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主日礼拝説教

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20180325 主日礼拝説教  「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」  山ノ下恭二


(イザヤ書63章7−9節、ヨハネによる福音書12章20−26節) 

 ヨハネによる福音書12章24節に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と書かれています。皆さんの中で、この言葉をどこかで聞いた人もおられると思います。この言葉は聖書の中でよく知られた言葉です。
 
 本日の礼拝で、ヨハネによる福音書12章20−26節の言葉を読みました。この言葉の前のところには、何が書いてあるのか、と言うと、主イエスがろばに乗ってエルサレムに入城した時のことが書かれているのです。この時、エルサレムに集まった多くの群衆が棕櫚、なつめやしの枝をもって主イエスを迎え入れたのです。この日が棕櫚の主日で、キリスト教会は、主イエス・キリストの御受難を心に刻む時として守っています。その棕櫚をもって群衆が主イエスを迎えた、その日に主イエスは「一粒の麦」の言葉を語られたのです。
 
 12章19節に「世をあげてあの男について行ったのではないか」と言う言葉が記されています。世、全世界、という言葉は、ユダヤ人だけでなくて、他の国々の人々も入っているのですが、祭りのとき礼拝をするためにエルサレムに上ってきた人々の中に「何人かのギリシャ人がいた」のです。それと深く結び付いて「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」という言葉が語られているのです。ギリシャ人がここに登場するということはとても意味あることです。それは主イエス・キリストの救いが、ユダヤだけに向けられているのではなくて、その枠を超えて、全世界に広がるものであることを示しているのです。
 
 このギリシャ人がどのような人たちであったのか、はっきりしたことは分かりません。ユダヤの歴史の中で、ユダヤの人たちは、ギリシャ人に対して敵対的な思いをもっていたことは確かです。ギリシャの文化に影響を受けている、周辺の国々がユダヤの国を侵略し、そのために、ユダヤの国が滅び、植民地になり、他国の支配者はギリシャ文化をユダヤに取り入れようとしたのです。そのことにユダヤ人たちは、激しく抵抗してきたのです。ユダヤを支配し、征服したシリアは、エルサレム神殿の中にゼウスの像を立てたり、旧約聖書を燃やすようなことをして、ユダヤ人の反感を買い、激しい抵抗運動し、多くの人々が殺害されたのです。
 
 そのような背景をもっているにもかかわらず、ギリシャ人が主イエスに会いたいと来たのです。21節に「フィリポのもとへ来て『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。』と頼んだ。」と記されています。ギリシャ人がエルサレムにいただけでも、勇気のいることであったと思いますが、それだけではなく、主イエスに会いたかったのです。群衆が主イエスを追いかけていくのを見て、主イエスという方に直接、会いたくなったのかも知れません。
 
 私たちも何かきっかけがあって、教会に来た人もおられるでしょう。自分の母親が教会で葬儀をして、自分も教会で葬儀をしてもらいたい、という願いをもって教会の礼拝に来て、洗礼を受けた人も多いのです。教会の葬儀が世間、一般の葬儀ではなくて、死では終わらない、光に照らされた慰めの葬儀であったことに感銘を受け、教会に自分の身を置きたいと思って教会に来た人もいます。ギリシャ人も求道者であったのです。この新共同訳聖書は呼びかけの言葉を省略していますが、「主よ」という言葉があるのです。主イエスに対してではなく、主イエスの弟子に対して「主よ」と呼びかけているのですから、とても謙遜な言い方をしているのです。
 
 このヨハネによる福音書にはこのギリシャ人は直接、主イエスに会っているのか、会っていなかったのか、はっきり書いていません。主イエスが、ギリシャ人に直接、会って話している、とも考えられるし、逆に、会っていなくて、会いたいというギリシャ人がいるけれどもと弟子たちが、主イエスに話して、主イエスがこう語ったと言うことをギリシャ人に伝えた、とも考えることができるのです。ヨハネによる福音書が会ったとも会わなかったとも書いていないことは、そのことにあまり関心を持たなかったのです。

 この福音書の記者は、ギリシャ人が直接、主イエスの会ったのか、会わなかったのか、ということを重要なこととは考えないで、主イエスが語られた言葉そのものを伝えたかったのです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」福音書記者はこの言葉を伝道者がどこにでも持って行って伝えて欲しいと願っているのです。このギリシャ人たちがどのような悩みを持ち、どうして主イエスと会おうとしたのか、その理由は分かりませんが、福音書記者はこの言葉が一人ひとりの魂の深いところに届き、それが一人ひとりの喜びとなり、生きる望みになるように、と願って主イエスのこの言葉を伝えたのです。

 主イエスは、一粒の麦が死ななければ多くの実を結ぶことはない、だが、今その実りがここにある。あなたにもその実りが与えられるのだ、と言うのです。

 一粒の麦、麦について主イエスは様々なところでお語りになっています。皆さんが思いだすのは、種蒔きの譬えです。この種も麦の種のことです。また主イエスはとてもおもしろい譬えを語ります。麦畑でよい麦と毒麦が育ち、毒麦を抜いたら、良いのではないか、ということに対して、今、毒麦を抜こうとするとよい麦も抜くことになるので、終わりの時に刈り入れをしようという譬えを語っているのです。主イエスは幼い頃から、麦畑を通り、麦に親しみをもっていたのです。安息日に、主イエスは弟子たちと麦畑を通り、麦の穂を弟子が摘んだことをファリサイ派の人々に非難されたことが記されています。麦の穂を摘むことは労働にあたり、それは安息日の掟に反することだと指摘を受けたのです。日常的に麦畑、麦に対してとても親しい感情を持っていたのです。
 
 主イエスは「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」と語ります。麦が耕された土の中に落ちていく、姿を隠してしまう、見えなくなる、死んだとしか、思えない、何もなくなってしまったように思われる。何もなくなってしまったように見えるところから、緑の芽が吹き出し、そこに捨てられたはずの粒と同じ粒がたわわに実っている、それはとても不思議なことだ、と言うのです。

 もし、一粒の麦が、捨てられて姿を変えるのは嫌だ、ここで死んでしまうのは嫌だ、と言うならば、実りはなかったのです。一粒の麦が地に落ちて姿を隠してしまう、しかし、それによって緑の芽が吹きいで、実りがもたらされるのです。この自然の移り変わりを語りながら、主イエスは、神の不思議な愛のみわざが既に映し出されていることを見ておられたのです。

 由木康と言う牧師が、講談社学術文庫から「イエス・キリストを語る」というヨハネによる福音書の講解説教を記した本を書いています。この本を読んで、興味深い解説をしているのです。ギリシャ人たちが、なぜ主イエスにぜひ会いたいと言ったのか、その訳を書いているのです。「これらのギリシャ人は、祖国ユダヤに受けいれられない預言者を、自分たちの郷里−シリアか、小アジアか、ギリシャかに迎えて、自由に教えを宣べさせ、昔の哲人ゼノンやエピクロスのように安らかな余生を送らしめたい−そう考えて、かれらはイエスに会見を申し込んだのではあるまいか。」と書いています。ギリシャ人が主イエスをとても尊敬していたことがあり、ユダヤ人たちが主イエスを殺そうとしていたので、もっと安全なところにお連れしようと思い、面会しようと考えたのだ、と言うのです。この説明は推測に過ぎないと思いましたが、おもしろいと思いました。

 それに対して主イエスは自分の身の安全を最優先にするのではない、神のみこころに従うことを明言するのです。「一粒の麦が死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ」つまり、自分が死ぬことによって大きな実りがあると語っているのです。

 12章23節で主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言うのです。主イエスは明確に神のみこころを知ったのです。自分が一粒の麦になることこそ神のみこころであることを知るのです。主イエスはギリシャ人が訪問をしたことを知り、ユダヤ人の枠を超えて世界の人々に伝える言葉としてこの言葉を語られたのです。ヨハネによる福音書では、主イエスは自分が神から遣わされた者であることを明言し、ご自分を遣わした神のみこころが遂に現れる時が来たことを語るのです。
 
 「人の子」とは「救い主」という意味です。「栄光を受ける」それは一般には、自分がみんなからその功績に対して脚光を浴び、注目されることです。オリンピックで金メダルになった選手はみんなからほめたらえられ、晴れがましく、うれしそうにしているのです。主イエスはここで栄光を受けられる、それは「一粒の麦」として死なれることなのです。その死において主イエスの本領が現れるのです。栄光を受けるのは、表彰台であり、檜舞台であるけれども、主イエスは十字架が檜舞台なのです。

 本日は旧約聖書・イザヤ書63章7−9節を読みました。63章9節に「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い
愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。」と語られています。苦難の僕は、すべての人々の苦難を自分の苦難として引き受けてくださったのです。みんなからほめたたえられ、注目を浴びるではない、栄光の舞台にたつのではなくて、最も低いところに、姿を隠して、神のみこころを行うのです。それは、私たちの苦難、それは罪によってもたらされる審判を引き受けて、贖いのわざを行うのです。私たちは、このみ子の犠牲がなければ、恵みに生きる道はなかったのです。そのことをしっかりわきまえることです。私たちのために、主イエスは一粒の麦になられたのです。 黒い土の中に麦が落ちていく、姿を隠してしまう、見えなくなる、死んだとしか思えない、そして何もなくなってしまったと思われるところから緑の芽を出して、捨てられた粒と同じ粒が豊かに実るのです。あなたがたのために主イエスは一粒の麦となられたのです。あなたがたはその実りなのです。そのことをしっかりと受けとめてほしいと語るのです。

 私たちは洗礼を受けて、信仰生活を始める、そこで残念なことは、信仰生活を中断してしまうことがあるのです。神に召されるまで信仰生活を全うしないことが起こります。神に召されるまで変わらない信仰に生きるために、大切なことは、主イエスがわたしのために死んでくださったということを本気で受けとめることなのです。一粒の麦が地に落ちて死んだのです。主イエスの死を無意味にしないことなのです。

 「だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と語って、続けて「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」と語ります。主イエスの贖いによって、私たちは神との関わりが与えられ、神に対して生きる者となったのです。主イエスの死によって、新しいいのちを戴いた、そのあり方について主イエスは語るのです。「自分の命を愛する者」それは、この世で生きるために、自分を愛し、自分が幸福になり、自分が成功することに一所懸命になることです。私たちは自分の生活を守ることに努力をするのです。しかし、そのことが逆に命を失わせることになるのです。「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」自分の命を憎む、という表現はとても強い言い方です。古代のキリスト教神学者アウグスティヌスは、ヨハネによる福音書の説教の中で、「自分の命を憎む」と言うのは、自殺することではないとわざわざ解説しているのです。
 
 主イエスが、自分が生き延びるために、懸命になって、自分が犠牲になることを避けたのではないのです。むしろ、自分の命を憎んで、すべての人のために自分の命を捨てたのです。主イエスは何度も繰り返して、「わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10章15節)と語るのです。キリストの恵みにあずかった者は、自分のために生きるのではなく、自分に固執しないで、自分中心に生きることを止めるのです。自分中心に生きていく、そのことから解放されて、神との関わりの中で生きていくことなのです。それは神を愛し、隣人を愛することへと向かっていくのです。キリスト者になることは、自分に執着することから解放され、自由に生きる自分を取り戻すことなのです。

 ここで大切な言葉は「だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言う言葉です。私たちは、主イエスが死んでくださった、その実りを与えられているのです。多くの実を結ぶ、それは私たちが多くの恵みを与えられていると言うことです。その恵みとは、キリストが私たちを限りなく愛してくださると言うことです。キリストが愛してくださるということは、キリストがいつもそばにいてくださることなのです。

 12章26節に、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」と語っています。この言葉で一番、大切な言葉は「いることになる。」と言う言葉です。「わたしのいるところにいる。」「キリストのいるところにいる。」ということです。 私はどこにいるのか、それはキリストのいるところにいる、のです。つまり、キリストのそばにいつもいるのだ、と言うのです。私たちはもう独りではないのです。キリストのそばにいるのです。

 私たちがよく経験することですが、教会生活が困難になることがあります。病気をして礼拝に出ることが難しくなります。家庭で親の面倒を見ているので、礼拝に出ることが難しくなるのです。そのような時にも、私たちのいるところに主イエス・キリストはいるのです。主イエス・キリストがいるところに自分がいるのです。それだけでなく、「父はその人を大切にしてくださる」と語ります。「大切」と言う言葉は「尊敬」と言う言葉です。わたしを神は重んじてくださる、と言うのです。洗礼を受けて、キリスト者となった者を神は重んじて、宝として扱ってくださるのです。

 主イエスが一粒の麦となってくださった、その一粒は地に落ちて死ぬのです。それは、私たちが神との交わりを与えられるためなのです。キリストがわたしたちと共にいるのです。そばにいると言うのは、親子の関係に似ています。小さな子どもは親の手をしっかり握って離すことはないのです。母親が椅子に座っていると、子どもはそのそばにいるのです。子どもは母親の存在の一部なのです。そのように私たちはいつもキリストと共におり、キリストは私たちと共にいるのです。

 5世紀にアイルランドにキリストの福音を伝えた聖パトリックが、ひとつの祈りを残しています。この聖パトリックの祈りを読みたいと思います。
 
 「キリストはわたしと共におられる キリストはわたしの内側におられる キリストはわたしの背後にも わたしの前にもおられる キリストはわたしの傍らに立ち わたしをとらえたもう キリストはわたしを慰め 回復させてくださる キリストはわたしの上にあり わたしの下におられる キリストは平安の中にも 危険の中にもおられる キリストはわたしを愛してくれる皆の心の中にもおられ キリストは友の口にも 異邦人の口にもおられる」

20180318  主日礼拝説教  「福音にふさわしく」  山ノ下恭二


(イザヤ書52章7−10節、フィリピの信徒への手紙1章27−30節)

 私が東京神学大学に入学することが決まり、4月には入学し、学生寮に入る時期になった時のことです。私は、これから入る学生寮での生活に不安をもっていました。それは東京神学大学の学生寮での生活は、修道院のような規則正しい生活をすることになるのではないか、そうなると、自分はその生活についていけるのか、不安だったのです。この学生寮に入っている神学生は牧師を目指す人であるから、とてもまじめで、朝早く起きて、毎日、聖書を読み、祈りに熱心で、沈黙を守り、清潔な生活をしていると言う一つのイメージをもっていました。4月に入寮すると、私が予想していたものとは異なり、修道院のようなものではないことが分かりました。同室の先輩は夜中まで起きていて、即席ラ−メンを食べたり、明け方まで話し込んでいたり、学生寮の礼拝に先輩は出ないし、明け方まで起きているので、朝は起きられないので授業をさぼったり、学校のチャペルの礼拝に出なかったり、アルバイトで忙しかったり、一般大学の学生の生活を変わりない生活をしていることを知りました。私が抱いていた学生寮のイメージ、そして神学生の生活のイメージとかなり違っていたのですが、私はとても安心しました。

 幼い頃から教会員と交わりがあった人は、洗礼を受けた後の生活は、洗礼を受ける前と変わらない生活をしていることを知っているので、洗礼を受けたら、特別な生活に大きく変わることはないことを心得ています。しかし、教会に来て間もない人で、洗礼を受けると、生活ががらっと変えないといけないと思っている人は、洗礼を受けて、自分がそのように生活をしていくのか、不安になるのです。洗礼を受けて、キリスト者になると生活の仕方が変わると思うとどうして良いのか、分からないのです。
 
 フィリピの信徒への手紙をこの礼拝で学んでいます。この手紙は、最初の教会の伝道者パウロが、牢獄の中から、書き送っている手紙です。パウロは自分が裁判を受けて、死ぬかも知れないと思っていましたから、この手紙はパウロの遺言であると言うことができます。本日、読みましたところの前のところには、パウロは、本来なら自分は、この世を去ってキリストと共にいたい、そのほうがはるかに勝っているけれども、自分がこの世にいることが教会のために必要であるというなら、自分は喜んで教会のため、すなわちあなたがたのために、この世にあって苦労しようと言うのです。この世を去っても、この世にいても、自分はキリストと一緒にいることが最大の喜びだと言うのです。

 パウロは、フィリピの教会の信徒たちに、改めてキリスト者の生活の仕方について語るのです。フィリピの信徒への手紙では1章27節から2章18節までが一つの区切りで、そこには信仰者の生活の仕方が語られています。ある註解者は、「ひたすらキリストの福音にふさわしく生活をしなさい」と言うのは、1章27節から、2章18節まで、この一つの区切りの表題である、と説明しています。
 
 私が鹿沼教会で信仰告白をしたのが高校一年生でした。その時の鹿沼教会の高崎隆牧師は、私がこれからキリスト者として生活をしていくことについて具体的に指導をしてくださいました。そこで言われたことは、どんなことがあっても礼拝と祈祷会を休んではいけない、今は高校生で収入がないのでできないけれども、勤めるようになったら、献金は痛いと思う位の額を献金しなさい、ということでした。この助言に従って、大学入試の模擬試験が日曜日にある時には、朝の礼拝に出られないので、夕礼拝に出たり、週日に祈祷会がありましたので、出席をしていました。

 一人一人、教会生活、信仰生活の仕方が異なります。この機会にキリスト者としての生活の仕方を学びたいのです。

 フィリピの信徒への手紙1章27節に「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と書かれています。直訳すると「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」です。この言葉の最初に「ただ」と言う言葉があります。「ただ」と言うのは強い言い方です。「ただ一つのことに」と言う意味です。「ただ一つのことに、すなわち福音にふさわしく」ということです。ここでパウロは、フィリピの教会の人々に、これだけはして欲しい、それは一つのことだと言っているのです。

 「ひたすらキリストの福音にふさわしく生活しなさい」と語られています。
「ふさわしい」と言う言葉に引っかかる人も多いと思います。私たちは「ふさわしい」と言う言葉を使います。また「ふさわしくない」と言う言葉もよく使います。よく考えると「ふさわしい」か、「ふさわしくない」かを判断する時に、自分なりに一つの基準をもって判断しているのです。自分のもっている基準によって、ふさわしいか、ふさわしくないか、を判断しているのです。

 「キリストの福音にふさわしく」という言葉は「キリストの福音に規定されて」「キリストの福音に則して」と言いかえることができます。この「ふさわしく」と言う言葉は「キリストの福音」と深く関わって語られています。「ふさわしく」と言う言葉は「キリストの福音」に結びついて語られているのです。「キリストの福音」と直結して「ふさわしく」と語られていることが決定的に重要なのです。「キリストの福音」に深く関わり、結びついた言葉として「ふさわしく」と語られているのです。このことが私たちの中で明確にならないと、はっきりしないと「ふさわしく」と言う言葉の中身がわからなくなってしまうのです。「キリストの福音」に強く影響を受けて、言い換えると「キリストの福音」を信じて、ふさわしい生活になるのです。

 私たちは心の中に、キリスト者はこういう人だと既に固定したイメ−ジをもっていることがあります。自分が出会ったキリスト者の中で、自分が尊敬できるキリスト者がいて、その人を基準にして、周りにいる人をキリスト者としてふさわしい、ふさわしくない、と判断するのです。あるいは、心の中に既に一つの型にはまったキリスト者像を持っていて、そのキリスト者こそが、ほんとうのキリスト者であり、この人以外はキリスト者としてふさわしくないと考えるのです。キリスト者を固定したイメージで捕らえるのです。
 
 ある人は自分は「クリスチャン」という言葉を使わない、と言う人がいます。それは「クリスチャン」と言うと固定したイメージが既に決められているからだ、というのです。有名なキリスト者が亡くなると、新聞に「敬虔なクリスチャンであった」と書かれています。「クリスチャン」は敬虔であるというイメージが既にできているのです。キリスト者という者はこういう者であるという観念が先にあって、この人はキリスト者にふさわしい、ふさわしくない、と判断し、裁いてしまうのです。 
 
 しかし、聖書には、「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と語られていて、「キリストの福音」と語られていることに注目したいのです。「キリスト者にふさわしい生活を送りなさい」とは語っていないのです。キリスト者はこうあるべきだ、キリスト者はこうあらなければならない、と律法として言ってはいないのです。「こうあるべきだ」「こうあらねばならない」という律法、戒め、掟が先にきているのではなく、「キリストの福音」が、何よりも先に来ているのです。このことに注目をしたいのです。「キリストの福音にふさわしく」です。 
 
 「生活しなさい」と書いてあります。この「生活する」と言う言葉は、「ポリス」と言う言葉です。ギリシャの代表的な町の組織のことをポリスと言いましたが、その町で市民として生活をすると言う字を用いて、「生活しなさい」と言っているのです。このフィリピの町は、ギリシャにありながら、ローマ帝国の植民地であり、このフィリピに住む人々は、ローマ風の生活をしていました。ギリシャの土地に住みながら、自分の故郷のローマ風の生活をしていたのです。外国の中に日本人の町を作ると、そこには日本的な生活を始めるのです。ギリシャにありながら、ローマ本国の生活を反映させるのです。横浜の中華街に行くと、中国人が多く住んでいて、中国のかおりがするように、私たちは日本と言う場所に住んでいながら、キリストの福音が反映している生活をするのです。

 フィリピの信徒への手紙3章20節には「私たちの本籍は天にあります」と書かれています。地上の生活が仮の生活とは言いませんが、天の国の植民地の生活であると言うことができます。キリストの福音が反映している生活、それは、天に本籍があるような生活をすることなのです。天を表すような生活なのです。多くの困難があっても、いつも神の愛を信じ、望みを失いそうになる時にも、キリストに信頼し、愛されなくても、隣人を愛する、そのような、天を表すような生活なのです。在日韓国人、在日中国人、この日本に暮らしながら、国籍は韓国に、本籍は中国にあるのと同じように、この日本にあってキリスト者である、在日キリスト者なのです。

 福音とはどのようなものでしょうか。この「福音」と言う語は、「喜びの知らせ」「うれしい知らせ」という意味です。戦争に勝利したことの知らせ、その知らせを伝える者、を福音と呼びました。国王の後を継ぐ王子が誕生して、国民が喜ぶ、その喜びを伝える者を「福音」と呼びました。

 「福音にふさわしく」、この福音は「キリストの福音」なのです。キリストという良い知らせなのです。このキリストの福音とは、神に背き、神から離れて、深い罪をもっている者の罪をイエス・キリストの贖いによって、赦してくださる、そのことが「キリストの福音」なのです。神を愛し、隣人を愛する、そのことができない者をキリストの十字架によって赦してくださる、その赦しこそがキリストの福音なのです。
 
 このフィリピの信徒への手紙を書いたパウロは、ローマの信徒への手紙5章8−9節(p279)で次のように語っています。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛をしめされました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」

 私たちは神を自分の生活の中心においていない、自分のことしか考えない、神のみこころよりも自分の思い通りになれば良いと考え、わがままに振る舞っているのです。毎日、出会う人々を愛することをしていない者を、神がキリストの十字架の贖いによって、赦してくださったのです。

 子どもが泥んこ遊びをして着ているものを汚して家に帰ります。親は、子どもに自分で洗濯してきれいにしてから家に入りなさい、とは言わないのです。汚れたままで家に入り、親がその汚れた服を脱がせ、身体をきれいに拭き、風呂に入れて清潔にするのです。汚れた子どもが自分できれいにしてからという条件をつけて、家に入らせるのではないのです。この家の子どもとして無条件で迎え入れるのです。洗礼を受けるということはそのような恵みが与えられたことなのです。罪深い者の罪を洗い、神の家に迎え入れるのです。キリストの福音とはそのようなものです。罪深い者が神の前に正しい者と認められた、それは、キリストの十字架の犠牲があるからです。それによって、私たちは救われたのです。

 「福音にふさわしく」というのは、どのようなことなのでしょうか。ある註解者は「福音にふさわしく」この「ふさわしい」と言う字は「福音という値段にふさわしい」という字であると解説しています。私たちは洋服を買うためにお金を払って自分のものにします。私たちが福音と言う貴重なものを手に入れるために、神はキリストによって私たちのために犠牲を払って、高い値段を払って、福音を買い取るのです。そのことがコリントの信徒への手紙一 6章20節(p306)に記されています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」「ふさわしい」という字の説明がここにあります。

 神がキリストの尊い血潮と言う代価を払って、買い取られたのです。キリストが死んでくださったことによって、私たちははじめて救われた者の生活をすることができるようになったのです。私たちは罪から自由にされたのです。このことを恵みとして信じ、感謝して生きる、それが「キリストの福音にふさわしく」生活をすることなのです。代価を払って買い取られたのだから、それらしく、神の栄光のために生きなさい、と勧めているのです。ここから、ふさわしさが出てくるのです。キリストの福音を信じることから「ふさわしさ」が出てくるのです。

 コリントの信徒への手紙一 7章22節には「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。」(p308)と書いてあります。この当時、教会にも奴隷がいたのです。しかし、奴隷であってもキリストによって自由にされた、自由人であり、奴隷であっても、キリスト者であることは、ただキリストにだけ仕える奴隷なのだ、と言うのです。

 私たちは、罪の奴隷になっていました。この世の奴隷になっていました。自分の欲望の奴隷になっていたのです。しかし、神が私たちを罪の奴隷、この世の奴隷、欲望の奴隷から解放してくださるために、キリストという贖い金を払ってくださり、自由な者とされたのです。キリストに仕える奴隷として歩むのです。
 
 熊本の阿蘇に「白川水源」があり、その水源から「水」がこんこんと湧き出ているところを見たことがあります。キリストの福音という水源から、いのちの水を頂いて、その恵みをくみ取っていくならば、キリストの福音にふさわしい生活が生まれてくるのです。福音に生かされた、赦しの生活、和解の生活が展開されていくのです。

 ハイデルベルク信仰問答は3部に別れています。第一部は「罪について」第二部には「キリストの救い」について、第三部には「感謝について」解説されています。この信仰問答は、はじめに、使徒信条について解説し、「感謝について」は十戒と主の祈りについて解説されています。キリストの福音にふさわしく、と言うのは「感謝の生活」であるということができます。つまり、十戒、そこでは、まことの神を神とする、「まことの礼拝をささげる」ことを指しており、十戒の後半は「隣人を愛する」ことを指しています。そして、「主の祈り」において、祈りの大切さ、を教えています。
 
 私たちのキリスト者としての生活は、具体的には教会生活なのです。教会生活で基本的に、根本的に中核的に重要なのは、礼拝であり、聖徒の交わりにおける隣人愛であり、祈りなのです。このことに基づいて、教会は主日礼拝を行い、愛をもって隣人を大切にし、祈祷会を重んじるのです。

20180311  受難節第四主日礼拝説教 「生きるにも死ぬにもキリストがわたしの中に」 山ノ下恭二


(ヨブ記13章1−16節、フィリピの信徒への手紙1章18−26節) 

 新聞を読んでいましたら、若者の自殺が多いので、自殺を予防するために、政府が民間の団体に委託して自殺予防カウンセリングをするようになったことが報道されていました。自殺予防のカウンセリングは「いのちの電話」が全国各地で行っていますが、若者がいのちの電話にかけてくる比率が年々、低くなっており、ラインなどのメールでカウンセリングをする方法が増えてきたそうです。委託された団体はメールでカウンセリングをするのです。電話で話すことは若者にとって詳しく話さなくてはいけないので、面倒で、ハードルが高く、メールで「死にたい」と書き込むほうが気楽なのかも知れません。

 私たちが生きている時に、「生きることが面倒になった」「こんなに苦労して生きていても仕方がない」「自分は何のために生きているのだろうか」と思う時があります。自分が生きなければならない理由が自分の中で見つからないことがあります。そのような時にふと「死にたい」と思うのです。自分がどうしても生きなければならない理由が見つからない、と言うことがあるのではないか、と思うのです。生活が豊かになって、何の不足もないと思われるような、そのような時代になっても、自分が生きなければならない理由が見つからないのです。そのことを考えると、私たち人間が生きると言うことがどんなに難しいことか、と思うのです。

 かつて、「聖書と教会」と言うキリスト教雑誌がありました。ある時、四国の安芸教会の上田光正と言う牧師が「バルト神学と田舎伝道」という文章を書いていました。この人はドイツに留学して、「カ−ル・バルトの人間論」という論文を書いています。この雑誌の中で、こういうことが書かれていました。バルトの人間論を読んでいると、人間に対して、とても暖かいということを深く感じる、そして、人間が生きる根拠は、人間の中にはない、自分が生きる理由は自分の中にはない、自分が生きる根拠は自分の外にある、と書いてありました。私は、そうか、自分の中には、生きる根拠はないのか、ということを知って、生きていく重荷を降ろすことができ、生きることが軽くなったような思いになったことがあります。

 普通は、自分が生きるのだ、自分が自分の力で、どのように生きていくか、と考えるのです。今、パラリンピックが開かれていますが、障害を乗り越えて、がんばっている、がんばっている人は偉い、がんばれば自分もできるのだ、と思うのです。生きるのは自分にある、自分がいるから、自分が生きるのだ、と考えます。

 フィリピの信徒への手紙1章18−26節を今日の礼拝で読みましたが、21節には「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と書かれています。このパウロの言葉は、驚くべき言葉ではないでしょうか。自分が生きているのは、自分だと考えているのに、自分が生きるのは、自分でなくて、別の者が生きると言っているのは、驚くような言葉であると思います。ここには、この世の中の人々が考えている、人生のとらえ方、見方とは全く、異なることが語られており、全く異なった人生観が語られているのです。この世の中の人々の人生のとらえ方は、この地上に生まれて,死ぬまでが人生であり、この間にどのように生きるのかをいつも考えているのです。この地上で生きていく中で、できるだけ病気をしないで、苦しみに遭わないで人生を終えることを望んでいます。その中で,もし、困ったことがあれば、その問題を解決するために神社やお寺に行って、安全を求め、つつがなく、無事に過ごすことができるように祈るのです。無事に過ごすことができていれば、特別に信仰を求める必要がないのです。信仰が必要なのは、困った時だけです。その時に自分を支えてくれれば良い、自分を慰められれば良いと考えているのです。そして生きていることに最大の価値を置き、死はすべての終わりで、意味のないものと考えています。地上で生きていることが最大に価値があるので、死んだら終わりであると考えているのです。              
 
 ところがパウロは「わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」と語っているのです。この言葉は私たちにどのようなことを語ろうとしているのでしょうか。パウロにとって、自分の中に生きる根拠はなくて、キリストにある、と言うことです。自分を生かしているのは、自分ではなくて、キリストだということなのです。キリストが自分の生きる根拠となっているので、自分は生きているのだ、と言うのです。パウロは自分で自分を生かそうとしてはいないのです。パウロはキリストがいれば、それで生きることができると信じているのです。キリストが自分のうちに生きて下さっているということこそ、自分が本当に生きることだとパウロは信じているのです。

 仕事に夢中になって生きるのは会社に役に立っているので、やりがいがあります。ある人をほんとうに愛する、そこには自分が相手にとって役に立っているので生きがいになります。自分が何かのために生きていることは、自分の利益を求めて、それだけで生きているのではないので、意味があります。しかし、自分が生きているのは、自分が生きるのでなくて、キリストが自分のうちにあって生きていてくださっている、そのことによってまことに自分が生きることができるのです。22節にありますが、生きることも意味があるし、死ぬこともキリストと共にいることで意味があり、どちらを選んで良いかわからない、と語っています。生きることも、死ぬことも同じ価値をもっている,と語るのです。そしてパウロは自分が死ぬことと生きることの板挟みになっていると語ります。生まれて,死ぬまでの人生の中で、いかに自分は生きていくのか、という枠組みでパウロは考えていないことがわかるのです。
 
 この世の中で多くの人が考えている人生のとらえ方とは違う枠組みでパウロは生きること,死ぬことをなぜ考えるようになったのでしょうか。それはキリストとの出会いがあったからです。パウロが熱心なユダヤ教徒からキリストを信じる者となりました。フィリピの信徒への手紙3章5−6節で、パウロは自分が熱心なユダヤ教徒で、キリスト者を迫害していて、キリスト者の敵であったと語っています。ところが、パウロは回心したのです。その様子が使徒言行録に記されています。

 キリスト者を迫害していたパウロに、イエス・キリストが「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけ、サウルが「あなたはどなたですか」と言うと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と語り、サウルは目が見えなくなり、その後、「目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け」たと書かれています。(使徒言行録9・1-19 p229)このダマスコ途上でパウロは回心して、キリスト者になり、そこでイエスに対する見方が根本的に転換をしているのです。そしてキリストを知ったので、自分が誇っていたものは全く意味のないものとなり、キリスト以外のものは価値がないと考えることになったのです。

 自分の中心が律法ではなくて、キリストであり、このキリストとパウロとの関係が大変、密接であったのです。「わたしにとって、生きるとはキリスト」そして「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが」という言葉を聞くと、神秘的であると思うのです。しかし、現実にパウロは、特別な、神秘的な体験を語っていると言うよりも、パウロが拠り所としている信仰を語っているのです。
 
 このところを読んで、皆さんはもう一つのパウロの言葉を思い起こすと思います。それはガラテヤの信徒への手紙2章20節の言葉です。(p345)「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」この言葉は、何よりもキリストがいつでも自分と一緒におられると言うことです。どんな時にもキリストが自分と一緒におられて、自分がいま生きているのは、信仰によって生きていると言うことです。

 別の言い方をすれば、自分はもう生きていないと言うことです。自分の中で積極的に活動的に生きているのはキリストなのであって、自分は生きないようになっている、と言うことです。自分がキリストにより頼んで生きていくことなのです。

 朴憲郁教授が「パウロの生涯と神学」という本で、イエス・キリストと出会うことによって、イエスに対する認識を180度、転換したことを指摘しています。イエスに対するパウロの認識を変えた一つのことは次のことです。それは、イエスが、ユダヤ教徒が最も重要としていた戒めを批判し、その戒めを愛の戒めに集中したことだと言うのです。

 主イエスが人間の罪のために十字架にかかり、よみがえったことが、神の愛によることだ、ということを信仰によって認識することができたのです。
 
 コリントの信徒への手紙二 5章14−15節(P.330)には次のように語られています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」 
 
 このところでパウロはユダヤ教徒の時に抱いていたイエスに対する見方を根本的に転換しているのです。ここには、キリストの愛が語られ、その愛はキリストが私たちのために罪を贖ってくださるほどの愛です。私たちのために死んでくださるほどの愛なのだと語っているのです。

 現在、私たちが用いている新共同訳聖書ではコリント二 5章14節は「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」と訳されています。口語訳聖書は「キリストの愛が私たちに強く迫っている」と訳されています。パウロは、コリントの教会の信徒たちに、キリストの愛が強く迫っている、と呼びかけ、キリストに愛されていることを深く受け止めて欲しいと訴えています。

 キリストがすべての人のために死んだので、すべての人はキリストと共に罪と自分に死んだのです。洗礼を受けて、キリストと共に生きる、それは、もはや自分自身に対して生きるのでなく、自分のために生きるのではなく、むしろ私たちのために死んで甦った方のために生きるためです。人生の主人公が変わってしまったのです。パウロはキリストを信じることによって、もはや自分のために生きる必要はなくなったのです。自分の人生の中心、主人公はキリストなのです。なぜ、キリストが自分の主人公になったのでしょうか。それはキリストが自分のために死んでくださったその愛を鮮やかに受け止めることができたからです。

 フィリピの信徒への手紙1章20節後半には「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、祈っています。」パウロはキリストがあがめられるならば、自分はこれから生きることになっても、また死ぬことになっても、どちらでも構わない、どちらでも良いと語っています。

 「わたしの身によってキリストがあがめられるように切に願い、祈っています。」「あがめられる」という言葉があります。この言葉は「メガ」と言う語です。巨大な銀行をメガバンクと言います。非常に大きい、巨大な、という言葉が「メガ」です。キリストが非常に大きくなる、キリストがみんなの中で大きなものとなり、キリストが多くの人々にとって救い主になるのです。

 具体的に言えば、この町に住み人々が,主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリストを讃美する、それが広がっていくことです。皆さんの家族が救われて、キリストを主人公とする、その人の人生の中でキリストが大きな存在になる,主人公になることを切に願い、希望するのです。

 20節には「生きるにも、死ぬにも」とあり、パウロの思いの中に、「死」が切迫していると思っているのです。自分が死ぬ時が迫っていると思っています。これはパウロが伝道の途上でローマの官憲に捕まり、牢屋に入れられ、裁判がまもなく開始され、判決が下る時に,フィリピの教会の信徒たちに向けてこの手紙を書いている状況があるのです。死刑判決が出るかもしれないと、死を覚悟していたに違いないのです。だから、自分が生きるにしても死ぬにしても、と書いているのです。一方は、この地上で伝道の働きをする道があり、他方、「この世を去る」という道がある、判決が下されて、釈放されて生きながらえても、あるいは、死刑の判決が出て、死ぬことになっても、どちらでも良いのです。キリストがいつも一緒にいてくださるのだから、どちらでも良いのです。がひとりでも多くの人々に伝えられることを願いながら、この手紙を書いているのです。

 もう一つの聖書の言葉を考えたいのです。それはコリントの信徒への手紙二 5章7−9節です。(p330)「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」私たちがキリストによって生きるということは、自分が目に見えるものによって歩いていない、と言うことです。信仰の生活は、本来、目に見えないのです。神との間の生活ですから、人間の目には見えないのです。この目に見える世界では、この世界の常識で判断し、その常識で行うのが良いと考えられています。しかし、その常識を越えることがあるのです。

 この教会の初代牧師・小川義綏を信仰に導いたタムソン宣教師は、日本がどのような国であり、自分が日本に来てどうなるのか、分からないけれども、ただキリストに信頼して日本に来たのです。日本に来て、自分がどうなるのか、分からないのに、ただキリストに信頼して、日本に来て伝道を始めたのです。目に見えるところで判断しなかったのです。
 
 コリントの信徒への手紙二 5章9節に、パウロは「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と語っています。キリストを喜ばせる生活は、キリストに夢中になっている生活だ、とある解説書に書いてありました。たとえば、ルカによる福音書10章38−42節(p127)にマルタとマリアの物語があります。マリアはキリストの足もとでキリストの話に聞き入っているのです。他のことはみな忘れてしまって、夢中になって聞いていく、それが、キリストに喜ばれる生活なのです。
 
 先週の木曜日の朝、NHKラジオの番組を聴いていました時に、一人の大学教師が話していました。その教師は、オーラルヒストリーと言って、戦争を体験した人の話を聞いたり、東日本大震災の被災者の話を聞き取ることを専門にしている教師です。ある時、東日本大震災の被災者から聞き取っていた時に、相手が途中で話をしなくなった、という経験があり、その原因は自分にあることに気がついたとのことです。それは自分が聞きたいことだけを聞こうとして聞いていくうちに、相手が話したいこと、相手がこれまで辛い思いをしてきたことを重んじなかったから、相手がそのことを感じて、話を止めたことが分かったのだ、と語ったのです。それは、私たちもよくすることで、相手に寄り添うと言いながら、自分の聞きたいこと、自分の文脈で、相手の話を聞いて行こうとするのです。聖書のことばを読む時にも、自分の考えで、読もうとする、読みたいところだけを読む、ということをしているのではないでしょうか。

 聖書の言葉をそのまま聞いて行く、それが、キリストに喜ばれる生活なのではないか、と思います。

20180304  受難節第三主日礼拝説教 「愛の心をもってキリストを伝えよう」  山ノ下恭二


(エゼキエル書3章4−11節、フィリピの信徒への手紙1章15−18節)

 牛込払方町教会は昨年11月に創立140周年記念礼拝を行いました。初代牧師が小川義綏牧師ですが、それ以来、様々な牧師が、伝道、牧会をされてきたのです。歴代の牧師は、一人、一人、それぞれ個性があり、持ち味があります。それぞれ神から与えられた賜物を生かして,説教し、牧会に従事してきたのです。それぞれ持っている個性は異なるけれどもその賜物を生かしながら、キリストを伝えてきたのです。私も東京神学大学の卒業生を多く知っていますが、それぞれ、個性や人柄が違います。それぞれ、長所と短所をもっています。ある面では、長所が短所となり、短所が長所となります。教職を招いた信徒は、その教職の欠点や短所に注目するのではなく、その教職が神から与えられている良い物、賜物を見出して、伝道者として重んじていくことが大切です。

 フィリピの信徒への手紙をこの礼拝で読みましたが、最初の教会にはパウロの他にも多くの伝道者がいたのです。一人一人それぞれ個性は異なりますが、伝道がなされていたのです。フィリピの信徒への手紙1章15−18節を読むと、伝道する動機が不純な伝道者が伝道していたことが読み取れます。伝道者といえども人間であり、欠点があり、人間臭いところがあります。人間の感情としては、他の伝道者が自分より、成功したり、みんなから認められることはおもしろくないのです。パウロを妬んでいた伝道者がいたのです。パウロの伝道が成功していることを妬んでパウロに負けてなるものかと思って伝道していた伝道者もいたのです。伝道者といえども人間的な思いが強く、パウロが獄中に捕らわれている間に伝道して、人々を増やし、自分の勢力を拡大しようと企てていた人がいたのです。伝道者たちは、妬み、闘争心、党派心、純真でない心、という態度で、キリストを宣べ伝えていたのです。

 よく考えて見ると、この人たちの中に、私たちが、普通の意味で考えるような、福音を宣べ伝えるのにふさわしい人は、一人もいないのです。皆さんは伝道者としてふさわしい人はどのような人か、それぞれ判断基準をもっていると思います。その判断基準はかなり、高いのではないか、と思います。牧師に対して、信徒は多くの要求を持っています。

 私は東京神学大学の学生の時に中村町教会に3年間おりました。その時に高崎毅牧師が急逝して、次の牧師を招くために懇談会をしました。阿佐ヶ谷東教会から別れて、60名の信徒が高崎牧師と共に、中村町教会に移り、転籍したという事情があり、高崎牧師は、東京神学大学の学長を務め、キリスト教教育の専門家であり、優れた牧師でしたので、高崎牧師を慕ってついてきた人たちばかりでしたから、次に招聘する牧師について「高崎牧師のような人が良い」という意見が出されました。その意見に対して長老が「高崎牧師と同じ人はいないので、無理なことは言わないでください」と答えたのです。また私には思いもよらないことでしたが「イエス様のような人が良い」と言う意見がありました。私は、教会は牧師のファンクラブでないのに、と思いました。イエス様のような人が良い、という意見に対して別の長老が「人間の願いを満たすために教会はあるわけではないので、それは求めすぎです」と答えたのです。その後、一人の青年が「迎える牧師の条件は、福音を語る牧師に尽きる」と言ったことを覚えています。落ち度がなく、欠点がなく、語る言葉がいつも人々を感動させ、人柄も良い、そのような完璧な人はいないでしょう。皆さんも、長所を持ちながら、短所をもっていたり、失敗をしたり、人の悪口を言ったり、世俗的な話をしたり、落ち度があるのです。どこを見ても、欠点がない人はいないのです。自分のことばかり考えて自分の思い通りにしたい、自分の勢力を拡大しようとする、成功していると妬んだり、幸福な人を見ていると憎らしくなることもあるのです。
 
 伝道するのにふさわしい人間は一人もいないのです。この手紙を書いたパウロに対して、非難がありました。それは、パウロの手紙は重々しいけれども、話を聞くとつまらない、と言われていたのです。私も経験したことがありますが、本を読んで、とても優れた文章を書く作家がいて、その作家の講演を聴きたいと思い、実際に聞いたところ、話は面白くなかったということがあります。文章が良くても、実際に聞いた話はつまらない人もいるのです。

一番、大切なことは、神がこの伝道者をお用いになると言うことなのです。どの人も欠陥だらけで、問題があり、マイナスがあるのです。しかし、神がこの伝道者を重んじているし、神がお用いになると言う信仰なのです。この伝道者は神が派遣した伝道者だ、と言う信仰をもって一緒に協力して伝道をするのです。

 神のために働くための条件は、何でしょうか。それは神に召されたということなのです。神に召された、その確信があるか、どうかです。

 伝道者になるために学びが必要ですから、神学校に入学する志をもって、入学試験を受けます。学科試験も大切ですが、入学を許可する決め手は教授会の面接なのです。まず聞かれるのは、伝道者になる神からの召しを受けて、伝道者として生きる決心をしているか、を聞くのです。

 そして次に神から召しを受けたことを確認する場面として教団の補教師試験がありますが、その時にも伝道者として召しを受けたか、どうか検定委員から聞かれます。そして教団の正教師試験を受ける時にも神から召しを受けているか、正教師試験の面接で、検定委員から聞かれるのです。そして教会から招聘を受ける時にも、牧師は祈って、神が自分を召して、この教会に神が派遣したと確信して、招聘に応じるのです。神からの召しを何度も確認して、牧師となるのです。何度も、何度も、神からの召しを確認して、教会のために献身し、伝道の働きを担うのです。
 
 神のために働くための条件は、何でしょうか。伝道者には人格的に立派で欠点がない人ではなくて、キリストによって罪が赦された人なのです。自分のような罪深い者が、罪が赦され、その恵みを受けた者が、この恵みを伝えたいと願っている人なのです。むしろ、自分が伝えたいということではなくて、神によって伝道させられているのです。

 私が伝道者として召されたきっかけは、高校2年生の、ある日曜日の礼拝で鹿沼教会の高崎隆牧師が病を押して説教している姿に心動かされたのです。今から思うと、高崎牧師が自分で説教しているというよりも、説教させられている、ということなのです。神の働きによって伝道させられているのです。

 私たちは人間的な動機で伝道しているのは好ましくないと考えます。伝道するのに動機が不純なのは良くないと私たちは考えます。立派な態度で伝道する、愛の動機で伝道することが良いことだ、と考えるのです。

 フィリピの信徒への手紙1章15−17節「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」

 この言葉を読むと、「妬みや争いの念」「自分の利益を求めて」「不純な動機から」伝道することはいけないことで、「善意で」「愛の動機から」キリストを伝えなさい、と読むことができます。確かに自分のことを考えて、自分の利益を考えて伝道するということはいけないことでしょう。

 特にこの「善意」と言う言葉は、とても重要です。この「善意」という言葉は「みこころに適う」という言葉です。「神に喜ばれる」という意味です。「神のみこころ」に適い、神に喜ばれる、そのような心をもって伝えるということです。「善意で」、つまり、「神のみこころに従って」キリストを伝えるのです。 具体的には、説教がキリストを紹介し、キリストの姿を鮮やかに伝えていることなのです。そして大切なことは、キリストを伝える説教が神のみこころに適っているか、どうかなのです。1月末に富士山の近くにある裾野の、カトリック・聖マリア修道院にある、黙想の家で説教塾リトリ−トに出席したのですが、そこで、とても貴重な話を聞きました。説教の作成が終わったら、この説教で説教する、それで日曜日の講壇に立つ、というのではない、と言うのです。説教の作成が終わったら、神に祈ることをしなさい、この説教で、神は良いと思われますか、と問うのだ、神のみこころを問うのだ、と言うのです。この説教を神は喜んで受け容れてくれるだろうか、と問うのだ、と言うのです。そして礼拝説教の第一の聴き手は神であることをいつも自覚していなさいという話でした。

 伝道する時に「愛の動機から」キリストを伝えると書かれています。この手紙でパウロは、私たちにとって愛が最も重要であることを語っています。「愛」と言う言葉は、たびたび出て来ます。この手紙1章8節に「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で」とあり、1章9節に「あなたがたの愛がますます豊かになり」とあります。皆さんはお聞きになったことがあるでしょう。この「愛」という言葉は「アガペ」と言う言葉です。自分にとって愛する価値がある時に愛する愛、それは「エロス」と言う言葉です。自分が得になる、利益がある時に愛する「エロス」と言うのと、異なって、相手のために自分が損をしても相手のために犠牲をささげる愛、それが「アガペ」なのです。ギリシャ語では、親が子どもに親しい思いをもって愛情を注ぐ、その言葉を「ストロゲ−」と言います。「愛着」と言う言葉に相当します。しかし、ここでは「アガペ」なのです。それはイエス・キリストが最も高い存在、神の存在であるのに、天より降り、人となってくださった、私たちの罪を贖うために、十字架の犠牲をささげてくださったのです。相手のために、自分の時間をささげ、自分のことを考えずに、ただ相手のために自分を犠牲にする、そのようなキリストの愛を私たちは知っています。このキリストが私を愛してくださっている、その愛をもって伝えると言うことです。

 最近の説教学では、説教を作成する時に、説教を聞いている聴衆を入れながら黙想をすることが重要であると書いてあります。聴き手についての黙想をすることなのです。説教の聴き手に説教者が近づき、よく理解していく、その中で、説教の言葉が相手に近い言葉となり、言葉が届くのです。それは、神がイエス・キリストによって私たちに近づいてくださったことにあります。神がキリストによって私たちに近づき、私たちと一つとなってくださるのです。イエス・キリストは罪人ではありませんが、私たちの罪を御自身の中に受け容れ、自分のものとしてくださり、私たちと一つとなってくださるのです。わたしたちの生活の中に入り込んでくださり、私たちの重荷を引き受けてくださるのです。イエス・キリスト御自身が御自身の身体を運んで、私たちに近づき、私たちの罪を御自身のものとして重荷を負ってくださるのです。これが愛なのです。「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛をしりました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネの手紙一 3章16節)

 1章18節には「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」この言葉を読んで、私たちはとても不思議に思うのです。妬みであれ、不純な動機であれ、逆に愛の動機であれ、とにかくキリストが告げ知らされているのだから、それで良いというのです。人間的な思いで伝道している伝道者もいるけれども、とにかく、キリストが告げ知らされているならば、パウロは喜んでいると語っているのです。パウロは周りの人がどのような動きをしていても、周りの人々の動きに気を留めたり、振り回されたりはしていません。パウロの伝道の働きを妨害していても、そのような人々の動きに心を動かされないのです。伝道を考える時に、パウロがいつも強く願っているのは、キリストが告げ知らされているか、どうか、です。

 パウロにとって、価値があるのはキリストだけなのです。キリストが伝えられることだけに関心をもっているのです。この手紙は獄中から出された手紙です。パウロは自分のこの地上でのいのちは終わると考えておりました。自分が死ぬ日は近い、と思っていたのです。マケドニアまでパウロは伝道したのですが、もっと多くの人々に福音を伝えたい、と願っていたのです。

 私たちが説教を聞いて、どのような説教が説教の目的を果たしたのか、と言うことです。説教の目的は、聴き手の抱えている問題に触れ、満足させるためにあるのではないのです。説教の本当の目的は、説教を聞いて、自分の罪が曝かれ、心からの悔い改めが起こり、キリストを信じるようになることなのです。説教を聞いて、自分が生きるために参考になった、エネルギーをもらった、元気をもらった、そのような自分が求める、自分本位な要求のために説教がなされるのではなくて、キリストを信じる、信仰を与えられることが、説教の目的なのです。キリストが説教され、そのキリストを説教することによって人々の間でキリストを信じる信仰が起これば良いのです。

 18節には「だが、なんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから」と語られています。どのような動機であっても、キリストが告げ知らされているならば良い、と言うのです。  

 「伝える」「告げ知らせる」ということは、伝えた言葉を理解した、よく分かった、と言うことで終わることではありません。キリスト教大学のキリスト教概論であれば、学生がキリスト教の内容を理解し、聖書の言葉を分かれば、それを良いのですが、キリストを伝えると言うことは、相手が理解しただけでは伝道にはならないのです。キリストを伝えて、その良い知らせが自分に出来事として起こるのでなければ、伝道にはならないのです。
 
 私が和歌山の田辺教会におりました時に、熊野古道という熊野本宮という古い神社に行く途中に栗栖川という村の家で、毎週、日曜日の夜に集会をしていました。5、6人の小さな集会でした。私は一ヶ月に一度、聖書の話をしていました。私が赴任した年のクリスマスに二人の女性が洗礼を受けました。この女性たちは、聖書の話を聞いて、よい話を聞いた、で終わったのでなくて、聖書の言葉に反応したのです。自分はこのままではいけない、キリストを中心とした生活をしていこう、という志を与えられたのだろう、と思います。自分の中に、キリストを信じるという出来事が起こった、起こされたのです。

 愛の心をもってキリストを伝えるのです。伝えるのは、実は人間の力ではありません。どんなに話が上手で、論理的で、説得力があっても、それで信仰が起こるか、と言うとそうではないのです。訥弁であっても、話が上手でなくても、キリストの福音が伝わるのです。それは聖霊が人の心の扉を開いてくださり、説教の言葉がその人の中で出来事となったのです。先ほどの和歌山で洗礼者が与えられたのは、説教者の実力、話がうまい、ということではなくて、まさに神の聖霊の働きによる、と言うことができます。
 
 私たちは神に愛された者として愛に生き、キリストの愛を伝えるのです。イエス・キリストは、神をないがしろにして神を忘れ、自分のために生活している私たちを罰することなく、自ら罪の犠牲をささげて、罪を赦し、受け入れてくださったのです。このキリストの愛を信じて、愛に生かされ、この神の愛をもって語る時に、その説教の言葉は相手の心により深く届くのではないか。キリストを伝える者が、キリストの愛をもって語るのです。

20180225  受難節第二主日礼拝説教  「神の息吹」  増田将平牧師(青山教会)


(創世記2章7−8節、ヨハネによる福音書20章19−23節)
 
 敬愛する牛込払方町教会の皆様に、青山教会を代表して、心から祝福の挨拶を述べさせていただきます。私は一年ぶりにこの礼拝で皆様と一緒に礼拝を祝うことができますこと、初めてお会いする方もいらっしゃいますし、私がかつて青年だったときに、共に学び、共に祈った仲間たちともお会いできてうれしく思います。今朝は二人の長老と共にこの教会に参りました。私は、少し早く到着し、CSの生徒とお会いして、 先生方ともお会いすることができました。

 私どもにとって喜びでありましたことは、昨年のクリスマスに、サマーキャンプでご一緒した一人の青年がこの教会で洗礼を受けたということで、この姉妹にお会いすることができました。非常にうれしいことでした。

 私は昨年、この教会学校の生徒の一人と、学校でお会いできました。青山学院の高校で聖書を教えていますが、来年も長老会から遣わされて教えることになっています。高校一年に、この教会の会員の子弟が在籍しています。私は彼のクラスを担当しませんでしたが、彼の学年は10組で、端っこの方に会いに行きました。ロッカーで片付けしている男の子がいました。「М君っている?」と訊きましたら、「ボクですけど・・」。私よりも遥かに背が高く、ほんとうにこうやって教会で、若者は育っていくのだな、大きくなっていくのだな、と実感しました。青山学院の一年生は、初めて教会に、初めて聖書に触れる生徒が半分おります。私は、創世記の天地創造から共に学びました。
 
 私は神学生のころ、6年間毎週祈祷会で教会に通っていましたが、その聖書研究で学んだことが今でも役に立っています。生徒たちは幼稚園から青山学院につながっている子、初めて入学した子、それぞれ、私が思うよりも熱心に授業に耳を傾けてくれます。先ほどご一緒に告白した使徒信条の「我は、天地の造り主、全能の父なる神を信じ」ということを、創世記から教えるわけです。神様が私たちを造られたこと、私どもはたまたまこの地上に生を受けたのではないこと。しかも、聖書では、神様は人間をどのように造られたか、記しています。先ほどご一緒に聴いたところです。

 主なる神は、土の塵で、人を形造った。この表現はかなり原始的な感じがしますが、一方で、私どもはこの記述に、本当にそうだ、という実感を持つのではないでしょうか。ときが来れば誰もが例外なく、若者も歳を重ねた者も、滅びゆく存在です。教会の兄弟姉妹の葬儀をします。最後に火葬場に行きます。火葬前にこういう祈りがあります。「御許に召されたこの兄弟、この姉妹の亡骸を、御手に委ねます。土を土に、塵を塵にかえします。」そして、骨を拾いながら思うのです。本当に人の身体というのは塵だ。これは他人事ではなくて、まさに自分のことです。すべての人に当てはまることです。そこだけ見れば、人間も、他の犬や猫や、その他の生き物と全く同じだと言うこともできるでしょう。けれども創世記はさらにこのように語ります。

 「神は土の塵で形造られた人の身体に、その鼻に、生命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」神さまが、何か大きな工場を建てて、大量生産で次から次へと人間を作るのではなくて、一人ひとり、その鼻に息を吹き入れ、そうやって人はこの世に生を受ける。ある人はこう言っています。「生命の息を、土の人形に吹き込む神の姿を想像してみてください。一人ひとりが神に抱かれて、神の愛を受けて誕生したというのです。」

 私は、神に抱かれて誕生した。このことを信じる者は、もはや決して、私はつまらない人間なのだ、などとは思わないでしょう。神の息吹を吹き込まれて生きる者となった、これは創世記では人間だけに言われていることです。人間と他の動物との違いはここにあります。神と向かい合い、神の息吹を吸い込んで生きる、それが私どもです。こうして生きる者となった。

 この言葉は、単に肉体が生きている、心臓が動いているという意味だけではありません。ミケランジェロという画家が、礼拝堂に、天地創造の場面を描いています。神様が男性として擬人化されて、アダムと向き合っています。すべてが向き合っています。神様の顔とアダムの顔が向き合っています。視線が合っている。互いに指をさし伸べています。体の動きまで相対しています。そのようにして、私どもは神と向き合って生きる者として造られている、と聖書は語るのです。

 ところが、今朝もう一か所聴いた新約聖書の福音書には、心臓は元気でしょう、肉体的には生きている、ところが死んでしまっているような男たちの姿が描かれています。ときは日曜日の夕べです。日曜日の夕方というのだから、夕礼拝かと思うとそうでもない。この様子はずいぶん異様です。この家の中、すべての鍵が施錠されていました。玄関、窓、窓といってもガラスは無いでしょうから、部屋の中は真っ暗でした。ローソク一本位は灯していたかも知れません。締め切った暗い部屋の中です。男たちが集まっています。主イエスの10人の弟子たちです。

 その日、その日とは、主イエスが墓の中から復活し、婦人たちとまず出会い、婦人たちに私の兄弟たちのところに行きなさいと言われた、その最初のイースターの夕方です。何故、彼らは鍵という鍵、扉という扉をしめ切っていたかというと、ユダヤ人を恐れていたからでした。主イエスを十字架につけた当事者です。身の危険を感じていたのでしょう。でも、最大の理由は、主イエスの復活を心から信じることができなかったからでしょう。婦人たちを通して語られた主イエスの言葉を、弟子たちは信じることができませんでした。主イエスを信じることができないし、お互いを信じることもできません。もっと言えば、自分を信じることもできません。ここに集まっている10人は皆、主イエスを裏切った弟子でした。

 ある説教者は、この様子を、アダムとエヴァに重ねて思い起こしています。アダムとエヴァには食べてはいけない、食べると必ず死ぬと言われている木の実が一つだけありました。二人はこの木の実を食べます。このシーンが表しているのは、何が善で、何が悪かを、自分で判断する生き方です。見方を変えれば、神様と向き合い、神様の言葉に聴き、神様と付き合うことは一切やめて、すべてを自分中心に生きる、神のようになる生き方です。あの木の実を食べたということは、二人はそういう生き方を始めたということです。

 ところが、この木の実を食べた後、二人は神様が近づいてくると、どうしたでしょう。隠れるのです。何故、隠れたのか。小さい子供も、親に叱られるような悪さをすると、親が帰ってくると隠れるのと同じです。恐れたのです。神様に背いたことを知っているからです。神様に裁かれるということを知っているから隠れたのです。

 ちょうど、ここに集まっている10人の男たちもそうです。一緒に集まっているようですが、互いの間の心は冷え切って、恐れによってばらばらに離れています。まさに死んでしまっている状態です。神様との関りにおいて、自分との関りにおいて、他者との関りにおいて、瑞々しい命を失っているのです。これは、その後示される言葉で言うと、「平和がない状態」でした。彼らが鍵をかけていたのは、家の扉だけではなくて、彼らの心の扉を閉ざしていたのです。一緒に集まっているのに、互いの心が閉ざされているというわけです。

 先ほど私は、弟子たちの恐れの最大の理由は、主イエスの復活を信じられなかったからだと申しました。でも、こういう考え方もあります。弟子たちの中には「もしも本当に主イエスが復活されたとしたら、俺たちはどんな顔をしてイエス様と会うことができるだろうか。」そういう恐れがあったかも知れません。ちょうど、兄を騙して放浪生活を続けたヤコブが、何十年ぶりかで兄エサウに再会するときの様子。殺されるかも知れない、ここでは主イエスは神の子だから、恐れはもっと甚だしい。私どもはユダヤ人を恐れることはありませんから、ちょっと距離を置いてここを読むこともできるでしょう。しかし、どうでしょう。私どもも恐れを抱えてこの礼拝堂に来ることがないでしょうか。家族の中で、弟との間、妻との間、子どもとの間、教会の兄弟姉妹との間、さらに集まっている教会全体が恐れるということがあるのではないでしょうか。

 私たちは1時から青山教会を会場に、長老たちの懇談会を持ちます。伝道をテーマに、語り合います。それぞれの伝道の取り組みを分かち合ういろんなことを考えて祈りを合わせたいと思います。伝道ということを考えると、それぞれの教会に困難があります。私どもの教会ではやはり高齢化の問題、都心にありますから、ずいぶん多くの新来会者が来ます。数えてみると200人の方々が初めて教会に来られます。ところが、それらの方々がどれくらい教会につながっているか、とても厳しい現実です。一人もつながらない。何ができるだろう、私たちにどんな力があるだろう、恐れ、不安を覚えます。青山教会では会堂建築のために献金を募っているところです。まだまだです。かつて私どもは会堂建築ということで、大なり小なり不安や恐れを抱いていました。この会計の規模で、この会員の数でできるのだろうか、何億という総工費をどうやって捻出できるだろうか。そういう様々な恐れを、個々人が、また教会が抱えつつ、私どももここに集まっています。

 その中に、復活された主イエスが立っておられます。しかも、部屋の隅ではなく只中に、真ん中に、中心に、主イエスが来てくださって、こう告げられます。「あなた方に平和があるように。」平和があるようにというのは、これは宣言です。今、あなた方に平和がある。平和というのは、誰かと誰か、または国と国でもよい、関係を表す言葉です。やはりここではまず第一に、弟子たちとキリストの間のことでしょう。あなたと私の間には平和がある、キリスト自ら平和宣言をなさる。しかも口先だけではなくて、平和の根拠を示されました。

 キリストの手と脇腹を、しかも傷跡を示されました。あなた方はこれまで、どれだけ私と向き合って歩んで来たのか、父なる神様と敵対して、背を向けて歩んで来たのではないのか、まさに平和を失っていたのではないか、とその傷は語ります。でも、そのような私どものために、主イエスがこの傷を受けてくださった。そのための傷、この傷を持った私やあなた方の前に、中心にいて、平和があると宣言される。ですからこれは、弟子たちを断罪するためではなく、主イエスの平和の宣言と傷跡は、あなた方は赦されている、あなた方は神様から受け入れられている。

 実は、この平和という言葉は、主イエスがとても大切にされた言葉でした。十字架におかかりになる前に弟子たちに別れの説教をされます。ずいぶん長い説教が記されています。その中で、こういう言葉があります。

 「わたしは、平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。怯えるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところへ戻ってくる。』と言ったのをあなたがたは聞いた。」(ヨハネ14章27節以下)もう一か所、説教の結び、最後の言葉はこうです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16章33節)

 この言葉が、ここで実現しています。復活の主イエスと出会い、罪を赦され、喜ぶ弟子たち。ここで終わってもよさそうなのですが、さらに主イエスはこうおっしゃいます。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 主なる神が、主イエスを遣わしたということと、それで終わらなくて、今度は主イエスが私どもを遣わす、ということが一つになっています。父なる神が、主イエスを遣わされたのは、私どもを遣わすためだった、と言ってもいいでしょう。主イエスは、これまで父なる神から託されて行ったことを、今度は私たち教会が行うというのです。これは人間の力では決してできないことですから、主イエスは息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と。この息吹とは聖霊を表します。弟子たちに聖霊が注がれているのです。

 私どもはペンテコステを思い起こしますが、聖霊降臨に先立って、主イエスが弟子たちに聖霊を注がれたのです。私どもは先ほどの創世記の、神が土から造られた人間に息を吹き込まれたことを思い起こしていいでしょう。ここでは、子なる神であるキリストが、息を吹き込んでいます。新しい創造と言ってもいいでしょう。しかも、主イエスはここで、個人に息を吹き込んでいないのです。あなたがた、弟子たちに息を吹き込んでいる。この時、居ない弟子の一人はトマスです。トマスの話はこのあと続きます。でも、主イエスはトマス個人には「君はあの時にいなかったから、個別に息を吹きかけよう」とはおっしゃっていない。主イエスが「二人または三人が、私の名によって集まるところには、私もその中にいる。」と言われた通りです。

 この聖霊は、神ご自身の霊です。どうしてご自身の霊を私どもに吹き込むことができるのでしょうか。いま、レントに入っています。ヨハネ受難曲を昨日聞きました。主イエスの十字架の場面に、こういう記述があります。最後のところ、「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(19章30節)この、息を引き取られたという言葉は、日本語として分かりやすい言葉ですが、もう一つの訳は、「息を手渡した」という訳です。「イエスは、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を手渡した。」誰に手渡したのでしょう。父なる神に、息を手渡し、そして死なれたのです。その方が復活し、今度は主イエスが私ども教会に、ご自身の息を手渡してくださいます。
そしてこの話は、このように進みます。

 「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せばその罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ赦されないまま残る。」

 なぜ赦しの話になるのでしょう。これは、赦しのないところには、真実の平和はないからです。自分の中でも、家族の間においても。でも、この罪の赦しというのは、教会が好き勝手に、あの人は有罪、無罪とすることではありません。罪の赦しは神がなさることです。自分にその力はありません。弟子たちも、私どもも、神様の前では罪人です。けれど、神はそのような赦された罪人である私どもを用いてくださって、罪の赦しを宣言なさいます。

 先ほど、交読詩編でこういう言葉がありました。「わたしは心を尽くして主に感謝をささげる」。この人、一人ではなく、「正しい人々の集い、会衆の中で。」教会のことです。正しい人々というのは、キリストに罪を赦していただいて、神から正しいと見ていただいている人々です。そういう意味で、私どもです。そういう私どもが、罪の赦しを与えるというわけですから、これには聖霊の助けがどうしても必要です。「聖霊を受けよ」という命令の言葉。「私は結構です」と言うこともできるでしょう。「聖霊を受けよ」、というのは聖餐において「このパンを取りなさい」、という言葉と同じです。ちょうど主イエスの身体として差し出されたパンを受け取るように、私どもが聖霊を受け取るのです。私どもが手を差し出して、「ください」、「いただきます」、そうすれば誰でも聖霊を受けることができるのです。

 このような平和の歩みが礼拝から始まるのです。平和という言葉は、平安と前の聖書で訳されていました。この主の初めの日、日曜日は安息日とも呼ばれます。安心して、息をつくと書きます。私どもの教会の修養会であるとき、自分にとって礼拝とは、というテーマでグループで話をしました。何人かの方がこんなことを言いました。「毎週礼拝に来ているが、いろんな事情で礼拝に来ない週があると、何か足りない、何か落ち着かない、平和を失っている自分がいる」、とおっしゃいました。毎週礼拝に来ておられる方もいらっしゃるでしょうが、礼拝に出られないときのことを思い出してください。礼拝にきて、神様の息吹を十分に吸い込んでいない、受けていない自分に気付いています。一方で、神様の息吹を吸い込むことを忘れてしまう。気付かずにいることもあるかも知れません。ちょうど締め切った部屋の中で、ストーブを付けていると段々に酸欠になります。中にいる人は気付かない。外から入ってくると、空気が足りないのではないか、と窓を開ける。

 ここでは、魂の話ですが、自分の魂の状態に気付かないということが起こります。ある人はこう言っています。「魂とは、神の息吹として吸い込む生命。そして、やがて私から取り去られてしまう生命のことです。」私ども、魂というのは、神様との関りの中で生かされて、生命を吹き込まれ、やがて生命を神様に引き渡す。そこで聖書の言葉を引用します。「自分の生命を保ちたいと思う者は、それを失う。しかし、私のために自分の生命を失う者は、それを保つ。」ちょうどこの弟子たちは何とか、自分で、自分の力で自分の生命を確保しようとしていました。そして、自分の心を神様に対して、互いに閉ざしていました。でも、その結果、生命を失うのであって、皮肉なことです。そうして「窒息する」、そういうことが起こるのです。息のことを考えてもそうです。肺の中にある息を自分の中でとどめようと思ったら、吸い込むことができませんから窒息します。でも自分の息を手放し、吐き出し、新しい息を吸う余地を設ける。つまり、教会に来て自分の罪を神様に告白し、新しい息吹を吹き込んでもらう。私たちはもう一回、安らかな息を吸うことができるようになります。だから、礼拝がとても大事なのです。

 この後、トマスが出てくるところを読みますと、弟子たちはまた鍵をかけるのです。しかも全ての戸に鍵をかけるのです。これも私どもと似てはいないでしょうか。それでも主イエスは、鍵をかけている者たちの中に立ち、「あなたがたに平和がある」とおっしゃっています。

 キリストによって罪を赦され、聖霊の息吹を吹き込まれて新しく生かされている私どもが、今度はその罪の赦しを、生かされる喜びを語る者となりましょう。ちょうど復活の主イエスに出会った者たちと同じように。たとえば、婦人たちは、私たちは主を見ました、と弟子たちに伝えます。ルカによる福音書では、エマオに向かう二人が主イエスに出会って、エルサレムに引き返してそのことを伝えます。そうすると、私どもが平和の使者として遣わされて行くということでしょう。
「罪の赦しを告げる」というのは、どういうことになるのでしょうか。

 それは、ここに罪の赦しがある、ここに来ればあなたは赦される、ここに来てキリストの赦しを受け容れたら誰でも赦される。けれども、頑なに自分の部屋に閉じこもっていたら、あなたの罪はそのまま残るのだ。だから一緒に教会に来よう、一緒に神様を礼拝しよう、そういうことではないでしょうか。

 こういう言葉を見つけました。あるドイツの神学者の話ですが、「私どもは罪を赦された者として、生涯に亘って、キリストの赦しによって教会で生かされて行きます。そして、お互いがお互いの罪のために祈ることができます。肩を並べて、どうぞ神様、この人の罪を赦してください、と教会の兄弟姉妹のために祈ることができます。必要ならば、自分も、信仰の仲間に自分の罪を、過ちを告げることもできます。それを聞いた人は、誰かにその秘密を告げるのではありません。ともに祈るのです。その祈りは必ず聞き届けられます。だから、罪の赦しは教会の群れがある限り、どこででも起こります。教会に連なる一人が、なお罪を犯し続けるお互いのために、心を開き、その悩みを受け止め、祈りあう、そして「キリストの平和を受け容れなさい、私もそうだし、あなたもそうなのよ」と言って互いに平和を告げ合う、これはまさに、主イエスが、教会の中における罪について語っている先ほどの言葉のことです。「二人、三人がわたしの名によって集まるところには」とのみ言葉が意味するのはこのことです。この安息を知らない人が多くいます。私どもは告げるのです。「ここに平和がある。ここに安息があるよ。」礼拝に来られない方々がいますし、トマスのように教会から離れてしまっている人もいるでしょう。そういう人たちのためにも、私どもは遣わされるのです。別に、海外の宣教師になるということではありません。祝福を受けて礼拝から遣わされていきます。

 その私どもを通して、あの主イエスの祈りが実現するのです。

 「主よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも、わたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世はあなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」この主イエスの祈りのためにこそ、皆さんはこの教会に連なる者とされているのです。

 お祈りをしましょう。

 教会の頭、主イエス・キリストの父なる御神。

 私どもは、まさにあの弟子たちのようです。恐れと不安を抱えています。人の目には知られず、しかし、密かに自分で自分を確保しよう、自分で自分を立てて行こうと企て、そして敗れ、疲れを覚えています。

 それなのに、常に私どもの只中に、あなたは臨んでくださっています。あなたに向けて心を開きます。あなたの息吹で、私どもを新しくしてください。臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊で、私どものこの教会を満たしてください。そして、私どもを遣わし、用いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン

20180218  受難節第一主日礼拝説教 「福音の前進に役立つように」  山ノ下恭二


(詩編46編1−12節、フィリピの信徒への手紙1章12−14節)
 
 2月12日(月)柿ノ木坂教会で行われた東京改革長老教会協議会長老研修会で、中島耕二と言う、新栄教会の長老で、明治学院大学の教師である人とお会いしました。この人は、明治初期のアメリカ長老教会の宣教師の伝道について研究している方です。新栄教会というのは、日本で二番目に古い教会で、明治5年の創立ですが、この教会の長老であった小川義綏が牛込に出張伝道に来て、その後、小川義綏が牧師になって赴任し、その当時は、日本基督一致教会牛込教会と言っていましたが、現在の牛込払方町教会が創立されたのです。

 小川義綏牧師が牛込払方町教会の初代の牧師です。この小川義綏に洗礼を授けたのがアメリカ長老教会のタムソン宣教師です。中島耕二長老の話では、タムソン宣教師の書簡集を今年の夏に出版するためにその作業をしているとのことです。小川義綏は日本語教師として宣教師たちに雇われ、横浜のヘボンの診療所で行われていた、キリスト教礼拝に参加して宣教師たちの礼拝説教を聞き、キリスト教の教理を学び、信仰が与えられたのです。
 
 日本が開国したので、アメリカから宣教師が福音を伝えるために次々に来日し、横浜の診療所で礼拝を始めたのです。宣教師たちは礼拝で一所懸命に福音を伝えていったのです。ヘボン宣教師の診療所での僅かな人数の礼拝、そこで語られた福音がこれからどのように広がっていくのか、全くわからなかったけれども、福音を伝えて行く中で、日本語教師の小川義綏が、洗礼を受けたいと申し出たのです。小川義綏は、タムソン宣教師から日本ではキリスト教はまだ禁止された宗教であり、もし洗礼をうけたら牢屋に入り、いのちを保証することができないと警告を受け、しばらく教理を学んだ後、明治2年にタムソン宣教師から洗礼を受けたのです。
 
 宣教師が日本に来てすぐに直面した問題がありました。この当時、キリスト教は禁教で、横浜の、外国人居留地の中でしか、キリスト教の礼拝や集会をすることが許されていなかったのです。宣教師たちが住んでいたところでしか、キリスト教の礼拝と集会をすることができなかったのです。狭い区域でしか、伝道することができない、大きな制約がありました。従って、このところから外に出て、日本各地で福音を伝えたいと願っていたのです。

 もう一つ大きな制約、大きな壁がありました。それは言葉の壁です。宣教師が、日本に来て、しなければならないことは日本語を習得することです。日本語ができなければ、説教も会話もできないのですし、伝道にはなりません。そこで日本語教師として小川義綏を雇い、小川義綏がタムソン宣教師に日本語を教えて、少しずつ、日本語ができるようになったのです。宣教師は、日本語がもっと上手になってキリストの福音を伝えたいと強く願っていたことでしょう。自分の日本語が相手にうまく伝わっていないと思っていたので、もっと上手に話すことができないか、と思っていたに違いないのです。現在の日本にいるアメリカ人の宣教師と話すことがありますが、よく聞いていないと相手が何を言っているのか分からないことが実際にあります。その経験から、この時代に宣教師がたどたどしい日本語で説教して、聞いている日本人たちは分かったのだろうか、と思います。

 しかし、不利な条件の中で、宣教師が語る、福音の言葉が日本人の心に伝わり、届いたのです。そして説教を聞いた小川義綏が洗礼を受ける決心をするのです。このようなことが起こることは宣教師にとって予想外のことであったに違いないのです。小川義綏が洗礼を受けたことに宣教師たちは、これは神の聖霊の働きであると信じて、神をほめたたえたのです。

 私たちは様々な制約があり、不利な条件の中で、教会生活をしています。教会との距離がもっと近ければ、頻繁に教会に行けるのに、教会が駅から近くにあれば良いのに、自分にもっと時間があれば、教会の伝道や奉仕ができるのに、と、制約がある、不足していると思うのです。しかし、そのことが教会生活や伝道の妨げになっているとは言えないのです。妨げになっていることが、むしろ教会生活を意味あるものとなり、伝道に役に立っているのです。

 本日の礼拝でフィリピの信徒への手紙1章12−14節を読みました。このフィリピの信徒への手紙はパウロがロ−マの牢獄の中から書き送ったものです。パウロは伝道の途中で捕らえられ、ロ−マの牢獄に拘束されて自由を奪われていました。このことはパウロにとって最悪の事態です。パウロはどこにでも出て行って伝道したいと願っていました。ロ−マの信徒への手紙で、パウロはイスパニア(スペイン)まで行って、キリストの福音を伝えたいと語っています。実際はマケドニアまでしか伝道することができなかったのですが、そのような伝道の構想を持っていました。ところが牢獄に拘束されて、それができないのです。なによりも行動が制限されています。それは神の言葉を宣べ伝えることができないのです。これは伝道にとってマイナスであるのです。パウロの身に起こったこと、つまり、投獄されたことは、伝道にとって後退をもたらすことです。
 
 ところが、パウロは、1章12節で、全く反対のことを述べています。  「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」「むしろ」と言う言葉は「かえって」「反対に」あるいは、「大方の予想に反して」という意味です。パウロが捕らえられて、牢獄にいる、それは誰が考えても、キリストを知らせると言う点ではマイナスであり、後退です。しかし、そうではないとパウロは言うのです。パウロが牢獄で拘束され、自由がないことは大方の予想に反して、実は伝道、福音宣教にとってマイナスに働いたのではなく、逆に福音が前進していることである、と語るのです。パウロが牢獄で監禁されていることは福音の前進という驚くべき出来事を引き起こしたと、パウロははっきり語っているのです。

 「前進」という言葉は「推し進める」と言う言葉です。「推し進める」と言うと何の妨害もなく順調に前に進んで行くという意味であると考えます。伝道とは福音が語られ、人々が福音を聞いて、受け容れ、悔い改め、洗礼を受ける人が出て来ることです。しかし、実際には伝道は進まないのです。受洗する人が出て来ないのです。人数から見ると、日本の教会の伝道は、衰退に向かっていると言って良いでしょう。そこで失望してしまうのです。
 
 長く、大宮教会で伝道された疋田國磨呂牧師は自分が信仰に入った経過をたびたび話しています。疋田牧師は、石川県の羽咋という町の出身です。青年の頃、自分の人生に失望して自殺しようと思って歩いていた時に目の前に、教会があり、教会の扉を叩いたそうです。この時に応対したのが杉山謙次牧師です。杉山牧師はその時、教会を辞任しようとしていたそうです。伝道が進まないことに苦しんでいたのです。この時、自殺しようとしていた青年と教会を辞任しようと決心していた牧師とが出会ったのです。聖書のみことばを読み、祈って、勇気が与えられ、杉山牧師は教会を辞任することを止め、疋田青年も自殺することを止めて、洗礼を受けることを考えるようになったのでした。そして疋田牧師はその後、伝道者としての召しを受けて、神学校に行くことになります。

 パウロはギリシャの中心都市であるアテネで福音を語りました。使徒言行録17章でアテネのアレオパゴスと言う広場で福音を語りましたが、反応は悪かったのです。17章32節に「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それでパウロはその場を立ち去った。」と記されています。パウロはアテネを去ることになるのです。しかし、神は伝道することを止めません。
 
 「前進」と言う言葉は、順調に前に進んで行くと言う意味合いよりも、様々な障害や妨げがあるにもかかわらず、旅人やあるいは軍隊がそれらの障害を乗り越えて進んでいく、という意味をもった言葉です。「前進」とは、福音を伝道していく、その時に、大きな壁にぶち当たったとしか、思えない中で、それを打ち破って、なお進んで行くと言うのです。様々な障害、妨害があるにもかかわらず、その障害を乗り越えて進んで行くと言う意味なのです。

 パウロは、伝道しようにも獄中に拘束されていて、福音を語ることができないのです。壁に囲まれて自由に語ることはできません。しかし、そのような事態の中で福音そのものがその壁を打ち破ってなお進んで行くのである、と語っているのです。
 
 パウロが語る「福音の前進」の内容は、13節、14節に明らかにされています。パウロは、どこにでも行って福音を伝えたいと願っていました。しかし、牢獄に拘束された時に、福音を伝えることはもうできないと思ったかも知れません。しかし、そうではないと言うのです。人間的に見てもうだめだと思われる状況の中でなお、福音は前進していくのです。「福音の前進」というのは、伝道する者の力量、才能、努力によって推し進められるのではありません。福音そのもの、神の言葉そのものがもっている力によって、周囲の人々、周囲の世界に影響を及ぼしていく、と言うのです。福音を伝えても反応がなく、成果が表れない、そのように挫折したとしか思われない中で、実はそうではないのです。神の言葉、福音そのものがもっている力によって前進していくのです。

 そのことを語っている聖書の言葉があります。神の言葉が語られた限りは、その神の言葉は語られっぱなしで終わることはないのです。神の言葉が語られたならば、その言葉は力をもっていますから、その言葉は相手に届き、その使命を果たすのです。そのように神の言葉は力をもっているのです。

 イザヤ書55章11節(旧約p1153)には「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」と語られています。 

 新約聖書には、テモテへの手紙二 2章9節(新約p392)に語られています。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」

 パウロ自身は囚われの身になって鎖につながれているけれども、神の言葉まで鎖につながれて身動きできなくなるということはないのだ、と言うのです。パウロは、神の言葉がもっている力についてそのように語っています。神の言葉そのものに秘められている力によって、神の言葉は進んでいくのです。神の言葉がそれ自身の内に含んでいる力によって、私たちが壁と考えているものを突き破って進んで行くのです。

「福音の前進」と語っている内容は何でしょうか。二つのことが語られています。一つは、パウロが牢獄に捕らわれているのは、キリストのためであることが兵営全体とその周辺の人々に明らかになった、と言うことです。パウロが拘束されていた牢獄はロ−マの兵隊の駐屯地の中にあり、そこにいる人々に、パウロの投獄の理由はキリストのためである、ということが伝えられていったという事実です。パウロが捕らわれて牢獄に入ることによって、その理由がキリストを伝えたために捕まえられたことを知り、キリストについて知る機会となるのです。パウロが監禁された理由がそのところ全体に広まったことは収穫でした。兵隊たちは、パウロがキリストを伝えたために拘束されたことを知り、監禁されなければならないほど、パウロはキリストを伝えようとした、キリストとはどういう救い主であるか、に関心をもっている人はパウロのところを訪問し、キリストについて尋ねるということも起きたようです。
 
 ある教会の機関誌に載っていましたが、ある教会の婦人が、ある日曜日に教会に出かけて家を出た時に近所の人が「どちらへ」と聞くので、「ちょっとそこまで」と答えたのです。この婦人は「ちょっとそこまで」と答えて、教会に行っていると言わなかったことに良心の呵責を感じ、教会に行っていることを隠すことはいけないことだと思うようになったと言うのです。次の日曜日に、教会に出かける時に、同じ人に出会ったので、自分のほうから「私はキリスト者で教会に通っている」ことを話したのです。日曜日の夕方、その人が尋ねてきて「感じが良いので、そうではないかと思っていた」と話したそうです。この近所の人はまだ教会には来ていないけれども、誘いたいと機関誌に書かれていました。

 伝道ができないと思われる事態が逆に、福音が広まるきっかけになるのです。パウロはガラテヤで伝道して、ガラテヤから別のところに移動しようと計画していた時に、病気になってしまい、ガラテヤに長く留まることになったのです。これは普通、福音が前進する、福音が広まることにはならないと考えます。しかし、パウロは病気に苦しみながらもガラテヤに長く留まることによって、ガラテヤの人々にキリストの良い知らせを語ることができたと語るのです。ガラテヤの信徒への手紙4章13節(p347)「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。」[フランシスコ会訳では「先に病気がきっかけで、わたしが福音を、あなたがたに伝えたことをみなさんはご存じです。」]病気になることは福音を伝えることにはマイナスであると考えます。しかし、そうではないのです。私が伝道者になるきっかけは、説教者が病気を押して福音を語っている姿に心打たれたからです。

 パウロがキリストの福音を伝えようとしたことで捕らわれ、牢獄に拘束された、しかし、それは福音の前進になった、その内容はどのようなことでしょうか。その内容は1章14節に書かれています。このことが二つ目の内容です。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」

 フィリピの教会の信徒たちが、パウロが牢獄に入れられたことで、恐れて信仰を失い、教会から離れた、というのではありません。逆に主にある確信を深められて、恐れることなく、ますます勇敢に神の言葉を語る者になったのです。牢獄にあるパウロが、落ち込んでいるのではなくて、感謝と喜びと希望に満ちた姿は、フィリピの教会の信仰者を励まし、奮い立たせるのです。

 日本の教会、特に地方の教会は人数も財政も困難な教会が多いのです。しかしそこで福音を伝えている教会が多く存在しているのです。昨年、金曜日の祈祷会に来られた婦人はかつて牛込払方町教会会員であって他の教会に移った人ですが、埼玉の小さな教会で奉仕をしていることを知って励まされました。一所懸命に教会を支え、がんばって証ししている信徒がいることを知り、励まされ、がんばろうと思うのです。

 「福音の前進」と言う言葉を聞くと、私たちは伝道することによって、礼拝の人数が増えた、あるいは、洗礼を受ける人が与えられた、ということを考えます。しかし、福音の前進ということは数や量のことを言っているのではないのです。日本に住んでいると職場や学校や地域で、自分がキリスト者であるとはっきり表明することはなかなか難しいのです。しかし、今まで自分がキリスト者で教会に行っていることが言えなかった人がみんなの前で言えるようになった、そのことも「福音の前進」と言って良いのです。今まで忙しくて聖書を読むことも余りなかったけれども、最近、毎日、読めるようになった、このことも「福音の前進」なのです。今まで、自分の考えが正しいと思って、人と接していたけれども、身近な人の話を丁寧に聞いて理解するようになり、その人の気持ちに寄り添うことができるようになった、このことも「福音の前進」なのです。

20180211 礼拝説教  「私たちの喜びと希望」   山ノ下恭二


(イザヤ書35章1−10節、、フィリピの信徒への手紙1章3−11節) 

 私は1976年の3月に東京神学大学大学院を終了して、最初に赴任したのは岡山の蕃山町教会でした。そこで3年間、伝道師として奉仕をしました。岡山を離れて、39年も経過しているのですが、現在も蕃山町教会から「地塩」という教会の会報・機関誌が年に4回、送られてきます。この教会の会報には、教会の様子が詳しく記されています。昨年の10月の教会報には、ハンセン病の療養所にある光明園家族教会へ、婦人会の訪問がされていることが記されていました。私が岡山におりました時に毎年、行われていた婦人会の訪問が今も続いていることを知りました。私がこの教会におりました時に活躍していた会員が「聖句との出会い」というコラムに書いていて、元気に教会生活をしていることを知ってとてもうれしく思いました。最初に赴任した伝道地と言うのは、いつまでも心に残っていて、なつかしい思いをもっているのです。

 本日の礼拝でフィリピの信徒への手紙1章3−11節を読みました。このところを読むとパウロがフィリピの教会の人に対して熱い思いをもっていることがわかります。パウロがフィリピの教会の人々を愛していたことが分かります。フィリピは、パウロがギリシャで初めて伝道をしたところであり、キリストの福音がヨ−ロッパに初めて伝えられたところです。その意味でフィリピの教会はパウロにとって忘れがたい教会であり、いつも心にかけている教会であったのです。この時の様子は使徒言行録16章に詳しく記されています。
 
 パウロはこのフィリピで、ユダヤ人たちが祈るところで、そこに集まった婦人たちに話をしていました。紫布を商う人リディヤという婦人がパウロの話を聞き、この婦人の心を神が開き、そして洗礼を受けることになったのです。このリディアがフィリピで洗礼を受けた初めての人です。しかし、その後、パウロは捕らえられて、牢屋に入れられたのです。ここで、不思議なことが起こり、この牢屋の番人の中から初めて洗礼を受ける人が出たのです。このことはパウロにとって神の導き、働きであることを深く知らされた出来事でありました。神が伝道してくださることを知らされたのです。その意味でこのフィリピは印象の多い、初めての伝道地であったのです。

 この時から少なくても5、6年は経過して、パウロは牢屋の中でこの手紙を書いているのです。パウロはこの手紙の中で、フィリピの教会に挨拶をしています。1章3節には「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」と記されています。パウロはフィリピの教会の人々のことを思い起こす時にいつでもわたしの神に感謝すると語るのです。「わたしの神に感謝し」と訳されていますが、ある翻訳では「わたしとしては、わたしの神に感謝する」と訳しています。「わたしとしては」という言葉があることは特別な意味があるのです。それは、「どんなことがあっても」わたしとしては感謝する、ということです。そしてもう一つの意味があります。それは「どんな時でも」という意味です。
 
 ほんとうの感謝とは、どんな事情の中であってもどんな時でも感謝ができるということです。私たちは感謝できる時と感謝できない時があると思っています。自分に良いことがある時には感謝するけれども、良いことがない時には感謝しないと言うことがありますが、そうではなくて、ここではどのようなことがあっても、どんな時にも感謝しているというのです。
 
 パウロがフィリピの教会の人々に私の神に感謝すると言っており、どのようなことがあっても、いつでも感謝するというのは、伝道者パウロとフィリピの教会との関係が理想的な関係でいつも息がぴったり合っていたと言うわけではないのです。パウロとフィリピの教会の関係は、ひとりの伝道者と教会の人々との関係であり、人と人との関係ですから、互いに様々な事件があったのです。

 不愉快なこともあり、互いに誤解もあり、気持ちが通じない時もあったに違いないのです。私たちは自分の思い通りに相手が反応しなかったり、相手が自分の期待したように相手が答えない時には、不満を持つのです。自分の思い通りに相手が動けば良いと思っている、それがまさしく、罪なのです。互いに不愉快なことがあっても、パウロはフィリピの教会の人々を思い起こすたびに感謝の思いに溢れていたのです。自分に対して、嫌なことをしたから、感謝をしない、そのような人間的な思いにパウロは捕らわれていません。そして自分に良くしてくれたから感謝する、そのような人間的な思いにパウロは捕らわれてはいないのです。

 この手紙の最後の4章にはフィリピの教会の人々にパウロが感謝している言葉が述べられています。フィリピの教会の人たちがパウロのために贈り物をして、パウロの伝道のために助けたことが記されて、パウロは、フィリピの教会の人々にその感謝を表しています。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」(4章15−16節、p366)

 パウロはマケドニア、テサロニケでキリストの福音を伝えている時に、フィリピの人々がパウロの伝道を心に留め、特に窮乏していることを心配して必要なものを届けてくれたと感謝を表しています。しかし、それはパウロに対して、個人的に好意を持っていたから、贈り物をしたというのではないのです。人間のつながりで愛したのではないのです。フィリピの教会の人々は、イエス・キリストが自分たちを愛し、罪を贖ってくださった、その感謝に溢れて、このかけがえのない、大切な福音を伝道している、パウロに贈り物をしたのです。
 
 教会はイエス・キリストによって愛され、贖われていると言う信仰を根拠にして互いに生活しているところです。キリストによる罪の赦しに根拠を置かないと、教会は人間のつながりだけの集団になってしまいます。あの人は好きだ、嫌いだ、気が合う、気が合わない、話しやすい、話しにくい、と言う人間的なレベルで交わりが作られるのです。イエス・キリストが神に対して罪を犯している者を赦して愛して下さる、その愛に生きないならば、互いに愛することはできないのです。好きな人は愛する、嫌いな人は口もきかないでは、この世の中の集団と何ら変わりがないのです。私たちはどうにかして仲良くし、親しくなろうと努力しようとしますけれども、ほんとうは教会はキリストの愛、それは自分に罪を犯した者を赦す愛に生きないならば、教会での愛にはならないのです。キリストの愛によってつながるのが教会です。
 
 フィリピの教会の人々は、神に対する捧げ物として具体的にパウロに物を送っているのです。人間のつながりで個人的にパウロが自分のために良くしてくれたから、物を送っているのではないのです。パウロも教会の人々も高い次元で神の働きを見ています。フィリピの教会の人々は、福音を前進させるために、その福音の伝道をしているパウロを助けたいという一心で捧げ物をしているのです。

 4節には「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」と書かれています。パウロはフィリピの教会の信徒を覚えて祈っています。しかも、喜びをもって祈っている、と語ります。

 パウロは、単に名前を挙げて一人一人、祈っていると言うだけではなく、喜びをもって祈っていると言うのです。この言葉から私は思いました。いったい自分はどのくらい他の人のために祈っているのだろうかと思いました。そして相手の様子を知り、その人を覚えて心から祈ってきただろうか、ととても反省させられました。ある本にこういうことが書いてありました。「人のために祈るということは、本当に人のために祈ったことのない人にとっては、一番易しいことであるかもしれません。あなたのために祈りますといえばいいだけで、別に出かけて行って何かをするわけではないのですから、一番簡単なことと思われます。」私はこの言葉を読んで、祈りと愛とはとても深いつながりがあると思いました。またこのように書いています。「祈るのであったら、相手を愛するということでなければ、真実な祈りとは言えないのです。」
 
 祈りはその人への愛と結びつかないと本当の祈りにはならないのです。私たちは、「祈っています」と言いますが、外交辞令の挨拶程度で済ましてしまうのです。相手のことを愛することがなくてはほんとうに相手のために祈ることにはならないのです。ほんとうに祈ると言うことは、相手を愛することなしにはできないのです。パウロはピリピの教会の人のためにいつも祈っているのです。それは本当にフィリピの人たちを愛しているからです。

 5節に「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」。フィリピの教会の人々が、福音を信じて、キリスト者となった今日まで、福音にあずかっている、そのことが喜びなのです。岡山の蕃山町教会の昨年10月の教会報を読んでいましたら、私が蕃山町教会に赴任して、そぐに東京の武蔵野教会から転入会した婦人の挨拶が掲載されていました。この方は13年前、事情があって千葉の銚子に転居したのですが、昨年、再び岡山に住むことになり、転入会の挨拶をしているのです。この婦人は長い間、福音にあずかって教会生活を継続しているのです。千葉の銚子から目白にある武蔵野教会に通っていたとのことですが、また岡山で教会生活を継続していることを知って、とてもうれしく思いました。

 この「福音にあずかる」の「あずかる」と言う言葉はコイノニアと言う言葉であり、「交わり」と訳されていることが多いのです。この「交わり」と言うのは、人間同士のつき合い、仲良くなるというよりも、使徒信条で告白していますが、聖徒の交わり、聖なるものとの交わり、のことです。礼拝に出席し、説教を聞く、聖餐にあずかる、その意味でコイノニア、「交わり」と言う言葉を使っています。教会の交わりは、人間同士のつきあいが中心ではなく、礼拝の説教や聖餐を中心にした交わりです。

 福音にあずかっている、という言葉はそれだけを言っているのではありません。この説教を準備して教えられたのですが、フィリピの教会の信徒たちが、他の人のために苦しむという意味で、「福音にあずかっている」とパウロは語るのです。この手紙の4章14節で「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」とパウロは語っています。フィリピの教会の人たちは自分の生活も苦しいし、キリスト者であるために迫害を受けることもあったに違いないのです。しかし、パウロの伝道のために、その窮状を思いやって、贈り物をしたのです。そのことを直接に語っています。そのことだけではなくて、フィリピの教会の人たちは他の人のために苦しんできた、しかもその苦しみが自分たちにとって幸いなことだと受け取ることができたのです。

 信じることは自分の生活が楽になること、自分の精神的な負担が少なくなることを考えます。教会の奉仕もそのように考えて、できるだけ負担をなくしたい、負担が多いと不満を口にすることがあります。しかし、フィリピの教会の人たちは、自分が苦しむことを避けたり、自分の重荷が増えることを嫌なことと退けることはなかったのです。他の人のために苦しむことを幸いであると受けとめることができたのです。自分の負担を減らして、他の人をあてにすることはなかったのです。自分の都合や負担を第一に考えることはなかったのです。教会の交わりというのはそういうものです。多くの人々には目には見えない、隠れたところで、誰かが、教会のために負担し、奉仕がなされているのです。そのような苦しみを担うことが喜びなのです。

 フィリピの信徒への手紙1章29節にはこう記されています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」キリストのからだである教会のために苦しむ、それは恵みであるのです。

 最後にもう一つのことがあります。それは1章6節の言葉です。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、確信しています。」神がすべてのことを始められたのです。私たちが信仰生活を始めたのは、自分の意志で聖書を読み、自分が能力があったから聖書が分かるようになったというのではないのです。

 自分が洗礼を受けるようになったのは、偶然でもなく、自分の力によってでもないのです。神がその決心を起こし、導いたからです。神が私たちに信じる心を起こし、神が善い心を起こして善いことをするように導いたのです。神が私たちの中で善い業を始められたのです。

 私たちはそれぞれ、信仰を持つようになったきっかけ、経過は違います。自分が決心して教会に行こうとして教会に行った、聖書を読んでみたいと思って、聖書を読むようになり、感動して、もっと聖書のことを知りたいと思って教会に通うようになった、という人もいます。そうであると、信仰をもつことは自分の決心や決意から自分が始めたことだと思うようになります。しかし、そうではないのです。神が私たちが生まれる前にすでに選び、一人一人に信仰を与えて下さっているのです。

 パウロはフィリピの教会の信徒たちに、これからの将来について語っています。私たちは洗礼を受け、キリスト者となったのですが、キリスト者らしい、道徳的にも間違いのない、立派なキリスト者になっているか、と問われるならば、そうではないと言わざるを得ないのです。信仰においても、生活においても不完全であることは確かです。信仰生活を続けて行けば、言葉と行いとがキリスト者として完成していくか、と言うとそうではないのです。
 
 パウロは「あなたがたの中で、善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を成し遂げてくださると確信しています。」

 「成し遂げる」と言う言葉は「完成する」「完了する」という言葉です。この言葉は主イエス・キリストが十字架の上で語られた、「すべてが成し遂げられた」と言う言葉と同じ言葉です。主イエスは神から私たちの救いのために、神から委託された贖いの業を成し遂げられたのです。主イエスは神のみこころを完成しているのです。

 私たちの信仰の歩みは中途半端です。未完成のまま投げ出してしまうのです。途中で投げ出してしまうのです。しかし、それでお終いか、と言うとそうではないと言うのです。私たちの信仰の歩みは、神が完成してくださる、という確信を語っています。神はご自分で始められたことを、決して中途半端で放棄してしまうことはないのです。

 神は私たちの造り主、創造者であると共に、歴史の主、歴史を完成に導く方なのです。その方が、一人の人間において、信仰の業を始められたならば、決して途中で、予定を変更して、放り投げてしまうことはないのです。救いの完成に至らせないということはないのです。

 私たちの信仰は不完全です。しかし、不完全な私たちを完全なものとして、受け取ってくださるのは、聖霊の働きなのです。聖霊の働きによって、私たちは完成に導かれていくのです。初めから終わりまで、私たちは神の愛の中にあるのです。

20180204 主日礼拝説教 「とらわれないで生きよう」  山ノ下恭二

 
(詩編137編1−8節、フィリピの信徒への手紙1章1−2節)

 1968年に亡くなりましたが、スイスにカール・バルトと言う神学者がおりました。20世紀最大の神学者と言われています。「教会教義学」という日本語で翻訳されたものでも、とても厚い本で、36冊が翻訳されていますし、説教集も18冊、翻訳されています。バルトは日本の神学者、牧師、教会に大きな影響を与えてきました。この人は晩年に、バーゼルの刑務所でよく説教をしていました。1954年から、10年間にバーゼル刑務所で28回、説教しています。

 私は東京神学大学の2年生の時にドイツ語の授業で、1961年8月6日に刑務所でなされた一つの説教、録音レコードを聞きながら、ドイツ語を学んだことがあります。ある時、ある人がバルト先生に、あなたは教会で説教をしないで、なぜ刑務所で説教するのかと質問したところ、バルト先生は「あなたがたは罪人だ、と特別に言わなくても良いから」と答えたというエピソードがあります。

 バーゼルの刑務所でなされた説教集が1950年に刊行されましたが、その説教集の題は「捕らわれた者たちに、解放を」と言う題です。これは刑務所の中にいる人たちにした説教として、この本の題にふさわしいかもしれなません。しかし、この本の題名は、刑務所にいる人たちのためにだけつけられたのではないのです。すべての人が捕らわれているのであって、それに解放を告げるという意味がこの題名に含まれているのです。キリストの福音、キリストの良い知らせは、捕らわれている人々に解放を告げるものなのです。

 確かに刑務所は囚われて生活している場所です。私は教誨師をしているある牧師に案内されて、川越少年刑務所の中に入ったことがあります。ある棟に入ると服役している人たちがその棟に入ると、刑務官が全員が入ったか、どうかを確認して必ず、鍵を掛けました。そして、聖書の話をする部屋に受刑者が入る時には、その前に全員が廊下に並ばされて身体検査を受けて入ってくるのです。私はその光景を見て、捕らわれている受刑者が厳しくそこで管理され、拘束されていることを改めて知ったのです。

 刑務所で暮らすと言うことはこういうことか、と思ったのです。このように、決められた規則に従って暮らしている人たちは、刑期を終えて、刑務所から釈放される日を待ち望んでいるに違いないと思いました。刑期を終えて釈放され、刑務所から出られることは解放になるのですが、それで何もかも自由になるか、あらゆるものから解放されるかと言うとそうでもないのではないか、と思うのです。
 
 バルトは、刑務所の中で、キリストの福音を伝えたのです。それは、本当の意味で解放されるのは、刑務所から出ることによってではなくて、福音を聞いて捕らわれているものから解放されることによってである、と確信して、バーゼルの刑務所でバルトは説教したのです。      

 旧約聖書ではイスラエルの民が長い間、エジプトで奴隷として不自由な生活をして、捕らわれていたところから、神に解放されて、約束の国に帰ったことが書かれています。奴隷であったイスラエルの民、捕らわれた人々が神によって解放されることは、聖書では、救われる、救いの大切な側面であると理解しているのです。

 カール・バルトがその晩年を刑務所で説教したことを最初に話しましたが、あらゆる説教は捕らわれた者たちに対する解放を告げるものです。
 私たちはあらゆるものから自由なのでしょうか。キリスト教のよい知らせ、福音は、自分が自由で何にも捕らわれていないと思っている人々に、実は様々なものに捕らわれていることを知らせ、それから解放されて、捕らわれから自由になる、その救いを与えるのです。           

 本日から、フィリピの信徒への手紙を読んでいきます。この手紙は教会の最初の伝道者パウロが牢獄の中からフィリピの教会に書き送った手紙です。この手紙は、牢獄の中に捕らわれていたパウロがどのような信仰をもっていたのか、そしてパウロが神から受けた福音をどのように語り、明らかにしているか、を知ることができます。

 私たちは、自分の好きなことをして自由な生活をしていると思っているかもしれませんが、本当に自由なのかということです。よく考えてみると私たちがどんなに捕らわれて生活をしているかということを知る必要があります。    
 1章1節に「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」と言う言葉があります。パウロも一緒に伝道したテモテも「キリスト・イエスの僕」です。「僕」と言う言葉は「奴隷」と言う言葉です。解放を告げるはずの聖書の中に、奴隷と言う言葉が使われていることに注目したいのです。           
 教会の最初の伝道者パウロは、牢獄の中にいて、そこから手紙を書いているので、自分は捕らわれていると書いても良さそうですが、自分はキリストの奴隷であるというのです。パウロは牢獄の中にいても、あるいはいなくても自分はキリストの奴隷であると真っ先に言うのです。ここに深い意味があります。

 フィリピと言う町はギリシャの一つの町です。このフィリピにパウロが伝道した初めから牢獄とは深い関わりがあつたのです。使徒言行録16章にはパウロがどのようにフィリピで伝道したか、が書いてあります。その話の大半は、実は牢獄の中で過ごした話です。パウロは、フィリピで伝道し始めて、すぐに捕まえられて、牢獄に入れられたのです。そこで不思議なことが起こったのです。真夜中に大きな地震があり、牢獄の壁が崩れ、捕らえられた人々の鎖もみな取れて、この牢獄を管理していた人はパウロたちが逃げ出したと勘違いして自殺しようとしますが、パウロは自分たちは逃げ出さないから自殺するには及ばないと言って、それがきっかけとなってこの一家が救われるのです。

 このようにフィリピへの信徒への手紙もフィリピの伝道も、牢獄と関係が深いのです。この手紙は、この伝道の時よりもずっと後に、ローマで牢獄に入れられた時に書かれたのですが、パウロはフィリピでの伝道の時ばかりでなく、何度も牢獄に入れられたことは、コリントの信徒への手紙二に書かれています。(コリントの手紙U 11章23節)パウロは自分が牢獄に捕らわれたことを思い起こしつつ、しかし、自分はキリストの奴隷であると紹介しています。

 パウロが伝道した世界はギリシャ文化に影響されていた世界です。当時のギリシャ人は、自分の身体が、自分を束縛するものだと考えていました。自分の魂は、肉体と言う牢獄の中に束縛されて、自由でないと考えていたのです。従って、自由になるのは、悟りを得て、肉体から解放されることであると考えていたのです。確かに若い人にとって、自分の中にある欲望を抑えることで苦しむことがあります。また年老いている者は、病を得て肉体の痛みから解放されたいと願うことがあります。肉体から解放されて魂の自由を得たいと思うのです。その他にもそのように牢獄の中に閉じこめられてどうにもならないことがあるのです。

 私たちは、何ものにもとらわれていない、自由だと思っていますが、そうではないのです。私たちが毎日、生活していく中で煩わしく思うのは、人との関係です。良い関係である時には楽しいですが、親子、夫婦、兄弟、友人が煩わしくなる時があります。時には一人でひっそり過ごしたいということがあります。正月に孫が来て、一緒にいて楽しいけれども、長くお世話をしていると疲れてきて、自由になりたいと思うのです。幼い子どもがいる家庭では、子どもの寝顔を見ているととても安らぐけれども、長く相手をしていると子どもがうるさいので嫌になることがあるのです。煩わしく思うのは家族だけではないのです。信用していた人が自分の悪口を言っていることが聞こえたりすると、相手を信頼できなくなり、疑いの牢獄の中に入っているようなものになるのです。自分の利益に反することに腹を立てて、相手を攻撃して恨んだり、邪魔にする、そのような罪の牢獄に捕らわれることもあるのです。まさに罪の奴隷です。
 
 また、私たちはそれぞれ律法を持っています。「こうあるべきだ」「こうしなければならない」と言う考えに捕らわれることもあります。一つの考えを絶対化してしまい、こうでないとだめだ、と思い込んでいるのです。他の人から見ると、どうでも良いことのように思えることが、本人にとっては、こうでなければいけないと考えているのです。それは自分の考えに捕らわれているのです。哲学者のキルケゴールはある本で「絶対的なことには絶対的に関わり、相対的なことには相対的に関わる」と書いていますが、私たちも相対的なことを絶対的に関わろうとすることがあるのです。どうでも良いことをどうでも良くないことのように絶対化するのです。その意味で律法の奴隷になっているのです。

 また私たちは世間並みにしたいと言う思いにとらわれるのです。世間体を気にして、自分の子どもが進学する学校を選ぼうとするのです。子どもの個性や意欲に注目するよりも世間の人々が自分たちをどのように見ているのかを気にするのです。そのような罪の奴隷、律法の奴隷、この世の奴隷になっているのです。

 パウロは今、牢獄の中にいてそこに体は束縛されているのですが、自分はそこに居場所があるのではなく、自分の居場所は、神のところにあるのだと語っているのです。

 フィリピの信徒への手紙3章20節(p365)には「わたしたちの本国は天にあります」と語られています。わたしたちは、この世の中で生きていますが、自分の本当の国籍は天にあると言うのです。この地上で暮らしていながら、自分の本来の故郷は別のところにあるのです。東京都民でありながら、神の国の市民なのです。日本にいるキリスト者、それは在日キリスト者なのです。神という主人があり、この神を信頼して生きることが本来の生き方であると確信しているのです。
 
 パウロはテモテと言う若い伝道者と一緒に伝道をしてきました。フィリピの信徒への手紙2章22節(p363)でこのテモテについて「彼はわたしと共に福音に仕えてきました」と紹介しています。テモテはキリストに救われてこの福音に仕えているのです。テモテはキリストの愛によって本来の主人を見出し、牢屋のような生活から抜け出すことができたのです。神の愛によって恵みを受ける生活に転換できたのです。この主人は、自分の命令をもって強制することなく、愛をもって仕える主人なのです。  

 フィリピの信徒への手紙2章6−11節(p363)に「キリスト賛歌」と言われるところがあります。ここにはキリストの謙り、謙遜が記されています。罪の奴隷になった私たちを救うために、キリストが自分の外に出て肉体を取り、人間となり、奴隷の姿になられたと書かれています。罪の奴隷になった私たちを救うために、キリストは自ら人間となって、奴隷の姿を取られ、罪を担い、身代わりに犠牲になったと語られています。キリストは、神と同じ方であられるのに、自ら奴隷になって、その救いを完成しようとなさった、と記されています。キリストと言う主人は、命令を出し、強制して従わせる権力者ではないのです。神の子であるキリスト自ら、奴隷となって罪を引き受けるまでして、様々に捕らわれているわたしたちを救うためだ、と語るのです。

 パウロもテモテもそのことを信じて、キリストという主人を持つことができたのです。このキリストは権力をもってむりやり従わせる方ではありません。私たちを愛するために犠牲をささげる方です。パウロは自分をキリストの奴隷と言いましたが、それは自分がキリストに余りにも愛されていることが分かり、自分がキリストの愛を余りに多く受けたので、その愛を伝える奴隷であると語っているのです。自分がこのキリストに愛され、認められ、大切なものとされている、そのような確信を与えられて、この愛を伝え、その愛に仕えるのです。

 このフィリピの信徒への手紙は、牢獄の中で書かれた手紙ですが、この手紙は喜びの手紙と言われています。それは「喜び」という言葉がこの手紙のなかに15回も使われているからです。パウロが自分の罪の牢獄から抜け出すことができてほんとうに喜んでいるのです。そしてこの福音によって心から喜んで、その喜びが私たちに伝わってくるので、「喜びの手紙」なのです。

 パウロは牢獄にいます。そして自分が神のもとに召される日も近いと感じているのです。パウロの体は鎖でつながれ、拘束されています。不自由の中にいるのです。しかし、自分の全存在は神によって愛され、神の言葉によってこの世のものに捕らわれることなく、自由にされているのです。この手紙にはその喜びが溢れています。

 パウロは、牢獄にいて、不自由な生活をしているように見えますが、実は自由なのです。キリストの福音を伝えたために、獄に囚われていますが、しかし、パウロは、不自由ではないのです。それはキリストが、罪の奴隷から、律法の奴隷から、この世の奴隷から解放し、自由にしてくださったからです。

 テモテへの手紙二 2章9節に次のように語られています。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」(p392)

 宗教改革者ルターは1520年に「キリスト者の自由について」という本を書いています。宗教改革を開始したのが1517年ですから、その後3年経過した時に書いたので、ルタ−の熱情が伝わってくる文章です。「キリスト者の自由について」の初めに二つの命題が記されています。「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない。キリスト者は、あらゆるものの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している。」一般に同じ一人の人間が、自由な主人であり、同時に奴隷である、と言うのは矛盾していると思うのです。ルタ−の語る命題は互いに矛盾していながら、それが一つであると言う言い方をするのです。例えば「罪人でありながら、同時に義人」と言う言い方がそうです。

 ルターは次のように語ります。「これらの記述は矛盾しているように思われるけれども、一致して」いることが「見いだされる」と言い、この二つの命題には、聖書の言葉に根拠があることを指摘するのです。二つの聖書箇所を挙げています。一つはコリントの信徒への手紙一 9章19節であると書いています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」(p311)もう一つは、ローマの信徒への手紙13章8節です。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」(p293)イエス・キリストによって自由にされた者ですが、その自由を愛において仕える者である、と言うことです。

 私たちは、様々なことにとらわれています。しかし、そのようなものから、解放されているのです。私たちは主イエス・キリストが自分のいのちを犠牲にするほど愛しておられることを信じて、神を賛美し、キリストの僕、キリストの愛の奴隷として神と人々に仕えることができるのです。
    コリントの信徒への手紙二 6章4−10節(p331 参照)


20180128 主日礼拝説教  「主の祈り−わたしたちを誘惑に遭わせず」  山ノ下恭二


(イザヤ書42章1−13節、マタイによる福音書6章9−13節、ハイデルベルク信仰問答・問127−129)

 「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。この祈りは、主の祈りの中の最後の祈りです。主イエスは、最後にこの祈りを私たちに教えてくださったのです。この祈りを主イエスは、なぜ祈るように教えたのでしょうか。それには理由があるのです。主イエスは私たちが、平穏で落ち着いた生活を過ごすことができるようにと願ってこの祈りを教えたのです。平穏で落ち着いた生活を送ることは神の御前に良いことであり、御心に適ったことです。(テモテへの手紙1 2章1−3節(新約p385)

 皆さんはこの一日が平穏で無事に終われば良いと願って一日を始めます。しかし、一日が終わり、今日はいろいろなことがあって、大変だったという日が多いのではないでしょうか。自分の体力や能力では対応しきれない事件が起こる時があり、親戚に不幸がある日があり、会社でも揉め事があって夜遅くまで対応しなければならない時があります。このような日が毎日、続くようであれば参ってしまうと思うのです。自分の身の周りで次から次に難題が持ち上がり、気苦労が絶えない日が続いたら、くたびれ果ててしまうのです。

 毎日、平穏で落ち着いた生活を過ごすことができれば、どんなに良いことかと思うのです。主イエスは私たちの毎日の生活が平穏で落ち着いた毎日であるようにこの祈りを教えたのです。この祈りは、私たちに対する、主イエスの暖かい愛を感じる祈りです。この祈りの意味を受けとめる時に主イエスがわたしたちを深く愛し、心配しておられることを知らされるのです。

 私たちはいつも「我らを試みに会わせず」と祈っています。口語訳も「試み」と翻訳しています。新共同訳聖書では「誘惑」と翻訳しています。元々の言葉は同じ言葉ですが、同じ言葉を「試み」と訳し、「誘惑」と二通りに訳しているのです。聖書では「試み」と言う言葉を「試練」と訳しているところがあります。

 聖書ではこの「試練」は私たちにとって悪いことではなくて、むしろ私たちの信仰を鍛えるためにプラスになると考えているのです。私たちは自分に自信があって何でもすることができるという思い上がりがあります。そして、私たちは人生を甘く見がちです。自分を過信したり、物事を甘く見ていて失敗することがあるのです。失敗することによって自分の力不足や体力の限界など、今まで自分が気がつかなかったことに気が付くことができるのです。

 私たちにとって避けたいことの一つに病気があります。病気になることは誰でも避けたいと思います。しかし、病気になることによって、自分が弱い者であることを知らされるのです。そればかりでなく、病気の人の気持ちを思いやることができるのです。自分が病気を経験することによって病人の立場や思いが分かり、その人の痛みや苦しみに共感できるようになるのです。健康に自信があった人が病を得て、自分の弱さを知り、自分の力で何でもできるわけではないと自分の限界を知らされ、聖書を読むきっかけになることがあります。

 「試練」を受けることによって、人に深く同情し、思いやる、より成熟した人になることができるのです。その意味では私たちの信仰を鍛え、成熟した人になるためには「試練」は必要です。

 しかし、「試みに会わせず」と祈っているので、この場合、「試み」をマイナスのものと考えていることは確かです。この「試み」は深刻な試みであり、信仰を失わせるような試みを指しています。

 一週間位の入院であれば我慢できるのですが、長い入院でしかも激しい痛みを伴うものであるならば、それに耐えられるのかと言うことです。癌の治療のために抗癌剤を用いることがありますが、その副作用は激しい痛みを伴うことがあります。この痛みに耐えることは容易なことではありません。受忍限度を越えているのです。自分が激しい痛みに襲われたならば、祈ることもできず、余りの痛みと苦しみのために、神は自分に罰を与えたのではないか、神は自分を見放している、いや、神などいないと疑う、ということになります。

 その人にとって余りにも辛いことがあり、その重荷を負うことが出来ない時には、信仰を失ってしまうこともあります。苦しい時の神離れです。

 そのような神を信じることができなくなるような、厳しい試みに、試練に会わせないでください、と祈るのです。自分が担うには余りにも苛酷で、辛いことが続くと、神に訴えることもなく、神から心も離れてしまい、神に祈ることもできなくなり、信仰を失ってしまうのです。そのような厳しい試練に会うことがないようにと祈るのです。

 私たちも辛い経験をすることがあります。親しい者を失って祈ることもできなくなることもあります。親しい者を失うことはほんとうに辛いことです。江藤淳と言う評論家は、妻の看病の後、妻を失い、心の支えを失って、その後、自殺したのです。夫婦と言うのは、一心同体であり、相手を失うことは自分自身をも失うことになるのです。それは夫婦だけでなく、親子も同じです。辛さに耐えるだけの力を持っていれば良いのですが、私たちは弱いので、その辛さや試みに打ち勝つことができないのです。この祈りは、そのような試みに会わせないようにと祈るのです。

 新共同訳聖書では「試み」ではなくて、「誘惑」と翻訳しています。私たちはよく「誘惑」という言葉はよく使います。旅行に誘われた、電話で勧誘されたとよく言葉にします。ここではもっと深刻な誘惑のことです。

 私たちの身の周りには、様々な誘惑に満ちています。かつて私は埼玉地区の委員会が大宮教会であり、よく大宮駅から歩いて大宮教会に行くことがありました。駅から大宮教会に行くのには飲み屋などがある道を通ると、早く行くことができます。しかし、その道には客引きがよく立って、呼び込まれるので、急ぎ足でその場を通り過ぎないといけないので、私は別の道を通っていました。

 現代は私たちの心を引きつける魅力的なものがたくさんあります。いつも祈っている言葉では「悪より救い出したまえ」ですが、新共同訳聖書では「悪い者から救ってください」と訳しています。元々の言葉は「悪い者」という言葉です。「悪い者」の正体を捕まえることは難しいのです。

 オレオレ詐欺が一向に減りません。息子と偽り、うそをついて、相手から高額なお金をだまし取るのです。自分の息子であると勘違いさせてだますのです。悪い者は自分の正体を隠して、あたかも良い者であるかのようにうそをついて引っぱり込んで誘惑するのです。悪い者は自分の正体を私たちに見せないので、私たちが気が付かないうちに誘惑していくのです。

 私は東京神学大学大学院を卒業する時に、同級生と共に伊豆に二泊の卒業旅行に行きました。その旅行に引率した加藤常昭先生が、開会礼拝でそれぞれの教会に赴任して牧師として働く時に気を付けることを話して下さったのです。牧師は誘惑が多いので気を付けるように話されました。今でもよく覚えているのは、加藤先生は大学生の頃、友達に誘われて、一回、麻雀をしたそうですが、これがとてもおもしろかったそうです。もっとしたいと思ったのですが、夢中になってしまい、他のことはつまらなく思い、自分がしなければならない大切なことをしなくなるように思ったので、麻雀はこの一回限りで今後はしないと決心したと話されたのです。

 神を忘れるほど、愉快で楽しいことがこの世の中にはたくさんあるのです。悪い者の誘いに乗ってしまうととんでもないことになるのです。お金が欲しい一心で不正経理をしたり、異性と不適切な関係を持ち、失敗した人もいるのです。私たちは自分の欲望を満たしたいと思っていますので、楽しいと思われることや、魅力あることに引きつけられるのです。そして「悪い者」「悪魔」はそのような私たちを誘惑し、神がいなくても楽しく過ごせます、神などまじめに信じなくても、大丈夫です、と揺さぶり、私たちを神から離そうとするのである。アイドルを追いかけるように、偶像を追いかけ、神ならぬ神に夢中になってしまうのです。

 誘惑と言うのは、悪いことを言わないのです。私たちの欲求に合い、願いを満たすように上手に宣伝して誘ってくるのです。神がいなくても、楽しい暮らしができますよ、この家に住むと快適な暮らしが保証されますよ、これを食べると見違えるようにスリムになり、美しくなりますよ、と私たちの欲望を刺激して幸福になる方法を宣伝するのです。これが幸福であると偽りの幸福の姿を見せて、誘い込むのです。私たちは神との善い関わりが与えられている、という本当の幸福ではなくて、いつも幸福の虚像を見て、これが本当の幸福だと勘違いをしているのです。偽りの幸福の映像を見ているうちに、まことの幸福が偽りの幸福であると思ってしまうのです。礼拝に出てみことばを聞き、聖書を読み、祈ることがまことの幸福であるのに、礼拝に出ることはめんどうだ、聖書を読まなくてもやっていける、祈ることをしなくても大丈夫だ、と何時の間にか、信仰の戦いを止めて、神から離れてしまい、中退信者、卒業信者になってしまうのです。

 私たちは試練や誘惑に遭わないで、済ますことはできませんし、自分の工夫で試練や誘惑を避け、克服することはできないのです。自分の力で抵抗することはできないのです。このような私たちに主イエスは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」との祈りの言葉が与えてくださっているのです。

 主イエスはゲッセマネの祈りで弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(マタイによる福音書26章41節)と語っています。この祈りを祈るによって、試みと誘惑に、耐える力を神から与えられ、神の力によって倒れることなく、立ち続けることができるのです。

 コリントの信徒への手紙一 10章13節で「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(P312)と約束しています。

 主イエスは、荒れ野で悪魔から試みに遭いましたが、その試みに打ち勝ったのです。この悪魔の試みは主イエスがこの世の政治家になって人々の欲望を満足させたらどうかと言う誘惑であったのです。それに対して、主イエスは「神を礼拝する」ことを何よりも優先することが第一であると言って、悪魔を退散させたのです。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」(マタイによる福音書4章10節)

 この主イエスは御自身が試みを受けたので、試みにある私たちを助けることができるのです。ヘブライ人への手紙2章18節には「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになります」(新約p403)と語っているのです。試みに勝利した主イエスが私たちと共におられるので、「試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈ることができるのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問127の答えは「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時、立っていることさえできません。その上、わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が絶え間なく攻撃をしかけてまいります。どうか、あなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです」と解説されています。

 「主の祈り」は「御名が崇められますように」で始まり、「試みに会わせず悪より救い出したまえ」で終わります。信仰によらない普通の祈りは自分たちに降りかかってくる悪や災い、苦難や危険、から救いだされるようにと願うことが何よりも優先されています。しかし、主の祈りは神の御名、御国、御心のために真っ先に祈り、その後に、必要な糧と罪の赦しを祈り求め、最後に、辛く厳しい試みや誘惑に遭わずに、悪い者から救われるようにと祈るのです。神を神として礼拝することによって、初めて、誘惑に打ち勝ち、悪を退けることができるのです。

 主イエスは私たちが平穏で安らかな、落ち着いた生活を送ることができるようにと心から願ってこの祈りを教えたのです。それは私たちが試みに会い、誘惑に遭っても、神から離れないように、神の愛に包まれて、いつまでも神が共にいて、平穏で、落ち着いて過ごすことができるようにと願っているからです。

20180121 主日礼拝説教 「主の祈り-わたしたちの負い目を赦してください」 山ノ下恭二


(詩編51編1−19節、マタイによる福音書6章9−13、ハイデルベルク信仰問答126問)

 私たちが生きていくためにどうしても必要なもの、なくてならないものは、いったい何でしょうか。すぐに思い浮かぶものは、食べることです。私たちの身体を維持していくためには、食べなければならないのです。しかし、食べることに困らず、食糧が足りていれば、私たちには何の心配もないかと言うとそうではないのです。
 
 私たちが毎日、暮らしていて気を使うことは、人と人との関係です。私たちは毎日、他の人と共に過ごしています。誰とでも仲良くできれば良いのですが、仲良くすることができないことも多いのです。意見が違っていたり、関係が悪くて相手としっくりいっていないことがあります。言い間違いや思い違い、誤解があって気持ちが通じないで関係が悪くなることもあります。すべての人と良い関係を持つことができれば良いですが、実際はそれができないことが多いのです。人との関わりが悪くなってしまい、どうしようかと夜も眠れないほど悩むこともあります。

 そのような私たちを配慮して、主イエスは、私たちに罪の赦しを求める祈りを祈るように、と教えられました。マタイによる福音書6章12節「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分の負い目のある人を赦しましたように。」文語訳、口語訳の聖書を読むとその翻訳が異なっています。私たちがいつも祈っている文語訳では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」です。口語訳も文語訳と同じように翻訳しています。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもゆるしてください。」ギリシャ語の原文では「わたしたちの負い目を赦して下さい」と言う言葉が一番先に来ています。その意味で新共同訳聖書の翻訳は、原文に忠実に訳しているのです。この祈りはまず、私たちの罪を赦してくださるように、と神に祈り求める祈りです。

 洗礼を受けて、神に罪を赦されているので、罪と関係ない、この祈りを祈る必要がないと言うことはできないのです。洗礼を受けたということは、神と和解が成立し、神との関わりが正常になったことであり、根本的な罪はなくなり、解決されています。しかし、洗礼を受けていても、天使のようにすべて神の御心に適った生活になったのではないのです。すべての人と関係がうまくいっているということではないのです。生活のすべての場面で人との関係が良い関係にあると言うことはありません。相手に腹を立て、怒り、憤ることもあります。相手を赦せないと思うこともあります。キリスト者だろうかと思えないような振る舞いや言動をすることもあります。
 
 「主の祈り」はルカによる福音書にも書かれています。ルカによる福音書11章4節に「わたしたちの罪を赦してください」と書かれています。ここには「罪」という言葉が使われているのです。神に対しては「罪」と言う言葉を使い、人に対しては「負い目」と言う言葉を使っています。神に対してと、人に対してとは、区別して異なった言葉を使っているのです。マタイによる福音書では「負い目」と言う言葉を用いています。

 この「負い目」「負債」と言う言葉は金銭関係の「借り」を表す言葉です。「借金」のことです。それだけではなくて、「道徳的な借りや負い目」を表す言葉です。道徳的にしなければならない義務を怠ったり、神に従わなくてはいけないのに、その義務を怠った、と言う意味で使われるのです。神に対してすべきことをしないで、しなくても良いことをしてしまう、神に対してすべきことをしないで、自分のしたいことを優先してしまうのです。聖書の言葉に聞き従うことよりも、自分の考えを押し通していくこともあります。一日が終わって、自分の一日の生活を振り返ると、神に負い目を感じ、神に借りがあることを知らされるのです。神の前に真実に自分の生活を顧みる時、自分の罪を赦して下さい、と祈らざると得ないのです。そのように神の前に「私の罪を赦してください」と祈る者は、真実にキリスト者であろうとしているのです。真実なキリスト者だけが、自分の罪を赦してくださいと祈ることができるのです。

 この社会では自分の罪を認めて、神にその罪を赦してもらうということはないのです。自分の非を認めることはないのです。悪いのは他の人であって、自分は少しも悪くないと思っているのです。自分は正しいことをしているので、誤りはないと自分の過失を認めないのが普通です。

 しかし、洗礼を受けて、キリスト者となった者は、神の前で自分がいかに不完全で誤りが多く、神の御心に適うことをしていないことをよく知っているのです。自分の罪を告白し、赦しを求めるのです。

 本日の礼拝で詩編51編1−19節を読みました。この礼拝で、この詩編を読むことがあります。この詩編はサムエル記下11章に記されているダビデ物語が背景になっています。ダビデが夫のいる一人の女性と不適切な関係を持ち、妊娠させ、夫にこのことが分かることを恐れて、この夫を戦場で殺すように指示してしまう、その罪を告白するのです。詩編51編6節「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。」ダビデは、一人の女性に対して罪を犯し、その家庭を壊したのですが、それは人に対する罪と言うよりも、神に対して罪を犯したと告白しているのです。そして詩編51編3−4節には「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって、深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください」と罪が赦される祈りを祈っています。罪を告白し、罪の赦しを求める祈りが私たちの祈りです。

 ハイデルベルク信仰問答・問126の答えには「わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください。」と書かれています。キリスト者であっても、過ちを犯し、悪に染まることがあります。その罪に対して、神から罰を受けることがないように、と祈り願います。キリストによる罪の赦しが限りなく有効であるようにと言う祈りです。

 主イエスがファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りについて語っています。ファリサイ派の人は自分は正しい生活をしていますと祈り、徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈り、神に正しいとされた者は徴税人であったと語っています。(ルカによる福音書18章9−14節、新約・P144)この祈りはもう一つ大切なことを私たちに教えています。私たちが罪の赦しを求める祈りをする時に、自分に対して罪を犯した相手の罪を赦しているか、と言うことが問われているのです。私たちは神に罪が赦されているのですが、私たちは相手が自分に対して犯した罪について赦すことができないという感情をもっているのです。自分が相手に対して罪を犯したことには鈍感です。自分の言ったこと、したことには寛容です。相手が自分に言ったこと、したことはよく覚えていて忘れず、相手を赦せないのです。侮辱された、傷つけられた、いつか、相手を復讐したいと腹の底でその時を待っているのです。

 主イエス・キリストが「赦し」を求める祈りを教えられたのは、私たちにとって必要な祈りであるだけではなく、私たちの生活がほんとうに幸いなものとなるように配慮して、この祈りを教えたのです。

 私たちにとって最も大切なことは赦しであり、互いに赦し合わなければ、どうにもならないのです。愛が大切であると言ってもほんとうは赦しが大切なのです。それは私たちの愛は不完全で、自分の気に入った人や自分によくしてくれた人にのみ親切にし、気に入らない人や自分の利益にならないと思う人を無視したり、口をきかなかったりするのです。私たちの愛の生活は不完全で欠けが多いのです。不完全な愛によってしか生きることができないので、赦し、赦されることが不可欠です。神に自分の罪を赦してもらう祈りをしながら、他方、自分に対して罪を犯した人を赦さないことは良いことなのでしょうか。

 マタイによる福音書18章21−35節(新約、P35)にこの問題が取り上げられています。ある時、弟子のペトロが主イエスに質問をしたのです。自分に対して罪を犯した人を何回、赦したら良いのか、という質問です。ユダヤでは7回まで赦せと教えていました。主イエスは7の70倍、赦しなさい、と答えたのです。それは何回でも無限に赦しなさい、ということです。そして主イエスは一つの譬え話を語られたのです。 

 それは、王が貸した借金を返済できなかった家来に対して、王は莫大な借金を帳消しにしてやったのですが、その借金を免除された家来は、その家来が貸した僅かな借金をした仲間が返済できないのを赦さず、牢屋に入れてしまったのです。この話を聞いた王が怒って、その家来を捕まえて牢にいれたという譬え話です。この譬え話の中で、莫大な借金が一万タラントンという金額で、現在の貨幣価値では1800億円にも相当する莫大な金額です。

 このことは私たち人間が神に対して負っている負債、神に対する罪がどんなに大きく、重く、自分では償うことができない罪であるかを表しているのです。その罪の重さを、神と同じ方、主イエス・キリストが負ってくださったのです。しかしながら、この家来が友人に貸した金は60万円ほどの金額なのです。王の深い憐れみを受けて、1800億円の借金をして帳消しにされた家来は、60万円の借金を返せない人を赦すことができないのです。

 主イエス・キリストによって赦された私たちが、小さな過失、過ちをした人を赦すことができないのです。この家来の姿は私たちの姿なのではないかと思います。主イエス・キリストによって赦された、ということが私たちの毎日の生活に映し出されているか、ということです。

 相手をいつまでも赦さないと思っている人は、自分がキリストの十字架の贖いによって神に赦されていることを自分のこととして信じていないのではないでしょうか。聖書には赦しが語られています。しかし、それは頭の中で知っているだけで、赦しがほんとうに自分のものになっていないのです。神に赦されていることを信じている者は、毎日、出会う人の罪を赦すのです。そして、自分の罪を赦してくださいと祈る者は、相手が自分に対して犯した罪を赦してしまうのです。

 この祈りは「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分の負い目のある人を赦しましたように。」これから赦すから、神に赦してくださいと言うのではないのです。神に赦された者は、自分に対して罪を犯した人をいつでも赦す、既に赦したのです。赦してしまったのです。神に自分の罪を赦してくださいと願う者は、人の罪を赦した者なのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問126の答えの後半は「わたしたちもまた、あなたの恵の証しをわたしたちの内に見出し、わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心していますから、ということです。」とあります。わたしたちが隣人の罪を心から赦したということは、私たちが神によって赦されていることを恵みとして証しをしていることです。

 ある本にドイツのキリスト者の家庭の祈りの中に、こういう祈りがあると書いています。「私どもにどうしてもなくてならぬものが二つあります。それを、あなたの憐れみによって与えてください。日ごとのパンと罪の赦しを。ア−メン」日ごとのパンがないと生活ができないように、神が、今、罪を赦してくださらないと、私たちの生活は成り立たないのです。そして赦し合うことがないと私たちの生活は幸いではないのです。

 主イエスは、マタイによる福音書5章23−24節(新約、P7)で、礼拝に行き、礼拝をしている中で、自分と和解していない人がいることを思い出したらば、まずその人と仲直りをして、礼拝の場所に戻ってくるようにと語っています。

 神に赦された者は、いつでも人を赦すことができ、人を赦す用意ができているというのです。互いに赦し合うことができるのです。相手の罪を赦すことは、赦し得ない者を赦すのであるから、痛みを伴います。しかし、キリスト教会は主イエス・キリストの十字架の痛みを伴った贖いを信じて、互いに赦し合うことができる者たちの群れなのです。キリスト教会は人を裁く言葉が支配しているところではないのです。教会は深い罪が赦された者たちの共同体なのです。教会は罪を赦し合う共同体なのです。

20180114 主日礼拝説教 「主の祈り-わたしたちに必要な糧を与えてください」  山ノ下恭二


(詩編145編1−21節、マタイによる福音書6章9−13節)
 
 この礼拝で「主の祈り」の言葉を学んでいます。「主の祈り」の第四の祈りは「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」です。私たちが祈っているのは、文語訳です。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」です。

 この祈りは、食物を求める祈りです。この祈りの「糧」と訳されている言葉は、パンと言う言葉です。日本では「米」のことです。「必要な糧」と訳されていますが、他の翻訳では、「日ごとの糧」、「きょうの糧」「必要なパン」と訳されています。 
 
 ここで祈り求めるのは、「副食」ではなくて、主食のことです。この「糧」とは私たちの肉体、このからだを支える、最も基本的な食べ物です。これさえあれば、今日の命は支えられる最低限の条件を満たすものです。その意味では「主の祈り」の中では、この祈りは私たちに最も身近な祈りであると言うことができます。身近な祈りですけれども、この祈りを私たちは切実な思いをもって祈っているのでしょうか。私たちは切実な思いをもって、この祈りを祈っていませんし、祈る必要を感じていないのではないでしょうか。なぜなら、いつも食べる物は用意されており、食べ物がなくなれば店に買いに行けば良いのであって、特別に祈らなくても、毎日、食べ物は与えられており、心配はしていないのです。この祈りは緊急に食物がない時には必要な祈りであるけれども、食物がある時には差し迫って祈り求める祈りではないと思うのです。祈る必要のない祈りであると思うのです。

 主イエス・キリストはこの祈りを祈るように教えられましたが、この祈りの本来の意味はどのような意味なのでしょうか。パン屋に行ってパンをください、とただパンを求める祈りではなくて、もっと大切なことを教えようとされたのです。それは、パンを与えるのは神であるということです。神が私たちに命を支えるパンを用意し、与えてくださる、その信仰が大切であることを教えようとされたのです。

 人間にとって食べることは生活の基本です。旧約聖書には、イスラエルの民が食べることができなくて、信仰を失いそうになった物語が旧約聖書に書かれています。旧約聖書の出エジプト記16章(旧約、P119)には、エジプトを脱出してイスラエルの民が出会った切実で困難な問題は食べることであったと記されています。草も木も全く緑のない砂漠の旅で、旅のつらさをこぼしはじめ、食べ物がなくなり、飢えに苦しみ、不平不満を口にしたのです。エジプトでは肉の入った鍋から腹一杯、食べることができたのに、今は食べることがなく、飢えて死にそうだと不平を並べたのです。これに対して、主なる神は「わたしは、あなたたちのために、天からパンを降らせる」と約束し、「夕暮れに、肉を食べさせ、朝にはパンを与えて満腹」するようにしようと言って、そのようにしたのです。

 出エジプト記16章12節(旧約、P120)に重要な言葉があります。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

 食べる物が何もないところで主なる神が食べ物を与えた、と語っています。そして神が食物を与え、イスラエルの民が食べることによって、神がイスラエルの民の神であることを信じるためである、と語っているのです。イスラエルの民が飢えているので、かわいそうだから与えたというのではないのです。パンを与えるのは神だ、神こそがパンを与える方であることを知らせるためである、と語っているのです。このところではパンそのものよりも、パンを与えるのは誰か、ということが問題になっています。

 出エジプト記16章15節に「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」と語っています。イエスラエルの民にパンを与えて、飢えなくてもよいように、生きることができるようにしたのは、神であると語っているのです。

 そして更に重要なことは、イスラエルの民の生命を養っているのは神であることをはっきり分からせようとされました。食べ物がないことは、食べ物だけのことでなく、生命についての不安、心配、恐れを伴うものであり、その者たちに対して神が心を配り、養い、支えていてくださることをはっきりと示し、イスラエルの民はこの神をほんとうの意味で畏れたのです。

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」この祈りは、私たちがパンを手に入れるかどうかよりも、私たちの生命が神によって支えられているという信仰をもって祈ることを教えているのです。食べ物を手に入れることよりも、神が私たちを養い、支えているという信仰に生きることが先決なのです。 

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」、この祈りをする時、私たちは心に留めることがあります。神が私たちを養って、神が必要な物を届けてくださるから、神にお願いして、必要なパン(食物)を戴こうと言う信仰をもって祈るのです。自分が働いてお金を出して買ってきたものだから、この食物を食べることは当然だというのではないのです。そういう思いで食べるのではないのです。目の前にある食物を見ながら、これは神が自分たちに与えて下さった大切な食物で感謝して戴こうと言う信仰が大切なのです。

 現代に生きている者はいつでも食べることができるので、感謝をすることを忘れています。食堂の食べ残しが多く、もったいないという投書を読んだことがあります。食物を粗末に扱う傾向にある。食べ残しが多いだけでなく、おいしいものを食べることが流行しています。バイキングに行ってお金を出しているので腹一杯食べて、かえって、お腹を壊したり、おいしいと宣伝しているものを食べ歩いて、お金を浪費するのです。食物が与えられていること自体に感謝しないで、おいしいものを食べることに関心を持つ人が多いのです。感謝の心が忘れられているのです。

 この祈りは、毎日、毎日、食物が与えられて、自分たちの命が支えられていることを感謝する、感謝の祈りなのです。毎日、食物を与えられていることを畏れと感謝の心をもって食物を戴くのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問125の答えには、この祈りが「私たちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください」と言う祈りであり、「あなたこそ良きものすべての唯一の源であられる」ことを知ることだ、と解説されています。神こそ、私たちに良いものを与えてくださる「唯一の源泉」です。神以外にはよいものは来ないのです。

 この祈りは「私たちに必要な糧」と「必要な」と祈ります。この意味は大きいのです。先程の出エジプト記16章には、イスラエルの民に神が与えたパンを、人々がそれを集め、その日、1日分の食物として食べて満腹し、次の日もその日に必要な量のパンが与えられました。その日に次の日のために食べるためにパンを蓄えて置くことは禁じられたのです。ところがその禁止命令に従わないで、残っているパンを翌朝まで残していると、そのパンは翌朝に腐ってしまった、と書かれています。その日に必要なものは、その日に与えられ、翌日の分はその日に与えられるのです。これは、神が毎日、毎日、必要な食物は用意していることを信頼して生活することを教えている。

 ルカによる福音書11章3節にある「主の祈り」には「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」(新約、P127)と「毎日」と言う言葉を用いています。毎日、毎日、神がその日に必要なものをくださるという信仰に立って祈り求めなさい、と教えています。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ6・32)神の豊かな配慮、心配りに信頼しなさい、思い悩むなと語っています。

 現代は、健康であることが大きな価値をもち、健康が最も優れたものとして考えられている傾向があります。そして健康であるために何を食べるかということに関心が集中しているのです。毎日、私たちが見ているテレビ、聞いているラジオ、読んでいる新聞、雑誌には、健康のために何を食べると良いかという番組が多いのです。確かに、健康でなければ仕事も活動もできないのです。健康を維持するために毎日毎日、様々な方法で努力しているのです。ただ、健康であるための努力が必要以上になされることは問題です。不必要なサプリメント食品を買い込んだり、健康に良いという宣伝を聞いてたくさん取り寄せることは意味があるのでしょうか。美容のためにダイエットをすることに夢中になり、健康が損なわれることもあります。何のために生きているのか、を忘れてはならないのです。何のために生き、何のために食べるのか、です。生きる目当てが何なのでしょうか。長生きして、自分の趣味を生かして、その時を楽しく過ごすために健康でいたい、旅行をするには元気でいたい、そのためには健康でいなければ、と思います。しかし、私たちの生きる目的ははっきりしているのです。

 ロ−マの信徒への手紙14章6節(新約、P294)に「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」と語られています。この手紙を書いたパウロは、どんな食べ物でも、食べる者もあるいは食べない者も、いずれも主のためにということがはっきりしていなければならないと語っています。何を食べるにしても、主のために食べているか、ということです。パウロは続けて、ロ−マの信徒への手紙14章7−8節で「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と語っています。私たちは洗礼を受けて、主イエス・キリストに属しています。主イエス・キリストに属する者は、主と共に生きるために食べるのです。

 旧約聖書・エゼキエル書には「巻物を食べる」という言葉があります。エゼキエル書3章1−3節(旧約、p1298)「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」

 この巻物とは旧約聖書のことです。ユダヤでは聖書を子どもたちが読む前に教師が子供たちの口に蜂蜜をスプ−ンでなめさせるそうです。聖書の言葉は蜂蜜のように甘く、おいしいということを知らせるためです。神の言葉である聖書は私たちの魂を支えるものです。ロシアの作家ドストエフスキ−は政治事件に巻き込まれて、シベリアの労働刑務所に送られる時にポケットに聖書を入れて、刑務所で聖書を読み、苛酷な労働に耐えることができたのです。この時に毎日、聖書を読んだ経験が後の小説を創作する原動力になったのです。

 私たちの毎日の暮らしにおいても、食事の前に聖書の言葉を読んで、祈る習慣をもっています。ドイツでは、食事をした後に聖書の言葉を読む習慣があるそうです。私たちは主のために生きる、そのために私たちの魂とからだを養うのです。霊的な食べ物を戴き、そしてこのからだを支えるために食物を戴くのです。

  霊的な食べ物である聖書を読む時にも、このからだを支えるために食物を戴くにもキリスト者としての戴き方があるのです。それは祈りがあるということです。聖書を読んで祈ることであり、祈ってから聖書を読むことです。食事の前に感謝の祈りをささげることです。

  わたしたちに必要なものは神がすべて備えてくださり、与えてくださるのです。その信仰を与えられて、この祈りを祈り、毎日、与えられたものを感謝して戴き、主のために仕えるものでありたいのです。

20180107 主日礼拝説教  「主の祈り−御心が行われますように」  山ノ下恭二


(詩編115・1−18、マタイによる福音書6・9−13、ハイデルベルク信仰問答124問)

 礼拝で、主の祈りを学んでいます。「主の祈り」の三番目の祈りは、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。私たちがいつも祈っている言葉では「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」です。原文に沿って翻訳すると「あなたの意志がなりますように、天にあるように地においても」です。御心と訳されている言葉はギリシャ語ではセレーマと言う言葉で、「意志」「望み」「思い」と訳されています。この言葉は様々に言い換えることができます。「あなたの意志が実現しますように」「あなたが望んでいることが実現しますように」「神の思いがなりますように」と訳すことができるのです。この祈りでわからないのは、「御心」「あなたの意志、あなたの思い」です。神の意志とは何か、神が望んでいることは何なのか、です。

 主イエスは神の御心がどこにあるのか、神の御心は何なのか、を譬え話で語っておられます。主イエスはマタイによる福音書18章10−14節で「迷い出た羊の譬え」を語っておられます。ある人が飼っている百匹の羊の中の一匹の羊が迷い出た時に、99匹の羊を残して、迷い出た一匹の羊を探しに行き、その一匹を探し当てた時に、大変喜ぶと言う譬え話です。この譬え話の最後に「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」とあります。主イエスは神がすべての者が滅びないことを願い、滅びることを望んではいないと語るのです。迷い出た一匹の羊とは、神から離れてしまった罪を犯した者であり、神はその罪人が神の愛の対象であり、滅びることを望んでいないと語っているのです。主イエスは、神の御心とは神が救おうとされる意志であると語っているのです。いつも神は私たちが救われることを願い、その御心をもっておられるのです。神の御心は救いの意志であり、その御心は変わることがないのです。

 主イエスは、神の御心がどこにあるのか、神の御心は何なのか、そのことがはっきり分かる譬え話を別のところで語っておられます。それはマタイによる福音書20章1−16節の「ぶどう園の労働者の譬え」です。ぶどう園の主人がぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明け、朝の九時、12時、3時に広場に行き、労働者を雇ってぶどう園に連れて行くのです。夕方5時に広場に行ってみると立っている人がいて、ぶどう園の主人が聞いてみると誰も雇ってくれないと言うので、ぶどう園に連れて行きました。ぶどう園の作業が終わって、ぶどう園の主人はどのように労働者を扱ったのでしょうか。労働者たちに賃金を支払う時に、夜明けから夕方遅くまで長時間働いた人たちに「お疲れさま」と言って、たくさんの賃金を払ったのではないのです。その労苦を労りながら慰労金をいちばん最初にプレゼントしたのではないのです。このぶどう園の主人はみんなが驚くようなことをしたのです。それはいちばん最後の夕方に来た人をいちばん先に呼んで、1デナリオンの賃金を支払ったのです。夜が明けるころ雇われて、10時間以上働いた人も1デナリオンの賃金を支払い、1時間しか働かなかった人にも1デナリオンを支払ったのです。主人のこのやり方には長時間働いた人が不満を持ち、この主人に抗議をしたのです。この地方のぶどう園ではぶどうの房は低いところにあり、長く、ぶどうの収穫作業をしていると腰が痛くなり、きつい労働であったのです。暑い中、長時間働いた人にとって、夕方の涼しい時に、それも1時間しか働かなかった人に自分と同じ賃金を与えることは不当であると思ったのです。

 この抗議に対して、ぶどう園の主人は、自分はきちんと約束を守っており、悪いことはしていない、そして自分は最後に来た者に支払ってやりたいと主張するのです。この主人は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と語ります。この言葉に、神の意志、思い、望みが込められています。長時間、労働してぶどう園の収穫に役に立ったから多額の報酬を与え、僅かしか働かなかったから僅かな賃金で良い、と言うようには考えないのです。1時間も働いていない、役に立たなかった者をいちばん最初に呼び出して、10時間以上働いた者と同じ賃金を与えることをします。この主人は、そうしたいのだ、と語っています。 

 この譬え話を話すには理由があります。それは、「支払ってやりたいのだ」と言う言葉がこの譬えにあるからです。「したい」「やりたい」というのは、本人の強い意志を表す言葉です。ぶどう園で1時間、働いてもらっても役に立たないし、その人に一日分の賃金をあげることは不合理ですが、憐れみをもって一日分の賃金をあげるのです。誰が何と言おうと自分はこのことをしたいのだ、周りの者がおかしいと言って反対しても断固、やり抜くと言うのです。神は、みんなが強引と言われるようなやり方でも自分の意志を貫くのです。今日、一日働かないと食べることにも困る人を放っておくことは自分にはできないという思いなのです。ここに強い憐れみの心があります。

 主イエスは、この譬え話によって神の強い意志、願い、神の御心が、神のことを忘れ、何の良いこともしていない者のために心を配り、関心をもって愛してくださることを語るのです。

 私たちはその時々によって心が変わるのです。ある時には相手に暖かく接することもありますが、心変わりをして、別の時には手のひらをかえすように、冷たくなったりするのです。心が変わるのです。しかし、神の御心は変わらないのです。どのようなことがあっても神の御心は変わらないのです。私たちは相手の態度や出方によってその心を変えてしまいます。自分が相手に尽くして、相手が感謝をしてくれると、もっとしようと思います。しかし、自分が相手のためにしても、感謝の言葉がないと、気持ちが冷えてしまうのです。
 
 しかし、神は相手がどのように反応しようと相手を愛することを貫くのです。神は愛の意志をもってその愛を貫くのです。神がどのような意志をもっているか、わからないのではないのです。神はある時には暖かく、ある時には冷たく、ある時には深い関心を持ち、ある時には無関心であるというのではないのです。私たちは不幸が続いたり、苦しみが深いと自分は神から罰を受けているのではないか、と思うことがあります。また順調に行っている時には、神は私に好意を持っていると思うのです。しかし、私たちへの神の愛の心は変わらないのです。

 「説教学」という本を出した、ドイツの実践神学者ルドルフ・ボーレンが以前に、逝去し、葬儀が行われ、その葬儀説教で詩編100編の言葉を引用して次のように語られています。ボーレンは最初の奥さんが鬱病で自殺をしてしまい、二番目の奥さんも脳梗塞のために亡くなるような、辛い時を過ごした、しかし、牧場で憩う羊の群れの中に自分を見出すことができた、と語っています。「妻が自分でいのちを断ってしまい、もうどうしてよいかわからなくなってしまい、明らかに自分を失ったとき、ルドルフ・ボーレンにとって、大切なことは、まさにこのこと(わたしたちは主のもの、その民 主に養われた羊の群れ)を告白し、口にすることでした。小さな、失われた、迷い出た羊として、よい羊飼いの憩いの場になお生きることを許されること、それこそがルドルフにとって救いになったのです。二番目の妻が倒れた時も同じでした。」そのように語られています。「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがないとあなたをあわれまれる主は言われる。」(口語訳・イザヤ書54章10節)

 神の御心とは、神が私たちのための神であることを明らかにしたのは、わざわざ自分の外に出て肉体を取り、イエスとなって私たちのところに来たことであり、私たちの罪を贖ったことにあります。「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一 4章10節)

 ある人が「『御心』と訳されている語は、『善意』『慈悲」を意味している。それはイエス・キリストにあって現されている神のあわれみを示している」と解説しています。神はどうしても私たちを救いたいと強い願いをもって行動するのです。

 主イエスは、神がどうしても私たちを救いたいと願う、その願い、意志、御心に従う決断をしています。人間として、神の御心に従うとは、苦しいことです。しかし、主イエスは十字架の受難に向かう中で、ゲッセマネで祈りをしています。「父よ、御心ならばこの杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書22章45節)

 ハイデルベルク信仰問答・問124の答えには、「わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一つの正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく、聞き従えるようにしてください。」

私たちは自分の願いを優先して、神の願うような暮らしではないのです。私たちの生活の全領域がどうか、神の御心に従うものとしてくださいと祈るのです。自分のことよりも神の御心を第一にすることができる、そのような者にしてくださいと祈るのです。ウエストミンスター小教理問答・問103の答えには明確に書かれています。「わたしたちは神がその恵みにより、ちょうど天使たちが天においてしているように、わたしたちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように、と祈ります。」そして、ハイデルベルク信仰問答問・124の答えの後半では、この祈りが神から与えられた召し、呼びかけに応えて委託された務めを果たすことができるように、と祈る、と書かれています。

 この祈りは「天におけるように地の上にも」と言う言葉があります。「天になるごとく」「天におけるように」「天におこなわれるとおり」と訳しています。 「天」とは、神が臨在しているところです。神の御心に従い、服しているところです。神の側では、既に御心は実現しているのです。しかし、この地上では、多くの人々は、自分中心に生き、神がいなくても人間の力で生き抜くことができると思っているのです。神の御心を受け容れていませんし、神の御心に従い、服してはいないのです。つまり、神の愛の御心が地上のすみずみまで行き渡っていないのです。従って神の御心はこの地上では実現していないのです。この祈りは神の御心が一人一人の心となるように祈る祈りです。この祈りは伝道のための祈りなのです。

 かつて、明治学院高校の礼拝に招かれて、説教をした後に、「ドクトル・ヘボン関連年表」という冊子を戴いてきました。その年表の初めに、ヘボン宣教師の両親のことが記されていました。ヘボン宣教師には、弟がいて、父親は兄のヘボンと弟と二人に牧師になって欲しいと願い、弟は長老教会の牧師になった、と書かれていました。そのぺ−ジの下には、ヘボン夫人が1826年に誕生したことが記されていました。私が注目したのは、その下に、書かれていたことでした。「1828年1月7日に、ボストン郊外のローブス宅の祈祷会で日本伝道のための献金始まる。キリスト教(プロテスタント)の伝道対象として東洋の小国・日本に関心がもたれた始まりを意味する。貿易商ローブスは、海外伝道を重要視し、そのため毎月一回の祈祷会をもつこととなり、その第一回のとき、「何処の国のために献金をするかが問題となる。その時、卓上に日本製の献金用竹篭があった。そこでこの竹篭に由来する国へときまり、28ドル87セントの献金が集まったという。(やがて総額が4100ドルとなり、日本伝道のためとしてアメリカンボードへ寄付される)」

 アメリカ長老教会・改革派教会の日本伝道は、1854年に、ヘボン、ブラウンなどが横浜に到着した時から始まると考えていましたが、かなり早い時期から、アメリカの教会の信徒たちが、日本の伝道のために熱心な祈りが捧げられ、そして献金も献げられていたのです。日本伝道のために準備して、アメリカ長老教会、改革派教会の宣教師たちが、アメリカ東海岸から、船で6ヶ月をかけて、日本に到着して、活動を開始したのです。ヘボン、ブラウン、バラ、そして、少し遅れて、タムソン宣教師が来日して伝道を開始したのです。

 昨年は牛込払方町教会創立140周年の記念の年でした。初代牧師、小川義綏はタムソン宣教師の日本語教師として雇われ、日曜日の礼拝、聖書研究に出て、熱意溢れる説教を聞き、懇切な指導を受けて、信仰を与えられたのです。明治2年にバラから洗礼を受けたのです。この時はまだ、キリスト教は禁止されていた宗教でした。そして小川義綏は、日本のプロテスタント教会の最初の長老となり、日本の最初の牧師となって、牛込払方町教会に赴任したのです。伝道に対する熱意をもって一所懸命に伝道に励んだのです。

 主の祈りの3番目の祈り、「御心が行われますように、天におけるように地のうえにも」「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」

 この祈りは、私たちがキリストの福音を伝えて、まだキリストの救いを知らない人々が、神の御心を知り、信仰が与えられて、キリストの愛と恵みに与ることができるようにとの、伝道のための祈りなのです。  

20171231 歳末礼拝説教 「初めから終わりまで神の御手の中に」  山ノ下恭二


(詩編31章15−16節、ヨハネの黙示録1章8節)

 2017年の一年の初めの日、1月1日が日曜日であり、2017年の最後の日、12月31日が日曜日です。1月1日に主日礼拝をささげ、12月31日も主日礼拝をささげています。2017年は礼拝で始め、礼拝で終わる、そのような恵まれた1年でした。この一年、私たちは様々なことを経験しましたが、神に守られて過ごすことができたことを感謝したいと思います。

 皆さんの中には、翻訳が違う、いろいろな日本語の聖書を読み比べて読む人もいるかと思います。以前、用いていた口語訳聖書と、今用いている新共同訳聖書と翻訳が違うところがあります。
 
 本日の礼拝で読んだ詩編31編16節は、「わたしのふさわしいときに、御手をもって 追い迫る者、敵の手から助け出してください。」とありますが、口語訳はそれとは違った訳です。口語訳では、15節になっていますが、「わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。」と訳しています。

 新共同訳聖書は、一つの文ですが、口語訳では、二つに分けて翻訳しています。「わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。」本日は、この短いみことばに集中して思いを深めたいと思います。
 
 この聖書のみことばは何を語ろうとしているのでしょうか。口語訳「わたしの時は、あなたのみ手にあります」と言う場合の「あなた」とは、「神」を指しています。従って、この聖書の言葉は、まず、第一に、「わたしの時はわたしに属していない、わたしのものではなく、神に属していて、神のものである」と言いたいのです。                          

 初めてこのことを聞いた人は、今まで、時、時間は自分のものだと考えているので、時は神に属している、神のものだと言うと驚くかも知れません。誰でも一日、24時間の時間を与えられ、その中で自分で時間を決めて自由に過ごしているのです。しかし、私たちに与えられた時間は、本当は私たちのものではなく、私たちに貸し与えられているに過ぎないのです。神が望まれるなら、いついかなる時でも私たちを地上から取り去ることがおできになるのです。生まれてから今日まで、私たちはそれぞれかなり長い時間を自由に過ごしてきました。そして、今までと同じように、明日もいのちがあり、生活ができると私たちは思っています。

 しかし、そうではないのです。誰でも、明日は当然、来ると思っているかも知れませんが、神が決意される時に、私たちから明日という日は取り上げられるのです。私たちがこの地上の生活を終えて、神のもとに召される時は、自分で決めることができないのです。私たちが誕生する時も自分で決めて生まれるのではないと同じように、地上の生活を終える時も自分たちで決めることができないのです。この時間は私たちのものではなく、神のものであり、私たちの地上の生活は無限に続くものではありません。私たちの地上の生活は、その手のうちにもっておられる方によって終止符を打たれるのです。それがいつであるかは、わからない、それは神が決定されることです。           
 ヨ−ロッパ中世の修道院は、「メメント・モリ」と言う言葉が挨拶でした。「メメント・モリ」この意味は「死すべきことを覚えなさい」という言葉です。自分たちにはいのちの終わり、死がある、そのことを自覚し、死を見つめながら、この時、今日、一日を心を込めて生きるのです。しかし、現代に生きる私たちは、日々、時間に追われて、忙しく過ごしているので、自分が死ぬことを計算に入れて生活しているか、というとそうではないのです。

 井上靖という作家がかつて「化石」という新聞小説で、ひとりの男性を主人公にして書いている小説を読んだことがあります。その男性は社会的に地位のある人で、仕事熱心で元気に働いていたのですが、身体の具合が悪くなって、検査を受けたのです。癌のために余命が限られていることを知って、自分の人生の意味を真剣に考えるようになったのです。自分がいつまでも生きると思っていたのですが、いのちには限界があるのです。自分で時間を自由にできるのではないのです。そして、その時間は神のものなのです。時間は自分のものではなく、神のものだ、神に委ねていくのです。「わたしの時は、あなたのみ手にあります。」このみことばはそのことを第一に示しています。  

 しかし、このみことばは、単にそのことだけを語ろうとしているのではないのです。ここで考えられる第二のことは、私たちの毎日の生活が神のみ手によって支えられ、保護されていることを指しています。詩編23編に記されていますが、羊飼いがいつも羊のことを心に掛け、保護しているように、私たちは神のみ手の中におかれて保護されているのです。神の支配の中におかれているのです。誰かの手中にあると言う時に、それはその人の思いのままに動かされると言うことです。もしそれが悪人の手中にあるということになれば、私たちは悪人のなすがままにされるということになるのです。しかし、ここで言われているのは、神のみ手にあるということです。私たちは神のみ手にあるのです。私たちは悪人の手中にあるのではなく、敵の手中にあるのではない。私たちは神の手中にあるのです。

 神は私たちをみこころによって創造し、私たちを神御自身の相手となさいました。神が私たちと共に生きることを望んで、私たちを片時も離さずに支えて生かしてくださっているのです。そのような神のみ手の中に、私たちの過去も現在も未来もおかれているのです。神が私たちのことを心に留めて、いつも支え生かしてくださっている、そのことを信頼しているのです。そのような信頼があるので、16節後半で、詩人は、自分の敵と自分を責め立てる者から自分を救い出してくださるように、と神に祈っているのです。

 カトリック教会で聖書翻訳を出版している、フランシスコ会訳では、二つの文に分けて翻訳しています。フランシスコ会訳「わたしの生涯はあなたの手のうちにあります。敵の手から、追い迫る者から、わたしを救い出してください。」フランシスコ会訳で言うと「わたしの生涯はあなたの手の中にあります」です。この言葉は、一つには、自分の所有物のように思っている時間は、ほんとうは私たちの自由になるものではない、神は私たちから時間を取り上げるのだということです。もう一つには、時間を支配し、司る神は、私たちの人生の終わりまで責任をもって支え、保護してくださる神である、ということです。

 私たちの生涯は、この神によって支えられているのであり、神は私たちを見捨てることなく、私たちから手を離すことはないのです。イザヤ書46章3B−4節(旧約p1138)「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から負われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

 この神の支えのみ手、保護のみ手ということを考えたいと思います。神が私たちを保護してくださり、神がみ手をもって私たちを支えてくださると言っても、抽象的なことを言っているように思うのです。具体的にどのようなことなのでしょうか。神のみ手ということを考える時に大切なことは、神はイエス・キリストの生涯を通して、そのみこころを示されるということです。私たちが、神がどんな方か、わからなくなったら、イエス・キリストのみ姿を思い起こせば良いのです。

 イエス・キリストはどのような時に、その手を使われたのでしょうか。福音書によるとペトロのしゅうとめの手を取って起こしてその病を癒された手です。(マルコ1章31節)耳が聞こえず、舌が回らない人に対して、イエス・キリストは、「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」(開け)と言われたのです。(マルコ7章32−34節)イエス・キリストによって耳が聞こえるようになった時のあのみ手です。生まれつき目の見えない人に対して、イエス・キリストは「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」(ヨハネ9・6)そうすると目が見えるようになった時のあのみ手です。そして地上での最後の時にゲッセマネの園で血の汗をしたたらせながら手を組み合わせて祈る、そのみ手です。そして十字架に釘づけされた痛むみ手です。

 主イエス・キリストの心は病に苦しみ、不自由な生活をしている者に向けられ、その人々に憐れみの手が差し伸べられています。また神から離れ、神に背いて自分中心に生きている人々に関心を向け、罪を犯している者たちの身代わりとして、その罰を代わって引き受け、十字架で自ら傷を受ける、愛に満ちたみ手です。このように神は私たちを心から愛するので、私たちに愛のみ手を差し伸べてくださるのです。

 「わたしの時は、あなたのみ手にあります。」聖書では、「時」という言葉は、三つあります。一つはクロノスです。この「クロノス」という言葉は、何時何分という時刻を表すものです。今、何時か、と時計を見る。時計のことをクロックと言うが、この言葉はクロノスから来ています。

 聖書で多く使われている「時」はカイロス、ホ−ラという言葉です。この言葉は時刻を表すのではありません。神にとって特別に重要な時間のことです。神が定めた時間です。具体的に言えば、それはイエス・キリストが誕生された時、イエス・キリストが十字架につけられ、復活された時、である。これは神がご計画された特別な時になされた神の業です。

 このことによって神は私たちを心から愛しておられることをはっきり示されているのです。この時を心に深く留めながら、毎日を過ごしていくのです。神は愛のみ手をもって私たちを支配しておられます。私たちはこの愛の中で過ごすことができるのです。私たちはこの愛の御手に支えられながら、この時を過ごすことができるのです。「時をよく用いなさい」(エフェソ5章16節p358)時を生かして用いるのです。

 岡山のノートルダム清心女子大学理事長であった渡辺和子さんは、「人を生かすもの」と言う講演で、自分がアメリカのボストンにある修道院で、夕食の用意をしていた時のことを語っています。130人が食事をするために、テーブルに皿、コップ、ナイフ、フォークとスプーンをおいていた時に、うしろから、お年を召したシスタ−が、来て肩をたたいて、こう言ったそうです。「シスター、あなたは何を考えながらお皿を並べていますか、仕事をしていますか」と言うので「別に考えていません」と答えたそうです。「するとその方が一瞬、厳しい表情をなさり、私に『あなたは時間を無駄にしています。』とおっしゃいました。」「一生懸命におしゃべりもせずに汗を流しながら、手早く、言われた仕事をしているのに、なぜ叱られなければならないかと。怪訝な顔をしてお顔を見ていると、その方が今度は笑顔で私に、『シスター、同じ仕事をするのだったら、同じお皿を並べるのだったら、夕食にお座りになる一人ひとりのために祈りながら置いていったらどうですか』とおっしゃったのです。」

 本日の礼拝でヨハネの黙示録1章8節を読みました。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(新約p452)

 このヨハネの黙示録22章13節に「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである」(新約p480)と語られています。神は初めに天地を創造し、そして完成させ、終わらせるのです。神は初めにいて、顔を出して、どこかに行ってしまい、不在で、終わりに顔を出すというのではありません。「わたしはアルファであり、オメガである」「初めであり、終わりである。」と言うのは、神は初めから終わりまで一貫して、私たちと共にいてくださることをこの言葉は示しています。初めから、終わりまで、神は私たちと共に生きておられ、私たちが罪を犯し、私たちが神から離れても、罪を責めることなく、十字架の犠牲の死によって贖いをなしてくださる、その愛をもって今も私たちを生かしてくださるのです。私たちが生まれる前から、神はおられ、私たちがこの地上での歩みを終えたのちも神はみ手をもって導いていてくださる。神は永遠に私たちを愛をもって治め、支配し、必要なものを備えてくださっている、そのことを信頼していくのです。

 私は、最近、自分の人生の残り時間が少ない、と思うようになりました。年を取ると、自分の人生の残り時間が少ないことを強く感じ、自分はこのままで良いのかと思ってあせったりするのです。老年期は自分の人生をまとめて評価する時で、自分はしていないことがあると思い、中途半端でなくて、何とか完成したいというあせりのような気持ちになるのです。また年を取ることはいろいろなものを失うことにつながります。また、退職して仕事を失い、自分の役割もなくなり、虚脱感に襲われます。親しい者を失って、喪失感に襲われるのです。また体が不自由になったり、体力、気力がなくなり、自信を失うことになります。

 しかし、大切なことは、神が自分を愛してくださり、神がいつも私たちを愛して下さることを信じて受け入れ、神の愛のみ手にゆだねることなのです。

 アメリカの神学者であった、ラインホールド・ニーバー(大木英夫訳)の「信仰と希望と愛」という言葉を紹介します。

 「およそ世に価値あるものにして 人生の時間の中でそれを完成へともたらすことはできない ひとは『希望』によって救われねばならない  およそ真善美のどれひとつとして 歴史の現実の内部で目に見える仕方で実現することはできない それゆえに ひとは『信仰』によって救われる  およそ如何に有能な人間であれ なすべきことをただ独りでは達成することはできない それゆえに ひとは『愛』によって救われるのである」


20171224 クリスマス・イブ礼拝 「クリスマス−愛の物語」 山ノ下恭二


(イザヤ書9章5−6節、ヨハネによる福音書3章16−17節)

 クリスマスは主イエス・キリストがお生まれになったことを祝う時です。世界のキリスト教会が主イエス・キリストが誕生されたことを祝っています。今、「誕生」と言いましたが、教会では昔から「誕生」と言わないで、「降誕」と言う言葉を使うのです。「降る」の「降」と「誕生」の「誕」を組み合わせて、「降誕」と言います。キリスト教の教祖が生まれたと言うことではなくて、神が自分の外に出て、肉体を取り、イエスと言う人間となられて、この地上に誕生したのです。

 クリスマスによく読まれる聖書の言葉は、この礼拝で読まれた、ヨハネによる福音書3章16−17節の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉は、神がどんなに私たちを愛しているのか、その愛の深さを表す言葉です。

 愛という言葉は毎日のように聞いている言葉ですし、使っている言葉です。日本語の「愛」という言葉は、昔から男女の愛を表す言葉として使われてきました。しかし、最近は「愛」と言葉は、男女の愛だけではなくて、相手が困っている状況で助ける時に指す言葉として使われることが多くなりました。阪神大震災でボランティア活動が盛んになり、災害に遭った人々のために働く人々が多くなり、「隣人を愛する」「隣人愛」という言葉も身近に使われています。

 日本語では「愛」という言葉は一つしかありませんが、ギリシャ語には「愛」という言葉を表す言葉は4つあります。一つ目は、日本でも使われる言葉ですが、「エロース」という言葉です。元々はもっと良い意味で使われていたと言われていますが、相手に、愛する価値があれば、愛する愛です。相手に愛する価値がないと愛さない、という意味で使われます。相手に魅力を感じると愛する、相手を愛すると自分が得をする、その意味で使われます。また二つ目に「ストロゲー」という言葉があります。この言葉は、親子や兄弟の間に抱く愛着、愛情を意味します。相手に愛着を感じる、親しい感情をもって愛する愛のことです。3番目に「フィロス」「フィリア」という言葉があります。音楽、美術、など芸術、美しいものを愛する愛、哲学など学問を愛する愛、そして友情などを意味です。
 
 「フィロス」「フィリア」という言葉は聖書に使われていますが、相手に魅力があり、愛するに値する時に愛する愛、を意味する「エロース」、そして親子・兄弟の親しい愛情を意味する「ストロゲー」、この二つの言葉は、聖書には一度も使われていないのです。
 
 このことは、私たちが「愛」について考える時に、とても大切なことです。私たちは、相手を愛する時に、相手から報いを求めていることがあります。相手に親切にしたのに、お礼を言わない、と言って、不満を持ちます。相手を好きになって、贈り物をしても、相手が反応をせず、自分の期待しているような報いがないと憎らしくなるのです。親子の間でも、親が子どものためと思って尽くすのですが、自分が期待したようには子どもが反応しないので、不満になるのです。相手を愛していると言いながら、自分を愛しているのです。私たちの中に、自己愛があるのです。自分のために、相手を愛しているにすぎないことがあります。

 聖書で、圧倒的に使われている言葉は「アガペー」という言葉です。この言葉は、「相手のために自分をささげる愛」です。「相手が愛する価値がなくても愛する愛」です。「相手が自分の愛に応えなくても愛する愛」です。「自分の利益を求めないで、ただ相手のために尽くす愛」です。

 ただ誤解していけないことは、相手に魅力を感じて、恋愛をする、その中で、自分の相手のために尽くすことがありますし、結婚して、相手が病気になり、献身的に看病することがあるのです。親しい友のために、相手のことを思って犠牲を払うこともあります。恋愛の「エロース」の愛が「アガペー」の愛に変化していくことがあります。親子、夫婦の「ストロゲー」の愛が「アガペー」の愛に変化していくことがあるのです。

 神の愛は「アガペー」です。愛、「アガペー」、それは神が自分のことを忘れて、ただ相手のことだけを考えて、犠牲を払う、愛のことです。
 
 「神の愛」ということを、主イエスは譬え話で語っています。その中に、見失った一匹の羊の譬え」があります。百匹の小羊の中で、一匹の小羊がいなくなってしまい、羊飼いは99匹を野原において、その一匹の小羊を捜すのです。危険なところにいた小羊を見つけ、群れのところに連れ戻して喜ぶのです。この譬え話に出て来る羊飼いは神であり、見失った小羊は私たちのことです。
 
 近代はデカルトという哲学者から始まると言われます。自分からすべてが始まるという考え方です。神の存在を考えないで、自分からすべてが始めるので、この羊飼いと羊の物語は分からないかも知れません。神から離れて、すっかり、神との関わりを失ってしまったのです。神など、必要がない、自分の力で生きていける、神を必要としている人は、弱い人である、と考えているのです。そのように私たちは神を失ってしまっているのに、そのことを特別に悪いこととは思わないのです。しかし、神は、神の前から私たちの姿が消え、私たちの存在を失ってしまったことを深く悲しみ、私たちを何とか救いたいと強く願うのです。

 神など信じなくても自分の力で生きていける、そのような者であるならば、勝手にしなさい、自分は知らないと見放すのが普通です。しかし、神はどうしても私たちが神と共に生活をすることを願って、その救いの方法を考えたのです。

 今年、いろいろな事件がありましたが、とても残念なことがありました。北朝鮮に拉致された家族の帰りを待っていた母親が、娘さんに会えずに、亡くなったことでした。北朝鮮によって拉致された横田めぐみさんを日本に連れ戻したいと運動を展開していますが、母親の横田早紀江さんはキリスト者であるから、神に祈りながら、救出活動をしていると思いますが、横田さん夫妻は、できることならば、自分たちが北朝鮮に行って、めぐみさんを探し出して再会し、無事を確かめ、日本に連れ戻したいと願っていると思います。

 私たちには予想もしない方法で、神は私たちが神と共に生活できるように、救いの手段を取るのです。神は自分の外に出て、肉体を取り、イエスと言う、私たちと同じ人間となり、私たちが住んでいる、この地上にわざわざ来られたのです。神が肉体を取って人間になられたのは、私たちと同じ経験をするためです。悲しみを経験し、苦しむ、これによって同じ一つの存在になるためです。そして私たちに代わって私たちの重い罪を担って、刑罰を受けるためです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を救うためである。」口語訳「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 神の最愛の独り子を私たちのために失ったのです。私たちが救われるために、神が最も愛する独り子を失うことによって、私たちを救い出すのです。

 私の名前は山ノ下恭二です。名前を見れば、次男であると分かると思いますが、戸籍には三男と書いてあります。私の兄弟で、私の上に信二と言う兄がいましたが、亡くなったのです。1944年に生まれて、1945年の敗戦の年に、一歳半でなくなりました。両親は自分たちの愛する息子を失って深く悲しんだと聞いています。次男は亡くなりましたが、私の戸籍は三男と書かれています。三男ですが、三男はいないので、私を次男として、恭二とつけたそうです。
 
 幼い子どもを失うことは両親にとって悲しみとなり、大きな痛手になります。わが子を失うという深い悲しみを神は経験されたのです。神は、主イエス・キリストをこの世に派遣し、この独り子を与えるほどに神は一所懸命に私たちを愛されたのです。「愛」、それは、相手のために、自分の時間も自分のからだも自分の財産をもささげることです。相手と共に生きるために自分を忘れて、相手を愛するのです。 

 ヨハネの手紙一 4章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(p445)

20171224 クリスマス礼拝説教 「神の子とされる喜び」 山ノ下恭二


(イザヤ書7章14節、ヨハネの手紙一 2章28節−3章3節)

 本日のクリスマス礼拝において、ひとりの姉妹が洗礼を受けられて、私たちの教会の群れに加わりました。このことは私たちにとって大きな喜びです。洗礼を受けられて、教会のひとつの枝となった姉妹のこれからの教会生活、信仰生活を覚えて祈って行きたいと思います。

 洗礼を受けられたTYさんは、M区の小学校の教諭で、毎日、朝早くから、夜遅くまで、仕事があり、忙しい生活をしています。神の守りと支えにより、健康が支えられて、良い働きをされますように祈ります。学校の行事や、やむを得ない時以外は、礼拝に出席して戴きたいと思います。教会から、近いのですぐに教会に来ることができます。

 TYさんは、幼い頃から、教会に来ており、教会学校育ちです。教会学校の教師たちの祈りと長い間の奉仕を神が祝福してくださって、洗礼にまで導かれたと思います。
 
 私たちは誕生日をもっています。TYさんの誕生日は12月12日です。私たちは誕生して、名前がつけられ、家族からその名前で呼ばれます。家庭に子どもとして迎えられ、子どもとしての地位が与えられるのです。そして、両親は自分の子どもとして扱い、それによって子どもはこの親の子どもであると自覚するようになるのです。自分はこの家庭の子どもであり、子どもとして扱われることによって、自分が誰であるかが分かるのです。

 ヨハネの手紙一 3章1節に「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実、また、そのとおりです。」と語られています。口語訳は、「私たちが、神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えて見なさい」と翻訳しています。わたしたちは神の子と呼ばれると言います。すでに私たちは神の子だと言うのです。3章2節においても「愛するものたち、わたしたちは、今、既に神の子です」と語られています。自分は誰であるか、それは神の子なのだというのです。「あなたは誰ですか」と問われると、私たちは自分の名前を言います。しかし、神はわたしたちを「神の子」と呼ぶのです。私たちは、自分の生活を顧みて、「神の子」と呼ばれるような立派な生活をしているでしょうか。

 自分はキリスト者であると思っていても、「神の子」であるなどと呼ばれるに値いしない毎日です。神をないがしろにし、隣人を憎み、自分本位の生活を送っています。そのような者が、「神の子」と呼ばれているのです。このことは驚きにほかなりません。私たちが、神の子と呼ばれるためには、何があったのでしょうか。聖書は、そこには、神の愛のみわざがあったと語ります。神の愛のみわざがあったので、神の子と呼ばれるようになったのです。神が愛して下さったので、神の子となったと語ります。
 
 ルカによる福音書15章には三つの譬え話が語られています。「見失った羊の譬え」と「無くした銀貨の譬え」と「放蕩息子の譬え」です。最初の「見失った羊の譬え」は、百匹の羊の中の一匹の羊がいなくなって、羊飼いが羊を探し出す物語です。なぜ羊飼いは探すのでしょうか。それは、この一匹の羊は羊飼いのものだからです。「無くした銀貨の譬え」は、十枚の銀貨の中の一枚の銀貨がなくなったのを女性が探し出す物語です。一枚の銀貨はこの女性の持ち物なので必死に探すのです。「放蕩息子の譬え」は、父親のもとにいるべき息子が父親から財産を分けてもらい、父親のもとを離れて、分けてもらった財産をすべてお金に換えて、自己発見の旅に出たのです。ところが、父親から分けてもらった財産をすべて使い果たし、自分を失い、生きる拠り所を失って、父親のもとに帰ることを決心します。父親は、自分のもとに帰って来る息子の姿を見て、自ら駆け寄り、息子が自分の罪を告白して謝る言葉をさえぎるようにして、息子を抱き寄せ、接吻し、帰郷した息子を、罪人としてではなく、自分のまことの息子として暖かく迎えるのです。この「放蕩息子の譬え」は、何を語っているでしょうか。それは、私たちに対する神の愛がどのようなものであるかを語っているのです。
 
 神のもとにいるべき者が、神のもとを離れて、自己中心で生きて来た、その者をイエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、神のもとに帰ることができる、その良い知らせを、この譬え話は私たちに語りかけているのです。私たちが、神の子と呼ばれるためには、イエス・キリストの十字架という贖いの愛があったのです。

 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」と私たちに語ります。元々、「考える」という語は「見る」という語です。ここで私たちが見るべきものは何か。それは神の愛のみわざだというのです。私たちが神の子となるために、神がどのように愛を注ぎ、犠牲をささげてくださったのかを見なさいと語るのです。神の子である私たちは、神の愛にまなざしを向け、見続けるように、と勧めています。私たちは、いつも自分の生活にまなざしを向け、自分にこだわり、不安と絶望の中に座り込むのです。しかし、神の愛にまなざしを向け、キリストがどんなに私たちを愛しているのか、愛という賜物を与えられているかを見なさい、信じなさい、と呼びかけているのです。神を忘れ、自分のことしか関心がなく、自分の生活に追われ、隣人のことを配慮することのない、そのような自分が神の子と呼ばれていることに驚かざるを得ないのです。このような自分を神の子とされている、神の子として、その地位と待遇が与えられ、そのために神の愛の十字架の犠牲があったこと、今なお、愛されていることに驚かざるを得ないのです。

 私が和歌山の田辺教会に在任していました時に、和歌山地区の牧師研修会があり、その時の宿泊場所をある教会の関係者が提供してくれました。そこは高級リゾ−トマンションで牧師たちの生活レベルでは泊まることのできない、豪華な施設でした。部屋に案内されて、その豪華さに驚き、どこかの王様になったような気分になったのです。その時、王様のような待遇を受けたのです。

 神は私たちを神の子として受け容れ、神の子として厚遇してくださるのです。神の前に深い罪を犯しているにもかかわらず、イエス・キリストの贖いにより罪を赦してくださるのです。愛して神の子として厚遇してくださいます。神の前に深い罪を犯しているにもかかわらず、イエス・キリストの贖いにより罪を赦してくださり、愛して神の子としてくださいます。ボロボロの罪の衣を着ていた者に、その罪の衣の代わりにキリストの義の衣を着させてくださいます。私たちはキリストの新しい、美しい義の衣を着て生活することができるのです。

 私たちは、自分を他の人がどのように見ているのか、いつも気にしながら生きています。もっと深刻なことは、自分が自分を正しく見ていないし、自分を正確に把握していないし、理解していない、正しく評価していないのです。この世の中の価値観で自分を評価しているのです。能力、生活力などから判断して、自分は価値がないと思い込んでしまうのです。日本の若者は世界の国々の若者よりも自己評価が低いという調査結果が出ています。自分なんか生きていていても価値がない、何もできない、と心の中で思っている反面、自分の存在を受け止め、愛して欲しいという願いを持っている若者も多いのです。

 私たちもそのような思いにとらわれて、自分を自分で評価してしまいます。成績が悪いから、自分は能力がない、自分は体力がなくなってきているから奉仕できないと嘆き、自分は必要な存在ではないと決めてしまうのです。
 
 しかし、もうひとつの、自分の外からの、神のまなざしによって自分の存在が評価されていることを信じることが必要なのです。その評価は、神による評価です。それは神に愛されているかけがえのない存在であるという評価です。この世のもっている基準で、神は私たちを判断しないのです。あなたは神に愛されている神の子であるということです。

 この神のまなざしをもって、自分にまなざしを向け、自分を見ることが許されるのです。キリスト者らしい、神の子らしい生活を自分のうちに見ることができないのです。にもかかわらず、それでも神の子なのです。私たちは全く新しいまなざしを与えられています。神の愛のまなざしで自分を見ることができるのです。神の愛のまなざしによって自分を見直すことができるのです。

 神の子であるということは、洗礼を受けているということです。洗礼を受けるとは、自分を中心に生きていた、罪に支配されていた生活を終わらせ、イエス・キリストの十字架の贖いによって、神を中心として生きる生活に転換することです。

 「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ1章13節、p368)洗礼を受けることによって、神と共に生きる新しい生活が始まったのです。ある教派は、洗礼式の時に、洗礼槽に白い衣を着て入り、洗礼を受けるのです。「白い衣」というのは「天使」を表すのです。神と共に生きることを意味します。ボロボロの罪の衣ではなく、イエス・キリストの義の衣、罪の赦しの愛の衣を着るのです。私たちは、神の義の衣を着ているのです。その自分を見直すのです。イエス・キリストによって自分はこんなにも愛されている、そのことを喜びをもって受け止めることができるのです。誕生するとすぐに出生届を市役所に届けます。私たちは「神の子」と神の国の国籍係に届けられており、神はその届け出を受け取っているのです。神の国の本籍には「神の子」と命名されているのです。永遠の命が与えられて、「神の子」と命名されているのです。

 このクリスマス礼拝において洗礼を受けられた姉妹は、本日から聖餐にあずかることができます。イエス・キリストが私たちの罪を赦すために、罪の贖いとして、十字架で死んでくださったのです。イエス・キリストが私たちのために、ご自身の肉を裂き、ご自身の血を流してくださいました。キリストの肉を表すパン、キリストの血を表す杯を戴いて、深い罪が赦され、神に愛されていることを深く心に刻むのです。私たちはキリストの身体である教会の一員ですので、互いに赦し合い、助け合って、兄弟姉妹の交わりを続けていきたいと思います。

20171217 主日礼拝説教 「すべての人の救いを見る」 山ノ下恭二


(詩編77編38−42節、ルカによる福音書2章25−35節)

 待降節第三主日礼拝を迎え、クリスマスクランツには、三本のロウソクに火が灯りました。

 長く待つということは、とても忍耐が要ります。長く待っていても願いが叶えられないこともあります。自分の子どもが北朝鮮に拉致されて、その子どもを待っていた母親が先週、亡くなったことが、先週の新聞に掲載されていました。その記事を読んで、長い間、子どもの帰りを待ちわびていたにもかかわらず、再会することなく、亡くなってしまったことは、ほんとうに悲しく、気の毒なことだと思いました。

 今日の礼拝で読みましたルカによる福音書2章25節以下には、二人の老人が主イエスにお会いした物語が書かれています。主イエスはお生まれになってから40日経過した時に、ヨセフとマリアに連れられて、エルサレムの神殿に来られたのです。これは律法の規定によって、初めて生まれた男の子を神に献げるためでした。律法には、どこの家庭でも長男は本来、神のものであり、神のものは神に返す、つまり献げるべきものと決められていました。具体的に神に献げるとは、神殿に仕える者となる、祭司にすることです。しかし、そうなると、家業を継ぐ者がいなくなって困るので、その代わりの代金のように一定の金額を神にささげたのです。この夫婦もこの子を主に献げるために来て、お金を持ってきたのです。これらのことは、すべてのユダヤ人の家庭がしていたことです。主イエスは国籍を持ち、ユダヤ人の子どもとしてお生まれになったのです。私たちと同じ人間になられ、まことの人間となったのです。このことはとても大切なことです。

 しかし、私たちが心に刻みたいことは、もう少し、先の話です。律法に従ってエルサレム神殿に行った主イエスと両親とを迎えるのは、この神殿に仕える祭司のはずです。しかし、ここに祭司が登場しないのは、祭司たちが、主イエスとその両親を心に留めて迎えることはしなかったのです。主イエスと両親を迎えたのは、むしろ、老人です。祭司ではないのです。 

 2章25−26節に次のように記されています。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼に留まっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」このシメオンという人が幼子イエスを、その両手に受けたのです。ルカによる福音書の誕生の物語には、歌がたくさんでてきます。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、そしてシメオンが歌った、シメオンの賛歌です。

 ルカによる福音書2章28−32節にシメオンの賛歌が記されています。「シメオンは幼子を胸に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはあなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」

 この歌を歌ったシメオンについて昔から老人であったとよく言われます。2章36節以下に同じ神殿において、もうひとり、アンナという婦人が登場します。この婦人もやはり主イエスの誕生を祝っています。この人はまさに老女であり、37節には「84歳になっていた」と書いてあります。このアンナとならんで登場するので、シメオンも老人であったと推測したのです。そして2章26節に「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」と書いてあります。また29節に「この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉から考えても、老人であると考えたのです。シメオンが、神様、もう死んでもいいです、わたしの人生の目的を達しましたから死なせてください、そのようなことを言えるのは若い時ではない、年をとっているからに違いない、と人々は考えたのです。
 
 聖書には、シメオンが老人であったとはっきり書いていないのですが、文脈から判断して、老人であると考えてきたのです。昔から教会の人々が、ここに老人の姿を見ていることは、とても興味深いことです。シメオンとアンナが主イエスの誕生を喜んだ、と言う簡単なことを語ろうとしているのではなくて、注目したいことは、主イエス・キリストの誕生を心から感謝して、真実な歌を歌うことができたのは、誰よりも二人の老人であったということです。主イエス・キリストの御降誕の意味を誰よりもはっきり理解したのは、このシメオンとアンナという年寄りであったということです。このことはとても大切なことです。
 
 最近、私は、介護についての話をよく聞くようになりました。話している人が自分の両親を介護している話や、別の人が、遠隔地にいる両親のために遠距離介護をしている話をよく耳にします。教会でも話題になることは、高齢者の生活のことです。他の教会でも、起こっていることですが、教会の礼拝に出られない理由の一つは、自分の両親や親戚の人の介護に行かなければならないということがあります。そして、親や親戚の介護の話から、これから自分が年を取ってからどうなるだろうか、という話題になるのです。いつまでも若く、元気でいられるわけではないのです。年を取っても元気な人もいるでしょう。
 
 100歳になっても若い人と同じように元気な人もいますが、私たちにとって、深刻な問題となっているのは、自分の身体が衰えていくと言うことです。年を取るごとに自分が衰えてきていることを知らされる、身に染みて知らされるのです。肉体が衰えるだけではないのです。心も衰えていくのです。ゆっくりと下り坂を少しずつ降りて行くのです。いつまでも若くありたい、若さを保ちたい、若く見られたい、と健康食品を購入したり、スポ−ツに励んで、ジョギングをしたりするのです。アンチエイジングをするのです。年よりも若く見られて、うれしく思ったりします。席を譲られて、うれしいけれども悲しかったりするのです。高齢者を尊敬していることを表すために、「老人」「年寄り」「おじいさん、おばあさん」という言葉を使わないで、「高齢者」「年長者」「熟年」という言葉を使うのです。私たちは自分が肉体も衰え、心も弱り、自分の容貌がどんどん若さを失い、輝きを失っていく、その事実をしっかり見据えていく必要があります。年を取っていく、身体も心も衰えていく、このことを自分が受け容れる勇気が必要です。

 そして私たちは自分が死ぬということに直面するのです。身体が衰えていくだけではなく、私たちは自分が死を迎えるのです。そのような時に、自分の人生の意味を確かめたいという思いを持つのです。私たちは身体の衰えと死ということを経験するのです。このことは、人生の難問です。何でも、始めるのは簡単ですが、どのように終わらせるのか、は難しいのです。高齢となって問題を起こして、晩節を汚すことがあります。最後に、良い人生であったと神から言われるあり方はどのようなあり方なのでしょうか。

 シメオンはどんな容貌の人であったか分かりません。もし実際にシメオンが年をとっていたら、白髪の老人であったかも知れません。アンナという84歳の婦人は腰が曲がって、皺だらけであったかもしれないのです。しかし、彼らは、自分のことよりも、神に心を向けていましたから、彼らの顔がまさに輝きに満ち、感謝に溢れていた美しい顔であったことは間違いないのです。シメオンはこのような賛歌をなぜ歌うことができたのでしょうか。 
 
 注目することは、25、26、27節に繰り返して「聖霊」について語っていることです。このシメオンを聖霊がとらえていた、聖霊が導いていた、聖霊が支えていた、のです。聖霊がシメオンに宿っていたのです。この聖霊が宿っていたと言うことはどのような意味なのか、と言うと、それは神がいつも共にあったと言うことです。聖霊が共にあった、神がいつもシメオンを導き、シメオンはいつも神のみこころを中心に生きていたのです。聖霊の導きによって、シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいたのです。自分をも含めて、神の民と呼ばれるイスラエルが慰められることを待ち望んでいたのです。
 
 シメオンは、年老いていましたから、そこで起こる身体の衰えを経験しているのです。自分が生活していくだけでもかなり大変です。年を取ることの問題の一つは年を取ると、自分のことしか考えなくなるということです。老年心理学の本に書いてありましたが、老年のひとつの特徴は、自分が周りからどのように扱われるのか、ということがとても気になることだと書いてありました。周りの人たちが自分に親切にしてくれるのか、それともそうでないか、敏感になるというのです。
 
 しかし、シメオンは、聖霊に導かれて、自分をも含めて、多くの人々の救いに関心があり、神の民と呼ばれているイスラエルが、慰められなければ、自分は死ぬわけにはいかないと祈っていたのです。神の民と言われながら、神のみこころに適うことのない人々がほとんどであることに悲しみ、神によって救われるように祈っていたのです。

 詩編77編を今日の礼拝で読みました。この詩編で、詩人が、神は自分たちを捨てたのではないか、と問うています。77編9−10節「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に絶たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」シメオンはイスラエルの民が、神の愛の契約を忘れ、まことの神を礼拝することなく、隣人を愛することもない、そのことを深く悲しみながら、しかし、聖霊によって神のみこころを思い巡らし、祈っていたのです。詩編77編12−13節には詩人が神に心を向け、神の御業を思い巡らしていることが記されています。「わたしは主の御業を思い続け いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら あなたの御業を思いめぐらします。」シメオンは、深く慰めを求め、腹の底からすべての人々の救いのために、祈っていたのです。
 
 老いていく、自分の身体が衰えていく、それはとても辛いことです。そのような悩みを抱えて行くのですが、その中で神から与えられた使命があるのです。神から与えられた役割があるのです。それは祈りです。からだが弱り、からだが動かないようになっても祈りはできるのです。

 ヘルマン・ホイヴェルスが「人生の秋に」という随想集の中で、自分の友人からもらった「最上のわざ」という詩にこういう一節があります。「この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。」「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。」
 
 身体が衰え、手も不自由になる、しかし、祈ることができるのです。シメオンはイスラエルが慰められるようにいつも祈っていたのです。私たちも祈ることができるのです。私たちは家族の救いのために、近所の人々の救いのために、この日本が誤った方向に向かわないで、まことの神を礼拝し、隣人を愛することができる国になるように祈っていく、そのような祈りをしていく役割があるのです。老いて、身体が衰えて、不自由になっても、身体が動かないようになっても、横になったままで祈ることができるのです。自分が、罪が赦され、慰められ、その慰めを知っているので、若い者、幼子のために祈ることができるのです。

 シメオンは、幼子を見たのです。2章30節に「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と書いてあります。2章26節には「主が遣わすメシアに会うまで」とありますが「メシアを見るまで」という言葉が元々の言葉です。シメオンは、救いをみることができたのです。主イエスはどこにでもいる幼子に見えたに違いないのです。しかし、シメオンは、聖霊に導かれて、この幼子を救い主であると信じることができたのです。

 私たちは聖霊に導かれているので、神の救いをこの幼子イエスの中に見ることができるのです。この幼子が実は、まことの神が肉体を取り、人となられた神の御子である、そのことを信仰のまなざしで見ることができるのです。
 
 シメオンは賛歌を歌っただけではありません。母マリアに語りました。2章34−35節に語られています。この幼子イエスがどういう死に方をするか、そのために、マリアがこの子の母としてどんな悲しみを味わうかを語っているのです。シメオンはもうすぐ死んでしまうのです。そして今、自分が抱いているこの子も、やがて死ぬのだ、その死に方は、母マリアをとても悲しませるだろうと言うのです。子どもが死ぬ、しかも普通の死に方ではない死に方で死ぬ、それは深い悲しみになりますが、そのことによって、すべての者が救いにあずかることができるのだ、と言うのです。シメオンは、主イエスの誕生から十字架の死までの主イエスの生涯をすべて見渡し、主イエスの生涯が私たちの救いのための生涯であることを見抜くことができたのです。
 
 シメオンは、イスラエルが慰められることを待ち望み、神が自分の願いを聞き届けてくださるように祈っていたのです。この願いが神によって聞き届けられるならば、自分は安らかに死ぬことができる、と思っていたのです。
 
 シメオンは主イエスを抱き、主イエスを見て、救いを見ることができたのです。この主イエスこそが、神と人間を結ぶ仲保者であることを確信することができたのです。神が主イエスによって罪を犯した人間を見放さず、見捨てないで、そば近くに来て、罪を赦し、交わりを造ってくださっているのです。そのことによって、私たちは慰められているのです。
 
 この主イエスによって罪の贖いがなされ、神との交わりが回復することができたのです。主イエスが誕生することによって、新しい時が訪れていることをシメオンははっきりと認識できたのです。シメオンの願いは神に聞かれ、神の愛の支配の時が訪れたのです。シメオンは実際に安らかに死ぬことができるのです。すべて神に委ね、神に信頼して、自分の身を委ねているのです。
 
 これから自分が老いて、身体が衰え、死んで行く、自分はどうなるのだろうか、と不安になることがあります。しかし、私たちは、神が私たちを、愛をもって導いてくださるので、これからの将来のことはすべて神を信頼し、委ねていくことができるのです。

20171210 主日礼拝説教 「隠されたしるし」 山ノ下恭二


(ヨナ書2章1−10節、マタイによる福音書12章38−42節)

 礼拝堂にあるクリスマスクランツには二本のろうそくに火が灯っています。待降節第二の主日礼拝を共に守っています。これからクリスマスを迎える準備で忙しくなりますが、待降節の礼拝でクリスマスのほんとうの意味を改めて学びたいと思います。クリスマスは、一般的に主イエスの誕生を祝うことだと理解されています。しかし、私たちはその理解のレベルに留まらないで、主イエスの誕生によって神がどのような方なのか、何をなさろうとしているのか、をよく心に留めたいと思います。

 マタイによる福音書13章38−42節は、主イエスと当時の宗教家である律法学者とファリサイ派の人々が、主イエスが何者であるかについて問答をしています。律法学者とファリサイ派の人々は、主イエスに「先生、しるしを見せてください」とお願いしたのです。この願いに対して、主イエスは「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしが与えられない。」と答えています。皆さんは、この言葉をどのように理解しているでしょうか。律法学者とファリサイ派の人々は主イエスにしるしをみせてくれ、と何度も求めていたのです。マタイによる福音書16章1節以下にも同じことが記されています。この「しるし」は主イエスが神であることを証明するしるしのことです。神にしかできないような、みんながそのしるしを見て驚いて、この人こそ神だと思わせるような奇跡をして欲しいと願ったのです。旧約聖書には、神にしかできない自然界の異変が出て来ます。いなごを大量に発生させたり、川を血の川にしたりすることです。主イエスが神であることを証明するしるしです。例えば、主イエスが右手を挙げれば、数千羽の鳩が空を飛ぶとか、左手を挙げると、地震が起きると言うことです。
 
 実際に律法学者やファリサイ派の人々は、主イエスがどのような能力をもっているか、この目で確かめたい、と思っていたのです。主イエスが神であることを示す奇跡を起こして自分たちに見せれば、神であることが分かるので、神
であることを証明する奇跡を起こして欲しいと願ったのです。人がしたことがない、超自然的な奇跡を起こすならば、神として認めると言うのです。このことは主イエスの実力がどの程度のものか、試すことになります。なぜ、そのような証拠を求めるのでしょうか。それは主イエスを信じていないからです。信じると言うことは、その奇跡を見てから信じるということではないのです。信じるということは、見ないで信じると言うことなのです。この目で見たら信じる必要はないのです。
 
 主イエスは、この人々がしるしを求めたことに対して、拒絶されました。そして、主イエスは今更のように、彼らの不信仰に驚いたのです。マルコによる福音書8章12節には「イエスは心の中で深く嘆いて言われた。『どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう』」と記されています。マタイによる福音書では12章39節で主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちは、預言者ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられない。」と答えています。主イエスにしるしを求めた人びとに「よこしまで、神に背いた時代の人々」と言います。この「時代」と言う言葉は、「生まれてこの世に生きている人々」という言葉です。よこしまで神に背いているのは、律法学者やファリサイ派の人々だけでなく、私たち自身のことです。よこしまで神に背いていると言うのは、神を信じないで、自分の目に適い、自分の考えに適うことを求めるということです。それは信仰がないということです。主イエスが神であることを証明する奇跡をして見せて、それで自分たちが神であると認めれば、それで神となるのだ、と言うのです。自分が認めたものであれば、神として扱うと言うのです。それこそ、よこしまで、神に背を向けたあり方なのです。
 
 主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と語るのです。この「ヨナのしるし」とは旧約聖書のヨナ書に登場する「ヨナ」に関することですが、ヨナ書2章にありますように、ヨナが、大魚の腹の中に三日三晩いたことを指しています。ヨナは大魚の腹の中にいたのですから、ヨナの姿を見ることはできません。ヨナのしるしとは人間の肉眼では見ることができない、そのようなしるしなのだ、と言うのです。 
 
 11月26日のクリスマスコンサートに私の知人が来ていましたが、何度かコンサートで来ているのですが、道に迷ったそうです。鰻坂を登る手前に教会の看板があったので助かった、と言っていました。教会は見えていなくても、教会の看板があったので、近くに教会があることが分かったと言うのです。牛込払方町教会はどこにあるのか、それは何カ所も看板があるから、教会がどこにあるのか、分かるのです。電車に乗って、外の景色を眺めていると、十字架を見ることがあります。どういう教会なのか、と思いますし、ここにも教会があって、キリストの福音が伝えられていることをうれしく思います。十字架というキリスト教のシンボルがはっきりしめされていて、教会があることが分かるのです。

 しかし、預言者ヨナの姿は、大魚の腹の中にあるので、外側から、外見からは分からないのです。ヨナの姿は隠れていて、どこを捜しても人間の目ではヨナの姿を見ることができないし、確かめることはできないのです。

 主イエスが語っている「ヨナのしるし」とは「隠されたしるし」なのです。私たち人間のまなざしでは見えないけれども、神から与えられた、信仰のまなざしをもって見るならば、神の業が見えるのです。信仰によって神の働きを見ることができるのです。
 
 私が中学生の時に、私が教会に通っていることを知った同級生が、私にこういうことを言いました。神なんか目に見えないんだから、神なんかいない、と私に言った時に、私は「自分には神が見えるんだ」と答えたら、「へえ、君は超能力をもっているんだ」と嫌みを言われたことがあります。神はいないと思っている人は多いけれども、他方、人は神についてそれぞれイメ−ジを持っているのです。神は力を持ち、何でもできる万能な存在だと考えているのです。人間にはできないことでもできる、偉大なことを行うことができる存在であると考えているのです。そして何かの災害があると、神を恐れるのです。
 
 確かに神は力を持っています。しかし、まことの神はその力を誇って人々にその力を見せることはしないのです。私たちが信じている神は、愛において相手のために自分の力を発揮する神なのです。医師が、難しい手術に取り組み、自分の持っている知識やテクニックを使って、患者の健康の回復のために力を尽くすように、神は私たちの救いのために、一所懸命に力を尽くすのです。
 
 一般的に、人間の思いからすれば、クリスマスはイエスという教祖の生誕祭に過ぎないと考えているのです。しかし、信仰を与えられた者にとってクリスマスの出来事は、神の愛から出たものだと信じているのです。神が私たちの救いのために、自分の外に出て肉体を取って人間になられた、主イエスにおいて神を顕したのです。神が覆いを取って神の正体を明らかにするのです。このことを啓示と言います。

 律法学者とファリサイ派の人々は神の律法を良く知っていましたし、神のことは、神以上に知っていると思っていたようです。しかし、彼らの関心は、神がどうであるか、と言うことよりも、いかに律法を守り、細かい戒めに心を配り、落ち度のない生活をしていくのか、そのことにのみ関心をもっていたので、どのような神なのか、には関心を持たなかったのです。

 律法学者やファリサイ派の人々は、旧約聖書を読んでいたのに、旧約聖書に登場する神を理解していなかったのです。これは驚くべきことです。

 神はイスラエルの民を愛したのです。この神の愛は半端ではないのです。エジプトで奴隷であった民を解放し、そしてイスラエルの地に導いたのです。奴隷から自由になった民がその自由を、神を礼拝し、隣人を愛する、そのために自由を用いるようにと契約を結んだにもかかわらず、そのことに背き、偶像を礼拝し、隣人を愛することはなかったのです。しかし、そのような民を見捨てることなく、愛し続けるのです。
 
 旧約聖書のホセア書10章8−9節(旧約p1416)には、イスラエルの民が、神に背を向けて、偶像を礼拝し、自分のことだけを考えて、隣人を愛することがなかった、その民を見捨てないと語ります。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。わたしは怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」

 ミカ書7章18節(p1458)には「あなたのような神がほかにいるでしょうか。あなたは、ご自分の残りの者のために、咎を赦し、罪を見過ごされ、慈しみを喜び、いつまでも怒りに固執されることがありません。」と語られています。
 
 この旧約聖書のみことばによって、神がどのような方なのか、はっきり示されています。神は他者のための神となられる、ということです。神が神であることを顕すのは、自分の存在を顕す、自分がいかに優れているか、自分がいかに支配する力をもっているかではなく、他者のために愛をもって全力を使い果たす神なのです。愛において私たちと深く関わる神なのです。神が自分の外に出て、肉体を取って、主イエスとなり、誕生されたのです。それは私たちを愛するためにです。この神は自分を偉大な者として、力をもって、みんなの前に顕すことをされないのです。人間は自分がさも能力があり、力があるようにみんなの前で誇りますが、神はわたしたちのための神になってくださり、愛をもって関わる神なのです。

 このことは信仰によってしか、見ることができないものなのです。主イエスを見ても、外見から見ても、神とは思えないのです。普通の人間に過ぎないのです。聖霊によって信仰が与えられないとまことの神を知ることができないのです。秘儀、秘密、機密、ミステリーなのです。教会で行われる聖餐式は、サクラメント、ミステリーなのです。信仰によってしか、理解できない出来事なのです。このパンをキリストの肉を表すものとして戴く、キリストが裂かれた肉として戴くのです。杯もキリストの血として戴く、キリストが流された血潮として戴くのです。

 最近、中村哲という医師の本を読んでいます。「医は国境を越えて」「医者 井戸を掘る−アフガン旱魃との戦い」という本です。中村哲さんのことを知ったのは、中村さんが北九州の若松出身で、私が若松教会におりました時に、パキスタンから帰国して、ペシャワールでの医療活動の報告会が八幡の教会であり、出席し、その時に中村さんから話をきいたことによります。中村さんは、1984年からパキスタンのペシャワールで医療活動を始め、ハンセン病や重病に罹った現地の人々の医療に携わり、アフガン戦争で戦火を逃れてきた難民のために仕えて来たのです。その関わりの中で、旱魃のために現地の農業が壊滅的な打撃を受けていることを知り、人間のいのちを支える「水」を確保することが最も重要であることを認識し、旱魃の時にも、作物を潤す水が手に入るように、井戸を掘って用水路の造成を始めたのです。ペシャワールで医療活動、用水路の造成の活動をしていく中で、次男を病で亡くし、そして、ペシャワールで医療活動に従事してきた伊藤という人が殺害されるという不幸を経験しましたが、それでも、現地に留まって、アフガンの人々のために働いているのです。

 アメリカの同時多発テロによって、アメリカがアフガンに空爆を始めることになり、日本大使館から帰国命令を受け、帰国しなければならなくなった時に、現地の人々に挨拶をして、中村哲さんは、現地の医療スタッフに挨拶をしています。挨拶の一部ですが紹介します。「今、私たちは大使館の命令によって当地を一時退避します。すでにお聞きのように、米国による報告で、この町も危険にさらされています。しかし、私たちは帰ってきます。ペシャワール医療センターが諸君を見捨てることはないでしょう。死を恐れてはなりません。しかし、私たちの死は他の人々のいのちのために意味を持つべきです。」「長老らしき者が立ち上がり、私たちへの感謝を述べた。『皆さん、世界には二種類の人間があるだけです。無欲に他人を思う人、そして己の利益を図るのにくもった人です。ペシャワ−ル医療センターはいずれかお分かりでしょう。私たちはあなたたち日本人と日本を永久に忘れません。』これは既に決別の辞であった。」一人のキリスト者の医師の働きによって、アフガンに5つの医療センターができ、千もの用水路が造成されているのです。中村さんは、自分のことはどうなっても良い、アフガンの人々のためにいのちを献げるのです。

 主イエスの誕生は、キリスト教の偉大な教祖が生まれたということではないのです。神が私たちを深く愛してくださるために、わざわざ、ご自分の外に出て、肉体を取り、人間となってこの地上にきてくださったのです。主イエス・キリストのご降誕は、神がわたしたちのための神となってくださると言う愛の出来事なのです。このことは信じることによってしか分からないことです。聖霊によって信じることによってしか、クリスマスの意味を知ることはできないのです。信仰を与えられていない人にとっては、ミステリーなのです。秘儀、秘密なのです。

 マタイによる福音書12章41節で、主イエスは、ヨナがニネベに行って説教をして人々が悔い改めた、そのことを語りながら、「ここに、ヨナにまさるものがある。」と語ります。ヨナの働きを評価しながらも、しかし、「ヨナにまさるものがある」と語ります。ヨナという預言者よりも勝った神の子イエスがここに存在するのです。預言者ヨナは、神の言葉を語った預言者ですが、神の言葉そのものである主イエスがここに存在すると主イエスは語っているのです。口語訳では「しかし、見よ、ヨナにまさる者がここにいる」と訳しているのです。この言葉は、主イエスの存在だけを言っているのではなく、主イエスによってもたらされた福音のことをも示しているのです。最近の翻訳では「ヨナにまさるもの」とあり、人物の「者」ではなくて、主イエスがもたらした「福音」そのものがあると訳しています。

 そしてソロモンについても語っています。ソロモンは神の知恵を持っていたので、外国からその知恵を求めてやって来たのです。神のところに知恵があり、その知恵を人間は持つことができず、隠されているのです。人間は獣が子どもを生む時間を知ることができないのです。ソロモンは神の知恵を把握できた、しかし、主イエスは、その優れた知恵よりも勝った存在なのです。ソロモンの知恵よりも勝った、主イエスである神がここにいるのです。主イエスこそ、すべてに勝って大いなる者なのです。

 神の愛を語っているみことばには、神の愛と主イエスの死と深い関わりがあることを明らかにしています。ロ−マの信徒への手紙5章8節には、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と語られ、神の愛と主イエスの死とが分かちがたく結び付けられて語られています。

 ヨハネの手紙一 3章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」主イエス・キリストがわたしたちの罪を贖ってくださった、ここに愛があるのです。十字架の死、わたしたちが受けるべき、神の罰、裁きを神の子である主イエスが身代わりになって引き受けてくださる、このことを神の愛と呼ぶのです。

 この主イエスの死、そこには、どこにも神らしい姿はないのです。しかし、神は本領を発揮して、肉体を取り、人となられ、十字架の苦難と死を引き受けられたのです。人間には、思いもよらず、考えも及ばない方法で、救いの道を切り開かれたのです。

 コリントの信徒への手紙一 2章8−9節(p301)「この世の知恵の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞こえもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。」

 人の目には適うことはないけれども、しかし、ここに神のわざ、神のしるしがあるのです。ここにこそ、救いのしるしがあるのです。

20171203 主日礼拝説教  「救い主を受け容れず」  山ノ下恭二


(イザヤ書50章1−11節、マタイによる福音書13章53−58節)
 
 今日から、キリスト教会の暦では待降節(アドベント)に入ります。この礼拝堂の講壇の近くにクリスマスリースが飾られ、今日は、一本のろうそくに火が灯りました。これから3週間の間、主イエス・キリストのご降誕の意味を心深く受けとめながら、過ごしたいと思います。

 本日の礼拝において、マタイによる福音書13章53−58節のみことばを聞きました。この物語はマルコ、ルカの福音書にも記されており、最初の教会の人々に深い印象をもって受け取られ、残された物語です。マルコによる福音書には、このマタイによる福音書よりももっと詳しく記されています。この物語は、マルコによる福音書6章1−6節に記されていますが、この6章5−6節には次のように記されています。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」主イエスが故郷に行き、説教し、教えたけれども、人々は受け容れないで拒否したので、主イエスはその人々の不信仰に驚かれたのです。主イエスがなさろうとする神の業をすることができなかった、と書かれています。

 この物語について一つの解釈は、自分の生まれ故郷で伝道するのはとても難しい、そのように一般化して解釈することです。自分が生まれ、育ったところで伝道することは難しいと理解するのです。説教しても、聴き手が説教者を神の言葉を語る説教者と見なさないのです。そしてその説教を神の言葉として聞かないのです。かつて、私が出身教会の鹿沼教会で説教した時に、献金の祈りで「恭二ちゃんの説教」という言葉があり、説教者としてではなく、幼い頃から知っている人としか、見ていないことを知らされたのです。私たちの教会で小さな頃から教会で育ち、洗礼を受け、神学校で学び、牧師となった人の説教を聞いて、その説教を神の言葉として受けとめるよりも、自分との人間的な関係の中でしか説教を聞かないのです。人間の言葉としか聞かないのです。自分は、小さい頃からこの人を知っている、礼拝堂を駆けずり回ってうるさい子だと思ったけれども、ずいぶん成長して説教もできるようになった、大人になったとしか受けとめないのです。

 そのようにこの物語を、故郷での伝道の難しさを教える物語として理解することが多いのです。また、家族に伝道する難しさを教えるものだと理解するのです。自分の家族に福音を伝えることの難しさを教えるものだと理解するのです。しかし、この物語は、むしろ、主イエスが語る神の言葉を受け容れない、不信仰が強調されています。この物語は、私たちが神の言葉を受け容れない頑固さを明らかにしているのです。イエス・キリストの福音を受け容れることをしない、不信仰が暴露されているのです。そのように理解することができます。

 マタイによる福音書13章54節には次のように書かれています。「故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。」主イエスの説教を聞いて驚いたのです。ほんとうにびっくりしたのです。「驚く」と訳されているギリシャ語はいくつかありますが、ここに使われている語は頻繁には使わない語です。「ほんとうにびっくりする。」という語です。この同じ語が山上の説教を終えた後に、次のように用いられています。「主イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。」(マタイ7章18節 p13)「非常に驚いた」と訳したほうが良い言葉です。非常に驚いたので、どうなったのか。57節には「このように、人々はイエスにつまづいた。」とあります。

 主イエスの説教には権威があったことに驚いているのです。私たちが人の話を聞いている時に、この人はよくいろいろなことをよく知っていて博学だと思う、もの知りだ、と思うことがあります。しかし、ここでは、もっと力があり、深いものがあることに感心し、驚いたのです。しかし、驚いて感心したから信じるようになったかというと、そうではないのです。主イエスの教えに驚いて感心して信じたと書いていないで、「イエスにつまづいた」と記されています。
「つまづく」という言葉はスキャンダルという言葉の元々の語であり、石がおいてあってつまづいて倒れるという言葉です。「イエスにつまづいた」と書いてあります。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。

 教会にも、さまざまな方が来られます。私の説教を聞いて、感心したという人もいるかも知れませんし、説教を聞いても、余りピンと来なかったという人もいると思います。今日の説教が良かったと言われるとうれしいのですが、それで十分だと言うことはないのです。説教者は、説教を聞いている人々が、聞き耳を立てる説教、聞かせる説教をするためにどうしたら良いのか、と考えながら、説教を組み立てているのです。説教をしはじめて、会衆が眠たくなるような説教ではだめだ、と言われます。

 眠らないで、その説教を聞いて、感心し、驚いても、良かったと思っても、それで良いのではないのです。十分ではないのです。説教に少しも感心しなくても、神を信じることのほうが大切なのです。その意味で、説教は人々を感心させたり、驚かすためにあるのではないのです。ただ、良い話を聞いた、参考になった、知らないことを知り、広い教養が身についた、そのために説教があるわけではないのです。信じてもらうためのものです。人々は、主イエスの説教に感心し、驚いたのです。しかし、つまずいたのです。腹を立てて、なんだこんなものかと言って、立ち去ったのです。主イエスの説教を聞きながら、主イエスのもとから立ち去った、なんともったいないことをしたと思います。

 この物語の初めと終わりに同じ言葉が出て来ます。54節には「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」とあり、56節にも「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」とあります。「どこから得たのだろう」と言う言葉が同じです。人々は、どこから来たのか、主イエスの知恵と力とは、と驚いたのです。ところが、その時に主イエスを信じることをしなかったのです。
 
 「どこからか」と問いながら、人々は周りを見回して「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」というのです。自分たちは、主イエスの家族も知っているし、幼い頃から知っているというのです。小さい村ですから、互いによく知っているのです。自分たちの経験や知識の中でしか、考えることができないのです。「このような知恵と力」はどこから来たのだろう」そう思ったのですが、答えが見つからなかったのです。

 人々は、主イエスがヨセフの子、マリアの子、あの兄弟姉妹の兄であることはよく分かっているのですが、この主イエスのどこに、力の源泉があるのか、どこから来たのか、どこからあの力が来たのか、分からないのです。なぜ、分からなかったのでしょうか。それは、彼らが自分たちの世界の中でしか、考えなかったからです。自分の今までの常識や経験に頼っていたからです。

 「主イエスの知恵や力がどこから来たのか」と問うならば、自分の今までの常識や経験を打ち破って、未知の世界に入ることをしても良いと思います。自分たちの世界だけしか見ていないのです。自分の外へ踏み出していくことをしないのです。自分たちの外へ踏み出して行くことをしないのです。自分たちの外に踏み出していくならば、新しい人生が開けていくのです。しかし、自分の世界に留まって、主イエスのことを、以前から知っている、幼なじみとしか見ようとしないのです。

 しかし、非難されるのは、故郷の人々だけではないのです。私たちが礼拝で説教を聴いている時に、自分を中心に説教を聴いていることがあるのです。自分の経験の枠の中で、説教を聞いているのです。説教が自分の関心に合う話題に触れると耳を傾けて、よく聞くことがあります。自分にとってこの説教は意味があるのか、自分にとってこの説教は利益になるのか、そのような聴き方があるのです。「自分」から離れることがないのです。神が私に語りかけている、それは自分の罪をはっきり示されることがあるのです。それは自分には嫌なことなのです。

 自分の抱えている問題を解決するために、そのことを求めて説教を聞いていることがあるのです。説教を自分の問題を解決する手段としてしまうことがあるのです。

 北九州の若松教会に在任しておりました時に、こういう経験をしました。日曜日の夜に、一人の女性から電話がありました。その女性は、その日の日曜日の礼拝に初めて来て、説教を聞いた人です。自分は、これからどのようにしたら良いのか、迷っていた、これから地元に留まるのが良いのか、それとも東京に行って、仕事を見つけて働くか、どちらかに決めようと思って、教会に行ってお話を聞いて決めようとしたところ、先生の説教を聞いて決心がついた、教会に来てよかった、ありがとうございました、と言って電話が終わったのです。この電話の後で、私は説教の中で、具体的にこれからの進路について話した覚えもないし、どの言葉で進路を決めたのだろうと不思議に思ったのです。いまだもって私にはわからないことなのです。

 説教を自分が生きるための参考にしたり、手段にすると言うのは、正しい聴き方ではないのです。それは、説教は説教者を通して、神が語りかけていることなのであって、自分が神の言葉に答えていくことなのです。相手が話したことに対して、私たちは応答するのです。あなたの話はもっともなことだ、正しいことだ、従いますと答えます。他方、あなたの話に同意できないし、反対だ、従うことはできない、と答えます。どちらも人格的な応答です。神の言葉が語られます。それに対して、私たちは誠実に応答するのです。

 以前に、東大宮教会で加藤常昭先生を迎えて、説教の聞き方についてお話を伺ったことがあります。どうして、礼拝の10分前に、椅子に座り、口を閉ざして、礼拝を待つのか、それは説教を聞くために準備が必要だからだ、という話でした。人の話を聞きにきているのではない、神の言葉を聞きに来ている、その心をもって説教を聞いて欲しい、その心をもって備えるために、礼拝開始の10前に着席して、静かに待つのだ、と言うのです。自分のために説教を聞くのではなくて、神の言葉を聞いて、自分の罪が暴露されて、悔い改めて、まことにここに神がいますと告白する、その信仰をもって聞いて欲しいと言うのです。キリスト教会の真実な礼拝の姿はコリントの信徒への手紙一 14章24-25節に記されています。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会にきて間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(新約p319)

 故郷の人々は、主イエスの権威ある言葉を神の言葉として、受け容れて聞くことができなかったし、主イエスそのものをまことの神として受け容れることはなかったのです。故郷の人々は主イエスを受け入れなかった、そのような経験をするのは、主イエスが初めてではなく、預言者は故郷や家族のあいだで、敬われない、受け容れられなかったのだと語るのです。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。

 旧約聖書の中で、預言者として苦しみながら預言した一人にエレミヤがいます。このエレミヤは小さな村の祭司の子であり、名もない預言者です。人々はエレミヤ自身を受け容れなかったし、エレミヤの預言も受け容れなかったのです。人々はなぜエレミヤの預言を受け容れなかったのでしょうか。それはエレミヤが神の審判を語り、悔い改めを語ったからです。エレミヤはイスラエルの民が神の前に正しく生きていないことを指摘し、人々の不信仰を徹底的に告発したのです。それは神がそのように語れと言われたので、その神の言葉を語っただけなのです。「エルサレムの通りを巡り よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ。ひとりでもいるか 正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」(エレミヤ5章1節 p1182)「エルサレムよ あなたの心の悪を洗い去って救われよ。いつまで、あなたはその胸に よこしまな思いを宿しているのか」(エレミヤ4章14節p1181)預言を記録した巻物を王に読んで欲しいと願って、この当時の王のところに持って行ったのですが、王はエレミヤが一番、大切にしていた予言集を燃やしてしまうのです。このように民も王もエレミヤとその預言を受け容れなかったのです。

 神の言葉を聞いて、受け容れることは、自分の生活を切り替えることになるので、それには抵抗があるのです。自分の生活を変えていく、そのことは自分にはとても大変なことなのです。自分の生活を変えたくないのです。現状を維持したいのです。神の言葉に従って行く、それは自分の生活を変えていくことになります。説教を聞いて、気分が良くなった、落ち込んでいたけれども、元気になった、自分の知識が増えた、生活するのに参考になった、だけであるならば、簡単です。特別に自分の生活を変える必要がないからです。しかし、神を自分の生活に受け容れ、神を中心とするならば、自分を中心とした生活を放棄しなければならなくなるのです。それは、自分の生活を大きく転換することになるのですから、覚悟が要ります。神を神として受け容れることは、自分が生活の中心でなくなるので、嫌なのです。

 ある人が自分の家に来て、今日から自分がこの家の主人になったから、自分がこの家に住む、と言い出したら、とんでもない、この家は私の家だ、出て行ってくれ、と言うに違いないのです。この家は自分のものだ、と誰でも思っています。私たちは、自分の領域と言うものをいつでも確保しているのです。神が私たちのところに住もうとする、その時に、私たちは神を受け容れることができないのです。人と共に住もうとした神を受け容れず、排除してしまっているのです。自分中心に生きたい、過ごしたい、そのことがまさに私たちが持っている最も根深い罪なのです。

 このことが最もはっきりしたのは、主イエスを排除し、亡き者にしようとして、主イエスを十字架につけたことです。私たちの人間の罪はこのイエス・キリストの十字架において最も鋭く現れています。神がわざわざ、自分の外に出て、肉体を取って、人間となり、この地上に来られた、このことは神が親しく私たちに近づき、私たちと和解したいと意図して来られたのに、そのことを拒絶したのです。

 ヨハネによる福音書1章11節に次の言葉が記されています。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。神が近づいて来たのに、扉を開くことなく、はねのけてしまうのです。自分の世界に、異質な、異なる者が入ってくることを拒絶するのです。

 この世界は神を受け入れず、拒絶する世界です。しかし、神は神を拒絶する世界を愛して、独り子イエス・キリストを送ってくださるのです。
 
 クリスマスは、この主イエス・キリストを救い主、私たちの罪の贖い主、神が肉体を取って人となり、贖い、罪を赦してくださるキリストとして、私たちの中に受け容れ、迎え入れて、喜ぶ時なのです。

20171126 主日礼拝説教  「御国が来ますように」   山ノ下恭二


(イザヤ書41章8−20節、マタイによる福音書6章9−13節、ハイデルベルク信仰問答123問)

教会の礼拝や集会でいつも祈っている「主の祈り」は、主イエスが私たちにこのように祈りなさい、と教えた祈りです。この「主の祈り」の第二の祈りは、「御国が来ますように」です。私たちはいつも祈っている言葉で言うと、「御国を来たらせたまえ」です。原文のギリシャ語を直訳すると「あなたの国よ、来たれ」という言葉になります。「来ますように」と言う訳は弱いのです。もっと強い願いを表す言葉です。「どうぞ来てください」「早く来てください」という強い願いを表しているのです。

 「御国」と言う言葉は一般には使われない言葉ですが、「神の国」のことです。「国」と言うと、この地上にある世界の国々、例えばアメリカや中国、韓国などを思い浮かべます。しかし「神の国」とは、この世界のどこかにある国ということではありません。神の国と言う言葉を「神の支配」「神が支配する」「神が王として支配する」と言い換えることができます。この場合、国とは場所、領土と言うよりも「時代」を表す語です。ある者が治めていた時のことを言います。20世紀は戦争の世紀と言われています。戦争をしている時に、戦争が終わって平和な時代が早く来ることを人々は強く願ったに違いないのです。ドイツがナチス・ヒットラ−に支配されている時に、世界の人々はこの時代が過ぎ去り、平和な時代が到来するように願ったのです。

 私たちは、国と言う言葉を聴くと、人間がこの地上に建設する国と考えます。この世界の歴史を顧みると、人々は理想の社会を造ろうと試みをしてきました。貧困を無くし、誰でも食べるのに困らない平等な国を造ろうとしてきたのです。しかし、一部の人が権力を握り、豊かな生活をして、国民は最低限の生活を強いられ、言論を抑圧して、不自由な社会になり、崩壊してしまった国があるのです。しかし、神の国とは人間が努力して造り、人々が理想を抱いて造るユ−トピア(理想郷)のことではありません。

 主イエスは、「神の国は近づいた」と語って伝道をお始めになりました。それ以来、主イエスはいつも神の国について語ってきたのです。使徒言行録の初めには、復活された主イエスが40日にわたって彼らに現れ、「神の国について語られた」と書かれています。そうすると主イエスの最大の関心は、神の国のことであることが分かります。主イエスの関心は神の国のことであったのです。主イエスが語った「神の国」はこの世の国ではありません。主イエスを裁いたピラトに対して、主イエスは「わたしの国はこの世に属してはいない。」と答えています。この主イエスの言葉はとても重要です。

 神の国というのは、神によってもたらされる国、神が私たちに与えてくださる国のことです。神が私たちのところに来られることによって、私たち自身がほんとうの意味で生きる国です。

 主イエス・キリストがガリラヤ地方で伝道を始められた時、初めに宣べ伝えた言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。「神の国は近づいた。」電車がプラットホームに近づいて、入って来るようなものです。主イエスによって、神が近づいてきたのです。神がどのような方なのか、身近に感じることができるのです。主イエスは、御自身の言葉と行動によって、神の国がどのようなものであるかを示されました。神が来られるとどのようになるのか、それは人々が実際に経験しないとわからないのです。神が自分たちのところに来て働かれるとどうなのか、そのことを実際に体験することによって、神が自分のところに身近に働いていることがわかるのです。

 私たちの生活していて願っていることは、自分が健康でいつまでも元気で居たいと言うことです。病気になることを恐れています。病は死に直結するのですから、私たちにとって大きな問題です。健康で過ごしたいという願いは誰でも持っていますが、病気になることは避けられないのです。病魔に襲われて苦しむことがあります。

 主イエスが、最初になさったのは、病気に苦しむ人々を治し、病を癒したということです。病気から来る苦しみから解放されることは病魔に支配されて苦しんでいる人々には良い知らせ、福音です。主イエスが病を癒す方であるという評判を聞いた人々は、主イエスのところに押しかけてきたのです。しかし、主イエスは医師として、病を治す目的のために、癒やしたのではありません。自分の病が主イエスによって癒されることで、人々が、神が自分をこんなに愛しておられることが分かるために癒されたのです。この癒しによって神の愛が自分の身近になるために、主イエスは癒されたのです。

 主イエスは悪霊に取り憑かれた人々に対して、悪霊を追放されました。悪霊と言う言葉を聴くと、自分とは関係がないと思うでしょう。しかし、私たちは悪い思いに取り憑かれることがあるのです。自分に対して敵対されるという経験を持つと、敵対する人を憎み、憤り、相手の存在を否定したいという思いにとらわれるのです。悪い思いに囚われるのです。

 ドストエフスキーの「罪と罰」には一人の若者が、貧しい人々にお金を貸している老女が借金を返すことができない人を苦しめている、そのことを聞いて憤り、それは悪で、殺す理由があり、殺さなければならないという正義感に囚らわれて殺してしまうのです。悪い奴は殺してしまえという悪霊に取り憑かれてしまうのです。

 私たちもそのような悪い霊に取り憑かれてしまうことがあるのです。その悪霊を主イエスは追放したのです。悪霊を追放することによって、この人は自分がとらわれていたものから解放されたのです。

 主イエスは、この当時、神から遠く離れていると考えている人々を招いて、食事を共にしたのです。全く相手にされていない人々が神の相手であることを知らせたのです。戒め、律法に従っていない人々、神の相手ではないと見なされていた人々に近づいて、食事をし、友となり、神がそのような者をも相手としていることを知らせたのです。神の戒めを守っていることを条件に人に関わることをしませんでした。神を忘れ、神から離れている人々が神に招待され、実は神の相手であることを知らせたのです。神が自分を相手にして、友となってくださっているのです。

 主イエスは譬え話を語ることによって、神の支配がどのようなものであるかを伝えています。主イエスは実に多くの譬え話によって、神の国がどのようなものかを伝えました。その中の一つに、「盛大な晩餐会」の譬え話があります。ルカによる福音書14章15−24節に記されています。盛大な晩餐会に前もって丁寧に招待しましたが、招待された人が誰も来なかったので、全く招待されずお返しができない人々を招待したのです。前もって招待されず、返礼もできない人々、つまり貧しい人々、身体の不自由な人々、神から遠く離れている人々を迎えて、晩餐会をした、と言う譬え話です。この譬え話は、自分が戒めを守って、自分は正しい生活をしていると自認している人々が神の国の招待に応じておらず、むしろ、神から離れている人々が招待されていることを語っているのです。

 神の国は「神の支配」と言うことです。「支配」という言葉は「権力」「ボス」という言葉を連想するので、良い響きを持ちません。しかし、聖書は神の支配と言う言葉をそのような意味で使ってはいません。

 神の国のイメ−ジは、公の権力を持つものが憐れみをもって、貧しい者を保護し、助ける、そのようなイメ−ジです。例えば、失業している人々が就職できるように助けるために、公的な資金を投入し、生活向上のためにプランを作ることがあります。神の国は、権力をもって抑圧する、そのような支配ではないのです。逆説的な言い方をすると神が愛をもって支配することです。神が私たちを愛することによって造り出す新しい世界のことです。 

 今も、そのような考えを持つ人々は少なくありませんが、この当時は、病気に罹って治らないのは、その人が罪を犯したからだ、因果応報という考えが根強くあったのです。主イエスは病人に、お前は罪を犯したから、このような病気にかかったのだ、と責めることをされませんでした。悪霊に取り憑かれた人に対しても、主イエスは、悪霊に取り憑かれたのは、日頃、悪いことをした結果だ、とは言わなかったのです。また、神から遠く離れ、神のみこころに適うことのない生活をしている者に対して、罪に対して神は必ず、罰を与えると責めなかったのです。むしろ、私たちが当然、受けるべき神からの罰をすべてご自分で担って十字架で贖ってくださったのです。

 神の国がやってくると言うのは、神が神としてはっきりと自分の前に現れることであるので、私たちの罪があらわになり、自分の罪がはっきり示されることなのです。自分の罪がどんなに深いかを知ることです。自分が愛のないものであることを痛みをもって知ることです。神の国が来ることは、私たちの罪がはっきりして審かれることだけではなくて、イエス・キリストが罪をご自分のものとして、罪の審きを引き受けてくださる、イエス・キリストが十字架で肉を裂き、血を流して、罪の犠牲をささげてくださる、そのことによって、私たちの罪が赦されることなのです。
 
 洗礼を受けることは、罪に支配されていた生活を終え、終止符をうち、私たちの罪を贖い、罪を赦して下さる神と共に生活をする、そのような新しい支配に入ることです。神の国に入ることです。
 
 私たちは日本に住んでいますが、もう一つの国、神の国に私たちは住んでいるのです。日本に住んでいながら、もう一つの国、神の国に存在の根拠をおいているのです。在日外国人と言いますが、私たちは在日キリスト者です。国籍は日本にあります。しかし、私たちの国籍は天にあるのです。私たちが生きる本拠地は神のところにあるのです。                

 ハイデルベルク信仰問答・問123は主の祈りの第二の祈り、「み国を来たらせたまえ」の意味を問いかけています。この祈りは第一に、私たちが神のみこころに従い、その信仰に生きることができますように、と言う祈りです。私たちはいつも自分の思い通りになれば良いと考えています。自分の生活の主人公は自分です。私たちは自分の考えや思いが尊重されることを望んでいます。自分の生活を支配しているのは自分で、自分の考えが通れば良いと思うのです。しかし、そうではないのです。神のみこころが私たちの中で拡がり、拡張することができますようにと祈るのです。私たちを治めるのは自分ではありません。私たちを治めるのは神の言葉と聖霊です。従ってこの祈りは、あなたのみことばに従い、みことばと聖霊によって支配されますように、と祈るのです。                      
 第二に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と伝道するのは、キリスト教会です。キリスト教会しか、キリストの福音は宣べ伝えるところはないのです。まだキリストの福音を知らない多くの人々が福音を信じて、神の愛の支配の中に移されるようにと祈るのです。その意味で、この祈りは伝道のための祈りなのです。

 ある人は、現代人についてこういうことを言いました。現代人は「負けたくない」「損したくない」「自分の思い通りになったら良い」といつも願っている、と言うのです。そのような生き方しかしらないのです。伝道とはそのような生き方しか知らない現代に生きる人々に、新しい生き方を提示するのです。自分中心の生き方ではなくて、神に自分が愛されていることを信じて、神を愛し、人を愛する生き方が、最もすばらしいあり方であることを知らせるのです。
  
 私たちはいろいろなことにとらわれています。お金があれば幸せだ、そのように考えている人はお金にとらわれているのです。お金がないと自分の生活がとてもみじめに思うのです。それはお金に支配されているからです。良い学校に入らなければ、幸せな人生は来ないし、望みはない、と考えるのは、そのようなものにとらわれ、支配されているのです。

しかし、新しい生き方があるのです。この世界でみんなが価値がある生き方、この地上でお金があり、何、不自由がなく、好きなように生きる、それを求め、その生き方が価値がある生き方だ、と思っている、しかし、そうではない、全く、新しい生き方があることを提示するのです。自分が囚われている思いから解放されていく、神を中心とする新しい生き方があることを私たちは提示していくのです。

 ある時、東京神学大学学報を読んでいたら、この中に、アメリカ改革派教会のキスト岡崎さゆ里と言う宣教師が「伝道のモチベ−ションアップ」と言う題で書いていました。「宣教師としての目で日本の教会を見直すと、伝道したくても術がわからないのではなく、どうやら多くの教会があまり伝道する気がないらしい、ということに気がつきました。日本人の信仰はどちらかというと個人的な人生観に留まっており、それに人に勧めるという『伝道』の意味づけが確立せず、そこに日本の伝道がのびない理由があると思います。キリストが心から素晴らしいという実感、そして信仰が人生の死活問題であることの確信が伝道のモチベ−ションです。」。伝道の原動力は礼拝であり、礼拝においても「教会員対象の内向きの内容ではなく、むしろ『求道者に優しい』ということを目指すようになりました。つまり、それまで教会に足を運ばなかったような人たちが礼拝において神の愛とキリストの福音を『自分のこと』として感じられるような礼拝のあり方を工夫し始めたのです。具体的な例を語るときりがありませんが、全てそれらは教会が自分本位ではなく、他者のことを思いやる行為が礼拝において現れたということです。伝道とは、他者への愛。ことに教会の外にいる大勢の人々、神の愛をしらずに孤独にさまよう人々に向けて精一杯教会が手を差し伸ばしている姿です。」
 
 「御国を来たらせたまえ」「御国が来ますように」。この祈りは、教会が福音を伝道して、神の愛を知らせることができますように、と祈る祈りです。                 
「御国を来たらせたまえ」第三に、この祈りはこの地上で神の支配が拡張されて、神に敵対する勢力が滅ぼされますようにと祈る祈りです。この地上では、神に敵対する勢力が力をもって人々を支配しています。しかし、神の支配が拡張されて、この世界の人々が主イエス・キリストがまことの主であると告白し、礼拝することができますようにと祈るのです。

 かつて東京神学大学の教授であった佐藤敏夫牧師は太平洋戦争でフィリピンに兵隊として行った時に、戦争が終結したことをその部隊はかなり早く知らされていたと言うのです。戦争が終わっていてもそれを知らずに戦いをしていた部隊があったそうで、その後もしばらく、大砲の音、機関銃の音が鳴り響いていたと言うのです。神に敵対する勢力との戦いは究極的には神は勝利するのですが、まだその戦いは続いているのです。
 
 この祈りは、まだ神に敵対する勢力が力を振るっていますが、最後には、まことの神が決定的に勝利し、すべての者が神を神とすることができますように、と祈る祈りです。ハイデルベルク信仰問答・問123の答えの後半には「あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての邪悪な企てを滅ぼしてください、ということです。」と記されています。


20171119  主日礼拝説教  「御名があがめられますように」  山ノ下恭


(エゼキエル書36章22−32節、マタイによる福音書6章9−13節、ハイデルベルク信仰問答122)

 私たちは主の祈りをいつも礼拝や教会の集会で祈っています。主の祈りをいつも祈っていて反省することは、主の祈りの言葉の意味を考えないで、習慣的に祈っていることが多いと言うことです。いつもこの祈りを祈っているので、この祈りの一つ一つの言葉の意味を確かめることが必要です。

 今日の礼拝で「御名をあがめさせたまえ」のところを説教するために準備していて思ったことは、この祈りの言葉が実に豊かな内容を持った祈りであると言うことです。その恵みを皆さんと共に分かちたいと思います。

 この主の祈りは、「天におられる、わたしたちの父よ」と言う呼びかけで始まっています。私たちが祈っている言葉では「天にまします我らの父よ」です。まず神に対する呼びかけがあり、その後に「御名があがめられますように」と祈るのです。私たちが祈っている言葉では「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」です。

 私たちがいつも祈っている主の祈りの言葉は文語文です。原文を直訳すると「あなたの名が聖とされますように」です。主イエスは「天におられるわたしたちの父」に祈ることを教えたのに続いて、その父なる神に関わる祈りを教えています。自分のことを神に祈るよりも先に、神のことを祈るように教えているのです。それは神のことを真っ先に祈ることが、祈りの基本であるからです。神に関わる祈りの後に私たちに関する祈りが記されています。

 最初の3つの祈りは原文では「あなた」という言葉があります。私たちは「み名」「み国」「みこころ」と祈るのですが、原文では「あなたの名」「あなたの国」「あなたの意志」と書かれています。そして後半には「わたしたち」と言う言葉が書かれています。いつも祈っている言葉では、「我らの日用の糧」「我らの罪」「我らをこころみに遭わせず」です。

 主の祈りは、神に関することを自分たちのことよりも先に祈るのです。私たちの祈りはどうしても自分のことを先に祈ることが多いのです。自分の願い、自分のことが祈りの中心になります。しかし、この主の祈りはまず、何よりも優先して、神に関することを祈るのです。そしてその後に私たちのことを祈るのです。主イエスはマタイによる福音書6章25−34節で「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と語り、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(6章33節)と約束しておられます。まず、神に集中することによって、神を神とすることによって、必要なものが備えられることを約束しているのです。祈りは自分のために祈ると言うことではありません。神を神とすることによって、必要なものが備えられることを約束しているのです。神のために祈ることこそ、私たちの生活を確立する道であることを教えているのです。
      
 主の祈りの最初の祈りは「御名をあがめさせたまえ」です。新共同訳では「御名があがめられますように」です。口語訳など同じ翻訳です。岩波書店から出版された翻訳は「あなたの名が聖なるものとされますように」です。別の言葉で言い換えると「あなたの名が礼拝されますように」「神ご自身が礼拝されますように」と言うことです。この祈りは、礼拝がいちばん大切であること、何よりも優先すべきことであることとして教えようとしています。神の前に罪を告白し、悔い改め、みことばを聞き、感謝の応答をする、そのことをしない生活は、崩れていくのです。礼拝をしない生活は、自分が神となり、自分を誇り、自分中心になり、この地上の生活のスタイルに合わせ、世俗的な人間になってしまうのです。自分のしたいようにすることがいちばん人間らしい生き方ではなくて、神を礼拝することがいちばん人間らしい生き方なのです。
 
 主イエスはまず、神を崇める生活ができることが、私たちにとっていちばん幸いなことであることを考えて、この祈りを教えたのです。

 先ほど、この祈りを直訳すると、「あなたの名が聖なるものとなりますように」となると言いましたが、「あなたの名が聖別されますように」「あなたの名が決定的に聖別されますように」と訳すことができます。「聖」という言葉は、他のものと区別して特別なものとして取っておく、という意味の言葉です。神が他のものと区別されて特別に尊いものとして扱われる、あるいは他のものと同列におかないで尊ばれると言うことです。
 
 礼拝を、聖日礼拝と呼びます。それは、この日を神の日として特別な日として、この日に礼拝をするのです。この日を、神を礼拝する日として特別に空けておき、礼拝するのです。それが、「聖とする」「聖なる日として守る」と言うことです。

 この祈りでよくわからないのは、あなたの名と言う言葉です。「あなたの名前」です。「神の名前」です。名前は記号ではなくて、人格を表すものです。ある人の名前を聞くと、その人の顔、姿だけではなくて、その人がどのような人かを思い起こします。その人が自分に優しくしてくれた、親切に教えてくれた、助けてくれたことを思い出します。神に名前があるのです。それは、神がどのような方なのか、神の性質を表すものです。                               
 神の名、御名と言う言葉を理解する手がかりとなる聖書の言葉があります。旧約聖書の出エジプト記3章には、モーセが神から召しを受ける記事が書かれています。ここでモーセが神に神の名前を聞くところがあります。名前をただ聞いたと言うのではなくて、どのような神であるかを聞いたのです。

 神はモーセにイスラエルの何十万もの民をエジプトの奴隷から解放し、脱出させて、パレスチナに導くようにと命令をしました。この命令を受けたモーセはこのような大事業はモーセ一人の力では到底できず、神の助けが必要であるので、この神がどのような神であるかを聞くのです。この神が、ただ命令して後は知らないという神なのか、イスラエルの民をただ傍観して高見の見物をしているような神なのか、最初はやる気があってモ−セと共に旅していたけれども、途中で放り出して去ってしまう神なのか、わからないと困るので、モーセはどのような神なのかを尋ねるのです。モーセの問いに対して「わたしはある。わたしはあると言う者だ」(出エジプト記3・14)と答えます。
 
 この名前の意味はイスラエルの民の苦しみを見、叫ぶ声を聞き、その痛みを知り、降って、救い出す神と言う意味です。別の言い方では「わたしは必ずあなたと共にいる」と言う意味です。この名が「ヤーウェ」と言う名前で、聖書では「主」と訳されています。「主」と言うのが神の名です。モーセはこの神の名を聞いて安心して、行動を起こすのです。神が神の名を置く、それは、神が実際におられることです。神がこのところに臨在しておられるのです。神を呼ぶ時に「主」と呼ぶのです。この主なる神は、イエス・キリストによって、私たちの罪を赦し、私たちを愛する神です。              
 
 現在、私たちが祈っている主の祈りは明治12年に翻訳された文を用いています。「崇めさせたまえ」と祈っています。「崇める」と言う言葉もすぐわかる言葉ではないのです。そして誰が崇めるのか、誰によって崇められるのか、です。この祈りが原文では「あなたの名が聖とされますように」です。「聖とする」という言葉は、「聖別する」「他のものと区別して、特別なものとする」と言う意味であることを言いましたが、「あなたの名が聖とされますように」と言うのは「神が神らしく、神として扱われるように」という意味です。

 例えば、いつもしっかりした意見を言う人がはっきり言わない時に「あなたらしくはっきり意見を言ったら良い」と言うことがあります。また、いつも元気で良い働きをしている人に対して、私たちがいつまでも良い働きをして欲しい、と願うことと似ています。神らしい神とはどのような神なのでしょうか。それは、他のいかなる力に支配されることなく、他の助けを借りる必要もなく、私たちを愛する、愛において貫く神であると言うことです。         
 ある本を読んでおりましたら、新約聖書のコリントの信徒への手紙一 13章の「愛の賛歌」の2節に「愛がなければ、無に等しい」(13章2節)と言う言葉を別の言葉で言い換えていました。「愛することがなかったならば、自分の存在はない」と言い換えていました。なるほど、と思いました。神は自分自身のために生きる方ではなく、愛において生き、愛において決断し、愛を貫く神で、愛する神でなかったら、神とは言えない、と言い換えることができるのです。
              
 詩編89編34−35節に次のような言葉があります。「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない。」(旧約p927)神はぶれないのです。自らに対して誠実な神が、私たちに対しても誠実なのです。

 「御名をあがめさせたまえ」「あなたの名が聖とされますように」。神がまことに神となるように、という祈りです。神がまことに神となる、それは私たちに恵み深く、憐れみに満ちた神として私たちにはっきり表すことなのです。

 「御名があがめられますように」と言うこの祈りは、私たちの間で、神が神となってくださるように、と祈る祈りです。このように祈るのは、現実に神が私たちの間で神となっていないことを表しています。私たちは時々、こういうことを経験するのです。自分がその場所にいるのに誰も自分の存在に気づくことなく、無視され、重んじられることなく、いてもいなくてもどうでも良い存在として扱われることがあります。私たちの間に神がおられるのに、私たちが神として扱わないのです。神があたかもいないかのように、振る舞っているのです。

 デカルトという哲学者は16世紀の終わりに誕生しましたが、この哲学者から近代の思考方法が始まると言われています。それは何事も自分から始まる、自分が出発点であるということです。自分がどうであるか、がすべての基準であり、そこに価値を置くのです。自分が良いかどうか、自分が満足するかどうか、です。そこでは神がどうであるか、は問わないのです。

 私たちは礼拝していますが、そこではいつも自分が中心です。礼拝をサ−ビスと言いますが、礼拝に出席し、説教を聴いて、自分が満足できるか、どうか、いつもサ−ビスを求めるのです。礼拝に出ていて、お客さんとして自分が満足できるように扱われているか、と言う意識が強いのです。神が賛美され、神が崇められることを第一としないのです。

 本日の礼拝で旧約聖書エゼキエル書36章22−32節のみことばを読みました。ここには、イスラエルの民が神の名、聖なる名を汚したことが告発されています。主である神を神として礼拝することなく、偶像を拝み、隣人を愛することなく、神の願ったことを行わなかったのです。36章22−23節で主である神を礼拝せず、偶像を拝み、隣人を愛することがない、それは神ご自身を汚すことである、それにもかかわらず、神ご自身がその汚れを、罪をご自身で贖って、イスラエルの民を、聖なる神とすると語るのです。「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが聖なるものとする。」ここでは、神が神の名、神御自身が汚されてしまっている、しかし、神は御自身を聖とする、と書かれているのです。

 私たちの間で、神がまことの神となることができるように祈るのです。この世界の人々が、神をまことの神として礼拝することができるように、神のみこころがこの世界の人々のこころになるように、と祈るのです。この祈りは、神が私たちの間でまことの神となってください、と願う祈りです。

 教会学校では「カテキズム教案」を用いています。「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」がテキストですが、このカテキズムの最初の問いは「私たちが生きるために最も大切なことは何ですか」です。その答えは「神さまを知ることです」。つまりここでは、信仰をもっていることは、人生で一番大切なものを持っていることであり、それは神を知っていることです。私たちは、人生で一番、大切なものが何か、を知っています。それはお金や財産、地位、名誉ではないのです。私たちのかけがえのない生命と人格を創造し、イエス・キリストによって、私たちの罪を贖い、現在、ここに臨在している、愛を貫く神を知っています。日本に住む人々は大部分、この神を知らないのです。

 1859年に、横浜開港と同時に日本に来たアメリカ改革派教会、アメリカ長老教会のヘボン、タムソン、バラなどの宣教師は、この恵み深い神を多くの人々に伝えたい一心で大西洋を渡り、何ヶ月もかかって日本に来たのです。キリストの証人として、この神を伝え、人生で一番、大切なことはこの神を信じ、恵みに生きることであることを、存在をかけて伝えたのです。

 「御名を崇めさせたまえ」「あなたの名が聖とされますように」日本にはキリストの救いを知らない人々がほとんどです。この神がこの日本に住む人々の間で神として受け入れられ、信じられるように、この祈りを祈るばかりでなく、神の名を知らせ、伝える、伝道の使命が私たちにあることを、この祈りは教えています。

 主の祈りを解説している、ハイデルベルク信仰問答122問と答えには、次のように書かれています。主の祈りの「第一の願いは何ですか。」と言う問いに対して、次のように答えています。「『み名をあがめさせたまえ』です。すなわち、第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、正義、慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、讃美できるようにさせてください、ということ。第二に、わたしたちが自分の言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ讃美されるようにしてください、ということです。」

20171112 主日礼拝説教 「恐れるから、恐れない」 神代真砂実(東京神学大学教授)


(ヨシュア記1章1−9節、マタイによる福音書10章26−33節)
 
 「恐れてはならない。恐れるな。」この朝与えられているマタイによる福音書の個所で、イエス・キリストは繰り返しこう語られています。恐れている私たちに対して、恐れてはならない、と語ってくださっています。ここで違和感を覚える方もあるかも知れません。「自分はとくに何も恐れてはいない」「少なくとも、今のところ、そういうことはない」「それなのにどうして恐れるなと言われなければならないのか」。その一方で、皆さんの中には恐れを感じておられる方もあると思います。人間関係や仕事のことで感じている恐れがあるかも知れません。あるいは、将来に対する不安からくる恐れがあるかも知れません。職場や家庭などの環境の変化とか、経済的なこととか、自分自身や身近な人たちの健康や、仕事や勉強のことなど、将来に恐れを感じることがあるでしょう。

 確かにいろいろな恐れがあり、あるいは恐れを感じないということがあるにせよ、まずはこの朝与えられた個所での「恐れ」について考えていかなければなりません。実は、今日の個所で考えられている「恐れ」とは何かというと、「迫害」、今日の個所の直前、同じ章の16節以下のところで、新共同訳聖書は「迫害を予告する」という小見出しを付けています。ここでは「迫害」について語られているのです。

 「迫害」の中に置かれている教会、また弟子たちに対して、今日の個所では「恐れるな」と語られているのです。信仰のことを悪く言われるという辛い経験をされた方がおられると思いますが、一方で、今のこの国や社会で、迫害やそれゆえの恐れについて語られても、縁遠いとしか感じられない方もあるでしょう。教会に通っているからといって、キリスト者であるからといって、自分は迫害されてはいない、と思われる方もいるでしょう。

 しかし、もう少しよく考えてみた方がよいと思います。今日の個所の27節、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」とあります。それは26節の「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という言葉を言い換えたものですが、要するにこれはイエス・キリストによる福音の知らせ、福音を広く宣べ伝えるようにということです。そして、「迫害」はここで起こるのです。ですから、「恐れるな」と言われるのです。

  そうであるなら、そもそも私たちは問わなければいけなくなってきます。「自分はイエス・キリストを証ししているか」「キリストの福音を人々に言い広めているか」。そしてこの問いに対して、もしも私たちが「いや、証しできていない」と答えなければならないとしたら、もう一つの問いが出てくることになります。「それは恐れているからではないか」と。

  それは、この場にいる人を誰でもつかまえて、イエス・キリストのことを語るようにするというような話ではありません。そうではなくて、折角の機会があっても、無駄にしているのではないか、ということです。そういうことが起こっているとしたら、やはり何かを恐れているからではないか。やはり恐れを持っていたので、信仰についてきちんと語れないで来たのではないか。

  そんな風に考えてみますと、今日の個所の最後のところ、32、33節に、改めてしっかりと耳を傾け、その言葉に自分自身をさらして行かなければならないと思います。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」たいへん厳しく響く言葉ですが、これをごまかさないで、この言葉の前にしっかり立って、自分自身のことや教会のことを考えてみることが大切だと思うのです。

  「恐れてはならない」というイエス・キリストの言葉から出発して、私たちが感じているいろいろな恐れ、あるいは本当は感じているのに隠しているかも知れない「恐れ」というものについて考えてきました。今まで見てきたように、このキリストの厳しい言葉に向かい合うところまで、私たちは連れてこられました。この32、33節の言葉のイメージには「恐れ」を感じないではいられません。

  けれども、イエス・キリストは、ただ恐れるな、とばかり語られているわけではありません。28節の「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とあるように、正しい恐れというものがあるのです。恐れるなというものがある一方で、本当に恐れなければならない方があるということ。実は、私たちが恐れていても、いなくても、最後にぶつからなければならないのが、このことだと言っているのです。私たちには本当に恐れなければならない方がある、とイエス・キリストは言われる。そして、それは29節であなた方の父と呼ばれている方、32、33節で天の父と呼ばれている方、つまり、私たちの父なる神です。改めて28節を読むと、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。既に26節で「人々を恐れてはならない」と言われていましたが、28節によれば、つまるところ人間には、結局生き物としての人間の命にしか触れることができないのだ、ということです。

  それに対して、神様は、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方だと言われています。体だけではない。人間の全体、一人の人間丸ごと、その生きる意味、生きてきた証のようなもの、すべてを含めてこの私というものの一切を無にしてしまうことのできる神様をこそ、本当に恐れなければならないとキリストは言われるのです。

  もっとも、気を付けた方がいいでしょう。「恐れ」という言葉を中心にこれまで考えてきましたし、今は「地獄」という言葉にさえ出会ってしまいました。暗くて怖い感じがするかも知れませんが、実は神様が魂も体も滅ぼすことができる方であられるというのは、同時に、魂も体も生かすことのできる方であるということでもあるのです。人間が与えることができるような助けでは、本当には救われない、神様だけが本当に人間を救えるのだということです。28節でイエス・キリストが本当に仰りたいのはこのことです。あるいはまた、こんな風に考えてもいいかも知れません。私たちが誰かを恐れているとき、その私たちが恐れている誰かに、むしろ喜ばれるようになりたい、満足してもらいたいと考えることがあるのではないでしょうか。そうであるとすれば、今日の聖書の個所で問題になっている「恐れ」について、私たちはこれを言い換えて、私たちは一体誰を喜ばせようとしているのか、という問いに置き換えることができるでしょう。そして、それはこれまで学んできたことから分かるように、私たちが本当に喜ばせようとしているのは、自分を含めた人間なのか、それとも神様なのか、そういう問題なのです。

  いろんな恐れの問題が出てきましたが、今日のこの個所でイエス・キリストが私たちに問うておられる、その中心にあることは何かというと、私たちが一番大事に考えているものは一体何なのかということです。さらに言えば、あなたにとって、父なる神様が本当に第一になっているのか。私たちの内に間違った恐れが生まれたり、私たちが恐れから逃げたりする、そのすべての源を問われている。私たちが一番大事に考えているのは何なのか。

  恐れてはならない、と語られることによって、イエス・キリストは私たちに、本当に神様をこそ恐れること、そのことを求めておられる。しかし、ここで大きな問題が出てきます。それは、このように神様を恐れると言っても、その恐れにも、正しい恐れと、間違った恐れがあるということです。

  今から500年ほど前に、このことに深く悩んだ人がいます。宗教改革者マルチン・ルターです。落雷に遭って友人が死に、一緒にいた自分自身も死の危険にさらされて、そういう経験を経て、ルターは神様に仕える道を志し修道院に入ります。間違いなく神様を大いに恐れていたと言っていいでしょう。けれども、修道士としての生活の中でルターは、間違いなく神様を恐れてはいましたが、その恐れはさらに神様を憎むことに向かっていきました。

  いくら教会が教えているよい行いをしても、自分が神様を満足させられているとは到底思えなかったからです。神様は、自分には分からない物差しで自分の行いを測って、結局は罪深い自分を地獄に落とそうと狙っているとしか思えない、そんな神様でしかない、そう思ったのです。けれども、聖書を丁寧に深く学ぶ中で、ルターは気付かされました。そういう神様は、本当の神様ではなかった。イエス・キリストによって示されている神様、自分の力では決して神様に喜ばれることができない私たち人間のために、神様の方からイエス・キリストという助けを用意してくださって、イエス・キリストを通して私たちを眺め、喜び、愛し、受け入れてくださる、そういう神。ご自身の方から、私たちを神様に喜ばれるものにしてくださる神様こそが、本当の神様、聖書が証ししている神様なのだ。そのようにルターは、本当に恐れなければならない神様というのは、憎む必要のない神様であり、愛さないではいられない神様であるのだということに気付いたのです。

  このことがキリスト教の歴史、教会の歴史を大きく変えることになりました。人間の力で神様に近づくことができるかのように考えていた当時の教会、それだけの力を人間が持っているという錯覚に陥っていた教会、つまりは人間を喜ばせるようになっていた教会、そういう教会を鋭く批判し、ルターは聖書が証しする恵み深い神様にすべてを期待するという信仰に立ち返るようにと訴え、それが私たちの信仰の原点となっているのです。

  さて、こういうルターが、悩みまた苦しんだ体験は、この朝与えられているマタイによる福音書との関りから考え直すと、それは29節をどのように受け止めるかということになります。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」とくに問われてくるのはその後半です。「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」という言葉です。これは、安く売られている、ですから、軽く見られている雀であっても、父なる神様が認められるのでなければ、罠にかかって捕まったりはしないのだ、という話であるように思われます。しかし、どうなのでしょう。「あなたがたの父のお許しがなければ」とは、どういう意味なのでしょうか。

  それは、雀にであれ、私たちにであれ、何か不幸が降りかかってくるとしたら、それは神様がそのようにさせているということなのでしょうか。結局は神様がそうさせているということなのでしょうか。

  けれども、もしそうだとしたら、そういう神様を、私たちは愛せるでしょうか。私たちの不幸も幸福も、神様が勝手に決めている。敢えて言えば、物事は神様の好きなように起こるだけだ。そうやって、勝手気ままな神様に弄ばれているのがこの世界だということなのでしょうか。そう考えると、そのような気まぐれな人を好きになるのが難しいのと同じように、神様を愛することはできない、そんな神様は要らないのではないでしょうか。そのような時には神様は、神などと呼ばれてはいても、実際には冷たくて得体の知れないもの、むしろ運命とか宿命とかいったものに近いと言わなければならないのではないでしょうか。

  先ほども触れたとおり、ルターも同じようなことで悩みました。自分が何をしようと、結局は神様の勝手気ままな思いで自分の運命が決められてしまう。自分が神様に受け入れられるかどうか、自分が神様に救っていただけるかどうか、確かにすることなどできるわけはない。ルターはこう考えました。ですから、ルターは、むしろ神様を憎まなければならなかったのです。

  しかし、この「あなたがたの父のお許しがなければ」という言葉は、私たちの神様を冷たい勝手な方だと語っているのではありません。「あなたがたの父のお許しがなければ」という訳し方、読み方は、それなりに伝統があり、広く行われているものではありますが、ここは言葉のままに訳すると、「あなたがたの父が一緒でなければ」となります。ですから、29節は本当は、こう書いてある。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父が一緒でなければ、地に落ちることはない。」

  ここでイエス・キリストが語っておられる神、私たちの父となってくださる神様は、決して遠くから勝手気ままに物事、私たちの歩みを左右されるような方ではありません。決してそうではない。私たちと共にいてくださる方。おそらく、この福音書に親しんでおられる方であれば、もうお気付きでしょうが、この福音書は、イエス・キリストの誕生について語る中で、イエス・キリストは、インマヌエル、つまり神が我々と共におられると呼ばれるのに相応しい方だと告げています。あるいはまた、この福音書は一番最後で、甦られたイエス・キリストは、世の終わりまでいつもあなたがたと共にいると約束してくださった、と記して終わっている。その同じことが、この29節にも語られているのです。

  父なる神様は、イエス・キリストにおいて私たちと共にいてくださる、何が私たちに降りかかってくるとしても、神様は私たち一人ひとりと共にいてくださり、私たちの髪の毛までも一本残らず数えてくださる。ですから、私たちは、私たちに降りかかってくるものを恐れなくてもよい。そのようなものを恐れるのではなくて、それほどまでして、私たちを大切なものと認めて共にいてくださる神様、そこまでして私たちに愛を注いてくださる神様、そういう意味でまさに恐れ多い神様をこそ、恐れるのです。そのとき、私たちの恐れは、また、愛することでもあります。私たちのために尽くしてくださる神様を愛さないではいられないからです。

  そのような神様への恐れと愛に生きるとき、私たちは神様を、他のあらゆるものに勝って大切にしなくてはなりません。その時、私たちは、あのルターが歩んだ信仰の道を歩んでいると言えるのです。この教会を立ててきた、その信仰の道を歩んでいると言えるのです。ルターが聖書の中から見出した、神様の救いの良い知らせと、本当の信仰とを私たちは受け取っていると言えるのです。

  お祈りします。

  あなたの私たちに対する愛と憐れみとはまことに大きく、イエス・キリストにおいてあなたは、私たちとどこまでも共にいてくださいます。

  それほどまでに私たちを愛してくださる方として、私たちはあなたを恐れないではいられません。

  しかし、私たちがまた、この恐れの中で、同時にあなたの愛の中に安らぐことができるように、どうぞ私たちを聖霊のもとに強めてくださって、あなたへの真実に生きるものにしてください。

  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン



20171105 主日礼拝説教  「天におられる、わたしたちの父よ」  山ノ下恭二


(ホセア書11章1−4節、マタイによる福音書6章9−13節、ハイデルベルク信仰問答120−121)

 人と初めて会って、話そうとするときに、名前を聞くことがあります。相手に「お名前は何と言うのですか」と聞くことがあります。相手の名前を知り、名前を呼んで、話し合いに入ります。

 名前も知らず、話したことのない人に話しかけるのは勇気が要るものです。ある時、電車に乗っていたら、私の隣に座っていた人がもじもじして私のほうを見て、おそるおそる、「霞ヶ関に行くにはどうしたら良いですか」と尋ねてきたのです。私に尋ねることをしばらくためらっていたようでした。私という人物が親切に教えてくれるのか、ぞんざいな答え方をするのか、不安だったので、聞くことをためらっていたようなのです。はじめての人と話すのは勇気が要るのです。教会にも、初めてですが、と電話がかかってくることがありますが、電話に出た人がどのような人か分からないし、どのように反応するのか、わからないので、反応をうかがいながら話しているのが良くわかるのです。相手がどのような人か、わからないし、どのような反応を示すのか分からないので話すことをためらうことがあるのです。

 どのように呼びかけて祈りはじめて良いのか分からない、という人は多いと思います。主イエスは、弟子たちに「こう祈りなさい」と言われて、「天におられる 私たちの父よ」と教えられました。そのように呼びかけるように教えたのです。私たちはどのような呼びかけをして祈り始めているのでしょうか。

 ある時、牧師の研修会で、アメリカの教会から日本に派遣された宣教師であり、東京神学大学で実践神学を教えている教師が、アメリカの教会では祈りの呼びかけは「ファーザー」が多いのだけれども、日本の教会では「イエス・キリストの父なる神様」という呼びかけの言葉が多いことに気がついた、と語ったことがあります。この発言に対して、ある牧師が、「神様と言っても、日本には八百万の神がおり、どのような神なのか分からないので、『イエス・キリストの父なる神』と言う呼びかけの言葉は、日本で信仰を言い表すのに相応しい呼びかけの言葉だ」と言ったのです。別の牧師は、「神を『お父様』と呼んでも、日本では神様に呼びかけていると受け取ることができないのではないか」と発言していました。

 人によって祈る時の呼びかけの言葉は「神様」であったり、「お父様」と呼びかけをする人もいます。主イエスは神に祈る時に、初めに「天におられる わたしたちの父よ」と呼びかけなさい、と教えています。
 
 私は「父なる神」、あるいは「イエス・キリストの父なる神」と呼びかけて、祈り始めるのですが、それは教会の多くの人たちがそのような呼びかけをしていたので、それに倣ったからです。

 しかし、人によっては、神を「父よ」と呼びかけなさい、と言われてもどのような父なのか、わからないので祈りを始めるのにためらう人もいるのではないかと思います。それは、私たちは「父」と言うと、それぞれ父親体験があり、心の中に自分の父のイメージを持っているからです。自分が体験した父親のイメージでこの言葉を思い浮かべるのです。父親がいつも優しく接してくれたという経験をもって育ち、自分と父親との関係が良いならば、体験した父のイメージですぐに神を「父よ」呼びかけることができます。しかし、父親のイメージが悪いと「父」と呼びかけることをためらうのです。いつも子どもを叱ってばかりの父、子どものことに関心を持たない父。父親のイメージが悪い人には神を「父」と呼ぶことに抵抗があります。

 しかし、神は、どのような意味で父なのか、聖書は明確に語っています。神は実は母親よりも深い愛を貫こうとしてくださるのです。旧約聖書のイザヤ書49章15節にこういう言葉があります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないことがあろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(旧約p1143)母親が子どもを忘れたり、捨て去ったりしないけれども、神は母親以上に私たちを愛し、慈しんでくださるのです。

 宗教改革者カルヴァンは「神は慈しみや憐れみにおいて、すべての人間をはるかに超えておられるように、神は、われわれの親たちの愛より、はるかに超えている。地上の親においては、父親としての責任感を一切ふり切って、子供たちを置き去りにするようなことがあっても、神はわれわれを決して捨て給わないのである。」と解説しています。

 主イエスが私たちに神を「父よ」と呼びかけるように、と命じたのは深い意味があります。主イエス・キリストが祈りの時に神をいつも「父よ」と呼びかけていたことは福音書に記されています。主イエスが十字架におかかりになる前には、祈る時にゲッセマネでの園で祈られた時に「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。」(マルコ14・36)と祈られました。祈りの初めに「アッバ、父よ」と主イエスは神を呼んだのです。

 ある新約聖書学者が「アバ」という論文を書いています。ここには「アッバ」と言うのは、幼子が初めに覚える言葉であり、日本で言うならば、幼な子が「お父ちゃん」「パパ」と呼ぶ時に使う言葉である、と言うのです。見知らない他人に呼びかけるのではなく、父親に親しみを込めて、「お父ちゃん」と呼ぶ言葉です。父親が自分のことを拒否したり、自分の存在を否定することは全く考えないで、父親を全面的に信頼して「父よ」と呼びかけるのです。「お父ちゃん」と呼ぶと、父親が自分に身を向けて答えてくれるのです。そのような信頼をもって祈りなさいと言うのです。

 日本人が祈る祈りは、どのような神かわからず、願いを聞いてくれるかどうか、わからない中で祈るのですから、心もとないのです。自分の願いは聞いてくれないかも知れない、しかし、だめもとでも、とにかく祈ってお願いしてみよう、熱心に祈れば聞いてくれるかも知れない、とにかく祈らなければ何も始まらない、そのような思いで祈るのです。祈る時にいつも不安で、祈る相手がどのように反応するかはわからない、自分の願いが採用されるかどうか、わからないけれども、とにかく祈ってみる、そのような思いで祈るのです。

 就職活動で会社が学生を採用する時に参考にするのに「エントリーシート」を提出させる企業が多いと言います。学生がこの会社がどのような会社であるか、どのように認識し、この会社で学生がそのように働こうとしているのかを見るのです。エントリーシートを見て、面接するに値いするかを判断するのです。学生はエントリーシートを提出しますが、それがどのように扱われるのかは全くわからないのです。私たちが神を「父よ」と呼びかける時に、どのように神が反応して答えるのか、全くわからないけれども、とにかく、「父よ」と呼びかけるのではないのです。

 神が「父」であると言うことはどのようなことなのでしょうか。それは主イエスが「放蕩息子の譬え話」で語っておられます。弟息子が父の家から離れて自分探しの旅に出たいと父親の財産を分けてもらい、父の家を出て、自由な生活を始めたのです。ところが財産をすべて使い果たし、豚小屋で豚と一緒に住むような落ちぶれた者になってしまったのです。この弟息子は父親のもとに帰ることを決心します。父親は遠くから弟息子の姿を見ると走り寄って息子を抱き寄せ、家に案内して宴会を催すのです。帰って来た弟息子を心から受け容れ、歓迎し、喜ぶのです。 

 この譬え話によって主イエスは神がどのような父なのかを明らかにしています。私たちは神に向かって「父よ」と呼びかける時に、どのような神であるのかをはっきりと知っているのです。慈しみ深い父なのです。熱心に長く祈らないと聞いてくれない神なのではないのです。憐れみ深く、恵み深い父なのです。

 マタイによる福音書7章9−11節にはこのように語られています「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(新約p11)

 私たちの祈りを支えているのは私たちではありません。神が恵みを私たちに注いでくださるので、私たちは安心して祈ることができるのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問120には、祈りを支えているのは何か、それは神の恵みが私たちの祈りの基礎、根拠である、とあります。

 ハイデルベルク信仰問答・問120の答えを読みますと「この方は、私たちの祈りの冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき神に対する子どものような畏れと信頼とをわたしたちに思い起こそうとなさったからです」とあります。「祈りの土台」、この「土台」はドイツ語でグルント、「基礎、根拠」と言う言葉です。英語で言えばグラウンドです。私たちは立つためにはこのグラウンド、この地面がなければ立つことはできないのです。

 神に私たちは祈りますが、神は私たちの祈りを聞くのか、聞かないのかわからないと言うのではないのです。神が私たちの祈りを受けとめてくださるので神に祈るのです。心通う相手が存在するから、何でも話すことができるのです。相手を信頼しているから隠すことなく何でも話すことができるのです。子どもが幼稚園や学校が終わると自分を待っており、自分を受けとめてくれる存在がいるので家に帰ることができ、家族の者に親しく話すことができるのです。私たちを愛しておられる、その中で私たちは「アッバ、父よ」と祈ることができるのです。

 私は神学校の学生の時に日本橋教会に通っておりました。ある時、教会に通っていて、教会の近くに住んでいた一人の高校生と親しくなり、この高校生の家に泊まって、夜遅くまで話したことがあります。彼の母親は彼が幼い時に逝去し、今、家にいる人は継母であり、その継母を受け容れることができずに苦しんで来て、自分はその継母を「お母さん」と呼べなかった、しかし、最近、やっと「お母さん」と呼べるようになったことが喜びであると話してくれました。

 私たちは神を父と呼ぶことができない者でした。それは私たちが深い罪によって神から離れ、罪の中に死んでいたからです。神を親しく「父よ」と呼ぶことはできないのです。しかし、憐れみ深い神はキリストの贖いにより、私たちの罪を赦し、神を「父」と呼ぶことができるようになったのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問120の答えの後半には次のように記されています。「言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親たちがわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神は、わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとなさらない、ということです。」と書かれています。

 神は天地を創造し、私たちの命を造り、遙かに超えた方ですが、私たちのための神となられた方なのです。私たちの救いのために肉体を取って人となり、私たちに代わって、私たちが受けるべき罰(審判)を自ら受け、肉を裂き、血を流してくださったのです。キリストのこの行為によって私たちは神の前に罪のない者として、神の子として認められ、神の子の地位を与えられ、神を「父」と呼ぶことができるのです。ロ−マの信徒への手紙8章15節には次のように語られています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(新約p284)

 「父」という言葉には「わたしたちの」と言う言葉がついています。「わたしたちの父」です。私たちが一人で祈る時も「わたしたちの父」と祈るのです。他の人のことはどうでも良いから、私の願いだけは聞いて下さい、と祈ることはないのです。「わたしたちの」、この時には主イエスの12弟子のことであり、現在ではキリストを信じ告白し、洗礼を受けた教会の仲間のことです。「わたしたちの」と祈る時、教会の仲間を思い起こし、そのことも心に覚えて祈るのです。それだけではなくて、この世界の人々をも含んで、関心をもってその救いを願いながら祈るのです。

 「天におられる」と言う言葉がついています。「天」と言うと「空」のかなたの遠いところと考えます。「天」とは地上を超えて、神が支配しておられる、神がおられるところです。「天におられる」「天にまします」と言うのは、神が一切を支配しておられることを語るのです。この地上では、神以外のものが支配しているように見えます。地上には人間の不正や悪がのさばり、地上の政府が絶大な権力をもって人々の生活を圧迫し、左右しているように思えます。この地上には、意味の分からない苦しみや、不条理、戦争、虐殺があります。一見、神はおられないのではないかと思うようなこともあります。しかし、目には見えないけれども、神の支配があり、必ずや神が勝利するのです。

 ある本に、第二次世界戦争の最中にイギリスの教会の礼拝で「天にまします我らの父よ」と礼拝で祈っていた時に、人々はこのような暴力的な時代は長くは続かないと信じて祈っていた、と書かれていました。ドイツ軍の爆撃や戦闘行為によって多くの人々が死に負傷している中で教会の礼拝に集まっていたキリスト者たちは、「天にまします我らの父よ」と祈りながら、神が私たちを支配しているのだから、この戦争の時代を神が終わらせてくださると確信して祈っていたのです。

「天にまします」という言葉がこの祈りにあるのは、神が全能であり、この地上のことに思う煩うことなく、私たちの体と魂に必要なすべてを配慮してくださっていることを明らかにするためなのです。ハイデルベルク信仰問答・問121には、なぜ「天にまします」と付け加えられているのか、と言う問いがあり、その答えには、私たちが地上のことを思うことなく、神が全能であって体と魂に必要なすべてを期待するためだ、と答えています。

 「全能」とは神が支配し、私たちのために配慮してくださっていることです。私たちは自分の将来に恐れと不安とをもっています。しかし、「天におられる私たちの父よ」と祈るたび毎に、私たちの体と魂に関わるすべてを神が愛をもって備え、用意し、心を配っていてくださることを確信することができるのです。

 この地上を生きる時に、病気や不幸に出会い、思いがけない苦しみに遭います。しかし、神は私たちを忘れることはなく、見捨てることはないのです。 

 私たちは安心して「天におられるわたしたちの父よ」と神に呼びかけ、祈ることができるのです。


20171029 宗教改革500年記念礼拝 主日礼拝説教 「神に認められる幸い」 山ノ下恭二


(創世記4章1−16節、ロ−マの信徒への手紙3章21−27節)
 
 私がキリスト教について書いてある本を初めて読んだのは、中学1年生の時でした。初めて読んだ本はアメリカ人の牧師が書いて日本語に翻訳された「私というもの」と言う本でした。「わたしというもの」と言う、この本の中で、「人間にとって一番、欲しいものは何でしょうか」と言う問いかけがありました。その答えは、自分がみんなから認められることです、承認を受けることです、と書いてありました。確かに自分が認められる、承認を受けることは自分が求めていることだと思ったのです。周りの者から自分が認められることは、うれしいことです。自分がみんなから認められたい、という欲求をもっていることは確かです。

 私は牛込払方町教会に赴任する前にさいたま市の東大宮教会に25年おりましたが、ある時、他の教会から転入会した人が、こういうことを話してくれました。その人は東大宮教会には知り合いがなく、誰も知らない中で礼拝に出席をしたのです。日曜日に初めて東大宮教会に行った時は、教会の人が自分を快く迎えて受け入れてくれるだろうか、とても不安であったそうです。受付を済ませて、礼拝堂に入った時にある教会員がニコっと笑顔で迎えてくれたそうで、それが感じが良かったので、続けて来ようと思ったのだ、と話してくれたのです。それはその人の存在を教会員が認めてくれたと言うことなのです。この話から、私は教会に来た人に、あなたはここに来て良い人だ、とその存在を受け入れることが大切であることを教えられたのです。自分の存在を受け入れて、認めて欲しいと言うのは、私たちの基本的な欲求なのです。

 教会はどのような人でも受け入れ、その存在を認めるところです。あなたはここにいて良いのだ、と言うことを伝えることは大切なことです。

 私たちが、自分が認められたい、自分がみんなから注目されたい、褒められたいと言う思いをもっているのは確かですが、その思いが叶えられない場合があるのです。それは不満になるのです。 

 私が高校生の時に、第二土曜日は高校生たちが会堂の清掃を受け持っていました。いつもは三、四人ぐらい、高校生が来て掃除をするのですが、ある時、私以外は誰も来なかったのです。仕方なく、一人で掃除をしましたが、誰かが自分が掃除をしているところを見ていてくれたら、良いのにと思ったのです。そして「掃除していてえらいね」と言ってくれればもっと良いのに、と思ったのです。誰も、自分が掃除をしている場面を見ていないし、誰も褒めてもくれないと思い不満をもちました。自分が良いことをしているのを認めて欲しい、と求めることがあるのです。それは誘惑になるのです。どうしたら自分がみんなから注目されるか、どうしたら自分が褒められるようになるのか、そのことだけを考えて行動をするのです。

 それは主イエスが批判したファリサイ派の人々のように、自分が熱心に祈っていることがみんなに分かるように、みんなが通る道路の角で長い祈りをするようなものです。自分が断食をしていることが分かるように、みんなの前でわざと苦しい表情をしてみせるのです。みんなに認められたいために、企むのです。自分を認めてほしい、自分を際立たせたいと言う誘惑があるのです。自分がみんなから褒められたい、認められたい、そういう思いが先に立つのです。

 本日の礼拝で、創世記4章を読みました。カインがアベルを殺してしまうところです。カインとアベルは、それぞれ自分のささげ物を献げました。ところが弟アベルのささげ物が神に顧みられ、カインのささげものは顧みられなかったのです。自分のささげ物が顧みられなかったことにカインは激しく怒って、これに耐えることができず、弟アベルを殺してしまったのです。カインは、どうでもよい粗末な物を神にささげたのではありません。カインとしては精一杯、心を尽くしてささげたのです。ところがアベルがささげたものを神は顧みられたのです。このことは自分を認めていないことになるのではないか、と思い、アベルに対して嫉妬を持ち、それが憎しみとなって殺人を犯すことになるのです。

 私たちは人との比較の中で自分を位置づけています。自分よりも他の人が認められるとその人に嫉妬し、憎らしく思うのです。他の人よりも、自分が認められれば、満足するのです。私たちはいつも自分が周りの人からどのように見られているのか、を気にしながら過ごしています。私たちは、自分が承認されることを求め、自分が認められることを願っているのです。確かにその人をありのままに受け入れ、その存在を認め、受け入れることは大切です。

 聖書では神が私たちを受け入れることを「義」と言う言葉で表現します。神が私たちの存在を肯定することを「義」と言う言葉で言い表します。

 「義」と言う言葉は日本語で使うことはありません。現在、新共同訳聖書を用いていますが、最初の翻訳の時には「共同訳聖書」として出版されました。この時、教会に来たことのない人たちが読みやすいように「義」という言葉ではなくて「救いの働き」と言う言葉で翻訳しましたが、その後、新共同訳では口語訳聖書のように「義」と言う言葉に翻訳し直したのです。最近、新しく翻訳作業がなされている「標準訳」も「義」と言う言葉で翻訳されています。「義」と言う言葉は、聖書を初めて読む、一般の人には、意味が分からない言葉ですが、意味の深い、大切な言葉なのです。

 「義」それは、神と私たちとの関係を表す、「関わり」を表す言葉です。神と私たちとの関係が正しく、正常な関係をもっている時には「義」なのです。

 私たちは周りの者が自分のありのままを受け入れて欲しい、と願っています。しかし、聖書はありのままで良い、とは言ってはいません。それは、私たちが神に反逆し、神に背を向けて生活しているからです。神に受け入れられるような者ではないからです。私たちの生活は神から見ると認められるものではないからです。神が認める者は神を中心にして、神のみこころに従っている者なのです。それを神との関係が正常な者であると言うのです。神との関係が壊れている私たちを神はそのままの姿で認めてくださらないのです。私たちは神に対して罪を持っているのです。

 本日の礼拝でロ−マの信徒への手紙3章21−27節を読みました。23節で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」と言う言葉があります。私たちは、罪を犯している、自分中心で過ごしている、神を忘れているのです。そのような罪を犯している者を神が善いと認めることが起こるのでしょうか。

 今年は宗教改革500年の記念の年です。1517年10月31日、マルティン・ルタ−がヴッテンベルク城教会の扉に95条の提題を掲げて、討論を呼びかけたところから宗教改革が始まったのです。なぜ、マルティン・ルタ−が、この時に95カ条の提題を掲げて討論を呼びかけたのか。それには深い理由があります。ルタ−が聖書を学び、聖書と真剣に取り組み、聖書のみことばと格闘していった結果、中世ロ−マ・カトリック教会が聖書のみことばによって歩む教会でないことを確信したからです。ルタ−は聖書に生きる、聖書のみことばに忠実に生きるのがまことのキリスト教会であることを確信したのです。聖書のメッセ−ジは何か、そのことを追究していく中で改革運動が始まったのです。

 ルタ−が改革運動を始めるのには、それまでの長い準備期間が必要であったのです。ルタ−は1483年にドイツのアイスレ−ベンで生まれ、父親は法律家となることを息子に期待していましたが、エルフルト大学に学んでいた22歳の時に落雷に遭い、その時に修道士になると誓ったためにアウグスチヌス派修道院に入りました。そしてヴッテンブルク大学で学生に詩編の講義をするために、詩編の言葉を真剣に取り組む中で、福音を再発見することができたのです。

 詩編の講義は詩編1編から始めたのですが、詩編31編2節にある言葉に戸惑ってしまったのです。今の私たちは、新共同訳の聖書を使用しているので、この時、ルタ−が用いていた聖書と異なるので翻訳の言葉が異なっています。この当時、ルタ−が読んでいたのはウルガタと言うラテン語訳です。「あなたの義によって私を解放してください」と訳すことができます。この一節に差しかかったとき、ルタ−はこの言葉にはたと行き詰まってしまったのです。

 「あなたの義によって私を解放してください。」なぜ、この言葉に行き詰まったのでしょうか。それは、ルタ−が理解していた「神の義」とは神の正しさのことであり、神は正しい方なので、自らの意志と能力をもって努力する人間を神は「正しい」と受け容れてくれるけれども、努力を怠る人間には、怒りをもって裁きを下す神であると考えていたからです。

 ルタ−はこの神に「正しい」と受け入れてもらうために、毎日、研鑽を積み、誰よりも厳しく、修道院で神の教えを守り、誰よりも努力していたに違いないのです。しかし、神は自分を正しいと受け入れてくれたと言う確信がどうしても得られなかったのです。それはなぜなのだという疑問が、いつしかルタ−の心の中で神への疑念に変わっていきました。「神の義」。神が義であるとはどういうことなのかと言う一点にルタ−は取り組むようになったのです。神は正しい方であるから神は裁く方です。しかし、神は恵みの神でもあると言われているので、その関係はどうなのか、ルタ−は心の中で葛藤していたのです。

 詩編31編2節「あなたの義によってわたしを解放してください。」神の「義」と人間の「救い」とが、なぜ一つに結びつくのか、分からないのです。神の「義」を「怒り」「裁き」「罰」の脈絡でとらえてきたルタ−にとって、この結びつきは矛盾であり、どうしても理解できなかったのです。

 そして、詩編71編を講義しなければならないので、ルタ−は神の「義」について思い巡らしていた時に、神の「義」の深い意味を発見することになるのです。この71編2節に31編2節と同じ言葉が出てきます。「あなたの義によって私を解放してください。」という言葉です。詩編の講義でルタ−は「詩編の記者はここでキリストを明瞭に言い表している」と書いています。

 ルタ−は「神の義」と言う言葉を文法として考えたのです。「神の義」を「神が正しい方」「神が裁く方」という意味としてではなく、「神が持っている義」と言う意味であると理解したのです。例えば、「お父さんのプレゼント」と言うことは「お父さんが私に贈るプレゼント」と言うように理解したのです。プレゼントを「贈る」という行為をする主体は「お父さん」です。お父さんがひとたび「贈る」という行為をすると、その行為によって贈られたプレゼントはお父さんの手を離れ、それを贈られた人の手に渡りその人の所有物になります。
 
 神の義、この「の」と言う言葉をルタ−は深く思索したのです。神が所有しているものを、神は人間にプレゼントとして贈るのです。ルタ−はそのことに気がついたのです。「神の義」という時の「の」は、行為者の属格として理解されるべきなのだと見抜いたのです。神は「正しさ」をイエス・キリストというかたちで、罪が深い人間への「贈り物」として与えるのです。その結果、「義」はそれを贈られた人間の所有するものとなり、人間は救われるのです。だから詩編の言葉は、神の「義」を、「解放」や「救い」と結びつけることができることが分かったのです。「義」とは人間に裁きを下す神の絶対的な正しさを意味するのではない、そのようにルタ−は理解したのです。こう理解することができたところが修道院の高い塔の小部屋であったので、ルタ−の「塔の体験」と呼ばれています。

 「今まで私が神の義という語を激しく憎んでいただけに、いまやこの語をもっとも素晴らしいことばとして誇ることができた。」とルタ−は語っています。この神の義の理解が、ルタ−が聖書を解釈する時の基本原理となりました。これをきっかけとして、ルタ−は罪ある者が「神の義」を獲得することができると確信したのです。

 二回、行った詩編講義の後にルタ−はロ−マの信徒への手紙の講義に入りました。この講義でルタ−は人間の罪について取り上げ、そしてその罪からの救いとしての「恵みの義」について取り上げ、そしてこの「恵みの義」をただ信仰によって受け止めることを語っています。ルタ−は、「ソラ」と言う言葉をよく使った。「ソラ」と言う言葉はラテン語で「だけ」「のみ」と言う言葉である。「聖書によってのみ」「信仰によってのみ」「恵みによってのみ」と言うのです。特に、信仰によって「のみ」義とされると強調しています。

 このロ−マ書の主題について次のように語っています。「神は私たちの中にある義と知恵によってではなく、私たちの外にある義と知恵によって救おうとしておられるからである。この義と知恵とは、私たちから出たり、生じたりするものではなく、他のところから私たちの中に来るもの、私たちのものではない義が教えられなくてはならない。それゆえに私たちの中にある義が取り去られなければならない。」

 先程、説明したように、「義」とは、神から一方的に人間に与えられる「正しさ」と言うプレゼントです。そのプレゼントとしての神の義は、イエス・キリストという形で私たちに与えられるのです。神は人間にそのプレゼントを与えることで、人間を新しいものに造りかえてくださるのです。そのことを信じることによってのみ、そのプレゼントを受け取ることができ、救われるのです。

 本日、この礼拝で読みましたロ−マの信徒への手紙3章21−26節で語っていることの核心はここにある、とルタ−はこの講義で説いています。人間は正しく生きて行きていくことができる、正しいことをすることができる、という思いをいつも持っています。しかし、ルタ−は人間の存在の奥底には「罪」があることを見据えています。そこには人間の罪に対する深い認識があります。人間の心の奥底には、神に背く、自分中心の、どうしようもなく、どろどろとした、どす黒いものを抱え込んでいる罪があることをよく見ているのです。自分の利益のためには人を利用するだけではなく、神をも利用するのです。人間が抱え込んでいる罪は、人間がどれほど真剣に心の底から正しくあろうとしても、消せるものではありません。人間の救いは、神から一方的に与えられる「プレゼント」つまり、イエス・キリストを信じるほかはないのです。

 ロ−マの信徒への手紙3章24−26節に次のように記されています。「ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みに無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」神から離れて、自分中心に生きている私たちの罪をイエス・キリストが贖ってくださり、そのことをただ信じるだけで、神は正しい者としてくださるのです。罪ある者を義と認めて下さるのです。私たちは神が義と認めてくださっているので、みんなから認められる必要はないのです。周りの者が誰も自分や自分のしていることを認めることがなく、承認を得ることがなくても、私たちはやっていけるのです。私たちをみんなが認めることがなくても、神が私たちを正しい者として認めてくださっているのです。

 みんなの目を気にする必要もないし、人との比較の中で自分の位置や立場を決める必要はないのです。ただ、私たちは神に深く愛されているからです。

20171022 主日礼拝説教  「祈ることは喜び」   山ノ下恭二


(詩編65・1−5、テサロニケの信徒への手紙1 5・17−18、ハイデルベルク信仰問答・問116−119)        

 私は小学3年生の時に、教会学校のクラスで祈る訓練を受けました。この時、女性の教師が毎週、祈りを指導し、出席していた生徒が祈れるようになったのです。祈りができるためにどのような指導をしたのか、と言うと、初めにこの教師の祈りと同じ言葉で祈り、そして祈りの意味を教えます。それを一ヶ月、4回、繰り返すのです。そして次の月には一人一人、順番に祈らせる、今日は誰々、と指名して祈らせる、毎週、そのような訓練をして、半年後には一人一人がみんなの前で祈ることができるようになりました。その光景をよく覚えています。その教師はよく祈っていて、子どもたちが祈れるようになって欲しいと願って訓練したのです。教会学校のクラスでの祈りの訓練によって私はみんなの前で祈ることができるようになったのです。

 私は、この教会を含めて、8つの教会を経験していますが、洗礼を受けて信徒となり、教会に属するようになっても、祈りができない人が多いことを実感しています。洗礼を受けて信徒となり、教会員になっても祈りができない人がおり、教会で祈ることをためらう人も多いことに気がつきました。洗礼を受けて信徒になって長いのに、祈りができない、みんなの前で祈ることを嫌がることは恥ずかしいことです。祈りの訓練をしていないことに原因があるのです。

 祈りに関する本はたくさんあるので、祈りの本を読めば、良いのですが、詳しく書いてあり、読むのに根気が要るので、簡単に読めて、祈ることができるようになる祈りの冊子を作ろうと思い立ちました。「『祈りは初めて』という人、『祈りってどうするんですか』という人、のための『祈りの手引き』」という冊子です。 

 日本では、自分の言葉で声を出して祈るという習慣がありません。心の中で願い事をしますが、声に出して自分の言葉で祈るという習慣はないのです。キリスト教会では声を出して祈るので、祈りを始めることは難しいと感じるのです。教会に来るようになってしばらくしてやっと「天の父なる神様」と呼べるようになったと言う人もいます。祈りと言うと、一般的に祈る内容は「自分の願い」です。「無病息災、家内安全、商売繁盛」を祈るので、祈りは現世利益に関わることをお願いするのです。「今年も健康でありますように」「今年も無事で病気になりませんように」。

 祈りは自分から始めるものであると考えている人も多いのです。祈りたいから祈る、自分が祈る気分にはならないから今は祈らない、願い事がないから祈る必要がない、ということになります。自分の側の条件で、祈ったり、全く祈らなかったり、ということになるのです。祈りは自分の願い、望みをお願いするものであり、祈りは自分から始めるものである、と考えているのです。しかし、イエス・キリストの救いにあずかった者は、そのような祈りの理解に留まっていて良いのでしょうか。自分の側の都合で祈り、自分の願いを申し述べると言う祈りの姿で良いのでしょうか。

 ハイデルベルク信仰問答116問から祈りについて解説しています。ここには、祈りが自分から始めるものでもなく、祈りがただ自分の願いをかなえるための手段ではないことを明らかにしています。積極的に言うと祈りは感謝の最も重要な部分であると解説しているのです。

 このハイデルベルク信仰問答は、「救いについて」語られた後に「感謝について」書かれています。使徒信条にはキリストの十字架の贖いによって罪が赦され、救われていることが解説されています。キリストによる救いが詳しく解説された後に、ハイデルベルク信仰問答は「感謝について」で、十戒と祈りを解説しています。キリストによって救われた者が、その感謝を言い表すのはどのように生きるのか、それは十戒によって示され、神を礼拝し、隣人を愛する生活であることが解説されています。「感謝について」の項目で十戒に続いて祈りが解説されています。祈りは神に感謝することの最もすぐれたものです。

 竹森満佐一訳の「ハイデルベルク信仰問答・問116」には次のように書かれています。「キリスト者には、何故、祈りが、必要なのですか。」という問いに対して、答えは「それは、祈りが、神がわれわれにお求めになる感謝の、最もすぐれたものであり、また、神は、恩恵とみ霊とを、心からの慕わしさをもって、たゆまずこれを求め、また、それを感謝する者にのみ、与えようと思っておられるからであります。」祈りがただ自分の願いをかなえるための手段ではなく、キリストに救われたことの感謝として取り上げられています。

 ある機関誌で松戸教会の石井牧師が祈りについて次のように解説しています。祈りには「請求書的祈り」と「領収書的な祈り」があり、「領収書的な祈り」を心がけたいと書いています。「請求書的な祈り」とは、自分の願いを神に請求する祈りのことです。交通事故に遭わないように、家族の健康を守ってください、と言う祈りです。ください、くださいと請求するのです。しかし、キリスト者は神から与えられた恵みに感謝して、その恵みを戴きましたと領収する、その内容が祈りであると書いています。主イエス・キリストによって恵みが与えられたのですから、感謝の言葉が祈りになるのです。「神様、ありがとうございます」その言葉が祈りの本質であると言うのです。キリストの十字架によって救われた者は、キリストの救いを知らない人の祈りと同じ祈りでよい筈はないのです。祈り始める時も、祈りの内容も、祈りの言葉も、全く異なっている筈です。

 祈りは神に対する応答です。祈りは自分から始めるものである、と考えている人が多いのです。よく祈るので信心がある、しかし、自分は祈らないから信心が足りないと考えます。しかし、祈りは神が求めているから祈るのです。相手が話しかけていたら、返事をするのが普通です。自分が相手に話しかけているのに、相手が何の応答もないのもおかしな話です。なぜ、私たちは祈るのか、それは、神が祈ることを求めているからです。祈りたいと思うことがあります。祈りたいから祈るということがあります。ただ、それだけではなく、神が祈ることを求めておられるのです。

 テサロニケの信徒への手紙1 5章17−18節「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」祈りの手引きになる本がありますが、私がバルトという神学者が「祈り」について書いた本を読んだ時に「祈りは話しかけていることである」と書いてあったことをよく記憶しています。教会に初めて来る人が経験することは、教会の礼拝や祈祷会で会員がスラスラ祈りの言葉が出てくるので、あのようには自分には祈れないと思うのです。どうしてあんなに上手に祈れるのですか、と言われます。

 祈りの基本は「話しかけている」ことです。仕事から家に帰って家族に「今日は疲れた」と言いますが、祈りは自分の思いを話しかけることです。「神様、今日は疲れました」と言うことから祈りを始めても良いのです。どんな言葉で祈ろうか、と考えるから、祈れなくなるのです。みんなの前で祈る時にはみんなのことを考えて、どのような言葉であれば、恥ずかしくないか、立派な祈りができるか、と考えるから祈りは難しいと考えるのです。しかし、そうではない。話しかけていることが基本です。

 「請求書的な祈り」は、自分の願いが中心であるから、自分中心です。そして自分の願いが聞かれないならば、この神はだめな神だと別の神に願うのです。しかし、私たちの祈りは、私たちの祈りを聞かれる神が主導権を持っています。私たちは自分の願いを祈ります。しかし、その願いを聞いて、その願いをかなえるのは神です。神が私たちの祈りを判断し、ある時にはその願い通りにはならないこともあります。自分の願い通りにならなくても、信頼して祈ることができるのです。

 熊野清子牧師の説教集「み言を求めて」に「祈りについて」という短い文集があります。ここには、聖書の言葉への応答として祈ることが記されています。「身体のことでいえば、聖書を読むことが食事をすることに、祈ることが呼吸をすることにたとえられる。」「私どもは祈りが大切なことだと分かっているのに、時には億劫に感ぜられるのは、祈りを『おつとめ』に考えるからである。祈りはいわゆるおつとめではなく、神の恵みの働きかけ、語りかけに対する答えである。」

 「神のみ言に対する答えの祈りということで、私は聖書を読みながら、以前には感じたところへ赤い線を引いていたが、この頃は、そこで読むのをやめて、お答えの祈りをしてから次を読むという風に致している。これは聖書を読んでしまってから、祈りをすると、とかく願いごとばかりの束を献げるようになるので、そういうことから、聖書を読む途中でみ言に対する感謝、讃美それから決心を祈るようにし始めたのである。また聖アウグスティヌスは、一人で祈るときも、使徒信条を唱え、神の前に信仰をいいあらわした、ということをきいたが、これも祈りが、神の恵みの働きかけに対する考えであることをあらわしていると思う。」

 ハイデルベルク信仰問答117問には「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか」と書かれています。祈る相手である神が喜び、聞いていただけるような祈りは何か、と言うことです。ある人に会うたびに、自分の願いばかり、要求ばかりされていたら、この人は自分のことしか考えていないと、私たちは相手を嫌いになります。聞く者の立場や思いがあるのです。神が求めている祈りを祈るのです。神は私たちの深い罪の救いのために、主イエス・キリストを十字架の犠牲をささげてくださった、その恵みに感謝し、この方が求める祈りを祈るのです。「この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める」のです。神が私たちに求めなさいと命じた祈りの内容は何でしょうか。神の御心に適う祈りは何でしょうか。

 ハイデルベルク信仰問答118−119で解説されていますが、それは「主の祈り」です。神が求めている祈りは、神の前にへりくだり、そして、この神が祈りを聞いてくださるという確信をもって祈るのです。自分が願う形でかなえられなくても、神は別な方法で祈りを聞いてくださる、そのような信頼をもって祈るのです。自分の持っている願いをかなえてほしいという祈りではなく、みこころが行われますように、と祈るのです。神に信頼して祈るのです。

 主イエスの弟子たちが主イエスに祈りを教えてほしいと願って、主イエスは「主の祈り」を教えたのです。この「主の祈り」を改めて読んでみると、六つの内容が書かれていて、初めの三つは神の事柄について祈られています。み名、み国、み心とありますが、原文は「あなたの名」「あなたの国」「あなたの意志」です。「あなた」とは神のことです。

 主の祈りは、自分のことを初めに祈るのではなく、神のことを何よりも優先して祈るのです。この祈りは何よりも神との関係に生きる祈り、神の恵みに生きる祈り、信仰の祈りです。最初から最後まで、自分のことばかり祈るのは、祈りの問題にとどまることなく、生き方の問題です。自分のことしか関心をもたず、地上での自分の幸福、安全だけを求めるのです。しかし、キリスト者は自分のために生きることが神の前に間違っており、それが罪であることを知っているのです。自分中心に生きている罪をキリストが赦して下さり、神に対して生きる者です。自分のことよりも神に対してどのように生きるのか、が問われます。キリスト者が何よりも優先すべきことは、神のことであり、神の名、神の国、神の意志について祈るのです。神の名が崇められ、神の国が来るように、神の意志が行われるようになる、ように求めるのです。

 後半の祈りは、「われらの」とあるように、私たち自身のための祈り、人間の事柄についての祈りですが、この祈りは自分の生活の必要から出てきた、願い、求めということよりも、信仰が与えられないと祈れない祈りです。自分のために御利益をお願いする祈りではないのです。神に対する深い信頼の中でのみ祈ることができるのです。

 「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。この祈りはパン屋に行ってパンをくださいと言うのではないのです。神が私たちのすべて必要なものを配慮し、与えて下さる、そのような信仰をもって祈る祈りです。今日、必要な食べ物を今日、与えて下さり、明日は必要なだけのものを必ず与えて下さる、そのような神を信頼する中で祈る祈りです。神が私たちを深く愛し、配慮の中においてくださると信じる信仰において「必要な糧を毎日、与えてください」と祈ります。「自分が欲しいだけ与えて下さい」と祈るのではないのです。

 私たち人間についての第二の祈りは「われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」です。一番、私たちが気を使い、悩むのは人間関係です。相手を赦せない、という思いを持つことがあります。自分の罪がキリストにあって赦されているのであるから、その赦しに生きることができるのです。「わたしの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目がある人を赦しますから。」

 第三に「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」。普通は人生の試練や困難、苦しみがないように、厄介なことに遭わないように祈ることが多いのです。病気にならないように、事故に遭わないように、と祈るのです。しかし、たとえ、自分にマイナスと思われるような病気や苦しみがあっても、キリスト者はそこに神の隠された意図を読み取ることができるのです。この病いや苦しみは意味のある病い、苦しみであり、自分にとってプラスになると受け取ることができるのです。そして神もいないと信仰を失ってしまうほどの厳しい試練や困難に遭わないようにと祈るのです。

 この「主の祈り」は、私たちに祈りなさいと主イエス・キリストが自ら教えられた大切な祈りです。そして、この祈りは神のみこころに適った祈りであり、「霊的また肉体的に必要なすべて」が含まれています。いつも祈っている「主の祈り」ですが、その深い意味をよく心に留めながら祈っていきたいのです。


20171015 礼拝説教・交換講壇 「もちつ、もたれつ?」 浅野直樹牧師(市ヶ谷ルーテル教会)


(イザヤ書55章6〜9節、マタイによる福音書20章1〜16節、フィリピの信徒への手紙1章12〜30節)

 お隣りの、ルーテル市ヶ谷教会の牧師をしております浅野直樹と申します。今朝、歴史ある日本基督教団牛込払方町教会で、皆さんとご一緒に、こうして主の恵みをいただく時間を与えられたことを、心から神様に感謝を申し上げたいと思います。

 先ほど聖書をご一緒に聴いたわけですが、三つの聖書個所を朗読していただきました。これはルーテル教会の伝統的なやり方なのです。旧約聖書、使徒書、そして最後に福音書を朗読するという形で、聖日のみ言葉を聴くことになっています。もちろんそうでなくても構わないのですが、大方の日曜日にはそのようにしているので、今回皆さん方とみ言葉を聴くにあたっても、その方式を取り入れて三つの聖書個所を選ばせていただきました。というよりも、ルーテル教会では、牧師が主日の聖書個所を選ぶのではなくて、一年の日課がすでに決まっておりますので、全国のルーテル教会どこでも、今読まれたみ言葉が今日の主日の日課になっております。

 福音書を中心にお話をさせていただきますが、今日のたとえ話を改めて読んでみて、このたとえ話はルーテル教会というか、マルチン・ルターの教えをよく表した福音書だな、と思いながら、み言葉を聴いたのであります。「働かざる者、食うべからず」。よく知られている格言、教えの言葉ですが、この格言は確かに生きています。いつの世にあっても、これは有効で、正しい教えです。けれども、こうしたことわざとか、言い慣わしというのは、それがすべての場合に当てはまるわけではありません。「働かざる者」と言うとき、本当は働くことができるけれども、サボってばかりで仕事をしない「働かざる者」というのをそういう人にあてがうならば、確かにこれは当てはまると思います。そうした人を戒める言い慣わしであると思います。

 けれども「働かざる者」を、「働けない者」と混同してはいけません。「働けない者、食うべからず」ではありません。働けない者の中にはいろんな人がいます。誰だって、体調を崩したら働くことはできません。小さな子供、ご高齢の方、あるいは障害がある人にとっても、厳しかったりします。「働ける者」と「働けない者」が、この人間社会にはいるのです。そして、これまで元気に働けていても、私たちはいつだって働けない者になり得ます。「働く者」と「働かざる者」が人間社会にはいるのです。

 会社、企業のことを考えますと、利潤の追求を目的として掲げていますので、そこには競争原理が働きます。そうなると、「働かざる者、食うべからず」が優先的な言葉になってくるかも知れません。一方、社会福祉の立場に立つならば、「働かざる者も、食うべし」と言えます。ですから、どちらも正しい。そして、どちらも間違っています。これをどのように使い分けるか、それが私たち人間社会の難しさではないでしょうか。

 今、私は人間社会のお話をしました。私たちが生きている現実の世界について述べているのですが、今日与えられたマタイ福音書20章のたとえ話はそうではありません。冒頭の一節が示していますように、これは天の国のお話です。
まず、そこに大きな違いがあるという認識を持ちたいのであります。天の国と、この世の社会を、分けて考えようということです。

 ルーテル教会の教えの基盤となっているマルチン・ルターの神学で、二王国論というのがあります。お聞きになった方もいらっしゃると思いますが、二つの王国、この世の統治と、神の国の統治を、ひと先ず分けて区別しましょう、という考え方なのです。今、私はこのたとえ話を考えるにあたって、まずは分けて考えたいと思うのです。

 けれども、これは天国のお話なのだから、今生きている現実とは関係がない、ということではありません。主イエスは、天の国について、このたとえ話だけではなくて、いろんなところで、繰り返し、繰り返しお話をしておられます。何度もイエス様が語り、それを福音書記者のマタイは、福音書に一つひとつ書き留めて行ったのであります。イエス様が、言葉によって、天の国をこの世に持ち込んだのであります。人となられて、言葉をつかって、天の国の価値観を、人間社会に届けてくれたのであります。神の子イエスは、天の国をこの世に持ち込むために、この世に遣わされたのです。

 今日のたとえ話は、とても分かりやすいお話のうちの一つと言ってよいと思います。ブドウの収穫の時期になったので、人手が必要となって、ブドウ園の主人が人探しにでかけました。朝9時から働き始めた人、お昼から働いた人、3時から、そして夕方の5時から働いた人、それぞれ一人ひとりを雇ったのであります。当然労働時間が違っているわけですが、なんとこの主人は、すべての人に分け隔てなく一日分の労働賃金とされる1デナリを支払うのであります。夕方5時からの人も、朝9時からの人にも、同じ1デナリを支払ったのであります。本来、夕方5時から働いた人がいくら貰ったかなどということは、朝9時から働いた人には関係ないはずなのですが、なんとこの主人は、5時から、1時間か2時間位しか働かなかった人から賃金の支払いを始めたものですから、他の人たちもその人の手取り分が分かってしまったわけです。そうするとお昼から働いた人、朝9時から働いた人がそれを知って、これは不平等だ、不公平だと言って、不平を言い始めたのであります。本来、知らなければ、気分を害することもなかったはずなのですが、知ってしまったがために気分を害したのであります。

 イエス様は、これが天の国の扱い方だと語っておられるのです。このようなやり方は、私どものこの世では通用しません。「働かざる者、食うべからず」ですから、この世でこのような扱いをすれば不公平という大きな問題が生じてしまいます。この世はギヴ&テイクの関係ですから、ギヴした分だけいただく、テイクするということ、与える側と、受け取る側がそれぞれに納得して合意する必要があるのです。どれだけ与えるか、どれだけ貰えるか、ここにすべてがかかって来るのであります。

  けれどもイエス様によると、天の国はギヴ&テイクの関係ではない、ということのようです。天の国のお話ですから、この場合ギヴ=与えるのはもちろん神様です。そしてテイク=受け取る方は私たちということになりますが、神様の一方的なギヴなのであります。私たちがどれだけ頑張ったかとか、どういう仕事をやり遂げたとか、あるいは逆から言うなら、雇用者側から見たとき、どれだけこの人間は役立たずだったか、仕事ぶりがなってなかったか、だらしなかったか、こういったことが人間社会の中では最も問われるわけですが、イエス様の話によれば、天の国では、神様はそれを問わない、というのです。9時からの人も、夕方5時からの人も、等しく同じ報いをくださるというのであります。9時から働いた人ですからできる人と言えるでしょうが、できる人からすれば、あの人が1デナリ貰ったのなら、私はもっと貰えるはずだ、こういう不平不満が出てきます。一方、5時から1時間しか働かなかった人から見ると、よかった、助かった、感謝だなという気持ちになるわけです。

 自分がどのように扱われたか、その扱いに対してどう感じたか、私たちはいつも、自分がどう思ったか、どう感じたか、これを最優先にします。他者ではなく、まず自分がどう受け止めたか、これが私どもの見方、これが第一に来るわけです。けれども、今日のたとえ話から教えられるのは、最も大切なことは私がどう感じたか、私がどう受け止めたかではありません。神様がどういう思いでいらっしゃるのか、というところが、最も私たちが聴くべきみ言葉なのであります。神様が分け隔てなく人を扱おうとしておられるのは、どうしてなんだろう、そのことを考えそのことを知ることの方が、もっともっと大事なことであります。何故ならば、福音というのは、私どもの思いの中にあるのではありません。福音は、神様の御心の内にあるからです。

 私たちがどう感じたかが、福音を示しているのではありません。ここは私たちがよく間違いを犯してしまうところですが、今日の福音書のたとえ話はそのことを教えてくれています。このたとえから、主なる神様がどういうお方なのかが何となく分かってくるのです。平易な言葉で言いますと、神様という方は本当に気前が良くて、寛大で、心の広いお方なのだなと言うことができます。こうした気前の良い、心の広い神様という特徴は、何も今日のたとえ話だけではありません。イエス様ご自身が語られたみ言葉の中に何度も出てきます。たとえば、マタイ5章の山上の説教の中の有名なみ言葉を思い出してみましょう。

 イエス様は言われました。「天の父は、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせてくださる。」このみ言葉などは、今日のたとえ話をひと言で言い表しています。もう一つ例をあげるとすれば、これもご存知の「放蕩息子のたとえ話」であります。放蕩の限りを尽くして家を飛び出した息子を、父はひたすら待ち続けるのです。待ち続けて、ようやくぼろぼろになって帰って来たら、あらん限りのもてなしをして息子の帰還を喜ぶのであります。この父親にはもう一人の息子、お兄さんがいましたが、この兄は真面目に働き、こつこつといつも父の仕事を手伝っていましたが、このお兄さんがこれまでしてもらったことのないほどの手厚い歓迎、宴を、お父さんはこの息子のために設けたのです。そして、お兄さんはこのような父親の気前の良さに腹を立てました。これは不公平だと兄は思ったのです。朝9時から仕事をした人と同じ思いをしたわけです。その時、お父さんは兄にこう言いました。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。だが、彼はいなくなっていたのに、見付かったのだ。」兄はこれまで自分がどれほど沢山の恵みを、毎日、父親から受け取っているかということをすっかり忘れてしまっていたのです。

 今日のマタイ福音書は20章1節から始まっていますが、その前、19章の最後の一節を含めて読むと、このメッセージの強調点が見えてくるのではないかと思います。また、同じ言葉が16章でも繰り返されるのですが、19章30節を読むと、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」、とイエス様はおっしゃって、このたとえ話に入って行ったのです。そして、このたとえ話の締めくくりで、また同じ言葉を繰り返されたのであります。一番最後にやってきて、ちょこっとだけ仕事をした人が、最初に賃金を受け取る。朝9時からフルタイムで働いた人が、一番最後に受け取ったのです。

 順序、オーダーも、人間社会ではとても重んじられます。本当だったら、9時から働いた人が貰っていいと思うのですが、後の者が先になったのです。先の者が後になったのです。イエス様が語る天の国においては、どうやら順番も意味を持たないようです。どのくらい沢山仕事をしたか、という量、あるいは、どれだけクオリティの高い仕事をやりとげたのか、という質。量も質も、順序も、私どもは数字を使って比較評価をするわけですが、天の国ではそれがないのです。あの人よりも私の方が、そういう発想が天の国にはない。そう言える次元が、天の国、神の国なのです。こうして社会にしばられ、その価値観から抜け出すことのできない私たちには、想像もつかないわけです。

 こんな話をしているうちに私自身も、私がどう思うかとか、皆さんがどう感じられるかとか、人間にとって不公平はないだろうか、これは依怙贔屓ではないのか、という風に、この世の中の正義感とか平等という見方をいつの間にか繰り返してしまっているような気がします。

 神様のみ言葉は、人間の世界のことではなくて、あくまでも天の国を語っておられます。私たちがどう考えるかではなくて、神様がどういうお方なのか、それをみ言葉は私たちに示してくれているのです。量も、質も、順番も問わない。数字で比べて見えるものなど、ただ一つもない。ただ、ひたすら与え続ける。それほど気前よく、心広く、哀れみ深く、愛にあふれる神様であります。

 今日のたとえ話を読んで、これは不公平だと思った方もおられるかもしれません。そう思われた方々は、紛れもなくできる人です。9時から働けた人です。放蕩息子のたとえで言えば、いつも父と共にいることのできた兄です。

これは不公平ではないかと思えるのであれば、その方はもう既に神様から沢山の恵みをいただいている、その証拠だと思ってください。冒頭にも申し上げたように、私たちは必ず人生のどこかで、できない人になります。5時からも働けなくなります。私たちはできない人でもあるのです。できない人になったとき、その時に、きっと伝わってくると思うのです。神様の気前の良さが、実は、この私のためだったのですと。

 お祈りします。
 愛する神様。
 今朝もこうして主イエスのみ言葉によって、あなたがご自身を現わしてくださり、私たちにあなたとの触れ合いを、その機会を、み言葉を通して与えてくださったことを心から感謝いたします。どうか、社会の中であくせくし、社会の価値観から抜け出ることのできない私たちに、いつも私たちがイエス様の哀れみとイエス様のみ言葉によって、私たちの心を開き、あなたとの恵みの触れ合いを保っていくことができますように。
 どうか今週一週間を私たちと、あなたが共にいてください。
 尊き救い主、私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
 アーメン

20171008 神学校日礼拝説教 「私が遣わす」 川嶋章弘(東京神学大学院1年)


(エレミヤ書1章4〜10節、マタイによる福音書10章16−25) 

 「主の言葉がわたしに臨んだ。」エレミヤ書1章4〜19節はエレミヤの召命物語であると言われます。主の言葉がエレミヤに臨むことによって、この物語が始まることを私たちは看過することができません。何故なら、「召し」とは、召される者の決断に先んじて、主の言葉によって与えられるからであります。「召される」ということは、狭い意味では献身伝道者に対して用いられるのではないかと思います。東京神学大学の入学試験でも、必ず受験者一人ひとりの召命が問われます。このエレミヤの召命物語が、エレミヤの預言者としての原点であるように、献身伝道者は絶えず召命に立ち返り、また、この召命を問い直し続けると言えるでしょう。けれども、そうであったとしても、このエレミヤの召命物語は、単に献身伝道者についてだけ語っているのでしょうか。そうではないと思います。この召命物語は、主によって召されたキリスト者一人ひとりの物語であり、たとえそれぞれにこの世における働きは異なるとしても、この世における使命は異なるとしても、私たちは洗礼によって、主にこの身をおささげしたのであり、このみ言葉を自らに語られたものとして、耳を傾けるよう招かれているのです。

 エレミヤへの主の召しの言葉、その中心的な言葉は、「諸国民の預言者として立てた」でしょう。この言葉の前に、主は二つのことを述べておられます。一見したところ、同じようなことを語っているように思えますが、注意深く読みますとこの二つのことには時間的なズレがあることが見出せます。初めに言われていることは、主がエレミヤを母の胎内に造る前から、エレミヤを知っていたのだということです。私たちは通常母の胎に宿るときから、自らの生命が始まると考えます。生物学的にはそのように申し上げるのが正しいでしょう。けれども私たちは、そのことを否定することはないにしても、生物学的見地を超えて、私たちの生命が主のものであることを信じています。そして主は、生物学的な生命の始まりよりも前から、私たち一人ひとりをご存知なのです。二つ目に言われていることは、エレミヤが母の胎から生まれる前に、主がエレミヤを聖別したということです。使徒パウロも、ガラテヤの信徒への手紙1章15節で、神が自分を「母の胎内にあるときから選び分け」たと述べています。

 主の召しの言葉に続いて、エレミヤの応答が語られますが、エレミヤは唐突に与えられた主の召しを拒みます。先ほど申し上げたことですが、この物語は主の言葉がエレミヤに臨むことによって始まります。エレミヤが自分は預言者になろうか、なるまいか、あるいは自分は預言者に向いているか向いていないか、悩んでいたというようなことは語られていません。そうではなく、エレミヤにとっては晴天の霹靂ともいうべき、主の召しが語られているのです。もちろん、召しが、あるいは信仰と申し上げて良いと思いますが、信仰がいつも突然与えられるとは限らないことを私たちは知っています。長い時間をかけて、じっくりと信仰が与えられる、洗礼に至るということがあります。そのような時間が、キリスト者となる大切な備えとなることもあります。しかし、そうであったとしても、私たちが信じるに先立って、主が私たちを招いてくださったことに違いはありません。私たちの信仰は、何よりもまず主がお与えくださったものであります。

 エレミヤは、「わたしは若者にすぎない」という理由で、主の召しを拒みます。主から召しを与えられたとき、エレミヤが何歳であったかについて議論があるとしても、年齢の特定は重要なことではありません。目を向けるべきは、エレミヤがにわかに与えられた主の召しを拒む理由として、自分の若ゆえの未熟さ、力不足を主に訴えたことではないでしょうか。なぜなら私たちも様々な理由をこしらえて、しばしば主の召しを拒む者であるからです。私たちはまだ主に出会っていない方々に、まことの救いに与っていない方々に、主を証しするようにと召されています。けれども、若年であるゆえ、あるいは高齢であるゆえ、あるいは信仰者としての未熟さゆえにと、いくつもの理由を主に訴えては、主の召しに背を向けようとするのではないでしょうか。しかし、主はエレミヤの訴えの言葉をそのまま用いてエレミヤに言われます。「若者にすぎないと言ってはならない」。私は若輩者なので、私はもう高齢なので、私はまだ信仰者として未熟なので、と言ってはならないと主は言われるのです。

 続けて主はエレミヤに言われます。「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。」この主のご命令こそ、主に召された者とは何であるかを明らかにしています。主に召された者は、主が遣わすすべての人のところへ行くのであり、主が命じるすべてのことを語るのであります。さらに主は、エレミヤに命じられます。「彼らを恐れるな」。エレミヤが恐れなかったはずはありません。エレミヤが恐れたのは、単に自分が若者に過ぎなかったからではないでしょう。ここで「彼らを恐れるな」と主は言われますが、彼らとは誰のことでしょうか。文脈からは、おそらく直前の、エレミヤが遣わされるところのすべての人のことでしょう。あるいは、諸国民を指しているのかも知れません。どちらにせよ、彼らが誰であるのか、あまりにも漠然としていて、恐れるなと言われても、誰を恐れてはならないのかさえ分からなかったのではないでしょうか。誰のところに遣わされるのか分からない、何を語ればよいのか分からない、エレミヤは恐れたに違いないのです。しかし、主は、主の召しに対して恐れをいだくエレミヤに、「わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」、それゆえに恐れるな、と言われるのです。「わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」という主の言葉は、エレミヤの召命物語の最後、19節で再び語られています。8節で、この主の言葉がエレミヤに与えられて以降、9節以下のエレミヤの言葉に、もはや主の召しを拒む言葉は見出せません。9節以下で語られているのは、エレミヤの預言者としての具体的な使命であり、すべてが語られた後にもう一度、「わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と告げられるのです。10節で語られているエレミヤの使命は、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植える」ことにあり、そのために、「諸国民、諸王国に対する権威」が主から委ねられます。エレミヤの召命物語のほぼ真ん中に、エレミヤの使命が告げられているのです。

 私たちはエレミヤ書1章の召命物語において、主の言葉に対してエレミヤの言葉が少ないことに気づかされます。エレミヤの言葉は、召しに対する最初の拒みと、11節以下の主の問いに対する二つの言葉だけであり、この物語においては、主の言葉がエレミヤの言葉を圧倒しています。このことからも私たちは、主の召しは何よりも主の御業であることを知らされるのです。また、エレミヤの使命は、物語が進むにつれて、徐々に明らかにされていきます。主に召されたときに、なすべきことがすべて明らかにされているのではありません。そうではなく、遣わされるところが告げられるのに先んじて、主の召しがあるのです。

主イエスは、「わたしはあなたがたを遣わす」、と12人の弟子たちに言われました。マタイによる福音書10章は、その冒頭で12使徒の名前を記し、5節以下では、主イエスが12弟子に派遣の心得を命じられています。本日与えられました16節以下では、主イエスは弟子たちに、主によって遣わされるというのはどういうことなのか、遣わされた先で何が起こるのかについて語っています。主イエスが弟子たちを遣わすこと、それは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」であると、主は言われます。容易に想像できることですが、狼の群れに送り込まれた羊は、きわめて脆弱であり、いつ命を奪われてもおかしくありません。一般的に考えますと、私たちは何か危険な状況に赴くときは、それなりの備えをする必要があるでしょう。もし、生命を奪われかねないのであれば、武装してでも身を守ろうとするのではないでしょうか。しかし、主は、10節で、「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」、と弟子たちに命じられています。もし弟子たちが杖を持っていたとしたら、少しは危険に対処できたかもしれません。けれども、主は、杖すら持って行ってはならないと言われます。弟子たちは、自分たちを守るものを持たず、無防備で遣わされるのです。主がこのように命じられるとき、すでに山上の説教で語られた主の言葉が思い起こされます。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。あるいは、「狼の群れに羊を送り込むようなもの」であると主が言われるとき、預言者イザヤの言葉を思い起こすかもしれません。イザヤは、終わりの日に「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」と告げました。しかし、弟子たちが遣わされるのは、いまだ狼と小羊がともに宿ることができない、そのような世界であります。

 17節以下を読み進めますと、主イエスの言葉が遣わされる12人の弟子たちに向けて語られているだけでなく、主イエスが復活された後の教会の人たちに向けて語られている言葉でもあることに気づかされます。何故なら、17、18節の主の言葉は、とりわけ復活後の初代教会の人たちに、自らのこととして受けとめられたに違いないからです。主は、「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」と言われます。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二、11章23節以下で、自らの伝道の労苦について語る中で、「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」あったと述べています。また、18節で、主は、「異邦人に証しをすることになる」と言われますが、異邦人伝道を行った初代教会の人たちは、この言葉をまさに自分たちに語られたこととして受けとめたのではないでしょうか。

 主イエスの言葉は、12人の弟子たちに向けて語られ、また、初代教会の人たちに向けて語られています。しかし、同時に、この主イエスの言葉は、今日を生きる私たちに向けて語られてもいるのです。聖書は、単に主イエスの生涯を報告しているのではありません。聖書は常に、その時代、その時代を生きる人々に向けて語られ続けて来たのでありました。そうであるとしたら、今日の私たちは、本日与えられた主イエスの言葉を、自らに語られたこととして、受けとめることができるでしょうか。それとも、自分とは隔たったこととして、受けとめるのでしょうか。今日の日本では、信仰の自由が認められていますから、主イエスを信じるゆえに捕らえられ、為政者のもとに連れて行かれるということはないでしょう。しかし、私たちは迫害されることはないとしても、主イエスに従うことにまったく困難を伴わないとは言えないのではないでしょうか。ですから、主イエスの言葉は私たちと無関係ではありえないのです。

 礼拝において私たちは、神の招きによって集められ、神の祝福をもってこの世へと遣わされます。私たちが遣わされるところは、それぞれに異なるでありましょう。ある方は、ご自分の職場へと遣わされ、平日の多くの時間を仕事に割いていらっしゃるかもしれません。ある方は、家庭へと遣わされ、家庭で多くの時間を過ごされているかもしれません。あるいは学校へと遣わされる子どもたち、学生もいることでしょう。平日の日々を充実して過ごしている方もあれば、ただ時間だけが過ぎていくと感じる方もあり、喜びをもって過ごせる方もあれば、苦しみ悲しみの中を過ごされる方もあるでしょう。しかし、どのようなところであっても、どのような状況であっても、私たちは主イエスを宣べ伝えるようにと、礼拝から遣わされていくのです。エレミヤは、主から召されたとき、自分はみ言葉を語るにふさわしくない、あるいは十分ではないと思ったに違いありません。しかし、主はエレミヤを預言者としてお立てになりました。

 私たちが遣わされるところは、キリスト教世界ではありません。主イエス・キリストに出会われてない方が多数を占める世界です。ときには、クリスチャンというだけで、キリスト教というだけで誤解されるということもあるかもしれません。12人の弟子たちは、主イエスこそイスラエルの民が待ち望んだメシアであることを宣べ伝えるために、同胞であるユダヤ人に遣わされました。同胞への伝道は、21節にあるように家族の間に不一致や不和をもたらしたに違いありません。私たちもまた、日本にあって、家族への伝道が困難であることを知っています。あるいは、初代教会の異邦人伝道の難しさは、私たちが遣わされるところでキリスト者として生きる難しさと重なるのではないでしょうか。遣わされたところで、私たちはキリスト者として、主イエスに従う者として、語らなければならないときがあります。あるいは私たちは、信仰において決断しなければならない場合に遭遇することがあります。しかしもし、私たちの語るべき言葉や私たちのなすべき決断が、私たちの力によるものだとしたら、私たちの努力や忍耐によるものだとしたら、私たちは主イエスに従うことに耐え得ることはできないでしょう。エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません」と主に訴えました。同じように私たちも語るべき言葉を知りません。けれども主は言われます。「話すのはあなたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。また主はエレミヤに言われました。「見よ。わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」。主が語るべき言葉を授けてくださいます。私たちが信仰において語るとき、私たちが語るのではなく、私たちの内におられる主の霊が、お語りくださるのです。

 私たちが遣わされる先で出会う困難は小さいものではないでありましょう。けれども、私たちがこれまでに出会ってきた困難は、あるいはこれから出会うであろう困難は、もう既に主イエスが引き受けてくださっているのです。主は弟子たちに、「あなたがたは地方法院に引き渡される」と言われました。けれども、最高法院に引き渡されたのは、そのように言われた主イエスご自身であります。最高法院で主イエスは、顔につばを吐きかけられ、拳で殴られ、平手で打たれたのです。あるいは主イエスは、故郷のナザレでは受け入れられませんでした。ですから主イエスは言われます。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。また主イエスは、「わたしの名のためにあなたがたはすべての人に憎まれる」と弟子たちに言われました。しかし、まさに主イエスご自身こそ、弟子たちにすら見捨てられ、罪人に引き渡され、そしてすべての人の罪をお引き受けになって、十字架に死なれたのであります。そして、主が弟子たちに、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われるとき、十字架で死なれ、そして復活され、天に昇られた主が再び来てくださる終わりの日について告げられているのです。

 私たちを遣わすのは、復活の主イエスです。復活の主イエスが、「わたしはあなたがたを遣わす」と命じられるのです。私たちがどこへ遣わされようとも、復活の主イエスが共にいてくださいます。主はエレミヤに言われました。「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」マタイによる福音書はイエス・キリストの誕生物語において、イザヤ書を引用して、生まれてくる子の名は、インマヌエル、「神は我々と共におられる」と呼ばれると語ります。そしてマタイによる福音書は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という主の言葉によって終わるのです。

 私たちは鎧をつけてこの世に遣わされるのではありません。その必要はないのです。一見したところ無防備であったとしても、何よりも私たちを守ってくださる主が共にいてくださいます。復活の主イエスは、この礼拝から、この世へと遣わされるお一人おひとりと共にいてくださります。

祈りましょう。
ご在天の主イエス・キリストの父なる神よ。御名を賛美いたします。
この主の日、私たちを礼拝に集めてくださり、そのみ言葉に聴くときをお与えくださり、感謝いたします。私たちはこの礼拝から、この世へと遣わされて行きますが、与えられましたみ言葉を携えて、それぞれのところにあって、神様と隣人とに仕えることができますように、聖霊の力をお与えください。
今日ここに集えない方々の上にも、あなたの豊かな恵みがありますように、お願いいたします。
この祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン

20171001 主日礼拝説教  「欲張らないで生活しよう」  山ノ下恭二


(出エジプト記20章17節、フィリピの信徒への手紙4章12−13、ハイデルベルク信仰問答113−115)                           
 私が和歌山県田辺教会の牧師で在任していた時に、教会のある長老が自然保護運動をしていました。田辺湾に天神崎という美しい浜辺があります。この浜辺は市民や子供たちが遊ぶ、憩いの場所となっていました。田辺市内の幼稚園が毎年、この天神崎に遠足に行っていました。浜辺で遊び、海洋生物に触れるとても良い場所として親しまれていました。ところがその近くに高級別荘が建築される計画があることが分かったのです。もし別荘が建設されると自然が破壊され、生活排水によって海が汚れ、浜辺にいる海の生物が死んでしまうことになります。

 そのことを聞いた田辺教会の一人の長老が立ち上がって、「天神崎の自然を大切にする会」を立ち上げ、自然保護運動を始めたのです。そしてその運動が発展して土地買い取り運動になり、天神崎の自然が守られたのです。この運動で明らかになったことがあります。それは、一部の富裕な人が別荘に住み、快適にすごして満足するのが価値のあることではなく、その土地に住む市民たちの共有の財産として、与えられた自然を大切にし、感謝して生活することが価値のあることであることに気が付いたのです。

私たちは、住むところ、食べるもの、着るもの、つまり衣食住がないと生活できません。衣食住が保証されていれば満足であるかと言うとそうではないのです。現在の生活よりももっと豊かな生活をしたいという欲求が私たちの中にあります。より豊かな生活を目指して、お金が欲しい、おいしいものを食べたい、もっと良い洋服が欲しい、もっと広い土地と住宅を持ちたいと願い、そのような欲求を持っています。今のままですべてに満足している人はいません。

 欲しいものを手に入れるために正当な手段で手に入れるならば問題はないのですが、他の人の財産を不当な手段で手に入れようとしたり、他の人の財産を犯罪によって手に入れることが行われることがあります。他の人の土地を得るために、住んでいる人が出ざるを得なくしてその土地を獲得する、あるいは、お金が欲しいために多額の保険金を掛けて殺害し、その保険金を自分のものにする、このような事件は毎日のように起こっているのです。

 本日の礼拝で読んだ出エジプト記20章17節には「隣人の家を欲してはならない」と書かれています。新共同訳には「欲してはならない」と翻訳されていますが、文語訳、口語訳では「むさぼってはならない」と訳されています。「むさぼる」と言う言葉は元々「貪り取る」「剥ぎ取る」という言葉です。欲しいものを奪い取ってしまうことです。

 出エジプト記20章1−17節は十戒が書かれ、前半は神に関する戒めであり、後半は隣人に関する戒めです。20章17節の言葉は第10番目の戒めであり、隣人を愛することはどのようなことかを具体的に語っていることの中で語られています。

 この第10番目の戒めは、他の人のものを欲しいと言う心を問題にしているばかりでなく、その欲求を行動に移して奪う、私たち人間のあり方を問題にしているのです。「欲する」「貪る」と言う言葉は、悪い意味の言葉と考えますが、旧約聖書では良い意味で使われているところがあります。

 詩編19編11節には「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく」とあります。この「望ましく」と言う語は「むさぼる」と同じ語です。口語訳聖書では「慕わしく」と訳しています。「むさぼる」と言う言葉は元々、「慕わしく思い、望む」と言う意味の言葉です。何かを得たいと願いを持ち、それを実行すること、そのような意味がこの言葉の本来の意味です。

 私たちは慕わしく思い、願っていることを実行しているのです。私たちがいつも経験しますが、ある本が紹介されてその本を読みたいと願い、その本を買うことをします。健康に良いと聞いたので、その食品を用いたいと強く思い、購入してその商品を獲得します。私たちはいつもそのように生活しているのです。そのような強い願いを私たちが持っているからこそ、他の人がもっているものを欲しがるということにもなるのです。他の人が所有しているものを狙うことにもなるのです。

 旧約聖書には、他の人が所有しているものを欲しがって、失敗する物語が書かれています。最初の人アダムとエバは、神の知恵を慕い求め、強く欲して望み、奪い取ることによって神の戒めを破ってしまいます。その子どもであるカインは、弟アベルに注がれた神の祝福を自分にも欲しいと思い、弟アベルを殺害してしまうのです。

 他の人のものを欲しがるということは、今の自分のもので満足しないということです。神が与えてくださったもので満足せずに、常に不平・不満を口にしながら、神に感謝をしないのです。あれも欲しい、これも食べたい、と満足を求めて飽くことを知らないのです。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」。(コロサイ3章5節)と語られています。わたしたちに何が必要であるかを知っている神は、神のみこころによって、必要なものは与えて下さり、満たしてくださるのですが、そのことを忘れて、生ける神を忘れ、自分の欲望、自分の腹を神とするのです。

 他の人の財産を不当な手段で手に入れることは、隣人の生活を大切にしていないことになります。隣人の存在が大切であるならば、隣人が所有しているものを大切にするはずです。この財産を失ったら、隣人はとても困るだろうと想像するはずです。隣人のことは自分の視野の中にはないのです。

 不当な手段で手に入れることはしなくても、所有しているものが多くあれば幸福であると考えていることもあります。それが正しいことなのか、問い直してみる必要があります。ものがあれば幸福なのでしょうか。エ−リッヒ・フロムが「生きるということ」という本を書いていますが、この本の元々の題は「持つことか、或いは存在することか」という題です。この本の中で、「持つ様式には、私と私の持つものとの間に生きた関係がない。」と書いています。所有物は自分に語りかけることもなく、自分もそれに答えると言う人格的な関係はないのです。新しい買い物をした時には喜びがありますが、時間が経過すると飽きてしまい、また別のものを欲しがるのです。所有するものをたくさん持っていても、それで満足することはないのです。

 ルカによる福音書19章1−9節にザアカイと言う徴税人の物語があります。ザアカイは、道を通る人から法外の通行税をたくさん取り、私腹を肥やして大金持ちでした。しかし、お金を持っていてもそれで満足していたわけではないのです。みんなに嫌われて孤独でした。周りに人がいても誰も声を掛けず、誰も暖かく受け入れてくれない、一人の人間として扱ってくれないのです。

 ところが、主イエス・キリストは、誰も相手にせず無視されていたザアカイに目を留め、ザアカイの家に行き、共に食事をしてザアカイの家に泊まったのです。ザアカイは自分が神の愛の対象であり、自分の存在が認められたことを知ったのです。いつかなくなって朽ちてしまうお金やものよりも、優れている神の愛を知ったのです。また変わりやすい人間の愛情よりも優れている、神の愛を知ったのです。その時に、自分がしっかり握って離さずに持っていた財産を手放すことができたのです。

 自分が愛されていると思わない時には、それを埋め合わせるために目に見えるお金や財産を持つことに熱心になるのです。しかし、神に愛されていることを知った時には、自分が所有することには関心がなくなるのです。神に愛され、罪が赦されている、そのような神の愛を与えられていることに満足しているならば、あれも欲しい、これも欲しい、と言う欲張りの罪から解放されるのです。

 この第10の戒めについてアメリカの神学者ハワワースが次のように解説しています。「『あなたは、私たちをあなたに向けてつくられたゆえ、主よ、私たちの心はあなたの内にやすらぐまで、平安を得ません。』このアウグスティヌスの『告白』の言葉は、まさに十戒の中心にあるものである。私たちが神によって愛され、神を愛するようにつくられているので、神のみが私たちの大きな欲望を満足させることができる。他の何者もこの深い欲望を満足させることはできない。」

 私たちが洗礼を受けたということは、自分中心の生活から、神を中心とする生活に切り替えたということです。自分の生活を豊かにするために洗礼を受け、参考に聖書を学ぶと言うのではなく、洗礼を受けたということは、自分中心の生活を捨てて、神が求めるあり方へと大きく転換したのです。自分が満足し、自分の欲求を満たすというあり方を捨てたのです。神に信頼するのですから、この地上のものに頼らず、神から与えられる恵み、神から与えられる愛に信頼して生きることにほかならないのです。お金や財産を得るために熱心になることは止めたのです。

 本日の礼拝でフィリピの信徒への手紙4章12−13節を読みました。 「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

 パウロは、お金や財産があった時にも、お金や財産がなくて欠乏している時にも、物やお金に執着することなく、そこから自由になって心豊かに生きることができたのです。キリストが私たちの救いのために、罪の贖いとなってくださり、愛してくださっていることにいつも心に留めることができ、いつも感謝に溢れていたのです。神から愛されているので満足していたのです。物質的に欠乏していた時も経験していたし、恵まれていた時も経験していましたが、自分が置かれている境遇によって左右されはしなかったのです。ものが無い時にも、豊かに物質がある時にも、喜ぶことができたのです。

 ハイデルベルク信仰問答113問の答えには、自分の欲望から自由になって、「あらゆる義を慕い求める」と書いています。別の訳では、「あらゆる正しいことを喜びとするようになる」と翻訳されています。何を心から慕い求めていくのでしょうか。このハイデルベルク信仰問答113問の答えの「あらゆる義を慕い求める」と言う言葉が何を言っているのか、はっきりとわからないので、調べたところ、ある解説書が次のように解説をしていました。「私たちは何を心から慕い求めているのか。自分の欲望が、満たされることか、あるいは、神の戒めに生きることか。どちらを自分の喜びとしているのか。私たちは、快楽にまさって、みことばを食べ、みことばに養われていることを喜びとしているか。」

 この解説を読んで私は旧約聖書のエゼキエル書3章1−3節(旧約p1298)の言葉を思い起こしました。

 「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ』、わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」

 私たちは毎日、毎日、一日三食の食事をしています。食べることは私たちの生活の基本です。食べても食べてもお腹は空腹になり、また食べないと満足しないのです。そして、もっとおいしいものを食べたいと願うのです。

 しかし、聖書のみことばを食べ、養われることによってまことの満足を得るのです。神に愛されていることを信じ、隣人を愛する、その生き方こそ、最も充実した、最高の生き方なのです。

20170924 主日礼拝説教  「相手の魂を支える言葉を語ろう」  山ノ下恭二


(出エジプト記20章16節、エフェソの信徒への手紙4章29節 ハイデルベルク信仰問答・問112)

 和歌山県田辺教会に在任していた時に、田辺教会の信徒の家族の一人が訪ねてきて、こういう話をしてくれました。訪ねて来た人の義理の姉に当たる50代の女性の信徒が癌であり、医師から余り長く生きることはできないと言われた、姉にそのことを話すとかなりショックを受けるし、生きる希望を失うことになるので、本人には告知をしないことを家族で決めた、と言うのです。そして私が見舞いに行くときには、癌で余り長く生きることができないことを言わないようにして欲しいと言ったのです。

 その信徒はあと半年で会社を退職することになっており、その時を楽しみにしていました。病室に見舞に行くと、自分がどうしてこの時期に病気になったのかわからない、と戸惑いながらも、治って退院し、退職後はしたいことができる、退職の時を楽しみにしている、と私に話してくれたのです。

 別の日に見舞いに行くと抗ガン剤の治療を受けていて、自分がどうしてこのような病気になって苦しむことになったのかと繰り返し嘆いていたのです。その数ヶ月の後に亡くなったのです。亡くなった知らせを聞いて、私は大変気の毒に思ったのです。家族は本人に告知しないことを決め、私に病名を隠して癌で長くないことを本人に話さないように言われていたのですが、私は自分がこの人にすべきことがあったのではないか、と思うようになったのです。癌であることを知らずに、自分の不運を嘆きながら、辛い抗ガン剤の治療を受けるよりも、癌であり、いのちが長くないことを告知して、自分の死を受け入れて、残された日々をその人が望む生活ができるようにしてあげればよかったと思ったのです。

 告知と言うことは「真実を語る」ということです。告知をすることについては賛否両論があります。告知をすれば、亡くなるまで残された日々を大切に過ごすことができるので賛成であると言う意見があります。逆に、告知をすることによって本人が希望を失い、死を早めることになるから反対である、と言う意見があります。現在は本人に告知をすることが多いと思います。どちらが良いかは簡単に決められません。相手の心の状態を無視して本人に病名を告知することは良くないし、癌で長くはないのに、それを隠して良くなって治ると本人に言うことも問題はあります。判断が難しく、苦しむところです。

 今日の礼拝で出エジプト記20章16節を読みました。20章16節に「隣人に関して偽証をしてはならない」と書いてあります。この戒めは十戒の中の9番目の戒めです。第九戒です。この戒めは「偽証」とありますように、裁判の法廷で証人が証言をする時に「偽証」をしてはならない、と戒められています。

 昔も今も、公正な裁判が行われることをすべての者が求めています。公正な裁判が行われないならば、真実な社会は形成できません。旧約聖書の律法では、公正な裁判を行うことが繰り返し命じられています。レビ記には詳しく記されています。「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷したり、隣人の生命に関わる偽証をしてはならない。わたしは主である。」(レビ記19章15−16節)(旧約p192)

 裁判の場面で、証言は大きな役割を持っています。証言によって判決が左右されるのです。その判決で無罪になるのか、執行猶予になるのか、実刑が言い渡されるのか、証言は裁判において大きな役割を担うことになります。証人が偽りを語り、それが決め手になって判決が出るならば、容疑者・被告の将来の生活は大きく左右されることになります。実際は無罪であるのに偽りの証言をすることにより、それが決め手になって有罪になり、刑務所で長く服役することになるのです。冤罪です。偽証をすることによって、隣人の生活を破壊することになるのです。

 この第9の戒めの元々の言葉は「あなたは偽りの証人として、あなたの隣人に不利になるように答えてはならない。」です。証言において誠実な態度を持ち、隣人が不利になるような証言をしてはならない、と戒めています。真実な社会を作るためには、偽証は排除されなければならないのです。私たちは、この戒めが裁判の場面での戒めであり、そこで証言をする機会はほとんどないので、関係がないと思うかもしれなません。しかし、そうではないのです。真実な言葉を語ることをこの戒めは私たちに求めているのです。言葉に偽りがない、偽りを語らず、真実な言葉を語ることを神は求めているのです。

 詩編15編1−3節には「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実な言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。」と書かれています。旧約聖書では「証言する」ことについて厳しい態度をもって語っています。それは一人の証言によって判断をせずに、複数の証言によって判断するのです。

 それは私たちが一部分しか、見ていないのです。事件の初めから終わりまで見ているわけではないのです。ある事件ではある女性が酔っぱらいに絡まれて、駅のホ−ムで逃げたのですが、追いかけてきたので、振り払ったら、その酔っぱらいが線路に落ちた、そこへ電車が来て轢かれた、そのような事件がかつてありました。この事件の経過を初めから見ている人はほとんどいないのです。みんなある限られた一つの場面しか見ていないのです。ある人は女性がホ−ムに突き落としたように見えて、殺人であると思いこむのです。裁判になって、その人が証言をし、その証言が採用されると故意による殺人になってしまいます。見間違いや予見で見ていることもあり、一人の証言で、判断することは正しい判決を導くことにならないのです。複数の証言によって判断することを求めています。申命記19章15節には「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人によって、その事は立証されなければならない。」(旧約p311)証言によって有罪か、無罪か、決まるのです。有罪か、無罪か、によって隣人の生活は大きく変わるのです。無罪であれば良いのですが、冤罪であるならば、本人の名誉や人格、生活を壊すことになるのです。

 ハイデルベルク信仰問答112問には偽証というに留まらず、私たちの日常生活の「言葉」にまで範囲を広げています。「第九戒では、何が求められていますか」という問いに対して、答えの前半では、否定されるべきことを挙げています。「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。」偽証をすると言うことに留まらず、日常での生活においても不当に相手のことを裁いて、悪く言うことを戒めているのです。

 私たちの思いの中に、あの人のことは自分がよく知っているという思いがあるのです。あの人が何をしたか、何をしているか、どのような人か、という思いがあります。その人について、どのような人か、判断を求められる時に、誰も知らないけれども自分はその人を知っていると思いこみ、証人のように話すのです。その時に、自分の利益、感情、好き嫌い、で証言するのです。陰口を言ったり、悪口を言ったことがないと言う人はいないのです。ほとんどの人が陰口や悪口を言うのです。そして、よく確かめないで、ただ人から聞いたことをさも自分がよく知っているかのように別の人に伝えるのです。根拠のない噂話が広まっていくのです。

 「四字塾語」に「悪事千里」と言う言葉があります。「好事門を出ず、悪事千里を行く」と言う言葉から、悪事千里を走る、と言う言葉を縮めた言葉です。良い行いがあり、その話を触れ回って欲しいのですが、良い話は門を出ず、むしろ、ろくでもない噂話が飛ぶように広まっていくのです。「この話、知っている。何々さん、こうなんだって」「聞いている、聞いている」と広まるのです。発信源、感染経路は突き止められないのですが、あっという間に、広がり、次の日には、関係のない人にまでその話が伝わり、3日後には東京での話が長崎まで届いてしまうのです。

 悪い話、噂話、は千里にまで届くのです。そこに人間の罪があります。テレビ、雑誌などのメディアが、有名人が犯罪を犯すと異常なほど、執拗に追いかけ、暴き立て、長々と放映し、書いています。創世記9章20節にノアが酔っぱらって、裸で寝てしまった、その失態を知らせた息子たちと、その話を聞いて裸で寝ているノアに衣類を掛けて、覆う別の息子たちが登場します。父親の失敗をあざ笑うのではなく、父親の失態を衣服で覆い、隠すのです。

 隣人の失敗について黙って隣人の罪を覆い、その人の名誉を守るのです。自分が裁判官になっているようなつもりで、隣人の罪を暴き立て断罪するのではないのです。自分が直接本人から聞いてよく理解した話ではなく、短い会話で知った噂話をまるで全部、事実であり、自分が全部、知っているかのように話を拡大しておもしろがって別の人に伝えるのは、その人の名誉と信用を落とすことになります。「あなたは根拠のないうわさを流してはならない」(出エジプト記23章1A 旧約p131)

 ハイデルベルク信仰問答112問の答えには積極的な生き方を語っています。「裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること。さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する、ということです。」この戒めは隣人を愛するという大きな戒めの中に置かれています。私たちの言葉が隣人を愛するところから生まれるのです。

 どのような言葉を使うか、ということよりも、それ以前に、どこから言葉が生まれるか、です。それは私たちの心から、言葉が生まれるのです。そしてその心がどのような心なのかです。怒りに支配されていれば、怒りの言葉であり、憎んでいれば憎しみのこもった言葉が出てくるのです。
 
 私たちが愛に支配されていれば、愛の言葉が出てきます。私たちは神を憎み、神を忘れ、隣人の失敗した話、噂話、陰口、悪口を言うような者です。そのような者の罪を主イエス・キリストが罪を償ってくださったのです。罪のない者としてくださったのです。私たちの罪を赦し、愛してくださったのです。神は私たちが罪がないかのように、覆ってくださったのです。その神の愛に生きる者は隣人の罪を覆うのです。

 椎名燐三という作家がある随想で「言葉のいのちは愛である」と書いています。私たちの言葉は神から来るのです。神が決断する時には愛であるから、愛の言葉は神から来るのです。自分の持っている言葉から愛の言葉は出て来ません。

 私が小学4年の時に父が亡くなり、葬儀の時に教会のある人が「神様がついているから、心配することがないですよ」と慰めてくださったのです。今、考えるとその人が神を礼拝し、み言葉を聞いている中から出てきた言葉です。

 いつも神から言葉を戴いているから、その言葉が出てきたのです。その言葉が私には心の支えになったのです。言葉はこわいもので、何げない言葉がその人の魂を支え、ちょっとした言葉が相手の心を刃物のように傷つけるのです。      
 今日の礼拝でエフェソの信徒への手紙4章29節のみ言葉を読みました。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」

 なにげないひとことで「あ、この人は良い人だ」と思うことがあります。またなにげないひとことで「こんな人とはつきあっていられない」と思ったりすることがあります。人の、なにげない言葉で、元気をもらったり、やる気を出したりすることがあります。また、なにげない一言でやる気をなくしたり、打ちのめされることもあります。言葉は、その人の人格を表すものです。人の悪口ばかり言い、相手を否定的にしか言わない人は、人格が低く、未熟で、充実した毎日を送っていない人である、と言われています。相手に対して暖かく、相手を生かし、肯定的な言葉を語る人は、人格が高く、成熟し、まわりの人から信頼されると言われています。

 自分の言いたいことを言ってすっきりする、聞いている相手の迷惑も顧みず、ろくでもない長い話をする、自分の不満をぶちまけ、愚痴を話す、そうではないのです。

 エフェソの信徒への手紙4章29節の「悪い言葉」という言葉は。ある翻訳では「腐った言葉」と訳しています。私たちは「悪い言葉」「腐った言葉」をいつも語っています。なにげない言葉で相手を傷つけ、悪口を言っているのです。腐った言葉、悪臭のする嫌な言葉を一切、口にするな、と語ります。どうしたら「人の徳を高めるのみ役立つような言葉を語」ることができるのでしょうか。それは、自分が、まず神に心を向け、方向転換、Uタ-ンし、神のみこころから離れ、自分を中心に、自分のことばかり考えて語っていることを自覚し、神の言葉をいつも聞いていくことです。聖書をよく読むことによって私たちは、神のみこころに適う言葉を身に付けることができるのです。相手の魂を支える言葉、「ただ聞く人に恵みが与えられるように」言葉を語るようにと勧められています。

 「その人を造り上げる」という言葉は、「家を建てる」という言葉です。聞いている人が、しっかりと神を礼拝し、隣人を愛することができる生活になるように、相手に語り、勧めるのです。毎日の言語生活を顧みると、話している言葉が相手を傷つけ、ひどいことを言ってしまうことが多いのです。私たちが愛によって相手に適切な、過不足ない言葉を語ることができるように、神のみこころに適った良い言葉を語ることができるようにと神に祈るのです。

 最初に告知について触れました。癌の告知、死の告知、告知の問題は難しいのですが、どれだけ相手を愛しているか、と言うことが問われます。相手に語る時に、相手を愛しているか、が問われるのです。相手を愛しながら、よく吟味し、相手の立場や、性格を考慮しながら、相手によって告知する方が良い場合もあり、告知しない方が良い場合があります。言葉のいのちは愛なのです。

20170917 子どもと共に守る礼拝説教  「隣人を助けよう」  山ノ下恭二


(出エジプト記20章15節、ロ−マの信徒への手紙13章8−10節、ハイデルベルク信仰問答・問110−111) 

 皆さんはお父さんやお母さん、学校の先生から「人のものを盗んではいけません」と言われたことがあると思います。コンビニやス−パ−で、お菓子や食料などを盗んで警察官に捕まる事件がよくあります。人のものを盗むことはいけないことです。これは犯罪になります。

 今日の礼拝で出エジプト記20章15節を読みました。そこには「盗んではならない」と言う戒めが書かれています。「盗み」と言う言葉を聞くと、窃盗、万引き、置き引き、ひったくり、と言う言葉を思い浮かべます。お金や他の人が持っている「物」を盗むことを思い浮かべます。

 しかし、元々の意味は「人を盗む」と言う意味です。人を盗む、つまり、「誘拐する」ということです。従って、この戒めは「誘拐するな」と言うことです。旧約聖書の時代には、人を奴隷として売り払う目的で誘拐が行われたのです。奴隷に売られると、二度と自分の故郷や両親のもとに戻ることはできません。

 横田めぐみさんが、1977年に北朝鮮に拉致され、連れて行かれて40年、経過します。無理に連れて行かれることを拉致と言います。自分の意志ではなく、北朝鮮の勝手な都合によって強制的に連行されて自由が奪われて、まだ日本に戻ってきません。拉致されなければ、めぐみさんは高校にも大学にも行って家庭の主婦、あるいは仕事をしていて充実した毎日を送っていたと思います。めぐみさんは、したいことがたくさんあったと思いますが、北朝鮮という国の意志によって強制的に北朝鮮に拉致され、自由を奪われた生活をしているのです。

 太平洋戦争の時に日本の軍隊が大勢の、朝鮮人たち、中国人たちを誘拐をしたのです。男の人たちを強制連行し、強制労働をさせましたし、若い女性を誘拐し従軍慰安婦として働かせました。そのために人生の進路が全く変わってしまったのです。日本の軍隊が朝鮮半島や中国で道を歩いている男の人たちに、働き口があるとだまして、トラックに乗せて、日本に連れて行き、鉱山や炭坑で奴隷のように働かせることをしました。日本の軍隊が朝鮮や中国で若い女性に「食堂で働けばお金が儲かる」と言って連行し、慰安婦として働かせたのです。ある女性は、結婚式の5日前に路上で捕まって、トラックに乗せられ、中国の東北部、天津の奥地に連れて行かれ、そこで兵隊の相手をさせられて、戦後、命からがら韓国に帰ってきましたが、慰安婦をしていたことで、周りの人から白い目で見られ、しかも、心が癒されないでいるのです。

 太平洋戦争が終わる直前、1945年8月9日以降、中国東北部(旧満州)にいた日本の兵隊たちがソ連(今のロシア)によって、60万人以上の兵士たちがシベリアに連れて行かれました。長期間、シベリアに抑留され極寒、飢餓、重労働のために約6万人が死亡した事件があります。8年もシベリアで働き、やっと日本に帰ることができた人もいます。「シベリア抑留」という本にはシベリアに抑留された人々がひどい扱いを受けたことが書かれています。

 この第8の戒めは元々、人間を盗むことを禁止する戒めなのです。人の自発的な意志、自由を奪って、相手を自分のために時間も身体も拘束することを禁じるのです。なぜ、このことがいけないのでしょうか。

 それはこの十戒の最初に、主である神がエジプトの地、奴隷の家から導き出し、解放した神であると宣言しているからです。イスラエルの人々は奴隷として時間も身体も拘束され、長く働いていたのです。しかし、今は神様が解放して自由になっているのです。あなたがたも奴隷であって全く自由がなかったけれども、神様によって自由になったのだから、あなたがたが他の人々の自由を奪うな、と警告しています。相手の自由を奪ってはならないと戒めています。

 皆さんは自分の身体、自分の時間は自分のものであると思っているでしょう。しかし、自分の時間も身体もすべて神様のものです。神様が私たちのすべてのものを所有している主なのです。一人一人、神さまが造った大切な存在です。他の人は自分のものでないのに、相手の時間と身体を自分が奪い取って、それを自分が自由に使うのは「盗む」ことです。神が創造し、愛している大切な人を自分の目的のために、相手を自分の思い通りにさせようとして縛ってしまうことはいけないことなのです。

 時間は私たちにとってとても大切なものです。かなり前の話ですが、私はある時、待ち合わせの時間に相手が来なくて、公衆電話で連絡しても通じなくて、40分位、経ったので、帰ろうとした時に相手が来たことがあります。遅刻することが分かっていれば、そのつもりで本を読んで気を長くして待つこともできましたが、40分も人を待たせるのは良くないと思いました。人に待たせるのが平気な人もいます。これも相手の時間を盗むことです。遅刻して人を待たせることはいけないことです。「盗む」、自分のために相手を拘束することであり、盗むな、と命じられているのですから、相手の自由を奪い、拘束するな、と命じられているのです。この戒めは相手の持っているものを奪うな、と命じています。他の人の持ち物を盗むことは、相手の生活を大切にしないことになります。

 かなり前のことですが私が池袋の書店に行った時に、財布を盗まれたことがあります。本棚を見上げて本を捜していてそのことに気を取られていて気が付かなかったのですが、レジで本の代金を払おうとして、財布がないことがわかり、床に落ちているかも知れないと探したのですがないので、店員に話したら、最近、スリが多いと言う話でした。その時に別に小銭入れをもっていたので、池袋から帰ることができたのです。自分の持っているものがなくなるのは、気持ちの良いものではないのです。

 ハイデルベルク信仰問答110問の答えには、隣人の財産を自分のものにしようとすることはすべて盗みであるとあります。そして、貪欲、むさぼり、つまり、自分はすでにもっているのに、もっと欲しいと願い、自分のために蓄えることも良くないことだと書いてあります。「不必要なのに欲張って自分のものにする」ことを禁じているのです。必要でないのにこれもあれも欲しい、所有したいと言う思いを持つことも良くないことです。

 テレビなどで、これを買うと便利、この車に乗ると楽しい、これを食べると幸福になると、毎日、毎日、買うように勧めるので、今の生活に満足できなくなるのです。しかし、自分の今の生活に感謝して満足することが大切です。

 「盗んではならない」と言う戒めは、盗まれることはいやであるから、相手のものを盗むことはしない、と命じていると思います。自分のものを盗まれた経験を持っている人は、相手が自分のものを盗まれるという嫌な経験をするのは良くないから、他の人の物を盗むことはしない、と思います。

 しかし、「盗んではならない」という戒めをもっと積極的に考えたいのです。マタイによる福音書7章12節にこういう言葉があります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とあります。自分が人にしてもらいたいことをあなたがしなさい、と言うのです。

 自分が困っている時に誰かに助けて欲しい、と思うでしょう。困っている人がいるならば、助けてあげる生き方が示されています。

 「盗んではならない」という戒めに従う人は、自分に与えられた財産や富を神様のために用いるのです。神様にささげたものは、神様のために用いるだけではなく、教会のために、この社会の人々のために用いるのです。自分のもっているお金や財産を自分だけで使うのではなく、他の人のためにささげて、分かち合うのです。牛込払方町教会では、レプタ献金をしています。毎月、それぞれがささげています。長く伝道して隠退した牧師のために、アジアの農業指導者を養成しているアジア学院のために、ベテスダ奉仕女母の家のために、児童養護施設・バット博士記念ホ−ムのために、災害を受けた人々のために、他の教会が会堂を建築する援助のために、ささげています。それとは別に日本の伝道のために伝道者を養成する神学校のためにささげています。

 エフェソの信徒への手紙4章28節には次のように語っています。「盗みを働いていた者は、今から盗んではなりません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」と書かれています。このエフェソの教会には実際に盗みの罪を犯した人がいました。貧乏で盗みをしたくなる人がいたのです。ここで、パウロはどんなことがあっても盗むな、盗みをしてはならない、自分で自活して働きなさい、一所懸命、働くだけでも、既に他の人を助けることになる、と教えています。そしてどんなに収入が乏しくても、他の人のことを覚えて分かちあうこと、を勧めています。自分のために、隣人の命、時間、所有している物を奪ってはならないのです。むしろ、分かち合うことです。生きることは分かち合うことです。

 旧約聖書の箴言に、たくさんの肉が入っている鍋を喧嘩しながら我先に奪い合いながら食べるよりは、小さなパンを仲良く分け合うことのほうが幸いである、と書かれています。自分に与えられた恵みを互いに分かち合うことを勧めているのです。


20170910 主日礼拝説教 「私たちを救う主イエスの死」  山ノ下恭二


(詩編22編1−6節、マルコによる福音書15章33−47節) 

 聖書の中には、私たちが読んで、意味が分からない、理解することが難しい言葉があります。その中の一つに、本日、この礼拝で読まれた、主イエスの十字架の上で叫ばれた言葉があります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。皆さんは、この言葉をどのように理解しているでしょうか。

 主イエスの生き方を模範にしたいと思っている人は多いのです。神のみこころに従い、隣人を愛した主イエスのあり方に倣いたいと思います。それに反して主イエスの地上での最後の姿はどうであったでしょうか。安らかな死に方ではなくて、犯罪人として十字架につけられて苦しみ、絶望の叫びをあげて死んでいるのです。そのような死に方を私たちはしたくないと思うのです。なぜ、主イエスは十字架の上でこのような叫びをあげたのでしょうか。主イエスのこの言葉は謎であり、理解することは難しいのです。

 私が北九州の若松教会におりました時に、その当時、東京神学大学で旧約聖書を教えていた船水衛司という教授を招いて、教会で講演をして戴いた時に、講演の後に、質疑応答の時がありました。ある人がこの十字架の上の主イエスの叫びについて「主イエスはどうしてこのような言葉を言ったのですか。この言葉の意味がよく分からないので教えてください。」と質問したのです。この質問に対して、船水先生は「例えば、子どもが悪いことをして、父親が『もう、お前は私の子どもではない』と厳しく叱ったので、子どもがとても驚いて、『お父さん、そんなことは言わないで』と泣いている子どもの叫びのようなものです。」と答えたのです。もっと詳しく、十字架の意味を話したと思いますが、この話の部分をよく覚えているのです。

 その時には、十字架の上での主イエスの言葉を理解したように思っていたのですが、この譬えだけで、この言葉を十分に理解したとは言えず、不十分で、この十字架の言葉はもっと深い意味をもっているのではないか、この言葉をもっとよく把握したいと思い続けていました。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」この言葉には深い意味があります。私たちはこの地上の生活をしている時に、理不尽なことに遭うことがあります。会社の上司からいじわるをされたり、家庭に不幸なことが次々と襲ってくることもあり、苦しむことがあります。

 私は25年の間、光の子どもの家という養護施設の理事をしておりました。この施設の子どもたち37名と職員たちは、毎週、私がおりました東大宮教会の教会学校に通って来ています。この施設には親による虐待、育児放棄などの理由で子どもたちが入所しています。この施設にいる子どもたちは自分で望んでこの施設に入っているのではありません。自分のせいでこの施設にいるのではなく、親のせいでこの施設にいるのです。自分を虐待し、育児放棄をした親でも親と一緒に暮らしたい、という願いをいつも持っているのです。正月やお盆には親のところに帰ることができる子どももいます。ある子どもは母親が別の人と結婚して、その間に子どもがいて、母親のところに帰っても、歓迎されない居心地の悪い経験をするのです。暖かく迎えて、楽しい時を過ごせると期待して母親がいる家に行っても、冷たく扱われ、楽しく過ごすことができないで、傷ついて施設に帰ってくるのです。ある時、教会学校の分級である男の子が「お母さんと暮らしたいなぁ、光の子どもの家になんか、居たくない」と言ったそうです。小学校の同じクラスの子どもたちは親と一緒に暮らしているのに、どうして自分はこの施設で暮らさなければならないのか、と悩むのです。そのような理不尽な扱いを受けて苦しんでいるのです。子どもたちはこのような悩みを誰に打ち明け、誰にこの苦しみを訴えているのだろうか、と思います。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか。」この言葉は十字架につけられた時の最後の言葉です。ある人は主イエスは十字架の上で、詩編22編の言葉を口ずさんでいたので、この詩編22編の言葉が出たのだと言います。しかし、この福音書を記したマルコは十字架の上の主イエスのこの言葉を特別な意味を持った言葉として残したのです。

 マルコによる福音書15章33節には「昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。」と記されています。3時間のあいだ、主イエスは十字架の上で、何も言わなかったのです。それは、主イエスが捕らえられて、ロ−マ帝国の総督ピラトの前で沈黙していますが、十字架においても沈黙をしているのです。主イエスが十字架で死ぬ直前の、最後の言葉が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」なのです。

 この言葉は嘆きの言葉なのです。主イエスは、ここで嘆いておられるのです。詩編には嘆きの詩編が多くあります。季刊「教会」108号に左近豊牧師が「聖書に学ぶ共同体の祈り」という講演で語っていますが、詩編には多くの嘆きの詩編があります。特に詩編88編は嘆きの詩編の中でも、神に訴え、嘆いている、それで終わっている詩編なのです。他の嘆きの詩編は、最初は、嘆きから始まるのですが、途中から神をほめたたえる讃美に変わるのです。詩編22編も途中から神を讃美する言葉に転換しています。 

 しかし、詩編88編は最初から嘆きの言葉で始まり、嘆きの言葉で終わるのです。詩編88編15−16節「主よ、なぜわたしの魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。」(旧約p925)詩編88編は19節で、こういう言葉で終わっています。「愛する者も友も あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」私たちは神に嘆くことを忘れているのではないか、と思います。理不尽な扱いをされて嘆く、次から次から問題が起こって嘆きたくなるのです。なぜ、どうして自分が苦しまなければならないのか、と神に訴え、嘆くのです。主イエスは神に自分をさらけだして訴え、嘆いているのです。私たちも自分の弱さをさらけ出して嘆いて良いのです。

 主イエスは神になぜ自分を見捨てるのか、と訴えているのです。主イエスはここで非常な孤独を経験されているのです。私たちも孤独を経験するのです。サルトルという哲学者は「現代の地獄は孤独である」、とある哲学書で語ります。現代は、私たちの周りにたくさん人がいても、誰も自分に関心を持たないし、誰も語りかけもしないのです。自分一人で生きなければならないのです。「人間はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ」のです。主イエスは、いつも神に祈り、神の言葉を聞いて、親しい交わりがありました。しかし、この十字架で、神は自分を見捨てた、と言うのです。神が自分との関係を断ったのです。 

 主イエスは深く神に信頼し、最後まで、見守り、導いてくださる神に望みを抱いていたのです。そころが、見捨てられた、と言うのです。主イエスはその意味で、私たちよりも深い孤独を経験されたのです。ひとりで死ななければならないのです。私たちもひとりで死ぬことを恐れているのです。その私たちの死に寄り添うように、主イエスは深い孤独のうちに死んでいくのです。神である方が、天にいて私たちを高いところから見降ろしていると言うのではありません。神が自分の外に出て、肉体を取ってこの地上に降りてこられただけではなく、私たちが地上で苦しんでいる、その苦しみを自分のものとして、深い孤独を経験されているのです。

 聖書は、神との関わりがある時に、「いのち」という言葉を用いていますが、死ということは、私たちの肉体が死ぬ、ということではなくて、神とのかかわりを失っていることを言います。神との関係を失うことが罪であり、その結果が死を招くのです。神などかかわりを持たなくても生きていけるのだ、そう考えて生きていること自体が罪なのです。現代に生きている人々は、神などいなくても生きていけると考えて過ごしているのです。神から見た自分の惨めな、罪の姿を知らないのです。部屋の中が暗ければ、自分の部屋がどんなに散らかり、汚れているか分かりません。しかし、電気をつけて、明るければ、自分の部屋が散らかり、汚れていることが分かります。神の光に照らされなければ、罪は分かりません。

 私が罪という言葉で思い起こすのは、ロ−マの信徒3章10−18節です。「正しい人はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆、迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただ一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇にはまむしの毒がある。口には苦味で満ち、足は血を流すのに早く、その道には破壊と悲惨がある。彼らには平和の道を知らない、彼らの目には神への畏れがない。」(新約p276)ここには人間に対する徹底した厳しい見方があります。人間に対して厳しい評価が記されているのです。人間の全体の堕落を語るのです。 

 ハイデルベルク信仰問答・問3−8で人間の全体の堕落の問題を扱っています。人間の悲惨は、神の律法によって知ることができるのです。神を愛し、隣人を愛する、という律法を守ることができるか、と問うのです。「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」問8では「どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。」という問いに対して、「そうです。わたしたちが神の霊によって再生されないかぎりは。」と答えています。皆さんはこの問答の答えを聞いて、猛反発すると思います。人間は良いことをする意志も能力がある、ただ人間には限界があって、完全にはできないだけだ、と考えている人も多いのです。しかし、私たちは完全に全体に堕落しているのです。

 主イエスの十字架の死は特別な死です。主イエスが甦られたことにより、主イエスの死は、私たちの罪を担った、罪人としての死なのです。主イエスの死は、罪人として神に裁かれた死なのです。私たちは自分が死ぬことについて悩み、不安を持ちますが、私たちの罪とのかかわりで死があるとは考えません。

「死といのちの神学的考察」という本で、日本人の死生観について、日本人は死ぬと自然の中に帰っていくと言う感覚をもっており、人間を裁き、赦す神をもっていないので、罪、罪に対する刑罰、ということを考えない、神に対する責任を問わない、と書いてあります。悪いことをしても水に流してしまう、忘れてしまう、神に対する責任を取らないのです。

 主イエスの死は、罪の裁きの死です。そこに主イエスの死の厳しさがあったのです。罪のない方であり、神との深い交わりに生きているのですが、私たちに代わって罪ある者として神から刑罰をうけるのです。本来は私たちが神の裁きを受けなければならないのです。本来は私たちが、主イエスが叫んだ叫びを叫ばなければならないのです。私たちに代わって主イエスが叫び、神に信頼しながら、主イエスは絶望の叫びをあげているのです。お店のシャッタ−が開いている時には、お店に入って買い物ができます。お店の人と話すことができるのです。しかし、シャッタ−が降りてしまっていれば、お店に入ることもできず、買い物もできず、お店の人と話すことができないのです。私たちの罪のために、主イエス・キリストは、罪の刑罰として神の裁きを受けるのです。主イエスの目の前で、神はシャッタ−を降ろして、お前は私の子ではないと、関係を断とうとするのです。関係を遮断するのです。その言葉が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。

 コリントの信徒への手紙二5章21節に「罪と何のかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって神の義を得ることができたのです。」(新約p331)私たちが経験しなければならない、厳しい死、裁きの死を、主イエスは引き受けてくださったのです。私たちは、もう神の裁きとしての死を経験しなくても良いのです。独りぼっちで死ぬ必要はないのです。孤独を経験しなくても良いのです。主イエスがすべてを解決してくださったのです。主イエスは私たちの罪と死をご自分の中に受け容れ、ご自身のものとしてくださったのです。これによって私たちの死の意味がすっかり変わってしまったのです。神に裁かれないで、ただ神が受け容れてくださっているいのちを生きるだけで良いのです。私の書斎にレンブラントの「放蕩息子を父親が抱き寄せている絵」があります。私たちが死んでも、神が私たちを抱き寄せてくださるのです。

 カルヴァンはジュネ−ブ教会信仰問答で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を「陰府に降る」という信仰告白と結びつけて解説しています。陰府とは、神の光が届かないところであり、神から遮断されていて、叫んでも、神にその叫びが届かないところです。主イエスが嘆いても、神はその訴えを聞かないのです。訴えても神は答えない、そのような絶望を経験されたのです。主イエスが絶望してくださったのですから、私たちが絶望することはないのです。

 「十字架上の7つの言葉」という本の中で、主イエスの十字架の上の言葉と深く関わる、イザヤ書54章7、8節の言葉を引用しています。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。」(旧約p1151)

 この言葉は、イスラエルの民が、神を礼拝せず、偶像を礼拝し、隣人を愛さないので、その審判として、バビロニアに70年も抑留されたイスラエルの民に語ったイザヤの慰めの預言の言葉です。70年の捕囚・抑留の生活をイスラエルの民は、神からの裁きと受け取ったのですが、それは神から捨てられた、神から見放されたという思いであったのです。「わずかの間、わたしは捨てたが」「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが」と語るのです。神がイスラエルの民を捨てた、顔を隠した、しかし、深い憐れみと、とこしえの慈しみをもって神は愛し続けている、と語るのです。

 神が私を見捨てたと思う時があります。どうして理不尽なことが続き、苦難が襲うのか、分からないで、神に、なぜ、どうして、と訴える時があるのです。

 しかし、理不尽なことは、わずかの間です。苦しみが続くのは、ひとときなのです。理不尽なことも、苦しみも長くは続かないのです。神が自分を忘れて、愛していないのではないかと疑い、神はいないと思う時もあります。しかし、主イエスは私たちに先んじて、私たちの罪を担い、孤独を経験し、絶望を経験して自分のものとして引き受けてくださっているのです。

 私の書斎の机のところに、最近、エレミヤ書の言葉を張り出しています。エレミヤ書32章27節の言葉です。「見よ、わたしは生きとし生けるもの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか。」(旧約p1239)望みを失いそうになる時も、私たちを愛する神は力を及ぼし、どんな困難な時にもどんなところでも、私たちを愛する神は見守り、救い出すのです。

 この主イエスの十字架の贖いによって私たちは神との関わりを持つことができているのです。いつも神が私たちにみ顔を向けて愛をもって接してくださるのです。礼拝が終わる時、私たちはアロンの祝福の言葉を聞き、派遣されていくのです。「主があなたを祝福し あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたの向けて あなたに平安を賜るように。」

20170903 主日礼拝説教 「私たちのための十字架」  山ノ下恭二


(詩編22編7−22節、マルコによる福音書15章21−32節)

 まだ暑さが残りますが、新しい秋を迎えました。この礼拝に集った方々を覚えて、祝福を祈ります。最初の教会の伝道者パウロが多くの教会に書き送りました、祝福の祈りをおくります。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 私たちは、この礼拝に集まっているのですが、このところに集まっているひとり一人は、実に不思議な方法で導かれて、このところに集まっているのです。ある人は自分の意志で信仰を求めて来た人もいます。以前、私がおりました教会の信徒が、キリスト品川教会から転会したのですが、この人は以前から、大宮に住んでいたので、なぜ品川教会の信徒なのか、と聞いたところ、こういう話をしてくれました。会社が神田にあって、同じ会社の人と教会に行こうと話して、どこの教会が良いか、と話し合ったそうです。その友人は横浜に住んでいたので、大宮と横浜の中間地点が品川であると思って、キリスト品川教会にしたそうです。最初に教会に行った時に、礼拝が終わって、佐伯洋一郎牧師が、帰り際に、「教会に一度来ただけではキリスト教は分かりません、毎週、1年間、続けて来て下さい」と言われたので、休まず、一年間礼拝に通って、友人と一緒に洗礼を受けた、と言ったのです。自分の意志で教会に行こうと決心し、そして教会を見つけて、礼拝に通い、信徒になった人もいます。

 ある人はキリスト者の家庭に生まれ、幼い時から教会に通うようになり、教会の信徒になった人もいます。ひとり一人、教会に来たきっかけや教会につながった経過は異なるのですが、教会でみ言葉を聴き、そこでキリストに触れて、教会生活を始めたのです。

 この朝、与えられたみ言葉は、マルコによる福音書15章の主イエスの十字架の事件を語るところです。このところには、「シモンというキレネ人」が登場します。このシモンは、その後、どのような歩みを辿ったのか、聖書の中でそれを尋ねることは難しいのですが、昔から今日に至るまで、この人は明らかに、後に洗礼を受けて教会の信徒になった人であると信じられています。その一つの理由は、説明抜きで、アレクサンドルとルフォスという、その息子たちの名前が記されていることに因るのです。マルコによる福音書15章21節「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と記されています。ルフォスという名前は、ロ−マの信徒への手紙16章13節に登場しています。そのようなことから、ロ−マの教会の信徒であったと推測できます。このマルコによる福音書も、ロ−マにおいて記されたのではないか、と言われています。アレクサンドロについてはこの名前が使徒言行録に何度も出て来ています。このマルコによる福音書がまとめられる前に、この十字架の物語が、教会において何度も何度も語られて、その時に、シモンの名前が出て来たのではないかと思います。

 ロ−マの教会は、主イエスの十字架の物語が語られ、そこで聖餐が行われましたが、その度ごとに、アレキサンドロとルフォスの父シモンと言えば、ローマの教会では、誰であるか、よく知っていたに違いないのです。

 このシモンはキレネ人と書いてあります。このキレネという地名は聞いたことのない地名ですが、現在、北アフリカにリビアという国がありますが、リビアの、ある地方にあった地名であったようです。この時代、とても栄えていたのはエジプトのアレクサンドリアでしたが、このキレネは、北アフリカでアレクサンドリアと共にとても栄えていた町であったと言われています。このキレネにはユダヤ人が多く住み、商売も盛んであったようです。

 このシモンは、そのキレネからたまたまエルサレムにやって来たのかも知れないのです。また過越の祭りということで訪ねて来たのかもしれないのです。どうしてエルサレムに来たのか、分かりません。主イエスの噂を聞いて、わざわざ見に来たのではないと思いますし、イエスと言う人が十字架につけられるそうだ、そういう話を聞いて見物に来たわけでもないと思います。意図的に来たとはどうも考えられないのです。たまたま出て来て通りかかったのです。たぶん、体格が良かったのだろうと思います。ロ−マの兵士たちは、そのシモンを捕らえて、「十字架を無理に担がせた」と記されています。

 信仰に入るきっかけはそれぞれ違うのですが、自分の意志で決めた、という人よりも、ちょっとしたきっかけで教会に来て、信仰を与えられた、という人が多いのではないでしょうか。私も自分から救いを求め、教会の扉を叩いて信仰を求めた、ということではありません。両親がキリスト者で教会に通っていたので、ある意味では半強制的に教会に行かされたからです。人間的に言えば、たまたまキリスト者の家庭に生まれたから、と言っても良いかも知れません。きっかけは何でも良いと思います。ある人は教会の前を通ったら、讃美歌の歌声がとてもきれいだったので、教会に入りたくなり、そして教会に通ううちに信仰が与えられた、という人もいます。

 このシモンがたまたま通りかかったのですが、それは、神を讃美する歌声がきれいであった、とか、主イエスの説教が感動的で心が動かされたから、信仰を与えられたのではなく、通りかかった時に兵士たちが、シモンを捕らえて、「十字架を無理に担がせた」ということをきっかけにして、主イエスと深く関わるようになったことに私は注目するのです。


 「十字架」とあります。昔、主イエスの生涯を描いた映画、「ベン・ハ−」や、「偉大な生涯の物語」を鑑賞したことがありますが、これらの映画には主イエスの十字架の場面が出て来ます。そこには、十字架に組んだ大きな柱ふたつを背負わされて歩いている姿を映し出しますが、史実はそれとは違うようです。この場面では、十字架の横木の部分だけを担わせるというのが通例であったようです。支柱になる、真っ直ぐの縦の柱の方はすでに刑場に立てられているのです。その刑場まで横木となる一本の柱を運ばせるのです。それにしても、重いものです。私の一番上の姉は材木・建具屋に嫁ぎましたので、工場には材木がたくさんあります。その材木を見ると、主イエスが担いだ横木はかなり重かったのではないかと思いました。十字架の横木を担ぎながら、その重さに耐えていたのです。この横木を担ぐまえに、主イエスは、大祭司の屋敷ばかりでなく、ピラトの官邸においても、数々の拷問・虐待を受けていたのです。体力も気力も失いかけていて、運ぶこともできなくなったのです。そこへ、たまたまシモンが、主イエスの代わりに担がせられてしまうのです。その意味では、重荷を無理に強いられるという経験をするのです。その意味で、シモンは主イエスの十字架の重さを知るという経験をするのです。これは特別な経験であり、シモンしか経験したことのないものであったのです。

 そしてシモンは、主イエスが処刑される刑場まで横木を運び、それで自分の役目は終わったので、自分が行くべきところに行ったと言うのではないのです。主イエスが十字架につけられて、死ぬところまで、そのところに立ち続けていたのです。主イエスが十字架につけられている場面にいたことは、シモンにとって決定的な意味を持つことだったのです。それはシモンにとって信仰をもつきっかけになったからです。

 教会に来るきっかけはみんな異なります。教会に自分から行こうと決心して、自分の意志で来た人もいるし、自分で求めたわけではないけれども、教会に来た人もいます。私は、幼い時から教会に通い、教会学校に通って聖書の話を聞いていましたし、十字架の話を聞いていました。しかし、十字架が自分にとってどのような意味があるのか、はっきりしていませんでした。信仰告白をしてキリスト者になっても、十字架はとても大切な意味のあることであることは説教を聞いて知っていましたが、十字架が自分にとって、決定的な意味を持つものであるとは考えていませんでした。神学校に入学して、神学の学びをしていても、十字架に対して、自分の中にはっきりしたものはありませんでした。聖書の中の多くの物語の中の一つとしか考えていなかったのです。

 シモンは主イエスが十字架につけられている場面に居続けていたのです。十字架につけられることは、ひどい痛みを伴うことですから、その痛みを和らげるために、酸いぶどう酒を飲むのが一般的であったようですが、主イエスはそれを飲まなかったのです。十字架につけた兵士たちは、主イエスの着ているものを分け合うことが記されています。兵士たちは、くじを引いて遊んでいたのです。主イエスを裸にして、その衣服をくじを引いて分け合うことをしていたのです。そして十字架の前を通りかかった人々や祭司長たち、律法学者たちも主イエスを侮辱したのです。そして主イエスが長い時間、苦しんで死んで行った経過をじっと見続けていたのです。シモンは十字架の場面に直接、居続けて、主イエスが苦しみのうちに死んだことを目撃していたのです。

 シモンは主イエスが十字架で死んで行った現実を目撃した数少ない存在でした。しかし、シモンはそれで信仰をもったのではありません。シモンは、主イエスの十字架を代わって担いだことをきっかけとして、おそらくロ−マの教会の礼拝に出席して使徒たちの説教に耳を傾けて、やがて洗礼を受けてイエスを自分の救い主と呼ぶようになったのです。説教を聞き続けていくうちに、主イエスの十字架がもっている深い意味を次第に知り、自分の中で明確になって来たのです。

 8月28日−29日に芳賀力教授を講師として招き、芳賀力教授が書いた「神学の小径」(啓示への問い)という一冊の本を学ぶことができました。神がご自身の姿をはっきりと現す、そのことを啓示と言います。この啓示をめぐっての考察が「啓示への問い」に詳しく書かれています。「啓示」という元々の言葉は、「覆いを取る」と言う言葉です。覆われていると、その覆いの中には誰がいるのか、分からないのですが、覆いを取るとどのような者なのか、はっきりと分かるのです。神と言っても見えないので、私たちには分からないけれども、神が覆いを取って、主イエスによって神御自身を顕したのです。それは、主イエスの誕生(ご降誕・クリスマス)から始まる、主イエスの生涯、十字架の死によって物語る主イエスの生涯を通して、神が御自身の姿をはっきり現しているのです。そのことは使徒信条ではっきりと告白されているのです。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と告白しています。主イエスの生涯、特に主イエスの十字架の死によって神がどのような神であるかをはっきりと顕しているのです。

 シモンは、十字架の重さを知っていました。そのことがとても大きな意味を持ったのです。最初の教会の中で、主イエスの十字架が、どんなに重いものであるか、そのことを実際の経験を通して話すことができたのは、シモンだけであったでしょう。

 芳賀力教授が書いた「神学の小径」(啓示への問い)の本の中に「人格的な神」と言う言葉がありました。私は「人格的な神」と言うことを、神が私たちに語りかけ、私たちが神の語りかけに応答する、それが人格的だ、と考えていました。芳賀教授の解説では、それでは不十分であると指摘しているのです。神が人格的であると言うのは、愛において相手を徹底的に愛する、それが神の人格性だ、と言うのです。私たち人間の場合には親が子どもを愛する、親は子どもを深く愛しています。しかし、人間の親が子どもをどんなに愛してもその愛には限界があるのです。子どもが言うことを聞かないので嫌になることもあり、愛する気持ちにならないことがあります。相手を完全に愛することはできないのです。しかし、神は、私たちが反抗しても、背を向けてしまっていても、どんなことがあっても、どこまでも愛するのです。そのような神が人格的であると言うと教えられました。完全に相手を愛することが人格的だと言うのです。神の人格性は、神が主イエスにおいて、私たちを愛するために犠牲をささげるほどのものなのです。

 シモンはイエスの十字架の重さを経験し、十字架の場面にいて目撃しています。説教によって十字架の物語を聞いていました。説教によって主イエスの十字架が自分のためであることがはっきりしてきたのです。この十字架の重さは、自分の罪の重さであることが分かるようになったのです。なぜ、主イエスは、こんな重いものを背負われたのか。この重さは「わたしの罪の重さ」それをもっと深い所から担っていてくださる、そのキリストの愛の重さなのです。

 私たちは、主イエス・キリストが私たちの罪を背負ってくださった、と言うけれども、自分の罪がどのように大きく、重いのか、が分からなかったのです。聖書では罪という言葉を「負債」「負い目」という言葉で語っています。一億円の負債、借金があると言えば、その借金を返すことは容易ではないのです。罪を具体的な負債額・借金額で示すならば、罪と言うことがよく分かりますが、自分の罪がどのぐらい重いのか、分からないのです。相手に暴言を吐いたら、1000円の罪になる、人の悪口を言うと500円の罪、自分では気がつかないけれども相手に嫌な思いを与えたら300円、今日は合計1800円の罪を犯した、と計算できるでしょう。そうすれば、自分の罪の重さは、測ることができるでしょう。しかし、自分の罪の重さを自分で量ることができないのです。その罪の重さは、神と同じ方が償わなければならないほどの重い罪なのです。

 まことの神を礼拝せず、まことの神を愛することがなく、隣人を愛することができないのです。人間がその罪を償うことができないので、神と同じ方が、その罪を償わなければならないほどに罪は重いです。私の重い罪が主イエス・キリストの贖いによって償われたのです。そのことをシモンは受けとめることができたのです。

 私たちは主イエスが十字架について死んだ場面にはいなかったし、シモンのように、十字架を担いだわけでもないので、十字架の重さは分からないのです。しかし、私たちは聖霊によって自分たちの罪のために、主イエスが十字架で死んだことを信じているのです。
 
 讃美歌第二編177番の讃美歌は黒人霊歌と呼ばれている讃美歌です。この讃美歌は「あなたも見ていたのか」という題名です。この讃美歌の歌詞には、黒人たちが主イエスが十字架についていたところにあたかもいたかのように衝撃を受け、自分たちの罪を深く感じている言葉が記されているのです。あたかもこの人たちが主の十字架の場面に立ち会って、その死を見て、十字架の意味を受けとめて、自分の罪を深く思っている讃美歌なのです。第二編177番、1番「あなたも見ていたのか、主が木にあげられているのを。ああ、いま思いだすと、深い 深い 罪に わたしはふるえてくる。」2番「あのとき見ていたのか。主が釘をうたれるのを。ああ、いま思いだすと、深い、深い、罪に 手足がふるえてくる。」3番「あそこで見ていたのか。主が槍で刺されるのを。ああ、いま思いだすと、深い 深い 罪に からだがふるえてくる。」

 シモンは無理に十字架を担がせられた、そのことをきっかけにして、礼拝のみことばを聞き続け、主イエスの十字架が自分の救いのための十字架であることを信じることができたのです。そして、自分が神に深く愛されていて、この神がいつまでも愛してくださっていることを信頼することができ、自分の人生が神に守られ、導かれていることに目を開かれたのです。

 これから聖餐にあずかります。私たちのために御自身の肉を裂き、血を流してくださった、その恵みに預かりましょう。

20170827  主日礼拝説教  「清潔な愛」  山ノ下恭二


(出エジプト記20章14節、エフェソの信徒への手紙5章21−33節、ハイデルベルク信仰問答108−109問)

 ある作家が本の中でこういうことを書いています。自分の妻の葬儀が終わった次の朝、起きて妻の名前を呼んでも答えがなく探したそうですが、見あたらない、しばらく経って妻が亡くなり、もう妻はいないことに気が付いて悲しみが襲ってきた、ということを書いています。長い間、生活を共にし、連れ添った妻は自分と一体であり、妻を失うことは自分の存在をも失うことなのです。 妻があって自分があり、自分があって妻がいるのです。そのような生活が結婚の生活なのです。互いを大切に思い、互いに労りあって共に生活するのが結婚の生活です。

 本日、読んだ出エジプト記20章14節には「姦淫してはならない」と書かれています。「姦淫」とはすでに夫婦になっている男女のいずれかが、自分の配偶者以外の者と肉体的な関係を持ち、夫婦の関係を壊してしまうことです。このことをしてはならないと戒められています。この戒めは十戒の中の第7の戒めです。姦淫をすると、その相手の結婚生活を壊すことになるのです。隣人の生活を壊すことをしてはいけない、と命じるのです。この戒めは特に結婚をしている人たちに対する戒めです。

 「姦淫」という言葉は現代では余り聞かない言葉です。現代では「不倫」「浮気」という言葉がよく使われます。現代の日本では、不倫、浮気が特別に悪いこととして考えられておりません。それは小説やテレビドラマ、映画などで、不倫や浮気が日常のありふれた出来事のように取り上げられ、自然なこととして受け容れられているからです。夫婦が互いに束縛されることを嫌って他の異性を愛するようになることが人間の本来の人間らしさであり、そのことは自分に誠実に生きることであると考えている、そのような風潮があるのです。姦淫することが特別に悪いことではなく、しないことは時代から遅れていると考えるのです。夫婦が互いに親密さを失い、その隙間に自分が惹かれる異性が登場して関係を持つのです。一人の男性が妻以外の女性をどこまでも愛し抜く姿や、妻が夫以外の男性を恋して悩む姿が映画のスクリ−ンやテレビの画面に映り、それがいけないことであるとは考えていないのです。「浮気」「不倫」が特別に悪いこととしてはいない時代に、私たちはこのことを暗黙に了解するのか、してはいけないことと態度を明確にするのか、です。

 この「姦淫してはならない」という戒めは「殺してはならない」という戒めに続いて書かれています。「殺してはならない」ということに対しては多くの人々が当然のこととして賛成します。しかし「姦淫してはならない」ということに対しては、厳しく言わなくても良いのではないかと言う人も多いのです。

 結婚式の時に読む旧約聖書のみことばに「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう」(創世記2章18節)があります。最初の男性アダムに女性エバが与えられます。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう」。この言葉の意味は、人間の存在というものは、孤独な存在ではなく、他の者と関わって生活することが人間らしいあり方であると書かれています。そして結婚することは生活の全部、丸ごと、共に生活することです。恋人の時には一緒にいる時間は短いのです。しかし結婚するとほとんどの時間を一緒に過ごすのです。生活全部を相手と共に生活するのです。

 結婚式で良く読まれる旧約聖書の言葉に創世記2章24節があります。「男は父母をはなれて女と結ばれ二人は一体となる。」この「一体」という言葉は夫婦の関係全体を言う言葉です。それはお互いが自分の体のように相手を愛する、そう言う関係です。そのような関係の中で、体の交わりが意味を持つのです。若い夫婦が、引っ越し荷物の片付けをしていて、妻が棚に頭をぶつけて、思わず「痛い」と言ったら、そばにいた夫も「痛い」と言ったそうです。妻の痛みを、まるで自分の痛みのように感じたのです。このように自分と一体となって生きてくれる人がいることは本当に幸いです。

 「家族の心はいま」という本には夫婦関係がうまくいかなくて、カウンセリングに来た人のケースを取り上げています。特に、妻が夫に求めていることに、夫が気が付かないでいる事例が多いのです。夫の妻として、子どもの母親として、一人の職業を持った女性として、多くの役割を持っていることを受けとめて理解して欲しいと求めているのに、夫は当たり前のように受けとめているところに互いの心が通い合うことがなくなっていくのです。結婚生活は全面的に相手と共に生き、一人のパートナーと共に生きることなのです。                  
 最近は、結婚式は時間とお金がかかるので、入籍するだけで良しとする傾向があります。しかし、神の前で公に誓約することはとても大切です。二人の結婚の中心が神であり、神が二人の生活にいつも臨在し、その神の前で誓約するということが重要です。神の前で誓わない場合は、自分たちの気持ちが中心になり、夫、妻が家庭の中心になってしまうのです。神を中心として家庭を形成し、罪があり、互いに弱く不十分な存在であることを認めて、互いに愛し合うのです。 結婚式で誓約する場面があります。司式者が「あなたはこの(姉妹、兄弟)と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか。」と問います。この問いに対して約束をするのです。
 
 姦淫は、全面的に相手と共に生き、一人のパートナーと共に生きる生活を破壊してしまうことになります。夫婦の間だけで持つ関係を、他の男女との間で持ってしまうのです。それは神の前での誓約を破り、夫婦の関係を壊す背信行為です。姦淫は結婚相手の信頼を裏切り、相手の魂を傷つけることになります。姦淫をすることによって夫婦の間に亀裂が入り、ひび割れた関係になることは様々な影響を及ぼします。子どもは両親の関係が悪いことで心を痛め、子どもなりに修復の努力をするのです。

 河合隼雄という心理学者が「カウンセリングの根本問題」という本の中で不登校の子どもについて論じていますが、不登校の原因が子どもにあるのではなく、両親の関係が悪くなることを心配して子どもが学校に行けないというケースが紹介されていました。姦淫によって夫婦の関係が壊れ、壊れていく両親の生活を見ている子どもは結婚について望みを失ってしまうのです。

 現代は姦淫、不倫、浮気、ということが重大な罪として意識されていないし、特別に悪いことであるととらえていない、その原因は何でしょうか。それは、結婚について軽く考えているところにあります。結婚を軽く考えている、この一人の人と自分は一体となって生涯を共に重荷を持ち、互いに大切にして過ごすという意識がないということです。相手を嫌になると、自分自身と自分の感情に忠実であることの結果だと言って愛の対象を簡単に移すのです。

 この問題に踏み込んで、掘り下げて考えてみる。私たちは人と人とのつながりを求めています。しかし、現実には心の深いつながりが与えられていないのです。援助交際は問題ですが、中学生、高校生が家庭や学校でも自分の居場所がなく、しかし、お金が欲しいと考えて、自分の性を商品として売るのです。この原因は中学生・高校生が自分に関心を持ち、自分を受けとめ、認め、叱る人を求めているにもかかわらず、自分に深く関わる人を持っていないことにあります。援助交際はいけないことですが、同情して言うならば、孤独を癒すために自分の性を商品化しているのです。中学生・高校生だけではなく、一人一人、とても孤独なのです。心と心の深いつながり、関わりを持ちたいのです。

 結婚して心もからだも深くつながり、互いに大切な存在として尊重できれば良いのですが、それはなかなかできないのです。それぞれ、仕事においても家庭においても、役割を果たさなければならず、会話も少なくなり、気持ちも通じ合わなくなります。互いに求めるものが満たされないと不満になり、批判になります。自分を理解し、受けとめてくれないと思ってしまうのです。相手を赦し、受け容れることができなくなるのです。深いところで満たされないので、自分の感情に合った異性とつき合うことになるのです。

 私たちは信仰を与えられて、相手を赦すことを知らされています。互いに求めることがあり、満足できないのですが、相手の不十分さ、罪、いたらなさを赦し合うことを知っています。それには私たちが主イエス・キリストの十字架の贖いによって自分の深い罪が赦される、そのような信仰の経験が必要です。

 私は結婚式の説教で、結婚生活の基本は二人が礼拝に出席してみことばに聞くことが大切であることを話します。まことの神を礼拝することが結婚生活の様々な問題を解決する力になるのです。神が主イエス・キリストによって深く愛しておられることを信じる、そこから夫婦が互いに愛することにつながるのです。最も身近な隣人として相手のために良いこと、利益となることを計るのです。愛することは好きな相手に良いことをすることではないのです。嫌いになっても相手のために良いことをすることが愛なのです。

 ハイデルベルク信仰問答108問の答えには、姦淫することを心から憎み、結婚生活においても、独身生活においても、純潔で慎み深く生きるべきである、とあります。独身生活も様々な誘惑があります。

 「神の真理」−キリスト教的生における十戒−という本の「第七の戒め」について書いている箇所を読んでいましたら、あるキリスト者の青年のエピソードが紹介されていました。その青年が一人の女性とはじめてデートをしていて、夕方になり、女性が「それじゃ、私のところにする。あるいはあなたのところに行きましょうか。素晴らしい夜を過ごせるわね。」と言い、「何を言っているの。最初のデートだよ。君のことをまだほとんど知らないし、一緒にベッドに入ったりできないよ」と言うと、「自分は気に入ったらその人と一緒に寝るわ」と言う。「ぼくは嫌だ」「どうして」「ぼくは、聖公会の信者なんだ。だからそんなにすぐにベッドを共にしないんだ」。そして彼女に教会のことを説明して次の日曜日に教会に来るようになって、やがて洗礼を受け、結婚した、と書いてありました。この青年はこの戒めをしっかり守ったのです。

 「ハイデルベルク信仰問答・問109の参照聖句にはコリントの信徒への手紙が多いのです。コリントの教会には性的な乱れがありました。自分の父親の二番目の妻と同棲しているキリスト者がコリントの教会にいたのです。また、霊と肉体とは関わりがなく、霊においては高尚なことを考えていても肉体は霊とは切り離されているので、売春宿に行って女性と関係しても良いと姦淫をしていたコリントの教会会員がいたのです。

 パウロはそのことを問題にして、自分たちは聖霊の神殿であり、自分の体は神が宿っている神の住まいであることを語っているのです。私たちは神に属するものであり、自分の欲望や衝動、気持ちを優先するのではなく、神から戴いたこの体を神のみこころに従って用いるのです。「知らないのですか。あなたがたの体は神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントT 6章19−20、306ペ−ジ)自分の体を神のものとしてささげ、また相手のために仕えるのである。私たちの生活が神に聖なるもの、神のものとして聖別されて、清められることが大切なのです。

 根本にはいつもまことの神を礼拝し、神のみこころに適った生活に切り替えていくことが大切です。礼拝をしなくなると、浮気、不倫が特別に悪いことでないように思うようになります。礼拝がないと、この世の中の価値基準を受け入れて、それに影響を受け、行動するようになるのです。

 このハイデルベルク信仰問答・問109には、この戒めは姦淫以外のことは禁じていないのか、姦淫しなければ良いというのか、と言う問いに対して次のように答えています。「わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。ですから、この方はわたしたちがそれら二つを、清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。それゆえ、あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を禁じておられるのです。」

 結婚相手に対してばかりでなくて、異性に対して、心、言葉、振る舞いをも問題にしています。日常の生活において、相手に対して善いことを行うのです。心、態度、振る舞いにおいて、清潔な愛をもって生活することを勧められているのです。

 キリスト品川教会の吉村牧師が「二人で読む教会の結婚式」と言う本を書いていますが、その本の最後に、長い間、連れ添った夫婦が互いに交わす言葉を書いています。最後にこういうことが、書いてありました。

 「『本当にこの人は自分に与えられた人だったのだ。』心からそう思うことができたら、そして『あなたのおかげで、本当にいい人生でした。』お互いに、素直にそう言うことができたら、すばらしいと思いませんか。」


20170820  主日礼拝説教  「いのちは誰のものか」  山ノ下恭二


(出エジプト記20章13節、ヨハネの手紙T 3章11−18節 ハイデルベルク信仰問答105−107)

 日本人の平均寿命は男性が80歳、女性が86歳ですが、長く生きることはとても意味のあることです。旧約聖書では長寿は神の祝福のしるしなのです。いのちを与えられたのですから、事故や事件に巻き込まれないで、中断せずに、健康で長く生活をしたいものです。神様から与えられたいのちですから、大切にしたいと思います。しかし、事故や事件に巻き込まれて、人生が中断することが起こります。
 
 私は小学校の4年生の時に父を交通事故で亡くしました。父は49歳で亡くなりました。父は家族を養っていかなければならないと思っていまいたし、自分は生きなければならないと思っていたと思いますし、自分がもしや事故に遭って死ぬとは思っていなかったと思います。父の死後、家族の生活は一変しました。母が働きに出て、家族の生活が変わりました。一人の人が亡くなると言うことは、家族にとっては辛いことですし、今までの生活が全く変わることになります。事故によっていのちが奪われ、いのちが中断することになり、生きていく未来を失うことになります。そのことは本人にとっても、家族にとっても大きなことです。毎日の新聞記事には、事故や殺人事件が載らない日はないほどに、頻繁に人々が死んでいるのです。どこかでいのちが失われているのです。このことを私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。 

 本日の礼拝で読んだ出エジプト記20章13節には「殺してはならない」と書かれています。この戒めは、元々「あなたは殺してはならない」という言葉です。ある旧約学者は、この戒めが禁止命令と言うよりも、神が私たちを信頼して期待をしている、信頼と期待の言葉であると解説をしています。「あなたは殺すことはないだろう」「あなたは、殺すはずはない」と翻訳することができると言います。神があなたのいのちを愛しているので、あなたは他の人を殺すことはないだろう、あなたは他の人を殺すはずはない、と言う意味になります。ある解説書では、この「殺す」という言葉は、個人による故意の殺人や過失による殺人について使われ、死刑や戦争での殺害は別の動詞が使われていると書いてありました。だからと言って「殺してはならない」は、死刑や戦争での殺害は認めているとは言えないのです。すべての殺人を禁止しているのです。
 
 「殺してはならない」。この戒めはすべての人が同意でき、私たちの大前提である事柄であるのです。しかし、現代はすべての人がこのことに同意しているわけでもないのです。かなり前に神戸で14歳の少年が児童を殺傷した事件があり、多くの人々に衝撃を与えたことがあります。この事件のあとにテレビの討論番組で、学生が何故殺してはいけないのか、殺しても良いではないか、と問い、その場に居合わせた知識人たちが誰も答えられなかった、ということが話題になりました。

 この問題は現代の人々が抱えている深い問題をよく言い表しているのです。今まで、なぜ殺してはいけないのかと言う問いそのものを持つこと自体、誰も考えなかったと思います。「殺してはならない」そのとおりであると考えていたのです。「殺してはならない」と言うことは誰でも同意することであると考えていたのです。何故、殺してはいけないのか、殺しても良いではないか、という考えを持つことはなかったのです。いのちは尊ぶべきもの、いのちは宝であり、人のいのちを誰も奪ってはならない、それは暗黙の了解であったのです。「何故、人を殺してはいけないのか。殺しても良いではないか」と言う考えは、「殺してはならない」ということを根底から崩すことになります。 

 「自分が殺したいと思うならば人を殺しても良い」「それは自分の自由だ」「殺すことができるなら、誰でも良かった」と言うこと自体、おかしなことだという感覚がなくなったのです。ロシアの作家、ドストエフスキーがある小説の中で「もし神がいないならば、人は何でも自由にできる」と書いています。神がいないならば、殺したければ殺して良い、と言うことになります。「何故殺してはいけないのですか」この問いを出すこと自体、おかしなことであると言う認識をもたず、自分が殺したければ殺しても構わない、と思うこと自体が現代の人々が深い闇の中にいることをよく表しているのです。神が不在であると考えていることによって起きている闇であります。

 いじめで生徒が自殺をした後に、全校集会が開かれて校長が生徒たちに「いのちの大切さ」について話すのですが、それでもいじめによる自殺は減らないのです。夏休みが終わる時、あるいは2学期の初めの登校日に一年の中で一番、生徒の自殺が多いそうです。学校に行くとまたいじめられるという気持ちが強くなり、生きていく自信を失って自殺をしてしまうのです。いのちは大切だからという話だけを聞いているだけでは、いじめや自殺はなくならないのです。

 「なぜ殺してはならないのか」、その根拠は、私たち人間が、神のかたちに創造されたからです。人間だけが、神と人格的に関わり、神と対話できる固有の存在として創造されています。聖書は私たちのいのちを神の眼から見るのです。神が私たちのいのちを造り、この命を愛し、慈しんでおられるのです。私たちのいのちは神が愛して造られ、神が私たちのいのちの継続を望んでおられるのです。このいのちは神のもので、私たちに貸し与えられたものです。自分のいのちは自分のものではないのです。神に貸し与えられたものです。神によって、神にかたどって創造された人間の生命は、私的に奪うことが明瞭に禁じられています。多くの者は、自分のいのちは自分のものであり、どのように用いても自分の勝手である、と考えています。しかし、一人一人のいのちは神に属するいのちです。いのちが尊いと言うのは、いのちが神のもの、神に属するものだからです。

 しかし、いのちが神によって造られ、神に属するものだという認識がないと、人間がいのちの価値を自分の価値基準で判断してしまうという過ちを犯すのです。昨年、相模原のやまゆり園で職員として働いていた人が、障がいをもっている人が生きるに価しないものとして19人を殺害した事件がありましたが、生きるに価しないと価値判断をすること自体大きな問題です。

 この社会で生産性のない、社会に貢献ができない人は生きている価値がない、と言う考えはこれまで何度も出て来て、これらの人々は多く殺されてきたのです。第二次世界大戦でナチ・ヒットラーは障がいをもっている人を養い、世話をしている医師・看護師を戦争に従軍させたほうが意味があるとして、病人、障がい者を安楽死させようとして、病院、社会福祉施設に安楽死させて良い人のリストを出せ、と命令したのです。ドイツのベテルという福祉施設は、安楽死させて良い障がい者のリストを出すことを拒否し、施設長はじめ、職員たちは、障がい者を殺すなら自分たちを先に殺せと言って抵抗し、障がいをもった人たちを一人もナチの手に渡すことはなかったのです。障がい者のいのちを守ったのです。能力があり、この社会に貢献できるから生きる価値がある、この社会に貢献できない、能力がないから生きる価値がないということではないのです。このベテルの施設長、職員たちは、いのちそのものに価値がある、と言う考えを貫徹したのです。

 子どもや障がいをもっている人は社会的に貢献できないということで、生きるに価しないと考える、その考え方はこの社会の中で多くの人々が抱いている考えです。しかし、私たちの存在そのものは生産性、社会的な貢献度によって測られるものではないのです。神が造られた私たちのいのち、存在そのものに価値があるのです。
 
 柏木哲夫という大阪の淀川キリスト教病院名誉ホスピス長が、「いのちへのまなざし」という本の中で次のように書いています。「存在そのものが大切」というところで、「無脳児に近い状態で生まれ、15年間呼吸器につながれたまま、コミュニケーションは一切とれない状態で生き続けている子どものことで、医療スタッフから相談を受けたことがありました。何度も肺炎を起こし、そのたびに治療をしてきたのですが、このような状態で生き続けるのを援助するのがいいのかどうか、スタッフは疑問を持つようになったのです。」「母親は『たとえ反応がなくても、あの子が生きていてくれさえすればいいのです』と言いました。『存在そのものが大切』という言葉はとても印象深く私の心に残りました。」

 ホスピスでも同じ言葉を聞いた、と書いてあります。70歳代で肺がんの患者さんが入院し、だんだん病状が悪化し、衰弱していくので、「回診のあと、ご家族と話を」した時、「『こんな状態で毎日そばに付き添っておられるのは、つらいですね』と言いますと、娘さんが『たとえ反応がなくても、父がいきていてくれさえすれば、それでいいのです。父の存在そのものが大切なのです』と言いました。ここでも『存在そのもの』という言葉を聞きました。」

 この戒めを、自分は刃物、暴力によって他の人のいのちを奪うことをしていないから、この戒めと自分とは関係がないということはできません。殺人ということはもっと深い問題があります。もともと殺すと言うことはどのようなことなのでしょうか。誰かの存在、具体的にひとりの人の存在を否定することです。つまり「あんな人はいないほうが良い」とことを心の中で思うことです。そこに既にこの戒めに背く思いが生まれるのです。「殺してはならない」という戒めは、人の命を奪うことだけではないのです。人をないがしろにしたり、いじめたり、うとんじたり、その人格を否定したりする行為のすべてを含んでいるのです。

 主イエスは「殺すな」と言う戒めについて詳しく語っておられます。マタイによる福音書5章21−22節に「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」刃物や物理的な暴力などによって相手を死に至らしめる、殺人をしていなくても、心の中で腹を立てる、怒るのは殺人と同じものであり、「ばか」「愚か者」と言葉でもって相手に暴言を吐く者はそれで、すでに殺人になるのだ、と語るのです。主イエスは「殺す」ということを私たちの心や私たちの言葉にまで拡大して、問題にしているのです。目に見える刃物や物理的な暴力によってだけでなく、その人の心や態度や言葉によって傷つくことがあります。相手の怒りやひどい言葉によって深く傷つくことがあるのです。            
 この主イエスの言葉を根拠にして、ハイデルベルク信仰問答は、殺してはならないという戒めを解説しています。問・105で「第6戒で、神は何を望んでおられますか」と問います。その答えは「わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。」

 私たちは心にある思いが言葉や態度に表れることを知っています。自分が相手をよく思っていない、不満を持っている、怒っている、その思いが態度や言葉に表れるのです。問106は殺人の根が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心であり、これらは心の中で起こることで人には隠れていてわからないことであるけれども、これらは隠れた殺人である、と解説しています。特に、ねたみは殺人の動機になるのです。
 
 旧約聖書の創世記4章にカインとアベルの物語があります。兄カインが弟アベルを殺してしまうのです。二人の兄弟はそれぞれ精一杯のささげものを神にささげました。ところが神は弟アベルがささげたのものだけをよいものと選び、兄カインがささげたものを退けたのです。カインは自分がささげたものを神が選ばず、退け、弟アベルがささげたものを選び、認めたことに腹を立てたのです。カインは妬んだのです。そして妬みから弟を殺害するのです。自分が一所懸命に尽くしてきたのに、一向に顧みられず、別の人ばかり、顧みられ、賞賛され、用いられるのはおもしろくないのです。妬みの心が殺人を引き起こすのです。妬みは殺人の根となります。

 復讐心も殺害の根になります。実際、復讐による殺人が行われています。かつて秋葉原で無差別に多くの人々を殺傷した青年は「自分だけがこんな不幸な目にあっているのだから、幸せな人々に復讐してやりたかった。相手はだれでもよかった」と言ったのです。このような復讐心を心に抱くこと自体が殺人になるのです。
 
 「殺してはならない」という戒めは私たちの心の奥底にまで貫く戒めです。パウロは、私たちの罪から出てくる復讐心に対して次のように勧告している。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。」(ロ−マ12章19節)

 私たちの心を神の霊によって清い心に変えられて、憎しみや怒り、復讐心というものから解放されて、相手を愛する積極的な生き方へと転換するのです。 
 ハイデルベルク信仰問答・問107には隣人を殺さなければそれで十分なのか、という問いに対して、それで十分とは言えないと語り、「自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできるうる限り防ぎ」、「敵に対してさえ善を行う」と答えています。

 主イエスは、隣人を愛することを大切な戒めとして語られました。「殺してはならない」と言う戒めは、隣人を如何に愛するか、その愛が問われているのです。隣人のいのちを保護すると言うことは隣人に対する愛が問われるのではないでしょうか。相手に対する愛がどれほど深いのか、そのことが私たちに問われているのです。

 ある牧師は自動車を運転するときには、祈って出発し、スピ−ドを上げないで安全運転をする、という心がけをしているそうです。

 今年の一月に講壇交換で巣鴨教会に行った帰りに巣鴨駅の昇りエスカレーターに乗ろうとしたら、7、8段上にいた人がキャリ−バックを手から離したためにバックが数段下に落ち、下にいた人がそ落ちて来たバックの取っ手をとっさにつかまえて落ちるのを防いだので、事故にはならなかったのですが、エスカレーターの下の段にいた人々に重いバックがぶつかったら、大怪我をする人も出たり、死亡する人も出たと思います。危険なことは多くあります。ちょっとした不注意が事故を招く、死亡事故になることがあるのです。
 
 このハイデルベルク信仰問答107問には「その人への危害をできる限り防ぎ」と書いてあります。それは、隣人のいのちを愛することになるのです。隣人の立場や隣人のもっている問題を自分の生活の中に位置づけて共にそのいのちを尊ぶのです。私たちが毎日、出会う一人一人に対して、そのいのちを大切にしつつ、相手の人格を重んじて愛するのです。

 ヨハネの手紙一 3章16節「イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために、命を捨てるべきです。」

 現代に生きる者として戦争の問題があります。先週の火曜日にNHKテレビで「インパ−ル」という番組がありました。太平洋戦争で最も無謀な戦争だと言われてる戦争です。インパ−ルと言う言葉は以前から、聞いていましたが、どのような戦争であったのか、知りませんでした。ミャンマーでイギリス軍が敗退して、それを叩いて戦果を挙げようと、インドのインパ−ルまで追いかけ、400キロのジャングルを歩いていくのです。3週間で戦争を終える計画が、3ヶ月にも及び、食料も尽き、弾薬もなくなり、勝つ見込みもないので、参謀が撤退を司令官に訴えても、牟田口司令官が味方の兵が5000人死んでも、この戦いを止めないと頑固に言い続け、雨期に入ってやっと撤退していくのです。戦死者3万人、負傷者4万人の損害を出し、戦死者の大部分は病死、餓死、自殺がほとんどで、約60パーセントの兵隊は撤退後に亡くなったそうです。マラリヤ、コレラで現地で死に、メヒマという激戦地から、本営に行く途中で、激流に流されて死に、力尽きて死ぬ兵隊がほとんどであったとのことです。

撤退を進言した部下を叱りつけ、この戦いを最後まで続けようとして、撤退を頑なに拒否した牟田口司令官は途中で帰国し、戦後、生き延び、死者、負傷者7万人の損害があったことを謝罪もせずにいたそうです。遺骨収集もされていないそうです。この番組を見て私は、人のいのちをなんと思っているのか、憤りさえ持ちました。 

 兵隊は20歳代の若い人たちで、未来を持ち、様々な生きる希望をもっていたのです。軍隊上層部の不確かな計画、無謀な計画によって多くの若者のいのちが失われたのです。そしてその責任を誰も取らないのです。

 戦争は人のいのちを粗末にし、死を強要する国家的な犯罪です。人を加害者にもし、被害者にもする、おそろしい犯罪です。 

20170813  主日礼拝説教 「交わりの回復を与える主」 平向倫明神学生(東京神学大学院2年)


(イザヤ66章22−23節、ヨハネによる福音書5章1−15節)

ベトザタと呼ばれた池にイエス様が来られたとき、主は、一人の病気の人に声をかけられました。でも、そのやりとりが少し奇妙なのです。何故なら、イエス様は38年も病気でいた人に、「良くなりたいか」と言われたのです。もしその場所に居合わせていたら、思わず、主よ、お待ちください。そんなの良くなりたいに決まっているではないですか、と言いそうになってしまいます。何故、主はこのように問いかけられたのでしょうか。

ベトザタという池は、湧き水で満たされた池だったようです。でも、その泉は24時間いつも水が湧きだしているのではなく、時々水が湧いてくる池だと推察されます。時々、水が湧き出してきたときに、水が動くという現象が起きると考えられています。このような泉を間歇冷泉というそうです。日本にもこういう間歇冷泉は何か所かあるそうですが、例えば岡山県新見市の草間というところにある間歇冷泉は、水が湧き出してくる間隔は天候状態によっても異なり、4〜10時間に1回湧き出してくるということで、その周期は不定期なのだそうです。ベトザタの池の水が湧き出してくる間隔は定かではありませんが、水が湧いてきたときに、水面が動くので、その水が動いたときに真っ先にこの池に入る人は、どんな病気でも癒されるという言い伝えがあったのです。でも、池に入ったとしても、実際に癒される人は殆どいなかったでしょう。この言い伝えは迷信だと誰もが思っていたと思います。

それでも、この池に集まってきた人たちは何とか病気を癒されたい、健康を取り戻して、何とか生きていきたい、との思いから、他の人は癒されなかったけれども、もしかすると自分だけは一番に入りさえすれば癒されるかも知れないとのかすかな希望、ワラをもつかむ思いで、じっと水が動くのを待っていたのです。ですから、この場の空気にはピーンと張った緊張感があったと思われます。

そのような緊張感が漂う中に、何の緊張感も持たない人が主の眼にとまったのです。これが38年間病気だったその人でした。その人は動くこともままならない身体なのにたった一人でベトザタの池の回廊に横たわっていたのです。なぜ、この人は一人でこの池にいたのでしょう。この人にも親や兄弟がいたでしょうし、親せきや友人もいたかもしれません。でも今はこの人のそばで、誰もこの人を池に入れてあげようと介助してくれる人はいないのです。この人の性格に問題があったのでしょうか。介助してくれる人がいない理由は、はっきりとは分かりませんが、人との交わりから断たれた姿がそこにあったのです。

イエス様の良くなりたいかとの問いに対するこの人の答えは、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」というのです。この答えも何だかしっくりきません。何故なら、この「良くなりたいか」との主の質問に正しく答えようとすれば、「はい、良くなりたいです」、「いいえ、良くなりたくはありません」「良くなりたいかどうか、分かりません」の三択のどれかになるはずです。この人は主の問いに直接答えず、本音をごまかし、自分の置かれた惨めな境遇を言い訳のように話すのです。これは恐らく、お金や食べ物などの施しを受けるために、これまでにもこのように人から、ああ、お気の毒に、と思われるような話を何度もしてきたのでしょう。だから主は、この池に来られたときに、この人の姿が目に入ってきて、「あなたは病気が治りたいのですか」との思いから、「良くなりたいか」という問いかけをなさったと言えるのです。

さらに奇妙なことは、この後、主がこの人の病気を一方的に治してしまうことです。その時の主の言葉は、「さあ、良くなりなさい」とか「あなたの罪は赦された」などという言葉ではなく、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という言葉なのです。何だか感情を感じさせない機械的な言葉のように聞こえます。

この「起き上がりなさい。床をかついで歩きなさい」という言葉は4つの福音書すべてに登場する言葉なのです。ただ、マタイとマルコとルカの3つの福音書では、「あなたの罪は赦された」という言葉と、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という二つの言葉が、セットで用いられているという特徴があります。主イエスから、「あなたの罪は赦された」との言葉が語り掛けられることで、その人の病の癒しと同時に、罪が赦されたことによって、心と魂にも癒しが与えられるのです。ですから、この「罪が赦される」という言葉は、深い安らぎをも与えるとても温かいウェットな言葉だと言えるのです。

ところが、主イエス・キリストに対して理解のない律法学者たちは、これを聞いて、神を冒涜する言葉だ、といってイエスを非難します。魂が癒されるということは、その場では目に見えない内側のこととしてなされているわけです。律法学者たちはそのことが直ぐには分からないのです。ですから、主イエスは罪を赦す権威があることを知らせるために、目に見える形で表した言葉が、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という言葉だったのです。「あなたの罪は赦された」というウェットな言葉とは対照的に、ドライな言葉、機械的な言葉として用いられているのです。

このことを象徴するかのように、ヨハネによる福音書の中で、唯一この5章のこの箇所だけには、主のなさった癒しの奇跡に対し、癒された本人や周りの人たちによる驚きや喜びや感謝や、主イエスに対する信仰や神への畏れなど、心の動きを表す言葉が一切記されていないのです。つまり、この主の癒しの奇跡によっては、身体の病気は癒されても、この人の心と魂までは癒されていないことを暗示しているかのようです。

主イエスが、この人の病を癒された数日後に、主はまたこの人に出会うことになるのですが、その出会った場所は5章14節によれば、境内なのでした。この人はせっかく病気が癒されたのに、仕事も探さず、境内にいたことになります。良くなったことの感謝のために神殿に来ていたとも思いたいのですが、もし感謝のためにきていたのなら、自分を癒してくださった方を困らせるようなことはしないのではないでしょうか。ユダヤ人たちは12節で、「お前に『床を担いで歩け』と言ったのはだれだ」と、安息日における主の御業に対し、怒りを覚えながらこの人を問い詰めています。

ところが、この人は15節で、イエス様と出会った後に、自分を癒したのはイエスだ、とわざわざユダヤ人たちに知らせに行っているのです。これは主イエスに対し、何の恩義も感じていない振る舞いのように思います。ですから、感謝のために神殿に来ていたのではなかった、と言えるのです。

では、この人は一体何をしに来ていたのでしょうか。この境内は、5章2節に書かれてある羊の門というところから入って行くと、直ぐ目の前にありました。そして、この5章2節では、「羊の門の傍らにヘブライ語で、『ベトザタ』と呼ばれる池があり」と説明されているのですが、つまり、境内とベトザタの池とは目と鼻の先ほどに近い場所にあったということなのです。この人は38年間も病気だったので、今まで一度も働いたことがなく、働くためにはどうすればよいのか全く分からないのです。ですから、そう簡単に仕事を見つけることができないのです。それではと、再び物乞いをしようとしても、健康な身体になったために、誰にも相手にされず、途方にくれてしまい、飢えや渇きに襲われ、街にいてもだめだ、またあの池に行こう、あそこに行けば何か恵んで貰えるかもしれない、と思ったのではないでしょうか。この飢えや渇きの苦しみによって、38年間病気だった人は、病気など治らなければ良かったのに、とさえ思ったかもしれないのです。人との交わりを断たれ、病気が癒されたことに対する感謝をささげることもできず、まさに神様との交わりをも断たれたその姿をさらけだすことになってしまったのでした。

聖書には病気が癒されることで、罪の赦しとともに感謝に満たされて、主イエスとの交わりに入る出来事がたくさん描かれています。しかし、この人にとっては病気が癒されたことがむしろ苦難に満ちた新しい人生への入り口となってしまったのです。このような状況を、主イエスは14節で、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と予見していらしたのでした。まさに、身体の病気は癒されたけれども、心と魂は癒されていないことを、この人のこの様子が露わにしています。そして、この15節を最後に、38年間病気だった人の話は終わってしまうのです。

他の聖書の個所では、登場する人物が、イエス様の御業によって病や患いを癒され、そして信仰に導かれるという結末で終わるケースが圧倒的に多い中、ヨハネによる福音書5章では、たしかに病気の癒しの奇跡がなされはしましたが、この物語では38年間病気だった人がこの後どうなったのか、結末が記されていないのです。ヨハネの福音書は、この物語りで、一体何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。私たちは、ここから、何を聞き取らなければならないのでしょうか。

実は、この物語にはもう一つ大きな疑問が残っているのです。それはベトザタの池に集まった大勢の人たちの中で、なぜこの人ひとりだけが癒されたのか。なぜ、ここに集まってきたすべての人の病を主は癒されなかったのか、という疑問です。イエス様は福音書の中で、「悔い改めよ。神の国は近づいた」と宣べ伝えておられます。すべての人が神の国に招かれているわけです。そして、この神の国に入ることが神様の救いであると言えるのです。もし、この神の国に入る条件として、病気の人は入れませんというのであれば、イエス様は、この38年間病気の人だけでなく、ベトザタの池にいたすべての人の病を癒されたはずであります。主は私たち人間を、神の国に救い入れるために、この地上へ来られ、ご自分の生命を犠牲にしてまでも、私たちを救おうと十字架におかかりになられたのですから、それが条件だとするなら、必ずそうしたはずであります。

でも、そうはなさらなかったのです。ということは、病気や目が見えないことや、脚が不自由なことや、身体が麻痺しているということが、神の国に入れないことにはならないのだ、と理解できるのではないでしょうか。主イエスに対し、この38年間病気だった人は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と言うのです。自分がこのような物乞いの生活を強いられているのは、自分のせいではないのだ、と主張しているかのようです。

主は、一生懸命生きる、必死に生きる、ということから逃げている姿を、この人の中に見たのではないでしょうか。池に集まっていた他の人たちには、緊張感ただようほどに、必死に生きようとする姿勢があったのです。この38年間の病を癒された人は、この病気を癒していただいても喜びがありませんでした。むしろ、癒されたことで、健康な身体になったために物乞いもできなくなり、この人は生きていくために新たな苦しみの生活を強いられてしまったのでした。しかし、この新たな苦しみこそが、この人を救いに導くものであったと言えるのだと思うのです。なぜなら、苦しみの只中にいるとしたら、生き物であれば条件反射のように、その苦しみから何とか逃れようとするのではないでしょうか。そして、苦しみの中にいるからこそ、人は自分の回りの人に助けを求めたり、神様により頼んだりする気持ちが生まれてくるのではないでしょうか。

このように申しますと、5節に、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた、と書いてあるではないか、もう十分に苦しんだではないかと思われる方もいらっしゃるのではないかと思います。実は、この5節は正確な翻訳がなされていないのです。原典のギリシャ語の聖書では、苦しむなどという言葉は、この箇所に使われてはいないのです。原典の通りに訳すと、「そこに38年間病気を持っている人がいた」、あるいは単純に「そこに38年間病気の人がいた」となるのです。日本語に訳した人が、38年間も病気だったらさぞ苦しんだであろう、と考えたのだと思います。むしろ、そのように考えるのが普通かもしれません。でも、もしこの人が、この病気で本当に苦しんでいたのなら、自分の気持ちをごまかしたりせず、本音を伝えることができていたのではないでしょうか。ヨハネの福音書はこのことを伝えたかったのではないかと思えるのです。

私たちは、主イエス・キリストが、38年間病気だった人を陥れるために病を癒されるような方ではないことを知っています。癒されたこの人の人生が、その癒しによって新たな苦しみを伴うことになったことで、人との交わりなしには生きていけない境遇を、つまり、人との交わりを回復する道をイエス様が備えてくださったのだと思えるのです。その後、イエス様はゲッセマネの園でとらえられ、十字架におかかりになりました。そして、3日目に復活なさったのです。このことはニュースとなってイスラエル中を駆け巡り、伝えられていったことでしょう。そしてこの38年間の病を癒された人が、このイエス様の十字架の死と復活の出来事を知ったときに、ああ、あのとき、あの池で、私に声をかけてくださり、病気を癒してくださった方は、何と神の御子であったのか、という驚きと、自分の身勝手さを恥じる気持ちと、それまでの経緯を思い起こすことで、信仰のなかった自分を悔い改め、心の底から湧き上がってくる喜びと感謝をもって、主イエス・キリストとの交わりをも回復させられ、神を信じる者へと変えられて行ったに違いないと確信せずにはいられないのです。

このように確信できるのは、もしこの人が、神と人との交わりを回復させられることなどなかったというのであれば、この物語が聖書に記されていること自体、意味のないことになってしまうからです。聖書に書かれていることで、意味のないことなどは無いのだという信仰に立って、聖書を読むとき、そのみ言葉は言い尽くせぬ恵みを私たちに与えてくれると信じてよいのだと思うのです。いいえ、むしろそう信じて聖書を読まなければならないのだと思うのです。

まとめて、終わりたいと思います。主がこの池で38年間病気だった人の病だけを癒したことから分かることは、病気だから救われないのではないということです。つまり、私たちがどのような顔、身体に、どのような性格に、そして、家柄など、どのような境遇のもとに生まれてきたのかというようなことが、大切なことなのではなく、生まれてきたこの心と身体で、その境遇の中で、どのように生きて行こうとしているのかということこそが、大切なことであり、その私たちの生き方を、神様はご覧になっておられるのだということなのです。自分に与えられた身体や心、そして生まれてきた境遇が悪いのだから、頑張って生きてもしようがないのだなどという考え方を、神様は良しとはなさらないのです。その身体と心と境遇は、神様がこの人に与えられたものだからです。たとえ、生まれながらに病気だったとしても、この世には、神様に愛されないで生まれてきた生命など、一つもないのです。

その証拠があるのです。この世に生まれた生命を救うために、神様はその独り子イエス・キリストをこの世に生まれさせ、そして、十字架の犠牲へと引き渡されたのです。これこそが、私たちが神様に愛されている確かな証拠、しるしと言えるのです。新月毎、安息日毎に、私たちはこの教会で主なる神様の前にひれふします。この礼拝によってこそ、神様は私たちとの交わりを豊かに持ってくださるのです。今朝も神様は、私たち一人ひとりのことを覚えてくださり、こうして礼拝へと招いてくださり、尊い交わりの中で、主の御名を賛美できるという特別な恵みが与えられているということに、心からの感謝をささげたいと思うのです。

20170806  主日礼拝説教  「救い主の沈黙」  山ノ下恭二


(エレミヤ書33章12−16節、マルコによる福音書15章1−20節)
                           
 私たちの教会では、礼拝で使徒信条を告白しています。この使徒信条に「ポンティオ・ピラトの下に苦しみを受け」という告白の言葉があります。使徒信条に個人の名前が出て来るのは、主イエス・キリストと母マリアを除いては、ピラトだけです。このピラトは、ロ−マの総督であって、キリスト者でも、キリストの弟子でもないのです。ピラトの名前が出て来るのは、どのような意味があるのでしょうか。それは、主イエスが苦しみを受けられたのは、ピラトという一人の、実際にこの地上に生きていた時代であり、私たちの生きているこの地上において、主イエスが苦しんだことを示すものです。

 主イエス・キリストの救いは、人間の想像から生まれたものではなくて、このピラトがいた時に、行われたことだと告白しているのです。

 ポンティオ・ピラトという名前は福音書以外のところに出て来ます。「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。」(テモテへの手紙一 6章13節)

 ここでは、主イエス・キリストを説明する言葉として、ポンティオ・ピラトが出て来るのです。ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったと言うのは、ピラトの時代に主イエス・キリストが実際に生きておられ、歴史的な事実として、主イエス・キリストがピラトという一人の総督が生きていた時におられたことを明らかに示す言葉です。

 主イエスが実際にこの地上におられた、人間としておられた、それは疑いのないことですが、それを認めない人たちもいたのです。神が人間になるはずはない、幻を見たに過ぎないと言った人たちも多くいたのです。それに対して、ピラトは実在の人物であり、その時代に主イエスは存在したことを語ることは意味があったのです。

 そのことを考えると、ピラトの法廷において主イエスが裁判を受けられたというみ言葉は、読み過ごすことができないのです。主イエスが裁判にかけられただけの話として片付けることはできないのです。今日のみ言葉は、非常に重要な意味があります。

 主イエス。キリストを裁いたピラトにどうしても理解できないことが一つありました。それは、ピラトが不思議に思うほどに、主イエスが沈黙されたと言うことです。「ピラトが再び尋問した。『何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。』しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」(マルコによる福音書15章4−5節)ピラトが幾つか質問したのに、主イエスは何もお答えにならなかったのです。

 このことは不思議なことです。裁判で被告は、自分が無罪になるために必死で自分が潔白であることを主張するはずです。あるいは罪があっても刑罰を軽くするために、必死になって弁明するはずです。ところが、主イエスには弁明がなく、自分の身の潔白を証明するための主張もなかったのです。人々の訴えがあり、不利になることが述べられて、主イエスは罪人とされるので、弁明を求めたところ、裁判官が不思議に思うほどに、沈黙されたのです。

 何故、主イエスはここで沈黙されたのだろうか。話すと不利になるので黙秘権を行使したのではないのです。自分が潔白であることをいくら話しても相手に通じないので、あきらめて沈黙しているのではないのです。皆さんは、主イエス・キリストの沈黙についてどのような感想を持つでしょうか。

 「沈黙」という言葉を聴いた時、私たちがすぐに心に浮かぶのは、遠藤周作の「沈黙」という作品です。キリシタンに対する国家の迫害の中で、信仰の故に殉教していく者に対して、神が沈黙しているということを訴えています。神が自分の祈りに少しも答えず、沈黙している、あるいは、自分が苦境にある時に、手を差し伸べず、神が何を考えているか少しも分からないということです。

 私たちも、私たちの生きている世界に起こることについて、神が少しも関心を持たず、沈黙していることを感じることがあります。自分が困った時に、少しも助けてくれないのではないか、と思います。願ったことに答えてくれないではないか、と思います。このような時に、神が沈黙しているように思うのです。

 そのように思う時もあるけれども、しかし、神を信頼しているので、神が沈黙しているとは考えないのです。神があらゆる手を尽くして、わたしたちのために働いてくださっていることを知っているのです。この世の中で起こることについて、神は説明し、人間が分からないことを分かりやすく説明し、私たちはそれを聞いて納得するという方法は取らないのです。神を信頼しているその信仰によって、神が私たちのためにあらゆる手を尽くしていることを信じているのです。先週、旧約聖書のエレミヤ書を読んでいましたら、霧が晴れて、前方がよく見えるようなみ言葉に出会うことができました。エレミヤ書32章27節のみ言葉です。「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことがひとつでもあろうか。」(旧約p1239)

 表面的には、神は沈黙しているように見えても、神は私たちのために手を尽くして、配慮し、救おうとなさっているのです。無関心でいるのではない、傍観しているのではないのです。どのようなことがあっても、私たちを救おうと堅く決意しておられるのです。

 神が沈黙しておられるというのは、私たちに無関心であり、相手にしていないと言うのではありません。私たちには沈黙しているように見えても、実際に私たちのために、私たちの分からないところで働いておられるのです。

 金曜日の祈祷会でヨブ記のポイントとなる箇所を学んでいましたが、三人の友人は因果応報の論理でヨブを説得しますが、ヨブは説得されません。そしてエリフと言う若者が登場し、ヨブに助言します。エリフは神の立場に心を寄せながら、神を弁護します。ヨブが分からないところで、ヨブのために神が労苦していると説くのです。「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し 苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも 苦難の中から出ようとする気持ちを与え 苦難に代えて広い所でくつろがせ あなたのために食卓を整え 豊かな食べ物を備えてくださるのだ。」(ヨブ記36章15−16節)

 神は、私たちの救いのために最善の方法をもって働いておられるのです。私たちを救おうと決意なさって、それを貫く神です。私たちの周りにも意志が堅く、こうだと決意すると、それを貫く人がいます。毎日、ラジオ体操を公園ですることを決意すると、どんなことがあってもそれを貫く、意志の強い人がいます。神は、人を救おうと決意すると、その意志は堅く、それを貫くのです。こう決意すると、どのようなことがあっても、それが成るまで貫くのです。周りでどんなことがあっても、動かされないのです。

 主イエスはピラトの前で、不思議なほど沈黙をされています。主イエスの沈黙は、決意の堅さを表しています。どんなことがあっても動かすことのできない意志の堅さを表しています。

 ピラトが、主イエスに尋ねても、驚くほどに主イエスは何も答えなかったのです。それは、裁判においても主イエスの意志は変わらないことを示すものです。主イエスが沈黙しているのは、どんなことを言われても、どんなことをされようとも、神のみ心に従うことにおいて変わらない、動かされないことを表すものです。誰が何と言おうと、事情がどうなろうと自分は苦しみを受け、受難に向かう決意をもっていることを示しているのです。ここに、イエス・キリストの動かない意志、神の変わることのない意志があることを示しているのです。

 何故、イエス・キリストが沈黙しなければならなかったのか。それは、私たちの罪を贖うため、私たちの救いのためです。

 「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざがありますが、主イエスは自分が無罪であることを弁明することができたのです。しかし、最後まで沈黙を貫いたのです。それは、私たちに代わって、罪を贖うために苦しみを受けようとする、意志の堅さを表しているのです。ピラトの前に黙って立っている存在、それこそ黙っているのですが、救いの働きを貫こうとしていることを雄弁に物語っているのです。人々がどんなことをしても、神のみこころに従っていくのだ、自分はその救いの業を貫くのだ、傷つき、倒れ、血が流され、生命を捨てても、やり遂げるのだ、と言うのです。

 救いとは、神との交わりが回復することです。放蕩息子と言う譬話があります。弟息子が父親から自分の分け前を先にもらい、お金に換えて、街でその財産を使い果たして、お金が無くなり、汚れている動物と言われている豚の世話をしなければならないほど、落ちぶれてしまったのです。そこで、本心に戻って、悔い改めて、父親のもとに帰っていくのです。その父親は弟息子の帰りをずっと待っていました。弟息子の姿を見ると、父親から駆けよって、弟の手を取り、受け容れ、歓迎して、家に招き寄せて、宴会をするのです。父親の慈しみと愛によって、この息子は父親との関係が正常になり、交わりを回復するのです。罪ある者を受け容れるのです。神が私たちを罪ある者としてではなく、罪なき者として受け容れてくださるのです。そこで神との正常な交わりが回復するのです。
 
 この放蕩息子の譬えには、息子が父親の家から離れていくのですが、罪とは神から離れ、自分を第一にして、自分ファ−ストで生きることです。自分の好きなように生きることです。その大きな罪を主イエス・キリストが御自身の罪として担ってくださいました。

 そして主イエスが罪の贖いのために、その裁きを引き受けてくださいました。神の子、神と同じ方が、罪の贖いのために死んでくださいました。神の子、神と同じ方が、罪を贖わなければならないほど、私たちの罪は大きく、その罪は重いのです。

 このように主イエスが、死に向かって覚悟しているときに、人々は何をしているのでしょうか。主イエス・キリストの立っておられるところで、人間の弱さと罪が明らかになるのです。

 マルコによる福音書15章6−15節には、ピラトは正常な判断ができなくなり、弱さをさらけ出して、人々の機嫌を取ろうとしていました。ピラトは、ユダヤ人たちに嫌われていたのです。この地域を治めるのに失政がありました。権力を持ちながら、弱さを持っているのです。群衆の言いなりになって、自分の立場を守ろうとしたのです。

 そして群衆も、自分たちの企てをもって、自分たちの思いを通そうとしたのです。この人たちは、毎年、囚人の一人が権力者の許可を得て、釈放されることを知っていたのです。これを利用して、主イエスが釈放されることを求めないで、捕らえられていたバラバを自由にして、釈放されることを求めたのです。マタイによる福音書27章17節では、ピラトは「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともメシアと言われるイエスか」と聞き、メシアと言われているイエスではなくて、バラバを釈放してほしいと願ったのです。

 この時、群衆はバラバが良いとしたのです。このバラバは暴動を起こし、人殺しをして繋がれた暴徒の一人で、極悪人でした。この当時、ユダヤはロ−マ帝国の支配下にあり、多くの人はそのことに反感を持っていたのです。折あれば、その支配を覆してやろうと思っていたグル−プがあったのです。バラバは抵抗運動をして、捕まったのです。 群衆はそのような活動をしたバラバの方が、主イエスよりも意味ある存在であると考えたのです。バラバを釈放することを要求したことは、神が与えてくださる罪からの救いよりも、今、自分が願っている救いのほうが大切だと判断したのです。神が与えてくださる救いよりも、自分が願っている救いを要求したのです。

 自分の深い罪が赦されて、神と共にある平安に生きるよりも、目の前にある、自分の救いを求めたのです。それは、自分の生活が豊かになり、自分がこの地上で幸せに暮らせる、そのような救いの方が大切だ、と考えたのです。キリストではなくて、バラバを釈放せよと叫び求めたのは、ほんとうの弱さ、罪の弱さです。そして、主イエスを十字架につけよと何度も繰り返し、遂に主イエスを罪ありと判定するのです。

 主イエスの受難は、このように、人間の深い真実の罪の姿を暴露することになったのです。神のもとに、人間の真実の姿が明らかにされるのです。神を忘れ、自分のことだけを考えている、その罪が明白になるのです。

 このような中で、主イエスは罪人として、私たちのために、私たちに代わって十字架に向かうのです。

 本日の礼拝は聖餐にあずかる礼拝です。私たちの罪を贖ってくださる、神の愛をこの体で味わい、その恵みに感謝したいと思います。

20170730 主日礼拝説教 「親と共に恵みに生きよう」  山ノ下恭二


(出エジプト記20章12節、エフェソの信徒への手紙6章1−4節、ハイデルベルク信仰問答・問104)

 本日の礼拝で旧約聖書の出エジプト記20章12節の言葉を読みました。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」。この言葉は十戒の第5戒です。十戒の戒めは「してはならない」という禁止の命令の言葉が多いのですが、第四戒とこの第五戒とは、「せよ」という積極的な命令の言葉です。
 
 第五戒から十戒の第二の部分が書かれています。第一の部分は神に対する私たちの態度、生き方に力点が置かれていました。それに対して第二の部分は、私たちが隣人、一緒に生きている人々とどのように生きていくのかということが語られています。この第五の戒めは隣人を愛するということはどういうことかということを教えている最初の教えなのです。隣人というのは、私たちにいちばん近い人のことです。人間にとっていちばん近い存在は、父と母です。私たちが生まれたとき、真っ先に関わりをもつのは父と母です。自分にとっていちばん近い隣人というのは父であり、母です。

 この「敬え」という言葉は「重んじる」という言葉です。「相手に重みを与える」「相手にふさわしい重みを自分がきちんと理解している、わきまえている、その重みにふさわしいようにその人を扱う」と言う意味の言葉です。自分にとって父と母とは、重みがある、その重さを知っている、その重さを尊ぶのです。それが私たち人間の生活の基本なのです。

 この戒めの言葉を初めて読んだ人は「親孝行しなさい」という教えが書いてあると受け取るのです。そしてこの聖書の言葉を前から知っている人も親孝行を教えていると考えているのです。しかし、私たちの周りで一般的に考えられている親孝行と十戒のこの戒めは、どうも違うように思います。私たちの周りで言われている親孝行は、親が子を産み、育てるのであって、育てられる子は親に従うべきで、子が親に従うのは自然なことだと言うことです。親が苦労して子どもを育てて来たので、その恩を忘れずに、親が年を取ったならば、親の面倒を見るのが自然だ、と言うことです。

 この戒めを親孝行のことだ、と理解すると様々な反応があります。親孝行することは、大切なことだと思い、この戒めを肯定的に受けとめる人もいます。幼い時から苦労しながら育ててくれたのだから、その恩に報いて親のために尽くしたいと思う人もいます。また自分が親孝行をしてきたのだろうか、と反省する人もいます。しかし、逆に、親との深刻な葛藤に悩み、解決できていない人にとって、親孝行をすることに抵抗を感じる人もいるのです。また、実際に親孝行するのはとても大変なことで、自分にできるかな、と重荷に感じる人もいます。しかし、「父母を敬え」という戒めと私たちが一般に親孝行の教えとは違うのです。

 なぜ父母を重んじなければならないのでしょうか。そのことを私たちは余り考えたことがないと思います。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」この戒めには、この戒めを行うとどうなるのか、と言うことが書かれています。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と書いてあります。要するに父母を敬えば、父母ではなく、自分が長生きする、という約束が書いてあるのです。
 
 どのように長生きをするのでしょうか。「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる。」「あなたの神、主」は何度もこれまでに聞いてきた神の自己紹介の言葉です。神はわたしの神、主です。その私の神、私の主が、この大地を造ってくださったのです。そしてこの地上で私たちは神に造られたものとして生きているのです。神からいのちを与えられたのであるから、そのいのちを大切に生きるのです。長く生きるのです。長く生きることが神の祝福です。長寿は神の祝福のしるしなのです。神から与えられたいのちを、自分の勝手な生き方によって命を縮めることは間違いなのです。長く生きるということがとても大切なことなのです。

 長く生きていくために、父母を敬うことが、その要になるのです。なぜでしょうか。私たちの地上の生活は、父母との関わりによって始まります。父母が自分を産んだおかげで地上で生きるようになったのです。それは父母の勝手な意志によるものではなく、神の意志によるものです。神を知らない人は父母を神が与えたとは思わないのですが、神を信じている人は、神がこの父母にこの私を「子」として与え、父母にこの「子」を委ねたことを認識しているのです。一般には神の存在を考えていませんから、父母がいて自分がいる、その中での関係だけで終わるのですが、そうではなく、神が父母のいのちを与え、この父母にこの「子」を与えたのです。この父母の子としていのちを与えられたところから、神が与えてくださった土地での生活が始まるのです。自分の生活を大切にすることと、父母を敬い、重んじるということと切り離すことはできません。これは一つのことです。言い換えると、父母を軽んじるということは自分を軽んじることなのです。父母を軽蔑することは自分を軽蔑することです。そのことをわきまえているでしょうか。

 しかし、現実は、自分を重んじるけれども父母を軽んじることは仕方がない、父母を軽んじることによって、自分を重んじ始めることもあります。それは間違いです。父母を重んじることによって初めて、自分を重んじることになるのです。しかし、私たちの心の中に、自分の父母が、重んじるに値する存在であると思えないと言う思いがあります。大人として成長することは、親から離れていくことだと思っているのです。親離れすることが大人になる一歩だと考えていますし、親との距離がだんだん遠くなることは悪いことだとは思っていないのです。  

 あるキリスト教の老人ホームでチャプレンをしている牧師からこういう話を聞いたことがあります。葬儀をする回数が多くなり、そこでの経験から、最近、とても考えさせられていることがあるというのです。今までは入所している老人が亡くなると、家族がきて、きちんとその牧師に「葬儀をお願いします。」と葬儀の準備をしたのだけれども、最近は亡くなって、家族・息子や娘に連絡をしても、葬儀を自分の責任でしようとしない人が多くなった、というのです。葬儀には来ても、自分の親の葬儀とは思っていないような態度で、お客さんのような態度で出席し、葬儀が終わると残っている財産はしっかり持っていくそうです。もっとひどいのは、一人の人が亡くなり、やっと連絡先が分かり、家族に連絡したところ、「自分たちは行かないので、どうぞそちらで葬儀をやってください。もし、遺産があったら連絡してください。」と言われたそうです。そのような薄情な家族が多くなったとそのチャプレンが話してくれました。年老いた親を軽んじているのです。
 
 非行を重ねて少年審判を受けた少年を育てている、北海道家庭学校があります。昔は感化院と呼ばれていました。この学校は非行少年の矯正のためのキリスト教施設ですが、この学校の元校長であった、谷昌恒氏が「教育の心を問い続けて」という講演で、一人の中学生の作文を紹介しています。この少年は母親に対して敵対心を持ち、いつも反抗をしていたのです。ある時、農業実習で牛小屋にいた時に、母牛が子牛を産む場面に立ち会うのです。母牛が苦しんで子牛を産む場面を、見て次のように思うのです。「僕は親牛を見て、すごくたくましいなぁと思いました。親牛は子牛を産むとき、すごく苦しんでいました。僕のお母さんも僕をああいうふうに苦しんで産んでくれたのに、僕は母さんに対して、口をあましてみたり、ひどいときには暴力をふるったりして、困らせていたと思うと、すごく悪く感じました。」この少年は親牛が子牛を出産する場面に立ち会い、母親が苦しんで産んでくれたことを深く知り、母親に対する見方を変えたのです。
 
 私たちは神がこの父母を自分に与えてくださったと言うことを信仰をもって受けとめた時に、その親を敬うことができるのです。「敬う」と言う言葉は「重んじる」と言う言葉であり、この言葉は神にしか使わない言葉です。父母の背後には神がおられるのです。父母を重んじることは神を重んじることに他ならないのです。

 親といえども人間としての欠点や弱さがあります。子供を傷つけるような言葉を言ってしまうこともあります。兄弟の中で特定の子どもだけを偏愛するこ
ともあります。親のためにさんざん苦労した人にとって、親を敬い、これから世話をすることなんかできない、と思っている人もいます。しかし、神が年老いた両親を愛し、重んじているので、自分の両親を重んじるのです。

 この戒めは幼い子どもに対して命じていると言うよりも、すでに独立し、生計をたてている成人に対して命じられているのです。家の中で力をもっているのはすでに子どもであり、両親はむしろ子どもに頼る存在になっているのです。両親は家の中で実質的に力を失い、弱くなっている両親を「敬え」と教えているのです。実際に、旧約聖書では人間の価値を銀の重さで量っています。労働できる20歳から60歳までの価値は50シェケル、60歳以上の人の価値は15シェケルです。若い人に比べて、年老いた人の値打ちは三分の一です。60歳を超えた人は労働力がなく、価値がないと判断されていました。現実に、年老いた両親にひどい扱いをする子どもがいたのです。年老いた親にパンを与えず、暴力を振るい、家から出て行くように立ち退きを要求することもあったようです。年老いた親を成人した子どもが敬うことをしなかったので、成人した子どもに警告を含んだ、戒めを語らなければならなかったのです。箴言19章26節「父に暴力を振るい、母を追い出す者は、辱めと嘲りをもたらす子。」

 老いることは誰にとっても、辛く、寂しいことです。今まで元気にすごしていたのに、体のあちこちが弱ってくると、自信がなくなり、不安になって落ち着かなくなります。コへレトの言葉12章に年を取っていく様子が詳しく書かれています。膝が痛み、肩や背中が凝り、目がかすみ、耳が遠くなり、声はかすれ、口は大きく開くことができないので、もぐもぐ話すので、聞いている相手が何を言っているのかわからず、足がふらついて転びそうになり、腰が痛くなるのです。
 
 しかし、聖書は年老いた人を無力な存在であるとは考えていません。むしろ、年老いた人を尊び、敬うことを教えています。「白髪の人の前では、起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」(レビ記19章32節)神は一人一人のいのちを慈しみ、その人生を良しとして、いのちを日々加えておられるのです。年老いた両親の背後には、その両親を存在させている神の厳然たる意志があります。神がそのいのちを愛して生かしておられるのです。その神の意志を私たちは重んじているので、年老いた両親のいのちを慈しみ、愛するのです。

 この戒めは親を重んじることの戒めだけではなく、親が子どもに対してどのように生きるのか、を戒めるものです。実際に親との関わりの中で、子どもが親を尊敬できない人がいるのです。産まれてから大人になるまで、親に虐待されたり、不当に扱われて来たと思っている人は、自分を産んでくれたからと言って、重んじることはできないと思う人もいるのです。自分の親はひどい親で自分に迷惑ばかりかけてきたので、尊敬ができないという人もいます。親子の関係は血でつながっていて、近い関係ですが、それだけにその関係は難しい関係です。親にとって子どもは自分のいのちのように可愛いのですが、可愛い余り、子どもを支配するようになってしまうのです。子どものためになることだから、と考えて子どもに過度に干渉したり、過大な要求をするのです。子どもの将来の生活が安定するように、良い就職ができる大学を目指して、幼い時から塾通いをさせて、遊ぶ余裕を与えないのです。

 コロサイの信徒への手紙3章21節「父たる者よ、子どもをいらだたせてはいけない。心がいじけるかもしれないから。」「いらだたせる」という言葉は「過大な要求をする」という言葉です。親が子どもに過大な要求をすると「心がいじける」つまり「子どもの心が萎縮し、臆病になり、生きていく勇気を失うのです。子どもはすぐに親に反抗できないし、親の期待に添いたいという優しさがあるので従うのですが、実は自分が本当にしたいことではないことが多いのです。自分の本当にしたいことが別のことであると子どもが苦しむのです。

 カ−ル・バルトと言う神学者が「親と子」の関係について論じている本があります。特に「親が子どもと正しい関係を持つためにはどうしたら良いのか」を書いています。それは親が「神からの視線において子どもを見ること」と指摘しています。「神が子どもを見、知り、愛し、保ち、導きたもう」ということを前提にして親は子どもを見るのだ、と語っているのです。神がこの子どもを愛し、そのいのちを慈しみ、育てている、そのことをいつも心に留めながら、子どもに接するのです。子どもを一人の人格として親が尊敬するのです。いつも親が自分を神が愛していることを信頼し、神を拠り所とする、その中で、自分の子どもなのだけれども、この子どもを神が愛し、神がそのいのちを慈しみ、育てている子どもであるという、そのような思いで子どもを育てるのです。自分がこの子どもを育てなければならない、とがんばる必要はないのです。神が育てて下さるのです。神に信頼して、ゆったりした心で子どもに接していくのです。子ども自身に生きるのに必要なものは神から十分に与えられているのです。本人に任せれば良いのです。親と子どもとは近い関係ですが、神に愛されている大切な存在として子どもを見るのです。

 この戒めは、神が子どもを見ている、その視点、まなざしをもって子どもを見る、理解することを教えているのです。子どもも子どもなりに人生の様々な辛い経験をするのです。内向的な子どもは自分の悩みを抱えて、へこむことがあります。外交的な子どもは逆に非行に走り、犯罪を犯したりします。そのような子どもであっても、親は子どもの存在そのものを受け容れることが大切なのです。親が子どもの心の基地になり、子どもにとって家庭がほんとうにやすらぎのある居場所となることが大切なのです。

 親と子どもとが共に、同じ神を礼拝し、共に恵みにあずかることを神は私たちに期待されているのです。

20170723 主日礼拝説教  「安らかな時を取り戻そう」  山ノ下恭二


(出エジプト記20章8−11節、ヘブライ人への手紙4章9−10節、 ハイデルベルク信仰問答103問)
 
 当たり前のことですが、私は牧師として、説教者として日曜日にはほとんど休むことなく、教会の礼拝に出席しています。毎日曜日に礼拝に出席することによって大きな恵みを与えられています。私は夏の休暇などで礼拝を休んだ時に感じたことは、自分の中心を失った思いをもったのです。礼拝に出席することの恵みは何でしょうか。それは礼拝に出席することによって自分の心がしっかり立て直されることになるのです。毎週、私は聴衆として説教を聞く機会はないですが、自分が語る説教によってしっかりと自分の魂が支えられているのです。日曜日に礼拝に出席をしないと、自分の心が崩れたままでいることに気がつくのです。

 出エジプト記20章8節に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」と語られています。「安息日」という言葉は元々、「やめる」「中断する」という意味の言葉です。そしてこの日を「聖別」しなさい、と命じています。「聖別」と言うことは、「特にこの日を神の日として重んじる」と言うことです。
 
 東京神学大学の大住雄一学長が十戒について書いた「神のみ前に立って」−十戒の心−という本に、この「安息日」はヘブライ語でシャバットと言い、この言葉は神がこの日を神の日として私たちに与えてくださった特別の日として覚えることが大切だ、と書いています。一週間のうち、どこかで一日休めば良い、というのではなくて、この日を特別に安息する日として休むことを望んでいるのだ、と書いています。日にちを変えることができないのです。例えば、結婚式の日は既に決まっており、その日にだけ結婚式をするのです。結婚式の日が天気が悪いから別の日にしようと言うのではなくて、この日を結婚する日として心に留め、覚えるのです。一週間のうちに一日、休むならば、どの日でも良い、と言うのではないのです。特に神が指定したその日に安息の時を持つのです。この日を他の日と区別して「神の日として」過ごすのです。自分を主体にして働く、その労働をやめ、中断して、この日を神の日として、神に明け渡して、神に集中する日として過ごすのです。私たちが土曜日に仕事をしたり、勉強をしている時に続けて日曜日に仕事をしたいし、勉強をしたいと思うのです。そのような時に労働を中断して日曜日に教会の礼拝に行くことは戦いが必要になります。自分がしていることを断念し、手放して、この日を神の日として守ることを神は期待しているのです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」

 7日を一週間とする、その制度はイスラエルから始まったと言われます。六日間働いて、七日目には安息日とするのです。ユダヤ教では安息日は金曜日の夕方から土曜日の夕方までです。ユダヤ教はこの第四戒が十戒の中心であると理解しています。後にユダヤ教ではこの第四戒を、労働が禁止されている、そのことを厳しく守ることが命じられていると理解しましたので、この安息日の期間には、炊事、洗濯をせず、一切の労働をしないことこそが、神のみこころに適うことだ、と考えて実行していたのです。現在も、ユダヤ教信徒は金曜日の夕方までに土曜日の食事の用意をしますし、ボタンを押すことも労働であると解釈しましたから、安息日にはエレベーターのボタンを押さないで済むように、各階毎に停止するのです。

 キリスト教会は、主イエス・キリストが復活された日曜日を安息日として守り、主の日として礼拝を守るのです。主日礼拝という言い方をするのです。また日曜日の礼拝を聖日礼拝と呼ぶこともあり、これは、十戒に「安息日を心に留め、聖別せよ」という言葉から、日曜日を聖なる日として、他の日と区別して神の日として守るという意味があります。

 電車の時刻表を見ると、平日と休日と書かれています。一般に日曜日は休日であると思っている人々が大多数です。日本では仕事を止めて日曜日には安息日として礼拝に行くという習慣を持っていません。休日として日曜日をとらえています。休日ということと安息日とは性格がかなり異なります。

 休日は月曜日から金曜日(土曜日)までの労働をしないけれども、別の意味での労働の日となっているのです。平日の労働はしないけれども、自分が主体になって、買い物をし、旅行し、遊び、家庭サ−ビスのために遊園地などに行くのです。自分が主体になって動くのです。百貨店に買い物に行けば、人混みの中で疲れて家に帰って行くのです。明日から会社に行かなければならないと思うので憂鬱になるのです。明日からまた仕事か、と憂鬱になるので、「憂鬱の月曜日」と言うのです。日曜日は月曜日から金曜日(土曜日)まで元気に労働するために英気を養う日となっているのです。日曜日が労働の疲れを癒し、月曜日からの労働への英気を養うという性格を持つようになっているのです。これは、日曜日が週日の労働の手段となっており、週日の労働に属してしまっているのです。日曜日が自分の労働をやめて、神の日として神との交わりが与えられる日ではなく、労働のために備える日になることによって、大切なものを失ってしまったのです。何を失ったのでしょうか。それは私たちのこころを支える精神的な糧を得る機会を失ったのです。

 「安息日を心に留め、聖別せよ。」労働をやめて、この日を他の日と区別して神のもの、神の日として過ごしなさい、と命じられています。一般に、時間は自分のものであり、自分が自由に使うものだと考えています。しかし、聖書では時間は神のものであり、神から貸し与えられたものです。従って神のみこころに従って、与えられた時間を用いるのです。私たちの人生の持ち時間も自分で決めることはできないのです。日野原重明氏は105歳で亡くなりましたが、以前、100歳の時に「あと10年は生きたい」と言っていたそうです。しかし、本人の希望は叶うことなく、逝去したのです。

 時間は、神が支配しており、神が時を定めているのです。すべての時は神のものですが、特に安息日は神である私との交わりに時間を用い、神である私に集中しなさい、今日一日は、神のものと心に留めなさい、と命じているのです。

 出エジプト記20章11節には、私たちが安息日を守るのは、確かな根拠があると書かれています。それは、神が働いて安息されたからだ、とあります。20章11節「6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

 私たち人間の側からは、6日の労働を終えて、7日目に休む、と言うことになりますが、神の創造の働きからは、6日間かかって、天地を造り、人間を造り、その働きを終えて7日目に休まれた時に、6日間、かかって造ったものを見て、心から喜んで、心からよしとされたのです。神は御自身が創造した私たちを祝福し、受け容れて、愛されたのです。大切なことは、この安息日に私たち神に造られた者を全面的に受け容れて祝福されたということなのです。

 私たちは自分が完全に受け容れられたという経験をもっているでしょうか。私たちは自分が完全に受け容れられた時間をもっているでしょうか。

 会社にいて仕事をしていても上司に勤務評価されて、完全に良いものと見なされることはほとんどないのではないでしょうか。学校でも教師に生徒が評価されて、自分の一面しか、受け容れられていないことを感じているのです。家庭でもしなければならないことがたくさんあり、一所懸命に働いているのに家族には受け容れられていないという思いを持つのです。月曜日から金曜日(土曜日)までの私たちの存在を全面的に受け容れられる時間を持つことはないのです。

 しかし、安息日には、私たちが、失敗したり、罪を犯したり、気持ちが崩れても、神は完全に受け入れ、私たちの罪を、イエス・キリストの十字架の贖いによって赦し、愛してくださる、それを説教と聖餐によって知らされるのです。神が私たちの存在を完全に受け容れていることを経験することができるのです。六日間、自分が主体的、能動的に働くのですが、安息日は、自分の存在を神にゆだね、神の働きにゆだねるのです。日曜日は、受動的、受け身の生活を過ごすのです。
 
 現代は様々な情報が流れています。その情報に翻弄されて、どの情報が正しく、私たちの生活を豊かにするのか、分からなくなっています。最近のテレビでは健康、医療についての番組が多く放映されています。健康であるための知恵、医療についての情報がたくさんありますが、人によっては違うことを言うので戸惑ってしまいます。

 私たちにとって自分はどこに属しているのか、自分はどのような存在なのか、と言うことは大きな問題です。安息日に礼拝に出て、神に完全に受け容れられて、くつろぎ、休むのです。そのことによって安息を得るのです。

 松永希久夫先生が日曜日に礼拝に出席して安息を得ることを、飛行機が空港に着陸して、乗客を降ろし、機体を点検し整備して、給油して、再び、飛び立つようなものだと話されていたことを思い出します。
 
 詩編23編は、羊飼いである神によって、羊である詩人が守られ、導かれている喜びを歌う詩です。詩編23編5節に「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。」と歌っています。私たちは、週日の生活の中で、人間関係に悩み、試練や苦労を経験しています。そのように心身共に疲れている中で、主の家に帰り、そこで、完全に神に受け入れられ、神の前でくつろぎ、安らかな時を持つのです。

 主の日に礼拝に集い、聖書からみことばを聞き、聖餐にあずかり、ささげものをする、そのことが、神が私たちに求めていることであり、そのことによって私たちはまことの安息を得るのです。ハイデルベルク信仰問答103問には、「第四戒で神は何を望んでおられますか。」との問いに対して、次のように答えています。「神が望んでおられることは、第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、わたしがとりわけ安息日には神の教会に熱心に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主に呼びかけ、キリスト教的な施しをするということ」と答えています。神が私たちの罪を赦し、受け容れてくださるのです。キリストがこの礼拝に臨在して私たちと共にいてくださるのです。このような幸いな時が与えられていることを感謝するのです。

 十戒はまず、第一戒から第四戒までが神を正しく礼拝をすることを語っているのです。まことの神以外の神々を礼拝するな、偶像礼拝をするな、神の名をみだりに呼ぶな、そして安息日を心に留め、これを聖別せよ、と語るのです。第四の戒めは、私たちの生活が礼拝を中心とした生活であることを語っています。もし、礼拝をすることをしないなれば、どのようになるでしょうか。それは自分中心の生活になるのです。まことの神を神としないのであるから、生活のすべてが自分中心に考えるようになるのです。そして神の言葉を聴かず、聖書も読まないのであるから、自分の罪を認めず、罪を悔い改めることはないのです。そして、偶像を拝み、手頃な神々に頼り、御利益をもたらす神を拝むのです。そうなると隣人との関わりも変わって来るのです。礼拝を中心に考えるのですから、隣人のことに気を配っていたとしても、それは自分の名誉、自分のことを考えているに過ぎないのです。

 長い間、保護司をしてきた人から次のような話を聞いたことがあります。保護司をしてきた人たちは、少年たちを世話をしていて偉いと思っていたけれども、その中には政府からの叙勲を楽しみに待っていたり、自分のしていることをみんなに誇ったりしている人が多いのでがっかりした、と話したことがあります。

 礼拝に出席することはとても大切なことです。みことばを聴いて、私たちは生きる力が与えられるのです。礼拝で力が与えられるのです。アメリカのアフリカンの教会は説教がとても長いそうです。みことばによって力が与えられないと、週日の厳しい生活が持たないそうです。みことばによって力を得て、姿勢を立て直し、その姿勢で毎日の生活に向かって行くのです。

 この日本の社会は世俗的な価値観をもった社会です。その社会の中で生きている私たちは知らず知らずのうちに、この世がもっている世俗的な考え方を身に着けているのです。次第に私たちの信仰の心が壊され、この世の力に負けてしまうのです。聖書が語っているみことばよりも、この時代の言葉が私たちを圧倒していくのです。

 主日の礼拝に出席していることはとても大きな意味を持つのです。礼拝に出席して私たちがいったい何者なのかを改めて認識し、私たちの主がイエス・キリストであり、この方が私たちと共におられることを確信するのです。私たちの崩れた、壊れてしまった心を立て直すことができるのです。

 キリスト教会は、私たちの魂が支えられるように配慮しています。礼拝の説教によって、私たちが抱えている、生きる意味、人間関係、家族の問題、死について聖書から解き明かされ、神から与えられる赦しと愛によって魂が支えられていくのです。そのような魂が支えられる言葉が心に入り、それが危機的な時に力を発揮するのです。誰でも、一度は危機的な場面に直面するのです。

 日曜日に礼拝に出ないで、自分の用事をして、気晴らしをし、遊んでしまうのは、楽しいことかもしれないですが、生きる意味を考えたり、自分がどのような存在なのか、と深く思う時がないと、自分が病気になったり、自分の死、親しい者との別れなど、人生の試練に直面した時に、うろたえ、乗り越えることが難しくなるのです。
 
 教会の礼拝に忠実に出席していた、ある教会員が逝去し、その後、その教会員の妻である婦人は、教会の礼拝に時々、出席するようになりました。その婦人が私に次のような話をしてくれました。その婦人が礼拝に出席するようになって気がついたことがありました、と言うのです。何に気がついたのか、と思いましたら、自分が礼拝に出席して夫がこのような心豊かで、幸いな時を過ごしていたことを初めて知った、と言うのです。

 日曜日の朝、夫が礼拝に出席していた時には、自分は家にいて、礼拝を経験していなかったので、礼拝がどのようなものであるか、妻ははっきり把握していなかったのです。そしてこの妻は次のように話したのです。夫は晩年、病気と長く闘い、その病魔との戦いを側で見ていて辛かったに違いないのですが、夫は精神的に強かったと思う、それは礼拝を守って、聖書の言葉をいつも聴いていたからではないか、と思います、と話したのです。

 礼拝に出席する、それは信仰の戦いです。その戦いは意味がある戦いです。イザヤ書58章13−14節のみことばです。「安息日に歩き回るのをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息の日を喜びの日と呼び これを尊び、旅をするのをやめ したいことをし続けず 取り引きを慎むなら そのとき、あなたは主を喜びとする。」(旧約 p1157)

20170716 主日礼拝説教  「主を喜び祝う」 洪徳喜牧師(洗足教会)


(ネヘミヤ記8章9−12節、ローマの信徒への手紙3章21−26節)
       
 私たちは、聖書を神の言葉として聴きます。その神の言葉には、私たちが日々経験する様々な気持ち、私たちの気持ちを大事に代弁する言葉が数多くあります。たとえば、いたるところに「喜び」を告げる言葉があります。ネヘミヤ記8章9節は、この「喜び」という言葉を、名詞としてではなく、動詞として「喜びなさい」と命令形で使っているのです。同時に、聖書は悲しむことを勧める箇所があります。喜ぶこと、悲しむこと、これは私たちが生きていることのしるしであるとともに、本当に自分の「生」そのものを、神が受け止めてくださることを感謝する信仰の表れでもあります。

 大人になるにつれ、私たちは大袈裟に喜ぶことや悲しむことは控えるように教えられます。あるいは、自分にそう言いきかせます。そのため心から喜んだり悲しんだりすることは、なかなかできません。私たちがクリスチャンであることの一つのしるしは、心から喜ぶことができることでしょう。心から喜ぶことのできる力がすでに自分に与えられていることを、感謝をもって喜びます。新約聖書によれば、「喜び」は聖霊がその人をとらえたときの賜物の一つです(ガラ5:22)。
 
先ほど聴きましたネヘミヤ記の言葉を、皆さんの中では一度も読んだことのない方がいらっしゃるかも知れませんが、ネヘミヤ記とエズラ記は重要な聖書箇所です。

 嘗てイスラエル(正確には南ユダ王国)は神に背き、神との契約を守ることに失敗したために、バビロン捕囚を経験することになります。バビロン捕囚から解放されて、再びエルサレムに戻ってきた人々が、自分たちの過去の歴史を振り返りながら、歴代誌上にこう記しているのです。「ユダは神に背いたためにバビロンに捕囚として連れ去られた。」(9:1)。バビロン捕囚を経験した彼らは、泣き、怒りました。しかし、神様の不思議な導きがあって、再び彼らは神の町エルサレム、自分たちの本当の故郷に帰還できました。彼らの心には傷が残り、自分たちが夢見ていたエルサレムの町がすでに破壊され、人間が住める街ではないことを目の当たりにして、困惑したでしょう。希望は、まるで風に飛ばされる麦わらのように吹き飛ばされてしまい、自分の存在意義の喪失という深い絶望と、信仰が音を立てて崩れさる思いに彼らは苦しみました。その彼らを励まし、エルサレム神殿を再建し、エルサレムの町を再建し、安心して暮らせるように働いたのが、ネヘミヤという人です。

 このネヘミヤは、嘗て南ユダ王国を滅亡させたバビロンという国を滅ぼしたペルシャの王朝に仕える高官でしたが、エルサレムの町が破壊されたことを聞いて悲しみ、王に願い出て、王の命令と支えを得てエルサレムに戻り、エルサレムを再建したのです。エルサレムという町は、ネヘミヤとユダの人々によって、人が住める町になりましたが、一つの問題が残っていました。経済的に少し安定し、人間として生きる最低限の環境は整いましたが、しかし、遠いバビロン捕囚から帰還し、嘗ての神の住処・エルサレムの町で、再び生活できるようになった自分たちは何者かという自己アイデンティティーの確立、即ち神の約束は今も有効かという問いの答えを得ていませんでした。

 厳しい言い方かもしれませんが、あの第二次世界戦争が終わった後、私というのは何者か、国家とは何か、家族とは何かと問いかけながら、自分を失ってしまった悲しみのゆえに多くの優秀な人々は、終戦の喜びや生きている喜びを味わえず、廃墟の町を放浪せざるを得なかったのです。得体のしれない何かによって体が裂かれる痛みに耐えなければなりませんでした。それと類似の経験です。

 聖書によれば、バビロン捕囚から帰還した人々こそ「残りの者」、つまり神の恵みに生きる民であると、当時の指導者たちは声高く訴えていました。けれども多くの人々は、本当に自分が神によって恵まれている神の民である、ということを素直に喜ぶことができず苦しんでいました。嘗てアブラハムやモーセと契約を結び、ダビデを祝福した神は、帰還した自分たちを、ダビデの末裔だと認めてくださるのか、あるいは神の契約の中に生きることが今も許されていて契約は有効であるのか、それらがわかりませんでした。アブラムの神、モーセの神、ダビデの神、彼らの神は偉大な方でしたが、その神は私の神、私たちの神であると言い切って告白できませんでした。神殿再建とエルサレム城壁の再建は、そのような状態にある帰還した民の大いなる慰めとなりました。そしてネヘミヤと一緒に、書記官のエズラが、嘗て神がイスラエルを律法の言葉、すなわち神の恵みの契約をもって神の恵みの中に彼らを招き入れてくださったように、今もその神は変わらない思いを持って、慈しみを示していると、民に告げます。エズラは繰り返し律法と言われる神の契約の言葉を説明しました。その記録がネヘミヤ記、エズラ記です。

 バビロン捕囚の間、バビロンに連れ去られた彼らは、南ユダ王国が滅びた後、その罪を認めて今度こそ神に忠実でありたいと、志すようになりました。バビロン捕囚の間、彼らはイスラエルの神を礼拝しようとする気持ちを持って、祭司のところに集まり律法を聞き、また食べてはならない食物を食べないというバビロン人とは異なる生活をしてきました。捕囚の60年間、彼らは安息日を守り、割礼を受け、清い生活に励んできました。嘗て神がモーセを通してイスラエルの民と契約を結ぶときに、彼らに与えてくださった十戒の言葉に基づいた生活を、十戒によって形成された生活を60年間、二世代に亘って守ってきました。

バビロン捕囚の民がエルサレムに戻ってきてみると、エルサレムに残されていた人たちは、異邦人と結婚していたり、カナン人の神々を拝んだりしていて、要するに神に対する信仰を全く失っていました。帰還した人々は、捕囚の間、罪にまみれた自分たちの親たちと和解することがいかに難しい事かをつぶさに経験してきました。そして今は、血のつながりのある兄弟姉妹が全く信仰を捨てた生活様式のなかで生きているだけではなく、彼らの信仰をも否定しそれを嘲るほど先祖の神から離れているため、自分たちの思いが彼らに伝わらない状況を目の当たりにしているのです。彼らと和解し同じ信仰に立つことは至難の業のようです。その苦しみの中、エズラとネヘミヤの努力によって、少しずつ互いに分かり合うようになり、今日の聖書箇所、ネヘミヤ記が始まるのです。

 ネヘミヤとエズラは、人々に神の律法の言葉を朗読しその説明を聞かせます。それを聞いた彼らは泣きます。律法を聞いて民が泣いたのは、律法の解釈を聞いて自分たちの罪に気付いたためです。神の前に犯した深い罪により陥った悲惨な生活が走馬灯のように浮かんできて、涙を抑えられなかったのでしょう。あるいは、今度こそ主に従おうとする決意の涙であったでしょう。しかし、泣いている彼らにネヘミヤは言います。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(10)。主を喜び祝うこと、それを神が求めているのだ、と言わんばかりです。ネヘミヤとエズラの言葉には深い意味があります。というのは、神の御心は、「主を喜び祝うこと」であり、これが人間の生きる力の源であると、雄弁に語っているからです。

 神の御心が何であるかと申しますと、「私たちが神を喜ぶことを通して、生きる力を得て、生き生きと生きてほしい」ということです。こういうと大袈裟でしょうか。神が御言葉を語るのはそのためでしょう。私たちが神の御言葉を聴くのはそのためです。おそらく皆さんの中で、聖書の説き明かしを聴いて、「こういうことも、ああいうこともできなかった」と心を痛める方がいらっしゃるでしょう。それは素晴らしいことです。真実な悔い改めは人を救いに導くからです。けれども更に大切なことは、「自分を責める思いで神の言葉である説教を聞くことより、聞いて知っている御言葉どおりに生きることができなくても、そのできない私を、ご覧になる神はわたしの内から神の喜びを見出し、喜びの眼差しを注ぎ、力づける方であること」を知ることです。礼拝を守ることでは、そのことを経験する場所に自分自身をおいておくことです。

 教会の外では、私たちの小さい過ちに、先生や親や友人から、よりしっかりするように、そういう言葉を私たちは耳にタコができるほど聞きます。しかし、教会堂で神の言葉を聞く礼拝において、次のことを経験します。たとえ一週間の生活がとても恥ずかしくて、妻や娘にも言えなく、鏡の前に立って自分の顔をまともに見ることもできなく、恥ずかしいことばかりであったとしても、この礼拝に私たちを招いてくださった神が、言葉に言い尽くせない喜びをもって私たちをご覧になり、その力ある御手をもって私たちの健やかさを回復させてくださる方であることを、知る。それは私たちの喜び、幸い、力ある慰めです。ネヘミヤの言葉の真意はこれです。

その神の喜び、あなたたちを見て喜び勇み、踊りたくなるその神の喜びを、あなたたちも喜び、その主を喜びなさい。それこそ、あなたたちの力の源である。この御言葉を聞いて、私は皆さんと一緒に次の一つのことを分かち合いたいと願います。

神を喜ぶことは、いかなる時にも、私のゆえに、喜びをもって私をご覧になる神を知る事です。御言葉を正しく聞くこと、そして正しく用いて正しく生きることは、神の喜びをわたしの内に、そして共に礼拝する隣に座っている兄弟姉妹の内に見つけて楽しむことです。神の喜びは私たちが同じ罪を繰り返すようにはさせない。同じ失敗を繰り返しているように思われても、神の喜びは私たちを神の信仰の内にあって前進させるものですから。ネヘミヤとエズラの言葉を理解して、民は神を喜び祝い、神を楽しむようになります。

主を喜び祝うことこそがあなた方の力の源である。この「主を喜び祝う」という言葉を「主にある喜びを祝う」あるいは「主が持っている喜びを、喜び祝う」と訳すことができます。主を喜び祝うことは、礼拝に出席し、洗礼を受けて聖餐に与かる私たちをご覧になる神が持っている喜びを、喜び楽しむのです。私たちは自分を見て、家族を見て、教会の仲間を見て、それほど喜びを感じることがないかも知れません。けれども神は私たちのゆえに喜び勇みます。これは良き知らせです。ですから私たちも大胆に、私たちのゆえに喜び、またその喜びのゆえに、私たちに恵みを示す神を喜び楽しみ、私たちの喜びをもって神の栄光を現わすことは素敵なことです。

主の喜び、それは神がイスラエルを選んだ喜び、それは、神と特別な契約関係に招き入れる主の選びの喜びです。同じく神はイエス・キリストを通して私たちを選び、あらかじめ愛してくださいました。イスラエルの神がイスラエルを選んだ二つのしるしは、十戒の言葉と割礼です。私たちが神に選ばれたしるしは、洗礼と聖餐に与かることです。そしてこの礼拝に招かれて神の言葉を聞き、神を賛美するようになっていることは、神に愛されている確かなしるしです。皆さんの中で、お祈りするとき、今日は健康と時間が与えられて、この礼拝堂に集うことができました、神様ありがとうございます、こういうお祈りをしばしば聞いたことがあるだろうし、皆さんもするでしょう。しかし、そういうお祈りは、次のように言葉を整えることができるでしょう。「神は私を招いてくださる、そして、その招きに応じられるように力と時間をくださいました」。礼拝に集うことができる、それは神の愛の計画・神の選びに与ったということです。

もう一つ、神を喜び祝うことは、神が私たちに与えて下さる喜びを祝い楽しむことです。聖書は約束しています。母が子を慰めるように、神はご自分の喜びとご自分の人間に対する思いを込めてあなたたちを慰める、と。イザヤ書41章8節に、「わたしの愛する友アブラハムの末よ。」とあります。神に背き、神との契約を破ってしまったアブラハムの子孫に向かって神は、「わたしの友の子孫であるあなたたち」と認めるのです。神の御子イエス・キリストによって私たちは神の子とされたのです。神の子として生きる喜びを神は私たちに既に与えてくださいました。そのしるしは洗礼であり、聖餐に与かることであり、礼拝の場所にいるということです。神は、御子イエス・キリストを通して私たちを神の子とし、神の子として生きる喜びと力を賜り、また、イエス・キリストにあるあらゆる良いものに与かるようにしてくださり、限りなく慰めてくださいます。

このことを知っていた私たちの信仰の先輩は、ハイデルベルク信仰問答に次のような言葉を残しました。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」、「わたしの体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。…そうしてまた、御自身の聖霊により、わたしに永遠の生命を保証し、私が心から喜んで主のために生きることができるようにしてくださいました。」教会は、神に愛され、神の家族となった喜びに生きる喜びの集いです。神を喜び、神に愛されている信仰の仲間と礼拝に生きる喜びのほかにもう一つの喜びがあります。それは、神は私たちを用いて、まだイエス様を信じていない私たちの隣人を主の喜びに招き入れ慰めることを欲しておられ、主に応え隣人を招く喜びです。

嘗て内村鑑三は、日本人にとって「家族は悩みの種」という趣旨の言い方をしたと言われます。自分自身が自分にとっての悲しみの対象になることがあるように、最も私の慰め励ましとなるべき家族が、私の悲しみの種になることがあります。けれども神は、罪を犯したイスラエルに対して、契約を守り抜き変わらぬ愛を示し、わたしの友アブラハムの子孫と認めてくださいました。その神は、まるでイエス・キリストを見るかのように、私たちの隣人をも神の家族に招き入れることを喜んでおられるのです。主イエスの十字架と復活、そしてそれによって形成された神の御国の形態の一つのしるしである教会は、そのことを明確に語っています。これは私たちの喜びと希望の土台です。

私たちは礼拝を守っています。皆さんは、次のようなことを聞いたでしょう。「礼拝は私たちが神のために何かを奉仕すること」。けれどもより本質的なことは、「神が先に私たちのために奉仕してくださったから、私たちが神のために何かの奉仕をすることができる」ということでしょう。神の奉仕である礼拝に出席できるように私たちを招き力をくださる神の助けがあってこそ、喜びをもって神に奉仕することができます。
礼拝を英語では service、「奉仕すること」と言います。数日前、ウィンブルドン大会がありました。テニスの試合において、大切なのは serviceと言われます。素晴らしいサーブは、試合を有利に進めるために欠かせません。 神は私たちに奉仕してくださったのです。神が奉仕をしているがゆえに、私たちは神に奉仕し、この世に打ち勝つことが許されています。ローマ書(3章21節-26節)は、神は私たちのためにどのような奉仕をしてくださったのか、を示しています。

「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。・・・ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。神は御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で血を流し、私たちが受けるべき審きと悲しみを、イエス自身が御自分の体に受け、神の喜び、キリストの中にある喜びを私たちに与えられました。それが神の奉仕です。その神の奉仕があるから、私たちは喜びをもって、礼拝に集うことができるのです。この神の奉仕を受け入れるためには、信仰が必要です。信仰が必要と言いましたが、すでに神は私たちに信仰を与えてくださいました。ルターは次のようにその信仰の業を説明しました。「信仰とは、私たちの内における神様の働きである。今ここに座って礼拝を守ることができるように、私たちの内に働いてくださる、その神の働き、それが信仰である。もう一つ、信仰とは、そうした神の働き、神の恵みに対する私たちの生きた、大胆な信頼だ」。この私たちを喜び、選び愛し抜かれる神の働きを認め、それを大胆に喜ぶこと、それを大胆に信頼することが信仰だと言っています。

ネヘミヤは、主を喜び祝うこそあなたがたの力の源であると、言いつつ、次のように勧めています。「良い肉を食べ、備えのない者には、それを分け与えてやりなさい」(10)。これを教会的に解釈すると、良い肉、それはイエス・キリストの血潮でありましょう。聖餐に与かることは、イエス・キリストの体と血に与かることです。それを食べて、キリストの聖餐を備えのない者に分け与えることは、「父なる神の喜びを、喜びの備えのない隣人に分け与えること」でしょう。神の奉仕であり、教会の奉仕です。隣人を洗礼に招き聖餐に与らせることは、神の喜びで世界を満たすようなものです。それは神の御心を地上に実現することであり、食べ物を求めている隣人にパンを分け与えることが彼らの命を健やかにすることであるように、神の喜びを求めている隣人に神の喜びを分け与えることは、彼らを健やかに生きることができるように支えることです。

祈ります
主イエス・キリストの父なる神よ。
御子イエス・キリストの出来事を通して、聖霊を通してあなたは私たちをこのように礼拝に招き、あなたご自身が奉仕してくださり、心から感謝します。
この礼拝において、主が聖なる唇を開いて語り掛けてくださることを心から感謝します。聖霊によって慰められ、力付けられ、主を喜び祝い、この一週間を歩むことができますよう願います。どうか私たちが如何なるときにもキリストに従い、また聖霊によってあなたご自身の喜びによって力付けられる、強められる、そのようなことを経験する一週間の歩みとならしめてください。

天の父よ。
牛込払方町教会の礼拝に集う兄弟姉妹の一人一人を祝福し、彼らが存在すること自体があなたの喜びであることを、これらの兄弟姉妹たちが、この教会の喜びであり、その喜びを教会の垣根を超えて、大勢の人々に知らしめる働きをするよう用いてください。祝福してください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


20170709 主日礼拝説教  「神の大きな愛の中で生きる」  山ノ下恭二


(エレミヤ書5章20−25節、マルコによる福音書14章66−72節)
       
 私たちが生活をしていく中で互いに「信頼」しているということはとても大切なことです。相手を信頼している、相手も自分を信頼している、相互に信頼関係があるならば平穏な生活を続けていくことができます。しかし、互いに信頼がなくなると、相手の言葉に疑いをもち、敵意をもち、相手のことを何でも悪く解釈するのです。信頼していた人に裏切られるという経験はとても辛いものです。

 旧約聖書の詩編41編には、詩人が病気になってかつて信頼していた仲間に裏切られる、その悲しみ、苦しみを嘆いています。この仲間に食事を提供して、世話をしていたのですが、詩人が病気になると、とても冷たく対応すると嘆いています。詩編41編10節に「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。」(p875)信頼していた者に裏切られることは辛いことです。
 
 主イエスには12弟子がいたのですが、その12弟子の中でも、一番の弟子はペトロです。福音書には主イエスの受難について詳しく書かれていますが、その物語の中で私たちの心に迫り、深い印象を残す物語は、本日の礼拝で読んだ聖書の言葉です。ペトロが主イエスを知らないと三度、否定した物語です。この物語は賛美歌の歌詞にもあり、よく歌われています。讃美歌243番の2節にあります。                    

 ペトロは主イエスによって弟子として召された弟子です。弟子の中でも、主イエスに一番近くにいましたし、主イエスのすぐ後についていって、主イエスの命じることは何でもする弟子でした。主イエスのいるところにはどこにでもペトロがおりました。ペトロのいるところには主イエスがおられたのです。その意味では二人は一心同体であると言って良いでしょう。        
 
 私たちも洗礼を受けて教会会員であり、主イエスの弟子であると言って良いのです。キリスト者となると言うことは主イエスの弟子となることです。ある人が、教会の礼拝から自分の家に帰って来る途中で近所の人が自分のことを話しているので、自分の何を話題にしていると思って聞いていたら、「何々さんは日曜日、教会に行っているから」と話していたそうです。この人は日曜日の朝はキリスト教会に行っている、そのことが周りの人々に知られていたのです。このように教会に行っていることが知れ渡っていることは大切なことです。知り合いがキリスト教や聖書のことでわからないことがあれば自分に聞いてくる、そのことは大切なことです。
 
 日本の社会ではキリスト者は少数で、肩身の狭い思いをしています。私たちが死んで、教会で葬儀をすることになり、近所の人に教会で葬儀をすることを知らせたところ、キリスト者であることを初めて知ったということがあるのです。わたしがかつて、教会員の葬儀が終わり、出棺の時に玄関におりました時に、教会員ではない婦人たちが「亡くなった方がクリスチャンだと知らなかった」と互いに話しているのを聞いたことがあります。日曜日に礼拝によく来ていたので、近所の人や友だちに自分がキリスト者であることを話していなかったのではないか、と思いました。それは、日本の社会ではキリスト者が少数で、なかなか理解されないところがあるのです。私は中学2年生の時にバレーボール部に入っていましたが、日曜日の朝9時からクラブの練習があるのです。教会学校に行く時間とかち合うので、クラブの監督に、週日の部活には出ることができるけれども、日曜日は出られないと言うと、どうしてだと言うので、小さい時から教会に行っていて、日曜日は教会に行きたいと思っている、と言いましたら、「そんな宗教に行くことはない、クラブに来い」と言われました。私はクラブを止めて、教会学校に通いました。この経験からこの社会では日曜日に教会の礼拝をしていることも知らないし、教会に行く人は変わった人であると思っているのです。自分がキリスト者で教会に通っていることを公にすることはとても勇気が要ることです。                            
 主イエスとペトロとは、常に共におり、いつも一緒でした。ペトロは、主イエスに最後までついていきたいと思っていたのです。主イエスはすべての弟子たちが主イエスにつまずくだろうと予告した時に、ペトロは「『たとえ、みんながあなたにつまずいていても、わたしは決してつまずきません』と言った。」(マタイ26・33)と記されています。何があっても、主イエスにどこまでもついていく決意をもっていることを明らかにしています。                     
 主イエスが、逮捕されて大祭司の家に入っていきました。その後を、ペトロはついて行ったのです。ペトロは、主イエスの後について行きたいと思って、主イエスを追って行ったのです。この時のペトロの気持ちを思うと、主イエスがどうなるのか、と言う心配があったのです。堂々と自分が主イエスの弟子であることを公にして、みんながわかるように主イエスの後を追って行ったのではないのです。かなり距離を置いて、主イエスの後を追って行ったのですから、自分のことがわかると困るという思いをもってついて行ったのです。                  
 3月−4月のエルサレムは昼間は暑いですが、朝晩は寒いのです。この時は真夜中だから震えるほどとても寒いのです。大祭司の中庭で火をたいていて、この中にペトロも座っていた時に、思いがけないことが起こりました。「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。』」この女中はどのような思いでペトロを見たのでしょうか。暗い中でたき火なので、よく見えなかったのでじっと見たのかもしれません。自分のほうをじっと見ているのです。じっと見る。それはいろいろあります。「じっと自分が相手から見られる」ことは余り良い気持ちはしません。皆さんも相手からじっと見られる、という経験をしたことがあると思いますが、自分が変なことを言ったので、じっと見たのか、自分に余り好意をもっていないのでじっと見たのか、良い思いはしないのです。好意をもって見るならば気持ちが落ち着きますが、不審そうにじろじろ自分を見ているならばそれは気持ちの良いものではありません。
 
 この女中はペトロをどこかで見たことがある、確かにどこかで見た、あっ、そうだ、この人はイエスと一緒にいた、思い出した、だから、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言ったのです。この女中は事実を語ったまでです。ペトロを捕まえようとか、そういう意図があって言ったのではないのです。しかし、ペトロはこの時に恐れに支配されていたのです。恐怖心をもっていました。それで68節で「しかし、ペトロは打ち消して、『あなたが何を言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない』と言った」のです。主イエスとペトロとは、いつも一緒でした。主イエスがいるところペトロがおり、ペトロがいるところ主イエスがいたのです。ペトロは「私は主イエスといつも一緒にいました、私は主イエスの弟子です」と言えるはずなのです。しかし、ペトロは、主イエスを知らないと言ってしまったのです。ペトロは主イエスこそ救い主、神の子、メシアであると告白しているのです。自分にとってかけがえのない救い主です。その主イエスを「あの人を知らない」と否定したのです。         

 以前、教会で印刷機を使用していましたが、修理のために来た人が韓国生まれの韓国人でした。修理をしながら、韓国の話をして、韓国では、人口の3割がキリスト者であるので、その人にキリスト者かどうか、と聞いたところ、そうではないが、自分の友人はほとんどキリスト者であると言い、韓国では至る所に教会があるが、日本では教会を見つけることがなかなかできないと言っていました。韓国のように、キリスト教会が社会で認知されているならば、堂々と自分がキリスト者であることを公にできます。私が訪ねたソウルの大きな教会で、ある一人の長老が私に名刺をくれました。そこには「長老」と書いてありました。韓国では長老と言うのは社会的に地位が高く見られているようです。しかし、日本ではキリスト者は少数派であり、社会的な認知度がないのです。洗礼を受けることも異質であり、日曜日に礼拝に行っていることも日本にはその習慣がないので、異質に見られるのです。キリスト者であること、教会に通っていることを知らせると「変わっている」と言われることが多いのです。信仰をしていると言うことは、困ったことがある人だ、変わった人だ、と思われているのです。
 
 ペトロは「わたしはあの人を知らない」と主イエスとの関係を否定したのです。このことは私たちと関係のないことだと片付けることはできません。「教会に行ってるんだって」と知り合いの人から言われて、「行っている」と答えることができれば良いのです。そして教会に行ってみない、ということができれば伝道になります。  

 この物語に戻ると、女中が周りの人に、ペトロがイエスの仲間だ、と言うと再び、打ち消したのです。ペトロは二度目も主イエスの仲間であることを否定したのです。しばらく時間が経ってそこに居合わせた人々が「『確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから』」マタイによる福音書にはペトロがなぜ主イエスの仲間であるとわかったか、それは言葉遣いでわかったと書いてあります。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」(p55マタイ26章73節)主イエスもペトロもガリラヤで育ち、ガリラヤなまりのアラム語で話していたのです。言葉遣い、なまり、方言でどの地方の人かが分かるのです。                          
 
 ペトロは主イエスとの関係を三度否定したのです。三度、というのは完全に否定したことになります。主イエスと一緒にいたことも、主イエスの弟子であることも、主イエスが救い主であると告白したことも自分で否定したのです。主イエスにどんなことがあってもついていきます、と言っていたペトロが挫折し、弟子として失格したのです。ペトロは恐れに支配されていたのです。その恐れはどこから来るのか、それは自分が死ぬかもしれない、という恐怖心から来るのです。主イエスの弟子であることがわかれば逮捕され、死ぬかも知れないと思ったのです。自分の保身のために主イエスとの関わりを否定するのです。      
 ペトロが主イエスを知らないと三度、否定した原因は、人間の弱さであると解釈していることも多いのです。賛美歌243番の2節にも「弱きペトロ」と言う歌詞があります。しかし、主イエスとの深い関わりを否定することは、人間の「弱さ」にあるのではなくて、自分の保身のためにすることであってそれは「罪」なのです。主イエスを愛することができない、主イエスのためにいのちを捨てることができない、それは人間の弱さではなく罪なのです。自分を憎むことができず、自分を愛していることにあるのです。「『確かに』お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」という発言に対してペトロが「あなたがたが言っているそんな人は知らない」と誓い始めたのです。「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。」と記されています。      

 ルカによる福音書には、このようなペトロを、主イエスは「振り向いてペトロを見つめられた」と書かれています。イエスはどのような思いでペトロを見つめられたのでしょうか。主イエスが予告通り、ペトロが自分のことを知らないと否定した、ああ、やはりそうであったか、ととても残念な思いでペトロを見つめたのです。主イエスのまなざしを受け、「鶏が三度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出していきなり泣いた。」と書かれています。     
 
 神学者のカ−ル・バルトは、ペトロがこのように激しく泣いた、これこそが、ペトロのほんとうの信仰告白であると言うのです。ペトロの信仰告白とは主イエスに対して「あなたこそ救い主、キリストである」と告白したことを指します。しかし、自分の保身のために主イエスと生死を共にすることができない、その罪深い自分を思い、主イエスを裏切ってしまった、その罪に泣く、これこそがペトロの信仰告白だと言うのです。

 私たちも主イエスについていかない、自分を愛して、主イエスの弟子としての生活をしていない、主イエスをほんとうに愛していない、そのことを涙をもって嘆く、そのような告白しかできないのです。     

 このペトロが三度、主イエスとの関係を否定してしまったことで、主イエス・キリストは裏切ったペトロと関係を持たないと関わりを切ってしまったわけではないのです。主イエスの心はペトロから離れてはいません。その根拠は主イエスがペトロの離反を予告するところで、「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。」(p154ルカ22・31)と書かれているからです。

 この言葉は他の福音書にはない言葉です。主イエスは主イエスを知らないと裏切り、信仰を失いかけているペトロを覚えて祈っているのです。主イエスの祈りの中にペトロが覚えられているのです。私たちも主イエスと関わりのない生活をしています。キリスト者として自覚をもって生活していないことも多いのです。愛する者のために自分を犠牲にすることが少ないのです。そのような私たちのために、主イエスは「信仰がなくならないように祈っている」のです。                
 そしてペトロが涙のうちに思い起こすのは、主イエスが「振り向いてペトロを見つめられた」ということです。この言葉は、ペトロが主イエスを裏切ってしまった、主イエスの落胆のまなざしだけではない。ペトロを愛をもって赦してくださる主イエスのまなざしです。罪を裁くような厳しいまなざしではなくて、愛と赦しをもって見つめる主イエスのまなざしです。       
 
 「振り向いてペトロを見つめられた。」この言葉から私が思い起こすのは、いつもこの礼拝が終わる時に宣言する祝福の言葉です。民数記6章24−26節である。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」(旧約p221) 

 礼拝において聖書の言葉を聞き、信仰の仲間たちにもお元気で、と祝福の言葉を交わしながら帰ります。そのとき、私たちの心に刻まれる言葉は、父なる神が、主イエスが、まなざしをあなたに向けてくださり、そのまなざしは変わることがないと言う、この祝福の言葉、この祝福の事実です。この週のうちに大地が揺れ動いても、命が危ないことがあっても、この祝福は、たじろぐ私たちを支える祝福です。     

 カ−ル・バルトという神学者が、ある本で、「私が神を信じるということは、私はひとりではないということ、それに尽きる」と言っています。私たちが神を愛すことがない時にも、神は見放すことはなく、神の大きな愛をもって包んでくださるのです。私はひとりではないのです。ひとりで恐怖に支配され、自分を見失ってしまう時にも、神はあなたと共にあり、神のみ顔はいつもあなたに向けられて変わることがないのです。

20170702  主日礼拝説教  「神に愛されていることを確かに見る」  山ノ下恭二


(ダニエル書7章1−14節、マルコによる福音書14章53−65節)

 私が北九州市にあります若松教会に在任しておりました時に、会員の一人で北九州市立大学の教員がおりました。穏やかな人で、外見から見て悩みをもっているとは見えない人でした。一度、自宅を訪ねてお話をしていた時に、自分の悩みを打ち明けられたのです。それは大学の自分より年上の教師から、ひどい意地悪をされていてそれで悩んでいるという話でした。私は大学でそのようなことがあるとは知りませんでしたので意外でした。現在のパワハラに相当することをされていたのです。穏やかなキリスト者であっても年上の教師から圧力をかけられたり、意地悪をされて、とても苦しい時を過ごすことがあることを知ったのです。お話を聞いて、この苦しみを乗り越えることができるように祈ったのです。

 本日の礼拝で、マルコによる福音書14章53−65節の言葉を読みました。ここには主イエスが裁判にかけられている場面が記されています。大祭司の屋敷の中で取り調べを受けているのです。この裁判は法に則った正しい裁判であったのでしょうか。今日の聖書のみことばを読んで気がついたことがあります。それは、裁判というよりは警察の取り調べ室で、何時間も容疑者を取り調べて、自白させようとする場面を思い起こしたのです。初めから有罪であることを決めて、偽証をさせて、有罪にする、そのような裁判をしているように思われます。この裁判について、多くの学者は余りにも問題が多いと言うのです。それはやり方が出鱈目だと言うのです。この当時のユダヤ人の法律から考えて、過越の祭りの最中に、しかも夜中に裁判を開いて、さっさと死刑を決めてしまうのはおかしいと言うのです。そのような裁判をしたのは、そのような手段をもって大祭司が主イエスを殺したかった、そのような思いを持っていたからです。

 人間にはねたみの心を持っているのです。自分より他の人のほうが人気がある、みんなから好かれている、それはねたみになるのです。大祭司は宗教家であり、聖書について良く知っていて人々にも教えたり、語ったりしていたのです。ところが、主イエスが人々の心を惹きつける魅力的な言葉をもって語り、人々が多く集まって聞いていたのです。しかし、自分の語った言葉には人々は心が動かされないでいるのです。主イエスに対してそれは神のわざだと思うのではなく、どうにか、この主イエスの口を封じ、主イエスの手を縛ることを考えたのです。私たちは自分よりも良い思いをしていたり、自分よりもみんなからよく思われている人に対して、嫉妬を抱くのです。そしてその嫉妬の気持ちが、その人の不幸を願うようになるのです。

 大祭司がこのような嫉妬の思いをもって主イエスを逮捕し、裁判にかけたことは恐ろしいことであり、悲しいことです。主イエスに対するねたみがこの大祭司を動かし、主イエスを捕らえ、裁判にかけることになるのです。

 神の御心を中心にして裁判をする、正規の手続きをして裁判をする、ということは全く考えていないのです。自分よりも主イエスのほうが人気があり、誰も自分のほうを向かないし、主イエスがいると自分の宗教家としての立場がなくなると判断して、捕らえ、有罪判決を出すのです。

 その時代の権力者によって信仰者は迫害を受け、礼拝や伝道に対して妨害を受けるのです。6月26日の新聞に中国のキリスト教会が地方政府から迫害を受けて、礼拝堂を壊されているという記事が掲載されていました。「中国のエルサレム 強まる信仰弾圧 浙江省温州 キリスト教徒が15パーセント」という記事です。地元公安当局が教会に監視カメラの設置を要求してきたので、それを拒否したら、すぐに100人以上の男が取り囲んで、「鉄の棒で外壁をたたき壊して侵入し、重機で玄関を壊し、地下にある電気ケ−ブルを切断し、停電して真っ暗になった瞬間、信者らに殴りかかった。」と書いてありました。「カトリック系公認教会の神父は『布教を妨害し、キリスト教を弱体化させるねらいがあることは間違いない』と話す」このような迫害や妨害にキリスト教会は直面するのです。
 
 裁判し、判決を出すのは、大祭司です。主イエスは被告人です、犯罪人です。しかし、実は、本当のところは、この大祭司こそが、犯罪人なのです。主イエスの受難物語の中で、際立つのは、人間の罪です。その罪がはっきりとする、露わになるのです。

 私たちは神から良い存在として創造されたのです。神との正しい関係に生きている時に、神の愛を照らし出す、穏やかな人として過ごすことができるのです。私はこの頃、人間の表情はとても大切だと思います。特に顔の表情です。怒ったり、相手に敵意を抱いていると顔がきつくなり、人間の顔ではなくて、動物の顔になります。犬同士の喧嘩を見ていると、犬の表情が怖くなります。

 高橋たか子というカトリックの作家がいます。この人はフランスの修道院に行き、そこでたいへん静かな生活をある期間を過ごして、日本に戻って来るのです。高橋たか子が書いた本の中に「驚いた花」というエッセイがあります。このエッセイの中にこういう文章があります。修道院での体験を語った後に「日本に帰って来て街を歩いていても、電車に乗っていても、私利私欲のみを追っていることのありありと分かる顔ばかりが氾濫しているのを見るにつけ、この10年ほどの間に人間動物園という光景を表して来た日本の国は、もう私とは無縁な国だという思いがする今日この頃である。」日本人の顔を見て、人間の顔ではなくて、その顔は私利私欲のみを追っている動物の顔だ、人間の社会でなくて、人間動物園だ、と言うのです。

 主イエスを取り囲んでいる大祭司、最高法院の人々、下役の人たちの顔は人間の顔ではなくて、動物の顔です。ねたみと憎しみに満ちた動物の顔なのです。人に対して怒る時、人を憎む時、その顔を見ると、それは一人の人間の顔ではなく、動物の顔なのです。

 私たちも人間でありながら、動物の顔をもって憎み、ねたみ、怒るのです。自分のことばかり考え、私利私欲にとらわれている時に、動物になるのです。主イエスは、そのような「けもの」に取り囲まれながら、裁きの前に立つのです。

 裁判において重要なのは、証言を決め手にすることです。ところが主イエスを断罪する証言がないので、大祭司は、「おまえはほむべき方、神の子、メシアなのか」と問うのです。この問いに対して主イエスは「そうです」と言われたのです。「わたしがそれである。」「わたしはメシアである。」という意味の言葉です。続いて、主イエスは「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」と語ったのです。

 この言葉はダニエル書7章の引用と詩編110編の最初の言葉の引用です。この二つの言葉によって主イエスはご自分がどのような存在なのか、を明らかにされたのです。「人の子」という言葉は、終わりの時に、人々を救う救い主のことを指すのです。終わりの時に、神の救いをもたらすために到来し、神の勝利をもたらすのです。ユダヤの人々は「人の子」という言葉を聞いて、救い主のことを思ったに違いないのです。従って、大祭司は主イエスが自分のことを「人の子」と言ったことに驚いたのです。自分のことを救い主、神だ、と言ったからです。

 捕らえられ、裁判にかけられた、このイエスという男が、終わりの時にあらわれる救い主、神であるはずがない、それなのに、自分のことを救い主、神だと大胆に言ってのけるのです。このことは大祭司には赦すことができないことです。ユダヤの人々は、ダニエル書7章のことはよく知っていたに違いないのです。ユダヤの人々は「人の子」と言うのは、力ある神のような者が到来して、その力によってすべてを支配する方であると信じていました。この目の前にいるイエスという男が、人の子、救い主、メシアなどとは少しも感じることができないのです。手を縛られ、やつれ、何の力もない、無力の男が、どうして人の子、救い主なのか、分からないのです。この地上の物差し、見えるところでは、神と全く関係のない男なのです。

 しかし、このイエスこそが、父なる神より生まれ、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、父なる神と同質である方なのです。そしてこの神と同質であるイエスは私たちと同じ肉体をもった人間なのです。そこに秘密が隠されているのです。私たちの罪を贖うために神の子イエスが私たちの代わりに罪の犠牲をささげ、罪の罰を引き受けてくださるのです。罪なき者が罪ある者によって裁かれようとされているのです。

 これは神のみ心であり、この神のみ心に主イエスは忠実に従っておられるのです。ここで、主イエスは、わたしが天の雲に乗ってくるその姿をあなたがたは見ると教えているのです。

 主イエスは、この時、縛られていて、身動きもできないのです。犯罪人として扱われ、人々から軽蔑され、侮辱を受け、救い主としての威厳も力も全く見るかげもないのです。しかし、主イエスは、そのことを全く忘れるほど超然としておられるのです。「わたしが、天の雲に乗ってくる、その姿を見る」と言われるのです。その幻を見るのだと言います。

 この地上では、裁かれ、縛られ、死刑を求刑されるのです。しかし、そのような状態を超えて、主イエスは見るべきものを見ているのです。周りの人々がけもののように振る舞い、主イエスを苦しめ、死刑を言い渡しても、神の義しさと神の愛とは必ず、勝利することを確信しているのです。その幻を見ることができたのです。自分を取り巻く状況は悪くても、神が義しさをもって裁き、神が愛をもって守ってくださることを確信しているのです。

 私が東京神学大学の学生であった時に、松永希久夫先生の指導の下、ヨハネによる福音書を学んでいた時に、松永先生は、ヨハネによる福音書には主イエスがあたかも神が地上を歩いているかのように描いているのであるが、マルコによる福音書は、人間としての弱さを抱えながら、苦しんでいる姿を描いている、と解説されていたことを思い出します。受難物語のゲツセマネの祈りにおいて主イエスは十字架の死をさけたいと苦しんで祈っているのです。
 
 しかし、この裁判において主イエスは、権力者であり、裁判長である大祭司が人の子、救い主、メシアであるか、と言う問いに対して、「そうです」とはっきりと語っているのです。この「そうです」という言葉はギリシャ語から直訳すると「私だ」という言葉です。これはヨハネによる福音書で多く使われている言葉です。神がご自身を名乗る時に「私だ」と言うのですが、それと同じ言葉です。

 主イエスは神と同じ方でありながら、私たちと同じ人間であり、私たちが直面する苦しみ、侮辱、迫害、孤独を経験されているのです。しかし、どんなに状況が悪くても、恐れないのです。それは神が主イエスと共にいて守ってくださるからです。自分を死刑にもできる権力者を恐れないで、自分を取り巻く状況が悪くても、神が義しさをもって裁き、愛をもって守ってくださることを確信しているのです。 

 最近、岩波書店で出している「図書」7月号に文芸評論家の加藤典洋が「大きな字で書くこと」という連載のコラムを書いています。このコラムには自分の父親が戦前、山形で特別高等警察・特高の刑事をしていた、と書かれていました。加藤典洋の父親は、1943年に山形の西南部、山深い小国の警察署に「特高主任として赴任」したのです。どのような目的であったのか。それは「小国の山奥で基督教の教えに基づき、基督教独立学校を開いてその地の住民・子女の教育にあたっていた孤高の無教会派のキリスト者、鈴木弼美(すずきすけよし)の反国家的言動を内定し、証拠を掴んだのち、検挙することが目的だった」のです。

 この特高の刑事、加藤光男は鈴木弼美という無教会のキリスト者で山形の小国郡で伝道していた人物の言動を調べて、反政府、反軍国、反戦を語っていないかを調べ、そのような言動があり、証拠があるならば、治安維持法違反で検挙するつもりであったのです。

 加藤光男氏はこの鈴木弼美氏に近づいて、反戦、反軍国、を確かに語ったことを証拠に逮捕し、警察に引き渡したのです。この鈴木弼美という人は山形にある基督教独立学園高等学校を創立した人です。

 この文章に刺激されて、この時のことを詳しく書いている田中伸尚氏の「未完の戦時下の抵抗」を読むことができました。

 「1944年6月、早朝、玄関の前に一台のトラックが止まり、数人の制服を着た男たちがどやどやと家に入って来て、鈴木弼美氏を逮捕した」のです。「玄関先で靴を履きながら、妻を呼んで静かにこう言い置いて連行されて行ったのです。『幸福なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり。我がために人、なんじらを罵(ののし)り、また責め、詐り(いつわり)て各様(さまざま)の悪しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。喜べ喜べ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし預言者等をも、斯く責めたりき』」(文語訳・マタイによる福音書5章10−12節)

 鈴木弼美が山形警察署に拘留されて、最初に作った短歌が紹介されています。その内容は次の通りです。「弱き心のために戦争批判が足りなかったと自責し、しかし、キリストの導きで官憲に逮捕され非戦の想いを公にできる機会を得て喜んでいる」という歌なのです。治安維持法違反で逮捕されたのだけれども、自分はこれからどうなるのか、ということを思って望みを失っているのではないのです。むしろキリストの導きでこの機会を得て、キリスト者として戦争反対と語り、証しすることができる、それは喜びである、と歌っているのです。

 一ヶ月の間は読む本も与えられなかったのですが、そのうちに聖書を読むことが許可されて、同じ時に逮捕された信友・渡部弥一郎と共に「毎朝、それぞれの房で聖書を読み、祈り続ける。」「取り調べが始まるときは、予のほうから祈りを求め行うことを怠らなかった。」「7月20日には、弼美が監房の中で看守の面前で、弥一郎に聖書講義までしている。戦時下、治安維持法違反の被疑者が留置場で伝道しているようだ。」

 「8月末、弼美は『偶像礼拝の意味、神社参拝との関係』『神の目的とは如何なるものか』『国体を如何に観るか』など13点について陳述を求められる」それに対して鈴木弼美は自分の考えを述べたと書かれています。

 容疑不十分、起訴猶予処分で翌年、1945年2月12日に釈放されたのです。8ヶ月の間、警察の留置場にいたことになるのです。このことに鈴木弼美は不満で「公判定で、自分の所信を明らかにしたいと思っていたのにその機会を失ってしまった」と残念がっていたのです。鈴木弼美は、このような状況にあっても、神の義を求め、そして神が愛をもって共にいてくださることを信じることによって、強く生き、困難な場面を乗り越えて行ったのです。

 私たちも、さまざまな困難に直面しますが、聖霊によって神に愛されていることを確信できるようになり、恐れなく前進することができるのです。

 「だれが、キリストの愛から引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ロ−マの信徒への手紙8章35節)


20170625 主日礼拝説教  「神の名をみだりにとなえず」  山ノ下恭二


(出エジプト記20章1−17節、コロサイの信徒への手紙3章17節、ハイデルベルク信仰問答・問99−102)

 名前はとても大切なものです。NHKテレビで「日本人のお名前」という番組で「山下」という苗字は28番目に多い苗字だそうです。山ノ下という苗字はとても珍しい苗字です。岡山の教会に赴任した時にある人が「とてもめずらしい苗字ですね」と言われたことがあります。珍しくて良かったと思います。
 
 名前を呼ぶことによって、相手と関係をもつことができます。名前はその人についている符号ではなくて、相手の存在そのものです。相手の名前を呼ぶことによって、その人と話すことができ、親しくすることができるのです。また、名前は人と人とを区別するサインと言うだけではなくて、名前がその人の人となりをも言い表しています。「〜さん」と言うと、ただその人の姿を思い浮かべるだけではなくて、その人の生き方、語った言葉を思い出しますし、どのような性格なのか、も思い浮かべるのです。そして名前は力を持っているのです。宿泊施設を借りる時に、その施設と関わりが深い方の名前で借りることもあります。名前には力があるのです。

 旧約聖書の出エジプト記3章にはモーセが神に神の名を聞くところがあります。モーセに対して神がイスラエルの民を救い出すように召すのですが、どのような神なのか、分からないので聞くのです。イスラエルの民をエジプトから脱出させ、多くの民の先頭に立って、導いていくのですから、それは自分一人ではできない事業です。神がどのような神なのか、聞くのは当然です。この神は、初めは面倒見が良いけれども、イスラエルの民が文句を言ったり、不満を並べると、嫌になって、見放す神なのか、それともどんな困難なことがあっても最後まで付き添っていく神、忍耐しながら、イスラエルの民のために力を惜しまないで、愛をもって伴ってくださる神なのか、という問いを神に問うのです。この問いに対して、神は「わたしはある」という名前だと教えるのです。この神の名は、イスラエルの民のために、降りて行って、救い出す神であり、どのようなときにも共にいる神であるというのです。
 
 私たちは、神とかかわる時に「神の名」を呼びますし、祈りや讃美、感謝の時に、神の名を呼びます。神の名を知らなければ信仰の生活を始めることはできません。
 
 本日の礼拝で出エジプト記20章1−17節を読みましたが、20章7節には「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりに唱える者を主は罰せずにはおかれない。」とあります。この戒めは十戒の第三戒です。この戒めを正しく理解しているとは言い難いのです。この戒めを簡略にしてしまい、「あなたの神、主の名を唱えてはならない」という戒めにしてしまうのです。「神の名を唱えてはいけないということだ」と理解してしまうのです。神の名前はできるだけ口にしないほうがよい、と理解するのです。しかし、そのような理解はこの戒めを正しく理解しているとは言えないのです。
 
 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。この戒めを理解する上で鍵となる言葉は「みだりに」と言う言葉です。「みだりに」と訳されている言葉は「むなしいこと、つまらないもののために」「悪い目的のために」と言う言葉です。「みだりに」と言う言葉を国語辞典で引くと「規則にはずれたこと」「勝手に振る舞うこと」とありました。別の国語辞典では「不作法に」と書いてありました。人と人との関係でも、何もない時にはほとんど関わりをもたないけれども、自分の困っているときだけ、電話をしたり、相談に来る人がいます。自分の都合だけで、相手の都合や立場を考えることがない人もいます。そういうところから、「不作法に」と言う意味になるのです。たとえば、食事の時には、食事の作法があります。食事の時に大声で話したり、一人だけべらべらと話すのは、相手に対して失礼で楽しい食事にならないのです。
 
 一緒に生きて行く時に、自分が主人公になってしまって、相手を軽んじたりすることがあります。一緒に生活するのには、礼儀や作法があります。相手の立場や思いを軽んじると言うことになります。相手の立場を重んじないで、不作法をする、それは悪いことをしているだけではなくて、善意でしていることも相手にとって迷惑です。自分は相手のためにしていると思い込んで、自分の善意ですることが相手にとって迷惑であることに気がつかないのです。

 この「みだりに」は「自分勝手に」「自分が主人公になって相手を軽んじたりする」そのことを指しています。「あなたの神、主の名をみだりに呼んではならない」は、神の名を勝手に呼ぶな、と言うことです。昔のバビロニアに、ある神が50以上の名前をもっていたという神話があるそうです。「古代の神様は名前を呼ばれたらそれに応じて働かなければならないので、50の名前を持って、人間の勝手にならないように防ぐ」のです。名前を知らせないでおくのは、名前を利用するからです。

そしてこの戒めは、呪いを禁止することも関わります。昔から、呪術がされてきました。神様の名前を利用して呪いをかけるのです。呪いをかける時には、何時間も神の名を唱えます。神の名を用いて相手に呪いをかけようとするのです。根本的には、自分の都合を優先させて、自分の思い通りに相手を動かしたいという欲求を持っているのです。自分勝手、自分本位なあり方が問題なのです。昔から自分の願い事があって、相手をやっつけたい時に、神の名前でもって、相手に呪いをかける、そこで神の名前を自分勝手に利用するのです。自分があって神を利用し、動かし、操作するのです。それをよしとしてきたけれども、十戒は、それはいけないことだと戒めるのです。

 自分が主人で、神を自分の役に立ってもらおう、役に立たなければ、捨ててしまう、そのあり方は、罪である、ということなのです。

 第二の戒めは、神が自由であることを重んじることです。人間が考えた偶像の中に神を閉じ込めることを禁じるのです。人間が自分の好きな神の像を造るのではないのです。自分の都合でいつもそこにいる偶像を拝むのではありません。神を金や銀や青銅や木で形を作り、閉じ込めて固定することを禁じるのです。神は自由に動き回る方であることを語っています。
 
 第三の戒めは、人間の要求を聞き入れる神ではない神であることを語っています。人間の要求をいちいち受け入れていくのではなく、神ご自身が自由をもって、私たちのことを考えて配慮してくださっているのです。

 子どもの要求を全部、聞いていたら、だめな子どもができるのです。バークレーが書いた「十戒」で「親たちのために どうすれば子どもを非行に追いやるか」ということで、第一に「子どもには幼い時には欲しがるものはみな与えなさい」と書かれています。本当に子どもの成長にとって必要なものを提供するのが良いので、本人のしたいこと、欲しいものをその要求を聞いて、与えることは良くないことです。

 自分が欲しいものを与えてくれるものが神だ、その神でないならば、神ではない、と考えるのです。自動販売機にお金を入れて、ボタンを押して、欲しい飲料水を取り出す、それと同じように、自分の願いを叶えてくれる、機械仕掛けの神を求めるのです。御利益信仰なのです。
 
 私たちの教会生活も気を付けないと、御利益信仰になってしまう危険性があります。自分の満足を求める自分本位な信仰、満足しないと不平を言うのです。自分にとって、良かった、悪かったというところでしか、礼拝や教会のことを考えないのです。教会が、神がおられるところだと考えないのです。そのような人間がもっている罪の中に落ち込んでいくのです。

 私は御利益信仰ではありません、と言いながら、根底に自分のためになるものを求めているのです。苦しい時の神頼み、と言う言葉がありますが、苦しい時の神離れ、と言うことがあるのです。困難な事態を打開するために、救いを求めて行くのですが、目に見えて好転しないので、離れてしまうのです。あくまでも、「自分にとって」どうであるか、という自分本位のあり方が問題なのです。

 神の名を唱える、呼ぶ、ことは神を礼拝することです。この戒めは「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と付け加えています。なぜ、このような警告が書かれているのでしょうか。それは神の名を唱えることは礼拝することであり、礼拝の場に神が臨在しているからです。そのことをわきまえていることが礼拝なのです。自分勝手に、自分の目的のために、自分の都合で神を利用するために呼びつけるのは正しい礼拝ではないのです。神の自由なみこころに信頼し、神の言葉を聞いて、神のみこころに従う、そのことが正しい礼拝なのです。「みだりにその名を唱える者を罰せざるにはおかれない。」と警告を発するのは、正しい礼拝が行われることを目的にしていることを教えるためです。

 私たちも礼拝をしているのですが、自分のために礼拝をしているのです。自分がお客さんで、神に奉仕を求めるのです。ハイデルベルク信仰問答やジュネーブ教会信仰問答にはこの第三の戒めが詳しく解説されています。他の戒めは一問しかないものが多いのですが、この第三の戒めについてはかなり詳しいのです。それは理由があるのです。この当時の教会がこの戒めを信徒の毎日の生活においてきちんと生かしていこうとしたからです。この戒めは私たちの日常の言葉を吟味し直すことを求めるのです。私たちは言葉を語って生きている人間であるから、日常生活での言葉を問うのです。言葉遣いを問題にするのです。

 この当時の状況においてどうしてもまず問題にしなければならないのは、誓約の言葉です。ハイデルベルク信仰問答・問101で問題にしているのは、政府が仕えている者に求める誓約です。これは二通りあります。ひとつは就任の時の誓約です。

 例えば、アメリカ大統領の就任式で大統領が聖書に手をおいて宣誓するのです。これはキリスト教国では当然のことであって、これは政府がその務めに就く人を任じる場合に、神の名によって誓約を求めるのです。

 もう一つは、裁判所の法廷で神の名による誓約を要求されます。法廷における発言が真実であることを誓約させるのです。神の前で真実に証言することを誓約するのです。偽りの証言によって被告が不利になることもあり、裁判において真実な言葉を語ることは重要なことです。

 日本の社会では、御利益信仰はありますが、神の前で誓約するという意識がないので、形式的に誓約すれば良いと考えて、反故にしても罪悪感がないのです。

 日常的にも、私たちは約束をします。私たちはいろいろな約束をしますが、簡単にその約束を破ったりします。軽く約束し、良心の呵責もなく、約束を破るのです。仕事の契約をしても、約束していないことも労働させて、給料も払わない、ということがあります。結婚式の誓約においてもその時だけで、すぐに忘れてしまうのです。洗礼の時の誓約もその時だけで、すぐに破るのです。神の前で真実な言葉を語るという意識がないのです。この社会でも、政治家が自分が語った言葉に責任をもたないのです。失言をしても、記憶にない、それは口がすべった、言い方が悪かった、としか言わないで、謝りもせず、自分の言葉の重さに責任をもたないのです。

 私たちもいつも言葉を交わして生活しているので、日常生活でどのような言葉遣いをしているのか、と言うことです。真実な言葉が求められているのです。ハイデルベルク信仰問答・問101においては「神の栄光と隣人の救いのために」真実な言葉を語ることが示されています。神を神とし、隣人を愛する、そのことに心を留めて私たちが語る言葉を吟味し、整えるのです。

 現代は言葉が軽くなり、言葉を信頼することができない時代です。その原因は神の前で真実を語るという意識や自覚がないと言うことです。言葉が軽くなり、言葉を信頼することができないことは人との関係において大きな問題です。約束を守る、うそがない、ということはとても大切なことです。言葉に対する信頼がなかったならば、共に生きることができないのです。そのために大切なことは、神の前で真実な言葉を語ることです。


20170618 主日礼拝説教 「口は何のために与えられているのか」 芳賀力 (東京神学大学教授)


(ヨエル書3章1−5節、ローマの信徒への手紙10章9−13節)

 一 昨今の政治家の言葉には、甚だ失望させられることが多くあるように思います。平気でウソをついてしまう。時々失言が繰り返される。被災地で苦労している人々の心を逆なでするような言葉を口にして平気でいる。これをマスコミに批判されると、「失言でした、撤回します」と一応は口にしますが、この言葉で本当に傷ついている人に向かって謝っているという風情ではなく、その気持ちが伝わってこないことが多いようです。むしろ、身構えずにウッカリ口にしたその軽口の方に、そのホンネが現れている、のぞいているというのが、本当のところではないかという印象です。
 言葉というのは軽いようでいて、それを聞いた人が大変傷ついてしまう、たいへん怖いところがあります。学校でちょっとした悪ふざけや毒舌が度を過ぎてしまい、それがいじめや虐待になってしまうということがあります。そういうちょっとしたことの積み重ねで、子ども達が生命を断つということも起こってしまう。そういう知らせに触れる度に、私どもは心を痛めるものです。ずいぶん前のことですが、子どもを虐待して死にまで至らせてしまった一人の女性のことを書いた文章を読みました。彼女は小学校か中学校の卒業文集に、同級生から「世界中で一番嫌われる女」とか「居なくなればよい人ベストワン」とか「将来必ず警察に捕まる人」などと書かれてしまったそうです。それがトラウマになってしまった。恐ろしい、悲しいことですが、そういう呪いの言葉が彼女にどんな深い心の傷を与えていたか。性格をいびつに歪めてしまっていたことか。愛されたことがないので、愛することが分からない。そういう意味では彼女自身も犠牲者だったのですが、それが子供への虐待という悲惨な事件に導いてしまった。これはかっての同級生たちから受けた心無い言葉、浴びせられた意地悪な言葉であったということは、本当に切ない思いがします。
 口は災いの元と言いますし、私もそういう失敗をしたことのある一人です。私どもには、言うべきことを言わない、言わなくてもよいこと、いや、絶対に言うべきでないことを言ってしまう、そういう面があります。気が付かずにしてしまう場合もありますが、ずっと深刻なことは、心がねじけてしまっていて、意地悪な思いになってしまう、邪悪な思いに取りつかれて、わざと嫌味を言ってしまうという場合があります。よく知られた聖書の言葉ですが、ヤコブ書3章9〜10節の言葉で、「私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。」と言っています。本当に耳に痛いところですが、聖書の指摘は本当だなあと思います。そういうねじけた心の状態というのは、しばしば、試みに遭ったり、痛みや悲しみに見舞われてしまったときに起こります。素直になれないということでしょう。何事も起こらなければ自分だってもっと素直なのに、と思いながら、私たちは周りに毒舌を吐いてしまう、つい、ねじけた心の鬱憤を晴らそうとしてしまいます。

二 宗教改革者のマルチン・ルターは、「罪びとの心は自分の内へと折れ曲がった木のようだ」と言いました。雑木林や森の中を歩いていますと、何でこんなに曲がりくねっているのかと思うほど、ねじけにねじけた木にぶつかることがあります。東北地方の白河に池を中心にした古くからある公園があります。その池のほとりに見事にまでねじけている松の木があるんです。見たら忘れられないものです。ある幹が1〜2メートル行くと今度は真横に行くんです。それがねじけて、先端はどうかというと上に伸びるはずが湖の中に入っていくんです。写真でお見せしたいほどですが、強い風が吹き荒れていたのでしょう。山の中でこういう木に出会うと、私は何となく話しかけてみたくなります。「可哀そうに、お前は。何十年、何百年もそうやって強い風にあおられて、それを耐え続けてきたんだろうね」と、思わず同情してしまいたくなります。ねじけた木に風が当たると、折れ曲がった枝のところから、まるで吼えたけるような咆哮が森にこだまします。それがなんともいえない悲しい声に聞こえる。おそらくルターは、そういう木の姿を見て、罪びとの存在、毒舌と呪いを口にする他ない罪びとの心の悲しみを思ったのではないかと考えたりします。
旧約聖書、試練にあったヨブ。ヨブは瞬時にしてすべての持ち物を奪われました。おまけに愛する者をも失ってしまったときに、ヨブの妻が進言しました。「どこまで無垢でいるのですか、あなたは。神を呪って死ぬ方がマシでしょう。」こういう時は女性の方がしっかりしているようです。この気持ちの方が私たちには分かりやすいのではないでしょうか。もし神を見失ってしまった場合には、人間の口から出てくるのは神への賛美であるよりか、神への文句であり、不平不満、そして「こんな私に誰がした」というような神と人への呪いの言葉ではないかと思います。

三 しかし、幸い神様は私たちをそのような状態のままにしておくことはありません。私たちを造られた方である神、私たちを本来のあり方へと戻そうとしてくださる贖い主である主イエス・キリストの父なる神。この神が私たちの心をしっかりととらえてくださる時、それは、十字架のキリストにおいて、私たちに向けられた神の愛を感じ取る時なのですが、その時には私たちは良き言葉を口にすることができるのです。いや、この私たちに良き言葉が授けられるのです。神様を賛美する言葉、隣人に感謝する言葉、私たちの中からなかなか出てこないような言葉を授けられるという経験が起こるのです。呪いではなく祝福を、不平ではなく感謝と賛美を、口にすることができるのです。主イエスは弟子たちにそう言いました。敵を呪うのではなく、その者のために祝福を祈りなさい。これは使徒パウロにも受け継がれて、同じ言葉が伝えられています。良き言葉を語るとは、祝福するという言葉とかぶさります。それは人を滅ぼす言葉ではなくて、その人を助け慰める言葉、そして救いへと導く言葉です。
今朝与えられました聖書の箇所で、「その良き言葉とは何か」ということが出てきます。それは「イエスが主であると告白すること」です。「口でイエスが主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ロマ書10章9〜10節)
人を滅びにではなく、救いへと至らしめる信仰の言葉がある。それが「イエスが主である。イエスこそ主である」というこの告白だ、ということです。何でもない短い言葉のように聞こえます。恐らく「イエスは主なり」、これこそ最古の、そして最も短い信仰告白だろうと言われています。短いですが、これはとっても大事な告白でした。古代教会の人々が命がけで守った告白です。というのは、当時の世界において、地中海の世界、ローマ帝国の世界にあっては、主というのはローマ皇帝を指す言葉だったのです。カイザルは主であるというのが、普通の慣例でした。人々が従っているのはこのことでした。カイザルが主なのです。ところがキリスト者たちは、ローマ皇帝カイザルではなく、イエスこそ主なのだと公に言い表したのです。この告白をもって神を賛美し、救いの道を共々に歩んだのです。
ローマ皇帝は、当時の地中海世界を手中に収めた大帝国の頂点に立つ強大な権力、軍事力と、絶大な力を握っている人物でした。正式には、皇帝アウグストゥスの即位をもって始まると言われますが、皇帝礼拝が各地で捧げられていました。強要されました。恐らくその基礎を築いたのはユリウス・カイザー、英語ではシーザーです。彼は暦を太陽暦に改めました。7月を自分の氏族名であるユリウス月と改称させた人物です。ですから7月は今でもユリウスから来るJulyという英語に残っています。カイザーをはじめとする独裁的な軍人政治家は、次々に異民族を征服してローマの属州にして行きました。そういう地域では、それまで支配していた王族から、ローマ皇帝が自分たちを解放してくれたというので、しばしば解放者のようにして神の如くに崇められるという現象が起こったと言われます。無理にもカイザーが崇められるように仕組まれたと言われます。彼の死後、カイザーと同じようにアウグストゥスもそうでしたが、元老院が、皇帝は神になったと公に宣言して、帝国の属州全土に神である皇帝礼拝を強いるようになったのです。皇帝が主であると公に告白する、そのような中で、キリスト者たちは、そうではない、「イエスこそ主なり」と告白をしたのですから、その告白の内容がどれほど大胆で画期的なことであったかということは直ぐに分かることと思います。

四 人は自分が言い表す内容によって、自分もその内容に似たものになります。ローマ皇帝が主であるというなら、ローマ皇帝のその権力的な人間像、あり方が、気が付かない内に、知らず知らず、その人の性格を形作るものとなります。権威を仰いでいるような人間は、権威主義的になります。だから、自分も同じような振舞いを、小さなレベル、範囲でするようになってしまう。あの悪名高き皇帝ネロをはじめとして、歴代のローマ皇帝の権力争いはすさまじいものでした。現代でも同じようなことが行われています。例え血のつながった兄弟でも、容赦なく血祭りにあげました。自分に逆らう者だからです。邪魔になるものなら、その存在を排除してよい、そして抹殺してしまう。
これに対して、イエスを主と告白するということ、罪深い価値のない者のために、自分の命を差し出してくださった方、そのように私たちのために十字架に付けられた方を「わが主」とすることは、どこまでも罪あるものを愛し、赦し、敵である者をも赦して、そのために自らの命を犠牲に差し出された方を、命の恩人であると告白することになります。自分の生き方は、もはやこの方の生き方なしにはあり得ないということを告白することになります。
自分の存在は、この十字架の犠牲の愛の上になりたっているのだということを承認し、それ以外の在り方を選ばないということを意味します。この十字架の愛に報いようとして、新しく生き始めることを意味します。これは敗北主義ではありません。十字架は敗北の美学ではありません。私たちのために十字架につけられた方は、私たちに先立って甦った方、だから、先ほどのロマ書10章10節にも、イエスは主なりという告白は、それは、この方が復活したのだということ、死者の中から甦えられたのだということを告白することだと、同時に述べているのです。私たちの主イエスは、すべての敵、最後の敵である死にすら打ち勝った方、究極の勝利者であるという、まことに力強い賛美の告白だったのです。

五 私たちには口が備えられています。この口は何のためにあるのでしょうか。神を呪うためでしょうか。こんな私に誰がした、と文句を言うためでしょうか。人を呪うためでしょうか。人と争うためにこの口があるのでしょうか。そうではありません。
神を賛美するために、そして、私たちと共に造られたもの、言葉で言い表すことはできないけれども、囀りによって、あるいは、花の色によって神様を賛美しているすべての造られたものと共に、この神を賛美するため、言葉で賛美するために造られているのです。
自分の内側にどうしてもねじ曲がってしまうような、この私たちのひねくれた心を解きほぐし、真っ直ぐにしてくださる、それゆえに義としてくださる神の救いの業に、感謝するためにこそ、私たちの口は与えられているのです。このイエスこそ、十字架につけられたイエスこそ、主である、と口で公に言い表すこと、これが私たちに口を与えてくださった、舌を与えてくださった神の御心なのです。
イエスは主なり、十字架に付けられたこの主こそ、私たちの主であると告白することが、私たちの汚れた唇を清めることへつながるのです。信仰の告白は理性や知識の問題だけではありません。それは私たちを本当に愛してくださっておられる方のその愛を受け止める私たち存在全体の問題です。

六 新約聖書にはもう一つ、短いながら、最も美しい信仰告白だといわれるものがあります。ヨハネ伝の最後に出て来る疑い深いトマスの信仰告白です。トマスは、復活の主が他の弟子たちに現れた時、残念ながらその場にいませんでした。だから彼は主の復活を受け入れることができませんでした。実際にキリストの手に釘の跡を見、自分の指をその釘跡に入れて、自分の手をその脇腹に入れてみなければ、自分は決して信じないとまで口にした弟子です。
そのトマスに主が現れました。そしてトマスに向かって語り掛けます。「トマスよ。お前がそんなに信じられないなら、あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じないものではなく、信じる者になりなさい。」その言葉を聞いて、思わずトマスの口をついて出たのが、「わが主よ、わが神よ」、この短い信仰告白です。
その時、トマスは分かったのでしょう。主はそこまでして自分を信じる者にしようとしている。自分の釘跡、脇腹に触れてみよ、さらに痛みは倍加するでしょう。しかし、そこまでして不信仰な自分を信仰へと呼び戻そうとしてくださっている。このねじ曲がっている私の心を捉えようしてくださっている。その手の釘跡、脇腹、そのすべてが十字架の愛の表れだとしたら、まさにそれはこの疑い深い自分のためだったということを、主は分からせようとしておられる。そのことを知った時に、彼のこのねじ曲がった疑い深さは吹き飛んでしまったのです。主の愛の激しさがトマスのねじ曲がった疑いを木っ端みじんに打ち砕いたのです。

七 単なる口での告白ではないかと多寡をくくってはなりません。口で公に言い表すということは、生き方においてひとつの明白なケジメを付けるということです。古代教会で洗礼を受けるというそのときに、正に信仰の告白が言い表されました。古代教会で洗礼を受けるときは、たいていイースターの朝でした。最初の朝日を迎えるその明け方に行われます。受洗者は西に向かって立って、訣別の息を思い切って吐き出します。西というのは日が沈み、暗黒と死の夜の闇が支配する方角です。そして口でこう言い表します。「サタンよ、私はお前と訣別する。もはやお前の奴隷ではない。」そして受洗者はくるりと身を翻し、東の方角に向かいます。夜明けの太陽であるキリストに向かって、今度は口で信仰を言い表し、新しい生命の息吹を吸うのです。
「サタンよ、退け。私をねじ曲げる罪の力よ、お前はもう私の主ではない。今日からはキリストが私の主である。イエスが私たちの主である。だから私たちはこの主のものである。生きる時も死ぬ時も、私はそこに唯一の慰めを見出している」と、そう告白するのです。そのためにこそ、主は口を私たちに備えてくださいました。もちろん、私たちの口をついて出るのは依然として汚い言葉かも知れません。そうであればあるほど、私たちは週の初めの日にここに集まって、主の御前で「あなたこそ主です。わが唇を清めたまえ」と告白し、祈るのです。今こそこの信仰の言葉をもって、私たちの新しい生き方をもう一度始めたいと思います。
「主の名を呼び求めるものは、誰でも救われる」。祈りましょう。

主なる御神。
私たちは唇の汚れた民です。せっかく与えられましたこの口で、あなたに不満をぶつけ、あなたの与えて下さった隣人に、毒のある言葉をぶつけてしまいます。赦してください。
しかし、あなたは今朝私たちを御前に集めて下さり、聖霊によって清め、私たちの唇にあなたを賛美し、告白する言葉を備えて下さいました。どうか勇気をもって、あなたこそが私たちの主であり、生きる時も死ぬ時も唯一の慰めであると告白させてください。どうか唇の汚れた民の中に住む私たちを清めて、世へとお遣わしください。あなたの愛を携えて、隣人に愛の言葉を語るために、十字架の愛で私たちを満たして世に遣わしてください。

主の御名によって祈ります。アーメン

20170611 主日礼拝説教  「恐れから自由になる」  山ノ下恭二


(イザヤ書48章7−9節、マルコによる福音書14章43−52節)

 私はとても怖い思いをしたことがあります。今でもその時のことはよく覚えています。私は2014年4月に牛込払方町教会に赴任しましたが、その前は25年間、さいたま市にある東大宮教会に在任していました。ある年の夏、中高生の夏期学校を群馬県の榛名山の山奥の施設で行ったことがあり、そこで経験した時のことです。その宿舎は管理棟が廃校になった小学校にあり、昼間は2、3人の職員がいましたが、夜は誰もいませんでした。私の他の生徒や教師は廃校になった小学校に校舎から約100メートル離れている別棟のバンガローに泊まりましたが、私だけ廃校になった小学校の校舎の二階の簡易 ベッドで休むことになりました。私が廃校になった校舎の二階で休むことになったのは、私が静かなところで休んだらよいと校長が判断したのだろう、と思います。廃校になった小学校の校舎はとても広く、二階は4教室あり、電気もなく、真っ暗なのです。この校舎の中にいるのは自分だけと思うとだんだん恐ろしくなってきました。心細いので懐中電灯をつけて、本を読んで、この一夜を過ごしましたが、広い校舎に自分が独りでいることが怖かったのは確かです。真っ暗な中で、独りぼっちでいることの怖さを経験したのです。

 新約聖書の冒頭にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと言う4つの福音書がありますが、マタイ、マルコ、ルカの福音書は、記事がよく似ています。言葉遣いまでそっくりである場合もあります。そこで並べて三つ一緒に観ることができるので、共観福音書と呼ぶのです。この三つの福音書の中で、マルコによる福音書が最も早く書かれたのです。このマルコによる福音書を参考にして、マタイによる福音書、ルカによる福音書がまとめられたのです。
 
 今日、この礼拝で読みましたマルコによる福音書14章43−52節の記事はマタイ、ルカ両方の福音書に記されています。マルコもマタイもルカも言葉遣いも同じで、同じことを伝えています。ただ、よく注意して読み比べてみると、マルコによる福音書にしか書かれていないことが記されていることに気づくのです。それが、14章51、52節の言葉なのです。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」主イエスを捕らえるためにやってきた一団の群衆が自分に近づいて来たので、一人の若者が恐ろしくなり、自分が捕まるかも知れないと思い、慌てて急いで逃げたのです。

 この51節、52節の言葉はマタイによる福音書とルカによる福音書にはありません。なぜ書いていないのでしょうか。マルコの記事を参考にして、マタイ、ルカの福音書記者はそのまま書き残しても良いと思いますけれども、書いていないのです。なぜ書いていないか、それはよく分からないのです。しかし、マルコによる福音書の記者は大切なこととして書き残したに違いないのです。

 このマルコによる福音書は紀元後、54年ごろにロ−マで書かれたと言われています。礼拝毎にこの福音書が朗読されたのです。主イエスの弟子たちもその礼拝に出席して、この福音書のみことばを聞いていたのです。この51節、52節に出て来る若者が誰であるか、よく分かっていたのではないか、と思います。私はこのところを読むたびに、ひとりの若者が裸で逃げたことなどどうして書かなければならないのか、その理由が分からなかったのです。名前も記されていないし、裸で逃げてしまった、とあるのでどのような意味があるのか、分からなかったのです。この若者とは誰なのでしょうか。調べてみると、主イエスが最後の晩餐を弟子たちの家の二階で行ったのですが、これがエルサレムの教会のひとつの集会の場所になり、この家がマルコと呼ばれる若者の家であったと言われているのです。このマルコはペトロの通訳者として活躍し、やがて迫害の時に、殉教の死を遂げたと言われています。
 
 「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」「素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。」と言うのは、寝間着を着ていたのです。

 それはある学者の推測によると、次のように説明しています。主イエスと弟子たちがマルコの家で晩餐を摂り、ゲツセマネに赴いたのです。家にいたマルコは寝るつもりで寝間着に着替えたのです。ところがいつもと違って主イエスと弟子たちはゲツセマネに行ってしまうので、マルコはあとをつけると、このゲツセマネで主イエスを捕まえようとユダに率いられた大勢の群衆が押し寄せて来たのです。マルコも主イエスの仲間だと思われるかも知れないと思い、逃げたのです。人々が自分をめがけてやってくる、捕まったら大変だ、とマルコは逃げるのです。逃げた時に、亜麻布だけ捕まえられていたのを振り払ったために、素裸で逃げることになったのではないか、と推測するのです。
 
 この話が福音書の中に収められ、教会の礼拝で、読まれたのです。マルコと言う若者が、主イエスが捕まった時に、捕まりそうになって逃げたことを、人々は聴いたのです。一人の若者が捕まったら自分はいのちの危険があるので恐ろしさの余り、逃げた話を最初の教会の人々は礼拝で聴いたのです。人々はマルコは逃げるような弱い者だ、と軽蔑の思いをもって聞いたのではありません。恐れをもって逃げた、その姿を思い浮かべながら、深く同情し、この話を正直に残したことに心が動いたのです。

 主イエスを捕らえようとした群衆はかなり多かったと思います。マルコはその人々を観るだけで恐ろしくなったと思います。しかも、捕まえられて、自分がどうなるか、分からないと言うのは不安であり、恐怖なのです。
 
 私たちも恐怖に襲われます。私たちも小さな恐怖をもって過ごしているのではないでしょうか。私は高いところは苦手です。東京タワー、東京スカイツリーの展望台から下を見おろして眺めるのは苦手です。高所恐怖症と思います。

 いのちの危機に直面するときに、私たちは恐怖を抱くのです。私は教会員が病院で手術をする前に行って、祈ることをしたことがありますが、それで恐怖心が和らぐことがあるのです。手術を受ける前はとても心が動揺しているのです。暴力を受けて、トラウマを持つと、人と付き合うことに恐怖心をもってしまうことがあります。私たちは小さな恐怖に脅かされているのです。

 マルコと言う若者は逃げたのです。それは怖かったからです。弟子たちはもっと怖かったと思います。弟子たちは主イエスの仲間であり、主イエスと一心同体であり、主イエスの弟子であることが分かるならば、自分たちもどうなるか分からないのです。捕まえられて、裁判を受けるかも知れないし、ひどい扱いを受けて、暴力をもって虐待されるかも知れないのです。
 
 この時代、エルサレムに巡礼に来た人々は武器を持っていたと言われています。旅の途中に強盗に襲われることがあるので、自衛のための武器を持っていたのです。居合わせた人々の内のある者が大祭司の手下に打ってかかってその耳を切ったとあります。それは武器をもっていたからです。そしてそれは、主イエスを守ろうとして武器を出して打ったと言うよりは、慌てふためいて、恐怖のあまり剣を抜いたのです。剣を抜いたのはやはり怖いからです。武器は相手を威圧するだけではなく、武器を携帯していたのは、自分が恐怖を持っているからです。恐れに満ちた人々が主イエスを取り囲んでいたのです。

 この時、それは暗い夜であったのです。闇に包まれています。そして主イエスを捕らえに来た人々も恐れという闇に支配されていたのです。

 主イエスはこのような闇に包まれており、主イエスを捕らえようと多くの群衆が主イエスを取り囲んでいたのです。14章48節に、主イエスはこれらの人々に向かって、語られた言葉が記されています。

 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。」人々は自分の身を守りながら力ずくで主イエスを押さえつけるために武装してやってきたのです。主イエスが「まるで強盗のように」と語っていますが、群衆は闇に乗じて自分の思いを果たそうとするのです。それに対して、主イエスは闇の者ではなかったのです。主イエスを取り囲んでいるのは、恐れと言う闇に支配されていた人々です。しかし、主イエスは、明るい光のもとで、神殿でひたすら神の教えを説いたと語るのです。主イエスは、神のみこころに従って、神の福音を説いたのです。主イエスには少しも人間的な思いは持っていなかったのです。ひたすら神の支配、神が愛をもって支配していることを人々に語ったのです。
 
 闇の力が支配する中で、主イエスは闇の中にいないのです。主イエスはただ神のみこころを行うだけです。神の光の中に主イエスはいるのです。群衆はその光の中にいる主イエスを捕らえることができなかったのです。しかし、捕らえに来た人々に力をもって抵抗したり、すきがあれば逃れようとはしなかったのです。人々に捕らえられたのです。これも、聖書の言葉が、実現するためだと語るのです。
 
 群衆が主イエスを捕らえようと、策謀し、共謀していく中で主イエスは御自身の使命に忠実に歩まれるのです。「聖書の言葉が実現するためである。」「聖書にかいてあるとおり」主イエスは十字架の死へと向かうのです。

 最初の伝道者であるパウロは、コリントの信徒への手紙一 15章3節以下で「聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」と語っています。
 
 主イエスが捕らえに来た人々に抵抗せずに、捕らえられたと言うことは、聖書が語っている神のみこころが実現するためです。ここで、行われているのは神のみわざです。神のみわざが断固としてここで貫かれているのです。主イエスはここで捕らえられることによって、わたしは、その神のみわざに今生きると言われるのです。

 多くの人々に囲まれて捕らえられそうになり、弟子たちやこの若者は恐ろしくて逃げてしまったのです。主イエスが捕らえられた後、50節で「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と短く書かれています。しかし、主イエスがこの恐れの中で、その恐れと戦ってくださっているのです。
 
 裸で逃げた若者はマルコであったのです。ゲツセマネで主イエスを捕らえに来た群衆に自分が捕まりそうになって一目散に逃げた、それは恥ずかしいことで誰にも話すことではないのです。しかし、マルコは隠すことなく、この福音書に裸で逃げたことを書き残したのです。自分の弱さ、自分が捕まりそうになって怖かった、そのことを書き残したのです。

 それは、十字架で死んで、甦った主イエスと出会ったからです。死と罪に勝利した主イエスが私たちの直面する恐れと戦ってくださることを知ったからです。自分が裸で逃げた話をみんなに話すことができたのです。自分はこの時、怖かったのだ、恐れにとらわれて一目散に逃げてしまったのだ、そのように自分の人間としての弱さ、至らなさを人々に話すことができたのです。そのような話をしながら、マルコはペトロの通訳者として伝道の旅に同行して、各地でキリストのよい知らせを、キリストの十字架と復活の福音を、伝えることができたのです。それは、キリストが自分を愛している、どのような時にも、見捨てないで、愛していることを魂の深いところで信頼していたからにほかならないのです。
 
 キリストの愛の中にいる時には恐れはないのです。愛は恐れを取り除くのです。神に愛されているので、私たちには恐れはシャットアウトされるのです。喫茶店、カフェには喫煙の場所と禁煙の部屋とは区別されているところが多いですが、禁煙ル−ムに入ってしまえば、たばこの煙はシャットアウトされるのです。煙を気にしないで、安心してコ−ヒ−を飲むことができるのです。

 神が自分を愛しておられることを私たちが信じるならば、恐れはシャットアウトされるのです。キリストが共にいてくださるからです。

 私は本日の説教の準備をしていた時に、「聖パトリックの祈り」の言葉を想い起こしました。

 2014年4月に私は牛込払方町教会に着任したのですが、4月6日の礼拝がこの教会での初めての説教でした。この時の礼拝説教において紹介した讃美歌について教会の姉妹が早速、調べてくださり、その讃美歌が「聖パトリックの祈り」と言われるものであることが分かりました。聖パトリックは、5世紀にアイルランドにキリスト教を伝えた聖人で、カトリック教会では命日が3月17日であることから、この日を「聖パトリックの日」としています。「聖パトリックの祈り」とは次のような祈りです。
 
 「キリストは私と共におられる キリストは私の内側におられる キリストは私の背後にも 私の前にもおられる キリストはわたしの傍らに立ち 私をとらえたもう キリストは私を慰め 回復させてくださる キリストは私の上にあり 私の下におられる キリストは平安の中にも 危険の中にもおられる
キリストは私を愛してくれる皆の心の中にもおられる キリストは友の口にも
異邦人の口にもおられる。」

 この祈りが「聖パトリックの祈り」であることを知らせてくださったこの教会の姉妹は次のように書いています。「パトリックの祈りの言葉で最も私の心に響いたのは、「キリストは私の上だけでなく、下にもおられる」と言う言葉と、そして、「キリストは友の口にも 異邦人の口にもおられる」という言葉です。祈りあうことのできる兄弟姉妹の口ばかりでなく、心許すことのできない人の口にもキリストがおられるという信仰告白は、意に沿わない状況においても、常にキリストを求めてやまないパトリックの謙虚さを伝えつつ、まさに異邦人のただ中に身を置いたミッションの厳しさを伝える言葉であると思うのです。」

 キリストが共にいてくださるので、私たちは恐れることはできないのです。
ヨハネの手紙一 4章18節(p446)のみことばを読みます。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを閉め出します。」「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを取り除く。」

20170604 主日礼拝説教  「神のみこころを求める祈り」  山ノ下恭二


(ヨナ書4章1−11節、マルコによる福音書14章32−42節)      

 私たちの人生にはそれぞれ、転機となる時があります。私にとって人生の転機になったのは、高校2年生の時でした。高校2年生の秋までは、小学校の教師を目指していました。ある日曜日に教会の礼拝に出席していて、一つの転機が訪れたのです。そのころ、所属していた鹿沼教会の高崎隆牧師は結核が再発して、滋賀県の近江サナトリウムに入院することになっていました。病を押して説教を一所懸命に語る牧師の姿に感銘を受けて、自分も多くの人々に福音を語る者になりたいと思うようになりました。しかし、そこには迷いがありました。それは、伝道者の生活は容易なものではなく、困難があり、厳しいものであると聞いていましたし、神学校に行くにしても勉強についていけるか、という不安をもっていました。地元の大学に行き、小学校の教師になれば安全だと思っていた者にとって、牧師になる道はハ−ドルが高いと思っていました。どちらを選んだら良いのか、迷っていました。近江サナトリウムから帰って来られた高崎牧師に、小学校の教師になるために大学の教育学部を受験したら良いのか、あるいは伝道者になるために神学校に行くのが良いのか、どちらを選ぶのが良いのか、迷っていることを打ち明けました。そうしたら「やりなさい、神学校に行きなさい」と言ったのです。
 
 伝道者になることを決意し、神学校に行く決断をすることは大きな苦しみを伴います。ある牧師は、大学卒業後、銀行に勤めていましたが、朝早くから夜中までとても過酷な毎日を過ごしていて、銀行を辞めて神学校に行きたいと牧師に話したところ、なかなか返事がなかったそうです。その間、奥さんがこの青年に「牧師はとても苦しんでいるから、もう少し、時間をください」と言ったそうです。しばらく後に返事があって「私は神学校に行くのは反対だ」と言われたそうです。「銀行が嫌だから、神学校に行くと思えてならない、別の意味で牧師の仕事と生活は厳しいものだから、しばらく考えたほうが良い」と言われたそうです。この牧師は、確かに、自分の人間的な思いで伝道者になるのは良くないと考え、自分を神は伝道者として召されているかどうか、それとも一般の職業で生活をして行くのか、時間をかけて祈り、神が自分を召していると言う確信を与えられたので神学校に行くことを決断したそうです。

 私たちはどちらの道に行くのか、分かれ道に立つのです。私たちはどちらの道を選ぶのか、分かれ道に立つのです。

 主イエスには生涯の節目、人生の転機と呼ばれる時がありました。一つは、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時です。洗礼を受けた時に、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1章11節)と言う言葉があったのです。それまでしていた仕事を辞めて、この時から主イエスは神の国の福音を宣べ伝え始めたのです。弟子を集め、病を癒し、神の国の譬えを語り、貧しい人々と共にする交わりをもったのです。洗礼を受けることによって、主イエスは、ナザレでの生活から、神の国を宣べ伝える者へと転換をしたのです。その意味で、主イエスが受けた洗礼は主イエスにとって一つの大きな節目、転換、人生の転機になったのです。
 
 主イエスが洗礼を受けた直後に、主イエスは大きな試練を受けたのです。このことも主イエスにとって大きな節目、人生の転機となりました。それは「荒野の誘惑」です。荒野で主イエスは悪魔によって試みを受けたのです。試練を受けたのです。悪魔の誘いに応じ、悪魔が語ることに同意し、従うのか、それとも退けるのか、主イエスは試されるのです。主イエスは一つの分かれ道に立つのです。悪魔は人々が望んでいる救い主になるように誘うのです。人々は石をパンに変える、そのような経済的に豊かな生活ができるための救い主を待ち望んでいました。また、力ある政治指導者を待ち望んでいました。そして、お金を持つことによって、自分の欲しいものが買えるような豊かな社会を待ち望んでいたのです。しかし、主イエスは悪魔の誘惑を退けたのです。主イエスは人間が求めていることを叶える、この世の救い主ではないことをはっきりと示されました。そして、神のみを礼拝し、仕えよ、と言って悪魔の誘いを退けたのです。                          
 
 本日の礼拝で皆さんと共に聞きましたマルコによる福音書14章32−42節はゲツセマネと言う場所で主イエスが祈るところです。この祈りの場面が主イエスの生涯の節目、転換点となります。

 主イエスは洗礼を受けた時に、神から主イエスが神の意志に適った者であると確証をもらったのです。そして辺境のガリラヤ地方を巡回したのです。そしてエルサレムに向かう途中で、主イエス自身が自分が苦難を受けて死に、復活することを3回も予告して、いよいよ、自分の死が近づいていることを感じていました。主イエスに苦しみと死が迫っている時に、ゲツセマネにおいて大きな決断をしなければならないのです。

 このゲツセマネの祈りで、主イエスはこの苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈った、と書かれています。14章35節に「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」と書かれています。この言葉について皆さんはどのように思うでしょうか。

 自分の死が迫っている、追いつめられている、その苦しみがなくなるようにと祈っている、それは人間として当然だ、と思うかもしれなません。確かに私たちが死に向き合うことは苦しいことです。 

 東京の秋川というところで、キリスト同信会の秋川集会を主催している友人は毎月、機関誌を送ってくれます。最近、「魂の居場所」という文章を書いています。死ぬということはこの地上で自分の居場所を失うことである、と書いてありました。

 私たちの人生にとって、死ということは、大きな問題です。主イエスは私たちが死に向き合う、その困難さを経験し、苦しんでおられたのです。

 主イエスの苦しみは私たちよりももっと深く、深刻です。それは、主イエスの死と私たちの死とは全く意味が違うからです。事故や事件で不本意な死に直面する人々もいますが、多くの人々は、身体が衰えたり、病気で死ぬ人が多いのです。それは自然な死に方と言うことができるでしょう。
 
 しかし、主イエスは、この時、いまだ人生の途上にあり、人間としては死ぬ必然性はないのです。自分の意志を通して行って生きようとすれば生きられるのです。しかし、神が願っていることは十字架で死ぬことなのです。私たちの罪の犠牲としてご自身の体をささげて死ぬことなのです。神には、主イエスが死ぬことは必然です。それは主イエスの死によって、神が私たち人間を救おうとしているからです。神の意志、神の願い、神の望みがあるのです。              
 太平洋戦争の時に、兵隊になって従軍し、しかも、特攻隊で敵の軍船に体当たりする前の兵士たちが書いた手記を読んだことがあります。その中の一人の兵士は、お国のために死ぬことを納得して受け入れていたと言うよりは、自分の死を受け入れられないで苦しんでいることが記されていました。この手記を読んで、私はこの時代に生きたこの若い兵士を気の毒と思い、理不尽な死、不条理な死を受け入れることは苦しいことであったことを知らされました。主イエスの死は、自然な死ではなくて、理不尽な死、不条理な死であり、神の審判を受けて死ぬ、まことに厳しい死なのです。
 
 かなり前のことですが、冤罪事件として足利事件と言うのがありました。足利事件で幼児を殺害した罪で、無期懲役で17年も刑務所で服役した菅家利和さんが、宇都宮地方裁判所で再審の結果、無罪の判決を受けたのです。自分が罪を犯していないのに、犯人とされ、それだけでなく、冤罪であるにもかかわらず、17年以上も懲役刑に服さなければならなかった、その苦しみは大きく、長期間、辛い思いで過ごしてきたに違いないのです。

 主イエスは罪のない方であったにかかわらず、罪ある者と扱われ、そして死ぬのです。他の者のために自分が苦しみを受けなければならない、そのような苦悩を負うのです。         
 
 マルコによる福音書14章33節に「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。』」と記されています。私たちはできることなら、苦しいことを避けたい、逃れたい、と思うのです。主イエスは私たちと同じように完全に人間であり、肉体をもって生活をしているので、この苦しみが過ぎ去るようにと願ったのです。  

 主イエスが十字架に架けられた時に語られた7つの言葉を思い起こします。
十字架の上での7つの言葉の中で一番、衝撃的な言葉は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う言葉です。主イエスは十字架に付けられて、詩編22編を暗唱していました。この詩編22編1節の言葉を叫んだのです。神が自分を見捨てたことを訴えています。神に最も近い存在でありながら、この時、神から遙かに遠い、離されたところにいなければならなかったのです。主イエスは本当の孤独を経験するのです。神だけが自分のことをわかってくれる、神だけが自分を受け入れてくれている、そのように信頼していたのに、神が自分を見捨てた、神が自分を見放したと思うのです。そこにこそ主イエスしか経験しない深い孤独があります。主イエスの苦しみは私たちのためなのです。私たちのために苦しんでくださるのです。

 14章36節には「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになられます。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」主イエスは神の意志、御心をよくわかっています。しかし、主イエスは自分が死ぬことによってではなく、別の方法で、神の御心を表すことはできないか、と思ったのです。神の意志に従うことに困難を覚えたのです。自分の思いを通すのか、それとも自分の意志よりも神の意志を優先するのか、で悩んでいるのです。

 主イエスが悩み、その苦しみを叫んだ方であることはヘブライ人への手紙5章7節で語っています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら御自分を死から救う力ある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに、きき入れられました。」(p406) 

 この説教のために黙想をしていて、思い起こした聖書の言葉があります。それはヨハネによる福音書12章24節に記されている言葉です。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(p192)ある解説書にはここで、一粒の麦が地に落ちる、と一般には言うけれども、植物には「地に落ちて死ぬ」と言う言い方はしないと解説しています。主イエス御自身を一粒の麦に譬えながら、そこで御自身の死を特に心に留めて「一粒の麦は、地に落ちて死ぬ」と語っているのです。私たちと同じように悩み、苦しみながら、しかし、主イエスは決断するのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。神の意志に従うことを主イエスは決断します。

 このゲツセマネでの祈りにおいて主イエスは神の御心に従うことを決断します。そして、十字架へと向かい、私たちの救いのために、御自身を犠牲にしてささげ、私たちの罪の贖いとなってくださったのです。神の御心に従うことによって私たちに救いが与えられました。神の独り子を私たちのために犠牲としてささげる神の愛を受けた私たちは、神の御心に従うことが求められているのです。
    
 私たちは主の祈りを祈ります。主の祈りの三番目の祈りは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」です。新共同訳聖書では「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と訳されています。原文に沿って翻訳しますと「あなたの意志がなりますように、天にあるように地においても」です。「御心」と訳されている言葉はギリシャ語では「セレ−マ」です。この「セレ−マ」は「意志」「望み」「思い」と訳されています。「あなたの意志が実現しますように」「あなたが望んでいることが実現しますように」「神の思いがなりますように」と訳すことができます。
 
 神が私たちに求めている生き方は、「神の意志が、神が望んでいることが実現するように」と言う願いをもって祈り、実践することなのです。しかし、私たちはこの願いをもって祈り、実践することよりも自分の願うことを祈り、実践しているのです。自分にとって益になるか、自分にとって得になることをいつも求めているのです。それが罪なのです。
 
 聖学院大学でキリスト教概論の初めの3回の授業は、キリスト教を学ぶ意味について話すことになっています。キリスト教のことを学ぶとどんな良いことがあるのか、を挙げて話しました。キリスト教を学ぶと美術館での絵画がよく分かる、西洋の哲学や思想を理解することができる、人間関係が良くなる、そのようなことも教えました。その時に思ったことは、御利益があることを宣伝しているような思いを持ったのです。「キリスト教を学ぶとどんな良いことがあるのか」と言うのは、自分を中心に考えていることになります。私たちは「御心が行われますように」と祈るのが基本なのです。

 神の御心とは、私たちが神をまことの神として礼拝し、愛し、隣人を愛することにほかならないのです。そのことを中心に生きて行くことです。
 
 深井智朗牧師の「プロテスタンティズム」に「説明責任」と言うことがキリスト教の信仰から起こったものであることが書かれています。この本のp185
に次のように書かれています。

 「アメリカの企業では、アカウンタビリティという言葉がしばしば用いられる。日本では説明責任性と訳されるが、企業や学校は常に自らの業務について説明責任性が求められる。そしてこの原則は、説明できないことはしないという行動の基準や倫理性を生み出す。これも新プロテスタンティズム的なセンスであろう。アカウンタビリティとは神学用語である。神の前での最後の審判において、人間が天国行きの最終決定を受けるための、自分の人生についてのアカウンタビリティである。神の前に自分の人生を説明してみせるのである。神はそれに基づいて判断するのであるが、人間にとっては、この時に神の前で言えないようなことは自分の人生の中で、さまざまな決断の際しないことになるので、まさに人間の行動の倫理的な規範になる。それだけではない。これはまさに最終的なアカウンタビリティであるが、ピュ−リタンは毎日、信仰日記というものを書くようになる。そして自分の一日の生活を振り返るのである。これもアカウンタビリティである。いわば、この信仰の習慣の世俗化版が企業のアカウンタビリティなのである。」

 神の前に、自分の生活が神のみこころに従っているのか、神に対して説明することを求められているのです。あなたは、神を愛し、隣人を愛することを志して、過ごしていますか。それとも、自分のことを優先して、自分の思い通りに生きようとしていますか。神を愛し、隣人を愛する、そのことに根拠をおいて行動しました、と神に説明することができるように、神のみこころを求めて祈る者でありたいと思います。


20170528 主日礼拝説教 「真実な礼拝をささげる」 山ノ下恭二


(申命記4章14−19節、ロ−マの信徒への手紙1章18−32節、ハイデルベルク信仰問答・問96−98)

  東大宮教会に在任していたある時、教会の礼拝堂を見学したいと言う婦人を礼拝堂の中に案内しましたところ、「何にもないんですね」と言いました。この婦人は礼拝堂にキリストの姿をかたどった像やキリストの絵が一つや二つはあるかと思ったのでしょう。しかし、礼拝堂にキリストの像や絵がないので、「何もないんですね」と言ったのです。初めてこの礼拝堂に入った人も、不思議に思った人もいると思います。それはこの礼拝堂にキリストの姿をかたどった像や絵が一つもないのです。なぜ、ないのでしょうか。

 十戒の第二戒は「あなたはいかなる像を造ってはならない」です。口語訳聖書では「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」です。

 しかし、「神の像」があったほうが私たちにはわかりやすいのです。神がどのよう方なのか、像があれば把握することができるのです。例えば、まだ実際に会ったことのない人と電話で話していて、この人はどのような人なのか会ってみたいと思うことがあります。相手について具体的にイメ−ジを持つことができれば、相手を把握することができます。実際に会わなくても、その人の顔写真があれば、相手のことがよく分かるのです。

 神を信じる、神を礼拝すると言うけれども、私たちはどのような神であるのか、自分で把握したい、この目で神を見たいと思うのです。神がどのような姿をしているのか、見たいと思うのです。

 口語訳聖書は「自分のために、刻んだ像を造ってはならない」と翻訳しています。新共同訳と違って「自分のために」という言葉があります。像を造るということは自分のためなのです。自分に都合が良いから、自分の役に立つと思うから、偶像を造るのです。なぜ像を造るのか。私たちの理解の枠内に神を取り込んだり、神を利用することができるからです。自分のために自分のための神を造るのです。自分の想像で神の像を刻むのです。神は逞しい神であって欲しいと言う願いをもって、逞しい牛の像を神として刻むのです。その偶像は神と同じものでないにもかかわらず、神としてあがめることになります。神を固定して、そこに安置して神の居場所を決めることになります。偶像を造ることによって神を目に見える、手で触れることができ、自分の手もとにおいて確かめることができるのです。

 旧約聖書にはイスラエルの民の長い信仰の歴史が記されていますが、イスラエルの民が神の前で、神に対して正しく歩んだか、どうか、その判断の基準は偶像礼拝をしたか、しなかったかによるのです。イスラエルの民がこの十戒の第二の戒めに忠実であったか、どうかが、問われたのです。
 
 やがて預言者が登場します。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言の言葉が記録されますが、その表現はそれぞれ異なっていますが、ほとんどの預言者が「偶像を拝むな」と言い続けたのです。預言者がそのように言わなければならないほど、イスラエルの民は偶像礼拝をしてきたのです。イスラエルの民は信仰をもっていない集団ではなかったのです。神にいつも心を向けていくのが当然である人々の中で、偶像に心が引かれる罪の思いがあったのです。預言者が語る審きの言葉は、神の民の偶像礼拝の罪を審き続けたのです。

 偶像について語っている最も印象深い預言者の言葉をあげるとすると、イザヤ書44章9−17節です。(旧約p1133)この言葉は偶像礼拝をしている者に痛烈な皮肉を語っている言葉です。一本の木を育て、自分が育てた木ですから、自分が好きなように使うのです。その木を切って薪として身を暖める、そしてパンを焼く、お腹がいっぱいになった、満足だ、もう一つ足りない、そうだ神が足りない、神がいれば最高だ、そこで薪として使い残した木を彫って、神の姿として、その前にひれ伏すのです。ひれ伏して何と言うのか。「お救いください。あなたはわたしの神。」ひれ伏してはいないのです。「あなたはわたしの神、われわれの神として祀ってあげるのだから、私たちの言うことを聞きなさい。」預言者イザヤは偶像礼拝の罪を問い続けるのです。
 
 イザヤよりももっと厳しい、偶像礼拝に対する批判がハバクク書2章18−19節に書かれています。「彫刻師の刻んだ彫像や鋳像 また、偽りを教える者が何の役に立つのか。口の利けない偶像を造り 造った者がそれに依り頼んでも 何の役に立つのか。災いだ。木に向かって『目を覚ませ』と言い 物言わぬ石に向かって『起きよ』と言う者は、それが託宣を下しうるのか。見よ、これは金と銀をかぶせたもので その中に命の息は全くない。」(旧約p1467)

 偶像の特質は言葉を持たないことです。言葉を持たない物体を偶像とするのです。「口の利けない偶像」、ものを言わない神などは、それこそ何の役にも立たないと思います。しかし、私たちは案外、神がものを言わないほうが助かると思っているのです。神がものを言われるから、罪を指摘され、良心がとがめられることになるのです。これは神の言葉に背くことだと言われるのは嫌だ、神は黙っていたほうが良い、と思うのです。
 
 他の人とのつきあいもそうです。自分に都合の悪いことを言われると「あなたは黙っていなさい」といいます。自分が話している時に、相手が反論すると、「今、話しているのは私だから、あなたは黙っていなさい。」と言いたくなるのです。あなたは話さないほうが良い、わたしの言うとおりにしたら良いと思うのです。あの人はいつも意見を言う、この人は何も言わないで黙っているから良い、と思うのです。偶像はものを言いません。言わないので、自分のほうが勝手に言うことができるのです。

 エレミヤ書10章3−5節(旧約p1195)に偶像に対して厳しい批判が記されています。「もろもろの民が恐れるものは空しいもの 森から切り出された木片 木工がのみを振るって造ったもの。金銀で飾られ 留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず 歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも 幸いをもたらすこともできない。」

 なぜ、神の像を造ってはならないのか。それは神をモノにしてしまうからです。神を木で刻み、一つの像を造る、それはいのちのない物質にすぎないのです。神が人格をもった方ではなくて、ものを言わない、いのちのないモノにしてしまうのです。
 
 ユダヤ人の哲学者マルティン・ブーバーが「我と汝」と言う本で、神と人間との関係、人間と人間との関係は人格的な関係であることを力説しています。私が相手を「あなた」と呼びかけ、相手が「あなた」と呼びかけるのです。

 しかし、人間の社会では「わたしとそれ」の関係であることが多いのです。「わたしとあなた」と言う人格的な関係ではなくて、相手をモノとして扱うのです。相手を一人の人格として扱う、と言うよりも、相手を自分の都合の良いように利用する、相手が自分に役に立たなければ捨てるのです。それは相手をモノとして扱っていることになるのです。私たちも自分を利用される、利用価値が無いときには捨てられる、それは耐えられないことです。

 相手をモノのように扱うのは、相手の立場よりも自分の立場を優先することになるのです。それは相手の人格を無視することになるのです。自分が神を把握し、自分のイメ−ジに合った像を造ることによって自分には都合良く、神を支配できるのです。

 神は言葉をもって私たちに語りかける神です。私たちも言葉をもって互いに語りかけています。それが人格的な関係です。この神は、語りかける神だけではなくて、私たちのために心配し、悩み、私たちのために救い出す神なのです。偶像を造ると言うことは、材料を用いて、神をある一つの形にして像を造り、神の居場所を固定し、そこに閉じ込めることです。
 
 この「像を造るな」というのは、神は自由な方であるのに、神の自由を奪うな、と言うことです。神は自由に動く方であり、どこにでも行くことができるのです。天地を自由に動くことができるのです。人間の都合から言えば、神が自由であるのは都合が悪いのです。神が私たちの自由にならないからです。特定の場所に神を置いて、神にここにいなさいと命じてそこに神がいるならば都合が良いのです。しかし、それは神の自由を奪うことになります。私たちが自由に動き回ることを禁じられて、いつまでもここに座っていなさい、と言われたら、自分の行動の自由を侵害されたと言うのです。

 この戒めの大切なことは、神は自由を持っていると言うことです。神の自由を尊重するということは、神を自分には都合の良いものではなく、人格として重んじていることです。神は私たちの思うようにならないのです。神は私たちが望むようには動かないのです。私たちとは別の、他者です。

 自分の子どもでも親の思うようには動かないのです。親が思うように操作できないのです。子どもも人格をもち、自由な意志を持っているのです。

 像を造るな、ということは、私たちの罪と関わります。相手を自分の都合の良いように従わせるということです。私たちは神を自分の思い通りに操作しようとします。そうなると神が自由な意志をもって動くことは、自分の思いとは異なってきます。それで、神を自分の支配下におき、固定するのです。

 ハイデルベルク信仰問答は宗教改革の時代に作成されました。マリア像、聖人像が教会堂に置かれ、視覚に訴える崇敬の対象として拝まれていたことを批判して、目に見える形で人間が神を把握することによってではなく、神の言葉、説教によって福音を伝えようとしたのです。礼拝堂の中の像をすべて取り払い、神の言葉、説教によって福音を伝えるように改革したのです。

 私は鹿沼教会で幼い頃から高校生の時まで、教会学校の礼拝や主日礼拝に出席していました。その時の礼拝堂は今はないのですが、その礼拝堂の講壇の横の壁にイエス様の絵が掛けられていました。聖画と呼ばれていたものです。イエス様が外で戸を叩いている姿でした。後で分かったことですが、この絵はヨハネの黙示録のみことばに基づいて描かれた絵でした。私は、毎週、毎週、礼拝するたびにこの絵を見ていましたので、イエス様はこういう人だというイメージが自分の中に固定化してしまったのです。髪の毛が長く、細長い顔をした優しそうなイエス様、そのイメージが自分の中に固定してしまったのです。この絵を描いた人の持っているイエス様イメージがこの絵のイエス様になっているのです。

 しかし、主イエスの実像は違うのです。像、絵画、と言うのはイメージを固定してしまうところがあります。イエス様は別の場面では別の表情であったに違いないし、いつも優しく、笑顔が絶えないということではないのです。ファリサイ派の人々との論争では、主イエスは論争をして激しい、険しい表情であったと思いますし、怒った顔をする時もあったでしょうし、疲れた表情を見せることもあったと思いますので、一つの決まった表情ではなかったのです。私たちも様々な表情をしますし、いつも同じ表情ではないのです。その時によって様々な顔を見せるのです。
 
 この第二戒について解説している本に興味深いことが書かれていました。この戒めは教育する現場において応用することができると書いてありました。子どもにレッテルを貼ることを止めることだ、と言うのです。一人の子供と何度か話したり、試験をしたりすると、この子どもはこういう子どもだとレッテルを貼ってしまう、しかし、子どもは変わりうるものであり、成長するものであることを教師はよく覚えておくことが必要であると言うのです。
 
 私たちも一人の人と付き合い、一、二度話してみて、この人はこういう人だとすぐにレッテルを貼って、その人を固定的にしか見ないことがあります。その人の全体を見ていないで、一面しか見ていないのに、こういう人だと決めつけてしまうことがあるのです。しかし、私たちは、多面的なのです。私たち人間は様々な顔を持ち、様々に自由に活動するのです。
 
 神は自由な愛をもって、私たちの救いのために、自分の外に出て、肉体を取り、イエス・キリストとなって、私たちの身代わりとして罪の贖いをなしてくださったのです。神は御自身をキリストという人格をもった人間となり、御自身をささげたのです。神は私たちのために動き回る、自由な神であり、その自由はキリストというかたちを取って神がどのような方であるのかをはっきりと現されたのです。神は私たちを愛する、その愛を伝えるために、主イエスとなって神の愛を明らかにしたのです。

 東方正教会は「イコン」を大切にしています。「イコン」とは「形」と言う意味のギリシャ語です。幼子を抱いたマリアの絵が多いのです。東方正教会はイコンは偶像ではないと言うそうです。ある時、東方正教会からプロテスタント教会に転会して神学校で学んだ女性牧師と、東方正教会について話したことがあります。その時に、イコンについて話題になりました。東方正教会では像と言うのは立体であるけれども、イコンは平面であり、立体でないので、偶像ではないと説明するそうです。しかし、東方正教会はイコンを神と同じように敬いますし、礼拝の対象とするのです。
 
 しかし、私たちの教会は、像や聖画を私たちの礼拝堂に置くことはありません。キリストの像や、聖画を置いていないのです。あるのは説教卓、聖餐卓、オルガン、椅子だけです。
 
 プロテスタント教会は目に見える絵や像を見て、神を拝むのではなくて、神の言葉の説教によって神を拝むのです。神の語りかけを聞き、受け入れることによって神を礼拝するのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問98には次にように書かれています。問い98では「しかし、画像は、信徒のための書物として、教会で許されてもよいのではありませんか。」と言う問いがなされています。この問いに対して「いいえ。わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自分の信徒を物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです。」と答えています。

 私たちは物言わぬ像や絵画によって神に出会うのではなく、神の言葉を聞いて応答するのです。私たちは、目に見える像や絵画によって信仰が支えられるのではなく、神の言葉に聞き、受け入れ、従うことによって魂が支えられていくのです。


20170521 主日礼拝説教 「神の前に生きる」 山ノ下恭二


(出エジプト記20章1−17節、マタイによる福音書4章10節、ハイデルベルグ信仰問答・問94−95)
 
 今年は宗教改革が起こって500年の記念の年で、いろいろなところで記念行事が行われます。この宗教改革の時に信仰問答が多く作成されました。宗教改革者ルターは「大教理問答」「小教理問答」を書きましたし、カルヴァンが「ジュネーブ教会教理問答」を書き、カルヴァンの弟子たちが「ハイデルベルク信仰問答」を作成しました。これらの教理問答、信仰問答に共通して取り上げられ、解説されているものがあります。それは使徒信条、十戒、主の祈りです。この三つは三要文と呼ばれており、この三要文は私たちの教会の信仰にとって要となるものです。
 
 ハイデルベルク信仰問答では、使徒信条の解説の後に、十戒と主の祈りの解説がなされています。そしてこの十戒と主の祈りは「感謝について」と言う項目で解説されているのです。

 主イエス・キリストの贖いによって罪が赦された者がどのような原理で過ごすのか、その指針がこの十戒と主の祈りで示されているのです。それはまことの神を礼拝することと、隣人を愛すること、そして祈ることなのです。

 本日の礼拝で、出エジプト記20章1−17節を読みましたが、ここには十戒が記されています。十戒は私たちキリスト者が生活する基準が記されているのです。しかし、私たちはほとんど十戒を意識して生活していないのではないかと思います。使徒信条や主の祈りは礼拝や教会の集会でいつも唱え、祈っていますので、抵抗なく自分の生活の中にすっと入って来るのです。しかし、十戒はどうしてもなじまない、十戒はなかなかうまく自分の中に入って行かないし、十戒の教えの中に入っていかないのです。それはいったいなぜなのかと言うことです。

 その一つの理由は私たちが十戒について余りなじみがないことがあります。また十戒についての理解が不十分であるということがあるのではないでしょうか。あるいは誤解していることがあるのではないでしょうか。十戒の戒は「戒め」と言う意味の言葉です。戒律の「戒」です。

 私たちは「戒めること」「戒められること」に抵抗を感じるのです。教会においても、自分以外の人について、それは良くないのではないか、と思っても、戒めることに躊躇するのです。皆さんは他の人からこうしたら良いと余り言われたことはないのではないかと思います。

 そして、戒律、戒めと言うのは余り人間が喜ぶものではありません。戒めは自由を奪うものである、戒め、それは束縛するもの、窮屈な思いをさせるものである、と考えるのです。「あの学校の寮は、規則がやかましいので住みにくい」と言うのです。そのような話や自分の体験と戒めと言う言葉とが結び付いて、戒めと言う言葉を聞くと、拒否したくなるのです。これもいけない、あれもいけない、そのような戒めに縛られる生活は窮屈だと思うのです。自分の好きなことをするのが自由だ、縛られたくないと思っていますので、窮屈なことは嫌いなのです。そのようなので、十戒は私たちの生活にはほど遠いものになっています。しかし、生活に規律がないと、人間が一緒に生きていけないので、規則は必要だと思うけれども、規則が好きだとは言えないのです。
 
 キリスト者として生活をしている、それは神に対する感謝を表すものです。神のみこころに適う生活をしていくことなのです。そこには生活の基準が必要です。具体的な基準がないと、具体的な物差しがないと、して良いことと、してはいけないことの区別がつかないのです。洗礼を受けて、自由になった、自由になったから、自分が好きなようにして良いのだ、と言うことではないのです。自由ということは、自分の好きなことをする、と言うことではなくて、神が願っている生活を行うために十戒を身に着けることが必要なのです。
 
 十戒は英語でデカロ−グと言うのです。「デカ」は十と言う意味です。「ロ−グ」は「言葉」と言う意味です。「デカロ−グ」とは、十の言葉と言う意味なのです。十の神の言葉と言ったほうが正確なのです。

 本日は十戒の第一戒を学びますが、私たちは十戒の第一戒は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と教えられてきました。改訂版「こどもさんびか」も十戒が書かれているところで、「(1)あなたには、わたしをおいてほかに、神があってはならない。」と書かれています。
 
 ところがハイデルベルク信仰問答では、第一の戒めが違うのです。どのように違うのか。出エジプト記20章2節と3節を第一の戒めとして数えています。

 ハイデルベルク信仰問答・問92で「主の律法とはどのようなものですか」と言う問いに対して、第一戒が「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と答えているのです。最初に禁止命令があるのではありません。
 
 主なる神が「わたし」と言っているのですが、この「わたし」はどのような「わたし」なのでしょうか。「わたし」と言っている神は「悩みを見、叫ぶのを聞き、苦しみを知って、助け出す神」です。神は心を動かすことのない神ではなく、あなたのために心配し、配慮し、心を遣い、徹夜し、共にいる神です。十戒の最初に出て来る「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだした者である。」奴隷状態にあるイスラエルの民を解放したい、そのような熱意をもって解放した神である、と宣言しています。イスラエルは貧弱で小さな民ですが、神が心引かれてねんごろに愛した、そのような神なのだと宣言しています。
 
 わたしである神が、あなたを解放したので、わたし以外の神を礼拝することはないし、ありえない、するはずがない、そのような期待をしているのです。「あってはならない」という言葉を聞くと、禁止命令に聞こえますが、私たちを信頼し、期待を込めて、あり得ない、するはずがない、と語るのです。

 長く用いてきた口語訳聖書は「あなたにはわたしのほかに神があってはならない」と翻訳されています。いろいろな翻訳ができますが、直訳すると「あなたにはわたしと並べて、(わたしに加えて、わたしに対抗して、わたしを差し置いて)ほかの神々があってはならない。」です。
 
 伝統的に、「わたしのほかに」と言う言葉を、「わたしの顔の前に」「わたしの見ている前で」と翻訳してきました。文語訳では、「わがかおの前に我のほか何者をも神とすべからず」と訳されています。奴隷から解放してくださった神の見ているところで、他の神々を拝むことはない、拝むはずはない、と言うのです。
 
 神の前で生きる、神の見ているところで生きるのです。「神のみ前で」、「コーラム・デオ」、神がみ顔を向け、あわれみ、慈しんでくださるので、その視線を受けているので、この神を差し置いて、他の神々を拝むことはあり得ないのです。
 
 ここで言う「ほかの神々」とは、外国の宗教と言うことではないのです。もっと身近なものです。創世記35章2−4節に次のように書いてあります。「ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。『お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時、わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。』人々は、持っていた外国のすべての神々と着けていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くの樫の木の下に埋めた。」(旧約p59)

 「外国の神々」と「他の神々」とは言葉は違いますが、同じ言葉です。「耳飾り」「耳輪」イヤリングのことで、悪魔除け、お守りのことです。お守りを持ち歩いたり、車にぶら下げたりするのです。小さいけれど、お守りは日常生活では欠かせないものになっています。自分の手もとにおいて自分を守ってくれるものです。人間は不安なので、お守りがあれば安心するのです。お守りを心の拠り所とするのです。お守りは目に見えて持ち運ぶことができる、手頃な神様です。ある時、ある人からキリスト教のお守りがあればください、と言われたことがありますが、それはありませんと答えたことがあります。お守りに頼っていく必要はないのです。それは、わたしはあなたの神、あなたを奴隷から解放し、わたしがあなたを守るからだ、と言うのです。

 「他の神々」とは私たちが日常生活で頼りにしている、小さな神々です。これがあれば安心である、そのような日常の神々です。就職先を決めるのに占ってもらう人がいます。その占いで就職先を決めるのです。悪いことが続くので名前の画数を調べて占ってもらい、名前を変える人もいます。易や手相で将来を知る手がかりとするのです。
 
 運命信仰が広まっています。星座によって自分の生き方を決めるのです。テレビ、ラジオで星座について時々、解説をしていますし、週刊誌には今週の運勢について詳しく解説しています。ウミガメ座の人は今週は外出をしないように、山羊座の人は友だちとお茶するのを控えましょう、と書いてあります。運命信仰、神ならぬ神々が大手をふって人々の心を支配し、占領しているのです。

 申命記4章19節に「あなたは目をあげて、天を望み、太陽、月、星を見るとき、天の万象に誘惑されて、それらを拝み、それら仕えてはならない。」と記されています。

 町を散歩していると地蔵があり、観音があり、様々な神々が並んでいます。そしてある時は神社、ある時にはお寺、とその時の都合に合わせて礼拝の対象を変えても人々は何とも思わないのです。自分の都合によって拝む神を変えていくのです。多くの神々から自分が願っている御利益を求めて行くのです。この神社は安産の神、この神社は受験に効く、この神社は縁結びの神、この神社は厄除けの神、ピンピンころりと死にたいので、ポックリ寺にお参りに行く、このように自分の都合や必要によって神を選び、自分にとって役に立つ神を捜してお参りする、しかし、御利益が無く、効き目がないことが分かれば別の神のところにいくのです。しかし、そうであってはならないと語るのです。わたしが主、あなたの神、と言われる神がわたしたちのすべての生活の主権者です。私たちの生活のすべての領域をこの神が支配しているのです。

 詩編139編は、神がどのようなところでもおられて、この神に自分が知られている、愛されている、その喜びを歌っています。139編8−10節「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(旧約 p979)
 
 この神はどのような時、どのような場所においてもおられるのです。ある場所にしか神はおられないのではないのです。日本の祖先の霊のように、正月と彼岸とお盆の時だけやってきて、歓待を受け、送られて、その時以外は不在であるということはないのです。いつもどこでも神はおられるのです。私たちの生活の全領域において神は主権者として愛をもって支配しているのです。「あなたにはわたしを差し置いて、わたしのほかに神があってはならない」と語るのです。神は私たちをいつも愛し、御自身のいのちさえもささげてくださった神を神とするのです。

 ルターの小教理問答には、この第一の戒めについての問答が記されています。第一の戒め 「あなたは他の神々をもってはならない。」「これは何ですか。答え 私たちはすべてのものにまさって神を畏れ 愛し、信頼するのだよ。」

 ハイデルベルク信仰問答・問94では「第一戒で、主は何を求めておられますか」と問うています。この問いに対して次のように答えています。「唯一のまことの神を正しく知り、この方のみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」この方だけを信頼し拝むのです。この神が私たちの神だからです。

 本日の礼拝でマタイによる福音書4章10節を読みました。主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時に、この悪魔の誘いを退けて「退け、サタン『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。と語りました。主イエスは悪魔の誘惑に対して旧約聖書・申命記の言葉をもって退けたのです。

 悪魔は主なる神以外の神を拝むように誘ったのです。石をパンに変える、それは経済生活がすべてであり、経済の豊かな生活が神になってしまいます。経済生活が豊かであり、富に頼れば何でもできると思う、そうすると神など要らなくなり、神を忘れてしまうのです。

 神殿から飛び降りる、つまり自分がみんなから注目されて自分が神であるかのようになってしまうのです。この世の財産を得るために悪魔を礼拝することを求められる、それはまことの神を礼拝するのではなく、お金を拝むことになってしまうのです。拝金主義者になってしまうのです。
 
 この悪魔の誘惑は私たちの願いを代弁しているのです。この地上でお金をたくさん持ち、快適で便利な生活があり、生活の保障があり、一生こまらない財産を手に入れている、これを望まない人はいないのです。このようなものを手に入れたならば、神など必要がないのです。神を礼拝することはないのです。
                                               
 しかし、主イエスは、このような悪魔の誘惑に対して、まことの神を礼拝せよ、と断固退けたのです。主である神は私たちを深く愛してくださっているのです。私たちはこの神と並んで、この神を差し置いて、礼拝することがあり得ない、あるはずがないのです。

 宗教改革者ルターは大教理問答で「ひとりの神を持つとはどのような意味なのか」と問い、次のように答えています。「ひとりの神とは、人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避ける所とすべき方である。従って、ひとりの神を持つとは、ひとりの神を心から信頼し、信仰することにほかならない。」

 「あなたにはわたしをおいてほかに神があるはずがない。」「あなたにはわたしをおいてほかに神などあり得ない。」のです。

20170514  主日礼拝説教  「愛の決意」  山ノ下恭二


(出エジプト記13章17−22節、マルコによる福音書14章27−31節)

 皆さんの中には、聖書の中で好きな聖書の言葉、愛している聖書の言葉をもっている人も多いと思います。この4月に東京神学大学の入学式と愛餐会に出席しましたが、その愛餐会で新入生が自己紹介をする場面がありました。一人の高齢の婦人が自己紹介をして、自分は年を取っているけれども、「信じる者は何でもできる」と言うみことばを支えにして、この神学校に入ったのでがんばります、と自己紹介をされたのです。4月末に後援会の委員会の時に学長が85歳の婦人の方が入りました、と報告していました。学生には年齢制限がありませんので何歳でも入学できるのです。信じる者はなんでもできる、このみことばに支えられて、この婦人は高齢であっても神学を学ぶことができると決心をしたのです。
 
 昨年は私たちの教会の教会員であった、石井澄子さんと伊集院和子さんとが神に召されて教会で葬儀が行われました。二人とも愛唱の聖句が詩編23編でした。詩編23編が好きな人も多いと思います。詩編23編1−4節「主は羊飼い 私には何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。」 
 
 この詩編は、羊飼いである主なる神が私たちを見守り、死、悩み、苦しみ、という暗闇、危険な場所に遭遇する時にも恐れることはない、と歌い、狼や野獣に襲われる危険な中にあっても、羊飼いが鞭と杖をもって戦うように、主なる神が私たちのために戦ってくださると歌うのです。私たちが信じる神は私たちのために配慮をしてくださる神であるのです。羊飼いが羊のいのちを気遣い、気を配るように、神はひとりひとりに心を使い、心を尽くして、配慮してくださる神なのです。
 
 私たちの人生には思いがけないことが起こります。石井さんと伊集院さんが生きた時代は太平洋戦争がありましたし、戦前、戦後の厳しい時代に伴侶の死があり、困難なことがたくさんあり、苦しみを経験されたと思います。

 その中にあっても神が羊飼いであり、羊飼いである神が守り、どこまでも支えてくださるのだ、と言うこの詩編23編の言葉によって私たちの魂が支えられてきたのです。

 本日、この礼拝で読んだところは、主イエスが受難を受け、十字架の死へと向かっていく時のことが記されています。最後の晩餐を行った後に、オリ−ブ山に向かっている時の出来事です。このオリ−ブ山の麓にゲツセマネの園があり、そこで主イエスは祈ったのですが、この園に向かう途中での出来事が記されています。

 私たちが用いている新共同訳の聖書は小見出しをつけています。口語訳聖書は小見出しを付けていませんでした。小見出しがついているので、この箇所に何が書いてあるのか、読まなくてもすぐわかるから良いと思っている人も多いかも知れません。ここには、「ペトロの離反を予告する」と書いてあります。

 このところを読んでみますと、ペトロが主イエスのことを知らない、と三度言うことを主イエスが予告することが記されています。「ペトロの離反を予告する」ことを中心に説教を展開することもできるのですが、説教のために繰り返しこの聖書の箇所を黙想をして説教の準備をしていくと、大切なメッセ−ジがあることが分かったのです。私の心に響いてきた福音が聞こえてきたのです。

 マルコによる福音書14章22節から26節には最後の晩餐の記事が記されています。主イエスはパンを取って裂き、これは主イエスのからだであると御自身を差し出して弟子たちと食べ、杯を取り、この杯はすべての人のために流される、主イエスの血、契約の血であると宣言して、この杯から飲むのです。この最後の晩餐によって主イエスは御自身の死の意味を明らかにしているのです。それはこの振る舞いによって、私たちの罪が赦されるためであることを明らかにしているのです。

 14章32節からは主イエスが十字架で死ぬことに耐えられず苦しむので、それが神のみこころかどうかを祈りによって解答を得たいと思ってオリ−ブ山の麓のゲツセマネの園に赴くのです。本日、読んだ聖書には、オリ−ブ山に向かう途中の出来事が書かれているのです。

 14章27節で次のように書かれています。「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。』」と語っています。最も新しい訳では「あなたたちは全員がつまずきます」と翻訳しているのです。何につまずくのか。それは次の言葉にあります。「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』」この言葉はゼカリヤ書13章7節の言葉です。主イエスが旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の言葉を引用して、弟子が全員、つまずくと言っている、その内容を語っているのです。

 このゼカリヤ書13章7節の言葉は神が預言者に与えた神の言葉なのです。ゼカリヤ書13章7節には「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。」(旧約p1493)と記されているのです。このゼカリヤ書13章7節の言葉はマルコによる福音書の引用よりも激しい言葉なのです。羊飼いを弓矢で射るように撃ち殺せ、羊の群れは散らされるが良い、と語っているのです。主イエスはこの言葉を引用しながら、御自分が神によって撃たれる、殺される、そのことによって弟子たちの群れはちりぢりになると言うのです。羊飼いは羊を養うために大切な働きをする者です。旧約聖書では、羊飼いは神に立てられた王を指すことがあります。主なる神に対して罪を犯している、羊を養わない羊飼いを弓矢で撃ち殺すことは仕方がないことですが、神の子、罪のない主イエスを殺すことは不条理です。あってはならないことです。

 弟子たちは主イエスによって弟子として召され、主イエスと共に伝道の旅をしていきました。弟子のペトロがいるところに主イエスがおり、主イエスがいるところにペトロがいるのです。主イエスを中心とした共同体ができていたのです。主イエスがいてこの共同体が成り立っていたのです。
 
 羊飼いである主イエスが殺される、そして弟子たちである羊たちはちりぢりになる、そのことを聞いて弟子たちは強いショックを受けたのです。弟子たちはガリラヤ地方で福音を伝え、病を癒し、貧しい人々と交わりを持ち、愛の共同体を形成してきたのです。その主イエスが殺されて、地上にいなくなってしまうのです。この主イエスの言葉に弟子たちは呆然としてしまったのです。

 日本キリスト教団出版局で出している「説教黙想アレティア」と言う雑誌に「牧会者のポートレート」と言う連載しているコラムがあります。少し前ですが、私は依頼されて、1967年から1971年まで東京神学大学の学長であり、阿佐ヶ谷東教会の牧師であった高崎毅牧師について書きました。丁度、東京神学大学で紛争のあった時の学長であり、辞任した後に、東京神学大学に機動隊を導入した、国家に手を貸したことだと教会員から糾弾されて、辞任を余儀なくされ練馬区にある中村町教会に移り、その一年後の6月に、心筋梗塞のために突然、死ぬのです。その年の4月に私はこの教会に転入会して6月には牧師を失うと言う経験をしました。高崎毅牧師を尊敬していましたので、突然の死はとても衝撃的でした。尊敬していた牧師を失ったことで途方に暮れたのです。その時に思ったのは、高崎毅牧師という優秀な神学者を、神は大学や教会でこんなにも苦しめ、死に至るまで苦しめたのか、と言うことでした。この牧師の遺稿集には、高崎毅牧師が中村町教会の牧師就任式に当たっての聖書の言葉が記載されています。フィリピの信徒への手紙2章30節(口語訳)「キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。」

 主イエスがゼカリヤ書13章7節の言葉を引用して、神によって羊飼いである自分が撃たれ殺される、そのために羊である弟子たちがちりぢりになると語ったのを聞いた弟子たちは不安にかられたのです。そして自分たちを支えていた教師を失うことによって、何もかも失ってしまうことを感じたのです。そこでペトロはそのようなことが起こっても、自分はつまずかないと言うのです。しかし、主イエスはペトロが三度、主イエスを知らないと予告すると、そのようなことはないと答えるのです。

 主イエスは、御自分が十字架で死ぬことを予測していました。それは何度も、弟子たちに語っていました。早い時期に語っていたのです。マルコによる福音書8章31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」そして9章30−32節、10章33−34節においても、人々の手に引き渡されて殺されて死ぬことを予告しているのです。
 
 しかし、この死は単なる死ではなくて、私たちの贖いの死であることを主イエスはよく自覚しているのです。ヨハネによる福音書10章11節「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られているのです。羊飼いが羊の命を守るために、御自身の命を捨てるのです。そのことによって私たちの命は守られるのです。そのことによって主イエス・キリストはまことに私たちのための神となられたのです。

 もうひとつ注目すべき主イエスの言葉があります。それは14章28節です。「しかし、わたしが復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤへ行く」と言う言葉です。私たちは「先にガリラヤに行く」「先に行く」と言う言葉に注意を払うことをしないのです。しかし「先立つ」と言う言葉は鍵となる言葉です。確かに主イエスは十字架で死ぬのです。間近にその死が迫っています。そしてペトロや弟子たちは羊飼いである主イエスを失い、途方に暮れ、自分たちがこれからどうなるのか、わからない不安をもっています。恐怖に襲われ、希望を失いつつあったのです。暗闇の中に入って行くような思いをもっていたのです。
 
 しかし、主イエスは神によって復活することを語り、復活を視野に入れて、死んだ後に復活することを語ります。主イエスは十字架の死で終わるのではなく、復活の後に、ガリラヤで弟子たちに会うために先立って行くと言うのです。

 死、と言う現実があります。しかし、死を突き破っていのちの再会をすることができるのです。主イエスの死によって主イエスと弟子たちとの共同体は失われます。そして弟子たちはちりぢりになります。しかし、神は主イエスを甦らせてくださるのです。神は新しい共同体を造ろうとして主イエスを復活させるのです。
 
 「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」  主イエスが死に、主イエスと弟子たちの共同体がなくなってしまうのです。しかし、主イエスは、この地上で弟子たちと共に共同体を造り、伝道したガリラヤに先に行き、再び、新しい共同体を産み出すと言うのです。

 主イエスが考えているのは、自分の死のことではなく、神によって復活した主イエス・キリストの新しい共同体なのです。キリスト教会はイエス・キリストを主と仰ぎ、罪を赦し合う、愛の共同体なのです。

 実際にマルコによる福音書16章には、主イエスの墓を訪ねた婦人たちに向かって、その墓の中にいた若者が次のように言ったのです。十字架につけられたナザレのイエスはこの墓にはおられない、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」「そこでお目にかかる」と弟子たちに告げるように言われたのです。
 
 主イエスが「先に行く」のです。甦りの朝、主イエスは弟子たちよりも先にガリラヤに行っているのです。実際、弟子たちは、主イエスが復活することを知りながら、失望して故郷に帰ってしまいます。弟子たちは解散してしまいます。羊飼いはいなくなった、理想はなくなった、主イエスと共に過ごした日々は思い出だけです。望みを失って故郷に帰って、元の仕事に戻るつもりでガリラヤに行ったら、そこにすでに主イエスがいて待っていたのです。すでに弟子たちよりも先にガリラヤにいた復活された主イエスは弟子たちを食事に招いて、主イエスの十字架と復活によって示された神の愛を伝え、洗礼を授けるように、この世界に派遣されるのです。

 主イエスと弟子たちの共同体は、主の十字架の死によってつぶされてしまったかのようですけれども、新しい共同体が作られるのです。教会という共同体が作られるのです。

 ヨハネによる福音書21章では三度、主イエスを知らないと言ったペトロを復活した主イエスが招き、主イエスを愛するか、と三度、問い、そのたびに、愛すると誓うのです。そのペトロに「わたしの羊を養いなさい」と命じるのです。そしてペトロは主を愛し、教会を愛して、羊を養うのです。

 このペトロが教会の信徒たちに手紙を書いています。それはペトロが自分の経験と教会の信徒たちの経験を重ね合わせながら、キリストを信じることによって与えられた恵みを伝えているのです。ペトロの手紙一 2章24−25節です。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところに戻って来たのです。」(新約p431)
 
 ペトロ自身が主イエス・キリストのもとに帰って来たのです。魂の羊飼いである主イエスのもとに帰って来たのです。そしてペトロも教会の信徒も、主イエス・キリストが十字架で傷ついた傷によって癒された、と言うのです。自分たちが罪を犯したのに、主イエス・キリストが罪の罰を受けて、傷ついてくださった、その真実を思い起こす時に癒された、と言うのです。

 羊飼いが羊のいのちを気遣い、羊のいのちを守るために、傷ついてしまった、その羊飼いによって自分は守られ、生かされてきたのだ、と言うのです。

 ペトロは羊を養うように、牧者として復活の主から委託を受けて、羊飼いとしてその生涯を送ります。ほんとうの羊飼いは主イエス・キリストです。私たちは、主イエス・キリストによって養われ、守られ、導かれています。主イエスが私の先に、先頭に立って歩むべき道を導いて下さるのです。

 本日、出エジプト記13章を読みました。イスラエルの民は、火の柱、雲の柱に先導されて、砂漠を歩んでいきます。暗い夜も、道に迷いそうになる時も、火の柱、雲の柱によって主なる神は導いてくださるのです。主イエス・キリストによって罪を赦し、愛してくださる神は羊飼いとして私たちをいつも配慮し、危険から守り、共に歩んでくださるのです。

20170507 主日礼拝説教  「神のいのちに生かされて」  山ノ下恭二


(イザヤ書54章1−10節、マルコによる福音書14章22−26節)

 本日も共に礼拝に出席して、讃美し、みことばを聞き、聖餐を受け、ささげ物をする、幸いな時を与えられたことを感謝致します。パウロが手紙の最初に挨拶をしていますが、その挨拶の中で祝福の言葉を書いています。多くの手紙で同じ祝福の言葉を送っているのです。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 私は、東京神学大学で学ぶ前までは「いのち」と言う言葉を聞くと、心臓が動いているいのち、実際の生活のことを考えていました。神学校に入って「いのち」と言うことがもっと深い意味があることを知りました。私は東京神学大学の学生の時に、松永希久夫教授の下でヨハネによる福音書の修士論文の指導を受けて論文を書いたのですが、その時に教えられたことは、聖書で「いのち」と言う言葉は、生物的ないのち、心臓が動いているいのち、実際の生活、と言う意味よりも、「関わり」「関係」を表す言葉を多く用いているということでした。「いのち」とは関わり合いであることを知ったのです。「良い関わりをもって生きて行く」それが「いのち」があると言うことです。
 
 人間はひとりでは生きて行くことはできません。他の人と関わり合いながら生きているのです。人と関係を持ちながら、生活しているのです。自分が相手を受け入れ、相手も自分を受け入れ、自分が相手を肯定し、相手も自分を肯定している、そのような正常な関係をもって生活するならば、それはとても幸いなことです。私たちが生きて行くのに必要なのは、愛の関係をもっていると言うことです。人に自分が愛される、自分が相手を愛する、そのような関係をもっていることが私たちの魂を支えます。
 
 しかし、私たちは誰とでも良い関係を持つことはできないのです。良い関係であっても何かのきっかけで関係が悪くなることが起こるのです。誤解や行き違い、人間としての限界があり、良い関係を保つことができないのです。

 なぜ、関係が壊れてしまうのか、それは私たちには自分中心と言う罪があるからです。相手が自分の思い通りになる時には、相手を大切にしますが、自分の思いに反する発言や行動があると、相手を軽んじ、遠ざけるのです。自分には、欠点や過ちがあるのですが、相手の過ちや欠点には敏感ですし、過ちや欠点がよく見えるので、自分に欠点があり、過ちを犯していても、それを認めようとしないのです。自分が悪いとは思わず、相手を裁いてしまうのです。正常な関わりをもって生きていけば良いのですが、なかなか、相手と正常な、良い関係を持つことが難しいのです。
 
 現代に生きている人たちは、神を失っていますから、自分が神の前に罪があるとは考えていません。実際に神を畏れることはなく、自分が気に入らないと相手を裏切ったり、相手を陥れようとするのです。相手が自分に対して罪を犯すと相手を赦すことができず、相手に復讐をしたいと思うのです。神に良い存在として創造されているのですが、罪を犯し、自分中心に過ごしているのです。

 私は児童養護施設の理事として長く養護施設に関わってきたのですが、いろいろな事情で親と一緒に暮らすことのできない子どもたちに聖書の話をし、この施設の子どもたちの親の葬儀をしてきました。その経験から考えたことは、親と一緒に暮らすことが一番、良いことだと思いました。子どもたちを育むために、家族を形成しようとして職員たちが子どもたちに愛情を注いでも、親に勝るものはないのです。実の親に受け入れられ、親と共に暮らすことが子どもたちを安心させ、子どもたちの心を支えるものなのです。

 私たちのいのち、それは本来、神と生き生きとつながっているいのちなのです。神に愛され、育まれているいのちのはずなのです。しかし、神に背を向け、神から離れて、自分本位に生きて、神とつながるいのちを失ってしまったのです。

 本日の礼拝でマルコによる福音書14章22−26節のみことばを読みました。最後の晩餐の箇所です。なぜ、主イエスはわざわざ、この時に、この食事の席を設けたのでしょうか。神が主イエスによって深く愛しておられることをありありと示すことのためです。

 この最後の晩餐がいつ行われたのか、ということがとても重要なのです。それは過越の祭が行われている時でした。この主の晩餐は、過越の祭の食事の時に行われたのです。この過越の祭はイスラエルの民が奴隷として苦しんでいた時に神がモ−セを派遣して、奴隷から解放して行く中で起こった事件を背景にしています。エジプトの王ファラオが奴隷を失うことを恐れて、イスラエルの民を奴隷から解放しないので、最後的に神は死の力を送り、エジプトの人々の長男だけが呪いをかけられて、次々に死ぬと言う大混乱が起きるのです。ファラオの王子もその呪いによって死ぬのです。そのような時に、小羊を殺して、その血を家ごとに門のところに羊の血を塗っておくと、その血を塗ってあるところだけは死の力が通り過ぎる、過ぎ越していくのです。このことによってイスラエルの人々は、エジプトを脱出することができたのです。過越の祭はこの出来事を鮮やかに思い起こし、記念とする祭なのです。

 この祭は、神がイスラエルの民を奴隷から解放してくださったことを、喜びと感謝をもって祝う祭です。拘束され、縛られているイスラエルの民を神が解放してくださったことを心に刻む祭です。その意味で、この祭は自由の祭、解放の祭ということができます。

 自由の祭、解放の祭だけではなくて、いのちの祭です。イスラエルの人々が奴隷の厳しい労働のために次々、死んで行く、そのいのちの危機にある時に、神がいのちを守ってくださり、死の家から脱出させてくださった、このいのちが守られ、そのような主の守りの中にあって生きることができるのです。そのことを感謝するのです。
 
 出エジプト記12章には、過越について詳しく記されています。この過越の時を一年の初め、正月とすることを命じています。イスラエルの民は、神によってエジプトから脱出することができたことを、毎年、毎年、常に心に刻み、イスラエルの人々の原点として忘れないように、いつも思い起こすように、過越の祭を祝ったのです。

 ニサンの月の14日に、過越祭と除酵祭が同時に始まり、過越の祭に用いる小羊を屠るために、神殿の庭でレビ人が小羊を殺したのです。エルサレムの町中の人々がエルサレム神殿に一頭ずつ持ってきて、次々に小羊を殺したので、小羊の血はヨルダン川に流れて、真っ赤に川が染まったと言われています。この小羊の肉を家に持ち帰って食卓に備え、この肉を残さず食べたのです。

 奴隷から解放し、死から生命へと招いて、慈しみ、愛してくださった神に感謝し、祈り、喜びをもって思い起こす過越の食事の時に、主の晩餐が行われたのです。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。」ここで過越の食事は、メインディシュに入ります。前菜の部分が終わり、テ−ブルマスタ−である主イエスが立って賛美と感謝の祈りをしてパンを裂くのです。

 「取りなさい。これはわたしの体である。」この言葉は、主イエスが制定した言葉であり、パンを裂いて「これはわたしの体である。」と言われたのです。このパンの句、「これはわたしのからだである」と言う言葉は、「これはわたし自身である。これはわたしと言う存在そのものである」と言うことであり、このわたし自身という存在そのものを献げるのです。ルカによる福音書22章19節には「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」と語られています。この言葉によって、主イエスは、ご自身、その存在を献げることを明言するのです。主イエス・キリストご自身、その存在は、私たちのために献げられたものです。私たちが罪と死から解放されるために、私たちがまことの神に生きるために、私たちが感謝と喜びをもって生きることができるために、私たちが神によって受け入れられるために、主イエス・キリストは、ご自身の全存在をささげるのです。

 過越の祭は、奴隷から解放され、自由にされたことを祝う祭です。主イエスは、私たちが罪から自由になるために、ご自身を罪の奴隷として自分を献げてくださったのです。

 主イエスは、「パンを裂き、弟子たちに与えて言われた。」主イエスはパンを裂いたのです。パンを裂くことに深い意味があります。裂かれたパン、つまり、主イエスが十字架において肉を裂いたこととつながっています。十字架につけられた主イエスのからだには、釘が打たれたために、肉が裂かれたのです。この時に用いられたパンは、丸いひとかたまりのパンを裂いて、弟子たちに与えられたのです。パンが裂かれるように、主イエスの肉が裂かれるのです。現在の教会の聖餐式ではパンは既に切られて分けられています。聖餐式でパンを裂く場面がないので、私たちはそのことを余り考えないのですが、パンを裂くことによって、私たちの罪の罰のために、主イエスが身代わりとして、その審判を引き受けてくださるのです。

 マルコによる福音書14章23節に「杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。」と記されています。聖餐式の時に、ぶどう酒と言わずに「杯」と言う言葉を用いるのはこの聖書の言葉を根拠にしています。「杯」、それは、苦難の杯、死の杯と言う言葉があるように、主イエスの苦難と死と言う意味があるのです。杯と言う酒を入れる容器を言っているわけではないのです。

 飲んだ後に「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と宣言されたのです。「多く」と訳されているのですが、これは「すべて」という言葉です。「血」は、人間の命を担うものです。人間の生命そのものです。生物としても、人は多量の出血により死を招くのです。すべての人々のために、犠牲として献げられ、十字架において流された血です。

 この主の晩餐が、奴隷の状態であったイスラエルの人々を解放したことを記念する祭、それは過越の祭、その食事において、主イエスが主人として、この食事をしたことは深い意味があるのです。それは「契約の血」と語られているように、「契約」と言う言葉があるのです。契約、それは神が相手と契約を結び、そして律法を守ることを契約の条件として結んだものですが、契約を守らない者をも神は契約を破棄しないのです。聖書で語られている契約はイスラエルの民が契約に違反して律法を守らなくても、契約を無効にせずに、神が一度、結んだ契約をどこまでも守り続けるのです。イスラエルの民は、契約の条件である律法を守らないのです。偶像を礼拝し、隣人を愛さないのです。しかし、神は、相手がどんなであろうと、ないがしろにし、律法を無視し、罪を犯し続けても、契約を破ることはないのです。相手がどうであろうとも、契約を守るのです。
 
 本日、この礼拝で読みましたイザヤ書54章10節に次のように記されています。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。」「わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはない。」と語られているのです。契約は破綻したのです。しかし、神は契約を破棄することはないのです。

 エレミヤと言う預言者が、新しい契約を結ぶ日が来ることを預言しています。この預言の中で、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ書31章34節)との神の言葉を伝えています。古い契約は、人々の罪によって事実、破綻してしまったのです。罪が有る限り、正しい関係を持つことができないのです。しかし、罪を赦すことによって、新しい契約を結ぶことができるのです。その新しい契約は「罪の赦し」の契約なのです。 マタイによる福音書26章27−28節(新約p53)に主イエスが「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と語られています。

 興味深いことに「契約」と言う言葉は、実は「切る」と言うヘブライ語なのです。私たちは「契約を結ぶ」「契約を締結する」と言いますが、「契約」とは「切る」と言う言葉です。契約の条件に違反した時には、動物を殺して血を流すという約束をするのです。神と契約を結びながら、契約の条件を守らないイスラエルの民が、その罰を受けるのが筋です。ところが、イスラエルの民が背を向けて神をないがしろにしているにも関わらず、イスラエルの民をどこまでも愛している神が契約の条件を守らない者に代わって罰を受けるのです。契約に忠実に、誠実に守っている神であるイエス・キリストが血を流すのです。

 主イエス・キリストについて、聖書は「新しい過越の小羊」と呼び、あるいは「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んでいるのです。エジプトを出る時に、過越の祭の場面で小羊を殺して、その血を塗ることによって、死の力が及ばないで過ぎ越したのです。キリストの十字架の血によって、神のまことの審判から免れることができるのです。

 最近、深井智朗牧師が書いた「プロテスタンティズム」と言う本を読みました。「説明責任」と言うことを良く聞きますが、この説明責任と言うのはアメリカでは信仰の言葉、神学の言葉なのです。神の前での最後の審判において、自分の人生を説明することが元々の意味であり、神の前で説明できないことがないように生活する行動規範だ、と言うのです。自分が神の前で言い訳できるように生活することが勧められているのです。あなたは、なぜそのように行動したのか、なぜそのように発言したのか、そのように神から問われて、きちんとした説明をする、そのことを考えて、生活するこのが、説明責任と言う言葉の本来の意味なのです。最後の審判において、自分の人生において、説明責任を求められて合格する人はいません。それは洗礼を受けていても私たちが罪を犯し、過ちを犯して生活をしてきたからです。

 最後の晩餐で主イエスと共にいた弟子たちは、パンを見ただけではなく、パンを食べたのです。杯を見ただけではなく、杯からぶどう酒を飲んだのです
イエスの愛の話を聞いたと言うのではありません。見て、食べたのです。自分のからだの中にイエス・キリストの愛が入り込んで、自分のものになったのです。私たちはいつも食物を、目で見て、舌で味わって食べます。イエス・キリストがまことに私のために肉を裂き、血を流すほど、私を愛してくださったことを私たちが全身でわかるために、主がこの聖餐を制定してくださったのです。説教は聴覚を用いて聞きます。聖餐は、視覚、触覚で味わいます。耳と目と舌をもって私たちに対する神の愛を経験するのです。

 聖餐を受けることによって神が私たちの罪を赦し、神との和解が与えられていることを受けとめることができるのです。それだけではなく、関係の悪い人とも和解することができるのです。神に対しても、人に対しても、和解することができるのです。


020170430 主日礼拝説教 「自由に生きるために」 山ノ下恭二


(出エジプト記20章1−17節、マタイによる福音書22章34−40節、ハイデルベルク信仰問答・問92−93)

 「自由」と言う言葉は、縛られていたり、拘束されていたものから、解放される、そのような思いを抱くことができるとても良い言葉であると思います。煩わしいことから解放されていく喜びを伴いますので、「自由」という言葉はとても良い響きを持っています。仕事が終わって、家に帰る時に自由を感じるでしょうし、学校の授業が終わって自由になるので、好きなことができると思うのです。何かに縛られている時間が終わり、自由な時間を自分の好きなことに使うことができるのです。自由と言う言葉を聞くと一般的にはそのようなことを考えるのです。

 聖書は自由をどのように考え、どのように語っているのでしょうか。聖書の主題は神であり、神が私たちにどのように関わり、私たちが神にどのように関わっているのかを語っています。何よりも神がどのような神なのか、と言うことを私たちに伝えているのです。この神がどのような神であるのか、このことが重要な主題なのです。
 
 旧約聖書の出エジプト記3章で、モ−セが神に名前を聞く場面があります。どのような神なのか、を聞くのです。神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えます。この言葉が「主」という言葉です。「主」という神の名の意味は、イスラエルの民のために神が全力で救い出す、という意味の言葉です。出エジプト記3章7節に次のように語られています。「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫ぶ声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し」とあります。

 神はイスラエルの民が苦しんでいる時に救い出す神であることを明らかにしているのです。神は愛をもって私たちに手を差し伸べてくださる神なのです。どのような時にもイスラエルの民を愛してくださる神であることを明らかにしているのです。
 
 本日の礼拝で出エジプト記20章1−17節を読みました。ここに記されているのは「十戒」と言われている律法です。元々は十の言葉と言います。ヘブライ語でトーラーと呼ばれています。この十戒はイスラエルの民の基本法です。この出エジプト記の背景にあるのは、この当時、イスラエルの人々がエジプトで奴隷として暮らしていたと言うことです。イスラエルの民は強制労働を強いられ、食事と睡眠以外は自由な時間をもつことができなかったのです。イスラエルの民は毎日、厳しい労働に明け暮れていました。現在の人々が長時間労働のために、休むこともできず、身体を壊して命をすり減らしているように、イスラエルの民は厳しい労働に疲れ、将来に希望を持つことができなかったのです。そのような苦しみの中に置かれているイスラエルの人々を神は奴隷から解放し、自由を与えたのです。
 
 20章1−2節に「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』と語られています。そして十の戒め、十戒が語られます。十戒のはじめに、神がどのような神であるかを明らかにしていることに私たちは注意をしたいのです。十戒は、戒めから語られていないことに注目したいのです。

 神は私たちを愛する神であるということです。この十戒は、シナイの山で契約を結んだので、シナイ契約と呼ばれています。神がイスラエルの民と契約を結んだのです。神が奴隷であった民を救い出した、その神の愛に基づいて契約が結ばれているのです。契約を結ぶ、そこには条件があるのです。その条件が十戒です。

 神が私たちを愛している、そのことから戒めが語られていることが十戒の特質なのです。この十戒は宗教の法、律法ですし、後の時代に様々な規則が作られたのです。私たちが法律、規則と言う言葉を聞くと、人間を縛るものとして余り歓迎されません。そして規則を守ることを軽視している傾向があります。
 
 一般の道徳、倫理は神を前提にしておりません。人間を良い行動へと導く徳目を提示するものです。親切にしましょう。いのちを大切にしましょう。人を助けましょう。そのように人々に良いことをするように促すモットーを掲げるものです。そして、道徳的に立派に生きた人をモデルにしてこのような人になりましょう、と模範を示すのです。しかし、十戒は、人間を良い行動を促すための徳目を提示しているのではありません。神が深く愛している、その愛に答えて感謝を表すための、神が望む本来の生き方を示しているのです。
 
 出エジプト記20章の最初に「わたしは主、奴隷の家から導き出した者である」と書かれています。神が奴隷の民を自由の民とへと導いたのです。神がこの民を憐れみ、奴隷から解放をしたのです。この恵みに対する感謝として神が喜ぶための生き方を明らかにするために、十戒を神は与えたのです。神との関係において神にお答えするために一番、良い生活の姿を明らかにするために十戒を示したのです。単に人の生きる道、道徳が書かれているのではないのです。神に対する感謝として十戒があるのです。常に、神に喜ばれるために、自分の生活を形づくっていくためにどう生きて行ったら良いのかを明らかにしています。神が自分たちのことをほんとうに愛してくださった、だから神に仕えていく、人に仕えていくのです。わたしたちがどの方向に向かって歩んで行ったらよいのか、その道しるべとして十戒があるのです。日頃、他の人と共にどのように生きて行けばよいのかを考えたり、いろいろ悩んだりするとき、十戒は助けとなるはずです。十戒は「そちらではなく、こちらへ歩みなさい」と語りかける「道しるべ」なのです。
 
 現代に生きる人々は自分を基準にして自由を考えています。自分がしたいか、したくないか、自分が好きか、嫌いか、自分の生活は自分を基準にして決める、それを基準にして自由を選んでいるのです。その時の自分の考えやその時の自分の感情によって基準が変わるのですから、一人の人に対してとても仲良くしている時もあり、仲が悪くなることもあるのです。生き方の基準が自分であるので、自分の思いや感情に左右されるのです。

 そして現代の持つ大きな問題は、して良いこととしてはいけないこととの区別をはっきり持っていない人が多いことです。万引きする自由もあるし、万引きしない自由があると考えるのです。万引きをしたいと思えば、万引きしても良い、自分の自由だ、と考える、それは自由であると言えるのか、と言うことです。

 万引きをする自由はないのです。自分にひどいことをした、この人を殺したい、人を殺す自由がある、人を殺さない自由がある、殺すか殺さないか、それを決めるのは自分の自由だ、このように考えるのです。人を殺す自由はないのです。

 人を殺す自由があるし、人を殺さない自由がある、と言うのではありません。
自由は限定されているのです。私たちの自由は限定されているのです。神を礼拝し、隣人を愛する、その範囲内で自由を行使するのです。どんなことをしても許される、そのような無制限な自由はありません。
 
 現代はして良いこととしてはいけないこととの区別を持たない傾向が強い時代です。生きる規範性を持たないのです。規範性がとても弱くなっているのです。律法をギリシャ語でノモスと言いますが、規範を持たないことを否定の言葉であるギリシャ語「ア」をつけてアノミ−と言います。
 
 現代の社会の規範は、話し合いで決めることと、迷惑をかけないと言うことです。話し合いで決める、人に迷惑をかけないことは、多くの人が同意することです。話し合いで物事を決めなさい、人に迷惑をかけてはいけませんよ、と誰でもが言うのです。
 
 山本七平と言う作家がいましたが、ある本に興味深い話を紹介しています。ある少女が援助交際をして、大人の人からお金をもらって性的な関係をもってその関係を続けていたのですが、ある時、警察に捕まったそうです。両親が警察に呼ばれて、両親が驚いてその少女を叱ったところ、少女は自分は特別に悪いことをしていない、と言ったので、どうしてそのように言うのか、と尋ねたところ、大人の人と話し合いでしているし、誰にも迷惑をかけていないので、悪いことをしていない、と答えて、両親は何も言えなかったそうです。話し合いで決める、人に迷惑をかけない、というだけの規範では、正しく生きることはできないのです。
 
 この十戒は「禁止命令」の語り方をしています。「わたしをおいてほかに神があってはならない」「殺してはならない」禁止命令的な語り方です。しかし、この禁止命令の言い方よりもふさわしい語り方があると、旧約学者である関根正雄氏は言うのです。「『してはならない』と言う言い方は原文ではただの禁止命令の形ではなく、出エジプトの恵みに与って神のものとされた民として『することはあり得ない』という言い方である。」「あってはならない」と禁止命令に翻訳されいるけれども、禁止命令ではないというのです。よく禁止命令の立て札をよく見かけます。「ここに駐車してはなりません。

 人と人との関係において、相手に深く愛され、信頼された人が相手に恩義を感じて、相手の信頼に応えていくということがあります。神に愛され、信頼されている者は、まことの神を裏切らず、他の神を拝むことはあり得ない、有るはずはない、というのです。神に深く愛されている者は、偶像を拝むことはあり得ない、神に愛されている者は、神の期待に応えて、人を殺すことはあり得ないのです。関根正雄氏はそのような神の期待が込められていて、「あり得ない、あるはずがない」と言う言い方が本来の意味であると言うのです。神がイスラエルの民を深く信頼しているのです。わたしがあなたがたを奴隷の家から救い出して、愛したのだから、あなたがたは、わたしの他の神に心を寄せることはないだろう、あり得ない、あるはずがないと言うのです。わたしがあなたがたを奴隷から解放し、深く愛しているのだから、隣人の生活を壊したり、妨害し、隣人を困らせるようなことをすることはあり得ない、あるはずがない、と言うのです。
 
 旧約聖書に記されている歴史には、十の戒めに従った生活をすることができなかったことが記されています。主なる神を礼拝せず、まことの神をないがしろにして、自分たちの好む他の神を礼拝し、目に見える形ある、偶像の神を拝んできたのです。そして、イスラエルの神殿が滅び、ユダヤ教が成立して、律法を形だけ厳しく守る宗教に変質してしまったのです。律法主義になってしまったのです。

 今年は、宗教改革500年記念の年で、日本でも記念の集会や記念出版が企画されています。宗教改革の時に出版された信仰告白・信仰問答の中で、日本の教会で一番、用いられている信仰問答書はハイデルベルク信仰問答です。この信仰問答は使徒信条、信仰義認、聖礼典(洗礼、聖餐)について論じた後に、感謝についてと言う項目で、「十戒」を取り上げています。十戒がキリスト者の生き方を示しているものとして提示し、この十戒を基準にして生活することを勧めています。
 
 ハイデルベルグ信仰問答の第三部は「感謝について」問答していますが、イエス・キリストの十字架の贖いを信じて洗礼を受けた者は、罪に支配された関係が終わり、神と正常な関係に生きているので良い行いをすることになると記されています。その良い行いは自分で良いと思うことや、人間の定めたことに基づくものではないと言うのです。ハイデルベルグ信仰問答91問で、救いを受けた者は何をするのかと問い、「それは、まことの信仰から、神の律法に従い、その栄光のために行うわざであって、自分でよいと思うことや、人間の定めたところには基づくものではない。」とあります。このところが重要です。

自分が何をしたらよいのか、それは自分がよいと思うことをすることが大切だと考え、実行しているのです。しかし、そうではないのです。自分がよいと思うことをする、それは、あくまで自分の持っている基準であって、それは神が良いと定めている基準ではないし、隣人が良いと思う基準ではないのです。「それは、まことの信仰から、神の律法に従い、その栄光のために行うわざである。」とハイデルベルク信仰問答は語ります。ハイデルベルク信仰問答は問92で「主の律法とはどのようなものですか」と言う問いがあり、その答えとして十戒の言葉を提示しているのです。

 マタイによる福音書22章34−40節には律法学者が、主イエスに律法の中で、どの掟が最も重要であるかを聞いたのです。主イエスが律法学者に答えて、重要な掟は、神を愛することであり、隣人を愛することであると答えたのです。これは十戒の内容を的確に要約しているのです。神を愛し、隣人を愛することは十戒の中核なのです。
 
 現代では、このような規範をもって生活している人は少ないのです。規範を持たない、無規範なのです。規範をもたないために、人を殺しても良い自由をもっているなどと考えるのです。生活を導く道しるべをもたないのです。生活の骨格を持たないのです。生活信条はあるかもしれないのです。例えば人に迷惑をかけない、早起きする、そのような生活信条をもって生活している人は多いのです。生活の骨格としての律法を持たないのです。主イエスが神を愛し、隣人を愛すること、この二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている、と語ったことは、まことに核心をついた発言であるのです。

 ハイデルベルク信仰問答・問93問では、この十戒が二つの板に分けられ、第一の板は「わたしたちが神に対してどのようにふるまうべきか」を教え、第二の板は「わたしたちが自分の隣人に対してどのような義務を負っているのか、を書いているのです。礼拝と隣人愛を示したのです。この礼拝と隣人愛との関係が大切です。まことの神を礼拝する中で、まことの隣人愛があるのです。

 自由とは、自分がしたいようにすることではなくて、神を愛し、隣人を愛する、この範囲の中での自由なのです。神を礼拝し、隣人を愛する、この限定の中での自由なのです。この範囲の中での自由こそ、神と共に生きることができますし、自分を生かすことができ、隣人を生かすことができるのです。

20170423 主日礼拝説教 「長老−羊を養う任務」  山ノ下恭二


(イザヤ書57章14−19節、マタイによる福音書18章15−35節)
 
 本日、礼拝の後に教会総会が行われ、長老の選挙が行われます。そこで、長老とはどのような存在であるのか、どのような役割をもっているのかを改めて、学びたいと思います。羊飼いが羊を見守り、養うように、長老は、教会員、教会に来ている人を見守り、養う存在であることを学びたいと思います。

 日本基督教団の教会規則では、役員と言う言葉を用いています。長老という言葉は日本基督教団の教会規則にはありません。長老と言う言葉は旧約聖書のヘブライ語では、ザーケンと言う言葉で、この言葉は「年を取った人」という意味です。ただ、旧約聖書では、長老は、町の裁判に加わり、町全体を見守る役割をもっていました。

 現代では、学校や自治会で役員が選ばれ、運営に携わることがあるので、教会の長老も自治会や学校の役員と同じように、教会の運営に携わる存在であると考えると思います。確かに長老会は教会の運営に関することに時間を取ることが多いことは事実ですが、そのことが第一義的なことではありません。

 もう一つ大切なことがあります。私たちは民主主義の教育を受けていますから、教会員の意見や願いを教会で反映させることが大切なことだと考えています。長老と言っても役員と考えて、教会員の代表として自分の意見や要望を長老会で発言してもらうと考えているのです。市議会で議員が市民の代表として市民の意見や願いをかなえるために市議会で意見を言い、働いてもらう、そのように長老が自分の代わりに自分の意見や思いを言ってもらい、自分の意見や思いを反映させる存在だと考えているのです。自分たちが選んだ代表と言う思いが強いのです。しかし、重要なことは、教会員の意見や願いよりも神のみこころを何よりも優先していくことなのです。いつも神の言葉に聞いていき、そこから判断するのです。世俗的な判断や人間的な判断をしないように、いつも気を付けて判断をしていくのです。
 
 羊飼いが羊を見守り、養うように、長老は、教会全体を見守り、養う責任を持っています。新約聖書で、長老は教会を牧会する役割があることを語っているのは使徒言行録20章28節です。(p254)このところは伝道者パウロがエルサレムに行く途中でミレトスという港に寄りました時に、自分が教会を建設することに関わったエフェソスのいくつかの教会の長老たちを呼び寄せて別れの説教をしている中で、長老たちに次のように説教をしています。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」「神の教会の世話をさせる」と語られています。この「世話をする」と言うのは、口語訳聖書では「教会を牧する」と訳されていたもので、羊飼いが羊を飼うという時に使う言葉と同じ言葉を使っているのです。このパウロの言葉をここで聞いているのが長老たちです。従って、ここで長老のすることが「羊飼いのように教会と言う群れの世話をする」ということです。羊飼いが羊の世話をすると言うことを聞くと、現実の教会では「牧師」のことをすぐに思い起こすと思います。「牧会」と言うとまず牧師のことを考え、長老のことを思い浮かべる人はいないのです。

 牛込払方町教会は日本基督教団の教会になる前に日本基督教会に属していたのですが、日本基督教会では、牧師も長老の一人であり、信徒の長老とが一緒になって長老会を作っていると考えていました。牧師と長老との務めの違いはどこにあるのか、それは牧師を宣教長老と言い、信徒の長老は治会長老と言うのです。牧師は「宣教長老」と呼びます。イエス・キリストの福音を伝えることに専念するのです。広島県に庄原教会と言う教会があり、かつて週報を送ってくれたのですが、週報の礼拝順序に礼拝の説教の題が書いてあり、その横に普通は「牧師」と書いてあるのですが、「宣教長老」と書いてありました。松島牧師と書いていなくて、松島宣教長老と書いてありました。この教会は牧師が宣教長老だと言う意識があることを知りました。
 
 「治会」と言う言葉は日本語としてほとんど使わない言葉ですが、「会を治める」と言うことです。英語では、ruling elderと言ったのです。「rule」と言うのは「規則」です。規則によって教会が秩序を整えた集団として生きて行くことができるように、ル−ルに基づいて、教会全体の秩序を整える務めを長老が担うのです。別の言い方をすると、羊飼いが羊の群れを養うのと同じように、その群れをきちんと整えなければならないのです。

 牧師、宣教長老はイエス・キリストの福音を伝えることに専念するのです。
信徒の長老は治会長老と呼び、教会を治めるのです。羊飼いが羊の群れをきちんと整えていくのです。信徒の長老は、治会長老と言うよりも、牧会長老ということができます。牧師は一人で牧会し、信徒の長老は長老会で自分の意見を言い、信徒の意見を代表して言う、と言うのではありません。信徒の長老は、牧会をするのです。牧師は説教に専念し、長老は牧会をするのです。牧師が牧師という名前をもっているために牧会という仕事を独り占めしているように思われるのですが、牧師というのは説教を一所懸命にすることが第一だということです。牧師が全く牧会をしないで、書斎に閉じこもって神学の勉強をしていれば良いということではありません。当然、牧師は牧会をするのですが、牧師がひとりで牧会をするというのではなくて、信徒の長老も牧会の任務を共に担うことなのです。
 
 パウロは長老たちに次のように語っています。20章28節に「神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」とあります。この監督者というのは、羊飼いが一つの群れ全体を見渡して間違いないようにすると言う意味です。それは具体的に30節に語られています。「また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」とありますが、間違った教えで教会員を導いてしまう、別の言葉で言うと異端が入り込んでしまうことがあるので、その異端と戦うようにと語っています。長老たちがすることは、正しい福音の真理とそうでないものとを見分けて、教会員が正しい福音の言葉で養われるように心を配るのです。そのために、常に聖書を読み、神学書を学ぶことをするのです。私の出身教会の鹿沼教会では、毎月、一度、長老を含めて、会員が神学読書会をしていましたし、岡山・蕃山町教会に在任していた時には、毎月一度、長老読書会を実施していて、バルト「教義学」を読んだり、カルヴァンの「キリスト教綱要」を読んでいました。長老たちがきちんとしたキリスト教の教えの学びをすることによって、教会が福音によって正しく養われるように配慮するのです。

 長老の務めは多くあります。洗礼志願者、転入会者の試問、礼拝の整頓、教理の擁護、など、たくさんあります。それだけでなく牧会の役割があるのです。 牧会と言う言葉はドイツでは、「ゼールゾルゲ」と言います。この言葉は「ゼーレ」英語では「soul」です。「魂」です。そして「ゾルゲ」と言うのは「care」です。「care of soul」「魂への配慮」という言葉で訳されています。特に一人の魂に配慮するのです。一人の魂に集中するような心配りをするのです。心配りをする時に、どのような姿勢で心配りをするのか、と言うことです。それは、自分がキリストによって罪が赦された者であると言う信仰をもって心配りをすることです。裁判所の裁判官、検察官のように犯罪人を告発したり、判決を下す存在として長老がいるわけではないのです。自分も一人の罪人であり、キリストによって赦されている存在であると言うことです。

 本日の礼拝で読んだマタイによる福音書18章は、罪を赦すことを主題にしています。長老のあり方と罪を赦すこととどう関わるのか、分からないかもしれません。長老が教会にいる人々にどのような姿勢で関わるのか、それは長老自身が自分の大きな罪が赦された者として教会にいる人々と関わるのです。一人の魂に対して、自分が深い罪を赦された存在として関わるのです。

 18章の初めには天の国でいちばん偉いのは誰かと言う弟子の質問に対して主イエスは子どもを呼び寄せて「小さな者」が偉いのだ、と答えています。「小さな者」とはミクロスと言う言葉を使っています。「よく見ないとわからない位に、ほんとうに小さな者」という言葉です。「小さな者」と言うのは「子ども」という意味よりも「教会に来たばかりの人」「教会ではまだ自分の居場所がない人」のことです。主イエスは、神が一人一人のいのちを造り、神が大切にしている、そこに人間の尊厳があり、そこに赦し合う根拠があることを示そうとして、主イエスは赦しの問題を語り始めるのです。

 ユダヤの社会では、罪を犯す者は罰を受けるべきであり、共同体から追放されるべきであると考えていました。しかし、主イエスは、迷える小羊を探し出す羊飼いの譬話の終わりにとても大切なことを語っています。18章14節に「このように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と語って、どんなに罪を犯しても、神の心の中での居場所を、決して失うものではないことを明らかにしたのです。罪を犯してしまうと、お前は罪人だ、悪いことをした人だとレッテルを貼って、ここにお前のいるところはない、あっちに行け、と追放してしまうことがあります。しかし、神は、そのようなことはなさらないのです。神は罪を犯したと言っても、その者を、神の心の中に居場所を確保しているのだ、と言うのです。従って、罪人に厳しい罰を科そうとする、モ−セの掟の出番はないのです。
 
 教会に集っている者は完全な者が集まっているのではなく、罪ある者、弱さを持っている者が集まっているのです。過ちがあり、落ち度があるのです。私たちは自分が正しく、過ちを犯さない者だ、と考えているところがあります。そして他の人が過ちを犯すと、そのことに厳しく取り扱ったり、言いふらしたりするのです。過ちを犯しても、そのことを黙っていれば良いのですが、人に噂のように広めたりすることが多いのです。テレビ、新聞、週刊誌などのメディアは有名人の失敗や過ちを大々的に宣伝しています。それをおもしろがって読んだり、話題にするのです。しかし、そのようなことをしないで、罪を犯した者が、キリストの赦しの恵みにあずかって、罪の赦しによって立ち直るように配慮することが大切なのです。

 18章15節に「兄弟があなたに対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と語られています。ユダヤ教では、赦すのは七回までで、八回からは赦さなくても良いと教えていました。それに対して、主イエスは、七の七十倍までも赦しなさい、と答えたのです。七の七十倍とは490回ですが、これはどこまでも、永遠に赦すことが語られているのです。そこで「仲間を赦さない家来の譬え」を語られたのです。 
 
 ある王が家来に貸した借金が一万タラントンあったのですが、返済の期日に返すことができなかったのです。一万タラントンというお金は6000万デナリオンです。一デナリオンは一日の賃金額です。莫大な額の負債になります。このことは、神に対して人間がいかに大きな負債、罪を抱えているかを示しています。私たちは神に対して天文学的数字である一万タラントンという莫大な罪を犯しているのです。神を忘れ、神を憎み、隣人を愛することのない、自分のことしか考えない生活を過ごしているのです。

 この譬えでは王がこのような罪という借金・負債を抱えた者を一方的に憐れむのです。この「憐れむ」と言う言葉は「はらわたが痛む」「はらわたがちぎれる想いがして」と訳すことができます。王が相手の悲惨な状況を目のあたりにして、心の奥底から突き動かされてしまうのです。それで王は莫大な借金を帳消しにしてしまうのです。このことによって、神が私たちに対してどんなに大きく、広い心、寛容な心で赦して下さっているかが示されています。この王は自分の財産を取り戻すことができず、損をしてしまったのです。しかし、相手の生活や相手の立場を優先したのです。相手との関わりを保ち、相手と共に生きようとすることが赦しであることが示されています。相手の人生、相手の生活に対する暖かいまなざしがここにあります。王は、もし自分がこの家来を赦さなければ、この家来は生活ができなくなり、それは家族も困ることになると気遣い、深い憐れみの心を抱いたのです。それが赦しの行為となって表れています。

 ところがこの家来は一万タラントンという莫大な借金を赦されていながら、わずか百デナリオンを貸していた仲間が返済できないのに腹を立て、返せないからと言って、この仲間を牢に入れ、強制労働を課してしまうのです。百デナリオンは一万タラントンの五十万分の一の額です。莫大な借金を赦してもらいながら、わずかな負債を赦さない、それは道理に反することです。この家来は、自らが王から受けた大きな赦しにもかかわらず、友人の小さな負債、小さな罪を赦すことができなかったのです。これを伝え聞いた王は憤り、家来を役人に渡してしまうのです。私たちは自分の大きな罪がキリストの十字架の贖いによって赦されていることをいつも心に留めているのです。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したならば、行って二人だけのところで忠告しなさい。」罪を犯した、それは自分の居場所を持たない、身体を小さくしている者です。相手に対して悪いことをした、そのような思いでいるのです。この中で「忠告」と言う言葉が鍵となる言葉です。この「忠告」と言う言葉は、裁判官が判決文を読み上げた後に、「反省してこのような罪を犯さないように」と上からの目線で相手に言うことを想像する言葉です。
 
 しかし、この「忠告する」と言う言葉は「エンコレー」と言う言葉です。諫める、相手に注意する、相手の落ち度や欠点を指摘し、クレームをつけて「だめではないか、注意しなさい」と言う言葉ではありません。「光にさらす、明るみに出す」と言う言葉です。罪を犯した人を訪ねて行く目的は、共に光をあてるためです。罪を犯した人は孤独の闇の中におり、訪ねて行って、この人と一緒に神の赦しの光の中に立つのです。主イエスが、無限に赦しなさい、と語って譬えを語られたのですが、相手を神の赦しの中におくのです。罪を自分で償うのではなくて、主イエス・キリストの贖いによって赦されていることを受けとめ、その信仰に立って、罪を犯した人に接するのです。
 
 ドイツの神学者クリスチャン・メラーが、「慰めの共同体・教会」と言う本で、宗教改革者ルターが罪を犯した教会会員をどのように扱ったら良いのか、思い悩んでいた牧師に手紙を送ったのです。罪を犯した教会会員に「私たち、とんでもない罪人たち、頑迷固陋な罪人の仲間入りをしてください」と手紙を書きなさい、と書いています。自分たちは正しい者ではない、とんでもない罪人たちの仲間なのだ、同じ仲間ではないか、こちらに来なさい、と呼びかけています。
 
 自分たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦された罪人なのです。主イエスが語られた譬え話に登場する家来のように、莫大な借金を免除されていながら、わずかな借金をしている仲間を赦すことができない者ではないのです。数々の過ち、欠点や落ち度があるにもかかわらず、赦されながら生きている者であることを自覚しながら、罪を犯した者を赦しの光の中に置くのです。神に愛されていることをよくわきまえている、その愛の心をもって、小さな者を受け入れるのです。

 長老は、キリストの十字架の贖いによって深い罪が赦された同じ者として、心を低くし、愛をもって罪を赦す、その姿勢をもって牧会にあたるのです。

20170416  主日礼拝説教  「愛されている喜び」  山ノ下恭二


(ホセア書11章8−9 ヨハネによる福音書21章8−13節)

 本日の礼拝で、浦田雅子さんが、神の前にイエスをキリスト・救い主と信じ、告白して、罪の赦しの洗礼を受け、教会の仲間になりました。これからの生涯において、罪が赦されたことを感謝して、教会の仲間として、教会の生活を続けていただきたいと思います。
 
 救世軍を指導した山室軍平は、信仰とは神とふたり連れで旅をすることだと言いました。スイスの神学者カ−ル・バルトは、「私は神を信じる」と言うことは、「私は独りではない」という告白であると言っています。私たちは孤独で歩いているのではないのです。私たちは神と共に旅をしているのです。人生には様々なことが起こります。人生の途上で自分の思い通りにならないで苦しくなる時もあるでしょう。神がいるのか、疑いたくなる時もあるでしょう。聖書も読みたくなくなり、祈ることもできなくなる時もあるでしょう。会社でつらい経験をして、落ち込む時もあるでしょう。そのような時にも、神は見放さず、見捨てることなく、いつも近くにおられて、共に歩んでくださるのです。そのことを信じて、主を仰ぎながら信仰生活を続けて戴きたいのです。

 本日の礼拝において、漆間泰志さんが、日本基督教団浜松元城教会から牛込払方町教会に転入会をされました。漆間さんは2016年3月27日(日)浜松元城教会で張田眞牧師から、洗礼を受けられました。昨年の3月27日(日)は復活日(イ−スタ−)礼拝でした。主の復活を祝う時に洗礼を受けられ、東京に転勤になり、昨年の4月から牛込払方町教会に通われて、勤務の時以外は続けて礼拝に出席されて、本日のイースター礼拝に転入会をされました。働き盛りで、忙しい毎日ですが、礼拝に出席し、教会の枝として共に歩んで戴きたいと思います。私たちの教会の仲間として兄弟を迎えることができましたことを大変うれしく思います。

 主イエスの弟子は12人おりました。その中でいつも主イエスの近くにいたのはペトロです。ペトロは魚を捕る漁師でしたが、主イエスが「わたしに従ってきなさい」と呼びかけ、招いて、主イエスの弟子になったのです。ガリラヤ地方で主イエスと共に、神の国の福音、神の愛の良い知らせを伝える手伝いをしてきました。主イエスは重い病気の人を癒し、貧しく孤独な人、悪いことをしている人を招いて食事をし、多くの人々に神の国の譬え話をなさったのです。

 ペトロはいつも主イエスのそばにおりました。主イエスがおられたところには、ペトロがいたし、ペトロがいたところには主イエスがおられたのです。ペトロは主イエスにどこまでも一緒についていくと言っていたのです。主イエスのためには自分の命を捨てても良いと言っていたのです。

ところが、主イエスが捕まってしまい、主イエスのことが心配で、その後をついていくと、大祭司の庭に入るとある人がペトロについて、「この人はイエスと一緒にいた。」と言われたのでペトロはあわてて「わたしは一緒にいない。」と言ってしまいました。そして別の人が「この人はイエスと一緒にいるところを見た。」と言ったので、ペトロは強く「知らない」と否定したのです。そして、また別の人が「いや、やはり、この人はイエスと一緒だった。」と言うと、「知らない」と言ったのです。
 
 ペトロは3年間、主イエスと一緒に過ごしてきました。だから、「イエスと一緒にいました」と言えば良いのに、イエスと一緒にいたことがない、イエスのことなど知らない、とどうして言ったのでしょうか。ペトロは怖かったのです。自分が主イエスの弟子であることが分かると、自分も捕まって、殺されるかもしれないと恐れたのです。主イエスがどうなっても、どこまでも一緒について行きます、と言っていたのに、主イエスなんか、知らないと言ってしまったのです。そして、主イエスの弟子であるとはっきり言うことができなかったのです。
 
 ペトロはこの後、どこに行ってしまったのでしょうか。ペトロは、ガリラヤ湖にいました。主イエスの弟子になる前は、ガリラヤ湖で魚を捕っていたので、そこに戻ってしまって、今はガリラヤ湖で魚を捕っていたのです。主イエスは、ペトロが自分のことを三度も知らない、と言ったことを知っていました。そのことに心を痛めていたのです。普通であったら、弟子として召し、神の良い知らせを伝えるために3年間も一緒に生活したのに、私のことを知らない、と言うのは、赦せないと思うのが普通です。ペトロはもうだめな人だ、裏切ってしまったひどい人だ、昔は主イエスの弟子であったけれども、今は絶交だ、顔も見たくないと言うことになります。しかし、主イエスはそうではないのです。ペトロのことを諦めてはいないのです。ペトロを見放すつもりはないのです。

 復活された主イエスは、ペトロのことを心配して、ガリラヤ湖までわざわざ探しに来ているのです。復活された主イエスは、ガリラヤの湖で魚を捕っているペトロを発見し、そして何と言ったのでしょうか。叱ったり、怒ったりしてはいません。食事に招いております。朝の食事をしようとペトロを誘っているのです。普通は自分にひどいことをした人と食事をしようと誘うことはないのです。自分を裏切った人と食事をしたいと思わないのです。
 
 しかし、主イエスは、食事をしようとペトロに呼びかけ、招いているのです。地上に主イエスがおられた時に、主イエスは、多くの人々と食事をしています。お金持ちや律法を良く知っていて、まじめに暮らしていると自分が思っている人々と食事をしたことはないのです。むしろ、悪いことをしている人、独りぼっちの人、そのような人を招いて一緒に食事をしているのです。この当時、食事に招待されたら、何かおみやげを持っていく、お返しに別の日に食事に招くことがこの当時の習慣でした。しかし、お金もなく、おみやげも買えず、食事に招待することもできない人たちが、主イエスに招待されているのです。
 
 復活された主イエスはペトロを呼び寄せて、「さあ、朝の食事をしなさい」と語っています。ペトロは、きまり悪い思いをしていたけれども、とてもうれしかったのです。主イエスが自分のことを叱ったり、責めたりせずに、一緒に食事をしようと呼びかけてくださったことがとてもうれしかったに違いないのです。ペトロが主イエスを裏切ったのは、暗い夜でした。闇の中で起こったのです。しかし、その闇に覆われていた世界を朝の光が追い出しているのです。

 私たちは心の深いところで闇をもっています。人を憎んだり、自分のことばかり考えたり、悪い心を持っているのです。しかし、主イエス・キリストは私たちの心の闇を追放されたのです。朝の光が差し込んで、主イエスとペトロが魚とパンを食べているのです。主イエスは食事に招待することによってペトロも無条件に今までの罪、過ちを赦していることを示そうとしています。

 私たちは他の人の過ちを赦すことがなかなかできないのです。赦すことができないと思っている人を招いて食事をすることはできないはずです。食事を共にしたとしても、楽しい食事にはならないと思います。

 しかし、主イエスはペトロを食事に招き、一緒に食べるのです。主イエスは完全にペトロを赦し、受け入れておられます。何のわだかまりもなく、ペトロと共に食事をしていることを楽しんでおられるのです。

 教会で一番、大切な食事、それは聖餐です。聖餐にあずかることは大きな喜びです。聖餐は、私たちの過ち、罪を神が赦してくださることをパンを食べ、杯を飲むことによって心深く味わうことなのです。

 私たちは心の中で、神様なんか、信じなくても、やっていけると思っています。忙しくて、自分がしなければならないことが多いから、礼拝なんか出られないと思います。自分が楽しければ良い、他の人のことなんか知らない、そのような悪い心を持つのです。それは大きな罪であるのです。その罪は神によって罰せられるのです。私たちの悪い思い、そのような罪の罰を私たちに代わって、主イエス・キリストが引き受けてくださるのです。主イエスは、十字架に架かり、御自分の肉体を裂き、御自分の血を流して償いとして死んでくださるのです。主イエスの肉体をささげてくださるのです。
 
 復活された主イエスが、朝の食事にペトロを招き、一緒に食事をすることができたのです。パンを食べ、魚を食べました。主イエスがペトロの罪を赦し、受け入れてくださるのです。今や、主イエスを裏切ったペトロではないのです。主イエスに合わせる顔がないペトロではないのです。心の弱いペトロではないのです。主イエスが完全に受け入れて、愛されているペトロであるのです。ペトロは面目をほどこし、主イエスの弟子として、使徒としてしっかりと立つことができています。
 
 主イエスは、ペトロに「わたしを愛しているか」と三度、聞いておられます。三回、聞いているのは、主イエスを、十分に心を込めて愛するか、と尋ねているからです。自分を愛する以上に、主イエスのことを優先して愛するか、と聞いているのです。私たちも、神から自分のことよりも神を愛しているか、と問われております。
 
 主イエスに「わたしを愛しているか」と三度、問われて、ペトロは「愛しています」と三度、誓っています。神を愛すると言うことは、自分のことを離れて、自分を捨てて、神を愛すること、神を神として重んじることです。礼拝に出席して、聖書のみことばをしっかり聞いていくことです。

 主イエスはペトロを使徒として任命し、ペトロは十字架の愛の福音を携えて伝え、教会の信徒たちを養い、最後は、ロ−マで殉教したと伝えられています。私たちもまことの神を礼拝し、主イエス・キリストの愛の知らせ、福音を携えて身近な隣人に伝え、身近な隣人を愛していくものでありたいのです。

20170409  主日礼拝(子どもと共に守る礼拝)説教 「いのちの言葉を食べよう」   山ノ下恭二


(エゼキエル書3章1−3節、マタイによる福音書14章13−21節)

 私たちは毎日、食事をしています。今日の朝、皆さんはご飯やパンを食べてきたと思います。私は今日の朝は、焼いたパンにジャムをつけて食べ、ミルクティー、卵、サラダ、シリアル(雑穀)、ヨーグルト、オレンジ、りんごを食べました。食べると元気になります。食べないと力が出ません。私たちは朝と昼、夜、一日に三食、食べています。毎日、毎日、私たちは食べて元気に過ごすことができます。
 
 今日の礼拝で読んだところには、イエスさまがお腹のすいている人々のためにパンと魚を用意して食べさせたことが書いてあります。お腹がすいている人々がパンと魚を食べたら、みんながお腹一杯になって、パンくずがたくさん残りました。多くの人々は、イエスさまの話を聞きにきて、夕食を摂る時間になったので、イエスさまの弟子たちは、もう夜のご飯の時間だから、解散して、めいめい自分の家に帰らせようとしました。しかし、イエスさまは、人々がお腹がすいていることを心配して、食べさせようとしたのです。お腹がすいている人々のことを放っておくことができなかったのです。イエスさまは深く同情して食料を用意して与えたのです。このことは、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。それは神様が私たちをいつも養ってくださって、私たちが飢えて死なないように、パンを用意しているということを知らせようとしているのです。神様はいつも私たちのために気を使って思いやっているのです。ご飯やパンを食べるとからだが元気になります。

 しかし、食べる物があればそれで十分か、と言うとそうではありません。食べていればそれで満足だと言うことはできません。他のものがなくても食べる物だけがあれば、それで幸せか、と言うとそうではありません。食べる物の他に私たちにとって必要で大切なものは何でしょうか。それは自分を愛してくれる人がいると言うことです。自分を愛してくれる人がいないと困ります。皆さんには家族がいるでしょう。お父さんやお母さんがいます。いつも、お父さんやお母さんが自分を育ててくれ、お世話をしてくれるので助かっています。そして私たちには友だちが必要です。友だちがいないのはとてもさびしいことです。小学校に入学したばかりの人もいるでしょう。入学式も終わって、いよいよこれから学校に行き、勉強をしたり、遊んだりします。友だちができると良いですね。友だちがいないとさびしいな、と思います。自分に話しかける友だちが一人もいないのはとてもさびしいと思います。自分に話しかけたり、一緒に遊ぶ友だちがいると楽しいです。
 
 私たちは毎日、誰かとお話をしています。朝、起きた時に、「おはよう」と挨拶をします。そして家族と一緒に食事をしているときも、話しています。幼稚園、学校で先生や友だちと話します。いろいろなことを話すと思います。先生から「勉強よくがんばっているね」と言われたり、仲良しの友だちができて、いつも一緒にいてくれて、友だちから「好きだよ」「一緒にいると楽しいよ」と言われるとうれしいですね。逆に話しかけても相手が何も言わなかったらさびしいですね。
 
 私たちは話す相手がいるととても元気になります。また相手が自分に話しかけてくれると元気になります。元気になる言葉、自分を慰める言葉、そのような言葉を聞いていると心が支えられます。「テストのこと、心配なんだ」「今度、入ったクラブ、うまくできるかな」と悩みを打ち明けることができる友だちがいると良いですね。
 
 暖かい言葉を聞くと、心が支えられたり、うれしくなります。心が温かくなるような言葉をかけられるととても良い思いをします。

 私は12年前に心臓が少し悪くなって、心臓の検査を受けたことがあります。お腹の右下の付け根から管を入れて検査をします。手術の時のように、もしこの検査で事故があっても、何も言いません、と言うことに同意してから、検査をします。この検査の前に大丈夫だろうか、と心配になりました。でもこの検査を受けたことがある人が私に、痛くないし、辛い検査ではありませんよ、と言ってくれたので、安心して検査を受けることができました。もし、この検査はとても痛いですよ、辛いですよ、と言われたら、安心して受けることができなかったと思います。言葉は相手を励ましたり、慰めたりするものですし、逆に不安にさせたり、傷つけたりするのです。言葉は心を温めたり、逆に刃物、ナイフのように人の心を傷つけたりするものです。

 言葉はいろいろ話すということだけでなくて、自分の思いや意志を行動で表して、相手に伝えようとします。口に出して話す言葉でなくても、行いや行動をもって相手に自分の思いを伝えようとします。

 お母さんが自分の好きな料理を時間をかけて作る、それは、子どものことを深く愛していると言うことです。「今日、好きなハンバーグを作りますよ」と言って、料理を作ります。「おいしかった」と言うとお母さんが喜びます。子どものことを思って料理を作るのは、「あなたのことを愛していますよ」という思いを、料理を作るという行動によって表しているのです。 

 よく夏になると川で水の事故が多くなります。子どもが川遊びをしている時に、子どもが川の深いところに足を入れて溺れてしまった時に、父親が子どもを助けようとして川に入り、溺れて死んでしまったと言うことがよく起こります。父親は自分のことを顧みず、子どもを助けようとして自分のいのちを捨てて死んでしまうのです。

 キリスト教会にはキリスト教会独自の暦、カレンダーがあります。今日は棕櫚の主日です。イエス様が、小さなロバに乗ってエルサレムに入城したことを記念する日です。みんながイエス様を棕櫚の枝をもって迎えました。この数日後に主イエスは十字架について死んでしまいます。神様は私たちを愛する方です。その愛は主イエスが十字架で死ぬことによってはっきりと表されているのです。私たちがいつも神様を大切にしないで自分のために過ごしている、その罪の罰を主イエスが身代わりとなって十字架で死んでくださる、そのことによって神がどんなに私たちを愛しているのか、をはっきり表しているのです。神がどんなに私たちを愛しているのかを、十字架は私たちによく示しているのです。口から出る言葉でなくて、行動を通して語る言葉があるのです。

 この神様が主イエスによってどんなに愛しているのか、それを言葉をもって伝えようとしているのが、聖書です。聖書は神が私たちを神が深く愛していることをどうしても伝えたくてできた書物です。

 旧約聖書のエゼキエルという預言書にはとても興味深いことが書かれています。それは「巻物を食べなさい」と言っているのです。巻物と言うのは旧約聖書のことです。旧約聖書は今のように、紙ではなく、羊の皮に文字が書かれていて、巻物のようにくるくる巻いている大きなものでした。この巻物に預言の言葉が記されていたのです。この巻物を開いて読んだのです。この巻物を食べることはできません。「巻物を食べる」このことは私たちにどのようなことを語ろうとしているのでしょうか。その意味は、この聖書を味わって読みなさい、この聖書の言葉を覚えるほどに読みなさい、と言うのです。一度だけ、読むのではなく、何度も何度も繰り返し、読みなさい、と言うのです。ご飯を食べると栄養がからだに行き渡り、元気になります。聖書を何度も繰り返し読むことによって、神の愛が私たちの心を支えて、元気になるのです。

 聖書を繰り返し、読むことによって、多くの人々が、励まされ、心が支えられてきました。毎日の生活にはうまく行っている時ばかりでなく、辛い時を経験する時もあります。

 ロシアの作家、ドストエフスキーは若いときに政治事件に巻き込まれて、2年ほど、シベリアの刑務所に入れられていました。その刑務所に行くときに持っていった一冊の本があります。それは小さな聖書でした。それを読んでいて、それでとても慰められました。シベリアはとても寒いところです。そこで働かなければならなかったのです。毎日、とても辛い生活でした。しかし、聖書の言葉に読むことによって、ドストエフスキーはシベリアでの生活を乗り越えることができました。聖書は神がイエス・キリストによって愛していることを知らせているのです。

 聖書は愛の手紙です。聖書は神様が私たちを心から愛していますよ、そのことを伝える愛の手紙です。

 わたしは、「チョコレートの君」と言う題の文章を大切に持っています。ある女子高校生が喘息でとても辛い生活をしていて、同じ喘息で苦しんでいる男子高校生が、励ましの手紙とチョコレートをこの女子高校生に届けてくれたのです。それが半年、続いたそうです。「苦しいでしょう。辛いでしょう。でもその喘息は長く続かないですよ。一緒にがんばりましょう。」という励ましの手紙が書かれていたのです。ところがその半年後にその男子高校生は亡くなってしまったというのです。その時に、お礼や感謝の気持ちを伝えなかったことを後悔しているけれども、この男子高校生の愛の手紙は自分の金庫の中に大切にしまっていると書いてありました。

 毎日、朝、昼、夜、と三回、食事をしているように、聖書という愛の手紙を繰り返し読みましょう。そして教会に来て、神の言葉である説教を聞きましょう。そのことがいのちの言葉を食べると言う意味です。

20170402  主日礼拝説教  「人間−信頼に背く者」  山ノ下恭二


(詩編41編1−14節、マルコによる福音書14章10−21節)

 私たちが毎日、生活していく中で、信頼する、信頼される、と言うことはとても重要なことです。信頼がなければ、共に生活をすることはできません。信頼できない人と関わることはとても苦痛を伴います。

 太宰治と言う小説家が「走れメロス」と言う小説を書いています。友情の尊さを主題にしていますが、友情を支えているのは、互いの信頼なのです。この小説のあらすじは、暴君を暗殺しようとして失敗したダモンと言う青年がはりつけの刑を言い渡されるのですが、どうしても妹の結婚式のために故郷に帰りたいので、3日間の執行猶予と故郷に帰る許可を願って、友人に、自分の代わりに人質になってくれるように頼むのです。もし決まった時刻までにダモンが戻らなかったら、友人は処刑されると言う約束をするのです。友人は喜んで人質になります。そして約束通り、ダモンは約束した時刻に帰ってくるのです。

 この物語に登場する二人は互いに相手が誠実に自分のことを大切に思い、心にかけ、互いにいのちをゆだねあったのです。この「走れ、メロス」は互いに相手が自分のことを思い自分のためにしてくれるという信頼を教えるものです。互いに信頼しあっているのです。互いに相手が自分のことを思い、自分のためにしてくれるそのような信頼に生きることはとても幸いなことです。相手が自分のことを第一に考えているのではなく、相手のことだけを思い、相手のために尽くしてくれると信じるのです。 
 
 私たちが祈りの最後に言う「ア−メン」と言う言葉は元々、堅い、堅固、真実と言う言葉から派生した言葉であり、信頼、信仰と言う意味の言葉です。神に対する信仰、それは、神に信頼すると言うことです。神が確かな方で、自分のために善いことをしてくれると信頼する、それが信仰と言うことです。

 しかし、私たちは信頼していた者に裏切られると言う経験をします。信頼していたのに裏切られる、そのような経験をすると人を信じることができなくなります。人間不信に陥るのです。主イエスは信頼していた弟子に裏切られた、そのような経験をもったのです。私たちと同じような辛い経験をされたのです。

 私たちはいつも相手に期待しています。相手がこうしてくれると良い、自分の思いどおりになることを期待しています。相手が自分の思い通りに動いているだろう、と考えているのです。相手はこうあるべきだと考えているのです。しかし、そうではないと期待はずれになり、こうあるはずなのにと思い失望するのです。

 主イエスの弟子の一人であったイスカリオテのユダは主イエスがロ−マ帝国から独立するために反体制運動をする指導者として活躍してほしいと願っていましたが、主イエスがそのことをしないので失望して主イエスから心が離れてしまったのです。

 マルコによる福音書14章10−21節には、主イエスの弟子ユダの裏切りが始まったと書いてあります。主イエスが十字架につけられるために捕らえられるきっかけになったのは、主イエスの弟子の一人が手引きしたことによります。このユダが主を裏切る思いをいつから抱いていたかと言うと、具体的な行動を取ったのは、この時からです。ユダは祭司長たちのところに行ったのです。

 祭司長たちは、最初から主イエスを捕らえて殺そうという積もりでした。そこにちょうどよくユダがやってきて、主イエスを捕らえる手段を教えたのです。そして教えるかわりに、その報奨金について交渉したのです。マタイによる福音書には、その報奨金が銀貨30枚であったと記されています。

 銀貨30枚でユダは主イエスを祭司長たちに引き渡したのです。銀貨30枚と言うのは、どの位の価値があるのでしょうか。旧約聖書の出エジプト記21章32節に書かれていることですが、飼っている牛が、別の人の奴隷を突いて殺してしまった時、支払うべき賠償金は銀30シェケルでした。従って、この当時では奴隷一人の値段でした。主イエスがおられたこの当時と昔とは貨幣価値が変わり、銀貨30枚で奴隷を買うことは不可能です。その何倍かのお金を支払わなければ、一人の奴隷を買うことはできなかったのです。このユダは奴隷一人も買うことができない、安い値段で主イエスを売ったのです。

 マタイによる福音書26章14節に「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。」と記されています。一人の人を幾らであると値段をつけて売り飛ばすということは、あってはならないことです。イエスという方、神と同じ方、人となられた神が不当に安く買いたたかれるのです。祭司長たちは、銀30枚の値段で、弟子からイエスを買うのです。主イエスが高い値段で売れれば良いと言うのではありません。人が人を売ることは、残酷なことであり、愛に欠けており、悲しいことです。主イエスを売ることは、悲しいだけでなく、恐るべきことです。

 ユダについて「十二人の一人イスカリオテのユダ」とあります。十二弟子は主イエスによって弟子として召命を受け、主イエスの弟子として伝道を共にした人々です。生死を共にする決意をもって、従って行ったのです。その弟子たちの中から、主イエスを売り渡すのです。

 そのようなことが行われていることを主イエスは知っていても、なお、主イエス御自身がこの弟子を弟子の一人として招いているのです。ユダが「裏切る」と言いますが、「裏切る」と言う言葉は、引き渡すと言う言葉です。14章11節に「ユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。」
この「引き渡す」と言う言葉と、マルコによる福音書14章18節「わたしを裏切ろうとしている」の「裏切る」と同じ言葉です。

 実質的にユダと祭司長たちと取引が成立しているのです。ただ、ユダが祭司長たちに、現物を渡すだけです。そのことを主イエスはよく知っておられたのです。よく知っておられながら、最後の晩餐に、その席に招いておられるのです。

 食事の最中に、主イエスがまず語られたのは、あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいると言われたのです。「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(マルコ14章19節)主イエスは「わたしと一緒に食事をしている者」、「私と一緒に鉢に食べ物を浸している者」が裏切ると言うのです。このことで弟子たちは、心を痛めた、悲しみに捕らえられたのです。

 同じ食卓につくというのは、とても深い、親しい交わりをもっていることです。同じ飯を食った仲間と言いますし、仲間と集まったときに、飯でも食おうやと誘ったりするのです。

 この過越の祭りは、イスラエルの人々がみな同じ神の救いにあずかっている、神の民に生かされている者たちであることを確認し、共に食事をするときです。他のときと異なって、互いに同じ神の民として深い連帯感が生まれるときであり、そのことを確認するときなのです。この過越の食事は、屠られた小羊をそこに集まった人々が食べ尽くすのが中心でした。親しく家族同様に付き合っている人々が、同じ食卓を囲み、食するのです。「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸す」心の知れた、深い交わりをもっている、そのようなときに、裏切りが起こるのです。ほんとうに親しい交わりをしている中で、信頼していた者が、親しい者を売り渡してしまうのです。

 本日の礼拝で、詩編41編のみことばを読みました。主イエスが語った、この裏切りの予告の言葉の背景には、この詩編があります。41編10節には、「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。」とあります。「わたしのパンを食べる者」これは食事に共にあずかっている、一緒に食事をしている者という意味です。この詩編の作者は、財産があり、それを独り占めしないで、食べる物もない人にパンを分け与えて、同じ食卓につくことを喜びとしていたのです。この詩人は弱い者に対する愛や思いやりがあった人です。しかし、今は、パンを食べさせてもらっていた人が、威張って足げにするのです。昔は財産があり、弱い者に施しをし、救援する力があったのですが、今は、力関係が逆転しているのです。病気になり、年を取り、力を失ってしまったのです。

 病気の人を見舞うのは礼儀なので、昔、お世話になった人が病気になれば見舞い、その人には見舞いの言葉を言いますが、外に出れば病床の傍らでは言えない悪意を口に出して言うのです。「早く死んでその名も消え失せるがよい。」(41編6節)「呪いに取り憑かれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」(41編9節)見舞いでは、早く癒されるような慰めの言葉を語りながら、病を持っている人のところを離れると「早く死ねばよい」と言うのです。

 「わたしのパンを食べる者」というのを、41編10節では「わたしの信頼していた仲間」とも言う。関根正雄という旧約学者が詩編注解を書いていますが、「わたしの信頼している仲間」と言うのを「わがシヤロ−ムの人」と翻訳することができると書いています。シャロ−ムというのは「平和」「平安」という言葉です。しかし、それに留まらないで、もっと深い意味があるのです。このシャロ−ムと言う言葉は契約に基づく絆のことです。信頼関係がしっかり結び付いている、互いによく知り合っている仲間のことです。ちょうど夫婦の契約のように、わたしはあなたを死ぬまで信頼しきって生きて行くので、お互いに絶対裏切ることはないと言う意味です。深く信頼して、互いにその絆を深めていく、この意味でシャロ−ムと言う言葉を用いているのです。わたしが深く信頼して、裏切ることのない仲間が、その人が、今、わたしを足げにする、と言うのです。

 この詩編の言葉を引用しながら、主イエスは、ご自分と弟子たちの関係を語るのです。私たちにとって信頼の関係を持つことは楽しいことですが、人間関係は不確かな関係であり、人に裏切られて、辛い思いになり、人間不信になることがあります。人を信頼したら、とんでもないことになると思うのです。

 主イエスは食事の席で「あなたがたの中に裏切る者がいる」と言われた時、弟子たちは「イエス様、まさか、私でないでしょうね。」と尋ねたのです。弟子たちには、裏切りはしないと言う確信はなかったのです。自分の心の中に主イエスを裏切り、引き渡してしまう裏切りの心があることに気がついたのです。

 この裏切りの物語は、最初の教会の中で読まれ、語られ、説教のみことばとして語られました。後に使徒となった弟子たちは、この物語を思い起こすたびに、ユダがうらぎって、主イエスを銀貨30枚で引き渡してしまったことに、心が痛む思いになり、悲しんだに違いない。弟子たちの思いはそれだけではありません。弟子たちが、十字架を前にして、イエスを捨てて逃げたことも痛い思いをもって思い起こしたに違いありません。主イエスが十字架の受難のときに、独りにし、その苦しみを共にしなかったのです。
 
 主イエスが苦しまれ、十字架につけられたときに、弟子たちは自分の身の安全ばかりを考えて、弟子としての役割を果たさなかった、そのことを思い起こしたのです。讃美歌第二編177に「あなたも見ていたのか」と言う讃美歌があります。この黒人霊歌の題名を正確に言うと「私の主をかれらが十字架につけた時、あなたはどこにいたのか」となります。主イエスが十字架についている時に、弟子たちはどこにいたのか、十字架のそばにはいなかったのです。

 最初の教会で、主イエスの弟子の中から、主イエスを裏切る者が出たということを、弟子たちは心の痛みと悲しみをもって思い起こしたのです。それだけに止まらないのです。遅くまとめられた福音書ほど、ユダについてたいへん厳しい言葉を用いているのです。マルコによる福音書は最初に記された福音書ですが、ヨハネによる福音書は、福音書の中でいちばん遅い時にまとめられた福音書です。ヨハネによる福音書13章2節には、「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」と記しています。ユダについて、悪魔という言葉が用いられています。最近の研究では、歴史上のユダのことを言っているのではなく、このユダと言う言葉によって、教会の中で、洗礼を受け、聖餐をうけていながら、キリストを主と告白せずに教会から離れて、去ってしまった人たちのことを指していると言われています。このユダはイエスを主と告白しない、自分を大切にして、主イエスを捨てる人のことを指しているのです。

 ユダの持っている裏切りの心は、私たちも持っています。自分の思い通りにならないと容易に相手を裏切るのです。主イエスをないがしろにしていく心を私たちは持っているのです。

 主イエスは、弟子のユダが裏切ることに深い痛みを覚えたのです。そして主イエスを裏切るような者は、生まれないほうが良かったと言われます。

 銀貨30枚でユダは、主イエスを売り渡したのです。この銀貨30枚の値段について、旧約聖書で読まれる箇所があります。ゼカリア書11章12節です。(旧約p1491)このところを簡単に言うと、神がイスラエルの民をしばらくのあいだ、養ったのです。ご自身の羊を養ったのです。その神の姿を見ていた商人たちが神の業の賃金として、「銀三十シェケル」を支払ったと書いてあります。神が、民、羊をひたすら養ったのです。その労働の賃金は、わずか銀30枚にしかならないと書いてあります。神の業、神の働きが不当に安く、軽く見て感謝もせず、神のわざをほめたたえないのです。神の恵み深いわざを安く買い叩くのです。
 
 神と同じ方、神のみことば、神のわざである主イエス・キリスト、値段もつけることのできない方を、安い値段で売ってしまうのです。それは、私たちもそうしています。神の恵みに心を留めず、感謝もせずにいるのです。神のみ業をかえりみず、自分のことだけを考えて、自分のために生きているのです。

 主イエスは十字架へと向かって行くのです。弟子たちが主イエスを捨てて、逃げ去って行く中でも、主イエスは、心に痛みを覚え、悲しみを持ちながらも、十字架に向かっていくのです。それは私たちが神の赦しによって神の愛の中に立つためです。

 私たちの深い罪にもかかわらず、主イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪が赦されることを信じ、心から悔い改めるならば、赦されるのです。




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