そのようなことだけではなく、別の視点で考える必要があるのです。それは、神がその業を起こしているという視点です。私たちが決心して覚悟をしたというのではなく、神が信仰を起こし、初めさせ、神が終わらせるということです。
 フィリピの信徒への手紙1章3−11節には、パウロがフィリピの教会の信徒を覚えて祈っている祈りがあります。1章6節に「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。この「成し遂げる」という言葉は、14章29節、30節の「完成する」という言葉と同じ言葉です。「終わる」という言葉にも翻訳されています。自分が決心して洗礼を受け、信仰生活を始め、がんばって信仰生活を続けていけば完成するというのではなくて、神が、聖霊によって、イエス・キリストの福音を伝え、私たちの中に信仰を起こし、私たちの信仰生活を完成させてくださるのです。終わり方はひとりひとり異なるでしょう。神が愛の配慮をもってその時にふさわしく、終わらせてくださるのです。

 主イエスのもう一つの譬えは、他国と戦う王の話です。敵の王が二万人の兵を従えて進軍してくるのです。その王を、一万人の兵をもって迎え撃つのです。戦いの譬えを語るのは、私たちの信仰生活は、戦いを避けることができないのです。日本という異教社会では、キリスト者は、多くの戦いがあるのです。キリスト者がいることも教会があることも知らない社会に生きているのです。誤解されたり、偏(かたよ)った見方をされることもあるのです。

 信仰生活には戦いを避けることができないのです。戦いは必ず勝利しなければならないのです。負け戦は考えられないのです。
 この譬え話では、敵の兵力は二万人で、こちらの兵力は一万人です。圧倒的に敵のほうが大勢です。信仰の戦いは、このような戦いであることを語るのです。楽な戦いであるわけではないのです。圧倒的に不利な条件で戦うのです。兵力が二万と一万では倍も違うのだから、使節を送って和を求めることもできるのです。しかし、主はそのように言わないのです。戦うべきかどうかを、腰を据えて考えるだろう、と言うのです。この戦いにおいてなお、勝利の可能性があることを示しています。二倍も兵力が違うというだけでも怖じ気づくのではなく、そのような不利な状況をくつがえして、勝利があるのです。それは、神が私たちの味方であり、私たちのために共に戦ってくださっているからなのです。

 この譬えでも、私たちの決心や覚悟だけを求めているわけではないのです。私たちの信仰生活を持ち運ぶのは、私たちではなく、神であるのです。神が私たちを持ち運ぶので、私たちは信仰生活を続けることができるのです。神に委ねて行くしかないのです。イザヤ書46章3節B−4節に次の言葉があります。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(旧約p1138)
 
 主イエスの十字架とは、どのような意味をもっているのでしょうか。それは、私たちの罪の贖いとして十字架に架かり、私たちの罪が赦されるための苦しみであるのです。主イエスの十字架とは、神が私たちを深く愛してくださっていることをはっきりと表しているのです。私たちを愛するために、私たちが担う十字架を代わりに負ってくださったのです。
 私たちが自分の十字架を背負っていく、それは、主イエスの愛に生かされていくことなのです。主イエスが私たちを深く愛している、その愛の中で生活することなのです。

 主イエス・キリストの十字架と共に自分の十字架を背負う、ここに十字架を背負う共同の戦いがあるのです。
 皆さんは、一つの目的のために、親しい人々と共に共同の働きをして、重荷を担うことがあると思います。
 
 私は、年に4回、編集し発行している季刊「教会」という教会の雑誌に携わっています。この雑誌は1990年に1号が出て、現在、123号が出ています。この雑誌は、出版社に勤めているプロが編集をしているのではなくて、素人である牧師たちが編集作業をして、一冊の雑誌を作っています。一年に4回、80ペ−ジ位ある雑誌を制作すると言うことは苦労の多い仕事ですし、互いに連携して作業を進める必要があるのです。しかし、一冊の雑誌ができあがる喜びは大きいのです。苦労しながら共同で仕事をする喜びがあります。編集のことでミスや失敗があっても、赦し合う関係なので、共に編集を続けて行くことができるのです。

 結婚生活もそうです。結婚して生活を共にするときに、苦労も共にするのです。その苦労を乗り越えることができる喜びがあります。主イエスが十字架を背負う、それと共に私たちも自分の十字架を背負うのです。そこで連帯することができるのです。主イエスが十字架を背負っていく、そして私たちも自分の十字架を背負っていく、そこに共に十字架を背負っていく、そこに愛の交わりがあるのです。

 主イエスに従う時に、腰を据えて考えなければならないことは、すべての持ち物を捨て去る意志の強さが自分にあるかどうかではなく、あらゆる苦難を耐える忍耐力が自分の中にあるかどうかではないのです。主イエスとの愛の交わりの中にあるということです。そこに私たちキリスト者の希望があるのです。神を仰いで、力を得ることなのです。

 礼拝に出席して、説教によって、私たちが主イエス・キリストによって深く愛されていることを知り、信じることができるので、様々な苦労に耐えて、信仰生活を続けることができるのです。イエス・キリストの愛が、塔を建てるという困難な事業を最後まで遂行させる力であり、二万の兵を一万の兵で迎え撃ってこれを打ち破る力になるのです。
 
 これまで教会に通ってきた、多くの無名のキリスト者が、信仰の戦いを続けることができたのです。私たちも主イエスの弟子として、この信仰の戦いに加わっていきたいのです。

20210530 主日礼拝説教  「神の愛による招き」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書55章1−7節、ルカによる福音書14章15−24節)


 私が、東京神学大学に入学することが決まった時に、鹿沼教会のある婦人が、牧師になるのは、うらやましい、それは、いつも聖書を学ぶことができるから、と言われたことをよく覚えています。この婦人は、その時の鹿沼教会の高崎隆牧師の妻の母親で、教会の近くに住んでていて、身近に牧師の生活を見ていて、高崎牧師が聖書や神学書をよく読み、学んでいたのを知っていたのです。牧師になるといつも聖書を学ぶことができるから、うらやましい、と言う言葉は、これから神学校に入学して学ぼうとしている私に対する祝福の言葉であったと思います。
 
 1976年3月に東京神学大学大学院を修了して、4月に岡山の蕃山町教会に赴任してから、今年の3月で45年が過ぎました。45年間、聖書を学ぶことを続けることができ、いつも御言葉のご馳走を戴いて、説教をしてきました。聖書を学ぶことによって、恵まれた経験を続けることができたことを感謝しています。エゼキエル書3章1−3節(旧約p1298)には、次のように語られています。「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言った。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹に満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」

 先ほど、旧約聖書イザヤ書55章1−7節を読みましたが、2節後半から3節前半に「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」とあります。神の言葉に聴き、学ぶことは、魂を生き返らせられることを経験するのです。そのような経験をしていることはまことに幸いなことです。この地上の生活では、悲しみや苦しみ、様々な苦労、思いがけないことに出逢うことがありますが、そのような時に、神の言葉を聞く、聖書の言葉を聞き、説教を聴き、聖餐にあずかることは、私たちにとって、深い慰めと励ましを与えられるのです。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書14章15−24節のみことばを読みました。15節には、食事をしている席で、ある人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのです。このようなことをなぜ言ったのか、ということをある人が解説しています。主イエスが、水腫の人を癒やした場面に立ち会い、主イエスの言葉に新鮮な驚きをもって聞くことができたので、主イエスと共に食事をする喜びを語ったのだ、と言うのです。
 「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」と言ったこの人は、主イエスの弟子ではなかったのです。神の国で神にもてなしを受けることはすばらしいといったこの人は、主イエスを信じて、主イエスの弟子となり、神の国に入っていた人ではなかったのです。現代でも、キリスト教の教えは好きだ、教会はとても良いところだ、そのように好感をもっている人は多いのです。しかし、洗礼を受けて、教会の仲間になることに躊躇するのです。キリスト教の教えに共感し、教会の人はみんな優しくて良い人だ、と思うけれども、洗礼を受けてキリスト者になり、教会に入会することをためらうのです。

 「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」この発言をきっかけにして、主イエスはたとえ話をしているのです。このたとえは、盛大な宴会のたとえと言われています。この宴会とは、現代では結婚披露宴に相当するかも知れません。日時と会場が決まっており、招待状が来ていて出席の返事をしているのです。結婚する者は何ヶ月も前から準備を何回も重ねている、そして、披露宴のプログラムの打ち合わせがあり、食事の準備もされているのです。

 主イエスは、実際に食事をしながら次のように語ったのです。「ある人が盛大な晩餐会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」既に招いておいた人々に、いよいよ宴会の準備ができましたので、実際においで下さいと僕を送ったのです。
 この当時、宴会の時には、二段階に客を招いたのです。最初の招待の時には、招待された人々が断らなかったので、この宴会に招いた家の主人は、当然、この宴会に招待された人々が来ると思っていたのです。

 ところが、このたとえは、悲しい話になるのです。いよいよ、宴会が始まる当日になって、誰でもが断り始めたのです。「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、失礼させてください。』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組飼ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」と記されています。
 これらの人々は、皆、もっともな理由を言って断っているのです。畑を買ったので、どうしてもそれを見にいかなければならない、今、行かないといけない、畑を買うというのは、大きな買い物であるのです。牛を買ったので、どのような牛なのか、調べに行かなければならない、農作業をするのに、牛は必要で、牛を使って仕事をしなければならないので、どんな牛かを見ることはとても重要だ、自分にとっては生活がかかっているので、大変、申し訳ないけれども、宴会には行けない、と返事をしたのです。そして、自分は新婚早々で、結婚生活をスタ−トしたばかりで、家に妻を一人、残して宴会に行くことはできない、宴会の招待に応ずることは無理だ、と言うのです。

 このような理由を聞くと、どうしても来て下さい、宴会の準備ができており、ご馳走も用意していますから、と無理に誘うことはできないのです。僕たちは、招待をした人のところに行って、宴会のために案内しても、そのような理由であるならば仕方がないと引き下がったのです。

 私たちは、様々な会合があって、出欠の返事を出さなければならないことがあります。出席したいと思わないけれども、つきあいで出席することもあります。出席したくない時に、その理由を相手が納得するようなもっともらしい理由を考えて返事することもあるのです。
 
 この宴会が現代の結婚式の披露宴に相当するものであると考えるならば、結婚式の披露宴は、一般の会合とは違うのです。特別なものです。披露宴に出席を出していたけれども、当日、行けないとしたら、その理由は、誰でもが納得する理由でないといけないのです。重い病気になった、入院予定である、とか、相手が納得する理由が必要なのです。家の主人が、宴会のために心を込めて、準備しているのですから、それに応える必要があるのです。
 畑を買った、牛を買った、結婚したばかり、という理由で宴会の招待を断ったのですが、考えてみると、この日でなければいけないことではないのです。日にちを調整すれば、別の日に行くことができるはずなです。しかし、これらの人々は、自分の生活を変えてまで、どうしても行かなければならないとは思わなかったのです。
 私たちは、何を優先するのか、いつも選択しているのです。自分の生活の中で重要だと思っていることを先にするのです。これらの人々は、「失礼させてください」と口では、招待を受けたのに行けない、申し訳ないと言っていますが、心の中では、特別に悪いことをしたわけではないと思っているのです。

 14章24節で主イエスは「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食卓を味わう者は一人もいない。」と語っているのです。
 この譬え話で、前もって宴会に招待しただけでなく、宴会の当日に、招待した人のところに行って、改めて宴会の用意ができたのでおいでくださいと招いたのですが、このように重ねて、二度、招待したというところに深い意味があるのです。「あの招かれた人たち」というのは、ユダヤ人たちであったのです。ユダヤ人たちは、最初は宴会の招待に応じていたのです。ユダヤ人たちは、神に選ばれた民なのです。つまり、神を知っていたのです。神をもっていた民なのです。神が主催する宴会に招くリストの中にその名前が登録されていたのです。そこで、最終的な招きのために、主イエスは来られたのです。主イエス・キリストが来られたと言うことは、最終的な招きが始まったことなのです。しかし、この招待をこの人たちは断るのです。この招待とは、主イエスの弟子になることへの招きなのです。

 私たちは断ることがあります。断るのにそれぞれ理由があるのです。私たちも主イエス・キリストに招かれています。主イエス・キリストに招かれている、それがはっきりしているのは、礼拝です。礼拝に出て、みことばを聞き、聖餐を受ける、これ以上の幸いはないのです。しかし、この招きに応じないことがあります。その理由を考えるのです。礼拝に出ることは、その日の生活を変えなければならなくなるのです。礼拝に出ることは戦いがあるのです。自分の生活を変えたくないのです。自分の生活に差し使えない限りにおいて、教会に行くのです。
 
 私が神学生の時に、神学校は前期と後期と二学期制を取っていて、9月と1月に、学期毎の試験がありました。私は試験が始まる前には、試験勉強をしなければならないと言う思いが強かったのです。水曜日の夜が聖書研究・祈祷会でしたが、試験が近かったので教会に電話して「試験があるので、今日の聖書研究・祈祷会は休みます」と言って、牧師に断ったことがあります。教会に行けない、行かない理由として試験があるというのは立派な理由になると考えていましたが、今から考えると、私が、教会のことよりも、自分の生活を優先していたと思いました。教会に行くことは良いことだ、と思っていても、実際は教会には行かないのです。自分の生活が一番で、神を礼拝し、祈ることは二番目、三番目に後回しになるのです。主イエス・キリストの弟子になるように招かれ、その招きに応じると、自分の生活がひっくり返ることになるのです。

 盛大な宴会の招きに応じる人がいなかったので、この家の主人はどうしたのでしょうか。14章21節で「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさい。』」と書かれています。最初に招待した人たちが全く来ないので、宴会は中止した、ということではないのです。この家の主人は、大胆なことを計画したのです。この宴会に招待しようと全く思っていなかった人たちをこの家の宴会に招こうとしたのです。

 この当時の宴会は、招かれたら、その答礼として同じ規模の宴会を催すことが常識であったのです。私たちは宴会に招かれたら、答礼品をもっていくのです。この当時は、同じ規模の宴会をすることが行われていました。最初に招待した人たちは、畑を買うだけのお金がある人であり、牛を買うだけのお金があり、結婚して家庭を営むことができる、裕福な人たちであったのです。お金を持っているので、答礼としての宴会を催すことができるほどの、資産家であったのです。そのような人しか、招かなかったのです。

 その人たちが招きを断って来なかったので、それで宴会を中止せず、宴会のお礼ができない人たちを招くことは大きな驚きなのです。ここにこの譬えの重要なポイントがあるのです。この家の主人が招いた人たちは、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」であります。これらの人たちは、地の民(アム・ハ−レツ)と言われている人たちです。虫けらのように、この地を這ってうごめいている人たちなのです。神から遠く離れた人たちとして、神から選ばれていなかった、と考えられていた人たちでした。神の国の宴会には一生、招かれることはまずあり得ない人たちです。神にもてなしを受けることもない人たちであったのです。しかし、この家の主人はこの宴会に招くために、「町の広場や路地」に僕を送って引っ張って来るように命じるのです
 
 そしてまだ席が空いていて一杯にならないので、主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきて、この家を一杯にしてくれ。」と命じるのです。この「通りや小道」というのは、地の民が住んでいる地域にある「通りや小道」なのです。エルサレムの町は、裕福な人々、ファリサイ派の人々が住む地域と、貧しく、障がいをもっている人々が暮らす地域とに分断されていました。金持ちやファリサイ派の人々が決して行かない、地域に行って、宴会のために、人々を無理にでも引っ張れと言っているのです。神から離れている、深い罪をもっている者をも主イエスは弟子になるように招いておられるのです。これらの人々は、この宴会のお返しができない人たちでした。神の国の宴会で神からもてなしを受ける、豊かな時を過ごすことができる、十分にもてなされ、大切な存在であることを経験することができるのです。しかし、それに対して感謝を表したり、十分なお礼ができない人たちであったのです。

 ここでは、神の愛による招きに対して、感謝を表すことのできない人たちを招いておられるのです。14章12−14節に、主イエスは次のように語っているのです。「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、そのひとたちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。』」
 
 神から十分なもてなしを受けているのに、それに応えて、「お返し」、感謝をしたり、神のみこころに従うような善い生活ができない、そのような者を、神は愛をもって招いているのです。神の国がどのようなものであるか、主イエスは、実際の行動によって明らかにされたのです。それは主イエスが罪人や貧しい人たちと食事をしていることによく表れています。このことは、私たちの良い行為によって神に正しいとされるのではなく、ただ、キリストの正しい行いによって義とされることを表しているのです。神に対してお返しのできない者を愛して、神の国に招き、その豊かなもてなしを受けることができるのです。

 神によって、私たちは、神の国の食事に招かれています。私たちは、教会の礼拝においておられるイエス・キリストと対面し、御言葉の説教と聖餐によって、神から豊かなもてなしを受けることができるのです。 

20210523 ペンテコステ主日礼拝説教 「キリストのからだにつながって生きる」 山ノ下恭二牧師
(ヨシュア記22章1−5節、コリントの信徒への手紙一 12章27−30節)


 本日は、ペンテコステ・聖霊降臨日礼拝です。主イエスの弟子たちが、弟子の一人の家に集まって祈っているところに、聖霊が降り、キリスト教会が誕生した記念の日です。聖霊が降り、キリスト教会が誕生したことは、使徒言行録2章に記されています。キリスト教会が誕生した後に、礼拝がささげられ、洗礼と聖餐が行われ、職務が与えられ、教会の形が整えられたのです。そして、パウロを中心とした使徒たちが、現在のトルコ、ギリシャ、ロ−マに伝道に行き、キリストの福音が伝えられ、各地にキリスト教会が創設されたのです。更にヨーロッパの奥地へとキリストの福音が伝えられ、そこにキリスト教会が設立され、キリストの福音が拡大して行ったのです。

 本日は、聖霊降臨日礼拝であり、4月の時点では、礼拝後、教会総会を行う予定でした。2021年度の教会総会ですので、一年間の教会の方針を決める大切な時ですので、この時に改めて教会について学びを深めたいと思い、聖書と説教題を決めていました。その後、コロナの感染が終息せず、感染防止のために、教会総会が6月27日に延期されました。しかし、予定通り、本日は、コリントの信徒への手紙一12章から、教会について学びたいと思います。

 使徒言行録では、教会を特徴づける際に用いる言葉は、「同じ場所に」集まるという言葉です。使徒言行録2章1節に「五旬祭の日が来て、一同が集まっていると」と言う言葉があります。「一同が集まっている」と言う言葉は、原文では「同じ場所に」と言う言葉です。この言葉は、コリントの信徒への手紙一 14章23節に「教会全体が一緒に集まり」とありますが、この言葉も原文では、「同じ場所に」という言葉です。

 現在は、コロナ禍の中で教会に集まることが難しくなっていますが、教会は「集まっている」ところです。集まらないと教会にはならないのです。集まることなしに教会は存在しないのです。最近、日曜日の朝、教会の近所の人に遭って挨拶すると「今日はお集まりをする日ですね。」とよく言われることがあります。その人は、日曜日に教会に集まっていることを知っているのです。確かに、教会は集まるところです。
 
 教会は「集まっている」ところですが、ここで考えなければならないことは、私たちが何のために集まっているのか、と言うことです。集まっている目的があるのです。私たちが教会に何をするために集まっていて、自分が何をするために来ているのか、と言うことをよく考える必要があるのです。ある場所に行くのは目的があるのです。仕事をするために会社に行く、買い物をするためにス−パ−に行く、音楽会に参加するためにコンサートホールに行くのです。
 
 どこの教会でも、教会員やまだ洗礼を受けていない人が教会につながって欲しいという願いを持っています。教会の様々なことに関わってもらいたいと思っています。そのような時に考えることは、教会の仕事があれば、教会につながることがあるので、お願いしようと思うのです。それは、その人の「居場所」を作ることによって教会につながることがあるからです。その人が活躍できる場面を作ることは大切なことです。自分が教会の仲間に加えられて、役に立っている、そのことはうれしいことです。

 しかし、教会につながることができる反面、落とし穴があるのです。それは、自分の仕事、自分の役割、自分の奉仕があるから、教会に来ていると言う意識をもってしまうことです。自分の仕事、自分の役割、自分の奉仕がある時には教会に来るけれども、自分の仕事、役割、奉仕がない時には来ない、ということになることがあるのです。それが問題なのです。自分を重んじて、礼拝を守ることを軽んじていることになります。

 私は、高校2年生の時に、教会学校の教師になり、毎日曜日の朝、8時30分から始まる、教会学校の礼拝に参加し、分級をして、その後、礼拝に出席していました。高校2年生の時に属していたクラスは進学クラスであったので、その時の自分の関心は大学受験のことでした。大学受験のために時間があったら、勉強しなければならない、という思いが強かったのです。その時期、ある日曜日に、教会学校が終わって家に急いで帰ろうとした時に、教会の玄関で、ある教会員から呼び止められたことがありました。「恭二ちゃん、礼拝は」と言われたので、「受験勉強しなければいけないから」と言うと「礼拝が大事でしょ」と言われたことがあります。教会学校教師の務めがあったので、教会につながったこともありますが、礼拝に出席するよりも、受験勉強したほうが良いという意識が強かったのです。

 教会は集まるところですが、しかし、教会がどのようなところで、自分が何をすることが大切であるか、をわきまえていないことが多いのではないか、と思います。教会を一般の団体と同じように考えている教会員が多いのです。
 かつて、在任した教会の信徒から、教会でこういうことをしたら良いのではないか、という意見を聞いたことがあります。教会で結婚式をしたい若者がいると思う、どのような人でも教会は結婚式を引き受ければ良いのではないか、そうすると教会に結びつくことになる、と言う意見を言った人がいます。そして教会にブライダル部を作ったら、結婚式をきっかけにして教会につながるようになる、教会員にお花の先生がいるし、奏楽者もいるし、献金も入って教会の会計が助かるので、そうしたら良いと言う意見もありました。
 
 ある人は、高齢者が多く、逝去する人もいるので、教会と普段、関係のない人でも葬儀を引き受ければ、それによって関係ができ、召天者記念礼拝に来ることになり、教会とつながりができてよいのではないか、という意見を言う人もいました。このような発想を持っている人は多いのではないか、と思います。教会に人が増える方策をいろいろ考えるものです。

 本日は、コリントの信徒への手紙一 12章を読みましたが、この手紙は、コリントの教会にいろいろな問題があって、パウロに質問状が寄せられて、その質問に答える形で、この手紙が書かれたのです。コリントの教会は、問題の多い教会でした。分裂していたのです。自分の好きな伝道者がいてその人のファンになり、アポロが好きだ、ペトロが良い、パウロが良い、キリストも良い、という人がいたと書かれています。
 
 パウロが、12章で教会について詳しく書いているのは、コリントの教会の信徒たちに問題があったからです。それは、教会の一部に異言を語る人がいて、人が理解できない言葉で語るので、パウロは、説教の言葉を教会は語り、聞くことが大切であると語るのです。12章から、それぞれもっている賜物について語るのです。自分が特別の賜物を持っていることを誇る、そのことが教会に悪影響を及ぼしていることに対して、それぞれ与えられた賜物を生かすことを教えているのです。自分のもっている賜物・カリスマを誇る信徒がいたことに対して、教会において、他の人を生かすために、自分が与えられた賜物・カリスマを用いることを教えるために、パウロは12章で教会について語っているのです。
 
 12章27節で「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と書かれています。ある人は、「あなたがたはキリストの体である」と言われて、私たちが戸惑いを感じるのではないか、と言っています。私たちは自分のことをキリスト者です、教会員です、とは言うけれども、私はキリストのからだの一部です、とは言わないのです。私たちは、自分がキリストのからだの一部分であると言う自覚が薄いのです。
 
 パウロの手紙には、教会を「体」と言い表しているのです。私たちは、日常、「体」という言葉をよく使います。「体の具合はどうですか」「体の調子が良い」と言うように、「体」が元気でないと生活を続けることは難しいので、絶えず体の具合を気にしているのです。私たちは、この体をもって教会に集うのですが、集っている私たちは、ただ集まっているということではなくて、キリストの体として集まっていると言うのです。
 「キリストの」ということがなくなってしまうと、教会が単なる人間の集まり、人間の集団になってしまいます。聖書を学ぶ集い、仲良しクラブのようになってしまうのです。或いは、コリントの教会のように、仲が悪くなったり、自分のわがままを通す集団になったり、自分が好きな伝道者を囲むファンの集まり、になってしまいます。

 教会はキリストがおられるところです。教会は、聖霊によってキリストが臨在しているところなのです。私たちは体をもってこの教会と言う場所におります。目には見えませんが、この教会にキリストがおられる、そのことを信じているのです。聖霊によって、教会にキリストが体をもっておられるのです。私たちは目に見えるところでしか、見ていませんので、ここにキリストがいることを感じることができないかも知れないのですが、キリストはここに現臨していることを信じているのです。そのことを信じていないと、自分が教会に行くことが、人に会うために行く、自分の仕事、役割、奉仕があるから行く、ということになってしまうのです。
 
 教会がキリストが現臨しているところであると信じないと、教会を人間の集まりに過ぎないということになってしまいます。説教も牧師が語っていると言うことでしか理解しないのです。説教を、説教者を通して神が語っている、という信仰がないと、人間的なところで判断するのです。今日の説教はおもしろくなかった、長かった、という評価しかしないようになるのです。聖霊によって神が説教者を通して語っている、そのような信仰をもって説教を聴くのです。

 私は、私たちが礼拝をしていると言うけれども、礼拝とはどのようなことなのか、ということを考えます。皆さんは礼拝をどのようなものなのか、改めて考えないでしょうか。私たちは、人と会っています。皆さんは毎日、人と会って、挨拶をしたり会話をしています。それによってコミュニケーションを取っています。電話やズ−ムで相手と話すこともありますが、実際に相手と会って話をするほうが互いの思いや考えがよく伝わるものです。礼拝において、キリストが実際にこの場所で、ご自身のからだをもって私たちとお会いしているのです。教会の礼拝で、キリストはからだをもって、私たちと対面しているのです。キリストは人格を持ち、言葉を持っていますから、私たちに語りかけます。キリストは、牧師を用いて、説教によって語りかけているのです。礼拝は、キリストという人格と対面して、説教を聴いて、悔い改め、讃美し、感謝をするのが私たちの礼拝なのです。

 本日の礼拝で「体」について説教をするので、このテ−マに関係した本を探しました。私の書棚にある本を探したら、私が神学生の時に購入して、読んでいない本の中に「〈からだ〉の神学−パウロ神学の研究」と言う本があり、少しずつ読むことができました。この本は、J・A・T・ロビンソンと言うイギリスの新約学者が書いた本で、日本語訳が1964年に出版されたもので、年月が経過して、本がかなり黄ばんでしまっています。この本の第二章は「十字架のからだ」という題です。私たちのからだは罪によって死ぬからだですが、イエス・キリストが私たちの代わりに、罪と死を担って十字架で死んでくださり、私たちのからだを贖ってくださったということを詳しく解説しています。私たちのからだが罪のからだではなくて、神に対して贖われた、清められたからだなのです。キリストの贖いをを信じて、洗礼を受け、キリストのからだである教会に入会し、キリストのからだの部分となったのです。

 洗礼を受けることは、キリストの体である教会に入会することです。ある教会では、洗礼式とは言わないで、洗礼入会式と呼んでいます。洗礼を受けることによって、キリストの体の一つの部分になったのです。「部分」という言葉を口語訳聖書では、「肢体」という言葉で訳しています。私は「部分」という言葉よりも「肢体」という言葉のほうが「体」に対応していて良いと思います。「肢体」という言葉は、体の中で、他の肢体と有機的につながっている、結びついているという意味なのです。体の一部分が悪くなると体全体が影響を受けてしまいます。一本の歯が痛いと仕事がはかどらないことがあります。右目が見えにくくなっても、左目が右目をカバ−して働いているので、ものを見ることができるのです。体の中で互いに補い合い、助け合うことができているのです。

 洗礼を受けることによって、教会という体の一部分となるのです。洗礼を受けることによって、キリストを救い主と告白する、教会の仲間として受け入れられ、教会という体の一つの部分として、その存在が神に認められ、その人に居場所が与えられるのです。教会では、それぞれが異なる賜物をもっているのです。それを互いに補い合いながら、賜物・カリスマを生かすのです。

 キリストのからだは、私たちが作るものではないのです。私たちは、健康でいるためにからだに注意をし、運動し、食べ、活動をしますが、それと同じように、教会の活動を活発にすれば、キリストのからだができるわけではないのです。
 コリントの信徒への手紙一 10章16−17節に次のように語られています。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」

 この御言葉は聖餐について語っているのですが、教会が、聖餐にあずかることによって、キリストの体になると言っているのです。聖餐によって、キリストが私たちの罪の贖いのために、十字架において、ご自身の肉を裂き、ご自身の血を流してくださった、そのことを聖餐において、私たちはありありと信仰の目で見て、食することによって自分の体をもってキリストの恵みを経験するのです。この聖餐にあずかることによって、私たちはキリストの体にあずかることができるのです。
 
 古代教会の教父である、イグナティオスが手紙の中でこのようなことを書いています。「同じ場所に集まることなしには、見える教会は存在しない。人々がみ言葉を聴くために集まり、パンとぶどう酒を分かち合うところ、そこに見える教会がある。」

 主イエス・キリストがからだをもって礼拝において現臨されている、私たちもからだをもって御言葉を聴き、聖餐にあずかるのです。私たちの礼拝は人格を持ったキリストと人格をもった私たちと対面する礼拝であり、キリストの御言葉を聴き、聖餐を受けるのです。
 
 現在はコロナ感染のために、教会に来ることができない方もおられますが、私たちは、キリストの体にあずかるために、日曜日にこの教会の場所に来るのです。私たちは何よりも御言葉を聴き、聖餐を受けることを大切にするのです。

20210516 主日礼拝説教   「謙虚に生きる」   山ノ下恭二牧師
(イザヤ書57章14−21節、 ルカによる福音書14章1−14節)


 コロナ禍の中では、共に食事をする機会はないのですが、共に食事をすることはとても楽しいことです。アメリカに留学したことがある人から聞いた話ですが、アメリカの教会の礼拝に出ると、教会員が食事に誘ってくれて、一緒に食事をしていろいろな話をして親しくなり、とても友好的で良かったと言う話でした。そのような体験をした人は他にも多くいて、アメリカの教会では、初めて教会に来た人、全く知らない外国人でも食事に招いてもてなす習慣があることを知りました。アメリカの教会の信徒が、初めて遭った見知らぬ外国人に声をかけて、暖かく迎えてくれたことに感動し、それだけでなく食事までもごちそうになって、親しく交際することができたことに感激したと言う話を聞くのです。様々な場面で、私たちは食事を共にすることによって、互いに親しくなることができるのです。

 本日、読みましたルカによる福音書14章1−14節では、その食事の場面でのことが記されています。主イエスは、安息日に、ファリサイ派のある議員から食事に招待されて、この議員の家に入ったのです。
 そこに水腫を患った人が主イエスのもとに来たのです。この家の人がこの水腫を患った人を誘ったわけではないのです。どうしても自分の病を癒やして欲しいと主イエスを追いかけ、この家に入り、主イエスの前にいたのです。主イエスは安息日に労働はしてはならないと言う戒めがあることはよく知っていたのですが、律法を守ること以上に優先すること、もっとしなければならないことがあると考えたのです。安息日の律法を破っても優先すること、それは、水腫を患った人を癒やすことなのです。この人は、主イエスの行くところを探してこの議員の家に勝手に入り込んだのです。病に冒されて苦しんでいる、その苦しみに同情して、何とか救いたいと思って、主イエスはこの人を放っておくことができなかったのです。

 主イエスは、安息日なので医療行為はできないと言う律法に縛られることはなかったのです。主イエスは、自由な愛をもってこの人を癒やしたのです。ファリサイ派の人々は、安息日の律法を厳しく守るべきだ、安息日に労働はしてはならない、それは神の命令だという固定観念に縛られていました。ファリサイ派の人々が、安息日に主イエスが水腫を患っていた人を癒やしたことは問題だ、と心の中で思っていることを主イエスは見抜いて、5節で次のように語っています。「『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』」

 14章7節には、主イエスは、「招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」と書かれています。この客とは、ファリサイ派の仲間であったのです。ファリサイ派の人々の行動を見て、問題があると考えてたとえを話しています。
 この当時の席は、席と言っても今のような座る席ではなくて、少し低い長椅子に横たわって食事をする習わしでした。今でいえば、長いソファに横になって寝ながら食べている、その風景に似ているのです。ファリサイ派の人々は空いていればどの席でも良いとは考えなかったのです。上席を選んでいるのです。ここが上席であるとすぐにわかるのでしょう。上席に座るのは、仲間の中で地位の高い人が座ると言う暗黙の了解があったのです。 
 
 日本では、結婚式の披露宴ではすでに座席が決まっている指定席ですから、どこに座るのかは問題にならないのですが、自分が自由に座席を選んで座る場合が多いので、自分がどこに座るのか、迷い、問題になるのです。その部屋の奥の中央が上席になることが多いのですが、その上席に人々は座りたがらないのです。先にその部屋に入った人は上席からかなり離れた隅の座席に座ることが多いのです。後から来た人に上席に近い席に座るように言ったりするのです。一番、後に部屋に入った人は、上席に近いところしか空いていないので、いやいやながらそこに座わらざるを得ないのです。座席を選ぶのはその人の心の動きがあるのです。上席に座るのは、偉そうにしていると思われる、末席に自分が座ると、自分は偉いのではなく、出しゃばりではなく、下々の者です、そのことをわきまえています、ということを末席に座ることで暗黙のうちにみんなに知らせることができるのです。
 
 日本では「遠慮」することが、美徳と考えられているので、自分よりも上位にいる人が上席に座ったら良い、と考えるので、末席に座るようにしているという人が多いのです。 
 私たちは、いつも他の人と自分とを比較しながら、過ごしているので、他の人が自分よりも上であると妬み、他の人が自分よりも下であると安心するのです。自分の位置を他の人との関係で位置づけているのです。
 主イエスは、ファリサイ派の人々が上席を選んでいるのに気がついて、たとえで話したのです。簡単に言うと「上席に着いてはならない、末席につきなさい」と語ります。それは上席に着いてから、自分よりも地位が高い人が後から来て、招待した人が、上席を譲ってくれと言うことになれば、恥をかくからだと言うのです。そして、末席に座っていれば、後から上席に座って下さい、と言って面目を施すことになる、と言うのです。主イエスのこのたとえは、もっともだ、と思うのです。この主イエスのこのたとえは、礼儀作法を教えているように思うのです。しかし、このたとえは、どの座席に座るのか、この世の中のマナーを教えているのではないのです。

 市田ひろみと言う服飾研究家が「できる人はマナーを知っている」という本を出しています。この本の中で、「社会人になると気をつかう席次とは」というページがあります。「新人なら、末席に座っていれば間違いありません」とあり、席次のル−ルを図解で説明をしています。タクシーの席次、机と椅子の配置が違うので、応接室1、応接室2、会議室の席次が図解で書いてあり、「あまり難しく考えず、ルールを丸暗記して、間違いのないようにしましょう。」と書いてあります。皆さんは、礼拝堂の講壇からなるべく遠い、かなり後ろの席に座る人が多いのですが、説教する立場から言うと、説教しづらいのです。講壇に近い、前の席に座って戴くと説教を語りやすいのです。
 
 自分が座る席を選ぶ、それは自分が自分をどのように評価しているのか、ということと深く関わるのです。自分が属している集団の中で、いちばん偉いと思えば、上席に着くでしょうし、いちばん下だ、と思えば末席に着くのです。
 しかし、ここでは、人との比較で自分の位置を決めるのではなく、神との関係で自分の位置を決めることを語っておられるのです。主イエスはどの席に自分が着くのか、ということよりも、神に対してどのような心をもって過ごすのかを問題にしているのです。
 
 主イエスは、ファリサイ派の人々を厳しく批判しています。ファリサイ派の人々は、律法を厳しく守ることが、神にほめられる立派な信仰者であると考えていました。人間には自分がみんなにほめられたい、認められたい、という欲求をもっています。自分が良い生活をしていることをみんなに知ってもらいたい、みんなから認められたい、と思うのです。
 この当時のユダヤの人々の中で、良い行いは、3つありました。それは施しと祈りと断食であったのです。神に対してしているのですから、神が認めてくださるだけで満足すれば良いのですが、ファリサイ派の人々は自分がしている良い行為を人々に認められたいと、大げさに見せることをするのです。自分が献金していることがみんなに分かるように、みんなの前で献金する動作をする、自分が祈りをしていることがみんなにわかるように、祈りを長々とする、自分が断食をしていることがみんなに分かるように、苦しんでいるような表情をするのです。みんなに自分を信仰深い人だと評価して欲しい、そのことを願うのです。そこに偽善が入り込むのです。自分が周りの者から、どのように見られ、評価されているか、そのことをいつも優先的に考えるのです。

 しかし、私たちは、神との関係で自分の位置を定めるのです。人々が集まっている集団では、自分がどのランクにいるのか、他の人との比較で自分の順位を決めるのです。自分は上位にいたけれども、自分よりも上の人が現れて、今は下位に落ちた、ということを気にするのです。
 しかし、私たちは、イエス・キリストを主と告白して、神の国に生きるようになったのです。神の国では、人間同士の上下関係は問われないのです。上席に着く人が偉い人で、末席に着く人が偉くない人ということはありません。皆、神の前では同じなのです。神の前に私たちがどのような存在なのか、ということだけが問題になるのです。神の前に、私たちはひとりひとり平等であり、赦された罪人なのです。
 
 水腫を患った人は、身体が悪いために、ファリサイ派の人々のように、律法を守ることはできなかったのです。この人は、ファリサイ派の人々の仲間ではないし、良い行いもできなかったに違いないのです。しかし、主イエスは、主イエスに助けを求める人に対して、手を差し伸べ、癒やしてくださるのです。主イエスに憐れみを求める人には、深く憐れんでくださり、病を癒やし、孤独の中で苦しんでいる者を仲間として交わりを作ってくださるのです。主イエスが愛する対象とするのは、憐れみを求め、慈しみを願う人々なのです。
 主イエスの力を求めず、憐れみも慈しみも求めない、自分に自信があり、自分の力で何でもできると思っている人を、主イエスは退け、主イエスに依り頼む者を引き上げるのです。上席を選んで着こうとする者は、神から遠い者であり、末席に着く者は神に近い者なのです。

 主イエスは、11節で「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と語っています。この言葉は主イエスがことわざ、格言を語ったというのではなく、主イエス・キリストのあり方を表しているのです。この11節で「低くされ」と言う言葉と「へりくだる」という言葉があります。これは主イエスご自身のことを語っているのです。フィリピの信徒への手紙2章6−8節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間の姿で現れ、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。

 神がイエス・キリストにおいて、この地上に降りてくださり、私たちの罪を贖うために、苦しみ、十字架についてくださったのです。天から、この地上の低きに降り、十字架の苦しみを担ってくださいました。神と同じ方である主イエス・キリストは、下から上に上昇して高い地位を獲得して、王位に鎮座しているというのではないのです。神がイエス・キリストによって、この低き地上に降って下さったのです。上昇志向ではなく、下へ、下へと低いところに降ってくださったのです。それは神に対して主イエスがどのように生きたのか、をよく表しているのです。

 ドイツには、多くのトルコ人が住んでいます。かなり前ですが「最底辺」という本を読んだことがあります。この本はドイツ人のジャーナリストが、ドイツに在住するトルコ人たちがどのような暮らしをしているのかを書いています。普通は、トルコ人たちの話を聞いて、それをまとめて文章にするのですが、このジャーナリストは、それだけでは、トルコ人たちが毎日生きている現実、状況は分からないと考えて、実際にこのジャーナリストがトルコ人に変装して、トルコ人たちの苦しみを味わうことによって、トルコ人たちが置かれている状況を経験して記事を書いたのです。この人はトルコ人に変装して、ごみ清掃車に乗って仕事を始めるのです。ドイツ人であれば経験しないようなひどい言葉を浴びせかけられ、ひどい扱いをされるのです。最底辺で生活している人々の苦しみを身をもって経験するのです。最も低いところで、仕える苦しみを経験したことを文章に書き、「最底辺」という本にして、トルコ人たちの置かれている現実をドイツの社会に問うたのです。

 本日の礼拝で、イザヤ書57章14−21節を読みました。15節には「高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。」 聖なる方が、「へりくだる者と共に住む」のです。この聖なる方とはイエス・キリストのことです。主イエスは、人々に仕え、苦しみの中に自分を置くのです。それは、神が、身を低くしてへりくだる者と共に住むことなのです。

 私たちは、自分が信仰がある人だとみんなから思われたい、愛のある人だと思われたいと願っています。それが上席に着くことなのです。自分が認められることを求めているのです。しかし、神は、罪ある者を義としてくださるのです。良い行いがなくてもキリストの義しい行いによって、正しいと認めてくださるのです。まず自分があって、周りの人が自分をどう見ているのか、ということではなくて、神が自分をどう見ているのかが重要なのです。
 
 詩編139編には、神から知られている喜びを歌っています。詩編139編1−6節「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。」
 この詩編は、神が愛をもって自分のことを知っていてくださる、そのことに深い喜びを見いだしている詩編なのです。他の人の目を気にしてはいないのです。他の人が見ていても、見ていなくても、認めていても、認めていなくても、ただ、身を低くして、神が自分を愛をもって知っていてくださることに、この上もない喜びを見出しているのです。

 私たちは、みんなから注目されたい、褒められたい、という欲求をもっています。自分がみんなから注目されて、褒められ、認められる、自分だけがスポットライトを浴びる、そのようなことを求めることがあります。
 しかし、そうではないのです。私たちは神から愛のスポットライトをあてられており、そこに深い喜びを持つことができるのです。罪人であるけれども神が愛してくださる、そこに私たちは立つのです。自分の行いが、それが愛の行為であっても、教会の奉仕であっても、誰も気がつかない奉仕であっても、神が見ていて下さる、そこに喜びがあるのです。

20210509  主日礼拝説教  「前進する神の救い」  山ノ下恭二牧師
(出エジプト記14章5−14節、 ルカによる福音書13章22−30節)

 
 私が東京神学大学を卒業して、岡山の蕃山町教会に赴任して二年目のクリスマスに、教会の一人の婦人が「みつばさのかげに」という本をプレゼントしてくれました。この本は、ドイツ人で、宗教詩人で作家であったヨッヘン・クレッパーと言う人が記した、1932年から1942年までの日記の抄訳が収められています。この人は神学校を出ましたが、牧師にはならず、詩人、作家として作品を残しています。この人は、ユダヤ人の女性と結婚し、養女と三人で暮らしていましたが、この時は、ナチのヒットラーが政権を執り、ユダヤ人への迫害と大量殺戮が行われていた時代でした。妻と養女がユダヤ人であったために、間もなく強制収容所に送られることになり、このままであると、強制収容所に送られて死ぬ、そのような危機に直面していたのです。

 妻と養女の命を救えないか、秘密警察の当局と交渉して自分と妻と養女の出国を申し出たのですが、許可されなかったのです。1942年12月9日の日記には、クレッパーが秘密警察に出向き、最高責任者であるアイヒマンに三人の出国を申し出るのですが、ユダヤ人の妻と養女の出国は許されなかったと日記に記しています。翌日、どうしても国外に逃れようとして、12月10日に秘密警察に行ったのですが、出国は許可されなかったのです。クレッパーは、妻と娘が死ぬことが分かっていて、自分だけが助かるわけにいかないと、妻と娘と共に、自死してしまうのです。最後の日記になりますが、次のように記しています。
 「1942年12月10日(木)午後、秘密警察での交渉。ついに、私たちは死ぬ。ああ、このことも神のみもとにある。私たちは今晩、一緒に死に赴く。最後の数時間わたしたちのために戦っておられる祝福のキリスト像が、私たちを超えて私たちの頭上に立っておられる。この瞬間、私たちの生は終わる。」
 
 この人の日記の初めには、いつも聖句が記されています。このことから、クレッパーは、聖書の言葉を読んで深く慰められていたことが分かります。「みつばさのかげに」という本の最初のページを開けると、詩編57編1節の言葉が記されています。口語訳です。「神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは、あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。」とあります。

 「翼の陰に」という言葉は、詩編に多く出てくる言葉です。詩編17編8節「瞳のようにわたしを守り あなたの翼の陰に隠してください。」詩編57編2節「憐れんでください 神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし 災いの過ぎ去るまで あなたの翼の陰を避けどころとします。」詩編61編5節「あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。」
 ナチの暴力的な支配の時代に、この詩人は、神という確かな避けどころをもっていたのです。目の前にはナチが絶大な権力をもって、この時代に生きている人々の生死を握っていたけれども、それに勝る神の大きな力によって守られていることを信じることができたのです。

 私たちは、この地上で生きる時に、様々な困難に直面します。病、親しい者との別れ、人間関係のもつれ、など様々な困難を経験しています。喜びがあっても、悲しみがあっても、辛いことがあっても、生きる望みがあっても、私たちは、そのままで避けどころを持っているのです。私たちは神の大きな翼の陰に身を寄せることができるのです。詩編には、詩人が、逃げ場所をもっていることを喜んで歌っているのです。逃げる場所をもっているので、生きることができるのです。

 本日は、礼拝で、ルカによる福音書13章31−35節を読みました。13章34節後半に主イエスは「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたか。」と語っているのです。新共同訳では「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」と訳していますが、新しい訳では「私は雌鶏が自らの雛の群れを翼の下に集めるように」と訳しているのです。「羽」ではなくて「翼」と訳しています。めんどりがその雛を集めるように、神が、大きな翼を広げて、人々を集めて、神の愛の中に憩わせようとされているのです。このことは私たちに何を語っているのでしょうか。

 ルカによる福音書15章には、主イエスが三つのたとえ話を語っています。一枚の銀貨が無くなってしまい、一所懸命に一枚の銀貨を探し出す、一人の女性の姿。一匹の羊が羊飼いのもとを離れて、どこかに行き、いなくなってしまった、その羊を探し出す羊飼いの姿。父親から財産をもらってそれをすべて使い果たし、落ちぶれて、父親のもとに帰る息子を待っている父親の姿。一人の女性、羊飼い、父親、この三つの譬えに共通に登場する者たちの姿は神の姿と重なっているのです。
 
 13章34節「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」神のもとから離れて、どこかに行ってしまった者たちを、主イエスは、神の懐に集めようとしていた、つまり、神から遠く離れて、罪の中にある者たちを神の愛のもとに集めようとしていたことを語ろうとしています。大きな翼を広げて人々を招いて、神のもとに集めようとしているけれども、神の子であるイエス・キリストのもとに来ることなく、イエス・キリストを神の子と信じることはなかったと嘆いているのです。

 ヨッヘン・クレッパーという作家・詩人は、ナチの支配の中で、ユダヤ人の妻と娘と一緒に国外に逃れようと何度も秘密警察の幹部と交渉しましたが逃れることができず、自分だけ生き延びることはできないと、家族共々、自死するのです。その時代を支配している権力者によって、私たちのいのちが脅かされ、いのちの危機にさらされることがあるのです。権力を維持するために、邪魔な者は抹殺する、そのようなことは歴史の中で行われてきたのです。

 ルカによる福音書13章31節で、「ちょうどそのとき、ファリサイ派の何人かが近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』」とあります。ファリサイ派の人々が、主イエスの身の安全を心配して言ったのか、主イエスをここから追い出したいので言ったのか、様々な説明があります。「『ここを立ち去ってください』」という強い言葉で語っているので、ファリサイ派の人々は主イエスを追い出したいと思っていたことは確かで、ヘロデが、殺意があると告げて、脅しているのです。このことに対して主イエスはヘロデを「あの狐」と呼んでいるのです。「狐」というのは、ずる賢く、陰険で、残忍、夜ひそかに出て、鶏を襲うのです。
 
 このヘロデは、主イエスが誕生された時のヘロデ大王の息子の一人で、ユダヤ地方の領主で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれていました。自分の兄弟の妻を奪って自分の妻としたことをバプテスマのヨハネが批判したことを根にもって、ヨハネを殺した残忍な性格の持ち主でした。ヘロデは、一度、主イエスがどのような人物なのか、会ってみたいと思っていたのですが、自分の地位が奪われることを危惧し、もし、自分の領主としての地位を奪うような人物であれば、抹殺することも考えていたのです。一度、権力を握るとその権力を手放すことをしないのです。自分の持っている権力に対抗する者は殺すしかないのです。

 ファリサイ派の人々から、ヘロデが主イエスを殺そうとしているという話を聞いても、主イエスは、身の危険を避けるためにそこからすぐに立ち去ることはしなかったのです。自分の身の安全を確保するために、自分の活動を止めたり、自粛はしなかったのです。主イエスはファリサイ派の人々の言葉に直接に答えなかったのです。主イエスが見つめていたのは、もっと別のことでありました。主イエスがヘロデに殺されるか、殺されないか、その危険からどうしたら逃れるかということよりももっと大切なことがあり、もっとすべきことがあったのです。
 
 13章32−33節に「イエスは言われた。『行って、あの狐に[今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える]とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も自分の道を進まなければならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。』」とあります。主イエスには、すべきことがある、今日も明日も悪霊を追い出し、病気をいやすことがある、と言うのです。悪霊も病気も、人々の生活を縛っている、主イエスはその束縛から解放する仕事があると言うのです。
 コロナの感染から解放しその病を治すために医師・看護師が日夜、医療を続けている、自分たちが働かなければ、この人たちは死んでしまう、医療行為を続けなければ、感染で死ぬ人が多くなる、そのような緊急性のなかに医師や看護師は生きているのです。主イエスは、この時、神の国の到来を人々に知らせるために、働かなければならないと言うのです。あと三日しか、働くことはできない、緊急なのだ、と言うのです。

 主イエスは、ご自身が神から与えられた使命があることをはっきり言明されるのです。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まなければならない。」と語っています。この世の権力者であるヘロデであっても、主イエスご自身の働きを止めることはできないのです。主イエスは、ご自身の道を進まなければならないのです。主イエスは、死から逃れるためにエルサレムに上るのではなく、エルサレムで死ぬために都に上京するのです。
 
 ルカによる福音書には、神に強く促されて主イエスが自分がしなければならないことを語る言葉が多く用いられています。「しなければならない」「することになっている」「必ず、する」と言っているのです。この言葉は、神の要求に応えて、主イエスが行動を起こす時に使っているのです。
 
 ルカ4章43節には「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」と語られています。神からの委託に応えて、主イエスは神の国を告知しなければならない、とご自身の使命を語るのです。自分の使命は何よりも、人々の病を癒やし、人々と交わることによって神がひとりひとりを愛していることを知らせることにあると言うのです。誰も自分のことに無関心で、孤独の中でたたずんでいる人、重い病に罹って治る見込みもなく、苦しんでいる人々、そのような人々が、神に愛されていることを知ることができるために、主イエスは働かなければならないと言うのです。

 この物語は、主イエスがエルサレムに上っていく途上で起こったことですが、主イエスは、これから自分に何が起こるのかをよく自覚していたのです。それは、十字架で死ぬということです。主イエスは神の国の福音を宣教し始めた段階で、ご自分が十字架で死ぬことをあらかじめ知り、弟子たちにも話していたのです。9章22節には「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」と語っています。この言葉はこの後、三回も同じように弟子たちに語っているのです。(17章25節、24章7節、26節)
 
 私たちは、神のもとに行くことはできないのです。神を神よと呼びかけることはできないのです。それは正常な関係を持っていないからです。人間同士でも何かの事件で、関係が壊れてしまったら、その人と話すことができないし、相手と会うことに苦痛を感じます。正常な関係を持てないことぐらい心の負担となることはないのです。和解することは難しいのです。私たちが神に罪を犯していて、神が私たちを肯定し、受け入れることができなくなっているのです。神に対して私たちが自分たちの罪を償わなければ、神は赦してはくれないのです。
 しかし、神は私たちの罪を代わりに償ってくださるのです。和解をしてくださるのです。神の大きな翼のもとに私たちを引き寄せ、私たちを憩わせるために、主イエスが神の審判を受けて、死んでくださり、私たちの罪を償ってくださったのです。

 この神の救いは人間がもたらすことはできないのです。それは神の業なのです。人間にはできないことでも神はできるのです。今日の礼拝で読みました、出エジプト記14章では、奴隷の地エジプトを脱出したイスラエルの民が旅をしていて、とても困っている場面が記されています。イスラエルの民が、立ち往生している場面が記されています。イスラエルの民の前方には、紅海があり、この海を渡らなければ、向こう岸に着けないけれども、海が深くて渡ることができない、背後にはエジプトの大軍が追いかけてきて捕まえられ、再びエジプトに奴隷として帰されてしまうか、殺されるかもしれないという緊急の事態の中にいたのです。人間の力ではどうすることもできないのです。エジプト軍が背後に迫り、前方では海があって、どうすることもできないで、イスラエルの民は、この事態に恐れ、怯え、嘆き、モーセに訴えたのです。
 
 それに対して14章13−14節で「モーセは民に応えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』」とあります。すると、主なる神は、紅海を開き、イスラエルの民はそこを通って、向こう岸にたどり着き、その後を追ってきたエジプトの大軍を、主なる神は海を元通りにして沈めたのです。このような奇跡を起こして、イスラエルの民を守り、導いたのです。神は、私たちの救いのために、その業を止めることをなさいません。神ご自身が救いの業を前進させるのです。
 
 私たちは苦境に立たされる時があります。しかし、神は先だって、私たちのために救いを用意してくださっているのです。そして、私たちのために、みつばさのかげに隠れることができる、そのような避けどころを用意してくださっているのです。私たちはそのような避け所を確かに持っているのです。私たちは、神が私たちのために愛をもって配慮してくださることを信頼するだけで良いのです。


20210502 主日礼拝説教  「狭い戸口から入るように努めなさい」  山ノ下恭二牧師
(ヨシュア記24章14−24節、 ルカによる福音書13章22−30節)


 最近、私が卒業した高校の卒業アルバムを久しぶりに見て、私がいたクラスの人数を数えたところ、54人いたことが分かりました。地方の小都市の高校でしたけれども一学年10クラスあり,一学年およそ540人位で、3学年合わせると全校生徒が1600人以上いたことになります。1947年から1950年に生まれた人々は団塊の世代と言われ、全国的に生徒数が非常に多く、大学受験の時には学部によって倍率は異なりますが、15倍以上という倍率が普通でした。その頃から高校、大学の入学試験について「狭き門」と言われるようになったのです。入学の定員に比べて受験者数が多いと、「狭き門」であると言われたのです。

「狭い門から入りなさい」「狭き門から入れ」という言葉は一般によく知られている言葉です。この言葉は受験の時に倍率が高いので、一所懸命に受験勉強しなさい、そうしないと合格することができないという意味で使われてきましたが、この聖書の言葉はそのような意味の言葉ではないことは明らかです。この言葉はマタイによる福音書7章13節にある言葉ですが、洗礼を受けてキリスト者となった者に対して語られているのです。洗礼を受けたキリスト者が終わりの日に神によって審判されることを自覚しつつ、どのように生きていくべきかについて語っているのです。

「狭い門から入りなさい。」洗礼を受けたキリスト者に対して語られていると言いましたが、日本では、洗礼を受けることは、狭い門から入るようなものであると思います。日本では、ヨーロッパやアメリカに比べて、洗礼を受けるという習慣がなく、ほとんどの人々が洗礼の意味も知らないのです。洗礼を受けることは、自分たちが知らない集団に入ってしまうように思うのです。日本では洗礼を受けることは異質なことなのです。教会に通ってきている人が、洗礼を受けようと思っても、洗礼を受けることを家族が理解してくれるのかどうか不安を持っているのです。家族の者に洗礼を受けることを隠して教会に来ている人もいます。洗礼を受けることを家族に話すと、反対されることがあり、その中で洗礼を受けることは、苦しみを伴い、困難を経験することになります。

 東大宮教会に在任していた時に、ある男性から洗礼の申し出があり、使徒信条や教会生活を学んで、翌日の日曜日に洗礼試問会があるという土曜日に、その人は、洗礼を受けることを止めたいと言ってきたのです。私は何事にも時があり、今が洗礼を受けるのに良い時であり、このチャンスを逃すと洗礼を受ける機会がなくなるので今、受けたら良いと説得し、本人も納得して洗礼を受けたのです。この人は、洗礼を受けた後に熱心に教会に通っています。

 洗礼を受ける時に、友達が受けるから自分も受ける、教会は楽しいところだから洗礼を受ける、という気持ちで受けると長続きしないのです。洗礼を受けて、今までの生活の仕方と決別して、新しい生活を始めるという覚悟がないままの気持ちで洗礼を受け、自分の気持ちに逆らうことがあると教会に来なくなることがあります。洗礼を受ける、それは今までの生活からキリストに従う生活に切り替える、そのような覚悟をもって受けることが大切なのです。洗礼を受けることは、困難なことに直面することがあることをよくわきまえていることが大切なのです。

 「狭い門」の「門」というのは、神殿の門から来ている言葉です。神殿は神がおられるところと考えられたので、この門は天の国の門と言う言葉にもなり、神の国に入る門と言い換えることができます。マタイによる福音書では、狭い門と滅びに通じる広い門があり、この二つの中で狭い門から入るように勧めているのです。目の前に二つの門、二つの選ぶべき道があるという考えは、旧約聖書にあります。自分の前には命と幸いがあり、また死と災いがある、どちらを選ぶのか、と決断を促すのです。命の道、祝福の道を選んで、その道を歩むのか、それとも死の道、呪いの道を選んで歩むのか、決断を促すのです。
 
 目の前に門があり、その一つの門は狭く、そしてその門に入ると苦しみがあり、困難があり、戦いがあり、道が険しく苦労が多いけれども、その道の向こうには神が待っているのです。しかし、もう一つの門は、広く、誰でもが入り易い、歩きやすく舗装され、道は平坦で、安易に歩むことができますが、その先には神によって裁かれ、罰が下され、滅ぶのです。この二つの門のうち、どちらを選ぶのか、ということです。本日、読みましたヨシュア記24章14−24節では、ヨシュアがイスラエルの民に主なる神を礼拝するのか、それとも他の神々に仕えるのか、について神はイスラエルの民に決断を迫り、イスラエルの民は主なる神を礼拝することを約束しています。

 申命記30章でモーセ自身が死ぬ直前にイスラエル民を集めて、別れの説教をしています。これからパレスチナに帰って行くのですが、命の道を選んで「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」(申命記30章20節)と勧めています。神が喜ぶ生き方を選ぶのか、それとも自分が喜ぶ生き方を選ぶのか、ということです。私たちは、洗礼を受けたということで、安心して終わりにするのではなく、これからキリスト者としてどのように生きるのか、という課題があるのです。狭い門を通るためには、様々な戦いがあり、困難なこと、苦しみや忍耐の要ることがあるのです。

 ルカによる福音書13章23節に「主よ、救われる人は少ないのですか」という問いは、これまでも何度か主イエスに対して投げかけられた問いであったのです。しかし、主イエスはこの問いに答えなかったのです。この問い自体は切実な問いであったのですが、この問いを発した人自身の姿勢に問題があったのです。なぜ、日本でキリスト者が少ないのか、教会に来る人が少ないのか、そう思っている人も多いのです。その原因を探っている人もいるのです。主イエスは、この問いを出した人が、自分を安全地帯において他の人のことを論じようとしている、自分はすでに救われた者として考えていて、評論家のような立場においていることを問題にしているのです。

 24節で「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と語られています。私は「狭い戸口」という言葉から、大きな邸宅には正門の横に出入りする勝手口があるのですが、それを思い出すのです。その勝手口が狭いので、その家の人が背を丸めて、その勝手口から出てくるのを見かけることがあります。この戸口は、神が私たちを最後に審判する、裁判所の法廷のことです。そこで、最終的な判決で有罪とされるのか、それとも神に無罪の判決を受けるのか、ということです。私たちは、洗礼を受けたから安心だ、この地上の生活が終わるまで、事故もなく、苦難もなく、楽しく、愉快に、平穏な生活を全うすれば良いというのではなくて、終わりの神の審判を計算に入れて生活をするのです。

 「狭い戸口に入るように努めなさい。」と語られていますが、「努める」という言葉は、一所懸命にするというよりも、競技場でスポ−ツ選手が戦う、その戦いに備えるために、いつも自分を訓練する、そのような言葉です。アスリートは、試合に向けていつも練習しているのです。甲子園に出場する高校野球の選手は、学校でも放課後、長い時間、ノックを何回も受け、家に帰っても夜遅くまで素振りをしているのです。サッカーの選手も、いつもボールを触わり、練習して勝利を目指してがんばっているのです。「努める」という言葉は、試合に勝利するために、戦う、そういう言葉です。スポーツ選手が、試合に勝つために、常に訓練をしているのです。試合に備えて、時を惜しんで、自己訓練をしているのです。

 「狭い戸口に入るように努めなさい」と言う言葉は、神の審判の時に、神から今までの生き方を善いものとして評価され、受け入れていただくために、絶えず、信仰の訓練をしていることなのです。洗礼を受けている、それで安心してそのままで良いということではなくて、神の審判に備えて、自分が神に受け入れていただくように努めるのです。

 加藤常昭著「教会生活の手引き」問89では「主日礼拝は何としても守るべきものですね。」という問いに対して「その通りです。自由な喜びをもって礼拝に出るのです。時には気持ちが萎えるでしょう。そのようなときにも怠ることないように、礼拝出席が自分の身についたものになることが大切です。一度礼拝を怠けたくなったら、その口実になるものはいくらでもあります。疲れる、忙しい、用事がある、行っても得るところがない。気にいらない。何とでも言えます。しかし、自分のなかに起こる怠慢を正当化したくなる、そのような思いとぜひ戦ってください。」

 「狭い戸口から入るように努めなさい。」「狭い」とという言葉は「苦しみ」「苦難」「艱難」という言葉に通じる言葉です。狭い戸口から入るように努めるということは、苦しみや困難を経験することになるのです。
 私は、学部の神学生の時には4年間、日本橋教会に通っていました。水曜日の夜は聖書研究・祈祷会、そして土曜日の午後、週報印刷、会堂掃除、日曜日には、教会学校、礼拝、各集会に出席しました。神学生だからそれは当たり前だと考えていました。日曜日は、午前7時には神学校の寮を出て、8時30分に教会に行き、夜遅く寮に帰る生活をしていました。そのような生活を続けることによって、礼拝を休まないという習慣を身につけ、訓練を受けることができたことは良かったと思います。

 しかし、教会に通っている時に、気持ちが萎えてしまうことや、教会にいくことをよそうか、と思うこともたびたびありました。東神大に入学して、教会学校で小学1年生のクラスの受け持ちになり、分級をしていましたが、日本橋で生まれ育った子どもたちなので、私の言葉、栃木弁が気になったのだと思います。大人でしたら、私が話す言葉が田舎の人の言葉でなまりがあると思っても、「なまりがありますね」とは直接には言わないと思いますが、7歳の子どもですから、私の言葉がおかしいと気がつくとすぐにみんなで言うのです。「田舎者、田舎の言葉だ」と言うので、私が怒って「だまれ」と言うと、子どもたちが更に囃し立て「田舎の言葉だ、おかしい」と言うので、教会に通うことを止めようか、と思ったことがありました。

 家に入ろうとしたところ、戸口が閉まっていたので、戸を叩いて開けてもらおうと思って「『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」とあります。戸口が閉まっているのです。戸口が閉められているので、開けてくださいとお願いするのです。「ご主人様」というのは、主イエス・キリストのことです。御主人様は「『お前たちがどこの者か知らない』」と答えるのです。26節に「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場で教えを受けたのです。』と言い出すだろう。」とあります。私たちとあなたとは知り合いで、一緒に食卓についたことがあるではないか、あなたの説教を聞いたではありませんか、なぜ、私たちを知らないなどと薄情なことを言われるのですか、と言うのです。

 「お前たちがどこの者か知らない」と言う言葉が二度、繰り返されているのです。私たちは、主イエス・キリストを知っている、教会の説教も聞いてきたし、聖餐も受けているので、主イエス・キリストが私のことを知らないなどと言うはずがない、と思うのです。13章27節で「しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」と語るのです。
 
 この言葉の中で重要な言葉は「不義を行う者ども」と言う言葉です。「不義」と言う言葉は、「義」という言葉を否定した言葉です。「義」それは神と正常な関係を持っているという意味の言葉です。この「不義」という言葉は「義」の反対、神と正常な関係を持っていないことを指しています。ギリシャ語の原文では、「義でない者」です。神に対して正しく生活していない者、という言葉です。
 
 雨宮慧神父が「主日の聖書、解説C年」で次のように解説をしています。「鍛錬を怠って家に入り損ねた者は戸を叩いて懇願し、必死になって主人との関わりを強調しますが、主人は『不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と厳しく言い捨てます。『義』とは、相手との関わりを大事にし、それにふさわしい態度を取ることです。この義を欠くなら、たとえ『御一緒に食事をし、『わたしたちの広場』で教えを受けたとしても、それは場所を共有したにすぎず、真の関係を持ったことにはなりません。」
 この解説で、一緒に食事をし、教えを受けても、「それは場所を共有したにすぎず、真の関係を持ったことにはなりません。」という言葉に私はショックを受けました。説教を聞き、聖餐を受けていても、それはその場所にいただけで、主イエス・キリストは、私たちと関係をもっていない、私たちのことは知らないと言うのです。そんなはずはない、私たちの顔を覚えているはずだ、と思うのです。
 
 このことはどのようなことなのでしょうか。それはいつも神の言葉に聞こうとしていないことを語っています。説教を聞いている、聖餐を受けている、しかし、一つ一つのことを決断する時に、神の言葉を聞いて従っていくことをしない者を「不義を行う者」と言うのです。私たちは、ひとつひとつ決断する、選ぶ時に、神の御心を聞いてするのではなく、自分の考えや自分の気持ちに従って決断して実行していくのではないでしょうか。そのことが問われているのです。

ある時、電車に乗っている時に、向かい側の席に座っている人がバックから聖書を取り出して、読んでいるので、私は自分のことを紹介して、その人にどこかの教会員ですか、と聞いたところ、日本基督教団の教会ではなくて他の教派の教会員でしたが、いつもカバンの中に聖書を入れて通勤の時に聖書を読んでいるとのことです。聖書の言葉にいつも触っていることが大切なのです。そのためには、聖書をカバンの中に入れていることが大切なのです。日曜日の礼拝にだけ、聖書を開くのではなく、いつも聖書の言葉に触れていることが大切なのです。聖書の言葉に養われれば、何にお金を使うのか、相手に話す言葉も変わってくるに違いないのです。

 キリスト者としてこの地上の生活をしていくことは、様々な労苦があります。神の永遠の祝福に与ることができるように、いつも神に心を開き、神の言葉に耳を傾けて、歩んでいくのです。

20210425 主日礼拝説教  「神の愛に包まれて生きる」  山ノ下恭二牧
(出エジプト記23章4−13節、ルカによる福音書13章10−21節)


 礼拝の時に、私たちはいつも主の祈りを祈っています。この「主の祈り」の中に「み国を来たらせたまえ」と言う祈りがあります。私たちはいつも主の祈りを文語で祈っていますが、新共同訳聖書では「御国が来ますように」と訳しています。「御国」とは「神の国」です。「神の国」と言う言葉は、原文では神が王である、あるいは、神が支配する、と翻訳して良い言葉です。従って「御国が来ますように」と言う祈りは「神の支配が来ますように」と言う祈りです。 

 主イエスがガリラヤ地方で伝道を始めた時に「神の国は近づいた」と語ったのです。神の国は近づいた、そのことは、神の支配が近づいて接近していると言う意味だけではなく、主イエスが来ているので、神の支配が来ていると理解することができます。皆さんもいつも経験していると思いますが、駅で電車が来るのを待っていると、電光掲示板に「電車が来ます」と表示され、すぐに電車が入って来るのです。主イエスにおいて、神の国が近づくだけではなくて、もう来ているのです。神が王として来ている、神の支配が来ているのです。
 私たちは「支配」「支配する」という言葉を聞くと、権力をもっている者が独裁者のように、権力によって人々を縛り上げ、監視し、人々が言うことを聞かないと従わせる、そのようなことを思い浮かべます。

 しかし、「神の国」「神が王である」「神が支配する」という言葉はそのような意味はありません。神は愛をもって支配している、と言う意味です。神の国は主イエスの言葉や振る舞いではっきり示されています。ガリラヤ地方で主イエスがどのような活動をしてきたのかを知れば、分かることです。主イエスは、人々から軽蔑され、仲間外れにされ、罪人扱いされ、見捨てられた人々の友となり、病に苦しんでいる人々の病を癒やし、日の当たらないところで苦しんでいる人々、財産はあっても孤独である人々を心に留めて相手としたのです。主イエスはこの振る舞いによって、神が深い関心を持ち、心配し、愛していることを伝えたのです。

 本日は、ルカによる福音書13章10−21節を読みましたが、18−20節には主イエスが「神の国」を「からし種」「パン種」に譬えています。からし種の譬えでは、極めて小さなからし種が成長して大木になり、「その枝には空の鳥が巣を作る」ほどになると語っています。またパン種の譬えでも、極めて小さなパン種ですが、粉に混ぜると「やがて全体が膨れ」てたくさんのパンに増加すると語るのです。神の国は、私たちの予想を超えてミクロ、微少なものが奇跡的に大きく成長すると語ります。
 ルカによる福音書13章10−21節は、10−17節と18−20節に分けることができます。10−17節の小見出しには「安息日に腰の曲がった婦人をいやす」とあり、18−21節の小見出しには「『からし種』と『パン種』のたとえ」とつけています。この二つは、別々の物語、譬え話ではなくて、内容的に深くつながっているのです。
 
 13章10節で「安息日にイエスは会堂で教えておられた」とあります。主イエスは、安息日にはユダヤ教の会堂で説教をされていました。ルカによる福音書4章16節では、主イエスは安息日にナザレの会堂で説教をして、人々に教えています。イザヤ書の言葉を読んで、この解放の福音は今、実現したと語ったのです。会堂で、神の国が実現していると説教しているだけではなく、神の国が現実となっている、神の救いの行動が始まっているのです。主イエスが長い間、病の霊に縛られて、腰の曲がった婦人をいやしたことで明らかです。病に苦しんで治る可能性がない婦人が癒やされるのは奇跡なのです。それは、主イエスが、18−21節で神の国の譬えを話しながら、からし種、パン種のように小さなものが、大きなものに拡がっていくと話したことと深くつながっているのです。
 会堂の礼拝の席に、18年も腰が曲がった婦人がいたのです。「病気の霊」が彼女に取り憑いて、治らないで苦しんできたのです。この婦人は毎週、会堂の礼拝に出席していたのですが、周りの人々は、この婦人に無関心で、婦人の痛みと苦しみに気づくことはなかったのです。誰も相手にしないので、孤独のなかにいたのです。主イエスは、18年も病と戦いながら苦しんで来た、この女性に目を留め、深い同情を寄せ、いやしたのです。

 私は、神学生の時に秋田の大曲教会に夏期伝道に行きました。この当時の大曲教会の牧師は荒井源三郎牧師でしたが、ある時、荒井牧師がある先輩の牧師から聞いた話を私に話してくれました。荒井牧師の先輩に当たる牧師は、富士見町教会の植村正久牧師の説教を聞いたことがあるそうです。ある時、植村牧師が説教をされている最中に、赤ちゃんが泣き出したそうです。植村牧師は講壇から降りて赤ちゃんの頭を撫でながら、その場で説教をされ、泣き止むと再び講壇に戻って、また説教を続けたそうです。その先輩の牧師は、この場面に出会って、植村牧師が泣く赤ちゃんを迷惑に思わないで、赤ちゃんの存在を大切にした振る舞いを直に見て、植村牧師は立派な牧師だと思った、という話を聞いて荒井牧師が感動したので、私に伝えたいと思って話したそうです。
 
 13章14節に「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」と発言したのです。この発言の背後には、旧約聖書の背景があるのです。旧約聖書の「旧約」とは、古い契約のことです。 神はエジプトの奴隷であったイスラエルの民をモ−セによってカナンの地に導き、シナイ山でイスラエルの民と契約を結び、律法を授けました。奴隷から解放されて自由になって、その自由を、神を礼拝し、隣人を愛することを基準にして生きるように命じたのが律法です。神に出会い、礼拝することが、神の民にとって第一の務めですから、十戒の中で、第四の戒め「安息日の律法」は、律法の中心として考えられてきたのです。それは安息日に神に出会い、礼拝することが、私たちの生活の中核であり、中心であるからです。

 紀元前600年代に、バビロニアとの戦争に敗れて、イスラエルの国は滅び、エルサレム神殿は無くなり、大部分のイスラエルの民は、バビロニア、今のイラクに連れて行かれ捕囚となりました。国も滅び、神を礼拝する神殿も無くなり、今まで、民を支えてきた拠り所を失ってしまったのです。60年後、イスラエルの民は帰還しましたが、神殿もない中で自分たちがどのような民であるかを考えざるを得なかったのです。神殿があった時には、神殿に集まって礼拝していることが神の民であったのですが、神殿を失って、自分たちが何を中心にするのか、を深く考えたのです。自分たちは、神が与えた律法をしっかり守る民であると自覚するようになりました。そして、律法の中心である、神と出会うための日を確保して、礼拝を守ることを、一番重要なことであると考え、安息日の律法を厳しく守ることを第一にしたのです。 
 
 律法を守ることを最も優先するユダヤ教が成立したのです。ユダヤ教は、律法的な宗教なのです。契約と律法、そのどちらを重んじるのか、と言うことです。神が、民が背いても、愛し、慈しむ契約を強調するよりも、律法を強調し、律法を守る者が神の民である、と言うように変わったのです。ユダヤ教は律法を中心とした宗教であり、律法の中でも特に、第四の戒め、「安息日の規定」を厳しく守ることが求められ、重んじてきたのです。

 十戒の第四戒には「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」とあります。安息という言葉は、元々「止める、中断する」という言葉ですから、労働を止めてこの日を神の日として過ごす日なのです。そこで、中断すべき労働とは何を指すのかと言うことが問題になりました。主イエスの時代には、200以上の労働が禁止されていました。現代のイスラエル共和国においても、安息日には、家事労働は禁止され、ホテルや商業施設のエレベーターのボタンを押すことも禁じられ、安息日には、押さなくて済むように、各階にエレベーターが止まるようになっているのです。安息日の規定を守っていれば、神の民である、ということになってしまっていたのです。

 しかし、主イエスは、優先するのは安息日の規定を守ることではなく、18年もの間、病の霊に取り憑かれて苦しんできた、腰の曲がった婦人がいやされることを、最優先すべきことであると考えたのです。この婦人が病から解放されることのほうが重要であり、この婦人にとって救いになると考えたのです。

 神が人間の生活に必要なものとして安息日の律法を制定したのです。一週間の六日、働いて一日休む、これは身体を休めて次の日から元気に働くためではなく、労働を中断して、この日を神に心を向けて、神に愛されていること知ることによってまことの安息を与えられるのです。安息日の規定を守るために、この安息日の律法が制定されたわけではないのです。私たちは、日曜日を休日として休む、それは次の月曜日からの労働のために身体を休めることではなくて、日曜日を聖なる日として、礼拝に出席して神と出会い、神の言葉を聞いて、自分が神に愛されている者であることを知り、そこで、まことの安息が与えられるのです。安息日の律法を守ることが重要なのではなく、労働を中断して、神のもとで憩うことによって慰めが与えられ、最も人間らしく生きることができるのです。人間の生活のために、安息日が設けられたのです。

 ルカによる福音書13章14節で、安息日に主イエスが婦人の病をいやしたことについて、会堂長はそれは安息日にしてはいけないことだ、と発言したのです。主イエスはこの発言に対して、15節で「偽善者よ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から、水を飲ませに引いていくではないか。」と答えています。主イエスは、安息日にも牛やろばを食べさせ、水を飲ませるために、そのところに引いていくことをしているではないか、と語るのです。そして、「この女はアブラハムの娘なのに、18年間もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」と語るのです。主イエスは、病の霊に取り憑かれ、束縛されてきた、この婦人の苦しみを深く同情し、いやしているのです。

 会堂長は、安息日に労働してはいけないと戒めがあるので、安息日である今日、医療労働をしてはいけない、働くことができる安息日以外の六日に治せば良いと言うのです。この祭司長はこの婦人がこの病に苦しんできたことなど、他人事であり、この婦人の病を癒やすことは、緊急にすることではない、今、治さなくても明日、治してもらえば良いと言うのです。しかし、主イエスは、この婦人が病に苦しんできて、病から解放されない、その姿に深く憐れんで、「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか。」と語るのです。「安息日であっても」と言っているのは、安息日に労働をしないことに勝って、会堂長がなすべきことがあるのだ、それは、この女性を顧みてこの女性の痛みを思い、癒やされるように願うことなのではないか、と言うのです。安息日の規定を守ることよりも、この婦人が病から解放されることに心を向け、そのために祈り、力を尽くすことが、会堂長の責務なのではないか、と語るのです。

 安息日をどのように過ごしたら良いのか、それは、愛が基調になっているのです。本日、読みました、出エジプト記23章4節には、敵の牛やろばが迷っているのを見つけた時、これを捕らえ、自分のものにすることではなく、必ず、敵のところに連れ返すことを定めています。あなたを憎む者のろばが、重い荷物の下に倒れ伏しているのを見た時に、見捨てるのではなく、自分を憎んでいるその人に手を貸して、ろばを立たせるように、と書かれています。旧約聖書の律法は、愛を基調とした律法であるのです。

 13章16節で主イエスは「この女はアブラハムの娘なのに」と語ります。どうしてここに「アブラハム」と言う名前が出てくるのでしょうか。アブラハムは信仰の父であると共に、神と契約を結んだ人物です。アブラハムの契約は、モーセが神から与えられたシナイ契約とは、契約の性格が全く異なります。シナイ契約は、神の民イスラエルが律法を行うという条件つきの契約なのです。契約を結ぶ両者が責任をもつ双務契約なのです。しかし、アブラハムの契約は、律法を行うという条件はないのです。人間の側の行動は必要がないのです。アブラハムの契約は、神が慈しんでくださることをただ信じる、信頼することだけなのです。シナイ契約のように、契約の条件として律法を行うことは求められないのです。アブラハムの契約は、一方的な神の憐れみだけです。神の愛を受けるだけで良いのです。律法のない契約、人間の行いを求めない契約、それがアブラハムの契約なのです。

 従って、この婦人を、「アブラハムの娘」と言うのは、この婦人が、神が愛される対象となっており、実際、病がいやされるべき、慈しみの対象であることを語っているのです。主イエスは会堂長や会堂にいる会衆に、あなたがた誰でも、安息日であっても家畜のことを心配して配慮するのに、今、会堂にいて一緒に礼拝している、しかも身近なところにいて病に苦しんでいる婦人を顧みないのはどういうことなのか、と言うのです。主イエスは、彼らが同胞をいたわる心を失っているのではないか、と言うのです。
 会堂長やこの場にいた人たちは、自分の傍らにいるこの婦人に心を留めていないのです。安息日の律法を守ることに頭が一杯で、傍らで病に苦しみ、病から解放されていない人に気づくことなく、配慮しようとしないのです。

 私たちは、イエス・キリストによって罪が赦されて神に愛されていることを知っています。私たちは傍らにある人のことを忘れないでいることが大切なのです。悩みを持ち、心の痛みを持っている人のことを忘れないで、神に祈ることが大切なのです。

 神の国は、からし種が蒔かれると鳥が木の枝に巣を作るほどの大きな木になる、またパン種を粉に混ぜると大きく膨らんで、たくさんのパンが与えられるようなものなのです。18年の間、病に苦しんできた婦人、それは誰も気づかないような、ほんとうに小さな存在です。しかし、主イエスによってその存在が見いだされ、いやされる、そのことによって、健康が回復され、人間らしい生活が始まるのです。主イエスは、この婦人を隠れた存在としてではなく、表舞台に出して、「生きていて良い」「あなたは神に愛されている」と祝福しているのです。ここで主イエスは、この婦人を神の愛の対象とされている、ここにまさに神の国が始まっている、来ていることを明らかに示しているのです。

20210418 主日礼拝説教  「神のもとに立ち帰りなさい」  山ノ下恭二牧
(エレミヤ書8章4−7節、 ルカによる福音書13章1−9節)


 新聞やテレビのニュースで、毎日、事故や殺人事件が報道されています。事故や事件の報道を聞くと、被害に遭った人たちを思って、心が痛むのです。幼い子どもや将来のある若者が事故に遭って命を失う、殺された、そのような事件を知ると、特に心が痛むのではないでしょうか。テレビのニュースでは、その事件についてインタビューに応じた人が一様に「罪のない子どもがどうして殺されなければならないのか」「突然の事故でかわいそうに。これからいろいろできる若い人が命を失うのは気の毒だ」と言うのです。私たちもどうしてそのようなことが起こるのか、戸惑うのです。
 
 ルカによる福音書13章1−5節には、ユダヤ人たちが殺人や事故の被害者について考えていることに対して、主イエスが問いかけているのです。この当時のユダヤ地方の総督ピラトが、エルサレムでガリラヤ人を殺害する事件を起こしたのです。また同じ時期に「シロアムの塔が倒れて」死んだ事故があったのです。主イエスは、ユダヤ人たちが、災難に遭った原因が被害者の罪によると考えていたことを問題にしたのです。
 
 現在も殺人や事故が起こるとどうしてそのようなことが起こるのか、その原因を考えることがあります。ある場所に居合わせたために、命を落としてしまったという事故がよく起こります。例えば、ビルの解体工事の真下を通っていた人が、上から鉄板が落ちてきて亡くなる、そういう事件が起きています。偶然そうなった、その人たちは運がなかった、全く分からないと考えるだけでは、納得できないのです。この問題をどのように解釈したら良いのかということは問いとして残ります。

 事件や事故に巻き込まれて亡くなる、それはどのように考えたら良いのか、と言うことです。この問題は、旧約聖書で取り上げられています。旧約聖書から受け継いでいる考え方は、因果応報の論理です。原因があって結果がある、という論理です。これは旧約聖書の箴言などに代表される論理です。神は、善い生活をしている者を祝福し、悪い生活をしている者を罰すると言う論理なのです。そのような因果応報の論理は、神を中心におかなくても、一般的に考えても、納得できる論理です。例えると、勉強しなければテストの成績は悪くなる、寝坊すると学校の始業時間に間に合わない、遅刻になる、そのようにたくさんの例を挙げることができるのです。この論理は、私たちにとって、説得力を持ちます。

 旧約聖書にある、箴言、ヨブ記、コヘレトの言葉、は知恵文学と呼ばれています。箴言は知恵文学の主流です。その基本的な考え方は因果応報の論理です。原因があって結果があるという論理です。しかし、ヨブ記、コヘレトの言葉は、この箴言の因果応報論に反対しているのです。ヨブ記、コヘレトの言葉は、因果応報の論理は、現実には適用できない、現実は違う、因果応報の論理は通用しないと言うのです。悪いことが起こるのは、罪を犯したからだという論理は人間が生きている現実の社会には適用しない、というのです。
 
 ヨブ記では、罪を犯していないのに、苦難に遭うことがある、と言います。悪い者が裕福で楽しそうに暮らし、正しい人が苦しむことがあるではないか、と言うのです。主人公のヨブ自身が、悪いことをしていない、罪を見いだせないのに、苦難を受けている、それは不条理そのものであると言うのです。ヨブは自分がなぜ苦難を受けるのか、その理由が分からない、と苦しみながら神にその矛盾を訴えるのです。コヘレトの言葉では、この世には不条理がある、足の速い者が、競争で勝つわけではない、そのような現実があり、それは空しいことだと言うのです。

 幼い子どもが災難に遭う、殺される、そうすると「罪がないのに、どうして殺されなければならないのか」という感想を聞くのです。この言葉には、罪があれば災難に遭っても仕方がないと言う意味が含まれているのです。罪があるから災難に遭う、悪いことが起こる、そういう考え方が根底にあるのです。災難、事故、事件と罪とを結びつけて考えるのです。
 私たちは、事故、事件、に遭った人について考えるのです。そのような事故、事件に遭うのは、運が悪かったと思い、もしかすると何か悪いことをしたからそういう目に遭う、災難が降りかかったのではないか、と思ったりするのです。 その一方で、自分がそのような災難に遭わなかったので良かったと思う、安堵しているところがあるのです。それは、事故、事件に遭った人のことは、自分には他人事なのです。事故、事件に遭った人に対して気の毒だと思い、その原因について考えるけれども、自分にとっては痛くもかゆくもない他人事なのです。

 ユダヤ人たちは、因果応報の論理で、事故、事件を考えていましたから、殺人や災害を罪と結びつけて考えているのです。自分だけ、安全地帯にいて、自分が事故、事件、災害に遭わなかったのは、罪と関わりがないと考えるのです。 自分が事故や事件に遭わなかったので、自分には罪と関わりがないと思っていることに対して、主イエスは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と二度、同じことを語っているのです。主イエスは、ユダヤ人に対して、自分は罪とは無縁である、自分は罪がないと思ってはならない、と語るのです。

 日本に住んでいると、自然に身につけた罪の理解があるのではないでしょうか。法律上の罪を犯していないので、罪があるとは思わない、少しは悪いことをしているかも知れないけれども、警察に捕まるほどの悪いことはしていないと思うのです。事件を起こし、警察に捕まり、裁判所で有罪判決を受けて、刑務所に収監されている人に比べれば、自分は罪を犯して、悪いことはしていないと思うのです。
 私が東大宮教会におりました時に、ある日曜日に、礼拝説教を初めて聞いた若者が、その日の夕方、教会に電話してきてこういうことを言いました。「先生はお話の中で、罪のことを強調していたけれども、罪を強調しすぎる、自分は罪なんかないと思っている」と話して、電話を切ったのです。今まで自然に身につけた、罪に対する理解と、聖書が語る罪の理解とは違っているのです。

 私たちはいつも人との関係の中で、相手に悪いことを言ってしまった、相手に対して、悪いことをしてしまった、と思うことがあります。そのようなことは誰でもしていることだと片付けてしまうのです。相手に謝って相手が赦してくれれば、解決でき、それで良い関係に戻ることができると考えているのです。
 ここで主イエスは、神の前で明らかになる罪を問題にしているのです。人間は有限ですから、罪を相対的に捉えるのです。人間は誰でも過ちや落ち度はあり、自分よりも罪深い者がいる、それに比べれば、自分の罪は軽いと思うのです。事件や事故があって、初めて罪のことを思い出すようなものではなくて、私たちが根源的にもっている罪がある、神の前に出ると明らかになる罪があると主イエスは語っているのです。
 
 主イエスは、「悔い改め」と言う言葉を使っています。「悔い改め」と言う言葉は、神のもとに「帰る」ことです。ルカによる福音書は、「悔い改め」という言葉を多く用いています。ルカによる福音書15章で主イエスは三つのたとえ話を語っています。最初のたとえ話は、一枚の銀貨を無くした女性が、自分の部屋を懸命に探し、やっと見つけて、とても喜ぶ物語です。自分の大切な物が無くなる、お金であれば、より一層、必死に探すのです。二つ目のたとえ話は、羊飼いと羊のたとえ話です。羊飼いのもとを離れた一匹の羊がいて、99匹の羊たちをそこに置いて、羊飼いは、懸命に探し出して、喜びながら、羊の群れのところに連れ戻すのです。三番目のたとえ話では、父親の家に二人の兄弟がいて、弟息子が父親から、自分の遺産をもらい、町に行って遊び、無一文になり、遂にぶたを飼う仕事をしていた時に、自分が落ちぶれてしまったことを知り、父親のもとに帰り、父親はこの息子の帰還を喜ぶのです。

 「罪」とは、神のもとから離れてしまうことです。神から離れてしまうことです。「悔い改める」ことを旧約聖書では、「帰る」「立ち帰る」と表現しています。旧約聖書の預言書では、預言者がイスラエルの民に「帰れ」と語っています。本日、この礼拝で読みました、エレミヤ書8章4節には「彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らないことがあろうか。」と語っています。悔い改めることは神に「立ち帰る」ことです。神から離れている者が、進んでいる方向を変えて、神のほうに向きを変えて、帰って行くのです。父親がいる家から出て、離れていた息子が「我にかえって」父親のところに帰っていくことを「悔い改め」と言うのです。この「悔い改める」という言葉を誤解している人も多いのです。自分が過去にしたことを反省して、真面目な生活をするように決心する、と理解していますが、単なる道徳を語っているわけではないのです。
 神から私たちの心が遠く離れていることを罪というのです。神のもとで安心し、神を信頼することよりも、神から遠く離れて、自分中心に生活をしていることを「罪」と言うのです。

 主イエスは、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と語った後に、13章6−9節で「実のならないいちじくの木のたとえ」を語るのです。ぶどう園にいちじくの木が植えられている、そのいちじくの木の話をされたのです。私たちは、ぶどう園にはぶどうだけが植えられているはずだと思います。しかし、この話はぶどう園の中に一本だけいちじくの木が植えられていることに意味があるのです。周りは皆ぶどうの木です。その中にいちじくだけがぽつんと独り立っています。ぶどうの実はつけている、しかし、いちじくは実をつけていないのです。どういうわけか、三年も実を結ぶことができないのです。

 このたとえ話では、ぶどう園の主人が「実を探しに来たが見つからなかった」とあります。いちじくの木をこのぶどう園の場所にせっかく植えたのに、三年経っても何も実らないではないか、周りのぶどうの木は実を結ぶのに、このいちじくの木だけはどうして実を結ばないのか、実がならないのなら、この場所を塞ぐことになるので、切り倒せ、と言ったのです。かつて、私が住んでいた家に大きないちじくの木があり、いちじくが実る季節になると、その実を取って食べることを楽しみにしていたことがあります。実際、いちじくの木はかなりの場所を取るのです。いちじくの実がならなかったら、邪魔だから、いちじくの木を伐採して切ったほうが良いという話になると思います。このぶどう園の主人は当然のことを言っているのです。

 ここで主イエスは、私たちひとりひとりに、このたとえ話を通して、問いを発しています。あなたがたは、ぶどうの木のように、実を結ぶ木になっていますか、と言うのです。「実を結ぶ」とはどのようなことでしょうか。それは、神のもとに帰って、神の恵みを感謝して、神に従った生活をしている、ということです。そのような生活になっていますか、と問うているのです。私たちは、洗礼を受けているけれども、神の言葉に聴くことなく、隣人を愛することもなく、自分中心の生活、自分の都合、自分の生活を第一にした生活を続けていないですか、と問うているのです。信仰があれば、実りがあるはずだ、信仰の実りがないということはどういうことですか、と私たちに問いを向けているのです。

 ぶどう園の主人は、いちじくの木がぶどう園の土地を無駄に塞いでいるので、このいちじくの木を切ってしまおう、と言うのです。つまり、ぶどう園の主人は神を表しており、実を結ばないいちじくの木とは、罪を認めず、悔い改めることもせず、神から遠くはなれて自分中心に生きている私たちのことを指しているのです。いちじくの木を切る、伐採する、それは神が裁く、審判することを指しているのです。

 ぶどう園の主人が、いちじくの木を切ってしまおうと決心した時に、ぶどう園を栽培している園丁が答えているのです。この園丁は今まで心を込めて、いちじくの木を剪定し、育てて来たのです。13章8−9節です。「園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしだめなら、切り倒してください。』」
 この園丁は主イエス・キリストであることは間違いのないことです。主イエスは神に執り成しをしているのです。この園丁はぶどう園の主人に嘆願しているのです。実をつけるまで待って欲しい、と語るのです。この園丁は3年を待った上になお、木の周りを掘って、肥やしをやってみようとするのです。実らない木を切らないで、忍耐強く待つのです。忍耐強く待つことの背後には、神の深い慈しみがあることを語ろうとしてるのです。この園丁の願いに応えて、ぶどう園の主人はいちじくの木を切ることはなく、いちじくの木の実が実る時を待つのです。

 このたとえ話は、悔い改めを待つ、神の忍耐を語っています。旧約聖書のアモス書では、神が、預言者を通してイスラエルの民に、神のもとに帰りなさい、悔い改めなさいと何度も語っているのに、全く悔い改めないので、もう何も語らない、沈黙する、と語っているところがあります。子どもの生活態度が悪いので、親が何度も何回も注意しているのに、少しも態度を改めようとしないので、親は、もうお前には何も言わない、と怒ることがあります。神は神の言葉を聞こうとしないイスラエルの民に、もう語らない、と言うのです。神の言葉を聞こうとしてもその時には聞くことができないのです。「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」(アモス8章11節)神が預言者を通して、何度も神のもとに帰るようにと熱心に語り続けているのに、生活の態度を全く変えないで、神のもとに帰らず、自分本位に生き続けているのです。
 
 しかしながら、神は私たちが悔い改める時を待っているのです。ルカによる福音書15章で父親の家を離れて行方不明の弟息子を、父親は長い間、待っていたのです。子どもが帰ってくるのを待つことは辛抱の要ることです。
 横田早規江さんは、北朝鮮に拉致されている、横田めぐみさんの帰りを長い間、忍耐強く待ち続けているのです。待ち続けているのは、娘のめぐみさんを深く愛しているからです。

 神は、私たちが罪から解放されるために、独り子イエス・キリストを罪の犠牲としてささげて、罪を贖ってくださいました。私たちを愛しているからです。
 私たちは、この神の愛を知っているのです。しかし、私たちは、神の恵みを知っていながら、感謝すること少なく、神に信頼することなく、自分中心に生きていることが多いのです。そのような私たちを神は裁くことなく、忍耐して待っているのです。神は私たちが信仰の実りがある時まで忍耐しながら待っているのです。忍耐して待つことはとても大変です。神は、私たちの信仰が実ることを願いながら、忍耐して待っているのです。

20210411 主日礼拝説教  「時を見分け、正しく判断できるために」  山ノ下恭二牧師
(マラキ書3章6−7節、ルカによる福音書12章54−59節) 

 
 現在は、天気予報があるので、これから天気がどうなるのかを知ることができますが、天気予報を見ても見なくても、私たちは、外出する時に、空を見上げて、太陽が照らず、雲が出ていると、これから雨が降りそうなので、傘を持っていくことがあります。夏になり、晴れていると、これから暑くなりそうなので、日傘を持って出かけることがあります。そのように私たちは、空を見上げてこれから天気がどうなるのかを見分けているのです。
 
 本日の礼拝で、読みましたルカによる福音書12章54−56節で、主イエスは群衆に対して、天気を見分けることを知っていることを指摘しています。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。」この時代は農業に従事している人々がほとんどでしたから、朝、起きると天気がこれからどうなるのかを見分けることが、とても重要であったのです。私たちも、空を見れば、雨になるのか、太陽が照りつけて、暑くなるのか、予想ができるのです。そのように見分けることができるのです。

 主イエスは、12章56節で「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」と語っています。これは、主イエスが群衆を叱っている言葉です。主イエスは「偽善者」というとても強い言葉で語っています。
 「偽善者」という言葉は、マタイによる福音書で多く使われている言葉ですが、ルカによる福音書では、この言葉を余り使ってはいません。「偽善者」という言葉は「仮面をつけている」という言葉ですから、これは、外見だけ、立派に振る舞っているけれども、中身はそうではない、外見と中身とは異なることを示す言葉です。例えば、自分が立派な信仰者であることをみんなに印象づけたいので、わざと長々しい祈りをする、そのような意味で「偽善者」という言葉を用いますが、ここでは、そのような意味ではないことは明らかです。

 12章56節、57節で「見分ける」、「判断する」という言葉がでてきます。
私たちは、毎日、様々なことを見分け、判断しています。
 学生の時に、フランスの作家、モンテ−ニュが書いた「エセー」(随想集)を読んだことがあります。何冊もある本でしたが、その中で、正確ではありませんが、一つだけ覚えている言葉があります。たくさんの知識を持つことよりも、正しく判断をすることのほうが重要である、と言う言葉です。私は、「正しく判断する」ことが重要であることを知りました。私たちが生活する時に、大切なことは、その時々に正しく判断をすることであるのです。私たちは、毎日、どのように判断していくのか、いつも試されているのではないでしょうか。
 
 身近なことでは、どの路線に乗れば、目的地に早く行けるのか、お店でこの商品を購入するべきか、やめておくか、会議で今、発言すべきか、発言しないほうが良いのか、身体の具合が悪いけれども、薬を飲んで様子を見るのか、すぐに病院に行ったほうがよいのか、そのように判断を求められることがあります。どの学校を選ぶべきか、どの会社に就職したら良いのか、私たちはたくさんの判断を必要としているのです。そのようにこの地上で生きていく時に、今まで身につけてきた知識や経験で、一つ一つのことを判断しているのです。
 
 しかし、主イエスはそれだけで十分であるとは言えない、それだけでは不十分である、と語るのです。56節で「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることを知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」と語ります。それだけで十分であるとは言えない、それだけで満足してはいけない、自分の判断が最善であると思っていることは、自分を欺いていることだ、その意味で「偽善者」というべきものだと主イエスは語ります。

 この地上で生活するために、様々に見分ける、判断する、それだけで満足していてはいけない、と語ります。主イエスは、私たちがいつも判断する、その判断とは質的に異なる判断があると言うのです。その判断とは何なのでしょうか。それは神と関わって生きていく時に与えられる判断であるのです。それは、信仰における判断であるのです。信じることによって与えられる判断があるのです。自分の今までの経験や知識によってではなく、神が与えてくださる判断に信頼して、判断するのです。

 洗礼を受けるか、どうかを祈りながら神の御心を求めて判断することがあります。伝道者として召された、神の召しに従って、神学校に行くべきかどうか、判断することがあります。私の知っている牧師は、会社に勤めていましたけれども、祈っている時に神が自分に迫ってきて、伝道者として立て、という声を聴いた、神学校に行って学ぶべきか、信徒として仕えていくべきか、とても悩んだけれども、神学校に行くことが神の御心であると判断し、決断して東京神学大学に入学をし、卒業して、今は沖縄で伝道しています。

 私たちは、洗礼を受けて、イエスを主と告白しているのです。洗礼を受けるまでは、自分が主体、中心でした。いつも自分が主語なのです。しかし、洗礼を受けた後は、神が主語なのです。神が与えてくださる判断に従っていくのです。「どうして今の時を見分けることを知らないのか。」と語っています。最近、新しく翻訳された、聖書協会共同訳では「どうして、今の時を見定めることができないのか。」とあります。空を見て、天気がこれからどうなるのか、それを見分けることができるのに、「どうして今の時を見定めることができないのか」と言うのです。

 最近、私は明治大学の教授で斉藤孝という人が書いた「コミュニケーション力」という本を読んでいます。私たちはいつも会話していて、相手の話を聞き、自分も相手に話しています。私たちにとって、大切なことは、相手の言葉をよく聴いて、相手に届く言葉で応答することです。コミュニケーションがうまく行っているということは、互いに言葉が通じているということです。
 私たちは、洗礼を受けて、神とのコミュニケーションを持っているのです。神の言葉である聖書を読み、説教を聞き、私たちは神の言葉に応答しているのです。空を見てこれから天気がどうなるのか、自然界の模様を見分けることができるのに、信仰のまなざしをもって神の働きを見ることがどうしてできないのか、を問うているのです。神との関係を持っているならば、神がどのように働いているのか、神が何を願っているのかをどうして見分けることができないのか、と言うのです。

 「今の時」とはどのような時なのでしょうか。「今の時」とはどのような時なのか、そのことを解明するためには、ルカによる福音書12章全体を読むとわかります。この12章をはじめから読むと、気がつくことがあります。それは、12章4−7節では神を恐れることを教えています。13−21節では、この地上の財産に依存している人に対して神がそのいのちを取り去ることを語り、神が命を取り去る方であることを教えています。死というのは、私たち人間にとって、人生の終わりを意味します。神が最終的な主権者なのです。12章35−48節には、主人が帰ってくるのを待つ僕のたとえ話が記されています。

 このことから分かることは、12章は全体として、終わりの時、主イエスの再臨の時のことを語っているのです。この終わりの時に心を留めて今の時をどのように生きていくのか、を語るのです。主イエスが再び来られるのを待ちながら、今の時をどのように生きていくのかを語っています。神が支配しているこの世界は、はじめがあり、終わりがあります。ヨハネの黙示録22章13節には、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。」と語られています。この世界を創造し、この歴史をはじめた神がこの世界を、この歴史を終わらせるのです。神は初めから終わりまで、この歴史を支配し、導いておられるのです。

 その意味では、今はゴールを目指して、中間地点にいるのです。マラソンで言えば、42キロの中間地点、折り返し点を走っているのです。最終的には、終わりのゴールがあり、その終着点を目指しながら、今の時を走っているのです。12章13−21節に登場する、金持ちの農夫は、自分がゴールを目指してその途中を走っているという自覚がないのです。今もこれからも自分が楽しく暮らすことだけに関心があるのです。

 私たちも、神を恐れないで、金持ちの農夫のように、この地上の財産に依存し、自分が満足することを求めているのではないでしょうか。この金持ちの農夫は、神を恐れないために、いのちを奪われ、持っていた財産をこの地上に残すだけでした。身近なところでは、私たちにとって終わりであるのは、自分の死であるのです。死という限界を忘れて、自分の欲望のままに過ごす結果がこうなることをこの例え話は警告しているのです。神が私たちのいのちを支配する主であることを自覚することを教えているのです。

 この新共同訳聖書では、12章54−56節には「時を見分ける」と小見出しがつけられており、12章57−59節には、「訴える人と仲直りする」と言う小見出しがつけられています。この二つの物語は、別々のことが書かれているように思います。マタイによる福音書を編集したマタイは、この二つの物語を全く別々のところに配置しているのですが、ルカによる福音書を編集したルカは、この二つの物語をひとつに結びつけて、一つの内容をもった物語としてつなげているのです。終わり、終末を目指して生きていく、この中間時にどのようにキリスト者が生きていくのかを、主題にしたのです。

 終着点を目指して、今の中間の時に生きる、それは、どのような信仰のスタイルになるのでしょうか。それはキリストの和解に生きることです。イエス・キリストが、十字架の死と復活によって、私たちの罪を贖い、罪を赦してくださった、これがキリストによって与えられた和解であるのです。私たちは、赦しに生きることです。イエス・キリストが私たちの赦しがたい罪を赦してくださった、その赦しを与えられて、その赦しに生きることです。

 私たちは、いつも主の祈りで罪の赦しを祈り、願っています。聖書は罪を負債、借金と言い換えています。自分に対して相手が罪を犯した、それは相手が自分に負債があるのです。借金があるのです。私たちの莫大な借金を、神は免除してくださり、負債はなくなった、その恵みを受けた者は、自分に罪という借金をしている者を免除して、赦すように、ということを語るのです。

 ルカによる福音書12章57−59節の小見出しには「訴える人と仲直りする」とあります。ここでは、自分に対して、相手が罪を犯した、ということではなく、自分が相手に罪を犯した、ということを考えているのです。私たちは、相手が自分に悪いことをした、その相手を自分が赦す、ということを考えるのですが、ここでは、自分が相手に悪いことをしている、ということなのです。

 私たちはそのような場面を余り想定していません。私たちは、相手から言われたことは覚えていますが、自分が相手に言ったことはよく覚えていないものです。相手にお金を貸したことはよく覚えているけれども、自分がお金を借りたことは忘れているものです。自分は気がつかないけれども、自分が加害者になることがあるのです。自分が相手に悪いことをした、相手が自分にわだかまりをもっている、相手が自分の振る舞いに我慢ができない、赦すことができないと思っている、そのような場面を想定しているのです。

 ルカによる福音書12章58節には「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。」と語られています。自分が相手から訴えられることがあるのです。自分に負い目があるのです。相手は裁判官のところで法の裁きを受けようと、自分を引っ張って裁判の席に一緒に行くことになるのです。裁判を受ける前にすることがあるのです。それは訴える者と和解することなのです。最優先にすることは、相手と和解することである、と語ります。

 マタイによる福音書5章23−26節には、同じことが記されていますが、ルカによる福音書よりも、詳しく語られています。5章23−25節A「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その備え物を祭壇におき、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、備え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」礼拝に行って神の前に出る前に、何よりも緊急にしなければならないことがある、それは、自分が相手に罪を犯し、自分に反感を持つ、その相手と早く和解するように、と言うのです。

 私は、この聖書の言葉を初めて読んだ時に、衝撃を受けたのです。自分は被害者意識を持っていて、ひどいことをされてもそれでも相手を赦すことを心がけなければいけないと思っていたのです。相手からひどいことをされた、ひどい言葉を投げかけられた、自分が被害者である、しかし、この聖書の言葉を読んで、そうではない、自分が加害者になっていることがあることに気がついたのです。その時から、私は礼拝に行くときに、この言葉を思い起こします。礼拝に行くときに、自分が悪いことをして、自分に反感をもち、わだかまりをもっている人がいるのではないか、と思うようになったのです。ここでは、いつも隣人と和解している、その和解の関係をもっていることを勧めているのです。自分が相手に悪いことをしたと思ったら、すぐに謝罪することなのです。自分の罪を認めて、相手に赦しを求め、いつも和解していくのです。

 私たちキリスト者が、神の御心に従った生き方であるか、悪い生き方であったかを、終わりの時に審判するのは神なのです。「判断する」という言葉は、「審判する」と言う言葉と同じ言葉です。最終的に神が「審判する」のです。その神の審判を恐れながら、この途上で生きる私たちは、隣人を愛する、隣人を気遣い、隣人に悪いことをしないことなのです。
 
 ローマの信徒への手紙13章10節には「愛は隣人に悪を行いません。」と語られています。自分が、出会う人に悪を行っていないか、自分のことだけを考えて、相手の生活や立場や思いを無視して、発言したり、行動をしていないか、相手を傷つけたりしていないか、を吟味する必要があるのです。
 今、隣人との関係が悪くて、和解の生活をしないならば、裁判になり、有罪判決を受けて、牢獄に入ることになる、と警告しています。神の審判を受けることになり、有罪の判決を受けることになるのです。

 洗礼式の時に、日本基督教団信仰告白を告白しますが、使徒信条の前に告白文があります。それを前文と言いますが、その前文の最後に「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む。」と告白されています。主イエス・キリストが再び来られて、問われることは何か。それは、愛が問われるのです
 
 キリストが私たちを愛されたように、自分を愛するように、私たちが出会う隣人を愛する、そのことを主イエスは私たちに勧めているのです。


(WEB礼拝)
20210404 主日礼拝説教 「イエス・キリストこそ、わたしたちの神」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書25章6−9節、 ヨハネによる福音書20章24−29節)

4月4日(日) 復活日主日礼拝 式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  
     

2021年4月4日(日) 復活日主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞   

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    146編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      57−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          イザヤ書25章6−9節(旧約p1098)
          ヨハネによる福音書20章24−29節(新約p210)

司式祈祷 
讃美歌    325−1

20210404 主日礼拝説教 「イエス・キリストこそ、わたしたちの神」  山ノ下恭二牧師
                   声に出して読みましょう。
 主イエス・キリストの復活を祝う、主の日の礼拝に皆さんと共に出席することができ、感謝を致します。昨年の復活日礼拝は、コロナ感染防止のための非常事態宣言が出されたために、礼拝が中止になり、復活日の礼拝ができなかったのです。しかし、今年はこのように、皆さんと共に復活日の礼拝をささげることができ、心から感謝致します。
 主が復活されたことを伝える復活物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この4つの福音書に記されていますが、復活物語の中で、私にとって印象深い物語は、本日の礼拝で朗読されたトマスという弟子が登場する物語です。トマスは、最初、主イエスが復活されたことを信じなかったのです。トマスは、信じられないと正直に言った人なのです。私は、信仰を持ったら疑ってはいけないと思っていましたが、トマスが主イエスの弟子であるにもかかわらず、疑っている、疑うことも許されていることに共感したのです。トマスの正直さに心引かれたのです。

 主イエスが十字架で死に、弟子たちは頼るべき指導者を失って、意気消沈していました。主イエスが十字架に架かられ死んだ時、弟子たちは逃げてしまい、その後、しばらく家に閉じこもっていたのです。そして、ユダヤ人たちに捕まるかもしれないと恐れ、戸を閉じ、鍵をかけて家に閉じこもっていたのです。弟子たちは、捕まるかもしれないという恐れと自分たちが主イエスを見捨てて逃げたという自責の思いがあったのです。

 主イエスは、戸を閉じて鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちのところにやってきました。弟子たちが集まっている家に入ってきて、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語ったのです。「平和」という言葉は、「シャロ−ム」という言葉です。口語訳では、「安かれ」とあります。恐れて、心が弱くなっている弟子たちに、「私がここにいるから大丈夫だ」と言ったのです。弟子たちは、主イエスが既に死んだと思っていたのに、主イエスを見てとても驚いたと思います。主イエスは、実際に、釘で打たれた自分の手と釘で打たれた自分のわき腹を弟子たちに見せたのです。弟子たちは、その手とわき腹を見て、主イエスご自身であることが分かって喜んだのです。

 私は、この物語を読むたびに不思議に思うことがあります。それは主イエスが弟子たちのいた家にどのようにして入ったのか、と言うことです。20章19節には次のように記されています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」弟子たちが閉じられた戸を開けたので、主イエスが家に入ったのではなく、閉じた戸を開けずに、主イエスが家に入ったのです。透明人間ではないのにどうして入れたのか、と思うのです。
 
 雨宮慧というカトリックの聖書学者が「主日の福音」で、とても興味深い解説をしています。「福音書記者ヨハネが意図するねらいは、イエスの復活がいずれ再び死ぬことになるこの肉体への復帰なのではなく、それとは別のからだへのよみがえりであることを示すことである。イエスの復活はこの世への蘇生ではない。よみがえりのいのちは死すべき命とは別のいのちである。別のいのちには別のからだがある。別のからだをもったイエスは、閉じた戸を通り抜けることもできるが、同時に、望む時にひとの目にみることができ、ひとの手で触れることのできる体ともなりえる。」(雨宮慧著「主日の福音」C年、p114 オリエンス宗教研究所 1991年)

 私たちは、主イエスの復活を、「蘇生」として理解しているのではないでしょうか。復活した、それは、生き返ったと理解しているのです。一般に、復活を「生き返る」こととして理解しているのです。病気で体が弱っていて、死にそうであったけれども、見違えるほどに元気になったことを復活と考えるのです。野球選手がたくさんのホームランを打っていたのに、ある時から、全く打てなくなった、しかし、しばらくして再び、勢いよく打てるようになった、この選手は復活した、と言うことがあります。復活を蘇生、生き返った、そのレベルで主イエスの復活を考えるのです。
 
 従って、完全に死んだ人が、復活することなどあり得ないと思うのです。多くの人々は、主イエスの復活はなかった、と考えたのです。復活はなかったという前提で、聖書の物語を次のように解釈した学者もいました。主イエスは本当は死んでいなかった、弟子たちが死んだように見せかけて、生きている主イエスを復活した、と宣伝し、弟子たちが復活の物語を創作したと考えたのです。また、主イエスは完全に死んだけれども、弟子たちが主イエスを慕っていたので、死んだことを受け入れられない、主イエスが復活して今も生きていて欲しい、その強い思いが復活の物語を作り出したと言うのです。

 雨宮慧というカトリックの聖書学者は、「よみがえりのいのちは死すべき命とは別のいのちである。」と解説しているのです。この死すべき命とは別のいのち、神とつながっている永遠のいのちなのです。霊的ないのちなのです。

 トマスは、弟子たちが集まっていた家にはいなかったのです。あとから、この家に帰ってきたのです。弟子たちが、主イエスを見た、と言ったので、とても驚いたと思います。主イエスが十字架で死んだのに、弟子たちが主イエスを見るわけはないと思ったのです。そこでトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのです。トマスは実際に、復活したと言っている主イエスが十字架に架かった主イエスと同じ方なのかを自分で確かめたい、と思ったのです。主イエスのからだを自分の目で見て、自分の手で触って、確かに、この方が十字架に架かった主イエスであると確かめたいと思っていたのです。とにかく、自分の理性や感覚を信頼しているのです。自分の目で確認し、自分の手で触って確かめて、主イエスの復活が本当だ、と思わない限り、主イエスが復活したことにはならないという考えなのです。

 トマスは現代の私たちと同じ思考方法です。自分の理性を頼りにしているのです。自分が見て納得すれば、復活を認めるのです。自分の理性で判断して納得できれば復活を認め、信じるのです。自分が経験し、実験し、それに基づいて証明できれば、信用するのです。信頼しているのは自分なのです。自分を信じているのです。
 
 ある時、ユーチューブで二人の男性歌手がとてもきれいな曲を歌っているのを聴いていました。その歌を歌い終わった時に、一人の歌手がもう一人の歌手に、「君が一番、信じているのは何」と聞いたのです。私は何と答えるのか、と思っていたら、「信じているのは己のみ」と答えたのです。その人が、自信たっぷりに「信じているのは己のみ」と言ったのです。「己のみ」自分だけを信じている、と言うのです。信じているのは己のみ、と一人の歌手が言いましたが、現代の多くの人々がそう思っているのではないか、と思いました。自分を信じているのです。自分を頼りにしているのです。
 信じるのは自分だけだ、頼れるのは自分だけだ、しかし、自分ほど頼りにならないのではないか、と思います。体力に自信があった人が、病気になることがあり、自分に自信を失うことがあるのです。そして、人を信頼していても、その人が裏切ることがあるのです。自分にも人にも頼れないことがあるのです。

 主イエスは、めざとくトマスを見つけて、トマスのところに来て、君はわたしが復活したことを信じられないそうで、私の手の釘跡に指を突っ込まなければ承知しない、私のわき腹に手を突っ込まなければ、復活したことを信じないと言っているそうであるが、そうしてみたら良いと言ったのです。
 27節に「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」と語られています。信じることができないトマスのところに真っ先に来ているのです。主イエスの復活を信じられないトマスを、主イエスは受け入れているのです。トマスがしたいように、主イエスのからだに触ってみたら良いのではないか、と語るのです。

 よく考えてみると、見て信じると言うことはないのです。見たら、信じる必要はないのです。すでに見ているのだから、信じることは必要がないのです。 自分は、見ていないのだけれども、実際に見て来た人の話を聴いてそういうことがあったと信じることは私たちがいつも経験していることです。
 例えば、市ヶ谷駅で電車が遅れていた、という話を他の人から聞くことがあります。電車が遅れていることを実際にその場面で見ているわけではないし、電車が遅れていると言う駅のアナウンスを聴いているわけでもないのですが、実際に見て聴いた人の話を信じて、電車が遅れていることは本当だと思うのです。見たら、信じる必要はないのです。信じる、ということは、見ていないのです。見ていないけれどもその人の言葉を信じるのです。

 私たちは、聖書を読むときにそのことを経験しているのです。旧約聖書では神は、直接、預言者に語っていますが、直接に神の言葉を聴いた人の証言を私たちが読んでいるのです。私たちは直接に、神から聴いているわけではないのですが、旧約聖書に記されている証言を、神の言葉として聴いているのです。
 私たちは、主イエスのお姿を見たり、十字架の死の場面や復活された場面に立ち会って実際に見たわけではありませんが、新約聖書で主イエスを見、十字架の死と復活に立ち会った人たちの証言を聴いて、主イエスが十字架で死に、復活されたことを信じているのです。

 トマスに対して、主イエスは自分の手の釘跡とわき腹を触ったらどうだ、と言われて、トマスは、自分が信仰がない者だ、ということに気がついたのです。自分に信頼を置き、自分が確かだと思うものしか信頼していない、そのような不信仰を思い知ったのです。復活の主イエスは、トマスの心を開かれたのです。トマスは、自分の目も自分の手も信じる必要がなくなったのです。自分がこれが確かであると信頼していたものから手を離すことができ、主イエスを神と仰ぐことができたのです。主イエスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われて、トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。

 この礼拝の中で、使徒信条を告白しています。使徒信条は私たちの教会が告白してきた信条です。特に洗礼を受けるときに、この使徒信条に同意して、受け入れることを条件に洗礼を施します。この信条は、私たちが信じる対象である神がどのような神であるかを告白しています。トマスは、「わたしの主、わたしの神」と「わたしの」と言う言葉を用いています。これは、わたしだけの神だと言って独占しているという意味ではありませんし、自分のために役に立つ神を手に入れたから「わたしの神」と言っているのでもありません。
「あなたはわたしの神です」、わたしの罪を贖うために、十字架に架かり、死んで復活された、私を深く愛している神です、と告白しているのです。

 カール・バルトという神学者が「教義学要綱」という本を書いています。この本は、何度か翻訳されていますが、最近、新しく翻訳されて出版されました。この本は、使徒信条を講解しています。最初に「信仰とは信頼することを意味する」と言う項目があります。ここで、私が信じる、という「私が」ということが中心なのではなく、「神を」という信仰の対象に重点があると言います。自分がどのように信じるのか、ということではなく、神がどのような方であるのかに重点があるのです。「わたしは、もう自分自身に信頼する必要はない。もう自分を正しいとして自分を守り、弁護し、救う必要はない。自分にこだわり、自分に執着し、自分を正しいものとして人々にみせようとする努力はすべて必要がなくなったのである。わたしは、わたしを信じるのでなく、父・子・聖霊を信じる」
 
 私たちは、自分の理性や感覚に信頼し、目に見えるものに頼り、見えない神が私たちを深く愛しておられることを見失ってしまいます。しかし、主イエスが「見ないのに信じる人は、幸いである。」と語っているのです。
 神を信じることができないで疑う、そのような信仰の弱い者に対しても、主イエスは受け入れて、信じる者になるようにと私たちを励ましているのです。
 これから、聖餐にあずかります。私たちの罪が赦されるために、ご自身の肉を裂き、血を流されたことを信仰をもって覚え、これからパンと杯を戴きます。 聖餐の恵みに共にあずかりたいと思います。

祈祷 
 主イエス・キリストの父なる神。主イエス・キリストの復活を祝う、復活日の礼拝に私たちを招き、共にみことばを聴く時が与えられたことを感謝致します。私たちが自分を信頼するのではなく、イエス・キリストによって私たちの罪を贖ってくださった神を信頼し、あなたがどのような時にも愛しておられることを信じて歩むことができますように導いてください。2021年度の教会の歩みを祝福し、この地域の人々にあなたの福音を伝えていくことができますように。自宅療養している兄弟姉妹、コロナに感染し、悩みと苦しみをもっている多くの方々をあなたが癒やしてくださいますように。あなたが共にいて私たちを見守り、支えてくださいますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌   326−1

聖餐式
讃美歌   78−2

献金
主の祈

頌栄    27

祝祷 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン

   来週の聖日(4月11日)
  説教「時を見分け、正しく判断できるために」 山ノ下恭二牧師
  聖書 マラキ書3章6−7節 
     ルカによる福音書12章54−59節
  讃美歌 83−1、280−4、327−1、358−1 29
  交読詩編 1編




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