220250112 主日礼拝説教 「力のない者の弱さを担いなさい」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:ホセア書11章1−4節、ローマの信徒への手紙15章1−6節 |
|
皆さんは、私たち人間には強い人と弱い人、二通りの人がいると思っているのではないかと思います。私が出会った一人の青年は、中学生の時にいじめに遭って辛い思いをしたので、高校生になって強くなりたいと思い、空手道場に通っていじめに遭っても対抗できるように空手をしてきたことを話してくれました。自分は弱いから強くなりたいと思っている人は多いのではないかと思います。 強い人と言うと、他の人の意見に同調せず、自分の意見を押し通す人も強い人であるとよく言われるのです。ある時、ある会議が始まる前に、ある人が私に「あの人がいつも自分の意見を強く押し通すから、みんなが黙ってしまう」と言ったのです。「強い」というのは、他の人が意見を言っても、そのことに構わず、自分の意見や考えを押し通す、自分がしていることが正しいと考えて、自分がしていることをやり通すことである、と考えているのではないかと思います。
このローマの信徒への手紙を書いた最初の教会の伝道者であるパウロは、強い人であったと思います。自分が、律法に従って、自分が正しく生きており、落ち度もなく、律法に背くキリスト者を迫害していたのです。自分の考えやしていることは正しいと考えて、キリスト者を迫害することは神の御心であると考えていたのです。ところが、パウロは、イエス・キリストから「なぜ私を迫害するのか」と問われて、回心してキリスト者となって、自分の弱さを認めるようになり、自分の弱さを誇るとまで語っているのです。パウロが書いた手紙には「弱さ」「弱い」という言葉がとても多く出てくるのです。強かったパウロが、自分の弱さを認め、弱さを誇って神を賛美しているのです。
教会にも弱い人と強い人とがいるのです。強く自分の意見を言う人と、強い意見に従う、おとなしい、弱い人がいるのです。このローマの信徒への手紙はパウロがローマの教会に宛てて書いた手紙です。教会には様々な人がいるのです。強く自分の意見をいう人、自分の意見を言わない人、健康で元気な人、病気がちで弱い人、意見を言っても余り奉仕しない人、黙って奉仕に励んでいる人がいるのです。
ローマの信徒への手紙14章からこの手紙を読んでいくと、ローマの教会は、仲間割れがあり、互いに心がばらばらであったことが書かれています。従って、パウロは教会にある仲間割れ、ばらばらな心、そのような現実を見ながら、それをどのように乗り越えていくのかということを語って、15章6節で祈っているのです。ローマの教会の現実を見て、祈らざるを得ないのです。6節で「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」と祈っているのです。心を合わせ声をそろえて、神を礼拝する教会でありたいと強く願っているのですが、5節後半には「あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」とあり、ここでは「キリスト・イエスに倣って」キリスト・イエスをお手本として、同じ思いを持つことが示されているのです。キリスト・イエスが模範のような存在として、そのキリストを真似る心が、私たちの教会の中で一緒に生きていく中で表れてくることをパウロは願っているのです。私たちを見ていると、イエス・キリストの生き方が見えてくる、イエス・キリストの姿が見えてくる、そのようでありたい、とパウロは祈り、願っています。
パウロは、パウロの手紙の中で「弱さ」「弱い」という言葉を多く用いていますが、多くは身体上の弱さ、衰弱、病気、老い、などの弱さの意味で用いています。14章1節では、身体の弱さとは異なる意味で「弱さ」という言葉を用いています。「信仰の弱い人を受け入れなさい」と語られ、「信仰の弱い人」という言葉が出てくるのです。「信仰の弱い人」というのはどのような人のことを指しているのでしょうか。私たちはこの言葉を余り使わないのではないでしょうか。
「信仰の熱心ではない人」という意味なのでしょうか。岡山の教会に在任していた時に、夫婦で教会員であり、妻は教会に熱心に来ていたのですが、夫がほとんど来ていなかったので、私が、その夫人に、夫がどうしているかと聞いたところ、「元気に暮らしているけれども信仰は元気でない」と言っていました。「信仰の弱い人」と言うのはどのような人なのでしょうか。この言葉の背景には、この当時のローマの教会の事情があるのです。
14章1−2節には、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」とあります。ユダヤ教には食物の規定があり、その規定に従って、野菜だけを食べるという考えをもった人が教会にいたのです。キリスト者であるのですが、食べることについて規定にこだわり、野菜だけしか食べない人たちがいたのです。一方、ユダヤ教の食物規定に対して自由に振舞う人たちがいたのです。イエス・キリストによって自由にされたのだから、肉も食べ、自由に振舞ってよいと考える人たちがいたのです。「何でも食べてもよいと信じている人」です。教会の仲間の中でどういうことが起こっているかと言うと、野菜だけを食べる、食物の規定に捉われている人と、何でも食べても良いと信じている人との間で互いに心の葛藤が起こり、互いにひび割れが起こったのです。食物規定から自由になって肉を自由に食べている人が、野菜だけを食べることを心に決めている人のところに出かけて行って、野菜だけを食べる人たちの目の前で肉を自由に食べていることを見せることをしているのです。そして自由に肉を食べている人は野菜だけを食べることを心に決めている人に対して、自由な生き方ができるのにそのような規定にこだわっているのは、キリスト教の信仰がわかっていない、信仰の程度が低い、と軽蔑するということが起こっていたのです。そして特に、自由に振舞う人たちが、野菜だけを食べることを心に決めている人たちの信仰の在り方を強く批判するようになり、野菜だけを食べる人たちが教会での居場所が無くなりつつあったのです。
ローマの信徒への手紙14章から教会の中での不和、争いについて、パウロは勧めていますが、この15章1節で「強い者」という言葉は、「弱い者」という言葉に対応して、ここで初めて出てきたのです。「強い者」という言葉を直訳すると「できる者」という意味です。「わたしたちできる者」と翻訳しても良いのです。できないことができるようになったという言葉です。言葉を詮索すると「強くない者」という言葉は「弱い」と訳しても良さそうですが、そう言わないで「強くない」と言うのです。この言葉は元々「できない」と訳してもよいのです。できるはずだけれどもできないのです。できないというのは何ができないのか。カトリックの聖書学者は「できないというのは、信仰に徹しきれないことである。」と解説しています。信じ切ることができない、そういう意味で信仰が弱いという意味なのです。ドイツ語の聖書には、「私たち、強い信仰を持った者は」と訳していますが、強い信仰とか、信じ切る、信仰に徹するということは、どういうことか、ということになるのです。信じ切る、信仰に徹する、信仰に強いというのは、自分のたちの考えや思いが強くあるということでもなく、また熱心に信じているという自分たちの側の強さということではなくて、自分から離れて、神に深く信頼するということであり、この世の習慣や宗教的な戒めにこだわることなく、自由にされているということです。この文脈で言うと、野菜だけしか食べないことが神の御心に適うことだということから解放されて、自由の次元に生きる、キリストによって自由にされた、そのような次元に生きるようになるということであり、神に信頼して戒めに捉われないで生きていくということです。現代においても多くの人々は、信仰に生きることは、神を信頼して、自由にされた者として生きることだということを考えていないのです。むしろ、信仰を持つことは、規則に縛られて生きることだと考えている人が多いのではないかと思います。
15章1節でパウロは「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」と語っています。「私たち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」自分は、キリストによって自由にされた者だから自分の考えで自分の方針を貫くことではなく、自由に生きることができない、規定にこだわって、信仰に徹しきれない人のことを考え、その思いを受け止めることを勧めているのです。
私たちは、自分の喜びを求めて行動してしまいます。自分の思いや考えを貫くことを求めてしまうのです。その時にパウロは、キリストによって私たちの生き方、生きる態度、言動をどのようにするのか、それはキリストがどうであったかということによって、この問題の解決を図るのです。仲間割れ、不和、分裂を、人間的な方法で解決することを図ることはしないのです。仲間割れをしているので、両方の人々の意見を聞き、両方の気持ちを聞いて調停し、仲直りするということはしないのです。教会のあるべき解決方法を採るのです。それはキリストがどうであったのかということを鮮やかに示し、そのキリストに服従するということにほかならないのです。
現代に生きている私たちの最も大きな問題点は、自分の喜びを求めていることにあります。自分がしたいことを優先して、自分の満足を求めていることです。キリストに服従するということは考えないのです。そして隣人のことは後回しにしているのです。しかし、キリストがどのような思いで生活されたのか、と言うと15章3節では「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」と語っています。口語訳「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。」キリストは、自分を満足させることを第一とすることはなかったのです。
よく考えてみると、私たちのいちばん深いところに、いちばん強く根差している願いは、自分の喜びを求める願いです。自分のもっとも深いところにあるもの、それは自分が喜ぶことであるのです。しかし、それが、キリストの福音を聞き、信じて従うならば、入れ替わってしまうのです。自分を満足させ、自分を喜ばす、自分の生活を最優先している生活でなくなるのです。自分を満足させ、自分を喜ばせることが第一のことにはならなくなるのです。口語訳では「キリストさえ」と訳されています。少し、ニュアンスが違いますが、「キリストこそご自分を喜ばせることをなさらなかった」と翻訳している聖書もあります。
ここで、自分以外の隣人に対して心を向けて、自分がその人と共に生きることが示されています。私たちが、キリスト者として生きることは、他者に対して、隣人に対して、心を向け、心を用いていくことであるのです。自分の自由を制限してでも、隣人のことを考えて行動するのです。
15章3節には「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」と語られています。3節後半には詩編69編10節を引用しています。この詩編69編10節の言葉は、新約聖書では主イエスが父なる神に熱心に仕えたために苦しみを受けるという意味で用いているのです。神に仕え、私たちの救いのために主イエスは、ご自身を喜ばすことはなかったのです。自分の自由を主張して、自分のしたいようにするということはなかったのです。神に仕え、神が喜ぶようにと心を砕いてきたのです。その結果、どのようなことが起こったのでしょうか。人々からの誹り、圧迫、苦しみが加えられたのです。主イエスは一切、自分の喜びを求めず、自分の満足を求めなかったのです。
この言葉から私たちが学ぶことができる、とても大切なことは、イエス・キリストは、御自分の願っている生き方をしていない人をも受け入れておられるということです。生き方の全く異なっている者をも受け入れて愛しておられるということです。主イエスの地上での生涯の中で、道徳的な規準から外れた生き方をしている、徴税人、遊女、罪びとを受け入れて付き合っている、生き方において神の御心に適うことのない異なる人々を受け入れているのです。神のみ心から離れている者の罪を赦し、受け入れているのです。
私たちのことでは、私たちの毎日の生き方、あり方は、神が願っているあり方ではないのです。神の期待には反した、罪深い生き方をしているのです。まことの神を拝み、隣人を愛する、そのような生き方が求められているのに、むしろ、神があたかもいないように、神の御心に反した生き方をしている私たちを、赦して受け入れているのです。私たちを赦し、受け入れるためには、イエス・キリストが私たちに代わって罪の審きを引き受けることになるのです。そのような痛ましい手続きによって、私たちを受けいれてくださるのです。
ローマの信徒への手紙5章6節に「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」と語られています。そのように神がほんとうに異なった生き方をしている」私たちをかけがえのない者としてくださったことを受け入れることができるならば、他の人のことを大切にすることができるのです。自分の考えに合わない生き方や、異なる振る舞いをしていても、キリストによって、その人の存在をかけがえのないものとして、扱うことができるのです。
このキリストが、御自分の満足を求めることなく、私たちを生かしてくださったということを受け入れる者は、異なった生き方をしている人の「弱さ」を担うことが勧められています。
隣人の弱さを担う、それは、病気の人の弱さを担うということに限らず、自分の考えに合わない人の弱さを担うことです。この「担う」という言葉は「運ぶ」という言葉です。この言葉は主イエスが十字架をゴルゴダの丘に運んだというように用いられています。この言葉は「耐える」とも訳されています。主イエスは罪びととしてのそしりに耐えてくださったのです。隣人の弱さを担うことは、その弱さをもっている者に対して、忍耐して共に生きることです。それは、自分のために使う時間や体力などを、その人のためにささげて用いることになるのです。
本日の礼拝で、旧約聖書のホセア書11章を読みました。11章3−4節には次のように語られています。「エフライムの腕を支えて 歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた。」と語られています。この聖書の言葉は、まことの神の愛を告げる言葉です。ここには、神に感謝することを忘れ、偶像を礼拝し、自分の満足しか求めていない者に「愛のきずな」で導き、かがんで食べ物を与えた、そのような忍耐強く、人々を導く神の姿が語られているのです。
神は、神の御心に反した生き方をしている私たちをいつも愛し、私たちのためにいのちをささげてくださったのです。私たちも、キリストに倣って、自分の周りにいる隣人を発見し、隣人に寄り添って、隣人の重荷を担う者とされているのです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたのみ言葉を聴くことができましたことを感謝致します。自分が満足することを求めず、イエス・キリストが私たちの罪の重荷を担い、十字架を運んで、十字架に付けられて、肉を裂き、血を流してまで、あなたの御心を行っていない私たちを愛してくださったことを心に刻んで、私たちが出会う隣人の苦しみを共に苦しむ者となるように導いてください。病床にある方々、様々な重荷を持っている方々をあなたが癒し、慰めてくださいますように。この一週間もあなたが共にいて、私たちが、あなたの御心を行うことができますように聖霊の導きをお願いいたします。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。アーメン
|
|
|
|
20241201 主日礼拝説教 「光を指し示す」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:イザヤ書60章19〜20節、ヨハネによる福音書1章6〜13節 |
|
本日から、待降節、アドベントに入りました。この礼拝において、ヨハネ福音書の1章6〜13節の御言葉を読みました。ここにはヨハネの名前が出てきます。ヨハネ福音書1章の初めには、「初めに言があった」という言葉で始まっています。ここには、キリストを賛美する言葉が書かれています。イエス・キリストが永遠におられ、暗闇の中に光として来られた。その中で、ヨハネのことが挿入されているのです。
この1章1〜18節は、一つのまとまった言葉ですが、ここには神の言葉としての主イエス・キリストのことを語っています。しかし、イエス・キリストの名が記されているのは17節で、ここで最初に出て来るわけです。それに先立って、一人の人ヨハネの名が記されています。ヨハネについて語られている言葉は、6〜8節と、15節です。この1章1〜18節には、主イエス・キリストがお生まれになったことを、ヨハネ福音書独特の表現をもって言い表しています。
その中で、1章6節に、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」と書かれています。私たちが、ヨハネと言う名前を聞いてすぐ思い起こすのは、バプテスマのヨハネと言われている人物のことです。主イエスが公に姿を現す前に、 ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたバプテスマのヨハネのことを、私たちは思い起こすわけです。
このバプテスマのヨハネは、マタイ・マルコ・ルカによる福音書に詳しく記されています。ヨハネは、神が審判する日が近いので、神から離れて自己中心的な生活をしている、そういう生活を方向転換して、悔い改めて洗礼を受けて、神の審判を受けて滅ぼされないようにと呼びかけていたわけです。ヨハネは主イエスに洗礼を授けましたけれども、この当時、領主ヘロデの不正を糾弾して 告発したために捕らえられ、首を切られて死ぬという悲惨な最期を遂げました。
ですから、私たちはヨハネと言うと、洗礼者ヨハネあるいは主イエスに先立って活動した、先駆者ヨハネのことを思い起こすわけです。ところが、このヨハネによる福音書には、このバプテスマのヨハネ、先駆者ヨハネというよりも、主イエス・キリストを証しする者として登場しています。
私が東神大におりました時に、同じ新約の専攻の同級生がおり、自分はヨハネ福音書のヨハネを論文に取り上げると私に話したことがあります。ヨハネによる福音書のヨハネってどういうことですかと訊くと、このヨハネについての書き方が、マタイ・マルコ・ルカ福音書、共観福音書とヨハネ福音書とは違っているから、何故違うのかを研究したいと考えて論文を書くと言っておりました。
確かに違っているのです。ヨハネ福音書には、ヨハネは証しする者として語られています。1章7節に、彼は証しするために来た。8節には、光について証しするために来た。32節に、そしてヨハネは証しをした。34節に、私はそれを見た、だから、この方こそ神の子であると証ししたのであると、そのように語られているわけです。「証し」という言葉は、ギリシャ語ではマルテュリアという言葉、マルテュリオーという言葉ですが、この言葉はヨハネ福音書に圧倒的に多く用いられています。ところが、マタイ・マルコ・ルカによる福音書では、この証しという言葉は全く使われていません。
証しをするという言葉は、旧約聖書では裁判の法廷で用いる法廷用語だと言われています。十戒に、あなたは偽証してはならない、嘘をついてはならないとありますが、ある人が容疑をかけられて法廷で裁判が行われた。その時に、偽りの証言をして、容疑者が無実であるのに有罪とされることがあってはならない。証しをするというのは、裁判で証言をする、そういう時に使う言葉であるわけです。例えば、ある人が殺人の容疑で逮捕され、裁判となって証人が証言する。 私はこの人が盗んでいるところを見ました、その証言によって有罪になることがあるのです。ですから証言するということは、大変責任が重いわけです。無罪になるのか有罪になるのか、そういうことで現在も争っている裁判が随分多くあるのです。
ヨハネは証しをするために来た。7節には、全ての人が彼によって信じるようになるためであると書かれています。ヨハネの証言によって、すべての人が信じるようになるためである。ヨハネは、すべての人がイエス・キリストを信じるようになるために証言する。ヨハネはイエス・キリスト以外のことは、何も証言していないのです。
イエス・キリストという光は、真の光で、世に来た全ての人を照らす光である。ヨハネよりも先におられて、恵みと真理に満ちているとヨハネは証言している。 ヨハネは、イエス・キリスト以外のことは何も証言してない。自分のことを、ヨハネは証言してはいないわけです。自分は主イエスに洗礼を授けた、イエスはとても活躍をしている、自分はこの主イエスという方をお世話したことがあるんだと、そのように、自己顕示欲のように語ってはいません。 自分の姿を消してしまって、自分の経験や思ったことを語るのではなくて、ただイエス・キリストのことについてのみ、証言をしているわけです。
このような姿勢は、キリスト教会の基本的な姿勢であるといってよいでしょう。イエス・キリストについてのみ語り、この方を証言し、指し示すというのは、キリスト教会が2000年の歴史においていつも心掛けていたことです。
私たちの教会では、毎日曜日の礼拝で、使徒信条を告白をしていますが、もう一つ重要な信条があります。何故、日本の教会で、この使徒信条だけではなくて、もう一つの信条が礼拝の中で告白されて来なかったのかということは、研究する余地があるかも知れません。もう一つの重要な信条というのは、皆さんもお聞きになったかも知れませんが、ニカイア信条と言う、トルコのニカイアというところで採択された信条です。
使徒信条は、ローマの教会で洗礼式の時に志願者に信仰の内容等を問い、この内容に同意した者に洗礼を授けた洗礼信条と言われています。別の名前では、ローマの教会で起こったので、ローマ信条とも言いますが、この信条は教会の会議で決定されたものではないのです。ニカイア信条は、異端と闘い、何回も教会会議が開かれて決定された信条です。ニカイア信条は、イエス・キリストの人格をめぐって、アリウスという司祭が、イエス・キリストは神ではなく、神のような人間であると主張したことから論争が起こって、何十年にも亘って論争が行われ、紀元後312年ニカイアで会議が行なわれ、更に380年にコンスタンティノープル(イスタンブール)での教会会議で正式に決定された信条なのです。ギリシャ正教会は使徒信条ではなくて、このニカイア信条を教会で告白しています。
この信条は、イエス・キリストが神と同質であるということを告白したものです。イエス・キリストは、神と同質であると告白しました。このアリウスという司祭と闘ったのは、皆さんはお聞きになったかもしれませんけれども、マタナシウスという司祭です。この人は、イエス・キリストに対する正しい告白を堅持するために、何回も異端の相手側から迫害を受けて追放されましたけれども、そのようなことにひるむことなく闘って、正しい告白を教会の告白とするために力を尽くしたわけです。マタナシウスが闘わなかったら、イエス・キリストに対する正しい告白を保つことはできなかった。一般の人はイエス・キリスト、主イエスの誕生は、立派な人が誕生した、キリスト教の教祖が誕生した、生誕祭というふうに考えるかも知れませんけれども、そうではない。キリスト教会は、クリスマスとは、イエス・キリストという神が誕生した、神の誕生を祝って、そのことを信じているわけであります。
ヨハネ福音書は、どうも神が地上で歩いているかのような書き方をしているのです。(マルコ福音書では)ゲッセマネで、イエス様が恐れおののいて、汗を流しながら祈ったという姿で、人間としての弱さを持っているような場面がありますが、ヨハネ福音書はそうではないのです。まさに神が地上で歩いている。イエス様がなんか云うと、みんな倒れてしまうような書き方をしているわけです。ですから、この福音書は、イエスが神であるということを告白し、そのことを伝えようとして描かれた福音書であるわけです。それは、主イエスが神から遣わされた、神から送られた、神と同じ存在であるということを、何回も語っているわけです。6章38節を見ますと、「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」
他のところにも、「遣わす」という言葉と「送る」っていう言葉が、非常に多く頻繁に用いられているわけです。ですから、イエス・キリストにおいて、神様がご自身を表されたのです。「啓示」という言葉があるわけです。前にも話したかもしれませんけれども、ある神学教授が、津軽の田舎で説教したときに、丁度バルト神学を読んでいたわけですけれども、啓示・啓示っていうもので、礼拝が終わった後で、婦人の方が、今日の説教はお巡りさんの話ですかと言ったっていう話で、神学用語は余り使わないように、言われたことあります。
神は、イエス・キリストによって、ご自身を現わされた。これはミステリー・秘儀であるわけです。信仰によってしか、分からないことがあるわけです。10月の説教塾公開講演で、キリシタンの研究している、ICU副学長のイギリス人の研究者が、キリシタンについての研究を発表して、午後は私は用事があって行けなかったのですけれども、遠藤周作についての講演がありました。それで刺激を受けて、遠藤周作が書いた「深い河」という小説を読みました。久し振りに小説を読みましたけれども、私はこの小説を読んで思ったことは、この小説を貫ぬいている神に対する理解というのは、宗教多元主義ではないかと思うのです。少し難しい言葉で、宗教多元主義というのは、神様は様々な顔を持つという考え方なのです。ですから、イエス・キリストだけではなく、仏においてもマホメットにおいても、他の様々な宗教においても、神の顔を持つ者がいる。イエス・キリストも、その一人ひとりの一つの顔だという考え方、それが宗教多元主義です。このことを言った人がイギリスの神学者のジョン・ヒックという人なのですが、イギリス人がそういうこと言ったのでちょっと驚きですけれども、この神様がさまざまな顔を持つ、汎神論的な考え方は、日本人によく合うような教え、考え方だと思うのです。
しかし、私たちは、神はイエス・キリストによってのみ、ご自身を啓示されると信じています。1章6節で、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」 ヨハネは、自分の存在の意義を、主イエスキリストを証言するためだということを語っている。
大変興味深いことに、この福音書では、ヨハネだけが証しをするのではなくて、主イエスご自身が証しをするために来たと語っていることです。主イエスは、ヨハネの証しについて語り、そして主イエスご自身の証しについて語っているわけです。少し後の5章33節に、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」 36節で「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにとお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」 と言っており、39節には「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
ヨハネだけではなくて、主イエス・キリストの証しがある。それは神がどのような方なのか、イエス・キリストご自身が証言し、証しをしている。その証しをするものとして来られたということを語っているわけです。
イエス・キリストの言葉やイエス・キリストの行動を見れば、神がどのような方であるかを証ししているということが分かる。イエス・キリストが、どのような言葉を語り、どのようなことをなさったのか、その姿を見ると神が見えてくる。神を映し出すような言葉を語り、神を映し出すような行動をなさっている。この11章までのイエス様の業を見れば分かるわけです。
例えば、4章では 旅に疲れて、罪深いサマリアの女性が出て来ますけれども、その女性と付き合い対応して、過去に捉えられているこの女性を暖かく受け止めながら、罪の赦しを宣言し、その女性はそれによって、この主イエスがメシヤ・救い主であることを信じて喜び、自分の村に帰ってそのことを告白し、村の人々に伝えたわけです。また、何十年も病が癒されないで苦しんでいる者に対して、主イエスは深い憐れみをもって癒す。生まれつき目の不自由な者に対して、その目を開き見えるようにされている。主イエスは、ただ相手の立場に立ち、相手の苦しみと罪深さを自分のものとして引き受けて、ただ相手のために力を尽くされている。
そして、主イエスは、どのような言葉をもって語っているか。主イエスは、人々が神を信じるように愛をもって、ある時に励まし、 愛に満ちた言葉を語っておられる。主イエスは、言葉と行動をもって、神がどんなに一人ひとりを愛し、罪を赦し、共に生きようとされておられるのか証しをしているわけです。その証しの完成するものとして、それは十字架の死ということがあるという事を言おうとしている。十字架の死ということは、神が、ご自身を犠牲として捧げて、罪の為に捉えられている者を解放するために、罪の罰、罪の審判を受ける。神がどのような方であるかということがはっきり分かるのは、主イエス・キリストの十字架の死と復活、私たちの罪を赦すためにご自身の命を捨ててくださったことであるのです。
この命を捨てるという言葉も、ヨハネ福音書では随分多く出てくる。羊飼いが、羊のために命を捨てるというふうに語られているわけです。主イエスは、十字架で、どのような言葉で息を引き取ったのか。それ成し遂げられたという言葉が 福音書で書かれているわけです。成し遂げられたという言葉は、テロスという言葉で、これは完了したとか完成したという言葉です。つまり主イエスは、この世界に派遣されて、そしてこの派遣された目的は、全ての人の罪を取り除くため、ご自身を犠牲として死ぬ事だ、神からその事を委任されて、その目的を完了した、そういう意味で、成し遂げられたと言う風に語っている。つまり、主イエスの証しは、完成した、完了したと言って良いわけです。
この証しに基づいて、ヨハネの証しがある。光である主イエス・キリストについて、ヨハネは証しをした。そのことは私たちに関わるわけです。私たちは、自分が光ではなくて、光について証しをする者なのであります。暗い部屋に光が差してきて、光が差し込むことによって、この部屋がどんな状態なのか、はっきり分かるわけであります。光が差し込むことによって、部屋が散らかっていることが分かる。神という光が差し込んで行くと、自分の罪がはっきり分かる。しかし、逆に光が差し込むと、神が私たちの罪を贖い、罪を赦し、神は私たちを受け入れてくださる、その恵みに与ることができるのであります。 私たちは暗闇に佇んでいるのではなくて、神の光によって生活することができる。わたしたちはこの愛の光を証しする者となる。
自分の生活によって、イエスキリストが見えて来る。皆さんもこういう経験をすることがあるかも知れません。初めて会った人でも、この人はキリスト者ではないかと思うことがある。その人には、謙遜さや暖かさがある。その人の話し方や振る舞いを見て、この人はキリスト者ではないかということが分かる。証人というのは、自分の存在が透明化されて、向こう側にあるものが見えて来る、神が見えて来るということであるわけです。
1章7節に、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、全ての人が彼によって信じるようになるためである。」 全ての人が彼によって信じるようになるためである。 何でもない言葉ですけど、この「よって」という言葉は、この英語の聖書を調べますとスルー(through)という言葉です。通り抜けるっていう言葉です。通り抜けて向こう側の光が見えて来る。皆さんが家庭や職場や学校で過ごしている時に、周りの人々が皆さんの言い方や振る舞いを通して何かが見えて来る。自己主張が強く、いつも自分のことを中心に振る舞っているのではなくて、暖かくまた愛を感じるような、そういう自分を通して、キリストの姿が見えて来るのであります。自分勝手な振る舞いが見えてくるのではなくて、いつも愛をもって罪を赦す、そのことが見えてくるのであります。
キリストを信じる信仰者の言葉や振る舞いによって、キリスト教がどのようなものであるかを人々が理解するのであります。私たち一人ひとりの生活を通して、キリストが証しされて行くのです。 私たち一人ひとりの生活を通して、キリストが証しされて行く。その意味で、私たちは証し人として立たされているのであります。
カール・バルトという神学者が「証人としてのキリスト者」という講演を書いていますけれども、こういうことを言っています。非常に短い言葉ですけれども、「証人として生きるキリスト者は、自分の人間としての賢さや愚かさから逃れて、神の証しへと逃げてゆく逃亡中の人間である」と語っています。ずいぶん面白い表現だと思います。自分の賢さや愚かさから逃れて、神の証しへと逃げていく、逃亡中の人間だというふうに言っているわけです。つまり、キリストの恵みの中に逃れていくものであり、イエス・キリストの恵みの中に駆け込み、そこで深く慰められるものだと言うことを言っているわけです。
このヨハネは、イエス・キリストを指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と証言しているわけです。29節にも、神の小羊と、証しをしているわけです。この神の小羊というのは、ラテン語でアニュス・デイ、アニュスは羊で、デイは神です。このアニュス・デイは、ミサ曲で必ず歌われます。ですから、このヨハネの言葉は讃美歌の言葉となった、聖歌の言葉になったといってよいでしょう。この世の罪を取り除く神の小羊という言葉を繰り返す礼拝の場所は、聖餐であると言ってよいでしょう。キリストの恵みは、聖餐によってはっきりと示され、私たちは深い罪が赦されるそういう喜びを与えられて、その喜びを私たちの存在と言葉をもって証しするものだと言うことを、この聖書の箇所は私たちに伝えようしているわけです。
お祈りをします。
イエス・キリストの父なる神様。あなたの豊かな恵みと慈しみによって、寒い中にあっても健康が支えられて1週間を過ごし、愛する兄弟姉妹と共に礼拝に集い、御言葉を学びまた聴くことが許され、ありがとうございます。私たちは本当にこの日本社会の中で少数者であり、さまざまな闘いがありますけれども、あなたがしっかりと私達を支えてくださり、恵みをもって共にいてくださることを信じて、これからの一週間も過ごすことができますように。心が折れるような時にも、あなたが共にいることを信じ、勇気を持って様々なことに立ち向かうことができますように。これから聖餐に与りますけれども、その恵みに共に与ることができますように。病を持っている兄弟姉妹や、しばらくこの礼拝から離れている兄弟姉妹をもあなたが心に置いてください。この一週間も、私共と共にいてくださり、励まし、生きる力と勇気を与えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン
|
|
|
|
20241124 主日礼拝説教 「神に赦された恵みに生きる者として」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:申命記24章17〜22節、マタイによる福音書18章21〜35節 |
|
杉田峯康という人間関係の交流分析をする専門家の教師が書いた本の中に、「こじれる人間関係」という本があります。誰でも人間関係に苦労している、苦しみを経験している人も多いと思います。この本の中には、人間関係には4つのパターンがあると書かれています。
一つ目は、自分を受け入れ、自分を肯定しているが、相手を受け入れず、相手を肯定していないパターン。二つ目は、自分を受け入れず、自分を肯定していないで、相手を受け入れ肯定しているパターン。三つ目は、自分も相手も受け入れず、互いに肯定していないパターン。四つ目は、最も良い人間関係ですが、自分も相手も互いに受け入れ、肯定しているパターン。自分もOK、相手もOKという関係。最も正常な関係は、互いに相手を受け入れ肯定している関係であります。
しかし、私たちは誰とでも互いに相手を受け入れ、肯定することができるかというと、そうではないわけです。相手を受け入れない、相手の存在を肯定できない、ということがよく起こります。
本日の礼拝で読んだマタイ福音書の18章には、罪と赦しの問題を取り上げています。特に、教会の中で、罪と赦しについてどのように具体的に解決しているかということを語っています。18章21節を読むと、ペトロが主イエスに質問しています。「主よ、兄弟が私にたいして罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」18章の始めからここまで、主イエスが罪を赦すことの大切さを教え、罪を犯した者を赦さなければならないということをお語りになった。この主イエスの言葉が、ペトロの心に響いて、その時に自分に対して罪を犯した者をどうしたら良いのか、どこまで赦さなければならないのかという思いになり、それが問いになったのです。罪と聞けば、先ず自分に対して為された罪の行為であると考えました。
私たちはどうしても自分を中心軸にして考える癖がありますから、仲間が自分に対して罪を犯した場合、どうしたら良いかを尋ねざるを得ない。ここに罪と訳されている言葉は、「的外れのことをする」という意味の言葉です。私たちは毎日、誰かと付き合っていますが、付き合っていて思うことは、私たちの心の中に相手に期待していることがあるのです。皆さん、今日教会に来て、期待していることがある。例えば玄関で、誰かから挨拶を受ける、お元気でしたか。ウナギ坂を登ってきつくなかったですか。こういうことで、気持ちが和むのです。しかし、自分が教会の玄関に入って、教会の人はいるのに、誰も自分の存在に気が付かないでおしゃべりをしている。こういう場合がよくあります。受付で名前を書いて、会堂に入っても、誰も挨拶をしてくれない、そうなると自分の存在が無視されたような思いになって、どうして挨拶をしないのだろうか、どうして自分を無視するのだろうかという思いになってしまう。この人には、こういう風に扱って貰いたいと期待する。そういう相手の意向に沿うように扱ってあげるのが最も良いことかも知れません。ところが現実はそうは行かないのです。私も、ある時教会の方から挨拶を受け、礼拝の前で気が急いていたので、無視したように思われてしまいました。その方はとても気を悪くしたのかも知れないと思いました。
相手は自分に対してこうあるべきだ、そう期待するけれども、相手は自分の期待通りにはしてくれない。相手が自分の期待通りにしないと、不満になる。当てが外れる。的外れになるのです。
そういう時に、相手も事情があるから仕方がないと、気持ちを納めて終わりにすれば終わるはずですが、不満が募って、相手が自分に間違ったことをしているのではないか、相手が間違った行動をしているので私の心は傷ついた、あの人のせいだ、と考えてしまう。これをどうしたら良いかということになるわけです。
自分に対して罪を犯した、一度であっても赦せない気持ちになる。この当時のユダヤ教の教師は、この問題に対して三回までは赦してやりなさい、と教えたらしいです。三というのは、完全数、天の数字ですから、完全な数の一つと考えられていました。神様が三回も完全に私たちを赦してくださるのだから、自分たちもそこまでは相手を赦してあげたら良いと考えていました。
ペトロは、主イエスが深い愛の持ち主であり、愛が重要であることを問う方なので、そこを計算に入れて、三回までと言っているが、七回まで赦してやれば良いでしょうかと想定した。七回も赦せば、完璧な赦しになると思ったに違いありません。
ところが、意外なことに主イエスは、その問いに対して、22節に「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と答えられた。主イエスの答えには、聖書的な根拠がある。赦すことの反対は、復讐することです。創世記4章24節に、「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と書かれています。ご存知のように、カインは弟アベルを殺して、その子孫のレメクは全ての人類を表していると言われますが、レメクの剣の歌は、刀をもって復讐を成し遂げて帰って来た時に歌った歌だと言われています。カインのための復讐が七倍なら、七十七倍の復讐をする権利があるという、復讐を正当化している歌です。
現代でも復讐について間違っていると思わない人々がいます。自分に対して罪を犯した人に、復讐したいと思う。殺人事件は復讐動機が多い。私たちは相手に対して罪を犯しているという意識はとても薄いですが、自分に対する他の人の罪に対しては非常に敏感であると言ってよいでしょう。そして恨み返しをしたいという気持ちになって、自分の罪を忘れるのです。
このことを説明するために、23節以下の譬え話を主イエスは語られました。一万タラントンの借金がある者が王のところに連れられて行き、決済しなければならなくなった。返済を求められた。この一万タラントンとは、現代のお金に換算すると莫大な金額になります。一万タラントンは五千万デナリオン、一デナリオンは労働者の一日の給料ですから、五千万日分の給料に当たります。この当時のガリラヤの領主ヘロデの年収は、五百タラントンだったそうです。これに比べると一万タラントンという金額がいかに巨額かということが分かります。国家の一年分の予算を何十倍にしても追い付かない金額です。それに対して、百デナリオンという金額は、五十万分の一だと言ってよいでしょう。
主イエスが、譬え話で強調しているのは、この家来が巨額の借金を負っていたということです。負い目をもっていた。しかも、彼が仲間に貸していた金額は、全く取るに足らない金額である。巨額の借金を負っていた家来が、返すべき時に返せないというので、王は自分の妻も子も持ち物を全部売り払って返済するように命じたと書かれています。返せないので百歩譲って、返済を猶予したのではなく、この王は驚くべきことに返済を全て免除したと書いています。
私たちも、知り合いに僅かなお金を貸すことがあります。少額なので返済せよと催促することはしません。しかし、百万円を貸した人に返さなくても良いとは言えないのではないでしょうか。この王は一万タラントンという巨額のお金の返済を免除した、これは驚くべき決断と言えるでしょう。
ところが、この譬え話は、その後がまた驚くような展開になっています。巨額の借金を返済しないで済んで喜んだはずのこの家来が、僅か百デナリオン貸している仲間に対して、捕まえて首を絞めて借金を返せと迫ったという話です。仲間は返すからと哀願していたが、この家来は待つこともしないで、返済までの間、牢獄につなごうとした。これを見て、牢屋に入れられてしまった人の仲間が心を傷め悲しんで、王に訴えた。そしてこの家来は、このために王の激怒を買って、牢役人に引き渡されたということです。
皆さんはこの主イエスの譬え話を読んで、どう思ったでしょうか、多分憤慨することでしょう。巨額の借金を免除してもらったのに、僅かな借金を赦すことのできないこの家来の在り方や振る舞いに腹を立てた人も多いと思います。しかし、そこで終わるならば、この譬え話の真実の意味を理解したことにはなりません。
主イエスは、ペテロにも弟子たちにも、この譬え話はあなた方の物語であると語っているのです。聖書には、読み飛ばしてしまうような言葉があります。この譬え話で注目すべき言葉があります。18章31節の言葉、「仲間たちは、ことの次第を見て非常に心を痛めていた。」この家来は、百デナリオンの借金をしている仲間に無頓着、鈍感である。この百デナリオンの借金をしている人に対して無関心で、この人がどうなろうが、返済してくれればよいと考えていた。直ぐに返済できないことが分かれば、自分の仲間であっても、牢獄に入れることについて少しも心が傷まないのです。牢獄に入れたらこの仲間が仕事を失う、失職し、人間としての体面名誉を失う、家族も困る、そういうことも想像することができないで、自分の気持ちのままに行動する。この家来の振る舞いをみて、仲間たちは心を傷め悲しんでいる。この家来は、平気で仲間を牢獄に入れる。
このことと関連して思い起こす主イエスの言葉があります。18章10節の言葉です。「これらの小さな者を、一人でも軽んじないように気を付けなさい。」この小さい者というのは、病人のことだけを言っているのではありません。罪を犯して小さくなっている者を指している。主イエスは小さいものを切り捨てて、滅びの中に落としてしまうような罪について、厳しく語っております。主イエスは、羊飼いがいなくなった一匹の羊を探しに行って、探し出したら羊の群れに連れ戻す譬え話を語った後に、このように、これらの小さな者を一人でも軽んじることは、あなた方の主の心ではない、と語っています。小さな者が一人でも滅びることに心を痛めるのは、神の近くにいる天使、つまりそれは、神の御心だと言っているのです。自分に対して負い目を持っている人、罪を犯した者に対して、私たちはこの家来のように、相手の罪を忘れず、その痛みを思うことなく、裁いてしまっているのではないか、と思います。
本日の礼拝で、旧約聖書の申命記24章17節以下を読みました。麦やオリーブやブドウの刈り入れ、穫り入れる時の話です。穫り入れの際に、自分の畑で実ったものを、全部収穫してしまうことはするなと語っている。落ちたままに、麦の穂を敢えて残すようにしなさい。生活に困った人が、その落ち穂を拾って生きる糧とすることができる。なぜそのようなことを命じるかというと、嘗てエジプトの奴隷だったあなた方を主が救われたからだというのです。この申命記の律法は、弱い者と共に生きる、そういう心を教えています。罪を犯し、神に対して、人に対して負い目を負っている人に対して、思いやりの心を持つ大切さを教えているわけです。
自分に対して罪を犯した者に対して、いつかは復讐してやろうと考えて、その罪をいつまでも忘れないとしているものに対して、33節で「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と語っております。この「憐れみ」という言葉は、良きサマリヤ人の譬えにも出て来ますし、ここにも何回も憐れみという言葉を使っていますが、この言葉は「はらわたが痛くなる」という言葉です。胸が痛くなるとも訳しています。はらわたが痛くなるほどに、他者の痛みを強く感じる心がここにあると言ってよいでしょう。
この「憐れみ」は、主イエス・キリストの十字架の死において実現しております。神から離れていた者を、神のもとに連れ戻すために、神は独り子を地上に派遣し、私たちの罪を償うために、私たちの身代わりとなって、罪を受けるため十字架で死んでくださった。そのことによって私たちの罪は完全に赦された。この譬え話を語られた主イエスは、罪の赦しが私たちの現実のものとなるために、ご自身の命を捧げてくださったのであります。
皆さんは、赦すということが、自分が犠牲になって我慢すれば良いのだと考えている方も多いのではないでしょうか。我慢すれば解決する、そうではないのであります。先週は、創立147周年の記念礼拝で中野実先生が説教されました。中野実先生はマタイ福音書の18章について、たいへん詳しい解釈をしたことがあります。その一部ですが、次のように書かれています。「赦しとは、罪の被害者側からの自発的行為である。罪を生み出した破壊的な結果であるに拘わらず、新しい関係を模索し、回復しようとする行為である。」「赦すことによって失うものは何もない。むしろ、良いものが与えられる。」そういうことも書いています。
来週の聖日から、私たちは主イエス・キリストを待ち望むアドベントを迎えようとしています。この時を主イエス・キリストによって、真実の赦しが与えられたことを心にとめる時にしたいと思います。
お祈りをします。
主イエス・キリストの父なる神様。
あなたは私たちのまことに深い罪を、十字架の死をもって、贖いによって赦し、私たちと良い関係を結んでくださいました。その赦しに、私たちが感謝をもって生き、触れ合う人々の罪を赦し合うことができますように導いてください。全て愛をもって多くの人々と交わりを持つことができますように。様々な理由でこの礼拝に来ることができない兄弟姉妹を思います。御心のうちにおいてくださいますように。病の中にある者、しばらく教会を離れている兄弟姉妹をもあなたが御心のうちにおいてください。本日午後からクリスマス・コンサートが行われます。どうかこの地域の人々に、あなたの良き救いを宣べ伝えることができますように導いてください。これから一週間の日々、寒い時が続きますが、心身ともに私たちを支えてくださり、あなたの恵みに歩むことができますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン
|
|
|
|
20241117 教会創立147周年記念礼拝説教 「永遠なる方による人生の完成」 中野実牧師(東京神学大学教授)
聖書箇所:イザヤ書55章6〜11節、ヘブライ人への手紙13章8節 |
|
今日は、久し振りに牛込払方町教会に遣わされ、特に創立147周年の記念礼拝ということで御言葉を語ることが許され、その恵みを心から感謝しています。久し振りにこの礼拝堂で、皆さんと共に礼拝を守れますことを嬉しく思っています。この教会が150年近く、主の福音を宣べ伝えて語り続けてきた、その歩みは本当に重たいことだと思います。福音は本当に何なのかということを先達の者たちがしっかりととらえ、それをしっかりと守り、それを語ってきた、このことの歩みを再び心に刻みたいと思います。そういう特別な礼拝ですので、今日もまた何よりまず御言葉に耳を傾けたいと思います。
聖書が語るメッセージ、その中心にあるものは何だろうか。いろいろと表現することができると思います。しかし、今日は、私はこういう切り口でお話し始めたい。聖書の語るメッセージの中心は、神様が無条件に私たちを愛してくださっている、造られた全てのものを神様は無条件に愛しておられる。造られたすべてのものに対して、無償で恵みをくださっている。これが聖書の語っているメッセージの中心ではないかと思っています。
天地万物、そして私たち自身をお造りになった神様は、無条件でその恵みをすべてのものに、私たちにも注いでくださっている。この無条件・無償の恵みというのは、私たちが神様の思い通りになった時にだけ恵んでやろうというようなものではありません。むしろ、私たちが神様を無視していた時、いや、それどころか神様に敵対していた、そんな時ですら、神様は私たちを見捨てることなく、ご自分の恵みをもって守り導いてくださっていました。
私たちは真の神様を無視したままでも構わない、そんな風に考えてきた者たちかも知れません。また、私たちが作り上げている社会・世界を見ると、真の神様の御心を傷付けるようなことばかりしている、そんな社会・世界です。それにも拘わらず、そんな私たちを無条件に恵んでくださる神様、それが聖書の証ししている、私たちの救い主であられる神様であります。その神様の恵みがどこに現れたか、聖書によればまさに、クリスマスに誕生されたあの神の御子イエス・キリストのお姿の中に、そんな神様の無条件な恵みが完全に現れ、示されているのであります。私たちはある意味では、幸いにも神様の導きの下で、そんな無条件な神の恵みを知ることが赦されたのであります。そして、その恵みを知ったことによって、私たちは新しく造り変えられました。無条件で神の恵みが注がれている、その事実を知らされたものは、これまでとは全く違う新しい歩みへと導かれて行くのです。
こんな風に言っても良いかもしれません。私たちは神様によって、人間として、大切な存在として造られました。しかし、造り主なる神様を忘れていたがために、人間であるにも拘わらず、真の人としては歩んで来なかった。人間でありながら、本当に人間らしく生きて来なかったと言えるかも知れません。しかし、真の神様の恵みを知った時に、私たちは、神様に造られた本来の自分というものを再発見し、そしてそれを歩み始めることができたのです。神様の無条件な恵み、それを発見したときに、私たちは本当の自分を取り戻して、新しい歩みを始めることができる。まさに神様はそのことを私たちに求め、そのことを喜んでくださっている方なのです。
そんな私たちの大きな変化、恵みを知って、私たちが造り変えられること、そのことを聖書は「悔い改め」と言います。「悔い改め」というのは、具体的に神様に立ち帰ることです。私たちの救い主であり、恵み深い父であられる、そんな神様の御許に帰り、その懐で生きて行く、神様の無条件の恵みの内を歩むということは、正にその無条件にその恵みに頼るということもあります。無条件な恵み、無条件で頼る。実はこれは案外難しいことかも知れません。私たちは神様の恵みに対して、なかなか無条件降伏はできません。自分の力で、自分の価値観で人生を歩みたくなってしまうからです。真の人間に相応しく、神様の無条件な恵みに、無条件に頼る、神様に無条件降伏をする、それが本当に人間らしい生き方であるにも拘わらず、それがなかなかできないのです。どうしたら本当に人間らしい生き方が可能となるのでしょうか。
聖書は、はっきりと告げます。真の人間として私たちが生きるための出発点として、私たちは洗礼を授けられなければならない。古い人間が死んで、新しく生まれ変わる。そして、あのイエス・キリストと共に歩み始める「洗礼」というものが、私たちの新しい出発点なのだ、そのように聖書は私たちに語ってくれていると思うのです。本来の自分に新しく生まれ変わること、それが洗礼を受けてキリスト者として歩み始めるということです。洗礼を受け、そして神様が聖霊を注いでくださっている。私たちはキリスト者、まさにキリストの者とされて生きることができるようになるのです。
この教会は147年の歩みをしてきましたが、キリスト教会自体は2000年を超える歩みを続けて来ているわけです。その中で、イエス・キリストこそが、真の神にして、真の人である、という告白を続けてきました。神であられる方が何故、人とならなければならなかったのか、それは私たちが本当の人間になるためです。本当の自分を生きていない私たちが、本当の人間として歩むために、神であられる方が敢えて人となってくださった。そのために、イエス・キリストが、私たちのもとに来てくださったのであります。洗礼において、私たちはキリストの者とされて、そのキリストと一つとされて、キリストと共に人生を歩む、それが本当に人間らしい、神様が造られた人間らしい歩み方だということです。
今、この礼拝堂にはいろいろな世代の方、いろいろな社会的な立場やいろいろな人生経験を通り抜けて来られた方々が集められています。しかし、そんな私たち誰もが、共通して抱えている重大な問いがあります。それは、人生には果たして完成というものがあるのだろうかという問いです。
実際、私たちの人生には多くの闘いがあります。その中で潰されてしまいそうになることも屡々です。一つの課題が何とか目途がついたと思えば、次の課題が現れる、こんなことがしょっちゅうです。そして、いつもフーフーハーハーしているような状態で人生を歩んでいるに違いないと思うのです。そんな私たちの経験の中で、人生には完成などないのではないか、そんな気持ちになってしまうこともあるかと思います。ですから、せめて自分だけの小さな幸せだけは確保しておきたい、自分の家族だけは何とか守られていたいという、そんな小さな事柄に私たちの思いががんじがらめになってしまう。あるいは、取るも取りあえず、現在の生活が幸せならそれで良いのではないか。そんなちっぽけな考え方に引きずられてしまうこともあると思います。
人生には、果たして完成というものはあるのだろうか。聖書もそのような問いを、真剣に私たちにぶつけて来ます。たとえば、詩編には150編の詩があります。その一つ、詩編の90編10節にこんな言葉があります。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」なるほど、本当に私たちの人生はそんなものかも知れない。本当に災いや労苦の多い、そして瞬く間に時は過ぎてしまうということを、聖書自体が私たちに語っています。同様に、コヘレトの言葉という書物があります。著者であるコヘレトがこんなことを言います。「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。太陽の下、新しいものは何ひとつない。」空の空という訳もありましたが、なんとも空しさを感じるのが人生の歩みだと、そういう気持ちも私たち多くの者が共有している思いかも知れません。
正直に言えば、やはり人生には完成などはありえないのではないか。そう言わざるを得ない面があります。むしろ、人生の空しさを正直に認めることの方が、人間として誠実なのかも知れません。人生は有限である。人生は空しいものである。むしろ、そういう認識から、より真実な歩み方が見つかって来る、そういうことも十分にあると思います。スイスの精神科医でありましたポール・トゥールニエという人によれば、「歳をとるということは、未完成のままに人生を受容する過程・プロセスである」と言いました。これは本当に深い真理だと思います。「未完成のままの人生を受容する。」確かに、それは私にとって大事なことだと思います。自分が作り上げてきた、築き上げてきた業績にしがみつきながら、そこに人生の価値を見出し、無理やり自分を納得させるような、そういう歩みではない。未完成なままで、そのまま人生を受容する、それは、自分自身の中に何か価値を見出すというようなことではないのではないでしょうか。未完成のままで人生を受容するというのは、実に積極的な姿勢だ。それは私たちが自分の内側に目を向けている時には、本当のところはできない、むしろ未完成のまま人生を受容するということは、私たちが目を高く天に上げた時に、それがようやくできるようになるのではないか。自分の中を探っている間は、どこまでも未完成な人生を受容することはできないのではないかと思います。
まさに、今日与えられている新約聖書の御言葉、ヘブライ人への手紙の御言葉にあったように、永遠なる方であられるイエス・キリストに、私たちが受けた洗礼において私たちと一つとなって共に歩んでくださるイエス・キリストに目を向ける。その時に初めて、未完成なままの人生を受け入れることができるようになると思うのです。
今日の御言葉、ヘブライ人への手紙13章8節はこう言います。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。私たちの人生は有限なものです。どこまで行っても未完成のままです。しかし、永遠なる方であるにもかかわらず、有限な私たちの世界に入ってきてくださったイエス・キリストに目を向ける時に、有限で未完成である私たちの人生は、全く違った仕方で、見え始めてくるのではないでしょうか。
確かに私たちは、完成しないもの、解決しないものを抱えながら、死の時を迎えるでしょう。しかし、そのような未完成、未解決の人生、人生だけでなく、私たちの周りの世界もそうですが、そんな未完成、未解決の世界の状況を、十字架にかかって、そして死から復活されたイエス・キリストという視点から見直したとき、それは新しい姿で私たちの前に現れてくるのではないかと思うのです。
今日与えられているヘブライ書の御言葉のちょっと前の箇所、12章冒頭近くにこうあります。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」ちょうどリレー競技のように、人生がなされている、そんなイメージです。後半でこういう言葉が出てきます。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。人生の創始者と言ってもよい。私たちの人生を始め、そして完成者として完成してくださるイエス・キリストを見つめながら、忍耐強く走り抜こうとヘブライ書の著者は語っているのです。
全てのことを始められるのも、それに終止符を打たれるのも、それは神様の御業です。自分で自分の人生を始めたという人はいません。人生は神様から与えられたもの、そうだとすれば、人生の完成もまた自分のものではなく、与えてくださった神様のものです。神様が私たちの人生を完成させてくださる。そのためにイエス・キリストを私たちのところに送ってくださった。その方こそが私たちの人生の創始者、あるいは先導者であり、そして何よりも完成者であられる。御子イエス・キリストがそのことを成し遂げてくださるのだと言うことです。人生の完成が神様のものであり、御子イエス・キリストによって、それは成し遂げられるものなのだということ。しかし、その完成を、私たちは自分の目で確かめることはできないかも知れません。自分の目からすれば、自分の人生など、どこまで行っても未完成のままです。しかし、神様の御子イエス・キリストは、私たちの人生を完成させる歩みを、もう既に歩み切ってくださいました。ですから、私たちにできることは、その方の恵みに無条件に身を任せ、その方に頼り切るということだけであります。
まだ、キリスト教が誕生して間もない紀元2世紀に活躍したエイレナイオスという神学者がいます。この人は、少し難しい表現ですが、「イエス・キリストは私たち人間を、ご自分の中へと再統合された方だ」と言っています。自分の内に全部取り込むということです。私たちはイエス・キリストの中に全部取り込まれてしまっている。そこで何が起きているかと言うと、イエス・キリストは私たちの人生をもう一度完成へと導くために、その行程をもう一度辿り直してくださる。イエス・キリストは、私たちの人生の要所要所をもう一度辿り直して、やり直し、完成へと導いてくださる方だ、という議論を、2世紀の神学者エイレナイオスがしています。私たち人間は、神の似像に創造された。神様に応答できる尊い存在として造られたにもかかわらず、このように罪の支配に陥り、神の似像を失ってしまっていた者たちでした。しかし、イエス・キリストは、そんな罪に陥った人間の歩みを、エイレナイオスによれば全て辿り直し、もう一度やり直して、真の人であられるご自身に、私たちを再統合して、私たち人間を完成へと導いてくださると語っている。なかなか味わい深い表現だろうと思います。
もう一人、日本の神学者・説教者を紹介したいと思います。渡辺善太という旧約の神学者であり、有名な説教家として知られています。晩年は銀座教会で毎月一回説教なさった、その説教は今も読むことができます。私も渡辺善太先生の肉声に触れる機会は残念ながらありませんでしたが、多くの説教を読む機会がありました。中でも、私が好きな説教があります。それは「我が過去を踏み直し給うイエス」。1970年銀座教会での説教です。ちょっと変わった題の説教です。そして、渡辺先生はこの説教題に言及しながら、普通なら「我が過去の罪を赦し給うイエス」とか、あるいは過去などと言わずに信仰の事柄はもっと前向きでなければいけないということで、何故過去などと言ったのかと、自分で付けた説教題について、こんな批判があるのではないかと想定しながら、この言葉の意味を説明なさいます。しかし、渡辺先生は、過去に目を向けるのは後ろ向きのように思われるかも知れないが、実はそうではない、「我が過去を踏み直し給うイエス」ということが分かれば、それが逆転して前向きになり、先導をなし給うイエスの後に従う歩みができるようになる、と言われました。
もう少し具体的に、いろいろな聖書の箇所を示しながら、説明されて行くのですが、中でも非常に興味深いのは、マタイによる福音書2章13〜15節のクリスマス物語です。「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」
このところを渡辺善太先生は、こう語られます。渡辺先生の説教は、落語などを学ばれたのでユーモラスで巧みな語り口で、私が読んでもその語り口は表現できませんけれども、とにかく渡辺先生の文章を紹介します。「神は、イスラエルが踏み損なってエジプトから出てカナンに入った道を、メシアたるイエスに、彼をエジプトから呼び出すことによって、もう一度その道を踏ませ給うた。この問題に苦悩したイスラエルの人々が、思いも及ばなかった言葉がここにおいて発現された。イスラエルの信仰の価値はこういうところにある。神は、幼子イエスをわざわざエジプトに遣って、イスラエルが嘗て踏んできた道を幼子に踏み直させた。私は、この書物は本当にエライ書物だと思う。旧約によって解決されなかったこと、旧約によって語られなかったメシアの民族の過去の踏み直しを語る言葉がここ(マタイ福音書)にある。」
さらに渡辺先生は続けられます。「実に私は、マタイ伝のこの言葉はエライ言葉だと思う。皆さんもこれを良く味わっていただきたい。私の過去を踏み直し給うイエス、昨日も今日も私の歩み損なった足跡を踏み直してくださるイエス。だから、これが逆に行くと、過去が踏み直されて、また私どもに先導なし給うイエスの御足の跡を歩くことができる。」『御足の跡を』という言葉がありますが、あれは過去を踏み直し給うイエスが、逆転して先導をなし給うから、先導に対してアベコベに、イエスが歩み給う御足の跡を、私どもが一歩一歩辿って行くことなのだ、キリストの贖罪とは、ただ赦されるということだけではない、自分が過って踏んできた道を踏み直すことだ。私を悩ました過去のことが、イエスに踏み直していただける。」こういうことを渡辺善太先生が言われました。
ヘブライ書の御言葉は、私たちの人生の完成は、永遠なる方であるイエス・キリストによってもたらされる人生の完成とは、どのようにしてなされたのか、エイレナイオスは、それをちょっと難しい言葉で、永遠なる方に再統合されることと表現しました。また、渡辺善太先生は、マタイ福音書のエジプトへと幼子が逃げたその出来事を解釈して、まさにイエス・キリストが私たちの過去を踏み直してくださったことを語ってくださいました。
イエス・キリストは私たちの人生をもう一度辿り直し、真の人としてそれをやり直し、正し、完成からは程遠い私たちの人生を完成へと導いて下さる方なのであります。人生の完成は、ただ神様のもの、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださるものであります。私たちはただ、無条件にその恵みに身を任せ、それに頼り切る、そのことだけが求められているのです。
ご一緒に祈りましょう。
私たちの人生の先導者であり、完成者であられるイエス・キリストの父なる御神様。本日もあなたの恵みの下に、礼拝に招かれ、あなたの御言葉を聴く機会を与えられました。心から感謝いたします。あなたの無条件な恵みに、私たちもまた無条件に頼り切る、そんな歩みへと私たちを導いてください。私たちが真の人間として生きるために、人となってくださったあなたの御子イエス・キリストと共に人生を歩むことが、どんなに大きな恵みであるか、今日また再び御言葉を通して、再確認いたしました。今日から始まります一週間がその恵みに応える一週間でありますように。
主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン
|
|
|
|
20241110 主日礼拝説教 「古いパン種をきれいに取り除きなさい」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:申命記17章2−7節、コリントの信徒への手紙一 5章1―13節 |
|
11月3日の礼拝後、ある方から、私が一人住まいなので「食事はどうしているのですか」と尋ねられました。私は「娘の家族と夕食を共にしています」と答えたところ「それは良かったですね」と言われました。その時の説明が足りなかったと思いました。実は次の日の昼食をも用意してくれます。そして娘はパン焼き機をもっていて、それでパンを焼いて、4日分、朝食の時に食べるパンを提供してくれます。私のすることは、おかずをレンジで温めるだけです。娘はパンを作る時に、イースト菌を入れて、パンを膨らませて、パンを焼いていると思います。
本日の礼拝で読んだ聖書には、「パン種」という言葉が多く出てきます。パンを膨らませてパンができるので、パン種は特別に悪いものではないのですが、コリントの信徒への手紙一 5章では「古いパン種」、「古いパン種や悪意と邪悪のパン種」とあるので、パウロは、このパン種を、良い意味ではなく、悪いものとして考えているのです。私たちは、この地上の環境の中で暮らしています。この地上にはキリスト教の倫理・道徳から反していることが横行しているのです。洗礼を受けてキリスト者であっても、この地上がもっている価値観、道徳観に影響されています。肉体をもって生活しているので、様々な誘惑に遭って誘惑に負けてしまい、過ちを犯すこともあるのです。特に性的な誘惑があり、そこで間違いを起こすことがあります。人との正常な関係を持つことができず、不適切な関係をもってしまうことがあるのです。パウロは、コリントの教会の信徒の中で不適切な関係をもって生活をする人に信徒個人や教会全体がどのような態度をもって対処すれば良いのかをこの手紙で語っているのです。
パウロのところには、コリント教会の様々な情報が寄せられ、コリント教会の中に「みだらな行い」があったことをパウロは知ったのです。「みだらな行い」と訳されている言葉は「ポルネイア」という言葉であり、「ポルノ」という言葉の語源となっているのです。この「ポルネイア」という言葉は、あらゆる種類の不適切な性的な関係を表わす言葉です。この言葉は「みだらな行い」「淫行」「不品行」「姦淫」と訳されています。
このコリントの町は国際的な商業都市であり、経済的に繁栄しており、異教の女神を祭る神殿があり、そこには多くの神殿娼婦がいたのです。性道徳がみだれている町で、そこに住むキリスト者も大きな影響を受けていたのです。パウロが問題にしているのは、コリントの町の道徳的な堕落そのものではなく、このような街に生きるキリスト者の生活態度であり、不適切な関係をもって生活している人に対して、教会員がどのような信仰的な態度で対処すれば良いのか、ということなのです。教会員がこの問題を神の御心を問いながら正しく対処するか、どうかなのです。
1節後半には、ある教会員が、父の母を妻として結婚生活をしていることを指摘しています。父の妻とは、義母のことです。自分の実の母が亡くなり、父親が再婚した、その相手の女性が義母です。息子がその義母と実際に結婚生活を継続しているのです。この当時のコリントの町ではこのような結婚生活をしている人は多かったそうです。特別に悪いことではないと考えていたのです。世間の人たちがそうしているから、自分もしても良いのだと道徳的に無感覚になっていたのです。パウロはこのような不適切な関係をもって結婚生活を継続している人に対してではなく、このことを教会が放置していることを問題にしているのです。一人の教会員が不品行をしていることを知っているにもかかわらず、見て見ぬふりをしている、そのことがコリント教会の根本的な問題であると語るのです。このようなことが教会の中で起こっていることに悲しむはずではないか、と言うのです。教会のひとりの人が神の御心に反する、間違った生活をしているのに、それは個人の自由だ、と言って、放置していることはおかしいことではないかと語るのです。
この手紙にはこの当時、教会の人々が愛したセリフがあったと語っています。6章12節、10章23節に「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉です。自分の自由を優先し、そのことが自分の生き方である、と言うのです。この時の流行語大賞であったかもしれません。「わたしには、すべてのことが許されている。」この言葉は現代の人々の生き方を表わしている言葉です。現代もどのようなことをしても自由だと思っている人々が大多数なのです。不倫をしてもそれは普通のことで特別のことではないと考えているのです。
しかし、パウロは「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。」と語ります。同じ教会に属している教会員が、神の前に不適切な性関係をもって正しくない生活をしている教会員がいることを知りながら、そのことを放置して、その人の自由に任せている、そのことで良いのか、と問うのです。
パウロが問題としたのは、罪を犯している本人のことではなく、それを放置した教会のことです。キリスト教会は、人間の集まりではなく、同好会、サロン、人間を中心とする集団ではありません。キリストを主と仰ぐ共同体です。神が教会の頭であり、聖霊が支配するところです。神が臨在されている聖なる教会で、このような乱れた関係で生活しているキリスト者がいることに対して、教会が嘆き、悲しむのは当然のことではないか、と語るのです。パウロが問題にしたのは、このような問題に対して、教会の信徒たちが無関心、無頓着であったことです。
現在もほとんどの教会が過ちを起こした教会員の罪の問題を正しい手続きで進めて解決することをしていません。私は、かつて在任した教会で、一人の信徒が職場で不適切な関係をもったために相手が裁判を起こしたことがありました。どのような展開をしたのか。問題を起こした信徒が、お金で取引をし、裁判を取り下げることで相手と合意しまったのです。
キリスト者の罪の問題が、この世の裁判所に問題が移され、お金で解決が図られ、そのことで一件落着し、神の前での解決をしなかったのです。神の前で指摘され、神の前で悔い改めが起こり、再び教会に復帰する、その前に世俗的な解決をしてしまったのです。
また、よく教会で起こることですが、罪を犯したり、不適切な関係をもって過ちを犯した、ひとりのキリスト者が、教会に来なくなり、姿を見なくなり、この人について教会の中で噂話をすることで終わることがあります。罪を犯したことについて正規の手続きをもって対処することはほとんどしていないのです。
教会規則に戒規がありますが、これは、この世の裁判のように罰を与えることや懲らしめるためのものではなく、罪を犯しても、教会に復帰できるようにするための教会の正式な手続きなのです。マタイによる福音書18章に、罪を犯した人に対して、教会が正しい手続きをするようにと教えているのです。教会員が罪を犯したなら、教会で親しく関わっている人がその人のところに行って忠告し、聞き入れなければ、二人、三人が行って証言し、それでも聞き入れなければ、教会の法廷で裁判を受けることを指示しています。これは、裁くための手続きではなくて、罪を犯した人を教会に復帰させるためのものです。
教会が罪に無感覚、無頓着であることに対して、パウロは、6節後半で「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを知らないのですか。」と語っています。パン種のたとえは、邪悪なことが伝染していくたとえとして主イエスはしばしば用いられました。パウロも悪が伝染し、広がるたとえとしてパン種を用いています。大きなパン生地を発酵させるためには、ほんのわずかなパン種があれば足りるのです。パン種はわずかでも、パン全体を膨らませることができます。そのように小さな悪を容認してしまえば、その影響は全体に大きく広がります。このことは教会においても個人においても当てはまります。教会が悪を黙認すれば、それは必ず教会全体が、その罪についての感覚が鈍くなり、どんな罪を犯しても何のとがめもなく、だれも何も言わないからこのまま悪いことをしても良いのだということになるのです。私たちは、人間関係を大切にするので、面倒なことには関わらず、悪いことをしていても、黙認して、そのまま放置していく傾向があります。誰も何も問題にしない雰囲気なので、悪いことをしてもたいしたことではないと思ってしまうのです。パン種が全体を膨らませるように、教会全体が悪を温存し、腐敗していくのです。
パン種の性質を強調したパウロは、7節で「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。」と語ります。教会から古いパン種を取り除くようにと勧めます。「古いパン種」とは何でしようか。それは、私たちの教会に入ってくる、侵入してくる、神から離れ、神を無視して人間中心的な、自己中心の生き方のことです。まさしくそれは罪なのです。自分の好きなように、自分の自由に生きていることが罪なのです。私たちは神から離れて、自己中心の生き方をしていたのです。
しかし、羊飼いが、羊の群れから離れた羊を探し出し、羊の群れに戻ることができるように、神は、イエス・キリストの十字架の死と復活により、神から離れている私たちの罪を贖い、私たちは罪から解放されたのです。洗礼を受けて、罪のない、聖い存在になったのです。悪いパン種は無くなったのです。7節後半に「現に、あなたがたは種の入っていない者なのです。」私たちは悪のパン種のない聖い者、神に聖別された者になったのです。
7節に「いつも新しい練り粉のままでいられるように」という言葉が意味を持っています。洗礼を受けて、罪に支配された生活を終えてキリストと歩む新しい生活を始めたのです。洗礼を受けて、悪のパン種の入っていない生活を始めたのです。その生活を継続することが大切なのです。そのような生活を継続していくためには何が必要なのでしょうか。
主イエスが語ったたとえ話の中には、とても興味深いたとえ話があります。「汚れた霊が戻って来る」というたとえです。マタイによる福音書12章43節から45節にあります。汚れた霊が、人から出ていき、砂漠をうろつき、休む場所を探すがみつからないので、出てきたわが家に戻ると家が空き家で掃除がしてあり、きれいなので、悪い七つの霊と一緒に入り込む、というたとえです。洗礼を受けたということは、悪霊を追い出し、代わりに聖霊を迎えてキリストと共に生活をすることになります。家に悪霊がいなくなったのです。しかし、キリストである聖霊を迎え入れなかったので、その家には誰もいないことになった、空き家になってしまい、悪霊が7つのもっと悪質な悪霊を連れてその家に戻り、住みついてしまったと語るのです。このたとえ話では最後に「こうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」と言うのです。
洗礼を受けても、キリスト者であることを続けていかないことによって堕落していくのです。洗礼を受けて、自分の主は自分ではなく、キリストになったのであるけれども、キリスト者となっても、神を礼拝し、聖霊であるキリストと共に生活しないことによって、その人に悪霊は住みつき、元の自己中心的な生活に戻り、神から離れて、堕落していくのです。パウロは、すでにあなたがたは、聖なる者であるので、ますます聖なる生活を継続するようにと勧めているのです。悪が入り込まない聖い生活をすることが求められています。年を取って体が動かなくなり、礼拝に来ることができなくなる、そういうことはあるので仕方がないけれども、来ようと思えば来ることができるのに、礼拝に来ない、それは霊的な危険信号です。そして礼拝に来ない生活が常態化していくのです。そのようなことにならないように互いに注意し、励ましていくことが肝要なのです。
私たちは肉体を持ち、罪に誘惑され、罪の誘惑を避けることは難しいのです。しかし、罪の誘惑に負けてしまった仲間を教会に復帰させるために、正しい手続きで復帰させ、同じ仲間として迎え入れることが大切なのです。教会に悪が入り込んでも無頓着にそのまま放置して悪が教会全体に広がらないように、教会員の生活に互いに関心をもち、み言葉によって諭し、互いに注意し、慰め、励ましていくことが大切なのです。
加藤常昭先生が「慰めのコイノーニア」―牧師と信徒が共に学ぶ牧会学―という本の中で「日本の教会が学ぶべき対話」という個所で次のように書いています。
「私が牧師であった時、多くの人を訪ね、また訪ねられ、多くのことを語りあいました。しかし、日本では、こうした悔い改めの対話をすることをわきまえていないひとが多いと思います。牧師であっても、教会員であってもいわゆる人生相談に似た対話をすることを期待されています。確かにそれも必要です。しかし、自分の罪に気づき、悔い改め、そこからの解放を求めて、赦しの言葉を改めて聴く対話をしたいと求めるひとは多くはありません。教会が、そのことをよく教えていないからです。悔い改めと赦しを集中的に語る説教が少ないのです。」このように書いているのです。
教会で話している私たちの会話が世間話になっていないか、どのような内容の会話をしているのか、検討する必要があります。罪の誘惑に負けてしまったキリスト者に対して、逃げずに、共にキリストと共に歩むために、悔い改めを共にし、キリストの赦しを共にする共同体となるように、祈っていきたいと思います。そのためには、礼拝を共にしてみ言葉を聞き、神の前で、今までの生き方、振る舞いを悔い改め、互いに祈りあうことが大切なのです。
(祈り) イエス・キリストの父なる神。あなたに礼拝に招かれ、み言葉を聴き、共にあなたを賛美することができますことを心から感謝を致します。罪の誘惑に負けそうになる、弱いものですが、悪のパン種が入り込まないように、あなたが聖霊を送り、聖霊の働きを求めて私たちが祈ることができますように、導いてください。私たちの教会の仲間が罪を犯しても、そのことを放置せず、教会の正式な手続きで解決し、再び教会の仲間として迎え入れることができますように、愛をもって解決できますように導いてください。これからの一週間の私たちの歩みをあなたが共にいて守ってくださいますように祈ります。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。アーメン
|
|
|
|
20241103 主日礼拝説教 「わたしに倣う者になりなさい」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:詩編62編1―13節、 コリントの信徒への手紙一 4章14―21節 |
|
私が神学生の時に、日本橋教会におりましたが、毎月、「日々のみことば」という小冊子を出していました。この冊子には、その日に読む聖書のみことばと解説、祈りの主題が書かれていました。教会の信徒が毎日、読むようにと願って作成されました。日本基督教団の雑誌に「信徒の友」という雑誌がありますが、「日毎の糧」というページがあり、聖書の個所と解説、そして祈りに覚える教会名が記されていて、毎日、読んで祈るようにと願って作成されています。他にも、「日々の聖句」という冊子があります。毎日、聖書を読んで祈る、そのような習慣を身に着けて、キリスト者としての生活を整えていくことを願って作成されているのです。
牛込払方町教会は、創立150周年に向かって聖書全巻を読みはじめ、創世記から読み始めています。本日、読むところは、出エジプト記33章です。私は、聖書のみことばが身につくように、声を出して、読んでいます。
私たちの周りでは、多くの情報が溢れています。テレビ、ラジオ、ネット、本、雑誌などの情報に私たちは接しており、影響を受けているのです。洪水のように溢れている情報に押し流されないで、キリスト者として生活をするためには、毎日、決まった時間に聖書を読み、祈ることが大切なのです。礼拝の時だけ、聖書の言葉に触れるということにならないようにしたいものです。そしてこの一週間に全く、聖書を読まなかったということにならないようにしたいものです。
本日の礼拝で、コリントの信徒への手紙一 4章14−21節を読みましたが、16節に「わたしに倣う者になりなさい」という言葉があります。この言葉は、パウロの手紙に5回、出てくるので、パウロの特徴的な言葉であることは間違いないのです。「わたしに倣う者になりなさい」と語っているのは、パウロが自分を偉い存在で立派だから、コリントの教会の信徒たちに、わたしのように立派になれと言っているわけではないのです。パウロは、自分を誇ったことはないのです。「誇る者は主を誇れ」と語っているのですから、自分を自慢して、自分のようになれと言っているわけではないのです。
1章から4章13節まで、パウロはコリントの教会の人々に対して自分の気持ちを隠さず、あからさまに批判してきました。コリントの教会の人々が、自分の知識を誇り、分派を作り、自分本位に自由に教会生活をしていることに対して、パウロは言うべきことを語ってきたのです。しかし、このところでパウロは語調を変えて、父親が自分の子供を諭すように語るのです。14節に「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する子供として諭すためなのです。」と語ります。コリントの教会の人々を「愛する自分の子供」と呼んでいるのです。元々の言葉は「愛児」です。パウロは、自分を父としてコリントの教会の人々を「愛児」として取り扱い、愛をもって語ろうとしているのです。叱ってばかりでは反発を感じて心が離れていくので、 愛の心をもって語ろうとしているのです。
この時代、子どもを学校に連れていく役目を与えられた奴隷がいました。子供に付き添い、学校の行き帰りから行儀作法のしつけまで役目を与えられていた奴隷がいました。その役目を与えられていた者を「養育係」と呼んでいたのです。子供と一緒にいる時間が長く、躾もしていましたから、子どもは大きな影響を受けていました。パウロは、自分がコリントの教会の人々にとって「父」であると考えていましたから、父と養育係と比較して「キリストに導く養育係が一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」というのです。子どもを育てるために、養育係にしつけを任せているけれども、子どもにとって重要な存在は父親であることを言おうとしているのです。
15節後半で「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。」と語るのです。最近、新しく翻訳された聖書協会共同訳は、原文に沿った翻訳をしています。「キリスト・イエスにおいてあなたがたを生んだのは私なのです。」と訳しています。聖書協会共同訳を読むと、パウロが自分の力で、コリントの人々を回心させ、キリスト者としたように読み取れますが、そうではないのです。「キリスト・イエスにあって福音を通して」と語っているところに注目したいのです。パウロは自分の力でコリントの人々に信仰が起こされ、コリントに教会ができたとは少しも思ってはいないのです。
パウロが実際、コリントに行き、人々にキリストの福音を語ったことは間違いないことですが、神が聖霊によってパウロの伝道を用いられ、聖霊が人々の心を開かれたのです。神が福音を伝道しているのです。聖書協会共同訳には「キリスト・イエスにあって福音を通してあなたがたを生んだのは、私なのです。」と訳されています。パウロは「私なのです」というのは、私をこのようにできたのは、イエス・キリストなのだ、それは神なのだ、というのです。ただの私ではなく、キリストにとらえられた私なのです。キリストにある私なのです。
かつてパウロはキリスト者を迫害していましたが、イエス・キリストによって呼びかけられ、罪が赦されてキリスト者となった、そういう私なのだ、と語るのです。
4章16節で「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」と語っています。パウロは「キリストに倣いなさい」と言わないで「わたしに倣う者になりなさい」と語っているのです。キリストとコリントの教会の人々のあいだに自分をおいたのです。それはパウロの生き方、生活の仕方がキリストの生き方、生活の仕方を表わしているからです。
福音を伝えていくことは、キリスト教の思想や理論と言う観念を伝えていくものではなくて、生き方全体によって伝えていくことなのです。キリスト者の生活全体の姿を見て、福音が伝えられるのです。キリストの福音に生きていく、そのキリスト者の姿を見て感化されて信仰へと導かれるものなのです。
牛込払方町教会の初代牧師である小川義綏は、タムソン宣教師に導かれてキリスト者となり、そして新栄教会の長老となり、日曜日の礼拝後、築地から牛込に来て伝道し、1877年に日本で初めてプロテスタント教会の牧師となり、牛込教会を設立したのです。 小川義綏は、日本語教師として宣教師たちに日本語を教えることだけを考えていたのですが、宣教師である、バラ、ブラウン、ヘボン、タムソンの人柄、生活の仕方、発言に触れて感化され、礼拝の説教を聞いていくうちに、信仰が起こされて、キリスト教が禁教であった時に、洗礼を受ける決心を与えられ、キリスト者となったのです。宣教師たちの毎日の生きる姿を見て、キリストの福音を信じるようになったのです。周りの人々はキリストを信じている人の生活を見て、キリスト教を判断しているのです。
私はキリスト者らしい生活をしていない、罪びとですから、私を見ないでキリストを見てください、という発言を聞くことがありますし、この言い方は謙遜そうに聞こえますが、それは正しいものではないのです。
パウロは「私に倣う者になりなさい」と語ります。私たちが住んでいる町、生活している地域でキリスト者は自分だけですから、私たちがその町で、その地域でキリスト者を代表しているのです。電話での話し方、ふるまい、お金の使い方、他の人への接し方、語り方がキリストのかおりがするようなものでありたいのです。
コリントの信徒への手紙一 11章1節に「わたしが、キリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と語っています。パウロは、自分がキリストに従って歩んでいるのであり、そのことに一途に取り組んでいるので、そのところをじっくりと見てほしいと語っているのです。
「私に倣う者になりなさい」という言葉を私たちは誤解することがあるのです。それは自分が立派な、どこを見ても落ち度もなく、模範的な生活をしていないと「私に倣う者になりなさい」とは言えないと考えてしまうことです。私もある人から、キリスト者になると立派な生活をしないといけなくなり、窮屈になるので、教会には行かないと言われたことがあります。しかし、それは誤解であるのです。
またもう一つの誤解があるのです。それは地上に生きた主イエスの生き方をまねる、模倣すると考えることです。主イエスが貧しい者、抑圧され、差別された者に寄り添い、友となった、その生き方に倣うとことがキリスト者の在り方だと考えるのです。しかし、それは、キリストの福音に生きることではなく、イエスというこの地上に生きたひとりの人物に倣うことに過ぎません。
キリストの福音を信じるとは、イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦す、というよい知らせを信じることにほかならないのです。私たちはいつも罪を犯し、過ち、悔い改めが必要な者です。そして人間としての弱さをもっているのです。しかし、その私たちを赦して、受け入れてくださり、どのような時にも愛してくださる神をもっているのです。そのことをいつも喜んでいることがキリスト者の生活なのです。
人々を人格的、道徳的に優れた人になるようにすることが、キリストの福音を伝える目的ではないのです。イエス・キリストを信じる結果、人格的に優れた人になるかもしれないですが、それが目的ではなくて、聖霊によって信仰生活をしていくことが目的なのです。キリストに倣うということの基礎は、毎日、定まった時間に聖書を読み、祈り、日曜日に礼拝で説教を聞き、聖餐にあずかり、感謝するところから生まれていくのです。
パウロはこの時、コリントを離れて、エフェソに滞在していました。コリントの教会でパウロの説教を聞くことも、キリストに従っているパウロの生活ぶりを人々が見ることもできなかったので、パウロは自分の代わりにテモテをコリントに遣わしたのです。テモテはパウロと共にいつも福音の伝道のために旅をしている仲間、協力者です。パウロの語る福音をテモテが生の声で補い、直接、勧めをし、生活を通して福音に生きている姿を示したのです。パウロがテモテに二通の手紙を書いていて、新約聖書に残されているのですが、パウロはテモテを全面的に信頼しており、テモテを通して福音の伝道が前進するように心を配っているのです。
4章17節に「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためなのです。彼はわたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところすべての教会でわたしが教えているとおりにキリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こされることでしょう。」とあります。キリスト者としての生き方をパウロが証し、パウロに倣ってテモテは、キリスト者としての生き方をコリントの人々に表し、コリントの教会の人々がテモテの生き方に倣って、キリストを証しするようにとパウロは願って語るのです。
これから聖餐にあずかります。私たちの罪の救いのために肉を裂き、血を流して、罪を贖ってくださった、イエス・キリストの愛を実際に味わいます。私たちのすべての罪を赦してくださったキリストの愛を、私たちの生活全体、からだ全体で表していくことができるように、聖霊の助けを求めて祈りたいと思います。 |
|
|
|
20241027 主日礼拝説教 「隣人となる」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:イザヤ書1章10−20節、ルカによる福音書10章25〜37節 |
|
本日は、牛込払方町教会の牧師・教会員・関係者で、神のもとに召された方々を覚えて礼拝を行っております。昨年から本日までに、召天された方は、昨年の10月16日に筒井清井さんが召されました。そして今年の2月10日に佐藤信子さんが召されたわけであります。そして4月26日に、1971〜1979年まで当教会の牧師であられた加藤常昭牧師が召されました。本日は、神のもとに召された方々を記念して、その方々の信仰の歩みを振り返る礼拝ですから、生きることの意味や死の意味や、永遠の命と言う事について説教することが普通でありますけれども、本日は「愛」について共に学びたいと思います。
私たちキリスト者の生活は、愛の生活と言って良いと思います。愛を知り、愛を信じて、愛に生きる、それがキリスト者の生活であると言ってよいでしょう。新約聖書は、愛についてずいぶんいろいろなところで書いていますけれども、詳しく書いてあるところは2つあります。1つはコリントの信徒への手紙一の13章「愛の賛歌」と呼ばれているところであります。伝道者パウロは、最も大いなるものは、愛である、信仰・希望・愛の中で最も大いなるものは愛であると語っております。また、ヨハネの手紙においても、愛について詳しく書かれております。このヨハネの手紙は、神が主イエスと言う人間になられ、私たちが神のもとを離れて、背を向けて生活をしている。しかし、主イエスがこの地上に来られ、私たちの罪を償うために肉を裂き血を流してくださった、そこに愛がある、そして神は愛であると語るわけです。
私が神学生の時に、ヨハネの手紙を鷲山牧師が説教されたことを覚えておりますけれども、その説教の中で、神は決断する時、それは全て愛である、と言われたことをよく覚えております。ですから、愛と言うことは、私たちの生活の中心であり、最も優れたものだと言ってよいと思います。
ルカ福音書の10章25節から37節と言うのは、良いサマリア人の譬えで、聖書を読んだことない人でもこの譬え話はよく知られておりますし、いのちの電話のイギリスでの最初の活動はサマリタンと言う名前であります。また、阪神大震災にボランティア活動した埼玉の教会のグループの名前がサマリタンという名前をつけたわけですね。この良いサマリア人の譬えは、読めば直ぐに分かる物語だと言って良いでしょう。傷つき倒れている旅人を、その傍を通りながら関わることをしないで通り過ぎた人々、そしてこの人を助けてくれる人が登場する。傷付いた旅人を助けた人は、この旅人と同じユダヤ人ではなくて、関係が悪かった仲の良くないサマリア人だった。そのような話を主イエスは話されたのです。そして、あなた方もサマリア人がした様に、愛に生きるようにと言われたのです。皆さんご存知のように、この物語は隣人愛を教えるものであって、模範的な愛を教える教えであると受け取っていたわけであります。
よく読んでみますと、良いサマリア人の譬え話は、サマリア人が良いことをしようとする機会を狙っていたわけではない、偶然、出遭ったと言って良いでしょう。たまたま、偶然に起こったことだった。そして、この行為は自分にはできないような、誰でもが賞賛するような大掛かりなものではない、行きずりの事件であったと言って良いでしょう。この良いサマリア人の譬えを語るきっかけは、ある律法の専門家が主イエスを試そうとして、主イエスに聞いたわけであります。律法の専門家とは、戒めを学び、その知識だけは誰にも負けないと言う自負心を持っていた。主イエスという人の実力を試そうと思った。それに対して、主イエスは律法の語る中心は何かと訊いています。律法の専門家は、神を愛し、隣人を愛することであると言っているわけであります。なぜすぐにこのような答えが出てきたかと言うと、1日に2回この部分を唱えていたからです。この律法の専門家は、神を愛することと隣人を愛すること、この二つの戒めをいつも口にしていたのです。そして、主イエスは、正しい答えだ、それを実行しなさい、そうすれば命が得られると勧めています。しかし、そこで話が終わっていないことに私たちは注意をしたいと思います。この譬え話がとても大切なのです。そして、この律法の専門家の問いが、非常に大切であるわけです。
10章29節に、「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、私の隣人とは誰ですか』と言った。」と書かれています。律法の中心が、「神を愛し、隣人を愛すること」だと、そのことまでは分かっている。知識として知っている。しかし、それは知識だけのことだった。ですから、では私の隣人とは誰ですかと、主イエスに質問したわけであります。隣人と言うけれども、隣人が誰であるかということを考えたことも、想像したこともなかったわけです。具体的に愛することを知らなかった。そして、この専門家は律法を守っている人が隣人である、しかし律法を守っていない人は隣人ではないと考えていたわけであります。
私の隣人とは誰ですかと、主イエスに質問していることを、私は考えたときに、現代の人たちは、また別の質問をするのではないかと思います。と言うのは、最近皆さんも気づくと思いますけれども、電車に乗っていて気づくのはほとんどの人がスマートフォンを見ているわけです。周りの人のことを気に留めていないわけです。立っている人がお年寄りあっても、障害を持っている人であっても、スマホに夢中で、周りの人のことに関心がない。私も皆さんも多分経験したと思いますけれども、道路で歩きスマホの人が、向こうから歩いてきてぶつかりそうになったことが何度もある。周りのことに無関心だった。この律法の専門家は、私の隣人は誰ですかと、主イエスに質問していますけれども、現代に生きている人は、「私の隣人はいるんですか、私しかいない」と言うのではないかと思います。
主イエスが、傷ついた旅人を助けた人がサマリア人であると言うことを話したことに、律法の専門家は意外で驚きだったに違いないと思います。先ほど言いましたように、ユダヤ人とサマリア人とは仲が悪い、サマリア人たちが混血であり、ユダヤ教とは別の文化であり、口もきかないほど対立をしていました。律法の専門家にとって、サマリア人は自分の隣人ではなかった。隣人と訳されている言葉は、もともと近いと言う言葉です。近さが問題になるわけです。ですから、この律法の専門家は、自分に近い人は誰かと主イエスに問うた。隣人と言う言葉は、近い人という意味の言葉ですが、私たちは自分を起点にして近い人を愛しているのではないか、自分に近い順から愛しているではないかと思うのです。愛するのに優先順位があり、自分が愛する対象は親や夫や妻・子供・親戚と言う順序で、その順番で愛しているのではないかと思います。一番遠いのは外国人ではないか、あるいは障害を持った人ではないか、施設で暮らしている人ではないか。順位を付けて愛している、これは私たちがいつもしていることではないかと思います。
10章の33節に、大切な言葉があります。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い・・・」と書かれています。この「憐れに思い」という言葉が、とても大切です。最近聖書協会共同訳と言う新しい翻訳の聖書ができました。この聖書協会共同訳では「気の毒に思い」と訳しています。私たちが憐れに思ったと言うよりも、「気の毒だね」と言う理由からそのように訳したのでしょう。しかし、この新共同訳聖書も、その前に使っていた口語訳も「憐れに思い」と訳しています。この訳の方が、原語に近いわけです。この「憐れに思う」と言う言葉は、もともと腸が痛むということで、自分の腹が痛み、胸が痛むほどの同情を「憐れに思い」と言う言葉で用いているわけです。傷ついた人の姿が目に入ったときに、自分の胸が痛む、体が痛む、だから通り過ぎることができなかった、助けないわけにいかなかった、それだけのことだった。たまたま通りかかったところに傷ついた人がいて、憐れに思い助けたわけです。
この物語は小見出しにありますように、善きサマリア人の譬え話と言われてきましたが、最近では、憐れみ深いサマリア人の譬えと言われるようになりました。良いことをすると言うよりも、むしろ傷ついた人を深く憐れむということが主題であると思います。この譬え話を語っている主イエスは、憐れみ深い方であると言って良いと思います。寡婦の一人息子の葬列に出会って、主イエスは、この母親を見て憐れに思い、と言う言葉を使っています。同じ言葉を使っているのです。それは、神様が憐れみ深い方であるからだと言って良いでしょう。
主イエスは、何故この地上に来られたのか。私たち人間が傷ついている姿を見て、憐れに思ったのであります。主イエスがその使命を終えたときに、その身も心も体も、憐れみによって十字架で傷ついたものとなった。私たちの傷をよく知っている、主イエスによって、私たちが助けられたのです。憐れみに生かされたとき、このサマリア人の心で、生きることができた。
私たちは、この人は自分の知っている人だから、困った時に助けよう、この人は自分の知らない人だから、助けないでおこうと、選別しているのではないでしょうか。私の隣人とは誰ですかと問い、主イエスは憐れみ深いサマリア人の譬えを話しました。36節に、この3人の中で誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったのかと問うているわけです。愛する人を順位を限定して、この範囲の人を愛する、愛するに値する人を決めると言うことでなく、そういう考え方を変えて欲しい。今、憐れみが必要な人の前に立って、その人の隣人になることを主イエスは求めたのであります。
このサマリア人は、この傷ついた旅人が、自分の愛が必要だと思ったから、自分のできることをした。自分の隣にいる人が困っているならば、その人を助けて、その人の隣人となる。自分の知らない人であっても、その人の隣人になる。隣人は決まった人、固定された人ではなく、隣に座っている人でも隣人です。電車で自分の隣の座席に座っている人は、くるくる変わります。しかし隣にいる人が困っていたら助けるということを、主イエスは勧めているのです。
このサマリア人は、自分のできることをしただけです。自分のできないことは要求されません。デナリオン銀貨2つと言うのは2日分の給料ですから、少し私たちには高価だと思っているかも知れませんが、デナリオン銀貨2つを取り出して宿屋の主人に支払った。足りなかった分は後で支払うと言った。この旅人は、この後ずっと付き添って宿屋に滞在して面倒を見たわけではない。自分の仕事をするために、宿屋を後にしているのであります。最後まで愛さなければいけない、愛し抜かないといけないということではない。愛と言うと、ノーベル平和賞を貰ったマザーテレサや、アフガニスタンで水路を作った中村哲さんのような事業した人を想い浮かべますけれども、そのようなことではない。小さな愛の業を進めていく。そして、この主イエスの愛の戒めがあるから、どうしても愛さなければならないという律法主義でも、自由な愛に隣人となる。私たちは肉体を持って弱い者ですから、愛することができない時がある。人に仕えることができない時がある。しかし、自分が隣人になると言うことを心掛けているということが大切なのではないかと思います。
キリスト者の生活は、愛の生活。先に召された方々も、イエス・キリストによって、神が愛をもって罪を赦し愛してくださる。その愛によって生活をしたのであります。そのことを覚えて、私たちも愛の生活を続けていきましょう。
お祈りをいたします。
父なる神様。本日は召天者記念礼拝として、私たちに先立ってあなたに愛され、洗礼を受け、あなたの救いに預かった、そしてこの教会で仕えた牧師・教会員・関係者を覚えて、その方々を覚えて礼拝を守っておりますけれども、私たちが隣り人を愛する心豊かな歩みをすることができますように、どうぞ導いてください。私たち罪人をも深く愛する、そのような神様の愛に生かされながら、愛の生活を続けることができますように導いてください。ここに集う一人ひとりの心に、あなたの愛を届けてくださいますように。様々な都合のためにこの礼拝に来ることができない兄弟姉妹をもあなたが導き、ともにこの礼拝に集うことができますように。この1週間もあなたが共にいてくださり、生きる力と勇気と励ましを与えて下さいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
|
|
|
|
20241020 主日礼拝説教 「高ぶりを捨てて」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:詩編109編21〜31節、コリントの信徒への手紙一4章6〜13節 |
|
先週、牧師を養成する東京神学大学からお知らせが来ました。来年の1月7〜9日にかけて教職セミナーの案内が届きました。牧師たちの勉強会ですけれども、 毎年主題があり、例年はキリストについてとか、聖霊についてとか、教会についてとかを主題にして、教師たちの発題や研究発表、話し合いなどをするのですが、来年の1月に行われる教職セミナーは、「教職論」つまり「牧師論」、牧師についての学びをすることになっております。正確には、「福音の担い手、伝道者論を巡って」というテーマであるわけです。私はこのテーマを見て、これは教会にとって非常に重要なテーマではないかと思って是非参加したいと思いました。牧師というのは、教会にとって重要なキーパーソンです。しかし、教会の中では、教会における牧師の位置づけというのは、あまりはっきりしていないのではないかと日頃考えてきました。また、信徒は、教会員はこうあるべきだとか、長老の務めとかは学びます。しかし、教師・牧師については、あまり学ぶ機会はないのではないかと思います。正式には「教職論」と言い換えることができますが、私たちの教会では牧師の教会の中での位置づけというのは、はっきりしないと思います。
少し前ですが、朝ゴミを出しに行った時にこの近くの婦人の方とお会いして、私を牧師さんですか、教会の方ですかと言われて、そうですと答えましたら、この教会はカトリック教会ですかと聞くのです。プロテスタント教会ですと答えました。その方はカトリック系の学校に学んだということです。 少し説明しようかと思いましたが、ゴミ出しに来たばっかりの朝ですから忙しいと思って詳しいことはまた後でということで別れました。
教職・牧師ということを考える時に、カトリック教会との比較の中で考えると、はっきりするわけです。教職の位置付けが明確になっているのは、ローマカトリ ック教会です。司祭はその位置づけがはっきりしています。それは、キリストの代理人で、カトリックの教理書を見ると、信徒とは身分が違うと書いてあります。東京は、東京大司教区ですが、目白の東京カテドラルです。司教が就任するとは言わないで、ちゃんと座る席があるわけです。着座式といって、司教がいれば教会は成り立つということになります。監督制ですから、司教がその教区の教会の司祭を任命し、派遣するということです。
これと全く反対の教会は、プロテスタント教会では、バプテスト教会とか会衆派の教会です。私は昔北九州におりましたが、北九州はアメリカの南部バプテスト教会の西南学院という名前を聞いたことあるかも知れませんが、南部バプテスト教会が非常に盛んな地域で、北九州とか福岡には、教団の教会と同じぐらいの数の教会がある地域です。このバプテスト教会、あるいは会衆派の教会は、信徒の中から牧師を選ぶ。1つの教会で、この人が牧師としてふさわしいと判断して、総会で決定され決議されれば牧師に就任する。これは会衆というものが、決議の根底になっているわけです。
私たちの教会は、長老会で洗礼を授けるのがいいかどうかを決めるのですが、バプテスト教会は、礼拝の後、教会員が集まって、洗礼を受けたいという方が自分の証しをして、質問を受けて、会員が認めれば洗礼を許可することになっています。牧師が辞任すると、その教会の信徒ですから、その教会に信徒として戻るわけです。私たちの教会がバプテスト教会ですと、私が辞任すると、この教会に残って、信徒としていることになります。
私たちが属している日本基督教団という日本のプロテスタントでは一番大きな教団は、牧師の籍は「教団」にあるわけです。ですから、私は信徒ではない。私は牛込払方町教会の信徒ではなくて、長老選挙の選挙権はありません。教団から派遣された教師です。教団の規則では、正教師試験を受けて合格し、按手礼を受けた牧師が教師です。教師試験を受けて按手礼を受けた教師だけが、洗礼式、聖餐式、あるいは祝祷ができることになります。先週、太田梨人神学生と話したら、ある教会で神学生なのに祝祷を頼まれて困った、やってしまったそうです。本当は伝道師も補教師もできるようになりました。按手というのは、教師試験を受けて按手を受けて教師になるのですが、按手礼を受けるのはどういうことかというと、教会であまり話題になったことはないのではないかと思います。牧師も、按手礼について深く学ぶ機会もないし、按手礼について書いている本も殆どありません。聖餐式や洗礼式、祝祷ができる。何故、按手礼が必要なのか。あまり教会では話題になりません。
皆さんは目にするかもしれませんが、カトリック教会とプロテスタント教会とは服装が違います。カトリック教会は祭服です。カトリック教会のミサを見られたことがあるかも知れませんが、ミサ用の服装があるわけですね。普通の時も制服があって、学生服の元になったんでしょう。ルーテル教会もカトリックの神父のような服装をして、ここでも市ヶ谷ルーテル教会の浅野牧師はこういうネクタイをしないわけです。けれども、私たちの教会はスーツとネクタイということで違うわけです。何故そういうことになっているのかというと、やっぱり深い意味があると思います。カルヴァンがカトリックから宗教改革をしたときに、服装も全部変わったわけです。それで大学の教授が着ているガウンを着ることになったのです。
しばらく、コリントの信徒への手紙を学んでいますが、これは、コリントという教会に行って開拓の伝道をしたパウロが、コリントの人々に対する語りかけている言葉が書かれている。パウロがコリントの教会の現状に対して、やはり伝道者に対する、教職に対する見方が非常に無理解である、間違っているということを言おうとしているわけですね。コリントの第一の手紙の3章以下で、教職・伝道者について、教師について述べてきたわけですね。この教職について、今の現在の牧師ですけれども、牧師をどう見るのかっていうことは、それぞれの経験 、牧師との出会いやそういう交わりの中で培ったものと深く関わっているのではないかと思います。私の母は、昭和12年生まれです。牧師の紹介でキリスト者の父親と結婚したんですが、その紹介をしてくださった牧師のことをよく話してくれました。この牧師は非常に釣りが好きで、近くの川で釣りをして、獲れた魚をよく持ってきてくれたと何度も話してくれ、非常に感激したと言っていました。どれだけこの牧師が釣りが好きかというエピソードがあります。戦後、新潟の東中通教会に赴任していたとき、釣りに夢中になってしまって、水曜日の祈祷会を忘れた、教会に戻らなかったので、教会員が探しに行ったっていうエピソードがあるわけですね。釣りバカ牧師ということになります。この牧師が、魚を私のところに届けてくれた、それが非常に印象深かったので、いい牧師だったよ、と母はよく話していました。家族でも、いろいろな好みがあって、私の一番上の兄が高校生の頃、牧師は非常に若者に人気があって、その当時はとても喜んで教会に通っていたようです。とても良い先生だった。若者を育てるのがとても上手だった。ところが、聖書では、自分にとって良い牧師が良いというところに問題があるのだと言っているわけです。それは自分の持っている基準によって、その牧師の品定めをするところに問題があることを言っている。それが根本的な原因だということを言っているのです。
パウロは、神にとってどのような牧師が良いのかということを言おうとしてるわけです。パウロは4章の初めのところで、その教師というのが仕える者だと、キリストに仕える者だと言って、奴隷船の船底で先頭の指揮の下にオールを漕ぐ漕ぎ手である、一番下のところで一生懸命に漕いで行くのが、つまりキリストの福音を一生懸命に伝える者が教職であると言っている。そして、ここでは管理者という言葉が出てくるんですが、神の国の管理者と言われるキリストの福音を大切に保って、そしてキリストの福音を語ることを依頼された、そういうことに対して忠実にそれを語るということが教職の大切なことだということを言おうとしている。神の国の管理者、それは何よりもイエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと、蘇ったこと、それほどまでして神は私たちの罪を赦して愛してくださる、その深い神の愛だけを、忠実に誠実に語ることを命じられてるのが、教職である、牧師であるということを言っているわけですね。しかし、コリントの教会の人々は、パウロを、神が遣わした福音の伝道者とは考えなかったわけです。パウロよりも、自分にとって好ましい説教するアポロ、あるいは、主イエスと地上での生活を共にして主イエスをよく知っているペトロの方が良いと思っていた。また見たことがないけれども、キリストが良いという人々もいた、と書いているわけです。ですから、自分にとって良い教師・良い伝道者ではなくて、神が派遣された教師、人間ですからいろいろな個性がある、牧師は皆違うわけです。良いところも悪いところもあるわけです。欠点があり、不十分であると思っていても、神が派遣された教師であることを信じて、受け入れて行くことが大切だということを言おうとしているわけです。これは、牧師も教会員の方も、共通に言えることですが、聖書に忠実に従っていくということが非常に大切です。聖書を読んでいく時に、どうも分からないことが出てくる。6節の言葉です。皆さんはどのように読んだでしょうか。「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロに当てはめて、このように述べてきました。あなたがたが私たちの例から、書かれているもの以上に出ないことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げて他の一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。」よく分からない言葉だと思います。
分からない言葉の一つは、「書かれているもの以上に出ない」です。「書かれているもの」とは聖書のことです。この当時コリントの教会には、知識人が多くいて、自分の知識によって聖書を理解していた。自分の知識や考えが中心で、間違って聖書を理解しようとしている。聖書には、人間には理解できないことがあり、矛盾があり不合理があるわけです。自分の考えに合わないところは取り除くわけですね。人間の知識や理性に合わなくても、神の言葉として受け入れて受け止めていくっていくことが大切です。けれども、やはり自分の経験したことや、自分が前提してること、自分の知識と矛盾することについては受け入れられないことがあるのであります。
聖書といっても、様々な翻訳があります。日本聖書協会から出ている聖書ではなくて、個人訳の聖書っていうのがあるわけです。最近岩波書店から出た聖書翻訳っていうのを読みますと、少しこの聖書協会ですね、新共同訳聖書とか、最近翻訳された聖書協会共同訳というのとは違う順序で書かれた、具体的に言うと、従来は伝統的にマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという順序です。これは全世界のいろいろな、英語にしてもフランス語にしてドイツ語にしても、その聖書はその順序で並べられているわけです。けれども岩波書店とか、個人訳の田川健三という新約学者がいるんですけれども、その翻訳はこの順序じゃないわけですね。まずマルコが最初に来ているわけですね。それからマタイ・ルカ・・・となるのです。何故マルコからかというと、マルコが一番古いからというわけです。
けれども、何故マタイが最初かというと、神様がイエス・キリストの誕生によって、神の歴史が始まるという信仰から、マタイが最初に来ているのです。マルコ福音書にはイエスの誕生が書かれていません。しかし、歴史的なことを考えてこう順序立てるっていう事ですから、マルコが一番古く、早く書かれたので、マルコが一番先になったのです。
しかし、それはやっぱり、歴史的にはそうかもしれないんですけれども、私たちの信仰を考える時には、やはり神様がイエス・キリストを誕生させたクリスマスから始まるわけですね。歴史を重んじることは大切ですが、そうではなくて、本当は神様との関係の中で考えないといけないのではないかと思うんです。自分を基準にして、聖書をそれに従わせるという、聖書の順序もそのようにさせるということは、やはり問題になるんじゃないかと思います。書かれているものを記されているもの以上に出ない、書かれていることを超えないということは非常に大切なことで、自分の知識とか経験とか考えというものを前提にして 聖書に聴くということではないか。本当にへりくだって、神様の言葉として聞くということが非常に大切なことではないかと思います
この4章の6節でよく分からない言葉は、「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。」と書かれています。コリントの教会では、アポロやパウロやペトロがいて、伝道者の役目を果たしてきたわけですが、コリントの教会の人たちは、伝道者、あるいは教師の品評会をしていたわけですね。パウロが良いという人もいましたし、アポロが良いという人がいた、ケファが良いという人がいた。つまり、自分に良いか悪いかということを決める尺度と物差しを持っている、つまり自分の持っている基準を絶対化するということが、高ぶることだということですね。この「高ぶる」とか「高ぶり」という言葉は、新約聖書には 7回出てきますけれども、そのうち6回はコリントの第一の手紙に出てくるわけです。パウロはこの言葉を多く語っているということは、これがやっぱり一番問題だっていうことを言おうとしてるわけですね。自分の持っている尺度や基準や物差しで判定することはいけないのではないか。これは主なる神だけが、最終的に判定することだっていうことを忘れて、自分が主なる神に先立って、先取りして判定しようとするっていうことは、高ぶることだっていうことを言っているわけですね
10月第1週に取り上げましたが、4節後半から5節前半でパウロは語っているわけですね。私を裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何を裁いてもいけません。神は全てのことを判定するのであって、私たちの判定が、最終的な判定ではない。しかし、その時点で暫定的に評価・判定しているわけです。けれども、それが最終的な評価判定ではない。この高ぶりという言葉が、やはり6回出てくるっていうことは、コリントの教会の人々が高ぶっていた、傲慢になっていた。それでパウロは、このコリントの人々に非常な皮肉を語っているわけです。あなた方は王様のようだ、大金持ちのように振舞っているとか、痛烈な皮肉を言っている。聖書の中で、こんなにコリントの人たちに皮肉を言っているところはない。あなた方は王様のように、大金持ちのように振舞っている。私は、私たちは死刑囚のようだ。これはローマの競技場で、闘士たちが戦う場面を、みんなが、周りの者が見ている。その見世物の最後に、一番の見せ物として、死刑囚を引き出して獣と戦わせて獣の餌にするということがあったようです。そういう辱めを受けている。そういう場面を想像しながら、自分たちはこの死刑囚のように、本当に惨めな存在なのだと。
パウロは神様から遣わされた人であるのに、侮辱されているのです。それにもかかわらず、神の祝福を届けているわけです。この死刑囚というのは、イエス・キリストが死刑囚であるっていうことと非常に深く関わっているわけですね。 非常に侮辱されてですね、神の子であるのに侮辱されて、捨てられて、十字架に付けられ、そのことによって罪の赦しが与えられた。パウロは人々に辱められて死刑囚になっている。高ぶるという言葉の反対は、へりくだる、謙遜ということです。そのように謙遜に、イエス・キリストの姿と同じように、どのようなことがあったとしても、自分は福音に仕えて、人々に祝福をもたらすものだ、それが伝道者であるということを言おうとしてるわけです。
お祈りをします。
イエス・キリストの父なる神様。
教会にとって、教職は本当に大きな役割を果たしておりますけれども、どうかあなたの御心にかなった教職・牧師でありますように、どうか 導いてください。
あなたに仕え、また教会に仕える者となることはできますように。様々な生活の色々な場面での闘いがありますけれども、今週もあなたがその一人一人の闘いを共に戦ってくださり、生きる勇気と望みと力とを与えてくださいますように。温暖化により、本当に温度差のある生活しづらい時ですけれども、一人一人の健康をあなたが支えてくださいますように。様々な事情でこの礼拝に来ることできない兄弟姉妹をもあなたが導いてくださいますように。
この祈りを イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
|
|
|
|
20241006 主日礼拝説教 「私をさばくのは主イエス・キリスト」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:詩編139編1〜4節、コリントの信徒への手紙一 4章1〜5節 |
|
私たちは、他の人からどのように見られているのか、どのように評価されているのかということを、ずいぶん気にしていると思います。何故、人からどのように見られているのか、どのように評価されているのか気になるというのは、学校教育でいつもテストを受けて、点数をつけられてきたということにあるのではないかと私は思います。私は文科系の人間で、理科系の人間ではないと自分で決めつけているのですが、これも学校でのテストの点数によることだと私は思っています。私は中学二年生の時の担任の教師は、運悪く数学の教師でした。この女性教師が私に、山ノ下は、国語、英語、社会は一所懸命に勉強するけれども、私が教えている数学は勉強しないから成績が良くない、と言われたことがあります。高校生になって担任教師は、一年生の時に数学、二年生の時に物理、三年生の時に物理ということで、とても運が悪かったのです。数学や物理の点数が悪くて、よく高校を卒業できたなと今でも思っています。私の兄弟は同じ高校に進学したのですけれども、私の姉は物理がとてもよくでき、同じ物理の先生が担任だったので、「お前の姉さんは100点だったぞ。この点数は何だ。」と言われて、テストを返してもらったことがあります。テストの点数が低いと落ち込み、テストの点数が良ければ自分はかなり良い方だと思うかもしれません。学校でテストの点数をつけられて評価され、また社会に出て仕事するようになっても、また周りの人々から点数をつけられ評価され、周りの人が自分をどのように見ているのか、自分をどのように評価しているのかということを、ずっと気にしているところがあります。テストの点数や周りの人の評価によって、自分はこういう人間だと、自分のことを決めつけてしまうことがあるかもしれません。
コリントの信徒への手紙一は、パウロが書いた手紙ですが、パウロはコリントの教会を創立して、数年間伝道してコリントを去り、その後アポロという伝道者が福音を伝えたわけです。コリントの教会の人々が、パウロをどのように見ていたのか、評価をしていたのか、必ずしも高い評価をしていたとは言えなかったわけです。コリントの手紙の一と二をずっと読んでみますと、コリントの教会の人々がパウロは正式な神様からの使徒ではないと判断していて、パウロは使徒として受け入れてほしいと哀願しているわけです。また、パウロの手紙は重々しいけれども、話は下手だということを語っています。
いま、聖書の通読をしていますが、昨日は出エジプト記4章のところでしたが、そこにモーセが出て来て、モーセは自分の口は重いと言っていますが、パウロも、話は余り上手ではなかったようです。コリントの教会は、パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派というグループがあって、それぞれ伝道者を慕う人々がいたと書かれています。パウロの説教を聞いて感銘を受けた人もいれば、あまり良くないと評価していた人もおり、またアポロが雄弁で学識があるということで人気があって評価が高かった、と書かれています。もし、パウロ・アポロ・ケファ、 この人たちの人気投票をしていたら、多分パウロは第3位ぐらいだったのではないかと思います。
今日のところで問題になっているのは、牧師・伝道者つまり教職のことが書かれているのです。教職=牧師・伝道者というものを、信徒や教会はどのように理解しているのか、これはとても大切なことではないかと思います。教会にとって 牧師・教職者というのは、その教会の命運を握るものだと思います。牧師が変わるというのはかなりの変化ですから、牧師の招聘とかいうことはとても大切なことです。牧師が交替するというのは、教会にとって危機、クライシスであるとよく言われます。神学生の時、1973年4月に練馬区にある中村町教会という教会に転会して、そのすぐ6月に主任牧師が突然、心筋梗塞で亡くなったのです。無牧になりました。毎週、異なった説教者が説教しましたが、牧師招聘ということに備えて、教会懇談会を何度か開きました。司会者が、どのような牧師が良いのか、それぞれの希望を聞いたわけですが、ある人は前任の牧師が良い、あるいはイエス様のような人が良い、とそんなありえないことを言う人がいました。あるいは婦人が多いので、優しい牧師が良いとか色々な意見が出たわけですが、 私は懇談会に出席して思ったのは、自分にとって良い牧師のことを話したけれども、教会における牧師の位置や職務については全く触れなかったということです。
コリントの一の4章1〜5節の御言葉をこの礼拝で聴きましたけれども、4章1節でこういう風に語っているわけです。「こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。」パウロはアポロも含めて信徒たちの立場から、自分の好みで説教が良いとか悪いとか、あるいは信徒たちが点数をつけて評価している、そういう中で教職とは何か、その本質と意味というものをここで語っているのです。4章1節で、「人は私たちをキリストに仕える者」と言っています。 仕える者という言葉は、他のところでは、ディアコノスという言葉、これはイエス様も語っておられますが、食事の給仕をする、家事を執り行うという言葉です。ディアコノスとは、泥をかぶるという言葉ですが、食事を作ってそれを給仕するってなかなか 重労働ですけれども、この言葉を使っています。ここでは別の言葉を使っているのです。どういう言葉かというと、船底で櫓を漕ぐ奴隷のことで、仕えるという言葉で言っています。この時代の奴隷船、ガレー船の船底で、先頭の指示通りに櫓を漕ぐ者という言葉が、この仕える者という言葉で使っています。私は中学生の時に、「ベンハー」という映画がありました。知っている方はかなりの高齢者だと思います。何度かこの映画を見ましたが、ベンハーが奴隷として、ローマの奴隷船の船底で、鎖につながれながら櫓を漕いでいる場面が印象深かったです。非常に過酷な肉体労働で、非常に厳しい仕事です。
パウロが、船底で櫓を漕ぐという言葉を、なぜ使ったのだろうか。それは、教会を船として譬えているのです。イエス・キリストが船長で、そのイエス・キリストである船長の命令に服して、キリストの身体である船が、荒波を切って力強く前進するように、櫓を漕ぐという、船底の一番下のところで、その労役に服する者、それが伝道者・牧師だということです。現在の牧師は、私もそうですが、若い頃から先生、先生と言われてきて、良い気になって偉そうにしていますが、元々は、奴隷船の一番下の船底で、一所懸命に櫓を漕ぐ、肉体労働をするわけですから、下っ端だと言っていいと思います。ある人は、この奴隷船の船底で櫓を漕ぐということは、小型のヨットを操るように進むのではない。というのは、小型のヨットのように、自分で全てを操縦して、好きな方向に自在に船を進めるようなものではない、と言います。船底の櫓を漕ぐ位置について、鎖でがっちりとつながれた者として、キリストのご命令に従って、ドラムに合わせてオールを漕ぐ、これが、伝道者・牧師の基本的な姿ですから、牧師は掃除もするし、下っ端で身を粉にして働くのが牧師です。私は若い頃から牧師先生と言われていましたから、皆さんには偉そうに見えるかも知れませんが、本来はそうではありません。
この櫓を漕ぐというのは、具体的にどういう活動を務め、職務をしているのかと言うと、パウロは、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです、 と語っています。今使っている新共同訳聖書では、翻訳理論、文脈で言葉を変えていいという翻訳理論ですから、何となく回りくどい翻訳です。元々は、神の秘儀を管理している者、この方がすっきりしています。神の秘儀・奥儀というのは、キリストの福音のことです。管理者とは、家事の一切を取り仕切る者、財産管理人、あるいは、ある注解書に書いてありますが、コック長だと言っています。この仕事は、奴隷が任じられていたのです。主人であるキリストの命令に従って、福音を福音たらしめる役目を任じられた者だ、福音を管理する者だというわけです。管理をする責任がある。福音を変質させたりする、そういうことがないようにすることです。
福音を変質させるというのは、イエス・キリストの十字架の贖いを語らないで、人間中心主義、ヒューマニズムで、主イエスが差別され、抑圧された者の友として、その生き方に倣うということを主張する人たち、牧師が教団の中にいるわけですが、それは福音の変質である、と言ってよいと思います。ただ、キリストの十字架の死と復活のみを語ること、それが船底でオールを漕ぐことになる。これこそが キリストの福音を前進させ、キリストの船を進めることになるのだという風に言っているわけです。私たちの罪を赦すために、十字架において贖ってくださった神の愛を、私たちは告白し、賛美をするわけです。2節にこういう言葉があります。「この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」
キリストの福音を伝える時に、私たちは福音が相手に受け入れやすくしたいと思って、教会に来てほしいというように、受け入れやすいようにということを考えます。説教も、分かりやすいように語る。どうやって伝わって行くか、ということを考えるわけですけれども、そこにやっぱり危険がある。教会でも、礼拝もそうです。ハードルが高いです。ハードルを低くして皆が来てほしい。そうなると、キリストの十字架の死を取り除いたり、あなたはありのままで良いですよ、そのままで良いですよと言う説教になる。イエス様はあなたを好きですよ、そういうこと言う牧師もいるわけです。聞く者にとって心地よい言葉ですけれども、それは福音ではないのです。
一番ハードルが高いのは、やはり罪ということを言うからでしょう。 あなたには罪がある、神様から離れてる、とか言うと、そんなことない、となります。前にも話しましたが東大宮教会で礼拝説教に初めて来た方が、その日曜日の夕方に電話があって、何故そんなに罪だって言うんだ、おかしいではないか、と電話してきた人がいました。やっぱりあなたは罪人だと言われてカチンと来たんでしょうね。しかし、ハードルを下げて、ハードルを無くしてしまうことはできない。
この「忠実」という言葉は、「信仰」とつながって関係が深く結び付いた言葉ですから、真実とか、信仰という風に訳しても良い言葉です。福音を変質させることなく、人間の知恵によって相手に合わせることなく 、神に対して真実に語り伝えていくことをパウロは語っているわけです。
今日のところは、4章1〜5節ですけれども、この3〜5節の後半は、私たちにとって非常に大切なことが語られている。私がとても好きなところですね。 私たちは一緒に生きている時に、そういう人に対して、評価をしているわけですね。 判断している。いつもそうです。この人はこういう人だ、仕事でも、この人は勤めをきちんと果たしている人だ、あまりしてない人だ。この人は如才なくて調子が良いけれども、あまり仕事もしてない人だ。私たちは人を評価しているわけです。この評価をしているということには、私たちに大きな罪が潜んでいるのじゃないかと思うのですね。評価するということは、人を支配するからです。
私も大学でキリスト教概論を長く教えていましたから、学期の終わりに採点表を教務に出さなければならないですね。私は大学は絶対評価であると思って、50人中35人はみんなAを付けました。Aは80点以上です。そしたら教務の人から電話がかかって、「先生、これはまずいです。大学と言っても相対評価だから、Aは10%、Bは70点以上の人で30%、Cは60点以上の人で30%にしてほしい。」困りました。相対評価とは思わなかった。学校だと先生が自分をどのように評価しているのかっていうことが、非常に気になっている学生が多かったわけです。学生たちは、自分の成績が何点であったか、よく覚えています。ある時、神学校の卒業生の集会があって、東神大のある先生が来た時に自己紹介したのですが、先生から私はAをもらえると思ったけどBだった、と抗議していました。ですから、採点された点数はよく覚えています。点数を付けるということは、その人を支配することになるのではないかと思います。
私は東神大で、図書館でアルバイトしていましたが、ある時、熊野義孝という先生が退官した後、週に一度大学に来て、図書館で本を読んでいました。そこに偶然、左近義慈という旧約考古学では大御所と言われている先生が図書館にきました。昔、左近先生は教務課の主任だった。私たち学生に、熊野先生は採点表を出さなかった、本当に困った人だ、という話をしていました。私にも、この先生は立派な先生だけど、本当に困ったと言ったわけです。そしたら、熊野先生は、「人が人を採点するのは良くない」とそう言いました。
パウロは、自分の存在や自分の働きについて、コリントの人々に採点されていたのです。そういう闘いがあって、なかなか自由にはならなかった。しかし4章3節に「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでもわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」この言葉はあまり注目されないかも知れませんが、とても大切な言葉です。
「人間の法廷」という言葉は意訳であって、口語訳は、「人間の裁判」と訳されています。人間が人間を裁く、という言葉です。パウロは、他の人が自分をどう評価しているか、気にする必要はない。他の人の評価からも自由だ。気にする必要はない。パウロは、自分は他の人がどう思っても、私は自由だ。と言っています。「自分で自分を裁くことすらしません」、この言葉はとても大切です。点数が悪いから自分はダメだ、こういうことはできないから、自分はダメな人間だと思う必要はない。自分で自分に点数を付けて、決めつけることはない。これは大きなことです。自分をどう見ているかは問題ですが、自分をこうだと決めつける必要はありません。点数が悪いから自分はダメな人間だと決めつける、自分は失敗ばかりしているからといって、責める必要はない。
私はこの言葉がとても大好きです。自分は伝道者で、パウロは伝道者に相応しいとか相応しくないとか、あるいはキリスト者として相応しいとか相応しくないとか、自分の目、他の人の目で自分自身をがんじがらめにする必要はない、私を本当に裁いてくださるのは、キリストであって、主が来られる時に、初めて全ての評価が明らかになると言っているわけです。ですから、コリントの 一4章5節の、「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」と言っているのです。他の人からの評価も、自分自身に対する評価も、気にする必要ない、もっと自由に生きなさい。
私たちを正しいとする、正しいとは「義」という言葉ですけれども、正しいとするのは御子イエス・キリストだ、キリストのいさおしによって、キリストの贖いによって義とされる。その方が私たちを最後に褒めてくださる。 立派に生きたからではなく、最後にキリストの義をいただいているから。人からの評価や、また自分に対する自分の評価非常にからも自由だと。それはイエス・キリストの義をいただいているから。私たちの罪を赦してくださり、受け入れてくださる方がおられるから、大丈夫なんだ、気にする必要はないんだ、ということを、今日私たちに伝えているわけです。
お祈りをします。
父なる神様。あなたの豊かな恵みの中に、私たちを置いてくださり、どうか他の人からの評価や、自分自身に対する自分の評価をも気にすることなく、あなたから与えられた賜物を生かして自由に歩むことができますように導いてください。 それぞれ賜物を活かして、教会の業のために使うことができますように。
暑い夏が過ぎ、次第に涼しくなってきましたが、体調を崩している兄弟姉妹や、自宅療養している兄弟姉妹、暫く教会から離れている兄弟姉妹をもあなたが御心の内においてくださいますように。この一週間もあなたが共にいてくださり、生きる力と勇気を私たちに与えてくださいますように。これから聖餐をいただきます。私たちの罪のために贖ってくださる、そのことをこの目で、この口で、私たちの身体で味わうことができますように。この一週間も、あなたが共にいてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン
|
|
|
|
20240922 主日礼拝説教 「私たちはキリストのもの」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:イザヤ書51章12〜16節、コリントの信徒への手紙一 3章18〜23節 |
|
牛込払方町教会は2027年に創立150周年を迎えることになっております。長老会でどのような迎え方がいいのかということを話し合って、1つの提案がありました。長老会で提案されたことは、旧約聖書の創世記から新約聖書のヨハネの黙示録まで毎日一章ずつ通読して行こうという提案がなされました。私はその提案があった時に、とても良い提案であると思いました。記念事業ですから何かイベントをしようという発想があるのですが、この150周年を迎えるために、どのような信仰の姿勢を整えていくのかということが大切で、やはり聖書を読む、聖書を通読するということで備をして行こうということに大変深い意義があると思います。2027年11月14日(主日)に、皆さんが真面目に一所懸命に一章ずつ読めば、ヨハネ黙示録最後の章で終わるということになっております。そのように読み終わるように工夫された表が礼拝堂の後ろのところに置いてあります。 そして読んで分からない言葉や内容があれば、ノートが用意されていて、ポストイットにその疑問や分からないことを書いて欲しいということで、それも用意されているわけです。私はそれを読んで、少し悩むようになりました。何故悩むのかというと、かなり難しい質問が書いてあるからです。ですから、まだ回答はしていません。
東京神学大学のある学年の学生が卒業して10年になるので、東京神学大学の教師に、これから牧師として、伝道者として仕えていくために必要な言葉を書いて貰おうという提案があって、東神大の教師たちが文章を書いております。 それを見せてもらったわけですけれども、目に留まった言葉がありました。 神代真砂実という学長が書いている言葉です。短い言葉です。古代教会のアウグスチヌスという人が書いている言葉を引用しています。 こういう言葉です。
「私が聞きたいことをあなたに求めることではなく、あなたが語られることをそのまま受け取ることが最上の僕なのです」ということです。 「あなた」とは神のことで、あなたが語られるということは、神の言葉、現代では聖書の言葉のことですけれども、聖書の言葉をそのまま聞いていくことが最上の僕なのです。無心になって、聖書そのままに聴いて行くのだということです。
私は説教塾で加藤常昭先生にいろいろ習いましたけれども、説教塾の最後に加藤先生は、払方町通信にも書いてありますが、「聖書から説教ではない。 聖書から聖書だ。そういうことだよ。」と言われた。この言葉をとてもよく覚えております。「聖書から説教ではない。 聖書から聖書だ。それが説教だ」と言われたのです。
本日、コリントの信徒への手紙一を読みましたが、パウロはコリントに福音を伝えて、教会を設立した後に、パウロはコリントを去りましたが、コリントの教会が混乱していることを聞いて、コリントの教会を立て直すために、コリントの教会の人々を説得しているわけです。コリントの教会の人々が、キリスト者として生活できるように、神の御心に適うキリスト者になるようにと、パウロは 力を込めて 説得をしているわけです。
このコリントの信徒への手紙一のところでは、1章18節から、真実の知恵とは何かということをかなり長く書いてきました。この礼拝の聖書箇所、3章18〜23節で、もう一度 コリントの教会の人々が神の真実の知恵に生きることを願って、パウロは書いております。コリントの町はギリシャにあります。
1章にありますけれども、ギリシャ人は知恵を探す、と書いてありますように、 コリントの教会に集っている人たちも、この世で知恵あるものだと自負していたわけです。この世という言葉を 聖書が使う時に、あまり良い意味で使われてはいません。コスモスという言葉ですが、「世」という言葉、この世界という言葉は、神から離れている、神と敵対しているという意味で使われています。 神から離れたこの世の知恵、それは人間中心の知恵だ、この世の常識だ、 そういう意味で この世の知恵という言葉を使っているわけです。
パウロは、コリントの教会の人々が、 自分たちは知恵あるものだと思っているけれども、それは自分の本当の正体、本当の姿を認識していないと語っているわけです。 知識や処世術のための知恵を持って、これでやって行けると自分は考えている、 コリントの人々は考えているかもしれないけれども、 それは本当の姿、実像ではない。 自分の知恵で生き抜くことができると考えているかも知れないけれども、それは自分を欺いてることだという風に言うんです。パウロは、誰も自分を欺いてはなりませんと 語っているわけです。誰でも、人からあなた愚かだ、バカだと言われて、良い思いをすることはないわけです。 自分が無能で頭が悪いとは思いたくない。テストの点数が悪ければ、あるいは、学校の入試に落ちたならば、自分が愚かであり、実力がなく無能だということを嘆くことがありますが、そうは思いたくないわけです。
パウロはコリントの教会の人々が、本当の自分の正体や実像を認識していないのではないか、自分の別の正体、別の実像があるということをパウロは語っているわけです。神との関りで与えられた 自分の正体、神との関わりで与えられた自分の実像だと、そのことにコリントの教会の人々に目を向けてほしいと、そのように言っているわけです。
この手紙の3章に戻りますと、3章16〜17節にこういう言葉があります。 「あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。 神の神殿は聖なるものだからです。 あなた方はその神殿なのです。」知恵ある自分を、本当の自分の姿である、実像であるというのではなくて、本当の自分の姿というものは、ここにあるということを 聖書は語っているわけです。コリントの教会の人々は、洗礼を受けた人々です。 洗礼を受けたということは、自分が自分の生活の主人公ではなく、神の霊によって生活するものになったわけです。 自分の生活 の主人公が自分ではなく、 聖霊の導きによって生活するということを、パウロはここで語りたかったのではないかと思います。
神に、良いものとして作られたにも関わらず、神から離れて、神に背を向けていく、そこには神による審判による死しかない。 しかし、イエス・キリストは、この死を、審きを、神の審判を引き受けてくださり、私たちは滅びることがなく生きるものとなったのであります。そして、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪赦された者だ、それが真の実像である、真の自分の姿であるということを言おうとしているわけです。
人間のこの世の知恵によって生きているコリントの教会の人々に、真の神の知恵は何かということを、パウロは語っているわけです。6章19〜20節では、「知らないのですか。あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
コリントの教会には、もう一つの問題がありました。それは コリントの教会の中で、特定の伝道者を慕うグループが存在していたことであります。 パウロはコリントの手紙一の1章の初めのところで、コリントの教会の人々が一致するように勧めているわけですね。コリントの教会の信徒たちの間には争いがあった。1章12節に、「私はパウロにつく、私はアポロに、私はケファに、私はキリストに」という、そういうグループがあったと書かれています。人が集まるとそういう好み、好き嫌い、気が合うとか気が合わないという、そういうことでグループができるわけです。パウロは教会の創立者であり、アポロは雄弁家であり、ケファつまりぺトロは地上におられた主イエスをよく知っている人物であったわけです。そして、私はパウロ先生に、私はアポロ先生に、私はケファ先生に、そして興味深いことに私はキリスト先生にということでグループができ、互いに批判しあっていたということが書かれています。
パウロはコリントの教会を創立した人なので、その頃から知っていた信徒たちもいましたし、その後アポロが説教し、その雄弁さ、博識に魅力を感じていた人たちもいたに違いない。ペテロには主イエスをよく知っていたので、もっと主イエスのことを知りたいと思っていた人たちが、ペテロの周りにいたに違いない。キリストはこの目で見たことはないかも知れないけれども、しかし深く愛していた人たちがいたに違いない。人間的な動機でグループを作り、先生と弟子のような関係で結びついていたということが分かるわけであります。しかし、教会は、人間の好みや利害で結ばれている共同体ではありません。血縁や地縁や利害によって、また好みによって結ばれているのではなく、キリストによって新しい関係で結ばれた共同体であるはずです。
皆さんはマルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書に記されている一つの物語を知っているかも知れない。主イエスのところに、お母さんのマリアが訪ねてきたので、弟子たちが、マリアが来ています、お母さんが来ていますと伝えたところ、主イエスは私の母、私の兄弟とは誰かと語ったのです。お母さんが来たのだから、迎えに出て、よく来たねと挨拶するのが本当ではないかと思いますけれども、そうではない。私の母、私の兄弟とは誰か、と答えて、その後、ここに私の母、私の兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、私の兄弟姉妹また母なのだと語っているわけであります。教会では、兄とか姉とか、その起源になっているわけですが、そのようなことを主イエスは語っている。人間の好みや血縁や地縁や利害でつながっている。そういうことは、キリストにある共同体としては相応しくない。この共同体は、イエス・キリストによって罪が赦された、新しい関係において、共に生きる共同体が教会だということを言おうとしているわけです。パウロによって、コリントに福音が伝えられて、その後アポロに引き継がれて説教し、ペトロも説教に加わり、それぞれ慕うグループができていたのですが、3章21節で、「ですから、誰も人間を誇ってはなりません」と語っているわけです。自分が知恵あるものであると、自分を誇り、自分が慕っている伝道者を誇って、他の伝道者を排斥している。そのことに対して、パウロは警告をしているわけです。
その後に、聖書は、全てはあなた方のものです、という風に書かれているわけですけれども、この言葉が説教の準備をしていてどういう意味があるのか、どういう意味で繋がっているのかということがよく分からなかった。ですから、誰も人間を誇ってはなりません、全てはあなた方のものです、どういう意味で繋がっているのか、随分考えましたけれども、私は22節のパウロも、アポロも、ケファもと、その言葉に一つのヒントがあると考えて解釈をしました。
コリントの教会に、パウロ、アポロ、ケファがやってきたのは何のためであったか、ということです。コリントの教会に伝道者がやってきて活動したのは、パウロを慕うグループを作るためではないのです。アポロのファンクラブを作るためではないのです。また、ケファを慕うグループを作るためではない。コリントの人々が、イエス・キリストの福音を受け入れ、その恵みによって生きるためだということです。キリストの福音を伝えて、信仰を与えられた者が、恵みに与るために伝道者を働くわけです。すべてはあなた方のもの、私の言葉で言い換えると、すべてはあなた方に与えられているもの、ということです。すべてはあなた方のもの、つまり、すべてはあなた方に与えられているものだと、そのコリントの人々が恵みに与るため、その恵みによって生きるために、伝道者はその働きがある。キリストの恵みがコリントの人々のために、また、その所有になるために、パウロやアポロやケファは働いて来たのです。
3章21〜23節の言葉を考えるときに、参考となる言葉があります。ローマの信徒への手紙8章31〜39節の言葉です。神が私たちの側に味方となってくださっているので、様々な困難があっても、神の愛から切り離すことはできない、と語っているわけです。誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。キリストの恵みが私たちに与えられて、私たちのものとなる、それはキリストの愛が私たちに宿っているからだと、聖書は私たちに語っているわけです。
イエス・キリストは私たちの側にいてくださり、共にいてくださるから、この人生の中で、ここに「生も死も」と書かれていますが、生きる時も死ぬ時も、あるいは、死に直面するときにも心配することはないのだ、全てキリストの恵みが、あなた方に注がれており、聖霊によって私たちは恵みによって守られているから、大丈夫なのだということを言おうとしているわけです。
お祈りをいたします。
イエス・キリストの父なる神様。
たいへん暑い夏を過ごして参りまして、体力的にも衰え、心身ともに疲れやすくなっておりますけれども、愛する兄弟姉妹ともに、この御堂に集い、共に礼拝し、あなたの御名を賛美し、あなたの御言葉を聞くことができましたことを感謝いたします。 私たちが、この世の知恵によって歩むことなく、 イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦された者として、その恵みを存分に受けて、生きる勇気と力を与えられてこの1週間も過ごすことができますように。 一人一人をあなたが顧みてくださいますように。様々な事情があってこの礼拝に出席できない多くの兄弟姉妹をも、あなたが御心の内においてくださり、 この1週間も 共にいてくださり、気力と力とを与えてくださいますように。病の中にある者、身体が弱っている者、しばらく教会を離れている兄弟姉妹をも、あなたが御心の内においてくださいますように。
この祈りを イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
|
|
|
|
20240908 主日礼拝説教 「キリストという土台に立つ」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:マラキ書3章1〜5節、コリントの信徒への手紙一 3章10〜17節 |
|
20240908 聖日礼拝 説教 「キリストという土台に立つ」 山ノ下恭二牧師
マラキ書3章1〜5節、コリントの信徒への手紙一 3章10〜17節
私が牛込払方町教会に赴任する前は、さいたま市にある東大宮教会に25年おりました。この東大宮教会に赴任した年は1989年4月でした。それまでは原田史郎、多恵子牧師夫妻が12年間牧師をなさっていて、1989年1月に新しく献堂式を行いました。原田牧師は1月に献堂式を行った後、4月に新潟の東中通教会という教会に転任されました。私が2月頃に面接に行った時に、原田牧師は新しい会堂について話をしてくれました。一番大切なのは、この会堂の基礎工事をしたことだと言っていました。基礎工事で、地中を非常に深く掘って、会堂が揺るがないようにしたと言われました。そして1つのエピソードを語ってくれました。この会堂の隣に、本田さんという方がおられて、本田さんのおじいさんが工事現場に来て、どういう工事をするのか見ていたところ、この地中を非常に深く掘っているので、原田先生に高いビルでも作るんですかと言われたそうです。そうではありません、2階建ての会堂を建てるのです、と答えたので、こんなに深く掘るのでびっくりしましたと言うのです。本田さんはその土地を売って、少し奥まったところに引っ越しをして新しい住まいを建てた時に、大変深く掘って基礎を作り、建築を始めたという話を聞きました。東大宮教会は電車の線路に近いところにあるので、電車が通るたびに会堂が少しガタガタと揺れるのです。私が赴任した時に、夜中に貨車が通ると、また電車が来るたびに揺れて、起きるようなことがありました。後には慣れましたが、電車が来るたびにガタガタと揺れるので、それもあって深く掘ったのかと思いました。それだけではなく、原田牧師は基礎工事が大切だと言われていました。
パウロは、キリストの福音をコリントの人々に伝えたわけですが、パウロの働きについて、10節後半に、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」と語っています。パウロは自分のことを、熟練した建築士になぞらえて、建築士とは設計士と現場監督、設計管理者を合わせたものですが、熟練した知恵のある設計監理者として、自分はしっかりと教会の土台を据えたと語っております。それを、自分の力を誇るように言うのではなく、神から頂いた恵みによって、と言っています。
異教の地に福音を伝えるということはなかなか大変なことです。この教会の初代牧師の小川義綏という方は、タムソンという宣教師に日本語と、日本文化を教えたのです。神様でも、日本の神様と聖書の神様は違います。それを伝えていくのは、なかなか苦労の要ることです。パウロは異教の街コリントで、福音を語ることによって、教会の土台を据えることができたと語っているわけです。
この土台というのは、どのようなことでしょうか。11節に、「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して」とありますので、この土台はイエス・キリストという土台だということがはっきりしているわけです。パウロが語った土台は、イエス・キリストの福音です。2章1〜2節に、そのことをはっきり語っています。「兄弟たち、わたしもそちらに行った時、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と言っているわけです。イエス・キリスト、それも十字架につけられたイエス・キリスト以外は、語らなかった。それしか知るまいと、決意したのです。
コリントの手紙一の15章3節で、「最も大切なこととして、わたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてある通りわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと」だと言っています。パウロが言う福音の中核・中心というのは、キリストが、私たちの罪のために代わりに死んだ、贖罪を成し遂げたことだということです。
このことが、 教会では、常に揺らぐことがあります。この教会では絶対にしませんが、洗礼を受けていない方に聖餐のパンと杯を渡すということが行われている教会があります。これはキリストの贖いということを、本当の意味で大切にしないからです。洗礼を受けていない方に聖餐を上げないのは差別だとか、あるいは人間は平等だからということ言うわけですけれど、キリストの贖いを信じていない人に、聖餐を上げるのは無駄なことです。
パウロは、イエス・キリストの十字架の贖い、キリストの福音という土台の上に、建物を作るのだと言います。しかし、土台だけでは家にはならない。土台の上に、どのような建築材料を使うのかということであるわけです。聖書を読むと、面白いことが書いてあります。建築材料について、金・銀・宝石を用いる、あるいは木や草・藁を用いるかによって、建物が変わってくる。最近は欠陥住宅があって、見栄えは良いが、水漏れや塗料が剥げてきたとか、手抜き工事で非常に困っている人がいます。土台はしっかりしているが、その上に建てる建築の材料が粗末だったら、住むことはできない。金・銀・宝石というのはしっかりした建物となって、火事があっても焼けることがなく、水害があっても水浸しになることはない。しかし、木・草・藁というのは燃えやすい、焼けてしまう。 あるいは、水害を防ぐことができない。土台はしっかりしていても、焼け落ちてしまうし、水浸しになってしまう。私たちは建物というと、 教会堂を思い浮かべますが、パウロが言う建物とは、会堂ということよりも、むしろ集まっている人たちのことを言っているわけです。教会堂とか教会という建物よりも、キリストの名において集まっている群れのことであるわけです。教会堂の建物から電話をしていると、相手が今どこにいるのと言うので、今教会にいますと言います。しかし、正確に言えば教会という建物にいますというべきですね。そこまで厳格に言う必要はあるかどうか、問題だと思いますけれども、会堂にいるのと、教会にいるのは違うのです。
最近、コリントの信徒への手紙の説教をするので、最近翻訳された「使徒パウロの神学」という本にこういう文章がありました。パウロは建物の中にいることと、教会に集うことと同じではないと言っているのです。教会堂と教会とは違う。コリントの教会は、会堂を持っていなかったようです。コリントの教会員で、自宅が20名から30名入る家を持っていた人から借りていた。家の教会だったということを言っているわけです。パウロはコリントで、キリストの福音、贖いを伝えて、そしてコリントを去ったわけですが、その後にアポロや他の人たちがコリントの教会に来て、礼拝説教をしてきたわけです。
牛込払方町教会も、戦後、中山年道牧師、加藤常昭牧師、松永希久夫牧師、大久保照牧師、代務者でしたが神代真砂実牧師、山本信義牧師、そして山ノ下が礼拝説教してきましたけれども、やはり福音が語られていたに違いないと思います。それぞれ個性があり、持ち味が違いますが、イエス・キリストという土台の上に福音を語ってきたに違いない。パウロが据えた土台の上に、どのような建築材料を使うのかっていうことをパウロが問うているのは、やっぱりコリントの教会に集っている信徒たちに問いかけていることです。
教会という共同体の中で、コリントの教会の人々がどういう姿勢で教会生活をしているのかということが問題です。自分たちが満足するような教会を作っていこうとしているのか、あるいは、自分の都合を優先するような生活をしているのか、それとも神の言葉に従うという姿勢でいるのか、こういうことが問われているのです。今はあまり言いませんが、私たちキリスト者は教会を建てている。教会形成という、教会を形作っている、それは一人ひとりの生き方、一人ひとりの働きの真価が問われているわけです。どういう働きをするのか、どういう生き方をするのかということが、相応しいのか、それは終わりの時に明らかになるのだということをパウロは言っているわけです。自分の判断でこうしたら良いというのではなくて、やがて審判があるのだということを言おうとしているのです。ですから3章13節に、こういう言葉があります。「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」どういう家を建てたのかということは、災害や水害が来ると直ぐに倒れてしまう、そういうことを検証する。本当の地震もそうです。欠陥住宅だったということが分かります。そういうことが無い時には、見栄えがよい丈夫な建物だと見えますが、そうではない。私たちの全ての働きが明るみに出されるのは、そういう日が来る、火が現れる、火が私たちの働きがどのようなものであったかを吟味する。吟味するという言葉は、検証するということです。これは今でも使うのではないでしょうか。事件があった時、検証委員会を立ち上げて、検証し、問題の所在、どこが失敗だったかを問題にする。たとえば、いじめがあった時に、第三者委員会を作って、どこに問題があり、いじめがあったのか、ということが検証されるということです。
ですから、私たちの生き方や、教会に仕えている働きが検証されるのだということです。このことは私たちの意識の中にないのではないでしょうか。現代のキリスト者は、神の審判ということを全く考えていない。今が良ければ良い、と考えていますから、神の審判、神の審きということはないのではないか。自分のしたいようにしたいという気持ちが強くて、神様の御心に尋ね、神様の前に、これで良いのかっていうことを問うということはないわけです。そこが、現代に生きている私たちの一番の問題ではないか。最後の審判の日によって、私たちの働きの真価が明らかされる。その姿が明らかになる。その時までは各自の働きの本当の正体は分かりにくい。外見からは、非常に見栄えのいい立派な建物に見えても、何かあると、また災害とかいろんなことが起こると、こんなひどい建て方をした欠陥住宅だってこと分かるわけです。ですが その時が来なければ、分からない。しかし、その全てはその日には明らかになるわけです。私たちが満足する教会を作る、あるいは自分にとって居心地の良い教会を作ることに対して、聖書の言葉に従って教会を作るのだということを、聖書は言っているわけです。
私はいくつもの教会を経験しましたけれども、神学生の時代に、中村町教会にいましたが、この教会は阿佐ヶ谷東教会という教会で紛争があって、200人位いたんですけれども 100人出て中村町教会に移りました。非常に揉めたんです。これは大学紛争と関係しているのですが、揉めた教会でした。どこの教会でも揉め事があって、その原因は、神様の家で自分中心に考えていくことです。自分の意見と違うと対立していく。自分が主役になって、互いに争うということがあるのです。教会に集っている人びとは、御言葉に従って、御言葉に打ち砕かれて、謙遜に従っていくことが求められることではないか。岡山の蕃山町教会で副牧師として3年間伝道していましたが、この教会は、教会の伝統を大切にしていました。二つの伝統・精神とよく言っていました。一つは水野精神。水野浩四という長老が、どんなときにも、礼拝に出席し御言葉をきいていた、その姿勢を受け継ごうという精神です。この教会もそういう精神があると思います。そういう精神を受け継いで行こうというのです。いつも同じ席について、御言葉を聞いていた方です。どんなことがあっても礼拝を大切にしていこうという方でした。もう一つは山本精神という。山本節次郎という方、長く長老をなさった方ですが、この方は息子さんの影響もあって、息子さんは山本和(かのう)という方で、この神学者の影響でバルト神学の読書会をもって勉強していました。そういう二つの精神を継承していく、そういうことが教会にとって大切なことです。
またパウロが言っているのは、聖霊による支配ということです。この3章16節にこういう言葉があります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」あなた方の内に、神の聖霊が住んでおられる。神の神殿であるということ。教会は神が臨在される場所だ。いつも神が共に住んでいるところだ。そういうことを忘れているのではないかということを、パウロは問うているのです。神が聖霊によって臨在している。そのことを信じて生活することなのだということを言っているわけです。
最初の教会で、そのことに失敗している事例というものがあるわけです。使徒言行録5章に、アナニアとサフィラの事件がある。この夫妻が失敗した事件がある。土地を売って代金をごまかし、一部を献げた訳ですが、神様はいない、神様は見ていないと思って、聖霊を信じていなかった。しかし、この聖霊を欺いて 土地の代金をごまかしたということで、死んでしまうという事件です。人間を欺いたのではなく、神を欺いた、神がいないかのように振舞っている、そういうことの警告がなされているわけです。私たちの中に、神様がやはり臨在し給うた。 聖霊が支配していた。礼拝の中で、神が聖霊において、私たちに出会ってくださる。その神様と出会っている場所が神殿である。この神殿とは、広い建物の神殿、大きな神殿、建物という意味ではなくて、エルサレム神殿で年に一度、大祭司が聖所に入って罪を赦してもらうための犠牲を捧げている、そういう神様と出会う最も中心的な場所、ナオスと言うのですが、そういう中心部に聖霊によって私たちが罪の赦しを受けているのだ、その場所が神の神殿なのだ。つまり、礼拝において私たちが、御言葉と説教において私たちの罪のために、肉を裂き血を流してくださった、その恵みを受ける、受け続けることが私たちにとって大切なことなのだということを、パウロは言おうとしているのです。
お祈りをします。
天の父なる神様。暑い夏が過ぎ去り、まだ暑さが残りますけれども、健康を支えられて、兄弟姉妹と共にこの御堂に集い、あなたの御言葉を聞くことが赦され、ありがとうございます。私たちは様々な過ちを犯し、またあなたがいないと思って様々な罪を犯しますけれども、どうか私たちに聖霊を送ってくださり、あなたがイエス・キリストによって、罪の赦しが与えられていることを信じて、感謝して過ごすことができますように。この気候不順の時に、健康を害して礼拝に来ることのできない兄弟姉妹をもあなたが御心の内においてください。この一週間もあなたが共にいてくださり、心身ともに支えられますように。様々な都合で礼拝に来ることのできない兄弟姉妹をもあなたが助け導いてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
|
|
|
|
20240818 主日礼拝説教 「悲しむ人々は幸いである」 山ノ下恭二牧師
聖書箇所:詩編36編6〜10節、マタイによる福音書5章4節 |
|
「悲しむ者は、幸いである」、 と主イエスは言われましたけれども、この言葉を皆さんはどのように思うでしょうか。本当だろうかと思う人も多いと思います。 悲しむ人々は不幸である、可哀そうだと思うのではないでしょうか。悲しむという言葉をギリシャ語で調べていますと、悲しみを表す最も強い意味の言葉であると書かれていました。ギリシャ語では、ペンセインという言葉ですが、親しい人が亡くなって悲しむことを表す言葉であると、辞書には書いてありました。
4月19日に、青山教会の増田将平牧師の葬儀が富士見町教会でありました。52歳という年齢で逝去された。若いなと思いますが、発病してから最後まで、治療を受けながら最後まで説教を続けてきた、ずいぶん 苦しい日々であったに違いないと思います。 昨年の11月にお見舞いの手紙を出しましたら、 すぐに返事の葉書が来ました。疲れやすくなったけれども、体には気を付けています。お祈り下さいという葉書でした。牧師としては50代、60代が一番活躍できる年齢で、もっと長生きしたかったと思ったに違いない。また、愛する家族を、愛する夫を失ったご夫人や二人の息子さんたちは、とても悲しい思いをしているに違いないと思います。
深い悲しみに襲われる、心を刺し貫くような、刺し通すような悲しみだ。 何となく悲しいとか、泣いたり、ある時は笑ったりという程度の悲しみではありません。この悲しむという言葉は、深い悲しみをここでは言っているわけであります。 葬儀の時の悲しみだけではなくて、親しい人を失うことは、自分の過去や現在や未来を失うような悲しみです。 ですから、肉親を失う、最愛の者を失う、その悲しみこそは不幸である、と言ってよいと思います。従って、私たちはできるだけ 悲しむことがないように生きて行きたい。悲しまないで生きるならば、それは幸いだと言って良いと思います。
この地上で生活して行きますと、悲しむことが多いわけであります。 その悲しみを忘れて、もっと楽しく過ごしたいと願っているのであります。私は、作家の井上ひさしという小説家の作品を学生時代からずっと読んでいた時期がありまして、 笑い転げるような小説が沢山ありました。井上ひさしの短いエッセイを読んだことがありますが、 何故自分が面白い、笑い出すような作品を書くのかという理由を語っているエッセイがありました。それは人間が生きる上で、悲しいことが多過ぎるからだ、そういうことに対して笑いを提供したいと、そう思って書いて来たという文章がありました。
しかし、主イエスは、悲しむ人々は幸いであると語っているのです。この言葉は、主イエスだけが語った言葉です。主イエスは、私たちの現実を無視して、夢のようなことを語ったのではありません。ここに真実がある、真実の幸いがあると言ってここで語っている。私たちの経験に逆らうような、 私たちの常識を覆すような、主イエスはそのような「幸い」を語っているのであります。
それでは、この言葉を語った主イエスは、悲しみに出会って、どうだったのでしょうか。主イエスは、人が亡くなる場面で、その様な態度で、そういう思いを持っていたのだろうか。主イエスは、悲しみを知らないで、悲しむ人々は幸いだと言ったのだろうか。聖書には、主イエスが涙を流されたという場面があるわけです。ヨハネ福音書の11章に、主イエスが、ラザロの墓より呼び出されたラザロの復活の物語があります。マルタという妹が、主イエスがここにいて下さればラザロは死ぬことはなかったと言って涙を流した。主イエスは、この姉妹の涙を軽んじることなく、 主イエスご自身が姉妹の涙を受け止めて、主イエスは涙を流されたと、11章35節に書かれています。この姉妹は兄弟の死を、涙を流して悲しんだ。その悲しみを、主イエスは受け止めて涙を流された。一人で泣いているのではなく、その悲しみを受け止める主イエスがおられた。そういう主イエスを持っているということが、幸いだと言ってよいでしょう。
何度もお話ししたのでまたかと思われるかも知れませんが、 私は岡山にいた時に、一番印象深く思った話であったので、お話をします。岡山にいた時に私が仕えていた教会は、岡山東部地区という地区でありました。その中にハンセン病の島の教会がありました。 邑久という島に、光明園という療養所があり、そこに光明園家族教会がありました。この教会の牧師は、ハンセン病の患者でした。津島久雄という牧師で、小学校6年生の時に静岡に住んでいましたけれども、ハンセン病であることが分かって、静岡からこの島に連れられてきたわけです。静岡から岡山に一緒に行ってくれたのは、飯野という牧師であって、そして岡山で汽車を降りる時に、邑久という島に光明園家族教会という教会があるから、そこに行きなさいと言われて、そして、このハンセン病の島に行ったわけです。ハンセン病が進んで目が見えなくなって、手が曲がってしまって、ボタンをかけることもできなくなった。 目が見えませんから、聖書を読むことができず、困ったけれども、点字の聖書を舌で触って、聖書を読むことができた。毎日毎日、聖書を自分の舌先で読み取っていく、もっと聖書を読みたいと思って、隣の長島という所に愛生園というハンセン病の療養所があるのですが、このハンセン病療養所に聖書を学ぶ長島 聖書学舎というところで聖書を学んで牧師になったわけです。
私が岡山に赴任した最初の年の6月に、この光明園家族教会を訪ねて礼拝してきましたけれども、 その中で津島牧師は、詩編6編9〜10節の言葉を引いて、「主はわたしの泣く声を聞き 主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」という言葉、聖句を中心に御言葉を語ったわけです。小学生の時にハンセン病のために肉親と別れて、誰も知らない人里離れた小さな島に行き、そこで次第に自分の体が崩れて、失明して、自分の将来に何の望みも持てない時に、教会に行き、説教を聞いて、そしてイエス・キリストが自分の泣く声、悲しみを聞いて受け止めてくださる。 心の痛み・悲しみを持っているところで、神がその痛み・悲しみを受け止めてくださるということを信じるようになった。自分の悲しみに共感して、涙を流してくださる、そういう神様がいるということを知った。そのことは幸いなことだと、その時の説教で語ったわけであります。
ヘブライ人への手紙5章7節で、こういう言葉、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と語っているわけです。主イエスこそ、悲しみに生きた方であります。その激しい叫びと涙は、祈りそのものであり、そこに悲しみがあったと言って良いでしょう。 「悲しむ人々は幸いである」と、主イエスが言うことができるのは、主イエスは現実の悲しみがどんなに辛く、心痛めるものであるかということを全く知らないから言うことができるというのではなくて、私たちのどのような悲しみも、主イエスは味わっておられるのであります。この地上にある悲しみを味わい尽くしておられる主が、悲しむ者は幸いであると言われる。 十字架の死にいたるまで、悲しみ抜いた主イエスが、味合わなかった悲しみはないと、そのように言って良いと思います。
この悲しみは、この地上で経験する時の様々な悲しみのことだけを語っているのではない。それはどのような悲しみなんでしょうか。悲しみという言葉が出てくるのは、 コリントの手紙です。 ウロはコリントの信徒への手紙二の7章10節に、「神の御心に適った悲しみ」と、そのように語っている。 それはとても大切なことです。 7章10節に、こういう言葉があるんですね。 「神の御心に適った 悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」とそのように言っているんです。 少し難しい言葉かもしれません。福音に通じる悔い改めを生じさせる神の御心に適った悲しみとは、どのような悲しみなのでしょうか。この7章10節の前のところを読むと少し分かるわけですね。
パウロは、コリントの教会の人たちに、悔い改めを促す手紙を何度も送りました。パウロ自身が、悲しみの手紙を送った。あるいは、コリントの教会の人々に、悲しみをもたらすような手紙を送った。パウロは何故悲しんだのか。コリントの教会の人たちが、パウロを神様の使徒として受け入れてくれないということです。パウロは、地上の主イエスを見たことも出会ったこともありませんし、十字架の死も、復活も、出会ってはいないんですね。 主イエスの12弟子から言うと、第2世代で、主イエスを知らないのです。地上で出会ったことのない、そういう世代だった。ですから、パウロが手紙を送っても、コリントの教会の人々は、本当にパウロは使徒なのか、神様が送った使者なのかということを疑って、パウロの言葉を受け入れなかったのです。そして、コリントの教会の人々は、第一の手紙にもありますけれども、自分たちを中心に教会を運営していって、この説教者が自分に合う、この説教者が自分は好きだということを言っていた。 そのことに対してパウロは叱ったのです。
パウロは、コリントの教会の人々の、罪の有り様を指摘して、悔い改めを迫ったわけですね。ですから、7章8〜9節に、「あの手紙によってあなた方を悲しませたとしても、わたしは後悔しません。 確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなた方を悲しませたことは知っています。 たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。 あなた方がただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。 あなた方が悲しんだのは神の御心に適ったことなので、私たちからは何の害も受けずに済みました。」と言ってるのです。少し長い言葉ですから、分からないかも知れませんが、このところの悲しみは、自分の、あるいは、自分たちの罪を悲しむという意味で、悲しみという言葉を使っているのですね。自分たちが、神の御心に適った生き方をしてないことを悲しんだ、自分の罪を悲しんだと、そして悔い改めたと言っているのであります。
真の神を持たない者は、自分が悪いことしたと思っていても、特別に気にしてないわけですね。 他の人もそういうことをやっているではないかと自分を相対化して、自分は神の前に罪があるということに悲しむことはないのであります。 しかし 旧約聖書から、イスラエルの人々は、自分が神の前に罪を犯してきたということを言い表そうとしていたのですね。 詩編38編19節に、こういう言葉があります。 「わたしは自分の罪悪を言い表そうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています。」という風に語っているわけです。 真の神の前に出る時に、自分の罪が露わになって、自分が深い罪の中で生きていることを知り、その罪を悲しむわけです。一般には人との比較の中で、自分の生き方を判断しています。 人を傷つけたり、人のものを奪ったり、強盗や殺人を犯したことはない、特別に悪いことしているわけではない、まあ少しは悪いことをしてるかも知れないけれども、法律上犯罪となるような、警察に捕まるような悪いことはしていないと考えるのであります。
しかし、キリスト者は神を愛し、隣人を愛するという基準を持っているわけですね。 神を真の神として礼拝し、隣人を愛するという、そういう愛の律法を私たちは持っています。真っ暗な部屋では、散らかっていることは全く分かりませんけれども、電気をつけると、光を招き入れると部屋の中が散らかってることが一目瞭然であるわけです。 ハイデルベルグ信仰問答の3〜5というところは、自分がいかに悲惨であるかということを語っているところです。自分は悲惨であるということは、惨めという言葉を使います。神の前に、自分が悲惨であるということは余り考えないのではないでしょうか。自分の悲惨、惨めさに気付くのは、神を愛し、隣人を愛するという愛の律法に違反している。この律法を完全に行うことはできない、神と、自分の隣人を憎む方へと、生まれつき心は傾いているからだと、語っているのであります。
主イエスは、自分の罪に悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められると語っています。 この慰めるという言葉は、 第1コリント あるいは 第2コリントの7章 というところで、 ずいぶん 慰めという言葉を使っているんですね。 これはパラカレオーとか、パラクレイシスというギリシャ語ですが、これは、傍らに立って呼びかける、その人のそばに近寄って肩をポンと叩いて、 どうしたの と語るという言葉ですね。 自分の罪のために、御心に適う悲しみをもって、神のもとに行く人々は神の慰めを受けるでしょう。
自分は悪いことをした後、 深く自覚し、赦しを求めて、相手のところに行っても、人間同士のことでは、その相手が完全に赦すとは限らないのではないかと思います。人間関係での赦しは、なかなか難しいですね。赦して貰おうと思って行ったのに、今頃何故来たと追い返されることがある。言葉では、赦すと言っても、相手の罪をいつまでも忘れることはない。江戸の仇は長崎で、ということがありますけど、ずっと根深く相手の犯した罪を忘れないわけですね。 仕返し、復讐することもある。人間の赦しは、限界があるわけです。人間は、完全に相手の罪を赦すことはできない。
しかし、慰められるであろう、神は完全に赦すわけです。 神様は完全に赦すわけですね。 皆さんは何度も聞いて、また聖書の箇所を読んでいると思いますけれども、放蕩息子の譬えに出てくる父親が、放蕩の限りを尽くして父親の元に帰ってきた時に、父親が帰ってきた息子を遠くから見て、駆け寄って、そして帰ってきた息子の手を取って、よく帰ってきた。そして宴会を催すのです。この譬え話のように、神様は、愛をもって私たちの罪を完全に赦すのであります。詩編130編3〜4節に、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。 しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」 赦しはあなたのもとにあり、豊かな赦しを神様はお持ちになっている。 過去のことを振り返ることはない。 今の私を神様が完全に赦して生かしてくださっている。
この慰め、ハラカレイとかパラクレイシスと言うのは、神は戻ってくる罪人を迎え入れるだけではないんですね。神は罪人を犯罪者として取り扱うのではなく、主賓として取り扱うことができる。招待されない者ではなく、神の宴会に主賓として上座に案内して、座らせることができる。神は、過去に罪人、前科一犯として扱うのではなくて、ただ信頼できない人のように取り扱うのではなく、 正しい者として取り扱う、そこに私たちの慰めがあると、主イエスは語っている。
ですから、この慰めという言葉は、「赦される」と言い換えることができる。よく、悔い改めと赦しという風に、そう言いますけれども、 しかし順序は逆ですね。赦しがあって、悔い改めがある。赦しがあって、悔い改めが起こる。北風と太陽の話のように、北風がビュービュー吹いて、外套で身をすくめるのではなくて、暖かい太陽の光を受けて、着ていた服を脱ぐことができる。 赦されて、悔い改めることができる。それが、今日の御言葉であろうと思います。
お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる神様。
先週は、大変暑い時を過ごし、台風をも経験しましたけれども、健康を支えられまして、兄弟姉妹ともにこの御堂に集い、御言葉を聴くことが許され感謝いたします。あなたの十字架の贖いによって、全ての罪が赦され、この世における悲しみも、また罪を悲しむ者をも、あなたは共に泣き、赦してくださり、受け入れてくださる、そのような神を持っていることを心から感謝いたします。 悲しむ人々は幸いである、慰められるであろう、その言葉を心に留めながら、この1週間も過ごすことはできますように。病の中にある者、困難な中にある者、いろいろな事情があってこの礼拝に出席できない兄弟姉妹を、特にあなたが顧みてください。この1週間も、あなたが共にいてくださり、心身ともに支え守ってくださいますように。 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン
|
|
|
|
20240811 主日礼拝説教 「平和を実現する人々は、幸いである」 山ノ下恭二牧師
(イザヤ書66章1−5節、マタイによる福音書5章9節) |
|
8月は平和を考える月であります。私は1950年生まれですので、太平洋戦争のことは体験をしておりません。私の姉や兄は、太平洋戦争の前に誕生したので、まだ幼い時でしたけれども少しは戦争というものを経験しております。戦争に対する認識というのは殆どなかったと思います。高校の時に日本史の授業がありましたが、日本の近現代史を学ぶ期間がなく、江戸時代ぐらいで終わってしまう。日本の明治以降の近現代史を知る機会はなかったわけです。 教科書には、明治以降の日清、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、太平洋戦争についての詳しい解説は殆どなかったと思いますので、太平洋戦争を知る機会は殆どなかったと思います。
東京神学大学に入学して、日本人だけではなくて在日韓国人の同級生、先輩が多くいました。 同級生に韓国名では、朴米雄(パク・ミユン)さんという在日韓国人がおりましたし、2年生に朴憲郁(パク・ホヌク)さん、3年生に崔(チェ)さんという先輩がいました。ある時、パク・ミユンさんに、どうしてあなたは日本にいるのかということを直接聞いたことがあります。その時に、パクさんは自分がどうして日本にいるのかということを詳しく話してくれました。父親は韓国にいましたが、働き口がなくて日本に来て、日本人の母親と結婚して、そして日本にいる。明治以降の韓国朝鮮の歴史を話してくれたわけです。そこで日本が、朝鮮で植民地支配したということを知ったわけです。パク・ミユンさんが話したことは、私は全く知らないことでありました。2年生のパク・ホヌクさんの話も、父親は在日大韓キリスト教会名古屋教会の牧師で、祖父が日本に来たが、創氏改名で名前を変えなければならなくて「金井」という日本名を付けられたという。その時に始めて、在日朝鮮人がいる理由を知ったわけです。
このことから、私は明治時代以降の韓国の歴史に関心を持ち、カン・ジオンという人が書いた「日本による朝鮮支配40年」という本を読み、日本が韓国朝鮮に対してどのようなことをしてきたのかということを少し知ることができました。そして1999年に大宮教会の長老たちと共に、韓国のソウル東部の大きな教会を訪ねて、1週間の旅でしたけれども、特に独立記念館を見学し、日本に対して独立の戦いをしたということを知りました。また日本軍によって、焼き討ちされた教会の遺跡も見せていただきました。韓国という国は、キリスト教会がたくさんあるわけです。山に登ると、十字架に赤く点灯されていて、夜は十字架がたくさん見えます。ソウルに行ったとき、何故韓国はキリスト教が盛んなのかききましたら、今の北朝鮮の平壌は、戦前は朝鮮のエルサレムと言われるほど、南よりもクリスチャンが多かった。ところが、共産党が支配するようになって南に逃げてきた。その人たちが、非常に熱心に伝道したからだということでした。もう一つは、韓国はアメリカの医療宣教師が、明治の初めに宣教に来て、その当時の国の王子の病気を癒した、治したということで、好意を持たれた。日本とは逆です。日本ではキリスト教は弾圧されて、国の敵のように扱われました。そして、韓国は日本に対する独立運動の拠点になった、常に民衆の味方だったということも、キリスト教に対して好意を持つ原因になったということでした。日本とは全く逆で、人々はキリスト教会に対して、キリストの福音に対して好意的だった。日本はキリスト教を排除する、そういう国であったわけです。
4月27日の朝日新聞のオピニオン&フォーラム欄で、とくに戦争について抜け落ちたもの、というタイトルで、歴史学者の宇田川幸大という人が、こういうことを言っていました。戦後日本の平和主義の特徴は何でしょうか、という問いです。それに対して、「もう戦争はこりごりだという認識が、平和主義を強く支えてきました。戦場での経験や、空襲や原爆や、大陸からの引き揚げ、シベリア抑留などの悲惨な戦争体験が平和主義のもとになりました。」しかし、この宇田川幸大という人は、こういう風にも言っています。「一方で、自らの加害責任を問う意識は弱かった。ともすれば、日本が再び戦争に巻き込まれなければいいという自己中心的な側面もあると言っているわけです。確かに、日本の戦争に対する加害責任は、殆ど言われてこなかった。そして、あの戦争は間違いではなかったという歴史修正主義が、日本の加害責任を言うのは被虐的だと言うのです。」韓国や中国、そこに住む隣人を愛することなく、生存や人々の人権を奪って自分のものにしてきた、隣国を自分のために支配して行ったのであります。
戦前、大勢の人たちが中国東北部、昔の満州に、行ったわけですが、その人たちが どのようになったのかという本を読みました。日本は国土が狭いので、広い土地や資源が必要だ、中国東北部に進出していく、侵略して行く。広い土地を手に入れようと、住んでいる人を追い出して、自分たちが代わりに住むようになる。そういう面をあまり強調しないで、ソビエト連邦が条約を破って、8月9日に中国東北部に攻め入ってきて、そこにいた人たちが大変な苦労をしたという話をよく聞くわけです。自国の権益のために、隣国に侵略して、手に入れようとして、戦争を始めたのです。
歴代の日本の首相の中で、戦争に対して、中国を侵略をしたと言ったのは細川という首相だけであると思います。テレビのニュース番組で聞いたことがありました。田中角栄という人は、中国に行って始めになんて言ったか。公の席で、大変なご迷惑をかけた、と言った。私はそれを聞いたときに、怒りを覚えました。ご迷惑どころではない。人の命を、土地を奪って、とくに南京での大虐殺では三光作戦で奪い取り焼き尽くすということをした。それをご迷惑という言葉で簡単に言う。お金をもって賠償するということに、私はたいへんな怒りを覚えました。
皆さんご存知のように、十戒というのは、私たちキリスト者がどのように生きるべきか、その規範が記されています。出エジプト記20章17節には、隣人の家を欲してはならない、と書いてあります。欲するという言葉は、貪るとか、貪り取るとか、欲しいものがある時に、欲しいものを奪い取るということです。
少し難しい言葉で言うと、貪欲を避けよという戒めです。隣人のことを、また隣人の生活を考え、自分のことだけを考えて行動する姿勢、隣人が大切にしている生活を奪う、それは自分のことのみ、自分が良ければ良いということを追求することです。それは人間の持っている深い罪から来てるのではないかと思います。だから十戒では、隣人の家を欲してはならない、貪ってはならない、?ぎ取ってはならないと戒めているわけです。
日本は明治維新以来、歴史を振り返ってみますと近代化を早く成し遂げて、近代化を成し遂げていない、できてない韓国や中国へ侵略し、特に朝鮮半島では土地や言葉や氏名や、人的資源や自然の資源、殆どのものを奪って、国土を荒廃させ、人々を奴隷として扱ってきたわけであります。私も在日韓国人との交わりがありますけれども、現在も在日韓国人に対する差別があり、ヘイトスピーチがある。日本の明治以降の歴史は、貪欲の罪を犯してきた歴史であったと思う。そういうと反発する方もおられるかもしれない。
今日読んだ5章9節、「平和を実現する」という言葉がありますが、他の訳では平和を作るとか,平和を作り出すという、そのように訳した方がギリシャ語の原典に近い言葉です。日本ではよく平和を守ると言いますが、主イエスは、「平和は作り出すものだ」と言われているわけです。何故、主イエスが平和は作り出すものだと言うのか。それは、この地上に、平和がないからです。だから、作り出す必要がある。これが主イエスの認識であると言っていいでしょう。
今の現在の世界に目を向ければ、ウクライナでの戦争、ガザでの戦争、様々なところで戦争があります。戦いの中で生きる人、生きて行かなければならない人々が沢山います。平和というのは、単に戦争のことばかりではなく、一緒に生きている人々との間に平和があるのかということも、問う必要があるかも知れません。 夫婦の間や、親子の間や、住民の間に平和があるのか。必ずしも平和があるとは言えない現実があるでしょう。そういう意味で 私たち自身が、平和を作り出す人であることが求められています。平和を作り出すという言葉は、ギリシャ語では一つの言葉です。平和という言葉と、作るという言葉とが一つになっています。英語で言うとPeace makerです。争いごとの中に入って行って、それを解決する人であるのです。
主イエスが生きていた時代というのはどういう時代かということを考えてみると、興味深いことが分かります。地中海世界を支配していたのは、ローマ皇帝のアウグストスです。圧倒的な軍事力で、周辺の国を征服して大帝国を築いた人です。ですから、地中海周辺の国はローマの平和と呼ばれている時代でした。しかし、それは刀や槍が作り出した平和だと言えるでしょう。このようなローマ帝国とは対極の位置に、平和の君である主イエスがお生まれになって、平和を作り出そうとした。ローマ帝国のその後のことを考えると、ローマ帝国の力が弱まるとそれまで押さえつけてきた周辺の国々が反乱を起こして、ローマの平和は崩れたのです。力で作り出された平和は、真の平和ではありません。抑え付けられた人々が、心の中に敵意を抱いて、それが消えないからです。
主イエスが、平和を実現する人々は幸いであると語られたわけですが、この平和は人間の間のことのみに語っているわけではありません。神様との平和ということを言おうとしている。根本的には、平和のない世界、その原因は何かということです。その原因は、神に対する人間にある敵対心、敵意であると言って良いでしょう。神様は人間を敵と思ってはいません。しかし、神に従わないで、神から離れて、神を神と思わない、神に従順に従わない、そこに平和のない原因があるのではないでしょうか。
ところが、平和の君である主イエスは、敵、敵対心を持っている私たちに手を差し伸べて、ご自身の外に出て肉体をとり、主イエスという人間となって、私たちの罪を自ら引き受けて、私たちと和解しようとした。主イエスは平和の君として、この地上に来られたのであります。十字架によって、私たちを神と和解させたのであります。和解の関係を作り出した、それは主イエスの平和である。相手のことを尊重して、その罪を責めることなく、相手を赦すのであります。宗教の違いや人種の違い、その間にある敵対心を滅ぼして、平和を実現しようとした。ローマの信徒への手紙5章に、私たちが信仰によって義とされているのだから、私たちを主イエス・キリストによって神との間に平和を得ていると言っているのです。神と人間との間に、平和が実現している。主イエスが平和を作り出すことができた。
平和を阻むものは、人間の罪だと言ってよいでしょう。神から離れて、自分が神のように隣人を、隣国を自分のために支配する。その罪がある限り、平和が訪れることはありません。毎日のように殺人事件や交通事故死がありますが、そこで教訓として言われるのは、命の大切さと言います。そういう事件があると、命の大切さを考えなければなりませんと言います。私はそれでは十分ではないと思います。それは、人間には自己中心という罪があり、最近は隣人を愛さない、このことを一人ひとりが認識しなければ、相手の罪を赦さなければ、平和が来ることはないと思います。
そのことを認識するということが、私たちにとって大切なのではないでしょうか。神との平和の中に生きることが、平和を作り出すことだ。神様によって罪が赦されて、神に愛されて、その中に隣人、隣国を愛し、これが平和を作り出す源になるのではないでしょうか。
戦争は、殺人をもたらすもので、戦争によって何の良いこともない。戦争を始めたら途中でやめられない。国土は破壊され、人々の命が失われ、平和な生活を取り戻すことができない。私たちは平和を守るということではなくて、隣人を愛し、他の国々を愛して、互いにその命を慈しむことが私たちにとっての使命ではないでしょうか。
お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる神様。大変暑い夏を過ごしておりますけれども、健康を支えられてあなたに招かれ、兄弟姉妹と共にここに集って、あなたのみ言葉を聞くことが許され、感謝いたします。この世界各地で、戦争が続けられていますけれども、どうか平和の君である主イエス・キリストの和解の御業を、心に留めて、どうぞ隣人の罪を赦し、隣人を愛する心豊かな歩みができますように。 この地上に平和が訪れますように、お祈りいたします。 私たちの兄弟姉妹の中で、この暑さの中で健康を害している兄弟姉妹、様々な事情のためにこの礼拝に出席できない多くの兄弟姉妹を御心の内にとどめてください。この一週間も、この猛暑のとき、健康を支えられて、あなたによって守られて歩むことができますように。 共にいてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン
|
|
|
|
20240804 主日礼拝説教 「心の貧しい人々は、幸いである」 山ノ下恭二牧師
(イザヤ書57章14−15節、マタイによる福音書5章3節) |
|
この礼拝で、コリントの信徒への手紙一をしばらく学んでおりますが、 来週8月11日に平和を考える会が礼拝後にあり、平和というテーマと関係したことを説教しようとして、マタイ福音書の5章9節の、「平和を実現する人々は幸いである」という御言葉をテキストにして説教しようと考えました。この「山上の説教」という小見出しがありますところは、九つの幸いの教えと言われていますけれども、以前から、この中で私がよく分からない、合点の行かない聖書の箇所があるので、本日はマタイ福音書の5章3節の言葉を取り上げて、そして18日には5章4節の言葉、この九つの幸いの教えの中で私がよく分からない聖書の箇所を取り上げて説教しようと考えました。皆さんよくご存知の言葉であろうと思います。
「心の貧しい人々は幸いである」。文語訳を読んだ方は、「幸いなるかな、心貧しき者。天国はその人のものなり。」と訳されています。この言葉を聞いた時に、私たちは、この言葉がどういう意味を持っているか、戸惑うのではないでしょうか。 幸いであるということは、何か理想的な、素晴らしいことをしている、またとても この世で富んでいる人々、そのことを幸いというのかも知れません。
初めに「心の貧しい人々」とありますが、普通は、あまり良い意味で使われていません。親切ではなくて自分のことばかり考えている、お金は持っているけれども、 とても人に対する思いやりがないというときに、「心貧しい人」と使います。他の人が困っている時に、助けて上げることができる人が、幸いなのではないかと、この言葉に疑問を持つわけであります。人のことを思いやる、そういう人が心豊かな人で、その人たちは幸いであると考えると、この言葉は通じなくなってしまう。そういう意味で、この言葉を聞くたびに、どのような意味であるかということで戸惑うわけです。
ルカ福音書にも、山上の説教ではなく平地の説教に同じ祝福の言葉がある。 そこには「貧しい人々は、幸いである」と書かれているわけです。心という言葉がなくて「貧しい人々は幸いである」とある。この言葉も、何故、こういう言葉あるのかということに対して疑問を持つのではないでしょうか。欲しいものが手に入る豊かな生活が良いけれども、またお金もあり、住む家もある、それは良いけれども、貧乏な生活は不幸だと考えるのです。知識を持ち、能力があり、体力に恵まれている人は幸福だけれども、知識・能力・体力がない人は不幸だと考えるわけです。主イエスが言う、この貧しさというものが、どういうものであるか、そして一体これが何なのかということを、私たちは問わなければならないと思います。
この言葉は、貧しい人々、あるいは心貧しい人々だけに語られているわけではない。特別な人や、自分以外の人ではなくて、あなた方、貧しい人たちが、心貧しい人たちが、幸いであると語られています。今は貧しくないが、これから貧しくなるというのではなく、ただ単に貧しい人々と主イエスは語っている。
ルカ福音書には、心という言葉がありません。この言葉を解釈するときに、色々な解釈や議論があるわけです。ルカの心という言葉がない方が、主イエス本来の言葉であったのではないか、心の貧しさということではなくて、具体的に生活そのものが貧しいということを言っている。貧困の中に生きる人々の幸いを語っていて、マタイ福音書はそれに心という言葉を書き加えているので、本来の主イエスの言葉ではないのではないかと考えるわけであります。
マタイ福音書が心という言葉を使っている時に、ここで用いられているギリシャ語は「霊」と訳されているのです。他の聖書の翻訳には、霊と言う言葉を使っているのです。霊とは、神の霊ということです。原文では、「貧しい人々―霊との関りにおいて」と翻訳することができる。貧しさ というのは、霊における関わりにおいて貧しい、神との関係において、神との関わりにおいて貧しいということを、聖書は私たちに告げているわけです。随分昔の注解書ですが、スコットランドのバークレーという人、今は神学生は殆ど読みませんが、私が神学生の時には、ウィリアム・バークレーの注解書とかよく翻訳されていました。バークレーの「山上の説教に学ぶ」という本の中で、貧しいという言葉を詳しく解説をしている。ギリシャ語ではプトーコスという語だそうです。 これは乞食と言う言葉に深く関わっているそうです。引用しますと、王様が、自分の王国を失って、全てを失って、流浪の人、さすらいの人となり、以前は金持ちだったが、残飯を人々に乞うまでになった。そのことを指すのが、貧しい=プトーコスという言葉である。この言葉は、何か冷蔵庫に食べるものがまだある、少し余分なものを買うお金がないという程度の貧しさではない。所得番付に出る人に比べて、自分は貧しいという程度の貧しさではない。バークレーという人は、貧しいということを、プトーコスは、何もない人のことを指すと言っています。一円も持っていない。それがプトーコス=貧しいという言葉だと言っているわけです。物乞いをして歩くような貧しさ、全くの欠乏を意味している。少しアルバイトしただけでは、収入を得ることができない。どうしても他の人の豊かさに頼らなければ、すがらなければ生きて行けない。そういう貧しさだと言っているわけです。
イエス様は、旧約聖書を読んで深く理解していました。旧約聖書では、貧しいという言葉が、 アナウム、アニーという言葉が使われているのです。 日本語では、虐げられるとか、哀れな者という意味に翻訳されています。この言葉は、どういう言葉かというと、旧約聖書の時代に、ユダヤの国がバビロニヤに滅ぼされて、国土は焼け野原になり、自分たちがお詣りしていたエルサレム神殿もなく、心の支えもなく、空虚な心を持って、そこには神様の裁きを見た、自分たちは信仰もなく、生きていく力もなく、無力で自分たちは貧しい、特に神様との関係で自分たちは神を礼拝する心も、人を愛する心も持たない、そういう貧しさをこのアナウム、アニーという言葉で使っているわけです。
聖書の翻訳には、色々な翻訳が出て 読み比べると興味があるわけです。カトリック教会のフランシスコ会の翻訳は、自分の貧しさを知る人は幸いであると訳しています。自分の貧しさを知る、私はとても良い訳ではないかと思います。自分が貧しいことを知る、自分の中に持てる富を持たない、神にのみ頼り、神に委ねるしかない、神の憐れみと慈しみに依存しなければ生きていけない、そういう人が幸いだという風に言っているわけです。
主イエスは、いろいろな譬え話をしましたけれども、皆さんは一度読んだことがあると思いますけれども、ファリサイ派の人たちの祈りと、 徴税人の祈り、二人の祈りを主イエスが比べて、徴税人の祈りが、神様に善しとされたと、そのように語っているわけです。ファリサイ派は、自分の正しい行い、立派な行いを祈りの中で誇って言いましたが、徴税人は自分が法外の税金を取り立てて私腹を肥やし、悪い生活をしていた、自分には信仰もなく、神の戒めも守ることができない、罪を犯している自分には何の良いものがない、そういうことを神の御前に告白して、道徳的に立派な生活をしてるのではない、欠点だらけ、貧しさだらけ、しかし神様はその徴税人を善しと受け入れて、認めたという話です。
先々週、市ヶ谷ルーテル教会に講壇交換で行きました。礼拝の形式が違うので、ここで福音書を読んで立つとか、そういうことばかり、間違わないようにと考えて疲れました。ルーテル教会は、マルチン・ルターを祖とする教会ですが、ルターを研究している徳善義和という方、この方も市ヶ谷ルーテル教会に出席していたそうですが、その著書「神の乞食ルターその生涯と信仰」という本の中で、ルターが死の2日前に書いたラテン語の紙切れが残されていた、ルターの遺書として読んでいる、その紙切れにこういう言葉があったと紹介しています。「私たちは神の乞食です。それは本当だ。私たちは神の乞食です。」この言葉は正にルターの生涯を表している、結びの言葉だったと思う。ルターはその生涯を、神の言葉をただひたすらに、神の恵みをただひたすら求め続けてきた人だ、と言うのです。
私たちは、自分の貧しさというものを知らされるわけです。神様との関りにおいて、貧しいことをした。神なんかいないよ、人が見ていないから、いい加減にしたらいいじゃないか。この品物を人にあげたら損するから上げない、そのように私たちは心の貧しさというものを持っているわけです。しかし、そのような心の貧しい者を、神様は私たちを深く愛しておられる。私たちが神様を忘れている時にも、この一週間、神様を意識するとか、神様を思い出すとか、神様の聖書の御言葉を口ずさむとか、そういうことは私も含めて、余りなかったのではないでしょうか。
しかし、私たちが神様を忘れて、神を愛さない時にも、神様は私たちを愛してくださっている。その言葉が、心が貧しい人々は幸いである、という言葉の意味なのではないかと思います。
お祈りをします。
父なる神様。 大変暑い毎日が続きますけれども、健康を支えられて、兄弟姉妹と共に、この礼拝堂に集い、兄弟姉妹共にあなたの御言葉を聞くことが赦され、 心から感謝いたします。私たちは、あなたを愛すること少なく、また隣人を心から愛することもない、心の貧しい者ですけれども、しかしイエスキリストの十字架の贖いによって、罪が赦され、あなたが私たちを愛してくださっていることを心に留めて、そのものが幸いである、祝福があると、そのように語りかけてくださっている神様の言葉に、信頼することができますように導いてください。
この暑さのために、熱中症にかかっている方々、様々な病を持って苦しんでいる方々、その家族を看取っている多くの方々を、特にあなたが御心の内においてください。これから聖餐に与りますけれども、私どもの罪のために十字架にかけられた神様の深い愛を心にとめ、味わうことができますように。 この1週間も暑い日が続きますけれども、健康を支えられて歩むことができますように。
この祈りを、主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
|
|
|
|
20240728 主日礼拝説教 (要旨) 「キリストの思いを抱いて」 山ノ下恭二牧師
(イザヤ書40章12−14節、コリントの信徒への手紙一 2章10−16節) |
|
コリントの信徒への手紙一 2章20−16節を読んで、分かることは、「霊」について書かれていることです。「霊」という言葉を聞くと、よく分からないという感想を持つのです。それは、日本特有の「霊」についての理解があるからです。
2章10節には、「私たちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。」とあります。神がどのような方で、私たちをどのような方法で救ってくださるかは、霊によって明らかになるのです。
10節後半には「霊は一切のことを、神の深みさえも究めます」と語っています。このことは、神が私たちを救ってくださる恵みを語ります。パウロは、神の思いは神の霊でなければ分からないと語っています。自分の考えや経験では、神のことを知ることはできないのです。神のことは神にしか分からないのです。神でありながら、人間に伝えてくれるものが、霊であると言うのです。
神のことは神にしか分からない、人間のことは人間にしか分からない、と言っているように思いますが、人間のことを神はよく分かっているのです。パウロが言いたいことは、神のことは神の霊によってしか分からないのです。霊は神でありながら、神の思いを私たちに霊によって伝えてくださるのです。神を知るとはどういうことでしょうか。それは神に愛されていることを知ることです。
増田将平牧師の葬儀で、青山学院高校の校長が弔辞の中で、増田牧師について、授業の中で増田牧師は生徒をとても愛していた、と語っていました。聖書を教えると言うよりも、聖書のメッセージである「愛」を実践していたのです。そのことによって生徒達に慕われていたのです。
神を知るということは、神がどのような存在か、ということを知るよりも、神に愛されていることを知っているキリスト者が、隣人を愛することによって、隣人が神の愛を知ることなのです。
ガラテヤの信徒への手紙4章9節に「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」とあります。神を知るということは、神に愛されていることを知ることなのです。
この神の愛は、私たちの罪の贖いと罪の赦しのためにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことなのです。この十字架の恵を伝えるのが、霊の働きなのです。霊の働きがなければ、十字架の恵み、十字架の愛は私たちには伝わらないのです。
しかし、人々はこの十字架の愛を受け入れないのです。それは、キリスト教会は、神の前に罪があるというからです。教会の説教で、人間には罪があると言われると、自分の存在を否定されるような思いになるので、聞きたくないと思うのです。なぜ教会は、「罪」と何遍も繰り返して語るのか、分からないと思うのです。十字架の愛を人々は受け入れないのです。
現代の教会は、人々が受け入れやすいメッセージを語ってしまう危険性をもっているのです。
それは、自分を肯定する言葉です。「あなたは、そのままで良いのです。」「ありのままのあなたが、神に愛されているのです」というメッセージになるのです。もし、これだけであるならば、罪や裁きを語らないことになります。人々の気持ちをよくさせ、安心させるかもしれませんが、それは、キリスト教の福音ではなくなるのです。罪や神の裁きという話は聞きたくないので、耳障りの良い話になるのです。これは、聖書が語る福音ではないのです。
十字架の福音、イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪が贖われ、罪が赦されたことを信じるようになるのは、聖霊によることです。
神のことは神の霊でなければ知ることはできないことをパウロは語っています。イエス・キリストによって神に愛されている、この神の御心を知っているものは、神の霊を受けているのです。イエス・キリストによって神に愛されている、そのことを信じている者は、神の霊を受けているのです。
|
|
|
|
20240714 主日礼拝説教 「神の知恵を知る」 山ノ下恭二牧師
(イザヤ書55章8−9節、コリントの信徒への手紙一 2章6−9節) |
|
ある時、東京説教塾例会で、加藤常昭先生から「説教とは何か」をひとりひとり書いて発表しなさいと言われました。かつて加藤常昭先生が、「説教とはイエス・キリストを紹介することだ」と言われたことを思いだして、その通りに書きましたら、他の牧師たちも同じことを書いたのです。
本日の礼拝で読みました、コリントの信徒への手紙一 2章の6節、7節に「語る」という言葉があり、「知恵を語る」と言うことは、「説教する」ということを言おうとしているのです。「知恵」という言葉を用いて、説教の内容のことを言っているのです。
この手紙では「知恵」は良い意味で使われている一方、他方、余り良い意味で使われていないのです。余り良い意味で使われていないのは、パウロが、コリントの教会で経験していることがあるからです。コリントの教会にはギリシャ思想に影響を受けた人々が多くいました。ギリシャ思想に影響を受けている人々は、あらかじめギリシャ思想に影響を受けているために、その前提で、パウロの説教を聞き、説教の善し悪しを判別していたのです。人々は、あらかじめ自分が持っていた思想によって、説教を聞くものです。
パウロは、2章2節で「なぜなら、わたしは、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めたのです。」と語っています。パウロは、十字架につけられたキリスト以外は知るまい、語るまいと語っています。人々は、ギリシャの知恵の言葉をパウロの説教に求めていたからです。そしてコリントの教会の人々は、自分たちは神のことはよく知っていると思っていたのです。
ある注解書には、コリントの教会にグノ−シス主義の影響を受けていた人々がいたと書かれています。「グノ−シス」とは「知識」という意味の言葉です。神が、神の知識をテレパシーのように個人の魂に伝えて、自分が悟ることができている、そのことを誇っていたのです。グノ−シス主義に影響を受けていた人々は、自分たちが神のことをよく知っていると思っていたのです。
7節には「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために世界の始まる前から定めておられたのです。」とあります。「隠された」「神秘」、ミステリ−、秘義としての知恵なのです。人間には神の知恵は隠されているのです。この世では多くの知識を持っていることが誇りになります。人よりも多くの知識をもっていることは誇りになります。しかし、神の知恵は、神ご自身が知恵をもっていて自己満足しているのではなく、私たちのために神の知恵を用いるのです。神の知恵とは、私たちを救い出すための、愛の知恵なのです。
主イエスは、神の国の譬え話をされていますが、ルカによる福音書15章で、百匹の羊のうち一匹の羊がいなくなってそのことに気づいた羊飼いが懸命に捜してやっと見つかって周りの人々ととても喜んだ譬え話があります。この譬え話には、神が、神から離れて行ってしまった私たちを捜し出して、神のもとに連れ戻す神の愛が語られています。
神の知恵とは、神がたくさんの知恵をもっているというのではなく、私たちを救い出すために神が知恵を用いていることなのです。羊飼いの姿の中に神の姿が反映しているのです。旧約聖書においても預言者が、神がどんなに愛しておられるかを語っています。神に創造されたにもかかわらず、神ならぬ偶像の神に仕えている者の罪を赦し、背いている者を愛する神であることを語ります。ホセア書11章1−4節に記されています。
罪深い私たちの罪を赦すために神は、神の知恵を用いるのです。私たちは、罪を犯しながら、相手が自分に対して犯した罪を赦すことができません。しかし、神は私たちが全く考えも及ばない仕方、方法で、私たちの罪を解決しようとするのです。それは、神が御自分の外に出てイエスという肉体をもった人間となり、私たちの身代わりとなって犠牲を払ってくださった、それが主イエス・キリストの十字架の意味なのです。
2章8節に「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」とあります。十字架につけられる主イエスが、神と同じ方であることを知っていたら「この男を十字架につけろ」「殺せ」とは言わなかったはずです。十字架によって私たちを救い出す、そのことを知らず、理解していなかったので、主イエスを殺してしまったのです。人間の知恵では「神の秘められた計画」を知ることはできないのです。
2章9節で「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者のために準備された。」と書いてあります。人は通常、目で見て、耳で聴き、心で受けとめて物事を理解します。しかし、人が、目、耳、心を用いて、神の知恵を理解することはできないのです。しかし、神は、御自分を愛する者のためにこれを理解することができるようにしてくださっているのです。
私たちには全く思いつかない方法と手段で、神は私たちが救われる方法を考えて実行されたのです。神は、私たちが救われるために全力で、救いの手段を考えたのです。
本日、この礼拝で、イザヤ書55章8−9節を読みました。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを 高く超えている。」
主イエス・キリストが、十字架において犠牲をささげて死ぬことによって私たちの罪が赦され、救われる、この十字架の言葉を教会は語り続けるのです。
(祈り)
主イエス・キリストの父なる神。暑い毎日ですが、あなたに召され、集められて愛する兄弟姉妹と共に礼拝に出席し、共に御言葉に聞く時が与えられたことを感謝致します。十字架の愛を心に留め、あなたがいつも愛してくださることを信じて歩むことができますように導いてください。この一週間も、あなたが共にいてくださることを信じて歩むことができますように導いてください。この祈りをイエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240707 主日礼拝説教 「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」 山ノ下恭二牧師
(詩篇42編1−5節、コリントの信徒への手紙一 2章1−5節) |
|
私が、牧師になろうと神学校に行こうと思ったきっかけがあります。私は高校1年生の時に信仰告白をして鹿沼教会の会員になりましたが、高校2年生の時に鹿沼教会の高崎隆牧師が結核を再発して、滋賀県の近江のナトリウムに入院することになり、近江のナトリウムに行く直前の礼拝説教を聞いていたのです。高崎牧師が病を押して一所懸命に説教する姿を見て、このような尊い仕事があることに気がついたのです。高崎隆牧師は体格の良い、頑健な人ではありませんでした。しかし、病を押して高崎隆牧師が福音を語る姿に、感動を覚えたのです。もし、体格も良く元気な牧師であったならば、私は牧師にならなかったと思います。弱さの中で福音を語る、その姿を見て、福音を伝えようと導かれたのです。
ロ−マ、ガラテヤ、コリントの教会に手紙を書いたパウロは、病を持っていたのです。コリントの信徒への手紙二 12章では、一つのとげが与えられたと書いてあります。ある人によると「てんかん」の病であったと言われています。この病が取り去られるようにと三度、祈ったけれども、主が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたのです。弱さの中で、福音を伝えることができたのです。
パウロ、シラス、テモテなどの最初の使徒たちは、旅から旅へ、巡回の伝道者でありました。現代の教会のように、伝道者が一つの教会に留まって伝道したのではなく、各地の教会に行き、巡回していたのです。行く先々で未知の人と出会い、福音を伝えたのです。パウロがコリントに一年半、滞在したのはめずらしいことでした。パウロは、神から福音を委託され、派遣されたのです。
このことは特別に伝道者に限ったことではないのです。私たちの礼拝は、招詞に始まり、祝祷で終わるのですが、祝祷は、この世界に派遣されるためにあるのです。祝祷において、私は「この世界に出かけていきなさい」と宣言しています。自宅から教会の礼拝をして自宅に帰って日常の生活に戻るというのではなく、福音を携えてこの世界に派遣されているのです。2章1節に「兄弟たち、わたしたちが、そちらに行ったとき」と書いてあります。パウロと共に伝道した、シラスとテモテとが、コリントに派遣されて行き、福音を伝えたのです。岡山におりました時に、ある婦人が、礼拝を終えて教会から自宅に帰り、自分の母親に自分が理解した説教の内容をいつも伝えているという話をしてくれました。その婦人が話し終えると、母親が「よい話を聞いたね」と言ったそうです。今日の説教を聞いて、それでお終いにして自分の中で留めることなく、私たちが出会う人々に福音を伝えるのです。
伝える福音がどのような内容なのか、そのことはとても大切なのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙で、ガラテヤの教会では、異なる福音が語られていたと書いてありますが、異なる福音とは、福音ではなくて「律法」が語られていたのです。福音とはどのような内容なのか、そのことが大切なのです。
東京神学大学の学生の時に、教師たちがよく話したことがありました。それは神学校で学ぶことは、福音を把握することだ、と語ったのです。福音を把握しないで神学校を卒業してはいけないと語ったのです。福音を把握しないで卒業することを一つの譬えで話したのです。福音を把握しないで、神学校を卒業することは、昔、江戸から大阪まで飛脚が文(手紙)を入れて一所懸命に運んだが、大阪に来て開けたらその文(手紙)がなかったようなものだ、江戸から大阪まで運んでも文(手紙)がないなら意味がないように、神学校で学んでも、福音を把握しないで卒業することは意味のないことである、と言うのです。
パウロは、伝える福音の内容を「神の秘められた計画」と語るのです。口語訳では「神のあかし」と翻訳しています。聖書協会共同訳では「神の秘義」と訳しています。「神の秘められた計画」「神の秘義」。元々のギリシャ語では、神のミステリオンです。「神の秘義、神の奥義」です。神の奥義、神の秘義とは信仰を通してでないと分からないことを言うのです。
この神の秘義とは何なのでしょうか。パウロがコリントでどのような内容の説教をしたことにヒントがあります。使徒言行録18章5節には、「シラスとテモテがマケドニア州からやってくると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証した。」とあります。「神の秘義」とは、イエスはメシアである、イエスはキリストであると言うことです。このことは、信仰を通してしか理解できないのです。この当時のユダヤ人は、イエスを教師と理解していたのです。また現代では、イエスが愛の人、心優しい人であると言うならば、納得し、受け入れるのです。しかし、イエスはメシア、キリストであると言うことは、謎であり、理解できないことなのです。そして、神の秘義とは、イエスがキリストであると言うことですが、このイエスが私たちの罪のために十字架につけられたことを意味しています。このことは、聞いた者には理解できないことなのです。
ギリシャ思想では、神は神であって神が人間になることはないのです。それは人間が肉体という牢獄に閉じ込められており、肉体という牢獄から解放されて、悟ることが救いなのです。神は無感動で、苦しむことがない神なのです。神が相手のために苦労して助けるという思想はギリシャ哲学にはないのです。
パウロがアテネでイエス・キリストの救いを説教しても、ギリシャの人々に全く相手にされなかったのは、ギリシャ人があらかじめ持っていた神に対する理解と、パウロが理解していた神理解とは異なっていたからです。ギリシャ人は、神が人間のために苦しんだり、犠牲を献げることなど全く考えたこともないのです。
パウロは、「イエス・キリスト、しかも十字架以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと決心した。」と語っています。
パウロは、コリントに来る前は、ギリシャのアテネの広場で、キリストの福音を伝えたのですが、説教を聞く聴衆、それはギリシャ哲学に影響を受けている人々でしたが、そのことを意識して説教をしたのです。その結果、多くの人々が信じたのではなく、数人しか従わなかったのです。コリントに来てからは、単刀直入、ただ、「十字架につけられたキリスト」を説教するようになったのです。
私たちは、何に関心を持って生活しているのでしょうか。現代は多くの情報があって、様々な情報を聞いているのですが、私たちの罪の救いのために、神の御子イエス・キリストが十字架の犠牲を献げて下さった、それは私たちに対する神の愛であるのです。そのことを忘れてこの世界の様々な情報に翻弄されているのです。現代は、情報が溢れており、聖書の言葉も一つの情報であると思ってしまうのです。
しかし、パウロは、十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと決心しているのです。私は、このパウロの言葉に反省させられています。毎週、説教をしていて毎週、聖書のテキストが異なるのです。このテキストにしか語られていないことがあるのです。このテキストの特性を生かしながら説教をするのです。テキストは多様ですから、そのテキストのもっているメッセ−ジを語るのです。そうすると、キリストの十字架を語らない時が多いことに気がついたのです。
現代は、十字架を語らない説教が多いのではないかと思います。十字架抜きのイエスなのです。悲しい時に、孤独を感じる時に、落ち込んでいる時に共にいるイエス、という説教が多いのです。十字架を語らないのですから、私たちの人間の罪も語らなくなるのです。しかし、パウロは、十字架につけられたキリスト以外には何も知るまいと決心しているのです。十字架につけられたキリスト以外には何も知るまいと決心しているのですから、十字架につけられたキリストには何も語るまいと決心しているのです。
福音書によって、主イエスの生涯を顧みると、ベツレヘムの家畜小屋で生まれ、生まれてすぐに難民となってエジプトに逃れ、そしてナザレでヨセフの仕事を手伝い、神の召しにより、救い主の歩みを始めたのです。病を持つ者を癒やし、重い障害をもって苦しんでいる者に救いの手を差し伸べ、弱く、虐げられている人々を憐れむのです。それは、神の国、神の支配がどのようなものであるかを、人々に身近に知らせるためであるのです。しかし、主イエスが救い主としてこの地上に来られたのは、ガリラヤ地方で、活動するためだけではなく、もっと大きな目的のために来られたのです。
それは、私たちを罪から解放するために、身代わりとして自ら罪人となって、罪を贖うために、神の裁きを受けるためです。神が人となり、人間の罪を自分のものとするために、主イエスが罪の贖いのために十字架に死んでくださったのです。
キリストの十字架を語るとどうなるのでしょうか。3節でパウロはコリントに行ったとき「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」と語っているのです。なぜ、恐れに取りつかれ、不安になるのでしょうか。パウロが不安で恐れに取りつかれていたかを物語る言葉があるのです。そのようなパウロを励ます主イエスの言葉が使徒言行録18章9節にあるのです。パウロが恐れに取りつかれ、不安であったことを主が配慮して、パウロを励ましているのです。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたがたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』」このような主の言葉があるのは、パウロが、福音を語っても人々が福音を受け入れないので、伝道を止めようと思っていたからです。福音を語らないで、黙ってしまっているので、主は「語り続けよ」と励ましているのです。「この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」という言葉は多くの伝道者を励ます言葉となりました。
十字架につけられたキリストを伝えるとその言葉を聞いた者が、なぜ受け入れないことになるのでしょうか。それは、この十字架はこの世の知恵からみれば、愚かでしかないからです。十字架のキリストの説教を聞くと、つまずくことになるからです。しかし、1章18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。」と語っているのです。神が、神から離れている私たちにその身を向けて憐れみ、イエス・キリストによって罪を贖う、そのために、十字架の死を引き受けてくださる、その神の愛によって私たちは生きることができるのです。
パウロは、弱さの中で伝道をしたのです。肉体の弱さ、心の弱さを持ちながら、その中でキリストの十字架を指し示すものであったのです。伝道は、私たちが弱いからできないということはありません。強いからできないのです。強いと自分のもっているものに期待し、自分自身の力に頼っているからできないのです。パウロは、衰弱し、畏れと不安に捕らわれている中で、福音を語りました。私たちが、十字架の福音を本気で信じて、福音として伝えるならば、伝道は進展するのです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。7月に入り、猛暑の日々ですが、兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、御言葉を聞く時が与えられ、感謝を致します。私たちの罪の贖いのために、神の子イエス・キリスト御自身が身代わりとしてささげ、私たちを罪から救ってくださったことを聞き、感謝を致します。この十字架の福音を伝えることができますように、導いてください。様々な事情で礼拝に出席できない兄弟姉妹をあなたが共にいてくださいますように。これから聖餐に与ります。私たちのために裂かれたイエス・キリストの肉を表すパン、私たちのために裂かれた血を表す杯を信仰によって与ることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240623 主日礼拝説教 「慰めとしての教会に生きる」 山ノ下恭二牧師
(哀歌3章55−57節、コリントの信徒への手紙二 1章3−7節) |
|
本日も皆さんと共に礼拝に出席することができたことを感謝致します。礼拝の時間は一時間ですが、その一時間の礼拝が、私たちの魂を支えていくのです。一週間は168時間ですが、その中の1時間というわずかな時間が、私たちの心を支えていく大切な時間なのです。日曜日は安息日ですが、安息するという言葉は「中断する」という意味の言葉です。仕事を途中で中断して休みを取る、仕事を辞めて休息を取るのです。日曜日はただ休むのではなくて、礼拝に出席して、私たちが神のもの、私たちが神に愛されていることを信じて慰められるのです。教会は、礼拝だけではなくて、広い意味で慰めの場所であるのです。教会の兄弟姉妹が集まって互いに安否を確かめ、互いの無事を喜び、互いに話し合うことによって慰められるのではないか、と思います。ドイツの実践神学者クリスチャン・メラ−は「慰めのほとりの教会」という本を書いていますが、教会こそ深く慰められるところです。
私たちの人生には様々な困難、悲しみがあります。特に家族を失うということは深い悲しみです。北九州地区におりました時に、地区で「葬儀の手引き」を作ることになり、わたしも委員としてその作成に加わっていました。親しい家族を失った人にどのような慰めの言葉が良いのか話し合いましたが、なかなか良い言葉がなかったのです。心を込めて「大変でしたね」と言うのが良いのではないか、あるいは、言葉がなくても「深々と頭を下げることで良いのではないか」という意見がでましたが、手引きには親しい家族を失った人を慰める「適切な言葉はなかった」と書きました。親しい家族を失って悲しみの中にいる人に、どのような言葉を語れば相手を慰めることができるのか、とても難しいと思いました。
「慰め」という言葉は、キリスト教の信仰生活を言い表す時の最も深い意味をもった言葉の一つです。これは信仰生活を外面的に、客観的に言い表したのではなくて、私たちの内面の奥深いところから、私たちの心を潤す、突き動かすような言葉なのです。宗教改革者カルヴァンが作成した「ジュネーブ教会信仰問答」の第一問は「人生の目的は何ですか」という言葉ですが、答えは「神を知ることです」という答えです。しかし、ハイデルベルク信仰問答の第一問は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いなのです。この問いの答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」とあります。ジュネーブ教会信仰問答の第一問は、「人生の目的は何ですか」という問いですが、この問いは、人間が目指すべき目標を設定して、その目標を目指していくような問いなのですが、ハイデルベルク信仰問答は、私たちの心を支えるものとして「慰め」であることを語ろうとしているのです。これがあれば他のものはなくても良い、そのような慰めは何か、ということなのです。
慰め、慰める、という言葉が、聖書の中で一番多く語られているのは、コリントの信徒への手紙二 1章3−7節のところです。「慰め」「慰める」という言葉が10回も用いられているのです。この「慰め」「慰める」という言葉が出て来る背景、理由があるのです。
1章8節にはパウロが「兄弟たち、アジアでわたしたちが被った苦難についてぜひ、知っておいて欲しい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みを失ってしまいました。」と語っています。「アジア」というのは、現在のヨーロッパ、アジアという広い地域を指しているのではなくて、今のトルコの地中海側のエフェソという町を中心とした州の名前です。パウロはエフェソであった出来事のことを語っています。パウロは、生きる望みを失った状態にあってもう一度、神に信頼するというところから与えられた確信を「慰め」という言葉で語っているのです。
3−7節に戻ってみると、新共同訳では「苦難」という言葉で統一して訳していますが、口語訳では、原語に忠実に「患難」という言葉と「苦難」という言葉で訳していて区別しているのです。口語訳では、「患難」という言葉が4節に二回、6節−7節に一回、8節に一回、出てきます。苦難という言葉は、6節、7節に出てきます。「患難」という言葉はスリプシス、「すりつぶす」という意味の言葉なのです。人をもみくちゃにして、肉体的にも精神的にもくちゃくちゃにしてすり減らし、おしつぶして生きられなくしてしまうことを意味しています。外側から圧力を掛けられて命を失ってしまうことです。私たちが経験するのは、患難です。パウロが迫害を受けて、苦しむ、死の覚悟をするほどであったと言っているのです。
このような患難に出会う時に、誰でも、生きる望みを失ってしまうのです。それは、重い病気に罹って、回復が見通せないこともあるでしょうし、経済的に困ってしまう時もあるのです。そのような時に、私たちはどうしたらよいのでしょうか。この3−7節を読むと、この「慰め」には動きがあるのです。3節には、神ご自身の中に慰めがあり、あらゆる慰めが神から来ると語られおり、神からの慰めが自分のところに来て、自分が慰められてお終いということではないのです。自分を慰める慰めが、自分のところに留まるのではなくて、他の人を慰めるものとなるのです。自分が神によって慰められる、そのことが私たちにとってほんとうの慰めになるのです。
昨年の9月の初めに、家内が脳梗塞になり、右手足麻痺と失語症失行になりました。このことは、私には全く予想もしなかった、思いがけないことでした。
東大宮教会に時々、来ていた婦人が急逝しましたが、その葬儀が終わって挨拶をした喪主である夫が「上り坂、下り坂、そしてまさかという坂がある」と言って、とても元気であった奥さんが突然、亡くなったことが思いがけないことであった、驚きであったと話したのですが、私も、家内の病は予想もしない、思いがけない、出来事であったのです。
しかし、その中で、私は毎週、礼拝を休むことなく、御言葉に聞き、説教を語ることができたことは幸いなことでした。もし、私が礼拝に出席することなく、御言葉に聞かなかったならば、生きる希望を失っていたと思います。特に、旧約聖書の詩篇、その中で、嘆きの詩篇をよく読みました。詩篇の作者が苦境の中にあって、神に叫び、訴えている詩篇です。
昨年、9月から、詩篇1編から読んでいき、詩篇13編2−6節の御言葉に出会って、深く慰められたのです。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔を私から隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え わたしの目に光を与えてください 死の眠りに就くことのないように 敵が勝ったと思うことのないように わたしを苦しめる者が 動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り 主に向かって歌います 『主はわたしに報いてくださった』と。」
この詩篇の作者は、重い病の中で、その苦しみを訴え嘆いているのです。しかし、最後は神に心を向けて明るい言葉で終わっているのです。嘆きの詩篇は、嘆きから始まりますが、最後は神に心を向けて、神を信頼して、依り頼む、讃美する言葉で終わっているのです。
私の力では家内の病を治すことはできないのです。詩篇を読みながら、自分の中で解決するのではなく、神にお任せすることを教えられたのです。神がすべてを解決してくださる、私が望んでいるような形でなくても、解決の道を開いて下さると思ったのです。
家内の病と関わって考えたことは、このことを通して神が私に教えようとしていることがあると思ったのです。それは、この世の中で見えない人々がいることに気づき、それらの人々に対する深い関心を持ちなさい、ということです。新宿メディカルセンタ−に入院している時には、こんなに多くの方々が病と戦っていることを知りました。元気に暮らしている者にとって、病院に入院している人々のことは、関係がないので、関心がありません。また初台リハビリテーション病院に家内が入院している時は、様々な事情でリハビリが必要な人々がこんなにたくさんいることを知りました。リハビリテーション病院に行かなければ分からないことです。整形外科の関係の患者が多く、歩行訓練している人が多くいました。家内は、現在は老人保健施設にいますが、そこに行くと、年を重ねた人々が多く暮らしていて、とてもさびしそうにしていることを知りました。
このような病院や施設に行かない限り、これらの人々がいることが分からないのです。健康で、元気に活動できることを前提にしてこの社会は動いていますが、病で苦しんでいる人々、障がいをもっている人々、年老いて身体が不自由な人々、死に瀕している人々は隠れていて、私たちには見えていないのです。
福音書には、主イエス・キリストは、ガリラヤ地方で福音を伝えたのですが、その最初に、障がい者、不治の病で苦しんでいる人々のところに、行って、その人々を相手にして、その苦しみを取り去ったのです。主イエスの眼差しは、健康で元気に暮らしている人に対してよりも、病を持ち、障がいをもって苦しんでいる人々に向けられていたのです。私はそのことに気がついたのです。誰でも、健康で元気で暮らしたいのですが、様々な事情で病を持ち、障がいをもって苦しんでいる人々がこんなにたくさんいることに気がついたのです。今まで、頭ではそのような人々がいることは知っていましたが、実際に身近に存在していることを知ったのです。そのことによって、それらの人々に対して深い関心をもち、愛をもって接することが大切であることを知らしめようとしたのではないか、と思いました。
「慰める」「慰め」という言葉は「パラカレオ−」「パラクレーシス」という言葉ですが、パラという言葉は「そばに」「傍らに」という言葉と、カレオ−「呼びかける」「語りかける」という言葉で、この二つの言葉の合成語です。「そばに行って呼びかける」「傍らに立って語りかける」、と言う言葉です。元気がないように見えた人のそばに行って「どうしたの」「元気ないね」と語りかけ「後で話を聞くね」というそういう言葉です。
相手が困惑している、さびしそうにしている、そのような時に、傍らに立って「大丈夫ですか」と語りかけるのです。
最初に言いましたが、悲しみの中にある人、病にある人、家族の中で病をもっている人をケアしている人を慰めることは、とても難しいと思います。「治るから心配しないで」「大丈夫ですよ」「元気になりますよ」という言葉は、相手を慰めたい、励ましたいという善意の気持ちから出ているのですが、その時だけのインスタントな慰めであると思います。
ヨブ記2章11−13節には、ヨブが苦しんでいることを知った3人の友人が、ヨブの姿を見て、慰める言葉を語ることができなかったのです。12−13節には「遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。」とあります。ヨブの三人の友人は、慰めの言葉をかけることができなかったのです。しかし、ヨブの苦しみを思って、嘆きの声をあげたのです。慰めの言葉はなくても、ヨブの苦しみに深く同情して、嘆く、そのことによってヨブは慰められたのではないか、と思います。無理に慰め、励ます言葉を語らなくても良いと思います。言葉ではなく、悲しんでいる、苦しんでいる気持ちを表情でくみ取ってくださるだけで良いと思います。悲しんでいる、苦しんでいる者の話を聞くだけで、十分、相手は慰められると思います。
口語訳聖書によれば、私たちは、この地上で生きて行く時に「患難」に出会います。そしてキリストは「苦難」を経験するのです。主イエス・キリストが人間として、私たちと同じ悲しみや苦しみを実際に経験され、私たちのために罪の贖いとして十字架の苦しみと死を経験されたことは、私たちにとって深い慰めであると思います。主イエス・キリストが私たちの悲しみや苦しみをよく知っている、そのことは、私たちの慰めであるのです。
私たちの教会は、礼拝毎に、御言葉によって、神からの慰めを与えられ、その慰めを携えて悲しみや苦しみを経験している人々を慰めることができるのです。教会は慰めの共同体であるのです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。あなたに召されて、礼拝に招かれ、教会の兄弟姉妹と共に御言葉を聞く時が与えられ、感謝を致します。病に苦しんでいる方々、障がいをもっている方々、人には言えないで苦しんでいる方々、家族をケアしている方々、が、失望することなく、慰めを与えられ、困難を乗り越えていくことができますように。様々な事情で、礼拝に出席できない方々をあなたが覚えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240616 主日礼拝説教 「神に召し出されて」 山ノ下恭二牧師
(エレミヤ書9章22−23節、コリントの信徒への手紙一 1章26−31節) |
|
以前、おりました東大宮教会はJR東大宮駅に近く、電車からよく見えるところに教会があったせいか、毎週、新来会者が教会によく来ていました。様々な人が訪ねて来ていました。日本キリスト教団ではなくて他の教派の人も来ていましたし、教会に来た動機や信仰の重んじ方、考え方も様々でした。いろいろな違いがあってもできるだけ教会に来た人を受け入れてきたのです。私は多様な人々を受け入れるのが教会であると考えています。性別、学歴、職業は異なっていても、一人の人間として受け入れることが大切だと思います。一つの基準から、その人を判断して受け入れるのではなく、広い心をもって、その人の存在そのもの受け入れたいのです。そして初めて来た人が、他の人に言えないそれぞれの事情や悩みを抱えて、教会を訪ねて来ていることも私たちがよく心得ておくことが大切です。
ある牧師から聞いた話ですけれども、ある時、一人の人が教会の礼拝に来られたそうです。礼拝後、ある教会員が、唐突に「どういう仕事をしているのですか」と聞いたところ、「無職です」と答えたそうです。あとで初めて来た人が牧師にこう言ったそうです。「失業してとても困っていたので、教会で慰めてもらおうと思ったけれども、仕事のことを聞かれて、とても辛かった」と言ったそうです。初めて会った人にどのような仕事なのか聞いた、それは軽い気持ちで聞いたのでしょうが、失業して教会に来ている人もいることを想像して心配りをする必要があります。教会に初めて来た人に、いろいろ尋ねないで、「よくいらっしゃいました」と挨拶する位で良いのです。
本日の礼拝で、コリントの信徒への手紙一 1章26−31節を読みました。26節から28節までのところでパウロは、あなたがたが選ばれたときに、能力があったわけでもない、家柄が良かったわけでもない、学識があったわけでもない、地位があったわけでもない、と語ります。むしろ、世の人びとのなかにあっては無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられていた者であったというのです。これは何を語っているのでしょうか。それはコリントの教会がどんな教会であり、コリントの町が、どのような町であったのかということと関係しています。このコリントの町は奴隷の人口のほうが多かったのです。従ってこの町では、奴隷を使っている人々と逆に奴隷として仕えなければならない人々の間に、明確な階層があって、区別、差別があったのです。
ところがパウロたちの伝道によって生まれた教会はそのような差別を超えてしまったのです。男と女の差別、奴隷と奴隷を使っている人との差別、そういうものが教会においては消えてしまって、皆が同じ神の子として、主の兄弟として教会を造って行ったのです。奴隷が多かったので、奴隷が威張っていて、奴隷を使っていた者が教会では小さくなっていたのではなく、奴隷が多い社会をそのまま反映して教会の中に奴隷が多かったのです。少数であったかもしれませんが、家柄の良い人も、学者であった人もいたかもしれません。そういう人々も、家柄の良くない人も、ここではそうしたことに関係なく、神に選ばれていることを言おうとしているのです。この世の常識では、家柄の良い人に値打ちがあると考えられていますが、神は、人間の常識によってではなく、神が独自に選んで、生かして下さっているのです。パウロは、私たちの常識をひっくり返して、神の選びを語るのです。
この選びと深く結びついているものが、「誇り」なのです。29節から「誇り」について語り始めます。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」と語っています。家柄の良い人、学者であった人も、同じように、身分の卑しかった者、無学・無力な者が神の前で誇ることも許されないのです。そして31節には「誇る者は主を誇れ」と語ります。この言葉は、ギリシャ語の原文の言葉をそのまま訳しますと「主にあって誇れ」という言葉です。
私たちは、誰でも誇りを持っています。自分の家柄、業績、学歴などに誇りを持っています。しかし、その誇りが価値のないものであることを知らされて、別のものを誇る者になったのです。それはイエス・キリストによって自分の罪が赦され、生かされた者は、自分が今まで誇りとしていた、この地上の一切のものが色あせ、それらのものは価値がない、値打ちがないものになったのです。それは、今まで自分を支えるものが、家柄や業績、学歴であったのですが、イエス・キリストが自分の中心なので、今まで持っていた誇りはどうでも良いものであり、値打ちがないものとなったのです。パウロは、今まで誇るものがあったけれども「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3章8節A)と語っています。パウロは、キリストを知るまで、自分に頼り、自分を誇っていたけれども、キリストが自分の最大の価値、宝であることを知って、自分を誇らなくなったのです。自分を誇りとするのではなく、キリスト・イエスを誇りとするのです。(フィリピ3章3節)
私たちは、自分の家柄、学歴、能力を頼りとする、後ろ盾にすることが愚かなことであることは分かっているけれども、私たちはそれぞれ、家柄、学歴、能力に誇りをもっていて、自分を支えるものとしているのです。
コリントの町は、ギリシャ文化の中にあったのです。町の人々は、ギリシャ哲学に影響されていたので、「知恵を愛する」人々が多かったのです。知恵をもっていることは、自分の誇りとなります。「知っている」「知識を持っている」ことは誇りになるのです。知識を持っている人は、知識をもっていない人を自分より下の人間であり、軽蔑する対象にするのです。上から目線で、知らない人に自分の知識を授けるということにするのです。知識を多く持っている人は、知識を持っていない人よりも数段、上にいるつもりでいるのです。
パウロは、ここにおいて、私たちキリスト者が立っているところを示します。1章26節「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」パウロは、ここでコリントの信徒に向かって呼びかけているのです。これは、私たちへの御言葉です。信仰の初心に立ち帰れ、と勧めているのです。洗礼を受けて、教会に入会した時には、礼拝に出席して真剣に御言葉を聞き、聖書を読み、祈るのです。そのように誠実に取り組むのですが、教会生活が長くなると教会生活に慣れ、気持ちが緩んでくるのです。慣れるということはたいへん恐ろしいものです。要領を覚え、教会の奉仕も慣れていくのです。聖書を読み、祈る時間も少なくなるのです。人間的な知恵、判断が入り込んできて、初心を忘れてしまうのです。自分は聖書のことをだいたい知っている、何十年も教会に来ているから、自分は分かっている、そのように傲慢になるのです。
そのような者に対して「召された時のことを思い起こしなさい。」と語るのです。「召された時」と言うのは、自分の中に神を求める気持ちが起こり、教会に足を踏み入れた時、あるいは、洗礼を受けた時のことと考えることができます。私たちを「召す」方がいるのです。自分の決断よりも先に、神が召してくださったのです。そして召し出された基準は、この世の基準ではなくて、別の基準で召し、選んでいるのです。コリントの信徒への手紙一1章26−28節にそのことが記されています。
神は選ぶ時に、この世の評価や人間の評価を無視しているのです。神が選ぶ時には、全く別の基準で選んでいるのです。「世の無に等しい者」という言葉がありますが、この言葉を直訳すると「無いもの」という言葉です。ギリシャ哲学では「あるもの」というのが、絶対の価値をもっているのです。「無いもの」というのは、「あること」の否定であり、全く意味がなく、この世の中になくてもよいもの、存在して価値がないもの、という意味が込められています。この世になくてもよいもの、有用で無い、いらないもの、そういう者を選ばれたのです。「選ばれたのです」は「あえて選ばれたのです」という意味です。ここでは、神の一方的な選びを語っているのです。
イスラエルの民も、神の一方的な選びによって選ばれたのです。申命記7章6−8節に次のように記されています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただあなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
主イエスは、無学で何のとりえもない人々を主イエスの弟子として選んでいるのです。私たちも、キリストによって召されたのは、私たちに選ばれる良い条件や資格があって選ばれたのではないのです。
この手紙を書いているパウロは主イエス・キリストに捉えられるまでは、大変、誇り高い男でありました。自分は最も模範的なファリサイ派の人間であったと、今でもそのことを振り返ると自慢できるくらいだとさえ書いています。主イエス・キリストを知った時、その誇りを捨てたのです。しかし、誇りを失って卑屈な人間になったのではなくて、主において誇ることができるようになったのです。パウロが救われた時に知ったのは、主において誇ることができるということです。
私たちがよく使う言葉では、プライドと言う言葉があります。プライドとは何を意味するかと言うと、自分の値打ちを自分が知っていると言うことです。自分は偉い人間だ、値高い人間だと思っているのに、それを傷つけられるようなことが起こると、プライドを傷つけられたと言って怒り出すのです。
キリストにある誇りは、そのような自分に起因する、自分が持っている誇り、プライドではなくて、もっと深い誇りなのです。自分を誇るのではなくて、キリストの救いの御業を誇るのです。キリストを誇る、キリストにあって誇るのです。
1章30節に「このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」と記されています。神の知恵とは何か。それはキリストそのものです。義とは何か。それはキリストによって私たちが義とされる、神との関わりが正常になったのは、神がキリストによって私たちを正しい者とされたのです。そして神から離れて、深い罪の中に生きている私たちを、神のもの、聖としてくださったのです。「贖い」、キリストの十字架の死によって私たちを罪から贖ってくださったのです。このキリストの御業の中にあって、誇りに生きることができるようになったのです。その誇りは誰にも与えられている共通な誇りです。奴隷であろうが知識人であろうが等しく与えられている誇りです。
この30節の言葉は、宗教改革者カルヴァンが最も愛した聖句と言われています。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」
そして31節には「誇り者は主を誇れ」とエレミヤ書の言葉を引用しています。この言葉は、エレミヤ書9章22−23節からの引用ですが、この言葉がエレミヤ書にそのままあるわけではないのです。エレミヤ書はつぎのような言葉です。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、このことを誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」このところから、パウロは「誇る者は主を誇れ」と言い変えたのです。
主を誇るとは、主の救いを誇ると言うことであり、私たちがキリストによって神に愛されている、そのことを誇りとすると言うことです。パウロは「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6章14節)と語っています。
私たちはどのような場面で誇ることができるのでしょうか。自分のことを誇るのではなく、キリストを誇る、それは、私たちがキリストを讃美して歩むことなのです。神を讃美し、ほめたたえることではないか、と思います。その意味で、私たちが礼拝の中で、私たちの生活の中で、讃美歌を歌うことはとても大切なことです。讃美歌は、イエス・キリストの御業をほめたたえているからです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。あなたに招かれて、兄弟姉妹と共に礼拝に集い、御言葉を聞く時が与えられ、感謝致します。キリストをほめたたえる生活でありますように、導いてください。自分を誇ることなく、キリストを讃美することができますように。病にある兄弟姉妹が癒やされ、健康が回復できますように。様々な事情で、礼拝に来ることができない方々を見守り、共に礼拝へと導いてくださいますように。
この祈りをイエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240609 子どもと共に守る礼拝説教 「天に宝をたくわえなさい」 山ノ下恭二牧師
(コヘレトの言葉12章1節、マタイによる福音書6章19−24節) |
|
しばらく前のことですが、池袋の大きな書店で本を選び、その本を買おうとレジに行き、支払おうと思い、財布を取り出そうとしてポケットに手を突っ込みましたら、財布がないことに気がつきました。財布を落としたのかと思って店員に捜してもらったのですがなかったので、財布が盗まれたことが分かりました。困ったなぁ、と思いましたが、財布の他に小銭入れを持っていて、小銭入れの中に家に帰るだけのお金があったので、無事、帰ることができました。小銭入れにお金があったので、家に帰れましたが、もしお金がなかったら家に帰ることができなかったと思いました。皆さんの中には、お金が手許になくて困った経験を持っている人もいると思います。
お金は、私たちが毎日生活するために必要なものです。今日も、教会に来るために、電車賃やガソリン代などでお金を使って教会に来たのです。お金がないと生活できないので、お金を貯めている人は多いのです。子どもはお年玉や誕生祝いのお金を貯金していることも多いのです。人生100年の時代でみんな長生きですので、長い老後の生活のために貯金をしている人も多いのです。
昔、100歳の双子の女性ですが、金さん、銀さん、と言う人がいて、その当時、よくテレビに出ていました。「老後のために貯金している」と言っていました。100歳ですから、既に老後になっているのですが、まだ老後が続くのでしょう、ずうっと長く生きるのだなぁ、と思いました。
マタイによる福音書6章19節には、イエス様が「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さびついたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」と語っています。この時代の「富」とは、値段の高い豪華な衣服のことです。現代では、高級ブランドの洋服に相当します。値段の高い豪華な衣服を木の箱に入れておくと、虫が衣服をむしばみ、さびついて、着られなくなってしまうのです。また、ここに財産を置いておけば大丈夫と思っていても、夜、強盗がやってきて、盗まれることがあるのです。今の時代では、お金を増やしたいと思っている人が多いので、その心理につけ込んで、オレオレ詐欺があり、ネットによる詐欺があります。投資詐欺があり、投資すると倍になってお金が返ってくると言って振り込ませて、お金をだまして取る詐欺が多いのです。今もっているお金を活用して、お金を増やしたい、そのような心理を利用して、だますのです。もっとお金が欲しい、人々の欲張りの心をうまく利用してだますのです。
このことに対してイエス様は、お金や財産をもっていても、無くなることがあり、お金や財産をもって、お金だけに頼ることはとても危険であると注意をしているのです。主イエスは、お金を増やしたい、お金があれば楽しく豊かに暮らすことができる、そのような思いをもって、お金にだけ頼ることに警告しているのです。
お金や財産は、私たちにとって大切で必要なものです。しかし、お金や財産があれば、安心だとは言えないのです。お金を持っていれば安心だ、もっとお金が欲しいと思っている人に対して、イエス様は一つのたとえ話をされました。一人の人が、自分の父親が亡くなったので、父親の遺産を自分に多くもらえるように、イエス様に口添えしてもらいたいとお願いしたのです。
このことに対して、ルカによる福音書12章15節でイエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と語ったのです。イエス様は、たくさん欲しいという気持ちがあることに気がついて気をつけなさい、財産を持っていても、財産は人間のいのちを長くすることはできないと語って「愚かな金持ち」の譬えを語ったのです。ある金持ちの畑が豊作で、小麦がたくさん取れたので蓄えるために倉を建てよう、これで何年も食べて行ける、これで安心だ、そうだ、みんなを呼んで宴会をして食べ、飲もうと思った矢先、神様は金持ちの命を取り上げたというたとえ話を語りました。
お金や財産に頼っていても、命がなくなって死んだら、そのお金や財産はその人が持って行けるわけではないのです。死んだら棺に入るのですが、棺にお金や高級な洋服を入れても、使うことはできないのです。イエス様は、自分のために、お金をたくさん持ち、財産をたくさん所有していても、死んでしまえば、意味の無いものになると語っているのです。そして「神の前に豊かになる」ことを勧めているのです。
神様の前に豊かになる、この言葉は、天に富を積みなさい、と言う言葉と同じことを言っています。天と言う言葉は「神」と言う言葉に言い変えて良いのです。神に宝を積みなさい、神に宝を蓄えなさい、と言い変えることができます。
私たちは、お金や財産に頼っています。信頼しているのです。これがあれば大丈夫だ、と思います。しかし、神に富を積む、神に宝を蓄えなさいと言われていることは、神を信頼して生活しなさい、と言っているのです。
私たちは、自分の目で見て確かなものだけに信頼しています。財布のなかにあるお金は目に見えて手に取ることができるので、確かなものと思うのです。しかし、私たちは、目には見えないけれども、私たちを愛してくださっている神を信頼しているのです。
イエス様は私たちの罪のために十字架で死んで、私たちの罪を贖ってくださいました。私たちのことを心配して、私たちのために犠牲を献げるほどに、私たちを愛してくださっている神様を私たちはもっているのです。
お金を神のように考えて、罪を犯す人も多いのです。お金を盗んだり、人をだましてお金を取ったり、自分の仕事を有利にするためにお金をあげて、捕かまって裁判にかけられて有罪となり、刑務所に入る人も多いのです。
しかし、私たちは、お金よりも勝った、私たちを愛してくださる神を信じているので、お金が絶対的な価値をもっているのではないのです。
私たちのもっている物はすべて神のものです。神の前に豊かである、天に富を積む、それは、自分のもっているお金や財産を自分のためにだけ用いるのではなくて、神にささげ、隣人にささげることなのです。
神にささげる、それが天に富を積むことなのです。マルコによる福音書12章41−44節に貧しいやもめが、自分の一日の生活費を全部、ささげた物語が記されています。レプトン銅貨二枚を献金箱に入れたと書いてあります。レプトン銅貨一枚とは、今の貨幣価値では、78円ぐらいですから、二枚は、156円です。牛込払方町教会では、レプタ献金があり、教会と関わる社会福祉施設や様々な施設に献金しています。このレプトン銅貨二枚はお金持ちにはとても少ない金額です。しかし、このやもめは、生活に困っていたのですが、「生活費の全部」を入れたのです。このお金をささげると今日、食べるパンを買うことができなくなるのです。自分のためにはたくさんお金を使い、自分には困らない、その残りのわずかなお金をささげるのではなく、生活そのものをささげたと主イエスはこのやもめを褒めているのです。
天に富を積む、神の前に豊かである、ということは、神から与えられたお金や財産を隣人のためにささげることです。私は、東京神学大学の学生の頃、奨学金を戴いていました。特に萩尾さんという方が寄付してくださった、萩尾奨学金をいただいて、学ぶことができました。その時の奨学金委員であった教師が、萩尾さんは、自分の生活はほんとうに質素な生活をしていて、将来、伝道者・牧師になる神学生のために多額のお金を神学大学の学生のためにささげてくださったことを話してくれました。とても困っている友だちがいます。食べることも出来ない友だちがいるのです。隣人の生活を助けるために、私たちは、自分の持っている物をささげるのです。
(祈り)
天の父なる神様。教会の兄弟姉妹、教会に集う子ども達と共に礼拝に招かれ、共に御言葉を聞くことができましたことを心から感謝を致します。この地上の富や宝に頼らず、ただ神の恵みと憐れみに信頼して、毎日、歩むことができますように導いてください。教会に集う子ども達をあなたが愛し、育み、導いてください。若い時に、神様を信じることができますように。病と戦っている兄弟姉妹を癒やしてください。様々な事情で礼拝に出席できない方々をあなたが生きる勇気と慰めが与えられますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240602 主日礼拝説教 「十字架の救いとは」 山ノ下恭二牧師
(イザヤ書54章4−10節、コリントの信徒への手紙一 1章18−25節) |
|
本日の礼拝説教の題は、「十字架の救いとは」という題です。本日の説教の準備をしていて思ったことは、難しい説教題をつけたものだと思ったのです。 説教題を準備していて最初に付けた題は、この題ではなかったのです。どのような題であったのかと言うと「なぜ、教会には十字架があるのか」という題でした。説教の準備をしていく中で、また別の説教題のほうが良いなぁと思いました。「なぜ教会には十字架が大切なのか」と言う題です。なぜ私たちには十字架が大切なのか、と言うことです。
私たちは、使徒信条で、主イエス・キリストについて「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白していますが、この信条の言葉の原型は、コリントの信徒への手紙一 15章3−5節の言葉にあるのです。パウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」と語っています。この言葉が使徒信条の原型になっているのです。私たちの信仰の要は、イエス・キリストの十字架と復活なのです。
ロ−マ・カトリック教会の十字架には、主イエスが磔になっているからだがある十字架ですが、私たちプロテスタント教会が掲げている十字架には、磔になっている主イエスのからだはありません。どうしてでしょうか。それは、カトリック教会が、神の物語を見える化しているからです。神の物語を視覚化しているのです。例えば、教会にステンドグラスがありますが、ステンドグラスの絵を見れば創世記から黙示録までの物語を分かるようにしています。オーストリアのある町で数年に一度、受難劇を演じるそうですが、イエス・キリストの受難劇を演じることによって、主イエスの十字架の受難を再現し、その演劇のドラマを人々がこの目で見ることによって、主イエスが十字架の受難を追体験するのです。私たちの目で主イエスが十字架に磔になった姿を確かめることができると考えているのです。
しかし、プロテスタント教会は、十字架で磔になっているイエスの姿を見て受難と十字架の死を理解するのではなく、信仰によって十字架を認識するのです。そして主イエスが復活されたところから十字架を理解しているので、十字架に磔になっている主イエスのからだはないのです。私たちの目で主イエスが十字架で死んだことを理解するのではなく、目には見えませんが、信仰によって主イエスの十字架の姿と十字架の意味を認識するのです。
十字架は、神がキリストによって私たちを愛していることを訴えているのです。十字架は、キリストの愛を私たちに訴えているのです。それは、あなたがたのために、イエス・キリストが肉を裂き、血を流して死んで下さったことをはっきりと表している愛のしるしなのです。
聖学院大学で、キリスト教概論を教えていた時に、主イエスが神と同じ方で、人間となられ、私たちの罪のために十字架に架けられた方であると話して授業を終えた後に、一所懸命に話を聞いていた学生が、私のところに来て、イエスという人は困っている人を助け、病で苦しんでいる人を治した立派な人だと思っていたけれども、神の子であったと言うことを、知って驚きました、神が人になることなんてあるんですか、と私に言ったのです。
主イエスが、地上に生き、一人の人間であったということは受け入れられますが、神と同じ方であるということは受け入れられないのです。そして、イエスの十字架の死が、私たちの罪を贖う死であると言うことは、疑問に思うのではないかと思います。十字架は、この当時、死刑を宣告された犯罪者の処刑道具であって、この犯罪人が、私たちの罪を贖った方であると言うことは、愚かなことを言っていると思われたのです。
私が神学生の時に、東京神学大学での礼拝で印象に残っている説教があります。赤木善光という歴史神学の教授が、ある時、こういう話をしました。十字架は、キリスト教のシンボルとなっているし、十字架のペンダントなどのアクセサリーとなっているが、元々は、死刑の道具であり、日本では死刑は絞首刑であるので、犯罪者の首に巻く紐のことである、最初の教会のキリスト者は、この十字架を先頭にして行進したのであり、この行進を見た人たちは、死刑の道具を先頭にして行進していることにとても奇妙で、恐ろしい集団であると思ったに違いない、現代のキリスト者は十字架が死刑の道具であることを忘れているのではないか、と語ったのです。
コリントの信徒への手紙一 1章18節に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」この言葉は、パウロの書いたこのコリントの教会に宛てた手紙の中でよく知られている言葉です。この言葉に深い慰め、励ましを受けた人も多いのです。
本日の礼拝で、コリントの信徒への手紙1章18−25節を読みましたが、前後の文脈から切り離さないで、読んでいくことも大切なことです。前後の文脈で何を言おうとしているのかを考えてみることも大切です。このすぐ前の17節までのところで、パウロが何を問題にしていたのかと言うと、コリントの教会に分派が生まれていた、一致がなかった、そのことをパウロは心配して様々な対立を乗り越えるためにどうしたら良いのか、分派、対立を乗り越えてひとつになってほしい、と願っていたのです。様々な対立を乗り越えるために大事なことは、それぞれの違いがあるにもかかわらず、一致することができるものがあるのです。それは、主イエス・キリストの十字架です。パウロが神に遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであります。十字架の福音を告げ知らせるためです。自分が好む説教者のところに集まって、自分が聞きたい説教を聞いていく、それは、キリストが肉を裂き、血を流してまで愛してくださったことを無駄にすることなのです。キリストの十字架がむなしいものになってしまうのです。パウロは、主イエスが御自身のいのちをささげた十字架がむなしいものにならないようにと願っていたのです。
18節に「十字架の言葉」という言葉がでてきます。ここでは「十字架」ではなくて「十字架の言葉」と言っています。この言葉は「十字架についての言葉」と言っても良いのです。正確に言えば「十字架の出来事を知らせる」と言うことです。ある大きな事件が起きた時にそれを知らせる、ということです。主イエス・キリストが十字架におつきになった、そういう大きな出来事が起こったことを知らせる言葉です。十字架の意味を伝道者がいろいろ意味づけをしてみせるというのではなくて、十字架そのものが私たちに語りかけているものがあるのです。それを語るのです。十字架について解説して話すのではなく、十字架そのものが私たちに語りかけているものがあるのです。
パウロは十字架の出来事を説教しましたが、この説教を受け入れなかった人たちは多かったのです。アテネで説教しましたが、受け入れられなかったのです。それは説教を聞く者が前提にしていることと全く異なることをパウロが説教しているからです。誰でも自分の考えをあらかじめ持っているので、その考えと異なる話にはついていけないのです。神を冒涜した罪で、死刑判決を受け、十字架で処刑された男を救い主、メシア、神の子であると言うのはおかしい、愚かな話であると言うのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが」と語っています。「十字架の出来事を知らせる」説教を聞いた者がなんとつじつまが合わない、馬鹿な話をしていると相手にしない、聞き流すのです。これらの人々は、救われないで滅んでいくのです。自分にとって役に立つ、自分の願いを叶えてくれる話であれば、喜んで聞くでしょうが、自分の論理に合わない話は聞かないのです。十字架の話を聞いても、馬鹿な話だ、ということで終わってしまうのです。
コリントの教会に分派ができていたのです。そのように分派が出来てしまうのはなぜでしょうか。パウロ派、アポロ派、ペトロ派、キリスト派、という分派ができていたのです。中心的な指導者がいて一人の人を軸にして集まるのです。何を求めて集まっているのだろうか。その指導者に力があり、知恵があるのでその人の周りに集まっていくのです。指導力のある人や知恵がある人の周りに集まっていくのです。どの団体でも、力と知恵のある人のところに人々が集まって、グル−プができているのです。
しかし、キリスト教会は、力と知恵のある人のところに集まって分派を形成するところではないのです。キリストを頭とする群れであるのです。
この18−25節には「愚か」という言葉が多く出て来るのです。「愚か」と言うのは、いつも私たちが使う「馬鹿」ということです。馬鹿とは「賢い」「知恵」と反対の言葉です。「どうして馬鹿なことをするの」「もっと賢くなりなさい」「愚か」というのは、良いものではないのです。キリストの十字架を信じる者は、愚かなのです。それは、人間の知恵、理性によれば、十字架は愚かなものなのです。論理的に合わないことなのです。
22節に「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探します。」とあります。この手紙を書いたパウロはユダヤですけれども、ユダヤ人であると共に、ギリシャ的な教養を豊かにもった人であったのです。パウロは、ユダヤ人の気持ちもギリシャ人の気持ちもよく分かっていたのです。
ユダヤ人がしるしを求める、とあります。このしるしとは「奇跡」と言い変えて良いのです。荒れ野の誘惑の物語で、悪魔が主イエスに奇跡を求めています。主イエスが神であるしるし、それは奇跡を起こして見せることなのです。石をパンに変えるように、高い塔に昇って、そこから飛び降りて、着地するように、と主イエスが神であるかどうか試しています。このユダヤ人が神であるとはどのような者なのか、あらかじめ、もっている考えがあるのです。神は奇跡を起こし、人間ができないことをする存在であるということです。主イエスが神らしく振る舞えば、神として認めるのです。この者が神であるかどうか、決めるのは自分なのです。
ギリシャ人は知恵を求める、自分の理性を信じて、論理に合わない考えは退けるのです。コリントの教会は、コリントという町の中にあり、かなり世俗化し、享楽的な雰囲気の強い町にありました。従ってコリントの教会は、コリントの町の雰囲気に強く影響を受けていたのです。教会の中に分裂があり、道徳が乱れ、復活を信じていない人もおり、霊を受けていると主張しながら、他の人々を批判していたのです。聖餐も早く教会に来た人がパンと杯を飲食してしまうような有様であったのです。主イエス・キリストを頭とするよりも、集まっている人々が自分の思い、自分の考えを中心に集まっていたのです。人間としての考え、思いが非常に強く、全面に出ていたのです。ギリシャ哲学に深く影響を受けていたこともあり「知恵を愛する」人々も多かったのです。ギリシャ哲学は人間の知性、理性に対する信頼があり、自分で考えて、自分の理性に合わない、筋が通らないとおかしいと考えたのです。「ギリシャ人は知恵を探し」とあります。知恵を持っていることが自分の誇りになるのです。現代に生きている私たちも、自分の理性に信頼し、自分の知恵で生活することができると考えているのです。そこには、自分が神から独立して、特別に神を信じ、頼らなくても、自分の力でやっていけるという考えがあるのです。
このことに対してパウロは、人間の知恵には限界があることを語ります。人間の知恵は、神の知恵と比較して全く取るに足りないと語ります。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」神を知ることもできない、人間のほんとうに小さな知恵で、私たちは自分の生活をうまく切り開くことができると考えているのです。しかし、神の知恵は、人間の知恵に比べて、全く比較にならないほど、深く、大きなものなのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と語っています。神と私たち人間とは比較できないほど、能力、知恵においてもかけ離れています。私たちが自分の能力を誇り、知恵を誇ったとしても、それはなきに等しいものなのです。自分はこのことを知っている、自分はこのことができる、そういう自分に頼るのではなく、神の知恵、神の力に頼るのです。
神がイエス・キリストにおいて愛してくださって、共にいてくださる、そのことを信頼して生きましょう。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。6月の最初の礼拝に招かれて、兄弟姉妹と共に礼拝に集うことができ、御言葉を聞く時が与えられ、感謝を致します。神が私たちを、キリストの十字架によって深く愛してくださっていることを信じ、どうか、この神の愛を信じて、困難な時も、試練に遭う時にも乗り越えることができますように、常に私たちを導いてください。様々な事情で、礼拝に出席できない方々を励まし、病と戦っている兄弟姉妹を癒やし、力づけてくださいますように。これから聖餐に与ります。私たちのために肉を裂き、血を流すほどに罪から救い、愛してくださる神の愛を味わうことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240526 主日礼拝説教 「キリストの十字架がむなしくならないために」 山ノ下恭二牧師
(詩篇62編2−13、コリントの信徒への手紙一 1章10−17節) |
|
キリスト教会の屋根には、十字架があります。十字架がある建物があると、キリスト教会であることが分かります。十字架が、キリスト教会のシンボルであることが分かっていても、十字架のほんとうの意味を知っている人は少ないのではないかと思います。私たちは、礼拝で使徒信条を告白しています。この中に「苦しみを受け、十字架につけられ」と告白していますが、告白していながら、この言葉に慣れてしまって、主イエス・キリストが十字架についたことが、自分には掛け替えのないこととして捉えているでしょうか。
イエス・キリストの十字架の死は、罪深い私たちが神の審判を受けるべきであるのに、イエス・キリストが私たちに代わって神の審判を受けた死であり、これほどまでに私たちを愛するために犠牲を払った死なのです。十字架の意味を知っていても、イエス・キリストの十字架が、実際に自分の心の中で出来事として起こり、悔い改めるものとなっているでしょうか。
この礼拝で、コリントの信徒への手紙一 を共に学び始めていますが、1章10節から本論に入ります。パウロは、クロエの家の者からコリントの教会に争いがあることを知らされて、この争いについて勧告しているのです。
この争いは、教会員相互の間に、感情的な対立があるだけではなく、それが表面化していたのです。そこでパウロは、まず、この問題を取り上げて勧告しています。
「さて、兄弟たちよ、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたにお願いします。」パウロは、個人的に勧告したのではなく、イエス・キリストによる勧告であることをはっきり語るのです。パウロは、コリントの信徒たちを、イエス・キリストの前に立たせようとしています。コリントの信徒たちは、イエス・キリストによって贖われ、罪を赦され、キリストとの交わりに入れられた者たちなのです。キリストにあって、自らを省みるように迫ります。コリントの教会には、分裂があり、一致がなく、争いがあったのです。そういう自分たちの姿、あり方は、イエス・キリストの前に、恥じることではないかと問うのです。
10節後半に「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、堅く結び合いなさい」と語っています。パウロには、コリントの教会の人たちが、ばらばらになっている心を一つのところに結び合わせたいという思いが強かったのです。「勝手なことを言わず」この言葉を、口語訳では「皆が語ることを一つにして」とあります。直訳すると「皆同じことを語りなさい。」「一つのことを語りなさい。」と訳することができます。
この当時の教会は、一つの教会に一人の伝道者が毎週、説教を語るというのではなく、毎週、異なった伝道者が代わる代わる、説教をしていました。説教者によって、語り方や内容が異なっていたのかもしれません。そうなると、この伝道者が良い、この伝道者は話が下手だ、ということになるのです。
私が神学生の時に属していた、中村町教会の主任牧師が急死して、無牧になり、代務者がいましたが、毎週、異なる説教者が説教をしていました。5月に牧師が亡くなり、次の年の3月まで、毎週、異なった牧師が説教をしていました。いろいろな説教が聴けるから楽しくて良い、という人もいました。毎週、違う牧師の説教を聴くので、それぞれの説教を比較することができるのです。ある人はこの牧師の説教は自分に合う、しかし、別の時に説教した牧師のことを、あんまり話がおもしろくなかった、面白かったけれども話が長いと言うようになったのです。
コリントの教会の信徒たちは、巡回伝道者のいろいろな説教を聞いて、自分が気に入った説教者がいて、その説教者のファンのようになっていたのです。牧師の説教を信徒たちが気に入らなくて礼拝に来ないよりも、気に入って、ファンのように毎週、礼拝に来るほうが良いでしょうが、説教を自分の好みに合わせて聞くことは感心したものではないのです。
パウロが「仲間割れ」と言っているのは、分裂、紛争、仲たがい、教会内部の対立のことです。パウロは信徒たちが「イエス・キリストの交わりに招き入れられた」と語っています。交わり、この言葉は「コイノ二ア」という言葉です。共に分かち合う交わりを意味します。教会は、恵みを分かち合う共同体なのです。自分の考えや主張を絶対化して、その主張を押し通すのではなく、互いに折り合って、互いの考えをよく聞きながら、キリストのからだを造るためにどうすればよいのかを考え、共に協力するのです。
教会は、様々な人たちが集まっているのですから、気持ちや考えは異なっています。日頃、私たちは感情で動いている面があり、好きか、嫌いか、気に入っているか、気に入らないか、で物事を決めてしまうのです。また、考えが異なるので、意見が対立するのです。パウロは「心を一つにし、思いを一つにして」と語るのです。
パウロはばらばらになっている人たちに「団結してほしい」と願っています。この「団結」という言葉は「破れた網を繕ろう」という言葉です。ほどけた網を繕って一つの網とする、と言うことです。元の一致した状態に回復しなさい、と語るのです。
では、実際のコリントの教会には、どのような分裂があったのでしょうか。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と言い合っていたのです。この名前をもった党首が実際にグル−プを率いていたわけではないのです。「パウロにつく」この人たちはパウロの主張に共感していた者たちがパウロを担いで「パウロ派」を作っていたのです。
アポロは、ユダヤ人キリスト者で旧約聖書に精通しており、ギリシャ哲学を学び、雄弁家であったと言われています。語ることに優れていて、教養のある人たちを引きつけていたのです。「ケファ」とはペトロのことで、ペトロはイエス・キリストの一番弟子で、使徒として活躍をしていました。パレスチナの教会、シリアの教会からやってきたキリスト者のグル−プが「ペトロ派」を作っていたのです。ペトロがキリストの最初の使徒であることを盾にとってパウロは使徒ではないと批判していて、パウロを受け入れなかったのです。使徒とは、イエス・キリストの十字架と復活の場面に立ち会っていることが使徒の条件でしたので、パウロは十字架と復活の場面に立ち会っていなかったので、使徒ではないと主張していたのです。このところで一番、分からないのは「わたしはキリストに」という言葉です。これは、神秘的なことを好む人たちがいて、霊によって自分たちとキリストとが結びついていると主張する神秘主義的なグル−プなのです。自分の好みを中心にしてグル−プが作られていたのです。
まず自分があって、自分に適した教会を求めるのです。自分という個人があって、一人一人が自発的に集まっている、それが教会であると考えているのです。
私が、東大宮教会におりました時に、ある方が礼拝にしばらく来ていたので、転入会を勧めたところ、この方が言うには、自分はこの教会は75パ−セント良いと思っているけれども、25パ−セントは良くないところがあると言って転入会をためらっていました。しばらくして転入会をしましたが、その後、この教会は自分がしたいことができない、と言って別の教会に転出した人がいました。
自分に適した教会が良い、という考えなのでした。教会に自分が合わせることをしないで、教会を自分に合わせるのです。洗礼を受けたということは、自分が主人公であった古い自分から、キリストを自分の新しい主人公に切り替えたことなのですが、洗礼を受けても、古い自分が自分の中に残っていて、自分がいつも主人公であるのです。
ガラテヤの信徒への手紙3章26節には「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(新約p346)と語られています。洗礼を受けることは、罪の汚れた衣服を脱ぎ捨てて、真新しいキリストの義の衣服を着ることなのですが、まだ、古い、汚れた罪の衣服を着て自分を中心にして生活をしているのです。
同じイエス・キリストの福音によって救われ、同じ福音に聞きながら、それを押しのけて、自分が身につけた自分の考えや、この世の考えを教会に持ってくるのです。知性を好むギリシャ人、自分の出生を誇るユダヤ人、霊の力を誇る神秘主義者、それぞれが誇りをもって対立していたのです。
1章13節の言葉が重要です。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。」という言葉です。別の訳では「キリストが分割されたのですか」とあります。
ロ−マの信徒への手紙12章4−5節にはキリスト教会は「一つのからだであり、からだには互いに多くの器官があり、すべての器官が、同じ働きをしていないように、大勢いる私たちもキリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」と語られています。
キリスト教会はキリストのからだであり、ひとつのからだを形作っており、各部は、有機的に結合しているのです。分派を作ることは、キリストのからだをばらばらにすることです。キリストだけが教会のかしらであり、私たちはその部分です。キリストのみをかしらとして、キリストのからだの一部として生きるならば、そこに一致と調和があるのです。
13節で「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたは、パウロの名によって洗礼を受けたのですか。」と語ります。パウロは実際に洗礼を授けた人は少数であって、パウロは神から与えられた使命は福音を伝えることであると自覚していました。福音を語ることによって洗礼を受けることが起こるのですが、宣教の中心は、福音を語ることなのです。
キリストの福音を語ることは、十字架を語ることです。パウロは、キリストの十字架だけを語るのです。
私は、1976年の3月に東京神学大学大学院を卒業したのですが、その卒業式で最後に歌った讃美歌を忘れることができません。54年版讃美歌の495番です。「イエスよ、この身をゆかせたまえ、愛のしたたる 十字架さして、我はほこらん ただ十字架を 天ついこいに 入るときまで。」この讃美歌を選んだ竹前満佐一学長は、これから教会に赴任して福音を語る伝道者たちに、語るのは十字架の恵みを語るのだ、そう言いたかったのではないか、と思いました。
それぞれの分派を作っていた人たちは、キリストの福音の中心から外れたことを語っていたのです。キリストの十字架の福音よりも、知恵を語り、神秘的な体験に重きをおいて語っていたのです。
この自分のために神自ら、御自分の外に出て肉体を取ってイエスという人間となり、私たちの罪の贖いとして十字架で死んでくださったのです。洗礼を受けたことは、自分の主人公を変えることなのです。自分の主人公は自分ではなく、イエス・キリストなのです。自分のために生きてきた古い自分に死に、葬り、キリストの恵みに感謝してキリストと共に生きる、新しい生き方に変えられたはずなのです。しかし、自分に合う、自分の好みに合う教会にしようとするのです。
17節に「キリストの十字架がむなしいものにならないように」と語られています。これは、パウロが、このことが主イエスの気持ちであることを伝えようとしたのです。主イエスご自身が願っておられることは、主御自身が、そのいのちをささげた十字架がむなしいものにならないようにということです。十字架を語らないことは、私たちが救われるために、神自ら、イエス・キリストをこの世に派遣して、罪を贖うために、肉を裂き、血を流して死んでくださった、その神の愛の行為を無駄にしてしまうのです。
私たちは、説教を聞き、聖餐にあずかります。説教は、毎週、聖書テキストが変わるので、様々なメッセージを語ることになります。聖書テキストによっては、十字架について触れない説教があります。十字架という言葉もない説教もあります。しかし、聖餐は、私たちの罪の救いのために、主イエスが肉を裂き、血を流して、贖ってくださったことをこの目で、この口で経験します。説教は様々に語りますが、その説教は、聖餐を通して、福音がキリストの犠牲の愛であること、キリストの十字架の死であることを明らかにするのです。
イエス・キリストは、十字架の死によって私たちを深く愛されたのです。
コリントの信徒への手紙二 5章15節に「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(新約p330)
(祈り)
主イエス・キリストの父なる神。あなたの招きにより、礼拝に集い、兄弟姉妹と共に御言葉を聞くことができましたことを感謝致します。自分がいつも先にあって、自分の好みや好き嫌いで物事を決めてしまう弱さを持っています。自分を中心とすることなく、イエス・キリストによって罪が赦された者として、互いに争うことなく、互いに愛し合う者としてください。病に苦しむ者を癒やしてくださいますように。自宅療養をしておられる兄弟姉妹の健康が回復することができますように。この一週間もあなたが共にいて、生きる勇気と励ましがありますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240519 主日礼拝説教 「キリストの名によって立ち上がろう」 山ノ下恭二牧師
(詩篇32編6−7節、使徒言行録3章1−10節) |
|
本日は、聖霊降臨日です。キリスト教会が誕生したことを祝う記念の日なのです。キリスト教会は、三つの祝いを致します。主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス、主イエス・キリストの復活を祝うイースター、そして教会が誕生したことを祝うペンテコステ(聖霊降臨日)があります。
教会が誕生したのは、私たち人間の発想や力によってできたものではなく、神が働いておられる、聖霊の力によって設立されたものです。キリスト教会を造ろう、どのようにして造ろうか、と考えて人間の知恵を用いて教会ができたものではないのです。その時、その時に神が聖霊を注いで、私たち人間に使命を与え、人を用いて教会を造らせたのです。教会の主は、人間ではなく、イエス・キリストの神であるのです。
この牛込払方町教会の初代の牧師は、小川義綏ですが、この人は、タムソン宣教師の日本語通訳としてキリスト教の福音を知り、牧師となった人ですが、この人を導いたタムソン宣教師は、神が聖霊によって日本の人々にキリストの福音を伝える使命として与えられ、半年もかけて日本に来て、福音を伝えた牧師です。この宣教師が日本にキリストの福音を伝えよう、教えようと思って日本に来たのではないのです。アメリカの教会で牧師として働いていたほうが、苦労もなく平穏な生活を送ることができたのです。しかし、神が、この宣教師を召して、福音を伝えるように仕向けて、日本に派遣されてきたのです。聖霊に動かされた宣教師の働きがなければ、日本にキリストの福音は伝わらなかったのです。この聖霊の働きによって、次々と伝道者が起こされました。イエス・キリストの福音を主と信じて告白し、洗礼を受けて教会のメンバ−になった人々と共に礼拝を守り、御言葉が語られ、聖餐が行われて教会が継続されてきたのです。
キリスト教会は、人々に何を提供してきたのでしょうか。そして教会が持っているものは何なのでしょうか。それは、キリストの福音です。福音という言葉は元々、ギリシャ語ですが、「うれしい知らせ」「喜びの知らせ」という意味の言葉です。この福音と言う言葉は元々、その国の王子が誕生したことの知らせ、戦争で勝利したことを知らせる伝令のことを「福音」と呼んでいたのです。英語で翻訳された聖書はたくさんありますが、ある英訳聖書は、聖書と命名しないで、「グット・ニュ−ス」と命名しているのです。私たちにとって、うれしい知らせとは何でしょうか。進学率の高い学校に入学できた、給料が少し上がった、体の具合が悪かったけれども良くなって元気になった、そのことも良い知らせです。しかし、私たちが生活していく中で、自分の力では、解決できないこともあるのです。他の人も助けることができないで、苦しむことがあるのです。
テレビのスポーツ番組でパラリンピックに出場する選手のことが紹介されていましたが、元々、この選手は、ラグビーの選手でしたが、交通事故で両足を失い、自分は何もできないと失望していたのですが、障害者のスポーツ大会があることを知って、厳しいトレーニングを自分に課して、パラリンピックに出場できるようになったことが放映されていました。この選手は、たゆまない努力を重ねて、パラリンピックに出場できるようになったのです。
しかし、人間の努力では、その壁を破ることができないことがあるのです。聖霊を注がれてキリストの使徒となった、ペトロとヨハネが、エルサレム神殿に行く途中に、「生まれながら足の不自由な男」がいたのです。この男は、歩くことができず、自分が働いて収入を得ることができず、毎日、人々が多く通るところに運ばれてきていたのです。この男は、いつも誰かが自分を助けてくれることを頼りとし、他の人の好意にすがることをしていたのです。仕事もできず、収入もないので、人々から金品を戴くことをしていたのです。
ペトロとヨハネは、この男をじっと見たのです。「じっと見た」という言葉は、この男をただ可哀そうな男だと思ってじっと見たのではなくて、神に造られたかけがえのない、一人の人格をもった人間として「じっと見た」のです。キリスト教会は、人間をどのように扱ってきたのでしょうか。それは、どのような人間でも神が心を込めて創造された尊い人格をもった存在として扱ってきたのです。
日本にキリスト教を伝えたのは、カトリック教会の修道士であるフランシスコ・ザビエルですが、この当時、武士と農民を区別する身分制度があって、大名が死ぬと葬式が行われていましたが、農民たちは、死んでも葬儀は行うことが許されず、野捨てと言って、野原に捨てられて放置されていたのです。しかし、カトリック教会の宣教師たちは、低い身分の農民であっても、キリスト教の葬儀をしたのです。このように農民であっても、一人の尊い人格的な存在として扱ってくれると言うことが評判になり、キリスト教に入信する人々が増えていった要因になったのです。
ペトロとヨハネは、この男の前を通り過ぎることなく、この男と対面してじっと見て、この男に「私たちを見なさい」と語っているのです。「私たちを見なさい」というのは、ペトロとヨハネの顔や姿を見なさいと言っているのではなくて、ペトロとヨハネたちを背後で生かしている、イエス・キリストを見なさい、と語っているのです。私たちは、その人を見て、その人がどのような職業を経験してきたか、勘のようなもので分かることがあります。この人は、医師をしている人ではないか、学校の教師をしているのではないか、と話し方や振る舞いを見て分かることがあります。私はある時、話し方や振る舞いでこの人はキリスト者ではないかと思ってそのことを言ったら、そうです、キリスト者です、と言ったのです。ペトロとヨハネは「私たちを見なさい」と言っているのは、私たちを生かし、愛してくださるイエス・キリストを見なさい」と語っているのです。
足が不自由で自分の力では歩くことができない男が求めていたのは、お金であるのです。金品が欲しいことはペトロもヨハネもよく分かっているのです。この男に対して、ペトロは「わたしには金や銀はない」と語ったのです。文語訳の聖書では「金銀我になし」と翻訳しています。この言葉は、「あなたにあげるお金はない」と言っているのではないのです。この男に提供できるのは、金や銀ではないと言っているのです。金や銀ではないものを持っていることを言おうとしているのです。
「金銀、我になし」教会は、様々な願いを持っている人々の要求にすぐに応えることはしないのです。そうは言っても、教会は、災害で困難な生活をしている人々を覚えて募金してきましたし、最近では、能登半島地震のために募金被災した人々を覚えて協力しています。日本ではキリスト教会が設立した病院や社会福祉施設が多くありますので、生きるために必要なものを全く提供してこなかったわけではないのです。日本でも社会福祉の分野で、開拓的な仕事をしてきたのは、キリスト教会やキリスト者たちなのです。しかし、第一義的にキリスト教会は人々が要求しているものに応えるサ−ビス団体ではないのです。「金銀、我になし」なのです。
キリスト教会がもっているものがあります。金銀ではなくて、全く別のものをもっているのです。キリスト教会しか提供できないものがあるのです。
3章6節に「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう、ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」と語っています。
この男は、自分の力では立ち上がることはできないのです。これからも立ち上がることができないとあきらめて、人々が金品を提供してくれることを期待して、同じ場所に座っていたのです。ペトロやヨハネが持っているものとは何でしょうか。キリスト教会がもっているものは何でしょうか。
牛込払方町教会の初代牧師の小川義綏は、タムソン宣教師の日本語通訳として働き、日曜日の礼拝に出席して、説教を聞き、そしてタムソン宣教師が旧約聖書を日本語訳にする仕事を手伝っていたのです。タムソン宣教師は語学が堪能でヘブライ語がよくできたそうです。ヨブ記をヘブライ語から日本語訳にしている作業を、小川義綏が手伝っていて、聖書には、人間が苦しんでいる物語があるのですね、そして苦しんでいる者に対して神が一緒に苦しんでいるのですね、ととても感銘を受けたそうです。
私たちは、自分の力では解決できない、自分の力では立ち上がることができない、困難な問題に直面します。私たちは、自分の力で体を動かすことができ、生活できることを前提にしています。しかし、その前提が壊れてしまうことが起こるのです。
5月12日の朝日新聞の天声人語というコラム欄に星野富弘という人が78歳で亡くなり、この人について書いていました。この星野富弘という人は、学校の体育の教師でしたが、鉄棒から落ちて、首より下は全く動けない体になり、生きる希望を失っていたのですが、入院している病院にキリスト者の婦人たちがお見舞いに来て、聖書の御言葉を伝えたのです。このような訪問を受けるようになって、星野富弘さんは神の愛を信じて、絵筆を口にくわえて、野の花の絵を描き、その横に詩を書くようになったのです。群馬県のみどり市に星野富弘美術館があります。体育の教師であったので、体力には自信があったに違いないのです。しかし、首より下が全く動けない体になってしまった、生きる希望を失ってしまったのです。しかし、そこに、キリストの愛を知らせる、うれしい知らせを伝える人が現れ、うれしい知らせを聞くことができたのです。元のように、体を動かすことができるようになったわけではないのです。元気になったわけではないのです。しかし、キリストが自分を愛してくださることを信じて生きる希望を持つことができたのです。体が不自由になって、どうすることもできないで、苦しむことがあるのです。しかし、その苦しみを共に担ってくださる方がおられるのです。
日本には様々な神様がいると考えています。私たちが信じている神は、私たちが良い者として造られたにもかかわらず、神をないがしろにして、自分を愛して罪を犯したにもかかわらず、神は私たちと和解するために、御自身の外に出て、肉体を取り、イエスと言う人間となって、私たちの苦しみや悲しみを経験し、私たちの罪の身代わりとなり、十字架という罰を受けて死なれた方なのです。そのような愛の神なのです。
新約聖書のヨハネの手紙一 4章9−10節に次のような言葉があります。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちは生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
私たちは、生きて行く時に、予想しない、思いがけないことに直面します。愛する者が病いに倒れることになることもあり、共に生きてきた、親しい家族が亡くなることもあります。立ち上がることができないほどの衝撃を受けることがあります。しかし、そのような時にも愛してくださる神を信じて、立ち上がることができるのです。
牛込払方町教会は、1877年11月17日に創立されて、147年、この地で礼拝を続け、御言葉と聖餐という恵みを受け、交わり、伝道をしてきました。
私は、両親がキリスト者でしたから、幼い時から教会に通い、牧師の務めを与えられていますので、教会を離れることはなく、日曜日に教会の兄弟姉妹と共に礼拝で御言葉を語り、御言葉に共に聞くことができていることはほんとうに恵みであると思います。様々な困難な時にも、御言葉を聞き、信じて立ち上がることができるからです。独りで私たちは生きることはできないのです。
これからも、教会に来て、御言葉を共に聞き、立ち上がりましょう。イエス・キリストを信頼し、共に励まし合い、慰め合う共同体である教会に共に集いましょう。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。聖霊降臨日礼拝に招かれ、共に御言葉を聞くことができることを感謝致します。立ち上がることができない困難なことを経験しますが、あなたが、私たちに聖霊を注いでくださり、神が私たちを愛してくださっていることを信じて、歩みを進めることができますように導いてください。礼拝後、教会墓地に赴き、3名の方の納骨と墓前礼拝を致しますが、特に愛する家族を失った遺族をあなたが慰めてくださいますように。私たちの兄弟姉妹の中で、病と戦っている兄弟姉妹、自宅療養している兄弟姉妹を特に心に掛けてくださり、生きる勇気と力を与えてくださいますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240512 主日礼拝説教 「恵みから始める」 山ノ下恭二牧師
(申命記7章12〜15節、コリントの信徒への手紙一1章4〜9節 |
|
私は、礼拝説教をどのような言葉で始めるのか、いつも考えています。加藤常昭先生は説教塾の例会でよく言われます。説教の言葉をどのような言葉で始めるのか、自分はいつも考えていると言うのです。ある時、説教の初めの言葉が決まらなくて困った時のことを話してくださいました。鎌倉雪ノ下教会に在任している、ある日曜日の朝、家族に「説教の始めの言葉が決まっていないのだ」と話すと、お子さんが「お父さん、今日の礼拝説教できるの」と心配して言ったそうです。
かなり前のことですが、加藤常昭先生は「説教者のための聖書講解」のシリ−ズで「説教の始め方」という論文を書いています。紹介できませんが、説教をどのような言葉で始めるのか、を丁寧に論じています。様々な説教を読むと、「本日、与えられた聖書の御言葉は」という言葉で説教を始まることが多いようですが、説教者と聴衆が共通の基盤に立たなくてはならないので、本題に入る前に、本題に導入するための長い前置きを語ることもあるのです。ある牧師は、礼拝で、聖書の言葉を司式者が読むのですが、その時に聴衆がよく読んでいないで頭に入っていないのではないかと考えて、説教のはじめに、今日の聖書にはこういうことが書いてありますと聖書の箇所の要約を最初に話すそうです。これを再話と言います。
最初のキリスト教会の伝道者であるパウロは、コリントの信徒への手紙一 1章1−3節で、コリントの教会の人々に挨拶をしています。自分を紹介し、コリント教会の人々に呼びかけています。その後、どのような言葉で始めているのかと言うことです。パウロは、多くの手紙を書いていますが、コリントの人々に手紙を書きたいと思って、書いた手紙ではなかったと思います。
それは、コリントの教会に多くの問題があったからです。コリントの教会に何も問題がなくて、パウロが一年6ヶ月、伝道して、パウロの教えに基づいて順調に教会が発展していたならば、手紙を書く必要がなかったのです。
パウロのところにコリントの教会のクロエの家の者から、コリントの教会が抱えている問題を詳しく書いた手紙を読み、また別の者がパウロに質問したこともあって、手紙を書かざるを得なかったのです。何か、問題を起こして、忠告しなければならない時に、どのような言葉で忠告し、勧告するのか、ということはとても難しいことです。パウロはエフェソに滞在していて、コリントの教会の責任をもってはいませんが、コリントの教会はパウロが中心となって建てた教会なのです。パウロに責任があるのです。この教会に次々と問題が生じていたのです。パウロ自身、こうすれば良かった、と悔いていたと思います。
このような教会にどのような言葉をかけたらよいのか、前もって考えたのです。不用意に話し始めることはできないのです。パウロは祈りながらどのような言葉で語りかけるのか、相手の心に届く言葉を捜しながら、話しかけるのです。
1章4節「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」私たちはこの言葉はパウロの決まり文句だと思っているかも知れません。そうではないのです。コリント教会に生じている問題に先立って「いつもわたしの神に感謝をしている」という言葉で始めているのです。「感謝している」というのは、いつも神の、恵みを数えているということです。東大宮教会におりました時に、初めて礼拝に出席された女性が、礼拝の後に「礼拝の説教を聞いて自分には感謝がなかったことに気がついた」とわたしに話したことがあります。感謝をするというのは「恵みを数える」ことなのです。恵みに感謝する言葉からパウロの言葉は始まっているのです。
コリントの教会の信徒たちに、あなたがたはこういう問題があると聞いているが、キリスト者として失格だ、どうしてそのように問題を起こすのだ、福音に従った生活をどうしてしていないのか、と詰問する言葉から始めてはいないのです。感謝から始めていることに注目したいのです。
パウロがコリントで伝道して、信徒たちがその教えに従って生活していてうれしいので、感謝をしているわけではないのです。テサロニケの教会の信徒たちが、信仰、希望、愛に生きていて、パウロの説教を人間の言葉としてではなく、神の言葉として聞いてくれたことを感謝していますが、コリントの教会の信徒たちは、人間の言葉として、パウロの話として聞いているのですから、その意味での感謝ではないのです。そのような人間的な次元ではなく、洗礼を受けて神を信じている、その信仰の次元で「イエス・キリストによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と語るのです。
1章4−9節の中で多く出てくる言葉は「キリスト・イエス」「イエス・キリスト」「主イエス・キリスト」という言葉です。パウロは、イエス・キリスト、この方がおられたからこそ、私たちは、今、生きることができる、そのことを恵みとして、感謝することができる、そこから始めることができるのです。あなたは間違っていると責めるところから始まっているのではないのです。あなたがたが受けている恵みを感謝する,そこから語り始めているのです。パウロとコリントの教会の信徒たちが立っている、その共通の信仰においてパウロは書き始めているのです。コリントの教会の信徒たちは、洗礼を受けて、イエス・キリストの十字架の死と復活によって贖いの恵みを与えられて、神のものとされている、そのことを感謝しているのです。教会には、様々な人々がいます。どのような人であっても「キリスト・イエス」の名によって、洗礼を受けて、恵みを受けていることは変わりがないのです。コリントの信徒たちの中で、考え方や感じ方、個性は異なっていても、キリストの恵みを受けていることに変わりがないのです。
パウロは、さらにコリントの教会の信徒たちが受けている恵みを数えるのです。1章5節に「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」コリントの教会の信徒たちは、「言葉」が豊かであったのです。コリントの教会では、牧師がひとりで説教をするのではなくて、そこに集まった人が、みんな語ることができたようです。
世間話を語る、自分の日常の経験を語るというのではなくて、説教をすることができていたようです。みんなが語ったので、礼拝の時間が長くなり、教会に秩序がなくなった、そこに問題があったのです。現在も、教職制度をもたないキリスト教の教派があります。イギリスのプリマスで生まれたプリマス・ブレスレン、日本ではキリスト同信会という教派は礼拝で何人もの信徒が説教をするそうです。この教派から来た青年が、東大宮教会の礼拝に初めて出席して、「どうしてひとりだけ説教をするのですか」「キリスト同信会は何人もの人が説教をしますが」と言いました。
コリントの教会では、何人もの人が説教をしていたのです。そこでは、みんなが分かる預言の説教ではなくて、異言を語る者がいて、この異言の問題について、パウロは詳しく論じています。
言葉を持っていることは、知識をもっているのです。知識がなかったならば、語ることはできないのです。コリントは港町でしたから、いろいろな人が出入りしていました。ギリシャ哲学を学んだ人たち、ユダヤ人で旧約聖書に精通した人たち、ペルシャの神秘宗教に関心がある人たちがいたのです。たくさんの知識をもっていたことにパウロは感謝をしています。ただそのことが問題でもあったのです。
パウロはアテネでキリストの福音を語りましたが、あざ笑われて、キリストの福音を受け入れる人がなく、アテネを去り、失意のうちにコリントに行ったのです。コリント教会の伝道の様子は、使徒言行録18章に詳しく記されています。コリントで伝道を始めて、すぐに困難にぶつかり、主イエスが幻の中でパウロに語りました。18章9−10節に次のように語っています。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はいない。わたしの民が大勢いるからだ。」この町に「わたしの民が大勢いるからだ」と語っています。教会に集っているのは、10人、20人であっても、この町には神がご自分の民として定めている人々がいる、と言うのです。イエス・キリストが、私たちに先立って伝道してくださると約束しているのです。昔からキリストの伝道は困難です。伝道のチラシを配ってもひとりも来ないことがあります。しかし、困難な中でも、キリストが働いておられるのです。そのことを確信することが大切なのです。
1章6節で「こうして、キリストの証しが、あなたがたの間で確かなものとなったので」とあります。「キリストの証し」とは、パウロが伝えたイエス・キリストの福音、十字架と復活の福音、罪が赦され義とされる福音のことですが、パウロが伝えた福音が、コリントの教会に集う信徒たちの中にしっかりと根を降ろすことができ、福音を把握するだけではなく、この福音に生きて、周りの人々に、福音を伝えることができているのです。パウロは、アテネではイエス・キリストと復活を語ったところ、馬鹿馬鹿しいと相手にされなかったのですが、コリントでパウロは一年6ヶ月、キリストの福音を力強く語り、聞いて、聞いた人の心の中に確信が生まれて、キリストを信じる信徒の群れができているのです。
私たちの信仰生活は、初めから終わりまで、キリストが共にいる生活です。
神は私たちの過去、現在、だけではなくて、未来においても共にいてくださるのです。パウロの感謝の言葉は、過去においては「豊かにされた」「確かなものとされた」、現在の恵みについては、「待ち望んでいる」と語り、未来については「主は最後まであなたがたをしっかり支えてわたしたちの主イエス・キリストの日に非のうちどころのない者にしてくださいます」と語ります。
私たちは、イエス・キリストが来られる、再臨、終末、ということをほとんど考えないです。自分の命の終わりである死を考えますが、イエス・キリストが再び来られることを待ち望む信仰はほとんどないのです。しかし、聖書は、終わりの時に、私たちが審判を受けることを語るのです。
私たちは、毎週、使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白しているのですから、主イエス・キリストが再びこられることを待ち望む、ことは私たちの信仰の基本であるのです。しかし、私たちはキリスト者なのですが、世俗化していて、自分が死ぬまで健康で楽しければそれで幸せだ、という生き方をしているのです。
鎌倉雪ノ下教会の松尾美酒造牧師の逸話ですが、休みの日に映画を見ていたときに、主イエス・キリストが今、来られたら、神はわたしをどう思うだろうか、裁くのではないか、と思い、すぐに映画館を出たそうです。主イエス・キリストがいつ来られても良いような生き方をするそれが、主を待ち望む生き方であるのです。主を待ち望む生き方は、いつも主の前に誠実に生きる生き方なのです。おいしいものを食べたい、楽しいところに行きたい、それが中心になるような生活ではないのです。御言葉に従うのが私たちの生き方なのです。
主ご自身の前に立たされる時が来るのです。その時まで私たちを最後までしっかり支えてくださるのです。口語訳では「私たちを最後まで堅く支えてくださる」と訳しています。最後の審判において私たちはどうなるのだろうか。いままでの私たちの罪が告発されて、審判が下される、恐ろしい時がやって来ると思うかも知れません。そうではないのです。私たちと和解するために、神はご自分の外に出て、肉体を取り、イエスと言う人間となり、罪とは関係なく、私たちと同じように生活し、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で贖いの死を引き受け、復活して昇天された主イエス、その同じ主イエスが、再び来られるのです。神の前に、私たちの罪が暴かれても、主イエスが私たちの弁護者として守ってくれ、無罪であると検察に対して弁護をしてくださるのです。主が再び、来られるのは、私たちにとって慰めの時であるのです。その時まで、私たちを堅く支えて、私たちを非のうちどころのない、責められることのない者にしてくださるのです。
私たちの罪よりも、イエス・キリストによる赦しが大きいのです。私たちの弱さよりも、キリストの恵みがさらに大きいのです。
私たちは、イエス・キリストとの交わりを与えられています。そのことは私たちの喜びであるのです。私たちが不真実で、罪深き者であっても、神は私たちに対して真実であるのです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。5月の新緑の美しい季節に、あなたに召されて、兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたの御言葉を聞く時が与えられたことを感謝致します。
イエス・キリストとの交わりを与えられ、罪が赦され、キリストの愛の中に歩むことができましたことを感謝致します。律法によってではなく、あなたが私たちを深く愛してくださっているキリストの恵みから始めることができますように、私たちを導いてください。悩み苦しむ兄弟姉妹、病と戦っている兄弟姉妹、をあなたが支え、癒やしてくださいますように。これからの一週間をあなたが共にいてくださり、私たちを慰め、励ましてくださいますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240505 主日礼拝説教 「私たちは、聖なる者とされている」 山ノ下恭二牧師
(詩篇99編1−9節、コリントの信徒への手紙一 1章1−3節) |
|
加藤常昭先生が4月26日に逝去され、神のもとに召されました。牛込払方町教会に1961年から1969年まで在任し、奉仕をされました。4月29日に鎌倉雪ノ下教会で行われた葬儀に出席し、様々なことを思い起こしました。私は、1969年に東京神学大学に入学し、大学2年生の時に、加藤先生からドイツ語の授業を受けましたが、ドイツ語の文法を学ぶのではなくて、カ−ル・バルトの肉声の説教のレコ−ドを聞きながら、ドイツ語を学んだのです。バルトのかん高い声を覚えています。この説教について、加藤常昭先生は本を出しています。
加藤先生を招いて、礼拝説教と講演をお願いしたことがあります。講演の題を予め、私から「礼拝と生活」という題でお願いしていたのですが、当日、加藤常昭先生は「礼拝と生活」ではなくて「礼拝の生活」だとはっきり言われたのです。そのことをよく覚えています。礼拝と生活が分離しているのではなく、「礼拝の生活」であると言われたのです。
パウロは、コリントの信徒達に向けて、手紙を書いています。コリントの教会は、問題の多い教会であったのです。パウロの手紙の中で、初めに書かれた手紙は、テサロニケの手紙一です。パウロはこのテサロニケの教会の信徒達をとても褒めているのです。それはテサロニケの教会の信徒達が、信仰と愛と望みに生きているからです。そして、パウロの説教の言葉を人間の言葉としてではなく、神の言葉として聞いてくれたと喜んでいるのです。しかし、コリントの信徒たちは、説教を人間の言葉として聞いていて、自分の気に入った説教者のファンのようになっていることを嘆いているのです。そして教会の中でパウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派に別れていて、互いに争いがあったと書かれているのです。
パウロは、第二次伝道旅行で、アテネに赴き、そこで説教をしたのですが、アテネの人々に相手にされず、あざ笑わられ、イエス・キリストの福音を受け入れられなかったので、ひどく気落ちしてアテネを去ったのです。その後に、コリントに行き、そこで1年6ヶ月、滞在して、腰を据えて伝道し、コリントに教会を設立したのです。その後、第三次伝道旅行で2年間、エフェソに滞在し、このエフェソで、コリントの教会に手紙を書いたのです。
コリントの信徒への手紙一を読みますと、このコリントの教会には多くの問題があったことが分かります。教会での争い、教会での性的な誤り、教会員同士の訴訟問題、遊女との交わり、結婚や独身の問題、女性のかぶりもの、主の晩餐、聖霊の問題、愛について、預言と異言、死者の復活などを取り上げています。多くの問題がパウロのもとに届いていて、この問題にパウロは答えているのです。パウロはこれらの問題を、キリストの福音の視点から回答しているのです。
コリントの信徒への手紙は、異教の社会で生きている信徒たちが、直面している信徒の問題を取り扱っているのです。信徒たちが毎日、生活している中で、直面している問題を、キリストの福音から説こうとしているのです。この手紙は、2,000年も前のその当時の教会にパウロが書き送っているのですが、私たちと無関係ではないのです。私たちも日本という異教社会に生きているのです。私たちは神道や仏教の日本の地に根を降ろしている習俗が浸透している社会の中に生きているのです。葬儀の時に特に感じるのは、仏教が多くの人々の心を支配しているのです。そして多くの神々が存在して、人々の心を縛っているのです。そして現代人は特に、今の便利な生活に満足していて、宗教に対する嫌悪感、あるいは無関心なのです。信仰など必要がないと考えているのです。そして、今が楽しければ良いと思い、生きる意味を考えないのです。そのような中で、私たちは、生きているのです。
パウロは、この手紙のはじめに、自己紹介をしています。「神に召されて使徒になったパウロ」と語ります。私たちは、年齢、職業、家族構成、趣味などで自分を紹介します。しかし、パウロは、ただ神との関係で自分を紹介するのです。それはパウロが大切にしているのは、神との関係で生きているからです。「神に召されて使徒となったパウロ」このことがパウロのすべてなのです。パウロは、熱心なユダヤ教徒でキリスト者を迫害していたのです。ところが神がパウロに語りかけ、神のみこころによって召されて、イエス・キリストの使徒とされた時のことをパウロは繰り返し語っているのです。パウロは決して自分の願いや考えで使徒になったわけではないのです。キリスト者を迫害していたのですから、キリストの使徒として最も資格がない者であったのです。しかし、主イエスは、パウロの罪を赦して、イエス・キリストの使徒とされたのです。従ってパウロは、ただ神の召しに答え、神の御心が全うされることだけを願うのです。パウロは神の使徒として召されたのですが、それは神の働きのための召しであり、人に仕えるための召しであるのです。
伝道はひとりではできません。パウロには、テモテやシラスというパウロの伝道に協力する若い伝道者がいましたし、パウロを励ましたのは、プリスキラ、とアキラという夫婦でした。教会は励まし、支えてくれる仲間が必要なのです。人は孤立したら良い働きはできないのです。
コリントの信徒への手紙一 1章2節「コリントにある神の教会」とあります。教会は、所在地が分からないのではなく、コリントという実際にこの地上にあるのです。しかし、教会が、その地に埋没してしまうことではないのです。この世と同じことをしているのではないのです。人々が必要だから教会があるのではないのです。「神の教会」「神のエクレシア」なのです。教会は神の召集による集まりなのです。神以外のものが教会の主人になってはならないのです。
コリントの教会の信徒達をどのように呼んでいるのでしょうか。「イエス・キリストによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と呼んでいます。神の教会とは何か。それは「イエス・キリストによって聖なる者とされた人々」の集まりなのです。「聖」という言葉は清い、正しい、という意味で理解しがちですが、「人そのものが清い、正しい」というのではなくて、「神のために分離された」「この世から取り分けられて神のものとされた、というのが聖なる者であるのです。道徳的に正しく、欠点がないと言う意味はありません。私たちは、罪を犯し、神に裁きを受ける者ですが、キリストの十字架と復活の福音を信じて、罪が赦されて、神のものとなっている、それが聖なる者なのです。キリストに罪を赦されて神に結ばれている者が聖なる者なのです。
ここで、注目することは、パウロが「聖なる者とされた」と「完了形」を用いていることです。コリントの信徒たちはすでに聖とされた者なのです。パウロはコリントの信徒たちが、神に所属する、神の者とされた人たちであることを強調しているのです。コリント教会には多くの問題がありました。それは、礼拝で御言葉を聞きながら、生活そのものは、その御言葉に生きていないと言うことなのです。礼拝の説教を聞いているのですが、それは頭だけ、頭で理解している、知識だけで留まっているのです。たとえば、「愛」についての説教を聞いても、それは、知識だけで、実際に、愛の行動をしないのです。良い教えであると理解しているだけなのです。ある人は、コリントの教会を「神よりもサタンが支配している、悪徳に満ちた人間集団」と酷評しているのです。
しかし、それでもパウロは「コリントにある神の教会」「キリスト・イエスによって聖徒とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と呼んでいるのです。この教会は問題があるといって大騒ぎする人がいます。良いキリスト者はいない、仲良しであるけれども、御言葉に生きていない、などと批判されることがあります。
しかし、パウロは、そのような現実にのみ目を向けて、どうしたら解決できるのか、何が問題なのか、ということに取り組んではいないのです。それは、神が教会の主であり、イエス・キリストが私たちに恵みを注いでくださっていることをしっかりと見ていたからです。教会は、イエス・キリストが主であり、神が支配しているところであることを確信しているからです。「イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります。」と語っているのです。
パウロは、コリントの教会で起こっている実際の問題だけに心を奪われることなく、神が恵みをもって導いてくださっていることに信頼しているのです。
教会は、どんなに問題があっても、貧しくても、小さくても、神が召された群れであるならば、それは確かに「神の教会」なのです。そこに集められた者はどんなに弱く、問題を抱えていたとしても「聖なる者とされた人々」であり、神の者とされた人々なのです。パウロは、この手紙のはじめに、この恵みの事実を確認することから、書き始めているのです。教会は、罪人の集まりに過ぎないと言われますが、しかし、キリストによって罪が赦され、神のものとされた、聖なる人々の群れなのです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。5月の新しい月を与えられて、あなたに召された方々と共に、礼拝に集い、御言葉を聞く時が与えられ、感謝を致します。イエス・キリストの贖いを信じて、罪が赦され、義とされ、神のものとされたことを心から感謝を致します。聖霊と御言葉によって新しくされ、あなたが共にいてくださることを信頼して歩むことができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240428 主日礼拝説教 「キリストの教会を建てるつとめ」 山ノ下恭二牧師
(イザヤ書63章7−9節、テモテへの手紙一 3章1−13節) |
|
日本キリスト教団出版局から発行されている「信徒の友」には、「ここに教会がある」というペ−ジがあります。教会堂やその教会に集まっている人々の写真が掲載されています。どのような伝道をしているのか書かれています。教会と言うとどのような建物があり、どのような人々が集まっているのか、ということを考えます。しかし、教会の本質というものは何かと問うならば、別の答えが返ってきます。私たちの肉眼で見る教会の姿ではなくて、教会の本質的な姿と言うものがあるのです。
教会と言う言葉の元々の言葉は、エクレシアという言葉です。エクレシアという言葉は、神から集められた群れ、神から呼ばれた共同体のことです。神が集め、呼びかけ、召した共同体です。自分の意志でここに集まったということではありません。自分から自発的に教会を造ろうというところから始まったのではありません。私たち人間が、自分たちの力で事業を始めたというものではないのです。教会とは、神が呼びかけ、召し集められた群れであるのです。そのことがはっきり分かるのは礼拝の順序を考えると分かるのです。
礼拝のプログラムを見ると、招詞があり、最後に派遣があるのです。集められ派遣されるという構造になっています。従って、教会とは、集められた共同体であるのです。教会ということを考える時に、私たちの教会の源流である宗教改革の原点に戻り、宗教改革者が教会ということをどのように考えていたのか、を参考にすることは良いことです。ジャン・カルヴァンが「キリスト教綱要」の中で教会について詳しく書いています。「教会」という標題ではなくて、「神がわれわれをキリストとの交わりに招き そこにとどめおかれる外的手段ないし支えについて」と言う標題なのです。教会とは何のためにあるのか、キリストとの交わりが目的であり、人々をそこに招き、キリストとの交わりができるような外的な手段、支えであると語っています。教会とは、キリストと交わるところです。教会の中で中心的な存在であるイエス・キリストと交わるところが教会であるのです。
宗教改革者カルヴァンと協力して、スイスで宗教改革を推し進めた人で、ブリンガ−という神学者がいます。この人が起草した、第二スイス信仰告白という信仰告白文書があります。1566年に起草され、スコットランド、ハンガリー、フランス、ポ−ランドの改革派教会で正式に採用されています。この第二スイス信仰告白において「教会とは何か」という項目で次のように書かれています。「教会とは、世から召し出され、あるいは集められた信仰者の集団であり、すべての聖徒の交わりである。すなわち、救い主イエス・キリストにおいてまことの神を御言葉と聖霊とによって知り、かつ正しく礼拝し、さらにイエス・キリストによって値なしにわれわれに差し出されているすべての良きものに、信仰によって与っているすべての人の交わりである。」とあります。
これは具体的に礼拝を考えれば、はっきりすることです。礼拝における中心的なものとは、説教と聖礼典(洗礼と聖餐)です。説教と聖餐において差し出されているものは、神が、イエス・キリストにおいて、いかに私たちを愛し、私たちに罪の赦しが与えられているのか、と言うことです。そのことに対して、私たちは信仰を告白し、献げもの(献金)し、頌栄を歌うのです。礼拝はキリストとの交わりであり、説教を聞く講演会ではないのです。礼拝は、三位一体の神を讃美、頌栄するものであり、三位一体との交わりが与えられるものです。
ヨハネの手紙一 1章3節では「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と語っています。キリストとの交わりが与えられるのが、教会ですが、父・子・聖霊の三位一体の神が交わりの中心にあり、その交わりの中に入れていただくことが私たちの交わりなのです。
キリストとの交わりが与えられるためには、説教がなければならないのです。ペンテコステ(聖霊降臨日)の時に、聖霊が降って、キリスト教会が設立された時、まず、使徒たちは何をしたのでしょうか。それは、福音の説教をしたのです。そして聖餐を行ったのです。この務めに当たるのは、説教者、牧師です。カルヴァンの「キリスト教綱要」の中の「教会の仕える人、その選任と任務について」で、教会において「御言葉を宣べ伝える務めにまして、教会内で輝かしく、光栄ある務めはない」と説いています。教会において説教をする、説教を聞く、このことが一番、重要であるのです。このために、説教者は、よく準備して、礼拝に臨むことが求められます。
テモテへの手紙は、パウロの伝道に協力した若い伝道者テモテに対して教会形成の指針を書き送った手紙です。テモテへの手紙一 1章15節には「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」2章5−6節には「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」この言葉は、教会で語るべき内容を伝え、この福音によって生かされていることにあります。 そしてテモテが説教の務めを担うので、異なる教えを説いたり(1章3節)作り話をしたりせず(4章7節)、健全な教えの言葉を伝えるように守って「聖書の朗読と勧めとに専念しなさい。」(4章13節)と語るのです。これは説教者、教会の言葉を語る者に対する勧めですが、説教者が心得ておく、戒めです。良い説教とは何か、この問いは難しい問いですが、私が考える良い説教とは、イエス・キリストが鮮やかに紹介されて、悔い改めが起こる説教です。
私たちは、この世に生きているので、この世の人々の二−ズ(必要)に答えたいと思うのです。イエス・キリストの福音、十字架と復活の福音を語ることよりも、聴衆が聴きたがっている言葉を語ろうとする誘惑が説教者にはあるのです。みみざわりの良いことを語ろうとする誘惑があります。最近、テレビドラマに出て来る登場人物の言葉に「あなたはそのままで良い」という言葉を聞くことが多いのです。これは、自分が周りの者から承認されていない人が多いので、相手をそのまま受け入れることが大切なのですが、説教がそこに留まっていてはいけないのです。「あなたはそのままで良い」ということで終わるならば、人間の罪は問題にならないし、その罪を贖うためにキリストが犠牲の死を遂げてくださったことも必要がないのです。聴衆が聞きたいことを説教で語るのではなく、神が聖書を通して語っている、そのままを説教者が語り、聴衆は、聖書が語るそのままを受け取ることが大切なのです。よく「聖書から説教へ」と言いますが「聖書から聖書へ」ということが大切です。聖書の言葉が残るのが良い説教です。
本日は、長老選挙があります。長老の務めは、説教をよく聞いていることです。ドイツやオランダの教会堂には、講壇の近くに長老たちの席があり、机があって、そこに聖書と信仰告白文書があり、スタンドがあり、灯りがつくようになっているそうです。牧師が説教していて、その説教を聞いている長老が、牧師の聖書解釈について疑問を持つと、スタンドを付けて、信仰告白文書を開いて確かめるそうです。長老たちのスタンドに幾つも灯りがつくと牧師は慌てるそうです。
長老の任務で大切なことは、洗礼の申し出があると、その洗礼志願者を試問することです。教会に入会するのですから、教会生活についての志を聞くのです。礼拝に休まないで、出席することを聞くのです。洗礼を受けるまでに、教会生活が身についているのか、教会生活を続けて行く志をもっているかどうかを確かめることが必要です。そして洗礼を受けた後も、教会生活が続くように祈っていくことが必要です。教会の信仰告白についても尋ねることが求められます。キリスト教の神はどのような神であるのか、十字架の贖いについて、尋ねる必要があります。牧師は宣教長老、選挙で選ばれた長老は、教会を治める長老で、治会長老と呼ばれます。
長老の任務は、教会員を見守り、どのような信仰生活をしているのかに関心を持ち、覚えて祈るだけではなく、電話やメ−ルで安否を尋ねることも大切な務めです。この他にも長老の任務は多くあります。現実には、長老は、週日それぞれ仕事を持ち、長老会に出席して奉仕しています。礼拝の司式、聖餐の配餐、各部会の司会、教会事務、会計事務、週報作成そして教会学校の教師、その他の多くの仕事を担っています。長老たちはオーバーワークになっています。
長老選挙についての心得を話します。教会の様々な重要なことを決めていくのは長老会です。その長老会での長老の発言は重要なのです。私は牧師として今まで4つの教会を歴任してきましたが、その経験の中で考えたことは、どのような人が長老であるのか、と言うことが教会にとって重要な鍵になるのです。長老が教会をどのように理解しているのか、長老として自分が何をしなければならないか、そのことをきちんと自覚して、わきまえていることが大切です。自己流でただ自分の意見を言うのではなくて、教会全体を見ながら、発言することが大切です。長老会は、教会の重要事項を決めるので、どのような人を長老として選ぶのかということはとても大きな意味をもちます。
長老を選ぶことは、本人が、長老をしたいと言っても、個人プレ−はできないのです。教会は共同体ですから、その人が教会員から支持されて選ばれることが大切です。自分が長老にふさわしいと思っても、会員の支持と承認が必要になるのです。その意味で、選挙によって選ばれることが大切なのです。
自分は長老になりたい、長老として仕えたいと思っても、選挙で選ばれることが大切です。自分は長老に選ばれたくないと思っても、選挙で選ばれることがあり、それは神の御心として引き受けるのです。また、自分は長老の仕事は大変だから、したくない、別の人にしてもらったら良いと考えて、その人の名前を書くことはいけないことです。そしてこの選挙は人気投票ではないのです。年齢的に若い人が良いとか、自分と親しい人を選挙で入れたい、この人を入れないと良くない、自分の意見をこの人は代弁してくれるから入れる、この人にお世話になっているから選挙で名前を書こう、そのような人間的な考え、人間関係を中心にしたレベルで長老を選ぶのではありません。また前もって、根回しにして、この人を長老に入れようと相談して、談合のように画策することがあってはなりません。
この教会がこの牛込の地でまことの神を礼拝し、福音を伝えるために、神のみこころに適った長老を選ばせてくださいと祈りながら、信仰によって選ぶのです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。新緑の季節に入り、暑くなりました。本日は、あなたは私たちを召して、礼拝へと招いてくださり、兄弟姉妹と共に御言葉を聞く時が与えられ、感謝を致します。この地に建てられた、牛込払方町教会が2024年度も、まことの神を礼拝し、福音を宣べ伝え、キリストにある愛の交わりをして、あなたを証することができますように、導いてください。礼拝の後に、2024年度の教会総会を致します。あなたの御心が行われますように。様々な事情のために教会から離れている兄弟姉妹、病や様々な事情のために礼拝に来ることのできない兄弟姉妹をあなたが慰め、共に礼拝をささげることができますように、導いてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240421 主日礼拝説教 「わたしを愛するか」 山ノ下恭二牧師
(イザヤ書62章1−5節、ヨハネによる福音書21章15−22節) |
|
2024年度が始まり、4月から入学、就職、転勤など、新しい生活に入った方々も多いと思います。新しい思いをもって、はりきっている時と思います。
本日の礼拝で朗読されたヨハネによる福音書21章15−22節には、主イエスとペトロとの対話が記されています。対話と言うよりは、主イエスがペトロに問いかけ、その問いかけに対してペトロが答えているのです。「わたしを愛するか」という問いに対して、ペトロが「愛します」と答えるのです。それが3回、問われ、答えているのです。
ペトロは、主イエスが弟子として召した十二弟子の中で主イエスに最も近いところにいた一番弟子です。弟子として召された時からペトロはいつも主イエスのそばにいて、どんなことがあっても主イエスに従って行くつもりであったのです。福音書にはペトロの言動が詳しく書かれていて、十二弟子の中でペトロが主イエスを救い主、メシア、キリストと告白しており、また、主イエスのためならばどんなことがあっても従って行くと語っていた弟子でした。ペトロは、主イエスこそ、まことの救い主、キリスト、メシアであると告白し、どんなことがあっても主イエスに従っていこうとした弟子であり、いつも主イエスの近くにいて、主イエスと一心同体のような生活をしてきたのです。
主イエスが逮捕され、裁判にかけられるために、この当時の権力者である大祭司の邸宅に連行されたので、ペトロは、そのあと主イエスがどうなるのか確かめるために後からついて行ったのです。この大祭司の庭でペトロの顔を見た人が、主イエスの弟子であることを指摘したところ、自分は主イエスの弟子ではない、主イエスは知らないと告白したのです。再びそう言われても、自分は主イエスのことは知らないと否定し、三度目も同じように、主イエスのことは知らないと否定したのです。主イエスがペトロに予告した通りに、鶏が鳴いたのです。ペトロは、肝心なところで主イエスを知らないと言ってしまったのです。この時こそ「私は主イエスの弟子であり、どんなことがあっても主イエスについていきます。」と言うべきであったのです。ところがいちばん肝心なところで主イエスを知らないと主イエスとの関係を否定してしまったのです。
日本のキリスト者はほんとうに少ないのです。かつて日本にはカトリック、プロテスタントの信徒を合わせて100万人いたと言われていましたが、現在は60万人もいないのです。近所の人がキリスト者であることを知っている人はほとんどいないのです。日曜日に出かける姿を近所の人が見かけても、教会に行くとは思わないのです。それは、自分はキリスト教会の教会員であることを表明しないからです。私も、牧師になってかなり時間が経過してから、初めて会った人に自分が牧師でありキリスト者であることを自分から言うようになったので、それまで、自分が牧師であることを、初めて会った人に自分から言うことは無かったのです。
イエズス会の司祭であったフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝え、その後、特に、豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教禁教となり、多くのキリシタンが弾圧され、殉教したのですが、その時に迫害を逃れて、キリシタンであることが分からないように、潜伏して信仰を守っていたのです。潜伏キリシタンと呼ばれています。自分がキリスト者であることを周りの人々にはっきり名乗ることができなかったのです。ペトロが、大祭司の家で自分が主イエスの弟子ではない、と言ってしまい、弟子としての挫折を経験し、ペトロはガリラヤに帰って漁師の生活に戻ったのです。ペトロは漁師に戻って、今までのことを忘れて、生活をしていたわけではないのです。ペトロは、主イエスの弟子として共に生きてきたのに、肝心な時に主イエスの弟子であることを否定したことに悔いを持っていたのです。そして主イエスが十字架で死んだことから、自分がしてきたことは何だったのか、そのような空しさをかかえながら、漁師の生活を続けていたのです。自分のほうから主イエスとの関わりを断ち切ってしまった、そのことを公言してしまった、このことがペトロの心の重荷になっていたのです。
しかし、主イエスは、ペトロが自分のことを知らない、関係がないと言ったことで、もうペトロと関係がなくなった、主イエスと3年間、いつも一緒に生活を共にしていたのに、自分を裏切ってしまった、そんなペトロを見放したのではないのです。去る者は追わずではないのです。主イエスのことを知らない、と言って、主イエスのもとから去ったペトロのことを探し求めていたのです。私たちは、人間同士、一度、裏切られると、その人とはつきあわないことが多いのです。しかし、主イエスは違うのです。主イエスを裏切ることがあっても、そのことをいつまでも覚えているのではなく、再び、関係を持とうとするのです。それは、ペトロを心配し、愛しているからです。旧約聖書には、イスラエルの民がまことの神を礼拝せず、偶像を礼拝し、隣人を愛することがなく、神の戒めを何度も破っても、主なる神は、見捨てず、見放さず、愛することを止めないのです。主イエスは、ペトロが主イエスの弟子ではないと言って、主イエスを知らないと言ったことをいつまでも覚えているのではなくて、ペトロがどこに行ったのか、どこで暮らしているのか、そのことを心配していたのです。
主イエスは、ペトロが主イエスに対して罪の負い目を持っていることを思って、ガリラヤ湖にまで来られたのです。ペトロの罪、弱さ、もろさ、いたらなさにもかかわらず、主イエスはもう一度、主イエスの弟子として再出発をしてほしいという願いを強く持っていたのです。ペトロがイエス・キリストの弟子として、使徒として立ち上がってほしいと強く願っていたのです。この強い願いに突き動かされ、このペトロに会うだけではなく、主イエスはペトロが新し使命をもって、新しく出発をしてほしいとガリラヤ湖に向かったのです。この主イエスの姿に、神の姿があるのです。
私たちの罪、いたらなさ、弱さにもかかわらず、神は私たちを追いかけ、私たちの存在を探し求めるのです。私たちが神を愛さないときにも、神は私たちを愛してくださるのです。ペトロに生きていてほしい、立ち直ってほしいと願うのです。エゼキエル書18章32節には「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」と語られています。ペトロが信仰の挫折、罪を乗り越えて、新しく出発してほしい、そのような強い願いをもってガリラヤ湖にまで赴かれたのです。
主イエスは、ペトロを朝の食事に招かれたのです。そこにはパンがあり、魚があり、共に交わりの時が備えられたのです。主イエスがペトロを食事に招くということは、すでにペトロを全面的に受け入れて、親しく思っていることを表すものです。食事ののち、主イエスはシモン・ペトロに真剣に問われたのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問い、三度、同じ問いがペトロに投げかけられたのです。
富士見町教会で「植村正久牧師の説教読書会」を毎月、第二木曜日に行っていて、私も参加していますが、本日のヨハネによる福音書21章15−22節を植村正久牧師は、植村全集によると3回、説教をしているのです。一つは、洗礼式の後の礼拝説教です。そして、牧師就職式の時にしています。もう一つは、落ち込んだ時の慰めの説教でこのテキストを用いています。洗礼式の後の礼拝説教では、新しくキリスト者となり、教会員になった者に対して、神に対する責任を求めているのです。洗礼式というのは、キリスト者として出発する時ですので、キリスト者としての心得を語るのです。洗礼を受けると言うことは、今までの生活のスタイルを捨てて、キリストに従うという生活のスタイルに転換することです。その意味では、覚悟が必要なのです。洗礼を受ける前は、何でも自分のことを最優先する生活をしていたのですが、洗礼を受けたならば、神を優先することが求められるのです。神の言葉を聞いて行動するのです。自分の考えや自分の損得を考えて行動するのではありません。そのような切り替えをしないで洗礼を受けると、洗礼を受ける前と同じ生活のスタイルのままになるのです。牧師就職式の時というのは、牧師が新たに教会に仕えることを決断することです。他の牧師の就任式に出席すると、参列している者たちが新たに牧師としての覚悟を求められるのです。
主イエスがペトロに「わたしを愛するか」と問われたのですが、私たちも主イエスによって「わたしを愛するか」と問われているのです。このような問いは、私たちへの問いでもあります。ペトロだけではない、自分たちとは関係がないと言ってはいられないのです。私たちは教会の一員、教会の体の一部なのです。それぞれが、個人的に自分が教会に来ているのではなく、仲間と共に集まっているのです。皆さんは、あたりを見回して、今日、礼拝に来ていない仲間がいるけれども、どうしたんだろう、と思うに違いない。あの人はどうしたんだろう、具合が悪かったのだろうか、と思ってそのままにしておくのではなく、その人に電話をして安否を確かめることもできるのです。それは教会がキリストのからだであり、私たちはその肢体であるからです。
「わたしを愛するか」と主イエスは問うておられるのです。イエス・キリストを愛することは、イエス・キリストが臨在されている教会を愛することにほかならないのです。私が、岡山の蕃山町教会に在任していたところ、着任して二年目でしたが、教会の総合的な宣教を話し合う、宣教委員会があり、来年度の教会の年間標語をどのような標語にするのかを話し合っていた時に、ある長老が「教会員が教会に関心をもって参加する意識が低いので、もっと教会への参加意識を高めるような標語が良いのではないか、」と言う意見が出て、別の長老が「どうも自分の当番がある時だけ、教会に来る教会員が多い」という意見があり、話し合った結果、来年度の標語は「教会を愛そう」という標語になったのです。
自分にとって良い所だから教会に来るというのではなくて、私たちの教会に臨在されている、主イエス・キリストが喜ぶような形で愛する、それは神の御心に適った礼拝をし、一人ひとりに仕えていき、愛の交わりをすることです。
ここで、イエス・キリストは、ペトロに「わたしを愛するか」と言われ「愛する」と答えると「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。イエス・キリストを愛するということは、イエス・キリストの羊を養い、育てる、と言うことです。イエス・キリストと教会とは一つのことなのです。イエス・キリストを愛することは、教会を愛することであり、教会を愛することは、教会に臨在されているイエス・キリストを愛することであるのです。
ペトロが新しい出発をするにあたって、問われていることは、心を込めて、キリストに忠実に誠実に仕え、教会を愛し、羊を愛することを求められているのです。
大変、興味深いことは、主イエスが語る「愛」と言う言葉と、ペトロが語る「愛」という言葉とは、元々のギリシャ語では異なる言葉です。主イエスが語る「愛」という言葉は「アガパン」、「アガペ」という言葉で知られる言葉です。ペトロが語る「愛する」は「フィレオ−」という言葉です。「アガパン」は、神が無価値な者に対して犠牲を払って愛する無償の愛のことです。敵をも愛する愛です。ペトロの用いている「愛」は、人間相互の愛であり、人間という限界の中で愛する愛です。ギリシャ語の原語がそうであっても、ここではペトロに厳しいことを要求しているのです。主イエスは、自分が損しても、犠牲を払っても愛するのか、と問うているのです。それに対してペトロは人間のギリギリのところで、精一杯、愛することを要求されているのです。しかも三度も問われているのです。若松教会にいた時に、教会のことはなんでも一所懸命にする人がいて、私が「よくしますね」と言うと「自分は教会馬鹿になりたいと思っています」と答えたことを覚えています。教会のためならば、何でもしますという心をもっていることに感心したのです。
興味深いことに、三度目にヨハネによる福音書21章13節で主イエスが「わたしを愛するか」という「愛」はアガペと言う言葉を用いているのではなくて、「フィレオ−」という言葉を用いているのです。一度目と二度目とは異なる、ペトロが用いている言葉を用いているのです。主イエスは一度目と二度目はアガペを用いています。しかし、三度目はフィレオ−を用いているのです。そこには明らかな意図があるのです。主イエスは、人間としての限界の中でしか愛することのできないペトロが「愛します」と言ったそのことを受け入れておられるのです。ほんとうはキリストに忠実に誠意をもってすべてを献げて愛することを求めているのですが、ペトロの精一杯の愛を受け入れて、容認されているのです。
最近、日本聖書協会共同訳が出版されましたが、その前に試訳が分冊で出ていたのです。新翻訳事業パイロット版という分冊です。このパイロット版のヨハネによる福音書を読んでおりましたら、ペトロが主イエスの問いに答えて「いとおしんでおります」と翻訳しているのです。このパイロット版の「いとおしんでおります」という言葉に、私は「はて」と疑問をもちました。
私の修士論文は、ヨハネによる福音書に関する研究でしたが、松永希久夫先生の指導を受けました。松永希久夫教授は「ここではペトロが精一杯、主イエス・キリストを愛することを語っているので、アガペもフィレオ−も違う言葉であるが、意味は同じで「愛する」という翻訳して良い。」と話していたことを思い出して、すぐに、銀座にある日本聖書協会に行って「この『いとおしい』という翻訳はおかしい」と伝えました。その後、正式に出版された「聖書協会共同訳」には、「いとおしんでおります」ではなくて、「愛しています」と翻訳されています。
主イエス・キリストは、「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」と語っておられるのです。私たちは、羊の世話をすることを委託されているのです。
(祈り)
主イエス・キリストの父なる神。主の復活を心に刻むこの季節に、兄弟姉妹と共に礼拝に出席し、あなたの御言葉を聞く時を与えられて感謝致します。
あなたの御心に適うことの少ない者ですが、そのような者に、あなたは、福音に生き、福音を伝える使命を与えられていることを知らされ感謝を致します。私たちの罪、怠惰、を越えて、この日本にキリストの愛を伝えていくことができますように導いてください。病にある兄弟姉妹が健康を回復することができますように。様々な事情で礼拝に出席できない兄弟姉妹をあなたが共にいて慰め、励ましてくださいますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240414 主日礼拝説教 「何事も神の御意志を聞いてから」 山ノ下恭二牧師
(創世記24章50−52節、ヨハネの手紙一 4章10節) |
|
私たちの人生には、誕生、結婚、死・葬儀という通過儀礼があります。この中で、自分が選択できるのは、結婚です。結婚をするか、しないかは、自由でそれぞれの考えや判断によることです。しかし、結婚は私たちの人生にとって大きな出来事です。
本日の礼拝は創世記24章ですが、この24章は、とても長い文章で、ひとつのまとまった短編小説のようです。ここには、イサクの結婚相手を捜していることが長く記されています。創世記12章からアブラハムの物語が始まっていますが、今までこの物語の中心であったアブラハムが年老い、その役割を次の世代に引き渡す時が来たのです。23章ではサラが死に、サラのためにアブラハムは、墓地を獲得するための土地を交渉して土地を獲得しています。その後に、息子のイサクの結婚相手を捜す物語があるのです。この物語には、結婚の相手を捜す時に、きちんとした考え方に基づいて事柄を運んでいるのです。結婚相手を捜す時の基本的な考え方とは何でしょうか。
現在では、恋愛での結婚の場合、相手と付き合い、相手を好きになって結婚する人も多いでしょうが、知人や親戚の紹介で結婚する人もいるのです。昔は世話好きな人がいてお見合いの話を持ってくる人が多くいましたが、今はお見合いの世話をする人はほとんどいないのです。現代はマッチングアプリで捜すようです。
わたしはお見合いの世話を何回かしましたが、お見合いのお世話をするのはかなり面倒なのです。お見合いを成立させるために両方の都合を聞き、お見合いの場所を予約しますので、時間が取られ、そして初めて会うのですから、互いを紹介するためにその場所に行かなければなりません。お見合いがうまくいかないと、その後の相手との人間関係が悪くなるのです。私は、お見合いのお世話を何回かしたことがありますが、全部、うまくいきませんでした。ある女性に一人の男性を紹介して、お見合いをしたのですが、女性が相手を気に入らなくて、お見合いの日から二日後に断ってきたことがありました。
昔は、こちらから頼まなくても、世話好きな人がいて、お見合いの話を持ってくることがありましたが、私がお見合いのお世話をした経験から、自分が気に入らないとすぐに断る人も多いので、その時以来、お見合いのお世話をしなくなりました。
昔は、親戚や知り合いがお世話をしてくれて、相手の写真と釣書を見せられて、相手がどのような人なのか、お見合いして、デ−トをしても相手のことがよく分からないけれども、紹介してくれた人が信用でき、自分には釣り合うのではないか、と思い、結婚したというケ−スが多かったようです。
ある牧師の奥さんに、どうしてこの牧師と結婚するようになったのか、と聞きましたら、先輩の牧師のお世話で結婚したと言い、お見合いをした後、初めて、デ−トした時のことを話してくれました。レストランに入って、食事の時に、相手の牧師がグラタンを頼んだそうです。現在は、二人とも90歳に近い年齢ですから、デ−トした時は、今から65年前ぐらいで、その当時、グラタンを食べるというのはかなり、稀で、一般にはグラタンを食べることはなかったので、驚いたと言うのです。そしてかなり上等なス−ツを着ているので、この人は牧師であるけれどもお金持ちなのかなぁと思ったそうです。そして、この牧師が、がめつそうなので、のんびりしている自分に合うと思ったというのです。ところが結婚生活を始めるとお金を持っていないのでびっくりし、貧乏な生活になったと言うのです。
現代のZ世代と言われる若者は、よく調べてから行動するそうです。相手にプレゼントするまで、相手に分からないように、サプライズしてプレゼントをもらうのではなく、事前に相手はそのプレゼントが分かっている、という方法を取るそうです。隠しておかないで、ネタバレをしているのです。お見合いして、相手をよく知らないけれども、良さそうだから結婚を決意するということはなく、自分が納得できるまで、相手を十分に知ってから結婚を決断するとのことです。
創世記23章は、単なる、結婚相手を捜す物語ではなく、共通の基盤をもった相手と結婚することを目的にした物語なのです。恋愛であるならば、相手を好きになる、自分の伴侶として好ましいと思う感情が優先するのです。お見合いであるならば、互いに釣り合いの取れることを条件にしているのです。年齢や人柄、趣味、家族関係などを条件に考えるのです。
24章2−4節には、次のように書かれています。「アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。『手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。』」
アブラハムはイサクの結婚に関して願ったことは、同じ価値観を持っている人を結婚の相手とすることです。はっきり言うと同じ信仰を持った人と結婚することを願ったのです。男性、女性、それぞれ生まれも育ちも異なった者が夫婦になるのですから、初めから互いに気持ちがぴったり合うことはないのです。しかも、互いに異なった価値観をもっていたら、互いに理解し、協力することは難しいのです。
東大宮教会には、聖学院大学で英語を教えていた、アメリカ人の準宣教師がいました。家族揃って、日曜日には礼拝に来て、家族4人が仲良くしていました。準宣教師は、アメリカの教会で育った人です。アメリカの教会員は、家族揃って礼拝に行くようですが、日本でもその通りに振る舞っているのです。この家族をうらやましく思っている人も多かったのです。
日本では、家族の中で、教会員は自分だけの人が多く、様々な戦いをしながら、家族と折り合いながら、礼拝を守っている人が多いのです。東大宮教会の礼拝開始時間は、10時15分です。10時30分ではないところに理由があるのです。礼拝は、11時30分には終わりますが、その後、急いで自宅に帰って家族と共に食事をする人もいるからです。
結婚は、互いに好きだ、好ましい、自分の条件にあっている、この人と結婚すれば生活に困らない、そういうことで、結婚するだけであるならば、そこにはほころびがでてくるのです。最初は好きであっても、共に生活をすることによって、嫌なところを見ることもあり、最初の時の気持ちが変わるのです。
新婚時代は互いにウキウキしていて相手の欠点が見えませんが、時が経過すると、自分の思い通りに相手が対応してくれない、自分のことを無視しているのではないかと思うのです。子どもが与えられて、子育てについて意見の対立があることもあります。お金の使い方の違い、共働きによって時間がずれてなかなか、互いの意思疎通ができなくなる、そういうことが起こります。
ある時、教会で結婚式をして欲しいという申し出を受けて、私は、互いに好きだということだけで結婚してはいけない、共通の基盤をもたないといけない、という話をしたことがあります。結婚生活は、互いに向き合っていく場面と、もうひとつ向き合うことが必要であるのです。教会の結婚式の時は、講壇に向かって二人が向いているのです。男女が互いに向き合っているだけではなく、礼拝堂の正面に向かって二人が向いていることが大切です。
最近、宗教色のない結婚式が良いということで、人前結婚式が多くなっているそうです。人々の前で、互いに愛し合うことを誓うのです。前提になっているのは、男女互いの結婚への合意とそのことを見守る人々です。
しかし、二人の合意だけでは結婚生活は続かないのです。それは、人間は肉体を持ち、弱い者ですから、相手のために献身的に仕えることはできないのです。互いに過ちを犯すこともあります。夫婦、どちらかが病気になり、仕事を辞め、収入がなくなることもあります。思いがけないことが起こるのです。
互いに向き合って互いに相手に様々なことを要求するようでは、結婚生活は続かないのです。互いに意見や思惑が異なり、誤解を生じ、心が通じなくなることが起こるのです。アブラハムがイサクの結婚相手を下僕に命じたことは重要です。それは、神の意志が何よりも優先されなければならないと言うことです。結婚しようとするのは、結婚する者の意志であり、責任であるのですが、何よりも優先することは神の導きなのです。
その意味で、神に向き合って生活することが大切なのです。私が育ちました、鹿沼教会は、家庭礼拝というのをとても大切にしていました。毎朝、朝食の前に、予め決められた聖書の箇所を読み、祈る家庭が多くありました。日曜日に家族が教会の礼拝、教会学校の礼拝に出席することをよく勧めていました。
夫婦が互いに気持ちが通じない、相手に不満を持ち、自分のことをよく理解してくれない、誤解をする、助けて欲しいときにも助けてくれない、そういうことがあっても、礼拝説教の御言葉によって、イエス・キリストに赦され、愛されていることを知り、互いに赦し合うことができるのです。様々な違いを越えて、夫婦がひとつの体として共に歩んでいくことができるのです。
アブラハムが神の導きを優先し、信仰を大切な財産としているのです。24章5−8節では、故郷にいる妻となる候補者が、アブラハムのところに来たくないと言ったら、イサクを連れて故郷に行かせるな、それは神がアブラハムを生まれ故郷から連れだし、神が導くところに導くから、と語るのです。生まれ故郷に愛着があったかもしれませんが、アブラハムは「故郷を離れ、私が示す地へ行きなさい」という主の言葉に従っているのです。アブラハムは、どのような時でも、神の御心に従う心を持っていたのです。
アブラハムは、神に召されて、長い旅をしてきました。その旅の中で、最も大切にしていたのは、神の御心であったのです。アブラハムの人生に終わりが見えてくる、この時、アブラハムは、自分の人生が神の御計画の中を生き抜いたことに満足していたのです。自分の生き甲斐は、神の導きに従って働いてきたことであるのです。
私は、24章の中で印象の深い御言葉がありました。それは、24章50−52節の御言葉です。「ラバンとベトエルは答えた。『このことは主の御意志ですから、わたしどもが良し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人のご子息の妻になさってください。』アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。」アブラハムとラバンは、同じ神を信じる、信仰の仲間です。神の御意志を最も尊重していることが分かるのです。
結婚式のための準備会でいつも話すことですが、結婚の相手が、神が与えてくださった相手であることを受け入れたら結婚しなさいと話します。相手が好きだ、気に入っている、結婚すると自分に利益がある、そういう思いで結婚することは良くない。結婚するために自分にふさわしい相手を神が与えてくださったと確信することがとても大切なことなのです。
もう一つ大切なことが書かれています。それは、同じ信仰をもって結婚するだけではなく、その信仰を継承することを目指して結婚することなのです。
現代は、信仰は個人的なことで、親子と言っても、信仰は、子どもが自分で選択するもので、子どもの自由だ、と考えている人が多いのです。信仰が個人的になっているのです。信仰は私的なことで、自分が信仰を守っていれば良いと考えている人が多いのです。他の人に自分の信仰を押しつけてはいけないと考えているのです。信仰の個人化なのです。教会の礼拝に隣人や知人を誘わないことによく表れています。このことが、伝道を進展させない原因なのです。
東大宮教会員である若い夫婦のところに子どもが与えられたので、幼児洗礼を勧めたのです。ところが、その夫婦は、信仰は子どもの自由であるので、親が強制するのは良くないと言う意見でした。何度か、幼児洗礼を勧めたのですが、同意しませんでした。幼児洗礼は、親の信仰によってではなく、教会の信仰によって、幼児に洗礼を授けるのです。現代は、何事も自分個人が決めていくという考え方が主流ですから、自分の同意なしに決めることは良くないと考えているのです。
しかし、福音書で、一人の中風を煩った人を4人の仲間が主イエスのいる家に運んで、家の屋根から吊り降ろして、主イエスがこの4人の信仰によって、中風の人の罪が赦されたと語っているのですから、中風の人の信仰ではなく、教会の信仰によって教会の交わりの中に仲間として加えていくのです。
私の両親は、向井芳男という牧師の紹介で結婚をしました。向井芳男牧師の伝道の仕方は、キリスト者の家庭をたくさん作るために、栃木県にある教会の若者を何組もお見合いをさせて結婚させ、子どもに幼児洗礼を受けさせて、教会学校で育てて教会員にさせることでした。鹿沼教会には、何組もクリスチャン・ホ−ムがあり、子どもも同じ年代でにぎやかでした。教会にはファミリーが多かったのです。教会につながった家庭があることによって、教会の信仰を継承する人々が増えて行くのです。
神に祝福され、神に愛されていく生活が、最も幸いな生活であることを確信して、神の御意志に従って行く者でありたいのです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神。あなたは、私たち兄弟姉妹を召してくださり、礼拝へと招いてくださり、御言葉を聞く時が与えられ、心から感謝を致します。あなたの御心を重んじて、御言葉に従って行く信仰を与えてください。新しい年度を迎えて、私たちの教会が、この地域の人々にイエス・キリストの福音を伝えて行くことができますように、聖霊を注ぎ、証をする勇気を与えてください。進学、就職など新しい生活に入る方々を、あなたが愛し、見守ってくださいますように。新しい環境に慣れて、元気に過ごすことができますように。病と戦う兄弟姉妹をあなたが癒やしてくださいますように。この世界で起こっている、ウクライナでの戦争やガザでの戦闘が平和的な解決が与えられて人々の生活が元の穏やかな生活に戻ることができますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|
|
20240407 主日礼拝説教 「人生の終わりも神の祝福の内にある」 山ノ下恭二牧師
(創世記23章1−20節、ヘブライ人への手紙11章13節) |
|
私は、これまで教会の葬儀の司式を多くしてきましたが、葬儀の司式をするたびに、思うことがありました。それはキリスト者として逝去され、神の御許に召された方々は神に祝福されているということです。それは、逝去された方が、初めから終わりまで神の御手によって見守られ、愛されてきたからです。
アブラハムはすべての人々の祝福の源になるために、長い旅を続けてきました。その長い道のりで、創世記23章に記されていますが、イサクを燃え尽きるささげものとして献げよという神の命令はアブラハムにとって大きな試練でした。しかし、神ご自身が備えてくださるということを信じて、神の深い恵みを経験することができたのです。アブラハムとサラの夫婦は、その試練によって鍛えられ、そして乗り越えることができ、さらに旅を続けたのです。
夫婦は年を重ねて高齢になり、地上の旅が終わりに近づいたことを強く感じ始めていました。高齢になって体力が衰えたり、もの忘れが多くなったりする経験を重ねると、自分が年を取ったことを思うのです。そして、自分が死ぬことを思うのです。中世のカトリックの修道院で挨拶として用いられていた言葉に「メメント・モリ」という言葉があります。「死ぬことを忘れてはいけない」「死すべきことを覚えなさい」という意味のラテン語ですが、最近、この言葉がテレビドラマでも使われ、この言葉は一般にも知られるようになりました。修道院の修道士たちは、死を絶えず自分の前に置いて生きていったのです。それはただ死を覚えるということではなく、地上の生活、一日一日を真剣に生き、神と向かい合って生きるためでした。
イサクは、23章に記されている、丸焼きにして献げるという試練の時は少年でしたが、今は若者となり、年老いた両親を支える役割を果たすことができるようになりました。アブラハムとサラは第一線から退き、イサクの働きを見守りながら、落ち着いた生活をしていたのです。隠退して自由な生活を送っていたのです。
しかし、サラの死によって中断したのです。葬儀では、死亡の年齢を言いますが、創世記23章1−2節で「サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。」と記しています。サラはイサクを産んだ時は90歳でしたから、それから37年後ということになります。今の感覚では桁外れに長生きしたことになります。長寿は神の祝福を表しますので、神の祝福のうちに召されたのです。
長寿であっても死んだのですから、アブラハムにとっては生涯の同伴者を失ったことは大きな出来事です。長く一緒に暮らし、苦楽を共にしてきたのですから、サラの死はアブラハムにとって、ショックであったと思います。夫と妻は二人ですが、一つの人格ですから、一方を失うと自分も失うのです。ある方が、奥様を亡くされて、身体が不自由でも良いから、生きていて欲しかったと言われたことがあります。夫婦は一つなのです。夫か妻の片方がいなくなると、自分の存在がなくなるのです。自分が分からなくなるのです。ただ、妻を亡くした夫はしょんぼりして元気がなくなり、夫は、妻の死後、2年半で死亡するという統計があるそうです。逆に、夫を亡くした妻の方が、夫の世話が無くなって、夫から解放されて自由になって元気で若くなり、生き生きとしているように思います。
清水加奈子という精神科医が「死別後シンドローム」−大切な人をなくしたあとの心と体の病−という本を書いています。この本の中で、死別後、大切な人を亡くした家族は心身の不調、病に罹る人が多いと書かれています。
アブラハムにとってサラは生涯を共にしていますので、サラを失ったことはアブラハムにとって大きな出来事であったのです。サラは絶えずアブラハムと苦楽を共にしてきました。夫が気弱になった時には身を挺して夫を守り抜きました。反面、サラは、神を疑い、嫉妬深くなって夫を悩ましたこともあったのです。
新約聖書ではサラを、神を信じて従った模範として記しています。ペトロの手紙一 3章5−6節には、次のように書かれています。「その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。」
しかし、創世記のアブラハムとサラのやりとりを見ると、古代であり、女性蔑視の社会であるにも関わらず、サラはアブラハムと対等に話していることに気づきます。NHK朝の連続小説ドラマが、4月1日から「虎に翼」という、日本で初めて女性として弁護士になり、戦後、女性として初めて裁判官になった人をモデルにしたドラマを放映しています。4月3日の朝、初めてこのドラマを見ました。何気なく、見ていたらとても面白いドラマであることに気づきました。今までの朝の連続小説ドラマは私には面白くなくて、続けて見ることはなかったのです。一度、連続ドラマを視聴すると次はどのような展開があるのか、興味が湧いてずっと見ることになり、時間が取られて仕事ができなくなることも見ない理由でした。
4月3日のドラマでは、戦前に、女性は年頃になったら、結婚して夫に従うべきという周りの圧力で、お見合いをするのですが、下宿している大学生にお弁当を届けに行き、大学の法学部の教室の廊下で「女性は無能力」という言葉を聞いて、黙っていられなくて、教室に入って抗議をして、教授がこの抗議をよく受けとめ、大学の法学部を受験するように勧める場面でした。男性と対等で生き、弁護士として働いていくことはすばらしいことです。サラはアブラハムと対等のパートナーであったのです。男性に対等にものを言っているのです。
2節には「アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」と記しています。ユダヤ人は、深い嘆きを表す時、自分の胸を両手で激しく打ちたたいたそうです。アブラハムの嘆きが、いかに深かったかをよく表しています。妻を失ったアブラハムの嘆きは深いものでしたが、このような喪失経験を癒やす手立てはあるのでしょうか。
E Aグロルマンというアメリカでは有名なカウンセラーが「愛する人を失った時」という本の中で、第2章で「夫や妻が亡くなったときの心の支え−配偶者が亡くなると、ともに生きていくべき現在を失う」ことを書いています。そこで「信仰の道に入ることも心の支えとなる」とあります。配偶者を失って、失意にあっても、神を信じ、神が残された者の心を支えることが分かって神を拠り所にすることができ、しっかり立ち直ることができるのです。
サラを失ったアブラハムは、どのようにして立ち直ったのでしょうか。アブラハムは主なる神の言葉を聞き、主なる神を礼拝するためにその場所に祭壇を築いて、礼拝を行っていたのです。アブラハムは、人生のとても大切な時に、神の言葉を聞いて歩みを進めていったのです。創世記12章7節で「主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」と記されています。
15章では、主の言葉がアブラハムに臨み、神の約束が語られています。アブラハムの跡継ぎが産まれ、その後に続く子孫が天の星のように無数の数になることを主なる神から聴くのです。17章では主なる神は、契約を結ぶことを提案し、約束するのです。主なる神がやってきて、語りかけているのです。主なる神の言葉を聞きながら、歩んでいくのです。主なる神の言葉を聞き続けていく中で、立ち直っていくのです。
礼拝で神の言葉を聞いていくということはとても大切なことなのです。神とのコミュニケーションができるからです。説教を聞く、祈る、讃美歌を歌う、ささげものをする、このことは私たちが失意の中にある時も心が支えられるのです。牧師は礼拝説教をするのですが、説教することによって牧師が一番、慰められ、励まされると思います。教会に集って、教会の仲間と話し合う、このことも私たちにとって意味のあるコミュニケーションです。教会の仲間とたわいもないことでもたくさん、話すことはとても良いことです。互いに語り合い、慰め、励ますことはとても大切なことなのです。いろいろな事情があり、困ったことや苦しいこと、悲しいことがあっても、教会に来て、互いに親しく交わり、互いに祈り合うことによって、気持ちがほぐれ、悲しい気持ちが少なくなり、少しずつ、立ち直っていくのです。
アブラハムは嘆き、悲しんだ後に、立ち上がります。そして次の大切な仕事に着手します。それは、サラを埋葬するために墓地を用意することでした。
現在の日本では、「墓」の問題があります。墓じまいをしようとする人が多くなりました。先祖の墓を見守ることができない人が多くなりました。
アブラハムは所有地を持たない寄留者でした。よそ者であったのです。昔から、その土地で生まれて、そこに住んでいたのではないので、新たに土地を求めても売ってくれるか、どうか、わかりません。しかし、アブラハムに尊敬と信頼を寄せていたへト人に相談したのです。へト人は墓地の購入について好意的で、進んで協力をしてくれました。アブラハムは、ヘト人の中で広い土地を所有するエフロンという人物と交渉することになりました。
アブラハムは、再度、土地購入の申し出をして、エフロン所有のマクペラの洞窟が欲しいと告げ、代金の交渉に入ります。エフロンは世俗的な考えの持ち主であり、したたかな人物です。エフロンは取引の交渉には直ぐに入らず、アブラハムに希望を語らせ、そこまで必要であるならば考えようと言って値段を吊り上げるのです。エフロンは、駆け引きが上手で、そんなに欲しいならば考えようと言うのです。アブラハムは、この世で様々な経験をしており、このような駆け引きをよく知っており、相手が高く売ろうとしていることを見抜いていました。しかし、値段の交渉はしなかったのです。
アブラハムは、何の駆け引きをすることなく、正直に「土地が欲しい」と言い、代金も自由に決めてくれとまで言っているのです。エフロンは駆け引きに勝ったことを知って、土地の代金を示すのです。この土地の代金は銀四百シェケルで、大金なのです。調べてみますと、この時から八百年後に、サマリアに都を建設した時の費用が銀六千シェケルでしたから、一人の人間を葬るための土地が銀四百シェケルというのは、異常に高い値段でした。アブラハムは、このことを無条件で受け入れたのです。
23章16節に「アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀四百シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。」と書いてあります。アブラハムは、異常に高い値段で、土地を買い取ったのはなぜでしょうか。それは、妻サラを愛するがために、無理をしてこの土地を買い取ったのだろうと思うかもしれませんが、そうではないのです。創世記15章で主なる神が約束していることがあるのです。それは、アブラハムから多くの子孫が誕生することを約束しているだけではなく、アブラハムに「土地を与える」という約束をしているのです。
15章7節で次のように記されています。「主は言われた。『わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。』と書いてあるのです。墓地を購入するのですから、この時代の常識的な土地の値段で良いのです。しかし、異常に高い値段であったとしても、損得で墓地を購入するのではなく、アブラハムを通して、すべての人々を祝福に導く、という神の意志に従うことがアブラハムには重要であったのです。安いか、高いか、損か、得か、という基準で物事を決めるのではなく、神の御心に仕えるということを基準にして行動するのです。アブラハムは神に召され、神の導きに従って御心の実現のために、生涯をささげてきたのです。
サラのために土地を買い求め、そして墓地を造る、それはアブラハムにとって人生の最後の仕事であったのです。しかし、それは、ただ、土地を購入して墓地を作ったということではなく、神の約束を信じて、その生涯の終わりにおいて神の御心に従った姿を残したのです。アブラハムは、いつも神の御心に従うことを中心において、物事を進めて行ったのです。
(祈り)
私たちを見守り、私たちを愛するイエス・キリストの父なる神。2024年度の初めの主日礼拝にあなたは招いてくださり、兄弟姉妹と共にあなたの御言葉を聞くことが許され、心から感謝を致します。私たちがいつも神の御心を尋ね求めながら、行動をしていくことができますように導いてください。2024年度も、あなたが、雲の柱、火の柱として、私たちの教会を照らして導いてくださり、この地域の人々にあなたの御言葉を伝え、この地域の多くの人々が教会に集い、あなたを証することができますように、あなたがいつも共にいて、私たちを力づけ、慰め、励ましてくださるようにお願い致します。
教会の兄弟姉妹の中で、病と戦っている兄弟姉妹をあなたが癒やし、健康を回復することができますように。様々な事情のために、礼拝に集うことができない兄弟姉妹をあなたが見守り、礼拝に集うことができますように。
ウクライナでの戦争が平和のうちに終結し、ガザでの戦闘も中止されて、死の危険と飢餓に苦しむ多くの人々の命が守られますように。
これから聖餐にあずかります。私たちの罪の贖いのために、イエス・キリストが十字架で肉を裂かれたことを表すパン、血を流されたことを表す杯を戴きます。信仰を持って聖餐にあずかることができますように導いてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
|
|
|