4月4日(日) 復活日主日礼拝 式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会
2021年1月24日以降の礼拝について
主を賛美いたします。
首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。
1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。
以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。
再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。
家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。
教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。
皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。
お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
電話: 03-3260-4631 電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>
ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。
各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。
引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。
牛込払方町教会 長老会
2021年4月4日(日) 復活日主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。
前奏
礼拝招詞
讃詠 83−1
使徒信条
交読詩編 146編 聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌 57−1
聖書箇所 聖書を開き、声に出して読みましょう。
イザヤ書25章6−9節(旧約p1098)
ヨハネによる福音書20章24−29節(新約p210)
司式祈祷
讃美歌 325−1
20210404 主日礼拝説教 「イエス・キリストこそ、わたしたちの神」 山ノ下恭二牧師
声に出して読みましょう。
主イエス・キリストの復活を祝う、主の日の礼拝に皆さんと共に出席することができ、感謝を致します。昨年の復活日礼拝は、コロナ感染防止のための非常事態宣言が出されたために、礼拝が中止になり、復活日の礼拝ができなかったのです。しかし、今年はこのように、皆さんと共に復活日の礼拝をささげることができ、心から感謝致します。
主が復活されたことを伝える復活物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この4つの福音書に記されていますが、復活物語の中で、私にとって印象深い物語は、本日の礼拝で朗読されたトマスという弟子が登場する物語です。トマスは、最初、主イエスが復活されたことを信じなかったのです。トマスは、信じられないと正直に言った人なのです。私は、信仰を持ったら疑ってはいけないと思っていましたが、トマスが主イエスの弟子であるにもかかわらず、疑っている、疑うことも許されていることに共感したのです。トマスの正直さに心引かれたのです。
主イエスが十字架で死に、弟子たちは頼るべき指導者を失って、意気消沈していました。主イエスが十字架に架かられ死んだ時、弟子たちは逃げてしまい、その後、しばらく家に閉じこもっていたのです。そして、ユダヤ人たちに捕まるかもしれないと恐れ、戸を閉じ、鍵をかけて家に閉じこもっていたのです。弟子たちは、捕まるかもしれないという恐れと自分たちが主イエスを見捨てて逃げたという自責の思いがあったのです。
主イエスは、戸を閉じて鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちのところにやってきました。弟子たちが集まっている家に入ってきて、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語ったのです。「平和」という言葉は、「シャロ−ム」という言葉です。口語訳では、「安かれ」とあります。恐れて、心が弱くなっている弟子たちに、「私がここにいるから大丈夫だ」と言ったのです。弟子たちは、主イエスが既に死んだと思っていたのに、主イエスを見てとても驚いたと思います。主イエスは、実際に、釘で打たれた自分の手と釘で打たれた自分のわき腹を弟子たちに見せたのです。弟子たちは、その手とわき腹を見て、主イエスご自身であることが分かって喜んだのです。
私は、この物語を読むたびに不思議に思うことがあります。それは主イエスが弟子たちのいた家にどのようにして入ったのか、と言うことです。20章19節には次のように記されています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」弟子たちが閉じられた戸を開けたので、主イエスが家に入ったのではなく、閉じた戸を開けずに、主イエスが家に入ったのです。透明人間ではないのにどうして入れたのか、と思うのです。
雨宮慧というカトリックの聖書学者が「主日の福音」で、とても興味深い解説をしています。「福音書記者ヨハネが意図するねらいは、イエスの復活がいずれ再び死ぬことになるこの肉体への復帰なのではなく、それとは別のからだへのよみがえりであることを示すことである。イエスの復活はこの世への蘇生ではない。よみがえりのいのちは死すべき命とは別のいのちである。別のいのちには別のからだがある。別のからだをもったイエスは、閉じた戸を通り抜けることもできるが、同時に、望む時にひとの目にみることができ、ひとの手で触れることのできる体ともなりえる。」(雨宮慧著「主日の福音」C年、p114 オリエンス宗教研究所 1991年)
私たちは、主イエスの復活を、「蘇生」として理解しているのではないでしょうか。復活した、それは、生き返ったと理解しているのです。一般に、復活を「生き返る」こととして理解しているのです。病気で体が弱っていて、死にそうであったけれども、見違えるほどに元気になったことを復活と考えるのです。野球選手がたくさんのホームランを打っていたのに、ある時から、全く打てなくなった、しかし、しばらくして再び、勢いよく打てるようになった、この選手は復活した、と言うことがあります。復活を蘇生、生き返った、そのレベルで主イエスの復活を考えるのです。
従って、完全に死んだ人が、復活することなどあり得ないと思うのです。多くの人々は、主イエスの復活はなかった、と考えたのです。復活はなかったという前提で、聖書の物語を次のように解釈した学者もいました。主イエスは本当は死んでいなかった、弟子たちが死んだように見せかけて、生きている主イエスを復活した、と宣伝し、弟子たちが復活の物語を創作したと考えたのです。また、主イエスは完全に死んだけれども、弟子たちが主イエスを慕っていたので、死んだことを受け入れられない、主イエスが復活して今も生きていて欲しい、その強い思いが復活の物語を作り出したと言うのです。
雨宮慧というカトリックの聖書学者は、「よみがえりのいのちは死すべき命とは別のいのちである。」と解説しているのです。この死すべき命とは別のいのち、神とつながっている永遠のいのちなのです。霊的ないのちなのです。
トマスは、弟子たちが集まっていた家にはいなかったのです。あとから、この家に帰ってきたのです。弟子たちが、主イエスを見た、と言ったので、とても驚いたと思います。主イエスが十字架で死んだのに、弟子たちが主イエスを見るわけはないと思ったのです。そこでトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのです。トマスは実際に、復活したと言っている主イエスが十字架に架かった主イエスと同じ方なのかを自分で確かめたい、と思ったのです。主イエスのからだを自分の目で見て、自分の手で触って、確かに、この方が十字架に架かった主イエスであると確かめたいと思っていたのです。とにかく、自分の理性や感覚を信頼しているのです。自分の目で確認し、自分の手で触って確かめて、主イエスの復活が本当だ、と思わない限り、主イエスが復活したことにはならないという考えなのです。
トマスは現代の私たちと同じ思考方法です。自分の理性を頼りにしているのです。自分が見て納得すれば、復活を認めるのです。自分の理性で判断して納得できれば復活を認め、信じるのです。自分が経験し、実験し、それに基づいて証明できれば、信用するのです。信頼しているのは自分なのです。自分を信じているのです。
ある時、ユーチューブで二人の男性歌手がとてもきれいな曲を歌っているのを聴いていました。その歌を歌い終わった時に、一人の歌手がもう一人の歌手に、「君が一番、信じているのは何」と聞いたのです。私は何と答えるのか、と思っていたら、「信じているのは己のみ」と答えたのです。その人が、自信たっぷりに「信じているのは己のみ」と言ったのです。「己のみ」自分だけを信じている、と言うのです。信じているのは己のみ、と一人の歌手が言いましたが、現代の多くの人々がそう思っているのではないか、と思いました。自分を信じているのです。自分を頼りにしているのです。
信じるのは自分だけだ、頼れるのは自分だけだ、しかし、自分ほど頼りにならないのではないか、と思います。体力に自信があった人が、病気になることがあり、自分に自信を失うことがあるのです。そして、人を信頼していても、その人が裏切ることがあるのです。自分にも人にも頼れないことがあるのです。
主イエスは、めざとくトマスを見つけて、トマスのところに来て、君はわたしが復活したことを信じられないそうで、私の手の釘跡に指を突っ込まなければ承知しない、私のわき腹に手を突っ込まなければ、復活したことを信じないと言っているそうであるが、そうしてみたら良いと言ったのです。
27節に「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」と語られています。信じることができないトマスのところに真っ先に来ているのです。主イエスの復活を信じられないトマスを、主イエスは受け入れているのです。トマスがしたいように、主イエスのからだに触ってみたら良いのではないか、と語るのです。
よく考えてみると、見て信じると言うことはないのです。見たら、信じる必要はないのです。すでに見ているのだから、信じることは必要がないのです。 自分は、見ていないのだけれども、実際に見て来た人の話を聴いてそういうことがあったと信じることは私たちがいつも経験していることです。
例えば、市ヶ谷駅で電車が遅れていた、という話を他の人から聞くことがあります。電車が遅れていることを実際にその場面で見ているわけではないし、電車が遅れていると言う駅のアナウンスを聴いているわけでもないのですが、実際に見て聴いた人の話を信じて、電車が遅れていることは本当だと思うのです。見たら、信じる必要はないのです。信じる、ということは、見ていないのです。見ていないけれどもその人の言葉を信じるのです。
私たちは、聖書を読むときにそのことを経験しているのです。旧約聖書では神は、直接、預言者に語っていますが、直接に神の言葉を聴いた人の証言を私たちが読んでいるのです。私たちは直接に、神から聴いているわけではないのですが、旧約聖書に記されている証言を、神の言葉として聴いているのです。
私たちは、主イエスのお姿を見たり、十字架の死の場面や復活された場面に立ち会って実際に見たわけではありませんが、新約聖書で主イエスを見、十字架の死と復活に立ち会った人たちの証言を聴いて、主イエスが十字架で死に、復活されたことを信じているのです。
トマスに対して、主イエスは自分の手の釘跡とわき腹を触ったらどうだ、と言われて、トマスは、自分が信仰がない者だ、ということに気がついたのです。自分に信頼を置き、自分が確かだと思うものしか信頼していない、そのような不信仰を思い知ったのです。復活の主イエスは、トマスの心を開かれたのです。トマスは、自分の目も自分の手も信じる必要がなくなったのです。自分がこれが確かであると信頼していたものから手を離すことができ、主イエスを神と仰ぐことができたのです。主イエスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われて、トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。
この礼拝の中で、使徒信条を告白しています。使徒信条は私たちの教会が告白してきた信条です。特に洗礼を受けるときに、この使徒信条に同意して、受け入れることを条件に洗礼を施します。この信条は、私たちが信じる対象である神がどのような神であるかを告白しています。トマスは、「わたしの主、わたしの神」と「わたしの」と言う言葉を用いています。これは、わたしだけの神だと言って独占しているという意味ではありませんし、自分のために役に立つ神を手に入れたから「わたしの神」と言っているのでもありません。
「あなたはわたしの神です」、わたしの罪を贖うために、十字架に架かり、死んで復活された、私を深く愛している神です、と告白しているのです。
カール・バルトという神学者が「教義学要綱」という本を書いています。この本は、何度か翻訳されていますが、最近、新しく翻訳されて出版されました。この本は、使徒信条を講解しています。最初に「信仰とは信頼することを意味する」と言う項目があります。ここで、私が信じる、という「私が」ということが中心なのではなく、「神を」という信仰の対象に重点があると言います。自分がどのように信じるのか、ということではなく、神がどのような方であるのかに重点があるのです。「わたしは、もう自分自身に信頼する必要はない。もう自分を正しいとして自分を守り、弁護し、救う必要はない。自分にこだわり、自分に執着し、自分を正しいものとして人々にみせようとする努力はすべて必要がなくなったのである。わたしは、わたしを信じるのでなく、父・子・聖霊を信じる」
私たちは、自分の理性や感覚に信頼し、目に見えるものに頼り、見えない神が私たちを深く愛しておられることを見失ってしまいます。しかし、主イエスが「見ないのに信じる人は、幸いである。」と語っているのです。
神を信じることができないで疑う、そのような信仰の弱い者に対しても、主イエスは受け入れて、信じる者になるようにと私たちを励ましているのです。
これから、聖餐にあずかります。私たちの罪が赦されるために、ご自身の肉を裂き、血を流されたことを信仰をもって覚え、これからパンと杯を戴きます。 聖餐の恵みに共にあずかりたいと思います。
祈祷
主イエス・キリストの父なる神。主イエス・キリストの復活を祝う、復活日の礼拝に私たちを招き、共にみことばを聴く時が与えられたことを感謝致します。私たちが自分を信頼するのではなく、イエス・キリストによって私たちの罪を贖ってくださった神を信頼し、あなたがどのような時にも愛しておられることを信じて歩むことができますように導いてください。2021年度の教会の歩みを祝福し、この地域の人々にあなたの福音を伝えていくことができますように。自宅療養している兄弟姉妹、コロナに感染し、悩みと苦しみをもっている多くの方々をあなたが癒やしてくださいますように。あなたが共にいて私たちを見守り、支えてくださいますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン
讃美歌 326−1
聖餐式
讃美歌 78−2
献金
主の祈
頌栄 27
祝祷 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン
来週の聖日(4月11日)
説教「時を見分け、正しく判断できるために」 山ノ下恭二牧師
聖書 マラキ書3章6−7節
ルカによる福音書12章54−59節
讃美歌 83−1、280−4、327−1、358−1 29
交読詩編 1編
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