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主日礼拝説教

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20190331 主日礼拝説教 「天と地を支配するキリストの愛の中に」  山ノ下恭二


(エゼキエル書39章25−29節、ヘブライ人への手紙8章1−6節)

 日本には、長い歴史をもっている神道や仏教だけでなく、神道系の新興宗教、仏教系の新興宗教がたくさんあります。複数の宗教が長い歴史をもっていて、人々は、複数の宗教に深く影響を受けているのです。
 かつて私が和歌山県の田辺教会におりました時に、和歌山県には、歴史のある寺院や神社がたくさんあり、それらの宗教が人々の生活に根を降ろしていることを知りました。真言宗の本山、高野山があり、そして熊野古道の先に、平安時代から多くの上皇や天皇が京都から牛車に乗って何日もかかってお参りした熊野本宮大社があり、熊野古道から高野山に至る道を囲んでいる山々が護摩壇山と言いますが、修験者が修道した道があります。和歌山は長い間、仏教や神道に深く影響を受けてきた土地なのです。そこでのキリスト教の伝道はとても困難なのです。なぜ困難なのか、それは、日本人が神道や仏教で影響を受けている「神」の理解とキリスト教会が伝え、教える「神」の理解が異なっていることに原因があると思います。
 
 私が田辺教会におりました時に、田辺から熊野古道に入る栗栖川という村で日曜日の夜に古民家をお借りして集会をしていましたが、初めて来て聖書の話を聞いた人が、次の週に電話が来て、この集会に出た日の夜に先祖が夢に現れて次のように言ったそうです。自分たちが受け継いでいる先祖の神とキリスト教の神とは違うし、先祖代々が受け継いできた神を捨てるのは良くない、キリスト教の集会に出ると良くないことが起こる、と言う夢を見たので、この女性はこれからこの集会には出ません、と言うことでした。このようなことがあっても、この集会を止めずに継続して行き、この集会から2名の女性が洗礼を受けたのです。
 
 日本では歴史がある複数の宗教に私たちは囲まれながら、イエス・キリストを信じ、伝えることをしているのです。神と言う言葉は神道の言葉ですが、神と言う言葉には日本では、すでに明確な輪郭をもった神についての概念があるので、キリスト教の神とは異なっているのですが、初めて「神」と言う言葉を聞くと神道的な意味で神を考えてしまうのです。自然の中に、先祖の中に、霊が宿っている、そのような理解を持っているのです。
 
 1545年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してカトリック教会の日本伝道が開始されましたが、カトリック教会は「神」と言う言葉を使わず、「天主」と言う言葉を使ったのです。「天主教」と呼んだのです。日本での「神」理解とキリスト教の神理解とは異なっているので「神」と言う言葉を使わなかったのです。
 
 神道とキリスト教の神理解において、大きく異なることは、キリスト教の神は御自身を神であると啓示する神なのです。イエス・キリストにおいて御自身をはっきり現した神なのです。私たちが、神はどのような神なのか、探し求めて、神がどのような神であるか、知った、と言うのではなく、神御自身が私たちに、御自身を現した、と言う神なのです。人格をもった神なのです。人格をもっている、それは言葉をもって語りかける神なのです。キリスト教会は、父、子、聖霊の三位一体の神を信じているのですが、聖霊によって、イエス・キリストを知り、イエス・キリストによって神を知るのです。
 
 ヘブライ人への手紙では、イエス・キリストがどのような方なのか、を詳しく伝えています。イエス・キリストが大祭司であり、大祭司として優れた働きをなさっていることを語っています。

 ヘブライ人への手紙を共に学んで来て、今日から8章に入ります。この8章から始まる部分は、8章、9章、10章と3章にわたって一貫した事柄を語っています。主イエスが大祭司であることがどういうことかを説いているのです。 8章の初めに「今述べていることの要点は」とあります。この手紙を書いた人は、7章で旧約聖書に出て来るメルキゼデクとの結びつきで、大祭司イエスについて語ったのですが、この手紙を読んでいる人、礼拝で説教を聞いている人が難しく感じたかも知れないと思い、今述べている要点を語るのです。この「要点」とは「わたしたちにはこのような大祭司が与えられている」と言うことです。このような優れた大祭司が与えられている、と言う事実のことです。
 
 この大祭司イエスはどこにいるのでしょうか。「天におられる大いなる方の玉座の右の座に着いて」おられるのです。使徒信条で私たちは「全能の父なる神の右に坐したまえり」と告白していますが、この手紙は繰り返し主イエス・キリストが神の右に座していらっしゃる、ことを語るのです。私たちは神の右に座しておられる主イエス・キリストに目を注いで、そのことに心を留めながら、主イエスが何をなさっておられるのか、わきまえていることが大切なのです。

 大祭司イエスが天で何をなさっておられるのでしょうか。8章2節に「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられると言うことです」と語っています。聖書を読んでいる時に、知っている言葉が出て来るとあまり注意をしないで、読み過ごすことがあります。大祭司イエスは「仕えておられる」と書いてあります。「仕える」と言う言葉は聖書に多く出て来るので、その意味を考えないかも知れません。
 
 この「仕える」と言う言葉は今日、「礼拝」と訳されている言葉がここで使われています。ギリシャ語では「レイトルギア」と言う言葉で、この言葉は英語で「リタ−ジ−」と言う言葉になりました。「リタ−ジ−」と言うと、式文を使っている、礼拝の構成がはっきりしている、ことを言いますが、「仕えておられる」と訳されている言葉は、礼拝しておられると言う意味でもあるのです。この「レイトルギア」と言う言葉を調べて見ると、この言葉は、ラオス「民」と言う言葉とエルゴン「仕事」と言う言葉の合成語で「民の仕事」と言う意味の言葉なのです。この言葉が後に、公のために、報酬をもらわないで働く、と言う意味になり、この言葉が役人の仕事を意味するようになったのです。この言葉は元来、公のために働く者と言う意味であり、特別な宗教用語ではなかったのです。この言葉は役所の仕事に並んで祭司の務めについても使われるようになったのです。

 祭司は神に仕え、人に仕える務めであり、その務めは個人的な務めではなく、すべての人々の生活が正しく営まれるように、と励む任務なのです。ユダヤの人々は十分の一の献げ物で、この祭司たちの生活を支えたのです。祭司たちは献身的に公のために、自分を献げるのです。祭司は何よりも礼拝で祈っていたのです。この祈りは他者のために祈るのです。他者のために執り成しの祈りをするのです。私たちにとって大切なことは、天にあってイエス・キリストが一所懸命、私たちのために執り成しの祈りをしてくださる、そのお姿をしっかり心にとめることなのです。それはただ、神と私たちとの間に立って仲介し、執り成しているというだけではなくて、天において私たちのためによいように取り計らっておられるのです。

 私たちは、時々、今、自分にとって良くないことが起こるのは、過去に悪いことをした罰ではないか、と言う因果応報の考えに捕らわれることがあります。動物園の動物が檻に囲まれて、檻から出られないでいるように、自分の力では解決できないので運命のようなものに縛られているように思うことがあります。昨年は自然災害が続いたのですが、災害が続くと、これからも悪いことが続くのではないか、と恐怖に襲われるのです。一日のうちに、転んだり、お金を無くしてしまう、事故に遭う、そのように一日のうちに三度も事件や事故があると、直ぐに今日は悪い日だ、自分は何かの運命に自分が拘束されているように思うのです。何か目に見えない、得体の知れない運命の力に縛られているように思うのです。
 しかし、その時に、主イエス・キリストが私たちのために祈り、執り成し、心を配っていてくださる、そのことを信じて仰ぎ見ることができれば幸いです。
 
 私が子どもであった時には、親が子どもであった自分のことを心配して、配慮していたことは分からなかったのですが、自分が親になってみると子どものことはいつも心配していることに気づいたのです。大祭司であるイエス・キリストは、天においていつも私たちのことを心配し、配慮してくださったいるのです。

 最近、行った国民生活調査によって、多くの人々は、今の生活に満足しているけれども、将来に対して見通しを持つことができず、将来の展望をもっていない、と言うことが分かったのです。
 将来に対して、明るい展望を持てない、それは、多くの人々がそう感じているのです。将来が見通せないならば、今を楽しく過ごせば良いと思うようになるのです。一所懸命に努力しても仕方がない、と言う思いになっているのです。そして自分には何もできないと無力感を持つのです。自分の力では打開できないことが多いのです。困難な状況に追い込まれてしまうことがあるのです。
 そのように追い込まれてしまった者が、神が困難な状況を打開してくださる、と言う信仰が与えられたら、失望せずに乗り越えることができるのです。イエス・キリストである神が私たちのために執り成しの祈りをしてくださり、イエス・キリストの神が、この状況を打開し、困難を突破する力を与えてくださる、そういう信仰が与えられることはとても大切です。

 ヘブライ人への手紙8章1、2節には、私たちには大祭司が与えられていて、天におられる神の右に座し、天の幕屋で、仕えておられる、私たちのために執り成し、私たちのために取り計らっている、と語られているのですが、天にいらっしゃる主イエスを仰ぎ見る、主イエスの働きを信じることは、私たちにとって困難なことがあるのです。
 私たちが主の祈りや自分が祈る時に「天にまします我らの父よ」と祈りますが、天とはどこにあるのか、と言うことです。私が小学生の頃は、空の上が天だ、と思っていましたから、遙か、天の遠いところに主イエス・キリストはおられると思っていましたので、実際に自分には関係がないように思っていたのです。
 
 人間同士であれば、実際に、身近な人に助けてもらうことを経験しているので、よく分かるのですが、イエス・キリストが天におられて、私たちのために執り成し、配慮してくださっている、そのイメ−ジを持つことが難しいのです。

 このことについて、ある注解者は興味深いことを語っています。キリストは天において祭司の務めをしてくださっている、天とはどこか、探す必要はない、大切なことは、地上に主イエスの姿をもう一度、思い浮かべたら良い、と言うのです。主イエスが地上でどのようなことをなさったのか、そのことを思い浮かべれば良いと言うのです。
 
 主イエスは地上でどのような働きをなさったのでしょうか。神の愛を具体的に実践したのです。神の愛の支配を宣べ伝えたのです。神がひとりひとりを愛しておられることを具体的に伝えたのです。重い病気に罹った人たちを癒し、身体の不自由な人たちが元気に生活できるように助けたのです。そのことによって神がその人たちを愛しておられることを知らせたのです。正しく生きることができず、誰も相手にしない、仲間はずれにされている人々と一緒に食事をし、主イエス自ら仲間となって、神がその人々を愛しておられることを知らせたのです。この地上で仕えた主イエスは、神がどのような人でも愛しておられることを知らせるために献身したのです。

 このように地上での主イエス・キリストの愛の働きを思い起こすことによって、天において大祭司イエスがどのようなことをなさっているのか、が見えてきます。
 天のもとから派遣された主イエス・キリストが、私たちが住むこの地上で、私たちのためにしてくださった、そのみわざを見れば、今、天におられてなさっているみわざが見えてくるのです。主イエス・キリストが天におられて、私たちが何をしているのだろうと高見の見物をしているのではないのです。天においてもこの地においても、私たちのために愛の働きをなしてくださっているのです。

 この地上での働きは、祭司が人々の罪が赦されるように、人々の代表としていけにえの動物を献げるのですが、主イエス・キリストは十字架に架かり、御自身の肉を裂き、血を流して、御自身をいけにえとしてささげてくださったのです。そのことによって私たちは深い罪が赦され、神との関係を持つことができ、神の前に立つことができるのです。このことは主イエスが大祭司としての働きをなさったことを示すものです。
 
 ヘブライ人への手紙7章27節には、次のように語っています。「このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」主イエス御自身を私たちのためにお献げになったのです。ご自身を献げて、私たちの罪の執り成しをしてくださったのです。そのことによって私たちは罪人としてではなく、正しい者として、神との正常な交わりを持つことができたのです。このことによって、神は、私たちの神となり、私たちは神に愛されている者となりました。この地上においても、天においても、私たちは、愛されている者なのです。
 
 私たちは、神に認められるような立派な行いをすることができない者です。言葉をもって人を傷つけたり、愛のない振る舞いをしたり、人を裏切ったり、悪口を言ったり、して神に正しいと言われるような者ではないのです。しかし、神の御心に従わない者であっても、神がイエス・キリストの贖いによって罪が赦され、神に受け入れられているのです。

 私たちは、キリストの執り成しによって、神に受け入れられているのです。私たちが神に受け入れられていることを信じることによって、私たちは心に平安を持つことができるのです。このことは現代に生きる人々にとって大切なメッセ−ジになるのです。現代は、成果主義で、成績が良くないと認められないのです。学校も会社も家庭もそうです。成果をあげず、成績が良くないと落ちこぼれになるのです。しかし、落ちこぼれであっても神は善いと認めてくれるのです。
 
 私たちの救いのためにご自身を献げた主イエス・キリストが天においても私たちのことをいつもこころに留めて、私たちのために見守り、祈り、執り成し、配慮してくださっているのです。
 私たちはもはやひとりぼっちではありません。もはや孤独ではないのです。私たちが困難なことに直面しても、主イエス・キリストは祈っていてくださり、共にいて配慮してくださるので、大丈夫なのです。

20190324 主日礼拝説教 「苦しむ時、神は決して見過ごしにされない」 山ノ下恭二


(詩編10編1−18節、ヨハネによる福音書14章18節) 
  
 私は、高校生の時に数学や物理がとても苦手でしたが、3年間、クラス担任は数学と物理の教師でした。高校一年生の時のクラス担任が数学の教師、二年生の時と、三年生の時の担任が物理の教師でした。私は数学や物理の試験ができなくて、テストの度にとても点数が低いので恥ずかしい思いをしていました。数学と物理のテストの時は休みたいと思いました。
 学校を卒業するために多くの試験を受け合格しなければなりません。神学校でも試験の前は学生が真剣な表情になります。学生寮にいると試験の期間になるとみんなが試験勉強をしているので、とても静かになります。学校を卒業しても就職試験、資格試験や運転免許の試験があります。試験やテストは努力して勉強すれば合格するのです。
 
 しかし、自分で努力しても、乗り越えられない試験があるのです。私たちが日常、使っている言葉に、試練と言う言葉があります。「今が試練の時だ」と言うことがあります。試練とは、厳しい試みです。
 礼拝の中で主の祈りを共に祈っています。この主の祈りの中に「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りがあります。口語訳聖書では「私たちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」と訳していますが、今、私たちが用いている新共同訳では「試み」と言う言葉を「誘惑」と訳しています。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」と翻訳しています。昨年、新しく訳された、聖書協会共同訳では「試み」と言う言葉に訳されています。「私たちを試みに遭わせず 悪よりお救いください」と言う言葉になっています。元々、この言葉は「試み」とも「誘惑」とも両方に翻訳できる言葉です。誘惑されることは、誘惑されてしまうか、誘惑を退けるのか、それを試されることになり、試みになるのですが、私は、人生には厳しい試練があることを考えると「試み」と言う言葉に翻訳するのが良いと思います。主の祈りの、この祈りは、私たちが厳しい試練に遭った時に、余りにも厳しい試練で、もう神はいない、と信仰を失うことがないように、厳しい試練に遭わないようにと神に祈る祈りなのです。私たちの生活には厳しい試練があるのです。 
 
 私たちにとって、厳しい試練の一つは、愛する者の死に遭遇することです。事故や病による突然の死は大きな衝撃をうけるのです。3月20日にテレビニュースで、4年前にいじめで自殺した女の子の父親が、学校や教育委員会がいじめによる自殺だということを認定しないので、もう一度、調査するように要望して、調査委員会で調査し、3年後の今年になって、いじめによる自殺であるという調査結果の発表があったと言うことでした。この親は愛する子どもを失ったという哀しみと、それについてきちんと対応しなかった学校や教育委員会に対して失望し、やりきれない思いをもったのです。厳しい試練の一つに失業があります。これからの生活の見通しが立たないので、失業した本人にはとても厳しい試練であると思います。厳しい試練に出会うと、絶望して死を選ぶこともあり、とても大変です。

 最近、新聞の投書でとても考えさせられた投書がありました。愛知県の58歳の女性の投書で「人生とは試練と共存すること」と言う題の投書です。
 「『神様は乗り越えられない試練は与えない』と言う言葉を聞きました。多少の違和感を覚えます。筋萎縮性側索硬化症だった夫を3年半介護しました。その間色々な人に『よく頑張っているね』などと言われました。少なからず傷つきました。必死でしたが、でもそれはやるしかなかったのです。24時間見守りが必要で、私が見放せば、夫は命の危険にさらされます。社会的な援助には限界があります。逃げ出すこともできず、日々をやり過ごすしかありませんでした。夫が亡くなり、介護という試練は終わりました。でも乗り越えたとは思えません。今はパートで仕事をし、映画をみたり友達とランチにも行ったりします。おいしい物を食べると、夫と一緒に食べたかったと思い、日々成長する孫を見せたかったと思います。思いは常に夫へ向きます。これも私にとり試練です。結局生きるとは何かしらの試練と共存することなのだと思います。試練とは生きることそのものであり、乗り越えるものとは少し違うと思います。」
 
 この女性は夫が筋萎縮性側索硬化症と言う難病に罹り、3年半、その介護をしてきたのです。この同じ難病の人が、東大宮教会の会員にいましたので、24時間、つきっきりで介護をしなければならないので、介護する人を探すのが大変だと言う話を聞いたことがあります。24時間、介護することは並大抵なことではなく、大変な苦労が要ります。「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉は、コリントの信徒への手紙一 10章13節の言葉です。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(p312)この人は、自分の経験から、この聖書の言葉を解釈しているのですが、この人の投書の最後に「結局生きるとは何かしらの試練と共存することなのだと思います。試練とは生きることそのものであり」と書いてあることは共感できると思います。この人は人生には試練がいつもあり、共存しているのだ、と言いたいのです。私たちは神と共に生きているので、私たちが試練を経験している、まさにその時に神が深く関わって、同情し、試練から逃れる道を開いてくださっているのです。
 私たちは試練に遭わないで、特別な人が試練にあっている、と言うのではなく、誰でもが試練に遭い、戸惑ったり、迷ったり、苦しんでいるのです。「試練とは生きることそのもの」ですが、耐えられないような試練は与えず、その試練から逃れる道をも神が備えてくださっているのです。

 本日の礼拝で詩編10編を読みました。この詩編はこの詩人が多くの人々が苦しんでいる、その苦しみを取り上げて、嘆き、訴えているのです。この詩の作者は信仰をもって訴え、神のあり方を問題にしているのです。その意味では、より深刻なのです。今までの神への信頼が崩れるような経験をしているのです。厳しい試みに遭っているのです。そこで、どのような神なのか、分からないで、やみくもにただお願いしているのではありません。祈っても、何の音沙汰も、目に見える効果もないので、あきらめてしまう、ということもないのです。
 この詩編は、私たちが神を相手にすることができるので、訴えることも、たてつくこともできることを示しています。先週の礼拝説教で鈴木ペーソンヒ牧師が「神様、あなたは嫌いです」と祈ることができるように、この詩人は神にたてついているのです。            
 
 この詩編10編では、この詩人が訴えている背後に、この時代の社会が抱えていた深刻な問題があったのです。一部の裕福な人々と貧しい人々がおり、そこでは経済的な格差があったのです。一部の裕福な人々は、贅沢な暮らしをしていただけではなく、経済力を背景にして社会で弱い立場にいる人々に権力を振るい、貧しい人々をないがしろにしていたのです。
このような時に神は何をしているのか、と嘆き、訴えるのです。社会の中で権力を持ち、経済的にも豊かな人たちは、神がいないかのように悪いことをしている、不正をしているのです。しかも、裕福で力のある人は不正をしていても、神がその不正を糺し、裁判官のように裁くことをしないのだから、どんな悪いことをしていても、大丈夫だとうそぶいているのです。10編4節に「神に逆らう者は高慢で神を求めず何事も神を無視してたくらむ。」とあります。どんな悪いことをしても神はこのことに関わらず、乗り出して来ないのです。神が全く介入しないのだから、彼らはしたい放題できると思っているのです。

 5節から7節には「あなたの裁きは彼にとってはあまりに高い。彼の道はどのようなときにも力をもち、自分に反対する者に自分を誇示し『わたしは揺らぐことなく代々に幸せで災いに遭うことはない』と心に思う。口に呪い、詐欺、搾取を満たし舌に災いと悪を隠す」と書かれています。悪いことをすれば、逮捕され、訴えられて裁判で有罪とされ、罰を受けるはずです。神が正義の神であるならば、見過ごすことなく、悪い者は裁判によって、裁かれるはずです。しかし、神は遠くにいて、このことを知っていても自ら乗り出そうとしないのです。この詩編の作者は神のあり方に苛立っている、怒っているのです。10編1節「主よ、なぜ遠く離れて立ち 苦難の時に隠れておられるのか」。そして8節から10節には、人々に隠れて、人々には分からないように、この人々が悪事をしている、しかも、それは貧しい人、弱い立場にある人のいのちを狙い、殺人まで犯している、そのようなことが起こっているのに、何もしないのですか、と言うのです。  

 私たちは社会で起こっていることに不条理があり、理不尽なことがあることに戸惑いを覚えるのです。誠実に生きている者に苦しみが襲いかかり、陰で悪いことをしている者が豊かな生活をして、権力を握り、力を奮い、弱い立場の人々を苦しめているのです。苦しんでいる時に、誰も助けないならば、自分で解決するしかないのです。しかし、神がおられるならば、こういうことを見過ごしにできないはずだ、黙っていないで、あなたは神なのだから、神らしく関わり、この事態を変えてください、と訴えているのです。
12節に「立ち上がってください。主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」と訴えています。この詩編の作者は、神に立ち上がって、苦しんでいる者に手を差し伸べてください、と要求しているのです。ある雑誌を読んでいたら、自分の夫が子どものことで事件があった時に、何もしないので母親が「父親らしいことをしてください」と夫に願ったことが書かれていました。

私たちは、この社会に不条理があり、不公平があり、格差があることに憤りを持つのです。誠実に生きている者が苦しみ、要領が良くて、陰で悪事をしている者が幸せに暮らしていることに矛盾を感じるのです。神がほんとうに私たちの世界を支配しているであれば、この地上で最も光のささないところに生きている人たちが光を見出し、生きる望みを持つことができるはずです。神がこの世界を支配しているならば、貧しい人々がその日の暮らしに困らないだけの必要なものが備えられるはずです。神がこの世界を支配しているならば、貧しいけれども誠実に生きている者が犯罪に巻き込まれることなく、穏やかに暮らせるはずです。神がこの世界を支配しているならば「みなしご」「孤児」が独りぼっちで放置されることなく、暖かい援助を受けるはずです。     
 
 詩編の言葉は祈りの言葉です。この作者は長い間、神に自分の気持ちをさらけだし、その嘆きを訴えてきました。この作者はこの世界の矛盾、不条理、不公平を感じ、この問題が自分の中で解決されないでいたのです。
 旧約聖書のヨブ記はとても長い書物です。ヨブが苦難を受けて、神に自分の苦しみを訴える部分が長く、続きます。しかし、神はヨブの問いにはすぐには答えていません。このように神に訴える部分が長いのは、問題を抱えながら、その問題を解決できなかったということではないかと思います。

 この詩人は、問題を自分で抱え込んで苦み、長い苦闘の後にやっと、苦しみの謎が解けたのです。この詩人は神に長く、嘆き、訴えた後に、ある時に自分が信じている神がどのような神であったことに、はっと気が付いたのです。
 神が過去にどのようなことをしてくださったのかを思い出したのです。この詩人は、苦難に遭遇して、動揺し、神が何もしないで沈黙していると思って苛立っていました。しかし、自分が神を見失っていたことに気が付いたのです。 自分が信じている神は恵み深い神であることに気が付いたのです。この詩人は改めて、神を自分の神として再発見することができたのです。       
 10編14節には「あなたは必ず御覧になって御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります」とあります。新改訳聖書の翻訳は、神がどのような神か、過去形で訳しています。神はこういう神でした。自分が信じてきたのはこのような神であったことに気づいたのです。「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。不幸な人はあなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。」「見ておられました」「みつめておられました」「助ける方でした」。と過去形です。神のなさってきたことを再認識することができたのです。そうだ、神は沈黙して、見過ごしにすることなかった、見ておられた、みつめておられた、助ける方だった、と恵み深い神を再び、思い起こし、見出すことができたのです。      
 10編14節の言葉に鍵となる言葉があります。それは神が「御覧になる」と言う言葉です。「御覧になる」という言葉の元々の言葉は「みつめる」「注意を払ってみる」「目を注ぐ」という言葉です。苦しんでいる者を見過ごしにされず、注意を払ってじぃっとみつめるのです。苦しんでいる対象を真正面からじぃっと見つめて、相手とする。自分のことのように取り扱うのです。  
 
 そしてあと一つ鍵となる言葉があります。「御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。」とありますが、「顧みる」という言葉です。この言葉は「相手に特別な関心をもって訪れる」という言葉です。「相手のところを訪ねてその存在を確かめ、点呼する」という言葉です。相手に特別な関心をもって、相手を訪ね、その存在を確かめるのです。この詩人が自分の神として信じている神はそのように苦しむ者を放置し、見過ごしにされない神であり、この社会で弱い立場にいる「みなしご」孤児を助ける方なのです。そのような信仰を取り戻して、神を訴えて苦しんでいた時とは違うまなざしで神を仰ぎ、新たに信じ、信頼することができたのです。
 現在、私たちは主の十字架の受難を心に刻む、受難節を過ごしています。この主イエスの苦難を預言したのは旧約聖書のイザヤ書53章の「苦難の僕」の歌です。53章4節には「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」私たちの罪、病を負ってくださった、と歌うのです。私たちにとって罪、病は大きな苦しみをもたらすものです。なぜ自分が罪に咎に病気に苦しまなければならないのか、そのように思うことが多いのです。

 ヘブライ人への手紙4章15節には主イエスが試練に遭ったことを語ります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(p405)口語訳では「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」と訳されています。
 主イエスは私たちの弱さに深く同情する方であり、私たちと同じように厳しい試みを受け、苦難を受けた方であることをこの聖句から知らされるのです。自分だけが苦しんでいるのではないのです。私たちの主イエス・キリスト、つまり、神御自身は、私たちの苦しみを決して見過ごしにされないのです。

 むしろ、神御自身が苦しみを持ち、傷つき、苦難を背負ってくださっているのです。私たちに近づき、苦しみを担う神が私たちに寄り添い、共に歩んでくださっているのです。


20190317 主日礼拝説教  「私たちは、無罪放免、償う必要はない」  山ノ下恭二


(エレミヤ書32章15−20節、ヘブライ人の手紙7章26−28節)

 聖学院大学で国文学を教えていた標宮子と言う教師が、2009年9月に膵臓がんのために逝去されて、夫の宣男さんが、「憐れみの器」という遺稿集を出版されました。この遺稿集を読んでいましたら、亡くなる前年の2008年の7月に大学の礼拝で標さんが話した文章が掲載されていました。この時の礼拝での奨励は標宮子さんにとっては最後の奨励となりましたが、この時は2月に検査の結果、膵臓がんの末期であることが分かって、自分の死をも考えて苦しんでいた時でした。「今日は、わたくしが直面した出来事を通してそのことをお話しすることができたらと願い、この席に立っています。今年の二月のことです。それまで腹部や背中に時々痛みを感じていましたので、胃薬を頂戴するくらいの軽い気持ちで医師の診察を受けました。ところが厄介な病が進行していると言うのです。わたくしの両親が長寿であり、日本人の平均寿命が82、14歳といわれている今日、わたくしは勝手に自分も長生きするものと決め込んでおりましたので、それはまったく思いがけない通告でした。死が、これから先の二十数年のどこかで起こる出来事ではなく、今まさに向かい合うべきものとして目の前に置かれたのです。」2009年9月に62歳で逝去されたのですが、膵臓がんの末期であることが判明してから、2年7ヶ月の間、闘病生活を支えたのは、神への信仰と祈りであったのです。
 
 膵臓がんであることを知った時が、受難節に入る時であったので、自身の病との戦いと主イエスが十字架の受難に向かう苦しみとを重ね合わせ、特にゲツセマネの祈りに共感しているのです。2008年7月3日の奨励では、主イエスが祈った、ゲツセマネでの祈りを紹介して、標さん自身の病との戦いと、主イエスが孤独と痛みを味わっていることを重ねながら語っているのです。
 「主はわたしたちが味わう苦しみの全てを知り尽くしておられるお方であることがここに示されています。十字架の苦しみ・痛みを味わう前に、主はすでにこのゲツセマネの夜の出来事において、わたしたちが味わうであろう哀しみや苦しみにいやまして、深い孤独と痛みを味わいつくしておられたことがわかります。わたくしはこのとき、自分の哀しみも苦悩もすでに主がご存知であることを改めて教えられ、それゆえに『キリストのうちにこの自分自身を見出す』ことのできる喜びを強く心に覚えることができたのです。」
 自分の哀しみと苦しみを、主イエスがすでにご存知であることを知らされて、痛みを感じながら、喜びを覚えた、と書かれているのです。主イエス・キリストが私たちを深く思いやる方であることに深い慰めを与えられたのです。
 この「憐れみの器」には、この後、逝去されるまで、がんとの戦いの中で、孤独を感じ、苦しんで行ったことが記されていますが、その中で、ただ神に信頼して祈る、その姿を残して行ったことが記されています。

 私たちの人生には、思いがけないことが起こります。病や、死、学校や職場でのいじめ、災害や事故、愛する者との別れを経験するのです。しかし、その中で、神に頼り、神に捕らえられ、しっかりつながっていることによって、力強く歩むことができるのです。神が私たちをいつも受け入れているので、神に捕らえられ、つながることができるのです。神はいつも扉を開けて、私たちを迎え入れてくださるのです。私たちの祈りをいつも聞いていてくださるのです。 順調な時だけでなく、自分にとって苦しい、逆境の時にも祈ることができるのです。神社やお寺では、その場所に行って拝んだり、手を合わせるのですが、私たちは時間や場所に関係なく、いつでもどこでも神に祈ることができるのです。いつでも、どこでも神と対話することができ、祈ることができるのです。

 私たちは、みんなと仲良くしたい、平和でありたい、と願っているけれども、対立し、争って、和やかに、和気藹々と過ごすことができないことが多いのです。相手と関わる時に、私たちの中に罪があって、相手との関係を壊してしまうのです。相手の利益になるように関わるのではなく、自分の利益を考えて、関わろうとするから、その関係が壊れてしまうのではないでしょうか。
 自分の意見に賛成してくれると、味方と思って大切にするけれども、相手が自分の思い通りにならないと、相手から心が離れるのです。私たちは自分中心に生きていますから、相手を自分の思い通りになるようにしたいと思っているのです。そのことが相手と仲良くできない原因なのです。

 今日の教会学校の教師研修会で私は「十戒」について話すことになっています。十戒、それは、十の戒めから構成されていて、私たちの生活の基準となる戒めが書かれています。この十戒を要約すると、神をまことの神とし、隣人を愛する、と言うことです。神に関する4つの戒めと隣人に関する6つの戒めから成り立っています。第二の戒めは、「神の名をみだりに唱えてはならない」と言う戒めです。これは自分が困った時に神を呼び出して、お願いしてはならないと言う戒めです。これは、私たち人間同士の間でも、困った時にだけ、電話をして相手にいろいろ頼むのですが、その時以外は電話しない、そのような関係は正しい関係ではないように、「困った時の神頼み」ではいけないことを戒めているのです。神を自分のために利用することを戒めています。相手を自分のために利用するのは、正常な関係ではないのです。 
 
 現在、金曜日の祈祷会は、アモス書を学んでいます。聖書を学び、祈ることに熱心な教会になって欲しいと願っています。ある姉妹が祈祷会に来る人が増えるようにと言う祈りをされました。3月15日の聖書の箇所はアモス書7章の初めの箇所を学びました。アモスと言う預言者は、神の審判を告げる預言者でした。アモスが生きた時代は、ものが豊かな、繁栄した時代でした。しかし、人々の生活には、神が喜ぶような生活ではありませんでした。金持ちは貧しい人にお金を貸し、借金が返せないと、娘を借金の返済として売り飛ばし、そのお金で贅沢な暮らしをして別荘で朝からお酒を飲んで、騒いでいたのです。預言者アモスは「善を求めよ、悪を求めるな」と人々に語り、「わたしを求めよ、そして生きよ」と人々に語るのです。7章ではついに神の審判の時がきた、という神のみこころがアモスにはっきりと伝えられるのです。イスラエルの国を滅ぼす時が来た、と語るのです。神は忍耐して、イスラエルの民が悔い改めて神のところに帰り神を礼拝し、隣人を愛する生活を始めることを期待していたのですが、全くその気配がないので、激しく怒るのです。子どもに何度も注意しても態度を改めようとしないので、もうあなたには口をきかないということがあります。アモス書8章11節で神が裁くとどうなるのか、それは神が語らない、怒っているから口をきかないと言うのです。「わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」神はイスラエルの民と関係を断絶する、と語るのです。このことは、今の時代にも共通しているのです。今が楽しければ良い、お金があれば楽しく暮らせる、自分が幸せであれば良い、そのような生活を追い求めているのです。神を神とし、隣人を愛する、その生活が最も大切な生き方であると思わないのです。

 現代に生きている私たちも神を畏れないで自分中心に生きているのです。その私たちを神が審判するのです。私たちが裁かれないように、神は私たちのための神となってくださるのです。神が自分の外に出て、肉体を取ってイエス・キリストと言う人間となり、私たちのために罪の罰を受けてくださるのです。神はただ私たちが救われるために、私たちのための神となってくださったのです。主イエス・キリストが十字架に架けられて死んだことは、私たちの罪を償ったことなのです。

 ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストが永遠の大祭司として働いていることを語っています。大祭司とは、神の前で、人間の罪を赦してもらうために、執り成す働きをするのです。旧約聖書に登場する大祭司は、神の前に出て、人々の罪を神に赦されるように祈るだけではなく、償いとして小羊を犠牲としてささげる儀式をしていました。小羊の肉を裂き、血を流して神にささげ、丸焼きにして、そのことによって神が罪を赦すのだ、と考えられていました。罪を犯した人間本人が罰を受けることが本来なのですが、小羊を人間の身代わりとしてささげることによって民は罪が赦される、と考えたのです。
 旧約聖書に登場する大祭司は、罪の赦しのために犠牲の小羊をささげますが、大祭司自身が犠牲となって、自分をささげたのではないのです。しかし、主イエス・キリストは大祭司であると共に、自ら犠牲をささげたのです。私たちに償いを要求しないのです。常識的に、罪を犯した者が賠償するのが本当です。相手に損害を与えた時には、それに相当する賠償をしなければならないはずなのです。しかし、神は私たちに罪の責任を負わせることなく、神は私たちと和解するために、自ら、罪の罰を受けて、賠償するのです。
 コリントの信徒への手紙二 5章21節に次のように語られています。「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」赦しと言うのは、罪を犯した者を不問にして、そのままにして受け入れるということではありません。赦すことができない者をあえて赦すのですから、そこには痛みが伴うのです。主イエスが御自身を犠牲としてささげたことは、神の尊厳を守ることであり、人間が刑罰を受けて死ぬことを防ぐことです。このことによって神と私たちとが和解をすることができ、正常な関係を取り戻すことができたのです。

 人間の大祭司は、毎回、大祭司の罪と人々の罪とが赦されるように、動物のいけにえをささげたのですが、主イエス・キリストは一度限りの贖いによって、私たちは無罪放免になるのです。私たちは、罪を犯すたびに神に償う必要はないのです。主イエス・キリストが完全にすべての罪を償ったからです。
 本日の礼拝で読んだヘブライ人への手紙7章27節には「この方は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」と語られています。この手紙は「ただ一度」という言葉を多く使っています。9章26節「世の終わりにただ一度、御自身いけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」9章28節「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げた後」このように何度も、「ただ一度」と繰り返して語るのです。それはイエス・キリストの犠牲によって、すべての罪の償いがなされたことを語っているのです。このイエス・キリストの犠牲によって、私たちは、罪の償いをする必要はないことを語るのです。私たちは、この償いの恵みを信じて感謝することだけなのです。何回も繰り返して、その度ごとに償いをする必要はないのです。

 ローマ・カトリック教会のミサの中心は聖体を戴くことですが、私たちの教会の聖餐の理解とは異なっています。聖餐を記念・感謝として理解するよりも、キリストを犠牲としてささげることに中心をおくのです。ミサをする毎に、キリストが十字架に架かり、肉を裂き、血を流したことを再現されると考えているのです。司祭が鈴を鳴らすとパンが実際にキリストの肉そのものとなり、杯が実際にキリストの血そのものとなると考えています。何度も演劇を上演するように、ミサをする毎に、繰り返してキリストを神に献げて、キリストの肉とキリストの血を戴くのがミサなのです。宗教改革者は、キリストがただ一度だけささげた、と言うヘブライ人への手紙の言葉を根拠にして、聖餐がキリストの贖いの再現ではなく、神の恵みとして理解して、カトリック教会のミサを批判したのです。キリストが私たちに代わって、罪の審判を受けた、それは完全な償いなのです。繰り返し、キリストを犠牲としてささげる必要はないのです。キリストの一度だけの償いによって私たちは罪人ではなく、神の前において正しい者とされているのです。私たちの教会の聖餐は、キリストの十字架の犠牲によって、恵みを与えられたことを感謝するものなのです。礼拝において、説教の言葉を耳で聞くだけでなく、聖餐において、パンと杯をこの目で見て、飲食することによって口と舌で味わい、私たちの持っている感覚器官によって、神の恵みを経験することができるのです。
 
 3月6日から主の十字架の受難を心に刻む、受難節に入り、そのことを心に覚えながら過ごしています。この受難の時にも、弟子たちのために祈っていますし、十字架に架かっている時にも、一人の犯罪人のために言葉をかけて勇気を与えているのです。天におられる主イエス・キリストはどのような時にも、私たちの救いのために祈っているのです。主イエスは自分のために祈るよりも、他者の存在を愛し、そのために祈っているのです。主イエスは、十字架に架かり、復活して、天に昇り、神の右に座して大祭司として私たちのために執り成しをしているのです。天においても大祭司である主イエスは、神と私たちのあいだの仲立ちとなってくださり、私たちがこの地上で生きている時にも、死後までも、どの段階でも、神との交わりは開かれ、いつでも神に近づくことができ、いつでもどこでも神に祈ることができるのです。この大祭司の働きによって、神との交わりがいつも私たちに開かれているのです。

 2011年3月11日に東日本大震災が起こりましたが、大震災で大きな被害を受けた町の一つに宮城県の石巻という町があります。3月11日の地震が発生した14時46分に私は東京神学大学の卒業式に出席し、大学の礼拝堂で学長の告示を聞いていた時でした。2011年4月から一人の卒業生が、石巻山城町教会に赴任することになっていました。この卒業生はこの大震災のために石巻に辿り着くためにとても苦労したと聞いています。
 私は2013年9月に石巻山城町教会に行き、そこでこの大震災のことを詳しく聞きました。その時に石巻山城町教会が作った「東日本大震災記録」と言う本を戴いてきました。今回、改めて読みました。この記録には、この当時の牧師と教会員がこの大震災で経験したことが記されています。丁度、この時期に石巻山城町教会は牧師交代をすることになっており、鈴木淳一・ペーソンヒ牧師夫妻は、大阪の森小路教会に赴任することになっていました。その3月11日、大震災が起こった時には東北教区の仕事で山形に行っていて、石巻に辿りつくことがとても大変だったようです。4月17日に大阪に赴任したのですが、鈴木ぺーソンヒ牧師は韓国人で女性牧師ですが、この震災で見たことが余りにも悲惨であり、石巻を後にして、4月に大阪に転任して良かったのか、と苦しんだようです。森小路教会に赴任して、鈴木ぺーソンヒ牧師は神に祈れなくなったのです。大震災の惨状を見て、なぜ神が創造した人たちを多く死なせるのか、と言う気持ちになって、神に抗議するだけではなくて、神のみ旨はどこにあるのか、と考えて自分がとても辛くなったのです。7月のある夜、「神様、私はあなたが嫌いです。なぜこのような事があるんでしょうか。私はもう生きるのに疲れました。あなたは、愛の神様、憐れみの神様とおっしゃったが私はあなたの存在が恐ろしいし、あなたが嫌いです」と言いながら泣いてしまったと書かれています。しかし、「心の中ですが、イエス様が私の前で、泣いていて、イエス様は津波に流され、服はズタズタに破れ、顔は膨らんで水に濡れ傷にまみれて、じっと私を見ておられるように見えたのです。ときには私の隣に黙って座っておられたように見えたのです。」「あ、イエス様が共におられたのだ」と信じることができ、「一時は牧師を辞めようと思ったけれども、自分はこれで牧師としていきていけるかもしれないと思うようになった」と書いています。
 今もキリストは永遠に生きていて、私たちのそばに共に生き、私たちのために執り成しの祈りをされているのです。

20190310 主日礼拝説教  「キリストが私たちのために祈っている」   山ノ下恭二


(イザヤ書32章15−22節、ヘブライ人の手紙7章20−25)

 私は栃木県の鹿沼教会が出身教会で、高校卒業まで鹿沼教会の会員でした。教会の祈祷会は水曜日か木曜日に行われ、教会堂で行う教会が多いのですが、鹿沼教会は、信徒宅を会場にして行っていました。キリスト者の家庭が多く、毎週、信徒の家庭宅回りで祈祷会を実施していました。私の家庭もキリスト者の家庭でしたから、3ヶ月に一度は、信徒たちが訪ねて来て、祈祷会をしていました。その日、自分の家庭が祈祷会の会場になると、夕方から会場になる居間を片付けたりして忙しくなるのですが、家族全員が祈祷会に出ることになります。私が幼児の頃は、祈祷会に出ていて、寝てしまい、「祈祷会が終わって、みんな帰ったよ、起きなさい」という家族の声で起きたこともよくありました。 私の父が亡くなってからも、信徒たちが私の家での祈祷会に来てくれて、私の家族のために祈っていたことをよく覚えています。家族の大黒柱を失って、困っていた時に、祈祷会に出席した信徒たちが一所懸命に家族のことを名前を挙げて祈ってくれたことで、励まされたことがあるのです。私は、祈ることは自分のことを祈るだけでなくて、他者のために祈る、その祈りがあることを肌で知ったのです。教会に連なる兄弟姉妹のことを覚えて、熱心に祈ることに感銘を受けたのです。
 私が神学校の寮にいた時に、隣の部屋にいた後輩が、私の部屋に来て、「山ノ下さん、私のために祈ってください」とたびたび来て、互いに祈り合ったことがありました。私の部屋を訪ねた後輩は、自分の悩みを打ち明けて、神の御心に従って解決するように共に祈ったのです。そのことを経験して、共に祈る、祈り合うことの大切さを知ったのです。

 最初の教会の伝道者パウロは教会の人々を覚えて、よく祈っていたのです。教会を愛していたのです。教会の主であるイエス・キリストを愛し、イエス・キリストに連なる兄弟姉妹を愛していたのです。テサロニケの信徒への手紙一 1章2節に「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」とあります。パウロはテサロニケの教会の信徒たちのことをよく知っていたのです。この教会の信徒たちが信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐において神の賜物を戴いていることを喜んでいるのです。信仰も希望も愛も、それがお題目になってしまっているのではなく、それが、信徒たちの生活ににじみ出ていることをよく知っていたのです。教会で生きている信徒の姿がくっきりと浮かんでいたのです。伝道者パウロが教会のために祈っていた、それは祈りが一人では成り立たない、教会の仲間があってこそ成り立つものなのです。パウロが教会の信徒を覚えて祈るだけでなくて、自分のために祈って欲しいと願っているのです。このテサロニケの信徒への手紙の終わりに、パウロは「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。」(5章25節p379)と書いています。パウロは求めているのです。私のためにも祈って欲しい、自分も教会の仲間のために祈る、そして教会も自分のために祈ってほしい、パウロはよくこうした求めを手紙に書いています。教会の祈りの支えなくしては生きて行かれないことをよく知っていたのです。教会の祈りの支えなくしては、主のために働けないと思っていたのです。
 祈りには自分のために祈るだけではなくて、他者のために祈る、そのような祈りがあるのです。日本では一般に祈りと言うと、それは自分のために祈る、自分の身近な家族のために、自分の願いを申し上げる、それが祈りだと理解されていますが、聖書には他者のために祈る、執り成しの祈りがあるのです。

 本日の礼拝で、ヘブライ人の手紙7章20−25節のみことばを読みました。ここには、イエス・キリストが永遠の大祭司であり、今も生きていて私たちのために執り成しをしてくださっていることが記されています。7章24−25節「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」
 
 イエス・キリストが永遠の大祭司であることと比べると、ユダヤ教の祭司は人間であり、死んでしまい、永遠ではないことが記されています。その時の祭司が死ねば、次の祭司が立てられ、同じ祭司がその務めを継続することができないのです。人間である祭司が誠意をもって、神に喜ばれるように人々のために祈り、執り成し、犠牲を献げても、それは不完全、不十分で、神が喜ぶかどうか、不確かです。しかし、イエス・キリストは、神ご自身の誓いによって、神の側の御旨によって定められた方であるので、確かなことこの上のない方であると語られています。神の側から、この人こそ大祭司としてふさわしいと太鼓判を押された方こそ、まことの大祭司である、と語られています。
 大祭司であるキリストは、神の右に座して、私たちのために執り成してくださっているのです。執り成しの務めは、永遠になされるのです。ロ−マの信徒への手紙8章34節(p285)「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

 「執り成す」と言う言葉を調べて見ますと、日本語大辞典には「双方の間に第三者が入って、関係を好転させること」と解説されていました。そして「具合の悪い状態を、間にはいって取り計らい、好転させる、よいように取り計らう」という意味にもなりました。
 聖書はイエス・キリストが神と私たち人間の仲保者、仲立ちであると語ります。神と私たちとの関係が、私たちの罪のために、壊れてしまい、正常な関係にするために仲立ちを必要とするのです。私たちが神に背を向け、神から離れ、自分中心に過ごしていたのですが、神は私たちと和解するために、イエス・キリストによって罪を取り除くことにより、私たちは神との関係が正常な関係になり、私たちは罪なき者となったのです。

 イエス・キリストが私たちの仲立ちであるというのは、私たちの祈りの言葉によく表れています。それは、私たちが神に祈ることができるのは、イエス・キリストの働き、存在によって祈ることができるのです。私たちの祈りには祈りの最後に「イエス・キリストのお名前によって」「イエス・キリストの御名によって」と言う言葉が必ず来るのです。
 このように私たちの祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によって」「主イエス・キリストによって」という部分は、実は私たちの信仰にとってきわめて重要な意味を持っているのです。私たちは、そのままで、神を父よ、と呼びかけることができないのです。それは父なる神と関係をもっていないからですし、正常な関係にないからです。イエス・キリストだけが神を「父よ」と呼ぶことができる唯一の方なのです。私たちは最初から、神を父と呼ぶことが許されていなくて、イエス・キリストの贖いによって、その仲介によってのみ、神を父と呼ぶことが許されているのです。イエス・キリストだけが、神の実子であり、私たちは神の養子とされ、イエス・キリストを長子とするところの兄弟とされたのです。
 私たちの祈りにおいて、イエス・キリストが大きな役割を持っているのです。「イエス・キリストの御名によって」という言葉がなくて、「この祈りを祈ります」と言うことになると、ユダヤ教の祈り、また自然宗教の祈りになってしまうのです。「この祈りをかなえたまえ」「神によって祈ります」と言う祈りでは、キリスト教会の祈りではないのです。イエス・キリストの贖いがなければ、イエス・キリストの働きがなければ、神に祈ることはできないのです。このイエス・キリストが私たちのために、父なる神との間に立たれなかったならば、私たちは祈ることはできないのです。神に、祈ることができるのは、イエス・キリストの救いのみ業によることなのです。

 イエス・キリストは、魂の配慮をすることができた方です。主イエス・キリストが十字架の受難の道を進んでいる時に、弟子であるペトロに次のように語っているのです。ルカによる福音書22章32節(p154)に「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語っているのです。主イエスは、御自分が十字架の受難に遭う、そのような切羽詰まった時に、弟子であるペトロがこれから主イエスの弟子として歩んでいく、その歩みに心に留めて、「信仰が無くならないように祈った。」と語っているのです。ペトロのために、執り成しの祈りをしているのです。イエス・キリストは、常に他者のために生きた方なのです。

 主イエスご自身がとても苦しんでいる時にも、自分のことを顧みないで、他の人に深い配慮をしていることに私は感銘を受けるのです。その場面は主イエスが十字架に上げられて、苦しんでいる、その場面です。ルカによる福音書23章39−43節(p158)です。罪を犯して十字架に架かっていた一人の犯罪人が「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とののしったことに対して、もうひとりの犯罪人は、自分たちは犯罪を犯したので報いを受けているのは当然のことだ、しかし、主イエスは、何も悪いことはしていない、と語り、続けて次のように言っています。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。主イエスはこの犯罪人に対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られたのです。主イエスは、自分のことを顧みないで、ただ、この犯罪人に救いの言葉を語っているのです、深い配慮に満ちた姿を残しているのです。

 キリスト教会では、説教と牧会と言う言葉を使います。今まで、説教と牧会は牧師がするものだと考えられて来ました。牧会は、説教以外のすべての務めを牧会と言う名で一括りにして考えて来ました。キリスト者の集団である教会の世話をしたり、管理をすることです。しかし、最近は、牧会と言う言葉よりも「魂の配慮」と言う言葉を使うようになりました。それは集団として教会を見るのではなくて、個別的に、一人一人の魂を配慮する、と言うことに重点が置かれるのです。マタイによる福音書18章10節以下に「これら小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と語り、一匹の羊が迷っていなくなってしまった時に、その一匹の羊を探すことを語り、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と語ります。
 魂への配慮とは、このような主イエスの御心を重んじ、ひとりの人のために集中する務めです。一匹の羊のために、他の99匹は山に残してしまうのです。

 このことは私たちの教会に対する問いかけになります。私たちは、教会をひとりひとりのかけがえのない存在として見るよりも、集団として見るのです。教会員の数や礼拝出席人数を、教勢と言いますが、数値できる数で、数量化して教会を見るのです。しかし、教会はひとりひとりなのです。ただひとりの魂に集中して、心が注がれ、配慮をする、それが魂の配慮なのです。
 私が他者を覚えて祈る時に、具体的な名を出して祈ります。その人の顔を思い浮かべながら、祈るのです。教会の名簿を見て、しばらく礼拝に来ていない人、病のために苦しみ、自宅療養をしている人を覚えて、名前を出していのります。
 牧会と言うと、牧師の務めと考えると思います。牧師は世話をする人、教会員や求道者は、その世話を受ける人と考えています。しかし、魂への配慮は、キリスト教会に生きる者であるならば、だれもが自分に与えられた務めであるのです。信徒は礼拝に来てみことばを聞き、献金をして自分のできる奉仕をすれば良いのだ、と言う考えは、私たちプロテスタント教会にはありません。教会員ひとりひとりが、自分以外の他の人の魂に対して配慮に生きる者なのです。
 皆さんは、万人祭司と言う言葉を聞いたことがあると思います。改革者ルタ−が万人祭司と言うことを主張したのです。これは、ロ−マ・カトリック教会では、司祭と修道者だけが神に特別に仕える者で、信徒は、神に仕えている司祭、修道院やカトリックの学校で仕えている修道者にすべてお任せしていると考えているのです。司祭・修道者と信徒とは身分が異なり、司祭・修道者が奉仕をして、信徒はミサに出て恵みを受ける、と位置づけているのに対して、プロテスタント教会は、信徒すべてが祭司としての務めがあることを語ったのです。すべてキリスト教会に生きる者は、お互いに、その人のための祭司となるのです。祭司というのは、神と人との間にあってとりなしをする務めを持っています。その人のために祈るのです。皆さんは、毎日、祈るときに、教会に生きている人々のために、他者のために、祈っているでしょうか。自分には他の人の魂の配慮をする責任がある、と言う自覚を持っているでしょうか。

 かつて、ドイツの実践神学・説教学者のルドルフ・ボ−レン先生が東京神学大学で「とりなし」と言う講演を学生たちにしたことがあります。この講演の中で「九日間の祈り」を紹介しています。これはオランダの教会で、ひとりの病人のために、九日間祈り続ける、と言うことをボ−レン先生が紹介しています。神が、その間に、祈りに答えてくださることを期待して祈るのです。三を三倍すると九になります。主イエスはゲツセマネで三度、祈られました。
 教会のなかで、誰かが病気になると、それを知った教会の兄弟姉妹が、九日間、病む仲間のために、祈り続けるのです。そしてお見舞いの手紙を出すのです。主イエス・キリストが私たちのために、私たちに代わって、今も後も永遠に祈っていてくださるのです。私たちはイエス・キリストによって祈られている存在なので、自分の祈りの貧しさ、祈りの言葉の心もとなさにめげないで、私たちは祈ることができるのです。
 礼拝の中で、聖書朗読の祈りがあります。礼拝に関わる祈りをします。礼拝が神の御心がなされる礼拝であるように、礼拝に集中できるように、みことばを語る者、みことばを聴く者のために祈るのです。これまでの教会の礼拝の伝統から言うと献金の祈りの時に、とりなしの祈りをするのです。私たちの教会の祈りの中にとりなしの祈りはありました。しかし、その多くは、まず教会の仲間のため、教会の中にいる病人やその他の人たちのためです。このことは大切ですが、教会の外にも神の恵みを必要とする人々がたくさんいます。その人々に代わって、私たちは神に祈るのです。

 この社会で苦労している人々はたくさんいますし、祈りを必要としている人たちもたくさんいるのです。事故に遭い、悲しみにある人々、貧しくて食事もできない人々、この社会では人の目には見えないで苦しんでいる人々がいます。 このヘブライ人への手紙13章3節(p418)には「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」と語られています。「思いやりなさい」と言う言葉は「シンパシー」「共に苦しむ」と言う意味の言葉です。刑務所で生活している、その姿を想像して、共感し、辛いだろうな、刑期を終えるのを待っているだろう、刑務所を出た後の生活はどうするのだろうかと思いやり、そのことを覚えて祈るのです。朝日歌壇2月17日に、現在、刑務所に収監されている人の短歌がありました。「満期まで二年を切れば独房の窓に広がる雪晴れの青。」ミシェル・クオストと言うカトリック教会の神父が、「イエスが新聞を読まれたなら」と言う祈りの随想の本を書いています。私たちが新聞を読むと、悲惨な事件や困難な生活をしている人々の記事が多く載っています。そして、親による子どもへの虐待の事件が多いのです。「自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」と記されているのです。虐待、食べ物を与えられない、殴られる、蹴られる、熱いお湯をかけられる、そのような虐待を受けている人々がいることを、嘆いているだけではなく、思いやって、同情を寄せ、執り成しの祈りをするのです。


20190303  主日礼拝説教  「神との和解が与えられている」  山ノ下恭


(創世記14章17−20節、ヘブライ人への手紙7章1−19節)

 私たちは、平和でありたいと願っています。互いに受け入れていきたいと願っています。親子や、兄弟、友人、学校や職場の友人たちと、なごやかに、和気藹々と過ごすことを願っています。しかし、互いに考えや思い、重んじているものが違うので、対立し、争うことがあるのです。仲良くしたい、良い関係でいたいと願っています。しかし、仲良くできず、もめたり、互いに罵りあったり、喧嘩をすることが多いのです。
 会議をして話し合いますが、その会議が平穏に推移するならば、良いのですが、意見や考えが異なると対立したり、ぶつかって合意を得ることができないで、気まずくなる時があります。親子でも喧嘩をしますが、仲直りできれば良いのですが、こじれて仲直りできなくて、互いに口もきかない関係になってしまうことがあります。互いによく理解して、仲良くできれば良いのですが、私たち人間は争ったり、対立してきたのです。

 ローマ・カトリック教会に属する修道会の一つである、フランシスコ会の創始者であるアッシジの聖フランシスコが作った「平和の祈り」があります。「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、一致を 誤りのあるところに真理を 絶望のところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光をもたらすことができますように、助け、導いてください。神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを望ませてください。自分を捨てて初めて自分を見出し、赦してこそゆるされ、死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。」

 この平和の祈りを私たちの祈りとして祈りたいのですが、聖フランシスコが生きた時代も、争いと混乱が続き、平和を求めていた時代であったので、このような平和の祈りを祈っていたのです。

 ヘブライ人への手紙7章1−19節は、アブラハムについて語っています。アブラハムはユダヤ人の先祖と考えられています。これまでのいろいろな民族のことを考えると、民族の歴史を造った最初の人は、英雄であり、戦争に次ぐ戦争をして、王や支配者の地位を獲得した人が多いのです。日本の歴史を見ると、織田信長、徳川家康、他にもたくさんの英雄がいますが、皆、戦争に次ぐ戦争を勝ち抜いて支配者となった人ばかりです。ところが創世記でアブラハムの生涯を見ると、例外的に、戦争や争いを好まない人であったことが分かります。平和に生きた人であったのです。
 
 アブラハムは自分の故郷を出て、神が約束したカナンの地に着いた時に、アブラハムが一緒に旅をした甥のロトとその一族に対して自分の行きたいところに行くように、ロトが先に選ぶことができるように優先権を与えているのです。ロトは、豊かな土地を選んで、そこに移ったのです。アブラハムは、余り豊かな土地でないところに移り住んで、そこで自分たちの生活を始めたのです。アブラハムがロトとその家族のことを配慮していることがよく分かりますし、アブラハムが無欲で、相手と争わないように気をつけていることが分かります。このことから、アブラハムは、平和を造り出す人として描かれています。

 旧約聖書には、戦争に次ぐ戦争の物語が満載です。殺人の物語が多く語られています。今もなお、アブラハムが住んだ土地が、国と国との争いが続いていることは悲しいことです。
 アブラハムは戦争に関わらなかったか、と言うとそうではないのです。ロトと家族とが住んでいたソドム、ゴモラに連合軍が襲い、ロトと家族を捕虜としたので、アブラハムはその救出のために、連合軍を襲ってロトとその一族を解放するのです。
 
 本日は、旧約聖書・創世記14章17−20節を読みました。ここにはその時のことが記されています。この戦争でアブラハムは、ソドム、ゴモラの戦利品を獲得するのですが、自分のものにせず、ソドム、ゴモラに返還するのです。戦利品を自分のものとして使うのではなくて、元の持ち主に返すのです。ここにもアブラハムが平和に生きようとしている姿がよく現れています。

 わたしたちは平和に過ごしたい、と願っています。どのようにしたら平和に生きられるのでしょうか。なぜアブラハムは平和に生きることができたのでしょうか。このヘブライ人への手紙は、アブラハムがなぜ平和に生きるようになったのか、その秘密を解き明かしています。アブラハムの人柄が良く、温和な性格だから平和に物事を進めることができたのではなく、アブラハムが平和に生きることができたのは、一人の人の存在があったからです。その一人の人とはメルキゼデクと言う人であり、この人物が介在したからだと語るのです。
 
 ヘブライ人への手紙7章2節を読みますと、メルキゼデクという名前の説明が記されています。メルキゼデクのメルキが「王」を意味し、ゼデクが「義」を意味するので、メルキゼデクと言う名前は「義の王」と言う意味なのです。次に「サレムの王」、この「サレム」はヘブライ語の、平和を意味する「シャロ−ム」と言う言葉に基づく言葉です。この「シャロ−ム」は、元々「いのちが充満している」という意味の言葉ですが、「おはよう」「こんにちは」「こんばんわ」と言う、日常の挨拶の言葉として現在でも使われています。そして「サレム」とは「平和」のことであり、「サレムの王」とは「平和の王」と言う意味です。メルキゼデクは「義の王」であり、かつ「平和の王」なのです。

 聖書でしか使わないのですが、とても重要な言葉に「義」と言う言葉があります。この「義」とは関わりを表す言葉です。「義」は他者との間に造られるものです。神と私たち人間との間にも正しい関わりがあり、人間のお互い同士の間にも、正しい関わりがあれば、それを「義」と呼ぶことができるのです。 お互いに正常な関係にある、「義」であるならば、平和であるのです。皆さんも経験しているでしょう。正常な関係でいることは私たちの心を平安にさせるのです。お互いに相手を良いと認めていれば、平和です。しかし、相手を肯定できない場合は、平和にはなれないのです。相手を嫌い、相手を受け入れていない時には、平和ではなく、平穏ではないのです。
 戦争が起こるのは、自分のほうに正義があり、相手が間違っている、と考えるから、戦争が始まるのです。このヘブライ人への手紙が、「義の王」にして「平和の王」と並べて書いてあるのは、義と平和とが深くつながっているです。

 興味深いことに、メルキゼデクについて創世記に書いていないことをヘブライ人への手紙には付け加えているのです。
 7章3節でメルキゼデクについて「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似たものであって、永遠に祭司です。」とあります。正義と平和をもたらす王は、同時に祭司である、と語られています。
 祭司と言うのは、神と私たちの間を執り成す務めに生きている者であるのです。祭司はいつも神を忘れないのです。そして人のことも忘れないで、神に祈り、人のことを心配しているのです。神の愛の支配が私たちに行き届くように配慮しているのです。

 そしてヘブライ人への手紙7章1節には「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして帰って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。」と語られています。7章6、7節にもアブラハムがメルキゼデクから祝福を受けたことが記されています。祝福と言う言葉がとても大切なのです。私たちの教会の週報を見ますと、礼拝の順序が書かれていますが、礼拝が何によって終わるか、と言うと、「祝祷」で終わるのです。
 
 私は東大宮教会で礼拝のプログラムを改革して、それまで「祝祷」と言うのを「祝福」と言う言葉に変えました。「祝祷」と言うと「祈り」であり、礼拝の終わりは、祝福を受けて終わると考えたのです。礼拝の終わりに祝福を戴いて、それぞれのところに派遣されていくことが正しいことと考えたのです。
 礼拝の祝祷・祝福では、旧約聖書・民数記6章のアロンの祝福を宣言しています。民数記6章24−26節(旧約p221)にあります。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように 主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」そしてアロンの祝福を宣言した後に、新約聖書・コリントの信徒への手紙二 13章13節を宣言するのです。(新約p341)「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」このような祝福が宣言されて、私たちは祝福の中に置かれるのです。
 
 礼拝の終わりに祝福の言葉が宣言されることはとても重要です。神がいつも私たちにみ顔を向けて、共にいてくださり、私たちはいつも神を仰いで、過ごすのです。
 私は結婚式の最後に祝福を宣言するのですが、結婚した新しい夫妻が、神に呪われた存在ではなく、神に祝福された存在であることを宣言されることはとても大切なことです。
 結婚して夫婦となる、互いに異なる環境で育っているので、夫も妻も互いに理解できないことが多いのです。互いに相手と向き合うならば、喧嘩をしたり、誤解によって関係が悪くなることがあります。しかし、神の前に、二人が神に向き合って行く時に、互いに自分たちの罪深さと人間としての弱さを認めて、互いに赦し合うことができるのです。神が介在している生活なので、互いに赦し合う夫婦として生き続けることができるのです。
 
 このヘブライ人への手紙は、アブラハムが戦争を避け、平和に生きる姿勢を保つことができた原因が、この神の祝福にあったと語るのです。この神の祝福をアブラハムに宣言したのが、メルキゼデクであったのです。

 神の祝福を受けた者は、祝福をしてくださった方に、十分の一をささげたのです。ヘブライ人への手紙7章4節に書かれていることは、神の祝福を受けた者の生活の基本が、神に献げることである、ということです。
 
 アブラハムが平和の人として生きた、それは、神との関わりの中で、神の祝福に生き、そして自分の生活を神にささげた、つまり、いつも礼拝をしたのです。アブラハムは旅をした、そのところで主の名を呼んで礼拝を続けたのです。神との交わりの中で生きる、そこに平和の原点があるのです。

 アブラハムを祝福したメルキゼデクはだれのことを指しているのでしょうか。それはイエス・キリストのことを語っているのです。11節から、祭司制度、律法のことが語られていますが、16節に「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。」と語られ、律法の行いによる救いではなく、イエス・キリストというもっと優れた希望がもたらされて、それによって神に近づくのだ、と語ります。
 
 何を言いたいのかと言うと、神と私たちの間は、関係が悪く、私たちは神に敵対し、反抗し、自分中心に生きているのですが、その関係を正常な良い関係にもたらそうとして、イエス・キリストが仲介者として働き、和解をもたらしてくださったのです。神から一方的に和解をもたらしてくださるのです。神が私たちの罪を赦して、和解をもたらしてくださったのです。
 
 神に近づくことができるのです。仲良ければ、近くで話すのですが、敵対していると遠くから互いに見ている、話もしない、無視するということが起こります。自分が正しくて、相手が悪い、と考えていれば、相手を非難し、相手と和解できないのです。遠くから批判的に互いに見ているのです。相手と仲良くできないのは、相手が悪い、相手が詫びれば、赦してやると思っている、いつまでも仲良くはできないのです。

1月、2月の東京説教塾例会は、二人の牧師の説教黙想とそれに基づく説教を取り上げて学びました。その中の一人の牧師の説教で取り上げた聖書の箇所は、ルカによる福音書6章の言葉でした。その中で6章41−42節にこういう言葉があります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気がつかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(新約 p114)

 自分の目には丸太があるので、相手の目におが屑があるのは見えないはずだ、しかし、丸太があって見えないはずなのに、相手の目におが屑があると言ってそのことを言い立てている、自分には大きな罪があるのに、そのことを見ようともしないで、相手の小さな罪を糾弾している、相手が悪いと言っている、その前に自分の目にある大きな丸太、罪を取り除け、と語るのです。
 
 主イエスは、私たちの現実を指摘しているのです。自分には何にも悪いところはないかのごとく思い込んで、相手の小さな過ちや罪を言い立て、攻撃し、責めているけれども、その前にすることがあるのです。それは神の前に自分がいかに罪が深く、神の前に、悔い改めなければならない存在であることを認めることなのです。

 本日の説教題は「神の和解を与えられて」と言う題です。ヘブライ人の手紙7章1−19節には「和解」と言う言葉はありません。しかし、ここでは明らかに、神の和解を語っているのです。
 コリントの信徒への手紙二 5章11節以下には、神と私たちが和解するために、私たちの罪を取り除くためにキリストご自身が贖いをささげてくださり、神との和解をあたえてくださった、と語っています。神からの和解、赦しを与えられているので、互いに赦し合うことができるのです。
 
 私たちは、これから聖餐にあずかります。私たちの罪のために、主イエス・キリストが御自身の肉を裂き、血を流して、罪の犠牲をささげたことを覚えて、
その赦しのしるしを戴くのです。私たちのために、和解を与えてくださった恵みにあずかり、和解の使者として歩むのです。

20190224 主日礼拝説教  「福音をあなたに」  増田将平(青山教会)


(イザヤ書55章8〜13節、 ルカによる福音書1章1−4節)

 新約聖書のみ言葉は、ルカによる福音書です。ルカによる福音書と呼ばれていますが、これは後の時代の人々が付けた名前です。西洋の絵画では、画家がしばしば自分の名前を作品に描きこみます。しかし、この福音書の著者は、自分の名前をこの文書のどこかに記すことはしませんでした。それは自らがみ言葉のために働く一人であることを、喜びとしたからです。

 新約聖書に収められている書物の冒頭をお読みします。「テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」使徒言行録の冒頭のところです。

 ルカ福音書を書いた人が、その福音書の続きとして使徒言行録を記しました。聖書の学者たちは、この二つの書物の文体を比べると、明らかに同じ人が書いたことが分かると言います。ルカによる福音書、使徒言行録は格調高い文章で書かれているそうです。それを書いた人はギリシャ語が堪能だと言われています。ある聖書の注にこう書いてありました。「文学的な見地からすれば、このルカによる福音書第1章1節から4節は、新約聖書の中で最も美しい文体である。そう言われても私にはどう格調高いのかよく分かりません。ただ、元の言葉は、辞書を開かないと分からない単語ばかりで、自分の語学力の無さにがっかりします。調べて行くと、聖書ではここにしか使われていない単語が幾つもあることが分かり、何だ、そうだったのだと少し安心いたしました。そういう単語が沢山ここに出てくるのです。さらに1節から4節は元々は一つの文章です。翻訳にすると分かり辛いので、節を設けて区切っています。学者たちはそんなことを調べていくうちに、これを書いた人が旧約聖書の言語、ヘブライ語を使う人ではなく、むしろギリシャ語の中で生まれ育った人物で、しかも自由にギリシャ語を使いこなすことができた人ではないかと言います。やがてこの著者はルカと呼ばれるようになります。

 いつからルカが書いたと言われるようになったか。紀元180年頃、最も古い記録にルカが書いたとありました。主イエスが活動なさったのは紀元30年頃ですから、それほど時間は経っていません。何故ルカと呼ばれるようになったのか。この福音書のどこにもルカという言葉は出てきません。もしかすると、ルカがこの福音書を書いたということを直接知っている人々が、語り伝えていったのかもしれません。誰が書いたのかということについては、いろんな意見があるようです。誰が書いたのかを決定する十分な証拠がないのです。でも、ルカが書いたのではないという証拠もありません。私どもは、ここでルカという人物と照らし合わせながら、その個所を読むと、元の意味をよりよく理解することができるように思います。

 ルカという人は12弟子の一人ではありません。12弟子の後で、福音を宣べ伝え、各地に旅した使徒パウロと歩みを共にした人物です。パウロよりも若かった。パウロにとって弟子のような存在であったと思います。皆さんは映画「パウロ」をご覧になったでしょうか。私は映画館で観ました。この映画の中で、若いルカが投獄されているパウロのところに行って差し入れをする。突然パウロが、語り始めると、ルカは急いでペンをとって羊皮紙にパウロの言葉を記録していく場面が出てきます。

 パウロの手紙が沢山新約聖書に収められています。その一つの中で、こういう言葉があるのです。「愛する医者ルカとデマスが、あなた方によろしくと言っています。」ルカは医者でした。そのように福音書を読んでいくと、確かに病気の人の症状について詳しく書いているような気がします。また、別のパウロの手紙にはこうあります。「わたしの協力者たち」と何人か名前を挙げて、最後に「デマス、ルカからもよろしくとのことです。」パウロは一人で福音を伝えたのではありません。彼の傍らには協力者たち、仲間たちがいました。その一人がルカです。そしてデマスもその一人です。ところが他のパウロの手紙にはこう書かれています。「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケへ行ってしまった。ルカだけがわたしのところにいます。」毎週一緒に礼拝し、共に働いた仲間の一人デマスが、行ってしまった、というのです。何故か。デマスはこの世を愛したからだというのです。私たちはこの世、世界を愛してはいけないのでしょうか。私たちは世を憎む、世捨て人になることを求められているのでしょうか。

 ヨハネ福音書にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」そうです。だから私どもは世界のために祈り、この地域、この国のために様々な教会の働きを続けているのです。ところが、デマスはそうではなく、神様からの愛を忘れ、神様を愛することをやめて、世だけを愛するようになりました。やがてパウロを見捨て、ルカを見捨て、教会を捨て、キリストを捨ててしまったのです。

 私どもの教会でも、時にこういうことが起こります。一緒に礼拝した仲間が教会から離れて行ってしまう。今頃どうしているのかなあと、今朝も車の中で長老とある人のことで話をしていました。考えると心が痛む。そういう仲間たちがおります。ルカもデマスのことを忘れなかったと思います。何故去って行ったのだろう、この世を愛したからだ、ルカが記した言葉といえば、キリストの教えが確実なものであることが分からなくなった、教会で聞いたことが確実だということが分からなくなった、だから離れて行ったのです。

 ルカにはデマスの他にも、心にかかる者たちがいました。その一人がテオフィロです。この人物を特定することはできませんが、実在の人物であり、恐らくはローマの役人、高官ではなかったかと言われています。そうだとすると、ルカの友であり、ルカのために経済面でのサポートをした可能性があります。そしてこのテオフィロという人は、キリストについての教えをある程度聞いていたようなのです。4節の「お受けになった教え」、教えという言葉から、カテキズムという言葉が生まれました。今の時代のように整ってはいなかったと思いますが、何らかのかたまりとして、何らかの形式を持った言葉を、たとえば先ほどの使徒信条、使徒信条までも行っていないと思いますが、キリストが私たちの罪のために死んで、復活して、そういったことを聞いていたと思います。テオフィロは関心を持っています。ただ、それが本当に自分の人生にとって、確かな、確実なものであるということがまだよく分かっていませんでした。神を信じて生きて行こう、洗礼を受けてキリスト者になろうという確かな決意が、まだテオフィロの中には無かったのです。テオフィロの周りにはデマスのように世を愛する誘惑がありました。有力者でしたから、権力、お金、いろんなものに心を惑わせることがあったと思います。これは洗礼を受けたキリスト者にとってもそうです。この世にあっていろんな誘惑があります。ルカはテオフィロの心境がよく分かったと思います。

 ルカはデマスのことを痛みに覚えつつ、いつかデマスが、自分が今書いている書物を手にして、また教会に帰ってくることを祈ったと思います。同時に、テオフィロのことを思いつつ、この福音書を記します。多くの人々がすでに手を付けています。ルカの前に福音書を記した人々がいました。マルコはその一人だったのでしょう。マルコによる福音書はもう出来ていて、ルカがもう読んだことがあったかも知れません。その他、いろんな口伝えに聞いている話がありました。そこでルカは、私も書こうというのです。自分もその後に続く一人として、順序正しく書きたい。必ずしも時間順でなくても、主題に沿ってこれまでの福音書に記されていない出来事を、様々な記録を集めた一人として、集めたいということです。

 ルカ福音書にしか記されていない物語があります。皆さまお馴染みのいちじく桑に上った男ザアカイの話。お父さんが元気なのに遺産をくれと言って、父を捨て、家族を捨てて放蕩三昧をした弟の話、これらはルカだけが記しているものです。そんなルカですが、彼は12弟子の一人ではありません。ですからイエス様に直接会ったことはなかった。ではどうやって書いたのか。そのことをルカは明らかにしています。

 最初から目撃して、み言葉のために働いた人々が私たちに伝えた。最初から、自分の肉眼で主イエスを見た人々がおりました。彼らはイエス様の言葉や行いを私たちに伝えた、ルカはここで、「私に」とは言っていません。私だけがそのことを知っているとは言わずに、「私たち」です。ルカを含めた教会のことです。教会の第2世代、第3世代でしょうか。教会の先輩、先達が伝えてきたことを次の世代がリレーのバトンのように受け継いで、それを受け取って今私はここにいる。ルカは自分だけが特別な場所にいるのではなく、教会の中にいます。教会に生きる一人として、この物語を書いています。ルカはこの事柄について、「私たちの間で実現した事柄」と言っています。一つではなく、様々な事柄が私たち教会の中で、教会の間で、実現している、実現して来たし、今も実現している、実現された、と書いています。つまり、人間の力で起こしたのではなくて、実現してくださったお方がいる。その始まりは、ルカと言えばクリスマスでしょう。しかもルカは、クリスマスを主イエスが生まれる前のエピソードから始めます。この主イエスの出来事の目撃者たちは、単なる一つの情報として語っただけではなく、目撃した人たちはみ言葉のために働く人々になったと言うことです。

 最初から目撃して、御言葉のために働いた人々。新しい翻訳が出ました。聖書協会共同訳では、「御言葉のために働いた」という言葉が、「御言葉に仕える者となった」と書いています。御言葉のために働くということは、御言葉のために仕えるということだ。目撃者は御言葉の奉仕者になる、というのです。こういう出来事が教会の中で起きている、御言葉とは福音、良い知らせだからです。イエス様はこう仰いました。「わたしが来たのは仕えられるためではなく、仕えるため、多くの人の身代金として、自分の命を捧げるために来た。」教会にはいろんな仕える人がいます。御言葉のために働く人たちがいます。牧師だけではありません。長老だけではありません。皆が御言葉のために仕えて生きることができるのが教会ですから。

 でも、何故そうやって御言葉のために仕えるのでしょうか。牧師はまだいいです。そのために、その仕事が主なものとして仕えるからです。でも、いろんな仕事、家庭、いろんな1週間の務めを持っている者たちが教会に来て、御言葉に仕えるということは、考えてみると不思議なことです。多くの人がまだ今もぐっすりと眠っているこの時間に集まって、そして100年を超えてこういう歩みが続けられている、それは何故か。それは、主イエスが来られたのは、仕えられるためではなく、仕えるためだと、神の子である方が、仕えてくださった。その仕え方は、ちょっとお茶を出したとか、ちょっと玄関を掃いたというのではなく、自分の生命を捧げ尽くして、そこまで仕えてくださった、これ以上の奉仕はありません。こんなことが誰にできるのだろうか、と思います。けれども、この方は、そこまで私たちに仕えてくださった。何故仕えてくださったか。それは、私どもを愛しているからです。愛することは仕えることです。

 この主イエス・キリストの私どもへの奉仕、私どもへの愛を目撃した人々はそのままではいられなくなります。パウロもそうです。かつて彼は迫害者でした。クリスチャンを捕まえて、ステパノの殉教にも関わっていた。そのパウロはキリストと出会い、キリストが自分のためにとことん仕えて死んでくださったということを知りますと、彼は今度はキリストに命をかける一人となりました。

 この福音書を書いたルカもそうです。彼は医者でしたが、自らに与えられた賜物を用いて、福音書記者として、御言葉に仕える者とされています。この仕える者という言葉を、英語では minister と言います。Minister と言うと一つは大臣という意味です。大臣は国のために仕える者だという意味です。私が1年間おりましたスコットランドでは、minister というと大臣の他に、牧師という意味があります。何故かというと、牧師は教会に仕える者ということです。そして、minister の mini は小さいという意味です。

 自分を小さくして、自分を低くして、仕えることを喜びとして生きる、何よりもキリストがそうしてくださった。ああ、私のためにキリストが本当に小さくなって、家畜小屋で産まれることから始まって、仕え抜いてくださった。これを知った人は、今度は自分から喜んで小さくなって、キリストに仕えるようになるのです。そうせずにおられなくなるのです。そういう事柄が、そういう出来事が私たちの間で起きている、そのことを知ってほしい。

 ルカは、この出来事が自分の周りだけで起きているとは考えていません。もっと言えば、ルカはキリストを自分の目で、肉眼で見たわけではないのです。しかし、今もキリストは、天におられるキリストは、私たちの間に聖霊を送ってくださって、私たちの間で働いてくださっています。テオフィロの周りでも、今出来事が起こっている。神が御心を実現してくださっていることを確信していました。イザヤ書の先ほどの言葉の中にこうあります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。」

 み言葉も、雨や雪と同じように一旦降ると、私たちの目からは消えますが、私どもの目で確かめることができないところで働いて、芽生えを与え、命をもたらす。先ほど触れました「パウロ」という映画を是非見ていただきたいと思いますが、私は映画館の第1回の上映で見ました。上映後トークショーがありまして、ある牧師とある有名な人が二人でスクリーンの前で映画の感想を語り合っていました。もう一人の人は、松任谷正隆という人です。クリスチャンではありません。でも彼はこう言いました。自分はこの映画を観て、所々こんなことがありえるのか、というところもあった。けれども不覚にも、いろんなところで感動して涙を流した。自分はこの映画の何に感動したかというと、この映画が持っているリアリティーだ。リアリティーとはどういうことかというと、聖書の言葉通りに生きている、生きていた人々がパウロの時代にいたし、今もこの聖書の言葉通りに生きている人たちがいることだ、と言いました。聖書の言葉が単なる言葉ではない、若者の言葉で言うと「リアル」であることに気付いて感動したというのです。これはとても興味深いと思います。聖書の言葉は、単なる言葉ではなく、その言葉が働いて、その言葉に生きている人たちがいるのです。そのことが、聖書の言葉が本当に確実で確かな言葉であることの、確かな目に見える印です。

 山ノ下先生から払方町通信を送っていただいて、いろんな人が文章を書いていますが、自分がどうやって教会に来るようになったか、親のこと、いろんなきっかけがあって教会に来ているという話が載っています。そこで私は自分のことを考えました。私事ですが、父はキリスト教とは全く無縁な、深川の町工場の倅として育ちました。たまたま入った学校が明治学院高校でしたので、通学のバスでいつもある教会の前を通ったのです。日本橋教会です。自分も教会に行ってみたいと思って通い始めます。私の母は富山の人で、婦中町の出身でありまして、私の祖父は警察官で転勤がありました。祖父は仏教徒でしたが、何故か娘に教会学校に行くことを勧めました。偶々近くに二番町教会の信徒の方が家庭を開放して土曜学校を開いていたのがきっかけで、何度か転勤があって、高三の時に洗礼を受けました。その教会の牧師が、上京する母に日本橋教会に知っている牧師がいるから行きなさいといわれて、行くようになりました。そこで両親が出会い結婚しました。その青年会に山ノ下先生もおられました。私の母は、山ノ下先生のことを語るときはいつも、「山ノ下君、可愛かったのよ」といいます。この話を山ノ下先生にするとニコニコして、「あの頃はきれいな女子青年がいっぱいいたんだよね」、と仰います。それで私が生まれたというわけです。私は神学校時代に、牛込払方町教会の祈祷会に毎週通いまして、今ここにいる仲間たちと聖書を読み、祈りました。これは私にとって欠くことのできない貴重な宝の一つです。

 イザヤは言います。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり わたしの道はあなたたちの道とは異なる」私たちはこうなるだろう、こうなるはずだと思っていますが、それと異なるというのです。そういうとき、私たちは何だ違うじゃないかとがっかりするのです。でも神様の道は、私たちの考える道とは、時には異なる。「天が地を高く超えているようにわたしの道はあなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」

 主イエスは仰いました。「わたしは道であり、真理である。」ルカはテオフィロにもこの道を歩んでほしいと願います。この道が確実だということをまだ確信できないテオフィロに。この「確実」という言葉は興味深い言葉です。例えばある聖書の箇所をお読みします。皆さん思い出すと思います。

 「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの。」先週礼拝に来た方はアッと思うでしょう。先週の礼拝のみ言葉です。ヘブライ書の第6章19節。錨。この錨について、魂にとって頼りになる、この頼りという言葉が「確実」という言葉です。丁度、船が嵐の中で錨を降ろすと、その錨は頼りになる確実なものであって、どんなに海が荒れても船が流されない。私どもにとっての希望も同じだ。私どもで言えば、海底に錨を降ろすのでなく、天に向かって錨を投げ込むのだとカルヴァンも言いました。この「頼り」という言葉が「確実」ということです。または、この確実という言葉から、皆さまが今朝歩いてきたアスファルトという言葉が生まれました。舗装された道。ぬかるんだ道は足が取られますが、アスファルトの道はしっかり歩けます。

 ルカは、この後、物語の中で道を歩く二人の人物を描きました。エマオという村に向かう二人の旅人です。キリストは死んで、復活したなんて言う輩がいるけれども、信じられない、もうすべては終わったと思って彼らは故郷に帰って行く。その途中で、どこからともなく旅人がやってきて一緒に歩き始める。「何でそんなに暗い顔をしているのですか」「あなたはエルサレムで起こったことを知らないのですか」「どんな話ですか」。実はその人物は復活したキリストでした。キリストは、「預言書から始まって聖書にこう書いてあるでしょ、メシアは苦しみを受けて復活する、と書いてあったでしょ」と語る。ところが、二人はこの方がキリストだと分からないのでした。やがてエマオの彼らの家に到着し、一緒にご飯を食べる。キリストがパンを裂きました。聖餐を思い起こします。その時、彼らの心の目が開け、ああ、イエス様だ、と分かる。その瞬間キリストはすっと消えていなくなります。面白いことに二人は、その時がっかりしたどころか、「ああ、イエス様は一緒にいるんだ」、ということが分かり、立ち上がってまた道を引き返してエルサレムに帰って行くのです。同じ道です。しかし、彼らの心の中には、暖かい灯が燃えていました。「この目で見ることはできないけれども、イエス様は私たちと一緒にいるんだ、一緒に歩いているんだ、どこに行ってもキリストは一緒なんだ」と気づき、この歩みがどんなに確実であるかを知って、エルサレムに帰って行きます。

 ルカはこのような歩みを、テオフィロを始め、多くの者たちにしてほしいと願うのです。考えてみますと、福音書というのはできるだけ多くの人に読んでほしいと思って書くはずなのですが、形としては、一人のために記されたものとして、「敬愛するテオフィロ様」と書かれています。どういうことでしょうか。それは、神様は一人一人の魂に、あなたに、語りかけているからです。ですから、この福音書はテオフィロだけに書いたのではありません。彼は私どもの代表です。テオフィロに自分の名前を入れていいのです。

 神は、そのようなテオフィロたちを集めて、教会を立ててくださっています。テオフィロという名前に意味があります。二つ意味があります。一つは、神が、愛する者。もう一つは、神を、愛する者。神に愛されていることを知る者は、神を愛する者になります。ルカがそうでした。それはあなたのことでもあるのです。

 お祈りをしましょう。

 天の父よ。
 あなたがどれほどまでに、私どもを愛してくださったか、ただ独りの御子を遣わし、私どものために、罪に仕えていた私どものために、御子の生命でもって仕えてくださいました。
 私どもの先に、この愛に触れ、愛を目撃して、御言葉に仕える者となった大勢の信仰の先達があります。確実な道を歩み抜きました。私どもにも歩ませてください。
 あなたの愛をもっとさやかに見ることができますように、より力強くあなたに仕える者となることができますよう、私どもはまだなっていない者に、私どもがなることができますように。
 多くのデマスたちのことを覚えます。どうぞ彼らの信仰を支えてください。
 私どもの思いをはるかに超えたところで、あなたのみ言葉が働いていますが、祈るばかりの私どもです。どうぞもう一度彼らを教会に呼び戻してください。
 どうか私どもをして、この暗い夜にあなたの灯を掲げる者とならせてください。
 敬愛する牛込払方町教会の皆様に主の祝福が豊かにありますように。
 共に、一人の主を仰ぎ、同じ主に仕えることができる幸いを心から感謝し、イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン

(説教者校正済)


20190217 主日礼拝説教  「私たちがもっている希望とは」  山ノ下恭二


(創世記17章1−8節、ヘブライへ人の手紙6章13−20節)
 
 本日は、ヘブライ人への手紙6章13−20節のみことばを読みました。この聖書のみことばは、私たちが持っている希望について語っているのです。
 「希望」と言う言葉を聞いて、皆さんはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。身近なところでは、母親が子どもに今日の夕食は何が良いですか、と希望を聞き、子どもはハンバーグを食べたい、と自分の希望を伝える、と言うことがあります。自分の願い、願望と言うことを希望と言うことがあります。
 こういう経験をした人もいると思います。例えば、身体の具合が悪くなり、病院で検査をして、その検査の結果を聞きに行き、医師から「検査の結果、問題がない、大丈夫です。」と言われて、自分がこれから生きることができる、その希望をもつことができた、と言うこともあります。また、家を探していて、なかなか良い住まいがなかなか見つからないで、困っていた時に、不動産屋から良い物件があるので一度、見に来ないか、という電話があった時に、住む家が見つかりそうだと希望を持つことができるということがあります。
 自分の願いが叶えられる、その期待を希望と呼ぶのです。現在は確かではないけれども、将来は確かになるということを希望と言う言葉として使っていることが多いのです。

 そのような意味での希望を持って生きていると、その希望が叶えられないと望みを失ってしまうのです。ユダヤ人で精神科医のヴィクトール・フランクルが「識られざる神」と言う本を書いています。このフランクルは第二次世界大戦のユダヤ人大虐殺・ホロコースト、アウシュビッツ強制収容所で生き残った人です。アウシュビッツ強制収容所にいたユダヤ人たちは、もうすぐ、ソ連軍が来て、収容所にいる自分たちを助けてくれるという話を聞いて、生きる希望をもって、その日を待ちわびたのですが、ソ連軍がその日に来なかったので、多くの人々は希望を失ってやがて、死んで逝ったと書いてありました。
 しかし、ソ連軍がその日に助けに来ることだけに希望を置いていたわけではなく、神の約束を信じていて、自分の使命をもっていた人は生き残ったのです。
 フランクルは「人生から何を我々は期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何を我々から期待しているかが問題なのである。」と書いています。「人生」と言う言葉を「神」と言う言葉に置き換えてみるとよく分かります。希望を期待と言う意味であると、期待していたことが叶えられないと、生きる意欲を失ってしまうのです。楽しみにしていたことがなくなってしまうと生きる張り合いがなくなってしまうのです。希望と言うのは、将来、完全な形で実現する見通しがあるということだけではなくて、しかもなお、現在も既に確かなものとしてあると言うことです。

 本日、読んだヘブライ人への手紙6章13−20節を改めて読んでみると、聖書にはほとんど出て来ない、珍しい言葉が出ているのです。それは、6章19節の言葉の中にあります。「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり」とあります。聖書にはほとんど出て来ない、珍しい言葉が出ているのです。それは「錨」と言う言葉です。 錨とは、船が港に入港して停泊をします、そのような時に錨を降ろし、錨を降ろすことによって、船を安定させる道具のことです。錨は船を停泊させ、繋ぎ留めるために、水中に沈めるおもりのことです。船が航海を終えて港に帰った時、また航海中に嵐に襲われ近くの港に避難した時、海底に錨を降ろすことにより、その船は安全であり、波に押し流されることはないのです。
 私は高校生の時に、このヘブライ人への手紙のこの箇所を読んでいた時に、この錨という言葉が印象的で、錨がどのようなものか、を知りたいと思ったのです。私の郷里の栃木は海がない県なので、錨を見たことはなかったのです。ある時、テレビに港が出て来て、船が錨を降ろしている場面が出ていたので、初めて錨を見たのです。船が錨を降ろすことによって、安定して動揺しない、風や嵐が襲ってきてもそれによって船が流されたり、沈没したりしないのです。
 船が海に錨を降ろすことによって、船が安定して動揺しない、風や嵐が襲って来ても、それによって船が流されたり、沈没する畏れはないのです。そのように船が錨を降ろすことによって安定する、その錨のようなものが希望なのです。船が錨をもっていないと、嵐が来ると、船が動揺し、右往左往して、船に乗っている人たちがあわてふためくのです。錨を持っているのと、錨をもっていないとはかなり違って来るのです。錨を持っていれば、船が安全なのです。

 私たちが持っている希望は、船が錨を降ろすことによって安定し、揺るがないように、私たちも確かなものによって支えられているのです。私たちは将来に不安を持ち、心配を持っています。信仰は、現在の問題だけではなく、将来に対しても深く関わるもの、確かなものを約束するものであるのです。
 現実的に、それぞれの年代によって自分の将来について思っていることは異なります。若い年代の人たちは、これからの自分の生活を考えて、漠然とした不安があります。年齢を重ねた人たちは心身共に弱っていき、自分が頼りなくなっていくことに不安を持つのです。そして辛いことは、親しい者が亡くなり、孤独を感じるようになることです。
 私は、親しい人を失って悲しんでいる人と面談することが多くありました。ある時は、娘さんを失って教会を訪ねて来た母親の話を聞いたことがあります。グロルマンと言う人が「愛する人を亡くした時」と言う本を出しています。このグロルマンは、親しい者を失うという危機に、家族をどのように援助するのか、を研究している学者です。「愛する子どもを失うと、親は人生の希望を奪われる」「夫や妻を失うと、共に生きて行くべき現在を失う」「親が亡くなると、自分の過去を失う」「親しい知人が亡くなると、人は自分の一部を失う」私たちは喪失経験をする、そのような時に、どのような姿勢で、どのように対処していくのか、と言う問題があるのです。この「愛する人を亡くした時」と言う本は「信仰」が大きな役割を果たす、信仰があることによって、失った悲しみを克服することができると書いてあります。希望と言うのは、目の前のことだけではなくて、死や死後の問題を含めて、そのような時にも、望みをもって対処することができると言うことなのです。
 「希望」「望み」と言うのは、単なる願望とは違うのです。淡い期待をいうものではないのです。聖書が示している望みというのは、将来に向かって明るく生きようと呼びかけているのではないのです。信仰が希望であると言うのは、希望するための確かな根拠があるのであり、望みへと向かわせるものです。

 「希望」ということを考える時に、聖書にはアブラハムが希望をもって信仰の生活を貫いた人として語られています。旧約聖書の創世記のアブラハム物語において、またロ−マの信徒への手紙4章、そして、本日のヘブライ人への手紙6章、そして11章において、アブラハムが希望に生きた信仰者として語られています。希望に生きた信仰者はだれか、と問われるならば、それはアブラハムであると答えざるを得ないのです。そして聖書は、アブラハムを信仰の模範、手本にするように勧めているのです。アブラハムは確かな希望に生きていたのです。確かな希望とは何なのでしょうか。アブラハムが与えられた希望とは何なのでしょうか。
 創世記17章を本日の礼拝で読みました。創世記17章1節以下によれば、神がアブラハムに声をかけてくださって、天幕の外に出て夜空の星を仰ぎ見ることを求め、その星のように、あなたがたの子孫の数を増やすと約束してくださったのです。ところが、いつまで経っても子どもが産まれないのです。しかし、アブラハムは神の言葉が実現することを信頼して、忍耐強く待ったのです。6章5節に「こうして、アブラハムは根気よく待って、忍耐して待つのです。」とあります。神が、確かな方であると信じて、その語られた言葉に望みをおいて、忍耐して待つのです。神が語られた言葉を確かである、アーメンと告白して、その告白をしっかりと自分の中に持ち続けること、それが信仰です。それが、希望を持った信仰なのです。
 神が語られた言葉を「確かである、真実である、信頼できる」それは元々、アーメンと言う言葉と同じ言葉です。神が確かに約束したことなので、信頼するのです。船が錨を降ろして、安定し、動揺しないように、私たちは神の言葉を真実で信頼できると信じて、その信仰を自分の深いところで、心の深いところで、持ち続けるのです。それが希望の根拠なのです。

 実際に、アブラハムは、神が具体的に約束をしてくださったことを実現すると信じていたのです。それは子どもが与えられると言うことです。老齢で子どもが産まれる可能性は全くないのだけれども、しかし、神がこの現実を切り開き、その可能性を開いてくださると信じたのです。そしてアブラハムの不真実にもかかわらず、神は可能とし、アブラハムに子どもを与えられたのです。老齢で笑うことも少ない生活の中に、子どもが与えられ、うれしくて笑うことができたのです。具体的に神は、アブラハムに子どもを与えてくださり、現実にアブラハムは子どもを与えられて、神が約束を反故にする方ではなく、神が語られる言葉は確かであり、神御自身が確かであることを、確信することができたのです。
 私たちが希望に生きると言うことは、どのようなことでしょうか。自分の心の中で持っている願い、淡い期待が叶えられると言うことではなく、神が確かなものとして与えてくださった神の言葉を信じて、そのことに望みをおき、自分の存在の深いところで確信し、動かないことなのです。
 しかし、アブラハムが、人間として確固不動で、全く揺らぐことがなかったと言うとそうではありませんでした。アブラハム物語では、神の約束がなかなか実現しないために、妻サラが女性ハガルを斡旋して、アブラハムとの間にイシュマエルと言う男の子を産ませるのです。現実を見て、神の言葉が実現することを疑うような人間の弱い面があるのです。しかし、アブラハムは望みをもって忍耐に生きたのです。苦しい場面、焦る場面があったにもかかわらず、忍耐をもって希望に生きたのです。

 ヘブライ人への手紙には実に多く「希望」という言葉が出て来ます。エルピス、エルピゾーと言う言葉です。なぜ、この言葉を多く使っているか、と言うと、それはたいへん厳しい場面にいるからです。このヘブライ人への手紙が書かれた時から3世紀のあいだ、キリスト教会は迫害に耐え続けていたのです。厳しい時には、カタコンベと呼ばれる地下墳墓に潜んで、そこで礼拝をしていたのです。ローマ帝国の官憲の人たちが常にキリスト者を探し出して、見つけたら逮捕していたので、当局の目を避けながら、礼拝する場所を変えて行ったのです。どこでその日曜日に礼拝をするのか、という目印の一つに錨の図柄を使ったのです。なぜ、錨の図柄を使ったのか、と言うことです。この錨にはその軸のところには十字があるのです。迫害の厳しい時には、十字架のシンボルを使うことも許されなかったのです。その意味で、十字架の代わりに錨を使用したのです。
 しかし、それだけではないのです。それは、このヘブライ人への手紙6章19節の言葉によるのです。つまり、錨は「希望」を意味するのです。6章19節「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり」とあるのです。迫害の中、たいへん厳しい状況の中で希望を失う、つまり、捕まって、殉教の死を遂げるような状況の中にあって、確かな望みというもの、しっかりした錨が自分の中に降ろされている、確かな望みに生きているということを改めて錨の図柄を見て、確信できたのです。

 先週、洗足教会に行きましたが、現在の洪牧師の前任者は橋爪牧師でした。退任する時に、「天に錨を投ずる」という本を出版されたのです。この錨のマークは洗足教会のロゴマークとして使われています。錨は海底に降ろすものですが、この本の題は「天に錨を投ずる」と言う題で、天に、上に錨を投げて、天と私たちとがしっかり結ばれて、固定されていることを意味しているのです。
 海底にではなく、天に錨を投げるのです。そのような言い方はとても珍しい言い方ですが、私たちは、天におられる神としっかり結ばれていて、この神によって固定されていくならば、どのようなことが起こっても、揺るぐことはないのです。

 ヘブライ人への手紙6章20節にありますが、実はこの錨はイエス・キリストのことであったのです。6章20節には「大祭司イエス」について語っています。錨をしっかり降ろすことによって、船は固定し、安定します。キリスト者にとってイエス・キリストは、まさにこの船にとっての錨の場合のように、どんなに荒れ狂う中に自分が置かれても、どんなに厳しい状況に自分があっても、しっかり自分自身を支えてくださる方であり、すべてを委ねていくことができる方であるのです。その意味でキリストは、私たちの錨なのです。

 このヘブライ人への手紙では、主イエス・キリストは私たちにとって本当に確かな方、私たちに「望み」を約束してくださる、動くことがない方であると言う面と同時に、もう一つの面があります。
 聖書がいつも問題にしていることは、神と私たちとの関係が壊れているということです。私たちがいつも自分中心に生きており、神との関わりにおいて罪があるために、神との正常な関係を持っていないということです。神と私たちとの関係を正常にしてくださるために、神が働いてくださっていると言うことです。私たちの人間関係でも一度、壊れてしまうと、会っても顔を背けてしまう、口を聞かない、相手がそこにいてもいないことにして無視してしまうことがあります。壊れてしまった関係を修復する、良い正常な関係に戻すのはとても苦労が要ります。
 
 イエス・キリストは、神と私たちの関係が正常にするために、私たちの罪を償ってくださったのです。大祭司は、神の前に、人々の罪の贖いの供え物をして、執り成し、人々が神の前に出ることができ、神が「わが子よ」と呼びかけてくれるようにするために働く者なのです。6章19節後半には「至聖所の垂れ幕の内側に入って行くもの」とあります。大祭司だけが、聖所(礼拝堂)の奥にある至聖所に入ることができ、大祭司だけが、罪の犠牲を献げ、神の前に直接、立つことができ、大祭司を通して、神の前に出ることができるのです。しかし、イエス・キリストがこの地上にお出でになり、すべての人のために十字架に架かられたことにより、この制限が完全に取り除かれたのです。主イエスが私たちの罪のために、その贖いをなしてくださり、私たちの罪のために、その贖いをなしてくださり、私たちの救いが成就したことによって、すべての人が自由に神の前に出ることができるようにされたのです。

 新幹線に乗ると、トンネルが多いことに気がつくのです。トンネルを作るために山を崩して、工事をして、トンネルを完成するのです。トンネルを作るために多くの人々が苦労したことを思います。私たちが神と交わることができるように、主イエスが「先駆者」、「さきがけ」、パイオニアとして、罪の贖いをささげて、私たちが、神と直接にお会いして、祈ることができるようにしてくださったのです。私たちは、キリストが切り開いてくださった、新しい道を歩むことができるのです。私たちは、いまや何も恐れることなく、この「先駆者」「さきがけ」である主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、その歩まれた道をそのまま歩むことによって、主なる神の前に立つことができるのです。
 私たちの存在の深いところにキリストがいてくださり、そこに揺るがない希望があり、錨が降ろされているのです。このイエス・キリストという錨が私たちの存在の深いところで降ろされているので、揺らぐことなく、将来においても確かなものとされているのです。
 そして、イエス・キリストが切り開いてくださった、神に通じる、新しい道に歩むことによって、歩むことができるのです。

20190210 主日礼拝説教  「一人前のキリスト者とは」  山ノ下恭二


(詩編1編、ヘブライ人への手紙5章11節−6章12節)

 児童精神科医師の佐々木正美さんは、「子どもへのまなざし」と言う三冊の本を書いています。子育ての母親に読んでもらいたい本ですが、この本には、親が子どもに対して愛のあるまなざしを向けることが大切であることをいろいろな事例によって解説しています。乳幼児から老年期まで、愛されて生きることによって人間として成長することが大切であることを書いています。

 本日はヘブライ人への手紙5章11節から6章12節まで長い箇所を読みましたが、ここには、私たちの信仰の成長と言うことを問題にしています。信仰が成長してほしいという願いが書かれ、キリスト者として成長するためにどのようにしたら良いのか、が記されています。洗礼を受けて、信仰がそのままであると言うのではなく、私たちの信仰が成長するためにどうすれば良いのか、が記されているのです。
 
 ヘブライ人への手紙5章10節まで、語ってきたことがあります。それは主イエスが大祭司として大きな働きをしていることを語ってきました。この手紙を書いた著者はその続きをこれからも語るつもりであったのです。ここまで書いてきて、この手紙の宛先のロ−マの教会の信徒たちのことを思い浮かべたのです。主イエスがメルキゼデクに等しい大祭司であることを詳しく語りたいと思っていたのですが、教会の信徒たちに分からせることが難しいと思ったのです。また、聞く側が理解することが難しいと思ったのです。この話を聞いている信徒たちが、あまりピンと来ていないと思ったので、ロ−マの教会の信徒たちに向けて、信仰生活について語らなければならないと思ったのです。

 この5章11節−6章12節のところを読んで、皆さんはどのように思われたでしょうか。語り口が鋭く、厳しいと思ったと思います。それは5章12節の言葉によく表れています。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに」とあります。洗礼を受けて、教会の会員になって間もないのではなく、すでに長い間、教会生活をしていて、本来ならば、この頃、新しく教会の群れに加わって来た信徒たちを指導する立場にあるはずなのに、と言っているのです。洗礼を受けて、もう何年も教会生活をしている人たちがいて、その人たちは信仰について既によく知っているのだから、人に教えることができるはずなのに、実際はまだ初歩の段階にある、と言うのです。

 献金のお祈りをお願いします、と言われて「わたしは祈りがよくできないので」と断る場面があります。教会学校の教師をしてほしい、と言うと「教会には長く来ているけれども、人に教えることはできないし、子どもたちに説教するなんてとてもできません」と断るのです。
 東大宮教会に在任していました時、木曜日に聖書研究・祈祷会があり、聖書研究を私が話した後に、祈祷会をしていました。この祈祷会では、主題を決めて、奨励を信徒がしていましたが、当番表を作ってお願いすると、奨励はできないと言う人が出て来たことがありました。
 
 洗礼を受けて、信仰生活の長い人であっても、教会の奉仕を引き受けることをためらう人が出て来るのです。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに」しかし、実際には、まだ初歩の段階だ、と言うのです。難しい話は分からない、乳を飲ませないと育たないような幼な子であって、固い食物を食べさせるわけにはいかない、それに似ている、と言うのです。信徒たちは年齢的には大人ですが、信仰においては実際には幼児なのだと言うのです。ここに、この手紙を書いた説教者の苦渋が表れているのです。

 このことは、この手紙が書かれた時代のことだけでなく、今の時代にもあることです。説教者、伝道者にいつも求められていることがあります。「分かりやすい話をしてください」と言われます。「説教が難しいので、分かりやすく話をしてください」と言われるのです。私も「分かりやすく」説教するように心がけていますし、説教の後に、「分かりやすかった」と言われると安心するのです。私たちには難しく思うのですが、このヘブライ人への手紙はこのロ−マの教会の信徒たちにとって難しいものではなく、分かりやすく、丁寧に解きほぐして語っているのです。そのような時に、どうしても難しいと思われることがあるのです。聖書の言葉は誰でも一度、聞いて分かるようなものではありません。信仰をもって読まなければ分からないのですから、すぐに一遍に分かるということはないのです。分かりやすい箇所だけを話すことはできないのです。分からない箇所も話さないといけないのです。
 難しいなぁと思ってそれで別のところを読むのではなくて、難しいなぁ、と思った箇所をひるまないで、そこへ飛び込んで、分かるまで、取り組んでほしいとこのヘブライ人の手紙を書いた人は願っているのです。

 1月28日に東京説教塾例会があり、聖書を黙想する作業をしたのです。ある聖書の箇所を選んで、3人の牧師が黙想したものを発表するのです。午後にした黙想の聖書の箇所は難しい箇所でした。どのような意味なのか、よく分からないで、会が終わったのですが、それぞれ、分かるまで黙想をするようにと言う指導者の言葉があったのです。

 私たちは聖書の言葉を簡単に分かろうとして、苦労しないで手に入れようとしているのではないでしょうか。苦労しながら難しい書物を読む、理解するということがなくなってしまっているのです。読書調査で「コミック、漫画はこれに入りません」とわざわざ言わないと、漫画の題名を書いてしまうのです。
 最近、どんな本を読みましたか、と聞くと、「教科書」と書いた学生がいました。大学では、学生たちに、専門的な難しい話をすると聞いてくれないので、どうやって学生を惹きつけるような話ができるかということを考えてしまうのです。難しく感じても、苦労してその意味を探り、その意味が分かることは喜びであるのです。苦労して真理を発見することはとても大切なのです。このことは他人事ではないのです。私たちも聖書の難しい言葉を避け、分かりやすい、自分の好きな、気に入った箇所だけを読んで、それで済ましているのです。
 
 ヘブライ人への手紙5章12−13節「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の)代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」幼な子であってはならない、おいしいもの、食べやすいもの、よくかみ砕いたものだけを与えられるところに止まっていてはならない、と言うのです。

 昨年の夏、NHKの教育テレビでミムラと言う女優と、現在、立命館アジア太平洋大学学長の出口治明と言う人との対談をしている番組を見ました。二人とも読書家です。出口さんが、本を読んだ後にその内容を自分でまとめるのに一番、良い方法は、読んだ本の内容を別の人に紹介するとよくまとめることができると話していました。私たちが、聖書を読んで、その内容を他の人に話すと、頭に入るのです。教会学校の教師は説教をしますから、説教のために苦労して聖書を学ぶことになりますし、子どもに伝える機会が与えられ、自分の信仰を豊かにすることができるのです。教会学校の教師をするのは、自分の信仰が成長するのにとても大切な奉仕なのです。聖書を読むだけではなく、祈る、他の人に伝える、証しを書く、そのことによって聖書のみことばが自分のものになるのです。

 そして、自分がキリスト者であることを公に言い表すことが私たちの信仰を成長させるのです。ある会社に勤めているキリスト者が自分がキリスト者であることを隠していたのですが、同じ会社にキリスト者がいて偶然、親しくなり、よく話すようになったのです。その人は自分がキリスト者であることをみんなに言っていて、この人がこの人もキリスト者であることをみんなに言ったので知られてしまったのです。この人がキリスト者であることを知った会社の同じ部署の女性が笑いながら「あなたがキリスト者だって」と言ったので、ばかにされたと思って、一所懸命に聖書の話をして、欠けがあり、落ち度もある者を愛する神の話をしたら、とても驚いて、一度、教会に行きたいと言って、通って洗礼を受けた、という話を聞いたのです。

 ペトロの手紙一 3章15節(p432)には「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」と語られています。ここで教会の信徒たちに求めて期待していることはどのようなことなのでしょうか。誰かが、あなたがたキリスト者はどういうところに望みをおいて生きているかと尋ねた時に、はっきりと自分はこういうところに生きる根拠を置き、望みを持っていると自分の言葉で説明できることです。これがキリスト者としての条件であると語っています。
 
 「キリスト者として、あなたは何に希望を置いていますか、キリスト者として生きがいとは何ですか。」そう質問された時に、きちんと答えることができると言うことです。「あなたは何に希望を置いていますか」と皆さんに質問をする人がいたら、皆さんは、どのように答えるでしょうか。「難しいことは分からないので、牧師さんに聞いてください」「聖書をよく読めば、その答えを知ることができます」と答えるかも知れません。自分は分からないのでというのは謙遜なようですが、自分の怠惰を隠していることになるのです。

 ヘブライ人の手紙5章11節以下で、本来はあなたがたは教師になっていて、他の人たちに指導できるはずなのに、あなたがたは神の言葉をきちんと聞いていないために、いつまでも最初の状態から一歩も前進していないと大変厳しいことを指摘して、堅い食物を食べることができず、消化の良い乳ばかりを飲んでいると批判しています。

 6章に入って、それではいけない、成長しなければ駄目だと語ります。2節後半に「キリストの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」と語ります。「成熟」と言う元々の言葉は「完成」「完全」と言う言葉です。新しい翻訳では「キリストの教えを後にして、完成を目指して進もうではありませんか」と訳しています。ここで誤解してはならないのは、「キリストの初歩を離れて」とあるので、信仰の基本を学んだりすることは意味がないと言っているのではないのです。ハイデルベルク信仰問答を学ぶことを退けているわけではないのです。基本的な教え、使徒信条、主の祈り、十戒などの基本の教理を土台にして訓練しなさい、と語るのです。洗礼を受ける前には学びがありますが、洗礼を受けた後は、学ぶ機会がないのです。自分が努めて訓練することが求められます。自分で訓練をするように努めていないと、洗礼の時と変わらないで、前進していないのです。
 
 礼拝に出席して説教と聖餐にあずかることが基本ですが、それだけでは、キリスト者として成長はしないのです。「完成」「完全」「成熟」と言うことは、神との関係が成熟していることであり、神との関係が完成していることです。自分のことが第一ではなくて、自分の考えや思いを優先するのではなくて、神のみこころを優先する、そのような生き方を身に着けることです。聖書を読まないで、自分の好きな小説を読む、聖書学の本をよんで知的な好奇心を満たすというのではないのです。それはいつも自己訓練をしていかないと堕落するのです。その人と話すとキリスト者の香りがする、生活態度がキリストを思わせるような印象を与える、そういうことが大切なのです。

 洗礼を受けた後は、学ぶ機会がないので、自己訓練をするしかないのです。そのようなことをしないと、洗礼を受けて、キリスト者であっても、キリスト者でない人と変わらない世俗的な話をしたり、考え方が世俗的である、ということになってしまうのです。自己訓練がないキリスト者が集まると、教会がただの社交場になってしまうのです。

 聖書のみことばを読んで、自己吟味していく、その訓練が必要なのです。「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」ある註解者は、この言葉を解説してある譬えを語っています。「たとえば自転車に乗る場合、ペダルを押し続けていないと倒れてしまうように、このペダルを踏み続ければ、速度はどんなであっても前進していくように、私たちが少しであっても自己訓練に励んでいる限り、その信仰は測定できないが前進し続けていると言える」神の前に自己吟味する、一日の中で、聖書のみことばを読み、祈る時間を取る、習慣にするのです。
 スポ−ツ選手が試合に勝つために毎日、トレーニングに励むように、私たちは神から賞与を戴くために、信仰のトレーニングに励むのです。

 この手紙は、私たちの痛いところをついています。きついことを語っています。確かに私たちの信仰の姿勢を正さないといけないのです。どこを正さないといけないのでしょうか。6章12節の言葉に注目したいのです。「あなたがたが怠け者にならず」と言う言葉が鍵となります。この「怠け者」と言う言葉と5章11節の「鈍い」と言う言葉は同じ言葉です。5章11節の「あなたがたの耳が鈍くなっている」と言うのは、別の言葉で言えば、「あなたがたは聞くことにおいて怠惰である」と言うことです。
 
 熱心に聞かない、聞くべきことを聞かない、その意味で聞くことにおいて怠惰である、と言うことです。聞きたいことしか、聞き取らない、おもしろく、やさしい、わかりやすい話しかきかないのです。難しい話でも自分から苦労してでも、聞くべきことを聞き取ろうということはしないのです。聞くことにおいて怠惰なのです。この手紙はその意味で聞くことで怠惰になってほしくないと言うのです。
 
 私たちはみ言葉を耳で聞いているのです。しかし、難しい話になるともう聞くことを辞め、分かりやすいこと、興味があることだけ、自分の関心があるところだけ耳を傾けるのです。自分の生活と関わりがないと思う話は聞かないのです。なぜそのようになるのでしょうか。それは、私たちの心の中に傲慢があるからです。今の信仰で良い、このままで良いのだと開き直っているのです。そこで信仰が止まってしまうのです。信仰が進歩せず、成長しないのです。
 
 私たちが信仰者として生きることは、いつも成長していくのです。ただ、信じていれば良い、以前と同じ信仰の程度で良いと言うのではないのです。イエス・キリストはどのような方か、何を私たちにしていてくださるのか、そのことについていつも熱心であるということです。イエス・キリストのことを学び続ける熱心さを持って欲しいのです。いつもイエス・キリストを学び続けることに疲れを知らず、そのことに怠慢にならない、ということです。

 ヘブライ人への手紙を書いた著者は、私たちが信仰者として成長して欲しいと言う願いをもって、厳しいことを語っていますが、私たちはキリストに愛された存在として、神が喜ぶような信仰の歩みをしていきましょう。


20190203  日礼拝説教  「私たちと共に涙を流すキリスト」  山ノ下恭二


(イザヤ書61章1−4節、ヘブライ人の手紙5章1−10節)
 
 私は聖学院大学で一年生にキリスト教概論を教えています。聖書の内容を詳しく話すのですが、クリスマスの意味を話すと、学生たちがよく分からないという反応を示すのです。クリスマスはイエスというキリスト教の教祖の誕生日ではなくて、神が自分の外に出て、肉体を取り、イエスと言う人間になられたことで、それは私たちの罪を贖うためだ、ということを話すのですが、イエスと言う人は神なんですか、と驚いたように言い、罪を贖うってどう言うことですか、という質問が来るのです。クリスマスと言う言葉を知っているけれども、クリスマスの本来の意味や贖い、十字架の意味は分からないのです。キリスト教概論では、旧約聖書や新約聖書の内容、キリスト教の歴史について教えているのですが、イエス・キリストについて詳しく教えなければいないのではないか、と思っています。

 わかりやすいキリスト教ゼミを礼拝後に行っていますが、永井春子牧師が書いた「青少年のためのキリスト教教理」と言う本をテキストに使っています。この「青少年のためのキリスト教教理」の第一問は「キリスト教とは何ですか」という問いです。皆さんは「キリスト教って何ですか」と問われたらどう答えるでしょうか。「私は分からないから、牧師に聞いてください」と言うわけにはいかないのです。キリスト教とは何ですか、という問いに対して、愛の宗教です、聖書の宗教です、と答える人もいるかも知れません。この青少年のためのキリスト教教理の第一問の答えは「キリスト教とはキリストです」とあります。私が初めてこの答えを読んだ時に、自分が考えていた答えと違っていたので驚いたし、この答えをよく理解できず、納得できなかったのです。しかし、よく考えてみると、「キリスト教はキリストです」と言う答えはキリスト教の本質をよく言い表しているのです。
 
 全く聖書を読んだことのない人が、聖書を読もうと思うのは、聖書に良い教えがある、自分の悩みに答えてくれる、慰めてくれる教えや言葉があるだろうと思って、聖書を開くことが多いのではないでしょうか。太宰治と言う作家は、よく聖書を読んでいた聞いていますが、太宰がよく読んだ聖書の箇所は、山上の説教のところに限定されているのです。マタイによる福音書に記されている山上の説教は、私たちの生き方を教えているように受け取ることがあります。太宰は、自分の救いのためと言うよりも、人間の生き方を学ぶために山上の説教を読んでいたのです。しかし、聖書は主イエスの教えよりも、主イエスの存在そのもの、主イエスがどのような方なのか、に関心をもっているのです。その意味で、「キリスト教はキリストです」と言うことは正しい答えなのです。

 主イエスが私たちと同じ人間として、この地上で生活を過ごされた、そのことに私たちは親しみを持つのです。人間として、様々なことを経験したのです。主イエスが病を癒す医師として生き、最底辺で生きている人の友として生き、みんなから排除され、差別されている人々の味方として生きた方として尊敬されていたのです。その意味で主イエスは身近な存在であったのです。神の愛を伝えた優しい人として理解している人は多いのです。それは理解しやすく、みんなに受け入れやすいのです。そのような人間の生き方を模範として生きて行こうとする人もいるのです。主イエスの振るまい、優しさ、愛に共感してそれをお手本にして生きて行くと言うのです。
 確かに主イエスは、そのような人間としての一面があるのですが、それだけではないのです。主イエスの存在、それは不思議な存在なのです。主イエスは私たちにとって身近な存在ですが、不思議な存在なのです。それは、私たちを遙かに超えた存在であったからです。東京神学大学に在学していた時に、学部4年生の時に、自分の専攻を決めて、その専門の授業を受けることになっていました。私は新約の専攻で、松永希久夫先生の授業を取ることになったのです。この授業では、イエスについて書かれた本を読んで、発表することになりました。同じ新約専攻であった友人とイエス伝の発表について話していましたら、その友人が「実はイエスが神と同じ者だということを初めて知った」と言ったので、私は「そんなことを考えてことがない」と言ったことを覚えています。この時まで、私は主イエスが神と同じ存在であることを知らなかったのです。

 主イエスはこの地上に実在し、人間として生きたのですが、主イエスは私たちにとって身近な存在ではなくて、私たちを遙かに超えた存在なのです。イエスが神であり、人間である、と言うのは、人間の理性によっては理解されないし、受け入れられないのです。主イエスが神であり、人である、と言うのは、私たちのための救いのためなのです。神と私たちとを和解させるために、神が決心して、企てたことなのです。私たちは、誰とでも、正常な良い関係をもって気持ちよく過ごしたいと願っています。しかし、一度、関係が壊れてしまうと良い関係に回復することは難しいのです。信頼していたのに、あることから関係が壊れて、互いに相手を憎み、疑い、不信頼になり、口も利かないそのような関係になってしまうのです。和解して互いに尊敬し合う、良い関係になってほしいことがあります。神との関係が壊れてしまった、その壊れてしまった関係を回復する、和解する、そのためにどうしたら良いのか、と言うことです。神は深い知恵によって神の救いを成し遂げようとするのです。神が主イエスを選び、主イエスがその使命を受けて、この地上に派遣されて来られたのです。私たち人間を遙かに超える神の存在として主イエスはおられるのです。

 今日、この礼拝で読んだヘブライ人の手紙5章1−10節には、主イエスを大祭司として働いている存在として語っています。私たちは、大祭司と言う言葉を聞いてもイメ−ジが浮かびませんが、神と人々との正常な関係を保つために、祭司は大きな働きをしていたのです。この手紙は、主イエスの働きが大祭司の働きであると語ることによって、神が私たちのために、私たちの救いのために大きな働きをしていることを明らかにしているのです。
 ヘブライ人への手紙2章17節に、大祭司について次のように記されています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟と同じようにならねばならなかったのです。」この言葉によれば、主イエスが大祭司にならなければならなかった理由は、まず第一に「民の罪を償うため」であり、さらにそのために「あらゆる点で兄弟と同じようにならなければならなかった」からです。大祭司の務めは、民の罪を償うことであり、それはなすべき務めであったのです。
 
 5章1節に、「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。」とあります。ここには、主イエスが大祭司としての職務をもって、その務めに任命され、その務めを担ったことが記されています。この5章では、大祭司の資格について語っているのです。5章1−5節には、大祭司の資格は、人間の間から選ばれるものであり、人間に対して深い思いやりをもっていることであり、大祭司の位は神より与えられたものであると言うのです。5章2節には「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」とあります。
 この「思いやり」とは、どのような意味で言っているのでしょうか。「思いやりがない」と言うのは、人が苦しんだり悩んでいるのを外側からただ見ているだけで無関心であるということですし、そのように悩んだり、苦しむのは、しっかりしないからだ、知恵がないからだ、と軽蔑することです。逆に、「思いやり」があると言うのは、相手の悩みや悲しみに同じ感情を持ち、一緒に悲しむ、そのような人を思いやりのある人だと言うのです。しかし、そのような意味で「思いやりがある」と言っているのでしょうか。「思いやり」があると言っても、相手の気持ちにのめり込んでしまい、そのことによって、その人を助けることができないことがあります。悲しい話を相手から聞いて、そうだね、そうだね、と言って共感するのは良くても、それだけでは、相手を立ちあがらせることはできないのです。相手からよく話を聞いて、その思いをしっかり受けとめるけれども、本人が立ち直るためにどうしたら良いのか、を冷静に助けることができることが、思いやるということです。

 ドイツの教会での話ですが、ある女性が若くして最愛の夫が死別して、悲しみに暮れ、立ち上がることができないでいた、ある日、この女性が属していた教会の牧師が訪ねて来たのです。この女性は悲しくて祈ることはできないと言ったら、「あなたが神に祈れないほど悲しんでいることはよくわかった」と言って祈ることなく帰ったのです。それからしばらくしてこの女性のところに、カトリック教会の神父が訪ねて来て、この婦人はその悲しみを語り、悲しくて祈ることはできないと言ったので、神父は「神に祈れなくなったと言うが、そんなはずはない、あなたは小さい頃から教会で祈ってきたのだから、祈れるはずだ、主の祈りを祈ろう」と言い、一緒に声を合わせて何度も何度も主の祈りを祈ったところ、彼女の心が解かされて、涙を流しながら、自分の悲しみを神に告げるようになった、と言うのです。
 相手の悩みや苦しみを聞いて、「そんなことで悩んでいるんですか」と突き放すことは思いやりがあるとは言えないし、悲しみや苦しみをただ共感するだけでも「思いやり」があるとは言えないのです。無関心で批判的に見ていると言うのでなくて、その人に共感するけれども、のめり込まないで、冷静に判断できることなのです。
 
 大祭司と言うのは、神の立場も分かり、人の立場も分かるのです。相手の立場が分かることが大切なのです。たとえば、相手と同じ病気に罹った人は、自分が同じ経験をしているので、相手の苦しみや悩みがよく分かるのではないでしょうか。相手と同じ悩みを経験していない人は相手がどうしてそのような悩みを持つのか、分からないのです。相手の立場に立つことができるのは、自分も同じ悩みを持ち、自分も弱さを身にまとっていることをよく知っているので、その人の立場に立つことができるのです。自分は完全で誤りがなく、弱さを持たないと言うのではなく、自分も弱く、間違いを犯し、悩むもので、その弱さに気づいて、その人を思いやるのです。この「思いやり」と言う言葉を、バークレーは次のように解説しています。「この『思いやり』と言う言葉は、いら立たず、迷惑がらずに忍耐して人に接する能力である。愚かな人、分かりの悪い人、同じことを何度聞いても一向に理解できない人に対してもいらだちを抑える能力である。他の人の過ちを怒ったりせずに、優しく、力強く相手の気持ちを察し、忍耐して、その人を正しい道に連れ戻す態度である。」
 
 神との正常な関係を保つためには、私たち人間が罪を犯すことなく、生きなければならないのです。しかし、私たちが罪を犯さないで暮らすことはできないのです。イスラエルの民は、自分に代わって動物を犠牲としてささげて、神に罪を赦してもらうために、神殿に行って祭司によって執り成してもらっていたのです。神殿にいる大祭司がイスラエルの民の罪を償うために、動物の犠牲をささげて、償いをしたのです。大祭司は、神と人との間を取り持ち、良い関係を保ち、神の赦しを人々に告げたのです。
 
 重要なことは、旧約の大祭司と主イエスとは違っているのです。エルサレム神殿の大祭司は、動物を犠牲としてささげたのです。しかし、大祭司イエスは、御自身を犠牲としてささげた、そのところにおいて全く異なるのです。大祭司は動物の犠牲をささげるけれども、自分を犠牲としてささげることはしないのです。しかし、主イエスは、大祭司として神と人間との関係を正常にする、その役割を持っているのと同時に、犠牲のささげ物として自らをささげるのです。 動物をなだめのささげ物としてささげる、それは、その動物を殺して、肉を裂き、血を流すことであり、それは痛みを伴うことです。その痛みによって苦しむことになるのです。主イエスご自身が、ご自身のからだをささげて苦しむのです。十字架にかかって肉をさき、血を流して、私たちに代わって自ら犠牲として捧げるのです。
 ヘブライ人への手紙4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」とあり、この「同情」と言う言葉は、シンパシー、「共に苦しむ」と言う言葉を用いています。「思いやり」かわいそうだと思う、と言うのではないのです。主イエス・キリストは叫びをあげ、涙を流された、それほどの同情をもって私たちのために苦しみ、犠牲をささげたのです。
 主イエス・キリストは私たちの罪を贖うために、私たちのために、私たちに代わって、叫びをあげ、涙を流し、苦しまれたのです。
 東京神学大学の熊沢義宣元教授は晩年は心臓病でなくなったのですが、しばらく入院されていた時期がありました。その経験から、こういう話をされたことがあります。その闘病生活で知ったことは、今まで、神は手の届かない、遙か遠くの天におられると思っていたが、自分の寝ているベッドの下におられて、自分のために共に苦しんでくださっていることが分かった、と言うのです。
 
 ヘブライ人への手紙5章7節には「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力ある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」と語っています。ご自身の肉の日々、主イエスは降誕されて、私たちと同じように肉体をもち、同じ人間の心と肉体とを御自身のものとしてくださって、その後、三十何年か生きられ、その日々、一日、一日が叫びと涙であったと言うのです。その中にあっても、「祈りと願い」の日々であったと言うのです。
 
 福音書には、主イエスがいつも、祈りをしておられたことが記されています。その祈りとは私たちの救いのための祈りであり、神のみこころが行われる祈りなのです。この5章7節の言葉は、ゲツセマネの祈りのことを指しているのです。主イエス・キリストの十字架の受難において、主イエスが逮捕される前の夜にゲツセマネの園で涙をもって祈られた、その祈りのことです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。(略)イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血に滴るように地面に落ちた。」(ルカ22章42−44)この祈りだけに限らず、主イエスは叫びをあげ、涙を流しながら、祈り続けたのです。いのちを注ぐ祈りであったのです。主イエスはまさに死に直面し、死に向かって立ちながら、神に叫ばずにはおれない畏れを抱いたのです。
 最近、ある牧師が、現代に生きる人々のことを「今だけ、金だけ、自分だけ」と言う言葉を知って、この言葉は現代日本に生きている人たちの生活の姿をよく言い表していると言いました。この言葉は、神を忘れ、神のみこころよりも自分の考えを通し、お金や財産や学歴に頼り、今が楽しければ良いと刹那的な生き方をしている人々に対する、痛烈な批評なのです。

 「今だけ、金だけ、自分だけ」そのような神から離れて生きている、罪に対する罰、審判、を主イエス御自身がまともに引き受けて苦しみ、悩み、死を恐れ、悲しみを十分に味わいつつ、涙を流して、執り成しをなさったのです。私たちが審かれないように、私たちに代わって十字架の審判の死を死なれたのです。私たちは一人で死にます。死は怖いのです。しかし、主イエスは、最も厳しい死を経験されたのです。最も厳しくて、恐ろしい死を経験されたのです。神の審判による死なのです。私たちに代わって、私たちのために、神に祈り、執り成しをするばかりではなく、自ら犠牲を献げ、審判の死を引き受けてくださったのです。そのことによって、私たちは神の前に罪ある者でなく、義しい者となったのです。神と同じ方であると同時に、最も人間的な方として、大祭司として、私たちを救う神の業をなさることができたのです。

20190127 主日礼拝説教 「神は苦しみの時のとりで」  山ノ下恭二


(詩編9編1−21節、ヨハネによる福音書16章33節)
 
 私は、1月21日(月)−23日(水)に富士山の裾野にある、聖心会マリア修道院・黙想の家で行われた説教塾リトリ−トに参加しました。リトリートとは、「退く」と言う意味の言葉で、退修会とも言うのですが、今回は、ドイツの説教学者であるボーレン先生が書いた、「祈る−パウロとカルヴァンとともに」と言うテキストを読みながら、祈りについて学び、祈りの言葉を各自が書いて、祈りを深めると言うプログラムでした。この「祈る」と言う本は、それぞれのページに主題があり、主題にふさわしいテモテの手紙二のみことばから選ばれた短い聖句があり、そしてボーレン先生が作詩した祈りの言葉があり、カルヴァンの著作からの短い言葉が引用されているのです。
 このリトリートでは、特にボーレン先生の短い祈りの言葉を辿って、その意味を話し合い、祈りについて思いを深める作業をしました。

 一つの詩を紹介しますと「試練」と言う主題のところには、ボーレン先生は、次のように書いています。「さまざまな不安が我らのもとに鳥のように飛んできて 我らの内に巣を作ろうとするとき、我らはあなた、聖き霊のもとに逃れる。あなたはすでに我らのもとにいます。我らがあなたの内に沈められた時からすでに。あなたはすでに我らを強め、愛する力をくださる。我らが愛せないその処でも。」

 このリトリートにドイツに長く留学された楠原牧師が参加していたので、ドイツ語の原文を翻訳し、解説してくれました。先ほどの翻訳とは違う訳です。「もろもろの不安が私どもへと鳥のように飛んで来て、私どもの中に巣をつくるならば、私どもはあなたに向かって逃れます、聖霊よ、あなたはすでに私どもとともにいてくださっています。私どもがあなたの中に洗礼によって入れられてから。あなたは私どもを強くし、愛する能力を与えてくださいます、私どもが愛する事ができないところにおいても。」

 私たちは毎日、生活をしていますが、様々な不安を持ち、私たちは思いがけない災難に遭うことがあります。周りの人々から理不尽な扱いをされることもあるのです。そのような時にその苦しみを抱え込んでしまい、どうすることもできないことがあります。穴の中に入り、暗い闇の中にいるような思いがするのです。助けを求めても誰も助けてくれる人がいないと思うのです。  
 
 本日の礼拝で詩編9編を読みました。この詩編を書いた詩人は、弱い立場にあり、周りの人々から圧迫されて苦しんでいたのです。社会で財力も地位もある有力者から、不当な、理不尽な扱いを受け、心が弱っていたのです。いつも圧迫されていたので抵抗する力も弱くなっていたのです。

 しかし、この詩人は自分の苦しみを抱え込んでたたずんでいたのではないのです。この詩人は神に叫び、神に願うことができたのです。9編14節「憐れんでください、主よ 死の門から引き上げてくださる方よ。御覧ください わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。」と叫ぶことができたのです。神に自分の今の状態を知ってほしい、今、自分は自分を憎む者によって苦しめられているのだ、そのことを神が知って理解してほしい、と願っているのです。

 私たちは思いがけない災難に遭うことがあります。突然なので、パニックになってどうすることもできないのです。いじめを受け、理不尽な扱いをされることがあります。そのようなことがたびたびあるといじめや理不尽な扱いをされたことに心が支配され、他のことは考えることができなくなることがあります。学校でいじめを受けている少年から電話を受けたことがあります。会社でいじめを受けて、その会社を辞めようかと迷っている女性の電話を受けたことがあります。心の中にある悩みを話して、「楽になりました」と言って電話が終わったのです。「苦しい」と叫び、自分の苦しいという気持ちを受け止め、理解する人がいると気持ちがとても楽になります。
 しかし、詩編9編のこの詩人は、心の中で苦しんでいる叫びを神に語って終わってはいないのです。全部、自分の気持ちを吐き出して、すっきりしたということで終わっていません。
 
 この9編は21節ある比較的長い詩編です。この詩編には「鍵」となる言葉があります。「鍵」となる言葉は「御座」と言う言葉です。9編5節にあります。「あなたは御座に就き、正しく裁き、わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。」8節にもあります。「主は裁きのために御座を固く据え とこしえに御座に着いておられる。」今まで、この詩人は、自分を憎んでいる周りにいる人々のことが、この詩人の心を支配していました。しかし、この詩人は「御座」にいます神に祈り、訴えることによって、御座にいます神に心を向け、御座にいます神に全面的により頼んでいるのです。「神が御座」に着いているのです。それは神がすべてのものを支配し、この地上で地位も財力もある有力者がいつまでも支配しているのではないのです。御座にいます神が支配し、正しい裁きをしてくださることを確信しているのです。5節「あなたは御座に就き、正しく裁き、わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。」御座にいます神が、すべてを支配し、自分の敵を滅ぼし、正しい裁きをしてくださっているのだ、と信じているのです。
 6節−7節には「異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし、その名を世々限りなく消し去られる。敵はすべて滅び、永遠の廃墟が残り あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。」と歌っているのです。

 この詩人は御座にいます神に信頼して、神が正しく御心によって支配し、裁いてくださっていることを信じているのです。どんなに大きな力が働き、私たちの現実を支配していても恐れることはないのです。御座に着いている神を信頼しているので、この詩人は神を賛美することができるのです。
 2節−3節「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ 驚くべき御業をすべて語り伝えよう。いと高き神よ、わたしは喜び、誇り 御名をほめ歌おう。御顔を向けられて敵は退き 倒れて、滅び去った。」

 現在、学校で「道徳」が教科とされています。「伝統文化の尊重」「民族の自覚と誇り」「郷土愛」「国を愛する心」につながる内容が書かれています。これは「日本国あっての自分」「国家あっての個人」へと意識を醸成するものと理解されているのです。個人の尊厳、人間性の回復には触れていないもので、国家主義につながるものであるのです。この背後にある思想は若い人々を国に仕える「民草」となるように教育することであり、国家の期待する人材を養成することにあります。このような教育によって知らず知らずのうちに国家に都合の良い人材になるように仕向けられてしまう。国家の支配体制に入れられ、管理されてしまうのです。

 国家がその人の人生や生活を支配することはできても、心まで殺すことはできないのです。主イエスは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と語っています。権力を持つ者を恐れることがあります。しかし、恐れることはない。御座にいます方がすべてを支配し、この歴史を導いておられ、有効な手だてを持っているのです。

 ある本に、現代人は、恐怖心はたくさん持っている、視線恐怖、閉所恐怖、高所恐怖、対人恐怖など、多くの人は恐怖心をもっている、と書いてありました。しかし、まことの神を恐れることによって、この恐怖心から解放されるのです。それは御座にいる神がすべてを支配しておられることを信じることができるからです。御座にいます神がどのようなところにおいても、支配し、守っていてくださっているのです。自分のいのちが脅かされるように思っても、御座にいます神が、自分を四方から取り囲んで守ってくださるのです。神が自分から離れて遠くから見下ろしているというのではない、自分の周りを囲んで、自分を滅ぼそうとする者から守っていてくださるのです。

 10節「虐げられている人に 主が砦の塔となってくださるように 苦難の時の砦の塔になってくださるように。」私も含めて「砦の塔」というのは見たことがない人が多いのです。時代劇にでてきますが、敵が攻めてくるかどうか、見張ることのできる塔のことです。敵が攻めてきても、高い塔にいれば安全を確保することができる高い塔のことです。
 
 「砦」という言葉は元々、「高い」という言葉です。四国の松山城に行ったことがあります。高い山の上に城があり、ロープウエーで山に登り、そしてさらに山を登って、城門にたどり着くのです。天守閣から瀬戸内海、愛媛大学、松山市内が見渡せるのです。こんなに高いところだから、敵が攻めるのは難しいと思いました。難攻不落の城で、上から銃で撃ち落とすことのできる四角の穴もあり、城が陥落することはないと思いました。
 
 神が砦の塔となってくださるのです。神は虐げられる者、苦難の時の砦の塔となってくださるのです。高い塔であれば、敵は手出しはできず、安全であるのです。神は安全な避難所となってくださるのです。どんなことがあっても安全なのです。それは神は四方から私たちを守っていてくださるからです。私たちには逃れることのできる安全な避難所、砦の塔がある、用意されているのです。

 イザヤ書33章16節(旧約p1113)には「このような人は高い所に住む。その高い塔は堅固な岩。彼の糧は備えられ、水は絶えることがない。」と語られています。常に安全な避難所がある、つまり、私たちを守ってくださる神が共におられるので、心配をしたり、自分の身を守る必要はないのです。心配しないでいられるのです。主は災いがふりかかる時、砦となってくださるのです。
 詩編37編39節(旧約p870)に「主に従う人の救いは主のもとから来る 災いがふりかかるとき 砦となってくださる方のもとから。」と書かれています。先ほど讃美歌286番を歌いましたが、この讃美歌は詩編46編を歌った讃美歌です。一番の歌詞は「かみはわがちから わがたかきやぐら くるしめるときの ちかきたすけなり」。  
 
 私たちは苦しむことがありますが、いつも御座におられる神は支配し、砦の塔となって私たちと共に戦ってくださるのです。旧約聖書・ナホム書1節には7(旧約p1459)「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり 主に身を寄せる者を御心に留められる」と語られています。

 私たちは、使徒信条で「全能の父なる右に座したまえり」と告白しています。イエス・キリストは神の右に座しておられます。しかし、この地上でその姿を見ることはできません。イエス・キリストはこの地上では不在なのです。私たちは信仰によって、イエス・キリストがおられることを信じているのです。見えるものによってではなく、見えないけれども、信仰において、イエス・キリストを見ることができるのです。

 この地上での生活が苦難に満ちたものであっても、私たちは、上にあるものを求めていくのです。私は大学でこの2年は、中国人やベトナム人の留学生のクラスを受け持ちました。在日中国人、在日ベトナム人なのです。日本に住んでいるけれども、本国は中国ですし、本国はベトナム人なのです。
 私たち在日キリスト者です。日本に住んでいながら、本国は天にあり、本籍は神のもとにあります。私たちは、天に国籍をもっている、よそ者なのです。

 主イエスは神の面前で、私たちのために、神に執り成してくださっているのです。私たちは肉体をもっていますので、過ちを犯し、誘惑を受け、神に従う心を失うこともあるのです。そのような私たちのために、イエス・キリストは私たちのために、罪人として取り扱うことがないように、執り成してくださるのです。

 ロ−マの信徒への手紙8章24節には「だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」私たちの罪が赦されている期間に限りはありません。保険のようにある年月が経過すれば、保証期間が終わる、有効期間があるというのではないのです。主イエス・キリストは、「弁護者」として神のそばにいて、私たちのために、弁護してくださっています。キリストの執り成しによって、私たちは、赦しの恵みにあずかることができるのです。

 私たちの生きる根拠地は天にあります。私たちは神に根拠をおいて生きているのです。この地上で生きることは、苦労があり、不条理なこともあり、悩みを抱えて生きなければなりません。神を見失いそうになり、信仰を失いそうな苦難を受けることがあります。しかし、天において、私たちは神に覚えられており、執り成しを受けているのです。私たちを愛し、祈り、支えてくださっている神を持っているのです。

 最初に紹介した、ボーレン先生の「祈る」と言う本の終わりのほうに、「夜の祈り」と言う詩があります。この詩を楠原牧師訳で紹介致します。「わたしが眠れても あるいは眠れなくても、あなたの恵みが眠ることはありえません。わたしが働いていても あるいはわたしがしたいことを、できなくても、あなたの恵みは働いています。わたしの眠りが ベッドの中で短いものであっても あるいは土の中で 長いものでありましても:あなたは目覚めておられます。そしてわたしを目覚めさせてくださる、私があなたに向かって目覚めますように。」

20190120 主日礼拝説教 「弱い時に強い」 山ノ下恭二


(イザヤ書61章1−4節、ヘブライ人への手紙4章14−16節)

 私の高校生の時からの友人が「秋川キリスト集会」を主宰していて、毎月、「集会だより」を送ってくれます。12月号を読んでいたら、名古屋の金城教会の畑雅乃牧師の講演が掲載されていました。この畑牧師は看護師をしていましたが、その後、東京神学大学で学び、現在、牧師をしています。講演の題は「深夜のナースコール」と言う題です。畑牧師は、14歳の時に全身麻酔をする手術をしたとのことで、その時の検査で心臓疾患があることが分かり、医師から28歳までしか生きられないと告げられ、自分が死ぬことの不安に襲われたそうです。この講演の中で次のような文章がありました。「あと数年で自分に訪れる死。家族とも別れなければならない、死ぬということは生まれる前のところに戻ることなのか。無の世界に一人ぼっちになるのか。何だろう。いくら考えても、理不尽で、恐ろしくて、さみしくて・・・・漆黒の闇の世界。私の中に誰にもぶつけようのない怒りがこみ上げて来て、やがて神様も見えなくなっていきました。あるとき(クリスチャンの)祖母のところに行き、眠れない不安を訴えました。そのとき祖母は『私は、まーちゃんより先に天国に行くから、そこでイエス様にまーちゃんのところに会いに来てくださるように頼んであげるよ。イエス様が天国に行く道を作ってくださったんだから、その道に従って行けばいい。聖書に、`死よ、汝の勝ちはいずこにありや。死よ、汝の棘はいずこにありや`と書いてあるだろ。だから心配せんでいいよ』と言ってくれました。それから、私は安心し安眠できるようになりました。」自分が死ぬことの不安をもって眠れない日々が続いたときに、祖母が、イエス・キリストがそばに来てくれることを語り、この言葉によって、この人は立ち直ることができたのです。
 
 本日の礼拝で、ヘブライ人への手紙4章14−16節を読みました。4章14節に「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と記されています。「公に言い表している信仰」とは、主イエスは神であり、救い主であると言う信仰告白のことです。
 現在の私たちの教会のことで言えば、私たちの教会は日本キリスト教団に属していますので、日本キリスト教団信仰告白のことです。礼拝では、使徒信条を告白していますが、洗礼式には、この信仰告白を告白しています。洗礼を受ける時に、この告白に同意をして洗礼を受けるのです。洗礼を受けた者が、公に信仰を言い表して、信仰生活を始めるのです。この信仰告白を、教会の礼拝においても、繰り返し、公に言い表し、保ち続けるのです。

 ここでは、公に言い表した、その信仰をしっかり保とう、持ち続けてほしい、手放さないでほしい、とそのような祈り、願いが、ここに記されています。
 このヘブライ人への手紙は、イエス・キリストが私たちの大祭司であると言うことを語った手紙です。イエス・キリストの救いのみわざが、何であったのか、ここでは、大祭司イエスということを集中的に語っています。

 大祭司と言う言葉を聞いた方もおられるでしょう。大祭司は旧約聖書に登場しますが、それは神と民、人々とを結び付ける、とても大切な働きをしてきたのです。神と民とを結び付ける絆として、大祭司が重要な働きをしてきたのです。大祭司がその働きを果たすためには、人間との間に、また神との間に完全な交わりを保たないといけないのでした。大祭司は神の言葉を伝え、神がおられることを人に示し、人を神のみ前に導く役割を持っていたのです。従って、大祭司は、神と人とを完全に知る者でなければならないのです。この大祭司の存在によって民は安心して生活することができたのです。
 ヘブライ人への手紙は、私たちと神との絆を結ぶものとして、主イエスこそが偉大な大祭司であると語っているのです。大祭司イエスとは、どのような方であるかを、この4章の14節から始まり、5章から10章に至るまで詳しく語るのです。4章14節を読みますと「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」と記しています。「神の子イエスが与えられている」と言う言葉は元々、「持っている」と言う言葉です。「偉大な大祭司、神の子イエス」を持っていることは、「公に言い表している信仰を保つ」ことになると言うのです。この二つは深く結びついているのです。私たちが信仰生活を続けていくためには、主イエスが大祭司としての働くことが欠かせないと語るのです。
 
 大祭司イエスの存在が、私たちの信仰を続けていくために欠かせないし、大きな力になることを語るのです。なぜ、そのようなことを言うのでしょうか。それは私たちの信仰がしばしば失われて、続かなくなるからです。洗礼を受けて、喜んで信仰生活を始めても、その生活が続かない、そういう者が出るからです。私たちの教会にも姿を見ない教会の会員がいるのです。一度、信仰から離れてしまった人を信仰に戻ることはとても大変なのです。
 このヘブライ人への手紙はそのことをよく知っているのです。洗礼を受けて、これから信仰生活を続けようと思って始めても、人間の弱さのために、それが続かないのです。日曜日に礼拝に来ることができなくなった、自分の仕事がうまくいかない、生活が苦しい、会社の人間関係で疲れている、家族の問題がある、様々なことで、教会に来れなくなってしまい、そのうちに教会から遠ざかるのです。私たちは、その意味で「弱い」のです。それでこの手紙は、その弱さに耐えて、この信仰を保とうではないか、と勧めているのです
 4章15節に「私たちと同様に試練に遭われた」とありますように、私たちはいつも試練に遭うのです。人間の弱さを持ち、試練に遭う、そのようなことによって信仰を失ってしまうのです。

 4章14節に「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」とあります。「もろもろの天」と言うのは、現代に生きている私たちにはいささかおかしな表現のように思われますが、古代の宇宙観を反映した言葉です。「もろもろの天」というのは、天が三つ、あるいは七つのいろいろな層に分かれていると理解していたのです。しかし、ここで語っていることは大切なことで、「もろもろの天を通過されたというのは、主イエス・キリストがこの地上を超えた、人間を超えた、この世界を超えたところに、本来、属する方であることを語っているのです。主イエス・キリストはこの世界を超えたところにいます神、この世界を創造されたところの神、その神のところにおられるのです。
 ヘブライ人への手紙1章3節に「人々の罪を清められたのち、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」と書かれています。イエス・キリストは最後には父なる神のみもとに行かれ、現在、父なるみもとにおられ、天にあって私たちを見守っていてくださるのです。「イエス・キリストはどこにいるのか」と問われるならば、父なる神の右に座しておられると答えるのです。

 主イエスが、神の子としての存在、そのような私たちには手の届かない面があり、超越的な面があることを、14節の初めで語っているのですが、今度は、このイエスが、私たちを超えた方、無関係な方ではなく、私たちと深く関わってくださった方であることを言うのです。それが、4章15節です。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」同じイエスが、神と同じ性質を等しくされるイエスが、神の子であることを止めることなく、徹底的に私たちと同じ者になられたと語ります。
 ここでは「わたしたちの弱さ」とあります。この「弱さ」は私たちがいつも経験している「弱さ」です。病による苦しみがあります。病に罹ることによって身体が思うようにならない、そういう経験をした人も多いのです。親しい人を失う、と言う悲しい経験をします。自分が体力がなくなって自信を失い、人間としての限界を感じることもあるのです。それを神の子であるイエスが御自身で味わい、経験されたと言うのです。新共同訳では「弱さに同情できない方ではなく」と訳されています。この「同情」と言う言葉は英語の「シンパシー」と同じ言葉です。「シン」と言うのは、「共に」と言う言葉です。そして「パシ−」と言う言葉は「苦しむ」と言う言葉です。「シンパシー」とは「共に苦しむ」「一緒に苦しむ」と言う言葉です。文語訳・口語訳は「思いやる」と訳しています。私は「共に苦しむ」と訳したほうが良いと思います。
 「同情」と言うと「感情的に一つとなる」「気持ちを一つにする」と受け取りやすいと思います。この言葉の本来の意味は、気持ちだけではなくて、自分のからだを、自分自身のすべてを、そのまま、今苦しんでいる、その苦しみをそのまま自分の苦しみとして味わうと言う意味です。この意味で「同情できる」と言っているのです。私たちは、この人は思いやりがある、あの人は思いやりがない、と言いますが、そういう意味ではなく、全部、自分自身を相手の立場に置いてしまう、のです。相手と一体となって相手の苦しみを全部、自分の苦しみにしてしまうのです。

 このことは私たちにはできないことなのです。相手の苦しい話を聞いていても、相手の気持ちを推し測ることはできますが、それはあくまでも想像の域を出ないのであって、相手の苦しみをそのまま自分が苦しむということはできません。それが私たち人間の限界なのです。自分の経験が相手に十分に理解されない、伝わらない、その場面で、孤独を感じるのではないでしょうか。
 ところが、この主イエスは、私たちの苦しみがほんとうに分かり、共に苦しんでくださる方であると語られているのです。私は高校一年生の夏にこの4章15節を読んだ時に、深い感動に包まれたのです。自分の弱さを感じていた時でした。その時、イエス・キリストは自分の苦しみを共に担ってくださっていると思ったのです。最も低いところまで降りてきて、一緒に、苦しんでくださると信じることができたのです。それまで、神とは自分の手に届かない、高いところにいると思っていましたが、そうではなく、自分と同じ地平に立って、自分の弱さや苦しみを味わっていてくださると思ったのです。この時に、イエス・キリストの神は、私の神になったのです。

 イエス・キリストの神は、天にいて、私たちを見おろし、高見の見物をしているのではありません。この地上で苦労している私たちと同じ経験をしているのです。4章15節後半に「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」主イエスの試練と言うと、荒野の誘惑を思い起こします。それだけではないのです。弟子たちの無理解、裏切り、この当時の宗教家である、ファリサイ派の人々の敵意と妨害、群衆の利己主義、権力者の敵意、など様々な試練に遭われたのです。神を受け入れない、この世の人々によって、主イエスは試練を受けたのです。そして最後には十字架の死という侮辱的な死を経験しなければならなかったのです。
 この地上で私たちは、試練に遭うのですが、神の子イエスもその試練を受けて、私たちの辛さ、苦しみを共に味わったのです。ここに注目する言葉があります。それは「罪を犯されなかったが」と書かれていることです。これは「罪というものを離れて」「罪というものを別にして」と言うこともできます。私たちは、罪を背負っているので、いろいろな苦しみや悩みを抱えて生きなければならないのです。しかし、主イエスは全く、罪と関わりがないので、苦しむ必要がないにもかかわらず、あえて私たちの苦しみをご自分から進んで、神の御心に従ったのです。私たちの苦しみ全部を背負ったのです。これが十字架であります。主イエスは人間性を損なうことなく、私たちと同じように、弱さと誘惑と苦しみを経験したのです。主イエスは神と同じ方でありつつ、私たちと同じ人間なのです。

 ヘブライ人への手紙2章18節に「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」と語られています。自分が重い病気になった人が、その病気が治り、同じ病気の人を治すために、医師となって、貢献している人がいますが、主イエスは私たちと同じ試練を受けたので、その苦しんでいる人のために、それを乗り越えるために力を尽くしているのです。私たちは、この地上で生きている時に、苦しみに遭い、試練に襲われるのです。しかし、そのような時にも、主イエス・キリストはそれを逃れる道をも用意してくださるのです。

 主イエスが大祭司であるということの意味を考えたいと思います。大祭司は、民の罪が赦されるために、神に対して、罪の贖いの供え物を備えて、神が赦されるように執り成すのです。主イエスは、御自身が人間をよく理解するために、人間の苦しみを共にするのです。私たちが心配していること、心の深いところで、悩んでいることを知って、それを携えて、人々のために祈るのです。
 ロングと言う註解者が、次のように解説しているのです。「この大祭司は人間の苦しみを共にする。彼は『私たちの弱さに同情する』(4・15)それ故イエスが天の祭壇に置くのは通常の供え物−小羊や穀物やお金−ではない。その代わりにイエスは人間の状況を神の許に運ぶ。私たちに差し迫って必要なもの、私たちの困窮、私たちの痛み、私たちの病、私たちの正義への渇望、私たちの平和を求める叫び−イエスはそれらを、神の玉座がある部屋に運ぶのである。」

 最初に紹介した畑牧師は、自分が病気で苦しんだ経験から、同じ苦しみに悩んでいる人の助けになるような働きをする道を求め、看護師になったのです。
  ある時、お寺の住職の奥様が、癌で入院されて、カトリックの病院でしたので、お御堂に連れて行ってほしいとお願いされて、この奥様がお御堂でお祈りされた後に、次のように言ったそうです。「私はお寺さんに嫁いで仏様にお仕えして来たけれど、やっぱり死ぬのは怖いわ。イエスさまは私を助けてくださるかしら、でもどうか助けてくださいとお願いしたの。そのときの顔は、死におびえた顔でした。私はこのとき、人をここまで苦しめる死に対して激しい怒りを覚えました。」この時、看護師であったこの人は、この奥さんのために祈ったところ、「ありがとう」とおだやかな顔になっていた、と書かれていました。看護師として多くの病に苦しむ人々と関わって行く中で、看護師をしている、その経験から、病気による身体の痛み、孤独感、仕事、人間関係の心配や苦痛などは、緩和することができるけれども、罪の意識、死の恐怖、神の存在、魂の救い、などの宗教的な領域に属する、霊的な痛みは、医療者にはタッチできないことを知らされたのです。患者が最終的に苦しむのは、この部分であることが分かり、人の魂を救うための働きをしようと看護師を辞め、牧師になるために神学校に入ることにしたと書かれていました。

 ヘブライ人への手紙4章16節では、この偉大な大祭司イエスを持っているのだから、恵みの御座に近づこうと勧めているのです。信仰を失いそうになることもあります。親しい人に裏切られて、人間に不信感を持ち、孤独を経験することがあります。しかし、天の高いところにおられる主イエスが、私たちのところに降りて来て、私たちと共に苦しみ、私たちの仲間になって、その弱さに同情してくださるのです。苦難に出会っている、その時、その時に、時機にかなった、折りに叶った助けをいただくことができるので、天の御座に近づこうではありませんか、と勧めているのです。

  この地上で、私たちは苦しみや辛いことに遭うのですが、そのような時にキリストが助けてくださるのです。そのような恵みを戴いて、天の故郷を目指して、私たちは共に歩むのです。

20190113 主日礼拝説教   「魂を支える言葉を聞こう」  山ノ下恭二


(創世記2章1−3節、ヘブライ人への手紙4章1−13節)

 1月4日の朝、NHK第一ラジオの新春インタビューで、解剖学者の養老孟司さんが話していたのですが、今、一番、気になることは、子どものことで、虐待、いじめ、自殺が多くて、小さな頃から、楽しい経験をしていないのではないか、思いっきり、自由に遊ばせてやりたい、と話していました。
 確かに、現代の子どもたちは校にしばられ、親の都合に合わせられ、稽古事で忙しくて、余裕のない生活をしていて、それがストレスで、友達をいじめたり、少しのことで切れたりするのです。子どもが周りの人から愛され、大事にされていると言う実感を持つことができないのは、とても不幸なことです。
 周りの者から、自分は愛されている、自分が理解されている、自分の存在を無条件で受け容れてくれている、そういう経験が自己を肯定することができる基礎になっているのです。自分が大切な存在として重んじられ、愛されている、そのことによって、魂が支えられていくのです。

 本日のヘブライ人への手紙4章1−13節には「安息」という言葉が多く出て来ます。
 「安息」と言うと、私たちは、「安息日」を思い起こします。安息日、私たちにとっては、日曜日のことです。この日を神の日として、礼拝に集うのです。神の言葉を聞き、賛美し、ささげものをする、そのことによって、私たちが神に所属しており、神が私たちの罪を赦し、愛しておられることを確認し、安らかな思いを持つ日なのです。毎週、礼拝に集うことによって私たちは、自分が何者で、何のために生きているのかを知らされていくのです。日曜日毎に礼拝に集うことによって、私たちは神からの慰めと励ましとを与えられて、歩むことができるのです。

 本日、読んだところには、「神の安息」と言う言葉が出て来ます。この「神の安息」とは、私たちが、この人生を終えた後に、神から与えられる安息のことです。神がよりいっそう私たちの近くに共におられ、私たちを深く愛しておられることがわかる、安らかな場所のことです。
 私たちは、この地上の生活が終わっても、神が私たちを快く迎えてくださる、そのような場所が用意されているのです。洗礼を受け、信仰の生活を続けていますが、地上の生涯を終えた後に、神が与えてくださる安らかな場所に導かれるのです。

 皆さんは、自分が死んだ後、自分がどのようになるのか、と言うことを考えたことがあると思います。牧師仲間と「カルヴァンの終末論」と言う本を読んでいますが、この本の中に「魂の眠り」というカルヴァンの書いた本が取り上げられています。この当時のある神学者が、死んだ後の人間の霊魂は眠り続けると言う「霊魂睡眠論」を主張をしているのですが、このことに対して、宗教改革者カルヴァンは、この「霊魂睡眠論」を批判しているのです。カルヴァンは、肉体は朽ち果てるけれども、霊魂は目覚めており、終末の復活の時に、霊魂が肉体と合体して復活すると主張しています。人間は、終末の復活まで神のもとで霊魂は安らかに守られている、というのです。私たちが、この人生を終えた後に、神が与えて下さる安らかな場所に導かれ、そこで、私たちは、神と共に休むことができるのです。死んだ後、私たちは全くの平安が与えられるのです。

 ところが、このヘブライへ人の手紙では、神の与えて下さる「神の安息」にあずかることができない人がいると言うのです。信仰の生活を脱落してしまう人がいるので、脱落しないようにしようと呼びかけているのです。

 このヘブライ人への手紙では、旧約聖書のイスラエルの人々の失敗の経験を教訓として語りながら、私たちを戒めているのです。
 イスラエルの人々がエジプトを脱出して、パレスチナ、カナンの土地を目指して荒れ野の旅をしていた時に、何度も何度も神を疑い、神を試し、神の言葉を信じなかったのです。そのことから約束の地、安息の地に入ることができず(40年のあいだ、さまよい続け)途中で死んで行ったのです。
 荒れ野の旅をして起きた事件とは、イスラエルの人々の飲み水がなく、人々は喉が渇いて仕方がないので、指導者モーセに不平を言い、神を疑い、神を試したのです。本当は、神がすべてのことを配慮していてくださることを信頼することが神の民としての態度であったのですが、神により頼むことができなかったのです。
 
 もう一つの大きな事件は、モーセがカナンの土地を偵察のために派遣し、この偵察をしてきた時のことです。カナンの土地を偵察して来た人々は、そこに住む人々が強くて、戦っても勝てないと言う報告をしたので、その報告を聞いた人々が恐れて、エジプトに帰ろうと言い出したのです。そこで、神は怒り、その不信仰のゆえに約束した土地に入ることはないと語ったのです。現実だけを見て、神が共にいて戦ってくださると言う信仰を失ってしまったのです。
 「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない。」(民数記14章22−23節 旧約p236)イスラエルの人々は不信仰によって、約束の安息の地に入ることができなかったのです。この事件を受けて、ヘブライ人への手紙3章19節には次のように語られています。「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」

 このような歴史の教訓から、ヘブライ人への手紙では、私たちの信仰の歩み、信仰生活、教会生活について、戒め、勧め、励ましているのです。
 
 ヘブライ人への手紙が書かれた当時の教会の人々には、多くの困難があったのです。一つには迫害がありました。キリスト者であることが分かると、困難があり、一番、迫害がひどい時には、礼拝をする場所を墓場にして、見つからないように、日曜日ごとに場所を変えて礼拝を続けたのです。周りの者から締め付けられ、妨害を受けたのです。また、教会の中から起こってきた不信仰やつぶやきがあるのです。礼拝をしていても何の役にも立たないのではないか、というつぶやきがあり、集会を続けるのは大変だから止めようと言う思いがあり、教会から離れる人々も出て来たのです。このような人々を戒め、励ましているのです。

 信仰生活を競走に例えているのです。ゴールを目指して走るのが信仰生活なのです。途中で走るのをやめたり、棄権することはできないのです。洗礼を受けて教会生活を始める、それはゴールを目指して走ることですが、そのゴールは「神の安息」があるのです。神が私たちを完全に受け入れ、それによって私たちの魂が完全に安心することができるのです。

 ヘブライ人への手紙11章には、旧約聖書に登場する人々について、信仰によってその生涯を歩み、死んだ人々のことが詳しく記されています。「信仰によって」と言う言葉が多く出て来るので、信仰熱心な人たちのことが書かれていると言うとそうではないのです。「信仰」と言うと「信心」と言う言葉を連想するのです。しかし、このヘブライ人への手紙で用いられている「信仰」と言うことは「信仰が熱心」「信心がある」と言う意味ではなくて、神を信頼すると言う意味です。11章に登場する人々について「信仰が深い」とは言ってはいないのです。神が信仰者のために、最も良い配慮をして気遣ってくださり、イエス・キリストによって私たちを愛してくださることを信頼する、そのことを「信仰」と言っているのです。そして「天の故郷」を彼らは熱望していたのです。安息の地、天の故郷は、神が私たちを受け入れ、私たちをくつろがせるところです。この安息の地、天の故郷を目指して脱落しないように努めることが記されています。私たちがほんとうに安息できるところを神は用意し、備えていてくださるのです。

 ヘブライ人への手紙4章1節には、次のように語られています。「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」
 先ほど「わたしの安息にあずからせはしない」と神がいわれたのだから、もう安息への道は閉ざされてしまったのだと考えますが、そうではないと語っているのです。イスラエルの人々の不従順によって約束の地に入ることはできなかったけれども、そのような人間の側の条件であずからせはしないのではなく、神の側にあっては、その約束は生き続けていると言うのです。人間の不真実、不信仰にもかかわらず、神は、私たちが安息に、天の故郷に入るように願っているのです。
 
 このヘブライ人への手紙を書いた人は、教会の人々が、皆そろって神が待ち受けている安息に入って行くように、と願っているのです。ところが、誰かが取り残されてしまう、皆が安息に入るのか、と思っていたら、そこにいない人がいることがあるので、気を付けようではないかと言うのです。
 
 ちょうど山を歩く時、しっかりした足を持ち、道をよく知っている人が先頭にたち、その次にしっかりした人がしんがりになって、足の弱い人、まだ山登りに慣れていない人を真ん中において、誰も脱落しないように歩いて行く、そのようにイエス・キリストを先頭にして立て、神の民である教会の人々が旅をし、声を掛けながら落ちないように、歩いていくのです。
 
 山登りで足の速い人が先に行ってしまって、足の弱い人のことを全く考えずに先に行ってしまい、取り残されることがありますが、自分一人だけ、目的地に行けば良いと言うことではないと言うのです。その意味で、一緒に旅をしていくのです。全員が、目的地、安息にあずかることができるように旅をするのです。教会と言う共同体はそのようなところです。互いに配慮をしながら、一緒に旅を続けていくものです。

 4章1節に「気をつけましょう」と言う言葉があります。何に気を付けるのでしょうか。それは、神の言葉を聞き損なうことがないように、気をつけるようにと言うのです。この神の言葉とは、福音のことです。喜びの知らせなのです。この言葉を聞いていながら、きちんと聞いていないので、その言葉が役に立たないのです。福音の言葉が役に立たないのではなく、聴き方が悪いために、役に立たないのだと言うのです。バークレーの注解書には、次のように解説をしています。「言葉と言うものは、どんなに尊く、価値があっても、それを聞く人が信仰によって受け入れなければ、何の役にもたたない。言葉の聴き方には、幾通りもある。無関心な聴き方、興味のない聴き方、批判的な聴き方、懐疑的な聴き方、軽蔑的な聴き方」があるのです。自分本位な聴き方でなく、神が語ることをそのまま聞くのです。

 私たちが聖書を読む、説教を聞くことの問題点は、自分の考え、自分の感情、自分の問題意識が先に来てしまって、聖書が語ろうとしていること、説教が語ろうとしていることを受け入れることができなくなるということです。自分の関心をもっていることに聖書が触れたり、説教が触れたりすると、よく読み、よく聞くけれども、それは自分中心の読み方、聴き方になってしまうのです。神との関わりの中で、聖霊を求める中で、神の言葉を聞くのです。

 私が高校1年生の夏にヘブライ人の手紙を読んで、とても感動して、信仰告白するようになったのは、今までの読む姿勢、読む心構えが違っていたからだと思います。聖書には、自分に参考になる、自分にためになることが書いてあるので読む、と言う意識ではなく、自分を救ってくれる言葉はないか、救いの言葉を必死に探しながら読んだので、聖書の言葉に感動して、信仰告白するようになったのだと思います。自分を無にして、神のみことばを読むのです。
 
 竹森満佐一牧師が、ある雑誌に「聖書の読み方」と言う文章を書いていて、聖書を読む心構えについて書いているのです。印象に残った言葉がありました。「聖書を読む時に、大切なことは、罪を犯して、判決を受けようとしている容疑者が、六法全書を読み始めて、自分が無罪になる法律の条文がないか、一所懸命探すように、聖書を読む時に、自分が救われる言葉がないか、必死に探して読むことが大切だ。」
 
 ヘブライ人への手紙4章2節には「その言葉がそれを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」と語られています。ある訳では「信仰によって混じり合うことがなかった」と訳しています。信仰によって、福音と自分とが混じり合うのです。家族もそうですが、同じところで生活をしていると互いに影響され、ものの考え方や生活の仕方が似てきます。聞いた神の言葉・福音が、自分の前を通り過ぎることなく、自分の心の中に入り、私たちの存在の深いところで結び付き、絡み合い、混じり合うのです。例えば、蜂蜜をなめないで、見ているだけでは、蜂蜜の甘い味を味わうことはできないのです。しかし、蜂蜜を舌で味わうならば、その甘さがよく分かるのです。 キリストの福音が自分の中に深く入って、そこでほんとうに自分の喜びになる、その喜びが泉のように溢れるようになる、そこまで神の言葉を聞く、と言うことなのです。
 説教を作成するときに、注解書を読んで、その意味を伝える、この言葉はこういう意味です、と語る、そうではなくて、説教者がこのみことばに深く感動し、自分の出来事になった、その喜びを語ることがないならば、どんなに正しいことを語っても、伝えることはできないのです。

 しかし、私たちは毎日、厳しい現実を生きています。私たちは聖書の言葉を全部覚えているわけではないのです。いつも聖書の言葉がすぐに口に出て来ることはないのです。聖書の言葉を忘れ、置き忘れることもあります。私たちは福音を聞きながら、いつも喜びに溢れているわけではないのです。一人ひとりのことを考えても、重い病気を抱えて、苦しむこともあります、家族が病気で入院する、子どものことが心配だ、将来のことが心配だ、ということがあります。聖書を読むことも、祈ることもできないような苦しい経験をします。
 しかし、みことばは自分の中では失われないのです。海は、表面は嵐の中で波がすごいですが、いちばん深い海の底は、どんなに表面で嵐が立っていても、ほんとうに静かなのです。私たちの存在の深いところで、みことばが生き続けるのです。

 私たちは、地上の生活で、主の日の礼拝で安息を与えられ、神の言葉を聞く、安らかで、幸いな時が与えられています。また、地上の生涯が終わったあとに、神の安息、が用意され、与えられています。ここを目指しながら、私たちが脱落することなく、取り残されることなく、聖霊を求めて、祈りつつ、私たちの魂を支える、神の愛のみことばに出会う日々でありたいと願います。

20190106  主日礼拝説教  「安らかに生きるために」  山ノ下恭二


(詩編95編1−11節、ヘブライ人への手紙3章7−19)
 
 私たちが生活していく中で、間違った生き方をしないように、他の人から、注意をされる、忠告されることはとても大切なことです。自分のことを心配して、心を込めて忠告してくれる、そのような友人をもっていることは、幸いなことです。誰からも注意や忠告がないならば、自分のしていることが良いことだと思って、そのまま間違った生活を続けていくことになります。しかし、最近は、注意をしたり、忠告をする人が少なくなったのではないか、と思います。
 
 W・H・ウィリモンと言うアメリカの説教学の神学者が「洗礼 新しいいのちへ」と言う本を書いて、日本語に翻訳されています。この本の中で「思い出せ あなたは誰であるのか」と言う箇所があり、とても興味深いことが書かれています。

 「高校生の頃、わたしは週末になるとデ−トに出かけて行きました。そのわたしを玄関先で見送るたびに、母は重々しくこう言ったのです。『自分が誰であるのか、忘れないでね。』母が何を言おうとしていたのか、たぶんおわかりでしょう。わたしが自分の名前や住所を忘れてしまうのではないか、ということではありません。そうではなく、デ−トで二人だけになったときや、どこかのパーティーの真っ最中に、あるいは知らない人たちの前で、自分が誰であるのか忘れてしまうことになるかもしれない。教えられてきた価値を見失ってしまったり、別人のようにふるまったり、それまでのわたしとはまるでかけ離れた行動をとってしまうかもしれない。母はそのように言おうとしていたのです。『自分が誰であるのか、忘れないでね』。この言葉は、家から出かけていくわたしに向かって告げられる母の祝福のようでした。」

 「自分が誰であるか、忘れないでね。」この言葉はとても大切な言葉です。私たちは、自分が誰であるか、忘れてしまうのです。私たちが洗礼を受けてキリスト者となった、それは今までの生活とは別の生活に切り替えて、自分のために生きる暮らしから、神を礼拝し、隣人を愛する生活になったはずなのです。 しかし、自分がキリスト者である、そのことを忘れてしまうことがあります。そのような時に、教会の兄弟姉妹から、忠告を受け、神のみこころに適う生活を取り戻すことはとても大切なことです。
 
 洗礼を受けても教会から離れて礼拝に来なくなることもあります。教会生活は長距離競走であり、神のみもとに召されるまで、長く教会生活を続けていくのですから、緩みが出て来て、教会生活に飽きてきたり、離れそうになったり、聖書を読まず、祈ることもなく、キリスト者であることを忘れたりすることもあるのです。

 キリスト者といえども、誰の目から見ても、過ちを犯すことがあるのです。そのような信仰の危機に直面している時に、心からの忠告を受けることは大切なことです。教会から離れそうになっている時、神から心が離れそうになっている時に、誰も関心を持たず、忠告もしないならば、それは不幸なことです。親切に忠告してくれる人がいることは有り難いことです。このような愛のこもった心からなる心配、忠告、警告がないと、途中で脱落して、信仰生活を棄権してしまうことになるのです。

 ヘブライ人への手紙は、この当時の人々が教会生活に熱意がなくなり、礼拝に出席する心もなくなり、集会を止めようと思っている、そのような信仰の状態を見て、警告をしているのです。

 本日の礼拝で読んだヘブライ人への手紙3章には、「今日」と言う言葉が、多く出て来ます。3章7節「今日、あなたたちが神の声を聞くなら」とあり、13節に「『今日』という日のうちに」、15節「今日、あなたたちが神の声を聞くなら」と「今日」という言葉が多く出て来ます。「今日」という言葉の意味は、二つの意味があります。一つは、私たちがキリスト者として生きている今、その今のことです。この日一日と言う「今日」という意味ではなくて、今、です。次の瞬間も今、ですが、私たちが生かされている今、この瞬間です。もう一つは、神のみことばを聞いた時、ここではイエス・キリストの福音を聞いた時、と言う意味です。
 
 イエス・キリストの福音を聞いた時に、私たちが決断をしなければならない、その意味で今、と語っているのです。今、私たちが、神に従うのか、神の言を聞くのか、あるいは、聞くことを拒んで聞かないでいくのか、いつも、今、決断をしなければならないのです。ここでは私たちが神の言葉を聞く、その姿勢が問われているのです。
 
 私が神学生の時には、昼食はいつもICUの食堂を利用していましたが、ある日、三つ下の学生と食事をしていました。そこに歴史神学・教会の歴史を教えている教師がやって来て、三人でお昼を戴いた後に、日曜日の説教の話になったのです。下級生が自分の通っている教会の説教について、こう言ったのです。この学生が、説教を聞いていて思うことは、牧師がよく勉強しているなぁ、と思った、と話したところ、赤木先生が、君は、牧師がよく勉強しているなぁ、と言うけれども、そんな批評的な聴き方をしてはいけない、自分に語られている神の言葉として聞きなさい、と話したことを覚えています。神の言葉である説教をどのような心で、どのような姿勢で聞くのか、と言うことなのです。

 説教を聞いている時に、自分にとって関心があるところだけ聞く、聞きたいところだけを聞いていく、ということではなくて、心を開いて、聞くのです。もし、心を閉ざして神の言葉を聞かず、従わないならば、おそろしい結果を招くと聖書は語るのです。

 今日の礼拝で、詩編95編1−7節を読みました。ヘブライ人への手紙3章7−11節には、この詩編95編7−11節の言葉が引用されています。この詩編は、神の声に聞き従うように勧めています。そして、荒れ野を旅したイスラエルの人々が神に背いて罪を犯した、その罪を繰り返さないように勧めています。旧約聖書のほうの詩編95編7節後半から11節を読みましょう。(旧約p934)「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマッサでしたように 心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。四十年の間わたしは、その世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。』」
 
 エジプトの奴隷であったイスラエルの人々はモーセに率いられて、パレスチナ、今のイスラエルの土地に入るまで四十年の旅をしたのです。エジプトからイスラエルに行くまでには、荒れ野があり、一面の砂漠です。その荒れ野を旅していた時にイスラエルの人々(民)が神に反逆し、背いた事件があったのです。この事件は印象深く、人々の心に刻むような、忘れてはならない事件でした。マッサとメリバは地名であり、マッサは「試み」(「神を試みる」)、メリバは「争い」(「神と争う」)という言葉です。砂漠には水がなく、イスラエルの人々はのどが渇き、モーセに水がなくて渇いていることを責め、エジプトを出たことを後悔し、神がイスラエルの人々のために、すべてを備え、配慮していると言う信仰を失ってしまうのです。(出エジプト記17章1−7節、民数記20章1−13節)
 
 水がなくて、これでは死んでしまうということに慌てて、主なる神が私たちの中心におられる、目に見えないけれども私たちの中におられるという信仰を失ってしまったのです。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が『果たして、主は我々の間におられるかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである。」(出エジプト記17章7節、旧約p177)主なる神がおられるかどうか分からないのです。信仰がぐらついて、信仰を失っただけでなくて、自分の願いが適わない神など必要がない、神であったならば、水を供給し、我々に与えよと試み、神に向かって言い争ったのです。

 この結果、神はイスラエルとモーセの不信仰と不従順に対する罰として、イスラエルの人々を率いて約束の地に入ることができないと語ったのです。民数記20章12節(p247)に次のように語られています。「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。』」

 この事件について、詩編95編11節には次のように語られています。「わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」イスラエルの人々が神に反抗し、試みたために、モーセたちは安息の土地、約束の土地に入ることができなかったことを示しています。

 イスラエルの人々が、神を試み、争い、神があたかもいないかのように振る舞った、そのことを明らかにしながら、教会の人々に語りかけるのです。

 3章12節には次のように語られています。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。」信仰生活を続けて行くと、疲れる時があり、神に対する信仰、信頼を失うことがあります。自分を取り囲む状況が困難で、圧力や迫害があり、内からも外からも、もみくちゃにされることがあります。これらのことも重なって、信仰生活を継続することに耐えられず、教会の群れから離れてしまうのです。イスラエルの人々のようになるな、と警告をしています。水がないために神にお願いしても、何もしてくれない、そのような思いになり、神が最善の道を用意していることを信じることができなくなった、そのようにならないように、と警告しているのです。

 13節には「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように」とあります。この「かたくな」と言う言葉は「頑固」と言う言葉です。頑固、良い意味で使ってはいません。「頑固」。自分が考え、思ったこと以外は、だれの言葉も聞かないのです。「あの人は頑固だから」「頑固親爺」とよく言います。自分が思い込んだら、それをどこまでも通すのです。他の人の言葉が入って来る戸口である耳を閉ざし、耳に鍵をかけてしまうのです。自分の今までの経験を絶対化して、自分の考えが正しいと、自分以外の言葉を受け入れなくなってしまうのです。ここに教会の人々が犯す、最も大きな罪があるのです。
 
 新約聖書には多くの手紙がありますが、パウロをはじめ多くの人々が、切々と訴えている一つのことは、自分の言葉をきちんと聞いてほしいということです。心がかたくなになって石のように固くなってしまうのではなくて、柔らかな心で、神の言葉を聞いて欲しい、と言うことです。「神の声」「神の言葉」と言うのは、イエス・キリストの福音のことです。その福音を柔らかい心で受けとめて、聞いて欲しい、と言っているのです。自分の考えや思いで凝り固まって、福音を受け入れる余地がないと言うのではないのです。柔らかな心で聞くのです。

 バークレーと言う新約学者の注解書には、次のように解説をしています。「このヘブライ人への手紙の著者は、『きょう』といううちに、神に対して信頼と服従を示しなさいと語っている」と解説をしています。そして「神の祝福を受けるための人間側の条件として、一つには信頼をあげている。イスラエルの人々の犯した罪は、神を信頼しなかったことである。神の言葉が真実であると信じること、そして二つには服従をあげている。」
 
 バークレーは、その例として、スポーツのコーチの例をあげています。「コーチは選手に対して『もしわたしが定めた規律に従うならば、優勝させてあげよう』と言う。どの分野においても成功するためには、専門家の意見に従うことが必要である。神はいわば人のことに関する専門家である。従って、真の幸いを得るには、神に服従しなければならない。」監督やコーチの意見や指導によって優勝することは多いのです。野球でも他のスポーツでも相手のチームを徹底的に分析して、どうしたら勝てるのかを研究して選手たちにアドバイスをするのです。選手が自分の判断だけで勝手に動いていたら、勝てないのです。
 スポーツに限らず、医療でも同じことが言えます。医師の処方箋を信じて、薬を飲み続ければ治るわけで、この医師は信頼できないと言って、別の医師のところに行き、そこも気に入らない、と言ってまた別の医師のところに行く、そのようなことをしていたら、治る病気も治らないのです。

 父なる神は、私たちを愛をもって創造し、神に背いて、自分中心に生きている、自分のために生きている、その罪を償うために、肉体を取って人となり、罪の裁きを十字架において引き受けて死に、復活して、天に昇り、神の右に座し、私たちに聖霊を送ってくださり、生きておられるのです。この神が私たちの人生の、信仰生活の専門家、指導者であり、この神に信頼し、服従し、福音を聞くことを勧めているのです。

 聖書には、私たちがどのように生きるべきか、生活の仕方が書いてありますので、いつも読むように努めることが大切です。信仰は一人一人の魂に深く関わるものですが、自分一人だけのことではないのです。教会と言う共同体の一員なのです。教会の兄弟姉妹に忠告し、戒めることは難しいことがありますが、教会から離れず、落ちることないように、互いに忠告し、戒めあうことが重要なのです。
 
 3章13節には次のように語られています。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」とこのように勧めています。兄弟姉妹のことに関心をもって覚えて祈ることが必要です。教会の兄弟姉妹が脱落しないように、安らかに生きることができるように、互いに関心をもって励まし合っていくことが、ここで勧められているのです。

20181230  主日礼拝説教  「キリストを仰ぎ見る」  山ノ下恭二


(出エジプト記40章34−38節、 ヘブライ人への手紙3章1−6節)
 
 教会と言うと誰でも教会堂を思い浮かべると思います。一般に、教会と言うと教会の建物のことを思い浮かべるのです。ある時、ある学生が私に初めて教会に行った時のことを話してくれました。教会らしい建物が見つからないので、あきらめて家に帰ろうとしていたところ、教会の看板があって、そこに教会の名前があったので、教会に入った、その教会は小さな民家風の、個人の住宅のような建物で、自分が描いていた教会とは全く違うので、驚いたと言う話をしたのです。この学生にとって、教会とは結婚式のための大きなチャペルのような建物と思っていて、礼拝堂の中にパイプオルガンがある、と言うイメ−ジで教会を考えていることが分かりました。
 
 しかし、教会は、教会堂という建物がなくても教会であるので、普通の民家で、礼拝や集会をしている教会もあり、また、マンションの一室を借りて礼拝を守っているところもあるのです。立派な教会堂がなくても、教会として成り立っているのです。確かに礼拝や集会をするのに建物は必要であるけれども、会堂や建物と言うのは、教会の一つの見える部分に過ぎないのです。教会と建物と同じと言うことはないのです。
 
 教会堂という建物がなくても人々が集まっており、礼拝していれば教会と言えるか、というと、そう簡単には言えないのです。現実に私たちが見ているのは、目に見えるものを見ており、ここに集まっている人々を見ているのですが、集まっていれば、教会と言えるか、と言うと、そうではないのです。
 
 教会という言葉の元々の言葉は、エクレーシアと言う言葉です。このエクレーシアと言う言葉は、呼び集められた群れ、という意味の言葉です。神から呼び集められた群れ、集められた共同体と言うのですから、私たちは神から呼び集められているのです。私たちの礼拝のプログラムには、最初に招きの言葉(招詞)があり、最後に祝祷があります。招きの言葉で集まり、祝祷で派遣されて行くのです。礼拝は、まず神に招かれ、呼び集められる、そして終わりに、派遣される、と言う構造になっているのです。
 
 教会は、神が召し集めた集い、共同体なのです。私たちが集まってこうしようと相談して、始めたのではないのです。一人一人の自由な意志をもって、話し合って、自発的に集まった人たちで、教会を始め、構成されているというのではないのです。あくまでも、神が権威をもって呼び集めた共同体です。自分一人であるとさびしいから、みんなが集まると楽しいから集まっている、しかし、付き合いが煩わしいと言うのではなくて、私たちは神に呼び出されて、神の言葉を聞き、その神の恵みに応答して、信仰告白し、讃美し、感謝のささげものをし、派遣される、教会はそういうところなのです。
 
 教会というところは、自分がこうありたいと思って集まったところではないのです。同じ趣味の人が集まった会ではないし、同好会ではないのです。仲良しクラブでもないのです。性別も、年齢も性格も社会的な立場も違い、考えも異なっているけれども、一人ひとりを神は選び、神のものとして、ここに集めてくださったのです。私たち一人ひとりが神に召されて、神が一人ひとりを呼び出して、ここに集めた群れなのです。そのことをしっかり認識しないといけないのです。そのことが自分たちの中で、はっきりしないと、教会が、仲良しクラブやしゃべり場となってしまいます。
 
 主イエスがペトロを弟子として召したのですが、主イエスがガリラヤ湖で漁をしているペトロに「わたしについて来なさい」と呼びかけたのです。この呼びかけに応えて、網を捨てて、従って行ったのです。神の呼びかけに応えるのが教会なのです。しかし、私たちは自分中心に、自分の尺度で教会を考えるのです。ここに私たちの根本的な問題があります。

 ヘブライ人への手紙3章1節に「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と記されています。これは、地上の教会のことを表現しています。教会は、一般の社会と少しも変わらない人々によって構成され、他の団体と同じような組織を持っています。しかし、教会が他の団体とはっきり区別されるのは、それが地上にありながらも「天の召しにあずかっている」と言われているところです。「天」と言うのは、「神」と言い換えて良いのです。この地上の団体は、特定の人間が支配しているのです。その人の考えや発言に左右されるのです。しかし、教会は人間に支配されるのではなく、神が権威をもって臨在されているところです。教会は地上に属していながら、天、神に属しているのです。私たちは見えるところにおいてだけ、教会をとらえるのではなくて、見えないところで、神がおられ、神が働いておられる、そのことを信仰によって見ることが大切なのです。
 
 使徒言行録5章でアナニアとサフィラの夫妻が土地を売った代金を誤魔化して、教会に献金したことを神が見過ごすことなく、二人の命を奪った物語が記されています。これは神がこの二人の悪事に対して罰を与えた、ということを伝える物語ではありません。神が聖霊において、私たちの中におられると言うことを信仰をもって生きて行くことを教えるものです。神がおられないかのように、振る舞うのではなく、神に対する畏れをもって生活することを教えるものです。私たちの中に神がおられて、私たちは神と共に生活しているのです。

 今日の礼拝で読みました、ヘブライ人への手紙3章1−6節には、モーセと主イエスとを比較しています。もっと正確に言えば、モーセと比較して、主イエスはモーセに優る方であることを語っているのです。なぜ、ここにモーセが登場するのだろうか、と思った人もいると思います。
 
 ある人は、次のように解説しています。このヘブライ人への手紙を書いている著者は、この人が生きている教会が、エジプトを脱出したイスラエルの民に似ていて、イスラエルの民が砂漠(荒れ野)を歩いているのと同じように、教会がいろいろな試練を受けていると思っていたのではないか、と言うのです。

 イスラエルの民は、エジプトでの奴隷の生活から脱出して、乳と蜜の流れる土地パレスチナに辿り着かなければならないのですが、砂漠を歩いていてなかなか辿り着けず、先が見えてこないのです。40年の間、旅をしたのです。その中では、食料もなくなり、人々の不満は爆発し、偶像を作り、混乱があったのです。人間くさい不和、混乱、不信があったのです。
 
 このヘブライ人への手紙を書いている人も、属している教会で、砂漠でイスラエルの民が味わったことを味わっているのです。人々は迫害と言う困難さを抱えながら、教会生活をして、疲れたり、教会の集会を続けることを止めようとしたり、信仰の確信を失ったりしていたのです。

 出エジプト記で人々が不満を持ち、偶像礼拝をしていた時、人々には神が見えていなかった、神を見ようとしなかったのです。イスラエルの民の中に、神がいらっしゃることを見ず、忘れていたのです。それと同じようにこの時の教会は、自分のことや自分の周りのことばかり考えて、主イエス・キリストを仰ぎ見ることなく、心を向けることもなかったのです。
 
 その中で、著者はヘブライ人への手紙3章1節で「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と語ります。

 「イエスのことを考えなさい。」日本語訳を見ると、文語訳では「イエスを思い見よ」と訳されてあり、口語訳では「イエスを、思いみるべきである」と訳されています。元々のギリシャ語の原文は「見る」と言う言葉です。ただ、考える、と言うのではないのです。ただぼんやりと見る、とか、理屈で考えると言うことではなくて、信仰の思いをもってイエスを見るのです。「イエスを仰ぎ見る」これが、この手紙が最も重んじていることです。主イエスを見失わないようにしようと呼びかけているのです。

 私が東京神学大学の学生の頃に購読した本で、日本キリスト教団出版局から、出た「愛と自由のことば−一日一章」と言う本の中に、「自分を顧みないで」と言う文章があります。その一節にこういう文があります。「ある意味からキリスト者というのは、もう自分を顧みない人になった、ということであります。
ただキリストだけを仰いで暮らす人になった、ということであります。」
 
 自分の中でだけ、自分中心に生きていた者が、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の犠牲をささげ、贖ってくださった、そのことによって罪が赦された者となった、このことを信じて洗礼を受けた者がキリスト者です。私たちは、自分のほうを見る、自分のことにこだわる、のではなくて、罪を赦し、愛してくださったイエス・キリスト、私たちをあらゆるものから守り、支配してくださっている、天に座しておられるイエス・キリストを見るのです。

 この手紙は、自分を見る、自分にこだわり、自分のことを中心に考え、行動することよりも、主イエスを仰ぎ見ることを大切にしようと呼びかけています。
 
 ヘブライ人への手紙12章1−2節では、キリスト者の信仰生活を、競走に譬えているのです。信仰の生活というのは長距離競走です。長く走らなければならないのです。勢いよく走ることができるときもありますが、走るだけでも大変なときがあります。そこで「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら。」

 主イエスを見つめながら、走り抜こうではないか、と呼びかけているのです。自分ひとりで孤独の戦いをしているのではないのです。私たちに先立って主イエスが走っている、その背を見ながら、走るのです。そして主イエスが伴走していてくださるのです。走るのを止めようと思う時があります。しかし、すぐそばに主イエスが一緒に走っているのです。

 私たちの罪を赦し、受け入れ、贖い、守り、支配してくださっている主イエスが伴走してくださるのです。この主イエスを仰ぎ見ながら生きる道は、ひとりで走る必要はないのです。

 3章1節には「聖なる兄弟たち」という言葉が最初に出て来ます。2章には「兄弟」と言う言葉は多く出て来ます。主イエスが私たちの兄弟になることを喜んで受け入れてくださったと語っています。兄弟という言葉は次のように使われています。「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで」「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」

 主イエスが私たちの兄弟になることを喜んで受け入れてくださった、だから、私たちは、聖なる兄弟、神のものとなった兄弟なのです。

 教会の兄弟姉妹というのは、同じ信仰をもった仲間ですけれども、もっと深い絆で結ばれています。それは、イエス・キリストの肉と血、犠牲によって贖われた仲間です。
 
 同じ両親から生まれた血縁の兄弟は、絆が強いと言われています。血によって、血縁で結ばれている関係は、とても強い結び付きがあります。

 東大宮教会は児童養護施設「光のこどもの家」と深い関係をもって、教会は子どもたちを受け入れてきました。虐待や養育放棄(ネグレクト)などで、児童養護施設で暮らしている子供たちのために、家庭的な親しい関係作りを試みながら、子供の身体と心を育むことを願って、心を込めて養育しています。

 血はつながってはいないのですが、家庭的な雰囲気の中で、自分たちが家族であり、兄弟姉妹であると言う経験をするように配慮しているのです。

 しかし、子供にとって親や兄弟のほうが、なじみがあり、親と一緒に暮らしたい、と言う子供が多いということも事実です。夏休みや正月に親が受け入れる場合は、子供を家庭に帰すことをしています。毎日、心を込めて、子どもたちを育てているのですが、親の元に帰りたいと言う子供は多いのです。ある時、施設長は私に、どんなに心を込めて育て、養護の苦労をしても、血によって結ばれた関係は強い、と言うのです。

 複雑な家庭が多く、実の母親が、別の男性と再婚し、その間に複数の子供がいて育てている、養護施設にいる子供を実の母親が引き取らないと言うこともあります。そのような複雑な家庭であっても、子供は家庭に帰って、自分が母親に愛されたいので、正月に母親が再婚した家に帰ると、とても冷たくあしらわれて、泣きながら帰って来る、というケ−スもありました。
 
 私たちの教会は、血縁で結ばれているよりも、もっと強い絆で結ばれているのです。血縁よりも強固な絆で結ばれているのです。それは、私たちがイエス・キリストの肉と血、キリストの犠牲によって贖われた仲間、同じ説教を聞き、同じ聖餐にあずかり、天の召しにあずかっている仲間、キリストの恵みを分かち合う仲間なのです。

 一人だけで信仰の戦いをするのではありません。キリストにあずかる仲間として、主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、共に走る仲間です。

 教会は教会の建物がなくても、集まる者が少数であっても、私たちの中に主イエス・キリストがおられ、その周りに私たちがいるのです。

 3章1節後半で、「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と語られています。「使者」と言うのは、神から派遣されたことを指す言葉ですが、神が主イエスにおいて肉体を取った、ことを意味しています。これはクリスマスの出来事を意味しています。

 そして「大祭司であるイエス」というのは、主イエスの死を意味しています。旧約の大祭司が年に一度、動物の血をたずさえて、地上の至聖所に入り、贖罪の業を行ったように、主イエスはただ一度だけ天の至聖所に入って御自身を贖罪の犠牲として献げられたのです。このことがヘブライ人への手紙の、主イエスの死の理解なのです。

 「使者であり、大祭司であるイエス」とあるのは、一方において、主イエスは神から派遣された使者ですから、神の側の代表者として主イエスがいるのです。他方、主イエスは、人間を代表する者として存在しています。私たちは、神に対して、私たち自分自身の罪を償わなければなりません。私たちの罪は自分では償うことができないほど重い罪を持っているのです。神の子が償わなければならないほどの重い罪なのです。主イエスは私たち人間を代表して、私たち人間の罪を贖う者であるのです。

 主イエスが使者として、大祭司として、神に忠実に従うことによって、私たちは、神との関係が正常になり、罪なき者となった、この救いを与えられたのです。

 私たちがこのキリストの救いを確信し、依り頼み、告白していくならば、それこそ神の家なのだ、と言うのです。

 目に見えるところで、教会を判断するのではなく、私たちの中に、聖霊においてキリストがおられ、私たちがそのことを信じ、告白するところに教会があるのです。

20181223  クリスマス礼拝説教  「主イエスは私たちの兄弟」 山ノ下恭


(詩編22編25−32節、ヘブライ人の手紙2章10−18節)
 
 本日は、皆さんと共にクリスマス礼拝をささげることができ、感謝致します。クリスマスという言葉は、キリストと言う言葉とマスと言う言葉の合成語です。マスというのは、礼拝と言う意味の言葉です。従ってクリスマスと言う言葉は「キリスト礼拝」と言う意味の言葉です。主イエスの誕生物語に、3人の占星術の学者たちが登場します。3人の占星術の学者たちが、主イエスが誕生されたことを聞いて、不思議な星の導きによって、ベツレヘムで誕生された主イエスのところに行き、礼拝をして、自分たちの大切なものをささげたことが記されています。私たちが、このようにクリスマス礼拝をささげていることはクリスマスの本来の祝い方なのです。

 最近は、100歳以上の人がたくさんおり、人生100年時代と呼ばれるようになりました。100年以上を生きる、長く生きていくのはなかなかたいへんです。毎日、生きて行くのは大変なのです。今日のクリスマス礼拝に出席するだけでも、私たちはいろいろな苦労をしながら教会に集まっているのです。毎日、生活していく中で、私たちが経験していることは、私たちには試練がある、と言うことです。病気がなかなか治らなくて困っていると言うこともあるでしょう。仲良くしていた友人と関係が悪くなって、会うのが辛いと言うこともあるでしょう。生きて行くこともたいへんですが、死んでいくこともなかなかたいへんです。生きることも、死ぬこともたいへんです。私の母は晩年はグループホームに入っていましたが、医師からあと一ヶ月です、と言われて、延命治療をしないと決めて、グループホームで過ごすことになりましたが、グループホームの責任者から、夜は家族が看取ってくださいと言われて、私の兄弟のうち私も含めて、3人が交代で、一人2泊、3泊、と8月末から、亡くなる10月初めまで、付き添いをしました。自然に死んで行くことも辛いことだと思いますし、その人を看取って行くこともたいへんです。

 私たちにとって困難で、難問なのは、人間は死ぬと言うことです。高齢社会で、どのような葬儀が良いのか、、平穏な死に方とはどのようなものか、などの本や新聞記事が最近、多く出ています。死について関心を持って考る人も多いのです。
 
 主イエスの誕生の物語には、主イエスの誕生の後に、試練が襲ったことが記されています。平穏な生活ではなく、いのちの危険に見舞われたのです。

 主イエスが生まれてすぐに、主イエスはいのちの危機に見舞われたのです。主イエスが誕生した場所はベツレヘムの家畜小屋でしたが、宿屋が満員で、休むところがなく、寒くて、さびしいところで生まれたのです。野宿しているのと同じです。イスラエル旅行でエルサレムのホテルに泊まった時に、朝・夜はとても寒いことを体験しました。家畜小屋は暖房もなく、命の危険がある、そのような中で誕生したのです。
 
 そして、この当時のヘロデ大王が、主イエスが自分の王の地位を奪うかも知れないという危機感から、主イエスを殺そうとベツレヘムにいる幼い男の子を皆殺しをしたのですが、神が天使によってヨセフにこのことを告げ、エジプトに逃げるようにと命じられ、生まれたばかりの幼子を連れて、急いでエジプトに逃げて行ったのです。主イエスは生まれて間もなく、このような命の危険に遭っているのです。神の子主イエスが私たちと同じような試練を経験をされているのです。
 
 今日の礼拝で読みましたヘブライ人への手紙は、1世紀の終わりごろ書かれたと言われています。ロ−マ帝国が、主イエスを信じるキリスト者たちを迫害する時代であったのです。キリスト者を迫害を始めてから、年月が経ち、その迫害の中で、常に追いやられているキリスト者の姿があるのです。厳しい迫害の中に置かれたキリスト者は、その迫害の恐怖に怯えながら暮らしていたのです。その中で、礼拝に出ることをやめたり、みことばに生きることをやめたりする人々が起こってきたのです。

 この時の教会の人々が抱いていたのは、死に対する恐れでした。いつ自分も迫害の中で、死ぬかも知れないという恐怖をもっていたのです。その恐怖を取り去って、平安のうちに暮らすことができるように願って、手紙と言う形で説教をしているのが、このヘブライ人への手紙なのです。
 
 私たちにとって死ぬということよりも死ぬことの恐れ、この「恐れ」が私たちを脅かすのです。水泳の飛び込み競技があります。私はテレビで飛び込み競技を見るたびに思うことは、選手が初めて飛び込む時はこわいだろうと思います。飛び込んだら恐怖はないだろうと思いますが、高いところから、飛び込む前はとてもこわいと思います。ある人が、若い人と高齢者とは、死ぬことについて感覚が違う、と言うことを言っていました。若い人は死ぬことは「こわい」と言う感覚をもっているが、高齢者は「さびしい」という感覚をもっている、と言った人がありましたが、高齢者にとっても死ぬことはこわいと思うと思います。私たちは死ぬことへの恐れをもっているのです。主イエスは神と同じ方だから、死への恐れを持たなかった、ということはできないのです。私たちと同じ人間として死に対する恐怖をもっておられたのです。主イエスが十字架に架かる前に、ゲツセマネの園で祈りをされていますが、そこでは、十字架で死ぬことに対して、それを回避したいと祈っています。主イエスは、私たちが持つ死への恐れや人間として私たちの様々な悩みをよくご存じであったのです。2章15節には「死の恐怖のために一生涯奴隷の状態であった者たち」と書いてあります。これは私たち人間のことを指しています。私たちはやがて誰でもがいつか死に行く存在なのです。

 ヘブライ人への手紙2章14節で「子らは血と肉を備えている」と語られています。私たちは肉体を備えている、と言うことです。この「血と肉」と言う言葉の意味は、私たち人間は、限界ある存在としてつくられた、ということです。いのちある者として神は私たちを造られた、そのいのちには、なお終わりがあるのです。その終わりである死もまた神の領域の中にあるのです。

 ここで、注意することは、「死の恐怖のために一生涯奴隷の状態にある」と言われており、「死」そのものが奴隷状態にある、ということではなくて、死の「恐怖」、死の「恐れ」が奴隷状態にある、と語られているのです。「死への恐怖」が私たちを縛るのです。死ぬことを恐れる、その恐れをもたらす者が悪魔だ、と言うのです。死を考えること自体、恐れを呼び起こす、それがすでに悪魔のたくらみの中に呑み込まれていることになるのです。

 私たちが死んでも神が死のかなたまで支配している、神が死の領域を支配しているので、本当は安心していて良いのですが、悪魔がそのことを邪魔をして死ぬことはこわいことだと私たちを縛るのです。先ほど、死ぬことがこわいということを話しましたが、死ぬことは自分のすべての存在がなくなることで、自分が無くなってしまうことだ、そのように私たちに考えさせるのは、悪魔が私たちの死をにぎり、支配しているからです。悪魔は私たちに死ぬことの怖さを教えるのです。死ぬことは怖いし、死後、どうなるのか、わからないので、死の支配権をもっている悪魔に対抗して、自分の努力で、できるだけ死なないで長生きして行こうと言うのです。健康によって、死を支配している悪魔に対抗しているのです。

 死を支配している悪魔に対抗することは私たちにできません。ところが、死の支配権をもって、私たちを縛っている悪魔と戦っておられるお方がおられるのです。その方が主「イエス」だ、この主イエスが、私たちを、悪魔が支配している死から解放して下さるのです。

 このような戦いは、私たちには不可能なことです。悪魔を相手に戦うなど、わたしたちに到底できることではないのです。その戦いを、主イエスがしてくださったのです。この主イエスを、2章10節では、「救いの創始者」と呼んでいます。創始者と言う言葉は、「アルケーゴス」と言う言葉です。このアルケーゴスという言葉は、代表戦士と言う意味です。旧約聖書のサムエル記上の中に、後にイスラエルの王になったダビデが、ぺリシテ軍の戦士であったゴリアトという男と戦ったという記事が出て来ます。この時のダビデとゴリアトとが代表戦士です。両方の軍隊が全面衝突をすると、双方に大きな被害が出ます。それを避けるために、代表を出して戦わせるのです。そして代表が勝ったほうを、戦いに勝ったことにするのです。この時は、結局、ダビデがゴリアトを倒して、イスラエルが勝利を収めるのです。これがアルケーゴスの戦いです。

 この場合に、すぐに分かりますが、他の兵士は全く関係ないのです。他の兵士は、どれほど弱くても良いのです。ただ、代表になった戦士が強ければいいのです。代表になった戦士がすべてのことをするのです。まわりの兵士は何もしないのです。そして悪魔との戦いにおいては、主イエスが代表戦士になって戦ってくださった、そして勝利してくださったのです。その戦いとは、神に背くか、従うか、という戦いです。悪魔は何とかして主イエスを、神に背かせようとする、そのためにあらゆる手を尽くすのです。しかし、主イエスは神です。主イエスは最後まで神に従順に従い通されたのです。私たち人間は、どこかで神に背いてしまうところを、主イエスは完全に神に従ったのです。十字架の死に至るまで従順に従われたのです。そして悪魔を打ち倒されたのです。悪魔が支配していた死を、主イエスは御自身のものとして、悪魔に代わって、支配するようになったのです。

 そのことによって私たちの死は、神の支配の中にある、死なのです。神の愛の中で、私たちの死があるのです。死のかなたまでも、神が支配しているのです。

 現在、どのような死を迎えるのか、延命治療を受けるのか、孤独死になるのか、そのことに捕らわれてしまうのですが、それが死の問題の本質ではなくて、本当の問題は、神から離れたところで死ぬ死なのか、神に支配され、神がおられるところの死なのか、と言うことなのです。
 
 福音書の物語の中で、主イエスがヤイロの娘を甦らせる物語があります。ヤイロの家に行かれた主イエスが、泣いている人々に向かって、こう言われるのです。「なぜ泣き騒ぐのか、子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(マルコ5章39 p70)すると、それまで泣いていた人々が、みな主イエスをあざ笑ったと福音書は記しています。確かに子供は死んだのです。しかし、主イエスにとって子供の死は死ではないのです。この子供は、神の愛のみ手の中にいるので、死んではいないのです。ただ、眠っているのです。神と切り離された死、それこそ残酷な、独りぼっちの死なのです。神と共に生きる時、それは肉体が無くなっても、その死は死ではないのです。
 
 2章17節前半には「それで、イエスは神の御前において憐れみ深い大祭司となって」と語られています。先ほど、代表戦士について触れましたが、代表戦士として悪魔と戦われた主イエスは、同時に、わたしたちにとって憐れみ深い忠実な大祭司になられた、と語ります。大祭司は罪を償うための務めを担うのです。罪の問題は、私たちにとって、人生の大きな問題です。
 
 旧約聖書には、罪を犯した者は、罪の償いとして、動物のいけにえを献げて、神に赦してもらっていました。その贖いの儀式を司るのが、大祭司でした。しかし、自分の代わりに動物をささげることによって罪を償うことは不十分で、不完全です。旧約聖書の贖いの儀式は、不完全なものなのです。

 私たちはいつも自分中心に生き、自分ファーストで過ごしています。神に対して罪を犯した、その罪を神が満足するように、私たちが罪を償うことはできないのです。神の子・主イエスが神に対して、罪の犠牲をささげなければ、神は私たちの罪を赦すことはしないのです。

 主イエスは、憐れみ深い大祭司になられたのです。大祭司とは、私たち人間の罪が赦されるように、私たちに代わって犠牲をささげて、罪のとりなしをしてくださる方です。主イエスは憐れみ深い大祭司になられたのです。わたしたちのように自分が一番、可愛い、自分本位の者を心から愛して、憐れんで、私たちの罪が赦されるように、動物の犠牲ではなくて、御自身を犠牲としてささげて、私たちの罪の赦しを勝ち取ってくださったのです。

 そのようにして、私たちが神の御手のなかへ、喜んで帰ることができるようにしてくださったのです。今や、私たちは、心から願うならば、誰でも神のもとへ帰ることができるのです。主イエスがそのようにしてくださったのです。主イエスが、悪魔のたくらみを、すべて打ち砕いてくださったのです。

 主イエスが代表戦士として死を支配している悪魔を打ち砕いて勝利し、憐れみ深い大祭司として、私たちの代表として罪の贖いを成し遂げてくださった、それは、私たちの手の届かない、架空の場所で行われたことではなく、私たちが生きている、この地上で主イエスが私たち人間の代表として、ご自分も血と肉を備えられたことなのです。私たちが肉と血を備えている、人間の弱さや、罪の誘惑がある、その私たちの一員となって、私たちの味方になってくださったのです。神の子が、天使たちの横を通り過ぎて、血と肉を備えている私たちのところへ降りてきて、御自身、血と肉を備える者になってまで、わたしたちを助けようとしてくださったのです。私たちの人間としての弱さを、罪に誘惑され、死の恐れを味わってくださったのです。

 このようなことを、別な言い方で語ります。2章11節で、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで」と語っています。主イエスは、わたしたちを兄弟と呼ぶことを恥としない、と言われます。主イエスは、私たちの兄弟になりたくて、そうしてくださったのです。私たちは自分の兄弟であっても、困った兄弟がいると「兄弟の恥です」と言うことがあります。主イエスにとって、私たちは、兄弟と呼ぶのに恥となるような存在であるはずです。
 
 この手紙を書いた人は、自分が主イエスの兄弟と呼ばれるのに決してふさわしくないことを承知しているのです。それにもかかわらず、主イエスのほうで「私の兄弟」と呼んでくださるのです。兄弟と呼ぶことが恥であるような存在であるのだけれども、主イエスのほうで「私の兄弟」と呼んでくださるのです。血と肉を備えているために、弱さを抱え込んで生きなければならない私たち、死の恐れの中で生きなければならない私たちを、この方は、兄弟と呼んでくださり、恥としないのです。この手紙を書いた人は、喜びと感謝をもってこのことを書いたのです。

 私たちが生きる時に、絶えず試練があります。苦労があります。年老いて、死に向かっていくことも様々な困難があり、苦しみがあります。その試練の中にある私たちを、主イエスは助けることができるのです。ヘブライ人への手紙2章18節に次のように語られています。

 「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練のなかにある者たちを助けることがおできになるのです。」

 これから、聖餐にあずかります。私たちの救いのために、主イエスは御自身の肉を裂き、御自身の血を流して自ら、犠牲をささげてくださったのです。このことを心に留めて、感謝して、聖餐に与りたいと思います。

20181216 主日礼拝説教  「神が私たちを引き上げてくださる」  山ノ下恭二


(詩編8編1−10節、ヘブライ人への手紙2章1−9節)
 
 この待降節・アドベントの時には、クリスマスカ−ドが届く時ですが、先週の12月14日金曜日に、私の神学校の時の同級生の友人からクリスマスカ−ドが届きました。そのカ−ドには、婦人の友12月号に掲載された友人の文章のコピ−が同封されていました。この友人は、9月にイタリアのアッシジに行ったそうで、アッシジと言うのは、聖フランシスコと関係の深い土地であり、聖フランシスコ大聖堂のあるところです。その大聖堂の正面には、祭壇があり、この祭壇を挟んで、右手には、イエスの幼年時代が、左手には受難の出来事が描かれているそうです。

 婦人の友12月号に掲載された「謙遜の極みの中で」と言う文章の中で次のように書いています。聖フランシスコ大聖堂の「本祭壇を挟んで、受難の物語と聖誕の物語」が、「フランチェスコを理解するうえで最も重要なのだ、と言います。特にフランチェスコは聖誕を祝うクリスマスを重視し、この秘儀において、神が人に近づいてくださったばかりでなく、権力と偉大さを棄て、価値のない、弱い姿で、飼い葉桶に寝かされた幼子としてご自身を人間に与えてくださったことに特別な意味を見ていました。」そして、「ここに神の本当の姿をみることができる」と書いているのです。
 
 11月から、私たちはヘブライ人への手紙を学んでいます。ヘブライ人への手紙1章では、主イエスが神の御子であり、この御子が神の特別の使命のために選ばれ、油注がれた方であり、神からの委託に応えて、救いの業をなさって、今は天におられて、すべてを支配なさっている方であると語ります。それを受けて、この救いをしっかりと堅持するようにと語るのです。
 
 本日の礼拝で、ヘブライ人への手紙2章1−9節のみことばを読みました。2章1節には「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」と語られています。この手紙が書かれた一つの大きな理由は、警告するためです。注意しなさい、気を付けなさい、と語るのです。この手紙で語られている警告に耳を傾ける、そのことがとても大切なことなのです。

 「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。」すでに聞いたことなのです。しかし、その聞いたことが自分の中に残っていないのです。私たちも相手の話を注意して、心に留めて言葉を聞くことがない時があります。一度、聞いたのだけれども、すぐに忘れてしまって、もう一度、聞き直すことがあります。皆さんが相手の話に真剣に耳を傾ける時はどのような時でしょうか。病院で検査をして、その検査の結果を聞きに行く、診察室で医師がどのように話すのか、医師の顔を見ながら、真剣に話を聞くのではないでしょうか。

 普段は相手の話を半分も聞き取っていない時もあり、相手の話に耳を傾ける時間を取っていないのではないでしょうか。礼拝説教に耳を傾けていても、別のことを考えて、聞いていなかったり、聞き流して、注意深く、心に留めて聞いていないこともあるのです。

 「そうでないと、押し流されてしまいます。」「押し流される」と言う言葉は、たいへん具体的な言葉です。船を人の手で漕ぐことがあります。帆を張って、風まかせで船を進めることがあります。海でボ−トを漕いだ人もいると思いますが、オ−ルをしっかりもって漕がないと、潮の流れに流されてしまい、最初に行こうと思っても、なかなか、そこに行けず、舟が目的地に辿り着かないことがあります。「押し流されてしまう。」これは、私たちの信仰生活のことを語っているのです。私たちの信仰生活も、真っ直ぐに行こうと思う歩みを、引っ張られたり、押してきて、進路を妨げる力が働いて、とんでもない所に行ってしまう、と言うのです。
 
 現代は情報化社会と言われています。新聞、雑誌、本、テレビ、インターネットなどたくさんの情報に溢れているのです。情報の洪水に押し流されて、何が本当で何が大切で必要な情報なのか、分からなくなっているのです。聞いている福音からはずれてしまうことになると言うのです。
 
 今日の日曜日の一日も私たちは様々な話を聞きます。家族との会話をし、教会で仲間と会話し、そして説教を聞く、そして、礼拝が終わった後に、教会学校の子どものためのクリスマスがあり、地域の子どもたちとの会話があります。

 様々な言葉を溢れるほど聞いて夕方、家に帰って行くのです。家に帰って今日の説教をすっかり忘れてしまっていることもあるのではないでしょうか。人間の言葉や音楽であるならば、聞き流して良いかも知れません。しかし、ここでは、私たちに語られた神の言葉、救いの言葉なので、言葉に注意して心に留めることが求められているのです。神の言葉、救いの言葉に注意して心に留めて聞いていないならば、明らかに救いから落ち、とんでもないことになると警告しているのです。
 
 礼拝においてしっかりみことばを聞くことが大切なのです。かつて、東大宮教会で加藤常昭先生を招いて研修会をしたことがあります。なぜ、礼拝に遅刻してはいけないのか、礼拝の前に席について静かに待っているのか、について話されたことがあります。私たちの教会の週報には、「礼拝開始10分前には着席し、礼拝に備えましょう。」と書いてあります。礼拝開始前に週報を見たり、人と話しているけれども、どのような待ち方が良いのか、ということを話されたのです。礼拝前に椅子に静かに座っている、それは礼拝が厳粛なものだから、公に決められた礼拝開始時間だから、その前に静まって待つのは必要だ、と考えている人もいるでしょうけれども、礼拝前に座るのは、説教を心を込めて、集中して聞くために、準備が必要だ、と言うことです。私は、礼拝の10分前に着席するのは、礼拝に臨む礼拝者の構えを作るために必要だ、と考えています。

 説教はお話ではないので、私たちが立つか、倒れるかと言う、生と死にかかわるいのちの言葉ですから、集中して聞くことができる態勢を作ることが大切なのです。きちんと聞いていないと、押し流されてしまうのです。
 
 私は年に一度、休暇を戴いて、別の教会で礼拝説教を聞く機会があります。説教を語る時と説教を聞く時とは、かなり違うのです。説教を語る側の責任はあるけれども、聞く側の責任もあるのです。きちんと聞いていないと、船が押し流されて、目的の港に辿りつかない、あるいは嵐に巻き込まれて難船する、それと同じように、私たちも「信仰の失格者」となるのです。

 ところで、この手紙は、聞いたことにいっそう注意を払うように、と語ります。ここに、この手紙の警告の特色があります。もう聞いたのです。ところが聞いたつもりの言葉を忘れてしまったり、しっかり自分の心に言葉を刻みつけながら聞くことがない、そのことを戒める警告なのです。既に聞いたのです。しかし、大切なこととして記憶していない、心に記録していないので、そのうちに、言葉がどこかにいってしまったのです。
 
 2章1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」「押し流される」と言う言葉を調べて見ると、先ほど、ボ−トが潮に流されて目的地につかないと言うことになると語りましたが、もう一つの解釈があります。バークレーと言う新約学者が書いた注解書に、「押し流される」と言う言葉の意味が書いてありました。

 それは指から指輪が抜け落ちて、はずれて、どこかに行ってしまう、そのような意味があるとありました。指にはめていた指輪が指から抜け落ちて、どこかに落ちてしまったら、高価なものであるから一所懸命に捜すのです。しかし、神の言葉をしっかり聞いていなければ、神の言葉を探すことはないのです。すでに聞いている、すでに聞いて知っている、その言葉は大切だ、自分の救いにかかわることも知っているのです。しかし、指輪が指からはずれてどこかにいってしまう、見当たらないように、神の言葉が私たちのうちに残っていないのです。福音を、ほんとうに救いの言葉として深いところで受け入れ、聞いていないから、自分の中に何も残っていないことになるのです。
 
 私たちがキリストの救いをしっかりと保つことをしないと、流されてしまうのです。書店でキリスト教関係の本が並んでいる棚には、聖書を歴史書として読む本が並んでいます。教会で聖書を読む読み方とは違う読み方をする、そのような内容に魅力を感じる人も多いのです。現代は聖書学者が多くいて、キリストの救いよりも、人間イエスを強調するのです。イエスの生き方に倣う、ということを中心にするのです。イエスのような生き方をしたいと思う人も多いのですが、その読み方は一面であって、聖書が語ろうとしていることは、キリストによる罪からの救いなのです。イエスの生き方に倣う、と言うことが聖書の語ろうとしていることだ、ということになると、教会に対する批判になるのです。洗礼を受けていない人にも聖餐を受けさせるべきだ、という主張をする人が背後にもっている思想は、イエスは洗礼を受けているかどうかを差別しないで食事をした、と言うのです。教会でも洗礼を受けたかどうかを、聖餐を受ける基準にするのは、イエスの生き方に反していると考えるのです。
 
 現代の文化、それは神抜きで生きることができると言う、人間中心主義の文化であり、私たちもその思想に深く影響を受け、このことから免れてはいないのです。人間が一番、自分が生きるのが一番大切、自分ファ−スト、そのような現代の文化が主流なのです。そのような文化に流されないように、と言う警告が語られています。
 
 3節に「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」と語られています。こんなに大きな救いが語られているのに、それに対して無関心で、聞き流して、無頓着でいて事が済むのか、と言うのです。大きな救いを聞いている、聞いていたのだから、その責任は重い、と言う警告が語られています。

 「これほど大きな救い」と言う言葉は、原文では「大きい」と言う言葉の最大級の言葉を用いています。これ以上の大きさはなく、測りようもない大きな救いであると言う言葉です。この救いに無頓着であって良いのだろうか。聞いても忘れてしまって記憶にとどめず、軽く扱って良いのだろうか、と語ります。

 昨日の朝、NHK第一ラジオを聞いていましたら、インタビューの時間があり、女子大学生たちがフィリピンのスラム街に住む子どもたちをモデルにしたファッションショーを計画し、実行していることを話していました。代表である女子大学生が、アフリカのモロッコで一人旅していた時に、子どもたちが裸で暮らしていることを知って、とてもショックを受けて、綺麗な洋服を着せたい、と思ったのです。フィリピンのスラム街にいる子どもたちが、親もそうだけれども、ゴミをあさって暮らしている、貧しい生活をしている、学校も授業で使う紙を買うお金がないと言う生活をして、着ているものも薄汚れている、子どもたちに綺麗な洋服を着せて、みんなの前でモデルとして歩けば、みんなが注目し、子供たちが自己肯定感をもつことができると考えて、毎年、実施しているそうです。

 キリストによる救いとは、私たちが着ている罪で汚れた洋服を、イエス・キリストが代わりに着て、私たちがキリストの義の洋服を着ることなのです。そこでは、私たちの罪の洋服とキリストの義の洋服とが交換されるのです。私たちはキリストの新しい義の洋服を着ることができているのです。

 キリストの救いは、測りようもなく大きな救いなのです。イザヤ書61章10節(p1162)「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」

 神の救いは、その時によって別の、全く異なる内容ではなくて、同じ内容なのです。私たちの罪のために主イエスが死に、私たちのために甦られたのです。ロ−マの信徒への手紙4章25節(p279)「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」この福音をしっかりと心に刻んで、手放すことをせず、外のにせの救いに心を寄せたり、離れたりすることのないように、と語ります。
 
 自分のための信仰、自分の悩みを解決するために、聖書の言葉を読む、自分中心の信仰であると、この大きな救いから離れてしまうのです。聖書を読みながら、福音のメッセ−ジの中心、心臓に行かないで、自分の感情にあっただけの聖書の言葉だけで済ましているのです。自分を中心にして、信仰をとらえる、
教会の礼拝にでれば、自分の生活に役に立つかも知れないと思うのです。

 洗礼を受けた、と言うことはどのようなことでしょうか。それは、私たちが主人なのではなく、神が私たちの中心になっていると言うことです。

 あるキリスト教作家が、こういうことを言っているのです。キリストの救いを受けることは、自分を家に譬えると家の修繕をするのではない、と言うのです。家が雨漏りしていると、その部分を修繕する、また別の時に壁が崩れると修理する、それと同じように、神に人生の繕いをしていただく、それが救いだと勘違いをするのです。長く服を着ていると、袖が破れたり、ボタンが取れるので繕うことをする、教会に行って自分の足りないところを直したりする、それはおかしいことだと言うのです。家のある一部分をリフォームして綺麗にするのではなくて、新築して、新しい家に住む、つまり、神が住む住まいにすることが、私たちの救いなのだ、と言うのです。
 
 聖書が自分に役に立つ教えだ、自分の生活を豊かにするために必要だから、キリスト教信仰が必要だ、というのではなくて、自分のための信仰ではなくて、神を中心にする生き方に切り替えていくのが、私たちの信仰の生活なのです。

 ヘブライ人への手紙2章3節後半でとても大切なことを語っています。「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によって私たちに確かなものとして示され」とあります。主イエスの弟子たちが主イエスから直接に体験した事柄であり、弟子たちが勝手に自分たちの思い出話を語っているのではない、主イエス・キリストが救いを最初に語って下さり、それを聞いた人々が、私たちに確かなこととして恵みとして示し、伝えたことなのです。
 
 私たちは礼拝において聖書を読み、祈り、説教を聞くことは、丁度、弟子たちが主イエスの周りに集まって直接、主イエスに聞いた、そのところに私たちも集まって、主イエス・キリストの話を聞いていることにほかならないのです。主イエス・キリストの弟子たち、教会の人々が聞いた神の言葉とは、このヘブライ人への手紙の言葉で言えば、御子イエスのことです。

 最初の教会で伝えられた言葉(信仰告白)がコリントの信徒への手紙一 15章3−4節です。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」です。キリストの十字架の死と復活が、私たちの救いの言葉なのです。これは聖書の中の他の言葉の一つ、と言うのではなくて、これこそがただ一つの救いなのです。
 
 最初に紹介しました、「婦人の友12月号」に掲載された友人の文章の終わりに次のことが書かれています。「クリスマスは、神が人となられた聖誕の奇跡を祝う祭です。神は、驕り高ぶる権力者の姿ではなく、貧しく弱い、幼子の姿でわたしたちの許に来てくださいました。そして、十字架の死に赴かれた時も、軽蔑され、見捨てられ、罪人の姿で、わたしたちと同じ人間の生をまっとうしてくださいました。それはどんな人も、この方から離れて生きている者はいないことをはっきりお示しになるためであったと言えるでしょう。」

 「押し流されないで」と語られています。嵐が来ても船が流されないためには、船を固定するために海に錨を降ろすのですが、私たちも私たちの罪を赦す、神の愛に深く信頼して、この福音を確かなものとして受け取っていき、信仰の錨を降ろしていくのです。

20181209 主日礼拝説教  「主イエスが私たちのところに来られた」  山ノ下恭二


(詩編102編20−29節、ヘブライ人への手紙1章4−14節) 
 
 キリスト教会の暦では、本日は、待降節・アドベント第二主日です。ロウソクに二本の灯りが灯りました。
 
 本日の礼拝でヘブライ人への手紙1章4−14節を読みました。読んですぐに分かることは、旧約聖書から多くの引用がなされていると言うことです。ここには旧約聖書からの引用が次々と出て来るので、読んですぐに意味が分からないかも知れません。
 
 ここには、どのようなことが語られているのでしょうか。旧約聖書から多く言葉の引用がなされているのは、イエス・キリストが天使よりも優れた方であり、神と同じ方であることを説き、確認するためなのです。今日の礼拝で読みました1章4−14節は先週の礼拝においても読みました。イエス・キリストが優れた人格者、優れた教師、模範的な道徳家ではなく、まことの神として働いたことを語ったのです。

 本日は1章9節を中心に、このみことばに思いを向け、深めたいと思います。ヘブライ人への手紙1章9節には次のように語られています。「あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
 
 9節後半を先に触れていきたいと思います。なぜ、9節後半から先に学ぶのか、それはクリスマスの意味を深く学ぶ助けになると思うからです。9節後半には、「それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなた仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」と書かれています。

 油を注いだ、この言葉は、私たちがキリスト、キリスト教、と言っている言葉の元々の言葉であり、とても大切な言葉なのです。皆さんが、自分がキリスト者で牛込払方町教会の会員だ、会員でなくても教会に通っている、と誰かに言った時に、その人が、「キリストってどういう意味ですか」と尋ねられたら、どのように答えるでしょうか。
 
 9節後半には「あなたに注いだ」と言う言葉が最後にありますが、この文ではギリシャ語の原文では最初に「あなたに注いだ」という言葉が来ています。「注ぐ」と訳されている言葉、これはどのような時にも、何を注ぐ時にも用いられる言葉ではなくて、この言葉自体が油を注ぐと言う意味を持っている言葉です。この「油を注いだ」と言うギリシャ語は、エクリセンです。エクリセンと言う言葉は、クリストス、つまり日本語ではキリストと言う言葉の動詞形です。ここには、キリストと言う言葉の、元々の言葉がここで用いられています。油と言うのは、香油のことです。香油を注がれて、特別な務めに任じられるのです。

 王は祭司によって香油が注がれます。旧約聖書に登場するサウル、ダビデが王として油を注がれたのです。神が王を立てると言う信仰に基づいて、即位に際して王に香油を注いだのです。へブル語ではメシア、ギリシャ語ではキリスト、「油注がれた者」として王が立てられるのです。王に注いで、特別な務めに任じられるのです。
 
 「油注がれた者」と言う言葉はとても重要な言葉ですので、この言葉について不正確に伝えるのもよくないと思い、「旧約聖書神学用語辞典」の「メシア」と言う項目を読みました。一部分ですが、紹介します。「『メシア』という名詞は『油を注ぐ/塗る』と翻訳されるヘブライ語の動詞mshに起源を持っている。油を注ぐ行為は、それにより特定の任務を果たすように特別に神から指名されることであり、深い象徴的意味を持つ。『油注がれた者』(=メシア)は、このようなサクラメントを通じ、神から与えられた特別の務めのために特別の力と権威をもって指名された者である。」(p417)

 サウル、ダビデが王として油を注がれた、それは「特定の任務を果たすように特別の力と権威をもって指名された」のであり、それは神の御心を行うためなのです。しかし、サウルは王として神の御心に従わなかったために、失脚してしまうのです。サムエル記上15章で、戦争で敵に勝利した時には、主なる神に敵対したのであるから、敵の一切の分捕り物を無くしてしまうことが命じられていたのですが、「主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」(サムエル記上15章21節、p452)このことに対して、預言者サムエルは、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」と語っています。(サムエル記上15章22節、p452)預言者サムエルは、サウルに、主の言葉を退けたから、王として失格であり、神が王位から退けられた、と告げるのです。

 油を注がれる、と言うのは、王になるための単なる儀式ではなくて、神から特定の任務を果たすために選ばれて、神の御心を行うためになされるのです。神の御心を行い、人々に神の恵みを伝えるために、油が注がれるのです。

 この9節は、旧約聖書・詩編45編8節からの引用ですが、ギリシャ語旧約聖書の言葉からの引用です。この詩編は、王の結婚式の時に歌われたものです。結婚式の喜びの祝宴で、王の結婚を祝って、今、喜びの王として立てられる、と歌った歌を、このヘブライ人への手紙は、主イエスに対して語られた神のみ言葉として聞くのです。この詩編45編は王の結婚に際して、王の働きを祝して歌った歌ですが、この歌を引用することによって、キリストが喜びの王として、油を注いで、立てて、私たちに与えてくださった方であると語るのです。

 「それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐより多く、あなたに注いだ。」詩編45編8節の言葉を引用しながら、ヘブライ人への手紙は、ロ−マの教会の信徒たちに、キリストが喜びをもたらす王、喜びをもたらす救い主であることを語るのです。

 本日は待降節第二主日です。先週の礼拝で、この待降節はラテン語でアドベントと言い、「向かって来る」と言う意味の言葉であることを話しました。油注がれた救い主、メシアが私たちに向かって、私たちをめがけて来るのです。私たちが喜びの王に会いに行くのではないのです。私たちが、わざわざ神を捜しに遠くに旅をすると言うのではないのです。いなくなった子供を捜しに手がかりを求めて探し回るのではないのです。神が私たちのところに、この地上に、時を定めて、わざわざやって来るのです。

 この待降節をアドベントと言いますが、このアドベントから派生した言葉に、「アドベンチャー」と言う言葉があります。「冒険」です。神は遠いところから異境の地である、この地上に来られたのです。神が地上に降りて来て、自分がどうように扱われるのか、全く分からない、これは非常な冒険であるのです。

 明治期にアメリカからたくさんの宣教師が伝道のために来日しました。来日した宣教師の中で、一人の宣教師は日本に来て間もなく、舟の火事で亡くなっているのです。アメリカで伝道していれば、亡くなることはなかったのです。しかし、災難に遭って、亡くなっているのです。そのようなリスクがあるにもかかわらず、伝道のために日本に来たのです。

 神が自分の外に出て、肉体を取って、私たちのところを目指してやって来るのです。

 喜びをもたらす救い主を迎える私たちは、どうなのかということです。クリスマスの物語はマタイによる福音書、ルカによる福音書に詳しく書かれていますが、ルカによる福音書2章には、人口調査のために、ヨセフとマリアとがナザレに向かう途中のベツレヘムで宿屋を捜したけれども、どこの宿屋も満員で、泊まるところがなく、家畜小屋しか空いていなくて、そこで主イエスが誕生した、と書かれています。ルカによる福音書2章7節には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と書かれています。これは象徴的なことを表しています。それは、私たち人間が神の子イエスを受け入れることがなかったのです。降誕劇で、マリアとヨセフが、自分たちが泊まるベツレヘムの宿屋を捜したけれども、宿屋の主人に断られてしまう、場面があります。宿屋は一杯で、泊まるところがないのです。それで困り果てるのです。神の子イエスを追い出してしまうことなのです。よく使う言葉ですが、自分には居場所がある、あるいは自分には居場所がない、と言われるのです。主イエスには居場所がなかったのです。
 
 この物語が語ろうとしていることは、神がこの地上に来ても、神を受け入れることがない、神を閉め出してしまう、私たちの罪を明らかにしているのです。自分の生活が第一で、自分ファ−ストで、神のことなんか、関係ないと思っている、それが神を閉め出してしまう、私たちの罪なのです。

 9節前半の言葉について目を留めて、学びたいと思います。ここでは、神が御子、キリストに語っているのです。「あなたは義を愛し、不法を憎んだ。」とあります。神の子キリストが義を愛し、不法を憎むこと言うのです。私たちも正義を愛し、不法を憎む心を持っています。この世の中に正義が行われていることを願っているし、不法が行われていることに憤りを持つのです。

 最近、政府が提出している出入国管理法案に対して、在日外国人労働者へのアンケ−トの結果が正しく伝えられていないことが判明しています。在日外国人労働者に様々な条件をつけて、長時間労働、低賃金を強いているのです。儲けばかり考えて、労働者の人権を考えていない経営者が多くいることに憤りを覚えるのです。

 国家や社会の問題に私たちは目を向けますが、私たちは、義を愛し、不法を憎んでいるのでしょうか。正しいことを退け、不法を愛しているのではないでしょうか。キリストが義を愛し、不法に憎む方としておられます。私たちは自分が正しい人間だ、間違いのない人間だ、と胸をはって、神の前に出ることができるでしょうか。誰が、神の前に正しい者として立つことができるでしょうか。

 宗教改革者ルタ−は、改革運動を始めて、比較的、早い時期にこの「ヘブライ人のへ手紙講解」を書いています。この9節の「義を愛し、不法を憎む」と言う言葉について次のように解説をしています。「この句はキリスト以外のだれにも当てはまらない。なぜなら、キリストの外はだれも義を愛さないからである。他のすべての者は、金銭あるいは快楽、名誉を愛し、たとえこれらを蔑むとしても、すくなくとも栄光を愛する。あるいは、彼らがすべてにまさる最善の者であるとしても、義よりも自分自身を愛するのである。それゆえ、ミカ書7章は『神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。彼らのなかで最もよい者もいばらのごとく、正しい者も、いばらのいけがきのようだ』と言っている。(2、4節)さらにその理由がその箇所で続いて出るのです。『彼らの手の悪を彼らは善いと言う』からであると。(ミカ書7章3節)それゆえ、自己愛が残っているのだから、たとえすべて正しいものに見えようとも、人が義を愛し、語り、行うことは絶対にできないからである。」(「ルタ−著作集」第二集10 へブル人への手紙講解 岸千年訳 p209)

 ルタ−は、私たちが自分を愛する、と言う罪から抜け出すことができないと語っているのです。神の前に、自分の真実の姿が照らし出されるのです。結局、自分が可愛いのであり、自分だけが大切なのです。自分だけを愛する、そこから生まれる罪に捕らわれ、とりこになっているのです。その罪から解放されている者は一人もいないのです。どんなに立派なことを言い、どんなに善いことを語っても、自分たちは、自分のことを追及し、自分を愛する者でしかないのです。語っていることと、していることが全く違っているのです。私も、義を愛し、不法を憎むのではなく、自分を愛しているのです。語っていることと、していることに大きなギャップがあるのです。

 1章9節「あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」

 この9節の前半と後半の言葉がつながらないのです。神は正しいことを愛し、正しくないことを憎む方です。イエス・キリストが油注がれた者として、メシアとして、私たちに対して、どのようにされるのか、ということを考えるとこの9節の前半と後半の言葉がつながるのです。
 
 先週、新聞やテレビのニュ−スで報道されて、取り上げられた事件がありました。東名高速自動車道で、あおり運転のために、停車した車に後ろから、大型トラックが追突して、夫婦二人が死亡し、子供2人が大けがをした事件の裁判が始まったのです。判決が出ていませんが、裁判長が被告、容疑者に判決を出すのです。

 「あなたは義を愛し、不法を憎んだ。」神が私たちを審判する王として、審きの王として立てられて、私たちを審くのが筋ですが、主イエスが来られたということは、審判者としてではなく、実は審かれる方としてきてくださったと言うことです。キリストがこの地上に来られたのは、私たちを審くためではないのです。私たちが罪を犯しているのですから、私たちが罪の審判を受けるのが当然であるけれども、裁判長が審問を受け、裁かれる被告人、罪人、容疑者となるようなものです。

「義を愛し、不法を憎む」方が、私たちを審く方ではなくて、逆に審かれる者となって、私たちに深く同情し、憐れんで、罪を赦してくださるのです。私たちに、神との交わりが与えられ、祝福と平和が与えられるように、私たちに喜びをもたらす王としてキリストは油注がれて、私たちのところに来たのです。喜びをもたらす存在として、イエス・キリストは、私たちのもとに来たのです。

 ヘブライ人への手紙2章17節には次のように語られています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

 私たちにとって喜びとは、神が私たちを愛し、見捨てず、いつも共にいてくださることです。そこにほんとうの慰めがあるのです。

 私たちはキリストに属する者です。キリスト者と言うと、心が清らかで、間違いがない、と誤解されていますが、そうではなく、罪多い存在であるにもかかわらず、神に赦されて生きている存在なのです。私たちはキリストのものなのです。

 旧約聖書・ミカ書7章18節−19節(p1458)に次のような言葉が記されています。「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らの咎を抑え すべての罪を海に投
げ込まれる。」

 私たちが信じる神は、私たちをどこまでも愛してくださる神なのです。


20181202 主日礼拝説教 「神が私たちの救いのために」  山ノ下恭二 


(詩編2編1−12節、ヘブライ人への手紙1章4−14節)

 本日から待降節に入りました。待降節をラテン語でアドベントと言いますが、このアドベントと言う言葉は、「向かって来る」と言う意味の言葉です。アドベントはイエス・キリストが私たちに向かって来られるのを待つ時なのです。この時、私たちは、イエス・キリストの御降誕の意味を心深く学びながら、クリスマスを迎えるのです。この待降節・アドベントには、主イエス・キリストの誕生の物語を学ぶことが習わしとなっていて、毎年、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書の降誕の記事を説教のテキストとして説教するのが常です。

 しかし、今年は、例年と違って、ヘブライ人への手紙を学ぶことに致しました。それは11月から、ヘブライ人への手紙を学び始めたこと、そしてヘブライ人への手紙が主イエス・キリストがどのような方であるかに焦点を当てて詳しく語っているからです。ヘブライ人への手紙は福音書のように主イエス・キリストの誕生を物語として語ってはいませんが、別の語り口で、主イエス・キリストの御降誕を意味深く語っているのです。
 
 本日は、ヘブライ人への手紙1章4−14節のみことばを読みました。ここにはイエス・キリストがどのような方であるか、を詳しく語っています。特に「御子」と言う言葉を用いて、イエス・キリストを語るのです。1章4−14節の中で、特に4節の言葉が中心となる言葉です。4節の言葉を論証するために、旧約聖書の言葉を引用しているのです。御子は天使たちより優れた者となられたことを証明するために、旧約聖書の言葉を詳しく引用しています。
 
 ヘブライ人への手紙を書いた著者は、1章4節を強調しています。著者の最も言いたいのは4節なのです。4節には「御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちより優れた名を受け継がれたからです。」と書かれています。ここに「優れた」と訳されている言葉が二つ出て来ます。「優れた」と言う同じ言葉が出て来るので、元々の言葉は同じ原語と思うかも知れませんが、実は違う言葉なのです。新共同訳聖書は同じ言葉で翻訳していますが、別の翻訳はそれぞれ別の言葉で区別して翻訳をしているのです。比較的新しい翻訳は最初の言葉を、「優れた」と翻訳し、後に出て来る言葉を「卓越した」と訳しているのです。「御使いたちよりも優れたものとなったのである。御使いたちにまさって卓越した名を受け継いでいるのだから」。と翻訳しています。御子は、天使よりも優れたものとなられた、天使にもガブリエルとか、ミカエルという天使がいるけれども、それとも違うイエスという天使がいるということではなくて、全く位が違う、質が異なった卓越した名をもっておられると語るのです。この4節で、御子は天使ではない、天使に遙かに優る者である、卓越した存在であることを言いたいのです。
 
 このところを読んだ時に、天使について詳しく語っているけれども、私たちと余り関係がないことが書いてあると思うのではないでしょうか。皆さんの中で、天使に関心があると言う人は少ないと思います。礼拝説教で天使について詳しく語ることはほとんどないのです。私が大学で受け持っているキリスト教概論の授業で4月の初めの授業で学生にアンケート調査をします。どの程度、キリスト教、聖書について知っているのか、知りたいのです。聖書を読んだことがあるか、キリスト教のことで知っていることを書きなさい、と言う設問があるのです。ある年、一人の学生がアンケートに、私が知らない天使の名前をたくさん書いたので驚いたことがあります。キリスト教で知っていることと言ったら、聖書、十字架、教会ということを書くのが普通であり、天使の名前を書く学生はほとんどいないのです。私たちは天使についてほとんど考えないのです。天使の名前を言ってください、と聞かれて、天使ガブリエルの名前しか言えないと思います。ここには天使について語り始めるけれども、自分の生活には関わりがないように思うのです。 
 
 このヘブライ人の手紙が、なぜこのような話を始めたのは理由があるのです。それは、この当時の教会で御子イエスが天使の中の一人であるかのように思い込んでいた人たちがいたのです。御子イエスが、天使の中でも優れている天使だと思っている人がいたのです。天使の一人として、御子がおられると考えたのです。
 
 先週、四ッ谷の麹町カトリック教会・イグナチオ教会付属聖三木図書館に行き、天使に関する本を借りてきました。カトリック教会のほうが天使に関する書物が多いのです。天使事典など「天使」に関する本が7冊ありました。その中の一冊に「天使とは何か」と言うフランス人が書いた本を借りてきて、「聖書とヘブライ的伝統の中での天使」という章に、天使について書いてありました。「ギリシャ語のアンゲロスは、メッセンジャーを表すヘブライ語を訳したもので、伝達という天使の最も一般的に考えられている役割が強調されている。」人間に神の意志を伝えるのが天使だ、と言うのです。天使について新約聖書には、その役割を担う天使が登場するのです。
 
 主イエスの誕生物語で、ヨセフに夢の中で主イエスの誕生を知らせるのは一人の天使です。他の天使がヨセフにエジプトに逃れるように、そしてヘロデ王の死に際して、家族と共にパレスチナに戻るように命じるのは天使です。主イエスの降誕物語には多くの天使が登場するのです。新約聖書の初めだけに天使が登場するだけでなくて、主イエスの洗礼、荒れ野の誘惑に登場しますし、主イエスが復活された日に、空になった墓のそばに天使が現れて、墓にやってきた女性たちに復活のメッセ−ジを伝えるのは天使なのです。天使は神の意志を伝えると言う重要な役割を担っていることが分かります。
 
 「天使」は英語でエンジェルと言いますが、この言葉はアンゲロスと言う言葉ですが、元々、羽が生えて、どこにも飛んでいける不思議な存在と言う意味はありません。神のみこころを伝えるための使者のことです。この当時の教会の一部の教会員は、主イエスも神のみこころに仕える使者として考えたのです。しかし、天使は神ではないのです。天使は、あくまでも、神のみこころを伝えるために仕える存在なのです。

 ヘブライ人への手紙を終わりまで読みますと、不思議なことに、天使について語られているのは1章、2章のところだけです。3章以下は「天使」について語ってはいません。従って、著者は、天使が神ではない、と言うことを強調しているのではなく、「キリストが神である」ことを言いたいのです。それが分かるのは、8節以下に、詩編45編7−8節が引用されていることで分かります。「一方、御子に向かっては、こう言われました。『神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。』」とあります。ここで注目することは、神が主イエスを「神」と呼んでいるのです。主イエスを神と呼んでいる、これは、主イエスが人間として神に仕えた、と言うことではなくて、天と地が遙かに隔たっているように、神と人間とは質の全く異なった存在であり、主イエスが神と同じ存在であることを語るのです。
 
 主イエスを、神のみこころを伝えた人、神に仕えた優れた人と考えることがあります。それはあくまでも主イエスが人間であり、主イエスをふつうの人よりも力ある優れた人と考えてしまうのです。ある人が優れた働きをしてノ−ベル賞を戴く、そのことで賞賛されるのと同じように、主イエスも優れた働きをしたので、キリストと言う名誉ある称号をもらったと理解するのです。
 
 ヘブライ人への手紙1章4節で、御子は天使よりも力ある方、御子は天使とは異なった位をもち、神から特別に名を与えられている、と語るのです。なぜ、主イエスを天使として扱うことはいけないのか、と言うことです。それは、神が主イエスにおいて御自身を顕している、神が御子をこの世界に派遣したということが失われるからです。神が私たちを救うために、肉体を取り、人間となられた、と言えなくなるからです。
 
 11月の東京説教塾で、クリスマスの説教を取り上げて、説教を学びました。長く信濃町教会で伝道された、福田正俊牧師の「降誕のおとずれ」と言う説教を取り上げ、分析し、学びました。この説教を読んでいて、私ははっと気がついたことがあったのです。この説教の聖書テキストはルカによる福音書2章8−14節で、野宿していた羊飼いに、天使が、主イエスの誕生を知らせるところです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という言葉について次のように語っているのです。「端的に『あなたがたのために救い主』が誕生したと記されていることに注意しなければなりません。『救い主』と言う言葉の元の意味は、『救助者』、『解放者』と言うことです。分かりやすくいえば、神の守りや真実や力の贈り手、届け手が救い主です。」
 
 この説教の箇所を読んでいた時、救いの意味が私の中で明らかになったのです。神が私たちを救おうとするために、神であることに固執することなく、別の存在、肉体を取って人間となられたのです。それは、神の守りや真実や力を私たちに贈り、届けるためなのです。フィリピの手紙への手紙2章6−9節(p363)に次のように語られています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(p363)神はご自分の外に出て、ご自身でない者になってまで、私たちを救おうとされたのです。
 
 私の中学生の時に、教会でネパ−ルで医療活動をされた岩村昇医師の話を聞いたことがあります。それは私の出身教会の鹿沼教会の高崎隆牧師が旧制松山高校の出身で、ネパ−ルで長く医療活動をされた岩村昇医師も旧制松山高校の後輩で、岩村医師のことをよく知っていて、岩村昇医師とその働きについて話してくれたのです。日本で医師として働くこともできたのですが、ネパ−ルの人々の医療のために献身したのです。

 相手を救うために、自分の生活を捨てて、献身するのです。神がわざわざ、私たちのところにやってきて、自分中心に生きて罪にとらわれている私たちを罪から解放するために働くのです。神は、御子イエスによって私たちを深く愛し、私たちの深い罪を償うことによって、私たちを救おうと行動されたのです。
 
 先ほど、福田正俊牧師の説教の一部を紹介しましたが、その後、次のように語っているのです。「良く理解していただきたいのですが、どこかに神の助けがあると言うのではない。また単に天の高いところに神の助けがあるそうだというのでもない。神が頭越しに手を伸ばしてわれわれを助けるというのでもない。全くそうでなく、事柄はこの地上のことです。決して河の向こう側のことではない。まさに河のこちら側に神ご自身が来たりたもう。神が現実にわれわれの側に立って、われわれの同類・われわれの仲間となりたもう。そしてあの凍死した子供の同類ともなり、われわれの重荷にも苦しみにも、そして死にも参加したもう。」

 神は私たちの救いのために、自分の外に出て肉体を取り、地上に降って主イエスという人間となられたのです。この事実に目を向けようと語るのです。

 先ほど、8節以下で、神が御子を「神」と呼んでいるのですが、10節以下では、詩編102編26−28節の言葉が引用されています。ここでは、御子は、天よりも地よりも先におられ、御子によって創造されたと語られています。この世界は、創造される前に、神が御子において愛をもって創造されたのです。何よりも先だって、御子が愛によって支配しておられると語られています。はじめから終わりまで、この歴史を貫いて、神が御子において愛による統治がされているのです。

 この手紙はローマの教会の礼拝で説教として読まれたものです。ローマ帝国による教会への迫害が始まった時期に礼拝で説教として語られたのです。外部からの圧迫、迫害が信徒たちを苦しめていたのです。そのような時に、歴史を支配しているのは、この世の権力ではなく、天と地を創造する前から、神が愛をもって支配しているから大丈夫だと語っているのです。
 
 そしてこの当時の教会は内部から崩壊するような信仰の衰退の兆しがあったのです。教会の集会を止めよう、と言う声も出ていたのです。教会生活に疲れていたのです。そのような時に、厳しく叱責することなく、その気持ちが分かると単なる同情を寄せることなく、信徒たちが立ち上がるための言葉を語るのです。
 
 1章8節の言葉を再び読みます。「一方、御子に向かっては、こう言われました。『神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。』」この言葉は、詩編45編7−8節の言葉を引用しているのです。主イエスが神の玉座についておられ、支配しておられるのです。イエス・キリストは天に昇り、そこにおいてすべてを支配していると語るのです。内憂外患で信徒たちは信仰の衰退と迫害に悩んでいたのです。目に見えるところでは、希望を見いだすことができない場面で、目には見えないけれども天を仰いで、そこに生きる根拠を置くことを勧めているのです。イエス・キリストが復活し、天に挙げられて、神の右に着座しておられる勝利者、王たるキリストを仰ぎ見ようと語るのです。

 私は「天使」について関心をもってはいませんでした。しかし、この説教を作成していて、「天使」の働きがあることを知りました。14節で、キリスト者に仕える天使たちの働きについて述べられていることに注意をしたいのです。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」天使は私たちが信仰を継続するために大きな役割を担っていると言うのです。

 私たちが生活する中で、自分を支えてくれる人を必要としています。自分を覚えて助けてくれる人がいると心強いのです。孤独の中で生きてはいないのです。ひとりぼっちではないのです。天使は霊的な存在であり、私たちに伴ってくださるのです。
 
 神学者カ−ル・バルトに大きな影響を与えた、クリストフ・ブル−ムハルトは、魂への配慮に生きた牧師でした。この牧師のところに相談に来て、帰ろうとする人に、しばしば次のような言葉を語りかけた、と言われています。「天使のひとりをお供させましよう」
 
 天使は霊的な存在ですが、そのひとりとして、私たちに伴ってくださるのです。私たちが道に迷うときにも、心細いときにも、霊的な天使がいつもいてくださり、守り、導いてくださるのです。

20181125 主日礼拝説教  「神は私たちを見捨てることはない」  山ノ下恭二


(創世記9章9−17節、ヘブライ人への手紙1章1−4節)

 先週の主日から、礼拝でヘブライ人への手紙を学び始めています。今日、聞いたみ言葉は、ヘブライ人への手紙1章1−4節のところです。ここには「御子」と言う言葉が多く出て来ます。1−4節に5回も「御子」と言う言葉が出て来るのです。このことから、ここでは「御子」について語っていると言うことが分かります。「御子」とはイエス・キリストのことです。
 
 私は、小学一年生の頃から教会学校に通っていました。ある時、私は教会学校で教師によって、主イエスに対する呼び方がそれぞれ違うことに気がつきました。ある教会学校教師は「イエス様」と言ったり、別の教師は「主イエス」と呼び、また別の教師は「イエス・キリスト」と呼び、それぞれ呼び方が違うことが気になっていました。
 
 現在でも行っていますが、東京神学大学大学院2年生の時に、次の年の3月には卒業して、教会に派遣され、説教をするので、そのために「説教演習」と言う授業があります。この説教演習は大学の礼拝堂でするのですが、学生が説教をした後に、学長が、その説教についてコメントをするのです。私が大学院2年生の時、ある学生が説教をした後に、竹森満佐一学長が次のように言ったのです。「君の説教で『イエスが』と言う言い方がかなり多かったが、信じていない人であればいいかもしれないけれども、説教者はイエスは救い主、キリストと信じて告白し、洗礼を受けたキリスト者なのであるから、『主イエス・キリスト』と言いなさい。聖公会では丁寧に『御主(おんしゅ)イエス・キリスト』と言うのです」と言われたことをよく覚えています。

 一般の人は、主イエスを信仰の対象とは考えていませんし、歴史の中のひとりの人物、ひとりの宗教家と考えていて、「イエス」と呼ぶのは仕方がないですが、私たちキリスト者はイエスを救い主、キリストと信じ告白しているのですから、「イエスは」と言う言い方はしないのです。イエスは名前であり、キリストと言うのはヘブライ語で「メシア」、「油注がれた者」「救い主」の称号であり、イエス・キリストと私たちキリスト者が言うのは、イエスはキリスト、救い主であると言う告白なのです。
 
 このヘブライ人への手紙を読んでいくと、1章では「御子」と呼び、2章では「イエス」とあり、3章では「キリスト」と「御子」が出て来て、4章では「神の子イエス」と書かれています。それはその文脈によってそれぞれの意味があるのです。それぞれ、ひとりの方に対する呼び方がそれぞれ違っているのは深い意味があるのですが、ヘブライ人への手紙の最初のところで「御子」と言う言い方をしていて、この「御子」が私たちの救いにとって決定的な意味を持つのです。
 
 御子と言うのは、神の子ということですが、神の子どもというのではなくて、神と同じ方と言う意味なのです。神と同じ方である御子がどのような方なのか、何をしたのか、何をしているのか、そのことをこのヘブライ人への手紙は明らかにしようとしているのです。そのことを明らかにすることによって、教会の人々を励まし、慰め、力づけようとしたのです。
 
 このヘブライ人への手紙は紀元後、96年から97年にかけて、ローマの教会の礼拝でなされた説教の原稿であったらしい、と先週の礼拝で話しましたが、この時の教会の様子、状況はどうであったのでしょうか。

 教会はキリストのからだと言われていますが、私たちもとても意気盛んで活発な時もあるけれども、身体が衰える時、病気になって病んでしまい、弱ってしまう時があるように、キリストのからだとしての教会も盛んな時もあり、衰える時があります。

 ローマの教会に集まっている人々は、最初のキリスト者から数えて4代目、5代目の人々です。主イエス・キリストが昇天されて、既に64年−65年、経過しているのです。聖霊が降って教会が創立された時のような、燃え上がるような信仰はなく、世代が変わって、最初の志が衰えて来ているのです。
 
 使徒言行録には、最初の教会の様子が描かれています。よく人々が集まって、熱心に御言を教え、祈っていることが分かります。その時から64−65年経過して、最初の時の信仰や志が失われてしまっているのです。最初に持っていた情熱やエネルギーが失われて、信仰の情熱を持たなくなっているのです。
 
 最初の教会から64−65年しか経過していないのですが、この当時の教会は信仰の情熱が失われているのです。ヘブライ人への手紙10章25節(p413)に次のように語られています。「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」この言葉から、この教会の信徒たちが、教会の集会に出席する、そのような熱意がなくなっていることがわかります。また「怠ける」と言う言葉も出て来ます。6章12節(p407)「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。」ここには、「怠け者」と書かれています。キリスト者であるけれども、教会の礼拝に行くことに積極的になれず、聖書も読まず、自分が何をしたら良いのか、分からない、教会生活をしていても、マンネリ化しているのです。生活をしていて教会の集会を止めようと言う意見も出たようですし、苦労して教会生活をすることに何の意味があるのかと言う思いをもった人々も多くいたようです。教会生活に疲れているのです。

 これは教会内部、教会の内側から来る、教会の危機なのです。外側からの迫害、圧迫によって教会が危機に直面することがあります。太平洋戦争時の教会への国家による圧迫があったのですが、これによって逆に緊張して信仰を守ったということがありますが、教会にとってこわいことは、内側から信仰が崩れ、信仰が失われていく危機があるのです。

 現代はとても豊かな時代です。特別に信仰を持たなくても、教会に行かなくても、生活ができるし、なくてもやっていけるのです。私たちも、信仰生活を続けていくうちに、疲れてくるのです。なぜ、このように苦労してまで、信仰生活を続けなければならないのか、という思いがあるのです。
 
 このような時に、ヘブライ人への手紙は、御子イエス・キリストを仰ぎ、神の御子を仰ごうと語りかけるのです。御子がどのような方であるか、ということを正確に知ることによって、しっかり生きよう、望みをもって生きようと慰め、励ますのです。

 北海道の遠軽に北海道家庭学校があります。この北海道家庭学校は非行を犯した少年の更生のための施設です。少年院を家庭的な形で行っている施設です。この家庭学校の元校長である谷昌恒さんが「教育の心を問い続けて」という岩波ブックレットの中でこう言うことを語っています。この中で、家庭学校の礼拝で、少年たちが最近、自分が経験したことを作文に書いて、礼拝で読ませて、谷校長が講評する場面があります。ある少年が「牛のお産に立ち会って」と言う題で作文を読んだのです。親牛が子牛を産むときに、すごく苦しんで産むのを見て、この少年が気づくのです。「僕は親牛の姿を見て、すごくたくましいなぁと思いました。親牛は子牛を産むとき、すごく苦しんでいました。僕のお母さんもああいうふうに苦しんで産んでくれたのに、僕はお母さんに対して、口をあましてみたり、ひどいときは暴力をふるったりして困らせていたと思うと、ひどく悪く感じました。これからはお母さんに対してだけじゃなく、僕のためにいっしょうけんめいになってくれた人たちに対して心配をかけずにやっていこうと思いました。僕もあの親牛の姿を心の中に大切にしまっておき、これからの生活に頑張っていこうと思いました。」(p35−36)

 暴力を繰り返していた少年が牛のお産に立ち会って、母親が苦しみながら自分を産んでくれたということが分かり、自分の生きる力とするのです。この少年は親牛のお産の姿を見て、自分の母親が自分を産んだ時のことを想像し、母の愛を知り、自分のあり方を変えようとするのです。愛されて生きている、そのことを知ることがどんなに大切か、ということをこのことから改めて学ぶのです。

 このヘブライ人への手紙では、神が、神の御子が何をしてくださったのか、どのような方なのかを正確に知って、今、忍耐し、望みをもって生きようと慰め、励まそうとするのです。

 最初に「御子」と言う言葉がたくさんでてきます。なぜ、ここでイエスでもなく、キリストでもなく、「御子」なのでしょうか。「御子」と言うのは、「子」と言う字に尊敬の意味を表す語をつけていますが、子というのは、父がおり、イエスが「父よ」と呼んでいますが、「御子」というのは、神とイエス・キリストとの関わりを正確に言い表そうとした表現です。
 
 3節に「御子は、神の栄光の反映であり」と記されています。「反映」は「輝き」とも訳すことができます。主イエス・キリストご自身が輝いている、御子として神を輝かせている、と言うのです。神と主イエスとは全く違う存在ではなくて、神が光源であり、同じように神の子イエスも光源であり、輝いているのです。主イエスは、神と同じものであり、神の栄光の輝きは、主イエスの輝きなのです。

 このあとの「神の本質の完全な現れ」も同じことを語っています。「本質」というのは、神が生きていると言うことです。「現れ」と言う言葉は、カラクテール、英語ではキャラクターと言う言葉で、元々は、刻印という意味です。見えないものが、見える刻印、刻みを残し、その見えない本質を明らかにしているのです。それが、御子です。「現れ」をスタンプと訳している英語の翻訳もあります。神がスタンプを押して、神が具体的に刻印されるのです。御子は神が生きておられるのがはっきりと刻まれた姿であり、イエス・キリストと言うのが、そういう方なのだ、と言うのです。

 私たちの教会は礼拝の中で使徒信条を告白していますが、カトリック教会、東方正教会、プロテスタント教会で共通に告白している基本信条、公同信条としてニカイア信条があります。東方正教会はニカイア信条を重んじています。使徒信条は洗礼信条と言われており、洗礼を受ける時に告白するものとして使われ、会議で論争して決定したものではなく、教会が継承してきた信条です。

 ニカイア信条は、キリストの人格をめぐって、アリウスという司祭がイエスは神のような者と主張したことに対して、アタナシウスが、イエスは神と同じであり、神と同質であると主張して、戦いとった信条なのです。このために何回も会議を開き、教会で正式にこの信条を決定したのです。イエス・キリストの人格をめぐって、イエスは神のような立派な人というのではなく、御子イエスが神と同じ方であることを詳しく、正確に告白しています。ニカイア信条の最初の箇所には次のように語られています。「わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」

 なぜこのように詳しく御子イエス・キリストについてヘブライ人への手紙の最初で語り、そしてこのニカイア信条で詳しく言葉をきわめて、告白しなければならないのでしょうか。

 ヘブライ人への手紙は難しい言葉で語っていますが、新約聖書の他のところには、分かりやすい言葉で語っているところがあります。それはヨハネの手紙一 4章10節にあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神と同じ方、御子が私たちの救いのために人となり、罪の贖いとなってくださった、それはまさしく神の愛なのだ、と語っているのです。
 
 ヘブライ人への手紙は、神の、深い私たちへの愛、御子が人となられて、私たちの深い罪を担い、贖ってくださった、このことを語ろうとしています。神と同じ方が、私たちに同情し、私たちの中に入って来てくださり、苦しみ、私たちのために配慮し、力を尽くし、出し切ってくださるのです。

 御父なる神が、御子を送ってくださる、御子を送ってくださるほどに私たちを愛してくださるのです。このヘブライ人への手紙は、御子において神がどんなに豊かな愛の父であるかを語り始めたのです。何度も「御子によって」と語ることによって、父なる神が、いかに愛に富んだ、豊かな愛の持ち主であるかを知らせようとされるのです。御子によって現してくださる神を、私たちは父よ、と呼ぶことができるのです。「父よ」と呼ぶことができる幸いの中に私たちはあるのです。

 今日の礼拝でヘブライ人への手紙と共に旧約聖書の創世記9章のところを読みました。ここには、神によって造られた者が悪いことばかりしているので、神はノアと家族を選んで舟を造らせ、洪水をもぅって滅ぼし尽くしたのです。洪水のあとに雲の中の虹を示しながら、神がノアに約束を与えたのです。この約束が「永遠の契約」と呼ばれるものです。この「契約」は何を意味しているのでしょうか。それは神ご自身が造った人間を滅ぼさない、造られたものは滅ぼさない、と神が約束してくださったことを語るものなのです。人間が悪いことをしたからと罰として災いを与える、人間を滅ぼすということはしない、そのような決意を語ったのです。創世記9章15節には次のように語られています。「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」このように神は、愛の決意を語り、契約を結ぶのです。

 ノアの永遠の契約とヘブライ人への手紙で語る「御子」と結び付けて、関係づけると、この御子において、この約束、つまり造られたものを滅ぼさないということが明らかになるのです。神が造られたものを愛してやまないのですが、この造られたものを御子に委ねたのです。

 ヘブライ人への手紙1章2節「御子によって世界を創造されました。」これはどのようなことを語っているのでしょうか。神は慈しんで愛の相手としてこの世界を造ってくださった、その時にすでに御子も働いておられたのだ、と語ります。
 
 私たちは、神がいて、そのあとにイエス・キリストが登場すると考えますが、御子によって世界を創造されたと言うのは、この世界は神の愛によって保たれ、どんなに悪や罪がはびころうとも、神の御子の贖いの業によって救われているのです。私たちは御子イエス・キリストによって愛され、罪が赦されているばかりでなく、私たちの人生も愛の支配の中にあり、呪われていないのです。私たちの身のまわりに起こる辛いことや良くないことが続くと、神が罰を与えている、呪いにかけられていると考えますが、そうではないのです。呪われているのではなく、慈しみ深く、愛されているのです。神に見捨てられはいないのです。神が愛をもって配慮し、最もよい道を備えてくださっているのです。それは御子によってはっきり語っているのです。その神のみわざ、イエス・キリストを仰ぎ見て行こうではないか、と呼びかけているのです。疲れを覚えたり、心が萎えてしまっていても、御子イエス・キリストを仰いで行こうと勧めているのです。

20181118 主日礼拝説教  「慰めの言葉をあなたに」  山ノ下恭二


(イザヤ書40章1−2節、 ヘブライへ人の手紙1章1−4節)
 
 本日から、ヘブライ人への手紙をこの礼拝において学び、共に礼拝をささげることになりました。新約聖書の配列において、このヘブライ人への手紙はフィレモンへの手紙という短い手紙の次にあります。このフィレモンへの手紙は、伝道者パウロがフィレモンへ宛てて書かれたものです。そうすると次にパウロがヘブライ人への手紙を書いたと考えますけれども、そうではないのです。かなり古い時代から聖書の専門家たちは、ヘブライ人への手紙をパウロの手紙に数えることはなかったのです。そして、このヘブライへ人の手紙の表現や言葉、文体がパウロの書いたガラテヤの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙などに比べて、かなり異なっているのです。このヘブライ人への手紙を読んでみると、イエス・キリストを大祭司として捉えており、「十字架」と言う言葉も少なく、「罪をきよめる方」とイエス・キリストを表現しているのです。

 新約聖書は、ギリシャ語で書かれたものです。パウロの手紙は翻訳で読んでも分かりますけれども、訴える力をもった、生き生きとしたリズムがあります。このヘブライ人への手紙はどちらかと言うと堂々とした文体で、ギリシャ語そのものが整った、きちんとした、美しい言葉で記されているのです。この点においても、パウロが書いた手紙とは言えないのです。「ヘブライ人への手紙」と「手紙」と書かれていますが、このヘブライ人への手紙は、どのような性格の文書なのでしょうか。パウロの手紙には、手紙らしく最初に挨拶があり、パウロから、コリント、フィリピ、と言う具体的な教会へというはっきりした宛先があり、それから感謝や祈りが記されて、手紙の本文に入っています。
 
 しかし、ここにはそのような手紙らしい前置きは何もないのです。このことから、このヘブライ人への手紙が、本来、手紙というものであったかどうかがまず問題とされるのです。
 
 このヘブライ人への手紙は結論から言うと、礼拝においてなされた説教であると言うことです。論文ではなく、説教です。礼拝でなされた説教の完全原稿が載せられています。新約聖書は、すべてが説教と関わりがあり、パウロの手紙も礼拝で読まれたのです。またパウロが説教したに違いない言葉が、手紙の中に反映しているのです。使徒言行録を読むと、ペトロやパウロたちがした説教が記されているのです。それらは要約であり、一部です。

 このヘブライ人への手紙は、ロ−マの教会で行った礼拝説教の完全原稿であると言われています。そのことがはっきり分かるのは、この手紙の最後の言葉なのです。この手紙は13章から構成されています。その最後に近い第13章22節にこういう言葉があります。「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください。」この「勧めの言葉」と言う言葉が大切なのです。説教が「勧めの言葉」と語られています。最初の教会では、説教を「勧めの言葉」という言い方をしていたのです。
 
 使徒言行録第13章14節(p238)に次のように語られています。「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ビシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、『兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください』と言わせた。そこでパウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。」こうして、パウロの説教が始まるのです。この使徒言行録が描く場面は、こういうことです。ユダヤ人は会堂に土曜日、礼拝で集まり、讃美歌を歌い、聖書を朗読したあと、交代で説教をしていました。この礼拝に出席したパウロたちは説教を頼まれることも考えて、もし、頼まれるようであるならばキリストの話をしようと喜び勇んで行ったのです。そこで会堂の責任者によって「兄弟たち、何か会衆のために励ましの言葉があれば、話してください」と言われたのです。ここに「励ましの言葉」と訳されているのと、ヘブライ人への手紙で、「勧めの言葉」と訳されているのと、ギリシャ語の原文では、同じです。説教を「励ましの言葉」「勧めの言葉」と語っているのです。
「励ます」と言えば、勇気が人を励ましてあげる、望みを失っている人に望みを与えると言う意味があります。「勧める」と言う言葉は、勧告するという意味が強いのです。
 
 行く道を失って途方に暮れている人に、あなたはこのように生きて行くことができると、勧めて励ます心がこの言葉に込められています。「勧めの言葉」
は原文では同じ言葉であり、「慰めの言葉」と訳すことができます。従って先ほど、紹介した使徒言行録13章14節の言葉を次のように言い換えることができます。「兄弟たち、何か会衆のために慰めの言葉を語ってください。」この言葉を直訳すると「兄弟たち、会衆のために、あなたに慰めの言葉があったならば、ここで語っていただきたい」と言い換えることができます。ヘブライ人への手紙13章22節の言葉を紹介しましたが、「兄弟たち、どうか、以上のような慰めの言葉を受け入れてください」そのように訳することができます。「慰め」、この言葉は、パラクレーシスと言う言葉です。元々は、パラカレオーと言う動詞です。パラと言うのは、側に、傍らに、と言う意味の言葉です。カレオーは、呼びかける、語りかける、と言う意味の言葉です。従って、パラカレオーとは「側に」「傍らにいて」呼びかける、共にそばに立ってあげる、と言う言葉です。落胆している時に、黙って側にいると言うよりは、慰めとなる言葉を語りかける、と言う言葉なのです。ヘブライ人への手紙13章22節にあるように説教を「勧めの言葉」として、「慰めの言葉」として語っているのです。慰めの言葉として、礼拝で説教した完全な原稿がこのヘブライ人への手紙なのです。

 最新の研究によれば、この手紙は紀元後、97年から98年にエフェソで書かれ、ロ−マの教会で優れた伝道者によって語られた説教であると言われています。このヘブライ人への手紙をこの機会に最初から最後まで何度もよく読んで戴きたいのです。これは、説教であるから読めるはずです。
 
 ヘブライ人への手紙、第1章1−2節の前半では、いきなり本論に入ります。神が旧約、新約の歴史全体を貫いて働いておられ、私たちはこのひとりの神によって支えられ、導かれていることをまず語っています。私たちではなく、神が私たちより先におられ、ご計画をもって導いておられることを語ります。旧約のイスラエルの族長であるアブラハム、イサク、ヤコブあるいはモ−セの物語では、これらのものが語りかけるよりも、先に神が語られ、何をなすべきかを示しています。そして、旧約聖書における神の語りかけと新約聖書における神の語りかけの場合には、同じ神が語られるのですが、その方法に大きな違いがあるのです。旧約では夢、幻、預言者を通して神が何を考え、どういう方かを部分的に、断片的に明らかにしましたが、新約の時代では、たった一つの、一度かぎりの語りかけであり、それは内容的に十分に語られているのです。

 それが1章2節前半に「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」とあります。「御子によって」神を啓示しているのです。「御子」によって、神はご自身を明らかしたのです。

 ある時、教会を訪ねて来た人といろいろ話していた時に、キリスト教の神様ってどういう神様ですか、と問いかけたので、私は、イエス・キリストによって神ご自身を明らかにしたことを説明したことがあります。そして一つの譬えを話したのです。父親が自分の子どもをどんなに愛して可愛がっているのか、それは、子どもが川で水遊びをしている時に誤って溺れてしまったことを知った父親は、子どもを助けるために、自分のことを考えずに飛び込んでいく、その父親の行動によって子どもに対する愛情がはっきり分かる、と話したのです。

 神は見えないし、私たちの理性では、捉えることができないのです。しかし、信仰によって神が私たちに対して何をなさったのか。それは神がイエス・キリストにおいて人となられ、十字架の死によって、私たちのための神であることを明らかにしてくださったのです。そのようなことを、その人に話したことがあります。神が私たちをどのように愛しておられるのか、それは、十字架の犠牲をささげるほどに愛してくださったのです。

 かなり前のことですが、朝日新聞に「心のページ」と言う欄があり、そこに「自分と出会う」と言うコラムが連載されていました。その中で大木英夫牧師が、「自分を犠牲にする神がいた」と言う文章を書いているのです。大木英夫牧師は、陸軍幼年学校を出た軍人でしたが、敗戦後、心の中が空白であった時に、福島の喜多方で、キリストの福音に触れたのです。次のように書かれています。「敗戦の晩秋、私は喜多方に居た。賀川豊彦が来るというので、喜多方教会に行った。そこで不思議な言葉を聞く。『犠牲愛』−ひとを愛して自分を犠牲にする神がいる』」このことから大木英夫牧師は、この神を信じてキリスト者となるのです。「ひとを愛して自分を犠牲にする神がいる。」

 私はこの文章を読んだこともきっかけになったのですが、旅行で会津・喜多方を訪ねたことがありました。そしてその後、聖学院大学で大木英夫牧師に偶然に遭って、この文章のことと喜多方に行ってきたことを話すと、大木牧師は賀川豊彦が伝道集会の後に、握手をしてくれて、その手がとても大きかった、と話してくれたのです。天皇のために命をささげることが唯一の生き方であると言う皇国思想で教育された一人の青年が、今まで自分を支えて来た思想を失って、空しく思い、虚脱感を抱いていた時に、自分のために犠牲にする神と出会い、キリスト者となって、牧師になったのです。

 神はイエス・キリストにおいて、御子において、神の子イエスにおいて、ご自身を罪の犠牲として献げてくださるのです。そのことによって神がどのような方であるか、どのようにわたしたちを愛しておられるのかを明らかにしてくださるのです。ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストが大祭司であり、罪の犠牲を献げてくださる方として語っています。そのことはこのヘブライ人のへ手紙で繰り返し語っているのです。

 2章17節(p403)に次のように語っています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」そして9章26節(p412)にも次のように語っています。「ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」そして9章28節(p412)にも語られているのです。「キリストも、多くの罪を負うためにただ一度、身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」

 イエス・キリストが私たちの深い罪のために、私たちに代わって肉を裂き、血を流してくださったということ、それほどまでに私たちのための神となってくださったのです。私たちは説教と聖餐によって、私たちの感覚を通して、私たちのために肉を裂き、血を流してくださることをありありと経験することができるのです。

 ヘブライ人への手紙を読むと、この当時の教会の信徒たちの姿が見えてきます。ヘブライ人への手紙10章25節(p413)に次のように語られています。「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」教会の集会に出席する、そのような熱意がなくなっていることが分かります。「怠る」と言う言葉もあります。ヘブライ人への手紙6章12節(p407)「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。」ここには「怠け者」と書かれています。教会生活をしていても、自分が何をしたら良いのか、はっきりしなくなったのです。慣れてマンネリ化してしまっているのです。熱意を失って、意欲をもってしようと言う気持ちがないのです。新鮮な思いをもって、誠実に信仰生活に励むと言うことがないのです。

 洗礼を受けて教会生活を始めた時には、聖書も一所懸命に読み、教会生活に励んでいたけれども、慣れてくるとイエス・キリストのことを新鮮な思いで聞かず、特別に心が動くようなことはないのです。集会も休みがちになるのです。キリストの恵みに対してもぼやけてしまっているのです。キリストの救いがはっきりしなくなったのです。

 そのような状況に対して、ヘブライ人への手紙は、イエス・キリストの救いを別の語り口で語ろうとしたのです。ヘブライ人への手紙は、パウロのように十字架と言う言葉も、十字架の贖いと言う言葉もほとんど出て来ません。しかし、同じことを「罪のきよめのわざ」と表現しています。旧約聖書の大祭司による犠牲のことを背景として、キリスト自身が大祭司であり、同時に犠牲である、そのような形で、キリストは天の聖所に入られてそれを行われた、と語られています。

 私は高校1年生の夏に、ヘブライ人への手紙を読んで行き、イエス・キリストがこの自分のために苦しみ、自分の弱さに同情し、罪の犠牲をささげてくださったことを深い感動をもって読むことができたのです。イエス・キリストを救い主として受け入れることができたので、この年の10月に信仰告白をしたのです。その意味で、このヘブライ人への手紙は、私の信仰の原点なのです。
 
 神に等しい方が地上にまで来られ、自らの命を捨てることによって、私たちを死の運命から救われ、復活により、天に戻られたのです。このイエス・キリストが私たちのためにいてくださる、心配し、犠牲を払い、愛してくださる方がおられるのです。

20181111 主日礼拝説教 「キリストに仕える家族」 大住雄一牧師(東京神学大学学長)


(レビ記25章42〜46節、コロサイの信徒への手紙3章18〜25節)
 
教会の誉め言葉で、「家庭的な教会」といわれることがよくあります。こちらはいかがでしょうか。私は教会とは家庭的なものだと思っています。同時に、聖書を見ますと、そういう教会をモデルにして、それぞれの家庭を形作っていくという教えがあります。今日、私たちが目の前にしているみ言葉もそういう教えです。家庭には夫婦があります。結婚式のときに、夫婦に対する教えがあって、この箇所が読まれることはありませんが、似たような言葉、エフェソの信徒への手紙の終わりの部分とか、ペテロの手紙の真ん中辺にこういう教えがあります。

今日のところも似ていますが、妻たちよ、と呼びかけます。夫に仕えなさい。これを聞いた途端に身を引く人があるかも知れません。この頃の家庭では妻に対する暴力が大変大きな問題になっていて、夫に仕えているとケガをさせられるかも知れない。どうやって、妻をそういう夫から守るかが世の中の大きな問題になっています。そういうところで、教会も場合によっては戦わなければいけない。夫に仕えるのはいいが、そのために家にいられなくなることがありうるのです。そういう時に教会はどうすればよいか、考えなければなりませんが、この聖書の教えは、妻たちよ、夫に仕えなさい、こういう似たようなことをエフェソの信徒への手紙でも、ペテロの手紙でも言うのです。どういうわけか、妻に対して、夫に仕えろといいます。 この頃、女性の牧師が多く、私はこの箇所は教会では読まないと宣言します。しかし、聖書です。聖書を結婚式のときに読むのは普通で、すべきことでしょう。これについて解き明かしをしなければいけない。どういうことなのか。夫に仕えなさい、今日はこれを明らかにしたいと思います。

子供たちに対して、どんなことについても両親に従いなさい。子供の声が聞こえてきそうです。冗談言うな、こんな親には従いたくない。むしろ、世の中の教育ということからすると、親を乗り越えて行ってほしい。親を乗り越えて大人になって行く。いつまでも両親に従いなさいでは困る。

奴隷たち、今日では奴隷制が残っているところは殆どありませんので、私たちの問題ではないといわれるかも知れません。しかし今、外国人労働者の話が聞かれますが、殆ど奴隷制です。せっかく日本にきたのに、奴隷のような扱いを受けて、家族を持ってはいけないなどと言われます。それで、4〜5年、ホンネはオリンピックが終わったら帰ってね、ということで、こんなひどい話はありません。そういう世の中で、本当に我々と同じ働き人として来ているはずの人たちに対して、奴隷的な扱いをしていることがありうるのです。そういうときには、この教えは大事なのですが、まずは奴隷に対して言うよりも主人に対して言ってほしい。奴隷に対して、肉の主人にも仕えなさい、ただへつらおうとして仕えるのではなくて、心から主人に従えという、そんなことがあってもいいのだろうかと思いますが、この教えには注意すべきことがあります。

夫に対しては、妻を愛しなさい。妻に対しては夫に仕えなさい、というのに、夫に対しては妻を愛せよというのは変ではないかという言う方もありますが、大事なことなのです。辛く当たってはいけない。夫に対しては、妻に対して辛く当たってはいけないと言うのです。これは真面目に聞くべきことです。私たちは、妻は自分のものだと思っています。夫にはそういうところがあります。私が神学生に、(卒業する前に結婚する者が時々いますので)男のほうが、「君の思い通りにして良いよ」というのと、女のほうが、「あなたの思い通りにして良いわよ」というのとは意味が違うということを教えます。

妻が「あなたの思い通りにして良いわ」というのは、ある意味で献身を決意している、どこまでも付いて行く。夫が云うのは、「オレは知らないよ」という意味です。「君の好きなようにして良い。オレは知らないから」。こういう違いがあることをちゃんと弁えていないと、後でがっかりすることになります。

辛く当たってはいけない。これは夫が支配者になってしまうのです。支配者であってはならないと言っているのです。妻を自分の思い通りにして良いなどと言うことは一言も言わない。子供たちに対しても、面白いことですが、注意して読んでみると、どんなことについても両親に従いなさい。この手紙が書かれた時代には、父親に従いなさいとよく言われました。でも、両親に従いなさいと命じるのです。旧約の十戒も大変なのです。父親を敬えとは言っていない。父母を敬え、これがレビ記になりますと、同じ戒めがありますが、母父を敬えといっています。これは気を付けて覚えておくとよいと思います。主イエスが一番大切な戒めとおっしゃった言葉があるレビ記19章の最初に、母・父を畏れなさいと書いてあるのです。

この手紙もそうです。両親を敬って、両親に従いなさい。父に対してではない。父に対しては、新たに言うのです。父親たち、母親たちではなく、また親たちでもなく、父親たち、子供を苛立たせてはならない、いじけるといけないから、と言います。つまらないことを言っていると思うかも知れませんが、そういうことを言っています。結局、これは子供を一人の人間として重んじるということでしょう。今日の日本の家庭の問題は、子供は自分の持ち物なのです。子供のためにいろいろやってやるけれども、結局は自分と分離ができていない、自分自身のことのように子供を叱るし、子供を一人の独立の人格として認めないのです。とても深刻な問題です。父親に対して子供を苛立たせるな。子供を縛るのは当たり前だと思っている人が多い中で、子供を苛立たせるな、有無を言わせずではなくて、一人の独立した人格として可愛がりなさいということでしょう。

奴隷の主人に対しては、主人も共に御国を受け継ぐ者なのだという、奴隷のことなど知ったことではないではなくて、主人も奴隷も一緒に、今は主人と奴隷ですが、終わりの日には一緒に御国を受け継ぐのです。そういう仲間なのです。だから、奴隷は誠心誠意主人に従うけれども、主人も正義を行わなくてはいけない。仲間ですから。分け隔てはないのです。主人だって不義を行えば、奴隷を悪く扱うのも不義ですから、不義の報いを受ける、分け隔てはない、というのです。そういう気を使ったものの言い方をしている教えですから、そういうことを分かっただけで、私たちは読み方が変わると思います。

その上で4章に入ると、主人たちに対して、奴隷の扱いについての話が出てきます。4章1節以下は話の続きではないか、何故章を改めて4章になるのか、と思います。新共同訳だって、4章で段落を区切っていません。4章の1節までで、一つの段落なのです。新共同訳の理解で言えば。では、昔の聖書を伝えた人は何故ここで4章と分けたのでしょう。

よく読んでみましょう。3章の家族への教えは、キリストに仕える者として夫に仕え、キリストに仕える者として子供を育て、キリストに仕える者として奴隷も主人に従い、主人も奴隷を正しく扱うのです。キリストに従う者として、というのが鍵です。これに対して4章になると、同じ奴隷の問題ですが、あなたには、あなたは主人のような顔をしているが、実は本当の主人は天の神様、あなたではない、あなたは神に仕える者に過ぎない、本当のあなたの主人は天にいらっしゃる、そういうことを覚えなさいと言います。だから、3章とはちょっと風合いが違います。だから、ここで章を分けるのです。話が違うのです。

そうなると、今日私たちが聴いている箇所、3章の終わりの部分というのは、家族の教えというのは主イエス・キリストに仕えるように、というところが鍵なのです。主イエス・キリストに仕えるように夫に仕えなさい、主イエス・キリストに喜ばれるように両親に従いなさい、主イエス・キリストに対してするように心から肉の主人にも仕えなさい。文句を言いたい方はおっしゃるでしょう。主イエス・キリストに従うというのはこういうことなのか。従順でありなさいということなのか。そんなものは信じていられるか、と言う方があるかも知れません。そこで、主イエス・キリストに従うように夫に従い、仕え、子供を育て、子供も両親に従い、奴隷も肉の主人に従う。どういうことになるのか、を読み取らざるを得ません。

主に対してするように、これを行うというのはどういう意味なのか。奴隷の話から始めましょう。聖書は奴隷制を廃止せよとは言っていません。でも、聖書の教えがずっと聞かれて、何百年、何千年経つ内に、奴隷制は、結局は廃止されて行ったのです。聖書が聴かれ続けていれば、奴隷制はありえない。有名な話ですが、パウロという伝道者、コロサイの信徒への手紙を書いている人ですが、フィレモンという友達に奴隷の問題で手紙を書いています。オネシモという奴隷がフィレモンのところを逃げ出してパウロのところにやってきた。これを逃亡奴隷といいます。逃亡奴隷は主人の下に連れ戻されたらどんな折檻をされるかわからない。奴隷は所有物です。旧約の申命記を読むと、奴隷が主人から逃げたら主人に返してはいけないことになっています。申命記では他の人の持ち物が無くなったり逃げてきた場合、ロバにしても羊にしても逃げてきた場合は主人に返さなければなりません。けれども奴隷だけは返していけない。これが律法の教えです。何故かというと、逃げてきた奴隷を返したらどんなことになるか、ひどい目にあわされることが分かっているから、返してはいけないのです。ところが、パウロは、逃げてきたオネシモを主人であったフィレモンに返す。これは律法違反です。律法学者であったパウロが、律法違反を犯しますが、それには理由がありました。オネシモは、今やこれまでの奴隷とは違う、私たちにとって、主にある本当の仲間になったからです。そういうことを分かって受け入れてほしい、という手紙を書いたのです。この時のパウロがすごいのです。あなたには貸しがある。貸しについては何も言わないから、と凄んでいるのです。何も言わないから、オネシモを受け入れろと言うのです。そして、オネシモを今までの奴隷ではなく、新しい存在として、私たちと一緒に主の救いを担う存在として元に返す。

これがこの手紙の言っていることで、それは今日の奴隷について言っている箇所を理解するのに大切なところです。今は奴隷であっても、実は主の前では分け隔てのない一人の人間として扱いなさいということです。奴隷の方も、共に主の御前に立つ仲間として、心から主人に仕えなさい、ということです。主に対してするように、心から肉の主人に従う。これは、そもそも従属する者として生きるのではなく、一人の独立した人間として生きなさいということです。主に仕えるのは主人においても同じ、自分も同じ主に仕える者として、主人を重んじなさい、同じ人間になりなさいということです。独立した人間として、隷属している人間としてではなく、心から主イエス・キリストに仕えるのと同じように、肉の主人にも仕えなさい。そういうことなのです。人間というものが変わっているのです。ここで。

確かに、私たちは、妻であり、夫である者です。具体的には。しかし、妻である者も隷属する人間としてではなく、一人の独立した人間として夫に仕えなさい。夫も、妻は自分の持ち物ではなくて、一人のキリストに仕えている者として、愛しなさい。イエス・キリストが私たちを愛して下さったように、あなたも妻を愛しなさい。子供に対してもそうです。子供は否応なしに親に従えではなく、子供もイエス・キリストに愛され、イエス・キリストのものになっているのですから、そういうものとして重んじる。イエス・キリストを重んじると同様に、子供も重んじるということです。そこが、この手紙のとても新しいところです。本当に私たちの新しい生き方を表すものとして、読みたいと思います。

ちょっと違う話ですが、昔私は慌てさせられたことがあります。教会学校の教師会でこういう質問をした人がいました。聖書の質問です。マルコの福音書に富める青年の話があります。主イエスのところに来て、自分はどうしたら神の国、天国に行けるか、どうしたら永遠の生命が得られますか、と尋ねます。主イエスは素気ないのです。昔から言われている十戒、殺すな、盗むな、姦淫するな、あなたたちだって知っていることだろう。主イエスに対して、このお金持ちの青年は答えます。それは小さい頃から守ってきました。それならそれで良いはずなのに、それで満足しない。何かまだあるのではないですか。それだけですか。そうすると、主イエスはお答えになります。持っている物を全部売り払って、貧しい人に施し、私について来なさい。貧しい人に施せ、それだけで良いのだとすれば、多分この人はやったと思います。何故、この人は悲しみながら去って行ったのか。イエス・キリストに従って来いと言われたからです。貧しい人に施すにしても、殺すな、盗むな、姦淫するなにしても、それは証拠になる、それがあれば永遠の生命が得られる、手掛かり、そういうあなたの持っている手掛かりを全部捨てろと言われた。そういうものを全部捨てて、キリストに従って来い、つまり、私の持っている救いの手掛かりは捨てて、イエス・キリストだけを救いの手掛かりにしてついて来い、しかしこれができない。主イエスは仰います。お金持ちが天国に行くのは難しい、それよりもラクダが針の穴を通る方が易しい。弟子たちは驚きました。貧しい弟子たちですから、こういうことを言われたら万歳と言えば良いのに、驚くのです。それでは、誰が天国に行けるのか。

つまり、それは弟子たちにとっても、お金持ちであることは、実は神様に愛されている証拠なんです。その神様に愛されている証拠を取り上げられて、お金持ちが天国に行くよりはラクダが針の穴を通る方が易しいなんて言われたら、それは驚きます。そこで困ったペテロ、一の弟子が、私は何でも捨ててあなたに従って来ました、と言うのです。主イエスはそのことを受け取って、私に従って、父、母、兄弟、姉妹を捨てた者は、迫害を受けるだろが、その百倍もの家族や財産を受け取る、と言うのです。この中で、教会学校の先生をやっている信徒が引っ掛かった。私も気が付きませんでした。父、母、兄弟、姉妹、そういうものを捨てて来た者には、その百倍も受け取るというが、その中に父が入っていない。主イエスは父、母、兄弟、姉妹を捨てた者は、新しく百倍のものを受け取ると言うが、その新しいもののなかに父が入っていない、これはどういう意味ですか、と訊かれて、私はびっくりして急いで牧師館に駆け戻って調べました。確かに言われていません。新しく受け取るものの中に父が入っていない。注解書を調べました。それで分かりました。教会では、母は母ですが、父は兄弟になるのです。父は兄弟になるから、父と子の区別はなくなるというのです。それをもって、その場では格好が付きましたが、聖書は、本当に一つの言葉の違いで物凄く大きな意味があるのです。

私たちは家族的な教会と言われると喜びます。その時に、父と息子の関係が、家族的な教会だと、父がいつまでも父の権威を持っているわけではないのです。父は教会に来て、イエス・キリストの僕になったら、兄弟になるのです。そういうことを私も知りました。

私たちは新しい人間になります。もちろん、家族としての教えを受けますが、その家族は、全く新しい家族になるのです。主の下で、皆等しい、本当の人間になるのが教会です。その、主の下で本当の人間になりうる教会をモデルとして、私たちは自分の家族を形造らなければならない。妻は新しくキリストの僕になった者として、夫に仕えたらよい。主はそれを守り給うでしょう。先ほど話したペテロの手紙に面白いことを言っています。あなたが、内面の飾りをもって夫に仕えるならば、夫は変わる、というのです。夫が変わるという意味は、ノンクリスチャンである夫の場合です。皆さんどうですか。日本では多いです。ノンクリスチャンである夫と結婚する。そのときに妻が本当に内面の、神様からいただいた飾りをもって、夫に仕えたら、その夫は変わるよ、という希望です。このようにして、私たちは新しい存在として主に仕えます。家族も変わります。夫に仕える。そして夫は妻を愛し、一人の独立した存在として、しかも、一緒に主に仕える存在として妻を愛するのです。子供たちも両親に従う。それは、怖い両親にイヤイヤ従っているのではありません。主イエス・キリストが愛して下さった自分たちが、喜びをもって両親に仕えるということがあります。父親たちは、そういうものとして子供を迎えなければならない。神様からの預かりものだとよく言います。それ、どういう意味でしょう。自分のものではないということです。

奴隷たちは、今は他人の所有として仕えていく。しかし、主の御前では、独立した一人の人格。物ではない。そして、主人と同じに天国の約束をいただいている。だから、心から同じキリスト者として主に仕えるように、主人に仕える。そして、主人も同じキリスト者、救いを共有する者として、奴隷を迎えます。全然違う家族になるのです。私たちはそういうモデルとして教会を与えられており、また、家族をそのように思うことによって、仕え合い、愛し合う者として与えられている、それが教会なのだ。そういう教会を、私たちは与えられていることを教えられる。そのことを覚えて、喜びたいと思います。

祈りましょう。

天にいらっしゃいます父なる御神様
あなた様は、私たちを、あなた様の家族として遇してくださいました。
私たちは最早、互いに支配し合う家族でなく、また、互いに、所有し、暴力的に扱う奴隷でもありません。私たちはあなたの家族、そのことを私たちは常に覚えて、あなた様の救いの家族を喜ぶことができるようにならせて下さい。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。
アーメン
(記録者:堀 瑞穗)

20181104 主日礼拝説教 「必要を満たしてくださる神」  山ノ下恭二


(歴代誌上29章10−13節、フィリピの信徒への手紙4章19−23節)

 9月23日は、洗足教会との講壇交換のために、私は洗足教会で礼拝説教の奉仕を致しました。その時に、ひとりの神学生と出会いました。礼拝前にその神学生と話しているとこの神学生は韓国人で、次の日曜日に礼拝の中で、証しを担当すると言っていましたので、その証しを読みたいので、その証しを送ってほしいとお願いしました。

 「信仰召命書」と言う証しには次のことが書かれていました。韓国の大学の1年の時に、同級生の紹介で教会に通い始め、韓国では兵役がありますので、大学2年生の時に、軍隊に入り、軍基地内の教会で洗礼を受けたそうです。2004年、ワーキングホリデービザで短期間来日し、日本の教会の人たちと交わり、そして大学を卒業した後に、貿易会社に就職し、日本との取引を担当する部署で働いていていました。2007年12月に日本宣教報告大会に出席し、日本人宣教師が「日本においでになってイエス・キリストの福音を伝えようと志す方は、手を挙げてください」と問いかけ、「献身の志が与えられた私は手を挙げ、立ち上がりました。」その後、繰り返し、献身の志を確かめる祈りの時間をもち、会社を退職し、2009年、韓国の神学大学大学院に入学、卒業し、2015年、ソウル市のある教会の副牧師として働いていましたが、「日本への伝道」を志したことを思い、2017年の夏に、教会を辞任し、日本宣教の準備をして、2018年4月に東京神学大学3年に編入学をして、学んでいるのです。日本の宣教を担うため、日本の神学校で学んでいるのです。

 この神学生の証しを読み、私はとても感激しました。神様は、この青年を召し、伝道者として立ててくださった、韓国の教会で伝道することができたのに、「お前は日本で福音を伝えなさい」という主の召命を受け、主の命令に聞き従い、日本の伝道のために、日本の神学校に入学して学んでいるのです。神の召命を受け、日本の伝道を担う、神学生、牧師、伝道者を教会は応援することがとても大切だ、と思ったのです。

 本日、この礼拝で読みましたフィリピの信徒への手紙4章19−23節には、パウロがフィリピの教会の信徒たちに、パウロの伝道のために贈り物、献金をささげて、応援してくれたことへの感謝と、この手紙を終えるにあたっての挨拶が記されています。

 最初の教会の伝道者パウロは、今のトルコ、ギリシャ、ローマ、マケドニアという広い地域に福音を伝えたのですが、福音を伝えるには、その伝道を支える資金が必要であったのです。パウロの伝道を支えるために資金的な援助をしたのは、フィリピの教会だけであり、そのことをパウロは深く感謝してこの手紙の最後に語っているのです。
 
 4章15節には次のように書かれています。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」ガラテヤ、エフェソ、コロサイ、テサロ二ケ、コリント、ローマと言う教会があったにもかかわらず、フィリピの教会だけが、パウロの伝道に心を留めて、献金を送ったのです。16節には「また、テサロ二ケにいたときにも、あなたがたは、わたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」と語り、フィリピの教会の信徒たちは、何回もパウロの伝道のための献金を送ったのです。

 このことは、フィリピの教会の信徒たちが、お金持ちであって生活の余裕があって献金したのではなく、自分の生活を切り詰めて、それでもパウロの伝道を支えたいと言う強い願いから、献金をささげたのです。

 私が東京神学大学に在学していた時に、萩尾奨学金と言う奨学金があり、その奨学金を戴いたことがあります。萩尾さんと言うキリスト者のご夫妻がほんとうに質素な生活をしながら、将来の日本の伝道を担う神学生のために、継続的に献金してくださったのです。このように献金をささげてくださったお陰で、神学校での学びができたのです。

 フィリピの信徒たちは、パウロの伝道のために、どうして何回も献金をささげたのでしょうか。それは深い信仰的な動機があったからです。それはキリストの福音が自分にとって最も価値のあることで、自分たちキリスト者を生かすものであり、この福音によって救われた感謝とこのキリストの福音を伝えたい、という願いをもち、この福音を伝えているパウロを献金によって支えたいと言う信仰に立っていたからです。この信仰に動かされて献金したのです。

 フィリピの教会の信徒たちは、自分の財布と相談して、これぐらいで良いだろう、と言うことではなくて、パウロの伝道を覚えて、精一杯、献金したのです。献金は、神との関係の中で、どうしたら神のみこころを表すことができるのか、と言う信仰をもってささげるものなのです。

 私が東大宮教会におりました時に、洗礼準備会で洗礼を志願している人が「献金の相場はどのくらいですか」と言う質問をしたので、「献金に相場と言うのはないのです。献金をささげたら、少し痛いなと思うぐらいに献金をするのです。神様に対して精一杯、ささげるのが献金です。」と答えたことがあります。

 先週の礼拝後、中島耕二長老を招いて、「牛込払方町教会ができた頃」と題して、日本でのプロテスタント教会の伝道がどのように始まり、どのような宣教師によって教会が創立されたのか、を詳しく話されました。

 アメリカンボードと言う海外伝道団体から資金が出されて、ヘボン、ブラウン、バラ、タムソンなどの多くの宣教師が日本に派遣されて、来日したのです。宣教師の活動費、生活費などは、アメリカの教会の信徒たちの祈りと献金によって支えられ、そのことによって、日本に教会が設立され、日本各地に、キリストの福音が伝道されて行ったのです。従って、アメリカの教会の信徒たちの献金によって伝道者の伝道が支えられたのです。

 教会は献金によってのみ支えられているのです。私は東京愛隣会と言う社会福祉法人の理事ですが、そこでは会計報告があり、社会福祉法人には国、県、市から多額の補助が出ていることが分かります。しかし、教会には国、県、市区からの補助は一切ありません。教会は献金だけで支えられているのです

 来週の日曜日、11月11日には、東京神学大学学長の大住雄一学長が牛込払方町教会に来られて、礼拝説教と講演をされます。礼拝後、「なぜ伝道が必要か」と言う主題で講演があります。どのような講演をされるのか、詳細は分かりません。私が思うことは、大住雄一学長は相当な危機感をもっておられることは確かだと思います。それは神学校を志願する学生が大幅に減少しているからです。神学生が少ないと言うことは、神学校を卒業する学生が少なくなると言うことであり、近い将来、教会に赴任する牧師、伝道者が少なくなって牧師のいない教会が増えるということになります。

 神学校を志願し、入学する学生が少ないのは、教会に若者がいないことに通じています。教会には高校生や大学生がほとんどいないのです。会社を定年退職して、東京神学大学に入学する人が増えていますが、牧師となって、活躍、在職する年数は短いのです。66歳で卒業しても、10年位しか、牧師として働けないのです。ひとり当たりの神学教育費は、一年で240万円かかっているので、それが4年、6年となるとかなりの教育費がかかっているのです。 

 東京神学大学では、来年、26名卒業する予定ですが、来年度、4月に26名が入学しないと、大学基準協会の認定が難しくなり、私学助成金が減額され、これから続いて、定員が満たないと私学助成がなくなる恐れがあるのです。

 私が1969年に、東京神学大学の入学試験を受けた時に、一年生だけで48名の志願者があり、その中で19名が合格し、入学しましたが、今は一年生が3名応募し、2名合格ということになっています。1年生が2名の受験と言う年もありました。大学の定員を満たさないといけないので、同志社大学神学部、関西学院大学神学部は大学の定員を満たすために、学部には洗礼を受けていなくても、入学を許可しているのです。

 フィリピの信徒への手紙3章8節に次の言葉があります。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」とパウロは語ります。キリスト・イエスを信じることのすばらしさに深く感動しているのです。キリストを信じることが何よりも素晴らしいと信じているので、パウロは伝道するのです。

 パウロは、コリントの信徒への手紙一 9章16節で次のように語っています。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(p311)福音を告げ知らせざるを得ない、そうせざるを得ない、と語っているのです。

 日本基督教団の総会が10月23日−25日にありました。この総会の開会礼拝で、韓国・ソウルにあるセムナン教会の李秀英牧師は、マルコによる福音書16章15−20節(新約p98)をテキストにして説教を語りました。

 16章16節には主イエスが弟子たちに「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」と語られています。そこで、李秀英牧師は、「日本では、『信じて洗礼を受ける者は救われる』とは語るが、「信じない物は滅びの宣告を受ける』とは語らないのではないか。」と語られました。なぜ「信じない者は滅びを宣告される」、言い換えると洗礼を受けないとあなたは滅びますよ、となぜ言わないのか、その理由を李秀英牧師は、次のように語っているのです。「特に、日本では、相手の心の平安を乱すという倫理的伝統に反する行いはタブーであると伺っています。」洗礼を受けないと、あなたは滅びます、と言うと、それは聞いた人に不安を与える、動揺を与えることになるので、それは道徳的に良くないと考えて言わないのだ、と言うのです。
 
 日本の教会、私たちの教会では、洗礼をうけてほしい、洗礼を受けなさい、とは語るけれども、洗礼を受けないと、あなたは滅びますよ、とは言わないのです。そんなことを言ったら、おかしいのではないか、カルトではないか、と思われる、教会に来なくなる、そのように反応するので、言わないのです。

 しかし、相手がどのように反応しようとも、信じて洗礼を受けないとこの人はだめになる、滅んでしまうのだ、そういう信仰をもっているのか、と言うことが、問われているのです。この人は洗礼を受けていないので洗礼を受けて欲しい、そのために福音を伝えないといけないと私たちは心から強く願っているのか、ということです。

 マルコによる福音書16章15節に「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と語られ、続いて16節で「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」と語られています。主イエスの世界宣教命令の後に、信じて洗礼を受けることを勧め、洗礼を受けない者に対する、神の裁きが語られているのです。

 私たちは主イエスの宣教命令に従っていないのではないでしょうか。洗礼を受けるのは、あなた次第だ、とか、受けて欲しいけれども、それは本人の決断だと考えて、私たちが、どうしても信じて洗礼を受けて欲しい、という情熱をもって相手に呼びかけていないのではないか、と思うのです。

 相手の心を乱すようなことは避けるべきだ、と言う考えが私たちの中にあるのです。しかし、相手にとって心地よい言葉だけでは、悔い改めは起こらないのです。礼拝に出て、説教によって、自分の中にある罪に目覚め、罪を自覚し、神に対して申し訳のないことをした、と言う辛い経験を持たないと信仰に至らないのです。

 私たちは、キリストの福音を告げ知らせたい、そのような強い思いと情熱をもっているでしょうか。福音を伝えないと自分は生きて行かれないと思っているでしょうか。この福音を待っている人々は大勢いるのです。
 
 最近、ある牧師の説教を読みました。それは私たちが霊性が欠乏していると言うのです。霊性、それは、神との深い関わりの中で生きる、と言うことです。物質的なことには関心を持ちますが、霊的なことに関心をもつことが失われているのです。私たちはそのことがなくなっている、ということなのです。この説教で、詩編16編11節の言葉を解説して、たくさんのものを求めるけれども、それで満足することはできない、「神の御前には」限りない豊かさがある、と語ります。神との深い人格的な交わり、関係をもって生活することが豊かな生活なのです。

 25年、在任しておりました東大宮教会には親からの虐待や育児放棄のために児童養護施設にいる子どもたち37名が、毎週、教会学校に来ていましたが、職員からこういう話を聞いたことがあります。子どもが生活している児童養護施設に、実の親がこどもが好きそうなものをおみやげにして訪問に来ることが良くあるそうです。しかし、最初のうちは子どもは喜ぶのだけれど、実は子どもは、そのようなおみやげよりも、自分の親の家に帰って、親に愛されながら、暮らしたい、そういう思いを持っていると言うのです。

 親に愛されて、暮らしたい、それは私たちも神との交わり、神に愛されて生きることが一番、幸せなことなのです。物質的には豊です。様々なものに囲まれていながら、満たされないでいる人々が多いのです。その人たちに神の愛を告げ知らせていくのです。

 日本の教会が衰えてきていますし、神学校も学生が大幅に減少しているのです。これから私たちの教会も大丈夫か、と不安になります。神学校もこれから継続できるのか、と心配になります。

 しかし、フィリピの信徒への手紙4章19節で「わたしの神は、御自分の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」と語っています。私たちは、これから教会はどのようになるのか、神学校が継続できるのか、と心配をします。しかし、すべてのことは神が始め、神は最後までその御業を続けて、完成へと導いてくださいます。私たちはただ神のみこころに従って行くだけなのです。

 パウロの伝道を覚えて、献金を何回も送ってくれたフィリピの教会の信徒たちにパウロは、感謝の言葉を語り、頌栄の言葉を語ります。

「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、ア−メン。」この言葉は、主の祈りの終わりに祈る祈りと関わりがある言葉です。主の祈りの終わりには「国とちからと栄とは、限りなくなんじのものなればなり」とあるのです。神に栄光を帰し、神の御名をほめたたえる言葉で終わっているのです。

20181028  主日礼拝説教  「みこころに留めてくださるとは」   山ノ下恭二 


(詩編8編1−10節、ヘブライ人への手紙2章5−9節)
 
 かつて、東大宮教会学校中高科の夏期学校で、群馬県の榛名湖にあるキャンプ・ワンダーと言う施設に行ったことがあります。第二日の夜、真っ暗な道を歩いていてふと空を見上げたら、星がとても美しかったことを覚えています。その時、長い間、忘れていた星の美しさに感動したのです。埼玉にいると星を見ることもないので、こんなに星が美しいのかと改めて思ったのです。神が創造した自然のうつくしさに心が動かされました。

 この時に、旧約聖書の物語を思い起こしたのです。それは旧約聖書の創世記15章にある言葉です。神がアブラハムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」と言う言葉です。そして夜空に輝く星を見ながら、アブラハムが仰いで見た星空はこんなに美しかったのだろうかと思ったのです。アブラハムも星のきらめきを見ながら、宇宙の無限の広さ、大きさに圧倒されたのではないかと思ったのです。

 そしてもう一つのことを思い出したのです。ある時、私の出身教会である鹿沼教会に神学生が来て、礼拝説教の中で、自分がなぜ伝道者になって神学校に行くようになったきっかけが、星をしばらく見ていたところ、星を創造した神は永遠な方だ、ということを考え、神と言う永遠につながる仕事をしたいと思って伝道者になることを決心したと言うのです。星を見てこの宇宙を創造した神を思い、永遠を思う、永遠につながる仕事をしたい、そしてこの神学生は、自分の存在がとても小さな存在なのだけれども、神はこのような小さな存在を用いて下さると信じた、と語ったのです。

 この詩編8編の特徴は、神を賛美する言葉で始まっており、同じ賛美の言葉で終わっているということです。1節と10節で次のように語っています。「主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。」神はわたしたちの主人と呼ばれ、主の御名が全地にあまねき、力強く満ちていると歌っています。

 この詩編で注目したいことは、次のことです。その賛美は、大人だけではなくて、幼子、乳飲み子の口によって賛美されていると言うのです。幼子、乳飲み子は、小さな、弱い、無力な存在です。しかし、小さな、弱い存在である者の口によって、主は賛美されるのです。力の強い者によってではなく、小さな者によって、神の強さ、偉大さが明らかにされるのです。それは大切なことを知らせているのです。小さな存在に対する主の暖かいまなざしを感じるのです。この地上で強い者よりも弱い者が神をたたえているのです。

 この詩人は神の創造である「天」を仰ぎ、天体にあるさまざまな星が夜の空に輝いているのを見て、何を示されたのでしょうか。どんなことを思ったのでしょうか。それは、宇宙の広大さ、神秘さということであったのでしょうか。普通は空を見上げて、都会では曇っていて星をはっきりと見ることができないけれども、旅行でホテルの外に出るとここはきれいに見えると思うだけで終わるのです。

 しかし、この詩人は、空の星を見ながら、自分という存在、「人間」という存在そのものに、目を深く向けさせられたのです。それが8編5節の言葉です。「そのあなたが御心にとめてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。」原文に近い訳は口語訳です。「人は何者なので、これをみこころにとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」。

 原文は「人は何者か」と言う言葉で始まっています。初めの「人」はヘブライ語で「エノ−シュ」という言葉です。この言葉は「弱いもの」「無力なもの」「病めるもの」「死すべきもの」という意味です。人は自分の力で何でもできる、自分の知恵や能力を過信しているけれども、実際はほんとうに弱いものです。私たちは伝染病が広がれば、すぐに感染し、病気にかかりやすく、人の言葉を気にし、不安を抱き、心配を持ち、孤独に耐えることができないのです。そして私たち人間は死という限界をもっているのです。この詩人は、空の星を見ながら、自分がいかにもろく、弱い存在であるか、ということを実感したのです。これまで私は何度か入院したことがありますが、入院の度に自分がこんなに弱い者であるのかと実感したのです。

 「人とは何者か、なぜ、人に心を留められるのか。」(典礼訳)「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」(口語訳)人間は弱く、無力な存在であるにもかかわらず、神は私たちをみこころに留めてくださるのです。詩編144編3−4節にも「主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。」(p984)と語られています。神は私たち人間にこころに留め、注意を向けてくださるのです。この詩人は、神が自分のような弱い、無力な存在にこころを留め、注意を向けてくださることに驚いているのです。
 
 上智大学の雨宮慧神父が「詩編を深く味わうために」で、この「こころに留める」の「留める」という言葉がどのように使われているかを調べています。ザーハルという言葉は「思い起こす」「心に留める」「記憶する」という言葉です。それだけではないのです。このザーハルという言葉は「この男、あの男、というように一人一人をはっきり認める」という言葉であると言うのです。神が私を記憶し、他の人と区別して自分の存在をはっきり認めてくださるのです。

 鶴見俊輔が「思い出袋」(岩波新書)で自分の学んだ小学校の校長を紹介しているのです。「知られない努力」と言うところで、自分が学んだ小学校の校長のことを書いています。全校生徒が800人いたそうですが、この校長は生徒の名前を全部覚えていたと書いています。小学校で校長に会うと、「君は何年生」と質問したり、生徒に「君は何という名前だっけ」とは言わなかったそうで、「校長先生は、雨の日に校内の廊下などですれちがうと、『〇〇君、元気か』と呼びかけてくる。」とあります。この校長は「3年3組の鶴見俊輔君」と呼んだそうです。たくさんの生徒の名前を全部、覚えるのはとても大変ですが、子どもたちの存在を大切にして、一人一人の生徒をいつも心に留め、語りかけたのです。

 広大な宇宙の存在に比べれば、私たちの命は短く、弱く、無力な存在である者を、神はかけがえのない者として記憶し、心に刻み、いつまでも忘れることはないのです。

 「人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。」「人の子は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」。「人の子」というのは「アダムの子」という言葉です。「アダム」とは、「土」「ちり」という言葉です。アダム、それは、神によって造られた者、被造物です。

 この世界の中で、人間は主人公ではなく、造られた者です。人間は造られた者として限界があるのです。人間には命の限界、能力の限界があるのです。それだけではないのです。神との関わり、関係が壊れている存在なのです。神から離れ、自分中心、自分本位に生きている者です。自分の知恵や能力を過信して、なんでも自分の力でやっていけると思っている存在なのです。それこそ、神を持たない者の傲慢であるのです。聖書は人間と言う存在が神に造られ、神との関わりに生きる者であると理解しています。ところが、ギリシャ文学には、「悲劇」が多いのです。それは人間は自分の力でやっていけると考えているので、うまくいかないで結末は悲劇に終わると言われています。

 「あなたが顧みてくださるとは」。「顧みる」という言葉は、ヘブライ語では「パーカド」という言葉です。この言葉は、「相手に特別な関心をもって訪れる」という意味の言葉です。「相手のところを訪れてその存在を確かめ、点呼する」という言葉です。「心に留める」ということよりも踏み込んだ言葉です。相手に特別な関心をもって、相手を訪ね、その存在を確かめるのです。

 テレビのニュース番組で9月の敬老の日に近い時に100歳以上の人が、その住所に住んで生きているか、どうか、市役所・区役所の係が、訪ねて、安否を確認して、敬老の祝い金を手渡している場面が放映されていました。生存しているだろうと思っていたお年寄りが実は死亡していた事件を受けて、市役所の係の者が一人ひとりの家を訪ねて、本人に祝い金を手渡したと報道されていたのです。

 主なる神は私たちを顧みてくださるのです。神を忘れ、自分中心に生活している者に顔を背けることなく、こちらに顔を向け、訪ねてくださるのです。神に背を向けて、自分中心に生きている者を神は見捨てて、放り出しても良い者なのに、神は特別な関心を向けて、訪ね、安否を確認して、呼んでくださるのです。「人の子は何者なのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」「人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」顧みられる資格はないのに、主はそのように顧みてくださるのです。そのような驚きがこの言葉に込められているのです。

 最近は、現代の社会を「無縁社会」と呼ぶようになりました。現代の社会は人と人とのつながりが弱いどころか、消滅しているのです。家族といえども、兄弟、親子といえども、関わらない風潮があるのです。同じ家族と言っても、家族は手がかかり、労力が要る、面倒なことには関わらないのです。人と関わるには相当なエネルギーが必要であるので関わろうとはしなくなったのです。しかし、主なる神は自分本位にわがままに生きている者に特別な関心を向け、訪ね、呼びかけてくださるのです。「心に留める」と「顧みる」という二つの動詞は対になって使われることが多いのです。「相手のことに心を留めて訪ね、相手のために配慮する」という意味で用いられます。一人ひとりに対する神の特別な関心、好意、情熱を表すのです。

 皆さんの中にはザアカイの物語を知っている人もいると思います。ルカによる福音書19章1−10節(p146)にザアカイの物語があります。ザアカイはローマ帝国に支払う税金を通行している人々から法外な金額で奪い、自分のふところに多くのお金を入れて私腹を肥やしていたのです。ザアカイは、お金は持っていましたが、誰もザアカイを相手にしないのです。

 深い孤独の中にたたずんでいたのです。主イエスをひと目、みたいと願い、木に登ったところ、主イエスと目が合い、主イエスはザアカイの家に泊まりたいと声を掛け、ザアカイの家を訪ねることになったのです。主イエスは正しい生き方をしていない、悪いことをしているザアカイに顔を背けることなく、ザアカイの家を訪ね、食事を共にして親しく交わることになったのです。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言われたのです。主イエスが一方的にザアカイの家を訪れ、交わり、ザアカイが悔い改めたのです。その様子に「今日、救いがこの家を訪れた。」と語られているのです。一人ひとりに対して、神は特別な関心を注ぎ、相手を訪問し、相手の存在をなによりも愛するのです。「顧みる」と言う言葉にその意味が込められているのです。

 最近、薬丸岳という作家が書いた「友罪」と言う小説を読みました。「友人の罪」と言う言葉ですが、この「友罪」と言う小説は最近、映画になりました。ある小さな会社に益田という青年が勤務するようになり、この益田という青年と同じ年で同時に採用された鈴木と言う青年と同じ会社の寮で仲良くなり、心が通じるようになり、鈴木と言う青年は、益田と言う青年を信頼するようになったのです。鈴木と言う青年は、益田と言う青年に「自分がどんな者であってもいつまでも友達でいてほしい」と言うのです。ところが、益田という青年は、この鈴木という青年が、少年の時に幼い子どもを殺してしまった犯人ではないかと疑い初め、身元を調べるのです。そして鈴木と言う青年が、少年事件の犯人であることを突き止め、そのことを雑誌編集者に話し、その編集者は特ダネ記事として、少年事件の犯人が今、どこにいて、何をしているのか、を雑誌に掲載してしまい、それを知った鈴木は、姿を消してしまうのです。益田と言う青年は、鈴木と言う青年が、自分の居場所がみつかり、友達もできて、笑顔も戻ったのに、自分が雑誌に載せる手助けをしてしまったことを後悔し、鈴木を排除してしまったことを悔い、別の雑誌に、実名で、手紙の形で、鈴木という青年に呼びかけるのです。「ぼくもきみに生きていてほしい。けっして自ら死を選ぶようなことはしないでほしい。そして、もう一度、きみに会いたい。」と言う呼びかけで終わっているのです。

 私はこの小説を読んで、罪を犯した者が居場所を失い、罪責感から解放されないこと、そして罪を犯した者に対して、その罪を赦さないこと、周りの者が罪を犯した者を受け入れることなく、付き合うこともやめ、排除してしまうことを知りました。このような罪を犯した者を赦し、愛して、心の友となることが、私たち人間はできないのではないかと思ったのです。
 
 詩編8編6節にはどのようなことが記されているでしょうか。「神に僅かに劣るものとして人を造り」と書かれています。他の翻訳には「ただ少しく人を神よりも低く造って」と訳されています。神の相手として応答する存在として造られたのです。「僅かに劣る」「低く」と言う言葉は、「欠けている」という言葉です。神に近い存在であり、神の相手にされているのですが、天使のように神のみこころを完全に行う者ではなく、地上の朽ちる存在であるのです。完全な存在ではなく、不完全な存在なのです。不完全な存在であるにもかかわらず、主なる神は、私たちをかけがえのない相手として受け入れてくれるのです。
 
 本日の礼拝で読みましたヘブライ人への手紙2章5−9節には、詩編8編5−7節を引用しています。「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた。」主イエスが死の苦しみによって、「すべての人のために死んでくださった」と語っているのです。ここには神が私たちのところを訪ねられた、神の訪問が記されているのです。神は私たちが手の届かない、天上の高いところから、私たちを見て、心配そうに見ているというのではないのです。私たちのことを忘れないようにただ記憶しているというのでもないのです。天の高いところから、肉体を取って人となり、私たちが生きているこの地上に降ってイエスとなって訪ねてくださったのです。そして、私たちが苦しんでいる罪、そして罪の罰としての死を自分のものとして引き受けてくださったのです。私たちを罪から解放するために、神は主イエス・キリストによって罪の贖いとなってくださるのです。主イエス・キリストは御自身の肉を裂き、血を流して犠牲をささげるほど私たちに深く関わり、愛してくださるのです。その関わりは途絶えることはないのです。しっかりと神の愛の絆で結ばれているのです。そのように私たちは神に愛されている存在なのです。

 いつも自分のことばかり考え、自己中心に生きている者に神はどうして、心に留めてくださるのか、と思います。そしてこの地上の生活を続けていくと、悩みがあり、苦しみがあります。生きることも嫌になることもあります。しかし、神はそのような私たちを心に留めてくださるのです。特別な関心をもって愛し、導いてくださるのです。この詩編は最初と終わりが主を賛美する同じ言葉なのです。私たちは小さな存在であるにもかかわらず、私たちのような者に神がみこころに留め、顧みてくださることに驚き、感謝をし、主を賛美するのです。


20181014  主日礼拝説教  「神が喜ぶようにささげよう」  山ノ下恭二


(エゼキエル書20章40−42節、フィリピの信徒への手紙4章14−18節)

 日本にプロテスタント・キリスト教の福音がアメリカ人宣教師によって伝えられたことはよく知られていることです。このアメリカ人宣教師の中で最もよく知られているのは、ヘボン宣教師です。「ドクトル・ヘボン関連年表」には、ヘボン宣教師が横浜に到着したのは、1859年10月18日です。この日からヘボン宣教師の伝道が始まるのです。この「ドクトル・ヘボン関連年表」を読むと、1828年1月に日本にキリストの福音を伝えるために、アメリカのボストンのロ−ブス宅で日本伝道のための献金を始めているのです。
 
 その「ドクトル・ヘボン関連年表」には次のように記されているのです。「貿易商ウイリアム・ロ−ブスは、海外伝道を重要視し、そのため毎月一回祈祷会を持つこととなり、その第一回のとき、どこの国のために献金するかが問題になり、その時、卓上に日本製の献金用竹篭があり、その竹篭に由来する国へと決まり、28ドル87セントの献金が集まった」と記録されています。日本の伝道のために捧げられた献金が、「やがて総額が4100ドルとなり、日本伝道のためとしてアメリカンボ−ドへ寄付されたのです。この献金によって、日本に宣教師を送ることができたのです。」アメリカの教会の人々が日本にキリストの福音を伝えるために祈祷会を開き、献金をささげてこの献金によって宣教師が日本に来ることができたのです。ヘボン宣教師に少し遅れて来日したタムソン宣教師は日本語教師であった小川義綏氏を導き、それによって小川義綏氏は洗礼を受け、牧師となって、牛込払方町教会の初代の牧師になったのです。日本の伝道のためにアメリカの教会の信徒たちが祈りをもってささげられた献金が日本の人々に福音を知らせることができ、このことによって私たちはキリストの福音を知り、その恵みにあずかることができているのです。

 本日の礼拝で読んだフィリピの信徒への手紙4章14節−18節には、フィリピの教会の信徒たちがパウロに贈り物をしたことにパウロが感謝の言葉を述べていることが記されています。フィリピの教会の人々が自分たちも伝道のために何かをしたいと申し出て、パウロの生活を助け、何とかして自分たちも伝道にあずかりたいと願ったからです。伝道者パウロの伝道の労苦を共にして、自分たちもその苦しみを共に担いたいと願ったのです。パウロが福音を宣べ伝えている、この伝道にフィリピの人々は援助することによって自分たちも伝道に参加しているのです。この援助は伝道に参加しているしるしであるとパウロは考えたのです。フィリピの教会から援助を受けたのですが、それはフィリピの教会からの援助・贈り物は、自分が個人として受けていると言うのではなく、伝道のために献げられたものであって、神に対する献げものなのです。フィリピの教会の信徒たちは、伝道のために献金をしたのです。

 このフィリピの信徒への手紙から、私たちがどのような姿勢で献金をささげているのかを、改めて問い直したいのです。信仰をもってささげているか、信仰によるささげものなのか、どうかです。

 子どもさんびか24−1に「いまそなえるささげものを、主よ、きよめてお受けください」と言う歌詞があり、毎週、教会学校で歌っています。礼拝の献金の祈りにも、私たちは、よく「きよめてお用いください」と祈ることがあります。「きよめてお用いください」となぜ言うのか、と言うことです。

 それは、献金する時に、神にささげると言う思いよりも、自分の財布と相談して金額を決めたり、ささげることを惜しむ気持ちをもってささげることがありますし、長い信仰生活をしている人は特別に神様にささげると言う気持ちもなく、ただ習慣的にいつも同じように献金をささげていることもあります。それは、正しい捧げ方ではないし、神が受け入れるようなささげかたではないのです。神よりも自分を第一に考えている、その意味で、神様にささげる私たちの心は汚れているのです。

 献金の祈りにおいて、「きよめてお用いください」と祈るのは、献金をささげる動機が不純で、私たちの心が汚れていて人間的な思いでささげても、この献金を受け取ってくださる神が、この献金を汚れたものとしてではなく、神のみこころにかなうように、私たちの思いをはるかに超えて、ご自身の聖なる目的に従ってこれを用いてください、と言う願いを込めてささげる言葉が「きよめてお用いください」と祈る言葉なのです。「清める」と言う言葉は「聖とする」「神様がふさわしいものとする」と言う意味なのです。
 
 私たちは献金をささげる時に、自分のお金を差し出すという意識をもってささげていることがあるのではないか、と思います。もともとは自分のものなのだけれども、自分がささげると言う意識が強いのです。ある時、ある方が教会に扇風機を献品したのですが、その人は「わたしがささげた扇風機」と言い方をしたのです。ささげるということは自分の手から離れて神のもの、教会のものとなったのであって、ささげた時点で自分のものではなくなったのです。

 一般的に、日本の場合は、ささげるという意識はとても低いです。募金活動をするとよく分かります。児童養護施設の募金を浦和の駅前で、クリスマスの時期に長くしてきましたが、ほとんどの人が黙つて通り過ぎるのです。自分が持っているものは自分のもので、ささげたら、自分の財産は減ると考えているのです。

 私たちは献金する時に、神が喜ぶためにささげる、そのような心でささげているでしょうか。神にささげている、という意識でささげているのでしょうか。信仰をもってささげる、そのような信仰の心をもって捧げていなくても、神は私たちの貧しく汚れたささげものを用いて、ご自身のみ業のために役立ててくださるのです。

 4章17節の後半の言葉は分かりにくい言葉です。「むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。」この訳は、原文をかなり自由に訳している意訳です。口語訳では、「わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。」と訳しています。この言葉はどのような意味なのでしょうか。「勘定を増やしていく果実」とは、この当時の商業の用語であり、「利息を増やしていく」という意味で使われています。

 人々からのささげものを神が受け取って、それを神の側で積み立ててくださる、という意味の言葉です。自分のもっているお金や財産をささげて、それでお終いということはないのです。銀行がお客さんのお金をあずかって、その利息をつけてお客さんに返すように、私たちがささげたものを神があずかって利息をつけて、私たちに返してくれるのだと言うのです。神が私たちがささげたものを覚えてくださり、神がご自身のもとに蓄えて、ささげた者に返してくださると言うのです。皆さんは献金をそのように考えたことはないのではないか、と思います。献金をささげてそれでお終いというのではないのです。

 その献げものは、終わりの日に、神の前に計算に加えられ、献げた人たちの救いに役に立つと語っています。伝道のために贈り物をする、献金をすることはフィリピの教会の人々の救いに役に立つので、パウロは受け取ったと言うのです。伝道のためにささげる、それは、ささげることによって、終わりの日に神がそのことを勘定に入れてくださり、フィリピの人々にも役に立つと語っているのです。

 日本宣教150年を記念して、その当時の教団議長たちが、最初に日本に伝道に来た宣教師たちとゆかりのある教会や神学校を訪ね、長く日本で宣教師として働き、その任務を終えて、アメリカにいる宣教師たちを訪ねて、感謝を表したのですが、祈りをもってささげた献金や奉仕の業が日本で実を結んでいることをアメリカの教会や神学校、宣教師たちは知ってとても喜んだと報告されています。神へのささげものは、そのような大きな恵みとなって、ささげた者自身にも返っているのです。
 
 しかし、ここで誤解してはならないことがあります。パウロがそのように語ることによって、パウロは、もっと多くのものをささげなさい、と奨励しているのではないのです。パウロはささげものがもっと欲しいので、たくさん献金するように献金を奨励している訳ではないのです。

 献金については一般的に誤解していることが多いのです。かなり前のことですが、朝日新聞の投書欄にその当時の静岡草深教会の辻宣道牧師の文章が掲載されたことがありました。よく政治献金と言うけれども、「献金」と言う言葉を使うのはよろしくない、政治献金は企業、会社がある政党にお金をあげて、その見返りを当てにしているのであって、それは本来の献金とは性格が違う、キリスト教会の献金は見返りを求めず、神様の恵みに感謝してささげているのだ、と書いてありました。

 パウロは、フィリピの教会の信徒たちが献金してくれたことを感謝しているのですが、これからもっとたくさん献金すれば、神から利子をつけてお返しがあるから、献金をしなさい、と言っているのではないのです。献金することによって、ますます神との関わりが深められることが目的なのです。相手に贈り物をすることは、相手に好意を持ち、愛している証拠です。そのことによって相手を愛していることが分かるのです。

 皆さんが経験していることで例をあげるとこういうことがあるのではないかと思います。孫が入学するので、少し高いけれども奮発して、ランドセルを買ってあげて孫がとても喜んだ、ということがあると思います。また親友が入院して、お見舞いに、その友が欲しいものを送ったら、とても喜んだ、と言うことがあります。贈り物をすることによって相手がとても喜ぶ、そのことをきっかけにして相手とますます親しくなることがあります。

 フィリピの教会の信徒たちがパウロの伝道を覚えて、贈り物をした、そのささげものは神にささげたものですが、そのことによって、神が喜んでくださった、と言う信仰が強化されるのです。いよいよ神に対する思いが強くなり、神と結びつくのです。

 18節には「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。」と語られています。この言葉は初めに「受けとっている」という言葉が出てきます。「受領している」という言葉です。贈り物は、受け取ったのは確かにパウロですが、しかし、本当の受取人は自分ではないと言うのです。18節後半には「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」と記されています。この言葉は旧約聖書に、神に動物のささげものを焼くときに生じる香りが天におられる神に届くのです。神は、それを信仰の表れとして、かんばしい香りとして受け取ってくださる、そのような背景があって語られているのです。献金を受け取っている者は神なのです。神に献げるつもりで自分に贈っていることをパウロは決して見逃さなかったのです。従って、この献げ物は、神の前に香り高い供え物であって、従って神が喜んで受けてくださるに違いない、と語っているのです。
 
 献金、それは神に献げるものです。私たちが、神にささげている、神に対する献げ物であると言う意識が低いのです。奉仕は神に対してなされるもので、自分の都合や事情を優先することではないのです。献金は自分が献げたと言う、自分の側の思いが大切で、そこに強調があるのではなく、神に献げたもので、その献げ物は神のもので、自分から離れたものなのです。パウロは自分が伝道のために働いたという意識ではなく、神が自分を用いてくださったことに感謝し、教会の人々が神の前に、神が本当にお喜びになる供え物として献げたものが、たまたま、神の教会で働いている自分に振り分けられただけだとパウロは考えていたのです。

 「神が喜んで受けてくださる」と言う言葉が献金をささげる時の大切な鍵となる言葉です。神に喜ばれることが、ささげる行為において決定的に重大なことなのです。ささげものをする時に重要なことは、神に喜ばれるか、どうかなのです。このことは旧約聖書に記されています。ミカ書6章7−8節です。「主は喜ばれるだろうか 幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(p1456)多くの動物や油のささげものそれ自体を、神は喜ばれるのではないと言うのです。それは、へりくだって、身を低くして、心を砕いて神と共に歩もうとする生き方、そのような人自身を神は喜んで受け入れてくださるし、そのことを神は求めているのです。

 従って、ささげるものの数や量が、最大の関心事ではないのです。ささげる者の心と毎日の生き方を神はご覧になると言っているのです。神は目に見えるささげものよりも、神に対する信仰を見ているのです。神が何を最も喜んでくださるかを常に追い求めながら、ささげるのです。

 ロ−マの信徒への手紙12章1節に「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と語られています。体とは、肉体をもって存在している、その人の存在全体を言います。その人の生き方、生活そのものを表すのです。それを神にささげる、神のみこころのままに自分の存在や生活を用いて下さい、その願いをもって神の前に自分を置くのです。

 献金の祈りにおいて「献身のしるし」として献金をささげる、と言うことを祈ります。伝道者や牧師になることを献身と言いますが、伝道者や牧師になることだけが、献身ではなくて、ここにいる一人ひとりが、それぞれの仕方で神に自分をささげていく、それが献身なのです。

 レプトン銅貨二枚をささげた貧しいやもめの物語が福音書に記されています。(マルコ12章41−44 p88)金持ちが多くささげている中で、当時のお金の最小単位のレプトン貨幣を二枚だけささげたやもめがいました。この婦人にとって、レプトン貨幣二枚は、生活費のすべてであったのです。生活費と訳された言葉は、生活そのもの、いのちそのもの、という言葉です。主イエスは、このやもめが生活費のすべて、いのちそのものをささげたことをよくご存じでした。レプトン貨幣を二枚ささげたやもめこそが、だれよりもたくさんささげた、と主イエスは受けとめたのです。

 わたしたちのささげものを神がどのように受けとめてくださるかを、いつも問いながら、ささげものをするのです。

 ささげるという言葉は、あるものを別の側に置く、と言う意味をもった言葉です。ささげるとは、自分の側にあったものを、神の側におくことです。ものだけではなくて、自分の全存在を神の側に置く、神のみこころのままにもちいてください、と言う思いを込めて、自分自身を神の前に差し出すことなのです。献金の祈りで、説教の要約は必要ないですし、「わずかなものをささげる」、と言う言葉も余計な言葉なのです。礼拝の祈りについて具体的に書いてある本に、献金の祈りの実例が記されていました。

 「主イエス・キリストの父なる御神、今おささげしました献金は、私たち自身を主にささげる献身のしるしです。どうか、きよめて主のみわざにもちいてください。この祈りを、私たちの主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。ア−メン」

20181007  主日礼拝説教  「こころ豊かに生きるために」   山ノ下恭


(箴言30章7−9節、フィリピの信徒への手紙 4章10−13節)
 
 私が東京神学大学の学生の時、下級生が神学大学の礼拝堂で結婚式を挙げた時のことです。その結婚式で結婚する二人が選んだ聖書が読まれました。結婚式で読まれた聖書の箇所は旧約聖書・箴言30章7−9節でした。〈旧約p1030〉「二つのことをあなたに願います。」(略)「貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」
 
 二人が結婚して生活を共にする時に、金持ちになるとお金に頼って、神を忘れて信仰を捨ててしまうことがあるかもしれないので、そのことがないように願い、逆にとても貧しいと盗みを働くことになるかもしれない、それは信仰者として恥ずかしいことになります。食べるものがないような生活でなくて、定められた食物で養ってくださいと言う祈りです。この結婚式で読まれたこの聖書の言葉を私はよく覚えています。この時は口語訳聖書で読みました。「わたしは二つのことをあなたに求めます。(略)貧しくもなく、また富もせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』ということのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。」ものが豊かでお金を持っているとそれで安心してしまい、神を忘れてしまうのです。貧しい生活を経験すると、お金が欲しくてお金に執着するようになります。これから結婚する二人が、実際に生活する上で必要なパンが与えられるように祈るのです。それだけではなくて、この祈りは神との深い関わり、神との深い関係をもって生活することを願って祈っているのです。
 
 何が豊かなのか、何が貧しいのかと言うことを考えると、私たちの社会はものが豊かにあるけれども、心が貧しいとよく言われます。それは人と人との関わりが、大変希薄になっていると言うことでよく分かります。現代は知らない人とほとんど話さない「無言社会」と言われます。人とぶつかっても「ごめんなさい。失礼しました」と言わない、「話さない」社会です。電車に乗って、知らない人と話をしている風景を見ることは珍しいのです。

 聖学院大学で学んでいる、韓国から来た留学生から聞いた話ですが、日本に来て驚いたことがある、それは、バスに初めて乗った時に車内が余りにも静かなので驚いた、居心地が悪かった、自分の国では知らない人とすぐに気軽に話して、バスの車内がうるさい位だと言うのです。確かに、日本ではバスに乗っても、知り合い同士は話していますが、知らない人とは話していないのです。
 
 私は聖学院大学で、キリスト教概論を一年生に教えています。9月に秋学期が始まって、ある男子学生に「どこから来ているの。」と聞いたら、「言いたくない」と答えたので、「住んでる所ぐらい、教えてもいいじゃないか」と言ったら「個人情報ですから」と言って教えてくれなかったのです。

 早朝ですが、NHK第一ラジオの「毎朝ラジオ」という5時5分からしている番組を、時々聞いています。時々、海外に住んでいる日本人が現地の話題を話してくれます。ある時、ペル−に住んでいる日本人が、南アメリカは、ロシア、スカンジナビアと言う北の地方に比べて、統計を取ると自殺する人が少ない、と言うのです。それは、知らない人ともすぐに話して、友達になることだからだと言うのです。そして、バスで知り合ったばかりの人の家に泊まったことがある、と言うのです。南アメリカの人は陽気で、よく話すそうで、それで自殺率が低いと言っていました。
 
 このフィリピの信徒への手紙を書いたパウロは「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」と語っています。わたしは貧しく暮らす生活にも、豊かに暮らす生活にも、満足することを習い覚えている、と語っています。どの国も貧しい生活から豊かな生活を目指しています。生活の向上を目指してきています。豊かな生活になれば、みんなが満足するだろうと考えています。それに対して、パウロは貧しく暮らす時のすべも知っているし、豊かな暮らしをするすべも心得ていると言うのです。

 この言葉の背後には、パウロは多くの贈り物を教会から戴いていたようです。フィリピの教会の信徒たちが、パウロの伝道を応援するために、援助していました。その感謝の手紙を書きながら、それに感謝しているからと言ってもっと欲しいと言っているのではないと言っています。それは自分はどんな境遇にいる時にも満足できるように習い覚えているというのです。従って、あなたがたフィリピの教会の人々の好意は感謝するが、貧しいからと言って不平を言うわけではないと言うのです。貧しい暮らしというのは、実際に食べるものがないのだから、耐えることができないのです。みんなが食べることができないなら、我慢できるかもしれない。しかし、他の人が食べることができて、自分が食べることができないということには耐えられないのです。ものが豊かにある現代は、他の多くの人々が持っているのに自分はもっていないと、もっていない自分が惨めに思うのです。ものが豊かにある現代は、持っていない者にはとても自分が惨めに感じる時代です。

 「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」お腹一杯食べて満腹し、たくさんのものに囲まれている時にも、貧しくて食べる物もなく、空腹である時にも、それに左右されずに豊かに生きる秘訣を授かっているのだと言うのです。貧しい時にも自分は満足でき、豊かな時にも自分が満足できる、そのような秘訣を持っていると語っています。それらの外的な状況に左右されることのない心の自由と充実を、イエス・キリストによって手にしているのです。

 この「満足する」という言葉は、この手紙が書かれた時代にはよく使われていました。この時代に、ギリシャでは、ストアという哲学が盛んでした。現代でも「ストイック」と言う言葉を使います。「禁欲的」という意味で使われます。このストア哲学は、ものにとらわれないで、自分で満足する方法を考えたのです。ある哲学者はある人から、どんな人が豊かな人ですかと聞かれた時に、自分だけで満足できる人だ、と答えたのです。それは、だれの世話にもならず、どんな物も欲しがらない、完全に自分だけで満足している生活ということです。

 ストア派の人々は、このためにどんなことにも無関心になることを教えたのです。関心をもつから、欲しくなったり、人と比較して不満足になるので、どんなことにも自分には関係がないと思って、周りのことには心を動かされないようにすることを教えたのです。これは一つの精神主義であり、周りのことと関わりなく、精神を統一すればできると考えているのです。
 
 何事にも関心を持たず、心を動かされないでいけば、満足できる、それが満足できる方法なのでしょうか。気持ちの持ちようだということを聖書は語っているのでしょうか。 

 この「満足する」と言うのは、自分の心が満たされていることです。心が豊かであるということです。お金をたくさん持っていて、たくさんのものに囲まれていても満足できない人もおり、お金がなく、ものに恵まれていなくても、満足できる人がいるのです。
 
 ある有名な企業の社長が、孤独死をしていて、7日後に発見されたと新聞に載っていました。経済的には豊かであったに違いないのです。しかし、生活は孤独であったのではないか。孤独であるということは豊かであるといえないのではないか。すぐ身近なところに自分をよく知っている人がいない、頼りとする人がいない、それは豊かとは言えないのです。身近なところで関わりを持っていないのは、豊かとは言えないのです。すぐ身近なところに自分の存在と心を受け入れ、心配してくれる、そのようなつながりを持っていることが豊かな生活であると言うことができます。その人の存在と心を支える人がいることが豊かなのです。
 
 佐々木正美という児童精神科医師が書いた「子どもへのまなざし」という本を読んだことがあります。この本は、評判が良くて、続編が出ているし、続編に続いて、もう一冊出ています。この本の中で、乳幼児健診の調査からわかったことは、育児不安を持つお母さんが予想以上に多く、夫との会話や身近な人との会話が育児不安を少なくする、と書いてありました。そして、子育てをしている母親が、子育てで悩んでいるけれども、それはいろいろな人との関わりを持っていないことにあると言うのです。人と関わるのは面倒で一人のほうが気楽で、人と関わろうとしないけれども、たくさんの人との関わりが必要であり、いろいろな人と話すことによって、母親の育児不安が少なくなると書いてあります。

 私は、説教塾と言う毎月、一度、説教を学ぶ会で学んで来ました。オランダの実践神学者イミンクと言う神学者が書いた「信仰論」という本の中にこういう文章がありました。イミンクは、コミュニケ−ションを論じているところでポ−ル・リク−ルの言葉を引用しています。「私が孤独と言うとき、それが意味しているのは、われわれが群衆の中にあって孤立させられていると感じるとか、生きているときも死ぬときもひとりぼっちだという事実のことでない。よりラディカルな意味において、ひとりの人間の経験することをすべてそのまま伝達することはできないということである。自分の経験が他人の経験になることはないのである。私の経験が直接、あなたの経験になることはない。」
 
 この言葉を、私なりに解釈すれば、孤独と言うことは、ひとりぼっちであると言うよりも、自分の経験を、相手が受け取って同じように経験し、それを理解することができないと言うことです。何とかして、相手の経験を自分の経験として理解したい、と思うけれども、それは難しいと言うのです。このところを読んで、孤独であると言うことの意味を知らされたのです。それは、自分の経験を相手に伝え、相手がその経験を自分のものとして受け取ることはできない、そこに孤独があると言うのです。

 しかし、私たちは、孤独ではないのです。私たちと深く関わっている神を持っているのです。

 詩編139編1節−10節には、神に知られている喜びが語られています。私たちを愛をもって知っていてくださる神がいるのです。〈p979〉「主よ、あなたわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。」神は愛をもって私たちを知っていてくださるのです。

 この手紙を書いたパウロは、病気を持っていました。ある解釈では、てんかんという病気であったと言われています。てんかんというのは、突然、倒れてしまうので、説教の最中に突然、倒れるのは、困るのです。パウロはこの病気、パウロを痛みつけるとげが取り去られるようにと、三度、つまり何度も何度も神に熱心に祈ったのです。病気で苦しんでいる人は、この病気がなかったら、今よりももっと満足した生活ができるはずなのにと思っているに違いないのです。パウロは自分のこの病気が治れば、十分に伝道ができ、活躍する場面も多くなると思っていたに違いないのです。それでパウロは自分の病気が取り去られるようにと何度も何度も祈ったのです。このパウロの祈りに対する答えが、コリントの信徒への手紙U 12章9節(p339)に語られています。「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

 パウロの病は治らない、パウロは健康にはならないのです。説教中に突然、倒れることがこれからもあるのです。しかし、キリストの恵みは十分なので、その恵みによって生きるならば、病気であっても力強く生きることができる、恵みの力が自分の内に宿っているので力強い、と語っています。
 
 パウロはフィリピの信徒への手紙4章11−12節で、貧しい時にも、豊かな時にも、十分に満足でき、そのすべを知っていると語っています。貧しい時、豊かな時、だけではなくて、病気の時にも耐えることができるのです。病から来る肉体の痛み、孤独感、将来の心配、死ぬことの不安があります。しかし、私たちを愛する神が共にいるので、大丈夫だ。満足するということは、私たちが神に愛されており、その恵みで心が満たされているということです。

 こころ豊かに生きる生活というのは、自分だけ、満足しているのではないのです。コリントの信徒への手紙U9章7節後半(p335)「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」と書かれています。豊かな人とは、惜しまず、人に分け与える人です。コリントの信徒への手紙U9章はエルサレム教会がとても貧しくて、この教会を助けるために、コリントの教会の兄弟姉妹に、献金の呼びかけをしているところです。コリントの信徒への手紙U 9章11節「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」自分だけ満足しているということではない、自分のことだけの生活で終わってはいないのです。人とのつながりの中で生きることができるのです。
 
 フィリピの信徒への手紙1章9−11節にはパウロが、フィリピの教会の信徒のために「執り成しの祈り」で、教会の信徒の生活が「愛において豊かである」「愛がますます加わる」ように祈っているのです。豊かであると言うのは、自分のために、与えられたものを使うのではなくて、自分の時間や賜物を隣人のために惜しみなく用いる、その愛において豊かである、と言うことです。

 先程のストア派の人たちは、他の人の生活には決して自分は動かされない、そのかわり人のことを干渉しないと言うことでした。そしてこのストア派の人々は、人と関わらないかわりに、自分も誰の世話にもならない、と考えていたのです。パウロがこの手紙を書いた時に特にギリシャで流行した哲学ですが、同じ「満足」と言う言葉を使っていても、全く考え方が異なっています。

 私たちが信じている神は私たちと深く関わり、自分中心で、わがままなな私たちのために犠牲をささげて、肉を裂き、血を流して愛してくださり方です。御自分の存在を与える神であり、その深い愛を受けて、私たちも相手のために自分のものを惜しみなく献げるのです。

 フィリピの信徒への手紙4章12節「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」

 心豊かに生きる、その秘訣は、私たちが神とのコミュニケ−ションをもって、いつも聖書の言葉を聞いていくと言うことです。キリストによって、私たちが愛され、生かされている、その信仰に生きることにほかならないのです。それは、私たちがいつもキリストに出会っていくことにあります。礼拝において真剣に説教を聞き、みことばに聞いていくことです。こころ豊かに生きる秘訣がここにあります。

20180930 主日礼拝説教  「神はわたしの盾」  山ノ下恭二


(詩編7編1−18節、ロ−マの信徒への手紙12章19−21節)

 本日も皆さんと共に礼拝することができ、共にみことばの恵みにあずかることができることを心から感謝しています。

 本日の礼拝で読んだ詩編7編は、有名な詩編ではありません。詩編23編のように「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とすぐに言葉が出てくる詩編ではないのです。詩編7編と聞いても私たちは言ってもどのような詩編なのかわからないのです。しかし、この7編をよく読んで見ますと私たちが毎日、抱えている悩みと共通の悩みを抱えている詩編であることがわかります。

 この詩編は、私たちが毎日経験することと触れ合っており、私たちが悩んでいる悩みを訴えている詩編なのです。その意味では私たちには身近に感じる詩編であると言って良いのです。

 「信仰とは−ある人の生涯」と題する伝道パンフレットを読んでいた時に心に留まった言葉がありました。「私たちは、しばしば、誤解と中傷のなかに生きています。また、多くの人々との親しげな交わりにありながら、心が冷えるような孤独に襲われることもあります。」この言葉を読んだ時に、私が経験したことが書かれていると思い、深く共感したのです。

 私は今まで誤解され、中傷された経験をもっています。それは皆さんもそうです。私たちはしばしば誤解をされ、中傷された経験を持っています。相手のために考えて親切にしたのに、誤解されたことがあります。自分に関する話を他の人から一方的に聞いた人が、自分が悪いことをしたように中傷されたこともあります。相手が自分を正しく理解せず、相手が他人の言葉だけを聞き、誤解して悪く言っていると思ったことはあると思います。相手は自分の思いと行いの生活全部を見ているわけではなく、一部分しか見ていないのですが、一部分だけを見た印象でレッテルを貼ることがあるのです。あるいは、人から聞いたことだけで、その人がどのような人かを決めてしまうこともあります。

 この詩編7編は、4−7節で周りの者から、この詩人が仲間に悪いことをしており、人の財産に手を出し、あるいは、財産を奪う人を見逃してその一味になっているという疑いをかけられたのです。

 4−6節に次のように記されています。「わたしの神、主よ もしわたしがこのようなことをしたのなら わたしの手に不正があり 仲間に災いをこうむらせ 敵をいたずらに見逃したなら 敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき わたしの命を地に踏みにじり わたしの誉れを塵に伏させても当然です。」

 自分には身に覚えのないことなのに、そのような嫌疑がかけられていることはいたたまれないのです。事実、そうでないのに、悪いことをしたと思われていることは我慢ならないことです。嫌疑を晴らしたいと思うのです。

 7編9−11節はこの詩人が、自分の身が潔白であることを訴えています。この9−11節で自分が潔白であり、黒ではなく、白であることを主張していますが、旧約聖書の中で、自分の身の潔白を主張しているところがあります。身の潔白をもっと詳しく訴えているのはヨブ記31章です。

 ヨブは自分は悪いことをしていないのにたくさんの災い、ひとりでは追い切れない苦難を経験しました。家族を失い、財産を失い、自分も重い皮膚病に苦しんでいたのです。自分は罪がないのに、なぜこのような苦しみを受けるのかがわからないのです。友人たちはその苦難の原因が、ヨブが罪を犯したので、苦しみ、災いがあると説得したのですが、ヨブには納得ができなかったのです。そこでヨブは自分の身の潔白を主張するのです。ヨブ記31章にはヨブが今までの自分が生きてきて不正があったか、落ち度があったか、と語っています。

 ヨブ記31章5節には次のように書かれています。「わたしがむなしいものと共に歩き この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら 正義を秤として量ってもらいたい。神にわたしの潔白を知っていただきたい。」(p814)

 このようにヨブは自分の身の潔白を主張するのです。自分を犯罪者のような目で見られることはとても辛いことです。正式な裁判があって、弁明し、そして無罪の判決が出れば良いですが、そのようなことは現実にはないのです。

 友を裏切り、お金をごまかした、そのような疑いをもたれる、このような時に、私たちはどうするのでしょうか。嫌疑をかけて、責めてくる相手を恨んだり、憎しみをもつのです。あるいは、復讐を心に誓うのです。

 しかし、この詩人は神に訴えることができたのです。神に自分の嘆きを率直に語ることができたのです。自分が訴える神をもっているのです。そしてその訴えを確かに聞いている神が存在することを信じているのです。
 
 詩編は祈りであります。カ−ル・バルトという神学者は「祈りとは神に語りかけていることである」と言っています。神に訴えていること、それは祈りなのです。祈りを待っている神がおり、この神をもっていることは大切なことです。
 
 この詩人は何を訴えているのでしょうか。それは神が裁いてくださるように願うのです。神が正しい裁きをしてくださると信じているのです。神が最高裁判所の裁判官であり、神に裁判をゆだねるのです。この詩人は自分が不当に罪を犯し、その嫌疑を掛けられており、詩人が悪いことをしたことは事実であるかのように周りの者が思って、言いふらしているのです。そのような中で、神が正しい裁きをしてくださることを願うのです。

 この地上で生活していると、この世の中には矛盾があり、不条理があることに気づきます。悪いことをしている者が豊かな生活をしているのです。他方、まじめに生活している者が、恵まれず、苦しんでいるのです。そして悪いことをしていないのに、悪いことをしているかのように思われ、中傷されているのです。そのような中で、神が正しい裁きをしてくださるようにと訴えているのです。                  

 7編9節「主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください。お前は正しい、とがめるところはないと。」伝道パンフレット「信仰−ある人の生涯」には、「私たちは、しばしば誤解と中傷の中に生きています。また多くの人々と親しげな交わりにありながら、心が冷えるような孤独に襲われることもあります」と書かれています。この言葉を読んだ時に、私はこの言葉に共感しましたが、人から理解されず、中傷されて、孤独だと思う、それで終わることはなかったのです。失望することはなかったのです。神を信じていたので失望することはなかったのです。暗いところで一人でたたずむことはなかったのです。

 自分の先に光をみることができたのです。それは、神が最終的に裁く方であることを知っているからです。かなり前のことですが、厚生労働省の役人が裁判で無罪になり、厚労省に復帰した事件がありました。無罪判決を受けた後に、拘置所での取り調べで検事から責められても、自分は罪を犯していないことを貫くことができたのは、応援してくれる家族がいたからだと語っています。

 7編の詩人が身の潔白を証明してくれるのは、神であると確信しているのです。自分に嫌疑を掛け、悪いことをしているはお前だと言う人々が権勢を振るっているように見えるのです。これらの人々の主張が正しく、みんなの間で承認され、受け入れられているかのように見えるけれども、そうではないのだというのです。

 神が正しく裁きが行われるのです。私は正しく理解されず、誤解されるときに、いつも、神だけがきちんと自分のことを見ていてくださると信じることができたのです。神が私のことを知っていると信じていたので、失望することはなかったのです。神が私を知り、わたしをよく見ていてくださると心に留めていたのです。他の人が私の生活の一部分しか知らないし、見ていないけれども、神はわたしの全部を知っていてくださるのです。神がわたしの生活を初めから終わりまで知り、見ていてくださるのです。

 7編10節bに「心とはらわたを調べる方 神は正しくいます」とあります。わたしのすべてを調べ、公平な裁きをしてくださるのです。「痛くもない腹を探られる」という諺があります。自分は何の関わりもないのに、人にあれこれ邪推され疑いをかけられることを意味することわざです。えん罪事件は、調べる前に、犯罪者に仕立てるために筋書きを作り、そのことに同意させ、犯罪者にしてしまうのです。足利事件などえん罪事件が起こります。

 神はそのような、疑いをもって詩人の心とはらわたを調べるのではありません。神は嫌疑を掛けながら、調べるのではなく、正しさをもって調べるのです。神は正しく精査してくださるのです。神が心とはらわたを精査して、無罪であることが確定されるのです。

 詩編139編には主なる神が愛をもって私たちを知っていてくださることの喜びが書かれています。「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」(p979)私たちのすべてを知っておられると賛美しているのです。詩人は周りの者から悪いことをしている者と責められていますが、自分の正しさを確保し、自分の正しさを主張することができないのです。しかし、神に信頼して神が自分の最終的な拠り所であり、逃れる場所であるのです。

 7編11節「心のまっすぐな人を救う方 神はわたしの盾」。この詩人の周りにはたくさんの人がいて、ひとりぼっちの詩人を攻撃しているのです。相手は大勢で攻撃してくるのです。この詩人は一人で戦わなければならないのです。しかし、ここでこの詩人は「神はわたしの盾」と告白しています。盾、それは、攻撃する相手の武器から身を守るものです。盾は、自分の周りを囲んで、安全を確保してくれるものです。他の人から嫌疑を掛けられ、攻撃されても、それを退けることができる、それは自分の周りを盾で守ってくれるからです。
 
 この盾とは、神の正しさです。神は正しさをもって私たちを守ってくださるのです。相手からの攻撃を直接に身に受けることはないのです。神が守ってくださるのです。神はわたしの盾となってくださいます。新しい翻訳は「わが盾は神」と翻訳しています。四方からの攻撃も盾は防ぎ、盾のおかげで安全に過ごすことができるのです。

 詩編7編の詩人は自分は正しいと身の潔白を訴えますが、私たちは身の潔白を訴えるほど、正しい生活をしているわけではありません。神が私たちの心とはらわたを調べるならば、それは限りなく、罪があり、黒なのです。神を正しく礼拝せず、隣人を愛することなく、自己中心の生活をしているのが私たちです。その意味で私たちは正しい者ではありません。私たちは裁かれるべき存在なのです。裁かれるべき存在である私たちに代わって、神は主イエス・キリストを裁かれるのです。正しい者を裁いて、正しくない者とするのです。えん罪なのです。そのことによって私たちは罪のない者、正しい者とされるのです。

 ロ−マの信徒への手紙5章18−19節(p280)「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によってすべての人が義とされて命を得ることになったのです。」

 主イエス・キリストによって私たちは神の正しさを与えられるのです。このことを信じる時に、私たちは正しい者と認められるのです。主イエス・キリストの生涯を思い起こす時に、主イエスは私たちの罪が赦されるために、苦難を受けられたのです。誤解され、中傷され、侮辱されたのです。主イエス・キリストは審く神であるのに、私たちに代わって裁かれる者となってくださるのです。主イエスは苦しみを受け、犯罪者であると確定される、そのような経験をされたのです。主イエス・キリストの十字架の犠牲、苦しみによって、私たちは正しい者とされているのです。           

 テレビの時代劇で、戦いの時に、家来が殿様が生き延びるように、自分が相手の軍勢をくい止めるので、早く逃げるように勧めて、やってきた相手の軍勢と戦っているうちに、槍や刀で殺されるという場面があります。この家来は殿様のために自分が盾になって戦い、自分のいのちを捧げるのです。     

 主イエス・キリストこそ、私たちを守る正義の盾、愛の盾です。神は私たちを、愛をもって見ていてくださり、罪を赦し、正しく裁いてくださるのです。私たちは正しく理解されず、誤解や中傷にさらされ、人には言えない辛いことも経験します。しかし、神は初めから終わりまで私たちの歴史を支配し、正しさを貫いてくださるのです。この神が私たちを守る盾なのです。

20160916 主日礼拝説教  「主はわたしの泣く声を聞かれた」 山ノ下恭


(詩編6編1−11節、ルカによる福音書7章11−17節) 

 いつも健康でいたいと私たちは願っています。いつまでも元気でいたいと願っています。私たちは病気に罹らないように、いつも健康に気をつけています。病気は私たちのいのちを脅かし、私たちが生活することを妨げるものです。病気は死とつながっているので、私たちにとって危険なものです。この病とどのように戦い、病をどのように乗り越えていくのか、このことは私たちにとって大きな問題になっています。

 日本キリスト教団で発行している「信徒の友」9月号は「病と信仰」と言う主題で特集しています。そこに一人のキリスト者の証しが載っていました。島根の隠岐教会員の大野智子さんが、「証し 病と生きる」で「ピアノを弾き続けたい」と言う題で文章を書いています。9年前に原因不明の体調不良に悩まされて、体のあちこちが痛む、寒いと指が真っ白になるので、病院で診察してもらったところ、膠原病の一種である強皮症であると診断されたそうです。保育士ですが、ピアノを専攻して、たまに小さなコンサートをしていたのですが、医師から「指を刺激することはいけない」とピアノを弾くことは考えるように言われたのです。大野さんは「なぜこんな病気にかかったのだろうか。しかも手に制限がかかる病気なのだろうか。悲しくて涙があふれました。」と書いています。しかし、友人からの手紙や贈り物に励まされ、聖書のみことばに慰められたそうです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント二 12章9)膠原病友の会に入会して、友の会の人たちに励まされ、リウマチを併発しながらも、音楽は神さまからの贈り物であるので、ピアノを弾いている、と書いています。

 本日の礼拝で旧約聖書の詩編6編を読みました。この詩編6編の詩人は、重い病に罹っており、この中から神に向かって嘆き、神に祈っているのです。  「主よ、怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。」

 この詩人は病で苦しんでいるのですが、この病が自分に対する神の懲らしめであると受け取っているのです。自分が悪いことをしたので、その懲罰として病に罹り、苦しんでいると受け取ったのです。病を罰として受け取っているのです。現代に生きる人たちも、病になると罰を受けた、何か悪いことをしたから、病気になったと理解する人たちがいます。この詩人は自分の病気が、神が自分を懲らしめるためだと受け取っているばかりでなく、この病を癒すのは神であると信じているのです。神が自分の病を癒すことを信じている、このことはとても重要なことなのです。私たちは神が自分の病を癒すとは考えていないのではないでしょうか。

 現代では病気を神の懲らしめであり、この病を癒すのは神であるとは考えないのです。病の原因は科学的に究明され、説明されるのです。検査をして客観的な資料で病の原因を突き止めるのです。神が懲らしめるために病をその人に与え、神が病を癒すとは受け止めてはいません。

 しかし、この詩人は病気が懲らしめであると受け取っているのです。神がこの病を通して自分に何かを示そうとしていると受け取っているのです。そして同時に神が病を癒す方であると告白しているのです。

 現代の医学では、病院で検査をしてその結果で、病気の原因を調べ、その病気を治療するのです。あくまでも、検査によって科学的な分析が行われ、病名がつけられ、治療が行われます。健康が回復すれば、それでお終いになります。

 この詩人は、神との関係の中で、病気になったことの意味を問うのです。この詩人は神との関係で病を捉えようとするのです。最初は神が私を懲らしめたのだと受け取ったのですが、神こそ、わたしの病を癒してくださる真の医師であると信じることができたのです。
 
 この詩人は神に呼びかけ、神に訴える居場所をもっている、そのことはとても大切なことです。この詩編は「病」「懲らしめ」とか、暗い言葉で始まっているのですが、それにもかかわらず、神が真の癒し手、医師であると言います。2節にありますが、詩人は,神に向かって、失われた健康を求め、切にその癒しを祈り求めているのです。3節に「主よ,癒してください、わたしの骨は恐れ」とあり、骨は身体を構成しているもので、身体がうずき痛んで、その苦痛の中にあることがわかります。この詩人は神に自分の症状を訴えています。それは、私たちが病院の診察室でよく見る風景です。病院に来た人が診察室で医師に自分の自覚症状を訴え、いつから痛みが出てきたとか、病気になって困っていると自分の症状を全部、説明しているのと同じです。

 この詩人は自分の身体の痛みだけではなく、心の悩みもぶちまけて訴えています。自分の痛みや心の痛みを神の前で隠さないでさらけだしているのです。よっぽど親しくないと自分の正直な気持ちはさらけだすことはないですが、この詩人は自分のありのままの気持ちを神にさらけだしているのです。

6節には「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず 陰府に入れば だれもあなたに感謝しません」と語ります。死んでしまったならば、神を讃美することができず、だれも感謝することはない、神ひとりになってしまいますよ、私を助けてくださいと訴えているのです。神に親しい思いで自分の苦しさ、苛立ちを訴えています。この詩人は神に全面的に信頼し、そしてこの神が自分を癒すと言う望みをもっているのです。

 この詩人は自分の身体、心に悩みを持っているだけではないのです。身近な人間関係で、自分を苦しめるものがいる、と言っています。病気になると、周りの人たちが自分を支え、同情するか、と言うとそうでもないのです。人間は、罪深い存在です。日頃、気に入らない人であると、病気になるといい気味だ、しばらく苦しんだほうが良いと心の中で思う人もいるのです。社会的な地位のある人が病気になれば、その地位を狙う人も出てくるのです。病気になった人が健康を回復することを願うのではなくて、もしあの人がいなくなった後釜は、今度は誰だろう、と話の種にすることもあるのです。自分の周りには、自分の存在が亡くなれば良いと自分を呪う者がいることに苦しんでいるのです。このことが、病気の苦しみになるのです。人間関係がうまくいかないために、病気になってしまうのです。

 9節に「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。」とあります。この詩人は自分の周りにいる人々から圧迫を受け、苦しめられたのです。現代に置き換えてみると、私たちはいろいろなストレスに悩まされているのです。現代は様々なストレスがあり、そのストレスが原因となって病気になるのです。
 
 新聞やテレビで学校の教師が病気で休んでいる人が多い、と報道されています。朝、6時ごろ家を出て学校に行き、夜11時ごろ帰る、長時間労働で働き過ぎなのです。たくさん仕事があり、しなければならないことが増えてくるのです。授業のこと、子どもの世話、親との連絡、父兄からのクレ−ム、学校の校長、主任などの上司との連絡、教師同士のつきあい、教育委員会からの圧力、抱えきれない多くの事務をこなし、くたくたになって、そのストレスで病気になり、燃え尽き、鬱になり、休職になる人が増えています。教師、医師、福祉関係者、聖職者は、これで仕事は終わりと言うことはないのです。

 香山リカと言う精神科医であり、立教大学教授は「コンビニ診療」と言っていましたが、すぐに診療することができるけれども、医師が疲れ果てていると言うのです。燃え尽き症候群になる人は、良心的で、誠実な人は、仕事をすればするほど、仕事があり、それに応じることができなくて、自分を責めたり、疲れてきて鬱になってしまうのです。

 この詩編は、この詩人の訴えで終わってはいないのです。9節後半から調子が変わってくます。「主はわたしの泣く声を聞き 主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」「聞き、聞き、祈りを受け入れた」とこの詩人は喜んでいるのです。自分の苦しみをさらけだしている言葉から、主が聞かれた、主が聞かれた、祈りを受け入れた、と歌っているのです。

 このように作者の言葉が変わったのは、ここには記されていませんが、この詩人が神から慰めと励ましの言葉を与えられたからです。神の恵み深い言葉を与えられたからです。その言葉は、「恐れるな、わたしはあなたと共にある」という励ましの言葉があったのです。救いの約束の言葉をこの作者は聞いたのです。

 9節後半−10節をフランシスコ会訳では次のように翻訳しています。「ヤ−ウェはわたしの嘆きの声を聞かれた。ヤ−ウェはわたしの願いを聞き入れ、ヤ−ウェはわたしの祈りを かなえてくださった。」

 今まで,悪戦苦闘して神に訴えているうちに、神から与えられた言葉によって、彼は、病という試練に打ち勝ち,乗り越える力を与えられたのです。

 私も何回か、入院して病に苦しんだことがあります。不安、焦り、の中で、その病を乗り越える力となったのは、祈りの中で語られた神の恵みの言葉に他ならないのです。病気になって、この詩人はこの病が神からの試みであると受け止め、そして必ず、神は自分を癒してくださると信じることができたのです。

 イザヤ書38章にヒゼキヤ王が重い病に罹ったことが記されています。預言者イザヤからヒゼキヤ王は「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言しなさい」と告知されました。王は涙を流しながら、神に祈り、その結果、15年、寿命が延ばされたのです。病気が治った時に、王は感謝の祈りをささげています。その祈りはイザヤ書38章16節(p.1122)に記されています。「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。」

 ヒゼキヤ王は神の恵みが自分を生かしてくださっている、と讃美しているのです。そして、これから「わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。」と祈っています。私はこのヒゼキヤ王の祈りに心惹かれます。私が入院した時、このイザヤ書のヒゼキヤ王の祈りを何度も読んで励まされたのです。神よ、私の近くにいて、私を生かしてください、と祈るのです。このヒゼキヤ王の祈りから、神は私たちを決して見捨てることはないことを知らされます。病気という試みの中で、孤軍奮闘している私たちを神は見捨てることなく、恵み深く共にいてくださるのです。

 主イエスはガリラヤ地方で伝道を始めた時に、多くの人々の病を癒されたのです。主イエスは特に重い病をもった人々に関わったのです。それは病が私たちにとって命に関わる、大きな苦しみであることをよく知っていたからです。

 主イエスは神の国の福音を伝える、その初めに何をしたのでしょうか。それは病を癒されたということなのです。病に苦しんでいる人たちに対して、神が憐れんで慈しんでくださっていることを、主イエスは癒やしの行為によって表そうとされたのです。神があなたのことを心配し、健康になることを強く願っていることを知らせようとされたのです。

 マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に、12年間も出血の止まらない女性が主イエスによって癒された物語が記されています。この女性が癒された時に主イエスは「安心して行きなさい」と語りかけています。(マタイ9章18-26、マルコ5章21-34、ルカ8章40-56)この「安心して」という言葉は、ヘブライ語で「シャロ−ム」と言う言葉です。「シャロ−ム」と言う言葉は含蓄のある言葉で「平和」「救い」など、いろいろ翻訳されていますが、元々は「生命力」「命の充満」「バイタリティ−」という言葉です。病気をして回復すると言うのは、かなり時間がかかります。元気に生活できるようになるには、入院期間の二倍の時間がかかると言われています。健康というのは、病気をしないということだけではないのです。毎日の生活が充実していると言うことです。生きるはりあいがあると言うことです。神に生かされて、活力に満ちて生きることです。

 柳田邦男と言うノンフィクション作家が「新・がん50人の勇気」という本を書いています。この本は「がん50人の勇気」と言う本の続編です。「がん50人の勇気」を書いたきっかけは、柳田邦男が三重県桑名教会の原崎百子さんの本を読み、感激して、ガンの宣告を受けた人々の最後を文芸春秋に書いたのです。原崎百子さんは宗教改革者ルタ−の「たとえ世界が明日終わりであっても、私はリンゴの木を植える」と言う言葉が好きで、この言葉を自分の生き方の支えにしていたそうです。原崎さんが亡くなる4日前に、日記に次のように書いています。「出来ないことがどんどんふえています。トイレまでも人の手をかりることになりました。でも神さま、目が見えます。耳もきこえます。字もかけます。口で歌えなくても頭と心とでさんびかが歌えます。風を心地よいと感じられます。人のやさしさをうれしいと思えます。『あ、り、が、と、う、ご、ざ、い、ま、す、』と区切りながら言うことが出来ます。」肺ガンに侵されても最後まで、神に生かされている感謝の心で過ごしていたことを知らされます。

 本日の礼拝で、ルカによる福音書7章11−17節を読みました。ナインという町で、一人息子を失った母親の嘆きに、主イエスは憐れみ、深く同情し、死んだこの息子を主イエスが生き返らせたことが記されています。主イエスは別の時に死んだラザロを死からよみがえらせたのです。このことから、私たちは死で終わらないいのちを戴いていることを知るのです。ヨハネによる福音書では、「永遠のいのち」という言葉で言い表しています。主イエスを信じる者は死んでも生きるのです。主イエスを救い主と信じ、告白する者は、たとえ地上のいのちがなくなっても、神との深い関係、神とつながっているいのちは永遠に生きていくのです。

 コへレトの言葉は、この地上の生活が終われば、それで終わりと考えているので、地上の生活をどのように楽しく生きるか、ということに関心があります。しかし、死んだ後も、私たちは神とつながっているので、生きるのです。神が永遠の中で時間を創造したのです。永遠の神は、私たちに生きる時間を与えましたが、地上の時間が終わった後、私たちは永遠の世界に入ることが許されています。

 私たちにとって病は難問です。私たちにとって死ぬことも難問です。しかし、永遠に生きている神の支配の中に生き、私たちのために配慮してくださっている神に信頼し、恵みの中を歩んでいこうではありませんか。


20180909 主日礼拝説教  「青春の日々にこそ」  山ノ下恭二


(コへレトの言葉12章1−3節、エフェソの信徒への手紙5章16節)
 
 今日の礼拝は、子どもと大人との一緒の礼拝です。子どもと大人とはいつも別々の時間に礼拝を守っています。いつもは日曜日朝9時から教会学校の礼拝をしています。そして10時15分位に子どもたちは、教会から家に帰ります。その後、10時30分から大人の礼拝をしているので、互いに知らないかも知れませんが、今日はこの礼拝で一緒に讃美歌を歌い、聖書を読み、説教のみことばを聞き、献金をささげることができて、うれしく思います。

 今日の礼拝で旧約聖書のコへレトの言葉12章1−3節のみことばを読みました。ここにはどのようなことが書かれているでしょうか。12章1節には「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」と書かれています。この「青春の日々にこそ」と言う言葉は、以前は「若い日に」と訳されていました。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」です。「青春の日々に」「若い日に」とありますから、若い人に向けて語っているのです。
 
 このコへレトの言葉を書いた人は、長く生きて、いろいろな経験を積み、いろいろな仕事をして苦労した人です。この人は年を取った人です。その人が自分のしてきたことを振り返り、この世の中のことを観察して、若い人たちに伝えたいことをコへレトの言葉に書いたのです。若い人に伝えたいことは何でしょうか。
 
 私は神学校を卒業した時に先輩の牧師から、牧師はこうしたら良いよ、と教えてもらったことがあります。その先輩の牧師は「言い過ぎないように。言い過ぎると取り消すことが難しい。言い足りなければ、言葉を補うことができるので、言い足りないほうが良い」と言われたことがあります。今は余り、人生の先輩から教えられる機会がありませんが、長く人生を過ごして来たこの人が、これから歩もうとしている若い人たちに大切なことを教えるのです。
 
 コへレトの言葉は、若い人がこれから生きて行く時に、どのように生きることが一番、良いのか、を教えているのです。

 コへレトの言葉12章1節には「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と言うのです。若い日、青春の日々、20歳から40歳位を指すのでしょう。若い時に、どのように過ごせば良いのでしょうか。いつも自覚して、心に留めることは、「お前の創造主に心を留め」ることだ、と言うのです。

 親はこう言うかも知れません。「お前の人生なのだから、好きなように過ごしたら良い」と言うかも知れません。「食べて行くには、学校を出て、しっかりした会社に勤めなさい」と言うかも知れません。

 コへレトの言葉12章1節には、「おまえの創造主に心を留めよ」と語っているのです。これが生きる時に一番、大切なことだと言うのです。

 お前の、あなたの創造主を心に留めなさい。この創造主、この方は、わたしたちの命を創造した方です。わたしたちの命を創造した神は、わたしたちを愛の配慮をもって導いてくださる方なのです。この神にいつも心を留めて、信じ、信頼していくことが一番、良い生き方なのだ、と語っています。
 
 このコへレトの言葉を書いた人は、いろいろな仕事をしてきました。会社を作り、お金を儲けました。でも、会社はつぶれ、お金はなくなりました。一所懸命に働いても、それが無駄になってしまったことを経験したのです。それは何と空しいことか、と言うのです。いろいろ苦労してきたけれどもそれがどれだけ意味があったのか、何と空しいことか、と思ったのです。自分は若くない、お年寄りになって、自分のこれまでのことを振り返って、いままで何をしてきたのだろうか、と思うのです。この人は自分が若くなく、命の終わりを見つめているのです。
 
 私たちの一生は、誕生して赤ちゃんの時を過ごし、若者になり、そして年寄りになって、死ぬのです、私たちの一生を一日で譬えると、赤ちゃんは朝の時間をすごしています。朝の光がまぶしい時です。活動する時期です。若者は朝の10時から3時を過ごしています。この時期は、人生の中で一番、活躍している時期です。午後の4時過ぎを過ごしているのは、お年寄りです。夕方になるとあたりは暗くなります。60歳−80歳は、人生の活動を終え、死を迎える時期が近づきます。

 このコへレトの言葉を書いた人は、老人になっています。年寄りになって、自分が心細くなり、自分が頼りなく感じるのです。自分を頼りにできなくなるのです。若い時には誰にも頼ることなく、自分の力ですることができたのですが、今では自分の力ではできなくなりつつあることを実感しているのです。
 
 お年寄りになるとどうなるのか、それは身体の機能が衰えて来ます。そのことを3節から8節まで書いています。まず、目がかすんで見えなくなります。視力が衰え、眼鏡を捜すようになります。耳が聞こえづらくなります。聴力が衰えます。大きな声で言っても聞こえないのです。歯が悪くて、食べる時に入れ歯がないと食べられません。入れ歯を忘れて、話す言葉が意味不明になります。腰が曲がり、階段の昇り降りが大変になり、動作が鈍くなり、物忘れがひどくなり、ものを捜す時間が増え、知っている人に挨拶されても「その人の名前」が出て来なくなり、2日後にやっと思い出し、「あれ、これ、それ」で済ませ、二階に昇って何をしにきたのか、分からないのです。本を読み始めても、3ペ−ジまで読むと眠くなり、また読もうとすると、どの本を読んだのか、分からなくなるのです。お年寄りになって、良いことはないのです。年を取ることは、とても辛く、厳しいことです。

「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ」「創造主に心を留めよ」とはどのようなことでしょうか。それは、神様を礼拝し、聖書からみことばを聞いて行くことなのです。皆さんが、幼い時から、教会に通っていることはとても良いことです。私も幼い時から教会に通って礼拝し、聖書の話を聞いてきました。それが、自分を支え、勇気づける大きな力になってきました。
 
 私は自分の命が神様によって造られ、自分のいのちは自分のものではなく、神様のものだと言うことを教えられてきました。自分の命を粗末にはできないし、自分を傷つけ、他の人も傷つけることはいけないことを教えられました。9月3日は公立学校の二学期が始まった日です。夏休みの宿題を提出しなければならないし、学校に行くのが嫌だな、と思いながら学校に行った人も多いと思います。新聞を見たら、ある男子中学生が9月3日に自殺してしまったことが書かれていました。夏休みの宿題のことで担任の先生に言われたそうです。その中学生は夏休みの宿題ができていなくて、とても気にしていたようです。そのことを言われたようです。先生から言われても、深く受けとめないで、自殺しないでほしかったと思います。自殺した中学生が自分の命は神様がくださった大切ないのちなんだと思うことができればよかったのに、と思いました。嫌なことがあっても、友達にいじめられても、成績が悪くても、神様が自分を受け入れ、認めてくれていると心に留めていることが大切なのです。
 
 「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ」私は教会につながっていて良かったと思っています。教会につながっていることはとても良いことです。私は教会の人たちからたくさん支えられてきました。イエス・キリストを信じている教会の仲間になると、良い人生を送ることができるのです。
 
 わたしたちには思いがけないことが起こります。私の父親は私が10歳の時に交通事故で亡くなりました。家族で教会に行っていたので、教会で葬儀をしました。家族が悲しくて泣いている時に、ある教会の方が「必ず、神様が守ってくれるから大丈夫。いつも祈っているね」と言ってくれました。神様はわたしたちの命を創造し、そしてその命を守り、配慮してくださる方なのです。

 大学に入った年に、大学が紛争になり、半年、授業ができませんでした。張り切って大学入学したのに、大学構内に入ることも勉強もできなかったのです。こんな大学を辞めようか、と通っていた教会の一人の人に話したら、「あなたは神様から伝道者として召されたのだから、その志を貫きなさい。いつも祈っているから」と言われました。それで、大学に留まり、卒業することができたのです。

 わたしたちがいつも心を使い、心を痛める、悩み、苦しむことがあります。一人だけで生きているのではなく、いろいろな人と一緒に生活しています。一番、難しいことは、人との関係です。他の人とうまくつきあうことがなかなかできないことです。個性がありますから、受け入れなかったり、互いに合わないこともあります。意地悪されたり、ひどいことをいわれたり、いじめにあったりすることがあります。そのような時に、聖書から、人の罪を赦しなさい、と教えられていることはとても大切です。わたしたちの罪を神様はイエス・キリストの十字架によって赦して下さっていることを教えられています。

一般に、この世では、自分に対して悪いことをした人に復讐をします。やったらやり返すのです。しかし、私たちは聖書から相手の罪を赦すことを教えられているので、相手を赦すことができるのです。自分の創造主に心を留めて行くことはとても大切なのです。

 「青春の日々」「若い日」と言う言葉は「墓」と言う言葉とよく似ているそうです。「おまえの墓に心を留めよ」と言うことができます。「墓に心を留める」と言うことは、自分が死ぬことをいつも自覚するように教えます。私たちの命は限られているのです。私たちが生きている時間は限られています。時間は神様から与えられた贈り物です。心を込めて、与えられた時間を意味ある時として用いましょう。時間を大切に、神を礼拝し、隣人を愛するために「時をよく用いる」のです。


20180902 主日礼拝説教  「キリストに心を留め、より良く生きよう」  山ノ下恭二


(イザヤ書26章12節、フィリピの信徒への手紙4章8−9節) 

 災害があると、大勢のボランティアが現地に行って、手伝いをしている姿がテレビのニュ−スで見ることが多くなりました。7月初めの西日本豪雨の被災地、愛媛県の西予市、広島県の畑町、岡山県の真備町など現地に災害ボランティアが行き、家にたまった泥をかき分け家の外に運んだり、被災者の家の片付けを手伝って、被災者がとても喜んでいる様子が放映されています。夏の暑い時に、自発的、献身的に奉仕しているボランティアをしている人たちの姿を見ると感心し、ボランティア活動をしている人たちを尊敬するのです。
 
 愛と言う言葉は、日本語としては「男女の愛」と言う意味で用いられてきましたが、現代では隣人を愛すると言う意味で使われているのです。愛と言う行為はキリスト者の社会福祉の実践家によって証しされてきました。明治時代に社会福祉事業が主にキリスト者によって始められて、愛すると言う姿を実際に示したことも大きく影響を与えていると思います。保坂正康というノンフィクション作家が、社会福祉分野で功績のあった3人の人をあげています。山室軍平、石井十次、留岡幸助、皆キリスト者であり、愛の実践をして活躍した人たちです。明治時代のことですが、石井十次は岡山で孤児院を設立しましたし、山室軍平は、日本に救世軍を創設し、貧民救済など大きな事業を始めました。留岡幸助は、北海道の刑務所で教誨師をしていたのですが、大人になってから犯罪を防ぐことは難しいと考え、少年の時に矯正して育てることを目的にして、北海道の遠軽に北海道家庭学校を創設し、家族的な環境で、非行の経験をもった子どもたちを育てたのです。
 
 そのようなことを考えると、明治以来、福祉事業はキリスト者から始まっており、愛の行為がキリスト者の専売特許だと考えられていたのです。しかし、最近の災害ボランティアの活動を見ると、キリスト者だけが愛の行為をしているのではないことが分かります。一般の災害ボランティア活動をしている人たちが特別に聖書の愛の物語を知らなくても、愛の行為がこの社会の中で行われているのです。善いサマリア人の譬えを知らなくても、一般の人たちが愛の行為をしているのです。 

 パウロが手紙を書いているフィリピの教会は、創立して間もない、しかもとても少人数の教会です。キリスト者は、ほとんどその地域にいないのです。少数であるだけに、かえって、他の人たちと自分たちとをはっきりと区別する、そういう意識になるのです。

 キリスト者は、愛はどのような内容なのか、聖書を学んで少しは知っていますので、自分たちだけが愛はどのようなものであるか、知っていると思うのです。自分たちは愛は本来どのようなものか、を知っている、それが優越感になるのです。自分は知識がある、知っているという意識をもっていると、知識を持たない人たちを軽蔑するのです。災害ボランティア活動をしているのは立派であるけれども、それはヒュ−マ二ズムに過ぎない、ただ可愛そうと思う人間の感情からしているに過ぎないと批判するのです。自分たちはキリストの愛をしっていると言う優越した意識があるのです。災害ボランティア活動をしている人たちを見て、こんな暑い時に他の人たちのために働いている、とてもすばらしいことをしている、と言う思いを持つのが本当なのですが、そうではなく、キリストの十字架の愛を知らないので、本当の愛の行為ではないと思うのであれば、それは正しいことではないのです。

 小さな集団にいると、自分たちの正当性を確保するために、他の人たちを見下げることをするのです。それが極まるとカルト集団のように、自分たちだけが正しいことをしており、他の人たちは正しいことをしていないと他の人たちを軽蔑し、差別化して、独善的になってしまうのです。

 パウロは、フィリピの教会の信徒たちにキリスト者たちが、本当の愛を知っているから優れている、キリスト者でない人たちが愛の実践をしているけれども、それは本当の愛の実践ではないとは言わなかったのです。

 本日の礼拝でフィリピの信徒への手紙4章8−9節を読みました。8節に「終わりに、兄弟たち」と呼びかけています。この手紙を終えるにあたって、大切なことを勧告しています。パウロはキリスト者としてこう生きなさい、と一言も言わないのです。4章8−9節Aで「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」と語ります。

 この言葉を読んで、皆さんは特別なこととして受け取らないかも知れません。しかし、この言葉を読んで分かることは、パウロが出した他の手紙とは全く異なることが記されているのです。

 パウロはそれぞれの教会の信徒たちのために、教会の状況に応じて、異なった手紙を送っていますが、必ず、キリスト者としての生き方を語っています。

 キリスト者の生き方、つまりキリスト教の倫理です。倫理と言うと少し難しくなるかも知れませんが、倫理の「倫」とは、仲間とか、ともがらと言う意味であり、「理」は規範とか法則と言う意味を持っている言葉です。他者と共に生きる時に、そこで人がいかに振る舞うのか、共通の規範としてどのように守るのか、そういうことについての教えを倫理と言います。私たちは常に他者との関係の中で生きている、そこで互いに重んじ合うためにどのように生きるべきか、を問うのが倫理です。

 パウロは他の手紙で、キリスト者としての生き方を詳しく語っています。そして悪い行いについてのリストと良い行いについてのリストを挙げています。

 ガラテヤの信徒への手紙5章19−21節A(p350)には、悪い行いについてのリストを挙げています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」

 そして、良い行いについてのリストをも挙げています。ガラテヤの信徒への手紙5章22−23節(p350)「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

 このフィリピの信徒への手紙でも、悪い行いについてのリスト、良い行いについてのリストを挙げて、キリスト者の生き方を明確に伝えることもできたのです。パウロがフィリピの教会の信徒に、悪を避け、良い行いをしなさいと勧めることもできたのです。

 しかし、パウロは良い行いのリストを掲げないで、「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」と語るのです。

 このパウロの勧めの言葉はパウロ自身の言葉ではありません。パウロが活躍していたこの時代の思想にストア哲学と言う思想が流行していました。このストア哲学が人たちに勧めていた、人間としてのあり方を示したのが、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値すること」と言う言葉です。このことは、パウロ自身が自分で考えて紡いだ言葉ではありません。この言葉はこの当時の思想家ストア学派の人たちが語った言葉です。ストア派の人たちがこの言葉を高く評価して、いろいろなところで用いていましたし、この言葉が当時の社会で流行っていたのです。この言葉をパウロは借用しているのです。

 フィリピの信徒への手紙4章9節に「徳」と言う言葉があります。徳と言う言葉はギリシャ語で「アレテ−」と言う言葉です。「徳のある人」と言うとふつう、立派な品格を備えた人格者を思い浮かべます。しかし、この「徳」は、その存在の持つ優れた特性、行動を言います。例えば、「馬の徳」、「馬のアレテ−」と言う場合は、馬がよく走ることを言います。弓を引く「射手の徳」、「射手のアレテ−」とは、矢を正確に的に当てることを言います。「アテネ市民の徳」、「市民のアレテ−」とは知恵をもっていることを指します。従って、優れた特性、行為を「徳」「アレテ−」と言ったのです。

 パウロは4章8節で、私たちキリスト者が心に留めることとして語っているのですが、これはキリスト教独自の「徳」ではなく、この当時、誰でもが共通して承認している「徳目」を提示しています。ここに記されている言葉を紹介します。

 「真実なこと」この言葉はうそでないこと、偽りでないことを言います。幼い時から、「うそは泥棒のはじまり」と聞かされてきました。うそはいけないことは一般の人も同意しています。嘘、偽りをすてて、真実を求めるのです。 
「気高いこと」これは人格的な側面で尊敬できることを指します。言動、品性において自分が尊敬されるようにすることです。

 「正しいこと」と言うのは、正義ということよりも「義務を果たす」と言う意味です。神に対して、人に対して、自分に対して負わなければならない責任があると言う意味です。

 「清いこと」汚れがなくて清らかであると言うことです。神の前においても、人に対しても汚れがない生活を指しています。詩編15編2−5節のみことばです。この詩編15編は礼拝に出席する時の資格を問うのです。

 「愛すべきこと」相手に同情し、相手を心から愛することを指します。

 「名誉なこと」この言葉から、社会的に貢献して勲章を戴くことを思い浮かべますが、この言葉の元々の意味は違います。「美しく語る」と言う意味です。神が聞き、人々が聞いて、喜ぶような言葉を語っている、と言うことです。教会でいえば,説教が、神が喜んで聞いていてくださる説教である、と言うことでしょうし、人々の心を癒し、励まし、慰めるような言葉を語ることです。

 「徳や賞賛に値すること」とあります。これは「ほめられるようなこと」と言う言葉です。誰が見てもほめられるようなことをすることです。
 
 パウロは「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉あること、また徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」と語るのです。「心に留める」と言う言葉は、ギリシャ語では「ロギゾマイ」と言う言葉です。この言葉を辞典で調べると「うっかりすると見過ごしかねない事に注目し、そのことを自分の中で熟考する」とありました。「すべて」と何回も繰り返されていますので、自分の身の回りで起こる、すべてに注目して、正当に評価するようにと勧めているのです。私たちの身の周りで起こっている真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉あること、徳や賞賛すること、を正当に評価することを勧めています。

 フィリピの教会はとても小さく、少人数で礼拝を守り、小さく固まっていたに違いないのです。少人数であると、どうしても内向きになり、関心が自分の内側に向いてしまいます。あるアメリカ人の宣教師は、長く日本の教会の信徒を見ていて感じることは、日本の教会の信徒たちはいつも自分の内側に関心があっていつもお掃除をしている、と言いました。自分の関心が自分の内側に向いていると言うのです。しかし、パウロは、教会の人たちに外に関心をもって、そこで行われている、人々の善い行いを評価しようではないか、と呼びかけているのです。

 パウロは自分がキリストによって救われ、キリストの恵みに生きることを語っていますが、それだけで終わっているのではないのです。パウロはフィリピの教会の信徒たちに、自分たちの周囲の世界に心を開いて、その世界で行われている行為を価値あるものとして、正しく評価することを勧めているのです。

 最近のニュ−スでは、山口県周防大島町で三日間行方不明であった2歳の男の子を発見した尾畠春夫さんのことが新聞に掲載されていました。テレビでも出ていましたが、この人は魚屋を65歳で閉めた時に「学歴も、何もない自分がここまでやってこられた。社会に恩返しをしたい」と思い、ボランティア活動を始めたのです。2004年、新潟の中越地震、2011年、東日本大震災、2016年、熊本地震の被災地を訪れ、ボランティア活動をし、「今年の7月には西日本豪雨で被害を受けた広島県呉市に入り、民家の泥をかき出す作業に汗を流した。」のです。「何事も、対岸の火事だとは思わずに行動できる人が、もっと増えてほしい」と語るのです。助ける相手側に迷惑をかけないことを信条にしているので、「活動費は自分の年金から捻出し」、「軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込」んで、活動をしているのです。私は尾畠さんの記事を読んで、すばらしいことをしていると感じました。このような行為を私たちは正しく評価し、私たちもこのような愛の実践に倣うことなのです。

 フィリピの教会にはキリスト者だと自称していていましたが、どう考えてもキリスト者とは言えない人たちがいました。グノ−シス主義と言って、自分たちは神を知って悟っている、悟っていて完全だ、と考えていて、この人たちは霊と身体(心と生活)とは分離している、と考えていました。実際の生活は自分の好きなように過ごして良い、と考えていました。礼拝しているときは霊と関わるのですが、礼拝が終わって教会から出てしまうと、それは身体、肉体が働くので、買春をしていたのです。信仰が頭だけで、毎日の生活は世俗的な自分中心の生活をしていたのです。愛の生活をしていなかったのです。

 パウロは、キリスト者は頭だけの信仰ではなく、実際に神に喜ばれる生活を志すことを勧めているのです。自分たちだけが神を知っていると誇るのではなく、自分の内側で自己満足するのではなく、自分の外に心を開き、心を向け、この世界に開かれた心をもって、人々の生き方を評価することを語るのです。

 キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、愛されている、そのことを心に刻みながら、開かれた心をもって、この世界で価値のある生き方をしていることを評価するのです。

 私たちの生活は、ほとんどキリスト者でない人たちの働きによって支えられているのです。新聞を配達してくれる人も、電車を運転してくれる人も、全部キリスト者ではありません。キリスト者以外の人たちの労苦によって私たちの生活は成り立っているのです。そのことを感謝し、善い行いをしている、愛を実践している人たちを私たちは評価していくのです。

20180826 主日礼拝説教 「わたしの叫ぶ声を聞いてください」  山ノ下恭


(詩編5編1−13節、コリントの信徒への手紙二 1章8−10節)

 旧約聖書の詩編には「嘆きの詩編」が多く記されています。詩編の作者が深い悩みをもって神に訴えているのです。この地上で生活していく中で、私たちは様々な悩みをもっています。悩みがどのくらい深いかは一人一人違いがありますが、私たちは助けを求めることがあるのです。ある詩編は重い病気で苦しんでいて、なかなか治らないので、その病が癒されることを願って訴えているのです。病は私たちの命を脅かす敵ですから、その敵である病から救われることを願って訴えているのです。

 この礼拝で読みましたのは詩編5編です。この5編は「嘆きの詩編」に属しています。この詩編の作者はどのようなことに苦しみ、どのようなことを嘆いているのでしょうか。

 詩編5編4節にはこのように記されています。「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て あなたを仰ぎ望みます。」とあります。ここに「朝ごとに」と言う言葉が二回出て来ます。この詩人は夜が明けて、すぐに礼拝の場所である神殿に行き、助けを求めて叫び、祈っているのです。夜が明けて、すぐに礼拝の場所に行って、神に訴えなければならないほど、苦しんでいたのです。

 私は、こういう経験をしたことがあります。ある時、かつて私が在任していた教会に、一人の方が駆け込んで教会に来られたことがありました。ドアを開けると、その方は倒れるように入って来て、涙を流しながら、話を始めました。なぜ、教会に駆け込んで来たのか、その理由が分かりました。その方は長く外国で生活し、夫も亡くなり、老後を長男のところで過ごそうと日本に帰ってきたのです。しかし、長男の家族にとっては歓迎されざる人であって、外国に帰るようにと言い、そして家族にひどい扱いをされていたのです。それでいたたまれなくなって、教会に駆け込んだのです。戦争の時に、長男が1歳の時に抱きかかえて、苦労して旧満州からいのちからがら逃げてきて、日本に帰り着いたのです。「いのちを守って日本に連れ帰ったのに、こんな仕打ちをされるとは思わなかった」と泣いていたのです。
 
 この詩人はなぜ苦しんでいたのでしょうか。それは、5−7節、10−11節を読むとわかります。この詩人に敵対心を持っていた人々が周りにいるということです。自分を陥れようと画策している人々がいたのです。この詩人を社会的に葬ろうとしていたのです。人を陥れることをするのです。人を陥れる効果的な方法があります。それは、この人の悪口を言いふらして、評判を落とせば良いのです。この詩人には罪がある、落ち度がある、と周りの者に言いふらしていたのです。特別に一人の人を陥れようと言う意図を持たず、その人の失敗や落ち度を言いふらすことをしていると言う意識がなくても、人の罪や落ち度を噂のように言いふらすことは相手の人格を傷つけ、その人の評判を落とし、その人を陥れることになります。私たちは人の噂話をすることがありますが、悪口や人から聞いた、断片的な噂は、話題になっている人の名誉を毀損することになるのです。

 この詩人は貧困で、社会的に地位が低く、不利な立場にありました。そして詩人を陥れようと画策している人々は裕福で、社会的な地位が高く、優位に立っていたのです。周りの者は大勢で力が強く、この詩人は孤立して助ける者がいないのです。このような人々はどのような行動に出るのか、この詩編の詩人は恐れを持ち、不安をもっていたのです。

 ある解説書には、この詩人に敵対する人々のことを「神を信じない人々」と言い換えています。この日本では、キリスト者はほんの一握りで、教会に行っている人々は少数です。電車に乗っている時に思うのですが、10両、15両の電車の中でキリスト者は私だけかもしれないと思うことがあります。会社でも、学校でも、地域でも自分一人だけキリスト者なのです。そのような中でキリスト者として信仰を貫いて行こうとする時に様々な戦いがあるのです。

 この詩編の詩人は身に覚えのない罪を着せられて、周りの者に苦しめられています。この苦しみを神に訴え、助けを求めているのです。この詩編の詩人にとって救いとなるのは、この詩人が神に助けを求めて叫ぶことができるということです。自分の嘆きを聞いてくれる神をもっているのです。このことはとても幸いなことであると思います。

 かつて「信徒の友」で大島力牧師が、一年間、12回に渡って、「聖書の中の祈り」という文章を連載していました。その10回目にロ−マの信徒への手紙8章の「うめく」という言葉を取り上げています。この文章で、戦後のプロテスタント作家である、椎名燐三の文章を引用しています。

「戦後の代表的な作家のひとりである椎名麟三は、様々な挫折体験を経て虚無主義に陥っていたときに、ドストエフスキーの小説と出会い、作家になる決意をしました。そのことを綴った『私のドストエフスキー体験』という本があります。そのなかで、このようなことが自らの文学の出発点であったと書いています。人生や文学ということを考えるとますますわからなくなるが、しかし、わかったことは、『八方ふさがりでもいい、うなることができる、このうなり声こそ文学なのだと考えて、私の生きる方向を決定した』と記しています。この言葉は印象的です。『うなる』ということは随分と否定的なことですが、しかし、これまでの人生の中でどうしようもなく『「うなり声」のようなものをあげたことが一度もない人はいないのではないか。なにか「ワ−」と叫びたくなる、あるいは「ア−」と思わず声をあげたくなる。』このようなことは、誰にでもあります。そして、椎名麟三という作家は39歳でキリスト教の洗礼を受けるのですが、その「うなり声」は実は神に向けられていたことがわかった、ということを後に述べています。「うなる」ということは、人間としてごく自然なことですが、しかし、それが神に向けられる時に、その人の祈りとなる、そのように言ってよいと思います。その「うなり声」を神に向ける時に、それがその人の祈りとなるのです。

 この詩編の詩人は、夜が明けるとすぐに神殿に行って、祈るのです。(2−4節)この詩編の作者は自分の嘆き、自分のつぶやき、うめきを聞いてくださる相手を持っているのです。孤立していて、多くの者から責められ、攻撃され、罪ある者と見なされていました。しかし、この詩編の詩人は自分が訴える神をもっているのです。もう一人ではないのです。もう孤立してはいないのです。自分を見守り、自分の側に立っている神をもっているのです。このことはとても大切なことです。自分に味方がいるのです。神が味方で、いつも自分の側にいるのです。自分の味方となって応援する者の存在は心強いのです。

 高校生の時に私が行っていた高校の野球部は、県大会一回戦でいつも負けていました。その頃、高校野球で一回戦を突破したことはなかったのです。私が高校1年生の時に、4月に赴任した、新しい校長が野球が大好きで、ある時の朝礼で今まで野球の応援が少ないから勝てないのだから、みんなで応援に行こうと呼びかけたことがあります。朝礼が終わって、みんながぶつぶつ不平を言い出したのです。自分たちが応援に行っても勝つわけはない、とか、応援に行くよりは上手な選手をスカウトするほうが先決だ、とか、投手がうまくないので勝てるはずはない、応援してもどうせ負けるんだ、こんな暑い時に宇都宮の球場まで行って応援するのは迷惑で馬鹿馬鹿しい、とかぶつぶつ言いだしたのです。

 校長が呼びかけたので、みんな仕方なく球場に行き、私も宇都宮の球場に友達と応援に行ったのです。相手のチ−ムは一回戦でいつも負けているチ−ムでした。自分の高校を応援する人の数が相手の高校の応援する人よりも多かったのですが、にわか応援で、相手のチ−ムの応援の方がうまかったのです。しかし、野球部の人たちは応援する人がいつもより多くて、元気をもらったのか、とてもがんばったので勝てたのです。勝てるはずのないゲ−ムに勝つことができたのです。自分を応援する味方がいると言うのは力強いのです。

 多くの人々の応援よりももっと大きな力になる神がこの詩人の側に味方として応援しているのです。詩編5編の詩人は神に自分の嘆きを訴え、助けを求めて叫ぶことによって、神が自分の味方であることを確信することができたのです。祈ることによって、神が共に戦ってくださると心強く思ったに違いないのです。神はこの詩人の側にいるのです。神がわたしの味方なので、自分を訴え、陥れる者を正しく裁かれる、と歌うのです。5−7節には、「あなたは、決して 逆らう者を喜ぶ方ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず 誇り高い者は御目に向かって立つことができず 悪を行う者はすべて憎まれます。主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし 流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。」と記しています。
 
 この詩人は、神が自分の叫びを聞いて下さり、神が正しく裁かれる方、自分の味方であることに確信を得ることによって、自分を陥れようとしている人々の存在がとても小さな存在になり、その存在は背後に退いてしまったのです。自分の敵がそれまではとても大きな存在でしたが、神が自分の叫びを聞き、自分のうめきを聞いてくださることを知って、神が自分には大きな存在になったのです。自分を苦しめる者たちの存在さえ忘れてしまうのです。いつも自分を苦しめていた人々のことを気に掛け、恐れを抱いていたのです。しかし、神を王とし、神の前に祈る時に、自分の関心は祈っている神にあるのです。

 8節−9節前半には、「しかしわたしは、深い慈しみをいただいて あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し あなたを畏れ敬います。主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」と記しています。詩人は、神の家である聖なる神殿に入って伏し拝むことができるのです。そのようにできるのはただ、「深い慈しみをいただいて」いるからだと語るのです。「深い慈しみ」と訳されていますが、原文は「慈しみの多さ」と訳すことができます。「あなたの慈しみの多さの中で」神の慈しみの多さによって神殿へと招き込まれた詩人は、神への畏れをもって神殿に近づくのです。礼拝の場所は慈しむ神と畏れ敬う人間とが出会う場です。

 「慈しみ」という言葉は聖書ではとても大切な言葉です。「慈しみ」はヘブライ語では「ヘセド」と言う言葉です。この「ヘセド」は私たちとの関わりを大切にする神の忠実さと愛を表す言葉です。「慈しみ(ヘセド)」は神の本質を表すものです。私たち人間に対して変わることがない神の真実、それは契約を結んだ私たちへの愛のことです。
 
 ある時、道を歩いていましたら、誰でも見ることができる風景が目に入りました。私の前を歩いていた若い母親が女の子を抱いて歩いていたのですが、その女の子は寝てしまっていたのです。女の子は寝ていましが、母親は自分の子どもをしっかりと抱いているのです。それで落ちることはないのです。この姿を見た時に、神は私たちを子どものように抱きかかえておられると思いました。

 私たちが神から離れ、神に背を向けて、自分本位に過ごしている、そのような者を神は契約を切ることなく、関係を絶つことなく、見捨てることなく、手放すことなく、真実に愛するのです。「深い慈しみ」は「慈しみの多さ」が元々の言葉です。慈しみの多さ。何回も何回も私たちが誤り、失敗し、何度も罪を犯すけれども神はその度に、赦し受け入れてくださるのです。

 この詩人は、神から多くの慈しみを戴いていることを、この時に受けとめることができたのです。溢れるような神の慈しみを戴いて、神殿で礼拝することができるのです。そこでは神が完全にこの詩人の罪を赦し、受け入れてくださるのです。

 9節前半にはこういう言葉があります。「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き まっすぐにあなたの道を歩ませてください」。新共同訳では「恵みの御業のうちに」と訳されていますが、「義」と言う言葉です。従って、原文では「主よ、あなたの義によって、わたしを導いてください」と翻訳することができます。自分が自分を正しいとするのではなく、神が自分を善い者と認めてくださる、その恵みによって、わたしを導いてください、と語っているのです。

 口語訳、新改訳などでは、「あなたの義をもって」「あなたの義によって」と訳されています。自分が正しいから、自分は間違っていない、そこから始まるのではないのです。神から心が離れている者を神は善い者として受け入れ、認めてくださるのです。神が自分を受け入れ、認めてくださる、そこに自分の立つ位置があります。そこに自分の存在の根拠があるのです。

 この詩人は最初に自分の苦しみ、嘆きを神にぶつけました。この5編は最後のところでその嘆きから、賛美の言葉へと変わっているのです。神が完全にこの詩編の詩人を受け入れ、正しい者と認めたからです。

 その喜びを12−13節で歌っています。「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し 御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」

 このところで私が関心のある言葉は12節の「避けどころ」という言葉です。「避難所」です。この言葉の由来は、神殿の中で裁判で判決が下るまで被告を告発者の手から保護する制度があったところから来ていると言われています。私たちは礼拝をする聖なる場所を持っています。礼拝において私たちは、一切の重荷を降ろして休み、罪が赦され、受け入れられるのです。私たちは神に完全に守られ、避けどころとなる大切な場所を持っているのです。


20180819 主日礼拝説教 「諦念(諦め)ではなく、信じる者へ」 菊地順牧師(聖学院大学政治経済学部チャプレン・教授、キリスト教センター所長、聖学院教会協力牧師)


(創世記18章9〜15節、ローマの信徒への手紙 4章13〜25節)

 今日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙4章19節には、このように記されています。「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした」。彼とは、もちろんアブラハムのことです。アブラハムは、百歳になって、すでに自分の体が衰え、妻サラも子を宿せない体になっていたにもかかわらず、子孫が与えられるという神の約束を信じたというのです。ここでパウロは、アブラハムの信仰を称賛し、その信仰こそが、神の義を受けるに値するものだと語っています。ですから、精一杯、アブラハムの信仰を称えています。しかし、どうでしょうか。パウロが語るアブラハムの信仰とは、冷静に考えてみるまでもなく、常識を逸脱した滑稽な話ではないでしょうか。アブラハムは、すでに百歳になっていました。そして、その体は衰え、子どもを作れる体ではなかったのです。また、妻サラも同様でした。老齢となり、子を宿せない体になっていたのです。夫婦そろって、子どもを作れる体ではなかったのです。常識からすれば、そうした年齢に達すれば、誰でも子どもをもうけることは諦めるのではないでしょうか。諦めるどころか、もうそうしたことすら考えないのではないでしょうか。

 事実、アブラハムとサラも、初めはそうであったのです。先ほど読んでいただきました創世記18章では、二人とも、自分たちに子どもができることを頭から信じていませんでした。三人の旅人がアブラハムとサラの許にやってきて、「来年の今ごろ」、「あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」と告げられたとき、それを聞いたサラは「ひそかに笑った」と聖書には記されています。それは、当人にとっても笑い話にしか聞こえなかったのです。しかし、その旅人は、さらにこう語りかけました。「なぜサラは笑ったのか、なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。サラは、再度、自分に子供が生まれると言われただけではなく、「主に不可能なことがあろうか」と言われて、おそらく、愕然としたのではないでしょうか。自分の常識で物事を諮り、判断し、常識に反するとの思いで笑った自分に、しまったと思ったのではないでしょうか。そして、そのとき、事を決めるのは神のなさることであり、神のなさることは、人間の常識から見れば不可能なことであっても、可能なのだということへと、思いが向けられたのではないでしょうか。そのとき、サラは「恐ろしく」なったと聖書には記されています。そして、慌てて、「わたしは笑いませんでした」と、笑ったことを打ち消したのです。もし、全能の神が、自分に子どもをお与えになろうとしているのだとしたら、それを笑うことは、神の働きを軽視し、神を軽んじることに思えたのではないでしょうか。そして、それだけではなく、神の怒りを招く不遜なことに思えたのではないでしょうか。だからこそ、サラは笑ったことを打ち消したのです。

それに対し、ここで旅人は、「いや、あなたは確かに笑った」と念を押しています。この最後のやり取りは、ちょっとコミカルな感じも受けますが、少なくとも、サラの笑ったことが改めて確認されています。そのことは、問題になっている事柄が、誰が見ても滑稽な話であるということを、改めて裏付けているのではないでしょうか。常識からすれば、話自体は、やはり滑稽な話なのです。老齢になった夫婦から、子どもが生まれるなどということは、誰が聞いても、笑いを誘う話なのです。しかし、サラは、「主に不可能なことがあろうか」と言われ、急に真顔になったのです。そして、笑ったことを否定したのです。それはまた、おそらく、アブラハムも同様であったのではないでしょうか。

 わたしは、ここに、信仰者の一つの典型的な姿を見ることができるように思います。わたしたちも、一人の人間として、普段は常識の中で生きている存在です。信仰を持っていると言っても、生活の大部分では、常識に従って生きています。それは、一般社会から逸脱しないためには、大切なことです。ご存じのように、常識とは、英語ではcommon senseと言います。共通の感覚といった意味です。社会生活では、これが大切です。これを失えば、教会だって存続することはできません。しかし、信仰者には、もう一つ、別の面があります。それは、神を信じるが故に、しばしば常識に反するということです。しかし、それは必ずしも非常識になるということではありません。あるいは、反社会的になるということでもありません。そうではなく、神に向かって、いわば垂直的に、社会からずれて行くことです。上へとずれて行くことです。常識を超えて行くことです。先ほどのアブラハムとサラの話で言えば、常識では不可能なことを神に在っては可能と信じることです。神が行う働きであるゆえに、人間の常識からすれば不可能と思えることも、可能だと信じることです。それは、偏に、働かれるのは神ご自身だからです。そして、この垂直の次元を持つ限り、信仰者は、しばしば常識を超えて行くのです。先ほどの、ローマの信徒への手紙4章20節には、アブラハムは、「不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」と記されていますが、それが信仰者の持つ、もう一つの姿なのです。

 しかし、当時の古代世界では、こうした信仰者の生き方は、必ずしも賢い生き方とは考えられませんでした。キリスト教信仰の極みは、言うまでもなく、イエス・キリストの復活を信じることです。しかしまた、死人の復活という話ほど、常識に反する話もありません。ご存じのように、パウロが、ギリシャ哲学の中心地アテネに行って、キリストの復活について語ったところ、ある者はパウロを「あざ笑い」、またある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」といって相手にしませんでした。それは、常識を逸脱した話で、まともに相手にするに値する話には思えなかったからです。それに対し、当時アテネを始めとして古代世界を風靡していたのは、ストア派という哲学でした。これは、キリスト教が誕生した時代を挟んで、数世紀にわたって古代世界を支配した哲学で、ある神学者は、それはキリスト教の最大のライバルであったと言っていますが、このストア派の哲学が最も大切にしたのは、情念のない、心の平安でした。そして、心の平安の達成のためには、必要とあれば自害も赦されると考えていました。この思想は、ある面非常に現実的に物事を考え、それを見極め、冷静に対処しようとしたのです。そのため、時に応じては、理不尽な苦痛で苦しめられるよりは、自害して、それから逃れることも良いことだと考えたのです。しかし、この現実的な冷静な思想には、ある否定的な陰が漂っているように思います。それは、諦念、すなわち諦めという陰です。確かに、諦念、あるいは諦めるということも、決して悪いことではないかもしれません。元々、諦念ということは、物事を見極めるということです。物事をきちんと見極めて、それに最もふさわしい態度を取ることが、諦念ということです。ですから、それ自体は、むしろ良いこととも言えます。物事を見極めないで、できないことをできるかのように思い込んで動き回っては、それこそ混乱に混乱を重ねることになりかねません。しかし、反面、この諦念ということは、突き詰めていくと「諦め」に至るのも事実ではないでしょうか。自害を認めるような考えは、結局のところ、諦めの思想を生み出すように思います。そして、それは厭世的な思想を生み出していくのではないでしょうか。しかし、そうした諦念の思想が風靡していたのが、古代世界であったのです。そして、そうした中に、キリスト教は誕生して行ったのです。そして、それとは真逆に、熱烈な信仰が語られることになったのです。それのみならず、パウロは、その信仰こそが神の義となる、すなわち、神の前で最もふさわしい人間の態度だと語ったのです。ここでパウロは、この信仰を、ユダヤ教の律法の業に対して語っています。ですから、直接、この古代世界の哲学を相手にして語っていた訳ではありません。しかし、結果的には、そうした時代の風潮に対しても、決定的なメッセージを発することになったのです。そして、キリスト教が急速に古代世界に広まって行ったということは、結果的には、諦念の思想に優って信仰の思想が受け入れられて行ったとも言えるのです。

 わたしたちは、ややもすると、諦めに陥りやすいのではないでしょうか。特に困難なことに遭遇し、さまざまな自分の弱さを見せつけられていくと、信仰を持って強く生きて行くというよりも、<人生、こんなもんだよ>といった諦めの思いになってしまい、それに身を委ねてしまうのではないでしょうか。信仰よりも、ますます常識に磨きがかかり、環境や社会に順応していく中で、諦念に生きてしまうのではないでしょうか。しかし、そうなってしまっては、それは<生けるしかばね>のような生活でしかないように思います。そこには、本当の生きる希望も喜びもないのではないでしょうか。聖書には、「若者は夢を見、老人は幻を見る」と書かれていますが、そうした歩みこそ、生きるにふさわしい歩みなのではないでしょうか。そして、それは、信仰の中から生まれてくる歩みなのです。不可能を可能とする神を信じる信仰から、希望の生活は始まるのです。そして、それが、キリスト教がもたらした新しい世界であったのです。

 キリスト教の歴史には、こうした信仰を持って生きた人たちが沢山います。おそらく、皆さんの身近なところにも、そうした人たちを一人や二人、すぐに思い起こすことができるのではないでしょうか。わたしは、最近、いくつかの書物を通して、一人の女性に出会うという経験をしました。それは、皆さんもおそらくご存じだと思いますが、北原怜子(さとこ)という人です。この人は、戦後間もなく、「蟻の街のマリア」という呼び名で良く知られた人ですので、特にご年配の方々の中には、ご存じの方もおられるのではないでしょうか。今日は、この女性について、少し紹介させていただきたいと思います。

北原怜子さんは、1929年(昭和4年)に生まれた人です。父親は大学教授で、生まれ育ったのは、現在の杉並区でした。杉並の一等地にあった実家にはさまざまな植物が植えられていて、地元では<お花屋敷>と呼ばれていたそうです。太平洋戦争が始まった1941年に桜蔭高等女学校に入学し、戦時中は三鷹の中島飛行機工場で旋盤工としても働いています。その後、終戦の翌年、現在の昭和薬科大学に入学し、3年後に卒業しますが、ちょうどその年、13歳離れた末の妹がカトリックの光塩女子学院の小学部に入学することになりました。そして、それをきっかけにカトリックの「公共要理」を学び始め、その年の10月に洗礼を受けます。それは、ちょうど20歳の時でした。洗礼名は「エリザベト」で、3日後に受けた堅信礼では「マリア」という堅信名を与えられています。そして、その翌年、家庭の事情で、2番目の姉が嫁いでいた浅草にあった大きな下駄屋さんの敷地に家を建て、家族と共に住むことになります。そこは、隅田公園の近くで、その公園の近辺には、当時、ゴミを回収して生活を立てていた、いわゆるバタヤの集落がありました。集落といっても、バタヤたちが勝手に掘っ建て小屋のようなものを建て、住みついていた訳です。そして、小澤という人物を中心に「蟻の会」という組織を作り、互いに助け合いながら、自立を目指す生活をしていました。そのため、その集落は「蟻の街」とも呼ばれていましたが、そこは一般社会からは隔絶された、人々からは見向きもされない世界でありました。当然、恵まれた環境に育った北原怜子のような女性が知ることも、また接することもない世界であったのです。しかし、一つの偶然が、蟻の街と北原怜子を結びつけることになります。それは、人々からゼノ神父と呼ばれていた、カトリックの修道士の出現でした。

ゼノ神父は、名前は皆さんもご存じかもしれませんが、1930年(昭和5年)にコルベ神父と共にポーランドからやってきた人です。コルベ神父はアウシュヴィッツで1人の青年の身代わりとなってガス室で亡くなったことで良く知られていますが、そのコルベ神父と共に日本にやってきたのがゼノ神父です。そして、戦時中も日本に留まり、長崎で被爆していますが、戦後も貧しい人たちのために仕え、東京で活動するようになってからは、蟻の街でもその活動を支援していました。そのゼノ神父が、怜子が洗礼を受けた年の12月に、怜子が仕事を手伝っていた下駄屋さんに立ち寄ったのです。そして、その時応対した怜子がカトリックの信者であることを知ると、マリアの描かれていたカードを手渡し、貧しい人のために祈って下さいと言って立ち去ったのです。その時以来、怜子は、ゼノ神父のことが気になり、是非話をしたいと思いようになります。そして、数日後、二階からふと外を見ると、そこにはゼノ神父が道を横切って行く姿がありました。そこで、慌ててその後を追ったのです。そして、期せずして蟻の街に入っていくことになったのです。その後、怜子は、その年の蟻の街のクリスマス会を手伝うことを求められたのをきっかけに、何と23歳のとき、そこに住みこんで、蟻の街の人たちと共に生活することを決意します。そして、自らも「収集鑑札」というバタヤになるための許可証を獲得し、バタヤとしてリヤカーを引き、ごみを集め、蟻の街に人たちと苦楽を共にしたのです。そうした怜子の存在は、次第に「蟻の街のマリア」として人々に知られるようになります。しかし、苦労の多い貧しい生活の中で、いつしか結核を患い、健康を損ね、28歳の若さで亡くなりました。しかし、その存在は、生前から人々に大きな感化を与えることになったのです。そのことについて、もう少し触れたいと思います。

今、紹介した蟻の街には、その組織の会長の小澤という人と共に、もう一人、顧問のような役を果たしていた松居という人がいました。この人は、なかなかのインテリで、北原怜子やゼノ神父の伝記を書き、そのため二人は一層人々の知るところとなったのですが、この松居という人は、北原怜子の思い出として、おもしろいことを語っています。それは、北原怜子のすることは、いつも手品のようであったと言うのです。それは、何にもないところから、人々が期待したものを生み出していったからです。たとえば、あるとき、蟻の街の子どもたちに、その自立を促すために箱根に旅行することを計画しますが、旅費のお金がありませんでした。しかし怜子は、それが神のみこころであれば、何とかなると松居に語るのです。そして、事実、ある人が大量の廃品を送ってくれたことによって、それは実現しました。また怜子の最晩年、蟻の街は、移転を余儀なくされ、東京湾の埋め立て地に移ることになるのですが、そのためには2500万円必要でした。この時も怜子は、それが神のみこころならば必ず実現すると病床で祈り続けるのです。結果は、東京都側が大幅に譲歩し、費用は1500万円、しかも5年の分割で良いということになります。そのように、怜子が真剣に祈ると、その祈りはことごとく、まるで手品のように、実現して行ったのです。その多くは、常識から見れば、不可能なことでした。できっこないことだったのです。しかし、怜子は、常識を持って諦めることはしませんでした。怜子は、絶えず、「天主様のみこころならば」実現すると語り続けたのです。そして、祈り続けたのです。そして、そうした信仰が、不可能と思えることをも可能として行ったのです。それは、この北原怜子の生き方そのものであったとも言えます。お嬢様育ちのか弱い女性が、23歳の時に、バタヤのスラム街に住みこんで、そこの人々と苦楽を共にする人生を始めたこと自体が、普通ではありえない話です。しかし、怜子は、そこにこそ神のみこころがあると信じたのです。そして、一身を投じたのです。そうした、信仰を持って一身を投じるという生き方が、人々を大きく変えて行ったのです。

先ほど触れた松居という人は、実は、大のクリスチャン嫌いでした。クリスチャンの善意の押し売りにいつも業を煮やしていた人で、怜子もそのことでしばしば冷たい対応を受けました。しかし、蟻の街の人たちが、怜子の献身的奉仕に何か恩返しをしたい思ったとき、会長の小澤は、自分は洗礼を受けて、その恩に報いたいと言い出します。そして、幹部たちも、それに同調しました。その結果、残ったのはクリスチャン嫌いの松居だけでした。しかし、その松居も、終に洗礼を受ける決心をします。神がいるかどうかは分からないが、自分たちのために一身を投じて献身的に生きている怜子の存在を否定することはできなかったのです。そして、元々はキリスト教とは何の縁もゆかりもなかった12人のバタヤが、怜子の教会で洗礼を受けたのです。それも、常識ではありえないことだったのではないでしょうか。しかし、そこにも、神のみこころがあったのです。そして、それが実現したのです。

わたしたちの身の回りにも、そうしたことが多くあるのではないでしょうか。常識ではありえないことが実現する、不可能なことが可能となる、そうした不思議な世界があるのではないでしょうか。それは、信じることの大切さをわたしたちに教えてくれているように思います。そして、その信仰の世界こそ、わたしたちに、神にある希望と喜びを与えてくれる世界なのです。わたしたちは、決して、諦念の世界に喜びを持って生きることはできないのです。諦念ではなく、信仰が大切なのです。死人の中からキリストを復活させた神を信じる信仰が、大切なのです。

宗教改革者のマルティン・ルターは、信仰義認ということを語りました。それは、信仰によって義とされるということですが、それはまた、信仰そのものが義であるとも言えます。肉の中に生きているわたしたちは、実際のところは、なかなか神を信じることはできないのです。特に、困難な状況に遭遇すると、いとも簡単に神を忘れ、神から遠く離れてしまいます。そうした不信仰を、聖書は罪と呼んでいます。しかし、そうしたわたしたちが、それにもかかわらず、神の導きと恵みによって神を信じる者とされ、神の平安と喜びの中に招かれていくのです。信じない者から信じる者へと変えられていくのです。そして、そのことが義であるとルターは語ったのです。信じることができない者が信じる者となる、それこそが義であり、神の最も喜ばれるところであると語ったのです。なぜなら、神を信じ、神に全くの信頼を寄せることこそが、人間にとって唯一、神に対する最もふさわしい態度であるからなのです。そして、それはまた、人間にとっても、唯一、真実の希望と喜びを持って生きることのできる歩みであるからなのです。

パウロは、信仰から信仰へと語りましたが、主の十字架と復活の出来事を通して、その信仰の世界へとわたしたちは絶えず招かれています。諦念ではなく、信仰へ。信じない者ではなく、信じる者へ。その恵みへと、わたしたちは絶えず招かれているのです。今朝は、その恵みを、改めて心に深く刻みたいと思います。

お祈りをいたします。

私たちの造り主であり、また贖い主である主イエス・キリストの父なる御神。
今日も私たちを礼拝の場へと集めてくださり、主イエス・キリストの甦りを覚える中で、あなたのみ言葉を聴く時を許されて感謝いたします。
私たちは肉の中に生きているものであります。あなたを見上げつつ、しかしまた、私たちはあなたから目をそらすものでもあります。不信仰の中に陥りやすい私たちを、どうぞあなたが取り上げてくださり、あなたの恵みによって高く引き上げてくださり、信仰をもって御前に生きるものとなさしめてくださいますようにお願いをいたします。
今日から始まる新しい一週間を、あなたを見上げる信仰をもって、御前を雄々しく歩むことができますように、一人ひとりを顧み、また祝福してください。
とくに、困難の中にあるお一人ひとりの上に、あなたのお支えと導きがありますように。どうぞまた、私たちがそれぞれの場にあって、あなたに励まされて、良き隣人となって、一人ひとりに仕えていくことができますように導いてください。
この礼拝を感謝し、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

20180812 主日礼拝説教  「豊かな穀物とぶどう酒にまさる喜び」  山ノ下恭二


(詩編4編1−9節、テサロニケの信徒への手紙1 5章10節)

 詩編4編は、9節に「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります」とありますので、夜の祈りと呼ばれてきました。夜、眠る時の祈りと呼ばれてきたのです。詩編3編が6節に「身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。」とありますので、朝の祈りと呼ばれ、3編、4編を「朝の祈り、夜の祈り」と続けて読むものとして理解されて来たのです。

 この4編の詩人は夜、眠れなかったのです。寝付かれなかったのです。どうして眠れなかったのでしょうか。眠れない原因が3節に書いてあります。

 「人の子らよ いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか」と書いてあります。自分の名誉を辱めている人たちが周りにたくさんいたのです。しかも、自分の名誉を辱めている中身が事実無根であり、誤ったうわさが多くの人たちに伝わっているからです。この詩人は自分のことが誤解され、その中身が本当であるかのように広まっていることに憤りを持っていたのです。

 十戒に「偽証してはならない」という戒めがあります。裁判で、事実と異なる偽りをもって証言されると被告が有罪になるので、偽証はするなと戒められているのです。自分があたかも悪いことをしたかのように言いふらされて、自分の名誉が毀損されているのです。このことに我慢がならなかったのです。自尊心がずたずたに傷つけられて、自分の立場がなくなったのです。腹が立って、興奮して眠れなかったのではないかと思います。

 私たちも眠れない時があります。眠ることができるように簡単に工夫するだけで眠れればそれで済みます。枕を代える、光を遮断するカ−テンを架ける、それで眠れれば良いのですが、そのようにしても眠れない時があるのです。眠ろうとしてもどうしても眠れないのです。

 仕事で配置転換になり、営業になり、業績がかんばしくない、明日、営業の契約を取れるかどうか,心配で眠れないのです。そして営業成績会議があり、上司から成績が良くないと自分に厳しい非難が浴びせられて、眠ろうとするけれども眠れないのです。会社で自分なりに一所懸命、働いているけれども、上司から自分の仕事が全く、評価されなかったので、眠れなかったのです。病院での検査の結果が悪かった、人から嫌なことを言われた、明日、試験があって、試験に合格できるか、心配である、このような時には、眠れないことがあるのです。

 この詩人は自分の名誉が傷つけられている、そのことが原因で眠れないのです。自分の名誉を辱めている人々は、地位が高く,裕福で権力を持っている人たちです。自分は地位も低く、貧しく、生活が困難であるのです。そのような中で苦しんでいるのです。眠れない、ということは苦しみを抱えていることであり、不安があるから眠れないのです。

 2節に「苦難から解き放ってください」と祈っています。この「苦難」という言葉は「狭い」、「狭いところ」という言葉です。狭いところに押し込められているような気持ちになっていることを指しています。私たちがよく経験することですが、丁度、小型エレベ−タ−に乗りましたら満員で押し込められ、閉じ込められているような、窮屈な気持ちになっている、「苦難」とはそのようなことを言っているのです。自分の悩みの中に自分が入って抜け出せないような窮地に陥っているのです。

 しかし、この詩人は幸いなことに自分の外にいる神とつながっているのです。自分が不安で悩みがある時に、話を聞いてくれそうな人に電話をして打ち明けることがあります。そのように、この詩人は自分のことを知っている神に祈ることができたのです。自分の外にいる神に自分の苦しみを訴えることができたのです。

 2節には「呼び求めるわたしに答えてください わたしの正しさを認めてくださる神よ」とあります。自分は悪いことをしていないのに、周りの人たちから悪い者だと噂され、誤解されているのです。しかし、神はこの私を正しい者として受け入れてくださる、あなたは慈しみをもって私を引き上げ、自分を不当に非難している者たちの言い分を退けてくださる方である、と呼びかけているのです。

 「苦難から解き放ってください」。ヘブライ語を直訳すると、「狭さのとき、わたしのためにあなたがひろげた」と訳すことができます。狭いところにいたわたしを、広々としたところに導いてくださった、という言葉です。悩んでいたときに、配慮できる人が悩んでいる人を広々としたところに連れ出すのです。

 口語訳では「あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました」と訳し、新改訳では「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。と訳しています。悩んでいる、苦しんでいる、そのような時に、くつろがせてくださり、ゆとりを与えてくださったと言うのです。

 そして2節の最後の詩は「憐れんで、祈りを聞いてください」と書かれています。この言葉を原文通り訳すと、「私を憐れんでください そして聞いてください 私の祈りを。」です。この詩人は自分の祈り、訴えを聞いてくださる神をもっています。そしてこの神は祈りを待っているのです。自分が周りの人たちから不当に非難され、扱われている、その苦しいところから、自分の嘆きや訴えを受け止める神がいるので、この詩人は苦難から解放されていくのです。窮地に陥っているところから、しっかりしたところに自分の身を置くことができたのです。神とつながることによって、苦しみから解放されたのです。 神に祈る中で、自分の魂が支えられるのです。この詩人は神に訴え、祈り、神との交わりを与えられて、自分が神に支えられている、そのような確信を持つことができたのです。

 この詩人は神に祈り、神との交わりが与えられて、自分を辱めている周りの人たちに対して優位に立つことができたのです。自分の中で苦しみを抱えているのではなく、自分の周りにいて、自分を苦しめている人々に勧告している。

 4章3節−6節「人の子らよ いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか むなしさを愛し、偽りを求めるのか。主の慈しみに生きる人を主は見分けて 呼び求める声を聞いてくださると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」

 自分が悩み苦しんでいる時には余裕がないので、周りの人に勧告することはできません。しかし、自分がしっかりとした信仰の基盤に立つことができたので勧めることができたのです。自分を苦しめている人々は、神から離れ、礼拝をしないで、この世の中の財産に頼り、贅沢に暮らしているのです。

 夜、ベッドに横たわり眠る時にも、神の前で罪を告白し、祈ることはないのです。自分の力で生きていくことができると思っているのです。この詩人は神に依り頼んで,信仰を求め、祈り、神の求める生活をしてほしいと勧告するのです。

 私は現在、幸福とはどのようなものかを考えています。聖書が語る幸福、キリスト教会が語る幸福があるはずです。加賀乙彦と言うカトリックの作家が、「生きるための幸福論」という本を書いています。この中で、「物質や権力で心は充たされるか」と書いています。「物質を目的とするかぎり、人はいつも不満でいなくてはならない。」「王様、大金持、大事業家は、おおむね、不幸な人である。物質や権力を自分のまわりに集めたとしても人の心は充たされはしない。」

 コヘレトの言葉5章9−11節(p1039)「銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これも空しいことだ。財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。働く者の眠りは快い 満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。」

 この詩人は「豊かな穀物とぶどう酒にまさる喜びを与えてください」と祈っています。貧しくて、生活にも窮乏しているのですが、この詩人は食糧などの物質ではなくて、自分の心を潤し、支える喜びを求めています。

それは何か。この4編7節後半の言葉にヒントがあります。この言葉が鍵であるのです。「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」この言葉は、私たちの礼拝の終わりで「祝福」が宣言されますが、民数記6章25、26節の言葉と深く関わります。「主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」(p221)

 神がいつもわたしたちに慈しみをもって、御顔を向けてくださるのです。私たちは人と会った時に顔を見ます。笑顔、怒った顔、苦虫を踏みつぶしたような顔、神はいつも御顔を背けることなく、私たちに光を注ぐような暖かい顔で私たちを愛してくださるのです。

 私が和歌山の田辺教会に在任していた時、教会には付属幼稚園があり、毎朝、お母さんと一緒に登園してくる幼児が多かったのです。お母さんが子どもを愛のまなざしで見つめ、子どもがお母さんの顔を見て、うれしそうに笑顔で返すのです。お母さんに愛されていることを経験していることが、子どもにとって一番、心を潤すことです。子どもにとって至福の時です。神がいつも私たちに愛のまなざしを向けて,愛してくださっていることを知る時に、私たちは安らかな歩みをすることができるのです。この詩人は自分の罪を赦し、受け入れ、存在を認めてくださった神がおられることを信じ、この神に依り頼むことができたのです。

 コヘレトの言葉8章12節B−13節(P1044)「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になり 悪人は神を畏れないから、長生きできず 影のようなもので、決して幸福にはなれない」。4編9節には「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです」と書かれています。フランシスコ会訳では「わたしは みまえで安らかに床につき眠る。ヤ−ウェよ、あなただけが、わたしを安らかに眠らせてくださる。」と書かれています。

 「平和」、「安らか」と訳されているヘブライ語では「シャロ−ム」です。神との関わりの中で与えられる安らかさです。「シャロ−ム」、神が与えられてくださる「平和」「安らかさ」の中で、身を横たえ、眠ることができるのです。自分をすっかり神に明け渡し、自分の身を神にゆだね切ることができて眠ることができるのです。

 不愉快な余り、すべてを忘れようとする眠りではないのです。この世から逃げ出すような眠りではないのです。自分を受け止め、抱え込んでくださる神の御手の中に帰ろうとする眠りです。そして眠っている間、父なる神に自分の存在が覚えられ、神にゆだねて、安全に朝を迎えることができるのです。

 詩編4編9節を、新改訳聖書2017は次のように翻訳しています。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、あなただけが、安らかに住まわせてくださいます。」


20180805  主日礼拝説教  「感謝をもって祈ろう」  山ノ下恭二


(詩編121編1−8節、フィリピの信徒への手紙4章2−7節)

 フィリピの信徒への手紙を書きました最初の伝道者パウロは、フィリピの教会の信徒たちに、キリスト者としての生き方を伝えようと、この4章で語っています。

 フィリピの教会は、パウロがヨ−ロッパで初めて建設された生まれたばかりの教会です。キリスト者としてまだ年数の少ない信徒たちがいたのです。この手紙は礼拝の説教として読まれたのですが、説教を聞いていた信徒たちが、どのようなことに直面していたかをパウロはよく知っていたのです。フィリピの教会では、女性が活躍していたようです。しかし、中心的に活躍していた二人の女性が仲違いをしていて、そのことにパウロは心を痛めていたのです。従って、4章2節で「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」と勧めています。個人の名前を出して、パウロは忠告しているのですから、この二人の仲違いを教会の大きな問題として考えていたのです。教会の中の二人の争い、これからどうなるのか、そのような憂いをもっていたのです。それだけでなく、パウロは信徒たちが日常生活の中で様々な重荷を持っていることもよく知っていたのです。

 私たちがこの地上の生活を続けて行く中で、様々な重荷を負って毎日を過ごしています。いろいろな重荷を負っていますが、「心配」という重荷を負っているのです。心配の種は尽きません。自分のこれからの生活はどうなるのか、心配だ、心配があるから、心配しないで済むように、雑誌や新聞で生活の問題を取り上げているのです。これから自分は健康で生きていけるのか、を心配するのです。健康に生活が送れるように、健康の雑誌が売れ、多くのテレビ局が健康番組を毎日、放送しているのです。    

 パウロはフィリピの教会の信徒への手紙4章6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」と語っています。口語訳では次のように翻訳しています。「何事にも思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申しあげるがよい。」この「思い煩う」と言う言葉は「心」と言う言葉と「分裂する」と言う二つの言葉から成り立っている言葉です。「心が分裂している」のです。神に頼ろうと言う心と、自分に頼ろうと言う心とが分裂していると言うことなのです。神が何とかしてくれると言う心もありますが、自分が何とかしなければと言う心とがあって、自分の心の中で分裂し葛藤しているのです。私たちはいつもそのような状態にいるのではないでしょうか。神に頼れば良いと言う思いがありますが、自分が何とかしなければ、と思う思いもあるのです。自分に頼っていくわけなので、自分ができるだろうか、という不安が出てくるのです。「思い煩い」と言うのは、神に頼ろうと言う思いと自分の力でしようとする、その二つの思いが自分の心の中で分裂しているのです。しかし、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」と書かれています。この言葉を聞いて、私たちは果たして思い煩いをやめることができるのだろうか、と思うのです。

 この「思い煩い」と言う言葉を聞いて、私たちは主イエス・キリストが語られた言葉を思い起こします。マタイによる福音書6章25−34節で「思い悩むな」と6回も繰り返して語っておられます。「思い悩むな」と主イエス・キリストが繰り返して語っておられるのは、この「思い煩い」が私たちの毎日の生活の中で大きな重荷になっているし、この思い悩みからの解放なしに救いはないと判断されたからです。                     

 マタイによる福音書6章25節に「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い煩うな」と語られています。「命」と言うのは、肉体と心を持った人間の存在ということです。神が命を与えて下さっている、人間の存在は神によって造られており、その命は神の支配の中におかれているのです。命という尊いものを神は与えて下さっているのだから、毎日、必要なものを与えてくださる、そのような信頼が最も大切なことであることを語っているのです。自分で何もかも引き受けて、自分の力で解決するとしたら、大変な負担になります。思い煩いが起こる原因は、自分が全部引き受けて、自分の力で解決することにあります。神に信頼し、神に全面的に頼ることが、思い煩いがなくなる解決になるのです。思い煩ったからと言って、心配したからと言って、心に葛藤を持つだけで、問題が前に進むわけでもなく、解決するわけでもないのです。

 主イエスは、興味深いことを語ります。マタイによる福音書6章27節に「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからと言って、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」と語っています。思い悩んで、寿命を延ばすことができるのでしょうか。できはしないのです。この言葉は多くの人たちに印象に残る言葉ですので、初めて読んだ人もことわざのように理解するのです。「心配してもしょうがない。なるようにしかならない。」と解釈するかもしれません。しかし、そのような理解はあきらめに近い意味になります。「思い悩むな」「思い煩うな」、思い悩み、思い煩いは、必要のないことであり、なくて良いことです。どうしたら思い悩まなくなるのでしょうか、思い煩うことができなくなるのでしょうか。それは、私たちの一切を神に委ね、ほんとうに深く神に信頼することによってです。神を確かな者としてすっかり委ねるならば、思い煩うことができないのです。思い煩うことなく、ほんとうに美しく生きているものがいるのです。私たちの模範、教師がいるのです。

 主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」と言われました。思い煩わないで生きているものがいるのです。空の鳥から学ぶことがあると語ります。鳥は手元にあるもので生きており、貯えをもたず、必要なだけの僅かなもので生きており、必要以上のものを取ろうとしないのです。神によって造られたままの姿で生き、一切を神に委ねているのです。5羽で10円でしか売れない、価値のない鳥を、神は大切なものとして保護し、養ってくださるのです。そのような鳥よりも、あなたがたは価値のある者ではないか。価値あるあなたがたを神は守り、養ってくださるのです。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」、野の花は神に造られたそのままで美しく咲いているではないか。神に造られてあることに感謝して、そのままの姿でそこにいる。一瞬に人に踏みにじられ、明日には燃料として焼かれてしまうかもしれないのに、限られた短い時間に、美しく咲いているのです。神は、その時、その時を、造られた者にふさわしく、生かし、養ってくださる、と語ります。
 
 マタイによる福音書6章34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」、この言葉は明日のことを心配しても仕方がない、明日はなんとかなるだろう、という意味ではないのです。神は私たちの明日をもきちんと考えてくださり、私たちが命を全うし、必要なものを備えていてくださる、先を見て備えて下さっている、そのような信頼、信仰を語っています。 「明日のことは明日自身が思い悩む」。この言葉をある注解書には、「明日自身が」と言う言葉を「イエス・キリスト御自身が」と言う言葉に言い換えるとわかりやすいと書いてありました。そのように言い換えると次のような意味になります。明日のことは、イエス・キリスト御自身が私に代わってすべて思い煩ってくださるのです。私たちは自分の一切を神に信頼し、自分のすべてを委ねるのですから、そこには思い煩うことはなくなるのです。思い煩うことがなくなるのですから、私たちがすることは神に心を開いて、祈ることなのです。私たちは祈る相手をもっているのです。このことはとても大切なことです。

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」祈りと言うと、日本では自分の願いが叶えられるように求めることだと思っているのです。無病息災、商売繁盛、家内安全。自分に御利益があるように願うことが祈りだと考えています。

 しかし、聖書は、自分の願いを優先して祈りなさいとは教えていません。自分の願いが最優先するのではないのです。最も優先するのは、神への感謝です。「感謝を込めて祈りと願いをささげ」と書いてあるのです。感謝する、このことは私たちの信仰の基本なのではないでしょうか。

 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」「何事につけ」と言う言葉を口語訳では、「事ごとに」と翻訳しています。いつでも喜ぶことは難しいですが、それと同じように、いつでも、どんなことがあっても感謝することも難しいのです。神は私たちのために善いことだけを考えて、みこころを行っておられるのですが、私たちは自分に良いことがあった時にだけ感謝をするのです。自分にとって良いことがなかった時には、感謝はしないのです。自分にとって都合が悪いことが起こった時には感謝どころか、神は何をしているのだとさえ思うのです。自分のために何もしてくれない、こんな神など信じても仕方がない、と思うのです。ところが、「何事につけ」「事ごとに」と言うのです。どんな時にも感謝しなさい、と言うのです。自分にとって良くないと思うことが起こっても感謝しなさい、と言うのです。このことは私たちにはなかなか受け入れられないことではないでしょうか。
 
 東京神学大学でキリスト教教育概論という授業の中で、その当時の高崎毅教授は、恵泉女学園を創立した河井道先生の教育方針について話されたことがあります。河井道先生が、どのような人間を作りたいのか、と聞かれた時に「はい、と、いいえ」がはっきり言える生徒に、そしていつでも「ありがとう」と言える生徒を作りたいと、答えたことを話され、高崎毅教授は、そのことが人間が生きていく基礎であり、安井道先生の教育方針であったと話されたことをよく覚えています。私たちは、感謝ということを、自分本位に捉えているのです。自分によいことがあった時にだけ、感謝するのです。私たちは、特別にお世話になった時にはその人に感謝するけれども、しかし、特別にお世話になったと思わない時には、感謝しないのです。神に対しても、自分中心に考えていて、自分に良いことがあれば感謝し、良いことがなかった場合は感謝しないのです。しかし、ここでは「事ごとに」「何事につけ」とありますので、どんなことにも感謝するのです。今日は健康であったから、健康についてだけ神に感謝する、病気になったので、神に感謝しないと言うのであれば、それは私たちが人間同士の、世間のお付き合いと同じになってしまいます。自分に良いことをしてくれた人に何か贈り物を届けるということと同じことになるのです。

 神が私たちの命を創造し、配慮し、必要なものを与え、罪を犯した私たちに代わって神の子イエス・キリストが罪の罰を受けて、私たちの罪が赦され、聖霊によって神が私たちと共にいて、導き、守ってくださるのです。神が私たちのために配慮し、愛してくださっていることを信仰によって受けとめるならば、すべてのことを感謝することができるのです。
 
 ある解説書に少し驚くようなことが書いてありました。「少し極端だと思われるかもしれないが」「すべてのことについて感謝するというのは、はっきり言えば死についても感謝するということ」だとあるのです。「夜寝る前に、今日は一日こうして生きることができたことに感謝の祈りをする」と同じように、「一生の終わりに死の床の中で、一生生きてきましたが、今死ぬことができて感謝です、というのが本当で」はないか、「できるか、できないかは、別として、それが本当ではないか」と書かれていました。

このことから、私は旧約聖書のヨブ記に書いてありますが、ヨブが苦難を受けた時に発した言葉を思い起こしました。ヨブ記1章21節「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」ヨブ記2章10節「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」自分に良いことがあった時だけ、感謝するのではなく、どのようなことがあっても神に感謝するのです。神に生かされて、無限の賜物を与えられている、そのことを受けとめて、感謝をする、その感謝とは、神を礼拝することです。礼拝において感謝を表すことなのです。

 フィリピの信徒への手紙4章6節後半に「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いとをささげ」とあります。特別に注意をしないかもしれませんが、ここに「祈りと願いとをささげ」と書いてあります。「祈りと願い」とは、同じことだろうと皆さんは思うかも知れません。しかし、祈りと言う言葉と願いと言う言葉とは、原文では別の言葉を使っているのです。祈りと願いは内容が違うのです。主イエスは、いつでも祈っていたのですが、いつも自分の願いだけを祈っていたのではないのです。主イエスは、いつも祈りを通して神と話していたのです。私たちはいつも友達や親しい人と話をしています。それと同じように、主イエスは絶えず神と話していたのです。旧約聖書の詩編は、祈りの本です。ここには詩人が神と話しているのです。自分はこういう状況です。自分はとても辛いです。眠れません。そしてある詩編には叫びが書かれています。私を助けてください、とうめきが書かれています。泣き言をいうところもあります。これが信仰者なのか、と思われる言葉もあります。また神に深く信頼している言葉もこの詩編にはあります。

 祈りは「打ち明け話」なのです。祈りの本はたくさんありますが、私が読んで感動した祈りについて解説したものは、バルトと言う神学者が書いた祈りについて書いてある文章です。バルトは、祈りは「打ち明け話」であるといいます。神に打ち明けている、語りかけていることが大切であって、どのような内容の祈りか、と言うことよりも大切だ、と言うのです。教会での公の祈り、礼拝司式者の祈りや献金の祈りは公の祈りですから、言葉を整えて、ふさわしい祈りをすることは必要ですが、個人の祈りは、神に対しての打ち明け話なのです。

 ハイデルベルク信仰問答には、感謝という項目で、祈りを解説しています。この信仰問答の問116にはこういう問いがあるのです。竹森満佐一訳で引用します。「キリスト者には、なぜ、祈りが、必要なのですか。」この問いに対して、このハイデルベルク信仰問答は次のように答えています。「それは、祈りが、神がわれわれにお求めになる感謝の、最もすぐれたものであり、また、神は、恩恵とみ霊とを、心からの慕わしさをもって、たゆまずこれを求め、また、それを感謝する者にのみ、与えようと思っておられるからであります。」

 この答えの言葉の中で、私が重要であると考えているのは、「祈りが、神がわれわれにお求めになる感謝の、最もすぐれたものであり」と言う言葉です。

 自分に良いことをしてくれた人に対して、感謝のしるしとして何かを贈ることをします。私たちも神の恵みに対する感謝の応答として、ささげものをする、献金をするのですが、そのことだけが感謝を言い表すのではないのです。
 
 祈りが、神が私たちに求める感謝の、最もすぐれたものなのです。私たちの信仰生活にとって祈りは大切だ、と言われます。感謝の最もすぐれたものなのです。教会に初めて来た人が自分にはできない、難しいと感じることがありますし、祈りの訓練をしていないので、洗礼を受けていても、祈りができない信徒が多いのです。いくつかの教会に在任して、祈りができない、祈っていない信徒が多いことに気がついて、「『祈りは初めて』と言う人、『祈りってどうするんです』と言う人のための『祈りの手引き』」というパンフレットを作ったのです。このパンフレットには、祈りは「請求書的な祈り」と「領収書的な祈り」があると書きました。「請求書的な祈り」とは、神に自分の求めや願いをお願いする祈りです。「してください」と願い事をするのです。

 しかし、キリスト者の祈りは、「領収書的な祈り」が中心です。あらゆることが感謝になるのです。自分にとって都合が悪い、不利益なことでも、それが感謝として祈ることができるのです。様々な方法によって神が私たちにたくさんの恵みを与えてくださっていることに心から感謝するのです。「神様、ありがとうございます。」この感謝の言葉が祈りになるのです。

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

20180729 主日礼拝説教 「安らかな歩みを」  山ノ下恭二


(詩編3編1−9節、マタイによる福音書6章25−26節)

 私たちは毎日、安心して眠ることができ、気持ちよく目覚めることができることを願っています。詩編3編には6節に「身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。」とあります。このような言葉があるので、昔からこの詩編は朝の歌と言われてきました。朝の目覚めが良い時には気持ちが良いのです。朝、起きて、目覚めがよいと張り切って今日もがんばろうと思うのです。一日のスタ−トを気持ちよく切れたと思います。

 しかし、昨日、経験したことを持ち越してその気分が残っていることがあります。昨日、交わした不愉快な会話を思い出したり、嫌なことを思い出して、気分のバロメーターが下がることがあります。またこれから起きて一日のことを考えると、苦手な人と会わなければならない、相手の会社と難しい交渉しなければならないことがあると、暗い気持ちになるのです。

 詩編3編は「個人の嘆きの詩編」と言われています。個人の嘆きの詩編には、「敵」が登場します。この詩人は、自分を苦しめる人々が自分の周りにいて、そのことで苦しんでいるのです。周りにいる人々が自分に対して好意を持ってはいない、その人たちが敵対する言動をして、敵に囲まれているのです。この詩編3編を解説しているある注解書には「苦しむ者の朝の歌」という題を付けています。

 朝、起きた時にこれからがんばるぞ、という気分ではなく、これから、敵の中に入って行き、どのような扱いをされるのか分からない、そのような気持ちになって、気分が重いのです。不愉快で不機嫌で、これからのことが不安になり、心配が募るのです。

 3編2節に「主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います『彼に神の救いなどあるものか』と。」と記されています。この詩は、元々は「ああ、なんと多くの人々がわたしを苦しめ、」という言葉で始まっています。この詩人は神に自分の嘆きを訴えているのです。この詩人は周りの人たちが自分に敵意をもって、言葉でもって自分を苦しめていて、かなり参っているのです。この詩人は信仰をもっていますが、不幸なことが続き、敵意をもっている人たちが、この詩人が信仰をもっているのにどうして良いことがないのか、神を信じているというけれども、神は見放しているのではないか、と口々に言うのです。

 この詩は、実際に苦しまなければならない出来事に出会って苦しんでいるのです。苦しませる人々はいつも出会っている身近な人々なのです。

 この詩編の表題には「ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」と書かれています。この詩編3編は、ダビデ王が人生の中で一番、苦しみ、辛い時にこの詩を歌ったのです。愛する息子アブサロムが父親ダビデ王に反逆し、謀反を起こし、そのためにダビデ王は都から逃れることになります。その道すがら、かつての家来たちから泥や石を投げつけられ、侮辱されながら、逃げ延びるのです。ダビデ王は「主よ、わたしを苦しめる者は、どこまで増えるのでしょうか。」と神に訴えたのです。それまで宮殿で暮らしていたダビデ王はわずかな部下の者たちと逃げていくのです。この時の様子はサムエル記下15章、16章(p503-507)に書いてありますが、ダビデたちは泣きながら逃げて行き、その道すがら石を投げつけられ、ダビデの過去の罪を暴かれ、呪いの言葉を浴びせられるのです。その中でダビデは「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」(サムエル記下16章12節)と語ります。

 私たちは身近にいる周りの者たちから誤解されたり、敵意をもたれたり、なにげない言葉で苦しめられたりすることがあります。このような時にも、この詩人は、自分を守り、自分を受け入れてくださっている神を知っているのです。知っているだけではなく、自分の苦しみを理解し、答えてくださる方をもっていることを信じているのです。周りの者は自分に好意をもっていない、自分に敵意をもって、言葉で苦しめているのです。

 しかし、この詩人は自分の周りにいる人々から目を離し、神へと視線を移すのです。このような転換をすることができるのです。自分の周りの人々との関わりの中で苦しんでいたのですが、そこから、神に心を向け、神に向かって語りかけるのです。自分を苦しめていた人々は自分の背後に退き、ただ、神に向かって祈ることができるのです。このようにできるのは信仰者の特権であるのです。自分が苦しんでいる時に神に祈り、神に叫ぶことができるのです。神に願うことができるのです。これは信仰者が与えられた恵みであるのです。

 この詩人は完全に心も身体も神に向けて祈っています。3編4節に「主よ、それでもあなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。」と記されています。人間の盾は私たちを一方向から守るにすぎないのです。しかし、神の盾は全方向から私たちを守ります。「わたしを囲む盾」です。自分の周りを神がぐるりと囲んで守ってくださるのです。自分に敵意をもっている人たちの中にあっても、神は私たちの周りを囲んで私たちを守ってくださるのです。自分はひとりぼっちで、自分を苦しめている者は大勢、自分を取り囲んでいます。しかし、神は四方から私を囲んでくださっているのです。

 「わたしの栄え わたしの頭を高くあげてくださる方。」「栄え」と言う言葉は「重んじる」という言葉です。この詩人は神を私は重んじる、私は神を重んじて礼拝すると告白しています。そして神が私を重んじていると語るのです。

 自分を苦しめている人たちは神を重んじておらず、礼拝していないのです。そしてこの詩人を軽んじていたに違いないのです。「彼に神の救いなどあるものか」と言われていたように、重んじられていない、馬鹿にされていたのです。悪口を言われ、非難され、軽んじられていたのです。しかし、詩人は、神を自分の存在の拠り所とし、神はこの詩人の存在を重んじ、大切な存在とされたということです。周りの人には軽んじられていても、神は私を顧みてくださり、かけがえのない者としてくださっているのです。
 
 「わたしの頭を高くあげてくださる方」という言葉はわかりづらいと思います。「頭を上げる」とは名誉が回復されることを意味するのです。この詩人は身近な人々から、悪口を言われ、中傷され、名誉を毀損されてきました。しかし、神はこの人を正当に扱い、肯定し、この人の名誉を回復してくださっているのです。  

 東京神学大学で新約聖書神学を教えている中野実先生が研修会で「自己肯定感を持っている若者が少ない」と言う発言をされたことがあります。自己肯定感をもっていないので自信をもてないのです。「他人を見下げる若者たち」という本には自己肯定感を持てない原因は、子どもの頃から、周りの人から自己肯定感を持つような支持や言葉のサポ−トがなかったのではないか、と分析しています。

 ある解説書には、「頭を上げる」という言葉は裁判の法廷の時に使う言葉であると書いてありました。被告は頭を下げている、うなだれている、その被告に無罪と宣告され、解放される、そのような意味であると書かれているのです。

 この詩人は周りの者から、罪を犯しているのではないかと非難されていました。しかし、神はこの詩人を過ちのある者として退けず、至らなさを赦し、受け入れてくださるのです。神の恵みによって自分が神に肯定され、受け入れられているのです。この詩人は避け所を持っているのです。逃げ込むところを持っているのです。自分を完全に受け入れ、赦される場所を持っているのです。これは本当に恵みであるのです。

 「主に向かって声をあげれば 聖なる山から答えてくださいます。」「聖なる山」シオンの山、この山の上にエルサレム神殿があり、ここに神が臨在されているのです。神に祈ると、神はその臨在されているところから答えるのです。この詩人は神が自分を守り、自分を囲む盾であり、自分の罪を赦し、完全に受け入れてくださることを知っているのです。

 皆さんも夢を見ることがあると思います。気になっていることが夢の中に出てくることがあります。自分の意識の中には,特別に気になっているとは思わないことが、抑圧している無意識な感情が夢に現れてくるのです。夢を見た後に、自分はこういう不安や、こういうことを気にしていたのか、と気づくことがあります。しかし、苦しみに襲われている時にもこの詩人が神に信頼して自分をゆだねることによって、安らかな心で過ごすことができるのです。神に一切を信頼し,ゆだねる時に「身を横たえて眠り わたしはまた,目覚めます」と言うことができるのです。「身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます」、自分存在を任すことができる神がいるのです。

 「朝の祈り、夕の祈り」と言う祈りの本を書いたスコットランドの神学者、ジョン・ベイリ−は「眠りの神学」という本を書いています。「眠りの神学」と言う題名は詩編127編2節後半(p971)の「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」から由来しています。神は愛する者に眠りを与え、神は私たちが眠っている時も起きていて守っていてくださるのです。私たちの毎日は、眠れないほど、悩むこともあり、これからのことが心配で体を悪くすることもあります。自分に敵意をもっている人たちに囲まれているような思いをすることもあります。しかし、「恐れない」のです。恐れる必要がないのです。恐れることができないのです。自問自答するのではなく、神に祈り、自分の嘆きをさらけだし、神に訴えれば良いのです。神が私たちを完全に守り、受け入れ、愛してくださるからです。私たちを待っておられる方がおられる。私たちの祈りを待って受け入れてくださる方がいるのです。

 私たちの生活の3分の1は寝ているのです。安心して休むことはとても大切です。眠る時に不安や心の葛藤を抱えて休むのではなく、神にゆだねて休むのです。

 上智大学で教えていたカトリック教会の司祭のペトロ・ネメシェギ神父が書いた「ひばり」と言う本の中で、「ゆだねること」と言う随想があります。修道院で夜、休む時にいつも祈る就寝前の祈りを紹介しています。「父よ、あなたにゆだねます 父よ、わたしをゆだねます わたしを救われたいつくしみ深い神 父よ、わたしをゆだねます 栄光は父と子と聖霊に 父よ、あなたにゆだねます 父よ わたしをゆだねます」。
 
 神は夜通し、眠ることなく守ってくださるのです。神に自分の身を任せているので、安心して休むことができるのです。そして朝、穏やかな気持ちで目覚めることができるのです。

 ある解説書にはこの詩編は「苦しむ者の朝の歌」ではなく、この歌は実は「苦しみから完全にいやされた朝の歌」である、と書かれています。この詩編は不安や嘆きがある中で、神に信頼し、ゆだねていくことを教える詩篇であるのです。

 詩編30編6節後半には「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(P860)と記されています。

20180722 主日礼拝説教  「ひとりよりも、ふたりが良い」  山ノ下恭二


(コへレトの言葉4章9−12節、ヨハネによる福音書13章34−35節)

 皆さんは、7月初めに西日本豪雨のために、広島、岡山、愛媛などで、甚大な被害があったことを知っていると思います。この水害によって多くの人々の家が流され、壊され、家族を失うと言うことが起きました。この集中豪雨のために、7月20日現在、218人が亡くなり、12名の行方不明者がいることは新聞やテレビなどで報道されています。この豪雨のために、一夜のうちに、家が壊され、近くの体育館などで避難生活を続けている人たち、親しい家族を失って悲しみの中にいる人たち、がいるのです。そして酷暑の中で避難所で不自由な生活を続けています。水害に遭った人たちはそれまで、平穏な生活をしていたわけですが、この災害のために、穏やかな生活を一挙に失い、いつもの日常生活を続けることができなくなったのです。私たちはこの地上で平穏で幸福な生活を営むことを望んでいますが、思いがけなく災害や事故などで、行く手を阻まれることがあるのです。

 本日の礼拝で、旧約聖書のコへレトの言葉を読みました。コへレトの言葉は旧約聖書の中で知恵文学に属しています。知恵文学と呼ばれているのは、箴言、ヨブ記、コへレトの言葉です。この知恵とは、神を畏れて生きるための知恵のことです。具体的にこの地上でどのように生きていけば、幸福に生きていけるのか、諺や格言によって教えるものです。特に、これから人生を歩む若者に向けて、生きるための知恵を授け、どうしたら幸福に生きることができるのか、を教えるものです。
 
 箴言は格言集であり、多くの諺が集められています。箴言は知恵文学においては主流です。箴言の基本的な考え方は、因果応報の思想です。原因があり、それに見合う結果があると言う法則に則して諺を語ります。原因があって、それに見合う結果がある、それを応報思想と言います。原因があって、それに見合う結果がある、その応報思想は多くの人たちに受け入れられているのです。子どもを育てたことがある人は、子どもに試験の勉強をしないと良い成績を取ることができないので勉強しなさい、と言った人もいると思います。応報思想は、家庭だけでなく、学校でも、会社でも良く語るものです。学校で教師が勉強しないと試験は合格しない、会社で上司が部下に一所懸命に働けば、結果がでる、そのように言うのです。箴言は正統的な知恵の法則、応報思想を基本として、人間が幸福に生きるための知恵を諺、格言の形式で教えているのです。

 ヨブ記とコへレトの言葉は、箴言が基本としている応報思想を批判しているのです。現実の社会ではこの応報思想が当てはまらないと言うのです。この地上の人生模様を見てみると、箴言のように因果応報の法則に当てはまらない、現実はそうはならないことがほとんどだと言うのです。まじめに生きている人が貧しい生活をしているではないか。正しく生きている人が苦しんでいるではないか。それに反して、世渡り上手で、人に隠れて悪いことをしている人がお金を持ち、裕福に、愉快に生活しているではないか、と言うのです。箴言の因果応報の法則は、当てはまらないと言うのです。
 
 この地上で幸福な生活をしたいと願いながらも、幸福に生きることを妨げているものがあります。幸福を阻止するものがあるのです。それは災害であり、愛する者の死であり、病いなのです。

 ヨブ記の主人公ヨブは、その不幸、苦難と向き合い、対面しながら、神と対決するのです。一般の人たちの祈りや願いは、この地上で、災害や悲しみや病などの苦難に遭わないように、穏やかに過ごすことができるように、祈り、願い、その願いを叶えるのが神であると思っているのです。しかし、このヨブ記は、苦難に遭う時に、どのように向き合い、解決していくのかを深く問いかけ、答えを用意しているのです。
 
 ヨブ記の主人公ヨブは、豊かに持っていた財産を失い、災害に遭い、そして愛する家族を失うのです。そして自分も重い病気になって苦しむのです。私たちの生活の基盤である、財産を失うのです。失業して、生活ができなくなるのです。そして災害に遭う、住み慣れた家を失い、自分の居場所を失うのです。そして病気になる、重い皮膚病に罹り、その痛みに苦しむのです。このように災害、家族の死、病、と言う私たちが避けたいと思う出来事に遭遇するのです。

 病は、私たちにとって大きな脅威です。私たちが生きていこうとすることを阻もうとする最大の敵であるのです。この病のために多くの人たちが苦しんでいるのです。
 
 ヨブは苦境の中で、神に訴え、自分は悪くないし、罪を犯したのではないのに、神がこのような苦しみを与えている、このような罰を受けるような罪は犯していないと訴え、それは神が悪いので神を告訴する、とまで言っているのです。ヨブ記の後半で、神が登場します。神はどうしてヨブが苦しむのか、その理由は全く触れず、神の創造のみ業を語るのです。神は逆にヨブに質問をし、問いかけるのです。あなたは雨を降らせることができるか、あなたは雪を降らせることができるか、あなたは天体を動かすことができるか、あなたは動物が子どもを産む時間を知っているか、とヨブに問うのです。ヨブはそのようなことはできないので答えることができないのです。そのことによって、ヨブは自分がほんとうに小さな存在であるのに、神が悪いと悪態をついたことを詫び、神が天地を創造する、自分よりも遙かに大きな存在であることを改めて、知らされ、神の前に悔い改めるのです。
 
 ヨブ記の最初はヨブが神の前に正しく、神に祝福され、財産を持ち、生活は安定し、家族との関係もよく、幸福な生活を送っていたことが記されます。そしてヨブに苦難が襲うのです。しかし、このヨブ記の最後には、再び、家族が与えられ、平穏な生活を取り戻すことができるのです。このヨブ記の最初と最後には幸いな生活をすることができていることを記しています。ヨブ記は苦難の問題を扱っていることは確かですが、幸福とは何か、を提示しているのです。苦難を経験して、改めて人間の幸福を考えさせようとしているのです。

 私たちは幸福な生活を送りたいと願っていますが、その願いが叶えられないのです。災害があり、事故があります。それによって平穏な生活が脅かされ、穏やかな生活を失うのです。

 コへレトの言葉は、地上の人生における幸福は何かを考えていますが、ヨブ記のようなひとりの信仰者として神と向き合うことはしていません。神は遠くにいて隠れており、神の正体ははっきりしていません。関心があるのは、この世で起こっている人生模様です。人生模様を観察してコへレトが得た教訓、そして、自分が実際に経験したことから得た教訓を語っているのです。
 
 コへレトの言葉には、私たちを不幸にする場面に遭遇することがあり、その場面に立ち会うことは辛いことだ、と言うのです。私たちは、毎日、生きていく中で、様々な場面を経験します。見たくない場面を見てしまう、そのようなことがあります。人の悪口を聞き、喧嘩や怒鳴り合い、暴力を振るっている場面を見てしまうことがあり、その場にいないほうが良かったと思います。

 コへレトの言葉4章1−3節には、コへレトは、虐待されている人が涙を流している場面を見ているのです。人が悪いことをしている、そのような場面を見ることはとても辛いのです。コへレトの言葉4章1節「見よ、虐げられる人の涙を。」と書いてあります。そのような場面を見るのであれば、生まれてこないほうが良かった、その場面を見ることがないのだから、と言うのです。戦争を経験することは避けたいのです。戦争の残酷さを見る、すさまじい場面を見ることは、とても辛いことです。残酷な場面を見た人にとってそれは大きなトラウマとして深く心を傷つけるのです。戦争を二度としてはならない、という思いを持つのは、戦争の悲惨さをよく知っているからです。

 コへレトの言葉は、この地上の生活ですべてが終わると考えています。死ぬまでの間、自分がいかに生きるか、ということを考えています。人生は空しいと考えているのです。人生そのものも死で終わり、自分がしてきたことも空しいことだと言うのです。仕事をして大きな会社を作ったが、後継者が会社をつぶしてしまった、自分の努力はなんだったのだろうか、と空しく思うのです。

 コへレトの言葉はダニエル書のもっている思想に反対しています。ダニエル書は黙示文学であり、黙示思想は、この世界がすべてではなくて、この地上の世界に対する関心よりも、この世のことを超えた、彼岸的なことに関心があります。この地上の世界については二次的であり。この地上の世界よりも、この死の向こう側にあることに心を向けているのです。

 コへレトにとってどのようなことが幸福なのでしょうか。コへレトは、人生は空しい、儚い、と言います。その中で、幸福なのは、飲み食いなのです。2章24節に「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの」。飲み食いはいつも毎日、している些細なことです。人生は短い、空しい、だから自分の人生は無意味になって良い、と言うのではなく、いつも経験している飲み食いを再評価して、飲み食いをすることは幸福なことだと言うのです。この飲み食いは神からの賜物であると言うのです。

 コへレトの言葉はこの地上の生活で幸福であるための条件を語ります。それは何でしょうか。それは一人ではなく、二人、多くの人たちと共に生きることです。私たちは一人で生きているのではないと言うことです。共に生きている、それが幸いなことだと言うのです。

 創世記1章では、神は人を創造しますが、アダム独りだけではなく、神はエバという相手を創造します。神はアダムを創造し、その相手として女、エバを創造されたのです。アダムと向き合う、パートナーとして創造されたのです。人間は最初から孤独ではないのです。孤独のままではありません。この二人が協力し合って互いに助け合って、一つの家庭を作っていく、共同体を造っていくのです。

 コへレトは社会の矛盾や不条理を語り、何をしても空しいと嘆くだけではないのです。矛盾や不条理を抱えた社会の中で、共に生きる仲間を持っていることが、幸いなことだと語ります。

 コへレトの言葉4章9−12節「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」
 
 コへレトは多くの人生模様を見たり、経験して、労苦が報われないし、空しいことが多すぎる、と言って、人生は意味がない、とは言わないのです。コへレトはここで、共に生きることのすばらしさを語っているのです。共に生きることは何とすばらしいことか、そのことを語りたかったのです。

 「ひとりよりも、ふたりが良い」、この言葉は結婚することへの勧めとして語られることがありますが、第一義としてこの言葉は結婚を勧める言葉ではないと思います。この言葉は、共に生きる、連帯して生きることを指す言葉です。
 
 「共に労苦すれば、その報いは良い。」一人で労苦するよりも、二人が共同で労苦するならば、それはその報いは大きな喜びとなります。互いに助け合い、互いに愛し合っていく、それが社会の姿なのです。「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。」コへレトが生きていた時代は戦争があり、兵士として戦う場面が多くあったのです。共に戦う仲間が必要であったのです。
 
 私たちはひとりでは生活することができないのです。ヨブ記には、ヨブの友人たちがヨブが苦難に遭って大変、辛い経験をしていることを知り、遠くから駆けつけて来るのです。そして3人の友人はヨブの痛ましい姿を見て、三日三晩、3人の友人は泣くのです。この後、ヨブとの対話で、意見は異なり、ヨブにとって自分の考えと異なる友人の存在は迷惑のように受け取られがちです。しかし、この3人の友人の存在は大きいのです。ヨブと意見が違っていても、ヨブには三人の友人がいてヨブに関わっていることは注目すべきことです。

 自分の存在を認めて受け入れ、関わる友人がいるのです。シェークスピアは「リア王」の中で「悲しみにも友があり、耐え忍ぶにも仲間がいるとならば、心の苦しみも大分、楽になるものだ。」と言っています。

 コへレトの生きていた時代は戦争が続いた、戦乱の時代でした。「ふたりで寝れば暖かい」と言うのは夫婦のことよりも、兵士たちが寒さをしのぐために身を寄せ合うことです。戦場で、テントもなく、野宿しなければならない時に、とても寒くて身体が震えるような時に、兵士たちが身体を寄せ合う、そのようなことを指しています。

 ひとりよりも、ふたりが良い。孤独ではなくて、互いに助け合う、そのことが、私たちの心を癒し、慰めることにつながるのです。

 私たちは、教会に集まり、礼拝し、イエス・キリストを主と仰ぎ、共に励まし合っています。教会と言う共同体があり、そこで同じキリストを信じ、礼拝し、みことばを聴き、聖餐にあずかる、そのような共同体を与えられていることは大きな恵みです。この共同体で、互いに助け合い、赦し合っていくことは、とても大きな意味を持ちます。ひとりよりも、ふたりが良い。相手を愛する、相手も自分を愛する、そのことは私たちの心を豊かにするのです。
 
 本日の礼拝でヨハネによる福音書13章34−35節のみことばを読みました。主イエスが愛の掟を語っています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 
 私たちは相手を愛そうとするけれども、完全に相手を愛することができません。どうしても自分のことを真っ先に考えてしまい、自分の都合を優先してしまうからです。私たちも相手から愛を求めてしまい、見返りを求めてしまいます。そのような罪が愛することを妨げるのです。この掟を、一つの戒めとして、律法としてしまう、自分の力で相手を愛さなければならないとするならば、それはできないことになります。
 
 しかし、「わたしがあなたがたを愛したように」とありますように、主イエス・キリストが私たちの罪のために自ら、その罪の罰を受け、肉を裂き、血を流してくださった、その犠牲の愛を聖霊によって私たちが受け入れる時に、愛することができるのです。愛する意志を与えられるのです。愛した結果ではなく、神に愛されている、その神の愛に促されて、その動機から、愛することが大切なのです。愛そうとする意志、動機が大切なのです。

 神に愛されていることを信じ、隣人を愛する、その交流、関わりが私たちの生活を豊かにするのです。神に愛される経験をする、人を愛する経験をする、そのことが私たちの生活を幸いなものとするのです。


20180708 主日礼拝説教 「キリストによってしっかり立ちなさい」 山ノ下恭二


(詩編132編13−18節、フィリピの信徒への手紙4章1節)

 本日の礼拝で読みましたフィリピの信徒への手紙4章1節には「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」と語られています。

 「だから」と言う言葉が最初にあります。「だから」と言う言葉は、4章の前の3章20節に書かれている言葉を受けて、語っているのです。3章では、パウロは様々なことを語っていますが、特に20節の言葉を受けて4章1節で語っているのです。この3章の20節の言葉は、フィリピの教会の信徒たちが、信仰者として立たせられている理由、立たせられている根拠を語っているのです。3章20節で神との関係の中で、自分がどのような存在なのかを明らかにして、4章1節で、しっかり立つようにと勧めているのです。
 
 私が東大宮教会に在任していた時に、ある方に礼拝の奏楽者をお願いしたことがあります。キリスト者の家庭に育ち、ピアノを弾くことができる方でした。しかし、私はこの方が忙しくて、引き受けないだろうと半ばあきらめていたのですが、駄目でもお願いしてみることが良いと判断して、奏楽をお願いしました。この女性は児童養護施設で中心的に働いている方で、休みがなく、忙しい毎日を過ごしていました。日曜日は養護施設から教会へ行くのにバスで40分かかりますが、学校に子どもたちを連れて、教会学校を終えると大人の礼拝の前に園のバスで養護施設に帰るのです。キリスト教の児童養護施設ですが、子どもたちのために日曜日も働いていたのです。

 このような様子を私はいつも見ていましたので、日曜日の礼拝の奏楽は無理だと思っていたのです。奏楽をお願いして、しばらく経過してこの方から手紙が来ました。その手紙には次の内容が書かれていました。今まで、子どもたちの世話で、日曜日はなかなか礼拝に出席できなかった、これから自分がどのように生きていくのが良いのか、考え、祈ってきた、自分は洗礼を受けたのだから、キリスト者であることを取り戻したい、毎週、礼拝に出席できないけれども、自分が信仰において立つために、礼拝の奏楽をして神様に喜ばれるようにしたい、と言う手紙でした。この女性はこの時に、神に祈りながら、礼拝を中心にした生活をしていくことを決心したのです。
 
 フィリピの信徒への手紙3章20節でパウロは、「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」と語っています。信仰の生活をしている者が、その国籍を天に持っているということをはっきり語ります。この地上に私たちの本拠地はないのです。信仰を持たない人は、この地上での生活がすべてであり、死ぬまでどのように生きるのか、ということに関心があるのです。しかし、私たちキリスト者は、この地上のことがすべてであるとは思わないのです。私たちキリスト者は神と言う永遠なる存在を信じ、そこに望みをもっているからです。「わたしたちの本国は天にあります。」私たちは天の市民です。この日本の国民でありながら、もう一つの神の国の市民なのです。日本の国民であると同時に天の市民なのです。地上の国の市民として、地上にある限り、市民としての義務を果たすだけではなくて、天の市民として生活をしているのです。

 しっかりと立つ、と言う言葉を聞くと、自分がしっかりと立つことを考えます。私たちがよく経験することですが、長い間、立ち続けることは容易なことではありません。立ち続けることが困難になることがあります。よく考えて見ると、私たちが立つには、この大地がなければなりません。そして大地が堅固であることで、私たちは安心して立つことができるのです。

 建物もしっかりした基礎の上に建てないと、地震で崩れてしまうのです。私が東大宮教会に赴任したのは、1989年の4月ですが、教会堂はできたばかりでした。1989年1月に献堂式をしました。この時、教会員からこの教会堂は基礎がしっかりしていると言う話を聞いたのです。この会堂の建築について前任者の原田史郎牧師から詳しく聞いたことがあります。この会堂の基礎工事は大変深く、地中を掘り、しっかりと基礎を固めたと話されました。会堂建築の基礎工事の時に通りかかった人から、地面を深く掘っているのでマンションでも建てるのか、と工事現場にいる人が聞かれたそうです。深く地中を掘らせて基礎工事をしっかりして建てたのです。設計の段階で、線路に面していて貨物列車が通ることも考えに入れて、揺れても建物が壊れないようにしっかりと基礎工事をしたのです。建物を建てる時にはしっかりと基礎を固めることを知らされたのです。

 私たちの生活もしっかりした基礎、基盤をもつことが大切です。しかし、災害や事故、病などの試みに遭って、自分の生活が揺らいでしまうのです。2011年3月11日に発生した東日本大震災によって、多くの人々が住んでいた家が流され、財産を失い、家族を失うという経験をしたのです。人が生きていくのに必要なものがあります。それは住む家、家族、食料、仕事です。それらのものを一挙に失ってしまったのです。

 人生における苦難も、しっかり立つことができなくなります。旧約聖書にヨブ記があります。ヨブ記は、人生の苦難、苦しみを問題にしています。私たちの人生において不条理があります。耐え難い苦しみに襲われるのです。ヨブ記は、この問題を正面から取り組んだ信仰の文学です。ヨブは災難に見舞われます。妻を残して一瞬のうちに家族が全員、死に、生活を保障していた財産も奪われるのです。その時にヨブは、どのように言ったのでしょうか。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1章21節p776)と語るのです。私は自分がこの地上で頼りにしていたものを一切、失った時に、ヨブのように言えるだろうかと思ったのです。そしてヨブ自身にも苦難が襲います。ヨブは病気になるのです。ヨブは重い皮膚病になります。この病に苦しみながら生きていくこと、それは耐え難い苦しみになります。そのように苦しんでいるヨブの姿を見て、ヨブの妻は神を呪って自殺したほうがましだと言います。それに対してヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ記2章10節p777)と答えるのです。神から幸福だけを戴きたい、地上で災難もなく、苦しみもなく、生活に困らないで生活ができるようにしてくださいと祈るのではなくて、「不幸も戴こうではないか」とこのような信仰の言葉をヨブは告白するのです。ヨブはこの地上で生きることだけを考えているのではなくて、神との関わりの中で、自分の存在の意味を問うのです。

 災害や病、苦難に遭遇することによって私たちの生活を支えてきたものは頼りにならないこと知らされます。私たちの生活に必要とするものすべてを一挙に失うことがあります。私たちを支えている生きるための基盤を失う時があります。私たちが頼りとし、拠り所を失うようなことがあっても私たちは立ち上がることができ、しっかりと立つことができるのでしょうか。自分の生活が壊されて、必要なものを失った時に信仰によって立ち続けることができるでしょうか。
 
 パウロは「主によってしっかりと立ちなさい」と語っています。「主によって」というところが大切です。パウロはこの大地にしっかりと立ちなさいとは言っていないのです。大地にではなく、もっと確かなところに立ちなさい、と言うのです。「主によって」というのはこの大地というのではなく、もっと別の、より確かな方を指しているのです。
 
 私たちは神が創造した、かけがえのない、大切な存在なのです。自分の存在は神が造られた尊い存在なのです。主なる神によって心を込めて造られた存在である、と言うことです。創世記には、神がすべてを造られた時に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と書かれています。私たちの存在そのものが、神によって望ましい、祝福された存在なのです。
 
 最近、キリスト教メンタルケアセンタ−から会報が送られて来ました。このメンタルケアセンターでスーパーヴァイザーの佐瀬さんという女性が「魂の声を聴きながら−自己になっていく道行き−」という題で書いている文章が目に留まりました。この方がニューヨークにいた時に、公共ラジオ放送を聴いていたら、ユージン・ピーターソンと言う牧師であり、神学者がこのラジオで話していたのを聴いていた、と書かれていました。ユージン・ピーターソン牧師は日本語訳で「牧会者の神学」という本を出していて、読んだことがあります。この人はすでに80歳を過ぎて、昨今、物忘れがひどくなったので、自分を嫌悪していたが、他の人と比較したり、妬むこともなく、自分を受け入れていったことを話していたと書かれていました。そしてYouTubeで、彼の語る姿を見て、「自分であること以外の何ものでもない自己の人生を、丁寧に慈しんで生きてきた彼と、それを可能にしてきた彼の神との関係の親しさ、深遠さを改めて見、触発された。」と書いています。

 聖書を読んでいて意味のはっきりしない言葉に出会うことがあります。「主によってしっかりと立ちなさい。」この「主」という言葉の意味をよく尋ねられます。この「主」というのは神の名前であり、神の本質を表す言葉です。旧約聖書でモーセが神に名前を聞く場面があります。(出エジプト記3章13節p97)モーセとイスラエルの民がこれからエジプトを脱出してパレスチナに向かって旅をするときに、頼りとする神がどのような神なのか、わからないと困るのです。初めて出会った人が一緒に行きましょう、と言っても、この人が良い人なのか、悪い人であるか、わからないと困るのです。途中で投げ出してしまう、気まぐれの神なのか、それとも、最後までイスラエルの民と共につきあい、困った時にすぐに駆けつける神なのか、です。モーセの問いに対して、「主」「ヤーウェ」と答えるのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節p97)この「主」はどのような時にもいつも共にいる神であり、苦難の時にすぐに手を差し伸べ、助ける神であると答えるのです。モーセはこの神を信じて、行動を起こすのです。この意味で「主」と言うのです。

 この主は、イエス・キリストにおいてまことに私たちのために御自身の肉を裂き、血を流して、私たちの苦難と罪を担った神なのです。それで、主イエス・キリストと告白したり、イエスは主であると告白するのです。従って、主という言葉は、どのような神なのか、をはっきりと表す言葉なのです。わたしたちをいつも愛し、わたしたちを慈しむ、私たちの罪を贖う神なのです。

 私たちにとって何によって生きることが、一番、幸福なのでしょう。私たちがすぐに思うのは、物があるということです。物がなくては生きていけない、と思っているのです。物にたくさん囲まれていることで、幸福を感じると言うことがあるかも知れません。しかし、それで満足する人はいないでしょう。物をたくさん持っても、幸福だと思わない人も多いのです。

 私たちは人格的な存在なので、人と関わり、関係を持つ存在なのです。自分に関心をもって心配している人がいる、心遣いをしてくれる人がいる、ということです。

 私が和歌山県田辺教会に在任していた時に、教会付属の幼稚園があり、園長をしていました。幼児教育に携わるのは初めてでしたので、幼児教育に関係する本を読み、そして、その後、東大宮教会で、養護施設の子どもたちと触れ合い、理事会で子どもたちが置かれている状況を巡る話し合いを聞いていて、思ったことは、幼い時にしっかりした基盤がないと、生活することが難しいということです。つまり、3歳までに親から深く愛されることが大変、重要で、それが心を支える基盤になるということなのです。親が自分を愛してくれている、そのような信頼を身に着けることが生きることにとって最も重要だ、と言うことです。

 私たちにとって愛されることが大切ですし、愛する人がいる、ということが私たちの魂を支えていくのです。毎朝、5時からNHKラジオで、「毎朝ラジオ」と言う番組でリスナーからのメールが読まれますが、最近、夫を亡くした妻が、大切な人を失って心が空白になり、どうして良いかわからないというメールがありました。一緒に長く生活していると、夫の存在が自分を支えているのです。夫が元気であった頃は、そのことに気がつかず、いないほうが気が楽だ、と思っていても、いざいなくなると、さびしいを通り越して、自分の中にしっかりと夫の存在があって、失われたことの大きさに気がつくのです。自分がしっかり立つには、自分を支える人が必要なのです。

 自分のそばに、キリストがしっかり立っていてくださるのです。自分一人で旅行すると、自分しか頼りにならないので、しっかりしなければならない、と思います。しかし、友達と一緒に旅をすると友達に頼ることになり、気が楽になります。友達が助けてくれると思うからです。そして実はキリストが自分の中でしっかり立ってくださるのです。いつも私たちの心の中にキリストが立っていてくださり、私たちの心が折れそうになる時にも、しっかりとキリストが立ち、慰め、励ましてくださるのです。

 ある注解書を読んでいたら、「主によってしっかりと立ちなさい」と言う言葉は「主に依り頼む」とも言い換えることができる、とありました。主によってしっかりと立つと言うことは、自分が頑張ることではないのです。自分で何とかして努力することではないのです。むしろ、キリストに依り頼んで、信頼して生きることなのです。キリストに信頼し、委ねて、キリストのみこころに従うことなのです。私たちの中にいてキリストが働いてくださることを信じてお委ねするのです。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙2章20節で次のように語っています。
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

 イエス・キリストは私たちと苦しみを共にする神です。私たちの苦難と罪を自分のものとして担い、共に苦しんでくださるのです。私たちはこの愛の支配の中にあるのです。いつも私たちのために配慮し、気を使い、必要なものを満たし、共に苦しんでくださる愛の神なのです。          

 私たちには思いがけない苦難に出会うことがあります。愛する人を失うこともあります。一人残されたような孤独を経験することがあるのです。しかし、そのような時にも私たちは主によってしっかりと立つことができるのです。それは私たちの真ん中に愛をもって支配している神はおられるからです。

 先ほど、本日の礼拝で歌いました讃美歌286番は、詩編46編1−7節の言葉によって作られた讃美歌です。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。」

20180701 主日礼拝説教 「私たちの国籍は天にある」  山ノ下恭二  


(創世記2章4−17節、フィリピの信徒への手紙3章20−22節)

 6月18日の朝、大阪の高槻市周辺で、震度6弱の地震がありました。この地震によって、小学校の壁が崩れて小学生の女の子が亡くなり、本棚が倒れて押しつぶされて男性が亡くなり、合わせて5人が死亡しました。ガスや水道が止まり、生活が不便になり、電車が止まってしまい、歩いて職場に行く人が多くなり、夕方、帰宅することが困難な人が多く出て、都市機能が麻痺したのです。震度6弱の地震によって、日常生活が中断し、壊れてしまったのです。

 私は、大阪・高槻の地震の報道を聞いた時に思い出したのは、2011年3月11日(金)に発生した東日本大震災のことでした。この東日本大震災は私たちの想像を遙かに超える大きな災害をもたらしました。テレビの報道を見たり、新聞を読んで、被災された多くの人々の苦しみと悲しみが大きいことを知らされたのです。この地震と大津波によって原発事故が起こり、このために福島原発の近くに住む人々は住み慣れた住まいを残して移住を余儀なくされ、全国各地に移り住み、多くの人々が今も帰還できないでいるのです。 

 このことにから分かったことがあります。それは、私たちの地上の生活はとてももろいものであると言うことです。このような災害によって家や財産を失い、家族を失った人も多いのです。3月11日以前には、平穏な生活を営み、災害によって生活が一変するとは全く考えていなかったのです。それぞれに自分の悩みや問題を抱えていましたが、平穏な生活を続けていたのです。しかし、地震と大津波、原発事故によって東北の人々の生活は一変してしまったのです。

 この地震が起こった時に、私は東京神学大学の卒業式に出席していて礼拝堂にいました。卒業式の式辞を学長が話している時、2時46分に二度、大きく揺れて、礼拝堂につり下がっている照明器具が大きく揺れ、礼拝堂から出たほうが良いのではないか、とも思いました。この時から東北では地震による津波が襲い、多くの人々が亡くなったのです。東京周辺でも電車が止まり、帰宅難民が続出し、食料がなくなり、電気が停電し、生活が麻痺してしまったのです。この地震の後も、何度も余震が続き、大地が揺れ動いたのです。

 このような災害を経験して、私たちは、人間が無力であることを実感したのです。日常生活が順調で、平穏で何もない時には、いつまでもこのままで生活ができると思っていました。しかし、それは誤りであったのです。それまで、人間の力であらゆるものを自分の支配下に置いて思いのままにできるかのように思い込んでいたのです。原子力でも何でも思いのままに動かせることができると思っていたのですが、それはまちがいであることを知ったのです。原子力が安全であると言う神話が崩れ、共存して安心して生活することは難しいことに気がついたのです。
 
 本日の礼拝でフィリピの信徒への手紙3章20−22節のみことばを読みました。パウロは、フィリピの信徒への手紙3章20節で「私たちの本国は天にあります」と語っています。口語訳では「わたしたちの国籍は天にある。」と翻訳されています。本国、国籍という言葉は別のところでは「市民権」と訳されている言葉です。

 この当時のロ−マ帝国は、地中海周辺の世界を支配していた強大な国家でした。各地に強力な軍隊を派遣して国を守ろうとしていたのです。「すべての道はローマに通じる」と言う諺がありますが、この諺はローマからどこへでも軍隊が送れるように世界中に道が通じていることを語っているのです。

 このフィリピの町にもロ−マ帝国の軍隊が駐屯しており、ローマ帝国の支配が及んでいました。この軍隊の兵士たちは、自分たちがローマの市民権をもち、自分たちがローマ皇帝の命令でこの地域を守っていることを誇りとしていたのです。自分たちがどこに属しているか、自分を支えているのは何か、それはローマの市民であるということです。パウロが、ローマ帝国の全地域を自由に伝道活動ができたのは、市民権をもっていたからです。パウロが何ものであるか、それはローマの市民である、と言うことです。
 
 フィリピはギリシャの都市で、ローマから距離的にはかなり離れています。しかし、フィリピの町の人々はローマから離れたところで過ごしているけれども、自分たちはローマとつながっており、自分たちの生活の本拠地はローマであったのです。ローマからかなり離れたところで生活していても、何か身の危険がある時にはローマから派遣された軍隊の働きによって身の安全を守ってくれると考えていたのです。
 
 パウロは、フィリピの教会の信徒たちに、私たちはこの地上のローマ帝国の市民であるが、私たちキリスト者はもう一つの国の市民であると語ります。パウロは「私たちの本国は天にあります」「私たちの国籍は天にある」と語る時、自分は地上ではローマの市民であるけれども、もう一つの国に属していると言っているのです。確かにパウロはローマの市民として制約を受け、また逆に保護されていますが、自分の本拠地は天にあり、地上で困難なことに遭う時に、天の助けによって守られ、保護されていることを信じているのです。

 私たちもこの日本と言う、地上の国の市民でありながら、「天の国」の市民なのです。この「天」というのは、どのように考えたら良いのでしょうか。この地球の、はるか上にある天体的な場所を指しているのではありません。また、世の中の人がよく言うような、死んだ後に行く、天国のことなのでしょうか。そうではないのです。

 この「天」ということを考える時に、ヒントになることがあります。そのヒントは身近なところにあります。私たちが毎週、礼拝で使徒信条を告白していますが、「全能の父なる神の右に座したまえり」と言う言葉にヒントがあります。使徒信条は私たちの教会が何を信じているのか、を告白している、信仰告白なのです。

 私たちのキリストは、どこにおられるのでしょうか、それはキリストが神の右に座しておられるところ、それが「天」なのです。「天」と言うのは、どこかの場所に、どこかの空間にあると考えますが、信仰によって見ることができるところなのです。「天」と言うのは、神の右に座しているキリストがおられるところなのです。キリストによって神が支配している、そのことを信じているのです。私たちが本国を天に持っているとは、キリストの支配にある、そこに属していることを言っているのです。
 
 植村正久牧師は、洗礼試問会の時に洗礼志願者にいつも質問していたのは、「キリストはどこにおられるのか」ということであったと言われています。植村正久牧師が大切にしていたことであったからです。キリストが神の右に座して、すべてのものを支配している、そのことを信じることが大切であると言うことです。キリスト御自身の御手の中に、キリスト御自身が私たちの生涯を支配して導いてくださる、そのような確信に生きることです。

 国家というのは確かに国民の生活を守り、保護するものと私たちは考えています。しかし、キリスト教会の歴史を尋ねてみると、国家は教会を迫害した時代があるのです。キリスト教がローマに広がり、キリスト者が増えていくことを、権力者がよく思わないで、大規模な迫害をしてきたのです。紀元4世紀までその迫害は続き、キリスト者たちは、地下の墓で隠れて礼拝を守って来たのです。日本においても国民を国家の政策に従わせ、国民を苦しめることをしてきたのです。太平洋戦争においては、誤った戦争を続けたために、多くの国民を犠牲にしたのです。中国・東北部に移民として送り出された人々は、敗戦と同時に難民として放り出され、帰国途中で殺され、やっとの思いで帰国した人々も多いのです。国家の政策によって国民が犠牲になる場合も多いのです。太平洋戦争の時に日本のキリスト者は大変、苦しみ、殉教した人も多いのです。

 私たちは、この国の国籍を持ち、その責任を果たしながら、しかし、それだけではないのです。この世を越えた、もう一つの国、神の国、キリストの国の市民なのです。この地上の国を本拠地にするというよりも、神の国に根拠をおいて、生活するのです。

 主イエス・キリストは神の国について多く語っております。神の国の譬話をたくさんしていますが、その中で、「ぶどう園の労働者」の譬話があります。

 この譬話はぶどう園を経営している主人が、一日に5回、市場に行き、労働者を雇うのです。朝の6時、9時、12時、3時、夕方5時に労働者を雇い、賃金を支払う時に、夕方5時に雇われ、1時間しか働かなかった労働者に、一番先に一日分の賃金を払ったのです。普通は、12時間も働いた労働者を先に賃金を支払うはずですが、一時間しか働かず、しかも12時間働いた労働者と同じ賃金を支払ったことに長時間、働いた労働者が抗議をするのです。

 大学生にこの譬え話を話すと、この譬え話はおかしいと言うのです。時間給に慣れた学生は一斉にこの譬話はおかしい話で不公平である反応しました。この世の常識から判断すれば、この物語は、確かにおかしいのです。しかし、この話は、神の国の譬え話なのです。この譬え話は、働きが全くない者への神の憐れみを語っているのです。神に対して全く良いことをしていない者、神を忘れ、自分中心に生きている者を暖かく迎えて、その罪を赦しておられ、そこに神の国、神の支配があることをこの物語は私たちに語っています。 
 
 この世の基準では、働かない者、成果をあげない者は評価されず、役に立たない者として評価されるのです。しかし、神の国の価値基準は、そうではないのです。私たちが、神の前に立つ時に、自分は神を忘れ、隣人を愛する心もなく、自分のことばかり考えて、自分の思い通りに生活しようとしている、そのような者の罪を赦し、愛しておられる方がおられる、その方とつながっている、そのことが国籍を天に持つ、本国が天にあるということです。

 キリスト者であるということは道徳的に立派であり、生活のどこをみても欠点がない、というのではないのです。罪人であり、落ち度があるのです。しかし、このような者を受け入れ、赦す神をもっている、ということです。自分は光ではないけれども、キリストという光をもっているということです。罪人でありながら、神の恵みに、神の恩寵によって生活することです。
 
 キリスト者は、この地上の国の市民でありながら、天の国の市民ですから、天につながっているのです。その生活は「天」を表すような生活の仕方をするのです。フィリピの信徒への手紙3章19節に「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」と書かれています。特に「この世のことしか考えていません。」と語っていることに注目します。確かに、この地上での生活で、自分の人生は完結する、と考えるならば、いかに生活に困らず、楽しく、愉快に、便利に過ごすことを目的にするのです。世俗的にしか生きられないのです。しかし、私たちは神が望むような生き方をしていくのです。それは神を愛し、人を愛するということです。

 私は東京神学大学に入学した時に、同級生に朴米雄さんという在日韓国人がいました。一級上に朴憲郁さんという在日韓国人がいました。神学校の寮で親しくなり、特に朴憲郁さんとは大学3年の時に一緒に北海道旅行もしました。この二人から、自分たちがどうして日本にいるのか、そのいきさつを聴いて、日韓併合から太平洋戦争までの歴史に関心を持つようになりました。日本に在住しながら、しかし、国籍は韓国なのです。韓国の国籍をもちながらも日本で生活し、日本の人々に福音を伝えることをしているのです。この二人から日本にいる人々にキリストの福音を告げ知らせたいという熱い願いを聞いたのです。日本の社会で様々に差別を受けた経験を持ちながらも在日として、キリストの福音を告げ知らせる働きをしているのです。私は日本国籍、朴さんたちは韓国籍で、国籍は違いますが、共通しているのは、天に国籍を持っていることです。日本人、韓国人という違いを超えて、キリストにおいて一つ、キリストの福音を伝えるということで一つなのです。

 キリスト者は二重国籍を持っています。この地上の国に国籍を持つと共に、神の国の国籍をもっているのです。私たちは日本にいる、キリスト者です。つまり、在日キリスト者です。日本という異教世界に住んでいるキリスト者です。この地上で生きながら、神の国の住民なのです。私たちは心を高く上げて、神を仰ぎながら、この地上で生活しているのです。

 パウロがフィリピの町に初めて行き、伝道した様子が、使徒言行録16章に記されています。占いをしている女奴隷の霊を取り除いたのです。この女奴隷が占いをした利益で生活していた主人が占いで得た収入がなくなったので、パウロたちを訴えて、牢屋に入れてしまったのです。しかし、牢屋で神を賛美しているのです。そして大地震が起こり、囚人たちが逃げてしまい、看守がその責任を感じて、自殺しようとするのを止め、主の言葉を語ったことが記されています。大地震が起こった時に動揺し、あわてふためいてしまうのですが、パウロとシラスはしっかりと頼るべき者に頼り、生きる望みを失っている看守を励ましているのです。

 フィリピでのパウロの伝道は、洗礼を受ける者が与えられたという幸いな事件もありましたが、占いの霊に支配されている女奴隷の霊を除き、このことをきっかけにして騒動が起こり、牢屋に入れられ、大地震が起こり、看守にみことばを語る。予想もつかないことが次々と起こったのですが、パウロたちは、神に守られていると言う尊い経験をして、神に一切をゆだねて神を仰ぐことができたのです。

 2011年の東日本大震災が起こった時は、金曜日で、日曜日の礼拝を守ることが困難であったと聞いています。その困難な中で、東北の教会は礼拝を中止しませんでした。津波のために礼拝堂が壊れ、日曜日の礼拝をするのに礼拝堂が使えず、青天井で礼拝をした教会も多いのです。ある役員は礼拝堂で礼拝をしたいなぁと言ったそうです。天地がひっくり返ったような中で、礼拝堂ではなく、青天井でしたが、神の言葉が語られ、聞かれて、それによって慰められ、立ち上がることができたのです。

 イスラエルの人々は、紀元前7世紀にエルサレムの町と神殿はバビロニアの大軍により徹底的に破壊尽くされたのです。そして人々は、見知らぬ異郷の土地に強制的に移住させられ、不自由な生活を60年もしなければならなかったのです。エルサレム神殿は崩壊したのですから、礼拝する場所がないのです。それで、礼拝する集会所(シナゴ−ク)を持ち、みことばを学び、イスラエルに帰る時を待ったのです。イスラエルの人々は、様々な苦労、困難に直面しましたが、神からの助けを求めて、神の言葉を聞いていったのです。

 私たちは礼拝する場所をもっています。神の語りかけを聴く場所を持っているのです。この地上では、私たちの生活を脅かす事件や出来事が襲います。しかし、その中で、私たちは安心できる拠り所を持っているのです。みことばを聞き、祈る場所を持っているのです。そして私たちをいつも愛して下さる神を持っているのです。私たちは天とつながっているのです。

 旧約聖書・イザヤ書54章10節(p1151)のみことばを読みたいと思います。「山が移り、丘が揺らぐことがあろう、しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないとあなたを憐れむ主は言われる。」

20180624  主日礼拝説教  「何事にも時がある」  山ノ下恭二


(コへレトの言葉3章1−11節、エフェソの信徒への手紙5章16節)

 私が岡山の蕃山町教会に赴任した時に、ひと月に一度、高齢の方々が集まって、老いを考える有志の集いをもっていました。この集いは、全国教会婦人会連合の「『老い』を考える委員会」が何ヶ月かに一度発行している説教を読んで、話し合いをしていました。この集いに参加されている婦人から、その集いで読んでいる一つの説教のコピ−を戴きました。その説教は、国立教会の宍戸好子牧師が書いた「支えのみ手」と言う説教でした。この「支えのみ手」と言う説教は、詩編31編15節の言葉を中心に説教をしています。

 詩編31編15節には、口語訳ですが、「わたしの時はあなたのみ手にあります。」と書かれています。この説教のはじめには次のように書かれているのです。「『あなたのみ手にあります』の『あなた』とは神をさしている」、「この聖句は、まず第一に、わたしの時はわたしに属していないで神に属している、ということを私どもに示すものです。わたしの時がわたしに属していないで、ただ神に属しているとは、いったいどういうことなのでしょうか。」「私どもはだれしも一日24時間の時間を与えられ、その中で生活しています。しかし、そのように私どもに与えられた時間は、ほんとうは私どものものではなくて、私どもにただ貸し与えられているにすぎない、神がそう望まれるなら、いついかなる時でも私どもから取り去ることがおできになる、そういうものだ、ということです。」

 私はこの説教を読んだ時、自分が今まで「時」「時間」について考えていたことと全く違うことが書いてあることに気がつきました。それまでは、「時」「時間」は自分に属しており、自分のもので、自分の自由に用いて良いのだ、と考えていましたが、「時」「時間」は神のもので、神が支配するものであることを知ったのです。この「時」は神が私たちに与えてくださった「恵み」「贈り物」「賜物」なのです。「時」は、自分で自由に支配して好きなように使って良いものではなく、神が与えてくださった「恵み」「贈り物」「賜物」なのです。

 例えば、親しい人から音楽会に招待されて、その音楽会に行き、音楽を聴く、その時間は自分が決めて、その時間を過ごす、というのではなく、招待してくださった方の好意によって、その時間を過ごすのです。自分で設定した時間ではなく、招待してくださった方が設定して自分に与えられた時間なのです。招待をしてくださった方が良い音楽を聴いて、慰められる、休息を取ることができれば、と言う心遣い、配慮で、その幸いな時間をくださったのです。この地上の時間は神が私たちに貸し与えてくださった時間なのです。
 
 この礼拝で、コへレトの言葉3章1−11節を読みました。3章2節から8節までを読むと、人生には様々な時があることが記されています。そして、人生にはいろいろな局面があることに気がつきます。望ましい事、願わしい事があれば、その正反対に望ましくない事、願わしくない事もあって、その両局面が絡み合い、もつれ合って、流れていくのが、私たちの人生であると言うのです。結婚式があって、すぐに葬儀がある、祝い事があって、その会合に出席した、その後に、病院にお見舞いに行く、そのようなことを経験するのです。

 「何事にも時があり」と書かれています。他の訳は「すべてに時期があり」と翻訳されています。特に、私たちの地上の生活における「時」とは、自分が「生まれる時」であり、自分が死ぬ時です。生まれて、死ぬまでの時であるのです。

 「時」を自分の思い通りに自由に支配することはできないのです。生まれる時を人間は選ぶことはできないのです。自分が誕生日を決めることはできないのです。この時代に生まれないほうが良かった、と嘆いても自分ではどうすることもできないのです。
 
 ある人々は、戦争の時代に生まれて、兵隊になり、戦死した人々も多いのですが、自分が生きる時代を選ぶことはできないのです。この時に生まれた人たちは、戦争の時代に生きて、大学で学びたかったのに、その当時の政治により、学徒出陣で兵隊となって中国、東南アジアに行き、戦死した人々も多いのです。

 戦争に行った世代の人々よりも遅れて生まれてきた人たちは戦争を経験しなかったのです。戦争にかり出された世代の人々はどうして自分が戦争の時代に生まれてきたのか、と嘆いたに違いないのです。なぜこの人々が戦争の時代に生まれたのか、それは誰にも分からない謎なのです。

 また、死ぬ時も分からないのです。私たちは自分が死ぬ時がいつなのか、分からないのです。また、自分が避けたいと思っていても、避けることができない時があるのです。自分の自由に、その時を変更することができないのです。

 3章2節に「生まれる時、死ぬ時」と言う言葉は、生まれて死ぬ、と私たち人間が過ごす期間を語るのです。このコへレトの言葉は、人間の一生は、死において終わる、と考えています。私たちの生活が限定されていることを語ります。コへレトはいつまでもこの地上の生活が続くわけではない、これから生きる時間が限られ、残りの時間は短いということを自覚するようにと語ります。 

 余り気がつかないと思いますが、「生まれる時」と言う言葉があって、その次にすぐに「死ぬ時」と書かれていることは、深い意味があるのです。生まれてこの地上の生活が始まる、そこに既に「死」が入って来ることを語るのです。

 生まれてすぐに嬰児が死ぬこともあり、小学生が交通事故に遭うことがあります。死ぬ時を私たちは選ぶことができないのです。思いがけない時に死ぬことがあります。とても元気な方でしたが、突然、急逝した方の葬儀に出席したことがあります。その葬儀の最後に、親族代表がこういう挨拶をされたことをよく覚えています。「登り坂、降り坂はありますが、人生には『まさか』と言う坂があることを知りました」と語っていたことを聞いたことがあります。誰もが予測できない、ほんとうに思いがけない、急な亡くなり方であったからです。生まれる時、死ぬ時、その「時」は神が支配しているのです。

 小友聡先生が、2017年信徒の友6月号に次のように書いています。「注意して読むと、戦争をほのめかす言葉が多いことに気づかされます。『殺す時』『破壊する時』『泣く時』『嘆く時』『石を放つ時』、そして『戦いの時』がそうです。『植える時、植えたものを抜く時』も、激しい戦闘による農地の荒廃をほのめかします。せっかくの実りの収穫も敵によって奪われるということでしょう。」

 コへレトは戦争があり、混乱がある時代の中で、生きて来たのです。戦争体験をもっているか、どうかで、人生観が異なっています。戦争の悲惨さを経験している人は、あのような戦争を二度と起こしてはならないと思って、行動するでしょうし、戦争の体験を持たない者は、話を聞いても戦争がどのようなものか、実感が湧かないのです。戦争がどんなに悲惨で意味のないものか、分からないのです。

 そのような時代の中で、このコへレトの言葉は、私たちの人生を潤すような時があることを語るのです。安らぎが与えられるような「時」があることを語ります。3章4節に「泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時」とあります。「泣く」と言うのは、身近な人が亡くなり、悲しんで泣く、葬儀で泣くことを指します。「笑う時」は、喜ぶことやうれしいことがあって、笑うことを指します。混乱した社会の中で、心が折れそうになる時があるのですが、笑うことができる、そのような時があるのです。また「嘆く時」があるけれども、結婚式などの喜びの時に、その喜びの中で、踊る時があるのです。

 そして5節には「抱擁の時」とあるのは、家族や友人と再会するときに、「抱擁する」のですが、懐かしい人と再会する、そのような喜びの時があると語ります。戦後間もなく、中国から引き上げて舞鶴に到着し、家族に再会し、そこで無事に帰ってきた息子を母親が抱きしめる、そのような場面を、テレビのドキュメントで見たことがあります。人生には再会を喜ぶ時があります。

 私たちの人生には、悲しいことや辛いこと苦しいことがありますし、そのようなことをたくさん経験するのです。しかし、その中にあっても、笑う時、踊る時、抱擁する時があり、そのような時も与えられ、そのような時は私たちの心を慰め、和ませるのです。生きていくことは様々な労苦があるけれども、しかし、喜びがあるのです。
 
 コへレトは、戦いに明け暮れる、混乱した時代に翻弄されていたのです。
辛い時代に生きていたのです。この時代はイスラエルが王国として安定していた時代ではありません。イスラエルと言う国が大国バビロニアとの戦争に敗れ、多くの人々が、今のイラクに連れて行かれ、70年の間、不自由な生活を続け、その後、イスラエルに帰還することができましたが、帰還して、自分たちの土地に外国人が住んでおり、神殿もなく、国もエジプト、シリアの植民地となり独立戦争もあり、混乱した社会であったのです。経済的な格差、外国人との関わりなど、難しい問題を抱えていたのです。社会が安定していないので、原因があってそれに見合う結果があるということが期待できないのです。まじめに働けば、成果を手に入れることができる、良いことをすれば、報われる、そのようなことは期待できないのです。矛盾し、不条理の社会であることを指摘しています。9章11−12節(p1045)に次のような言葉があります。

 「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに、必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといって、パンにありつくのでも、聡明だからといって富を得るのでも、知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが、人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり、鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」

 コへレトの言葉は、人間は「時」を知らない、その「時」は隠されていると語ります。「時」と言う言葉をギリシャ語訳旧約聖書(70人訳)は「カイロス」と訳しています。自然に流れている時間を「クロノス」と言います。時計をクロックと言いますが、その元になった言葉です。この言葉と異なり、神が定めた、神が支配している時間を「カイロス」と言います。人間はこの「カイロス」を知ることができないのです。後から、あの時が「カイロス」だったと気づくのです。どんなに努力しても、人間はその「時」を見極めることができないのです。

 皆さんが、洗礼を受ける決心をした、そのことを振り返ると、あの時が神が私に強く迫ってきた「時」であることを知るのです。その時が「カイロス」、神の時であることが過ぎ去ってから気付くのです。

 小友先生が、先ほどの2017年6月の信徒の友で解説しています。旧約聖書の創世記のヨセフ物語を紹介しているのです。「ヨセフ物語にこれと似たものを見つけます。ヨセフは夢を解する卓越した知者でしたが、自分の「時」を見極めることはできませんでした。彼は神の計画を悟るどころか、兄たちの嫉妬心すら見抜けませんでした。散々人生の苦労をなめ尽くした揚げ句、ヨセフはようやく神の「時」に気付かされました。彼は波乱の人生を振り返ってこう語ります。『わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全体を治める者としてくださったのです。』」

 この3章1−10節には対句表現によって様々な「時」が14回も繰り返されます。皆さんは、ここを読んでどのように思うでしょうか。私は、このところを初めて読んだ時に、毎日、過ごしていると様々な「時」があり、その「時」を並べて書いてあると思ったのです。皆さんも、人生には様々な時がある、そのことを言っているのだろうと理解していたかもしれません。
 
 ここには、対句表現が書かれているのですが、調べてみると、ここにはもっと深い意味が込められているのです。3節に「殺す時、癒す時」とありますが、同じ時に、一方では、人を殺している人がおり、他方では癒やすことをしている人がいる、そのような矛盾する場面があることを指摘しているのです。

 「殺す時、癒す時」と言う言葉を読んで、私たちはそこまで考えませんが、同じ時に、ある人が殺し、別の人が癒す、と言うばかりでなく、同じ人が相反する、矛盾した行動をしていることをも指摘しているのです。それは一人の人が、ある時には、人を殺すことをしており、別の時には、病気の人を癒やすことをしていると言うのです。同じ人間が、正反対の行動を取るのです。このことは、人間が矛盾を抱える存在であることを指摘しているのです。他人には優しくしていながら、同一の人間が身内には暴力を振るっているということがあると言うのです。知識があり、話すことが上手でありながら、別の場面では、全く違う顔をもって行動している、そういうことがある、と言うのです。それは、時計の振り子のようなもので、両極を行ったり、来たりするようなものです。私たち人間存在は、大きな時計に振り子がついていて、両極のあいだを行ったり、来たりするようなものだと言うのです。同じ人間が矛盾した、相反する行動を取ることを指摘しているのです。

 3章11節には、神は私たちのために時を定めてくださっていますが、その時は私たちには隠され、知ることはないのです。私たち人間は、「時」を知らないのです。コへレトの言葉8章6−7節には、「人間には災難のふりかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか。」と語られています。

 このコへレトの言葉は、すべての時を神が支配している、ただ神を信頼し、将来に対して、恐れや不安を抱く必要はないと語るのです。私たちにはただ、今と言う時が与えられているのです。この今と言う時を、神から与えられた恵みの時として用いるのです。神から賜った、かけがえのない時として大切に、意味あるものとして用いるのです。

 本日、エフェソの信徒への手紙5章16節を読みました。「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」口語訳聖書では「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」と翻訳されています。

 「時」、「時間」は神から与えられた恵みであり、神から貸し与えられた賜物です。その恵みの時間を、私たちはどのように用いるのが良いのでしょうか。いつまでも生きることができると言う意識ではなくて、死ぬことをしっかり見定めて、今の時を意味あるものとして生きるのです。

 生まれてから死ぬまでの間、様々な時を経験します。その中で、大切な時は、3章8節の言葉です。「愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。」ここには、平和の時、愛する時、と言う言葉があります。平和でなければ、人を愛することはできないのです。戦争になれば、人を愛することができないのです。

 ここでは、平和の中で人を愛することが一番大切であることを言おうとしているのです。この一回限りの人生、生と死の間にあって、一番、大切な事業は愛することなのです。自分のために時間を多く用いるのではなく、愛することに多くの時間を取るのです。隣人を愛することに多くの時間を取る、それが、価値ある時間の使い方なのです。コへレトは、時を語るこの言葉の最後に、愛と平和をここにおいたのです。

 すべての時は、神が愛をもって支配しているのです。時は神のものであり、その時を私たちは貸し与えられている、この神に信頼して、今を心を込めて生き、隣人を愛するのです。

20180617  主日礼拝説教 「人生は短い、しかし、今、生かされている」  山ノ下恭二


(コへレトの言葉2章24−25節、ロ−マの信徒への手紙14章24−25節)

 「人生は短い」と言う言葉を聞いて、皆さんはどのように思うでしょうか。「人生は短い」と言う言葉を聞いて、そんなことはない、と思うのではないかと思います。現在の日本は高齢社会、長寿社会であり、日本人の平均寿命は男性が80歳、女性が86歳ですから、生まれてから死ぬまでの時間は長いのです。しかし、コへレトの言葉は、「短い人生の日々」(5章17節)と言っているのです。コへレトの言葉の著者は、様々な経験を重ねて、自分の人生を振り返って「人生は短い」と言っているのです。確かに人生は長いようで、過ぎ去ってみれば、人生は短い、と思うのです。皆さんもそうだと思いますが、私は20歳代の頃は、70歳に自分がなるのは、遙かに遠い先のことだと思っていました。ところが自分が、70歳に近づいていることを自覚すると、過ぎ去ってみれば、人生は短いと言う思いを持つのです。

 コへレトの言葉を書いた人をコへレトと呼びますが、この人は様々な経験を積んだ高齢者なのです。この当時の平均寿命は30歳ぐらいであり、25歳ぐらいではなかったか、と言われています。この人の人生はあと5年しかなかったのです。コへレトの残り時間は少なく、これからの人生は短いのです。

 このコへレトの言葉に特徴的に出て来る言葉は「空しい」と言う言葉です。この「空しい」と言う言葉は38回も出て来るのです。ヘブライ語で「へベル」と言うですが、この言葉は、「空しい」「空虚」「無益」「はかない」「短い」と言う言葉で翻訳することができます。このコへレトの言葉で「空しい」とはどのようなことなのか、が語られています。

 このコへレトの言葉では、本人が、とても苦労して財産を得ても、本人が死んでしまい、とても苦労した本人が、労苦して得た利益を受け取ることができず、全く労苦していない子どもが、その利益を受け取る、そのような場合を「空しい」と言うのです。また、自分の財産を殖やそうとして、株を買うのですが、株が値下がりして、持っていた財産をすべて失い、子どもに財産を残すことができないのは、空しいことだ、と言うのです。また、会社を立ち上げて、大きくして、勇退して、別の人に譲ったけれども、その人が経営の才能がないために、会社が倒産してしまう、自分の苦労は水の泡だ、それは空しいことだと言うのです。コへレトは、現実の社会で実際に起きている人生模様をよく観察しているのですが、一所懸命にしても、それに見合う成果がないので、空しい、と思うのです。

 私たちも空しさを抱えながら、毎日を過ごしているのです。私たちの人生の場面で、危機(クライシス)を迎えることがあるのです。クライシスと言う言葉は「クリシス」(分かれ道)と言う言葉から来ている言葉です。就職、結婚、退職、など自分の人生において重要なことばかりでなく、愛する者との別れ、失業、親しい者の死など困難な場面に直面するのです。そのような自分の人生の分かれ道に直面するのです。そのような人生の大切な時期に、どのようにそのことを乗り越えていくのか、と言うことです。
 私たちにとって次のようなことがあるのではないでしょうか。子育てが終わって、子どもが家から離れてしまう、それまで、子どもを育てるために懸命に労苦して来たのですが、子どもが自分から離れて、いなくなり、空き巣症候群になってしまう、自分の心の中に穴が空くような思いを持つのです。

 夫婦の生活を長い間、続けて来て、相手が先に旅立ってしまい、伴侶と自分とが一体ですから、自分も失ってしまう、そのような危機(クライシス)を経験するのです。自分の人生は何だったのか、とふと思うのです。そのような時に「空しさ」を経験するのです。

 東京神学大学で旧約神学の教授である小友聡先生は、コへレトの言葉を研究しているのですが、コへレトの言葉が書かれた時代の思想の中で、コへレトの言葉を書いていると言うのです。この時代を支配していた思想は、ダニエル書などの黙示思想です。この黙示思想を意識し、批判している、と言うのです。黙示思想とは、この歴史の終わりについて関心を持っている思想です。黙示思想は、この世の向こう側にあることに関心があります。そして歴史の終わりは破局に向かう、と考えているのです。

 コへレトの言葉は歴史の終わりに関心はなく、私という人間の死こそが終わりであると考えているのです。従って、コへレトの言葉は、終末、再臨、審判と言うことは全く考えていないのです。人間は死において終わると考えています。この世界のことにのみ関心があり、この世界を超えた、彼岸的なことには興味を持たないのです。死んだ後のことは全く考える必要がないし、死んだ後のことには関心を持たないのです。

 コへレトの言葉は、人間の死ですべてが終わると考えているのです。死の向こうにあることは考えることはありません。常に死ぬことを頭に入れて生活することを勧めています。この地上で死ぬまでのことだけを考えているのです。ですから「死」について多く語っています。「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。」(コへレトの言葉3章19節A)と語っています。そして人生を、死ぬことを中心に、今の生き方を定めているのです。7章1節に「死ぬ日は生まれる日にまさる」と語られています。この言葉の意味は、生きるよりも死ぬ方が良いという意味ではなく、むしろ人生は死によって終わるということをきちんと受けとめた言葉です。生きる者は、死を認識することによって、生きることの意味に気づかされるのです。誕生日が人生の出発点であると考えている人が多いと思います。しかし、コへレトの言葉は、死ぬ日を中心に考えるのです。死を見つめながら、生きることの意味を問うのです。

 ある時、大学の授業で休んだ学生に、昼休みに会い、「どうして休んだの」と尋ねたところ、この学生は、高校時代の親友が交通事故で亡くなり、その葬儀に出席し、火葬場に行ってきたので、授業に出席できなかったと答えたのです。この大学生は「人間って死ぬんですね」としみじみと言ったことを忘れることはできません。
 
 いつもは忘れていることですけれども、自分の人生に死があり、いつも自分が死ぬことがあることを自覚することを、このコへレトの言葉は勧めます。私たちがこの世界で生きていく時間は、死ということによって限られているのです。そのことをいつも生活の中で忘れないようにとコへレトの言葉は語ります。
自分が生きる時間がわずかであることを知る時に、私たちは、自分が生きていることの意味を深く問うことになります。

 井上靖という小説家が、1965年から1966年にかけて、朝日新聞に「化石」という連載小説を書いています。主人公は一鬼太治平という会社の社長です。この人はフランスに旅行に行った時に、下腹部に痛みを感じて、病院で検査を受けたのです。検査の結果が出て、医師から、電話があったのですが、その電話に本人が出たのです。「一鬼さんではないですよね」と医師が言うと、この人は検査の結果が知りたくて、「秘書です」と偽って、結果を聞いたところ、医師が「あと一年の命で、本人には言わないでください」と言うのです。自分があと1年位しか生きることができないことを知って、自分の生きている世界がまるっきり、違う世界に見えるのです。手術をして回復することができたのですが、健康を回復するまでの8ヶ月、この人は、死と言う鏡で自分の人生の意味を問い直していくのです。「死という同伴者」と対話することによって、自分の本当の生き方を考えるようになり、今までお金や会社を中心に生きていたことが空しくなり、社会で役に立つことを考えるのです。老人と子どもが憩う公園を作ることを考えるのです。

 自分の人生の残り時間は「短い」のです。その短い人生をどのように過ごすのか、と言うことが問われています。

 本日の礼拝で、コへレトの言葉2章24−25節の言葉を読みました。2章24−25節には次のように書かれています。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかし、それも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。」

 このコへレトの言葉には、「飲み、食べること」についてこの箇所の他に4回も同じ内容の言葉が記されているのです。3章12−13節にも記されています。「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。」(同じ内容の聖句が、5章17節、8章15節、9章7節)これらの言葉はいずれも「飲み食い」と言うことを肯定的に捉えています。

 「飲み食い」が最も幸福なことだと勧めているのは、世俗的な、この世の人たちが言っていることで、神を信じている人が言うことではないのではないか、と疑問を持つと思います。私が、初めてこのコへレトの言葉を読んだ時に、「飲み、食い」が人生の中で最も幸福なことだ、と書いてあることに違和感を持ちました。飲み、食い、をするのは楽しいことだけれども、その時を楽しく過ごせば良い、と言う刹那主義、享楽主義のように思われたからです。しかし、ここで言っているのは、そのような捨て鉢な享楽主義とは違っているのです。おいしいものを食べることを趣味にしている「グルメ」愛好者となることを勧めているわけではありません。刹那的に好きなものを食べて満足することを勧めているのではないのです。

 短く、はかない人生において、幸福とは何か、その結論が「飲み食い」なのです。飲む、食べる、それは私たちが日常生活でいつもしていることです。毎日、私たちは飲み、食べているので、飲む、食べる、ということは、日常的なことです。飲む、食べることに私たちは、特別な意味を見いだすことは余りありません。毎日、飲む、食べることが特別に、幸福につながるとは思いません。

 しかし、コへレトの言葉では、5回も「飲む、食べる」ことを讃美しているのです。コへレトの言葉5章17節に「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。」と語られています。「神に与えられた短い人生の日々」と言う言葉があります。

 地上の自分の人生が終わる、死ぬまでの時間はとても大切な時間です。死と言う限界の中で、今の時をどのように生きるのか、と言うことが、重要になっているのです。自分の死を見つめながら、心を喜ばすことはないのでしょうか。
 
 私の母は、2016年10月に98歳で逝去しました。その年の8月から身体が衰弱して、一日中、寝ているような状態になりました。病院に入院したほうが良いと医師から言われましたが、本人の希望があり、延命治療をしないと決めていました。入院せずに、グループホームで過ごすことになりましたが、施設長から、人手が足りないし、夜は職員がつききりで介護ができないので、夜は家族が介護して看取って下さい、と言われました。兄弟は4人いましたが、一人は遠隔地におり、看取ることができないので、私を含めて3人交代で亡くなるまで交代で泊まり込みをしました。私も3泊4日を何回か、泊まり込み、母の部屋で看取ることになりました。 

 9月初めから、点滴もなく、水だけで命を保っていました。水を口に飲ませるだけでは、気の毒だと思い、アイスクリームなら、冷たくて、栄養もあるし、おいしいので、アイスクリームを買ってきて、少しずつ、口に運ぶと、母は、「おいしい」「もっと欲しい」と言い、何回もアイスクリームを口に入れて、とても喜んだのです。「おいしい」「もっと欲しい」と言う言葉が母から聞いた最後の言葉でした。死が間近に迫っている、その中で、アイスクリームを食べることが母にとって幸いなことになったのです。このように、「飲む」「食べる」と言うことがその人にとって幸福な出来事になるのです。 

 コへレトの言葉2章24節には「魂を満足させる」と言う言葉があります。直訳すると、「魂に良いものを見せる」と言う言葉です。私は中学3年生の6月に緊急入院したことがあります。その時に、窓の外に「あじさい」の花が咲いていてとても、美しく感じたことがあり、慰められたことがあります。病床の窓の外に見えるあじさいが目に入るとき、その鮮やかな色を見て「なんと美しいのだろう」と感動するのです。元気であるならば気にも留めない花の美しさが、明日は生きていないかもしれない人にとっては大きな喜びとなるのです。
 
 長野の諏訪中央病院の名誉院長の鎌田實氏は「それでも やっぱり がんばらない」と言う本で、一人の患者についてこう記しています。岡山に住んでいた人ががんになり、鎌田医師の評判を家族が聞いて、治療を受けるために岡山から諏訪中央病院まで車で娘さんが550キロを運転して、一ヶ月に一度、通っていたそうです。何回も岡山から長野に通って行く中で、がんがかなり進行していて、死が近いことを本人も家族も知っていた、その時には緊急入院をしたのです。その時のことが次のように書かれています。「病気は重かった。でもひととき、ホッとする時間が流れた。病室の窓から、遠くに車山の残雪が見えた。間近の里山に何本かの梅が咲いているのをイタルさんが見つけた。『今年は何回も梅を見れた。いい年だ』岡山の早い春。信州の遅い春。人間の心の中にあるあったかな春。何回もの春を味わってもらえると思うと(美加さんは)うれしくなった。」その後、まもなく、亡くなった、と書いてありました。

 人生が短い、はかない、その認識が、日常のささいなことが喜びになるのです。コへレトの言葉はこの地上で幸福に生きることは何か、を追究しているのです。

 主イエスは地上での生活の中で飲むこと、食べることをとても大切にしていました。様々な場面で、主イエスは多くの人々と共に食事をしていますが、特に神から離れていると思われている罪人と共に食事をしていることに注目したいのです。共に食事をしていることを喜び、楽しんでいました。そしてそのことをとても重んじていました。

 そして、今の聖餐の原型になった、最後の晩餐、それは、主イエス・キリストが十字架で自分の肉を裂き、血を流して、私たちの罪のために死んでくださった、そのしるしを食することです。それは私たちを招いて、罪の赦しを与えてくださった、その愛を戴くことです。復活された主イエスが、主イエスを裏切り、罪を犯したペトロを招いてガリラヤの海辺で共に食事をしているのです。この食事によって、交わりを回復することができ、赦しが与えられたのです。
 
 共に食事をすることは私たちの信仰生活の中で大きな意味を持っています。ただ一緒に食事をする、と言うのではなく、互いに愛し合いながら、食事をするのです。互いに赦し合いながら、食事をするのです。そこに意味があります。
箴言15章17節(p1010)に「肥えた牛を食べて憎み合うよりは 青菜の食事で愛し合う方が良い。」という言葉があります。箴言17章1節(p1012)「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。」贅沢な食事であっても争っているような食卓よりも、パンひとつしかない、わずかな青菜しかなくても、愛をもって食べ物を分け合う、そのほうが幸福だ、と言うのです。

 人生は短いのです。自分の人生の終わりをいつも自覚しながら、今、神に愛され、イエス・キリストによって赦され、生かされていることを感謝しながら、飲み、食べることを大切にするのです。

20180610  主日礼拝説教  「キリストにならう者とは」  山ノ下恭二


(箴言30章7−9節、フィリピの信徒への手紙3章17−19節)

 私は、牛込払方町教会を含めて、日本キリスト教団に属する8教会で教会生活を経験しています。これらの教会の信徒の方々と共に信仰生活をしていく中で、キリスト者としての生き方、あり方を学んで来たと思います。

 洗礼を受けて、キリスト者となった、教会員になったと言うことは、洗礼を受ける前までの生き方とは、全く異なった生活に切り替わったことであり、新しい生活に入ったことになります。
 
 私は栃木県の鹿沼教会で高校卒業まで過ごしたのですが、この教会には目の不自由な信徒が数人おり、教会には点字の聖書が備えられていました。細川剛之助という信徒は、幼い時に失明し、その苦しみの中で、鹿沼教会の家庭集会で聖書の話を聞いて、礼拝に出席するようになり、キリストを主と告白して洗礼を受けたのです。細川さんは、自分のような目の不自由なキリスト信徒が他のところにもいるので励ましたい、と考え、関東周辺にいる目の不自由なキリスト信徒たちが集まる集会を始めたのです。毎年、鹿沼教会や他の場所を会場にして修養会を続けました。関東周辺の教会に属している、目の不自由な信徒たちが、白い杖を片手に鹿沼教会の礼拝に集って、讃美歌を歌い、説教を聞いて、集会を持っていました。私は視覚障がいをもった方々と一緒に礼拝に出席し、信仰によってしっかり生きていることを知らされ、とても励まされました。困難な中で、苦労しながら、信仰生活を継続している信徒たちの姿に深い感銘を受けたのです。これらの方々は、特別に有名な人たちではありません。しかし、キリストを信じて従っている、その存在そのものに触れることができました。
 
 私は東京神学大学を卒業して、最初に岡山の蕃山町教会に赴任しましたが、そこに福田範三という40歳位の長老がいました。この人は岡山大学医学部を卒業して、地方の山間部の町での医療に志願して、岡山では僻地と言われている美星町の診療所に勤めていました。その美星町から教会まで、車で3時間位かかりますが、毎週、日曜日に、家族と共に教会に通っていました。高校生会担当、長老としての働き、そして時々、夕礼拝の司式をされて、家に帰るのは夜の12時を過ぎていたのです。その頃は、日曜日しか休みはなく、ほとんど休まないで働いていました。そのように教会での多くの奉仕を担いながら、しかし、威張らず、聖書のみことばに砕かれ、とても謙遜に奉仕をされている姿に感銘を受けたのです。

 どのようにしたらキリストが喜ぶような生き方ができるのか、良い信仰生活ができるのか、このことは私たちがいつも考えていることです。今のままの生活のあり方で良いとは誰でも、思わないのです。どこかに良い模範がないかと思うのです。立派な信仰生活をしている人を見ることは、言葉で説明することよりもよくわかるのです。聖書を読む時にも、聖書の中にお手本になる立派な生き方をしている人はいないか、あるいは、立派な生き方ができるような言葉はないかと探すこともあります。しかし、聖書を読むのは自分が立派になるために読むと言うよりは、信仰によって生きるために読むのです。
 
 フィリピの信徒への手紙を書いたパウロは、3章17節で「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と語っています。このことばを読んで疑問を持つ人もいると思います。確かにパウロは偉い信仰者であるに違いないですが、それだからと言って自分に見倣えと言う資格があるのかと思うのです。パウロがもし、自分が立派な信仰者であると自信をもって言っているならば、それは信仰者とは言えないのです。信仰を持つということは何よりも謙遜であると言うことではないでしょうか。
 
 パウロは他のところでも何度もわたしに倣えと言っています。どのような意味で、「わたしに倣う者となりなさい」と言っているのでしょうか。大切なことがあります。それは、わたしに倣う者となれということは、自分を誇って言っているのではないのです。信仰を持っている人であるならば、自分のうちに何か人にまねて欲しいと思うようなものがあるとは思ってはいません。それは自分が自分を中心に生活している罪人であることを知っているからです。罪人の自分を他の人に見倣えとは言えないのです。パウロは「わたしに倣う者となりなさい」と言っているのは、自分をお手本としなさいと言っているのではないのです。それはキリストによって与えられた自分にあるもの、それに倣いなさいと言っているのです。キリストによって罪が赦された、その恵みを与えられた自分にあるものを見倣えと語っています。

 よくマザ−・テレサのように生きたいと言う人がいますが、信仰を持たない人は、マザ−・テレサがキリストによって与えられた恵みによってそのような奉仕に生きているとは考えないのです。マザ−・テレサは立派な生き方をしているとしか考えないのです。しかし、そうではないのです。マザ−・テレサは毎朝、ミサ(礼拝)に必ず出席してから活動をしているのです。キリストを信じることによって、愛に溢れた生き方ができるようになったのです。
 
 パウロが語ろうとしていることは、キリストを信じることによって私たちに生まれてきた生活の仕方のことを言っているのです。それは、信仰を持たないで生活をしている人とは異なる生き方なのです。信仰を持たないで生きているならば、この地上の生活をできるだけ愉快に、便利に、快適に、自分の好きなことをして過ごそうと心がけるに違いないのです。しかし、キリストを信じて生きようとする者はそれとは全く、異なった生き方をするのです。

 パウロはフィリピの手紙3章13節で信仰生活を競走に譬えて、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神に賞を得ようとしていると語っています。それがキリストによって与えられた生活です。キリストを信じて信仰を与えられると生活の仕方が違ってくるのです。この地上で自分がどのように生きていくのかを中心に生きようとしているのではないのです。信仰を持たない人は、自分が立派に生きるために役に立ち、有益だから聖書を読んで、立派な人を見倣おうと考えます。しかし、そうではないのです。キリストによって与えられた恵みによって励んでいくのが、私たちの生活なのです。

 ガラテヤの信徒への手紙2章20節(p345)に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。」という言葉があります。これも、自分の生活は自分が中心であるというのではなく、キリストが自分を生かしているので、キリストが自分の中心であると言っているのです。キリストのことを知らない人たちの生活と私たちとはどこが違うのでしょうか。 
 
 現在は健康に関心を持っている人が以前に比べて非常に多くなっています。テレビ、雑誌が健康について多く取り上げています。人間が生きているために、健康が一番、大事なものであるかのように思わされています。誰でも健康であることは大事だと言います。それは誰も異存はないことです。信仰者にとっても健康が大事なことには変わりがないのです。しかし、私たち信仰者が健康が一番大事だと言って良いか、ということは問題です。誰かに、あなたにとって一番大事なものは何ですかと問われて、私たちキリスト者が「一番大事なものは健康です」と答えたとしたら、それは問題であると思います。私たち信仰を持っている者は健康が非常に大事なものであることは知っていますが、健康が一番、大事なものであるとは思わないのです。健康が第一と言うのではなくて、私たちが教会生活を送り、キリストを証し、伝道するために、健康であることが必要である、と言うことではないでしょうか。健康でなければ、教会に通えないし、聖書を読むことも、伝道することもできないのです。

 健康を失うと心が折れますが、しかし、私たちは健康を失うようなことがあっても、それで生きる望みを失うことはないのです。健康が最後の頼みになってはいないのです。健康を失っても、幸福に生きる道があるということを信仰によって知っているのです。自分が生きているのはキリストによって与えられたものによって生きているので、最後の頼みにしているものは、キリストであり、神であると信じているからです。                               
 そこで、考えてみると、わたしに倣う者になりなさいと言っていますが、実はパウロが指し示しているのは、自分ではないということがよくわかると思います。パウロはキリストを指し示しているのです。
 
 コリントの信徒への手紙一 11章1節(p313)に「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と語られています。ここでは、わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもわたしに倣う者になりなさい、と言っているのです。パウロだけを見て見倣え、と言っているのではなくて、パウロをよく見て、パウロがキリストに倣っていることをよく見なさい、と言っています。パウロが倣おうとしている主イエス・キリストに倣ってほしいということです。パウロに倣う人は、パウロがどんなにキリストに倣おうとしているかをよく見て欲しいというのです。さらに言えば、わたしを見るよりはキリストを見て欲しいということです。パウロがキリストに倣おうとしているように、あなたがたもキリストに倣って欲しいと言っています。
 
 キリストに倣う、というと誤解をすることがあります。自分がキリストをお手本としてまねて立派に生きることを考えるのです。しかし、そのようなことはできないのです。いつも、神と人とを愛することなく、自分中心に生活して、罪にまみれて生きているような生活ですから、どんなに努力しても、キリストをお手本として、模範として、キリストのように神を愛し、人を愛することはできないのです。
 
 パウロがキリストに倣っている、そのパウロに教会の信徒たちが倣う、そのことを、教会で一緒に生活する、と言う観点から、語ると次のように語ることができるのです。私たちがよく経験することですが、一緒に生活をしているとよく似ていきます。家族として、長く生活をしていると、考え方、生活の仕方が感化され、影響されていくのです。愛情豊かな家庭に育つと愛情豊かな子どもになります。私が大学で受け持った学生の中に、優しそうな学生がいて、その人に両親は優しい方ですかと尋ねたら「両親はほんとうに優しいです」と答えたことがあります。私たちがキリストと共に生活をしていくならば、キリストに似てくるのです。キリストに罪が赦され、愛されて、その恵みに感謝していくとキリストに似ていくのです。自分が立派になると言うのではなくて、キリストを自分の生活の主人として、いつも共に生きていく時に、キリストに倣う者となるのです。
 
 この「倣う」と言う言葉を調べて見ると、テサロニケの信徒への手紙一 1章6節に次のような言葉があります。「そして、あなたがたは、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもってみ言葉を受け入れ、私たちに倣う者、そして主に倣う者となり」と語っています。ここで「聖霊によるみ言葉を受け入れ」と語られていることです。私たちは聖霊によって、説教のことですが、み言葉を受け入れ、受容し、このみ言葉に従っていく、そこから、倣うことが起こるのだ、と語られています。本日の礼拝説教の最初に紹介した二人の信徒はいつもみ言葉を聞いて受け入れ、養われつつ、従って行ったのです。その存在そのものから出て来る、愛、優しさ、献身、がキリストのかおりとなるのです。

 フィリピの信徒への手紙3章17節に戻ります。この17節には「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と書いてあります。「皆一緒に」と書いてあることに注目をしたいのです。

 直訳すると「わたしと共同の模倣者となりなさい」と訳すことができます。パウロは「一緒に」「共同の」と言う言葉をよく使います。キリストと共に苦しみにあずかる、キリストと共同に苦しむと言うように、共同に、一緒に、と言う言葉をよく使います。信仰者たちが一緒になって何かをするという意味でも、一緒に、共同の、という言葉を使うのです。

 ここでよく考えなければならないことは、私たちは、いつでも教会会員と一緒に信仰生活をすると言うことです。一人だけの信仰者ということはないのです。私たちは、一緒に、共同して信仰生活をするものです。自分はただ神だけを信じているので、神だけを相手にして、一人で聖書を読み、一人で祈っていれば良いのだと思っている人がいます。他の人と関わらないほうが楽であるから、自分だけ、一人の信仰生活を守っていくのだと考えるのです。現代は人と人とのつながりをもたないほうが良いという風潮があり、教会にもそのような個人主義の思想が入り込んでいます。

 しかし、本当の信仰生活は、みんなと一緒にするものです。旧約聖書では、イスラエルの民、集団、共同体です。新約聖書では、12弟子たち、教会、という共同体です。教会は新しいイスラエルと呼ばれています。みんな一緒にキリストにならうということにならなければ、本当にキリストに倣うことにはならないのです。わたしたちは聖日ごとに一緒に礼拝しますが、このことは重要な意味を持っているのです。この場所に集まって、みんな一緒に礼拝することが大事です。「皆一緒に」とあります。パウロだけではなくて、パウロと共に伝道したテモテ、テトスをも含めて、フィリピの教会の信徒たちに見倣いなさいと語っているのです。

 私たちはお互いの信仰生活をお互いに見倣うことができます。礼拝を大切にして休まないでいる教会会員を見倣うことができます。心を込めた祈りをする教会会員がいれば、その祈りを倣うことができるのです。自分の言いたいことを言うのではなくて、教会全体のことを考え、他の信徒のことを配意して良い発言をする、その信仰を見倣うことができるのです。互いに他の人の信仰生活から教えてもらうことがあります。教会生活をしていると、私たちが見倣って良いことがたくさんあるのです。
 
 私たちは、自分など他の人が見倣うような信仰生活をしていないので、まねされても困ると思っています。それは正直な思いであるかもしれません。しかし、信仰生活が短くても、その人の信仰生活を見たり、語っていることを聞いて、励まされることがあるのです。自分は立派な信仰生活をしており、自分を褒めてほしい、みんなが自分を見倣って欲しいと思っていたら、そのほうが問題です。自分にはみんなが見倣うようなものはないと思うかも知れませんが、キリストによって恵みを与えられた自分がいるのです。その恵みに感謝していることを表せば良いのです。自分が、キリストに深く愛されていることを、全身で表現すれば良いのです。
 
 コリントの信徒への手紙一 15章10節(p320)「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある恵みなのです。」

20180603 主日礼拝説教  「キリストに捕らえられている」  山ノ下恭二


(イザヤ書43章1−7節、フィリピの信徒への手紙3章12−16節)

 私が高校一年生の時に16キロの長距離を走る大会がありました。長い距離を走るのは初めてなので、終わりまで走れるか自信がなかったのです。そこで、親しい友達と一緒に走ろうと話しました。一緒に走れば、途中でからだの具合が悪くなっても互いに励ましあって終わりまで走ることができるだろうと思ったからです。当日は、友達と一緒にゴールまで走り抜くことができました。
 
 本日の礼拝で、フィリピの信徒への手紙3章12−16節を読みました。ここには私たちの信仰生活を長距離を走るランナ−に例えています。スタートからゴールまで、私たちがどのような走り方をするのかを問題にしているのです。私たちの出発点、それは洗礼を受けた時であり、キリスト者の生活を始めた時です。それがスタートラインです。そしてゴールを目指して走っていくのです。今、私たちが信仰生活をしているのは、走っている最中であって、まだゴールに到達していないのです。
 
 皆さんも経験した方もあると思いますが、初めは元気よくスタートするのですが、途中で疲れて来て、走るのをやめて棄権しようかと思ったり、走るのが辛くなり、この競技に参加しなければ良かった、と思ったりするのです。

 私たちも洗礼を受けて、初めははりきって信仰生活を始めます。初めは熱心に礼拝に出席し、熱心に聖書を読むことをしますが、日曜日に行事が入り、礼拝に出席することが少なくなり、聖書を開かない、祈ることも止めてしまうことが、途中で起こることもあるのです。人間はわがままなので、自分の思い通りにならないと礼拝に出席することをしなくなることもあります。キリスト者になったからと言って、仕事がうまくいく、家庭も円満で、病気知らず、ということを約束されているわけではないのです。悲しいことを経験したり、親しい者を失う、そのような不幸に遭うと神は本当にいるのかと疑い、信仰生活を止めてしまうこともあります。その意味で、信仰生活を続けていくことは自分との戦いなのです。走るのが大変で、棄権したい、そのような自分の思いと戦って走り続けて行くのです。私たちは信仰生活という長距離走に参加して走っているのです。走り終わったのではないのです。走っている途中なのです。

 パウロは、3章12節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません」と語っています。「完全な者」と言う言葉には、この時代に流行っていた宗教が背後にあります。この時代の人々は、自分たちの不安や苦しみに対処するために、宗教的な儀式をして自分が悟りを得る、そのような宗教に参加している人々も多かったのです。そのような宗教の秘密の儀式により、完全に神を知っていると主張する人々がいて、自分たちを「完全な者」だと言っていたのです。フィリピの教会にも、その影響を受けて、「完全な者」と自称する人が現れたのです。フィリピの教会の会員の中に、自分は深い真理を悟るようになった、自分は完全に神の神秘、奥義を究めたと考えていた人たちがいたのです。
 
 しかし、パウロは完全に神を知ることはできない、と語ります。コリントの信徒への手紙一ですが、言葉が分かりやすいので口語訳を引用します。「私たちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分に過ぎない」と語り、「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」(コリント人への第一の手紙13章9節、12節)と語っています。パウロは神を完全に知り、完全にキリストを知るということはない、と語るのです。今の鏡は自分の顔をはっきり映し出しますが、この当時の鏡は今の鍋のような鏡でした。鍋に自分の顔を写すと、ぼんやりとしか映らないのです。そのように、キリストのこともぼんやりしかわからないとパウロは語っているのです。「私たちの知るところは一部分であり」と言うのです。神を完全に知っていると言うのは、傲慢であるのです。人間は有限な存在で、神を完全に知ることはできないのです。
 
 完全に知らなければ、キリストを知ったことにならないとしたら、大変なことになります。私たちは夫婦、親子、兄弟、という近い関係でも、相手を理解できないことがあるのです。長くつきあいながら、よくわからないことが多いのです。完全にわかり合えないと夫婦、親子、兄弟ではないとは言えない、と言ったらそれはおかしなことになります。夫婦も、親子も兄弟も互いによく分からないながら、一緒に暮らしているのです。

 神を完全に知っている人など、一人もいないのです。神学校の教師も自分の専門分野しか知らないのです。新約聖書を研究している学者でも、自分はパウロを研究しているので、福音書のことは知らないと言うのです。自分はこの分野については少しは知っているけれども、その他の分野は全く知らないと言うのです。私たちは、神を一部分しか、知らないのです。
 
 しかし、自分がキリストによって神に深く愛されていることを知っているならば、神を知っていることになるのです。3章12節に「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全なものになっているわけでもありません。何とかして捕らえよう努めているのです。」とパウロは語っています。パウロは、自分がキリストを知っている、その知識は不完全であるかも知れませんが、自分が既にキリストによって生かされていることは確かなことだと語るのです。既に自分はキリストによって生かされていることは確かなことですから、キリストをより深く知りたい、キリストを捕らえたい、と願うのです。自分に与えられている神の恵みをさらに知りたいと願うのです。
 
 興味深いことに「捕らえる」と訳されている言葉は、「迫害する」という言葉で使っています。迫害する、それは相手を徹底的にやっつけることです。私が神学生の時によく勉強していた同級生が私に「やっつけなければ」と言うので「それはどういう意味、何をやっつけるの」と尋ねたら、「聖書の言葉はとても深い意味があるので、自分がその意味が分かるように努力することを言っている」と答えたのです。

 私たちも、信仰者として福音を追い求め続けることが求められています。自分は福音をよく知っている、教会生活が長いので、自分は聖書のことは、よく分かっている、学ぶ必要がない、と言うのではなくて、真摯に、神の言葉を求めるのです。聖書の言葉を知っているからと言って、分かっているわけではないのです。分かったつもりで聖書を学ばないならば、それはいつのまにか失格者になってしまうのです。聖書の言葉を学び続けるのです。その意味では私たちは一生涯、求道者なのです。
 
 主イエスはある時に、天の国と言うのは、高価な真珠を見つけた人がぜひそれを得たいと思って、自分の財産をみんな売り払って買い取るようなものだと言われたのです。同じように、福音を知って、その喜びを得た人は、その福音の内容をもっと自分のものとするために、あらゆる努力をするのです。聖書を学べば学ぶほど、自分が知らないことが多いことに気がつき、もっと知りたい、学びたい、となるのです。
 
 3章12節に「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と語られています。この言葉はパウロの実際の経験から出て来た言葉です。パウロがダマスコ途上で、キリストが「なぜ、わたしを迫害するのか」と捉えられて回心した出来事を想い起こしながら語っている言葉なのです。それはパウロがキリストから一方的に呼びかけられて、パウロの新しい歩みが始まったからです。それ以前は、自分から神に向かい、戒め、律法を完全に守ることによって神に近づいていく生活であったのですが、神の側から一方的にパウロに近づき、神が主導権を握って導いてくださったのです。自分の正しい行い、立派な生活によって神が正しいと認めるのではなく、ただキリストを信じることによって正しい者と認められる、その信仰を与えられたのです。自分が神を追いかけていくのではなく、神は私たちを追いかけてくださるのです。嫌な者が自分を追いかけるのではなく、神が私を追いかけ、捕まえて、恵みで満たして下さる、神の憐れみで満たして下さるのです。神に対して誠実で良い生活をしていなくても、その罪が赦され、受け入れられているのです。パウロの人生は、キリストに捕らえられたと言う恵みによって生き方が決定され、何とかして捕らえようと努める人生なのです。私たちに先行して、神が私たちを愛し、恵みをもって導いてくださるのです。

 新約聖書のヨハネの手紙一 4章10節には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と語られています。このように、私たちに先がけて神の恵みが働いているのです。だからこそ私たちは、自分を捕らえて下さるキリストを、自分もまた捕らえようとして追い求めるのです。詩編23編6節に「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」と歌われています。恵みが私を追いかける、恵みによって私は捕らえられている、と歌うのです。 

 3章13節−14節に「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思ってはいません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と語られています。よく考えてみると、走っている時は、走ることにだけ専念しているのです。他のことをすることができないのです。走っている時に水分を補給することがありますが、途中でお店に寄って買い物をしたり、レストランに入って食事をすることはないのです。ただひたすら目標を目指して走るだけなのです。信仰生活は、これもしなければならない、あれもしなければならないというようなことではないのです。ただ前を向いて走るだけなのです。
 
 ここでパウロは、「後ろのものを忘れ」るのだ、と語ります。この言葉は、おそらく、パウロがキリストを知るに至る前の、ユダヤ人としての誇りに満ちた経歴とその業績のことです。キリストに捕らえられて回心し、伝道して来た働きも、パウロにはもはや忘れるべき、後ろのものに属していたのです。
 
 私たちにとって、「後ろのもの」と言うと、ただ過去のことだと思うのです。昔のこと、過去のことばかり言うのは「後ろ向きだ」と言います。「後ろのもの」とは、自分が犯した罪のことなのです。過去のことは、いつでも悔やむ思いをもって私たちに迫ってくるのです。私たちの過去を振り返ってみると、自分の罪のために失敗して希望を失ったことや恥をかいて面目を失ったことも多いのです。過去は現在につながっているので、時々、過去の罪が顔を出すのです。私たちは過去のことにとらわれがちです。そのような過去から解放されなければ、自分の生活は決して新しくはならないのです。私たちが悔い改めて神によって罪が赦され、感謝に変えられていくならば、私たちは過去から逃れることができるのです。そうでなければ、私たちは、過去を思い出すたびに苦しめられ、辛い思いをしなければならないのです。               
 私たちは自分が犯した罪を思いだして、辛くなることがあります。過去を忘れることは、過去の罪を忘れることです。罪が赦されることです。神によって罪が赦されることによって罪が消され、罪から免れられ、過去から逃れることができるのです。わたしたちの過去を神が赦してくださることを信じるならば、罪を葬り去ることができるのです。過去の罪を引きずる必要はないのです。毎週、私たちが礼拝で説教を聞き、聖餐を受けることによって、過去の罪を忘れ、赦されることを経験するのです。礼拝に出席して、説教を聞き、聖餐にあずかることによって、後ろのものを忘れることができるのです。

 後ろのものを忘れるだけでは、先には進みません。新しい気持ちで前に進ませるのです。「前のものに全身を向けつつ」「前に向かって体を伸ばしつつ」と語られています。長距離走の選手は早く走るために走る体勢を整えて走ります。体の角度を考えて走っているのです。体が前に傾くような走り方をするのです。

 パウロは、当時の競技になぞらえて、私たちの信仰生活を語っています。走り抜いて完走する、それは激しいものです。近いところをブラブラ歩くのではないし、気が向いた時だけ、短い距離をジョキングするのではないのです。走り抜いて完走することは並大抵なことではできないことです。
 
 コリントの信徒への手紙一 9章24節−26節(p311)に、「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」と語られています。競走するものは節制する者です。日頃、全く、走っていない者がマラソン大会に出ても、少し走ると息が切れ、足が痛くなり、すぐに走ることができなくなります。いつもトレーニングしていないと走れないのです。

 ある時、チェリストの藤原真理のインタビューが新聞に載っていましたが、音楽家は演奏するために、ストレッチしたり、ジムに行って体を鍛えておかないと演奏ができないと語っていました。おいしものを食べたい、好きなことをしたい、そのようなことを断念して、節制して、走るべき競走に参加するのです。
 
 「前に向かって」。この「前」とはどこか、それは神の方角に向かっていくのです。箱根駅伝の最初の日のゴールは「箱根」であり、そして復路は東京・大手町が最終のゴールです。そのゴールに向かって走るのです。ゴールには同じチ−ムの選手が大勢、待っているのです。私たちの競走は神が待っているのです。そして神は賞を用意して待っています。ある訳は「ご褒美」と訳しています。この「賞」という言葉は「審判する者」という言葉です。神が最後に審判すると言う意味の言葉なのです。ゴールに早くたどり着いた者の順に、順位をつけて、この人は一等、次の人は二等と審判して、それにふさわしいご褒美を戴くことができるのです。このご褒美とは私たちがゴールに辿りついた時に神が私たちを出迎え、よく走ってきた、よくやったと褒めてくださることです。辛い時も、苦しい時も我慢して信仰をもってここまでよく走り抜いたと抱きしめてくださるのです。
 
 私たちは一人で走っているのではないのです。孤独のランナーではないのです。一緒に走って下さる方がいるのです。私たちの信仰生活を共に、一緒に走ってくださる方がいるのです。箱根の大学駅伝で、選手のあとを車で追いかけ、監督が「がんばれ、その調子だ」、「少しペースを落とせ」、「もうすぐゴールだ」と励ましています。伴走してくださる方がいるので、私たちは走っている途中で疲れても、走ることを止めることなく、忍耐しながら走っていくことができるのです。
 
 ヘブライ人への手紙12章1節(p416)「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人に囲まれている以上、すべての重荷と絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」

20180527 主日礼拝説教  「人生は空しい、しかし、喜びがある」  山ノ下恭二


(コへレトの言葉1章1−11節、コリントの信徒への手紙二 5章17節)

 本日の礼拝で旧約聖書のコへレトの言葉1章1−11節を読みました。コへレトの言葉と言う書名は馴染みがないかも知れません。以前、私たちの教会が使っていた口語訳聖書では「伝道の書」と言う書名でした。「コへレト」と言う言葉は「集める者」と言う意味の言葉で、集会を司る働きをする人のことです。集会を司る人は説教者と言い換えることができ、口語訳聖書では「伝道の書」と名付けられていました。私も口語訳聖書を読んで育ったのですが、伝道の書でよく知られた言葉は「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と言う言葉です。この言葉を聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。新共同訳聖書では「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と言う言葉になっています。
 
 このコへレトの言葉を金曜日の祈祷会で学んでいますが、とても謎めいた不思議な言葉も多く、理解するのに難しいのです。コへレトの言葉をよく理解しようとしてもなかなか理解できない箇所もあります。

旧約聖書の中で、箴言、ヨブ記、コへレトの言葉は知恵文学と呼ばれますが、それぞれ、異なった内容を持っています。「知恵」とは何かを論じると難しくなりますが、神に対して、人に対して賢く生活するための知恵が語られているのです。ただ、箴言もヨブ記もコへレトの言葉もそれぞれ書かれ、編集された時代の背景が異なっています。箴言は安定した時代にまとめられました。原因があり、その原因に見合う結果がある、そのような法則が成立し、通用する時代を背景に、信仰者としての生き方を諺や格言として伝えているのです。勤勉に働けば、利益がある、よく学べば、良い結果が出る、そのような法則が社会で通用していた時代だったのです。
 
 しかし、ヨブ記、コへレトの言葉が書かれ、まとめられた時代は、社会が混乱し、安定しない時代だったのです。経済格差が広がり、人種間の対立があったのです。箴言のような、原因とそれに見合う結果がある、と言うのではなく、原因と結果がつながらないのです。一方でまじめに働いている者が貧しくて生活に困り、苦しんでいる、他方で、悪いことをしている者が金持ちで、毎日おいしいものを食べ、愉快に暮らしているのです。お金がなくて生活ができない者が病いで苦しみ、金持ちが別荘で朝からワインを飲んで楽しく暮らしている、そのような時代に生きていたのです。

 そのような不条理がまかり通る時代にヨブ記、コへレトの言葉は書かれ、まとめられたのです。現代と言う時代と、ヨブ記、コへレトの言葉が書かれ、まとめられた時代とよく似ています。現代は、表面的には豊かな社会であるように見えますが、経済格差が広がり、それが子どもの生活にも影響が及び、こども食堂を設けなければ食べていけず、非正規労働者が増えて、生活が苦しい若者も多くいるのです。そのような生きにくい時代にどのように生き抜くのか、を若者たちに諺や格言によって教えているのです。
 
 知恵の法則の主流は、箴言です。原因があり、原因に見合う結果がある、という法則で語ります。足が速い者は競走で勝つ、強い者は戦いに勝利し、弱い者は負ける、聡明な者は、良い地位を得ることができるのです。私たちもこの法則で生きているのです。まじめに勉強しないと、進級はできないのです。一生懸命、働かないと給料はもらえないのです。この法則でこの社会は動いているのです。この法則が行き過ぎ、成果主義がまかり通ると、働いている人の生活が壊れ、過労死により、いのちが失われるのです。しかし、原因と結果は堅く結び付いているのです。コへレトの言葉は、現実の社会では、その法則が機能しないことを問題にしています。原因と結果がつながらない、その時に、どのように生きていくのか、様々な経験をした年長者がこれから生きようとする若者に教えているのです。
 
 このコへレトの言葉に特徴的に出て来る言葉は「空しい」という言葉です。
このコへレトの言葉の最初と最後に「空しい」と言う言葉が出て来るだけでなく、コへレトの言葉だけで、38回もこの言葉が出て来ます。ヘブライ語では「へベル」と言う言葉です。この言葉は「空しさ」「無益」「空虚」「はかなさ」「短さ」と訳すことができます。この言葉は元々、「風」「息」という意味を持っています。「風」も「息」もつかの間で、捕らえどころがないのです。そこから「空しい」とか「はかない」という意味になったのです。創世記4章に、カインとアベルの兄弟の物語がありますが、弟のアベルが兄のカインに殺されてしまうのです。この「アベル」は「へベル」と言う言葉から派生した言葉なのです。兄カインに殺されて、アベルの命は短く、その命は、はかないのです。コへレトは38回も「空しい」と語りますが、「空しい」はどのようなことなのでしょうか。
 
 例として聖書の言葉を紹介すると、コへレトの言葉2章18−21節には、労苦して、財産を得ても、本人が死んでしまい、労苦した本人がその労苦の利益を受け取るのではなく、労苦していない子どもが、その利益を受け取ることは、とても空しいものだ、と言うのです。
 
 コへレトは、現実の社会で実際に起きている人生模様をよく観察しているのですが、労苦に見合う利益を本人が受け取ることができないので、労苦そのものが空しい、と言うのです。財産を殖やそうとして、株を買うけれども、その株が値下がりして、持っていた財産をすべて失い、子どもに財産を残すことができない、そのことは空しいことであると書かれています。会社を立ち上げて、会社を大きくし、自分は勇退して、後継者に譲ったけれども、後継者に経営の才能がないために、会社が倒産してしまった、それはとても空しいことだと言うのです。そのような空しさを私たちはいつも経験しているのです。
 
 「空しい」と言う言葉が多く出て来るので、このコへレトの言葉は、人生に対して否定的な、暗い思いで書いているのでしょうか。仕事を成し終えた後に、何の意味もない、空しさだけが残る、そのことに共感しているのがこの書物なのでしょうか。私たちは「空しい」と思うことがあります。一生懸命しているだけに、その成果がない、手応えがない、それは空しいと思うのです。
 
 私は毎月、東京説教塾で、加藤常昭先生の指導で説教について他の牧師たちと共に学んでいます。この1月から、第一の黙想について学んでいます。例会では、まず、録音した音声の説教を聞いた参加者が、聞いた第一印象を語り、説教を分析し、意見を言い合うのです。そして第一の黙想と説教とのつながりを分析します。加藤先生が、発表した説教と黙想に対して、全体的な批評をするのですが、黙想と説教がつながらず、良い説教にならないので、最近、嘆くことが多くなりました。一生懸命教えているのに、黙想を理解できないのは、とても残念だ、自分の教え方が悪いのか、と嘆くことが多いのです。加藤先生の気持ちを推し量ると、自分は丁寧に教えているけれども、説教塾の牧師たちがなかなか説教が上達をしないので空しく思っていると思います。
 
 この地上で起こる様々な人生模様を観察して、人生にはそのような空しさがあることを指摘しながらも、コへレトは、この人生が神から与えられた人生であることをよく認識するようにと語ります。コへレトは、自分の人生を神から与えられたものとして受け取っているのです。それは「神」と言う言葉が32回も出て来ることで分かります。神との関わりで生きていくならば、たとえ、空しさを覚えることがあっても、それは神がいのちを与えた、かけがえのない、大切な人生であると確信しているのです。
 
 コへレトの言葉を読んで、余り気がつかないかも知れませんが、コへレトの言葉は、死んだ後のことには全く関心がないのです。旧約聖書にはコへレトの言葉とは対極にある、ダニエル書という書物が入っています。このダニエル書は黙示文学です。黙示とは、神が歴史の最後に神の秘密を明らかにする、謎を解いているのです。この歴史の最後がどうなるのか、を明らかにしています。このダニエル書は、神が終わりに来る、その時が分かることを教えています。黙示文学はこの世の終わり、歴史の彼岸、死の向こうのことに関心があるのです。神が再び、来られて審判し、白黒をはっきりさせる、そのことに関心があるのです。この地上の生活には望みがないのです。現世を否定するのです。現実の生活は仮の生活であって、本来の生活は、死後にあるのです。自分が生きている、今の時に関心がなく、神が来られる時、死んだ後のことに関心をもっています。神が審判に来られるので、裁かれないように、この地上では、禁欲し、忍耐して過ごすことを主眼に生きるのです。いつでも神が来ても良いように、この時を忍耐して、神の到来を待つ姿勢でいるのです。
 
 しかし、コへレトの言葉は死後のこと、彼岸については全く関心を持ってはいないのです。コへレトは、人間の死ですべてが終わると考えています。死の向こうを考えることはありません。生きる時間、死までの残された時間をどのように生きるのかを真剣に考えているのです。9章4節に次のように書かれています。「命あるもののうちに数えられてさえいれば まだ安心だ。犬でも生きていれば、死んだ獅子よりましだ。」死んだ後のことに心を使うことは意味がないと言うのです。この地上で生きることにのみ価値を置くのです。

 あとどのくらい生きることができるのか、その時間こそが大切で、かけがえのない時間なのです。人生は空しいから、意味がないと言わないのです。空しいから、自殺をしたほうが良いとは言わないのです。むしろ、この人生を大いに肯定するのです。生きているあいだ、積極的に生きることを勧めるのです。9章10節で次のように書かれています。「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。」(p1045)今、関わっていることに誠心誠意、打ち込め、と言っているのです。今の時が大切なのです。今、与えられている時を生かして、積極的に生きることを勧めているのです。
 
 「へベル」と言う言葉は「短い」とも翻訳することができます。時間の短さを表現しているのです。この時代の平均寿命は30歳位と言われます。20歳になっても、あと10年ぐらいしか、生きられないという認識を持っているのです。人生は短いという感覚を持っているのです。現代は男性の平均寿命は80歳、女性は86歳と長生きですから、人生は短いとは言えないかも知れません。あくまでも平均寿命ですので、人によって死亡年齢は異なります。早く亡くなる人もいるわけです。私たちが経験するのは、人生というものは、過ぎてみると、短いと思うのです。若い時には、70歳、80歳は遙か遠いものと考えていました。自分が70歳、80歳になるとは思わなかったのですが、もう70歳、80歳なのです。同じぐらいの年齢の人が死ぬ、同じ年齢のいとこが死ぬ、というのは、とてもショックです。今度は自分の番かも知れないと恐れるのです。自分も死ぬ、そのことを自覚して、今与えられている仕事に励むのです。11章6節には「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、分からないのだから。」(p1047)

 宗教改革者ルタ−が残したと言われている言葉にこういう言葉があります。「たとえわたしが明日、世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの木を植えるであろう」。この言葉は有名になりました。キリスト者でなくても、この言葉を座右の銘にしている人も多いのです。明日、世界が破滅するかも知れません。そうだとすれば、りんごの木を植えることは全く無意味になってしまいます。しかし、ルタ−は「たとえ明日、世界が破滅することがあったとしても今日、りんごの木を植えよう」と語ります。たとえ明日が終わりでも、今日という日を決して無駄にしないと言うのです。今日と言う日はもう戻らない、取り返すことができないのです。今日という日を無駄にしないのです。心を込めて生きるのです。明日も生きるから、今日はいい加減に生きると言うことはしないのです。

 この礼拝で、新約聖書・コリントの信徒への手紙二 5章17節を読みました。ここには「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と語られています。キリストを信じている者は何の苦労もなく、生きているのではないのです。この地上で生活をしており、矛盾や不条理に直面します。しかし、キリスト者は、この地上で生きている人々とは異なる、新しい生き方を持っているのです。私たちは、イエス・キリストによって罪が赦されたのです。神との正常な関係を持つことができているのです。キリストよって罪赦された者、それは新しい存在になったのです。自分中心に生きて、罪にとらわれている、罪に支配されている存在ではないのです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたのです。」そのような新しい存在になった者は、神をまことの神として礼拝し、隣人を愛する者なのです。

 6月10日(日)礼拝後、コンサートをしますが、6月3日(日)に新聞に折り込みでコンサートのチラシ6、000枚を入れます。そして、この地域に2、000枚、ポスティングして、宣伝します。この地域の多くの人が教会に来て、教会堂の中に入って欲しいと願いながら、ちらしを配るのです。その一方、8000枚のちらしを配布しても、来るのは、100人位かなと言う思いと、来てもその後、教会に続いて来ないしな、という思いがあります。しかし、ちらしを配るのは、無駄になることはないのです。それは私たちの思いを遙かに超えた神の導き、配慮があるからです。伝道をしても、反応や手応えがなく、空しく思うことがあります。しかし、神は働いておられるのです。
 
 私が岡山の蕃山町教会に赴任した、その2年後に、岡山大学に入学した一人の男子学生が礼拝に来ました。1回来ただけで、その後、来なかったのです。少し経過して、その学生の両親が礼拝に見えて、静岡の島田教会の会員で、息子が教会につながるように訪問して欲しいとお願いされました。それで、岡山大学の大学YMCA操山寮を二回、訪ねました。クリスマス会には来たけれども、その後は、教会には来なかったのです。この学生は教会には来ないな、とあきらめていました。その10数年後、「心の友」に「人を挫折から立ち上がらせるもの」と言う題で、この学生が文章を書いており、その肩書きが「輪島教会牧師」になっているのです。この人は牧師になったのか、と思い、とても驚きました。岡山大学を卒業して製薬会社に勤めていたのですが、身体を壊して静岡の自宅で療養していた時に、町で高校時代の友達に偶然、会った時に、「今晩、うちに来てキリスト教の話をしてくれんか」と言われたことがきっかけになって、教会に復帰して、仕事を始めた、と書いてありました。

 その後、伝道者の召命を与えられて、神学校に進んで牧師になったことが分かりました。現在は神奈川のある教会で牧師をしています。教会には来ないな、とあきらめかけていたことを、神はあきらめないで、伝道者として立たせてくださったのだ、と思ったのです。伝道の働きは決して「空しく」ならないのです。

 伝道しても「空しく」なることがあります。教会学校の奉仕もそうです。心を込めて、説教し、いろいろ配慮しても、手応えがないことが多いのです。しかし、それは、無駄にはならず、空しくならないのです。生きていても空しくなることがあります。しかし、空しくはならないのです。それは神が私たちを愛し、配慮してくださっているからです。私たちが空しい思いになる時にも、私たちに手を差し伸べ、勇気づけて下さるのです。

20180520 主日礼拝説教 「死を味わうことのない人生」  山ノ下恭二


(コへレトの言葉3章18−22節、ヨハネによる福音書8章51節)

 本日の礼拝で、コへレトの言葉3章18−22節を読みました。コへレトの言葉は、箴言、ヨブ記と共に、旧約聖書の中で知恵文学と呼ばれています。この知恵とは、神と共に幸福な生活をするための知恵、その方法を教えています。様々な経験をした年長者が、その経験から知り得た教訓を若者たちに諺や格言として伝えているものです。
 
 旧約聖書の知恵文学は、箴言とヨブ記、コへレトの言葉ですが、箴言とヨブ記、コへレトの言葉とは、書かれた時代が違います。箴言は安定した時代に書かれています。社会が安定しているので、法則通りにすれば、その結果が与えられるのです。箴言が語る法則は、原因があり、その原因に見合う結果がつながっているのです。例えば箴言21章5節(p1017)にはこう言う言葉があります。「勤勉な人はよく計画して利益を得 あわてて事を行う者は欠損を招く。」原因に見合う結果がある、という法則で語るのです。これは、社会が安定している時代に通用していたのです。よく勉強していれば、試験に合格し、怠けていれば、試験は不合格になるのです。
 
 しかし、社会が混乱し、不安定であると、現実には、箴言のようにはならないのです。原因があって、それに見合う結果にはならないのです。よく勉強して、試験に合格しても就職口がないのです。コへレトの言葉とヨブ記とが書かれた時代は社会が混乱し、不安定な時代でした。生きにくい時代を生きなければならなかったのです。今まで通用していた論理が通用しない、困難な時代でした。コへレトの言葉とヨブ記とは、原因とそれに見合う結果とがつながらない、そのことを問題にしているのです。実際にまじめに働いている者が貧しくて生活に困り、苦しんでいる、その一方で、悪いことをしている人が金持ちで、毎日、おいしいものを食べ、裕福に楽しそうに暮らしている、そのような不条理な現実があることを指摘しているのです。コへレトの言葉9章11−12節には、足が速い者が競走で一等になるはずだけれども、一番、最後を走っている、戦いに強いから相手を負かすだろうと思っていたら、予想に反して、相手に負けてしまう、聡明で頭が良い人が、就職口がない、そういうことが現実があることを指摘しているのです。
 
 コへレトの言葉は、人間はその「時」を知らないと語ります。たまたま歩道を歩いていたら、車が暴走して、歩道に乗り上げ、歩いている人たちが次々と跳ねられて死ぬ、この人たちが車の事故に遭い、死んでしまう、このような事故になることは誰も知らないし、予知ができないのです。思いがけないことが起こる、想定外のことが起こることを誰も予測ができないのです。人間は、その「時」を知らないのです。コへレトの言葉はそのような不条理があることをよく自覚して、生きにくい時代をたくましく生き抜くための知恵を提供しているのです。

 このコへレトの言葉は、「空しい」と言う言葉を36回も用いています。「へベル」という言葉は「空しい」と訳するだけでなく、「儚い」「短い」とも翻訳することができます。特に、死について、何度も語るのです。コへレトの言葉3章19節には、「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ」と語っています。人間は、動物と同じように死ぬ、と語り、死という限界をもっているというのです。そのように人間は造られたのだ、と言います。
 
 今日の説教題は「死を味わうことのない人生」という題です。この題を見て、皆さんはどのように思うでしょうか。死ということを身近に感じる時があります。私たちは葬儀に出席することがあります。その時に、自分がいつかは死ぬことがあることを感じるのです。自分はいつか死ぬだろうと言うことは感じている、しかし、すぐに死ぬわけでもないと思うので、真剣には捉えないのです。コへレトの言葉9章5節に「生きているものは、少なくとも知っている 自分はやがて死ぬ、ということを。」と語られています。自分が死ぬということを自分は知っている、しかし、すぐに死ぬとは思わないのです。すぐに死ぬわけではないと思うので、葬儀について考えをまとめたり、葬儀の用意をすることは後にしよう、ということになるのです。「もしもノ−ト」に私が死んだ時の緊急連絡先は書いてあります。
 
 このコへレトの言葉は、人生にゼロをかけるのです。100に0をかけると0です。0に0をかけても0になります。100と言うのは、この世の価値基準で言えば、成功した人のことをいいます。0と言うのは、特別なことはなく、平凡に生きた人のことです。その人の人生に「死」という0をかければ、100も0であり、0も同じ0になるのです。誰でも死ぬのであり、人間は死において、平等なのです。死ぬ、ということは自分の存在がこの地上から完全に失われることなのです。自分の存在が消え、自分の意識がなくなることなのです。コへレトの言葉は自分が死ぬことを自覚し、いつも踏まえて生活することを強調しています。私は、この人と会うのが最後かも知れない、と思うことがあります。別れる時に、その思いをもって挨拶をすることがあります。

 遠藤周作が「死について」と言う本を出しています。自分は死ぬ時に立派な言葉を残して死ぬことはできないだろう、「孤狸庵死ぬとも文学は死なず」という言葉を言うことはできないだろうと書いています。遠藤周作は、死ぬ最後のことを詳しく書いていますが、それだけ、死について真剣に考えていたことが分かります。

 この礼拝において、新約聖書のヨハネによる福音書8章51節を読みました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」と語られています。「わたしの言葉を守るならば、その人は決して死ぬことはない。」初めてこの言葉を読んだ人にとっては不思議な言葉だと思うのです。この主イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちはこの言葉を8章52節で、「『わたしの言葉を守るなら、その人は決して味わうことがない』」と言い換えています。この言葉をヒントにして本日の説教題をつけました。「死を味わう」と言う言葉はとてもリアルな言葉であり、死を味わうことがないとは、どのような意味があるのでしょうか。                                     
 
 51節の「決して死ぬことはない」という言葉は、他の多くの翻訳とは異なっています。他の多くの翻訳は「死を見ることはない」と訳しているのです。「死を見る」と言う翻訳のほうがギリシャ語の原語に近いのです。実際にこの目で見る時の言葉を用いています。決して死を目で見ることがない、と言うのです。私たちは死と言うと肉体の死を考えますが、聖書は、神との関わりにおいて、死と言うことを捉えています。この地上の生活の次元ではなくて、霊的な次元、神との関わりでの次元で「死」を語るのです。この「死」は関わりにおいて語られています。このヨハネによる福音書は、この地上でのいのち、自然的ないのち、ビオス、バイオ、と言う言葉を一度も使っていないのです。「ゾ−エ−」と言う言葉を使っているのです。

この言葉は「関わり」における「いのち」なのです。私たちは人と関わって毎日を生きています。「愛」が問題になります。相手とどのように関わるのか、相手とどのように距離を取るのか、ということを悩むことがあります。相手と良い関係をもっている、逆に、相手と関係が良くない、そういうことがおこります。関係が切れてしまう、関係を失っていることを「死」と言う言葉で言い表しています。

 「死」と言うと「肉体の死」を考えます。肉体が亡くなることを考えます。しかし、聖書は肉体の死よりも神との関わりを失うことを「死」と呼んでいます。そして聖書は神と私たちの関係が「失われている」「死んでいる」のを、主イエスが死ぬことによって関係が回復すると考えているのです。

 従って、主イエスの死がどのような意味があるのか、が最も重要なのです。主イエスの死とは私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。主イエスの死はどのような死であったのでしょうか。それは私たちのための死なのです。私たちのために死なれた死なのです。

 主イエスはどのような死に方をしたのでしょうか。主イエスが十字架につけられて、最後に叫んだ言葉がよく言い表しています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言う言葉です。私たちに代わって、主イエスから罪の罰を、罪の審判を受けて死ぬ、その時に、神に見捨てられてしまったと言う叫びなのです。その意味で、主イエスは神の審判の死という最も厳しい死を経験されたのです。私たちの代わりに、最も厳しく、辛い死を味わったのです。この主イエスの死によって、私たちはこのような審判の死を経験しなくても良いものとなったのです。

 礼拝でいつも使徒信条を告白しています。この使徒信条で主イエス・キリストの死について詳しく告白しています。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」と語っています。「死んで葬られ」と語られているのは、「まことに死んでしまった」ことを証明するためです。主イエスは私たちの死、この肉体の死を経験するだけでなく、神による裁きの死を経験されたのです。それは、私たちが神との和解に生き、神の子として生きるためです。あるドイツの神学者が「死にて葬られ」と言う言葉を次のように解説しているのです。

 「もはや、誰ひとり、一人ぼっちで死ななければならないということはなくなったのだ。まさにこの自分の死において、イエスの死を共に死に得るからである。イエスが私たちの死を、ご自分の中に受け入れて下さったことにより、私たちの死の意味が変わってしまっているのだ。『イエスと共に』と言うことによって、死はもはや望みなきものではなくなった。神を軽んじていた私たちの死、神との交わりをすっかりないがしろにしていた私たちの死を、イエスは一挙に取り除いてくださっている。一切のいのちの根源である神から、そのように切り離されていたということにこそ、死の厳しさがあったのである。しかし、イエスが死んでくださったのちには、私たちの誰ひとりとして、そういう死に方をしなくて済むようになったのである」。

 主イエスの死について語っている、この解説を読んで、私は感動し、とても気持ちが楽になったのです。主イエスは、私たちの肉体の死を経験されたばかりでなく、私たちが罪を犯して、その罪の罰を受けるはずなのに、神からの裁きの死を経験し、味わい、私たちは赦されて、和解が与えられて過ごすことができるのです。私たちは、神に裁かれ、死刑判決を受けて、死ななくても良くなったのです。自分が罪を犯して、赦されることなく死ぬことはないし、わだかまりをもって死ぬことはないのです。

 少し前に、太平洋戦争の最中、日本軍で旧中国東北部で631部隊・石井部隊が人体実験をしていた、そのドキュメンタリーのテレビ番組を見たことがあります。現地の中国人を捕まえて、チフスなのどの病原菌を注射して、どのように感染し、死に至るのか、その様子を観察する人体実験をしたのです。その人体実験に関わっていた一人の医師が、戦後、中国で裁判にかけられ、有罪判決を受け、長く抑留生活をしていて、近々、帰国できると言う時に、自殺をしてしまったのです。日本に帰国できるのに、帰る前になぜ自らいのちを絶ったのか、それはこの人が多くの中国人を死なせたことに良心がとがめ、自分の深い罪を自分が赦すことができなかったのではないか、と思いました。自分の深い罪を思う時、神の前に立つ時に、神に対して、自分の罪は赦されないと思うのです。
 
 しかし、主イエスは私たちの罪を代わって引き受け、神の審判による死を引き受けて、死を経験し、死を味わったのです。このことによって、私たちは神の審判の死を経験しなくても良くなったのです。イエス・キリストの死のお陰で神が裁く死を免れることができるのです。イエス・キリストの死によって私たちは、罪が赦され、生かされているのです。「いのち」とは、神と関わることにおいて与えられるいのちのことです。主イエスの死によって神との関わりを回復することができたのです。それは私たちが肉体の死を経験しても、神との関わりは変わることがないのです。母親に抱かれた子どもが寝てしまっていても、母親はしっかりと抱いているように、神は私たちの地上の存在が消えてしまっても、神はしっかりと私たちを離さず、抱きしめて、関係を持っているからです。
 
 私は多くの葬儀を経験してきましたが、そこでは、死んだ者の魂が不滅であることを強調することはありません。立派な生活をしたのでご褒美に永遠の命を与えられる、と語ることはなかったのです。誰の死に立ち会いましても、この主イエスと共に死ぬことの幸いを語るだけです。主イエスが私たちの死を味わい、それと同時に罪の贖いの死を味わい、私たちの死を自分の中に受け入れて、共に死んでくださり、神の永遠のいのちを与えてくださっているからです。

 自分が死んだ後、どうなるのだろうか、そのことを考えると恐ろしくなります。しかし、私たちはそのことを考える必要はないのです。私たちの死においても、死んだ後においても、神が私たちと共にいてくださるからです。
 
 佐々木正美という児童精神科医師が「子どもへのまなざし」と言う本を3冊書いています。この本は、親が子どもを幼児から、思春期までに、どのようなまなざしで、向き合って育てて行くのか、を詳しく、丁寧に解説してあります。とても良い、子育ての本です。「子どもへのまなざし」の一冊目に「ありのままの子どもを受け入れること」という中で、次のように解説しています。

 「人間はだれもが安心して生きて行きたいから、自分をできるだけありのまま認めてくれる人を、一生懸命みつけようとします。まず親とか祖父母とかに、無条件の愛や受容を求めようとします。ほぼそれにちかい承認のされ方をして育ってきた子どもは、無理して友だちを求めないで、むしろ、友達を承認したりしています。余裕があるのです。反対にそれが少なかった子どもは、だれかに承認してもらおうと友達をさがします。受容してくれる人をつぎつぎとみつけようとしますね。」

 神がイエス・キリストによって私たちの罪を赦し、私たちの存在を受け容れてくださっているのです。この神の愛は、私たちの死においても、終わることなく、関わりが途切れることなく、その愛の絆は断ち切られることはないのです。主イエス・キリストはわたしたちのためにいのちを捨ててくださったのです。その神の愛はどのようなことがあっても、続くのです。私たちはこの神の愛のまなざしを受けています。この愛のまなざしをもってわたしたちを神は見ていてくださるのです。そのまなざしを受けて、わたしたちは生きることができるのです。

 私たちは肉体の死を経験します。死という限界をもっています。しかし、神が私たちを愛をもって伴ってくださり、共に生きて下さっているのです。死をも超えて復活された主イエス・キリストが、死をも突き破る、そのような力をもって、私たちを支え、死のかなたまでも共にいるのです。私たちは死を味わうことはありません。私たちに不安はありません。それはイエス・キリストが共に死に、共に生きてくださっているからです。

20180513 主日礼拝説教  「あなたにはすばらしい人生が待っている」   山ノ下恭二 


(イザヤ書54章10節、フィリピの信徒への手紙3章1−11節)  

 私はこれまでの自分の人生を振り返って、キリスト教信仰を与えられてとても良かった、と感謝しています。神に守られ、愛されてきた、その恵みを感謝しています。しかし、洗礼を受けて、キリスト者になったからと言って、何の苦労もなく、悩みもなく、順調に来たのかと言うとそうではなかったのです。
 
 私は両親がキリスト者で、栃木県の鹿沼教会の信徒であったこともあり、幼い時から両親に連れられて教会に行っていました。小学4年生の時に、父親が事故で死亡し、母親が働きに出るようになり、経済的には苦しい生活を経験しました。中学3年の時に病気になり、入院生活と自宅療養を経験しました。この時に、自分は死ぬのではないかと思ったこともありました。このことがきっかけになって、高校1年生の時に信仰告白をしてキリスト者となりました。

 中学3年の時に病を得て、自分が死ぬかも知れないといういのちの危機を経験しながら入院をし、療養生活を続けていく中で、聖書を読むようになったのです。このことがイエス・キリストと出会うきっかけとなりました。高校1年生の夏にヘブライ人への手紙を1章から読み始めました。その中で自分を深く慰める言葉に出会ったのです。ヘブライ人への手紙4章15節です。その時は口語訳の聖書でしたので、口語訳で読みます。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」
 
 私が病に苦しんでいた、主イエス・キリストは私のその苦しみを共に苦しんでくださるのだ、そのように同情できるのは、主イエスご自身が試練に会われたからだ、と語っているのです。この聖書の言葉に出会って、私はこの主イエス・キリストと共に歩もうと決心して信仰告白をしたのです。今から思うことは、私は病気になり、それをきっかけにして聖書を読むようになった、この時を神は待っていたのではないか、と言うことです。神が、私が信仰を持つように願い、この時を待っていたのではないか、と思います。

 私は将来、小学校の教師になるか、図書館に勤めるか、どちらかの仕事に就こうと考えていました。将来の進路を決めるその時期に、ある日曜日に私にとって大きな転機が訪れたのです。高校2年生の秋のある日曜日の礼拝に出席していた時のことです。鹿沼教会の高崎隆牧師が結核の治療のために近江サナトリウムに入院する直前の時でしたが、病を押して熱心に福音を語る高崎隆牧師の姿に感動し、こういう生き方をしたいと思うようになり、牧師・伝道者の道に進むことになり、高校を卒業してすぐに神学校に入学したのです。

 1976年に東京神学大学を卒業して、現在まで、牧師・伝道者の生活をしてきましたが、神によって守られ、イエス・キリストによって愛されてきたと感謝しています。そして聖書を学び、イエス・キリストを伝える、その務めに従事できたことを感謝しています。

 皆さんも自分のこれまでの歩みを振り返ってみると、自分の思い通り、順調に歩んで来たわけではないと思います。それぞれ、人には言えない悩みを抱え、苦しみ、人間関係で苦労してきたと思います。その中で、洗礼を受け、キリストを信じ、キリストに愛され、教会に集ってきて良かった、と言う思いをもっておられると思います。

 パウロと言う最初の教会の伝道者は、ヨ−ロッパの世界にキリストの福音を初めて伝えた人です。フィリピの教会はヨ−ロッパで初めて設立された教会です。もしもパウロが福音を伝えなかったならば、キリストの福音がヨ−ロッパに伝えられることはなく、アメリカに、この日本に、そして私たちにキリストの福音が伝えられることはなかったのです。パウロの伝道を考えてみますと、3回に渡る伝道旅行は、現在のトルコ、ギリシャ、という広い範囲の人々に福音を宣べ伝え、各地に教会を建てたのです。パウロの伝道旅行の地図を見ると、何千キロにも及ぶ、広大な地域を船と徒歩で伝道していることを改めて知らされます。

 このように、パウロはキリストの福音をヨ−ロッパにはじめて伝えた人物ですが、パウロが使徒として、キリスト教伝道者として、このような広い地域を伝道した、その原動力は何かということを考えさせられます。

 パウロがキリストの福音を伝える原動力は何でしょうか。それはパウロ自身の能力、熱心さと言うのではなく、いつも聖霊によって押し出されて伝道しているのですが、いつもキリストの福音のすばらしさにいつも圧倒されて伝道したのです。すばらしいキリストの福音に圧倒されて、それによって多くの人々に福音を伝えたのです。コリントの信徒への手紙9章16節「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りになりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(p311)
 
 本日の礼拝で読んだ、フィリピの信徒への手紙3章8節で「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」と語っています。キリスト・イエスを知ること、言い換えるとキリストを信じることがどんなにすばらしいかをこの言葉でパウロは表現しているのです。

 パウロと言う人は、この当時のエリ−トで、自分に自信をもっていた人でした。自分に誇るものがたくさんあったのです。フィリピの信徒への手紙3章5−6節で「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」と語っています。パウロには誇るものがあり、そこに自分の拠り所をおいていたのです。誰でも自分には誇りがあり、依り頼むものがあるのです。それが自分を支えています。
 
 パウロは、ユダヤ教徒として、熱心にキリスト者を迫害していました。「熱心の点では教会の迫害者」と自分のことを紹介しています。キリスト者たちが、イエスという人物を救い主、メシアと信じていたことに我慢がならなかったのです。この当時、十字架で処刑された犯罪人、それは神に呪われたものだと考えられていました。神に呪われた犯罪人を救い主、と言うことは許し難いことである、と本気で思っていたのです。

 ところが不思議なことに、キリスト者を迫害している最中に、パウロは、主イエスにお目にかかったのです。この出来事の話が使徒言行録に三度も詳しく書いてあります。(使徒言行録9章1節、22章4節、26章9節)それはパウロにとって、大事件であったというだけでなく、最初の教会にとってまことに重大な事件であったことを意味します。このことがのちに何度も教会で読みつがれているのですから、最初のキリストの教会において最も重要な事件の一つだったということです。

 暑い時に、シリヤのダマスコに近づいて行くと、突然、強烈な光に照らされて、パウロは倒れ、その時にどこからともなく声が聞こえ「なぜわたしを迫害するのか」と言われ、その声を聞いて、今まで自分はキリスト者を迫害しているつもりであったが、実はキリストを迫害していたことに気がついたのです。なぜなら、その声で明らかにキリストである、と思ったからです。キリストがなぜわたしを迫害するのか、と言われた時に、パウロは初めて自分がキリストを知ったことが分かったのです。キリストを知る知り方としては不思議なもので、キリストを攻撃している中で、その中でキリストにお目にかかったということです。

 ところがキリストを知ってみると、その日から彼にとっては今まで大事だと思っていたものが、大事でなくなってしまったのです。今までは大切なものと思っていたものが、自分にとっては不利益なもの、損失だということが分かるようになったと言うのです。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」(2章7)この言葉は、その時、損失と思ったが、今も損失と思っている、と言う意味です。

 誇りがパウロにはあったのです。自分のまじめさ、能力、功績に自分が寄りかかってきたのです。しかし、キリストを知ってみると、今まで自分が寄りかかり、誇りとしてきたものが、値打ちがないもの、価値がないものになったのです。今まで、大事だと思っていたものがみなつまらないもの、損失であることがはっきりして、それがパウロの思いの中で続いてきたのです。パウロはキリストを知ることによって、今まで、値打ちのあると思い、自分が打ち込んできたものが、値打ちがないことがわかってそれを捨てたのです。自分が今まで値打ちがあると思っていたことが値打ちがないものであると価値の転換が起こったのです。

 キリスト教信仰を持つと、この世の中で値打ちがあるものが値打ちがないものとなるのです。この世の中では、自分の家柄、学歴、財産、というものに価値を置くのですが、キリスト教信仰を持つと、神を礼拝する、互いに愛し合う、平和に暮らす、そのような心を潤すものに価値を置くようになるのです。

 私が岡山の教会に在任していた時に、かなり高齢であった婦人が洗礼を受けて、その時に話した話が忘れられないのです。「私はもっと早く教会に来れば良かった。そうすれば、生きることがもっと楽になったはずだ。心豊かに暮らすことができたはずだ。もっと若い時に、イエス・キリストに出会っていたら、良かった。」と語ったのです。
 
 パウロは、自分の努力によって戒めを守っていることによって、神が良いと認める、それまでの自分の生き方を「塵あくた」と見なしている、と断言しています。「塵あくた」、「ふんど」、だと断言するのです。自分が寄りかかり、誇りとしてきた大切なものよりも値打ちのあるものを得たのです。「キリストを得た」のです。

 パウロはキリストを知って、180度、方向転換をして今までとは全く異なる生活になったのです。自分が主導権をもって、自分の努力によって神に近づいて行くのではないのです。キリストが私たちの罪のために犠牲を捧げてくださった、私たちに代わって、罪を引き受け、審判を受けてくださった、のです。神の要求に応えて行き、神に合格点をもらう、そのようなあり方ではなく、神が主導権をもって、私たちの罪を取り除くために肉体を取り、主イエスとなられ、十字架について罪を贖ってくださった、そのことを恵みとして信じるだけで、神が良いと認めるのです。自分のほうから努力して良い人になる、というのではなく、神が自分の罪を贖ってくださる、罪を赦してくださる、そのことを信じることによって、神は良いと認めてくださるのです。

 神が自ら、私たちのために罪を贖ってくださったことを信じるだけで、神が私を受け入れ、認めてくださるのです。神によって知られている、愛されている、そのことが私たちの信仰生活の基礎なのです。

 フィリピの信徒への手紙3章8節に「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに今では他の一切を損失とみています。」と語られています。キリストを知る、信じるまでは、自分が努力して、神に良いと認めてもらわないと審判を受けると思っていたが、そうではないことがわかったのです。キリストに知られている、キリストに愛されているということを信じるだけで良いのだ、と理解することができました。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙4章9節で「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」と語っています。神を知っていると言って、それをすぐに言い換えて、いや本当は神に知られている、神を知るということは、神に知られていることであり、キリストに愛されていることであると語ります。

 ある本で日本ハムの監督の栗山英樹がかつてヤクルトに入団して一軍に上がってから、病気に罹ってしまい、その病気がメヌエル氏病で、入院してしまった時のことが書いてあります。もう野球の選手を続けることはできないと思った、しかし、栗山英樹選手はこの難病を克服して、野球を続けることができるようになったのです。それは、母親の言葉に支えられたと言うのです。この時、母親は息子の身代わりになってやりたいと泣いたそうです。「自分が身代わりになって病気になってやりたい」。この言葉に支えられて、自分はこの病気を絶対に治さなくてはならないと思った、と書いてありました。

 自分のために死んでもよい、自分のために命をささげてくれる人がいる、そのことは生きる源になります。パウロは自分にキリストの愛が迫っている、それはキリストが自分のために死んでくれたからだ、そしてこのキリストのために自分は生きると語っているのです。コリントの信徒への手紙二 5章14-15節「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 パウロはキリストがどんなに自分を愛しているのか、を深く体験したのです。恩寵体験があったのです。どんなに自分が愛されているか、それは十字架によって、自分の深い罪が赦されている、この恩寵を、この恵みをいつも自分のものとして経験していたのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントU 6・2、p331)なのです。

 パウロは苦労や悩みが全くなかったのか、と言うとそうではなかったのです。むしろ、病に苦しんだのです。てんかんという病気で倒れたこともあるのです。肉体の痛みを経験し、精神的にも多くの苦しみを抱えていたのです。教会の信徒に受けいれられなかったのです。その中でキリストの福音を伝えたのです。それは聖霊の導きにより、十字架の恵みに生かされていたからできたことなのです。常に新しく十字架の贖いの恵みを受け取り、感謝して、この福音を伝えたいと願って伝道していったのです。

 自分独りで生きているのではないのです。イエス・キリストが私たちと共に生き、共に歩んでくださるのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとするならば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤの信徒への手紙2章20−21 p345)

20180506 主日礼拝説教 「私たちは共に生きる同労者」  山ノ下恭二


(サムエル記上20章1−3節、フィリピの信徒への手紙2章19−30節)

 友だちがいることはとても良いことです。友を持つことによって、慰められ、励まされることがあります。悩みを友だちに言うだけで、元気になることがあります。私たちは、一人では生きて行かれません。

 ある哲学者は「現代の地獄は、何か、それは孤独であると言うことだ」と書いています。自分の周りに多くの人がいるのだけれども、誰も自分のことに関心をもたない、関わらない、自分独りだ、独りぼっちだ、と思うことがあります。とても孤独だ、と強く感じることがあるのです。仲間がいる、心が通じ合う人がいる、自分の気持ちが分かっている友だちをもっている、それは心強いのです。

 心通う友人をもっている、このことはとても楽しいことです。私たちの心を豊かにするのではないでしょうか。しかし、人と関わることはわずらわしいことがあります。人と関わりたくないと思うことがあります。確かに、人と関わって、互いに良い関係で交際できれば良いですが、つきあっているうちに意見が違い、気持ちが通じず、互いに受けいれられなくなり、次第に疎遠になり、心が離れていくことがあります。人との関係で、悩むことが多いのです。相手のことに関わらないし、自分のことも相手が関わらない、そのほうが気が楽だと思うことがあります。しかし、人と関わらないで、生きていくことはできません。

 フィリピの信徒への手紙は、最初の伝道者パウロが書いた手紙です。パウロが、ギリシャのフィリピで伝道して、洗礼を受ける信徒が与えられて、少しずつ信徒が増えてきてできた教会です。キリストを信じた者たちが教会と言う信仰の共同体を作っています、その共同体はどのような共同体でしょうか。それは互いに罪を赦し合う共同体です。洗礼を受けて、キリスト者となる、それは、自分の深い罪が赦された者となったということです。私たちは人の過ちを赦せなかったり、自分のことばかり、考えて、自分の都合で過ごしているのです。神にとっては赦すことができない存在なのです。しかし、神は私たちの罪を赦し、正常な関係を回復するために、イエス・キリストが罪の罰を引き受けて、十字架で死んでくださる、そのことによって和解が行われたのです。キリストに和解が与えられたのです。罪が赦されたのです。そのことを信じている関係、交わりですから、その交わりは、互いに赦し合う関係です。私たちは、自分と相手と直接的に関わりますが、和解を与えられた者は、二人の間に神が入っているのです。神が入っている関係なのです。神が私たちの罪を赦して下さっているので、私たちも相手の罪を赦す関係なのです。

 相手の罪を赦すことができないので、関係が壊れてしまうことがよくあります。しかし、私たちは互いに誤解したり、相手の語ることがよく分からない、相手を理解できなくても、この人のためにキリストが死んでくださった、キリストが愛している存在であることを認識して、仲良くすることができるのです。教会は、礼拝をしています。礼拝の説教で、私たちの罪が赦されていることが宣言され、聖餐において、それが目に見える形で、罪の赦しをはっきりとこの目で見て、この舌で味わうことができるのです。そして、教会は、キリストによって罪が赦されたことを伝える責任をもっています。キリストの福音を伝える責任をもっています。それは一人で伝道するのではなく、互いに協力して、みんなで伝道するのです。
 
 最初の教会の伝道者パウロは、伝道する時に、一人でしたのではなく、若い伝道者と共に伝道したのです。パウロと共に伝道したのは、バルナバであり、テモテです。パウロはバルナバとしばらく一緒に伝道していましたが、意見があわなくなり、途中で別れ、その後、テモテと共に伝道を始めました。(使徒言行録16・1−4 p.244)テモテとはパウロは生涯にわたって協力しながら、キリストの福音を伝えていく仲間でした。

 このフィリピの信徒への手紙は、パウロがエフェソ(今のトルコの地中海沿岸)の牢獄にいて、そこからフィリピの教会に宛てて送った手紙です。伝道者パウロとフィリピの教会は、とても良い関係でした。互いに愛し合う関係でした。それは相手のことを心遣い、相手のために犠牲を払う心を持っていたからです。パウロは、この時、自分が有罪になって処刑されるか、無罪放免になるのか、わからない、不安な中に置かれていました。自分の将来がどうなるのか、とても心配をしていました。

 パウロは、フィリピの教会のことを心に掛けて、いつも祈っていました。フィリピの教会は、パウロが獄に囚われており、食糧も僅かしか配給されていないことに心を痛めて、食糧をエパフロデトに託して贈り物をしています。パウロは教会のことを心に留めて、祈っていましたし、フィリピの教会もパウロのことを忘れずに心配して贈り物をしています。互いに心から尊敬し、愛していたのです。

 互いに伝道を共にしたパウロとテモテとは親子ほどの年齢差がありましたが、パウロは、テモテを信頼して、フィリピの教会との連絡役として用いていました。テモテを通して、フィリピの教会の人たちに、パウロの様子を知らせ、帰ってきてから、フィリピの教会の様子をパウロに報告をしていたのです。

 この二人の友情は、二人が互いに気に入っていた、仲が良い、と言う感情で結ばれていたのではないのです。人間同士のつきあいは、とても仲が良かった二人が、あることをきっかけにして、口もきかない関係になることもあります。パウロとテモテとは、人間の感情でつながっていたのではないのです。同じ神、イエス・キリストを中心につながっているのです。教会はそのようなところです。教会は、幼なじみだ、昔から知っている、自分の考えと同じ人がいる、趣味が合う、お世話になった、という人間的なところでつながっている、親しみや好みで関係を持っているところではないのです。

 フィリピの信徒への手紙3章19節に「さて、わたしは、あなたがたの様子を知って力づけたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。」と語られています。注目しなければならない言葉は「主イエスによって」と言う言葉です。3章24節にも「わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。」とあり、「主によって」という言葉があります。主と言うのは、神の名前のことですが、私たちをいつも愛し、助けて下さる神の名前のことです。パウロは「主によって」「イエス・キリストによって」テモテをフィリピの教会に遣わしています。

 パウロは、行動に移す時に、自分の思いが先立つことはなく、いつも神の御心に従って、祈り、決断していきました。自分が主導権を持つことはなく、主イエス・キリストに主導権があると信じて、従ってきました。小さなことでも主がみこころを示してくださるはずだ、だから、一切のことを、主イエス・キリストに委ねて決めていくのです。 これは、キリスト者のあり方、生き方なのです。神のみこころがどこにあるのか、を尋ねながら、そのみこころに従う、というのがキリスト者のあり方です。自分の思いや考えはある、しかし、神のみこころに聞いて、決めていくのです。私たちは、どのように生きていくのか、決断する時に、聖書から聞いて、祈って決断するのです。

 自分の考えや思いを優先して、自分の思い通りになれば良いと願うのがキリスト者のあり方ではありません。それは、神のみこころをないがしろにする、自己中心的なあり方なのです。パウロが「主イエス」によって願っていることは、テモテをフィリピの教会に送って、囚われの身であるパウロの消息を教会の人々に伝えることです。

 囚われの身であっても、パウロは決して意気消沈していない、希望を失っていない、それどころか、ますます希望に生きている、そのことを知らせてフィリピの教会の人々を励ますことも、パウロの目的です。同時にフィリピの教会の人々が困難な中で信仰に生きている姿をテモテが知らせてくれれば、パウロ自身も力づけられる。このことがテモテを派遣することの目的です。パウロは第二伝道旅行以来、テモテと共に10年間、行動を共にして、パウロに代わって各地に遣わされる、そのような親しい関係にありました。

 パウロがテモテについて述べたり、彼を人々に紹介する時に用いる言葉は、きわめて愛情と友情に満ちたものであることがわかります。「親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにはいないのです。」(フィリピ2・20)テモテについて別の手紙で「彼は、私の愛する子で、主において忠実な者であり」(コリントT 4・17)と紹介していますし、また別の手紙で「キリストの福音のために働く神の同労者テモテ」(テサロニケT 3・2)と紹介しているのです。 

 パウロとテモテは、年齢的には親と子ほどの違いがありましたが、二人の間には親と子のような親しい関係で結ばれていました。それだけではなく、神の御言葉に仕えることにおいてふたりは、まったく同等の働き人であり、同労者です。互いを信じる協力関係の中におかれていたことも知ることができるのです。3章22節では「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」と喜びと感謝を込めて、パウロは、テモテについて述べています。

 キリストの福音を伝えると言う目的をもって、パウロとテモテは協力していたのです。教会はそういうところなのです。教会は互いに親しくなるためにいろいろ計画しますが、福音を伝えると言う目的をもって交わりを作って行くものなのです。

 このことからわかることは、福音に生きる、福音に仕える、福音を伝えるということは、常に「共に」「一緒に」という要素を持っているのです。

 それは福音の内容そのものが「共に」「一緒に」ということです。イエス・キリストは、神と共に歩み、罪深い私たちの罪を担い、贖い、私たちと共に生きられるお方です。一緒に生きているキリストが福音の中核に、真ん中に立っているならば、私たちも共に、一緒に、という要素を抜きにして歩むことはできないのです。それぞれ信仰生活、教会生活が長い、短い、がありますが、一緒に、共に歩んでいく喜びを与えられてきた、一緒に教会の奉仕に仕えて来た友がいる、共に教会のために祈り、労することのできる仲間がいる、そのことで私たちは深く慰められるのです。

 福音に生きるということは、そのような一面があります。教会と教会、牧師と牧師、信徒と信徒、牧師と信徒、と言った関係の中で、共に福音に仕えていくのです。そして、このように共に福音に仕えていくことにおいては、ただ一方だけが利益を受けるとか、一方だけが恵みを受けることにはならないのです。

 テモテをフィリピの教会に送ることによって、フィリピの人々を励まし、信仰にあって生きることがどういうことかを、テモテという一人の人物を通して学んで欲しいと願い、その一方で同時にフィリピの教会の様子を知って、伝道者パウロを力づけたいと願っているのです。自分だけが相手からよいものを与えられて、相手には何も与えない、と言うのではなく、互いにキリストの恵みを分かち合うのです。相手から自分が力づけられ、慰められ、そして自分も相手を力づけ、慰めるのです。自分の願いを相手に要求し、相手にばかりお願いすることではなく、相手のことを思って、相手に仕えていくのです。教会には、そのような連帯性、共同性をもって互いに歩んでいくのです。みことばを分かち合い、互いの重荷を背負っていくのです。

 2章20節にはパウロは、キリストに仕えるテモテが、親身になって、兄弟たちのことを心配することが出来る人物であると語っています。テモテは、他人のことも考えることのできる人物である、他者の救いと信仰のために仕えることのできる人物である、と紹介しています。「親身」という言葉は、「自分の正当な子」「嫡子」を意味する言葉です。自分の身を分けた者のように相手にかかわる、という意味です。私たちは自分の子どもや孫は可愛いので親身になって世話をする、そのような思いで、教会の兄弟姉妹のことを親身になって関わることを意味します。

 テモテは、教会の他の兄弟たちの信仰の課題や戦い、重荷を自分自身のことのように考えることが出来る人物である、と紹介しているのです。そして、テモテは、自分のことを求めるのではなく、イエス・キリストのことを求める人物です。21節には、その反対のことが語られています。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」この「追い求めている」と言う言葉は元々、「配慮する」と言う言葉です。「自分の利益に配慮する」「自分の利益を追い求める」イエス・キリストのことを追い求めないで、自分の利益に配慮している、というのです。
 
 自分に配慮して欲しい、と願うのではないのです。キリストが教会の兄弟に対してせよと自分に求めておられることを、その人に対してすることです。教会では、自分に配慮して欲しい、という願いが多く出されるのです。配慮が足りない、といつも言われ、要求されるのです。しかし、その願い通りに答えることが配慮することではないのです。キリストが願っていることを中心に考えて、配慮するのです。相手の気持ちに同情するけれども、それで終わるのではなく、信仰に導かれるように、勧め、戒めるのです。相手のわがままを、ただ受け入れるのではなく、キリストの願いが実行されるように親身になって配慮することを求めているのです。
 
 キリスト御自身が何を求めているか、をいつも問いながら、この兄弟に対して、すべきことをするのです。このテモテは「確かな人物」である、とパウロは語ります。テモテはキリストの求めに忠実、誠実に生きてきたのです。このようなテモテのような生き方は私たちの目指すべき目標です。

 パウロは若き伝道者テモテに、伝道者としてのあり方を、手紙で書き送っているのです。それが、テモテへの、二つの手紙です。パウロは、これから伝道していくテモテのために、大切なことを教えています。

 相手のために、相手に配慮して愛に生きる、それが私たちのすることです。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2・4)と語られています。キリストが何を私たちに求めているのか、を中心にして、互いに共に福音に与りながら、共に信仰の歩みを続けて行くのです。

20180429 主日礼拝説教  「星のように輝いて生きる」  山ノ下恭二


(イザヤ書60章19−20節、フィリピの信徒への手紙2章12−20節)
 
 ある時、JRの電車に乗っていた時に、15両の車両の中で、私だけがキリスト者ではないか、と思ったことがあります。電車の中で、聖書を読んでいる人を一度だけ見かけましたが、それはとても珍しいことです。日本の中で、キリスト者はほんとうに少数です。教会の数も少なく、捜さないと見つからないのです。
 
 私はかつて韓国のソウルの教会を訪ねた時に、日本に来たことのある、韓国のキリスト者が、「韓国では教会は至るところにありますが、日本ではお寺ばかりですね」と私に言ったことがあります。韓国の教会は礼拝が1000人以上の教会が普通です。同じ教会に属していても知らない人が多いそうです。町の中で仕事のことで喧嘩をして、いろいろ話していると相手が自分と同じ教会の会員であったという話も聞きました。日本ではキリスト者に出会うことはまずないのです。その意味で、キリスト者は隠れている存在です。
 
 キリスト者は日本では少数で、隠れて、分からないのですが、良い働きをしていると思います。私は、1976年に東京神学大学を卒業して、岡山の蕃山町教会、和歌山の田辺教会、北九州の若松教会、さいたま市の東大宮教会で奉仕をしてきて思うには、その町ではほんとうに少数で、キリスト者は世の中の人々には見えないで、隠れているような存在でありながら、キリスト者がその町で影響を及ぼしているのです。みんなから注目されるような目立つものではないですが、良い働きをしているのです。

 この世の中で生活している人たちには、教会や教会で生きているキリスト者は、隠れていて見えませんが、神の目から見ると、暗い夜に輝く星のような存在なのです。

 本日の礼拝で、フィリピの信徒への手紙2章12−20節を読みました。この手紙を書きました最初の教会の伝道者パウロはこの手紙をどのような状況で書いたのでしょうか。パウロはエフェソにいて、牢獄で捕らわれて、自分の死が間近いことを予感しながら、この手紙を書いているのです。自分の死が間近い、その中でフィリピの信徒たちに愛をもって書いているのです。パウロには願いがありました。それはパウロがスペインにまで伝道してキリストの福音を満たしていきたいと願っていたのです。しかしその願いは叶いそうにはなかったのです。マルティン・ルーサー・キング牧師は、公民権運動を展開したのですが、ある説教の中で、このパウロの夢、スペインに行く夢は砕かれた、と語っています。「シャッタード・ドリ−ム」と表現しています。目の前で、シャッタ−が降ろされたように、スペインに行く夢は砕かれたのです。
 
 パウロは、自分の死が間近いことを予感しながら、この手紙を書いているのです。フィリピの教会は、ヨーロッパで初めて伝道して成立した教会であり、信徒たちと親しい関係を持っていました。パウロのために物質的な援助をしていました。まだ成立して間もないフィリピの教会の信徒たちにパウロは、手紙を書き送ったのです。パウロはフィリピの教会を自分の体のように愛しておりました。主イエス・キリストを愛することは、キリストの体である、教会を愛することです。パウロは自分のいのちのように、フィリピの教会を愛していたのです。パウロは自分の地上のいのちが失われても、信徒たちがしっかりと教会を守り、キリスト者としてしっかり立って行って欲しいと願って手紙を書き送ったのです。愛しているフィリピの教会に自分の遺言を伝えるように、信徒に教会生活について、心を込めて勧めるのです。

 フィリピの信徒への手紙2章6−8節には、最初の教会で用いられた賛美歌を引用しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 
 私たちは神の相手として、愛をもって造られた存在ですが、神を離れて、神を忘れ、自分中心に過ごしています。私たちの罪を償うために、神と同じ方である主イエス・キリストは神に従順に従い、へりくだって、私たちの救いのために贖いの犠牲をささげてくださったのです。主イエス・キリストの従順によって、つまり、十字架の死に至るまでの従順によって、私たちの深い罪を担ってくださった、そのことをパウロは語っています。

 私たちは、洗礼を受けることによって罪が赦され、神の子となっている、神の子とされているのです。神にとって私たちの存在は、かけがえのない大切な存在なのです。

 吉川佳彦さんが、4月21日(土)に急逝され、4月25日(水)に熱海斎場で私の司式で葬儀が行われました。吉川さんが、洗礼を受けるきっかけになったことは、25年前のことですが、ニューヨークに在住であった長女の方が、病を得て、逝去し、その葬儀がニューヨークの教会で行われ、聖書の説教と讃美歌によって子どもを失って、心の拠り所を失った、吉川さんを深く慰めたことが洗礼を受けるきっかけになったのです。
 
 吉川さんがいつも心に留めて来た聖書の言葉があります。それは旧約聖書の哀歌3章22節の言葉です。吉川さんの愛唱聖句です。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」。この言葉に吉川さんはいつも支えられてきたのです。洗礼を受けてキリスト者となって、すべて順調に行くかと言うとそうでもないのです。様々な場面で、悲しいこと、苦しいことに遭遇することがあります。吉川さんが残した「わたしの証し」には「これまでの人生の中には、二、三の困難を経験した」と書いてあります。洗礼を受け、キリスト者となっても、自分の思い通りに事が運び、思い通りになったということはないのです。何事も順調に行くと言うことはないのです。家族のこと、仕事のこと、人間関係のこと、たくさん悩みを抱えながら、過ごしているのです。そのような心が折れそうになる時にも、困難で、悩みに直面している時にも、神がいつも愛してくださっていることを信じることによって、その場面を乗り越えることができるのです。
 
 上智大学でキリスト教神学を長く教えて来た、ネメシェギ神父は「ひまわり」と言う随想集を書いています。「ひまわり」は、別名で「太陽の花」と呼ばれているそうです。この「ひまわり」と言う随想集には、ひまわりは、太陽に身を向けて、太陽の光を一つも無駄にしないように咲いていると書いているのです。ひまわりのように、私たちは神の愛に身を向けて、神の愛をたくさん注がれているのです。神の愛を与えられた者の生き方、それはこの世の人々の生き方とは異なった、新しい生き方なのです。

 本日、読みましたところは、そのキリストの愛を与えられた者がどのような生活を展開したら良いのかを語っているところです。

 2章12節後半で、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧められています。この言葉を読むと自分の力で、立派な生活をする努力をしなさい、と理解してしまいます。

 私は洗礼を受けて、キリスト者となったら、いつも神を意識して、いつも聖書の言葉を読み、熱心に祈らないとキリスト者ではないと考えていました。私は高校1年の秋に、1966年10月に信仰告白して、信徒になりましたが、信仰告白する日が近づいて来て、悩みを持つようになったのです。自分が信仰告白した後に自分が立派なキリスト者になれるのか、と悩み始めたのです。教会生活を続けることができるか、と思うようになり、信仰告白するのを延期しようと悩んでいたのです。その時に栃木地区の高校生の集いがあって、ある牧師に話したところ、それは私が、自分の努力や力で達成しようとしていると考えているのであって、神の力、神の導きによって教会生活が続き、神が働いてくださることを信じることだと話してくれたのです。その時から自分の力で、信仰生活を維持したり、自分のがんばりで立派にならなくても良いと思い、安心して、信仰告白することができたのです。

 フィリピの信徒への手紙2章12節後半に「自分の救いを達成するように努めなさい」と書かれていますので、自分の努力によって教会生活を続け、自分の力で神に認められるような立派なキリスト者になるようにと勧めているように思ってしまうのです。自転車に乗ることができるために練習をする初めの時に、倒れないように誰かが自転車の後ろの荷台を押さえてくれてペダルを踏んで練習するのですが、少し慣れると、手伝ってくれる人はその手を離して、その後は自分で運転できるようになることがあります。

 そのように理解すると、「自分の救いを達成するように努めなさい」この言葉の意味は、神が初めは助けるけれども、その後は、自分で努力してがんばり、立派なキリスト者になりなさい、と言っているのか、と言うと、そうではないのです。神と人間が協力して、私たちがキリストのような者になると言っているのではないのです。

 このことを解決する鍵となる言葉が2章13節にあります。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と語っています。

 神が全面的に私たちに働きかけ、行ってくださるので、私たちは自分の救いを達成することができるのです。初めから終わりまで、すべて神の働きであります。私たちを信仰に導いたのも神の働きです。自分で教会に来たと思うかもしれませんが、そうではないのです。神が私たちの思いを超えて、導き、一番良い時を考えて下さって、私たちを教会へと導いたのです。神が信仰を起こさせ、洗礼へと導いてくださったのです。今日も神御自身が、聖霊によって私たちを礼拝へと招き、聖書の説教によって私たちに豊かに語りかけてくださるのです。聖霊が私たちを聖餐へと招いてくださり、パンと杯という目に見えるしるしによって深い罪が赦されていることがわかるようにしてくださるのです。

 この神の導きに従って行くときに、私たちの救いは達成されるのです。神の働きにゆだねて従順であることによって、私たちの救いは達成することができるのです。 

 私たちを愛して下さる神を信頼し、神の働きに委ねていくのですが、パウロは、私たちが生活していく中で注意すべきことを指摘しています。教会生活をしていく時に、私たちが誤ることがあります。間違いをすることがあります。それは、14節で「不平や理屈を言わずに行いなさい」と語られているように「不平や理屈を言う」過ちに陥るのです。他の訳は「つぶやき」と訳されています。口語訳では「すべてのことをつぶやかず疑わないでしなさい」と翻訳しています。新改訳2017には「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」と翻訳しています。フランシスコ会訳では「何事も、不平を言ったり理屈をこねたりしないで行いなさい。」と翻訳されています。

 この「不平や理屈」と言う言葉に関連して多くの注解書には、旧約聖書の物語を引用しています。それはモ−セがイスラエルの民を率いて、エジプトから、カナンの地、イスラエルに入るまでの、長い旅の中で起こった事件がありました。民数記11章1−6節です。(p230)イスラエルの民がエジプトを後にし、砂漠を行く困難な旅が始まった時、「雑多な他国人」と呼ぶ一団の人々が同行していました。「雑多な他国人」とは、旅に参加してはいても、その旅が神の旅であるとは信じていない人たちです。雑多な他国人は、不快なことに我慢する能力は低く、不平を言う能力は高いのです。この雑多な他国人たちは、実際に不満をもっていたのです。それは食べるものがない、ということです。そしてエジプトでお腹に一杯食べた、肉、魚、野菜があれば良いのに、食べるものは何もないと言うのです。神はマナを降らせ、食べさせようとしますが、こんなに少なくては、お腹に一杯にならないと泣き言をいうのです。夕食の食卓を見て、おかずはこれだけ、もっと他にないのか、と言うようなものです。

 この雑多な他国人たちの不平、不満を言う姿は私たちの姿に重なるのです。教会に属していても私たちは雑多な他国人になってしまうのです。

 教会の会員であり、信仰の旅を共にする者でありながら、神に従わず、教会会員として共に生きず、教会の評論家、教会のお客様になってしまい、不平、不満ばかりを言うのです。教会の奉仕がもっと少なかったら良いのに。自分ばかり奉仕が多い、他の人もすべきである。教会のみんながわたしをもっと気を使って愛してくれれば良いのに。不平、不満で一杯です。
 
 不平を言うと言うことは、不満である、満足していない、と言うことです。何をするにも不満足な気持ちをもって、心から喜んでしないのが、私たちの実際の姿なのです。不満と言うのは、何が不満なのでしょうか。自分の思い通りではないので、不満になるのです。私たちは自分の思い通りにならないとイライラして、不満になり、不平を言うのです。わがままなのです。感謝の心がないのです。そこに私たちの罪の姿があるのです。パウロは「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。」と語ります。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」と注意をしています。不平・理屈、つぶやきを戒めているのです。不平・不満が自分の心を占領することなく、つぶやくことなく、心を込めて何事も感謝を表すようになることを願ってパウロは勧めているのです。神の恵みに感謝するのです。 
 
 「星のように輝き、いのちの言葉をしっかり保つ」と書かれています。神からの光を受けて、私たちは輝くのです。私たちは神の愛を受けて、その愛に生かされて、その愛を生かす者であるのです。

 本日の礼拝で、旧約聖書のイザヤ書60章19−20節の言葉を読みました。私たちは、この日本の社会の中では、目立たない、隠れているような存在です。しかし、星のように輝いているのです。

 19節にこのように語られています。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず 月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり あなたの神があなたの輝きとなられる。」

 神の愛という光に照らされながら、闇を歩くような時にも、歩むことができるのです。

20180422 主日礼拝説教  「心を見て選ぶ」  山ノ下恭二


(サムエル書上16章1−7節、使徒言行録1章21−26節)

 本日は、礼拝の後に、教会総会があり、長老の選挙があります。長老を選ぶことの心構えを共に学びたいと思います。
 
 主イエスが天にあげられたあとに、使徒たちはエルサレムのある家の二階の部屋で主イエスの弟子たち、婦人たち、主イエスの母、兄弟たちと心を合わせて、熱心に祈っていたことが使徒言行録1章12−14節に記されています。

  この時、一つの問題が起こりました。それは主イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダが主イエスを裏切り、主イエスを十字架の死へと引き渡し、そのユダが死んだので、主イエスの弟子たち12人が11人となり、一人を補充しなければならなくなり、一人を選出することになったのです。

 この使徒言行録では、主イエスの弟子とは呼んでいません。「使徒」という言葉を使っています。「使徒」と言うのは、ギリシャ語では、アポストロスと言う言葉を使っています。この言葉は、派遣された者、遣わされた者、と言う言葉です。「使徒」というのは、主イエス・キリストによって召され、地上でイエス・キリストと共にいて、主イエス・キリストの復活に立ち会い、主イエス・キリストの復活の証人となった者のことです。復活した主イエス・キリストが神であり、わたしたちの罪のために十字架で死んで下さった、ということを告白した者が使徒です。12人のうち、一人が欠員となったので、1名を選出することになったのです。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒言行録1章22−21節)ここには使徒として選出される条件が示されています。

 この使徒の条件に合う二人が選ばれて、この二人の中から、使徒を選出することになったのです。この使徒の条件にあうのが、「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティア」であり、この二人を人々が立てたのです。そしてこの二人の中から一人を使徒として選出することになったのです。使徒の選出にあたって祈った祈りが、使徒言行録1章24−25節に記されています。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかをお示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」

 使徒を選出するにあたって注目すべきことは、選挙をしなかったと言うことです。このことは、意味があることなのです。最初の教会の時から、選挙で教会の奉仕者を選んでいたか、と言うとそうではないのです。選挙ではなく、くじを引いたのです。くじを引いて、使徒を選んだことはどのような意味があるのでしょうか。

 現在、私たちの教会では教会の長老を選ぶのは、選挙で選びます。投票数の多い者から選ばれるのですが、ここでは選挙をしていないのです。1章24節に記されている祈りに選挙をしない理由が書かれています。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。」とあります。現在の選出方法は、自分たちの意志が反映されることを願って選挙するのですが、くじを引くということは、自分たちの考えを中心にしないということなのです。一人ひとりの考えや思いを超えた神のみこころを第一にすることなのです。このことは、私たちが選ぶ考え方と異なっているところです。

 私たちは民主主義の原則で教育され、一人ひとりの考えや意見を尊重することに価値があり、それを原則にしてきたのです。生徒会を始め団体の役員を選ぶときに選挙をするのです。選挙によってひとりひとりの考えをよく反映する、一人一人の意見を中心にするための選出方法としてその民意を重んじることが良いと考えています。民主主義、デモクラシ−と言いますが、デモはデモス、「民衆」「大衆」「人々」、クラシ−とは「主権」と言う言葉で、この二つの言葉の合成語です。デモクラシ−とは、民衆が主権を持つ、主権者は民衆である、と言うことです。しかし、神から委託された使徒の務めを行うために、使徒を選ぶにあたって、選挙と言う方法を取らなかったのです。ひとりひとりの意見を反映させる選挙方法をとらず、神の選びを優先したことが、とても大切なことです。自分たちの中で誰が善いのか、ということをまず考えて選ぶというのでなくて、神が誰を選んだかを何よりも優先し、神のみこころを問い、尋ねることを優先するのです。私が選んだ人だということではなくて、「主なる神が選んだ人」を何よりもお示しくださいと祈るのです。
 
 選挙で、教会の長老を選ぶのですが、国会議員などを選挙するあり方とは異なっているのです。議員の選挙は、自分の考えに近い人を選ぶのです。自分の利益になる人を選ぶのです。議員が利益代表になるのです。自分が議員であることの根拠は、その地域の人々から選ばれた、ということになるのです。実際に議員は土曜、日曜になると選挙区に戻って、顔つなぎをし、議員本人が自分を売り込み、地域の人々の要望を聞いて、こまめに活動し、選挙の時に落選しないようにがんばるのです。民衆から選ばれた、ということが、自分が政治活動をする根拠になり、支えになっているのです。
 
 教会の長老を選ぶ選挙は、議員の選挙とは異なります。自分の考えに近い人、自分がお世話になっている、親しい人、という基準でなくて、教会が正しく礼拝し、牧会し、伝道するために、どのような長老が良いのか、長老を選ぶのです。よく婦人会から代表として一人、長老を入れる、若い人たちの代表として一人入れる、と言うことを考える人もいますが、意見の代表として、長老がいるわけではないのです。選挙の前に、相談して、この人を入れようと図って選挙に臨むということを教会員がすることがありますが、それは自分たちの考えを反映させる、と言う意識をもっていることによることで、長老を選ぶという教会の選挙の本質から逸脱した、間違ったことなのです。
 
 長老の選挙は、私たちの教会が、礼拝し、牧会し、伝道するために選ぶものであり、その目的があって選挙を行うのです。そのことを考えないで選挙するならば、意味のないことになります。教会の大切な働きをする長老を選ぶのに、この世の中の選挙と同じ思いで、同じ考えで選挙することはできないのです。

 この使徒の選出にあたって「主なる神が選んだ人」をお示しくださいと祈っているということは、私たちが選ぶ、その前に、神が既にみこころを示されて選んでいるので、その選んだ人を教えてください、と祈るのです。神が選ばれた、と言うことを最優先するのです。神によって選ばれて、召される、それは旧約聖書に登場する預言者のことを考えるとよく分かります。預言者は、神からの直接の呼びかけ、選びによって召され、その職務をしています。神によって召しを受けて、その召しを受けいれた者は、神にのみ忠実に仕えると言うことです。使徒を選ぶ、それは神の選びを尊重する方法、神に一切を委ねて、人間の考えを一切退け、捨てて、神に委ねるという方法を取るのです。くじには人間の考えは全く入らないのです。投票して得票が多い者から当選する、というのではなくて、くじを引くと言うことは、神に判断を委ねるのです。

 この使徒の選出で、二人はくじを引いたのです。二人を立てて、投票して、票数が多い者が使徒として当選したのではなく、神に使徒を選ぶ判断を委ねる
と言うことです。
 
 なぜ、長老を選ぶ時に、選挙をするのですか、と皆さんに問うとしたら、皆さんはどのように答えるでしょうか。

 預言者のように独りで預言活動をするのでしたら、その預言者を選挙する必要がないのです。しかし、長老は教会と言う共同体を中心的に担って行き、要としての働きをするのですから、教会員の支持と承認が必要です。長老会は教会の要ですから、どのような人が長老なのか、と言うことは、重要なことです。

 それで、奉仕者として長老を選ぶ時の判断基準は何なのか、と言うことが大切なのです。最初の教会には、教会の奉仕者について、どのような奉仕者が良いのか、はっきりと語っています。

 どのような基準で選ぶのが良いのか、と言うことです。テモテへの手紙一 3章1−13節に監督と教会の奉仕者の資格について詳しく記されているのです。「『監督の職を求めるひとがいれば、その人は良い仕事を望んでいる。』だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子どもたちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。」 

 ここでは、教会の職務をするのにふさわしい人の資格が記されていますが、教会は、長老を選挙するにあたって、候補者について条件をつけるのです。

 私たちの教会は、受洗後、3年、経過した者、という条件をつけていますが、以前、私が在任した東大宮教会では、受洗後、3年経過した者、月定献金をしている者、年間30回以上出席している者、聖餐を5回以上陪餐している者、という選挙規定を持ち、会員の中から、この条件に合う、長老候補者を挙げて、この候補者から、選挙することになっています。また、教会によっては長老に当選するには、3分の2の得票がないと当選にはならないのです。3分の2の得票でないと長老にはなれない、それは教会での長老の位置を高く見ているからです。得票数がおおければ、教会員の支持が高いと言うことですし、この人が長老としてふさわしいということが教会員によって承認されている、と言うことです。
 
 長老は何をするのか、自分が長老としてどのように振る舞ったら良いのか、と言うことです。自分が教会で長老としてどのように振る舞ったら良いのか、そのことをよく自覚していることが大切です。教会員の意見代表である、教会員の意見を長老会で語るのが自分のすべきことだ、と考えている長老であるならば、そのようになるでしょう。しかし、牧師と長老は共同で協力して、礼拝、牧会、伝道、を共に担うのであって、長老は牧師を補佐すると言う務めなのです。自分の考えをただ語る、ということではなくて、教会の使命を果たすために、共同して行動するのです。長老を選ぶ時には、教会の使命を果たすために、長老を選ぶのです。長老会での任務はたくさんあります。教会への入会、退会について判断するのです。洗礼志願者を試問して、教会に入会を許可する任務があります。洗礼を許可する、教会入会の承認ということは、たいへん重い責任をもっている教会であり、長老が教会をどのように理解しているのか、信仰告白についての理解が問われています。
 
 そして、長老の務めで大切なことは、礼拝の整頓です。このことに長老の方々が貢献しなければならないのです。礼拝の整頓、と言うと、椅子を並べたり暖房・冷房のことに配慮すると言うよりは、礼拝に出席している方々が、礼拝の姿勢になっているのか、ということをよく見ていて、そうでない場合は、忠告するのです。礼拝前の10分前には椅子に座り、静かに礼拝に備えるのです。礼拝でお話を聞く、という姿勢ではなく、神の言葉を聞くために姿勢と心を整えることが大切です。遅刻する人に注意をする、礼拝前におしゃべりしている人に、静かに待つように話す、それは長老の務めなのです。北九州の若松教会におりました時に、礼拝の開始、30分前に来て、静かに聖書を読んでいる長老がいましたが、それはとても大切なことです。長老が真っ先に良い礼拝者になることですし、礼拝の姿勢が整っていない人を導いて、まことの礼拝者となるようにするのです。教会全体がまことの礼拝になるように祈り、仕えていく、と言うことです。教会全体がよい礼拝経験をすることによって、礼拝に初めて出席した人が巻き込まれていくことが大切です。礼拝に集う一人一人が真剣な礼拝者となるように全体を見守り、監督する務めがあります。讃美歌の歌い方、説教の内容、礼拝奉仕者の姿勢などを注意深く、監督し、戒め、助言するのです。

 長老は、教会員の選挙によって選ばれますが、教会員の意見を代弁する者ではないのです。長老は牧師の側に就くのです。牧師の敵ではなく、味方なのです。むしろ信徒に向かい合うのです。長老は牧師を補佐して、この教会がキリストに仕え、礼拝、牧会、伝道が推進できるように努力するのです。長老は長老会に出席して発言することができるのですが、その発言は重要で、教会を左右するものです。そこでは、長老の資質、見識が問われます。個人的な考えを、述べるということよりも、教会全体を見渡しながら判断していくのです。パウロが、エフェソの教会を去る時に、長老たちに「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」(使徒言行録20章28節)教会全体を考えながら判断するためには、教会員がどのような状況なのかをよく把握していなければならないのです。礼拝に欠席している人を訪ねたり、手紙や電話で状況を把握して励まし、礼拝に出席するように勧めるばかりではなく、祈り、慰め、話を忍耐して聞くことも必要になってくるのです。教会全体にわたって、その任務を果たす長老を選ぶのです。

  本日の礼拝で、サムエル記上16章を読みました。サムエルが、サウルの後の王を選ぶところです。王としてふさわしく、その者に油を注ぐ者を誰にしたら良いのか。サムエルが良いと思った者ではなくて、最年少で、サムエルが思ってもみないダビデが選ばれたのです。このことによってはっきりしたことがあります。それは、人間の判断によってこの王が良いと思うことと、神がこの人が王にふさわしいとして選ぶということとは異なっていることです。サムエル記上16章7節「しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」別の翻訳では「神の見るところは、人の見るところと異なるのだ。人は外のかたちを見、ヤ−ウェは心を見る」と訳されています。新しい翻訳では、「人は外観を見るが、ヤ−ウェは心を見る」とあります。ダビデが神によって選ばれたのですが、ダビデは完全で立派な、非のうちどころのない人ではなかったのです。しかし、神は選んだのです。サムエルが見るところとは異なっていたのです。サムエルは、王となるのにふさわしい年齢で、外観が立派だ、と思い、長男のエリアブが良いと思っていたのですが、神は外観で決めるのではなく、しっかりした志をもった者を選んだのです。神は「心を見」て選んだのです。

 教会総会で長老を選ぶのですが、神が誰を選んだのかを教えてください、神のみこころがどこにあるのかを知らせてください、と祈りつつ、選ぶ者でありたいのです。誰を選ぶのかというよりも、神が選んだ人を信仰をもって選ぶ、ということが大切なのです。教会の重い務めを担う長老を選び、2年間、教会の大切な務めを委託するのですから、信仰をもって選ぶ者でありたいのです。


20180415  主日礼拝説教  「互いに相手を優れた者としよう」   山ノ下恭二


(イザヤ書53章1−6節、フィリピの信徒への手紙2章1−11節)

 4月9日、月曜日に山手線に乗っていましたら、母親が双子の赤ちゃんをベビーカーに載せて車内に入ってきて、私のすぐそばに立っていました。そうするとすぐに、双子の赤ちゃんの一人が大きな声で泣き出して、母親は静かにしようとおもちゃであやしていましたが、なかなか泣き止まないのです。周りの人はうるさいと思い、顔をしかめていました。私も少しうるさいとは思いましたが、その場面を受け入れることができる心でその時を過ごしたのです。以前は、赤ちゃんが車内で泣き出すと泣き止んで欲しい、次の駅で降りれば良い、と思ってその時を過ごしましたが、最近は、自分が小さい頃はこのように泣いていたのだろうと思い、泣いている赤ちゃんを受けいれるようになりました。赤ちゃんの泣き声を聞いても、自分の心の中で、この赤ちゃんを受けいれることができるようになったのは、聖書の言葉を聞いてきたからだと思います。それは神様が私たちひとりひとりを大切なものとして心を込めて造り、愛しておられるということを聖書から学んだからではないか、と思います。どのような人であっても、神が造られたかけがえのない存在だ、という認識をもつようになったので、自分が不快に思うことでも、受け入れることができるようになったのではないか、と思います。その意味で、聖書の言葉に聞いてきたことはとても良かったと思っています。
 
 クリスマスに刑務所で受刑者たちに聖書の話をして伝道している教かい師たちを覚えて、教会から献金を送りました。法律に違反して罪を犯して服役している受刑者たちの更正を願って、活動している牧師たちは、服役している受刑者たちを、刑務所で服役している人たちだから人間として失格だと考えていないのです。犯罪を犯して刑務所で服役しているのだけれども、この人たちは、神が創造し、神が愛しているかけがえのない人たちと考えて、聖書のことばを伝えているのです。私たちは実際に法律に違反して、刑務所に入ることはしていませんし、実際に物理的な暴力で人を傷つけ、殺したりはしていません。しかし、私たちは、心の中では人を憎み、恨み、復讐心を持っているのです。その意味では同じ罪人なのです。

 私たちは神がひとりひとりを創造され、神の前にかけがえのない存在なのです。しかし、私たちは、人々の間で優劣をつけ、ある人を優れていると評価し、ある人を劣った者として評価するのです。そして、自分のもっている基準によって、相手に対して態度を変えてしまうのです。自分より優れていると思う人は尊敬しますが、自分より劣っていると思う人には、見下したような、軽蔑した態度を取るのです。

 フィリピの信徒への手紙は最初の教会の伝道者パウロがフィリピの教会に宛てて書いた手紙です。この手紙は喜びの手紙と言われているように、パウロが獄に捕らわれている中で、キリストを信じる喜びが溢れている手紙であり、この手紙を読んだフィリピの教会の信徒たちは、この手紙によって、慰められ、励まされたのです。

 フィリピの教会は人数が少なかったですが、キリストを中心とする共同体です。人間が集まっていましたから、そこには交わり、交際がありました。交わりという言葉は、聖書ではコイノニアという言葉が使われています。コイノニアと言う言葉は、お互い何かを共通に持つこと、ある共通のものを互いに分かち合うこと、と言う意味を持っています。物質的なものを分かち合う場合にも使われますし、精神的なもの、喜びや悲しみの思いを共有する場合にも使われるのです。霊的なこと、同じ信仰をもって結びつく場合にも、この言葉は用いられます。教会では、信仰を共有しあうことによって結びつく意味で、コイノニアと言う言葉が用いられるのです。教会とは、同じ信仰を持ち、喜びや悲しみを共有して互いに慰め合い、励まし合うところです。教会の兄弟姉妹を覚えて祈り合い、聖書の言葉をもって互いに慰め合い、助け合うのです。その意味では、教会はとても良い交わりがあるところだと考えるのです。

 しかし、フィリピの教会は良い交わりがあるとは言えなかったのです。現実には、争いや仲間割れなどがあったのです。パウロはこの現実から目をそらさないで、集まっている人々に醜いことがあることを認めて、教会の交わりが愛の交わりとなるように願って、フィリピの教会の人々に勧告しています。

 今日、礼拝で読みました2章3−4節に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と語られています。

 私たちは、自分が相手よりも優れていると思いたい、優位にあると思っていたいということがあります。自分よりも優れていると思う人には劣等感を持ち、自分よりも劣っていると思われる人には、優位に立っているという優越感を持つのです。利己心や虚栄心と言うことは既に1章15節以下で書かれています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば」と語られています。教会の中で指導者と思われる婦人たちの間に、争いがあったことがわかります。一方から言えば、信仰の喜びと望みに溢れているように見えても、他方から見ると、ねたみと争い、利己心と虚栄心がむきだしにしているようなものであったのです。教会の中にそのようなあまりにも人間的で醜いところがあることを知るとつまずくのです。
 
 パウロはフィリピの教会の人々に、良い交わりを壊すものが何なのかをありのまま語って、キリストを信じる共通の、キリストにある同じ信仰で交わりを造ってほしいと願うのです。3節から4節にかけて、3つの言葉に注目したい
です。その3つとは「何事も利己心からするな」、「虚栄心からするな」、「自分のことばかり考えるな」です。

 第一に、「利己心」と言う言葉があります。この言葉はすでに1章17節に出てきます。「自分の利益を求めて」と書かれています。この「利己心」と言う言葉は、「給料をもらって働く」という言葉です。つまり、自分の利益を中心に交わりを造るということです。教会では物を売ったりして商売をするわけではないので、利益を追求するということは考えないかもしれません。しかし、自分が有利になるように努めることはあるのです。自分の立場が教会の中で優位を占めるようにすることがあります。私たちが、いつも自分が教会の中でどうような位置にあるのか、ということは気になることです。誰でも、自分が中心でいたい、自分は重んじられたいと願っているのです。他の人よりも自分を優位な立場に置こうとする心を持っているのです。他の人が自分よりも重んじられ、優位になると妬むのです。

 第二に「虚栄心」と言うことです。この言葉はその人に中身がないのに、見せかけだけを誇る、そのような姿勢を意味しています。自分は余り値打ちがないにもかかわらず、値打ちがあるように見せて、みんなから賞賛を得るようにすることです。この「虚栄心」という言葉は「虚しい誉れ」という言葉です。本人が値打ちがないものだから、値打ちがないことを認めて、ありのままをみんなの前で表現すれば良いのに、自分が値打ちがあるように見せるのです。有名な信仰者と知り合いだ、聖書のことはよく知っている、と人に宣伝するのです。自分を欺いて、自分のありのままの姿を見ないのです。ことわざに「虎の威を借る狐」ということわざがあります。「虎の威を借りる狐」。弱い者が強いものの権威をかさにきて、いばるのです。

 第三に、「自分のことばかり考えるな」と語られています。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と語られています。教会に集っている人は、自分が中心でなく、相手の立場をわきまえて、相手のために配慮するものではないか、と考えるかもしれません。しかし、自分のことしか考えられなくなってしまうのです。熱心な人ほど、相手の立場や気持ちがわからなくなってしまうのです。

 この三つのことは教会の交わりを壊すことであるので、パウロはフィリピの教会の信徒たちに向かって、そのようにしてほしくないと訴えているのです。パウロは2章3節−4節で「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と語っています。人間が集まっていると、その中で自分がどの位置にあるのか、ということ、自分の存在がどのような意味をもっているのか、ということが気になるのです。そして誰でも自分を重んじられたいと願っています。私は会合に出ると、何かの役割を頼まれることがあります。お祈りをしてください、聖書を読んでください、とか、挨拶をしてください、発言をしてくださいと求められるのです。自分が重んじられていると満足するのです。しかし、自分が重んじられていないと不満になるのです。

 和歌山の教会に在任していた時に和歌山地区の中高生の修養会があり、参加する予定でなかったが、教会の中学生が急に参加することになり、急遽、中学生の付き添いで参加したことがあります。その修養会での役割分担はすべて決まっていて私の役割はありませんでした。この時ほど、退屈でつまらない時はなかったのです。その修養会で自分の役割がなく、自分を表現する機会がなかったのです。

 一人一人、教会での役割があり、自分の立場や位置が明確であることは大切です。教会で自分が必要とされているということは大切です。しかし、教会はすべて平等に役割が割り当てられ、平等に扱われているか、と言うとそうではないのです。自分ではなくて他の人が優位な立場に立ったり、自分ではなく、他の人が優遇され、自分ではなく、他の人が抜擢され、用いられるとあの人ばかりが重んじられ、自分は無視されていると妬みの心を持つのです。私たちは他の人との比較のなかで自分の位置を確認しているのではないでしょうか。しかし、他の人と自分を比較していく中で、教会の交わりを考えると教会の良い交わりを造ることができないのです。奉仕当番が少なくて良かった、という人と自分の奉仕当番が少ないので、不満だ、と言う人がいます。あの人ばかりなぜ奉仕が多いのか、と考えるようになるとそれはその人の心が病んでいるのです。自分がその奉仕当番が無くても、神様がその人を用いて、その賜物を用いているのだ、と信仰をもって受けとめることが大切なのです。

 パウロは3節後半で「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」と勧めています。「謙遜になって、相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と勧めています。しかし、この勧めの意味は頭ではわかるし、そうすることが解決の道であると考えるけれども、そのようにできるのか、と言うことです。教会の中で、自分よりも重んじられる人がいる、評判の良い人がいる、そのことに腹立たしい気持ちを持ちながら、我慢して、忍耐して、ぐっとこらえて、謙遜になって、相手が自分よりも優れた者と考えるように自分に言い聞かせることをここで勧めているのでしょうか。自分よりも他の人が重んじられることは心ではおもしろくないのです。「妬み」は私たちの心の中に深くあるのです。パウロは、コリントの信徒への手紙T 13章で「愛は妬まない」と語っています。そう言わなければならないほど、私たちの心の深いところに妬みと言う罪があるのです。

 ここで、根本的に、私たちの存在が神の前にどのような存在なのか、ということを考えなければ解決は与えられません。

 私たちは誕生日をもっています。誕生日を迎えた兄弟姉妹を覚えて、誕生日カ−ドを送っています。神は尊い目的をもって一人の命を創造してこの世界に両親を通して生まれさせたのです。この一人の存在、命は神がお造りになった尊い存在、命です。この世界に一つしかない掛け替えのない存在です。私たちが神に創造された存在であると認識することが決定的に重要なのです。根本的に、一人一人が神に造られた尊い存在であるという認識が大切です。それぞれ、性別、年齢、個性、性格、生活経験、能力、は異なりますけれども、一人一人が神に造られた尊い存在であるという認識を持つことなのです。そのように考えないので、自分を中心に交わりを造ってしまうのです。自分の好き、嫌い、自分に役に立つか、立たないか、で交わりを造ってしまうのです。 

 「相手を自分よりも優れた者とする」。この言葉も、神によって創造された、掛け替えのない存在と認識しないと、自分よりも頭が良くて、仕事ができるから優れているから相手を受け入れる、しかし、相手にはない、優れたところが自分にはあると考えてしまうのです。相手との比較で自分を位置づけてしまうのです。相手に引け目を感じたり、優越感をもったりするのです。そのような比較の中で自分の存在を確かめるのではなくて、互いに神に造られた、尊い存在として造られた者であるというところに立つということなのです。他の人が重んじられれば、自分は重んじられないと妬むことはないです。自分も目立つように立派に見せようとする必要はないのです。この人が用いられるのは、神が賜物を与え、用いているのだ、と考えるのです。「優れている」という言葉は、「上に置く」と言う言葉です。自分よりも相手を上に置くと言うことです。これは、自分よりも相手が能力があるからと言う意味なのではなく、神が本当に大切にしている存在であると言う言葉です。神が私たちを見ている、愛のまなざしをもって、相手を見るのです。自分を中心に関わるとすると、妬みや争いになるのです。神がその人をどのように見ているのか、という視点で見る時に、相手を「優れた者」とすることができるのです。

 パウロは、フィリピの信徒への手紙2章6−8節で「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と語っています。イエス・キリストは神と同じ存在であったにもかかわらず、私たちの救いのために、へりくだって、謙遜になって自分をささげたのです。自分が相手よりは優位であると言う思いで、相手を見下したり、自分が有利になるように相手を自分の思い通りに動かすようにすることはなかったのです。イエス・キリストのへりくだりの心に倣って、教会の交わりを造るのです。そうでないと教会を自分のものに、私物化してしまうことになるのです。

 コリントの信徒への手紙T 8章11節で「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」(p309)と語っています。この一人の兄弟のために、イエス・キリストは御自身のいのちを捨てて、愛してくださったのです。教会に集うひとりひとりは、神が愛をもって創造し、そのいのちを与えられ、その罪をキリストが贖ってくださった、大切なひとりひとりなのです。その認識を持つことが愛の交わりを造る鍵なのです。そのような見方をする時に、相手を大切にすることができ、相手を優れた者とすることができるのです。神が重んじている人であるから、私たちもその人を重んじるのです。                          
 ヨハネの手紙T 1章3節(p441)に「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と語られています。私たちの交わりは、父である神、キリストを媒介した交わりです。私たちは神を仰ぎ、信仰によって交わりを造っていくのです。


20180408 子どもと共に守る礼拝説教  「こころ豊かな人とは」  山ノ下恭


(詩編15編1−5節、ルカによる福音書12章13−21節)

 皆さんにとっていちばん大切なものは何ですか。いちばん大切なもの、それは「いのち」と言う人も多いと思います。いのちを失って、死んでしまったら何もできないですね。今、皆さんの心臓が動いています。心臓が動いているから、こうして礼拝に出席できるし、人と話すことも、勉強することも、遊ぶことができるのです。大切なもの、それはいのちです。お父さんのいのち、お母さんのいのち、友だちのいのち、どれも大切ですね。このいのちは自分で造ったものではなく、神様が造ったものです。このいのちは神様からの贈り物です。神様から与えられたこのいのちを大切に用いたいですね。このいのちは限りがあります。いつまでも生きることはできません。この時を大切に過ごしたいですね。

 しかし、神様によって自分のいのちが造られ、与えられた、ので大切に過ごそうと考えない人も多くいます。自分の思い通りに、自分の好きなように過ごそうと思っている人は多いのです。そして自分はいつか死ぬのだということを忘れている人も多いのです。いのちよりも、自分の生活を豊かにするためには、お金が必要だ、いちばん大切なのはお金だ、お金があれば大丈夫だと考えている人も多いのです。確かにお金がなければ、毎日、暮らすことはできません。今日の礼拝に来るために、電車に乗って来た人もいますが、電車に乗るためには、お金が必要です。お金がないとお店で品物を買うことができませんし、ものを買うのにお金は必要です。
 
 必要なお金はあるけれども、もっともっとお金が欲しい、と思うことがあります。そのように思っている人がイエス様のところに相談に来ました。この人はお金をもっていれば大丈夫だと思っている人です。自分のお父さんが死んで、残した財産のことでイエス様に頼みたいことがあったのです。お父さんが残した財産、お金を、自分のお兄さんが多くもらってしまい、自分には少ししかお金が入らなかったので、自分のところにお金が入るように、お兄さんに言って欲しい、とお願いをしたいと主イエスのところに来たのです。この人はお金をもっていなくて、毎日、暮らすのに困っているわけではないのですが、お父さんの遺産をもらいたい、お金がもっと欲しいと思い、イエス様なら、お兄さんに話してくれるかもしれないとやって来たのです。しかし、イエス様はすぐに断ったのです。そしてこの人に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と言われました。

 貪欲、この言葉の意味は、どのような意味でしょうか。今、持っているもので満足しないで、もっと欲しい、と欲張ることを「貪欲」と言うのです。あらゆるものを欲しがる、欲張るのです。イエス様は、そのことに用心しなさい、と言いました。

 お父さんの財産やお金が自分に入るようにイエス様がお兄さんに話して欲しい、とイエス様にお願いに来たのですが、イエス様は、「有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と答えています。たくさんお金をもっていても、そのお金や財産で自分のいのちを長くしたり、心臓が止まらないようにすることはできないと語ります。お金でいのちを伸ばしたりすることはできない、と語ります。
 
 そこで、イエス様は、譬え話を語ります。あるところに金持ちがいて、たくさんの畑をもっていました。この人はたくさんの人を使って、自分の畑から作物を取り、それを倉の中にしまっておいたのです。ある時、たくさん作物がとれたので、この人は心の中でこう考えたのです。「今までの倉では多くの作物をしまっておくことはできない、取り壊してもっと大きな倉を建てて、そこに作物をしまっておこう。」この人は、とてもたくさんとれたので、うれしくなって、自分の心の中で「魂よ、お前には、長年分の食糧が蓄えてある。さあ、安心しなさい。食え、飲め、楽しめ。」しかし、神様はこの人の心をよく分かっていたのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、誰のものになるのか」「お前は愚かな人間だ。たくさんの持ち物もお前には何も残らない。死んでしまえば、その持ち物は自分の物ではなくなり、すべて、他の人の物になってしまう。」と語るのです。

 この話に出て来る人は主イエスを除くと一人はイエス様のところに相談に来た人、二人目はこの人のお兄さん、そしてこの譬え話に出て来る、金持ちです。この3人には共通するところがあります。この3人がいつも関心を持っていることは、財産、お金のことばかりです。それ以外のことは何も考えていないのです。この3人は、自分の財産のことしか関心がなかったのです。お金が増えれば、喜び、お金がなくなれば、がっかりするのです。お金や財産があれば大丈夫だと思っているのです。豊かな人とは、たくさんの財産とお金をもっている人だと考えているのです。

 この人たちの最も大きな問題は、神様や隣人のことを全く考えていないことです。ただ、お金があって自分の欲しいものを買うことができ、物が豊かにあれば、それで満足だということなのです。イエス様が問題にしていることは、この人たちが自分のことだけを考えて、神と隣人のことを忘れていることなのです。この金持ちの農夫は、思いがけなく、死ぬことになります。この人には、たくさんの作物が残ってしまいました。この作物をこの男が持って行くことができないのです。この人が必要だったのは、自分の遺体を入れる棺だけだったのです。主イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と語ります。
 
 神の前に豊かでない人とは、神を忘れて、自分のために財産を使い、お金や財産に頼っている人です。神を畏れず、自分のために生きている人です。

 それでは、神の前に豊かだという人はどのような人でしょうか。それは神を愛する人であり、隣人を愛する人なのです。神を愛するとは、神を神として礼拝する人です。今の時間は礼拝の時間ですね。礼拝の中で、皆さんは説教を聞いています。神様が私を用いて、語りかけています。神を愛するとは、神様の言葉を聞くことです。日曜日にいろいろ用事があっても、神様の言葉を聞きに来ることです。そして隣人を愛することは、お友達のために自分の時間を空けておくことです。お友達の話を聞くことも、お友達を愛することになります。お友達が困っていたら、なんとか、困らないように助けることです。

 豊かな人とは、神様に自分をささげ、隣人を愛する人です。マザー・テレサと言う人の名前を聞いたことがあると思います。インドのカルカッタで、死んで行く人を看取る奉仕を始めました。どんな人でも神様がそのいのちを愛し、大切な人だ、ということを伝えるために、施設を作り、大切にされて神様のもとに送る、そのような奉仕をしていきました。死にそうな人に神様がとても大切に思っていますよ、と伝えて、最後までお世話をする活動をしてきました。ノーベル平和賞をもらった人です。このマザー・テレサが亡くなって、残ったものは、2着のサリーというインドの洋服だけで、他には何もなかったとのことです。イエス様が譬え話で語った農夫は、自分のためにたくさんの財産を蓄えようとしていました。マザー・テレサと違いますね。いのちの危機にある人々のためにお世話をして、自分のためにお金を使うことはなかったのです。自分のためにお金を貯め、使うのではなく、神様にささげ、隣人にささげることを勧めています。

 私たちの生活は、神様から、あなたはほんとうに豊かな生活をしていますね、してきましたね、と言ってくれる生活でありたいと願います。

20180401 復活日礼拝説教  「主イエス・キリストがわたしの愛を完成してくださる」  山ノ下恭二


(エゼキエル書18章21−32節、ヨハネによる福音書21章15−19節)

 私は聖学院大学で一年生にキリスト教概論を教えています。新入生が大学に入学して戸惑うことがあるのです。新入生たちが最初に戸惑うのは入学式の時です。入学式は礼拝形式で行います。新入生たちは、讃美歌を歌い、聖書を読むと言う入学式が初めてなので、違和感を覚えるのです。そして必修の科目に、「キリスト教概論」があるのです。キリスト教のことをほとんど知らない学生たちなので、キリスト教概論はどのような科目なのか、分からないのです。授業に出ていて理解できるのか、単位を取ることができるのか、不安だ、という学生たちも多いのです。そのような新入生ことを配慮して、第一回の授業でいきなり、聖書はどのような内容か、という話を始めないで、最初の3回の授業は、導入ということで、キリスト教に親しんでもらうための基本的な話をしています。初めの授業で「キリスト教は、何の宗教と言われていますが、何と言われているでしょう」という質問をすると、学生たちは、「アメリカの宗教」「外国の宗教」という答えが返ってきます。「聖書の宗教」という答えもあります。私は「愛の宗教」だと言います。「キリスト教は愛の宗教と言われています」と学生たちに言います。愛は、人と人とをつなぐ大切な絆です、と言う話から始めるようにしています。

 「愛」と言う言葉は、私たちが毎日、聞いている言葉です。「愛」という言葉は、日本では昔から男女の間の愛のことを意味するものとして理解されてきました。しかし、最近は、愛が男女の愛だけに限定されたものではなくて、この世界に生きる様々な人々との関わりで用いる言葉になっています。この世界に共に生きる者として必要なものが愛であることを認識するようになりまた。その一つに、マザー・テレサの存在と働きがあると思います。マザー・テレサがインドのカルカッタで愛の奉仕をしてノーベル平和賞を受賞したことが多くの人々に知られ、死なんとしている人を最後まで看取る、そのような愛の働きを知って、愛が人間にとって大切なものであることが分かって来たのです。そして阪神大震災、東日本大震災でのボランティア活動などによって、愛が、困難な生活をしている人々、苦しんでいる人々を助け、手を差し伸べる、隣人愛と言う意味で愛という言葉が用いられて来ています。愛の理解がキリスト教的な、聖書的な理解に近づいて来たのです。

 キリスト教会は愛を重んじてきたのです。それは聖書で教えられているばかりでなく、キリスト者が愛を実践してきたことによることです。コリントの信徒への手紙一 13章13節(p317)で「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と語られています。愛とは最も大いなるものである、と記されています。愛が私たちが生活する時の基準になります。私たちが生きる時の基準は愛なのです。キリスト者の生活は愛の生活なのです。

 しかし、実際には、教会に集う人たちが愛の生活になっていないことをパウロは指摘し、問題にして、コリントの教会の信徒たちに「愛」について語るのです。コリントの教会の人たちは、自分たちが、愛の生活をしていると思い込んでいたのですが、パウロはそれは愛ではない、と語るのです。このコリントの信徒への手紙一13章1−3節に「愛がなければ」と言う言葉が繰り返し語られています。コリント教会の信徒たちは、神についてよく知っていると言うけれども、愛がないではないか、信仰を持っていると自負しているけれども、愛が欠落しているではないか、自分はたくさん捧げている、「全財産を貧しい人々に使い果たそうとして」いるけれども、愛をもってしていないではないか、と語ります。「愛がなければ」と三度も語り、「愛がなければ、無いに等しい」と語っています。パウロが愛について詳しく語っているのは、教会の人々が一所懸命、礼拝し、説教を聞いているけれども、愛を基準に生活をしていない、これが愛だと言うけれどもそれは「愛」ではない、それは愛していることになっていないと指摘し、本来の愛がどのようなものであるか、その愛の姿を語っているのです。

 本日の礼拝で、ヨハネによる福音書21章15−19節を読みました。復活された主イエスにペトロは対面します。主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と問うのです。三度目に問われた時、ペトロは「悲しくなった」(17節)と記されています。なぜ、悲しくなったのか。それは、ペトロが主イエスの裁判の時に、主イエスを知らないと言い、主イエスとの関係を否定したことに原因があります。ペトロは、三度、主イエスを知らないと言ったことを思い出したからです。(18章15-27)このことは、ペトロにとって大きな心の痛みになっていました。どうして自分は主イエスを三度、知らないと言ってしまったのか、自責の念を持っていたのです。ガリラヤでの3年間、ペトロは主イエスに従い、主イエスのそばにいて、ペトロがいるところに主イエスがおり、主イエスがいるところにペトロがいて、親しい関係にあったのです。主イエスの伝道にいつもついて行きました。しかし、ペトロは、主イエスとの愛の関係を否定したことを思い出して、悲しみがこみ上げてきたのです。主イエスを知らないという前に、食事の席で、ペトロは主イエスに向かって「あなたのためなら命を捨てます」(13章37)と言っています。たとえ死んでも、主イエスに従って行く覚悟があることを告げているのです。命がけで主イエスへの愛を貫くことを誓ったのです。それなのにペトロは、主イエスを愛し抜くことができなかったのです。

 私たちが、一日が終わった時に、今日一日、無事で良かった、と思います。しかし、毎日の具体的な生活の場面で主イエスから「今日の一日、わたしを愛してきたか」と問われるのです。そして「今日という一日、身近に接した隣人を愛して来たか」と問われるのです。

 「愛」を巡る書物の中で、私はとても教えられた書物があります。管円吉の
「バルト神学の『隣人』の問題」と言う論文です。この論文は、「愛」を問題にしています。私たちは愛と言うと、感情の問題として捉えています。しかし、「愛」とは意志なのだ、愛そうとする意志であり、愛しなさい、というのは、命令なのだ、それは恵みの戒めなのだ、とバルトの言葉を紹介しています。私たちは自分の感情によって、相手を愛したり、愛さなかったり、しているのですが、そうではない、愛しなさい、と言うのは神の命令であると言うのです。

 私たちは毎日の生活の中で、具体的に愛を経験するのです。自分が相手に親切にして、相手がとても喜んだり、逆に親切にしても、感謝されなかったり、自分が相手に対して冷たかったかも知れない、と反省したり、他の人の振る舞いを見て、あの人は愛がない人だ、思いやりがない人だ、と思ったりするのです。
 
 3月11日は東日本大震災が発生して7年になり、その前後に、テレビ、ラジオ、新聞などで、この震災について多く報道されました。この日の前にNHKラジオ第一放送で、大学の教師で社会学者の金菱清という人の話を聞きました。この人は、太平洋戦争を経験した人に直接会って、その経験を聞き取る調査をしている研究者です。東日本大震災の被災地に何度も通い、家族を失った被災者に直接会って、インタビューをしてきたそうです。「当事者の話を聞くことで何か分かる」と思い、インタビューを重ねてきた、と言うのです。ある時、大震災に遭って家族を失った女性にインタビューをしていたところ、この女性が突然、黙ってしまい、それ以降、全く話さなくなったそうです。話さないので、その家を辞したそうです。後から、考えて、話すことを止めて、黙ってしまったのか、考えたそうです。それは自分が聞きたいことだけ、相手に聞いていたことに気がついたのだと言っていました。相手のもっている感情、つらさ、苦しさ、話したくないこと、そのような相手の思いに自分が思いやらないで、自分の興味、自分の関心があることだけ聞くのです。そのことはほんとうに相手の話を聞くことにはならないのではないか、自分本位な聴き方をしていたのではないか、と反省したと言うのです。自分の関心や自分の都合で、相手の話を聞くことをしてきたのではないか、と言うのです。この話を聞いて、そのような自分本位な聴き方をしているのではないか、と思いました。

 なぜペトロは主イエスとの愛の関係を否定してしまったのでしょうか。ペトロは、主イエスに「あなたのためなら命を捨てます」と言ったのです。しかし、自分が主イエスの弟子だと言わなければならない時に、言うことができなかったのです。自分が主イエスの弟子であると言ったならば、自分は身柄を拘束されて、死ぬことになると、怯えてしまったからです。自分が死ぬ、自分の存在がなくなる、そのことに恐怖を覚えたのです。死の恐怖に捕らわれてしまったのです。

 このことは私たちと無関係ではありません。私たちは愛に生きたいと願っています。愛することを喜びとしています。しかし、愛は、犠牲を払うことを求めます。愛は自分に死ぬことを求めます。ヨハネによる福音書15章13「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と語られています。いざ愛そうとする時、自分を犠牲にすることになります。自分の仕事、自分の用事をする時間を相手のためにささげなければなりません。自分がしたいことができなくなります。時間もお金も損するのです。愛に生きようとする時、自分が死ぬことを求められます。そこに愛することの困難さがあります。 愛することは、その人とずっと関わることですから、初めは良くても、関わっていくと、困難なことが出て来るのです。これ以上、この人に関わっていたら、自分の生活が成り立たないと思うことがあります。自分のしたいことができなくなる、そう思うのです。

 私たちは、本当に人を愛することができないのではないか。少しは愛することはできるかもしれませんが、完全に相手を愛することはできないのです。

 ヨハネによる福音書3章16節で神の愛がどのようなものなのか、端的に語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と語っています。この独り子を与える神の愛は、まさに主イエス・キリストご自身の愛として、この世に姿を現しました。この主イエス・キリストの愛について、感銘深い言葉で語っているところがあります。13章1節の言葉です。十字架につけられる直前、夕食に弟子たちを招いて、その席で弟子たちの足を洗ったのです。その出来事を語り始めるところで、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記しています。「この上なく」という言葉を口語訳では「世にいる自分の者たちを愛して、最後まで愛し通された」と翻訳しています。「この上なく」という言葉は元々、ギリシャ語で、「テロス」と言う言葉で「終わり」「目的」という意味の言葉なのです。この愛には明確な目的を持っており、その目的を果たす、完成する愛をもって、「最後まで」愛し通されたのです。文語訳聖書は「極みまで」と訳しています。「世に在る己の者を愛して、極みまで之を愛し給へり」と訳しています。「この上なく」と言う言葉は「成し遂げる」と言う言葉なのです。この主イエスの愛は、どのような愛なのでしょうか。自分に託された神の愛の意志を全うする、そのような愛なのです。だれも滅んではならない、と神が決意している愛なのです。 この「成し遂げられる」と言う言葉は十字架上で主イエスが死ぬ時に語られた言葉です。ヨハネによる福音書19章30節「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」主イエスの十字架の死において神の愛は完成しているのです。

 「成し遂げる」「最後」「完全」「完成」と翻訳されている、ギリシャ語の「テロス」と言う言葉はとても重要な言葉です。ペトロは、主イエスを知らないと三度も否認して、自分が主イエスと関係がないと言ってしまった、そのように主イエスを愛し抜くことができなかったのです。主イエスの弟子として失格者であり、弟子ではなくなったのです。ペトロが主イエスの弟子であることを止めて、自分がどのような存在であるか、分からないで困っている時に、主イエスはペトロを見放さず、見捨てないで、主イエスの弟子として再び、ペトロを招き寄せ、語りかけるのです。ペトロの愛は不完全です。しかし、主イエス・キリストがペトロに注ぐ愛はいつまでも絶えることはないのです。

 主イエスは、ペトロに「わたしを愛しているか」と尋ねるのです。主イエスの、この問いに対して、ペトロは「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです。」と答えています。「わたしを愛するか」という問いに対して、「わたしはあなたを愛しています」と答えるのが普通です。ところがペトロの答えは「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです。」と答えているのです。このペトロの答えはどのような意味があるのでしょうか。愛することが自分の力、意志にあるのではなく、主イエスが自分のことをすべて知っていてくださる、ということの中に自分の愛の拠り所としているのです。ペトロは、主イエスに対する愛が自分にはなかったことをよくわかっているのです。主イエスのためには命を捨てます、と言っておきながら、いざとなると、主イエスを知らないと言ってしまっている、その自分の愛のなさ、愛の足りなさをよく噛みしめているのです。ペトロはここで、悔い改めているのです。そして、この自分をも主イエスは限りなく愛し、赦してくださっていることを知っているのです。

 私たちは、自分のもっているもので愛そうとします。自分が自分の力で相手を愛することができる、と考えがちです。しかし、そうではないのです。自分が愛する根拠は、自分にあるのではなく、愛することのできない自分を深く愛する、神の愛にあるのです。私たちは自分がいかに愛がないか、自分のことにばかり関心があって、隣人に対して関心を持たず、自分のためにだけ生きている、そのような私たちを愛してくださる、赦してくださる、神の愛に根拠を持って愛するのです。自分がいかに愛のない者であるか、そのことを私たちはよく経験しているのではないでしょうか。そのような者を赦し、受けいれてくださるのです。愛することは赦すことです。その赦しが与えられているので、相手を赦し、愛することができるのです。

 3月31日、昨日のことですが、NHKラジオ第一放送で、朝6時10分から、5分間、「明日をひらく」と言う番組を聴きました。山形県の南陽市で障がい者を車椅子に載せて、グライダーで飛ぶことを提案し、実践している加藤研一さんという人の話でした。この人は小さな時から、車が大好きで、将来、車に関わる仕事をしたいと思っていたそうです。そのような夢をもっていた時に、筋ジストロフィーを発病し、ひきこもりがちになり、友だちとも距離をおいて孤独になった時に、親友から、「障がいをもっていても友だちであることに変わりがないよ」と言われて、その言葉に勇気をもらって、障がいをもっているけれども、空を飛べたらいいなあ、と考えて、グライダーに車椅子をつけて、空を飛ぶ実験をしながら、実際にそのことをして、そのことに参加した人が感動しているそうです。筋ジストロフィーになって人と関わらなくなって孤独を感じている時に、「友だちであることに変わりがない」という言葉がこの人を動かして、障がいをもっている人に「自分も空を飛ぶことができるのだ」と言うことを伝えたのです。
 
 ヨハネによる福音書15章12節「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」と語られています。神がイエス・キリストによって私たちを愛しておられる、その愛を与えられて、隣人を愛するのです。私たちは、隣人を愛するよりは、自分を愛することの多い生活です。そのような者をも愛をもって慈しんでくださるのです。

 私たちは一部分しか、短い時にしか、相手を愛することができません。そのような者を神は愛をもって包んでくださる、完全な愛をもっていつまでも私たちを愛して下さっているのです。




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