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主日礼拝説教
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(WEB礼拝)
20210328 主日礼拝説教  「私たちのために苦しむキリストの愛」  山ノ下恭二牧師 
 イザヤ書53章1−12節、 ルカによる福音書12章49−53節)

3月28日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年3月28日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞   「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    143編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      18−3 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          イザヤ書53章1−12節(旧約p1149)
          ルカによる福音書12章49−53節(新約p133)

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。主イエス・キリストの受難を覚える、棕櫚の主日礼拝に私たちを招き、兄弟姉妹と共に、礼拝をささげる時が与えられたことを心から感謝致します。私たちは、あなたの御心を問うことなく、自分のことばかり考えて過ごしてきたことをあなたの前に告白する者です。あなたがそのような私たちを赦し、受け入れてくださることを信じて感謝致します。2020年度の礼拝も本日で終わります。コロナ禍の中で、教会も対応することに困難を覚え、苦しむことが多くありましたが、その中にあっても、あなたが支えて、守ってくださったことを覚えて感謝致します。あなたが私たちの主であり、導き手であることを堅く信じて、これからも歩むことができますように、導いてください。これからあなたのみことばを聴きます。神の言葉として受け入れることができる信仰をお与えください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌    297−2

20210328 主日礼拝説教 「私たちのために苦しむキリストの愛」  山ノ下恭二牧師
                   声に出して読みましょう。
 本日は、教会の暦では、棕櫚の主日です。エルサレムにいる多くの人々が、小さなロバに乗ってエルサレムに入城された主イエスを、棕櫚の枝をもって王として迎えたことを記念する主日です。キリスト教会の暦では、棕櫚の主日からの一週間は、受難週と呼んでいます。主イエスが、苦難を受けて十字架に架かり、十字架で苦しみつつ、死んだことを心に刻む時として過ごすのです。木曜日は、主イエスが弟子たちの足を洗う、洗足木曜日であり、この振る舞いによって、主イエスが私たちの罪を洗い落として清める方であることを思い起こす時です。金曜日は、主イエス・キリストが、十字架に架かって贖いの死を遂げたことを思い起こす、受苦日です。

 本日は、2020年度の最後の日曜日になります。2020年度を振り返ると、昨年の4月5日に棕櫚の主日礼拝を守りましたが、コロナの感染の非常事態宣言を受けて、次の日曜日がイ−スタ−礼拝でしたが、休止し、4月の礼拝は休止せざるを得なかったのです。5月から礼拝を休まず続けて参りました。
 コロナ感染によって、私たちの教会生活が大きな影響を受けています。マスクをして外出することが習慣になりつつあります。三密を避け、自粛し、巣ごもりに近い生活になりました。教会の様々な行事も中止になり、教会の兄弟姉妹と触れあい、話し合う機会が減りました。その意味で、コロナに支配され、捕らわれてきた一年であったと思います。
 
 ある神学者は、このことを教会のコロナ捕囚と呼んでいます。この捕囚と言うのは、イスラエルの国が戦争に敗れ、イスラエルの大部分の人々がバビロニアに捉えられて連れて行かれ、今のイラクで60年間、暮らさなければならなかったことを指しています。ある程度の自由がありましたが、イラクの一つの場所以外のところに出ることは禁じられ、故郷のイスラエルに帰ることも許されなかったのです。イスラエルの民が、バビロニアで捕らえられ、閉じ込められて生活しなければならなかったことをバビロン捕囚と呼ぶのですが、バビロン捕囚と同じように、コロナによる感染を恐れ、外出することをためらい、会堂で礼拝することが難しかったので、教会のコロナ捕囚と呼んでいるのです。

 イスラエルの民は異郷の地、イラクで捕らわれている生活から、早く解放されて、イスラエルに帰還し、神にお会いするために、エルサレム神殿で礼拝をささげたいと強く願っていたのです。そのようなイスラエルの民に、預言者は神の言葉を伝えています。やがて捕囚の時が終わり、イスラエルに帰還し、自由に礼拝をする時が来ることを告げるのです。バビロニアにとらわれていた民に預言を語ったのは、イザヤでした。イザヤ書41章13節(p1126)に次のような預言の言葉があります。「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。」このような預言者の言葉によって、イスラエルの民は、希望を失うことなく、忍耐して、解放される時を待って、遂にイスラエルに帰ることができたのです。

 この歴史の中で、この世界はたびたび疫病に襲われて、その試練に遭遇してきたのです。ヨーロッパ中世、そして、近代においてもペストが蔓延し、多くの人々が亡くなりました。1918年から1920年までの約2年間に、スペイン風邪によって、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染し、日本でも45万人が死亡したとされています。パンデミック(感染症の世界的流行)が発生したのです。
 聖書にも「疫病」と言う言葉が、出てきます。疫病によっていのちが脅かされ、いのちの危機に直面してきた人々がいたのです。この疫病が終わらず、いつまでこの生活を続けなければならないのか、いらだち、神に訴えたくなります。そのような時に、旧約聖書は、そのことを無視せずに、慰めの言葉を記しているのです。詩編91編9−11節(p930)「あなたは主を避けどころとし いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」

 この疫病は、私たちにとって試練であり、苦しみであるのです。疫病によって、感染してその病を得ることは、感染した人々、その家族にとって大きな苦しみです。周りの人々の無理解によって、感染した人やその家族に嫌がらせが行われていることも大きな苦しみなのです。私たちには、様々な苦しみを経験します。病苦があり、家族との関係が悪くて苦しむことがあり、これからの生活を見通すことができないで、苦しむことがあります。

 本日、読みました、ルカによる福音書12章49−53節には、主イエスご自身が本来、何のためにこの世界に来られたのか、その目的と使命を語っているところです。主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と語っています。「火を投ずるためである」と言うのは、主イエスが、この世界を審判するために来た、と言う意味で語っているのです。私たちが、主イエスに抱いていたイメ−ジを打ち砕くような言葉をここで語っているのです。私たちは、主イエスが優しい方であるというイメ−ジを抱いていますが、そうではないのです。主イエスは、終わりの時に、審判する神として来た、と語っています。

 本日、読みました前に記されている12章35−48節には、主イエスが再臨の時のことをたとえ話で語っています。いつ、主人が帰ってくるのか、わからないけれども、主人が夜中でも、夜明けでも、突然、帰って来た時に、僕は、目を覚まして、すぐに対応できるように待っていなさい、と語っているのです。主人が帰ってくるのを知っていながら、僕が、すぐに帰って来ないだろう、と呑気に構えて酒を飲んだり、乱暴していると、主人がその僕を審判することが語られているのです。

 ここでも、主イエスが審判する者であることを語っているのです。主イエスは、自分が「来たのは、地上に火を投ずるためである。」と語っているのです。火というのは、焼き尽くすものです。焼き尽くすことによって、すべてを灰にしてしまうのです。火事によって一軒の家屋がすべて消失しまうことがあります。その意味で、火というのは恐ろしい力を持っています。主イエスは、この地上に神の審判をもたらす存在であると言うのです。

 ところが、49節と50節を続けて読みますと、主イエスが何を言おうとしているのか、すぐに分からないのです。「私が来たのは、この地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けなければならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむだろう。」審判する、ということは、主体的に人を裁くことですから、苦しむことはないのです。裁かれて、有罪判決を受けて、刑に服することは、言い難い苦しみになります。犯罪を犯して、有罪判決を受けた者は、刑務所で自由な生活ができないし、懲罰を受けるので苦しむのです。
 
 しかし、ここでは、審判者として、裁く神として来た、と語られた後に、洗礼を受ける、それは主イエスご自身が苦しむことになり、その苦しみはとても辛く、厳しいものであると語っているのです。審判者でありながら、苦しむことことになる、苦しむ者となる、と語っているのは、矛盾していると思うのです。ここで、「洗礼」という言葉が出てきますが、どのような意味で語っているのでしょうか。

 バプテスマのヨハネの洗礼のことが、福音書の初めに語られていますが、この洗礼は、神が審判をするのが間近であり、神に裁かれないように、身体を清め、心を入れ替える、悔い改めるという意味で「洗礼」という言葉を使っています。

 主イエスはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けていますが、主イエスの洗礼は、私たちが受ける洗礼とは意味が異なっているのです。
 私たちが洗礼をどのような意味で理解しているのでしょうか。神から離れ、罪を犯している私たちがイエス・キリストの名によって、罪の赦しが与えられる、と言う意味で洗礼を理解しているのです。
 
 主イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのですが、この洗礼の意味は他の洗礼とは違って、独自の意味を持っているのです。主イエスが洗礼を受けたのは、神の国を知らせることを始めるために、神から適任であると認証を受けていることに意味があるのです。主イエスが洗礼を受けた時に、天から神の声があったと、ルカによる福音書3章21−22節に記されています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」主イエスが、神の国を告げ知らせることは神の御心に適っている、主イエスが適格である、と神が認証したことなのです。それが、主イエスが洗礼を受けたことの意味なのです。

 主イエスは審判をするために来た、と語ります。審判というのは、罪があるかないかを裁判し、判決を出すことです。主イエスは、裁判長として来られたのです。50節では、「しかし、わたしは受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむだろう。」ここでの「洗礼」は、十字架の死という意味で「洗礼」という言葉を用いているのです。別の言葉で言い換えると、「十字架のバプテスマ」と言うことができます。
 洗礼という言葉は、元々「体を水の中に沈める」という意味です。体を水の中に沈め続けると、死んでしまうのです。50節では、主イエスは、これから、十字架に架かって死ぬまで、自分が苦しみを受けることを語っているのです。

 ルカによる福音書12章49−50節では、主イエスが審判者として来られたことを語りながら、しかし、これからその審判を受ける、裁かれた者となると語っているのです。ここでは、裁判長と被告がおり、審判する裁判長と被告である犯罪人がいて、その両方を主イエスが担っているのです。裁くべき神が、裁かれるべき人間となるのです。ここに、主イエスの人格の秘密があるのです。

 主イエスは、ガリラヤでの伝道では、主体的に率先して、神から最も遠いとと考えられている、地の民と呼ばれる徴税人、罪ある者と食事を共にし、様々な障がいを持っている人々を癒やし、神の国のたとえ話をされたのです。しかし、エルサレムに入場されてからは、苦しみを受ける立場になり、弟子たちに裏切られ、見捨てられ、逮捕され、獄に捉えられ、裁判を受けるのです。

 主イエスは私たちの罪を審判する裁判長であるにも関わらず、なぜ、罪を犯した罪人ととして裁かれなければならないのでしょうか。それは私たちが救われるためなのです。罪に捕らわれている私たちを罪から解放するために、私たちに代わって罪の審判を受けるのです。

 私たちはいつも審判者として、人を裁いています。自分は正しい、しかし、あの人は間違っていると思っているのです。自分は悪くないと思っています。それがまさに罪なのです。他人を審いている私たちに対して、主イエスは裁くな、と警告しているのです。マタイによる福音書7章1−2節には「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と語っています。私たちはいとも簡単に、人にレッテルを貼り、この人はこういう人だ、と決めつけるのです。自分は正しい、しかし、他の人は間違っている、それこそ罪なのです。
 
 しかし、主イエスこそ、すべてを裁く審判者なのです。しかし、この審判者は、私たちに代わって裁かれた、審判者なのです。私たちが被告席に座って裁かれるべきなのです。しかし、主イエスが私たちに代わって被告席に着き、罪人ではないのに、罪ある者として死刑の判決を受けるのです。そのことによって、私たちは被告席から離れて、罪人としてではなく、正しい者とされるのです。裁くべき神が、裁かれた罪人となる、それは私たちの救いのためなのです。コリントの信徒への手紙二 5章21節(p331)「罪と何のかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
 相手の罪を引き受けて苦しむ、それが主イエスの苦しみなのです。自分のいのちを犠牲にしても、私たちを愛するために、最も厳しい裁きを引き受けたのです。

 教会がとても大切に守ってきた聖礼典である聖餐をこの一年間、余り実施できなかったことは、とても残念でした。今まで、一年間に14回−15回行ってきたのですが、今年度は、聖餐式を3回しか、実施できませんでした。12月6日、12月20日、1月3日に行いました。
 聖餐に関して語っている聖書の言葉があります。ルカによる福音書22章20節Bです。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による契約の血である」とあります。また、聖餐式の時に読むのですが、コリントの信徒への手紙11章24節です。「『これは、あなたがたのためのわたしの体である。』」とあります。聖餐式の時に朗読される聖句には、「あなたがたのために」「あなたがたのための」という「ために」「ための」という言葉が多く用いられています。主イエスは、私たちのために、ご自分を犠牲として献げたのです。ご自身の肉を裂き、血を流すことによって、主イエスご自身が犠牲をささげて、私たちの罪を贖ってくださったのです。このことによって私たちに救いをもたらしてくださったのです。主イエス・キリストの神は、いつも私たちのための神なのです。
 コロナ禍の中、私たちはとても苦しむことが多かったのです。しかし、主イエス・キリストは私たちのために苦しみ、死んでくださり、罪から私たちを解放してくださったのです。

 「日々の聖句」という本があります。ロ−ズンゲンと呼ばれていて、多くの人々が読んでいます。この「日々の聖句」は、私たちの教会がレプタ献金を送っているベテスダ奉仕女の家で発行している小さな本です。日にちが書いてあり、その下にその日に読む、旧約聖書、新約聖書のそれぞれ短い聖句が記されています。ドイツ語で書かれたものは、祈りが書いてるのですが、日本語訳には書いてありません。ドイツ語の本には、神父、神学者、牧師の祈りが書いてあります。二人の牧師がそれぞれの翻訳で、祈りの言葉を配信しているので、その祈りを読んでいます。この祈りがとても良いのです。3月25日(木)には、ボンヘッファーという神学者の祈りが記されていました。この神学者は、ナチス・ヒトラーの暗殺計画の容疑で逮捕され、銃殺された牧師です。
 
 「主、イエスよ、あなたは貧しく、みじめであられ、捕らえられ、見捨てられました、わたしのように。あなたは人のきわまった苦しみをご存知です。あなたはわたしのもとに居続けてくださいます。誰ひとりわたしを助けようとしない時にも。あなたはわたしのことを忘れることなく、わたしを探し求めてくださいます。」
 私たちは、私たちのために犠牲を献げて苦しむ、愛の神を持っているのです。

祈祷
 父なる神。兄弟姉妹と共にあなたのみことばを聴くことができ、感謝致します。主イエス・キリストが、私たちの罪を裁く神であるにもかかわらず、私たちのすべての罪を贖うために、神に裁かれて、十字架の死をもって犠牲となり、私たちの罪が赦されたことを改めて信じることができましたことを心から感謝致します。イエス・キリストの贖いの恵みを信じて、神を愛し、隣人を愛する者となることができますように、導いてください。
 コロナに感染し、悩みと不安の中にいる、多くの方々を癒やしてくださり、健康を取り戻すことができますように。医療従事者を心に留めてくださり、医療を続けることができますように。この週もあなたが私たちと共にいてくださり、慰め、励ましてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌  298−1
献金
主の祈り

頌栄   29

祝祷 
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。 ア−メン

         来週の聖日(4月4日) イ−スタ−礼拝
  説教「イエス・キリストこそ、わたしたちの神」山ノ下恭二牧師 
  聖書 イザヤ書25章6−9節 
     ヨハネによる福音書20章24−29節 
  讃美歌 83−1、57−1、325−1、326−1、78−2、27  交読詩編 146編 



(WEB礼拝)
20210321 主日礼拝説教  「神からの委託に応えて」  山ノ下恭二牧師 
(エレミヤ書1章4−8節、  ルカによる福音書12章41−48節)

3月21日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年3月21日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。


前奏
礼拝招詞   「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え 喜び歌             って御前に進み出よ。」

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    138編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      16−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          エレミヤ書1章4−8節 (旧約p1172)
          ルカによる福音書12章41−48節 (新約p133)

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。一週間の旅路を終えて、あなたに招かれて兄弟姉妹と共に、主の日の礼拝に集い、あなたに近づき、共に礼拝をささげることができましたことを心から感謝致します。疲れを覚えている兄弟姉妹、悩みを抱え、悲しみを抱えている兄弟姉妹がおります。あなたのみことばによって、生きる力と勇気が与えられますように。これからあなたのみことばを聴きます。あなたのみことばを遜(へりくだ)って伺うことができますように導いてください。病と戦う兄弟姉妹、自宅療養している兄弟姉妹をあなたが心にかけて、見守り、健康が回復することができますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。
ア−メン

讃美歌    567−2

20210321 主日礼拝説教  「神からの委託に応えて」  山ノ下恭二牧師 
                  声に出して読みましょう。
 皆さんはヘボンという宣教師の名前を聞いたことがあると思います。日本が鎖国を止めて、開国した後、ヘボン宣教師は、アメリカ長老教会から派遣されて、1859年に初めて来日したプロテスタントの医療宣教師です。ヘボン宣教師は、横浜指路教会の創設に協力し、聖書の日本語訳を完成し、明治学院を創立し、多方面にわたって、大きな働きをした宣教師です。
 
 ヘボン宣教師が、日本に滞在しているあいだに、アメリカ長老教会の人々や知人に送った手紙、帰国した後に日本の教会の牧師に送った手紙が、全部ではありませんが、「ヘボン書簡集」としてまとめられています。手紙の送り先の多くは、ラウリー博士と言う人に宛てられた手紙です。手紙には、ヘボン宣教師がどのように伝道しているのか、その状況を詳しく伝えています。1863年6月15日の手紙には、牛込払方町教会と関係の深いタムソン宣教師のことも書いています。タムソン宣教師は、ヘボン宣教師より少し後に来日したのですが、ヘボン宣教師は、次のようにタムソン宣教師について書いています。「わたしは同氏に到着後、まもなく日本語の教師を世話してやりました。」と書いています。この日本語の教師が、小川義綏ではなかったか、と考えることができますが、この手紙の多くは、ヘボン宣教師が、日本を離れるまで日本での伝道の様子を詳しく記しています。

 この「ヘボン書簡集」は、1859年から、1910年までの書簡が収められているのですが、最後の手紙は、アメリカに帰国したヘボンが逝去する一ヶ月前に、横浜指路教会の毛利官治牧師宛に送った手紙です。44歳で来日し、日本で33年間、キリストの福音を伝えるために力を尽くしたのですが、いつも、同じ姿勢で、キリストの福音を伝えているのです。福音伝道の状況をいつも詳しく、本国に報告していることに私は深い感銘を受けたのです。ヘボン宣教師が、中国での伝道で自分の子どもを失ったと言う理由で、親戚の人々から日本に行くことを反対されながらも、神から福音を委託されたことを自覚ししつつ、まだ福音を知らない日本に来て、キリストの福音を伝えて行ったのです。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書12章41−48節のみことばを読みました。このところは、この箇所の前に記されている、12章35−40節で語られている、主イエスのたとえ話の続きなのです。12章35−40節には、どのようなことが語られているのでしょうか。主イエスが語られたたとえ話は、主人が婚宴に出かけていて、僕がその帰りを待っているのですが、真夜中に帰るのか、夜明けに帰って来るのか、見当がつかない僕に対して、どのような姿勢で待っているべきかを語ります。僕は主人が帰ってきたら、すぐに扉を開けて、主人を迎えるように、目を覚まして、身軽に動けるような服装をし、明かりを灯して待っていなさい、と語っています。
 
 このたとえ話は主イエスが再臨する時のことを語っているのです。主イエスが再臨する時は、いつ再臨するのか、わからないのです。その時は、だれも知らないのです。主イエスが突然、再臨した時に、何の備えも用意もなくて慌てることがないように、主イエスが帰ってくる、その時を心に留め、用意して待つようにと語っているのです。
 
 私たちは、毎日、生活をしている時に、自分の生活のことだけを考えて、過ごしていることが多いのではないでしょうか。神に心を向けていない、神の御心に適うように生きようとしていないただ中に、主イエスが突然、再臨されて、「お前は何をしているのか」と、その生き方が問われ、審判されるとしたら、私たちは、慌てて、神の前に申し開きをすることができないのです。どのように生きたら、神の御心に適うのか、を心に留めて、生活していくならば、主イエスが突然、来られて、自分の前に姿を現してもきちんと対応できるのです。
 私たちは、洗礼を受けるまでは、自分が主人であったのですが、洗礼を受けた後は、イエス・キリストという新しい主人をもったのです。イエス・キリストという新しい主人の御心を聴きながら、歩んでいくのです。主イエスは、いつ主イエスが来られても良い態勢で備えているようにと勧めているのです。

 このたとえ話を聞いていたペトロは、このたとえ話を聞いて、質問をしています。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と質問したのですが、主イエスはこの質問には直接には答えずに、逆にペトロに質問しているのです。12章42節には「主は言われた。『主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。』」ここでは、主人と僕の話ではなくて、主人と召し使いの上に立てた管理人の話に変えているのです。

 主イエスは、このたとえ話で食べ物を分配することを語っていますが、このことは最初の教会が信徒たちに食料を配給していたことが背景にあると言われています。使徒言行録6章では、最初の教会で、食料の配給を巡って不満が出たので、このことを取り扱う執事が任命された、と記していて、執事がこの役割を担っていたことが分かります。
 最初の教会では、食料の分配も大切なこととして行われていましたが、キリスト教会の本来の務めは、信徒たちに霊的な食物を与えることです。霊的な食物とは、みことばの説教のことであり、聖餐のことです。キリスト教会のまことのしるしは、説教が純粋に語られ、聖餐が正しく行なわれることなのです。
 12章42節に「管理人」という言葉がありますが、今の教会で言えば、牧師、長老を指していると考えることができます。牧師が説教し、長老がその説教を聴いて、説教が正しくなされているのかを監督し、会員が、みことばに従って生活しているのかを見守る、その役割を担うのです。

 ペトロが主イエスのたとえ話を聞いた時に、このたとえ話が誰に対して語っているのか、と質問しています。現代の教会に置き換えると、このたとえ話は、教会の牧師、長老に対してなのか、それとも教会のすべての者に対してなのか、と言うことになります。それに対して、主イエスが、「いったい誰であろうか。」と逆にペトロに質問をしています。「いったい誰であるか。」という質問に対して、教会のすべての者が「それはわたしです。」と答えることが期待されているのです。現代の教会に置き換えると、牧師や長老だけが、説教や聖餐、牧会などの責任を担っているのではなくて、会員もその役割を担っているのです。
 皆さんは礼拝で説教を聞いて、いろいろな感想を持つと思います。よく分かった、分からなかった、難しかった、様々な感想を持つと思います。しかし、皆さんは、お客さんではないのです。説教を聞いて、それでお終いというのではないのです。みことばを聴いて、そのままにしておくのではなくて、みことばを自分のところに留めているのではなくて、みことばを教会の他の仲間にも伝えていく責任があるのではないでしょうか。説教を聞いて、他の教会の仲間に恵みを伝えていくのです。
 
 私たちの教会は、牧師を招聘し、長老を選んで、何をするのでしようか。それは、福音の伝道と教会員を牧会することです。牧師はみことばの役者として、福音を正しく伝え、みことばによって養う責任をもつのです。長老は、その福音が信徒たちの生活で生かされるように祈っていき、信徒の生活を見守る役割を持っているのです。そして信徒が他の信徒にみことばを聴いた恵みを分かち合う、そして、教会に来て間もない人たちにみことばの恵みを分かち合う責任をもっているのです。
 主イエスから委託された、キリストの福音を伝える、その条件は「忠実」であると言うことです。「忠実で賢い管理人」と書かれています。主イエス・キリストは、私たちの教会に大切なことを委託されているのです。それはキリストの福音を管理し、キリストの福音を伝えていくことを委託されたのです。
  
 最初のキリスト教会の伝道者パウロは、テモテという若い伝道者と共に伝道をしました。トルコ、ギリシャの各地を一緒に福音を伝えた若い伝道者テモテに対して、パウロは、伝道者としての心得を書いた手紙を送っています。テモテへの手紙です。このテモテへの手紙では、「健全な教え」と言う言葉がよく出てきます。「健全な教え」それは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いのことです。そして、そこから外れて、別のことを説教しないように、「健全の教え」から脱線しないように、と戒めているのです。最初の教会にも、健全な教えから外れて、キリストの福音から脱線した人々が登場しているのです。

 テモテへの手紙二2章14−18節(p393)には、ヒメナイとフィレトという人物が出てきます。2章17−18節には「その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。」と記されています。この二人は、再臨の時に復活するという教えに反対して、再臨の時に復活することはないと主張していたのです。現代の教会で言えば、イエス・キリストの再臨はない、イエス・キリストによる罪の赦し、キリストの救いではなくて、人間としてのイエスの生き方に倣うことを中心とするイエス教を主張する人々のことを指しています。また、罪からの救いを語らず、人間中心の視点から聖書を読んでいくのです。テモテへの手紙では、「健全な教え」から外れずに、イエス・キリストによる罪の赦しを中核にして教えるようにと語り、人間中心主義に陥らないように、と警告しているのです。ルカによる福音書12章44節で、忠実で賢い管理人に、主人は自分の全財産を管理させるに違いない、と語るのです。                                    
 12章43節に「主人が帰って来たとき、言われていたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」と語られています。この言葉はとても考えさせられるみことばです。私たちは、いつも自分の思い通りにしたいと思っています。教会生活でも、自分の思い通りになれば良いと思っているのです。そこでは、神の御心を問うことはないのです。神に対してどのように生きるべきか、そのことを自分に問わない、緊張感のない生き方ではなくて、ここで語られていることは、いつも神のみことばを聞いて、神に召されたことを自覚しつつ、神から委託された福音に生きていくのです。

 カトリック教会で出版している、フランシスコ会の翻訳では「主人が帰ってきたとき、そのように務めを果たしているのを見られる、しもべは幸いである」と訳しています。カトリック教会の聖職者、司祭に向けて、このみことばが語られていると考えて、「そのように務めを果たしている」と訳しているのです。カトリックの司祭は、職務としてしなければならないことがきちんと決まっているのです。ミサにおいても司祭のすべき作法や所作は決められているのです。司祭の職務があるのです。カトリック教会では、司祭が牧することを、司牧と言いますが、司牧の手引きに従って行っているのです。
 
 福音主義教会、プロテスタントの教会は、自発性が重んじられていて、これをしていれば咎められない、これをしていれば神の御心に従っている、という細かい規則や手引きのようなものはありません。しかし、みことばに聴いて、その福音に生き、キリストの福音を伝える、という信仰の姿勢をいつも保ち続けるのです。キリスト教会が行うことは、説教が純粋に語られ、聖礼典が正しく行われることなのです。説教と聖礼典、そして牧会、魂の配慮を行うことなのです。

 12章43節に「主人が帰って来たとき、言われていたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」と記されているのですが、ある翻訳は「幸いだ、主人がやって来て、そのようにしているところを認められる、かの僕は。」と翻訳されています。「見る」のではなくて、「認められる」と訳されています。私たちの教会に集う者が、いつも神に心を向けて生活をしている、その姿を神が見て、善いと認められるならば、それは幸いなことだ、と語ります。
 礼拝の説教が聖書に従って純粋に語られ、聴いている者が真剣に聴いており、聖礼典が正しく行われ、みことばが一人一人の中で生き生きとして浸透している、その教会の姿を神が見て正しい、と認められるならば、それはまことに幸いなことなのです。

 12章45節以下には、主イエスはちょうどそれと正反対の生き方をする者の姿を語っています。主人の帰りが遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことをする人たちのことです。
 酒に「酔う」という表現は、主イエスが再臨することを全く考えない、主イエスが突然来るので、待っていなければいけないという自覚もないことを指しています。主なる神がこの世界を支配していることも、再び、主イエスが来られることも信じることなく、この世には自分という主人がおり、自分の思いのままに支配して良いと思っているのです。神に心を向けて、生活をしていると言うよりも、自分が主人であるかのように振る舞っているのです。

 主イエスがここで語っておられるのは、主イエスの再臨を待ちつつ、生きる私たちの生き方です。主イエスが再び来られる時とは、この世界が終わる時です。この世界を支配している者たちは消え去るのです。44節以下で、再臨はないし、来ないと言って、横暴に支配しているというのは、今、私たちが住んでいるこの世界のことです。「主人の帰りが遅れる」と思い、この世界には主人はいないのだと思って、自分が支配し、力の弱い下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酒に酔っている世界、それが今の世界のことなのです。

 教会に生きている私たちも、この世の人々と同じように生きているのだ、と言うのです。主イエス・キリストが教会の主であることを忘れて、自分が主人であるかのように思い始めるのです。主人を待つのを忘れるということは、自分が主人になることを意味します。いつも自分が主人と思って、自分の思い通りになることを願って生きているのですから、教会においても自分の思い通りになれば良いという誘惑にすぐに誘われるのです。この誘惑はとても強いものです。教会を自分の所有物のように思い込んでしまうのです。自分の思い通りになることが、教会にとって一番、良いことであるかのように思い込むのです。その思いに従って行動するように人々に求めるのです。そのような思いを持つ危険性はいつもあるのです。そして、教会を自分のもののように思い、私物化が行われるのです。

 主イエス・キリストが教会の主であり、主の願い、主の思いを第一に重んじることを勧めているのです。鍵となる言葉は、47節にあります。「主人の思いを知りながら」という言葉です。教会に生きる私たちは、主イエス・キリストの思いを知っているのです。教会はいつもそこに立つのです。主イエス・キリストの思いを、徹底して自分の思いとして生活することなのです。それは、私たちがみことばに聴くことです。礼拝説教に耳を傾け、罪を告白し、悔い改めて、新しく出直すことです。そして聖書をいつも読み、黙想し、そしていつも祈る生活を続けていくことなのです。

祈祷 
 主イエス・キリストの父なる神。あなたは、この地域に教会を建てて、福音を伝え、聖礼典を行うように、私たちに委託されました。あなたの願いを、私たちは受けて、この教会が、あなたに心を向けて、あなたの御心を行うことができますように、導いてください。この一年、私たちはコロナの感染に苦しんで来ました。コロナ感染が終息して、活発に、あなたの福音を伝えていくことができますように。思いがけず、コロナに感染し、苦しみと不安の中にいる、多くの方々を癒やしてください。医療従事者がその働きを継続することができますように。兄弟姉妹の中で、自宅療養し、病と戦っている方々を、あなたが癒し、回復することができますように。この週もあなたが共にいて私たちを励まし、慰めてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌  483-1
献金
頌栄   27

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン

         来週の聖日(3月28日)
    説教「私たちのために苦しむキリストの愛」山ノ下恭二牧師
    聖書 イザヤ書53章1-12節、
       ルカによる福音書12章49-53節 
    讃美歌 83-1、18-3、297-2、298-1、29 
    交読詩編 143編 


(WEB礼拝)
20210314 主日礼拝説教  「神に心を向けて待っている」  山ノ下恭二牧師 
(ゼファニヤ書3章9−13節、ルカによる福音書12章35−40節)

3月14日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年3月14日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。


前奏
礼拝招詞   「私たちの助けは 天地を造られた主の御名にある。」

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    130編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      13−4 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          ゼファニヤ書3章9−13節(旧約 p1473)
          ルカによる福音書12章35−40節 (新約 p132)

祈祷 
 天の父なる神。主の御受難を心に刻む、受難節の礼拝に私たちを招いてくださり、教会の兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたを讃美し、あなたのみことばを聞き、献げ物をささげる、今日の礼拝に出席することができたことを心から感謝致します。この一週間の私たちの生活を顧みますと、あなたの御心を行うことよりも、自分本位の歩みであったことを告白致します。これからみことばを聴きます。みことばを受け入れる信仰を与えてください。私たちの兄弟姉妹の中で、病と戦う方々、自宅療養されている方々をあなたが癒やし、健康を回復することができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌    56−3

20210314 主日礼拝説教 「神に心を向けて待っている」 山ノ下恭二牧師
                  声に出して読みましょう。
 3月12日(金)に東京神学大学卒業式があり、私は同窓会の役員で、卒業生に記念品を渡す役割があったので、出席致しました。一昨年までは、卒業生の関係者や、在籍する教会の関係者、派遣される教会の関係者などたくさんの出席者があったのですが、昨年と今年はコロナ感染予防のために、東京神学大学の教師、卒業生、理事、同窓会役員だけの卒業式でした。卒業生の中に、私が知っている人がいました。眞田正美さんという男性です。この人は、埼玉の上尾合同教会で長老をしていましたが、60歳の時に伝道者として神に召され、医療関係の仕事を退職し、東京神学大学に入学して4年間学び、この3月に卒業されたのです。神から召命を受けたのですから、神の御心を求めて、その生涯を、福音を伝えるためにささげていただきたいと思います。4月から、東海教区の伊豆高原教会に赴任されるとのことです。64歳ですけれども、これから牧師・伝道者として出発するのです。
 
 東京神学大学で長く教えた、教義学者ですが、熊野義孝と言う教師がいました。私も学生の時に、教えていただきました。熊野義孝全集の中で、「東京神学大学学生新聞」に掲載された文章が掲載されています。1961年の「卒業生諸君に」という文章と1968年の「卒業生諸君のために」という文章です。「卒業生諸君に」には、熊野義孝先生が、東京神学社を卒業された時に、富士見町教会の植村正久牧師のお宅で昼食を共にして、植村正久牧師が、祈った、その祈りが掲載されています。「『神よ、あなたが招き選んで数年の学業を今日卒えるに至ったこの若い者どもは、これより遣わされて主の教会に赴きます。彼らが謙遜なかぎりをつくして兄弟姉妹に仕えることができますように、しかし、必要なときには敢然と勇気をもって不義不正と戦うことのできますように、不断の力をお与えください。』私たちはこういう祈りをもって、学校の門を送り出された。」と書いてありました。「卒業生諸君のために」という文章には「いままでよりも、もっと丁寧に、深く聖書を読み、祈ること。これは申すまでもないが、『もうたくさん』とは申せない真理である。」と書いてありました。
 
 この二つの文章を真田さんに「はなむけ」に贈りました。牧師の生活には、様々なことがありますが、キリストの福音を伝える伝道者として続けていくことができるように祈ったのです。

 毎年、卒業生に、同窓会から記念品として、目覚まし時計を贈っています。今年も25名の卒業生に手渡しました。「目覚まし時計」を贈るのは、伝道者になって寝坊しないようにということだけではなくて、朝早く起きて、一日を祈りから始め、今日の一日を神に心を向けて、仕えるようにという意味があります。このことは、牧師、伝道者だけのことではなく、私たちキリスト者もそうなのです。私たちは、いつも神に心を向けて生活することがとても大切なのです。

 神に心を向けていることは、私たちの生活の原型、基本なのです。先週は、ルカによる福音書12章22−34節を学びました。主イエスは、私たちに「思い悩むな」と語られました。主イエスは、何を食べようか、何を着ようか、と思い悩むな、と語られます。私たちは、いつも様々なことに思い悩んでいます。お金のこと、家族のこと、仕事のこと、さまざまな悩みや不安、心配があるのです。思い悩む私たちに、何度も「思い悩むな」と語り、ルカによる福音書12章31節で「ただ、神の国を求めなさい」と語っているのです。思い悩むのではなくて、ただ、神の愛の支配を信頼し、神に心を向けなさい、と語ります。 

 このことに続いて、主イエスは、12章35節から、弟子たちにたとえ話を語るのです。ここには、主人と僕たちが登場します。ここでは主人の帰りを待つ僕が問題になっています。このたとえでは、主人が結婚式の披露宴に出かけているのです。イスラエルの婚宴は、数日間に渡るものもあったと言われています。現在のように、二時間、三時間で終わるというものではなかったようです。そこに出かけて行った主人がいつ帰って来るかは全く見当がつかないのです。38節に「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」とあるように、文字通り真夜中や、夜明けに帰ってくるかもしれないのです。そういう時に、「腰に帯を締めている」ようにと語るのです。「腰に帯を締める」とは、すぐに活発に動くことができるように、腰に巻いている帯に衣服を差し込むことができるようにしておくことです。身軽に動けるような服装をしていることを言います。「腰に帯を締めていなさい。」という言葉をある翻訳は「機敏に動ける服装をしなさい。」と翻訳し、別の翻訳では「常に前掛けをつけていなさい」と訳しています。
 
 消防署で、消防士たちは、火災の連絡があり、ベルが鳴ったら、すぐに出動できる態勢でいるのです。いつ火災があるか、その時刻は分からないのですが、夜中に火災があっても消防服にすぐに着替えて出動することができるように訓練をしているのです。いつ火事が発生するのか、分からないので、いつも、その備えをしているのです。

 主イエスが語られた、このたとえでは、主人が、真夜中に帰って来るのか、夜明けに帰って来るのか、いつ帰って来るのか、わからないのです。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」と語ります。腰に帯を締め、ともし火をともしながら、主人の帰りを待つのです。ともし火をともすのは、暗い夜道を歩いて帰ってくる主人が道を間違えないようにするためです。またともし火があかあかとともされているのを見て、心がやすらぐようにという思いがあるのです。主人の思いを考えて、僕が配慮しているのです。実際、長く暗い道を、間違えないように心を遣いながら歩いて帰ってきた者が、ようやく家にたどり着き、自分を迎えるために明かりがともされているのを見る時、心が安らぐのです。僕が、主人の心を思い測り、それに応えようという思いがあるのです。僕が、主人の心をよく知っている、僕が主人に寄せる思いがあることが大切なのです。どれだけ心の深いところで主人と心が通じている、心が結びついているか、が問題なのです。

 腰に帯を締めるのは、主人が帰ってきたらすぐに履き物を脱がせ、足を洗い、飲み物を用意するためです。主人が帰ってきてから帯を締めていたのでは、その間、主人を待たせることになってしまうのです。だから、腰に帯を締めて待つのです。
 36節では「主人が婚宴から帰ってきて戸を叩くとき、すぐに開けようとして待っているようにしていなさい。」と言われています。主人が帰ってきた、戸をとんとんと叩く、その音を聞いた瞬間に扉の所へ飛んでいき、「お帰りなさい」と言ってすぐに扉を開けるのです。そのように主人を迎えるように、主イエス・キリストを待つことが求められているのです。

 私たちキリスト者の生活のスタイルは、一般の生活のスタイルと異なっているのです。一般には、この地上で生まれて、死ぬまで、その間をどのように生きるのか、ということが最大の問題であるのです。多くの人々は、この地上を終えるまで、自分が生活するのに困らず、いかに楽しく、便利に、暮らせるか、ということに関心をもって生活をしています。
 しかし、私たちキリスト者は、そのような姿勢で生きることよりも、神に対してどのように生きるのか、ということを中心に生きようとしています。それは、私たちが、洗礼を受けて、神に対して生きるようになったからです。神と私たちとの関係が壊れてしまっていましたが、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪が赦され、神との和解が成立し、神に肯定されて、神に愛されて生きるようになったからです。

 この地上で自分が生まれ、死ぬまでの時間の間だけを生きているというのではなくて、神が働いている救いの時間の間に、私たちが生きているのです。神の時間の中で、私たちの生活を捉えているのです。イエス・キリストがこの地上に来られたクリスマスの時と、再び来られる再臨の時との間に私たちは生活しているのです。この二つの時の間に私たちはいるのです。
 私たちは、私たちを愛してくださった、イエス・キリストが来られるのを待ちながら過ごしているのです。最初の教会は、主イエス・キリストが再び来られることを熱心に待ち望んでいました。その言葉が「マラナ・タ」と言う言葉です。この言葉は、新約聖書によく出てきます。最初の教会は、「マラナ・タ」つまり「主よ、来たりませ」(コリント一 16章22節)と祈っていたのです。

 ここで取り上げられているのは、主イエスの再臨です。主イエスご自身が、この世の支配者として、再び、来られる時に、このたとえ話にあるように、自分が再び、来る時に、教会に属する者、キリスト者が、自分に心を向けて、忘れないで、待っていて、来たら迎えてもらいたい、そのことを願っていることをここで語っているのです。

 主イエスが突然、再臨されて、私たちのところに姿を現した時に、私たちがすぐに迎えることができるように用意し、その態勢でいて欲しいことを語っているのです。それがいつなのか、分からないけれども、主イエスが帰ってくることを待っているのです。

 少し前ですが、私が出かけようと思っていたら、知り合いの牧師が尋ねてきたことがあります。突然だったので、思わず、電話をしてくれれば、待っていたのに、と言い、今度、来る時には電話をください、と言ってしまいました。この牧師は、この近くに教会員がいるので、訪問のついでに寄ったのだ、と言いました。後で、私の対応が悪かったのではないか、と思いました。いつきても、良いように待つ、突然、来ても不平を言わずに、暖かく迎えれば良かった、と反省をしました。
 
 いつ主イエスが再臨で来られても良いように、心を向けて待つのです。それはどのような信仰の姿勢なのでしょうか。テサロニケ一 5章16−18節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」とあります。一般の人々も喜び、感謝をするでしょう。しかし、私たちの喜びと感謝は、次元が異なるのです。イエス・キリストによって、罪赦され、愛されていることへの感謝であり、喜びなのです。ここで「絶えず祈りなさい」とあるのは、絶えず祈らざるのを得ないような、深い主イエス・キリストとの交わりの中で生きるように、と言うのです。ここでいう喜びとは、主イエスという主人をもっている喜びであり、感謝とは、イエス・キリストが私たちを愛し、共にいる、そういう感謝であるのです。それは、腰に帯を締め、ともし火をともしつつ、主人の帰りを待つ、僕の喜びであり、感謝なのです。

 このたとえ話は、おもしろいたとえ話であると思います。37節に「主人は帯を締めて、僕たちを席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのです。ここでは、主人と僕と立場が逆転するのです。主人が給仕する者となり、僕が給仕される者となるのです。この僕たちは、主人を待つ間、食事をしなかったかもしれないのです。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と語られていますが、この主人も幸いなのです。それは、自分が帰ってきた時に、僕たちが目を覚ましているのを見る主人は幸いなのです。帰ってきて、家の者が寝ないで、待っている、それはうれしいことです。自分を夜、遅くまで心配して待っていたのか、と思うことはうれしいことです。主人が僕に給仕してくれる、というのは、主人もまたこの幸いを感謝しているしるしであるのです。主人と僕とが、このような心の結びつきの中で、共に生きることができることは、幸いなことです。主イエスは、そのような関係を、持つことを私たちに願っているのです。

 「主人が給仕する」というのは、ルカ22章27節にもでてきます。弟子たちの間で誰が偉いかという議論をしている中で、主イエスが「わたしは、あなたがたの中で、いわば給仕する者である。」と語り、一番、偉いのは、多くの人々に仕える者であると語っています。この時は、主イエスが十字架にかかられる前の晩に語られたので、すべての人々のために、犠牲としてささげる僕として、主イエスは語られたのです。

 39節で、主は、泥棒のたとえを話されて、用心するように、と語られました。泥棒はいつやってくるのか、わからないので、すぐに対処できるように、必要な手はずを整えておけば、大丈夫であると語るのです。私たちに求められていることは、いつ主イエスが来られてもよいように、備えつつ待つことです。

 主イエス・キリストが再び、来られる、その時は、審判の時です。私たちが、イエス・キリストの神をまことの神として礼拝してきたか、神のみこころを行ってきたか、隣人を愛してきたか、が問われる時でもあります。新約聖書には私たちがみこころを行うようにという勧めがなされています。ヤコブの手紙4章15節「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」と語られています。神の御心を行うことが第一のことなのです。私たちが、どのようにしたら主イエス・キリストを喜ばせることができるのか、を念頭に置きながら、生活することなのです。

 宗教改革者・カルヴァンが書き著した「キリスト教綱要」第三巻の第10章には、現世において私たちがどのように生きるべきか、を論じています。この章の最後に「召命」について書いています。「主が我々の一人一人に、生涯のあらゆる行為について、己が召命[ヴォカテイオ]を注視せよと命じておられる点である。」この「召命」についてこのペ−ジの下に解説がありました。「『ヴォカテイオ』は中世では聖職に就くことや修道院に入ることとして使われた言葉であるが、宗教改革においては世俗の生活の中の信仰の確認の場として受け取られるようになる。」神から与えられた召命に忠実に応えることが大切なのです。

 神学校を卒業して伝道者として生きる、それは神から召され、献身することですが、それは牧師に限ったことではありません。皆さんも神からの召しを受けているのです。召命を受けて、神の御心に従って生活することを期待されているのです。召命に応えて生きる、そのことを心に刻んで私たちの歩みを進めて行くのです。

祈祷 
 主イエス・キリストの父なる神。あなたは、私たちがあなたに心を向けて待つようにと、期待しています。様々なものに心を奪われている私たちが、ただあなたの御心を求めて行う者となることができますように。コロナの感染が拡大し、終息せず、多くの人々が、不安と恐れを抱いています。思い悩むことなく、神の愛に信頼し、委ねていくことができますように。これからの週もあなたが共にいて、わたしたちを導いてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名により、祈り願います。ア−メン

讃美歌   519−4
献 金

主の祈
頌栄    29

祝祷 
 主があなたがたを祝福し あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン

         来週の聖日(3月21日)
説教「神からの委託に応えて」山ノ下恭二牧師
聖書 エレミヤ書1章4−8節
ルカによる福音書12章41−48節
讃美歌 83−1 16−1 567−2 483−1 27
      交読詩編 138編



(WEB礼拝)
20210307 主日礼拝説教  「恐れるな、小さな群れよ」  山ノ下恭二牧師 
詩編91編10−11節、 ルカによる福音書12章22−34節)

3月7日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年3月7日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞   「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、           魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    128編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      6−1 
聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
         詩編91編10−11節 (p930)
         ルカによる福音書12章22−34節 (p132)

祈祷 
 主イエス・キリストの父なる神。3月の新しい月の初めの礼拝に私たちを招いてくださり、あなたの御前に出て、みことばを聴く時を与えられましたことを感謝致します。この一週間の私たちの歩みは、あなたのみことばに従うよりも、自分の生活を優先し、隣人に心を砕いて愛することが少なかったことを告白致します。みことばに聴いて、あなたに従っていくことができますように導いてください。この会堂で礼拝をしている兄弟姉妹、様々な事情で家庭で礼拝をしている兄弟姉妹をあなたが導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌    482−2

20210307 主日礼拝説教  「恐れるな、小さな群れよ」  山ノ下恭二牧師 
                  声に出して読みましょう。
 2011年3月11日に東日本大震災が発生してから、今年の3月11日で、10年になります。10年前の、3月11日(金)14時46分に地震が起こり、津波が押し寄せたのですが、私は、その時、東京神学大学の卒業式に出席し礼拝堂におりました。地震の大きな揺れが最初にあったのは、近藤勝彦学長が卒業生に式辞を語っていた時でした。近藤学長はその時に話を止めて、揺れるのが収まり再び話し始めましたが、すぐに大きな揺れがあり、礼拝堂の中でどよめきが起こり、礼拝堂から出て行く人もいましたが、揺れが収まると、学長の式辞が続き、卒業式は無事に終わりました。

 卒業式の後に、東北で大きな地震があったらしい、電車も止まっていると言う話が伝わってきて、東大宮に帰る手段を探していましたら、大宮教会から長老、信徒が二台の車で来ていたので、車に乗せてもらいました。三鷹の神学大学を出たのが17時で、一般道を迂回して21時に東大宮教会に着きました。
 翌日、テレビニュースで、地震による大津波が、岩手、宮城、福島の海岸一帯に押し寄せ、多くの人々が、津波にのみ込まれ、町全体が壊滅的な被害を受け、このために多くの人々が亡くなったことを知りました。また町全体が津波のために家や建物が流され、3月11日から数日、多くの人々が、家の屋根や山の上、学校の校舎の屋上で夜を過ごし、寒さに震える中で救助を待っていたことも知り、多くの人々がとても辛い夜を過ごしたことを知りました。自然災害は、人々の生活を脅かし、いつもの暮らしを壊し、命を奪うものであることを知りました。

 2012年の夏に、東大宮教会の教会学校の中学生、高校生と一緒に宮城県の気仙沼に行きました。この子供たちに被災地に行ってその状況を見てもらい、ボランティア活動を経験することも大切なことであると考えて、小型バスで気仙沼に行きました。気仙沼には教団の教会がないので、バプテスト教会で津波が襲ってきた時のビデオを見ながら、牧師からその時の詳しい話を聞くことができました。子どもたちは、震災のビデオを見、震災の時の話を聞いて、大きなショックを受けたようでした。「予想以上にひどかったんだね」と子どもたちは口にしていました。

 翌日、他の団体と一緒に、気仙沼の海岸のごみ拾いをし、ごみ拾いが終わった後に、小高い丘に案内されました。そこには50名以上の人々の名前が刻まれた慰霊碑がありました。案内をしてくれた人が、津波が押し寄せた時に、近くに住む人々が、ここを行けば高台なので、津波が押し寄せても大丈夫だろうと思ってこの高台に登ったのですが、その予想を裏切って、この高台に津波が押し寄せて、多くの人々が亡くなったという話でした。その慰霊碑には同じ名字が多くあったので、家族、親戚の人がみんなで避難して、安心したところで、予想を超えた大津波に襲われて亡くなったことが分かりました。この時、改めて津波の恐ろしさを思ったのです。

 テレビで災害の様子を見ていたのと、実際にその被災地に行って、見て経験することは違うと思いました。震災のすさまじさを実際に見ることができたのは、2013年9月に、牧師たちと石巻を訪れた時でした。信徒の友3月号にも掲載されていますが、石巻山城町教会を訪ねて、その後、石巻の町を見渡すことのできる、日和山に登りました。この山から石巻を見渡すと、この町に建物がほとんどないのに気がつきました。津波によって町は壊滅状態になり、たくさんの工場や家屋があった石巻の町に、少しの建物が残されているだけでした。
 
 3月4日にNHKテレビで放映された「クローズアップ現代・プラス」という番組を見ました。「行方不明の娘を探して海に潜る父」という題でした。一人娘が震災による津波で流されて、遺体がまだ見つかっていないので、父親が、娘の遺体を探し出したいとスキューバダイビングの資格を取って、同じように奥さんの遺体が見つからない友人と毎月、何回も近くの海にもぐって、遺体を探していることを伝える映像を見ました。この家族にとって、この震災はまだ終わっていないと思いました。父親が「娘の遺体が見つかるまで探すのが親である」と語っている言葉が心に残りました。

 この十年の間、東日本大震災に遭った、東北の教会の牧師、信徒たちは、教会を再建していきましたが、この間、教会生活を継続することは並大抵のことではなかったと思います。しかし、それを乗り越えて来ることができたのは、神が愛をもって自分たちを配慮していると言う信仰があったからだと思います。旧約聖書のヨブ記にヨブが、災害に遭い、財産を失い、家族を失い、自分も重い病を抱える中で、なぜ自分がこのように苦しむのか、神に嘆き、神に訴え、神にその理由を尋ねるのです。なぜ自分だけがこのように苦しまなければならないのか、ヨブは神が正義の神なのか、その理由を問い糾しているのです。大震災という不条理な、理不尽な災害に遭いながら、それでも被災した教会の信徒たちは、信仰の歩みを止めなかったのです。
 
 信徒の友3月号には「東日本大震災10年 回復の歩み」と題して、震災から10年が経過して、岩手、宮城、福島の被災したそれぞれの教会の現在の様子が紹介されています。会堂が壊れた教会が新しく献堂されて活動が再開されている様子も紹介されています。先ほどの石巻山城町教会も紹介されていて、芳賀よし子さんという婦人が、震災の時に、自宅一階が浸水し、二階で食べ物もなく、4日間を過ごしたそうですが、「信仰があって良かった」と書いています。岩手、宮城、福島にある教会は、とても小さい教会が多いのです。このような大災害に襲われるならば、消えてしまうような力しかない、小さな群れなのです。しかし、その地域に生きている信徒たちは苦労しながら、礼拝に通い、キリストの教会のために時間も身体もお金もささげているのです。それは、今も神が聖霊において働いておられるからなのです。

 最初のキリスト教会は、ローマ世界に福音が伝えられ、トルコ、ギリシャ、ローマの各地に教会が建てられて、礼拝をささげ、福音を伝えて行ったのですが、すぐにローマ帝国による厳しい迫害に遭いました。長い間、地下のお墓の中で、礼拝を守りました。日曜日に礼拝する場所の目印が壁に記されて、教会員が集まり、洞窟の中で隠れて礼拝を守ったのです。礼拝の場所を表す目印は、魚のマークでした。それは、深い意味があったのです。イエス・キリスト、救い主、神の子、という最初の言葉のギリシャ語の頭文字がイクスース、つまり、魚という言葉であったからです。ローマの官憲に見つからないで、礼拝の場所に行くことはいのちがけであり、見つかったら自分の命はないのでした。命がけで、礼拝の場所に行く、その案内の文字が「魚」、その文字はキリスト教会の信仰告白の言葉であったのです。信仰とは、全人格的なもので、私たちの一部分ではありません。礼拝の場所に赴き、そのところで、みことばを聞き、祈り、献身のしるしとして献金をし、教会のために時間と身体と財産をささげるのです。信仰とは、私たちが全人格的に神と緊密に関わって生きるものだからです。

 迫害に遭っても、屈服しない信仰は日本の教会にも受け継がれています。太平洋戦争の時に、日曜日に礼拝を中止することはありませんでした。国家による、様々な妨害があり、集まる信徒は少なく、特別警察の刑事が礼拝堂の後ろで牧師の説教が国の天皇制批判、戦争政策を批判していないか、をチェックしていた、その中で、牧師、信徒は礼拝を中止することはありませんでした。キリストの福音を伝える教会を消滅させないように、戦ったのです。自分の身の安全を考えるならば、教会に行くことは危険であると考えて、通わなかったでしょう。しかし、そうはしなかったのです。どんなことがあっても、教会に通ったのです。それは信仰とは神と全人格的に関わるものだからです。

 この一年、コロナ・ウイルス感染が拡大し、私たちの生活はかなり変化しました。教会、この言葉のギリシャ語は、エクレーシアという言葉で「集まる」と言う言葉です。しかし、コロナによって「集まる」ことを避けるように、と政府から要請されてきました。教会に「集まる」ことが私たちの教会生活の基本であり、「集まる」ことが教会の意味なのです。ところが教会に「移動」することも避けるように、また、教会に来て、「互いに話し合う」「食事をする」という交流をも避けるように、と自粛を要請されてきたのです。三密を避けるように、と言われています。しかし、私たちは一人で生きることはできません。人に会い、話、食事をする、そういう交際、交流があって、初めて人間らしい生活ができるのです。

 最近3月3日のBS海外のテレビニュースでは、アメリカの18歳から24歳の若者に、アメリカ疾病センターがアンケート調査をしたところ、60パーセントの若者が鬱で、将来に不安を抱えているとありました。コロナ拡大で、大学のオンラインでは友達とも話すことがなく、孤独で、将来に希望を持てなくなっているということでした。60歳以上の人が鬱になるのは、9パーセントであったそうです。それだけ、コロナ感染によって影響を大きく受けているのは若者のほうだ、と解説されていました。オンライン授業やズームでの会議や研究会は、その場所に行かなくても参加することができ、便利ですが、授業の後のクラブでの交流や、友達との会話・食事などが無くなって、互いに交わる機会を失って、孤立している人が増えているのです。

 教会は一つの場所に集まって、礼拝でみことばに聴き、洗礼を施し、聖餐に与り、互いに祈り合い、励まし合うところです。実際に信仰者が会って互いに交流しなくなると、私たちキリスト者は孤立し、互いに支え合い、愛し合うことができなくなってしまうのです。キリスト者としての生活が成り立たなくなるのです。私たちは、教会につながっていたからこそ、信仰を失うことがなかったのです。

 本日、礼拝で朗読したルカによる福音書12章22−34節のみことばは、多くの人々が深く慰められてきたみことばです。悩みがあって、夜、寝付かれない時に、この聖書の言葉を読んで、安心して休むことができた、そのような経験を持っている人もいます。将来の不安にとらわれている時に、この言葉を口ずさむことによって安らかな思いになった人もいます。
 主イエスは、何度も「思い悩むな」と何度も繰り返して語るのです。口語訳では「思いわずらうな」と訳されていますが、この思い煩いから解放されることが私たちにとって救いであると主イエスは考えたのです。12章22−23節に「『だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。』」食べることと着ること、これは私たちが生活する時に、無くてはならないことで、毎日、何を食べようか、何を着ようかと考え、悩むことが多いことは確かです。主イエスは、このことを軽く考えて、どうでも良いことだ、とは考えていないのです。食べたり、着ることは必要なことであると考えているのです。

 主イエスが人々に話をしていた時に、ちょうど烏が飛んでいたのです。主イエスは、烏を指してこう言われています。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」烏は、人間のようにあくせく働いたりしない、種蒔きや収穫などの重労働をするわけではない、それなのに、ゆうゆうと飛んでいる、人間の持っている心配や不安も知らずに、のんびりと大空を舞っているのです。
 
 私たちが、自分の暮らしのことで不安を持ったり、心配して、思い悩んでいるのと対照的に、この自然の中で、自由に行動している、この烏に目を留めるようにと、主イエスは語るのです。烏は、神が守ってくださるからと言って、いつも怠けているわけではないのです。忙しく餌を探して移動し、生存競争はかなり激しいのです。烏は何もしないわけではないのです。餌を探し、住まいである巣を作り、暮らしやすいように冬になれば、暖かいところに移動しているのです。その意味では、人間と同じように、働いているのです。
 ただ異なるのは、「思い悩む」ことをしないことです。物がなくなると困るので将来のために物をたくさん買っておく、買い溜めしないと不安なので、必要以上に物を欲しがることをしないのです。たくさん持っている人を羨ましいと思ったりしないのです。

 主イエスが「烏のことを考えてみなさい」と語るのは、神が小さな存在である烏のことを心に留めて、いちばん良い方法で生かしてくださっている、神がその暮らしを支え、守っていてくださることに、心を留めるようにと言う意味で語っています。造り主である神が、造られたものの命を保持し、こまやかに配慮してくださっていることに信頼することを期待して語っているのです。

 「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」私たちは、いろいろ心配をするけれどもそれが何の役に立つのかと語ります。思い煩ってもそれが私たちに役に立つわけではない、苦しみが増えるだけだと語ります。主イエスは、大空を見上げながら烏をさして、烏のように生きてみなさい、心配も思い悩みもなく、大空を飛んでいるではないか、すっかり神に委ねきって信頼して、そのままに、ありのままに生きているではないか、と語っているのです。

 座っている地面に目を向けると、そこには花が咲いていたのです。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい」と語りかけるのです。ソロモン王が造った豪華絢爛の美しい宮殿や神殿は、人々を引きつける力がありましたが、人工的な美しさは、人々の心を癒やし、和ませることはないのです。それよりも、自然に、野に咲く花のほうが、人々の心を慰め、癒やすのです。野に咲く花は、枯れてしまうと炉の中に捨てられ、焼かれてしまう、短い命でしかないのですが、そのような野の花でさえ、神は美しい花として生かしてくださるのです。そのような値打ちがない、小さなものであっても、神は生かし、美しく装わせてくださるのです。主イエスは、それなら、烏や野の花よりも、もっと大切な存在である私たち人間のために、神はもっと良く配慮してくださっているはずではないか、と語るのです。
 
 主イエスは自分の中で思い悩むのではなくて、もっと大きな存在に目を向けるようにと私たちを招くのです。ルカによる福音書12章31節に「ただ、神の国を求めなさい。」と語りかけています。この地上のものにしがみついていないで、神が愛をもって支配している神の国、天におられる神に心を向けなさい、と語るのです。
 私たちの生活に必要なものは必ず、与えてくださるのです。それはイエス・キリストを私たちの罪の犠牲として献げてくださる、それほどまでに私たちを愛している神が、私たちの必要なものを与えないことはないのです。だから、思い悩むな、と語るのです。

 本日の礼拝で、詩編91編10−11節を読みました。「あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」
 私たちを愛してくださる神に信頼し、全生活をもって、従う者でありたいと願います。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。あなたは、いろいろ悩みを抱えて苦労している私たちを、その悩みから解放し、烏のように、自由に飛び回り、野の花のようにありのままに咲くように、思い悩むな、と語りかけてくださいました。あなたに信頼し、あなたが愛をもって私たちを深く配慮してくださることを確信して、これからの歩みを導いてくださいますように。東日本大震災から10年が経過し、苦しみを抱えている多くの被災者をあなたが、力づけてください。コロナに感染し、悩みと不安の中におられる方々を、あなたが心に留めてくださり、健康を回復することができますように。医療従事者をみこころに留めてくださり、治療を続けることができますように。この週も、あなたが共にいてくださり、あなたのみこころに従うことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 ア−メン

讃美歌 457−1

献金
主の祈り

頌栄  27

祝祷 
 神があなたがたを祝福し、あなたがたを守られますように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられますように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン


来週の聖日(3月14日)
    説教 「神に心を向けて待っている」 山ノ下恭二牧師
聖書  ゼファニヤ書3章9−13節、
    ルカによる福音書12章35−40節
讃美歌 83−1、13−4、56−3、519−4、29
交読詩編 130編


(WEB礼拝)
20210228 主日礼拝説教  「神に愛されている豊かさとは」  山ノ下恭二牧師 
(詩編84編1−13節、 ルカによる福音書12章13−21節)

2月28日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年2月28日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。


前奏
礼拝招詞  「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある。」

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    127編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      211−2 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          詩編84編1−13節(旧約921ページ)) 
          ルカによる福音書12章13−21節(新約131ページ)

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。あなたは、兄弟姉妹と共に私たちを礼拝へと招き、礼拝をささげる時が与えられたことを感謝致します。先週の私たちの歩みはあなたのみこころに適う歩みではなく、あなたを忘れ、神のみことばに従うことのなかった毎日であることをあなたの前に告白致します。会堂に集っている兄弟姉妹も家庭で礼拝の時を守っている兄弟姉妹も、あなたのみことばを聴こうとしています。謙遜な思いをもって、あなたのみことばに聴くことができますように。説教者が、福音を一人一人の心に届けることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。ア−メン

讃美歌  287−2

20210228 主日礼拝説教  「神に愛されている豊かさとは」 山ノ下恭二牧師
                  声に出して読みましょう。 
 私が東大宮教会におりました時に、5年間、宇都宮教会と宇都宮東伝道所の代務者をしたことがあります。5年間、代務者であったと言うことは、5年の間、この教会と伝道所には、牧師がいなかったからです。毎月、第二日曜日に、礼拝説教をするためと長老会を主宰するために、この教会と伝道所に通っておりました。日曜日の10時30分から宇都宮教会の礼拝を終えて、午後2時からの宇都宮東伝道所の礼拝に行ったのです。宇都宮東伝道所は会員が7名のとても小さな伝道所で、礼拝出席者が私を含めていつも4名でした。この伝道所にはかなり遠いところから通っていた婦人がいたのです。この婦人は、奥日光の中禅寺湖で土産物屋をしていましたが、日曜日にはお店を家の人に任せて、バスと電車そしてバスに乗り継ぎ、3時間かけて、宇都宮東伝道所に通ってきていたのです。

 ある時、この婦人が、献金の祈りの中で「礼拝に出席でき、とてもぜいたくな時を与えられて感謝です。」と祈られたのです。私は礼拝を「ぜいたくな時」と表現したので、この言葉が私の心に残ったのです。「礼拝に出席して、とても善い時を与えられました。」というならば、何も思わないのですが、礼拝の時を「ぜいたくな時」と言われたのです。この婦人は、礼拝の時を心待ちにしていて、礼拝に出席できることを喜び、生活の中で、一番、心が安らぐ時としてこの時を過ごしていたのです。この婦人にとって、礼拝の時が自分の中で、値打ちのある、豊かな時であったのです。私たちにとって、神を礼拝する時間は、値打ちのある、豊かな時であるのです。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書12章13−21節のみことばを読みました。ここには、一人の人が主イエスのもとに来て、遺産のことで主イエスに仲裁してくれるように依頼したのですが、主イエスはその依頼を断り、貪欲に警戒するように語り、その後に金持ちの農夫のたとえ話を語っているのです。
 主イエスのもとを訪れたこの人は、親の遺産を兄弟と分けることについて不満を持っていて、主イエスに仲裁してほしいとお願いに来たのです。その不満とは、兄弟が自分に父の遺産を分けてくれないと言うことでした。こういう財産をめぐる争いは、いつの時代でも、どこの国でもあるものです。残った遺産を兄弟のうちの誰かが独占して、他の兄弟に手渡すことをしないのはおかしいので、主イエスに仲に入って解決してほしいと頼んだのです。

 ところが、主イエスは、この人の願いを断ったのです。それは主イエスが、この人の願いに応えて、自分が仲裁に入り、この人の願い通り、この人に遺産が入れば、それで問題は解決したとは考えなかったからです。主イエスは、遺産を自分のものにしたいと言う、この人の生きる構え、姿勢、あり方にメスを入れて、この人がもっている根本的な問題を明らかにしたい、そして、この人が良いと思っている、今の生き方が、間違っていることに気づいて欲しい、そして神が願っている生き方を選んで欲しいと願っていたのです。そこで、主イエスは、その人だけでなく、そこにいるすべての者たちに語りかけられました。そこにいるすべての者に関わる大切な問いがあると考えたからです。
 
 主イエスは、警告を発しているのです。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」「どんな貪欲にも」と言うのですから、財産や金銭だけでなく、あらゆる貪る欲望を指しています。「有り余るほど物を持っていても」とあるように、さまざまな物を自分のものにしたいと願う、今持っている物で満足できないで、もっと欲しいと願うことを問題にしているのです。お金が欲しいだけではなく、おいしい物をたくさん食べたい、みんなから注目されるような地位に就きたい、そのようなもっと欲しい、手に入れたいという、貪欲が問題であることを主イエスは指摘しているのです。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」そう語られて、主イエスは、金持ちの農夫のたとえ話を語られたのです。
 この農夫の畑が、作物をしまっておくことができないほどの豊作になり、農夫は、とても喜んだのです。そしてこの農夫は心の中で、これからの生活を考えたのです。これから倉を建てて、収穫した作物をしまい込み、たくさんの食糧を蓄えているのだから、食べるものが何も無いひどい飢饉がきても大丈夫だ、長生きできる、と安心し、これから宴会をして楽しもうと考えたのです。
 ところが、この農夫が思っていた通りにはならなかったのです。神の計画では、この農夫が、その夜のうちに死んでしまうことになっている、と言うのです。もし死んでしまったら、その豊かな蓄えは誰のものになるのか、地上の富をいくら積んでも、死を前にしたら、無力ではないか、と語られました。

 私たちは12章19節の言葉に注目したいと思います。19節には次のように記されています。「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」実は、今、私たちが用いている新共同訳聖書の翻訳には、「魂」という言葉を省略しているのです。この19節の、ギリシャ語の原文では、「魂」と言う言葉が二回、出てくるのです。新しく翻訳された聖書協会共同訳では、次のように翻訳されています。「自分の魂にこう言ってやるのだ。『魂よ、この何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ』。」このように、「魂」という言葉が二回、出ています。この「魂」と言う言葉の意味が、どのような意味なのかが、重要なのです。
 
 雨宮慧神父の「黙想集」には、この「魂」という言葉は、ヘブライ語では「ネフェシュ」という言葉であり、次のように解説しています。「ネフェシュは普通、『魂』とか、『命』と訳されるが、もともとの意味は食物摂取器官としての『口』とか『のど』である。』」「ネフェシュが言い表す人間存在は飢えや渇きを満たすことにその関心が向いている人間である。このように見るなら、19節の『魂』の意味も了解できる。この金持ちの『魂』は食物の摂取と不離不即の魂であるから、作物の備蓄がその必須の前提となる。」(「主日の福音」C年p236-237。 オリエンス宗教研究所 1991年)このように「魂」という言葉は、食べたり、飲んで維持していく「命」のことです。食物がたくさん蓄えられていれば、食べることも困らないし、安心して暮らすことができるのです。
 
 しかし、主イエスが語る「命」は、全く別のことを語っているのです。15節には「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と語っていますが、この「命」という言葉は、「ゾーエー」という言葉です。神と緊密につながっている「命」のことです。食べて飲んで維持していく「命」のことではないのです。主イエスが語るいのちは、食物を摂ることによって、継続するいのちのことではないのです。この「命」は「ゾーエー」という言葉ですが、この言葉は、この地上の命とは質的に異なる区別をされている言葉で、主イエス・キリストの神とつながっている命のことなのです。この「ゾーエー」と言う言葉は、ヨハネによる福音書に多く使われていて、「永遠の命」という言葉で表しています。神は永遠な方ですから、この永遠の命につながることによって、私たちは永遠の命が与えられ、この地上の命を超えて、永遠に生きることができるのです。

 主イエスは、このたとえ話をすることによって、食物を摂ることによって維持していく、そのためには食糧がたくさんあることに安心する、その次元で満足するのではなく、神との関わりという、より高い次元で「命」を考えて欲しい、と願ったのです。永遠の命に生きる、その次元で自分の命を考えて欲しい、と願っているのです。
 食べても食べても、いつか死んでしまういのちだけに関心を注ぐことではなく、地上の命を超えた、価値のある命、神に対して生きる命に目を向けることを願っているのです。

 新共同訳聖書には、翻訳されていないのですが、17節から19節には「私の」と言う言葉が、4回出てくるのです。「私の」作物、「私の」穀物、「私の」財産、「私の」蓄え、と訳すことができます。この金持ちの関心は、他者に向けられることはなく、常に自分に向けられているのです。自分のことしか考えず、獲得した作物は、自分のために使うのです。
 この金持ちのライフスタイルは、私たちのことを指しているのではないか、と思います。この地上の自分の命を維持することに関心を注いでいるのです。確かに毎日、自分の生活を維持していくことは大切ですし、そのために多くの苦労があることは確かです。しかし、財産があれば、お金があれば、豊かな生活ができる、そのレベルだけで、生活をしていくことに対して、主イエスは、神と関わる命があることを語り、もっと豊かなライフスタイルがあることを語っているのです。

 神は、ここで、この農夫がたくさんの食糧を蓄えて、将来の自分の生活を心配しないで良いと安心している農夫に対して「愚か者よ」と呼んでいるのです。愚かと呼んでいる理由は、せっかく蓄えた財産を死が没収することを知らずにいたからです。死んで自分のものにはならない富をせっせと倉にしまい込むことが、愚かである、と語っているのです。
 また、この金持ちに対して、神が「愚か者よ」と呼んでいるのは、この金持ちには、その生き方において、根本的に深刻な問題があると考えているからです。この金持ちは、自分が生きるために、頭の回転が速く、利にさとく、利口な人であったのです。才覚もあったので、金持ちにもなれたのです。この世の基準からは、この金持ちは、愚かではなく、利口なのです。
 しかし、神はこの金持ちを「愚か者」と呼んでいるのです。それは、この金持ちには神がいなかったからです。神を自分の生活に入れていなかったのです。この金持ちは、自分のことしか頭になかったのです。

 ここで主題になっていることは、どのようなことなのでしょうか。人間は結局、死ぬ、だからよく働いてお金を蓄えても、自分のものにはならないので、空しい、というのではありません。このたとえ話の最後に、主イエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われたのです。ここで問題になっているのは、真実の豊かさとは何か、ということです。その豊かさに生きる生き方は何か、と言うことです。
 神に対して豊かであるとは、どのようなことか、ということが主題なのです。
神に対して豊かである、とは、神との交わりが生き生きとしている、たくさんの関わりを持っている、ということではないか、と思います。親子でも、仲良しで、いつも電話でメ−ルでやりとりして、互いの生活がわかっている、そういう関係を持っているのは、豊かな関係を持っている、ということであると思います。

 親がこどもを育てる時に、たくさんの愛情を注いで子育てをする、そうすると子供は親の愛情をもらって、他の人にも愛情を注ぐ人になるのです。
 神に対して豊かである、それは、神から愛されていることを知っていることなのです。私たちは、イエス・キリストによって罪が赦され、愛されているのです。愛という豊かな恵みを与えられているのです。そのことに感謝していくことが、豊かな生き方ではないでしょうか。
 この農夫は、自分のことしか、考えていませんでした。自分の命を維持するために、食糧を確保して安心しようとしたのです。しかし、自分の生活の中に神と隣人を入れてはいなかったのです。豊かな生活は、自分のために生きるのを止めて、神と隣人のために生きる生活なのです。
 
 神に豊かな者とは、神との交わりを何よりも喜び、神の言葉を聞くことを幸いとする者なのです。詩編1編1−3節には、次のように記されています。「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
 そして、豊かな者とは、隣人を愛することができる者のことなのです。それは、自分の持ち物を自分のために使うのではなく、他者のために使うことのできる者なのです。自分を隣人のために身体も時間も財産も捧げて、仕える、そのような生活が、豊かな生活なのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。この地上の生活で物質的に豊かであることを追い求めて満足し、自分だけの幸いを求めることなく、神のみことばを求めて、みことばに聴く者となることができるように導いてください。隣人を愛する人が豊かな人であることを自覚し、隣人と共に歩むことができますように。様々な事情で礼拝に集うことができない兄弟姉妹、思いがけなく、コロナに感染し、苦しみと悩みを抱えている方々を癒やし、医療従事者を支えてくださり、治療を続けることができますように。これからの週をもあなたが共にいてくださり、私たちを助けてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌  361−1

献金
主の祈

頌栄   29

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。ア−メン      


          来週の聖日(3月7日)
 説教 「恐れるな、小さな群れよ」 山ノ下恭二牧師
 聖書  詩編91編10−11節 ルカによる福音書12章22−34節
 讃美歌 83−1、6−1、482−2、457−1、27  交読詩編 128編



(WEB礼拝)
20210221 主日礼拝説教  「神はあなたを忘れることはない」  山ノ下恭二牧師 
(詩編139編1−12節、 ルカによる福音書12章1−12節 )

2月21日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年2月21日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。


前奏
礼拝招詞  「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    125編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      58−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          詩編139編1−12節(旧約979ページ)) 
          ルカによる福音書12章1−12節(新約131ページ)

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神、私たちを主日礼拝に招いてくださり、あなたを礼拝し、みことばをいただく幸いな時を与えられたことを感謝致します。
会堂で礼拝している兄弟姉妹、家庭で礼拝をしている兄弟姉妹、を導き、よき礼拝をささげることができますように。この一週間の私たちが歩んできた生活は、あなたを忘れ、自分のことに思いを致し、あなたのみこころに従うことの少ない日々であったことをお詫び致します。あなたが私たちの罪を赦し、受け入れてくださり、あなたのみことばを伺うことができますように、聖霊の導きをお願い致します。コロナに感染し、不安と悩みの中にある方々を、あなたが癒やしてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

讃美歌  60−1

20210221  主日礼拝説教   「神はあなたを忘れることはない」  山ノ下恭二牧師
                  声に出して読みましょう。 
 最近、私はいろいろ忘れることが多くなりました。例えば、人の顔は思い出しても、名前が出て来なかったり、電話をしていて、用件を忘れたり、テレビを見ていて、タレントの名前が出てこなかったりすることが多くなりました。脳の認知機能が衰えてきたと思います。

 鶴見俊輔という評論家が岩波新書の「思い出袋」という本の中で、自分が通っていた、高等師範の付属小学校の校長のことを書いています。この校長は、その小学校の新入生の名前を全部、覚えていたそうです。「校長先生は、雨の日に校内の廊下などですれちがうと、『○○君、元気か』などと呼びかけてくる。一年生それぞれに、そうだった。」(「思い出袋」p70)「当時、先生は初老で、今、私が八十二歳になって考えてみると、新入生の名前を覚えるのに努力が必要だっただろう。おそらく、新入生の写真と名前をあわせて覚えるように、自分なりの練習をしたにちがいない。そして名簿を読み上げるのとちがって、偶然に出会うときに心から湧き出るように、その名を呼んだ。」(「思い出袋」p70)
 この校長は一年生に会うと、その生徒の名前を呼んで、話しかけたのです。全校生徒が八百人であったとのことなので、一年生は少なくなかったと思いますが、努力して名前を覚えたのです。この校長は生徒のことに深い関心を持って関わろうとした、心に留めていたということではないか、と思いました。記憶力が良くても、子供のことに関心がなければ、関わりを持とうとしなければ、子供の名前を覚えることはなく、一人の生徒と出会っても、名前は出てこないと思います。この校長は、子供一人一人が、自分にとってとても大切な存在である、と思っていたので、生徒に出会った時に、名前を呼んで、話をすることができたのです。

 日本基督教団出版局で発行している「信徒の友」には、牧師の消息が書いてあるコラムがあります。牧師の就任、転任、辞任、死亡が記されています。この「信徒の友」3月号に、東京神学大学で私の同級生が亡くなったことが記されていました。東北学院大学で長く教鞭をとっていて、今年の1月3日に逝去し、教会で葬儀が行われたと書かれていました。74歳とありました。学生の時に、比較的よく付き合っていたのでショックでしたし、死を身近に感じました。それから私は、自分は死んだ後、どうなるのだろうか、と思いました。
 そして、自分が死んだ後に、自分のことを覚えている人はいるのだろうか、とも思ったのです。死んだ後に、数年、経過すれば、自分の存在はみんなの記憶から消えてしまうのではないか、と思いました。
 
 本日の礼拝で、ルカによる福音書12章1−12節を読みました。12章4−12節は、主イエスが、弟子たちがこれから迫害に遭い、死に直面することがあることを考えて、慰めの言葉をかけているところです。そしてこのみことばは、私たちキリスト者に対して語りかけているみことばです。
 4節に「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい。」と語られています。最初に、「友人であるあなたがた」と呼びかけています。「友人」という言葉は「愛する者」と訳しても良い言葉です。弟子たちに対して、また私たちキリスト者に対して主イエスが、私の愛する者、と心を込めて親しく呼びかけているのです。
 
 私たちにとって自分が死ぬことを考えるとそれは恐れを呼び起こします。そして恐れに支配されるようになります。恐れに心が奪われて、何もできなくなります。死ぬことはこわいからです。自分が死ぬことを考え、そして実際に死につつある時は恐ろしいのです。コロナウイルスに感染することを恐れているのは、感染すると死ぬことがあるからです。死ぬことがないように、マスクを忘れずに付けたり、手指を消毒したり、ソーシャルディスタンスを守ったり、換気をしたりして、死を遠ざけるように気を遣っています。
 
 「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」と語られています。皆さんは、この言葉を聞いてどのような思いを持つでしょうか。死んだらもうすべてお終いになるのではではないか、と思う人もいるでしょう。死んだらすべてが終わると考える人にとっては、死んだ後のことを語るのは無意味です。
 迫害と言うのは、暴力的な力によって人の命を奪うことです。この地上でのいのちが終わりであるならば、この言葉には意味がありません。どのような力ある者であっても、私たちに対して、死に至るだけの力はもたない、死ぬことはない、と言うのであれば、いのちは助かり、安心するのです。しかし、自分の体は殺されて死ぬ、しかし、それ以上は何もできない、と語られているのです。これは、どのようなことを伝えたいと思って語ろうとしているのでしょうか。
 
 主イエスは、マタイによる福音書10章26−31節において同じ内容のみことばを語っています。ルカによる福音書12章4−5節には「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐るべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」とありますが、マタイによる福音書10章28節では、次のように記されています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

 ここで、注目したい言葉は「魂」という言葉です。「魂」という言葉が二度、使われています。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」と「魂」という言葉が出てくるのです。「体」とは、私たちの肉体を指しています。魂は、この地上を越えた、神とつながる、この地上を越えた次元が異なるいのちです。
 迫害によって殺される、そのことを考えるだけで恐れを抱きます。キリストのために殉教する、それは、誉れになりますが、人間としては、自分の肉体が死滅するのですから、恐れを抱くに違いないのです。

 しかし、「魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と語ります。この「魂」とは、神と深くつながっているいのちのことです。この肉体が無くなっても、神と深い関わりをもっている魂は、神とつながっているので、肉体は死んでも、滅ぶことはないのです。私たちは洗礼を受けて、神との関わりが与えられているのです。神のいのちとつながっているのです。肉体が死んでも、神といのちがつながっているのです。私たちが洗礼を受けて、キリスト者となった、それは、神が私たちの存在を受け入れ、罪を赦し、肯定しているのです。私たちは、この地上のいのちを超えた、神が支配する領域に入っているのです。天も地も支配している神と私たちのいのちがつながっているのですから、この地上の体が滅んでも、私たちの命は神のもとにあるのです。それは、私たちが神の所有とされているからです。
 
 昨年、12月ごろ、新生宣教団というキリスト教伝道団体の方が教会に見えました。この団体は、特に中国の人々に福音を伝えたいという志をもって活動しているのです。そして中国で聖書を印刷して配布することを援助している団体です。しかし、最近は、中国政府が、聖書を印刷をすることを許可しなくなり、中国への伝道が難しくなった、と話してくれました。そして、中国のキリスト教会に対して、破壊活動がなされていて、キリスト教会の礼拝堂が壊されたり、牧師が連行される事件が多く起こっているとのことです。国家よりも上の権威をもつ団体は認めないのです。政府に従うことよりも、イエス・キリストに従う人々が多くなるのは、国家の言うことに従わない、反政府運動になることは、国家を壊すことになると考えているからです。国家はあらゆる手段を使って、国家に言うことを聞き、国家に都合の良い人材を作ろうと努めるのです。
 
 国家は、あらゆる手段を使って、人々の心の中に入り込もうとしますが、それには、限界があるのです。日本の歴史の中では、国家が人の思想にまで介入して、裁いてきた歴史があるのです。しかし、誰でも、その人の魂までを支配することはできないのです。それは、力を持つ者が入り込まないように、神が私たちの魂をしっかりと握っているからです。
 
 この「体」と「魂」とは、キリスト教会の最初の伝道者パウロが、コリントの信徒への手紙二 4章16節で語っている「外なる人」と「内なる人」と言う言葉で言い換えることができます。これは「体」と「魂」という言葉と通じているのです。「外なる人」とは、「肉体」をもって生きている私たちのことです。外なる人は衰えていきます。死ぬのです。しかし、「内なる人」は神と深く関わっている魂のことです。パウロは「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」と語っているのです。この肉体は衰え、死ぬのです。しかし、神とつながっている魂は、衰えることなく、神とつながっているいのちは新しくされているのです。

 私たちの魂の奥底まで、他の者は入り込むことはできないのです。そこでは神だけが、入り、私たちと親しく関わることができるのです。私が、東京神学大学の学生の頃、隣の国際基督教大学の客員教授であった、森有正先生が、大学構内のシーベリーチャペルで、日曜日の夜に連続して講演されたことがあり、この講演会に出席したことがありました。この連続講演が「アブラハムの生涯」という本になったのです。この本の中で私が深い印象をもって記憶にとどめている言葉があるのです。それはこういう言葉です。「人間というものはどうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。」と言う言葉です。その人の心の中に、誰も入り込むことのできない、魂のありかをもっている、そこでしか、神にお目にかかることができない、と言うのです。

 その人の心の一隅において神は出会う、誰も入り込むことのできない、魂の場所を持っているのです。神は自分のことを知っていてくださるのです。自分の悩みも自分の苦しみもよく知っていてくださるのです。私たちが神を知っているのではなくて、神が私たちのことを深い関心を持って知っていてくださるのです。
 
 本日の礼拝で、詩編139編1−12節を読みました。神が自分を知っていることの喜びを歌っている詩編です。詩編139編1−3節には「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。」と語られています。
 
 「知る」という言葉は知識として知っている、という意味ではなくて、相手と関わり、経験として知っている、という言葉です。相手と付き合って、経験から知っているという意味です。相手を愛によって知っているのです。
 神は、私たちの魂を配慮しようとしているのです。死んだ後のことを考えて心配するのです。私たちは、死んだ後に、自分はどこに行くのか、と不安になるのです。しかし、神は深い配慮をもって私たちから目を離すことはないのです。
 詩編139編8節には、「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。」神は天においても地においても、暗闇に覆われた、光の射さない陰府においても神はおられるのです。
 
 そして、ルカによる福音書12章6−7節には、神が私たちの先を見通して、先に必要なものを備えてくださっている、と語りかけます。
 ルカによる福音書12章6−7節には「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、神がお忘れになるようなことはない。」と語るのです。雀が数羽、遊んでいる姿を見かけることがあります。これらの雀を見ると、このみことばを思い起こします。アサリオンというのは、この当時、最小のお金の単位です。現在の日本のお金の単位であれば、一円の単位です。一円の価値もない一羽の雀でさえも神は忘れることはないのです。私たちが神を忘れていても、神は忘れることはないのです。
 
 私たちが神を忘れて、自分のことばかり思って暮らしている時にも、神はいつまでも私たちを忘れず、善い意志をもって私たちを支配し、私たちの先を見通して、先手を打ち、配慮してくださっているのです。この神は、私たちを造り、責任をもって私たちを保持し、保護し、同伴し、配慮する神なのです。
 この神が、私たちを愛をもって記憶し、忘れることはないのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。あなたは、私たちの魂と体とを見守り、配慮し、深く愛してくださる神であることを知らされ、感謝致します。これからの私たちの将来をあなたが支え、保護してくださり、私たちも安心して、あなたの御心を行うことができますように導いてください。私たちの兄弟姉妹の中で、病と戦う兄弟姉妹をあなたが支え、癒やしてくださいますように。この一週間もあなたが共にいて導いてくださいますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって祈り願います。ア−メン

讃美歌  463−2
献金
主の祈

頌栄   27

祝祷 
 主があなたがたを祝福し あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けてあなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に ありますように。 ア−メン

       来週の聖日 (2月28日)
説教 「神に愛されている豊かさとは」 山ノ下恭二牧師
聖書
  詩編84編1−13節 
  ルカによる福音書12章13−21節
讃美歌83−1 211−2、287−2、361−1、29 
交読詩編 127編


(WEB礼拝)
20210214 主日礼拝説教  「自分の正しさに寄りかかることなく」  山ノ下恭二牧師 
(エレミヤ書12章1−3節、 ルカによる福音書11章45−54節 )

2月14日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年2月14日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞  「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を讃美することは正しい人にふさわしい」

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    121編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      57−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          エレミヤ書12章1−3節(旧約1199ページ) 
          ルカによる福音書11章45−54節(新約130ページ)

祈祷 
 私たちをいつも愛して守ってくださるイエス・キリストの父なる神。新しい主の日の礼拝の時を与えられたことを心から感謝致します。会堂で礼拝を守っている兄弟姉妹も家庭で礼拝を守っている兄弟姉妹もあなたの前で、讃美をささげることができます幸いを感謝致します。これからあなたのみことばを聞きます。謙遜な心で聞くことができますように導いてください。語る説教者を用いて、大胆に語り、みことばを聞く者の心に届けることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌  460−1

20210217  主日礼拝説教   「自分の正しさに寄りかかることなく」  山ノ下恭二牧師
                  声に出して読みましょう。
 キリスト教会の看板や教会案内に、マタイによる福音書11章28−30節の言葉が記されていることが多いのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」この言葉は、多くの人々に対して教会が招いている言葉です。私たちは、毎日、暮らしていく中で、様々な重荷を負って過ごしています。自分の健康のこと、会社の仕事、学校での勉強や友達のこと、家族のこと、お金のこと、様々なことに重荷を感じています。この聖書の言葉は重荷を背負って疲れた者に対する招きの言葉なのです。そして重荷をもっている者に対して、慰めと安らぎの言葉が記されています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 コロナの感染が拡大してから、感染防止のために、みんながマスクをするようになりました。私は、出かける時に、マスクを忘れて、家に戻ってマスクを付けて出かけることが多いです。マスクをしていないと誰かからマスクをするようにと指摘されるかもしれないと思います。マスクをしていない人はとても目立ちますし、マスクをしないで、電車に乗れば、周りの人が、不審な目で見ると思います。感染予防のために、会食の時もマスクをするように、政府はマスクをしないならば、罰則を考えているとも聞きました。

 2月10日(水)朝日新聞の投書欄にある女性が「何が『不要不急』か自分で考えたい」という題の投書がありました。この投書は、1月22日に「個人差ある『不要不急』具体例を」という投書に対しての意見なのです。1月22日の投書はどのような内容か、と言うと、政府が、外出自粛要請をして「不要不急の外出は控えるように」と言っているが、「団体行動は厳しく制限すべきだが、『一人での外食』『一人での散歩』は控えなくても良い、などの具体例も示してほしい」という内容でした。この人の意見に対して、2月10日に投書した人は次のように意見を書いています。
 「人にはそれぞれの生活があり、自分の想像を超えた事情があります。まさに個人差があるからこそ、政府が介入しないほうが良いように思います。」「政府の『具体例』がいつの間にか「規則」になり、従わない者には罰則、なんてことになるのはご免です。私たちは自分の頭で考えて、より良い行動がとれるようにしておくことが大事ではないでしょうか。」と書いてありました。

 私たちの生活には、守らなくてはならない、様々な規則があります。それは自分も他の人も安全に安心して、生活をするために作られたものです。
 私たちは、規則に従って正しく生きるべきだ、という思いをもっています。規則に違反すると、それは良くないと思うのは間違ってはいないのです。他の人が規則違反をしていることを指摘したいと思うのは当然です。その思いが重なると、規則を守ることが一番、重要なことであると考えるようになり、規則至上主義になり、私たちの生活を縛り、窮屈なものにさせてしまうことがあるのです。 
 
 主イエスが公の活動を始めた時に、ぶつかった問題は、律法を守るか、どうかの問題でした。律法の細かい戒めを守ることの意味が問われたのです。主イエスが地上におられた時代に最も重要な戒めは、安息日に労働してはならない、という戒めでした。安息日に医師が病を治すことは、労働に当たりますので、してはならないことでした。それに対して、主イエスは、安息日のために人があるのではなくて、人のために安息日がある、と語り、優先すべきことは、規則を守ることよりも、人間のいのちを守り、人間を尊重することであると語りました。律法は、守るためにあるのではなくて、人間の生活が順調に進むためにある、人間を尊重するために、戒めがある、と語るのです。

 ルカによる福音書11章37−44節までは、ファリサイ派の人々に対する主イエスの厳しい批判が語られています。42節で「正義の実行と神への愛はおろそかにしている。」と言う言葉を聞いた時に、反論が起こったのです。45節です。「そこで、律法の専門家の一人が、『先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります。』と言った。」腹を立てたのです。頭にきたのです。それは急所をつかれたからです。
 
 律法の専門家、それは神の言葉の専門家です。神の言葉である律法について、いつも学び、自分たちが律法のあらゆることを知っていると自負している人たちです。ファリサイ派の人々は、神の言葉である律法によって信仰生活をしようと志している人々でしたから、この人たちは、いつも律法の専門家を頼りにしていたのでした。律法のことで分からないことがあれば、律法学者に教えてもらったのです。律法の先生のところで、学んだことのない、主イエスが、自分たちを批判している、何も分からないくせに、律法の細かい戒めを全部知ってはいないくせに、律法の専門家である自分たちを批判することに腹を立てたのです。主イエスが自分たちのプライドを傷つけたと怒ったのです。

 主イエスは、自分たちが侮辱されたと怒っている、律法の専門家に対して、さらに怒りを呼び起こすような、厳しい言葉を続けるのです。
 私は、46節の言葉を読んで、気づきが起こりました。そしてこの言葉に思いを深くしました。「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷を触れようとしないからだ。』」私は、この言葉が、自分がしていることを主イエスによって指摘されているように思ったのです。

 私たちは、自分の中に、自分が作った律法を持っています。人によって、その律法の内容は違っていると思います。私は、時間はきちんと守って欲しいと思っています。それを他の人にも守ってほしいと要求することがあります。時間を守らなければならない、時間を守るべきだ、時間は厳守すべきだ、そして、時間を絶対に守るべきである、とエスカレートしていくのです。自分の律法を絶対化していくのです。そのことが、他の人の重荷になっていくのです。

 私たちは、ひとりで生活しているわけではありません。自分だけではなく、他の人と共に生活をしています。ひとりだけで生活をしているならば、それで完結しているのですが、自分の言動が他の人々にも大きく影響するのです。自分が正義の味方のように、正しいことを言い、正しいことをしているのだから、周りの者がどう思おうと関係ない、と思っています。しかし、そう言うことはできません。周りに生きている人々を無視して、自分だけは正しいことをしているのだからそれで良い、とは言えないのです。唯我独尊であってはいけないのです。

 自分が隣の人にとってどのような存在であるのか、そのことを自覚して話したり、行動しているのか、と言うことです。他の人の存在を自分はどのように考え、自分の生活の中にどのように位置づけているのか、と言うことです。
 私たちは、いろいろなことを決めますが、決める時に、自分が正しいことを言っているのだから、それでやろうと言うのか、それとも、決めたことによって他の人の生活がどうなるのか、ということを考慮して決めたのか、と言うことです。

 本来、規則は、共同体の中で、人間が互いにいのちを尊重し、生活がしやすいようにしていくためのものです。しかし、その目的から外れて、規則を守っていくことが目的になってしまうのです。規則を守っていくことに意味を見出し、そこに生きている人の命を軽視することが起こります。

 かなり前のことですが、兵庫県高塚高校の女子高校生が校門の門扉に挟まれて、死亡した事件がありました。この高校では、生徒の遅刻が多いと言うことで、初めは、校門に教師が立って、遅刻しそうな生徒に「もっと早く来い」「急いで」と声を掛けていたのです。それだけで良かったのですが、遅刻する生徒が減らないので、職員会議で、8時30分にきっかりなったら、8時30分に門扉を締めようということを決めて、実施したのです。今でも、学校の門扉は、鉄製の頑丈なものですから、勢いよく締めたら、相当な力になります。ある朝、ある女生徒が門扉を通りすぎようとしたところ、8時29分数秒であったので、門扉を締めたところ、その門扉に挟まれて、その高校生は死亡した、という事件であったのです。

 生徒のいのちを育てる高校が、決められた決まり事によって、女子高校生のいのちを失わせてしまうことになったのです。この決まりを作った時に、門扉をその時間に締めたら、挟まって危険だ、ということを想定していないのです。 遅刻させないために、どうしようか、そうだ門扉を閉めて入れないようにすれば、後から来た生徒が校庭に入れないで、次の日は時間より前に登校するようになるだろうとしか、考えなかったのです。
 
 この高校の教職員は、8時30分に門扉を閉めたら、生徒に危害が及ばないか、危険性はないのか、ということを検討しないで実行したのです。これは遅刻しないようにするという考えだけが優先して、生徒不在の手立てだったのです。生徒のいのちを守る、という、隣人の存在を考えないあり方なのです。生徒は遅刻してはいけない、それだけしか考えなかったのです。他の人への思いやり、隣人への想像力が欠如していたのです。自分の想像の中に、隣人の存在が入っていないのです。
 律法を守ることを他人に強制することによって、その人が、律法と言う重荷を持つようになっているのです。

 主イエスは、常に、隣人が、重荷が軽くなって生きることを目指して活動をしています。重荷を負って苦労している人々に対して、深い同情を寄せています。主イエスは戒めを守ることができない人々に近づき、隣人となったのです。

 特に、生きづらい人々、障がいをもって苦労している人々に対して、主イエスは同情し、近寄り、その障がいを取り除き、重荷を降ろすことができるように、癒すのです。障がいをもって生活することは、とても大変です。この人たちの重荷を取り除こうと力を尽くしています。
 ルカによる福音書6章6−11節には、主イエスが、安息日に右手が萎えた人を癒したのですが、このことを見たファリサイ派の人々が、安息日にしてはならない労働をしていると、非難するまなざしで見ていたのに対して、主イエスは、問いをつきつけたのです。安息日は、休息を取り、いのちを救う日であると言われたのです。
 
 主イエスは、律法学者たちやファリサイ派の人々に対して、次のように、問うているのです。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』」安息日の律法は、その戒めを守ることを目的に作られたのではなく、人間の生活が回復されることであり、まず何よりも、人の命を救うことが最優先される、と語られたのです。

 ファリサイ派の人々、律法の専門家は、人々に重荷を背負わせて、その重荷を取り除くことをしませんでした。自分の正しさに寄りかかって、それで満足していたのでした。自分は神に対して正しいことを教え、律法に従って正しく生きている、と自負していたのでした。

 しかし、主イエスは、私たち隣人の重荷を取り除いて、重荷が軽くなるように力を尽くしたのです。私たちの罪の重荷をご自分で引き受け、十字架の死によって、私たちの罪を取り除いてくださったのです。主イエスはご自分の正しさを貫くことよりも、隣人を愛することを最優先されたのです。
 私たちには、隣人の重荷を取り除き、隣人を愛する道が示されているのです。

祈り
 主イエス・キリストの父なる神。私たちは自分の正しさに寄りかかって、人を裁き、隣人を愛することの少ない者であります。主イエス・キリストが罪の重荷を取り除き、軽やかに生きるようにしてくださったことを心から感謝致します。愛をもって隣人に接する者としてください。コロナに感染し、苦しみと悩みのうちにある兄弟姉妹をあなたが癒し、医療従事者が過労のために辞職しないように、助けてください。この一週間もあなたが共にいて私たちを励まし、力づけてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 475−1

献金
頌栄  29

祝祷 
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。ア−メン
 
         来週の聖日(2月21日)
説教「神はあなたを忘れることはない」山ノ下恭二牧師
聖書 詩編139編1−12節 
   ルカによる福音書12章1−12節
讃美歌 83−1、58−1、60−1、463−2、27
交読詩編 125編



(WEB礼拝)
20210207 主日礼拝説教  「清い心を創造してください」  山ノ下恭二牧師 
 詩編51編12−14節、ルカによる福音書11章37−44節)

2月7日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年2月7日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞  「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」

讃詠       83−1
使徒信条

交読詩編    116編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      56−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          詩編51編12−14節(旧約p885)
         ルカによる福音書11章37−44節(新約p130)

祈祷
 主イエス・キリストの父なる神。新しい主の日を備えてくださり、私たち一人一人をみ前に呼び集めてくださったことを、こころから感謝致します。会堂で礼拝を守っている兄弟姉妹、家庭で礼拝を守っている兄弟姉妹も等しく、あなたは礼拝の時を与えて下さいます。この一週間の歩みを顧みる時に、あなたのみこころを痛めることが多く、あなたに従うよりも、自分の気持ちに従い、あなたを愛することなく、隣人を愛すること少ない日々であったことを深くお詫び致します。あなたのみことばをこれから聞こうとしています。私たちの心に聖霊を注いでくださり、あなたのみことばを柔らかな心で聞くことができますように。説教者を用いて、聖書に従って正しく語ることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌   482−1

20210207 主日礼拝説教  「清い心を創造してください」  山ノ下恭二牧師
                  声に出して読みましょう。
 聖学院大学では、二週間に一度、大学の礼拝の聖書の箇所や奨励題が記されているチャペルニュースが出るのですが、表紙に学長やチャプレンの教師やキリスト者の教師などが、短い文章を書いているのです。数年前のことですが、2018年7月に清水正之学長が書いている文に目が留まりました。清水学長は、日本倫理思想史を研究しているのですが、次のことを書いているのです。 倫理学において、人間の行為の結果を重んじる考え方と、人間の動機、心情を重んじる考え方があるが、聖書は、動機や心情を重んじている、と書いてありました。文章を引用して紹介します。「倫理学の考え方に、結果を重視する倫理と内面の動機ないし心情を重視する倫理という分け方があります。聖書は、あえていえば後者に比重があるように思えます。」また、現代社会においては、その人の行為によって、成果をもって人の価値をはかる傾向がつよくでている、とも書いています。「聖書の人間観は、良い木から、良い実が出てくるといって」おり、動機や心情を重視していくことが重要だ、と書いています。私たちは、外側に現れた、人の行為に注目しがちですが、その人がどのような動機、心情でしているのか、のほうが大切であると書いています。

 本日の礼拝で読みました、ルカによる福音書11章37−44節には、主イエスがファリサイ派を厳しく批判しているところです。ファリサイ派の人々にとって、信仰とは、律法や戒めを行うことでした。細かい規則を守ることが第一にすべきことであったのです。
 今日の聖書には、主イエスがファリサイ派の人から、食事の招待を受けた時に、手を洗わなかったことから、話が始まっています。食事の前には手を洗うことは、戒めとして守るべきこととして重んじられていたのです。
 現在、私たちは、食事の前に清潔にするために手を洗うことをしていますが、手を清潔にするために洗うのではなくて、ファリサイ派の人々は、戒めを守るために手を洗っていたのです。そのように、戒めを守ることが、信仰者の本来のあり方であると考えていたのです。

 ルカによる福音書6章の初めのところには、安息日に、主イエスと弟子たちが麦畑を歩いているときに、弟子たちが麦の穂を摘んだことをファリサイ派の人々が、咎めたことが記されています。弟子たちは、お腹がすいたので、麦の穂を摘んだのでしょうが、ファリサイ派の人々から、安息日に穂を摘むという行いは労働に当たる、それは安息日に働いてはならないという戒めを破っているので、律法違反になると指摘されたのです。

 戒めを守るか、どうかでその人を見るのです。律法を守ることが、その人の信仰を測る規準になっているのです。外側から見た人間の行いによって、その人の価値を決めるのです。ある牧師が、自分は小学生の頃、優等生であった、先生が見ているときだけ、良い子にしていたと話していました。教室の掃除の時に、先生が掃除の監督をしている時だけ、一所懸命に掃除をしているように見せかけ、先生がいない時は掃除をしないでいた、と話されたことがあります。その人の行いによって、その人がまじめであるか、どうか、判断するのです。その人の行ないを見て、その人を判断するのです。

 私たちは、人の行動や振る舞い、という外側の行為しか見ていないのです。その人の心の中まで見えないので、見えるところで、その人を判断しているのです。その人が何を悩んでいるのか、何をしようとしているのか、その動機や心情をその時に把握することができない、また、その人の心の中まで覗くことができないので、その人の行ないを見て判断しているのです。主イエスは、戒めに従って生活しているのか、どうか、ということよりも、どのような動機でしているのか、どのような心をもって過ごしているのかが大切であることを語りました。

 マタイによる福音書5章21節には「殺すな」という戒めについて、主イエスは、殺さなければ良いということではなくて、「兄弟に腹を立てる」者は、兄弟を殺すのと同じである、と語るのです。物理的暴力によって殺人を犯さないことが、「殺すな」という戒めを守っているというだけに留まらず、腹を立てるという内面の心の動きだけで、それは相手を殺すことと同じことであると語っているのです。

 ファリサイという言葉は、区別する、他の人と自分とは違う、という意味の言葉です。このファリサイ派は、紀元前3世紀頃、神に純粋に仕えていく、律法を厳格に守る、敬虔な信仰をもった人々の集団として生まれたもので、他の異邦人たち、外国人たちと自分たちとを区別する意識をもち、自分たちが神に近く、優位に立っていることを誇りとしていたのでした。

 主イエスはファリサイ派に対して、偽善者と厳しく批判をしています。「偽善」という言葉は「仮面をつける」「役者」と言う言葉です。ある役柄を演じているのですが、この役を演じているのは別人であるのです。その役の人間になりきるのです。時々、矢来能楽堂のそばを散歩で通りますが、観世流の舞台で演じている音が聞こえることがあります。能で言えば、翁の役を、若者が演じるのです。
 ファリサイ派の人々は、律法を実行しているように見せかけているのです。実際に苦しい断食をしているというのではなく、みんなに断食をしていることが分かるように、みんなの前で、何日も食事をしていないような苦しい表情をして、断食をして戒めをまもっている立派な信仰者であるとみんなから賞賛されるとことを願ってしているのです。それは見せかけにすぎないのです。

 そして、自分が律法を守っていることで、守っていない人々に対して、優越感を持ち、自分が他の人よりも優れているのだ、という意識を持つようになるのです。他の人を見下しているのです。ルカによる福音書18章9−14節には、主イエスが、「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、たとえ話をしています。
 18章11−12節には次のように記されています。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」ファリサイ派のこの人は、自分が律法に従ってきちんと生活していることを心の中で祈り、徴税人と自分とは違う人間だと差別をして、自分を誇示しているのです。この人は心の中で、徴税人を軽蔑し、差別と言う罪を犯しているのです。

 食事の前に手を洗うのが戒めで決められているのに、主イエスが手を洗わないのは、この戒めに違反していると不審に思った一人のファリサイ派の心のうちを見抜いて、主イエスは、39−40節で次のように語っています。
 「主は言われた『実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。」と語っています。人が見ることができる、外側は、きれいであるが、内側、人が見ることができない心の中は、汚れている、と語り、神が人間の体を創造するする時に、心も体も一緒に創造したのである、と語るのです。神は心も体も共に私たちを創造されたのです。

 この説教で最初に触れた、チャペルニュースのことですが、清水学長の文章の最初にルカによる福音書6章43−46節の言葉が記されていました。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは、採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」ここに「善い人は良いものをいれた心の倉から良いものを出す」とあり、良い心の倉から、良い行ないが出てくると語られているのです。

 41節では「ただ、器にある物を施せ、そうすれば、あなたたちには、すべてのものが清くなる。」この言葉は理解するのは難しいだけでなく、誤訳だと言われています。この言葉の本来の意味は、「内側をきれいにしなさい。そうすれば、あなたのすべてがきれいになる。」という意味です。内側が清いところでは、外側の行為も自ずから清くされるのであるという意味なのです。

 心が清い、ということが大切なことになるのですが、これはどのような意味なのでしょうか。私たちの心は、さまざまな思いで満ちています。相手に親切にしたい気持ちをもつ時があり、相手を憎らしいと思う時もあり、私たちの心の中には、様々な思いが複雑に混じり合っています。このような良い心も悪い心も混じり合っている複雑な心を自分で管理して、清い心にしようと努力することを要求されているのでしょうか。私たちがまじりけのない、純粋な心になるように努めることを、主イエス・キリストは私たちに期待しているのでしょうか。私たちの心のうちには、さまざまな思いが溢れていますが、自分が自分の心を支配し、統御し、汚れていない心にすることができるのでしょうか。

 本日の礼拝で詩篇51編12−14節を読みました。この詩編51編は、ダビデが深い罪を犯したことを預言者ナタンから糾弾されて、ダビデが罪を告白し、神に赦しを乞い願った詩篇です。ダビデは部下の妻と関係を持ち、子供が産まれることになり、そのことが発覚しないように、部下を一番、激しい戦闘の場面に送って戦死させたのです。姦淫の罪と殺人の罪を犯したのです。
 ナタンという預言者は、ダビデの罪を告発したのです。その時に、ダビデが悔い改めた時の詩が、詩編51編です。ダビデは、自分が深い罪を犯したことを告白しています。51編3−4節には、「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」
 ダビデは、まことの神をもっているので、神を畏れ、神に対して自分の罪を認め、告白しているのです。

 今年の1月に、バイデン氏がアメリカの大統領に就任しましたが、かつてクリントン氏が大統領の時に、女性と不適切な関係を持っていたことが判明し、国民の前で、自分の罪を告白したことがありました。クリントン大統領には、信頼できる牧師たちがいて、牧師たちの助言を受けて、自分の罪をアメリカ国民の前で告白することができたのです。それが可能となったのは、牧師たちと共に聖書を読み、熱心に祈り、キリスト者としてあり方を教えられていたからです。

 清い心になるのは、瞑想したり、心が綺麗になるように訓練して、心を清くなるのではありません。私たちの心には、欲望や嫉妬、差別、軽蔑、他の人を見下す心を持っています。そのような汚れている心を自分の努力で、汚れていない、全く清い心にすることはできません。このような心をもっている私たちのために、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださって、聖霊によって新しい心を神が創造してくださったことにより、清い心を持つことができたのです。

 詩編51編12節に「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」とあります。ここで、注目したいのは、神に「わたしの内に清い心を創造し」と祈り、願っていることです。自分で清い心を持つように努めよと言っているのではないのです。大切なことは、神が、私たちの心を、聖霊によって、清い心にして造り変えてくださると語っていることです。

 主イエスは、山上の説教で「心の清い人々は、幸いである。」と語っています。「清い」という言葉は、混じりけのない、二つ心のない、という意味の言葉です。「清い」という言葉は、神もお金も両方大切だ、とは考えない、ただ、神にのみ心を向けている、という意味の言葉です。私たちはいつも神に心を向けていることができるのでしょうか。できるはずはないのです。私たちは神も大切、また自分の命、自分の生活も大切、この二つ、両方とも大切だと思っているのです。清い心になるのは、神が私たちの心を清い心に造り変えてくださることによってのみです。
 
 神に「清い心を創造してください。新しく確かな霊を授けてください。」と祈り、願うものでありたいと思います。

祈祷 
 主イエス・キリストの父なる神。私たちの心にあなたの聖霊を注ぎ、清い心で、過ごすことができますように、導いてください。コロナ・ウイルス感染によって、多くの方々が深刻な影響を受けています。特に、思いがけなく感染し、苦しみと不安の中にいる多くの方々を癒し、健康を回復することができますように。医療従事者を支えてくださり、医療行為を続けることができますように。コロナのために仕事を失い、収入がなくなり、困っている多くの方々をあなたが顧みてくださいますように。教会の兄弟姉妹の中で、自宅療養をしている方々の健康を支えてくださいますように。少しずつ、春が近づいてきましたが、私たちの心身を支えてくださり、この寒い時を乗り越えることができますように。この一週間もあなたが共にいて、私たちを支え、励ましてくださり、生きる勇気と希望とを与えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌  474−1

献金
主の祈り

頌栄   27

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。ア−メン


来週の聖日(2月14日)
説教「自分の正しさに寄りかかることなく」山ノ下恭二牧師
聖書 エレミヤ書12章1−3節 
   ルカによる福音書11章45−54節 
交読詩編 121編 
讃美歌 83−1 57−1 460−1 475−1 29
 

(WEB礼拝)
20210131 主日礼拝説教  「愛することに疲れないで」  山ノ下恭二牧師 
 エゼキエル書39章21−29節、 ロ−マの信徒への手紙12章9−12節)

1月31日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年1月31日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞  「わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう 共にひれ伏し、伏し拝もう」  (詩編95編6節)

讃詠       83−1

交読詩編    115編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      18−3 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          エゼキエル書39章21−29節 (旧約1361ページ)、
          ロ−マの信徒への手紙12章9−12節(新約292ページ)

祈祷  
 イエス・キリストの父なる神。一年の中で最も寒い時を過ごしてまいりましたが、あなたに招かれて礼拝に与れる幸いを感謝致します。会堂での礼拝に出席されている兄弟姉妹も、家庭で礼拝を守っている兄弟姉妹も、共に心を合わせて、礼拝をささげることができますことを感謝致します。あなたの恵みと愛を受けながらも、あなたのみこころに従うことの少ない日々であったことをお詫びします。そのような者でも、あなたは、赦してくださり、あなたに近づくことができ、みことばをもって私たちをもてなしてくださいます。みことばを語る者をあなたが用いてくださり、聞く者の心に届くことができますように聖霊を注いでください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。ア−メン

讃美歌      358−1

20210131 主日礼拝説教  「愛することに疲れないで」  山ノ下恭二牧師
           声に出して読みましょう。

 私は、1月20日の夜から左側後頭部がズキンズキンと痛み出したのですが、そのうちに痛みも収まると思って、我慢していました。しかし、22日の朝になっても痛みが取れないので、かかりつけの医院に行き、医師が脳溢血などの心配があるならば、脳の画像を撮るために、御茶ノ水の医院で、CTの検査をしたらよいということで、その医院に行き、検査しました。CT検査の後、画像写真をかかりつけの医院に持っていき、画像を見た医師は異常がないので、原因はよく分からないが、ひょっとしたら、神経痛ではないか、と言いました。そして葛根湯と後頭に塗る薬を出してくれました。
 帰宅後、パソコンで私の症状を検索して調べてみたら、それは後頭神経痛で、同じ姿勢で長時間、作業をしていると後頭神経痛になると書いてありました。いろいろ考えると、この1ヶ月、パソコンの操作を長時間、同じ姿勢でしていたことに気がついたのです。従って、そのために血液の循環が悪くなり、痛みが出て来ることが分かりました。薬を飲んだ結果、26日には、後頭部の痛みがなくなり、良くなりました。

 私たちは、長い時間、ひとつのことに携わると、疲れてきます。勉強、仕事など、長時間、続くととても疲れます。私たちは、人と関わらないで、生活することはできません。家族と関わり、職場の人々と関わり、地域の人々とも関わります。人と関わることは、生きる力を与えられ、喜びが与えられますが、逆に、気苦労が多く、忍耐することを要求され、心身共に疲れることも多いのです。

 私が、東大宮教会におりました時に、私は、児童養護施設と関わりをもっていました。児童養護施設は、傷ついた子どもたちの心を癒し、心を育て、配慮する施設です。この養護施設の37名の子どもたちと職員たちが、毎週、日曜日、東大宮教会の教会学校に通って来ていました。私は月に一度、この養護施設に行き金曜日の夕べの礼拝で話をしていました。また理事会で養護施設職員の仕事の様子を知り、子どもたちの様々な問題を聞いてきました。

 職員たちは、泊まり込みで子供達と24時間、お世話をしているのです。小舎制を取っていて、家族的な形態で、子供達を育てるという方針です。一つの家に子供が10人、職員が3人から4人で構成されていました。この施設と関わって思ったことは、24時間、子供達を世話することは、とても大変だし、疲れるだろうと思いました。子供達は幼児のころから、親に虐待されてきた子供が多いのです。それだけ、親の愛情に飢えているので、愛着をもとめて、抱っこを求めて、職員を追い回すことがあるのです。子供達が、幼稚園や学校に行っている、午前中が休める時間帯ですが、十分に休めることはなく、学校で子どもたちが問題を起こした時には、職員たちが学校に謝りに行くことも多かったのです。職員たちを見ていると、クタクタに疲れている時も休むひまもないと言うのが現実でした。

 養護施設で働くことは、子どもの世話をし、深く関わる仕事ですから、愛することに疲れることは確かなのです。生きた人間を愛することは、かなりのエネルギーが必要です。エネルギーを使うのですから、かなり疲れるのです。
 
 最初の伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙12章から、キリスト者はいかに生きて行くのかを教えています。12章3−8節では、教会がキリストのからだであり、それぞれが、そのからだの部分として有機的な働きをしてつながっていくように、連帯して、一つの共同体を作るようにと勧めています。本日の礼拝で読んだところでは、人間のからだの中を血が流れているように、私たちの教会、共同体を生かすものが、愛であることを教えています。血が通っている、血が通っていない、とよく言いますが、愛という血によって生き生きと通い合い、つながっていることが、教会にとってとても大切なことなのです。

 先週も先々週も語りましたが、教会では一人で生きているのではなく、他の人と関わりながら、共に生きているのです。相手と関わる時に鍵となることは、自分が自分の存在をどのように理解しているか、ということです。自己理解のことです。教会で生きる時に、大切なことは、自分がどのような者であるかをよく知っている、わきまえている、ということです。いつもわきまえなければならないことは、自分の罪がいかに深いか、自分のために生き、自分のことしか考えず、愛がないか、ということであり、そのような者がイエス・キリストによって赦され、義しい者として認められているということです。よい行いによってではなく、信仰によって義しいとされているという存在であるということです。

 教会で生きる時に、私たちが気をつけなければいけないことをパウロは語ります。12章9節でいきなり「愛には偽りがあってはなりません。」と警告しています。愛と言うものは、純粋なものだ、どんな愛でも偽りがない、と思うかもしれませんが、私たちの愛には偽りがあるというのです。
 パウロは、教会の信徒たちの愛の振る舞いを見ていて、問題が多いと考えて、手紙の中で、愛について書いているのです。

 コリントの信徒への手紙一 13章で、パウロは、愛について語っていますが、愛はこうである、と言い方をしないで、愛はこうではないと言う言い方をしているのです。13章4−5節には「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」と語られています。
 愛はこういうものではない、と語ることによって、パウロは、教会の人々が、相手を愛していると思っていても愛とは言えないものであり、それは教会での交わりを阻害するものだと考えて、忠告しているのです。

 「愛には偽りがあってはならない」この「偽り」とは、「偽善」のことです。もともとは「仮面」「役者」という言葉です。仮面をつけて、役柄を演じるのです。本物そっくりに演じていますが、別人なのです。愛がジェスチャーになっていて、心からの愛になっていないのです。外面と心とが分離しているのです。好ましいと思わなくても、相手に好意をもっているように見せかけるのです。正直に何でも相手に言ったり、本音だけを言うのは、ギスギスするので、外見では、印象が良いようにするのです。
 
 中国のことわざに「巧言令色(コウゲンレイショク)、鮮(スク)なし仁(ジン)」と言う言葉があります。口がうまく、やたらに愛想がよいのは、本当の徳をもった人ではないという意味です。「ことわざ辞典」には、「『巧言』は口先だけうまく言うこと、『令色』は人に気に入られるように媚びた表情をすること」と解説され、似たことわざに「言葉遣いだけ丁寧で真心のこもっていない意の『口先の裃(カミシモ)』」という言葉が引用されていました。  
 こういう人は、なにか下心があるのではないか、と警戒されることがあります。表面では、相手を愛しているように見えるけれども、本当は相手のことを考えて振る舞っているのではなくて、自分のことを考えて振る舞っているのです。真実の愛は、自分のことが大切であるのと同じように、それが相手に置き換えて相手を大切に思い、相手の身になって愛することなのです。
 
 パウロはローマの信徒への手紙5章8節で「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と語っています。私たちのために、自分の命を惜しみなく、ささげてくださった、そこに愛があると語っています。まことの愛とは、自分のことを考えずに、ただ、相手のことのみを考えて行動する愛なのです。ある註解書には、迷った羊、見失われた羊を捜し出すまで一所懸命に見つける羊飼いの譬え話を引用して、神の偽りのない誠実な愛によって、私たちが生かされていることに気づいて、他の人に対して誠実な愛に生きることを勧めている、と解説をしています。

 現代に生きる人々は、他の人と距離をおいて付き合うことが多いのではないでしょうか。相手の心に踏み込んだ深い関係を持つことを避けて、適当に相手との距離をもって自分が傷つかないようにしているのです。深い触れ合いを求めているのだけれども、傷つくことを恐れ、嫌な思いをすることを避けているのです。ただ相手と仲良くすることでその関係は終わってしまうのです。
 相手が良くないことをしたり、発言しても、それを糾したり、自分の思いを伝えることをしないのです。そういうことに関わりたくない、と思うのです。 教会で問題なのは、仲良くすることを最優先して、悪いことを戒(イマシ)めたり、糾(タダ)すことをしないことです。12章9節に「悪を憎み、善から離れず」とあります。悪いことは悪いこととして戒めつつ、善、正しいことを求めていくのです。
 
 私たちは、愛を誤解しています。相手が悪いことをしても、そのまま受け入れていくことだ、と理解しています。それは相手の間違いを認めることになります。「悪を憎む」とは、「悪を忌み嫌う、悪を遠ざける」ことです。悪いことを糾すことは、エネルギーが必要であり、悪を糾すことは自分の生きている姿勢を正すことになるので苦労があるので、黙って見過ごすほうが楽ですが、正しさを貫ぬくことをしなければ、正しい関係を持つことはできないのです。どんなに親しい関係であっても、相手の不正を見過ごしたり、そのままにしておくことは良くないことになるのです。

 「善から離れず」の「善」は、良いことという意味ではなく、神との関係で言っているのです。相手が神との関係で、神のみこころに適わないことをしているならば、愛をもって忠告するのです。正しさを貫きつつ、愛するのです。親しくなっても、相手の誤りを正して、相手が神との関係の中で生きることができるようにするのです。このことは難しいことですが、そうしないと、互いになれ合い、相手のわがままを通すだけの関係になってしまうのです。教会での交わりが、仲良しクラブとなり、自分の利益やわがままをただ許容する交わりに堕落してしまうのです。

 教会で、他の人を愛することは難しいところがあり、聖書が期待するような愛をもって相手を愛することは、生やさしいことではありません。それは、私たちが天使ではなく、肉体という限界を持ち、罪が赦された者ですが罪に誘われることが多いからです。相手を愛していると思っても、相手はそれに対して感謝もなく、手応えがない時もあり、愛することを止めたい時もあります。愛することはみんなの目に留まることはないですから、評価されないことがあります。そのような時に、心が折れてしまうのです。疲れてしまうのです。人に関わらないようにしようと思うのです。

 12章10節に「兄弟愛をもって互いに愛し」と語られています。「兄弟愛」という言葉は、フィラデルフィアという、アメリカの都市の名前にもなっている言葉です。ここでの「愛」は、「フィリア」と言う言葉です。「友」と訳される言葉です。この言葉は元来、血のつながった兄弟のことを指す言葉でした。しかし、パウロは、この言葉をキリスト教会の信徒の相互の愛という言葉に使うようにしたのです。自然的な、血縁でつながっている関係の中で愛し合う、ということを乗り越えて、キリストの愛を分かち合う、そういう意味で使うようになったのです。教会では、洗礼を受けて、教会に入会した信徒を兄弟姉妹と呼んでいるのです。
 
 ギリシャ語では、親子の愛、家族の愛を「ストルゲー」という言葉を使っているのです。「愛着」という訳される言葉です。血でつながっているので、自然的な直接的な関係をもちます。自分の自然の思いで相手を愛するのです。そこでは問題も起こります。
 福音書には、主イエスの母が、主イエスのところに来た時に、主イエスの母マリア、その家族について次のように語っています。マルコによる福音書3章33−35節(p66)で「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」と語っています。

 主イエスと母マリアとは、肉親で、血を媒介した関係ですが、主イエスは、血縁の関係で結びつく関係ではなくて、新しい関係で結びつく共同体を想定しているのです。それは、キリストを信じている、その関係で結びつく関係なのです。教会は、神の家族であると言いますけれども、血縁で結ばれた、小さな家族が何組も集まっているものではなく、キリストの十字架の罪の赦しによって、キリストを中心とした新しい関係で関わることを語っているのです。甘えや互いのもたれ合いではなく、人間的な親しさでかかわるのではなく、キリストによって愛されている、その愛をもって、愛し合うのです。

 岡山の教会におりました時に、伝道集会で倉敷教会の田井中牧師が話をされて、その一部分をよく覚えています。「子どもが泥んこ遊びをして洋服を汚して家に帰ってきた時に、母親は、『自分で洗濯してから家に入りなさい。』とは言わない、汚れたままをお母さんは受け入れて、子どもを家に迎え入れるものだ」と語ったのです。
 
 神は、私たちの罪をさばき、罪がなくなったので、私たちを認めるというのではないのです。私たちが自分の罪を自分の力で帳消しにして、良いことをしたから、神が受け入れるのではないのです。イエス・キリストが私たちのために罪を贖ってくださった、そのキリストの愛が真実な愛なのです。

 相手を愛することを続けて行くと、心身共に疲れて、愛することを止めたいと思うことが多いのです。
 先週の日曜日に、NHKテレビで、「ダーウィンが来た」という動物の生態を見せる番組を見ていましたら、群馬の山奥に、とてもめずらしいスポットがあるという解説で、野鳥、鹿、熊など野生動物が、毎日、ひとつの水たまりに集まって、水をおいしそうに飲んでいる風景が映し出されていました。その水たまりは、水源だそうです。塩分を含んだ水で、動物たちにとっては、必要な水分だそうです。
 
 私たちは、愛することに疲れることがあります。イエス・キリストが私たちを愛してくださる、その愛を与えられているので、愛することを止めないで済むのです。キリストという愛の源から、真実な愛が私たちの心に注がれている時に、愛することを止めることはできないのです。それはいつも神によって、私たちが愛された存在であるからです。

祈祷 
 天の父なる神。私たちが毎日の生活で疲れることがあります。隣人を愛することにおいて、疲れ果てることもあります。あなたが、私たちを愛の中に招き寄せ、あなたが、私たちを受け入れてくださっている愛によって癒され勇気と力を与えられて、隣人を愛することができますように、導いてください。コロナに感染し、その病と戦い、苦しんでいる多くの方々が癒されて、健康を回復することができますように。コロナに感染している方々の治療にあたっている医療従事者を守り、疲れを癒し、医療を継続することができますように。兄弟姉妹の中で、自宅療養されている方々の健康が回復されますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。ア−メン

讃美歌 456−3
献金
主の祈り

頌栄  29

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン

    来週の聖日 (2月7日)
 説教「清い心を創造してください」 山ノ下恭二牧師
 聖書 詩編51編12−14節 ルカによる福音書11章37−44節
 讃美歌83−1 56−1 482−1 474−1 27 
 交読詩編 116編



(WEB礼拝)
20210124 主日礼拝説教  「尊敬をもって」  山ノ下恭二牧師 
 エレミヤ書9章3−11節、 ロ−マの信徒への手紙12章3−10節)

1月24日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会  

2021年1月24日以降の礼拝について
                
 主を賛美いたします。

 首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。

1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
  奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
  教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。

以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。

 再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。

 家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。

 教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。

 皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。

 お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
  電話: 03-3260-4631   電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>


ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  


2021年1月24日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞  「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」

讃詠       83−1

交読詩編    114編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      17−2 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          エレミヤ書9章3−11節(旧約1192ページ)、
          ロ−マの信徒への手紙12章3−10節(新約291ページ)

祈祷  
 主イエス・キリストの父なる神。あなたは私たちに主の日を備えてくださり、御言葉を聞く時が与えてくださったことを感謝致します。コロナウイルスの感染が止まらず、会堂に集うことが困難になっています。この会堂で礼拝を守っている兄弟姉妹、家庭で礼拝を守っている兄弟姉妹、がおりますが、一つの群れとして、あなたを礼拝できる幸いを感謝致します。これから、あなたの御言葉を聞きます。謙遜な思いをもって傾聴することができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌      356−2

20210124 主日礼拝説教  「尊敬をもって」 山ノ下恭二牧師
           声に出して読みましょう。
 私は、キリスト者となることによって、人を見たり、人を評価する視点が変わってきたと思います。人を見る規準が変わってきたと思います。長い時間をかけて、少しずつ、人を見る視点が変化してきたと思います。人を見る時に、その人の外見や、その人の行動、言動、学歴でその人を見るのではなく、その人が、神がかけがえのない存在として、この人を創造したのだから重んじようと思うようになったのです。以前は、自分の前を歩く高齢者が、歩くのが遅いとどうしてこんなに遅いのだとイライラしていましたが、この頃は、この高齢者がそのような歩みをしていることを受け入れることができるようになってきたのです。この人は神に創造された、かけがえのない存在であると受け止めることが少しずつ、できるようになったのです。相手の存在を優しく受け止めることが少しずつできるようになったのです。

 本日の礼拝で、ローマの信徒への手紙12章3−10節を読みました。12章3節から、教会に生きる者に対する勧めが語られています。教会では一人で生きているのではなく、他の人と関わりながら、共に生きているのです。相手と関わる時に、どのように関わるのか、その基本的なあり方をパウロは語っているのです。相手と関わる時に鍵となることは、自分をどのように理解しているのか、と言うことです。自分を理解する手がかりは、自分の今までの経験や他の人の評価によって、自分を理解してきたのです。自分は文科系の科目は得意だが、しかし、理科系の科目は不得意だ、と自分のことを分析したり、他の人から直接、厳しい人だ、と言われて、自分は相手に対して厳しい、と理解したり、逆に優しい人だと言われて、自分は優しい、と自分を理解してきたのです。

 先週の説教で語りましたが、12章3節には、「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」このように語られています。
 教会で生きるとき、大切なことは、自分がどのような者であるかをよく知っていると言うことです。自分がどういう者であるかをよく知っている、わきまえていることが大切なのです。自分が持っている能力、人々からの評価から自分を評価するのではなく、「信仰の度合い」「信仰の量り」によって自分を評価することです。
 
 「信仰の度合い」「信仰の量り」とは、どのようなことなのでしょうか。自分が神の前に罪深い者であるにもかかわらず、神に赦されて神の前に義しい者とされている、と言うことです。私たちが教会で生きる時に、いつもわきまえなければならないことは、自分の罪がいかに深いか、自分のために生き、自分のことしか考えず、愛がないか、ということであり、そのような者がイエス・キリストによって赦され、義しい者とされているということです。罪深い自分が赦されている、そのことをいつもわきまえていることが、教会で生きる時に大切なことなのです。自分と言う罪深い者が、神の恵みによって罪赦されて、今、ここにある、そのような慎み深さをもって教会で生きるのです。別の言葉で言い換えると、感謝してへりくだるということです。自分という罪深い者が恵みによって罪が赦されて生かされている、そのような者として自分を捉えるのです。感謝してへりくだる、ということですが、そのような慎み深さをもって生活をするのです。

 洗礼を受けて、教会に入会するのですが、一人で生活するのではなくて、教会の他の仲間と共に生きることですが、パウロは他の仲間とどのように上手にやっていこうか、仲良く付き合っていこうか、ということを語ってはいないのです。暖かい交わりをどうしたら作っていけるのかということを、ここで語ってはいません。
 パウロは、教会をキリストの体と言います。教会を理解する時に、人間の体に譬えることによって、教会の姿がはっきりするのです。私たちは体をもって生活しています。体はいのちをもっています。体はそれぞれの器官が有機的につながり、助け合いながら、動いています。教会はキリストの体であり、私たち一人ひとりは一つの肢体(部分)としてあり、それぞれ異なった働きをしながら、共に生きているのです。
 洗礼を受けて教会に入会したということは、キリストのからだに組み入れられることであり、からだの一部分としての働きをしているのです。それは、私たちは、それぞれ固有な働きをしながら、キリストのからだ全体を支えているのです。
 
 教会は、目に見えるところでは、人間が集まっているだけに過ぎないですが、イエス・キリストによって罪が赦されて、イエス・キリストを主と告白している人々が集まっているのです。目には見えないのですが、キリストが私たちの中におられて、このキリストを礼拝しているのです。目に見えるところでは、人間が集まり、そこでは人間関係があるけれども、そこで大切なことは、どのように仲良く、暖かい交わりを作っていくかに苦心することではなくて、それぞれが与えられた恵みを教会のために用いることが大切なのです。

 パウロは、互いに教会で親しくなりなさい、新しい仲間を作りなさい、とは言ってはいないのです。教会に集う者は、生身の人間です。罪赦された者ですが、過ちを犯し、不完全な者です。人間同士の付き合いであるので誤解が起こり、辛い思いをすることがあり、それは一般社会と変わらない人間関係の難しさがあるのです。
 しかし、教会は、人間関係に心を砕くところではなくて、人間関係を超えて、キリストに仕え、働くところなのです。教会に集まっている者は、年齢も性格も家庭環境もそれぞれ異なっており、互いに理解し合うのは難しいと思いますが、人々が教会に集まって、キリストに結ばれて共に生活をしているのです。そこではキリストの体に組み入れられ、それぞれの異なった賜物を持って、それぞれの賜物を生かしていくのです。

 12章6節には、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」とあります。教会員ひとりひとりが、賜物をもっているのです。この「賜物」という元々の言葉は「カリスマ」という言葉です。「カリスマ美容師」という言葉がありますが、この「カリスマ」という言葉は特別な特技を持っているという意味ではありません。特定の人が、賜物を持っていて、他の人は持っていない、というのではないのです。教会も、賜物をもっている人が奉仕すればよいのであって、賜物を持っていないから自分は何もできないと言うのではないのです。計算がうまい、話が上手だ、そのようなことを賜物と考えている人もいますが、賜物とは、イエス・キリストによって愛されている、その恵みのことなのです。

 ローマの信徒への手紙5章15節には、次のように語られています。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較にはなりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」神から私たちは、賜物を与えられているのです。皆、賜物をもっているのです。

 パウロのことを考えるとよく分かります。パウロは、人並みはずれて、豊かな才能をもっていたわけではないのです。パウロは話は上手でなかったし、病気をもっていたので、神に癒して欲しいと何度も祈ったのです。外見も風采もあがらず、普通のおじさんにしか見えないのです。しかし、パウロは、自分が神から豊かに賜物を与えられているという信仰を持っていたので、その賜物を生かすことができたのです。自分に与えられている神の恵みを見直して、こんなに豊かな賜物を与えられていることを知り、その賜物を生かすことができたのです。
 
 私は、神学校を卒業して、岡山蕃山町教会に伝道師として赴任しましたが、月に一度、JR宇野線の早島駅から、タクシーで15位の山の上にある、結核療養所に行き、そこにプロテスタントグループがあって、聖書を学ぶ集いをしていました。聖書の話をする以外にこの療養所に行く目的があったのです。それは、教会員で、1945年からこの療養所に入所していた的場さんを訪問するためでした。ベッドに寝たままで、この療養所から出たことがない、ある意味では、不自由な生活をしていたのです。しかし、キリストの信仰を与えられて、いつも明るく、笑顔で私を迎えてくれたのです。隣のベッドにいる女性が、「的場さんは、とても元気ですよ、信仰をもっているからだと思います」と私に話したことを覚えています。

 神から与えられた賜物は、特別な才能、特技ということではなくて、神の恵みに生かされていることなのです。その恵みを全身で表し、他の人と分かち合うことなのです。他の人に、神の恵みを戴いていることを喜んで、そのままを差し出すことなのです。私たちに必要なのは、自分に与えられている恵みを再発見して、それを教会のために生かすということであり、他の人のために生かすことなのです。一人一人与えられているものは、違っていても、自分の中にある恵みを再発見して、教会のために用いるということです。
 
 賜物を生かして教会に仕えることを、パウロは語った後、12章9節から「愛には偽りがあってはなりません」という言葉でもって、愛についての言葉を語り始めます。その中で、12章10節で「尊敬をもつて互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあります。今日の説教題はこの聖書の言葉から題をつけました。この言葉は、教会で共に生きる時に大切な言葉であると考えています。愛することを語っている中で「尊敬」を語るのです。ここで、問われているのは、どのような意味で尊敬するのか、ということです。私たちは、自分の中で尊敬する規準をもっているのです。自分の規準で、尊敬する、尊敬できない、と言うことがあります。この人は尊敬できる人だ、この人は尊敬できない人だと区別するのです。

 この「尊敬」という言葉は、「値打ちがある」という言葉で、相手が尊敬するだけの値打ちがないと尊敬できないのです。一般には、生活もきちんとしていて、言動も立派で、落ち度もなく、能力があり、欠点も見当たらないので、尊敬するに値する、と考えているのです。しかし、相手が自分よりも優れているから尊敬する、ということではなくて、教会では、この人は、神によって救いに招かれ、罪を赦された、尊い存在であるという認識をもって、相手を尊ぶのです。

 「尊敬をもって相手を優れた者と思いなさい。」現在、教会で用いている新共同訳聖書以外にも、いろいろな翻訳があります。翻訳は、翻訳している人の神学的な解釈があるので、同じ原語でも異なった訳になるのです。それを比べて見るとおもしろいのです。「互いに兄弟愛をもって心から愛し、競って尊敬し合いなさい。」(フランシスコ会訳)「親身の兄弟のように互いに愛し合い、尊敬し合って互いに(人を自分より)えらく思え。」(塚本虎二)愛し合うことの中で、尊敬し合うのです。相手を尊敬することを自分よりも先にしなさいと言うのです。私たちは、幼い頃から、相手よりも先にすることを学んできました。相手よりも先にお菓子を取る、学校では人に遅れを取らないように成績のために勉強するのです。先手を打って行く、先の方が勝ちであるのです。電車でも、先に席を取ったほうが座れるのです。先手必勝なのです。人よりも先んじる生き方をしているのです。しかし、ここでは、相手を尊敬することにおいて先んじなさい、と語っているのです。

 ここでの尊敬という意味は、相手が尊敬する値打ちがあるから尊敬する、というのではないのです。ローマの信徒への手紙9章23−24節(p287)に「憐れみの器」という言葉があります。9章24節「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」神の怒りを受けるのに値した器である私たちが、今、神の憐れみの器とされ、憐れみを盛る器とされた、と語っています。
 このことから考えると、相手の尊敬するべき値打ちは、私たちが考えていたこととは異なっているのです。神の憐れみを受けている、それが尊敬すべき、値打ちなのです。この人を神が憐れみをもって重んじてくださっている、そうであるならば、私たちは、尊敬しないわけにいかないのです。

 自分のもっている規準で、相手を尊敬したり、しなかったり、と言うことではないのです。この人は仕事が早いから尊敬できる、あの人は仕事が遅いから、尊敬できない、とまず判断してから、その人を見るのではないのです。
 神がこの人を憐れみの器とされているので、私たちはそのことを重んじて、尊敬するのです。

祈祷 
 私たちの救い主である、イエス・キリストの父なる神。あなたの御言葉を共に聞くことができ、感謝致します。教会の兄弟姉妹を重んじ、尊敬して、互いに愛し合う共同体となることができるように、私たちに聖霊を注いでください。コロナウイルスに思いがけなく感染し、病と戦っている方々が癒され、回復することができますように。この病を治療している医療従事者をあなたが支えられますように。コロナのために仕事を失い、生活にも困っている人々をあなたが憐れみ、必要なものが備えられますように。これからの一週間、あなたが私たちのすべてを守り、支えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌   393−1
献金 (献金の祈り)

頌栄     27

祝祷 
 主があなたがたを祝福し あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み 神の愛 聖霊の交わりが あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン
      
       来週の聖日(1月31日)
  説教「愛することに疲れないで」山ノ下恭二牧師
  聖書 エゼキエル書39章21−29節
     ロ−マの信徒の手紙12章9−12節
  讃美歌 83−1 18−3 358−1 456−3 29 
  交読詩編 115編


(WEB礼拝)
20210117 主日礼拝説教  「自分を知るとは」  山ノ下恭二牧師 
 サムエル記下18章9−15節、 ロ−マの信徒への手紙12章3−5節)

1月17日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2021年1月17日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。


前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1

交読詩編    113編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      120−4 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          サムエル記下18章9−15節(旧約510ページ)、
          ロ−マの信徒への手紙12章3−5節(新約291ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌      474−3

20210117 主日礼拝説教  「自分を知るとは」  山ノ下恭二牧師
           声に出して読みましょう。
 私が大学のキリスト教概論の授業を受け持っていた時、学生が教会の礼拝に一年に二回、出席して、説教のレポートを書いてくる課題がありました。初めて教会の礼拝に出席する学生たちなので、私は、教会の礼拝に出席する時に注意することを説明しました。礼拝の開始時間に遅刻しないこと、礼拝は最後まで出席すること、献金があるので用意すること、初めて礼拝に出席した人を教会ではみんなに紹介するので、頭を下げる、ということを説明しました。そして皆さんは、大学を代表していることを忘れないようにしてください、態度が悪いと、大学全体の評判が落ちることになります、と伝えました。自分一人ぐらい、自由に、好きなことをしても大丈夫だ、ということでなくて、一人の行動が、大学全体の評判を落とすことになる、学生の皆さんは、大学を背負っているので、大学の名誉を傷つけることのないようにしてください、と話しました。

 ひとりの大学の教授が、ノーベル賞をもらうことになると、その教授が属している大学そのものが評判が良くなるでしょうし、ひとりの教授が犯罪を犯すと、その教授が属している大学全体の名誉が傷つき、大学の地位が低下するのです。一人の人の行動が、大学全体に影響を及ぼすことになるのです。それは個人と組織が有機的につながっているからです。

 本日の礼拝でローマの信徒への手紙12章3−5節を読みました。この手紙を書いたパウロは、このところで、教会がキリストの体であることを教えています。キリスト者はひとり一人かけがえのない、神の愛の対象ですが、個々ばらばらに生きているのではなくて、教会と言う共同体の中で生活しているのです。5節には、「わたしたちは数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」と語っています。私たちは、個人として生活しているだけでなく、共同体、社会という体の一部として、他者と連帯して生活しているのです。

 現代の問題は、自分が社会の一部であるという自覚が足りない人が多いことです。自分が社会の中の一部なのだという自覚が少ないのです。電車の中で仲間同士で大声で話していますが、周辺にいる人々のことは気にしないのです。私的な空間と公の空間とを区別しないで、すべて私的な空間として自分のしたいことをしているのです。自分が、他者と一緒に一つの共同体を作っていて、その肢(メンバ−)であるという自覚がないのです。個人を尊重することは大切ですが、共同体の一員であることを自覚することが重要です。
 12章3節からは、キリストの体としての教会の部分として、私たち一人一人はあり、それぞれ異なった働きをしながら、一つの体を形づくっていることを語るのです。

 パウロは、体と部分という言葉を用いています。教会はキリストの体であり、私たちは、洗礼を受けて、キリストの体に組み入れられているのです。洗礼を受けるということは、イエス・キリストによって私たちの罪が赦された者となるということだけでなく、この地上の教会に入会し、教会の一員として、そこに部分として組み入れられたのです。パウロがここで「部分」と言っているのは、限定された一つの部分、その部分としての働きということを言っているのです。ひとつひとつの部分が、それぞれ固有な、異なった働きをしていながら、その部分で自分の働きをする、そのことの中で、全体としての体を形づくっていくのです。

 教会は体であり、この体につながって「部分」「肢体」がそれぞれ有機的な働きをしていることをパウロは強調しています。パウロは、足、目、耳と言う人間の体の器官を例にして、足も目も耳も体の一部分としてそれぞれ働きがあって、一つの体が成り立ち、活動ができるのであって、全体が足、全体が目、全体が耳、であったら、体の働きはできないと語ります。このように、パウロは、教会は一つの体であって、その中でそれぞれの肢体の働きが有機的なつながりで成り立っているのであり、一つの部分(肢体)が、全体に代わるものではないと語ります。

 パウロはここで全体の中の一つの部分として、教会員ひとり一人があることを語りたいのです。一人の人が教会と言う体の一部分なのだと言っているのは、理由があるのです。それは一人の人がキリストの体の一部分として自分があるという自覚がなく、一部分としての限度を超えて、一人の人が教会の全体を左右してしまうことがあるからです。一人の人はキリストの体の全体の中での一部分に過ぎないにもかかわらず、自分一人が教会全体の考えを代表している、自分の考えが教会のために一番、良い考えだ、と思ってしまうことがあるのです。

 このように言っているのは、コリントの教会で、ある人が自分は信仰があり、知恵もあり、頭が良いとうぬぼれて、体の一部分であることを忘れて、自分の思い通りにしようと動き回り、そのことが他の人に迷惑であることに気がつかないことがあったのです。体と肢体、体と部分、と言うのは、深い関係があるのです。一つの肢体、部分が病気になると、体全体が病気になるのです。同じように、教会全体と各教会員との関係も深くつながっているのです。肝臓が悪くなると体全体の機能が悪くなるように、教会員の一人の人が自分勝手に動くと、教会全体が影響を受けるのです。自分一人ぐらい好き勝手なことをしても良いのだ、と言うことはありません。
 
 ひとり一人のキリスト者・教会員の生き方、行動、言動、振る舞いが、キリストの体である教会を良いものにし、逆に損ない、壊すものとなるのです。個と集団、深い関係をもって、つながっているのです。一人の人が、その集団を代表しているので、一人の人が、不祥事を起こすと、その集団の評判が悪くなるのです。
 パウロは、12章3節Bで「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と語っています。「自分を過大に評価してはなりません。」勉強がよく出来たり、会社で成績が良く、褒められたりすると、自分の力を過信することがあります。自分はこれだけのことができるのだ、とうぬぼれるのです。

 口語訳では「思うべき限度を超えて、思い上がることなく」と訳しています。試験や検査という客観的な証拠によって、自分の実力がはっきりわかるのではなく、実際の自分とは異なる、大きな存在であるという思い込みによって、行動するのです。私たちは、自分のことを現実の自分よりも過大に評価しているのです。自分の能力、経験、成績、信仰、現実の自分よりも良く評価したいと思っているのです。
 私たちはいつも自分を過大に評価して、思い上がっているのです。他の人と比べて、自分のほうが良いと評価したいのです。自分を過大に評価することによって、自分が描いている別の自分が、ほんとうの自分であると考えるのです。
 プロ野球の選手が契約更改の時に、ある野球選手が、自分は6千万円ぐらいだろうと見積もっていたところ、球団から提示された金額が3千万円であったので落胆した、というニュ−スを聞いたことがあります。私たちは、いつも自分の実力以上に自分を評価しているのです。そう思わないと自分がみじめに思えるからです。自分には知識があり、何でも分かっており、自分は役に立っている、と過大評価しているのです。そして思いあがり、自分が見えなくなるのです。

 そこで、パウロは「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と語ります。この「度合い」と言う言葉は「量り
」と訳されている聖書が多いです。この言葉は「メトロン」という言葉であり、今の言葉では「メーター」と言う日本語になったのです。「水道のメーターを調べに来た」と言います。この「メトロン」は測定する量り、物差しのことです。
 「信仰の量り」と言うのはどのような意味なのでしょうか。私たちは、自分で自分を評価しているのです。成績が良ければ自分を過大評価する、成績が悪いと自分を過小評価するのです。しかし、ここで「信仰の度合い」「信仰の量り」とあるので、神が私たちを評価することを語っているのです。実は、自分のことをよく分かっているのは、自分ではなくて、神であるということです。 それは、神は、ほんとうに深い罪をもっている者、惨めな者を愛して、受け入れてくださった、そのことを信じた時に、神は善しと評価してくださったのです。ほんとうに罪ある者、神の前に何の功のない者を受け入れてくださった、そのことを信じる者を義と認めてくださったのです。正しい者と評価してくださったのです。

 私たちは、自分に対する評価には二つあります。一つは神の前に罪ある者であるということです。もう一つの評価は、イエス ・キリストによって罪が赦された者である、ということです。
 神はいつも罪ある者として私たちを見ているのではなくて、正しい者として評価してくださるのです。大学の成績のつけ方は、S、A、B、C、D、×と採点します。Sは、90点以上の者に付けます。Dは、点数が60点以下で不合格、×は出席日数が足りない者で不合格です。自分は成績が、D、×であると思っていても、成績表には「S」がついているのです。不合格であるDであると思っていたので、成績表を見て、びっくりするのです。神は、自分が不合格であると思っている者、罪ある者に対する愛をもって受け入れてくださったので、勇気を持って、真っ直ぐに神と共に歩むことができるのです。

 今までの自己評価の量りは、能力がある、人より優れている、人格的に立派であり、知識が豊かで、自分は役に立っている、このようなものさしで量ってきたのです。自分の量りで自分を量っているのです。
 しかし、私たちキリスト者は今までの量りではなくて、神が量る測りで量るようになっているのです。神が私たちの罪を憐れみ、赦して、罪ある者を義なる者としてくれたのです。神が持っている測定器、メーター、メトロンによって自分を量ることができるのです。

 イエス・キリストを信じる信仰の量り(度合い)に「応じて慎み深く思うべきである。」この言葉を、カトリックのワルケンホーストという学者は「感謝してへりくだる」と言い換えています。感謝してへりくだる、ことがないと、自分を過大に評価して、自分が見えなくなって、自分を生かすことができなくなり、他の人をも生かすことができなくなるのです。自分という存在がどのような存在なのか、をわきまえている、自覚している、自分というものの限度をわきまえていることが大切なのです。信仰の量りを持たないと、自分が分からなくなり、自分には何でもできると自信過剰になり、自分は熱心だから信仰があることを誇り、過大評価するようになるのです。そこで起こることは、教会という共同体で他の人を生かすことができなくなるのです。キリストの体の一部ではなくなるのです。

 旧約聖書には、自分を、信仰の度合いに応じて慎み深く評価しなかった人物が登場します。信仰の量りを持たないで自分を過大評価したために、失敗した人物が登場します。この礼拝で、サムエル記下18章9−15節を読みました。ダビデの子アブサロムの最後の場面です。ダビデに愛されたアブサロムは、反逆の王子として殺されてしまう場面です。
 このアブサロムは、とても美しい青年であったことが14章に記されています。頭のてっぺんからつま先まで傷がなく、特に髪の毛は見事で、鏡の前で自分の美しさに見とれていたのです。この王子を取り巻く人々もこの美男子の王子の美しさを褒めて、このアブサロムも得意満面になっていたのです。馬に乗って走らせると、髪の毛がさぁっとなびくのを得意にしていたのです。
 
 ところが、この髪の毛が命取りになってしまったのです。ダビデ王の部下に、反逆の罪で追われて、樫の木の下を通り過ぎた時に、自慢していた髪の毛が木の枝にからみつき、宙づりになって逃げることができず、体がぶらさがってもがいている時に、ダビデの部下によって殺されてしまうのです。この時に、アブサロムは、もつれた髪の毛を必死に解きほぐそうとしたけれども、解きほぐすことができなかったのです。アブサロムは、自分の美しさを誇り、自分の髪の毛を誇ったことを悔やんだと思います。 

 自分を過大に評価することなく、慎み深く、神の恵みに感謝して、謙遜になり、へりくだる、そのような心をもった者が、他の人と共に生活することができるのです。

祈祷 
 天の父なる神。とても寒い日々を過ごしながら、あなたに守られ、支えられてきた毎日であったことを感謝致します。この礼拝に出席し、あなたのみことばを聞くことができましたことを心から感謝致します。コロナ感染が拡大して、思いがけなく、感染し、その病と戦っている方々の命をあなたが支えてくださり、回復の道を開いてくださいますように。自宅療養されている方々を特に見守ってくださいますように。これからの一週間もあなたが共にいて、私たちを慰め、支えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。ア−メン

讃美歌  542−3
献金   (献金の祈り)
主の祈り
頌栄   29

祝祷 
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて、あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン


         来週の聖日 1月24日(日)
       
    説教 「尊敬をもって」 山ノ下恭二牧師
    聖書  エレミヤ書9章3−11節 
        ロ−マの信徒への手紙12章3−10節
    讃美歌 83−1 72−2 356−2 393−1 27
    交読詩編 114編


(WEB礼拝)
20210110 主日礼拝説教  「この世のまねをするな」  山ノ下恭二牧師 
(エレミヤ書32章36−41節、ロ−マの信徒への手紙12章1−2節)

1月10日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2021年1月10日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1

交読詩編    112編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      58−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          エレミヤ書32章36−41節(旧約1240ページ)
          ロ−マの信徒への手紙12章1−2節(新約291ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌     451−1 

20210110 主日礼拝説教  「この世のまねをするな」 山ノ下恭二
          声に出して読みましょう。
 私は、キリスト教概論の授業で学生たちが提出する全学礼拝レポ−ト、教会礼拝レポ−トを読んで、気がついたことがありました。それは、教会の礼拝や大学の礼拝に出席して、多くの学生が、「礼拝を受けることができました」と書いているのです。私は「礼拝を受ける」という言い方に違和感をもち、そのレポ−トに「礼拝を受けると言う言い方はしません、礼拝を守る、あるいは、礼拝に出席して、説教(奨励)を聞きました、と書いて下さい」とコメントをしていました。

 しかし、ある時、学生は、礼拝に初めて出席したので、いつも礼拝に出席している自分とは、感想や感覚は違うかもしれない、と思ったのです。初めて礼拝に出席して、礼拝や説教(奨励)に対して、新鮮な驚きや初めて聞いたこともあり、学生にとっては、貴重な経験になった、そのことに思いが及んだのです。そしてレポ−トに「説教(奨励)を聞いて、ためになった」と書いている学生も多くて、「礼拝を受けることができました」というのは、好意的に、良い意味でこの言葉を用いているのではないか、と思うようになりました。礼拝に出席して、恵みを受けた、礼拝に出席して良かったということを書きたかったのではないか、と思い直したのです。礼拝に出席することは、恵みを受けることなのです。

 一月の礼拝説教は、私たちの教会生活の基本を改めて、学びたいと思い、ローマの信徒への手紙12章を取り上げています。
 
 第12章2節の最初には「あなたがたはこの世に妥協してはなりません」とあります。口語訳では、「この世と妥協してはならない」と訳されており、文語訳では「この世に倣うな」と訳されています。「倣う」と言うのは、真似をすることです。この言葉のギリシャ語は、「スケーマ」と言う言葉ですが、この言葉は他のところで「有様」「姿」と言う言葉で翻訳されています。
 「倣う」というのは、真似することですが、何を真似するのかというと、外形の、表に出ている姿の真似をすることを意味しています。他の人の生き方、やり方、人の姿、形に自分を合わせてしまうことを意味しています。「この『スケーマ』の意味は『態度』である。これは『姿勢』や『心』をも意味し、一般的に「生活方法』や『習慣』を含む。」(K・ワルケンホースト著「万民とイスラエル」(p336) 
 
 倣うというのは真似る、それはもの真似のようにうわべだけを真似ているか、というとそうではないのです。自分の心は影響されていないかというとそうではないのです。うわべだけ真似しているというのではなくて、心の中まで変えられてしまう、影響を受けてしまうことが起こるのです。
 親が乱暴な言葉を使うと、その言葉を聞いている子供が真似をして乱暴な言葉を使うのです。いつもため口で話している人とつきあっているとため口で話すようになるのです。いつも聞いている言葉は、その人の生活態度、生き方と深く関わるので、生き方、心まで影響を受けるのです。ここで、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」「この世に倣うな」と語っているのは、外側を真似することによって、心の中まで影響を受けて、その虜になってしまう、そういう思いを込めて、パウロが警告しているのです。

 「この世に」とあります。私たちは、この世のただ中で生活をしているのです。労働し、休息し、食事をし、テレビを見る、読書をする、この世に生きている人々と同じように生活をしています。実際にこの地上で、肉体を持った人間として生きているのです。「この世の真似をするな」と言う言葉を聞くと、反論したくなります。そんなことを言うならば、この世で生活できなくなる、山奥に入って、世捨て人のような生活をせよ、と言っているようなものではないか、この世の人々と苦労しながら折り合いをつけて生活しているのであって、この世と関わらないで生活しなさい、と言うならば、人里離れた修道院に入ってその中で生活をすることになるしかないのではないか、と言いたくなります。

 聖書では「世」という言葉は、私たちが考えている意味で用いていないのです。ここで「世」というと、今、私たちが生きている「世界」と言う意味よりも、時間的な意味で用いています。この「世」という言葉は、神との関係で、「世」という言葉を語っているのです。神の存在を前提にして、「世」を考えているのです。聖書は「世」と言う時、神に敵対している「世」として捉えているのです。罪に囚われている人間が滅びに向かっている、その時代、その罪に支配されている人間が作っている、時代のことです。この時代はどのような時代なのでしょうか。それは、パウロがコリントの教会に手紙を送りましたが、コリントの町の状況によく似ているのです。物質主義、享楽主義、性的な乱れ、がこの町を覆っていたのです。それは今の日本も同じです。物質的にはものが溢れていますが、精神的な貧しさの中で、私たちは生活しているのです。

 そういう時代にあって、私たちは主イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、新しい生き方を知らされているのです。神が私たちの罪を赦すために、イエス・キリストをこの世に派遣して、罪を贖って下さった、その恵みに合わせて生きる、その新しい生き方をパウロは勧めているのです。今のこの時代と同じ考えをもち、同じ生き方をし、同じ生活態度を持ち、同じ価値観をもっているならば、それは、キリスト者とは言えないし、キリスト者である自分をも見失ってしまい、キリスト者であることを自ら放棄することになるのです。

 少し前までは、子どもたちがテレビを視聴している時間が長いことが問題になっていましたが、今は、スマホを見ている時間が長いことが問題になっているのです。スマホ中毒になっている人が多いのです。スマホは様々な機能を持っていて、便利で、様々な情報を手に入れることができるので、手放せないのです。多くの情報の洪水の中で、暮らしていて、それに深く影響を受けているのです。どの情報が正しく、正しくないのか、分からないほど、情報が押し寄せて来るのです。過剰な情報を受けて暮らしていると、自分がその情報に合わせていくことになるのです。これを買うと生活が豊かになる、便利になる、この商品を買って肌に付けるとシミがなくなる、この世で幸福になるためにこれを買え、と踊らされるのです。消費することに価値を置くようになるのです。「この世に倣ってはなりません。」とありますが、この言葉を、新改訳2017では、「この世と調子を合わせてはいけません」と翻訳しています。

 この時代にあるものはとても魅力的です。中村雄二郎という哲学者は「悪の哲学ノート」という本で、「悪というのは、キラキラ輝いて魅力的である」と書いています。確かに、悪というものは、人間にとって魅力的なのです。平和な、穏やかな話よりも犯罪の話のほうが面白いし、私たち人間を引きつけるものです。テレビ、小説、映画においても、犯罪や不道徳に関する内容が多くて、それに引きつけられる、虜になることがあります。いつもいつも、そのようなこの世のあり方、生き方、価値観に影響されて、いつのまにか、受けいれてしまっているのです。そのことによってこの世の考え方、生き方になり、同じ価値観をもってしまうのです。

 世俗化が、私たちの心を蝕んでいるのです。この世と同じ考え方、生き方、価値観をもって暮らしていく、それが世俗化なのです。この世のものを何でも受け入れていくのです。この世の人々がしていること、考え方、生き方そのものをそのまま受け入れてしまう、それに乗ってしまう、これが、この世に倣う、この世のまねをする、この世と妥協をすることなのです。

 しかし、私たちは、新しい生き方を知っているのです。毎日の生活の時間の使い方も違って来るのです。他の人に接する態度も違って来るのです。お金の使い方も違って来る。それは、自分の中心軸が自分ではなくて、神と隣人になってくるからです。これまで、一番、重要であったことが、他のことが重要になるので、変わっていくのです。

 ローマの信徒への手紙第12章1節によれば、私たちは、神に喜ばれる、聖なる、犠牲として自分を献げる生き方に変わったのです。洗礼を受けることによって、自分を中心に生きていた、罪の世界から、神の愛によって支配している世界へと移り住み、そこで暮らし始めたのです。洗礼を受けるとは、日本からアメリカに移り、アメリカの市民になるようなものです。話す言葉も異なり、生き方や考え方、文化が異なるように、神の国の市民となって言葉も新しく、新しい生き方に変えられたのです。
 
 このローマの信徒への手紙12章2節のみことばに関係する言葉として、多くの註解書にはコリントの信徒への手紙一 7章31節のみことばを引用しています。「この世の有様は過ぎ去るからです。」今の時代の新しいものに目を奪われるけれども、時が経つとそれは古いものとなって、別の新しいものが現れるのです。その時代にみんなが注目し、流行となっていたものを追いかけても、それは過ぎ去るのです。
 
 12章2節に「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき」と書いてあります。私たちは、洗礼を受けて、神と共に歩む新しい存在になったのです。神の恵みを戴く存在になったのです。それでお終いになるのではなくて、「自分を変えていただき」とあります。自分を自分の意志、努力で変えることはなかなか難しいのです。自分の癖をなくし、今までの自分の生活習慣を変えることはなかなか自分の力で達成できません。しかし、自分の本質を変えて頂くのです。自分が一番、大切なのはお金だ、そのような本音を変えていただくのです。それは、何によってできるか、と言うと、それは礼拝ですることによってです。

 12章1節「あなたがたのなすべき礼拝」をすることによって、自分を変えて頂くのです。私たちが礼拝の生活を続けて行くということです。私たちは日曜日に礼拝しても、月曜日から土曜日まで自分を中心とした生活になるのです。そこでは、自分が主役であり、高慢になり、この世の中の考え方や生き方に深い影響を受けて、いつの間にか神をないがしろにし、神を退けていることになっているのです。このような生活を中断して、礼拝において、聖書を読み、祈る、説教によって自分の本音が変えられ、性根が変えられていくのです。

 「自分を変えていただき」と言う言葉の「変えていただく」という言葉は、「離れる」という意味を持っています。この世に倣う、この世に妥協する生活から離れ決別して、新しい生き方を選ぶのです。「あなたがたのなすべき礼拝」と言うのが、とても大切な言葉です。礼拝し、日毎にまことの神を神とすることです。礼拝生活の中で、私たちの生きるあり方が示されていく、私は何者で、何の役割があり、今、何をしなければならないか、そのことを判断していくのです。私たちは、あることを発言したり、決めたり、行動に移す時に、何を規準にして判断するのでしょうか。神の御心が何であるかをきちんと聞き取ることができる判別力が必要なのです。

 ヨハネによる福音書10章には、羊飼いについて主イエスが語っています。10章16節Bには「その羊もわたしの声を聞き分ける」とあります。羊飼いの声を羊はきちんと聞き分けるのです。羊は弱視ですから、声によって自分の羊飼いか、どうかを判断するのです。聞き分けることができないと、違う羊飼いの導きによって、全く違うところに連れて行かれてしまうこともあるのです。

 東大宮教会におりました時に、ある時、ある信徒が、「聖書にある『従う』『服従する』という言葉に私はとても抵抗を感じるんです。』と言ったことがあります。確かに「従う」「服従する」と言う言葉は、封建的な、昔の時代の言葉のように聞こえるのです。ある本を読んでいましたら、「従う」と言う言葉は元々「誰かの声を聞く」と言う意味の言葉であると書いてありました。私たちは自分の中の心の声を聞いています。電車に乗ると座席が空いていないで、座りたいな、という、自分の心の声を聞きます。別の時に、座席に座っていると、自分よりも年を取っている人を見て、その人の「座りたいな」という心の声を聞いて、席を譲ることがあります。羊飼いの声を聞いて従って行く、あとについていく、それが私たちの生活なのです。イエス・キリストの声を聞いて、歩むのです。礼拝でみことばを聞いて、恵みを受けていくことが、最も幸いなことなのです。

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。寒い毎日ですが、あなたに招かれ、この礼拝に兄弟姉妹と共に集められ、あなたのみことばを聞くことができましたことを心から感謝致します。私たちはこの世に生き、それぞれ悩みや苦しみを抱えながら過ごしていますが、あなたが罪を赦し、いつも愛しておられることを心に刻みながら、あなたの声を聞き、あなたのみこころに従って行くことができますように導いてください。コロナ、ウイルスの感染が拡大せずに終息に向かうように、二度目の緊急事態宣言が発動されましたが、さまざまなところで大きな影響を受けています。思いがけなくコロナに感染し、回復を待っている方々をあなたが癒してくださいますように。そのために治療に専念している医療従事者が疲れることなく、その働きを続けることができますように。このために仕事を失い、失業し、収入も途絶えて不安の中にいる方々をあなたが支え、みこころに留めてくださいますように。病のために、自宅療養している方々、様々な事情で礼拝に出席できない方々をあなたが支え、守ってくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌   436−1
献金    (献金の祈り)
主の祈り
頌栄    27

祝祷 
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。 ア−メン
         
          来週の聖日 (1月17日)
      説教 「自分を知るとは」 山ノ下恭二牧師
      聖書  サムエル記下18章9−18節
          ロ−マの信徒への手紙12章3−5節
      讃美歌 83−1 120−4 474−3 542−3 29
      交読詩編 113編 


(WEB礼拝)
20210103 新年礼拝説教  「神に献げる礼拝」  山ノ下恭二牧師 
アモス書5章18−24節、ロ−マの信徒への手紙12章1−2節)

1月3日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2021年1月3日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1

交読詩編    111編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      57−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          アモス書5章18−24節(旧約1435ページ)、
          ロ−マの信徒への手紙12章1−2節(新約291ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌     278−1 

20210103 主日礼拝説教 「神に献げる礼拝」 山ノ下恭二牧師
 
 2021年の新しい年を迎えることができました。2021年の新しい年、神の祝福と守りがありますように。そして、パウロが各地の教会の信徒たちへ挨拶を送った、その言葉を皆さんに贈ります。「わたしたちの父である神とイエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 昨年はコロナ・ウイルスの感染が終息しないで、むしろ拡大しつつ、年を越しました。今年もコロナ感染に怯えて生活を続けなければならないのか、と心配しておられる方も多いと思います。今年も私たちには様々な困難や試練があり、心が折れそうになることもあると思います。そのような困難な状況にあっても神の言葉を聞き続けて参りましょう。このことによって私たちの心が支えられていくのです。
 
 この礼拝で、しばらくルカによる福音書を学んで参りましたが、2012年1月は、ロ−マの信徒への手紙12章を学びたいと思います。この12章は、私たちキリスト者の生活の基本的なあり方を語っているところです。キリスト者の基本的なあり方は、礼拝で形作られるものです。礼拝に出席して、神の言葉を聞いて生活する、それが私たちの生き方の原型なのです。

 私が、神学校に行かないで、一般の大学に行っていたら、教会の礼拝に通っていなかったのではないか、と時々思うことがあります。高校生までは礼拝に通っていましたが、一般の大学に行って、周りの学生は教会とは関係なく過ごし、日曜日に教会の礼拝に行くことはないので、自分は一人で教会の礼拝に出席しただろうか、と思うのです。教会に行かない生活が続くと、その生活に慣れて、信仰も失ったかもしれないと思います。
 
 将来、牧師になる予定の神学生は、日曜日には教会に行って礼拝に出席することは当然です。そして、礼拝の前に行われる教会学校の手伝いをすることも、当たり前ですから、行かざるを得ないのです。神学校を卒業した後、牧師の生活は、礼拝を中心とした生活になります。毎日曜日の礼拝に必ず出席し、説教をする、それは当然なことですが、礼拝に出席し続けて来たことは、私の信仰を支えるために欠かせない、大きな要素であったと思います。礼拝に出るのは、本人の自由だ、ということであるならば、私の中に信仰は育つことはなかったと思います。強いられた恩寵によって、キリストの恵みを感謝をもって受け留めることができるようになったのです。
 
 私たちの信仰生活の基本を初心に帰って学ぼうと思い、この1月の礼拝は、ローマの信徒への手紙12章を学んでいきたいと思います。
 ローマの信徒への手紙の、第1章から第11章までは、キリスト教の教え、教理について書かれてあり、第12章から第16章までは、キリスト者の実際の生活について記されています。もう少し詳しく言うと、第1章から第8章まで、キリストによって罪が赦されることをただ信じることによって神に正しい者とされることが記されています。第9章から第11章まで、直接に触れていることはユダヤ人の救いについてですが、神の救いの計画の話があり、第12章からは、キリストの救いに与った者がどのように生きるのか、その指針が示されています。

 第1章から第8章まで、キリストの救いについて語られていますが、ここでは何が語られているのでしょうか。神から離れている深い罪をキリストが贖って、私たちに代わって罪の審判を引き受けてくださり、そのことをただ信頼し、信じるだけで救われ、神の子とされていることが記されています。救われるために、何か良いこと、立派なことをしなければならないことはないのです。キリストは、私たちの救いのために必要なことは全部してくださったのです。キリストの救いは完全なのです。私たち人間がそれに加えて、何かをする必要はないのです。信仰をもっている者らしく努力する、誰が見ても感心するような生活をするように努める必要はないのです。自分はどうも信仰者らしい生活ができていない、だから自分は救われていないのではないかと悩むことがありますが、キリストの救いは完全ですから、ただキリストの救いに感謝していれば良いのです。立派な生活ができていないから救われていないと思う必要はないのです。

 キリストによって救われた者は、自分の救いのために何もする必要はないのです。救いは、どこまでもキリストによることです。他の宗教のように毎朝、お経を唱える時間が長ければ長い程、仏に近づいて救われると言うのではないのです。私たちの行いが、救いの条件になっていません。ただキリストが自分の罪を赦してくださったと言う恵みに、悔い改めて感謝することであるのです。このままの自分を神が受け入れてくださるということです。

 しかし、私たちがキリストによって救われたからには、自分の生き方が変わることも間違いのないことです。今までは、自分のことしか考えないで生活してきた者がキリストを信じるようになったならば、今度は神を中心に、キリストを中心に生きるようになることは、自然なことです。神を中心にした生活ができていないのは、救われていないことではないのです。救いは、あくまでも、キリストによることです。しかし、生活していく規準が今までとは全く異なるのです。それは、自分の生活を最優先するのではなく、神を愛し、隣人を愛することが、新しい生活の規準になるのです。中心となる軸が自分ではなく、中心となる軸が神と隣人になるのです。

 ローマの信徒への手紙第12章1節には、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と語られています。
 「神の憐れみによって」この「憐れみ」と言う言葉は、元々「はらわたが痛む」という言葉です。憐れみ深いサマリア人の譬えでは、強盗に襲われたて倒れ、傷ついた人を見て、サマリア人が「憐れに思った」と書かれています。気の毒に思って、心が動いただけでなく、倒れた者を(敵対している者を)助け、介護し、ホテルに泊めて、費用を受け持つということをします。ローマの信徒への手紙第12章1節の「憐れみ」は、罪の中にいて、苦しんでいる者に対して、はらわたが痛み、救いの手を差し伸べ、苦しみを担い、キリストが罪の贖いをなしてくださる、その意味が込められているのです。私たちを深い罪から解放するために、私たちの罪の痛みに身を合わせてくださる、その神の愛を「神の憐れみ」と言っているのです。

 キリストに救われる以前は、私たちは、自分のことを中心に生き、自分の欲望、願いを中心に、自分が神のように振る舞っていた、神などいないと神をないがしろにして、自分の力で何でも解決できると考え、自分は悪いことをしていないから、罪などないと考え、神を畏れることはなかったのです。神に背を向け、自分を中心にした生活であったのです。そのような罪に支配された生活から、神に支配された生活に転換したのです。神を礼拝する生活に変わったのです。自分が拝んでいるのは、お金、偶像、自分ではない、まことの神を拝む生活に切り替わったのです。

 私たちの生活は、礼拝をして神を崇める生活なのです。礼拝と言うと、日曜日の礼拝を考えますが、日曜日だけに礼拝を限定するのではなく、毎日が礼拝の生活なのです。竹森満佐一牧師の「礼拝」という東京神学大学のパンフレットには、中国のキリスト者は日曜日を礼拝、月曜日を礼拝一、火曜日を礼拝二、と言うように、一週間を数えている、と書かれています。日曜日に礼拝をしたのだから、あとは自由に過ごして良いと言うのではない、毎日、毎日が礼拝の生活であり、礼拝的な行為なのです。
 私の出身教会の鹿沼教会では、昔から、家庭礼拝の習慣があって、キリスト者の家庭では、毎日、聖書を読んで、家族の者が祈ることが勧められ、行われ来ました。家庭礼拝献金が教会に献げられてきました。毎日、毎日が礼拝の連続であるのです。

 ローマの信徒への手紙第12章1節には「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とあります。今、用いている聖書の翻訳は、新共同訳ですが、その前に長く用いていた、口語訳では、「あなたがたのなすべき霊的な礼拝」となっていました。新共同訳では「霊的な」と言う言葉を取り除いたのです。そして「なすべき」と言う言葉を残したのです。これは、外国語の最近の聖書が、「霊的な」という言葉がなくて、「なすべき」と言う言葉で翻訳しているので、それに従ったのであると思います。

 「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」「なすべき礼拝」という言葉をギリシャ語原文から直訳すると、「ロゴスに適う奉仕」です。奉仕というのは、神に対する奉仕ですから、礼拝と翻訳して良いのです。この「礼拝」は日曜日の教会の礼拝だけを言っているのではなくて、私たちの生活全体が、神を礼拝する生活であることを言おうとしています。神を神として尊び、拝む、そのようにして、神に仕えると言うのです。
 
 ここで、大切な言葉は「ロゴスに適う」と言う言葉です。ロゴス、論理という言葉は英語では、ロジックと言います。ロゴス、と言う言葉は元々「言葉」という意味の言葉です。このロゴスは、様々な意味を持っていますが、言葉は、筋道が通って、誰が聞いても分かるものでないといけないのです。私たちが経験することですが、相手が何を言っているのか、分からない、と言うことがあり、「どういう意味で言っているんですか。」と聞き返すことがあります。その言葉に賛成、反対という前に、相手が何を言おうとしているのか、分かることが大切なのです。言葉は、分かる言葉を重ねて筋道が通らないといけないのです。そしてその話は嘘ではなくて、真実のものなのです。このロゴスは真理ということを表す言葉です。新約聖書は別のところで、このロゴスを神の真実、真理、まことと言う意味で用いています。この真理を理解する言葉の能力を、理性と言います。

 ある英語の聖書では「なすべき」と言う言葉を「リーズナブル」と訳しています。お店で買い物をしていると、店員が「このお値段は、リーズナブルですよ」と言っているのを聞いたことがあります。誰でもが納得できる値段であると言っているのです。理屈に合っていて誰でもが納得する、きちんと理屈が通っていて誰でもがうなずける、その意味で、それを納得した人は、みんなそれをしなければならない、この意味で、日本語の聖書では、「なすべき礼拝」と翻訳しています。最近、翻訳された聖書協会共同訳では「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」と訳しています。
 
 ここで何を言っているのか、と言うと、当然、みんながしなくてはいけない神への奉仕である、礼拝であるということです。神に仕えることは、これは人間である以上、当然すべきことだ、と言っているのです。口語訳では「供え物」と訳されてあり、新共同訳では「いけにえ」と訳されていますが、私たちの体を、神にお献げする、それは特別なことではなく、人間である以上、当然、すべきことだ、と言うのです。すべての者が神を拝み、神の役に立つようにする、それは当然のことだ、と言うのです。私たちが神を礼拝する、神を大切にしていく、それは、当然なことで、不自然なことではないのです。

 キリスト者は規則的に日曜日に礼拝に行くことは当然なことだと考えているのですが、日本では、日曜日に毎週、教会に行って礼拝するという習慣はなく、そのことは不自然なこととして考えられています。日本の宗教行事は、季節ごとに祭りが行われ、その祭りの時に、神社仏閣に行くのです。神道の神は、ハレの時、お祭りの時にしか、お出ましにならないのです。日本では、キリスト者が毎週、日曜日に神にお会いするために教会に行くとは思わないので、近所の人は、この人は、どこに毎週、出かけていくのだろうか、といぶかるのです。

 私たちの毎日の生活が、日曜日の礼拝を中心として、体を神に献げる、神に役に立つように差し出す生活であることを語るのです。礼拝において大切なものは、わたしたちのからだを献げることです。旧約聖書では、神に対して罪を赦してもらうために、自分の罪の身代わりとして小羊などの動物をいけにえとしてささげました。献げ物の最大なものは、イエス・キリストでありました。私たちの罪が赦されるためには、神の子イエス・キリストが犠牲として献げられたのです。キリストの全存在が献げられたのです。「からだ」と言うのは、具体的で、肉体をもっている私たちの存在そのものです。その体をささげるのです。神に献身するのです。この献身とは、伝道者になるということに限らず、みんなが、神に身を献げた者として生活するのです。このからだを献げるとは、自分の時間も、体力も、持っている財産もお金も献げるのです。

 「献げる」と言う言葉は、「ある人の側に置く」という意味です。私たちのからだを神の手許に置いて、神様、どうぞ使って下さい、と言うことです。「献金」は、献身のしるしですが、供え物が、神に喜んでいただけるものでなければならないのです。自分の判断で、このぐらいで良いだろうと思う供え物ではなくて、神に喜んでいただくような供え物です。

 「聖なる」と言うのは、神のものであると言うことです。自分の存在そのものが、神から恵みを受けた存在であり、すべてのものは神のもの、神の所有であり、自分の持っているもの、自分の生命も財産も持ち物もみな神のもので、神にお返しするものです。献げものは、少なくて良い、献げても少しも痛くない、自分の生活で用いる残りを献げるということではないのです。どうぞ、神様、すべてのものは神様のものですので、神が十分に使って下さい、と言うのが、ここで語られていることです。

 宗教改革者カルヴァンは「神のみ前で」「神の御顔の前で」と言うことをよく語ったと言われています。ラテン語では「コーラル・デオ」と言いますが、神がいつも自分を見ておられる、ことを自覚しながら生活することを意味しています。それは、礼拝をしている時だけでなく、毎日の生活の一つひとつの場面で、神が見ておられることを自覚する、と言うことです。
 毎日、殺人事件が報道されています。このような事件と自分は無関係であると思いますが、殺人をしなくても、心の中で殺人をしていることがあります。この人がいなくなれば良いと思ったり、心の中で、嫉妬、憎悪、怒り、復讐、そのような心を抱く時があります。心の中でひそかなる殺人をしているのですいつも、私たちが神の御前にあることを自覚していることが大切なのです。

 パウロは私たちに、「なすべき礼拝」をするようにと勧めていますが、このことは、「神の憐れみによって」あなたがたに与える勧告であると語ります。この「憐れみ」は、私たちの罪、弱さがよく分かる神の痛みなのです。罪を犯し、過ちを犯す、私たちを心から憐れんで、苦しむ、その憐れみから、この勧告がなされているのです。
 私たちが、2021年のこの年を、神の憐れみによって、神をまことの神として仰ぎ、隣人を愛する、その歩みを続けて行くものでありたいのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。2021年の新しい年を迎え、愛する兄弟姉妹と共に、新年の礼拝をささげることができ、心から感謝致します。昨年はコロナ・ウイルスの感染によって様々なところで大きな影響を受けてきましたが、感染も終息して、元の日常を取り戻すことができますように導いてください。コロナのために、病と戦っている多くの方々、その治療に専念している医療従事者を特にあなたが支えてくださいますように。仕事を失い、生活することが困難な方々、が、仕事が与えられ、生活が成り立つことができますように。兄弟姉妹の中で、自宅療養している方々、高齢のために礼拝に出席できない方々をあなたが支えてくださいますように。この一年もあなたの守りと導きがあり、あなたの恵みに感謝して歩むことができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 289−3

聖餐式 
讃美歌 81−1

主の祈
頌栄  29

祝祷 
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けてあなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。ア−メン

  来週の聖日(1月10日)
説教 「この世のまねをするな」山ノ下恭二牧師
聖書  エレミヤ書32章36−41節、
    ロ−マの信徒への手紙12章1−2節 
讃美歌 83−1、58、451、436、27
       交読詩編 112編


(WEB礼拝)
20201227 歳末礼拝説教  「キリストのしるし」  山ノ下恭二牧師 
ヨナ書2章1−10節、ルカによる福音書11章29−36節)

12月27日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年12月27日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
「賛美歌21」のサイトは「危険Webページ」との
セキュリティ警告があり、アクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1

交読詩編    100編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      120−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          ヨナ書2章1−10節(旧約1446ページ)、
          ルカによる福音書11章29−36節(新約129ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    278−1 

20201227 主日礼拝説教  「キリストのしるし」  山ノ下恭二牧師

 キリスト教を表すシンボルと言うと、すぐに十字架を思い浮かべると思います。この礼拝堂にも、十字架はたくさんあります。しるしは、あることを表すために使われるのです。この十字架は、神が私たちを深く愛していることを表すしるしです。韓国のソウルの山に登った時に、ソウルには、たくさんの教会があることが分かりました。それは赤い電飾の十字架がたくさん見えたからです。赤、というのは、主イエスが十字架において、血を流された、その血の色です。そのことを赤い十字架はより鮮明に表しています。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書11章29−36節を読みました。29節で主イエスは「『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」と語っています。
 同じ記事がマタイによる福音書に記されています。主イエスと当時の宗教家である律法学者とファリサイ派の人々が、主イエスが何者であるかについて問答をしています。律法学者とファリサイ派の人々は、主イエスに「先生、しるしを見せてください」とお願いしたのです。この願いに対して、主イエスは「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしが与えられない。」と答えています。皆さんは、この言葉をどのように理解しているでしょうか。律法学者とファリサイ派の人々は主イエスにしるしをみせてくれ、と何度も求めていたのです。この「しるし」は主イエスが神であることを証明するしるしのことです。神にしかできないような、みんながそのしるしを見て驚いて、この人こそ神だと思わせるような奇跡をして欲しいと願ったのです。
 
 少し前に、テレビで全日本体操選手権があり、男子体操を見ていました。20代の若い選手が、鉄棒や平行棒、床などの種目の演技を見事に演じていました。その演技を見て、確かにこの若者は体操の選手であることが分かりました。この体操選手が、何もしなければ、体操ができることは分かりませんが、その見事な演技を見て、さすがに体操の選手だ、と納得することができるのです。

 ここで実際に律法学者やファリサイ派の人々は、主イエスがどのような能力をもっているか、この目で確かめたい、と思っていたのです。主イエスが神であることを示す奇跡を起こして自分たちに見せれば、神であることが分かるので、神であることを証明する奇跡を起こして欲しいと願ったのです。人がしたことがない、超自然的な奇跡を起こすならば、神として認めると言うのです。 このことは主イエスの実力がどの程度のものか、試すことになります。なぜ、そのような証拠を求めるのでしょうか。それは主イエスを信じていないからです。信じると言うことは、その奇跡を見てから信じるということではないのです。信じるということは、見ないで信じると言うことなのです。この目で見たら信じる必要はないのです。
 
 ルカによる福音書には書いてありませんが、マタイによる福音書、マルコによる福音書には、主イエスが、しるしを求めたことに対して、彼らの不信仰に驚いている言葉が記されています。マルコによる福音書8章12節には「イエスは心の中で深く嘆いて言われた。『どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう』」と記されています。マタイによる福音書では12章39節で主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちは、預言者ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられない。」と答えています。主イエスにしるしを求めた人びとに「よこしまで、神に背いた時代の人々」と言います。この「時代」と言う言葉は、「生まれてこの世に生きている人々」という言葉です。

 よこしまで神に背いているのは、律法学者やファリサイ派の人々だけでなく、私たち自身のことです。よこしまで神に背いていると言うのは、神を信じないで、自分の目に適い、自分の考えに適うことを求めるということです。それは信仰がないということです。主イエスが神であることを証明する奇跡をして見せて、それで自分たちが神であると認めれば、それで神となるのだ、と言うのです。自分が認めたものであれば、神として扱うと言うのです。それこそ、よこしまで、神に背を向けたあり方なのです。
 
 ルカによる福音書11章29節で、主イエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と語るのです。この「ヨナのしるし」とは旧約聖書のヨナ書に登場する「ヨナ」に関することです。ヨナ書2章にありますように、ヨナが、大魚の腹の中に三日三晩いたことを指しています。ヨナは大魚の腹の中にいたのですから、ヨナの姿を見ることはできません。ヨナのしるしとは人間の肉眼では見ることができない、そのようなしるしなのだ、と言うのです。 
 
 電車に乗って、外の景色を眺めていると、十字架を見ることがあります。どのような教派の教会なのか、と思いますし、ここにも教会があって、キリストの福音が伝えられていることをうれしく思います。十字架というキリスト教のシンボルがはっきり示されていて、教会があることが分かるのです。
 しかし、預言者ヨナの姿は、大魚の腹の中にあるので、外側から、外見からは分からないのです。ヨナの姿は隠れていて、どこを捜しても人間の目ではヨナの姿を見ることができないし、確かめることはできないのです。
 主イエスが語っている「ヨナのしるし」とは「隠されている」のです。私たち人間のまなざしでは見えないけれども、神から与えられた、信仰のまなざしをもって見るならば、神の業が見えるのです。信仰によって神の働きを見ることができるのです。

 信仰のまなざしをもって見るならば、神の業が見えるのです、信仰によって神の働きを見ることができるのです、と言いましたが、私たちは見えるところでしか、判断ができない、限界をもっているので、神の業が見えないことがあるのです。苦難や試練に遭うと、神の業が見えなくなるのです。
 
 教会学校で用いる紙芝居にヨナのことが描かれていて、旧約聖書の物語では、馴染みがある物語です。ヨナがニネベに行くことを拒んでタルシシ行きの船に乗り込み、嵐があり、船が転覆しそうなので、悪いことをした者がいるので、こういう嵐が起こると判断して、くじを引くとヨナがくじに当たり、海に突き落とされ、大魚の中に、飲み込まれるのです。その大魚の中で祈った祈りが2章に記されているのです。大魚の腹の中ですから、真っ暗で何も見えないのです。
 詩篇88編は、嘆きで始まり、嘆きで終わる詩篇です。詩篇の中には、嘆きで始まりますが、最後は神を賛美する歌で終わっています。しかし、この詩篇88編は初めに嘆きが記され、嘆きの言葉で終わっています。88編4節には「わたしの魂は苦難を味わい尽くし 命は陰府にのぞんでいます。」と嘆き、この詩篇の終わりに19節で「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」という言葉で締めくくっています。

 ヨナは、神に助けを求めているのです。暗闇の中にいて、神が自分を愛しているとは思えないのです。自分が神に愛されたいのです。自分の存在を神が認めて、愛して欲しいのです。ここでヨナが神に呼びかけることができた、神に訴えることができたのです。神からの助けを求めることができたのです。
 
 この苦難の中からの叫び、嘆きに対して、神はきちんとしたしるしを与えているのです。クリスマスの物語の中で一番、読まれるのは、ルカによる福音書2章です。2章10−12節(p103)「天使は言った。「恐るな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 クリスマスの出来事は、神の愛から出たものなのです。神が私たちの救いのために、自分の外に出て肉体を取って人間になられた、主イエスにおいて神を顕したのです。神が覆いを取って神の正体を明らかにするのです。覆いを取って、みんなの前で隠された正体を現すことを啓示と言います。

 旧約聖書のミカ書には、神がどのような方であるか、その特質を語ります。
 ミカ書7章18節(p1458)には「あなたのような神がほかにいるでしょうか。あなたは、ご自分の残りの者のために、咎を赦し、罪を見過ごされ、慈しみを喜び、いつまでも怒りに固執されることがありません。」と語られています。
 
 この旧約聖書のみことばによって、神がどのような方なのか、はっきり示されています。神は他者のための神となられる、ということです。神が神であることを顕すのは、自分の存在を顕す、自分がいかに優れているか、自分がいかに支配する力をもっているかではなく、他者のために愛をもって全力を使い果たす神なのです。愛において私たちと深く関わる神なのです。神が自分の外に出て、肉体を取って、主イエスとなり、誕生されたのです。それは私たちを愛するためにです。この神は自分を偉大な者として、力をもって、みんなの前に顕すことをされないのです。人間は自分がさも能力があり、力があるようにみんなの前で誇りますが、神はわたしたちのための神になってくださり、愛をもって関わる神なのです。

 このことは信仰によってしか、見ることができないものなのです。主イエスを見ても、外見から見ても、神とは思えないのです。普通の人間に過ぎないのです。聖霊によって信仰が与えられないとまことの神を知ることができないのです。秘儀、秘密、機密、ミステリーなのです。

 主イエスの誕生は、キリスト教の偉大な教祖が生まれたということではないのです。神が私たちを深く愛してくださるために、わざわざ、ご自分の外に出て、肉体を取り、人間となってこの地上にきてくださったのです。主イエス・キリストのご降誕は、神がわたしたちのための神となってくださると言う愛の出来事なのです。このことは信じることによってしか分からないことです。聖霊によって信じることによってしか、クリスマスの意味を知ることはできないのです。信仰を与えられていない人にとっては、ミステリーなのです。秘儀、秘密なのです。

 ルカによる福音書11章32節で、主イエスは、ヨナがニネベに行って説教をして人々が悔い改めた、そのことを語りながら、「ここに、ヨナにまさるものがある。」と語ります。ヨナの働きを評価しながらも、しかし、「ここに、ヨナにまさるものがある。」と語ります。ヨナという預言者よりも勝った神の子イエスがここに存在するのです。預言者ヨナは、神の言葉を語った預言者ですが、神の言葉そのものである主イエスがここに存在すると主イエスは語っているのです。口語訳では「しかし、見よ、ヨナにまさる者がここにいる」と訳しているのです。この言葉は、主イエスの存在だけを言っているのではなく、主イエスによってもたらされた福音のことをも示しているのです。最近の翻訳では「ヨナにまさるもの」とあり、人物の「者」ではなくて、主イエスがもたらした「福音」「よい知らせ」そのものがあると訳しています。

 神の愛を語っているみことばには、神の愛と主イエスの死と深い関わりがあることを明らかにしています。ローマの信徒への手紙5章8節には、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と語られ、神の愛と主イエスの死とが分かちがたく結び付けられて語られています。
 十字架の死、わたしたちが受けるべき、神の罰、裁きを神の子である主イエスが身代わりになって引き受けてくださる、このことを神の愛と呼ぶのです。

 この主イエスの死、そこには、どこにも神らしい姿はないのです。しかし、神は本領を発揮して、肉体を取り、人となられ、十字架の苦難と死を引き受けられたのです。人間には、思いもよらず、考えも及ばない方法で、救いの道を切り開かれたのです。
 コリントの信徒への手紙一 2章8−9節(p301)には、「この世の知恵の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞こえもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。」と語られています。
 人の目には適うことはないけれども、しかし、ここに神のわざ、キリストのしるしがあるのです。ここにこそ、キリストの救いのしるしがあるのです。

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神、主の御降誕を祝う季節に、今日もあなたのみことばを聞き、人の目には隠されていますが、あなたが、イエス・キリストの十字架によって私たちを深く愛しておられることを知らされ、私たちはその愛によって生かされていくことができますように、導いてください。2020年の年も終わろうとしていますが、今年はコロナの感染に怯え、多くの影響を受けています。その中にあって、あなたが守ってくださることを信じて新しい年も歩むことができますように。様々な事情でこの礼拝に出席できない兄弟姉妹をあなたの御心のうちに覚えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌  469−1
献金   (献金の祈り)
主の祈り
頌栄   27

祝祷 
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。 ア−メン 

         来週の聖日(2021年1月3日)
  説教  「神に献げる礼拝」 山ノ下恭二牧師
  聖書  アモス書5章18−24節 
      ロ−マの信徒への手紙12章1−2節
  讃美歌83−1 57−1 278−1 289−3 81−1 29
  交読詩編 111 


(WEB礼拝)
20201220 クリスマス礼拝説教  「愛が生まれる時」  山ノ下恭二牧師 
ホセア書6章1−3節、 ロ−マの信徒への手紙13章8−14節)

12月20日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年12月20日(日) クリスマス主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
「賛美歌21」のサイトは「危険Webページ」との
セキュリティ警告があり、アクセスできないようにしました。

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 以下、「賛美歌21」サイトにはアクセスできないようにしました。

交読詩編    98編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      56−1 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          ホセア書6章1−3節(旧約1409ページ)、
  ロ−マの信徒への手紙13章8−14節(新約293ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    264−4 

主日礼拝説教   「愛が生まれる時」  山ノ下恭二牧師
  以下、声に出して読んでください。

 主イエス・キリストの御降誕を記念するクリスマス礼拝に出席して、皆さんと共に祝うことができることを感謝致します。主イエス・キリストの御降誕は、どのような意味をもっているでしょうか。それは、私たちが救われるために、神が自分の外に出て、肉体をとり、イエスと言う人間になられて、私たちの地上に来られたことを意味します。教会では、主イエスの御降誕を第一の来臨と呼んできました。英語ではファーストカミングと言います。そしてイエス・キリストが、再び来られることを第二の来臨、私たちが馴染んでいる言葉では、再臨と呼んできました。英語ではセカンドカミングと言います。神が肉体を取り、この地上に来られた、主イエス・キリストが誕生された時と再びイエス・キリストが来られる時の間を過ごしているのです。私たちは第一の来臨の時と第二の来臨の時との時の間を過ごしているのです。

 この二つの時の間に、私たちはどのような生活をするのか、ということです。それは、愛の生活をするのです。私たちの教会が属している日本基督教団の信仰告白には「愛のわざに励みつつ、主の来たりたまふを待ち望む。」とあります。イエス・キリストの再臨の時まで、「愛のわざに励む」と告白しているのです。主イエス・キリストが再臨する時まで、私たちが、愛の生活をすると書かれているのです。私たちの生活の様々な場面・私たちの言動・振る舞い、毎日の姿を神が見て、この人は、聖書で語っている愛を実践している人だ、と神が言ってくれるような生活をする、ということなのです。

 ところが、私たちのあり方を見ると、本人は愛の行為だと思っているけれど、愛とは言えないことがなされていることがあります。皆さんも電車の中で、いろいろな会話を聞くと思いますが、ある時、私は、電車の中で、若い女性同士が話している会話を聞いていました。「あの人は善意でしているけれども迷惑なのよね」と言うと、もう一人の女性が、「そうよね、いい人で、親切のつもりで言っているけれども、お節介なのよね。そのことに気がつかないので困るのよね。」話していました。それは、私たちもあるのです。あなたのためにしている、と言っているけれども、相手は重荷だと感じている、ということもあります。本人は善意でしているので、相手が迷惑であることに本人が気がつかず、そのことを自覚していないことが困るのです。
 
 パウロはコリントの信徒への手紙一 13章の「愛の賛歌」で愛はこういうものではないと言う言い方で語っているのです。愛は「ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」教会の中で、自分がしていることが愛の行為であると思っているけれども、実は、愛の行為ではないと語っているのです。
 
 本日の礼拝で読みましたロ−マの信徒への手紙13章8−14節は、教会の暦に従った、クリスマス説教の聖書テキストの一つなのです。それは主イエス・キリストの御降誕が、神の愛の表れであり、私たちに愛の生活を勧めているからです。この手紙を書いたパウロは、ローマの教会の信徒たちに自分たちの愛の生活がほんとうに神が求めるような愛になっているかどうか、を吟味し、見直し、改めて欲しいと考えて、書き送っているのです。
 
 ローマの信徒への手紙13章8節には「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」と語られています。私はこの聖書の言葉がどのような意味なのか、よく分からないので、十分に理解したいと思っていました。意味が分からない時には、他の翻訳を読むと分かるかもしれないと思い、意味の通じる翻訳を探すことにしています。少し、分かりやすいと思った翻訳は、「だれに対しても、何の借りがあってはいけません。互いに愛し合うことは別です。」(新改訳2017)「なにごとにおいても人に借りをつくってはならない。ただし、愛は別である。」(柳生直行訳)この二つの翻訳は、ギリシャ語の原文の順序に従って翻訳しています。誰に対しても、借金はするな、とまず語っているのです。
 
 借金はしないほうが良いのですが、借金をしなければならないこともあります。私が東大宮教会に赴任する前の1988年12月に東大宮教会に新しい会堂が建ち、1989年1月に献堂式があり、この年の4月に私は赴任したのですが、会堂建築資金の銀行の借金返済が4千万円ぐらいあり、返済のために、北海道の農産物を埼玉の教会に運んで売ったり、バザーをして、7年間かけて、返済しましたが、借金を返済することの大変さを経験しました。
 
 借金はするな、と教えているのはなぜでしょうか。それは借金すると、相手に対して、負い目がある、負債があると言うことです。負い目がある、負債があるということは、お金を借りているので、貸してくれた人に対して対等に振る舞うことができなくなるのです。借金があるために、その人に対して自由にものを言うことができなくなるのです。自分の自由を確保するためには、借金はしない、負債を負わないということです。
 ギリシャ語の原文では、「誰にも、何にせよ、借りたままでいるな」とあるのです。パウロが借金はするな、と言っていることはよく分かります。

 借りるなという言葉に付け加えて、「互いに愛しあうことの外は」と書いてあります。この短い言葉がここでは、とても重要なのです。しかし、この言葉はわかりにくいのです。他の翻訳では「ただたがいに愛しあうことだけは別である。」(松木治三郎)「決してどんな負債でも、それを負ったままではいけません。しかし、互いに愛するという負債は例外です。」(加藤常昭私訳)
 借金はするな、しかし、互いに愛しあうことは別で、例外である、愛し、愛されることは、別であり、例外であると言うのです。互いに愛しあうのは、いつまでも相手に対して借りを返すことなのだ、と言うのです。皆さんは、相手を愛することは、負債を返すことだとは思わないと思います。しかし、相手を愛するのは、借りている借金を返すことに通じると言うのです。それは、いつまでも相手を愛することなのだ、そこに愛の本質があるのだ、と言うのです。

 私たちは、借金を返せば、それで、相手に対してお金を返済することはなくなる、それでお終いになります。しかし、愛と言うものは、これで十分だ、これで良いということはないのです。何時までも愛は求められるものなのです。
 親が子どもを愛する、その愛は、子どもを愛する期限を決める、ということはないのです。親が子どもを大学まで出したので、もう愛情を注ぐことを止めたという親はいないのです。親が子どもを愛し、育て、親としての義務を果たしたので、それで止めるということはないのです。愛すると言うことは無限であるのです。
 
 最近、翻訳されたイギリスのクランフィールドという新約学者が書いたこの手紙の注解書にはこの箇所を「愛の負債」という題名にしています。愛するという負債は、期限がなく、いつまでも愛するのだ、というのです。それは、愛なくしては人は生きることができないからです。愛が欠けたままで生きている、生かされているということはないからです。お互いが皆、愛の負債を負い合って、その負債を果たすことで、一人ひとりの人生が成り立つのです。

 私の世代では、親が逝去する世代で、私の友人の親が亡くなったという話を聞きます。親と言うものは、自分が死ぬまで子どものことが心配で、限りなく愛するものです。愛するということは、これで良い、これで十分だということはないのです。それは、パウロが、神の愛を考えているからです。神は無限に、期限をつけないで、私たちを愛しているのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙5章5節、8節で神の愛について語っています。5章5節に「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」5章8節に「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに愛を示されました。」私たちは、神を忘れ、自分中心に生き、神の愛を受けるに値しない者ですが、私たちが神を愛さないときも、神は私たちを愛し続けていてくださるのです。永遠に私たちを愛しておられるのです。
 ここまで愛したから、もうこれで責任を果たしたということはないのです。どんなに愛し続けても、負債は減らないし、どこまでも愛し続けるのです。

 そしてそれと同時に、誰に対しても愛の負債を負っているのです。この人が好きだから愛する、この人は自分が嫌いだから愛することはない、ということはできないのです。聖書には、愛と翻訳されている言葉は「アガペ」「フィリア」と言う言葉です。相手が愛するに価値があるから愛するという「エロース」という言葉は一度も使われていません。エロースという言葉は、自己中心の愛です。一緒にいると楽しい、自分に利益になる、自分にプラスにならない時は愛さない、自分が良いと思わなければ、愛さない、そういう内容を含んだ言葉がエロースという言葉なのです。
 アガペという言葉は、自分にとって価値のない、自分にとって苦しみを伴うものを愛する、自分が犠牲を払っても愛する愛です。

 一般には、自分の都合を考えて、愛することが多いのです。自分にとって都合の悪い人を愛するということはしないのです。愛はあらゆる人に対して負い目をもっていることなのです。私たちはすべての人に対して愛の負債を負っているのです。
 
 13章8節に、「人を愛する者は律法を全うしているのである。」と語られています。ここに書かれている「人」は原文では「他人」です。「他の人を愛する者は、律法を守っているのです。」(新改訳) 「他人を愛する者は、律法を完全に果たしているのです。」自分が愛する者は「他人」なのだ、と言うことです。この「他人」とは、キリスト者だけでなく、キリスト者でない人々も含まれています。毎日の生活で、キリスト者ではない人にお世話になっているのです。ここで「他の人」と言っているのは意味があります。このことは、余り自覚しないでいるのです。私たちが愛する存在は、自分の延長としてそこにいるのではないのです。食べる好みも異なり、ものの感じ方も違い、考え方もものの言い方も違うのです。日本に住んでいると、互いに日本人、同じ者という感覚でいるので、相手が自分とは異なっている、とは考えないのです。
 ローマの信徒への手紙14章、15章には、教会の中で、食べるもの、考え方が異なるために、互いに理解することが難しい、ということが起こっています。キリストが神のみこころと違った生き方をしている者を受け入れたように互いに受け入れることを勧告しています。

 「他人を愛する者は、律法を完全に果たしているのです。」他の人、それは自分が好きな人ではない人を愛している人は、すでにそこで律法を全うしてしまっていると言うのです。律法と言う言葉がでたので、生活に身近な戒めを次に記しているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」この4つの戒めは、この当時、大切な生活に直結した戒めであると考えられたのです。この4つは、現代に生きる人々にも戒めとして、心に刻む戒めです。「姦淫、殺し、盗み、むさぼり」現代も日常的に行われている犯罪です。このことが行われることによって、平和が乱されるのです。社会の中で、平和、シャロームがなくなるのは、この4つです。この4つの戒めが守られるならば、社会はもっと良い社会になるのです。このような生きる規範をもって生活することを教える必要性があります。

 13章9節に「『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」とあります。律法、戒め、というと自分の自由を縛るものとして考える傾向があります。自分が好きなように生きるのが自由なのだ、という考え方が浸透しています。しかし、共同体として互いに生活するのですから、ルールがあっても守らないとすると社会は壊れてしまうのです。規則、規定に対して嫌悪感がありますが、人間の自由を限界づけることは大切です。姦淫しても良いのだ、それが文化だ、人を殺しても良い、殺したくなったから殺した、欲しかったから盗んだ、自分が欲しいから、他人の畑から野菜や高級な果物を奪った、転売すれば高く売れるから、牛を盗んだ、このようなことは、家庭生活を壊し、人の命を奪い、盗むことによって財産が侵害される、平和を乱さないために、戒めを守ることは大切な生き方です。

 私は、13章10節の言葉は私たちがよく心に刻む言葉であると考えます。「愛は隣人に悪を行いません。」「このような愛は隣人に害を及ぼすことはありません。」(加藤私訳)「愛は隣の人に悪事を働かない。」(塚本虎二訳)
 
 この言葉を読むと、何か、愛というものを消極的に捉えているのではないか、と思うのです。しかし、愛がないところでは、悪いことが起こるのです。愛がないところには、害を受けることが起こるのです。身の周りで起こる事件は、いつも、そういうことが起こるのです。新聞を読み、テレビのニュースを見ると、愛がないために、多くの人が傷つき、苦しむのです。相手の立場や思いを考えずに、自分の感情のままに怒鳴りつけたり、少しの過ちを赦さずに、殴る、蹴るの暴力を受ける、興味本位に嫌がらせをするのです。 
 
 会社でも、嫌な仕事を先輩の社員が後輩に押しつける、口を利かないいじめがある、ということがよくあります。愛がないところでは、そういうことが起こるのです。また、自分が考えて、相手に良いと独り合点して、説得したり、指示してお節介を焼く、それが迷惑と思うことなく、自分では親切なことをしている、相手を思ってしている、愛している、と勘違いをするのです。善意でしているので、相手には良いことをしていると思い込むことがあります。善意でしているので、相手に悪いことをしていないと考えてしているのだけれども、善意だからこそ迷惑であり、善意が人を傷つけることがあるのです。相手のために尽くしていると思いながら、していることが、相手の負担になっていることに気がつかないのです。
 
 「愛は隣人に悪を行いません。」という言葉は聞くべき神の言葉であると思います。隣人に悪を行わない、害を加えない、迷惑をかけない、重荷を負わせない、ストレスを起こさせない、このことは大切なことです。「最も大切なことは、その人の自由を守り、立場を重んじ、尊敬し、害を加えないようにすることである。それが、真に愛するということである。」

 イエス・キリストは、私たちに害を加えないで、憐れみをかけてくださったのです。「イエス・キリストは隣人に悪を行わない、害を加えない」のです。悪を行わないどころか、私たちに愛の負債を負っているかのように、どこまでもいつまでも私たちのために、永遠に愛し抜いてくださるのです。
 
 私たちは、主イエス・キリストの愛を与えられているので、主イエス・キリストが再臨されるまで、隣人を愛することを止めないのです。

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神、主イエス・キリストの御降誕を記念するクリスマス礼拝に兄弟姉妹と共に出席し、あなたのみことばを聴くことができ、心から感謝を致します。
 あなたは、私たちの罪を赦すために、神の子イエスをこの地上に派遣し、私たちの罪を引き受けて、十字架の犠牲をささげてくださいました。神の愛を与えられて、私たちは、負債を返すように、隣人を限りなく、愛することができますように、聖霊を注いでください。
 病のため、高齢のために、礼拝に出席できない方々を見守り、癒し、慰めてくださいますように。これより聖餐にあずかります。私たちのために裂かれた肉を表すパン、流された血を意味する杯をいただきます。戴くことによって、私たちに対する神の愛を受け止めることができますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

讃美歌  271−4 
聖餐式

讃美歌  78−1 
献金   (献金の祈り)
主の祈り 
頌栄   29

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けてあなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。ア−メン


          来週の聖日(12月27日)
    説教 「キリストのしるし」 山ノ下恭二牧師
    聖書  ヨナ書2章1−11節 
        ルカによる福音書11章29−36節 
    讃美歌 83−1 120−1 278−1 469−1 27
    交読詩編 100


(WEB礼拝)
20201213 主日礼拝説教  「平和の王が来られる」  山ノ下恭二牧師 
 イザヤ書11章1−10節、エフェソの信徒への手紙2章14−22節)

12月13日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年12月13日(日) 主日礼拝 式次第・説教

会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 
使徒信条
交読詩編    95編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌     242−3 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          イザヤ書11章1−10節(旧約1078ページ)、
          エフェソの信徒への手紙2章14−22節(新約354ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    252−1 

主日礼拝説教   「平和の王が来られる」  山ノ下恭二牧師
  以下、声に出して読んでください。

 礼拝堂のアドベントクランツのロウソクに三本の灯が灯りました。来週の聖日は、ロウソクに4本の灯りが灯り、クリスマス礼拝を守ります。12月20日には、教会学校のクリスマス礼拝と10時30分からのクリスマス礼拝があり、24日にはイブ礼拝があります。これらのクリスマス礼拝に出席して、主の御降誕を心から祝いたいと思います。
 
 今年になって私たちはコロナという感染症に直面して、戸惑い、感染しないように気を付けてきました。外出する時にはマスクをして出かけ、お店に行けば消毒液を手につけ、三密を避け、多くの人との会食をしない、そのことに心がけて暮らしてきました。今年で、コロナ感染が終息すると思っていましたが、終わらずに、むしろ拡大していて、これからもコロナ感染症に罹らないように気をつけて生活をすることになります。この感染症に直面して、これからの自分の生活に不安を抱く人も多いのです。また思いがけなく、感染症に罹り、病を得て、いつ治るのか分からないで不安を持っている人も多いのです。
 
 それぞれの国の指導者たちは、コロナ感染が拡大しないようにと願っていると思いますが、政治指導者の政策によって国民の生活が大きく変わるので、指導者たちの責任は、非常に大きいと言うことができます。政治指導者がどのような政策を遂行するか、何が重要であると考えているか、どのようなビジョンをもって国を導いて行こうとしているのか、が問われています。

 政治家が替わることによって、国際社会も変わるのです。アメリカの大統領選挙の結果、大統領が交代しますが、今後、大きく変わる可能性があるのです。自国第一主義によって社会が分断されてきたそのような社会が、国際協調主義になり、国々が互いに平和な関係になるように祈りたいのです。

 本日の礼拝で、イザヤ書11章1−10節を読みました。イザヤは、預言者として召されていますが、他の預言者と異なっています。それは、南ユダ王国の王に進言をする、顧問官を務めていたのです。イザヤは預言者であったので、
王国の政治に関して、王に神の言葉を伝える立場にあり、その役割をもっていました。神から、言葉を戴いて、そのまま王に伝えたのです。 
 
 サムエル記に詳しく記されていますが、イスラエルに王が立てられましたが、それは、王の思うがままに政治を行い権力を振るうことではなくて、神の御心を重んじる中で、王が立てられ、政治が行われることが本来の目的であったのです。神の御心が重んじられる、とはどのようなことでしょうか。それは、神をまことの神として礼拝し、隣人を愛する、これは十戒の精神であるのですが、このことを基本において政治が進められることなのです。ところが、歴代の王は、そのことをしなかったのです。偶像を礼拝し、隣人を愛する生活をしなかったのです。神を愛し、隣人を愛する生活をきちんと守っていれば、預言者が登場する必要はなかったのです。しかし、神に仕え、隣人を愛することをしなかったので、神は預言者を召し、預言者を神の言葉を伝える者として用意されたのです。

 イザヤが生きていた時代は、北はアッシリア、南はエジプト、この両方の大国がこのパレスチナに進出する機会を狙っていて、自分の国の領有地にしようと企んでいた時代でした。アッシリアは、パレスチナの小国を侵略しない代わりに、莫大な上納金を要求し、この支払い額が莫大で小国にとってはかなりの負担になっていました。パレスチナのシリアやアラムなどの小国、そして北イスラエル王国はアッシリアに対抗して、同盟を結び、アッシリアと戦争をしようと考え、南ユダ王国にも反アッシリア同盟に加わるように誘ってきたのでした。この時の王は、反アッシリア同盟軍の誘いに乗るのか、それともこの誘いに乗らないで断るべきか、悩んだのでした。
 
 確かに、アッシリアへの上納金は重すぎ、国の財政を圧迫する、しかし、アッシリアと小さな国々が戦争して、勝ち目があるのか、アッシリアと戦って負けると南ユダ王国の領土は、アッシリアの植民地となる、それは困る、アッシリアの味方をして、反アッシリア同盟に加わらないと小国の同盟軍がエルサレムに攻めて来ることがある、どちらを選んだら良いのか王は迷っていたのです。

 そのような時に、イザヤは神の言葉を語るのです。神は、イザヤに王に告げるように語るのです。アハズ王が南ユダ王国を統治していた時ですが、反アッシリア同盟軍が、南ユダ王国のエルサレムを攻めるために押し寄せてきた時に、主なる神がイザヤに言葉を伝えたのです。アハズ王に「言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」(7章4節)と語り、反アッシリア軍が攻めて来ても占領されることはないと語ったのです。主なる神に信頼することが重要で、大国が攻めて来たらどうしよう、反アッシリア軍に加わったほうが良いか、どうか、王が右往左往することはないのだ、と語るのです。

 イザヤは、神が語ったそのままの言葉を王に伝え、その時の政治情勢だけを考えて判断しないように王に警告し、王が神の言葉を信頼して歩むように預言の言葉を語り、それによって、王を慰め、励まそうとしたのです。

 イザヤ書を初めから読んでいきますと、政治を司る王に求められていることは、主なる神のみを畏れ、他のものを恐れないように、と言うことです。イザヤ書8章13節に「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏れるべき方は主。御前におののくべき方は主。」と語られています。「恐れ」と言う言葉を聞くと、私たちは、「恐怖」の「恐れ」を連想するのですが、神を神として「畏れる」場合は別の言葉を用います。神がここにおられる、そのような「畏れ」のことを言います。神が自分の目の前におられる、その畏れのことです。私たちは、恐れなくても良いものを恐れ、神を畏れることをしないのです。

 イザヤが預言者として生きていた時代の南ユダ王国の王たちは、畏れるべき神の言葉に聞かず、その時代の国々の情勢だけを見ていましたから、とても不安で、恐れ、右往左往していたのです。恐れに取り憑かれていたのです。神が確かな御腕をもって、この国を最も良い仕方で導く、という信仰をもっていなかったのです。見えるところでしか判断しないのです。
 しかし、イザヤは、目には見えないけれども、神が最も良い仕方で、解決の道を開いてくださることを信じることができ、そこに望みを見出しているのです。8章17節「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。」
 現実を見ると、落胆するような思いを持つのです。しかし、イザヤは、目には見えないけれども、神が支配する現実を見ることができているのです。

 政治を司る王に求められることは、イスラエルの民の生活が、日々の暮らしが成り立つように、配慮することです。しかし、現実には、王が立派な宮殿に住み、おいしい食事をして、暮らしている、しかし、人々は食べることもままならず、窮乏の生活を強いられているのです。イザヤ書の初めには、強欲な商人が、物を売るのに、自分の儲けのために、売る量を減らして、あげ底にして、商売をしていることが記されています。

 政治の貧困は、最も貧しい人々にしわ寄せが来ることです。良い政治が行われないと経済格差が広がり、富める者はますます富めるようになり、貧しい者は、ますます貧しくなるのです。戦争になれば、最も貧しい人々が、最も苦しむようになるのです。戦争になれば、貧しく、弱い立場にいる人々が極端に苦しむことになります。
 
 太平洋戦争においても、政治家、軍人によって無謀な戦争が引き起こされ、300万以上の国民が戦死したのです。私の父親の遺品の中に父親の手帖がありました。その中に、父が出征したときの記録が書かれていたのです。1944年3月14日に召集令状を貰い、19日に出発したのですが、その時にもらった餞別の記録が詳しく書かれていたのです。そして、この手帖には、私の二番目の兄・信二が、1945年11月に1歳10ヶ月で亡くなった時の記録がありました。食料のない時代で、自家中毒で死亡したのです。戦争がなければ、生きていけたかもしれません。多くの国民が、戦争のために死に、苦しみ、困難の中を過ごしていたのです。

 イザヤは、王に神の言葉を伝えましたが、王は神の言葉に従わないのです。それで、イザヤは、新しい王に期待しているのです。イザヤ書11章1−10節には、新しい王が出現し、その王が、神が求める政治を行うことを語っているのです。11章1節と10節に「エッサイの根」という言葉があります。「エッサイの根」とはエッサイの子であるダビデの系譜を意味しますが、「根」と言うのは「切り株」のことです。ユダ王国が滅亡し、ダビデ王家が断絶することを語るのです。
 イザヤは、ユダ王国が滅亡することを知っているのですが、その先を見ているのです。切り倒された大木の根元からひこばえが生じるように、エッサイの根から、ダビデの家から、小さな芽が萌え出て来て、そこから若い枝を伸ばすだろう、というビジョンが語られているのです。

 11章3−5節には、新しい王がどのような政治を行うのかを語っています。「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。」

 イザヤの時代に、現実には、裁判が曲げられていたのです。力ある者が、自分に有利になるように、裁判を司る者に賄賂を渡し、無実の者を有罪とする裁判が行われていたのです。神の前に、正義と真実を貫くことはなかったのです。弱い人々や貧しい人々に対する、主の正義と公平が行われることが正しい政治なのです。無力な人々、疎外された人々が、不正にあったり、暴力を受けないようになることが政治の正しいあり方なのです。
イザヤは、南ユダ王国のアハズ王の後の、ヒゼキヤ王、ヨシヤ王たちが、神のみこころに適う政治をすることを期待していましたが、実現することはできなかったのです。

 新約聖書において、イザヤが預言した、新しい王はイエス・キリストにおいて、実現した、と語ります。
 クリスマスには、ルカによる福音書2章1−21節がよく読まれます。主イエスの誕生の物語が語られます。ルカによる福音書2章1節には、この当時のロ−マ帝国の「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。」と書かれています。この国家の命令によって、この帝国に属している住民は、自分の生まれ故郷に帰ることになったのです。これは国家権力によって、強制的に人々が移動させられたのです。ローマ帝国は、国家権力によって、人々の意志とは関係なく、服従させることができるのです。本人の自由を奪うような仕方で国家に従わなければならないのです。そのようなことを、マリアとヨセフの夫婦は、経験することになったのです。そして宿屋が満員であったので、家畜小屋で主イエスが誕生することになったのです。

 主イエスの誕生の知らせが一番、早く知らされたのは、羊飼いたちであったことも注目して良いことです。羊飼いは、アム・ハーレツと呼ばれていたのです。羊飼いは、地を這うように生きている、汚れた人々と見なされていたのです。社会の中で、最底辺で生きている人々です。羊飼いは、羊を誘導して遊牧して行くのですが、行く先々で、そこの住民から追い出され、嫌われ、感染症が羊に広がれば、羊と言う財産を一挙に失う、不安定な仕事でした。農業と羊飼い、どちらを選ぶか、問われれば、誰でも農業を選んだのです。農業は土地があり、作物が実れば、食べることができるのです。

 そのような羊飼いが、夜中、とても寒い中を羊の見張りをしていた中で、真っ先に主イエスの誕生の知らせを聞くことができたのです。
 神の子イエスが自分たちのところに来てくれた、その知らせを一番、早く知ることができたのです。この社会で、政治の恩恵を受けないのは、とても困っている人々なのです。経済的に豊かな人々は、政治の恩恵を受け、貧しい人々には、政治の恩恵は届かないのです。そのような虐げられている人々のところに、神の子の誕生の知らせが、届くのです。

 主イエス・キリストが与える平和は、どのようなものでしょうか。それは神との和解をもたらし、それによって人間の互いの和解をもたらすものなのです。
互いに対立し、互いにいがみ合う、そのようなことではなく、互いに平和に、穏やかに生きるために、主イエスは和解をもたらしてくださったのです。 
 ユダヤの人々の挨拶の言葉は、シャロームと言う言葉です。このシャロームと言う言葉は、「あなたに平和があるように」と言う意味の言葉です。挨拶を交わして、相手の平和を祈る言葉です。平和とは、互いに和解している関係、互いに受け入れている関係、互いに赦し合う関係を持つことなのです。

 神は私たちの罪によって、関係が断絶してしまったのを、神自ら、この壊れた関係を正常に戻すために、罪を取り除くのです。私たちが負うべき罪の罰を神御自身が受け、償い、関係を回復するのです。このために、神は自分の外に出て、肉体を取り、イエスという人間となったのです。
 天の高いところから、わざわざ、肉体を取って、この地上に来られたのです。それは冒険であったに違いありません。このことを通して、神は私たちに対する愛を明らかにしたのです。
 
 本日の礼拝で、エフェソの信徒への手紙を読みました。2章14−16節には、次のように書かれています。
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
 キリストが、神と私たちの間に立ちはだかった、罪と言う壁を取り壊して、和解をもたらし、平和を創造されたのです。

 神によって和解が与えられたことによって、私たちは、神の愛によって歩むことができるのです。私たちは、様々な恐れを抱きますが、恐れなくて良いのです。それは、神がキリストによって私たちを愛し、私たちはこの神を信頼しているからです。

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。待降節第三主日礼拝を兄弟姉妹と共に、守ることができ、心から感謝致します。あなたの御言葉によって、イエス・キリストが神との和解をもたらし、私たちに平和を与えてくださったことを知らされ、感謝致します。国と国、人と人、それぞれ、相手を愛し、相手と和解をしながら、共に歩むことができますように。コロナウイルスに感染して治療を受けている多くの方々が、癒され、健康を回復することができますように。私たちの兄弟姉妹の中で、自宅療養している兄弟姉妹をあなたがその健康を回復させ、礼拝に共に出席することができますように。主イエスの御降誕の意味を深く受け止めて、クリスマスを迎えることができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌  260−3 
献金
主の祈り
頌栄   27  

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同を共にありますように。ア−メン

来週の聖日(12月20日)

       説教 「愛が生まれる時」 山ノ下恭二牧師
       聖書 ホセア書6章1−3節 
          ロ−マの信徒への手紙13章8−14節
       讃美歌 83−1、56−1、267−4、271−4、78−1、29 
       交読詩編 98編


(WEB礼拝)
20201206 主日礼拝説教  「罪をあがなう主イエス・キリスト」  山ノ下恭二牧師 
詩編130編1−8節、 ヨハネによる福音書1章29−34節)

12月6日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年12月6日(日) 主日礼拝 式次第・説教

会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 



前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 
使徒信条
交読詩編    95編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌     241−2 

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          詩編130編1−8節(旧約973ページ)
          ヨハネによる福音書1章29−34節(新約164ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    248−1 

主日礼拝説教   「罪をあがなう主イエス・キリスト」  山ノ下恭二牧師
  以下、声に出して読んでください。
 私は、フランスの作家である、ヴィクトル・ユーゴーが書いた「レ・ミゼラブル」を読んでいます。主人公のジャン・バルジャンは、家が貧しかったためにパンを盗み、そのために、刑務所に入り、何度も脱獄しては捕まり、合計19年も刑務所で厳しい労働の生活をしました。刑期を終えて出所し、ある町に辿り着き、夜、泊まるところを探して、泊めてくれるようにお願いしますが、町の人々は、刑務所帰りであることを知っていて、泊めてはくれないのです。寝るところがないので、仕方なく石の上で寝ようとすると、ある女性が、あの灯りのついている家を訪ねてみなさいと教えてくれて、その家を訪ねるのです。

 その家は、カトリック教会の司教の家で、その司教は、快く、ジャン・バルジャンを迎え入れ、食事も与え、休むところを提供するのです。自分が19年も刑務所にいた人間であることを司教に打ち明けると、司教はこういうことを言うのです。「あなたは、悲しみの場所から出て来られた。だが、おききなさい。百人のただしい人々の白衣よりも、悔い改めたひとりの罪人の、涙にぬれた顔のほうを、神さまはずっと喜ばれるでしょう。もしあなたが、そのいたましい場所から、人間に対する憎しみと怒りを持って出て来られるならば、あなたは、あわれむべき人です。しかし、もしそこから人間に対する愛と、やわらぎの心と平和の思想を持って出て来られるならば、あなたは、われわれのだれよりも勝ったかたです。」

 そして、この家で一晩、寝るのですが、朝早く高価な銀の器を盗んで司教の家を出て行くのです。すぐに捕まり、司教の家に警察の人たちに連行されて来るのです。司教は、盗んだものではないと言って、ジャン・バルジャンをかばい、解放されるのです。刑務所で罪を償ったにもかかわらず、町の人たちは、犯罪人扱いをするのですが、司教は、このジャン・バルジャンを罪人としてではなく、ひとりの人格をもった人間として扱っていることに私は感心したのです。司教は罪を犯した存在であっても、キリストによる罪の赦しを信じて、この男を受け入れたのです。この作品は、罪を犯した人に対して温かいまなざしを向けている作品であると思います。
 この世の中の人々は、過ちを犯した人、失敗をした人に対して、厳しく扱います。そして自分に対して行った、相手の過ちを私たちは、赦すことができないのです。過ちを犯した人を赦すことはなかなか難しいのです。

 本日は、この礼拝堂のアドベント・クランツに二本のロウソクが灯りました。主イエス・キリストの御降誕を待ち望む、この時に、主イエスの御降誕の意味を学ぶことはとても大切なことです。主イエスがこの地上に来られた、その目的は、私たちの罪を赦すためであったのです。
 本日の礼拝で、詩編130編を読みました。この130編の詩編は、悔い改めの7つの詩編の一つですが、この130編は、特に聖書の中心的なテ−マである、私たち人間の罪を赦す方は神であり、この神が与える赦しの恵みに信頼することを教える詩編です。宗教改革者ルターは、この詩を「聖書の正しい先生」と呼び、メソジスト教会を創立した、ジョン・ウエスレーはこの詩を読んで回心したと言われているほど、多くの人々によって愛された詩編なのです。

 地上で生活をしていると、私たちは、深い淵に直面する時があります。病に冒されて、なかなか治らない時があります。失業し、収入がなくなり、生活をしていくことができなくなる時があります。人間関係で、相手と折り合いが悪く、落ち込んでしまう時があります。130編の詩編には、深い淵の中から神に叫んでいるのです。叫ぶ相手をもっているのです。神に叫んでいるのです。130編1節には「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」とあります。他の翻訳では「ヤーウェよ、わたしは深い淵から、あなたに叫ぶ」と訳しています。この「深い淵」とは、「陰府」のことであり、「陰府」は、神から一番遠い、神の光のささない所、神との交わりがないところのことです。神がいないと思われているところから、なお、神に叫んでいるのです。そして2節で、「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」とあります。

 どうして「嘆き祈る私の声に耳を傾ける」ように叫んでいるのでしょうか。神であるならば、どのような祈りもすぐに耳を傾けるのではないか、と思うのです。どうしてそう言わなければならないのでしょうか。それは、3節の言葉にヒントがあります。神との関わりが、罪によって遮断しているからです。私たちが経験することですが、親しい関係でも、自分の落ち度によって相手を怒らせてしまったならば、そのことをきっかけに、相手が口をきかなくなることがあります。相手に何度も謝っても、赦してくれないことがあります。この主なる神は、罪を見過ごしにしたり、過ちを犯した者を受け入れる神ではなく、罪を解決して、正しい関係をもって共に歩む神なのです。
 日本では、神社で手を合わせてお願いすれば、その願いを聞いてくれると思っている人がほとんどです。日本の神道では、人間の罪を問題にしません。汚れを問題にするのです。汚れを祓えば、問題はなくなるのです。特に、神道の神は人格をもっていないし、言葉もないのです。何も語らない神に願い事をしても返答がないのです。神道の神は、人格的な関係でないので、神に対して悪いことをした、という思いもないのです。
 
 しかし、この詩編は、神との人格的な関係が罪によって壊れているので、主なる神に「耳を傾ける」ことを嘆願しているのです。3節に「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう」「罪」は、神の対する負債、負い目であり、お詫びすれば、解決するのではなく、どんなに良いことをしても、罪という借金を返済したことにはならないのです。神に対する罪を、私たちは軽く考えているのです。相手に対して、悪いことをしたら、お詫びで済ませる、お詫びのしるしに何か、相手に贈り物をすれば、それで解決すると考えている、その延長上で神に対する罪を考えるのです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。」神が罪を罪とするなら、何人も神の前に立つことができないのです。罪を解決することは、私たち人間が主導権をもって解決することができないのです。それは、神のみが、罪を罪とし、神のみが罪を赦す権威をもっているのです。

 4節に「しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」とあります。主なる神は、赦す神であり、そこに私たちの居場所があるのです。誰でも最終的に自分のいるべき場所を求めているのです。自分を認めず、自分を受け入れない、そのような経験の中で、自分を受け入れ、赦してくださる神がいるのです。「レ・ミゼラブル」の作品で、ジャン・バルジャンが刑期を終えて、ある町で自分を泊めてくれる宿屋を探して交渉しても、犯罪人として見なされ、宿泊を拒否されて、途方に暮れていたところ、司教が、犯罪人としてではなく、ひとりの大切な人間として受け入れた、それは、愛を実践していることなのです。

 赦しは、主なる神のもとにある、と言い、そしてこの詩編は、7節で「慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。」と歌います。私たちが自分の罪、自分の過ちがあって苦しんでいる時にも、赦しと慈しみと豊かな贖いのある主のもとに駆け込んでいくことができるのです。
 旧約聖書は、神が赦す神である、慈しみの神、贖いの神であることを語っていますが、具体的に、どのような手段で、どのような手続きで、罪が赦されるのか、を語ってはいないのです。

 私たちの日常的にいつも問題になることは、赦し、赦される、ことです。主イエスはマタイによる福音書の中で、赦しを取り上げています。特に、自分の過ちを認めないで、相手の罪を裁いている者たちに語っています。赦しの大切さを語ります。マタイによる福音書7章3−5節には次のように語っています。 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の中の丸太に気づかないのか。」兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
 丸太はとても大きいものです。おが屑は極めて小さいのです。相手の罪が大きく見え、自分の罪はとるに足らない、と思うのです。自分の罪は、そのままにして、相手の罪が大きいと思ってしまうのです。
 主イエスは自分が悪いことはしていないと思い、自分の過ちを忘れて、相手の過ちばかり非難する、そのようなあり方は間違っていると語り、相手を赦し、受け入れることを勧めています。
 
 主イエスがこの世界に派遣された目的は、 私たちの罪を贖うためです。私たちの罪を取り除くために、主イエス・キリストは罪の罰を受けて死ぬのです。 ヨハネによる福音書1章29節に、ヨハネが主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と語っているのです。神殿で、小羊を人間の代わりに、犠牲としてささげ、小羊の肉体を裂き、血をながして、罪を贖うのです。主イエスが十字架について、死ぬことは、私たちに代わって罪の償いをしているのです。

 神に罪が赦されていることが、はっきり分かるのは、神と同じ方、イエス・キリストが、私たちのために、私たちに代わって罪の罰を受けるために十字架で死んでくださったことによるのです。私たちと同じように、肉体を取り、人となり、私たちのために十字架で肉を裂き、血を流すほどの犠牲をささげてくださったのです。そのことによって、私たちは罪の赦しを与えられているのです。「許可」の「許」の字ではなくて、「恩赦」の「赦し」です。罪ある者が特別に赦されることを指す言葉です。赦し得ない者を赦すのですから、それは大変な苦しみを伴います。自分にひどいことをした人を赦すことはなかなかできないのです。相手を赦すまで長く時間がかかります。

 私たちの罪が完全に赦されていることが実際に分かるように、神は私たちに聖餐を用意してくださっています。ローマの信徒への手紙5章8節「わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」この愛のメッセージを、説教で届けるのです。それだけでなく、聖餐においても届けるのです。説教は、この耳で聞くことができます。私たちの感覚器官は、耳だけでなく、目も舌もあります。説教を耳で聞き、聖餐のパンと杯をこの目で見る、そして舌で味わうことができるのです。私たちの全身の感覚器官を通して、キリストの贖いと罪の赦しを与えられていることを味わうのです。

 説教が終わり、讃美歌を歌った後に聖餐式を行います。聖餐式の時に改めて説明しますが、コロナ感染予防のために、パンを配る時に今までと少し違う方法で行います。パンを配る時に、今まで用いていた聖餐用の皿ではなくて、少し大きな平らな盆を用います。この盆には、少し、あいだを空けて、パンが置いてあります。パンは、小さなカップに入っていますので、カップごとお取りください。そして配り終えて、聖餐の言葉が宣言されるまで、置いてください。杯は少し、あいだを空けておいてありますので、それをお取りください。聖餐の言葉が宣言されるまで置いてください。杯を入れてある聖餐の器には、今まで、ぶどう酒とぶどう液が入れてあり、選ぶようになっていましたが、すべてぶどう液です。
 杯は配餐者が回収しておりましたが、礼拝後、聖餐準備の奉仕者が回収しますので、そのまま置いておいてください。パンを入れたカップも、杯と同じように、聖餐準備者が、礼拝後、回収しますので、そのまま置いておいてください。先週、トングを用いると言いましたが、用いません。

 聖餐において大切なことは、聖餐の時に語られる言葉です。式文を朗読していているので、いつも同じ言葉ですが、聖餐の言葉を注意深く聞くことが大切なのです。聖餐の言葉をよく聞くことが大切ですが、パンと杯を「見る」ことが大切なのです。私たちは、パンを食べ、杯を飲むことに関心がありますが、見ることには余り関心がないのです。パンと杯をこの目で見ると言うことは、パンの素材、形、ぶどう液の色と言う外見を見るということではなく、信仰をもって見るのです。「主のパンが、わたしのために裂かれ、この杯が、わたしにわかたれるのを、自分の目で、たしかに見る」のです。このパンという物質そのものが、キリストの肉そのもの、この杯、ぶどう液という物質そのものがキリストの血そのものではないですが、信仰をもってパン、杯を見ることによって、私たちのために裂かれた肉、流された血、と受け止め、ここに神の確かな愛がリアルにあることを見るのです。

 礼拝説教を耳で聞いて、赦しの恵みを知らされるだけでなく、この目でキリストが私たちをいかに深く愛しておられるかを確かめることができるのです。それだけではなく、食べ、飲むことによって、神の愛をからだで味わうことができるのです。ヨハネによる福音書6章53−56節「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしはまたいつもその人のうちにいる。」
 このみことばは、食べ、飲むことを繰り返して語っています。食べることは、一体となることを示すのです。自分の外側にイエス・キリストがおられることではなくて、キリストが自分の中に入ってきて、キリストと一体となるのです。キリストと自分が離れないで一つとなるのです。
 
 ハイデルベルク信仰問答76の問いは「キリストの、十字架につけられたみからだを食べ、その流された御血潮を飲むとは、何を意味するのですか。」とあります。この問いに答えて「信仰の心をもって、キリストの苦難の死が自分のためのものであることを受け入れて、それによって罪の赦しと永遠の生命を得ることです。」とあるのです。聖餐を受けることによって、まさに自分の中に罪の赦しが確固たるもの、確かなものとなり、どのような困難なことが地上の生活に起こっても、神との関係は切れることなく、私たちが死ぬ時にも、神の生命の中に私たちの魂があるのです。

 聖餐は、神が私たちのために設定された、憐れみ深い配慮です。私たちは、聖餐の意味を良く理解するように努めるだけではなく、聖餐を受けるにふさわしい態度で受けたいのです。礼拝に出て、聖餐が今日あるのか、と気づくのではなく、前の晩によく祈って、聖餐をうけるにふさわしい態度を身に着けることが大切です。聖餐を受けるのにふさわしい態度とは、自分は悪いことをしていないと胸を張っているというのではなく、自分がいかに自分中心に生きてきたか、自分がいかに隣人を愛してこなかったか、を自覚し、自分は聖餐をうけるのにふさわしくないと痛烈に思う人が、ふさわしいのです。自分は受けるにふさわしくない、そのままを神に差し出す人がふさわしいのです。
 詩編130編7節「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。」この詩編130編には、赦しも慈しみも豊かな贖いもすべて主なる神のもとにある、と語られています。私たちのところに説教と聖餐によって、キリストによる赦しが届けられているのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。主の御降誕を待ち望む待降節の第二主日に私たちを招いてくださり、みことばをもって私たちを慰め、励ましてくださり、ありがとうございます。罪深い者ですが、あなたは私たちの罪をイエス・キリストの十字架の贖いによって赦してくださった、その恵みを感謝致します。主イエスの御降誕の意味を心に留め、クリスマスを迎えることができますように導いてください。コロナに感染し、病と戦っている多くの方々が、癒され、健康が回復することができますように。兄弟姉妹の中で、病のために自宅療養している方々をあなたが癒し、共に礼拝をすることができますように。これから聖餐に預かります。この恵みに感謝して、あなたを讃美し、隣人を愛することができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。                            ア−メン

讃美歌  258−2 

聖餐式  会堂礼拝では新しいやり方で聖餐式を再開いたします。
       Web礼拝の方は、説教で述べている聖餐式の様子をイメージしてください。
       そして、再び会堂で聖餐の祝福に与る日が早からんことを祈りましょう。
讃美歌  79−1 

献金
主の祈り
頌栄    29   

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に ありますように。ア−メン

      来週の聖日(12月10日)
    説教 「平和の王が来られる」 山ノ下恭二牧師
    聖書 イザヤ書11章1−10節
       エフェソの信徒への手紙2章14節
    讃美歌 83−1 242−3 252−1 260−3 27 
    交読詩編 96編



(WEB礼拝)
20201129 主日礼拝説教  「暗闇の中で輝く光」  山ノ下恭二牧師 
(イザヤ書8章23節−9章6節、マタイによる福音書4章12−17節)

11月29日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年11月29日(日) 主日礼拝 式次第・説教

会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    92編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌     231−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          イザヤ書8章23節−9章6節(旧約1073ページ)
          マタイによる福音書4章12−17節(新約5ぺーじ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    243−4 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

主日礼拝説教   「暗闇の中で輝く光」  山ノ下恭二牧師
  以下、声に出して読んでください。
 本日から、待降節に入りました。礼拝堂の前方にあるクランツのロウソクに灯りがひとつ灯りました。待降節第一主日の礼拝を皆さんと共に守っています。 待降節は昔からアドベントと呼ばれてきました。アドベントとは「向かって来る」という意味の言葉です。主イエス・キリストが私たちに向かって来るのです。この待降節の主の日に、主イエスの御降誕の意味をよく学んで、クリスマスの日を迎えたいと思います。

 今年は、コロナ・ウイルスの感染によって私たちの生活が大幅に変わりました。コロナ感染防止のために、私たちはいつも気をつけているのです。外出しても距離をとって並び、大勢での会食はしないようにする、そのことに気を配っています。このコロナ感染防止のために私たちの教会で毎年、行っていた、クリスマスコンサートと子どものクリスマスはできなくなりました。
 
 キリスト教会の歴史を顧みますと、教会でクリスマスの祝いができない時が何度もありました。国家による教会への迫害や内戦や戦争、そして自然災害、ペストやスペイン風邪などの感染症に見舞われ、そのことに追われて、クリスマスの祝いをする余裕もない時があったのです。
 最初の4世紀までは、キリスト教会はロ−マ帝国の厳しい迫害が続きました。キリスト教の福音がロ−マの世界に伝えられて、すぐに帝国による激しい迫害を受けて、やむをえず、ロ−マの地下の墓場でキリスト者たちが礼拝を守った時があり、人々の目を避けて、洞窟のような場所で礼拝を守ったのです。その時には、礼拝でクリスマスの説教を聞き、その喜びを分かち合ったと思いますが、礼拝をするだけで精一杯であったと思います

 私が東京神学大学2年生の時の大学のクリスマス礼拝の後の愛餐会で、この当時の学長であった高崎毅先生が、太平洋戦争の戦時中に迎えたクリスマスの経験を話してくれました。高崎先生が学徒兵として入隊したのですが、兵営の中で一人だけでクリスマスを祝ったことを話されたことをよく覚えています。入隊する時に、密かに小さな聖書を持って行ったそうで、その年の12月24日の夜に人に知られないように、夜、寝静まった時、クリスマスの時に読む聖書の箇所を読み、クリスマスの讃美歌を口ずさみ、祈って主イエスの御降誕を一人祝ったそうです。牧師の家庭に生まれ、育ち、クリスマスの祝いをしない時はなかったそうですが、この時は、ほんとうにさびしいクリスマスだったけれども、神が自分と共にいてくださったと受け止めることができたそうです。
 キリスト教会は、平和な時だけでなく、迫害や戦争、疫病の感染、そのような時にクリスマスを迎えて、困難な時にも、主イエス・キリストの御降誕を祝って来たのです。

 主イエスが伝道を始めた場所は、ガリラヤ地方でした。ユダヤの国では、3つの地方に分かれていました。北から、ガリラヤ地方、そして中部がサマリア地方、そして、南が首都エルサレムのある、ユダヤ地方に分かれていました。主イエスが、伝道を始めたのは、ガリラヤであったのです。それは、とても意味のあることでした。ガリラヤは、首都エルサレムから離れたところであるだけでなく、歴史の中で、外国から侵略を受け、外国の支配を受けたところであるのです。

 マタイによる福音書4章13節には、「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地の地方にある湖畔の地カファルナウムに来て住まわれた。」と記されています。このゼブルンとナフタリの地とは、北ガリラヤ地方一帯を指す地名です。この地方は、紀元前733年にアッシリアによって侵略を受けて多くの人々が、今のイラクに近いところに連れて行かれ、逆にこの地方にアッシリアの外国人が住むようになり、ユダヤ人が外国人と結婚することが起こったのです。そこで、この地方をユダヤ人たちは「異邦人のガリラヤ」と呼んだのです。それは、ユダヤ人たちが血の純血を重んじ、ユダヤ人同士の結婚が正しいと考えていたからです。ユダヤ人にとって、ユダヤの国の領土でありながら外国人がいることに我慢がならないのです。外国人は、神の選びから除外され、契約のしるしである割礼を受けていない、神から離れている人々なのです。「異邦人のガリラヤ」と言っているのは、軽蔑した、人種差別的な言い方なのです。マタイによる福音書4章13節には、主イエスが、この地方の町であるカファルナウムに住まわれたと書かれています。エルサレム神殿があり、神がそこに臨在していると信じられた、都に主イエスが住んだのではなく、神から最も遠いと考えられていたところを自分の住みかとしたのです。

 主イエスはこのガリラヤを、天の国、神の国を伝えていく、その活動の拠点としたのです。主イエスの約3年間の伝道はどこでなされたのか、それはガリラヤであったのです。ガリラヤ、それはさげすまれた土地、外国の侵略を受け、占領され、外国によって支配されている地域なのです。この地方には、自尊心も低く、経済的に貧しく、様々なことで心が折れ、生きる意欲を失った人々がたくさん住んでいたのです。良い知らせを聞くことができない、うれしいこともない人々に、良い、うれしい知らせをもたらすために、主イエスは真っ先に、この地方を巡回して福音を届けるのです。

 このマタイによる福音書4章15−16節は、イザヤ書8章23節B、そして9章1節からの引用です。イザヤ書9章1節には「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と記されています。
 
 私は、和歌山の田辺におりましたが、南紀州は太平洋に面していて、夏はとても暑いところですが、冬には太陽が照り、暖かい日が続く、過ごしやすい地域でした。その後に、北九州の若松に赴任して、初めての冬を迎えた時に、和歌山と随分、気候が違うことに気がついたのです。北九州は日本海の気候で、毎日、曇天が続くのです。九州と言ってもとても寒いのです。この時、太陽の光があることはありがたいと思いました。冬に太陽の光がさんさんと照る地方から、曇りが続く、余り光がない地方に転勤して、光の有り難さを感じたのです。

 「暗闇に住む」というのは、太陽の光が射さないという意味ではなくて、私たちの存在を包む、神の愛を知らないで生活することなのです。私たちが生活をしていると、闇に覆われていると思うような時があるのです。闇の中を歩む、そのような思いを持つ時があるのです。

 私たちの心や存在も闇に覆われるのです。神などいなくても自分はやっていけると思っていますが、何か、困難に直面した時に、闇の中に私たちの心が落ち込んでしまうのです。私は時々、この近くの区立中町図書館に行くことがあり、新刊図書を見て、読むことがあります。その中の一冊の本のタイトルに興味をもったのです。一部分を立ち読みしただけですが、「死別後シンドローム−大切な人を亡くしたあとの心と体の病い」という本でした。
 親しい人を死によって失った人が病気にならないためにどのようにするのかを教える本です。死別によって、愛する人を失う、自分が愛して来た対象を失うことは、自分をも失うことになるのです。愛する対象を喪失する、それはとても大きな出来事になります。相手と共に生きて来たのですから、それは自分をも失うことになるのです。自分が頼りにしてきた人を失う、それは自分の拠り所を失うことなのです。この本は、大切な人を失うことにより、病気になることが多く、立ち直ることが難しくなることが書かれていました。その人たちを援助して、立ち直るために書かれた本でした。私たちの人生の中で、闇に囲まれることがあり、光を見ることができない時があります。

 イザヤ書9章1節に「闇の中を歩む民」とあるのは、イスラエルの民が、神に愛されていることを信頼して歩んで来たのではなくて、神に背を向けて、偶像礼拝を続けて来た結果、国が滅んでいく、その闇に遭遇したのです。神に愛されていることに感謝をしないで、他のものに依存して歩んで来た結果、生きる望みを失ったのです。アッシリアによって侵略を受けることは、罪に対する審判と受け止められたのです。
 私たち人間は、自分の力で生きていけると思っていますが、困難にぶつかった時に、自分が実に頼りにならない存在であり、頼りになるものをもっていないので、絶望しかないのです。お金に頼っている人は、お金がなくなると生きて行くすべを失います。健康を失うと生きて行く自信を失うのです。本来、信頼し頼るべき神を持たないと、それは絶望しかないのです。

 詩編には、嘆きの詩編が多くあります。そこには病に苦しむ人々の嘆き、周囲の人々に苦しめられた人々の嘆きがあります。嘆きの詩編の多くは、嘆きの言葉がはじめに出て来ますが、最後は、神を讃美する言葉で終わっているのです。しかし、詩編88編は、嘆きの言葉で始まり、嘆きの言葉で終わるのです。神を讃美する言葉はありません。詩編88編には「今、私に親しいのは暗闇だけです。」と言う言葉で終わっているのです。嘆きで始まり、嘆きで終わる詩編は、88編だけです。部屋に閉じ込められて、暗闇の中に閉ざされる、扉が開かないで、暗闇の外に出ることができず、暗い闇の中にいるのです。
  
 イザヤ書9章1節には「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」とあります。神に背き、神を失った民は「死の陰の地に住む者」なのです。「死の陰」と言う言葉は、詩編23編にある「死の陰」と言う言葉と同じ言葉です。これは単なる暗さではなくて、死の危険に常に晒されている状況を指しているのです。 先ほど、戦時中のクリスマスのことを話しましたが、高崎毅先生は、兵営の中で、自分がどの戦場に行かなければならないのか、死ぬことも覚悟しなければならないと思った、という話もされたのです。「死の陰の地」は大国アッシリアの侵略によって脅威にさらされているだけでなく、占領され、軍隊によって支配され、死をいつも意識しなければならない状況を示しているのです。

 そのような状況にある人々の上に「光が輝いた」と告げられているのです。
今、生きている現実を見ると、それは、絶望しかないのですが、しかし、神が動いてくださっている、神が働いてくださっているのです。
 「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」自分の人生が闇に覆われている、そのような時に、光が輝くのです。この事態を変えていく力は私たちにはないのです。しかし、神が、この事態を変えてくださるのです。
 イザヤは、神が起こしてくださる、現実を見ているのです。これから自分たちがどうなるのか分からない、不安の中で、神が用意してくださる確かな現実があることを預言しているのです。イザヤ書9章5節の言葉です。ひとりの男の子が誕生し、与えられたと預言するのです。この時、イザヤの時代に一人の王となる子が誕生し、そのことに期待をしたのです。神のみこころを行う王が誕生したことを心から喜んだのです。大国アッシリアが攻めて来る、そういう緊急事態の中で、神のみこころを行う王が、このイスラエルを統治すると期待しているのです。

 マタイによる福音書4章12−17節で主イエスはガリラヤ地方で天の国を告げ知らせる活動を始めたのです。この福音書を編集したマタイは、イザヤ書の預言の言葉を引用して、主イエスがイザヤの預言が成就したことを語るのです。主イエスが、光として現れたことを告げ知らせています。神に背を向け、神から遠く離れて生きていて、そのために、暗闇にしか生きられない人々に光として主イエスが現れたことを語るのです。「天の父」のみこころが地に行われるように、主イエスは、具体的に「カファルナウム」に住まわれたのです。
この「住む」と言う言葉は、父なる神が、イエスにおいて、私たち人間のうちに宿り、共におられる、ということを意味する言葉なのです。主イエスが誕生したときに、「インマヌエル」「神、共にいる」と呼んでいます。(マタイ1章23節)それは、主イエスがどのような人々を相手にして活動したのかによく表現されています。

 それは、地の民、と呼ばれている人々を相手にしたのです。特に、重い病に苦しんでいた人々を相手にして、その病を癒したのです。病を癒すことは主イエスの伝道の中で、大きな部分を占めています。病を癒すことが最終的な目的ではなく、神の国の伝道であるので、病を癒すことによって、神がこのように自分に愛を注いでくださったことを知ることが、主イエスの活動の目的であったのです。主イエスによって自分の病が癒された、それは神がそれほどまでに自分を愛してくださったことを知り、気づかせるためなのです。神の国、天の国があなたがたのもとに来た、そのことを知らせるための伝道活動であったのです。

 そして「地の民」、ヘブライ語では、アム・ハーレッツ、と言う言葉です。「地を這うように生きている民」という意味です。それは、最底辺で生きている人々のことです。ローマ帝国のために、不当に税金を徴収して、儲けていた徴税人がそうでした。徴税人は、道を通行している人に法外な金額の税金を取り、その税金のほとんどは自分の懐に入れていた人であったのです。外国の収入になる税金を払うことは誰でも嫌なことです。悪いことをして、神のみこころに適わないことをしている者に人々は近づくことはなく、心から軽蔑していたのです。
 人々から憎まれ、疎んじられ、疎外されていた人々に主イエスは近づき、相手の人格を重んじて、大切な相手として取り扱うのです。その人たちにとって、主イエスは自分をほんとうにかけがえのない一人の人間として扱ってくださった神の子なのです。

 神から遠く離れて生活している私たちの罪を赦すために、主イエスはこの地上に来てくださるのです。私たちは、神を愛することを止めてしまいました。神を失い、神から離れてしまったのです。
 一匹の羊が、羊の群れから離れて、遠いところに行ってしまったのです。羊飼いが導く群れの中にはいないのです。自分が本来いるべきところにはいないのです。羊飼いは、一匹位いなくても構わない、また戻って来るだろうとのんきで何もしないのではありません。羊飼い自ら、一匹の羊を捜しに行き、羊の群れに連れ戻すのです。

 主イエスは神から派遣された神の子であり、私たちの救いのために、この地上に来られたのです。私たちは、神を求めてはいません。神の言葉を聞こうとはしていません。この世でいかに楽しく、快適に過ごすかに関心があるだけです。しかし、神は、私たちを愛するためにこの世に主イエスを遣わしたのです。

 私たちが神を忘れている時にも、神は、私たちを忘れることなく、私たちが神を愛することがない時にも、神は私たちを愛してくださっています。
 私たちが味わう苦しみや悲しみを主イエスは、自分のものとして経験してくださり、私たちの罪を担い、私たちに代わって罪を贖ってくださるのです。イエス・キリストによって、赦して下さる、赦しと言う大きなプレゼントを神は私たちに贈ってくださるのです。この神の愛が、私たちの光となるのです。絶望しかないときにも神は私たちを愛してくださり、それが私たちの生きる光となり、私たちの心を照らすのです。

祈祷 
 私たちを愛し、守り、導いてくださるイエス・キリストの父なる神。本日、あなたに礼拝に招かれ、兄弟姉妹と共にみことばを聴く時を与えられたことを心から感謝致します。主イエスの御降誕を待ち望むアドベント第一主日に、大切なみことばを聴き、罪ある私たちを愛するために、あなたは主イエスを遣わしてくださり、罪を贖い、赦してくださるために十字架で犠牲を献げてくださるその恵みを思い起こすことができ、ありがとうございました。あなたの愛を多くの人々に届ける者としてくださいますように。病と戦う方々をあなたが癒してくださいますように。このアドベントの時に主イエスの御降誕の意味を深く悟ることができますように。この週もあなたが私たちと共にいてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
ア−メン

讃美歌  255−3 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金   (献金の祈り)
主の祈り 

頌栄   27  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けてあなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。ア−メン

来週の聖日(12月6日)
     
   説教  「罪をあがなう主イエス・キリスト」 山ノ下恭二牧師
   聖書 詩編130編1−8節 ヨハネによる福音書1章29−34節
   讃美歌  83−1、241−2、248−1、79−1、258−2、29 
   交読詩編 95編



(WEB礼拝)
20201122 主日礼拝説教  「神の国はあなたがたのところに来ている」  山ノ下恭二牧師 
(詩編70編2−6節、ルカによる福音書11章14−28節)

11月22日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年11月22日(日) 主日礼拝 式次第・説教

会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    87編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      57−4 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          詩編70編2−6節(旧約904ページ)
          ルカによる福音書11章14−28節(新約128ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    120−4 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

主日礼拝説教  「神の国はあなたがたのところに来ている」 山ノ下恭二牧
                 以下、声に出して読んでください。
 私は、東京神学大学を卒業して、岡山の蕃山町教会、和歌山の田辺教会、北九州の若松教会、さいたま市の東大宮教会、これらの教会の牧師として仕えてきました。現在、牛込払方町教会に仕えていますが、私がいつも気になっていることがあるのです。それは、これまで仕えて来た教会の信徒たち、特に私が洗礼を授けた信徒たちが、現在、教会生活をしているだろうか、礼拝に出席しているだろうかと言うことなのです。在任したそれぞれの教会の名簿を時々、見ながら、この人は教会につながっているだろうか、礼拝に出席しているのだろうか、と思うのです。洗礼を受けた、ということは、教会員になることで、それ以前の生活から、神を中心にした生活に切り換え、教会につながっている枝として歩むことを期待されているのです。しかし、何かの事情で、教会から離れてしまった信徒たちのことを思わずにはおれないのです。 

 洗礼を受けて、教会生活を継続できなくなる、その原因は、洗礼を受けても、教会生活が身についていないうちに、教会生活を妨げる何かがあって離れてしまうことがあります。また洗礼を受けても、キリスト者としての自覚が育たないうちに、困難に直面して、離れてしまうことがあるのです。
 また、キリスト者を取り巻く、日本の社会環境に問題があるのです。礼拝に出席することに周りの人の理解がほとんどなく、様々なことと戦わないとけないのです。日本では、キリスト者が少数であるということもあり、家族の中で自分だけキリスト者であり、日曜日の朝、ひとりだけ、教会に行く信徒も多いのです。日曜日に勤務が入り、礼拝に出席することができないこともあります。
 
 またこの社会で生きる厳しさがあります。会社で月曜日から金曜日(あるいは土曜日)まで、夜遅くまで、勤務があるので、とても疲れて、日曜日に教会に行くことが精神的に、体力的に難しいことがあります。困難な状況にあって、キリスト者として、教会員として継続していくことは困難なのです。

 洗礼を受けた信徒が教会生活をしっかり続けていくためには、洗礼を受けた後に、教会がよく検討して、実現可能な教育的プログラムをもって、聖書の学びや祈りの訓練をすることが大切ですし、教会から離れないように、困難な時には、牧師、長老、教会員がその人の悩みをしっかり聞き、受け止め、互いに祈り合うことが、大きな助けとなります。私たちは、洗礼を受けて間もない信徒が教会生活を継続できるように祈り、手助けをすることが必要なのです。

 本日の礼拝で与えられた聖書の言葉は、ルカによる福音書11章14−28節であります。現在、教会で用いている新共同訳聖書では、3つの小見出しが書かれています。11章14−23節には、「ベルゼブル論争」とあり、24−26節には、「汚れた霊がもどって来る」、そして、27−28節には「真の幸い」と小見出しが書いてあります。今日の礼拝ではこれら三つの章節を続けて読みました。このところを読んで、これら三つの章節が内容的に関連して意味がつながっているだろうか、と思った人もいると思います。最初は悪霊の話、次は、譬え話があり、最後は、ある女性が主イエスの母をほめたたえたことに対して、主イエスが語られた言葉が書かれてあります。
 私は、最初、この三つの話を関係のない、別々の話として並べている、と思いました。皆さんも、この三つの物語が互いに関連していなくて内容的につながっていないと感じると思います。しかし、注意して読んでいくと、11章14−28節は、全体として、内容的によくつながっているのです。

 16節−23節は「ベルゼブル論争」と言われています。悪霊によって、口が利けなくなっていた人が、主イエスによって悪霊から解放され、口が利けるようになった、その事件が発端となって、主イエスに対して、悪霊を追い出すのは悪霊の頭だ、と言い始めたのです。群衆が、主イエスを「悪霊の頭ベルゼブル」と呼び、主イエスがしていることは、悪霊の親分が悪霊を追い出していると言うので、主イエスは、自分は悪霊の頭でも、親分でもないと反論しているのです。

 11章17−18節で主イエスは、次のように答えています。「しかし、イエスは彼らの考えを見抜いて言われた。『内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なりあって倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で、悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。』」サタンが内輪もめしていたら、サタンの集団は滅ぶことになり、困ったことになると言うのです。
 暴力団の中で、同じヤクザ同士の抗争があり、内輪もめがあると、身内から崩れて、暴力団自身が弱くなり、やくざ組織が壊れてしまうことがあります。主イエスは悪霊の頭が、悪霊を追い出すことはしない、だから自分は悪霊の頭ではないと反論するのです。主イエスを悪霊の頭だ、というのは、根拠のない攻撃にすぎないと語ります。

 この「ベルゼブル」という言葉の意味は、「家を支配する者」という意味の言葉です。悪霊は人の中に入って人間すべてを支配するのです。この当時の考えでは、悪霊が人のからだの中に入って、住み着いて、それを住まいとして、悪霊がその人の中で暴れている、という理解があったのです。人のからだの中に住み着いて暴れるだけでなく、心まで支配してしまうのです。人の考えや思いまでも、命令を出して支配してしまうのです。

 私たちは、様々なものに支配されています。この世の価値観に基づいた誤った考え方、自分中心の考え方、神から離れた思考方法、神に頼らなくても、自分の力でやっていけるという自信、誤った考えや思い込みに捕らわれること、悪意によって周りの者を深く傷つけること、時代の流れに同調する生き方、など、悪霊に唆されて、その囚われから、解放されないのです。
 
 悪霊は個人にだけでなく、集団として働くのです。戦争に向かって行く中で、同調圧力があり、戦争に反対できない空気があり、反対の声を挙げることができなくなる、ということがあります。太平洋戦争の戦時中に、政府の戦争遂行に反対の意見を言うと、周りの者が「非国民」と言うことも、悪霊に支配されているのです。いじめやSNSを使った、集団的な非難中傷、個人攻撃など、そのことをしている本人は自覚していないのですが、悪霊の働きに動かされているのです。

 主イエスは、人のからだと心を支配している悪霊を追い払うために、外からまことの支配者が来なければならないと語るのです。その支配者とは、わたし、主イエスがまことの支配者をもたらす者であると言うのです。神のもとから来たわたし、イエス・キリストがそうであると言うのです。その家が、その人が、悪霊の頭に支配されているならば、その家の者(その人)ではなくて、全く、別の存在が、その家に入って悪い者を追い出さなければならないと言うのです。 主イエスが来られたことは、悪霊に支配されていた者を悪霊から解放して、自由な者にすることでした。人々を悪霊から解放して、まことの神の支配に移すためでした。私たちは、悪霊から解放されて神の愛の支配の中に移されるのです。
 11章20節で「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ。」と語っています。
 神の国、言い換えると、神の支配、神が愛によって支配し、私たちを愛する、その時が始まったと言われたのです。

 洗礼を受けたことは、自分が今まで支配されていたものから、主イエス・キリストの愛によって支配される者に転換したことなのです。キリストによって深く愛される、そのような生活に変わったのです。

 それは、聖霊を信じる生活に入ったと言うことができます。聖霊、聖なる霊、神の霊のことです。私たちは、いつも礼拝の中で、使徒信条を告白しています。この中に「われは聖霊を信じる」と告白しているのです。私たちは、いのちを造り、すべてを創造した父なる神は分かる、私たちの罪を贖うイエス・キリストも分かる、しかし、聖霊についてはよく分からない、という人も多いと思います。それは、日本の「霊」についての理解と、キリスト教の「霊」の理解は異なるからです。特に神道は、自然にあるもの、木、滝、岩、死人に「霊」が宿る、という考え方があるのです。聖書では、霊は自然に宿るものではなくて、人格をもった神なのです。人格をもっているので、応答するのです。聖霊によって、イエス・キリストを知り、イエス・キリストによって神を知るのですが、この聖霊は、人格的なのです。聖霊によってイエス・キリストの恵みに預かることができるのです。

 私たちはいつも礼拝の中で、使徒信条を告白しています。この使徒信条は、洗礼信条と言って、私たちが洗礼を受ける時に、この使徒信条を受け入れることを条件にして、洗礼を授けるのです。この告白文に「我は聖霊を信ず」があります。口語で言い換えると「わたしは聖霊を信じます。」です。聖霊を人格ではなく、自分に力をくれるもののように思うかも知れませんが、聖霊は、父なる神、イエス・キリストなる神、と同じ位格をもった神であり、現在、私たちと人格的な交わりを持ち、語りかける神であるのです。この聖霊なる神はどのような働きをするのでしょうか。それは、「まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにあずからせ」(吉田隆訳「ハイデルベルク信仰問答」問53の答えの一部)てくださるのです。来週の聖日から、待降節(アドベント)に入ります.

 「クリスマスには、サンタクロースが、たくさんのプレゼントを抱えて子どもたちの家を訪れるように、聖霊は、キリストのすべての恵みを携えて貧しい私たちの心の家に来てくださいます。聖霊は、何か特別な人だけに与えられるものではありません。神を幼子のように慕い求める人々すべてに、天の父がくださる愛のプレゼントです(ルカ11・13)。真の神である聖霊が与えられるとは、天国がわたしのもとに与えられるに等しいことです。わたしが天国に昇るのでなく、天国がわたしの内に来てくださる。地上にいながら、未だ罪人でありながら、神の国がわたしの中に訪ねてくださるのです。」(吉田隆著「『ただ一つの慰め』−『ハイデルベルク信仰問答』によるキリスト教入門」p119−120)

 聖霊は、教会を創造し、私たちに罪の赦しという恵みを与え、体のよみがえり、永遠の命を与えるのです。洗礼を受けて、キリスト者であることは、このような、神の特別な恵みにあずかっているのです。
 このような恵みを与えられているのですが、この地上で生きていると、様々な誘惑にさらされ、世俗的な考えや自己中心、利己的な生き方に影響を受けて、キリスト者であるにもかかわらず、洗礼を受けただけで、形だけの、形骸化した、名前だけのキリスト者になってしまうのです。

 ルカによる福音書11章24−26節には、主イエスが語られた短い譬え話が記されています。この譬え話は、とてもおもしろい物語です。そう思いませんか。汚れた霊が、人の心の中に入り、悪さをする、主イエスがその人の心の中にいる汚れた霊を追い出すのです。この家は教会をも指しています。人からも家からも汚れた霊が主イエスによって追放されるのです。しかし、汚れた霊は、ただ外出しただけで再び、戻ってくるのです。汚れた霊なので、戻つて来るな、と言いたいのですが、一時的に外出するのです。そしてうろついていたのです。「戻ってみると、家は掃除して、整えられていた。」と記されています。この言葉は深い意味を持っています。家が掃除してあり、整理・整頓されてあり、片づいていたのです。綺麗で良いと思いますが、これは何を言っているのでしょうか。それは、主イエス・キリストである聖霊をその人の心に迎え入れなかったということです。

 ここで私たちの信仰生活が問われているのです。いつも、主イエス・キリストをお迎えしている生活なのか、ということです。神に心を向けて、与えられた恵みに感謝しているのか、ということです。この人、この家の主人が、イエス・キリストであり、この方が支配者であるならば、汚れた霊は戻ってこようと思っても、現にイエス・キリストが臨在しておられるので、汚れた霊は家に入ることができないのです。しかし、その家には、誰もいないので、汚れた霊は戻って来て、簡単にこの家に入ることができたのです。

 私たちに問われていることがあるのです。私たちは、イエス・キリストを迎え入れているのか、と言うことです。ところが、イエス・キリストがこの家にいないので、汚れた霊は、入ることができたのです。汚れた霊は、自分を邪魔にする者がいないので、居心地がよく、汚れた霊の友達に来るように誘い、各地にいる「自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」と記されています。

 11章14−28節には、三つの別々の話が記されているのでなく、共通の話が記されていると言いました。洗礼を受けて、悪霊から解放されて、聖霊なる神を信じて歩むことをしないと、自分がキリスト者であることを忘れ、聖霊なる神を信頼しないので、悪霊を頭とする生活に戻ってしまうと言うのです。 
 この世の価値観、今が楽しければ良い、自分が良ければ良い、お金があり、経済的に豊かな生活をしたい、礼拝をせず、祈りもない生活に慣れてしまい、自分がキリスト者であることも自覚しないでいる、そのような者へと堕落してしまうのです。

 11章27節で、ある女性が主イエスの母が主イエスを産み、育てたことは幸いだ、と言ったことに対して、28節で主イエスは「『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」と語っているのです。
 神の言葉を聴き従う、そのような生活を勧めているのです。詩編1編で、「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」と語られています。神の言葉を聴いて、歩むことを勧めています。
 
 神の御言葉を聞く、それは簡単なようで、簡単なことではありません。私たちは神の言葉を正面から、聞いているでしょうか。私たちは、自分の知識の外から来た言葉を受け入れているのかと言うことです。私たちは、聖書を読んで驚きがあるのか、と言うことなのです。自分の考えがあって、神が語っている言葉、具体的に言うと、聖書の言葉を、自分の都合の良いように解釈して、理解し、自分の考えと異なる言葉は除外しているのではないか、と思うのです。 自分の考えで、聖書の言葉を包み込んでしまっているのです。それは、自分が持っている知識や自分の考えの外から来た、聖書の言葉を受け入れているのでなくて、自分の考えを確認していることに過ぎないのです。

 幼子のような心をもって、神の言葉である聖書、そして、神の言葉であるイエス・キリスト、神の言葉である説教、をいつも受け入れる者でありたいのです。

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。あなたのみことばを聴くことができましたことを心から感謝致します。私たちは、聖霊を信じて、今、働いておられる主イエス・キリストを主として迎え入れ、神を愛し、隣人を愛する心豊かな毎日を過ごすことができますように導いてください。来週の聖日から、主イエスの御降誕を待ち望むアドベントに入りますが、みことばに聴きながら、クリスマスの時を過ごすことができますように。病を持ち、自宅療養をされている兄弟姉妹をあなたが癒し、回復することができますように。これからの一週間をあなたが見守り、支えてくださいますように。寒くなりますので、私たちの心身が守られ、あなたの御心を行うことができますように。この祈りをイエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌   171−1  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金   (献金の祈り)
主の祈り
頌栄    29   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。 

   来週の聖日(11月29日)
 
 説教 「暗闇の中で輝く光」 山ノ下恭二牧師
 聖書 イザヤ書8章23−9節 マタイによる福音書4章12−17節
 交読詩編 92編 
 讃美歌83−1、231−1、243−4、255−3、27  


(WEB礼拝)
20201115 主日礼拝説教  「傷ものの完璧」  神代真砂実牧師 
(ホセア書6章4−6節、 マルコによる福音書12章28−34節)

11月15日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年11月15日(日) 主日礼拝 式次第・説教
創立143周年記念礼拝
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    85編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      16−4 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          ホセア書6章4−6節(旧約1409ページ)、
          マルコによる福音書12章28−34節(新約87ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    353−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20201115  創立143周年記念礼拝説教  「傷ものの完璧」  神代真砂実牧師(東京神学大学教授)
            20201123神代牧師の説教記録(講演者校正ずみ)を掲載いたします。
 
 私は教師をしておりますので、成績を付けなければなりません。テストやレポートをそのためにしますが、レポートではある文章を与えて、その要約をしてもらうことがあります。これをよく読んで1000字以内で纏めなさい、というような具合です。時にはその字数をかなり減らします。200字とか100字とかいうふうに減らすことがあります。一時期、五・七・五つまり17文字にせよという要求をしたこともあります。もちろん、かなり無茶な話ではあるのですが、実際に提出されたものを読んでみると、思わず唸らされるような見事な出来のものがありまして、学生たちの力量に感心させられもしてきました。

 そのように文章を要約するときに、時々学生に与える注意があります。それは「何々ではない」という否定形を使わないようにということです。それだけで、字数というのは案外減らせます。例えば、「これはリンゴではなく、ミカンである」などと言わなくても、「これはミカンである」と言えば十分であるというのはお分かりいただけるでしょう。その分、字数も節約できます。あるいはまた、「これはリンゴではない」と言ってみたところで、それでは殆ど何も言っていないのと同じだということもお分かりでしょう。「リンゴではない」と言われただけでは、それが詰まるところ何であるかは何も分かりません。他の果物、食物であるかも知れません。あるいはリンゴの形をした置物や文房具であるかも知れない。「これはこういうものである」とはっきり語ることが大切なのです。

 さて、どうしてこういう話から始めたかというと、この朝与えられているマルコによる福音書の箇所が伝えているある言葉が気になるからです。それは、「あなたは、神の国から遠くない」という言葉です。34節でキリストはこう言われます。「遠くない」、これを聞いて困らないでしょうか。近いのでしょうか。それならば「あなたは、神の国に近い」、とどうしてはっきりおっしゃらないのでしょうか。「あなたは、神の国から遠くない」とキリストはおっしゃいます。繰り返しますが、これは不思議な、微妙な言い方です。褒めているのでしょうか。それとも批判しているのでしょうか。そして、これが褒め言葉であるかどうかということは、これを言われた律法学者だけに係わる話、ただこの人が良いのか悪いのかというだけの話では終わりません。もしもここで律法学者が褒められているのであれば、つまり、「遠くない」というのが褒め言葉なのであれば、私たちもまた、この律法学者に倣いたいと考えるのはないでしょうか。私たちもまた、この律法学者のようになる、そうやって神の国に遠くないところに行きたい、とそう考えるのではないでしょうか。そういう態度でこの箇所を丁寧に読もうということになります。

 しかし、逆に「遠くない」というのが良くない言葉、悪い意味が込められているのであれば、私たちは、今度は、この律法学者の道を避けるようにしなければならなくなります。今度は、このやり取りの中に示されているに違いない彼の欠点をしっかりと見定めて、受け止めて、自分の信仰生活に生かすことを考える、そういう道を私たちは辿ることになります。

 このような訳で、私たちとしてはどうしても知りたいのです。「あなたは、神の国から遠くない」というのは、いったいどういうことなのか。今日の箇所の始まり方から見たところでは、この律法学者は別に悪いようには思われません。28節によれば、この一人の律法学者が進み出て、イエス・キリストに尋ねたのでした。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」この問いには悪意はありません。というのも、律法学者がこのように尋ねたのは、イエスが立派にお答えになったのを見たからでありました。それでは、何に対して立派にお答えになったのか。

 今日の箇所はずっと遡って、11章27節から伝えられている一連の出来事の流れの中にあるのです。今、私たちの手元にある聖書では、11章27節からの箇所に「権威についての問答」という小見出しが付けられています。祭司長、律法学者、長老たちという、この当時のユダヤの社会、信仰と生活にとって権威を持っている指導者たちがやってきて、イエス・キリストの持つ権威はどこから来るのか、と問うわけです。この問いかけに対しては、イエス・キリストは逆に一つの問いをぶつけることで相手を黙らせてしまいます。そして12章に入って、この人たちには非常に厳しく聞こえる耳の痛い一つの喩えをお話しになった。それを聞いて怒った人々は、一度は立ち去るわけですけれども、今度はイエス・キリストを陥れようとして、12章13節以下のところで、人を遣わして税金を巡る問答をしかけます。しかし、イエス・キリストはそれを切り抜けてしまわれる。そして更に、今日の箇所の直前18節以下では、復活を巡る問答がなされますが、これについてもイエス・キリストはしっかりとお答えになりました。そうやって今日の箇所が伝えている出来事に辿り着くわけです。

 そうして見ますと、今日のところに出てくる律法学者というのは、こうした一連の出来事の一番始め、11章27節に出て来た祭司長、律法学者、長老たちと言われている中の1人であったのか、あるいはその人たちが立ち去ってから噂を聞きつけてやってきた人であったのでしょう。ただ、どちらにしても、この人の場合は、他の人たちとは違って冷静に様子を眺めて、イエス・キリストの言葉に耳を傾けたようです。そして、その言葉から、イエス・キリストに正しさと権威とを感じ取りました。そのことが28節の、「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。」という言葉に示されているわけです。

 律法学者は、イエスが立派にお答えになったと見ていました。ここで「立派に」と訳されている言葉は、落ち度のない、欠点のない、といった意味があります。ですから、これを「完璧に」としても良いと思います。律法学者はイエス・キリストが、完璧に答えられたのを見て、従って、大きな期待をして質問をしました。イエス・キリストのお答えは29節から31節にかけて記されている通りです。そしてそれを聞いた律法学者は言います。「先生、おっしゃるとおりです。」ここで興味深いのは、「おっしゃるとおりです」という32節の言葉が、あの28節の「立派に」という言葉と同じだということです。従って、先ほどと同じように、ここも、「先生、完璧です」と訳してもよいでしょう。そして、このように応じたわけですから、律法学者はイエス・キリストの答えに満足したに違いありません。好意を抱いて、更にはイエス・キリストに権威を認めて大事なことを質問した、そしてその答えもまた、自分の心に適うものである、100%納得の行くものである、全ては順調に見えます。

 そこで、今度は律法学者が32節以下で、イエス・キリストの答えを語り直します。得られた完璧な答えを、自分の方で繰り返します。律法学者とイエス・キリストとは、あらゆる掟の内で、どれが第一であるかという問題について意見が一致しました。ですから、当然律法学者の言葉もまた、立派なもの、完璧なものであると認められるはずのものです。こういうわけで、私たちはここで、律法学者に対して、イエス・キリストが、その通りである、完璧だ、と仰るのを期待してよいのではないでしょうか。模範解答をそのまま繰り返しているわけですから、それもまた模範解答として、非のうち所のないものとされるに違いない、そう思われます。

 そして、そこで与えられたのが、「あなたは、神の国から遠くない」という言葉でした。そうすると、これはやはり良い言葉と考えて良さそうに思われます。しかし、それは少しばかり早まった判断、考えではないかと思うのです。ここで、「あなたは、神の国から遠くない」という言葉の前に、「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て」とあります。この「適切な」と訳されている言葉は、新約聖書の中ではここにしか出て来ない言葉だということですが、ということは、言うまでもなく、今まで出て来た、立派に、おっしゃる通りです、と訳されて来た言葉、「完璧」という言葉とは違うということです。同じ言葉ではない。そうすると、律法学者の答えは適切ではあっても、完璧ではなかったということになるでしょう。不思議な話です。イエス・キリストから完璧な答えが与えられて、その完璧な答えを律法学者が繰り返し、ところがその答えをイエス・キリストは完璧とは見なされなかったということになります。それは言い換えれば、まだ足りないものがある、まだ何かが欠けているということでしょう。そして、その上で、「あなたは、神の国から遠くない」と言われたわけですから、これを褒め言葉と受け止めるのは難しくなります。

 それなのに、律法学者は更に問おうとはしませんでした。「あなたは、神の国から遠くない」という言葉に引っ掛かって、何が足りないのか訊こうとはしませんでした。あるいはここで、同じ福音書の10章に出てくる一人の金持ちの男、他の福音書を踏まえて金持ちの青年とも言われたりしますが、この金持ちの男の話を思い起こされるかも知れません。あの時、この金持ちの男自身は、救われるのに自分は何かが足りないという思いを抱えていて、必死になってその足りない何かが何であるかを、イエス・キリストから聞き出そうとしました。そして、イエス・キリストも、そこにはっきりと書いてあるとおり、その男を見詰め、慈しんで更に教えられたわけでした。

 ところが、今日の箇所ではそういうことは全く起こりません。つまり、律法学者はイエス・キリストに、「あなたは、神の国から遠くない」と言われて満足し、更に求めようとはしないで、そのまま喜んで帰って行ってしまった。それで全て終わってしまった。そうすると、今日の箇所の最後に、「もはや、あえて質問する者はなかった」とあるように、このやり取りを聞いていた多くの者たちもこれで満足してしまったということであるのかも知れません。

 けれども、私たちは今気付かされました。この律法学者には、実は何かが足りなかったのだ。それなのに、それが分からないままに満足してしまったのだ。律法学者が完璧だと考えたものには、欠けがある。そうだとしたら、一体何が欠けているのでしょうか。この問いに対する答えは決して難しくはありません。足りないのはイエス・キリストです。

 「神の国から遠くない」という言葉はまた、私たちにこの福音書の最初のところで伝えられているイエス・キリストの教えを思い起こさせます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」そう言って、イエス・キリストは教え始められました。神の国は近づいてくるものです。イエス・キリストにおいて、神様の方から私たちにやってくる、やってきているものです。私たち人間の方から近づくのではありません。そもそも人間の方から近づくことはできない。

 ですから、人間が仮に完璧であったとしても、神の国に入れるわけではありません。必要なのは悔い改めること、方向転換、人間に目をとめるのを止めにして、神様、その恵み、つまりイエス・キリストに目を向けて、それをそのままに受け取ること、イエス・キリストを信じること。言い換えれば、ただイエス・キリストの言葉、教えをそのとおりとして受け入れて、オウム返しにしているのでは足りない。言葉や教えと共に、いやそれ以上に、イエス・キリストというお方を、信仰をもって受け入れるのでなければ、完璧にはなりません。あの律法学者は、ここでのイエス・キリストとの対話を通して、自分の考えが正しいと確かめられたと思いこみ、満足して何も変わることなく、何も変えることなく、方向転換をすることもなく、去っていったのでしょう。自分はもう神の国に入る切符を手にしていると、安心し切っていたのでしょう。

 しかし、私たちは、自分で自分を安心させることはできません。自己満足に浸っているわけにはいきません。悔い改めて福音を信じることが大切なのです。私たちの自己満足がむしろ信仰を損ない、イエス・キリストとの間に距離を造り出してしまうのです。

 神様を愛している。あるいは、隣人を愛している。更にはそれが大切だと自分は分かっている。それでもって、自分で自分を良しとすること、それこそ聖書の言う罪の表れです。私たちの神様との関わりが壊れていることの表れです。そういう私たちに向けて、イエス・キリストは「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃる。私たちの信仰生活にいつの間にか入り込んできた自己満足が、私たちの信仰を損ねている。だからイエス・キリストはそうおっしゃるのです。ですから、私たちは、改めてまた繰り返し、そういう私たちのために十字架にかかってくださったイエス・キリストに立ち返りたいのです。私たちを愚かな自己満足から解き放ってくれるのも、ただイエス・キリストの十字架の力だけであるのであるからです。そして、それこそまた、私たちの信仰の原点でもある、そう言って良いでしょう。というのも、宗教改革の始めに、改革者マルティン・ルターが書いた言葉がこのようなものであったからです。

 「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、悔い改めよ、と言われたとき、彼は信ずるものの全生涯が、悔い改めであることを欲し給うたのである。」

 もちろん、だからと言って、神様を愛し隣人を愛するようにとの戒めが無意味になると言うわけではありません。ただ、大切なのは、それがイエス・キリストを知ることから、その恵みを知るところから始まっているかどうかなのです。自分で自分を安心させるのではなく、神様の恵み、それこそ完璧で欠けのない恵みの中に安らぎを見出してこそ、私たちの信仰の歩み、また人生は確かなものになります。

 祈ります。

 イエス・キリストの十字架の恵み、その力をもって、私たちを自己満足から解き放ってください。あなたの恵みにこそ、目をとめさせてください。あなたの恵みにこそ、私たちの歩みを根付かせてくださいますように、聖霊の助けをお願いいたします。
 どうぞ牛込払方町教会をあなたが顧みてくださいますように。これまでの歴史をあなたが支えてくださったように、これからの歩みもあなたがあなたの御手の内におき、常に支え、また育んでくださいますようにお願いいたします。
 教会を導く務めを与えられている山ノ下先生、また、長老会の一人ひとりの上に、そしてまた、この教会の肢である一人ひとりの上に、あなたの顧みと祝福とが豊かにありますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
                                                      (記録作成文責:堀 瑞穂)

讃美歌 456−3 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金  (献金の祈り)
主の祈

頌栄  27 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番

祝祷 


〇来週の聖日(11月22日)
説教「神の国はあなたがたのところに来ている」 山ノ下恭二牧師
聖書 詩編70編2−6節 
   ルカによる福音書11章14−28節 
讃美歌 83−1、 57、 120、 171、 29
交読詩編 87編


(WEB礼拝)
20201108 主日礼拝説教  「わたしたちが祈り求めるものは何か」  山ノ下恭二牧師 
(イザヤ書55章1−7節、 ルカによる福音書11章1−13節)

11月8日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年11月8日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    84編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      211−2 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          イザヤ書55章1−7節(旧約1152ページ)、
          ルカによる福音書11章1−13節(新約127ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    493−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

主日礼拝説教   「わたしたちが祈り求めるものは何か」  山ノ下恭二牧師
                 以下、声に出して読んでください。
 私が東大宮教会におりました時、水曜日の10時と木曜日の午後7時30分に聖書を学び、祈る会がありました。聖書を学んだ後に、出席者が順番に祈るのですが、教会員のひとりひとりの祈りの言葉を聴いていて思ったことは、祈ることに慣れていない人が多いという印象を持ちました。祈りが身についていないのではないか、と思ったのです。
 
 そのような状況を打開したいと思い、簡単な祈りのパンフレットを作ったのです。祈りに関する本は、たくさんありますが、ほとんど、詳しく書かれていて、ペ−ジ数が多く、簡単には読めない本が多いので、私は、短い時間でも読めるパンフレットを作りました。「『祈りは初めて』という人 『祈りってどうするんですか』という人のための『祈りの手引き』」というパンフレットです。 祈りは訓練が必要です。自然に祈りの言葉が出てくることはありません。祈りは訓練しなければ、祈ることができるようにはなれません。
 
 私は、小学2年生の時に、教会学校で、1、2年生の分級クラスの教師が半年かけて、祈りの指導をしてくれて、祈ることができるようになりました。まず、教師の祈りの言葉を生徒が後から同じ言葉を繰り返して祈ることを一ヶ月行ってから、その後、ひとりひとり祈って、その祈りの言葉についての指導があって、このクラスに出席していた生徒たち全員が祈ることができるようになったのです。

 日本では、神社に行って願い事をする時に、言葉に出してはっきりと祈るということではなく、誰にも分からないように、自分の心の中で密かに願うのが祈りだ、と言う考えがありますので、キリスト教会の礼拝や集会で祈りを聴くと、口に出して祈ったことがないので、戸惑うのだと思います。神に対して自分の言葉ではっきり祈るという習慣をもったことがないので、教会に来て、祈りを聞いていて、自分はみんなの前で祈りはできないということになります。

 本日の礼拝で与えられた聖書の言葉は、ルカによる福音書11章1節から13節までであります。このところには、主イエスの弟子たちが、主イエスに「わたしたちにも祈ることを教えてください。」とお願いしているのです。祈ったことのない弟子たちが、どうしたら祈ることができるのか、と主イエスに質問をしているのです。弟子たちの問いに対して、主イエスは、11章2節で「祈るときはこう祈りなさい」と言って、主の祈りを教え、そのあとに譬え話をし、祈り求めることが祈りであり、神がその祈りに答えてくださることを語っています。「わたしたちにも祈ることを教えてください。」祈りたい。できることなら祈れるようになりたい、と多くの者が、そう思っています。ただ、どのように祈ったらよいか分からない、どのようにしたら、神に通じる祈りになるのか、それを教えて欲しい、とお願いしたのです。

 ここで、私たちは自分自身に問うべきことがあるのです。私たちは、特に自分は祈りたいと思っているだろうか、という問いです。信仰生活の長い人は、食事の前に祈りをする、夜、就寝する前に祈る習慣をもっていると思いますが、その時、以外は祈らないということが起こるのです。それは、私たちの心の中に、祈らなくても結構、やっていけるという思いがあるのではないか、と思います。習慣的、形式的に祈っているけれども、祈らなくても、別にこの世の生活に支障をきたすわけではない、と思っているのです。
 
 ここに、私たちの深刻な問題があるのです。このことは私たちの最大の問題なのです。祈らなくても、自分はやっていけると思っているのです。この世で、いかに楽しく、快適に、便利に生きて行くか、ということが主要な関心事なのです。預言者エレミヤは、神の民イスラエルの人々が、預言を通して語られる神の言葉に全く耳を貸そうとしない、神の言葉を聞こうとしないことに心折れるような悲しみを抱き、孤独を感じていたのです。私たちの思いの中に、私たちの外にある、神の言葉を聞かなくても、祈らなくても、良いのだ、今、楽しく、快適に、便利に暮らしていけば良いのだと思っているのです。礼拝に集まり、祈りを聞きながら、祈らなくても、自分はやっていけると、どこかで思っているならば、そのような自分自身を問い直さなければならないのです。

 主イエスは祈らない信仰はあり得ない、と言っているのです。ここで、主イエスは、祈りとは何であるか、を簡潔に教えているのです。11章1−13節を区分しますと、1節が全体の序説であり、2節から4節までが「主の祈り」と呼ぶ祈りの言葉が続いています。そして5節から8節までが、主イエスの譬えです。9−13節で、主イエスは御自身が最も語りたかったことを語っています。神に求めるならば与えられると勧め、父親が子どものために最も良いものを与えるように、神が私たちに最も良いものを与えると語っているのです。

 5節から8節までに記されている譬えは、誰でもすぐに分かる譬え話です。旅行中の友人が、夜に、突然、泊まりに来た、提供すべきパンもない、やむを得ず、親しいと思う別の友人のところに行って、パンを分けてくれと頼み、ようやく願いを聞いてもらった、という話です。9節には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」と言う言葉があります。この言葉は、マタイによる福音書7章7節にある言葉と同じ言葉です。そして、11節から13節で、父親が子どものために、最も良いものを与えることを語るのです。ここで、主イエスは祈り求めるならば、その祈りは聞かれることを語っているのです。
 このところで語られていることは、一貫しているのです。それは祈りとは「願い」である、と言うことです。祈るとは、神にお願いすることだ、と言うことです。しかし、私たちはそのことを受け入れているか、と言うとそうではないのではないか、と思います。
 
 私たちは、祈りが願いであるとは思っていないのです。祈りが願いであると言うのは祈りを誤解しているのではないか、キリスト教会の祈りは感謝であると考えてきたのではないか、と。特に、キリスト教の信仰は、第一に御利益を求めることを教えていないのであるから、願い求める祈りをすることは間違いである、と考えるのです。祈りはまず、神への感謝から始まる、と教えられたのです。私は、中学2年生の時に、バレーボール部に入っていました。他校との試合をする前に、これまでよく負けていたので、クラブの一人の先輩が、「おい、山ノ下、おまえ、教会に行っているんだったら、他校との試合に勝つように、神様にお願いしろ」と言われて、心の中で「御利益の宗教ではないんだから」と思い、嫌であったので、祈りませんでした。
 元旦に大勢の人が、神社やお寺に行って、家内安全、商売繁盛、を願うことは、間違っていると思っているので、祈りが願いであると言うことには、心理的な抵抗があるのです。

 しかし、8節後半に「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」とあるように、祈りは、「しつように頼むこと」なのです。そのようなしつように頼む、しきりに願う、ということが、祈りの本質であるならば、願い求めがない私たちの祈りには欠陥があるのです。
 
 主イエスは、祈る時に「父よ」と呼びかけるように教えられたのです。この「父よ」という言葉は、ユダヤでは、幼子が、初めて言葉を覚える言葉であると言われています。日本でも、パパ、ママ、と幼児が始めに覚える言葉です。「父よ」この言葉を主イエスが赤ちゃんの時から、父親を呼ぶときに使っていたのです。「アッバ」「父よ」気兼ねなく、いつでも呼んでいたのです。他人であれば、何か、依頼する時には、気を遣って「お忙しいところ、お願いしたいことがあるんですが、お願いしてよろしいでしょうか」と相手を意識しながら、お願いするのですが、幼児は、親を意識して遠慮がちにお願いをすることはありません。ミルクを飲みたい時には、遠慮なく、すぐに親を呼んで欲しいと言って、自分の気持ちを伝えるのです。ここでも、幼子の心をもって親を信頼して、お願いをすることを語っています。

 主イエスは、神を「父よ」「アッバ」と呼びかける、ことを教えられて、主の祈りを教えているのです。この主の祈りの中に、私たちの祈りの原型があるのです。私たち自身が必要であるものを祈り求めるのではなく、まず、神の事柄を優先して祈るのです。その後に、私たちの毎日の生活で、いつも必要としていることを祈るように教えているのです。主の祈りを新共同訳では次のように翻訳されています。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください、わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください。」

 11章7−11節に主イエスが譬え話を語っているのですが、この譬えには、この時代に生きていた人々の生活の仕方があるのです。ある注解書には、「自分の家を訪ねて来た人をもてなすことは、義務であった。」と書かれています。人をもてなさないと、それは恥になるという考えがあったのです。
 この譬え話は、ややこしいところがあります。「友」フィロス、友情とも訳すことができる言葉が、4回も使われています。友が二人出てくるのです。だれかに友がいて、もうひとりの別の友が登場するのです。旅行中の友がその人の家を訪ねて来て、迎え入れたけれども、パンがないので、真夜中にもう一人の別の友人のところに行き、パンがないので、パンを3つ貸して欲しいとお願いしたのです。

 この願いに対して、この友人は応じなかったのです。それはそうです。真夜中ですから、家族みんなが眠っている、戸は閉まっており、この人を迎え入れるならば、折角、寝ているのに、ベッドから起きて、灯りを付け、そうすると家族も起きてしまう、戸を開けて、その人を迎え入れて話を聞き、パンを探して、パンが残っていれば、パンを渡さなければならないのです。皆さんも経験されたことがあると思いますが、一度、起こされると目が覚めて眠れなくなり、寝不足で翌日は一日中、眠くてたまらなくなるのです。
 
 従って、この友人は、この人の求めに応じることは、面倒なことをしなければならないと思ったのです。7節に「『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子どもたちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」いくら友人だ、と言っても、こんな真夜中に訪ねて来て、パン3つ貸してくれ、と言う、しかも「パンをもらった」のではなくて、パンを借りたので、別の日に、パンを焼いて、パンを3つ返しに来る、と言っている、それも面倒だ、と思ったのです。
 誰でも、友人だから、と言って応じる人はいないのです。しかし、「その人は、友達だからと言うことでは、起きて何か与えるようなことはしなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」私たちもこういう経験をすると思います。しつように言うので、しつこく言い続けるので、うるさいから聞いておこう、と言うことがよくあるのです。

 この譬え話は、この当時、よくある話であり、その話を主イエスは、紹介したのです。この譬え話は、自分の側から、熱心にお願いする、熱心にお祈りをすれば、聞いてもらえるという話であると理解します。しかし、そうではなく、神が愛をもって、私たちの願いを叶えてくださり、この神を信頼することを語る話なのです。

 ここには、私たちに、熱心に願い求めることを勧めている、と理解することが多いのです。しかし、この譬え話は、私たちに熱心に願い求めることを教え、勧めていると言うよりも、願い求める者のために、神が愛の配慮をしていることを強調しているのです。8節に「しつように頼めば」と翻訳されている言葉は、別の意味を持っているのです。この「しつように」という言葉はとても興味深いことに「恥知らず」とも翻訳できる言葉なのです。真夜中に友人を訪ねて、パンを3つ貸してください、と言う要求に対して、お願いをした人の求めに答えないのは、恥知らずなのです。どのような時にも、人のためにもてなすことが義務を果たすことなのに、それをしないのは、恥知らずになるのです。真夜中に友人のところに突然、訪ねてパンを貸して欲しい、というのは、なんと非常識で、恥を知らない人だ、と思うかも知れません。しかし、ここでは、そうではなく、この願いを断ることが恥知らずになると言うのです。この友人は、自分の名誉を守るために、起き上がり、家族が起きることがあっても、お願いに来た人の必要を満たすことによって、恥をかくことを避けたと言う解釈が成り立つのです。

 この友人の姿は、神の姿を表しているのです。神は、私たちの祈りを聞かないことは、神として恥だ、と言うことなのです。神が御自身の名誉を守るためにも、願い求めを聞かなければならないのです。あなたが神様であるから、願いを断ることはできないですよね、と言われるのは恥なので、私たちの祈りを、聞き入れると解釈できるのです。

 この譬えは、しつように頼む、ねばり強さに負けて、要求を叶える姿が描き出されているので、私たちの側の祈る熱心さ、を勧めていると思ってしまうのです。しかし、11節から13節には、神が積極的に私たちの願い以上の配慮をしてくださり、その願いを叶えてくださることを語ります。
 父親が子どもの要求に勝った良いものを与えることを強調しているのです。私たちの祈る熱心さよりも、神が、父として、私たちの願いを聞き、配慮してくださっていることを語ります。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」ここでは、神が愛をもって私たちを配慮してくださることを信じることが重要であり、神に対する信頼をもって祈り求めることが大切であると語るのです。

 主イエス・キリストが語られたこの譬え話は、食べるパンがないというとても困った時のことが取り上げられています。パンがなくて困る貧困に直面することがあります。主の祈りの後半の祈りは、パンを求める祈りであり、神が養ってくださると語ります。人間関係でとても悩むことがあります。人を赦せない、人が自分を赦すことなく、良い関係を持てない。試みや苦難が襲って来るのです。そのような時に、私たちは助けを求めて、祈らざるを得ないのです。苦境にある私たちの祈りを神は聞いて、答えてくださるのです。この神に信頼して祈るのです。

 13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」ここに聖霊と言う言葉が出て来るのです。良い物とは、聖霊を指しています。聖霊、これは、神御自身のことです。聖霊により、イエス・キリストによって、神御自身が、私たちのところに、間近におられるのです。
 聖霊によって、神が私たちを深く愛してくださることを私たちは知っているのです。私たちを愛する神に、どのような時にも、苦しむ時にも、願い求めるのです。

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。秋も深まり、朝晩が寒くなって参りましたが、本日も、あなたに招かれて、兄弟姉妹と共に、礼拝に集い、あなたのみことばを聴くことが許され、心から感謝を致します。この一週間を顧みますと、私たちの心が高慢であるために、あなたのみことばを聴くことも、あなたに祈ることも少ない日々であったことを告白致します。どうぞ、聖霊を注いでくださり、あなたのみことばを喜んで聴き、そして心を込めて祈ることができますように導いてください。コロナ・ウイルスの感染が止まりません。感染して、病と戦っている方々が一日も早く回復することができますように。兄弟姉妹の中で、自宅療養している方々を癒し、共に礼拝に集うことができますように。私たちの心身を守ってくださり、あなたのみこころを行うことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌 497−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金  (献金の祈り)
主の祈

頌栄  29 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番

祝祷 
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。ア−メン

〇来週の聖日(11月15日)
説教「傷ものの完璧」 神代真砂実牧師
聖書 ホセア書6章4−6節 
   マルコによる福音書12章28−34節 
讃美歌 83−1 16−4 353−1 456−3 27
交読詩編 85編


(WEB礼拝)
20201101  主日礼拝説教  「主イエス・キリストの言葉に聞き入る」  山ノ下恭二牧師 
(申命記33章3節、ルカによる福音書10章38−42節)

11月1日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年11月1日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    75編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      56−3 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          申命記33章3節(旧約336ページ) 
          ルカによる福音書10章38−42節(新約127ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    469−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

昇天者記念礼拝説教   「主イエス・キリストの言葉に聞き入る」  山ノ下恭
                 以下、声に出して読んでください。

 本日の礼拝で、私たちに与えられている聖書の言葉は、ルカによる福音書10章の38節から42節までであります。このところには、マルタとマリアという姉妹が登場します。マルタという名前は「家の主人」と言う意味です。この家をきりもりしている、家の女あるじであり、一家の主婦です。この家にもうひとり、マリアという姉妹が登場します。マリアと言う名前は、「高められた人」という意味です。高く評価される、ほめられる人になって欲しいと願って、親が名付けたのです。

 マルタにマリアという姉妹がいた、と書いてある後に「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。マルタは主イエスを迎え入れ、主イエスをもてなそうと忙しくしていたのです。次の場面では、マリアは主イエスの足もとに座り込んで「その話に聞き入っていた」とあります。

 マリアが主の足もとに座り込んで、主イエスの話に聞き入っていた、というみことばを読んで、私たちは特別に違和感をもたないと思いますが、この当時の人々が、マリアの姿を見たならば、驚くのではないか、と思います。「足もとに座る」それは、この当時の人々が教師から教えを学ぶ姿勢なのです。特に、神のおきてを聞く姿勢です。神の言葉として律法を学ぶ者は座ったのです。
 そしてもう一つは、神の教えを聞くのは、男性だけに限られていて、女性は神の教えを聞く資格はない、と考えられていたのです。女性は、台所で働いていれば良いと考えられていたのです。その中で、女性が教師である主イエスの足もとに座って、聞き入っていたのは、普通のことではなかったのです。マリアの振る舞いは、大胆なものであったのです。

 このことに文句を言ったのは、姉のマルタであり、女性が神の教えを聞くことはいけないと言ったのではなく、もてなそうと自分だけ忙しくしているけれども、マリアは何もしないでいることにイライラして、主イエスに手伝うように訴えたのです。このマルタの言葉に、主イエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただひとつだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と語りかけています。

 この物語は、よく知られている物語です。何度も聞いている人もおられると思います。ここで言おうとしていることは、はっきりしているのです。必要なことは、みことばを聞くことであり、そのことをキリスト者は何よりも、優先することだ、というメッセ−ジであることは明白なのです。
 
 私が神学生の時に、神学生の友人が通っていた教会の夏期学校のパンフレットを見せてもらいましたら、このマルタとマリアの物語がその年の主題になっていました。そのパンフレットに、マルタとマリア、それぞれ教会で必要だ、と書いてありました。あの人は台所で料理をしていることが得意でマルタ型だ、この人は、聖書をよく読んで学んでいるからマリア型で、教会ではマルタもマリアも両方が必要だ、という内容でした。

 この物語は、両方、必要だ、と言うことではなくて、やはり、主イエスの言葉に聞き入ることが何よりも優先することを語っているのです。新共同訳は、今まで用いてきた口語訳、その前の文語訳と異なった言葉で翻訳されています。新共同訳では、「しかし、必要なことはただ一つだけである。」と「必要」と翻訳していますが、口語訳では「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである。」と翻訳しているのです。文語訳では「されど無くてならぬものは多からず、唯一(ただ)一つのみ」と翻訳しています。「必要」と言う言葉ではなくて、「なくてならぬもの」と言う言葉なのです。マルタの働きも必要、マリアのあり方も必要であると言っているのではなくて、マリアのあり方が無くてならぬ、唯一のもの、と語っているのです。ここでは、マルタのあり方ではなくて、マリアのあり方が最も優れたものであり、そのことを第一にすることが勧められているのです。

 本日の礼拝説教では、マリアが主の足もとに座り込んで、主イエスの話に聞き入っていた、このみことばに集中して学びたいと思います。
 主イエスが地上におられた時代、「足もとに座る」というのは、弟子が教師の教えを聞くときの姿勢だそうです。「足もとに座」り、「聞き入っていた」とあります。「聞き入っていた」と言う日本語はなかなか良い翻訳であると思います。他のことを忘れ、自分のことも忘れて、主イエスの言葉に夢中になってずっと集中して聞き続けているということです。ここに、主イエスの言葉を聞くことに、全存在をかけて没頭させている女性の姿があるのです。

 私が説教の原稿を作成しているときに、聞く、と言う言葉、英語ではHEARと、聴く、耳へんのLISTENと、どちらの言葉で書いたら良いのか、迷うことがあります。かなり前に書かれた本ですが、斎藤美津子さんが「きき方の理論」という本の中で、次のように書いています。「英語ではHEARとLISTENと言う言葉を区別して使います。辞書を引くとHEARは『聞く』『聞こえる』、LISTENは『聞く』『傾聴する』と書いてあります。どちらにも『聞く』という同じことばが書かれているのですが、HEARとLISTENの機能的な意味は質的にちがうのです。普通HEARは、音が自動的に聞こえてくることで、LISTENは、きき手がエネルギーを費やして理解しようという、意志的な態度で音をきくことなのです。」(斎藤美津子著「きき方の理論」p10)

 主イエスの話を聞いているマリアの聞き方は、主イエスの話だけに集中し、自分の考えを棚の上におあずけにして、自分を無にして聞いているのです。マリアはLISTEN「傾聴」の聴き方をしているのです。斎藤美津子さんは、この「聞き方の理論」の中で、「聴くということ」というテ−マで、次のように書いています。「話し手の話だけに集中し、自分の考えを、しばらく棚の上に『おあずけ』にすることは意外にむずかしいのです。」「この棚上げの『おあずけ』的な聴き方をするのに、二つの障がい物を身に着けています。第一には、自分をからっぽにする、すなわち集中することが容易にできない。第二には、人の話をきくとき意識的に、あるいは無意識のうち批判的に身構えてしまい、自分の意見や感情その他で武装し、相手の話を最後まできかないで、はねつけてしまう。つまり、自分の頭にはいってきた話が、自分の気に入らなかったり、自分の意見と相容れなかったり、また結論や判断と異なっていた場合に、相手の話にだけ集中しないで、自分のものと比較したり、批判的な立場に自分をおいてしまっていることで、これは『聞いている』ので『聴いている』のではないのです。」(斎藤美津子著「聞き方の理論」p11)

 私が北九州いのちの電話の相談員に志願した後、半年間、相談員になるための講習会に参加して訓練を受けました。いかに聞くか、という訓練の中で、相手を受容し、理解する態度をもって、ただ傾聴することに徹することを教えられました。相手が電話を置くまで、こちらから電話を切ってはいけないことも教えられました。相談員になり、実際に電話を取って話を聞くうちに、相手の話を聞くことはかなり難しい、と思ったのです。相手の話を聞いている時に、その話に賛成できないなぁ、もう少し、手短に話せないのかなぁ、と心に浮かぶのです。相手の話を全面的に受け入れて聞くようにしたいと思いながら、十分に聞くことが難しいと思いました。相手が、自分で問題に気づいていくように援助するのが、相談員の仕事なので、話したり、指示しないで、相手の話を受容し、理解する態度で臨むように、と教えられました。ただひたすら、聞くことに徹することを教えられたのです。

 ほとんどの人は、聞くことよりも、話すほうが好きだと思います。聞くことのほうが好きだ、と言う人はいないと思います。話しているほうが精神的に楽なのです。聞くことはしんどいことがあります。長い話を聞くことはとても大変なのですが、相手を理解するには、心を込めて、聞くことがとても大切なのです。

 相手の話を心を込めて聞くということは、相手の人格を尊重することです。相手が話そうとしているのに、それをさえぎって、自分の言いたいことを話し出すのは、自己中心なあり方で、相手の存在を無視していることになります。
 相手の話を傾聴して、終わりまで耳を傾けることは、相手を愛していることになります。本日の礼拝で読みましたところの前には、善いサマリア人の譬え話が記されています。ここには、憐れみ深いサマリア人が、傷ついたユダヤ人を助けた物語が記されています。隣人を愛する、それは積極的・能動的に相手のために行動することを考えます。しかし、隣人の立場や思いを尊重して、隣人の話を時間をかけて、相手の話を聴くことも受け身、受動的ですが、隣人を愛することになるのです。

 神の言葉に耳を傾けることは、神を愛することになるのです。神が語ることを耳を澄まして聞くことは、神を尊重し、神を尊ぶことにほかなりません。
 
 私たちは、聖書の言葉を読む、と言います。確かに、聖書は文字が書かれているので、本を読むように、聖書の言葉を読む、と言います。しかし、聖書に書かれている言葉は、元々は、語っている言葉を聴いたことが原点になっており、その記録を文字にして書いてあるのです。ある人が講演した話を本として講演集として出版されることがありますが、聖書は神が語った言葉を残しています。旧約聖書には、預言者が人々に語った言葉が記録されており、新約聖書には、主イエス・キリストが語った言葉が福音書に収められ、パウロが語った言葉が手紙として各地の教会に伝えられ、その手紙が礼拝で説教として語られたのです。ある教会では、司式者が聖書朗読をはじめる前に「神のみことばを聞きなさい」と言って、朗読に入るのです。

 現在、「聖書を学び、祈る会」で、旧約聖書の預言書のエレミヤ書を学んでいます。エレミヤは、ある時には、人々が集まっている町の門で、ある時には、エルサレム神殿の中で、預言を語って活動をしています。エレミヤ書を読むと、この当時の人々は、エレミヤの言葉を聞き入れることをしなかったのです。エレミヤの言葉は人々の罪を裁く、審判の言葉ですから、エレミヤの預言を聴くことを嫌がり、反発し、聴くどころか、口封じのために、エレミヤを捕らえて、エレミヤの体を縛ったまま、泥沼につるして、泥の中に入れて拷問を繰り返すことをしていたのです。それでも、エレミヤは屈することなく、神の言葉を語り続けたのです。

 私たちは神の言葉に耳を傾けているでしょうか。自分の考えや思いが中心ではなく、まず、神の言葉である、聖書の言葉に十分に時間を取って聴くかどうか、なのです。一日のうちで、どのくらいの時間を聖書の言葉に耳を傾けているのか、ということです。その時間を取っているか、どうか、です。神の言葉である聖書の言葉を時間をかけて、しっかり聞いていくことが、私たちの信仰の基本です。

 聖書の言葉を時間をかけてしっかり聞いていく、このことが説教作成の基本になります。説教作成の仕方が、最近かなり変わってきています。加藤常昭先生が、ドイツに留学し、ボーレンと言うドイツの説教学者のもとで、黙想を中心に説教作成を学んできて、説教作成において、黙想ということを第一にすることを教えられてきました。聖書の言葉を何度も繰り返し読み、与えられた聖句をこころに留めて、口ずさみ、そこで黙想した結果、与えられた恵みを発見する、それが説教になるのです。
 
 日本の教会の多くの説教者がしている説教作成は、どのような説教作成をしてきたのでしょうか。説教のテキストである聖書の言葉の原文を読み、翻訳を見比べ、注解書を読んでその聖句の意味を理解し、現代の問題に適用して、説教原稿を作成する、という作成の仕方をしています。
 
 私は、黙想を重ねて説教を作成していく仕方は、とても時間がかかります。説教塾で教えられたのは、机の上に、次の礼拝の聖書テキストの聖句を書いた紙を貼って、いつも読んでいく、日曜日の夜から準備を初めて、毎日その聖句を反すうし、黙想して、黙想したことによって与えられた言葉をノートに記録し、土曜日には、原稿を書くことを教えられています。聖書の言葉だけを読み、何回も何回も、自分の中でその言葉を反芻し、自分に語られたみことばとして、受け止めることができるまで、黙想をするのです。注解書や参考書を全く、読まないで、聖書の言葉だけで、説教を作成することがあります。

 説教を作成するために聖書を読む、聖書に聴く、ということよりも、自分が何度も聖書の言葉に傾聴して、そこから与えられた感動、驚きを伝えることが、説教になるのです。注解書を読んで、その意味を解説し、現代に適用する、ということではなくて、自分が与えられた恵みを語るのが、説教なのです。

 黙想することがとても大切なのです。御言葉に飢えて、求めつつ読むことです。自分にとって新しい言葉として、驚きの言葉として、自分が把握できるまで、黙想するのです。いつもみことばに触っていることが大切になります。サッカーの選手がいつもサッカーボウルに触って練習しているように、いつもみことばに触っていることが大切です。黙想していて、みことばが自分にとってどのような意味なのかが分かる楽しさがあるのです。今までの理解とは違った、予想もつかない新しい意味を発見することがあり、感動することがあります。 
 聖書の言葉を読むのではなくて、聖書の言葉が聖霊によって自分に語りかけている、その言葉が自分に届くまで傾聴するのです。鳩がえさを求めて、歩き回るように、みことばを求めて行くのです。ルドルフ・ボーレン教授の「説教学」の中の「黙想」の項目で、次のことが記されています。「私たちが、みことばの中に入り込み、そこにとどまることであり、みことばが、私たちの中に入り、そこにとどまることである。」

 アウグスティヌスという神学者が書いた「告白」という著作の中に、次の言葉があります。「自分の聞きたいことをあなたから聞こうとするよりも むしろ、あなたから聞くことを そのままにうけとりたいと心がける人こそが、最良のあなたのしもべなのです。」(「告白」]・26章より)

祈祷
 主イエス・キリストの父なる神。11月の最初の礼拝に兄弟姉妹と共に、出席し、あなたのみことばを聴くことができましたことを心から感謝致します。秋も深まり、次第に寒くなって参りましたが、あなたはこの一週間も私たちを守り、慈しみ、愛してくださったことを感謝致します。あなたは、私たちにみことばをいつも与えてくださいます。私たちの魂を支え、豊かにするいのちのみことばです。このいのちのパンであるみことばを食べて、味わい、いのちの糧とすることができますように、導いてください。コロナ・ウイルスに思いがけなく感染してこの病と戦っている方々をあなたが癒し、健康を回復することができますように。この治療にあたっている医療従事者の健康を守ってください。コロナ感染のために、仕事と収入を失い、困窮している方々に必要なものが与えられますように。自宅で療養している兄弟姉妹の健康を回復してくださいますように。この週もあなたに守られ、あなたを証しし、福音を届けることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。                            ア−メ

讃美歌   356−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金    (献金の祈り)
主の祈り
頌栄    27    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷  
  神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。
主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし あなたがたに恵みを与えられるように 主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み 神の愛 聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。ア−メン 


       〇来週の聖日(11月8日)
  
  説教「わたしたちが祈り求めるのは何か」山ノ下恭二牧師
  聖書 イザヤ書55章1−7節
     ルカによる福音書11章1−13節 
  讃美歌 83−1 211 493 497 29 
  交読詩編 84 


(WEB礼拝)
20201025  主日礼拝説教  「自分が誰であるか、忘れても」  山ノ下恭二牧師 
(イザヤ書60章19−20節、 ロ−マの信徒への手紙14章7−9節)

10月25日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年10月25日(日) 牛込払方町教会 昇天者記念礼拝 式次第・説
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    63編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      57−2 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          イザヤ書60章19−20節(旧約1161ページ) 
          ロ−マの信徒への手紙14章7−9節(新約294ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    521−2  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

昇天者記念礼拝説教   「自分が誰であるか、忘れても」  山ノ下恭二
                 以下、声に出して読んでください。
 本日の礼拝は、牛込払方町教会の会員の中で、逝去し、天に召された方々を覚えて、礼拝をささげています。昨年の10月27日に行われた召天者記念礼拝から、現在まで、神のもとに召された方は、吉川友規子さんです。吉川友規子さんは、今年の5月3日に逝去され、5月7日に葬儀が行われました。83歳の生涯でした。
 
 吉川友規子さんは1975年のクリスマス礼拝に松永希久夫牧師から洗礼を受けられました。吉川さんは、晩年は病との戦いが続いていましたが、聖書のみことばに支えられ、家族の介護を受けながら過ごすことができました。吉川友規子さんが愛していた聖書の言葉は、詩編23編でした。羊飼いが羊のいのちを養い、いのちの危険がないようにいつも見張り、危険な時には羊飼いが戦って下さる、このみことばに支えられながら神を信頼して歩むことができたのです。

 この礼拝において、ローマの信徒への手紙14章7−9節を読みました。7節に「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。」と語っています。私はこの言葉を読んだ時、どのような意味なのか、分からなかったのです。この言葉は、自分一人のために生きてはならない、自分一人のために自分の生涯を送るな、という命令、戒めとして語られているならば分かるのです。しかし、そのように語られていないのです。私たちが例外なく、みんなこのように生きていると言う事実を語っているのです。この言葉は大きな事業を成し遂げた、特別な人のことを言っているのだろうか、とも思いました。この手紙を書いたパウロ自身のことを言っているのだろうか、と。最初の教会の伝道者のパウロは、キリスト教の福音を人々に届けるために、いつも全力で神のために働いたのです。また、マザー・テレサのように献身的に活動をしてきた人のことを言っているのではないか、と考えたのです。

 しかし、このような人々のことを言っているのではなくて、私たち一人一人のことを指して語っているのです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。」この言葉を皆さんはどのように理解するでしょうか。自分のことを考えて、ほんとうにそうだろうか、と思うのです。自分が自分のために生きていないとはっきり言えるのだろうか、と思うのです。自分のために生きていません、と私たちは、はっきり言えないのです。いつも他の人のために生きています、とも言えないのです。自分の生活全部が自分のために生きているとは言えないし、自分の生活全部が他の人のために生きているとは、言えないのです。

 こういう場面を経験した人もいるかもしれません。友人と話していて、「私は、自分を顧みると自分のことしかしていない、自分のために生きているのではないか、と思う」となにげなく言った時に、「そうだ、あなたは自分のことばかり考えていて、エゴイストだ」と友人から言われるとすると、そんなことはない、と強く反発するのではないでしょうか。反対に「あなたは、いつも他の人のために献身的に働いて多くの時間を献げているんですね」と言われると、「いや、少しの時間だけです」と言うと思います。
 私たちは、自分が他の人から、「エゴイストだ」「利己的な人だ」「あなたは、自分のことばっかり」と言われるくらい嫌なことはないのです。「あなたは自分中心で、他の人のことを全く考えない人ですね」と言われると怒りが湧いてきて「あなたはどうなんですか。」と反論したくなります。逆に「いつも献身的に多くの時間を献げて感心ですね」と言われると、「いやそれほどでもない」と言うのです。自分のために生きているとも言えない、あるいは、他の人のために生きているとも言えない、そのような困惑を持つのです。

 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。」この言葉はどのような意味なのでしょうか。
「自分のために生きている」という言葉について、ある註解者はこの言葉は「自分一人で生きている」という意味だ、と書いています。「自分一人で生きている」この言葉の意味は、「一人ぼっちで生きている」と言うことである、と解釈しています。「自分のために生きている」とは、自分一人で生きている、ということであり、それは一人ぼっちであり、言い換えると「孤独」であると言うことです。
 
 自分のために生きていると、孤独になるのです。それは、他の人とつながりをもっていないので、孤独にならざるを得ないのです。私たちは、人とのつながりの中で過ごしているのです。互いに関係を持ち、語り合うことによって、交わることによって生きているのです。そのような関係を持つことが、私たちの命を支えることになるのです。
 
 コロナ・ウイルスの感染防止のために、学校や会社の会議では、対面ではなくて、ズームで、やりとりする機会が増えています。説教塾例会のことですが、2月まではキリスト品川教会に塾生の牧師たちが集まって、対面で説教の学びをしてきましたが、コロナ・ウイルスの感染防止のために、6月から、ひと月に一度、ズームで説教の学びをしています。パソコンの画面を見ながら、9時から12時まで、一人の説教原稿をあらかじめ読み、担当者が、その説教の分析し、コメントをした後に、参加している塾生の牧師たちが分析、批評をし、意見を言うのですが、12時がくれば、終わりになり、ズームによる学びは終わり、画面を閉じます。

 ズームですることで良いことは、名古屋、三重、金沢、神戸、広島、アメリカ、などの遠隔地から参加ができるようになったことです。ズームでは、パソコンの画面を見て、発言したい時に発言し、周りの人に気を使うことがないので、同じ会場に集まっている時よりもストレスは少ないので、快適です。しかし、一緒に食事をして話したり、情報交換をして、互いに交流を持つことはできないのです。ズームでは人の話はよく伝わりますが、自分の隣に人がいないので、その人の気持ちや感情が分からないことがあります。人とのつながりも希薄です。伝達度はありますが、互いに伝達し合う、伝達感はないと言われます。ズームが終われば、自分一人になるのです。コロナ感染防止のために大学では、学生がパソコンの画面を見ながら、教師の話を聞くのですが、話している教師も学生の顔が見えないですし、学生も教師と触れ合うことができず、学生同士のつきあいもないので、孤独を感じるのです。
 
 14章7節で、私たち一人ひとりは、一人ぼっちで生きることなく、一人で孤独で死ぬことはない、と言っているのです。私たちは、一人で生き、一人で死ぬことはないと語っているのです。
 
 ローマの信徒への手紙14章8節には「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」と語られています。この「主のために」と言う言葉は「その人のために役に立つ」と言う意味です。
 私たちが生きていることも、死ぬことも、主イエス・キリストの役に立っていると言うのです。この言葉を聞くと、私たちは、イエス・キリストの役に立っているのだろうか、と思うのです。私たちは、主のために生きている、と言いながら、結局、自分のためにしか、生きていないことが多いのではないか、と思うのです。

 私たちは、結局、自分のために生きており、主のために役に立つような生き方をしていない、と痛感しているのです。そのような思いを持っている私たちに対して、14章8節後半では「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と語ります。ここでパウロは、私たちがどのようなものかを語ります。私たちは、主のために生き、主のために死ぬ、そのような生き方になっていないという思いを抱いていますが、その思いに逆らうように、その思いを打ち破って、私たち自身が、主のものになってしまっていることを語るのです。
 
 自分が誰であるか、それは、主に属しているのだ、主のものだ、と言うのです。自分の所属は主なのです。「主」とは、神の名のことです。単なる名前というのではなくて、神がどのような方であるかを表す言葉です。それは、私たちのために救い出す神のことです。この「主」という神の本質を語る言葉は、どのような時にも、私たちを見捨てず、愛して、救って下さる神のことを言います。

 現在、金曜日に行われている、聖書を学び祈る会では、旧約聖書の預言書を取り上げて学んで来ました。アモス書、ホセア書、ミカ書を学び終えて、今はエレミヤ書を学んでいます。これらの預言者が語る内容は共通しています。神はイスラエルの民を、神の民とするために、この民を愛し、契約を結び、戒めを与えたのです。その戒めは、主なる神をまことの神として礼拝し、隣人を愛することでした。イスラエルは神に属している、神の民なのです。ところが、イスラエルの民は、神から離れてしまったのです。

 イスラエルの民は、神の言葉を聞いて従うよりも、自分の今の生活を支えてくれる、他の偶像の神を拝んで来たのです。この時代は、農業をしている人たちがほとんどですから、天気はとても気になるのです。種の生育のためには、時期に適って、晴れたり、雨が降らないと農作物は実りません。それでバアルという天気を運行する自然の神を礼拝して、時期に適って、雨が降り、太陽が照るように、天気の神バアルにお願いするのです。礼拝するべき対象である、主なる神でなくて、このバアルの神を礼拝することは、夫婦の関係で例えると、妻が夫を捨てて他の男と関係を持つことになるのと同じであると預言者等は警告し、主なる神のところに帰れ、と迫るのです。自分の罪を認めて悔い改めることを預言者は求めたのです。神のもとに帰ることによって、イスラエルの民は、まことに神のものになるのです。神のもとに帰るならば、神はその罪を赦し、神との新しい関係を造り出すと語るのです。

 ミカ書7章18−19節で次のように語るのです。「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え 海の深みに投げ込まれる。」(旧約p1458)神は、神から離れ、罪を犯している民を、御自分の民とするために、民の罪を赦す、そうすることによって、主の民とするのです。神の前に罪を犯すことを繰り返し、堕落している民、その民の悪と罪を赦して、神のものとすると言うのです。このことは、イエス・キリストによって、私たちのすべての悪と罪を贖い、赦し、神との壊れた関係を回復し、正常な関係をもつことができるようになったのです。
 
 ローマの信徒への手紙14章8節の「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」この言葉を聞いて、すぐに思い出す言葉があります。 ハイデルベルク信仰問答第一問の言葉です。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」この問いに次のように答えています。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」
 苦しみと悩みに満ちた時代に生きるため、私たちは多くの慰めを必要とします。それは、家族や友人であったり、やりがいのある仕事であったり、お金や名声であったり、そうしたことすべてがこの世をなんとか生きていくための慰めとなるでしょう。この信仰問答の答えに「死ぬ時」にも、「あなた」にとって「ただ一つの慰め」とはいったい何かと「信仰問答」は問いかけます。
 
 「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」
 私たちが、イエス・キリストのものとなった、そのような恵みにあずかることができるようになった、その恵みにあずかることができるのは、主イエス・キリストが私たちのために、罪に死に、よみがえり、罪と死から勝利してくださったからだ、と言うのです。このキリストによって、主のものになっていると言う恵みを知らされる時に、もはや自分のために生き、自分一人ぼっちで生きることはないのです。主のために生き、主のために死ぬことができるのです。

 野村忠規という牧師が逝去されたことを、奥様からの手紙で最近、知りました。9月3日に79歳で亡くなったのです。この牧師は長く、愛媛の松山城東教会で伝道をしていましたが、隠退しようと思っていたところ、埼玉の東松山教会から招聘を受け、赴任し、9年間、仕え、昨年の10月に隠退し、日野の郊外に移り住んでいました。今年の4月から寝ている状態が多くなり、6月に入り、体力、食欲、意欲がなくなり、しばらくして、病院に行き、検査を受けたところ、即入院で、治療を受けていたのです。奥様の手紙には次のように書いてあります。「細菌性髄膜炎の病名で2ヶ月の入院でした。細菌が脳全体に広がり、いつしか血管を通って全身に。コロナのため、面会もままならない時でした。許されて対面できました。その時、管につながれている痛々しい姿に言葉を失いました。」そしてつらい治療を受けている中で、「主が一緒に苦しんでいてくれる」と言って耐えていたそうです。召される最後には「ありがとう」「楽しかった」「感謝」と、かすかな声で語っていたそうです。

 奥様の手紙には、「最後は私はやっと夫に『ありがとう』『行ってらっしゃい』『待っててね』と言うことができました。」とありました。52年に渡る伝道・牧会を神が用いて下さったのです。昨年の10月に辞任して隠退したのですが、野村牧師は、かなり前から、隠退したいと思っていたのですが、後任がいなくて、続けていましたが、後任が決まったので、やっと隠退できたそうです。私が思うのは、長い間の疲れが出て、病を得たのではないかと思っています。これから自由に過ごしたいという矢先のことでした。しかし、主のために生き、主のために死ぬことができたのです。

 私たちは誰でも年を取れば、心も身体も弱って衰えていくのです。自分が生きることで精一杯で、主のために生きることが出来なくなります。老化が進んで、人の名前が出て来ないことも多くなります。自分が誰であるか、ここはどこか、わからなくなるのです。曜日も時間も分からなくなるのです。
 
 しかし、主は、私たちを、わたしのものだ、私が愛するものだ、としっかり受け止めてくださっているのです。私たちが、イエス・キリストを忘れても、イエス・キリストは私たちを忘れることはないのです。私たちがイエス・キリストを愛さなくても、イエス・キリストは私たちを愛してくださるのです。私たちが、どこにいて何をしているかも把握してくださっているのです。自分が誰であるか、忘れても、神はあなたのことを覚えて、いつまでも愛してくださっているのです。

祈祷 
 天の父なる神。この一週間も私たちを愛し、守ってくださり、兄弟姉妹と共に、礼拝へと招いてくださり、みことばによって、私たちを深く愛してくださっていることを知らされ、感謝致します。自分のために生きていることの多い毎日ですが、それでもなお、私たちに愛を注いでくださっていることを感謝致します。その愛に応えることができますように導いてください。
 コロナ・ウイルスの感染のために、病を得て、治療を受けている方々を、癒してくださり、回復の道を開いてくださいますように。コロナ感染が広がってから、仕事を失い、お金もなく、生活ができない、苦境の中にある方々を覚えて祈り、愛の業ができるように導いてください。教会の兄弟姉妹の中で、自宅療養している方々の健康を回復してくださいますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌  533−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金(献金の祈り)
主の祈り

頌栄   29   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
  神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。ア−メン

           〇来週の聖日
    説教 「主イエス・キリストの言葉に聞き入る」 山ノ下恭二牧師
    聖書 申命記33章3節 ルカによる福音書10章38−42節
    讃美歌 83−1、 56、 469、 356、 27
    交読詩編 75編 


(WEB礼拝)
20201018  主日礼拝説教  「隣人を助ける人になろう」  山ノ下恭二牧師 
レビ記19章18節、 ルカによる福音書10章25−37節)

10月18日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年10月18日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    56編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      18−2 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          レビ記19章18節(旧約192ページ)、
          ルカによる福音書10章25−37節(新約126ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌    227−4 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20201018 主日礼拝説教 「隣人を助ける人になろう」   山ノ下恭二
                以下、声に出して読んでください。 

 この礼拝で、ルカによる福音書を学んでいます。このルカによる福音書にはマタイ、マルコによる福音書にはなくて、ルカによる福音書だけに記されている譬え話がかなり多くあるのです。
 本日、読んだところは、「善きサマリア人」と呼ばれている譬え話です。この譬え話は、ルカによる福音書にしか記されていない物語です。この譬え話は、ルカによる福音書15章にあります「放蕩息子」の物語と並んで、広く知られているものです。

 この「善きサマリア人」の譬え話は、読めばすぐに分かる物語です。傷つき倒れている旅人、その傍らを通りながら、関わることをしないで、通り過ぎる人々、そして、この人を助けてくれた人が登場します。傷ついた旅人を助けた人は、この旅人と同じユダヤ人ではなく、仲の良くない、サマリア人であった、そのような話を、主イエスはされたのです。そして、主イエスは、このように、あなたがたも、サマリア人がしたように愛に生きるように、と言われたのです。 この物語は「隣人愛」を教えるものであり、模範的な愛を語る教えである、と理解し、受け取ってきたのです。教会は、そのような隣人愛に生きるところだ、と考えて、それに期待することもありますし、隣人愛が実現できていなくて、その現実に失望することもあるのです。

 この「善きサマリア人」の話に教えられて、自分も隣人愛に生きようと思い、実践してきた人たちもいるのです。阪神淡路大震災の時に、埼玉地区の牧師・信徒の有志たちが神戸に行って、震災に遭った人々のために、ボランティア活動をしてきましたが、その活動グル−プ名は、サマリタンという名前でした。教会に来たことのない人が、このサマリア人の譬えを知っていて、教会は困っている時に助けてくれるところだ、と考えて教会に来ることがあります。
 いのちの電話は、イギリスで起こった自殺防止のための団体ですが、二つの流れがあり、ライフラインとサマリタンという流れがあります。いのちの電話が「サマリタン」と名付けられたのは、苦境にある人を助けたい、と言う思いが込められているのです。ここでも善きサマリア人の譬えに教えられた、愛の業が生きていると言って良いのです。

 「善いサマリア人」の譬え話は、サマリア人に善いことをしようとその機会を待っていたのではないのです。偶然、その場に出遭ったのです。
 私は、自分の不注意で、神楽坂で二度、自転車を運転している時に転倒したことがあります。一度目は、相馬屋という文房具店の近くの坂道で、前の自転車に乗っていた人が急に止まったので、バランスが取れなくなり、横に倒れて左手のひじが出血をしているのを見て、4人の婦人たちが掛けよって、ハンケチを取り出して、手当をしてくれたことがあります。二度目は、転倒して怪我をしたのではないのですが、私の転倒した姿をお店から見ていた青年が、心配して駆けよって来て「大丈夫ですか」と親切に声をかけてくれたのです。
 このことは、計画的に起こったものではありません。たまたま、偶然に起こったことなのです。この物語もたまたま偶然に起こったことなのです。この愛の行為は、自分にはできないような、誰でもが賞賛するようなおおがかりのものではありません。行きずりの事件であったのです。

 この「サマリア人の譬え」を主イエスが語る、きっかけがあったのです。そのきっかけを作ったのは、「ある律法の専門家」でありました。この律法の専門家は、主イエスがどの程度、聖書を知っているか、を試そうとしたのです。自分は、律法のことをよく学び、よく知っており、律法を教えている、自信をもっていたのです。律法の知識だけは、だれにも負けないという自負心を持っていたのです。近頃、人気があるイエスという人物の実力を試してみようと思って、主イエスに質問をしたのです。

 この律法の専門家は、律法を学び、知り、教えているだけ、急所をつく質問をしています。神とつながるいのち、それは永遠の命ですが、そのいのちを得るには、神がよいと認める生き方をしなければいけないと考えていたのです。神のいのちと、ひとつとなれる生き方を示すものは何か、と律法の専門家は質問したのです。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

 それに対して、主イエスは、律法の語る中心は何か、と聞きます。すると、律法の専門家は、10章27節で神を愛し、隣人を愛すること、であると答えたのです。主イエスは「あなたはどう読んでいるか」と質問していますが、「あなたはどう読んでいるか」と言う言葉は「あなたはどう唱えているか」と言い換えてよい言葉です。ユダヤの人々は、一日に二回、律法の大切な部分を唱えることをしていたのです。律法の専門家ですから、それはきちんとしていたのです。この律法の専門家は、神を愛することと、隣人を愛すること、この二つの戒めを、いつも口にしていると答えたのです。

 「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」この答えに対して、主イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と勧めているのです。あなたは、よくわきまえている、その通りに生きなさい、と主イエスは語ったのです。

 ここでこの話が終わっていないことに注意したいと思います。この後が大切になるのです。10章29節には次のように書いてあります。「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とは誰ですか』と言った。」 この律法の専門家は、主イエスの言葉にうろたえたのです。神とつながるいのち、それは律法を行うことによって得ることができる、その律法の中心的な戒めは神を愛し、隣人を愛することだ、そのことまではよく分かっている、知識として分かっている、しかし、主イエスが自分に愛を実行するように、と命令するとは思わなかったのです。この律法の専門家は、神を愛し、隣人を愛するという戒めを毎日、二回、口で唱えていたので、この愛の戒めを知っていたのです。

 律法の専門家は「では、わたしの隣人とは誰ですか」と主イエスに質問をしているのです。「隣人」と言うけれども、「隣人」が誰であるか、考えたこともなかったのです。隣人を具体的に想像できなかったのです。具体的に愛することも知らなかったのです。従って、この律法の専門家は主イエスに、わたしの隣人が誰なのか、分からない、と言ったのです。

 この律法の専門家は、愛の戒めを、毎日、二回、唱えていましたが、自分の隣人が誰であるか、具体的に考えたことがなかったのです。見当もつかなかったのです。もし、この律法の専門家が考えつくとしたら、自分の「隣人」とは、自分の同胞のユダヤ人になると思います。そのユダヤ人の中でも、律法を守っている人たちのことです。ユダヤ人でも、律法を守っていない人たちは、隣人とは思わないでしょう。徴税人、遊女、罪人、は神から離れており、汚れた人たちで、隣人とは全く思わなかったと思います。
 
 主イエスが傷ついた旅人を助けた人が、サマリア人であったことを話したことは、この律法の専門家にとっては、意外で、驚きであったのです。ユダヤ人とサマリア人とは仲が悪いと言いましたが、サマリア人は、ユダヤ人たちが嫌っていた混血であり、ユダヤ教とは違って、別の分派であり、口もきかないほどに対立していたのです。律法の専門家にとって、サマリア人は自分の隣人ではなかったのです。「隣人」と訳されている言葉は、もともと「近い」と言う意味の言葉です。この律法の専門家は「自分に近い人は誰か」と主イエスに問うたのです。
 「隣人」という言葉は「近い人」という意味の言葉なのですが、私たちは自分を起点にして、近い人を愛しているのです。自分に近い順から愛しているのです。愛するのに、優先順位をつけるのです。第一に、自分が愛する対象は、親や夫や妻、子ども、親戚、と言う家族です。その次は友達、近所の人々、そして、日本人という順番に愛するのです。そして、一番、遠いのは外国人なのです。順位をつけて愛するのです。これは私たちがいつもしていることです。
 私たちは、愛する人に順位をつけて愛している面があります。少し前のことですが、電車に乗っていると、私が座っている横の二つの座席が空いたのです。近くに3、4人の家族と思われる人たちがいて、母親がいち早く、座席が空いているのに気づき、子どもが座ろうとしたら、おばあちゃんが座るのよ、と言って、おばあちゃんを呼んで座らせ、もうひとつは、その母親が座ってしまったのです。近くに高齢者が立っているけれども、そんなことには全く気がつかないで、自分の家族のことだけを優先しているのです。
 私たちは、愛する対象を自分の近い人から順位をつけて愛しているのです。私たちはいつもそうしているのです。順位を近いところから、家族、親戚、友人、教会の人、地域の人、外国人、と遠くなっていくのです。

 私たちは、愛する対象を限定しているのではないでしょうか。日本人だけに限定するという意識があるのです。
 かなり前のことですが、海外ボランティア活動をしている女性が、イラクの子どもたちを助ける活動をしていました。ISイスラミックステートに拘束されて、その救出のために、日本政府が援助して、救出された事件がありました。日本の世論では、救出されて良かったという声もありましたが、これは自分で自発的にイラクに行って起こした事件であるから、自己責任であり、日本政府が援助するのはおかしい、と一部の人たちが騒いで、バッシングが起き、成田空港に到着した時に、非難する怒号まで飛び交ったことがありました。

 国費まで使って救出することはない、イラクのような遠いところに行かなくても、日本でも困った人がいるのだから、日本で活動をすれば良い、という意見がでたのです。日本人なのだから、日本人だけを大切にすれば良い、と限定するのです。私たちは、自分が愛する対象を限定するのです。私たちは、自分が愛する範囲を決めているのです。

 10章33にとても大切な言葉があります。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」とありますが、「憐れに思い」という言葉がとても重要なのです。聖書協会共同訳では「気の毒に思い」と訳してあり、口語訳と同じ翻訳になっていますが、「憐れに思い」という訳が良いと思います。

 このサマリア人が、なぜ傷ついた旅人を助けたのか、その理由は、この旅人を「見て、憐れに思」ったからです。他の理由はなかったのです。この言葉は、ルカによる福音書15章で語られている「放蕩息子」の物語で、放蕩して帰って来た息子を見つけて、父が「憐れに思」った、この言葉と同じ言葉です。別の翻訳では、「はらわたが痛む」とあります。自分の腹が痛み、胸が痛むほどの同情のことです。傷ついた人の姿が目に入った時、自分の胸が痛む、体が痛む、だから、通り過ぎることができなかったのです。従って、助けないわけにはいかなかったのです。それだけのことであったのです。たまたま通りかかったところに傷ついていた人がいて、「憐れに思い」助けたのです。
 この物語は、「善きサマリア人」の譬え話と言われてきましたが、最近では「憐れみ深いサマリア人の譬え」と言われるのです。善いことをする、それは人に親切なことをする、という意味よりも、傷ついた人を深く憐れむことが主題なのです。

 主イエスは憐れみ深い方でした。ルカ7章13節に、やもめのひとりの息子の葬列に出遭って、主イエスは、「この母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」のです。この物語に登場するサマリア人は、昔から、主イエス・キリストのことではないか、と考えて来たのです。そのことも一つの読み方です。主イエスはなぜ、この地上に来られたのか。私たち人間が傷ついている姿を見て神が、憐れに思ったのです。主イエスはこの地上におられた時に、そのみこころも体もその憐れみによって痛み続け、ついに十字架で傷ついた者となったのです。私たちの傷をよく知っていたのです。主イエスによって私たちが助けられたのですから、この憐れみに生かされる時に、サマリア人の心に生きることができるのです。

 私たちは、この人は自分の知っている人だから、困った時に助ける、この人は自分の知らない人であるから、その人を助けない、と選別をしていることがあります。律法の専門家は主イエスに「わたしの隣人とはだれですか」と問い、主イエスは憐れみ深いサマリア人の物語を語った後に、36節に「さて、あなたは、この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。
」と問うています。愛する人を順位をつけ、限定し、この範囲の人を愛する、愛するに値する人を決める、そのことを絶ち切るために、主イエスは、今まで持っていた考え方を変えてほしいと思ったのです。今、憐れみが必要な人の隣に立ち、その人の隣人になることを主イエスは求めたのです。このサマリア人は、旅人が自分の愛が必要だと思ったから、自分のできることをしたのです。

 主イエスは、ルカによる福音書6章32−36節で、敵を愛することを語ります。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがありいと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 
 自分の隣にいる人が困っているならば、その人を助けて、その人の隣人となるのです。自分の隣にいる人が、自分の知らない人であっても、その人の隣人となるのです。その時によって、隣人は代わります。礼拝の座席に座っている、隣にいる人も代わります。電車で自分の隣の座席に座っている人もくるくる代わります。隣にいる人が困っていたら、助けるのです。
 そしてこのサマリア人は自分のできることをしただけです。自分のできないことは要求されていません。デナリオン銀貨二つを取り出して、宿屋の主人に支払ったのです。足りなかった分はあとで支払うと言っています。そして、この旅人とこの後、ずっと付き添って宿屋に滞在して面倒をみたわけではないのです。自分の仕事をするために、宿屋をあとにしています。

 愛のわざと言うと、ノーベル平和賞のマザー・テレサやアフガニスタンで水路を造った中村哲、という大事業をした人を思い浮かべますが、そのような、世界の人々に影響を与えた、大事業をすることをここで語っているのではなく、小さな愛の業を勧めているのです。愛の戒めがあるから、強制的にしなければならないという律法主義ではなく、自由な愛によって、隣人になるのです。愛することができない時があります。自分が隣人となる、そのことを心がけていることが大切なのです。

 祈祷 天の父なる神、あなたの招きにより、兄弟姉妹と共に、礼拝に集い、あなたのみことばを聞く、幸いな時を与えられたことを感謝致します。あなたは、あなたから離れていた私たちを、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪を赦し、神の子としてくださいました。あなたは、いつも私たちを見守り、愛してくださいます。私たちがあなたを愛さない時にも、あなたは私たちを忘れることなく、いつも愛してくださいます。私たちは、自分を愛する人を愛することではなく、助ける必要のある、困っている隣人のために、憐れみ深い隣人となることができますように、聖霊によって愛の行いを促し、あなたの御心に適う者としてください。コロナ・ウイルスの感染のために病床で苦闘している方々、そのために治療をしている医療従事者を御心に留めてくださいますように。自宅で療養している兄弟姉妹を健康が回復して、共に礼拝ができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌  483−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金 (献金の祈り)
主の祈り

頌栄   27     http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
祝祷  
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。ア−メン

          〇来週の聖日
     説教  「自分が誰であるか、忘れても」
     聖書  イザヤ書60章19−20節 
         ロ−マの信徒への手紙14章7−9節
     讃美歌 83−1 57 521 533 29 
     交読詩編 63編  


(WEB礼拝)
20201011  主日礼拝説教  「わたしの主、わたしの神よ」  坂口由起神学生(東京神学大学4年) 
(イザヤ書25章7−10節、 ヨハネによる福音書20章24−29節)

10月11日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年10月11日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    52編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      16 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           イザヤ書25章7−10節(旧約1098ページ)、 
           ヨハネによる福音書20章24−29節(新約210ページ)
祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  475

20201011 主日礼拝説教 「わたしの主、わたしの神よ」 坂口由起(東京神学大学4年)
         神学生の説教奉仕全文を、10月13日に掲載しました。

 復活された主を一番最初に見たのは、マグダラのマリアでした。マリアは弟子たちのところに行って「わたしは主を見ました」と告げ、主から言われたことを弟子たちに伝えたのです。今日の 聖書箇所の少しの前になりますが、20章19節では、マリアが「主を見た」と告げた日の夕方、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と書かれています。マリアから主が復活されたことを知らされても、弟子たちは主を探しに行くこともなく、家に閉じこもっていました。弟子たちは、主が復活されたことを信じなかったからです。

 マリアが復活の主に出会う前、20章のはじめには、マリアが墓から石が取りのけてあるのを見たことが記されています。マリアはペトロともう一人の弟子のところへ走っていって、「主が墓から取り去られました」と伝えました。この時には、ペトロともう一人の弟子は走って墓を見に行き ました。主のご遺体が誰かに持ち去られたと聞かされた時には、すぐにそのことを確認に行ったの です。「主が墓から取り去られた」というマリアの言葉を信じたから、二人は走って墓を見にいったのです。

 墓が空っぽになっているのを確認して弟子たち二人が家に戻った後、マリアはイエス様に出会いました。そしてマリアは再び弟子たちのところに行って「主を見た」と伝え、主から預かった言葉を弟子たちに告げました。けれども今度は、弟子たちが家を飛び出すことはありませんでした。主が復活されたことを聞いても、信じなかったのです。「主が墓から取り去られた」と聞いた時にはその言葉を信じて見に行ったのに、「主を見た」という言葉は信じないのです。これはとても悲しいことだと思います。

 弟子たちはこの世の論理で物事を考えているのです。主が墓から誰かに持ち去られた、というのは現実に起こりうると自分たちの頭で理解できますから、すぐに信じたのです。しかし、自分たちの理解を超える出来事が起こった時、主が復活されたと聞かされた時、信じることも主を探すこともしませんでした。「主を見た」という知らせは、主が復活されたという喜ばしい知らせです。けれども、そんな喜ばしい知らせを信じなかったのです。イエス様は、そんな信じない弟子たちのところにも現れてくださり、手とわき腹を見せてくださいました。弟子たちは主の傷を見て、主が復活されたことを信じました。そして主は弟子たちを遣わすために聖霊を与えてくださいました。

 十二使徒の一人であったトマスは、主が来られた時その場に居ませんでした。この時トマスが外で何をしていたのかは定かではありませんが、主が十字架につけられて死なれたことに嘆き悲しみ、苦しみ、疲弊していたのではないかと思います。もしかしたら、主が墓から取り去られたと誰かから聞いて、探しに行っていたのかもしれません。そんなトマスが家に戻ると、他の弟子たちが喜びに溢れているのです。弟子たちは興奮してトマスに「わたしたちは主を見た」と伝えました。 弟子たちは主が復活された喜びに溢れ、聖霊で満たされて力がみなぎっていました。主が復活されたという大きな興奮で満ち溢れた家に、悲嘆に暮れているトマスが戻ってきて主の復活を知らされたのです。この時、トマスはどう思ったのでしょうか。トマスは言います。

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 トマスは信じませんでした。信じられなかった、のではなく、信じなかったのです。信じないことを選んだと言っても過言ではないでしょう。他の弟子たちがみな喜びに溢れて「主を見た」と言っているのです。聖霊に満たされた弟子たちが「主を見た」と言っているのです。その言葉を聞 いて、その弟子たちの様子を見て、彼らが言っていることを嘘だとは思えなかったはずです。信じないことの方が難しいのではないかと思うのです。弟子たちは主の手に、十字架に釘付けにされた時の釘跡があったこと、刺された脇腹に大きな傷があったことをトマスに伝え、確かにイエス様であったことを伝えました。トマスはそれを聞いても、この指を釘跡に入れてみなければ、この手をその脇腹に入れてみなければ決して信じない、と反発するのです。  

 最初にマリアが弟子たちに「主を見ました」と言った時、弟子たちはその言葉を聞いても信じませんでした。その時と同じように、今度はトマスが、弟子たちの言葉を聞いても信じないのです。 信じることを拒んでいるのです。

 主の手には、指が入るほどの大きな傷がありました。主の脇には手が入るほどの大きな傷がありました。イエス様が復活され、弟子たちの前に現れてくださった時、扉に鍵がかかっていたにもかかわらず、突然弟子たちの真ん中に立たれました。神であられるイエス様には、どんなことも可能であるのです。主は自由であられるのです。けれども、復活された主の体には大きな傷がある。主は復活されてもその大きな傷を持ち続けておられる。なぜでしょうか。イエス様は完全に傷のない、光り輝く体で復活されることも出来たはずです。けれども、主の体には大きな傷がある。

 弟子たちのためではないでしょうか。弟子たちが、そして私たちすべての人間が、疑い深い者だからではないでしょうか。傷のない完全な体で復活されることもお出来になったのに、主はそうなさらなかった。大きな傷をもったまま復活され、その傷を弟子たちに示されたのです。弟子たちが主の傷を見て十字架を思い起こし、主が復活されたことを信じるために、傷を見せられたのです。

 しかし、トマスは、その傷を見るだけでなく、手の傷に指を入れ、脇に手を入れないと信じないと言うのです。言葉を聞いて信じないだけでなく、目で見るだけでも信じない、傷に自分の手を差し込まねば信じないというのです。この言葉は、とても残酷に響きます。

 トマスは疑い深かっただけでなく、他の弟子が主に会ったのに自分だけが会えなかったことで、心が頑なになってしまったのではないでしょうか。主の復活の知らせを聞いても、主を見た弟子たちと共に喜ぶことはできませんでした。なぜ自分だけが主に会えなかったのかと、惨めな気持ちになったのではないかと思うのです。自分以外の者がみな喜びに溢れているのに、自分だけが暗く沈み込んだ気持ちでいるのです。自分だけが取り残されてしまった、そのことを認めたくなくて、主が現れたことを信じなかったのです。信じられなかったのではなく、自ら信じることを拒否したのです。イエス様が復活されたことよりも、自分が大事なのです。自分が納得できなければ信じない、自分の理解できるようなやり方でなければ信じないのです。どこまでも、自分が中心であるのです。

 心を頑なにしてしまったトマスは、残酷な言葉を吐き出してしまいます。主が打ち抜かれたところに、さらに自らの指を差し込む、手を差し込むというのです。主を信じない者は、主の傷を再び刺そうとしてしまうのです。

 主の復活を信じなかったのはトマスだけではありませんでした。弟子たちはみな、信じなかったのです。みな、主の復活を疑ったのです。マリアが主を見たと言った時も、弟子たちはユダヤ人を恐れて家にこもっていたのです。

 この弟子たちの姿は、私たちの姿でもあると思うのです。私たちは、この世の闇に恐れを抱き、閉じこもってしまう時があります。自分に思いがけない困難が起こった時、復活の主イエス・キリ ストが共におられることを忘れ、恐れに支配されてしまうことがあるのではないでしょうか。主に 助けを求めず、自分の力や知恵で解決しようとして、どんどん困難に飲み込まれていく。どんな時にも主が支えていてくださることを忘れ、主の言葉を忘れて、この世の情報に惑わされ、それを信じて恐れに飲み込まれてしまう誘惑に、いつも私たちはさらされているのです。  

 トマスは、主が復活されたと聞かされ、そして「信じない」と言った後、どのようにして過ごしたのでしょうか。おそらく、ほかの弟子たちはその後も復活の主について喜び、語り合ったと思います。主が傷を見せてくださったこと、主がくださった言葉、聖霊を与えてくださったこと、復活の日に主が行われたことを何度も思い返し、語り合ったことでしょう。そして、トマスにも信じるように勧めたはずです。

 「主が復活された」という福音をトマスは受け取ることを拒否しました。そんなトマスが、喜び溢れる弟子たちと一緒に過ごすことは辛いことであっただろうと思うのです。けれどもトマスは、心を頑なにしたまま弟子たちと一緒に居続けました。それはトマスが「信じない」と言いながらも、主を求めていたからではないでしょうか。主と共に過ごした、主が来てくださった家に居れば主に会えるかもしれないと思っていたのではないでしょうか。主がいつまた来られるかわからない、もしかしたら二度と来られないかもしれない、それでもトマスは主イエスを求めて他の弟子たちと共に、家に居続けたのです。

 8日が経ちました。主が復活された日の1週間後の日曜日となりました。弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。弟子たちは相変らず戸には鍵をかけていました。ただ、1週間前とは違ったところがあります。19節にはユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていたと書かれていますが、8日後である26節には、「ユダヤ人を恐れて」という言葉は無くなっています。弟子たちは、もうユダヤ人を恐れることは無くなったのです。自分たちの身を守るために鍵はかけていますが、ユダヤ人を恐れることは無くなったのです。聖霊を与えられて、主が共におられることを信じたからです。

 そこに、1週間前と同じようにイエス様が現れました。そして、弟子たちの真ん中に立ってくださいました。イエス様は仰いました。「あなたがたに平和があるように」。これはシャロームという、いまでもイスラエルで使われている挨拶の言葉です。日本語だと「こんにちは」というような挨拶の言葉です。イエス様は突然弟子たちの真ん中に立たれて、何事もなかったかのようにいつものように「シャローム」と挨拶をされるのです。そしてトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」

 主はご存知であったのです。トマスが指を釘跡に入れ、手をわき腹に入れてみなければ、決して信じないと言ったことを聞いておられたのです。イエス様は、信じないトマスとも、ずっと共におられ、トマスの全てを知っておられるのです。そして、主を待ち続けるトマスの前に姿を現してくださって仰ったのです。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 イエス様は、信じない者を責めることなく、いつものように接してくださって、そして自分の傷に指を、手を差し入れるようにと仰ってくださるのです。

 主の傷は、十字架の死の傷です。私たち、すべての人間の罪のために主は十字架におかかりになりました。私たちの罪の贖いのために、苦しみを受け、死んでくださった主の傷に、手を入れなさいと仰るのです。私たちの罪が主を刺し貫いたにもかかわらず、なお信じない者のために、主はその傷に触りなさい、指を釘跡に入れなさい、わき腹に手を入れなさいと仰るのです。イエス様はご自身のすべてを罪人に差し出してくださるのです。信じない者を信じる者とするために、信じる者となって主と共に永遠の命を生きる者とするために、主イエス・キリストは、ご自身の全てを差し出してくださるのです。それほどまでに、愛してくださっているのです。そして、愛しんで、主の言葉をもって命じてくださるのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 トマスは答えました。「わたしの主、わたしの神よ。」

 トマスは、主がずっと共におられたことを知ったのです。主を信じず、自分の思いの中に閉じこもっていた時にも、主は共にいてくださったことを知ったのです。主が十字架の苦難に遭われている時、トマスは主を見捨てて逃げました。主を見殺しにした、その恐ろしさに、自らの罪にトマスは打ちひしがれていたことでしょう。主が復活されたと聞いてもトマスは信じませんでした。主の 言葉を信じず、自分の中に閉じこもっていました。

 けれども主が目の前に立っておられるのです。主が自分の目の前にお立ちになり、十字架の傷をお見せになって「私に触れなさいと」と仰っている。手を伸ばして、あなたの思うようにしなさいと仰ってくださる。トマスは、主の憐み深い言葉によって、自分が「赦されている」ことを知ったのです。赦された、私の罪は赦された。その時トマスは、主イエス・キリストにはっきりと、神の御姿を見ました。神の顕現を、神の栄光を見たのです。そしてトマスは告白しました。「わたしの 主、わたしの神よ。」
 
 ヨハネによる福音書1章に、こう記されています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

 トマスは、今まさに、神を見ているのです。目の前に神を見ているのです。そしてトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。

 しかし、イエス様は仰いました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 弟子たちは主を見ることなしに、信じることはありませんでした。主が復活されたと聞いても、トマスも他の弟子たちも信じなかったのです。マリアが主の言葉を弟子たちに伝えましたが、弟子たちは主の言葉だけでは信じなかったのです。

 ヨハネによる福音書のはじまりには、こう記されています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。」

 言は、主イエス・キリストであり、命であるのです。私たちが教会で聞いている言は、主イエス・キリストであり、命であるのです。主の御言葉のひとつひとつが、命であるのです。私たちのために十字架におかかりになり、命を差し出してくださり、3日目に復活されて、私たち罪人が信じるために御傷をお示しになり、触りなさいとその体を尚も差し出してくださる、全てを私たちのために与えてくださった主イエス・キリストそのものであるのです。

 「見ないのに信じる人は、幸いである。」

 これは主が、私たちのために与えてくださった祝福の宣言であると思います。主が天に昇られた後、もう人々はイエス様の姿を見ることは出来なくなります。主は、直接イエス様に会うことができない人々のために、私たちのために、教会のために、この言葉を与えてくださったのです。主を見ることなく、しかし、主の言葉を信じる者、主の言葉を命とし、救われて永遠の命を賜る者を、「幸いである」と主は宣言してくださっているのです。

 私たちは命のことばを賜り、恵みに満たされて生きる者とされました。主イエス・キリストが死に打ち勝たれて復活され、私たちは永遠の命を賜りました。永遠の命を賜りながらも、それでもなお私たちは、時にはこの肉体の死を恐れ、主を疑ってしまう罪人であるのです。それでも、主はそんな私たちの真ん中に立っていてくださり、今日も御言葉を与え、まことの命を与えてくださるのです。

 主イエス・キリストはご自身の全てを私たちに差し出してくださり、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と仰るのです。そして「見ないのに信じる人は幸いである」と祝福してくださいます。私たちは幸いであります。私たちのために死んで復活された方が、私たちの救い主であり神となってくださったのです。そして、私たちは主イエス・キリストに喜んで告白させていただけるのです。

 「わたしの主、わたしの神よ」

 お祈りいたします。 
 天の父なる神様、主の御名を讃美いたします。あなたが御子イエス・キリストを私たちにお与えくださり、主の贖いによって真の命を生きるものとされました。あなたから命のみ言葉を賜り、恵みに満たされて歩むものとされました。あなたは私たちをあなたの子どもとしてくださり、いつも愛してくださっていることを心から感謝いたします。主よ、どうかこれからもあなたの栄光が現されますように。ここに集う一人ひとりをどうかあなたが豊かに祝福し、あなたを信じ続け、お従いするものとなさせてください。今日のこの素晴らしい時を感謝して、私たちの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン


讃美歌  197 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金   (献金の祈り)
主の祈

頌栄  29  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷    山ノ下牧師
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけて行きなさい。
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。
 主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。 ア−メン

〇来週の聖日(10月18日)

説教  「隣人を助ける人になろう」 山ノ下恭二牧師
聖書 レビ記19章18節 
    ルカによる福音書10章25−37節
讃美歌 83−1 18 227 483 27
交読詩編 56編



(WEB礼拝)
20201004  主日礼拝説教  「聖霊が与える信仰の喜び」 山ノ下恭二牧
(イザヤ書52章7−10節、 ルカによる福音書10章21−24節)

10月4日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年10月4日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    51編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      6−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           イザヤ書52章7−10節(旧約1149ページ)、 
           ルカによる福音書10章21−24節(新約126ページ)
祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  56−3

20201004 主日礼拝説教  「聖霊が与える信仰の喜び」 山ノ下恭二牧師
    以下、声に出して読んでください。 
 私が北九州の若松教会に在任していた時に、若松区には4つのキリスト教会がありました。日本キリスト教団の若松教会から歩いて、2、3分のところに若松カトリック教会があり、フランス人の神父が司牧していました。北九州地区のカトリック教会はパリ宣教会が派遣する神父が司牧をしていました。若松カトリック教会の、その当時の神父は労働司祭を経験している人で、友好的で、誰とでも話す開放的な人でした。

 ある年のクリスマス、12月25日にカトリック教会のクリスマスのミサに出席しようと会堂の前にいましたら、神父が私に、ミサの中の聖書朗読の後のお祈りをしてくださいと頼んで来たのです。カトリック教会では通常、神父と決められた信徒が式文に従ってミサを司るので、プロテスタントの牧師がミサで役割をもつことは、異例のことでしたので、戸惑いましたが、折角の依頼なので、いつもしているプロテスタントの自由な祈りをしました。ご聖体を戴くことも許可されてパンを戴きました。 
 
 このミサの後、お茶を飲んでいた時に、この神父が次のような話をしたのです。フランスから日本に来る時に自分は日本人をみんなキリスト者にしようと意気込んできたけれども、日本に来て労働司祭を経験し、また教会の司祭をしていくうちに、それはとても難しいことであることが分かった、と話したのです。キリストの福音を伝えてそれが受け入れられ、信仰者が生まれるのは困難なことだと話したのです。

 本日は、ルカによる福音書10章21−24節を読みましたが、説教の準備を進めていく中で、21−24節の前にある、17節から20節を含めて、説教のテキストにすれば良かったと思いました。それはこの前後の文章が内容的につながっているからです。17−20節を受けて、21−24節に主イエス・キリストの言葉があるからです。17−20節には、72人が伝道から帰って来て、喜びの報告をすることが記されています。21−24節には、そのことを受けて、主イエスが感謝の祈りをしているのです。本日の説教は、予告と異なり、10章17−20節を中心に語りたいと思います。
 
 ルカによる福音書10章1−16節には、主イエスが72人を伝道に遣わしたことが記されています。ひとりずつではなく、ふたりずつ遣わされて、孤立することなく、仲間と一緒に伝道したのです。ふたりがいつも一緒に歩き、福音を語ったのです。この伝道に手応えがあったのです。伝道の成果が与えられたのです。
 
 しかし、最初の教会では、一所懸命、福音を伝えても手応えがなく、伝道しても受け入れられないで、失望してしまうことはたびたびであったのです。
 ルカによる福音書を書いたルカが使徒言行録を書いていますが、使徒言行録17章にはパウロがアテネで説教をしている場面が記されています。パウロが説教をすると、その説教を聴いた人々がパウロの語ったことに冷笑を浴びせ、相手にしなかったと記しています。17章32節には「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。」と記しています。キリストの福音を伝えても、アテネの市民は、パウロの言うことがばかばかしい話であると思って受け入れようとはしなかったのです。
 
 私は聖学院大学で30年間、キリスト教概論を教えてきました。30年の間、大学の様子を見てきましたが、キリスト教大学として、大学全体でキリストの福音を伝えることに力を注いでいることがよく分かったのです。キリスト教概論は必修ですし、キリスト教関連科目は選択ですが、必ず二科目は取らなければなりませんし、1年生から3年生まで、毎年、一年に2回は教会の礼拝に出席してレポ−ト提出を義務化しているのです。年間行事としてキリスト教音楽会や創立記念講演会では、キリスト教と関連しているテーマで行い、キリスト教の学生のグループを育てたり、学生修養会・リトリートを開催しています。またキリスト教センターに属するチャプレンの働きを見てきましたが、キリストの福音を伝えるために一所懸命に伝えてきたのです。しかし、信仰が与えられて、洗礼を受ける人はほんとうにわずかです。

 ところが、72人が主イエスのもとに戻って来たのですが、手応えがあったのです。10章17節に「72人は喜んで帰って来てこう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』」と記しています。9章に悪霊に取り憑かれた子どもを主イエスの弟子たちが癒すことができなかったことが記されていますが、ここではそうではないのです。主イエス・キリストの名によって、悪霊が屈服し退散した、と言うのです。
 
 聖書にはとても大切な言葉があるのですが、見過ごしてしまうことがあります。あまり注意しないで先に読み進んでしまうことがあります。ここにも実はとても重要な言葉があるのです。「お名前を使うと」と言う言葉です。
 「お名前を使うと」。一般に、ある施設を使う時に、その施設に関係する有力者の名前を使って利用することがあります。名前には、力があるのです。ここでは、「主イエス・キリストの名」に効力があるのです。イエス・キリストの名には驚くべき力があるのです。
 
 旧約聖書には、神の名について、詳しく記しているところがあります。旧約聖書の出エジプト記3章に登場するモーセが、神に神の名前を聞いている場面があります。モーセが神の名を聞くのですが、それは単に名前を聞くということではなく、どのような神であるか、を聞いているのです。私たちも、その人の名前を聞くと、名前だけでなくて、その人の人柄や自分に対して語った言葉や振る舞いを思い浮かべることがあります。
 モーセは神に召されて、イスラエルの民をパレスチナに連れ出すことを命じられましたが、それはモーセひとりではできない大事業なのです。神が導き、守り、その旅路を共にしてくれなければ、この大事業はできないことでした。 この時、モーセは神の名はどのような名なのか、つまり、神はどのような神であるか、を聞くのです。この神は、何か、面倒なことがあるとすぐに嫌になって逃げてしまう神なのか、高見の見物をして天で見ているだけの神なのか、本気になって困った時には救いの手を差し伸べてくれる神なのか、を聞いたのです。

 モーセの質問に対して、神は、「わたしはある。わたしはある、と言う者だ」と答えたのです。この言葉の意味は、イスラエルの民の苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知り、降って行って、救い出す神であると言う意味なのです。「わたしは必ず、あなたと共にいる」神であるという意味の名なのです。そして、この「わたしはある。わたしはある」と言う言葉のヘブライ語の頭文字を取ると、「ヤ−ウェ」という言葉になり、日本語では「主」という言葉に訳されています。
 主イエス・キリスト、またイエスは主であるという告白は、イエス・キリストが、私たちの救いの働きをしてくださる神であることを言い表しているのです。この「主」と言う言葉は、名前というよりも、神が大きな救いの力を持っていることを表しています。イエス・キリストが十字架で死に復活された、それは、私たちの罪を贖ってくださる、そのような救いの業をなさってくださる方、それが、主であります。

 自分の力で、悪霊を追放しようとしたり、病を癒そうとしないで、主イエス・キリストの名によって、悪霊を追放し、病を癒そうとするとそれができてしまうのです。主イエス・キリストの名に信頼し、依り頼むと、悪霊を追放し、病を癒すことができてしまうのです。

 使徒言行録3章1−10節には、エルサレム神殿に入るところに、生まれながらの足の不自由な男がいて、施しを求めていました。そこへ主イエスの弟子であるペトロとヨハネが、この男の前に立ったのです。この男は何かもらえるだろうと期待していましたが、ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と語ると、全く歩けなかったこの男は歩き出したのです。

 ここでも「イエス・キリストの名によって」と言うと、力が湧きいで、立ち上がることができたのです。イエス・キリストの名を信頼して語るならば、福音が伝えられ、届けられ、人々に受け入れられるのです。自分の力や知恵に頼ることなく、イエス・キリストを信頼していくならば、福音を届けることができるのです。72人の弟子たちは、主イエスの名によって行動すると、悪霊が屈服する、そのことを目の当たりに経験したのです。

 10章20節で、主イエスは、悪霊が屈服するからと言って喜ぶことはない、喜ぶことは、別のところにあると言うのです。それは「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と語るのです。
 「あなたがたの名が、天に書き記されている」とても不思議な言葉です。一般に、この地上で、自分が生きて来たことを何かの形で残したい、と願うものです。事業を興して自分の名前を残す人もいます。自分の名を会社名にする人もいるのです。そのようなことでなくても、自分がこの地上で確かに生きて来たその証拠を残したいと思っている人も多いのです。
 
 牧師の場合は、説教集、遺稿集などを残す人が多いのです。後の人が、自分の説教を読んでキリストの福音に触れて信仰を与えられたら良いという動機もありますが、自分が心血を注いできた説教を残したいという思いはよく分かるのです。皆さんは、身近な人たちが自分を覚えていてほしい、と思わないでしょうか。自分の存在が意味があり、自分の生きてきたことが、意味があった、そのことを忘れてほしくない、覚えてほしいと願うのではないでしょうか。

 教会には洗礼を受けて会員になった人、他の教会から転入して会員になった人の原簿があります。この原簿はとても大切なものです。牛込払方町教会では、戦争のために教会の書類が焼かれてしまい、戦争前の教会員原簿も焼失してしまいました。時々、自分の父親が戦前に牛込払方町教会で洗礼を受けていると聞いているが、それを証明するものはないか、という問い合わせがあります。残念ですが、ありませんという返事をするのです。洗礼を受けて教会員となって記載されている名簿はとても貴重なものです。

 洗礼を受けて教会員になることは、天とつながっているのです。ルカによる福音書15章8−10節に主イエスが「無くした銀貨」の譬え話をされています。銀貨を十枚もっている女が、一枚の銀貨を無くてしまい、その銀貨を一所懸命に捜します。ユダヤの家は窓がない家でしたから、暗い部屋にあかりをもって捜すのです。皆さんも財布をどこかに落としてしまってしまい、慌てて、懸命に捜すことがあると思います。しかし、人によっては、10枚のうち9枚の銀貨を持っているから、一枚ぐらい、失っても良いのではないか、とあきらめることもあるのです。

 しかし、この女は見つけ出すまで必死になって捜して、手許に一枚の銀貨が戻って来たことをとても喜びます。「友達と近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と記されています。この譬え話を語った後に、主イエスは「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と語っているのです。洗礼を受けて、教会員になることは、地上にある教会にとって大きな喜びですが、それ以上に天において大きな喜びになるのです。

 政治指導者や独裁者は、自分の業績を誇り、自分の銅像を造って、自分を誇示していきますが、それよりも、勝る優れた特権が私たちに与えられているのです。その特権とは、私たちの名が、神の民を登録する「いのちの書」に書き込まれている、という特権なのです。

 「いのちの書」という言葉を初めて聞いた人もいるでしょう。私たちはこの地上の国民であると共に、天の国の国民なのです。「いのちの書」この言葉は旧約聖書の出エジプト記32章に出てくるのです。偶像礼拝をしたイスラエルの民の罪をモーセが、神に赦してもらおうとお願いしているところに出て来ます。イスラエルの民の罪を赦してくれなければ、「このわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と自分の名が神のいのちの書に消されても良いから、民の罪を赦すようにと願っているのです。(出エジプト記32章31−32節)「いのちの書」に私たちの名が記されている、それも正確に、消えないように、刻み込まれているのです。

 私はいつでも教会員名簿を携帯しています。出かける時に必ず名簿を持って行きます。マスクを忘れることがあり、家に戻ることもありますが、会員名簿は忘れないで持って出ます。

 イエス・キリストは、いのちの書に記されている私たちを見守り、心配し、とりなしの祈りをしています。私たちの名がこの地上で消えてしまう時にも、天において、私たちの名がいのちの書に消えることなく、記されているのです。教会員名簿に登録される者は、神のもとにある名簿に登録されるのです。神のみもとにある、神が、いつも見ていてくださる名簿に記されているのです。そのことを私たちは忘れてしまうのです。この地上で自分の名を残すことを考えてしまうのです。大きな働きをしてこの地上で名を残すことではなく、どのように小さな働きであろうが、神は神のみもとにある名簿を見て、名を覚え、心に刻んでおられるのです。

 ルカによる福音書10章21節以下は、主イエス・キリストの感謝の祈りが記されています。主イエスが聖霊に満たされ、天地の主なる父をほめたたえ、祈りをされました。祈りをされたというよりも、讃美をされたのです。神の支配が広がっていることをこころから感謝し、讃美をしているのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神、暑い夏が過ぎ、さわやかな秋を迎えて、10月の最初の主日礼拝に集い、あなたのみことばを聴くことが許され、心から感謝を致します。福音を伝えて行く中で、様々な困難がありますが、あなたが伝道を推進して、よい実りを与えてくださることを信じて、福音の種を蒔くことができ、あなたに従っていくことができますように祈ります。自宅で療養している兄弟姉妹、しばらく礼拝から遠ざかっている兄弟姉妹をあなたが礼拝へと導いてくださいますように祈ります。今週もあなたが共にいてくださり、あなたのみことばに聞き従うことができますように。この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。ア−メン

讃美歌  464−2 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金   (献金の祈り)
主の祈

頌栄  27  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけて行きなさい。
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。
 主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。 ア−メン

〇来週の聖日(10月11日)

説教「わたしの主 わたしの神よ」 坂口由起 神学生
聖書 イザヤ書25章7−10節 
   ヨハネによる福音書20章24−29節
讃美歌 83−1 16−1 475−2 197−3 29
交読詩編 52編


(WEB礼拝)
20200927  主日礼拝説教  「この家に平和があるように」 山ノ下恭二牧師
ホセア書14章5−8節、ルカによる福音書10章1−20節)

9月27日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年9月27日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    61編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      214 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           ホセア書14章5−8節(旧約1420ページ)、
           ルカによる福音書10章1−20節(新約125ページ)

祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  289 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200927 聖日礼拝説教 「この家に平和があるように」 山ノ下恭二牧師
    以下、声に出して読んでください。 
 最近は、朝が寒くなって来ましたので、散歩をしていませんが、今年の夏は、この付近を散歩していました。夏は5時20分頃、目覚まし時計が鳴り、起きて、40分位、散歩をしていました。早朝から散歩している人も多く、以前から知り合いになった人も、知らない人とも出遭います。以前から知っている人には、挨拶をしますが、知らない人に私から挨拶をするのは少し勇気が要ります。昨日、初めて挨拶した人に、今日の朝、挨拶すると親しみを感じて、「涼しくなりましたね」「天気が良いですね」とかける言葉も増えていきます。挨拶をすることによって、会話ができ、関係を持つことができます。その意味で挨拶は、とても大切であると思います。挨拶を交わすことによって、相手の存在を受け容れ、関わることができるのです。
 
 本日の礼拝でルカによる福音書10章1−20節を読みましたが、1−12節には、主イエスが72人の人々を伝道に遣わすときに、主イエスが伝道の心得を教えていることが記されています。72人ですから、12弟子のように、特別に主イエスの弟子として召されたというよりも、主イエスを信じて従って来た多くの人たちに伝道の心得を伝えているのです。72人と言うのは多い数ですが、それは意味があるのです。神学校に入学して将来、牧師になる人を伝道献身者と呼びますが、牧師や神学生だけが伝道を担うのではなくて、皆さん一人一人が伝道者であることを意味しています。伝道者である皆さんが、何を携えて伝道するのか、その意味をここで学ぶことが大切なのです。 
 
 ルカによる福音書10章5節に「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。」とあります。私たちは伝道する時に、平和を伝える者なのです。「平和」と言う言葉を聞くと、皆さんはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。8月には、6日に広島に、9日に長崎に原爆が投下され、このために、多くの人々が亡くなったことを記憶し、心に刻む日です。そして、太平洋戦争のために多くの人々が戦禍に倒れ、戦争の犠牲者として命を失ったことを覚えて、戦争のない平和な世界が来るように祈る時です。平和と言うと、戦争や紛争がない状態を私たちは考えます。

 今日の聖書テキストの黙想を読んでいましたら、「平和」と言うことは「挨拶」と深い関係があると書いてありました。私たちも知り合いの人に遭った時に、挨拶をします。おはよう、こんにちわ、こんばんわ、と言います。ユダヤ人たちは、「シャローム」と言う言葉で挨拶を交わします。この「シャローム」と言う言葉は「平和」という意味の言葉です。「あなたに平和がありますように」「平安がありますように」という祈りの言葉です。このシャロームという言葉がユダヤの人々の日常の挨拶であり、日本の教会でも、この「シャローム」という言葉を使うのです。私の友人は、手紙の最後に必ず「シャローム」と書いてありますし、この言葉を社名として使っている会社もあります。ユダヤの人々は顔を合わせれば、「シャローム」と挨拶するのです。ですからここでも、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」と言う言葉を、重い意味を持つものではないと受け取ることができるのです。初めてその人の家を訪ねるのですから、まず、挨拶をしなさい、ということが大切であると主イエスが72人の人たちに教えたと理解することができます。

 しかし、「この家に平和があるように」と言うのは、挨拶をする、と言うだけの意味ではないことが、10章6節の言葉を読むと分かります。「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」この6節の言葉は、この平和の挨拶が、日常の挨拶を飛び越えているものであることが、はっきり示されています。

 「平和があるように」と言う言葉が挨拶を伝えると言うことよりも、その家を訪れた時に伝道者たちが平和をもっているので、その平和を相手に贈ることができると言うのです。私たちが、その家に平和があるようにと伝えると、平和がその家に入って行くと言うのです。平和を受け入れる家もあるでしょう。平和を受け入れる家の人を「平和の子」と呼んでいます。おもしろい表現です。しかし、その平和を受け入れない家の人がほとんどです。そしてその平和を受け取らなければ、「その平和はあなたがたに戻ってくる」と言うのです。

 私は、この言葉に励まされています。東大宮教会は、電車からよく見える場所にありましたから、新来者がよく来ました。初めて礼拝に来る人も、比較的、教会の近くに住んでいる人が多かったので、よくお訪ねました。しかし、ほとんどの人が好意的に迎えてくれませんでした。その時に、せっかく訪ねたのに、無駄であったように感じたのです。しかし、「その平和はあなたがたに戻って来る」と言う言葉に励まされたのです。相手に語った平和は、自分のところに戻って来ると言うのです。伝道者の労苦が、報われないのではなくて、主のために働いたことが無駄になるのではなく、その福音が伝道者を生かすキリストの平和として、伝道者のところに戻って来ると言うのです。

 「平和」は中身があるのです。単なる挨拶の言葉だけではないのです。平和を受け入れ、受け取ると十分な重みを持つものになり、現実にその家に平和が来るのです。良い知らせ、福音を伝えることは、自分の与えられている平和を相手に贈ることなのです。私たちが、その家に行って平和を伝えると、その平和はその家を平和にしてしまうのです。

 なぜ弟子たちが語る平和がそれほどの重みを持つのか、中身があるのか、それは、9節後半で語られているに「『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」という言葉と密接に関わっています。
 主イエスが、12弟子を伝道に遣わす時に、神の国を宣べ伝えるように、と命じています。主イエスが真っ先にしなさいと言われたのは、「神の国があなたがたに近づいた」と告げることなのです。言い換えると「神の支配がもう近づいている。」と言うことです。「神の支配がもう始まったのだ」と宣言することです。

 「平和」と言う言葉が多く出て来ました。「平和」という言葉を聞いて、私たちの世界は平和になっていないと思う人も多いのです。互いに言い争うことも多いです。仲違いがあります。国と国との争いは絶えることがありません。対立と分断があります。互いに仲良くと願っていても、平和にはなっていません。家族の中でも、仕事仲間でもなかなか平和にはなっていないのです。

 平和を妨げているものは何でしょうか。それは、自分のことを中心にする、利己主義です。自分の利益だけを優先して、相手の立場や思いを軽んじることにあるのです。
 私は、日本の近現代史に関心をもっていて、明治時代から太平洋戦争までの歴史に興味を持っています。BSテレビで土曜日の昼に、明治時代からの日本の歴史を詳しく解説している番組があるのです。司会は関口宏がしていて、解説は日本の近現代史の研究家である保坂正康という人です。9月19日には、大正5年から12年頃を取り上げていていました。この時代は、中国北東部で満鉄が大きくなり、関東軍が天皇直属となり、中国への侵略が本格化する時代です。この時、石橋湛山が「小国主義」を唱えます。日本は大国にならないで、小国で良いと言ったことが紹介されていました。石橋湛山は、中国への侵略しようとしていることに警告をしています。侵略を受けている他国の人々の苦しみを思わないのか、と主張したのです。自国の権益のために、相手の国はどうなっても良いと言うエゴイズムが戦争を起こし、そのために多くの人々が悲惨な経験をしたのです。日本人だけで300万人もの戦争犠牲者を出しています。

 私たちも自分中心に生きて、他の人のことを考慮しないで行動する時に、争いが起こり、自分の正しさを主張し、相手の落ち度を責め、赦さない時に、仲違いが始まるのです。自分中心という罪が私たちを支配している時に、平和はないのです。それはまことの神をもたないからです。まことの神を畏れないで、自分をセンターにして生きているので、平和を造り出すことはできないのです。

 私たちは神を自分の生活の中に受け入れ、まことの神として礼拝し、隣人を愛し、助ける生活であるならば、良いのですが、自分を神として、隣人を自分のために利用する、そのような生活をしています。神の前に罪を犯している生活をしています。そこには神との平和はないし、隣人との平和はないのです。
神と隣人と平和になることはできないのです。

 ルカによる福音書はマタイ、マルコによる福音書と共に、同じ物語が多いので、共観福音書と言いますが、他の福音書にはなくて、ルカによる福音書にしかない物語や譬え話が多くあります。その中に、ザアカイという徴税人が登場する物語がルカ19章1−10節に記されています。この物語は、ルカによる福音書にしかない物語です。

 ザアカイと言う名前は、正しいという意味の名前ですが、毎日、実際にしていることは、名前とは逆の、正しくないことをしているのです。ザアカイは徴税人です。道路を通行する人々に法外の税金を取って私腹を肥やし、そのために、人々に嫌われていたのです。主イエスがエリコの町を通るという噂を聞いて、ザアカイは一度、主イエスを見てみたい、しかし、背が低いので、人々に遮られて見ることができないので、いちじく桑の木に登っていると、主イエスがザアカイを見つけて、ザアカイの家に泊まることになったのです。主イエスはザアカイの家で共に食事をして、ザアカイのこれまでの罪を責めることなく、ザアカイの存在すべてを受け入れたのです。誰も挨拶もせず、誰も相手にしないで、孤独の中に佇んでいたザアカイを主イエスは受け入れて、罪を赦したのです。
 そしてザアカイは、今までの罪を告白し、お金をささげたのです。19章8−9節「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたらそれを四倍にして返します』。」

 イエス・キリストがザアカイの家を訪れることによって、ザアカイはイエス・キリストによって、神の愛を知り、自分の罪が露わになり、悔い改めて、神を愛し、隣人を愛する者に生まれ変わったのです。自分が神と人とに却けられ、疎外感を持ち、どうすることもできなかったのですが、主イエス・キリストの訪問によって、神の愛を知り、神と人との平和を獲得することができたのです。
 この物語の最後に次のように記されています。「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを救うために来たのである。」(ルカ19章9−10節)
 神の支配とは、神の愛の支配のことです。国の支配者は、権力や武力によって人々を支配しようとしますが、その支配は戦争を引き起こし、人々を不幸にします。しかし、神の愛が及ぶ時に、神との関係が平和になり、人との平和が与えられるのです。

 ローマの信徒への手紙5章1−2節に次のように語られています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。」(p279)神を忘れ、神をないがしろにしていた私たちの罪を主イエス・キリストが贖い、私たちの罪を赦してくださった、そのことによって平和がもたらされたのです。神との関わりが正しいものとなったのです。
 
 互いに顔を合わせても知らんぷりをしたり、互いの存在を無視して、いてもいないように振る舞ったり、口もきかない関係ではなくなったのです。自分が相手を受け入れ、相手が自分を受け入れ、わだかまりもなく、相手との関係が正常である、それは平和な関係であるのです。

 家庭が、どのようにすれば、平和を獲得することができるのでしょうか。それは主イエス・キリストが自分たちの主人であり、救い主であることを信じることによるのです。家族が神を中心にして営まれることが大切なのです。互いに罪深い者ですから、赦し合っていくことが、平和な家庭なのです。
 
 私たちが、キリストを家庭の中に入れ、この家庭の主人とする時に、互いに赦し合うことができるのです。夫が家族を支配し、また妻が家庭を支配し、子どもを中心として営む、というのではなくて、キリストを中心とする家庭となることが、平和な家庭となるのです。

 主イエスが、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」と教えています。福音を伝えることは、その家に平和をもたらすことになるのです。その福音は、和解をもたらす福音であり、神の赦しをもたらす福音なのです。その福音を受け入れるならば、その家庭は、愛と赦しを中心にする家庭となるのです。

 私の父を鹿沼教会に導き、信仰の指導をしてくれた人は、青木達三郎という歯科医師でした。このひとりのキリスト者によって、私の父が洗礼を受けて教会員となり、キリスト者の母と結婚してキリスト者の家庭が生まれ、家族が教会や教会学校に集うようになったのです。

 教会の礼拝でみことばの説教を聴き、聖餐を戴くことによって、キリストの和解と赦しを経験し、その恵みが家庭にも及ぶのです。家庭の中心がイエス・キリストであり、和解と赦しを柱として、家庭が造られていくのです。互いに赦し合い、愛し合う家庭が造られていくのです。いつも教会につながっていることが、私たちが平和に生きる源であるのです。

 主イエスが、復活されて、弟子たちの家を訪れた時に、主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と挨拶をして、弟子たちの家に入ってきたのです。弟子たちはキリストの使徒として、キリストの和解と赦しの福音を人々に語り始めたのです。

 最初の教会の伝道者パウロは、今のトルコ、ギリシャ、ローマにある教会に多くの手紙を書き送ったのですが、挨拶の言葉で手紙を書き始めています。ローマの信徒への手紙では、挨拶の最後に、宛先の教会への祈りが記されています。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたがあるように。」(1章7節)
 パウロは、ローマの教会だけでなく、コリントにもガラテヤにも、エフェソにもフィリピにもコロサイにも、その他の教会にも、父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように、と祝福の祈りをもって手紙を書き始めているのです。

 「この家に平和があるように」。私たちは、キリストの和解と赦しの福音を伝えて行くのです。

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。秋らしく涼しくなり、本日も、あなたに招かれて、兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたのみことばを聴くことができた幸いを感謝致します。私たちは、主イエス・キリストの贖いによって、神との平和を戴き、和解と赦しに生きることができることを感謝致します。キリストの平和の福音を伝えていくことができるように、私たちに聖霊をくださり、多くの人々に伝えることができますように導いてください。教会の兄弟姉妹の中で自宅療養している方々の健康を回復してくださり、共に礼拝に集うことができますように。この一週間もあなたのみこころを中心にして歩むことができますように。この祈りを私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈り、願います。アーメン

讃美歌  402 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金 (献金の祈り)
主の祈り

頌栄   29 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
  神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけていきなさい。
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。アーメン

         〇来週の聖日(10月4日)
 
     説教 「聖霊が与える信仰の喜び」 山ノ下恭二牧師
     聖書  イザヤ書52章7−10節 
         ルカによる福音書10章21−24節
     讃美歌 83−1 6 56 464 27 
     交読詩編 51編 


(WEB礼拝)
20200920  主日礼拝説教  「何よりもまず、神の国を告げ知らせなさい」 山ノ下恭二牧師
エレミヤ書13章15−17節、ルカによる福音書9章57−62節)

9月20日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年9月20日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    48編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      17−2 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           エレミヤ書13章15−17節(旧約1201ページ)、
           ルカによる福音書9章57−62節(新約124ページ)

祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  494−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200920 主日礼拝説教 「何よりもまず、神の国を告げ知らせなさい」 山ノ下恭二牧師
   以下、声に出して読んでください。 
 牛込払方町教会の教会学校では、子どもの説教を作成するするための手引きとなる教案を用いています。「カテキズム教案」です。この教案は「新・明解カテキズム」という本を基本にして、教師が説教を作成するために手助けになる解説が書かれています。カテキズムという言葉を初めて聞いた人もいるかもしれませんが、カテキズムは信仰問答書とも言います。キリスト教の教えを、問いと答えと言う対話の形で、解説している本です。使徒信条、洗礼や聖餐、十戒、主の祈りについて問答形式で、キリスト教の教えを解説しています。

 この新・明解カテキズムを用いた礼拝説教は、9月から「洗礼」について取り上げています。「洗礼について教えてください。」「なぜ洗礼を受けることが必要なのですか。」「どうしたら洗礼を受けることができますか。」「洗礼における目に見えるしるしとは何ですか。」このような問いに対して、答えがあります。洗礼を受ける前に、洗礼の意味を知り、よく学んで、洗礼を受けることは、これからキリスト者として生きる時にとても大切なことです。
 
 洗礼を受けることは、主イエス・キリストの弟子になることです。具体的には、教会の会員になり、教会生活を始めると言うことです。洗礼を受けることによって、今までの生活を切り換えることが必要になります。洗礼を受ける以前は、何よりも自分のことを優先して過ごして来たのです。しかし、洗礼を受けてキリスト者として生きる生活は、自分中心の生活から、主イエス・キリストを中心にした生活に切り換えることなのです。キリストに従うことですから、日曜日に教会の礼拝に出席することを優先することになります。日曜日には、ゆっくり家で休むということではなくて、教会の礼拝に行くことを最優先する、そのような生活に切り換えたのです。しかし、その生活に切り換えていくことには、戦いが生まれます。その戦いは自分との戦いなのです。

 アメリカの教会では、家族がそろって教会の礼拝に行くことは常識になっています。家族がそろって行くのですから、行かないのは珍しいということになりますが、日本の教会の信徒は、家族の中で自分だけが教会員である人が多いのですから、家族を家に置いて教会に行くことに抵抗を感じる家族もいるのです。日曜日の午前中は、家族と一緒にゆっくりお茶を飲んで、話し、お昼を一緒にしたいと思っている家族もいるので、自分だけ教会にいくことは心理的にも大変です。自分はキリストに従い、教会員として生活をしたいと思うのですが、家族の理解が少ないので、苦しむことが多いのです。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書9章57−62節のみことばを聞きました。1人の人が、主イエスに対して「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」と言ったのです。この言葉に対して、主イエスは「よく言った。感心だ。わたしについてきなさい」と言っていないのです。主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には、巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」と語られたのです。この言葉は何を意味しているのでしょうか。
 
 ひとつの読み方は、主イエスには安住の地はない、ゆっくりと安心して眠るところがない、わたしについていくことはそういうことになる、そのような覚悟があるのか、を聞いた、そのような意味だと理解するのです。ある注解書には、「主イエスについていくことは、野宿をすることになる、その覚悟はあるのか」と主イエスは聞いたと言う意味だとありました。ここでは、主イエスについていくと、野宿をするような生活になる、それは大変だから、わたしについてくることは止めなさい、と言っているのでしょうか。

 しかし、実際に主イエスは野宿していたのか、と言うとそういうことはなかったのです。ペトロの家を常宿にしていましたし、ベタニヤではマリア、マルタ、ラザロの兄弟の家に泊まっていたのです。従って、主イエスについていくことは、野宿することになる、と言っているわけではないのです。確かに、狐には穴があって、危険があると逃げ込む穴があり、その穴の中で安心して眠ることができるのです。また、空の鳥も巣があり、昼間、空を飛んでいても夜は、帰る巣があり、そこで休むことができているのです。 
 
 「人の子は枕する所もない」と語っている、その意味は何でしょうか。主イエスは、家族と別れ、自分の家をもってはいませんでした。自分の帰るべき家を持たず、安心して眠る所もない、とこの言葉を理解することもできます。
 ある時、テレビのドキュメンタリー番組を見ていましたら、深夜、渋谷の街で出歩いている少女たちを犯罪から守るために活動をしているNPO団体の女性がいて、その女性が少女たちにインタビューをしている場面が映っていました。深夜に渋谷の街にいる少女を犯罪から守ろうと活動しているNPOの女性は、少女の話を聞いているのです。ひとりの少女は、家はあるけれども、両親が絶えず喧嘩をしているので、家にいたくないから、ここにいる、と言っていました。

 別の少女は、家族が自分のことに全く関心をもっていないので、家にいてもつまらないから、渋谷の街を歩いていて、同世代の女の子と話すのが楽しいと言っていました。この少女たちは、ちゃんと自分の家があり、自分が眠る部屋があるのです。しかし、自分の家は自分が休息し、安心して眠るところではない、と言っているのです。自分の居場所を持たないのです。主イエスが「人の子は枕する所がない」と言っているのは、主イエスご自身が、家があっても、安心して眠ることのできない、不安な人々と同じような経験をされているのです。その意味では、安心して休むことができず、不安で眠ることができない、そういう者に対する深い同情をもっていると語っていると理解することができるのです。

 ここで私たちが気をつけたいことがあります。それは主イエスが「わたしには枕する所もない」と言っていないことです。「人の子」と言っているのです。わたしは、とは言っていないことに大切なポイントがあります。主イエスは、なぜ「人の子には枕する所もない」と言ったのでしょうか。
 
 主イエスが「人の子」と言ったところはどこにあるのか、調べてみると興味深いことが分かるのです。ルカによる福音書21章25−28節(p152)に「人の子が来る」という小見出しがあり、27節に「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。」と記されています。「人の子」とは、人間、人間の子供、という意味ではありません。この言葉は旧約聖書のダニエル書で預言された、神から主権を与えられて、神の救いを行うために登場する、救い主のことを指しているのです。

 主イエスは、自分がそのような神の救いをもたらす人の子である、と何度も語られています。すべてを支配する権威を持つ人の子が、今、自分が枕するところもない、と語るのです。権力をもっている者は大きな屋敷に住むものです。 主イエスは、ここで、この世で権威を持つ者は、立派で安全な家に住み、そこに君臨しているけれども、しかし、人の子は、権力を行使し、力を奮うような者ではなく、安住することができないでいる人々の仲間となり、その苦しみを共にする者だと語るのです。

 ここで主イエスは、なぜ「狐」や「空の鳥」のことを話されたのでしょうか。皆さんはこのことに関心を持たなかったでしょうか。この当時「狐」というのは、このユダヤ地方の領主ヘロデ王のあだ名であったのです。「狐には穴がある」というのは、ヘロデ王には、あんなに立派な宮殿がある、と言ったのだ、と解釈する学者がいます。
 「空の鳥には巣がある」というのは、このところでは、安心して寝泊まりする巣がある、と言う意味で言っているのですが、「空の鳥」について主イエスが語っているのは、別の意味もあるのです。

 主イエスは、空の鳥について何度も語っていますが、私たちがよく知っている言葉があります。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6章26節)この言葉は鳥が神を信頼して、空を自由に飛んでいることを語っているのです。空の鳥が心配しないで、自由に飛んでいる、それは、神に対して信頼し、神が配慮していることを信じていることなのだと語るのです。主イエスは、この地上では、定住し、安心して眠る所は持たなかったのです。しかし、主イエスは、いつも天の父なる神を仰ぎ、天の父なる神が主イエスのためにいつも配慮していることに信頼し、委ねていたのです。

 「人の子には枕する所もない」という言葉は、この地上では安心して眠る所を持たない、そのような覚悟を弟子になろうとする人に促したと同時に、空の鳥のように、神を信頼していけば、必要なものは与えられる、心配するな、とも言われたのです。
 
 第二に、既に弟子になっている人が登場します。この人は、主イエスについて行くことを最優先しようと心がけていたのです。しかし、この弟子にとっては緊急に行かなければならないと思うことが起きたのです。
 ルカ9章59節でこの人が主イエスに次のように言っています。「また別の人に『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。」この当時、父親の葬りをすることは、子供の義務であり、すぐに行って葬りの準備をすることが常識でした。私たちも親が死んで葬式がある時には、自分の仕事を止めて、学校を休んで、親のところに駆けつけるのです。現代も家族の葬儀がある時には、忌引きと言って、会社や学校を休んで良いという決まりがあるのです。とにかく早く駆けつけて、葬儀をすることが義務であるということは、現在でも暗黙の了解となっています。

 まず、先に父親の葬儀に行って、それが終わってから主イエスに従っていく、と申し出た人に対して、主イエスは、「それは大変ですね。あなたを育ててくれた父親だし、家族も悲しんでいるので、心のこもった葬儀をしてきなさい。私のところに戻って来るのを待っています。」と答えてはいません。主イエスは「死んでいる人たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と答えたのです。

 私は、今まで、この聖書の言葉を誤解していたことに気がつきました。主イエス・キリストの福音を伝えることが最優先であるから、家族の葬儀には関わるな、と理解していたのです。しかし、そうではないのです。親が死んでも、福音を伝えるほうが優先するので、葬儀は関わらない、知らんぷりしている、というのではないのです。「家族の人たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とは言っていないのです。
 
 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と語っているのです。キリスト教の葬儀は、死んだ者のためよりも、遺族を慰めることに重点を置くのです。死んだ者のところに出向いて、死んだ者を慰めることはできないのです。
 このところを黙想している本に面白いことが書いてありました。「埋葬を含む葬儀の営みのすべては、生き残る遺族のみ意味はあるが、死者が直面する孤絶、不安、苦悩は、生者の誰ひとり共感、共有できないものである。それができるのは死者同士のみである。」

 キリスト教の葬儀は、死んだ者を丁重に葬り、遺族を慰めることにあります。葬儀の説教は、「遺族を慰める」ことに力点を置くのです。遺族を慰めることが中心です。だからと言って死んだ者を放置して良い、ぞんざいに扱って良いと言うことはないのです。丁重に葬ります。
 
 かつて牛込払方町教会で「葬儀について」の研修会をしました。その時に「私の葬儀に関する希望」を出すようにお願いしました。出してくれた人には、その希望に沿うように葬儀を行うようにと思います。しかし、ある人が書いたものには希望に添えないことも書いてあり、困ったこともありました。自分の葬儀の時に「フラダンス」を踊って欲しいとありましたが、できませんでした。 仏教の葬儀は死者が成仏できるようにお経を読むのが中心です。死者中心の葬儀です。しかし、キリスト教会の葬儀は、神をほめたたえることが中心です。この地上で生きた故人の信仰を語り、神が愛をもって生かし、導き、死を超えた復活のいのちの中で、神のもとに召されたことを喜びをもって語ります。

 私は牧師として多くの葬儀を経験してきました。葬儀が福音を語るとても良い機会になっているのです。葬儀に出席している人は、聖書の言葉を読み、説教を聞くことによって、人間には終わりがある、死と言う限界があることを、改めて知らされ、自分のこれまでの人生を真剣に考えるようになります。神の前に立つ経験をするのです。キリスト教会の葬儀に出席して、とても良かったので、自分もキリスト教会で葬儀をして欲しいと教会に来て、洗礼を受けて信仰生活を始める人も多いのです。

 第三に「わたしに従いなさい」という主イエスの招きの言葉に対して、9章61節で「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と答えています。この人は「父に別れの挨拶をするのを忘れました」「母に主イエスと共にこれから生活をするので別れの言葉を言いたいので帰らせてほしい」と言ったのです。それは自然な感情です。何も言わないで、主イエスについていけば、行方不明で両親は心配するでしょう。しかし、主イエスは私の福音を伝える仕事は既に始まっている、「手に鋤をかけて」いる、この仕事にあなたも参加するのだ、両親に挨拶をするのを我慢して、福音を伝えることに従事してほしい、と語るのです。
 
 洗礼を受けて、主イエスの弟子になったと言うことは、神との関係の中に入った、神の国の市民になった、と言うことです。キリスト者となり、教会員となることは、自分の家族を中心にするのではなく、神を中心に生きることを最優先することですから、家族を絶対化しないのです。主イエス・キリストを信じ、キリストの弟子になることは、家族との関係も変わるのです。家族とは血縁でつながっています。血でつながっている、その絆は、絶対的な絆であると考えています。

 しかし、神との関係ができると家族の関係は、相対的な関係になるのです。神との関係に入ると、親であると同時に、ひとりの人間として見ることができるのです。血縁で縛られて、人間の罪に苦しむことがあります。むしろ、神の愛を媒介にした関係に生きることを勧めています。神の愛を中心として交わり、教会の交わりに生きるのです。

 私たちが、神の愛を与えられて、主イエスの弟子として生きることを優先することを勧めているのです。

祈祷 
  イエス・キリストの父なる神。愛する兄弟姉妹とこの礼拝堂に集められて、礼拝を共にし、あなたのみことばを聞くことができ、感謝致します。あなたは、私たちを、あなたの弟子として召されました。あなたの弟子として、あなたに従って行くことができるように導いてください。長く、この教会で伝道・牧会に専念した、大久保照牧師があなたのもとに召されました。その働きに感謝すると共に、私たちに与えられた伝道の働きを担い、この地域であなたの福音を伝えていくことができますように。病と戦っている兄弟姉妹を癒してください。季節の変わり目ですので、私たちの健康を守り、今週もあなたのみことばを聴いて、あなたを礼拝し、隣人を愛する者となりますように。この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。 ア−メン

讃美歌 401−3 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金  (献金の祈り)
主の祈り

頌栄  27 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。
主があなたがたを祝福し、守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けてあなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。 ア−メン

       〇来週の聖日(9月27日)
  説教「この家に平和があるように」 山ノ下恭二牧師
  聖書 ホセア書14章5−8節 
     ルカによる福音書10章1−20節
  交読詩編 61 讃美歌  83−1 214 289 402 29


讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条

(WEB礼拝)
20200913  主日礼拝説教  「最も小さい者こそ、最もえらい」 山ノ下恭二牧師
(申命記7章6−8節、 ルカによる福音書9章46−56節)

9月13日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年9月13日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    43編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      16   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           申命記7章6−8節(旧約292ページ)
           ルカによる福音書9章46−56節(新約124ページ)

祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  520    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200913 主日礼拝説教  「最も小さい者こそ、最もえらい」 山ノ下恭二牧
   以下、声に出して読んでください。
 私が東京神学大学4年生の時に、秋田の大曲教会に夏期伝道に行きました。大曲教会の当時の牧師は、荒井源三郎牧師でしたが、荒井牧師が、ある時、こういう話をしてくれたことをよく覚えています。荒井牧師が若かったころ、ある教会の礼拝に出席して、その教会の牧師が説教をしていた時に、会堂の中に、母親と赤ちゃんがいたそうです。そのうち赤ちゃんが泣き出したそうです。しばらく泣き止まなかったのですが、その牧師は、講壇を降りて、その赤ちゃんの頭をなでながら、説教を続けて、泣き止んだら、講壇にあがって、説教を続けたそうです。この場面を見て、荒井牧師は、この牧師はえらい、立派な牧師だと思ったと話したのです。
 
 私は礼拝で赤ちゃんが泣くと、この話を思い出すのです。礼拝の説教の時に、赤ちゃんが泣く、それは説教をしている者は集中して話すことができないし、説教を聞いている者も説教に集中して聴くことができないのです。赤ちゃんが泣いている時に、母親が何とかしないのか、と心の中で思うのです。その雰囲気を感じて、会堂から赤ちゃんを連れて出て行く母親もいます。しかし、この牧師は、赤ちゃんの存在を重んじ、受け容れていることをこの振る舞いで示したのです。

 赤ちゃんの存在、それは私たち大人から見れば、とても小さな存在に過ぎません。無視して良いと思われている存在です。そこにいてもいないかのように扱っても良いと思われる存在です。しかし、その小さな存在も、無視できない存在であり、受け入れる存在なのです。

 主イエスの弟子たちは、12人いました。12人いれば、その中で誰が指導的な役割を担うのか、を考えるのは自然なことです。弟子たちは、主イエスが将来、この国の指導者となることを考えていましたから、その時には、主イエスのすぐ近くにいて、二番目の地位、ナンバ−2になりたいと願っていた弟子たちもいたのです。主イエスと共に山に登ったのは、12人のうちの3人の弟子たちでした。他の9人の弟子たちは、山に登ることはなく、てんかんの子供を癒すことができなかったので、自分たちが主イエスの弟子としてふさわしくないと思っていたのです。主イエスと共に山に登った弟子たちは、主イエスの近くにいて誇らしい思いを持っていたのです。12人の弟子たちはそれぞれ複雑な思いを持ちながら、弟子たちの間で誰が偉いのか、という話題になったのです。

 この社会では、集団に属している人々は、集団の中で、どの人が偉いのか、ということを考えて行動をしています。集団の中で、自分がどこに位置しているのか、自分の順位はどうなのか、ということはとても気になることです。この社会は何でもランクづけをしています。この社会では何でも順位があるのです。ネットではホテル、レストランのランキングが書かれていて、このランキングを参考にして人々はホテルやレストランを選ぶのです。学校もランキングがあり、学校の中も生徒をランクづけにして、成績をあげようとしているのです。

 最近、有名大学に、多くの生徒が合格している高校は、その時の定期試験の結果によって、その度に教室の席順を換えるそうです。どの座席に座っているか、成績が悪い人がすぐに分かるそうです。高校の方針では、成績が悪くても、成績を上げるようにがんばれという励ましの意味でそうしているのかもしれませんが、最下位になった生徒にとっては、その椅子に座ることは、励ましになるよりも自信を失わせ、学ぶ意欲を削ぐことになるのではないか、と思います。

 興味深いことに「偉い」と翻訳されている言葉は「メガ」という言葉です。この言葉は「巨大な」「とても大きい」という言葉です。その共同体の中でその存在が大きいということです。存在感があるのです。その人が発言するとそこにいる人は黙ってしまい、その人の意見が通るということです。偉い人が物事を決めたり、方向を決めて、その人の考え通りになるということです。主導権を持ち、物事を決めていくのです。

 この社会では、人々のために役立ちたい、貢献したい、そのような自分の理想をかかげて、がんばり、その働きぶりで、周りから評価されて、偉くなった、社会的な地位を得たという人もいるのです。特に社会福祉や教育、公共のために働いて、その地位を獲得した人もいるので、偉くなることは全面的に間違いとは言えないのです。
 ここで問題なのは、他の人よりも自分が一番、偉くなりたいと思うことです。そこに権力を目指し、権力を志向する心があるのです。権力を志向することが、私たち人間の心にあるということです。自分が相手を支配して、自分の思い通りに動かしたい、という心が、私たちの中にあるのです。

 そして、自分が偉くなりたいという思いを持つ、最も大きな問題は、私たちが自分を重んじてほしいという思いを持っていることです。自分が重んじられなかった、無視されているように思った、ということはあるのです。どうして自分は重んじられなかったのか、どうしてあの人だけ、みんなに重んじられるのか、考えて心が病むのです。この社会では、いつもランクがあり、自分が人よりも上にいるのか、下にいるのか、を気にしているのです。相対的な評価を気にしているのです。

 ここでは、社会の中での偉さ、ではなく、弟子たちの中での偉さについて弟子たちが議論していたのです。ルカ9章46節に「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いのかという議論が起きた。」と記されています。そして「イエスは彼らの心の内を見抜き」と書いています。「心の内」を直訳すると「心の議論」という言葉になります。
 
 この12人のうちで、主イエスが引き連れて山に登った、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、に対して、他の弟子が、口に出して議論していただけではなく、弟子たちそれぞれの心の中で、自分がどうしたら偉くなれるのかと問い始めた、と言うことです。弟子たちの心が、将来の自分の地位がどうなるのか、そのことに関心が向いていく、自分がどのようにしたら偉くなるのかに関心を持ち始めたのです。主イエスの弟子として、主イエスに対してどのように仕えたら、喜ばれるのか、と考えることよりも、自分のことに関心をもち、考え始めるようになったのです。心の中で議論していくうちに、弟子たちの心が自分のことに傾き、心が病んでしまうのです。

 主イエスは弟子たちが誰が偉いかを口に出して議論し、それぞれの心の中で議論していることを「見抜き」、とても驚かれたのです。そういう議論をしていること自体、問題であると思ったのです。この世では、偉くなることに価値があることは当然であるとしているけれども、神の国は、人々の間での順位、ランクは全く問題にならないことを主イエスは語ろうとしたのです。神の国では、誰が偉いのか、そのことを考える余地はないはずなのです。

 弟子たちの間で、誰が偉いのか、を議論していたのです。弟子たちとは、現在の教会と言う共同体を指しています。私たちの心の中でも、偉い人は誰なのか、考えることもあります。また偉くなりたいと思うことがあるのです。教会に初めて来た人は、教会の礼拝に出席すると長老が司式をしているので、どうも長老が教会では偉いのではないか、と思うこともあるようです。自分も長老になってみたいと思う人もいるかも知れません。長老になると、礼拝を休むことができませんし、教会の仕事をたくさんしなければならないので、大変であることを知っている人は、長老になりたいとは思わない人もいると思います。長老は気楽な仕事ではないのです。しかし、人によっては、長老と言うステータスが欲しいという人もいます。

 弟子たちの心の内を見抜いた主イエスは、「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせ」たのです。この時代、女性や子供は人数の中に数えていませんでした。それは今も変わらないのです。女、子供は人々から無視された存在です。
 ある時、あるスーパーで買い物をしてレジに並んでいましたが、私が支払いを済ませて、その後に、幼稚園に通っていると思われる男の子が、私の後にいて、レジで品物を出そうとした時、おじさんが、その男の子の存在を無視して、自分の支払いを済まそうとして、店員もそれに応じていた場面を見たのです。「この子が先ですよ」と言わなかったことを反省しましたが、現代でも、子供は一人前ではない、無視しても良いという考えがあるのです。

 主イエスは「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせ」たのです。神の国、神が中心であるところは、誰が上で誰が下で、この人は偉く、この人は偉くない、そういうところに価値があると考えない世界であるのです。その存在が無視されている、生きるのに能力も働きも貢献もしない人々が、一番、中心であることを語るのです。
 
 ここで、主イエスは子供のことだけを言っているのではなく、主イエスが相手にしていた人々のことを含めているのです。主イエスはどのような人を相手にしたでしょうか。この当時のイスラエル社会もランクがありました。エルサレム神殿の祭司、ファリサイ派の人々、律法学者たちが、権威をもっていたのです。この人たちは、偉い人たちであったのです。しかし、主イエスは、この人たちが偉いとは言いませんでした。相手にしていなかったのです。むしろ、偉くない人たちを相手にしていたのです。
 
 マタイによる福音書18章で主イエスは、「迷い出た羊のたとえ」を語っています。このたとえでは、百匹の中の一匹の羊が道に迷ってしまい、羊飼いがそのいなくなった羊を懸命に捜し出す物語が語られています。百匹の羊の中の一匹位、いなくなってもいいや、ということではないのです。迷い出た一匹が大切なのです。この一匹の羊とは、とても小さな者、罪を犯した人のことです。罪を犯した者は小さな存在であるのです。しかし、そのような小さな存在、罪を犯した者を愛の対象として、罪を赦すことを勧めているのです。

 主イエスは社会で価値がある仕事をしている人のところには訪ねることはなかったのです。この社会で、評価されている人々、有能な人々とは付き合うことはなかったのです。むしろ、主イエスは、多くの病を持つ人々、障がいを持っている人々とつきあったのです。

 主イエスは、弟子たちの前で、子供を主イエスのそばに置いたのです。マルコによる福音書9章36節では、弟子たちの「真ん中に立たせ」と言っています。今まで、人々がその存在を無視し、軽く扱ってきた子供を真ん中に立たせたのです。
 ルカ9章48節には「言われた。『わたしの名のためにこの子供を受け入れる者はわたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしなった方を受け入れるのである。』」と語られています。神の国では、この小さな存在を受け容れる者は、イエス・キリストを受け入れ、主イエス・キリストを受け入れる者は、イエス・キリストを遣わした神を受け入れるのだ、と語ります。目の前にいる、この小さな存在を私たちがどのように受け入れるのかが、問われているのです。
 
 マタイによる福音書25章40節(p51)には「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と語られています。「最も小さい者」この言葉は、「ミクロ」という言葉です。目では見えない位、ほんとうに小さい存在のことです。「ミクロ」のような本当に小さい者に対して、愛の行為をするのは、主イエスに対してしているのと同じである、と語るのです。小さい者にまなざしを向け、あたかも、この小さな者を主イエス・キリストと同じ存在として受け入れる、愛の行為をするように、と勧めているのです。
 本日の聖書は、私たちが最も小さな存在を大切にし、愛のまなざしをもつことを教えているのです。

祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。9月第二週の聖日に、あなたに招かれて、兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたのみことばを聴くことができ、心から感謝を致します。私たちがあなたの御前に謙虚な思いをもって、神に仕え、隣人を愛する生活をすることができますように導いてください。あなたは、最も小さい存在に愛を注いでくださいました。その心を私たちの心として、最も小さい者を愛することができますように。兄弟姉妹の中で病床にあり、病と戦っている兄弟姉妹をあなたが癒してくださいますように。この週も私たちを見守り、あなたのみこころを行うことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メ

讃美歌  458  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金   (献金の祈り)
主の祈
頌栄   27  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけていきなさい。
主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン 


       来週の聖日(9月20日)
説教 「何よりもまず、神の国を告げ知らせなさい」  山ノ下恭二牧師
聖書  エレミヤ書13章15−17節 
    ルカによる福音書9章57−62節
讃美歌 83−1 17 494 401 27
交読詩編 48



(WEB礼拝)
20200906  主日礼拝説教  「あなたは悪霊から解放されている」 山ノ下恭二牧師
(詩編38編10−13節、ルカによる福音書9章37−45節)

9月6日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年9月6日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    32編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      56   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           詩編38編10−13節(旧約聖書871ページ)、
           ルカによる福音書9章37−45節(新約聖書123ページ)、

祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  227    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200906 主日礼拝説教  「あなたは悪霊から解放されている」 山ノ下恭二牧師
              以下、声に出して読んでください。
 アフガニスタンで30年、医療活動を続けながら、1600の井戸を掘り、25キロに及ぶ用水路を拓いた、中村哲という医師のことを聞いたことがあると思います。中村哲さんは、昨年、突然、銃撃を受け、逝去されたのですが、「天、共に在り」アフガニスタン30年の闘い−という本が出版されて、私はこの本の紹介を季刊「教会」という雑誌に載せました。
 
 中村哲さんは、西南高校生の時に、内村鑑三の「後世への最大遺物」を読んで感動したのです。この本に刺激されて、日本のために自分を献げるという使命感を持つようになり、日本の無医村のために働くために、医学部に入ったのです。「天、共に在り」という本の題名になったのは、洗礼を受けて、聖書の中に「インマヌエル」という言葉があることを知り、この言葉が、聖書が語る神髄であるので、題名に付けたのです。アフガニスタンの人々が戦乱によって難民となり、医療が十分に行き渡っていないところで、医療活動を続けてきたのです。

 井戸を掘る事業に献身することになったのは、アフガンが農業国であるにもかかわらず、水を確保できないために、農作物を収穫できず、旱魃の犠牲者の多くが、幼児であることに気がついたのです。「天、共に在り」の中で「食べ物不足で栄養失調になり、抵抗力が落ちる。汚水を口にして下痢症などの腸管感染症にかかり、簡単に落命するのである。」と書いています。この事実を知り、中村医師は、すでに病気になった人々を治療することよりも、日々の食料を確保し、体力をつけることが、アフガンの人々にとって必要なことであると確信して、水路を建設する仕事を始めたのです。水路を建設することによって、畑に水が潤い、野菜などが実り、食料が生産されてきたのです。
 このような活動を支えたのは、中村哲さんのキリスト教信仰であり、神が共におられることを信じ、アフガンの人々のいのちを守るために、現地で奉仕されたのです。

 主イエスが3人の弟子たちと山から降りると、群衆の中から、一人の男が、自分のひとり息子を癒してほしい、と願ったのです。悪霊に取り憑かれて苦しんでいる、とありますが、この息子は、てんかんであったのです。私が高校生の時に、関東教区の高校生の修養会で、一緒に参加した友達が、突然、倒れたので驚いたのですが、この人がてんかんであったのです。主イエスの弟子たちは「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を」与えられたので、この男の子の病をいやすことができたはずですが、できなかったのです。弟子たちは自分で何でもできると思って、この男の子の病をいやそうとしたのですが、いやすことができなかったのです。

 私たち現代人は自分の力で何でもできると思っているのです。人間のすぐれた知性と能力によって、築きあげられた現代科学は、地上から病気という悪を追い出し、私たちは便利で快適な生活ができるように思われました。人間の力を過信して、神がいなくても、神に頼らなくてもやっていけると思うようになったのですが、人間の力ではどうすることもできないことが起こっています。

 この数年、今まで経験したことのない大水害が発生し、大型の台風が襲来し、大きな被害をもたらしています。これは、地球温暖化に原因があると言われています。二酸化炭素を削減することが解決になるのですが、経済重視のために、二酸化炭素を削減することができないでいます。経済によって人間の暮らしを豊かにしようとして、二酸化炭素を削減することに同意しないのです。このために、地球温暖化が進み、大きな災害が多発しています。そして地球の高温化のために、毎年、高温のために、熱中症で死亡する人が増えているのです。このような、地球温暖化は、私たちの生活を脅かしています。私たちの力ではどうすることもできないことが多いのです。

 悪霊と言うと、私たちには身近なこととして考えませんが、私たちは何かに支配されているのです。自分は何にも支配されていない、と考えている人は多いのです。しかし、私たちは悪霊に支配されているのです。時代の霊に支配されるのです。本棚を整理していましたら、1969年の東京神学大学の紛争の記録の本が出て来ました。紛争記録には、ヘルメットをかぶった学生がいて、デモをしたり、大学のバリケ−ドの前で、立て看板を背後にして演説をしている写真がありました。その時代の独特な雰囲気がありました。デモに参加しないとその時代に乗り遅れるような雰囲気がありました。
 
 太平洋戦争の戦前、戦中の時期にも時代の霊が働き、戦争に協力しないのは、非国民であり、戦争反対を言うのは許されない雰囲気があったのです。

 ロシアの作家ドストエフスキーの「罪と罰」には、一人の青年、ラスコーリニコフが、金貸しの老婆を殺してしまうのですが、貧しい人々を苦しめている老婆を自分が殺しても良いのだ、という思い込みをする、正当化する、このことも悪霊に支配されていることではないか、と私は思うのです。相模原のやまゆり園で、障がい者が多く殺されましたが、障がい者が生きているのは、意味がないという観念に支配されて、この考えが絶対的になってしまう、それは、悪霊に支配されてしまったのではないか、と思います。悪い考えに引きずられ、障がい者を殺すことが正義であると思い込み、殺人には正当な理由があると思い込むのです。

 主イエスと3人の弟子たちは山に登っていて、他の弟子たちは下にいて、助けを求めて来た父親の願いを聞いて、いやそうとしたのです。しかし、自分たちの力でできると思い込み、神のみこころを問うこともなく、祈りもなかったのです。神の力を頼まず、自分の力を当てにして、癒やしを行おうとしたので、このてんかんの子どもの病を癒すことはできなかったのです。ひとりの男の子の父親は、主イエスの弟子たちに望みをかけていました。しかし、弟子たちには、この悪霊を追い出す力はなかったのです。悪霊の力のほうが強かったのです。

 弟子たちが、悪霊を追い出すことができなかったということを聞いて、主イエスは、9章41節で「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。』」と嘆いているのです。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」神との関係を持たない、神に助けを求めることをしない、神を無視して、自分が何でもできる、と考えている、そのような時代に生きている、それはよこしまな時代であると言うのです。自分の力に依り頼み、神を信頼せず、神から良いものが来ると思わないのです。

 この「よこしま」という言葉は元々「曲がっている」という言葉です。よく針金が曲がっているので、真っ直ぐにしようとしますが、なかなか真っ直ぐにはならないことがあります。神に対して不誠実である、ということです。常に自分のことを中心に考え、行動する、それが、曲がっている針金のように、よこしま、なのです。
 旧約聖書・申命記32章4−5節(p332)で、神はまっすぐで、イスラエルの民は曲がっている、と語っています。「主は岩、その御業は完全で その道はことごとく正しい。真実の神で偽りはなく 正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ その傷ゆえに、もはや神の子ではない。」神はまっすぐな方、しかし、イスラエルの民は曲がっているのです。神は、私たちに対して、誠実をもって私たちを愛する方、しかし、私たちは、自分を第一にして自分を優先するのです。まっすぐに生きるということは、いつも神に対して誠実で、神のみこころを第一にすることです。神の言葉に聴き、神が喜ばれるように生きることです。
 その意味で、私たちは、自分中心という悪霊に支配されているのです。悪霊に支配されていることによって、自分中心になっていくのです。

 マルコによる福音書では、子どもが癒された後に、弟子たちが、なぜ自分たちは悪霊を追い出せなかったか、と主イエスにひそかに聞いたのです。それに対して、主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と語られたのです。「祈りによらなければ」と言っているのは、悪から私たち人間を解放するためには、どうしても神の力が必要なことを教えているのです。

 私たちは、どんなに困難な問題も、人間の知恵をもち、忍耐強く努力しさえすれば、みんなと手をつないで協力しさえすれば、解決できると思っているのです。しかし、人間の力ではどうにもならないことがあるのです。壁にぶつかって、その壁を打ち破ることができず、無力感を抱くこともあります。人間の力で何でも解決できるという楽観論を持つ、また逆に、いくら努力してもだめだというあきらめをもつことがあります。それを乗り越える力が神にはあるのです。悪霊を追い出すことができない時に、解決する力を与えてくださるように神に祈ることを語るのです。

 ルカによる福音書18章には、気を落とさずに絶えず祈るようにと主イエスは、譬話を語っています。ルカによる福音書18章には、ある事件があってやもめが自分の裁判を正しく裁いてほしいと裁判官のところに熱心に通うのです。この裁判官はわいろを受け取ると裁判を曲げてしまう不正な裁判官ですが、このやもめが頻繁に裁判官の家に来てお願いするので、断ったら、このやもめに殴られてしまうという恐れを持ち、裁判をするのです。この譬え話は、神に熱心に祈り、願うことを教える譬えなのです。祈りは神との対話です。神のみこころを聴き、それにお答えするのです。

 悪霊の力がいかに強大なものであるか、ということがルカ9章42節に記されています。「その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。」とあります。「投げ倒す」という言葉は、「地上に打ち倒す」という言葉です。たとえば、ボクシングのボクサーが、相手をノックアウトで倒した時の情景を思い出します。またプロレスラーが、相手を投げ倒した時に使う言葉です。人間が悪霊を相手に戦っても、勝つことができないほど、悪霊の力は強力なのです。

 しかし、主イエスは、「汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった」のです。汚れた霊を叱りつけ、子供をいやしたことで、主イエスは、その強い悪霊よりもさらに強い力をもっているのです。

 中村哲さんは、自分のためではなく、アフガンで生活する人々のために、水路を建設する作業を始めたのですが、これは神に対してまっすぐな信仰の心を持ち、隣人を心から愛する、そのような姿勢を持って用水路建設に励んだのです。

 私たちには悪霊を追放された主イエス・キリストの霊を与えられています。イエス・キリストの霊、すなわち聖霊を私たちは与えられているのですから、私たちの中で、悪霊の働く余地はないのです。聖霊の力は、悪霊の力よりも強いのです。人間の力によるのではなく、私たちと共におられる聖霊を求めて祈るのです。祈りは神との深い交わりを生み出すのです。祈ることによって聖霊が与えられ、聖霊によって歩むことができるのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。9月の第一の主日に、あなたの招きによって兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたのみことばを聴くことができ、心から感謝致します。私たちは、この世を支配する悪霊によってではなく、神の聖霊によって心が満たされ、あなたを第一に礼拝し、隣人を愛する者として歩むことができますように導いてください。コロナウイルスの感染が終息せず、思いがけなく感染した方々が回復することができますように。治療を実践している医療従事者の健康を守り、その仕事に専念することができますように。暑い日々が続きますが、私たちの心身を守り、あなたのみこころを行うことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌  509   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金   (献金の祈り)

頌栄   29     http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
  神が共におられます。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。 ア−メン 

          来週の聖日(9月13日)
   
   説教「最も小さい者こそ、最もえらい」山ノ下恭二牧師
   聖書 申命記7章6−8節 ルカによる福音書9章46−56節
   交読詩編 43 讃美歌83−1 16 520 458 27



(WEB礼拝)
20200830  主日礼拝説教  「死を見ることのない人生」 山ノ下恭二牧
(ミカ書7章18−19節、ルカによる福音書9章28−36節)

8月30日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年8月30日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    30編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      57   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           ミカ書7章18−19節(旧約聖書1458ページ)、
           ルカによる福音書9章28−36節(新約聖書123ページ)、

祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  288    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200830 主日礼拝説教 「死を見ることのない人生」 山ノ下恭二牧師
             以下、声に出して読んでください。
 牛込払方町教会で葬儀がある時にお願いしている、あるキリスト教葬儀社の人が年に何回か、訪ねてきます。ある時、訪ねてきて、葬儀のパンフレットを戴きました。私はその人に「教会員の皆さんは元気です」と言ったことがあります。キリスト教葬儀社の人が帰った後で、教会の人はどうして元気なのか、と言うことを考えました。元気である原因は、神を信じているからではないか、と思ったのです。私たちが死を越える神をもっているので、元気なのです。自分たちのいのちを愛し、自分たちを守ってくださる神を信頼しているので、元気なのです。人間の死に勝る、死に打ち勝つ神を信頼しているので、元気なのです。私たちの強みは、死を乗り越えた神を信じていることにあります。

 地上の人間のいのちは死をもって終わります。私たちは、自分の死を迎えるまで、事故もなく、病気にもならずに、いのちを全うしたいと思っているのです。自分の人生が自分の思い通りにならないことは分かっていても、自分の人生が死によって中断することを恐れています。時々、起こりますが、ビルの建築現場を通っていたら、上から大きな鉄板が落ちて来て死んでしまった事故があります。その事故の犠牲者は、自分がそのようなことになるとは全く思っていなかったと思います。特に、今はコロナウイルスに感染して被害者にならず、他の人に感染させる加害者にならないように気をつけているのです。事故にも遭わず、病気にもならずに、毎日、無事に過ごすことができれば良いと願っているのです。

 NHK教育テレビで、4月から9月まで一月に一回、「こころの時代」という番組で、小友聡先生が旧約聖書のコへレトの言葉を講演しています。この講演は「それでも生きる」−旧約聖書「コへレトの言葉」−という題です。私は今この講演のテキストを読んでいます。コへレトの言葉は、死について多く語られている書物です。コへレトの言葉7章には「死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは酒宴の家に行くにまさる。そこには、すべての人間の終わりがある。生きる者はそれを心に留めよ。」とあります。このみことばは、自分に死ぬ日が来ることを意識して、人生が終わることを受け止めるように、と言う意味なのです。テキストには私たちの人生には死と言う終わりがあることをいつも自覚しながら、今の時をしっかりと生きることを教えていると書いてありました。

 このコへレトの言葉を書いた人は、人間が死ぬ現実をしっかり受け止めているのです。私たちは、自分が死ぬ、ということを考えたくないのです。私たちは、自分が死ぬ存在であることを受け入れることがなかなかできません。しかし、いつかは自分が死を経験するのです。死ぬことは、意識がなくなり、この地上から自分という存在が消えてしまうことです。死ぬことは、地上で関わっていた人々と一切の関係を失ってしまうのです。死ぬことは怖いことです。死にたくはないのです。しかし、自分が死ぬ存在であることを自覚して、自分がどのように生きて行くのが、良いのかということをよく考えていくのです。
 
 今日の礼拝で与えられたみことばは、山上の変貌の物語と言われているところです。主イエスが、ペトロとヨハネとヤコブと言う3人の弟子たちを連れて、祈るために山に登ったのです。祈っているうちに、主イエスが変貌し、旧約聖書のモーセとエリヤが現れたのです。主イエスは二人と話した後に、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。」と言う神のみ声を聞くのです。
 この物語を読んで私たちはこの世では経験しない、この世離れした、不思議で神秘的な情景が書かれていると思うのです。それは今日、読んだところの直前の主イエスのお姿と随分、違っているからです。主イエスは病人を癒したり、罪人と食事をしたり、神の国の福音を宣べ伝えてほこりにまみれている、そういう人間の姿ですが、ここでは、その姿そのものが別の存在になっているのです。神の国の伝道のために奔走していた姿とは余りにも違っていて、説明することが難しいのです。

 主イエスは祈るために山に登られました。毎日のように、祈られたのですが、この時は特別な思いをもって山に登られました。旧約聖書のモーセや預言者たちは、神にお会いするためによく山に登っています。モーセは律法を書いた板を戴く時に山に登り、そこで神の栄光を見ました。エリヤも神のみ声を、ホレブの山で聞いたのです。
 ルカ9章29−31節には、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と記されています。主イエスが祈っておられるうちに、主イエスの顔の様子が変わり、そこでモーセとエリヤとに対面し、主イエスの最期について話し合ったのです。そして35節で雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」と言う声が聞こえた、と記されています。

 聖書を読む時には、前後の文脈から読むことが大切です。9章20節には主イエスが、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞いています。それに対して、ペトロは「神からのメシアです」と答えています。そして、その後に主イエスは、ご自分がやがて「多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」とはっきりと語られています。
 ここで主イエスはこれから苦しみを受け、十字架につけられて死ぬことは必然だと語り、自分がやがて死ぬことを自覚しているのです。自分の死が近いと思うと、自分が生きて来た意味を問い、自分の人生をまとめようとするのです。そして自分のこれまでの人生の歩みを文章でもってまとめたいと思う人たちも多いのです。
 
 私の先輩の牧師は、隠退したのちに、一冊の本を出しました。面白い題名の本で「天に錨を投ずる」という題です。その本には、現役の時の説教数編や幾つかの講演が入っていました。一所懸命に説教し、牧会をして、教会に仕えて来た、その歩みを振り返りながら、自分の人生が、意味のある、価値のある人生であったことを確認するのです。
 一人の人が亡くなると、家族や親しい人が、遺稿集や記念集を出版するのです。私も信徒の遺稿集や、牧師の説教集の作成に携わったことがあります。有名なキリスト者でなくて、無名の教会員の遺稿集を読むと、その人の信仰の歩みを知って励まされることがあります。岡山の蕃山町教会の松本純郎という長老の「巡歴の軌跡」という遺稿集には、この人が戦前、陸軍士官学校で「皇国史観」を教えていた教官で、戦後、教会に行って、キリストの福音を知って、180度の転換をして、キリストに仕えるようになった軌跡が詳しく書かれています。

 主イエスは、神と同じ方ですが、同時に罪を他にしては私たちと同じ肉と血を持っている、生きた人間存在でした。苦しみ、悲しみ、泣き、心折れることもあったに違いないのです。私たちと同じ経験をしているのです。何のために生き、何のために死ぬのか、主イエス御自身がどのような存在であるか、を神に祈って確かめたい、と願って山に登ったのです。
 モーセとエリヤ、この二人は主イエスと何を話し合っていたのでしょうか。それは「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について話していた。」と書かれています。このことはどのようなことを私たちに語っているのでしょうか。端的に言うと、モーセは律法を表しています。エリヤは預言を代表しています。モーセとエリヤ、この二人は旧約聖書を指しているのです。この二人が主イエスと話し合っていた、つまり、主イエスが十字架にかかり、死ぬ、そのあり方が、旧約聖書が待ち望んでいたことであり、この二人はこのことに同意し、賛成したのです。
 
 旧約聖書を読むと詳しく記されていますが、モーセとエリヤ、この二人は、神から召されて、神に仕えてその生涯を全うした人物でしたが、その生涯は苦労の多い、苦難に満ちた歩みであったのです。モーセはエジプトからカナンの地までイスラエルの民と共に歩む中で、イスラエルの民の不信仰、罪、に直面し、40年の間、忍耐して不信仰の民と共に歩んだのです。
 行動の預言者エリヤは、この当時、外国から持ち込まれた、バアルという天候を左右する神を人々が礼拝していることを厳しく批判し、対決し、まことの神、「主」を礼拝することを人々に告げたのです。エリヤ、「主こそ神」という名前を与えられて、主をまことの神として礼拝し、その信仰を守ろうとしたのですが、この当時の王に迫害され、食べるものもなく、死ぬことを願ったほどの辛い経験をしているのです。苦しく辛い戦いを経験してきた二人の預言者が、これから十字架の苦難に遭い、私たちの罪を贖うために、最も厳しい、裁きの死を経験する、この主イエスを励ましているのです。

 主イエスに、父なる神が共にいてくださる、父なる神にただ信頼して委ねなさいと励ましたのです。心配することはない、頑張れと励ましているのです。 死ということは、孤独を経験することです。親しい人と別れて一人で死ななければならない、本当の孤独を経験することなのです。そのような時に、死においても、死の中においても、その後でも、父なる神が、いつも共にいてくださる、その暖かい言葉は大きな励ましになるのです。
 
 モーセとエリヤ、この二人が主イエスと「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」話し合っていたのですが、この「最期」という言葉が鍵となる言葉なのです。この「最期」というギリシャ語は「エクソドス」という言葉なのです。この言葉は「世を去る・死ぬ」という意味と共に「出て行く」という意味を含んでいます。旧約聖書の出エジプト記をギリシャ語では「エクソダス」と名付けられているように、奴隷から解放されて自由になって約束の国に向かって「出て行く」のです。この「最期」は、主イエスが、十字架の受難、復活、昇天によって、神が、私たちをすべての悪と罪から脱出させることを語っているのです。

 私たちにとって避けられない問題は、死ということと共に、罪の問題があるのではないでしょうか。私たちにとって心の痛みとなっているのは、罪の問題です。別の側面から言うと、私たちは、本当の意味で、愛することができない存在であると言うことです。神を愛すると言っても、神を信じると自分に利益があるから、自分に良いことがあるから神を信じるのです。自分のために神を信じるのです。
 預言者エリヤは偶像礼拝をしている者の罪を厳しく弾劾しています。人々がバアルという神を礼拝しているのは、理由があるのです。それは、自分たちの利益になるからです。最も適した季節に、バアルが太陽を照らし、雨を降らせて、穀物が実るという御利益があるので、バアルという神を礼拝しているのです。私たちも自分の願いや希望を満たしてくれる神であれば、神を礼拝するのです。自分にとって利益がなければ、礼拝することを止めるのです。
 
 また、私たちは隣人を愛することができません。相手が自分に利益をもたらすならば、愛するのです。相手そのものを愛するのではなく、相手がもっている価値あるものを愛するのです。愛するのに相手に価値がなければ、愛さないのです。自分を愛してくれるから、相手を愛するのです。しかし、自分を愛さない人を愛することはありません。
 このような深い罪を私たちは持っているのです。この深い、重い罪を赦して、罪から解放するために、罪の支配から、私たちが出て行くために、神はイエス・キリストによって、身代わりになって罪を贖ってくださったのです。

ルカによる福音書9章35節には「すると『これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け』」と言う声が雲の中から聞こえた。」と記されています。神から直接、主イエスに対する最高の承認と支持があったのです。

 「これは私の子、選ばれた者、これに聞け」と言う言葉は、詩編2編の「王の即位の歌」と関わります。イスラエルの王が即位する時に歌われた詩編です。
 しかし、この王は、イザヤ書53章には権力をもって人々を支配する王ではなくて、苦難によって仕える僕と理解されるようになりました。
 イザヤ書53章には、「苦難の僕の歌」が記されています。この僕、救い主は、弱い者、捨てられた者、すべての罪ある者の味方であり、真実をもって、神の義を示し、困難を極める、救いの道を歩みながら、人々のために僕の道を進むのです。主イエスがこの預言を体現した苦難の僕であり、私たちの罪を贖うために、犠牲をささげたのです。それはこのことによってイエス・キリストが私たちのための神になられるためです。神に背いた私たちを救うために、神がみ子イエス・キリストを遣わし、十字架の犠牲の死によって、神との正常な関わりが与えられたのです。

 本日の礼拝で、旧約聖書ミカ書7章18−19節を読みました。「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」

 上智大学で死生学を教えていたアルフォンス・デーケン神父が「よりよき死のために−「死への準備教育」創始者が伝えたいこと−と言う本を書いています。この本の第二章には「旅立つ前にやっておきたい6つのこと」というところがあります。その一つに「許せない」と思っていた人を許し、人間関係のわだかまりを解いておく、とありました。私たちも人に対してひどいことを言ったり、罪を犯してきたのですが、私たちは、自分に対してした相手の過ちをなかなか赦せないのです。自分に対してひどいことをした人を赦せないでいることも多いのです。キリストの贖いによって罪が赦された者として、この世を旅立つ前に、相手の過ちを赦して、わだかまりを解いておくことを勧めています。

 私たちキリスト者の強みは、私たちの罪を赦し、受け入れ、私たちを愛する神をもっていることです。私たちを愛する神は、死を乗り越えて、永遠の神なのです。「死を見ることのない人生」この説教題を見て、おかしな題だと思った人もいると思います。私たちは、他の人の死にゆく有様を見ることがありますし、自分もやがて死を経験するのです。
 私たちは現実に自分の死を経験し、他の人の死を見るのです。しかし、神が私たちの罪を赦し、愛してくださっているので、死を乗り越えた生命に生きることができるのです。この地上のいのちはなくなっても、神とつながっているので、永遠のいのちの中にあるので、死を見ることはないのです。

 私たちは、死を超えた神に、生きる根拠をもっているのです。私たちは神のもとに帰ります。私たちのいのちは神とつながり、永遠のいのちの中に守られているのです。生きる時も、死ぬ時も私たちと共にいてくださる神に、私たちは所属しているので、死を見ることはないのです。


祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。暑い日々が続いていますが、あなたに招かれ、教会の兄弟姉妹と共にみことばを聴き、あなたが私たちの罪を赦し、愛してくださり、死を超えたいのちを私たちに与えてくださっていることを知らされ、心から感謝致します。死を恐れず、あなたを仰いで、歩むことができますように導いてください。教会の兄弟姉妹の中で、入院している方々、自宅療養をして回復を待っている方々を、あなたが癒し、共に礼拝に集うことができますように。この一週間もあなたのみこころに従うことができますように。この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名により、祈ります。アーメン 

讃美歌  521    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金   (祈り)
主の祈

頌栄   27    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけて行きなさい。
主があなたを祝福し、あなたをまもられますように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン

        
         来週の聖日(9月6日)
 説教 「あなたは悪霊から解放されている」 山ノ下恭二牧師
 聖書 詩編38編10−13節 ルカによる福音書9章37−45節
 讃美歌 83−1、56、227、509、29 交読詩編 32 


(WEB礼拝)
20200823  主日礼拝説教  「主の後ろに」 説教奉仕:矢田洋子牧師(東京女子大学専任講師)
(イザヤ書40章1−8節、ペトロの手紙一 1章13−25節)

8月23日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年8月23日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    28編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      482   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           出エジプト記33章18−23節(旧約150ページ) 
           マルコによる福音書8章31−34節(新約77ページ)

祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  461    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200823 主日礼拝説教  「主の後ろに」 矢田洋子(東京女子大学)

 「主イエス・キリストの後ろ」が、私たちの本来の居場所です。私たちが主イエス・キリストの後ろにあって初めて、神様の力と平安に満たされて歩むことができます。神様は、私たちがどのようであっても、その「後ろ」という場所を私たちに与え続け、時に私たちを後ろに引き戻し、私たちに後姿を見せながら、共に歩んでくださいます。
 
 新約聖書の朗読していただきました箇所、福音宣教に旅をするイエス・キリストの最初の受難予告の場面です。イエス様は、今ここで初めて、ご自分のメシアとしての使命を弟子たちにはっきりとお話しになりました。ご自分が、苦しみを受けて排斥され殺されるということ、そして復活するということ、それこそがご自分の使命なのだということを弟子たちにここで初めてはっきりとお話しになりました。

 しかし、弟子たちはこの時、イエス様のこの言葉の意味を理解することは全くできなかったようです。イエス様は多くの病人を癒し、力強い教えを語る力ある輝かしいお方でした。イエス様が「静まれ」というと、荒れ狂う嵐が静まりました。イエス様が「出て行け」というと、悪霊は取りついた人から出て行きました。多くの人がイエス様の教えを聞こうと集まってきて、イエス様の力強い教えに喜んで耳を傾けていました。イエス様の癒しによって、脚の萎えた人は立ち、耳の聞こえない人は聴こえ、目の見えない人は見えるようになりました。だから、ペトロは告白したのです。「あなたは、メシアです。」でも、ペトロも、イエス様がメシアという本当の意味を全く理解していなかったのです。力強いイエス様は、世を救う救い主、メシアなのだから、殺されるなんていうことがあるわけがない。ぺトロはイエス様を脇にお連れして諫め始めました。諫める、忠告をしたのです。叱るようなものです。ペトロがイエス様を叱ったのです。イエス様はこういう働きをしてくれるはずだと決めつけて、メシアはこうあるべきだと決めつけて、ペトロが上になり、イエス様を下にして叱ったのです。イエス様の後ろに従ってきたつもりだったのですが、いつの間にかイエス様の前に出て、ペトロはイエス様に教えようとしていました。「あなたは、こういうお方のはずです。メシアはこうあるべきである。殺されるなどと言ってはなりません。」

  他人事ではありません。私たちも、私たちが十字架と復活の出来事を知っているはずなのに、それでも神様の前に出て、神様に自分の確信を押し付けようとしていることがあります。「神は愛である、正義である。だから、神はこうあるべきである。キリスト教はこうあるべきである。教会はこうあるべきである。」従っているつもりだったのに、いつの間にかイエス様の前に出て、イエス様の上に立って、意見していることがあります。

 イエス様は、そのペトロを叱りました。「サタン、引き下がれ。」私たちは、イエス様がここでペトロを「サタン」と呼ばれたことに衝撃を受けます。サタンのような者ではなく、サタンよ、ペトロから出て行けというのでもなく、ペトロのことを、サタンと呼んでいるのです。

 サタンという言葉は、聖書辞典をひきますと、旧約聖書では元々「敵対する者、妨げる者」という普通名詞で用いられている言葉です。とくにマルコ福音書では「神様の御心を妨げる者」という普通名詞的な意味で用いられている、と書いてありました。

 ペトロのここでの発言は、イエス様を十字架から遠ざけようとする行為です。十字架の出来事は、神様の最大の愛の出来事ですから、それを邪魔する者は、神の御心に徹底的に反した者、サタンそのものです。でも、このサタンという言葉が余りに強烈なので、私たちがここで神様に突然断罪され、切り捨てられるかのように受け取ってしまってしまいます。

 ペトロだって、悪気があったわけではありませんでした。ペトロなりに一生懸命だったのです。「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエス様はペトロにそう言われましたが、人間に神様のことは全部分かるはずはありません。人間は、どんなに神様の御心のとおりにしようとしたって、人間のことを思って、人間世界の考えと感情を引きずってしか、何を言うことも、何をすることもできないのです。確かにペトロの理解は間違っていました。でも、ペトロはイエス様を救い主だと信じていたから、ああ言ってしまったのです。イエス様はこの世の中を変えてくれるメシアだと思っていたから、そして、何よりもイエス様が大好きだからああ言ったのです。それなのに、サタン。神の御心を理解できない私たち。私たちはいつ神様にサタンと言われるか分からない。そう思ってしまうと、神様に何を言ってもいけない、何を言うことも、何をすることも怖くなります。神様に捨てられないように、自分を捨てなければと自分を抑圧して、自分が何も考えないように、言われた通り、そして何も感じないように自分を強いるしかないのかなと思ってしまいます。

 しかし、イエス様はここでペトロに「サタン」とだけ言って非難したのではありません。イエス様はペトロに「サタン」と呼びながら、同時に「引き下がれ」と言われているのです。「引き下がれ」というギリシャ語は直訳すると、「私の後ろへ行け。私の後ろへ去れ。」と書いています。イエス様は、十字架の邪魔をしようとしたペトロに対して、「サタン」という激しい言葉で、その間違いを指摘しながらも、同時に私の後ろへ行け、と言われているのです。「消え失せろ」ではなく、「引き下がれ」「私の後ろへ」です。

 「私の後ろについてきなさい。」それはかつての召しの言葉。漁師だったペトロが、初めてイエス様に呼ばれたときの言葉であります。「私の後ろへ。」それは、間違って、前に出てしまった者を、叱りつけ、後ろへと引き戻す指導の言葉です。指導の言葉でありながらも、それでもなお、後ろに行かせてくださるという、イエス様の後ろに、一緒に居させてくださるという言葉でもあると思います。何をしてしまっても、決して見棄てないでいてくださるイエス・キリストの姿がここにもあります。私たちは十戒を恐れて縮こまらなくてもいいのです。どんな間違いをしてしまったとしても、神様は私たちを決して見捨てません。

 私たちが持っている信仰理解も間違っているかも知れません。神を賛美しているつもりの私の言葉も、福音宣教のむしろ妨げかも知れません。でも、私の思い、私の確信を、素直に神様に祈り求めてもよいと聖書は言っています。間違ったら叱られるでしょう。しかし、イエス様はペトロを「サタン」と叱りながらも見捨てなかったように、私たちをも決して見捨てません。何を言ってしまっても、神様は、間違いは間違いだと教えてくださり、そして、私たちを本来の居場所、イエス様の後ろに行くようにと導いてくださいます。

 「イエス様の後ろ、主の後ろ」が、主なる神様の後姿を見ることができる場所と言っていいと思います。旧約聖書の出エジプト記には、神様の栄光を見るというのは、神様の後姿を見ることだと言っているようです。モーセが神様に、「どうかあなたの栄光を私に見せてください」と強く願います。神様の栄光を見たいというのは、神様の力が私を活かし、導いてくれることを確認したいということです。このモーセの信仰の叫びに応えてくださって、神様がモーセに見せてくださったのは後姿でありました。神様はこう仰いました。「お前は私の後ろを見るが、私の顔は見えない。人は神の顔を見て、生きていることはできないからである」。神様が人間に見せてくださる栄光の姿は、主の後姿なのです。人は神の顔を見ることはできない、というのは、言うなれば、強い栄光の光の中にある神様を直接見ることは、人間にはできないということなのかも知れません。暗闇にいる者には、強い光と共にやってくるものを見ることはできないからです。

 私は、昔自転車で走り回っていましたが、街灯の殆どない真っ暗な道を自転車で走って行くときに、前から車が来てもそのライトが眩しすぎて、車がどこまで来ているのか分からなくて困った覚えがあります。ましてや、その車が何色でどんな型の車なのかは全く分かりません。神の顔を直接見ようとすることは、そんなものかも知れません。神の顔を直接見たと思えた時、実は自分勝手な神のイメージを見たと勘違いしているだけかもしれません。

 しかし、神様はご自分の栄光を後姿という形で、私たちにしっかり見せてくださいます。啓示してくださるのです。神様の後姿を見るには、神様の後ろにいなければなりません。「私の後ろへ」。それは神様の栄光を見ることのできる場所への導きでもあると思います。

 新約聖書に戻ります。ペトロは今「サタン、引き下がれ。私の後ろへ」と叱られました。その時、ぺトロはきっと、サタンというお叱りの言葉にびっくりして、立ちすくんでしまったに違いありません。ペトロは後ろに。一緒にいた弟子たちのもっと後ろに。そして、群衆に紛れてもっともっと後ろへ、遠く下がりながら不安になっていたことでしょう。イエス様はそんなペトロを放っておきません。イエス様は言いました。「私の後ろに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」イエス様は弟子たちに、群衆と、今イエス様に叱られてどうしていいか分からなくなったペトロに対して、私の後ろに従いたい者は従いなさい、ついて来なさいと呼びかけてくださったのです。ペトロは喜んで、イエス様の後について、イエス様と一緒にまた歩み始めました。

 イエス様に従うということは、イエス様の後ろにいつもいることです。イエス様の後ろについて行くことです。イエス様の後姿を見続けて、主の栄光によって力と平安をいただきながら、イエス様の後ろ、つまり、イエス様と同じ方向を向いて一緒に歩ませていただくということです。神様は、私たちに「後ろ」という素晴らしい居場所を与えて、一緒にいなさい、ついて来なさい、そう招いてくださっています。私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」

 「自分を捨てて従う」とは、自分よりもイエス様を見て、自分を握りしめるよりも、イエス様を握りしめて後について行くことです。自分を捨てるとは、決して自分の素直な感情や湧きおこる考えを無理に捨てて、脚を引きずりながら嫌なことをすることではないと思います。自分を捨てると言うと、私たちはどうしても、日本文化にある「滅私奉公」のニュアンスに惑わされて、自分の力で、自分を押さえつけてどうにかすると考えてしまうのですけれども、自分をどうのこうのすることに集中してしまったら、イエス様を見失ってしまいます。大切なのは、自分をどうのこうのではなく、イエス様の後姿に集中することです。神様の後姿、主の栄光です。神様は、その栄光を見せてくださるのです。自分を見るより、イエス様の背中を見続けていることです。主の後ろ姿を見続け、主から離れないようについて行く者は、主と同じ方向を向き、主の後ろに続いて従う者になっていくのです。

 もちろん、自分の十字架を背負ってですから、それは楽しいだけの簡単な道のりではないでしょう。十字架の道を歩まれるイエス様について行くのですから、険しい道です。自分自身の力では到底無理だとしか思えません。その時、イエス様に従ったペトロは、この後、イエス様が十字架に付けられようとしたとき、イエス様を知らないと三度も言って、逃げてしまいました。ペトロは自分を捨てるのではなく、イエス様を捨ててしまったのでした。しかし、そのペトロも、イエス・キリストの十字架の死と復活が実現した後には、復活のイエス様の生命に生かされて、復活のイエス様の後にしっかりと続いて、もう二度と離れず、福音を宣べ伝える者となりました。イエス様の後ろという本来の居場所で、神様の平安と力に生かされて歩んで行ったのです。

 私たちにもそれは可能です。今を生きている私たちにとって、主が見せてくださる後姿というと、まずとにかくイエス様の後姿、つまり歴史の中に刻まれた神様の出来事のことでしょう。主の後姿を見るとは、聖書に記されたその啓示を私たちの歴史に解明してくださった、その神様の恵みの出来事をしっかりと受け取ることです。イエス・キリストが私たちの救いのために、十字架で死なれ、復活されたというその啓示。その事実から、決して目を離さないことです。私たちは、この聖書を通して、主の後姿を見、主を見続けて、主に従うことができるようになるのです。そして、私たちを決して見棄てない神様が、私たちが主の後ろという場所で、いつも喜びに満たされて主に従って行けるようになるまで、恵みと憐れみをもって導いてくださるのです。私たちは、ただ、その神様の導きに期待して、神様が見せてくださる嬉しい後姿を見続けていきたいと思います。

 祈ります。
 主イエス・キリストの父なる神様。イエス様の十字架により、私たちを贖い、召し出してくださっていることを感謝いたします。神様、あなたが私たちに、あなたに従う後ろという場所を与えてくださっていることを感謝いたします。
あなたが私たちを決して見棄てない神様であることを、それを感謝しながら、自分を見るよりもイエス・キリストをしっかりと見上げながら、十字架を見上げながら、喜びをもってイエス様の後について行くことができますように、どうぞ神様、あなたが導いてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。
アーメン

讃美歌 507   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金    (献金の祈り)

主の祈

頌栄 27   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷  
 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が、御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように。アーメン

        
       〇来週の聖日(8月30日)
       説教 「死を見ることのない人生」 山ノ下恭二牧師
       聖書 ミカ書7章18−19節 
           ルカによる福音書9章28−36節
       交読詩編 30 
       讃美歌 83−1、57 288 521 27

                                                 (文責:記録者 堀 瑞穂)


(WEB礼拝)
20200816  主日礼拝説教  「キリストによって神の救いを見る」  山ノ下恭二牧師
(アモス書5章1−6節、 ルカによる福音書9章18−27節)

8月16日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年8月16日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    27編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      18   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           アモス書5章1−6節(旧約1434ページ) 
           ルカによる福音書9章18−27節(新約122ページ)

祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  289    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200816 主日礼拝説教  「キリストによって神の救いを見る」 山ノ下恭二
            以下、声に出して読んでください。
 私は、1969年4月に東京神学大学に入学したのですが、この年の9月に大学紛争が始まり、半年の間、大学の建物が占拠・封鎖され、授業ができなくなってしまいました。1970年の3月に大学の封鎖が解除され、4月から大学の授業が再開されました。この紛争によって、180名の学生のうち100名の学生が、授業登録をしなかったために、大学を退学したのです。授業は再開しましたが、落ち着かない中で授業を受けていました。ドイツ語を担当していた教師が大学の方針に反対して退職し、ドイツ語は加藤常昭先生が担当することになったのです。
 
 ドイツ語の教材として取り上げたのは、カール・バルトが説教した、一つの説教でした。この説教のレコードがあり、そのレコードで説教を聞きながら、学んだのです。バルトの肉声を聞いたのですが、とても甲高い声でした。この説教の初めの言葉は、「恐れは愛の中にない」という言葉でした。私は説教を聞くうちに心が震えるような感動を経験したのです。この説教については、加藤先生が、「説教者カール・バルト」という本の中で詳しく解説しています。

 神学校に入学し、これから学んで行こうとしているときに、紛争に入ってしまったのです。まさか、神学校で紛争はないだろうと思っていたのですから、紛争が起こり、授業がないことに戸惑いました。紛争が長引き、教師たちと学生との対立が続き、考えの違う学生グループ同士の争いもあり、同級生は21名いたのですが、退学したのが13名、大学に残ったのが8名でした。

 紛争の間、様々な不安がありました。大学は存続できるのだろうか、自分はこの大学にいて良いのだろうか、心の中で葛藤がありました。その中で、バルトの説教を聞き、神が愛をもって自分を愛し、見守り、導いていることを信じていれば良いのだ、神の愛を信頼していれば良いのだ、ということに気づいて、神学校での学びを続けることができたのです。バルトの説教によって折れていた心が支えられ、私は立ち直ることができたのです。説教は、神がイエス・キリストによって私たちを深く愛していることを伝えるものです。イエス・キリストを紹介するのが説教なのです。

 聖書は、この主イエス・キリストがどのような方なのか、を私たちに紹介しているのです。それはこの主イエスこそ、キリスト、メシア、救い主であると紹介しています。福音書は、特に、救い主として主イエスが地上でどのように行動したのか、どのような言葉を語ったのか、どのように死に、復活し、昇天したかを詳しく証言し、私たちに伝えているのです。この礼拝で、ルカによる福音書を説教のテキストとして取り上げていますが、主イエス・キリストが、相手の苦しみを自分の苦しみとして関わり、取り組み、相手に徹底的に関わる生き方をされたことを証言しているのです。
 
 主イエスが具体的に深く関わった物語が、ルカによる福音書8章、9章に語られています。8章22節−25節には、突風を静める物語が語られています。自然災害に遭ってわたしたちは苦しみます。台風、地震、人災かも知れませんが、地球温暖化による水害に遭い、甚大な被害を受けています。主イエスが嵐を静めた物語は、主イエスがわたしたちのために、ご自身の力を十分に発揮して嵐を治め、この自然を支配してくださっていることを語っています。
 
 8章26節−39節には、「悪霊に取り憑かれたゲラサ人を癒す物語」が語られています。時代の霊が私たちを支配するのです。昨日、8月15日は、日本が太平洋戦争で敗戦した記念の日でした。戦争を推進する悪霊が、だれもかれもが戦争へとなだれのように突入していくようにしたのです。300万以上の日本人が戦死し、何千万というアジアの人びとが、この戦争のために死んだのです。戦争を推し進めた最高指導者の戦争責任はありますが、悪霊の虜になったことも確かです。多くの人びとが戦闘に倒れ、飢えて死に、虐殺されたのです。しかし、この物語は、主イエスこそ、悪霊を追い出す方であることを語っています。
 
 8章40節−56節には、「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の物語が語られています。主イエスが慈しみをもって、その病をいやし、病から解放するのです。私たちも、病に苦しみ、癒やしを求めています。イエス・キリストこそ、私たちの病を癒す方なのです。
 9章10節−17節には、「5千人に食べ物を与える」物語が語られています。食べ物がなく、飢えている人々にパンと魚を提供して、満腹させるのです。食べなければ生きてはいけないのです。食べることに困っている者に対して、主イエスは、慈しみをもって必要なものを届けるのです。

 主イエス・キリストは、私たちが生きて行く時に、生きていくのに障がいととなるものを取り除くのです。自然災害、国家が行う不正、戦争、病を取り除くのです。主イエスが私たちを配慮して、ある時には取り除き、ある時には癒すのです。そして、ある時には、いのちを養うためにパンを与える、そのように相手の貧しさに深く同情する方なのです。主イエスはわたしたち人間に深く関わり、私たちが生きることができるようにしてくださる方なのです。

 本日の礼拝で読んだルカによる福音書9章18−20節で、主イエスは弟子たちに、人々が主イエスについてどのような存在であるか、尋ねた後に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねたのです。この問いに答えてペトロが「神からのメシアです。」と答えたのです。新共同訳はキリストではなくて、メシアと言う言葉で翻訳しているのです。メシアはヘブライ語です。「油注がれた者」と言う意味です。特別な神の使命にあずかる者を「油注がれた者・メシア」と呼んだのです。

 この「メシア」という言葉を聞いて、人びとが思い浮かべたのは、ダビデという王でした。ダビデはイスラエルに王国を建設し、安定した、安全な、豊かな生活をもたらした時代を作った王なのです。この時代の人びともダビデ王のような人物が政治を司れば良いと思っていました。主イエスにもそのような期待をもっていたのです。私たちも、自分が生活で困った時に助けてくれるのが救いであると思っているのです。船が沈没しそうなときに、溺れそうになっている自分を、救命ボートで助けてくれる、それが救いであると考えているのです。
 
 私たちは日常において、苦しみに遭ったり、悩んだり、困ったりしていますが、政治や経済や科学の力で事態は何とか打開できるものだし、そうならないのであれば、仕方がないと考えているのです。何となく漠然とした不安を抱いているものの、それは救いについての不安ではないのです。そもそも「救い」と言う言葉自体がもはや本来の意味を失ったものになっているのです。救いと言うことで理解できるのは、せいぜいこの世の不安からの解放でしかないのです。

 ペトロは、主イエスを「神からのメシア」と告白したのです。メシア、この言葉は、神が特別に使命を与えて神が遣わした、特別な存在を指します。
 主イエス・キリストは、神から遣わされたメシア、救い主です。このメシアは、愛によって救おうと決意して、実行した救い主であるのです。主イエス・キリストの言葉と行動は、神の愛を根拠とした活動であったのです。イエス・キリストは愛そのものなのです。キリストの救いとは、私たちが神の愛の中にあり、神の愛との関係を持って生活をすることなのです。
 
 「愛」と言う日本語は、昔は「男女」の間での愛の意味でこの言葉を使っていましたが、今は隣人が困った時に手伝う、隣人愛の意味で使われるようになりました。災害ボランティア活動が活発になって、今は、愛と言う言葉は、隣人を愛すると言う意味を持つようになりました。
 日本語では、愛と言う言葉しかありませんが、ギリシャ語では、一般に愛と言う言葉に相当する語が3つあります。一つには、親が子どもを愛する、子どもが親を愛する、愛着、という意味で使うのです。この言葉は、母親にとって子どもはいつまでも一緒にいたい愛の対象であり、自分の子どもはいつまでも子どもなのです。
 そして、二番目にエロスという言葉です。恋愛など、相手に魅力がある時に愛するのです。このエロスという言葉は、本来、良い言葉です。エロス、互いに引かれる愛、愛するのに価値がある愛のことです。
 三番目に、フィロス、フィレオーと言う言葉です。この言葉は特に藝術、音楽や美術など美しいものを愛する愛を指しています。そしてこの言葉は、親しい友人を愛する、友情を指す言葉でもあります。

 ギリシャ語では、愛と言う言葉が3つあると言いましたが、もう一つとても大切な言葉があります。それはアガペという言葉です。新約聖書で一番、多く使っているのがアガペという言葉です。相手のために自分が犠牲をささげて愛する愛です。相手に報いを求めない愛です。アガペの愛です。
 私たちは、これらの愛をさまざまな場面で経験します。親が子どもを愛する愛着の愛、恋愛する時の愛、美しいものを愛する愛を経験します。そして信仰によって神の愛を経験するのです。神の愛は、相手のために自分を犠牲にする愛なのです。新約聖書が、アガペという言葉を用いているのは、神の愛が、特別なものであることを語ろうとしています。それは「神」の愛だからです。そして元来、愛はどのようなものであるのか、を語っているのです。
 
 新約聖書で、アガペという言葉を一番、多く使っているのは、ヨハネの手紙です。神を知っていると思っている人たちが、神の愛を知らず、隣人を愛することがない、ということを批判をしながら、神の愛がどのようなものか、愛に生きることがどのようなことなのか、を説いているのです。
 ヨハネの手紙一 4章10−11節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(p445)ここにこそ、愛があると言うのです。
 
 神にとって私たちは神に背を向け、神から離れて自分中心に生きている、赦しがたい罪人なのです。いわば私たちは神の敵であるのです。その敵であるような私たちを神は愛するのです。敵である私たちの味方をして、私たちの罪を贖ってくださるのです。私たちが過ちを犯しているので、神に罪の償いをしなければならないのに、神が私たちの身代わりになって、償いをしてくださるのです。この世の法律では、自分が犯罪を犯したならば、自分が刑事罰を受けて自分で償うのです。しかし、そうではない。神に敵対している私たちに代わって、イエス・キリストご自身が神の罰を受け、十字架につけられて死ぬのです。
 
 ローマの信徒への手紙3章23−25節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(p276)
 神はキリストの十字架の贖いによって、私たちに和解をもたらし、罪を赦し、愛の関係を創造してくださいました。神が与える救いとは、私たちが神に愛されているということです。神と私たちが愛の関係の中にいるということが、キリストが与えた救いなのです。

 ペトロは、主イエスを「神からのメシアです。」と告白しています。この告白は、神が私たちのために、キリストによって罪を贖い、赦し、愛してくださっている神ですと告白しているのです。神はイエス・キリストによって愛の関係をわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは神からの愛を受けて、神の愛を根拠にして愛に生きることができるのです。このことこそ、わたしたちの救いなのではないでしょうか。
 
 わたしたちの愛の生活は不完全で、罪の多いものです。自分を愛する人を愛しますが、自分に嫌なことをした人は愛する気持ちになりません。私たちは、自分中心の愛の生活をしているのです。しかし、そのような破れがある生活をしている、落ち度の多い生活をしている者をも主イエス・キリストの償いによって、赦され、受け入れられているのです。そこに私たちの安らぎがあります。 説教と聖餐を受けるたびに、私たちは神の愛、罪の赦しが自分のものとなり、神の愛を確信することができるのです。
 神からの愛を与えられて、私たちが、互いに愛による関係に生きることこそ、わたしたちの救いの生活なのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。暑い日々を過ごしていますが、あなたに招かれて、兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、あなたのみことばを聴くことができましたことを心から感謝致します。イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、神の愛の中にあることを知らされ、愛をもってこの一週間を過ごすことができますように導いてください。コロナに感染した人々が健康を取り戻すことができますように。医療従事者の健康が守られ、医療に専念することができますように。入院している兄弟姉妹、自宅療養している兄弟姉妹をあなたが、癒し、元気になって礼拝に集うことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

讃美歌 404   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金  (献金の祈り)

主の祈

頌栄 29   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけていきなさい。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン
        
       〇来週の聖日(8月23日)
       説教 「主の後ろに」 矢田洋子牧師
       聖書 出エジプト記33章18−23節 
          マルコによる福音書8章31−34節
       交読詩編28 
       讃美歌 83−1、482 461 507 27




(WEB礼拝)
20200809  主日礼拝説教  「食卓を囲む喜び」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書58章6−11節、 ルカによる福音書9章10−17節)

8月9日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年8月9日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

前奏
礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    26編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      17   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           イザヤ書58章6−11節(旧約1157ページ) 
           ルカによる福音書9章10−17節(新約121ページ)

祈祷   (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  56    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200809 主日礼拝説教  「食卓を囲む喜び」 山ノ下恭二
            以下、声に出して読んでください。
 毎日、食事をすることは、私たちのいのちを支えるために大切なことです。食べることによって、私たちは元気になり、活動ができるのです。そして一人だけで食事をするよりも一緒に食事をすることは楽しいことです。教会はよく食事をします。礼拝後にうどんを一緒に食べる教会も多いですし、イースター、クリスマスに愛餐会をして共に食事をすることも多いです。共に食事をすることによって親しくなり、関わりができ、交わりが生まれるのです。

 主イエスは毎日、よく食べ、よく飲みました。主イエスのこの振る舞いを見て、人びとは主イエスを大飯食いの大酒飲みとうわさをしたのです。主イエスが食事をするときに選んだ相手は、この当時、地の民と呼ばれていた、罪人たちでした。これらの人たちは、神から離れ、人々からも疎外され、仲間はずれにされていた人々であったのです。主イエスはこれらの人びとを積極的に食事に招き、罪人呼ばわりされていた人々と喜んで一緒に食卓を囲んだのです。このことによって、罪を犯して暮らしていた人びとを神が相手にしていることを分かってもらおうとしたのです。神の戒めを守り、自分が正しいことをしていると思っている人のところに、神が近づくのではなくて、神から離れて、罪人呼ばわりされている人々が神の相手であることを知らせるためでした。

 本日、この礼拝で朗読されたルカによる福音書9章10−17節は、「5千人に食べ物を与える」物語です。主イエスが大勢の人々の病を癒したことを聞いて、人々は主イエスを追いかけて来たのですが、暗くなり、食事をする時間になって、人々を帰らせるように弟子たちは主イエスに話したのです。
 ルカ9章12節には次のように書かれています。「日が傾きかけたので、12人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。』」
 「人里離れた所」と言う言葉はギリシャ語では「荒れ野」という言葉です。人が住んでいない、荒れ野です。この荒れ野には、食べ物が全くないのです。

 荒れ野で食べる物がなくて困った時の物語が、旧約聖書の出エジプト記に記されています。イスラエルの民が旅をしてきて、食べるものがない、それはとても辛い経験であったに違いありません。この物語は、人びとの記憶に残る事件であったので、出エジプト記だけでなく、民数記にも、詩編にもこの時の出来事が記されています。荒れ野で食べる物がなくて、辛かった、それだけではなく、イスラエルの民の罪、不信仰が露わになり、それにもかかわらず、神が養ってくださったことが物語として記されているのです。

 イスラエルの民は、エジプトの奴隷から解放されて、奴隷状態から脱けだし、約束の地を目指す旅を始めました。ところがその道は荒れ野のただ中を通っているのです。何日も何日も砂漠である荒れ野が続くのです。約束の地、目的の地は全く見えません。イスラエルの民は疲れてきました。疲れは、外から来るだけではなく、内からもやってきます。そしてそれが迷いとなり、混乱を引き起こすのです。彼らはせっかく救われて、紅海の水をくぐり抜け、約束の地へと向かう旅を始めたのに、エジプトの肉鍋を恋い慕い、高ぶる思いの中で神に反抗をしたのです。出エジプト記16章には、荒れ野でイスラエルの民は食べる物がなくなり、その不平不満を指導者モーセに訴えたことが記されています。

 この事件について詩編78編17−19節には「彼らは重ねて罪を犯し 砂漠でいと高き方に反抗した。心のうちに神を試み 欲望のままに食べ物を得ようとし 神に対してつぶやいて言った。『荒れ野で食卓を整えることが、神にできるのだろうか。』」(p914)と記されています。「荒れ野で食卓を整えることが、神にできるのだろうか」とあります。こんな荒れ野にあって、神は私たちを満たしてくれるだろうか。約束の地はほんとうにあるのだろうか。エジプトの肉鍋のほうが、はるかに現実的に飢えと渇きを満たしてくれたではないか。共に旅をしてきた人々の中で、きしみが生じ、共に生きる交わりにもひびが入り始めるのです。共に旅をしている仲間が互いに心が通じなくなり、互いに非難しあうことになったのです。

 このように反抗する民に対して、神は手を差しのべるのです。出エジプト記16章12節には「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしたちの神、主であることを知るようになる』と。」と記されています。(p120)そして神が天から降らせて食べさせたパンをマナと呼んだのです。

 詩編78編23−25節には「それでもなお、神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり 人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を贈られた。」(p914)と語られています。神は、再びエジプトの王の支配下につながれ、奴隷に逆戻りしないように、神は天からのパンをもって民の心を満たし、神なき荒れた生活に戻らせず、神と共なる人生の旅を続けさせるのです。神は、イスラエルの民の不平不満、反抗、罪にも関わらず、見捨てることなく、深い配慮をもって、愛してくださったです。

 私たちの人生には、様々な試練があります。失業して、収入がなくなり、食べることもできない、そのようなことを経験することもあります。毎日がとても忙しくて、休みたいと思いながら、疲れていて、これからも同じように苦労が続いていくことに耐えられなくなり、生きる望みを失いそうな時があります。そのような時に、神は自分のために何もしてくれないと思うのです。しかし、神は、そのような荒れ野にいるような私たちに対して、生きるのに必要なものを用意し、私たちの旅路を支え、神が与えてくれる目的地への旅を続けさせようとするのです。

 5千人に食事を提供したのは、主イエス本人です。この食事を提供し、この食事の主催者は主イエスである、このことがとても重要なのです。主イエスがこの食事の主催者である、その意味で、この食事は特別な食事なのです。神が養っている食事なので、特別な食事なのです。
 聖書の中心は神なのです。ルカによる福音書が問題の中心に置いているのは、主イエスが誰で、どのような方なのか、と言うことです。このことを理解するには、本日の聖書テキストの前のところを読むと分かります。
 
 ルカによる福音書8章22−25節には、主イエスが嵐を静めたのですが、嵐が静まった後に、弟子たちが「いったい、この方はどなたなのだろう。」と語っています。主イエスが誰も静めることができない嵐を静めたことに弟子たちは驚き、主イエスが人生の教師ではなくて、それ以上の方、神と同じ方ではないかと思ったのです。
 本日の福音書の物語の直前、ルカによる福音書9章7−9節で、この当時のユダヤ地方の支配者である領主ヘロデが登場しています。ヘロデが、主イエスがヨハネの生き返りか、それとも別の人物か、と考えあぐねている場面があります。ヘロデは「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」(9章9節)と言っています。病を癒し、奇跡を起こす主イエスの話を聞いて、ヘロデは、主イエスが「いったい、何者だろう」と語っているのです。

 そしてこの後に、主イエスが5千人にパンを提供したことが記されているのです。5千人もの人びとをパンと魚で養って奇跡を起こした、主イエスは、普通の人間ではなく、神と同じ方だと語っているのです。。
 
 私たちは毎日、食事をしています。食べていのちを保っているのです。食べないと死んでしまいます。しかし、私たちのいのちを支え、養うのは、食べ物だけでないのです。私たちのいのちを支え、私たちの心を豊かに養うものは、私たちに向けての愛の言葉と愛による振る舞いであるのです。

 福音書には「いのち」という語は3つあり、それぞれ意味が異なっています。一つには「ビオス」という言葉です。このビオスという語は、現代では、バイオ、ビタミン、という言葉としてよく使われ、私たちはよく聞く言葉です。身体的、肉体的ないのちのことです。現代では多く使う言葉ですが、聖書では、余り出て来ません。そして二番目にはプシュケーという言葉です。「いのち」という翻訳よりも、「魂」と訳されることが多いのです。この言葉は、英語ではサイコという言葉になります。心理学という学問がありますが、これは、サイコロジーと言います。私たちは、魂をもって生きているのです。心をもって生きています。優しい心、人と触れ合って穏やかになる心、思いやる心。

 聖書で一番、多く出てくる「いのち」という言葉の原語は、ゾーエーという言葉です。神と関わる「いのち」のことです。神とつながっている「いのち」のことです。このゾーエーという言葉は、神が私たちと関わる、私たちが神と関係を持つ時に使う言葉です。神と私たちとが関わり、互いに関係を持っている時に、いのちがある、いのちを持つのです。
 私たちはいつも人と関わりながら過ごしているのです。私たちが他の人と良い関係で関わることができるならば、幸いですが、関係が壊れてしまい、口も聞かないようになってしまうならば、気持ちよく過ごすことはできません。特に、自分の過ちや失敗を赦さない相手がいることは辛いことです。
 
 「いのち」。神と関わるいのちのことです。旧約聖書の創世記では、神が私たちを創造した時に、私たちを良い存在として認めているのです。しかし、私たちは、神の言葉を守らず、罪を犯し、神から離れてしまったのです。そのために神を忘れ、自分のために生きる者となったのです。しかし、神は私たちを見捨てることなく、私たちのために最善を尽くしてくださったのです。
 私たちは、良い存在として造られましたが、罪を犯し、神から離れ、契約を破ってしまいました。しかし、神は、契約を反故にすることなく、和解するために、独り子イエス・キリストを罪の身代わりとして犠牲をささげて、罪を贖い、私たちの罪を赦して、正常な関係を持つようにしてくださったのです。

 主イエスは私たちに永遠のいのちを与えるために、天から降り、私たちの罪を贖って、神との関係を回復してくださったのです。この主イエスを救い主、キリストと信じる時に、私たちは永遠のいのちが与えられるのです。
 ヨハネによる福音書6章32節で次のように語っています。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えられたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(p175)

 私たちの礼拝で行われていることは、説教と聖餐です。説教によって神の言葉を聞くことができます。説教を聞く度に、私たちの魂を支える言葉が与えられているのです。神が独り子を与えるほどに、私たちを愛してくださることを説教によって知るのです。
 説教を聞くだけではなくて、聖書のみことばを毎日、読み、心を込めて祈ることは、大切なことなのです。特に、コロナ感染の恐怖の中にある時に、詩編の言葉に耳を傾けることは大切です。詩編91編6節、7節には「暗黒の中を行く疫病も 真昼に襲う病魔も あなたの傍らに千人の人 あなたの右に一万の人が倒れるときすら あなたを襲うことはない。」(p930)とあります。説教を聞いて、心を強くするだけではなくて、聖書のみことばを読んで、励まされるのです。

 5千人に食べ物を与えるこの物語は、聖餐を指し示しているのです。聖餐を指し示す物語で、人びとに食事を与える物語は、この物語の他に、罪人と共に食事をした物語、そして最後の晩餐の物語、復活された主イエスと弟子たちとの食事の物語があります。罪人との食事の物語、5千人に食べ物を与える物語は、主イエスが、いかに多くの人びとを愛をもって必要な食べ物を与え、交わりを作ったのか、を表しています。 
 そして最後の晩餐、復活された主イエスと弟子たちとの食事は、主イエスが私たちの罪の贖いとして、御自身を犠牲として献げ、そのことによって、私たちは赦しが与えられ、神との和解が与えられる食事なのです。

 聖餐において、十字架につけられたキリストの体を表すパンを食べ、流されたキリストの血を表す杯を飲むことをしますが、これはどのような意味なのでしょうか。それは、私たちの罪のために肉を裂き、血を流された、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠のいのちといただくのです。このことによって、私たちは、神がキリストの十字架の死と復活によって、私たちを深く愛していることを味わうことができるのです。

 礼拝堂には礼拝の司式・説教をするための講壇と聖餐台が置かれています。聖餐台、と呼びますが、正しくは聖餐卓・聖餐のテーブルです。今日の説教題を「食卓を囲む喜び」としましたが、正しくは、「聖餐卓、聖餐のテーブルを囲む喜び」です。食事のテーブルですので、このテーブルに敷布を敷くことをします。また、どの教会でもしていることですが、聖餐の器を覆う布を掛けます。どうして布を掛けるのか、その意味を解説し、根拠となる歴史的な資料は見つかりません。私が考えたことは、聖礼典・洗礼と聖餐はサクラメントと言うラテン語ですが、この言葉は元々、ギリシャ語のミステリオンという言葉をラテン語に翻訳した言葉です。ミステリオン、つまり、秘密、機密なのです。秘密、機密、というのは、内部は隠されて見えないのです。聖礼典は秘密なので、そのことを表すために、聖餐の器、洗礼のカップに覆いの布を掛けるのではないか、と考えています。

 聖餐で用いる素材・パンとぶどう酒は、最後の晩餐の席上で主イエスが制定したように、多くの(すべての)人のために、献げられた、主御自身の体と血を表すものです。目の前に示されるパンとぶどう酒を取って、パンを食べ、杯から飲むことによって、キリストが私たちの罪のために自己を犠牲にしてくださった、その恵みを味わうことができるのです。
 
 神は、私たちのもっている感覚器官すべてを用いて、キリストが私たちを愛し、私たちの罪を赦すために、御自身を犠牲として献げたことをリアルに伝えるために、聖餐を制定されたのです。
 説教は、耳で聞きます。聴覚です。聖餐は、パンとぶどう酒を見ます。視覚です。パンに触れ、杯に触れます。触覚です。パンを食べ、ぶどう酒を味わいます。味覚です。私たちが持っているすべての感覚器官を用いて、キリストの恵みを実際に経験させるのです。
 
 食べることによって私たちのいのちは保たれます。私たちの身体だけではなく、魂をもった私たちの存在をも、愛し、養ってくださる神を私たちは持っているのです。「いったい、この方はどなただろう。」「いったい何者だろう。」この主イエス・キリストこそは、私たちの深い罪を赦すために、神ご自身がこの世に降って、罪の犠牲をささげた神であるのです。

祈祷  
 イエス・キリストの父なる神。暑い毎日を過ごして参りましたが、この主日にあなたに招かれて、兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたのみことばを聴き、あなたが私たちの罪を赦すために、神の独り子イエス・キリストを私たちに代わって、十字架につけ、肉を裂き、血を流して、償ってくださったことを心に留めることができました。キリストの裂かれた肉を表すパン、流された血を表すぶどう酒を戴く聖餐の恵みにあずかることのできる幸いを感謝致します。
 コロナ感染のために病と戦っている人びとを癒して、健康を回復することができますように。そのために治療に当たっている医療従事者の健康を守り、治療に専念することができますように導いてください。病と戦っている兄弟姉妹、を特に癒し、礼拝に集うことができますように。暑い日々を元気に過ごすことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。アーメン

讃美歌 475    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金  (献金の祈り)

主の祈 

頌栄  27     http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同にあるように。アーメン
   
       〇来週の聖日(8月16日)
説教 「キリストによって神の救いを見る」山ノ下恭二牧師
聖書 アモス書5章1−6節 ルカによる福音書9章18−27節
讃美歌 83−1、18、289、404、29 交読詩編 27

(WEB礼拝)
20200802  主日礼拝説教  「よい知らせを伝える喜び」  山ノ下恭二牧師
(イザヤ書52章7−10節、 ルカによる福音書9章1−9節)

8月2日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年8月2日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    24編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      16   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           イザヤ書52章7−10節(旧約1148ページ)
           ルカによる福音書9章1−9節(新約121ページ)
           
祈祷    (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

長老任職式
讃美歌      405  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200802 主日礼拝説教 「よい知らせを伝える喜び」 山ノ下恭二牧師
           以下、声に出して読んでください。

 本日の朝、礼拝をするために、ここに集まることができる方々と挨拶をできることを覚えて、神に感謝致します。また、ここに集うことができなくても、ホームページで礼拝式次第・説教を読んでいる方々の上に、神の祝福を祈り、心身共に守られますようにと祈ります。

 教会は一つのところに集まるところです。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、教会と言う言葉は、ギリシャ語で、エクレシアという言葉です。この言葉は、エクという語とレシアという語からなる言葉で、「・・・から呼びかけられた、・・・から集められた」という意味の言葉です。教会とは「神から呼びかけられ、集められた群れ」です。週報の礼拝プログラムの最初に「招詞」があり、司式者が招きの言葉を語ります。神によって招かれて、私たちが集められるのです。神から召集を受けて、ここに集まるのです。ある神学者は教会を「集められた共同体」と呼んでいます。

 私たちの教会が、「集められた共同体」であると言いましたが、キリスト教会の原型は、ユダヤ教の会堂・シナゴグにあります。シナゴグという言葉は元々「集まっている」と言う意味の言葉です。
 旧約聖書に詳しく書かれていますが、イスラエルの国が紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされ、エルサレム神殿が徹底的に破壊され、エルサレムの町も灰燼に帰し、多くの人々は今のイラクに捕らわれて行きました。そこには礼拝する場所がなく、神を礼拝することができなかったので、礼拝できる場所を作ったのです。それがシナゴグであったのです。ユダヤの人々が集まる、礼拝する場所が会堂であり、それをシナゴグと呼んだのです。

 シナゴグ・会堂の礼拝と、エルサレム神殿の礼拝とは、全く異なっていました。エルサレム神殿の礼拝では、これまでの人間の罪を赦してもらうために、人間の代わりに動物を犠牲として献げることを中心とした礼拝でしたが、このシナゴグでの礼拝は、聖書を読み、説教をし、讃美し、献げる、簡単な礼拝をしていたのです。主イエス・キリストも土曜日に行われた、このシナゴグの礼拝に出席し、説教をされたのです。

 主イエス・キリストが十字架につけられ、復活、昇天し、弟子たちが集まっているところに聖霊が降り、キリスト教会が誕生して、主イエス・キリストが復活した日曜日を記念してこの日に礼拝を始めたのです。
 新約聖書の使徒言行録が教会を特徴づける際に用いるのは、「同じ場所に」集まるという言葉です。使徒言行録2章1節には、「五旬節祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。聖書協会共同訳では「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると」と翻訳されています。「同じ場所に」集まる、このことが教会の基本的な姿であることが明らかです。同じ場所に集まることなしには、見える教会は存在しません。人々が同じ場所にみことばを聴くために集まり、パンとぶどう酒を分かち合うところに、そこに見える教会があります。私たちは同じ場所に集められて、礼拝をしています。礼拝において福音の説教を聴きます。

 皆さんは今、私の説教を聴いているのですが、福音の説教を聴いた者は、それでお終いにするのではありません。福音の説教を聴いた者は、それを伝える使命があるのです。岡山の蕃山町教会におりました時に、礼拝に来ていたひとりの婦人(村川さん)は、礼拝の後に説教について率直に話す人でした。否定的な感想は言わなかったのです。今日の説教のこういうところが、よく描かれていて良かった、と私に話してくれました。その時に村川さんは、その時の礼拝説教で印象に残った言葉を家族に話すことをしている、と私に話してくれました。礼拝で聴いた説教をおみやげとして家にもって行って、家族に伝える、それはとても良いことだと思いました。説教を聴いて良い説教だった、ピンと来なかった、よく分からなかった、と思うだけで終わりにするのではなく、家に帰ったら、自分が聞いた福音を家族に伝える、そういうことが大切なのです。皆さんは、福音と言う、おみやげをもって家に帰っていますか。

 教会に集められて、礼拝でキリストの福音を聴く、福音を伝えるために神に召されて、福音を伝える者となる、その伝道者の言葉によって福音を知り、洗礼を受けて、キリスト者となり、教会に属する者となるのです。
 日本のプロテスタント教会の歴史を顧みると、アメリカの教会から派遣された宣教師によってキリスト教の福音が伝えられたのです。

 牛込払方町教会は今年の11月に創立143周年を迎えますが、初代牧師は、小川義綏であり、この人は、日本に来日したアメリカ宣教師たちの日本語教師でした。特に影響を受けたのは、アメリカ長老教会から派遣されたタムソンという宣教師でした。タムソン宣教師は、ヘボン、バラ、ブラウンなどの宣教師よりは、余り知られていない宣教師です。中島耕二氏が書いた「宣教師デービット・タムソンの生涯」という小冊子によると、1863年に来日し、1915年に80歳で亡くなるまで、50有余年にわたり滞日し、日本のキリスト教伝道のためにその生涯をささげたのです。染井霊園に墓があります。タムソン宣教師は、自分のことを書き残さなかったので、この小冊子には宣教師としてどうして日本に来るようになったのか、書いていないですが、異国で日本語も習うこともできず、開国もしていない、治安も悪い国にアメリカの港を出て6ヶ月もかけて長い船旅をして日本に来たのは、神から召命を受け、キリストの福音をぜひ日本人に伝えたい、という使命感をもっていたからです。そして伝道・教育に打ち込んだのです。タムソン宣教師は、アメリカの教会の礼拝に説教を熱心に聴き、そしてキリストの福音を伝えたい、という使命をもち、アメリカの教会から派遣されて、日本に来たのです。

 牛込払方町教会百年記念誌に記されていることですが、この教会の初代牧師である小川義綏がキリスト教信仰を持つようになった経過が記されています。
 小川義綏は慶応元年にタムソン宣教師の日本語教師となり、次のように記されています。
 「彼はタムソン博士を助けて旧約聖書を翻訳し、ヨブ記の内容に触れて、西洋にもこのような貴重な書物があるかと心を動かし、日曜日にヘボン博士の施療所で日本人のために開かれていた集会に出席するようになり、バラ、タムソン両博士の説教を聞く常連となる。両博士の真剣かつ熱心な説教に段々感動するようになり、また罪悪、救済、永生の問題で内面的に苦しむようになった。一日バラ博士の熱心な説教を聞き、またタムソン博士の懇切な説諭を受けて深く悟る所があり、暗雲晴れて白日を眺むの感極まって、受洗の希望を申し出た。ところがタムソン博士はこれを拒絶し、まだキリスト教は国禁の宗教であり、洗礼を受けたことが露顕すれば必ず投獄処罰される。しかも外国人宣教師はこれに容啄する事はできぬ。それでも受洗の決意は変わらないかと諭され、彼は即答し得なかったが、これより教義の研究に熱中して信仰の基礎を固め、遂に明治2年2月タムソン博士より洗礼を受けた。」(p157−158)

 東京で最初の教会は目黒にある新栄教会ですが、小川義綏は、新栄教会の長老となり、牛込に出張伝道に来て、日本の最初の牧師となり、牛込教会が設立したのです。アメリカ長老教会から派遣されたタムソン宣教師が小川義綏に福音を伝え、小川義綏がこの牛込の地に福音を伝えて、教会が設立できたのです。

 私たちは礼拝に集められて、みことばを聴きます。そして派遣されるのです。私たちは、神に呼びかけられ、集められて、様々なところに派遣されていくのです。私たちは、自分たちが主イエス・キリストによって派遣されていると言う意識はないかも知れません。教会に来て、礼拝に出席し、家に帰る、と言う意識かも知れません。主日の礼拝の順序、構成を見ると、まず招きの言葉があります。「招詞」があります。そして礼拝の最後には、祝祷がありますが、それは「派遣の言葉」です。教会によっては、「派遣(祝福)」と週報に書いてあります。わたしは祝祷の時に「神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけて行きなさい」と言います。礼拝の構成を見てみると、召集されて、派遣されていく、と言う構造になっています。

 礼拝に集い、そして派遣されて行く、それは特別に別の場所に行くわけではありません。同じ家庭、同じ職場であるけれども、しかし、私たち一人一人が主イエス・キリストによって派遣されて行くのです。そのように私たちは考えないかもしれません。召集されて派遣されるのは、牧師、伝道者のことであって、自分たちは関係ないし、派遣されている、とは考えないかも知れません。派遣されている場所が、同じ家庭、同じ職場であっても、私たちは主イエス・キリストに派遣されているのです。この十二人の使徒たちと同じように、主イエス・キリストによって集められて、呼ばれ、そして派遣されるのです。
 
 主イエスは伝道に派遣する時に、伝道の心得を教えられました。この心得は伝道者のあり方について、指示しています。伝道者のあり方を見て、伝道がなされているのです。
 主イエスは伝道者のあり方を具体的に指示しています。主イエスは、弟子たちを遣わす時に、「『旅には何ももって行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。』」(9章3節)と語っています。「袋」とは、人からもらったものを入れて置くカバンのことです。マルコによる福音書6章8節には「帯の中に金も持たず」とあります。帯の中にお金を入れたのです。現代でも、海外旅行の時に、人によっては、用心のために胴巻きの中にお金を入れておくことがあります。主イエスは、食料も、袋もお金も持たずに行け、持ち物は何もなく、何も持たずに行きなさい、と言われたのです。
 
 主イエスは、なぜこのようなことを語ったのでしょうか。私たちはこれから起こることについて心配をします。私たちは人を訪ねる時に、何かあると困るので、お金を持ち、カバンを持ち、身支度して出かけます。それはこれからのことを心配しているからです。主イエスが「旅には何ももって行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」と言われたのは、伝道する者が自分の生活のことで思い煩うな、思い悩むな、と語るのです。この言葉の背後には、父なる神にすっかりまかせて委ねきって生きるようにということなのです。自分の持っている物に対して執着があるならば、たとえ、「袋」今で言えばカバンのようなもの一つであっても神に信頼することを妨げるのです。
 
 伝道者は、神に対する信頼を説く者であるので、その説く伝道者が神を信頼して生きる姿を示すことが大切なのです。伝道者は、行く先々で、必要なものが備えられているいることを確信しながら、伝道していくことを教えたのです。身軽になって福音を伝えることを勧めているのです。
 
 ルカによる福音書9章4節では、「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。」と語られています。主イエスはどこにも伝道者を暖かく迎えてくれる暖かい心の持ち主がいることを知っていたのです。この町には、自分を迎えてくれる人は一人もいないと考えてはならないと言うのです。どんな町でも神のみ使いを迎える者がいることを語るのです。神の愛を伝えることを目的として働くならば、それに心を打たれる人が必ず現れ、その人々との心の触れ合いの結果、その人は自分の家に迎えるのです。
 
 その人の気持ちを大切にして「そこにとどまって」と語ります。一つのところに留まることを勧めるのです。現代ではホテルに泊まる、アパ−トを借りて過ごすのですが、一つの家に留まり、そこで共に過ごすことを勧めるのです。自分の都合を考えて、一日か二日を泊まり、次の日は別のところに泊まるほうが気楽で快適ですが、一つの家にじっと留まり続けることを勧めるのです。同じ家の人たちとしばらく生活を共にすることは、なかなか難しいことです。福音を語る時だけ一緒にいると言うのではなくて、朝から晩までその家にいて、み言葉を語るのです。語る説教の言葉と生活が一つであるか、その家の人が見ているのです。神の愛に生きる姿に中で、み言葉を語るのです。語る言葉と生活とが一つである、ということです。

 小川義綏がキリスト教に入信したのは、バラやタムソンの福音の説教に感動しただけでなく、身近に接した宣教師たちの、愛の暖かさに触れたからです。宣教師たちのキリストのかおりが漂う生き方に触れて、感動して入信したのです。
 
 ルカ福音書9章5節のみことばは意外な言葉です。「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出て行くとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」と語られているみことばです。このみことばは福音を伝えても、福音を拒否するならば、その責任は、その者たちにあることを語っています。

 パウロはコリントで福音を伝えましたが、コリントの人々が「反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任はない。今後、わたしは異邦人の方に行く。』」(使徒言行録18章5−6)と語っています。
 
 伝道する時には、どうにかして相手に分かってもらうように努力することを考えます。聴き手にみことばが届くようにと願いながら説教をするのです。そして相手が心を開いて、福音が届くことを願うのです。相手が福音を受け入れない、耳を傾けないのは、自分たちの力が足りないから福音を受け入れないのだ、といつも反省をするのです。あの人が福音を受け入れないのは、自分たちの努力が足りないのが原因であると考えるのです。しかし、主イエスはそうではないと語ります。もし、福音を聞かないのなら、その責任は聞く者の側にあると言うのです。

 神を持たない生活をしている人たちにキリスト教の福音を伝えても、受け付けないものがあります。そして、福音を受け入れる者と受け入れない者とが存在することも事実です。伝道していく時に大切なのは、伝道が私たち人間の力や能力によって展開されるのではないということです。神が聖霊を注いで、一人一人の心を開き、受け入れる時を備えてくださることを信頼して、その時を待つのです。伝道は、神の業であり、神が推し進めることなのだ、ということをよくわきまえていることが大切なのです。

 主イエスは弟子たちを遣わすにあたり、「イエスは、十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」と記されています。自分の能力、才能で伝道するのではなく、神が与えてくださる恵み、賜物によって伝道が進んで行くのです。私たちは神から委託された伝道の業を忠実に果たすほかないのです。福音を伝えたその結果として、すぐに洗礼を受ける人が与えられることはないのです。私たちは、ただ、福音と言う種を蒔くのみです。それを神は豊かに用いて実らせてくださるのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。8月の第一の主の日の礼拝に、兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、あなたのみことばを聴くことができ、心から感謝を致します。
あなたは私たちを愛して、私たちの深い罪を赦してくださった、その福音をまだ知らない多くの人々に伝える者とならせてください。コロナの感染が拡大し、歯止めがかからず、私たちは苦悩しています。感染して、治療を受けている多くの方々の健康が回復することができますように。そのために治療をしている医療従事者の健康を守り、治療に専念することができますように。この一週間もあなたが共にいてくださり、無事に過ごすことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 519 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金  (祈り)
主の祈
頌栄   29 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。
イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。ア−メン

後奏

       〇来週の聖日(8月9日)
説教 「食卓を囲む喜び」 山ノ下恭二牧師
聖書 イザヤ書 58章6−11節
ルカによる福音書 9章10−17節
讃美歌 83−1 17 56 475 27
交読詩編 26



(WEB礼拝)
20200726  主日礼拝説教  「心折れて、力尽きるときに」  山ノ下恭二牧師
(詩編91編6−16節、ルカによる福音書8章40−56節)

7月26日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年7月26日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    23編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      16   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           詩編91編6−16節(旧約930ページ)
           ルカによる福音書8章40−56節(新約120ページ)
           
祈祷    (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌      227  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200726 主日礼拝説教 「心折れて、力尽きるときに」 山ノ下恭二牧師
           以下、声に出して読んでください。
 
 長雨が降り続く中で、暑い時を過ごしておりますが、この朝、この礼拝で、皆さんと共にみことばを聴くことができ、心から感謝を致します。
 
 皆さんは「レジリエンス」と言う言葉を聞いたことがあるでしょうか。「レジリエンス」と言う言葉は「復元力」「回復力」と翻訳される言葉です。「立ち直り力」と言い換えて良い言葉です。この言葉は、厳しい環境や状況にさらされた時に対応できる力のことを指し、「折れない心」「打たれ強さ」などとも訳すこともあります。
 私たちはしばしば、実際に心が折れてしまうような、打たれて倒れ伏すような思いを味わうことがあるのです。そのような時に、どのように立ち直るのか、ということが大切なのです。

 一人の若手の人気俳優が先週、自殺をしたニュースがありました。周りの者は全く、突然であったし、予想外のことであったので驚いていたのです。
幼い時から子役で活躍し、人気があり、これから多くのテレビ番組に出演予定でした。周りの者には気づかなかったのですが、自殺するようになるサインはあったようで、役者を辞めたい、と言っていたし、最近、酒の量も増えていたそうです。役作りにも熱心であり、周りの者にもよく気を使う誠実な人柄であったようですが、深い悩みを友人に話すことができなかったようです。精一杯、仕事に打ち込んでいて、疲れてしまったのでしょう。弱さを人に見せたくない、ということもあったと思いますが、心許せる人に悩みを打ち明けていれば、自分を追い詰めることはなかったのではないかと思いました。

 旧約聖書の詩編には、自分の悩みや苦しみを神に訴えている詩が多くあります。詩編38編10−12節(p871)には次のように訴えています。「わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり 嘆きもあなたには隠されていません。心は動転し、力はわたしを見捨て 目の光もまた、去りました。疫病にかかったわたしを 愛する者も友も避けて立ち わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。」この当時も疫病が流行していたのです。周りにいる者が疫病に罹った詩人に距離を置き、避けて誰も自分を助けてくれない、と神に嘆き、訴えて助けを求めているのです。

 心折れる時に、助けを求める、そのことはとても大切なことです。自分一人で悩みを抱えて、苦しんでいるのではなく、誰かに助けてほしいと叫ぶのです。
 
 本日の礼拝で読みましたルカによる福音書9章40−56節の初めの部分では、ヤイロと言う会堂長が主イエスのもとに来て、娘がいのちの危機にある、このままでは死んでしまうことを伝え、主イエスに娘のいのちを救ってほしいとお願いしたことが記されています。会堂長は、この当時、社会的な地位の高い人でしたが、そのようなプライドを捨てて、主イエスに娘のいのちを救って欲しい、と願ったのです。一人のいのちが失われるかもしれないと言う緊迫した中で、主イエスはこの会堂長ヤイロの願いを聞き入れて、家へと急いだのです。
 
 その途中で、一人の女性が病が癒やされることを願って、主イエスの服に触れたことが記されています。主イエス御自身はこの時、一人の人のいのちが失われないように、急いでいたのです。一刻の猶予も許されないのです。そのような時に、一人の女性と関わることは難しいことです。急いでいる時に、別な人と関わる余裕はないのです。しかし、主イエスはこの女性を振り返り、顧みておられます。時間的な余裕がない時にも、主イエスは一人の人の訴え、叫びに耳をかして聞いてくださるのです。
 
 「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」(ルカによる福音書9章43節)
 「出血が止まらない」とは、血液の流失が止まらない症状が出る婦人の病気です。十二年と言うのはとても長い期間です。病いによる苦しみだけでなく、この当時は、このような病気は不浄なものであり、このような病気になる人は神の前に清くない存在であると考えられていました。神から遠い存在で、周りの人々から汚れた者として扱われ、軽蔑され、生活もできず、貧しさの中であえいでいたのです。
 
 この女性は、長いあいだの出血の病を癒やされたいと願って、あちらに良い医師があれば訪ね、こちらに良い医者がいると聞けば求めて行ったのです。溺れる者は藁をもつかむ思いで、必死になって手を尽くし、ありとあらゆることを試みたのです。自分の病を治してもらおうとあらゆる手段を取ったけれども、誰にも治してもらえず、12年間と言う長い闘病生活の末に、からだばかりでなく、生活もできなくなったのです。
 
 この当時の考え方では、病が治らないのはこの女性が悪いことをしたからだ、あるいは、神が見放しているから治らないのだ、と言う考え方がありました。人々はそのように見ていたのです。従って、病いが治らないと言う、解決のない苦しみというものが、どんなに人の心に苦しみをもたらすのかが、はっきりしています。病をもっている人の心をも破壊し尽くしていくのです。そのことによって自分が生きて行く自信がなく、人を信じることも出来なくなり、自分が生きて行く価値がないと思うようになり、いっそ、死んだらよいと自分の存在をも壊すようになるのです。
 
 人間にとっての苦しみとは、自分の抱えている問題が解決できないと言う苦しみです。私たちにとって、苦しむ原因は、病、人間関係、経済の問題、将来の生活などです。しかし、もっと深刻な問題は、自分の抱えている問題に関心を持ち、一緒にその困難を共に担おうとする人がいないと言うことです。
 
 私たち一人一人、それぞれ、魂の歴史を持っています。表面的には明るくて悩みがないように見えても、それは外見的なことで、話を聞いてみると深く悩んでいることを知らされます。苦しんでいても、解決できる手がかりがある、今の時を忍耐すれば大丈夫だと言うことならば、その苦しみは乗り越えられます。しかし、解決する可能性がない、見いだせない、光が見えてこないと言うことであれば、その苦しみは深くなります。

 主イエスが祭司長ヤイロの家に急いでいる途中に、この女性が主イエスの服を触ったことによって、主イエスは足を止め、この女性と関わったのです。主イエスはどんなに急いでいる時にも、一人の人のからだと魂、全身の救いのために、御自分の時間をささげ、惜しみなく、使うのです。たった一人の人のために、です。今は急いでいるので、戻って来るので待っていてくださいとは言わなかったのです。今、自分がしなければならないことをも犠牲にして、この女性のために時間を取り、この女性と深く関わったのです。
 
 主イエスは、病を持ち、苦しんでいる者を癒やしましたが、多くの癒やしの物語と、この物語とは異なっているところがあります。この物語は独特なところがあります。それは、この女性が後ろから主イエスに触ったと言う点にあります。他の癒やしの物語は、多くの場合、癒やされたい本人、家族、友人が主イエスにお願いし、その願いを主イエスが受け入れて、癒やしの行為がされるのです。
 ところが、この物語では、先を急いでいる主イエスに、こっそり、後ろから主イエスの服に触れたと書かれています。今まで、医師にもかかり、財産を使い果たしてしまった、もし治ったとしても、お礼をすることができない、あるいは、自分が正面から名乗り出ることによって、清くない女性であると言われ、相手にしてくれないかもしれないと恐れを抱いていたのです。この病のためにこの女性は多くの経験を重ね、深く傷ついていたのです。そうであるので、そっと後ろから触って癒やされれば、と考えていたのです。
 
 「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」(ルカによる福音書9章44節)
  
 しかし、この物語はそれで終わらないのです。この後、主イエスの側から声を掛けるのです。「イエスは、『わたしに触れたのはだれか』と言われた。」(ルカによる福音書9章45節)そして「『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ。』と言われた」(ルカ9章46節)のです。
 ここで、誰が主イエスに触ったのか、と二度も聞いて捜しているのです。主イエスは自分の助けを必要としている者が誰であるかを見極めようとされ、呼びかけています。主イエス自ら、自分の服に触った者を探すのは、主イエスが、この女との人格的な関係、触れ合いが大切であることを認識しているのです。

 ある時、BSの海外ニュースを見ていましたら、フランスの老人ホームで、毎週、一回親のところに来ていた娘が、コロナの感染で、親のところにしばらく自由に行くことができず、やっと親と会えるようになったけれども、感染防止のために、ビ二−ル越しでしか会えないので残念だ、と言っていました。親にとっても家族が来ることを楽しみにしていて、人格的な交際が、癒すことになり、慰めになるのです。
 主イエスの女性を捜すしておられる姿、それは、本当に、弱く、小さな者に対する愛、神の愛の深さを思うような、捜す姿ですが、この主イエスの姿に動かされて、この女性は名乗り出て、主イエスの前に出たのです。

 この女性は、自分の今までの魂の歴史をありのままに主イエスに話したのです。病に苦しめられて絶望をしていたけれども、主イエスによって癒やされたことの感謝を語ったのです。
 主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」と宣言されました。
主イエスが治して下さると言う信頼をもって服に触ったということ、そのような小さな願いをも主イエスは、信仰と言ってくださるのです。主イエスならば、癒やしてくれるかもしれない、そのような配慮をしてくれると言う期待、それを信仰と呼んでくださるのです。
 厳しく言えば、自分のための信仰、自分の病を癒やすための御利益的な信仰かも知れないですが、主イエスはそれを拒絶しないで、主イエスは信仰として受け取ってくださるのです。
 
 自分の必要から主イエスに近づいた者を、主イエスは人間として応対してくださり、その苦しみと存在を受け入れてくださるのです。病を癒やすだけではなく、全体としての人間を受け入れ、愛してくださるのです。主イエスはこの女性の存在が価値がある存在だ、と認めてくださるのです。

 現代の社会は、社会に役に立つ人間が価値がある、と考えている社会です。病をもち、障がいをもち、生産性のない人は価値がないと考えています。
成果主義という言葉がよく表しているように、成果、それも経済的利得をもって、人の価値をはかるという傾向が強くでています。人材という言葉を使いがちですが、そこに含まれている意味は、人間を社会に役に立つものとしてのみ捉えていることには大きな問題があるのです。

 しかし、主イエスは、一人の人格をもった、かけがえのない人間として扱ったのです。主イエスによって、呼びかけられ、その呼びかけに応じて、ここで出会いが起こったのです。肉体の救いだけではなくて、この女性の全存在が救われたのです。人間らしい人間として、生きることができるのです。

 この女性は主イエスに自分の病が癒やされたのですが、それで解決し、終わりだと言うことではありません。主イエスが与えようとしている愛と信頼の中に身を委ねて神の支配に入ることができたのです。

 私たちは、この地上で生きる限り、悩みや苦しみがあります。そして解決がないような難しい問題に直面することがあります。その解決を願って苦闘し、努力をします。しかし、神の愛と信頼に身を委ねる、神の愛の支配に生きることなのです。神の愛に自分の魂を委ねること以外に健やかに生きる道はありません。

 主イエスはこの女性に「安心して行きなさい」と言われました。主イエスが復活されて、弟子たちに「安かれ」と言われました。「安心」という言葉は「平安」と言う言葉です。原文から直訳すると「平安の中へと行きなさい」です。この「平安」と言う言葉は、戦争がない、事件がなくて平穏だと言う意味ではなく、この言葉の本来の意味は「神がわたしたちと共にいる」と言う意味の平安です。神が一緒にいてくださる、そのことにまさった平安はないのです。

 朝日新聞の土曜日の別冊に「それぞれの最終楽章」という連載のコラムがあります。このシリ−ズに「病院の牧師として」と題して、大阪の淀川キリスト教病院のチャプレンである、藤井理恵さんが「『問わずに済む』という答え」と言う題で、69歳男性Yさんについて書いています。このYさんは、骨の悪性腫瘍で入院し、既にがんが肺に転移していて、訪ねると、今までの病歴を語り、「ボロボロと涙を流すばかり」であったのです。朝の礼拝と午後1時30分からの放送による聖書の言葉の朗読と讃美歌を流しているのです。

 チャプレンの藤井さんは、Yさんの部屋を訪ね、「詩編23編の『たとい死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません。あなたが共におられるからです。』を読んだ時、『これが私の今の心そのものです』と話しました。亡くなる2日前、Yさんが語った言葉です。『入院した頃は病気のことを考え、悪くなって苦しくなって最期を迎える・・・いつもそこをぐるぐる回るだけでした。でも今はどうしても治りたいとは思わなくなりました。気持ちが安らかであることが何より幸いです。』亡くなる前日、『心や魂のことは神様が心配してくださるのだと聞いてからは、心はずっと落ち着いています。これだけが私の支えです。私は強いですよ』とほほえみました。」
 苦しい病気を抱えて、自分がなぜ、この苦しまなければならないのか、その意味を問いかけていましたが「『神様がともにいてくださるから、問う必要がなくなった』」のです。
 
 主イエス・キリストは、罪深き者、弱さを抱えている者を裁き、罰するのではなく、赦し、愛してくださる神として「私と共にいてくださる」のです。
 私たちを慈しんでくださる、この神が共にいてくださるので、安心して行きなさい、と主イエスは私たちに語るのです。


祈祷
 イエス・キリストの父なる神。暑くなって参りましたが、教会の兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、あなたのみことばを聞くことができましたことを心から感謝致します。私たちが心折れ、力尽きる時にも、あなたは私たちを見捨てることなく、みことばをもって慰め、力づけてくださり、ありがとうございます。
あなたにすべてを委ねて、この一週間もあなたにお応えすることができますように導いてください。コロナウイルスに感染し、治療を受けている方々、その治療に専念している医療従事者をあなたが支えてくださいますように。私たちの教会の兄弟姉妹の中で、病と戦っている兄弟姉妹、自宅療養している兄弟姉妹が回復して、礼拝に共に集うことができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン

讃美歌 530 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金 (献金の祈り)
主の祈り

頌栄  27 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番

祝祷
 神が共におられます。平和のうちにこの世界に出かけて行きなさい。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同にあるように。ア−メン




     来週の聖日 8月2日(日)
説教 「よい知らせを伝える喜び」 山ノ下恭二牧師
聖書 イザヤ書52章7−10節
    ルカによる福音書9章1−9節
讃美歌 83−1 16 405 519 29 
交読詩編 29



(WEB礼拝)
20200719  主日礼拝説教  「決して変わらないものがある」 講壇交換:中井利洋牧師(江古田教会)
(イザヤ書40章1−8節、ペトロの手紙一 1章13−25節)

7月19日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年7月19日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    21編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      57   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           イザヤ書40章1−8節(旧約1123ページ)
           ペトロの手紙一 1章13−25節(新約429ページ)

祈祷    (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  519    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200719 主日礼拝説教 「決して変わらないものがある」 中井利洋牧師(江古田教会)
          本日は講壇交換で、中井牧師の説教奉仕のため、掲載いたしません。(後日掲載)
 江古田教会で牧師をさせていただいている中井です。牛込払方町教会の先週の週報に詳しく紹介を載せていただき感謝しております。山ノ下先生とは加藤常昭先生が主宰される説教塾でご一緒していますが、初めてお会いしたのがいつだったか、初めてお話を交わしたのがいつだったのか思い出せません。

 私は北海道で生まれ育ちまして、母教会の西札幌伝道所で1990年に洗礼を受けさせていただきました。丁度、洗礼を受けてから30年です。35歳のころに洗礼を受けましたが、7〜8年後に召命を与えられ献身を決意しました。何分とも神学校に行ける状況にはなく、北海道におりましたし、子供は二人とも東京に来ていましたので、日本基督教団の所謂Cコースというコースで献身を志したのが1997年ころ、2004年に補教師になりました。その年の11月から札幌琴似中央通り教会で伝道師をさせていただきました。その頃説教塾と出会い、加藤先生に出会うことによって、神学、教理というものを初めて、それまでは全く本の中でしか知らないことを、実際的な、私たちが生きていく上で神学が必要だということを知りました。おそらく、その頃、私は札幌から東京、長崎とか、いろいろな例会やシンポジウムに行きましたので、そのどこかで山ノ下先生にお会いして、優しい方で、東大宮教会の月報を手渡していただいたり、そんなことから親しくなって行ったと思います。

 2009年と2015年に、加藤常昭先生に、その頃私は仙台東教会におりまして、そこで説教をしていただきました。2009年の時に、「いつの間にか親しくなった牧師に招かれて」という言葉で始まったことを覚えています。いつの間にか親しくなったというのも、山ノ下先生ともそういう感じで親しくなってきたのではないかと思います。

 昨年度4月に請われて江古田教会に来させていただきましたが、そこで牛込払方町教会出身の方を知りました。今回は是非ご一緒しましょうということで、そこにおられる堀本さんと来たわけです。堀本さんは加藤先生の説教が聞きたくて、この教会に来られたと聞いています。肝心の加藤先生が1964〜5年にドイツに留学されて(記録者注記:当教会120周年記念誌記録より、1965年6月28日離日留学)居られなくなりました。当時、桑田秀延先生に洗礼を受けて、(注記:桑田秀延東神大学長が当教会で1965年7月4日より毎月第1聖日に説教・聖餐式執行されることになった。1967年5月14日ペンテコステ礼拝で桑田牧師が洗礼式を執行された旨の記録あり。末木恵子姉=堀本姉が受洗された。)そしてご主人の淳さんは松永希久夫先生に洗礼を授けられたと聞いています。(注記:松永牧師は1983年10月4日に東神大学長に就任。1984年3月末に大久保牧師が主任担任教師として着任。堀本淳兄の受洗は1986年と記録あり。堀本ご一家は1990年に転出されている。)正に私にとってはお二人ともに伝説上の方なので、本当に素晴らしいことだなと。加藤先生を含めて、勉強する上で尊敬する3人の先生たちがこの払方町に関りがあったということであります。

その後淳先生は召命を受け、日本聖書神学校に学ばれました。そして江古田教会に転会されていたという事情もあったのでしょうか、江古田教会に招聘されて主任担任教師になられました。これも私と交錯するのですが、2007年に私が初めて主任担任教師で赴任したのが仙台でしたが、その2007年の主の受難日、イエス様が受難された日、その日の祈祷会後に堀本淳先生が天に召されたと聞いて、そんな劇的なことがあるのだろうかと驚いたものでした。

堀本恵子(旧姓末木)さんはその後も江古田教会のために役員として尽力されました。今日、皆さんにお渡ししている80年誌は殆ど堀本さんに編集制作していただいたという具合で、今日は是非ご一緒しましょうということでした。

一方、私が着任した江古田教会は中野区にあります。中野区は、普通は西東京支区なのですが、江古田教会だけは何故か北支区です。伝統的にその地域に根差しているということがあるのでしょうが、北支区に知っている方がいらっしゃらないなと思っていましたら、払方町教会の山ノ下先生に出会うことになりました。着任して一番最初に来させていただいた教会です。

もう一つ、江古田教会について言いますと、「えごた」という地域と「えこだ」という地域があり紛らわしいのです。「えこだ」というのは西武池袋線「えこだ」駅があり、日大芸術学部、武蔵野音大、武蔵大学などがあります。ちょっと南に行って中野区に来ると「えごた」と言うのです。目白通りの向かいに改革派の教会があり、そこも「えごた」教会だと教わりました。教会に「エゴノキ」がありますが、エゴノキから「えごた」と言われているのかなと思います。

丁度一世紀前、1918〜9年にかけて、スペイン風邪が流行りました。世界中の人口の3分の1位が感染して、亡くなった方が2〜5千万人という記録が残っています。当時、日本の人口は今の半分位で5700万人位ですが、その内2380万人が感染したという記録があります。そして388千人が亡くなり、一説では48万人の方が亡くなっているという研究もあるようです。コロナウィルスに世界で可成りの数が罹患しているということですが、スペイン風邪のときも、1年目はすごい流行で、1972万人が罹ったという記録があります。そして213,632人が亡くなっている。次の年は一桁下がるのですが、、200万人以上の人が罹って10万人以上が亡くなりました。その次の年、1920〜1年には第3波が訪れて、20万人の人が罹って3千人位の方が亡くなっている。

人類の歴史は、そういったウイルスとの戦いだったといえるのですが、これほど時間がかかる。今一生懸命ワクチンや薬を作っていただいていると思いますが、本当に待ち遠しい限りです。当時の新聞を見ると、今と同じで、人に近寄るときはマスクをして、密集するなといった標語ができていたそうです。日本では劇作家の島村抱月が亡くなったそうです。先週、北区の田端の文士村に行きましたが、村山槐多という画家もスペイン風邪で亡くなったそうです。世界を見ると、グスタフ・クリムトとか、社会学者のマックス・ウエーバーとかが亡くなったと聞いています。今、日本でも有名人が新型コロナウィルスに罹って亡くなっていることを聞いています。

このコロナウィルスは免疫が弱い人たちが苦しんでいる。でも時に、元気な若者が罹る。治って退院してからも後遺症で苦しむケースが多いとも聞いています。本当にかからないことが一番だと思います。それは私たちが一方でそういう社会を・・する力を持ちながらも、多くの情報を取捨選択しながら、終息を願って社会的距離を取るということが、コロナウィルスが広がらない一番の方法であろうかと思います。また、今はウイルスですから正体は分からないのです。それを考えているうちに、風車に突撃していくドン・キホーテの図柄を思い出します。人間のおごりの結果としてそのことが起きたのではないか。もちろん、検証はできませんが。

旧約聖書でも、新約聖書でも疫病に対しては無力であったようです。ルターが疫病に対して書いた記事がありますが、現代の私たちは聖餐式もできないで、どうしたら聖餐式ができるか、キリストを味わう聖餐式ができるのか考えていますが、ルターの時代はそういうことは考えずに聖餐式を行っていましたから、疫病が蔓延したという事実もありました。

その中で私たちは今日、ペトロの手紙一を読むわけです。イザヤ書から引用された言葉がいくつかありました。24節の引用は、正にイザヤ書60章、第2イザヤが書いたところです。ちょっと話は変わるのですが、私はギターが好きで、小学生のときからギターを弾いていて、歌を歌ったり、曲を作ったりしていました。この騒ぎの中でギターを持つことができませんでした。そういう余裕がなかったのですが、今日のこの一節をある時読んでいて、急に向こう側から曲が聞こえてきました。それを書き留めたのが皆さんにお配りしたメモの楽譜です。
一節、歌わせていただきたいと思います。
「主の言葉は永遠」
ひとはみな、くさのようで、そのはなやかさは、すべてくさのはなのようだ。くさはかれ、はなはちる。
しかし、主のことばは、えいえんに、かわることはない。

「この歌はコラールにあるよ」という教会員がいました。旧約聖書を聴いていくと曲はできないが、やはりこの箇所でないと曲はできないなと思った次第です。今日、招詞でダビデの歌を歌いましたが、ダビデもこうして歌を作っていったのではないかと、私なりに考えました。

イザヤ書というのは、ご存知のように不思議な文書です。何故不思議かというと、66章あるから不思議なのです。新約聖書はいくつ文書があるかご存知ですか。27あります。旧約聖書が39ありますから、合わせると66なのです。ですからイザヤ書の66章というのは、正に旧約・新約を合わせた、謂わば象徴している言葉ではないかと言われます。第一イザヤが1〜39、第2イザヤが40〜55、そして56章が第3イザヤです。今言った章とか節も、13世紀、15世紀、16世紀にかけて出来てきたようです。節ができたので、第1章13節から25節まで読みますよ、というように、住所の所番地が分かるように直ぐ開けるようになりました。

今日の聖書箇所は、「だから」という言葉で始まっています。「だから」と始まっているということは、この接続詞があるということは、前の1節から12節までを引き受けているということになります。そこを読みますと、私たちを救うのは、難しい哲学の内容が自分の身に困難があるときに心をとらえる、その時こそ聖書の言葉が自分の心に刺さってくる、自分の心に届いてくる、皆さん、聖書を深く読みましょう、と言っているのです。本日の聖書箇所は、文章的には難しいところはありません。15節の「あなた方自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」これも旧約聖書の言葉でしょうが、自分には難問だと感じる方が多いかもしれません。また、金や銀のように朽ち果てるものではなく、キリストの尊い血によって救われたということを強調しながら、20節には、「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」この一文はすごい表現です。天地創造の前から、それはイエス・キリストが現れて、そして、この終わりの時代、終末の時に、あなた方に現れてくださった。正に神の時間というのがこの一文に現れていると思います。22節から信仰の神髄である隣人愛、兄弟愛がたっぷりと語られる。そして23節に終わります。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」

イエス様がおられた当時のパレスチナには、アマランスという植物がありました。アマランスはなかなかしぼまない、派手な花です。時には穀物として干すことによって食べることもできるいう重宝された花であります。このアマランスという花をモデルにした言葉が、この「朽ちない」という言葉なのです。変わることのない生きた言葉、それは即ち神の言葉、神の言葉によってキリストにつながった新しく生まれた一人一人に与えられている。そのことをより強調するために、イザヤ書40章、それがメロディーとなってある人物に呼びかけた。

新型コロナウィルスの本名を知っておられますか。SARS CORONA VIRUS 2.
SARSというのは、何年か前に流行した気管支の呼吸器の病気で、Severe Acute Respiratory Syndrome、つまりSevereで、Acuteな Respiratory Syndromeで、重篤で急性の呼吸器症候群ということです。その後に、Corona Virus 2と付きます。これが正式名です。この名称を読んだときに、私は「儚い」と感じました。本当に人間の生命は儚いものだなと思いました。Severe Acute Respiratory Syndrome Corona Virus 2は、自分を増やすために本当に真面目に真剣に活動しているのです。それを忠実に守っている。しかし、私たちの身体に入ると影響を与えて死に至らしめるのです。世界の摂理の中で、私たちの生命は、このコロナウィルス2に翻弄されていると感じます。大きな海の中を、波の間にたゆたっているもの、変わっていくもの、死んで行こうとしているもの、儚いものです。しかし、主の言葉は永遠に消えることなく、と聖書は語っている。

 今年もまた豪雨災害がありました。私はあの2011年3月11日に仙台にいた者として、語らなければならないことがあると思います。今日はもう語る時間はありませんが、それらは聖書の中で繰り返されている・・です。今回のウィルスの広がりも然り。しかし、小さな者たちに響く言葉がある。「しかし、主の言葉は永遠に消えることはない。」決して変わらないものがある。聖書は、神の言葉として、生きる者たちに・・・。私たちは命を支える主のみ言葉によって、生きることを許された者たちです。そして、教会は2000年間、もう一つ願い続けていたことがあります。それは「祈る」ということです。時には、戦争、人間と人間の争いさえ、排除できる力がある「祈り」。祈り願う心があれば、目に見えない姿で我々を脅かすこのウィルス、Covid19に対峙できるのではないか、と最近思いました。ウィルスに振り回されるのではなく、キリスト者としての尊厳を保ちながら、しかしウィルス感染を収めるための最善の方法を聞きつつ、この時代の中を生きていく、生きて行かなければならない、それこそキリスト者の、教会の礼拝に集う者たちの使命です。

祈ります。
 主なる神様。有史以来、人間の生命を脅かすものはたくさんありました。かつての人間がそうであったように、我々もこのコロナウィルスの前に無力であります。しかし、人の力で、私たちの考える力で、ウィルスを少しずつ撤退させることはできそうな気配です。力ない者ですが、そのようにできるように導いてください。そして今こそ、御言葉をお与えください。感謝です。主の言葉は永遠に変わることはない、この言葉を生きるよすがとして、この週も生きることができるように導いてください。教会に来られない多くの方々のために聖霊を・・・イエス・キリストの恵みが、身体いっぱいに降り注がれますように。
平和の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

文責:記録者 堀 瑞穂

讃美歌 510   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金  (献金の祈り)
主の祈り

頌栄  27   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷       本日は講壇交換のため、祝祷は中井牧師が席上でお捧げします。

後奏 

          〇来週の聖日 7月26日(日)
 
 説教 「心折れて、力尽きる時に」 山ノ下恭二牧師
 聖書 詩編 91編7−16節
     ルカによる福音書 8章40−56節
 交読詩編 23 讃美歌 83−1、16、227、530、27


(WEB礼拝)
20200712  主日礼拝説教  「すこやかな歩みを」  山ノ下恭二牧師
イザヤ書49章8−13節、ルカによる福音書8章19−39節)

7月12日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年7月12日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    19編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌       7   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           イザヤ書49章8−13節(旧約1142ページ)
           ルカによる福音書8章19−39節(新約118ページ)

祈祷    (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  482    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200712 主日礼拝説教 「すこやかな歩みを」 山ノ下恭二牧師
          以下、声に出して読んでください。
 最初のキリスト教会の洗礼式について書いてある本に、洗礼を授ける前に、司祭が洗礼を受ける者に、悪霊を追放する儀式をしていたと書かれていました。
 最初のキリスト教会が、洗礼を受けようとしている者に、悪霊を追放する儀式をしていたということは、洗礼を受ける者が悪霊に支配されていると考えていたことになります。悪霊に支配されていた生活から、聖霊によって歩む生活に転換して欲しいと願っていたのです。洗礼を受けるということは、神を中心とした生活に切り換えることであり、神以外の存在を自分の生活の中心に置かないということなのです。
 
 洗礼を受けてキリスト者として生活をすることは、悪霊の支配を脱出して、聖霊の支配に身を委ねることなのです。その意味で、最初の教会は悪霊の支配から解放されることが、キリスト者にとって重要なことであると認識していたのです。現在のキリスト教会の洗礼式では、洗礼を授ける前に、悪霊を追放する儀式をしていませんが、最初のキリスト教会は、悪霊の存在を実際に存在するものとして捉え、リアルなものとして受け取っていたのです。

 本日の礼拝でルカによる福音書8章26−39節を読みました。ここには、「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」物語が書かれています。悪霊に取りつかれた人が主イエスによっていやされた物語です。この物語を読んで思うことは、この物語が異様であると言うことです。はじめに書かれている、墓場の男の生活ぶりが異様ですし、主イエスとけがれた霊とのやりとりもそうです。そして悪霊が豚に乗り移り、悪霊に取りつかれた豚が一度に崖からなだれを打って海中に落ちていく様は、私たちの経験を越えた異様な光景です。
 この物語は、私たちのふだんの生活経験からかけ離れたものです。このような物語を読むと私たちとは関わりのない物語が書かれていると考えるのです。しかし、この物語は現代に生きる私たちに通じる深い内容をもったことが語られているのです。
 
 はじめに、「一行は、ガリラヤの向こう岸、ゲラサ人の地方に着いた」とあります。「ゲラサ人の地方」とは、ユダヤで汚れた動物とされた豚が飼われているような、汚れた地です。神から離れ、悪霊がさかんに働いているような場所です。主イエスはそこに行こうとされたのです。私たちなら、できるだけ関わりたくない、そのようなところに主イエスは行くのです。嵐をついて、悪霊が住んでいるようなこの土地に渡って来られたのです。それは、この物語に登場する、悪霊に取りつかれ、人間性を失い、獣のような生活をしていたこの一人の男のためでした。この男を救うことを目指すためにわざわざゲラサに渡ったのです。伝道の観点からすれば、たった一人を獲得したに過ぎないのですが、この一人のために主イエスは誰も近寄らない土地に渡ったのです。この一人の救いのために主イエス・キリストは、全力をもって立ち向かうのです。

 この汚れた霊に取りつかれた男は、人々が住んでいない、町から離れた墓場をすみかにしていました。彼は人々の交わりから断たれ、その外に置かれていました。人間は他の人と交わることによって人間らしい生活ができるのです。他の人と関わらないで生活することはできません。しかし、この男には、同情し、相手として関わり、心配する人がいませんでした。
 
 そして「墓場」と言うことが象徴しているように、この人が暮らしているところは、「死」が支配しているところです。彼は死が支配している側に、命の向こう側にいるのです。そして人々は彼を鎖や足かせで押さえようとしたのです。あばれるからというのではなく、人々はこの男が自分たちの側に出てくることを嫌い恐れていたのです。自分たちに危害を加えることを恐れ、監禁したのです。しかし、彼は鎖を引きちぎり、足かせを砕いたのです。彼は自由を求めていました。意味のある生活をするために、自由になりたいと願っているのです。主イエスはこのような人を無視したり、相手にしないことはなかったのです。この男に深く同情を寄せ、憐れんで、一人の人格として扱ったのです。
 
 悪霊に取りつかれている、ということはどのようなことなのでしょうか。このことを私たちは、現代に応用して適用しようとします。
 最近、ルカによる福音書の新しい注解書が出版されて、今日のテキストについて、「解説、考察」が書かれていました。「古代世界の人々の多くは、悪霊等の様々な霊の存在を信じ、それらが自然現象を起こしたり、人間に取りついたりすると考えていたが、もちろん現代人にはこのような考え方は受け入れられない。しかし、その一方で、多くの人が種々の精神的な病(心の病)を患い、そのことで本人のみならず家族や近親者が大きな負担と精神的苦痛を負わされるという状況は今日においても全く同様である。そして、そのような苦痛の大部分は周囲の人々の偏見や無理解によってもたらされるが、イエスはここで、その悪霊にとりつかれた人に手を差し伸べて癒し、このような人々に寄り添う姿勢を示している。」ここでは、悪霊にとりつかれた人を、現代の状況に適用して、「精神的な病をもっている人」と解釈しています。

 他の註解者も悪霊に取りつかれている人を精神的な病をもった人として解釈しているのです。それは現代に通用する解釈です。環境や本人の病的な性質により、悪霊に取り憑かれたような異常な状態になり、とても苦しんでいる、そのことを悪霊に取りつかれたと解釈しているのです。確かに、「悪霊に取りつかれた」人を現代に適用すると「精神的な病」をもった人と解釈するのは、分かりやすいのです。
 
 例えば、異性相手に好意を持つのですが、相手がその好意を拒否すると、執拗に相手を追いかけ、相手を殺してしまうストーカー犯罪があります。愛が憎しみに変わると言うよりも、相手に対する好意が、相手のための愛ではなく、自己愛に基づくものなのです。相手が自分の思うように、自分の期待通りにしない場合には、それが憎しみに変わり、相手のいのちまでも奪っても構わないと思い詰めるのです。
 また、間違っていることをしている人を赦すことができずに、相手を殺してしまう事件があります。正義が貫かれるためには、どんなことをしても良いと言う観念に凝り固まってしまうのです。そのような考えにとらわれて、それを絶対化する、自分の思いや考えにとらわれてしまうことがあります。

 私たちも、心の中で相手を憎んだり、相手が自分の好意に応えないと、自分を無視していると憎らしく思ったり、間違ったことをしているのに、それを改めないのはおかしい、という思いに囚われ、思い詰めることがあります。心が病的になることがあります。しかし、それが、ただちに、悪霊に支配されていると言って良いのか、は難しい問題です。「悪霊に取りつかれた人」は「精神的な病」をもった人と断定することはできないのです。

 この物語を読んで分かりにくいのは、主イエスと話している相手がいつのまにか悪霊につかれた男から、悪霊そのものに変わったり、また逆に、悪霊そのものから、悪霊につかれた男に変わっている点です。汚れた霊はそれほどまでに男にとりつき、一体化して、男を支配しています。そしてこの男もそれを欲しています。ルカによる福音書8章28節には、この男が主イエスに、自分から悪霊を追い出さないでくれと懇願しています。
 
 人々はこの男を鎖や足かせでつなぎとめておこうとしていました。それは男と悪霊と一つにしようとしているのです。一つとみなそうとしています。それで墓場から出て来ないように彼を拘束しようとしたのです。
 これに対して主イエスは男と悪霊とを分け、分離して、悪霊から男を救い出そうとしたのです。人々はこの男には悪霊が取り憑いている、この男は悪霊そのものだ、と思っていたのですが、主イエスはこの男がすこやかに生きることができるように、悪霊と男とを分離して、救い出そうとしているのです。「罪を憎んで、人を憎まず」ということわざがあります。従って、主イエスは、命令をして悪霊を追放されたのです。主イエスはこの男を一人の人間として扱い、回復することを願い、そのために全力をもって癒やそうとされるのです。
 
 このような悲惨な現実の中に生きていたこの男に、主イエスは癒やしをなさったのです。この男を捕らえているもの、悪霊を主イエスが御自身のうちに手に入れるために名前を尋ねるのです。
 名前を尋ねると、「レギオン」、これは、ロ−マ帝国の軍隊の一個師団、を指します。一個師団は兵士が5600人位いました。5600人の兜に身を固めた兵士がこの男をとらえていたのです。追い払うにも、逃げようにも最強の兵士ががっちりとこの男を拘束しており、ビクともしないのです。すごい力で押さえつけられています。それほど、悪霊は大きな力をもってこの男を支配しているのです。汚れた霊は豚にとりつき、豚はなだれを打って海に落ち込み、悪霊は溺れ死ぬのです。

 この物語を私たちの信仰生活との関連で考えて、私は主イエスが語った一つの譬え話を思い起こしました。ユーモアのある、そして警告をも含んでいる譬え話です。ルカによる福音書11章24−26節の短い譬え話です。(p129)
 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を捜すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
 
 皆さんは、主イエスが語られたこの譬え話をどのように理解するでしょうか。汚れた霊が家から出て行ったので、その家は掃除をしてきれいになった、しかし、家は空いていて、だれも住んでいないのです、悪霊は休む場所がないので、今まで住んでいた、住みごごちのよい家に、他のもっと悪質な、多くの汚れた霊を連れて、再び、入り込んで住んでしまうのです。せっかく、悪霊がいなくなって家の中がきれいになったけれども、誰も住んでいないので、また、悪霊たちが大勢でやって来て、この家を占領、占拠してしまい、この家は前よりも悪くなるのです。

 この譬え話は、私たちにどのようなことを語ろうとしているのでしょうか。私たちは、洗礼を受けて、主イエス・キリストを中心とする生活になったのです。悪霊が自分のところから出て行ったのです。ところが、洗礼を受けて、キリスト者となっても、神がいない、空白の生活をしていると、再び、悪霊が住みついて、悪霊に支配される生活になると、この譬え話は警告しているのです。私たちが生活していく中で、神を、イエス・キリストを自分の生活の中心にしない、神を、イエス・キリストを自分の生活の中に入れていない、空白にしていると、出て行った悪霊が戻って来て、自分の生活の主人公になってしまい、悪霊に支配されるのです。

 私たちは、日曜日に礼拝に出席して、みことばを聴き、まことの神を礼拝し、神のみこころに従おう、と決心します。しかし、教会の礼拝から家に帰り、日常の生活に戻りますが、全く神を中心にしないで、自分中心の生活に戻ってしまうのです。聖書を読まず、祈りをしない生活になってしまうのです。礼拝で聞いたみことばもどこかにいってしまうのです。神のいない、何もない空白の場所に悪霊が戻って来て、私たちを支配していくのです。その生活のありさまは、以前よりももっと悪くなるのです。
 
 「礼拝−その意味と守り方」に日曜日が礼拝、月曜日が礼拝1、火曜日が礼拝2、と中国のキリスト者は呼んだ、と書かれています。毎日が礼拝の日として、イエス・キリストを自分の主として信じて、みことばに従わないと、空白のところに悪霊が住み着くのです。
 現代は世俗的な時代です、今だけ、金だけ、自分だけ、その時だけ楽しければ良い、お金があれば良い、自分だけのことをしていれば良い、刹那的な生き方、金銭的エゴイズム、利己的な生活、このような生き方ならば、イエス・キリストを受け入れる場所はないのです。私たちは、この時代の生き方に影響されて、悪霊に支配されているのです。

 神を礼拝し、隣人を愛することのない生活、まさしくそれがこの時代の悪霊に支配されていることなのです。まことの神を礼拝し、隣人を愛する、そのような基本的な軸をもって生活する、そのことが健やかに生きることなのです。

 ルカによる福音書8章35節以下に記されていますが、癒やされた男に目を向けると、悪霊につかれていた男が、今は服を着て正気になって主イエスの足もとに座っていたとあります。静かにそこに座っていたのです。それは主イエスの語るみ言葉を聞いていたのです。自分と悪霊の区別もできないような、自分を見失った、混乱した状態ではなくて、みことばを聞いて、醒めた、しっかりした判断をすることができるのです。みことばを聞いて、まことの神を礼拝し、隣人を愛する、そのような確かな生き方がまことに幸いな生き方であることを知り、すこやかな生活を取り戻すことができたのです。

 この男は主イエスに癒やされて、すこやかになったのです。主イエスが舟に乗ろうとされると、彼はお供したいと願い出ましたが、主イエスはこれをお許しになりませんでした。むしろ主イエスは自分の家に帰るように命じられたのです。この男には使命があると語られました。彼を家族伝道に遣わされたのです。ルカによる福音書8章39節には「『自分の家に帰りなさい。神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』」と語られています。主イエスがこの男を支配していた悪霊を追放してくださり、癒やされた者は、新しい使命を与えられました。それは主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることです。

 既に悪霊に支配され、罪に支配されて生きる、その時は完全に終わったのです。神の愛の支配を宣べ伝えるのです。この男はこの使命に生きたのです。そして異邦人の地に伝道した最初の伝道者となりました。彼を動かしているのは、主イエスが自分を深く愛してくださり、癒やされて、すこやかに生きている、と言う感謝の心です。自分が神の愛に生かされている、そのことを多くの人々に宣教したのです。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」
 
 私たちは、悪霊に支配されないように、聖霊を求め、みことばに従う生活を追い求めたいと願います。


祈祷 
 イエス・キリストの父なる神。新しい主の日を与えられ、あなたに招かれて、教会の兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたを讃美し、あなたのみことばを聴くことができましたことを心から感謝致します。この世の霊に支配されていた私たちを、あなたは悪霊から解放してくださり、主イエス・キリストの愛の中に移してくださり、キリストのものとしてくださいました。私たちが神の言葉を聴きつつ、まことの神を神とし、隣人を愛する者となることができますように導いてください。教会の兄弟姉妹の中で、入院している兄弟姉妹をあなたが癒し、回復して礼拝に集うことができますように導いてください。新型コロナウイルスに感染し、治療を受けている方々を癒し、医療従事者の健康を守り、治療に専念することができますように祈ります。これからの一週間の歩みを見守り、あなたのみこころに従って歩むことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

讃美歌 456   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金  (献金の祈り)
主の祈り

頌栄  29   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン

後奏 

          〇来週の聖日 7月19日(日)
 
 説教「決して変わらないものがある」 中井利洋牧師 (江古田教会)
 聖書 イザヤ書 40章1−8節
ペトロの手紙一 1章13−25節
 交読詩編 21 讃美歌 83−1、57、519、510、27

以上

(WEB礼拝)
20200705  主日礼拝説教  「望みの港に導かれる」  山ノ下恭二牧師
(詩編107編28−30節、ルカによる福音書8章19−25節)

7月5日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年7月5日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠       83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編    16編  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌      18   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所         聖書を開き、声に出して読みましょう。
          詩編107編28−30節(旧約949ページ)
          ルカによる福音書8章19−25節(新約119ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)
讃美歌     458  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200705 主日礼拝説教 「望みの港に導かれる」 山ノ下恭二牧師    
          以下、声に出して読んでください。
 私たちは、この人生の中で、様々な試練を受けます。思いがけなく、病を得ることがあります。奥様が難病にかかり、その世話をしている方の話を聴きましたが、難病に罹った妻もその介護をしている夫もとても苦労していることを知りました。また私たちには親しい者との別れがあります。家族を失うことは辛いことです。そして自分が不当に扱われ、屈辱を受けることもあり、このことも辛いことです。私たちは様々な試みを受けるのです。そのような時に、私たちは何かに頼りたいと思うのです。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書8章19−25節のみことばを聴きました。主イエスは湖を渡ろうとなさったのは、向こう岸に渡って、ゲラサの地で悪霊に苦しんでいた男を癒すためであったのです。この時、主イエスはかなり疲れていました。8章19−21節には、母や親族とゆっくり語り合う暇もないほど、説教と癒しに明け暮れ、「人の子には枕することがない」とお語りになるほどの忙しさのために、相当、疲労困憊していたのです。
 
 「湖の向こう岸に渡ろう」と言い出されたのは、主イエスご自身であり、それは舟の中で数時間の眠りを取るためでした。伝道にいそしむ途中で、一時の眠りをお取りになるのです。私たちと同じように睡魔に襲われる弱さを持っておられるのです。しかし、主は、その弱さをガリラヤの漁師であった弟子たちの手に委ね、舟の運航を彼らに任せられるのです。父なる神に身を委ねられるだけでなく、弟子たちをも信頼し、身を委ねられるのです。そして、すやすやと安らかに「眠ってしまわれた」のです。

 そこへ嵐がやってきたのです。ガリラヤ湖は、突風で有名なのです。私がイスラエル旅行に行った時に、ガリラヤ湖のある港から向こう岸に渡ろうと舟に乗ったところ、湖の真ん中で、嵐がやってきて、引き返したのです。「突風が湖に吹き降ろし」たのです。

 弟子たちが、主イエスと共に舟に乗ったのは恐らくこれが初めてではなかったのです。最初の教会の時から、舟は教会を表していると考えて来ました。弟子たちが乗っていた舟は、イエス・キリストが乗っていました。教会もイエス・キリストがおられるのです。ところが、嵐が激しく舟を襲い、舟もろとも、弟子たちを湖の底に沈めようとしているのです。船底の下には死の世界があるのです。弟子たちは、不安と恐怖を覚えたのです。そして思わず、「先生、先生、おぼれそうです。」と叫んだのです。

 私たち信仰者には、試練や誘惑があるのです。私たちがいつも祈っている、主の祈りには「我らを試みに遭わせず、悪より救いいだしたまえ」とあるのです。この主の祈りの「試み」という語は、「誘惑」とも翻訳できる言葉です。私たちも、試練に遭うのです。
 
 私は説教塾で学んでいますが、日本キリスト教団以外の教派の牧師も多く参加して、学んでいます。他の教派の一人の牧師はとても熱心に説教の学びを続けていましたが、息子さんが事故に遭い、その重い後遺症で、寝たきりになり、介護がないと一人では生活できない生活になったのです。説教塾メーリングリストで、その牧師は、息子さんの病状やその介護の大変さ、苦しさを知らせてくれました。そのうち、メーリングリストにメールがなくなり、説教塾の例会に姿を見せなくなり、どうしているのか、と心配していました。それから2年が経過して、同じ教派の後輩の若い牧師から、その牧師は教会を辞任し、牧師そのものを辞めて、別の職業に就いたことを知らされ、とても衝撃を受けたのです。説教に対しても、誠実に取り組んでいた牧師が、牧師を辞めてしまったのです。その若い後輩の牧師は「その牧師から洗礼を受けたので、とてもショックです」と言ったのです。

 嵐の中で舟が沈みそうになる、その舟に主イエス・キリストは乗っているのです。しかし、イエス・キリストが乗っていることをも忘れるような、嵐が吹き荒れているのです。

 私たちは、イエス・キリストがいることは分かっているのです。私たちには、避け所があります。それは神の言葉であり、祈りであるのです。主イエス・キリストが共にいてくださるのです。宗教改革者ルタ−は、弟子のメランヒトンとよく、詩編46編を読んで、深い慰めを得たと言われています。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。私たちが試練に遭うとき、主イエスが必ずそこにいまして助けてくださると信じることは、幸いなことです。私たちが試練に襲われたときにも、主イエスは必ず共にいて戦ってくださるのです。

 この物語で最も印象深いのは、猛り狂う嵐の中でも、静かに眠っておられた主イエスのお姿です。主イエスは、父なる神に深く信頼して憩われておられたのです。「眠ってしまわれた」この言葉は、どのようなことを語ろうとしているのでしょうか。主イエスが泰然自若で、どんなことにも慌てたり、動揺しない、人間としてしっかりした性格であることを言っているのではなく、主イエスが神であることを言おうとしたのです。父なる神と一体であるゆえに、限りない平安をもっていることを語ろうとしているのです。

 マルコによる福音書に同じ物語が記されていますが、少し異なるところがあります。マルコによる福音書4章38節には「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と弟子たちが叫んでいるのです。弟子たちがおぼれても構わない、関わりをもたない、無関心な、そういう方なのか、余りにも冷たいではないか、と言っています。ある註解者は、主イエスが眠っていることが、あたかも神がいないことへの非難という意味で語られている、と解説をしています。
 しかし、ルカによる福音書では、マルコとは違う言葉なのです。ルカ8章24節「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』
と言った。」と記されています。神があたかも眠っておられ、人間が呼び覚ますという意味で語られています。詩編35編23節には「わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし 起き上がり、わたしのために裁きに臨み わたしに代わって争ってください。」(旧約p867)とあります。神は眠っている、自分のために何もしてくれない、動いてくれない、という叫びです。
 先ほどの牧師は、自分が辛い試練を受け、その苦難は続いているにもかかわらず、神は何もしてくれない、と思ったに違いないのです。

 主イエスは弟子たちに起こされると起き上がり、「風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」のです。風も波も従わせる主イエスの言葉の威力に、弟子たちは恐れ驚いたのです。

 今日の物語の中心は、8章25節のみことばです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という主イエスの言葉です。この物語の中心は、「信仰」の中身は何であるか、ということです。
 この物語を表面的に読むと、嵐が来ても安らかに落ち着いて眠っておられる主イエスは、神に対する信頼が厚く、それに対して、慌てて自分を失っている弟子たちは、まだ信仰が未熟である、と理解してしまうのです。神が信じる者を守って下さる、その信頼という意味に取ってしまうのです。
 信仰がなければ、様々な事件に動揺し、心に波風がたちやすいけれども、信仰があれば、いつも平安でいることができるのだ、という理解です。このような信仰ならば、特別に、キリスト教でなくても、ユダヤ教、イスラム教、仏教でも言う「信仰」なのです。

 私たちは「神が共にいてくださる」と言います。しかし、この物語は、もっと大切なことを語ります。8章25節に「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」とあり、ここで「この方」とは、誰であるのか、が最大の問題なのです。イエス・キリストとは誰なのか、このことが一番の問題です。
 イエス・キリストは誰であるか、イエスは神である、ということです。マルコによる福音書では「まだ信じないのか」と主イエスは問うています。今まで、長い間、わたしと一緒にいたのに、まだわたしが神であることが信じられないのか、と語っているのです。
 
 神はいつも自分と共にいる、インマヌエル、その信仰は大切です。しかし、それだけでは、キリスト教信仰にはならないのです。天には宇宙を超越した一人の神がおられ、まどろむことも眠ることもなく、天地万物を支配している、その神がいる、という信仰であると、一神教でしかないのです。主イエスは神を深く信頼していた、しかし、弟子たちをも含めて、自分たちは信頼が薄い、という話になるのです。このテキストを、主イエスの信仰に学ぶ、という意味で理解するのです。

 ユダヤ教、イスラム教も一神教です。キリスト教も一神教ですが、しかし、ただ神がいる、ということではなくて、キリスト教が突出しているのは、人間イエスが神であるということなのです。そこにキリスト教の独自性があるのです。
 主イエスはどのような者なのか、という問題は、最初の教会から長い間、論争されてきましたし、主イエスは神のような人、と言う司祭がいて、それに対して、アタナシウスがイエスは神と同じ、同質と告白し、ニカイア信条が制定され、使徒信条と共にキリスト教会の公の信条になったのです。

 現在、私はカール・バルトという神学者が書いた「教会教義学」の中の「創造論」を少しずつ、読んでいます。創造論というのは、使徒信条で告白している、「われは、父なる神を信じる」という告白をめぐって詳しく論じているのです。父なる神とイエス・キリストなる神との深い関わりの中で、論じているのです。
 神は天地を創造し、配慮してくださっている、その神がご自身の外に出て、肉体を取り、イエスという人間になられた、このイエスが私たちのところまで、来られて人間の苦しみ、試練を経験され、罪の贖いのために、私たちに代わって十字架にかかり、死んでくださるほど、私たちを愛してくださったのです。
 ただ神が共にいます、ということではなくて、私たちのためにイエス・キリストによって犠牲をささげてくださった、その神が共におられるのです。このイエス・キリストの神が創造したこの世界を支配し、深い配慮をもって導いているのです。自然をも支配する神が、嵐をも静めるのです。

 ある聖書註解者が「舟は揺れる、しかし、沈まない」と言っています。今日のテキストは、主イエスが復活し、昇天した後、その後の教会が伝道に励む中で、様々な艱難、迫害に遭うたびに、伝道者や信徒たちを支え、励ましてきたみことばであったのです。

 ドイツの教会が、第二次世界大戦の最中にナチス・ヒットラーに苦しめられ、多くの牧師たちが抵抗したために、獄につながれ、そこで死んだのですが、このみことばは、戦いに苦しむときにも、大きな励ましを与えるみことばであったのです。どんなに小さな、弱い教会であれ、どんなに激しい試練や艱難に襲われようとも、教会の真ん中に主イエス・キリストがいる限り、沈まないのです。

 教会が、主イエス・キリストが共にいますという信仰に堅く立って、礼拝において福音の説教と聖礼典を正しく行うならば、教会は沈まないのです。
 私の出身教会である鹿沼教会の宣教100年記念誌に1944年(昭和19年)の時の教会の様子が記されています。「全国的に軍国主義になり、教会に対する圧迫も激化。礼拝前に皇居遙拝を強要され、牧師の説教も警察のスパイによって細かに密告され、礼拝出席者が数名に激減した。青木長老宅にも毎週、特高刑事が来て、宗教上の質問をされたり、本棚を調べられた。また前の家の二階から終日、出入りする人々を調査していた。しかし、いかに圧迫されても、いかに少数であっても、感謝すべきことに、礼拝は戦争中、一回も怠らず厳守した。」

 戦時中、教会は国家の圧力を受けていましたが、このような時にも、教会は礼拝を休むことなく、少数でしたが、キリストの福音を聴いて、力を与えられて、戦時の中の厳しい時を乗り越えることができたのです。
 信徒の友の「日毎の糧」というペ−ジに、祈る教会が書かれています。礼拝が10名以下の教会もあり、牧師のいない教会が増えていることが分かります。教会が衰退しているのです。牧師もいなくて、信徒もいない、残されてあるのは会堂だけという時代が来るのではないか、と危惧します。
 しかし、「舟は揺れる、しかし、沈まない」、この信仰をしっかり持つことが大切なのです。

 使徒言行録27章には、パウロが「舟は揺れる、しかし、沈まない」という信仰を受け継いでいるのです。パウロがローマへ護送される船中、彼の乗った
船が暴風に襲われ、幾日もの間、太陽も星も見えず、激しく吹きすさぶ暴風の勢いに、水夫も乗客もついに助かる望みを完全に失ってしまったのです。しかし、パウロだけはすっくと立ち上がり、神が一緒に航海しているすべての者の安全を、自分に託せられたとの確信にたち、人々を説得し、励ましたのです。
この船に乗船している人々は、うろたえ、意気阻喪していたのですが、パウロは、次のように語るのです。「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」(27章25−26節)

 さらにある島にたどり着くと、「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。
生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」(27章34節)

 「皆さん、元気を出しなさい。」「わたしは神を信じています。」「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」このようにパウロが語ったのです。主イエス・キリストが小さな船に乗っておられるのです。
 「向こう岸に行こう」とは、「神の国」のことです。向こう岸に渡る間、試練があり、艱難があり、苦しみがありますが、この船旅は、いつも主イエス・キリストが共におられるのです。そして向こう岸の港に着くことができるのです。

 詩編107編28−30節「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った。」

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。私たちを礼拝へと招いてくださり、兄弟姉妹と共に、あなたのみことばを聴くことができ、心から感謝致します。私たちは様々な試練に遭い、苦しみ、悩みますが、イエス・キリストの神がいつも共に
いてくださり、みことばをもって慰め、励ましてくださることを信頼して歩むことができますように。
教会の兄弟姉妹の中で入院し、病と戦っている兄弟姉妹の健康を回復してくださり、礼拝を共にささげることができますように。コロナ。ウイルスの感染が広がっていますが、感染して治療を受けている方々が回復して健康を取り戻すことができますように。その治療のために労苦している医療従事者の健康を守ってくださいますように。これからの一週間の歩みをあなたが守り、導いてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

讃美歌  462  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金 (献金の祈り)

主の祈り
頌栄     27 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へとでかけていきなさい。主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られますように。主が御顔を向けてあなた方を照らし、あなたがたに恵みを与えられますように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。ア−メン

後奏

〇来週の聖日 7月12日(日)

説教 「すこやかな歩みを」
聖書 イザヤ書49章8−13節
ルカによる福音書8章26−39節
    讃美歌 83−1 7 482 456 29
    交読詩編 19編 

以上


(WEB礼拝)
20200628 主日礼拝説教 「キリストの教会を建てるために」 山ノ下恭二牧師
(サムエル記上 16章1−7節、使徒言行録 1章21−26節)

6月28日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年6月28日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠  83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編 15 聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌   56  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           サムエル記上 16章1−7節(旧約453ページ)
           使徒言行録 1章21−26節(新約214ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

教会学校教師任職式195http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/ URLクリック・賛美歌番号

讃美歌       494 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200628 主日礼拝説教 「キリストの教会を建てるために」 山ノ下恭二牧
        以下、声に出して読んでください。
 本日の礼拝の後に、2020年度の教会総会が行われます。教会総会は、2019年度の報告、決算を承認し、2020年度の計画、予算を審議する大切な総会です。そして長老選挙が行われます。教会総会の中で、長老選挙はとても重要です。教会の全般的なことは長老会で決めるので、長老会を構成する長老がどのような発言をして、どのように決めていくのかと言うことは教会にとって生命線です。どのような人が長老になるのか、と言うことは教会にとって死活問題です。

 本日の礼拝で、使徒言行録1章21−26節のみことばを読みました。1章12−14節には、主イエスが天にあげられた後に、使徒たちは、エルサレムのある家の二階の部屋に上がり、そこで主イエスの弟子たち、婦人たち、主イエスの母、兄弟たちと心を合わせて、熱心に祈っていたことが記されています。
 ところが、主イエスの12弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスを裏切り、主イエスを十字架の死へと引き渡した、そのユダが死んだので、主イエスの弟子たち12人が11人となり、一人が欠員となり、補充しなければならなくなり、一人を選出することになったのです。
 
 主イエスの弟子を福音書では「弟子」と呼んでいますが、この使徒言行録では、「使徒」という言葉を用いています。「使徒」とは、ギリシャ語では、アポストロスという言葉で、この言葉は、「派遣された者」、「遣わされた者」と言う意味の言葉です。使徒と言うのは、主イエス・キリストによって召され、地上でのイエス・キリストと共に伝道し、主イエス・キリストの復活に立ち会い、主イエス・キリストの復活の証人となった者のことです。主イエス・キリストが神であり、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことを宣教する者を使徒と言います。
 
 使徒言行録1章21−22節には次のように記されています。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」ここに使徒として選出される条件がまず示されています。それは、主イエスがバプテスマのヨハネによってバプテスマを受けて、公の伝道生活を始めて、十字架につけられ、復活され、天に上げられたその間、つまり、主イエスを自分の目で見て、行動を共にした者を使徒と呼ぶのです。
 
 この使徒の条件に合う二人が選ばれて、この二人の中から、使徒を選ぶことになったのです。この使徒の条件に合うのが、「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティア」であり、この二人を人々が立てたのです。そしてこの二人の中から一人を使徒として選出することになったのです。
 使徒の選出にあたって祈った祈りが、使徒言行録1章24−25節に記されています。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかをお示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてこの任務を継がせるためです。」

 この祈りの後に、くじを引いて、使徒を選んだのです。ここで私たちが注目すべきことが記されているのです。それは、使徒を選出するにあたって注目すべきことは、選挙をしなかったということです。
 現在、私たちの教会では、教会の長老を選ぶのに選挙をして、投票数の多い者から選ばれるのですが、最初のキリスト教会では、選挙をしていないのです。使徒を選ぶのに選挙をしない理由が、1章24節の祈りの言葉で分かるのです。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちどちらをお選びになったかを、お示しください。」と祈っているのです。使徒を選出するにあたって大切なことは、神が選んだ、その神の選びを重んじるということです。人間のひとりひとりの考えや思いを超えた神のみこころを第一にして、神のみこころを最優先して教会の仕え人を選ぶということです。

 このことは、現代に生きる私たちの社会の考え方と異なっているのです。私たちは民主的な教育を受け、民主主義の原則を重んじ、ひとりひとりの考えや意見を尊重することを生活の基本としています。ひとりひとりの考えや意見を反映するために人を選ぶのです。ひとりひとりの考えを中心とした選出方法が選挙であるのです。民意を反映するために、選挙が行われます。
 
 しかし、使徒の選出にあたって、自分たちの意思を反映させる選挙によらず、ここでは神の選びを優先したということが、大切な点なのです。自分たちの中で、誰が良いか、ということをまず考えて選ぶというのでなくて、神が誰を選んだのか、ということを何よりも優先し、神のみこころを問うのです。この祈りは、私たちが選んだ、という自分たちの主体性が第一なのではなくて、神が誰を選んだのかを何よりも優先し、神のみこころを問い、尋ねるのです。

 この世の中の選挙は、ひとりひとりの考え、意思を反映させるという意味でなされています。このあり方は、根本的な問題を抱えているのです。それは、どのような問題なのでしょうか。それは自己中心という人間の罪に支配されていることに問題があるのです。自分を中心に選ぶわけですから、自分の主張に合う人、自分の利害に一致する人、自分の好みに合う人、を選ぶ危険性があるのです。

 本日は礼拝の後に、教会総会の中で、長老を選挙するのですが、教会の礼拝、伝道、牧会という大切な任務を担う長老を選ぶのに、この世の中の選挙と同じ思い、姿勢で、選挙をすることはできないのです。使徒を選出するにあたって、「主なる神が選んだ人」をお示しください、と祈っているということに私たちは学びたいと思います。私たちが選ぶその前に、神が既にみこころを示されているので、それを教えてくださいと祈るのです。神が誰を選んでいるのか、そのことを教えてくださいと祈ることの中で、長老を選ぶのです。
 
 多くの人は、長老になるというのは、会員から選ばれたから、長老になるということを考えるかも知れませんが、そうではありません。長老として神から選ばれ、召されたと言う信仰が重要なのです。長老をしてみたいから、長老になるというのではなくて、神から長老としての召しを受けた、という信仰が大切なのです。

 そのことを考えないで、この人が長老が良いとからと総会の前に、前もって相談して選挙に臨むことは良いことではありません。人間的な思惑や動機から、選挙に臨むことは、教会にとって良いことではないのです。
 自分は長老をしたいと思っても、会員の選挙によって会員の支持があり、長老としてその存在を承認されなければ、教会の公の働きはできないのです。使徒を選出するときの祈りに、神は二人のうちどちらかを選んだのか、神の選びを尊重する方法で、選出したことが大切なのです。長老の選出にあたって、神のみこころを尊重することが、最も重要であることを心に留めたいのです。

 この使徒の選出にあたって、1章26節にくじを引いたと書かれています。二人の中の一人の名前を書いて投票して、投票数の多い者が当選したのではないのです。「くじ」を引いたのです。使徒を選出するにあたって、その方法が「くじ」であったということは深い意味があるのです。「くじ」というのは人間の考えや思いを超え、人間の思惑が入る余地がないということです。人間の意思が反映されず、神のみこころだけが反映することになり、「くじ」によって、神が選ぶことに人間が全面的に信頼する、依り頼むことになるのです。現在、東京教区の役員選挙でも同数の最下位はくじで決めることがあります。

 現代の選挙は、民意を反映させるために、票数の多いほうから当選が決まる仕組みになっています。それは民主主義の原則に合致しています。
 しかし、教会の長老選挙の考え方は違うのです。長老選挙は人気投票ではありません。会員から多くの票数を得たことは、会員の支持が多いから長老として自分はやっていける、票数が少ないので、会員の支持が少ないと考えて、自分は長老としてはやっていけないと考えることは必要がないのです。票数が多くても、少なくても、神が自分を長老として選んで召したと受け取って長老に就任することが重要なのです。
 
 長老は教会の長老である、ということが大切なのです。長老とは、教会とは何をするところなのか、ということ、つまり、教会の使命と深く関わっているのです。信徒の意見を長老会で伝えることもありますが、長老は、信徒の代弁者ではないので、それが重要な長老の務めではないのです。
 教会は何をするところなのか、と言うことです。それは、教会の使命と深く関わります。第一に教会は正しく礼拝が行われるところです。その礼拝は、キリストの福音が説教され、イエス・キリストが讃美されるのです。第二に、教会に集う人々のために、魂の配慮を行う、牧会を行うところです。
 第三にまだキリストの福音を知らない人たちに、キリストの福音を伝えることを使命としているところです。

 礼拝、牧会、伝道という教会がなすべき目的のために、その目的が十分、達成されるためにふさわしい人を選ぶことが長老選挙の目的なのです。
 女性を代表して長老会で意見を言ってもらうために、この人に投票する、この人は長く教会に来ているけれども、長老にまだなったことがないので、この人に入れよう、そのような人間的な動機で選ぶことがあってはならないのです。

 教会における長老の位置ですが、長老が牧師と信徒の間で、どこに自分がいるのか、ということです。私は、北九州の若松教会に在任したことがあり、この地域は、日本バプテスト連盟の教会がとても多い地域です。アメリカの南部バプテスト教会が、とても早く福岡に伝道してたくさんの教会を作ったのです。西南学院、西南女学院、という学校も南部バプテスト教会から派遣された宣教師によって、創立されたのです。このバプテスト教会は徹底した民主主義で、毎月、一回、教会総会(常会)をしてそこで教会のすべてのことを決めるのです。役員会がありますが、それは、役員は会員の意見代表なのです。
 
 長老が牧師の側にいるのか、それとも信徒の側にいるのか、どちらの側にいるのか、と言うことです。信徒の意見代表として長老がいるのか、それとも牧師と協力して教会の使命を果たそうとするのか、ということです。

 長老会は、教会が招聘した牧師と選挙で選ばれた長老とが長老会を組織しています。牧師を宣教長老と呼びます。特に説教を担当し、福音の宣教に携わる長老のことです。選挙によって選ばれた長老は、教会を治める長老であり、治会長老と呼びます。長老会の議長は牧師が務めます。なぜ牧師が議長を務めるのか、それは牧師が教会全体を把握していますし、教会員ひとり一人のことをよく知っているので、教会全体の益となるように、判断することができるからです。牧師がやりやすいから議長をしているわけではありません。教会員を牧会するために牧師が議長を務めるのです。

 教会を治める長老は、牧師を補佐し、協力して、キリスト教会の礼拝、牧会、伝道、について、よく学んで、見識を持っていることはとても大切です。長老であれば、教会の重要な案件について長老会で意見を述べ、ひとつひとつ判断し、決定していくのですから、長老には大きな責任があるのです。
 
 教会を建てるために、長老会は大きな責任を担います。教会を建てる、この「建てる」という言葉は、家を建てる、と言う意味の言葉です。この近くに大きなマンションが建設されていますが、その工事現場を通って、工事の様子を見ることがありますが、深く掘って土台を固めている、その基礎工事に時間をかけていることに気づきます。基礎工事がとても重要であることを教えられます。教会も基礎工事をしっかりしていないと、波風が強く嵐が来るとすぐに教会が倒れてしまうのです。
 
 教会の基礎とは何か。それは信仰告白です。マタイによる福音書16章で主イエスがペトロに「私を誰と言うのか」という問いに対してペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と応えたのです。このことに対して主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と語るのです。この岩とは信仰告白のことを語っています。
 
 教会は何か、ということがはっきりしないと教会が何をするのか、分からなくなるのです。教会は、聖書を学んでいる集まり、修養団体、親睦団体、クラブ・同好会にも見えます。しかし、教会は何によって一致しているのでしょうか。それは共通の信仰告白を告白する、そこで一致し、信仰告白によって私たちは結集しているのです。
 
 長老会の大切な任務は、信仰告白を基礎にして、教会を守っていくことです。本日は教会への入会、転出に限って話します。
 長老会の大切な任務は、洗礼志願者の試問です。教会に入会を許可するかどうかです。何を規準に判断するのかと言うことです。それは洗礼志願者が、日本キリスト教団信仰告白を受け入れるかどうか、ということです。この信仰告白を受け入れて告白すると言うのであれば、洗礼入会を許可するのです。従って、長老は信仰告白についてよく学んでいることが必要です。

 また、洗礼入会を許可するだけでなく、他の教会から転入会する、他の教派から転会することを許可する、ということがあります。信徒が一人増えると喜ぶのですが、その後、問題が起こることがあります。教派が異なると、制度や礼拝の仕方、説教が異なりますから、今まで育ってきた信仰や教会生活の仕方を持ったまま、転会した教会で今までと同じように、続けようとするので摩擦が起こるのです。会衆主義の教会で育った人が、転入会して、長老会の決定に従うことはできない、と言われたことがあります。会衆主義の教会は、長老会という上位の決定の権威を認めないのです。

 この教会の信徒が、別の教会に転出するときにも、転出先の教会がどのような教会であるか、をよく調べて、転出を承認する、承認しないということになります。その承認の基準は、信仰告白です。日本キリスト教団の教会で、洗礼を受けていない人に聖餐を授ける教会であれば、教会員の転出を認めないということになります。

 洗礼入会、転入、転出について触れましたが、この他にも長老が行う多くの任務があります。その務めはすべてこの地にキリストの教会を建てるためです。神のみこころを問いながら、総会に臨み、2020年度の教会の歩みを始めたいと思います。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる神。あなたに招かれて、兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、あなたのみことばを聴くことができ、心から感謝を致します。この牛込の地にキリストの教会を建てて、礼拝と牧会、伝道を推進していくために、私たちがあなたのみこころに従い、あなたから委託された大切な福音に生きる者としてください。コロナ・ウイルスの感染が終息することが難しい時ですが、あなたが深い配慮をもって解決してくださることを信頼し、忍耐してこの時を過ごすことができますように。入院して、病と戦っている兄弟姉妹、自宅療養している兄弟姉妹を、癒し、健康を回復して、共に礼拝に集うことができますように導いてください。この週もあなたによって守られますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 390  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金 (献金の祈り)
主の祈り 
頌栄  29   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
  神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけていきなさい。
主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなた方を照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。ア−メン

後奏

〇 来週の聖日 7月5日(日)
説教 「望みの港に導かれる」 山ノ下恭二牧師
聖書  詩編107編28−30節 
    ルカによる福音書8章19−25節
交読詩編 16 
讃美歌 83−1 18 458 462 27



(WEB礼拝)
20200621 主日礼拝説教 「神の言葉をどのように聞くのか」 山ノ下恭二牧師
ミカ書4章1−3節 ルカによる福音書8章1−18節

6月21日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年6月21日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠  83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編 14 聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌   17  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           ミカ書4章1−3節 (旧約1452ページ)
           ルカによる福音書8章1−18節 (新約117ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌   58 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200621 主日礼拝説教 「神の言葉をどのように聞くのか」 山ノ下恭二牧
 
 私たちは、毎日の生活の中で相手の話を聞く場面が多くあります。相手の話をしっかり聞いてよく理解することは、とても大切なことです。
 
 私が北九州の若松教会に在任しておりました時に、北九州いのちの電話のボランティアをしておりました。いのちの電話は自殺予防を目的にしています。電話をかけてくる人は深い悩みを抱えてかけてくるので、どうしても話が長くなります。いのちの電話は相手が電話を切るまで、聞き続けることが原則なのです。ある時、私は相手の話を3時間、聞いたことがあります。この時はとても長く感じました。いのちの電話のボランティアを経験して思ったことは、相手の話を聞くことは、忍耐の要ることだということです。まず、相手を受け入れ、受容し、相手の話を聞いて、相手が何を語ろうとしているのかを正確に把握し、理解する、そのためには自分の時間を割いて、ささげる覚悟で聞かないと相手の話を聞くことができないのです。
 
 斎藤美津子という、1972年ごろの国際基督教大学教授が、「きき方の理論」という本を書いています。この「きき方の理論」という本の最初に、「聞き手の責任」について論じています。話を聞くと言う時、新聞という言葉の「聞」という漢字の「聞く」と言う言葉と、聴集、視聴、傾聴という言葉の「聴く」という言葉とは意味が違うことを指摘し、英語のhear とlistenとの違いを説明しています。listenという言葉は「注意して聴く」ことで、このことはコミュニケーションにとってとても大切であると指摘しています。コミュニケーション(通じ合い)はキャッチボ−ルであると語り、次のように論じています。
 
 「『聴く』ということは相手の話に集中し、(略)自分を忘れ、自分を『無』にして、相手の意見、反応、結論、判断、感想などを一応受け入れることなのです。水がいっぱいはいっているコップは、それ以上水を受け入れませんが、からっぽのコップはいつでも水を注ぎ入れることができるのです。まず自分を無にして、相手の話を受け入れる。そのためには、自分を無にして、相手の話を受け入れる。そのためには、自分のコップに水がいっぱいはいっていてはだめで、自分自身を空っぽのコップにすることです。自分をからっぽのコップにするには、人間尊重の態度、そして努力と忍耐がいります。人のために自分のエネルギーをうんと『与える』用意のある人でなければできないものです。人の話をきいているとき、私たちはどうしても自分の考え、またその問題についての反応、感情などを『おあずけ』にすることができないようです。話し手の話だけに集中し、自分の考えを、しばらく棚の上に『おあずけ』にすることは意外にむずかしいのです。」(「きき方の理論」p10−11 サイマル出版会 1972年)
 
 そして、きき方には「半ぎき」と「本ぎき」があると指摘します。相手の話を聞いているようでありながら、別のことを考えたり、思ったりすることを「半ぎき」と言うとあります。

 相手の話を終わりまで聞かないで、相手の話を理解したと思ってしまうことがあります。短い言葉、ワンフレーズだけを聞いて、相手の言いたいことだ、と理解してしまうこともあります。長谷川町子の「サザエさん」という漫画に興味深い漫画がありました。会社から帰って来たマスオさんに、サザエさんが、「近くの・・さんが交通事故に遭ったんですって。」と話すと、その話の続きがあるのに、続きの話を聞かないで、マスオさんは、あわてて、病院に行ってしまった、サザエさんは、「ところが、怪我もなく無事だったんですって」と言う話をしようと思っていた、という漫画がありました。相手が話したいことを終わりまで聞かないで、相手の話を理解したように思い込んでしまうことがあるのです。
 
 ルカによる福音書8章には「種を蒔く人」の譬えが記されています。「たとえ」と「たとえを用いて話す理由」「『種を蒔く人』のたとえの説明」とが記されています。他の福音書にもこの譬え話はありますが、他の福音書と比べると、ルカによる福音書は、ことのほか、たいへん詳しくこの譬えを説明しています。
 この譬え話は、御言葉を聞いた者が、どのように御言葉を受け止めたのかということを問題にしているのです。私たちは毎週、礼拝で説教を聞いているので、この譬え話は私たちと深く関わる譬えです。

 今、皆さんは、私の説教を聞いているのです。この譬えで言えば、私は種を蒔いているのです。その種が実っていくか、それとも実っていかないのか、は、皆さんがどのように反応して、これからどのように応えて行くのか、ということにかかっています。種を蒔いたけれども道端に落ち、石だらけのところに落ち、茨の中に落ち、実を結ぶことがないのです。種が道端に落ち、空の鳥が食べてしまった、根がないために枯れてしまった、茨が伸びて覆いふさいだので実を結ばなかった、種を蒔いたけれども、実を結ばなかった、そのような譬えを用いて、神の言葉をきちんと受け止めずにいる者に対して語ろうとしているのです。
 皆さんが説教において神の言葉を聞いているのですが、皆さんがそれをどのように受け止めて行くのか、どのように行動していくのか、と言うことです。 
 この譬え話で多く用いられているのは、「聞く」と言う言葉です。聞くと言ってもいろいろな聞き方があります。私たちがよく経験することですが、出かけようと思っている時に、電話がかかってきて、相手が話す、電車に間に合わないので、早く話を終えたい、と言う時には、聞いている態勢ができていないので、相手の話を聞いているとは言えないのです。聞くためには、聞く構え、聞く覚悟がないと相手の話を聞き取ることができないのです。
 
 礼拝が始まる10分前に着席している、それはなぜ必要なのか、みなさんは考えたことがあるでしょうか。礼拝が始まる時間に間に合えば良いということでなくて、礼拝開始10前に着席するのは、イエス・キリストに出会い、対面するために心と姿勢を整えるための準備時間が必要なのです。そして、説教を聞く構えを整えることにあるのです。神の言葉を聞くためには、聞く態勢を整えて、備えて待つ時間が必要なのです。
 
 最近は大学の授業でスマホを見ている学生が多くて、私は授業の前に、スマホを鞄に入れて仕舞いなさい、と注意していました。私が話しているのにスマホを見ているのは失礼だと思いませんか、と怒ったりします。
 相手が語ろうとするメッセ−ジを理解するためには、集中して聞く姿勢、聞く構えがないと、聞くことができないのです。

 この「種蒔きの譬え」は、神の言葉を聞く皆さんのあり方を問題にしているのです。第一に、種が蒔かれましたが、その種が芽が出て生育する前に踏まれ、空の鳥に食べられてしまうのです。この譬えの説明では、「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」
 
 神の言葉をどのように聞くのかということ以前に、どのような動機をもって聞くのかということです。自分が現在、かかえている問題を解決するために、聞くことがあります。私たちは、自分のもっている問題意識があり、気になっていることがあるのです。相手の言葉を自分が心を開いて理解するというよりも、自分のかかえている問題に触れている言葉があれば、共感して聞くという聞き方をするのです。自分本位に聞くのです。悩んでいるときに、それに応えるような言葉が欲しい、慰めとなる言葉が欲しい、そのことに御言葉が触れていると嬉しいと思うのです。しかし、全く触れていないと、自分のことと関係のない言葉が語られているのでつまらない、と思うのです。

 その時によって関心事は変わるのですが、その時の関心事があります。御言葉が自分のその時に持っている関心事、問題に触れていると、身を乗り出して聞くことがあります。そのような聞き方は、自己中心な聞き方です。自分の関心のある話は聞くけれども、そうではない話は聞かないのです。自分の問題を解決するために、御言葉を聞くのです。

 8章12節には「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪いさる人たちである。」「悪魔が御言葉を奪い去る」と書いてあるのです。悪魔が自分の傍らに来て、自分に語りかけるのです。「そんな役に立たない神の言葉など現実離れして聞いていても仕方がない」「聞いてもおもしろくなく、聞いても少しも役に立たない」と悪魔が耳元でささやくのです。そのような誘いにフッと誘われるのです。「聖書には良い、ためになることが書いてあるのだけれども、読むのは面倒だし。」「礼拝の説教を聞くのも良いけれども、自分には余り関係がないように思うし、聞くのを止めたら良いのではないか」「今は、特別に不安も悩みもないので、老後になったら教会に来て、聖書を学んだら良い」「聖書には自分の今直面している問題に応えていない感じなので、聖書は読まない。」

 悪魔によって、説教を聞く、聖書を読む、のを止めたらよいと誘われ、フッとその誘いに乗るのです。神の御言葉が自分の心の深いところにまで入り込まず、魂を支えるまでに至らないうちに、御言葉が奪われてしまうのです。神の言葉の聞き方、その聞き方は、自分にとってプラスか、マイナスか、自分にとってどうかと言うレベルでしか、聞かないのです。自分にとってプラスになる、自分にとって慰めとなった、気持ちが安定するために聞く、いつも自分が中心で聞いているのです。
 
 ある時、東大宮教会で、一人の若者が洗礼試問会で、ずっと説教を聞いてきて、説教によって神が自分に語りかけている、と思ったので、洗礼を受けたいと志願した、と言ったことがあります。御言葉を聞いて実が結んだのです。
 ところがそうではないことが起こるのです。神が自分に対して語りかけているというレベルまでいかないで、御言葉を聞くことを止めてしまうのです。それは悪魔が御言葉を奪い去ることになるのです。

 8章12節「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように」とあります。悪魔の立場で考えると、御言葉を聞いて、悪魔に反対して、悪魔の言うことを聞かないキリスト者が増えると自分の味方、仲間がいなくなる、善い人が増えて、悪い人が少なくなると悪魔が活躍できなくなるので、悪魔が御言葉の種を奪い取るのです。この人たちは、神の言葉を聞いて、一つの決断をして信仰に入ることをしない人たちです。説教を聞いて、参考になった、ためになった、心が豊かになったというだけで、神を迎えて、自分の罪を認めず、悔い改めないで、自分の生活を改めようとはしない人たちです。
 
 第二に、ルカによる福音書8章6節「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。」その説明として「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。」神の言葉を聞く、その内容を理解することができるのです。しばらく御言葉を聞いていくのですが、自分が支えているのが自分なので神に信頼していくことができないのです。ルカ8章6節には「芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。」と記されています。
 
 神に深く信頼することなく、辛いことや、困難があると容易にぐらつくのです。礼拝説教の内容が分かる、キリストによる神の愛、十字架の愛が自分に向けられていることが少し分かる、なんとなく理解できる、頭では分かるのだけれども、深いところで神を信頼するまでに至らないのです。神が全面的に最も善い配慮をもって自分を導き、自分のためにしてくださっている、という信頼にまでに至らないのです。最初の教会の時、国家からの迫害があり、教会に集い、礼拝に出席することが困難であったのです。多くの人々が、その苦難に耐えきれないで、教会を去っていったのです。
 
 キリストの愛によって自分が生かされており、自分を支えているのは神なので、どんなことがあってもたじろがない、しっかりと神を信頼する、そのような信仰に立つことができる、そのためには、御言葉をしっかり聞いていくことが必要なのです。そのことによって、神から恵みを受けるだけではなくて、苦しみを受けることをも喜ぶ、そのような信仰に成長するのです。

 第三に「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。」この譬えの説明として「そして茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。」

 種が茨の中に落ちて、伸びようと思ったけれども妨害され、窒息させられて伸びることができないのです。説教によって神の救いを知らされ、その内容も分かる、しかし、もう一つのことがとても気になり、心配になるのです。それは、この世で生活していくことについての心配です。この世で生きていくためには、多くの問題や悩みや思い煩いがあるのです。朝、起きてから、夜、休むまで、一日中、生活に追われているのです。そのために、疲れ果て、消耗し、神の言葉を聞くことも無くなってしまい、いつの間にか、御言葉に聞くことに関心を失ってしまうのです。生活の思い煩いと共に、伸びようとした種を妨げ、窒息させる茨は、富の誘惑であり、快楽なのです。

 お金や財産というのは魅力的なもので、私たちにとっては、神の言葉から引き離す、私たちを堕落させる力を持っています。特に、現代の人々は、神を礼拝し、隣人を愛するよりは、お金や財産がたくさんあって、楽で便利で楽しい暮らしをしたいと願っているのです。このような考え方に対して、聖書はお金に執着しないように勧め、お金や財産に望みを置くのではなく、「すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みをおくように。善い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで財産を人に施し、分け与えるように。」と語ります。 
 私たちはお金や財産から自由になれないでいます。お金や財産のほうが、御言葉を聞くことよりも大切で、自分を支えてくれるような思いを持つのです。神の言葉を聞くことも大切だけれども、食べて生きていかなければいけない、楽しいこともしたい、教会に行って自分の時間と財産をささげるのはもったいない、そういう思いに負けてしまうのです。この世の中の思い煩いと富の誘惑とこの世の快楽に負けて、実を結ぶことができないのです。

 第四に、「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」「立派な善い心」。この「立派な」と言う言葉は「カロス」と言うギリシャ語です。「善い」という言葉は「アガソス」という言葉です。「アガソス」というのは、神が見て善い、神との関わりで善い、と言うことです。教室で教師の話を、きちんと良い態度で聞いている、教師の言葉を重んじている、神に信頼して、信仰をもって、良い態度で聞いているということです。「カロス」と言う言葉は、「立派な」と訳されていますが、「美しい」と訳したほうがよい言葉です。他のことを忘れて、純粋な心で、神の言葉を傾聴することを指しています。美しい善い心、自分を無にして、全面的に神に信頼し、集中し、自分に向けられた神の言葉として受け取り、その御言葉に従って行く、そのような心で神の言葉に傾聴するのです。
 
 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」ここで、「忍耐して」とありますので、一度だけ聞くと言うのではなく、何度も、何度も、神の言葉を忍耐して聞くことを勧めているのです。
 この譬えは、私たちに忍耐強く、神の言葉を聞き続けていくことを勧めているのです。そのことが、多くの実りをもたらすことになるのです。忍耐強く神の言葉を聞いていくうちに、私たちのなかに、キリストの恵みが満ち溢れていくのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神。教会の兄弟姉妹と共に礼拝に集い、あなたの御言葉に耳を傾け、あなたの御言葉の恵みを与えられたことに深く感謝致します。神の言葉にいつも聞くことができ、あなたの御心に従うことができますように導いてください。自分の考えや思いによって行動することなく、御言葉によって、あなたの御心がどこにあるのかを祈りつつ、あなたに喜ばれる毎日でありますように導いてください。
 コロナウイルスに感染して治療を受けている多くの人々を顧みてくださり、健康を回復することができますように。その治療のために日夜、労している医療従事者が感染することなく、あなたがその疲れを癒し、健康を守り、支えてくださいますように。
 教会の兄弟姉妹の中で、入院し、病と戦っている人々をあなたが癒し、健康を回復してくださり、礼拝に共に集うことができますように。これからの一週間もあなたが共にいて、私たちを守ってくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名により、祈り願います。アーメン

讃美歌  451 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金 (献金の祈り)
主の祈り

頌栄    29 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけていきなさい。
主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなた方を照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。アーメン

後奏

 〇 来週の聖日 6月28日(日)

説教 「キリストの教会を建てるために」 山ノ下恭二牧師
聖書 サムエル記上 16章1−7節
使徒言行録  1章21−26節
  交読詩編 15編 
  讃美歌 83−1 56 494 390 29

以上

(WEB礼拝)
20200614  主日礼拝説教 「赦しのまなざしに立たされて」 山ノ下恭二牧師 
 ホセア書14章1−8節、 ルカによる福音書7章36−50節

6月14日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年6月14日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠  83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編 13  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌   6  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           ホセア書14章1−8節 (旧約1419ページ)、 
           ルカによる福音書7章36−50節 (新約116ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  227 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号



20200614 主日礼拝説教 「赦しのまなざしに立たされて」 山ノ下恭二牧師
 
 少し前のことですが、朝方、教会の前の道路を掃除していた時、この近所に住む外国人の母親と子どもの会話が聞こえてきました。ドイツ語で会話をしていましたので、「ドイツの方ですか。」と尋ねると、「分かりますか」と言うことから、キリスト教会の話になり、日本の神学はドイツの神学から大きな影響を受けているという話をしました。
 
 日本の神学は、ドイツの神学、特にカール・バルトの神学に大きな影響を受けているのです。カール・バルトは、晩年に教会では説教をしないで、刑務所で説教をしたのです。なぜ、刑務所で説教するのか、という質問に対して、バルトは「刑務所では、あなたがたは罪人だ、と特別に言う必要がないから」と答えたそうです。「カール・バルトの生涯」という本に、バルトはバーゼル刑務所での説教を編集した、説教集を二冊出版していると書いてありました。晩年に教会ではなくて、刑務所で説教した、というのは、罪を犯した人々にキリストの福音を伝えたい、その福音によって慰めたい、と強く願っていたことが分かります。

 日本では、神は自然の中に霊として宿っているという自然宗教の考え方に影響されており、人格的な神でないので、神が人間の罪を鋭く指摘し、審判するとは考えないのです。聖書やキリスト教の本に書いてある「罪人(つみびと)」と書いているところを多くの人は「ざいにん」と呼ぶ人も多く、「罪人」とは強盗、殺人、詐欺、など法律に違反した人であると考えているのです。

 ルカによる福音書7章36−50節には、ひとりの罪ある女が登場します。名前はわかりませんが、町で知られている女性です。どんな罪を犯したのか、具体的に書いてはいません。町の人はこの女性が歩いていると、近づかないで、人々は除けて通っていたのです。町の人々から相手にされず、除け者にされていた、そういう存在でした。
 
 この女性は、どうしても主イエスに会いたかったのです。そこで、主イエスがファリサイ派に属する一人の人の家にいることを知って、この人の家に行くのです。主イエスが招かれた家は、あるファリサイ派の家でした。当時、ファリサイ派の人々は、律法を重んじ、自分たちは律法に従って正しく生活をしている思っていた人々でした。ファリサイ派の一人であるシモンが、主イエスと共に自分の家で食事をしたいと招いたのです。多くのファリサイ派の人々は主イエスを嫌っていましたが、この人は主イエスに興味を持ち、どのような人か、試してみたいと思っていたのです。特別に主イエスを信じていたわけではないのです。

 この「罪深い女」と呼ばれる女性が、この家に入ります。そして主イエスに近づくのです。この女性は、37節にありますが「香油の入った石膏のつぼをもってきて、泣きながら、イエスのうしろで、み足のそばにたち、涙でみ足をぬらしはじめ、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」のです。

 この場面はさらっと読み過ごすことができないところです。この女性は、泣きながら、主イエスの顔も見ずに、後ろに立って、足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、口づけし、香油を塗るのです。多くの人に気づかれないようにこのことが行われたのです。この女性は、自分がこの町のみんなが「罪深い女」と噂していることを知っていたのです。この女性は、主イエスに近づく前に、既に泣いていました。自分はこの町の中で、人々から裁きのまなざしで見られていたのです。しかし、主イエスは、人を裁くような、まなざしで自分にまなざしを向けていない、自分の存在を受け容れ、愛してくださっている、と言う思いをもったので、主イエスにどうしても会いたかったのです。

 この場面をさらっと読み過ごすことはできないのです。この当時は男性が集まっている場所に、女性が立ち入ることは禁止されていたのです。ですから、この女性がこの家に入ること自体、あってはならないことでした。
 この女性が主イエスに何をしたのか、ということも見過ごしにできないことです。それは主イエスがこれからどのように生きるのか、その思い、志、を深く思いやっている、深く同情していることが分かる振る舞いをしているのです。
 
 ナルドの香油、それはとても高価でなかなか手に入るものではありませんでした。この壺に入っている香油は、1年分の給料にも相当する高額なものです。自分のもっているほとんどの財産を惜しげもなく、主イエスに献げたのです。この振る舞いは、この女性の献身を表しています。自分の生活にはたくさんお金を使い、少しだけ神に献げるということではないのです。主イエスの足に香油を塗るのです。このことは二つの意味があります。一つは、油を注ぐ、この言葉はヘブライ語でメシアと言う言葉です。「油を注ぐ」それは、キリストという言葉の元々の意味ですので、これから、主イエスは十字架で死ぬことによって、メシア、救い主としての働きをする、この女性は、そのことを心に留めて、油を注ぐのです。二つには、この当時の習慣では、人が死ぬと、死体に油を塗ることをしていましたので、この女性は、主イエスがこれから、御自身の死によってすべての人々の罪を贖う、そのような大事業をなさることを心に掛けて、香油を主イエスの足に塗ったのです。

 この女性は、主イエスを深く愛していたのです。愛するということは、自分のことを少しも思わないということです。見返りを求めないということです。
自分が相手に良い行いをしたことに相手が何の反応がなくても、よく思わないということではありません。ただ献げるだけです。
 そして、この女性は、主イエスのことだけを思って、主イエスにとって有益になることだけを考えて、主イエスが喜ぶことだけを考えてしたのです。相手に対する想像力をもっているのです。愛するためには、相手に対する、現実的な想像力が必要なのです。

 主イエスはこの女性が突然、自分のところにやってきて、香油を注ぎ、涙で足をぬらした、そのことに驚いたのですが、主イエスに対する、この女性の行いをとてもうれしく思ったのです。こうまでして、自分を深く思いやり、愛してくれることに感心したのです。そしてとても喜んだのです。

 この場面は、ファリサイ派の一人のシモンの家の中で、起こった事件です。シモンは、主イエスとは対照的に心が穏やかでなかったのです。この女を見て心ひそかに思いました。39節に「この方が、もし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」とあります。「罪深い女」とだけあるので、多くの解釈者たちは、この女性が「売春婦」であったと理解します。この女性に対して、売春婦、汚らわしい罪を持つ女とさげすむ目を人々は向けていたのです。シモンも同じように、この女性を罪を犯した悪い女とさげすんでいたのです。

 シモンはファリサイ派の一人です。ファリサイという言葉は、区別するという意味の言葉です。清潔か、汚れているか、を区別する、正しいことをしているか、罪あることをしているか、区別する、戒めに従って行動しているのか、戒めを守らないでいるのか、区別する、と言う言葉です。そして、このファリサイという言葉は、分離する、という意味の言葉でもあります。汚れている、罪あることをしている、戒めを守らないでいる、その者から自分は分離している、離れているという意識をもっているのです。汚れて、罪があり、戒めを守らない、そういう人たちと自分は違うのだ、という意識をもっているのです。自分が相手よりも優位であるという意識をもっているのです。
 
 同じ家で同じ場所にいながら、この女性とファリサイ派の一人であるシモンとは、全く異なる世界にいるのです。シモンは、相手を自分のものさしで観察して評価し、採点し、裁く世界にいるのです。
 私たちは、シモンがいる世界にいるのではないでしょうか。自分は特別に、悪いことをしていないし、神に自分の罪を告白することもない、と思い、罪を犯した人々を軽蔑し、自分とその人たちを区別し、分離しているのです。
 自分の考えは正しい、自分は正しいことをしている、しかし、正しく生活をしていない人がいる、その人たちは裁かれるべきだ、そのような思いに囚われている、そのような世界にいるのです。

 7章40節には主イエスが「『シモン、言いたいことがある』」と言って、一つの譬え話をされたのです。それは、ある金貸しとふたりの負債者の話でした。一人は50デナリオン、もう一人は500デナリオンという負債がありました。比べるならば、10倍の違いがあります。彼らは、それぞれに返済できませんでした。それで、金貸しは負債を免除しました。ふたりとも、負債から解放されたのです。赦されたのです。
 
 主イエスは、シモンに問います。「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(42節)シモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」と答えて、主イエスは正しい答えだと言うのです。
 これからの場面が大切なのです。正しい答えをしたからと言って、それで、シモンが正しい存在ではないのです。シモンに気づいて欲しい、シモンが生きている世界、自分の行いが正しく、間違っていない、そう思って戒めを守る、その生き方、生活のスタイルを変えて欲しい、その世界から脱出し、離れて、この罪の女性がいる世界に飛び込んで欲しい、と主イエスは願っているのです。

 7章44節には、「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか。』」と記されています。主イエスはこの女性を見るように、と言われます。シモンは、この女性がいることを知っていましたし、ずっと見ていました。どのような目で見ていたのでしょうか。「ここに罪深い女がいることを知っていたし、その振る舞いも見ていました」と心の中で、思っていた時に、主イエスは、シモンが主イエスに対してどのように応対したのかを語るのです。シモンは、主イエスを招待したのに、招待者としての礼儀として当然、行うことをしていませんでした。それが明るみになりました。興味本位で主イエスを食事に招待していたことが分かります。愛も尊敬の思いもなく、当然する礼儀さえ欠いていたからです。

 7章44−46節「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この女を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」

 主イエスは怒っていたのではなく、愛の行為がなぜ生まれなかったのか、シモン自身に気づいてほしかったのです。7章47節後半で主イエスは、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言われたのです。50デナリオンの負債を持っている者は、500デナリオンの負債をもっている者よりも負債は少ないのです。これは、ファリサイ派の一人であるシモンのことを言っているのです。シモンは自分はまじめに戒めを守っている、少しは罪があるかも知れないけれども、戒めを破っている者よりも罪は小さい、と思っていたのです。

 私たちがよく経験することですが、電車が駅に到着して、電車から降りようとしたときに、自分のカバンを人にぶつけてしまい、ぶつけてしまった相手に「ごめんなさい」と言って相手に謝ると、相手は「何とも思っていませんよ」と答える、それで済んで終わった、と言うことがあります。シモンも自分の罪をその程度にしか思っていないのです。自分が神の前にいかに罪が深いか、その罪を告白して、赦しを願う、そうしなければ自分は生きていけない、そのようには、思わなかったのです。自分の罪を痛切に感じることはなかったのです。自分には少しは、罪があるかも知れないが、特別に悪くないし、償なわなければならないような罪はないと思っていたのです。

 シモンが自分も500デナリオンの負債があるとは思わず、自分は正しい生活をしていると思っているので、この女性を罪深い女というフィルターを取って、この女性の存在を見ようとも認めようともしなかったのです。
 しかし、主イエスは「この人を見ないか」とシモンに招いておられるのです。最近、新しく翻訳された、新改訳聖書2017では「この人を見ましたか。」と訳しています。シモンが自分の今までの視点で、戒めを守るという物差しで見る、そのような眼差しで見るのではなく、主イエスに対する愛という視点で、この女性を見ましたか、と尋ねているのです。「この人を見ましたか。」この女を裁きの目で見るのではなく、主イエスを愛する、この女性の姿を見なさい、と勧めているのです。この女性は、主イエスに愛を示しました。だから、この女性の罪は赦されている、と言ったのです。主イエスは、きちんと、この女性の精一杯の愛を受け取られたのです。

 シモンとこの女性とは同じ家の同じ部屋にいたのです。しかし、この二人は全く異なった世界にいたのです。シモンは、自分が立派に生きることを目指している世界に生きています。そこには、神が関わることができない世界です。神の憐れみも慈しみも要らない、自分が罪のない、立派な生活をすれば、神が正しいと認めてくれる、そういう世界に生きているのです。しかし、反面、律法に正しく生きていない人々を裁き、赦すことのない、世界に生きていたのです。
 しかし、主イエスに自分の財産をささげて、主イエスを愛する、この女は、神の愛の世界に生きていたのです。そこでは、深い罪を持ちながらも、罪が赦され、神に愛されることを喜びとする、そして主イエスを深く愛する、その人生が開かれている世界にいるのです。神に深く感謝する世界にいるのです。神に感謝が少ないのは、私たちが神に対して、隣人に対して罪を犯し、その深い罪が赦されていることを深く受け止めていないことにあるのです。
 
 主イエスは、この女性に向かって「あなたの罪は赦された」と宣言されました。改めて、この言葉を告げるのは、罪深い女というレッテルをはがすためです。この主イエスの宣言は、この女性を全身包み、罪から解放したのです。この女性は、主イエスの赦しのまなざしを受けて、自分を全く異なったまなざしで見つめ直し、しっかりと立つことができたのです。罪人としてではなく、神に愛され、赦された者としてしっかりと立つことができたのです。
 ホセア書14章5節「わたしは背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」
 
祈祷 
 私たちをいつも見守って、愛を注いでくださる、イエス・キリストの父なる神。あなたは、私たちを礼拝に招いてくださり、御言葉をもって、私たちをもてなしてくださいました。私たちがあなたを忘れ、愛していない時にも、いつも私たちを忘れることなく、愛してくださる神であることを知り、感謝を致します。自分の過ちや罪に気づくこともなく、見過ごして、隣人の過ちや罪にばかり目を留め、隣人の罪を赦すことのない私たちです。このような者をあなたは、赦してくださり、受け入れてくださる、この恵みに心から感謝致します。 コロナ・ウイルスに感染し、治療を受けている多くの人たちを癒し、健康を回復してくださいますように。その治療に当たっている医療従事者が感染することなく、治療に専念することができますように。入院している兄弟姉妹をあなたが癒してくださいますように。この一週間も、あなたの御言葉に従い、まことの神であるあなたのみを畏れ、敬い、隣人を愛し、福音を伝えることができますように、私たちに聖霊を注ぎ、私たちを導いてください。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン

讃美歌 436     http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金 (献金の感謝の祈り)
主の祈り  

頌栄  27     http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけていきなさい。 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン  

後奏

         
       〇来週の聖日 6月21日(日)
  
  説教 「神の言葉をどのように聞くのか」 山ノ下恭二牧師
  聖書 ミカ書4章1−3節 ルカによる福音書8章1−18節
  交読詩編 14編 讃美歌 83−1 17 58 451 29

以上

(WEB礼拝)
20200607  主日礼拝説教 「信じることの幸い」 山ノ下恭二牧師 
イザヤ書61章1−4節、 ルカによる福音書7章18−35節)

6月7日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年6月7日(日) 牛込払方町教会 聖霊降臨日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞  (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠  83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編 11  聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌  7  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所     聖書を開き、声に出して読みましょう。
           イザヤ書61章1−4節(旧約1162ページ)、 
           ルカによる福音書7章18−35節(新約115ページ)

祈祷     (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

洗礼式     洗礼式の次第は、ここには掲載しません。
讃美歌   67   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

讃美歌  120   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200607  主日礼拝説教  「信じることの幸い」  山ノ下恭二牧師

 本日の礼拝において、村田真理さんが、洗礼を受け、私たちの教会の仲間に加わりました。キリスト教会の群れに一人の姉妹が与えられたことは、私たちにとって大きな喜びです。洗礼を受けるとは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦されることを信じ、その恵みに生かされて歩むことを始めることです。
 
 ある女性が洗礼を受けて、しばらく経過して、ある時、夫からこう言われたそうです。「洗礼を受けたら、言葉遣いも丁寧で、自分に親切で、欠点のない人になるかと思ったら、余り変わらないね。」その方は「そう言われてとても辛かった」と言ったのです。洗礼を受けたから、今までとは異なって人が変わったように、どこから見ても、欠点がなく、誤りもなく、失敗もなく、罪を犯すことがない、そのようにすぐに立派になるわけではありません。洗礼を受けてキリスト者となっても、失敗もあり、欠点もあり、罪を犯すのです。自分の努力によって立派になるのではなく、神が与えてくださる聖霊によって徐々に、キリスト者らしい存在に変わっていくのです。

 私は高校1年生の10月に信仰告白をしたのですが、その前に、悩んでいたことがありました。それは信仰告白をしてキリスト者となった後に、立派な生活をしていく自信がないと言うことでした。日本キリスト教団関東教区栃木地区の高校生大会があって、他の教会の牧師に自分の悩みを話したところ、「君は神さまを小さく考えている、神さまに委ねていけば、キリスト者としてだんだん成長する」と助言してくれたので、安心して信仰告白をすることが出来たのです。キリスト者になることは、自分で努力して、立派な人になろうとしなくても良い、神さまに委ねていけばよいのだ、ということを知って信仰告白をすることができたのです。神さまに信頼して、委ねて生活をする、それが、キリスト者の生活のスタイルなのです。

 本日は、ルカによる福音書7章18−35節を読みました。ここには洗礼者ヨハネが登場しています。洗礼者ヨハネは、この地方の領主ヘロデによって捕らえられ、獄に繋がれていました。牢獄の中で自分が近い将来、死ぬことを覚悟していたのです。ヨハネは、二人の弟子を主イエスのもとに遣わして、ヨハネの問いを主イエスに伝え、答えをもらうようにしたのです。なぜ、そのようにしたのでしょうか。それは洗礼者ヨハネが語っていたことと関わるのです。

 ヨハネは自分が預言していた救い主は主イエスではないか、と考えていたのです。従って、ヨハネは主イエスの言動に、常に注意を払っていたのです。ヨハネの弟子たちも主イエスが何をなさり、何を語られるかを観察しながら、絶えず問うていたのです。その問いは一点に集中していたのです。それは、この二人の弟子たちに語らせたヨハネの言葉がよく示しています。
 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」この「来るべき方」という言葉は、「来たりつつある方」「いま来ている方」と言い換えても良いのです。この「来たりつつある方」「いま来ている方」というのは、明らかに当時の人々が待っていた、待ち焦がれていた、救い主の一つの呼び名でした。この呼び名はいつもヨハネが使っていたのです。

 ヨハネはヨルダン川で洗礼活動をしていたのですが、この川に集まって来る人々に、来るべき方が来られる、そのために心の準備をして、神の前に悔い改め、心身ともに水で洗い清め、清潔な生活をしなさいと説教をしてきたのです。ヨハネの使命は、来るべき方のために道備えをすることが使命であったのです。そのヨハネがなぜ、主イエスに対して、来るべき方はあなたなのですか、それとも他の方を待たなければなりませんか、と聞かなければならないのかと言うことです。なぜわざわざ、弟子を遣わして問うたのか、と言うことです。それは、主イエスが、自分が考えていた救い主とは異なっていると思い始めたからです。ヨハネは主イエスが自分の待っていた救い主ではないのではないか、と思い、分からなくなったのです。

 ルカによる福音書3章16−17節には、ヨハネがヨルダン川で説教をした、その言葉が記されています。「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場の隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』」ここではっきり語っているように、来るべき方は、人々を審判する方であるということです。神に背を向けて、罪の生活をしている人々を徹底的に審判し尽くす方が、来るべき方なのです。しかし、主イエスの言動には、そのような様子は少しも見えないのです。主イエスは、ヨハネが思い描いている、来るべき方ではないのではないか、と疑いをもったからです。

 ここで、ヨハネは伝え聞いたことから判断するということでなく、主イエス・キリスト御自身の言葉をもって確かめたいと強く望み、求めたのです。主イエスが、自分が思い描いていた救い主であるならば、自分が今までしてきたことは無駄ではなく、自分の言葉も空しくならないのですが、もし、主イエスが、自分が描く救い主でないとしたら、自分の言葉も存在も空しいものになると思ったのです。

 主イエスは、このヨハネの問いを受け止めてくださったのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」この問いの心を受け止めながら、ルカは次のように書いています。「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。」(7章21節)ヨハネの弟子たちの問いに直ぐに答えるのではなく、弟子たちが質問しているときに、主イエスが何をしておられるのか、ヨハネの弟子たちは見ざるを得なかったのです。主イエスが実際にしていることをこの目で見ざるを得なかったのです。言葉ではなく、主イエスが行動を通して救い主であることを示そうとされ、それを見せていたのです。そして、弟子たちが見たこと聞いたことをそのまま伝えればよい、と語ったのです。

 目の見えない者は、いま、見ることができる、足の不自由な者が立って歩き始めている、重い皮膚病の人は清くなり、耳の聞こえない人は、いま、耳が聞こえている、死人は生きかえり、貧しい人々に救いの喜びの言葉が聞かされている、と語るのです。これらのひとつひとつの言葉は、現実を告げる言葉です。 それと共に、この言葉は、礼拝で読みました、旧約聖書イザヤ書61章の言葉そのものです。イザヤの時代に、当時の人々が神の約束として実現すると信じて来たことが、今、ここに起こっている、具体的な事実となっている、あなたがたの目で、見ているではないか、と語っているのです。そのことをヨハネに報告しなさいと告げています。

 主イエスは、そのことに付け加えて、23節で「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られたのです。なぜ、そのように言われたのでしょうか。それには理由があるのです。「つまずく」この言葉は、私たちがよく口にする、スキャンダルという言葉の元になった言葉です。私たちも、歩いていて、縁石や段差に気づかないで、つまずき、転びそうになることがあります。主イエスは洗礼者ヨハネがつまずく可能性があり、その危険性があることをよく分かっていたのです。
 
 ヨハネは自分の中で、救い主はこうであるべきだ、と考えていたのです。人々を審判し、裁き、悔い改めを求める神だと考えていたのです。ところが、主イエスにはどうもそのような裁きの言葉もなく、していることも違っている、自分が思い浮かべていた救い主とは違う、ヨハネにはつまずく可能性があったのです。

 私たちにも、自分が思い、描いていたものをもっているのです。ところが現実にはそうでないということがはっきりして、受け入れなくなり、つまずくことがあるのです。誰でも、こうあるべきだ、こうなってほしい、という願いがあるのです。そうでないとつまずくのです。
 親は子どもについて、自分の期待を込めて、あるイメ−ジを抱きます。子どもがこうあってほしいという、理想的な子どもの姿を思い描き、期待を持つのです。しかし、子どもと共に生きていて分かることは、自分が思い描いているのとは随分、違うことに気づくのです。中学生・高校生という思春期の世代は、親よりも友達に心を開いているので、親が自分に話しかけることを嫌がることもあります。コロナで在宅勤務の父親が、子どもが部屋で何をしているのか、気になるので、勉強しているのか、スマホでゲームをしているのか、と言うことがあり、子どもは途端に不機嫌になるのです。子どもは自分の存在を丸ごと認めて欲しいし、寛容に見守って欲しいのです。そこに親と子どもとのギャップがあるのです。

 キリスト教会も同じことが起こります。教会を理想的な共同体であると考えるのです。教会に集う人たちは、道徳的に立派な人たちが集まっているところと思うのです。ところが、教会の人々と交際していくと、そうでないことを知ってつまずくのです。自分が作ったイメ−ジに合わない、自分の思い通りにならない、と教会につまずいたと言うのです。私たちが期待している、思い描いていることに反するとつまずくのです。
 洗礼を受けて、キリスト教会の会員になっても、欠点がないわけではない、過ちを犯さないわけではない、それぞれ多くの罪をもっているのです。既にキリスト者となっている人の言動や姿を見るとがっかりし、つまずいて、教会から離れていく、ということがよく起こるのです。教会は罪人の共同体であり、罪を赦された者の集いなのです。ただ、そのままで良いわけではないのです。神の御心を求めながら、キリストに似たものとなることが大切なのです。

 ルカによる福音書7章34節に、この当時の人々が主イエスについて広まっている噂を主イエスが語っています。「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で、大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」主イエスは、大飯食いで、大酒飲みで、罪人の仲間だ、と言われていたのです。神の戒めを守って立派に生活をしていると自分で思っている人々の仲間ではないのです。罪を犯した人、を相手にして、丸ごと受け入れ、その仲間となったのです。

 この主イエスの行動によって、神が、罪を犯し、弱さを持ち、欠点を抱えている私たちを受け入れ、赦して下さっていることを明らかにしているのです。このことは、神を忘れ、離れて自分中心に生きている私たちを、イエス・キリストの十字架の贖いによって、赦し、愛してくださることを語るものです。
 
 私は牧師となって良かったと思うことがあります。牧師は、毎週、礼拝に出席して、説教をし、聖礼典である、洗礼と聖餐の司式をします。教会の礼拝に出席せざるを得ないのです。礼拝を休むことができないのです。これは強制された恵みです。牧師でなければ、自分の都合で休むこともありますが、牧師ですから礼拝に出席せざるを得ないのです。みことばの説教と洗礼と聖餐の司式をすることによって、その度毎に、罪の赦しをという恵みを与えられるのです。 礼拝毎に、イエス・キリストによって神に義と認められる、神に受け入れられる、その恵みを与えられていくのです。洗礼を受けるということは、この教会に入会し、教会の会員になることです。礼拝を休むことなく、キリストの恵みにあずかっていただきたいと思います。

 私たちは自分がどのような者であるかを証明するために印鑑を用います。契約を結んだり、自分を証明するために署名、サインの他に印鑑を押すことを求められるのです。署名だけでは通らないことがあります。自分が自分であることを証明する印鑑が必要であるのです。洗礼と言うのは、神が罪を赦してくださり、神に受け入れられる、目に見える神の保証、刻印なのです。自分の罪が赦され、神が肯定される、そのことが確かなことして神から肯定され、保証されていることです。洗礼を受けることは、神からあなたは罪人ではなく、神に肯定され、もはや罪人ではないのだ、イエス・キリストによって神の前に正しい人であることを外側から太鼓判を押されることです。
 
 これからキリスト者としての生活が始まるのです。神が与えてくださる聖霊を受けながら、神にお答えしていくのです。洗礼を受けるということは、教会の会員になることですから、教会の一つの枝として、礼拝を守り、聖書を読み、祈り、時間と財産を献げる生活に切り替わるのです。祈ります。

祈祷 
 私たちをいつも見守ってくださり、愛を注いでくださる、父なる神。本日、一人の姉妹が、あなたの御前に主イエス・キリストが罪を贖ってくださった救い主であることを告白し、洗礼を受け、私たちの教会の群れに加わりましたことを心から感謝致します。聖霊を注いでくださり、キリスト者としてこれからの歩みを導いてくださいますように。私たちの兄弟姉妹の中で、病を得て、入院している兄弟姉妹、自宅療養している兄弟姉妹が健康を回復し、礼拝に集い、共に神を讃美することができますように。コロナウイルスに感染してその病と戦っている多くの方々が回復することができますように。このために治療に当たっている医療従事者が感染することなく、医療に専念することができますように。この一週間もあなたのみことばに従い、あなたを愛し、隣人を愛することができますように導いてください。この祈りを私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 520    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
主の祈り 
献金 (献金の祈り) 

頌栄  29      http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けてあなたがたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。ア−メン

後奏

        〇来週の聖日 6月14日(日)
  説教   「赦しのまなざしに立たされて」   山ノ下恭二牧師
  聖書    ホセア書14章1−8節 ルカによる福音書7章36−50節
  交読詩編 13編   讃美歌83−1、6、227、436、27

以上

(WEB礼拝)
20200531  主日礼拝説教 「日曜日をどのように過ごすのか」 山ノ下恭二牧師 
創世記2章1−3節、マルコによる福音書2章23−28節)

5月31日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ

 主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が解除されたことによって、5月31日のペンテコステ礼拝からは、皆様と共に会堂での礼拝を守れることになりました。 この間の主のお恵みとお導きに感謝します。

  しかし、感染が収束したわけではありませんので、体調がすぐれない方、外出に自信の持てない方、またご家族に同様の不安のある方などは、ご自宅で家庭礼拝をお続けください。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。

 引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 長老会  

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年5月31日(日) 牛込払方町教会 聖霊降臨日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞 (司式長老が礼拝席上で述べますので、ここには掲載しません。)

讃詠   83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条 
交読詩編 8編 聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌  57   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所    聖書を開き、声に出して読みましょう。
          創世記2章1−3節(旧約2ページ) 
          マルコによる福音書2章23−28節(新約64ページ)

祈祷    (司式長老が礼拝席上で祈祷を捧げますので、ここには掲載しません。)

讃美歌  361  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200531  主日礼拝説教 「日曜日をどのように過ごすのか」 山ノ下恭二牧師
            以下、声に出して読んで下さい。
 5月20日(水)の朝日新聞朝刊には、コロナウイルス感染予防のために日本のキリスト教会がミサ、礼拝を休んでいることを取り上げています。大きな見出しで「祈りの場 集えぬ苦しみ」とありました。日本基督教団のことも書いてあり、キリスト新聞社の松谷編集長が次のようにコメントしています。「教会にはコミュニティ−の機能もある。礼拝が仲間と会い、会話を楽しむ貴重な機会となっているお年寄りもいる。孤立した信者も少なくないのではないか」と書いています。会堂での礼拝がなくて、孤立している会員も多いのではないか、と思います。

 私たちの教会も4月12、19、26日と会堂での礼拝を休み、5月3日から会堂での礼拝を再開しましたが、近くで集まることのできる少数の人たちが礼拝していたのです。やはり、これまでのように、みんなが顔を合わせて対面で礼拝をしたいという思いを持ちました。私が教会学校の礼拝に通い始めてからこれまで、会堂で礼拝をささげて来たのですが、3週間続けて、みんなが集まって会堂で礼拝をしないことは初めての経験でした。会堂に集まって礼拝をしない経験をして、改めて、みんなが集まってささげる、いつもの礼拝が自分を生かしていたことに気がついたのです。それは貴重な経験でした。
 本日、みんなが集まっての礼拝を再開することができ、うれしく思います。

 本日の礼拝で創世記2章1−3節を読みました。創世記1章には、神がこの世界を造り、そして私たち人間を造ったことが記されています。1章27節には「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」と記されています。「神は御自分にかたどって人を創造された」ということはどういうことでしょうか。これは、人間が、神との交わりに生きる者として、神に向けて造られたと言うことです。神は創造者であるご自身と人格的な関係を結び、交信することができる存在として、人間を創造されたのです。従って、人間は神との関係の中で人間であるように意図されて、創造されているのです。神を讃美し、神の言葉を聞いて歩む存在であるのです。私たちは初めから神と共に歩む者として創造されたのです。

 1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記されています。神は天地万物を創造し、神御自身が創造したものを見て、その被造物が価値があり、良い存在であると確認したのです。「極めて良かった」のです。神御自身が創造したものが、神が意図したものとは異なって、出来が悪く未完成な作品ではなく、すばらしい作品である、と満足して創造の業を終えたのです。私たちの存在そのものが、未完成ではなく、神と隣人を愛することのできる存在であることを見て、積極的に肯定されたのです。

 2章1−3節「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」ここに安息日の聖書的な根拠が記されています。出エジプト記20章には十戒が記されていますが、十の戒めの第四戒である「安息日」の戒めにも、神が創造の業を完成して神が休まれたことが、安息日の戒めの根拠とされているのです。

 神が創造の業を完成して、休まれた、そのことに倣って私たちも休むのです。神が安息されたので、私たちも安息するのです。私たち人間は神に造られた存在で、神と共に生きる存在です。神と共に生きるために、労働を継続していくことではなくて、労働を中断して、休むことが求められています。
 よく考えると、6日の日に神は人間を創造したのですが、その次の7日の日に神は休まれたのです。人間が創造されて初めて迎えた日が安息の日なのです。 神が創造の業から離れて、休まれた、この休む、という言葉は、ヘブライ語で「シャッバート」と言う語です。この「シャッバート」という語は、元々、止める、中断する、という意味の言葉です。私たちはいつも自分が主体になって、能動的に働いているのですが、すべての仕事から離れて、中断して、その働きを止めて、この日を神と共にある、特別な日として過ごす日なのです。

 特別の日として、この日に安息するのです。神はイスラエルの民と契約を結び、イスラエルの民は、契約の条件として十戒を与えられ、この十戒を生活の規範として守ることを誓いました。イスラエルの民は、自分たちが神と共に生きるために十戒を神から戴き、守るように命じられました。この十戒の中で、安息日の規定が重んじられていたのです。十戒を戴いた後、安息日の規定を守ることが信仰の民としての責任であると考えるようになりました。イスラエルの国が滅び、ユダヤ教が成立し、律法を中心とした宗教に変わり、この安息日の規定を厳格に守ることが信仰者のしるしと考えるようになりました。

 本日の礼拝で読みましたマルコによる福音書2章23−28節には、安息日に、主イエスと弟子たちが麦畑を通った時のことが記されています。この時に、主イエスの弟子たちが麦畑の麦の穂を摘んで、その穂を取って食べたのです。このことを目撃したファリサイ派の人々は、この弟子たちの行いが、労働してはいけないと言う安息日規定を破ったことに当たると問題にしたのでした。ファリサイ派の人々は、律法は必ず守るべきものと考え、守らない者を告発していたのです。特に安息日の規定を守っているか、どうか、に深い関心を向けていたのです。

 この当時のファリサイ派の人々が、弟子たちの行為は律法違反であると言い出したのです。そのことに対して主イエスが、安息日の本来の中心的な意味を語って反論したのです。安息日に労働をしないならば、安息日を守ったことになると言うのではなくて、安息日は、人間が人間らしく生きるために必要な日として私たちのため設けられた日であることを話したのです。律法を必ず守らなければならないと考える、そのような律法主義と言う捕らわれから解放されて、神の恵みによって生きることができる者となることを願って語ったのです。

 安息、休む、という語が「止める」「中断する」という意味の言葉ですから、休むためには、労働を止める、労働をしない、という意味があることは確かなことですが、そのことに安息日の重点があるのではなく、この時を神の日として過ごすにはどうしたら良いのかと言うことです。丸一日、この日を神に明け渡す日として過ごすということに意味があるのです。この安息日は、労働から自由になって解放され、神に明け渡し、神の恵みに心を向ける日なのです。

 安息日に礼拝に出席して、神に完全に受け入れられてくつろぎ、休むのです。そこでまことの安息を得ることができるのです。自分を完全に丸ごと受け入れてくれる存在は神しかないのです。私たちは、週日の生活の中で、人間関係に悩み、試練や苦労を経験し、心身共に疲れている中で、神の家に帰り、そこで、完全に神に受け入れられ、神の前でくつろぎ、安らかな時を持つのです。

 創世記2章3節には「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と記されています。「第七の日を神は祝福し、聖別された。」安息日は、神に祝福される日であり、神に聖別される時なのです。神が祝福し、聖別する、特別の日なのです。神を信じる者として神に倣うのですが、この日を他の日と区別して、特別な日とするのです。それが私たちの最初の日なのです。

 現代の日本では、日曜日には仕事を止めて、時間を開けて、礼拝を守るという習慣はありません。日曜日を他の日と比較して、特別な日であると意識している人はほとんどいないのです。電車の時刻表には、月曜日から金曜日は平日で、土曜日、日曜日は休日と書かれています。月曜日から金曜日は労働する日で、月曜日から働いていくと、誰でも疲れてくるのです。土曜日、日曜日は、労働を休み、労働の疲れを癒す日、気分転換をするために、買い物に出かけたり、洗濯をしたり、掃除をしたり、旅行をしたりするのです。

 日曜日は、月曜日からの労働に備える日と考えています。それで、元気になるかと言うとそうでもないのです。日曜日の夜になると、明日の月曜日から仕事をしなければならない、と体の具合が悪くなる人も多いのです。月曜日は「憂鬱な月曜日」と言われ、出勤途中で倒れたり、病院に入院する会社員も多いのです。土曜日、日曜日に、休みを取っていても、その休みが本当に心身共にその人を癒し、生かす休みになっているのか、と言うことです。
 私たちは、この社会のどこかに所属しているということはとても重要なことです。会社に所属して仕事をしている、そのことによって社会での地位をもっていることになります。小学、中学、高校に所属し、自分が大学に所属している学生であると言うことは大切です。

 ある人から、こういう話を聞いたことがあります。この人は会社に長く勤めていましたが、退職後、所属している会社を失い、精神的にとても落ち込んで鬱になったそうです。それまで、この人は会社に属して、社会的な地位もあり、そこに所属していることによって自分の居場所があって安心して過ごすことができたのです。しかし、退職して自分が所属していたところを失ってしまい、自分の存在の意味をも失いそうになったのです。
 ある人は退職して毎日、どこも行くところがなく、酒を飲むようになり、アルコール依存症になりかけた時に、祖父が通っていて、自分も子どもの頃に通っていた教会から、召天者記念礼拝の案内が来て、礼拝に行ったのが切っ掛けで、礼拝に通い続け、洗礼を受けて、日曜日には礼拝にいつも通っているのです。自分は教会の礼拝に救われたと言うのです。

 私たちは、キリストの教会に所属しています。そして、日曜日に礼拝に出席することによって、自分はキリストに属していることを自覚できるのです。自分が自分であるということは、日曜日に礼拝に出席することによって明確化されて、自分を取り戻すことができるのです。私たちは様々なものに支配されています。親や教師、会社の上司、マスコミの言葉、時代の考え方、など様々に捕らわれ、支配されています。しかし、日曜日に礼拝をすることによって、自分が支配されているものから解放されて、自分が神に属していることを自覚し、自分を取り戻すことができるのです。

 リトリートという言葉を聞いたことがあると思います。聖学院大学でも夏のリトリート、冬のリトリートを行っています。この「リトリート」という言葉は「退く」という言葉です。大学での学びから離れて、退いて、神との関わりや自分の生き方を吟味して、自分を取り戻すのです。
 日曜日に教会の礼拝に出席するのは、労働を中断して、仕事を止めて、教会に退いて、神との関わり、今までの自分の生き方を悔い改めて、自分を取り戻すことなのです。そういうことをしないと、自分が誰で、自分が何者であるか、分からなくなるのです。

 ハイデルベルク信仰問答第一問には、「生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは何ですか。」その答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものです。」この後、続く言葉がありますが、省略します。この問答の答えは、自分が自分自身のものではない、と言っているのです。自分が生きている根拠は自分ではない、それはイエス・キリストにあるのだ、と言うのです。私たちはキリストに所属している、キリストの教会の一員であるのです。

 私たちは、人に「頑張って」とよく言います。また、「頑張れ」と言われることが多いのです。自分の力で頑張るように、と励まします。よく聞く言葉ですが、自己責任、と言う言葉があります。自分がしたことは自分で責任を取るという意味の言葉です。自分の振る舞い、行動、発言のすべては自分の責任になるのです。いつも身構えていなければなりません。そのような生活をしている者が、頑張ることを中断して、自分を放棄して、神にすべてを明け渡して、安らぎが与えられる時が与えられています。

 私たちが主の日の礼拝に集い、聖書からみことばを聴き、聖餐にあずかり、ささげものをする、そうすることによって、神が私たちを深く愛し、この愛のうちにあることを知ることによって、安らぎを得ることが大切なのです。
 労働に疲れ、過ちを犯し、心が折れるような経験をしながら、しかし、主の日の礼拝に出席して、愛の言葉を聞いて心を再建する、そのことが重要なのです。イザヤ書58章13-14節「安息日に歩き回るのをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をやめ、安息の日を喜びの日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引き慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。」
 
 祈り
 私たちのいのちを創造し、養い育て、守ってくださるイエス・キリストの父なる神。あなたは私たちの魂と身体のために、安息する日を定めてくださり、私たちが自己を放棄し、あなたに明け渡して、あなたの恵みのみことばによって安らぎを与えてくださることを知らされ、心から感謝致します。どうぞ、私たちに霊的な休息を与えてくださり、心が折れ、悩みや苦しみに負けそうになる時にも、あなたが私たちの重荷を共に背負ってくださり、私たちの過ちを赦してくださることを信頼して歩む者としてください。コロナウイルスに感染して、治療を受けている方々を癒してください。、その治療に当たっている医療従事者を支え、治療に専念することがありますように。入院し、病と戦っている兄弟姉妹を癒し、健康が回復して、礼拝に集うことができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。アーメン

讃美歌 521  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

献金
主の祈り

頌栄  27  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。
主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたgたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン

後奏 
         〇来週の聖日 6月7日(日)
    説教 「信じることの幸い」 山ノ下恭二牧師
    聖書 イザヤ書61章1−4節 ルカによる福音書7章18−35節
    交読詩編 11 讃美歌 83−1 7 67 120 510 29
 


(WEB礼拝)
20200524 主日礼拝説教 「私たちは神の愛によって造られている」 山ノ下恭二牧師
(創世記1章26−31節、 マタイによる福音書6章15−34節)

5月24日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会教会員の皆様へ

 神様の祝福を祈り、主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言の下にあり、5月24日の聖日も、牧師夫妻と、ご近所の少数の教会員で礼拝を守ります。 

  皆様も、在宅されているところで、10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 礼拝招詞、聖書朗読後の祈り、説教、説教後の祈りの言葉を掲載しています。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。 説教を読むだけで、礼拝を守った、ということがないようにしてください。

 5月31日以降の聖日礼拝をどうするかについては、外出自粛要請の緩和などの状況によって検討の上、別途お知らせします。
 コロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 牧師 山ノ下恭二

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年5月24日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
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礼拝招詞 ゼカリヤ書8章7−8節
 万軍の主はこう言われる。見よ、日が昇る国からも、日が沈む国からも わたしはわが民を救い出し 彼らを連れてきて、エルサレムに住まわせる。こうして、彼らはわたしの民となり わたしは真実と正義に基づいて 彼らの神となる。

讃詠 83−1    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条 
交読詩編 6編   聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌 13     http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書箇所       聖書を開き、声に出して読みましょう。
  創世記1章26−31節(旧約2ページ)
  マタイによる福音書6章15−34節(新約9ページ)

祈祷 以下、声に出して読んで下さい。
 天地の造り主、全能の父なる神。あなたが、あなたの御前に出ることのできない私たちを、礼拝に招いて下さる恵みを感謝致します。この一週間の私たちの歩みは、自分を中心に、あなたに従うことなく、隣人を愛することのない日々でした。そのような罪を告白致します。どうぞ、私たちの罪を赦し、私たちを受け入れてくださいますようにお願い致します。あなたは、私たちに、説教によっていのちのみことばを語ってくださいます。私たちが、悔い改めの心をもって、あなたのみことばを聴き、受け入れることができますように導いてください。入院し、病と戦っている兄弟姉妹をあなたが癒してくださいますように。この祈りを主イエス・キリストによって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 164   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

  以下、声に出して読んで下さい。
20200524 説教 「私たちは神の愛によって造られている」 山ノ下恭二牧師

 新しいいのちが誕生する、それはすばらしいことです。私は出産に立ち会ったことはないのですが、ある母親が出産するまでの経過をテレビで見たことがあります。テレビの映像には、出産までに大変な苦労と痛みを伴って、出産する経過が映し出されていました。母親の身体にいのちが宿り、新しいいのちが誕生するために、10ヶ月と言う長い時間を、母親が様々な苦労をしながら、その時を過ごし、そして新しいいのちが誕生するのです。お子さんを持っておられる方は、子どもが誕生した時には、その誕生を喜び、赤ちゃんの存在そのものを無条件で受け入れたと思います。
 
 しかし、現代は、大切ないのちを育てるべき親が、子どもを虐待し、育児を拒否し、こどもを育てることをしなくなっている、そのような事件が多発しています。「子宝に恵まれる」と言う言葉がありますが、子どもを宝として尊重するよりも、自分の思い通りに育てたい、自分にとって都合が悪くなり、手が掛かると子どもはいないほうが良い存在として、子どもを扱い、死に至らしめる親が多くなりつつあります。このような時に、いのちは誰のものか、いのちの源はどこから来ているのかを問うことは大切なことです。

 創世記1章26節に「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」と書かれています。私たちの存在は、神がお造りになったものであることを語るのです。私たちは神に造られた存在であり、自分のいのちは神に属していることを語ります。いのちを所有しているのは神であることを宣言しているのです。

 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」と語っているこの言葉は、とても重要なことを語っているのです。単に神は、人を造ろう、と言っているのではないのです。「造る」という言葉は、ヘブライ語では「バーラー」と言う語です。この言葉は、神が創造する時にしか使わない、特別の言葉なのです。
 ここでは人間は神にかたどり、神に似せて造られた存在であると語りますが、「かたどり、似せて」という言葉はどのような意味であり、どのように理解すべきなのか、と言うことです。「かたどり」と言う言葉のヘブライ語は「ツェレム」と言う語です。この語は元々「像」と言う言葉です。

 イスラエルは異教文化に囲まれていて、バビロニアの創造神話では、人間は粘土と神の血から神の像にかたどって造られたとされ、人間は地上において神の血を受け継ぐ存在であり、神性の宿る場所と考えられたのです。この存在は、地を支配する王のことを指していると考えたのです。従って、王が支配する領土の国境に王の立像が建てられ、人々に服従を求めました。このような異教の王の神話で使われた「ツェレム」と言う語を、神に代わって、地を支配する王の意味ではなく、神に仕える僕の意味に変えて、この語を用いているのです。

 「我々に似せて」この「似せて」というヘブライ語は「デミュト」と言う語です。この語は「似せて」あるいは「姿」と訳されていますが、完全な同一性ではなく、あくまでも「近似性」を表しているのです。
 「我々にかたどり、我々に似せて」つまり、「神の像と近似性」とは何か、と言うことです。それは、神と人間との親しい関係を意味しています。つまり、人間は、神に差し向かいの存在であり、交わりにおいて対応する者です。「ツェレム」の前に置かれた、前置詞は「従って」「向かって」と訳す言葉です。つまり、神はご自身の像へと向けて人間を造られたのであり、人間とは神に向けて造られた存在であることを語ろうとしているのです。

 創世記1章26節「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう』」とありますが、私は、以前から、神が「私にかたどり、私に似せて人を造ろう」と言わないで、なぜ「我々」と語っているのだろうか、と疑問を持っていました。ヨブ記の最初に、神と天使たちとが複数で天上の会議をしている場面があります。この「我々は」神と天使たちのことを指しているのだろうと考えていました。神ひとりではなく、神と天使たちという複数の「我々」の意志で、人間を創造しているのだろうと考えていましたが、それは正しい理解ではないことが分かりました。

 「我々」と言うのは、神と天使たちと言う複数の存在を言っているのではないのです。神が重大な決意をされる時に自問する、熟慮する、そういう場合に「我々は、造ろう」と言うのです。この「我々」という言葉は、神が人を造る時に、先に神御自身のうちで熟考し、人を造ろうと自分の意志を表明し、決断して、創造の業を行ったことを表しているのです。従って、人間の創造は、神御自身の深い人格的な関心事に基づいて行われたことなのです。神は創造者であるご自身と人格的関係を結び、交信することができる存在として、人間を創造されたのです。従って、人間は神との関係の中で人間であるように意図されて、創造されている、と言って良いのです。ここがとても重要なのです。

 現代は、「いのち」が軽視されている時代です。虐待による痛ましい死、殺人、交通事故、などが起こるたびに、「いのち」が大切であることを繰り返し語られますが、いつも呼びかけで終わり、それだけではいのちを大切にすることはできないのです。それは、私たちは、神が私たちのいのちを愛し、神が創造した尊いいのちであることを深く認識することが先決なのです。   
 従って、何の意味もなく、偶然に私たちが存在していると言うのではないのです。神は熟慮を重ねて、人間を創造することを決断し、創造したのです。私は改めて、このことはとても大切なことであると思います。私たちの存在は意味があり、目的をもって造られているということです。一人一人の存在は、それほど、かけがえのない存在であることを示しています。そのいのちは神が喜び、価値あるものとしているのです。それが、分かるのは「神はこれを見て、良しとされた。」という言葉です。「神はこれを見て、良しとされた」と言う言葉は創世記で何度も語られています。(創世記1章10、12、18、21、25)

 「良しとされた」と言う言葉には、「喜び」「幸せ」「価値がある」と言う意味があります。一人一人の存在は、神にとって喜びであり、価値あるものなのです。私たちのいのちは、神が与えたいのちであり、神が強く望んだものです。私たちのいのちは神が愛をもって創造したものです。

 自分が親から望まれないで生まれたことを知らされたこどもは、辛い思いをすると思います。しかし、自分のいのち、自分の存在は、それは神が望まれたいのちなのです。そこに自分のいのちの価値があるのです。
 創世記1章26節で神は「人を造ろう」と決意しています。私たちの存在は、神が熟慮して、造ることを決意して創造されたものです。神は、わたしたちが存在することを望んでいるのです。私たちは神が望んでおられるので、私たちは存在するのです。私たちの存在そのものが価値あるものなのです。ここで大切なことは、存在そのものに価値を見ることなのです。

 しかし、現代は存在そのものに価値を置くよりも能力に価値を置く時代なのです。「聖書は語りかける」(W・ブルッゲマン著 左近豊訳)という書物に、現代のものの考え方について詳しく書かれています。真っ先に取り上げられるのは「現代的・産業・科学モデル」という題で書かれているところです。

 「このモデルは、(省略)人であれ、モノであれ、『使える』かどうかが価値基準になる、ということです。市場であろうと家であろうと、教会であろうと、成果至上主義によってすべてが決まる生き方です。すべての関係は見返りがあるかどうかで、計られるのです。そのような現実理解は、有能であること、そして成績優秀であること、一番になることに何よりも高い価値を置くのです。そのようなものの見方は『仕事や社会的地位で私がわかる』とか、さらに退廃的に『所有物を見れば私がわかる』といった人格理解を生み出すのです。そのような人間の共同体は、働きに見合う稼ぎを得る人たちで構成されます。稼ぎがほとんどなく、それゆえに価値がないものは、数に入りません。実際、彼らは存在しないものとみなされるのです。明らかに、このような見方は、勝ち組、そして仕事のできる人たちの側に立っています。持てる者はさらに手に入れ、持たざるものはさらに失ってゆく傾向をもつのです。」(p10)                             
 現代は、人間の価値が能力、有能性にあるという理解が浸透し、「使えない者」「役に立たない者」は価値がないと考えていると言うのです。誕生した時には、無条件にその存在を喜んで受け入れたのに、様々な条件をつけて、人間の価値を評価していくのです。学校では、成績で評価され、学力がないと人間として認められない。家庭では家事をうまくこなすことが求められ、仕事は成果をだしたか、どうかで評価されるのです。様々な条件を満たす人が価値ある存在として評価されるのです。しかし、聖書の人間理解は、人間の能力に価値を置くのではなく、存在に価値を置くのです。              
 ギリシャ哲学に影響された、キリスト教の教父と呼ばれた神学者は、人間を人間たらしめるもの、それは理性をもっていることだと考えました。人間が神を知ることができるのは、人間が理性的な存在であることを示していると考えたのです。しかし、その理性をもった人間が、神のみこころから離れた時に、大きな誤りを犯すのです。近代以後、人間の理性によって何でもできるという傲慢が人間のいのちを軽いものとしているのです。

 かつて「婦人の友」という雑誌に熊沢義宣先生が「ベテルの宝−人間存在の価値について−」という随想を書いていました。この随想には熊沢先生がドイツのベテルという大きな社会福祉施設を訪れた時のことを書いています。
 この施設には、様々な障がいをもった人たちが生活をしていて、植物状態の人も収容されているのです。この施設を案内してくれたガイドが「この人こそこのベテルの宝なのです。」と言ったことに驚いたと言うのです。そして第二次世界大戦中のベテルの話を聞いたのです。

 戦時中、ナチス・ヒトラ−は「何回となくベテルにいる心身障害者たちを安楽死するように命令したという。国家に対して、とりわけ戦争遂行ということに対して、何ら役に立たないばかりか、貴重な食料を無駄に浪費し、最前線で必要とされている医師や看護師をしばり付けている障がい者たちを、一刻も早く処分すべきだと考えたヒトラ−の心理と論理は、容易に推測できる。われわれも今日、このような強者の論理、闘争の論理になれ親しんでいるからである。だが、1940年から43年にかけて『生きるに価しない』という理由で出されたナチスの安楽死命令にたいして、このベテルの所長をはじめとしてベテルの全職員たちは『そのまえにまず、私たちを殺してからしてほしい』と言い張ってベテルの障がい者たちを守り抜いたのである。」

 一昨年、相模原の障がい者施設やまゆり園で、元職員が、この園で生活をしていた人々を大勢、殺してしまい、裁判で「生きている価値があるとは思わない」と発言していたことは記憶に新しいことです。この考えは、ナチス・ヒトラーと同じ考えであり、いつの時代にも人々の根底に流れている考えであることが分かります。熊沢先生は「相対的な価値評価は人間を《能力》という物差しで測定し、能力の優れた人間は価値の高い人間であると考え、能力の低い人間は、人間的な価値もまた低いと断ぜられる。障がい者にたいしてこのような物差しが適用された場合にどのようなことが起こるかは、もはや明白であろう。」と書いています。人間の価値を、神との関係において受け止めることが大切なのです。人間の価値をその《能力》においてでなくて、その《存在》において見ることが大切なのです。     

 神は創造された人間を見て、「良し」とされたのです。価値あるものとされたのです。神がその存在を肯定したのです。ひとりひとりのいのち、存在を大切なものと肯定しているのです。神は「あなたは生きていてほしい、あなたは生きていてよい」と語っているのです。                     
 私たちは、神から離れ、自分を中心に生きるようになって、神との関係が壊れ、神から離れてしまい、神のかたちを失ってしまったのです。神と共に生きるパートナーではなくなったのです。   
 しかし、神は、私たちが神との関係を回復する道を開いてくださいました。神は主イエス・キリストの十字架の死と復活により、私たちの罪を贖い、神が和解させてくださったのです。このことによって、私たちは神の関係を回復することができ、神に対面し、神に向かって生きる存在として生まれ変わることができたのです。私たちの存在は、神との関係で生きるように造られているのです。

祈祷
 私たちのいのちを創造し、育て養い、守ってくださるイエス・キリストの父なる神。あなたは、私たちを造る時、深い熟慮をもって、決断し、愛をもって造られたことを知らされ、私たちがあなたを愛し、隣人を愛する、心豊かな歩みをすることができますように導いてください。親がこどもをいつまでも慈しみ、心を傾けて育て、見守るように、あなたは私たちの存在を深く憐れんでくださることを信じます。コロナウイルスに感染し、治療を受けている方々が回復し、癒され、この治療のために働いている医療従事者が感染することなく、治療に専心することができますように導いてください。入院している兄弟姉妹をあなたが癒してくださいますように。この一週間もあなたのみことばに従うことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
ア−メン

讃美歌 530   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金
主の祈り
頌栄   29   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけて行きなさい。
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けて あなた方を照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と 共にありますように。ア−メン

後奏 

       ○ 来週の聖日 5月31日(日)聖霊降臨日礼拝

説教 「日曜日をどのように過ごすのか」山ノ下恭二牧師
聖書 創世記2章1-3節 マルコによる福音書2章23-28節
交読詩篇 8編 讃美歌 83-1 57 361 521 27
以上


(WEB礼拝)
20200517 主日礼拝説教 「自然を支配する神」  山ノ下恭二牧師
(創世記1章11−25節、ペトロの手紙二 3章1−13節)

5月17日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会教会員の皆様へ

 神様の祝福を祈り、主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が延長されており、5月17日の聖日は、牧師夫婦と、ご近所の少数の教会員で礼拝を守ります。 

  皆様も、在宅されているところで、10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 礼拝招詞、聖書朗読後の祈り、説教、説教後の祈りの言葉を掲載しています。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。 説教を読むだけで、礼拝を守った、ということがないようにしてください。

 5月24日以降の聖日礼拝をどうするかについては、別途お知らせします。
 コロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 牧師 山ノ下恭二

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年5月17日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/
  
礼拝招詞 申命記6章4−5節
  聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽  くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 
讃詠 83−1   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条 
交読詩編 4編 聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌 18   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書  聖書を開き、声に出して読みましょう。
創世記1章11−25節(旧約1ページ)、
ペトロの手紙二 3章1−13節(新約439ページ)      

祈祷      以下、声に出して読んで下さい。
 私たちのいのちを造り、養い、守ってくださるイエス・キリストの父なる神。この一週間もあなたに支えられ、守られてきましたことを感謝致します。あなたを礼拝する時間を私たちに与えてくださり、心から感謝致します。この一週間の私たちの歩みを顧みますと、自分本位に行動し、神をないがしろにして過ごし、隣人を愛することの少ない日々を過ごしてきましたことを告白します。どうぞ、私たちの罪を赦してください。あなたのみことばを聞いて、受け入れる信仰をお与え下さい。語る説教者を潔めて、あなたのみことばに聞き従うことができますように。会堂で、教会の多くの兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。ア−メン

讃美歌 227   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200517 説教 「自然を支配する神」 山ノ下恭二牧師  以下、声に出して読んで下さい。
 
 最近は自然災害が多いと思います。地震が時々あります。2011年3月11日には東日本大震災があり、多くの人々が死亡し、東北の人々は特に大きな被害を被りました。また風水害も多発しています。昨年は、水害があり、各地に大きな被害をもたらしました。私たちが特に感じているのは、地球温暖化によって、季節が変動していることです。春と秋が短く、夏と冬が長くなっているのです。日本も四季ではなくて、東南アジアの国々のように夏と冬の季節だけの二季になるのではないかと言われています。
 
 地球的な規模でもシベリアの永久凍土が溶け始めています。ヒマラヤやアルプスでは万年雪が消えて湖となっているのです。北極にも深刻なオゾン層の破壊が起きて紫外線が増加すると言われています。海面上昇で太平洋のいくつもの島々は水没し姿を消すと言われています。二酸化炭素濃度上昇による地球温暖化、北極・南極でのオゾン層の破壊、エルニー二ョ現象、これらの言葉をよく耳にするのです。私たちの住む地球環境がかつてないほど危機に直面しているのです。

 創世記1章には、神が六日間かけて天地の全てを創造されたことが語られています。今日の礼拝で読みました11節から25節は、六日間の創造のみ業の中の、第三日の途中から、第六日の初めまでのところです。何が造られたのでしょうか。第三日には植物が、第四日には天体、太陽と月と星が、第五日には水の中の生き物と空の鳥が、そして第六日には地上の動物が造られたのです。

 私たちが、いつも目にしている自然が造られたことがここに語られています。この自然の創造の順序に意味があるとしたら、それは、人間から遠いものから始めて、次第に近いものへと順に造られていったと言うことです。植物がまず造られているのは、イスラエルの人々が植物は命あるものとは考えていなかったからです。聖書には命は血に宿るという考え方があるのです。命の息という言葉がありますが、息をしていない植物は命あるものとは考えなかったのです。その意味で人間から最も遠い存在である植物が先ず造られているのです。それから生命のある動物が造られるのです。

 先ず水の中と空の生き物が造られる、それらは地上を生きる人間とは住む所が違うのです。地の上の動物たちは人間にとって最も身近なところにいる存在です。それらの創造が人間の創造の直前に語られているのです。この天地創造の物語は、人間から遠いところから次第に身近なところへ、そして最後に人間が創造されるという物語になっています。人間の創造を頂点として、そこに向かっていく話として語られているのです。

 天地創造の物語は、この世界や自然の成り立ちやしくみを語ろうとしているのではなくて、人間の存在の意味を語っているのです。神が六日間かけてこの世界をお造りになった、それは私たち人間を造り生かすということを頂点として、それを目的にした神のみ業であることを伝えたかったのです。この世界の全ては、神によって、私たち人間のために造られたと言うのです。天地創造の全体が、私たち人間に対する神の愛のみ業であったことを伝えるのです。この世界がこのように存在し、私たちが生きているということの背後には、神の、私たちに対する深い愛があることを語るのです。これが、天地創造の物語が持つ根本的なメッセージなのです。                

 このメッセージが向けられた相手は、紀元前6世紀に生きていたイスラエルの人々でした。ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされ、国を失い、今のイラクのバクダットの近くのところへ連れて行かれたのです。戦場で多くの兵士が死に、籠城で女性、子どもが飢えに苦しみ、死んで行く、そして多くの人々は捕虜としてつながれて、敵の地に引いて行かれるのです。そのような苦しみの中で、イスラエルの人々は、自分たちはもうこのまま死んでしまうかもしれない、滅びてしまうかも知れない、そのように絶望していたのです。

 この天地創造の物語は、こういう人々に向かって語られています。神があなたがたのために、あなたがたが生きることができる所として、この世界を造り、整えて、それを「良し」としてくださった、と語っているのです。この世界は、今、苦しみと悩みに満ち、絶望せざるを得ない中にあっても、「良い」ところなのだと語るのです。私たちの人生は生きる価値があるものだ、と慰めのメッセージをこの天地創造物語は語っているのです。

 春は草花が萌え、成長する時であり、秋は収穫の秋と言われます。春も秋も野菜、果物などおいしい季節です。野菜や果物を作っている人は大地があって、その恵みを戴いていると感じることができます。大地が、草や木をはぐくみ、様々な実りを与えてくれるのです。動物も人間も、その実りを食料として利用して生活しているのです。私たちは母なる大地の恵みに浴しています。  
 しかし、ここで語られている最も大切なことは、これらのこと全てが、主なる神のご命令によることだと言うことなのです。主なる神が、地に草や木を芽生えさせることを命じているのです。この大地も神に造られたものであるということです。

 イスラエルの人々がイラクに連れて行かれて困ったことは、バビロニアでは自然を神として拝んでいたということでした。日本でもアニミズムと言って、自然を神として、土地、木、草、岩などに神の霊が宿っているという信仰が存在しています。自然そのものが神であると言うことに対して、この天地創造物語は、真っ向から立ち向かっているのです。自然も、母なる大地も、神の被造物であると宣言しているのです。

 この宣言は、イスラエルの人々にとって、深刻な反省と悔い改めを求めているのです。イスラエルの人々は、カナンに定住し、農耕の生活を営むようになってから、主なる神を忘れ、その地の農耕の神々、五穀豊穣をもたらす大地の神々を拝むようになったのです。聖書は、バビロニアに捕らえられたのは、神に対する裏切りの罪への裁きであると語っているのです。イスラエルの民が神を裏切って、造られたものにすぎない大地を神としてしまった結果、遠く離れた見知らぬ土地で苦しむことになったと語っているのです。                               
 4節以下には、天体の創造が語られています。ここに語られているのは明らかに、太陽と月と星々の創造であるのに、「二つの大きな光る物」が造られ、その内の「大きい方」が昼を、「小さい方」が夜を担当すると書かれています。このように「太陽」「月」という言葉が使われていないことに注目したいのです。その理由は、太陽、月という言葉そのものが、バビロニアの宗教では、神を意味していたからです。自然の神の中で、最高の神として太陽と月が崇められていたのです。

 この天地創造物語は、太陽と月という言葉を用いず、ただ、「大きい方の光る物」と「小さい方」と言う言い方をしています。これらは共に神がお造りになった被造物だと言っています。それらの天体が、神の目には、植物や動物と同列のものであることを示しているのです。太陽や月や星を、特別に神と同じものとして見ていないし、私たちの生活に、幸福や災いをもたらすものとは考えていないのです。しかし、私たちは太陽や月、星が自分の人生に影響をもっていると考えています。生まれた日の「星座」などの運勢について関心をもっている人は多いのです。星座だけではなく、占いによって自分の将来を決めることが行われています。しかし、太陽や月や星が、自分の人生を支配したり、左右することはないのです。私たちをほんとうに支配し、導くのは神なのです。私たちはこの神を信じていくのです。 

 14節に、太陽も月も星も「季節のしるし、日や年のしるし」として造られたと語られています。季節や日や年、つまり暦のことです。天体は暦のためにあるのです。暦は人間が用いるものです。太陽や月や星は人間のために造られたのです。従って、天体は私たちを支配したり、運命を導いたりする神ではなくて、これらは神によって、私たちの生活を照らし、作物を実らせ、暦を作って日や月や年を数え、季節の廻りを知り、生活のリズムを整えるために造られたのです。神はこのことを「良し」とされたのです。天体は、私たちのために造られたのです。      

 このように創世記1章11節から25節は、私たちを取り巻く自然が神によって造られ、整えられたことを語っています。ここで共通に語られていることは、自然は神ではなく、神に造られた被造物であると言うことです。自然は神ではなく、神に造られたものです。これら全てのものを、神は私たちの人間のために造ってくださったのです。そのようなことを言うと、そういう考えだから自然を破壊しても良いということになるので反対だ、むしろ、自然のなかに神が宿ると考えたほうが自然を大切にすることになる、と考える人も多いのです。

 そこで問題になるのは、自然に対する私たち人間の役割は何か、ということです。私はかつて和歌山県田辺市にいましたが、田辺教会の長老が天神崎の自然を守ろうという自然保護運動を始め、自然保護運動の出発点がこの創世記1章にあることを知らされました。神が創造した自然を守り、保護することが信仰者の責任であるとこの長老は考えたのです。様々な海洋生物がいる天神崎を崩して別荘地として売り出していけば、業者は儲かり、そこに住む人は別荘として楽しむことができるかもしれない、しかし、一度、その岬と浜がなくなれば、もとに戻すことはできない、小学生が、海洋生物を観察することができなくなり、市民がお弁当をもって、岬で遊ぶ場を失ってしまう、神が造られた自然を大切に保護することが自分たちの責任であると聖書から教えられている、と長老は考えて、この運動を始めたのです。

 この運動を通して、私はこの自然を神の恵みとして喜び、感謝して、自然との良い関係をもって生きることが大切であることを知らされたのです。人間が中心で、自然を従わせる、支配する、自然を自分たちのために使う、そのことが根本問題なのです。私たちはあくまでも、自然を「管理」するのであって、自然を支配し、自分の欲望のために使うと言うことではないのです。
 
 「管理する」、それは仕えることです。「スチュワードシップ」です。この言葉は、本来は、給仕、世話役、管理人などの職務を示す言葉ですが、最近では広い意味で受託責任、人間の責務を示す言葉として用いられます。自然を管理する者は、自然を勝手に支配することはできない、造り主である神のみこころをいつも心に留めながら、自然を管理していくのです。人間の必要性に応じてどんどん宅地造成して、森や林を切り倒したり、自分たちの食卓に必要だからと言って、魚を取れるだけ獲るということではないのです。自然を観察していくと、生物は互いに命を育むように上手に循環している、自然を守ることは神から与えられた命を大切に守ることです。                  

 創世記1章では、神が6日間で天地万物を創造されたのです。7日目に神は休まれたのです。安息日です。この7日目の安息日によって天地創造が完成したのです。安息日は、人間の活動がすべて停止されます。そしてこの日に私たちは神を礼拝するのです。この安息日のサイクルは自然の安息につながります。 レビ記25章1−5節(p202)には、安息年である7年目には畑を休耕地とし、ぶどうの刈り入れを止め、大地を自然に戻すことが書かれています。このようにして、自然を回復させ、自然との調和を図るのです。また申命記20章19節(p312)には人間は暴力的に樹木を伐採することも禁止されています。 ここには、明らかに人間が自然を支配し、思うがままにして良いということへの制限が書かれています。自然を自然として保持することが、私たちの責任であることを聖書は語っているのです。神に仕える存在であることを忘れて、人間がこの世界の主であり、支配者であるかのような錯覚をもっています。しかし、自然は神のものであることを自覚し、自然を大切に保護することが求められているのです。                    

 ホセア書2章20節(p1405)「その日には、わたしは彼らのために 野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち 彼らを安らかに憩わせる。」神は人間のみならず自然とも契約を結んでおられるのです。終わりの日にこの美しい自然を主なる神にお返しするために、私たちは、神から自然を保護し、管理することを委託されているのです。
 
祈祷
 私たちの救い主であり、私たちのいのちを造り、養い、守ってくださる父なる神。あなたは、闇の中にたたずむこの世界と私たちを愛して、光を送って下さいました。神が光を送ってくださることによって、闇に覆われているこの世界はいつまでも闇の中で苦しむことなく、光によって闇の範囲を狭め、闇を取り除いてくださいます。あなたが共におられ、私たちを愛してくださっていることを信頼して、歩むことができますように。
 あなたは自然を支配し、私たちに自然を管理するように委託されました。あなたのみこころに従って、自然を大切に愛する者とならせてください。
 新型コロナ・ウイルスの感染が終息して、日常の生活を取り戻すことができますように。思いがけなくコロナに感染し、治療を受けている方々、その方々の健康を取り戻すために治療にあたっている医師、看護師、医療従事者、介護者、保健所の医師、関係者を特にみこころに覚えてくださり、感染することなく、治療に専念することができますように。
 教会の兄弟姉妹の中で、入院されている方々、自宅で療養している方々が健康を回復することができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。ア−メン

讃美歌 464   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金
主の祈り

頌栄   27   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけて行きなさい。
主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み 神の愛 聖霊の交わりが あなたがたと共に
ありますように。 ア−メン

後奏
       
        〇来週の聖日  5月24日(日)
 
 説教 「私たちのいのちは、神の愛によって造られている」 山ノ下恭二牧師
 聖書 創世記1章26−31節  マタイによる福音書6章15−34節
 交読詩編 6編 讃美歌 83−1 13 164 530 29

以上


(WEB礼拝)
20200510 主日礼拝説教  「神は光を見て、良しとされた」 山ノ下恭二牧師
(創世記1章4−10節、マタイによる福音書8章23−27節)

5月10日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会教会員の皆様へ

 神様の祝福を祈り、主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が延長されており、5月10日の聖日は、牧師夫婦と、ご近所の少数の教会員で礼拝を守ります。 

  皆様も、在宅されているところで、10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 礼拝招詞、聖書朗読後の祈り、説教、説教後の祈りの言葉を掲載しています。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。 説教を読むだけで、礼拝を守った、ということがないようにしてください。

 5月17日以降の聖日礼拝をどうするかについては、別途お知らせします。
 コロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 牧師 山ノ下恭二

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年5月10日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/
 
礼拝招詞 ロ−マの信徒への手紙12章1節 
 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

讃詠 83−1   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条 
交読詩編 3編 聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌 17   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書       聖書を開き、声に出して読みましょう。
創世記1章4−10節(旧約1ページ) 
マタイによる福音書8章23−27節(新約14ページ)

祈祷      以下、声に出して読んで下さい。
 すべての造り主である父なる神。この一週間もあなたに守られて、ここに礼拝をささげることができる幸いを感謝致します。あなたの恵みに生かされながら、あなたを仰ぎ見ることなく、罪を犯してきましたことをお赦しください。これからみことばを聴きます。あなたのみことばとして受け入れることができますように導いてください。新型コロナ・ウイルスの感染が早く終息して、兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますようにお導きください。この祈りを主イエス・キリストの御名により、祈り願います。
ア−メン

 讃美歌 356   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

20200510 主日礼拝説教  「神は光を見て、良しとされた」 山ノ下恭二牧師 
          以下、声に出して読んで下さい。
 「光あれ。」この言葉は神が初めに語られた言葉です。「光あれ」そのように神が語られると「光」があったのです。言葉はその言葉を語る者の人格、意思、思いを表すものです。この「光あれ」という言葉は、神がこの世界と私たちをいかに深く愛しておられるか、その思いを言い表しているのです。「光あれ」と神が言うのは、闇が覆っていたこの世界と私たちに対して語られた言葉です。
 創世記1章はこの世界がどのように造られたか、その創造の過程(プロセス)を説明したものではありません。神を讃美する言葉として書かれたのです。闇の中で苦しんでいるこの世界と私たちを、神が深く慈しんでいることを伝えようとしているのです。

 この創世記1章が書かれた時代的な背景があります。バビロニアの侵略を受けて、南ユダの王国は滅び、信仰の拠り所であったエルサレム神殿が崩壊し、エルサレムの町は廃墟となり、がれきだけが残りました。国の滅亡は、神が神の民イスラエルの罪を裁き、見捨ててしまったと受け取り、このことによって、イスラエルの人々の信仰が揺らぎ、今まで自分たちが持っていた家、財産をすべて失ってしまったのです。
 多くの人々が捕らえられ、バビロン(今のイラク)に連れて行かれ、見知らぬ土地で暮らさなければならなかったのです。故郷に戻る見通しはなく、そのような不安と失望の中にいました。自分の持っていたものをすべて失う、喪失の経験をしたのです。 
 バビロンは太陽や星や月を神として拝んでいるのです。そのような異教の神々を拝んでいる人々に囲まれながら、少数でありながら、自分たちの神、主を礼拝していきたいと願っていたのです。自分たちが生まれ、育ち、慣れ親しんだ土地ではなく、慣れない外国の地で暮らすのは不自由であったのです。そのような不安定な生活がいつまで続くのか、先が見えない、読めない生活を続けていたのです。このような生活がいつまで続くのか、明日で終わるわけない、自分が死ぬまでこの土地にいなければいけないのか、と思っていたのです。

 この当時の人々の嘆きの詩編が残されています。イスラエルの方角を向いて、嘆いている嘆きの詩編です。詩編137編1−4節にあります。「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が 歌をうたえと言うから わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。」
 長い捕囚の生活、これからの自分たちの生活の展望が見えない、そういう不安を抱いている人々に対して、「光あれ」と語っているのです。新型コロナ・ウイルスの感染が広がっていく、現在、私たちは不自由な生活を強いられています。この生活がいつまで続くのか、先を見通すことができないのです。焦燥とあせりと不安の中で過ごしています。いつまで続くのか、そのような嘆きを口にしたい思いを持ちます。    
 1章4節後半で「神は光と闇を分け」と書かれています。神は光を創造し、光と闇を区別したのです。このことは大きな意味があります。あたり一面、闇が覆っていたのです。光が創造され、光が射し込むことによって、闇と光が両方、混同して、地に漂っているのではないのです。光が創造されて、光が射し込んだことによって、この地が全部が闇ではなくて、闇が限定されるのです。光が創造されて、光あれと主なる神が言われると、光が射し込み、光の領域が広がり、闇は限定されています。
 
 私たちがカフェに行くと、禁煙席と喫煙席に分けられて、どちらに行きますか、と店員に言われることがあります。私はいつも禁煙席に行きますが、禁煙席が人で一杯の時に、喫煙席で良ければ案内致しますという時がありますが、たばこの煙を吸うのは嫌なので、別のカフェを探したことがあります。禁煙席と喫煙席がはっきり分けられていて、気持ちよく、そのカフェにいることができます。

 秩序ができる。空間が区分されるのです。闇が全面的に覆っている中で、光が創造され、光と闇が分けられ、区別されて、闇が神が造った秩序の中に支配されるのです。闇が全面的に支配しているのではなく、神が光と闇を支配しているのです。
 神が闇と光を支配しているのです。光と闇とが戦って、勝ったほうが支配者になるというのではありません。同等の力を持った国同士が戦争して、勝利した国が戦勝国となり、負けた敗戦国が領地を取り上げられ、賠償金を払う、人々は奴隷として働かされるということではないのです。光も闇も、神が支配しているのです。

 私たちの生活もいつも楽しく、穏やかな生活というわけではないのです。平和で穏やかな日々が続くこともありますが、思いがけなく苦しみ、悲しみを経験することもあるのです。旧約聖書にある「ルツ記」には、ナオミと言う婦人が飢餓のためにモアブという異邦人の土地に行くのですが、、夫と二人の男の子が死んでしまい、二番目の男の子の妻ルツが一緒にイスラエルに帰るのです。故郷に帰り、馴染みの人にナオミは自分の名前は「快い」と言う名前ですが、「苦しい」と呼んで欲しいと悲しむのです。大切な家族を失い、これからどうして暮らしていくのか、見通しもないのです。しかし、ナオミは神の守りのうちに祝福され、家族を持つことができたのです。不幸な時がありますが、神に守られて、その苦しみや悲しみを乗り越えることができて、喜びの時を迎えることができるのです。

 旧約聖書・創世記に登場するヨセフは父親に溺愛されて傲慢になり、そのために兄弟たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られ、雇われた家の主人の妻に誘惑されますが、これを断ると、ぬれぎぬを着せられ、牢屋に入れられるのです。どうして自分はこのような不幸に遭わなければならないのか、苦しむのです。しかし、神は見捨てることなく、ヨセフのために道を開いてくださるのです。

 私たちの人生には思いがけない苦しみ、病があり、家族との辛い別れがあり、自分のことを誰も理解していない、自分の存在が無視されているような、深い孤独を味わうことがあっても、神がその闇を追放して私たちを守るのです。詩編139編11−12節(旧約p979)「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない。」  

 空間だけではなく、光が現れることによって、時間の秩序が存在するようになるのです。昼と夜が区別され、昼と夜とが交互に訪れることによって、秩序がこの世界にもたらされます。そして夜があり、昼があって初めて「一日」と言う区切りが生じたのです。神は光を創造し、昼と夜とを定めて、一日を始められたのです。一日を時間の単位として定めました。神は混沌の中で神の言葉によって秩序を与え、私たちが生きることができるように神が配慮しているのです。       
 本日、この礼拝で読んだ創世記1章6−8節は第二日目について書いてあります。神が水の中に大空を造り、大空の上の水と下の水とを分けられたのです。昔のユダヤ人はこの世界は水と水との間にあると考えていました。地上にも水があり、それは海と考えたのです。空の上にも水があり、水と水とを分けて、その間に大空があると考えていました。大空のことを丸天井と呼び、丸天井に窓があって、その窓が開くと雨が降ってくると考えたのです。水は私たちの命を支える、命の水です。しかし、津波や台風が水害をもたらすように、水はすべてのものを押し流し、破壊する、恐ろしい力をもっています。洪水、川の氾濫によって大きな被害がもたらされるのです。

 水は混沌の象徴です。神が大空を造り、水と水を分けて空間を造ってくださったのです。それは神が世界を覆っている混沌の力に打ち勝ち、その中に人々が生きることのできる世界を築いてくださったことを表しているのです。大空というと「美しく広い空」と言うイメ−ジを持ちますが、ここでは非常に固く、しっかりとした、天蓋のようなものを指しています。その天蓋が上の水が落ちてこないようにしっかりと支えていると言うのです。
 
 「大空を造った」と言うのは混沌の力が私たちに襲いかかり、押し流し、滅ぼしてしまわないように、神がしっかりと守って下さっているという、神の力による強い恵みを語っているのです。この世界と私たちは混沌の力に取り囲まれ、脅かされています。しかし、神は混乱と空しさをもたらす力を支配し、私たちが生きることができる世界を造り、守り、支えていてくださるのです。この神の恵みを信じることが、天地創造の物語を読み取ったことになるのです。          
 
 この神の恵みのみ業は、9節、10節の、第三日目の前半まで続いています。天の下の水が一つところに集められて海となり、乾いた所、つまり、陸地と海ができているのです。そして10節の終わりには「神はこれを見て、良しとされた」とあります。4節には神は「光を見て、良しとされた」と語られていました。闇に覆われた世界に光が輝き、闇を押しのけ、喜びと望みと暖かさを与える、そのことを神は良しとされた、喜ばれた、それこそが神のみこころだと宣言されたのです。すべてを滅ぼし、押し流そうとする水を押しとどめ、ここを越えてはならないという境を設け、秩序を整え、この世界を、私たちの生きることのできる所として支え、守ってくださる、そのことも良しとされた、それは神のみこころであると宣言してくださったのです。

 この「良しとされた」が10節にもあります。大空を造ることと、水を集めて乾いた地を造ることとが神のみ業であることが分かります。「神はこれを見て、良しとされた」という言葉は、天地創造のみ業の節目節目に語られています。それは私たちが、生きていて良いのだ、生きていて欲しい、と神が心から強く願っていることなのです。私たちが生きるこの世界、そして私たちの人生、命、生活が神に良しとされ、喜ばれ、肯定されているのです。神がこの世界を創造する、そのたびに、良しとされた、と言われているのは、そのことが確認されているのです。私たちが生きていることは、神に良いと受け入れられ、承認されていることなのです。

 この世界と私たちの生活は、水に取り囲まれています。天の上にも下にも水があり、地上の水も境を越えて私たちを押し流そうと狙っています。この世界と私たちの生活は、混乱と空しさの力に囲まれ、常に脅かされているのです。そこにはこの混沌の水に脅かされながら、人生という船旅を漕ぎ進めている神の働きがあります。そこには時として激しい嵐が起こり、私たちの小舟は波に飲み込まれそうになります。混沌の水がどんどん押し寄せてきて、沈みそうになってしまうのです。      

 先程、読まれた新約聖書マタイによる福音書8章23−27節にはその有様が描かれています。舟が沈みそうになってあわてふためき、「主よ、助けて下さい。おぼれそうです」と叫ぶ弟子たちがいます。その弟子たちの姿は、混沌の水に押し流されそうな私たちの姿です。しかし、この船には主イエスが乗っておられるのです。主イエスは、起き上がって風と湖とをお叱りになるのです。するとすっかり凪になったとあります。混沌の力の象徴の水が、主イエスのみことばによって押し止まれ、境を越えて私たちを押し流してしまわないように制御されるのです。主イエスは、混乱を支配し、私たちを守り、支えてくださるのです。天地創造において与えられた恵みが、共にいてくださる主イエスによって今、私たち一人一人に与えられているのです。                           
 マタイによる福音書8章23節には「イエスが船に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。主イエスは最初からこの舟に乗っておられるのです。主イエスが先ず乗り込み、そして私たちが一緒に舟に乗り込めと招いておられます。私たちは主イエスと共に船旅を始めたのです。それは主イエスを信じて生きる私たちの信仰の歩みを象徴しています。主イエス・キリストが自分の生活を共にしているのです。自分の命も、生活も、自分だけの命、自分だけの生活ではなくて、神から与えられたものです。しかし、自分一人だけの力で生きていけると私たちは思っています。しかし、大きな災害や不幸に遭うとどうしていいかわからなくなり、パニックになるのです。

 私たちは、教会という舟に主イエス・キリストが乗り込んでおられることになかなか気がつかないのです。「イエスは眠っておられた。」ということがそれを象徴的に表しています。弟子たちは自分たちだけで一所懸命、舟を漕ぎ進めようとしています。しかし、嵐によって波に飲まれそうになってしまいます。眠っている主イエスは弟子たちにとって何の助けにもならない、何もしてくれない、いないのと同じだと思ったのです。しかし、この舟には、もともと主イエス・キリストが乗っておられるのです。そしてその主イエスが起き上がって風と湖とを叱り、混乱と空しさを排除し、弟子たちを守り支えて下さるのです。私たちの人生の舟に主イエス・キリストが乗り込んでおられることに気づき、この主イエス・キリストに信頼して生きることが信仰です。                                  
 ある牧師が教会の一人の老婦人を訪問した時のことです。この婦人は長い間、どこかのお店で料理をして働いていましたが、老いて心臓を悪くしていて、もう働くこともできなくなっていて、たったひとり小さなアパートに住んでいて、寝ていたことも多かったそうです。牧師としては、このようにただひとりで生き、身よりのないので不安だろう、と思うので、この婦人を訪問した時に、「ただひとりで生活をしていて不安になることはありませんか」と率直に尋ねたそうです。この老婦人は、この牧師をいささか、たしなめるような目つきで見て、それからはっきりこう言ったそうです。「私がひとりぼっちだったことは、一度もありませんのよ。」牧師は「これが信仰だ」と思ったそうである。この牧師は、この老婦人の言葉に成る程、まいった、と思ったそうです。そしてこの答えに喜んだと言うのです。ほほえましい話です。
  
 私たちの生活にはどうして良いかわからなくなるようなことが起こります。生きていて空しさを感じることがあります。しかし、混乱と虚無の真ん中に主イエス・キリストが私たちと共にいてくださり、私たちが生きていける道を必ず開いてくださるのです。
 ある本に、嵐を静めた主イエスの物語を編集したマタイが心に留めていた旧約聖書の言葉があった、と書かれていました。詩編107編です。主の慈しみを讃美するとてもすばらしい詩編です。詩編107編28−30(p949)「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った。」
 
 祈祷
 イエス・キリストの父なる神。あなたのみことばを聴くことができましたことを心から感謝致します。私たちは今、新型コロナ・ウイルスの感染の中に過ごしています。このウイルスに感染するのではないか、と怯えることがあります。先が見通せない闇の中にあっても、あなたは、この闇を封じ込め、この闇の働きを支配し、この闇がどこまでも広がることなく、阻止している神であることを知り、あなたに信頼して歩むことができますように導いてください。この新型コロナ・ウイルスに感染して、この病と戦っている方々を癒してください。治療に専念している医師、看護師、病院関係者、救急隊員、保健所の医師、看護師、職員、心配している家族、これらの人々が感染することなく、今後も治療にあたることができ、健康を回復することができますように。教会の兄弟姉妹の中で、入院している兄弟姉妹、自宅療養している兄弟姉妹、が健康を回復することができますように。吉川友規子さんが逝去されましたが、親しい家族を失って悲しみにある遺族をあなたが慰めてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 459   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金
主の祈り
頌栄   29   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけて行きなさい。
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られますように。主が御顔を向けてあなた方を照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもありますように。ア−メン

後奏
 
 〇来週の聖日  5月17日(日)
説教 「自然を支配する神」 山ノ下恭二牧師
聖書 創世記1章11−25節 ペトロの手紙二 3章1−13節
交読詩編4 讃美歌 83−1 18 227 464 27

(WEB礼拝)
20200503 主日礼拝説教 「混沌の中で、神が『光あれ』と」  山ノ下恭二牧師
(創世記1章1−5節、コリントの信徒への手紙二 4章6節) 

5月3日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会教会員の皆様へ

 神様の祝福を祈り、主の御名を讃美致します。

  緊急事態宣言が延長されましたので、5月3日の聖日は、牧師夫婦と、ご近所の少数の教会員で礼拝を守ることにしました。 

  皆様も、在宅されているところで、10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 礼拝招詞、聖書朗読後の祈り、説教、説教後の祈りの言葉を掲載しています。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。 説教を読むだけで、礼拝を守った、ということがないようにしてください。

 5月10日以降の聖日礼拝をどうするかについては、別途お知らせします。
 コロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 牧師 山ノ下恭二

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


2020年5月3日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞 詩編96編1−3節
 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を。

讃詠   83−1   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条 
交読詩編 2編 
讃美歌  16     http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書    聖書を開き、声に出して読みましょう。
  創世記1章1−5節(旧約1ページ) 
  コリントの信徒への手紙二 4章6節(新約329ページ)

祈祷    以下、声に出して読んで下さい。
 私たちのいのちを造り、守ってくださる、主なる神、この一週間も私たちを見守り、必要なすべてのものを与えてくださったことを心から感謝致します。本日から少人数ですが、礼拝堂に集まって礼拝を再開できたことを感謝致します。礼拝堂での礼拝に出席することができない兄弟姉妹が、それぞれ置かれた場所で、あなたを讃美し、みことばを聴き、献げることができますよう。謙虚な心をもってみことばに耳を傾けることができますように。新型コロナ・ウイルスの感染が拡大し、終息する兆しがありませんが、あなたの光によって、光を見ることができ、あなたに希望をもつことができますように。この祈りを主イエス・キリストによって祈り、願います。
 ア−メン

讃美歌 56      http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号


説教  「混沌の中で『光あれ』と」 山ノ下恭二牧師      
 
 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神は沈黙していることもできたのです。しかし、今、神は沈黙を破るのです。私たちは、神が語られることは好まないのです。物言わぬ神のほうが、良いのです。ものを言ったり、沈黙したりする神、私たちと関わりをもとうとする神、命令したり、要求する神、従うのか従わないのか、決断を求める神、そういう神は歓迎されないのです。
 親の言うことを聞かない子どもに手を焼きます。嬰児から幼児に移行する時に、いやいや期があります。親の言うことに対して、何でも自分の意志をはっきり示すのです。親は困ってしまうのです。ある時、思い出すと笑うような経験をしたことがあります。3歳の幼児から飴を貰い、口に入れようとしたら、「私が食べて良いと言うまで食べないで」と言われ、「小さいくせに大人に命令するとは、犬のようにお預けだ」と思い、「3歳といえども、自分の意志をもっている」ことを知りました。
 
 「神は言われた。」神は物言う神であり、人格神なのです。この神は、私たちに語りかけ、関係をもとうとします。この神と私たちは触れ合うことができるのです。その触れ合いは、好ましい経験になります。「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」神が言われたことは、神は必ず実現するのです。神のみもとでは言葉と行為は一つです。神はイスラエルの民に、神の言葉に信頼することを教えました。それは神が発言したことは実現するからです。

 たとえば、エジプトを脱出するようにモーセを指導者として立てた神は、エジプト脱出に成功したのです。預言者たちも「神はこのように言われる」と言って審判と救いの神の言葉を伝えました。人々は聞き従うことはありませんでしたが、「神が言われた」通りに、エルサレムは占領され、神殿が破壊され、民が異国へ連れて行かれ、イスラエルの国は滅びたのです。このように、神が語られることは必ず、実現するのです。

 神が天地を創造する時に、初めに語られた言葉は「光あれ」と言う言葉でした。神が沈黙を破って初めて発言されたのは、「光あれ」です。1章3節「神は言われた。『光あれ』こうして光があった。」神は光をお造りになり、光が輝いたのです。初めてこの言葉を読んだ人は、この光を「自然の光」と考えると思います。地動説を唱えたコペルニクスは、この言葉を読んで、神は最初に光を創造した、この光は「太陽」から来た光であるから、太陽が中心で、その周りを地球が回っていると考えたのです。しかし、16節に太陽と月と星が出てくるので、この光は太陽そのものを指していないことは確かです。3節の「光」はもっと深い意味をもっています。神が源となって照らす光なのです。神と言う光源から射す光です。私たちの生活を照らす光であり、私たちのいのちを生かす光であるのです。               

 2節には、神がお造りになった世界はどのような所であったか、ということが語られています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」これが、神が最初にお造りになった天地の姿であったのです。地は混沌であった、口語訳聖書では「形なく、むなしく」と訳されています。別の訳では、「形なく、何もなかった」となっています。これらの訳からわかるように、この「混沌」と言う言葉は原文では、二つの言葉から成り立っているのです。二つの言葉が結び合って一つの熟語になっているのです。これと同じ言葉はエレミヤ書4章23節にあります。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。」(p1182)他のところにも「混乱と空虚」と翻訳しています。「地は混沌であって」は「地は混乱であり、空虚だった」と訳すことができます。
 
 これはどういうことを語っているのでしょうか。神が天地を、この世界をお造りになった、という1節の言葉は、良い世界を造ったという宣言であったはずです。それなのに、神がお造りになった世界が、混乱と空虚の世界であったとしたら、それは何のために造ったのか、わからなくなります。さらに2節後半では「闇が深淵の面にあり」とあります。「深淵」それは文字通り「深い淵」であり、底なしの深みです。そこに落ち込んだら二度と浮かび上がってくることのできない、すべてのものを飲み尽くそうとする深みです。その深淵の面をさらに闇が覆っているのです。暗闇に覆われた恐ろしい淵がすべてのものを飲み尽くそうとしている、しかも、この世界そのものが、神がお造りになったものであり、この世界は、そういう所であったと語っているです。                                
 2節の最後には「神の霊が水の面を動いていた」と書いてあるので、神の霊がその世界を覆い、守っているということで、神が守っていることを語っていることかと思い、安心するのです。しかし、「神の霊」と言うのは、ものすごい風、暴風、大嵐です。大嵐の中で、山のような波が、小さな漁船を飲み込んでしまう、そのような世界なのです。神がお造りになったこの世界は、そのような恐ろしい、すさまじい、世界であった、と言うことなのです。

 なぜ、このようなことが書かれているのでしょうか。この創世記1章の天地創造の物語が、いつ、どのような時代状況で生み出され、書かれたのか、と言うことです。この創世記1章が書かれたのは、紀元前6世紀の頃、と考えられています。それはイスラエルの歴史にとってどのような時代であったのでしょうか。それは、目の前にあるのは、戦争で破壊され、焼き尽くされた土地と希望を失った人々の姿です。紀元前587年にイスラエルはバビロニアによってことごとく破壊されて滅び、多くの人々がバビロン(今のイラク)に連れて行かれてしまう、いわゆるバビロン捕囚の時代です。

 先程、エレミヤ書4章23節の言葉を紹介しました。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」という言葉に続いて、「わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に主の激しい怒りによって打ち倒されていた。」(p1182) 
 この預言者エレミヤの言葉は、エレミヤがまさに、この国の滅亡と捕囚のまっただ中に生きていたことを示す言葉です。このように国が滅亡し、多くの人々が知らない異郷の土地に連れて行かれるのは、神に背いた結果であると受け取ったのです。それは、まことの神を捨てて、自分たちの欲望や願いを満たす五穀豊穣をもたらす偶像の神々、御利益の神々に心を向け、拝んで来たことの結果であると理解し、神に背を向けて、自分のことしか考えないで生きてきた罪の結果が、国が滅び、見知らぬバビロンに連れて行かれる、そのような結末になったと自覚したのです。

 創世記1章は、エレミヤが見つめているこの現実の中で書かれたです。2節において描かれているのは、国の滅亡とバビロンに捕らわれて連れて行かれる、バビロン捕囚という現実です。つまり、創世記の著者が見つめ、描いているのは、実は、大昔に神がこの世界を造られた時に、この世界はどんなところであったか、と言うことではないのです。この創世記の著者が見つめているのは、今の自分たちの、目の前の現実なのです。今、自分たちの前にある世界、自分たちの置かれている現実が、混沌であり、形なく、空しく、混乱と空虚に満ち、闇に覆われた底知れぬ淵がそこにぱっくり口をあけ、自分たちを飲み込もうとしている、ものすごい暴風が吹き荒れ、山のような波が襲いかかっている、そのような現実が、今、目の前にあるのです。

 私たちにとってこのことは紀元前6世紀という今から、2600年前のはるか昔の話なのでしょうか。私たちには関係がないことなのでしょうか。私たちが生きている今の時代は豊かで、便利な時代です。しかし、希望を持つことができない時代に生きているのです。年間3万人もの人たちが自殺をしている、生きる望みをもつことができない時代です。児童虐待が頻発し、親が自分のこどもを死に追いやり、生きる価値がないと考えて、多くの障がい者を殺してしまう、そういう事件が続発しています。人々の心が混沌としているのです。

 天地創造の物語は、大昔のこの世界はどうであったか、ということを語ってはいません。聖書はそのようなことに関心をもってはいないのです。滅亡と捕囚という現実の中で、混乱と空虚に捕らえられ、深い闇に覆われている、そのような世界であるけれども、創世記1章の著者に与えられた答えが「初めに、神は天地を創造された」と言う言葉であったのです。深い闇に覆われ、荒れ野の中に、何もない、この世界であるけれども、しかし、それは神が創造されたもの、神の恩恵によって造られたものなのだ、この世界が存在し、私たちが生きているのは、神のみこころによることだ、それが1節の意味です。

 それゆえに、その創造のみ業は、3節以下のように展開されていくのです。「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった」。闇に覆われた深い淵、暗闇の中で、「光あれ」というみ言葉が響き渡るのです。するとそこには、光が生まれるのです。闇をけちらす光が神によって造られ、この世界に、光が私たちに与えられるのです。
 
 私たちは混沌を経験しています。2011年3月11日に東日本大震災が起こり、地震と津波によって岩手、宮城、福島は大きな被害を受け、復興がされず、人々は傷ついたままです。穏やかで平和な生活は破壊されてしまったのです。
 そして今年に入って、新型コロナ・ウイルスの感染が広がり、いつ終息するか分からないでいます。多くの人々は感染を恐れて生活をしています。この疫病のために、仕事を失い、生活に困っている人々も多くいるのです。そして、世界には、多くの痛ましい事件が起こり、紛争やテロによって多くの人々のいのちが失われています。紛争、地震、疫病そしてテロ、私たちはこれからどのようなことが起こるかわからない、そのような不安を抱えているのです。
 
 しかし、そのような、私たちに神は光を照らしてくださったのです。私たちは闇に覆われるような経験をするのです。親子がうまく通じ合えない、自分を理解する人がいない、相手が自分の過ちを赦してくれない、様々な闇を経験します。罪という闇を私たちの力では、取り払うことができないのです。この「光」は神が私たちを赦し、愛してくださる光です。「神は光を見て、良しとされた」とあります。私たちは神から離れ、自分中心に生きている、その闇を神が取り払い、神が赦しの光を送り、光の中に過ごすことを肯定しているのです。神のみこころは、今や、私たちが滅びにあるのではないのです。私たちが赦されて新しく生きることこそ、神は良しとし、望んでおられるのです。私たちが赦されて新しく生きている、それが光を受けて生きることであり、そのことを神は喜び、肯定されているのです。「神は光を見て、良しとされた」とはそういうことです。

 私はこの礼拝の終わりに祝福の宣言をします。初めに民数記6章24−26節にある「アロンの祝福」の言葉の中に、「主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」と言う御言葉があります。神が御自身の光を照らすということはどのようなことでしょうか。それは神が顔を向けて、慈しみのまなざしで見ていてくださることです。神が険しく、怒った顔で私たちに向けているのではなくて、優しいまなざしを私たちに向けてくださることです。人生の分かれ道、岐路に立った時に、神は現れ、私たちの罪、弱さ、いたらなさをも優しさをもって包んでくださるのです。

 ドイツの牧師、ヴァルター・リュティ牧師が、創世記の説教をしています。その中に、今日の聖書テキストについての説教があり。その一部分を紹介します。
 
 「神はわれわれに眼差しを注がれます。神はわれわれをいつくしまれます。神の良き御旨が良きものをつくりだすのです。」神は「光だけではなく、神は後に、その慈しみの眼差しを植物に向け、天体に向け、動物に向けられます。そして、人間までも。神はそのいつくしみよりする顧みを、さらに遠くへと及ぼされます。ノアとアブラハムを顧みられます。モ−セ、ダビデ、サムエルを。そして、マリアはそのことをあの言葉をもって言い表さざるをえませんでした。「〈神は〉この卑しい女さえ心に留めてくださいました。」(ルカ1・48)「神は、町々、村々の人々を顧み、他人から尊ばれない者、虐げられる者を顧みられます。」「神は桑の木に登ったザアカイに目を留められます。ダマスコへの破壊の道を急ぎつつあるサウロに目を留められます。神はかれらすべての者に目をとめられます。」(Wリュティ著・宍戸達訳「アダム」p32)

 私たちは、思いがけない苦しみや、不幸に出会いますが、そのような時にも、神は私たちに愛のまなざしを向け、愛の光を向けてくださるのです。「あなたの光によって光を見る」。目の前に光が見えなくても、神が私たちを、愛をもって照らし、その光に照らされて光を見ることができるのです。   
 ある時、電車に乗っていたら、隣に赤ちゃんが母親に抱かれて、すやすやと眠っていました。電車が揺れて、傘が倒れた大きな音がして、赤ちゃんがその大きな音に驚いて、目を開け、不安そうに母親のほうを見たのです。それに対して母親がにっこりとほほえんで赤ちゃんを見たので安心したのか、またすやすや寝てしまった光景を見たのです。
 私たちは多くの困難なことを経験して落ち込んだり、悩み、苦しみます。しかし、その中で、神は御顔を向けて私たちを完全に赦し、受け入れ、私たちの存在を愛してくださるのです。このことを信じることが神の光を受けることなのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神、私たちは混沌の中で生活しています。このようなとき、あなたが私たちを愛している、その愛の光を見て、安らぎと慰めを与えられますように。あなたを信頼し、委ねて、歩むことができますように導いてください。
 私たちの兄弟姉妹の中で、病を得て、入院している兄弟姉妹、退院して自宅療養を続けている姉妹、しばらく教会から離れている兄弟姉妹をあなたが癒し、回復を与えて、共に礼拝をささげることができますように導いて下さい。新型コロナウイルスに感染して治療を受けている方々、その治療に当たっている医師、看護師、職員、救急隊員、関係者、介護に携わっている人々をあなたが見守り、その疲れを癒し、医療の働きを継続することができますように導いてください。この感染症が終息に向かうようにお祈り致します。この週もあなたのみことばに従い、あなたに栄光を表すことができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストによって祈り、願います。
 ア−メン

讃美歌  457    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金
主の祈り
頌栄   27     http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなた方を照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に ありますように。 
 ア−メン

後奏
    
    〇来週の聖日 5月10日(日)

説教 「神は光を見て良しとされた」 山ノ下恭二牧師
聖書  創世記1章4−10節  マタイによる福音書8章23−27節
交読詩編 3編  讃美歌 83−1 17 356 459 29 

以上

(WEB礼拝)
20200426 主日礼拝説教 「神は、私たちに最も良い配慮をしてくださる」 山ノ下恭二牧師
(ヨブ記3章20−26節、ロ−マの信徒への手紙8章31−39節)

4月26日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会教会員の皆様へ

 神様の祝福を祈り、主の御名を讃美致します。

 先聖日に引き続き、牛込払方町教会の礼拝堂に集まって守る礼拝はお休みです。
しかし、日曜日は「主の日」であり、礼拝する日です。各自、在宅されているところで、できれば、10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を読みながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 礼拝招詞、聖書朗読後の祈り、説教、説教後の祈りの言葉を掲載しています。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。 説教を読むだけで、礼拝を守った、ということがないようにしてください。

 5月3日の聖日礼拝をどうするかについては、別途お知らせします。
 コロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 牧師 山ノ下恭二

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。



2020年4月26日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

礼拝招詞 詩編95編1−2節
 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。

讃詠 83−1  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条
交読詩編23編
讃美歌57    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

聖書    聖書を開き、声に出して読みましょう。
       ヨブ記 3章20−26節 (旧約778ページ)
       ロ−マの信徒への手紙 8章31−39節 (新約285ページ)

祈祷    以下、声に出して読んで下さい。
 すべてのものの造り主である父なる神、この一週間もあなたに守られて、過ごすことができ、心から感謝致します。主の日の礼拝の時を与えられたことを感謝致します。あなたの御前に近づくことができない罪ある者ですが、あなたの恵みと慈しみによって、あなたに近づくことが許され、あなたのみことばを聞くことができます幸いを感謝致します。礼拝堂に集まって礼拝することができませんが、それぞれの場所で、私たちが礼拝の姿勢を整えて、みことばを聞くことにふさわしい態度で臨むことができますように導いてください。これから語る説教の言葉を神の言葉として聴き取ることができるように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。ア−メン

讃美歌 494   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

説教 
20200426 主日礼拝説教 「神は、私たちに最も良い配慮をしてくださる」 山ノ下恭二牧師
ヨブ記3章20−26節、ロ−マの信徒への手紙8章31−39節

 みなさんの上に神様の祝福と守りがありますように祈ります。私たちは、毎日、様々な経験をしながら過ごしています。順調で楽しい時もあり、逆に苦境で落ち込む時もあります。私たちは、災害に遭わず、事故で加害者・被害者にならず、病気にもならずに、平穏に過ごすことができるようにと願っています。
 しかし、思いがけず、災害に遭い、事故にあい、病気になることもあります。今回の新型コロナ・ウイルスの感染は、思いがけないことでした。このような疫病が世界的な規模で流行するとは誰も想像はしていなかったと思います。
 自分も感染するのではないか、という恐怖を持ち、被感染者になるばかりでなく、人に感染する者になるという不安を持っているのです。そしてこの感染が終息する見通しがないことが、おおきな不安につながっているのです。

 思いがけない、災難や事故、病気に遭うと、自分は悪い星のもとに生まれてきたのではないか、と思うのです。私たちの心を支配しているものに運命論があります。運が良かった、運が悪かった、とよく言います。航空機事故があった時に、事故にあって墜落してしまった航空機に乗る予定であった人が、急に用事ができて、その航空機に乗り遅れて、次の航空機に乗ったために事故に遭わないで済んで良かった、とても運が良かったと言うのです。

 運命ということはその人の人生があらかじめ決定されていて、自分が自由に決めることができないということです。既に決定されていることですから、あきらめて受け入れるほかないのです。星占い、易、手相、などは、決定論から来ています。しかし、太陽も月も星も神が造られた物体であり、被造物であるので、人間を支配することはできないのです。すべてを動かしているのは、父なる神であることをよく認識する必要があります。決定論、運命論によって支配され、振り回される必要はないのです。
 
 一般に、自分に何か、不幸なことが起こった時に、心に浮かぶのは、過去に自分が悪いことをしたので、罰を受けているのではないか、という思いになることです。原因があって結果がある、この法則に同意している人も多いのです。 因果応報、この考え方は、旧約聖書の知恵文学と言われる、箴言にあります。良いことをすると、それに応じて良い結果になる、悪いことをするとその結果は悪いものになると言う論理です。この因果応報の論理に対して、疑問をもって反論しているのが、ヨブ記、コへレトの言葉です。原因があり、その結果がある、この論理は誰でも納得できる論理です。しかし、現実はそうならないのだ、と言うのです。足が速い者が、必ずしも一番でゴ−ルに到着するわけではないのです。現実には、多くの矛盾や耐え難い不条理があるのです。
 
 旧約聖書に登場するヨブは、苦しみを経験して行く中で、因果応報の論理に立ち向かって反論しているのです。神の前で正しい生活をしているヨブに災難が襲うのです。財産は奪われ、子どもたちは死に、ヨブ自身は皮膚病に罹り、その苦しみを嘆くのです。ヨブは、苦しみの余り、自分が生まれなければ良かった、生まれる前に死産であれば良かった、と深く嘆くのです。ヨブの3人の友人がヨブを慰めようとして訪ねて言う論理は、因果応報の論理なのです。
 
 ヨブが罪を犯したので、その罰として今の苦難があるのだ、と言うのです。ヨブはこの論理に納得せず、ヨブはなぜ自分がこの苦難に遭わなければならないのか、神にその答えを求めるのです。私たちの世界で起こることを因果応報の論理で説明できないことが多くあります。他の人が災いを受けて、自分がその災いになぜ遭わないのか、その理由は分からないのです。なぜ、あの人が交通事故に遭い、自分は交通事故に遭わないのか、その理由は分からないのです。この世界には不可解な謎が多くあるのです。

 この問題に対して、キリスト教会は、どのように説明をしてきたのでしょうか。使徒信条の中に「全能の神を信じる」と告白してきました。
 「全能」というと神がなんでもできる、と考えますが、そうではなく、神が自由をもっておられる、その自由は神の愛による自由なのです。私たちは神によって創造されましたが、この神が私たち造られた者を保ち、同伴し、支配する、と言う告白なのです。昔から、このことを「摂理」という言葉で言い表しました。

 「摂理」と言う言葉は、キリスト教用語です。一般には使いません。「摂理」と言う言葉はとても良い言葉です。昔、日本の政治で「摂政」と言う位がありました。「摂政」とは、国を治める位であり、「理」というのは、「筋道」という意味です。神が私たちを支配しているのは、良い意志をもって筋を通しているのです。神はぶれないのです。その時々に神が私たちに対して気持ちがくるくる変わるということではありません。ある時には親切になり、ある時には冷たくなると言うことはありません。表面的には好意的に振る舞っているように見えても、実は悪意を秘めているというのではありません。
 
 この「摂理」という言葉は普段、使うことのない言葉ですが、キリスト教信仰においては重要な言葉です。神は私たちを創造したので神はご自分の責任を果たし終わった、あとのことは知らないというのではないのです。神は創造した者を、責任をもって保持し、同伴し、支配するのです。それは、神が悪い心ではなく、善い意志をもって、私たちのために保持し、同伴し、支配するのです。
 
 「摂理」という言葉は、ラテン語で「プロビデントゥム」と言います。英語では「プロビデンス」と言います。「プロ」と言う語は「前もって」という意味の言葉です。「ビデンス」という語は「見る」と言う意味の言葉です。「摂理」と言う言葉は、神が前もって私たちの先を見ていてくださる、と言うことです。「前もって見る」というのは、別の言葉で言い換えると「見通しをもっている」と言うことです。私たちは、明日ことがどのようになるのか見通しをもっていないのですが、神は私たちの明日のこと、将来のことに見通しをもっているのです。従って、神が私たちの先のことを見通し、手を打ってくださっているという言葉です。

 新型コロナ・ウイルスの感染がいつまで続くのか、広がって危険な状況になるのか、すぐに終息に向かうのか、私たちは見通すことができず、不安の中にあります。しかし、神は善い意志をもって、私たちのために、配慮して下さるのです。私たちが心配していることは、感染して、重篤になり、死んでしまい、自分のいのちが中断してしまうのではないか、という恐れに捕らわれそうになることです。

 しかし、神は、私たちのために、神と共に歩む人生を保持してくださるのです。イザヤ書46章3節後半−4節に次のように語られています。「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで 背負って行こう わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」神は私たちを造ったけれども、それで終わりとせず、関係をもたないのではなく、私たちを創造された、その重い責任を担っていくのだ、と語るのです。

 私たちはマイナスと思われることを体験します。災害に襲われる、事故に遭う、病気になる、できるだけ避けたいと思うのです。私たちは自分の思い通りになるように願っていますが、そうならないことがあります。思い通りにならないと落ち込むのです。しかし、私たちは神との関係でものごとを捉える信仰をもっていますので、災害や事故、病気というマイナスと思われることに実際に直面しても、神の御心を尋ねながら、その意味を見出そうとします。

 神との関わりで捉える時に、マイナスと思われることが、プラスとして受け止めることができるのです。病を得ることは、マイナスですが、しかし、その病を経験することによって、自分のいのちの限界を知り、自分がなんでもできると思っていたことが間違いであることに気づくことができるのです。自分の弱さを味わい、同じ病気の人の苦しみが分かり、同情することができる成熟した人間になることができるのです。自分の思い通りにならないので、そのことにいらだったり、がっかりしますが、神の摂理を信じることによって、自分の思い通りにならないことを、神のみこころとして受け取ることができるのです。
 
 神は創造したものを、放置したり、見捨てることはしないのです。神は私たちに対して責任をもって、私たちのために、保持し、同伴し、支配するのです。私たちにとって良いことがある時と、私たちにとって不都合な、悪い時があるのです。どのような時にも、神は私たちのことを考えて一番、良い方法で私たちを配慮してくださるのです。

 新興宗教の宣伝チラシを見たことがありますが、それには、その宗教に入った人々が、現世的な御利益を受けた体験談が書いてありました。癌と告知され、治らないと思っていたが、本部に行って教主に手を置いて、祈ってもらったら癒された、また、会社が倒産しそうなので、心配していたら、知り合いから、この宗教に入って信仰すれば、良いことがあると聞いたので、本部に行き、幹部の人に祈ってもらい、何度も本部に続けて行ったら、会社が持ち直して、業績も良くなった、夫婦仲が良くなった、不登校の子どもが学校に行くようになった、そのようなことが所狭しと詳しく書いてありました。この宗教に入ると良いことばかりあると宣伝しているのです。
 
 キリスト教信仰を与えられると、すばらしい良いことがあることは確かですが、良いことばかりある、とは言わないのです。キリスト教信仰を持つと、現世的なご利益がある、自分の願いが叶えられる、とは言っていないのです。病、病気、不景気、貧困、試練という私たちが避けたいと思うことも起こり、経験するのですが、そのことは神によってもたらされるので、そのことによって、目を開かれることもあり、神に心を向けるきっかけにもなるのです。災害や事故、病気は、私たちには偶然のように思えるけれども、神の深い配慮が隠されているのです。偶然のように見えるけれども、神の計らいがあるのです。

 旧約聖書の箴言には、私たちの人生を、神が計らい、導いておられることを諭しているみことばがあります。箴言20章24節「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」

 この「摂理」を信じることによって、私たちは多くの恵みを与えられるのです。逆境の時には、忍耐を学ぶのです。私たちは神を信じていても、理不尽なことを経験することがあります。人間は、神から離れて、罪の誘惑にあるのですから、悪意をもって、人を貶めることが起こります。信頼していた人が心変わりをして裏切り、それによって人間不信に陥るのです。
 自分がなぜこのような目に遭わなければならないのか、その理由が分からなくなるのです。そのような経験を重ねると、神は自分を愛しているのか、と嘆くのです。そのような時に忍耐していくのです。神が、時を支配しているのであるから、神が最も良い時に、自分にとって益としてくださる時を必ず設定してくださるのだから、その時を待って忍耐するのです。
 
 逆に、自分の思い通りに順調に物事が運ぶ時があります。仕事もうまく行き、家庭も円満で、健康で病気にもならず、自分の将来はバラ色だと思う時があります。そのような時には、自分が有能で、性格もよく、健康に気をつかっているので、自分の力で何でもできると過信するのです。神を忘れ、自分の力に頼り、感謝することをしなくなるのです。そのような時にも、神に心を向けて、様々な幸福は、神が与えてくださる恵みであることを感謝することを忘れないのです。
 
 摂理ということを、保持、同伴、支配という三つの概念で説明をするのですが、「保持」と言う言葉は、コンサヴァーティオと言うラテン語です。この言葉は英語ではコンサーバティブ、「保守的な」という言葉の語源ですが、この言葉の元々の意味は、私たちを神の存在の中に保っておく、ということです。私たちの生活は、様々なことから脅かされています。神が「保持する」と言うことは、私たちが脅かされて、深い底に落ち込まないように、神が必死に守ることを意味しています。私たちが神を忘れて、自分のことばかり思って暮らしている時にも、神はいつまでも忘れず、善い意志をもって愛してくださり、私たちが見ることができない、将来を見通して、先手を打ち、配慮してくださっているのです。

 私たちが信じる神は、私たちを創造し、責任をもって配慮しながら、保持し、同伴し、支配する神なのです。私たちが信じる神は、天の上で私たちをただ眺めていて何もしない神なのではないのです。私たちが乗っている舟に乗り込んで、嵐の中で船を安全な港に着くように必死になって操縦している船長として、働いているのです。
 
 私たちの人生には、様々な苦難、不条理、災難があります。そのような私たちをいつも愛してくださる神がいるのです。最初の教会の伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙8章38−38節で語っているのです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 神がどのような時でも、私たちを愛してくださっている、そのような神を信頼しているのですから、心配することはできないのです。

祈祷
 イエス・キリストの父なる神、あなたは、私たちを創造し、愛によって私たちのために配慮してくださる神であることを知らされ、感謝致します。あなたは、私たちの先を見通して、手を打ち、必要なものすべてを準備し、用意してくださっています。そのことに信頼して、今週も歩むことができますように。思いがけなく、新型コロナ・ウイルスに感染して治療を受けている方々が回復し、その治療に献身的に仕えている、医師、看護師、職員、救急隊員、関係者、介護に従事している方々をあなたが見守り、その働きを続けることができますように。この感染により、仕事を失い、収入が途絶えて、困っている人々に必要なすべてのものが与えられますように。一日も早く、新型コロナ・ウイルスの感染が終息しますように。病と戦っている兄弟姉妹をあなたが癒してくださいますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって祈り願います。
 ア−メン

讃美歌 395   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金 
主の祈り 
頌栄  29    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけていきなさい。主があなたがたを祝福し あなたがたを守られますように。主が御顔を向けてあなた方を照らし あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。
ア−メン

後奏
 
 
 〇来週の予告 5月3日(日)
説教 「混沌の中で、神が『光あれ』と」山ノ下恭二牧師
聖書 創世記1章1−5節、コリントの信徒への手紙二 4章6節 
交読詩編 2編 讃美歌83−1、16、56、457、27

以上

(WEB礼拝)
20200419 主日礼拝説教  「恐れるな」  山ノ下恭二牧師 
(イザヤ書30章15−30節、マタイによる福音書10章26−31節)

4月19日 主日礼拝」の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

牛込払方町教会教会員の皆様へ

 神様の祝福を祈り、主の御名を讃美致します。

 先聖日に引き続き、牛込払方町教会の礼拝堂に集まって守る礼拝はお休みです。
しかし、4月19日(日)は礼拝する日です。各自、在宅されているところで、できれば、10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を読みながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。

 礼拝招詞、聖書朗読後の祈り、説教、説教後の祈りの言葉を掲載しています。

 各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌うことが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。 説教を読むだけで、礼拝を守った、ということがないようにしてください。

 4月26日も同じ要領で掲示致します。
 コロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 牧師 山ノ下恭二

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。

2020年4月19日(日) 牛込払方町教会 主日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
 ヒムプレーヤ演奏を聞きたい方は次のURLをクリックし賛美歌番号を選んでください。 
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/


礼拝招詞 詩編124編8節 「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」
讃詠  83−1 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
使徒信条 
交読詩編32編  
讃美歌 482  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/ URLクリック・賛美歌番号

聖書    聖書を開き、声に出して読みましょう。
      イザヤ書30章15−30節(旧約1108頁)
      マタイによる福音書10章26−31節(新約18ページ)

祈祷    以下、声に出して読んで下さい。
 私たちをいつも導き、いのちを守ってくださる神、新型コロナ・ウイルスの感染防止のために、礼拝堂に集まって、兄弟姉妹と共に礼拝をすることができませんが、あなたが召してくださる、キリストにある兄弟姉妹が、それぞれの場所で、時を同じくして、礼拝を守ることができ、感謝を致します。 新型コロナ・ウイルスの感染が一日も早く終息し、いつもの礼拝ができるように願います。この礼拝によって、私たちに聖霊が臨み、あなたの臨在のもと、あなたのみ言葉を聞くことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。
ア−メン

讃美歌 327  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

説教
20200419 主日礼拝説教  「恐れるな」  山ノ下恭二牧師 
(イザヤ書30章15−30節、マタイによる福音書10章26−31節)

 新型コロナウイルスの感染が広まり、自分が感染するのではないか、と恐れている人も多いのです。そしてこの状況がいつまで続くのか、という不安を持っている人も多いのです。この状態が長く続くことに耐えられないで疲れ果てる人も多くなることも予測できます。どこで感染するのか、分からないので、家の外にでることも躊躇することも多くなりました。新型コロナウイルスに感染したら困るので、帰宅したら、手を洗い、消毒することに励んでいる人も多いと思います。
 
 私たちは、恐怖心をもっています。そして恐怖に囚われてしまい、恐怖に支配され、恐怖のために生活に支障を来すのです。恐怖症と言われる視線恐怖、高所恐怖、閉所恐怖、などで苦しんでいる人も多いのです。私たち誰でもが持っている恐怖があります。それは人に対する恐怖、対人恐怖です。人に会うのに全く恐れることはないと言う人はいないのです。初めて会う人が、どのような人であるか、分からないので不安に思うことがあるのです。主イエスは、そのような場面に直面する私たちが勇気をもって生きることができるために語るのです。

 今日の礼拝でマタイによる福音書10章26−31節を読みました。この主イエスのみことばは、主イエスが12人の弟子たちを伝道に遣わす時にお語りになった言葉です。12人の弟子たちを派遣する時に、主イエスが一番、心配なさったことは、12人の弟子たちが、伝道の場面で、恐怖のために言葉も出ず、伝道できなくなることでした。イエス・キリストがもたらした、神の愛の支配を信じて生きようと言う知らせは良い内容です。しかし、この知らせを受け入れ、信じる人々は少ないのです。
 
 神に対して罪を犯した者が、キリストの十字架の贖いによって罪が赦される、そのことをただ信じるだけで救われる、これは最も良い知らせであると信じているのです。しかし、このキリストの知らせは相手にとって必ずしも、都合の良い、快いものではないのです。相手が欲しがっているものを与えるならば、喜ばれるのです。相手に都合の良いものを提供するならば、受け入れられるのです。この神を信じれば、病気も治り、災害にも遭わず、お金持ちになり、家族も円満になる、と言うことであるならば、喜んで私たちのたちの話を聞くのです。

 しかし、私たちの良い知らせは、直接、相手が必要とするものを提供はしないのです。相手に生き方の変更を迫るものです。キリストの福音を受け入れることは、神の前に自分の罪を認めて悔い改めることであり、自分の生き方を変えることを求めることですから、それは受け入れ難いのです。「老後のより良い生き方」「お金を上手に使う方法」そのような自分の人生にプラスになる話ならば、聞き耳を立てるでしょう。しかし、キリストの十字架によって罪が赦される、この良い知らせを受け入れることは、今までの生き方、生きる構えが間違っていることを認めて、自分の生き方、自分のあり方を切り替えなければならないのです。今までの自分の生き方を変えることは、抵抗があります。タバコをいつも飲んできた人が、タバコを止めることは難しい、そのように、長く自分の生き方で生きて来た人が神を中心に生きる生活に入ることは難しいし、そのような面倒なことはしたくないのです。
 
 皆さんが一度、一軒ずつ、家を訪問して、「キリスト教会の者ですが、聖書の話をさせて戴きたいのですが」と言うと、相手はすぐに、「待ってました。お聞きしたい。」と歓迎することはほとんどないのです。興味をもって聞く人もいるかもしれないけれども、「うちは仏教ですから」「宗教は要らない」「結構です。帰ってください。」と言われるに違いないのです。「どうして来たのだ」と怒鳴られることもあります。
 
 主イエスは弟子たちが伝道をしていく中でどのようなことが起こるのか、よく分かっていました。訪ねて行った弟子たちの存在そのものを相手が受け入れず、拒否し、そのために弟子たちが黙ってしまうこともあるのです。伝道していく中で、弟子たちは様々な経験をします。その時に主イエスは弟子たちの心の中に生まれる、恐れを取り除いてやらなければならないと考えたのです。それは、伝道と言うことだけではなくても、私たちが周りにいる者たちに自分を「キリスト者」であると告白するならば、周りの者たちから、異質な存在として扱われ、排除されるのです。主イエスは、そのような状況に置かれている私たちが恐れによって萎縮しないように私たちを励まし、福音を告げ知らせるようにと願って語っておられるのです。主イエスは、恐れから解放されてのびのび伝道できるようにと気を遣ってお語りになっているのです。
 
 26節に「覆われているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と語られています。
 この言葉は何を言おうとしているのでしょうか。聖書の話をしても、そんな話は聞きたくない、語るな、と言われることがあるのです。それは覆われてしまったように見えます。聖書の話を相手は聞いているようで、受け入れていないこともあります。人々が福音を受け入れられず、拒否されて、それで終わりになるように見えるのです。

 しかし、神の言葉そのものに力があり、威力があるので、人々が神の言葉を拒否し、覆い隠そうとしようとしても、神の言葉は超えて拡がっていると語ります。そのような力をもった神の言葉に信頼することを勧めているのです。私たちが神の言葉を語っても、相手にすぐに聞かれ、受け入れられ、信仰を持つことはないのです。しかし、伝道の言葉、説教の言葉は、私たちが語った人間の言葉であるにもかかわらず、私たちの言葉ではないのです。私と言う人間の言葉であるにもかかわらず、それは、もともと神の言葉、霊の言葉なのです。
 
 10章20節に「実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊である。」神が霊において語っています。自分が主体になって語っている言葉ではない。神が語っている言葉なのです。神の言葉は地上のあらゆる人間の策動、妨害を中央突破し、乗り越えて、拡がっていくのです。それほどの力があります。目に見える、この世界の中で、すべての問題が人間の力と知恵によって最終決着になり、人間の言葉がこの世界を支配しているように見えるのです。しかし、神の言葉は人間に支配されないのです。

 伝道していくといつも経験することですが、語っても反応がないのでその時には無駄のように思うのです。しかし、だいぶ時間が経過して思いがけない人が反応してくることがあるのです。周りの人々の無関心、無反応、妨害、圧迫を超えて、神の言葉は拡がります。神の言葉、霊の言葉には力があります。主イエスは、そのことに信頼して委ね、黙らずに、キリストの救いを力強く語り続けることを勧めているのです。キリストの福音を伝えても、相手はそれを無視し、踏みにじるのです。しかし、語り続けるのです。
 
 27節後半に「耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」と勧めています。キリストの福音を伝えても、周りから拒否され、その福音は覆われてしまう、しかし、神の言葉、霊の言葉は人々の妨害を突破し、語らざるを得ない力を持っているのです。
 この27節後半の言葉は主イエスがよく経験されたことを背景に語っています。人々は事件が起こると屋根に登って、周りの人に知らせたのです。例えば、ぶどうを盗むのを見た時に、番人が屋根の上から怒鳴る、そのようなことがこの言葉の背景にあるのです。周りの状況がどのようなものであれ、語らざるを得ない霊を受けて、その霊の力によって、屋根の上でみんなに大胆に恐れずに言い広めることができるのです。
 
 28節に「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
 皆さんはこの言葉をどのように理解しているでしょうか。この言葉を聞いて、心の中で、体が殺されたらすべてが終わりで、死んだら何もかもなくなるのでお終いだと思う人もいるかもしれないのです。また、別の人は、この言葉を、この体は地上では滅び、霊魂は残ると言っている、と解釈をするのです。日本には、死ぬと体は亡骸となり、先祖霊となると言う思想があるので、そのことと同じことだと解釈するのです。しかし、主イエスはそのようには言ってはいません。私たちのすべての領域は神が支配している、そのことを信頼しなさい、と語っているのです。神は死をも支配しているのです。

 太平洋戦争で死んで行った多くの人々がいます。「お国のために死ね」と言われて、死んで行ったのです。国家の顔をした悪魔が、私たちの命を握っている、と思うのです。しかし、国家の支配に勝る、私たちの魂の領域を支配している方、まさに、私たちのすべてを支配している神が共にいる、と語っています。この神が共にいるので、私たちは魂の自由を確保しているのです。私たちは、神以外は誰も、入ることのできない、神以外には誰も踏み込むことのできない魂の領域を持っています。権力によって体が殺されることがあるでしょう。しかし、恐れることはないのです。むしろ、恐れることが既にできなくなっているのです。私たちには、絶大な権力をもった国家であっても、入り込むことが全くできない、踏み込むことができない、魂の領域を持っているのです。神は、私たち人間の魂の深い領域まで関わって、支配してくださるのです。
 
 29節に「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」と語られています。アサリオンとは、この当時の最小貨幣であり、現在の日本では、一円銅貨のようなものです。落ちていても拾おうとは思わない、価値の低いものです。二アサリオンで雀5羽が買えるので、貧しい者には食糧として用いられていたそうです。その一羽の、価値のない、雀さえも「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」と語ります。この言葉は、最も小さな者をも漏らすことのない神の配慮が示されています。29節後半のこの言葉の最近の翻訳には「しかし、その中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」と翻訳されています。「父なしに地上に落ちることはない。」神がいつも共にいてくださるのです。
 
 雀のように価値のない、小さな存在であっても、神は心を配り、その命を慈しんで、いつも共にいてくださるのです。私たちの存在を無にすると思われるような、圧倒される力に脅かされる時があります。しかし、一羽の雀さえも、神は、大切ないのちであると知っており、配慮するのです。
 
 イザヤ書30章15−30節を読みました。預言者イザヤが生きていた時代は、アッシリア、エジプトという強国に囲まれて、いつ攻めて来るか、分からない恐怖に襲われていたのです。王も人々も動揺し、怯えていた中で、イザヤは、まことの神を畏れるならば、他のものを恐れることはないと語ったのです。30章15節「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」主なる神を心から畏れるので、落ち着いて穏やかに生きることができるのです。主なる神を畏れることによって、他のものを恐れることはできないのです。

 祈祷 
 イエス・キリストの父なる神、あなたは、私たちを創造し、私たちのいのちを大切に守ってくださる方であることを知らされ、心から感謝致します
 私たちは様々な恐れを持ちながら、毎日を過ごしています。特に、新型コロナウイルスに感染するのではないか、とびくびくしています。しかし、まことの神であるあなたを主と仰ぎ、あなたの永遠の愛を信じて、あなた以外のものを恐れることがないように、私たちの魂を見守ってくださいますように。あなたが、私たちに最もふさわしい配慮をしてくださることを信頼して過ごすことができますように。
 新型コロナウイルスに感染して治療を受けている方々、感染の治療を行っている、医療従事者、医師、看護師、職員、救急隊員、介護に従事している方々をあなたが見守り、感染することなく、治療に専心することができますように。この感染により、仕事を失い、収入が途絶えて、困っている人々をあなたが心に留めて、生活できるように導いてください。私たちの兄弟姉妹の中で、入院して病と戦っている人々をあなたが癒し、回復して、礼拝に集うことができますように。一日も早く、新型コロナ・ウイルスの感染が終息することができますように。この祈りを私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 457   http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号
献金
主の祈
頌栄  27    http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/  URLクリック・賛美歌番号

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちにこの世界へと出かけていきなさい。主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。ァ−メン

後奏


 〇来週の主日 予告 4月26日(日)

説教 「神は私たちに最も良い配慮をしてくださる」 山ノ下恭二牧師
聖書 ヨブ記3章20−26節、ロ−マの信徒への手紙8章31−39節
交読詩編 23編 讃美歌 83−1、57、494、395、29

以上


(WEB礼拝)
20200412  復活日礼拝説教  「キリストこそ、私たちの神」  山ノ下恭二牧師
(出エジプト記3章1−6節、ヨハネによる福音書20章24−29節)

4月12日(日)  復活日礼拝 式次第・説教
(WEB礼拝のページ)

礼拝前のあいさつ

牛込払方町教会教会員の皆様へ

 神様の祝福を祈り、主の御名を讃美致します。

 4月12日(日)は牛込払方町教会の礼拝堂に集まって守る礼拝は休みますが、礼拝する日です。各自、在宅しているところで、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を読みながら、礼拝する態度で、できれば、10時30分から、いつもの礼拝順序で、各自、礼拝をして戴きたいと思います。

 牛込払方町教会のホームページに、新しく「4月12日イースターの礼拝 式次第」というコ−ナ−を設けました。このページを見ながら、礼拝を守ってください。
 礼拝招詞、聖書朗読後の祈り、説教、説教後の祈りの言葉を掲載しています。

 各自、置かれている場所は異なりますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌うことによって、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。 説教を読むだけで、礼拝を守った、ということがないようにしてください。

 皆さんは牛込払方町教会の会員ですので、日曜日には牛込払方町教会のホームページに掲載されている、礼拝式次第で礼拝を守って戴きたいと願います。

 4月19日、26日も同じ要領で掲示致します。
 季節の変わり目ですので、神様に心身共に守られますように祈ります。

         牛込払方町教会 牧師 山ノ下恭二

付記: このメールへのお問い合わせ、おたよりは教会 メール<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>へお願いします。


礼拝
2020年4月12日(日) 牛込払方町教会 復活日礼拝 式次第
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
ヒムプレーヤ伴奏を聞きたい方は次のサイトをご利用ください。
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/

礼拝招詞 詩編124編8節
  「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」

讃詠   83−1  
使徒信条
交読詩編 51編
讃美歌  7
聖書    聖書を開き、声に出して読みましょう。
   出エジプト記3章1−6節 (旧約96ページ)
   ヨハネによる福音書20章24−29節 (新約210ページ)

祈祷 以下、声に出して読んで下さい。
 
 慈しみ深い、イエス・キリストの父なる神、礼拝堂に集まって、あなたを礼拝することができませんが、それぞれの場所で、あなたに結ばれた兄弟姉妹が時を同じくして、礼拝をすることができることを感謝致します。新型コロナ・ウイルスの感染が早く終息し、いつもの礼拝ができますように。これから神の言葉の説教を聴きます。聖霊が私たちに臨み、説教者がみことばを正しく、大胆に語ることができますように願います。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。ア−メン

讃美歌 326

説教 「キリストこそ、私たちの神」 山ノ下恭二牧師
 
 主イエス・キリストのご復活を祝い、皆さんの上に神の祝福をお祈り致します。皆さんのいのちを守り、新型コロナウイルスの感染防止のために、4月中の礼拝堂での礼拝は休止しています。
 皆さんと共に、復活日の礼拝をささげる予定でしたので、礼拝堂に集まって共に礼拝することができず、残念に思います。洗礼式も予定されていましたので、洗礼を受けようと準備された姉妹には申し訳なく思います。しかし、このような時を過ごすことになっても、神様は私たちにたくさんの恵みを用意してくださり、最も良い配慮をしてくださいます。この時をマイナスと捉えることなく、必要な時として神様に信頼して行きましょう。
 
 礼拝堂では、皆さんの顔を見ながら、対面で説教をするのですが、教会のホームページに掲載された説教となります。礼拝堂で礼拝はしないのですが、それぞれ、礼拝の時間を確保して礼拝をしてください。私たちの礼拝への姿勢が問われます。家族の方々と共にする礼拝でも、一人の礼拝でも、毎週の、いつもの礼拝順序に従って、礼拝を守ることをお勧めします。礼拝招詞を読み、讃詠を歌い、使徒信条を告白し、讃美歌を歌い、聖書を朗読し、聖書朗読後の祈り(掲載)を読み、讃美歌を歌い、説教を声に出して読み、説教後の祈り(掲載)を読み、讃美歌を歌い、(神への献身のしるしとして)礼拝献金をささげ、献金の祈りをし、頌栄を歌い、黙祷をします。説教だけを読んで、礼拝とすることがないように、留意しましょう。
 
 最初の教会の伝道者パウロは、現在のトルコ、ギリシャ、ローマにある教会に多くの手紙を送ったのですが、最初の教会は、パウロの手紙や他の使徒たちの手紙が礼拝で読まれ、説教として聴き、礼拝をささげていたのです。使徒パウロの時代と異なり、現在は、ネットで配信できる、という違いがありますが、この説教も、牛込払方町教会の信徒への手紙です。

 復活日に洗礼を受ける姉妹のために、2月、3月に7回の学びをしました。教会に洗礼入会するための条件は、日本キリスト教団信仰告白に同意して告白するか、どうかです。日本キリスト教団信仰告白には、前文があり、その後に、使徒信条があります。この使徒信条は、ローマの教会で告白されたのが起源で、キリスト教会の歴史の中で継承され、カトリック教会、プロテスタント教会の信仰告白として告白されてきたのです。この使徒信条は、洗礼信条として、洗礼の時に、洗礼志願者にその信仰を問う時に用いられて来ました。この信条は、教会の司教たちの会議によって決められ、公布されたものではありません。ニカイア信条は、異端との厳しい論争により、何回も会議がもたれて論議の後、キリスト教会の信条として公にされた信条で、東方正教会ではニカイア信条を教会の告白として重んじ、採用しています。
 
 このような教会の信仰の言葉がなぜ生まれたのでしょうか。使徒信条は、私たちの教会の信仰を要約し、簡潔に言い表しているのです。それは聖書の言葉に見出すことができます。一つは「イエスは主である」という言葉です。コリントの信徒への手紙一 12章3節に記されています。もう一つは「わたしの主、わたしの神よ」という言葉です。ヨハネによる福音書20章24−29節に登場する、トマスの言葉なのです。甦られた主イエスに向かって、あなたがわたしの主です、あなたはわたしの神です、と告白したのです。ここで大切なことは、「わたしの」と言っていることです。本日の礼拝で、出エジプト記3章6節でモーセが神の民の指導者として選ばれる時に、神が自己紹介をなさっています。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と語っています。神が歴史の中で選んだ者たちの神であることを啓示し、「わたしはあなたの父の神だ」と語っています。私たちが、神をないがしろにしていても、神を忘れている生活をしていても、私たちを引き寄せて、神との交わりを与えてくださっているのです。

 「わたしの主よ、わたしの神よ」とこの信仰を言い表したのはトマスです。トマスは主イエスの弟子ですが、12弟子の中で一番、疑い深い弟子だ、と言われるようになったのです。54年版讃美歌243番の3節にも「ああ主のひとみ、まなざしよ、うたがいまどう トマスにも」とあります。疑い深いというのは、いちばん信仰が弱いということです。頭がよく、賢いかも知れない、理性によって判断でき、理屈をよく知っているかも知れないですが、信仰が弱いことに変わりはないのです。
 
 私たちも疑うことがあるのです。特に復活について私たちは疑いを持つのです。復活は実際なかったのではないか、と疑ってしまいます。キリスト教会が創作したことではないか、と思っている人も多いのです。主イエスの弟子たちが、主イエスが十字架で死んでいなくなったことを受け入れられないで、主イエスはどこかで生きていると思い、主イエスに対する思慕により、復活したと思い込んだのではないか、という説もあるのです。復活がほんとうにあったのか、怪しいものだ、と思うことがあるのです。トマスのような疑いのこころを私たちは抱え込んでいるのです。そのトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と呼ぶことができるようになり、そこに教会の信仰の歴史が始まったのです。

 ヨハネによる福音書20章24節に「12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」と書かれています。もちろん、裏切って自殺したイスカリオテのユダもいませんでした。他の10人の弟子たちは、主イエスが、甦られたその日の夕方に既に主イエスに会っていたのです。ヨハネによる福音書20章19節には「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」弟子たちは自分たちの家に閉じこもっていたのです。トマスも孤立して自分の家にいて、戸を閉ざして出ようともしなかったのです。なぜ、弟子たちは家に閉じこもっていたのでしょうか。主イエスは十字架で死んでしまい、自分たちの指導者を失ったばかりでなく、自分たちも捕まえられてしまうのではないか、と恐れていたのです。トマスも恐れを持っていたのです。他の弟子たちと同じように、自分も逮捕され、死に直面するのではないか、と思っていたのです。トマスは死の恐れをもっていたのです。そういう恐れがあるところには、信仰は生まれないのです。恐れに支配されていると、信仰を持つことは困難になるのです。
 
 他の弟子たちがいた家にトマスが入り、甦られた主イエスを見た、お会いしたという話を聴いて、トマスは反応するのです。「ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」私は、この物語を初めて読んだ時に思ったことは、このトマスという弟子は、現代人と近い発想をする人だ、と思ったのです。2000年前にすでに、現代人が持つ思考をもっている人がいたことに驚いたのです。それはすべて自分を中心に考えるのが現代人だからです。実証されないと受け入れないという思考をもっているのが現代人なのです。この目で見て、自分で確かめ、証明されないと自分は認めないのです。自分を信頼し、自分の理性で納得しないと、承認しないのです。

 復活した、という弟子たちの証言だけで、主イエスが復活したとは考えないのです。復活した主イエスを実際に見て、主イエスの釘跡を見て、「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に手を入れなければ、わたしは決して信じない。」と言うのです。自分の目、自分の指、自分の手で確かめる、実証主義なのです。私たちには、神は目に見えませんし、主イエスも見えません。自分では確かめることができないのです。
 しかし、自分では確かめることができないものを信頼することが信仰なのです。これが安全だ、これがあれば確かだ、というものを、すべて手放すことがなければ信仰は生まれないのです。主イエスの復活を信じるということは、どのようなことなのでしょうか。私たちの目に見えることには、もはや信頼をおかない、ということです。トマスは、主イエスが他の弟子たちのところにおいでになった、復活されたことを聴いても、実際に、主イエスの傷に自分の指を突っ込んでみるまでは承知しない、と正直に話したのです。

 主イエスは、みんなが集まっていることころに入って来たのです。その入り方は、「シャローム」という、今でも、イスラエルで挨拶の言葉として毎日使われている普通の言葉で入って来たのです。「こんにちわ」と言って入って来たのです。家に入って来て話をされたのは、トマスだけでした。トマスのことはよく分かっていましたけれども、「私の復活を信じないのは弟子として恥ずかしいことだ。弟子であることを止めなさい。」と叱ったのではないのです。主イエスは、そこにいるトマスを見つけて、トマスに私の甦りが信じられず、この傷に指を差し込まなければ分からないと言っているそうであるが、それならば、そうしたらどうだと言われたのです。
 主イエスは、疑い深く、信仰の弱い者に向かって言われたのです。以前から主イエスはトマスの性格を知っていましたから、心に留めて、主イエスが復活することに戸惑いを持つだろうと考えていたのです。トマスのために配慮されたのです。
 
 私たちは目に見えないことを頼るよりも、むしろ目に見えることを確かなものとする時代に生きているので、主イエスが復活したことは歴史の中で実際に起こった事件ではなく、架空の話としか考えないのです。主イエスは、復活を受け入れられない者に向けて、復活を信じる者になってほしい、という熱意をもってトマスに話しかけたのです。
 
 私たちは、様々に疑い、自分の常識で判断し、目に見えないことに価値を置かないのですが、そのような信仰が弱い者に対して、信じて欲しい、と願っているのです。恐れのために、自分たちの部屋に閉じこもっているところに、その壁を破って、主イエスはすうっと入って来て、復活を信じる者になって欲しいと話をしているのです。疑うことは信仰がないことだ、もっと努力して、信仰を持て、と叱ったのではないのです。疑いを持ち、主イエスの復活を信じられない思いをしっかりと受けとめて、疑う者を受け入れたのです。このような主イエスの復活を信じられない自分を、主イエスは受け入れていることにトマスは心を動かされたのです。自分の信仰の弱さを、しっかり受け止め、受け入れてくださる主イエスを、今までとは異なったまなざしで見ることができたのです。主イエスの復活を信じられないトマスに、主イエスは自分を触ったらどうだと言ったのですが、トマスは触れようとしなかったのです。トマスは、主イエスの復活を信じることのできない自分の弱さを自覚し、その弱さを受け入れて、自分の罪を贖って下さる主イエスの前にひれ伏して、「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白したのです。

 主イエスは、トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と語っています。信じるということは、見ないで信じることです。実際に見たら、信じる必要はないのです。私たちは、実際に現場にいなくても、現場で目撃した人の話をきいて、その話を信じることをしています。
 例えば、市ヶ谷駅で下車した人が、電車の事故を目撃して、教会にいる人に市ヶ谷駅で電車の事故があったと言ったのを聞いて、自分はその現場にいなくて、事故をみていないけれど、市ヶ谷駅で下車した人の証言を聞いて、信じるのです。信じるということは、目撃した人の証言を聞いて信じることなのです。
 私たちは、自分の目で神を見ていません。イエス・キリストをこの目で見たことはなく、イエス・キリストの言葉も実際に聴いたことはないのです。
 しかし、神の語った言葉を聞いた人たちがいます。それは旧約の預言者たちなのです。私たちは、主イエス・キリストをこの目で見たことはないのですが、地上での主イエスの生涯、特に十字架と復活を見た人たちがいます。それは、主イエスの弟子たち、使徒たちなのです。これらの人たちは聖書で証言しているのです。この証言によって、私たちは、主イエス・キリストの言葉を聞くことができるのです。私たちは直接、主イエス・キリストを見ることはできませんが、使徒たちの証言を聴いて信じることができるのです。

 ヨハネによる福音書は紀元90年代に記された福音書です。この福音書は、マタイ、マルコ、ルカの福音書よりも、かなり遅く書かれています。主イエスの復活を経験した世代から、50年後にキリスト者となった人たちに向けて書かれています。甦られた主イエスにお目にかかった信徒たちはすでになく、かなりの時間が経過しているのです。主イエスが甦られたことを疑う人たちも多くいたのです。主イエスの復活を信じられない人たちも多くなったのです。そのような人たちに対して、福音書記者ヨハネは、甦られた主イエスがトマスに語った言葉を伝えて、復活の信仰を持つように勧めているのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

祈祷 

 イエス・キリストの父なる神、本日、主イエス・キリストが甦られたことを記念する復活日に礼拝をささげることができますことを心から、感謝致します。それぞれ礼拝する場所は異なっていますが、キリストこそ、私たちの救い主であり、神である、という同じ告白で結ばれている兄弟姉妹と共に、あなたを讃美し、聖書を読み、祈り、神の言葉の説教を聴くことができ、心から感謝致します。新型コロナ・ウイルスの感染によって、この世界、この日本は揺れ、恐れをもって怯えています。しかし、このような時にこそ、みことばに堅く立ち、みことばを慕い、心深くあなたの愛のことばを受け入れていくことができますように導いてください。新型コロナ・ウイルスに感染して治療を受けている方々、献身的に治療をされている医療従事者を守り、そのいのちが支えられますように。私たちの兄弟姉妹の中で、病を得て、戦っている方々に恢復の道が開かれ、再び、礼拝に集うことができますように祈ります。
 一日も早く、新型コロナ・ウイルスの感染が終息することができますように。
あなたが、私たちのすべてを支配している神であり、あなたが最も良い配慮をもって私たちを愛していることを信仰によって受け止めることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン

讃美歌 325
献金
主の祈
頌栄  29

祝祷 
 神が共におられます。平和のうちに世界へと出かけていきなさい。
 主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなた方を照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたの平安を賜るように。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に ありますように。 ア−メン 
後奏 

〇来週の主日 予告 4月19日(日)

説教「恐れるな」山ノ下恭二牧師
聖書イザヤ書30章15−30節、マタイによる福音書10章26−31節
交読詩編32編 讃美歌83−1、482、327、457、27

20200405 主日礼拝説教  「キリスト−私たちの王」  山ノ下恭二
(詩編48編9−15節、ヨハネによる福音書12章12−19節)


 本日はキリスト教会の暦では棕櫚の主日であり、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城し、群衆から歓呼の声をあげて、迎えられたことを記念する日です。本日から、4月11日までが受難週であり、主イエス・キリストの御受難を心に刻みながら、過ごす時なのです。ろばの子に乗った主イエスが棕櫚の枝をもった群衆によって迎えられ、エルサレムに入城されたのですが、この記事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書に記されているのです。それだけ印象深い物語として福音書の記者の心に記憶され、書き記されたのです。ただ、同じ物語であると言っても、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の描き方とヨハネ福音書の描き方とは異なっているのです。棕櫚の主日、というように棕櫚の枝をもって主イエスを迎えたと考えることができますが、マタイでは「木の枝」、マルコでは「葉のついた枝」をもって人々は主イエスを迎えたとあります。しかし、ヨハネによる福音書では、「なつめやし」をもって、主イエスを迎えたとあります。「なつめやしの枝を持って迎えに出た」。なつめやしの木はこの地方に多くあった植物であり、枝の長い幅の広い大きな葉であったようです。

 ここに登場する群衆は、エルサレムに上ってくる巡礼者です。当時の人々はエルサレムに、できれば一年に一回は巡礼に行きたいと願っていたのです。遠くに住んでいた人々は、せめて一生に一度は、エルサレム神殿に行きたいと思っていたのです。私たちは巡礼という習慣をもっていませんが、この当時の人々は、神の都エルサレムを訪れ、神殿に詣でて、贖いの羊をささげて、罪を赦して戴き、祈りをすることによって、自分の人生が神に祝福されたものと受け取ることができる、そのような幸いな時を過ごしたいと願っていたのです。
 
 詩編には、巡礼について歌った詩編があります。詩編121編も巡礼の詩編の一つです。私たちの生活は天候に左右され、自然災害の脅威にさらされ、その中を巡礼の旅をしていくようなものです。思いがけない災害や不慮の事故、病に遭遇し、その苦しみが続いていくと神がいないのではないか、と嘆くことがあります。詩編121編7−8節は、旅を続けてエルサレムの神殿に来た者たちを迎えて、祭司たちが歌っている詩です。「主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」
 エルサレム神殿に巡礼に来た者たちを祭司たちは、祝福の言葉をもって迎えているのです。
 
 巡礼に関わる歌として心に留める詩編は、本日の礼拝で読みました48編です。巡礼に行った大人たちから、小さい時から聞かされていたエルサレムに自分たちは実際に行くことができた時のことを語ります。48編9節に「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た 万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。」とあります。エルサレムの神殿に行き、まことに神はいらっしゃることを信じ、そのことを知ったことの喜びを歌っているのです。
 
 そして48編15節には巡礼者が、この地上で生きる命だけではなく、死を越えたいのちがあることを知ったことを書いているのです。詩編48編15節「この神は、死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」巡礼者は、エルサレムの神殿に入る前に、シオンの丘のまわりを一廻りしていくことによって初めて分かることがあるのです。それは、城壁が町を囲んでいるのです。シオンの丘を城壁が取り囲んでいる、自分も死という城壁で囲まれているようなものだ、しかし、自分たちは、死と言う城壁で囲まれているようだけれども、自分たちがお会いする神は死を越えて私たちを導いてくださると確信しているのです。私は詩編48編15節に注目するのです。死を越えて生きるいのちについて語っていることに注目をしたいのです。

 現在、新型コロナ・ウイルスの感染のニュ−スが連日、メディアで取り上げられ、毎日、感染する者が増え、死亡者が出ています。私たちもこの感染病の脅威にさらされて、自分も感染し、重症になって死ぬのではないか、と恐れています。病から死へと向かう、その恐れに取り憑かれています。そのような中で、詩編48編15節に「この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いていかれる、と。」というみことばは、私たちに生きる勇気と力を与えるものなのです。私たちには、巡礼の習慣はありませんが、私たちの人生は神に出会う旅なのです。辛いことがあって、生きる意欲もなくなることもありますし、死にたいと思う時もあります。そして、死は私たちが生きることを阻止し、私たちのいのちの限界を思い知らされる壁になるのです。しかし、私たちが信じる神は、死を越えて、わたしたちを導いてくださる神であることを信じているのです。

 主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城した物語は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書とヨハネによる福音書とはかなり異なった書き方をしています。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は主イエスが乗るろばの子をさがす様子が書かれていて、ろばの子について関心をもっていますが、ヨハネによる福音書は、全く別の文脈で書いているのです。それは、ヨハネによる福音書11章との続きで書いているのです。11章にはラザロの復活の物語が記されています。ラザロという青年が死んで、家族は悲しみに沈んでいたのです。ラザロの地上での生活は終わったのです。そこで主イエスは、家族のマルタによみがえりの信仰を問うのです。ヨハネによる福音書11章23−27節に次のように記されています。「イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じています。』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」そして、主イエスは死があることに憤り、ラザロが葬られている墓に行き、ラザロに大声で呼びかけて、ラザロは復活するのです。

 この出来事を見ていた群衆が、ろばの子に乗ってエルサレムに入城された主イエスを歓呼の声で出迎えたのです。大勢の群衆は、ラザロを復活させた主イエスを出迎えたのです。マタイ、マルコ、ルカによる福音書に書かれているこの物語は、ろばの子を捜し、群衆はこのユダヤの国を豊かにする、この地上の救い主を歓迎して迎えているのですが、ヨハネによる福音書は、人間の死を越えて、私たちのいのちを生かす方として、群衆は主イエスを迎えているのです。
 
 私たち人間にとって、罪と死の問題は最大の主題です。聖書はこのことについて、解答しているのです。それは、主イエス・キリストが私たちの罪を赦し、死を越えて、いのちへと導いてくださるのだ、と語っているのです。ヨハネによる福音書12章17節に「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」と語られています。
 マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、群衆が主イエスを人々の暮らしを豊かにする、この世の政治家として迎えて、それが自分の期待に応えることのないことが分かると、犯罪人として十字架につけろ、と叫ぶ群衆であったと記されています。しかし、ヨハネによる福音書は、群衆は、死からよみがえらせる神として、主イエスを出迎えるのです。主イエスがエルサレムに入城する、同じ物語でも、メッセ−ジは異なるのです。

 私は、15歳の時に重い病に罹り、自分も死ぬことを恐れ、死を身近に経験して、それ以来、死について思いを深めて来たように思います。しかし、聖書によって、自分が死んでも神との関わりは絶えないことを教えられ、生きる力を与えられてきたのです。
                                             
 私は神学生の時に新約聖書を専攻したのですが、山内真という教授の授業で、聖書を読む時に、ただ、一つのテキストだけの中で内容を理解するのではなくて、前後の文脈という大きな枠で、文脈の流れの中で、内容を把握し、理解を深めるようにと言う指導を受けたことがありました。
 本日の聖書は、ヨハネによる福音書12章ですが、12章のまえは11章であり、そこにはラザロの復活の物語があり、この物語とエルサレムに入城する、12章のこの物語と深く結びついているのです。
 11章の終わりの部分では、この当時の権力をもっているユダヤ人たちが、主イエスを殺す相談をしていたことが記されているのです。主イエスを出迎えた人々には二種類のユダヤ人たちがいたのです。ラザロの復活を目撃して、死をもよみがえらせた主イエスを心から歓迎した人々と、主イエスを殺そうと相談していたユダヤ人とがいたことが分かります。主イエスは御自身が殺される危険を身近に感じていたのです。ですから、12章24節で御自身のことを語っているのです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」よく考えると一粒の麦は地に落ちて、地の中に入って発芽し成長する、ということならば、違和感はないのですが、「だが、死ねば」と書かれていることに注目すると、御自分の死を深く思い巡らしている言葉であることが分かります。主イエスは、自分がどのような死に方をするのかを語っているのです。
 ヨハネによる福音書11章から12章を続いて読むと、11章でよみがえりが語られ、12章で主イエスがエルサレムに入城して、群衆からよみがえりの主として出迎えられ、そして、その後、主イエス御自身が死ぬことを自覚し、自分の使命を再確認しているのです。

 私たちは恐れを持っています。そして、今後、自分がこれからどうなるのか、を心配しています。特に今、私たちは新型コロナ・ウイルスに感染するのではないか、と怯えています。それは新型コロナ・ウイルスの感染によって、死ぬのではないか、と思うからです。恐怖に怯えている私たちに、恐れることはない、死をも越えて私たちを守って下さる神がいることを信じる信仰が必要です。

 人生という旅をしていると、思いがけない出来事に遭遇するのです。今回の新型コロナ・ウイルス感染症の広がりもそうです。このことは私たちの予想を超えた出来事です。私は神学校を入学した年に予想もしない出来事に遭遇したのです。大学紛争でした。1969年9月から1970年3月までの紛争の間、これから自分はどうなるのか、と不安や心配が続きました。そして4月に授業が再開しても、大学を去った同級生のことや紛争で経験したことに割り切れない思いをもっていたのです。そのようなときに、ドイツ語の授業で、カール・バルトの説教のレコードを聞きながら、新たに知らされたことがあったのです。バルトの説教はヨハネの手紙一 4章18節の説教でした。「愛には恐れはない。完全な愛は恐れを閉め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされないからです。」カール・バルトの説教は、「恐れは愛の中にない」という言葉で説教を始めています。この説教をドイツ語で読み、日本語で翻訳して学んでいくうちに、恐れや心配を持たなくても良いのだ、と言う気持ちになったのです。神が愛をもって自分を見守り、いつまでも導いていることを信頼すれば良いのだ、と受けとめることができたのです。

 群衆はどのような言葉で主イエスを迎えたのでしょうか。12章13節「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』」
 「イスラエルの王」とあります。群衆は、自分たちの王が入って来る、死に打ち勝つ「いのちの王」が入って来られると言って歓呼の声を挙げたときに、主イエスは、それを受け入れ、喜んで、ろばの子にお乗りになったのです。
 
 12章15節の言葉は、ゼカリヤ書9章9節の言葉の引用ですが、ゼカリヤ書の言葉を変えているのです。「シオンの娘よ、喜べ」となっているところが「恐れるな」と言い換えられています。不安を取り除く言葉になっているのです。明らかに、ここでも死を意識されています。シオンの娘よ、もはや死を恐れることはない、いのちに向かって生きることができる、見よ、あなたがたの王、神の民の王が入ってこられる、と叫ぶのです。

 全世界の人々が感染病に怯え、恐れています。しかし、主イエス・キリストこそが、私たちの心も身体もすべてを支配する王なのです。安心しなさい、わたしがここにいる、と神は私たちと共にいてくださるのです。




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