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主日礼拝説教
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20170326  主日礼拝説教  「キリストにある美しさ」  山ノ下恭二



(エゼキエル書13章20−23節、マルコによる福音書14章1−9節)

 現在、私たちは受難節を過ごしています。毎年、受難節の時期は異なるのですが、今年は3月1日にレントに入り、4月9日が、主イエスがエルサレムに入城して、人々が棕櫚の枝をもって歓迎した棕櫚の主日であり、4月13日は主イエスが弟子たちの足を洗った洗足木曜日であり、4月14日は主イエスが十字架について受難を受けた受難日です。主イエスが荒野で過ごした40日間にちなんで、40日間をキリストの受難を想起し、克己、悔い改めに励みながら、復活日(イースター)を準備する時とされています。主イエスの受難を想い起こしながら、共にみことばに聞きたいと思います。

 聖書には4つの福音書がありますが、共通していることがあります。それは主イエス・キリストがどのように歩まれたのか、どのように生活をされたのか、と言うことが詳しく記され、伝えられていることです。

 特に主イエス・キリストの最後の時のことがとても詳しく記されているのです。特にマルコによる福音書14章、15章には、主イエスが死に赴かれる、その場面が詳しく記されているのです。そして、主イエスの近くにいた人々が、主イエスに対してどのような態度を取り、どのように思ったのかも、詳しく記されています。
 
 マルコによる福音書14章3節には「イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」と記されています。

 ナルドの香油を見たこともありませんし、どのような香りがするのか分かりませんが、もともとユダヤの国で作られたものではないようで、インドや東の方から輸入された高級品でした。これは、とても香りも良く、なかなか手に入らないものであったらしいのです。
 
 この女性は、このナルドの香油の数滴ではなく、高価な香油を全部、使ってしまったのです。この香油は、当時のお金で300デナリオンもする香油です。300デナリオンとあり、1デナリオンは一日の労働者の賃金と数えられていました。ほぼ一年分の収入です。このことから、この香油がいかに高価なものであったか、が分かります。この香油を買うためには、一年分の給与を全部出さなければならないのです。このような香油を惜しげもなく、全部、使い果たしてしまうのです。自分の一年分の収入を香油に代え、300デナリオンの香油を一瞬のうちに使い果たしてしまうのです。壺を壊して惜しげもなく香油を全部、主イエスの頭に注ぎかけたのです。私たちが普通用いている香水の瓶を全部、注いで使ったら、逃げ出したいような香りになるかも知れないのです。異常なほどに主イエスにすべてを注ぎだしているのです。
 
 このようなこの女の行いは、主イエス・キリストに対する深い愛から出たものです。この女性が、ただ主イエスにする深い思いを持って、このようなことをしたのです。それは、常識を破る並外れた、思い切ったものでありましたので、それを見た者たちが嘆き、非難の言葉を投げかけたのです。

 この女性の振る舞いに非難の言葉を投げかけた人物は、福音書によって書き方が違います。マルコ福音書では「そこにいた何人か」、マタイ福音書では「弟子たち」、ヨハネ福音書では「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」となっています。マルコによる福音書14章4節では「そこにいた人の何人かが、憤慨して言った。『何故、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた。」と記されています。
 
 この女性は、主イエスに目をとめ、主イエスのことだけに心を向け、じっと見つめていたのです。明らかに、主イエスが死ぬことは、よく分かっていたのです。肉体において見える主イエスはいなくなるのです。主イエスが「わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言っておられて、この地上ではもう主イエスの姿を見ることができません。死に直面している主イエスに、この女性の目と存在が注がれるのです。私たちもこの地上での生活も残り僅かである親を思って、わざわざ桜を見るために親を連れて出かけたり、好きな食べ物を買ってきて一緒に食べることをします。この女性はもうすぐ死にこの地上を離れる主イエスに対して、できる限りのことをしたいと思ったのです。
 
 しかし、主イエスの存在や死に目を注ぐことなく、主イエスを愛することをしない人たちがいたのです。常識的な判断をもって、この300デナリオンもする、300万円のお金を、一瞬のうちに、無駄に浪費することをせず、300万円のお金を使って、恵まれない人々に施せば良い、と言うのです。一年分に値するものを主イエスのために一瞬に使うことは無駄なことだと考えたのです。もっと有効に使う方法があるのではないか、もったいないと思ったのです。確かに、お金の使い方を考えれば貧しい人々に施したほうが合理的であり、人々が納得できる発言です。一年分のお金を主イエスにささげることは無駄なことだと考えたのです。
 
 しかし、そこには主イエスのかたわらにありながら、主イエスのことを少しも考えていないのです。主イエスに対してこうしたら喜ばれるのではないか、死を前にして悲しみや苦しみ、孤独があるのではないか、どうしたら慰めることができるのか、そのことを思ったり、苦しんだり、心を配ったりしないのです。主イエスの痛みや苦しみを思う心がないのです。
 
 マルコによる福音書14章6節に「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。』」主イエスは、この女性の行いと思いとを完全に受け入れてくださったのです。なぜ、主イエスはこの女性の好意を完全に受け入れたのでしょうか。それはこの女性が、主イエスのことにのみ心にかけ、思いやりをもって行動したからです。

 この女性は何をしたのでしょうか。高価なナルドの香油の壺を割ってそこに入っている香油を全部、主イエスの頭に注いだからです。ナルドの香油は、どのような使い方をしたのでしょうか。香水のように使っていたのか、他の使い方をしたのか、分からないのです。このナルドの香油が何に使われていたのか、いろいろな説明がありますが、共通しているのは明らかに葬りに用いられたのです。人が死ぬと、土葬にするのですが、死体が腐敗してきます。その臭いを消すために、このナルドの香油で、死んだ肉体を塗って、覆うのです。主イエスは、「この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と語られたのです。

 エルサレムの町では過越祭、除酵祭、その祭りの準備のことで人々が忙しくしており、人々はその祭りのことで頭がいっぱいでした。その時に、主イエス・キリストに心を向け、集中している人はいないのです。弟子たちでさえ、主イエスの傍らにいながら、自分のことしか考えておらず、主イエスのことを考えることはないのです。しかし、この女性だけが、主イエスの十字架の道を思い、主イエスの苦しみ、悲しみ、痛みを分かっているのです。

 無教会の矢内原忠雄が聖書講義「イエス伝」の中で、このところを次のように解説をしています。「ベタニアはイエスにとってオアシスでした。いかに烈しき戦いの日でも、ここに帰って来れば御心はくつろぎ、おからだの休養もできたのです。しかるに教は御心重きこと鉛のごとく、とうとう額には哀しみの雲深くただよいいかにも疲れつくして席に着き給いました。その御様子をみてマリアは、何かは知らず尋常事でなき悲哀がイエスの身をつつみ、死の悩みとも言うべきイエスの心を圧えていることをば、若き女性の愛の直感をもって感じた。ああおいたわしい、何とでもして慰めて差しあげたい、と彼女の心はつぶされそうでありました。」

 この女性は主イエスがどのような者であるか、よく理解していたのです。香油と言うのは、油です。この油は葬りのために死体に塗るためにだけ用いられたのではないのです。このマルコによる福音書では、イエスの頭に油を注いだのです。香油には、葬りのほかにもう一つの大切な使い方がありました。

 祭司が立てられ、王が立てられ、預言者が立てられる、神の務めを担う人々が立てられ、任職の時に、そのしるしとして油を注いだのです。「油注がれた者」と言う言葉は、メシア(キリスト)救い主と言う意味を持つのです。従って、主イエスの頭に油を注いだということは、主イエスを救い主として、拝むと言うことです。主イエスをメシア、キリストとして、この女性から油注ぎをしてもらったのです。

 主イエスは、この女性の行為を非常に喜んだのです。「わたしに良いことをしてくれたのだ。」(マルコ14章6節)この「良い」と翻訳されている言葉はカロスと言う言葉です。聖書では「よい」と言う言葉で翻訳されている言葉があります。それは「アガソス」と言う言葉です。この言葉は「善い、悪い」の「善い」です。しかし、ここでは「カロス」です。この語は「美しい」と言う意味を持っています。この女性がしたことについて、主イエスは明らかに特別な言葉を使っています。単なる慈善ではないのです。「美しい」のです。ここに表れている「美しさ」は何でしょうか。

 東京・小金井市の聖ヨハネ会桜町病院ホスピス部長の山崎幸郎医師の話をかつて聞いたことがあります。ホスピスでは、末期がんのために人生の終わりの時間を人間らしく過ごすために様々な援助をしているのです。

 ある60歳の男性は末期がんであることを知らされず、病状が悪くなり、苦しんでいたのです。この人の妻が山崎医師に相談して、山崎医師ががんであることを告知したのです。そして容体が悪くなったので家に帰るように勧め、その日の夜中から明け方まで妻が夫の心の中にあることを良く聞いて過ごしたそうです。夫の話を聞いて、夫がこんなに苦しんでいたのか、ということを知るのです。この人は一ヶ月後には亡くなったそうです。この妻は全存在をもって夫の苦しみを受け止めたのです。

 3月11日は、東日本大震災の記念の日でしたが、3月10日の朝、NHKラジオでは朝から、東日本大震災について放送していました。岩手で被災した子どもたちのための援助をしているNGOの人がこういうことを話していました。どうしても大人の目線から子どもを理解しようとするが、子ども自身の口を通して、子どもの苦しみを理解することが大切だ、と言っていました。そして一人の少年を紹介したのです。3月11日、11歳であった少年は津波が襲ってくるので、高台に逃げて行く途中に、一人の大人の男の人が津波に呑まれそうになっていて、少年に「助けてくれ」と手を出していたのだけれども、とっさに自分が手を出したら、自分が助からないと思い、後ろを振り向かないで駆け足で高台に登って助かった、しかし、おじさんが手を出して助けを求めていたのに自分が助けなかったことをずっと苦しんで誰にも話すことができなかった、しかし、NGOの人が、少年の話をかなり時間をかけて聞いて、この少年の深い苦しみを受けとめることによって、この少年は自分のこの経験を話す勇気を持つことができ、実際に各地で話すことができたそうです。
 
 主イエスが十字架の死に向かうときに、それを全存在をもって受け止める者がいれば、主イエスは深く慰められるのです。相手の痛みをよく受け止める心を持って対応すれば、深く慰められるのです。

 この女性は、主イエスがこれからなさろうとする、十字架の歩みを受け止めて、そのために全身をもって、献げようとするのです。この美しさとは、「献身する美しさ」なのです。

 主イエスは「私に美しい行いをしてくれた」「美しいことをしてくれた」。主イエスの心を慰め、主イエスのために一切を献げる美しさです。死に立ち向かう者を心から愛する愛です。

 主イエスの周りには主イエスを捕らえて殺そうと考えていた人々がいました。14章1−2節に記されています。イスラエルの民がエジプトから解放され、神の恵みを思い起こす祭りの最中に、人間の罪が明らかになる形で主イエスを抹殺しようとしています。主イエスなどいなくなれば良いと考えていたのです。人間の罪の深さを知らされるのです。また主イエスに対する思いよりも、合理的な判断を示しながら、少しも主イエスを愛そうとしない弟子たちがいたのです。

 その中で、この女性だけが、香油を注いで主イエスだけに心を注いで主イエスだけに心をかけ、一切を、持っているものすべてを献げたのです。このことに主イエスは深く慰められて、十字架への道に向かう決意を固めていったのです。この女性の行いを「美しい行い」と語り、「できる限りのことをした。」と主イエスは褒めたのです。この女性の行いは、無駄な行いであるかもしれません。しかし、主イエスに対して真心をもって献げた行いこそ、「美しい行い」なのです。

 よく考えてみると、神の御業こそが、美しい御業ではないでしょうか。それは、ただ私たちのことだけを考えて、私たちを愛するために、神が御自分の外に出て、肉体を取って人となり、私たちの罪の贖いとして、犠牲を献げて死んでくださるのです。私たちの罪のために、イエス・キリストが肉体を裂き、血を流してくださる、一所懸命に御自身の犠牲を献げて、愛してくださるのです。そこに神の御業の美しさがあるのです。この神の御業に対して、この女性は美しい姿で、主イエスに奉仕をしたのです。


20170319 主日礼拝説教  「目を覚ましていなさい」  山ノ下恭二



(イザヤ書25章1−10節A、マルコによる福音書13章28−37節)

 3月10日に東京神学大学卒業式がありました。12名の卒業生が全国各地の教会に派遣されて、4月からそれぞれの任地に赴任します。この卒業式で励ましの言葉を述べました。最近の学報に私が話した要約が掲載されています。

 励ましの言葉を5分位で話してくれと言うことなので、伝道者の献身と日常生活にしぼって話そうと思いました。牧師・伝道者は比較的自由に時間を使うことができます。自覚的に自分の生活を律していかないといけないのです。時間をきちんと決めて生活し、自覚的にコントロールしないといけないのです。その意味で規律正しい生活をする必要があります。神学大学の同窓会から、毎年、卒業のお祝いの記念品を贈ります。何だと思いますか。目覚まし時計です。朝、きちんと起きて、生活を整えるようにという願いをもって贈っています。
 
 そして伝道者の日常の生活の中で、さまざまなことが起こります。すぐに対応できる態勢でいるように、ということで次のことを書きました。

 「夜中に電話相談を受けることもあり、朝早く、警察から電話が来て、道に迷った会員を迎えることもあります。消防隊員のようにいつでも活動できる態勢でいることが大切です。」このことは私の経験から来ていることです。

 私は夜中に電話相談を受けることがありました。また朝早く電話がかかってくることもありました。ある時、朝早く、ある警察から電話を受けたことがあります。いま、警察であずかっている人がいる、自転車に乗っていたが、道に迷って警察で泊めている、連絡先に教会名と電話番号、山ノ下恭二と書いてあったので、連絡をした、引き取りにきてほしい、と言う電話でしたので、始発の電車に乗って警察にいる教会員を迎えに行ったことがあるのです。消防隊員は火事が起こるとすぐに出動できるように、態勢を整えているのです。そのようにすぐに取り組めるように伝道者は態勢を整えて備えておくのです。
 
 東京神学大学を卒業して牧師・伝道者になる人たちにその心構えを話したのですが、このことは、牧師・伝道者だけのことだけのことではなくて、私たちキリスト者にもそのような心構えが必要なのです。

 キリスト者、このキリスト者という言葉は元々は「キリストに属している者」と言う意味の言葉です。キリストに属している者、それはキリスト教会に属している者です。洗礼を受けてキリスト者となった者は、キリストによって救われた者です。キリストに救われた者は今までの生活の仕方を捨てたのです。自分中心の生活ではなくて、神を中心とした生活に切り替えたのです。自分のことのみに関心を持つのではなく、神に心を向けていく生活に切り替えたのです。自分の生活を、神を中心にした生活、礼拝を中心にした生活に切り替えたのです。

 私たちは地上の時間の中で生きています。キリスト者になったと言うことは、もう一つの時間の中で過ごすことです。その時間とは神と交わり、神と関わる時間のことです。神と深く関わる時間の中でこの地上の時を過ごしていると言って良いのです。キリスト者になったことは、自分の人生が神と深く関わる時間の中に移されたことなのです。この地上で生まれ、死ぬということではなく、神が始め、神が終わらせる、その時間の中に置かれているのです。私たちはこの神の時間の中で過ごすのです。神が始めた歴史は神が終わらせるのです。

 ある人は、私たちは「二つの時の間」を生きている、と言いました。二つの時、一つはイエス・キリストがこの地上に来られて、その救いの業を行った時です。もう一つの時とは、イエス・キリストが再び到来する時です。終末、再臨、と言う言葉で言い表します。私たちはキリストの来臨の時とキリストの再臨の時、この二つの時の間を過ごしているのです。

 最初の教会は主イエス・キリストが来られることを熱心に待っていました。主イエスよ、来たりませ、マ・ラナタ、と礼拝でいつも告白していたのです。主イエス・キリストが再び来られるのです。主イエスがもうすぐ来られる、その時を待っていることが私たちの生活の姿勢になります。
 
 本日、マルコによる福音書13章28−37節のみことばを読みました。13章には鍵となる言葉があります。何回も語られている言葉ですが、一つは「気をつけなさい」と言う言葉です。この言葉は「見る」と言う言葉です。「目を開いて見るべきものを見る」という意味です。もう一つは「目を覚ましている」と言う言葉です。この「目を覚ましていなさい」と言う勧めは、33節、35節、37節と三たび繰り返されていますから、大切な意味をもっています。33節には、「気をつけて、目を覚ましていなさい。」と二つの言葉が重ねて語られています。「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言う言葉は、目を開き、見るべきものを見るという言葉と、目を覚ますと言う言葉とが重なるのですから、それだけ、主イエスが私たちの信仰の目が開かれるようにと心を痛め、心を配っていることがよく分かるのです。

 目を覚ます、と言う言葉はギリシャ語では三つの言葉が使われていて、33節の「目を覚ます」と言う言葉は珍しい言葉です。ヘブライ人への手紙13章17節Aにこういう言葉があります。「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。」(新約p419)とあります。この「心を配る」と言う言葉がこの「目を覚ます」と言う言葉と同じ言葉なのです。指導者たちが教会の人たちの魂のために、目を開いて、心を注いで見守り、監督する、そのことを「心を配る」という言葉で言い表しています。

 私たちはいつも多くのものに心を配っています。ルカによる福音書10章38−42節に記されている「マルタとマリア」の物語では、マリアが主イエスの足もとに座って主イエスの言葉に集中して聞いているのに対して、マルタは主イエスをもてなそうと心を配り、様々なことに思い煩っていたのです。

 様々なことに心を配っているために一つのことに集中できないのです。心を向けることができないのです。何かに気を取られています。一つのことに気を取られていると、他のことに注意を向けることができないで、大切なことを忘れてしまうのです。出かける時に、何かに気を取られていると、手紙をポストに入れてくださいと言われても、気に留めないでいるので、忘れてしまうのです。私たちの心は何かに向かっていたり、あるものにこだわっていると、他のことが心の中に入らないのです。

 目を覚ましている、ということは自分の生活に心を配る、と言うことよりも、主イエス・キリストが自分に何を求めているのか、自分が何をしたら喜ぶのか、をいつも心に留め、そのことに心を配ることなのです。
 
 主イエスは34節から譬を用いて、語りたいことを明らかにします。34節には「ちょうど家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」。と語られています。この旅に出ていく時に主人は僕に仕事を割り当てて責任を持たせ、目を覚ましているように言いつけています。いいつけているのは主イエスです。

 主イエスは出て行く時に、仕事を言いつけて目を覚ましているようにと命じて離れるのです。その仕事とは主イエスが権威をもってしていた仕事のことです。それは福音を伝える、福音宣教のことです。主イエスがこれまでしてきた仕事を、あとをよろしく頼む、と委ねたのです。主イエスがひとりでしてきた仕事を、弟子たちに、そして弟子たちに続く僕たちに、教会の人々に委ねたのです。その仕事をするのに重要なことは、「責任」、とありますが、「権威」を委ねたのです。「責任」と言う言葉は現代的な言葉ですが、元々は「権能」と言う言葉です。主イエスが12人の弟子を召されて、弟子たちに仕事を与えられた時に、マルコによる福音書3章15節で「悪霊を追い出す権能を持たせる」とありますが、この「権能を持たせる」と「責任を持たせる」と同じ言葉です。主イエスの権能をすべて弟子たちに与えて、全部委ねて、あとはよろしく頼む、と言って、この地上を去られるのです。主イエスの務めを委ねられている者として、目を覚ましているのです。

 福音宣教、あるいは伝道と言うと特別な人、牧師がすると考えるかもしれませんが、そうではなく、「仕事を割り当てて」とあるように、キリスト者すべてが、主の弟子ですから、教会に属する者みんなが担うものです。主イエスが委ねたことは、キリストの福音を伝えることなのです。神に心を向けて、神から与えられた仕事に従事するのです。

 最近、日本で救世軍を起こした山室軍平の評伝を読んでおりましたら、こういうことが書いてありました。高堂基という人が、人と思想シリ−ズで「山室軍平」を書いているのです。山室軍平がキリスト教に入信して、こんなすばらしい話であれば、同じ職場の人に教会に行こうと誘ったところ、「皆拒んでこれに応じなかった。そうして言うには『終日労働に疲れ果てた体を、今一度そんなところに出かけて、わざわざ肩のこるような話など聞いていられるものでない』と。そこで私はキリスト教のお話が、果たしてそんなに肩のこるものか知らんと、今一度も二度も出かけて聞き直して見たが、成程平生そういう方面に嗜みのない、平民や労働階級にとっては、どうも調子の合わない所があり、お話が頭の上を飛んでしまうことも、少なくないように思われた。」
 
 そこで山室軍平は印刷工として神の御心に適うならば、自分のような者を用いて、労働者、職工、貧民、平民の間に、キリストの救いを、わかるように伝える者とならせてください、と熱心に祈ったと書いてあるのです。

 教会に行って話を聞いたけれども、分からなかった、そのことを聞いて、私たちはどのように思い、行動をするでしょうか。その人の理解力が足りない、そのうちに分かる、と心の中で思うかも知れません。難しいかも知れないけれども、そのうちに分かります、と言うかも知れませんし、牧師に分かりやすく解説してもらったら良いと言うかも知れません。自分で思ったり、言ったりしますけれども、自分で努力して伝えようとはしないのです。

 しかし、山室軍平先生は違うのです。労働者などに分かるような形で主にお仕えしたい、と熱心に祈って実際に自ら聖書を学び、説教をし、本を書いたのです。そこが山室軍平の立派なところです。その結果、「平民の福音」を書いたのです。山室軍平が書いた注解書もそうですが、民衆の立場に立って聖書を分かりやすく解き明かしているのです。民衆の聖書と言う注解書です。

 このような福音宣教の仕事はいつまで続くのでしょうか。「目を覚ましなさい」と言われたのは、主がいつ来られるか分からないからです。32節に「その日、その時は、だれも知らない、天使たちも子も知らない、父だけがご存じである」と記されています。主イエスが知らないのは、父なる神に信頼していたからです。父なる神だけがご存じである、と言うのです。神がすべての最後を握っているのです。
 
 私たちは皆、死を迎えます。それがいつどのようであるかは知らないのです。神が知っておられるのです。それで安心して眠っていて良いと言うのではなくて、目を覚ましていなさい、と言うのです。35節には、「だから目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないのである」と記されています。ここに4つの時が書かれています。見張りの役の人々が交代で見張っていたのです。一所懸命に主が与えてくれた仕事に励んでいる時に、目を覚まして、主が来られる、その時を待ったのです。「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか」分からないのです。分からないけれども、主イエスが来られる時を待ち望みながら、神から委託された仕事をするのです。

 イエス・キリストは私たちのために心を注いで愛して下さっています。そのことを覚えながら、神に心を向けて、自分たちに委託された仕事をするのです。

 主イエス・キリストが再び来られた時にどのような姿勢で生活をしているのかを語っている譬えがあります。主イエス・キリストに祝福されている僕と厳しい裁きを受けている僕が登場しています。ルカによる福音書12章28−48節に記されています。(新約p132)

 12章37節に「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人が帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」と語られています。そして、12章43−44節に「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕たちは幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理されるにちがいない。」と語られています。主イエス・キリストが来られたときに、みこころに適う生活をしている、神に心を向けて、目を覚まして、生活をしている者は幸いだ、と語られているのです。

 しかし、そうではない者に対しても語られているのです。神に心を向けないで過ごしている者に対して、神の裁きが語られます。ルカによる福音書12章45節「しかし、その僕が、主人の帰りが遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」

 主イエス・キリストなど来られるはずがないと自分勝手な生活をしている者に対して、裁きが語られているのです。
 
 私たちは日曜日に教会に来て、礼拝をしてみことばを聞いています。私たちが日曜日の礼拝が他のことと同じ価値をもつものとしてとらえてしまうことがあります。私たちはテレビを見たり、ネットで情報を得たり、音楽会で音楽を聴いたり、映画で感銘を受けたり、講演会で今まで知らないことを聞いて豊かな知識を獲得し、親しい友人と植物園に行って心が和むことがあります。それと同じレベルで礼拝をとらえていることがあるのではないか、と思います。

 心を豊かにするために礼拝でお話を聞く、そのように考えるのです。自分のために礼拝に出るのです。そのようなあり方は、再臨のときを待つ姿勢ではないのです。

 卒業生への励ましの言葉で、世俗的な現代社会に暮らしていると、意識も生活も世俗的になってしまう、と書きました。世俗的、と言うのは神なしで生活をしていると言うことです。神に心を向けて生活する、神を畏れることがないということです。聖書はそのような生活をしているところに再臨のキリストが来られて裁きが行われると語ります。

 仕事をしている時も、食事をしている時も、話している時も、毎日、いつの時も主イエス・キリストに心を向けて生活をしている者は幸いです。

 主イエス・キリストがいつ来られても裁かれないように「言われたとおりにしているのを見られる」僕としての姿で過ごすのです。


20170305 主日礼拝説教  「気をつけていなさい」  山ノ下恭二



(イザヤ書13章1−13節、マルコによる福音書13章1−27節)
 
 三重県に日本キリスト教団山田教会という教会があります。この教会は伊勢神宮のすぐ近くにある教会です。この教会はアメリカのカンバーランド長老教会のヘールと言う宣教師によって伝道が開始されましたが、それ以前、多くの伝道者がこの町に伝道を試みましたが町の人々に全く受け入れられず、集会ができなかったのです。ある時、二人の伝道者が来て、宿を捜していたところ、「十文字屋五兵衛」と言う宿屋があり、キリスト者と思い、そこに泊まって伝道集会をしようとビラを配ったが、誰も来ないので、宿屋の主人に聞いたところ、自分は耶蘇ではなく、宿屋の屋号も耶蘇とは関係なく、先祖から引き継いだ屋号で、耶蘇の集会をすることが分かって、自分は耶蘇の集会であるから、来るなと言って回った、と言うのです。

 「日本は神さんの国やないかいな。この神国の神さんの町に生まれた者が何で汚らわしい邪教の話を聴きに来んなりませんのや。うちの屋号『十文字屋』は先祖伝来のもので、耶蘇なんぞに関係ないわい。けったくそ悪い事言わんといてんか。あんたらが来た時、耶蘇やと分かったが、うちは宿屋やよって仕方なしに泊めたったけど、近所の人らには、あんたらの話を聴きに来たらあかんと言うて回ったんや。それがどうした。文句あるかい。宿銭払ろうて、はよ出て行きくされ。」最初からキリスト教伝道が困難な地域でしたが、伊勢神宮に対峙しながら、教会を神が守り、困難の中にも礼拝と伝道がなされているのです。

 本日の礼拝で読んだマルコによる福音書13章は、小黙示録と呼ばれています。小黙示録と言われているのは大黙示録があるからです。大黙示録とは、ヨハネの黙示録のことです。このヨハネの黙示録は、パトモス島にいたヨハネが、ロ−マ帝国の権力によって迫害の中で、神から与えられた幻のままに世の終わりの姿を描きながら、イエス・キリストの勝利を記録した文書です。このヨハネの黙示録は、迫害に耐え続け、その信仰の戦いを強いられた教会にとっては、慰めに満ちたものでした。
 
 このマルコによる福音書13章も、マルコという福音書記者が心を込めて、教会の人々を深く慰めようと書いたものです。このマルコによる福音書は、おそらくロ−マの教会の人々のために書かれたであろうと推測されています。このマルコによる福音書が書かれた頃、ロ−マの教会は、ネロと言う皇帝が教会を迫害した、そのすぐあとの時代を生きていたのです。皇帝ネロは、ロ−マに大火を起こして、その大火の責任をキリスト者の責任であると決めつけ、キリスト者を殺したのです。キリスト者たちを総督や王の前に立たせ、キリスト教信仰を捨てれば生かす、そのような生々しい中に生きていたのです。

 このような厳しい現実に生きなければならない信徒たちを励ますために、主イエス・キリストの励ましの言葉を伝えたのです。迫害によって、自分がキリスト者として証しをしなければならない中にいる教会の人々に向けて、主イエス・キリストの言葉を伝えようとしたのです。私たちは、この当時のロ−マの教会に属していたキリスト者のように、直接的に国家から迫害を受けることはないかも知れません。しかし、キリスト者であろうとし、続けていこうとする時に、周りの者から理解されず、誤解されたり、妨害されることが実際にあるのです。

 その主イエス・キリストの励ましの言葉は、13章13節の言葉です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言う言葉です。この「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言う言葉は、このところだけに出て来る言葉ではなくて、福音書の幾つものところにある主の言葉であり、迫害に耐えなければならない教会の人々が、お互いに、しっかりやろうと励ました時に、思い起こした主イエス・キリストの言葉です。迫害でとても辛い思いをしている時に思い起こしたのです。主イエスが語られたではないか、「最後まで耐えよう。そうすれば救われる、必ず勝利が来る、そう言ってくださった」と思い起こしたのです。
 
 「耐え忍ぶ」と翻訳されている言葉は、名詞にすると「忍耐」と言う言葉になります。この「耐え忍ぶ」と言う言葉は「忍耐」と言う言葉で翻訳することができるだけでなく、もう一つの言葉に訳すことができます。それは「しっかり立つ」と言う意味の言葉です。その意味でこの主の言葉を訳すと「しっかり立ちなさい、最後までしっかり立ち続けなさい。」と訳すことができます。「最後」というのは、一つは自分が死ぬことです。殺されて死ぬ、病気で死ぬ、その死に至るまで立ち続けるのです。ぐらついてはいけない、しっかり歩いて行かなくてはならない、と主イエスは励ましたのです。

 マルコによる福音書13章1節には、主イエスが弟子たちと一緒に神殿の境内を立ち去るところから物語が始まります。エルサレム神殿の大きさに目を奪われている弟子たちの目を、主イエスは正されるのです。この大きな建物を見て、心を奪われているのか、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と語り、神殿はやがて必ず崩れると主イエスは明言されたのです。これを聞いて弟子たちは、心配になり、神殿が崩壊するというのは世も終わることだと考えたのです。それで世も終わりが来た時に、それがすぐに分かるように、どんな兆候があったら世の終わりであると知ったらよいのか、教えていただきたいと願ったのです。そこで主イエスが語られたのです。

 13章には、世の終わりについて主イエスが語られているところであり、様々なことが書いてありますが、主イエス・キリストが語ろうとしたこと、主イエスが言いたい、伝えたいと願っていることがあるのです。それは、「気をつけていなさい」と言うことです。この「気をつけていなさい」という主イエスの言葉は何度も繰り返されています。13章5節「人に惑わされないように気をつけなさい。」と言われ、9節「自分のことに気をつけていなさい」と言われ、23節に「だから、あなたがたは気をつけていなさい。」と語られています。主イエスは、私たちに気をつけてほしい、とよほど切実に望んでおられるのです。この「気をつける」と言う言葉は、他の翻訳では「こころせよ」と訳してある翻訳があり、「警戒しなさい」と訳されている翻訳があります。

 私たちは「気をつける」と言う言葉をよく使います。家族が出かける時に、「気をつけて行ってらっしゃい」と言います。しかし、この言葉はもっと深い意味の言葉です。注意する、警戒する、心に留める、と言う意味よりも、私たちの生き方そのものと関わるような言葉なのです。
 
 この「気をつける」と言う言葉はもともと「見る」と言う言葉です。目を開いて、見るべきものを見る、と言う言葉です。事柄の深層を見抜くことができる、そのような目をもって、じっと見ると言うことです。霊の目をもって見る
と言うことです。

 「気をつけるように」と語られた主イエスは、私たちの何を心配しているのでしょうか。それは、私たちの目が見るべきものを見失い、見なくても良いものに目を奪われるからです。そのように過ちを犯しやすい目を持っているのです。主イエスは世の終わりが近づいている兆候や事件が、目を惑わすように次々と起こってくるので、気をつけなさい、と言うのです。目を惑わすようなことが起こってきて、見るべきものを見ないで、目の前に起こっている事件だけに目を奪われるのです。そのような時に見るべきものを見る目をもって対処して欲しいと願っているのです。

 私たちの目を惑わすようなものが、次々と起こってくるのです。13章5節に「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。』」と語って、「わたしの名を名乗る者」が大勢現れる、と言っています。「わたしが救い主」「わたしこそキリスト」と自称して、登場する人がたくさん来る、と語っています。そして戦争に戦争が続き、混乱が起こるのです。しかし、主イエスは、それはまだ世の終わりではない、世の終わりとはそのようなものではない、と言われたのです。現代も自分がキリストの再来であると自称する人が現れ、また、ある年に世の終わりが来るので、裁かれないように、そのグループに入会するようにと活動しています。そのようなことは、人々の心をとらえるし、私たちも心も動揺するのです。しかし、主イエスは、この世の終わりかと思われるような出来事に、心を奪われるなと語ります。この人こそキリストの再来だ、というカルトの活動に直面して、自分が信じているイエス・キリストへの信仰が揺らぎ、終わりが近づいていることを宣伝している、その声に惑わされるな、畏れるな、と言うのです。そうでないとしっかり立つことができないのです。

 地震があり、飢饉があり、様々な混乱があるのです。しかし、それが、世の終わりとは言えないと言うのです。「これらは産みの苦しみの始まりである。」(13章8B)と語ります。何のための苦しみか、それは救いを産み出すための苦しみであると言うのです。そういう時に「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」と言うのです。ここでは「自分に気をつけていなさい」と「自分に」と言う言葉があるのです。

 今日の説教の最初に、私はこのところは、マルコが迫害の中にあるロ−マの教会の人々を励ますために主イエスの言葉を伝えている、と語りました。キリスト者が、福音を伝えるために捕らえられて、弁明しなければならなくなる時があり、キリストを信じているということで、家族から引き離されることもある、そこでどうするのか、と言うことです。そのような時には、自分自身のことに目を向けるのです。しっかりしなければならない、動揺してはいけない、と自分を励ますのです。そうではなくて神に目を向ける、自分がイエス・キリストに所属しており、イエス・キリストによって赦され、愛されている、そのことに、目を留めることを勧めるのです。自分は、自分のために死に、復活されたキリストの中にいる、そこに目を留め、目を注ぎなさい、と主イエスは語るのです。信仰のまなざしをもって神の働きを見るのです。

 14節に「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」とあります。私たちが用いている旧約聖書と新約聖書の間の時代のことを書いた書物に、マカバイ記と言う書物があります。新共同訳には旧約続編が入っている聖書があり、その中にマカバイ記があります。それを読むと、シリアの王でアンテティオコス・エピファネスという王が出て来るのです。この王はエルサレム神殿に乗り込んで、神殿の中心の祭壇にギリシャの神ゼウスの神像を置いて、拝むことを強要したのです。これは、ユダヤの人々の信仰にとって、まことに重大な挑戦であったのです。そこで反乱が起こり、その首謀者となったのがマカベウスと言う人です。

 このマルコの言葉を読むと、ユダヤの人たちは、このアンティオコス・エピファネスを思い起こしたのです。「立ってはならない所に破壊者が立った」。「憎むべき」と言う言葉がありますが、これは人間が憎むと言う意味ではなくて、神に憎まれる、と言う意味です。そして実際に、紀元40年にエルサレム神殿にロ−マ皇帝カリグラが自分の像を立てようとしたのです。病気でこのカリグラは死んだのですが、ユダヤ人にはショッキングな事件でした。「立ってはならない所」に立つ、そこには神のみが立つ所、神が拝まれる所に神ならぬ者が立つのです。そういう時が来る、と語ります。

 太平洋戦争の戦時下で、キリスト教会は天皇のいる皇居に向かって礼をしてから、教会の礼拝を始めるように強要されたのです。また牧師の説教が国家への批判や戦争反対を語るものなのか、どうか、チェックするために、特別高等警察の刑事が、礼拝に出て説教をメモして、もしそのような言葉があるならば、取り調べをしたのです。神ならぬ国家が教会を統制し、支配しようとしたのです。それはまさに「立ってはならない神ならざる者が立つ」と言うことが起きたのです。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」と言われたのです。ここに語られているのは、人間が滅びると言うことです。そのときが冬に起こらないように、と語るのです。すぐに逃げることができるのは、春か夏です。冬は冷たい雨が降り、逃げにくいのです。神の厳しい審きがあり、主なる神が、この期間を縮めてくださらなければ、誰ひとり生き残ることができないのです。

 滅びるしか他ない時に、逃げる以外に手がないのです。その時に、気をつけなさい、見るべきものを見なさい、と言うのです。自分の存在がなくなるような滅びに直面して、動揺している時に、私たちは何を見るのでしょうか。それは「主」「主なる神」を見なさい、と言うのです。主なる神、それはこの歴史の支配者、歴史の真実の王がおられることを確信し、じっと見続けなさい、と語るのです。13章27節に「選んだ人たち」と語るのですが、この言葉は三度、出て来るのです。この言葉は、教会のことを指しています。厳しい冬、滅びを経験する、それは個人の生活においても、病いや、苦しみ、死と言う、存在が滅んでいくことに直面するような、厳しい冬を過ごさなければならないし、この冬を耐えなければならない時が来るのです。

 しかし、私たちは見ていますし、知っているのです。それは私たちすべてを支配し、歴史を支配している神がいると言うことです。

「鹿沼教会史」の1944年の記録にこう書かれています。「牧師は軍需工場に徴用された。軍国主義は、ますます激しく、教会に対する圧迫も激化、礼拝前に皇居遙拝を強要され、牧師の説教も警察のスパイによって、細やかに密告され、礼拝出席者が数名に激減した。ある長老宅にも、毎週、特高警察の刑事が来て、宗教上の質問をされたり、本棚を調べられた。しかし、如何に圧迫を受けても、如何に少数であっても、感謝すべきことに、礼拝は戦争中一回も怠らず、厳守した。」

 このマルコによる福音書には礼拝もできなくなりつつある教会があることを背景にかかえています。しかし、ここで神は、神を選んだ民、教会を守り、保持し、捨てることはしないと語ります。厳しい冬を迎えるかもしれません。しかし、この歴史を支配する神は、選ばれた人々、教会を守るのです。この世の終わりの時に、憎むべき荒廃をもたらす者が立つ時に、それに向かい合って、神の勝利を告げる者が来られるのです。その方はイエス・キリストなのです。

 主イエスは、十字架への道を弟子たちに語られました。10章33節に「人の子は」十字架へと引き渡される。そして「人の子は三日の後に復活する」。

 主イエスは、このことを語られた数日のちに、エルサレムで殺されるのです。殺されてはならない方が、殺されてしまったのです。イスラエルの民が心から迎えるべき方、立つべき所に立つべき方が来たのに、無視して、追い払って殺してしまったのです。

 このことを語られて、主イエスはすべての人々の罪のために殺されたのです。

 私たちが気をつけることはこのことです。私たちが見るべきものはこのことです。主イエスがまさに神の審判を受け、私たちに代わって、厳しい死を経験されたのです。それは私たちのためになされたことです。私たちが神の審判を受けないために、審きから免れて神の愛の中にあるためです。

 私たち、私たちの教会、小さな存在です。厳しい冬の時代を迎えるかも知れません。しかし、神が勝利し、神が支配者なのです。私たちはこの神を見続けていくのです。


20170219 主日礼拝説教  「献げて生きる」  山ノ下恭二



(詩編86章1-17節、マルコによる福音書12章41-44節)
 
 キリスト品川教会はかつて「品川教会から」と言うパンフレットを出していました。このパンフレットは、教会にまだ一度も来たことのない人たちが教会に対して持っている疑問や質問に教会が答えると言う内容でした。

 八つの質問があり、その中には、「礼拝堂には信者の人しか、入れないのですか」「教会とか宗教って、一度入るとなかなか抜け出せないんでしょ」と言う質問があります。私も同じ内容の質問を受けたことがありましたので、そう思っている人は多いのです。

 こういう質問もあります。「教会に行くと、献金とか、お金をたくさん取られるんじゃない」と言う質問があるのです。ある人が教会に初めて行き、礼拝に出て、礼拝では献金があることを知り、友人に「教会に行ってみたら、お金を取られた。」と言う話を聞いて「教会に行くと、献金とか、お金をたくさん取られるんじゃない」と言う思いをもっている人もいるのです。

 わたしたちはそのような思いは持っていないかもしれません。しかし、教会の礼拝に出席して、精一杯、献げますと言う思いで献げるのか、それとも自分の所有しているお金を献金すると減る、自分の財産が少なくなる、という思いで献金に対して思っているのか、随分、違っているのです。教会に行くとお金を取られるという発言を私たちは笑うことはできないのです。私たちもそういう思いで献金していることもあるのではないかと思います。

 本日の礼拝で読んだマルコによる福音書12章41節−44節にはレプトン銅貨二枚をささげたやもめの物語が書かれています。皆さんはこの物語を読んでここには献金の話が書いてある、と思ったと思います。私はこの物語を最初に読んだ時に、やもめが自分の生活費全部をささげたので、このやもめは立派な信仰者だと思ったのです。そして主イエスはこのやもめを信仰者の模範とするようにと願って語られたと思ったのです。しかし、次に思ったことは生活費全部をささげるなんて自分にはとてもできない、生活費全部をささげたら、その後の生活はできないと思ったことも確かです。
 
 この女性が献金をささげた神殿では、13の賽銭箱が置いてあり、それぞれに用途が決まっていて、13番目の賽銭箱は、自由な献げもの、自由献金をするためでした。この箱の前にこの女性が来て献金を入れたのです。一つ一つの箱の前には担当の祭司がいて、いきなり賽銭箱にお金を入れさせるのではなく、献金をしようとする人に、献金者の名前と目的と金額を聞き、それを帳簿につけて、それを大きな声で告げたと言われています。この賽銭箱はラッパの形をしていて、お金をたくさん入れれば、入れるほど、景気の良い音が大きく拡大されて、鳴り響いたと言われています。
 
 「レプトン」と言うお金はどのくらいのものなのでしょうか。口語訳では「レプタ」と訳されていましたが、この当時の貨幣では、最小の単位通貨で、一デナリオンの128分の一と見積もられています。一デナリオンは、この当時、一日働いた賃金です。一日の賃金をどの位見積もるかによってかなり金額は変わりますが、一日働いて8千円として、一レプトンは、62円位であり、二レプトンですから、124円位です。このレプトン銅貨は、現在の一円玉のように薄くて軽かったそうです。だからラッパの形の箱にお金を入れると、軽くてほとんど音がしなかったと言われています。周りの者には献金したことも分からないようなものであったのです。

 私たちは礼拝献金の時にどの位、献金をしようかと思うことが多いのです。人目を気にし始めれば、「これは余りにも少ない金額だから今回は止めておこう」と思います。または「もうすこし余裕が出てきたらより大きな金額で献げよう」と思うのです。しかし、この女性には人目を気にしたり、自分の財布と相談する、そのような様子は全く見られないのです。

 この女性の周りには大勢の金持ちがたくさん献金していています。たくさん献金することは良いことですが、この物語はたくさん献金した金持ちを褒めてはいないのです。
 
 4月の新学期に入ると、大学のキリスト教概論の授業で教会の礼拝に初めて出席する学生に、礼拝に出席する心得について話すことがあります。礼拝には献金があることを話します。日本では、神社やお寺にお参りに行き、賽銭箱にお金を入れる習慣があり、賽銭箱にお金を入れる経験を持っている学生は多いのですが、教会で献金することは初めてなので、献金の意味や献金の仕方を詳しく話しています。

 以前、ある学生の教会礼拝レポ−トを読んでいましたら、こういうことが書いてあったのです。説教が終わって讃美歌を歌った後に、教会の人が黒い袋をもって会堂を回っていた、何をしているのか、分からなかったが、みんなが袋の中に手を入れていたので、手を袋の中に入れれば良いのだと思って、手を入れてみた、と書いてあったのです。私はこのレポ−トの下の部分に「お金を袋の中に入れるのです」と書きました。このレポ−トをきっかけにして、実際に献金のリハーサルをするようにしています。実際に教会の黒い献金袋を大学に持っていき、この献金袋を持って行って、この献金袋が皆さんの近くに回ってきます、お金を入れないと、ずうっと待っている教会の人もいます、お金を入れるように、手を入れるものと勘違いしてはいけない、と話します。そしてお賽銭ではないので、御利益を期待するようなものではないこと、外国のコイン、ゲ−ムセンタ−のコインは入れないこと、一円、十円ではなくて、100円単位の献金をささげること、などを話しています。
 
 しかし、この物語は、献金の具体的な心得や、献金をどの位するのかと言うことを直接、私たちに語っているわけではありません。主イエスは、もっと根本的な私たちの信仰のあり方、信仰生活はどうあるべきかを私たちに語っておられます。この物語は、献金について取り上げていますが、私たちの信仰の根本に関わる私たちの信仰者としてのあり方を語っています。
 
 マルコによる福音書12章41節に「イエスは賽銭箱の向かいに座って、それに金を入れる様子を見ておられた。」と書かれています。「見る」と言う言葉は「セオリオ−」と言う語です。この「セオリオ−」と言う言葉は、現代では「理論」、「法則」という言葉になっている「セオリ−」という言葉の元々の語です。この「セオリ−」と言う言葉は、自然現象をじっと観察する、この自然現象には一定の法則がある、理論があると言う意味で使われています。理論は、頭で考えたものではなくて、じっと観察したところから生まれてくるのです。そして、この「セオリ−」と言う言葉は、芝居を観客が観る、この「観る」と言う言葉の元々の言葉です。この「セオリ−」と言う言葉は「シアタ−」と言う言葉になって、私たちはシアタ−と言う言葉を使っています。芝居に心を注いで、じっとそこに溶け込むようにして集中して観ている観客のように、主イエスは、この女性をじっと見ているのです。この女性をちょっと見て、どうも献金をしているようだ、と何となく、ぼんやりと見ているのではないのです。主イエスはこの女性ともっと深く関わって、集中して見ていて下さっているのです。
 
 この物語で伝えようとしていることは、主イエスが、この女性に眼差しを向けていると言うことです。そしてこの女性は主イエスの眼差しを受けながら、献金をしたと言うことです。主イエスは、どのような眼差しでこの女性を見ていたのかと言うことです。
 
 主イエスは、この女性の生活も心の動きも志も、その思いも全部、知っておられました。この女性の生活も心も志も全部を知っておられた中で、この女性がささげた献金について話すことができたのです。この女性も他の人が知らなくても、主イエスが自分のすべてを知っていて下さることをよく分かっていたのです。直接、主イエスから声をかけられて、褒められたわけではないのです。

 しかし、主イエスが自分にまなざしを向けて知っていて下さることをよく受け止めていたのです。この女性はいつも自分の心がどこに向けられているか、神がいつもこの女性の心を見ていて下さることをよく意識していたのです。この女性は神の眼差しをいつも意識しながら、生活をしているのです。献げものをすると言うのは、神のまなざしの中でだけなされることです。
 
 ところが私たちは献金をする時に、他の人の目を意識するのです。あの方はどの位しているのか、献金の相場はいくら位か、献金の平均額はどの位か、と思うのです。どの位献金をすれば恥ずかしくないか、とも思うのです。そして、自分の生活を考えてしまうのです。自分の収入はこれくらいだから、この位で良いだろう、生活があるから、困らない程度に献金しよう、そのように自分の財布に相談して献金するのです。
 
 しかし、それは神の眼差しを意識していないことになります。私たちは人との比較でささげものを考えているのです。自分の生活を中心にささげものをしているのです。信仰に生きると言うことは、この主イエスの眼差しの中だけで、生活すると言うことです。他の人の眼差しからも解放され、また自分にこだわり、自分の生活の思い煩いからも自由になって、ただ、神の眼差しが自分に向けられている、じっと見ていてくださる、そのところで私たちの生き方が問われるのです。この女性は、神の眼差しの中で生きているのです。
 
 この女性の献げものについて、このやもめは、生活費全部を入れた、と書かれています。これが私たちの献金のお手本であると言われています。

 マルコによる福音書12章44節に主イエスは「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」「乏しい中から」という言葉は、欠乏そのものを意味する言葉です。乏しいけれども、少しあると言う言葉ではない。何もないのです。何もない中からささげたのです。ゼロの中からささげたのです。
 
 「生活費」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「ビオス」という言葉です。この「ビオス」と言う言葉は現代では「バイオ」と言う言葉でよく使われています。この「ビオス」は「生活」「いのち」という言葉です。この女性は、「日々の生活」「いのちそのもの」を神様の前に置いてしまったのです。生活費全部をささげたから、たいしたもんだ、信仰者の模範だ、そのような理解は不十分です。この女性の信仰をこの物語は問題にしているのです。それは、この女性が「乏しい中から」「何もない」中から、レプトン銅貨二枚をささげた、この二枚の銅貨がなくなると、生活できないのです。自分の手もとに何もないと言うことは、誰かに支えられなければ、生きることができないと言うことです。この女性は完全に神に頼り、神に自分の生活を委ねたのです。自分の手もとにあるお金に頼るのではなく、神に信頼して、自分の存在すべてを神のもとに置いたのです。
 
 私は「生活費」という言葉に注目します。この「生活費」は「生活」「いのち」と言う言葉です。生活する、それはお金のことばかりではありません。私たちの毎日の生き方、生活のあり方、生活のスタイルをも主イエスは取り上げているのです。

 確かにこの女性は、何もない中から生活費全部をささげたのですが、主イエスは、献金のことだけに限定して語っているわけではないのです。

 マルコによる福音書12章には主イエスが律法学者と対話をしている物語が多く語られています。12章28節から34節には、ある律法学者が戒めの中で一番大事なものは何かという質問をしています。この質問に対して主イエスは答えている。そこで主イエスが明らかにされたのは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ12章20節 p87)と言うことでありました。この女性は神の眼差しの中でだけ、ささげものをしたのです。それは神を愛するという戒めを献金と言う具体的な生き方で表しています。この女性は神を愛したのです。神を信頼し、愛することとはどのようなことか、それを見せてくれたのです。神を愛することは、神にすべてを委ねて、自分の生活をささげることです。愛すると言うことは、愛してくださる神の御手にすっかり委ねることであります。
 
 主イエスは律法学者に「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』」と語られたのです。(マタイ12章21節 p87)この女性は隣人に対しても愛を注いだのです。自分の子どもがいたならば、子どもに一身に愛を注いだのです。面倒を見なければならない年老いた両親がいたならば、心を込めて、一所懸命に看護し、介護をしたのです。「自分を愛するように隣人を愛する」という戒めに生きた人です。自分の生活費全部を入れてささげたから、主イエスが褒めたと言うよりも、この女性がいつも自分の心を神に明け渡し、神の眼差しだけに心を向けていたので、そのあり方、その生き方、生活ぶりを褒めたのです。
 
 神は私たちの生活ぶりすべてを見ておられます。そこでは、神を信頼し、愛し、隣人を愛する生活をしているか、ということです。神は私たちに眼差しを向けておられます。神の眼差しを受けて、神の眼差しを意識しながら、神にすべてを委ね、生活をささげ、隣人を助ける、そのような生活になるように祈って行くのです。

 本日の礼拝で詩編86編を読みました。86編1節には「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。」と祈っています。この言葉にやもめの心にあったものが現れて来ているのです。そしてこの詩編86編では、「主よ、主よ、」と叫び続け、「主よ、憐れんでください」と言い、しかし、信頼を込めて語り続けて、11節に至って、こう歌うのです。「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。」口語訳では、「心をひとつにして」となっていましたが、新共同訳では「一筋の心」となっています。「あなたのまこと」、神の真実、神の誠実の中でわたしは歩みます。あなたが与えて下さる恵み、賜物を戴いて、私は歩みます、御名を畏れ敬う、ひざを屈め神を敬う、そのような一筋の心で行きたい、と歌っているのです。神に対して一筋に生きる、その心をもって行きたい、と歌っているのです。


20170212 主日礼拝説教  「愛をもって支配する神」  山ノ下恭二



(詩編110編1−7節、マルコによる福音書12章35−37節)

 私の高校時代からの友人で有馬平吉と言う人がいます。長い間、ICU高校で聖書を教え、退職して現在はあきる野市で秋川キリスト集会と言う会を主催しています。この人は毎月、私に「集会だより」を送ってくれています。

 1月末に1月号の「集会だより」が届きました。この「集会だより」の最初のページに、いつも有馬さんが文章を書いているのですが、1月号の題は「アルファでありオメガ」と言う題です。「新しい年が始まりました。希望に満ちた明るい年であれば良いのですが、どうも混沌とした、先の見通せない年を迎えてしまったようです。今この国で元気がなくクシュ−ンとしている人たちがいます。それはTVに出て来るコメンテーターや識者と言われている人たちです。米国の大統領にトランプ氏がなると予測できた人はほぼゼロだったからです。マスコミ全体も同じく、自分たちの報道に自信を無くしているようです。しかし、これは本国のアメリカでも同じことで、むしろ米国でのショックの方が大きいようです。さらに言えば全世界的な規模で、多くの人々が『これからどんな世界になっていくのか見通せない』不安な時代の中にいるではないでしょうか。」そして「誰にとっても先行きのわからない、何とも言えぬ不安の時代です。」このように書いています。

 その中で、「この新年に当たって、では私たちはどういった心構えを持つべきでしょうか」と問います。そこでヨハネの黙示録22章13節を引用しています。「私はアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。」ここで言う私はイエス・キリストであり、「歴史はこの御方が進めておられる」と書いています。この方が「時間も永遠も統べ治める方」であり、「この御方に私たちが結び付いていること」が力強いことなのです。この世界が変動し、政治が揺れ動く、そのような時に私たちはどのような心構えをもって行くのか、と言うことです。
 
 マルコによる福音書12章には主イエスとこの当時の宗教指導者とが論争をして、その話を喜んで聞いていた人々がいたのです。主イエスがどのような者であるのか、関心をもって聞いていたのです。この当時、イスラエルはロ−マ帝国の植民地であり、独立国ではなかったのです。ロ−マ帝国に支配されていたのです。従って、この当時の人々は外国の支配から脱却し、早く独立して、昔、ダビデが広い領土をもって支配していたように、ダビデのような力強い王が現れて、独立し、政治的、経済的に偉大な強い王国になることを夢見ていたのです。人々が期待する王はダビデの子孫から出る、と言う確信があり、そこに希望を持っていたのです。ダビデの造った国の領土は、現在のイスラエル共和国よりも遙かに大きな広い領土でした。その時から、1000年も経過していましたが、その領土を失い、他民族に支配されているのです。栄光を失った歴史の中で、何時の日かあのダビデの王国をもう一度、自分たちの手に取り戻したいと願い続けて来たのです。主イエスがダビデ王のように、独立国の王になって繁栄した国の王になって欲しいと言う願いを人々は持っていたのです。

 本日の礼拝で詩編110編を読みました。この詩編は「王の即位の歌」ですが、この歌は歴代の王の即位の歌ではなく、救い主の即位の歌として理解しているのです。ここで主イエスは、マルコによる福音書12章36節で、神がダビデの救い主に「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と言っていると言うのです。イスラエルの王は、ダビデの子孫から出て来る、と言うことを人々は確信していたのですが、主イエスはそうではない、と語ります。主イエスは私がメシアであり、私が主であるのだ、と主張しているのです。

 12章37節で「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」と主イエスは語っているのです。ここでは、ダビデの子孫がメシアになるのではなくて、ダビデにとって「わたしが主」だとしか呼びようがない者を、王、メシアとしてお立てになる、そうであるならば、ダビデの子であるはずがないのです。このメシアはダビデの子孫の枠から、はみでた存在である、と言われたのです。ダビデの子孫からメシアが出て来るのではない、全く異なった、人々が予想もしない仕方で、メシアが出て来ると主イエスは言われたのです。

 ダビデはイスラエルの歴史の中で、広い領土を持ち、隣接する国々と戦って勝利を収め、豊かな繁栄をもたらした政治家でした。ダビデが再来して国が豊かになることを人々は願っていたのです。人々は主イエスに地上で政治的に、経済的に豊かな国を作る指導者を期待していたのです。しかし、主イエスは、はっきりと拒絶したのです。荒れ野の誘惑の物語には、悪魔が石をパンに変えるようにと誘惑をします。石をパンに変える、それは生活を豊かにする政治家の道に歩むように、と言う誘惑でした。主イエスは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と反論しました。高い山から飛び降りて神らしいところを見せろ、と悪魔は言い、飛び降りて無事に着地すれば、神であることを認める、と言う誘惑を退けて、神を試みてはならないと叱ります。そして金銀やこの地上の財産を所有することが最高に価値のあることであり、そのことによってすべてが解決する、と言う誘惑に対して、まことの神を神とせよ、と悪魔の誘惑を退けるのです。主イエスはダビデが王であった地上の繁栄した国を建てることを拒絶したのです。そのような地上の国の指導者にはならないと言うのです。

 主イエスは、人々が願っていた救い主、メシアの枠組みからはみ出た存在であるのです。私たちは何を救いと考えているのでしょうか。現世利益を救いと思っていないと言うでしょうが、自分の中に、救いとはこの地上で豊かな生活をすることだと言う枠組みを持っているのです。その枠組みはなかなか取り外すことができないのです。しかし、主イエスは、私たちが考えているようなメシア、救い主ではないのです。

 キリスト教会の暦では、私たちは降誕節の中にいます。この降誕節に心に刻むことは、クリスマスの出来事です。主なる神が、自分の外に出て肉体を取り、この地上でイエス・キリストとなって誕生されたのです。神の国、神の支配をもたらすために神が肉体を取ってこの地上に突入してくださったのです。その目的は神と私たち人間が正常な関係を取り戻すためです。私たちは神との正常な関係を持ってはいないのです。
 
 政治家や一般の市民は、生活が豊かになれば、私たち人間の問題はすべて解決できると考えています。しかし、経済が良くなれば、すべての問題を解決できるのでしょうか。毎日、新聞の報道やテレビのニュ−スには、殺人や盗み、いじめなどのニュ−スを伝えています。最近のニュ−スで気になった事件がありました。東日本大震災で両親を失った一人の少年の財産を叔父が後見人となり、その叔父が甥に当たる少年の財産6500万円を自分の生活のために使ってしまい、懲役6年の有罪判決があったことが報道されました。少年のこれからの生活や進学のために使うべき、両親が残したお金を、叔父が自分の好きなように使ってしまう、高級車を買い、贅沢な食事をして、甥のためにそのお金を全く使わないでいる、その心は罪に支配されたあり方なのです。

 私たちの生活は科学技術の方面では発展していますが、人間が良くなっているのか、と言うとそうではないのです。悪質な犯罪が増えているのです。振り込め詐欺やストーカーによる殺人、ネットによるいじめなど、新しい犯罪が次々と実行されて、人々を苦しめ、傷つけているのです。私たちは神をないがしろにして自分中心に生きているのです。私たちの心の中に、他の人への憎しみや復讐心があるのです。
 
 教会の暦では、降誕節の後に、受難節を迎えます。主イエスが私たちの罪を贖うために、苦しみを受け、十字架の死を遂げたことを心に刻む時です。私たちの深い罪を罰することなく、神と同じ方である方、すなわち主イエス・キリストがその罪を引き受けて、神の審判を受けてくださるのです。十字架の死によって私たちの代わりに神の審判を受けるのです。そのような神の贖いの恵みを私たちは信じ、受け入れているのです。そのことによって神は私たちとの関係を正常な関係に戻してくださったのです。

 主イエスは十字架につけられる前に、ユダヤ総督ピラトの前での尋問で「わたしの国は、この世の国に属してはいない」と語っておられます。(ヨハネによる福音書18章36節)主イエスの国は私たちが住んでいる地上の国とは異なって、永遠なる神が支配している国なのです。地上のこちら側ではなく、彼岸の、神の側において存在する国であり、その国が私たちのこの地上に突入し、私たちのところにもたらされたのです。主イエスが地上にあった時には弟子たちの中に主イエスがおり、主イエスが地上を離れて、昇天し、聖霊が弟子たちに注がれて、教会ができ、教会において主イエス・キリストが臨在しているのです。

 昨年、4月に熊本で大地震が起こりました。熊本にある日本キリスト教団の教会の中で最も大きな被害を受けたのは、錦ヶ丘教会でした。錦ヶ丘教会の川島直道牧師が、「牧会の心−震災の経験から教えられること−」と言う文章を書いています。震災以後、「全く面識がない人どうしが震災をきっかけにして」「あの時はどうしていましたか」と震災の体験を共有していると言うのです。震災で経験した恐怖や不安と言う共通の体験が、互いに結び付け、「そこに魂の交わりをもたらした」と言うのです。川島直道牧師は、震災の経験や病気の苦しみ、愛する家族の死と言う体験がなければ、牧会ができないのではなくて、「キリストこそが、私たちと共通の体験をされた真の牧会者であられるという信仰です。」と書いています。震災の共通の経験と言うことに共通の基盤を置くのではなくて、キリストが私たちと同じ共通の経験をされた、と言うことなのです。 
 
 「真の神が真の人となられた。教会ではこの「受肉」という出来事も教会の信仰として信じるわけですが、それこそが共通の体験でなくて何でありましょう。神の独り子が私たちと同じ肉体をお受けになられ、人間の罪、その悲惨、痛み、苦しみを共にされた。そのようにして神さまは私たちと同じ体験をなさるのです。しかもその体験はあの十字架の苦しみに至るまで徹底されました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びは、まさに罪と死に喘ぐわたしの苦しみと同じ苦しみを神さまが体験されたことに他なりません。」

 そしてヘブライ人への手紙2章18節を引用するのです。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができるのです。」「そのキリストの共通の体験が、試練の中にある者たちを助けることができる。そこに牧会の根拠があります。牧師が慰めるのではありません。牧師が、真の人となられたキリストを宣べ伝える時に、そこであの共通の体験としての魂の触れ合いが起こるのです。そこで私たちは神さまと出会い、その命の交わりの中に迎えられるのです。」震災に遭うと、神は自分たちを見放した、と思うかもしれない、しかし、礼拝を通して、神を身近に感じることができるし、聖餐を通して、キリストとの命の交わりにあずかることができる、と書いてあります。被災地の教会で牧会をしながら、苦しい経験をもちながら、そこで、キリストが、苦しみ、試練を受けられたことを信じる、その共通の信仰に立って、牧師としての働きをしていることを知らされ、大変、励まされました。

 主イエス・キリストは現代に生きている私たちのために働いてくださっているのです。私たちのために苦しみ、私たちの罪を贖い、復活され、天に昇って、神の右に座しておられる主イエス・キリストは私たちのために祈っていてくださるのです。パウロはロ−マの信徒への手紙8章34節で次のように語っているのです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

 アメリカでトランプ氏が大統領となって政権が変わり、トランプ大統領について話題になっています。ICUの森本あんり学務副学長が「トランプが心酔した『自己啓発の元祖』そのあまりにも単純な思想」と言う文章を書いています。森本あんり教授は、アメリカ教会思想に詳しい牧師です。トランプタワーに近いマーブル教会に長く在任した、N・N・ビールと言う牧師が出した、「積極的な考え方の力」と言う自己啓発書にトランプ氏は影響を受けている、と言うのです。この自己啓発書は、「自信をもちなさい」と言う内容です。自信をもてば、万事がうまくいく、聖書の言葉をいつも覚えていくことを勧めているとのことです。「わたしを強くしてくださる方によって、何事もすることができる」と言う言葉を紙にかいて、仕事に出かける毎に三回、読みなさい、と書いてあり、販売成績に悩むセールスマンは、「もし神が、わたしたちの味方であるならば、誰が私たちに敵し得ようか」と言う言葉を何度も唱えて覚えなさい、と書いてあるそうです。トランプ氏はこの自己啓発書に大きく影響を受けている、と言うのです。

 トランプ氏は自信をもって自分の政治を進めていこうとしていますが、アメリカ神学者であるハワワースは1月27日のワシントンポスト紙で「キリスト者たちよ、騙されるな、トランプは深い信仰的な確信を持っている」と言う論説を掲載しています。トランプは神を礼拝しているのではなく、アメリカと言う国を礼拝している、その意味では偶像礼拝をしているのだ、と言うのです。トランプが就任演説の中で用いた「人々」とは彼の支持者であり「自分はアメリカ合衆国大統領ではないと考えている、彼は救い主なのである。」と語っています。アメリカを偉大な国にして、人々に忠誠心を求めるのです。自分たちには神が味方であるので、何でもできるのだ、と言うのです。

 政権によって私たちの生活は変わります。政治的な力は強大です。その中にあって人々は苦しむのです。しかし、その中にあっても、神が愛をもって私たちを支配しているのです。ヨハネの黙示録22章13節「私はアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。」とのみことばを聞くのです。初めから終わりまで、私たちを愛し、伴ってくださる方がおられるのです。

 1月31日の日々の聖句は、詩編102編28節、ヨハネの黙示録1章8節でした。祈りの言葉はヨッヘン・クレッパーです。この人はナチの時代に、ユダヤ人の女性と結婚しましたが、妻と娘がナチスから逃れられないことが決定的になった1942年、神への信頼の中で、家族と共に自死することを選んだのです。「キリエ」と言う宗教詩集を出しています。1月31日の日々の聖句の祈りは次の通りです。

 「あなただけが永遠なる方 わたしたちの時は飛ぶように巡りますが、あなたは初めと終わりと、その途上を知っておられます。わたしたちにいつまでも恵み深いまなざしを向けてください、み手をもってわたしたちを導いてください、わたしたちが確かな歩みを続けていくことができますように。」


20170205 主日礼拝説教  「愛 最もすぐれている道」  山ノ下恭二



(申命記6章1−15節、マルコによる福音書12章28−34節)

 1月30日(月)に東京説教塾の例会に出席しました。代田教会の平野牧師の講演の中で最近、経験したことを話されました。代田教会は現在、幼稚園舎を建築しているそうです。初め計画していた時に出た意見は独り暮らしのお年寄りが住める住宅を園舎の上に建築して欲しいと言う要望があったそうです。しかし、建築基準や様々なことで、それは無理だとわかった時に、一番、強く主張をした教会員がこういうことを言ったそうです。「自分が主張したことは自分のわがままだった。自分のことしか考えないで言ったことは恥ずかしい。子供たちのことを考えていなかった。子供たちのことを考えて建築してください」と言ったそうです。

 本日の礼拝でマルコによる福音書12章28−34節のみことばを読みました。ひとりの律法学者が、主イエスに掟の中でどれが第一かと聞いたのです。その問いに対して主イエスは、神を愛し、隣人を愛しなさいと答えています。このところに記されていることは、マタイによる福音書やルカによる福音書に記されていて、よく知られたところです。しかし、主イエスが語られた言葉の意味をほんとうに理解しているか、と言うとよく理解していないと思うのです。

 マルコによる福音書12章には主イエスに質問をしてそれに答えている論争が続いています。その論争に耳をそばだてて聞いていた律法学者がいたのです。サドカイ派の人々と復活について論争し、主イエスが「神は生きている者の神である」と言われた言葉を聞いて、心が動いて進み出たのです。12章28節に「ひとりの律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。」と書いてあります。この「立派に」と訳されている言葉は、元々の意味は「美しい」と言う言葉です。主イエスが答えている言葉を聞いて、美しいと思ったのです。この問いに対して最もふさわしい、「見事な」答えであると言ったのです。この「立派な」と言う言葉との関連で言うと、主イエスが二つ掟について語られた言葉を受けて、12章32節に「先生、おっしゃるとおりです。」という言葉が出て来ます。ここにも実は「立派な」と言う言葉が出て来るのです。「美しい」という訳では通じないので「先生、立派に言われました」「先生の答えは見事です」と訳すことができます。この律法学者が、主イエスの答えを受け止めたことを、主イエスがもう一度受け止めて、12章34節で「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです。主イエスの方でもこの人の対応を見事だ、と言われたのです。

 この律法学者が聞いたのは、あらゆる掟の中で何が第一なのか、と言うことです。この当時のユダヤの掟には、しなければならない戒めが248あり、やってはいけない戒めが365あったのです。613の戒めを覚えるのはとても大変でしたし、どれが一番、重要なのか、分からなくなっていたのです。この律法学者は、主イエスが神についての知識を持っているので、戒めについてもよくわきまえており、戒めの急所を教えてくださるに違いないと思ったのです。神の戒めとは、神に従っていく上で大切なことを示すだけではなく、人間が健やかに生きるための道でもあるのです。この人の思いの中に、そういう思いとともに、数多くの戒めを一所懸命に守っているのだけれども、その急所がわからないと思ったのです。
 
 主イエスは、それは「愛」であると言われたのです。そして、その愛を神への愛と、自分自身を愛するように隣人を愛する、この二つの愛の戒めを示されたのです。この二つの戒めは、旧約聖書に出てくるものです。第一の掟は申命記にあり、第二の掟はレビ記に出てくるのです。

 主イエスは、この二つの掟を結びつけて語っています。よく考えてみると、この律法学者は「第一の掟は何か」と聞いているのですから、一つの掟だけを語っても良かったのです。しかし、主イエスはこの二つの掟をここで掲げたのです。第一の掟と問われて、一つの掟だけを掲げたのではなく、二つの掟を掲げたのは、二つ大切なことがあると言われた、と読むことができます。しかし、この二つの掟をどちらが大切で、どちらが先で、その関係はどうであるか、と言うことは一切、語っていません。第一に神に対する愛、第二に隣人への愛、その順序は定めていますが、この二つのことは一つのことです。この掟は別々のことではなく、一つのことです。神への愛も、隣人への愛も一つで、緊密につながっているのです。そのことをはっきり示すのが、レビ記です。

 レビ記19章は十戒の後半部分に力点を置いているのです。このレビ記19章には、日常生活に心を配って書き記していますが、レビ記19章18節で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。19章1節以下に記されている戒めを要約しています。十戒を要約すると、それは愛の戒めであると言うことができます。隣人を愛するとはどのようなことか、そのことが具体的に記されています。レビ記19章9節、10節では、穀物畑、ぶどう畑を持っている者が、収穫の時に穂が落ちたら、自分の畑のものだと言ってかき集めることをするな、ぶどう畑では全部摘むことをせずに残しておきなさい、と戒めています。食料がなくて、お腹がすいて困っている人たちが畑に入ってぶどうを摘み、落ち穂を拾うことを勧めています。その人たちのために残してあげるのです。隣人を愛することは、具体的にこういうことだ、ときめ細かく規定しているのです。

 最近、新聞の投書欄に「ちょっと待て、その行動」と言うのがあり、自分の後ろを歩いている人のことを考えないで行動をしている人が多いことを指摘しています。一つはキャスター付きバッグのことです。このバックを引いている人が突然、止まり、投書した人はつまずいて転びそうになったことがあるそうです。もう一つは、エスカレーターで上昇している時に、一段上の人の長い傘が自分の顔に顔に当たりそうになったので注意して欲しい、とありました。隣人を愛すると言うのは、日常生活で具体的に行動することだ、と言うのです。レビ記19章13−14節にも記されていますが、隣人を愛することは、具体的にこういうことであると規定しているのです。
 
 何故、隣人を愛するのか、愛さなくてはいけないのか、と言うことです。それは理由があるのです。私たちは自分と同じように、自分以外の人が、大切な人間であり、いのちを持っているからと言うことも考えます。また、キリスト者は神に造られた存在であり、人間ひとりひとりが神の愛によって造られたかけがえのない存在であると考えるのです。しかし、レビ記19章1−18節を改めて注意をして読んでみますと、「わたしはあなたの神、主である」と掟の後に必ず書いてあるのです。先程のレビ記19章9−10節の落ち穂のことのあとに「わたしはあなたたちの神、主である。」と書いてあるのです。自分の畑の収穫物を全部、収穫して、自分の倉に入れる、それは、お腹がすいて飢えている人を軽んじることであり、それは神を軽んじることであると書かれているのです。隣人を軽んじ、酷いことをして、しかし、わたしは神を信じていると言えるのか、と言うことです。神を礼拝している、畏れていると言いながら、隣人の立場を軽んじ、自分がしたいようにする者は、神そのものを真実に拝むことをしていないことだ、と語るのです。隣人をいじめたり、雇っている人の支払いをしなかったり、耳の聞こえない人を悪く言ったりする者は、神を愛しているとは言えないのです。ここで、神を愛することと、隣り人を愛することは一つです。レビ記19章18節でも、自分自身のように、隣り人を愛しなさい、と言ったあとで、「わたしは主である」と語ります。

 このレビ記に記されている律法は「聖潔律法」と呼ばれます。この「聖潔」とはどのような意味でしょうか。レビ記19章2節に「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」と記されています。神は聖い方である、それは、神が神だからです。そして私たちは、神に造られた者であり、神のものであるから、神のものであるにふさわしく、隣り人との生活を形造るのです。先程、申命記6章をあわせて読みました。主イエスが、第一の掟だと言って引用したのは、この申命記の言葉です。調べると、主イエスは、この申命記の言葉をそのまま引用していません。一つの言葉を加えているのです。「思いを尽くし」と言う言葉を加えています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」とあり、これは、私たちの心を注ぎだして、全存在をかけて注ぎだし、愛することを求めているのです。愛する時には、いのちを注ぎ、事柄をよく理解して、知恵を用い、こうと決めたら実行する心の力をもって、と言うことです。精神力、意志力、やり遂げる力をもって、自分の全存在をかけて、愛することを主イエスは示されたのです。

 この主イエスが語られた戒めに私たちは従って生き、神を愛し、隣人を愛したいと思います。しかし、神を愛するにしても、隣人を愛するにしても、この掟に生きようとするときに、この掟に実際に従うことができない自分を発見するのです。

 人を愛そうとする時に、こういう問題が起きるのではないか、と思います。それは自分には嫌いな人がいると言うことです。私たちの心の中に、他の人を愛することは不可能だ、無理だ、それは嫌いな人がいるからという思いがあるのです。学校の先生でも、自分のクラスの子ども全部が好きだとは言えないのではないか。自分の担任の子供たちの中に、愛することができない者がいるのです。それは親子でも、好きな子供と嫌いな子供がいるのです。そのような好き嫌いで考えていくと、愛することができないのです。愛することは好き、嫌いと違うのです。好き、嫌いを乗り越えて、すべての人を愛しなさいと言われているけれども、それは無理だ、と思うのです。好きな人だけを愛する、それでは主イエスの戒めに応えたことにはならないのです。愛の戒めはすばらしい、しかし、難しい、そこで止まってしまうのです。

 ハイデルベルグ信仰問答の最初の部分は「人間の悲惨について」と言う短い部分があります。そこで、こういう質問をしているのです。主イエスは二つの戒めを与えられた、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛しなさい、そしてあなたの隣人を愛しなさい、それがあなたにできますか、と言う問いです。この質問に対して、このハイデルベルグ信仰問答の答えは、「できません」です。そして、なぜなら、自分は生まれながら、神を憎み、隣人を憎むと応えているのです。そのように人間は神を憎み、人を憎んでいるのだから、愛することはできないと言うことになります。従って、戒めはすばらしいけれども、現実には愛することはできないということになります。

 この主イエスの戒めでよく分からないところがあり、十分に理解していない言葉があります。それは、この二つ目の戒めの中にある、「自分のように」と言う言葉です。皆さんは「自分のように」と言う言葉をどのように理解しているでしょうか。新しい翻訳では「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛する」と訳しています。また別の翻訳では「隣人をあなた自身のように愛せよ」と翻訳しています。新しい注解書に次のように解説しています。「自分のように」と言うのは「自分と同じ仕方で」と言う意味だと解説しています。「自分自身を愛するのと同じ仕方において自分の隣人を愛すべきだ、と言うことである。すなわち、われわれが、自分自身に寛容であり、時間をさき、関心をもち、自分自身のために言い訳をし、深く自分自身の幸せを願うのと同じ仕方で、隣人にもそのような態度をとるべきなのである。」「自分のように隣人を愛する」、この言葉をこのように理解している人も多いと思います。
 
 しかし、私たち自身、問うことは、自分自身と同じように隣人を愛する、そのようなことができるのか、と言うことです。私たちは、他者よりも自分が大切であるといつも思っているのです。自分と他者とを同じように愛することはできないのです。

 主イエスの戒めを実行しようとする人は悩むのです。他の人を自分と同じように愛することなどできない、本当に、他者を愛するためには、自分を愛することを止めなければならないと思うのです。自分を捨て、殺さなければならないと考えるのです。「自分を愛するように」と言う主イエスの言葉を、自分を犠牲にする意味で語っているのだと理解するのです。「自分を愛するように」と言う言葉を、自分が大切であるように他者も大切にと言う意味だ、と言う理解がある一方で、自分を捨てて、自分を犠牲にして愛する、と理解するのです。
 
 しかし、突っ込んでこのことを考えると、自分が自分をほんとうに愛しているのか、と問うのです。自分が自分を愛していることは自明のことなのか、ということです。自分を愛する、とはどのようなことなのでしょうか。私たちは自分が自分を嫌になることがあります。他の人と比べて自分に劣等感をもっていたり、自分が自分を受け入れられないことが多いのです。自分自身を受け入れられず、自殺する人もいるのです。

 私には、「自分のように隣人を愛する」と言う主イエスの戒めは、自分の中で明らかになっていなかったのです。バルトと言う神学者が「愛」について詳しく書いています。「教会教義学」の中の「神への愛」「神の讃美」で詳しく述べています。イエス・キリストが私たちを愛している、と言うことが何よりも優先すると言うのです。「神への愛」と言うところで、次のように述べています。「愛は何かと言うことを知るためには、私たちに対し向けられた神の、唯一の、無比な愛を問わなければならない。その愛とは、人間のためにわって入られ、人間の罪、死を自ら引き受け、ご自分の身に負われて、人間に味方して立ちたもう、そのような愛である。」そして、神を愛するということは、「わたしたちは愛のない者であるが、神によって愛されている者であることを承認する」ことであり、イエス・キリストを信じることであると述べているのです。
 
 二つ目の戒め、「自分のようにあなたの隣人を愛せよ」この言葉を巡って展開しています。バルトは、私たち人間は、罪人であること、愛もない、自分自身を罪人として差し出すことしかできない者で、他の人を愛することができないと語ります。しかし、自分と隣人と出会う時に、イエス・キリストが自分と隣人を愛してくださるのであり、「そのことの故に、愛のない者であるが、『愛しなさい』と言う戒めに従うのだ」と言うのです。「自分のように」と言うのは、自分に罪があり、愛のない者ですが、神に愛された者、罪赦された者として、イエス・キリストの愛にある者として、愛すると言うことなのです。

 主イエスが語られた戒めを、道徳的に自分がしなければいけない戒めとして受け止めてしまいますが、そうではないのです。この戒めを語られたイエス・キリスト、このイエス・キリストの愛を心に刻みつけながら、この戒めを聞くのです。
 
 主イエスは、この問答のあとすぐに、十字架につけられるのです。

心を尽くして、思いを尽くして、全力を注いで、神は私たちを愛してくださったのです。だから、主イエス・キリストを与えてくださり、私たちの罪の罰を引き受けて十字架で死んでくださったのです。主イエス・キリストは、すべての思いを注いで、私たちを愛してくださっているのです。
 
 本日は聖餐式が行われます。私たちの罪のために十字架の犠牲をささげた主イエス・キリストを心に刻みながら、キリストの肉を表すパン、キリストの血を表す杯を感謝をもって戴き、キリストの赦しの愛を味わいたいのです。


20170129 主日礼拝説教  「主よ、憐れんで下さい」  渡辺善忠(巣鴨教会牧師)



(出エジプト記34章1−9節、マタイによる福音書17章14−20節)

  本日は与えられたマタイ福音書のみ言葉によって、主イエスが私たちを憐れんで、私たちの病を癒してくださる恵みにご一緒に与かりたいと思います。今日与えられましたマタイ福音書の始まりの部分には、息子の病を癒されることを望んだ父親が、主イエスに近寄り、ひざまずいて病の癒しを願った出来事がこのように伝えられています。

  『一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」』

  「ひざまずいて」という御言葉は、聖書が書かれた元の言葉では「拝する」「礼拝を捧げる」という意味があります。また「憐れんでください」という御言葉は、マタイ福音書の他の場面でも、イエスが病を癒された場面で使われています。「主よ、憐れんでください」は、新約聖書が書かれた元々の言葉では、ギリシャ語で、後に外来語としてラテン語に受け継がれて、ローマ・カトリック教会のミサで、今日に至るまで用いられている定まった祈りの言葉として使われています。この言葉は、マタイ福音書が書かれた背後の教会では、おそらく、礼拝の中で癒しを祈るときに使われていた定まった言葉ではないか、と言われています。これは私たちにも大切な意味があります。マタイ福音書が書かれた時代から2000年にわたって、教会では病が癒されるために、祈り続けているからです。

  癒しの業は、現在においては教会から医療機関へ受け継がれていると理解されています。私たちは、現代的な理解にとらわれて、主イエスが病を癒してくださる御業を、素朴に信じることができなくなっているのかも知れません。もしも私たちが、主イエスが病を癒してくださる御業を忘れているならば、今日の場面の直弟子たちのように、不信仰のために主イエスの働きを妨げることもあるかも知れません。この意味を心にとめて、現代においても主イエスが医療機関を通しても病を癒してくださる御業を信じ、受け入れることとされたいと思います。

  「主よ、憐れんでください」という言葉が礼拝で使われていたということは、今日与えられたマタイ福音書の前の場面にも示されています。なぜなら、16章の13〜20節に、主イエスの問いに対して、ペトロが信仰告白した出来事、そして主イエスが教会を建てるとおっしゃったと伝えられているからです。また、今日の場面の直ぐ前の1〜13節で、山の上で主イエスのお姿が変わったと伝えられています。ここでは主イエスが、モーセやエリヤと語り合っていたと伝えられています。この場面は旧約聖書の出エジプト記で、モーセが神と出会った場面を受けて記されたと考えられます。この場面では、マタイ福音書が書かれた背後の教会が、旧約聖書の時代からの信仰を受け継いでいることを示す意味があります。

  旧約聖書には、神が憐れみをもって、人々を顧みてくださるという恵みが多く伝えられています。このため、「主よ、憐れんでください」「憐れみをもって、神が私たちのことを顧みてください」、この言葉は恐らく旧約聖書の時代から、ユダヤ教の祈りの言葉を経て、マタイ福音書が書かれた時代の教会に受け継がれていたと言われています。このため16章から17章にかけての場面では、福音書を記したマタイが連なっていた教会が、旧約聖書の時代からの信仰を受け継いでいること、また、ユダヤ教の祈りの言葉を受け継いでいることを示していると言われています。

  「主よ、憐れんでください。」

  この御言葉が、著者マタイが連なっていた教会で、定まった祈りの言葉として用いられていたことは、マルコ福音書の同じ場面と比べてみても分かると言われています。マルコ福音書9章に同じ場面が伝えられています。ここには父親が主イエスに願って、「わたしどもを憐れんでお助けください」という言葉が記されています。しかし、ここには「主よ」という呼びかけの言葉は記されていません。マルコはマタイより少し前に書かれたと言われていますので、「主よ」というフォーマルな呼びかけの言葉が加えられて、マタイ福音書が書かれた教会の礼拝で使われていたのではないかと言われています。

  このようにマルコ福音書と、今日与えられたマタイ福音書のみ言葉が多少異なっているということにも、「主よ、憐れんでください」という言葉が礼拝で使われていたことが示されています。この意義を心にとめて、礼拝の祈りを中心として、私たちの周りの方々の病が癒されること、私たち自身の病が癒されること、また、病の癒しを通して神が私たちを憐れんでくださることを感謝して受け入れるものとされたいと思います。

  先ほど申しましたように、父親が主イエスに近寄りひざまずいたという姿に、私たちが礼拝に集い、神を拝するということが象徴されています。私たちはこの意味を広く理解して、病の癒しはもちろんのこと、悩みや苦しみに内にある時にこそ、主イエスのもとを訪れ、主の憐みにすがることとされている恵みを思い起こしたいと思うのです。

  また15節には、息子の病が「てんかん」であったと記されています。しかし、聖書のほとんどの言葉には、この言葉はこの病気だけに用いられる言葉ではなく、現代の言葉で言いますと「夢遊病」にも使われることがあります。私が調べた注解書の約半数には、「てんかん」ではなく「夢遊病」と訳されています。このため、今日の場面の息子はおそらく、現代的に考えますと重い病気ではなく、子供時代に見られる夢遊病ではないかとも思われます。しかし15節には、「度々火の中や水の中に倒れるのです」と伝えられています。病気ではなかったとしても、この息子の症状は難しいものでした。そのため父親は、息子を主イエスの弟子たちのところに連れて行きました。しかし、弟子たちは息子を癒すことができませんでした。主イエスは、父親に息子が難しい症状であること、弟子たちが病を癒すことができなかったことを聞き、このようにお答えになりました。

  「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」

  主イエスの言葉は、弟子たちが病を癒すことができなかったことに対して、苛立ったお気持ちでおっしゃったお言葉に聞こえます。しかし、この中で「よこしまな時代」というお言葉は、マタイ福音書の他の場面では、主イエスがおられた時代の全ての人々を指す意味の言葉です。このため福音書の著者は、主イエスのお言葉を、弟子たちだけではなく、この時代の全ての人々に対する嘆きの言葉として伝えていると言われています。

  また、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」というみ言葉は、旧約聖書の申命記の影響を受けた言葉だと言われています。申命記の中では、このみ言葉は「神に逆らっているイスラエルへの戒めの言葉」として伝えられています。旧約聖書の影響を受けているため、主イエスがイスラエルの人々の不信仰を戒めたということを含めて、このみ言葉を記したと言われています。17節のみ言葉は、様々な意味が含まれているみ言葉です。決して弟子たちだけに向けられた言葉ではありません。この意味で、み言葉は、時と場を超えて、私たちにとっても戒めの意味がある言葉なのです。

  同じ17節に記されている「わたしのところに連れてきなさい」というみ言葉にも示されています。この場面では、父親に対する言葉として伝えられていますが、元々の言葉では、「あなたがたが、その子をわたしのところに連れて来なさい」と、複数形の主語にして記されているのです。父親に対するみ言葉であるにかかわらず、「あなたがたが、連れて来なさい」という意味の言葉が記されているのは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら、「あなたがた」というみ言葉に、父親だけでなく、私たちも病の方々や悩みや苦しみの内にある方々を、主イエスのもとに連れて来ること、あなたがたが、悩みの中にある人々を教会に連れて来ること、そして教会も病が癒されるために、悩みや苦しみの中にある方々のために、祈り合うことを命じておられるみ言葉なのです。

  主イエスの言葉は、私たちにとっても、戒めの意味があります。もしかすると私たちは、病気のときには病院、信仰は教会と、近代的な理解に慣れ親しんでいるかも知れません。私たちはこの意味を心に銘じて、病や悩み、苦しみにある方々を主イエスのもとに連れて来る務めが与えられていると受け止めたいと思います。

  18節から、病が癒された様子が記されます。「そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。」マルコ福音書に比べると、ごく簡潔に記されています。福音書の著者マタイは、病が癒されることを、そのまま信仰をもって受け入れることの大切さをこの簡潔なみ言葉で示していると言われます。

  この意味を心にとめて、今日の場面の締めくくりに伝えられている主イエスの言葉を、私たちへのみ言葉として聴きたいと思います。19〜20節を朗読します。

  『弟子たちはひそかにイエスのところ来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」』

  主イエスの直弟子たちは、自分たちが病を癒せなかったことを恥じ入って、ひそかに主イエスのもとにやって来ました。この場面の弟子たちの姿に、私たちが自分の信仰に恥じ入るときには、心を低くして、礼拝に与かることの大切さが示されています。

  また、20節のみ言葉は、丁寧に理解することが必要であると思われます。なぜかというと、主イエスは、癒しができないことが、信仰が薄いことであるという意味で、語られてはいないからです。むしろ、20節のみ言葉は、からし種一粒のような小さな信仰でもよいから、私の御業を信頼して歩みなさい、という主イエスの励ましのみ言葉として理解するべきであると思われます。

  主イエスは、決して私たちの不信仰を責める方ではありません。私たちは感謝して、私たち人間の小さなからし種のように見える信仰でも、主イエスが私たちを顧みてくださり、病の内にあるとき、苦しみや悩みに直面するときにも、私たちを憐れみ、すべての病を癒してくださいます。その恵みを感謝して受け入れつつ、教会として「主よ、憐れんでください」と祈り続けることの大切さを心に刻みたいと思います。

  結びに、本日の礼拝でマタイ福音書の御言葉が与えられたことについて、信仰の証を申し述べさせていただきたいと思います。講解説教の中で信仰の証を述べさせていただくということが相応しくないことは重々承知しておりますが、牛込払方町教会で説教させていただく機会は二度とないかも知れませんので、是非皆さんに聞いていただきたい証です。

  本日は、当教会の牧師をなさっておられた松永希久夫先生への感謝とともに、このマタイ福音書のみ言葉が示されました。松永希久夫先生は、山ノ下先生の恩師でもあり、私もお教えを受けた新約聖書の先生です。私は東京神学大学で松永希久夫先生と山内真先生のご指導のもとで新約聖書神学を専攻いたしました。そのきっかけとなったのが今日の御言葉でした。

  編入学した最初の年のことです。松永先生の新約緒論という授業がありました。その内容は、まず新約聖書全体の成立を学んだ後に、前期は四つの福音書と使徒言行録、後期は手紙と黙示録の概論を学ぶという内容でした。前期で四つの福音書の成立、それぞれが書かれた背後の教会や資料について学んでいた時に、マタイ福音書とマルコ福音書を比較して研究する方法論を学んでいた際に例として松永先生が引用されたのが、今日のマタイ福音書のみ言葉とマルコ福音書9章のみ言葉でした。

  松永先生は、マタイ福音書では、主イエスが病気を癒す際に「主よ、憐れんでください」というギリシャ語が用いられる場面が他の福音書よりも多いということをお教えくださいました。そのときにこうおっしゃいました。「渡辺君は教会音楽を学んだから、この言葉がピンとくるんじゃないかな。」

  この言葉に応えて、私は「ローマ・カトリック教会のミサの通常文の最初の言葉です」とお答えしました。私は音楽を学んでいましたので、ミサ曲の通常文のラテン語を知っていたからです。松永先生はこのとき、この言葉が後にローマ・カトリック教会でミサの式文となったこと、また、ローマ・カトリック教会のミサのラテン語の式文が、新約聖書の言葉、聖書の言葉全体から発生しているとお教えくださいました。いくつかの韻文を教えてくださいました。その授業が何曜日だったかは忘れましたが、2時限、午前中の後半の授業であったことは覚えています。新約聖書の言葉から発展して、ミサの式文になったということにたいへん気持ちが高ぶって、授業が終わった直後の昼休みの時間に、先生の研究室を訪ね、いろいろと関連の研究書をお貸しいただいた覚えがあります。

  先生は、「新約聖書と式文の関係だけを研究する可能性もあるが、君は音楽が専門なので、ミサの式文が音楽の歴史の中でどのように発展したかということを研究すると、新約聖書と音楽史がつながるね」というお勧めの言葉をおっしゃいました。そのお言葉に導かれて、私は東京神学大学では新約聖書の中の韻文が礼拝の式文として使われていたことについて研究し、その後は演奏と研究の両面を進めて参りました。

  卒業して数年後、留学の機会が与えられました。松永先生に奨学金と留学先への推薦状を書いていただきました。そのとき先生から、「こうして自分が推薦状を書いたのだから、留学を終えたら東神大で教会音楽の授業を教えに来るように」というお言葉を頂きました。しかし私が留学を終えて帰国した時期に、松永先生はご体調を崩されており、東神大の学長職と富士見町教会牧師を辞され、東神大を定年退職されて間もなく天に召されました。先生が天に召されて4年後、2009年度から、私は東京神学大学でキリスト教音楽史の授業を担当させて頂くことになりました。東神大にお招き頂いた直後に、私は初めて、松永先生のご遺骨が納められている国立教会の墓地に伺いました。そのとき先生の墓前で、本日のマタイ福音書の御言葉を朗読し、神に祈りを捧げました。

  このような導きがあったため、本日は、万感の思いを携えてこちらの教会に伺いました。また松永先生から牛込払方町教会について色々とお話を伺ったことを思い起こしながら、説教の準備をしました。

  今日の場面では、病が癒されるためのお祈りの言葉として、「主よ、憐れんでください」という言葉が伝えられています。しかし私にとっては、神が憐れみをもって、私の歩みを導いてくださっている、そのことを証としてお話させて頂きました。

  「主よ、憐れんでください。」

  マタイ福音書の祈りの言葉には、神が、癒しの御業だけでなく、私たちすべての歩みを憐れんでくださり、私たちを守り、導いてくださる御業が示されています。私たちはこの意味を心にとめて、礼拝のときにも、日々の歩みにおいても、主イエスに近づき、ひざまずいて、「主よ、憐れんでください」と祈り続けたいと思います。また、私たちの周り方々を、主イエスのもとへ導き、共々に「主よ、憐れんでください」と、祈り合うものとなりたいと思います。

  主イエスが私たちの小さな信仰を顧みてくださり、私たちのすべての歩みを守り、導いておられる恵みを感謝して受け入れ、与えられたマタイ福音書のみ言葉を携えて、教会生活を歩み続けて参りたいと思います。

  お祈りをいたしましょう。

  教会の頭なる主イエス・キリストの父なる神。

  あなたが、御子イエスの癒しの御業によって、私たちの病を癒して下さる恵みを心から感謝致します。与えられました御言葉によって、あなたが私どもの病を癒してくださることのみならず、私たちのすべての歩みを、憐れみをもって顧みてくださっている恵みを、感謝して受け入れるものとならせてください。

  また私たちが、主イエスの癒しの御業を広く伝え、多くの人々を主の御許に導くための器として用いられますように、教会としても一人の信仰者としても、私たちをあなたの伝道の器としてお用いください。

  新しい週の全ての歩みが、御子イエスの弟子として相応しい歩みとなりますように、与えられましたマタイ福音書の御言葉と聖霊によって、私たちの歩みを憐れみをもって、お導きください。

  感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって御前に祈ります。

  アーメン


20170122 主日礼拝説教 「しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」  山ノ下恭二



(詩編130編1−8節、   ルカによる福音書5章1−11節)

 一人の人の生涯には不思議なことがあります。私が牧師になったことも不思議なことです。高校生の時に教会に行っていなかったならば、牧師にはならなかったと思います。私は栃木の鹿沼教会に通っていましたが、私が高校一年の時に鹿沼教会の高崎隆牧師が結核を再発して滋賀県の近江サナトリウムという結核療養所に入ることになったのです。滋賀県の近江サナトリウムに入る直前の礼拝に出席していた時のことです。高崎隆牧師が病を押してキリストの福音を一所懸命に語っている姿に感銘を受けたのです。病を押して必死に語るほどキリストの福音が価値があることをその時に知らされたのです。その瞬間、福音を伝えると言う尊い仕事をしたいという思いを持ったのです。それまでは、小学校の教師になろうと思っていました。その思いがその時からなくなってしまいました。伝道者となるという志が与えられ、神学校に進学することになりました。自分が考えもしなかった、予想もしなかった道が備えられていたのです。              
 
 本日の礼拝で読みました、ルカによる福音書5章1−11節には、シモンが主イエスの弟子となったことが記されています。シモンが主イエスの弟子になったのは、神の不思議な選びによることです。シモンは主イエスの弟子となることによって、その人生が全く変わったのです。イエス・キリストに呼ばれて、弟子として召されて、ガリラヤの一人の漁師であった者がイエス・キリストの福音を伝える者となったのです。神の新しい世界にシモンは足を踏み入れたのです。漁師をしていた者がキリストの福音を伝え、神を讃美する者となったのです。魚を獲って生計を支える、それ以外に何もないこの人が、喜んで福音を伝える者となったのです。そしてキリストの十字架を宣べ伝える者になったのです。そして、キリストの十字架こそ、私たちの救いだと語るようになったのです。            
 
 ルカによる福音書4章には、主イエスが「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(ルカ4・43)と語っています。主イエスは、精力的に福音を伝えて、主イエスの説教を聴く人が増えてきたのです。余りにも多くの人が主イエスのところに押し寄せて、湖畔に立って説教することが危険になり、舟に乗って、岸から離れたところから説教を始められました。その舟はシモンの持ち舟でした。シモンの舟に主イエスが乗ったのは偶然ではなく、主イエスはシモンを弟子として選び、召したいと願っていたからです。多くの人たちが主イエスの説教を聴きたいと押し寄せて来たのです。        
 
 主イエスの話を聴きたい、と言うよりも、このところでは「神の言葉を聞こうとして」と書かれています。神の言葉を聞きたい、そのような魂を支え、潤す言葉を聴きたいと願っています。主イエスが地上におられた時も人々は神の言葉を求めていたし、今も神の言葉を求めているのです。

 私たちは魂の深いところで、問いを抱えています。それは、自分がなぜ生きるのか、自分は何者であるか、生きる意味は何か、そのような問いを持っているのです。そのような問いに正面から答えてくれる言葉を探しています。キリストの福音はその問いに答えることができるのです。
                     
 神の言葉を語り終えると、主イエスは、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語られました。この言葉にシモンは戸惑ったに違いないのです。それは、シモンがは通し漁をしたのですが一匹も獲れなくて、漁を終えたばかりでした。苦労して仕事をしたのですが、その実りが全くなかったのです。徒労に終わったのです。

 シモンは徹夜して一晩中、苦労して働いて一匹も獲れない、疲れと虚しさを覚えていました。シモンは疲れているので、早く家に帰って眠りたかったのです。このような思いにとらわれていたシモンに主イエスは踏み込んで、シモンの気持ちに逆らうような言葉を語るのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」。シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と主イエスの言葉に従うと、網が破れる位の大量の魚が捕れたと記されています。

 ペトロは一所懸命に漁をして働いても一匹も取れなかった、そのような挫折を経験しているのです。仕事をしても成果がないのです。伝道をしているとそのような経験をすることがあります。しかし、そのような中で、伝道を続けていくようにとこの物語は、私たちを励ましているのです。必ず成果があると言うのです。思いがけない成果が与えられると言うのです。伝道をしていく中で、伝道の成果はない時に、それでも伝道の業を続けることを勧める物語です。
 
 北九州の若松教会に在任しておりました時に、私がおりました教会から300メ−トルの距離に若松カトリック教会があり、その神父と仲良くなりました。その神父はパリ・ミッションと言う修道会から派遣されたフランス人の司祭でした。この神父は、日本に来ることが決まった時に日本人を全部、洗礼を授けて、キリスト者にしようと思って来日したそうです。しかし、日本に来て日本に住んでみて、それは難しいと思ったと言うのです。しかし、その望みは捨てていないとも語っていました。

 江戸時代末期から明治時代の初期に日本の伝道のためにプロテスタントのアメリカ人宣教師が日本にやってきました。これにはアメリカの教会の熱い祈りと献金があったのです。宣教師が日本に派遣されて、そこから伝道が始まったと言うのではなく、長い間の祈りと献げものがあって、日本伝道が開始されたのです。ほとんど知られていないことですが、ヘボン宣教師の年表には1815年(ヘボン宣教師が来日する44年前)に、ボストンの貿易商ロ−ブスが自宅でアジアの伝道のために祈祷会を始めたのです。その最初の時に、どの国を覚えて祈り、献金をささげるかを話していたら、第一回目の祈祷会の時に日本製の竹かごがテ−ブルに置いてあり、「日本の伝道のために」祈り、献げた、その時のお金が28ドル87セントであり、やがて総額が4100ドルとなり、日本の伝道のためとしてアメリカンボードへ寄付され、そこから多くの宣教師が日本に派遣されたのです。

 今から152年前にアメリカの長老教会、改革教会から派遣されて多くの宣教師が日本にやってきました。1859年に来日した宣教師の一人で有名なのはヘボンです。ヘボン年表には、1841年にヘボン宣教師夫妻は、シンガポールに赴いたことが記されています。シンガポールに向かう途中でヘボン夫人は死産し、そしてシンガポールで男の子が死んでいます。婦人も身体を壊して、アメリカに帰り、ヘボンもアメリカに帰国しました。伝道のために来日する以前に、シンガポールに行き、アジア伝道を志しましたが、途中でアメリカに帰国し、ニューヨークで医院を開業したのです。その医院は大変な評判でヘボンに診てもらいたい人が押し寄せたのです。ニューヨークでそのまま医師として活躍できたのですが、日本が開国し、条約も結ばれたので伝道ができると考え、1859年6月1日にニューヨークを舟で出航し、アフリカ周りで5ヶ月16日かかって、横浜に到着したのです。

 ヘボンは牧師ではなく、信徒ですが、医療宣教師として大きな働きをしています。中国に伝道に行こうとしましたが、シンガポールで子どもを失い、夫人も身体を壊して宣教師としての働きは中断しています。そしてアメリカに帰国して医師として続けることができたにもかかわらず、ヘボンは、未知の日本に宣教師として赴任するのです。

 中国で伝道ができなかったので、それであきらめて、アメリカで医師として働きを続けても良かったのですが、ヘボンは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言うみことばを聴いたのです。そしてそのみことばに従ったのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」そして様々な困難を乗り越えて日本に来るのです。

 この話を聞いて、私たちはヘボンは宣教師として特別に召されたのだから、自分とは違う話だと思うかもしれません。しかし、ヘボンは信徒です。特別に神学教育を受けてはいません。信徒として仕えていくのです。        
 埼玉県で一番、古い教会は和戸教会で創立138年になります。和戸教会125年史を読むと、創立当時のことが書いてあります。和戸出身の小島九右衛門が横浜でジェ−ムス・ハミルトン・バラ宣教師から洗礼を受け、和戸に帰ってきます。
 
 「1975年(明治8年)6月にバラから洗礼を受けた小島九右衛門は、ほどなくして漢訳聖書を買い込み、それをたずさえて郷里和戸村に帰った。小島九右衛門は、キリスト教の福音を村人たちに宣べ伝えんと奮闘した。当時、『切支丹邪宗門禁制』の禁礼は街頭から撤去されていたものの、これは外交上の手前、そうしたにすぎなかった。一般の人々の頭の中には邪宗の偏見が未だ根強く残っていた。まして埼玉の寒村にあっては、新しい宗教への生理的反発は強かったであろう。(略)父常右衛門は九右衛門がヤソ教に入った事に激怒し、聖書をかまどに投げ込んで燃やしてしまったというから半端ではない。しかし、九右衛門の伝道の熱意は消えないどころか、益々燃え上がり、日本基督一致教会より説教者を度々招いて、自宅で礼拝を守った。その説教者の中には、明治9年にはバラ、10年にはワデル、フルベッキ、奥野昌綱らがいた。」
    
 今でも、和戸は埼玉に住む者も知らない土地であり、農村地帯です。小島九右衛門は信徒ですが、様々な妨害、困難にも拘わらず、「しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と主の言葉に従って、福音を伝える者となるのです。和戸教会の設立には小島九右衛門の伝道の働きがあったのです。

 主イエスの弟子であるシモンは、ペトロとなり、聖霊を受けて、キリストの使徒となりました。使徒言行録2章で、説教を語るようになり、そして3章でエルサレム神殿で足の不自由な男に「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と語っています。ペトロは自分がもっているものがある、それはキリストの名であると語っているのです。「キリストの名」を持っていると言うのです。これはどのようなことなのでしょうか。それは神がイエス・キリストによって私たちの罪を赦しておられる、ということです。その恵み、賜物を与えられているのです。私たちは自分本位で自分のことしか考えていないのです。

 しかし、私たちの深い罪を罰することをしないで、主イエスがその罪の罰、裁きを引き受けて、十字架で死んでくださったのです。贖いの恵みを、賜物を与えられているのです。罪が赦されている、それは神の愛が源になっているのです。神は私たちを愛して私たちを罪ある者ではなく、正しい者として認めてくださっているのです。神が私たちを愛している、そのことに価値があるのです。このことが最も価値があるのです。しかし、この福音を受け入れることが難しいのも事実です。

 日本での伝道には幾多の困難があります。最近、遠藤周作の作品で「沈黙」と言う小説が映画になって昨日から上映されています。私は高校生の時に、鹿沼教会でこの「沈黙」の読書会をしたことがあり、その時に既にこの作品を読んでいました。私が大学生の頃ですから、46年前位になりますが、この「沈黙」が映画化されて、鑑賞したことがあります。この時、見た場面を部分的に覚えています。

 その時に見た映画で覚えているのは、日本に来て20年、伝道したフェレイラと言う司祭がキリスト教の信仰を捨ててしまい、その後、日本に来たロドリゴと言う若い司祭に話している場面です。日本と言う土地はキリストの福音を受け付けない土地、それは泥沼のような土地なのだ、と語っている場面です。日本が沼地であり、種を蒔いても実らないと言うのです。「沈黙」には次のように書いてあります。フェレイラと言う司祭が若い司祭であるロドリゴに次のように語っているのです。「ある土地では稔る樹も、土地が変われば枯れることがある。切支丹とよぶ樹は異国においては、葉も茂り花も咲こうが、我が日本国では葉は萎え、つぼみ一つつけまい。土の違い、水の違いをパ−ドレは考えたことはあるまい。」

 日本人の精神風土、宗教的な心性を考えると、キリスト教の福音と相容れないものであることは明らかです。日本の精神風土は神道を根底に持ち、御利益的であり、この世のことの中でしか、神を理解しないのです。この世を超えた神の世界があることを考えないのです。超越と言う感覚を持ち得ないのです。

 日本では伝道が困難です。聖書を読んだことがない人が大部分です。日曜日に礼拝していることを知らないのです。日曜日に教会に通う習慣がないのです。聖学院大学の学生たちが教会の礼拝に行くために登録しますが、学生たちは日曜日の朝はゆっくりしているので、朝起きて礼拝に行くことに困難を覚えるのです。全く知らない教会に行くと何をされるのかわからなくてこわいので、教会に行きたくないという学生がいます。また教会に行くと親切にしてくれるけれどもその笑顔がこわい、という感想を書いている学生もいます。教会の礼拝に行くだけでも、ハ−ドルが高い、これが現実です。

 日本での伝道がなぜ困難であるか、その原因を分析している本もあります。「日本人はなぜ、キリスト教を避けるのか」という本もあります。しかし、分析しても、実際に伝道しなければ、伝道を実施しなければ、伝道は進まないのです。そして私たちの教会は神から伝道を委託されているので、伝道をしないわけにはいかないのです。     
 
 主イエスは「種まきの譬え話」を語っています。この譬え話で農夫が種を蒔いても、実ることが少ないけれども、良い土地に落ちた種が実ることを語り、農夫があきらめないで、実ることを確信して種を蒔き続けるように、福音の種を蒔き続けるように勧めています。

 「伝道をしても反応もなく、実りがありません。そしてキリストの福音を聴いて従う人はほとんどいませんでした。しかし、主イエス・キリストのお言葉ですから、伝道のために献身し、あきらめないで福音を伝えます。」そのように私たちは主イエスにお答えするのです。
 
 地域のほとんどの人がキリストの救いにあずかってはいないのです。しかし、キリスト教に関する本はよく売れているのです。よく読まれているというのは、それだけキリスト教に関心があるということです。聖書を学びたい、と求めている人もいます。生きていて様々な問題を抱えて、聖書からその答えを聞きたいと思っている人も多いのです。

 私たちは先に選ばれ、洗礼を受け、恵みにあずかっています。自分のためだけの信仰に留まっているのではなくて、まだキリストの救いにあずかっていない人たちに福音を伝える使命と役割とが私たちは与えられているのです。



20170115  主日礼拝説教  「生きている者の神」  山ノ下恭二


(出エジプト記3章1−14節、マルコによる福音書12章18−27節)

 私は、外出する時に、自分の名前や連絡先を書いた紙と保険証のコピ−をいつも持ち歩いています。それは私が突然、倒れて、その場にいた周りの人が私のことが誰であるか分からないし、連絡先も分からなかったら困ると思いますし、事故に遭って、救急車で運ばれた時に保険証があると便利かな、と思って、バックの中にいつも入れるようにしているのです。自分がそのようになる可能性があるし、死ぬこともあると考えてあらかじめ用意しておくことも大切なことだと思います。
 
 中世の修道院では「死ぬべきことを心に留めなさい」「メメント・モリ」と互いに挨拶をしたと言われています。自分が死ぬのだということをいつも自分が記憶し、心に刻むことが大切なことだと考えていたのです。この地上で自分の存在は有限であり、死ということによって限界づけられている、その自覚を持つことは、生きていることの意味を考えるきっかけをもつのです。
 
 井上靖と言う作家が「化石」と言う小説で、会社の社長をしていて元気であった一人の人が体調が悪いので検査を受けて、病院の担当の医師が電話でその検査の結果を家族に連絡することになっていたのです。ところが家族が電話を受けないで、本人がその電話に出たことに医師が気がつかないで、検査の結果を話してしまったのです。その検査結果は、あと半年しか生命がないという話であったので、その話を聞いて本人はショックを受けたのです。しかし、この人は残された半年を意味ある時として過ごそうと決意して、その半年がとても意味のある時間であった、と言う物語です。死と言う人間の限界を持っていることを自覚しつつ、今を生きるのです。
 
 マルコによる福音書12章には、主イエスに対する問いかけがあって、それに答えるということが続いています。12章13−17節にはヘロデ党とファリサイ派の人々から税金について問いかけがあり、これに答えると言う形で話が進んでいます。本日の礼拝で読んだところにはサドカイ派の人々が登場し、今度はこの人々が質問するのです。このサドカイ派の人々は旧約聖書に登場するソロモン王が祭司ザドクを立てたことが記されていますが、この祭司ザドクの子孫がサドカイ派の人々ではないかと言われています。主イエスがおられた時に、エルサレム神殿を支配する祭司の中でも勢力を持ったグル−プであり、この当時では、貴族に属し、教養もあったと言われています。

 マルコによる福音書12章18節に「復活はないと言っているサドカイ派の人々」と書いてあります。「復活はない」と言っているのは、聖書に根拠を置いているのです、しかし、この聖書と言うのは私たちが考えている旧約聖書全体と言うことではなくて、彼らは旧約聖書の初めにある五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、この五つだけを聖書としているのです。この五つの書物に書かれていないことは、重んじなかったのです。私たちが持っている旧約聖書の最初の書物のみを重んじて、文学や預言書はほとんど無視したのです。他方、ファリサイ派の人々は、今、私たちの持っている旧約聖書を重んじていましたが、具体的に信仰に生きるために、聖書だけではなくて、聖書を解釈した教え、人々の口によって伝えられた言い伝えを大切にしたのです。この二つのグル−プは、いつも厳しく対立していました。その対立する、その話題の一つが、復活のことなのです。復活と言うと難しい問題だ、と思うかも知れません。簡単に言うと、人間が死んだらどうなるのか、と言うことです。
 
 皆さんは人間が死んだらどうなるのか、このことを考えたことがあると思います。自分が死んだらどこに行くのか。自分が死んだら、自分の存在が消えてしまうのではないか、と恐れを抱きます。現代の多くの人々は、人間が死ぬと魂が残って肉体が滅びる、と考えています。そして、霊魂が死後の世界に行く、霊魂不滅と言う考えがあります。日本では神道の考え方であると思いますが、肉体は滅びるが、死んだ人の魂は霊となってその家に宿り、見守ると言うのです。死んで亡骸となって霊となる、その霊が先祖の霊となり、ハレの時にこの地上に降りて住んでいた家を訪れて留まり、少し経過して、また帰ると考えているのです。お盆の時に、迎え火、送り火、と言うのは先祖の霊を迎え、送ると言うことです。この当時のファリサイ派の人々とサドカイ派の人々は、霊魂不滅と言う考え方は持たなかったのです。
 
 ファリサイ派の人々は、人間が死ぬことははっきりしているけれども、死んでやがてどこかでよみがえる、そのような復活を信じ、主張したのがファリサイ派の人々です。サドカイ派の人々はそれを否定しました。それに明らかな根拠があると考えているのです。復活について、聖書は何も書いてはいない、死んだ後、人間がよみがえると言うことが明らかに書いてあるところは、ほんのわずかです。サドカイ派の人々が重んじた聖書には、人間が死んだらどうなるのかと言うことはほとんど書いていないのです。だから、サドカイ派の人々は、死んだあとの復活などはないと言ったのです。
 
 死ぬということは、明らかに、人間の存在が消えると言うことです。滅びると言うことです。私は牧師として多くの葬儀に関わってきました。人間と言う存在が跡形もなく変わってしまうということを経験するのは、火葬場で遺体が灰に変わることです。サドカイ派の人々は、この事実をしっかりと見据えて、人間が死んだ後、どうなるかという自分の体験から結論づけたことは、人間が、なお生き続けることはあり得ないと考えたのです。死んだ後、人間は生き続けることはあり得るのかとサドカイ派の人々は問いを出したのです。サドカイ派の人々は、この地上の今の生活を楽しみ、満足していけば良い、それで地上の生活が終われば、それで良いと考えているのです。自分が経験できることしか、考えられないのです。その意味でリアリストであり、現実主義者であるのです。 
 他方、ファリサイ派の人々は、この地上で安楽に過ごしているのは神のみこころではないと考え、自分たちは神の民であるから、地上の不自由な状態から解放してくださる神が来られると信じていました。ダニエル書12章2節に「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り」(p1401)とありますが、死は眠りに過ぎず、その眠りから必ずいつか目を覚ます時が来ると考えていました。永遠のいのちにあずかる人々が、生きると言う信仰をこのダニエル書は語っています。ファリサイ派の人々にとって、死んだ後、復活するということは、望みであり、慰めでした。そのことが、ファリサイ派の人々を支えていたのです。
 
 しかし、サドカイ派の人々は、物事を現実的に考えており、復活はないということを前提にして、主イエスに質問をしたのです。この質問で引用した聖書は申命記25章5節以下です。(旧約p319)ある人が夫が先に死んでしまった、しかも跡取りがない、申命記には、夫が死んだ時に、もし兄弟がいたら、その兄弟が代わりに夫にならなければならない、もし子どもが生まれたら、最初の男の子は先に死んだ夫の名を継がせる、これは、家を絶やさない方法が語られています。その掟を引用して、第一の夫、第二の夫、第三、第四と第七番目の夫まで代わったのだけれども、とうとう子どもが与えられないまま死んでしまう、そうしたら、ファリサイ派の人々が信じているような、よみがえりの時、一体、誰の妻になるのか、そうすると、七人の夫のあいだで、自分がほんとうの夫ですと言って争いになる、そのようなおかしなことが起こることもないし、そういうことが考えられないということから、復活はあり得ないと言ったのです。このような問いは悩んで質問したというのではなくて、答える人の実力を試し、どういう反応をするのか見てやろうという質問です。質問のための質問になっているのです。死んだ後にどうなるかと悩んでいる質問ではないし、生きるか、死ぬかという切実な問いではなくて、相手を困らせ、試そうとする問いです。
 
 主イエスは、この質問に丁寧に答えていません。サドカイ派の人々と同じ次元では何も答えていないのです。サドカイ派の人々の問いには何も答えていないのです。何故、答えなかったのかと言うと、この質問には、罪があると考えたからです。その罪は聖書を読んでいるけれども、本当は聖書の中身を知らないと言う罪です。無知の罪です。12章24節に「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」と主イエスが答えていることに注意したいのです。サドカイ派の人々は聖書を自分たちは読んでいて、聖書には死んだ後の復活は書いていないので、復活はないと考えているのです。ここで注意したいのは「聖書も神の力も」と書いているのです。聖書にこう書いてあるから、あるいは書いていないから、法律の書物である六法全書を読むよう聖書を読んでいるのです。主イエスは聖書には復活について書いてあることを語り、サドカイ派の人々は知らないということを指摘し、聖書を知ると言うことは、神の力を知ることであると語るのです。

 本日の礼拝で出エジプト記3章を読みました。このモ−セの物語を読むと、神の力がどんなに力強いかを読み取ることができます。サドカイ派の人々は聖書を知っていると言いながら、神の力をわきまえていないのです。聖書の言葉を読んでも、神の力を知らないならば、聖書の言葉を読み取ることができないのです。これは、わたしたちにも当てはまることです。聖書を読んでいても、自分が死んだ後のことを自分が経験している地上の生活の延長でしか考えることができないのです。今、生きている、この私がよみがえった時に、どうなるのか、と考えます。今の状態が再現されることを考えるのです。聖書を読みながら、神を信じることができないのです。 神が自分を甦らせてくださり、生命を与えてくださることを信じないのです。
 
 この物語の中で大切な言葉は、「思い違い」と言う言葉です。12章24節、27節にこの「思い違い」と言う言葉が出て来ます。この「思い違い」というのは間違った道に迷い出るということです。皆さんも、経験したことがあると思います。一つ道を間違うと、とんでもないところに行ってしまうのです。死んだ後のことについて、私たちはいつもこの地上の生活を前提にして考えているところがあります。
 
 私たちは日本に住んでいるので、神道の考え方に影響を受けているのです。ある時、親戚の葬儀があり、その葬儀は神道の葬儀でした。その葬儀に出席して神主の言葉に注意していたら、死者は先祖霊になって家に宿り、見守ってくれると言っていました。そのような考え方に影響を受けているのか、教会の葬儀の弔辞でも「天にあって私たちを見守ってください」と死者に呼びかけたのを聞いたことがあります。その時、神が見守るのだから、と思いました。

 気をつけて聖書を読むと主イエスは、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と書いてあります。「天使」と言うと皆さんは背中に羽根が生えていることを思い浮かべるのですが、そうではありません。この「天使」と言うことで、何を言っているのでしょうか。「天使」とは神のみこころに生きる存在になると言うことなのです。神によって新しく造られたいのちに生きる存在になると言うことです。肉体的にどうなるのか、分かりません。このままの姿でよみがえるのか、どうか、分かりません。神のもとで生きる存在になると言うのです。私たちが神の愛に守られ、神の愛の宿ったところに住むのです。
 
 マルコによる福音書12章18−27節で最も大切なところは、26節、27節です。「死者が復活することについては、モ−セの書の『柴』の箇所で、神がモ−セにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

 ここに引用されているみことばは、サドカイ派の人々がいつも読んでいた五つの律法の書に、何度も出て来るものです。先程、出エジプト記3章1−14節を読みましたが、モ−セが神の民をエジプトから引き出す使命を与えられる時に語られるところです。モ−セは萌える柴の中に神の声を聞いたのです。その時、三たび、ご自分のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのです。主イエスは「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉を、死んだ後、復活することの根拠として語られたのです。ここが大切なところです。この言葉が復活があることの根拠になる、鍵となるみことばなのです。私たちの歴史に実在した人物であるアブラハム、イサク、ヤコブは、地上の生活を終えて、死んで、墓があるだけです。しかし、彼らを生かした神、彼らを呼び出した神、その生涯を導き出した神は、生きておられるのです。
 
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、その神は私の神なのです。私たちの肉体が滅んだとしても、神は私たちを掴まえて、離さないのです。眠っている赤ちゃんをお母さんが抱いているように、死んでいても死を超えて、私たちを離さない神がいるのです。生きている時に地上の国にいて死んで天の国にあると言うのではないのです。死んでいても生きていても、私たちは神の愛の中にいるのです。
 
 哲学者のパスカルは、1654年11月23日、31歳の時、回心して、イエス・キリストである神に対する信仰を与えられたのです。その時、自分の心境を書いた言葉があります。有名な言葉です。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者の神ではなく、科学者の神でもない。確かさ、感情、喜び、平和。イエス・キリストの神、わが神、すなわちあなたがたの神、あなたの神はわが神となる。」 哲学者であり、科学者であったパスカルは、どうして回心したのでしょうか。アブラハムが神に呼ばれたように、自分も呼ばれたと信じたのです。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モ−セの神、そしてあなたの神」。信仰の先輩である者を呼んだだけではなく、今、あなた、パスカルを呼んだのです。パスカルは哲学者として、科学者としてまことの神と出会ったのです。それは人間の知識、理性によってではなく、歴史の中で人々を導き、呼び出した神がいることを信じることができたのです。
 
 私たちが生きている時にも私たちの神であり、私たちが死んだ後も神であるのです。私たちは死ぬことによって地上のこちら側には存在しないけれども、死の向こう側に神が生きておられて私たちを愛していてくださるのです。死んだ者の神ではなく、生きている者の神であるから、人の前から姿を消したアブラハム、イサク、ヤコブも復活によって生かされているに違いないし、全ての者が復活する日に、彼らも復活することは確かです。私たち人間と恵みの契約を結んだ神は、その恵みの契約に忠実に守り、死によってもその関係は断ち切られはしないのです。
 
 神がイエス・キリストを復活させたのです。この地上で復活が実現したのではなくて、神の側、この地上の向こう側、彼岸で復活を起こしてくださって、復活された主イエスが地上に現れてくださったのです。このことはすべて神の働きなのです。私たちが死んでも、神はなお生きておられ、私たちを生かす神です。そこに私たちの望みがあり、死を突き抜ける力を神からいただいているのです。

 生きている時も死んだ後も、神が愛をもって私たちを憐れみ、いつも共にいてくださるのです。だから、私たちは恐れることはできないのです。


20170108  主日礼拝説教  「神のものは神に返しなさい」  山ノ下恭二



(列王記21章1−15節、マルコによる福音書12章13−17節)

 4年前のことになりますが、私が牛込払方町教会に赴任することを知った東京のある教会の先輩の牧師が「東京は都民税、区民税が高くて大変だよ」と言ったことがあります。「東京の教会に赴任すると交通が便利で生活がしやすい」と言ってくれると良かったのですが、「東京に住むと税金が高い」と言う話を聞いて嫌な気持ちになったのです。私たちが税額を自由に決めて税を納めるのではなく、税額は国が決めて徴収するので、税を納める時に、国家の力を身に染みて知るのです。税金を納めるということよりも、国や都・市・区からお金を取られるという感覚が強いのです。税金を無駄使いせずに国民のために公平に正しく分配して使ってほしいと思っていますが、現実に無駄使いをしていることを聞くと、税金を納めている国民の立場になって税金を用いて欲しいという思いを持つのです。皆さんは税金についていろいろな意見や思いをもっておられると思います。

 本日の礼拝で読んだマルコによる福音書12章13−17節には、主イエスに敵対する人々が主イエスに対して税金について質問したことに対して、主イエスが返答したことが記されています。主イエスに敵対する人々は、真理を知りたいと思って質問したのではなく、主イエスをなきものにしようとして、主イエスを試すために質問したのです。主イエスに質問したのは、ヘロデ党の人々とファリサイ派の人々です。この二つのグル−プは、いつもは反目していましたし、税金については正反対の考えをもっていました。しかし、主イエスを殺そうと企てていた点で一致していました。主イエスが返答するのに困る質問をして、主イエスをおとしめ、訴えようと、ここで悪意をもって共同戦線を張ったのです。

 彼らは主イエスにお世辞を言っていますが、主イエスが何よりも真実で、偽りのない、まっすぐな方で、誰をもはばからない方である、と主イエスの本質を言い当てています。彼らは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないでしょうか。」と質問したのです。この質問の前半は税金を納めることについて律法に適っているか、どうか、と言うことです。なぜそのような質問をしたかと言うと、ファリサイ派の人々がいつも律法を自分たちの生活の中心に置いていたからです。ファリサイ派の人々にとって何よりも優先することは自分たちの生活が律法に適っていることか、どうかでした。主イエスの答えいかんによっては、律法違反であると言って訴えることもできたのです。

 そして、質問の後半にある税金を納めるべきか、納めてはならないか、と言う質問はヘロデ党の人々が現実に行われている政治に対して主イエスがどのような考えをもっているか、確かめ、主イエスの答えによっては、現在の体制を批判したとして訴えることができたのです。

 ここでの「税金」とは、紀元6年に導入された人頭税のことのようです。この当時、ユダヤはロ−マ帝国の植民地であり、ユダヤの成人にはみな頭割りで課せられたものと言われています。税金は国民が自由に額を決めて、納めるならば不平は余りないですが、国が税額を決めて強制的に徴収することになっているので、反発をするのです。しかもこの当時の税金はユダヤの人々のために使われているのではなくて、異教徒、ロ−マ帝国のために使われているのでなおさら反発が強かったのです。そしてこの税を納めるごとに自分たちがロ−マ帝国に隷属していることを知らされ、屈辱的な思いを持っていたのです。
 
 この「ヘロデ党」と言うのは、この時のユダヤの支配者ヘロデ・アンティパスを支持する体制派です。ヘロデはロ−マ帝国に取り入ってこの地方の領主、王となった人物です。「ヘロデ党」はこの税を納めることを積極的に支持していたグル−プです。ファリサイ派の人々は、ロ−マ帝国の支配に反対し、律法を純粋に守ることを実践し、人々に要求していたのですが、この税金が異教徒のロ−マに行くことに反対しながらも、消極的に納税をしていたと言われています。この問題に、もう一つの立場がありました。それは熱心党です。革命的な政治集団です。彼らは異教徒の支配を認めず、暴力をもってでも革命を起こそうとしていたのです。税を納めることに反対であり、この主張に多くの民衆が支持をしていたのです。
 
 納税に対してこれらの異なる立場があり、主イエスがどの立場に立つのか、彼らは主イエスに返答を迫ったのです。主イエスの答えによっては、主イエスを訴え、拘束することもできるのです。「納めなくても良い」と答えるならば、心情的に民衆の支持を得ることはできるのですが、それは熱心党と同じ主張であるので、ロ−マ帝国に反抗する者として主イエスは訴えられるのです。反対に「納めなさい」と答えたならば、イスラエルのために救いをもたらす救い主であるのに、異教徒によって支配していることを認めている者だ、として人々を失望させることになります。どちらに答えても、主イエスは不利な立場に置かれ、訴える口実を作ることになります。

 主イエスは、この質問に対して納めなさいとも、納めてはならない、とも答えなかったのです。主イエスは何と答えたのでしょうか。納税に使われるデナリオン銀貨をもってくるように彼らに命じたのです。12章16節に「彼らが、それを持って来るとイエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らが『皇帝のものです』と言うとイエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは、イエスの答えに驚き入った。」と書かれています。持って来るように言われたデナリオン銀貨は、一日分の労働賃金に相当する価値を持つものです。ユダヤではシケルという貨幣があり、これはもっぱら神殿の献金に用いられていました。デナリオン銀貨の表にはロ−マ皇帝・カイザルの肖像と銘が刻まれていたからです。「神的アウグストゥス(高貴なる者)の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」と刻印されていました。

 主イエスは「皇帝のものは皇帝に」と言い、続けて「神のものは神に返しなさい」と語っています。主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言うことが一番、重要なことで、神のものは神に返すことが何よりも優先することだと考えて語ったのです。主イエスは神との関係において常に物事を判断する方です。彼らの質問に返答した主イエスの言葉に注目すると、主イエスは納めると言う言葉を使わないで「返す」と言う言葉を使っています。主イエスが「納める」と言う言葉を使わないで、「返す」と言う言葉を使っていることに注目したいのです。それは、皇帝も国も人間もすべて、神から借りたもので、神に属するものだからです。主イエスは、皇帝は神と同等の存在ではなく、一時的で相対的な存在であると考えているのです。
 
 今日の聖書のテキストを1913年に神学者カ−ル・バルトが説教しています。この説教の中でバルトは皇帝を次のように語っているのです。「イエスは皇帝を神と並べて置いていない。彼は皇帝に神の諸権利に属する永遠の権利を与えたのではない。そうではなくて、ただ人間に対する一時的、外面的要求の権利を与えたにすぎない。皇帝は数ヶ月の間仕事の監督を任せられている一人の管理人に比べられるべきである。賢明な使用人は管理人に従うであろう。しかし、彼は(使用人)は、本来の主人に反対するよう管理人から教唆されはしないであろう。なぜなら管理人は後にはいなくなるからである。それなら管理人は、使用人にとって何の役に立つのか。しかし、主人はまた来る、そしていつまでもいる。」バルトの説教で「皇帝は数ヶ月の間仕事の監督を任せられている一人の管理人」だと語られていることはとても大切な点です。
 
 「神のものは神に返しなさい」と言う言葉は、この当時、ユダヤを支配しているロ−マ帝国も神のもとにある国家であると言うことです。主イエスが神との関わりから、この国家との関わりを捕らえ直しているのです。神の視点から、この世の国家を理解しているのです。神から見ると国家は相対的なものであり、一時的なものに過ぎないのです。皇帝はその時代や国を支配する力を持っています。しかし、その支配は永遠に続くものではなく、いつか滅びるものなのです。「皇帝のものは皇帝に」その時の国家を認め、国民としての納税の義務を果たすけれども、国家も皇帝も神に属するものであり、神の支配下にあることをここで語るのです。人間もこの世界も神が造られた存在であり、皇帝も一人の人間として神に造られた存在です。神の支配の中に国家や皇帝が存在することをこの言葉は教えているのです。
 
 本日の礼拝で、列王記下21章1−15節のみことばを読みました。マナセと言う王が登場しますが、神に立てられたこの王がまことの神を拝まず、偶像を礼拝したことが書かれています。主なる神の目に悪を行ったと記されています。
 
 ドイツの歴史において、ナチス・ヒットラ−は国家の支配のもとに教会をおいて政策を進めたのです。ナチスの戦争推進の政策に反対した者を捕らえ、処罰したのです。戦後の東ドイツの社会主義政権も、この世界には政治と宗教の二つの領域があり、それは併存すると考えたのです。国家と教会は並び立つけれども、それは教会が人間の魂と言う私的な領域に限定しているだけであるならば、許されるけれども、政府を批判したり、集会をすることは許されない、として教会を統制したのです。日曜日の礼拝も制限を受けました。

 日本では明治憲法(大日本国帝国憲法)第28条には口語訳ですが、信教の自由の条文があります。そこには「日本臣民は、社会の秩序を乱さず、臣民の義務に違反しない限り、信教の自由をもつ」とあります。国家の秩序を乱さない限りにおいて宗教活動は許されるとあります。完全な自由ではなく、国家による制限があったのです。この条文により、太平洋戦争の時に、キリスト教会の牧師、信徒が国家に背くような意見、考えをもっており、天皇制批判、政府批判、戦争批判をしたと言われ、捕らえて拷問を受けて処罰されたのです。
 
 国家がすべてを支配しているのであって、教会はその支配下にあると考えているのです。現体制を支持する時には、教会の活動を認めるけれども、現体制を批判し、反政府的な活動をするならば、取り締まるのです。

 主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言うのです。国家は神に従うものであると言うのです。国家と神の二つの領域があり、住み分けるというのではないのです。国家のことに口を出すことなく、教会は教会のことだけをすれば良いのであって現在の政治に口を出すな、ということではないのです。
 
 政治に関わる者もキリスト者もいかなる領域に生きる者も神を無視することはできません。それはどのような領域にも神が支配し、どこにでも神がおられ、神が統治し、支配しているのです。ここには神がおられないと言うことはないのです。そのことは詩編139編7−10節に語られています。神がどのようなところにも私たちと共にいて守っていてくださると歌います。「どこにいけば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(旧約p979)
 
 日本キリスト教団出版局で出版している季刊誌で「説教黙想アレテイア」という雑誌の93号に私は「牧会者のポ−トレ−ト」に1967年から1971年まで、東京神学大学の学長を務めた高崎毅牧師について書きました。紙数の関係で書くことができなかったことがありました。私が学生の時のある時に電車の中で高崎牧師が話してくれたことです。高崎毅牧師が学徒動員で戦地に赴いた時の話です。その部隊には意地悪な古参兵がいて新兵の学徒をすぐに殴っていたそうです。高崎先生は小さな聖書を胸のポケットにしまっていて、毎日、就寝の前に聖書をひそかに読んで祈っていたそうです。ところがある時、聖書を読んでいた時に、いつもすぐ殴る古参兵が突然やってきて、聖書を取り上げて、踏みつけにして自分は殴られたとのことで、軍隊というところはほんとうに嫌なところだと話していました。その話の最後に「このような場面にも神は確かにおられてすべての場面をきちんと見ておられることを信じて祈ることができた」と話されたことを思い出します。
 
 この話を聞いて、私はマタイによる福音書10章28節の言葉を思い起こしました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(新約p18)

 太平洋戦争のために兵隊に召集され、それに応じることを応召と言いますが、兵隊の召集を拒否する自由はなかったのです。国が命じたら、絶対的に応じなければならなかったのです。しかし、「神のものは神に返しなさい」と言うみことばは、国家は相対的なものであり、国家の方針を批判したり、変えようとする自由をもっていると考えているのです。国家を相対的、一時的なものと見る視点を私たちは持っているのです。それは私たちを愛し、今も生きているイエス・キリストの神がわたしたちを全面的に支配しているのであって、その神以外の他の支配は受け入れないのです。

 ドイツではナチ・ヒットラ−に対して、ドイツの教会で厳しく批判し、激しく抵抗した教会の指導者たちが存在しました。その指導者たちがバルメンに集まって、教会の立場をはっきりと言い表そうと1934年に「バルメン宣言」と言う信仰告白を出したのです。(「ドイツ福音主義教会の現代の状況に対する神学的宣言」)私たちはバルメン宣言を読んだり、学ぶことはしてこなかったのですが、ヒットラ−が絶対的な力で教会に服従を求める時に、それを拒否し、教会がどこに立ち、教会はその時代に政治に対して何をするのか、を明らかにしていることを知ることは極めて意味のあることです。
 
 バルメン宣言の第一条項の後半には、神の言葉しか、自分たちは聞き従わないとはっきり宣言しています。次のように宣言しています。「聖書において証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべく、また生きているときにも死ぬときにも、信頼し、服従すべき、唯一の神の言葉である。教会がこの唯一の神の言葉以外に、またそれと並んで、別の出来事、さまざまな力、人物、諸真理をも神の啓示として承認し、宣教の源泉とすることができるし、そうしなければならないと教える誤った教えを、われわれは却ける。」
 
 バルメン宣言第二条項の後半には、神がすべての領域を支配していることを宣言しています。次のように宣言しています。「われわれの生活の諸領域のなかに、われわれがイエス・キリストのものではなく、他の主人のものであるかのごとく生きるべき領域、イエス・キリストによる義認と聖化を必要としない領域があるかのように教える誤った教えを、われわれは却ける。」

 私たちはイエス・キリストによって罪の贖いを与えられた者であり、神のものです。イエス・キリストこそ、主であり、この世界を統治しています。まことの神を神とし、隣人を愛する、そのことがこの世界でこの日本で行われるように祈り、そうでないならば、批判し、行動する自由を持っているのです。



20170101 新年礼拝説教  「人はパンだけで生きるものではない」  山ノ下恭二



(申命記8章1−10節、マタイによる福音書4章1−11節) 

 2017年の新しい年。一年のはじめの日に皆さんと共に礼拝をもって始めることができたことを心から感謝致します。これから始まる一年の歩みを覚えて、祝福のことばを伝えたいと思います。最初の教会の伝道者であるパウロが教会に宛てた手紙の最初に伝えた祝福のことばです。「わたしたちの父である神と、イエス・キリストの恵みと平和があなたがたにあるように。」

 2017年のカレンダーを見ますと、今年は本日が日曜日、主の日で、12月31日も日曜日、主の日です。今年は礼拝に始まり、礼拝に終わることになります。礼拝をもって一年の初めとし、礼拝をもって一年が終わるのです。礼拝に始まり、礼拝で終わる、この新しい年も、初めから終わりまで、神の恵みによって私たちの歩みが導かれ、守られますように祈ります。

 本日の礼拝でマタイによる福音書4章1−11節を読みました。主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けたところです。ここには主イエスが三つの誘惑を受けたことが記されています。本日は第一の誘惑についてみことばに聞きたいと思います。
 
 新共同訳聖書は小見出しに「誘惑を受ける」とあり、4章1節、3節に「誘惑」と言う言葉があります。また6章11節にも「誘惑に遭わせず」と訳しています。この「誘惑」と翻訳されているギリシャ語は「引っ張る」「引っ張って行って、思っていたところと違うところに行く」という意味の言葉ですので、「誘惑」と訳すことに異議を唱えることはできません。
 
 しかし、文語訳、口語訳の聖書では「試み」と翻訳しています。一つの言葉を日本語では「誘惑」あるいは「試み」と言う二つのことばに翻訳しているのです。私たちは礼拝で主の祈りを祈っていますが、「試みに遭わせず」という言葉で祈っているのです。一番新しい翻訳は「試み」と翻訳しています。この言葉はどちらにも翻訳できるのです。誘惑を受ける、それは試みになるのです。誘惑を受ける、その誘惑に遭う時にどのように対処するのか、それはその人が試される機会になります。その人が誘惑に負けてしまえば、主体的な生き方ができなかったことがはっきりすることになりますし、誘惑を退ければ、その人は主体性をもって、自分の生き方を貫いたことになります。誘惑を受けることは、試されることにつながるのです。

 聖書を読むときに前後の文脈から読むことが大切です。荒れ野の誘惑の物語の前には、主イエスが洗礼を受ける物語が書かれています。主イエスが洗礼を受けたのは、救い主として神の愛の支配を告げ知らせるためです。主イエスは神から救い主として選ばれ、任命を受けたのです。それは特別なことでした。それはこの世の人々の願いを叶える救い主ではなくて、神からの救いを告げ知らせる使命を持っていたのです。そのような神から委託された主イエスがそのみわざを始めようとする時に、悪魔が試みたのです。主イエスが神から委託された使命に忠実に従うのか、それとも悪魔の誘いに負けてしまうのか、試されるのです。

 主イエスは、町から離れた、石ころしかない荒れ野で、40日間、何も食べることなく、飢えていました。飢えを経験されたのです。私たちは飢えで苦しむことがあり、現在も食べることができない人々が多くいるのです。主イエスは飢えに苦しむ経験をされました。そのような経験をされているので、主イエスは私たちの苦しみに深く同情することができる方なのです。

 この時に、悪魔が来て、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と試みたのです。「もしお前が神の子なら、これらの石にパンになるように命じてみろ。」(岩波訳)お前が神であり、奇跡を起こす力があるのだから、神の力を自分たちに見せて欲しいと言ったのです。悪魔は主イエスが神の子であると信じてはいません。主イエスが石をパンにしたならば、主イエスを神と認めようと言っているのです。

 悪魔が、自分の要求に主イエスが従うならば、神として認めるという姿勢は第二の誘惑において、よりはっきりしてきています。第二の誘惑は、主イエスがエルサレム神殿の屋根から飛び降りて、無事に着地したのを悪魔がこの目で確かめたならば、主イエスを神の子と認めようと言うのです。悪魔は主イエスを試験する試験監督なのです。悪魔は自分の思い通りに主イエスが行動するならば、神として認めようと言うのです。

 この誘惑、試みに対して、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と主イエスは答えたのです。 私たちはこの言葉をどのように理解するのでしょうか。初めてこの言葉を読んだ人は「確かにパンだけで生きているのではない。食べていれば良いわけではない、それで生きているとは言えない、精神的な支えが必要だ、心の拠り所が必要だ。」と思うかもしれません。また、別の人は「パンを食べるだけではほんとうに生きているとは言えない、でもやはりパンがなければ生きて行くことはできない」と思うのです。やはりパンが必要だと思うのです。

 しかし、そのようなことを言っているのでしょうか。悪魔の誘い、試みに対して主イエスが答えたのは、主イエス御自身の言葉ではありません。本日の礼拝で読みました申命記8章3節の後半の言葉を引用して答えたのです。申命記8章3節後半には次のように書かれています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」この申命記の言葉はイスラエルの民が砂漠で飢えの経験をしていた時に神がパンを与えた出エジプト記の物語に基づいて語っているのです。砂漠で飢えて苦しんだイスラエルの民に神がパンを与えた、それはパンを食べることに勝ってイスラエルの民に必要なのは、神の言葉であると言うことなのです。申命記のこの言葉は出エジプト記の物語を後で神との関わりで信仰的に解釈した言葉なのです。
 
 出エジプト記16章(旧約p119には、イスラエルの民がパレスチナの地に向かって旅をしている時に飢えて苦しんだ物語が記されています。イスラエルの民が旅をしていた時に、砂漠で食べるものもなく、お腹が減り、飢えていた時に不平を言い、文句を言うようになったのです。エジプトで奴隷の時にはたくさん食べることができたのに、今は食べるものはないと不平不満を言ったのです。それに対して神はこの民のわがままにつきあってはいられないと放っておいたのではなく、イスラエルの民が飢えることなく、食べられるように天からマナを降らせて食べさせたのです。そしてその日に必要なだけのマナを与えたのです。そしてイスラエルの民は食べて満腹したのです。
 
 このことは神が飢えている民にパンを与えて民が満腹したと言う事実を伝えようとしたわけではないのです。それは神が私たちのいのちを養っておられる方であるということを言おうとしているのです。私たちは労働の報酬として給料をもらい、その中で食糧を買って食べていると思っています。自分がお金を出して食糧を買い、食べて生活しているという感覚をもっています。

 しかし、神が天からマナを降らせて、人々を食べさせた、と言うことは、神がパンを与えて、養ってくださっていると言うことなのです。神が私たちのいのちを養う方であることを言おうとしているのです。主の祈りで「日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈っているのは、パン屋さんに行って「パンをください」と言っているのではなく、神が私たちのいのちを養ってくださって、パンを与えてくださることを信じて、今日もパンを与えられるようにと言う祈りなのです。

 イスラエルの民にマナを降らせて、食べさせたことは、神に目的があったからです。出エジプト記16章12節(旧約p120)「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」この言葉の中で「あなたたちはこうして、わたしがあなたの神、主であることを知るようになる。」と言う言葉が重要なのです。
 
 旧約学者であるブルッゲマンの「聖書は語りかける」と言う本の中に「荒れ野のパン」と言うところがあります。荒れ野のパンを与えた「この神こそ、不可能に思える時に、今まで誰も味わったことのないような、生命を賜る御業をなすために、苦難の時のいと近き助け、となられるということです。まさにイスラエルは人生の荒れ野の何たるかを学びました。それは、一見侘しく絶望的であったとしても、主がそこにいますゆえに養いの地であるということです。」(p43)

 私たちは暮らしに必要なものは、自分が働いて、自分がものを買って、自分の力で手に入れたものであると思っています。しかし、そうではないのです。神が与えてくださったものなのです。そのようなことを全く考えていないことに現代の大きな問題があります。神が私たちの生活の中心におられ、私たちを養っておられるのです。

 悪魔に対して、主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えています。主イエス・キリストはパンの問題を神との関係においてとらえなおすのです。神との正しい関わりにおいて、私たちの生活を見直すのです。神との正しい関係をもって、生活をしていくことを語ります。私たちは自分の生活を中心にして過ごしており、神を忘れて生きています。そのような者を、神はイエス・キリストによって罪の罰を受けて、十字架で死に、贖ってくださいました。私たちに対する神の愛を信じて、感謝のうちに過ごすのです。その生活は神の言葉を聞いて生きることなのです。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と主イエスは語ります。

 私たち人間は、神の言葉を聞いて生きる者だ、ということがここに明確に語られています。母親が赤ちゃんを抱いて、授乳する時に、母親は全く無言で授乳をすることはないのではないか、と思います。「何々ちゃん、よく飲んだね。お腹がいっぱいになったでしょう。」または「何々ちゃん。もう少し飲んでね。良い子だからね」と言うのです。語りかけながら、授乳をするのです。母親から優しい言葉をかけられて、赤ちゃんは育つのです。母親が自分の子を愛をもって育てているならば、その子は満足して成長していくと思います。
 
 福音館書店で長く社長をした松居直氏は「絵本・ことばのよろこび」と言う本の中で、読者に「ことばを食べさせていますか」と言う問いかけをしています。このところで、「サラダ記念日」という短歌集を出した歌人の俵万智さんのことを紹介しています。「俵さんは、2歳から3歳のころ、『3びきのやぎのがらがらどん』と言う絵本をそれこそ一日に幾度も読んでもらっていて、読んでもらうたびにおもしろくたのしい、ことばの経験をもったので、大人になってことばに対する感性を身につけ」ることができ、感性の豊かなことばを紡ぐことができたのではないか、と書いているのです。

 旧約聖書には神の言葉を食べると言う言葉があります。目の前にある、巻物、聖書の言葉を食べて、胃袋にいれて、腹を満たしなさい、と言うので、預言者が「食べると、それは蜜のように甘かった。」(エゼキエル書3章1−3節、旧約p1298)と書かれています。

 「神の口から出る一つ一つの言葉」これは、聖書の言葉です。私たちは聖書のみことばを食べるのです。聖書のみことばに養われて歩むのです。

 武蔵野教会の牧師であった熊野清子牧師が「み言を求めて」と言う説教集で「新年への祈り」と言う文章を書いています。植村牧師のところに、ある新しいもの好きな人が来て、「何かよい新刊書が出ましたか」と言ったので、植村牧師は「あるよ、あるよ、旧約聖書と新約聖書を新しい心で読みたまえ」と答えた、という逸話を紹介して、次のように書いています。「ほんとうに聖書こそは、いつも、最もよい新しい書物ではないか。そして聖書は年毎に、新しい思いをもって読まなければならない。この年も、今までにまさって、真剣に聖書を味わい、ここに新しく、活ける主イエス・キリストにであいし、与えられ始めた真の成長をさせて頂きたい。」

 エレミヤ書15章16節(旧約p1206)にみことばを食べると言う言葉があります。「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました。万軍の主よ。わたしはあなたの御名をもって 呼ばれている者です。」

私たちの魂を支えるのは、神のみことばであり、このみことばを食べるのです。

 申命記8章11−14節A(旧約p298)には次のように書かれています。
「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように注意しなさい。あなたが食べて満腹し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」

 神との正しい関係を与えられることによって、私たちの生活も正常な生活をすることができるのです。主なる神を忘れる時に、神を排除して生きて行く時に、自分本位の、自分中心の生き方になるのです。自分の欲望を満たし、自分の生活が豊かであれば良いと考えていくのです。

 このみことばは現代に生きる私たちに対する警告です。主なる神を忘れないように、と言う警告に耳を傾けるのです。
 
 物質的に豊かな日本の社会に生きていると、飢えのために苦しんでいる人々がいることを忘れてしまいます。日本で子どもの貧困が広がり、食事も満足に摂ることもできない子どもたちが増えているのです。そしてこの世界では、特にシリアでは、内戦のために、空爆などによって、家に閉じ込められて、食糧もなく、飢えて、悲惨な生活を過ごしているのです。しかし、そのことを忘れているのです。あり余る贅沢な食事をしながら、たくさんの食糧を残しているのです。まだ食べることができる、たくさんの食糧を廃棄していることも多いのです。
 
 神をないがしろにする人間は、この地上の資源や食糧は自分たちが勝手に使ってよいのだと考えています。地上の食糧や資源を自分たちに有利に獲得するために奪い合いが起こり、国と国とが戦争になることもあります。

 食糧や資源は神から与えられた恵みとして受け止め、世界の人々が分かち合うようにするのです。私たちは食事をしている時に、いつも飢えて苦しんでいる人たちがいることを覚えるのです。神との正しい関係をもった生き方を求めながら食べるのです。

 神が私たちを愛していることを信頼して、神のみことばに従って、この一年を歩みましょう。


20161225  主日礼拝説教  「喜んでささげる」  山ノ下恭二



(詩編107編1−9、マタイによる福音書2・1−12)
 
 本日は皆さんとクリスマス礼拝を共にささげることができ、感謝です。本日はマタイによる福音書2章1−12節の御言葉を読みました。このところを理解するのに大切な言葉があります。家に入るためには玄関の鍵で開けないと入れないように、鍵となる言葉、キーワードが分かるとこのところを理解しやすくなります。三度、出てくる言葉があるのです。それは「拝む」と言う言葉です。2章の2節「拝みに来ました」、8節「わたしも行って拝もう」、11節「彼らはひれ伏して幼子を拝み」と書いてあります。三度、「拝む」と言う言葉が記されています。8節の言葉はヘロデ王の言葉であり、ヘロデ王は拝む気持ちはなかったのですが、「拝む」と言う言葉を使っています。この「拝む」と言う言葉は「自分のからだを大地に投げ出す」と言う意味です。この言葉は元々「王の前に自分のからだを大地に投げ出して、ひれ伏す」と言う意味の言葉です。

 日本では、「拝む」というのは心の中でお願い事をする、或いは手を合わせて柏手を打つ所作、礼をする、と考えられていますが、そうではないのです。「自分のからだを大地に投げ出す」、そのような動作を伴うものです。「拝む」と言うことが心の中のことや、所作、作法ではなくて、「拝む」ことは自分のからだをもって対応することです。自分の生活をもって答えることです。これには激しいものがあります。 

 今日のみことばに占星術の「学者」が登場します。この学者と言う言葉は「マゴス」と言う言葉で、「マジック」という言葉になったと言われています。「学者」と言うよりは、「星占い師」と言う方がわかりやすいのです。この星占い師たちは救い主を捜し求めて、やっとベツレヘムにたどり着いて、主イエスを拝むのです。この星占い師たちは自分の仕事を持っていました。家族も持っていたに違いないのです。自分の生活があったのです。資産も持っていました。

「宝の箱を開けて」とあるように自分の一番の宝、いつまでも持っていたいと思っていた大切な宝を主イエスにすべて渡してしまったのです。この占い師たちは若くない人たちであり、自分の人生の最後に主イエスのもとに行き、大地にひれ伏したのです。自分の地位や名誉もささげたのです。

 これは主客転倒です。中心がひっくり返ることです。今までは自分が中心であったのです。しかし、中心が変わります。王が変わります。王が自分でなくて、別の者です。自分が中心でなくて、別の者が中心になるのです。自分が中心ではなくて、主イエス・キリストが中心になったのです。

 このことは何を意味しているのでしょうか。主イエス・キリストを主と告白する者は、主イエス・キリストを中心とするのです。これは私たちの生き方が変わることになります。私たちの人生のテーマがひっくり返るのです。

 学生と話していると、先輩から将来の仕事のために資格を取ると良いと言われると言うことを聞くことがあります。将来の生活のために資格を取ることは良いことです。しかし、主イエス・キリストを主と告白する者は、人生のテーマがひっくり返ったのです。自分にとってこのことをすると役に立つかどうか、と言うことを第一に考えてきたのです。しかし、人生のテーマがひっくり返ったのです。自分にとって役に立つ、と言うことではなくて、自分自身が何のために役に立つのかになります。人生の意味が変わるのです。自分の生活のために有利になるからこの資格を取ると言うのではないのです。資格を取るのは、人を助けるためであり、この資格を取ることにより、他の人を助けることができると考えるのです。お金が儲かって、安定した生活をしたいから医師を目指すのではないのです。みんなのいのちを助けたいから、医師になるのです。

 パキスタンのペシャワールで医療活動・農業指導をし、水道施設建設をしている、NGO団体である「ペシャワール会」があります。そこで働いていた伊藤和也さんが、殺害され、この人の追悼号の会報があります。この追悼号に伊藤さんがアフガニスタンで働くことを志願した時の文章が掲載されています。伊藤さんは、アフガニスタンと言う国を知らなかったが、ある時に「アフガニスタンは、忘れ去られた国である」。この言葉を聞き、アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に戻すことをお手伝いしたい、そのために現地に行かなければ始まらない、自分ができることをしたい、とアフガニスタンに行く志望動機を書いています。

 このペシャワール会の代表である中村哲さんは、伊藤和也さんの追悼の言葉の中で「伊藤和也さんが、アフガン農民の一人になりきって、全ての人々に愛されました。次第に砂漠化してゆく大地、餓死と隣り合わせにある農民たちの状態に胸を痛め、文字通り、人々と苦楽を共にしました。和也くんは、決して言葉ではなく、その平和な生き方によって、その一生を以て、困った人々の心に明るさを灯してきました。成し遂げた業績もありますが、何よりも、彼の、この生き方こそが、私たちへの最大の贈り物であります。」伊藤和也さんは、アフガニスタンを緑豊かな国に戻したい、そのために自分はできることをしたい、とすぐに現地に赴いたのです。

 伊藤和也さんは、自分のために生きる道を選んでいたならば、日本で安定した仕事に就いていたに違いないのです。政情不安で危険な地域のアフガニスタンに行って、現地の人々の生活に役立つことはしなかったに違いない。しかし、自分のために生きる、自分に役に立つ、という生き方を捨てたのです。そこで人生の意味が変わるのです。自分の人生に期待し、待っている方がいることを知ったのです。

 実は自分の体を投げ出して人々のためにささげた者がいます。それはイエス・キリストです。自分の体を差し出して犠牲をささげるのです。私たちに自分のためではなく、相手のために生きる、その生き方を明らかに示してくださったのがイエス・キリストです。自分さえ良ければ、自分さえ幸せであれば、というあり方ではなくて、ささげる相手がいる、愛する相手がいることが大切なのです。

 キリスト教会の教派の中で、メソジスト教会があります。この教派の創始者であるジョン・ウェスレーがこういうことを語っています。「たくさんお金を儲けなさい。たくさんお金を貯金しなさい。」と言ったのです。「たくさんお金を儲けなさい」これは誰でも言うことです。お金がなければ生活ができないのです。食料を買うにも、入院するにしても、何でもお金がなければ、と思います。生活が不安だから、貯金しておこう、それはそうだと思います。

 ジョン・ウェスレーはそれだけを言ったのではない。続いてこう語ったのである。「たくさんお金を儲けなさい。たくさんお金を貯金しなさい。そしてたくさんお金をささげなさい。」と言ったのです。自分でお金をもって自分のためにお金を使うのではないのです。そのお金をささげるのです。ささげる相手がいるのです。

 現代の人々は自分の生活を支えるためにお金が必要だからお金が欲しい、と思っています。そしてそのお金は自分の生活のために使うのです。将来の自分の生活が不安だからお金を蓄えるのです。それで良いと思っているのです。しかし、忘れていることがある。ささげる相手を忘れているのです。神がおられることを忘れているのです。まことの神を忘却しているのです。

 私たちのために主イエス・キリストは御自分の体をささげてくださり、御自身の肉を裂き、血を流してくださったのです。そのことを信じる私たちは神に、隣人に自分のからだをささげるのです。自分が今まで手放さないで持っていた宝のようなお金をささげるのです。

 輝く星が、主イエスがお生まれになった場所に止まり、この場所が待ち望んだ救い主、メシアがお生まれになったところであることがわかった時に、星占い師たちは心の底から喜びに溢れたのです。長い間、待ち望んでいた救い主、メシアにお会いすることができるのです。そして星占い師たちは自分の持っている宝を差し出し、主イエスにささげるのです。

 ある人はこの宝とは、星を占うための道具であったのではないか、と解説しています。最近、書かれた新しい註解書に「宝の箱」とありますが、これは実はリュックサックであり、いつも旅に出て歩く時に、いつも肌身離さず着けているような袋であったのではないか、と書いています。そしてその中に入っているこの「黄金、乳香、没薬」と言うのは、「宝」と言うよりは、この星占い師たちの大切な商売道具であったと言われています。

 この中の「没薬」と言うのは、どのようなものなのでしょうか。星占い師が、病気の癒しを頼まれるとまじないをする、そのまじないを書く時に、この没薬を入れたインクを使って書いた、とある註解書でその人は解説しています。

 この星占い師は、自分の生活を支えてきた大切な商売道具を主イエス・キリストにささげてしまったのです。彼らは自分たちの間違いを認めたのです。ここで星占いを捨てたのです。だからこそ、いつも今まで肌身離さず持っていて商売道具にしていた、その生活の手だてを、皆、幼な子主イエス・キリストの前にささげてしまったのです。そしてそれは自分の生活を支えてきたものまでもささげたことになります。
 
 「クリスマス」と言う言葉は「キリスト」と「マス」と言う言葉が一つとなった合成語です。「マス」と言う言葉は「礼拝」と言う意味です。「クリスマス」、この言葉の意味は「キリスト礼拝」です。この星占い師は、この時に、キリストを礼拝したのです。まさしく、クリスマスを経験したのです。主イエス・キリストを礼拝する、それはまことに激しいものです。今までの生活を捨てて、一切をキリストにささげるからです。

 この星占い師たちは、ヘロデ王のところに救い主がお生まれになった場所を知らせることなく、別の道を通って帰って行ったのです。ヘロデ王は、この地方を支配している権力者です。しかし、星占い師たちはこのヘロデを王とはしないのです。別の王を王としたのです。

その王は主イエス・キリストです。このキリストこそ、私たちの王です。この救い主のために私たちはささげるのです。


20161218 主日礼拝説教  「神は我らと共に」  山ノ下恭二



(イザヤ書53章11節、マタイによる福音書1章18−25節)
 
 本日は、待降節第四主日の礼拝です。この礼拝堂に四本のロウソクに灯りが灯りました。聖書のみことばに耳を傾けて、主イエス・キリストの御降誕の意味を深く心に受け留めたいと思います。

 マタイによる福音書が伝える主イエスの誕生の物語には、主イエスが誕生する以前のことが詳しく書かれています。本日、この礼拝で読んだマタイによる福音書1章18−25節には主イエスのことやマリアのことは書かれていません。ヨセフのことが書かれています。福音書の中でヨセフについて詳しく書いてあるのはこのところだけです。ここにはヨセフだけに大きな光を当てており、ヨセフに対して主の天使が語りかけているのです。
 
 ヨセフは深い悩みを抱えていました。その悩みは簡単に解決できることではありません。自分の将来、また婚約者マリア、そして生まれてくる子どもの将来にも関わる、重大なことを悩んでいました。ヨセフとマリアとは婚約していました。結婚の約束をしていたのです。何事も起こらなければ、そのまま夫婦として暮らすことができました。しかし、マリアが妊娠したことが分かって、ヨセフはマリアと別れようと決心していました。この当時、婚約は結婚と等しいほどの重い意味を持っていました。特に男性と既に婚約していた女性が他の男性と性的な交渉をもったことが分かると、それは結婚した妻の姦淫と同じ罪になり、石で打たれて殺されてもやむを得ないと理解されていました。
 
 ヨセフはマリアが他の男と交わったと言うことは断じてないと思っていましたが、事実、妊娠していることは確かなことです。ヨセフはとても悩んだのです。この問題を抱えてどのように解決したら良いのか、考え込んでいました。

 ヨセフは「正しい人」であり、神に対して、マリアに対して正しく解決したいと願っていました。どのような方法で解決すれば、神に対して真実なあり方になるのか、またマリアに対してマリアを傷つけないで、マリアを生かすにはどうしたら良いのか、解決の道を求めていたのです。ヨセフは「正しい人」でした。ヨセフは何よりも自分のことを考えず、自分の思いを優先してはいません。

 ヨセフは自分の立場がなくなった、夫婦になれないのはマリアのせいだ、とマリアを責めることはしないで、神に対して真実を貫き、マリアがこれから生活できるようにするためにどうしたら良いのかを考えたのです。ヨセフは悩んだ末に心に決めたのです。1章19節には「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と語られています。「マリアのことを表ざたにするのを望まず」と言う言葉を一番、新しい翻訳では「彼女を晒し者にしたくなかった」と訳しています。それだけヨセフは、マリアを愛して大切にしているのでしょう。

 私たちが悩んでいることで、いつも心にかかっていることは家族のことではないかと思います。夫のこと、妻のこと、子どものこと、そしてその将来について心配することが多く、そのことが深い悩みになるのです。
 
 この時、ヨセフは一つの危機に直面していました。「危機」を英語ではクライシスと言います。このクライシスと言う言葉は元々、ギリシャ語のクリシスと言う言葉です。このクリシスとは「分かれ道」のことです。右に行くのか、左に行くのか、その分かれ道の前で、迷っているのです。私たちがどの道を行くのか迷って、右に行くことを選んで、歩いていて途中で間違ったと思えば、引き返すことができますが、人生においては、一度、選んだ道は引き返すことも取り戻すこともできないのです。
 
 私は北朝鮮に拉致されて帰国した蓮池薫さんが出版した「拉致と決断」という本を読んだことがあります。この本を読んで自分が知らなかったことが多かったことに気づかされました。蓮池薫さんは北朝鮮から帰国しましたが、北朝鮮の指導部からは、これは一時帰国であり、必ず北朝鮮に帰らなければならないと教えられていたのです。北朝鮮には蓮池薫さんの二人の子どもがいるのです。日本に滞在している間、北朝鮮に帰るべきか、それともこのまま日本にずうっと居続けるべきなのか、とても悩んだ、と書いてあります。

 北朝鮮に帰ると子ども一緒に暮らすことができる、しかし、一度日本に帰ったのだからと言って永久に日本には戻れない、それはやりきれない。そうかと言って日本に居続ければ、子どもたちは返してくれないで、子どもとは一生、生きたまま分かれたままになってしまう、それも辛い、どうしたら良いのか、このことでかなり悩んだと書いてありました。悩んだ末に出した結論は、自分たちを日本に帰して、蓮池さんの子どもたちを帰さないでいるのは、多くの国から北朝鮮が非難されることは予想され、それは今後のことを考えて、北朝鮮は得策ではないと判断して、子どもたちを帰国させるだろうと判断し、決断して、蓮池さんは北朝鮮に帰らなかったと書いてありました。蓮池さんにとってこの問題が一つの危機、分かれ道でした。このことを蓮池薫さんは独りで判断して決断したのです。この決断に至るまで、深く悩んだのです。 

 ヨセフはこの時、人生の危機に直面し、分かれ道に立っていたのです。簡単に解決できるものではないのです。悩んでいたのは一晩だけではないのです。夜も眠れず、ヨセフは苦しんだのではないかと思います。しかもその苦しみをどんなに親しい人であっても、自分の友人や両親であっても、打ち明けるわけにはいかないのです。自分が最も愛を傾けているマリアにも、もちろん言うわけにはいかないのです。本当ならば、苦しみを分かち合ってもらえるはずのマリアにも訴えることができぬままに、マリアのことで思い悩んでしまうのです。

 いじめを受けている少年が、親にも友達にもその苦しみを話せないで自殺してしまうことがあります。このように誰の目にも留まらない、このヨセフのひそかな悩みの中にクリスマスの物語が始まっているのです。私たちも深い悩みを抱えています。その悩みを解決したいと願っているのです。
 
 森有正と言う哲学者がいました。森有正先生は私が東京神学大学大学の学生の時に、隣の国際キリスト教大学の客員教授でした。大学紛争が終わって、1972年に、ICUの構内にある大学の小さなチャペルで日曜日の夜に夕礼拝があり、森有正氏が連続して講演をするというので聞きに行ったことがあります。「アブラハムの生涯」と言う5回の講演でした。その講演で心に残った言葉があり、今でもよく覚えています。こういう言葉です。「人間というものは、どうしてもひとに知らせることができない心の一隅をもっている。自分には、秘密の考えがあり、ひそかな欲望もある。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。そこでしか人間は神に会うことができない。」
 
 こころの最も深いところでヨセフは神と出会うのです。深い悩みの中でヨセフは神の言葉を聞きます。ヨセフは夢の中で、主の使いが現れたのです。私たちは夢を見ます。私たちの意識の中で深く隠されたことが夢に現れたのです。それは皆さんも経験することです。昼間、活動している時になにげなく心配していることが夢に現れます。自分にとっては何でもないことのように思ったことでも、自分の意識の深いところで心にかかっていることが夢に現れるのです。

 ヨセフは深く悩んでいた時に、夢の中で語りかけるなかでこそ、その悩みに深く同情して、主の天使の声が聞こえてくるのです。一番、深く悩んで苦しんでいる時に、神は語りかけるのです。どうしたら良いのか、分からなくて苦しんでいる時に、神は親しく寄り添い、助けを与えて下さるのです。
 
 1章20節「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」

 ヨセフが一所懸命に考えて、これが最善の解決方法であると思っていたことを神はくつがえし、全く思いも寄らない、意外なことをここでヨセフは聞いたのです。マリアのお腹の中にいる胎児は、聖霊によってみごもったということを聞いて、ヨセフはとても驚いたに違いないのです。マリアの妊娠は神が深く関わり、神の業として受け止めなければならないことを知ったのです。そしてこの子の名前をイエスと名付けることを命じられたのです。その名前の意味は「自分の民を罪から救う」と言う意味であることを聞いてヨセフはどんな思いで聞いたのでしょうか。ヨセフは、天使が語る言葉を聞くまで、自分が何とか、解決しなければならないと考えて一番、良いと思った結論を出したと思っていました。
 
 しかし、神がヨセフに示されたことは、生まれてくる子がすべての人々の救いに関わる特別な意味を持っている子であると言うことです。ヨセフはマリアに対して罪を犯さないように、そしてマリアの罪をかばおうとしていたのです。

 しかし、これから生まれてくる子は、ヨセフとマリアという自分たちのことのみを問題にしているのではなくて、ユダヤの民、神の民が宿してきたもろもろの罪、それは、ヨセフの罪をも含むものですが、もろもろの罪から救う者として、マリアに子が生まれるのです。そして神はヨセフにこれから生まれてくる子どもを自分の子どもとして認めなさい、と語っています。このイエスは、神があなたに与えた子、大工ヨセフの子となるべきもの、イエスと名付けて自分の子として迎え入れなさい、そのように、天の使いはヨセフに告げたのです。

 ヨセフが最も悩み、苦しんでいた時に、神はヨセフに寄り添って、神が最も善い解決を示されたのです。ヨセフは神が語られた言葉を信頼して神が示されたことに従ったのです。そしてここでヨセフは自分の立場と役割とをしっかりと認識したのです。これから生まれてくる子が罪からすべての人々を救う神の子であることを知らされて、ヨセフは自分がどのような立場にいるのかをはっきり示されたのです。ヨセフは自分が神の救いの計画の中に自分が参加させられていることを知ったのです。これから生まれる子が、すべての罪を贖う救い主であることを知らされて、ヨセフは自分の役割を知ることができたのです。神が計画し、神が企てようとしている神の救いに自分が参加し、父親として主イエスを育てる、そのような大切な働きをすることを知らされたのです。自分の小さな世界から、神が支配する大きな世界に自分が招かれて、自分の役割を知らされたのです。
 
 ここでヨセフは生まれてくる子どもの名前を「イエス」と名付けるようにと天の使いによって知らされただけではなく、この「イエス」が、救い主としてどのような仕方で私たちに関わるのか、を天の使いから教えられるのです。

 1章23節に「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」と語られています。この言葉は旧約聖書のイザヤ書7章14節からの引用です。
 
 預言者イザヤがこの言葉を神から預言として受け取った時代は、ユダ王国は政治的に危機的な時代でした。大国アッシリアの圧力に苦しんでいた、シリアと北イスラエルが同盟とが結んで、アッシリアに対抗して戦争をすることを企てていました。そして両国は南ユダ王国に同盟に参加してアッシリアと戦争することを迫り、それを拒否するとシリアと北イスラエルとは軍事力をもって攻めてきたのです。アハズ王の時にシリアと北イスラエルとが攻めてきて、都エルサレムが陥落する危機に見舞われ、何もかも駄目で望みを失って目の前が真っ暗な時に、イザヤはこのインマヌエルの預言の言葉が与えられるのです。イザヤ書7章14節「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」国が滅びる、その絶望と思われる中で、この歴史を支配している神が共にいる、大丈夫だ、気落ちしてはいけない、と語るのです。自分の国が滅びると言う危機的な状況の中から、神の支配がもたらされ、王が誕生することが語られているのです。

 「インマヌエル」この言葉を初めて聞いた方もいらっしゃると思います。「インマヌエル」この言葉の意味は「神が私たちと共に」と言う言葉です。この言葉を調べて見ると「インマヌ−」と言う言葉と「エル」と言う言葉が合わさった言葉です。「インマヌ−」と言う言葉が先にあって、その後に「エル」と言う言葉があります。「インマヌ−」「私たちと共に」と言う言葉があって、「エル」「神が」と続くのです。

 神は私たちと共におられる、このことを聞くと、いつも近くに神がおられる、と思います。しかし、神は遠いところにおられても、私たちの近くにおられるのです。このことは不思議なことです。遠いところにいると、遠くにいる人は分かりません。しかし、遠くにいながら、わたしたちのことが手に取るように分かるのです。神は超越しながら、しかし、私たちの中にいるのです。隠されていることを明るみに出す方なのです。詩編139編1−2節「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」私たち自身よりももっと近くで私たちを知っていてくださるのです。

 神が遠いところにいると言うのではない。神は自分の外に出て、肉体を取り、主イエスと言う人間になって私たちと同じ者になられたのです。私たちの最も近いところにおられるのです。

「神の永遠の御子が、聖霊の働きにより、マリアより真の人間となられた。罪をほかにしてはすべてのことにおいて、私たちと同じ者になられたのである。」

 神は向こう側にいて、私たちを見て評価し、監視している神ではないのです。いつも私たちの側にいて、私たちの味方になってくださるのです。私たちのために罪を背負い、贖い、十字架に付き、復活して、私たちのための主となってくださるのです。私たちを裁き、私たちの罪、落ち度、欠点を指摘し、責める方ではなく、私たちの罪を赦し、私たちの重荷を背負い、私たちの嘆きや悩みを聴き取り、私たちを愛して下さる方なのです。私たちが深く悩み、苦しんでいる時に、神は共に悩み、苦しんでくださいます。私たちが嘆く時に、その嘆きの声を耳を澄まして聞くだけでなくて、その嘆きを自分のものとして嘆いてくださるのです。
 
 このマタイによる福音書は、インマヌエルと言う意味で始まり、インマヌエルと言う言葉で終わっています。1章で主イエスがインマヌエルと言う意味をもった神の子であり、マタイによる福音書28章の最後の言葉20節には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言う言葉で終わっています。 
 
 インマヌエル、はじめから終わりまでどのような時にも神は私たちと共にいてくださるのです。主イエスが私たちの救いのために肉を裂き、血を流してくださって、私たちを愛されました。その愛の神はいつも必ず共にいてくださるのです。私たちがどれほど苦しい時も、深い悩みを経験する時にも、私たちを励まし、言葉をかけてくださいます。インマヌエル、「私たちと共に」「神が」、神が必ず、私たちと共にいてくださることを私たちは信頼して行くのです。そこには恐れはないのです。



20161211  主日礼拝説教  「主イエスは我らの仲間」   山ノ下恭二



(創世記12・1−4、マタイによる福音書1・1−17)

 待降節第三主日礼拝を迎え、三本のロウソクに灯りが点りました。この時に、主イエス・キリストがお生まれになったことの意味を心深く受け留めたいのです。

 皆さんの中にも御覧になっている方がおられると思いますが、NHKで木曜日の夜に「ファミリーヒストリー」という番組が放映されています。役者やスポーツ選手、タレントの先祖がどのような歩みをしてきたのかを番組スタッフが調査して再現ドラマに仕立てている番組です。三代、四代前の先祖の歴史については、ドラマを見せられるまで、当人たちは何も知らないのです。

 その番組に登場する人々の先祖には由緒正しい家柄の人もいれば、庶民の人もいます。かつてはその地方では位の高い人が先祖にいたことが分かったり、鹿児島の出身の人が奄美大島で大きな働きをしたとか、そういうことが分かってきます。そういう先祖たちの歩みを映像で見せられた人は、一様に目に涙を浮かべて先祖の苦労に思いを馳せ、今生きている自分が何者であるか、これからどのように生きて行かなければならないかを深く考えるきっかけになるのです。

 聖書を読みたいと思っている人は多いのです。新約聖書を読もうと思って、新約聖書を開き、最初に目にするのがマタイによる福音書第1章です。ここには主イエスの系図が書かれています。初めて新約聖書を読む人にとって、自分の知らない外国の人々の名前が書かれているので、最初のところで聖書を読むのが嫌になって読むのを止めてしまう人も多いのです。読みたいと思って新約聖書を開いたのは良いのですが、知らない外国人がたくさん出てくるので、出鼻をくじかれてしまうのです。
 
 知らない外国人の名前が出てくるのも抵抗がありますが、系図が書かれていることに反発を持つ人も多いのです。系図をもちだすことは自分の先祖は名門であり、自分がただ者ではないことを知らせたいという隠れた動機があります。

 ある時、ある人から家系図を見せてもらったことがありますが、自分の先祖がその地方の藩の家老で名門であることを自慢して話すので、余り良い印象を持たなかったのです。横浜指路教会で36年間、牧師として仕えた毛利官治という牧師がいました。この人は戦国大名、毛利輝元の従兄弟の16代目にあたる人です。この牧師は、武士のような雰囲気をもっていた人であったと言われています。毛利官治牧師が16代目とわかるのであるから、家系図をもっていたに違いないのです。                   
 
 マタイによる福音書はなぜ、主イエスの系図から書き始めたのでしょうか。マルコによる福音書は主イエス・キリストが30歳になって洗礼を受けて活動を始めたことから書いています。主イエスの系図から書き始めてはいません。ヨハネによる福音書では、主イエス・キリストが地上に来られたことを意味深い言葉で書き始めています。ヨハネによる福音書も主イエスの系図から書き始めていません。福音書記者マタイはなぜ、主イエスの系図から書き始めたのかと言うことです。

 私たちにとって自分の血筋がどのようなものかを問うことは少ないのです。しかし、自分がどのようなものであり、どこから来ているのか、自分の本当の故郷がどこにあるのか、ということは考えるのです。一人の人が生きるということは、その人が初めて生き始めたわけではないのです。親がおり、祖父母がいます。教会でも家族・親戚の中で自分が初めてのキリスト者である人もいますが、また2代目、3代目、4代目のキリスト者もいます。それらの人々は自分で決心して教会に行くようになったのではなく、親に連れられて教会に通うようになったのですが、祖父母の信仰、両親の信仰を見ながら、それによって育てられている人もいます。そのような信仰の血統、継承によって、今の自分があるのです。そして自分の信仰のル−ツが祖父母や両親の信仰にあると思う人もいます。      

 聖書は、ここで主イエス・キリストの系図を語ります。それは主イエスの父ヨセフの先祖がどのような人であったか、また先祖がどんなに優れていたかを語るためではありません。主イエス・キリストがどのような人であるかを語る時に必要であるからです。この系図を読んでいくと、カタカナの名前が並んでいますが、かなりの人の名前が旧約聖書に登場を致します。このところを註解している研究者、誰でもが指摘していることがあります。それは女性の名前が四回も登場することです。                                  
 女性の名前が出て来るのです。マタイ1章3節「ユダはタマルによって」このタマルは女性です。1章5節に「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを」と書かれています。ラハブとルツという二人の女性が出てきます。1章6節では「ダビデはウリヤの妻によって」と書かれています。ウリヤの妻とはベト・シェバです。

 この四人の女性が出てくること自体、当時のユダヤ人にとっては、驚くべきことです。それは、ユダヤ人が自分の血統を語る時に、その血筋は男性が作るものであり、女性が作るものではなかったのです。日本でも男性の血が絶えないように、男性の血がどのように続いているかを系図に書いています。ユダヤ人も同じで、ユダヤ人にとっては、妻、女性というのは自分たちの血筋を作っていくために必要な存在でしかなかったのです。しかし、ここでは女性が登場しております。そしてこの女性たちはどのような女性であったのかでしょうか。旧約聖書の中の女性と言えば、第一にあげられるのはアブラハムの妻、サラです。調べてみると、ペトロの手紙1では、旧約聖書での模範的な女性たちの最初にサラの名前があります。しかし、ここにはサラは出てこないのです。

 最初に登場する女性タマルは、特別に立派な信仰を持った女性ではないのです。タマルにとってユダとは、夫の父であり、自分には子どもがなく、タマルは遊女になりすまして、その道を通りかかった自分の舅に自分の体を売ったのです。ラハブと言うのは、ヨシュア記に出てくる遊女であり、ユダヤ人ではないのです。ルツというのは、ルツ記の中心人物であるけれども、ユダヤ人ではなく、モアブ人です。モアブの人をユダヤ人は最も嫌っていたのです。申命記には、モアブの人がユダヤ人の仲間になりたいと願いましたが、ユダヤ人と共に礼拝することができるためには、10代後にしかできなかったことが記されています。10世代繰り返してユダヤ人と結婚していくことによって、モアブの血が薄められていき、モアブ人の血が残らなくなった時に、礼拝を共にすることができたのです。
 
 ウリヤの妻は、ダビデの家来であったウリヤの妻ベト・シェバでした。ダビデの王の権力によって強制的に妻とさせられました。しかし、この人は、自分の夫をわざと厳しい戦場に送り込んで殺した王の妻におさまり、そしてソロモンを産んだのです。このように見てくると、ここに登場する女性たちは、いずれも神の子イエス・キリストの系図に出てくるにはふさわしいとは言えない人たちばかりです。                              
 この系図を注意して読むと引っかかるところがあります。1章6節後半です。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書いてあります。このバト・シェバは「ウリヤの妻」であって、ダビデの妻とは書かれていません。ダビデがもしこの系図を見たら怒るに違いないのです。ダビデの妻と書き直せと言うに違いないのです。しかし、マタイは、バト・シェバはあなたの妻ではなかった、と言いたいのです。別の男、ウリヤの妻であったが、ダビデ、あなたが奪ったのだと言いたいのです。女性の罪がこの系図に現れているだけではないのです。異邦の女性の血が混じっているから、この系図が汚れていると言われるかも知れません。男も罪を犯しているのです。ダビデ王と言うのは優れた英雄ですが、しかし、罪を犯した一人の人間として登場しているのです。ダビデは、主イエスがどんなに立派であったかを証明するような者として登場するのではなくて、罪人の代表として、その名が記録されているのです。

 ダビデが主イエスの系図の真ん中に登場することは注目すべきことです。この系図には、ダビデ王以降の王が登場するけれども、これらの王が立派な王であったかと言うとそうではないのです。これらの王はまことの神を礼拝し、良い政治を行ったか、と言うとそうではないのです。歴代の王たちが、偶像に心を傾け、偶像礼拝をし続けてきました。そしてマタイ1章12節では、バビロンに移されていく王が、王ではなくなってバビロンに連れて行かれて、そこまで落ちていくのです。

 1章12節以下に出てくる人の名前は、歴史の中に登場しない無名な人々であり、王家の血筋は無名な者に落ちていくのです。そこで生まれたヨセフは、ナザレの大工であったと言われています。王の子孫が大工になったのです。大工の仕事は王家の血筋に生きる者がする仕事ではないのです。そのヨセフの子として、イエスが生まれたのです。

 自分の系図について話そうとする人は、その系図のなかに、著名人がおり、名門の人がいると自慢したいし、自分がその系列に立っていることを誇りたいのです。しかし、マタイによる福音書は、そのような考えや思いに反することを語っています。マタイが主イエスの系図を書いたのは、主イエスの父親の先祖に王家の名門の出であることを証明しようとして、名前を書き並べて、事実と違うことを創作して書いたのではないのです。

 とても大切なことがあります。それは主イエスにとってヨセフは本当の父親ではないのです。マタイによる福音書1章18節以下に主イエスの誕生の次第が書いてあります。主イエスは聖霊によって母マリアからお生まれになったのです。主イエスとヨセフとはつながっていなのです。この系図はヨセフの系図ではありますが、主イエスの系図ではありません。ヨセフから主イエスに血筋はつながっておらず、切断されているのです。ここに、大切な点があります。                   
 この系図に登場するのは女性にしても王にしても、深い罪の中に生きてきた人たちです。その血筋の中に、主イエスが入り込むのです。罪深い人々のところに主イエスは雲を貫いて天から降り、この地上に来て入り込んでくださったのです。この系図、それは有名な人もいるけれども、人に自慢できる人はいないのです。

 人間としての破れ、挫折、嘆き、人間としての弱さ、苦しみ、そのようなものを背負っている人々の真ん中に主イエスはお生まれになったのです。

 私の今までの経験から、家系や系図について話をする人は、自分の血筋には有名な人がおり、自分の身内には地位の高い人がいることを自慢することがほとんどであったので、自分の系図を話すことは良いことだとは思わなかったのです。従って、マタイがわざわざ、主イエスの系図を書いたことに好意的ではなかったのです。

 しかし、この主イエスの系図は意味が全く違うのです。深い罪をもった人々の中に主イエスが入り込んでくださったのです。主イエス御自身は、全く罪のない清い方です。しかし、全く罪がない清い方であるにも拘わらず、私たちの罪のために、私たちの罪を贖うために、私たちの仲間になってくださったのです。

 この「系図」と言う言葉は「出来事」「物語」とも訳すことができます。1章1節を訳し直すと「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの物語」となります。ダビデという優れた王家の血筋を引いていても、14代、14代と重なると、誇ることもできないで隠したいような人も出てくるのです。

 多くの人々が歩んできた罪の歴史のただ中に、主イエスが入り込んでくださったのです。主イエスの御生涯の一こま一こまを見ると、イエス・キリストが汚れている者、罪ある者を迎え入れてくださっているのです。

 マタイによる福音書9章に徴税人マタイが主イエスによって弟子に選ばれています。そして主イエスが徴税人や罪人たちと一緒に食事をしているのを見て、ファリサイ派の人々が批判を始めたのです。このファリサイ派の人々に対して「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく、病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9章12−13 p15)と語っています。
 
 当時、ユダヤはロ−マの支配下にあり、ロ−マが税金を取り立てるのに、ユダヤ人の徴税人を使ったのです。外国のために、ユダヤ人である徴税人が自分の同胞から税金を取り立てていたのです。しかも、しばしば定められた税金以上の金額を同胞から取り立てて、自分の懐に入れることをしていました。そのようなことをしていたために、徴税人は誰からも憎まれていました。悪者の中の悪者と主イエスが食事をしている、そのことをファリサイ派の人々が批判して、主イエスにその答えを求めたのです。

 主イエスは旧約聖書のホセア書6章6節を引用して、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言い、この言葉の意味を学びなさい、と答えたのです。ホセア書は預言書です。ホセアはゴメルと言う女性と結婚しました。最初の子どもにイズレエルと言う名前を付けました。この名前は、非常に凄惨な流血の惨事を思い起こさせる土地の名前です。二番目の子どもはロルハマーと言う名前で、「愛されないもの、あわれまれないもの」と言う意味の名前です。三番目は、ロアンミと言う名前です。この名前は「わたしの民ではない、わたしの子ではない」と言う意味の名前です。他の男と関係をもっている妻と、他の男との間に生まれた子どもを自分が引き受けるのです。赦すことのできない妻を受け入れ、赦すのです。罪ある者を自分でその泥をひっかぶり、罪なき者のようにこの妻を受け止めるのです。ホセアのゴメルに対する態度、それを「憐れみ」と言う言葉で語るのです。
 神が人に求めるものは、いけにえではなく、信じる者にこのあわれみ(ヘセド)を求められるのです。

 主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と語るのです。罪人であればこそ、その罪をいやす方、その罪を贖う方、その方を必要としているのです。わたしはそのために神から派遣されたのであり、罪人や徴税人と食事を共にするのは当然のことではないか、と言うのです。罪人を招くために来た、と言われるのです。罪を犯した、ひどい女性の名前が主イエスの系図に載っているのは何ら不思議ではないのです。

 主イエスは罪人の仲間になったのです。この福音書の初めに、マタイは、主イエスの系図を示すことによって、語り始めています。それは何故でしょうか。それは、罪を赦す神の愛の物語を語ろうとしたからです。この系図は神の愛を語るために必要であったのです。

 私たちの汚れ、破れ、深い罪、その罪の歴史そのものを主イエス自ら、背負ってくださったことを示そうとしてこの系図を記したのです。



20161204 主日礼拝説教 「希望をもって今を生きる」  山ノ下恭二



(イザヤ書21章11−12節、ロ−マの信徒への手紙13章11−14節)

 本日の礼拝は、アドヴェント第二主日礼拝です。二本のろうそくに火が灯りました。主イエス・キリストの御降誕を待ち望む待降の時を共に礼拝をしています。本日の礼拝でロ−マの信徒への手紙13章11−14節のみことばを読みました。13章11節には「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」と語られています。「時」と言う言葉を聞いた時に、私たちは時計が刻んでいる時を思うのではないでしょうか。私たちは時計が刻む時間を知っています。今が何時何分であることを気にしながら過ごしています。私たちは、毎日、時間に追われながら生きているのです。時計を見ながら生活し、その時に合わせて生活しています。時計を見て、今、起きなければいけないと思い、今は午前10時で自分の仕事を午後3時までにしあげないといけないと思う、今は、昼食の時だ、さあご飯を食べよう、もう7時過ぎだ、家に帰らなければ、と思うのです。時を知り、その時にふさわしく生活しているのです。

 この場合、用いられている「時」は、時計が刻む時間のことです。時計のことをクロックと言いますが、この言葉は元々、ギリシャ語のクロノスと言う言葉です。この時計の時間を表すクロノスと言う言葉は聖書ではほとんど使ってはいません。
 
 「あなたがたは今はどんな時であるかを知っています。」この「時」は時計が刻む時間を表す「クロノス」と言う言葉とは別な言葉を使っています。「カイロス」と言う言葉です。この言葉の意味は「神が持っている時」のことです。神に属している時間のことを意味しています。

 本日の聖書テキストについて書いてある説教黙想を読んでいましたら、ある神学者が書いた黙想に「時の贈り物」と言う言葉が書いてありました。「神がわれわれに時を贈り物としてくださる」と書いてあるのです。私たちは、神から時をプレゼントしていただいているのです。「時」は自分のものではなく、「時」は神のもので、神が時を贈り物として私たちに与えてくださっているのです。そのような感覚を私たちは持っていないのです。私たちは、時と言うのは自分のもので、自分が自由に時間を使って良いと思っていますが、そうではないのです。神が時間を持ち、神が時を定めるのです。神が時間の主であり、神が時間を持っているのです。
 
 そしてこの「カイロス」と言う言葉は、神が最も良い時に決断して、その御業をなさる、と言う意味を持っています。神が特別に時を定めて、その御業をなさり、神がご自身で判断して最もふさわしい時に、その働きをなさっているのです。

 主イエス・キリストがお生まれになった時も、それは、たまたまお生まれになったと言うのではなく、神ご自身が判断されて誕生させたのです。そして主イエス・キリストがガリラヤ地方で伝道を始められた時に、「時は満ちた。神の国は近づいた。」と語り始められたのです。この「時が満ちた。」この「時」と言う言葉もカイロスと言う言葉です。神の救いの業が始められる時です。その時が今であり、イエス・キリストが説教と業によって、神の国、神の支配を指し示そうとするのです。

 「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」このロ−マの信徒への手紙は、ロ−マの教会の信徒に宛てて書かれ、洗礼を受けて、教会生活をしている人々が聞いている説教でした。洗礼を受けて、キリスト者になった者は「時を知っている」「今がどんな時か知っている」と言うのです。私たちは時計が刻む時をもちろん知っていますが、もう一つの別の神の時間を知り、神との関わりにおいて生きる時を知っているのです。今がどんな時であるかをわきまえていると言うのです。それはどんな時なのでしょうか。

 11節後半に「あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ています。今や、わたしたちが信仰に入った時よりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」と語られています。いつも私たちは、神が贈ってくださった時に心を留めて生活をするのです。神に教えていただいた時間をわきまえて生きるのです。  

 「今がどんな時であるかを知っています。」この時は、終末の時、審判の時です。イエス・キリストが再臨される時です。この終わりの時に向かって、私たちは生きているのです。終末、再臨、と言ってもピンと来ないかも知れないのです。この再臨の時はいつ来るのか、私たちには分からないのです。信頼して待つだけです。何時、イエス・キリストが来られるのか、分からないからと言って、主イエス・キリストを忘れて、自分が好きなことをして暮らしなさいとは言ってはいません。その時は誰も知らないけれども、時は迫っているのだから、いつ再臨の主が来てもよいようなあり方をしていなさい、と言うのです。キリストが来られることを心に留めて、今日と言う日を過ごすようにと勧められています。

 ロ−マの教会にも、コリントの教会にも、再臨の主が自分たちの生活に対して審判することを全く考えないでいたキリスト者が大勢いたようです。キリストの審判そのものを否定していた人たちがいたのです。魂は神に結びついていると考え、魂と肉体とは別であり、魂と切り離されて肉体があり、快楽を求めて、肉体を喜ばせることは良いと考えていたのです。神を礼拝している時には、魂が働いている、礼拝が終わると、魂と切り離された肉体が働き、肉体の欲求を求めて、売春宿に通って買春をしていたのです。この地上で楽しく愉快に暮らせば良いと考えていたのです。コリントの信徒への手紙一には次のような言葉があります。この当時、教会で信徒たちがよく話していた言葉をパウロは紹介しているのです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか。」〈コリント1 15章32〉と語られています。今、楽しければ良い、刹那的にこの世の生活を愉快に、その時を暮らせば良い、とその人々は公然と語っていたのです。

 しかし、「あなたがたは眠りから覚める時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているのです。夜は更け、日は近づいた。」闇に覆われていた夜が終わり、明るい朝が来ているのです。目を覚まして、起きる時なのです。朝の光が、少しずつ闇を明るくしていくのです。

 主イエス・キリストの御降誕は、主イエスが光として私たちのところに来られたのです。罪と言う闇から私たちを解放し、明るい光の中に置いてくださったのです。神から離れて、自分のために生きている、その罪から解放するために、主イエス・キリストが罪を贖ってくださり、私たちが神と共に生きる者となったのです。そして、キリストが再び来て下さるのです。

 主イエス・キリストが降誕された時のことを第一の到来、来臨と言います。再びイエス・キリストが来られる時のことを第二の到来、再臨と言います。第一の到来の時と、第二の到来の時との間にあって、私たちは地上の生活を営んでいるのです。地上で生まれて死ぬ、その間にどのように生きて行くのか、と言うことではありません。キリストがいつ来られても、迎えることができるような生活をするように、パウロは私たちの生活のスタイルについて具体的に勧めているのです。洗礼を受けて、キリストと共に生きる生活は、生活のスタイルが変わって来るのです。
 
 14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい。」と語ります。口語訳では、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」と訳されています。このキリストを着るところに生まれる生き方を、パウロは13節で「日中を歩むように、品位をもって歩もう」と言います。この「品位」と言う言葉は「良い形をもって」と言う意味の言葉なのです。品位ある生き方と言うのは具体的に言うと「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨てる」ことだと語られています。
 
 「品位をもって」と言う言葉は「良い形をもって」と言う意味の言葉です。「良い形」と言うのは「神の形に造られている」と言うことです。「神に向き合っている」「神と正常な関係を持っている」と言う意味です。しかし、神に背いているので、その形が壊れてしまっているのです。それを主イエス・キリストの贖いによって元の形を回復することができ、神との交わりを回復することができたのです。ところが、神との交わりを回復したにもかかわらず、それにふさわしく生活をしていないのです。「品位をもって歩もうではありませんか。」と勧めて、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」と語るのです。
 
 ここで「酒宴と酩酊、淫乱と好色」という言葉が出て来ます。普通、わたしたちは、酒を飲んで酔っ払うとその人の本当の姿が見えたと思います。酒の席いて、一緒に飲まなかったりすると、とりすましていないで、一緒に飲めと言われます。お酒を飲んで本当の自分を見せたら良いと言われるのです。淫乱とか好色もそうでしょう。そこに本当の自分があると考えるのです。それは人間だからと言うのです。人間は神の形に造られた尊い存在です。酒に酔って酩酊しているのが本当の自分の姿ではないのです。人間らしくと言うのは人間が失敗したり、お酒を飲んでいると言うことではないのです。酒宴や酩酊、淫乱と好色、そういうものの中で生きるのが人間らしいことだと言う思いがあります。そういう考えの中に、わたしたちを引きずり込もうとする力があるのです。

 それをパウロはここで、「肉」と言う言葉で言い表しています。「肉」と言うのは、私たち人間の中にあって、私たちを神に逆らわせる力です。そういう肉の力が、私たちの中で働いているのです。あるいは、外から私たちに働きかけてくるのです。そして私たちが救われたものにふさわしく、品位をもって生きることを妨げようとしているのです。キリスト者でお酒を飲むことによって、失敗した人は多いのです。お酒のことで仕事と地位を失った人も多いのです。

 14節に「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」と語られています。この「心を用いる」というのは、前もって備えをしておく、という意味です。神に逆らう力が、自分の欲望を満足させようとする時に、そのために前もって備えをしてやるようなことをしてはならない、というのです。言い換えれば、自分の中にそういう肉の働きがあることをきちんと認識して、その手伝いをするようなことをしないように、と言うのです。
 
 13節にある、酒宴と酩酊と言う言葉を宗教改革者カルヴァンは、「食い道楽と泥酔」と訳しています。食い道楽は私たちには親しいものではないでしょうか。食べること自体が楽しくなり、それが道楽になってしまうのです。そのことをパウロは戒めているのです。ある牧師がトルコを旅行した時に、ロ−マ時代の遺跡を見学した時の話を聞いたことがあります。旅行のガイドが「当時の人たちは、宴会を開いて、食べ物をたくさん食べて、お腹が一杯になると、それを全部吐き出して、それから宴席に戻って、食べ続けた」と言う話をしたそうです。お腹を満たすために食べるのではない、食べることを楽しむために食べるのです。

 テレビで報道していますが、各地の祭りやイベントで、よく大食い競争や早食い競争をしています。最近では滋賀県でおにぎりの早食い競争が行われ、昨年、その早食い競争で優勝した28歳の若者が、5個めのおにぎりを食べたところ、おにぎりをのどに詰まらせて死んだと報道されていました。大食い、早食い競争がもてはやされている、そのこと自体が間違っています。神から与えられた大切な食物、農家の人たちが心を込めて作ったお米を感謝して大切にして戴くという感覚を失っているのです。その本来の目的に反して用いる、こういうことは、肉の働きなのだ、と言うのです。神に逆らう力が、自然なものを不自然なものに変えてしまうのです。
 
 そういうことなら、淫乱と好色も同じです。これは性的な欲求に関わることです。夫婦の間で、お互いの愛を深め、それを豊かなものにするために、そしてそれを通して新しい命の誕生という喜ばしい出来事を起こすために、神が与えてくださったものです。この目的に従って用いるならば本来良いものであるはずです。この目的を外して用いるために、淫乱と好色と呼ばれるものになってしまうのです。ただ自分の性的な欲求を満たすことだけに用いるのです。そこに肉の働きがあることを、よく認識する必要があります。

 そして、争いとねたみも同じです。「争い」を起こさせる罪が私たちにあるのです。正しいものを明らかにしたり、真実なものをはっきりさせるために、議論することがあります。そのこと自体はよいことです。しかし、人と自分を比べて、何とか自分の方が正しいのだというのを相手に見せつけてやろうと思ったり、自分の方が優れているのだ、ということを示したいと思うと、争いが生まれるのです。

 そして「ねたみ」が起こります。自分より優れていたり、他の人が良い思いをしたり、他の人が認められたり、評価されると面白くないのです。その人の足を引っ張りたくなり、自分がその人よりも上になりたいのです。このようなことが、どれほど私たちの関係を壊し、交わりを損ねることになっているか、分かりません。主導権を持つために争ったり、自分が中心でいたい、しかし、他の人が用いられている、その思いがねたみになるのです。肉の働きが、こういうものを引き起こすのです。そして、わたしたちの品位を失わせるのです。だから、こういうものを捨てようと、とパウロは語るのです。

 ではどうやって捨てるのでしょう。パウロは14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言うのです。朝、目覚めた時に起きあがります。その次にすることは、服を着ることです。朝、起きた時に服を着た時に服を着るように、キリストを着るのだ、キリストを着込んでしまえば良いのだ、と言うのです。「キリストをまとう」「キリストを着る」と言う時に、それは戦いの服装であるのです。ある人は軍服について解説しているのです。この当時、戦いに出る兵士は、自分の司令官を象徴する色の軍服を着たと言います。

 私たちは「キリスト着ている」のです。それは私たちと共にキリストがいつも一緒にいて守ってくださっているのです。キリストが私たちのために罪と戦っていてくださっているのです。

 今、どのような時であるか、あなたがたは知っている、とパウロは語ります。自分が救われたのだということを知っています。自分がすでにキリストのものであることを知っています。だから私たちは、再び来られる主イエス・キリストを待っているのです。聖霊によって、肉の力と戦いながら、私たちは主イエスを待っているのです。必ず、主イエス・キリストが来て下さるのです。その時に、私たちがこの世で、人知れず続けて来た肉の力、罪との戦いも、人を愛するために担った労苦も、希望をもって忍耐したことも、そのすべてが主イエス・キリストの御前で明らかにされます。私たちの信仰の歩みを審判してイエス・キリストがひとりひとりにこう言うのです。「あなたは、よく忍耐して、キリスト者として信仰の生活を貫いた、よくやった」とそのような言葉をかけてくださるのです。その時を待ち望みながら、今を生きるのです。

祈ります

主イエス・キリストの父なる神様。
主のご降誕を待ち望むアドベントの礼拝を教会の兄弟姉妹とともに礼拝を捧げ、あなたのみ言葉を聴くことができましたことを心から感謝いたします。

私たちはイエス・キリストをまとうことができます。イエス・キリストを着ることができます。そして私たちを守る光の武具となってくださいます。

キリストは、私は来る、と語り掛けてくださいます。あなたが望んでいる聖い生活ができますように、どうぞ精霊をもって導いてください。

私たちがあなたに心を向け、あなたのみ言葉に聴き、あなたの御心に従うことができますように導いてください。

アドベントに入り、主イエス・キリストのご降誕の意味を確かめながら、その時を過ごそうとしています。心からの賛美をもって、クリスマスを迎えることができますように。クリスマスの様々な行事をあなたが導き、良い集いとなりますように。

寒くなりました。体調を崩している兄弟姉妹、病と闘っている兄弟姉妹をあなたが励まし、健康を回復して、この礼拝に集うことができますように。礼拝に来ることができない兄弟姉妹をあなたが慰め、力づけてくださいますように。重荷をもち、困難な問題を抱えている兄弟姉妹をあなたが慰め、困難な問題を克服する力を与えてください。

これから聖餐に与かります。私たち罪が赦されるため、裂かれた肉を示すパン、流された血を表す杯をいただきます。聖餐に与かることによって、あなたの恵みに目を開かれ、感謝して過ごすことができますように。この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。 

アーメン


20161127 主日礼拝説教  「目覚めて主イエス・キリストを待つ」  山ノ下恭二



(ダニエル書12章1−4、マタイによる福音書25章1−13)

 本日の礼拝は、待降節の第一礼拝です。クリスマス・リ−スに立ててあるロウソクに一本、火が灯りました。

 待降という言葉は、キリスト教会でしか使わない言葉です。「待つ」と言う言葉と「降る」と言う言葉を一つにした言葉です。主イエス・キリストがこの地上に降って来られるのを待つ、と言う意味の言葉です。待降と言う言葉はアドベントと言う言葉です。アドベントと言う言葉はラテン語で、アドは、「向かって」、ベントは、「来る」と言う言葉を一つにした言葉です。主イエス・キリストが私たちに向かって来るのを待つ、と言うのがアドベントの意味です。主イエス・キリストが来られることを、第一の到来、第一の来臨と言います。再びイエス・キリストが王として来られることを第二の到来、第二の来臨と呼んでいます。

 人となられたイエス・キリストの第一の到来を振り返ると共に、将来、王として帰って来られるイエス・キリストを待つのです。私たちは第一の到来・クリスマスと第二の到来・終末、再臨の間に生きている者です。そのような二つの時の間を私たちは生きており、再び来られる主イエス・キリストを待っているのです。

 本日の礼拝でマタイによる福音書25章1−13節を読みました。この福音書25章には三つの譬え話が記されています。これらの譬え話を通して、豊かな神の言葉を告げようとしています。

 この25章1−13節の譬え話は、結婚式、その結婚式の披露宴の場面です。最近の結婚式や披露宴は、昔と違って、結婚する二人が自分たちの手作りの披露宴をして、形式ばったものではなく、心のこもった披露宴で、楽しい、心温まる披露宴が多いのです。ここに述べられているのは、婚宴の喜びです。花婿を花嫁の代わりにでも出迎えるのか十人のおとめが晴れ着を着て、その迎える準備をしています。それぞれともし火を用意しなければなりません。ともし火を用意しているときにも、晴れ着を着ているときにも、このおとめたちが嬉しそうに笑う明るいム−ドが伝わってくる場面です。花婿がやってきた時に、歓声をあげて出迎えに行くのです。歌を歌いながら、飛び出して行くのです。花婿を迎えて婚宴が始まるのです。

 十人のおとめの譬えは、明瞭な筋道を持っています。十人のおとめが花婿を迎える務めを与えられていました。そこで主イエス・キリストは最初にこう言われたのです。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。」(2節)この新共同訳は原文に近く翻訳しています。口語訳では「思慮が浅く、思慮深い」と翻訳していますが、「愚か」「賢い」と言う言葉が元々の言葉に近いのです。「愚かな」おとめ組と「賢い」おとめ組がいたのです。この愚かさはどこに表れたのかと言うと、ともし火は用意していましたが、油を用意していなかったのです。ともし火を絶やさないための油を用意していなかったことにあります。賢いおとめ組は、油を用意していたのです。

 この十人のおとめたちは花婿が来るのを一日中、待っていたけれども、日が暮れて夜になって夜が更けても現れないので、とうとう居眠りをしてしまったのです。夜中に「花婿が来た、さあ迎えなさい」という呼ぶ声がして一斉に飛び起きたのですが、準備ができていた賢いおとめたちはあかあかと燃えるともし火を用意することができたけれども、それに反して油の用意がなかったおとめたちは消えかかる火を手で覆うようにして、なんとかして油を分けてくださいと頼んだけれども断られてしまったのです。やっと用意ができて婚宴の席に駆けつけた時には戸が閉められていて、その婚宴の席にあずかることができなかった、そのような物語です。

 たいへん興味深いことに、「賢い」と訳されている言葉は「目を開けている」「開かれた目を持つ」という意味を持っています。最後の13節に至って「だから、目を覚ましていなさい。」と主イエスが最後の警告をしていることと深く結び付いているのです。「目を開けている」「目を覚ましている」ということがこの譬え話の鍵となる言葉であるので、深く関連しています。

 この譬え話は分かりやすいのですが、見落としているところがあります。「目を覚ましていなさい」という言葉がたいへん大切であり、「賢い」と言う言葉が「目を開けている」ということですから、賢いおとめたちは寝ないでいたか、というとそうではないのです。25章5節に「ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。」と記してあります。五人の賢いおとめも眠っていたのです。実際に眠くてどうしようもなく、うつらうつらして、こっくりこっくり眠り込んでしまっていたのです。「目を覚ましている」と言うのは、眠らないでいなさいと言う意味ではありません。
 
 ここで明らかなことは、何時呼び起こされても用意ができているような眠り方をしていると言うことです。私たちは眠らないで過ごすわけにはいきません。居眠りを避けるのは困難です。教会の礼拝説教をしている最中に、前の席で身体を揺らしながら寝ている人がいます。いびきも聞こえて、「起きろ」と言いたくなる時もあります。土曜日に夜遅くまでテレビを見ていたり、出かけていて、寝不足で礼拝の時に眠くなるのです。土曜日に早く寝て、日曜日の朝は目覚めていることが大切です。礼拝でみことばをしっかり聞いていることが私たちの責任です。

 この十人のおとめたちは、人間の弱さのために居眠りをしてしまうけれども、そのような時にも花婿が来て直ぐに迎える準備ができているかどうかが問われます。慌てて油を買いに行くということではなく、どのような時にも花婿を迎える態勢になっているということです。
 
 この譬え話は、終わりの時について語っています。「終わり」と言うのは「終末」「再臨」と言うことです。主イエスのこの譬えが何よりも主の再臨について語っていることは明らかです。私たちの教会の信仰にとって大切なことは、主イエス・キリストがまた来られるということを本気で信じていると言うことです。牛込払方町教会の礼拝では、日本基督教団信仰告白を余り告白しませんが、日本基督教団信仰告白には、「愛の業に励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」と言う告白の言葉があります。
 
 しかし、この再臨ということは、私たちにはピンと来ないところがあります。余り礼拝で説かないために、ぼんやりとした考え方しか持っていないのです。終末について、再臨について、真剣に考えないのです。自分の問題として捕らえないために、私たちの生活に真剣さがないのです。再臨する主イエスを待ち望む生活ではなくて、この地上の生活だけに関心を注いで、いかに健康でいられるか、どのようにしたら病気にならないで長生きでき、毎日、楽しい生活を過ごすことができるかということばかり考えているのです。主が再び来たりて私たちのそれまでの生活、キリスト者としての生き方を審判することは自分の考えの中にはないのです。
 
 日本のキリスト教会の歴史の中で、再臨運動と言うのが何回か起こりました。何時、主イエスが来られるか分からない、もっと神に喜ばれる聖潔い生活をしよう、キリストを迎える生活をしようと運動したのです。

 再臨の主を待つということは、私たちの日常生活を止めてしまい、そのことだけに心を向けて、他のことを顧みないということではありません。五人の賢いおとめが居眠りをしても、来られる花婿を迎える準備ができていると言うことです。私たちが何にいつも心を用いているか、その信仰の姿勢を問うているのです。
 
 五人の賢いおとめは油を用意していて、五人の愚かなおとめは油を用意していなかったのです。この譬えで語られている燭台はどのようなものか、と以前から考えていました。イスラエルに旅行をした時に、聖書植物園に行き行き、一通り聖書の植物を見終わって、一緒に行った牧師たちがバスに乗り込み、出発しようとした時に、この聖書植物園の売店に、この譬え話に出て来る燭台を売っているかも知れない、と思い立ち、私はバスを降りて、バスを待たせて、私だけこの燭台を買ってきました。油を入れる容器も買いました。確かに、油をこの燭台に入れないとともしびは燃えないことが分かりました。

 この譬え話は、たいへん厳しいところがあります。五人の愚かなおとめが油がなくなりそうになったときに、他の五人のおとめに油を分けてくれとお願いしたけれども、分けてもらうことができなかったのです。店に行って買ったらどうですか、と言っています。ここで五人の賢いおとめは冷たいと思うのです。油を少しでも分けたらよいと思うのです。愛のない人たちだ、と考えるのです。

 しかし、ここで主イエスは油を分けたとは話してはいません。このことは何を意味しているのでしょうか。他の人に頼らないで、あくまでも、自分ひとりの責任で油を用意することを求めておられます。それはどのようなことなのでしょうか。それは、終わり、主の御前に立つ時に、たった一人で主イエス・キリストの御前に、立つのです。主の御前で、審判を受けるのは、自分一人なのです。一人一人、どのように神に応えて来たかが主なる神から個別に問われるのです。イエス・キリストの御前に、単独者として立つのです。

 そして厳しいことに、慌てて油をお店に買いに行き、戻って来たときに扉はすでにしまっており、それを再び開けることは許されないのです。この愚かなおとめは、花婿を迎える必要はないと言って、一切、用意をしなかったのではありません。花婿の来るのを待ったのです。ただ、愚かで油を用意していなかっただけです。油を用意していないことを反省しており、油を用意しないことを反省して、油を持ってきたのだから勘弁してやるのが、愛のあることではないか、と思うのです。しかし、主イエスは閉めた扉を開くことができないと言われます。神が私たちを審判する時に、ほんとうに厳しい側面があることを教えています。

 主イエス・キリストはこのような厳しい物語をすることによって何を私たちに求めておられるのでしょうか。ある解釈によると次のように解説をしています。ここで語られているのは、教会に生きている人々に対する警告であると言うのです。私たちは主イエス・キリストの名による洗礼を受けて救われて安心しているかもしれません。もうこれで安心だと思っている人々に対して警告をしているのです。

 洗礼を受けたと言うことは、第一次の入学試験に合格したと言うことだ、と解釈するのです。しかし、第二次試験があるのです。第二次試験とは何でしょうか。第二次試験は難しいのです。第二次試験とは、洗礼を受けたあなたは、教会員らしい生活をしなければならない、愛の実践をしなければならないのです。洗礼を受けただけではいけない、キリスト者らしい生活をしなければならないと言うのです。これは一つの正しい反省です。洗礼を受けたからそれで大丈夫だ、安心だと言うことはできないのです。洗礼をうけているからこそ、もっと厳しく主に問われることになるのです。あなたはキリスト者としてどういう生活をしていますか、どういう生活をしてきましたか、と問われるに違いないのです。洗礼を受けてもうすでに救われてしまっているので安心だ、と思っている人々に対する警告だ、と解釈するのは正しいことです。

 このようなことを知って、自分は第二次試験に合格する自信はないのです。いつも、自分のことを考え、再臨の主に心を向けることはないのです。主なる神に心を向け、責任をもって生きて行こうという思いがないのです。

 他にも様々な解釈がありますが、この譬え話は、私たち洗礼を受けた者がいつも何に心を向けているか、何に心を使い、どのような姿勢をもって生きるのか、と言うことを教えているのです。

 ここでは主イエス・キリストの再臨であり、再臨の主が来られるときに、私たちが審判を受けると言うことです。そのことにいつも心を向けて過ごしているか、と言うことです。

 再臨の主を迎えるというここと関連して語ると、私たちは誰でもいつかは死を迎えることは事実です。私たちの地上の生涯の終わりは死です。死と言う終わりがあることを自覚していることは大切なことです。

 伊集院和子さんが、11月21日(月)早朝に逝去され、23日(水)にこの礼拝堂で葬儀を行いました。落合火葬場で、伊集院和子さんの妹の方とお話をすることができました。伊集院和子さんより、13ヶ月後に誕生されたとのことで、年齢が近いこともあり、悲しみも深いことを知りました。話している中で、私ももうじきに死ぬことになるので、覚悟しなければならない、と話されました。
 
 旧約聖書のコヘレトの言葉には、いつも自分が死ぬことを計算に入れて、今日と言う日を過ごすようにと勧めています。コヘレトの言葉9章5節(旧約p1045)「生きている者は、少なくとも知っている 自分はやがて死ぬ、ということを。」私たちがいつまでもこのまま生きることができると考えて生活をしているのと、自分の生活が終わる「死」を迎えることがあると自覚しているのとは、生活のスタイルが異なってくるのです。自分が「死ぬ」ことを忘れ、自分が死ぬ存在であることを自覚していない場合には、今日一日、自分の好きなように生き、また明日は今日しなかったことをすれば良いとのんきに考えるものです。しかし、今日が最後かもしれない、自分の地上のいのちは終わるかもしれないと自覚するならば、今日が最後の日で、明日、いのちがないならば、一刻一刻を大切なことに時間を使い、悔いが残らないように過ごすのです。

 私たちは、イエス・キリストの恵みによって洗礼を受けましたが、それですっかり安心して、自分の生活を中心に過ごすのではなく、いつも神に心を向け、神の御心を求め、従って生きる責任があるのです。
 
 11月25日の「日々の聖句」の新約聖書の言葉は、ヤコブの手紙4章13節−15節のみことばでした。「よく聞きなさい。『今日か、明日、これこれの町に行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたは自分の命がどうなるのか、明日のことは分からないのです。あなたがたはわずかの間、現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのこともこのこともしよう』、と言うべきです。」(新約p425)

 主イエス・キリストの贖いによって私たちの深い罪が赦されている、その恵みを数えて感謝をしながら、愛の業に励みながら、再び来られる主を待ち望みたいのです。 


20161120 主日礼拝説教  「私たちの罪を乗り越えて」  山ノ下恭二



(イザヤ書5章1−19節、マルコによる福音書12章1−12節)

 私はよく図書館に行き、本を借りることが多いのです。借りていることを忘れ、返却日に返すことを忘れていることがあります。その時に思うことは、私のいのちも時間も財産も、わたしのものではなくて、神のものであると言うことです。このいのちも時間も財産も神にお返しするのであると言うことです。

 昨日、私たちの教会の姉妹の実の父が逝去して葬儀が行われましたが、この人の人生は、神から与えられたいのち、時間、財産を神のみこころに従って使う生涯であったと言うことです。

 主イエスはぶどう園と農夫の譬え話をされました。この譬え話を聞いている人々は、一般の民衆ではありません。この当時の宗教的な権威を持った人々です。自分たちこそ、神に近く、信仰においても、生活においても、誤りのない生活をしていると自信をもっている人々です。これらの人々に主イエスは直接、話されたのです。このぶどう園の譬え話を主イエスが話されるきっかけになったのは、神殿で説教したり、自由に振る舞っている主イエスの権威は何に根ざすのか、と言う祭司長たちの問いでした。これらの人々は神から遣わされ、悔い改めの説教をして洗礼を授けた洗礼者ヨハネを認めず、悔い改めをしない人々でした。主イエスは、悔い改めをしない祭司長たちの権威はまことの権威ではないことを、明らかにした後に、この物語を語られたのです。

 この譬え話は、ぶどう園の主人が旅に出かけたところから始まります。ぶどう園を残して、それを農夫たちに貸して、その農夫の働きに委ねたのです。この主人が旅に出たのは、農夫たちを信頼していたからです。農夫たちを信頼し、委ねて旅に出かけたので、このぶどう園には、主人はいないのです。主人は不在なのです。言うまでもなく、この農夫たちは、具体的にこの当時のユダヤ人、神の民イスラエルと呼ばれる人々です。特に今、主イエスと向かい合っている祭司長たちです。この祭司長たちは自分たちこそ真実の権威者であると思い込んでいたのです。この人々は神殿で神の権威を代行して営んでいるのです。まさにそこがぶどう園そのものであるのです。

 神殿で神から委託されて権威をもって行っている祭司長たちと私たちとは全く無関係ではないのです。私たちが生きているこの世界は神からお借りしている世界です。そのように考えている人はこの世の中にとても少ないのです。この世界は神から貸し与えられて、神がこの世界の所有者です。私たちのこのいのちも時間も神から貸し与えられたものなのです。いつか、このいのちも時間も神にお返ししなければならないのです。しかし、私たちはそのようには考えていないのです。私たちはいのちも時間も自分のものだと考えているのです。自分のものだから、自分の自由に使って良いのだ、と思っています。

 「ぶどう園」と言う言葉を聞いて、人々はイザヤの言葉を想い起こし、「ぶどう園」は自分たちのことであり、自分たちが「ぶどう畑」に譬えられていることを思い起こしたのです。しかし、主イエスの話を聞いていて、イザヤ書5章に記されている話と、このぶどう園の話とは異なる話であることに気がついたのです。イザヤ書5章では、ぶどう園そのものが何の実りもなく、収穫がないのですが、マルコによる福音書では、ぶどうの実は実り、収穫があるのです。

 この譬え話で私たちが見落としてしてしまうところがあります。それは、12章1節です。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を堀、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」と語られています。この短い言葉のなかに深い神の愛が込められているのです。

 ぶどう園を造っても、次の年から直ぐに収穫があるわけではないのです。良いぶどうが実って、それが商品として売られ、ぶどうを売って経営ができるためには、何年もかかるのです。そのことをよく心に留めておく必要があります。

 この譬え話を私は誤解していたことに気がつきました。今まで次のように考えていたのです。このぶどう園の主人は土地を持っているけれども、そこにはいない不在地主で、雇われた農夫たちが苦労して栽培し、主人そのものはぶどう園の収穫だけをもらっていた、と考えていたのです。市民農園のように土地だけを貸している地主のように考えていました。この主人は、必要経費を農夫に渡して、収穫を自分のものにしていたのではないか、と考えていました。

 しかし、そうではないのです。この主人は出かける時に、自分でぶどう園を造って行ったのです。この主人は資本を出し、自分もそこで一所懸命に働き、そして垣根を作り、ぶどうの搾り場を掘って、見張りの人が必ず立たなければならないやぐらを立てて、準備万端、全部準備して、整えたのです。あとは、実りを待つだけです。農夫たちは、ぶどうが良く実るように管理すれば良いのです。汗水たらして、初めから苦労したわけではないのです。

 このぶどう園の主人は、実りを約束するぶどう園を造って置いて行ったのです。きれいに整備され、ただ実りを待つだけのぶどう園を預けたのです。この主人は父なる神のことだと主イエスは言われたのです。ここに、この譬えの大切な意味があります。

 本日の礼拝で、イザヤ書5章を読みました。なぜ、読んだのか、と言うと、主イエスが語られた譬え話の背景となる言葉が書かれているからです。

 イザヤ書5章には、ぶどう園をよく耕し、良いぶどうを植えたのですが、実ったぶどうは、酸っぱいぶどうであったのです。イザヤ書5章4節「わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」良いぶどうは、酸っぱいぶどうになるはずがないのです。これは神とイスラエルとの関わりを表現しているのです。神は心を尽くして、イスラエルの人々を愛したのです。しかし、イスラエルの人々は、神を信頼せず、神の働きに目を向けず、驕り高ぶって、自分のために生きていることを嘆いているのです。

 イスラエルの人々が神に心を向けて、そのみわざを見て、感謝し、そのみわざをほめたたえることをしないことに対する神の悲しみが表明されているのです。イザヤ書5章12節「だが、主の働きに目を留めず 御手の業を見ようともしない。」このマルコによる福音書12章も、ぶどう園の実りを自分のものにしてしまって、主人にその実りをささげることもなく、返すこともしない、その悲しみが書かれているのです。主イエスは、イザヤ書5章の言葉を思い起こしながら、この譬え話を悲しみをもって語られたに違いないのです。

 この譬え話は、祭司長たちと主イエスとが権威をめぐって問答している中で語られたものです。この神殿を管理する人々に、主イエスが何の権威で歩き回っているのか、と問われて、主イエスは逆に、祭司長、律法学者、長老たちと呼ばれる権威ある人々に問い返しています。この人々がぶどう園をよく保ち、管理し、神に対する責任を果たしているか、と言う問いを突きつけ、その責任を忘れて、ただ自分が権威をもっていることを誇っているだけではないか、と問うているのです。

 この譬え話は、この農夫たちが何をしているのか、というところにポイントがあります。主人をないがしろにしているのです。主人がぶどう園にいないと思って、主人を見くびって、自分のやりたいようにしているのです。このぶどう園を自分のものであると考えているのです。神のものであるのに自分たちのものとして振る舞っているのです。神の所有であるのに自分のものにしてしまうのです。神の所有物、神に属している財産を私物化しているのです。

 私が和歌山県の田辺教会に在任していた時に、一人の教会員が天神崎という浜辺を残す運動をしていました。天神崎という海辺は海洋生物が生きている、とてもきれいな磯辺で子どもたちの自然観察をするにはとても良い場所なのでです。この天神崎の近くに住んでいた教会員がそこに別荘を造成するという話を聞いて、別荘を造成するようになると、磯の浜辺がなくなるので、開発を止めようと環境保護のための運動を起こしたのです。別荘を建てる予定の土地をこの運動を推進する市民たちが買い戻す、一坪運動を展開したのです。

 美しい浜辺の近くに別荘を建てれば、海洋動物はいなくなり、子どもたちが遊ぶ浜辺も失ってしまう、ということになるのです。神が創造したこの地球が、破壊されてしまうと考えて、市民運動を起こして、天神崎の土地をみんなが一坪ずつ買い、その土地を田辺市に寄付して、公の海浜公園としたのです。

 神がこの世界を創造し、私たち人間は、神が創造した自然を大切に守って管理する、そのように考えることがないのです。神が私たちの主であり、神の所有しているものを借りていて、人間は神のみこころに従って、管理するだけである、という考えがないのです。この世界は人間のものだと考えています。

 この譬え話に登場する「僕たち」と言うのは、旧約聖書に登場する預言者のことです。預言者たちは、次々に送られてきましたが、殺されていくのです。殺される、ということは、神の言葉を聞かない、ないがしろにしている、ということです。みことばを聞いても、従わないのです。神がいないかのように、自分中心に振る舞い、行動しているのです。私たちも毎日、あたかも神がいないかのような生活をしているのです。神が思いがけなくやってきて、私たちを審判することを忘れているのです。それは神が不在で、いないと言う思いがあるからです。

 この譬え話で改めて考えることは、この農夫たちが、主人の思いを重んじてくれるだろうとぶどう園の主人が期待をもってきていると言うことです。それは自分の大切な僕を次々と全部送っていることから分かります。ところが全部殺され、傷つけられるのです。よく考えて見ると、普通は最初に、僕を送っても、その僕が傷つくか、殺されたら、その仕打ちに対して仕返しをして決着をするはずで、その後には送ることはしないと思うのです。ところが、そういうことをしないのです。マルコ12章6節「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。」と書いてあるのです。

 今まで送った僕をないがしろにして、傷つけ、侮辱した農夫だから、根性が腐っており、またひどいことをするだろう、と考えなかったのです。人がよすぎると思うかも知れません。
 
 最後に息子を送ったと言うことは、主人が農夫たちをなお信頼していると言うことです。信頼しているというのは、自分の心、志をよく受け取って、悪いようにはしないと言うことです。ぶどう園の主人は、農夫たちに期待し、信頼していたのです。愛する息子を送ったら、自分の過ちに気づいて「あぁ、悪かった」と心を改めるかもしれない、そういう期待をしていたのです。自分の愛する子どもを送ったならば、自分の愛に気づいてくれるかも知れない、相手が自分の愛を受け入れるかもしれない、と思っていたのです。
 
 息子を送るということは処罰するために送ったということではなくて、今までの悪事を赦すために来たと農夫たちが受け取ってくれるかも知れない、そういう信頼をもっていたのです。

 農夫たちへの対応を見ると、この主人の見通しは甘いし、余りにも人が良すぎると私たちは思うのです。人を余りにも信頼しすぎていて、自分にはこの主人のようにはできない、と私たちは思うのです。

 それはなぜそう思うのか。それは私たちが今まで人間関係に傷つき、相手を信頼して裏切られたということがあるからです。私たちが経験していることは、人を信頼することがいかに難しいことか、と言うことです。この人は裏切ることは絶対しないだろうと思っていた人に、裏切られ、手を噛まれるような痛い思いをしているからです。そのような経験を重ねると、人を絶対に信用できないと思うのです。
 
 しかし、父なる神は愚かと言われる程、信頼しきり、信じきっているのです。主イエスがこのぶどう園の譬え話で語りたかったことは、神の真実は変わらないと語っていることです。神が愚かであるように見えても、愚かであるが故に、愛し続け、信頼し続けるのです。

 私はイザヤ書54章10節のみことばを思い起こすのです。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。」

 この譬え話を聞いていた人々が、この話を聞いて、どのように反応したかというと、「彼らは、自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので」とあります。

 主イエスはこの譬え話をこの当時の信仰の指導者たちを審判し、当てつけて、皮肉を言うために話したのではありません。心を改め、自分の罪に気づき、恥じる、自分の罪を悲しむようにと願って、話されたのです。おまえたちは悪い人間だと審きの心で話したのではありません。厳しいけれども愛の心で諭すように話したのです。悔い改めることを、ただ願って心を込めて語ったのです。

 この譬え話でマルコによる福音書12章9節に次のように語られています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」主イエスは、はっきり語っているのです。主人が帰って来て、あなたがたを滅ぼす、と。

 この譬え話にはそのように語られていますが、実際には、この話を聞いているイスラエルの信仰の指導者である祭司長たちは殺されなかったのです。むしろ、この譬え話の主人の最愛の子が殺されたように、主イエスご自身が殺されたのです。滅ぼされても仕方がない者が生かされたのです。

 この譬え話は、私たちに語られています。実は私たちが農夫なのです。私たちは神が不在であり、いないと思って、神をないがしろにして、自分の力で生きることができるかのように、自己中心に生きているのです。そのことが神の心を深く傷つけていることに気がつかないのです。

 しかし、そのような罪にもかかわらず、その罪の責任を私たちに負わせることなく、神の審判を引き受けてくださるのです。神であるイエス・キリストご自身が、神の審判を引き受け、最も厳しい審きの死を引き受けてくださるのです。そのことによって、私たちの深い罪が赦されたのです。

 主イエスは、この譬え話のあと、どのようになさったのか。十字架に架かって死んだのです。私たちが滅びないために、ご自身の生命を犠牲としてささげたのです。

 この譬え話を主イエスはなぜこの時点で語られたのでしょうか。それはご自身の十字架の死を暗示するためでした。そして、十字架の意味を明らかにするためでした。主イエスは、神の愛を知って欲しい、と願ってこの譬え話をされたのです。そしてどんなことがあっても、神は愛を貫き通すことを知って欲しいと願って語ったのです。私たちがこの譬え話を心深く、受け止めて、悔い改めることが求められているのです。


20161113 主日礼拝説教  「外なる人は滅びても」  山ノ下恭二



イザヤ書54章10節、コリントの信徒への手紙二 4章16−18節

 本日の礼拝は、牛込払方町教会139周年記念・召天者記念礼拝を守っています。この教会でキリスト者として、教会員として共に礼拝し、祈り、交わり、伝道し、奉仕をされてきた兄弟姉妹を覚えて、礼拝を守っています。今まで、多くの教会の兄弟姉妹が遠いところからこの教会に通って、教会員としての務めを担って、この教会を支えくださって来たことを心から感謝する者です。しばらく前のことですが、ある婦人が教会を訪ねて来られました。親戚にこの教会のかつての会員がいて、近くに来たので教会を訪ねたいと思って立ち寄ったと言ってこう言ったのです。「叔母はこの坂を登って、いつも通って礼拝に来ていたんですね。信仰をもっているということはすごいことですね。」と話してくれました。私は教会の方々が、遠くから通い、外堀通りから坂を上がり、鰻坂を登って毎週、教会堂に来る、そのことに感心をしています。

 キリスト者であるからと言って、スーパーマンでないので、疲れることもあり、肉体の衰えを感じて、生活することがしんどいことがあります。私たちはいつまでも健康で元気でいたいと願っています。しかし、高齢になって自分の体の機能が衰えてきていることに気づくのです。疲れやすくなったり、人の名前がすぐに出て来なかったり、病気がなかなか治らなかったりするのです。

 本日の礼拝で読んだ聖書の言葉のなかに「外なる人が衰えていくとしても」と言う言葉があります。「外なる人」と言う言葉は、自分の体が衰えて行く人間存在のことです。それだけでなく、もっと広い意味を持っています。私たちが人生で出会う困難、苦労、そのことによって負担が重くなり、すり減ってくことをも含んでいます。仕事においても、人間関係においても、経済的にも、将来のことでも、様々な困難があり、それによって精神的、肉体的に、消耗していくのです。

 私はある時、ある牧師から次のような話を聞いたことがあります。その牧師の教会に、ある時、一人の婦人が初めて教会の礼拝に出席し、3ヶ月ほど礼拝に通った後に、ある日曜日の礼拝が終わって次のように言ったそうです。教会に通っても、自分の病気も治らないし、良いことがないので、もう来ないことにしました、と言って去って行ったと言うのです。確かに教会に来ても、病気がすぐに治るわけでもなく、経済的に豊かになるわけでもないので、期待をもって教会を訪ねた人には期待はずれであると思います。
 
 コリントの信徒への手紙二を今日の礼拝で読みました。この手紙は、最初のキリスト教伝道者であるパウロが、コリントの教会の信徒に宛てて送った手紙です。この手紙を書いたパウロは、この当時の人々が持っていた批判に答えて、誤解を解こうと努めたのです。その批判と誤解とは何であったのでしょうか。

 コリントに住むギリシャ人たちは、神に仕えるキリスト者であるならば、見るからに幸福で、道徳的に立派な人格者であるはずだ、と考えていたのです。私たちもそのような見方をしています。キリスト教の信徒になれば、家庭が円満で幸福になり、立派な人格者になれるのではないかと考えるのです。

 ところが実際のパウロはどうであるか、パウロはキリスト者になったけれども、外見からは幸福には見えないし、立派な人物には見えないのです。むしろ、キリスト者であるために、キリストに従って行こうと決断したために、迫害を受けたり、たいへん辛い目に遭わなければならなくなっているのです。決して幸福とは言えないのです。実に多くの患難に出会うことになっているのです。苦労に苦労を重ねて、キリストの信仰を宣べ伝えようとしていたのです。

 しかし、パウロは、今、コリントの町の人々に対して、キリストがもたらす良い知らせ(福音)は、もっと深く、私たち人間を生かすものであると言うのです。キリスト者になれば幸福になれる、信じれば良い人になれる、信じれば自分の思い通りになる、この世的にも富と名誉と財産を手に入れることができる、そのような考え方はきわめて表面的なものに過ぎないと言うのです。

 パウロは、キリスト者の存在をあたかも宝を持った土の器のようなものだと語っています。この譬えは巧妙な譬えです。この当時、宝物を入れて置くものとして選ばれたのが土の器です。この土の器がよく用いられたようです。それは財宝を虫や湿気から守ると同時に、泥棒の目を欺くためには、良い方法でした。金箔の飾りのついた、いかにも金が入ってると思われるような立派な箱よりも、重宝されたのです。泥棒にも取られず長く保存できるために、この土の器を利用したのです。パウロは、キリスト者の存在を、宝をもった土の器のようなものだと語っています。この土の器は壊れやすいものであり、あやういものです。一度、下に落としたらすぐに壊れて使えなくなってしまう、そのような性格のものです。土の器は弱いのです。パウロは土の器のもっている弱さを決して隠そうとしないのです。どんなことがあっても、壊れず、丈夫で、頑丈でびくともしない、鉄でできたものではないのです。すぐに壊れてしまう、弱い、はかないものであるのです。

 キリストを信じると幸福になり、経済的に恵まれていて、何もかもうまくいくと言うことはないのです。むしろ、キリスト者として生きることは苦しみや困難、苦労を経験するのです。パウロは、4章8節、9節でそのことを四つの言葉、言い回しで表現しています。第一に私たちは四方から苦しめられる、と言うのです。口語訳聖書では、「四方から患難を受け」と翻訳されています。「患難」と言う言葉は「すりつぶす」と言う言葉です。とてつもない力で強く圧迫されて息も絶え絶えになる、呼吸もできないほどに強い力で圧迫されてしまう、そのような状態を表す言葉です。第二に「途方に暮れる」というあやうさを持っています。この言葉の元々の意味は「道がない」と言う意味の言葉です。進むことも引き返すこともできない、進退が窮まる、道がない、どこにもない、と言うことです。手を尽くす限りのことはすべてやってしまって、何をして良いのか、分からない、そのような状態を表す言葉です。

 第三に「虐げられる」経験をするのです。口語訳聖書では「迫害を受ける」と翻訳をしています。現代は、迫害はないかも知れません。しかし、この国にあってキリストを信じて生きようとする時に様々な仕打ちを受けるのです。キリスト者であることをはっきり皆に主張すると煙たがれたり、まじめだけれども変わっていて、付き合いづらい人だと敬遠されるのです。この「虐げられる」と言う言葉は、元来、ある場所からそこはお前の居場所ではない、出て行きなさいと追い払われてしまうと言う意味です。

 第四に「打ち倒される」と言う経験をします。この言葉は、文字通り、地べたに思い切り叩きつけられる、と言う言葉です。パウロはこのように四つの表現、言い回しで、キリスト者、特にコリントの教会の信徒たちに、あなたがたがこのようなあやうさを身に纏いながら生きるのだ、と語っています。

 しかし、苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されて、駄目になってしまうかというと、そうではないのです。その中にあって、キリストに対する信仰が無価値であるかというと、決してそうではないと言うのです。ここにパウロが語りたい主張が込められています。この土の器には、そのあやうさのままで、その中に神の栄光の富を宿している、神の富を盛っている、と言うのです。この宝を「並外れて偉大な力」「計り知れない力」を、あなたがたは、この土の器に盛っている、それがキリスト者の存在の秘密です。外側から見ると壊れやすい、脆弱で、弱い存在であるけれども、キリスト者、つまりあなたがたは、それを乗り越える道を知っていると言わざるを得ないのだ、と言うのです。

 パウロは、コリントの信徒への手紙二 12章10節で自分のことを「わたしは弱いときにこそ強い」と語っています。とても不思議な言葉です。パウロ自身、病気があってなかなか、治らなかったのです。しかし、その弱さのただ中で強い、と言うことができたのです。それは自分の持っている力に頼るのではなく、並外れた偉大な神の力に頼っていたからです。

 4章8節、9節の言葉をよく調べて見ると、大切なことを発見します。日本語の翻訳にははっきりと翻訳されていないけれども、8節、9節には、小さな言葉があります。四つのあやうさのあとで、「されどしかし」ということばを四度、繰り返して用いているのです。それを丁寧に翻訳しますと「わたしたちは四方から苦しめられる、されどしかし、行き詰まらず、途方に暮れる、されどしかし、失望せず、虐げられる、されどしかし見捨てられず、打ち倒される、されどしかし、滅ぼされない」となります。「されどしかし」です。周りから圧迫を受け、駄目になってしまうような状況の中で、されどしかし、そうはならないのです。

 キリストを信じると、病気が治り、お金に困らず、幸福になる、そのことを約束しているわけではありません。困難があり、その困難を乗り越えることができる神の力があるのです。困っているときにこそ、苦しんでいるときにこそ、神の出番があるのです。神が力を存分に発揮するので「わたしは弱いときにこそ強い」と語っています。私は風邪気味かなと思い、近くの医院に行って診察を受けますが、医師が風邪ですので薬を出しておきましょう、と言って診察は終わるのですが、もし、病が重く手術になれば、医師は全力を出して、治療に当たるのです。私たちが弱い時に神は力を存分に出して、その力を発揮し、私たちを救い出してくれるのです。私たちがほんとうに弱く、頼りにならない時に、神は神の力を発揮してくださるのです。

 それでパウロは確信に満ちて語るのです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々、新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」パウロは生きる望みを失ってしまうほど、ひどく圧迫され、死を覚悟するような経験をしているけれども、もはや、決して絶望しないと語るのです。なぜなら、たとえ外なる人が衰えていくとも、日ごとに、毎朝、目覚めるたびに、内なる人が生まれるからであると語ります。

 内なる人とはどのようなことを言っているのでしょうか。当時のギリシャ人たちは、この言葉を、自分が捕らわれていた感情や感覚から解放されて、心を大切にする人を内なる人と呼んでいました。現代もお金や財産などの物質的なものを所有することによって幸福になれる、と言う考えが横行していますが、もっと心に注目し、精神の内面性を大切にしようとする人も多くいます。
 
 しかし、ここでパウロが言う「内なる人」と言うのは、人間の内面に注目し、人間の心を大切にしようということとは異なったことを語っているのです。

 私たちのいのちが生き生きとなり、力強くなるのはどうしてかということを考えているのです。このことを考える手がかりになることがあります。それは私たちが幼い時にどのように育てられて来たのか、と言うことです。私たちは生まれてから親に愛されて大きくなってきました。親の愛情によって育てられ、成長してきたのです。自分が親に愛されることによって自分が生きていて良いと言う思いをもって大きくなって来たのです。

 愛されることによって自分を肯定することができるのです。子どもの頃、毎日、私たちは遊び終えると、家に帰り、自分を迎えてくれる親のところに行き、親は自分を受け入れてくれるのです。親の愛情が子どもの心の基地なのです。いつも家に帰ると自分を暖かく迎えてくれる親がいる、それは私たちの心を支えます。そのような親と子どもとの深い関わりが子どもにとって生きる力になります。

 人と人との親密な関係が、私たちの生活には不可欠です。最近、予防医学研究者の石川善樹と言う人が書いた「友だちの数で寿命はきまる」副題が「人との『つながり』が最高の健康法」と言う本を読んでいます。どうしたら長生きできるのか。友だちの数で寿命がきまるそうです。たくさんの友だちをもってつきあっている人が長生きできるそうです。孤独でひとりぼっちで、孤立している人は長生きできないそうです。多くの友だちと話したり、関係をもっていると長生きできるそうです。日曜日に教会に来ると長生きできるのです。教会の人は互いに触れ合い、つながりがあり、互いに心配し合うので、元気です。

 「内なる人」と言う言葉は、人間の心の問題のように思いますが、そうではなく、神との関係の中で言っていることです。「内なる人」とは神との関係が親密で、神の愛を信じている人のことです。そのことが自分のこころを活発にするのです。親が自分をあたかも自分自身のいのちのように愛してくれる、そのように神は私たちを愛してくれる、そのつながりで生きている人を「内なる人」と言うのです。イエス・キリストとの関わり、神は私たちを深く愛してくださっている、そのことが私たちには生きる力になるのです。

 高齢になると、自分の体力的な衰えをとても強く感じることが多くなります。物忘れが多くなり、人の顔が出て来ても名前がすぐには出て来ない、そして悲しくなるのです。ある人の年賀状に「苦労して バスから降りる わが姿 その無様さを みずから憐れむ」と書いてありました。この人は高齢であることがとても惨めであると思っているのです。確かに、高齢であることは悲しいことで、「外なる人」は衰えていくのです。そのような衰えだけでなく、様々な苦労や困難があることで、生きることが大変になるのです。しかし、その「外なる」自分、衰えて行く自分がほんとうの自分であるのではなくて、神に愛されている、イエス・キリストに愛されている、その自分が本当の自分であり、そこに自分の本当の姿があるのです。

 若い時には困難を乗り越える力があったのですが、老齢になると、困難を跳ね返す力がないので、落胆する場合が多いのです。体力が落ちると気持ちも落ちていくのです。立ち上がる力が少なくなって来ています。体力的にも衰えを感じ、病を持ち、身体も不自由になり、心細くなって行くのです。

 しかし、そのような時に、自分の姿を見て悲しむのではなく、神が自分のような罪深い者、神を礼拝せず、利己的、自分中心で、隣人を愛することのない者を十字架の贖いによって愛しておられる、その自分を見直すことができるのです。自分にこだわって悲しむのではなく、神が見ておられる自分に目を向けていくのです。自分が自分をみている見方と神が自分を見ている見方は異なっています。自分が衰え、弱っていく、その自分の姿を見ると悲しく思います。しかし、神が私たちを見ている眼差しを見るのです。それは愛の眼差しです。

 神は私たちのいのちを愛し、かけがえのない大切な存在であると見ているのです。私たちの外見は土の器のように弱く、壊れやすいのです。しかし、毎日、土の器の中に与えられる神の力が盛られているのです。今まで見ていた自分ではないのです。神に愛されている自分なのです。私たちは、神に愛されていると言う、神から与えられた新しい力、新しいエネルギーを持つことができるのです。
 
 本日は牛込払方町教会創立139周年記念・召天者記念礼拝です。この教会で信仰生活を送った、先輩の信仰者を覚えて、礼拝をしています。神との深い交わりをもってこの教会を覚えて、奉仕をされた方々を心に留める時に、私たちも、外なる人は衰えていくとしても、神が私たちを愛し、支え、私たちのいのちの根拠となってくださっているのです。


20161106 主日礼拝説教  「人を生かす権威とは」  山ノ下恭二



(申命記6章11−20節、マルコによる福音書11章27−33節)
 
 先日、かつて牛込払方町教会に在任された松永希久夫牧師が1988年に中渋谷教会でされた説教を読むことができました。「神の宮としての教会」と言う説教です。コリントの信徒への手紙一 6章19節を説教のテキストとしています。この説教では口語訳を用いています。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのである。」「神の宮」を新共同訳では、「神殿」と翻訳しています。松永牧師は次のように語っています。「あなたがた」と呼んでいるのはコリント教会の人々であり、その人たちが神の宮・教会であると言っていますが、この点を錯覚しているように思うと語っています。自分が牧会していた教会(牛込払方町教会)で「日曜日の朝、教会へ行って教会から帰って来る」という言い方を頻繁に耳にしてきた、と語ります。それに対して松永牧師は「それは聖書的ではない。そういう言い方を変えよう」と言って来た、と語ります。その時の「教会」は会堂を「教会」と呼んでいるのですが、「日曜日の朝、礼拝に出席して礼拝から帰って来る」という言い方が正しい、と語ります。それを私たちは教会へ行って、教会から帰って来るという言い方をするのだ、と語ります。

 そのように言う原因は日本では神社や寺院・仏閣、と言う建物が神や仏が居る場所であると考えているので、その影響を受けているのだ、と語ります。神社、寺院・仏閣に誰一人いなくても、前を通るとお辞儀をし、あるいはかしわでを打つことがよく表していると語ります。神や仏がいる場所に行って、宗教体験をするという環境に生きていると、自分たちも「教会に行って、教会から帰って来る」と何気なく言うのだと語るのです。

 しかし、このコリント人への第一の手紙6章19節では「『あなたがた』が神の宮であって、決して建物が神の宮というふうに言われているのではない。日曜日の朝、礼拝に集って、今朝、このように集っておりますこの共同体、ここに列席しているイエス・キリストの御名を告白しているそうした教会員、これが"教会"なのであります。ですから、こういう建物がなくても戦後多くの教会が経験しましたように、どこかの借家で礼拝をしていておりましても、あるいはテントを張って礼拝をしておりましても、そこで礼拝を捧げている人たちが教会であって、その建物や何丁目何番地という場所が教会であるわけではない。これは非常にはっきりした事実であろうと思います。そして『あなたがたが』、つまりそこに集っております共同体が、神の宮とされて神の御霊が自分のうちに宿っている。神の力、それが私たちの共同体の中に宿っている。あるいは、私たちにとりましては、神はイエス・キリストという形をとって、そして私たちに姿を現され、語りかけられた神であられますから、イエス・キリストが私たちの中に宿っていてくださる、そういうふうに言うことも許されるかと思います。」

 マルコによる福音書11章15節からエルサレム神殿での出来事が記されています。主イエスの存在に反感を持ち、機会があれば殺したいと思っている祭司長、律法学者、長老たちがいます。主イエスとの対話のきっかけになったのは、祭司長たちの問いでした。11章27節で「何の権威でこのようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と問いかけたのです。

 この当時、祭司はたくさんいて、その中で指導的な役割をしていたのが、祭司長たちでした。祭司長たち、律法学者たち、長老たちとが一緒に議会を構成して、祭司長の中の一人が議会の長でした。議会と言うのは、立法、司法、行政、を同時に司る最高の政治機関です。使徒言行録には、神殿守衛長という役職が出て来ます。神殿に守衛がいて、その長が祭司長でした。そして別に神殿の会計をしていたのも祭司長であったのです。これらの人たちはエルサレム神殿の経営に携わり、その責任をもっている、神殿の責任者でした。

 この祭司長を含めた人々が、主イエスに何の権威をもってこのようなことをするのか、と問いただしたのです。「このようなこと」とは、主イエスが神殿の境内を歩いておられたことと関わります。

 昨日、主イエスは神殿に来られて、そこで商売をしていた人々を追い払ったのです。犠牲で献げる鳩がおいてある台、両替をするための台をひっくり返したのです。騒ぎを起こした張本人であり、その本人がまた登場して、また同じことをするかも知れない、と商売を邪魔されていた商人たちは恐れていたに違いありません。昨日の騒ぎは当然、神殿の管理の責任をもつ、神殿当局者、祭司長の耳にも入り、議会関係者が集まって相談したのは確かです。騒ぎを起こした、このイエスと言う男がまた神殿を自由に闊歩しているのです。そのことに何よりも祭司長たちは我慢ができないのです。なぜなら、ここは自分たちの領分だからです。

 神殿の経営、管理、人事など、権威を委ねられた者はそれだけ責任が重くなることは当然のことです。責任が重くなると共に、それと同時に、神殿の中では自由に出入りすることができ、責任を持って自由に取り締まりをすることができ、自由に許可することができるのです。権威を持つ者は自由と責任を持つことができるのです。権威を委ねられていた祭司長たちが、神殿の務めを果たしている時に、イエスと言う男が外から入り込んで来て、自由に動き回り、したいように振る舞っているのです。神殿に入ったら、自分がどのように振る舞い、行動するかは、細かく規則で決められていました。異邦人は異邦人の庭にしか入れませんし、女性は婦人の庭にしか入れません。犠牲を献げる至聖所には大祭司しか入れないことは、規則で決まっているのです。もし、規則以外のことをするならば、神殿当局の許可を得る必要があったのです。

 このイエスと言う男が、神殿当局の許可もなしに、自分の家のように自由に歩き回っている、そのことは祭司長たちにとっては気に入らない、邪魔で、不愉快で、困る、と思っていたのです。自分だけが自由に振る舞うところだと思っているところに、誰かが侵入してくるのです。皆さんも誰かが自分の部屋に侵入して、黙って本を持って行くとしたら、「困るなぁ、そういうことをしたら」と言うに違いないのです。私の部屋なのだから、勝手に入られたら困る、そういう思いになったことが皆さんにもあると思います。他の人が自分の部屋に勝手に侵入して困ると思うのですが、このことを神との関係で、信仰の問題として考えると私たちにとってそれはどのようなことなのでしょうか。
 
 神が自由に私たちの領分に踏み込んで来る、私たちの心の領域、生活の領域、ここは自分たちの世界だと思っているところに、神が自分のところに入って来て自由に振る舞うのです。まるで神がここの主人であるかのように振る舞うのです。それは私たちには困ることです。自分の支配しているところ、自分が自由に振る舞うところには、誰も入って来て欲しくないのです。もし、入って来たなら、出て行ってもらいたいのです。私たちは神を迎えているようでありながら、実は喜んで迎え入れていないのではないでしょうか。日曜日の礼拝の時には神を迎えているかも知れませんが、毎日の生活では神を受け入れて従っているとは言えないのです。

 最初に松永牧師の説教「神の宮としての教会」のはじめの部分を紹介しました。この説教の中でユ−モアをもって語っているところがあります。アメリカやカナダで個人の家を訪問した時に経験したことは、その家の主人が自分の家の一つ一つの部屋を全部、案内してくれるそうです。ここは応接室、ここは子どもの部屋、ここは寝室、そのように、部屋を全部、見せるそうです。それは、今日はあなたがこの家の主人です。あなたがどこへお入りになってもいいのです。ご自分の家にいるのと同じように、してください、ということを態度で示すために全部、開けて見せるそうです。しかし、日本では、こうはいかない。決まったところしか、入れないのです。お客さんが迷って別の部屋を開けようとすると、そこには入らないでください、と言うに違いないと言うのです。

 松永牧師は、教会生活も同じ発想だ、と言うのです。「日曜日の部屋、これはイエス・キリストをお通しする客間です。どうぞ自由に使ってください。しかし、月曜日の部屋、そこへ神様が顔を出そうとするならば、いや、ちょっと待って下さい。お金儲けをしなければならないので、神様が発言しないでください。火曜日の部屋、子どもの教育、何と言っても、よい学校に入れなければ、将来、幸せにならないので、子どもの尻をひっぱたいて、エリートコースに乗せなければならない、そんなところで、大きな顔をしていないで、押し入れに入ってください。」水曜日の部屋、木曜日の部屋、金曜日の部屋、土曜日の部屋、神様を排除し、神様を入れないで、自分の考えやプランで過ごしているのです。

 神殿の管理運営を委ねられている祭司長たちが、神殿の務めを果たしている時に、イエスと言う男は外から入ってきて神殿の中を自由に歩き回っているのです。祭司長たちは、イエスが邪魔なので、神殿から出て行ってもらいたい、と願っていたのです。それが殺意になるのです。ここで問題なのは権威です。権威を権威とも思わないで、自由に振る舞っているイエスが憎くて仕方が無い。自分の権威を犯されたと思ったから、主イエスに、あなたはいったい何の権威をもってそんなことをするのか、誰があなたにその権威を与えたのか、と問わざるを得ないのです。

 主イエスは逆に質問するのです。私の問いに答えたら、私が何の権威でこのようなことをしているのか、あなたがたに教える、と言うのです。主イエスが祭司長たちに問うのは、バプテスマのヨハネのことです。ヨハネがしたバプテスマは神からのものであったか、それとも人からのものであったか、と言うことです。なぜ主イエスはこのような問いを投げかけたのか、その意味はよく分からないかも知れません。この問いは難問なのです。祭司長たちがどちらを答えても、窮地に立たされる問いでした。

 祭司長たちは、この洗礼は神からのものであるとは認めることができなかったのです。なぜなら、祭司長たちはヨハネが神から遣わされた者であるとは信じていなかったのです。ヨハネの洗礼も受け入れていなかったのです。このバプテスマのヨハネはエルサレム神殿の権威ある者に許可を求めて、神殿で説教し、ここでバプテスマを施したいと申し出て、その願いが許可されたわけはないのです。荒れ野で説教し、ヨルダン川で洗礼を施したのです。そして都で生きている人たちを指さして、あのエルサレム神殿に真実な礼拝はないと糾弾したのです。ヨハネの説教は悔い改めを求めたのです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と悔い改めを迫ったのです。

 ヨハネのバプテスマを認めるならば、祭司長たちは悔い改めなければならないので、認めることができなかったのです。それは自分たちが神から与えられた責任を果たしている、規則に従って神殿を運営し、毎日、毎日、神を礼拝するために戒めに従って祈り、お祈りし、宗教生活を続けている、そのような私たちがどうして神の前に悔い改める必要があるはずがないと思っているのです。むしろ、祭司長たちの支配区域、領分を侵すイエスこそ罪があるのではないかと思っていたのです。ヨハネのバプテスマは神が認めたものではない、それは自分たちが認めていないのだから。

 本日は申命記8章を読みました。このところは、豊かさの中に生きている神の民がどんなに罪を犯すか、を明確に見抜いている言葉があります。8章11節−14節A「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」この言葉は私たちに語られているような言葉です。神を忘れて、神を自分の生活に迎え入れない生活をしているではないか、と語るのです。警告として、申命記8章20節後半に「あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないゆえに、滅び去る。」と語られています。
 
 祭司長たちは、自分たちは神のみこころに従って過ごしており、罪あるところは見いだすことはできない、悔い改めるところは全くないと思っていたのです。従って神からのものだ、ということはできなかったのです。

 逆にヨハネのバプテスマは人からのものだと言うこともできなかったのです。それは、人々が、ヨハネは預言者であると理解していたので、逆に群衆から反発を受けるので、人からだ、とは言えなかったのです。ルカによる福音書には「彼らは相談した。『天からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」(ルカ20章5−6節)と祭司長たちの反応が記されています。

 祭司長たちは、神の名において生きている人たちです。神の名において権威を持っていました。しかし、神の子イエスを受け入れることはなかったのです。主イエスを神として、救い主として受け入れて、自分の罪を認めて、悔い改めることをしなかったのです。

 信仰とは、私たちの生活に入って来られる神、イエス・キリストを全面的に迎え入れることです。信仰とは、イエス・キリストを喜んで迎え入れることなのです。 主イエスは、主イエスという神から遣わされた方を受け入れない人に、神の権威について語ることができないので、語ることは止めると言われたのです。11章33節で「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 私たちは神を生活全体で喜んで迎え入れる生活をしていないのです。日曜日には神を喜んで受け入れているかも知れません。しかし、月曜日から土曜日には神のみこころよりも、自分の考えや世俗的な価値基準で判断をして行動しています。しかし、神はそのような私たちの罪を赦し、丸ごと受け入れてくださるのです。 ルカによる福音書19章にザアカイの物語が記されています。法外な税金を取り立てそのお金を自分の懐にいれて罪を犯しているザアカイを顧み、ザアカイの家に泊まって友となった主イエスのお姿が記されています。独りぼっちで孤独で誰も心にかけず、関わろうとしないザアカイに親しく声をかけ、交わる主イエスのお姿に目を向けたいのです。
 
 今まで主イエス御自身が十字架の死について語ってきました。十字架の死、それはみじめな犯罪人の死です。それは権威を失った、一見、無力に見える十字架の死です。しかし、そこにまことの権威が示されたのです。神のまことの権威は、人々の上に立って動かし、管理、支配することではありません。神ご自身のあらゆる力を罪ある者、神から離れた者のために使い果たすのです。主イエスの十字架の死、罪ある者の救い、そのことによって、権威の意味は全く変わってしまったのです。

 神から離れた者を、神との関わりに生きる者にしようとして、私たちのために御自身のいのちを献げる、そのような権威です。愛することにおいて、力を発揮する権威です。重荷を持っている人々の重荷を力強く担っていける権威です。神の権威は愛の権威、人を生かす権威です。私たちの罪のために贖ってくださった主イエスの愛の権威を見ることができるのです。

 私たちは神のみこころに従うことができない弱さを持ち、悩みを持ち、病を持ち、重荷を持っています。しかし、聖霊が私たちの中に宿っており、イエス・キリストが私たちの中に臨在し、支配してくださっているのです。私たちの生活の隅々までも共に臨在してくださり、愛し、執り成してくださるのです。



20161030  主日礼拝説教  「神にのみ栄光を」  山ノ下恭二


 
(申命記6章4−5節、コリントの信徒への手紙T 1章26−31節)

 私たちの教会は、プロテスタント教会です。プロテスタントと言う言葉は、「抗議する者たち」と言う意味の言葉です。当時のローマ・カトリック教会のあり方に対して抗議して始まった教会なのです。1517年10月31日にマルティン・ルターがヴッテンブルク城教会の扉に、95カ条の提題を掲げた時から、宗教改革の運動が始まりました。

 私たちは聖書の言葉を聞き、学んでいますが、私たちがはじめて聖書の言葉を聞き、聖書を学び、聖書に生きているのではなく、私たちより以前にキリスト教会の歴史においてこの聖書に学び、この聖書に生きた人々がいます。特に教会を聖書によって改革しようと戦った宗教改革者たちについて学ぶことはとても大切です。私たちはハイデルベルク信仰問答を学んでいますが、これに限らず宗教改革者たちの著作に学ぶことは私たちの教会生活において有益です。

 「改革派教会信仰告白集」という本が6巻、出版されています。第一巻にはカルヴァンよりも早くスイスで改革運動を始めた、ツヴィングリの著作が入っていて、新しい翻訳で出版されています。その一つに「チューリッヒの『キリスト教入門』」(1523年)があり、最近、読むことができました。
 
 1517年にマルティン・ルターがドイツで宗教改革の運動を始めましたが、その5年後にスイスでもツヴィングリが改革運動を始めました。その時に書かれたのが、「チューリッヒの『キリスト教入門』」です。この著作には、聖書で語られている福音を再発見したことの喜びが書かれています。私たちが良い行いによって、神に認められるというのではない、良い行いがなくても、主イエス・キリストの贖いをただ信じることによって、神に認められることが書かれています。

 「チューリッヒの『キリスト教の入門』」の「福音について」と言う項目では、次のように書かれています。「この恵みの業、すなわち、わたしたちは自分の行いによってではなく、贖いの主イエス・キリストによるまったくの神の恵みによって救われるということは、根本的に神の御言葉によって知られる。」 
 この当時のローマ・カトリック教会は、中世の時代に聖書は教会にあったとしても、教会が説教をせず、聖書から聴き、学ぶことがなかったのです。礼拝において聖書が読まれず、説教がなされず、聖餐もキリストを犠牲として捧げる儀式であり、ぶどう酒はキリストの血そのものになるので、こぼしてはいけないので、信徒はパンだけにしかあずかれないのです。聖書もラテン語の聖書であり、信徒は聖書を読むことができなかったのです。
 
 ベルナール・コットレという人が書いた「カルヴァン−歴史に生きた改革者」という本があります。その中で、1466年から1522年までにドイツで22種類の聖書が翻訳され、そして全ヨ−ロッパで1471年から、1492年までにヘブライ語、ギリシャ語の原典からイタリア語、オランダ語、スペイン語、カタローニャ語、チェッコ語に翻訳されていたと書かれています。ルターが宗教改革を始める以前に、すでに、ラテン語の聖書ではなくて、聖書を原典から翻訳し、自国語で読むことができるようになっていたことが書かれています。ルターが1522年に新約聖書をドイツ語に翻訳しましたたが、ルターが初めてドイツ語に翻訳したのではなくて、それまでドイツ語で翻訳された聖書があり、それを参考にしてルターは聖書を翻訳したのです。聖書を原典から学んでいくことの中で、改革運動が展開されて行ったのです。聖書の言葉にいつも立ち戻り、聖書の言葉を聞き取ることから、改革運動が推し進められてきたのです。                             

 東京神学大学を卒業して10年経過した学年の牧師たちが、一冊の文集を作りました。これからどのように牧師としてその責任を果たしていけば良いのか、先輩の牧師たち、神学大学の教師たちに一枚のはがきにアドバイスを書いてもらってまとめたものを見せてもらいました。「10歳の牧師たちへ」という冊子です。神代真砂実教授の言葉が印象に残りました。それはアウグスティヌスの「告白」の中に出てくる言葉を引用しています。「あなた」と言うのは、「神」のことです。「自分の聞きたいことをあなたから聞こうとするよりもむしろ、あなたから聞くことを そのままにうけとりたいと心がける人こそは、最良のしもべなのです。」神が語っていることを、そのまま受け取ることこそが神のしもべである、そのように書かれていました。
 
 ローマ・カトリック教会は、聖書に書いていないことをどんどん教会に増やしていき、聖書から離れてしまっていました。マリア礼拝、7つのサクラメント、免罪符など、がそうです。

 改革者カルヴァンは、1509年にフランスのオルレアンに生まれ、父親は息子が法律家になることを期待して、パリ大学に学ばせ、その後、二つの大学で学び、法学博士となり、フランス学士院でギリシャ語、ヘブライ語を学びました。ルターの改革運動がフランスに伝わり、改革運動に共感し、教会を浄化しなければならないと思う人が多くなったのです。1533年にカルヴァンはパリで福音主義の秘密集会に出席し、その指導者がローマ・カトリック教会からの弾圧をも恐れず、福音を宣べ伝える姿にカルヴァンは心を動かされるようになりました。この年の11月1日にパリ大学総長に就任したコップが、教会で演説をしたのですが、この演説の原稿をカルヴァンが書いたのではないか、と言われています。その内容は「大事なのはただ神の恵みのみであって、行いによる功績ではない。神に信頼を寄せ、行いでなく信仰のみが義とすることを知ることが大切である。」と語っています。
 
 この就任演説がこのような福音的な内容であったので、コップが裁判所に召喚され、また関係するカルヴァンは身の危険を感じ、友人にかくまわれたのです。この時点で、カルヴァンは、カトリックの信仰ではなく、福音の信仰に生きることを決めていました。その後、フランスの宮廷やフランス各地でカトリック教会のミサを批判する檄文が貼られ、これに激怒した王が福音主義を唱える人々を捕まえて、厳しい弾圧を加え、多くの者が火刑になったのです。    
 1535年初頭、カルヴァンはバーゼルに逃げたのです。からだ一つ、着の身、着のままの姿で福音主義の人々を受け入れていたバーゼルに逃れて行くのです。その時に、リュックサックには、一抱えの原稿をひそませていました。それが、「キリスト教綱要」です。

 このキリスト教綱要はその後、20年以上のあいだに何度も改訂・増補されて、最終版は4巻、70章にもなる大著となりました。「キリスト教綱要」初版は、匿名で出版され、この初版は6章しかなく、十戒、使徒信条、主の祈り、聖礼典(洗礼、聖餐)、偽りの礼典、キリスト者の自由、の解説が記されています。1559年の最終版は、神・キリスト・救いの恵み・教会という表題で、初版より大幅に書いてあり、福音とその実りである愛の実践を説いています。

 カルヴァンの影響を受けた二人の弟子が、「ハイデルベルク信仰問答」を起草しますが、この「ハイデルベルク信仰問答」は「キリスト教綱要」の内容を要約して作成しています。このキリスト教綱要は、改革教会の神学の原点です。「綱要」と言う言葉は元々、「手引き」という言葉です。なぜ手引きが必要なのだろうか。例えば、森の中を手引きする案内人がいないと、森の中で迷ってしまうのと同じように、キリスト教会の教えを手引きする人がいないと迷ってしまうので、その案内として書いたのです。

 カルヴァンがバーゼルに滞在した後に、ジュネーブに立ち寄った時に、ファーレルが、このジュネーブの町が福音主義にしっかりと立つように、カルヴァンにジュネーブに来て、改革運動に協力してほしいと熱心に懇願するので、カルヴァンはジュネーブに留まったのです。聖書の教師としてパウロ書簡を講義し、礼拝の改革を推し進めようとしましたが、特に聖餐について、ジュネーブ市の参事会(市議会)と意見が異なったのです。カルヴァンは、聖餐を受ける前に、信徒に悔い改めを求めましたが、市議会(参事会)が賛成しなかったのです。牧師の任命、教会の重要なことは、市議会(参事会が決めることになっており、市議会(参事会)の決定通りするように求められたので、ファーレルとカルヴァンはこれを拒否し、二人は追放されました。                              
 その後、ブッツァーと言う改革者の招きにより、ストラスブールに赴任をしました。ここで、「キリスト教綱要」(第二版)を書き上げ、ローマの信徒への手紙の注解書を書きました。ここで信仰によって義とされることを明文化したのです。そして礼拝の改革を進めて行く中で、讃美歌を新しく作成し、「詩編歌」と出版しました。詩編の言葉に曲を付けて歌ったのです。

 ジュネーブでの状況が変わり、改革運動が展開できる状況になったので、ジュネーブに戻り、本格的に改革に着手したのです。カルヴァンは礼拝を改革しようとしました。この当時のローマ・カトリック教会のミサは、司祭が司式をしている振る舞い、しぐさを会衆がただ見ている礼拝であり、司祭が鈴を鳴らすとパンとぶどう酒は、物質が変化して、キリストの肉、血となり、聖体拝領の時にパンを食べる、そのような礼拝が行われていた。

 しかし、教会の礼拝がそれで良いのかと言うことです。ローマ・カトリック教会の礼拝(ミサ)は聖餐を中心とした礼拝ですが、教会が教会であることのしるし、標識は何か、教会が教会である判断基準は何か、と言うことです。それは、聖書によって福音が純粋に説教され、聖礼典がキリストによって制定された意図に従って執行されることです。

 改革運動は説教運動です。礼拝の説教において、福音そのものが力強く宣べ伝えられることが大切です。最近、カルヴァンの説教が少しずつ日本語訳に翻訳され、「霊性の飢饉」という説教を読みましたが、現代に生きている私たちも聞くべき内容を持っている説教です。

 この「霊性の飢饉」と言う説教はイザヤ書55章1−2節をテキストとしています。あなたがたは、肉体を養うために食物を求め、自分のために快楽を求めるけれども、霊的な食物を求めない、聖書の言葉を求めないのです。次のように書かれています。「私たちはあまりにも悦楽に取り囲まれているので、私たちの心を高いところへと持ち上げることができません。しかし、神は『ここよりもはるかに良い命があることを考えなさい。』と私たちに勧告してやまないのです。」

 聖書のみことばを求め、生きることを勧めているのです。カルヴァンは聖書全体から聞いていくことを目指し、連続講解説教を続けて行いました。その説教の中心は、イエス・キリストの十字架による罪の赦しです。

 本日の礼拝で読んだコリントの信徒への手紙T 1章30節には次のように記されています。「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」このみことばをカルヴァンは深く愛していて、著作の中でこの聖句を頻繁に引用しています。私たちの教会はキリストの十字架が中心です。
 
 カルヴァンは教会の会員が神に喜ばれるキリスト者となるように教育・訓練を重んじました。聖書も読まず、キリスト教の教え(教理)も何も知らない人々がキリスト者としてふさわしい者となるために、教育を重んじたのです。そのために毎週、礼拝に出席することを勧め、キリスト教の教えを学ぶために、「キリスト教綱要」を書き、青少年のために、「信仰の手引き」「ジュネーブ教会教理問答」を作成し、子女の教育に力を注いだのです。また聖餐を正しく受ける訓練を実施しました。キリストのからだ、恵みにあずかるために、日常生活が良い生活でなければならないと考えました。もし、家族に暴力を振るい、盗みを働くような生活をしているならば、そのような生活を悔い改めて、ふさわしく聖餐にあずかることが必要であり、教会を清く保つためには、聖餐にあずかるにふさわしくない者に、陪餐を禁じる戒規を執行するようにしました。

 1555年頃から、カトリック教会からの弾圧が激しくなり、殉教を前にした獄中の女性たちに手紙を書き送ったのです。「イエス・キリストはあなたたちのために死なれたのだし、その御名の中へとあなたがたは洗礼を受け、彼を通して救われることを望んでいるのですから、ただキリストのみに帰せられるべき栄誉を捧げ奉ることに躊躇してはなりません。」神の栄光のために、殉教することを勧めています。

 カルヴァンは1564年に逝去しました。その一年前に病気に苦しみながら、改革運動を共に担ってきた親友のファーレルに手紙を送っています。

 「お元気でしょうか、愛する親友よ。神の御心によって、あなたは生き残り、私は世を去ります。私の去った後も、私たちの結び付きを忘れず、生き抜いてください。その実りは天で私たちを待っております。神の教会に役立ったからです。・・・・私は息を吐くのさえ困難です。いつ何時、息が止まっても良いと思っております。キリストにあって生き、キリストにあって死ぬ、それで十分です。キリストに従う者たちにとって、生きるも死ぬもキリストのためだからです。御地の兄弟たちと共に、あなたを神の御手にお委ね申し上げます。」(1563年5月2日)
 
 カルヴァンは55年の生涯を教会の改革のために身を捧げたのです。カルヴァンの墓には、J・Cとしか書かれていないそうです。それは、ジャンのJ、カルヴァンのC、ですが、ジ−ザスのJ、クライストのC、を表していると言われています。この墓碑銘はカルヴァンが、イエス・キリストのための生涯であったことを良く表しています。カルヴァンは神の栄光のために命をささげたのです。


20161023  主日礼拝説教  「主の御心であれば」  小泉健(東京神学大学教授)



(詩編90編7〜12節、ヤコブの手紙4章13〜17節)

 わたしは東京神学大学という神学校で奉仕しています。先月の初め、大学の教務課からメールが入りました。その前日から、老人ホームでの実習をするはずの学生がおりました。ところが、その老人ホームから大学に連絡があり、実習に来るはずの学生が来ていない、というのです。大学の教務課が本人に連絡しますが、どうしても連絡がつきません。そこで実家に連絡してみたところ、学生が入院していることがわかった、という連絡のメールでした。

入院した学生は、生まれつきの難病を抱えている学生です。体内のアンモニアを取り除くことができず、血液中のアンモニアの濃度がどんどん上がってしまう病気だそうです。彼の兄も、やはり生まれつき同じ病気をもっていて、重い障害に苦しんだ挙句に9歳で亡くなりました。兄のおかけで、早くに病気のことがわかったので、適切な治療を受けることができて、弟は生き延びることができた。学校へはあまり行けませんでした。厳しい子ども時代を過ごしました。アンモニアを増やさないために、食事が制限されます。隠れてカップラーメンを食べて、途端に具合が悪くなり入院する。運動もしてはいけないのです。サッカーが好きで、親に隠れて友達とサッカーをした。夜にはたいへん具合が悪くなって救急車で運ばれる。二十歳になるまでに60回以上入院しました。その後、心を尽くして支えてくれていた母親を病気で亡くしました。つらいことばかりです。なんのために生きているのかわからない。だから人生の進路に悩みました。ひねくれた思いにもなった。

そうした中から献身の志を与えられて、30歳の時に学部1年生から入学しました。入学する何年か前から、病状は安定してきて、入院することはなくなっていました。月に一度病院へ行き、そのまま一日点滴を受けなければならないことはありましたけれども、元気そうにしていました。学校生活に慣れていなくて、最初はぎこちないところがありました。病気のために厳しい食事制限があり、大量の薬を飲んでいましたが、そうしたことをまったく見せませんでした。どんどん明るくなり、積極的に学校生活にかかわるようになりました。

東京神学大学での生活も3年目となりました。心配したけれど、大丈夫だった。このまま伝道者になっていけると思うようになっていました。その矢先の入院でした。厳しいだろうけれど、しっかりと治療を受け、夏休みの間ゆっくり休んで、元気になってくれるといい。それくらいに考えていました。しかし一週間ほどの入院の後、彼は主の御許に召されました。32歳でした。

伝道者として召された人が、まだその準備をしているさなかに地上の命を終えることになった。苦しいばかりの生涯を過ごしてきて、ようやく人生の進路が定まったのに、その務めにつかないままになった。病気の苦しみを味わい続けてきて、病院のチャプレンになりたい。病気の人を励ましたい。御言葉を届けたいと願っていました。その志が果たされなかった。「主よ、どうしてですか」と思わずにはいられません。どうしてなのか、わかりません。

「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことはわからないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。」(14)

そのとおりです。自分の命のことも、他の人の命のこともわからない。命が突然に終わりになるかもしれない。しかしそのことから目を背けて、命がいつまでも続くかのようなふりをして過ごしてしまいます。

「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金儲けをしよう」と言う(13)。

これは、わたしたち皆の心にある思いです。ここに例として語られている人は、大がかりな貿易商です。当時すでに地中海を間において、物資のやり取りが行われていました。小麦、ぶどう酒、オリーブ油、香辛料、金属や木材などの資源、工芸品、さまざまなものが輸入され、輸出されました。大きな資本を元手にして、大量の物資を動かす商人たちがいました。一年間腰を据えて買い付けをし、倉庫に物資を蓄え、輸送の段取りをつけ、売り払う時期を見極める。

自分でがむしゃらに働いて麦を育てたり、手を動かして家具をつくったり、小さな店を切り盛りして小売りをしたりしている人ではないんです。大きな資金をもっていて、物資を大きく動かす。それによって利益を生む。その物資がないところにもっていく。品薄になる時期を見計らう。計算に計算を重ねて儲けが大きくなるようにします。ぐずぐずしていられません。今日のうちに契約をまとめる。明日は次の町に移動する。来週の輸送のために船と乗組員を調達しておく。あらゆることを考え抜いて計画を立てる。そして実際に成功していた。

ここに登場しているのは、一人の有能な社会人です。自分の才覚で仕事をバリバリこなしている。今日すでに、明日のための手を打っている。今日すでに、明日を生きています。来週の予定がきっちり決まっている。来月の段取りをつけている。一年後のことまですでに考えている。一年後をもう生き始めている。彼の言葉は未来形です。

「わたしはこれこれの町へ行くだろう。一年間滞在することになるだろう。商売をしよう。たくさんのお金を儲けるだろう。」

わたしたちのことです。今日はこれをしよう。明日はあれを済ませなければ。そうやってきっと来年はこうなるだろう。次々と目標を立て、それを実現します。そうやって人生を形作っている。そこで忘れてしまっていることがあります。

「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことはわからないのです。」

明日はすべてが崩れ落ちていくことになるかもしれない。一寸先は闇。

これは、しかし、「一寸先は闇」というだけの話をしているのではないと思います。先のことがわからないことくらい、だれでも知っている。物資を乗せた船が沈むかもしれない。当てにしていた小麦が不作で、注文を取ったのに商品が不足するかもしれない。部下が裏切って、資金を持ち逃げするかもしれない。何が起こるかわからない。明日のことはわからないのだ。

13節の貿易商は、そんなことならよく知っています。そして、そういうことが起きても困らないように、もっと緻密な計画を立てます。保険をかける。商品を得るために複数のルートを確保する。損失が出たときのために蓄えを残しておく。そうしたことを一つ一つ実行する。将来、どんな不測の事態が起こるかわからない、などと言っているのではないのです。

次々と目標を立て、それを実現することで生きている。そうやって、明日を、次の時間を、自分の自由になるかのように、自分が好きなように使ってよいかのように生きている。自分の命が自分のものであるかのように生きているのです。自分が考え、計画し、実行する、そのすべてのことの上に、全生涯の上に死が脅かしていることを忘れている。

「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。」

わたしたちの命がはかなく、弱く、すぐに消えていくものでしかないことを忘れている。そしてもっと重大なことには、神を忘れている。自分が主人になっています。神を忘れている。そして、神なしには、わたしたちの命がどれほどもろく、みじめであるかを忘れている。そのようであってはならない。ヤコブは神に帰るようにと招いています。

「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」(15)

主の御心であれば。わたしたちは「御心が成りますように」と祈ります。この祈りを自分自身の生活にかかわるものにします。わたしの生活に御心が実現しますように。御心に従うことを追い求める。

「主の御心であれば」とだけ言って、やっぱり自分の計画どおりに自分の事業を推し進めるのではないのです。それでは御心を求めてはいない。そこでは、「御心であれば」と口で言っているだけで、実際には御心を受け入れる余地などどこにもないんです。自分の計画で自分の時間を埋め尽くしておいて、これが御心だと言ってください。これを祝福して成功させてくださいと言っている。やっぱり、神の意志ではなく、自分の意志で生きている。神の意志を自分の意志に従わせている。違います。

主の御心であれば、と言う。主の御心をひたすら求め、服従する。扉を広く開けて、飛び込んでくるものを受け入れます。明日のことはわからない。明日、主がわたしをどんなに必要としてくださるかわからない。人のことを配慮するために、思いがけず時間を食うことがあります。自分の計画はすべて狂う。主の御心であれば、そのこともしよう。神ご自身に関わることをせよと、命じられるかもしれない。主の御心であれば、そのことをしよう。

「人間はため息のように消え失せます。…瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と詩編の詩人は言いました(90:9、10)。「人間は朝の霧、すぐに消え失せる露のようだ」と預言者(ホセア)は言いました(13:3)。ヤコブも言います。「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。」(14)

頼りない霧に過ぎないわたしたちのために、そのようなわたしたちが消えていかず生きるために、主イエスは死んでくださいました。はかないため息のようなわたしたちのために、わたしたちがただ吐き出されて終わりにならないために、主イエスは命の息をわたしたちと分かち合い、それを父にゆだねきってくださいました。

詩編90編は命の日々の短さを語り、その日々をわたしたちが愚かに浪費し罪を重ねていることを語りながら、こう祈ります。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。」(12)

自分が死ぬべき者であることを、生涯の日々の短さを、そしてその日々をどれほど愚かに、罪深く浪費してしまっているかを教えてください。しかしそれだけではない。それだけでは、わたしたちの「生涯の日を正しく数えた」ことにならない。

「生涯の日を正しく数える」とは、わたしたちの生涯のすべての日々のために主イエスが死なれたことを、正しく受け止めるということです。わたしの生涯の日々のすべてに、わたしの命の隅々にまで、十字架のしるしがついていることを知るということです。ため息のように消え失せるはずの命が神の命としっかりと結びつけられています。

若くして召された神学生の死も同じことを語っています。もし主イエスがおられなければ、主イエスを抜きにしてこの死を見るならば、まことにはかない、霧のような命です。しかし主イエスにあっては、たしかに神の御手の中に保たれている命です。主の御心によって生きた。神の召しに応えて、全力で献身して生きとおした。そして神の御心によって地上の命を終えました。

「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(17)

あなたへの主の御心があります。主が期待していてくださることがあります。それこそが、自分がなすべき善でありましょう。

あなたが愛を注ぐべき相手がいます。あなたが福音を届けるべき相手がいます。あなたが心を低くして仕えるべき相手がいます。そのことに尽くすことが、またあなたがなすべき善でありましょう。勇気をもって声を上げること、志をしっかり保つこと、限りのない忍耐に生きること、そうしたことがなすべき善であるかもしれない。自分の事業を自分のためにではなく、主のためにすることがなすべき善かもしれない。

あなたの命に対して、神はもっと大きなことを期待していてくださいます。わたしたちは、主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしましょう。アーメン


20161016 主日礼拝説教 「主イエス・キリストと共に歩もう」 山ノ下恭二



(サムエル記上15章22節、ロ−マの信徒への手紙6章10−11節、ハイデルベルク信仰問答・問88−91)

 季刊「教会」と言うキリスト教会の雑誌の最新号に、私は「キリスト教会員の原点−洗礼の重要性−」と言う文章を書きました。洗礼を受けても、教会から離れてしまう人が多くおり、その原因は、洗礼を受ける時に自分の生活を切り替えることをしていないことが一つの問題ではないか、と言うことを論じています。このように考えたのは、私の出身教会の鹿沼教会に長く伝道・牧会した高崎隆牧師の遺稿集を編集するために、資料をまとめていたところ、資料の中に私と同世代の高校生の洗礼志願書が保存され、そこに洗礼を受ける動機が書かれていて、それを読んだことにあります。私と同世代の高校生が多く洗礼を受けたのですが、洗礼志願書には同じ内容の文章が書かれていました。

 関東教区の高校生修養会に参加してとても感激したので、洗礼を受けたい、と一様に書いてあったのです。高校生修養会がとても良かったのでしょう。その余韻が残っているうちに、多くの高校生が洗礼を受けたのです。そこには、洗礼を受けたら、教会に通い、礼拝を休まないようにします、とは書いていなかったのです。洗礼を受けたこの当時の高校生はその後、教会生活をしていません。これらの洗礼志願書に書かれてある動機のところを読んで、一緒に整理していた婦人が、「一時的な感激で洗礼を受けるから、すぐに教会から離れるのよね」「教会生活をする覚悟を持たないで洗礼を受けるからよ」と言ったのです。この言葉はとても印象的でした。
 
 洗礼を受ける、と言うことは、自分を中心にした生活から、神を中心とした生活、礼拝を中心とした生活に切り替えたことなのです。洗礼を受ける前は、自分が都合が良い時に教会に行けば良いのですが、洗礼を受けた後は、何をおいても礼拝を優先する、教会を優先する生活に切り替えているのです。洗礼を受けても自分の都合を第一に考えて行動しているならば、キリスト者としての生活に切り替えていないことになります。
 
 また、「キリスト教会員の原点−洗礼の重要性」という文章の中で、「自分が誰であるか、忘れないでね」と言う言葉を紹介しています。この言葉はかつて礼拝説教で「洗礼」について語った時に、話したと思います。この言葉は「洗礼−新しいいのちへ」第10章「思い出せ、あなたが誰であるのか」に載っています。「高校生の頃、わたしは週末になると夜ごとデ−トに出かけて行きました。そのわたしを玄関先で見送るたびに、母は重々しくこう言ったのです。『自分が誰であるのか、忘れないでね。』母が何を言おうとしていたのか、たぶんおわかりでしょう。わたしが自分の名前や住所を忘れてしまうのではないか、というのではありません。そうではなく、デートで二人だけになったときや、どこかのパーティーの真っ最中に、あるいは知らない人たちの前で、自分が誰であるのかを忘れてしまうことになるかもしれない。教えられてきた価値を見失ってしまったり、別人のようにふるまったり、それまでのわたしとはまるでかけ離れた行動をとってしまうかもしれない。母はそのように言おうとしていたのです。『自分が誰であるのか、忘れないでね』、この言葉は、家から出かけていくわたしに向かって告げられる母の祝祷のようでした。」「自分が誰であるのか、忘れないでね。」この言葉は、私たちがどのような存在であるのか、をいつも自覚しているために重要な言葉です。
 
 私たちは洗礼を受けて、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦された存在になったのです。ハイデルベルク信仰問答第一問の答えには「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」キリストのものとなった自分を自分が重んじると言うことです。洗礼を受けても、教会生活をしていないことは、洗礼を受けている自分を重んじていないことなのです。自分が誰であるのか、それはキリスト者であり、教会員であるのです。

 ハイデルベルク信仰問答は、イエス・キリストによる罪の赦しを与えられた者の生活がどのようなものであるのか、を語ります。それは、私たちの全生活が感謝の生活であることを語ります。朝起きて、命を与えられたことを感謝する、食事を与えられていることに感謝をする、そして皆さんと礼拝に集ってみことばを聞き、聖餐を受けることに感謝をする、そしてお茶を戴きながら互いに安否を問うことに感謝をする、そして教会堂を清掃することに感謝をする、そして家に帰って自分の仕事をすることに感謝をする、そして夜、休む時に感謝をする、私たちの生活はすべて感謝です。そしてそれは神に対して感謝をするのです。感謝で始まり、感謝で終わるのです。
 
 この感謝の源は、イエス・キリストによって罪から解放され、罪が赦されたことにあります。ロ−マの信徒への手紙3章23−24節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(新約p277)

 来年、2017年は宗教改革者ルタ−が宗教改革を起こして、500年の記念の年になり、世界各地で記念行事があります。ルタ−は、詩編、ロ−マの信徒への手紙を研究していき、「神の義」と言う言葉を解明しようとしたのです。最初「神の義」と言うことを「神が正しい方」なので「自分は正しく生きなければならない」と理解していて、実際に神に対して正しく生きるように、良い行いをすることを心がけて生活をしようとしたが、できないことを経験したのです。ルタ−は詩編を研究していた、ある時、「神の義」を「神が義を自分にくださる」と解釈したところ、この言葉の意味がはっきりと分かり、光が見えてきたのです。「お父さんが自分にプレゼントを贈ってくれる」、そのことを「お父さんのプレゼント」と言うことに気がついたのです。「神の義」それは神が正しい方だから、正しく生活をする、もし、自分が正しく生きることができないのなら、神は自分を裁く、と理解していたのですが、そうではなく、神が私のために神の義、神の正しさを与えてくださる、それによって私たちが正しいと見なされる、義とされると理解することができたのです。自分が神に近づいて、神が自分の生活を見て、正しいと認めるのではなく、自分は正しく生きることができないにもかかわらず、イエス・キリストの正しい行いによって、自分を正しいと認めてくださる、ことを発見したのです。これがルタ−による「神の義の再発見」です。

 このような神の慈しみを与えられていることが私たちの生活の原点です。パウロは私たちが土の器であり、しかも壊れやすい土の器であると語っていますが、その器に神の恵みが注がれている、そのような器なのです。洗礼を受けていても、天使になったのではなく、洗礼を受ける前と同じように、肉体を持ち、弱さを抱えています。過ちを犯し、罪を犯します。神を忘れ、感謝をすることを忘れ、自分中心で、人を悪く言ったりします。神を喜ばせることよりも、自分の欲望に従うのです。そのような私たちは、悔い改め、回心が必要です。悔い改めとは神に向かって方向転換することです。神から離れた方向に向かっている、その時に、向きを変えて、Uターンして、神に向かっていくことです。
 
 私たちはこの世の価値観を身につけた人々の中で暮らしています。私たちはその価値観に影響をいつも受けているのです。お金が一番大切、自分のことが何よりも優先する、楽しければ良い、そのような世俗的な価値観に基づいて、生活している、その世界に生きているのです。そのような生活のスタイルで過ごしているならば、キリスト者であることを見失ってしまうのです。キリスト者である自分を重んじることなく、キリスト者である自分を失ってしまうのです。しかし、自分中心に生きているそのような古い自分を聖霊によって死滅させ、神に対して生きる自分を取り戻すのです。
 
 ルタ−は95箇条の提題の最初に次のように書いています。「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」私たちキリスト者の全生涯はいつも悔い改めなのだ、と言うのです。「悔い改め」とは悔やむ、後悔する、ということではありません。過去のことをいつまでも拘って悔やむ、過去のことについて、ああすれば良かったと後悔することではありません。

 神に向かって自分を置くことです。神に心を向けることなのです。それは自分の努力、決心によってできるのではなく、聖霊の働きによるのです。 普通は、人の罪を憎み、自分に罪を犯した者を憎みます。しかし、そうではないのです。自分の罪を憎む、自分が神に対して罪をもっている、そのような自分を憎むのです。神のみこころに従っていない自分を嫌悪し、神に裁かれることを恐れるのです。
 
 ハイデルベルク信仰問答・問88では、悔い改め・回心は、古い人が滅びることであり、新しい人の復活だ、と解説しています。そして問・89で、古い人が滅びることとは、心から罪を嘆き、またそれをますます罪を憎み、罪を避けるようになることである、と解説しています。
 
 私たちは言葉を通して、相手とかかわっています。どのような言葉で相手と話しているのか、と言うことはとても大切なことです。私は最近、出版された「悪意の心理学」と言う本を読んでいます。岡本真一郎と言う社会心理学者が書いたものです。会話に悪意があるか、どうか、日常のコミュニケーションの中の様々な言語活動を具体的に取り上げています。「うっかり口にする」「悪口」「公人の発言・失言」「皮肉」「からかい」「セクハラ」「クレ−ム」「クレーマー」「ヘイトスピ−チ」このような問題を取り上げて、発言の中に、悪意があるかどうか、と言う問題です。お客さんが来て、帰ってもらうために、直接話すか、別の言い方をするのか、と言う問題まで取り上げています。本人はその意図がなくても、受け取った者に正確に伝わらなくて、相手の発言に、悪意を感じることがあるのです。言葉はとても難しいものですが、相手の立場や気持ちに寄り添って、発言する、そのことができていないことを思うのです。
 
 相手が自分にひどいことを言って、傷ついたと言うけれども、自分も相手に思いやりのない言葉で語っている、そのことに気がつかないのです。自分がいかに相手に愛のない言葉を語っている、その罪を嘆き、自分の罪を憎み、罪を避けるようにすることが、古い自分が滅びることなのです。自分の言いたいことを言えば良い、と言うあり方を止めることなのです。どのようにしたら、神が喜ぶ言葉を語ることができるのか、隣人の魂を支え、慰め、励ます言葉を語ることができるのか、と言うことを優先するのです。ルタ−が「95箇条の提題」で、第一にキリスト者の全生涯が、毎日、悔い改めである、と書いてあるのは、意味があることです。神に心を向けて、自分の生活を顧みる時に、まことに自分中心に、自分を喜ばせて、自分のことしか、考えないで過ごしている、罪の毎日であることが明らかになるのです。自分の罪を心から嘆き、それをますます自分の罪を憎み、罪を避けるようになる、と言うことです。

 罪に支配されている、古い自分から、新しい人となる、それは聖霊の働きによることであって、次第に新しい人になるのです。イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちは罪から解放されて、神との新しい関係の中に入ったのです。ロ−マの信徒への手紙6章11節「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(新約p281)
 
 最初の伝道者パウロが、コリントの信徒への手紙二 5章17節に次のように語っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」口語訳聖書の訳文は優れています。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」「見よ」と指しているのです。誰のことを見よ、と指しているのか。私自身を指さして、見よ、と言っているのです。新しくなった、あなたは新しくなった、と言うのです。それはどのような新しさなのか、と言うことです。それは神のみこころに従ってよい行いをすることが、楽しくなる、その意味で新しいのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問90の答えには「キリストによって心から神を喜び、また神の御旨にしたがったあらゆる善い行いに心を打ち込んで生きる、ということです」とあります。この信仰問答の他の訳では「キリストによって、心から神を喜び、神のみ心に従って あらゆる良い行いに生きるのを 楽しみとし、愛することです。」とあります。神のみこころに従ってよい行いをすることが、楽しい、好きだ、快い、そのようになるのだ、というのです。そのことを知ると、とても窮屈になるのではないか、と思う人もいます。自分の好きなことはできなくなる、縛られてしまう、と思うのです。酒を飲んで楽しむこともできなくなる、好きな映画をいつも見ているわけにもいかない、お金を使って、気に入った洋服を買うこともできなくなるのではないか、と思うのです。

 そういう生活をしている者が、イエス・キリストによって、自分のことだけでなく、隣人のことを考えるように教えられると、自分の今の生活で良いのか、ということが問われて、窮屈になるのではないか、と思うのです。教会のある集会で食事の前の祈りで、世界には飢えで苦しんでいて食事ができない人たちが多くいることを思うことができるようにという祈りを聞いたことがあります。そのことを思うと食事もできないのではないか、と思ったこともあります。

 しかし、ご馳走を食べることは私たちキリスト者に許されないわけではないのです。たまにはご馳走を食べることは許されていることです。旅行を楽しむこともしても良いのです。しかし、それだけを楽しみにするのではないのです。神のみこころであると受け取って、自分はご馳走をやめて、質素な生活をすることもできるし、自分の持っているお金を自分のために使わないで、困難な生活をしている人のためにささげる、そのこともできるのです。それはキリスト者でそうしないといけないから、と半ば強制的にする、というのではないのです。神のみこころであると信じて、倹約して質素な生活をする、それはとても楽しい、心地よい、ということなのです。自分の気持ちに反して、我慢しながら、いやいやしているのではないのです。神のみこころに従ってしていることが、とても楽しい、喜びである、ということです。神のみこころに従って良いことをすることはとても楽しいことだ、そのようになるのが新しい人になるということです。

 私たちは自分が善いことをしようとする時に、自分の判断で、これが善いことだと自分の判断で行うことがほとんどです。そして自分は良いことをした、と思うのです。しかし、ハイデルベルク信仰問答・問91には、次のように書かれています。「善い行いとはどのようなものですか。」という問いに対して、答えは「ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のためになされるものだけであって、私たちがよいと思うことや 人間の定めに基づくものではありません。」と答えています。
 
 私はこの答えを読んで、自分は自分が善いと思うことをすれば良いと考えていたことに気がつきました。神が善いと思うことをしなければ、良いことではないことを知ったのです。特に「神の律法に従い」とあるのは、十戒に記されている一つ一つの戒めを守ることを指しているのです。ハイデルベルク信仰問答は、善い行いについて解説した後に、十戒について解説します。神のみこころを行う、それは神を礼拝し、隣人を愛する、そのことがとても心地よい、楽しい、喜びである、そのような生き方を示されています。


20161002  主日礼拝説教  「神を信じなさい」  山ノ下恭二



(詩編42編1−12節、マルコによる福音書11章20−25節)

 実りの秋を迎えています。お店に、いろいろな種類のぶどうが並べられています。少し前には、いちじくが並んでいました。

 聖書にはぶどうといちじくがよく出て来ます。ぶどうといちじくは、イスラエルで身近に見ることができ、特にいちじくは上等な果物と考えられていたと言われています。
 
 マルコによる福音書11章12−14節には、主イエスがいちじくの木を見て、実がなっていないのか、近寄って見たところ、葉のほかは何もなかった、と語られています。そして翌日、同じいちじくの木を見たところ、このいちじくの木が根元から枯れていたのを見たと語られています。

 いちじくはぶどうと同様に、あることを象徴しています。いちじくは神の民イスラエルを象徴しています。このいちじくの木に実が一つもなく、葉ばかりであった、ということはどのようなことを意味しているのでしょうか。それは神の民イスラエルが神に育てられ、養われていながら、神を礼拝せず、隣人を愛することがなく、悔い改めがない、そのような者になってしまっていると言うことです。そのことが実を結んでいないと言うことです。葉ばかりで、実を結ばない、それはイスラエルの民が神に愛されながら、神に答えようとせずに、自分中心に、自分の都合で、わがままに生きている、と言うことなのです。

 旧約聖書には、神の民イスラエルが神の民として神の言葉に従わず、神の民とは呼ぶことができない、神の民としての実質を失っていることを語っているところがあります。エレミヤ書8章13節「わたしは彼らを集めようとしたがと主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは 彼らから失われていた。」(旧約p1191)

 神の民イスラエルは神を神として礼拝せず、自分に利益をもたらす偶像を拝み、隣人を大切にしないで、自分を中心に過ごしているのです。それは、神の民としての実質を失っているのです。生まれた時から、愛をもって養い、愛をもって大切に育てたはずのわが子が、親の期待に反して、犯罪に走るワルになってしまったのです。

 旧約聖書のミカ書にも同じように、イスラエルが神の民でなくなってしまっている、そのことを嘆く預言の言葉があります。ミカ書7章1−2節「悲しいかな わたしは夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや食べられるぶどうの実はなく わたしの好む初なりのいちじくもない。主の慈しみに生きる者はこの国から滅び 人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい 互いに網で捕らえようとする。」(旧約p1457)
 
 いちじくはいちじくの木の樹液によって十分に養われているので、実を結ぶはずなのに実を結ばない、それはイスラエルの民が神に愛され、養われ、守られてきたのに、まことの神を礼拝せずに、偶像を拝み、自分の利益だけを求めている、隣人を愛することなく生活をしている、そのことを預言者の言葉によって神が告発しているのです。

 翌日、主イエスと弟子たちが、このいちじくの木のそばを通って見ると、根元から枯れていたと語られているのです。いちじくの木が根元から枯れていた、このことは何を語ろうとしているのでしょうか。これは神の裁き、神の審判を表しているのです。実を結ぶことのないいちじくの木は、主イエスが呪って根元から枯れているのです。そのような神の裁き、神の審判が実行されているのです。

 いちじくの木が葉があるだけで実を結ぶことがない、そしてこのいちじくの木が根元から枯れている、この場面で、主イエスは弟子たちに実らない者ではなく、実を結ぶように、その願いをもって弟子たちに語るのです。

 私たちは主イエスの弟子となった者です。私たちの信仰生活にとって実を結ぶとはどのようなことなのでしょうか。私たちが、主イエスからあなたは信仰の実を結んでいる、と言われるのか、それともあなたは信仰の実を結んでいない、と言われるのか、と言うことです。

 私たちは洗礼を受けて、キリスト者となり、教会のひとつの枝として過ごしています。洗礼を受けて長く教会生活をしている人がおり、教会生活の短い人がいます。教会生活が長い、短いはありますが、信仰の実が結んでいるかどうか、が問われているのです。

 信仰が実を結んでいる、それは神と親しい関係をもっていると言うことです。別の言葉で言い換えれば、神に深く信頼している、その信頼度が高いと言うことです。
 
 主イエスは、マルコによる福音書11章22節で「神を信じなさい」と語ります。皆さんは、「神を信じなさい」この言葉を聞いて、いつも自分はこの言葉を聞いている、と思うかも知れません。この言葉は聖書には頻繁に出て来る表現だと思っているかも知れません。しかし、この言葉はめずらしい表現なのです。「ただ信じなさい」と言う言い方は多いですが「神を」信じると言う表現はとてもめずらしいのです。

 神を信じなさい、この言葉を聞くと「自分」が神を信じる、と自分が主体になって、自分に重点を置いて信じることだと考えている人が多いのです。
 
 日本では「信仰」を「信心」と言う言葉と同じ意味で考えています。「信仰」を自分の側での「信心深さ」と理解しているのです。私が岡山・蕃山町教会に在任していた時に、礼拝の後で、会堂の隅で婦人たちが立ち話をしているのが聞こえてきました。どのような話なのか、聞いていました。黒住教や金光教の人たちは朝からお参りしていて信心深い、しかし、自分たちは信心深くないと言う話をしていたのです。わたしはその話を聞いていて、婦人たちが、信仰を自分たちの熱心さ、信心と考えているのだな、と思いました。同じ「信仰」と言う言葉であっても、日本で一般的に使っている意味と聖書が語っている「信仰」とはその意味は全く異なります。

 主イエスが「神を信じなさい。」と語ります。この言葉は、初めに自分が神を信じるという心の動きがあって信仰が始まるのではなくて、神に深く信頼すると言うことです。そして神が何でもできることを信頼することです。汚れた霊に取り憑かれた子を癒して欲しいと願った父親に主イエスは「信じる者は何でもできる」(マルコ9章23節)と断言されています。
 
 自分の側に信じる気持ちがあるのか、どうか、と言うことが第一に問題なのでなくて、信じる対象である「神」に重点を置くのです。信仰と言う言葉は元々、「真実」とも言い換えることができる言葉です。「神が私たちに対して真実である」「神が私たちに真実を尽くす」その信仰を戴くのです。
 
 神を深く信頼する、それが私たちの信仰なのです。神が私たちの命をかたち造り、私たちのために配慮してくださっており、私たちの罪を赦すために十字架の贖いをしてくださって、聖霊において今、私たちと共にいてくださる、その神を信頼するのです。父・子・聖霊の三位一体の神を深く信頼するのです。私たちを愛する神を深く信頼する、神に対する信頼度が高い、そのことが信仰に実りがある、信仰が実を結んでいると言うことです。
 
 私たちはいつも自分本位に考えているので、自分に良いことがあれば、神が自分に良いことをしてくれていると思ったり、自分に不都合なことが起これば、神は何もしてくれない、と思ったりするのです。自分が苦しみに遭うと、この神を信じていても良いことはないと、神から離れてしまうのです。困った時は神に頼り、苦しみがあると神から離れるのです。困った時の神頼み、苦しい時の神離れになるのです。
 
 このいちじくの木の物語は主イエスがエルサレム神殿での行動の物語、「宮きよめ」の物語を挟んで語られています。エルサレム神殿が礼拝するところであるにも関わらず、神殿の庭で商いに熱中し、自分の利益だけに夢中になっている商人たちを追い出した物語が記されています。そのすぐ後に、いちじくの木の物語が語られているのです。 

 この宮きよめの物語は、礼拝をしているようで、実は別のものを求めている姿を映し出しています。この商人たちの関心事は自分の利益にあるのです。礼拝をしていながら、自分の利益を求めている、それはみせかけの信仰にほかなりません。それは神を信じているか、と問われることです。
 
 9月11日の礼拝で宮きよめの物語の説教をしました。その時、「礼拝の心をもって礼拝に来たのか、それとも説教を聞きに来た、と意識なのか、礼拝に出席している皆さんが問われることだ」と言う説教をしました。礼拝で精神的な御利益を求めているならば、それは礼拝の心を失っていることです。信仰の実りがないと言うことです。本来、信仰者は神の視点から、神の立場から、物事を見る、それが信仰者です。自分本位で、自分の立場から、神を考えるのでおかしくなるのです。人間の立場、人間の思い、人間の感情から考えるのではなくて、神のみこころはどこにあるのか、そのことに根拠をおいて生活するのです。

 主イエスは、マルコによる福音書11章22−23節で、祈りについて語っています。信仰と祈りは一つのことです。祈りは神との対話です。神に深く信頼している者は、神にいつも祈ります。日本では言葉に出して祈る習慣がありません。洗礼を受けても祈ることが難しいと思う人は多いのです。きれいな言葉で上手に祈らないといけないから、祈りができないと思う人も多いのです。しかし、祈りは神との対話、語りかけです。

 皆さんは礼拝が終わった後に、他の人に語りかけたり、相手の話を聞きます。祈りは祈り、語りかける対象が神であるのです。神を深く信頼して祈る、それは自分の願いを叶えるために祈るのではなく、神の愛による配慮があることを信頼して祈るのです。そのような深い信頼をもって祈るのです。自分の子どもに親は何でも叶えようとする、それと同じように神は私たちのために配慮し、用意をしてくださるのです。

 信仰と祈りは一つのことです。マルコによる福音書11章23節で主イエスは「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うととおりになると信じるならば、そのとおりになる。」と語っています。信じて祈ると言うのは、全く疑わず、全幅の信頼をもって信じて祈ることです。この山はオリブ山のことであり、海とはガリラヤ湖のことです。山は動かないものです。神が山を動かすことができると信頼して祈るならば、そのことが本当に起こると言うのです。

 私たちの祈りは半信半疑で祈っている場合が多いのです。神を半分、信じながら、半分、疑っている、そのような信仰生活は、いちじくの木に葉ばかりがあって実がないのと同じです。
 
 主イエスが熱心に祈ることを語っている譬え話に「不正な裁判官」の譬え話があります。賄賂を貰うと裁判を曲げてしまう裁判官に自分のために正しい裁判をして欲しいと願う未亡人が、毎日、やって来て訴えるので、この女性のために裁判をすると言う話です。必ず山が動くと信じて祈るならば、そのとおりになるのです。

 山、それは圧倒的に大きく、動かない存在です。私たちは山のようにたちふさがる問題に直面します。自分の力ではどうすることもできない問題に直面するのです。そこで望みを失いそうになります。

 しかし、神は山を動かすのです。それは、どのようなことでしょう。それは私たちを深く愛して下さることでよく分かります。神が自分の外に出て、肉体を取り、主イエスと言う人間となり、私たちの罪を取り除くために、十字架に架かり、死んでよみがえる、そのことはあり得ないことであり、それは山を動かすような神の行動なのです。

 信仰は実る、実を結ぶと言うのは、どのようなことなのでしょうか。それは愛の関係を持っているということでしょう。洗礼を受けて、キリスト者であるけれども、いつも人と衝突する、人の過ちを赦さない、人との関係が悪いのは、信仰があるのか、と言うことです。自分中心で、自分のことばかり主張して、愛のない人だ、と言うのは信仰の実りがないと言うことです。

 愛の生活は広く、大きいものです。それは、自分を愛してくれる者を愛する、その範囲で愛するのではなく、自分に対して罪を犯した者を赦すことです。
 
 主イエスは、11章25節で「また立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたを赦してくださる。」と語っています。自分に対してひどいことをした、ひどいことを言われた、そのような時に恨むのです。その恨みを晴らしたいと思います。私たちがそのような恨みをもつことがあることを主イエスはよく知っていながらも、「赦してあげなさい」と語ります。

 自分に対して過ちを犯した人を赦すことほど、難しいことはありません。自分をみんなの前で罵倒し、侮辱した者を赦すことができるのでしょうか。みんなと計って、自分を悪者として扱った者を赦すことはできないのです。この世界では恨みを晴らすために、復讐をするのです。殺人事件の多くは恨みによる犯行です。赦し得ない者を赦すのですから、赦す者が大きな痛みを経験するのです。
 
 「何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と主イエスは私たちに語ります。そのように語ることができるのは、主イエスが神に敵対して生きている、いわば敵のような私たちの罪を裁いて復讐することなく、敵である私たちを愛して赦してくださったからです。私たちが赦されるように、主イエス・キリストが、私たちの罪をすべて担って、御自身の身体を犠牲として神にささげて神の審判を引き受けてくださるのです。

 私たちの信仰が実を結ぶ、とはどのようなことでしょうか。それは神を深く信頼する、その信頼度が高いことです。神に全幅の信頼を置いて祈ることです。そして愛の生活が豊かになることです。相手の過ちを赦すことができる、そのことです。

 私たちはこれより、聖餐を戴きます。神が赦し得ない私たちを赦して、正しい関係をもたらすために、イエス・キリストを罪の贖いとしてささげてくださった、その恵みにあずかります。私たちの罪のために肉を裂き、血を流して愛してくださる、聖餐を受けることによって目に見えるイエス・キリストの愛を実際に経験しましょう。


20160925  主日礼拝説教  「感謝に生きよう」  山ノ下恭二


 (詩編92編1−16節、ロ−マの信徒への手紙12章1−2節、ハイデルベルク信仰問答・問86−87)

 昨日、東京愛隣会理事会があって、鹿沼愛隣福祉センタ−に行って来ました。この東京愛隣会は、種田あいと言う女性によって設立されました。種田あいさんは戦後の混乱の中、上野に近い貧しい人々が住んでいる地域で相談事業を始め、そして上野にいる戦災孤児のための住む家を提供し、その後、足立区の東保木間に愛隣保育園を設立して、大きな働きをされました。既に亡くなりましたが、その事業は、鹿沼の愛隣福祉センタ−に引き継がれています。鹿沼愛隣福祉センタ−は、知的障がい、精神障がい、身体障がいの人たちのための施設を運営しています。

 種田あい遺稿・記念文集「愛には恐れなし」と言う本には、種田さんが、幼い頃の出来事が書かれています。「幼いころ、たんぼの中の池に落ちて溺れ死にそうになった時、叫び声を聞いて、駆けつけた近所の少年によって救い上げられました。奇跡的に救われた感謝が、一生種田あいさんの脳裏を離れず、隣人愛を掲げた生涯を貫かれた」と書かれています。

 たんぼの中の池に落ちて溺れ死にそうになった時に助けられて救われた、そのことを忘れずにいた、そのことを原点に持っていて、隣人のためにささげて生きる歩みであったと書かれていたのです。そのことだけではなくて、種田あいさんは、キリストによって救われた、そのことが隣人愛の実践の原点であったのです。理事会で愛隣保育園に行くと、いつも幼児さんびかが歌われ、幼児が聖話を聞いていてキリスト教の精神によって運営されてきました。種田あいさんが事業を始め、継続していく時に、様々な困難なことがあったに違いないのですが、幼い時に救われ、キリストによって救われた、そのことが原点にあって、そのことを感謝して事業を進めることができたのです。

 日本語の中で、美しい言葉の一つに「ありがとう」と言う言葉があります。「ありがとう」は、「有り難し」と言う言葉から来ていると言われています。「有ることが難しい」と言う意味です。私たちが「ありがとう」「ありがとうございました」と言う時はどのような時でしょうか。他の人から親切にされた時、お世話になった時にありがとう、と言います。少し前のことですが、大学でひとりの学生が授業が終わると、毎回、私に「ありがとうございました。」と言って教室を出て行くので、感心したことがあります。親の躾が良いのか、本人の心がけが良いのか、分かりませんが、とても気持ち良かったのです。 

 しかし、自分に親切にしてくれる時にだけ、お世話になった時にだけ、「ありがとう」と言うけれども、そうではない時には、「ありがとう」と言わないのではないでしょうか。
 
 主イエスは山上の説教で「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」(マタイによる福音書5章46−47節 新約p8)と語っています。自分に利益がある時には感謝の気持ちを表し、身内や親しい人には挨拶をするけれども、そうでない場合は感謝をすることはないし、挨拶をしないではないか、と言うのです。それはキリスト者でなくてもしていることだと語ります。自分を愛してくれない人でも、愛し、知らない人でも挨拶するのがキリスト者ではないか、と語るのです。キリスト者は、この世の常識を突破して行く生き方、倫理が求められているのです。この世の人と同じような生き方をしているならば、それはキリスト者に値いしないのです。自分に利益があった時にだけ感謝する、と言うのではなくて、自分に利益がなくても感謝できる者となることが求められているのです。

 「感謝」と言う言葉を聖書で調べてみると、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙一 5章18節には「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(新約p379)と語られています。「どんなことにも」と語られています。この言葉を聞いて疑問を持つのです。「どんなことにも」感謝はできない、と心の中で思うのです。自分の思い通りに進んでいる時や、相手が自分の期待通りに動いている時には感謝の気持ちが湧いてくるけれども、自分の思い通りにならない時や、自分に利益にならない時や相手が自分の期待通りに動いてくれない時には、感謝できないのです。感謝できる時もあるけれども、感謝できない時がある、と思うのです。

 その原因は感謝と言うことが、自分を中心に考えているのです。「自分にとって」良いかどうか、で感謝する、感謝しない、と言うことになるのです。「自分にとって」と言うことを前提に「感謝」を考えると、感謝をしなかったり、感謝をしたり、と言うことが起こるのです。
 
 しかし、聖書は神との関わりで、私たちの生活を考えているのです。神との関わりで「感謝」を捉えると、私たちの生活の姿、スタイルは全く異なるのです。聖書は、神からの視点から、神が見ている、その視点から、私たちの生活を問い直すのです。神のみこころと言う視点から「感謝」を問い直すのです。
 
 ハイデルベルク信仰問答は三つの部分に区分されています。第一に「人間の惨めさ」について解説されています。神に造られた私たちが、罪を犯し、神から離れて惨めな状態にあることが解説されています。第二に私たちの救いについて解説されています。その救いとは罪からの救いです。神がイエス・キリストにより私たちの罪の身代わりになって、罪の贖いとなってくださったことを解説しています。神と同じ方であるイエス・キリストが命を捨てて、犠牲をささげてくださったのです。ハイデルベルク信仰問答は使徒信条によって、神が私たちにしてくださったことを詳しく解説をしています。

 そして第三に、罪から救われた私たちが感謝の生活をするのです。神御自身のいのちを私たちのためにささげてくださる、それほどまでに私たちの存在を大切にし、私たちを愛してくださった、その愛に対する感謝を言い表すのです。
 
 ハイデルベルク信仰問答は、その三部に「感謝」について書いてあります。具体的に十戒と主の祈りを解説しています。「感謝の生活」とは私たちキリスト者の生活なのです。十戒は神を愛し、隣人を愛する生活を目指しています。主イエスが教えてくださった主の祈りは私たちの祈りの生活を導いています。教会の生活、キリスト者の生活は、まず礼拝の生活ですし、祈りの生活であり、隣人愛の生活であると言うことなのです。

 本日の礼拝で、ロ−マの信徒への手紙12章1−2節を読みました。この12章から、基本的なキリスト者の生活が語られています。

 12章ではまず、キリスト者であることは、礼拝を第一にして、礼拝を優先することであると勧めます。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 キリスト者がよいことをする、それはまず礼拝をすることであると語ります。
キリストの十字架の贖いによって救われた者は、何よりも礼拝を優先するのです。良い行い、それはすぐに隣人愛を思い浮かべるのですが、良い行いはまず、礼拝をしていく中で生まれてくるものです。

 礼拝、それは神を畏れて、神の前で悔い改めることです。礼拝を基点として、私たちの業を始めないと、それは人間の業になってしまうのです。

 私は今まで二つの社会福祉施設の理事として関わってきましたが、その経験から学んだことがあります。キリスト教社会福祉施設なのですが、職員がシフト制なので、キリスト者である職員が教会の礼拝に出席することができないことが多いのです。礼拝をしていないと、自分のしていることが人間の業になってしまうのです。自分は良い働きをしているという意識が出て来るのです。一所懸命にすればするほど、自分が良いことをしていると言う思いが出て来るのです。礼拝をしていかないと神を畏れ、神に自分の心が砕かれる、悔い改めると言うことがなくなるのです。良い行いを自分がしているという意識を持っていると、していない人を批判することがあるのです。

 よい行いは神に感謝するところから始まります。私たちのために神が犠牲をささげて、私たちの罪のいけにえとなってくださったのです。このことをどれだけ私たちは信仰をもって認識し、自覚しているか、ということです。そこに感謝の原点があります。そうでないと、心からの感謝にはならないのです。神の恵みを抜きにすると、自分と他の人との関係の中でしか、感謝はないのです。自分にとって利益になれば感謝ですし、自分にとって不利益であれば、感謝はないのです。
 
 私が高校生の時に鹿沼教会の会堂の清掃は、一月に一度高校生が土曜日の午後、清掃奉仕をしていました。いつも3、4人の高校生が土曜日の1時に集まって掃除をしていました。ある時、私が教会に行って掃除を始めて2時になっても誰も来なくて、ひとりで掃除を終えたのです。その時に自分が掃除をしているところを誰かが見ていて「えらいね」と言ってくれれば良いな、と思いました。この時は恵みに対する感謝というのではなくて、自分が掃除をしていると言う意識でした。
 
 しかし、後から考えると、教会の奉仕は神に対する感謝なのであって、見返りを求めるものではないのです。感謝として奉仕をしているので、みんなによくやったね、えらいね、と言われなくても、ただ神が自分を生かしてくださったことへの感謝なのです。私たちはいつでも感謝なのです。「どんなことにも」感謝なのです。私たちが神から恵みを戴いているからです。

 自分に命が与えられ、罪が赦され、生かされている、そのように信じる者はいつでも、どんなことにも感謝することができるのです。

 本日の礼拝で詩編92編には、詩人が自分にとってどうであるか、と言うことから離れて、神を仰ぎ見た時に感謝を言い表すことができたと歌うのです。

 神が自分に対して愛をもって配慮して下さっていることを感謝しているのです。「いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは」(詩編92編2−3節)神に心を向けて仰ぎ、神の御業を見るとき、感謝の言葉が出て来るのです。 

 自分にとってうれしい時には神に感謝をすることはあるでしょう。私たちは自分にとって良いことがない時に感謝できるでしょうか。自分が苦難を受けている時に感謝できるでしょうか。自分が理不尽な扱いをされている時、不条理の中に自分が置かれている時に、感謝することができるでしょうか。
 
 9月23日(日)に祈祷会で旧約聖書のヨブ記42章のところを学びました。ヨブ記は正しい人であるヨブが、家族を失い、ヨブ自身が病に罹り、苦しみます。3人の友人はなぜヨブが苦しむのか、それはヨブが罪を犯したから、その結果として、苦しみと言う罰を受けていると説得します。その後、青年のエリフが、神の立場を弁護して、ヨブに、ヨブは気がつかないけれども、神はヨブに配慮してくれている、と話すのです。
 
 ヨブ記36章15−16節(旧約p823)「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し 苦難の中から出ようとする気持ちを与え 苦難に代えて広い所でくつろがせ あなたのために食卓を整え 豊かな食べ物を備えてくださるのだ。」 そして、雲の中から光が少し射してくるように、はっきりと光を見ることができないけれども、雲の向こうには確かに光がある、と言うのです。ヨブ記37章21−24節(旧約p826)「今、光は見えないが それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと 北から黄金の光が射し 恐るべき輝きが神を包むだろう。全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。」
 
 そしてこの苦難はヨブに神が苦難を通して人生を学ぶ機会になるのだ、と言うのです。順調に何でもうまく行くと、学ぶことがないけれども、失敗したり、うまくいかなかったりすると、それをきっかけにして、学ぶようになるのです。後から考えると、苦しむことは良いことだ、と語るのです。

 自分が苦難を受けている時に神に感謝する、ことはできないでしょう。しかし、神のみこころが分からなくなり、信仰を失いそうになる、そのような経験を通して、神が自分に教えようとしているのだ、と受け取ることができるならば幸いです。「試練」「試み」を通して神は私たちに教えようとされているのです。そして後になって、感謝として受け取ることができれば、幸いです。

 埼玉にかつて、視覚障がいの牧師がいました。ある年の埼玉地区の全体修養会の礼拝でその牧師が奨励をしたのですが、神学校の学生の時には、ぼんやり人の顔がわかったそうですが、今は全く見えないそうです。自分の前にいる人の顔が見えないし、何も見えないので、自分は牧師をしていて良いのか、と悩んだ時があったそうです。何も見えない、それは本人にとってとても辛いことであったと思います。しかし、この牧師は聖書のみことばに励まされてきたのだから、そのことに感謝して、みことばを伝えて行くことを決断したと話したのです。神に救われて、神からの使命を与えられて、伝道する志を与えられたのですが、思いがけなく、目が不自由でものを見ることができなくなった、しかし、そのような状況になっても、感謝してみことばを伝えて行くのです。

 自分にとって良いことがある時だけ、感謝すると言うのではありません。私たちに命を与え、必要なものを配慮して用意してくださり、イエス・キリストによって罪を赦され、聖霊において今も共にいてくださる神に感謝し、その感謝を言い表すのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問86には、キリスト者がなぜ、善い行いをしなければならないのか、と言う問いに対して、次のように答えています。

 「キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと 生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して 全生涯にわたって神に感謝を表し この方がわたしたちによって讃美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰を その実によって確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによって わたしたちの隣人をもキリストに導くためです。」


20160918  主日礼拝説教  「ことばのいのちは愛」  山ノ下恭二


(箴言12章25節、エフェソの信徒への手紙4章29節) 

 毎朝、教会の前を犬を連れて散歩している人が通ります。時々、犬を連れた人が、私に「おはようございます」と言います。私も「おはようございます。ずいぶん、涼しくなりましたね」と言います。私たちは言葉をもって挨拶したり、自分の気持ちを伝えます。犬は「ワン」と泣いたり、身振りで自分の気持ちを伝えますが、「言葉」を持っていません。私たちは「言葉」をもっています。「言葉」によって自分の気持ちを伝えたり、「言葉」によって相手の考えや気持ちを知ることができます。
 
 しかし、「言葉」によって気持ちや考えを相手に伝えることが難しいことを経験します。言い間違いをしたり、言葉が足りなくて、相手に正確に伝わらないことがたびたびあります。相手の言葉を十分に理解できなくて、話が通じないことがあります。なにげない一言で、仲が良くなったり、仲が悪くなったりすることもあります。なにげないひとことで、「気持ちが楽になった」「励まされた」と思うことがあります。なにげないひとことで逆に「ひどいことを言われた」「嫌な気持ちになった」と思うことがあります。身近な人の、なにげない言葉で、元気になることもありますし、また逆に、なにげない一言でやる気をなくしたり、打ちのめされることもあります。
 
 「がんばれ」「がんばってください」「がんばってね」と自分が人に言ったり、相手から言われた人も多いと思います。「がんばってください」と言われて、ある人は、自分を励ましてくれているんだな、と受け取ることができる時があります。しかし、逆に反発する時もあります。「こんなにがんばっているのに、がんばれなんて、これ以上、がんばれないよ」と言う時もあるでしょう。善意で言っているつもりでも、相手はそのように受け取らない時もあるのです。  
 私たちは、言葉をもって相手と話したり、伝えたりします。人に関わる時に、言葉によって関わります。その言葉はいのちを持っているのです。

 ある時、テレビ番組で東日本大震災のことが話題になっていました。大きな津波が来たので、放送で町の人にそのことを伝えたのですが、ある町では普通の言い方で「津波が来ましたので、早く逃げてください」と放送したところ、逃げ遅れて、多くの人が亡くなったそうです。しかし、別の町では「すごく大きな津波だ。今、すぐ、早く逃げよ」と必死に叫ぶ放送をしたので、放送を聞いた町の人は「これは大変だ」と思って早く逃げたので、亡くなる人が少なかったと言われています。言い方で津波で亡くなった人が多かったり、少なかったりしているのです。言葉にはいのちがあり、相手のいのちを生かしたり、相手のいのちをだめにする力を持っています。

 言葉は使い方によって相手を生き生きとさせる力をもっています。逆に言葉は使い方によって相手を殺してしまう、深く傷つける力を持っています。相手を思いやり、相手の立場を思って語る言葉は相手の存在を生かし、相手の心を温め、支える力となります。逆に、自分の言いたいことしか言わず、相手の立場や思いを考えずに投げつける言葉は刀やナイフのような刃物のように、相手の心を深く傷つけ、生きていく力を失わせるものとなります。

 言葉は、その人の人格を表すものです。人の悪口ばかり言い、相手を否定的にしか言わない人は、人格が低く、未熟で、充実した毎日を送っていない人である、と言われます。相手に対して暖かく、相手を生かし、肯定的な言葉を語る人は、人格が高く、成熟しています。

 私は、これまで、多くの人の暖かい言葉によって、心が支えられて来たと思います。私が小学校4年の時に、父親が交通事故で、突然、亡くなりました。教会で父親の葬式があったのですが、泣いて悲しんでいる私に教会のある人が「神様が、いつも守ってくださるから、大丈夫」と言ってくれて、悲しんでいる私にとって大きな慰めとなり、その言葉が自分を支えてきたのです。

 かなり前のことです。私は心臓の具合が悪いということで、心臓カテ−テル検査を受けました。検査と言っても1週間、入院する検査です。検査で何か事故があっても病院の責任はありません、と誓約書を書くのです。手術室で、細い管(くだ)を体内に入れて、発作を起こしたり、薬を入れて体内を熱くしたりする検査です。今まで、入院して検査を受けた経験がなかったので、検査の時間が近づいて、自分はどうなるのだろうかとだんだん不安になってきました。親しくなった同じ病室の人に、自分の不安をうち明けたところ、自分も同じ心臓カテ−テル検査をかつて受けたけれども、思ったより、痛くなかったから、安心して、大丈夫だ、と言ってくれたのです。それで、安心して検査を受けることができたのです。もし、その人が「とても痛くて、辛い検査ですよ」と言ったら、検査を受けたくないなあ、と思います。 
 
 本日の礼拝で、朗読された、エフェソの信徒への手紙4章29節には、次のように書かれています。「悪い言葉をいっさい口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造りあげるのに役立つ言葉を必要に応じて語りなさい。」そのように書かれています。口語訳には「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。」とあります。昔の訳では「悪しき言を一切なんじらの口より出すな。ただ、時に随ひて人の徳を建つべき善き言を出して、聴く者に益を得させよ。」 相手が聞いていて、相手が気持ちが和んだり、慰められる、励まされる、役に立つ、相手が聞いて得をしたと思うような言葉を語りなさい、と言うのです。
 
 しかし、私たちはいつも、相手の心を慰め、励まし、役に立つ言葉を語っているか、と言うと、そうではありません。むしろ、相手の心を傷つけるような言葉を語っていることのほうが多いのです。 
 
 私は「山ノ下」と言う苗字です。山下と言う苗字は多いのです。日本で多い苗字は、鈴木、佐藤、高橋、伊藤、田中、と言う名前です。山下は26番目に多い苗字です。鹿児島県に多いそうです。山ノ下と言う苗字を聞いて、ほとんどの人は「めずらしい苗字ですね」と言いますが、ある時、「山ノ下、変な苗字ですね。初めて聞きました。」と言われました。「変な苗字ですね」と言うので、「変な」と言う言葉にかちんと来たのです。何気ない言葉ですが、嫌な気持ちになりました。
 
 なぜ、私たちは悪い言葉を言ってしまうのでしょう。それは、私たちには相手を大切にできない心があるからです。悪い心があるからです。自分のことが一番、大切なので、相手のことを大切にできないのです。自分を中心にしているので、相手の立場や心を思うことができないのです。
 
 話すのに、良い時があります。話さないほうが良い時があります。話して良い場所があります。話してはいけない場所があります。話して良い人がいます。話してはいけない人がいます。その判断はなかなか難しいのです。

 私たちはどうしたら、相手を慰める、励ます言葉、相手に役立つような言葉を語ることができるのでしょうか。

 それは、私たちが礼拝に出ることによって良い言葉を身につけることができます。聖書には、神様に良いものとして造られながらも、神様から離れてしまい、自分の好き放題なことをしてしまう、その私たちを神様はイエス・キリストによってその罪を引き受けて赦して下さったことが語られています。先週、学校で友だちにひどいことを言ってしまった、家で心ないことを言って傷つけてしまった、と思うことも多いのです。しかし、礼拝の説教で神様が私のことを覚えていて、自分のような、自分のことしか愛さない者を愛してくださる神様の言葉をいつも聞くことです。自分のことを愛してくださるのだから、いつも出会う人のことを思いやって、相手を慰め、励まし、役に立つ言葉を語ろうと思うのです。相手が聞いていて、得をした、と言う言葉を語ることができるのです。

 そして聖書を一所懸命、読んで行くと良い言葉を身につけることができます。聖書を初めから終わりまで、創世記からヨハネの黙示録まで、読んでいくと、神様はどんな時にも愛してくださっているんだ、と言うことが分かり、愛の言葉を相手に語ることができるのです。
 
 「その人を造り上げるのに役に立つ言葉」、その人の魂を支え、その人に生きる力を与える言葉です。そして、「必要があれば」、「必要に応じて」語ることが勧められています。私が神学校を卒業する時に、ある教師から「牧師は、言葉を語るものだ。言い過ぎてはいけない。言い過ぎるとそれをうち消すことができない。言い足りないぐらいが良い。言い足りなければ、補うことができる。」と言われたのです。

 私は、相手に全く言葉をかけない、語らないほうが良い場合もあることを経験しました。黙って、祈っているほうが良い場合もあります。ある時、ある母親が自分の子どもを失い、教会で葬儀を行いました。その母親は子どもを失った悲しみを持ち、自分の未来が堅い扉で閉ざされているように思い、喪失感に打ちのめされていました。子どもを失って1年を過ぎて、母親が私にこういうことを話してくれました。「先生が私にいろいろ聞かずにそっとして置いてくれて良かった」と言ったのです。語らないことも、そっとしておくことも、その人を慰めることがあるのです。

  私たちは礼拝に出席し続けて、神様の恵みの言葉、魂を支える言葉をいつも蓄えていると、「聞く人に恵みが与えられる」言葉を語ることができようになるのです。



20160911  主日礼拝説教 「神の家は礼拝する家」  山ノ下恭二


(イザヤ書56章1−8節、マルコによる福音書11章12−19節)

 夏の休暇で、8月21日(日)に都内にある教会の礼拝に出席しました。他の教会で主日礼拝を守ることは一年に一度なので、楽しみにして行ったのです。いつも説教者として、何をどのように語るのか、考えているので、その教会の牧師がどのような説教をするのか、関心をもって聞いたのです。私は説教を聞きながら、そういう語り方では聞いているほうは分からない、と思ったり、そういう話の展開もあるのだなあ、と思って聞いたのです。時計で計って、丁度、30分の説教でしたが、説教を聞いて、参考になることが多くありました。いつも講壇で説教者として説教しているけれども、会衆席で聞くと、会衆に届くために説教の言葉をよく考えて、語らないといけない、と言うことを教えられました。

 今まで他の教会の就任式、会堂建築の献堂式の説教を聞く機会があり、礼拝に出席した後に、今までは、説教について、とても良い説教であった、あるいは、物足りないと言う感想を持つだけでした。

 しかし、8月21日の礼拝を終えて、私はこういうことを思ったのです。それは私への問いであったのです。自分は礼拝に来ていると言いながら、説教を聞きに来ている、という意識であったのではないか、と言うことです。礼拝に出席しているけれども、果たして自分が礼拝をする、と言う自覚をもって教会の礼拝に出席してきたのだろうかと思いました。もっぱら、説教を聞きに来ているのであって、礼拝をしに来ている、と言う意識や自覚があまりないことに気づきました。つまり礼拝の心をもって、礼拝に来ていなかったことに気づいたのです。そして今まで、自分は礼拝をしてきたのだろうか、と思ったのです。改めて、私は、礼拝することとは、どのようなことか、そして、礼拝の心を持って礼拝するとはどのようなことか、ということを考え始めたのです。

 皆さんは今日、教会に来られたのは、礼拝をするために来た、と言う意識を持ってきたのか、それとも説教を聞きに来た、どんな説教をするのか、そのことに関心をもって来たのか、ということです。このことは私たちにとって真剣な問いです。

 本日、この礼拝で読んだマルコによる福音書11章12−19節、特に15−19節には主イエスがエルサレム神殿から商人たちを追い出すことが記されています。エルサレム神殿の異邦人の庭で、神殿でささげる動物が売られ、神殿に献げる献金をユダヤの貨幣に両替することが行われていました。遠い異邦の国からやってきたユダヤ人、異邦人が神殿に行って、ささげものをする時に必要な動物を提供し、貨幣を用意して便宜を図っていたのです。
 
 11章15節で「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」と語られています。主イエスは、柔和で穏やかな方なのに、このような激しい行動をされたのです。マタイによる福音書では「そこで売り買いをしていた人々を皆、追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」と書かれています。これは思い切った実力行使です。異邦人の庭は神殿の内部にあり、終日、市場が開かれ、そこでの商いは神殿当局によって認可され、神殿礼拝や犠牲のために必要な物件の取り扱いが許可されていました。神殿内では、ユダヤの硬貨しか、通用しなかったので、諸国からの巡礼者は両替しなければならなかったのです。また、両替人は毎年、神殿に納める納入金をユダヤ硬貨に両替することも行っていたのです。また鳩は産後のきよめ、ハンセン病者のきよめなどのために、貧しい者がささげる、ささげ物でした。
 
 ところが、商人たちは両替や鳩を売る時に、法外な手数料を取っていたのです。神殿に入るために、両替がおり、鳩を売る者がいることはとても便利であるのです。しかし、神殿でそのようなことをしている人々の心、またこのような商取引を許可している神殿の祭司たちの心、それが神殿の礼拝に向けているのではなく、商いであり、儲けることであることに主イエスは我慢できなかったのです。この神殿と言う場所はどのような場所であるか、わきまえていないことに主イエスは強く抗議をしているのです。この神殿で毎日、自分の商いにだけに関心をもって、神を礼拝することに少しも関心を示さないことに行動をもって実力行使したのです。

 私は1969年4月に東京神学大学に入学しました。この年の1月に東大の安田講堂で、学生たちと機動隊との攻防があり、大学紛争は終わったと思いましたが、1969年8月から、万国博覧会キリスト教館の出展を巡って、紛争が始まりました。印象に残っているのは7月に東京神学大学の礼拝堂で新左翼系全共闘のキリスト者学生の集会が開かれて、講演者がこの宮きよめの物語を引用して、真理のためには暴力を行使しても良いのだと言う話をしていたことです。ある人はキリスト教雑誌で「ゲバルト・イエス」と言う文章を書いています。しかし、この宮きよめの物語は、暴力を肯定しているのではありません。むしろ、この物語は神殿がどのような場所で神殿で何をしなければならないのか、ということが中心であるのです。

 両替人や商売をしている人々が自分の利益を考えて、神殿を利用していることが大きな問題なのです。自分のため、自分の利益を第一に考えて、神殿にいることが問題なのです。この説教の初めに、私は他の教会の礼拝に出席をした時にどんな説教をするのか、そのことに関心をもって礼拝に出席したと言いました。それは間違っているとは言えないかも知れません。しかし、それだけで礼拝に行くと言うことで良いのか、と言うことです。説教が良くなければ行く気持ちもなくなるでしょう。しかし、私たちは説教を聞いて、今日のは分かりやすかった、つまらなかった、で終わるのが礼拝なのか、と言うことです。

 それでは神を礼拝するとはどのようなことでしょうか。

 十戒の第三の戒めに「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。むだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と書かれています。この戒めは、神の名を唱えて、自分の都合で神を呼び出し、自分の願いを叶えるために神に要求することをしてはならないと言うのです。それは神を自分が利用して、自分の利益だけを考えてすることで、それはまことの神を礼拝することにならないと語るのです。自分が困った時にだけ、頼み事を電話してくる人がいます。自分の願ったようなことに答えないと、見向きもしないのです。自分の利益を考えて、神を利用してはならないとこの第三戒は戒めています。

 東京神学大学で竹森満佐一牧師が「礼拝−その意味と守り方」というパンフレットを書いています。短い本ですが、とても良い本です。この本の中で特に「誰のための礼拝なのか」と言うことを論じています。一週間の信仰生活のために礼拝が必要である、と考える人が多い、「しかし、こういう考えからいえば、礼拝は、何かのためにあるものとなって、礼拝そのものに意味があるとは思えないことになってしまうと思うのです。実際、礼拝をする人を見て、礼拝そのもののために、すなわち、神を拝むために、礼拝をしているのか、何かほかのことのために、礼拝に来ているのか分からないように見えることがありましょう。親しい人に会うために礼拝に集まるなどと言うことは、正しくないと言われるでしょうが、事実はそれとあまりちがわないことも少なくないと思われることがあるのです。それもこれも、実は、礼拝が何のためにあるかがはっきりしていないからだと思います。礼拝は、神礼拝のためにあることが理解されていないからではないかと思います。」

 礼拝は自分のためにあると思って出席していると、神を拝む、神を礼拝することを忘れてしまうのです。「自分にとって」どうであるか、と言うことから私たちは離れることができない、そういう罪を私たちは持っているのです。自分の問題を解決するために礼拝に来る、自分の気持ちに合うからこの説教が良い、と言うことになり、礼拝する心を失い、礼拝すると言う姿勢を失ってしまうのです。礼拝の時間から考えれば、礼拝の中で説教の時間が一番、長いので、説教は一番、重要な部分を占めています。しかし、説教の目的は、会衆の要求に応え、満足させるためにあるのではないのです。

 礼拝の本質をはっきり語っているところがパウロの手紙にあります。コリントの信徒への手紙一 14章23−25節です。(p318−p319)ここには、教会で礼拝をしていた時に、教会に初めて来た人や教会に来て間もない人が礼拝に出席して、どのようになったのか、を語っています。それは彼らの罪が明らかになり、その罪が指摘されて、神を礼拝し、私たちのうちに神がおられると言う告白をすると言っているのです。礼拝の核心をここで語っているのです。14章24−25節に「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます。』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」と語られています。
 
 礼拝する、それはただ説教を聞きに来る、牧師の話を聞きに来るということではなくて、神がここにおられる、ここに神が臨在しておられると言い表すことなのです。礼拝で説教を聞いて、自分に非がある、自分に過ちがある、自分の罪が指摘され、自分の心の中にやましい心があり、神に反抗し、人を憎む心があることがはっきりして、そのことを認めて、まさに神がこの礼拝している中に臨在している、ということを告白せざるを得ないと言うのです。

 礼拝に来て、説教が分かりやすかった、難しかった、と言うことで、終わるのではなくて、自分がどんなに罪が重いのか、そのことを深く知り、悔い改め、キリストの救いによってしか救われないと心の内に湧き出てくる、そのようなことが起こるのが礼拝です。

 私は東京神学大学大学院で修士論文を書いたのですが、その論文はヨハネによる福音書について書きました。松永希久夫先生が指導教授でした。ヨハネによる福音書4章には主イエスとサマリアの女性との対話が語られています。このサマリアの女性は、自分の過去をひきずりながら、主イエスと出会ったのです。井戸の傍らで、主イエスは彼女の過去を暴き出して、このサマリアの女性は、悔い改めて、礼拝し、自分の村に帰って行くのです。主イエスはこの女性に随分、厳しいことを語っています。ヨハネによる福音書4章16−18節には次のように語られています。「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『夫はいません』とは、まさにその通りだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。』」この女性が隠しておきたい、そのことを指摘されることに痛みを感じることを主イエスははっきりと言われるのです。傷口にメスを入れて、切開すると痛みを伴うように、主イエスに自分が引きずってきた過去を暴かれて、痛みを覚えたのです。そこで自分の罪が暴かれ、自分の罪を受け入れて、悔い改めをするのです。そしてこの女性はそこから立ち直ることができたのです。それは主イエス・キリストとお会いしているからです。自分の罪があばかれ、罪を指摘されて、神の前に立つことができない、その時に、主イエスがその罪を贖ってくださることを知ったからです。

 エルサレム神殿で行われていた礼拝の中心は大祭司が、罪の犠牲として小羊を献げることでした。そのことを毎日、していたのです。その神殿で主イエスはこの場所が礼拝の場所であることを明らかにしようと実力行使したのです。

 主イエスは神殿から商人たちを追い出すと言う実力行使をした後に旧約聖書のみことばを引用しています。11章17節「そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」この引用は、イザヤ書56章7節後半の言葉からです。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」「わたしの家」とは直接的には、ここではエルサレム神殿のことです。

 現在の私たちにとっては、教会のことです。教会は礼拝をし、祈るところです。商人たちは商いをしていく中で、礼拝する場所であることを忘れて、自分たちの儲けのために、自分たちの生活のために、自分たちの利益のために、神殿があると勘違いをしてしまうのです。私たちは教会に来て、特別に儲けようとは思ってはいないと思います。しかし、自分のことを第一に考えると、自分のために、自分の生活のために、教会がある、礼拝があると考えてしまうのです。自分のことを第一にして礼拝を捕らえ、礼拝をする心、礼拝する姿勢を失ってしまうのです。

 エルサレム神殿があるのは、神を礼拝するために建てられたのです。神に対して、神から離れて、罪と過ちに陥っているイスラエルの民の贖いのために、身代わりとなった小羊が犠牲としてささげられて、そのことによって、神はイスラエルの民を赦し、受け入れてくださるのです。そこで神とイスラエルの民とは正常な関係を持つことができたのです。

 私たちが神と正常な関係を持つことができるように、主イエスは私たちの罪を贖うために御自身をささげてくださるのです。そのことによって私たちは、神を父と呼び、祈り、神の言葉を聞き、賛美することができるのです。

 竹森満佐一牧師の「礼拝」−その意味と守り方−に、礼拝のプログラムについて書いてあるところがあります。吉祥寺教会で実際に行われた礼拝のプログラムを紹介しています。礼拝が三つの部分に分けられていて、悔い改め、み言葉、感謝、と区分しています。まず、神にお会いするために、神の前に近づき、神に対面するためには、私たち人間の罪を告白するのです。そしてみことばと聖餐によって罪が赦されたことを宣言されます。そして罪が赦された者として感謝をささげ、派遣されるのです。このような礼拝の構成にによって礼拝の構造が明らかになります。礼拝において罪を告白し、みことばと聖餐によって罪が赦され、感謝のささげものをするのです。神の臨在を恐れつつ、神との交わりが与えられるのです。

 罪の告白、みことば(聖餐)、感謝、このことの中で、礼拝においては説教、聖餐が中心であることは間違いのないことですが、説教者の説教を聞きに来る、というのではなくて、神が説教者を通してみことばを語られ、イエス・キリストによって罪の赦しが与えられる、そのことを経験する、それが礼拝なのです。私たちの礼拝はキリストの恵みにあずかる礼拝です。
 
 私たちは礼拝の心をもって、神を畏れる心をもって、神に対面する、神との交わりをするのです。


20160904  主日礼拝説教 「平和の王が来られる」  山ノ下恭二



(詩編118編22−29節、マルコによる福音書11章1−11節)

 8月14日(日)の礼拝後、私は沖縄戦の記録の映像を見て、戦争の悲惨さを改めて知ることができました。24年前に私は沖縄の戦跡を見る研修旅行に行き、沖縄の人々が隠れていたチリチリガマを見学したことがあります。戦時中、暗い洞穴に入って、多くの人々がこの場所で死んで行ったことを知りました。 日本がアジア・太平洋地域に自国の領土を広げ、経済的な繁栄を求めて無謀な戦争を始めたのですが、この戦争により多大な人々の命が奪われ、戦争の悲惨さを思わずにはおれません。戦争をすることによって日本国民だけでなく、他国の国民をも巻き込んで、災いを及ぼしてきたのです。武力によって解決することは、全く意味のないことです。

 マルコによる福音書11章1−11節には、過越の祭で多くの巡礼者で賑わっていた中を主イエスがエルサレムに入城されたことが書かれています。この時に主イエスがどのような姿で入城されたかのかと言うことは、たいへん大切な意味を持っています。

 主イエスはご自身を王であるとは言わなかったけれども、主は自ら、王としての儀式をもって入って行かれたのです。迎えるエルサレムの人々も王に対する礼儀をもって、主イエスを迎えたのです。人々は自分の上着を道に敷いたのです。このことは旧約聖書の列王記下9章13節の言葉に由来しています。また王を迎える言葉も旧約聖書の言葉で迎えています。詩編118編25節です。「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」(旧約p958)この言葉は王を迎える言葉とされており、王が入城する時に用いられる言葉です。王として迎える礼儀、言葉を用いて、人々は主イエスを迎えたのです。

 主イエスは王としての儀式をもって、エルサレムに入場されました。ただ、今までの王の入城とは、全く異なる仕方で入城されたのです。敵を討ち滅ぼし、イスラエルを支配する凱旋将軍たちのように、逞しい軍馬に乗るのではなく、ろばの子に乗って入ったのです。これは、主イエス御自身が発明して、思いついてしたことではありません。主イエスは、預言者の言葉 ゼカリヤ書9章9節の言葉に従って、そのとおりにされたのです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(旧約p1489)
 
 主イエス御自身は王としてエルサレムに入城され、人々も王を迎える礼儀と言葉とをもって迎えたのです。しかし、その様子は今までの王とは異なっていたのです。イスラエルの国は、紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされました。その時から、バビロニア、ペルシャ、エジプト、シリア、ロ−マと言う大国に支配されたのです。これらの国の植民地になって政治の実権を奪われていたのです。特にシリアがこのユダヤ地方を支配していた時代に、大きな迫害に遭っていたのです。政治だけでなく、信仰をも介入し、侵害したのです。シリアの王アンティオコス・エピファネス、アンティオコス4世と呼ばれたのですが、この王はユダヤの人々がかたくなにヤ−ウェなる神、一つの神を信じていることが気に入らず、様々な方法を用いてこの民を征服しようと企てたのです。神殿に仕える大祭司に自分の気に入る人を任命したり、エルサレム神殿の中心部である至聖所にギリシャの、ゼウス・オリンポスの祭壇を築いたのです。そして旧約聖書を燃やしてしまい、律法を守る人々を処刑したのです。力をもって、人々の信仰を変えようとしたのです。そのことが裏目に出て、抵抗運動が起きたのです。このアンティオコス4世がエルサレムに入城したのです。
 
 紀元前63年にはロ−マ帝国がユダヤ地方を支配するようになりました。ポンペイウスという将軍が、新しくエルサレムに入城したのです。この人もロ−マ帝国の支配を及ぼすために、自分の力を誇示するために、大祭司しか入れない神殿の至聖所にまで足を踏み入れたのです。このポンペイウスは政治家として力を持っていたのですが、力による支配を実行したのです。

 この二人の王は軍馬に乗り、威風堂々とエルサレムに入城して、王として迎えられ、人々も王として迎えたのです。この二人の王が行ったことは、権力を行うことを目指していました。人々の生活の安定ではなくて、如何に自分の考える通りに人々を従わせるか、自分の方針に人々を従わせるか、と言うことに関心があったのです。自分たちの力が大きな、強い権力をもっているかを人々に思い知らせるために、人々が恐怖を持つようなことも行ったのです。二人の王は共通に神の神殿であるエルサレム神殿の礼拝の場所を汚して、外国の神々を礼拝させようとしたのです。自分の権力、威光を広めてゆくことを目的に、自分に敵対し、反対する多くの人々を容赦なく処罰しているのです。
 
 主イエスは、王として入城されたのです。しかし、自分に反対する者を殺したり、自分の考えに反対する者を処罰してはいません。邪魔な人間を殺して、支配すると言うことはなかったのです。

 主イエスは、人間を殺し、自分の権力をもって処罰しようとしたのではなくて、私たち人間を支配している罪と戦ったのです。罪と戦って負けたのではなくて、罪と戦って勝利した王となられたのです。このことに私たちは注目しなければなりません。主イエスは私たち人間の罪と戦い、私たち人間の罪を解決するためにエルサレムに入城したのです。
 
 マルコによる福音書10章35節以下で、主イエスの弟子たちが、もし主イエスが王となった時には大臣にして欲しいと願ったことに対して、主イエスはこの弟子たちに「仕える者になれ」と語り、45節で「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と語っています。人々は権力を持ちたいと強い権力への関心を持っています。しかし、主イエスは、人々を従わせることに関心があるのではなく、主イエス御自身が罪と戦うことによって、私たちが罪から解放されることのために全力を注いだのです。

 最近、芳賀力教授が季刊「教会」で連載している「救済への問い」の最新号で「罪」について詳しく論じています。私たち人間は時間の中を生きる有限な存在であるにもかかわらず、永遠を思う存在である、しかし、私たち人間はこの永遠との関わりを忘れて、目先の刹那的な欲望に心を奪われ、精神としての自己を失ってしまった、そのことが悲惨であることに気づいていない、と書いてあります。自分が神から離れている罪人であることさえ、分からなくなっている、それがまさに、罪人の正体である、と書いているのです。
 
 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ロ−マ3章23節)私たち人間が求めていることは、神に対して真実に生活することよりも、自分がこの地上でいかに快適に便利に楽しく生活するのか、に関心を持っているのです。自分が神から離れている、罪の中に安住していることに気づかないのです。それは、「肺病患者の容態に似ている。彼は『 病気が最も危険になってきているちょうどそのときに、当人は一番気分がよく、われながら健康そうに感じられ、おそらくは他人にも健康で輝いているように見えるであろう』」私たちが深い罪の中にいることに気づいてないのですが、主イエスはこの罪から解放するために、主イエス自ら、罪と戦うのです。

 主イエスは王として来られました。王らしき威風堂々とではなく、僕の姿で来られたのです。マルコによる福音書11章から15章まで、主イエスの受難の物語を読むと、主イエスはしもべ以下の扱いを受け、犯罪人として取り扱われ、虐待されて、十字架につけられたのです。「多くの人の身代金として自分を献げるために来たのである」と語られているのです。

 主イエスのエルサレム入城で印象的なことは、ろばに乗って入城したと言うことです。「子ろば」といっても大人を乗せることができる位になった若いろばです。ろばに乗って入城したのですが、この姿は最も王らしくない姿です。それはろばに乗っていたからです。

 ダビデと言う王が在位していた頃は、らばに乗っていました。イスラエルの指導者は長く、ろば、あるいはらばを用いていました。ダビデ王の頃、外国と戦って馬を分捕っても使用しなかったのです。ソロモン王の時から、王の象徴として使われました。ソロモン王は武力を用いて、この世界を征服しようとします。預言者イザヤは、馬により頼む者は災いであると語っています。馬は兵士が乗り、戦争の時に頼りになるものです。戦争のためにある動物と言って良いのです。

 主イエスがろばに乗ったと言うことは、戦争と全く関係がないことを意味しています。権力をもって人々を服従させたり、力をもって人々を支配する、そのような生き方をしないと語っているのです。人間は自分が力をもって、自分の考えや思い通りにしたいと言う思いがあります。そのような権力から一切、離れて、ただ私たち人間の救いのために働くのです。

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この4つの福音書には、子ろばを捜すところから、主イエスによって用いられて、主イエスを乗せるまでのことが詳しく書かれています。マルコによる福音書だけに書かれている言葉があります。それはマルコによる福音書11章3節の言葉です。「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります。』と言いなさい。」とあります。「『すぐにここにお返しになります』」と書かれているのはマルコによる福音書だけです。『すぐここにお返しになります。』と言う言葉は、読み過ごしてしまう言葉ですが、心に留める言葉です。

 子ろばを借りたので子ろばを返すからと言うのは、当然のように思いますが、主イエスの言葉には深い意味があります。権力者は、自分たちにとって必要なものは何でも取り上げてしまうものなのです。

太平洋戦争中、特に中国では現地調達で徴発し、軍隊の食糧をまかなったのです。中国の村に日本軍が入ると、米、食糧を家々から徴発していくのです。男の人をかり出して荷物を運搬させて労働を課してしまうのです。戦時中、日本国内でも、供出と称して、お国のために、金属や貴金属を差し出さなければならなかったのです。王様や軍隊が今、必要であると判断した場合には、食糧などのものは無理矢理、供出させられて、返してはもらえないのです。これが権力であるのです。王や軍隊は好きなようにできるのです。

しかし、主イエスは、自分の好きなようにはなさらないのです。わたしの役に立ったら、あとで返すと言うのです。主イエスは、わがものとして、やりたい放題のことをなさると言うのではないのです。

 このような意味で、主イエスはこの世の王とは異なっています。権力を振り回すことをしないのです。むしろ、隣人のことを心にかけ、心配し、礼を尽くす、そのような王なのです。

 マタイによる福音書には、ろばが主のご用のために必要であると述べた後先ほどのゼカリヤ書9章9節の言葉を引用しています。ゼカリヤ書の言葉とは翻訳が異なっています。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」と書かれています。

このゼカリヤ書の言葉が引用されているのは意味があるのです。それは、主イエスが子ろばに譬えられている、ということなのです。ただ主イエスが子ろばに乗った、ということではないのです。子ろばの姿が主イエスの生涯をよく表しているのです。それは「荷を負うろばの子」と言う言葉です。今でも、ろばは荷物を運ぶのに重宝されています。特に中近東の国々では、ものを運ぶのにろばが用いられています。馬のような逞しい大きな動物ではなく、ろばがものを運搬している様子をテレビで見ることがあります。ろばはからだの小さな動物ですが、大きな荷物を背負って歩いて行くのです。重い荷物を背中にぶらさげて歩いて行きます。その情景をよく見ます。主イエスの乗り物に選ばれているのは、このろばの姿が主イエスの生涯をよく表しているのです。それは主イエスが、私たちの罪を負われたからです。

 神学生の時に、私は自分の罪がどの位、重いのか、分からなかったのです。ある時、カ−ル・バルトと言う神学者の本を読んでいた時に、その本には、自分の罪の重さは、神が自分の外に出て肉体を取り、主イエスとなって地上に来られ、その罪を贖わなければならないほどの重い罪なのだ、と書いてあり、この言葉に私は、自分の罪の重さがどのようなものか、分かったように思います。

 自分の罪は神と同じ方、主イエス・キリストがこの地上に来て、償わなければならないほどの重い罪なのだ、ということを理解したのです。神に対して正しく生きていない者がその罪を自分で償うことができないのです。創世記4章で弟アベルを殺したカインが神に「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と言っています。私たちは自分の罪を自分で償うことはできないのです。私たちが償わなければならない罪をすべて主イエスが罰を受け、引き受けてくださったのです。主イエスは、私たちの罪の重荷を背負い、そして十字架の死によって贖い、私たちは、正しい者とされたのです。

 マタイによる福音書では旧約聖書の引用がありますが、もうひとつ大切な言葉があります。それは「柔和」と言う言葉です。この言葉は「やさしい」と理解している人が多いのですが、「忍耐強く、苦しみを忍ぶ」と言う意味です。主イエスは神のみこころに従うために、忍耐強くあるのです。

 主イエスはエルサレムに入城されて、これから苦しみを受けるのです。罪のない方なのに、裁判を受け、人々から侮辱されるのです。しかし、それに対して一言も述べずに沈黙しているのです。それは人間の罪を担い、人間の不正を忍び、人間の悪に苦しむのです。そのことによって主イエスは和解をもたらしたのです。今まで、エルサレムに入場した二人の王とは、全く異なった、新しい意味での王として、入城されたのです。権力によって人々を支配するのではなく、神と私たちが和解をするために、罪と戦い、自ら贖いの犠牲をささげて、くださるのです。
 
 平和をもたらす王、それは神と和解をもたらす王なのです。コリントの信徒への手紙二 5章19節「つまり、神はキリストによって世を御自分を和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(新約p331)平和、和解、赦しに生きる者は幸いです。

 これから私たちは聖餐にあずかります。私たちの罪の贖いのために、肉を裂き、血を流された、そのしるしであるパン、杯を戴きます。この恵みにあずかり、私たちのために犠牲をささげて愛してくださる神の和解の恵みを心に深く留めたいと思います。


20160828  主日礼拝説教  「赦しの中で共に立つ」 山ノ下恭二



(詩編51編1−21、マタイによる福音書18章15−20節、ハイデルベルク信仰問答・問83−85)

 マタイによる福音書18章は「教会憲章」と呼ばれています。教会憲章とは、教会にとって憲法のように重要な文章、大切な教えのことです。この18章の頂点、その中心になるみことばが、本日の礼拝で、朗読された15節から20節です。

 主イエスが18章で罪について集中して語られているのは、罪が私たち、そして教会にとって真剣で深刻な問題であるということです。教会が罪をどう処置するのかということが、教会の根本的な問題であるので、主イエスはここで集中して語っておられるのです。
 
 皆さんはこの18章15−20節のみことばをどのように受け止めておられるのでしょうか。私たちの教会、会社、学校、家庭、どの集団でも最も恐れていることがあります。それはその集団の中で事件が起こり、問題が起こり、そのことが外部に知れ渡り、対面を汚されることです。学校では、生徒、学生が事故を起こしたり、不祥事を起こした時に、校長を始め、教師たちはこの問題を抱えてうろたえるのです。教会もこの点で例外ではありません。教会は、立派な、愛に富み、信仰のある者ばかりが集まっていると言う思いがあるので、教会の仲間、兄弟が罪を犯したとなると、どうして良いのか分からないのです。
 
 この18章15−20節は、教会の兄弟姉妹が罪を犯した場合、長老会がその罪を取り扱う原則が書かれているところです。このみことばを基本にして「戒規」が行われます。「戒規」と言う言葉を聞くと、私たちは「懲戒」「懲罰」と同じように受け取ります。しかし、そうではなく、キリストの福音によって、罪を犯した者が神に立ち帰るための手続きのことです。

 この「戒規」と言う言葉は、新約聖書の言葉のパイデイア(訓練、鍛錬)と言う言葉が元々の言葉です。ヘブライ人への手紙12章5節以下にこのパイデイアの意味が説明されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭うたれるからである。」(新約p417)と書いてあります。「懲らしめ」「鞭うたれる」と言う言葉があるので、「戒規」を、「懲戒」「懲罰」と受け止め、「戒規」を行うことは、「懲戒処分」を行うと受け取ることが多いのですが、それは誤解であって、あくまでも「戒規」は「訓練」「鍛錬」であるのです。「戒規」は教会会員を牧会する一つの行為です。「戒規」は、福音が戒めの形で伝えられる牧会の一つの形です。牧会(魂の配慮)についてテサロニケの信徒への手紙一 5章14節では「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人について忍耐強く接しなさい。」(新約p379)とあります。牧会(魂の配慮)は、教え、戒め、警告し、罰し、慰め、恵みを与えることから成り立つのです。
 
 この「戒規」を英語では「ディシプリン」と言います。この言葉は「訓練、規律、躾」と言うことの他に、「専門領域」と言う意味でも使われます。一つの領域の専門家になるには、その分野の「ディシプリン」を身につける必要があります。例えばパイプオルガン制作は「オルガン製作のディシプリン」を身につけたマイスタ−によって可能になります。パイプオルガン制作のために、技能を磨き、パイプオルガンを制作するのです。説教者となるためには、「ディシプリンとしての説教学」を身につけた説教者になる必要があります。ディシプリンという言葉に含まれる「身につける」という内容が、訓練、規律、躾、という言葉に対応しています。

 私たちは、洗礼を受けたのですが、みことばと聖餐の恵みによって、キリスト者らしさを身につけていくことが、信徒としてのディシプリンであるのです。また教職は説教と聖礼典を正しく行うためのディシプリン(訓練)を必要とするのです。福音を伝えて行く、そこには、「教え」「戒め」「訓練する」と言う形が含まれています。日本の教会は、「訓練する」ことに心がけているとは言えないのです。人とのつながりを重視して、態度が悪く、良くないことをしていても、知らぬふりをしているか、無視しているのか、人間関係が悪くなるので避けているのか、戒めたり、忠告することをしないでいることがほとんどです。

 「戒規」を「罪を指摘して、懲罰する」と言うように、誤解していることがありますが、あくまでも罪を犯した人が悔い改めて、神に立ち帰り、キリスト者として生活し、教会の仲間として続けていくことができるようにするための手続きであるのです。

 マタイによる福音書18章15節には「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とありますが、新共同訳だけが「あなたに対して」と言う言葉がありますが、他の翻訳は「あなたに対して」と言う言葉がありません。「兄弟が罪を犯したなら」と翻訳しています。この訳は「自分に対して罪を犯さないことでも、教会の一人の兄弟の問題は教会全体の問題である」と理解をしているのです。18章15−20節の主題は罪を犯している兄弟姉妹をどう扱うべきか、と言うことです。それは、18章10−14節で語っている内容と連続しています。そこには、羊飼いが一匹の迷い出た羊を探しに行く譬え話をすることによって、迷い出た、罪を犯した兄弟姉妹は、神の前に価値があるので、迷い、罪を犯した兄弟姉妹を軽んじてはならないと言うことが語られています。そして兄弟姉妹が迷い出てしまった場合にも、兄弟姉妹が罪を犯してしまった場合でも、真剣に対応すべきだ、と語っているのです。新共同訳では「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と書かれています。ここには、罪を犯された側から和解を求める手続きが始まっているのです。罪を犯された側が和解への道を積極的に模索しようとする姿勢が書かれていることは特記すべきことです。

 教会員が犯した罪を教会はどのように処理すべきか、ということは大きな問題です。教会が個人的な罪ですら教会全体に大きな影響を及ぼすので、罪の当事者のみに関係する私的な事件にせず、共同体が真剣に関わるべきであると考えてきたのです。個人の小さな罪すら共同体全体の健康を損なうのです。このことと関連してパウロはコリントの信徒への手紙一 5章6節に「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」(新約p305)と語っています。取り上げられている罪が、たとえある兄弟姉妹との間の個人的な問題であったとしても、最終的には「教会」全体が関わるべきことなのです。

 そしてその際、罪を処理する三段階の過程(プロセス)が必要だ、と書かれています。第一段階では、罪の当事者二人だけのところで訓戒を試み、それがうまく行かなかった場合、第二段階として二人ないし三人の証人を交えての訓戒へと進み、それすら不成功だった場合、第三段階として問題が教会全体の前に持ち出されるのです。

 このような罪を処理する手続きにおいてどのような信仰の姿勢をもって対処するのか、ということが大切なのです。レビ記19章17節には「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」(旧約p192)と書かれています。罪を犯した本人に会う前に、周りにいる人々に本人の罪を語り、悪口を言ってうわさを広めてしまい、罪を犯した人の罪を暴きだすことのないように注意をするのです。罪を犯した人が自分のことがうわさされていることを知って、教会にいられなくなってしまうのです。うわさは事実よりも解釈されて大きな話となってしまうのです。心の中で憤り、他の人にその罪を暴くのではなく、直接、本人に会うことが重要なのです。人間には人の過ち、失敗を取り上げて、誇大に言い、困らせたい、何かの恨みをはらす、復讐すると言う罪があるのです。罪を犯した人をおとしめたいと言う悪い心があるのです。罪を犯した者に対して憤り、憎むのではなくて、心から愛する心をもって相手のところに行くのです。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」まず、相手を訪ねなさい、と語ります。相手を訪ねずに、相手の罪や落ち度を他の人に言いふらす、そのようなことをするのは、神のみこころではないのです。相手の悪口を他の人に言いふらす、そのようなことは避けなさい、と語ります。相手の罪や落ち度を他の人に言いふらすことによって、二人だけの問題に限定されなくなり、うわさがうわさを呼び、小さなことも大きなことになってしまうのです。二人だけの問題なのだから、二人の間で解決できるはずですが、第三者に知れ渡ることによって、大きな問題になってしまうのです。そして正しく伝わらないで針小棒大になり、解決がつかないことになってしまいます。従って、教会において罪は慎重に扱わなければならないのです。 
 主イエスは「兄弟」という言葉を使います。罪を犯したのは、あなたの「兄弟」ではないか、あなたの「姉妹」ではないか、と言うのです。血のつながった兄弟が罪を犯したとしても、兄弟としてその罪をかばうではないか。キリストの十字架の赦しによってつながっている、共に同じキリストの洗礼を受けた者であるのだから、相手のこと、相手の立場を考えて、キリスト者として歩むことができるようにするのが、教会の兄弟としてのあり方ではないか、と言うのです。私たちはここで「兄弟」と言う言葉を使っていることに注目したいのです。兄弟、姉妹、それは、主イエスを救い主、キリストと告白し、洗礼の恵みにあずかり、共に礼拝し、聖餐にあずかり、祈り会った仲間ではないか。主イエスがご覧になるなら、99匹の群れから離れて見失った一匹の羊のように、この兄弟、姉妹は、罪を犯して孤独の中にいるのです。あなたは羊飼いが見失った一匹の羊を捜すように、あなたが訪ねて兄弟のもとに行きなさい、と言うのです。最初から罪を犯した者を排除する目的で、兄弟を訪ねることをしてはならないのです。

 訪ねて行って、何をするのでしょうか。「行って二人だけのところで忠告しなさい」と言うのです。「忠告する」あるいは「いさめる」と言う言葉は「あかるみに出す」「光にさらす」と言う言葉です。「忠告する」「いさめる」という言葉は、上から下にいる者、正しい者から悪い者に、注意する、という意味に取れます。私たちは、相手の振る舞いや表情で、相手が自分をよく思っていないと感じ取ることがあります。何も言わなくても、自分に対する接し方、表情で非難の心、責める心を持っていることを感じ取ります。犯罪を犯した、悪いことをしたという前提で、罪を責め立て、無理に罪を認めさせる、そのような接し方、態度を取るのは、兄弟として扱っているとは言えないのです。訪ねて行く目的は、相手の罪を暴きだして、罪を認めさせ、謝罪させるためではなく、本人が罪の事実を認め、悔い改めるためです。ガラテヤの信徒への手紙6章1節「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(新約p350)

 罪を犯した人が「自分の罪を認めず、悔い改めをしなかった場合」は第二段階として、二人ないし三人だけのところで訓戒を試みなさい、と言うのです。この段階では長老会に事案が上がりますが、このことについては、長老は守秘義務があり、家族や友人に話してはなりません。その人の名誉に関わることです。長老は長老会での話し合いについて、守秘義務を負っています。家族の者や他の教会員に罪を犯した者について話すことはいけないことです。

 この第二段階で自分だけはなくて、「ほかに一人か、二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」と書かれています。この言葉は旧約聖書の申命記19章15節の言葉に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし、三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」
 
 そして第二段階でも、罪を認め、悔い改めない場合には、第三段階で公にして、なお教会の訓戒に耳を傾けない場合のことが取り上げられています。そこでもし、教会にも聞かないならば、彼をあなたにとって異邦人か徴税人かのように扱いなさいと言うのです。このことは教会の訓戒になおも耳を傾けようともしない者を「教会の外の人々」と同様に扱えと言う意味です。教会の訓戒に聞かないということは、実質的に教会の外に自ら出てしまったことです。自分を教会の外の存在として見なすことです。これは教会による破門、追放ではありません。教会の外の人々を先走って裁くことはできないのです。神の裁きにゆだねることしかないのです。「戒規」とは懲罰することが目的ではなく、新たに兄弟として互いにその関係を修復し、再び兄弟として交わるためです。相手の罪を指摘して、自分が正しいことを立証するためではないのです。兄弟を獲得するために訪問するのです。

 キリスト教会が教会である、その教会のしるしと言われているものは何でしょうか。それは純粋にみことばが説教されて、聖礼典が正しく行われることです。もう一つあります。それは戒規が正しく行われることです。教会員が洗礼を受け、聖餐を受けるのにふさわしく生活する、教師が按手礼を受けたことにふさわしく、その務めを担うために神の御前に、正しく生きることを求められます。この戒規について、私たちは正しく認識を持っていないことが現実です。私たちキリスト者は誤り易い者です。罪を犯す者です。私たちの生活が神の栄光を現し、隣人を愛する生活であれば、良いのですが、そうではありません。キリスト者としての証しを立てるために、周りの者から尊敬できるような生活を目指すのです。自分がしたいように生活をするのではなくて、キリストの香りが漂うような生活を目指すのです。

 かつて埼玉のある教会で、ある神学生が問題を起こして退学処分になったのですが、この教会の長老会は、一人の兄弟が悔い改めて再出発するように、慎重に審議をして聖餐の陪餐を停止にしたのです。この神学生は自分の罪を認め、悔い改めて陪餐停止の時にも礼拝に出席して、教会生活を続けています。日本の教会は罪を正しく処置することに失敗してきました。しかし、罪を正しく処置することが教会の務めなのです。

 18章15−20節で、現在の教会の「戒規」の原則となったみことばを語った後に、主イエスは、「仲間を赦さない家来の譬え」を語っています。このことには深い意味があります。キリストの共同体、教会で、罪を犯した場合、そのことを私たちがどのような信仰の姿勢をもって行うのかと言うことです。

 この譬えでは、王が莫大な負債を抱えた家来を赦したのですが、その家来が王によって莫大な負債を免除されたことがまるで無かったかのように振る舞うのです。自分が莫大な負債を免除されたと言う認識を持っていれば、負債を返すことができない友をすぐに免除することができたはずです。しかし、莫大な負債を免除されたことを心に深く留めなかったので、この友人を赦すことなく、牢屋に入れてしまったのです。このことは私たちが、キリストによって罪を赦されていることを忘れて、他の人の罪を赦さない私たちのあり方を指摘し、主イエス・キリストの十字架の贖いによって深い罪が赦されていることを感謝し、心に深く刻んで、同じ罪人として、キリストの赦しに生きるように勧めているのです。 
 
 私たちは、罪を赦された者として、福音的な、隣人愛に満ちた態度で、罪を犯した兄弟を取り扱うのです。ある神学者は18章全体の鍵となるみことばは、18章14節であると指摘しています。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」罪を犯した兄弟が、キリストとの交わりを再び与えられ、赦しの中で共に立つのです。


20160814 主日礼拝説教  「安心しなさい、立ちなさい」  山ノ下恭二



(エレミヤ書29章10−14節、マルコによる福音書10章46−52節)

 本日の礼拝で、マルコによる福音書10章46−52節を読みました。この物語に登場するのは、バルティマイと言う人です。同じ物語が、マタイによる福音書、ルカによる福音書にもあります。少しずつ書き方が違っていますが、名前がきちんと出て来るのは、ここだけです。「ティマイの子、バルティマイ」ときちんと書かれています。
 
 この物語はエリコと言う町で起こった物語です。このエリコは、エルサレムから20キロメートル離れた町で、この当時の交通の要衝でした。この時、イスラエルの人々が、かつて神がイスラエルの人々をエジプトの奴隷の身分から解放したことを感謝し、祝う過越しの祭が近づいてきました。この祭りのために、多くの人々が巡礼のために、エルサレムに行こうとしていました。ガリラヤ地方から、人々がエルサレムに訪ねようとすると、このエリコの町に一泊して、エルサレムに向かったと言われています。過越しの祭が近づいて、巡礼のために人々が、群れをなしてエルサレムへの道を急いだのです。
 
 このエリコの町を出たところの道端に、物乞いをする人がずらっと並んでいたのです。「ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。」と書かれています。バルティマイの側を通り過ぎる人々は、エルサレムに行って神からの慰めを受け、その祭に参加することを喜びとし、それを楽しみにしながら、道を急いでいるのです。しかし、このバルティマイは、道端に座って、今日、自分が食べられるか、どうか、人を当てにしているだけです。彼の関心は、自分のいのちをつないでいくために、そのところに座っているだけです。「座っていた」ずっと座ってきたのです。自分が何のために生きているのか、分からなくなったのです。ただ食べるだけ、いのちをつないでいるだけで良いのか、と思っていたのです。そしてこの状況から、脱出したいと思っていたのです。
 
 この人は目は見えませんが、人の話に注意して、耳を傾けています。人々の様々な話を聞きながら、主イエスと言う方が、不自由な状態にある者を次々と癒したことは聞いていたに違いないのです。そのイエスが遂にこのエリコに来られ、エルサレムに上ろうとして、今、自分のいるところに近づいて来られることを聞いていたのです。このような時に「ナザレのイエスが来た」と言う声を聞いたのです。バルティマイは是非、自分を助けてほしい、と願っていたのです。

 しかし、目が見えないので、主イエスがどこを歩いているのか、分からないので、大声で叫び続けたのです。ダビデ王の子孫、新しく来られた救い主であるならば、その力をもって、私を憐れみをもって捕らえ、この目を開いて下さい、と叫び続けるのです。それに対して、人々は黙らせようとします。それはこの男が邪魔であると思ったのです。邪魔されたくないので、お前は黙っていろという思いがあります。この人々は、生まれた時から、目が見えず、悲しんでいるその思いを無視しているのです。この人はこの時を逃したら、これからずっとこのままの暮らしが続くと言う不安をもったので、叫び続けたのです。
 
 このような叫びに主イエスは気がつき、こころに留めて、「あの男を呼んできなさい」と弟子たちに命じたのです。この男の叫びに耳を傾け、目を向ける人はいなかったのです。主イエスはエルサレムへの道を急いでいたのですが、この一人の者の叫びに耳を傾け、その者と出会ってくださったのです。彼をひとりの人間として扱おうとしているのです。

 バルティマイは、座っている生活が長かったと思います。しかし、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がって、イエスのところに来た。」と記されています。この男は、自分が呼ばれて、嬉しくて、すぐに主イエスのもとに行ったのです。上着とはマントです。長いもので、それを伸ばしてその上に自分が座り、その残りの部分は、施しの金や食べ物を置くスペ−スであった。上着と言うのは、衣服であるとともに、商売道具です。それを脱ぎ捨てて、主イエスのもとに行ったのです。
 
 主イエスは、「何をしてほしいのか」と聞きます。この人にとって自分の問題に真正面に向き合ってくれる、初めての出来事でした。主イエスは、この人に身を向けて、十分な時間を取り、ひとりの人として尊重する、その態度で接しているのです。誰も相手にしてくれない、そのような疎外感を持っていたこの人に、呼びかけ、語りかけたのです。自分が呼ばれたこの人は嬉しくて、主イエスのもとに歩いて行き、自分の願いを隠さずに、丸ごとお願いするのです。10章51節後半で「盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです。』と言った。」とお願いしています。

 この物語を読んで、盲人が主イエスによって目が見えるようになった、と言う物語だ、しかし、自分は目が見えるので関係のない物語だ、と受け取ってお終いにすることがあります。しかし、そうではありません。身体的な目の回復と言うよりも、私たちの存在そのものの全体的な回復のことを言っているのです。しばしば、目が見えない人が福音書に登場しますが、それは深い意味を持っているのです。目が見えないと言うことは、神から離れて、自分が神を失って、自分中心に生きている、そのような状況を言っているのです。自分が何のために生き、自分が生きるべき道が分からなくなっているということです。見えない、それはこれから行く道が分からないし、自分がこれから行くべき道案内をする者がいないと言うことです。
 
 8月10日、11日、聖学院大学の学生修養会があり、11日の朝の礼拝で、ひとりのチャプレンが奨励をしました。その牧師は神学大学で、私の一年先輩で、学生の時にお世話になった人ですが、キリストの福音に出会って、信仰が与えられて、神学大学に入った経過については聞いたことはなかったのです。

 この人がキリスト教と出会い、牧師となろうとした経過について初めて聞くことができました。この牧師は北海道の出身で、大学受験に失敗し、税務大学校で学びながら、税務署に勤めていたそうです。この時に、自分は大学受験に失敗し、今の生活を続けていていいのだろうか、そして自分が生きていて良いのだろうか、と悩んでいたそうです。ある雑誌に、音楽のページを入れて欲しいと言う投書をしたら、それを読んだ女性が共感して文通が始まり、東京に転勤になり、その女性と喫茶店で会ったそうです。話していると、その女性が「自分は献身をするんです」と言うので、どのようなことかと聞くと、キリスト教会の伝道者になると言うのでそれをきっかけにして、教会に行ったとのことです。そして、聖書の話を聞くことによって、自分が神に愛されていることを信じることができるようになり、教会に入会したそうです。その後、神からの召しを受けて、神学校に入学したと言うのです。聖書の言葉に喜びを感じて、これこそ自分を生かすものだと言う出会いをしたという奨励でした。

 目が見えないと言うのは、身体的な意味で、目が不自由だ、と言う意味だけではなくて、神から離れて、自分の姿が分からない、自分が何のために生きているのか、分からないでいる、ということです。

 この盲人は主イエスに「目が見えるようになりたいのです」と願っています。それに対して、マルコによる福音書では「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」と主イエスが応えています。このことは、この人が自分をさらけ出して、主イエスに信頼して、自分の願いを主イエスにぶつけている、その信仰に答えてくださっているのです。主イエスが自分のこの状態を憐れんで介抱してくださる、そのことを深く信頼し、求めている、その信仰を認めて、答えているのです。

 今日の礼拝で、エレミヤ書29章10−14節を読みました。エレミヤ書29章12−14節Aには、「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来て、わたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」このエレミヤ書に書かれているように、主イエスに信頼して癒しを熱心に求めて行く者に主イエスはきちんと答えてくださるのです。

 先ほど、この物語は書き方は違うけれども、マタイによる福音書、ルカによる福音書に同じ物語があると言いました。ルカによる福音書18章42節では「そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った』」(p146)と書かれています。「見えるようになれ」と主イエスは言われたのです。「見えるようになれ」。盲人の目が見えるようになったのです。この世界にあるものがすべて、自分の目で見ることができるようになったのです。
 
 かなり前のことですが、私はお茶の水駅を出て、あるところに行こうとしていましたら、白い杖をもったひとりの盲人が、駅の近くの植え込みの花壇の中に入って行くのです。私はあわてて、そこに行き、そこは花壇ですよ、どこに行くんですか、と聞くと、自分は○○会館に行きたい、と言うので、手引きをして一緒にその会館の玄関まで行きました。その道すがらこの人は私にこういう話をしました。花壇に入ったのは、わざとしたのだ、このようなことをしない限り、誰も自分のことを注目しないでいる、今日のあなたのように、道路で無いところを歩いたりして、注意を引くようなことをすれば、助けてくれるんです、と言いました。だから、今日のような無鉄砲な行動をして、助けを求める振る舞いをしていたことが分かりました。そして自分は、人生の途中で失明して目が見えなくなったので、もう一度、見えるようになりたいと言うのです。人の姿を見ることもできないし、自分がいるところが分からないのです、と話してくれました。

 ルカによる福音書では、主イエスは、この男に「見えるようになれ」と語っていますが、ある翻訳では、「再び見えるように」と翻訳しています。そうすると、かつては、この男は目が見えていたことになります。それが見えなくなったのです。神によって造られた人間は、最初から争いをする人間として造られたのではなく、愛のために造られた者なのです。しかし、争いや憎しみで人を敵にし、人を滅ぼすような者になってしまったのです。しかし、見るべきものを見る目が与えられたのです。神の愛を見ることができ、愛をもってすべてを見る、そのようなまなざしを与えられたのです。

 「見えるようになる」それは、神が自分のために働いていてくださり、神が、自分を愛していることがわかると言うことです。神が自分を愛してくれていることを信じて、自分の立っているところがはっきり分かっている、ということです。その意味で、私たちは神を信じ、イエス・キリストを信じ、聖霊を信じているのです。この目では見えないけれども、霊的な眼を与えられて、神の愛を見ることができるのです。そして愛のまなざしを他の存在に向けることができるのです。

 最初の伝道者パウロはコリントの信徒への手紙二 4章18節で次のように語ります。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(p330) この目では見えないのですが、霊的な眼でもって見れば、見えるもの、その眼を私たちは持っているのです。神が私たちの思いを超えて、私たちを支配し、配慮してくださり、イエス・キリストによって罪が赦され、和解を受け、神が私たちの神となられ、聖霊において神が今も私たちの神としていてくださるのです。この身体的な目では見えませんが、しかし、霊的な眼で、私たちは見ることができるのです。

  この人は、目が見えるようになり、自由に歩けるようになったのです。この人は、自分の行きたいところに行ったかと言うと、そうではないのです。「なお道に進まれるイエスに従った。」と書いてあります。エルサレムに進んで行く主イエスの道、その主イエスのうしろにこの人がついて行ったのです。

 マルコによる福音書11章1節から、主イエスのエルサレム入場が語られています。そして、ここから主イエスの受難の物語が始まっています。この物語は、ただここにあると言うのではありません。マルコによる福音書11章の最初の部分として、ここにあるのです。十字架につけられる主イエスに従ったのは、このバルティマイです。そのことがここで示されています。

 マルコによる福音書は、8章31節から主イエスが再三にわたって、主イエスご自身が十字架につけられて、殺されることを弟子たちに教えています。しかし、弟子たちは教えられながらも、ついていくことはできなかったのです。この物語の終わりに、主イエスのあとについて行った男がいる、それはバルティマイであることを示そうとしたのです。

 自分の叫びを聞いてくれ、癒し、救ってくれた主イエス・キリストに最後までついていったひとりの男がいるのです。「なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコ10章52節)この物語は、マルコによる福音書11章から始まる主イエスの受難物語の先駆け、最初、プロローグであると言って良いのです。

 このバルティマイの物語で、多く出て来る注目すべき言葉があります。それは「叫ぶ」「呼ぶ」と言う言葉です。10章47節「叫んだ」48節「叫び続けた」、49節「呼んで」、「呼び」、「お呼びだ」。バルティマイが叫び、主イエスが「呼ぶ」。両方の言葉は元々、同じ言葉で、生き物が叫びをあげる、という言葉で「鶏が鳴く」。腹の底から出る「叫び呼ばわる」と言う言葉です。

 バルティマイは、主イエスの歩まれるあとについて行ってどこに行ったのか。それは数日後、主イエスが大きな叫び声をあげておられるところに行ったのです。バルティマイが叫んだ叫び声など、全く及ばないほどの、大きな激しい叫びです。十字架につけられた主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのです。
 
 私たちも苦しい時に叫びをあげる、その声よりも大きな叫び声をあげるのです。それは、すべての人の罪のために罰を受けた、主イエス・キリストの叫びです。私たちの苦しみだけではなくて、死と罪を御自分のものとして負われる主イエスの叫びがここにあります。バルティマイの叫び、嘆きは、私たちのものです。私たちの嘆き、叫び、よりももっと深い叫びを主イエスは叫ぶのです。それは、私たちが救われるように、深い叫びをなさってくださったのです。

 神の愛は、主イエス・キリストの十字架の贖いによってはっきりと示されたのです。そのことによって、私たちは神が愛をもって私たちを支配していることを見ることができるのです。


20160807 主日礼拝説教  「あなたは自分の願いを知っていますか」  山ノ下恭二



(エレミヤ書17章5−14節、マルコによる福音書10章35−45節)

 8月末に発刊する季刊「教会」105号に私は、「キリスト教会員の原点−洗礼の重要性」と言う文章を書きました。洗礼を受けて間もない教会員が教会から離れてしまう原因の一つに、自分の生活を教会中心の生活に切り替えないままで、洗礼を受けてしまうことにあると書きました。自分の生活を中心にしている、その生き方を洗礼を受けても続けているので、自分の気持ちや考えに合わないことが教会にあると離れてしまうのです。誰でも、教会に対する自分の願いや期待があります。しかし、自分の願いや期待を中心にするのではなく、神の願いを優先することが大切なのです。

 本日の礼拝で読んだマルコによる福音書10章35節以下では、主イエスの弟子として、主イエスの伝道の初めから共にしてきた二人の弟子が、主イエスに自分たちの願いを語っています。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と語っています。このことに対して、主イエスはこの二人の願いを退けてはいません。そんな勝手なことを私は知らないと言わないのです。「何をしてほしいのか」とその願いとは何なのか言ってみなさい、と応じています。

 「栄光をお受けになるとき、わたしたちの一人をあなたの一人を右に、もう一人を左に座らせてください。」主イエスが勝利し、栄光の支配の座におつきになる時に、私どもを右と左に座らせてほしい、と言うお願いをしたのです。一番、偉いのは先生、あなたです、その次に偉いのは右大臣、左大臣です、高い位の両側にいて、その権威をもっている者の権威を実際に用いることができるような座、位置に座りたい、と言うのです。

 このようなヤコブとヨハネとの願いは、この地上で権威を持つ、権力を持つ、そのようなところに座りたい、と受け取れます。しかし、別の解釈では、この地上の権力のことを言っているのではなく、この世を超えた神の国、その場面で、いつも主イエスの近くにいたいと願っているだけだと言うのです。ヤコブとヨハネの願いが、この地上での権威に近いところで座りたい、あるいは、逆に、この地上を超えた神の国で、神と同じ方の近くにいたいと願ったのです。自分のポジションを確保したいという願いなのです。
 
 このところを読んで、私たちはこの二人の弟子が、随分、自分勝手な願いをしていると思うかもしれません。しかし、私たちの祈りを顧みると、自分の願いを中心に祈っていることが多く、その願いがかなえられることを望んでいるのです。「自分にとって」と言う思いがいつも出て来るのです。自分の願いをかなえてくれるのが神だと思っているのです。

 この二人が「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」と言っていますが、原文を忠実に翻訳すると、あからさまな言い方を弟子たちがしていることが分かります。「私たちの願っていること、それは、わたしたちの願うとおりにあなたがしてくださること。」となります。わたしたちが願うとおりにあなたがしてくだされば良い、自分たちが言う通りにあなたがすれば良い、と言っているのです。

 このような願いに対して、主イエス・キリストは、いきなり拒否はしていません。別のことを言われたのです。弟子たちに向かって「あなたがたは自分が今、何を願ってるのか。それがよく分かっていない。」と言ってこう言われたのです。「このわたしが飲む杯、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」この言葉をはっきり翻訳すると「このわたしが今飲んでいる杯を飲み、このわたしが今受けているバプテスマを受けることができるか。」と言われます。その後の言葉もはっきり翻訳しますと「彼らが『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かにあなたがたはこれからわたしの飲む杯を飲み、これからわたしが受けるバプテスマを受けることになる』」です。主イエスは、今、杯を飲み、今、バプテスマを受ける、と「今」を強調しており、弟子たちはこれから杯を飲み、これからバプテスマを受ける、と「これから」を強調しています。主イエスは、現在のことであり、弟子たちは、将来のこととして、きちんと分けています。
 
 この「杯」、「バプテスマ」と言う言葉はどのような意味なのでしょうか。「杯」とは、主イエスがゲツセマネで祈られた時に、本当は、この杯は飲みたくない、しかし、神が飲みなさいと言われた苦難の杯のことです。主イエスは、その苦しみを今、自分が嘗めている、苦難の杯を飲んでいる、と言うのです。

 この「バプテスマ」とは何か。バプテスマと言うと、洗礼を思い起こします。この「バプテスマ」と言うギリシャ語は、全身を水の中に浸して沈めると言う意味の言葉です。水の中に全身を沈める、潜って、しばらくの間、水の中にいることはつらい、その時をじっと我慢するのです。バプテスマと言うのは、苦しみに忍耐して、その苦難を全身で経験することです。主イエス・キリストは、いま、苦難を全身で受け止めてその苦難を経験して、つらい、苦しい生活をしている、というのです。やがて、あなたがたも、その杯を飲み、バプテスマを受ける時がくる、そう言われたのです。

 東京神学大学入学試験の手引きに神学生の文章が掲載されていました。大学院2年生の菊池美穂子さんが、「神の望みがあなたのうちに」と言う文章を書いています。この菊池さんが東京神学大学に入学する以前から、わたしは菊池さんを知っていました。菊池さんは信徒として東京説教塾例会に出席していたからです。

「『憧れならやめてほしい』献身を考え始め、初めて出席した青年の集いでのある先生の言葉でした。伝道者として既に歩き始めておられる先生の真実の言葉だと思います。でも、その時の私には衝撃でした。憧れと言う気持ちで牧師になろうと思うならやめてほしい。憧れしかなかった私は、その言葉を聞いて、もうこの学校に来ることは無いだろうと思いつつ、東神大を後にしました。その後も、それに追い打ちをかけるようなことが次々に起こり、憧れはすっかり醒めて、献身は絶対にしないと決意しました。」

 牧師になることへの憧れと言う気持ちで、神学校を受けて欲しくない、牧師の道は、苦難と忍耐の道であることを示されて、一度は断念したことを知りました。菊池さんの文章の題は「神の望みがあなたのうちに」と言う題です。この題から分かるように、菊池さんは、憧れから神学校に入学したのではなく、神の望みに応えて、神の召しを受けて入学をしたのです。

 主イエスは弟子たちに将来、杯を飲み、バプテスマを受ける時が来ることを語っています。自分たちが良いポジションを持つ、自分の願いとは全く、逆な道を歩むことになるのです。主イエスに自分の願いを申し出たヤコブは、後にエルサレム教会の指導者になりますが、使徒言行録12章1−5節に次のように記録されています。(p236)「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」ヤコブは、主イエス・キリストが語られた「わたしの飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。」そのみ言葉通り、苦難を受けて、殉教したのです。

 ヨハネはどうだったのでしょうか。伝説があるだけです。殉教した、あるいは逆に、苦しむことなく、安らかに伝道者として過ごしたと言う伝説があります。主イエスの苦しみは、伝道者が死を迎えるまで、毎日、何時も味わっていた苦しみと同じものです。伝道者の生活は教会のために苦しむ生活です。

 主イエスはとても大切なことを私たちに語っています。「わたしの右や左に誰が座るかは、わたしの決めることではない」と主イエスは言われたのです。弟子たちは、主イエスが権威をもって最高の位に就いたときに、主イエス御自身が、自分の次の地位に就く者を主イエスが決めるものと思っていましたが、そうではなく、神が選んだ人々に与えられるものであると語ったのです。主イエスは、父なる神の御心を重んじるのです。それはゲツセマネの祈りにおいて貫かれています。「御心に適うことが行われますように。」わたしの願いではなく、あなたの願いが成りますように、と言う祈りです。

 このようなことにより、明らかになることは、主イエスが、この二人に主イエスのみあとについて従うこと、主の弟子として生きるだけを求められたのです。ヤコブ、ヨハネに願いがあることを知り、そのような願いがどのような願いであるかもよくわきまえています。その上で主イエスは、何度もご自身が苦難を受けて、神の御心を行い従うことを語り、自分がそのように生きることを語り、あなたがたも、神の御心に従って苦難を受けることを語られたのです。

 私たちはここに集まっていますが、私たちは何を求めているのでしょうか。慰めの言葉を聞きたい、元気になる言葉を聞きたい、癒されたい、そのように願っているかも知れません。そのような時に、神の御心に従って、苦難を受けることを勧める言葉は聞きたくないかも知れないのです。自分の生活にプラスになるような言葉を聞きたいと願っているかも知れません。
 
 しかし、主イエスは主イエスに従う生活を求めておられるのです。二人の弟子ばかりでなく、家庭の主婦であろうが、学生であろうが、会社に勤めている人であろうが、同じように求めておられるのです。主イエスは、ご自分が飲む杯、バプテスマについて語られた後に、10章45節で次のように語っています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」この言葉は注目すべき言葉です。主イエスがご自身の死の意味を、すべての人々のための身代金の意味を持つと説明をしたのです。

 主イエス・キリストは十字架について、それは「身代金」であると語っているのです。身代金と言う言葉は、身近な言葉です。誘拐事件で身代金を払えと犯人が要求するのです。この言葉を聞くと、人質として捉えられている人を思い起こします。突然、思いがけなく、自分の自由を奪われて囚われの身になってしまうのです。大金を払わなければ、人質が殺されてしまいます。その時に、身代金を誰かが大きな犠牲を払って提供してくれると、人質が解放されるのです。主イエスは、その身代金として、主イエス御自身の命を犠牲として、献げて、すべての人の命が死から解放されると言われたのです。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」二人の弟子たちは、親しい思いをもって、自分の願いを述べましたが、ここで暴露したことは、この二人の弟子たちは、ほんとうに主イエスのことを何も知らなかったと言うことです。主イエスが神の御心のために、身代金を払って、十字架で死ぬ、その主イエスのみこころを尋ねることも読み取ることもできないのです。ただ自分の願いがかなえられることを求め、望んだのです。

 このような姿は、私たちの姿です。自分のことしか、考えていないのです。そこに病んだ心があるのです。本日の礼拝でエレミヤ書17章を読みました。エレミヤ書17章9節に「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。」とあります。この二人の弟子たちは、真実に、神の御心を尋ねることができないのです。神の御心とは全く異なるところで自分の願いがあるのです。私たちは祈りでは神の御心を求めていますが、それは建前であって本音は自分の願いが叶えられることを求めているのです。

 しかし、自分の願いが叶うように、自分中心の生き方をしている自分のためにこそ、主イエス・キリストが身代金を払ってくださるのです。深い自己中心、自分のことばかり考えている者のために、神の罰を受けて死んでくださるのです。そのことを信じることによって、私たちは罪から解放されるのです。

 「とらえ難く病んでいる」私たちを、神は癒してくださったのです。エレミヤ書17章14節には、「主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。」自分の願いが叶えられることを願うあり方ではなく、深い罪を赦してくださった神を称えるところから、私たちの生活は始まります。

 マルコによる福音書10章42節「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」自分を支配者と思い込んでいる人たちは、力、権力で支配しているのです。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい。」「偉くなる」と言う言葉は、「メガ」と言う語で「巨大」と言う意味です。あなたがたの間で大きい者になりたい人は、仕えなさい、大きな存在になる、それはすべての人の僕になることによってのみ貫かれるのです。「僕」と言う言葉は「奴隷」と言う言葉です。

 主イエス・キリストが支配する国と言うのは、力をもって支配するのではありません。奴隷のように仕えることによってです。私たちは権力について関心があり、権力を持つことから無関心でいられないのですが、主イエスは権力から自由であり、ただ仕えることによってのみ御自身を現されたのです。主イエスが弟子たちに語られたこと、それは、神と人に仕えると言うことです。

 神と人にほんとうに心から仕え、その生涯を全うした一人として、マルティン・ルーサー・キング牧師を挙げることができます。アメリカの黒人の人種隔離政策を撤廃するために、仕えた牧師です。撤廃のための運動の方法は、自分がえらい人になって指導する方法ではなく、非暴力の方法を用いるのです。暴力を用いない、非暴力の哲学について、次のように語っています。「非暴力的抵抗は報復をしないで、苦しみを甘受し、反撃をしないで、反対者の攻撃を喜んで受け入れることであり、反対者を憎むことさえも拒絶するのだ。非暴力の中心には愛の原理がある。ぼくたちが反対する者を愛するという場合には、エロス、フィリアのことではない。アガペという言葉で表現されている愛のことを言っているのだ。この愛は、自分自身の幸福を求めず、隣り人の幸福のみを求める。他人のために、他人を愛するところから始まるのだ。」

 自分のためにではなく、人種隔離政策で苦しんでいる人のために、逆に人種隔離政策を支持する人に、暴力ではなくて、愛によって理解してもらう方法を取ったのです。マルティン・ルーサー・キング牧師は凶弾に倒れましたが、この運動によって、公民権法が成立することができたのです。

 ただ自分の願いがかなうこと、自分の思い通りになり、自分の要求が通ることを願うのではなく、神のために、隣り人のために、自分も主イエス・キリストのように生きるのです。イエス・キリストの御心を御心として生きるのです。そのことを主イエスは私たちに願っているのです。


20160731 主日礼拝説教 「聖餐にあずかるのにふさわしく」  山ノ下恭二



(詩編51編1−11、コリントの信徒への手紙一 11章23−29節、
ハイデルベルク信仰問答・問81−82)

 毎月、第一日曜日、そしてクリスマス、洗足木曜日、イースター、ペンテコステ、創立記念日、には聖餐が行われています。来週の主日礼拝において、聖餐が行われます。聖餐の時に、聖餐制定の言葉が読まれます。この聖餐制定の言葉とは、コリントの信徒への手紙一 11章27−29節の言葉です。「従って、ふさわしくないままで、主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」

 この聖餐制定の言葉の中で鍵となる言葉があります。「ふさわしくないままで」と言う言葉です。「ふさわしくない」とはどのような意味なのでしょうか。わたしは聖餐にあずかる時に、この言葉がどのような意味なのか、をいつも考えます。皆さんはこの言葉の意味をどのように理解し、受け止めているでしょうか。私は講壇から降りて、皆さんに聞いてみたいと思うほどです。

 最初の伝道者であるパウロは、コリントの教会にこの手紙を書き送り、聖餐について詳しく語っています。詳しく書き送らなければならないのは、コリントの教会では聖餐が秩序正しく行われていなかったからです。現在の教会では聖餐は礼拝の中で行い、礼拝後、食事をする、愛餐会を行っていますが、この当時のコリント教会は聖餐と愛餐とは区別されていませんでした。裕福で時間のある人たちが先に教会に来て食事をしてしまい、貧しい人たちは仕事を終えて、遅れて教会に来て食事をしようとしても食べるものはないと言う事態が起こっていました。もっと深刻なのは、聖餐を戴く時に、日常、いつも食べる普通の食事のように考えて、聖餐にあずかった人が多かったことです。聖餐を特別な聖なる食事とは考えなかったのです。

 コリントの教会の人たちは、聖餐と普通の食事との区別がつかなかったのです。聖餐のパンは腹を満たすもの、ぶどう酒は、酔うためのものであるとしか、考えませんでした。つまり、聖餐としてのキリストのからだも血もいらないと思っていたのです。キリストのからだと血とを全く無視したのです。キリストの体と血に対する最大の罪は、そんなものはいらない、と思うことです。一年に一度も聖餐にあずからなくても構わない、と思うことです。コリントの教会の人たちは、毎日のように集まって食事をしていたのです。ただ、それが、主のからだであるとも、血であるとも考えていなかったのです。

 「ふさわしくない」と言うのは、聖餐がどのような意味をもった食事なのかをわきまえないで、と言う意味です。聖餐がどのような意味を持ち、聖餐にあずかることが自分にとってどのような意味があるのか、そのことがわかっていない、と言うことです。そのことが「ふさわしくない」と言うことです。 
 
 日本キリスト教団の教会の中では、洗礼を受けていない人にも聖餐にあずからせることをしている教会が多いのです。未受洗者への陪餐問題が教団で取り上げられ、かつて横浜・紅葉坂教会の牧師が主導して、今までの教会規則を変更して、洗礼を受けていない人に聖餐をさずけるようにする、と言う教会規則を教団に申請したところ、教団は教会憲法、教会規則違反なので、却下しました。そして牧師が、積極的に洗礼を受けていない人に陪餐をすることを続けているので、止めるように勧告を出しましたが、止めないので、教師の戒規を受け、退任になりましたが、裁判を起こし、敗訴しました。しかし、今も教団の教会で活動を続けているのです。
 
 洗礼を受けていない人を聖餐に与らせるべきだ、と言う人たちの主張は、洗礼を受けた人にだけ聖餐にあずからせるのは、差別ではないか、礼拝に招いているのだから、教会に来た人には誰でも聖餐に与らせ、仲良く食事をして良いのではないか、と主張をします。その根拠としてイエスは罪人を招いて食事をしたではないか、その時に洗礼を受けているか、どうかは問わなかった、と言うのです。また、5千人に給食をして一緒に食べた、その時もどのような人でも差別無く、食事を与えた、と言うのです。

 しかし、誰にでも聖餐を与えることは、洗礼を受けることの意味がなくなるのです。洗礼を受けることは教会員になることです。洗礼を受けていなくても、教会員になってしまうということです。

 よく考えると、初めて教会に来て、聖書を読んだことがなく、説教もわからず、しかも聖餐の意味もわからずに聖餐にあずかることは全く意味の無いことです。ただパンとぶどう液を飲んだ、と言うことにすぎないのです。

 私が中学生の時の英語の授業の時に、英語の教師が、初めて教会の礼拝に出席した時の様子を話したことがありました。出席した礼拝で聖餐が行われたとのことです。配餐する者が洗礼を受けているか、どうか、をきちんと確かめないで、配ったので、その教師がパンとぶどう液を口に入れたのです。授業の時に、パンとぶどう液を食べたことを自慢そうに話していましたが、その話を聞いて、私は洗礼を受けていない人が聖餐を受けていることは、聖餐と言う聖なる食事を侮辱していると思ったのです。

 礼拝後の食事であれば、予約し、会費を払うならば、許されるでしょう。しかし、聖餐は特別な、聖なる食事です。特別な意味をもった聖なる食事として主イエスは最後の晩餐の席を設けたのです。主イエスはわざわざ弟子たちを招き、御自身の十字架の死を直前にしながら、最後の晩餐で語られたのです。
 
 マタイによる福音書26章26−28節(p53)「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」聖餐は主イエスが制定された特別な食事であり、信仰をもって戴くものです。その深い意味をもわからずに飲食しても意味がないのです。それは、主イエス・キリストを冒涜し、聖餐を侮辱しているのです。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」私たちが聖餐にあずかる、その姿勢やあり方は今のままで良いのでしょうか。
 
 ドイツのある教会では、聖餐がある日曜日の2日前の金曜日の夜に聖餐を受ける準備として、礼拝をして聖餐に関する説教を聞いて、聖餐を受ける準備をして日曜日の聖餐を迎えているのです。

 礼拝に出席して、聖餐がある礼拝であることに気がついて、聖餐を受ける、特別に思わないで習慣的に聖餐にあずかると言うことが多いのです。聖餐にあずかる準備をほとんどしていないのではないでしょうか。

 竹森満佐一牧師は聖餐について語っていますが、そのところで次のように語っています。「聖餐を受ける人には、何よりもまず信仰が必要なのであります。」「信仰とは何でしょう。それは聖餐において与えられている神の恵みを信じている、ということであります。すでに、キリストのからだと血によって、自分は救われている、と信じていることであります。その時にだけ、聖餐は、恵みを与える力を発揮することができるのであります。」聖餐にあずかる時に、私たちはパンを見て、食するのです。このパンは私たちの罪のために裂かれた主の体です。私たちは杯を見て、これを飲むのです。この杯は私たちの罪のために流された主の血潮です。このパンと杯を飲食することによって私たちは罪が赦され、永遠の命を与えられることを確信するのです。

 「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」この言葉はどのような意味でしょうか。この言葉を聞くと一ヶ月の自分の生活振りを顧みて、キリスト者としてふさわしく過ごしたとは思えないのです。自分本位に過ごし、他の人のことを重んじることなく、愛のないひどいことをいってしまったのです。この聖書の言葉を聞いて、何とも思わず、自分の罪を自覚しないならば、それはおかしなことです。ふさわしくないので、今は聖餐にあずかることはしない、と言う思いは理解できます。

 10年も20年も、教会から離れて、信仰生活をしていない人が聖餐にあずかることができるか、と言う問題があります。東大宮教会にある時から一人の人が礼拝に出席するようになりましたが、聖餐には与らないのです。他の教会で洗礼を受けたと言うことを聞いていたのでどうしたのか、と思いました。ある時、この人から手紙が来ました。「20年、教会生活をしていませんでした。全く、神から離れていたので、自分が聖餐にあずかることをは自分を許すことができないのです。」と言う手紙でした。誠実な人だと思いました。しばらくの間、聖餐を受けなかったのですが、悔い改めをして聖餐を受けるようになりました。ふさわしい聖餐の受け方は、心からなる悔い改めをすると言うことです。本日の礼拝で詩編51編1−11節を読みました。51編5−6節「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。」このような悔い改めの心をもって聖餐にあずかるのです。

 カルヴァンは聖餐にあずかるに「ふさわしいとはどいういことか」を解説しています。「自らのふさわしくないままを、差し出すことこそふさわしい受け方である」と解説しています。自分がほんとうにふさわしくないと深く悔い改めて、そのふさわしくないままを差し出すことこそ、ふさわしいのである、と語っています。自分がふさわしくないと深く思っていることが聖餐にあずかるのにふさわしいのです。「貧しい者として、慈しみ深い贈り主のもとに行き、病人が病を治して欲しいと医師のもとに行き、罪人として義の創始者・主イエス・キリストのもとに行き、死せる者として生かしてくださる神のもとに行く」そのことがふさわしいのです。そのような信仰をもって聖餐を受けることがふさわしい受け方なのです。

 「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」この言葉で大切な言葉は「だれでも、自分をよく確かめたうえで」と言う言葉です。新共同訳だけが「確かめたうえで」と翻訳しています。他の日本語訳は「自分を吟味する」と翻訳しています。ここで主の聖餐にあずかる者は、自分を吟味する必要がある、と言うのです。
 
 竹森満佐一牧師の「聖餐」について語っているところがあります。次のように語られています。「ここで吟味と言われているのは、純粋さを調べる、と言うことであります。」「聖餐に対して純粋である、ということは、キリストの恵みによってのみ救われる、ということなのであります。その信仰において純粋である、と言うことであります。それは、キリスト以外のものによっては、救われない、ということ、あるいは、キリストによってのみ救われるのであって、ほかのことも必要である、と思わないことであります。信仰者は、だれでも、キリストによって救われている、と思っているのであります。しかし、ほかに、何の救いも必要がない、と思っているか、ということになると、必ずしも、十分でないかも知れません。ほかにも、自分を幸福にしてくれるものがあるような気がしているとすれば、それは、純粋とは言えないでしょう。」

 礼拝に出席し、説教を聞くことは自分に深い慰めを与えます。しかし、それは自分の生活の一部であり、他にも同じものとして自分を慰めることがあるならば、純粋ではない、と言うことです。キリストによって救われる、そのことが自分のすべてであると思わないで、ほかに自分を幸福にしてくれるものがある、大切にしているものがあるということは純粋ではない、ということです。
 
 「自分を確かめる」「自分を吟味する」ということは、自分がキリスト以外のものに救いがあると思っている、その純粋さを持たない自分を深く悔い改めることなのです。そして、深い罪をもっていてキリストの贖いによってしか、救われない、そのような自分を深く認識することです。それが、自分を吟味する、自分を確かめるということです。別の言い方をすれば、キリストこそは救い主である、と自分が信じているか、どうか、を確かめることです。

 ロ−マ・カトリック教会は、この聖餐を受ける時に、ふさわしくないままで、聖餐にあずかり、自分を吟味しないで聖餐にあずからないならば、罪を犯すことになり、裁きを招くことになる、という聖餐制定のことばを、教会の法として確立し、聖礼典・サクラメントとして、告解・懺悔の制度を作りました。「カトリック教会の教え」には告解・懺悔と言う言葉は使っていません。「罪のゆるしの秘跡」と書いてあります。信徒は一年に一度、カトリック教会の聖堂にある小さな部屋で自分の罪を司祭に告白し、赦しを宣言され、司祭から具体的に償いをするように命じられます。その償いとは「30分間、聖体を訪問して黙想する。少なくても30分間、聖書を読む。少なくても、3日間、黙想会に参加する。巡礼する。」罪のゆるしの秘跡を受けた者だけが聖餐にあずかることができるのです。自分の罪を告白し、その償いをしなければならないのです。

 聖餐制定の言葉をカトリック教会は受け止めて、教会法として決めていますが、告解・懺悔が聖礼典となり、司祭に委ねられて教会の手続きをしないと赦しがなく、聖餐を受けることができなくなったのです。人間の行為によって罪の告白と赦しがなされていくのです。これは聖書からの逸脱です。人間の罪よりも神の憐れみが大きいことを忘れています。

 私は二つの聖書のみことばを思い起こしました。詩編34編9節「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか。御もとに身を寄せる人は。」ヨハネの手紙一 3章1節「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」

 ハイデルベルク信仰問答・問い81には、「どのような人が、主の食卓に来るべきですか。」と言う問いがあり、その問いに対して次のように答えています。「自分の罪のために嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の信仰が正されることを求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」


20160724 主日礼拝説教  「あなたはキリストによって完全に赦されている」  山ノ下恭二



(エレミヤ書31章31−34節、ヘブライ人への手紙9章23−28節
 ハイデルベルク信仰問答・問80)

 本日も皆さんと共に礼拝をささげることができることを感謝致します。神をまことの神として拝み、賛美し、説教を聞き、ささげものをする、そのような幸いな時が与えられています。神の前に共に集っているのです。

 人間はひとりでは生きることはできません。他の人と関わりながら生きているのです。人と関係をもちながら、生活しているのです。自分が相手を受け入れ、相手も自分を受け入れる、自分が相手を肯定し、相手も自分を肯定している、そのような正常な関係をもって生活するならば、それはとても幸いなことです。私たちが生きて行くのに必要なのは愛の関係を持っていることです。人に自分が愛される、自分が人を愛する、そのような関係をもっていることが、私たちの生活を豊かにします。

 しかし、私たちがいつも相手と良い関係を持つことができません。関係が良いときには、良いのですが、何かのきっかけで、関係が悪くなることがたびたびあります。人間には限界があって、誤解をしたり、行き違いがあり、欠点や過ちがあるので、互いに良い関係を保つことができないのです。

 そして、人間には自分中心と言う罪があって、相手が自分の利益になる時には相手を大切にしますが、相手とつきあっていても自分の思い通りにならない場合は、相手を遠ざけるのです。そして自分は正しい、自分は悪くない、相手が悪いと思うようになるのです。自分には欠点や罪があるのですが、相手の過ちや欠点には敏感ですし、過ちや欠点がよく見えるので、自分が悪いとは思わないのです。そして相手を裁いてしまうのです。良い関わりをもって生きて行ければ幸いですが、なかなか、人と良い関わりが持てないことが多いのです。
 
 現代に生きる人たちは、神を失っていますから、自分が神の前に罪があるとは考えていません。自分はこの世の法律に違反してはないし、特別に罪を犯しているとは思わないと言うのです。しかし、実際には、神を畏れることがないので、相手を裏切ったり、相手を陥れようとします。相手が自分に罪を犯すと、相手を赦すことができず、相手に復讐をしたいと思うのです。神に良い存在として創造されているのですが、罪を犯し、自分中心に過ごしているのです。

 詩編51編は神の前で罪を告白する詩編です。51編6節には「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。」と告白しています。ここには私たちがいかに深い罪をもっているのか、そのことを深く認識して告白しているのです。しかし、私たちは神の前に自分が深い罪を犯していることを認めないのです。自分はそんなに罪があるとは思わない、と思っているのです。神と関係が壊れてしまった、その関係を私たちの力では、回復し、正常にすることはできません。神に敵対し、神の愛に無頓着で、神を無視し、神を敬うことをしない、そのような者が神との正常な関係を持つことができるように、神は救いの業を始めるのです。
 
 人間の社会でも、相手に過ちを犯した時には、償いをしなければなりません。相手に損害を与えた場合、それを償うのが常識です。大宮におりました時に、一月に一度、白洋舍というクリーニング会社に聖書の話を頼まれて、通っていたことがありました。ある時、担当の人に仕事をしていてどのようなことが大変ですか、と聞いたところ、最近、とても苦労したことがあったのです、と言って次のような話をされました。ある婦人から洋服のクリーニングを依頼されたのですが、仕上がりが良くなかったので、お金で弁償をしようと思っていたと言うのです。その婦人はその洋服はパリで買ってきたもので、日本には売っていない、とても気に入っているので同じものをパリで買ってきて欲しいと言うのでとても困ったそうです。謝って、その洋服の値段よりも高いお金を支払うことで相手が納得して帰ってもらったと言いました。相手に対して自分に過失があるときには自分が賠償するのです。それがこの世の常識です。

 しかし、聖書の論理はこの世の常識をくつがえすのです。先ほどの例で説明すると、洋服をクリーニングに出したこの洋服の持ち主の婦人が損害を受けたのでお店が弁償するのが普通です。ところが、聖書の論理では、この婦人が相手の落ち度を責めず、その責任を追及することなく、仕上がりが良くない洋服と同じ、全く新しい洋服を自分のお金で購入して相手に責任と弁償を求めないのです。この婦人が相手の過失を赦して、相手に代わって賠償金を支払ったと言うことになります。
 
 私たちが神に対して罪を犯しているのですから、私たちが自分の罪に対して神に賠償する責任があります。その賠償とは私たちの死をもって償わなければなりません。ところが神が私たちが受けるべき罪の罰、罪の審判を、イエス・キリストが死ぬことによって引き受けてくださり、私たちは罪がないものとなりました。イエス・キリストが私たちのために神に償ってくださったのです。イエス・キリストが贖いとなってくださったのです。

 もう一つの例で解説すると、裁判所で、裁判長が殺人を犯した被告に死刑の判決を言い渡します。死刑に処せられるのは、この死刑判決を受けた囚人です。しかし、聖書の論理では、裁判長がこの死刑囚に深く同情をして、裁判長自らが、この死刑囚の身代わりとして死刑になるのです。

 ロ−マの信徒への手紙3章23−25節には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(p277)と語られています。

 私たちは罪ある者です。ところが主イエスが私たちに代わって、罪人となられて、私たちに代わって、罪の罰を、罪の審判を受けて死なれたのです。

 コリントの信徒への手紙二 5章21節には「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(p331)と語られています。

 洗礼を受けてキリスト者となり、教会会員となった者は、神との交わりが与えられているのです。礼拝の説教によって罪の赦しが語られ、そして聖餐において罪の赦しが私たちに目に見えるものとして、ありありと示され、飲食することによって、罪の赦しが自分のものになるのです。

 キリスト教会の歴史を顧みると、最初の教会は礼拝において説教がなされていました。ところが次第に説教をしなくなり、聖餐を中心とした礼拝になりました。そして、聖餐の意味も、その理解も仕方も根本的に変わってきたのです。聖餐をイエス・キリストの犠牲と言う観点から理解するようになりました。聖餐の中心がイエス・キリストを犠牲としてささげることになりました。主イエスが十字架で肉を裂き、血を流す、贖いをなすことをミサで再現すると言うのです。
 
 大学で知り合った北浦和カトリック教会の信徒の人と話していましたら、北浦和カトリック教会には司祭が今、いないと言う話から、司祭がいなかったらミサはどうするのかと聞きました。隣のカトリック教会の司祭が土曜日にミサをあげにきて、日曜日に信徒がパンを頂くと言っていました。土曜日に司祭がパンとぶどう酒をキリストの体と血に変化させて、それを神に犠牲としてささげ、贖いとなったキリストの御聖体を信徒たちが戴くのだと言っていました。

 毎週、司祭によりパンとぶどう酒をキリストの聖体とキリストの血に聖変化させて、神にささげて、贖いとなす、と言う手続きをしなければ、信徒は聖餐、パンを戴くことはできないのです。カトリック教会のミサはこのようなことを毎週のミサにおいて繰り返すのです。ミサの中で、キリストの犠牲の行為を再現するのです。あのゴルゴタの丘で十字架において犠牲をささげて、贖いとなったことがミサにおいて再演され、それが繰り返されるのです。オーストリアのオーバーアガマウで何年かに一度、この村の人々がキリストの受難劇を演じることがありますが、ミサにおいて受難の劇を演じることによって、見える形でキリストの贖いが繰り返されるのです。

 「カトリック教会の教え」には次のように書かれています。「ミサの際にささげられるいけにえは十字架上でささげられたイエス・キリストご自身であり、両者(ミサとキリストの十字架)は同じキリストの自己奉献であること、ただし、ささげるしかたが異なり、キリストは十字架で血を流されたが、ミサの時には血を流さずに捧げられたのである」と書かれていました。ゴルゴタの丘で十字架の犠牲がささげられた、それと同じように、ミサの時には血は流されないが、同じことが再現され、再演されると言うのです。毎週、ミサにおいて繰り返し、キリストを犠牲として献げないと、キリストの贖いは有効にはならないと言うのです。

 このような聖餐についてのカトリック教会の教理に対して宗教改革者たちは根本的な疑問を持ったのです。カトリック教会の聖餐の理解が、聖書に根拠を持った理解なのか、聖書を徹底的に調べたのです。

 ヘブライ人への手紙には、キリストの犠牲が「ただ一度」「唯一」であることを強調しています。ヘブライ人への手紙7章27節(p409)には「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日献げる必要はありません。と言うのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」私たちの罪が赦されるために、主イエス・キリストが御自身を献げられて贖いを成し遂げられたのです。「成し遂げられた」と言う言葉は「完成した」「完了した」と言う言葉です。主イエス・キリストによって贖いは完全であり、完了しているのです。ミサのたび毎に、キリストの体を犠牲として、いけにえとして献げる必要はないのです。キリストの贖いの業は「一回かぎり」です。それで十分なのです。その贖いはいつまでも有効なのです。

 本日の礼拝で読んだ、ヘブライ人への手紙9章26節には「ただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」と書かれています。カトリック教会ではこの日曜日にミサで司祭がキリストのいけにえをささげ、次の日曜日に同じことが繰り返されるのです。ゴルゴタの丘の十字架のキリストの贖いが十分ではなかったかのように、繰り返されるのです。

 このカトリック教会の教えに対して、宗教改革の時に作成され、信仰告白であるハイデルベルク信仰問答・問80では、こう問うのです。「主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか。」この問いに対して、こう答えています。

 「主の晩餐がわたしたちに証しすることは、イエス・キリスト御自身が、ただ一度十字架上で成就してくださった その唯一の犠牲によって、わたしたちが自分のすべての罪の完全な赦しをいただいているということ。」

 一度限りの、あのゴルゴタの丘の十字架の贖いは完全であり、十分であり、私たちの罪は完全に赦されているのです。カトリック教会のように教会がそのたび毎に、キリストをいけにえとしてささげるという複雑な手続きをしなくても良いのです。 

 ハイデルベルク信仰問答・問80の答えの後半で、カトリック教会の教えを次のように批判しています。「ミサが教えることは、今も日ごとに司祭たちによって キリストが彼らのために献げられなければ、生きている者も死んだ者も キリストの苦難による罪の赦しをいただいていない、ということ。」

 按手を受けた正教師が聖餐制定の言葉を読み、聖餐の言葉を朗読し、差し出されたパンと杯をキリストの体、キリストの血として信じて飲食するならば、完全な罪の赦しと永遠の命を戴くことができるのです。

 私たちの福音主義教会、プロテスタント教会では、聖餐においてイエス・キリストを犠牲としてささげる、犠牲を強調するよりも、「キリストの贖い」に「感謝」する、と言う理解が聖書に従った理解であると考えたのです。キリストの贖いによって神が私たちを愛して下さることに感謝する、そのことを基調としたのです。
 
 聖餐は、神が私たちと交わる、恵みの手段です。私たちが神に対して深い罪を抱えているけれども、その罪をキリストが贖ってくださり、私たちが神と正常な関係の中に置かれるのです。聖餐において神は私たちを赦していることをキリストの裂かれた肉を表すパン、キリストの流された血を表すぶどう酒(ぶどう液)を自分の目で見ることができ、飲食することによって、キリストによる罪の赦しが自分のものとなり、神が完全に赦してくださっていることを私たちの身体で味わうことができるのです。

 神に愛されている、それは説教によって伝えられます。それだけでなく、聖餐によっても、神の愛が目に見える形で伝えられています。

 私たちを罪人としてではなく、神の前に正しい者として神は認めてくださっているのです。私たちには神との交わりが与えられています。

 神は洗礼によって私たちの罪を洗い落とし、神の家族の一員として、神の子どもとして受け入れてくださり、教会の交わりに入ることができました。神は私たちの魂を養うために配慮してくださいます。説教と言う手段によって、私たちの耳を通して恵みが伝達され、聖餐のパンと杯という手段によって、私たちの目と舌を通して、罪の赦しと永遠の命が伝達されるのです。

 ある本に聖餐を神とのアポイントメントである、と書いてありました。アポイントメント、人に会うのに、会う人に電話で会う時間と場所を予約することをアポイントを取る、と言います。省略して、アポを取るとも言います。聖餐にあずかると言うことは、キリストとお会いする約束をして、時間と場所が定まっており、そこへ行けば必ずキリストにお会いできると言う意味で、聖餐はキリストとのアポイントメントだと言うのです。

 キリストとの交わりが私たちに豊かに与えられている、それは私たちにとって大きな慰めであり、励ましと力になります。

 聖餐を受けていることは、私たちが毎日、生活していく中で、大きな力を持っているのです。自分を正しいと思い、自分の罪を認めず、相手の罪や過ちを裁いて、赦さない、そのような時代の中で、私たちが神の完全な赦しを戴いているのです。それは私たちが和解の関係、愛の関係、赦しの関係で生活することなのです。


20160717 主日礼拝説教 「あなたに欠けているものが一つある」 山ノ下恭二



(詩編34編9−23節、マルコによる福音書10章17−34節) 

 東大宮教会の近くに住んでいた一人の青年が、教会の礼拝に出席するようになりました。両親はキリスト同信会と言う教派のキリスト者でした。この青年も高校生の時まで、その教会に出席していましたが、東大宮に引っ越してきて、東大宮教会に通うようになりました。朝早くから、夜遅くまで、キャリヤカ−の運転をしながら、将来の生活のために、無駄使いせずに、貯金をしていました。教会生活をしていくうちに伝道者として召命を与えられ、東京神学大学1年に入学し、6年間、学び、卒業し、現在は牧師として奉仕しています。この青年は、貯金していたお金をすべて、神学校の学びのために使い、卒業の時には貯金はほとんどなかったそうです。

 新約聖書の福音書には、主イエス・キリストと出会った人々の物語が多く出て来ます。福音書の最初には主イエスの弟子になった物語が記されています。

 このマルコによる福音書1章には、主イエスが伝道を始めてすぐにガリラヤ湖で漁をしていたシモンと兄弟のアンデレ、そしてヤコブとヨハネに「私に従ってきなさい」と呼びかけ、彼らは仕事を放棄し、家族を残して、主イエスに従ったのです。彼らは主イエスの呼びかけに応えて主イエスに従って弟子になったのです。これらの人々は正しく主イエスに出会うことができたのです。主イエスの呼びかけに無頓着でいたのではないのです。正しく応えて、主イエスの弟子になったのです。

 マルコによる福音書10章17節以下には、ひとりの人が出て来ます。この人は主イエスの語りかけに答えることができず、主イエスの弟子になり損なったのです。10章22節に「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら、立ち去った。」と書かれています。この人は悲しみながら、主イエスのもとを立ち去らねばならなかったのです。主イエスの弟子たちは、主イエスと出会って弟子となったのです。ところが、この人は自分で進んで走りより、主イエスに出会いながら、主イエスの弟子になり損ない、主イエスのもとを去ったのです。なぜ、そのようになったのでしょうか。

 この人は誠実に生きてきたのです。律法を守り、落ち度なく、まじめに毎日を過ごしていたのです。誰が見ても、立派な人でした。しかし、この人自身が抱き、問い続けていたことがありました。何を問い続けていたのか、それを解く鍵となる言葉があります。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をしなければならないでしょうか。」とこの人は質問していますが、「永遠の命を受け継ぐ」と言う言葉から、その意味を読み取ることができます。それは死に向き合っている時に、自分は死に対して無力であるということを痛感していたのです。この人は死を恐れ、死に対して自分が無力であると言う思いを克服できなかったのです。大変、立派に毎日を過ごしているけれども、死に立ち向かい、それを乗り越えることができる確信を持つことができなかったのです。その問いをそのままにすることができなかったのです。

 主イエスであるならば、死に立ち向かう確信を持つ教えを教えてくれるかも知れないと思って、この人は一直線に主イエスのもとに走りより、教えを乞うたのです。「善い先生」と呼んでいます。しかし、主イエスはすぐに「神ひとりのほかに善いものはいない」と言って、この人の言葉に反論しているのです。自分は人生の教訓を教える教師ではなく、この人が心を向けるのは神に対してである、神に対してどのように生きるのか、を真剣に考えて欲しいと語っているのです。

 この人は「何をすればよいのでしょうか」と質問しています。「何をすれば」と言っているので、律法を守ることによって神に近づく、神に近い者となると考えています。そこで主イエスは律法を守っているか、どうかを聞き、この人が小さい時から守っていると答えています。ところが、この人の答えに対して、主イエスは、それで良い、感心だ、良い生き方をしている、と褒めることをしないのです。
 
 主イエスはこの人のあり方に挑戦するような言葉を投げかけます。主イエスは、自分の思いをぶつけるように、この人に言葉を投げかけるのです。「あなたに欠けているものが一つある。」と言われるのです。私はこの言葉を誤解していたことに気がつきました。この人は品行方正だけれども、その他に何か足りなくて、もう一つを要求していると思っていたのです。しかし、主イエスは全く別のことを求めているのです。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」今のままで主イエスに従えと言っているのではありません。家に帰って持っているものをみな売り払い、貧しい人々にあげなさい、と言ったのです。自分が今の生活を続けていける、その範囲で無理なく、献げなさいと言っているのではないのです。これから自分の生活を支える財産をすべて献げなさい、と言っているのです。主イエスはこの人が到底、できないことを突きつけているのです。この人はたくさんの財産を持っており、それを手放すことは到底できないのです。この人が持っている財産を手放すことは、この人の拠り所を失うことになるのです。積み木を下から重ねていき、完成したと思っていたら、下の積み木の一つを取ると積み木全体が崩れてしまった、と言う経験があります。この一つは全体の中の一つであると言うよりも、この一つがないと全体が崩れてしまうのです。
 
 この人は品行方正で、財産もある、この世の基準から言えば、申し分のない人です。しかし、主イエスは全く異なる視点から、この人の問題を見ているのです。この人の問題は神に信頼を置かないで、この世のものに信頼を置いていることなのです。この人は自分の生活ぶりに頼り、まじめに生きてきたことに信頼し、そしてお金に頼っていたのです。
 
 私たちは様々な財産を持っています。学歴や業績、能力、資産、などです。しかし、この地上の様々な財産に依存することは、神に頼ることを妨げることになります。学歴や能力を持つならば、それに頼ることになり、神を信頼しなくてもやっていけるのです。業績やお金などの財産を持っていれば、それに頼ることになります。

 この人も地上の生活を営むために、頼るべきものを持っていたのです。この地上を生き抜く知恵を持ち、生活の仕方を身につけていたし、自分の生活を支える財産を持っていたのです。その延長上に、付け加えるべき、生き方があると思っていたのですが、主イエスが突きつけたのは、この人が持っていた生活の根拠を崩すことであったのです。それは財産が神と人間を隔て、神を信頼するのを妨げる障がい物になるからです。
 
 主イエスは、この人に冷淡であったのではありません。主イエスは誠実に生きようと、主のもとを訪ねてきたこの人を慈しみ、愛していたのです。愛していたからこそ、自分の持っているものや自分の財産に頼ることなく、まことの神との交わりにあずかって欲しい、神に信頼して生活して欲しいと願って、あえて、この人には実際にはできないことを要求するのです。

 「家に帰って持っているものをみな売り払い、貧しい人々にあげなさい。そしてわたしに従いなさい。」と語るのです。この言葉に従うことができずに、この人は主イエスのもとを去っていくのです。この人は、自分の持っている財産を手放すことができなかったのです。この財産は、お金だけではなく、自分のもっている取り柄、学歴、この世で通用する財産のことです。この人にはできないことを要求することによって、この人が、改めて、もう一度、神との関わりを構築することを主イエスは願っているのです。

 私たちはこの地上で順調に生活できている時には、神を求めたり、救いを求めることはしません。しかし、様々な人生の危機、病気、試練、人間関係の破れ、死などの人生のクライシスの時に、自分の生き方を再点検するのです。主イエスは、この人がもう一度、自分の生きる根拠を問い直してほしいと願って、あえて厳しい言葉を投げかけたのです。

 私たちはこの物語を余り自分とは関係のない物語として読むのではないか、と思います。しかし、深く関わるのです。

私たちは、この地上を無事に過ごすことを願っています。そこでは聖書のみことばを読むことは自分のためであり、自分を励まし、自分を元気にするためのものだと考えているのではないでしょうか。自分にとって利益となることを求めているのです。信仰することを、人間として立派に生きるための手段にしているのです。そこでは、主イエスに従うためにささげるという考えは出て来ないのです。

 しかし、神の視点から、私たちの生活を見るのです。そこでは、この地上の価値観とは異なる価値観で物事を計っているのです。何が価値があるのか、その計り方が異なっているのです。
 
 主イエスはルカによる福音書16章19−31節で、「金持ちとラザロ」の物語を語っています。金持ちは贅沢な暮らしをしながら、毎日、宴会を開いて、贅沢な食事をしていました。この家の玄関先でラザロは、吹き出物によって苦しみながら、食卓の汚れたものを拭いたパン屑が投げられて、それだけを食べていのちをつないでいたのです。二人とも死に、この二人が死んだ後にどのようになったのかと言うと、地上での生活とは全く異なり、逆転しているのです。金持ちは陰府で苦しみ、ラザロは信仰の父であるアブラハムに抱かれて、安らかに過ごしているのです。この地上での生活の価値観と、神が持っている価値観とは全く違うのです。
 
 この「金持ちとラザロ」の物語の意味を解く言葉は「ラザロ」と言う言葉にあります。「ラザロ」その意味は「神が憐れむ者」と言う意味です。金持ちはこの地上でお金に頼って贅沢な暮らしをして満足していたのです。お金が有り余っていて、人々があこがれるような暮らしをしていました。しかし、死んだ後に、神のもとで、安らかに暮らすことができなかったのです。祝福されないで、苦しみながら、陰府にいなければならなかったのです。しかし、ラザロ、神が憐れむ者、神だけに信頼し、神が与えてくださる愛に頼るのです。ラザロは、この地上で、この世の価値観では、誰もそのようには暮らしたくない、みじめで貧しい、その日の食物にも困るような生活を送っているのです。しかし、神のもとでは、神の愛のうちに抱かれ、安らかに生活しているのです。

 私たちは、この世の価値観によって縛られています。この世の価値観によってしか、自分の生活を計ることをしないのです。しかし、この世の価値観によってではなく、神がもっている価値観によって、私たちの生活を構築する、見直してみることが大切なのです。私たちを深く愛してくださる神に信頼し、神のみことばに従う時に、自分の所有している財産を手放すことができるのです。

 私が神学生であった頃、東京神学大学に萩尾奨学金というのがありました。地方の小さな教会で、長く教会に仕えて来た、萩尾さんと言う夫妻が、将来、日本の伝道のために、神学生のための奨学金を3000万円献金してくださったのです。今から50年前ですから、相当なお金です。奨学金担当の教授から「萩尾さんは、質素な暮らしをしながら、自分の老後に使うお金を神学生のために献げたことをよく心に留めるように」と言われました。この奨学金を戴き、私は神学校を卒業できたのです。自分の大切なお金を手放すことができた、それはただ神のことだけを考えて、ささげたのです。貧しいやもめが生活費全部をささげたように、自分の生活に囚われることなく、ただ神に心を向けて、ささげたのです。

 カトリック教会でフランシスコ会と言う修道会があります。この会はフランシスコが始めた修道会ですが、フランシスコが今日の聖書を読んで、この主イエスの言葉に従う決心をして、裕福な家庭で育ちましたが、自分の持っている財産をすべて手放して、ただ、キリストに従う生活を始めたのです。
 
 新約聖書・テモテへの手紙一 6章17−19節には次のように語られています。「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように、真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(p390)

 主イエスのもとを訪ねたこの人は、この世の基準では豊かな人です。しかし、神に望みを置く豊かさは、自分を神にささげ、人を愛する、心の豊かさなのです。


20160710 主日礼拝説教  「子どものように神の国を受け入れる者でなければ」  山ノ下恭二


20160710 主日礼拝説教 「子どものように神の国を受け入れる者でなければ」 山ノ下恭二
(詩編36編1−11節、マルコによる福音書10章13−16節)

 私が東京神学大学4年生の時に、夏期伝道実習で40日間、秋田県の大曲教会に行きました。その時の大曲教会の牧師は荒井源三郎と言う牧師でした。ある時、大先輩の牧師から聞いた話だけれどもと断って、植村正久牧師のことについて話されました。大正時代の話ですから、大昔の話なので、その大先輩の牧師も誰かから聞いた話であったかも知れません。ある日曜日の礼拝で、植村牧師が説教をしていたところ、会堂にいた赤ちゃんが泣き出したそうです。なかなか泣きやまなかったそうです。植村牧師が講壇から降りて、その赤ちゃんの頭をなでながら、説教を続け、泣き止んだら、講壇に登って、説教を続けた、と言う話でした。荒井源三郎牧師は私に話をしながら「立派な牧師だな」と言ったのをよく覚えています。説教中に赤ちゃんが泣くと、このことを思い出すのです。子供は小さな存在ですが、小さな存在である子供を重んじることをこのことから私たちは教えられるのです。
 
 私たちの教会では4月10日に子どもと共に守る礼拝をしました。9月18日に子どもと守る礼拝をします。子ども共に礼拝をすることができるのは、すばらしいことです。子供がいると騒がしいと言う人がいますが、神の家族として、子どもと共に過ごすのです。

 本日の礼拝でマルコによる福音書10章13−16節のみことばを読みました。群衆が集まってきたので、主イエスはいつもなさっておられたように、神の国について教え、その福音を伝えておられたのです。そこへ、主イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来たのです。有名な教師がいると、その教師に触れて戴き、祝福をしていただくために、人々は自分の子どもたちを教師のもとに連れて行ったのです。これは、イスラエルだけではなくて、世界中どこでも親は自分の子どもが祝福された人生を歩むことを願うものであります。この当時、主イエスの評判が良く、霊的な力を持つと聞いていたので、人々は主イエスに大きな祝福をして欲しいと願って、主イエスのもとに行ったのです。主イエスに触れてもらい、祝福をして戴く、それだけで、親は自分の子どもの将来について安心することができたのです。そのような願いをもって、親たちは自分の子どもたちを主イエスのもとに連れて来たのです。

 このような願いは切実ですが、その願いは利己的、自己中心的なものです。主イエスのことを知ろうと思ってきたわけではないし、主イエスの教えに耳を傾けようと思ってきたわけではないのです。主イエスのところに救いを求めて来たのでもないのです。ただ、自分の子どもたちがこの地上で困難に遭わず、災害にも遭わないで、無事に過ごして欲しいと子どもたちの幸せだけを願って主イエスのもとを訪ねて来たのです。

 10章13節に「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちは叱った。」とあります。主イエスが神の国について語っている最中に子供たちを連れた親たちがその輪の中に入って来たのです。弟子たちは主イエスが話している最中なので、妨げるものとして親たちと子供たちを叱ったのです。この弟子たちの行為は、弟子たちにとって当然のことです。それは主イエスが真剣に神の国について話しているのだから、妨げられるのは困ると主イエスは思っていると弟子たちは考えたのです。従って弟子たちは主イエスも弟子たちと同じ思いでいると思っていたのです。だから集会の妨げになった親たちを叱ったのです。主イエスの権威をもって、彼らを退けようとしたのです。

 ところが弟子たちにとって意外なことを主イエスが語られます。親たちを叱りつけた彼らが、今度は主イエスに叱られることになります。それだけはありません。主イエスはこの時、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」と言われました。さらに「神の国はこのような者たちのものである。」と付け加えたのです。この言葉を私たちはどの位の重さで感じるでしょうか。この主イエスの言葉は弟子たちにとって衝撃的な言葉でした。それはなぜでしょうか。

 弟子たちは主イエスに一番、近いところにいると思っていました。主イエスと自分たちとは近い距離にいると思っているのです。神の国との距離と言って良いかも知れません。誰が主イエスに一番、近いのか。当然ながら、それは弟子である自分たちだ、と思っていたのです。

 実際、主イエスの家族が主イエスのおられるところを訪ねてきた時に、主イエスは、血のつながった家族よりも弟子たちを主に近い者と宣言しているのです。(マルコ3章31−34節p66)自分たちは主イエスに一番、近くにおり、その周りに主イエスの教えを聞きに来た人たちがおり、その外周りに子供の祝福を求めてやって来た親たちがおり、その親の外周りに子供たちがいると弟子たちは思っているのです。主イエスと言う中心から、はるか遠くに離れた、外側に子供たちがいる、周辺部に子供たちがいる、と弟子たちは考えていたのです。しかも、子供は大人と比べて価値がなく、無視しても良いと考えていたのです。

 ところが、主イエスが「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言われた時に、弟子たちが考えていた順序が崩れてしまったのです。「神の国はこのような者たちのものである。」主イエスに一番、周辺にいたと思っていた者たちが一番、近い者であることが明らかになったのです。弟子たちは一番、近い者ではないのです。「神の国はこのような者たちのものである。」そして、主イエスは子供を抱き上げ、手を置いて祝福されたのです。ひとりひとりを抱き上げて祝福したのです。

 主イエスが語られた言葉でよく分からない言葉があります。それは「子供のように神の国を受け入れる」と言う言葉です。「子供のように」と言うことを皆さんは、どのように理解しているでしょうか。この言葉は嬰児、幼児に洗礼を授けることの根拠として考えられています。主イエスが子供を重んじた、子供をひとりの人格として認めておられた、と理解しているのです。
 
 私たちは「子供のように」と言う言葉を子供特有な性質として考えることがあります。子供は無邪気である、子供は人を疑わない、子供には罪がない、そのように子供の特性を主イエスは語っているので、子供のようになれば、神の国に入ることができるのではないか、と思うのです。子どもたちの無邪気さ、純真さ、を主イエスは高く評価したのだと思い込んでしまうのです。自分たちが子供のようになることに努めると言うことになってしまうのです。

 しかし、「子供のように」と言う言葉はそのような意味ではないのです。子供は親がいなくては生きていけない存在です。自分で働いて自活することはできません。常に親の愛を受けて生活できるのです。

 私は25年の間、社会福祉法人の理事としてある児童養護施設と関わって、理事会で、養護施設に入所している児童の様々な生い立ちを聞いてきました。その子供がどんなに親から虐待を受けても、親に頼り、自分の親と一緒に暮らしたいと思っている子供が多いと言う話をよく聞いてきました。それほど、親に頼り、親の愛を受けたいと願っていることを知ったのです。

 主イエスが子供のように神の国を受け入れる者と言うのは、ただ神にのみ頼って信頼する、神の愛を受ける、そのような者は神に受け入れられるのだ、と語るのです。
 
 主イエスが神の国を宣べ伝えたのですが、神の国は具体的にどのような人々に向けられたのでしょうか。それは神に近くにいると自認していたファリサイ派の人々、律法学者、サドカイ派の人々ではなく、神から最も遠くで暮らしている、土地の民、徴税人や罪人、病を持った人々であったのです。主イエスは神に近く、中心にいると考えていた宗教指導者には近づかず、神から最も離れている人々に神の愛の支配を宣教したのです。この当時、相手にされていなかった徴税人や罪人とは食事をし、そして重い病で苦しんでいる人たちの病を癒したのです。主イエスが相手にしたのは、神に近くにいると思っている人たちではなくて、神から離れ、神の愛が必要な人たちであったのです。そして主イエスはこの人たちに愛を多く注いだのです。

 私たちが同情し、愛を注ぎたいと思う人は、何の苦労もなく、健康で元気な人ではなく、孤独で、家もなく、苦しんでいる人たちです。医師がその医療において力を尽くすのは、薬で治すことができる人ではなく、重病でなかなか、治らない人たちです。治療が難しい人であればあるほど、医師は治そうとして治療をするのです。主イエスは、全力で神から離れている人々を神のもとに引き寄せるために、神の国の福音を宣教するのです。子供のように神の国を受け入れる者、神にしか頼ることができない者が神を頼る、そのような者こそが神の国に入ることができるのです。

 この物語は、子供に焦点を当てており、私たちは子供に注目するのですが、弟子たちとは、私たちキリスト者のことであり、この物語は私たちに向けられて語られているのです。

 この時、弟子たちは、子どもたちを周辺にいた者たちだと考えていました。その子供たちを主イエスは、ご自分に最も近い存在であると宣言なさったのです。主イエスはこの弟子たちをどのように考えておられたのでしょうか。弟子たちは主イエスの一番、近くにいたと自分たちも思っていたし、事実、その通りでした。しかし、その意味はどのようなことであったのでしょうか。

 この時、弟子たちが、子どもたちを連れて来た親たちを退けようとしたのは、親たちが、主イエスの教えを聞こうとしてきたのではなく、ただ自分たちの子供の幸福を願って、主イエスのもとに来たからです。それは主イエスに近づくのはふさわしくないと考えたのです。教会に初めて来た人が、皆さんに「自分は御利益を求めて教会に来ました」と言ったら、皆さんはそれは間違っていると思うのです。教会に来た動機が不純だと思うに違いありません。
 
 しかし、弟子たちが主イエスの弟子になったのはどのような理由であるのか、を考える必要があります。弟子たちも親のように利己的な理由で主イエスに近づいたのではなかったか、と言うことです。弟子たち自身の姿は私たちの姿ではないかと言うことです。
 
 マルコによる福音書10章35節以下に、ゼベタイの子である二人の兄弟たちの物語が記されています。彼らは、主イエスが栄光を受けた時に、自分たちを左右に座らせて欲しいと主イエスに願うのです。彼らは、主イエスがロ−マ帝国の支配から解放されて主イエスが王として君臨するようになった時に、自分たちを高い地位につけてほしいと願っているのです。自分たちの願いを第一に考え、そのような利己的な理由で主イエスに近づいたのです。主イエスに近づいた理由が利己的であるのは、それは子供たち連れた来た親たちだけではないのです。弟子たち自身もまた、心の奥深くに、そのような理由を抱えながら、主イエスの近くにいるのです。

 私たちも利己的な理由で信仰を求めたり、自分のことを考えて聖書を読むことをしているのではないでしょうか。
 
 弟子たちにとって自分たちが自分のために主イエスの近くにいたことが暴露されるのは、主イエスが十字架の事件においてでした。弟子たちは、主イエスが十字架にかかることがはっきりした時に、主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。ペトロは人々に問いつめられて、三度も主イエスとの関係を否定してしまったのです。主イエスに最も近いところにいると自認していた思いは砕かれてしまったのです。自分たちは主イエスに最も近くにおり、自分たちは一番、先に祝福を受けるに違いないと思っていた、そのことがガラガラと崩れてしまったのです。

 弟子たちはこのような経験を通して、自分たちの中で明らかになったことがあるのです。それは、自分たちは主の弟子としてふさわしい者ではなかったと言うことです。自分たちは主イエスの一番、近くにいると思っていましたが、そうではないと言うことです。自分たちは親たちや子どもたちと同じように周辺にいた者たちであることに気づいたのです。しかし、主イエスが呼び寄せて、主イエスの近くにいる者としてくださったのだ、と言うことなのです。

 それはちょうど、主イエスが子どもたちを呼び寄せて、御自分に一番近いところに立たせてくださったのと、同じです。そしてひとりひとりの子どもたちを抱き上げて祝福されるのですが、主イエスは弟子たちのひとりひとりの足を洗うことをされたのです。(ヨハネによる福音書13章)それは弟子たちの罪を洗い落とすために、主イエス御自身が、人々の罪を御自身のものとして引き受け、罪の罰を受けることなのです。

 一番、遠いところから、主イエスに招かれて一番、近いところに呼び寄せられた子供たちの姿は、まさしく弟子たちの姿なのです。子供たちの姿は弟子たちの姿なのです。弟子たちは主イエスの深い憐れみによって一番、遠いところから一番、近いところにおいてくださったのです。このようにして祝福されている子供こそ、あなたがたなのだ、ということを示されているのです。

 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決して入ることができない」神の国を受け入れるとは、一番、遠いところから、自分を呼び寄せてくださった主イエスを受け入れることであり、一番近い者とされた自分自身をも、受け入れることであります。

 私たちは神から遠く離れている者でしたが、イエス・キリストの贖いによって、神に近い者となっているのです。神の子どもとなっていることを感謝し、喜ぶのです。


20160703 主日礼拝説教  「共に生きることの困難と喜び」  山ノ下恭二



(創世記 2章18−24節、マルコによる福音書 10章1−12節)

 前任地の東大宮教会は電車から教会がよく見えるところにあって、よく人が訪ねてきました。ある時、30歳位の男性が教会で結婚式を挙げて欲しいと相談に来ました。何日に結婚式を挙げるのを希望しているのか、と尋ねると「一週間以内に、牧師さんと結婚式をする自分たちと3人でしたい」と言うのです。私は「キリスト教会の結婚式は神様の前で誓約することが中心で、私もその誓約に立ち会うのですから、責任があり、準備が必要で、礼拝に出席して、聖書に触れ、結婚について学ぶ時を持ち、長老会で承認を得て、家族にも結婚式に出てもらうのが良いと思います。」と言ったら、「簡単に結婚式ができると思ったけれども、そんなめんどうなことをしなければいけないなら、いいです」と不満そうな表情で立ち去りました。この人は簡単に結婚式をしたいのだな、と思いました。
 
 キリスト品川教会の吉村和雄牧師から聞いた話ですが、結婚式を教会でしたいと言う申し出がよくあるそうです。2人が教会に訪ねてきて、その希望を言うので、結婚式の日にちを決める前に、いつもこう言う質問をするそうです。「どうしてこの人と結婚するのですか」と質問するとほとんどの人が「この人が好きだから」と答えるそうです。そして吉村牧師は「もしこの人を嫌いになったらどうしますか」と聞くそうです。ほとんどの人が困った顔をするそうです。吉村牧師は、結婚と言うことをよく考えて結婚生活を始めて欲しいと言いました。

 このような話から私は結婚ということを若者たちが軽く考えているのではないかと思います。先週、電車に乗っていて隣の女性が結婚情報誌を読んでいました。ウエディングドレスを着た新婦の写真、結婚披露宴に出て来る食事がその雑誌に出ていました。女性にとって、男性にとって結婚式は大切な人生の出来事ですが、大切なことはどのような結婚生活をするかと言うことです。どのように豪華な結婚式をしても、それは一日だけのことであって、結婚式をした後の結婚生活のほうが大切なのです。

 本日の礼拝で、マルコによる福音書10章1−12節のみことばを読みました。ここには「離縁について」書いてあり、13節以下は、子供について、そして財産について書かれています。それは主イエスの弟子となった者、キリスト者のあり方について語っているからです。キリスト者が日常生活をする、そこでは家庭を営み、子供を育て、生きていくために財産を管理するのです。その一つ一つの事柄を受け止めながら、キリスト者として、主イエスの弟子として、ふさわしい心をもって生活するにはどうしたら良いのか、を教えているのです。

 結婚をし、子供を育て、財産をもって生活する、これは私たちにとって大きなことです。結婚すれば、同じ人と何十年も暮らさなければならない、これは大変なことです。また、子供を育てることも大きな事業であり、財産を管理し、運用することもなかなか骨の折れることです。ここでは特に主イエスが結婚について語っています。

 主イエスが語るきっかけになったのは、ファリサイ派の人々が質問したからです。ファリサイ派の人々は「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」と主イエスに質問しました。この問いで大事なことは、夫の側から離縁が許される範囲を質問していることです。この当時、ユダヤの人々は妻のほうから夫に出て行ってくれと言って、追い出すようなことは全く考えてはいないのです。離縁する権利は、夫だけのものだと思っていました。ここで、ファリサイ派の人々は離縁することは律法に適うかと聞いていますが、ファリサイ派の人々が前提にしていたのは、元々モ−セのおきてによれば、男性の側からの離縁は、基本的に許されていると言う理解でした。

 このファリサイ派の人々が問うた根拠になっている聖書の言葉は旧約聖書の申命記24章1節以下です。(旧約p318)24章1節には次のように書いてあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」ここには、妻に恥ずかしいことがあり、気に入らなくなったならば、離縁状を渡して、離縁してよろしいと書いてあるのです。なぜ、離縁状を渡すのでしょうか。離縁状を渡すことが、一つの法的な手続きになったのです。離縁状をもらった女性が別の男性と結婚しようとする時に、私はもう別れた女ですと言って、自由に再婚ができたのです。離縁の証明書がなくては、再婚ができない仕組みになっていたのです。

 離縁について解決されていない問題がありました。それは申命記24章にある「恥ずべきこと」と書いていることです。離縁して良いのか、どうかということよりも、どういうことならば離縁して良いのかと言うことです。二つの意見がありました。「恥ずべきこと」を限定して解釈する理解と、幅広く解釈する理解があったのです。限定して解釈すると言うのは、妻が姦淫の罪を犯した場合にのみ離縁できる、と言う理解です。妻が他の男性と性的な関係をもったことが明らかになった時にだけ、離縁できると言う理解です。離縁が許される範囲を幅広く理解すると言うのは、結婚した後で、夫が自分の妻よりももっと美しい女性に出会い、こちらの方が良かったら妻を離縁しても良い、と言う解釈です。また「気に入らなくなったとき」と言うのは原文では「彼の目に好意を得ることがなくなり」と言う言葉です。妻が料理が下手で口に入れるとまずく、いつもおこげを作っているならば、それは離縁が許される範囲に入ると言う解釈です。離縁が許される範囲を限定して解釈するのか、それとも広く解釈するのか、です。

 私たちもどのような理由ならば、離婚が許されるのか、を考えます。現代は妻から夫に離婚を言うことが多いのです。大学の図書館で離婚についての本を捜していましたら、「妻が抱える夫ストレス」と言う本がありました。「夫源病」と言う言葉もあります。夫に対して、妻が不満を持っており、強いストレスを感じているのです。「夫をうとましく思う妻の心がわかる本」と言う本もあります。現代で一番、多い離婚の理由は、性格の不一致だそうです。一緒にいると重荷に感じる、夫と妻とが考え方が合わない、そのことも離婚する理由になっているのです。そのようなことを理由にして離縁して良いのか、それとも家庭内暴力を振るわれるので、精神的、肉体的な苦痛を伴い、身体の危険がある、そのようなぎりぎりな状況があるならば、離縁は許されるか、なのです。どのような理由であるならば、離縁はできるのか、その範囲を聞いているのです。

 主イエスは離縁が許される範囲については一切、答えないで、私たち人間の本来のあり方を教えられたのです。主イエスはマルコによる福音書10章6節で「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。」と語られました。神が人間を造られた時、男と女とを造られたのです。男だけではなく、女を造った、と語るのです。特に、神は女をかけがえのない、いのちを持っている尊い存在としてお造りになったのです。そして人間は男と女との交わりの中で生活するものだ、と語るのです。女は神がお造りになった、尊い存在であるのです。男と女が共に生きるものとして造られているのです。
 
 マルコによる福音書10章7−8節に「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。」と書かれています。結婚することは、長く共に暮らしていた両親と別れて、二人が独立して結婚生活を始めることを語るのです。父母と長く暮らしたその関係を断ち切ることは難しいことですが、父母と離れて一つの共同体を形成するのです。実際に親離れ、子離れがなかなかできないのですが、独立して二人が結婚生活を始めるのです。結婚すると二人は一体となるのです。一つのからだになるのです。長く夫婦の生活をしていると、二人なのだけれども、夫婦は一つのからだなのです。相手をうとましく思ったり、自分の気持ちを分かってくれないと思ったり、するけれども、互いに依存し、互いに結ばれているのです。夫婦、どちらかが、逝去すると、自分をも見失うことがあります。自分と相手とが一体なので、自分を失う人格の危機に直面します。「愛する人を亡くした時」と言う本に「夫や妻を亡くしたとき」と言うところには「配偶者が亡くなると、ともに生きていくべき現在を失う」と書かれていました。夫婦のどちらかを失うのは、人生の危機であり、悲しみなのです。

 しかし、結婚生活を続けることには多くの困難があります。男も女と共同の生活を始めるのですが、互いに理解できないことが多くあります。全く異なる二種類の人間が存在しています。「自分と違う人間がいる」のです。それは関心や、考え方、思考回路、様々に男と女は異なっているのです。共に生活をしていく中で、いろいろな困難に出会うのです。お金の使い方、子育ての方針、人生の目標、だんだん、そのズレが多くなってきて、共に生活をすることが苦痛になってくるのです。互いの気持ちが分からなくなっていくのです。

 東大宮教会にいた時ですが、しばらく前に、ある若い女性が訪ねてきて、結婚について相談を受けたことがあります。その女性はつきあっていた男性が以前は自分に気持ちを寄せていなかったのですが、今は自分に関心をもって親切にしてくれている、でもまた相手の気持ちが自分から離れていくこともあるので、自分に心を寄せている、今が結婚するチャンスだと思うが、先生はどう考えますか、と尋ねたのです。

 わたしは、「心」と言う言葉は「ころころ」と言うところから来たと言う一つの説があると聞いているが、人間の気持ちは変わりやすく、好きであったけれども、何かあると嫌いになることもあり、人の気持ちは変わりやすいものだ、と言いました。自分と相手との気持ちに根拠をおいて、結婚するのはいかがなものか、と答えました。そして「二人が共通の基盤をもって結婚しないと長続きはしないですよ」と話したら、「共通の基盤って何ですか」と質問したので、それは「神様を共通の基盤とすることです。」と答えました。

 私は結婚式の説教をしますが、その時にこういうことを語ります。いろいろなきっかけで二人は出会ったのですが、自分の結婚相手は神が自分に与えてくれたかけがえのない相手であると受け止めることが大切である、と言います。結婚する相手が好きだから、気にいったから、結婚すると得するから結婚するのではなく、神がこの人を与えてくださった、と受け止めることができる時に二人は結婚することができるのだ、と語ります。
 
 主イエスがマルコによる福音書10章9節で「神が結び合わせてくださった」と語っていますが、結婚する相手が、神が結び合わせた者であると信じることが大切なことなのです。
 
 結婚式は、講壇に向かって二人は立っているのですが、二人は、揃って神のほうを向いて、神に対面して立っているのですが、結婚生活はいつも二人が神に向かっていることが重要だと語ります。いつも二人が神に心を向けて過ごすことが一番、重要なことです。神を中心とした家族として生活することなのです。

 そして毎日の生活は互いに向き合うことが多くなります。性が異なり、育った家庭環境も異なり、家族構成も異なっていますから、互いに理解しあうことは困難です。キリスト者であるからと言って、やはり人間としての弱さを持っています。人間は肉体をもって、絶えず罪を犯し、夫婦であると遠慮がなくなって互いに言い争うこともあります。結婚した相手を十分に理解し、受け止めることはできないのです。喧嘩もするでしょうし、もめることもあるでしょう。相手を赦せないこともあると思います。そのような時に、聖書のみことばを聞いて、私たちの罪が赦されるために、主イエス・キリストが十字架の死によって、私たちの罪の贖いをなしてくださった、その福音を聞いて、互いに赦し合うことが大切なのです。いつもみことばを聞いていくことが必要なのです。
 
 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と書いてあります。このことを破ってはいけない絶対的な戒めと理解すると、離縁はできなくなります。

 キリスト教会は離婚についてどのように考えるのでしょうか。主イエスの言葉を絶対的な律法として理解すると離婚は許されないと言うことになります。人間には弱さがあり、破れがあり、うまくいかないことがあります。キリスト者であるから、絶対に離婚してはならない、と言うことができないのです。神の前に、結婚の形、夫婦が神の喜ぶような形態がとれない時には、離婚することもありうるのです。この結婚は神が喜ぶような結婚の形ではないと判断することがあります。いつも仲違いをして、互いに心も言葉も通じない、この結婚が神の前に栄光を表すことができない、二人は一緒に結婚生活を続けることは、神の前に良いことではないと判断するならば、離婚することは許されるのです。

 神が男と女とに造られ、孤独ではなくて、交わりの中でその時を過ごしていく、それは楽しく、喜びの時を過ごすことになります。様々な困難を乗り越えて、長く夫婦の生活をしていく、それはお互いに苦労があります。お互いに失敗があります。

 しかし、「本当にこの人は神が与えてくださった人だ。ありがとう」と心から思い、相手にそのように言うことができたならば、幸いなことです。そして「あなたのおかげで、本当にいい人生でした。」とお互いにそう言うことができたならば、それはすばらしいことです。


20160626 主日礼拝説教 「罪が赦されるように」  山ノ下恭二



(エレミヤ書31章31−34節、マタイによる福音書26章26−28節、ハイデルベルク信仰問答・問78−79)

 先週、電車のボックス席の通路側に座っていましたら、私の横を通った人のカバンが私の腕に強く当たったのですが、その人は、黙って通り過ぎていきました。済みません、と言う言葉もなかったのです。少し時間が経過して、私の座っている横を通った別の人が大きなカバンを私の腕に強くぶつけて、通り過ぎました。この時も済みません、と言う言葉はなかったのです。二度も続けてそう言うことがあると、良い思いにはなりません。カバンが自分にぶつかった位では、自分が我慢すれば良いと言うことで終わるのですが、家族の者が交通事故で重傷を負った、事故で亡くなったと言う場合には、加害者を赦すことはなかなかできないと思います。
 
 マタイによる福音書18章には、主イエスが罪の赦しについて教えています。この話のきっかけになったのは、弟子のペトロが主イエスに「赦す」ことについて尋たことにあります。兄弟(教会員)が自分に対して罪を犯した時、7回、赦しなさいと教えられているけれども、何回、赦したら良いのか、と尋ねたのです。主イエスは7の70倍、どこまでも赦しなさいと教え、「仲間を赦さない家来のたとえ」を語ります。莫大な借金を王様によってすべて免除されて赦された家来が、僅かなお金を貸していた仲間を赦さなかった譬え話をして、兄弟の罪を心から赦すように教えているのです。
 
 この話は、神に対して赦されない罪が私たちにありながら、罪の償いをすることができないことを教えており、しかも罪の償いをしなくても、神が罪を償って赦してくださっているので、他の人の罪や過ちを赦すようにと勧めているのです。

 私たちは、他の人の罪や過ちを指摘し、そのことを問題にしますが、自分の罪や過ちは見て見ぬ振りをしているのです。自分の罪の大きさ、深刻さに私たちは鈍感なのです。私たちが罪を犯した時には、赦すのは誰なのでしょうか。それは神なのです。神が赦してくださらなければ、神と和解することはできないのです。私たちは自分の罪を自分で赦すことはできないのです。神が赦して下さらなければ、赦されることはないのです。私たちが相手に対して悪いことをした時には、相手が赦してくれなければ、相手と正常な関係を持つことはできないのです。相手が赦してくれれば、赦しは実現するのです。

 相手に損害を与えた場合、賠償責任は自分の側にあり、賠償しなければならないのです。神に対して罪を犯すならば、罪に対して、賠償をしなければならないのです。しかし、主イエス・キリストが私たちに代わって罪の償いをしてくださったので、私たちは償う必要はないのです。
 
 イエス・キリストが私たちに代わって、私たちの罪を背負い、十字架で死に、神から罰を受けたので、私たちは償う必要がありません。キリストが償ってくださったのだから、私たちは自分の罪を償うことは必要でなくなったのです。

 ロ−マの信徒への手紙3章23−25節にこう語られています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(新約p277)

 神が私たちの罪を赦すことは、洗礼によって現実に起こります。教会の洗礼を受けることによって赦しが現実となるのです。洗礼を受けることによって、罪が赦されるのです。洗礼は三位一体の神の名によって、水をかけると言う所作により、罪を洗い落とす、私たちの魂の汚れを洗い落とすと言う意味をもちます。洗礼により、私たちは罪が赦され、神に受け入れられた者となっています。

 そして洗礼を受けた者は神と関係がつながっているのです。関係は断ち切られていないのです。しかし、洗礼を受けているからと言って、私たちが天使になった、神のようになったわけではないのです。どの場面でも、罪を犯さないで生活をしているのではなく、生活において罪を犯しているのです。聖餐は繰り返し、受けるものです。そのことによって、罪が赦されるのです。

 毎月第一週の礼拝、受難週祈祷会、復活日礼拝、聖霊降臨日礼拝、創立記念日礼拝、クリスマス礼拝に聖餐を行います。聖餐の言葉が読まれ、聖餐が配られ、聖餐を戴くのです。私たちは、そのような時に何を思いながら、聖餐を受けているのでしょうか。

 聖餐によって、イエス・キリストが私たちに代わって、罪の贖いをなさったことを私たちは想い起こし、確信するのです。キリスト教会は、このことがありありと分かるとはどのようなことなのかを真剣に考え、議論してきました。
 
 例えば、ある人が自動車に轢かれそうになって危ない時に、近くにいる人が助けるために、この人に覆い被さって、その人が自動車に轢かれて死んでしまったとします。この人の肉体は自動車によって引き裂かれ、血を流して死んでしまったのです。助かった人は、この人が自分のために命をも惜しまずに死んでくださったことをそばにいて実際に体験していたので、鮮明に覚えていると思います。自分のいのちを守るために、この人が肉体を裂き、血を流して死んだことをリアルに思い起こすでしょう。
 
 ロ−マ・カトリック教会は、ミサのたび毎にキリストが犠牲を献げて十字架で肉を裂き、血を流したことを再演するのです。受難週に主イエスの受難を劇にして演じることがありますが、ミサにおいて、キリストが犠牲とした肉を裂き、血を流すことを再演するのです。司祭が鈴を鳴らすと、パンがキリストの肉そのものとなり、蒲萄酒がキリストの血そのものとなると考えられています。実体が変化するのです。カトリック教会では聖餐を戴くのを、「御聖体を戴く」と言うのです。 
 
 しかし、この教理はパンや葡萄酒、蒲萄液を神聖化してしまうものです。そして物質そのものを特別なものとしてしまうのです。古来から、このパンや蒲萄酒は「不死の妙薬」と呼ばれて、これらのものを飲食すると死なない、と言われてきました。物質そのものを特別なものにしてしまうのです。これはおかしいのです。
 
 このようなローマ・カトリック教会の理解であると、ハイデルベルク信仰問答・問78に「パンと蒲萄酒がキリストのからだと血そのものになるか」と言う問いが生じます。もしパンと蒲萄酒がそのままキリストのからだそのもの、血そのものになりますと、これはまことに恐れ多いものになり、蒲萄酒をこぼしたりしたらたいへんなことになるので、カトリック教会はある時から、信徒にはパンだけしか与えないことにしたのです。そしてパンが残ったら、それをどのように処置するのか、と言うことが真剣な問題になります。パンはイエス・キリストそのものなのですから、いい加減に扱うわけにはいかないのです。
 
 ハイデルベルク信仰問答には、洗礼の水そのものが特別に聖くなって、それが特別な働きをするのではない、それと同じようにパンと蒲萄酒とがキリストのからだと血そのものになるわけではないと答えています。パンや蒲萄酒と言う物質の中に、共にキリストがいて、私たちがキリストの恵みが分かると言うのは間違っているのです。
 
 キリスト教会の教派によって聖餐式を行う順序や所作、戴く仕方は異なりますが、聖餐式の時に読まれる聖書の言葉は同じ聖書を朗読するのです。その言葉とはコリントの信徒への手紙一 11章23−29節の言葉です。聖餐制定の言葉です。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡す夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(新約p314)
 
 キリストのからだを指し示すパン、キリストの血を指し示す杯が、私たちの恵みとしてリアルになるのは、聖書のことばによってです。パンと蒲萄酒その物質が、キリストの体、キリストの血に実体的に変化すると言うことではなくて、聖餐制定の言葉を信じて、このパン、この杯がキリストの体、キリストの血であると信じることなのです。

 聖餐が何のために行われるのか。それは私たちのためなのです。聖餐制定の言葉には「あなたがたのためのわたしの体である」と言う言葉があります。私たちのために、主イエス・キリストが愛をもって肉を裂き、血を流してくださった、その内容を正しく受け取ることが大切なのです。

 例えば、ある人が自分に贈り物をしてくださったとします。自分のことを心に掛けて、心遣いをしてくれたことをありがたく思い感謝します。「これは自分が食べておいしかったから贈ります」と言う言葉が大切なのです。そして贈られたものを戴きます。贈った人の言葉と贈り物とを戴くのです。

 聖餐で提供されている、パンと蒲萄酒と言う物質そのものが第一に問題なのではなくて、神が私たちの救いのために十字架に架かり、死んでくださった、そのみ言葉を聞いて、パンと杯を戴くことなのです。

 パンと蒲萄酒を見ているのではなく、食べることに意味があります。食べることによって、それが自分のものになるのです。聖餐の言葉が読まれ、パンと蒲萄酒がおかれ、それを食べる、そのことによってキリストの恵みが自分のものとなり、キリストと一つとなるのです。罪の赦しが自分のものとなるのです。

 聖餐のパンを食べ、聖餐の杯を飲む、そのことによってキリストの贖いの恵みを味わうことができるのです。ある牧師が年を取って足が不自由になって教会に通うことができない信徒を長老と共に訪ねた時のことです。牧師が聖書を読み、説教をして聖餐を実施したのです。その時に、高齢の方が、「だんだん自分は記憶が薄れてきて聖書のお話を聞いてもすぐに忘れてしまうが、聖餐式でパンと杯を戴くと自分が本当に神様に罪が赦されていることが分かる、有り難い。」と語ったそうです。
 
 本日の礼拝で、マタイによる福音書26章26−28節のみことばを読みました。主イエスが主催して最後の晩餐をしたところです。聖餐の原型になった物語です。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、これを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」
 
 ここに「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される血、契約の血である」とあります。私たちが神に対して罪を犯すことによって、私たちが神との契約を破ったのです。それは、私たちが死をもって償わなければならないことです。しかし、私たちが神との契約を破っても、神は契約を捨てる、破棄することはなさらずに、契約を新しく更新するために、イエス・キリストが、肉を裂き、血を流して、神の審判を受けて、新しく契約を結び、正しい関係を回復することができたのです。
 
 本日の礼拝で旧約聖書のエレミヤ書を読みました。エレミヤ書31章31節に「見よ、イスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」と預言され、34節後半で「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの悪を心に留めることはない。」と語られています。

 エレミヤが預言した通りに、主イエス・キリストが十字架において肉を裂き、血を流すことによって、罪を赦す新しい契約が発効されたのです。

 パンと杯、これはしるしですが、これをこの口でもって飲食することによって、神が私たちを完全に赦して下さることを経験することができます。聖餐を受けることによって、自分の罪が完全に赦されていることをこの体で経験することができるのです。聖餐を繰り返し受けることによって、私たちはキリストによって罪が赦された者であることをこの体で味わうことができるのです。
 
 私たちは人を赦すことがなかなかできません。自分が他の人にどのような態度で接し、どのような言葉で話しているのかは、わかりませんが、他の人の失敗や欠けたところは良く見えるのです。相手の過ちを赦すことは難しいのです。しかし、私たちは聖餐に預かっている、そのような視点に立って、人の過ちや欠け、至らなさを赦すことができるのです。
 
 ある時、「手紙−親愛なる子供たちへ」と言う歌詞があることを知りました。年を取った人が自分の子供たちに自分の気持ちを表し、自分の願いを子供たちに伝えた詩です。身体が衰えて行く自分を生活の様々な場面で暖かく受け入れて欲しい、間違ったことを何度も繰り返ししても厳しく指摘したり、ばかにしないで欲しい、そのような痛切な願いがが記されています。
 
 主イエス・キリストが私たちの罪、至らなさ、欠点、過ちを責めないで、自分の罪、過ちとして引き受け、その罪を背負って犠牲をささげたように、私たちも相手の過ち、至らなさ、過ちを責めないで、心から赦すのです。

 聖餐を受けて、神に赦されていることを信仰によって深く受け止め、相手を心から赦す、このことが私たちの原点です。


20160619 主日礼拝説教  「自分自身の内に塩を持ちなさい」  山ノ下恭


(歴代誌下13章1−5節、マルコによる福音書9章42−50節)

 ある日曜日の午後に牧師就任式がありました。その教会は初めて行く教会であったので、地図を見ながら捜したのですが、どの道を通れば教会に行くことができるのか、分からずに困っていました。道を歩いている人を見渡すと、私の前に歩いている人がキリスト者らしく見えたので、この人の後についていったら、その教会に到着することができました。その人の態度や表情を見ると、キリスト者であることが分かることがあります。

 東京神学大学の入学式、卒業式に行くために、時々、三鷹駅からバスに乗るのですが、ある時、運転手が乗客に案内をしている、その言い方がとても感じが良く、親切なので、感心していました。運転手席の近くに立っていて、ふと運転手の名前を見たら、その名前の横に小さなマリアの絵が飾ってあって、この人はカトリック教会の信徒ではないか、と思いました。キリスト者であることがその人の態度や話し方で分かるのです。

 この二人の人はキリスト者のもっている持ち味を発揮しているのです。キリスト者らしいかおりを放っているのです。

 キリスト教会もキリストの持ち味をもっているところです。この世の団体とは異なるキリストの持ち味を持っているのです。教会にはキリストがここに臨在している、その持ち味があるのです。

 今日の礼拝で読んだマルコによる福音書9章42−50節は、主イエスが弟子たちに語っているところです。前からの話の続きで主イエスが語られているところです。マルコによる福音書9章30節から主イエスはこれから自分が歩む道は十字架への道であることを決意し、弟子たちにそのことを告げています。

 主イエスは、御自身が十字架にかかって死に、復活することを弟子たちに宣言されています。神と同じ方、イエス・キリストが御自身を犠牲にして十字架に架かり、甦ることを宣言しているのです。私たちが神のものとなるために、私たちに代わって罪の罰、審判を引き受けて、自ら犠牲を献げることを弟子たちに告げたのです。最も高いところにおられる神が最も低いところに降りて、イエス・キリストとなられ、私たちの救いのために十字架に架かって死ぬのです。

 主イエスは弟子たちに十字架の死と復活を語ったのですが、9章33節で、弟子たちは主イエスが十字架に向かう、その心を理解できず、その言葉の意味も分からずに、弟子たちの中で誰が偉いのか、と言う議論に熱中していました。あの人が偉い、自分のほうが上だ、と内心、そう思いながら論争していました。弟子たちの間で、ひび割れが起き、分裂が起きそうになっていたのです。

 その流れの中で、主イエスの真実な弟子として、真剣に生きて欲しいと願って、語っているところが今日、この礼拝で読んだ聖書の言葉です。真実な主イエスの弟子のあり方を語るのです。

 私たちはキリストの弟子です。キリストの所有となった存在です。ハイデルベルク信仰問答第一問の答えには「わたしがわたし自身のものではなく、身体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」と告白しています。主イエスは私たちにキリスト者であることを保て、堕落するな、と警告するのです。私たちにキリスト者らしさを失うな、と警告するのです。キリスト者としての特質、持ち味を失うな、と語ります。

 私たちがいつもどのように振る舞い、どのような言葉を語っているのか、そのことが問われるのです。私たちがキリスト者としての特質を失い、キリスト者としての持ち味を失う時に、その振る舞いや言葉につまずく人たちがいるのです。「わたしを信じるこれらの小さな者の1人」とありますが、これは具体的に、洗礼を受けて間もないキリスト者のことです。この人たちをつまずかせる者は災いであることを語っているのです。

 キリスト者の態度や言葉に敏感に反応する人もおり、同じ態度や言葉でも感じない人もいるので、一概には言えませんが、何気ない態度や言葉でつまずくことがあるのです。1人1人、キリスト者はこう言う者だと言うイメ−ジをもっています。キリスト者はこうあるべきだ、と思っています。キリスト者はこうあるはずだと思っています。相手のキリスト者が自分の思いに反する、態度や言葉であると、がっかりしてしまうことがあります。キリスト者が、どうしてそういうことを言うのか、どうしてそのような行動をするのか、と疑問をもって躓いてしまうのです。

 先週の説教で、芳賀力牧師は、完全な人間はいない、誤りの全くない人はいないと語りましたが、その通りです。生活のどの場面でも完璧な人はいないのです。誰でも欠点があり、不完全で、誤りがあります。しかし、洗礼を受けて間もない人、救いを求めている人を躓かせるようなことはするな、と語っています。主イエスは、キリストの弟子になって間もない人、洗礼を受けて日にちが経たない者を躓かせる者は、「大きな石臼をクビに懸けられて海に投げ込まれた方がはるかによい。」と語ります。教会に来ていて、キリストを信じたばかりの人を躓かせることは、それほどに重大なことをしているのだと言われたのです。教会の会員になったばかりの人をつまずかせるのであれば、ろばが引いてまわす重い石臼を首に懸けられて海の深みに投じられるほうがましである、と言うのです。それほど重い罪なのだ、と言うのです。

 最初の教会、特にコリントの教会では教会の小さな者を躓かせていた事件がありました。コリントの教会で教会の兄弟姉妹が食事を共にすることになっていて、貧しく、遅くまで働かなければいけない人たちを待ちきれないで飲んだり食べたりして酔ってしまった人たちがいたと書かれています。コリントの信徒への手紙一 11章21節(新約p314)に「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」と語り、パウロは、それは「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」と叱っているのです。(コリントの信徒への手紙一 11章22節)

 神がこの小さな1人のためにいのちを献げて贖ったのだ、だから、躓かせてはならないと言うのです。だから厳しく警告をするのです。

 43節から48節までは、人を躓かせるのではなくて、自分でつまずくことを語ります。キリスト者であることを妨害する、多くの誘惑があります。私たちはこのからだをもって生活しています。手を使い、足を使い、目を使って生活をしています。私たちは、いつも多くの誘惑にさらされています。ヤコブの手紙1章12−15節で、キリスト者に試練と誘惑があることを語っています。神が誘惑したわけではない、自分自身の欲望があって誘惑に陥るのだと語っています。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(新約p421)

東京と言う都市は世界で最も世俗的な都市であると言われます。お金を持ち、物を消費することに価値を見出している文化の中で私たちは生活をしています。芳賀牧師が話していましたが、現代の人々は、信仰を失った自分中心主義(ミ−イズム)の文化の中で暮らしています。自分の生活に満足し、充足しているので、特別に神など要らないし、信仰など必要がない、そのようなこの世の価値観に影響されているのです。そのような時代の中で、自分の生活を優先し、自分本位の生き方をしているのです。

 私たちは、神から引き離されていく危険をもっているのです。主イエスは、自分が罪を犯して、からだがそのまま揃っているよりは、罪を犯さないで、からだの一部がないほうが幸いであると言うのです。いつしか、私たちはキリスト者としての実質を失い、キリストによって与えられる持ち味を失ってしまうのです。

 かつて葬儀があり、火葬場でこういう経験をしたことがあります。火葬場の待合室で待っていたときに、話しかけて来た人がいました。教会で葬儀にその人は出席していたので、私が牧師であると分かっていたのでしょう。私に近づいて来て「実は私は洗礼を受けているんです」と話しをしました。私が「洗礼を授けた牧師はどなたですか」と聞くと、「随分前のことなので覚えていない」と答えました。「どこの教会で洗礼を受けたんですか。」と聞いても「はっきり覚えていない」と言うのです。この人は洗礼を受けたけれども、教会生活をしないで、教会から離れた人ではないかと思いました。

 洗礼を受けても、教会生活をしていない、それはキリスト者としての実質を
失うことになるのです。教会生活をしていても、聖書を読まず、祈りもしない、と言う生活をしているならば、それは形だけのキリスト者であるのです。「腐っても鯛」と言う言葉があるそうです。腐っても、それは鯛であることには違いはないですが、腐った鯛は食べられないのです。洗礼を受けたと言うことだけでキリスト者と言えるのか、と言うのです。

 東大宮教会の初代の谷川和子牧師は、洗礼を受けた人に、「あなたの葬儀の説教の時に、牧師がこの人についてよく知らない、何も話すことがない、というような信徒にはならないでください」と言ったそうです。洗礼を受けても、教会生活をしないで教会から離れていた場合は、信仰生活について牧師が葬儀で話すことがないと言うことにならないようにと注意をしたのです。葬儀の時に「この人は礼拝に出席していませんでした」と言うことは言えないので、教会生活をするようにと言ったのです。

 9章49節から「塩」について語られています。「塩」は今もそうですが、昔から生活の必需品でした。「塩」は今は高価ではありませんが、昔は高価なものでした。「塩」はときどきお金の代わりにさえなったのです。なぜかと言うと「塩」がなければ生きられないことを、人間は知っていたのです。

 9章50節に「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。」とあります。

 「塩」とは、神の恵みのことです。深い罪の中に生きている私たちをイエス・キリストの十字架の贖いによって、赦して下さり、神に清められたものとなったのです。「清い」と言う言葉を「聖潔い」と言う言葉で書きます。罪の中に生きている者が神のものとなったのです。十字架の血によって清められています。主イエスが、「自分自身の内に塩を持ちなさい」と語っています。「塩を持つ」とは、神の恵みを知り、この恵みによって生きて行くことです。

 本日の礼拝で旧約聖書の歴代誌下13章を読みました。13章5節に「塩の契約」と言う言葉が出て来ます。塩は高価なもので、生きて行くのに必要なものであるから、塩を1人で独占しないで、互いに分け合って、一緒に食卓につく、それが一番、仲の良い、平和な、共に生きる生活であると言うのです。塩を自分や自分の家族だけが独占するのではなく、塩がないと生きていけない人々にも与えて、一緒にひとしく健康な生活をするのです。

「塩」とは、何を言っているのか。それは神の恵みのことです。神の愛のことです。深い罪の中に生きている者を主イエス・キリストの十字架の贖いによって私たちの罪を引き受けて、裁かれ、赦してくださる、その恵みです。「塩」を持つ、と言うことは、神の恵みを知る、その恵みによって生かされることです。

 塩を持つと互いにどのようになるのでしょうか。それは、互いに赦し合う交わりであると言うことです。神がいない世界は互いに裁きあう世界です。自分を正しいと考えて、相手の過ちや失敗や至らなさを審判し、裁きます。

 しかし、どのような人も神によって造られたかけがえのない命を持ち、キリストの十字架の贖いによって罪赦された存在です。キリスト教会の最初の伝道者であるパウロは「この兄弟のためにもキリストは死なれたのです。」と語っています。欠点や罪、過ちを持っているけれども互いに赦し合い、主イエスの弟子として価値ある存在として尊重し、受け入れるのです。教会で小さな者であっても大切な存在とすることができるのです。

 「自分自身の内に塩を持ちなさい。」と語り、「そして、互いに平和に過ごしなさい」と語っています。「自分が塩を持つ」ことと、「互いに平和に過ごす」と言うこととつながらないように思いますが、「塩を持つ」と言うことは、私たちが罪赦された存在であると言うことであり、そのことが平和をもたらす、和解をもたらすことにつながるのです。

 「塩」は清めの意味を持っています。かつてユダヤでは神殿に献げられる捧げ物が清められるために、その捧げ物に塩をかけたのです。そして子供に清めの塩を塗りつけると言う習慣があったのです。子供が神の前で清い生活をするようにと言う親の願いがあったのです。

 「塩」を持つと言うのは、聖霊を受けて、自分自身の内側から自分が清められ、自分の生活を神にささげ、神のみこころに適う生活をするということです。神の立場からものごとを見て、自分をささげるのです。キリストから与えられた持ち味を失うことなく、キリスト者であることを保つのです。

 「塩」ということと私たちがいつも話している「言葉」と深い関わりを示すみことばがあります。私たちはいつも自分の言いたいことを言います。それが誠実な生き方だと思っています。しかし、コロサイの信徒への手紙4章6節は次のように語ります。「いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。」(p372)私たちの語る言葉が塩で味つけられる、これは塩辛い言葉と言う意味ではありません。塩を入れるととてもおいしいものになります。

 相手が聞いて、深く慰められる、励まされる言葉を語ることです。聞いた者が恵まれる、そのような言葉を語るのです。「快い」と言う言葉の元々の意味は「恵み」と言う言葉です。神の恵みが聞いている人に移っていくような言葉を語ることです。愛の言葉を語るのです。

 塩と言うのは、生きるためになくてはならないものです。キリストの恵みは私たちにとってなくてはならないものです。キリストの贖いによって、恵みを戴いている者は、キリストの血によって清められた者は、その恵みを戴いたものとして自分を保ち、地の塩としてのキリスト者の働きをするのです。


20160612 主日礼拝説教  「人間の偽りと神の真実」  芳賀力(東京神学大学学長)


(イザヤ書59章1−8節、ローマの信徒への手紙3章21−25節)

 人間というものは、何と過ち多きものでありましょうか。完全な人間など、一人もいないと言ってよいでしょう。どんなに完璧を期したとしても、私ども人間のやることと言うのは、限界がある、必ず失敗があるものです。私どもには欠陥がある。あまり大袈裟でない身近なたとえをお話ししますと、このことはよく納得できることではないかと思います。

 いろいろな会報や雑誌などを出すときに、原稿が印刷屋から送られてくる。そのゲラ刷りを校正してから、正式に印刷に回すわけですが、この校正に完璧を期すということは実に至難の業であります。専門の出版社の方でも、校正と言うのはいつも冷や汗ものだと言われるものです。ミスプリントというのは活字になってから気付くものであり、あれほど注意深く何回も見直したはずなのに過ちがある。こういうことが起こってしまいます。

 宗教学を専門にしていた方が、あるとき「サタンの研究」という本を出したそうです。サタン、悪魔の研究です。宗教学の研究ですから、そういうこともあるのかと思いますが、念入りに校正をしたのだそうですが、店頭に並んだ出たばかりの本を見て真っ青になったそうです。なんとその書名は、「サンタの研究」になっていた。丁度クリスマスシーズンですから、そういう間違いが起こったのかなと思いますが、それを聞いて、逆でなくて良かったと思いました。クリスマスのサンタさんが、クリスマスのサタンさんになってしまうと大変ですから、目も当てられないことになります。

 季刊「教会」という雑誌の責任を負っていたときのことですが、校正をするというのは大変なことです。ある号にスコットランドを旅する牧師たちの記事が載りました。出来上がってきた雑誌には、何と「スットコランドを旅する牧師たち」となってしまいました。そんな国があれば私も行ってみたいと思いますが、ことほど左様に、過ちというのは付き物であります。

 こんな過ちであれば笑っていられる位ですみますが、聖書が問題にしている事柄はもっと深刻な人間の過ちのことです。今朝は「ローマの信徒への手紙」の最初の部分からみ旨を示されたいと願っているのですが、読んで頂いた個所の直ぐ前に、使徒パウロが旧約聖書の言葉を引用しながら、人間の現実について触れているところがあります。3章9節以下を読みます。

 「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」と書き始めています。この「既に指摘したように」というのは、その前のところまでであり、実は第1章の後半から人類の過ち、罪が指摘されています。そこでは異邦人が本当の神を知らないから、自分たちに都合のよい神を作り出して、それを拝んでいる。その結果、本当に目も当てられないような状況が、この世界には示されているのだと言うことが出てきます。第2章の後半はユダヤ人のことです。じゃあ、ユダヤ人はどうなのか。ユダヤ人には律法が与えられている。神の教えが与えられている。では、それによってユダヤ人は優れた生き方をしているだろうか。いや、そんなことはない。ユダヤ人もまた同じではないか、ということが指摘されています。

 そして聖書が引用されます。「正しい者はいない。一人もいない。・・・皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と出てくるわけです。「正しい者はいない」というのは、皆間違ったことをしている、過ちを犯しているということです。そして、3章23節を見ますと、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」。罪を犯す、過ちを犯す、そして神の栄光を受けられなくなっているのだというのです。「栄光」と記されている言葉は、「輝き」という言葉です。本来は、神様にかたどって造られた人間ですから、神様の輝きを映し返す、そこに人間としての尊厳が現れます。ところが、神から離れてしまった人間、神に背を向けて自分勝手に生き始めた人間は、この栄光を失います。栄光を映し返すことができない、輝きと人間の尊厳を失ってしまうということであります。

 それは3章の後半に出てくる具体的な様子が示されている通りなのですが、「彼らののどは開いた墓のようだ」「・・・舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道をしらない。彼らの目には神への畏れがない」。本当に厳しい言葉が連ねられています。これが人間の姿です。尊厳を失っている、輝きを失っている姿です。輝きや尊厳を失う、栄光を失ってしまう、そういう状況には陥りたくないと思うでしょう。

 それまでは人々から尊敬されていた、高い評価を得て注目を一身に集めていたような人が、ある時悪いことをしてしまう。それまでの栄誉をいっぺんに失ってしまうという例がしばしば起こります。プロ野球選手とか、元タレントとか、最近では政治家がそういう例として目につくところですが、そうなるともう面目丸つぶれ、名誉も何もかも地に落ちてしまうということが起こります。

 新聞の見出しは重要で、とくに大衆紙では見出しだけで、売り上げがガラッと変わると言われます。20世紀も相当前に遡る話ですが、アメリカの野球のワールドシリーズで八百長事件が起こりました。レッドソックスとホワイトソックスの試合で、それまで品行方正で知られる花形選手のジョーという人が、八百長しているらしいと噂が立ちました。彼は子供にとってのヒーローです。各紙の新聞記者は競ってこの事件を取材しました。翌日の朝刊の見出しは、どれも大差なく同じような見出しになるに違いありません。ところが、一人の新聞記者が取材していて、この花形選手が通路から出てくるときにファンの少年が涙ながらに彼に叫びました。「ねー、嘘だよね。そんなことないよね。」翌日、この記者の見出しは、「嘘だと言ってよ、ジョー」。この新聞が一番売れました。もう説明の必要はないでしょう。少年たちの夢であり、憧れであり、いつも輝いているはずのヒーローが、地に落ち、泥にまみれてしまった。人間の醜さがそこに現れてしまった。この話は非常に印象深く心に残りました。

 栄光を受けられなくなってしまった人間の姿とは、こういうものです。これまでの称賛、拍手喝さいが、ごうごうたる非難の嵐に変わってしまうわけです。今朝、共に読んでいただいた旧約聖書イザヤ書59章ですが、実はこの7〜8節は、ロマ書3章15〜17節のもとになった言葉だと考えられます。そして、実は59章を読んで行くとハッとさせられる言葉が出てきます。それはイザヤ書59章16節の言葉です。15節後半から読みます。

 「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」。正しい者がいないと散々述べたあと、主なる神は、この地上には執り成す人がいないのを見て驚かれたというのです。神様が地上を見渡す限り、輝きを失った人間に、再び栄光を取り戻させる者は、どこを探してももう一人もいない、そういう嘆きです。ところが、今やそのような人間の歴史、人間の世界に対して、神ご自身が乗り出されるのです。

その後の59章20節です。「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」。これが新しい契約になります。「正しい者はいない、一人もいない。そして、執り成す者もいない」。それを受けて、「主は贖う者として、シオンに来られる」。主ご自身が、神ご自身が贖う者として、イスラエルに来てくださる、この歴史の中に来てくださるという、そういう約束がここで語られているのです。

転機は、ただ上から訪れます。神ご自身が顧みてくださる。正しい者は一人もいない、執り成す者すらいない、しかし、主が執り成す者として来てくださる。それがイエス・キリストという方です。私たちの主、御子であるイエス・キリストを通して、父なる神はご自身を現わし、お語りになり、そして私どもを救い、贖う者となってくださるということです。

今朝はロマ書3節21節から読んで頂きました。先週、神学大学で山ノ下先生にお会いし、中心の聖句は何でしょうかと聞かれました。私はちょっと暫く考え、「ところが、今や」ということです、と答えました。うまく伝わったかどうか分かりませんが、僅かに一言です。日本語でも、原文のギリシャ語でも本当に短い言葉です。

しかし、この短い一言が、実はそれ以前に語られてきた人間のさまざまな暗い面、暗い世界の現状を、一瞬にして変えるのです。ところが、今や、曙の光が射し上ると、それまでの夜の暗闇が嘘のように消え去る、それと同じです。ある聖書の註解者は、1章、2章とずっと読んでくる。3章の20節まで実に暗い世界が描かれている、イヤになるほどだと述べています。そして、この神学者は、全体に「夜」という言葉をつけました。ここは「夜」が描かれている。ところが、3章21節からガラリと変わる。本当に真っ暗な世界、夜の闇が閉ざしていたこの世界に、朝日が射し上るようなものだ。その感激を記しています。

正にそのような、「ところが、今や」という大逆転を、神様ご自身が造り出してくださらなければ、人類の歴史は夜のままなのです。輝きを失ったまま、呪いの苦味、流血、争い、破壊であります。今日の現代世界がどれほど悲惨な出来事、事件に満ちていることでしょうか。難民の問題、それに引きずられて起こるテロリズム、大きな問題でなくとも私たちの周りに毎日毎日イヤというほど悲惨なニュースが届けられる。目をつぶろうとしても、耳を塞ごうとしても、これが私たちの世界の現実ではないでしょうか。しかし、「ところが、今や」、神ご自身が上から手を差し伸べ、贖う者として来られ、人類の歴史に徹底的な転機を造り出してくださったのです。

人間は偽り者です。人間の口をついて出るのは、偽りです。そして行うことも偽りでしょう。しかし、この人間の偽りと不真実の世界に、神は真実の愛をもって臨んでくださったのです。今朝の説教の題を、私はロマ書3章4節から取りました。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」。人間の偽りに対して、神の真実が現わされました。「ところが、今や」現わされた、それがイエス・キリストという方です。この私たちの主、御子であるキリスト・イエスにおいて、神の真実が変わらざる愛として現わされたのです。これが、贖いの出来事、救いの出来事です。御子であるのに、私たちのために人となってくださった、イエス・キリストが、すなわち、この神の「ところが、今や」なのです。この一字、「ところが、今や」、それはキリストなのです。

私たちは冒頭に述べました通り誤りが多い。その誤りをさらに上塗りするようにウソと偽りでゴマカシを続けます。その結果、自分の正義、小さな正義を振りかざしたりしますので、衝突し、互いに滅ぼし合うような悲惨な結果を呼び起こしてしまいます。この世の行きつく先は滅びであり、自滅です。しかし、聖書は告げます。人間がどんなに偽りであっても、神の真実を見続けなさい。そして、そこにおいて、私たちは初めて望みを抱くことができるのです。

もう一度、今朝与えられました聖書のみ言葉をよく味わいたいと思います。3章23節以下。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。先ほどの預言されていた言葉、イザヤ書59章20節が言っていた言葉、「主は贖う者として、シオンに来られる」。それがイエス・キリストにおいて現実となっている。ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神は私たちを無償で義とされる。神の真実が、そのようにして現わされました。
そして、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と述べられます。この25節は、24節で言われるキリスト・イエスによる贖いの業というものが、具体的にどのようなものであったかを教えています。それは、罪を償う供え物となってくださったということです。尊い御子が、私たちの罪を償う供え物となってくださった、これが贖うという出来事において起こった事柄です。これが、神の「ところが、今や」の内容なのです。

罪を償う供え物というのは、償うという言葉が訳し出されていますように、本来は何か失われてしまったものをもう一度元に戻す、ということです。この関連で言えば、私たちは輝き、尊厳、名誉を失ってしまいました。失われた名誉が回復される、普通はそのためには、何かが満たされる必要があります。損なわれたものが満たされる必要がある、穴があいてしまったら、その穴埋めをしなければならない。これが当然の事柄として出てくるでしょう。本人による償いがなされる必要がある。名誉が挽回されるに足る十分な業績が示される、あるいは、失点を上回る得点を挙げる必要があります。それが私たちの日常の社会生活、市民生活のルールです。一度商品をごまかしたり、偽りの宣伝をして信用を失ってしまった会社が、名誉を取り戻すために、どれほど多くの努力をしなければならないでしょうか。一度失ってしまった信用をもう一度取り戻すということは、本当に至難の業です。しかし、それをする以外に道はないのです。

ここに3人の父親がいると考えてください。どの父親もそれぞれ息子を愛しています。息子が非行に走り、悪事を働いたことが分かりました。一番目の父親は、そのことに気付きましたが、息子可愛さの余り、見て見ぬふりをしました。ひたすら庇いつづけました。大きくなったその子は、今もなお悪事を繰り返しています。ああ、大したことない、何とかしてくれる、これも段々エスカレートするので、おそらく破滅を迎えるのも時間の問題と言えるでしょう。2番目の父親は、息子が悪事を働いたことを知って激怒しました。すぐさま家を出て行くように命じ、2度と敷居を跨ぐなと言い渡しました。その子は自暴自棄になり、もっと大きな犯罪組織の手下になって、さらに悪事を重ねました。自分などどうなってもいいと、やけを起こし、彼も破滅への道を進んで行きます。

3番目の父親は、息子の不祥事を知ったときに、その子にそれがどんなに悪いことかを教え、言葉で伝え、そしてそれを償うのに、どんなに大変な埋め合わせをしなければならないかを示そうと、自ら持っていた土地・家屋を売り払いました。不足分を捻出するために、さらに身を粉にして働き、息子の不祥事が元であいてしまった穴を埋めようとしました。過労のために父が死んだとき、息子ははっきりと知りました。自分がどれほど大きな愛の力に包まれていたのか、そして、こんな自分のために父が身を犠牲にしてくれたということ。それを知り、そのことに気付いた彼はようやく目覚めました。二度と愚かなことはすまいと心に誓いました。そして、自分勝手な生き方を改めて、本当に助けを必要としている人のための仕事に打ち込むようになりました。

どの親が、本当の親でしょうか。どの愛が本当の愛でしょうか。答えは明らかです。「いいんだよ」とただわが子を匿い保護するだけでは、子供は本当には立ち直りません。逆に、叱りつけ、怒鳴りつけ、裁くだけでも、子供はいじけて立ち直るキッカケを失うでしょう。悪いこと、不義はあくまで罰せられ、取り除かれるべきであること、しかも、それを身代わりに引き受けられる方がいて、その人格的な愛の出来事が、当事者の身に及ぶということが本当の解決になるのです。

神は、聖書によれば、人間の偽りの世界にもかかわらず、この世にご自身の真実を示すために、御子を、罪を償う供え物としてくださったのです。人類の歴史にポッカリと空いた大きな、大きな欠損、私どもは自らそれを埋め合わすことはできない。それを埋め合わせるのには、最早それ以上大きなものは考えられない神の独り子である方の犠牲が必要だったのです。
神は、今もなお、私たちを待っておられます。私たちが本当に真実に生きるように、私たちの偽りに気付き、私たちが自らの古い自分に死んで、御子によって与えられる新しい生き方、新しい人間としての歩みを受け取るように、神様は望んでおられます。私どもの大きな、大きな穴を埋め合わせて余りある十字架の愛に目覚めて、神に愛されている子供として、新しく歩み始めるようになることを、神は待っておられます。そこに、変わることのない神の真実の愛がある、私たちはそのことをもう一度、今朝心に刻みなおし、神の愛に感謝をもって応えていく歩みを、共々になして行きたいと思うのです。

お祈りをします。


私たちの主、御子、イエス・キリストを通してお語りになり、私どもに救いの道を開いてくださいました父なる御神。

あなたは、私たちをあなたにかたどって造ってくださいました。そこに人間の本当の輝きと尊厳があります。そうであるのに、私どもはあなたから離れ、己が腹を神とし、互いに争い合い、あなたの愛を裏切り続けています。

その結果、自らの過ちを偽り、偽りに偽りを重ねて生きています。けれども、あなたは私どもを顧みてくださいました。大きな、大きな犠牲をもって、私どもをもう一度あなたの子どもとして扱ってくださいます。

どうか私どもが、そのあなたの御愛に応えて、あなたの子どもとしての輝きと尊厳を取り戻すことができますように。感謝とまた喜びをもって、あなたを信じ、あなたと共に歩む新しい道を歩ませてください。

御子主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン


20160605  主日礼拝説教  「私たちの味方がいる」  山ノ下恭二



(詩編22編23−32節、マルコによる福音書9章38−41節)

 私が高校生の頃ですから、48年前の古い話です。高校2年生の時のクリスマス・イブ礼拝の後に、教会員の家を訪ねて、クリスマスの讃美歌を歌うキャロリングに若い人たちが車に乗って出かけたことがあります。その年の前まで、各自、自転車で行っていたのですが、酔っ払いが女性に絡んできたことがあり、夜で、危険なのでこの年から車で移動することになりました。何台かの車に分乗して、訪問先に向かったのです。私は牧師の車に乗りました。車が走り出して、しばらくして車がパンクしてしまい、どうしようかと言うことになりました。体重のある女性が座っていたところのタイヤが、パンクしたので、その女性が「私が原因かな」と言いました。「困ったな」と誰かが言ったので、その女性はパンクしたことに責任を感じたのか、「私の知っている人がこの近くにいて、修理をしてくれるかもしれないので、ちょっと行ってくる」と言い走って行って、一人の若者を連れてきました。その若者は車の修理が得意で、パンクしたタイヤをすぐに直してくれました。みんながお礼を言った時に、その若者が笑顔で「皆様に神のご加護がありますように。」と言って帰って行きました。

 私はとてもいい人だなと思いました。再び、車に乗っていたら、その女性が、こういうことを言ったのです。「クリスチャンでないのに、神のご加護があるようになんて言って」と怒ったような口調で言ったのです。この言葉が印象に残ったので、よく覚えています。「クリスチャンでないのに」とこの女性は言ったけれども、私は冬の寒い夜にわざわざ来てくれて、パンクしたタイヤを修理してくれたので、「クリスチャンでないのに」と言うことはないのにと思いました。

 私たちはこの日本の社会で生活をしています。毎日、身近に接する人は、みんなキリスト者ではない人たちです。毎日、キリスト者でない人たちと関わりながら過ごしているのです。キリスト者でない人たちと関わらないで生きていくことはできません。キリスト者ではない人たちを、私たちがどのように見ているのか、と言うことはとても大切なことです。どのように見ているのか、と言うことは、その人たちに対する態度や言葉が変わって来るのです。まだ洗礼を受けていない人たち、まだキリスト者となっていない人たちをどのように見ているのか、と言うことです。自分の立場から批判的、評価的に見ているのか、それとも肯定的に見ているのか、と言うことです。信仰をもっていないからだめな人たちだと見ているのか、それとも神に造られ、いのちを与えられている大切な人たちと見るのか、です。

 大学の授業で、日本のキリスト教の歴史について話さなければならないので、16世紀にフランシスコ・ザビエルが来日して、カトリック教会がどのように伝道したのかを調べたことがあります。最初の頃に来たある修道会の宣教師たちの宣教方針は、できるだけ、日本の国情にあった、日本人の気持ちに沿ったやり方で宣教することでした。宣教師たちは日本語をよく学んで、聖書の話を聞く人たちに分かりやすい日本語を使い、日本の習慣に学んで、服装も日本人の服装をしたので、人々に好意をもたれて、日本人に受け入れられ、急速にキリスト教の信仰が広まったのです。

 しかし、その後、来日した別の修道会の宣教師たちの宣教方針は、全く逆で、ポルトガルで着ていた服装そのままで町を歩き、チラシを渡して、キリスト教を全く知らない人たちを教えてやろうと言う態度で宣教をしたので、人気がなく、宣教の成果があまりなかったと書かれていました。自分たちはキリスト者であり、あの人たちはキリスト者ではない、そのような意識を私たちはどこかでもっているのです。

 本日の礼拝で、マルコによる福音書9章38−41節を読みました。主イエスの弟子ヨハネが主イエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言いました。「やめさせた」と言う翻訳もあるのです。ヨハネは、主イエスに従っていない人たちが、勝手に主イエスの名前を使って悪霊を追い出している、それは許しがたいことで、自分はやめさせた、と手柄話のように主イエスに伝えたのです。

 この当時、いろいろな神の名前を使って、病気を治す人がいたのでしょう。いろいろな神の名前を使って唱えると病気が治る効き目があると考えられていたのです。日本ではいろいろな神の名前で祈ることが行われています。釈迦も孔子もキリストも全部並べ立てて、神々の名によって、癒やしを行ったり、教えを伝えたりしているのです。ヨハネのように情熱的で純粋な考え方をする若者にとっては、我慢できないことであったと思います。だから行って止めさせたのです。

 主イエスはそれに対して思いがけない返事をされたのです。ヨハネにとっては思いがけなかった言葉だと思います。イエス・キリストの名を使いたい放題に使っているのですから。皆さんはキリスト者でない人から、「キリストの祝福がありますように」と言われたら、何となく、余り良い気持ちにならないと思います。「キリスト者でないのに、どうして言うのか」と思います。

 私たちがそのことに批判的に思っている時に、主イエスは、そのとおりだ、あの人たちは間違っている、と答えるかと思っていたら、「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」と言われたのです。

 この時、主イエスは大声で語ってはおられないのです。穏やかな声でお語りになっています。その声に笑いが含まれていたのです。主イエスは、笑顔で、そんなに大きな声でいきりたつことはないと言われたのです。あの人たちが私の名前で癒しをしていてもかまわないではないか、そう言われています。「奇跡」と言う言葉は、「力を振るう」と言う意味の言葉ですから、実際にこの奇跡は効果があったのでしょう。効果があるので、自分の評判も良くなり、実際に人を癒すことができ、悪い思いはしていないので、主イエスの悪口を言うことはできないだろう、と言われたのです。

 ヨハネは、「悪霊を追い出している者をみましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました」と言い、主イエスは、それに答えて、「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、すぐ後でわたしの悪口は言えまい。」と言っています。その言葉に続いて「私に逆らわない者はわたしの味方」と言っているのです。主イエスの言葉をよく見ると「わたし」と言う言葉と「わたしたち」と言う言葉をきちんと使い分けているのです。

 よく注意をしてみますと、マルコ9章40節には「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と「わたしたち」と言う言い方をしているのです。主イエスはなぜ、そのような言い方をしたのだろうか。ヨハネも「わたしたち」と言いました。悪霊を追い出している人の所へ行って、主イエスの名前を使ってはいけない、なぜいけないのか、それはあなたがたはわたしたちについていけないからだ、と言ったのです。「ついてくる」と言うのは、主イエスのあとに従っていくことです。

 ここで何が問題になっているのでしょうか。ヨハネは主イエスが何を望んでいるのか、そのことを中心にして生きていると思っているのです。いつも主イエスの思い、主イエスのみこころを大切に思いながら過ごしていると思っているのです。従って、主イエスの名前を使って癒やしが行われている、それは、主イエスのみこころではないと思ったに違いないのです。だからいきり立って、その人たちにやめなさいと言ったのです。しかし、主イエスの思いと弟子たちの思いとがずれている、むしろ、弟子たちが主イエスのみこころだと思ってしていることが、主イエスのみこころではないことがあると言うことなのです。

 この言葉の意味を考える時に、参考になる別の聖書の言葉があります。マルコによる福音書10章13−14節です。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかしイエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」(新約p81)とあります。伝道の旅をしている時に、子供たちが登場します。弟子たちは当然のように子供たちを追い払おうとしたのです。なぜ当然のようにそうしたのか、それは自分たちが今、子どもたちを追い払おうとしている心は主イエスも同じ心だと思ったに違いないのです。こんなことで先生を煩わせることはないと思って叱ったのです。子供を連れて来た親はただ祝福を求めてきただけなのです。しかし、それが弟子たちにとっては気に入らないことなのです。弟子たちにとっては、主イエスに従っていこうと思っていない人たちに腹を立てていたのです。これが弟子たちの、つまりわたしたちの意志だと思っていたのです。しかし、それが主イエスの意志ではないのです。弟子たちの「わたしたち」の中に主イエスはいないのです。

 弟子たちは、この人たちはただ主イエスを利用するだけで、主イエスに従って行こうとしない、それはだめだ、と思っているのです。そのようなことに対して、主イエスは子供を祝福してもらいたいと言う人を迎えれば良いと言うのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」と言われるのです。わたしのおかげで祝福を味わったら、わたしの悪口は言えないだろう、と言うのです。

 私は、今日の説教を準備しながら、反省させられたことがあります。自分が優越感をもっていることを改めて自覚したのです。自分は聖書のことを知っている、だから自分は他の人たちと違うと言う意識を持っていることに気がついたのです。

 美術館での展覧会は西洋の絵画が多いのですが、ある時、展覧会に行って、バプテスマのヨハネの絵画が展示されていました。私の後ろでその絵を見ていた女子学生風の二人が「バプテスマのヨハネってイエスのお父さんなの」と話していたのを聞いて「何にも知らないのだなぁ」と思いました。私の心の中に、「キリスト教のことを何にも知らないんだ」と言う思いがあったのです。今日の説教を準備していて、そういう思いを持ったことが正しいことではないと思ったのです。この女子学生たちが、この絵画を見てキリスト教に関心を持つ機会になるのはすばらしいことだと、この女子学生が美術館に来たことを肯定する心を持つことが大切だということに気がついたのです。

 クリスマス礼拝やイブのキャンドルライトサ−ビス、そして音楽会に地域の人たちを多く迎えます。私たちの心の中に、これらの人々はクリスマスや音楽会の時にしか来ない、と裁きの思いを持つこともあります。そのような批判的な態度で見るのではなくて、教会に来て、一緒にクリスマスを祝って楽しく過ごしているのだから良いのではないか、一緒にすばらしい音楽を聴いて楽しんでいるのだから良いではないか、キリスト教の悪口は言うことはできないだろう、と、肯定的に受け入れることが大切なのです。

 キリシタンの時代に、宣教方針によって宣教の姿勢が違っていたのです。日本人のことを尊敬して、できるだけ相手に寄り添って伝道するのか、それとも、全く無知な者に教えてやるのだ、キリスト者にするのだ、と言う意識でするのか、です。

 主イエスは、自分の名を使って、病を治している人たちに対して、とても寛容です。日本語に翻訳された注解書でバークレーと言うスコットランドの新約学者の注解書には、ここの主題は「寛容」と言うことだと書いています。主イエスは、主イエスに従っていない人たちに対して寛容であったのです。主イエスの心は広く、大きいのです。多くの人々を包み込む広く、大きな心をお持ちです。

 寛容と言う言葉を聞くと思い出す聖書の言葉があることに気がつきます。それはコリントの信徒への手紙一 13章4節の言葉です。新共同訳とは違うのですが、口語訳には「愛は寛容であり、情け深い」と翻訳しています。この「寛容」と言う言葉は「広い」と言う言葉です。異なった人をも広く受け入れることです。「愛は寛容である」。主イエスは異邦人、信仰が違っている人たちを受け入れ、対話し、愛されました。真理は自分の側にある、と言う思い込みではなくて、神のみこころは、どのような者にも愛を注いでくださる、そのような広い心で受け止めるのです。

 9章41に「はっきり言っておく。キリストの弟子だと言う理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれるものは、必ずその報いをうける。」この言葉には背景があります。マルコによる福音書が書かれた時代は、ロ−マ帝国のロ−マで、キリスト者が厳しい迫害を受けていたのです。自分たちが洗礼を受けていることも明らかにできず、地下の墳墓に集まって、灯火を頼りに礼拝を守っていたのです。自分たちは必死になってキリスト者であろうとしたのです。その時に、まだキリスト者となっていない人たちが、一杯の水を飲ませてくれた、それはキリスト者にとって大きな慰めになったに違いないのです。キリスト者であることが分かると、国家に反逆する人たちと考えられて、殺されるのです。その手伝いをしようとするとその人の身も危ないのです。

 主の弟子になることができなくても、自分たちキリスト者の労苦を思って、そっと一杯の水を与えてくれる、あるいは、一日の食事を提供をしてくれることが起こるのです。キリスト者は有り難いと思う反面、この人はまだキリスト者になっていないではないか、と心の中でつぶやくのです。そのような時に、主イエス・キリストの言葉が聞こえて来るのです。「一杯の水が与えられて良かった。あなたに対して与えられた、この一杯の水に対する報いは必ずある。神がみこころを行ってくださるのだ。」まだキリスト者になっていない人々にも、神が大きなみこころの計画があるのです。まだキリスト者となっていない人であっても、神は用いてくださり、神の救いの計画の中に繰り入れているのです。私たちの思いに勝って、神はまだ信仰をもたない人々を救いの中に入れようと計画しているのです。

 日曜日に教会に通って来るのに、夫が車を運転して、教会まで運んでもらっている人がどこの教会でもいるのです。教会まで送り届けてくれるのです。妻は「送ってはくれますが、教会の玄関の中までは入らないのです。」と言うのですが、妻が教会に通うために一所懸命に運転してくれるのです。主イエスはその夫に対する報いがあると語ります。神は私たちの考えよりも広く、大きいのです。

 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と主イエスは私たちにお語りになっておられます。私たちには、私たちの味方となっている人たちが多くいるのです。


20160529 主日礼拝説教 「聖餐の恵みにあずかろう」 山ノ下恭二



(ホセア書11章1−4節、コリントの信徒への手紙一11章23−29節、ハイデルベルク信仰問答・問75−77)

 先週の月曜日に新聞を読んでいましたら、「特派員メモ」というコラムに「紛争地のおもてなし」と言う題で、ヨルダン北部のシリア国境の町でシリア内戦を逃れてきた人々に日本の新聞の特派員がもてなしを受けて、とてもうれしかったことが書かれていました。骨付き鶏肉がゴロゴロ入ったご飯に発酵ヨーグルトをかけた、地元の名物マンサフをふるまってくれたそうです。自分たちが食べるだけでも大変なのに、外国人を友人として暖かく迎えて、ご馳走してくれる、その心に感激したのです。外国人の自分を大切にしてもてなしてくれたことに感謝しているのです。

 新約聖書には食事や宴会をする話がよく出て来ます。聖書にはいろいろな譬え話が書かれています。その中で知られているのは、「放蕩息子の譬え話」です。この譬え話には、一人の息子が登場します。この息子は自由な暮らしに憧れて、父親から財産の自分の分け前をもらって町に出ましたが、財産を使い果たして、ぶたの世話をしてぶたの食べるいなご豆しか食べられなくなる位、落ちぶれてしまいます。この息子は本心に立ち帰って、父親のもとに帰ることを決心するのです。父親は家に帰って来た息子の姿を見て駆け寄り、息子が謝る前に息子を出迎え、怒ることも叱ることもなく、息子の帰還を喜び、宴会を催したのです。父親は愛をもって自分の息子として迎え入れ、盛大な宴会を催すのです。この「放蕩息子の譬え話」が語ることは、罪深い生活をしている私たちが、悔い改め、神のもとに帰るならば、神は私たちの罪を赦して、愛をもって受け入れてくださることなのです。

 主イエスはよく食事をされました。神から離れていて、人々が相手にしなかった人たちと頻繁に食事をなさったのです。罪人との食事を大切にされたのです。食事を共にする、それは交わりを作り、親しくなるのに必要なことでした。毎日のように食事を共にしたのです。それは、神が私たちを深く愛していることを表しているのです。

 洗礼を受けることは、神が私たちの罪をイエス・キリストの十字架の贖いによって赦すことによって、私たちが神に完全に受け入れられ、神の家族の一員とされることです。洗礼を受けることによって、私たちは教会と言う神の家族の一人として、その存在が認められ、子として扱われるのです。家族であるならば、共に食事をすることは当たり前であるように、私たちは神の家族であるので、共に食事をするのです。

 この礼拝堂に入ると、説教壇の前に聖餐卓があります。聖餐の食卓なので、聖餐卓と言いますし、聖餐のテ−ブルとも呼びます。私たちが食事をするときに食卓を囲んで食事を戴くように、私たちは聖餐卓を囲んで、聖餐を戴くのです。この聖餐は特別な食事です。この聖餐は霊的な食事だからです。

 教会での聖餐は、神が用意し、提供してくださる特別な霊的な食事です。洗礼を受けて神の家族に受け入れられて、その神の家族の一人に数えられて、神が用意して下さった聖餐にあずかることができるのです。洗礼は一度だけですが、聖餐は繰り返し、受けることができるのです。

 旧約聖書には神がイスラエルの民をその時々に必要な食物を用意し、その食事を通して神がどのような方か、を明らかにしています。旧約聖書の出エジプト記にはモ−セと言う指導者がイスラエルの民と共にエジプトからカナンの地に入る手前まで、40年の長い旅を続けたことが記されています。その旅の途上で、特に食べるものがなくなり、飢えが人々を襲い、食べることができない不満が爆発し、暴動が起きるような事態が起こったのです。

 その時に、神はマナを降らせ、人々は飢えることなく、旅を続けることができたのです。その長い旅の経験からイスラエルの民は、神がなくてならない食物で養い、必要なものを満たしてくださったことを確信できたのです。イスラエルの民は荒れ野で飢え苦しんだ時、神からマナを戴き、食べることができたのですが、それによってイスラエルの民は神こそは主であり、自分たちの神であることを知るようになったのです。神はマナを与えることによって神がどのような方であるかを明らかにしようとされたのです。神は慈しみ深く、恵み深い神であることを、マナを与えることによって御自身を示そうとされたのです。

 エリヤと言う預言者が旧約聖書に登場します。エリヤの預言は御利益をもたらす自然の神を礼拝するのではなく、主なる神を礼拝することを中心にして活動をします。エリヤはその当時の王に迫害され、自分を取り囲む状況の厳しさにたじろぎ、持ち場を離れて荒れ野に逃げ込んで行きます。あてどもなくさまよい、生きていても仕方がないと死を願うほどに追い込まれ、疲れ果ててしまいます。そのエリヤに、神はパンと水を用意し、起きて食べよと勧めます。「この旅は長く、あなたは耐え難いからだ」と言うのです。(列王記上19章3−8節)旅は長く、まだ続きます。それは荒れ野を通るので、耐え難いのです。しかし、神は倒れ伏して起き上がれないでいる人間に命の糧を与え、耐え難い旅を支え、目的地へと導きます。ここには、神が弱さの中にいる人間に、どれほど深く関わり、中途で投げ出したいと願う人生の毎日になお寄り添い、慰めと励ましを与え、約束の地へと導いてくださる神であることを明らかにしているのです。神が命の糧を与えてくださらなければ、荒れ野の旅はどこまでも、ただ耐え難いものでしかないのです。

 私たちは、洗礼を受けているのですが、この地上で肉体をもって生きているのです。肉体をもっていると言うことは、ある時にはひどく疲れを覚え、悩みを抱え、病気になることもあります。家族のことでひどく悩むことがあります。人との関係がうまく運ばないことがあります。悩みが深刻で信仰を失いそうになります。途方に暮れるのです。そのような時に、神が食事を用意してくださるのです。それは私たちの至らなさ、失敗、挫折、罪、そのような者を完全に赦し、受け入れてくださり食事を提供してくださるのです。これは神が私たちのために特別に用意してくださった食事なのです。

 私たちがいつも摂る普通の食事とどのように違うのでしょうか。どこが特別なのでしょうか。聖餐とは聖なる晩餐と言う意味です。主イエスが主催した晩餐と言う意味で、主の晩餐と言います。

 聖餐式の時に必ず読まれる聖書のみことばがあります。どの教派の教会でも読まれるみことばです。本日の礼拝で読みましたのは、コリントの信徒への手紙一 11章23−29節のみことばです。特に11章23−26節は「主の晩餐の制定」の言葉です。

 ここに「記念として行いなさい」と言う言葉があります。「感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。」聖餐制定の言葉には「記念」と言う言葉が使われています。「記念」と言うことは、「思い起こす」と言う意味に取れます。

 宗教改革者ルタ−、カルヴァンが起こした宗教改革は礼拝の改革であったのです。カトリック教会の礼拝は、ミサと呼んでいるのですが、聖餐が中心です。改革者たちは、カトリック教会のミサではなくて、聖書に忠実に礼拝を改革しようと努力しました。そこで問題になったのは、カトリック教会が聖餐をどのように理解しているのか、と言うことでした。聖書に忠実な礼拝をしたいと考えていたので、カトリック教会の聖餐についての理解を問題にしたのです。カトリック教会は聖餐においてイエス・キリストを繰り返し献げることを中心にしていました。ミサごとに司祭がイエス・キリストを犠牲としてささげることを繰り返していました。そしてパンはキリストの肉そのものであり、ぶどう酒はキリストの血そのものと理解していました。まさにパンと杯にキリストの肉と血があると考えていたのです。キリストの血をこぼしてはいけないので、信徒はパンのみを戴けるのです。

 カトリック教会は、パンそのものがキリストの肉に変化し、杯がキリストの血に変化し、聖餐の時に置かれているパンがキリストの肉そのもの、キリストの血そのものであると言うのです。

 このことに対して、ツウングリと言う宗教改革者はパンと杯そのものがキリストの肉、キリストの血そのものである、と言うのは間違いであることを主張するのです。物質が変化して、キリストの肉、血になるはずはないと言うのです。

 ツウングリは、パン、ぶどう酒と言う物質が大切なのではなくて、信仰をもって、私たちのためにキリストが犠牲をささげて、肉を裂き、血を流して下さったことを思い起こすことを重視したのです。そこでは何にもまして、信仰が大切で、聖餐はそのしるしに過ぎないと言うのです。これは、カトリック教会とは正反対の理解です。キリストが十字架で私たちのために贖ってくれたことを、信仰をもって思い起こすことが聖餐だ、と言ったのです。

 このような理解は私たちには受け入れやすい理解です。聖餐はキリストが十字架に犠牲をささげたことを想い起こし、パンと杯を飲食して、感謝をすると理解するのです。その影響があって、日本のプロテスタント教会は聖餐式での所作、パンをどのパンにするか、杯をどのような材料を使うのか、どのように食べ、どのように飲むのかと言うことを余り深く考えないのです。それはツウングリがパンを食べ、ぶどう酒を飲むことよりも、信仰を強調し、パン、杯はしるしに過ぎないと考えていたことと深く関係しています。

 これに対してカルヴァンは、聖餐において食べることを重要だと考えます。聖餐の制定の言葉だけでなくて、実際にパンと杯があると言うことが大切なのです。例えば、ある人から、贈り物を贈る、明日、宅急便で品物が到着すると言う電話があって、その人の好意をうれしく思うのですが、品物が到着し、その品物を見て、初めて送り主が自分に対して好意をもっていることを実感できるのです。しかし、送ると言っても、いっこうに品物が届かないならば、その人の好意は言葉だけに過ぎず、実際には分からないのです。

 説教は言葉でイエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださったことを語り、私たちはそれによって思い起こすのです。聖餐はそのことをこの眼で見て、食べて、キリストの犠牲が私たちの罪のための死であったことを確信することなのです。食べることを重視します。この眼で見て、口で味わうことによって、私たちの罪のために死んでくださったことを実際に味わうことができるのです。

 カルヴァンは、私たちは神がいかに私たちを愛しているか、を耳で聞いても十分に分かることがないので、神が配慮をもって眼で見て、口で食べる、私たちのもっている感覚器官をもって神の恵みが分かるようにこの聖餐を制定したのだ、と言うのです。

 キリストが私たちのために罪の犠牲を献げたことを信仰によって思い起こすと言うことだけではないのです。パンと杯が聖餐で準備され、聖餐で用いられることに深い意味があります。

 洗礼式で、洗礼の言葉だけでなく、水がなくてはならないように、聖餐において、パンと杯がなくてはならないのです。プロテスタント教会は、聖礼典で用いられる、物質である、水、パン、杯について、軽く扱っている傾向があります。

 ハイデルベルク信仰問答・問75の答えは、パンと杯をこの目で見ることが大切であり、パンを見て、主イエス・キリストの体が十字架で、わたしのために裂かれ、杯を見て、主の血潮が、わたしのために、流されたことを信じて飲食することが大切であると書かれています。

 聖餐にあずかる作法として、私たちの教会は聖餐を配った後に、聖餐の言葉を宣言して、時を同じくして飲食するのですが、長老がパンと杯を配っている間、何をするのか、と言うことです。配り終えるのをただ待っているのではなくて、パンを見て、キリストが私のために罪の犠牲として十字架でご自身の肉を裂いたことを心に留め、杯を見て、キリストが私のために罪の犠牲としてご自身の血を流されたことを心に留めるのです。その時として、聖餐が配られる間を、過ごすのです。

 旧約聖書のエゼキエル書3章には、預言の巻物を食べなさい、と語っています。3章3節に「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしが食べると、それは蜜のように口に甘かった。」神の言葉を食べる、と言う言い方をしています。神の言葉を聞くというのではなくて、自分が食べて、栄養とするのです。

 イスラエルに旅行に行った時に、エルサレムの嘆きの壁のところで12歳の一人の少年が成年式のためにヘブライ語で旧約聖書を暗記していて、それを声に出していましたが、聖書の言葉が一人の少年の体の中に入っていることを知りました。神の言葉が自分の中に入っていて、それが栄養となって自分の魂を支える言葉となるのです。霊的な栄養となるのです。

 パンを食べ、杯を飲む、その食べ方、飲み方について、ハイデルベルク信仰問答・問76には詳しく語られています。どのような食べ方、飲み方が良いのか、と言うことです。「信仰の心をもって食べる」と解説されています。パンと杯は、私たちのためにキリストが十字架で罪を贖ってくださった、その神の真実を目に見えて具体的に表すものですから、それを信仰をもって食べる、信仰の心とこのからだで、食べることが大切なのです。そのことによって、神の愛を私たちは深く体得することができるのです。

 私たちの教会生活で気をつけなければならないのは、教会がしていることに慣れてしまうことです。聖餐を何回も受けてきた、同じようなことを繰り返して行くと、慣れてしまい、何とも思わなくなるのです。

 しかし、私たちは神が深い罪をもっている、自分のことしか考えない、私たちのために、独り子を遣わし、私たちのために犠牲をささげたことを畏れをもって、聖餐のたび毎に、私たちの罪のために肉を裂き、血を流されたキリストの体を戴くことを信仰の心をもってあずかるのです。


20160522  主日礼拝説教  「幼な子を招く主イエス」  山ノ下恭二



(創世記17章7節、マタイによる福音書19章13−15節、 ハイデルベルク信仰問答・問74)
                          
 私は両親がキリスト者で、私は小児洗礼を受けました。幼い時から、教会の仲間として受け入れられて、教会につながって来ることができたことを感謝しています。教会の交わりの中で育てられてきたことが本当に幸いなことであったと思うのです。教会学校に通って聖書の話を聞いてきたことがとても良かったと思っています。小学4年の時に父親が亡くなり、さびしい思いをしましたが、二ヶ月に一回、私の家で水曜日の夜、教会の祈祷会が開催されて、教会の人たちが熱心に私の家族を覚えて祈ってくれたことを感謝しています。教会の人々が駆けつけて、熱心に祈ってくれたことが家族にとって大きな力になりました。

 本日の礼拝でマタイによる福音書19章13−15節のみことばを読みました。ここには主イエスの話を聞いていた大人たちのところに「イエスに手を置いて祈っていただくために人々が子どもを連れてきた。」のです。しかし、主イエスの弟子たちは信仰のことは幼児には分からないと思って叱り、妨げたのです。このことに対して、主イエスは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と語り、子どもたちに手を置いてからそこを立ち去られた、と書かれています。弟子たちは子どもが主イエスのところに来ることを妨げたのです。しかし、主イエスは妨げてはならないと言い、子どもを祝福されたのです。 

 マルコによる福音書にも同じことが記されていますが、もっと詳しく記されています。子どもを主イエスのところに連れてきた人々に弟子たちが叱ったことに主イエスは憤りを覚えたのです。そして弟子たちに「『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マルコによる福音書10章13−16節)主イエスは何よりも小さな存在である幼児に心を留め、祝福されたのです。

 本日は小児洗礼について学びたいと思います。ヨ−ロッパのキリスト教諸国、アメリカでは小児洗礼が広く行われてきましたし、現在も行われています。国民の多くがキリスト者であり、教会に属することが当然のこととされた社会では小児洗礼は自然なことです。子どもが与えられると洗礼を受けさせるのです。ロ−マ・カトリック教会、東方正教会などは小児洗礼を受け、堅信礼を受けてキリスト者になるのが大多数です。
 
 プロテスタント教会の中で、この小児洗礼に対して批判が起こったのです。それは理由があったのです。一つは、幼児は罪がないという考えがありました。それから最も大きな理由は、幼児は自ら信仰を決断しない、そういう者に、洗礼を授けて良いのかと言うことです。洗礼を受けるのは自ら信仰の決断をした人がふさわしいと考えたのです。小児洗礼を認めず、成人洗礼だけを洗礼として、受洗者自身の信仰の決断を前提とする教会があります。それはバプテスト教会です。

 小児洗礼の根拠となる聖書は、先ほど話した主イエスが幼児を祝福した記事だけではありません。使徒言行録16章15節に全家の洗礼が記されています。「彼女も家族の者も洗礼を受けた。」家族の者、全員が洗礼を受けたのです。この中には幼児もいたに違いないのです。家長が信仰を与えられると、その信仰の告白に基づいて、家族全員が洗礼を受けたのです。家族の一人として幼児も洗礼を受けたのです。小児洗礼を根拠づける聖書が新約聖書では、まず主イエスが幼児を祝福された物語であり、そして最初の教会の伝道で家族全員が洗礼を受けて、その中に幼児が含まれて、幼児が洗礼を受けたと言うことです。

 旧約聖書には小児洗礼を示す言葉があります。神がアブラハムと契約を結ぶ時に、その契約の相手は大人だけではなく、子ども、子孫も含まれています。神が祝福を与える相手は大人だけではなく、子ども、孫、子孫に及ぶと書かれています。創世記17章7節「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そしてあなたとあなたの子孫の神となる。」(旧約p21)神の祝福は大人だけでなく、子どもにも及び、祝福が広がっていくのです。神が人間の思いに先行して、恵みを与えようとしているのです。こちらの条件や事情に関わることなく、神はわたしたちを選び、恵み、祝福を与えようとされているのです。私たちより先に神は選び、救おうとされています。恵みの契約のしるしとして割礼が施されるのです。この割礼が洗礼を指し示しているのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問74問には、「幼児にも洗礼を授けるべきですか。」と言う問いに対して、答えは「そうです。なぜなら、彼らも大人同様に神の契約とその民に属しており、」と書かれています。幼児も神の契約の中に、神の恵みの中にある存在として受け止められています。そしてこの信仰問答74には続いて次の言葉が続いています。「キリストの血による罪の贖いと信仰を生み出される聖霊とが、大人に劣らず彼らにも確約されているからです。」ここに「幼児」と言う言葉を使っているのですが、多くは嬰児、生まれたばかりの赤ちゃんです。

 小児洗礼に反対する人々の理由は、生まれたばかりの赤ちゃんは自分で聖書を読むことができず、自分の口で信仰を告白することができないと言う点です。信仰は自分が理解し、自分が主体的に告白するものだと言う考えが基本的にあります。そうなると、自分で聖書の言葉を理解できず、自分で告白できない幼児は信仰を持っているとは言えないのです。自分で信仰告白できない人は洗礼を受けることができないと言うことになります。自分の口で信仰を告白することができない人たち、それは幼児ばかりではないのです。障がいを持った人たちも、自分で聖書を読んだり、理解できないので、自分の口で信仰を告白できないので、洗礼を受けることができないことになるのです。

 東京神学大学の熊沢義宣教授は、かつて静岡のある教会を訪れた時に、障がいをもっている人たちが礼拝に出席していて、洗礼を受けていないために、聖餐を受けられないと言う場面を見て、自分で聖書の言葉を理解し、自分の口で信仰を告白できない人たちが何とか、洗礼を受けられないのか、と考えるようになったのです。なぜ、洗礼を受けられないのか、それは自分で信仰を告白できないからです。洗礼を受けることができる条件が、本人が聖書を読むことができ、説教を理解することができ、自分の口で信仰を告白することができることに限定しているのです。洗礼を受けるための条件を満たしていない、幼児、障がい者が洗礼を受ける道がふさがれているのです。熊沢教授は、自分の口で信仰を告白できない人が洗礼を受けることができるようになるために、聖書の言葉を探したのです。そして洗礼をうけることができる根拠となる聖書の言葉を見つけたのです。

 先ほど、幼児洗礼の根拠となる聖書は、幼児祝福の物語、家族全員が洗礼を受けたことですが、もう一つ大切な聖書の箇所があります。それはマルコによる福音書2章1−12節(p63)にある「中風の者の癒し」の物語です。

 中風の人が苦しんでいることを見過ごしにすることができない仲間がいました。この4人の仲間は、中風の者が癒やされるために自分たちができることはないのかと考え、自分たちで主イエスのもとにこの人を運ぶことを決め、実行したのです。それでこの4人が担架を担いで主イエスのおられるところに向かいます。主イエスは家の中にいて、戸口には群衆がたくさんいてふさいでいて、入れなかったのです。そこで、担架をかついでいる4人は屋根に登り、屋根をはがして、中風の男を屋根から降ろして、主イエスの眼の前にぶらさげたのです。この場面で主イエスは「その人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」のです。この中風の人の信仰によってこの人の罪が赦されたのではなく、担架を担いで行った4人の信仰によってこの人が救われたのです。この人は自分の力で主イエスのもとに行ったのではないのです。主イエスのもとに他の人たちによって運ばれただけです。何もしていないのです。信仰の告白をしていないのです。中風の者が救いが与えられたのは担架を担いだ人たちの信仰なのです。

 小児洗礼は親がこの子どもを連れて行って、洗礼を受けさせるのです。幼な子を主のみもとに運ぶ親の信仰を主が見て、それに応えて子を祝福するのです。親は子どものために執り成し、祈り続けるのです。

 これまでキリスト者の家庭に子どもが誕生すると私は祝福のために訪問してきました。その時に私は「小児洗礼」を勧めます。反応は二つあります。子どもに洗礼を受けさせたいという反応と、賛成ではない反応です。

 小児洗礼に対して賛成でない反応には、子どもの意志が第一で、親が信仰を強制してはいけない、大人になって自分で考えて、信仰を決断し、本人が選ぶことであると考えているのです。この考えは多くの人が持っている考えです。

 現代の親は子どもに遠慮している傾向があり、信仰は強制してはいけないと考えているのです。信仰は本人が選ぶことで、本人に委ねることであり、聖書が分かり、信仰が本人に起こったら洗礼を受けたら良いという考えがあるのです。本人の自由な意志で洗礼を受けるのであって親の意志で洗礼を強制するのは賛成ではないと考えるのです。そして信教の自由だ、親と子どもと信仰が違っていても良いと言うのです。このような考えは、物分かりの良い、現代では歓迎される意見です。

 しかし、自分がキリストの十字架で救われたことは最大の喜びなのですから、誕生した子どももこの恵みにあずかって欲しいと願うのが本当の姿なのではないでしょうか。本人の意志で信仰を決断すべきであり、強制してはいけない、そのように考えていることは正しいことなのか、と言うことです。これは家族に伝道することとつながるのです。家族がキリスト教信仰をもって欲しい、そのような強い思いを私たちがもっているか、どうかです。本人がいつか、キリストの救いに預かるだろうと希望している、と淡い期待をしている程度なのか、それとも家族がキリストの救いに預かって欲しいと強く願っているのか、と言うことです。

 チラシをポスティングするときでも、同じです。割り当てのように枚数だけ配れば良いと考えているのか、それともこの牛込の地域の人が救われるように強く願って祈りながら配るのか、それによって配り方が違うのです。

 私たちがキリストの救いに預かって欲しい、と言う強い願いを持つならば、信仰は伝えることができるのです。

 私は両親がキリスト者であって生まれて間もなく、小児洗礼を受けたのです。そして、両親の方針で私の兄弟は当然のように教会に通っていたので、私も連れられて毎週、教会に通い、そのうちに信仰告白してキリスト者となったのです。もし、子どもが信仰を選ぶのであって、強制してはならないと物分かりが良い親であったならば、わたしは日曜日に教会に行かずに友達と遊んだり、テレビを見て時間を過ごし、中学生になれば、クラブ活動に熱中して教会には一切、行かないで、教会から離れてしまい、キリスト者にはならなかったと思います。

 ロ−マ・カトリック教会の会員の多くは小児洗礼です。家族が全員でミサにあずかり、その中で小児洗礼を受けた者が堅信礼を受けて、教会会員になるケ−スが多いのです。同じ時間帯に家族が教会で過ごしている、そして、教会全体の中で自分が認められ、愛されている、そのことが良い結果を生み出しているのです。信仰の継承がとても良くできています。

 プロテスタント教会では親は教会員であるけれども、子どもはそうではないケ−スが多いのです。信仰の継承がなかなかできないのです。親が逝去してしまうと、子どもは教会会員ではないので、そこで教会とのつながりが切れてしまうのです。親から子どもへ信仰を伝えていくにはどうしたら良いのか、を真剣に考える必要があります。

 アメリカの長老教会で両親が教会員で小児洗礼を受けた人と小児洗礼を受けなかった人が、成人になって教会会員になる確率は小児洗礼を受けた人のほうが多いと言う調査結果が出ました。小児洗礼を受けた会員を教会員や両親が教会の子どもとして覚えて祈り、見守り、配慮し、教会として、親として信仰が与えられるように努力するからです。しかし、信仰のことは本人が選ぶことで、自分たちは見守るしかないと言う姿勢、親の出る幕ではないと考えているならば、教会も親も本人に教会に誘ったり、アプロ−チしないので、洗礼に至らず、キリスト者にはなることが少ないのです。小児洗礼は、親が責任をもって子どもが信仰告白するように努力しなければならないので、苦労が要りますが、キリスト者になる確率が高いので、大切なことです。

 自分では信仰の告白に至らない人々を、教会の信仰告白の中で位置づけて、教会の仲間として迎え入れるのです。教会は自覚的な信仰をもった人が教会に集まっているのが教会であると理解すると、聖書も読めなくて、自分で決断して信仰告白ができない人は、教会のメンバ−にはなれないのです。

 しかし、教会の信仰告白と教会の人々の執り成しの中で、自覚的な信仰告白に至らない、幼児や障がい者であっても、教会の仲間として迎えるのが教会です。その人が明確に信仰を告白できなくても、教会の仲間として位置づけ、その人を快く迎えるのが教会です。

 主イエスが幼な子を招き、抱き上げて、手を置き、祝福された、そのことを心に覚えて行きたいのです。


20160515  主日礼拝説教  「地上に富を積むな」  山ノ下恭二



(イザヤ書40章27−31節、マタイによる福音書6章19−24節)
 
 私たちの毎日、お金を使って生活しています。一日の生活の中でお金のことを全く考えないことはありません。お金のことで安心し、お金のことで悩むのです。このような私たちの日常生活の中でいつも起こっていることについて聖書は深い関心をもって語っています。それは詳しい金額を書いていることから分かります。一人の女性が失ったけれども見つかったのはドラクメ銀貨一枚、ユダが裏切りで手にしたのが銀貨30枚と記されて、金額を記しているのです。それは、聖書が人々の暮らしに密着して取り上げていることを意味しています。
主イエスはお金や財産について無関心ではなく、深い関心をもって、大切なことを教えているのです。

 マタイによる福音書6章19節には「あなたがたは地上に富を積んではならない。」と書かれています。富と言うと、今は、現金、土地、家屋、貯金のことであり、これらのものを所有していると安心し、拠り所とするのですが、主イエスの時代では、衣服のことでした。結婚するときに持って行く支度に、高価な織物を持って行くことが慣わしでした。これらのものが大切な財産として、考えられていたのです。これらの財産を持っていれば安心だと人々は考えていたのです。

 しかし、主イエスはこれをもっていれば安心だというものが、当てにならないものであることを示そうとなさったのです。高価な織物が入っている木の箱に虫が食い込み、織物が破れて、使えなくなってしまうのです。これがあれば大丈夫だ、と思っているものが、全く駄目になってしまうことがあることを示し、そのことによって、心配が増えていくことがあることを示しています。

 また、盗まれることによって、一夜のうちに自分のもっている富を失ってしまうことがあります。長い間、努力して蓄えていた富を一挙に失うこともあるのです。ある人は、この説教は金持ちに対して語られており、この地上において富というものは失うこともあるから、それに依存し、頼り切ることはいけないことを教えたのではないかと主張するのです。しかし、ただ金持ちに対してのみ、教えられたわけではないのです。

 お金、財産というものは、生活するために必要ですが、お金をたくさん貯めることを人生の目的にしたり、お金や財産にのみ頼り切ることが正しい生き方ではないことを教えようとされたのです。人間には所有欲があり、所有することで満足し、安心してしまうところがあります。たくさんの財産を所有していればそれで良いと言うのは、人間の本来のあり方であるか、と問うています。

 大学の修養会で「あなたの一番、大切なものは」と言うアンケートをしたら、学生はお金が一番だと言う結果が出たのです。お金がなければ何もできない、人を愛することもお金が必要であり、健康を維持するのもお金が必要だ、と言う考えを持っている学生が多かったのです。

 主イエスはお金など必要はないと言ってはいません。必要なものだけれども、お金に頼って、信頼して、財産に頼っていても、財産そのものも、お金そのものが失われていくことが起こり、頼りにならないものであることを知らせようとしたのです。

 そしてお金や財産があれば、幸福になれると言う虚像を見ているのではないかと思います。私たちはいつも幸福の虚像を見ているのです。この住宅があれば幸福になれる、この車を買えば幸福になれるという幻想に影響され惑わされているのです。そのために財産がないと幸福にはなれないと思ってしまうのです。

 主イエスは「富は天に積みなさい。」と語ります。これはどのような意味なのでしょうか。「天」と言うのは、「神」の別の言い方ですから、「天に」というのは「神に」対して、神との関係において、財産、お金を位置づけることを示したのです。神に対して生きる時に、神との関係に生きる時に、地上のお金、財産も、その意味が変わってくるのです。一般にお金や財産は自分で働いて得たものであるから、自分が自由に使って良いのだ、と言う考えを持っています。しかし、神との関係においては、お金や財産の位置づけは変わります。自分が働いた分の賃金だから、全部、自分のもので、自分の生活、趣味のために全部、使っても構わない、そのような感覚がなくなるのです。

 神との関係において、お金や財産を位置づけると、これらのものは自分のものではなく、自分の所有物ではなく、神から与えられたものであると正しく位置づけることができます。そして自分のいのちも神から与えられたものであり、神から与えられたものとして感謝して受け入れ、用いることができるのです。自分のものであることに執着する、その財産に依存するのではなく、感謝して、神と隣人のために用いるのです。

 私たちは、キリストの十字架の贖いによって、罪が赦され、神との交わりが与えられている。そこに、ほんとうの豊かさがあるのです。お金や財産があっても、自分が愛する人がいなければ、自分を愛する人がいなければ、幸福にはなれないのです。自分のことを愛し、心配してくれる神と隣人がいれば、安心して過ごすことができるのです。

 地上のもの、お金や財産、物質などによっては、私たちの心は満たされないのです。ほんとうに満たされるものは、神との交わりであり、隣人同士の交わりです。そのような暖かい関係によって私たちは生きることができるのです。私たちは神と隣人との関係で、お金や財産を位置づけるのです。自分が所有しているものを用いて、その財産を生かすことができるのです。

 6章21節に「あなたの富のあることころに、あなたの心もあるのだ。」と書かれています。自分が信頼するところ、拠り所とするところ、それはこの地上の富、財産です。そこに心があります。しかし、地上の富、財産は、この地上の命は支えるけれども、自分の死を防ぎ、阻止することはできないのです。

 主イエスはルカによる福音書12章13−21節で一つの譬え話を語られています。ある金持ちの畑が豊作で、たくさん取れて、穀物を入れる倉を新しく建てる計画を持ちました。そしてたくさんの収穫物にとても喜んで宴会を開こうとしたのです。たくさんの財産、富を獲得して安心しきったこの金持ちに対して、神は命を取り去ることを語るのです。地上の命を支えていくためのこのような財産、富も、死を乗り越えることができる力にはならなかったのです。そして主イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と語られました。

 死に勝ち、勝利するのは、イエス・キリストが与えてくださる永遠のいのちです。生きていても、死んでいても、断ち切ることができない神との関係の中にあるのです。そのような神との交わりが価値あるものとして信頼することができるならば、この世の財産は相対的なものとなるのです。これこそ、確かであると頼っている財産にしがみつく、執着するのではなく、まことの神を頼みとするのです。自分の心を、自分が所有しているものに置くのではなく、神に置くのです。テモテへの手紙一 6章17節「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(新約p390)

 6章22節の言葉は今まで語ってきたこととどのようにつながるのでしょうか。「体のともし火は目である。目が澄んでおれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどんなであろう。」目とは何かを見るものですが、見るべきもの、つまり、神を見ている、神に目を注いでいる、と言うことです。「濁っていれば」と言うのは、神を仰ぐことがない、この世のものに執着して自分のことをいつも考えている、と言うことです。

 「目が澄んでいる」、この「澄んでいる」と言うのは、一つのものを単純に見ていると言うことです。きれいな目をしている、と言うことではありません。一つのもの、それは神を見ている、神だけのことを考えて生活している、その態度のことです。

 「目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが」と言う言葉があります。光が目に入って、体を明るくするのです。神から光をいただいて、その光を自分の中に持っているのです。神を仰ぐことによって、神の光を自分の中に持つのです。それに対して、神と切り離されて、この世のもので満足するあり方は、神の光を受けていないことになるので「暗い」のです。

 神を仰いで、神の光を受けているのか、それともこの地上の富に頼って暗さの中で生きるのかです。私たちは何をいつも見ているのか、と言うことが問われているのです。神を見ている、神だけのことを考えて生活しているのか、それとも、この世のことだけを見ているのか、と言うことです。

 マタイによる福音書6章19−24節に何度も「富」と言う言葉が出て来ます。この「富」と言う言葉は「マンモン」と言う言葉です。この言葉は日常の生活でも使われました。どのようにこの言葉を用いたかと言うと、ものを受け取った時に、「確かに受け取りました」と言いますが、この「確かに」と言う言葉が「マンモン」と言う言葉です。

 新約聖書にはお金の単位を表す言葉が出て来ます。レプトン、デナリオン、ドラクメ、タラントン、と言う言葉で、この当時、用いられていた貨幣の単位です。主イエスはタラントンの譬えを話されました。そこでは、主人が僕たちにそれぞれの能力に従って、お金を預けて旅に出るのです。この譬えはお金は主人が貸し与えたもので、そのお金を僕たちが預かったものと言う理解があります。自分で好きなように用いるのではなく、神から預かったもので、神との関係で用いるものとして考えているのです。神から委ねられたものとして、神のみこころに適う仕方でお金を活用するのです。「富」「マンモン」それは神から委ねられたものとして用いるものであるとの理解が大切なのです。お金は自分のもので、自分のために用いる、それが現代に生きている私たちには普通の理解ですが、このいのちも人生の時間もそしてお金、財産も神から与えられた賜物、恵みとして喜んで用いることです。与えられたお金や財産を自分の物としないで、神の物として用いることです。神からお金や財産を預かって管理する者として、私たちは神に対して正しく用いるのです。

 6章24節に「だれも、二人の主人に仕えることはできない。」と書いてあります。「仕える」とは、奴隷として仕えると言うことです。二人の主人に、同時に縛り付けられているわけにはいきません。何の奴隷になっているのか、何に振り回されているのか、と言うことです。神によってしっかり捕らえられ、神に信頼を寄せて生きているのか、それとも富によって捕らえられたままでいるのか、と言うことです。

 富から、マンモンから、私たちはなかなか自由になれないのです。最近の注解書にこう言うことが書いてありました。「現代の物質文明において、金銭や財産が大きな魔法の力を持っているこの現代の人々は、十分に認識していない。現代の人たちは、所有欲が深く、いかに金銭や財産によって振り回され、捕らえられているかということに気がつかないでいる。自分たちは、マンモンではなく、神に仕えていると思っているが、実は自分の生活の中で優先しているのは、自分の生活なのである。」「貧しい人々にもっと目を向けたい、援助したい、と思いながらも、自分自身のために多くのことが必要であると思っているために、ささげることをしないでいるのである。」

 この注解書では、キリスト者が、マンモン、富、お金から自由で、自分のためには用いないようにしようと思いながらも、自分には、あれも、これも、ものが必要だと思い込み、購入するために、結局、マンモン、富に仕えていることになるのだ、と言うのです。この世の財産、富を持たないと、生きていけない、幸福にならないと言う物質的な考え方にとらわれて、富に親しんで、神を軽んじることになってしまうのです。あれもこれも持っていなければ、生活できないと言う思い込みに負けてしまうのです。マンモンから自由になれないで、神に仕えることを忘れてしまうのです。

 私たちは天を仰いで生きている者です。神との関係において生きる者は、異なった生き方をするのです。自分の生活を第一にするならば、富、マンモンにとらわれて行くでしょう。しかし、神との関係を重視し、隣人との関係を大切に生きようとするならば、別の生き方、お金の使い方をするのです。

 最近、青山学院院長の梅津順一氏が書いた「神と富との間−ピュ−リタニズムの場合」と言う論文を読みました。イギリスの17世紀に起こった清教徒たちはどのような職業でも神から与えられた天職であると信じて、経済活動をしたと書いています。靴や鍋釜をつくる職人もおり、そこでは、商売の取引をする場面が多くあったのです。そのような取引のときに、いつも隣人愛の原則に立つ取引を実現しようとしたと言うのです。自分自身が相手の立場であれば、どうして欲しいかを考えて相手と取引をしたと言うのです。いかに自分の要求を相手に認めさせるのかということで取引をするのではなく、自分が相手の立場であれば、受け入れることができるのか、どうか、そこに焦点を合わせて取引をすることを心がけたと書いてあるのです。隣人愛の原則をもって経済活動をしたのです。自分たちの利益だけを優先して経済活動をしようとはしなかったのです。

 主イエスは天を仰ぎ、神に目を注いで生きている人を発見し、そのことをとても喜んでいるのです。聖書にはとても貧しいやもめが自分の生活費を全部、ささげた物語が記されています。その物語は、マルコによる福音書12章41−44節に書かれています。(新約p88)一人の女性が自分の生活費全部、僅かレプトン銅貨二枚、今日で言えば100円と言う小額です。しかし、生活、いのちそのもの、そのすべてを献げたやもめをとても喜ばれたのです。主イエスは次のように語っています。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 この女性こそ、最も自由な女性です。天を仰ぎ、神に目を注いでいたからです。澄んだ目をもって神を仰ぎ見ているのです。神に仕えることを喜びつつ、この地上の富、財産を生かす道がここに示されているのです。


20160508 主日礼拝説教  「誰がえらいのか」  山ノ下恭二



(詩編8編1−10節、マルコによる福音書9章30−37節)

 私が東京神学大学4年生の時の出来事です。5月は東神大の創立記念日があり、第三週の月曜日に大学の行事として奥多摩の御嶽山に登る機会がありました。50人位でしたが、山に登ったことのない人が多かったので、不安になったのか、出発間際になって、先頭に立って導く人が必要だ、と言う話になりました。一人の学生がある大学の登山部にいたことがあると名乗り出ました。そこでその学生にみんなの先頭に立って導いてくださいと言ったら、自分はみんなの一番、後ろにいてしんがりを務めると言いました。自分が先頭に立つと、歩き慣れているので歩くペースが早くなり、ついていけない人が出るかも知れないと言うのです。しかし、みんなの最後にいると登っている全員の様子が分かるので、自分はみんなの一番最後に歩くことにする、と言ったのです。このことによって山登りが初めての学生も、先頭の人が歩くのが速いので、ついていくのが大変だ、と言うこともなく、ゆっくりと歩くことができ、事故もなく、無事に大学に帰ることができたのです。

 今日の礼拝でマルコによる福音書9章30−37節のみことばを読みました。ここから新しい区分に入ります。主イエスの活動が新しく展開していくのです。これまで主イエスは神の愛の支配が近づいていることを知らせ、そのことが人々に分かるために多くの人々の病を癒してきました。しかし、主イエスはこれから病を癒す活動に重点を置くのではなく、そのことを止めて主イエスの最終的な目的を目指して、これから、エルサレムに一直線に向かっていくのです。9章30節から新しい区分が始まりますが、今までしていた病を癒やすことに中心を置くよりも、エルサレムに向かって、弟子たちを教育することになります。そして31節に書かれ、二度目になりますが、自分が人々に渡され、殺され、三日の後に復活することを予告したのです。しかし、弟子たちは主イエスが「人々の手に渡されて殺され、復活する」その意味が分からなかったのです。

 主イエスが一所懸命にご自身の受難について語っておられるのに、それをまるで聞き流すかのように、弟子たちだけになると、ひそひそと語り合っていたのです。その話題は、この中で誰が偉いのかということです。弟子たちは主イエスに従ったとき、この世的な願いを一切捨てて、主イエスに従ったはずです。しかし、彼らにとって関心があることは「誰が一番、偉いか」と言うことでした。「イエスは弟子たちに『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。」とあります。この「議論」と言う言葉は大声でする議論と言うよりも、「内緒話」と言う言葉に近い言葉です。

 よく考えると、私たちはその場にいない人について「えらい人だ」「えらいから」と言うことはありますが、2、3人集まって、この中で誰がいちばん偉いだろうか、などと議論することはないのです。しかし、こころの中では、その問いをどこかで持ち続けているのです。日常的に「偉い」と言う言葉を私たちは余り良い意味で使いません。あの人は「偉いから」と言うことがありますが、それは批判的に使うことが多いのです。うっかり、「この人は偉いから」と面と向かって言うと相手が「そんな皮肉を言わないでください」というのです。この世の中で地位の高い人が公のお金を自分のためにたくさん使う、そのことが分かると「あの人は偉いから」と言うのです。

 「誰が偉いのか」と言うことは、主イエスが、これからしようとしていることと全く違う、逆方向の話です。弟子たちは主イエスが目指している生き方と全く異なる内緒話をしているのです。弟子たちが寄り集まると、この中で誰がいちばん偉いのだろうということに心が傾いてしまっているのです。それがどうも良くないことであることは弟子たちも気がついているのです。だから何を議論していたのかと主イエスに問われると弟子たちは黙ってしまったのです。

 集団の中で、自分がどこに位置しているのか、自分の順位はどうなのか、と言うことはとても気になることです。この社会は何でもランクづけるのです。この社会はなんでも順位があるのです。ホテル、レストラン、学校、至るところでランキングがあります。ランキングが下位で低いと価値がないものと見なされます。そして人もランキングするのです。私が通っていた高校では、毎学期、実力テストをして、成績の高い人から、名前と点数が50番まで壁に貼り出していました。点数が多く順位の高い人は鼻高々でした。

 興味深いことに「偉い」と翻訳されている言葉は「メガ」と言う言葉です。「とても大きい」「巨大な」と言う言葉です。その集団の中で存在が大きいということでしょう。偉い人が物事を決めたり、方向を決めるのです。誰が主導権をもっているのか、誰が中心になって活動しているのか、そのことはとても気になることです。

 「偉くなりたい」と言う願いを持つことは特別に悪いことではありません。大きな志を抱いて、よく働き、事業を大きくして成功した人も多いのです。
たゆまぬ努力の結果、今の地位を築いた人もいます。問題は、他の人よりも偉く、自分が一番、偉くなりたいと思うことです。そこに権力をめざす心があり、権力を志向することが人間の心にあるということです。自分が相手を支配して、自分の思うように動かしたい、と言う心が私たちの中にあるのです。

 そして、一番偉くなりたいと言う思いの中に、人よりも自分が上であり、そのような優越感を持って過ごしたいと言うことがあることです。ランキングですから、その時によって順位が変わるのです。ある時は、一番であっても、別の時は、最下位になることもあります。評価はその時々で変化するものです。ある時は他の人に対して優越感をもち、別の時には劣等感をもつのです。自分よりも下の人がいると安心し、自分が一番下であると惨めな思いをするのです。
人間同士の中の相対的な順番でしか、人間を見ることができない、そのような社会は病んでいると言って良いのです。人間の価値を相対的な能力によって決めて評価する、そこに現代社会の問題があります。この人は能力があるから価値がある、この人は能力がないから、価値がないと裁断することは誤っているのです。

 誰が偉いのか、その偉さを巡って弟子たちの心がそこに集中しています。マルコによる福音書9章35節に「イエスが座り」とあります。主イエスが居住まいを正して「いちばん先になりたい者はすべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と語られました。この中で先頭に立ちたい者がいるか、それならば先頭に立てる秘訣を教えてあげようと言われたのです。その秘訣は、人のいちばん後について行くことだと言われたのです。先頭に立ってはいけないとは言ってはいません。先頭に立ちたいならば、人の一番後について行くことであると言われたのです。一番先になろうと思う人、一番偉い人間になりたいと思う人は、能力がある人であるかもしれません。多少、力があるからそのような野心を持とうとするのです。それを無理になくすことはできないし、そうする必要はないのです。

 主イエスが語りたかったことは、一番になると言うことは仕えることなのであり、皆に仕えることなのだ、と言うことです。自分の持っている力を抑えたり、放棄したりするのではなく、自分の持っている能力をもって仕えると言うことで発揮すれば良いのです。

 山登りの時に、一番、後につくのは、山登りのベテランです。落伍者はいないかと気を配りながら、皆の一番、後から山に登るのです。それが、一番、後になると言うことであり、それが仕えると言うことです。

 本日の礼拝で旧約聖書の詩編第8編を読みました。この詩編の中に、神と私たちの間には、どのくらいの違いがあるのかを語っています。8章6節に「神に僅かに劣るものとして人を造り」とあります。「神に僅かに劣るものとして造り」と言う言葉は、「ただ少し人を神よりも低く造って」と翻訳している聖書があります。私たちが神に僅かに劣る、少し低い、と言う翻訳ではなくて、別の聖書は「あなたは人を神に近いものとし」と翻訳しています。私たちは神とは違う存在です。神よりも僅かに劣る、少し低いけれども神に近い存在であると言うのです。この詩編の前のところには、神がどうして私たちに心を留めるのか、私たちのどこに神に認めていただく、偉さがあるのか、と語っています。「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」この言葉に対して、神が私たちを御心に留め、顧みるようなものは一つもないとは言わないのです。わたしたちに偉いところは一つもない、とは言いません。私たちは偉いから、注目していると言うのです。その偉さは、神に劣ることほんの僅かであって、栄光と威光とを冠としていただいていると言い切るのです。

 この言葉は確信に満ちた言葉です。神が私たちをどのように見ているのか、どのように私たちの価値を計っているのか、と言うことです。そのことを信仰をもって受け止めることができるのです。神が私たちを値打ちある者として計っているのです。

 私たちは、自分の値打ちをどこで計っているのでしょうか。いつも自分と他の人と比較の中で値打ちを計っているのです。この地上での価値観によって計っているのです。

 私たちの値打ちは、神と私たちの関係において計るのです。その値打ちは神より少し劣るけれども、ほとんど変わらないのです。それは私たちの存在が、神によって造られているからです。そこに私たちの価値があるのです。神からいのちを与えられ、神の相手として造られている、創造されている、そこに私たちの人間としての尊厳があるのです。

 東京神学大学の熊澤義宣教授がある本の中で、「ベテルの宝」−人間存在の価値について−と言う文章を書いています。ドイツにベテルと言う障がい者の施設が含まれている大きな社会福祉施設があります。この施設は50近い施設と社会福祉学校、看護学校、神学大学、小、中、高校、パン焼き工場、書店、郵便局、ミルク供給センタ−などを持っているのです。この「ベテルの宝」には第二次世界大戦の時にナチのヒトラ−が、何回となくベテルにいる心身障がい者たちを安楽死させるように命令を出した時に、この命令に対して所長をはじめ全職員がからだを張ってこの命令に反対し、抵抗して障がい者たちのいのちを守ったことが書かれています。ヒトラ−は障がい者たちが戦争遂行ということに対して、何ら役に立たないばかりか、貴重な食糧を無駄に消費し、最前線で必要とされている医師や看護師をしばり付けているこれらの障がい者たちを、一刻も早く処分すべきだと考えたのです。1940年から43年にかけて「生きるに価いしない」という理由で出されたナチスの安楽死命令に対して、所長をはじめ全職員たちは、「その前にまずわたしたちを殺してからにしてほしい」と言い張って障がい者たちのいのちを守り抜いたのです。

 旧約聖書の創世記第1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と書かれています。ベテルの全職員が心身障がい者のいのちを守った生き方の根本に、この創世記の言葉があります。子供、病人、障がい者、お年寄り、どのような者でも、たとえこの世で役に立たない者であっても、神のかたちとして、一人一人に生きる価値があると信じているからです。人間の価値を神と人間との関係においてとらえているのです。他の人間と比較して人間の価値を計るのではないのです。能力や業績によってではなく、存在そのものに価値を置くのです。「何ができるのか」と言うことに価値を置くのではなく、「何であるのか」と言うことに、つまり、「神のかたちである」ことに価値を置くのです。神が御心に留め、顧みられるのは、私たちが神に造られ、神の相手として、大切な存在としてあるからです。

 このように教えられた主イエス・キリストがなさったことに注目したいのです。神と同じ方、神の栄光の中にある方、その方が低いところに降りて来て、この地上にまで降りてこられたのです。主イエスは、弟子たちよりももっと低いところに行こうとなさったのです。

 ヨハネによる福音書には、主イエス・キリストが、弟子たちの僕となって、足を洗ってくださったのです。主イエスはその意味で先頭に立つのです。自分がトップになるために全力を尽くすのではなく、人に仕えるために全力を尽くすのです。主イエスは、わたしはあなたがたより低いところであなたがたに仕えると言うのです。「仕える」と言う言葉は「奴隷」と言う言葉です。一番卑しくて、身分の低い者となるのです。「奴隷」と言う言葉は「ドゥ−ロス」と言う言葉ですが、もう一つ「仕える」と言う別の言葉があります。それは「ディアコニア」と言う言葉です。この言葉は「泥をかぶる」と言う意味です。「奉仕」とも訳されています。「仕える」こと、「奉仕する」ことは泥をかぶり、汚い者となるのです。主イエスはそのような姿を示そうとなさるのです。

 誰が偉いのか、そのことに心を向けていた弟子たちに、主イエスはひとりの幼な子を取り上げて、こう言われました。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。「幼な子」と言うのは幼児ですが、これは象徴的な言い方をしています。幼な子はこの時代、余り価値のない者と考えられていました。みんなからその存在を軽んじられていたのです。今でも「子どもの出る幕ではない」などと言うことがあります。一番、値打ちのない存在であったのです。幼な子は人々の周辺にいて、幼な子が人々の中心にいたのではないのです。

 9章36節で「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」と語られています。この当時、その存在が軽んじられていた、人々が周辺に追いやっていた子供を真ん中に立たせたのです。無力で価値のない存在、弱い存在、である子供を中心に置いたのです。

 能力があり、力があり、地位が高い者が人々の中心に置かれますが、そうではないのです。主イエスは無力で価値がなく、人々から軽んじられている子供を全面的に受け入れることを勧めています。子供を抱いた主イエスは、自分が子供のように低く、価値がない者であることを示したのです。

 そして、ただ「受け入れる」ことを勧めているだけではなくて、「主イエスの名のために」このような子供を受け入れることを薦めているのです。「主イエスの名のために」とはどのようなことなのでしょうか。それは、主イエスが私たちのために、私たちの罪のために、罰を受けることを引き受けて犠牲をささげてくださったということのために、この子供を受け入れるのです。私たちのために主イエス・キリストは死んでくださった、そしてこの子供のためにも死んでくださった、愛してくださったし、愛してくださっている、だから、この子供を受け入れるのです。主イエス・キリストはこの人を愛しているので、私たちは受け入れるのです。

 この地上の社会では、地位が高く、有能で、能力があり、成績が良い者が重んじられ、真ん中にいます。しかし、主イエスは無力で、弱く、軽んじられている者を真ん中に立たせるのです。



20160501 主日礼拝説教  「信仰のない私を助けてください」  山ノ下恭



(エゼキエル書36章33−38節、マルコによる福音書9章14−29節) 
 先週火曜日に、教会のコピ−複合機のメンテナンス会社の担当の人が挨拶に見えました。この人は北九州市小倉東区の出身で、私も北九州市若松区にいたことから、いろいろ話をすることができました。この人が「教会の皆さんはいつ来るんですか。」と尋ねたので、「日曜日に来ています。」と答えたら、「お祈りに来るんですね。信心深い人たちばかりでしょうね。」と言ったので、「とても遠いところから熱心に来ています。」と答えました。この会話で「信心」と言う言葉を久しぶりで聞きました。教会では「信心」「信心深い」と言う言い方はあまりしません。 
 
 40年前のかなり古い話ですが、私が岡山の蕃山町教会におりました時に、ある婦人が他の人に「黒住さんたちは朝早くからお参りして信心深いね」と言っていたのを聞いたことがあります。黒住さんと言うのは、個人の名前ではなくて、岡山に本部がある、神道系の新興宗教である黒住教の信徒のことを言っているのです。岡山には金光教と言う神道系の新興宗教の本部もあります。

 自分たちは朝早くから、教会に来て祈ったり、掃除して会堂を掃き清めないけれども、黒住教の人たちは朝早くから熱心にお参りに来て、社殿を掃除している、そのことを信心深いと言っているのです。先ほどのメンテナンスの担当の人も、お祈りに来ている、それは信心深いと言っているのです。従って、信心と言うのは、自分の側の気持ち、信じる熱心さを言っているのです。日常的に「信心」と言う言葉は、崇高なものに対して自分の時間をささげ、心を向けて祈っている、行動している、と言う意味で使っているのです。多くの時間をささげて崇高な者に心を向けて祈り、行動していれば「信心深い」ことになるのです。

 本日の礼拝で読みましたマルコによる福音書9章14−29節には、病に取り憑かれた子どもをもった父親が登場します。様々な手を尽くしてこの病を治そうとしましたが、治らなかったのです。そのような時に主イエスが病を治すことができると聞いて、訪ねてきたのですが、あいにく、主イエスが山に行き、留守でした。弟子たちが残っていたので、父親は事情を訴えて助けを求めたのです。しかし、それは弟子たちの力を超えていて、癒すことができなかったのです。そこへ、主イエスが山から降りてきて「弟子たちが何もできなかった」と聞いて次のように語ったのです。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」弟子たちだけはなくて、この世が、今のこの時代が不信仰であると言っているのです。「不信仰」と言う言葉は、弟子たちが熱心に祈ったり、行動していない、と言う意味ではありません。自分の力に頼って、神に頼ることをしないという意味で不信仰だ、と言っているのです。

 そして人々が、その息子を主イエスのところに連れてきたのです。ところがどうしたことか、その子は急に発作を起こして、地に倒れ、泡を吹きながら転げ回ったのです。この病気は、今日の言葉で言えば、てんかんです。主イエスはこの父と子が直面している深い悩み、助けのない現実をありありと知ったのです。この病を医師も弟子たちも他の人も助けることができないのです。

 この父親は主イエスに対して「おできになるなら」と言いました。この言葉はこの父親のこれまでの経験からこのような言葉が出て来たのです。これまで、いろいろな医師に治してもらおうと罹ってきましたが、治らなかったのです。医師にかかっても自分の病気が治らないならば、信頼することができないのです。不信感を持つようになったのです。主イエスは半分くらい、治せるかも知れない、しかし、完全に治すことができるか、どうか、分からない、そのような気持ちをもって「できるならば」と言ったのです。

 この言葉に対して、主イエスは残念な思いをもって「『できれば』と言うか」と言われたのです。主イエスに全面的に委ねることをしていない、父親の態度、あり方に対して残念に思い、「『できれば』と言うのか」と言われたのです。主イエスはこの父親に「できれば」と言うのを止めなさい、「信じる者には何でもできる」と答えたのです。

 信じると言うことは、相手を信頼すると言うことです。相手を信頼することは相手が自分のために最善を尽くしてくれることに信頼することです。しかし、私たちがよく経験しますが、相手を信頼することができないことがあります。相手が自分のために最善を尽くしてくれていると思って信頼していたら、相手が自分をおとしめるために画策をしていたことを知ると、たちまち、信頼することはできなくなるのです。

 主イエスは、自分が神を信頼しているので、その信頼の中に、この父親を招いているのです。神を信頼する、そのようなところで生きて欲しい、主イエスは自分の息子を必ず癒すのだ、と言う確信をもって、主イエスのところに飛び込んでほしいと願っているのです。

 主イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と父親に語っています。この主イエスの言葉に対して、この父親はすぐに反応して、こう叫んだのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 
この父親の言葉は、大変、不思議な言葉です。普通は「わたしは信じます。」と言い、その後に続く言葉は「だから子どもを助けてください。病気に悩んでいる私たちを助けてください」と言うはずです。しかし、この父親の言葉は「信じます。私たちを助けてください。」と言わないで、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と言っているのです。この父親は息子の病が治ることを目的にして主イエスのところに来たのです。しかし、父親は、主イエスが直すことができるか、どうか疑いを持っていたのです。主イエスが直すことができれば良いが、と半信半疑であったのです。

 それに対して、主イエスはこの父親の言葉に対して、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と強く語ったので、この父親は、自分の中に信仰があるだろうか、と問い直したのです。自分の中には疑いしかないのではないか、と思ったのです。この父親は自分の中を見ても、信じられない自分しかなく、不信仰しか見つからないのです。主イエス・キリストに全面的に信頼することができないのです。「できれば」と言う不信の言葉を取り去ることができないのです。

 私たちは、言葉では神に委ねるとか、信頼するとは言いますが、現実に神に委ねているか、と言うと、そうではないのです。信頼しているか、と言うと、そうではないのです。神を信じられないのです。信じている積もりでも、やはり、自分を信じているのです。神ばかりでなく、人に対しても信頼できないのです。それは人に裏切られた痛い経験をした人なら、人を信頼することができないのです。人は信頼できない、そのような思いの中に生きているのです。

 この父親は、信じると言いながら、信じていないことを告白しているのです。信仰と不信仰を同時に言い表しました。私は信じます、しかし、その当の私は不信仰な者です、助けてください、と主イエスに叫んでいるのです。信仰を言い表すと言うことは、つねにみずからの不信仰を言い表すことにほかなりません。それは信仰が決して自分に由来することがないからです。自分が聖書を熱心に読まなかったり、祈りをしていないことを自分は不信仰で、と言うことがあります。この時の「信仰」は自分に由来すると捉えています。それは「信心」「信心深い」と言う言葉と共通の意味を持っています。自分の側の信心深さ、熱心さ、と言う意味で「信仰」と言う言葉を使います。

 しかし、信仰はただ神から与えられるものであると言うことです。信仰は神に由来するものです。以前、熊本の阿蘇に行ったことがあります。その地方には日本の名水百選に選ばれた白川水源があり、その水源から水がコンコンと湧き出ていました。水源から水がコンコンと湧き出して、水が流れていくように、信仰は神が源になって私たちのところに押し寄せてくるのです。
 
 先週、私の部屋の書棚を整理していましたら、私が神学生の時に出席した研修会での講演集が保管されていました。1970年8月に日本基督教団教育委員会が主催した第一回夏期信徒セミナ−に参加した時の講演集です。この講演集の題は「復活と教会」でした。従って、この時の信徒セミナ−の主題は「復活と教会」でした。どうしてこの主題になったのかと言うと、教団の信徒に教会での教え、教理の中で分からないことを挙げて下さいと言うアンケート調査をしたら、「復活と教会」が理解できないということが多くアンケートに書かれていたそうです。このアンケート調査の結果を踏まえて「復活と教会」を信徒セミナ−取り上げようと考えて、企画されたセミナ−であったのです。

 1970年は私が大学2年に在学していて、この主題を見て、自分もよく分からないから分かりたいと思って、同級生の友人と一緒に参加したのです。分からないと言うよりも、特に復活など信じられないと思っていました。本当に復活などあったのか、そして死んだ後に、自分が復活するなどあるのか、と疑っていましたし、半信半疑であったのです。復活した主イエスなど、この目で見て、この手で触らなければ信じない、と言ったトマスのように、自分も主イエスの復活も自分の復活もあり得ないと思っていたのです。

 ある時、ある知り合いのキリスト者が私にこう言う話をしてくれました。「自分は、信仰者は洗礼を受けたのだから、100パーセント神を信じていることであるから、疑ってはいけないと思っていたが、自分の中に疑いが出て来るので信仰が弱いと思い、苦しんでいた、ある時、ある牧師から、疑っても良いのだ、と言う話を聞いて、とても気持ちが楽になった」と言うのです。

 洗礼を受けて、キリスト者となった自分は疑いをもってはいけない、と思っていたこの人は自分の心の中に黒雲のような疑いの思いがモクモクとわき上がっても、疑ってはいけないと、自分を押さえていたのでしょう。しかし、疑っても良いのだ、と言うことを聞いて、重荷を降ろしたような気持ちになったと言ったのです。

 この父親は、「信じます。」と信仰を告白しつつ、同時に自分の信仰のなさを主イエスに正直に叫んだのです。そのような信仰のない私を助けてください、と言い表したのです。最近の翻訳では「不信仰な私を助けてください」と言う翻訳よりも、「信仰のない私を助けてください」と言う翻訳がほとんどです。信仰がゼロなのです。自分が信仰をもっていると言うことができないのです。

 自分は信仰をもっている、だから良いこともしている、献げている、と言うことができないのです。もし、そのような思いで過ごしているならば、それは偽善者になるのです。自分の立派な信仰を他の人に見せようとするとそれは主イエスが厳しく批判したファリサイ派の人々と同じになるのです。自分の側に信仰はないと言って良いのです。神が信仰を与えてくださるのです。信仰は決して自分に由来しない、ただ神から与えられる賜物・恵みであるのです。

 信仰と言う言葉を調べて見るととても興味深いことが分かります。この信仰と言う言葉はギリシャ語でピスティスと言う言葉です。このピスティスと言うギリシャ語はヘブライ語の「ア−メン」と言う言葉に由来します。私たちは祈りの最後にア−メンと告白します。ア−メンと言う言葉は元々、「ヌメ−ス」と言う言葉です。「ヌメ−ス」は「真実」「信実」「堅い」「堅固」と言う言葉です。神が真実であると言う意味で「ヌメ−ス」と言う言葉を使います。この言葉から派生した言葉が「ア−メン」です。

 神が私たちのために真実を行ってくださる、この神の真実を私たちが信頼する、それが私たちの信仰なのです。私たちは信仰をもっているから、神のみこころを行うことができる、と言うのではないのです。神が私たちに真実を行ってくださることをただ信頼することなのです。私たちに神が真実をもって相対してくださることを仰ぐことなのです。信仰の主導権はいつも神が握っているのです。

 テモテへの手紙二 2章13節(新約p392)には次のように語られています。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」わたしたちがキリストに対して誠実でなくても、キリストが私たちに真実を尽くしてくださるのです。私たちは自分の信心、自分の信仰深さ、熱心さ、の中で信仰が生まれ、信じるのでなくて、信じない自分があり、疑いをもったり、祈ることをしなかったりしても、神はそのような私たちを受け入れ、見捨てることなく、置き去りにすることなく、いつも贈り物として信仰を与えてくださっているのです。

 ロ−マの信徒への手紙5章6節にこのようなみ言葉があります。「実にキリストは、わたしたちが弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」(新約p279)と語られています。

 この「不信心な者」と言う言葉は「神なき者」「神を失った者」と翻訳している聖書があります。信仰はあるけれども熱心でない、聖書をほとんど読まない、時々しか教会に行かない、それを私たちは「不信心な者」とよく言います。その意味で「不信心」と言う言葉をここでは使っていません。この「不信心な者」と言うのは、「神なき者」「神を失った者」なのです。

 わたしたちは実は神なき者、神を失った者なのです。神のことよりも自分を中心に、自分のことを優先して生きている、自分の思いが通れば良い、と思っている、そして自分のことしか考えないで生きている、神を失って生活している者なのです。このような者のためにイエス・キリストは「死んだ」と語るのです。犠牲をささげた、と語るのです。

 ロ−マの信徒への手紙5章7節には、尊敬する人のために自分のいのちを献げる人はいるかも知れないと語るのです。そして神の子キリストが罪人のために死ぬ、御自身のいのちをささげてくださった事実にパウロはとても驚いて語っているのです。5章8節には次のように語られています。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 わたしたちに対して神は真実を尽くしてくださいました。それは神がわたしたちのための神となるためです。5月8日の婦人会でヨハネの黙示録を学ぶことになり、ヨハネの黙示録を読んでいます。このヨハネ黙示録の最後、22章の終わりに「ア−メン」と言う言葉が出て来ます。神は真実な方で、最初から最後まで真実を尽くしてくださる、それをア−メンと語るのです。わたしたちの不真実を超えて、神は真実を尽くし、キリストを罪の犠牲としてささげ、わたしたちを神のものとしてくださるのです。
 
 これから聖餐にあずかります。カルヴァンの「キリスト教綱要」に「聖餐を受けるのにふさわしい受け方」について書いてあります。「聖餐を受けるのにふさわしいのは、自分が受けるのにふさわしくないと深く思うことである」と書かれています。これまでの自分の生活を顧みて、神のみこころに適わない生活をしていた、そのことを深く悔い改め、聖餐を受けるのに、自分はふさわしくないと思う者が聖餐を受けるのに一番、ふさわしいと書かれています。「信じます。信仰のない私をお助けください。」と祈りながら、聖餐を受けるのです。


20160424 主日礼拝説教 「神のみこころに適った長老を選ぼう」  山ノ下恭二



(申命記31・9−13、使徒言行録20・28−32)

 本日はこの礼拝の後に、教会総会で長老選挙が行われます。私たちの教会にとって長老の役割は大きいのです。私たちの教会は長老会で教会の礼拝、伝道、牧会など中心的なことが協議され、決められます。長老会での長老の発言はとても重いものです。どのような人が長老になるのかは教会にとって死活問題です。その意味でどの人が長老に選ばれるのかは教会にとって大きな意味を持ちます。そこで、本日は、長老は何をするのか、その役割と立場、そして長老を選ぶことの意味について学びたいのです。

 本日の礼拝で、使徒言行録20章28−32節を読みました。ここにはパウロが3年間、エフェソで伝道した後に、エルサレムに行くことになり、エフェソの教会を離れる時に、ミレトにエフェソの教会の長老を集めて別れるにあたって語った説教が記されています。

 使徒言行録20章28節に「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」と語られています。教会の長老が教会のすべての者を牧会する役割があることが語られています。長老教会では牧師は宣教長老と呼び、宣教長老は説教と聖礼典に携わり、選挙で選ばれた信徒の長老は教会全体を治めるのです。信徒の長老を治会長老と呼んでいます。牧師だけが羊の群れを養うということでなくて、長老が羊の群れを養うのです。

 ペトロの手紙1 5章2節に長老たちへの勧めで「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。」と語られています。羊飼いとして、羊の群れ全体を見渡して、羊を養い、守っていくのです。

 使徒言行録20章28節に「あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と語られているように、長老は教会の群れである教会員を監督する責任があります。一般的にも、野球の監督は選手一人一人のことを心にかけて配慮し、それを指導する責任があるように、教会においても長老は教会員を監督する責任があります。

 長老教会の就任式の式文の式辞には「長老とは旧約聖書においては全会衆のために群れを治める者をいい、新約聖書においては『よく治める長老』といい、あるいは『治める者は心を尽くして治め』といい、福音を宣べ伝える使徒、預言者、教師等のほかに別に長老をおいてこれを補佐させたのです。それゆえに長老は牧師とともに長老会を組織し」と書かれています。ここで注目したいことは、長老は牧師を補佐する役割であると言うことです。教会全体に対して責任をもって牧会している牧師の務めを補佐することが長老の役割であり、教会における長老の位置なのです。このことを忘れてはなりません。

 牧師と共に長老は教会の礼拝、伝道、牧会に共同で協力して携わるのです。長老は牧師の側にいつも立つ。そのことが大切です。政府で言えば、内閣の一員であり、いつも結束している。

 その意味で長老と役員とは教会における立場、位置、役割が異なります。役員は会員から選ばれた代表という意味が強いのです。教会によっては婦人会の会長、壮年会の会長、若い人の代表が役員会を構成している教会もあります。

 あるグル−プの意見を役員会で代弁することが役員の役割になります。牧師は説教し、伝道してください、役員は教会会員の意見を吸い上げ、役員会で発言しますと言うことになります。役員と言うのは牧師と共同で教会の務めを担うと言う意識がないのです。

 しかし、私たちの教会は牧師と長老が共同で教会の務めを担うのです。長老を選挙する時に、この人ならば、自分の意見を代弁してくれるから選ぶということではありません。また選挙の前に、根回しをして、みんなでこの人の名前を書いて、長老になってもらおうと打ち合わせをすると言うことはあり得ないことです。それは長老選挙は自分たちの都合を考えてする選挙ではないのです。いかにして、この牛込の地で、礼拝と伝道ができて、神の御名を讃美することができるか、を教会的に考えて選挙することが大切です。

 長老教会の就任式の式辞の後半には、「会員の入会および退会の処置、礼拝の整頓、教理の擁護、教会の秩序の保持、会員の訓練、伝道の拡張等使徒たちの命じたとおり、教会を治めなければなりません。」と書かれています。羊飼いは羊の群れ全体がどのようになっているのか、をよく見ていることが重要です。

 長老会の任務には、洗礼入会、転入会について試問する任務があります。この人を教会に入れるか、どうかを決めるのです。特に洗礼入会のための試問の時に、志願者にキリスト教信仰について、教会生活について質問をする大切な役割を持っています。三位一体をどのように理解していますか、イエス・キリストによる贖いを信じますか、罪についてどのように理解していますか、と質問するのです。そして教会の信仰告白に同意しますか、と質問するのです。そして教会生活を始めるので「どんなことがあっても礼拝に出席しますか」とその決意を聞くのです。転入会の試問では教派が異なって、教会の理解、信仰の力点、教会生活の仕方が異なり、衝突して問題が起こることもあるので、そのことをわきまえて、丁寧に質問し、判断します。

 使徒言行録20章29節−31に狼が羊の群れの中に入って荒らしたり、教会の中に邪説を唱えて教会員たちを従わせたりするので、目を覚ましているようにと勧めています。この時代にもイエス・キリストの福音とは異なったことを主張する人が教会に入って来たのです。会員がみことばに従った信仰的な発言をしているのか、見極めて、指導する役目があります。

 そして誤った福音理解、教会に対する誤解、教会生活がきちんと行われていないならば、教会員に戒め、勧告する務めがあります。教会生活について長老から、戒められた経験をもっている人はほとんどいないのです。それだけ、長老が教会員に無関心なのか、教会生活を改めるように戒めたほうが良いと思っていても、人間関係を重んじて言わないのです。

 東大宮教会に在任していた時に、教会報にある会員が、旧約続編の言葉を取り上げて、文章を書きました。旧約続編はカトリック教会では第二正典と考えており、正典と見なしています。しかし、私たちのプロテスタント教会は、外典として正典と区別して、信仰と生活の基準と考えていないので、参考に読むのは良いとしても、正典と同じものと考えてはいません。

 教会報の担当の長老がこの人の文章を読んで、疑問をもって私にどうなんでしょうかと来たことがあります。私は、旧約聖書、新約聖書の言葉であれば、教会報に掲載しても良いけれども、正典でない外典と言われている旧約続編の言葉を根拠にして書いているのを教会報に掲載することは良くないので、書き直してもらおうと答えました。それで書いた会員に説明して書き直してもらい、別の文章を教会報に掲載しました。教会員が教会での発言や文章でおかしいことを言ったら、それを戒め、指導する役割があります。会員に同調することではないのです。

 長老会の役割に「教理の擁護」があります。ドイツの教会には長老席があって、小さな机に信仰告白の本が置いてあり、礼拝説教で牧師が教理的におかしなことを言って疑問に思ったら、電気スタンドの灯りをつけて調べると聞いたことがあります。説教で語っている内容が教理的におかしいと気づくのは、勉強していなければ気づくことはないのです。

 今日の説教は良かった、良くなかった、おもしろくなかった、つまらなかった、分かった、よくわからなかったというレベルでなくて、心して説教を聞き、信仰告白に基づいて正しく福音を語っているか、それとも、間違ったことを伝えているか、です。鹿沼教会では毎月、一回、月曜日の夜に神学勉強会をしていました。そこで神学書をよく学んだことで長老会での長老の発言が教会的になったのです。長老会が事務連絡会で終わるのではなくて、礼拝や教理について質問が出るようになったのです。岡山の蕃山町教会でも、長老読書会をしていて、古代教会の信条を学んでいたのです。

 使徒信条、ニカイア信条、ハイデルベルク信仰問答、ジュネ−ブ教会信仰問答などの宗教改革の信仰告白などを学んでいくことが求められます。

 かつてある教会の牧師から電話があり、教会の長老会で「説教の勉強をしてください」と言われたので、私が関わってきた東京説教塾について教えて欲しいという電話でありました。長老が陰で説教の批判をしているのでなくて、教会が研修の費用を用意しますから、ぜひ説教の学びをしてください、と言って、その牧師は熱心に説教塾に通って学んでいます。

 長老会の任務に「礼拝の整頓」があります。「礼拝の整頓」と言うと礼拝堂の掃除、冷房、暖房、マイクの調節などの係をすることを思い浮かべます。会員が礼拝に遅刻しないように注意することを思い浮かべます。先週、礼拝後、前の席がかなり、空いていてとても説教がやりづらかったので、前から座ってくださいと私が話をしましたが、このようなことは長老が気がついて会員に自覚してもらうように勧めることです。礼拝の時に座る席が決まっているようですが、来た順から前から詰めて座ることが大切です。それは長老が指導することです。

 「礼拝の整頓」と言うと、礼拝のこまごましたことに気を使う、そのこともとても重要ですが、礼拝が全体として礼拝になっているか、を監督することです。司会者の祈りがまず礼拝のために集中するためにふさわしく祈っているのか、自分の関心を中心にして祈っているのか、説教の内容が良いのか、会衆の讃美がみこころに適った賛美となっているのか、礼拝当番である者が休んでいないか、新来者に対して心を配っているか、と言うことです。

 長老の任務として、会員の訓練が挙げられます。これは教会会員が礼拝に出席してみことばを聞いているか、会員は陪餐会員と呼ばれているように、聖餐にあずかる会員であるから、聖餐にあずかっているか、を気を付けていることです。しばらく、教会を休んでいる会員には手紙を書いたり、訪ねて、安否を確かめることが求められます。また「伝道」に対する責任を持ちます。求道者への配慮などがあります。

 エフェソの教会の長老に対して、パウロが、神の教会を牧するということを勧められています。これは羊飼いの働きである。羊飼いは羊の状態をよく見ていることが大切です。羊たちを青草のある牧場に憩わせ、水を飲ませるように、教会会員をみことばをもって養い、福音によって慰め、励ますのです。そして病む者があれば見舞い、疲れている者があれば休ませるのです。そのような羊飼いの働きをするのです。このような教会の任務を行うために、長老を選ぶのです。長老は教会生活の経験が豊かで、教会のことをわきまえていることが大切です。

 私が東大宮教会におりました時に教会規則と長老選挙細則を作り、制定しました。その細則には被選挙権をもっている人の資格が規定されています。その資格はまず、洗礼を受けて3年経過した者、転入会後、3年経過した者です。それは新約聖書・テモテの手紙1 3章6節に「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません」と言うみ言葉に根拠をおいています。

 洗礼を受けて間もない人が長老の務めをするのは難しいのです。この教会の伝統やあり方についてよくわからないといけないので、転入会後3年経過していることが規定されています。そして礼拝を休み、礼拝を守っていなければ、礼拝説教も聞いていないのでは、みことばに養われることもないのです。教会会員を把握することはできないし、教会のことは全くわからないのです。そのような人が、教会の重要な事柄について発言することは教会にとって良くないことです。その意味で長老選挙の被選挙権の資格を持つ者は年間礼拝出席、30回以上の者、1年間の聖餐陪餐8回以上の者と規定されています。

 私が神学生の時に通っていた教会で、長老会があるときにだけ礼拝に出席して、長老会で活発に発言していた人がいました。定例長老会に出席するのは良いとしても、年間53回ある礼拝に12回しか出席していなくて、教会の全体がわかるのか、その務めができるのか、と疑問に思っていました。

 礼拝を厳しく守ることが長老としての条件です。教会は会員の献金で支えられており、支える責任をもっている。教会に対して献身のしるしとしての毎月の維持献金をささげることは教会に対する責任を果たしていることになります。東大宮教会長老選挙細則には、月定献金を献金する者と教会会員にそのような条件を満たした会員が候補者として挙げられます。

 長老会は教会の要です。私は信徒として、神学生として鹿沼、日本橋、中村町という3つの教会、牧師として、岡山蕃山町、和歌山の田辺、北九州の若松、さいたまの東大宮の教会を歴任してきましたが、それぞれ歴史や会員は異なっていましたが、どのような人が長老なのかと言うことが教会にとって一番、重要な鍵です。長老が教会をどのような理解をもっているのか、長老としての自分が何をしなければならないのか、そのことをきちんと自覚して、わきまえているのか、ということが教会の死活を決めるのです。自分が長老として自覚し、どのような存在として教会に関わるのか、ということが重要なことです。自分がどのような役割を果たしていったらよいのか、その自覚を持つことが重要です。長老の存在は教会にとって重要です。長老会が教会の大切な事柄を決めるのであり、長老会での発言が大きな意味を持ちます。その意味で、長老を選ぶことはとても大きな意味を持つのです。

 教会の務めを担う者は神からの召しによってその働きをするようになります。神の呼びかけに応えるのです。牧師は神の召しに答えていきます。長老も神の召しによってその働きをするのです。神の召しが一人よがりではなく、確かであるか、どうか、選挙によって明かになるのである。長老として自分は仕えたいと思っても選挙で選ばれることが大切です。自分は長老に選ばれたくないと思っても、選挙で選ばれることがあり、それは神の御心として引き受けるのです。この選挙は人気投票ではありません。教会が礼拝し、伝道し、牧会できるために長老を選ぶのです。教会のための選挙です。           

 自分と親しい人を選挙で入れたい、この人を入れないと良くない、自分の意見をこの人は代弁してくれそうだ、この人にお世話になっている、そのような人間の考え、人間関係を中心にしたレベルで長老を選ぶのではありません。この教会がこの牛込の地で礼拝し、伝道するために、神のみこころに適った長老を選ばせてくださいと熱心に祈りながら、信仰によって選ぶのです。

 神がエレミヤに預言者として召した時に、預言者は困難な務めであり、自分には預言者などできないと断るのですが、神は神があなたを選び、預言者として立てた、いつも神が共にいると約束して、エレミヤは預言者として立つことを決意し、困難な時代の中で神の言葉を語ったのです。自分の事情や理由で長老はできない、と言う人もいるかもしれませんが、この教会の礼拝と伝道のために引き受けてくださると幸いです。



20160417 主日礼拝説教 「洗礼の確かさ」  山ノ下恭二



(エゼキエル書36章25−27節、コリントの信徒への手紙一 6章11節、ハイデルベルク信仰問答72−73問     
 
 作家の加賀乙彦が洗礼を受けた時に、短い文章を書いています。「長い間、私は聖書を読んできて、キリスト教にひきつけられてきた。しかし、自分が洗礼を受けることはためらっていた。自分の信仰が、それほど深いものでないと自覚していたし、受洗するにしても、もっと先のことだろうと思っていた。しかし、ついにその決心をしてしまった。」「洗礼を受けた瞬間から変わったのである。今まで聖書という文学の登場人物の一人であったイエス・キリストが、福音のよろこびをもたらしてくれる存在として身近に迫ってきた。十字架が愛の表現であり、復活がその愛の証であることが、ひしひしと伝わってきたのだ。」長い間、作家として人間のもっている深い問題と取り組んできた、この人が洗礼を受けた喜びをこのように語っています。

 「加賀乙彦自伝」と言う本には加賀乙彦の母が洗礼を受けていて、教会で母の葬儀が行われ、その時、初めて教会の葬儀に出席して、「なんと美しい葬儀だろうと感動した」と書かれていて、この葬儀が洗礼を受けるきっかけになったと書いています。

 「キリストに出会う−洗礼を受けるまで−」と言う本に加賀乙彦が「受洗記」と言う文章を書いています。信濃追分の別荘でカトリック教会の神父にキリスト教の教えについて3日間、質問攻めをして、4日目に、「知識はどうでもよくなった」、信じることだと言うことがわかった、と書いています。「言ってみれば、知識は飛び去り、一気に信仰の世界に入ったのだ。知識にはいつも疑問がつきものである。ところが信仰の世界には疑問がない。それは、イエス・キリストを百パーセント信じて、その十字架と復活の生涯に自分を参加させたいと言う内なる衝動であり、喜びであった」「私が百パーセント信じるという一歩を踏み出したときには、自負は少しもなく、自分は駄目な人間、罪深い人間だという謙虚と、それにともなう非常な喜びだけがあった」と書いてます。

 日本の社会では、洗礼と言う言葉が誤解されて使われています。洗礼ということが、世俗的な言葉となってしまっているのです。政治の世界では「選挙の洗礼を受けていない」「必要とあれば私は投票によって洗礼を受けるつもりだ」と言います。こうした意味での「洗礼」は「狭い門をくぐりぬける」と言う意味で使われています。あるいは「試練」と言う意味でも使います。「洗礼」の本来の意味をきちんと理解しないで、世俗的な意味で「洗礼」と言う言葉を用いているのです。

 日本では洗礼は異質なことなのです。洗礼と言う習慣はないのです。洗礼を受けて、教会員になることは、教会に対して責任を持つことになりますから、その責任を避けたいと言う思いがあり、なかなか、洗礼を受けることをしません。そして洗礼をためらう人も多いのです。ある時、長く教会に来て求道している人に、洗礼を受けることを勧めたら、自分は長男で家のお墓を守らまければならないので、すぐにはできないと言われたことがあります。江戸幕府が作った檀家制度は、キリスト教を排斥のために作ったのです。お寺の檀家として引き継いでいるので、洗礼を受けて、キリスト教会の洗礼を受けることにためらいを覚えることも確かです。

 聖書を学んで、教養を身につけたり、教会に行って話を聞くことは構わないけれども、洗礼を受けてはいけないと言われたりするのです。洗礼を受けることは高いハ−ドルを超えなければならないと理解しているのです。

 ユダヤ教では、沐浴の習慣がありました。神殿に行く時に、また食事の前に、身体を清めることを大切にしていました。家には清めの水を入れている水瓶が置いてあり、神の前に出るときに、食事の前に沐浴して、身体を清めるのです。自分で水をかぶるのです。他の宗教からユダヤ教に改宗する時には、割礼を受け、沐浴し、捧げものをする習わしで、改宗者の洗礼と呼んでいました。

 新約聖書には「洗礼」と言う言葉は「バプテスマ」と言う言葉です。福音書の初めには、バプテスマのヨハネについて語られています。バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを施していました。神が審判する時が近いので、人々に神の前に身を清めて、待つことを勧めました。 

 このバプテスマのヨハネから、バプテスマを受けたのが主イエスです。この主イエスの洗礼は、悔い改めのバプテスマとは全く異なる意味を持っています。主イエスがヨハネからバプテスマを受けようとしたときに、バプテスマのヨハネは、「わたしこそ」主イエスから「洗礼を受けるべきなのに」と言って授けることをためらい、断ろうとしたのです。しかし、主イエスは「今は、止めないでほしい。」と言い、ヨハネから洗礼を受けたのです。

 この主イエスの洗礼はどのような意味があるのでしょうか。それは主イエスが罪人の立場になられたと言うことです。主イエスは罪と何の関わりがないし、悔い改めることも罪を赦してもらうことも必要ないのです。しかし、洗礼を受けると言うことは、罪を犯している私たちと同じ立場に立つことを意味します。

 そして主イエスの洗礼にはもう一つ重要な意味があります。主イエスが洗礼を受けられると「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイによる福音書3章17節)と書いてあります。

 この主イエスこそが、神のみこころを行う者であることを、神が天から語ったのです。神のみこころは、主イエスが十字架に架かって死に、私たちの罪を贖うために罪の罰・審判を受けることなのです。主イエスがバプテスマのヨハネから受けた洗礼は、意味が全く異なっているのです。主イエスが洗礼を受けたことは、私たちの罪を贖うために、救い主としての出発することなのです。

 現在の教会の洗礼は、ユダヤ教の沐浴、バプテスマのヨハネの悔い改めの洗礼、主イエスの洗礼とその意味は異なっています。

 私たちの教会の洗礼について詳しく語っているのは、ロ−マの信徒への手紙6章1−11節です。6章4節Aでは「わたしたちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」と語っています。洗礼と言うことは、今までのいのちが終わる、死ぬことであり、葬られることです。罪に支配されていた生活が終わることです。その意味で洗礼は葬りの式です。新約聖書ではバプテスマと言う言葉を使います。この「バプテスマ」と言う言葉の意味は、「沈める」「沈む」と言う意味です。水の中に全身を沈めるのです。

 現在の多くの教会は洗礼式の時、滴礼と言って、洗礼用のカップから水をかけます。しかし、最初の教会は洗礼槽に入って全身を沈めるのです。この振る舞いによって今までの罪に支配されて、「罪の中にとどまっていた生活」が葬られる、終わることを表すのです。

 しかし、それだけで終わるのではないのです。洗礼槽の中に全身を浸し、沈めて、そののち全身を水の中から起き上がらせるのです。それは新しい生命の誕生を意味します。罪と全く関係のない、新しい生活が始まります。赤ちゃんの誕生のように、新しいいのちが誕生するのです。赤ちゃんが生まれるとうぶ湯で身体を洗います。ロ−マの信徒への手紙6章4節には次のように語ります。「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」更に6章6−8節にも次のように語ります。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

 洗礼を受けることは「神に対して生きること」なのです。ロ−マの信徒への手紙6章11節「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

 洗礼式と言わないで、「洗礼入会式」と言う教会があります。洗礼を受けることは、教会の会員になることです。それが同時なのです。洗礼と教会に入会することが、時間差があると言うのではないし、洗礼と教会入会が別々であると言うことではないのです。洗礼をうけて教会員にならないと言うことはできないし、洗礼を受けないで教会員になることはできないのです。

 洗礼を受けることは私たちの決断が大切です。牧師から洗礼を受けたらと勧められたから受けた、それで教会につながって礼拝に出席し、奉仕をしているのなら良いですが、そうでない場合が多いのです。洗礼を受けて、平均2年半で教会から離れてしまうと言う統計があります。洗礼を受ける前と変わりのない生活であるならば、それは問題です。洗礼を受けるからには、生活を切り替えると言うはっきりした意識がないといけないのです。自分中心の生活から、神に対して生きる生活に切り替えることが大切です。自分の生活を先に考えて予定を組み、礼拝はそれに合わせて、都合の良いときに来る、と言うのではないのです。洗礼を受けたということは生活を切り替えたことなのです。洗礼を受けた後に続かないのは、神に対して生活をすると言う切り替えがなされていないからです。洗礼後の訓練が教会でなされていないことが大きな問題です。

 洗礼試問会で、教会生活をこれから本気でするか、どうか、その本気度を聞くことが大切です。聖書も読んでいない、キリストの贖いも分からないと言うのは問題であるけれども、神に対して、教会に仕えていくと言う志があることが大切です。

 私たちの決断、志は大切であるけれども、この洗礼は聖霊による出来事であるということです。私たちの決心、決断でキリスト者となったと言うことではないのです。

 最近、ある教会の教会報に洗礼を受けた女性の証しが載っていました。この女性は入院した病院の同じ部屋の人に誘われて教会の礼拝に初めて出席したのです。初めての礼拝なので礼拝中、立ったり、座ったりの繰り返しで不思議に思った、聖書のページが分からなくて、誘ってくれた人に聖書を開いてもらった、と書いてありました。そしてしばらく教会に通って洗礼を受けたのです。教会報に「神様に導かれて」と言う題で書いていますが、洗礼にまで至ったのは「神様のほうがわたしを選び」「神様の計画の中に自分があったことを感謝している」と書いてあります。そして「洗礼を受けることによって新しいパ−トナ−を与えられ、神様という新しいパ−トナ−と共に歩むことができる。」と書いています。人は独りで生きることができません。洗礼を受けると一人で生きなくても良いのです。神が新しいパ−トナ−として共に歩んでくださるのです。この女性が洗礼と言う出来事を、神の選びとして、神の行為として捉えていることに私は感動しました。

 洗礼と言う出来事は聖霊の働きによる、と言うことができます。洗礼式において教会の信仰を告白して、三位一体の神の名によって洗礼用のカップから水を三回かける、そのことによって、罪の赦しが与えられると信じるのです。キリスト者でない人は洗礼式に出席して、ただ水をかけることに過ぎない、と思うかも知れません。洗礼は聖礼典であり、ミステリ−です。神秘です。聖霊を与えられて、信仰によって初めて理解できるものです。

 ハイデルベルク信仰問答72問には「それでは、外的な水の洗いは、罪の洗い清めそのものなのですか。」と言う問いです。これはカトリック教会の洗礼理解を批判しているのです。カトリック教会は水と言う物素が魔術的な効果を持つと言うのです。水をかける、そのこと自体が罪を清めることになると考えているのです。ハイデルベルク信仰問答72問では、そのことを否定して、答えています。「いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、わたしたちをすべての罪から清めてくださるのです。」水をかける、そのことそのものが罪を洗うことにはならない、それは聖霊により、信仰の中で、キリストの血によってすべての罪から清められると受け止めるのです。

 「洗礼」の「洗」と言うのは、「洗う」「洗い注ぐ」と言う意味があります。私たちは、体の汚れを落とす時に水で洗います。魂の汚れ、私たち存在の汚れはどこで洗うのでしょうか。魂の汚れをそのままにして過ごすことはできないのです。自分で修行して罪のない、立派な生活をしようと決心しても、動機や心の中が汚れているのですから、魂の隅々まで清くなることはできないのです。「たとい灰汁で体を洗い 多くの石灰を使っても わたしの目には 罪があなたに染みついていると 主なる神は言われる。」(エレミヤ書2章22節)神に私たちの罪を洗っていただかなければ、清くはならないのです。

 洗礼を受けた者は、神に清められ、神のものとされた者です。コリントの信徒への手紙一 6章11節「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」

私たちは、イエス・キリストが十字架の死と復活によってしてくださった贖いの御業を信じれば、洗われ、清められ、義とされるのです。罪を洗い落として、キリストの前に罪なき者として交わりを持つことができるのです。

 私たちは洗礼を受けることによって神に完全に受け入れられ、神の子と見られ、にらまれ、咎められ、罪を責められることはないのです。洗礼を受けていることは公にキリスト者として認められていることです。

 カルヴァンは聖礼典を署名と印鑑を譬えとして説明しました。署名をする、そこに印鑑を押すことをします。印鑑とは自分を証明するのに用います。

 洗礼は、神がこの人は罪が赦されている人だ、間違いがないと印鑑を押すことです。神がこの人がキリスト者であると太鼓判を押す、そのことが洗礼を受けることです。車の運転はできるけれども、免許証を持たないと運転はできないのです。自宅で聖書を読んで、祈っていれば良いのであって、洗礼を受ける必要はないと考えている人もいます。しかし、それは自分だけでキリスト者だと自称しているだけであって、神から、義しい人だ、罪が赦された人だと印鑑が押されることが必要です。そこに洗礼の確かさがあります。

 洗礼を受けることの利益があります。それは、神が自分の罪を赦し、愛してくださるということに信頼して生活することです。どのようなときにもキリスト者であると言うことです。聖書を読み、祈っている時だけ、キリスト者であると言うのではありません。洗礼を受けても、神を忘れ、聖書も読まず、祈りをしない時にもキリスト者です。ただ、洗礼を受けていることに安住し、教会員としての責任を果たさないで、長く教会生活をしないで葬儀は教会でしたいと言う人にならないように神に対して、教会に対してキリスト者としての責任を果たすことが大切です。ある牧師は、洗礼を受けた人に、教会生活をしていなくて、葬儀の時に牧師が話すことがなくて困ることがないように、教会生活を継続するようにと注意をしていました。洗礼を神のところに行くための許可証、片道切符のように考えることはできないのです。神は私たちを選び、聖霊によって洗礼を授けてくださり、キリスト者として立てて下さいました。

 4月15日の日々の聖句には、使徒言行録3章19−20節が記されていました。「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れるのです。」このような呼びかけに答えて日々、悔い改めながら、洗礼の恵みに感謝するのです。 


20160410  主日礼拝・子どもと共に守る礼拝説教  「心配することはない」  山ノ下恭二



(マタイによる福音書6章25−34節)

 皆さんの中に、この4月に新しく小学校に入学した人、中学校に入学した人、高校に入学した人がいると思います。幼稚園から小学校、小学校から中学校、中学校から高校へ。入学して、これからいろいろ楽しいことがあるだろうと思ってワクワクしている人もいるでしょう。でも、勉強が分かるかな、勉強についていけるかな、友達はできるかな、担任の先生は優しい先生だろうか、と不安で心配している人も多いと思います。

 私はとても心配するほうでした。以前は2泊3日の研修会があると、カバンやリュックサックにたくさん荷物を詰めて、よく出かけていました。風邪を引くので、風邪薬をもって行かなくては、タオルがないと困る、着替えがないと困る、これも入れよう、あれも入れよう、転んでしまったら大変だ、湿布の貼り薬を持って行こう、この本を読もうと4冊、リュックに入れて、たくさんの物をバックに入れて行きました。ある時に、代々木のオリンピック青少年センタ−で研修会がありました。ある人が私の荷物を見て、「たくさん荷物をもってアメリカに行くのですか」と言われたことがあります。別の人からは「海外旅行に行くのですか」と尋ねられるくらい、大きなキャリ−バックとリュックサックを持っていたのです。実際は、持って行った荷物の3分の2は使わないで、そのまま荷物をもって家に帰ってきました。たくさんの荷物をもっていかなくても大丈夫なのに持って行ってしまうのです。でも、最近はリュックサックにはいろいろなものを入れないで、出かけることができるようになりました。

 イエス様は、マタイによる福音書6章で「思い悩むな」と繰り返し、語っています。私たちは、いつも思い悩んでいます。いつも心配しています。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと悩んでいます。

 いつも私たちは自分の命のことを心配しています。何を食べたら健康に良いのか、どのように運動したら、長生きできるか、気を遣っています。私はラジオ体操をするようにしています。よく眠ることも大切です。

 イエス様は、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と語ります。どうしてか。それは、神様が私たちを造り、この「命」を与えてくださいました。命という尊い、かけがえのないものを与えてくださったのだから、神様は食べる物も飲むものも着る物も必要なものを与えてくださるのだから、思い悩む、心配することはない、と語るのです。

 どうして心配したり、思い悩むのか、と言うと、自分で何でもしなければならないと思うからです。何でも自分で引き受けようとするので、大変になるのです。この講壇を一人で運ぶのは大変です。とても重いですから。しかし、自分はしなくても、講壇を運んでくださいと他の人に頼んだら、とても楽です。自分で何でもすると思うと重荷になりますが、他の人にしてもらうととても楽です。そのように神様に全部、お任せするととても楽になります。

 イエス様はとても面白いことを語ります。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからと言って、寿命を延ばすことができようか。」と語っています。思い悩み、心配したからと言って、20歳長く生きることができるだろうか。いやできない。たくさん心配すると120歳まで、生きることができるだろうか、いやできない。実際は100歳以上の長生きの人は、のんきで、クヨクヨ悩まない人が多いのです。この「寿命」と言う言葉は「身長」と言う言葉でもあります。思い悩んで、心配して、背が20センチ伸びるだろうか、と言うのです。

 思い悩み、心配は、無くて良いものです。どうしたら心配が無くなるのか。それは私たちをいつも愛している神様に委ねていけば、心配はなくなるのです。

 そこでイエス様は空の方を見上げるように言いました。「空の鳥を見なさい」と言われます。思い悩まないで生きているではないか。鳥は自然にいる虫を食べて生きているのです。鳥は手もとにあるもので生きていて、蓄えを持たず、必要なだけのわずかなもので生きています「空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(6章26節)

 それに反して、人間である私たちは、食べること、飲むこと、着ることにいつも思い悩み、心を遣っています。
 
「空の鳥をよく見なさい。」神様によって造られたままの姿で生きています。空の鳥は神様に自分のことを任せ、信頼して過ごしているではないか、と言うのです。神様は、鳥の命を守り、養っているのです。私がとても好きな聖書の言葉があります。神様だけを恐れなさい、と語っているところで、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」(ルカによる福音書12章6節)五羽で5円にしかうれない価値のない鳥を、神様はほんとうに大切なものとして忘れず、保護して、養っていて下さるのです。

 イエス様が話している近くに、アネモネの花が咲いていました。この花をイエス様は指さしながら「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」と語ります。このアネモネの花はすぐに人に踏まれてその命はなくなってしまうかもしれないのです。そのアネモネの花は、明日には、燃料として焼かれてしまうかも知れないのです。そのような花に対してさえ、神様は心を遣い、心配し、その時にふさわしく、生かして養っていてくださるのです。

 空の鳥、野の花が私たちの先生です。私たちがよく見て学ぶものとしてあるのです。空の鳥、野の花は、神様にお任せして思い悩むことがないのです。

 神様は私たちのためにいつも心を配り、必要なものを用意してくださっています。私たちはいつも神様が愛して下さっていることを信じて行くことが大切です。自分のことを心配する前に、何よりも先に神様を信じてくことが大切なのです。

 6章34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」「明日は明日の風が吹く」と言うことわざがあります。明日のことを心配しても仕方がない、どうにかなるだろう、とよく言います。しかし、聖書の言葉は、明日のことを考えてもどうにもならない、何とかなるだろう、とは言ってはいません。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」神様は、私たちの明日のことをもきちんと考えてくださって、私たちが困らないように、私たちの先を見て、必要なものを備えていてくださるのです。

 6章34節にこう語られています。「その日の苦労は、その日だけで十分である。」

「苦労」と言う言葉は「悪いこと」「いやなこと」「辛いこと」と言う意味の言葉です。私たちは、悪いことがあったり、いやな人と出会ったり、とてもつらいことを経験します。その日一日のうちに、様々な苦労があります。その苦労を引き受けていく、それで十分ではないか、と言うのです。「もう十分だ」と言う言葉が初めにでてきます。「もう十分、その日一日の苦労があれば」と言うのです。「その日の苦労は、その日だけで十分である。」とイエス様は語ります。思い悩むな、心配することはないのです。それは神様が私たちを深く愛して、守ってくださるからです。

 ペトロの手紙一 5章7節「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(新約p434)


20160403 主日礼拝説教  「光の中のいのち」  山ノ下恭二



(詩編84編1−13節、マルコによる福音書9章2−13節)

 本日は、復活節第二主日です。主イエス・キリストが、復活されたのが日曜日であったので、礼拝の日を日曜日にすることにしたのです。礼拝において、復活された主イエス・キリストが聖霊において臨在されていることを教会は信じていました。主イエス・キリストの復活の日が日曜日でしたので、日曜日が主を礼拝する日となり、それ以降、日曜日を主の日の礼拝として守るようになりました。

 本日の礼拝で、詩編84編1−13節を読みました。この詩は神殿で神と共に過ごすことの喜びを歌っているのです。84編5節「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら まして、あなたを賛美することができるなら。」神殿で神と共に過ごす、それは、現在の私たちのことで言えば、礼拝の時を過ごすと言うことです。礼拝とはここに臨在されている神と対面することであり、神の前に出ることです。そのことは、私たちにとって大きな慰めであり、喜びです。84編11節には「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」

 しかし、よく考えると私たちは神の前に出る、神の前でくつろぐことはできない存在なのです。それは神とつながっていないからです。神との正常な関わりを持っていないからです。

 ルカによる福音書15章に放蕩息子の譬え話があります。父親の財産をもらって、町に出た息子がその財産を全部、使い果たして、惨めな暮らしをするようになったのです。父親のもとに帰ろうと帰って行く、父親に暖かく迎えられていく物語です。しかし、本来は父親は息子が帰って来ることを赦すことはないのです。息子は赦されない罪を抱えているからです。しかし、父親にその罪が赦されることによって、家に帰ることができるのです。譬え話として語られていますが、神が私たちの罪を赦してくださらなければ、私たちは神の前に出て、神に対面することができません。私たちが神を礼拝できる、神との交わりが与えられるのは、主イエス・キリストのみ業があるからです。主イエス・キリストの十字架がなければ、私たちは神との正常な関係を持つことはできないのです。礼拝はできないのです。

 今日、読んだところは山上の変貌、山上の変容と言われているところです。主イエスが、ペトロとヨハネとヤコブと言う3人の弟子たちを連れて、山に登り、その山の上で、主イエスのみ顔が光り輝き、死んだはずの、モーセとエリヤが現れて、主イエスと話した後に、神のみ声が聞こえてきて「これはわたしの愛する子、わたしに聞け。」と言われた、そういう物語です。

 この物語を読んで私たちはこの世では経験しない、この世離れした、不思議な情景が書かれていると思うのです。神秘的なことが記されていると思う人も多いのです。

 今日の聖書のみことばはどういう意味なのだろうと思う人は多いのです。それはマルコ福音書8章までの主イエスのお姿と随分、違っているからです。主イエスは病人を癒したり、罪人と食事をしたり、神の国の福音を宣べ伝えていく、それは伝道の旅をしてほこりにまみれている、そういう人間の姿ですが、ここでは、山上でモーセとエリヤと話して、み顔が光り輝く姿になっているのです。神の国の伝道のために奔走していた姿とは余りにも落差、違いが大きく、説明することが難しいのです。

 主イエスは祈るために山に登られました。毎日のように、祈られたのです。この世の生活から離れて、静かに祈りたいと思ったに違いありません。旧約聖書のモーセや預言者たちは、神にお会いするためによく山に登っています。モーセは律法を書いた板を戴く時に山に登りました。そこで神の栄光を見ました。エリヤも神のみ声を、ホレブの山で聞いたのです。

 9章2B−3節「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」主イエスが山に登り、み顔が輝き、そこでモーセとエリヤとに対面し、話し合い、その後で「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言う声を聞いた、とはどのような意味をもっているのでしょうか。

 聖書を読む時には、前後の文脈から読むことが大切です。8章にはフィリポ・カイサリアで主イエスが、自分のことを何と言っているのか、と聞いています。それに対して、ペトロは「あなたはメシアです」と答えています。そして、その後に主イエスは、ご自分がやがて捕らえられ、十字架につけられ、三日目によみがえる、という預言をなさったのです。これに対して、ペトロがそんなはずはないと否定しているのです。このペトロに対して、主イエスは「サタン」と強く、否定しています。主イエスが捕らえられ、十字架に架けられ、復活する、そのことは必然的なことであると考えていましたが、弟子たちはそのことをしっかりと受け止め、認めようとはしなかったのです。

 そのことを考えると、主イエスが何のために生き、何のために死ぬのかと言うことと深く関わるのです。主イエス御自身がどのような存在であるか、と言うことです。主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、公の活動をしてきました。主イエスは神と同じ方ですが、同時に罪を他にしては私たちと同じ人間でした。肉と血を持っていた、生きた人間存在なのです。

 洗礼を受けた後に、荒れ野で誘惑を受けられました。その誘惑とは、石をパンに変える政治家、この世で注目される有名人、この世の富を持つ裕福な資産家になると言う誘惑でした。人々も弟子たちも自分たちの願いを満たしてくれる救い主を求めていたのです。そしてヨハネによる福音書には、人々が主イエスを王にしようと担ごうとしていることを知って、主イエスは、逃げたのです。主イエスには本来の使命を持ち続けることを妨害するものが絶えず現れたのです。

 主イエスは、これから歩む道が神に対して正しい道、正しい生き方なのか、問う必要があったのです。自分が人々に捕らえられ、十字架につけられる、苦難と死と言う厳しい、悲惨な道を辿らなければならない、そのことが誤っていないかどうか、確かめる必要があったのです。
 私たちキリスト者は自分がこれから生きて行く時に、聖書を読んで、神に祈り、そのお答えを聞いて進路を決めるのです。私の知っているキリスト者の女性は就職先を決める時に、よく聖書を読んで祈って決めたと言いました。

 主イエスは、山に登り、そこで神に対面して祈り、これから自分が進むべき道が神のみこころに従っているのかどうかを確かめるために、このような場面になったのです。この物語は、神が十字架の苦難の道に向かっていくことを承認されたことを示しているのです。主イエスがこれから十字架の苦難と死に向かうことを神が受け入れ、肯定し、承認しているのです。主イエスが歩む道を神が正しい、神のみこころに適う道だと承認しているのです。

 聖書を読んでいるときに、理解できないために読み飛ばしてしまう言葉があります。それは理解するには難しいと思うので、読み飛ばすのです。

 山上で主イエスの顔が光り輝いたと言うことです。これは使徒言行録でパウロが、キリストに出会って回心したときに「天からの光が周りを照らした」と表現しているのです。パウロは自分がキリストに呼びかけられて、回心し、キリスト者となった時のことを何度も語っていますが、その時に、「天からの光に照らされて」と語っています。パウロにとって今までの生き方を変える出来事が起こり、それは神から光を照らされて、キリスト者として出発したのです。

 私が神学生の時に、先輩で毎朝、牛乳配達をしている人がいました。毎朝、午前4時には学生寮を出て早くに起きて牛乳配達をしていました。朝早くから重労働で大変だろうと思ってこの先輩に話を聞いたことがありました。この先輩は親に神学校に入ることを強硬に反対されたそうです。「絶対反対でもし行くのであれば、親子の縁を切る、行くのなら自分で学費も生活費もまかなって、行け」と言われてとても困ったけれども、その時に神に祈り続けたところ「伝道者として立ちなさい」と言うみことばを聞いた。その時に、自分の周りを光が照らして、生活がどのようになろうとも伝道者として生きることを確信した」と語ってくれました。この先輩の神学生は、お金がなくて神学校での生活を続けて行くことで困った時もあったのですが、毎朝、牛乳配達をして、自分でアルバイトをしながら、卒業し、長く伝道の生活を続けてきています。

 この山上の変貌の物語は、主イエスが十字架と言う悲惨な道を歩むことが誤っていないことを神がはっきり、告げているのです。

 私たちは自分が誤りのない道を歩んでいることをどのように確かめるのでしょうか。今日の礼拝に私たちは来て、礼拝に出席していますが、それは礼拝に来るのは習慣できているとか、役目があるから来ている、自分の気持ちが来ようと思ったからと言う理由できているならば、それは本来のあり方ではないのです。神のみこころだから来ている、礼拝するのは神が求めているから来ているというのが本来のあり方です。

 マルコ9章4節に「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」と記されています。このことはどのようなことを私たちに語っているのでしょうか。端的に言うと、モーセは律法を表しています。エリヤは預言を代表しています。モーセとエリヤ、この二人は旧約聖書を指しているのです。この二人が主イエスと語り合っていた、つまり、主イエスが十字架にかかり、死ぬ、そのあり方が旧約聖書が待ち望んでいたことであり、この二人はこのことに同意し、賛成したのです。もっとよく考えると旧約聖書の主題はキリストの十字架であるのです。旧約聖書にはいろいろなことが書いてありますが、新約聖書の主題と同じなのです。それは十字架なのです。

 旧約聖書が主イエスの十字架の苦難と死に同意し、賛成であっただけでなく、神からの承認が直接あったのです。

 マルコによる福音書9章7節「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子、これに聞け』」と語られています。神から直接、主イエスの発言に対する最高の承認と支持があったのです。

 「これは私の愛する子、これに聞け」と言う言葉は、この時に初めて天から声があったのではなく、二回目です。主イエスがなさることは神のみこころに適うことであり、主イエスは、モーセやエリヤなどの預言者に勝る、神の子、神と同じ方であると神が宣言されたのです。この言葉は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時に宣言があり、主イエスが伝道を開始する時に神が語った言葉です。

 「これは私の愛する子、これに聞け」と言う言葉は、詩編2編の「王の即位の歌」と関わります。イスラエルの王が即位する時に歌われた詩編です。

 しかし、この王は、イザヤ書53章には権力をもって人々を支配する王ではなくて、苦難によって仕える僕と理解されるようになりました。

 イザヤ書53章には、「苦難の僕の歌」が記されています。この僕、救い主は、弱い者、捨てられた者、すべての罪ある者の味方であり、真実をもって、神の義を示し、困難を極める、救いの道を歩みながら、人々のために僕の道を進むのです。イザヤ53章3節−4節「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」この苦難の僕の歌は、独自の姿を描いています。

 主イエスの姿が変わったのは、神が、苦難を受けられることについて、承認を与えられたからです。そして旧約聖書を代表してモーセとエリヤがこの苦難を旧約聖書に照らして正しい、と太鼓判を押したことになります。

 このようなことが語られているのは、主イエスが私たちのための神になられたと言うことです。神に背いた私たちを救うために、神がみ子を使わして、十字架の苦難を受けて、神との正常な関わりが与えられたのです。

 イギリスにマクグラスと言う神学者がいます。何冊も日本語訳が出ている神学者です。この人が書いた「キリスト教の核心−十字架の謎」という本が翻訳されています。受難週に読もうと思いましたが、先週、読んでいます。この中に「受難の中に隠されている神」と言う箇所があり、人の目には神のお姿とは人の目には全く見えない中で、神であることを表すことを述べています。人間の目には全く神であるとは思われない仕方で、神御自身を表すのです。まさしく、それが十字架につけられた主イエスのお姿なのです。

 山の上で主イエスが、モ−セとエリヤと語っていた、とあり、モ−セが登場するのが、出エジプト記です。出エジプト記には奴隷として囚われていたイスラエルの民を神がモ−セを遣わして、救助し、イスラエルの地に導き出すのです。旧約聖書の中心は、出エジプトです。出エジプトは奴隷からの解放でしたが、主イエス・キリストの十字架は、罪の奴隷からの解放であったのです。

 これから主イエスが十字架に架かり、死ぬことが神のみこころであり、神から正式に承認と支持を受けて、主イエスは十字架と言うゴ−ルに向かって行くのです。

 神の栄光、それは光輝くようなものではなくて、私たちに代わって罪を背負い、神とは全く思えないような惨めな姿で罪を償うのです。

 本日は詩編84編を読みました。この詩人は神殿で神とお会いすることに最上の喜びを見出しています。84編5節に「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら まして、あなたを賛美することができるなら。」私たちが、礼拝をすることができる、神の前に近づくことができる、それは神の前にある、罪がキリストの償いによって取り除かれたからです。詩編84編11節「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」神がおられる神殿に一日を過ごす、それは他のところで千日を過ごすよりも勝るのです。

 私たちが罪から救われるために、主イエス・キリストは十字架と言う痛ましい手続きにとって、神の愛を表してくださいました。

 私たちはこれから起こる様々なことを心配します。病気にもなるし、苦しむこともあります。しかし、私たちの罪を背負って、贖ってくださった主なる神は、私たちの苦難をも共に担ってくださり、共に戦ってくださるのです。詩編84編6−7節「いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉をするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」

 神の愛の光の中で、これから共に聖餐の恵みに与りましょう。





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