3月28日(日) 主日礼拝の式次第・説教
(WEB礼拝のページ)
牛込払方町教会員と教会に集う皆様へ
2021年1月18日 牛込払方町教会長老会
2021年1月24日以降の礼拝について
主を賛美いたします。
首都圏のコロナウィルス感染拡大にともない、当教会ではあらためて次のような対応をいたします。皆様のご協力をお願いします。
1.会堂での礼拝は、山ノ下牧師が司式・説教を執り行います。
奏楽には、オルガンの替わりに、ヒムプレーヤーを使います。
2.受付・礼拝当番、奏楽奉仕、会堂清掃などの奉仕は当面不要です。
教会学校、各部会、諸集会、聖書を学び祈る会は休会となります。
以上の対応は1月24日から当面2月28日まで続けます。
再び緊急事態宣言が発令されていますから、発熱等自覚症状のある方はもちろん、高齢、持病・基礎疾患のある方、公共交通機関をご利用の方、ご家族に同様の不安のある方は、どうぞご自宅で家庭礼拝をお続けください。
家庭礼拝のため、礼拝式次第・説教を教会のホームページに掲載します。パソコン、スマートホンなどでご覧ください。
教会の礼拝に出席される方は、ご自宅で体温を測って発熱のないことをお確かめください。
健康に不安のない方も、教会内にウィルスを持ち込まないために、慎重にお願いします。
若い世代であっても、発症しないまま感染源になるケースがあるようですから十分お気を付けください。
皆様の健康が守られ、不安無く共に主に感謝する日が一日も早く来ることを願っております。
お問い合わせは牛込払方町教会山ノ下牧師にお願いします。
電話: 03-3260-4631 電子メール:<kirisuto@theia.ocn.ne.jp>
ご自宅での家庭礼拝について。
10時30分から、牛込払方町教会ホームページの「礼拝式次第」を見ながら、いつもの礼拝順序で、それぞれ、礼拝をして戴きたいと思います。
各自、置かれた場所は違いますが、同じこの礼拝に出席し、同じ聖書テキストを読み、同じ説教を読み、同じ讃美歌を歌い、共に祈ることが、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての連帯の証しとなります。
引き続いてコロナウィルスの脅威から、神様に心身共に守られますように祈ります。
牛込払方町教会 長老会
2021年3月28日(日) 主日礼拝 式次第・説教
会堂での礼拝と時を同じくして、礼拝を守ってください。
「讃美歌21」を使っています。
「賛美歌21」のサイトにはアクセスできないようにしました。
前奏
礼拝招詞 「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」
讃詠 83−1
使徒信条
交読詩編 143編 聖書を開き、声に出して読みましょう。
讃美歌 18−3
聖書箇所 聖書を開き、声に出して読みましょう。
イザヤ書53章1−12節(旧約p1149)
ルカによる福音書12章49−53節(新約p133)
祈祷
イエス・キリストの父なる神。主イエス・キリストの受難を覚える、棕櫚の主日礼拝に私たちを招き、兄弟姉妹と共に、礼拝をささげる時が与えられたことを心から感謝致します。私たちは、あなたの御心を問うことなく、自分のことばかり考えて過ごしてきたことをあなたの前に告白する者です。あなたがそのような私たちを赦し、受け入れてくださることを信じて感謝致します。2020年度の礼拝も本日で終わります。コロナ禍の中で、教会も対応することに困難を覚え、苦しむことが多くありましたが、その中にあっても、あなたが支えて、守ってくださったことを覚えて感謝致します。あなたが私たちの主であり、導き手であることを堅く信じて、これからも歩むことができますように、導いてください。これからあなたのみことばを聴きます。神の言葉として受け入れることができる信仰をお与えください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り、願います。ア−メン
讃美歌 297−2
20210328 主日礼拝説教 「私たちのために苦しむキリストの愛」 山ノ下恭二牧師
声に出して読みましょう。
本日は、教会の暦では、棕櫚の主日です。エルサレムにいる多くの人々が、小さなロバに乗ってエルサレムに入城された主イエスを、棕櫚の枝をもって王として迎えたことを記念する主日です。キリスト教会の暦では、棕櫚の主日からの一週間は、受難週と呼んでいます。主イエスが、苦難を受けて十字架に架かり、十字架で苦しみつつ、死んだことを心に刻む時として過ごすのです。木曜日は、主イエスが弟子たちの足を洗う、洗足木曜日であり、この振る舞いによって、主イエスが私たちの罪を洗い落として清める方であることを思い起こす時です。金曜日は、主イエス・キリストが、十字架に架かって贖いの死を遂げたことを思い起こす、受苦日です。
本日は、2020年度の最後の日曜日になります。2020年度を振り返ると、昨年の4月5日に棕櫚の主日礼拝を守りましたが、コロナの感染の非常事態宣言を受けて、次の日曜日がイ−スタ−礼拝でしたが、休止し、4月の礼拝は休止せざるを得なかったのです。5月から礼拝を休まず続けて参りました。
コロナ感染によって、私たちの教会生活が大きな影響を受けています。マスクをして外出することが習慣になりつつあります。三密を避け、自粛し、巣ごもりに近い生活になりました。教会の様々な行事も中止になり、教会の兄弟姉妹と触れあい、話し合う機会が減りました。その意味で、コロナに支配され、捕らわれてきた一年であったと思います。
ある神学者は、このことを教会のコロナ捕囚と呼んでいます。この捕囚と言うのは、イスラエルの国が戦争に敗れ、イスラエルの大部分の人々がバビロニアに捉えられて連れて行かれ、今のイラクで60年間、暮らさなければならなかったことを指しています。ある程度の自由がありましたが、イラクの一つの場所以外のところに出ることは禁じられ、故郷のイスラエルに帰ることも許されなかったのです。イスラエルの民が、バビロニアで捕らえられ、閉じ込められて生活しなければならなかったことをバビロン捕囚と呼ぶのですが、バビロン捕囚と同じように、コロナによる感染を恐れ、外出することをためらい、会堂で礼拝することが難しかったので、教会のコロナ捕囚と呼んでいるのです。
イスラエルの民は異郷の地、イラクで捕らわれている生活から、早く解放されて、イスラエルに帰還し、神にお会いするために、エルサレム神殿で礼拝をささげたいと強く願っていたのです。そのようなイスラエルの民に、預言者は神の言葉を伝えています。やがて捕囚の時が終わり、イスラエルに帰還し、自由に礼拝をする時が来ることを告げるのです。バビロニアにとらわれていた民に預言を語ったのは、イザヤでした。イザヤ書41章13節(p1126)に次のような預言の言葉があります。「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。」このような預言者の言葉によって、イスラエルの民は、希望を失うことなく、忍耐して、解放される時を待って、遂にイスラエルに帰ることができたのです。
この歴史の中で、この世界はたびたび疫病に襲われて、その試練に遭遇してきたのです。ヨーロッパ中世、そして、近代においてもペストが蔓延し、多くの人々が亡くなりました。1918年から1920年までの約2年間に、スペイン風邪によって、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染し、日本でも45万人が死亡したとされています。パンデミック(感染症の世界的流行)が発生したのです。
聖書にも「疫病」と言う言葉が、出てきます。疫病によっていのちが脅かされ、いのちの危機に直面してきた人々がいたのです。この疫病が終わらず、いつまでこの生活を続けなければならないのか、いらだち、神に訴えたくなります。そのような時に、旧約聖書は、そのことを無視せずに、慰めの言葉を記しているのです。詩編91編9−11節(p930)「あなたは主を避けどころとし いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」
この疫病は、私たちにとって試練であり、苦しみであるのです。疫病によって、感染してその病を得ることは、感染した人々、その家族にとって大きな苦しみです。周りの人々の無理解によって、感染した人やその家族に嫌がらせが行われていることも大きな苦しみなのです。私たちには、様々な苦しみを経験します。病苦があり、家族との関係が悪くて苦しむことがあり、これからの生活を見通すことができないで、苦しむことがあります。
本日、読みました、ルカによる福音書12章49−53節には、主イエスご自身が本来、何のためにこの世界に来られたのか、その目的と使命を語っているところです。主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と語っています。「火を投ずるためである」と言うのは、主イエスが、この世界を審判するために来た、と言う意味で語っているのです。私たちが、主イエスに抱いていたイメ−ジを打ち砕くような言葉をここで語っているのです。私たちは、主イエスが優しい方であるというイメ−ジを抱いていますが、そうではないのです。主イエスは、終わりの時に、審判する神として来た、と語っています。
本日、読みました前に記されている12章35−48節には、主イエスが再臨の時のことをたとえ話で語っています。いつ、主人が帰ってくるのか、わからないけれども、主人が夜中でも、夜明けでも、突然、帰って来た時に、僕は、目を覚まして、すぐに対応できるように待っていなさい、と語っているのです。主人が帰ってくるのを知っていながら、僕が、すぐに帰って来ないだろう、と呑気に構えて酒を飲んだり、乱暴していると、主人がその僕を審判することが語られているのです。
ここでも、主イエスが審判する者であることを語っているのです。主イエスは、自分が「来たのは、地上に火を投ずるためである。」と語っているのです。火というのは、焼き尽くすものです。焼き尽くすことによって、すべてを灰にしてしまうのです。火事によって一軒の家屋がすべて消失しまうことがあります。その意味で、火というのは恐ろしい力を持っています。主イエスは、この地上に神の審判をもたらす存在であると言うのです。
ところが、49節と50節を続けて読みますと、主イエスが何を言おうとしているのか、すぐに分からないのです。「私が来たのは、この地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けなければならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむだろう。」審判する、ということは、主体的に人を裁くことですから、苦しむことはないのです。裁かれて、有罪判決を受けて、刑に服することは、言い難い苦しみになります。犯罪を犯して、有罪判決を受けた者は、刑務所で自由な生活ができないし、懲罰を受けるので苦しむのです。
しかし、ここでは、審判者として、裁く神として来た、と語られた後に、洗礼を受ける、それは主イエスご自身が苦しむことになり、その苦しみはとても辛く、厳しいものであると語っているのです。審判者でありながら、苦しむことことになる、苦しむ者となる、と語っているのは、矛盾していると思うのです。ここで、「洗礼」という言葉が出てきますが、どのような意味で語っているのでしょうか。
バプテスマのヨハネの洗礼のことが、福音書の初めに語られていますが、この洗礼は、神が審判をするのが間近であり、神に裁かれないように、身体を清め、心を入れ替える、悔い改めるという意味で「洗礼」という言葉を使っています。
主イエスはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けていますが、主イエスの洗礼は、私たちが受ける洗礼とは意味が異なっているのです。
私たちが洗礼をどのような意味で理解しているのでしょうか。神から離れ、罪を犯している私たちがイエス・キリストの名によって、罪の赦しが与えられる、と言う意味で洗礼を理解しているのです。
主イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのですが、この洗礼の意味は他の洗礼とは違って、独自の意味を持っているのです。主イエスが洗礼を受けたのは、神の国を知らせることを始めるために、神から適任であると認証を受けていることに意味があるのです。主イエスが洗礼を受けた時に、天から神の声があったと、ルカによる福音書3章21−22節に記されています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」主イエスが、神の国を告げ知らせることは神の御心に適っている、主イエスが適格である、と神が認証したことなのです。それが、主イエスが洗礼を受けたことの意味なのです。
主イエスは審判をするために来た、と語ります。審判というのは、罪があるかないかを裁判し、判決を出すことです。主イエスは、裁判長として来られたのです。50節では、「しかし、わたしは受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむだろう。」ここでの「洗礼」は、十字架の死という意味で「洗礼」という言葉を用いているのです。別の言葉で言い換えると、「十字架のバプテスマ」と言うことができます。
洗礼という言葉は、元々「体を水の中に沈める」という意味です。体を水の中に沈め続けると、死んでしまうのです。50節では、主イエスは、これから、十字架に架かって死ぬまで、自分が苦しみを受けることを語っているのです。
ルカによる福音書12章49−50節では、主イエスが審判者として来られたことを語りながら、しかし、これからその審判を受ける、裁かれた者となると語っているのです。ここでは、裁判長と被告がおり、審判する裁判長と被告である犯罪人がいて、その両方を主イエスが担っているのです。裁くべき神が、裁かれるべき人間となるのです。ここに、主イエスの人格の秘密があるのです。
主イエスは、ガリラヤでの伝道では、主体的に率先して、神から最も遠いとと考えられている、地の民と呼ばれる徴税人、罪ある者と食事を共にし、様々な障がいを持っている人々を癒やし、神の国のたとえ話をされたのです。しかし、エルサレムに入場されてからは、苦しみを受ける立場になり、弟子たちに裏切られ、見捨てられ、逮捕され、獄に捉えられ、裁判を受けるのです。
主イエスは私たちの罪を審判する裁判長であるにも関わらず、なぜ、罪を犯した罪人ととして裁かれなければならないのでしょうか。それは私たちが救われるためなのです。罪に捕らわれている私たちを罪から解放するために、私たちに代わって罪の審判を受けるのです。
私たちはいつも審判者として、人を裁いています。自分は正しい、しかし、あの人は間違っていると思っているのです。自分は悪くないと思っています。それがまさに罪なのです。他人を審いている私たちに対して、主イエスは裁くな、と警告しているのです。マタイによる福音書7章1−2節には「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と語っています。私たちはいとも簡単に、人にレッテルを貼り、この人はこういう人だ、と決めつけるのです。自分は正しい、しかし、他の人は間違っている、それこそ罪なのです。
しかし、主イエスこそ、すべてを裁く審判者なのです。しかし、この審判者は、私たちに代わって裁かれた、審判者なのです。私たちが被告席に座って裁かれるべきなのです。しかし、主イエスが私たちに代わって被告席に着き、罪人ではないのに、罪ある者として死刑の判決を受けるのです。そのことによって、私たちは被告席から離れて、罪人としてではなく、正しい者とされるのです。裁くべき神が、裁かれた罪人となる、それは私たちの救いのためなのです。コリントの信徒への手紙二 5章21節(p331)「罪と何のかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
相手の罪を引き受けて苦しむ、それが主イエスの苦しみなのです。自分のいのちを犠牲にしても、私たちを愛するために、最も厳しい裁きを引き受けたのです。
教会がとても大切に守ってきた聖礼典である聖餐をこの一年間、余り実施できなかったことは、とても残念でした。今まで、一年間に14回−15回行ってきたのですが、今年度は、聖餐式を3回しか、実施できませんでした。12月6日、12月20日、1月3日に行いました。
聖餐に関して語っている聖書の言葉があります。ルカによる福音書22章20節Bです。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による契約の血である」とあります。また、聖餐式の時に読むのですが、コリントの信徒への手紙11章24節です。「『これは、あなたがたのためのわたしの体である。』」とあります。聖餐式の時に朗読される聖句には、「あなたがたのために」「あなたがたのための」という「ために」「ための」という言葉が多く用いられています。主イエスは、私たちのために、ご自分を犠牲として献げたのです。ご自身の肉を裂き、血を流すことによって、主イエスご自身が犠牲をささげて、私たちの罪を贖ってくださったのです。このことによって私たちに救いをもたらしてくださったのです。主イエス・キリストの神は、いつも私たちのための神なのです。
コロナ禍の中、私たちはとても苦しむことが多かったのです。しかし、主イエス・キリストは私たちのために苦しみ、死んでくださり、罪から私たちを解放してくださったのです。
「日々の聖句」という本があります。ロ−ズンゲンと呼ばれていて、多くの人々が読んでいます。この「日々の聖句」は、私たちの教会がレプタ献金を送っているベテスダ奉仕女の家で発行している小さな本です。日にちが書いてあり、その下にその日に読む、旧約聖書、新約聖書のそれぞれ短い聖句が記されています。ドイツ語で書かれたものは、祈りが書いてるのですが、日本語訳には書いてありません。ドイツ語の本には、神父、神学者、牧師の祈りが書いてあります。二人の牧師がそれぞれの翻訳で、祈りの言葉を配信しているので、その祈りを読んでいます。この祈りがとても良いのです。3月25日(木)には、ボンヘッファーという神学者の祈りが記されていました。この神学者は、ナチス・ヒトラーの暗殺計画の容疑で逮捕され、銃殺された牧師です。
「主、イエスよ、あなたは貧しく、みじめであられ、捕らえられ、見捨てられました、わたしのように。あなたは人のきわまった苦しみをご存知です。あなたはわたしのもとに居続けてくださいます。誰ひとりわたしを助けようとしない時にも。あなたはわたしのことを忘れることなく、わたしを探し求めてくださいます。」
私たちは、私たちのために犠牲を献げて苦しむ、愛の神を持っているのです。
祈祷
父なる神。兄弟姉妹と共にあなたのみことばを聴くことができ、感謝致します。主イエス・キリストが、私たちの罪を裁く神であるにもかかわらず、私たちのすべての罪を贖うために、神に裁かれて、十字架の死をもって犠牲となり、私たちの罪が赦されたことを改めて信じることができましたことを心から感謝致します。イエス・キリストの贖いの恵みを信じて、神を愛し、隣人を愛する者となることができますように、導いてください。
コロナに感染し、悩みと不安の中にいる、多くの方々を癒やしてくださり、健康を取り戻すことができますように。医療従事者を心に留めてくださり、医療を続けることができますように。この週もあなたが私たちと共にいてくださり、慰め、励ましてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア−メン
讃美歌 298−1
献金
主の祈り
頌栄 29
祝祷
主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし、あなたがたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたがたに向けて あなたがたに平安を賜るように。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に いつまでもありますように。 ア−メン
来週の聖日(4月4日) イ−スタ−礼拝
説教「イエス・キリストこそ、わたしたちの神」山ノ下恭二牧師
聖書 イザヤ書25章6−9節
ヨハネによる福音書20章24−29節
讃美歌 83−1、57−1、325−1、326−1、78−2、27 交読詩編 146編
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